1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
前スレの続き、疑問・質問・主張、なんでもどーぞ。
季節ものではありましぇん
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 19:48:36 ID:kqXBRFVkO
解散!!
筏を作って川下りをして帰るぞ
無茶を言うなw
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 21:15:43 ID:TAs42Kjh0
>>2 貴様は駄賃が欲しくてそんなことを言ってるのだろ!!!
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 22:02:29 ID:hso0i8gXO
貴様等は今日から、
金沢第九師団 第六旅団 第七連隊 第一大隊 第三中隊 第三小隊 第一分隊
の兵隊である。よく覚えとけ!!
>>8 米川二等卒。今わしが言うた事復唱してみ。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 22:12:23 ID:fhiRCw9k0
・1849年(嘉永2年)国産初の電信機誕生 : 絹巻線を使用
・1863年 (文久3年)薩英戦争
・1866年 (慶応2年)第二次長州戦争時
・1868年(明治元年)(慶応4年)戊辰戦争
・1869年(明治2年)電報取り扱い開始 : 東京〜横浜
・電信柱の誕生
・1870年(明治3年)ガス会社設立 ( 外国人居留地用 横浜 )
・1870年(明治3年)徴兵規則 制定 1万石につき5人
・1871年(明治4年)モールス印字電信機を輸入国産化 他 郵便法施行 十進方採用
・1871年(明治4年)海底電信線を施工完成 長崎〜上海:長崎〜ウラジオストク
・1871年(明治4年)11月 高輪に精肉所が設けられる
・明治天皇も年末に肉を食す ウナギ屋廃れる
・1872年(明治5年)鉄道開業 : 新橋〜横浜
・1873年(明治5年)徴兵制
・1875年(明治7年)台湾出兵
・1875年(明治7年)元老院 4月25日
・1876年(明治9年)廃刀令
・1876年(明治9年)ドイツでガソリンエンジン発明
・1878年(明治11年)国産1号電話機完成
・1882年(明治15年)アーク燈運用開始 銀座にて
・1882年(明治15年)壬午軍乱
・1884年(明治17年)甲申事変
・1886年(明治19年)東京電燈開業 : 電気事業始まる : 電球普及
・1886年(明治19年)元老院 廃止 : 帝国議会開設のため廃止
・1888年(明治21年)空気入り自転車タイヤの実用化:ダンロップ
・1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布
・1890年(明治23年)マキシム機関銃試験購入
・1890年(明治23年)貴族院
・1894年(明治27年)日清戦争
・1895年(明治28年)イタリア グリエルモ・マルコーニ 無線電信装置の発明
・1895年(明治28年)空気入り自動車タイヤの実用化:ミシュラン
・1896年(明治29年)日本発の二輪自動車試走 : 1月19日
・1898年(明治31年)日本発の四輪自動車試走 : 2月7日
・1900年(明治33年)海軍軍艦(浅間)(霧島)(明石)に無線電信を設置
・1900年(明治33年)重機関銃 保式 制定
・1901年(明治34年)海軍省、無線電信機を兵器として採用
・1902年(明治35年)海軍、横須賀ー焼津間60海里の通信に成功
・1902年(明治35年)八甲田山雪中行軍遭難事件 三十年式小銃装備(後藤伍長の銅像より確定)
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 22:15:21 ID:fhiRCw9k0
・1904年(明治37年)日露戦争 真空管(二極管)の発明
・1904年(明治37年)国産自動車の誕生
・1905年(明治38年)電信隊内に気球班が創設
・1907年(明治40年)気球班 気球隊に再編
・1910年(明治43年)所沢に日本最初の飛行場が完成 気球隊誕生 10月
・1910年(明治43年)白瀬隊南極に出発 :1912年(明治45年)南極に到着
アムンゼン隊は1911年12月14日、スコット隊は1912年1月17日に南極点に到達
・1912年(明治45年)明治天皇薨去7月30日午前0時43分
・1903年(大正2年)人類初の有人動力飛行 : 12月17日アメリカ
・1921年(大正10年)十式手榴弾 制定
・1922年(大正11年)十一年式軽機関銃 制定
・1926年(昭和元年)
・1932年(昭和7年)九二式電話機 制定
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 22:57:01 ID:ljle6eXh0
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 23:03:07 ID:fhiRCw9k0
>>8 この年表を見ると科学が急激に進歩して軍隊内でも自信過剰気味になってたんじゃないかな?
それ以前の時代から見ると魔法のようなことが次々に実現してなおかつそれが軍関係に優先的に回されてるし
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 12:23:45 ID:FwjB/eljO
ソフトバンクのCMで見たことは一切口に出してはならん!!
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 14:32:45 ID:kUEAqc3S0
日本近代史板になんで移動したの?
軍板で追い出されたの
この崖を飛び下りれば青森だああああぁぁぁぁぁぁ……
この事件が教訓となって日本にスキーがもたらされた!
スキーする奴等全員発行だの英霊に向けて首を垂れよ!
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 17:33:25 ID:8SRYlfNU0
>>8 電信の歴史が良く分かるな。
携帯の無線装置があればね、あの時に。
>>15 軍板と聞くだけで、アレルギー症状を示される御仁がおられたのでね。
気楽に参加できるのはこちらの方がいいかなと。夜逃げってわけではありましぇんw
>>19 残念。雪中行軍演習のときは、まだその用語は発明されていない。
>>20 誰かが当時勝手に言ってるかもしれんだろw
>>22 凍傷で指が膨れてトリガーガードに指はいんねえよ
一番怪しいのは亡くなった翌日に速攻で火葬にしてること
あれぐらいの偉いさんなら普通に最後の遺族とかまわりの人への顔見せで遺体は
お通夜とかで数日は置いておくと思う
そんなに遺体を検証されるのがまずかったのかな?
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/11(木) 09:26:41 ID:aMfYIeNU0
少佐をす理由が無いんじゃないか?
勿論、詰腹切ってもらう分には大歓迎だろうが。全責任背負ってあの世へもらえるしね。
そもそも八甲田山遭難事件は、少佐一人消して隠蔽出来るような事件じゃ無いしね。
有り得るとしたら、自決に見せかけようとして、射殺後になって手が使えない事に気が
付いた間抜けな刺客くらいだな。
仕方ないかもしれないが、陰謀好きが多いな。
いっそ、少佐は別件で狙われて、それでコレ幸いと消されたって方が分かりやすいw
史実では心臓麻痺と発表して遭難者の仲間入りしてしまい、責任追及も出来なくなったしね。
山口少佐かわいそす
新田次郎に徹底的に悪役にされて
あの通りに思い込んでるほとんどの国民
俺の親父も罵詈雑言ゆってた
>>18 > 携帯の無線装置があればね、あの時に。
無線電信が実用化された初期の時期だからな。
当時の技術レベルでは、電源を含む設備全体は陸上固定か大型の船舶・艦船に設置するのが精一杯だった。
日露戦争や第一次大戦では、部隊の司令部の移動に伴ってドラムを担いだ電信兵が電線を引いて追従し、
更にその後を追う工兵部隊が電柱を立ててそれを張る…というのが軍隊の通信運用の日常だった。
陸上を容易に移動可能な無線電信が実用レベルとなるのは、1930年代だな。
あの五連隊ルートって携帯通じる?
あの道走ってる人いたら聞きたいです
あの時代、携帯あったらなあ・・・小峠の段階で本部に指示仰げるのに
で、第一露営地で夜に出発しなきゃいけないぐらい追い込まれたら本部に救援依頼できるのに
>>24 翌日に火葬って普通だと思うんだが
防腐処理もせずに数日も置いといたらえらいことになるよ
遺族に面会させてから焼くのが普通だな。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 15:21:47 ID:ooaPjWlm0
屋外ならともかく室内じゃ無理だよ
つか遺族は遺体見てないの?
>>29 身内が亡くなったことないの?
2−3日は火葬にするまで置いておくだろ?
防腐処理だけして
地方の遺族とか最後の顔見せにこれないだろ?
1日ぐらいじゃ
今みたいに新幹線とか飛行機無いんだし
だからこそ翌日火葬っていうのが怪しすぎるんだよ
>>32 病院で亡くなったのなら安置部屋とかあるだろ?低い温度の部屋
細菌や菌類の増殖は凍らせないと止められんよ
低温にすれば細菌、菌類の増殖はある程度は抑えることが出来る
>>35 防腐剤を遺体に注射すれば腐敗を遅らせることは可能じゃないの?
低温でも増殖できる微生物はいますよ
冷蔵庫入れた牛乳がまずくなったり
昔の日本でエンバーミングみたいなのはあんまりないんじゃないかな。
自殺に見える様に工作するもgdgdになった、説に一票。
俺もそうだと思う。それが一番理解しやすい動機だな。
でなきゃ公式発表通り病死で決まりだな。
自決じゃ無いなら頃すより、因果を含めて生かしたまま責任負って貰った方がまだましだ。
>>42 だから病死なら資料館に置いてる例の拳銃はいったい何なのかと
遺族にも自決したと伝えてるし
>>33 欧米と違って日本では遺体を防腐処理する習慣はあまりない
湯かんしてドライアイスで冷やすのが普通
最近は防腐処理するところもあるようだが
今の米軍は遺体をわざわざ修復、防腐して帰国させるが
昔の日本のしかも軍隊じゃ何かあったら骨で帰ってくるってのは変でもない
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 18:18:45 ID:UFn/m/AI0
拳銃自殺とクロロホルムによる謀殺では遺体の状況が違い過ぎる。
遺族に見せるわけにいかんだろう。
死因に問題のなかった神成大尉は収容されたのは1月29日だが、
火葬は2月6日だ。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 18:22:33 ID:UFn/m/AI0
>>43 説明には山口少佐の遺品とあり、これで自殺したとは書いていません。
俺の作ったテンプレが張られてない・・・。
やっぱリンクがウィキペディアばっかりだったのがマズかったかな?
>>48 どうぞ貼ってください、資料的価値があるのは歓迎
第5連隊 八甲田雪中行軍に至る経緯
1889年(明治22年)
奥野大尉が雪中下 酸ヶ湯を経て十和田湖畔に到達
( 大変な難儀のうちに踏破に成功した )
1899年(明治32年)
加藤大尉が雪中下 小川原湖の氷上通過を成功させる
1901年(明治34年)
第3大隊 :青森〜田代〜増沢〜三本木 を雪中下踏破する計画を立案するが
「 不時の障害のため 」未実施
当時雪山を歩くのは 樵夫(きこり)か猟師くらいで
銃装した部隊が雪中行軍するのは初の試み、冬山登山の概念すら生じていない時代
1902年(明治35年)
青森5連隊八甲田山雪中行軍遭難事件発生
行軍の目的は 雪中青森より田代を経て三本木平野に進出し得るや否やを判断するため、
田代に向いて一泊行軍を行い、若し進出し得るとせば、戦時編成歩兵一大隊を以って
青森屯営より三本木に至る行軍計画並びに大小行李特別編成案を立つるにあり
山口少佐 遭難始末 より
明治35年 青森5連隊 八甲田雪中行軍予定行程
1月23日:青森〜田代
1月24日:田代〜増沢
1月25日:増沢〜三本木
1日目:田代:約5里半:村落露営:携行糧秣給養
2日目:増沢:約4里半:村落露営:携行糧秣給養
3日目:三本木:約5里:古間木駅から汽車で帰営
行程距離表
青森→幸畑田→茂木野→小峠 → 大峠→ 大滝平→賽ノ河原→安ノ木森→中ノ森→馬立場→鳴沢 → 平沢 → 田代新湯
0km 3.4km 2.3km 3.9km 1.3km 2.0km 1.4km 0.7km 0.9km 1.1km 0.8km 0.9km 1.3km
装備品概要
略装にて防寒外套を着用し、藁靴を穿ち 下士以下飯盒雑嚢及び水筒を携え
一般午食及び糒3食分 餅6個携行すべし。
その他携行品は随意とする
略装
:兵卒 綿の夏服
:下士官 羅紗の軍服
靴は踝までの軍靴、それに加え藁靴を履く。
中には地下足袋を油紙で巻き藁靴を履いた兵卒もいた。
樵夫や猟師だって、真冬は山での本格的活動はしなかった。
せいぜい里周辺での鹿猟程度、そもそも深雪中を歩けない。
和かんじきが使用可能になる3月頃のしまり雪になるのを待つ必要があった。
それ以外の一般的農民については、ひたすら家でじっと過ごすのが冬
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 18:41:34 ID:fZ226fKu0
>>51 > 青森→幸畑田→茂木野→小峠 → 大峠→ 大滝平→賽ノ河原→安ノ木森→中ノ森→馬立場→鳴沢 → 平沢 → 田代新湯
> 0km 3.4km 2.3km 3.9km 1.3km 2.0km 1.4km 0.7km 0.9km 1.1km 0.8km 0.9km 1.3km
雪中行軍前夜 山口少佐から将兵への訓示 1月22日午後
今回の行軍は、現在の状況に於いては地形上或るいは里程やや遠きの感あれども、
非常の障碍(しょうがい)に遭遇することなくんば目的地に達し得るものと信ず。
而れども露営をなすの止むを得ざるに至ることあらんも保し難し。
之が為 薪炭をも携行する筈なり。
将校以下充分防寒に顧慮し、特に藁靴の製作及穿方に注意し、途中は損の虞なからしむべし。
成し得れば懐炉を携行するも一法ならん
>>54 修正ありがとうございます、テンプレを貼り付けるのも
以外に難しいものですね
五連隊ルートはもう通行止めになってるの?今は
徒歩ならどのルートでも通れますよ。
1月末でも桶
>>58 おお、通行止めは車だけですか?
あの道って携帯とか使えますか?
いつかこのスレのみんなとオフ会する機会があればぜひその道で
早朝に田茂木野出発で田代温泉まで・・・
一応、携帯使えるなら行く前と途中で携帯で天候確認しながら行けるし
今まで民間人でそういうのやった人いるかな?
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 22:44:26 ID:sVgP7O5d0
>>59 北国の現役陸自とか医者の参加者が居るとにわかにこの計画は現実味を増す。
このスレ住人で医師とか現役自衛官っているかな。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 22:50:33 ID:fZ226fKu0
>>59 むしろケータイよりトランシーバーのほうが確実
現地行って歩いてみたいけど、遭難したら洒落にならんしな。
山のプロを雇わないと確実に遭難するよ。
とりあえず、冬は止めとけ。ネタでやるには危険すぎる。
6月になって雪が融けてからにしとけ。
雪や水分や窪んだ地形は電波を、霍乱・吸収・遮断する
現自衛隊の逓信隊は原則無線封鎖、有線電話による通信を主とする
勿論 衛星電話は配置しているが、よほどの事が無い限り使用しない。
携帯電話も付近に強力な中継基地がなければ降雪下では使用出来ない
無線通信とはそんなもの。
ましてや、馬立場から田代の下り傾斜の吹き溜まりにでも陥れば
鳴沢の渓谷に迷い込む事となる、
通信による天候確認など思案の外。
幸畑から馬立場の登り勾配を
当時の5連隊は、先頭40名配置のカンジキ隊で踏み固め踏破路を確保した、
少数編成のオフ会では到底困難な仕業で 新雪に潜り立ち往生は必至。
また、幸畑から馬立場の道のりの両脇は渓谷であり
進路を誤れば渓谷に陥り、崖を登る因果をこうむる事なきにしもあらず。
ネタはネタのままで宜しくどうぞ。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 01:52:21 ID:feXLfCRZ0
まあ、現実味のある計画といえばそら冬は無茶だわな
雪解け直ぐっつーのも、八甲田山系って熊がいるからなー。数年前の話だが
山菜取りに山に入った人が熊に出くわしたって地元の人が言ってた。
春過ぎてから田代温泉までレツゴー、それだけじゃ何なんでツアーコースに
雪中行軍資料館と幸畑の第五連隊の墓所にお参り、休憩は銅像茶屋でってトコか
あ、もちろん弁当は油紙で包んだ握り飯な。酒は各自で自己責任。餅は・・・・
まあ天候さえ良ければ、そう危険はないよ。今は道形もはっきりしてるしな。
でも、山スキーはいてようが、スノーシューはいてようが、
体も埋まる深雪を何キロもラッセルし続けるのは異常にきつい。疲れ果てて引き返すだけだろ。
まだ雪の少ないうちか、春先のしまった頃の天気のいい日選んでなら、いけるだろう。
ま、ここでだと色々言う奴もいるし、オフ会を募るということはせずに、自分で行ってみたい
とは思ってる。
春先は雪崩の危険性があるんで、完全に融けてからのほうがいい
>>68 現地知ってるか?
県道上で雪崩危険箇所というのは、按ノ木森のふもとを巻くあたりが、まあちょっとした切土法面があり、
その上50mくらいの斜面にはなってるが、実に短い区間でしかなく、ほとんど平坦な地形のところを歩くことになる。
馬立場の手前から田代平までは除雪されて車が通っている。
五連隊のように山毎に登ったり下ったり、谷底に落ち入ったり、そういう追体験をするつもりはない。
春以降なら、やっぱ第31連隊コースでしょ
第31連隊コースは山歩きに慣れていないと夏でもキツいけどね
>>62 山のプロを雇ってもそいつに向かって全員でお約束のセリフを・・・w
道なんだけど当時とちがって今は一応国道だし、両側とかに何か目印あるよね?
電信柱とか何かの建物とか
晴れてさえいれば道には迷わないのでは?
足下はスキー履いていくとか
しかし、夏場は色々行ってみた人の報告とかあるんだけど
冬場に行った報告とかないんだよね、サイトあちこちみても
昔と違って銅像茶屋という避難場所あるから途中休憩できるのが大きいね
>>71 山のプロを涙目にして、その上で案内して頂くというのかww
>>51 2泊3日の予定だったんですか?てっきり1泊2日の予定だと思ってました・・・
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 14:25:49 ID:AObZFO7e0
>>74 いやいや、この雪中行軍は1泊2日でいいんですよ。
計画としては2泊3日ですが、その内の田代までを今回は実施する、ということです。
山口少佐 遭難始末によれば
>行軍の目的は 雪中青森より田代を経て三本木平野に進出し得るや否やを判断するため、
>田代に向いて一泊行軍を行い、若し進出し得るとせば、戦時編成歩兵一大隊を以って
>青森屯営より三本木に至る行軍計画並びに大小行李特別編成案を立つるにあり
と、確かに一泊行軍が眼目と思えるのですが ある行程表を比較すると
:青森5連隊 八甲田雪中行軍予定行程 抜粋 :1月25日:増沢〜三本木
:弘前31連隊 八甲田雪中行軍予定行程 抜粋 :1月25日:中里〜三本木
雪中行軍が順調に進めば 1月25日に両隊は三本木に到達する行程だったりするのが・・・・・・。
ちょっと・・・・。
>>76 青森も弘前も両隊ともお互いの予定なんか知らないはずなのに
どうしてこんな偶然が起こるんだろうね?
もしかして上同士では連絡あったのかな?
1894年(明治27年)日清戦争
この勝利の後、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によって 列強との間に緊張が高まっていた。
ロシアとの一戦は避けられないとの予測から帝國陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。
青森5連隊も弘前31連隊も第8師団編成下の連隊でありこの経緯で師団上層部に含みが無いとは考えられない
ちなみに両隊が順調に行軍完遂を成せば 人口 5300名の大村落 三本木で落ち合い宿泊ないし露営する演出となる。
師団上層部のシナリオありきの訓練と考える人は多いでしょうね。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 21:30:57 ID:AObZFO7e0
>>76 神成大尉の死体と共に発見された計画書が残されています。
その中に「宿営地ノ里程及給養予定」があり、二泊三日の予定表の備考に
「第二日以下実施セズ」と記載されています。
>>49 サンクス。貼ったのは前スレなのだがすでに落ちててどうすることも・・・。
こういう現在の地形ではこれがこのあたりだとかいう図とかなかなか無いんだよね
大きなサイト2つあるけどそこにもそういう資料ないし
あと、資料館は撮影不可なのかな?当時の資料とかネットで見てみたいよ
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「談話九則」より村松伍長の談話
▼廿五日の朝露営地に於て伍長大坪平市郎は人事不省となりしを以て救護に努めたれども終に蘇生せず
然るに大隊は既に出発し其の影を見る能はず故に止むなく第五中隊の兵卒古舘要吉と共に大隊の行進方向を
尋ね困難を冒かして急進せしが雪風益々凶暴を極め終に其の踪跡を失ふに至れり是れより余は青森と思はしき
方向を定め渓谷に沿ひ高地を下る日没するに至り一の大樹木を撰み木の根雪浅き処に夜を徹すに決す、今朝
出発に際し携行餅一個を食せしのみにて他は全く食物なく又燃料なし止むなく四肢を動かし温を取るも寒気の
為め身体感覚を失ふに至り已にして連日来の疲労の為め茲に熟睡せり
▼廿六日の未明目覚めてより又た前日の如く渓に沿ひ高地を降りしが此の日此の連日来の飢餓と疲労との為め
気急くも足行かず僅かに五六千米突計を歩行せしに既に午後二時半頃なりし再び勇を鼓して前進せしが前方に
小屋様のものあり故に余は茲に露営するに決して古舘と共に小屋に入れり此の小屋には茅の多数を積み重ね
あるも「マッチ」を所有せざるを以て点火する能はず故に茅の間に入りて四肢を動揺して凍冱を防ぎたり(此の処は
元湯と称する処ならん)
▼廿七日の朝小屋より三十米突計りの処に湯の湧出するを発見し古舘と共に之を飲み再び小屋に帰るや古舘
卒倒す故に余は茅にて寝床を作り此処に横臥せしめ救護せしも終に其の効なし而して吹雪は前日の如く暴虐を
極はめ一層寒気を増大せるを以て行進を始むるも其の効なきを覚り詮方なく此の地に於て死を決し茅の内に横臥
せり
▼廿八、廿九の両日は渇を医する為め以前の湯を飲みしも三十日以降は歩行すること能はず横臥のまま附近の
雪を取りて食料となせり又此の間(二月一日迄)晴天の日ありしも身神衰弱起つ能はず小屋内に横臥のまま日を
送りたり然るに二日に至り人声の遥に聞こゆるや覚えず大声を発して救助を乞いたり此れ佐藤中尉の捜索隊に
救助せられしなり
因に記す大隊に離れ古舘に別る丶や語るに人なく拠るに友なし爾来茫として経過の景況を回顧するも思ひ出す
能はずと云ふ
>>84 参考になります
マッチ持ってればもっと快適に小屋で過ごせたんですね
仲間にタバコ吸う人がいたらマッチ持ってる可能性あったかも
ああいう炭焼き小屋は食料とか最小限は備蓄してないのかな
使う村人も避難小屋みたいに使えるかもしれないし
第5連隊は三本木まで行くとあるけど、Wikipediaでは田代で折り返すみたいに書いてある。
どちらが本当なんだ?
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−1
一月二十三日と二十四日は大隊と共に行進し居たれば事実は倉石大尉の遭難談と重複の嫌いあるを以て省く
▼谷底に落つ 二十五日午前三時頃に露営地を出発して大隊と共に帰路に向つた、此の日の天候は前日の
如く大吹雪であつた、前進すること約千米突にして行進路は誤つて居るのを発見した、其処で転回して二十四日の
露営に向つて帰還した其時に自分は頗る健全であつたが為めに漸次歩を早め二三の将校を越へて先頭となり前進
を続行した其の時自分は歩を早めたる為め大隊より余程前方に進んだ処が自分は前方に一の上等兵の前進する
を見た此の時夜は未だ明けず風雪激烈にして咫尺を弁じない為めに前方進路を確定すること頗る困難であつた
此時計らざりき進路は急峻なる雪崖で終に踏み誤まつて谷の底に落ち込んだ谷の底にには自分よりも以前に陥落
している兵士三名あつた此の三名の兵は已に死を決したる様子で三人の横臥しうる様に雪穴を造り背嚢を脱し
又た防寒用外套をも脱し此れを雪の上に敷き三人枕を並べ雪を被りて死期を待つの準備は終はりし時であつた、
そこで自分は種々説諭し未だ死ぬには早い是より青森に帰らうではないかと非常に三人を喚起せしむることを努めつヽ
ある内に又もや一名の兵士は陥落して来た是れは即先に余の前方を行進しつヽありし第六中隊の上等兵である
是に於て自分は益々三人の兵卒を鼓舞した後から落ち込んで来た上等兵も尚ほ健全で自ら先頭たらんことを乞は
れた、そこで三人も漸く心を翻へし武装を整へた、上等兵は「カンジキ」を穿ち先頭となり沢を下ること約百米突茲に
於て自分と上等兵との間に意見の衝突は生じた即ち上等兵は飽まで此の谷間を下れば青森に着することは出来る
と深く信じたるものヽ如く自分は谷間より漸次傾斜に沿ふて高地に達すると云ふ意見であるから其の由を伝ふる内に
上等兵はヅンヅン前進を続行して終に見えなくなつた
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−2
これより自分等一行四名は高地に登ることを試みたるも「カンジキ」はない雪は亦た甚だ深くとても登ることは出来
ない為め断念して元と三人のものが死を覚悟した地に引き返した恰も一名の兵卒は陥落して来た是れは第八
中隊の上等兵で是れも亦足を誤つて雪崖より転落したのである是に於て五人の一団となつた此の上等兵は転落
の場合背嚢の上に付着せる外套(如何なる理由により外套は背嚢に付着し防寒外套のみを着せしか聞かざりし)
は雪崖の下に落ちあるを拾ひ之を「カンジキ」の代用となし傾斜を上ることに決した即ち外套を前に送り其れを踏み
つけて前進するのである、何故にこの急峻なる傾斜なるにも係らず上ることを企てたかと云ふに其の以前自分等は
五人一団となりたる時に於て上の方に人の通行する声は聞こえた依て叫んでみた処が向ふの方でもコッチへ来い
来いとの答があつたからである漸くにして高地の上に達することは出来て以前高地を通行せし兵卒等の行進の
方向を偵察している内に佐々木正教(この兵は大隊長の人事不省となれるを知れりと)小野寺佐平の来るに
会した是に一行は七名となつたこの二名は頗る健全で何ふか特務曹長と共に青森に向はんことを乞うた是に於て
自分は大隊の行進方向を捜索することを断念し一時も早く青森に至り速かに報告せんことを決心し三人交る交る
先頭となりて西北の方向を指して谷(傾斜)を下つて行つたこの間前に覚悟した三人の兵卒は後れたが上等兵
丈けは後れながらも随行して来た進路の前方に安部寿松の叫びつヽあるを見た安部の云ふには此の前にも一名の
兵卒ありと共に集合して前進を続行した前日来の飢餓と寒冷とは既に大に疲労を来し加之雪は前日に倍して
居るので行進の困難なること名状すべからずでこの間一行中甚敷暫時以前の三人は後れ上等兵も亦後れて
遂に見えなくなつた
↑
一行中疲労は甚敷
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−3
▼炭小屋に入る 三人は交はる交はる先頭となり勇を鼓して前進し森を越へて稍や平かな雪野に出てた時は午後
二時頃ならんと感じた五百米突前方に雪は高くなりあるものを発見した或は小屋の雪に覆はれあるものならんかと
判断して歩を速めてこれに向うて進んだ百米突前に於て確に小屋なることを確知し他の兵を呼びて其の由を告げた
この時一人は已に仆れて見えなくなつた此に達したのは実に自分と佐々木正教、安部寿松、小野寺佐平の四人
であつた、斯くて炭小屋に達したるも其の入口を発見することはできない、即各手分をなして之を捜索したるに漸くに
して東南方と覚しき方面に入口を発見した然れども直に入ることは出来ない依て穴を穿ち小屋に入つて見た処が
三分の二以上は炭俵で三分の一は掻集めたる炭であつた即ち小屋の内は殆んど炭を以て満たされあるのだ依て
相協力して炭俵を外へ出すことに決し約三十俵を出した、其傍にも炭焼小屋様のものはあつたけれども少ひから
別に掘開かない先づ炭小屋の炭俵を除いて各々座を作り火を焚くことの工風をした幸にも余はマツチ一箱を所持
して居つたが氷結して居るから俄かに用ふることは出来ない工夫を凝らして温めたる後漸くにして火を笹に伝ふる
ことは出来たそこで先づ飯盒に雪を盛りこれを溶して第一着に飲みたり其時の愉快なる何とも云ひ難い軈がて日は
暮れた炭火の為に手も稍々自在になった時計を出して見た既に休止して居る其処で自分の鑑定で自分の時間
を作った雪を溶しては飲み稍々快飲を貪った後各自の所持する食物の総てを出すことを命令した一同は出した
実に食物の総計は下の如くてある特務曹長餅一、阿部寿松糒四袋餅二、佐々木正教餅一、小野寺佐平餅一
で合計餅五に糒四袋であるソコデ其夜の食として各餅一つを食することとなし阿部寿松は疲労甚敷しいと云ふので
餅二個を食せしめた、
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−4
然るに茲に一の危険なることは出来た即ち最初炭小屋に入るに際し非常の勉強を以て炭俵を出し又は掻集めたる
炭の若干を除去したけれども終に土に達することは出来ず為に炉と仮定せる周囲に雪を置き以て周囲に延焼するを
防ぐの浅慮に出で却て危険なからんものとして取敢へず火を伝へたのであるが各自の眠りに付かざりし間は常に雪を
以て防止せる為めに危険はなかつたが各兵は身体に暖気を得るに従ひ如何に醒ますも熟睡に陥り止むなく自分は
火番として徹夜するの覚悟なりしも如何せん前日来疲労の為め睡魔連りに襲ひ来たり実に危険云ふべからず
先きに凍冱せんとせしものは一歩を誤れば焼死と変せんこと目前なので終に兵卒を呼醒し夜半糒を飯盒にて暖めて
食し火を消すの余儀なきに至つた尤も此の間に各人の外套等の氷結は溶け尚ほ乾いたのである最初火の起こるや
各兵は火に渇しているのであるから直ちに手を出さうとしたソコデ自分は懇々と説き諭したけれども何時となく手を
火の傍らに出したので各自の指甲は皆な火傷の如く膨れ上らんとした依つて摩擦すべきを命じ連りに此の方法を
採つたけれども各兵は前に述ぶる如く疲労の為め知らず知らず睡眠したので此の間に凍傷となりしものならんと思はる
自分は勇を励まして終夜摩擦せる為め手甲は別に凍傷も出来ず此通りである斯く危険を慮り全く炭火を消したるは
午前三時頃で其後自分も眠に就いた
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−5
▼食料としての雪 数日来の疲労と飢渇を医するには雪の外には何ものもない、炭焼小屋に初めて行った時は
炭火もて雪を煮融かし湯として飲んだが其の愉快さ何とも云はれなかった、兵の如きは何れも争ふて飲んで居る、
湯の内に飲むのは宜しくないから、冷してから飲めと説諭しても中々耳には入れない、翌日になると炭火も得るに
由はない、如何に摩擦力で火を出さうとしても斯様に寒いときに何して出やう筈もない、夫れで渇を医するには
生雪を食ふ外はなくなつた、兵は殆んど絶えず雪を口にしている、余も初めの程は矢張り雪を食べて居ったが、
雪を食べれば食べるほど益々雪を欲しくなり、そして口は潤はないで妙に白い粘液様のものヽみ唇に出て来る、
且つ雪を食ふ時には全身に寒さは浸み透ふるので、余は何ふも雪は渇を医することの出来ないのを知って余り
多く食はないことにした、兵の如きはそれにも拘はらず雪のみ力にして此の寒い間にありながら、体温にて雪を融し
などして雪を食ふことのみ楽しみとしてあった、実に可憐なものである
▼無邪気なる兵 這般の苦境に立ち只だ是れ死あるのみと云ふ場合であるので、兵の頼る所は唯り余のみで
ある、其の有様は余の懐の中へでも入って来そうな状態で、実に無邪気なる小児の様である、其れも無理は
ないのであるが、余は故意に之を叱責し軍人たるものは死に臨んで自若たるべく他人の介抱など受くるやうでは
行かん、充分の決心を持たなくてはならぬなどヽ諭したら、爾来と云ふものは彼等も覚悟の臍を固めて死を待つ
のみで、只だ夜間睡眠中夢中の如くアヽ水が呑みたいなどと叫ぶことのあるのみであつた
真実の書き起こしは圧巻ですね、5連隊は駒込川の渓谷に迷い込んだだけでなく
視界の効かない条件の下、渓谷に滑り落ちていたりもしたのですね。
映画では崖を登るシーンが描写されていましたが、崖を登った後再び彷徨し
再び渓谷転落というケースも多々存在したのでしょうね。
文章の書き起こしありがとうございます
明治時代の普通の人の文章ってなかなか読む機会がないのでかなり貴重ですね
文筆家とか記者とかとちがって言い回しが洗練されてない分だけリアルティがありますね
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−6
▼惜しき蝋燭 余は行軍の途に就く際にマサカの要意にもと蝋燭をも所持して行つた蝋燭丈けに寒気には影響は
なかつた、廿五日の夜之を点して一寸兵に持たせた、兵は之を持ちながら睡魔の為めに襲はれて之を火の上に
落して、惜しや見る間に燃へて影も形もなくなつて畢まつた、此の時の余の残念は言ふまでもない、斯様に兵は睡く
なれば睡むり、火に逢へば直ぐ手足を無遠慮にあぶると云ふ有様で、余は如何に懇諭し又時としては叱咤までして
凍傷にかヽらぬやうに注意しても、暫時の間は聞入れもするやうであるが、其の後は直ぐに無頓着であるから遂に
無惨の凍傷に罹ることになつたので、真に余念なき小児そのままである、余は彼等が凍傷に罹りつヽも疲れに熟眠
して居る様を見て、唯り涕なきを得なかつた
▼手拭一本の用意 行軍の前夜は友人と酒盃を傾け余程夜更けまで快飲して居つたが翌朝の六時までに兵営に
集まらねばならぬので、此の工合では遅刻はせぬかと懸念して居つた、処が案外にも五時頃に起きて出掛けていつた、
ナニ此の時の考では田代と云ふては僅に五里ばかり、湯に入りに行く積りでタッタ手拭一本を所持したばかりであつた、
何にもコンナことヽ思へば充分な用意もする筈であるけれども実は肌衣なども極く下等の平常着一枚を着けた丈け
である、今から考へて見ればホン子ルの肌衣とか其他二枚位も着けて行けば宜かつたが当時は其の考もなく実は
其の必要も感じなかつた、然るに今回の如き遭難に接することは実に天災と云ふより他はない
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−7
▼田代は眼前にあり 廿三日は普通の天気で山へ入つてから時々吹雪はあつたがナニもたいした事ではなかつた、
行軍隊は五小隊に分れ其内一小隊は「カンジキ」隊となりて雪路を開らき橇隊は一台につき四名づヽ之を引いて
行つたが一台には十五貫目位の行李を載せてあるので大峠小峠の辺り通過する際はアノ様な傾斜の甚しい場所
であるので外に二名づヽの兵に応援させ無難に鳴沢まで到着したのである中の森であつたか桂森であつたか通過
する際は午後の二時頃で格別の吹雪でもなかつたから田代は恰度向うにハッキリと見えて居つた、行軍は山の傾斜
面に沿ふて進んで居るからモウ一里余あるやうに思はれてあつたが、直路にるれば半里位のものであらう、ソレで或は
田代の方へ進んだなら、却つて、今回のやうな出来事に遭わなんだかも知れぬ
▼前路皆な断崖絶壁 鳴沢に到着した時は既に日も暮れ且つ追々吹雪も激しくなつて来て田代には尚ほ一里
ぼどもあるし行進は到底六ヶ敷いと云ふので茲に露営することになつたが、さて翌朝二時露営地を発して帰営の途に
就いた場合は天も明けず且つ大吹雪の為め天地暗黒一寸先も分らぬので元と来し道路に出でんとなせるも其の
甲斐はなく断崖絶壁の渓谷進むこと能はざる処に至つた其れからこれではならぬと皿に引返へして道を探りつヽ
進めど又もや進むことの出来ぬ処に出づること数回遂に此の日は同じ様な道を繰り返へしつヽ苦辛惨憺の末鳴沢
に再び露営するの止むを得ざることになつたのである、何にせよ此の日の吹雪と云ふのは真に話にならぬ程で咫尺を
弁ぜぬと云ふは真に此の事を云ふのであらう、断崖絶壁駒込川の辺りに来ると水丈けは何ふやら目に見ゆるけれ
ども其の辺の山や谷間は何ふなつて居るのか薩張り見えぬのである
>>96 昔の人は「たった五里」っていう感覚で歩いてたんですね
道のり見ると20キロ近くあるみたいなのに
足腰も頑丈だったんですね
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−8
▼足袋を手袋に代ふ 廿四日には吹雪の甚しいばかりではない、其れよりも寒気の方は更らに厳しいのである
防寒用の外套は凍て板の如く堅く続て服も凍え只だ僅に肌衣は皮膚に附着して居るので皮膚の温暖の為め裏の
方は多少暖みはあるが其の表の方は水気を含んで居ると云ふ有様だ、それで苟くも水気を含んで居るものは一と
して凍結せぬものはない、手袋の如き既に凍結して用をなさない、一度之を脱すれば再び箝めることは出来なくなる、
余は恰度出発の際に他の用意は何もせぬが田代よりの帰りに浸めつた草鞋掛を用ゐるのも如何と云ふ考へから
用意の草鞋掛として古い足袋一足を所持して居つたので取敢へず之を背嚢から出して凍えた手袋の代りとして
一時凌ぎをやつた実に非常なる惨状と云はねばならぬ
▼一種のパノラマ 余は最初雪眼に罹ってはならぬと云ふ考より雪もて眼を洗ふて行つたから其の事は何ふでも
なかったが、何にせよ斯様の寒気であるので髯は凍り眉は凍り睫毛まで凍って居るので其の反射の為め物は非常に
大きく見ゆる殊に吹雪に難まされ苦寒に凍えつヽある一隊の行軍が深雪の裡を漕ぎ行きつヽ遂に無惨にも凍傷に
堪えずしてブルブルと顫ひつヽウンと唸りしまヽ屏風を倒すが如く斃るヽ様は會て余が東京の上野に於て見た独仏
戦争のパノラマ其のまヽである、乃ち軍隊が弾丸の為めに屏風倒しに斃さるヽ時と同様であつた
▼餅宛かも氷の如し 食用の餅は凍て氷の如くなつて居るので、到底齧り食ふことは出来ない、止むを得ないから
宛も氷を嘗めるやうに自然に嘗めり融かしにして漸く一個を食ふと云ふ有様で、糒の如きも凍えてボロボロし居る
のみならず手が凍えて之を掴むことは出来ないので凍結し居る手袋の上に糒を載せ顔を仰向けにして其のまヽ口に
入るヽと云ふ工合であつた
炭焼き小屋の中には鍋釜とかなかったんだね
あれば湯を沸かしたり炭火とか保存できたのに
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−9
▼谷間に転落せる所以 余は廿五日大隊と共に行軍中に谷間に転落して行つたが、何にせ此の日も大吹雪で
顔向けもならないものであるから、俯きつヽ行進するので辺りは何うなつて居るか薩張り分らない、ソレデ足を踏み
外づして谷間に転落したのである
▼大隊を分離す 谷間に転落してからは大隊の行先きは分らなくなつた、然し尚ほ之を追躡して同列に加はる考
であつたが、恰度部下の兵と巡り逢ふて其の話によると大隊長は斃れて人事不省となつたとのことである、ソコデ
其は大事である、此の際寧ろ一刻も早く帰営して連隊に報告せねばならぬ、是れ此の場合取らねばならぬ任務
であると覚悟した、其れで大隊を捜索することを止め一意田茂木野に向ふの決心を以て行進したのである
▼方角の間違ひ 廿五日と廿六日の両日は一意我が決心を果たさうとして西の方向を指して田茂木野に出で
ようとした、廿六日の日であつた、午前七時頃に彼の炭小屋を出発しやうとしたら初めて日光の洩れて我が西と
思ふ方向から太陽の出である、奇怪とは思ふたが尚ほ我が思ふ西の方向を指して進んだ、而かも午後二時頃
までに漸く千五百米突許りを進むに過ぎない、其の進むにも恰も腹部まで雪の中を漕ぐのであるから、一方の足を
進むれば更らに静かに他の足を運ぶと云ふ有様で、若しも軽率に足を運んでは深く雪の中に没して身体は見えなく
なるといふ程なので、行進の困難は言語に絶するのである
或は一名の兵卒の如きはモウ行進の元気はないと悲嘆の声を漏らした程であつた、行つても行つても山の絶頂は
見えない、見えないのも無理はない後で聞いたら余等の一行は八甲田山に向って進んで居るので、此の方向を
行進せば三茂木に出づるといふ話である、何ふして此の方向に進んだのであるか、今遭難地に行つて考へて見ても
分らぬと思ふ
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−10
▼雪の為めに討死するとは 初めの程は飽迄も連隊に此の変事を報告するの決心であつたが、数日来の疲労と
苦寒と積雪の為め如何に苦辛するも到底其の目的を達することは出来ない、只だ死するのみである、死は素より
恐るヽ処ではないから寧ろ一先つ最初の炭焼小屋へ帰へり茲を死場と定めて快く死を待つことに決心し、一同にも
此の旨を申渡し自から今日までの経過を記したる遺書やうのものを認めて死の到るを待つて居たが、数日の後静思
沈考するのに軍人は弾丸の下に身を曝らすは素より覚悟の前なれども雪などの為に討死するとは情けない話である、
否雪の為に死ぬべき身ではない、数日の内には必らず此の艱難を切抜くることの出来る機会は来るだろうと、何と
なく斯く感ぜられたのである、一同のものにも之を話したら、一同も何ふしても茲で死にたくない、一度営所の門を見て
死にたい、斯くの如く無惨の凍傷を負ひながら到底親兄弟に面会するの元気はないが、セメテは一目なりとも営所を
見たなら少しも残る所はないと言ふて居った
▼一行皆な生存す 余等一行進退を共にせる四名のものは何れも生存して兎に角再び営所の門をくぐることは
出来た、是れ余の頗る満足する所である、若しも此内一名なりとも死亡せしものあつたならば余は世間に対して
面目を失せねばならぬ、さなくとも余は一人斯く無事で帰りしならば、世人は如何に評判するであらう、長谷川は
部下の衣食を取りつヽ飢餓を凌ぎ一人無事で帰りしものヽ如く言はるヽかも知れぬ、けれども余等は部下の為めに
如何に心配したかは言ふまでもないのである、只だ彼等が非常の凍傷に罹りし結果佐々木と小野寺は死亡し安部
も大切断の下に辛くも生命を繋ぎつヽあると云ふのは残念の至りである
『青森連隊惨事雪中の行軍』(M35、佐藤陽之助)「(其の六)長谷川曹長の談話」−11
一月二十三日と二十四日は大隊と共に行進し居たれば事実は倉石大尉の遭難談と重複の嫌いあるを以て省く
▼被服の経験 今回の如き苦寒に処するには善良なる目の細かい羅紗は全く駄目であつた、凍結して板の如く
堅くなつて遂に割れて仕まうのである、倉石大尉の脚絆なども最先きに割れて用ゆることは出来ないので投げて
仕舞ったそうだが、余の雪掃らひも用をなさなかった、何ふしても極く粗雑な毛布でなければ此様な時の用にはならぬ、
毛皮の如きも長き毛のあるものは駄目である
▼大胆と呑気と 此の程も倉石大尉等と病院で話をして居ったが、何ふも自分等の生命を全ふし来れるは不思議
とも云ふべきであるが、斯様な場合は却つて血気の人々は死ぬもので、寧ろ非常に大胆なるものか或は呑気に
構へて居るものでなければ助からないと
>斯様な場合は却つて血気の人々は死ぬもので、寧ろ非常に大胆なるものか或は呑気に
構へて居るものでなければ助からないと
映画で緒方拳さんが演じてた生き残る兵隊さんはこんな雰囲気だったね
もしかして役作りでこういう談話も参考にしたのかも?
今回、二人の証言をまとめてみて判明したこと
・村松伍長、長谷川特務曹長ともに、もともと青森を目指して行動したのだが、
方角を誤り当初よりも上流の地点に到達していた。
・村松伍長は田代元湯に到達したが湯を三日間飲めただけで入湯していたのでは
なかった。湯が湧き出している場所があっただけで浴槽も存在していなかったようだ。
最後の四日間は身動きできず、湯の恩恵自体を受けていなかった。
・長谷川特務曹長は炭小屋に一泊した翌日、青森へ行くべく一旦は小屋を出発
していた。一日歩き再び引き返してきてから先滞在していた。はぐれ次第ずっと
じっとしていたのではなく、任務意識を持って行動することを優先していた。
・長谷川特務曹長は寒冷地での的確な知恵をもち、兵卒をきちんと指導、指揮
していた。小屋の全員が救出されたのも彼の功績といえるかもしれない。
生き延びたのは運だけではなく、彼の資質あってのことだったはず。
しかし、炭小屋とか温泉が湧いてるとこなのに近くに人家なかったのかな?
田代温泉には冬場は人は居なかったはず
>>107 田代には元湯と新湯の2つの温泉があり、建物は4〜5軒 冬には小山文次郎という住民一家が山篭りをして
湯治場を守っていた 当時冬場の交通は途絶えてしまうため3ヶ月分の食料が蓄えられていたと云う
5連隊遭難始末記には
:田代には番人の家族3人と炭焼き職人15人住居してありて、米5〜6俵と濁酒5樽と鮭1本を貯えてある
と調査済み 210人の仮泊する施設の能力も備えていたようだし
天候が穏やかな時は田茂木野と田代の往来はあったようですよ
:22日、田茂木野の住人 中村運作なるもの田代より単行帰来せしと云うをみても、
:積雪の左程に深ざるを証するに足るなり
本書の「談話九則」の立見師団長の談話によると、
・当時各師団ごとに雪中行軍を行っており、雪が降れば各隊とも足慣らしの演習をやっていた
・23日当日、五連隊からは三組の雪中行軍隊が出ていて、山口大隊(一泊)の他に、士官候補生による
数泊行軍の隊もあった、これは無事生還したらしい(ルート不明、実際完踏したのかも不明)
・数泊行軍は師団長の命が必要だが一泊行軍は連隊長限りで可能、よって山口大隊の行軍は知らなかった
・防寒装備は元々備えはあり、フランネルのシャツ、毛皮のチョッキ、毛皮の外套、毛布、「並の革靴ではない
雪沓」などを師団としては持っていた
・師団長自身(弘前在勤)は24日に師団長会議のため弘前より上京、27日に陸軍省で遭難報告を聞いた
・山口少佐は十七連隊から日清戦争にも行き、フランス語ができた
らしい。
>>108 >天候が穏やかな時は田茂木野と田代の往来はあったようですよ
山越えして田茂木野の方までいかなくても反対側の三本木の方が行きやすいじゃないですかね?
積雪も深くないだろうし、山から遠ざかっていくので
あと、田代元湯周辺に人が住んでるのなら炭焼き小屋に避難してた兵隊さんも
大声で助けを呼んだら近くに住んでる住人が気がついてくれないかな?
もしくは炭焼き小屋がから少し距離を置いてたき火して煙りを出すとか
23−26日前後が一番天候が荒れてたんですよね?
それ以後救助されるまで数日あったのにその間に天候が収まってきたころにそういう行為できなかったのかな?
神成大尉が本来は雪中行軍行くわけではなかったんですよね?
奥さんの出産とかで本来行くべき立場の人がいけなくなってその代理っていう形だったはず
その本来行くべきだった人はそのあとどういう人生歩んだんだろうね
あとで震えたんじゃないかな?もし自分が行ってたら死んでただろうし
本来行くべき人の談話とか後世に残ってるのかな?
・山口少佐の父、成沢良作はもと幕臣で、遭難の報を聞くと本人行方不明中にも関わらず
直ちに少佐の家元に「今回の変はひとえにお前の責任である、部下の兵を殺した以上はお前も
決して生きて帰るな、不幸にも生還した場合は体の治癒を待ち潔く自刃せよ」と手紙を送った。
・長谷川特務曹長の妻は男子を出産し早く夫に見せてやろうと子連れで実家から青森に来た矢先に
遭難を知り、もはや死んだものと悲嘆にくれ、祭壇を作り夫の帽子や供物蝋燭を供えていた。
・長谷川特務曹長は小屋での最初の夜、眠っていると突然白髪の老人が現れ、「お前はここにいて
救助隊を待つべし。もし外に出て助かろうなどと思えば、必ず命をなくすであろう」と言って、ハッと
目が覚めた。(実兄の談)
・捜索隊の三上中尉は、後藤伍長発見の報を聞くと田茂木野から青森まで激走し、連隊長宅に
駆け込んで報告するやバッタリ倒れ、一時は人事不省になるほどだった。
>最初の夜、眠っていると突然白髪の老人が現れ、「お前はここにいて
救助隊を待つべし。もし外に出て助かろうなどと思えば、必ず命をなくすであろう」と言って、
その老人に「お前は案内料が欲しくてそんな事を言ってるんだろう!」と罵倒するのが八甲田山クオリティw
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 10:58:40 ID:b+PCS8Np0
>>110 >田代元湯周辺に人が住んでるのなら・・・
新湯まで300m程度だが、そこに人がいるとは思わなかったとのこと。
たとえ大声で叫んでも雪が声を吸収してしまうのでちょっと難しいかも。
煙を燻すはよいが誰もマッチを持ってなかったと思ったが
>>114 その人、その後どうなったんだろ?戦死?
>>115 >煙を燻すはよいが誰もマッチを持ってなかったと思ったが
こういうところが運が悪いね、4人ぐらいいたんでしょ?
男が4人もいてタバコ吸う人いなかったのかな?
山とか登山する人は吸わなくていいから100円ライターぐらいもっていくべきだね
現代でも、何が起こるかわからないし、あとカロリー高い携帯食みたいなのも
>>117 その他に絶対必要なのは 円匙 ( 携帯スコップ )と、敷物?。
この4人は炭貯蔵小屋に到達出来たけれど、最悪の遭難では雪洞を掘るしか
生き残る術はない。
先ず溝を掘り 横穴を掘れば人の吐く息で保温も効きます。
地面まで掘り進めば、燃料を焚いたりする事も可能。
缶入りのバターは食したり、燃料にしたり、灰とか乾いた泥を混ぜて
身体に塗り込んで保温保湿したりと応用が利く、
明治35年当時は雪洞を掘る発想は全く無かったようで
馬立場から3km、1時間ほどで田代に達する地点で露営を決した5連隊は
小隊は各一団となり、円匙2・方匙8を以って小隊長以下40名を入るべき雪濠を掘開し
各小隊の雪濠は、約幅2m、長5m、深2m50ばかりにして、掩ふに屋蓋なく
敷くに藁なし・・・・・。
という状況に置かれていた。燃料と食べ物はあったのだが、天蓋は無く風が吹き込み
暖は採りにくい状況だったし、座っての休息も敷物が無く実施不可能だった。
>>118 すでに露営する段階で詰んだ状態だったんだね・・・・
そこまでほとんど無装備でよく冬山で露営計画立てたね、上の人
無謀すぎる
>>119 この露営地にソリを投棄した行李輸送隊が全員到達したのが夜の9時頃
行李隊が背負って来た装備より木炭を各小隊に配布
( 1小隊40名1雪濠に約6貫匁 現在の23s )
しかし、あまりの手の寒さで手の感覚がなくなり、火が点くまでに一時間余りも
時間を要していたようです。
>>119 準備はしていたが、全て想定外が真実のようです。
夜の9時以降、5連隊は行李隊運搬の餅三個・缶詰肉1個を各人に配布、
その間に炊爨場(すいさんば)の設備に着手。雪を8尺程掘っても真地に達せず
雪上にて竈(かまど)を設置。
米砥ぎに必要な水は雪を融かし実施したというから想定外の時間消費案件
また砥いだ米を炊き始めたが、竃の下の雪が解け鍋が傾斜する。
しかし1月24日 深夜1時に半熟の米を分配しているのは優秀です
またその後、釜で癇した酒も配布しているようですが、これは悪臭がして
飲めたものではなかった、とある。
五連隊は5日前に予行演習を行っている(大峠と大滝平の中間にある燧山まで)
「…行軍実施の難易を検する為め一月十八日大隊二十名を先頭とし量目約三十貫匁の
物を積みたる橇一台を後尾に曳かしめ田代街道上燧山に向け終日行軍を実施したり
此行軍は午前八時三十分屯営出発同十一時三十分燧山近傍に達し午後二時帰営す
屯営燧山間の距離約二里半にして往路には四時間帰営には二時間を費し少しく人跡ある
部分は一里に一時間半全く人跡なき部分は二時間を要したり而して橇を運搬具に使用
するは甚敷困難に非ざる事を認めたり此日天気晴朗にして積雪三尺乃至四尺表面稍々
堅硬にして良好の景況なりし途中田茂木野村土民の言に依れば田代に住民一家族あり
時々猟夫若しくは樵夫のみ彼の地に往来すと」
>>122 この時、橇で荷物を運搬するのをあきらめてたら後日の悲劇はなかっただろうね
人間だけなら日暮れまでに田代温泉に到着できてただろうに
・・いや、行李輸送ができるかをみるのが目的だから予行で橇の使用をあきらめたらその時点で
本計画は輸送手段の練り直しのために中止され徒歩だけの行軍はまた別個の機会になったと思われ
>>124 それならさらにいいじゃない?日程変更で完全に助かるし
>>121 そのソースもあるわけだけども、悪臭がしたというのはどうなんだろうか、
酒に米の匂いがついたくらいでは耐え難いようなものにはならないわけで、
釜が焦げついていたのならわかるが、二斗炊きの大釜をあの状況下では沸騰
させることもできなかったのではないかと想像する。だから半煮えだったと。
つまりお焦げはできないので原因にならない、ここは倉石大尉の証言の、
「酒を与へしも皆後の寒さを恐れて呑まず」のほうが妥当だと思うんだがどうだろう?
東北人達なら冬に酒を飲んで外にいれば冷えることは常識としているわけだし、
軍医からの注意として「酒を飲むときは凍傷に罹り易きに由り飲酒家も必ず慎む
べし」と計画書に記されていて、それが出発前訓示された可能性も高いと思う。
酒なんか積むより、干し芋とか煎餅とか煮炊きしなくてもそのまま食べられる物持ってきてくれと・・・
米や餅以外に一人当たり一日分の「携帯糧糒」も携行している。また賽の河原で
見つかった大量の遺体は手に「パン」を持っている者が多かったという。後藤伍長も
発見されたとき背嚢にたくさんパンを持っていたとのこと。「携帯糧糒=パン」なのか
どうか分からないが、パンは最後まで温存というか後回しにされ、仕舞いには手や唇が
凍って食おうにも食えなくなって死後も余っているという状態に。
当時の白米至上の価値観が、こういうところからもうかがえる気がする。
>>128 上の書き込みみたら小屋にいた連中は餅ぐらいしか携帯食料なかったみたいだけど
賽の河原にいた連中はパンばかりもってたのかな?
餅派対パン派だね
米や餅以外に、と言った。第一露営時に各人餅三個づつ分与したと倉石談話にもある。
基本的な情報は自分でも把握しといてくれ。
計画書では餅は各人六個とある。携帯糧糒とあわせて、行李の中に入れてあり各個人には
装備されておらず、指揮官の命のつど配られるシステムなので、結果的に持つ兵と持たぬ兵の
ばらつきがあった。賽の河原の一群は本隊として最後まで統率を保った人等で、一列縦隊で死んでいた。
パンの携行者も含まれていて最後はパン出し食し方の号令が出ていたとも推測できる。
ちなみにパンとは乾パンのことすなわち携帯糧糒とはそれなのかもしれない。(計画書にパンとは書いてない)
>賽の河原の一群は本隊として最後まで統率を保った人等で、一列縦隊で死んでいた。
壮絶だね、死の直前まで軍人だったんだね
これがアメリカとかの兵隊なら途中で各人がこっちの方向に行ったらいいんじゃないかとか隊内で紛糾してただろうね
命令には絶対服従で隊内にも浸透してたようだから、上の人が無能だと悲劇だね
行軍中にも何かおかしいと思ってたけど命令だから最後まで一緒に動いてたようだし
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 20:18:53 ID:oBSl33T80
>>131 時代は下るけど佐久間艇長の6号艇もそうだよね。窒息死するまで全員持ち場を離れなかった。
全員それぞれの持ち場で従容として死んでいたという・・・・・・・
これが他の国の話になると出入り口で折り重なって死んでいたっつーからなぁ
死にたくはないが死しか先がないのなら見事に逝きたいもんだ。自分には無理かも試練が。
見事っていうか、哀しいな。
生命の危機を感じても上官の命令を聞いて死んでいったわけで。
糒かぁ。極寒じゃ食えない罠。
>>126 確かにその説は説得力があります、好酒家の倉石大尉の証言が優勢の気がします
永井軍医からの「酒を飲むときは凍傷に罹り易きに由り飲酒家も必ず慎む べし」という兵への指示も裏付け充分です。
ただ、雪中下での温熱調理という視点では別な見解があります・・・・。
知人の話では、現在の自衛隊の八甲田雪中行軍でも「 カップヌードル Min 」はお湯を注いで3分待つと凍る、
つまり飯盒等で煮込まなくては食せない外気温だそうです。( 勿論任意携行食で、官製の食糧ではないのですが )
この状況を癇酒に当てはめると
@癇酒を凍らずに配布するまでかなりの高温に加熱する必要があった
A酒の加熱は煮込み酒に近く、釜の成分が酒の味に影響した
B行李隊が橇投棄後、背負って来た薪炭が不完全燃焼で燻って釜の酒すら燻した
などと云う想像も頭をよぎるのですが、どんなものでしょうか?
炭が完全燃焼した火で湯を沸かし徳利で癇する酒と、不完全燃焼の薪で釜茹でする酒・・・・。
いずれにせよ、雪上の煙る竃で苦心する炊事係の姿が目に浮かぶようで、
勇敢て誠実であるが故にどこか切ない・・・・・。
>>136 日本酒はアルコール分(外気温が零下30度を下回るくらいにならないと凍らない)を
考慮してカップヌードルと同じに当てはめるのはどうなのか、とか、露営地までの輸送中も
凍っていなかったわけなので燗酒を凍らせないようにする配慮はあり得る?という点と、
炊飯が不満足に終わった後なのに酒の段になるとゴンゴン沸騰させられる火力が
得られたか?という疑問はあるけども・・・
ちなみに、軍医はもともと第二大隊の村上其一一等軍医が参加予定だったそうで、
急な都合で第三(第一の説も)大隊の永井三等軍医が行くことになったそう。
七か条の注意は村上軍医が作ったのかも。結局村上軍医は救援活動の中心人物に。
途中、進退について永井軍医が退却を進言して却下されたというのも、山口少佐直隷では
ないことや階級が低いことがもしも影響したとしたら・・・これもまた不運の一つだね。
>>137 確かに地面まで掘開しない雪上で焚く火は、常に不完全燃焼で、日本酒を沸騰させるには
燃焼カロリー不測の可能性大ですね。
また永井軍医の上に村上軍医が存在していたなど、過去記事に例がなく驚くばかりで
Vスレ目にしてのこのスレの底力は凄い・・・・。 本当に勉強になります、
遭難始末 と云う記事も 師団発行の 遭難始末 と
北辰日報発行 5連隊遭難始末 の、二種類が存在するらしく
各兵卒の談話なども含めると、膨大な情報ありきのこの遭難事件、実に奥が深そうで
興味をそそられます。
とにかく銅像茶屋でしか入手出来ない良質な資料や、他文献の書き起こし豊富なこのスレも
改めて明治35年1月からスタートしませんか?
青森5連隊の雪中行軍目的はまず、
想定 軍備配置手薄な八戸へのロシア軍上陸後の鉄道・道路の破壊による兵站(物資輸送)の封鎖に対し三本木平野での
迎撃戦を行うにあり。対ロシア戦に優位を示すならば、行李編成の戦闘部隊構築は必須の案件だったし、
雪中下における、小銃装備の最小戦時編成歩兵一大隊、約200名の配置・投入・行李輸送・戦闘訓練は実戦を顧みれば
必須の研究案件であり、極寒の青森の地においてしか実施されない演習だった。
また、雪中下での行軍が成功すれば青森5連隊の貢献は広く陸軍に伝達され、陸上での対ロシア戦のエキスパートとなり
第8師団は陸軍部内で、その優位を勝ち得る事が出来た。
加えて将校達は他師団に派遣、教導する立場に立てたであろうし、計画自体は当時的を射るものだった。
しかし、作戦は200名以上の遭難という悲劇をもたらした。
急変した天候の影響・事前の露営研究・装備研究の不備がこの惨劇を生んだのだが
それは何故なのか?
明治35年 1月18日
青森5連隊、小峠まで予行行軍を実施。カンジキ隊20名が踏破路を踏み固め
1台のソリ隊が続くソリ牽引には兵卒4名を配置した
:ソリ重量112s( 30貫 ) :小峠まで4時間 帰路は2時間
「この日天気晴朗にして積雪三尺ないし五尺、表面やや堅硬にして良好の景情なりき」
遭難始末 より
>>138 軍医代役のソースは『雪中行軍遭難談』中の「幸と不幸と」ね。
編成
歩兵一中隊
中隊長 神成大尉(第二大隊第五中隊長)
小隊長 伊藤中尉(第二大隊第五中隊)
大橋中尉(第二大隊第七中隊)
水野中尉(第二大隊第八中隊)(子爵)
鈴木少尉(第二大隊第六中隊)
下士以下160名
(大隊司令部付軍曹1名)
(大隊司令部付三等看護長1名)
(第二大隊第五中隊41名)
(第二大隊第六中隊38名)
(第二大隊第七中隊38名)
(第二大隊第八中隊41名)
特別小隊
小隊長 中野中尉(第二大隊第八中隊)
第三年度長期下士候補生34名
(第一大隊伍長12名)
(第三大隊伍長10名)
(第二大隊第五中隊伍長3名)
(第二大隊第六中隊伍長3名)
(第二大隊第七中隊伍長3名)
(第二大隊第八中隊伍長3名)
編成外
山口少佐(第二大隊長)
興津大尉(第二大隊第六中隊長)
倉石大尉(第二大隊第八中隊長)
永井三等軍医(第三大隊)
佐藤特務曹長(第二大隊第五中隊)
小山田特務曹長(第二大隊第六中隊)
長谷川特務曹長(第二大隊第七中隊)
今井特務曹長(第二大隊第八中隊)
田中見習士官(第二大隊第七中隊)
今泉見習士官(第二大隊第八中隊)
以上210名
上記のように第二大隊の第五〜第八中隊を基幹として
これに下士の経験値と教育能力向上のため第一と第三大隊から伍長を選抜して混成させた編成
特別小隊には第五〜第八中隊の伍長も全員引き抜かれている
また第五〜第八中隊の特務曹長と見習士官は編成外組のほうに引き抜かれている
これは将校と上級下士のみのグループで指導者研修の意味あいと想像できる
全体に士官と下士官の参加率を高めた指導力育成のカラーが強い
>>142 酸ヶ湯が凄いことになっててワラタ
正午の気温が氷点下12度・・・
>>145 ここから8度下がってマイナス20度だったんですよね?「その日」は
考えられない過酷な空間
体感温度マイナス50度だったね・・・とてつもない寒さ
明治35年 1月23日
午前六時三十分 青森の屯営を出発、この時 : 気温零下六度
午後六時 平沢の森で露営開始 :此夜風雪甚だ強からざりしも、寒気は峻酷にして、零七、八度より
十二、三度に下れり
しかし露営開始時の気温の裏付けはない。
当時衛生部員は気温の計測をしょうとしたが、記録が取れない程、手は冷え
計測中の櫻井看護長は、寒暖計を手にして倒れているそうです。
明治35年 1月24日
平均気温は青森測候所創設以来の未曾有の低度に降下
最低気温 氷点下 十二・三度 : 最大風速 十四・三米 : 最高気温 氷点下 八度 ( 青森市内計測 )
本当に今のYahoo!のニュース下の八甲田を誰かが踏破していたらリアルな画像を目にして
行軍行程最高値の馬立場から転げ落ちてたりして・・・・。
雪山を軽んじるとリアルな経験をするのですね。
それにしても、現在のニュース画像凄い、平地でこの有様なら
山の上の気温は想像を絶する状況でしょうね。
長谷川特務曹長の談話で既出でないものが他文献にあったので追記
(『雪中行軍捜索隊』M35,三好好吉)
▼手は腫れ上がる 炭焼小屋に行つてからは用意のマツチがあるのに心付きポケツトから之を出した
水気が付いて凍ふて居るので到底火は付きそうもない腋の下に之を入れ温めて後ち擦つたら火は
付いた是れが元となつて炭火を起したのであるが何ふも火に渇して居るので手をあぶりたくて堪らない
其の甚だしき害のあるのを知つて居るから勉めて避けた他の兵をも厳に説諭して俄かに手を出さしめ
なかつた然し長くは続かない知らず知らずの内に一同の手は火の方へ向いて居るので遂に見ている
内に腫れ上がつた恰度焼餅の膨れ上がる時のやうである一同は驚いたヤアヤア腫れて来たぞお前
は何ふか、ヤア私のもと何れの手も同様である矢張り余の手も見事に腫れ上がつたのである実に
凍傷の結果は恐ろしいものである夫れで余は火に近くことをせずに勉めて摩擦を試みた幸なるかな
翌朝眠りの醒めたる後見れば腫れは全く引けて平常の手と異なる所はなかつた
>>149 凍傷とは怖ろしいですね、風雪に冷えた四肢を急激に温めると「 凍傷 」になる、
という戒めを幼い頃何度も聞いた覚えがあります。
実にこれが、温暖な瀬戸内の地での話・・・・。
これは日露戦争従軍の方の教訓なのか、
あるいは、太平洋戦争後のシベリア・満州の引き揚者の教訓なのか不明ですが
とにもかくにも「寒くても火傷する」知識に触れていたのは事実で
現在この記事を読み改めて感心しきりです。
そう、私も今は雪国にいるけど(救援隊のアイヌ人弁開凧次郎の終焉の地)生まれは瀬戸内で
せいぜい子供がしもやけでストーブの前であぶってかゆくなる程度のときでも年長者にそういうことを
言われましたね。
全国民的にそういうことが通説として知れ渡ったのはこの事件が大きく関係してるんだと思う。
当時のこの八甲田雪中行軍遭難の記事は、東奥日報により報じられ
全国紙でも大々的に取り上げられたそうで、多くの人々の注目を集めた事件
なのでしょうね。
昭和期とは大違いの恵まれた報道活動なればこその通説の伝承。
しもやけを急に温めると指が腐る、指がもげ落ちる、
この事件の影響がこんな形で現代に伝えられているなんて感慨深い事です。
山口少佐 45歳
興津大尉 44歳(五連隊長津川中佐と同期)
神成大尉 33歳
倉石大尉 29歳
今泉見習士官 22歳
民間人で今の時期に田代街道を歩いて抜けていく人いるのかな?
地元の人とか
長谷川特務曹長の談話でさらに別の文献に未出のものがあったので追々記
(『第五連隊遭難始末記』M35,北辰日報社、
>>92の続きとして書かれてある)
二十六日夜は明け放れたれば俵を破つてカンジキを作ることとなしたれど兵卒は昨夜来
凍傷に罹り其働きをなすものはない、そこで止むを得ないから自分自らカンジキを作り
又之れを各自に穿たしめ準備全く終わった後出発することとして左のことを命令した
汝等の手甲凍傷に罹れり、然れども為し得る限り保護せざるべからず、幸いに足は
健全にして歩するを得べし、故に為し得るまで交る交る先頭となりて前進せよ、若し
手を要することあるときは自分がこれを助け遣るべし
と、出発せんとする時余の時計は七時であつたが屯営出発以来本日初めて太陽を見る
ことを得た、この太陽を見た上で一の疑問を生じた、即ち太陽は余の信ずる西と南に
あつた、然るに時間は将に七時頃であるから東にあるべき筈だ、ヨシ自分の時間は想像で
仮定したものであるから時間に差異ありとするも一時間と差異ある筈はない、依て磁石を
出して見たけれども磁針は傾いて全く用をなさない、如何に動揺するも其効はない(病院
に於て其磁石は用をなせりと、当時は水気の為め凍結せるものならんか)然し尚ほ此山を
越へて前谷に至らんと決心した、無惨なる雪は出発以来其量を増加し前路の如きは
丈余に及び容易に歩を進むることは出来ない、一歩一歩に雪を踏み堅めては進むと云ふ
状態である
三人交る交る山を進むこと千米突で小野寺は疲労の為め大に落胆してとても行くことは
出来ないと云つた、時々太陽の光の洩るる時に山頂を見れば如何程見るも山の高を
確知することは出来ない、彼是炭小屋を千五百米突も進みたりと思ふ頃既に午後二時頃
であつた、茲に於て余は決心した、僅かに二千米突許りの距離にしてこの多くの時間を
消費して居る、とても前途の望はないから炭小屋に還る事に決し一同に意見を求めたる処
皆同意した、帰路は下り傾斜にして且つ往路をとつたから一時間余にして帰ることは出来た、
此時の寒気は兵卒等の指を凍冱すること甚しく炭小屋に帰るも既に前述の如く働くことが
出来ない、依て自分が各兵の寝所を作り与へて然る後に各兵に覚悟せねばならぬことを
諭した
自分は既に死を決せり、汝等も同様ならん、此炭小屋は実に我等の死場なり、以後
自身の事に関しては何等も人手を頼まぬと云ふことを覚悟せよ、併し若し明日天気良好
にして方向を定むるを得ば出発することを得るならん、若し能はざるに於ては此処に於て
覚悟せざるべからず
是に於て自分は自分の寝所を作り各寝所に横臥した、疲労せる各兵は寝所に入るや
間もなく睡眠した、自分は寝床に就ひて尚ほ寝床の改造に従事した、即ち炭俵を破り
俵を炭上に敷き床としたのであるが足部の冷気甚しいので脚絆足袋等を脱却し而して
首巻(防寒外套の毛)を以て足を纏ひ其上を炭俵を以て包んだ、夜半冷気の為め目覚めた
ときは横臥の儘で手を摩擦し足の運動を勉めた
二十七日夜明の頃兵卒等しく寒を以て目覚めた、兵卒は終夜身体の運動なく熟睡せる
為め或は凍傷に罹りたるにはあらざるかを憂へた、果して彼等は皆凍傷に侵され
何の用をも為すことは出来ない、独り佐々木正教は出発するからカンジキを作り呉れよと
連りに請求するので些かなるカンジキを作り之れを着装して遣った、全く準備終りたる後
炭小屋口に於て如何に感じたのか出発を止めて寝床に横臥した、各兵は雪を飯盒又は
飯行李に盛り余はマントの頭巾に入れて各自の枕元に置き食することとした、再び此小屋
に帰りし時自分は又もや炭火を作らんとして為し得る限りの工夫を凝らし或は長時間
木炭の摩擦を以て火を得んと企てしが終に其効はなくて断念した
此日は寝床の改造をなし枕元を稍高く作つた、各兵は雪を飯盒に入れ或は噛みつつ
水筒に入れた、アア是れは死場に於ける一大快事であつた、又実際渇を覚えて水を
欲するのは当時の状態であつた、自分は一度び之れを試みたることはあつたが其飲む
ときは快ひけれども比較的時早く小便となるからこれを止めて午前七時頃目覚めた時と
午後三時頃に食料として雪を噛むことに定めた、其噛む雪は舌の感じが鈍くなるを
度とした、然るときは目覚た時及び午後二時頃に放尿すれば他は其心配ないのである
二十八日二十九日三十日炭小屋に横臥するのみで他に為すことはない、此炭小屋に
入り込んでから兵卒をして交る交る又夜間は目覚毎に大声を発せしめつつあつたが
終に疲労の為め其声さへ出すことは出来ないやうになつた、二十九日の朝に鴉の啼く
のを小屋の上に聞きしのみで他は四面寂莫である
三十一日自分は午前(夜半)名誉なる夢を見た、其夢よりして自分は尚ほ一週間は
生活するものなるを確信した、自分は其夢を各兵に語り自ら慰た、又各兵を鼓舞した、
この朝鴉の啼くのを小屋に聞いた
二月一日二日、一月三十日及び三十一日両度の強震は積み上げたる炭俵を動揺
せしものか、二月二日捜索隊の案内者たる此炭小屋の持主来りて小屋を捜索隊に
示すとき炭を押したる為めか、不意に一俵の炭は兵の上に転落した、是に於て各兵は
横臥の儘誰かと始めて大声を発した、然るに不思議にも上の方に於て発声せるものは
ある(炭小屋の入口は風雪の侵入を防ぐ為め炭俵を以て塞ぎありたるに炭小屋篭城
後の降雪は全く入口を塞ぎ僅かに其空隙より光を得るのみ)暫くにして入口の炭を
除いて入り来るものはあつた、これ捜索隊で乃ち救助せられたものである
もう、凄いとしか言いようがないな…
第一露営地から夜明けを待たず帰営した五連隊が鳴沢に迷って円匙を失い、
第二露営地でどうやって雪濠を設営したかというと兵卒の藁の雪沓で深雪を踏み固めさせた。
で、踏むにつれ藁の雪沓の底に柱のように雪が張り付き、終いには転倒する有様。
転倒した物の中には疲労と空腹の為起き上がれない者もいたとか。
カンジキで踏み固めれば多少は違ったのだろうか?
ただ、完成した雪濠も浅く、第一露営地で燃料の薪炭も使い切り暖もとれず
兵卒が盾になり風雪を防いだようで、詰んでいた作戦には違いないのだが。
>>158 こんな状態でどうやって帰営できたのか?
担架か何かで運んでもらったのかな?
>>161 生存者11名の発見、まとめ
1月27日:未明に後藤房之介伍長が大滝平にて救出 : 津川連隊長 遭難を知る
1月28日:救助のための18箇所の逓伝哨所が敷かれた青森〜田茂木野
1月31日:山口少佐、倉石大尉、小原伍長、及川一等卒、山本一等卒、発見 :大瀧下流谷底にて
2月02日:長谷川特務曹長、安部一等卒、後藤一等卒、安部一等卒発見 :平沢炭小屋にて
2月02日:村松伍長発見 :田代元湯にて
1月27日の遭難断定から津川連隊長は60名編成の救援隊を大滝平方面に派遣
神成大尉の亡骸他、兵卒の亡骸が次々と発見される、この事実を知り5連隊は総力を挙げて救援にあたる事となる。
同日、鹽澤(しおざわ)大尉以下150名の隊員は午後3時に屯営を出発し、田茂木野到達が午後5時、状況を精査し捜索活動を断念。
:二次遭難を想定し、待機したと想像できる。
1月28日には救助活動のための仮設逓伝哨所が敷かれた 青森〜田茂木野で18箇所。
この遭難案件下、5連隊外の人夫をも含めた捜索隊は、1099名に及び、8師団にも捜索協力の要請をしているが
立見第8師団長はこの時帝都の陸軍省に出張中、現地配置の旅団長も不在。
この絶望的な局面において、津川連隊長は進退伺いをしたためている。
なお、現地配置の旅団長は屯営より15kmの地、浅虫温泉の花街に滞在中だった。
その後2月2日までに生存者11名は救助されたというのだから、かなりレベルの高い救援活動があったと想像出来る。
天候回復と、軍の威信をかけた人海戦術の賜物ではないだろうか?
>>162 >なお、現地配置の旅団長は屯営より15kmの地、浅虫温泉の花街に滞在中だった。
今も昔もそういう部分は変わりませんね
下がどうにかするだろうから、とりあえず遊びながら様子見
>>163 5連隊は捜索要員として1月26日幸畑で村民27名を雇っている、
しかし捜索を展開出来たのは天候の回復した1月27日から2月2日まで、
2月3日以降は天候再び急変し各仮設逓伝哨所間の往来、物資補給も困難となり
各伝哨所の捜索隊は粥をすすり、命をつなぐ有様。
天候による影響は本当に大きかったようです
山の上のほうの哨所は二回くらい、吹雪で全壊したらしい。
>>164 言葉足らずですみません、
1月27日の段階で5連隊津川連隊長は遭難した210名の雪中行軍隊捜索・救援のため、
8師団の総力配置を要請しようとしたのですが、立見8師団長はこの日師団会議のため
帝都におもむき不在。
加えて8師団旅団長も不在、不在の理由が浅虫温泉の遊興との事で、
この危機管理体制の不備に津川連隊長は絶望した感が読み取れます。
おそらく連絡不通の下、最前線の津川連隊長は腹を切る覚悟で進退伺いを
書いたのではなかろうかと想像出来るのですが・・・・・。
>>166 そんな事も起こっていたのですね、
おそらく、急ごしらえの小屋だから、積雪と風速に耐えられなかったのですね。
既存の山小屋等も豪雪で雪に埋り、風雪で倒壊するのが八甲田山麓の恐怖。
実際に明治22年2月22日に12名の若者が賽ノ河原の山小屋で無惨の凍死を遂げ
ている。
その後無鉄砲な若者8名が賽ノ河原の小屋に露宿し、その小屋はなぎ倒され8名供凍死を
遂げた・・・ 。 という記事があったりする。
本当に想像出来ない気候の恐ろしさ。
>>168 その後、賽の河原には小屋とか作らなかったのかな?
あれば5連隊の生き残りが逃げ込めたのに・・・
>>169 絵、ありがとう
初めて見ました、ブロック積んで作ってるんですね
最初から田代街道の要所にこんな場所作っておけば
冬場にそこを通る人も助かるだろうに
『雪中行軍捜索隊』より
二月四日(雪天烈風)昨夜来の大風雪にて各哨舎破損を生じ特に上田哨所以南の各哨所は
殆ど全部破壊し其大部は睡眠すること能はず、捜索隊は天候険悪なるに関らず怒風を犯し
捜索を試みしも風雪愈々劇しく捜索隊自身も漸く困難に陥り終に中止するの止むを得なきに
至り帰舎し各自哨舎の修築に従事せり、糧食運搬人夫は途中強風雪に逢ひ到底前進の見込
なしとて其一部は遁走し終に各哨舎兵卒の逓送を要するに至る、本日第二回応援として歩兵
第三十一連隊より来着せる二百名は六十名を田茂木野に残し他は第九哨所以北の哨舎に
分配宿営せしむ
行軍初日に案内人を断ってしまったことが何千倍もの追加費用になってしまいましたね・・・・
>>173 その対価として行われた捜索活動を通じて冬季の装備や野営技術、その他が向上したのかと思うと複雑な気分に・・
この事件、今なら各マスコミが総掛かりで自衛隊叩いてるだろうね
同じような人災事故起こったら
防衛省のならず総理の首も飛ぶかも
>>175 その代わり真珠湾頃なら無かった事になっただろうな。
それくらい無意味なレスだな
昭和20年までの兵士の命の重さ・・・・・・・・・鴻毛よりも軽い
それ以降の自衛官含む人命の重さ・・・・・・・地球よりも重い
軍人勅諭「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」
第四艦隊事件の時、艦政本部は大騒ぎになって藤本大佐は不幸な事になったが、
演習を強行した軍令部は「馬年生まれが多いので荒れるのでせう」で済ましちゃった
例もあったな。
>>177 お上から賜った軍旗の重さは地球より重かったのがこの時代だそうですね
小銃と兵卒の命の重さを比較しても微妙な時代。
列強に侵攻される可能性が高い東洋の小さな島国が生んだ独特の理論は
人より小銃、野砲、新鋭の艦艇重視。精神論というのも在る。
しかもこれがそこそこ強く、侵攻される事を一時期免れた
自由民権がもたらされたのは1945年
しかも連合国軍最高司令官総司令部( GHQ )に縁る
某師団長の談
「此度の青森なる歩兵第五連隊兵が、其の目的を達する事が出来ないで、横死を遂ぐるに
至たのは、真に千歳の恨事であるが、彼等は何れも実戦に向ふたる場合と同一の精神と
決心を以て斃れたるもので、我輩より是を観たなれば、何れも其の本分を尽して職に殪れ
たるものと評さなければならぬ、乃ち我が軍規の厳なると同時に軍人をして、平素義勇報効の
観念を養成せしめて、一朝事に臨んで死に就くや、鴻毛より軽からしめた所以であると云は
なければならない、然るに世の新聞紙なるもの軍隊の何物なるかを知らず、軍規軍律の峻厳
なるを弁じない、猥りに無責任の批評を為して、無知の国民を迷はしめ其太甚しきものに
至りては某々新聞の如きは若し彼等兵卒をして、此日の行軍の可決を決定せしめたならば、
彼等は雪国の者であるから勿論行く事を拒むだに違ひない、若し之れが、欧羅巴の兵隊で
あつたならば、決してこんな危険なる命令に従わなかつたであらうというなどと憚らないのに
至りては、丸で軍隊の性質や其の天職の何たる事を知らないばかりでない、其の隊の上官
乃ち隊長の命令に対して、部下の軍隊は如何なる無限の義務を負ひ居るべきものなるか、
如何とも弁ぜざる児童走卒の言分なりと、評して宜しい、加之此の度の出来事に対して、
責任の有無などと号呼して云々するに至りては言語道断で、我々軍人の目から観ても、
何とも評し様がない」云々と意気昂然憤慨一番せられたりと云ふ
>>179 軍旗や小銃、それに小銃備品が命より重いのは陸軍だけ。
軍(艦)旗はおろしたて重視で予備の新品を常備していたし、小銃備品は売店で買えた
から無くしたらこっそり自腹で弁償するだけ。
小銃の放棄はやむを得ないばあいは後で報告書。場合によっては始末書。
小銃の紛失に関しては今の自衛隊と同じ。まあ大騒ぎだな。
基本はクビになるだけ。命までは取られない。
実包については今の自衛隊の方が厳しい。と言うか、鬼。
>>180 立見第8師団長の談話
一体、軍人は早く退却したという譏り(そしり)を受くるより、進み過ぎたといういう
譏りの方を甘ずる
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 20:28:12 ID:Arm6yaNS0
>>167 >加えて8師団旅団長も不在、不在の理由が浅虫温泉の遊興との事で、
この友安旅団長,単身赴任をよいことに花街に入り浸りで、毎月の給料まで花街へ持って
こらしています。また大言癖もあったようで新聞に空砲などと叩かれています。
後日、旅団副官となった福島大尉と衝突する事になりますが、この旅団長と福島大尉を
上司部下の関係にしたのはミス人事かもですね。
167さん!
連日の貴重な資料の転載、ありがとうございます。
おかげでこのスレの品位・ラベル?が上がっていますよ(笑)
>>181 現在の陸自演習下では作戦に赴き、遺書をしたため着任する案件は
少なからず在ると聞く。
それは、山岳レンジャー他、雪中行軍隊及び支援逓信隊、兵站隊の一部で。
毎年の雪中行軍に向け彼らは備えている。
今年も八甲田の踏破演習は実施される筈。
雪中下の空挺案件も編成外で過去より配置されているようで。
実の処明治も平成も同様の見識だっあたりする。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 20:45:43 ID:hpZlXZIt0
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/01(木) 17:04:49 ID:1PhQW+dn0
みな、おめでとうさん!
それとぉ〜23日からの実況じゃが、ここかあっちか?
映画と史実では準備が違うでのww
去年の実況の過去ログ読んでみたいな・・・保存してる人とかいますか?
裸になって死んだのは、大竹まこと?
違う
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/01(木) 20:25:58 ID:1PhQW+dn0
>>190 昨年は映画板でやったね、その23日から
290 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 02:50:30 ID:hxvJVQ1/
あと数時間で青森第5連隊も出発ですね
時代を越えて、先人達の苦労の上に今の自分達の生活があるのだなあ
うまく言えないけど、感謝。
291 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 06:48:03 ID:O0H+25kR
神田隊、喇叭卒の吹奏の中、営門を出て行く。
292 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 11:45:47 ID:TWaYU3fS
湘南だけど、この暖かい土地にも氷雨が降っている。
ゆうべは雪降ったらしい。
一番寒いこの時期に…
ご苦労様です。
293 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 12:04:24 ID:1I7NN4ML
>291 いよいよ今日出立なんだな。八甲田の案内人達は"山神の日"とか言ってなかったっけ?
294 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 12:07:23 ID:0CZ5VY8N
社会人の研修教材として八甲田山が用いられるのは何故ですか?
295 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 12:13:23 ID:qQ7zOJOI
五連隊、将校達の帰営すべきの判断に対し、下士官が反発。
天候が激変する中、行軍再開する。
296 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 12:56:55 ID:NC/Bn2R0
リサーチも充分にせずに見切り発車をしてしまう、
浅はかな軍上層部は部下の意見すら聞かなかった。
また上司命令は絶対的なものになってる内容、
しかも最悪の事態になってしまった実話だから
いつか組織を牽引する立場になる人間にとって、
危機的状況回避の御粗末さという点では
これ以上に悪い手本はないと思う。
297 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 15:39:00 ID:O0H+25kR
山 口「橇を放棄する?!」
神 田「荷物は各小隊に割り当て、人の背による運搬に変更します」
山 口「いや、今は難渋だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある!」
神 田「いや、このままでは橇隊の遅れで、中隊の動きが!」
山 口「(断固として)橇隊の放棄はいよいよ駄目な場合だ!」
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/01(木) 20:29:11 ID:1PhQW+dn0
298 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 15:44:04 ID:O0H+25kR
神 田「そうだ軽装だ、銃と背嚢はこの場に置き橇隊の応援に行け!」
299 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 16:53:40 ID:bGgaWxnk
予定ではそろそろ元湯に到着するはずが…
大尉は露営の覚悟を決めたか
300 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 17:22:13 ID:TWaYU3fS
買い物にちょっと外に出るのもイヤなぐらい寒いです。
士卒の中には風邪ひいてる人もいただろうに…と、なかなか風邪が治らない自分が言って見る。
301 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 19:55:21 ID:NC/Bn2R0
実際に帰る事が出来た僅か11人は四肢切断、
一番軽傷だった方さえ、足指3本切断という重傷。
(映画ではなくて本事件ね)
せつなすぎる。
302 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 20:04:26 ID:O0H+25kR
藤 村「小隊長殿、申し訳ありません・・・暗くなって道に迷い・・・いや、風の乱れで方向がま
るきりつかめず、どうしても・・・田代への道が分りません」
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/01(木) 20:40:19 ID:1PhQW+dn0
303 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 20:35:53 ID:1I7NN4ML
これ、晴天なら田代は見える距離?集落の灯りも見えなかったのかな。不運。
304 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 21:09:53 ID:O0H+25kR
神 田「(口の中で呟く)二キロ・・・田代まではたったの二キロ・・・その二キロの道が・・・雪と
はいったいなになのだろう
305 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 21:18:39 ID:O0H+25kR
徳 島「(ポツンと)この嵐の中へ出たら・・・一時間とは生きておれないだろうな」
田 辺「いや、三十分も難しいでしょう」
高 畑「中隊長殿、五連隊の出発は、今日は間違いないと推察されますが」
306 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 21:45:59 ID:tUEDtwxS
明日、青森県は暴風雪の予報。
八甲田山も荒れるのでしょうね・・・
307 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 23:17:13 ID:/i8i47M5
関係ないが、本日は私の誕生日。
五連隊の方の中にもこの雪中行軍中に誕生日を迎えた方もいたのかな
308 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 23:20:44 ID:bGgaWxnk
田代に集落あったの?
冬期は山下りて炭焼き小屋ぐらいしか無かったのでは?
309 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 23:22:49 ID:PAqrIiP9
青森市、ついさっき暴風雪警報でたお。
310 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/23(水) 23:29:56 ID:bGgaWxnk
やはり山の神様の日…
「今頃は田代の元湯に浸かって熱〜い澗でキュッと…」
新克利の台詞だったか…
311 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/24(木) 02:35:21 ID:62RtoDXq
>308 すまん。田茂木野と混同したかもotz
312 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/24(木) 06:58:57 ID:vpdAoppC
このままここにじっとしていたら、おそらく夜明けまでに全員が凍傷で動けなくなる!
帰営だ! 神田大尉、直ちに出発!!
313 :この子の名無しのお祝いに:2008/01/24(木) 07:36:45 ID:vpdAoppC
田代を知っていると称した佐藤特務曹長の案内で田代に向けて進む。
つまりこれは映画板でやるべきと判明した。
映画板での実施を請い願う、明治近代史が現カテゴリ
>>193 過去ログ掲載ありがとう、時間ごとに突っ込むところ満載ですね
空腹と疲労空腹と疲労と睡眠不足の八甲田雪中行軍遭難事件、
暖も採れず、飯も食えず、寒気は近代日本観測史上最低気温で、風雪も止まない状況。
わずかな生き残りは、平沢の炭小屋に偶然たどり着き、風雪に弱り凍傷にかかった身体で雪を食べるのが
唯一の楽しみという、長谷川特務曹長らの極限下での遭難談話も、リアルで怖ろしい。
八師団下の青森歩兵五連隊は、本土へのロシア軍侵攻後の戦闘想定下、上陸したロシア軍を迎撃戦闘可能な、
軍事的最小単位である中隊編成での雪中行軍を立案・研究していた訳で、当時としては、画期的な演習を試みていた。
今日、八甲田雪中行軍遭難は準備不足、稚拙な予備知識の印象を受けるが、
当時の試みとしては、国を護る重要な演習下の事件ではなかったのかと再認識したい。
そういうことだね。立案者の山口少佐もそのテーマの重要性について使命感もひとしおで
あったと想像でき、それが批判の多い強行的な前進判断等につながったのだろうし、
これも批判される編成外組織として、自らを始め将校や上級下士官を参加させたり
他大隊からも伍長を借り集めてきて連隊全体の経験値につなげようという強い意識を感じる。
結論としては目的達成には不適切な環境だったことが分かったが、当時としては従来の雪中行軍の
経験からは想像できない状況に襲われたことで大きすぎる代償を払ったのが残念だった。
ただこの事件によって日本人が冬山遭難の怖さについて初めて共通認識を得ることもできたし、
スキーの導入もうんと遅れることが避けられた。
>>201 肝心の雪中行軍はほとんどないんだね、あと2日目に泊まらせるぐらいなら
3日目の昼も何かイベントすべきだし
ここの常連に企画させたらもっと面白いツアーにするのに
遭難されたら困るからあんまり無茶な企画立てられんだろw
実際の雪中行軍の体験て、茶屋から銅像まで歩くだけとか。
>>204 天候次第じゃそれでも十分味わえたりしてねw
前もって凍らせておいた握り飯と餅くらいは用意すべき
>>205 宮城県のある戦後開拓地墓地で義父の納骨に立ち会ったのが1月の始めで
快晴下粉雪の中、周期的に突風が吹くのだが、寒いというよりカミソリで
何ケ所も切られる様な激痛を体験した。 標高は約500メートル。
服装は、3ピースの礼服にビジネスユースのカシミアのロングコート、
靴はくるぶしまでの革靴。 30分が限界だった。
>>206 半煮えのおかゆと異臭を漂わせた酒もなw
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/07(水) 00:39:08 ID:P7I1sGgf0
唐辛子と油紙と懐炉、新聞紙とゴム長靴もあればよい。
た だ し 各 自 自 分 で 用 意 。
で猛吹雪の中数時間動いた頃に現地解散するわけだ
冬場にあの5連隊ルートを走破した民間人いないですか?
ネット調べてみてもそういう記事ないんですが・・・・
エベレストとかかなり成功例があるとこじゃなくて冒険家もこういう
穴場を狙えばいいのに
で、走破するだけなら天候が良ければできるだろうから
条件ね
1 どこかで一晩露営する
2 GPSとか持って行かないこと、100円ショップで売ってる磁石のみ
3 食料持って行かないように、水も現地で手に入れる(雪&川の水)
成功したら新聞に載ると思う、失敗したらもっと大きく記事になるぞ
吹雪で視界を失い、高低差を失い、十数時間彷徨し
ほんの200メートル先の山小屋にも辿り着けず遭難した事例が今日も存在する。
それが雪と高地の怖ろしい要素、5連隊ルートは冬季は現在でも通行禁止。
天候が穏やかでも田茂木野から田代、田代平原から三本木間は
新雪深く到底余人を寄せ付けない難所。
新雪の吹き溜まりに没し、もがく内に雪に埋もれ遭難するのがオチ
冬季通行禁止は車両だけ。
徒歩で通る分にはフリーパス。
但し、何が起きても自己責任な。
>>216 事件が起きて以降にチャレンジする剛の者がいなかったのかな?
ネットで調べても記録がないんだけど・・・成功例は自衛隊だけ?
現地歩いてみようと思っている者だが、公共機関を使うのはかなり厳しいな。
とくに上の方は冬は八甲田ロープウェー駅が最寄バス停になってしまう。
除雪済みとはいえ銅像茶屋から6キロ半ちかくてくてく歩いていかないと
青森に帰れない。しかも一日2便。。
やはり自家用車が二台欲しいところだな。
または、酸ヶ湯に泊まって銅像まで送ってもらうよう頼んで逆コースを下りるか…
>>218 3−4人で行くなら、タクシーで往復すればいいのでは?
田茂木野ぐらいまでタクシーで来て、そこから銅像茶屋まで雪の中を歩く
で、銅像茶屋までタクシー呼んでもらって帰るとか
あのへん携帯通じるかな?
>>219 3−4人の実現性は限りなく低いw
田茂木野まではバスでほぼ不便はないんだ
青森市内ー銅像茶屋間は22キロだな
携帯はAUはだめでFOMAプラスエリアというのには入ってる
もし実現したら途中レポート頼むよ、みんな応援してるから
今、田茂木野到着、これから小峠に向かいますとか
途中は書き込み可能なのかな?
田代地区で唯一冬季営業してるらしい、みちのく深沢温泉は
第一・第二露営地跡からも近く、場所的にベストなんだが、
宿泊は最近やってないらしいのが恨めしい。
ここに泊まったり送迎出してもらったりできたら申し分なかったんだがね。
案内人が必要だよ、案内するにもされるにもね・・・・・。
役所の観光課に出向いてみれば?
>>223 案内人は断るのがこのスレのセオリー
冗談です
○→案内人は口汚く罵って断るのがこのスレのセオリー
で、やっぱ稚拙な装備と知識と最少単位の民間人トレッキングが始まる。
天候に恵まれていればただのチラシ裏
天候が悪化すれば税金をふんだんに消費する救難劇。
ID変更
>>221 俺の携帯AUなんだよね・・・
途中レポートはできたらしたいけどもね。
今回は田茂木野の奥から銅像茶屋手前までの、県道40号線の非除雪区間8kmを
スノーシューで歩く。谷一つ隔てて国道103号が平行して走っていて、こちらが八甲田の
メインルートなので、県道40号のほうは冬は使われていないというわけだ。
茶屋から先は103号からの枝道が合流してくるので除雪されていて、スリルの味わいようもないが、
悲劇の舞台である第一と第二露営地の間の地形を客観的に見ることで、
この区間で何が起こったのか、迷うような要因とは何だったのかを考えようと思う。
動きとしてはこれだけで、ネタ的な期待には応えられないが、あしからず。
生きて還ればそれで良し
でも、天候の急変や万象の影響に勝てる人間は僅かで運が全て。
行軍最高地の馬立場・鳴沢から田代はやはり冬期に踏破すべきルートでない、
付近で模様見するにしても、御身大切に。
>>227 >悲劇の舞台である第一と第二露営地の間の地形を客観的に見ることで、
>この区間で何が起こったのか、迷うような要因とは何だったのかを考えようと思う。
これ興味あるな、わずかその間、700メートルぐらいですよね
普通なら迷うはずもない距離
あと、今回の予定には無いと思いますが
第一露営地から田代温泉までわずか1.5キロが最後で行ききれなかった
この原因も知りたいです、道が判らないといっても露営するまでは磁石も効いてたはずだし
そっちの方向に直進するわけにはいかなかったのかな
あと、第一露営地から帰営の判断をしたのも不思議
もう田代は現場から見てたはずなのに・・・
そこから厳寒の深夜に帰営すると犠牲者が増えるのに
あと数時間我慢してあくまで田代方面に行く考えはダメだったのかな
馬立場までもしいかれるならそこから田代の方向を見て欲しいです、じっくり
どれぐらい近くに感じられるか
銅像のある丘が馬立場なので必ず行ううて、見てみます
行ううて、て何だよ・・・orz
1月23日 16:10
先頭の行軍隊は行路上の最高地である馬立場に到着
この馬立場から3km先の田代が眺望出来たと云うからには天候は一時的に
穏やかになったと考えられる
行軍隊は馬立場の高地に到達し、田代を眺望する事を得たり。
>>220 気温にもよるけど、携帯は懐から取り出すと凍って開かなくなる。
電池は低温に弱いのでせいぜい5分持てば良い。
時計も動かなくなる。
>>233 同じことオモタ。
気温マイナスだと携帯のバッテリーもたないよね。
あと、吹雪だとGPSとかどうなんだろう?
今こっちでは重い濡れ雪が降ってて、BSはおろか地上波も電波悪い。
うちだけかな? 用意するなら無線のがよさそう。
技術が進歩しても、やっぱ自然はすごいね。地元案内人頼むべし。
ゴーグル着用前に顔に油脂を塗るなりしないと
皮膚とゴーグルがくっつき大変な事になるらしい、また喉が異常に渇くそうだ。
さすがに現実離れした意見だな。
俺はいつも冬山で携帯使ってるんだがw
ていうかスキー場でみんな使ってるだろう。
これ、八甲田雪中行軍下の自衛隊員の体験談、夜スキーはしないし
冬山も夜歩いたりしない。
>>232 早朝に営舎をでてるのになんでこんな馬立場到着が遅くなったのか
2時間ぐらい遅れてるよね14時ぐらいまでには通過しなきゃ
行李輸送目的の行軍だった為、橇を待っていた
このとき天候は比較的安定していたらしい。
やはり軽装でいかなきゃね、必要最小限の荷物で
1泊2日ぐらいの予定なら大きな釜とかもっていくなよと
煮炊きしないで食べられる食品持って行けばいいし
軽装の弘前31連隊も、八甲田山踏破の時は難渋したと聞く。
7人の案内人がいなければ遭難していた可能性がある
ちゃんとした露営設営技術が無かったのも一因だと思う、
ナポレオンのロシア遠征時は雪でカマクラの様な雪濠を造っていたそうで、
そういった文献が当時研究されていなかったのが残念。
実際、5連隊捜索時には雪に壕を掘り、天蓋で覆う遺体安置所などが
設営されている。
>>236 なんか大げさな意見ばっかりだよなあw
>>233-234 雪山でマイナス15度やマイナス10度はザラなんだが
みんなスキー場で携帯使ってるぞ。凍らないぞ?
ただデジカメやら携帯やらの液晶画面の表示が
変になる。マイナス5度くらいから。
電池のもちも確かに落ちるけど5分で落ちるってことはないなー。
時計もしながらマイナス15度んなか滑ってるが別にとまらんぞ。
適当な事を言うのがこのスレのセオリー
「田代への道を知っています」
人数が少なすぎた
第8師団総力(歩兵12000・騎兵800・工兵800・野砲兵400・輜重兵1000)を挙げて
15000人全員が1m間隔の1列縦隊(15km)で行軍すれば迷うことなく帰れた
しかし佐藤特務曹長の件は実話なんだろうか。
一次資料で見つけられん・・・
>>242 現在も冬季八甲田踏破は自衛隊山岳レンジャーによって実施されている、
彼らは1日で八甲田を踏破するが、支援の通信隊や補給隊、救助隊は
前日から八甲田付近で夜間野営する。
携帯を懐から出すと凍って開かないとか、低温で電池が弱るとか
ゴーグルが皮膚に張り付くというのはそれに参加した職場の仲間の談話。
>>247 そこらの話はどこから得てるんですか?
ネット上で公開された情報ではないですよね?
なんだ、露営の話か。
>>248 自衛隊OBが私の職場に在籍している。
除隊後も彼らは機密に関する事は話せないので、冬季訓練の話で
差し障りのない範囲で経験談を収集している、
八甲田雪中行軍という枠で冬季行軍・露営の知識を得るより
自衛隊の板に「冬季訓練」のスレッドを立てた方が話は早いかも。
>>250 明治時代と現代の装備の差とか露営方法の違いとかリンクさせて知りたいので
純粋に今の自衛隊の訓練方法とかのスレだとすれ違いになると思うよ
自分が一番みたいのは現地の風景写真、五連隊ルートから周囲を撮影したとか
民間人でほとんど成功例が無いみたいなので自衛隊ぐらいしか現在のその周辺の写真は無いでしょうね
ネット関係でも写ってるのは全て雪がない季節の写真ですし
雪が積もれば風景も激変するでしょうし
遥かな明治時代と今とでは周囲の風景も違うでしょうが
自衛隊も差し障りがない写真とかあればネットで公開してくれたらいいのにね
新聞報道の写真では何枚もないし
>>251 同感です。
ただ、厳冬季の八甲田山の寒さを直接知る経験が出来るのは彼らだけ、
天候の厳しさを引き出せればこのスレにも有益、特に夜間の八甲田の寒さなんて
一般人は想像するしかない。
八甲田ロープウェーHPによると山頂付近、10時現在で−13℃だって。
昨夜は平地でも風が強かった。遭難した人、なんとか生還できますように(-人-)
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 11:28:35 ID:BC+AOjZ3O
おー、たった今のニュースで無事発見だって!
携帯で夜も連絡は取りあってたって。よかったね。
あのあたりはアオモリトドマツのモンスターの、根元のところが深い穴状になっていて
落ち込むとなかなか出られないんだが、そこにカップインしてたんだろうか。
>>256 こういう写真の場合、訓練してる隊員ばかり写して周囲の風景とか全然載せないものね
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 15:47:01 ID:wlaRNhAY0
>>259 小峠で神田大尉の従卒の長谷部二等卒がカップインしてたアレか?
見てた連中笑うばかりで誰も助けんかったがwww
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/12(月) 15:55:20 ID:lxjMFtMX0
>>112 (かなり古いですが・・・)
「山口少佐の父、成沢良作は・・・・遭難の報を聞くと・・・」
成澤良作(知恒) 幕末に御作事調役八等官 明治29年2月11日没。 以上!
>>265 山口少佐の父君は 明治29年2月11日没。
いと、おかし
シゴフミ
遭難が明治35年1月23日からだから、
文屋の先走り捏造記事という事になる。
えぐい程の開き直り。
日程上、手紙送ることなど不可能なのに・・・遭難判明から救助&死亡まで日にちほとんどないし
あとで確実にばれるような嘘記事をなぜ書くのか疑問
>>265-266 「責任上死を以て償う」という訓戒を成沢家家人なり、或は周囲の人が、
「父の名を以て」文を出したのかもしれないじゃないか。
まぁ、当時の新聞は結構虚報も多いが。
立見八師団長の談話 : 山口大隊遭難に対し
殊に寒国の兵士には充分防寒の用意があって、例えば戎衣(じゅうい)にせよ
フランネルのシャツに毛皮のチョッキ、毛皮の外套、毛布などが宛てがって、
靴も皮ではなく雪沓を用いることにしてあるが、行軍には此用意をして行ったかどうか。
何しろ一泊行軍といふのであるから数泊行軍から見れば幾分か軽く見て居はしないか云々
青森五聯隊遭難 「 雪中行軍 」
充分防寒の用意があって・・・・ ??
>>247 昔の話なんだろな。今は携帯凍らないしつかえるよ。
でもまあこの雪中行軍の時代は携帯なかったわけだし・・
自衛隊はアバウトだから雪ついたままにして濡らしたりしてたんだろ
>まぁ、当時の新聞は結構虚報も多いが。
二十八日・・・・又も携ふる所の餅を取て朝餐に代へ、尚ほも進んで、八甲田山に登る。
上るに従ふて雪漸く薄く、頂上に至れば雪殆んどなし。而かも一面凍りて滑ること甚だしく、
歩を運ぶに苦しむ。若し夫れ渓谷に至ては、三尺余の積雪あるを見る。
然れども風力猛烈、殆んど人を飛ばす。午餐は又餅を以て之に充つ。山上を徘徊するや、
兵士の死屍二箇を発見せり。嗚呼是れ何者ぞ。或は云ふ、自殺者ならんと。
誰か図らん、是予等と同じく雪中行軍の途に上れる五聯隊の惨死者ならんとは。
然れども死屍は如何ともすべからず、予は即ち傍らに棄ててありし軍銃二挺を肩にして山を下る。
「東奥日報」号外より抜粋 1月 29日 東海勇三郎「従軍記」
弘前31連隊同行の記者の虚報
三十年式小銃 重量4kg強 この二挺を肩に抱えた状態で
麻縄で身体を繋ぎ合い行軍している雪の中どうやって運ぶのか。
てゆーか、拾えないだろ!
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 21:41:35 ID:xccl5JL/0
雪の進軍 あげ
276 :
218:2009/01/15(木) 02:33:45 ID:XpADpHtN0
銅像コースで銅像のとこまで降りて、そこから五連隊ルートをそのスキーで歩くって無理かな?
田代平まで行けばスキーシャトルバスで帰れるみたいだけど
かなり間、距離あるかな?
つまり、田茂木野から銅像までは普通に歩いて到着
別の日に今度はスキー履いて上から銅像まで滑り降りて後半分のルートはスキーで行く
無理かな・・・
いやぁ、今日の青森では、平地でも死ぬな。
八甲田は雪地獄だった事だろうのう。
今日ぐらいに五連隊ルート歩いたらリアル八甲田山を体験できるな・・・
23日夜半、西風にわかに起こり雪これに加わり、
ようやくその勢を増し稀有の大吹雪と変じ、終日や先ず。
かつ寒気はなはだ峻酷にして、為に朝来、屯栄付近の交通すら
とどこおる困難の状況となれり
遭難始末より
1月23日 午前 06:30 第5連隊後進軍開始
1月27日 午前 10:00 後藤房之助伍長発見 ( 遭難後も生存 )
4日間、極寒の青森の山中で遭難しそれでも生還したとは驚き。
明治35年の話ながら興味深い。
無駄な行動をしなかったのか、強健だったのか、ただ運が良かったのか。
水筒の水は7分目にして絶えず動かしていても、たぶん凍ったあの日
賽ノ河原では、中野中尉以下三十六名の亡骸が発見されているが
いずれも手套なく、雪沓・軍靴・地下足袋も無く、はだしで亡くなっている。
>>278 シャトルバスは4〜5月くらいしかやってなくて、
「後半分のルート」は除雪されてるから歩きでもいいんだ。
洗剤のホールドのCMで山小屋のシーンがあるのだが、
すぐ八甲田山を連想してしまうのは性なんだろうか
>>287 明治30年前後になると、アルミ製の水筒が作られるようになる
東京砲兵工廠で作られていたらしい。
小銃や保式機関銃や野砲と同じ帝國陸軍規格。
でも、水を七文目に入れて絶えず揺らしていれば凍らないは図上の論理。
明治35年の特別な寒気では水筒の水も凍った筈。
289 :
218:2009/01/17(土) 16:43:58 ID:LXLO6sBX0
>>291 海の近くに住んでても全員泳ぎがうまいわけではないし
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/20(火) 00:45:49 ID:rVfLp7xG0
千葉県佐倉市のネギ畑で、全裸の男性の遺体が見つかっていたことが19日、分かった。
佐倉署が調べたところ、男性は靴下しか身につけていなかった。
目立った外傷などがないことから凍死の可能性が高いとみて調べている。
調べでは、18日午前9時50分ごろ、同市八木のネギ畑で、農作業中の夫婦が
あおむけで倒れている男性の遺体を見つけた。
男性は50〜70歳で、身長約164センチのやせ形。
畑の隣の水田の縁に、男性が着ていたとみられる黒と緑のチェック柄のジャケットや、
黒のセーター、紺色柄のシャツ、青の腹巻き、灰色のスラックス、白色スニーカーなどが
点々と落ちていたという。
産経新聞 2009.1.19 22:27
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/chiba/090119/chb0901192228008-n1.htm
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/20(火) 00:47:15 ID:rVfLp7xG0
>>292 海の近くの学校だと泳がないかもしれないけど
ニセコはスキー授業あるし。
>>295 水泳の授業があったからって誰もが泳ぎがうまいわけではなかろ
>>293-294 ガキの頃、最も不可思議なシーンで印象的だった。
あれ以来人間は寒過ぎれば服を脱ぐと個人的に観念が定着してしまったが、
零下何度当たりからそんな症状に陥るんだろうか。
明治35年: 八甲田雪中行軍時の物価
ソバ1杯 2銭
煙草1箱 4銭
缶詰1缶(牛肉) 20銭〜35銭
カレーライス 5〜7銭
警察官、小学校の教員 :初任給 8〜9円
明治23年 理髪料金(大人) 5銭
弘前31連隊が案内人に払った金額は50銭銀貨だった。
>>300 お前は案内料が欲しくてそんな事を言ってるんだろう!
>>299 牛肉の缶詰一つ二つ程度の駄賃で、死ぬ思いをした揚句に四肢切断、廃人同然なんて…
七勇士の話こそ後世に語り継がれるべきだろう。
>>299 煙草を基準に現在の価値に換算
ソバ1杯 150円
煙草1箱 300円
缶詰1缶(牛肉) 1500円〜2625円
カレーライス 375円〜525円
警察官、小学校の教員 :初任給 60000円〜67500円
304 :
218:2009/01/20(火) 23:15:36 ID:utDr8ShJ0
305 :
218:2009/01/20(火) 23:42:05 ID:utDr8ShJ0
しかし今回歩いた道道58号のルート、ふもとの倶知安の自衛隊駐屯地から出発と仮定して
「五色温泉」までが大体20kmになり、標高といい積雪量といい五連隊のルートとよく似た
ものになるので、北海道に住む者としてはよく実感を得ることができたんだが、
ほんとよく行ったと思うわ。あのルートを藁沓で、橇を押して、しかも猛吹雪で視界も消える中、
今みたいに二車線道路の道形も除雪指標の竿もないのに、行きがけは道を誤らず残り1.5km
のところまで行ったと思うと、それだけで普通にすごいと思う。
>>303 煙草を基準にするのはちょっとまずいな
俺は吸わないからよく知らないけど現在の一般的な煙草って一箱二十本入りだよね
児島襄著「日露戦争」の1巻によると当時の煙草の値段は「一箱十本入り」で
高級品の米国製「カメオ」が八銭「アッキス」「ピーコック」「コイン」が五銭
「オールドゴールド」「ピンヘット」「カメリヤ」が四銭「ヒーロー」が三銭五厘
安物の日本製「武徳」「忠勇」が二銭
「二十世紀」は二十本入りで五銭
同じく二十本入りの「武蔵野」は四銭「太閤」が三銭
となっている
福島大尉は雪中行軍に「ピンヘット」を持参しており
協力してくれた村民に各自五本程度ずつ支給
三級品とはいえ貴重な舶来品として喜ばれたらしい
また宇樽部付近の部落に一軒だけあった雑貨屋では山奥まで運ぶ手間賃込みなのか
「ヒーロー」一個が四銭七厘であり行軍に同行した東奥日報記者東海勇三郎は
「其の高値に驚くべし」と書いている
>>218 北海道の雪と本州の雪は雪質が違う、って聞くけどそこんとこどーなの?
本州の雪ってベタベタして歩きにくい?
本州ったって、青森くらいじゃそんなにかわらんYO!
そりゃもっと南下すりゃ北海道の雪質とはだいぶ違うだろうけどSA!
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/21(水) 10:58:35 ID:gjUpNFxj0
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/21(水) 20:34:51 ID:p+oD6ybc0
312 :
218:2009/01/21(水) 22:49:59 ID:ZUKC7LkT0
なんか俺の偽者が出たw
でも言ってることは俺も同感だ。
まあニセコの雪質は良すぎたので、本番では割り引いたものを想定しておいてる。
自分にそっくりのヤツを発見すると死ぬって言うぜ
気をつけろ>218
さっき地元のTVニュースで、八甲田雪中行軍ツアーについてやってた。
参加者は首都圏から4人。おまいらキターーー!?
資料館見学してるとこバッチリ映ってたよ。明日は雪中行軍体験コースか。
今日はすげーあったかくて、青森は日中なんと10度超え。3月下旬並みだとさ。
だけど明日の予報では、最高気温も−1度、最低−6度(青森市)だって。
山はもっと寒いだろう。やっぱ山の神様の日っていうのは本当かもしれないな・・・
体験コースのみなさん、ほどよく疑似体験できそうで、よかった・・か?
雪中行軍コースをいまの季節歩くのは100%無理です。
小峠のゲートでゲート先の風景を目の前にすればすぐにわかることなんですが積雪量が
半端じゃない。冬期は除雪が不可能な道なので通行止なわけです。まず50メートルも
進んだらヘトヘトになりますよ。スノーシューでも雪が深すぎて歩けたもんじゃありませんから。
銅像に冬期に行く人はたまに見かけますがスキーを履いていても銅像茶屋から銅像までの
たった約300メートルの距離に20分はかかります。ましてや天候がすぐに変わる場所ですから
ガイド無しで銅像まで行くのも危険です。登りはいいですが下りは場所を間違えると
鳴沢の谷へと簡単に入ってしまいます。
遭難の後、天候回復した現地に同行した青森市助役の話だと
賽ノ河原では予想以上に雪の浅い場所もあったり、枯れ草が確認出来るくらい
地面に近い場所もあったという。
ここを歩けばすれば遭難はなかっただろうに・・・・・
と助役さんは現地で無念に思ったそうだが、
逆に凹地には溺れる程に雪が吹き溜まっていた。
将兵が視界を奪われ雪に溺れたり、
天候回復の後、目標対象物を確認出来る尾根を目指しても
傾斜に負け渓谷に陥ったり、凹地の吹き溜まりに沈んだりと
改めて冬季八甲田山麓の踏破が困難だとの印象がしきり。
現在の装備で同コース踏破で青森から田代
田代から十和田市(三本木)到達など、サポート無しでは無理。
そうか、今日が出発の日だったのか…
午前六時青森連隊駐屯地を出発
昼過ぎ帰営を協議したけど下士官の反対で続行を決定
午後六時、鳴沢付近でソリの放棄を決定。ソリの荷を手分けして持つ。
午後八時、田代元湯まで1.5km地点まで到達。しかし日没と吹雪で方向を失う。
ちょうど今頃は雪濠のなかで足踏みをしながら寒さに耐えてる頃か・・・
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/24(土) 01:32:22 ID:+eXKBIJE0
>>317 雪濠の中で足踏みをしている兵卒は仮眠を始めている時間
軍歌を歌わせて眠らないように工夫していたが疲労には勝てない。
実にこの仮眠という状況が青森第5連隊の深夜の帰営を決断させた
雪中下仮眠に陥れば、凍傷者・凍死者が発生する事態が憂慮されていた
>>318 そっか。もう帰営を決意した頃合か。
1/24
午前一時頃 夕食が配られる
半煮えの粥と酒
午前二時半 雪濠を出て帰営を開始
零下24度、風速25m以上の中を…
>>319 当時衛生部員は、気温の測定を実施したが、凍えた手では
これを筆すること能はざりしものの如く、
櫻井看護長n如きは、寒暖計を手にして倒れれたり。
遭難始末より
かまくささえ設営できていれば…
状況は変わったよね?
>>321 かまくさって、なんだ?
かまくらの事か?
雪壕を深さ2mで済ませたのが拙かったのでは、という意見もあるな。
「倍の4mであったなら寒気と風をしのげた」だろうと。
>>322 >円匙2・方匙8を以って小隊長以下40名を入るべき雪濠を掘開し
>各小隊の雪濠は、約幅2m、長5m、深2m50
210人の装備としてはどうなんだろう
>>323 ソリを放棄しちゃったから減ったんじゃないの?
24日
午前馬立場を目指して歩くも吹雪で視界ゼロ
鳴沢渓谷に迷い込む
昼 佐藤特務曹長が「田代への道を知っています」とか抜かしやがる
午後 駒込川の本流に迷い込む
気温零下20度以下
第四小隊長水野中尉が凍死
夕刻 小規模な窪地で露営することに
睡魔に襲われそのまま凍死するもの
発狂して脱衣し雪中に飛び込むもの
尿を漏らしそれが凍って凍死するもの
続出
どうして20キロ近くも帰営じゃなくて1キロ半ぐらいの田代に向けて行かなかったの?
田代なら温泉もあるし、即休めるのに
地面が見えてる場所もあるだろうし
露営する時点では磁石も効いてたみたいだし方角もわかってたのでは?
>>324 佐藤特務曹長のは山口少佐と同じ沢で救助を待っていたが
駒込川の対岸の炭焼小屋に人の気配を感じ、兵卒一名を連れて川に入り
炭小屋前の川の中で直立して亡くなっている、不思議な事に兵卒も共に
直立して亡くなっていた。
ちょっと信じられない現象だが、救助隊が確認しており
嘘とも思えない記事なのだが。
>>325 知ってる道だから帰るほうが簡単、って思ったんじゃないの
ヘンゼルとグレーテル式に、来た道に印つけとけばあるいは帰れた…のかな。
木々に布を巻いておく、とかさ
今晩は鳴沢にて露営
円匙も方匙も捨てちゃったのでもう雪濠は掘れない
「行軍部隊は夜間寒気との戦いに一睡もせず足踏みしたが雪が靴の下に凍りつき高下駄のように氷柱が出来、
それが折れて倒れたものは再起不能となり水中に没するが如く深雪の中に姿を没して死んでいった」――後藤一等卒
午後十時ごろ、山口大隊長は将校を集めて話し合う
結論は
1.もう迷ってるので田代に向かって前進してもおぼつかない。着いてもちゃんと休養できるかわかんない
2.田茂木の方向だったら救援隊に会えるかも。木こりや猟師に会えるかもしんないし。
3.たぶんここいらは鳴沢道路の西1000mくらいのとこだろう。だから東北に進んで帰り道を探そう。見つかんなかったら別の方向に。
4.夜は暗いから危ない。夜が明けてから出発しよう。
っていうか、「夜は暗いから危ない」ってのは今日の未明に出発してひでえ目に遭った教訓なんですな。
まあ学習するのはいいことだけど前もって知っとけよ…
ちなみに今日の弘前31連隊は朝方に十和田湖畔東方の宇樽部を出発し、
難所である犬吠峠を地元の案内人(山本ハルさん(23))の案内で通過している。
映画では秋吉久美子が演じた子のモデルなんだろうね。
質問
もしかして北海道より青森のほうが寒いってイメージないですか?
1/25
午前三時に露営地を出発。
って夜明けてねえじゃん!
夜明け前から鳴沢渓谷を下る
風雪は弱まってるけど寒さは超寒いまま。
東北に500m歩いても道がなかったので露営地に戻る。
西南に進んでみたら8〜900mほどで崖にぶつかる。
急すぎて登れないorz
神成大尉の絶叫
「天は我々を見捨てたらしいッ! 俺も死ぬから、全員昨夜の露営地に帰って、枕を並べて死のうではないか!」
露営地に戻ってきたらようやく夜明け。
山口大隊長、人事不省の状態に。
田代と田茂木野を探しに斥候を二チーム出す。
午前十時頃、救援隊が来た!の声
幻だったorz
もうだめぽ
昼ころ、山口大隊長が生き返る。
田茂木野に出した斥候が帰ってきて「道が見つかった」と。
田茂木野に向けて行軍隊、出発。(田代に向けて出した斥候は見殺し)
昨日捨てたソリを発見。こっちの道で良いんだ。
午後一時頃、鳴沢から馬立場に出る。
午後三時頃、馬立場に到着。
中ノ森東方山腹に達したところで日没。
(田茂木野まで10km地点)
大隊長また失神。そして蘇生。
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/25(日) 23:26:19 ID:uDSRhBiZ0
218さんじゃないけど
23〜25日、分割してほぼ行軍全スポット行って来た。単独行。
23日は、気温が高すぎ雪不足。
興ざめしたんでとりあえず大峠まで軽装偵察。
翌24日、本格的な降雪の中、小峠から突入した。
まんま映画の雰囲気。
たぶん同日は誰も入ってないと思う。
今、羽田から帰ってきたばかりでくたびれたんで
いずれかレポするよ。
>>331 写真結構撮られてますか?
かなり、見たいです・・・ぜひ
334 :
331:2009/01/26(月) 00:06:24 ID:PrTHkyrh0
写真も動画も撮った。
23日のは雪不足でつまらんけど、
24、25日のは青森市内も真っ白になるくらいの
降雪だったので見ごたえあると思う。
(たぶん。まだPCで見てないけど)
映画のロケ場所も特定できた。
後日ね。
335 :
218:2009/01/26(月) 00:18:23 ID:3hUSJN+v0
>>334 歩いてて怖くなかったですか?
危ない箇所とかなかったですか?
銅像付近から田代への眺めとかどんな感じかな
すぐ近くに感じられますか?
337 :
331:2009/01/26(月) 01:04:25 ID:PrTHkyrh0
いずれ細かくレポしようと思うけど
雪山登山ほど危険はなかった。
滑落、雪崩もなさそう。基本県道だし。
もっとも全行程じゃないので。(一部行けなかった)
元々八甲田山登山で行ったんで雪山フル装備持ってたし。
怖いのは誰もいないし、場所が場所だけに・・・
後藤伍長には23日と25日に会ってきた。
25日はけっこう盛大に降雪の中。
少なくとも馬立場(銅像付近)では視界が利いてれば
どっち方面でも迷うことなさそうなんだけど。
ちなみに鳴沢見てきたけど、はまったらピッケル・アイゼンないと
上れないと思う。
>>337 銅像茶屋で休憩してきました?
あそこ結構中は広いですか?
周囲はそこぐらいしか飲食店なさそうですか?
あそこ専用のサイト作ったらいいのにね
339 :
331:2009/01/26(月) 01:19:33 ID:PrTHkyrh0
>>338 今は茶屋も公衆トイレも雪没してますよ。
田茂木野方面への県道なんて道の痕跡すらないくらい雪の中。
銅像もスノーシューないと行けないです。
周囲には何もなし。
誰もいない。
なるほど・・・いつものサイトとかでよく見る写真と風景全然違うんですね
自分は関西地方に住んでるから風景が変わるほどの積雪とか見たことないで興味津々ですよ
当時と違って周辺には電柱とか送電線とか見えますか?道から
今でこそ目印になりそうなとことか
当時は何に人工的な目印無いだろうからさぞや絶望的な行軍だったんじゃないかと思います
雪山登山が出来る人なのかな?
防寒防風のコツがあったら教えてほしいです。(特に服装面で)
当方バイク乗り。
>>331 頼むから素人に自然の恐怖と人間の小ささを伝えてくれ
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/26(月) 21:33:48 ID:2NxEdNsT0
>>331 八甲田山雪中行軍の勇者よ
スマンがオマイは生きてるか?それとも迷った幽霊か?
答えてくれい
>>218 逝って故意
レポよろ。人間が100人居れば100通りのレポがある。風景がある。景色がある。心情がある。
ただし十分気をつけてな。遭難したら笑えんぞ
344 :
331:2009/01/26(月) 22:06:13 ID:PrTHkyrh0
八甲田雪中行軍2009
1/23編
異常気象。明治の雪中行軍の時と逆の。とにかく暖かい。青森の真冬なのに10度前後。
市内はアスファルト露出し冬の雪国って感じではない。
とりあえず幸畑の墓地と資料館見学。
その後、小峠まで車で行く。夏道状態。木々も雪をかぶってない。
しばらく降雪がなかったみたいで雪が茶ばんでいた。
通行止めゲートから先、相当数のスノーシューやストックの跡。この日は結構入ってる感じ。
明日(24日)以降、雪の予報は知っていたので24日を本番にして、23日は軽装で軽く偵察に。
雪は締まってた。歩いてるうちに暑くなる。大峠で引き返す。
この後、車で銅像茶屋へ。後藤伍長像見学。この馬立馬からは八甲田山と田代方面がよく見えた。
視界がよければ迷いそうもない感じだが。
なんか雪が少なく、寒くなく物足りない。
明日の雪予報に期待。
345 :
331:2009/01/26(月) 22:07:56 ID:PrTHkyrh0
八甲田雪中行軍2009
1/24編
朝。青森市内は雪。道路も真っ白で昨日とは一変。行軍決行。
行軍概要は、小峠の通行止めゲートまでレンタカーで移動。
ここからスノーシューで田代方面に上り、ある程度まで行って引き返す。
車に戻ったら幸畑へいったん下り、国道103号線で銅像茶屋まで移動。
今度は田茂木野方面へ行けそうな所まで徒歩で下りて行き、再び車に戻る。
本当は小峠から馬立場(銅像茶屋)まで片道全通したいけど、
小峠に置いた車に戻る交通手段がないので、この面倒な片方向づつ往復プランに。
とりあえず午前中、五連隊の本部兵舎が残る陸自青森駐屯地の「防衛館」を見学。
幸畑の資料館とは違う濃い行軍関連資料あり。明治の匂いがした。
なお、今年の陸自雪中行軍は2/10頃の予定とのこと。
その後、史実通りのルートをなぞり、五連隊駐屯地跡(現青森高校)を出発。
幸畑を通過、田茂木野へ。車なのでここまであっという間。
ちなみに村人から案内人の申し出はなかった。
昨日と違い真っ白になった雪道を走り、小峠ゲートに昼前到着。
ゲート付近にはタイヤ痕も足跡もない。誰も来てない様子。
雪は朝から降り続いてる。徒歩でゲート通過。ラッセル程ではないが降雪でふかふか。
スノーシューならむしろ歩きやすい感じ。木々も白くなり樹氷状態。
ちなみにこのゲートから少し先までが映画の行軍シーンのロケ地だと思う。
サクサク歩いていくとすぐに昨日偵察した大峠(上り車線側の標識)に到着。
史実ではここで帰る帰らないの悶着あったけど、ルート上の積雪はそれほどでもないし
勾配も登山にしては大したことないので進軍。なおこの付近の勾配は道路標識によると9%。
ただ雪は止みそうにないので帰りの危惧はした。この後どのくらい積雪するかわからないし、
特に小峠の車が埋まったら面倒。
100m?くらい進むと下り車線側にも大峠の標識。そういえば小峠にも二箇所標識あった。
小峠と大峠は一地点でなくある程度の区間みたい。
雪はジャンジャン降ってくるけど風がないので歩き自体は楽。
一応振り返ると歩いてきたトレースもまだ消えてはない。
このときルートをプリントした地図を忘れているのに気づく。
なくても迷うことはないけど、どの程度歩けば次のポイントになるのかつかめなく
どこまで行ったら引き返すか踏ん切りがつかないまま独り行軍。
銅像側からの後半戦もあるし、あまり行過ぎて時間かけられない。
346 :
331:2009/01/26(月) 22:08:27 ID:PrTHkyrh0
それから似たような景色、カーブを何度か越えると分岐ポイントに出た。
石柱があり、雪を払うと「殉職碑」と書いてあった。
行軍関連かどうかはわからない。
標高も上がり、いよいよ本降りっぽくなってきたので引き返すタイミングを気にしだす。
高圧線がでてきて、さらに進むと少し開けたところに出る。ここで県道が消えていた。
雪原と一体化していて判読が付かない。仕方ないので木の生え方で道があったと思われる
場所を推測し雪原を進むと、再び県道らしきもの発見。
どのあたりまで歩いてきたかわからないし、結構雪が降ってきて帰ろうかと思ってると
長い直線区間の先、雪のカーテンの向こうに標識発見。
見に行くと大滝平だった。さらに前進。
雪が猛烈化。ゴーグル着用。進行方向前方にまた標識発見。
「後藤伍長発見の地」だった。
実際に伍長が仮死状態で発見されたのは銅像茶屋のところでなく、県道を少し下った所
だと記憶していたので、なんだ銅像も近いのかと認識。思い切って進むか戻るか迷う。
結局雪は止みそうにないし、この先の状況も次のポイントまでの距離もわからない。
(実際はあと2km足らずで賽の川原だった)
なんか後藤伍長も「そろそろこのあたりにしておけ」と言ってる様な気がして
腹八分目で引き返すことを決断。
車に戻り後半戦の馬立馬(銅像)へ移動。
347 :
331:2009/01/26(月) 22:08:49 ID:PrTHkyrh0
1/24前半まとめ
全行程ほぼ降雪、時折かなり本降り。ただ風がなかったので吹雪かずコンディション自体は
かなり良。今年は雪不足のせいか積雪も少なく、ラッセルはなし。道もごく一定区間をのぞき
判読可能。気温は測らなかったけどマイナス確実。場所によっては道の両端に一定間隔で
竹ざおの印あり。
装備は八甲田山登山用に持参したもので、雪山フル装備。ピッケル・アイゼンは置いていった。
最悪にそなえ、ビバーグ用のツェルト他サバイバル一式。非常食。
スノーシュー必携。
たまたま今回は楽に感じたけどエスケープルートもないし、携帯も通じるかどうかわからない。
観光気分での突入はやめたほうがいい。
基本雪山なので何があるかわからない。実際五連隊には何かあったわけだし。
※写真は整理してないので後日
>>344 >通行止めゲートから先、相当数のスノーシューやストックの跡。この日は結構入ってる感じ。
その人たちはどこに行ってるんでしょ?その先とか途中には人家とかあるんですか?
炭焼きの人じゃないですよね・・・地元の人?
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/26(月) 22:56:57 ID:OTraAE/q0
小峠ゲート前は道路まんまなので車を置ける場所が
無いはずですが何時間もどこに駐車したのですか?
>>345 >小峠に置いた車に戻る交通手段がないので、この面倒な片方向づつ往復プランに。
小峠の通行止めのとこまでタクシーで来て乗り捨てればだめ?
で、銅像小屋あたりまでそのまま行く、でその近辺で携帯でタクシー呼んで宿舎まで帰るとかできません?
翌日朝にまたタクシーで銅像茶屋の近くまで来てそこから田代を超えてタクシーかバスに乗れるとこまで歩くとか
色々考えられたとは思いますが
かなり面白いレポートです、食い入るように読んでます
>>346 >高圧線がでてきて
実際吹雪で視界が悪くなってきたらそれ以外には人工の目印みたいなのはなさそうですか?
大きな鉄柱とか電信柱とか
>>347 >場所によっては道の両端に一定間隔で
竹ざおの印あり。
一応竹竿の印つけてくれてるんですね、なるほど
>携帯も通じるかどうかわからない。
途中の道で携帯とか通じるかどうかとか見られなかったんですか?
>>344 歩いてみて感想どうでした?
田茂木野から田代まで天候がよければ今の状態で何時間ぐらいあれば到達できそうですか?
354 :
331:2009/01/26(月) 23:27:59 ID:PrTHkyrh0
>>348 ツアー募集してたようだからその人たちでない?
途中までで往復したかそのまま銅像まで突っ切ったかはわからない。
でも23日は雪が締まってたのでいけたと思う。
355 :
331:2009/01/26(月) 23:30:54 ID:PrTHkyrh0
>>349 ゲートが締まってて行き止まりだから他の車も通行しないし
余裕で駐車できました。
出発12:30くらい戻ってきたのが15:00時過ぎ
356 :
331:2009/01/26(月) 23:34:30 ID:PrTHkyrh0
>>350 そもそも銅像付近が携帯エリアかどうか不安だったので。
全通作戦するなら、車を銅像茶屋において事前に呼んだタクシー
で銅像から小峠に移動。徒歩で銅像へ。遅くなっても車があるから帰れる。
でも金もかかりそうだし面倒なんでやめました。
全通できなかった場合も考えて。
357 :
331:2009/01/26(月) 23:43:10 ID:PrTHkyrh0
>>351 >>352 高圧線の鉄塔ナンバーは88と85でした。
普通の電柱はないですね。
ところどころカーブミラーの柱がありますが
ミラー自体は撤去されてます。
道路標識(勾配・地名・カーブ矢印)はあります。
ガードレールはほぼ雪没。ごくまれにわかる感じ。
小峠〜伍長発見地までは比較的わかりやすい県道で迷いにくいと思う。
雪原と同一化した一部エリアは樹木の並びで判断してください。
竹ざおは等間隔で何色かのテープが巻かれて積雪量と道路を判断するための
モノだと思います。
雪山では携帯は切ってます。非常時のバッテリー持たせるために。
起動しても圏外なら意味ないですし。
358 :
331:2009/01/26(月) 23:55:29 ID:PrTHkyrh0
田茂木野基点だと田代までは結構きついと思う。
田茂木野>小峠までもけっこうな距離・勾配あったから。
さらに馬立場から下がかなりの積雪だったので。
小峠からなら半日あればいけるかな?
ただしラッセルなし前提で。
五連隊みたいに駐屯地から田代まで支援なしにぶっつけ本番で
歩きぬくというのは今より積雪量も多いはずなので無茶な気がする。
今度また1/24の後半編アップします。
本年度行軍
乙。
青森は今年の雪は異常と言えば異常で、降るかと思えば溶ける日々が続き、確かに
今年度決行現時点は楽だったかもしれない。実際市内積雪は少ない方だ。
見ればルート状の積雪も少ないようだし。
だが、青森以外の他県の人達よ、八甲田はなめてはいけないのは確かで、軽そうと
思って突撃しない事を祈る。
青森市より筒井村にかけて今夜半、大粒の降雪あるも、風速略零。
360 :
218:2009/01/27(火) 00:10:24 ID:xnf2T18x0
やはり片側ずつから途中往復になるよね。俺もそうすることになると思う。
というか後半のルートの往復だけにしようかとも思ってる。
ちょうど後藤伍長発見地が中間点で、往復8kmになるしね。
竹竿はニセコの
>>289の写真にも写ってるけど、春の開通時にロータリー除雪車を
入れるときのための道路境界指標だよ。
机上の空論かもしれないけど・・・JRで行く人が仮に
前日に青森駅着で周辺で宿泊
↓
翌日早朝にタクシーで小峠のゲート前で降りてタクシーを乗り捨て
↓
そのまま銅像周辺を抜けて一気に田代まで歩き抜く
↓
歩いていける一番近い宿に宿泊、もしくは道路まででてタクシーかバス停でバスに乗って帰る
こういうの無理かな?夏場なら地図見たら近くに温泉宿泊施設あるんだけど
今の時期は空いてるとこあるかな・・・?
問題は上の書き込みあるように銅像から田代まで雪が深くて難所みたいだし
後半のレポート楽しみにしてます
362 :
331:2009/01/27(火) 20:00:44 ID:0Dp+GCEe0
八甲田雪中行軍2009
1/24後編
前回までの八甲田山
・・・は省略
伍長発見の地から小峠の車に戻り、国103号経由で銅像茶屋へ到着。16:00時を回ってた。
雪は止んでいた。無風。日没が近いので時間との勝負。
普通この時間から山には入らないけど、行ける所までということで田茂木野方面へ下る。
つまり逆走ね。田代方面でなく。
できたら本日前半の伍長発見地まで行ってつなぎたいが、日没の時間を考え無理と判断。
按ノ木森が見渡せる程度まで行くことに。
付近の積雪量は凄い。茶屋は埋まりかけてる。
デカイ道路標識のおかげで田茂木野方面への県道の位置はわかるけど、道自体は完全に雪没。
痕跡どころか、ただの雪山の斜面になっていた。
春になって掘り起こすのは大変だろう。
ちなみに田代方面は拡幅されていて完璧に除雪されていた。
識別用の竹ざおなどないし、この下に道があるのだろうと見当つけながら進む。
このあたりは相当風が強いらしく、シュカブラが延々続いてた。
スノーシューでも潜る潜る。小峠からの上りより圧倒的に歩きにくい。
吹雪の中、ホワイトアウト状態では大変だと思う。
数百メートルやっとこさ進むと、ようやく県道と判別できるところに出られた。
按ノ木森は、頭がかろうじて見えるくらい。
さらに進み、右カーブの先に急勾配の長い下り坂があった。
坂の下は左カーブになっていて按ノ木森が見えそうだが、下りるかどうか迷う。
積雪もあり下りきると、日没までに車に戻れなくなるかもしれないので。
結局思い切って早足で下りてみたが、按ノ木森は見えなかった。
道の右側方向は開けてるので吹雪いたら迷うところかもしれない。
今は広い道があるのでまあ大丈夫だと思うけど。
結構な積雪の中、上り返す時間、日没までの猶予も考えると潮時だと判断、引き返すことに決めた。
そのとき偶然石柱が雪上に立っているのを発見。
なんとここは中ノ森の第三露営地だった。
この後、車に戻ったらかなり暗くなっていた。途中木々の間から青森市の明かりが見えた。
今でこそ方角を知るランドマークになるだろうけど、明治時代はあんなに明るくないだろうから、
吹雪いてなかったとしても、当てにならなかったのかもしれない。
次回は1/25鳴沢編
レポ乙です。
第三露営地って凍死者が一番多くみつかったとこでしょ。
風当たりはどうでしたか?
風の通り道になってる感じですか?
364 :
331:2009/01/27(火) 20:07:07 ID:0Dp+GCEe0
1/24後半まとめ
結局24日の行軍で馬立場を境に青森市(田茂木野)側で行けなかったのは
賽ノ河原と按ノ木森付近。
このあたりの状況はわかりません。
茶屋から距離的には大したことないけど雪は深いでしょう。
それと道路が雪に埋没、高い樹林も少なくホワイトアウトすると迷いそうだから
吹雪いてる時に行くのはやめたほうがいい。
風も強そうだし、雪も深くスノーシューでも歩くのが大変です。
365 :
331:2009/01/27(火) 20:14:50 ID:0Dp+GCEe0
>>363 今回、全行程まったくの無風。
コンディション良すぎでした。
第三露営地の石柱立っているところは、県道下り方向左側で
小高い土地になってるので、風は通らないと思うのですが。
壁になるので。この壁が按ノ木森を目隠ししてる感じ。
366 :
331:2009/01/27(火) 20:34:38 ID:0Dp+GCEe0
>>363 第三露営地の写真見直したら壁に見えた小高い土地は
背の低い木々でした。
もしかしたら、そこそこ風は通るかもしれません。
>>362 途中の食事とかどうされたんですか?
雪道を歩きながら、おにぎりとか
缶ジュースとか水筒とか持っていったんですか?
368 :
331:2009/01/27(火) 21:10:53 ID:0Dp+GCEe0
>>367 昼過ぎから入ったので昼食はすませてました。
ただ凍結しにくいパンやカップヌードル、各種非常食と
ペットのスポーツドリンクなどは持って行きました。
雪山登山行くときと同じ装備です。
なるほど、用意周到ですね
手足の凍傷防止とかもされてるんですよね?
万が一のための雪壕掘るスコップとかは持って行ってないですよね?
後編も期待してます、いよいよ問題の馬立場から田代ですから
よければ行く前の想像と行ったあとの感想とか聞かせてほしいです
案外楽だったとか
>>370 雪上車で踏み固めた上を行軍って・・・軟弱な
372 :
331:2009/01/28(水) 01:40:51 ID:BdnMpUUz0
>>369 凍傷対策はマイナス15度対応グローブと予備にマイナス28度対応の
グローブを持参しました。雪山登山で使ってるものです。
足は、MERRELLのカメレオン サーモ8で。
スコップ、アイゼン、ピッケルは持って行きませんでした。
373 :
331:2009/01/28(水) 22:53:24 ID:BdnMpUUz0
八甲田雪中行軍2009
1/25鳴沢編
結論から言うと田代までは行ってません。馬立場から鳴沢まで。
史実でも部隊は行けなかったし、田代温泉の荒れっぷりからわざわざ冬季に行く気にならなかったので。
元々この日は天気が良ければ酸ヶ湯から大岳(八甲田山)に登る予定で、急遽予定変更したものですし、
ルート地図すら持ってきてませんでした。
銅像茶屋。雪はこの3日間で一番強い降り。茶屋前に止めた車は、あっという間に真っ白に。
今日も風はなく、マイナスでも体感温度はそれほどでもない。
昨日行けなかった按ノ木森と賽ノ川原へ行こうかと考えたけど、雪で少し見通しが悪くこちら方面は自重。
馬立場(銅像)に行く。道などすでにないただの雪原を見当つけながら進む。
23日に来た時より確実に積雪は増えており、ラッセルと言うほどではないけど、スノーシューでも潜りながら。
ツボ足では手前の茶屋に行くのも大変だろう。背の低い案内板は雪没してる。
300Mくらい進みこの辺の最高点、馬立場に。「後藤伍長」以外誰もいない。
23日はここから田代など見渡せたがさすがに降雪時はほとんど望めない。彷徨うわけだ。
ここへは視界の効かない吹雪の際は来ない方がいいと思う。行きはともかく帰りに方角を間違えて
とんでもない方に降りて行ってしまうかもしれないから。目印らしいものもないし。
伍長に敬礼してから茶屋に戻り鳴沢方面へ。
田代方面への県道は拡幅され、しかも完璧に除雪されいる。
歩くには最適だけど道の左右が除雪により2M以上の垂直な雪の壁になっていてボブスレーコース状態。
車が結構走ってくるのでスリップされたら雪の壁に挟まれそうで危険。
雪の壁の上を猫のように歩いて鳴沢へ下っていく。
すぐに鳴沢の道路標識があった。距離的には近いけど、積雪で歩きにくくそこそこの時間はかかる。
実際の露営地がどこかわからなので、石柱を見落とさないよう注意して進む。
道の左方はブナ?の原生林らしく似たような景色が広がってる。下手に入り込んだら迷いそう。
下り急坂がでてきたがすぐに新たに掘削されたバイパスルートだとわかった。
法面がやたら高く山をぶち抜いてる感があり、不自然だったから。
少し戻って周囲を注意深く見渡すと旧道(と言っても完全に雪没しているが)を見つけられた。
樹木の並びでこの下が道路だと推測できたので。
そのまま旧道を降りていくと、左側がきれ落ちた斜面になっていて覗くと沢のようだった。
ほとんど雪がかぶってるけど所々水面が見える。
これが鳴沢だった。
旧道のあたりからだと結構深い。落ちたら(はまり込んだら)ちょっと這い上がるのは大変だと思う。
アイゼン・ピッケルないと映画版の崖をよじ登るシーンみたいになりそう。
さらに下っていくとさっきの新道(バイパス)にぶつかった。
この辺が露営地では?と見回すと山を背後に石柱があった。たぶんこれが鳴沢の第二露営地だと思う。
なぜ思うという微妙な言い回しかというと、石柱の頭(しかも字の書いていない部分だけ)が
ほんの少しだけ雪上に飛び出ていたから。掘り起こそうとも思ったけど、自分のいるのが県道の左側
(googleマップで見るとちょうど鳴沢のあたりの県40の雪だるまマークのついている所)にいて、
石柱は道の反対側。ここから高い雪の壁を降りるのも、道路の向こう側の垂直の壁をよじ登るのも
不可能だと思ったから。
ちなみに車で通っても気づかないでしょう。高い雪の壁にさえぎられて見えないから。
さらに下に行くと平澤の露営地があるはずだけど、やはり高い壁を降りて道を歩かないと行けそうにも
なかったので断念。ここで銅像茶屋に引き返すことに。
まとめはまた。
>>373 問題はその先の第一露営地なんですよね
そこから田代への1.5キロが五連隊の明暗を分けたわけです
そこまでたどり着ければ温泉もあるし、かなり兵士は助かった人が多かったと思う
最終的に行かれた場所から田代は見えましたか?
できれば馬立場から前日に晴れた時の田代の写真とその後雪が降ってるときに行かれたときに
田代方向へ同じ角度の写真とか比べれば面白いんじゃないかな?
明と暗ですから
人間の運命って本当に残酷ですね・・・23日みたいな気候&降雪がなければそのまま惨事も起きずに
歴史にも残らなかったでしょうし
写真期待してます、結構綺麗に写ってましたか?
あと、温度とか現地で計ってませんか?
その時みたいに体感温度マイナス40度みたいな感じってどんなのでしょうね
車とか動かなくなるんじゃないでしょうか?少し止めておいたら
376 :
331:2009/01/29(木) 00:57:26 ID:Ef1oOX5z0
馬立場から田代方面の県道40はかなり拡幅されていて、
しかも人工的に山を切り開いたバイパス区間もできており
鳴沢〜平澤露営地あたりはもう当時の雰囲気と
かなり違うのではないかと思います。
ちょっと幻滅するくらい開かれています。
この時期でも車が結構走ってます。
鳴沢からは田代は見渡せません。
むしろ風をさける山の陰みたいなところです。
見通すとしたら馬立場しかありません。
そこでも雪が降るとまったく遠望は利きません。
あの程度ではまったく寒さは感じませんでした。
体感でマイナス2〜3度くらいでしょうか。
たぶんこの時期の八甲田ではきわめてレアなんでしょう。
正月に行った中央アルプスの方がマイナス16度で寒かったです。
寒さを感じるのは風の要素が大きいのではないかと。
次回は行く前の想像(予想)と現実をレポします。
>>376 実際に行かれた記事読めて感謝してます
八甲田山系のサイト結構あるけどそこまで現地で実際に調査した人はほとんどいないですし
ネット時代になって稀なことをされてるんですね
>鳴沢〜平澤露営地あたりはもう当時の雰囲気と
かなり違うのではないかと思います。
目から鱗が落ちた感じです
小説とか映画は当時の記録で止まってますからね
小説でももう書かれてから相当に年月たってますし
その後どうなったのかとかほとんどの人が検証されてないでしょうね
>鳴沢からは田代は見渡せません。
映画でもこの1キロ半が何て遠いんだっていうようなセリフありましたが
仮に日が照ってもそこから田代は見えないんですね
見えてれば当然磁石が使えなくても道を見失うことはなかったでしょうし
>寒さを感じるのは風の要素が大きいのではないかと。
五連隊も雪壕がもっと深く掘れて上を多う布か何か用意できてればまだ状況は変わったかもしれないですね
小銃よりもスコップ持って行った方が雪壕も掘れてよかったのかも
379 :
331:2009/01/30(金) 21:32:12 ID:V64xdGhp0
八甲田雪中行軍2009
まとめ編
今冬の雪不足は、中アや八ヶ岳などを見て感じてました。
さすがに雪国青森は違うだろうと考えてたのですが・・・
行く前の想定は小峠からの登りでいきなりラッセルを覚悟し、
大峠かできたら大滝平の手前半分くらいまで行けたらいいかなでした。
実際は伍長発見の地まで実に容易く(あくまでも雪山登山の感覚からすると)行けました。
時間があればもっと先、あるいは馬立場まで通り抜けられたと思います。
雪山に慣れている人からするとスノーシューハイキング程度です。
これは極端に積雪量が少ない、風がない、気温が高い、降雪がそれほどでもなかったからです。
積雪がこの時期の八甲田としては普通でないことはすぐにわかりました。
県道に所々立っている竹竿のすごい長さ、しかも雪上に露出してる部分がかなり残っていたので。
(実際、雪不足といっても県道が完璧になくなってる所、消えかかっている所はあります)
したがって今回のレポは、サンプルとしてはかなり割り引いてみないといけないです。
きわめてレアケースでしょう。
また多少雪山に慣れているので感じ方や表現が甘目かもしれません。
装備も服装も最新のもので、五連隊兵とは比べものにならないレベルで望んでいます。
雪山で大事なのは防寒対策より汗対策です。五連隊兵はよくあの格好で入ったと思います。
小便漏らす前に汗が冷えてヤバかったのでは?
23日に短距離の事前偵察した以外、昨年8月にも無雪季の馬立て場周辺を見ています。
周辺地形や方角・景色など。茶屋から銅像までの遊歩道は、地形的に低い所にあり、
まず雪没してるだろう・・・とかある程度事前予測はしてました。
これから入ろうと考えてる人は、3月後半の晴天率が高く、積雪は増えても締まって歩きやすい
頃がいいと思います。積雪が増えた豪快な景色を見られるでしょう。
雪山経験ない人はやめた方がいいです。スキー場のように管理された場所ではないですから。
もっとも八甲田が通常モードなら小峠ゲートを通過してすぐに引き返そうと思うはずです。
380 :
331:2009/01/30(金) 22:54:53 ID:V64xdGhp0
彷徨原因について
彷徨のはじまりが平澤付近だったので、そこに何か理由があるのではと考えがちですが、
実際に歩いてみると、あくまでも素人考えですが、
場所自体は、彷徨の原因に直接つながってないような気がします。
確かに馬立場から先は雪が深いですが、それまでも似たり寄ったりです。
むしろ地形的なわかりにくさから言うと、吹きさらしで広がりのある中ノ森のあたりの方が
吹雪いたら方角を見失いそうで嫌な感じがしました。
最大の理由は、気象条件の急速な悪化だと思います。
そのピークがたまたま平澤周辺にいた時だったというだけで、中ノ森でその条件を受けてたら
そこが彷徨の始まりになったような気がします。
さらに日没後に山中を移動したこと。吹雪では月明かりがあるわけなく真っ暗だったはずです。
また駐屯地から20km近く行軍し、疲労のピークに差し掛かってたことも輪をかけたのでは。
彷徨が地形に起因してるなら平澤に行かなければ遭難しなかったと言えますが、
ああいう行動ではどの道どこにいても気象条件と日没によって迷ってたのではないかと思います。
ちなみに昨年11月、立山で猛吹雪により方向を失い凍死するという遭難事故がありました。
遺体が見つかったところは、バスターミナルから数百メートル、山小屋の20メートル手前でした。
日没も近く天候も急速に悪化してるなら、その日の田代到着など諦めて、馬立場あたりで
体力のあるうちにビバークして、翌日明るくなってから帰るか進むか判断した方が良かったですね。
遅くともソリを放棄したときが決断のときです。
登山でも気象条件最悪の時、わざわざ夜間にしかも雪山を移動するなんてあり得ないです。
平澤あたりで「田代への道がわかった」発言がありましたが、これは脚色でしょう。
道など雪没してないはずですから。今でこそ車道として整備された県道で、非除雪区間でも
樹木の伐採具合、並び方で推測できますが、当時は山中の細い林道程度。
完全に雪に埋没し山と同化してるでしょう。
逆に言うと道を探す必要もなく、ルートファインディングしながら
目的地方向に雪上を進んでいくだけです。
でも視界が利かなければ方向もなにもないでしょう。
>>379 レポート参考になります
>雪山に慣れている人からするとスノーシューハイキング程度です。
映画でも予行演習で小峠まで行ったときに晴天で「まるで遠足みたいだな」とか言いながら雪合戦とかして
ふざけあうぐらいの余裕があったんですよね
天候一つで天国から地獄なんですね・・・
ところで、小峠のあたりで五連隊は昼食休憩取ったみたいですが
200人近くの大人数が休憩できるような広場みたいなところはありましたか?
何か五連隊関係の慰霊碑みたいな石碑みたいなのはあるんでしょうか?小峠のあたりで
>したがって今回のレポは、サンプルとしてはかなり割り引いてみないといけないです。
今回は最高の状態、あの事件が起こったときは最悪の状態だったんでしょうね
上下で全然違うんでしょうね
装備ですが、五連隊の兵隊は夏服に外套二枚とか何か酷すぎますよね
綿入りの冬服みたいなのは支給されてなかったんでしょうかね
>昨年8月にも無雪季の馬立て場周辺を見ています。
去年の下見されてるんですね、写真とか撮られてますか?
夏と冬ではどう景色が違うのか興味あります
夏のレポートは前スレまでの過去ログにあったみたいに車さえ気をつければ普通に歩き通せるみたいですね
>茶屋から銅像までの遊歩道は、地形的に低い所にあり、
まず雪没してるだろう・・・とかある程度事前予測はしてました。
レポート読んでて驚いたのは冬場は銅像小屋が雪没して営業してないってことです
てっきりスキー場だからスキー客目あてに営業してるんだと思ってました
営業してるのなら小峠から田代まで歩くのなら途中の良い休憩場になるかもって思ってたのですが
つまり冬場は小峠から田代まで悪天候になっても待避できる人工的な建物が無いっていうことですね?
これは相当厳しいですね・・・雪壕とか掘れるスコップとか必要かも、最悪の場合
>>380 >さらに日没後に山中を移動したこと。
自分もそれが馬立場以後の遭難の最大の原因だと思います
兵の凍傷や眠ってしまうことによる凍死などを懸念して帰営命令を出したとは表向き
そうなってますが恐怖心が先にたってしまってあせってしまったのが原因だと思います
あと1キロ半ほどなのだからあと数時間耐えて日の出を待ってあくまで田代へ進むことを
決定していればまだ犠牲者は減っていたような気がします
吹雪続けても時々は視界が良くなる時がありますから
方角がだいたいわかってたみたいですから同じ視界が悪い移動でも田代の方に行くわけには
いかなかったのでしょうかね?
山道とか雪没して山肌と一体化してるなら田代までそのまま1キロ半、直進すればなんとか
なりそうなんですが・・・間に谷でもあれば別ですが
>馬立場あたりで体力のあるうちにビバークして
馬立場のあたりに200人以上の大人数で露営できる広場みたいなのはありますか?
山の上なので風もきついし、凍死者かなり出しそうな気がします
でも山の上なのでスコップで掘れば地肌が見えるかもしれないですし
炊飯や雪壕を掘るのもやりやすいかもと思ったりもします
>当時は山中の細い林道程度。
昔の道って今の車道と同じ道なんでしょうか?ほとんど
露営地とか見ればそこ部分は同じみたいなのですが
色々レポート読むにつれて興味出てきますね
実際行かれてみれば映画&小説と合わない部分とか出てくるでしょうし
映画&小説も制作スタッフや作者も同じように冬場に通して歩いてみられたのかな?
夏場と違って冬場に行かないとその遭難事件の実感は難しいような気がします
383 :
331:2009/01/30(金) 23:35:54 ID:V64xdGhp0
>>381 >ところで、小峠のあたりで五連隊は昼食休憩取ったみたいですが
200人近くの大人数が休憩できるような広場みたいなところはありましたか?
何か五連隊関係の慰霊碑みたいな石碑みたいなのはあるんでしょうか?
現在標識の立っている小峠に広場はないです。ただの山坂道です。
※DVD特別愛蔵版のパッケージ、行軍してる写真の所です。
もう少し下ったところなら少し広い土地はありましたが現代になって
開拓されたような気も・・・トラックの駐車場でした。
そもそも100年前と同じかどうかは。
石碑類は探したのですがなかったです。
>装備ですが、五連隊の兵隊は夏服に外套二枚とか何か酷すぎますよね
綿入りの冬服みたいなのは支給されてなかったんでしょうかね
そもそも論ですが、今は夏山であろうと登山で綿入り服はありえないので・・・
汗で濡れたら乾かず、冷えたらアウトです。
天然素材ならせめてウールを・・・あの当時の日本になかったかもしれませんが。
夏の馬立場の写真は見直しましたが、ガスって遠望は写ってませんでした。
また草木と鎖かロープのガードで斜面の淵まではいけません。
>つまり冬場は小峠から田代まで悪天候になっても待避できる人工的な建物が無いっていうことですね?
なので車を置いての両方向からの往復になりました。
だいたい銅像茶屋自体にもスノーシューがないとすでに行けないレベルです。
車を止められるところから遠いところに建ってます。
384 :
331:2009/01/30(金) 23:55:31 ID:V64xdGhp0
>382
>馬立場のあたりに200人以上の大人数で露営できる広場みたいなのはありますか?
山の上なので風もきついし、凍死者かなり出しそうな気がします
広場どころかかなり開けてます。
開けすぎて方向間違えるかもレベルです。
だから風は強そうです。
ただ鳴沢方面寄りにブナの原生林が広がっており、
奥までいかなければ風雪よけにはベストだと思います。
>実際行かれてみれば映画&小説と合わない部分とか出てくるでしょうし
映画&小説も制作スタッフや作者も同じように冬場に通して歩いてみられたのかな?
鳴沢あたりで斥候隊が最後尾に回ってきてしまうくだりがありますが
あそこの地形でどう歩けばそうなるかちょっと疑問でした。
また県道40は、100年前当時の行軍ルートと完全にリンクしてるのでしょうか?
車が通りやすいようにルート変更してるような気も・・・
そもそも論ですが残されてる資料も当時のわずかな生存者の「自己申告」ですよね。
睡眠も食事もとれず、凍傷で死にかけた人間があそこまで正確に時刻・場所まで
記憶してるとは考えにくいのですが。
いちいちメモを取ってたのでしょうか?
また生き残り兵たちは時計をもっていたのでしょうか?
第一、猛吹雪の中、細かい通過地点名をどうやって認識したのでしょうか?
私は道路標識と石碑で判断しましたが。
逆にいろいろと疑問がでてきました。
>>384 >ただ鳴沢方面寄りにブナの原生林が広がっており、
>奥までいかなければ風雪よけにはベストだと思います。
その原始林は明治当時もそこにあるでしょうし
そこで露営の選択もありだったですね
でも、馬立場から田代がなまじっか見えてしまったために
行けるだろうと出発したのが痛かったですね、後から思えば
>鳴沢あたりで斥候隊が最後尾に回ってきてしまうくだりがありますが
>あそこの地形でどう歩けばそうなるかちょっと疑問でした。
あの時点では歩いてる最中に雑談とかする余裕もないでしょうし
少々の物音は風雪でかき消されてしまうような気がします
先行隊が道からそれて少しルートを外れれば本隊が先に通過してしまって
先行隊が引き返してきて通過していく本隊の後ろの方と出会ってしまったのかもしれないです
その頃には暗くなってきてたでしょうし
>車が通りやすいようにルート変更してるような気も・・・
その可能性ありますね、本来五連隊が通ったルートが別にあるなら地図上で探ってみたら面白いかも
>睡眠も食事もとれず、凍傷で死にかけた人間があそこまで正確に時刻・場所まで
>記憶してるとは考えにくいのですが。
時計とかも動いてたんでしょうかね?磁石は凍って使い物にならなくなってましたし
あとの聞き取り調査で調査する人が、このことがあったのはいつ頃かとか
誘導尋問的に聞かれたら人間弱い立場ですから、そうと言ってしまうかもしれません
一番一連の生存者の話で疑問なのは「綺麗事」が多いってことです
お互い同士で口論になったとか暴力沙汰とか途中でならなかったのでしょうかね
発狂者も出たようですし、軍隊と言うことで生存者から聞き取りした結果公表するべき
ことではないということで表沙汰にならなかった裏の事実もあるんじゃないかと思います
例えば31連隊が逆方向から青森をめざして来たのならもしかして
五連隊の生き残りと途中で会ってる可能性とかはないでしょうかね?
で、助けられずに放置した結果その兵隊は亡くなったとか
助けようとすればこちらも全滅するとか映画では高倉健が言ってましたがもしかして
そういう事実とかを暗に制作者側が言ってるんじゃいかなとも邪推したりしたりもします
>385
>例えば31連隊が逆方向から青森をめざして来たのならもしかして
>五連隊の生き残りと途中で会ってる可能性とかはないでしょうかね?
「雪の八甲田で何が起こったのか?」で川口泰英氏はその可能性を指摘してますね。
>>380 >平澤あたりで「田代への道がわかった」発言がありましたが、これは脚色でしょう。
遭難二日目の佐藤特務曹長の話だったら五連隊の正式な報告書「遭難始末」にもあるので
脚色とは言いがたいのでは?
388 :
331:2009/01/31(土) 01:47:03 ID:BRfmr8o40
幸畑の資料館に平澤露営地の雪濠模型があります。
20人くらい入れる2.5MくらいのU字型の大穴です。
屋根はありません。見た感じ風が吹いたらそのまま雪面を伝って穴に
冷気が吹き込んでくるような感じで、余計寒いような気がします。
むしろあんなに雪を掘り出したなら、その雪と周りの雪で
カマクラ状のシェルターを作れば良かったと思うのですが。
またどうしても穴に入るなら、穴の淵の周りに雪で壁を作れば
直接雪面を伝わる風雪はブロックできた感じです。
あの雪濠も意味不明なんですが。
>>385 それは自分も思いました。
31連隊とは隊の規模が全く異なるので2次遭難の危険が高かったのは間違い無いかと。
31連隊は編成上も兵力はほぼ0で、通常の行軍だけで精一杯でしょう。
逆の立場なら救援は可能かもしれませんが、この場合は冷徹な判断が正解ですね。
>>385 弘前隊の隊員の残した日記には「凍死兵を見た」という記述があるそうです。
道案内の村人の証言にもあるそうです。
しかしその時点で死んでいたのか?というと…
「死んでいたことにしよう」と福島中尉が決めて(助けていたら自分たちも遭難するから)
見捨てて行ったのではないか?という気が。道案内の村人に口封じをしたのも同じ理由ではないかな?
>>390 見捨てたとしても誰が責められるんだよこんな状況で・・・・・・・
そういや福島「大尉」は行軍後山形へ異動させられてるね。
あ、そうか大尉だね
>>391 でも「なんで助けなかった!?」って批難が起きるのは予想できたでしょ
だから見なかった、もう死んでたことにしたってのは理解できる
331さんの写真楽しみですね
自衛隊の行軍写真とか前に見たことあるけど行軍する隊員の写真中心だし・・・
ぜひ、5連隊や31連隊が見たであろう、同じ景色を見てみたいです
>>392 あの状況じゃ、助けを呼ぶ5連隊の隊員を見つけても「必ず助けを呼んでくる、待っていろ」と言って置いてくるしかできないし
見つけた31連隊の人たちも悲しかっただろうね
戦場と一緒ですからね、負傷兵に構ってたら敵に攻撃を受けて全滅しますし
本年度行軍状況、青森在住ながら非常に関心を持って読んでる。
今月下旬の天候は通常の概念(何故こんな言い方かというと3年程前極端に小雪
だった年があり、本当に雪が降らなかったという38年生きて20数年青森で暮ら
した身からすれば驚天動地の年があったから)に比べて雪が非常に少ないのだが、
なかなか参考になると思う。
ガキの頃、麓の雲谷スキー場によく遊びに行ったが、本当に視界0mになる吹雪
が荒ぶ時があった。
田地に囲まれた我が母校は「○高ブリザード」と特定名称が付く程に凄まじい
吹雪に囲まれる時もあった。
本当に今年は気候が不安定だ。
>>388 雪濠は2.5mでは上からの風と雪に翻弄されるかもしれないが、もっと深く掘り
込めば、風雪をしのぎ、逆に暖かくなる。つまり2.5mでは足りなかったという
のが、消耗の遠因。
弘前隊は、4m掘り込んだ。
396 :
331:2009/01/31(土) 13:02:14 ID:BRfmr8o40
弘前隊が青森隊の遭難者を見捨てたのでは?という件ですが、
いくらなんでも生存者をほっといて行軍はしないのではないでしょうか?
かといって自分たちにも救助する余力がない。
だったらすぐそこの田代かその先の村まで何人かを向かわせて救助を呼べばいいのでは。
青森市内まで行く必要はありません。田代はすぐそこだったわけですし、
彼らからするともと来た道を引き返すだけです。
最低そのくらい人数をさいても何のリスクもないはずです。
あくまでも想像ですが、青森隊の惨状と救助要請を伝えたのは実は弘前隊で、
それまで青森五連隊本部は、まったく気づいてなかったのでは?
成功の一報がくるのを今か今かと暖かい本部で待ってるだけで
よもや遭難とは想定してなかった。
よその部隊に教えられて初めて自部隊の状況を知るというのは五連隊本部の失態、
連隊運営の能力欠如を露呈してしまう。軍統治機構の根幹にかかわることになる。
弘前隊は行軍も成功し、他部隊も発見し結果的に救助したことになる。
ヒーローです。青森五連隊は、部隊も本部もいいとこなしです。
だからあくまで五連隊本部自らが異変を察知し、救助に行ったことにした。
弘前隊の話が公式発表から、メディアから急速に遠ざかっていくのも不可思議なことです。
案内人への口封じは弘前隊が見捨てたことでなく、発見し救助要請の伝令をだしたことでは?
このストーリー(公式発表)を作るために。
>>395 >雪濠は2.5mでは上からの風と雪に翻弄されるかもしれないが、もっと深く掘り
込めば、風雪をしのぎ、逆に暖かくなる。
3年ぐらい前に陸上自衛隊の冬期演習の様子を情報番組でやってた。
煮炊きするために深く雪洞を掘って露営していたが(浅いと煮炊きの熱で崩れる可能性がある)、
中は当然氷点下の寒さで、隊員が「雪洞が暖かい、なんて伝説があるが、真っ赤なウソ。
寒くて、雪洞では全く眠れない」とこぼしていた。
雪洞で確かに風雪は防げるけど、深く掘っても寒いんだよ。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/31(土) 16:02:53 ID:zs/DhQaR0
>>397 だったらかまくらの中が温かいのはなぜ?
>>397 その「暖かい」っていう表現は外の吹きさらしのところと比べてっていうことでは?無風だし
体感温度って風があるかなしかでかなり違うみたいだし
あと、別件だけどどうして5連隊は水を防ぐ敷物みたいなのを持っていかなかったんだろ?
休憩のときに下に座ることもできないし
寒いときは体に羽織って風を防ぐこともできるのに
露営予定なのに雪上で火をおこす用意もしてないし
行軍前に持って行く物のリスト見てて気がつかなかったのかな?
>>396 遭難兵を見つけたのに
「手を触れるな」と厳命してる点からみて
もしかしてまだ生きてたんじゃ?
という疑念を持たざるを得ないわけで
>あくまでも想像ですが、青森隊の惨状と救助要請を伝えたのは実は弘前隊で、
>それまで青森五連隊本部は、まったく気づいてなかったのでは?
出発二日目の24日になって青森の連隊本部は田茂木野に40名の支援部隊を出してる(24日の夜まで待って帰営)
25日午後になって「遭難したんじゃ?」という疑念が生まれ25日の夜になって津川連隊長は「今夜中に帰ってこなかったら
救護隊を出そう」と命じてる
26日午前5時、救援隊は青森を出発。
弘前隊が遭難兵(の死体)と遭遇してるのは27日だからそれはない。
402 :
331:2009/01/31(土) 18:31:35 ID:BRfmr8o40
>>401 なるほど弘前隊通報説は時間軸としてはおかしいですね。
では24日の時点で連隊本部が異変に気づくのは時間的に不自然ではないのでしょうか?
えらい早いようにも思いますが。
予定ではその日は増沢に泊まり、翌25日三本木、列車で帰営だったような・・・
また27日に伍長を発見した救援隊はさらに田代方面のルートに進んだはずで
この救援隊と弘前隊は遭遇しなかったのでしょうか?
弘前隊は田茂木野のリンゴ園の遺体安置所で遭難の事実を知ったらしいですが
田茂木野に下ってくるまでに救援活動している兵に会わなかったのでしょうか?
ちょっとこの辺の時間軸がよくわからないので誰か詳しい人教えてください。
>>331 現地行かれたときの写真みたいです・・・お願いします
404 :
331:2009/01/31(土) 21:29:49 ID:BRfmr8o40
405 :
218:2009/01/31(土) 22:28:47 ID:BVMOkuD+0
スノーシュー区間はほぼ両側カラマツ林、馬立場はブナとダケカンバが多く、鳴沢あたりはブナ林か。
遭難当時の写真みると鳴沢周辺は樹のまばらなササ原で、隊は一泊目は針葉樹林の固まりを
見つけてその中に入り、二泊目はなんとか沢筋の少しでも樹の多そうなところに入り込んだわけだが
今は相当植生が変わって(豊かになって)いるようだ。
>>404 わあー!!
ゆっくり見せて頂きます!!
>>404 写真どうもありがとうございます
じっくり見せていただきました
一番心をゆさぶられたのは「1/24 県道40 この先が賽の川原」ですね
まさしく五連隊が歩いた目線がこれだと思います
道の先がホワイトアウトして見えないですから
事件当日はこれより酷かったんでしょうね
白い地獄への1歩手前という感じがします
五連隊以前にも先の賽の河原で地元の若い人たちが集団で凍死したらしいですし
>>402 貴重なレポと画像乙です。
>27日に伍長を発見した救援隊はさらに田代方面のルートに進んだはずで
この救援隊と弘前隊は遭遇しなかったのでしょうか?
とありますが、事実は後藤伍長蘇生中も天候は荒れていて
後藤伍長の周りに救助の兵卒が毛布を持ち円陣を作り蘇生。
実にこのとき救助中の兵一人が凍傷で倒れ、他の半数の兵も痛みを訴えたため、
後藤伍長と倒れた兵卒を搬送帰営している。
先行救助の手当や配置はなされていない。
あと、馬立場の上から田代方面をみたのも視界が効くのと効かない絵ではやはり全然違いますね
見える写真ではどの位置のあたりが田代新湯なんでしょうか?
山肌4つ向こうの平地の森林があってその向こうに川みたいなのに囲まれたあたりかな?
こうして見ると、片方の方向から行軍するんじゃなくて、人数を2分して半分を汽車を使って逆側から
行軍させて先に田代新湯で露営準備してもらって行軍当日にそこで大きなたき火でもしてもらって
火や煙で場所の合図をしてもらったほうが確実だったのかなと思います
で、橇の荷物とかは汽車で運んでもらって青森の営舎から朝から行軍する本隊は身軽な体で
行軍できてたら夕暮れまでに目的地に到着して先に到着してる仲間と合流できたんじゃないかな
>>409 後出しジャンケン
意味無し
現代目線で言ってもしゃーねー
411 :
331:2009/02/01(日) 10:42:33 ID:bdq8cg/J0
>>407 雪ですが実際はもっと派手に降ってる時もありました。
そういう時はデジカメを出せる状態でないので写真はありません。
写そうとしても真っ白すぎてAFが合いませんし。
ちなみに無理して動かしてたらデジカメ調子悪くなりました。
>>409 >見える写真ではどの位置のあたりが田代新湯なんでしょうか?
少なくとも肉眼ではよくわかりませんでした。
右の方に見える建物は八甲田温泉ではないでしょうか?
ここからでもちょっと降雪すると、遠望はまったく利きません。
白いカーテンがかかった状態になります。
確かに最低一個小隊程度田代か増沢に列車で迂回させ先行待機させ、
予定日時に本体が到着しなかったら即迎えに行くぐらいの
対応はあってもよかったかと。
距離的にも連隊駐屯地から行くよりはるかに近いですし。
折を見て写真拡張版アップします。
田代方面ズーム写真とか。
>>410 後出しじゃないだろ?
仮に今からどこかの山の難所に俺が指揮して200人ぐらいでいくならそうするよ
別に片方からしか行ってはいけないとかいう取り決めは無いんだし
結局は当人たちの覚悟の問題だからな
>>412 「難所に行くこと」が目的じゃなくて行軍訓練だから
>>409みたいにする意味はナッシング
「じゃあいざ戦争ってときにそんな方法取れんのかよ」でおしまい
>>413 覚悟じゃない。装備。
>>414 意味は普通にあるだろ?
隊を半分に割って半分は軽装で速度重視で青森から田代までの雪中行軍研究&田代までの道の確認
もう半分は橇を汽車で運んで田代での露営設備構築、及び雪中での炊事等の研究
一つの隊だけで全部やらせるのが酷なんだから総合的に目的を完遂する
合理的じゃない?
いざ戦争の時でもその合理性が必要なんだよ
キミが隊の責任者なら部隊を全滅に追い込むと思う
で、もし次の雪中行軍があるのなら前回の役回りを逆にすればより完璧
そのときに前の経験をお互いの部隊でノウハウをまとめて教え合えばいいし
普通に考えれば20キロ以上もあんな難所を行軍でしてたとえ田代につけたとしても
みんなヘトヘトで露営設備を作るのも炊事するもの満足にできたのかな?
どちらにしても凍傷兵や亡くなる兵はでたと思うよ
あと、もし途中で事故が起こった場合隊が一つだけなら急に助けにいけないし
遭難の事実も青森本隊に連絡も大幅に遅れるし
2つに役割を分けていたら雪中行軍の方の部隊が史実通り遭難していても
田代の露営設備構築の隊からすぐ助けにも本隊に救援依頼も即できたはず
仮に八甲田山の事件が無くても難所の山を攻略するのなら石橋を叩いて渡るぐらいの
慎重さは欲しいよ
>>415 >一つの隊だけで全部やらせるのが酷なんだから
これは遭難の結果得られた教訓ね
>普通に考えれば20キロ以上もあんな難所を行軍でしてたとえ田代につけたとしても
>みんなヘトヘトで露営設備を作るのも炊事するもの満足にできたのかな?
>どちらにしても凍傷兵や亡くなる兵はでたと思うよ
>あと、もし途中で事故が起こった場合隊が一つだけなら急に助けにいけないし
>遭難の事実も青森本隊に連絡も大幅に遅れるし
>2つに役割を分けていたら雪中行軍の方の部隊が史実通り遭難していても
>田代の露営設備構築の隊からすぐ助けにも本隊に救援依頼も即できたはず
>仮に八甲田山の事件が無くても難所の山を攻略するのなら石橋を叩いて渡るぐらいの
>慎重さは欲しいよ
これらも全て遭難して初めてわかったこと
遭難は手順の問題ではなく装備と準備の不備が問題だったわけ
往路で馬立場を超え、鳴沢の先、平沢までは行けたってことを前提に話進めてるんだから後出しだろう・・
もし、往路で大滝平〜賽の河原あたりで遭難してたら(天候がもっとひどかったらありうる話)
その案は意味のないものになるジャン
>>411 >雪ですが実際はもっと派手に降ってる時もありました。
これ以上雪に降られて、しかも夕闇が迫ってきたら下の道なら周りがわからなくなりますよね
しかも精神的に焦ってきて冷静な判断力も体力も無くなってきますし
遭難2日目に1日かかって700メートルしか結果的に進めなかったのは迷った性もありますが
もうほとんど普通の状態じゃなかったんでしょうね
>写そうとしても真っ白すぎてAFが合いませんし。
>ちなみに無理して動かしてたらデジカメ調子悪くなりました。
その事件の時でも磁石が凍ってしまって使えなくなってり
自然現象の前では文明の利器も使えなくなりますね
怖いですね・・・
>右の方に見える建物は八甲田温泉ではないでしょうか?
自分は見ててきがつかなかったのですが歩いていけそうですか?
冬場は営業してるのかな・・・
もし空いてるならそこに泊まって歩いて馬立場まで往復できたりして
>折を見て写真拡張版アップします。
>田代方面ズーム写真とか。
期待してます!
あと、他の道路標識とか写ってるのはありますか?
写真の一枚に送電線みたいなの写ってるのがあるんですがああいうのは貴重ですね
もし現地に行くことがあったらああいうのがないと変な方向に行ってしまう可能性もありますし
雪中行軍関係の標識とかほとんど雪没してるみたいなのが残念ですね
防衛館とか幸畑の資料館とかは撮影されましたか?兵隊さんの服とか遺品とかあればできれば見たいのですが
実際にどんな道具を行軍の時に使ってたのか興味あります
>>418 >往路で大滝平〜賽の河原あたりで遭難してたら
そのあたりなら夜中でも帰営できるんじゃない?
もしくはそのあたりで行軍不可能になるぐらい気象が荒れてたら
小峠のあたりでもかなり吹雪いてただろうし、そこで帰営の判断になってたと思う
で、帰営したら即電報で増沢と駅まで本隊は引き返したことを連絡、田代の別働隊は捜索に一部出してても
同時に青森の営舎まで救援依頼出しに駅まで電報打ちにくるだろうからそこで連絡つくし
増沢あたりに電報打てるとこがあるならそこに先に連絡しても良いし
数時間差はあっても連絡はお互いついたはず
>>420 たぶん帰営できるとは思うけど、実際に復路では疲労度が全然違っていたとはいえ
多くが道を外れて駒込川の沢の方に行ってしまっていたことも事実だし絶対大丈夫とは言えないと思う。
なんにしても、既に結果を知ってしまっている以上、何言っても後出しになってしまうと思うんだわ。
>>412 は否定してるけど、後出し、誰が何と言おうと後出し案だよ。
でもそうやって、ありとあらゆる分野で物事がうまく行かなかったときに後出しで反省案を考え、
次に良い結果を出して後世に伝えるってことを延々と繰り返して人間は今の便利な世の中を手に入れたんだから
後出しだイヤ違うとかそんなことはどうでもいいw
>>421 あなたがそこまで思いこみたいのなら何を言えないわなw
423 :
331:2009/02/01(日) 17:59:54 ID:bdq8cg/J0
>>419 道路標識以外にも目印になるものは極力記録していきました。
万一、日没や天候急変で帰りのルートが不明になったときのために。
地名・勾配・カーブ標識、観測地点札、鉄塔・・・など。
高圧線は当てにしませんでした。あの高さだと吹雪いたら見えなくなるでしょうから。
鉄塔は目印にベストですが、同じものがたくさん並んでいて
形では見分けがつかないので鉄塔ナンバーを控えておきました。
あと時々振り返って帰路で見るだろう景色を記憶・記録してます。
進行方向ばかりみてるといざ帰る時に記憶にない景色をみることになり、
彷徨原因になると思ったからです。
防衛館も資料館も行き、撮影してます。
防衛館はモロ明治時代の五連隊関連が残されていて濃いです。無料だしぜひお勧め。
訪問前に駐屯地に事前に連絡を。鍵がかかってます。
幸畑の資料館の行軍ルートのジオラマは立体的に状況がつかめ参考になります。
全兵員がどこで見つかったかをランプで示してくれます。
独りでとんでもないところまで行っちゃってる兵もいて驚きでます。
あと気になったのが雪濠模型。ほとんど野菜保存用の地下冷凍庫みたいなつくりです。
カマクラにするか、2m下に掘って雪上に1m雪の壁を作ればよかったのに。
幻滅するようですが、銅像茶屋から田代方面の県道40は拡幅と除雪で完璧です。
21世紀の世界そのものです。ただ車道を歩くのは危険です。
今や鳴沢でも平澤露営地でも厳冬期でも車で乗り付けられます。
八甲田温泉は営業してるのでは?
銅像コースを滑ってくるスキー客?のためか茶屋の前に送迎バスが止まってました。
そのくらい開けてるので、こちら側は今は遭難とは無縁でしょう。
一方、中の森の露営地側は危険です。春まで天然100%状態ですから。
田代側に下っていって最初の左折道の先に温泉があります。
日帰り入浴しましたが冬季は宿泊営業はしてないとか・・・
とにかく気象条件の変化と日没には注意しました。
一応、日没後の周辺も見ましたが、月もないので真っ暗でした。
あの暗さで本気で田代に行くルートがわかったのでしょうかね?
賽の河原あたりでも吹雪+夜間でどうにもならなかったような気がします。
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/01(日) 19:12:28 ID:N8UxAr3m0
>>331 >賽の河原あたりでも吹雪+夜間でどうにもならなかったような気がします。
賽の河原での過去記事
明治22年2月22日に12名の若者が賽ノ河原の小屋で無惨の凍死を遂げる。
後に無鉄砲な若者8名が賽ノ河原に露宿しようとした。
その8名も凍死を遂げる。
なおこの雪中行軍下
賽ノ河原では、中野中尉以下36名の遺骸が発見されているが
いずれも手袋なく、雪沓・軍靴・地下足袋も無く、はだしで亡くなっている。
矛盾脱衣ってやつね(このスレで覚えたw)
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/01(日) 20:53:14 ID:N8UxAr3m0
>>425 中野中尉以下36名の遺骸は賽ノ河原で着衣のまま枕を並べるように
皆同じ方角に頭を向け横たわり発見されている、異状なのは 皆裸足の亡骸である
ということ。
矛盾脱衣・矛盾思考行動でなく
胸を超える雪中下、賽ノ河原の深雪を休みなく進軍するがゆえ
雪沓・軍靴・軍足・地下足袋が脱げてしまったのでは?と考える
凍りついた裸足の足で雪中を踏破しようとして難渋困難し
体力疲弊、皆、死を覚悟、かの地に横たわりし将兵の心境を察するに。
無念の外の言葉が見つからない。
>>426 だったらその脱げたところでバラバラに絶命するのでは?
なんで並んだんだろう?
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/01(日) 21:16:29 ID:KY4dtiGh0
>>427 たとえ脱げても、軍人として行軍を続けたんだろう。
それで本当にどうしようもなくなって死を選んだ、と。
>>424 明治22年2月22日に12名
これは・・・
いや「枕を並べ」ってのがヘンでしょ
整列しなきゃそうはならんし
もしかして後から通りがかった31連隊の兵隊たちが死体を並べていったのでは?
あまりにも無惨な光景だったから
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/01(日) 21:39:33 ID:N8UxAr3m0
>>427 皆、中野中尉先導の下。
雪中下、凍傷に罹る(かかる)脚で賽ノ河原を行き
おそらくは、視界失い万策尽き、帰路は全く発見できない
こういった状況下、あるいはそれ以前に雪沓や軍靴は凍結し脱げ落ち
地下足袋まで重い雪に奪われる、それでも進んだと想像出来る。
そうした中、誰かしらが昏倒、人事不省に倒れ・・・・・・・。
点呼の後人員数確認、倒れた兵卒を弔い
覚悟の後、皆雪中下に枕を並べ身を横たえ、潔く死に向かう決断が下される。
捜索隊の記事では、寒さに口をすぼめ、眼球から出血する程の苦痛下の状況で
亡くなった兵卒も確認されている。
死なば諸共とう状況だったのでは?
この前友達数人と飲んでて、その内の女の子が
仕事がきついって話になって、だれかが
「それ、まるで『ああ野麦峠』だよね」って言ったら、
「あ、それ映画で見た。明治時代の兵隊が雪山で
遭難してみんな死んじゃう話でしょ」って言った
奴がいた。
>>428 神成大尉も発見されたとき靴は履いていなかった。
頭まで雪に没し、帽子も失っていた。
>>408 救助隊はこのとき後藤伍長の後方で神成大尉も発見していたが
蘇生出来ず亡骸を運ぶ術なく帰営している。
>>434 すかさず、「お前は案内料が欲しくてそんな事を言ってるんだろう!」って言わなきゃw
「猫耳八甲田山」(「猫耳慰安旅行」)
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 18:54:14 ID:lcFwQWTV0
おまえら、進軍しないか!
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 19:01:13 ID:KMsmqgBT0
陰陽師「安部の貞子」
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 21:35:58 ID:s/RYcj4N0
八甲田での遭難事件の最中の明治35年1月30日日英同盟締結。
武装した連隊規模での雪中行軍は陸軍史上青森5連隊がおそらく最初の試みで、
想定される対ロシア戦まで冬期演習の機会は極めて限られていた。
遭難兵の回収作業って青森側からだけ行われたの?
救出兵が次々に凍傷にかかって難航したみたいだけど
列車で反対側に回り込んで田代温泉あたりに回収基地作ってそこをベースに田代側からも行ったほうがよかったんじゃないかな?
もし生き残りがいてもすぐに田代で温泉で応急処置できるし
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 00:23:38 ID:BWbZaMck0
>>441 田茂木野から逓哨所を複数箇所設営したため、青森側のみの捜索、救難
だったと記憶している。
冬季下では特に、上記通信可能な哨所を複数設営の後電話を敷設、
大きな哨所で食料を炊爨し、最寄の哨所に配布するなど兵站においては
日清戦争の参考になる記事だと思う。
またこの哨所は将兵が暖をとる必要不可欠な熱でしばしば崩れたり、
一酸化炭素中毒と隣合わせだったりして苦労が多く、
夜通し修復に時間を費やしたり、天候が悪化すると孤立したりもしたそうだ。
通信書を携えたマタギ2人が事実
中継地の小さな哨所で窒息、焼死したという記事が川口氏の著書に在る。
なるほど、田代方面から救出作業することはなかったんですね
田代からなら温泉もあるし滞在しやすいかなって思ったのですが
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 01:04:46 ID:BWbZaMck0
>>443 三本木から田代を経ての救援、弘前からの増援もすべて汽車などを利用し
青森に集結し、幸畑・田茂木野・馬立場に設営された複数の哨所ルートで
参加したと考えるのが合理的だとおもいますよ。
二次遭難の恐れはかなりの脅威でしょうから、
>>444 二次遭難が怖いのなら田代から行った方が距離が短くて済むのに
田代がライフラインや通信などのインフラが整った街ならともかく
何のインフラも無い温泉小屋が一軒あるだけ
距離も三本木・増沢から行くより青森からの方が近い
インフラを仮引きした馬立場や鳴沢の哨戒所のほうが拠点としての能力が高い
>>446 その温泉が大きいんだよ、救助する兵隊の体も楽だし
救助してきた人もすぐお湯に浸せるし
川のすぐ横だから水も豊富だし
なにより、遭難現場にすぐ近く
馬立場までわずか3キロ
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 11:12:17 ID:c2rO/gZt0
生存者の発見は2月2日が最後。
病院に収容されたのは17名で、このうち6名が亡くなっている。
後藤伍長は1月27日発見
1月30日以降の発見者は風雪を凌げる岩窟や炭焼き小屋で発見されている。
もはや救助活動以前に、いかに二次遭難被害を出さず遺体を収容出来るかどうか
と云うのが選択枝だったろうから2方面からの救助は残念ながら却下。
なにしろ、雪中下の2方面救助展開は、予算を喰う上、将兵や徴用された労働者の危険も
単純に2倍想定となる。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 11:46:43 ID:FaiwTuWmO
逆から回って田代に基地をおいて、って作戦はなるほど〜とも思うけど
青森に住んでる実感として、すごく回りくどくて、その発想は浮かんでこないな。
田代に温泉があるとはいえ基地をおくにはあんまりな場所だし
(逆からでも、そこへ向かう途中でさらに遭難しそうだw)
青森本部から現場への途中にある田茂木野が拠点なのは当然て感じがする。
実際は
>>448くらい論理的に考えられてたんだろうか?
だけどこの演習のずさんさから考えて、そこまで考えてたかも疑問だ。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 12:00:37 ID:c2rO/gZt0
1月25日
筒井村の村長が5連隊・隊長を訪ねて雪中行軍隊の安否を憂い
捜索を提案したが津川連隊長曰く
「 卿輩(けいはい)の関知する所に非ず 」
1月26日
青森市所属の外崎書記、隊長を訪ねて忠告す。しかし津川連隊長は
「 田代には白米16俵あり気遣いに及ばず 」
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 12:25:28 ID:c2rO/gZt0
雪中行軍の出発が1月23日だから
津川5連隊長は一体全体何を考えていたのやら・・・。
結果的に1月26日に救助隊を編成、田茂木野に向かわせてはいる。
>>449 >(逆からでも、そこへ向かう途中でさらに遭難しそうだw)
駅のある古間木から田代までかなり距離ありますか?
その間に道の難所みたいなのあるんですか?
雪中行軍自体がなぜ2正面作戦取らなかったのか謎なんですよね
難所は大峠の向こうから田代までの間なら部隊を二分割して
先に田代に基地設営しにいったほうが賢明だと思いました
あれだけ深い雪の中を行軍してフラフラなのにさらに着いた田代で
一から露営設備や煮炊きまでしなきゃいけないのは酷だと思います
>>453 この地図を見てみたら大きな道の横に八甲田温泉ってあるんだけど
ここは明治からあったのかな?
田代元湯や新湯を目的地にするよりこっちを目的地にしたほうがよかったのでは?
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 21:16:49 ID:c2rO/gZt0
>>454 明治35年は田代元湯と田代新湯のみが存在していた。
温泉宿の広告だろ。実際は昭和30年代に掘られた温泉。仮に明治初期から沸いていたとして
誰も存在すら知らず宿も経営してない空き地に湧き水状態の温泉目指してどうすんだよ。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/09(月) 04:11:18 ID:4jdB2Yn+0
現在の視点からああすればよかったとかいつも言ってる頭のかわいそうな子はスルーで。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/09(月) 04:57:52 ID:nFQdywOR0
田茂木野村 15戸
田代には元湯と新湯の2つの温泉があり
建物は4〜5軒 冬には建物の番人の家族3人と炭焼き職人15人が住居し
湯治場を守っていた
三本木 人口 5300名の大村落 電信施設在り
>>457 元湯はそういう状態だったんじゃない?、明治でも
>>458 どうした?何か私生活で嫌な事でもあったのか?
463 :
331:2009/02/10(火) 20:35:44 ID:kgn6AFIK0
>>463 ありがとう!写真大好きです
他の写真で何かありましたらまたお願いします
資料館とかの写真とかあればぜひ
写真見終わりました、すごい写真集ですね
資料もてんこ盛りですし
幸畑と田茂木野の現在の写真が価値ありますね
この道を通って八甲田山に突入していったのかと
小峠より向こうは人家は無いんですよね?
当時の隊員もこれが人里との今生の別れになるとは思わなかったでしょうし
>県道40。この先が賽の河原。結構雪が強くなってきたのでここで撤退
五連隊は撤退できなくてそのまま意地を張り通して同じ日に先に行ってしまったんですよね
そう思うとこの写真は感慨深いです
>視界が利くときの田代方向の遠望
当日は5連隊もこの景色を見たはずなんですよね
まだ天候が悪くなかったので田代方面は見えたはずですし
ここまでは想定内だったと思います
これ以後が後続の橇隊が遅れて部隊全体が時間切れで夜の闇に引きづりこまれてしまったと・・・
運命の分かれ道みたいな景色ですね
>鳴沢。雪が深い。入ったら這い上がるのは大変そう
これも5連隊はこの先に行ってしまったんですよね・・・
で戻って来る間に犠牲出しましたし
怖いですね
>画面左の先に平澤露営地がある。今回の行軍はここで終了
この平澤の露営地って第一露営地のことですよね?
5連隊はここで隊の行軍を停止せざるをえなくなったと
実質、ここから先はついに行けなかったわけですね
第一露営地からは田代は低すぎて見えないんですよね
この先、1.5キロが生死を分けたと考えると悲しいものがありますよ
>全参加将兵の木像が並ぶ
これがあるのは初耳です、明治期に作られたものでしょうかね?
>五連隊兵士と陸自隊員。
当時の服装も見たかったです、感謝
この軽装じゃかなり寒かったでしょうね
手袋が薄いし、首周りから確実に風が吹き込んで来ますし
服のボタンの隙間ががら空きだし
ロシア兵みたいな毛がついた服とか支給するのは無理だったのでしょうか・・・
貴重すぎる写真ありがとうございます
じっくり見せていただきます、感謝します
>>463 偶然とはいえ、23日に天候がよくて24日から急に天候が崩れだしたとは何か因縁めいたものを感じさせますね
凄っ!!!この写真集!!!
この写真集、今後このスレのテンプレに入れられないかな・・・・・・
貴重なビジュアル資料なのに期間限定は何だか勿体無い・・・・・・・
>>467 全旅程を走破ではないけどかなり踏み込んだ奥地まで写真ありますからね
今までネット媒体に載った写真は自衛隊以外では冬期は初めてじゃないかな?
写真を撮ってこられた方には感謝とともに賞賛を示したいです
すごい人ですよ
>>331 本当に凄いな、俺なら地上に居ない世界だ
鉄塔の写真を見てしみじみ思うのは、当時確かな目標対象があればという事。
ブナの木も当時は炭や薪としてかなりの量が伐採されていただろうから、
目標対象には不向きだったんだろう。
あるいは道に迷う原因だったのかも。
雪が降る前に道沿いに写真みたいに長い目印付きの竹竿でも刺しておけば良かったのにな
雪で埋もれないぐらい高いのを
>>471 歩兵第五連隊 : 青森
明治6年創設の仙台鎮台に所属、20番大隊を母体とする歩兵連隊
この事件まで、冬季訓練において約30年近い経験があるはず、
歩兵第三十一連隊 : 弘前
明治31年連隊編成、日清戦争後増設された第八師団に新設
八甲田踏破成功まで冬季訓練経験は4年、
経験豊富なはずの青森五連隊がなぜ行路に目印をつけなかったのか?
しかも前年の明治34年には、五連隊の第三大隊が
青森〜田代〜増沢〜三本木 を雪中下踏破する計画を立案するが見送られている。
つまり足掛け1年以上八甲田の雪中行軍は準備されていたという選択枝もあるわけで。
@コンパスと地図だけでの行軍が目的だった。
A天候に恵まれていれば、踏破可能な演習だったが偶然未曾有の天災に遭遇した。
と信じたい。
>>472 もともとが戦争中の物資の輸送訓練というか、調査だったわけだから
なるべく実際の状況に近づけようとしたんじゃないか。
戦時下じゃ目印なんてつけられないし、つけても敵に破壊される恐れもあるし。
ただ訓練なら万が一の時の救援手段も考えておかないと駄目だよな。
この考え方はいまだからそう思うのかもしれんけど。
>>473 >万が一の時の救援手段があれば、
明治35年の主権在民でない帝国陸海軍には軍人勅諭なるものが在り
将兵に強烈な思想及び固定概念を及ぼしていた。
軍人勅諭 ↓
http://www.tanken.com/gunjincyokuyu.html 起草は 西周 (にしあまね)
明治11年10月に、陸軍卿、山縣有朋?が全陸軍将兵に印刷配布した
軍人訓戒がその元(はじめ)
これを暗記し唱えられなければ帝國軍の兵でない時代
「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」
御上大元帥陛下への義は、将兵の生命より重く
それが意外と名誉だったりした時代。
200人が八甲田で死すとも、大元帥陛下への義とか奉公で全て終了。
日露戦争では、健康な成人の4人に1人が戦死しているようだ。
主権在民の軍隊って古代ギリシャ?
>日露戦争では、健康な成人の4人に1人が戦死しているようだ
最後の「ようだ」ってのが、また笑いを誘う。
誤読されるように嘘を書いたが嘘だと指摘されたときの逃げ口上を用意しているわけねw
以前は軍板にあったようだけど学問板に来た以上記述は正確に書いてね
イデオロギーや個人的な主義主張を織り交ぜると正論でも駄文とされるのが学問板
>>474 なんで「健康な成人」と書くのかがよくわからん。普通に徴兵された人間と書けばいいのに。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 05:08:13 ID:cpx0Fi9M0
>>477 学問に詳しい様なら逆に教えて頂きたいのだが、
日清戦争後の三国干渉後撤退した帝國軍の概数や
日露戦争での戦死者、戦傷者数。これがまるで把握出来ない。
ちなみに明治35年、雪中行軍時の日本の人口統計は
4496万人
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 05:34:53 ID:bvLtD+DeO
>>474 横からだが、八甲田の事件では遺族は戦死ならまだしも
東北では忌み嫌われる死に方である凍死であると大変不評
あと左翼右翼どちらもいえることだが天皇を過大に評価している。
軍国日本のイメージだろうがそれは戦後教育の捏造
ましてや明治時代
別に名誉でもなんでもない。
あと日露は脚気とか病死いれてる?
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 05:46:50 ID:cpx0Fi9M0
>>483 記事1
日露戦死者47000人
脚気患者25万人中、病死者27800人
結核患者 記載無し
記事2
日露戦死者
118000人
戦傷者 記載せず
記事3
日清戦争
動員 24万人 戦傷者 13000人 戦死者数記載せず
明治24年時の師団数 8
明治33年時の師団数 13
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 10:21:07 ID:yhK/M0jm0
>凍死、脚気
これ問題発言なんじゃ
お前、誰かを脅迫してないか
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 10:24:01 ID:yhK/M0jm0
2ちゃんねるは、新自由主義者の宣伝及び養成機関なんだね
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 11:20:41 ID:bvLtD+DeO
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 11:23:55 ID:yhK/M0jm0
その日の糧と引き換えに、反社会的行為を強要されるのなら
断罪されないとな
ここまで思い上がるのか「ぱんぱん」は
何か八甲田山関係で新しい情報はないでしょうか?
次に五連隊ルート行ってみたい人とか
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/13(金) 21:08:16 ID:ZA+D8rzm0
>>479 >戦病死ってのは戦死に入るんだっけ?
少なくとも、靖國神社には入れる。
自分が知っている限りでは戦死、戦病死、公務死が合祀されている。
>481
474がコレを書いた胆なんだろ。それが。
474的には脳内変換で戦病死者・戦傷者と出来る人間には用がないんだよ。
日本の全人口の成人男性で健康な人間の4人に1人が死亡したというマイナスイメージをこの戦争に持たせるのが目的だろう。
実際には、徴兵相当人員のうち実際に入営した人員の割合(現役徴集率)は、日露戦争後の1911年で20.0%、軍縮期の1929年で15.4%、1936年で18.2%と、終始10数%〜20%で推移している。
現役徴集率が90%近くに達したのはWWU末期のみ。(吉田裕 『日本の軍隊』 岩波書店)
恣意的な用語の用い方からみて、正しい情報の中に(本来の意味での)確信犯的に嘘を紛れ込ませたのではないかと妄想を膨らませてみる(苦笑
>484
日本陸軍(海軍は含まず)の動員兵力は1088996人。出征兵力は945394人。死者は82252人、入院傷病者は390620人。(大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』)
>483
>あと左翼右翼どちらもいえることだが天皇を過大に評価している。軍国日本のイメージだろうがそれは戦後教育の捏造
これは違う。474的な思想教育は確かにあった。
糺し昭和初期の数年間に過ぎず、戦前の義務教育・軍人教育すべてが天皇制護持を主眼にしていたわけではない。
明治時代の天皇の位置づけに関しては483は正しく474は間違っている。
日露戦後、東京近郊在住の農夫が東郷大将を知っていたのに明治天皇が崩御したことを知らなかったり(岩波講座日本歴史)、出征する兵士が「(封建制時代の)殿様のために戦う」と当時の新聞にコメントを載せるほど天皇の影は薄い。
一橋大学の研究者によると、日清・日露の時代に出された詔勅は個人の武功を嘉すことによって高位の存在として政府と天皇を位置させており、詔勅の中で天皇が広く国民全般の上位として位置づけられるのは大正以降であるとしている。
>軍人勅諭
司馬遼太郎が軍隊時代を回想して「自分の知る限り隊内において、今上天皇を現人神と信じていたり、戦陣訓や軍人勅諭をありがたがっている者はいなかった」としているが、インテリ層全般にこれはいえることである。
474の発想は、16世紀に刀狩が行われたから農村から武器は一掃された的な考え方であり、あまりにも民衆を馬鹿にしている。
他者から何かを強要されたからといって従来とは全く異なるルールや思想を杓子定規に受け取るほど民衆は愚かではない。
>主権在民
自分が何を書いているのかを認識せず、こういう用語を文意を無視して用いたがるのはおそらく高校生だろう。
結局のところ447は自らの論を開示しているかのように装ってはいるが実のところ書籍か近親者か教師の受け売りを代書しているにすぎない。
一行目で馬脚を表しているのがなんとも失笑を禁じ得ない。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/14(土) 02:11:06 ID:dV0otIeY0
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/14(土) 03:45:34 ID:J8FlNhZ0O
491は独善的だがそれほど変ではないが
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/17(火) 07:06:34 ID:Gk0KHU7V0
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/17(火) 18:17:08 ID:Ft79pB+r0
492は何と闘ってるんだ?
>顔真っ赤にしてムキになったら負けだよ
>>497 ID:Vi3lZF010 がアホみたいにムキになってるから言ってるんじゃないのw
499 :
331:2009/02/21(土) 22:40:58 ID:2s1qu7Ja0
ネタ切れのようなので「八甲田山2009雪中行軍写真集」に若干コンテンツを追加しました。
写真と動画です。
写真集の最後の方に☆印がついているものです。
写真は、幸畑資料館の資料(テキスト)です。
動画は2本。大峠と後藤伍長発見の地の光景です。
たいして面白い景色ではありませんが、
伍長発見の地の方は厳冬期、通行止め期間の小峠〜銅像茶屋間としては
どちらから行っても、最深部なので行き難さからすると希少かもしれません。
>>499 素晴らしい写真をありがとう!
2ちゃんねるのミスター八甲田山ですね
じっくり見せさせてもらいますです
一つ疑問に感じたのですが資料館の資料の下に載ってる外国語の表示がどうしてハングルなんでしょ?
普通は英語が多いはずですし、人口では中国が多いはずだし
なぜハングル文字のみの解説なのでしょ?資料館は韓国からの観光客が特に多いのかな?
502 :
331:2009/02/21(土) 23:30:24 ID:2s1qu7Ja0
他の展示物も英語表記でなくハングルでした。
青森には三沢基地関連で米人もいるのだし、
豪州人のスキーヤーもいそうだし
まず英語だと思うんですがね・・・・
青森空港にはソウルから直行便が来てるからね。
以前はウラジオストクからも来てた気もするが、たしか無くなった。
504 :
218:2009/02/22(日) 19:18:24 ID:QOVYMCTxO
いい雪が降った上に天気も悪くなさそうだな。そろそろ行ってくるか
>>504 行く前に色々どう現地で動くか教えてね
先に行った人いるからアドバイスもらえるかも?
それが
>>504を見た最後だった…
てなことにならないように中尉しろよ
銅像茶屋っていつから開くんだろ?
あそこが開いてれば途中で気象が悪化しても逃げ込めるんだが・・・
あそこ、HP作ったらいいのにね
雪中行軍系の資料とか通販で売ってくれたりね
508 :
218:2009/02/23(月) 09:52:01 ID:JlEQxsPdO
現在銅像茶屋これより突入す
510 :
218:2009/02/23(月) 11:20:13 ID:JlEQxsPdO
後藤伍長発見地に到着せりこれより引き返す
511 :
218:2009/02/23(月) 13:31:12 ID:JlEQxsPdO
馬立場銅像に帰着せり本日好天雪質良好歩行快調周囲静寂景色雄大真にハイキング気分にて痛快の極みなり
>>218 生還おめ、周囲静寂の空気嫁。
ところで、現八甲田街道は藁の雪沓とカンジキでなんとかなるレベルなの?
疑問なんだけど銅像茶屋とか後藤伍長発見地までの間って携帯通じるの???
携帯から書き込んでるみたいなんだけど・・・
前にドコモのサイトからその辺調べたら田茂木野の少し先から田代あたりは携帯のエリア外だったようなんだけど
AUなんでなおさら諦めてたけどなんとか通じたぜ
予定より早く戻ってこれたんで第一〜第二露営地間の魔の台地状エリアも歩いてみた
佐藤特務曹長のブナはどれかなと探してみたり
>>514 賽の河原あたりはどんな感じでしたか?
今回は写真撮影とかされましたか?見てみたいです
517 :
218:2009/02/24(火) 00:31:34 ID:JUTSTNAg0
>>515 知るか。AUに聞いてくれ。
>>516 賽の河原は一面カラマツ植林と化していてのっぺりした地形だった。
名前の由来とかを感じさせるような痕跡などなくなんとも変哲のない場所。
写真は天気がいいから綺麗にとれたよ。ここでは後発になったので存在意義がないから、
自分のチラシの裏を作ってあるからそっちで勝手にまとめていくことにした。
興味のある人は八甲田山雪中行軍の道を行ってみるで検索して見てくれたらいいよ。
518 :
331:2009/02/24(火) 00:35:32 ID:IuYhoMpj0
積雪どうでした?ラッセルありましたか?
サイト期待してます!
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/24(火) 01:15:20 ID:vzdW29xF0
これからも雪の八甲田山チャレンジャーが出そうなヨカーン
行く奴は十分気ぃつけてな。雪山はコワヒ
銅像茶屋付近で携帯使った人他にもいますか?
どの携帯キャリアのエリア表見ても圏外なんだよね
あのルートで携帯使えるか使えないかは安全面でかなり違うからね
場所や角度によって使える地帯とかあるのかな?
しかし、次に挑戦した人も途中折り返しを選択したんだね・・・
小峠から田代まで一直線で突っ切る人はこのスレが続く限り現れるのだろうか?
523 :
今帰りの車内:2009/02/24(火) 20:26:43 ID:k18jI8mpO
>>518 累計は平均1〜2m、吹き溜まりで最高4mくらいだったけど、直前の寒波で新雪が60cmほど積もっていて道は完全バージン状態だったよ。気温もまだマイナスだったのでパウダーを保っててラッセルはそんなきつくなかった。
524 :
331:2009/02/24(火) 21:21:03 ID:IuYhoMpj0
>>523 もう史実みたいに首までつかるようなラッセルは、温暖化時代にはなさそうだね。
しかし鳴沢〜馬立場間の狭く変化のあるあの地形で丸一日彷徨するかな?
沢に入らず上へ上へ高い方に進めば自然と馬立場方面に行くような気がしたんだけど。
明治時代と今の時代では日本の平均気温違うのかな?
100年あたり1.11℃の割合で上昇ぐらいだね
やはりあの事件の日が異常だっただけかも
運が悪いね・・・
出発が一日遅れてたら小峠から帰営してただろうし
一日早かったら普通に田代温泉に着けてた可能性が高いし
>>527 運が良かったら軍機の名の下に殆ど誰も知らない事実になってた訳で
関係ない話だが、ヤフーでテポドン青森太平洋方面に爆発準備だと。
間違って青森に落ちたらと考えたが、八甲田山は霊山だから大丈夫だよな
携帯から失礼
>>529 無人地帯だったら、落ちたなら落ちたで、
「ナメとんのかワレ」出来るから無問題。
>>529 日本側も撃ち返してやったらいいのに
公海上なら問題なしっていう向こうの主張なら
こっちもやっても向こうは何にも言えないだろうし
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/26(木) 22:47:06 ID:RC+ajKk00
>こっちもやっても向こうは何にも言えないだろうし
・・・・・・・・本当にそう思うか?
>>532 言えば言い返せばいいし
どうして日本はこんな弱気なんだろうね
経済援助なんかする必要ないのにね
引っ越してきたココは軍板じゃねえんだぞ
自重しろ
>529
因みに
第一撃で三沢を潰すために青森方面を狙っている。
対抗して、車力にレーダーサイト設置したり
パトリオットが三沢に配備されてたりするが。
ま、三沢の35FSはおととい韓国に移動しちゃってるケド。
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/27(金) 20:55:52 ID:oSQKKox80
竹島に打ち込んで木っ端微塵にしたら3者の問題はなくなると思います。
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/01(日) 02:03:13 ID:fO3xmndY0
やりっ!
人工衛星を持たない北朝鮮のテポドンが目標に命中する確立は
ウンコ。
>>536 なぜかK国から謝罪と賠償を求められるという斜め上のヨカーン
雪が無くなる前に小峠から田代まで踏破する剛の者はいませんか?
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/01(日) 20:08:15 ID:3JVvt3dPO
青
森
湾
だ
ぁ
!
>>541 その後も彷徨してハバコ沢に迷う山口少佐達。
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/19(木) 20:28:00 ID:bwx97YUO0
アゲ
>>543 久しぶりだな
そろそろ雪も無くなるし
誰か田茂木野から田代までイッキ踏破やる勇者はいないものかな
雪の規制がなくなれば車が通るから危ないしな、あそこ
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/23(月) 02:23:33 ID:kj8QeJnN0
吾はここに死せん
もう道路開通してるの?雪溶けて
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/29(日) 12:31:50 ID:FZl/CQyk0
救助体制 : 以下に記載
将兵延べ 6900人 人夫延べ 741376人 馬橇延べ 1948台 馬車延べ 561台
5月28日 最後の遺体が発見され捜索活動は終わるが装備品捜索は続けられた。
6月20日 銃2挺・銃剣8挺は未発見のまま捜索活動は完了する。
死者 199名というこの演習遭難事件において津川連隊長の
進退伺いに対する処分は 全ての遺体収容の後 6月23日に下される
訓導の道を失ふ科
軽謹慎七日
以上が八甲田雪中行軍の顛末である。
未発見の銃二丁は弘前隊が回収してたんじゃなかったっけ?
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/30(月) 20:18:05 ID:5sGG6t0t0
三上少尉殿、おめでとう御座います。
陸軍少尉から千葉県知事か・・・すごいな
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/30(月) 21:53:08 ID:0xlm9vT8O
倉石一大尉のゴム長靴のその後は?
あんなホームセンターで数千円も出せば買えるようなもので命が助かるとは・・・
当時のゴム製品の程度ってどのぐらいだったんだろうな。
天然ゴムに加硫法で強化する方法は既に発明されていたが、カーボンブラックや加硫促進剤の発明はまだだった。
今と比較してどの程度のモンだったんだろうね。
554 :
sage:2009/03/31(火) 01:01:24 ID:o6UXxZdzO
あのゴム長で凍傷にならず生き延びる事が出来た訳だから資料価値としては高いはず。
雪中行軍遭難資料館とか銅像茶屋の鹿鳴庵とかに展示されてないのかな?
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/01(水) 22:12:31 ID:gYQBQ62I0
>>553 1839年 (天保10年)加硫ゴムの発見:米国 グッドイヤーによる
1843年 (天保14年)英国人ハンコックが天然ゴム加工品の種々の加硫法を開発
1888年 (明治21年)空気入り自転車タイヤの実用化:ダンロップによる
1895年 (明治28年)空気入り自動車タイヤの実用化:ミシュランによる
1896年 (明治29年)日本初の二輪自動車試走 : 1月19日
1898年 (明治31年)日本発の四輪自動車試走 : 2月7日
舶来品、国産品はともかく強度は自動車のタイヤとして成立するレベル
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/17(金) 18:09:35 ID:0/bpcEHH0
三上少尉は告発された
557 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/17(金) 19:28:39 ID:xpb9Opa60
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/18(土) 20:04:28 ID:qw6M1qPt0
神成 文吉
1869年5月6日(明治2年3月25日)生
1902(明治35)年1月27日没
秋田県北秋田郡鷹巣村出身
日本陸軍軍人
秋田県平民
妻、ミヨ
養女、セツ 長女、キクヱ 長男、久夫
1886(明治19)年12月1日 陸軍教導団(千葉県国府台)歩兵科生徒
1888(明治21)年5月 二等軍曹 歩兵第五聯隊(青森)第八中隊附
以降、清・台湾出征時代を除いて五聯隊
1889(明治22)年12月 一等軍曹に昇進
1892(明治25)年10月 曹長に昇進
1894(明治27)年10月 特務曹長に昇進
日清戦争に従軍
1894(明治27)年10月28日 青森発 11月1日 広島着
1895(明治28)年1月10日 宇品港発
威海衛での戦闘後、8月中頃まで遼東半島守備
4月1日 少尉に昇進
7月22日〜8月14日 一等症で入院
8月18日頃 反乱征伐の為台湾へ出征
11月 青森へ帰還
1897(明治30)年10月 中尉に昇進
1898(明治31)年1月31日 結婚
1898(明治31)年3月1日〜7月30日 戸山学校入校(戦術科)
1901(明治34)年5月 第五中隊長 大尉
1902(明治35)年1月27日 八甲田雪中行軍で死亡(八甲田山遭難事件)
法名、義昭院大忠賢尉居士
埋め
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/04(月) 03:49:14 ID:bG3zXdHe0
旅行で八甲田山に行ったよ
レンタカーを借りて青森空港からいざ!八甲田へ
初めての土地でもナビがあれば迷う事もない
100年前にナビがあれば遭難しなくて済んだのに・・・・・
>>560 ナビまでいかなくても本部と交信できる携帯無線機あったらなあ・・・
例の小峠の会議でも本部に指示仰げるのに
本部なら詳しい天候とか問い合わせて帰営命令出した可能性高いだろうし
当時の天気予報ってどういう伝わり方だったの?ラジオ放送なんて無いでしょ?
各駐屯地が気圧計と温度計で測ったデータを陸軍中央に・・・みたいな流れかな
>>562 小説の中で永野軍医が「昨日測候所を訪れここ数日の天気を聞いたところ―」と
発言した部分を見ると天気のことは別の機関が担当してるようだ。
>>563 それ、新田次郎の専門分野だから。
中央気象台所属、無線電信講習所卒。
いや、知らなかったw
つーと、気象台が駐屯地に電話なり電報なりで教えてくれるのかな
>>566 新田次郎の小説では青森5連隊と弘前31連隊間の接触が描かれているが、
史実では神成大尉と福島大尉が意見交換した記事は無い。
また、神成大尉は教導団出身、福島大尉は士族という表現も創作で
二人は供に教導団出身の身分。
それはさて置き、永井源吾三等軍医が青森測候所を訪れ・・・うんぬんは
なにはともあれ創作臭い。
水銀注で得る気圧配置と温度計で得る情報だけで、果たして大暴風雪予見は可能なのかどうか?
またこれは、気象の激変の前例や過去の記録から判断するほかないが、測候所の運用年数もまだ浅く
完璧な気象予報が得られたとは思えないんだよな。
しかも、訓練が秘匿されたものだとしたら、問い合わせなどしないだろうし。
まあ、書かなくてもみんな知ってるだろうけどw
さっきNHKで「冬の富士山」の番組をやっていた
こっちは風があるから同じではないだろうが
夏は完全に観光地と化すような山でも
冬は豹変すると言うことを実感できた
>>570 映画の中でも高倉健が春と冬の十和田湖を見てるシーンが怖かったね
天国と地獄みたいで
あ、もしかして夏かも
暖かそうで
映画で思い出したが「私をスキーに連れてって」みたいなナンパ映画ですら
冬山の怖さを説いていたな(まあスキーがテーマだから当然かもしれんが)
「志賀ー万座直線2km」について宿の親父が
「良いコースだが冬滑るのは自殺行為」と断っている
こっちはナンパ映画だからなんとかクリアできたが
それでも「滑る」と言うより「方向を定めて落ちる」
と言う感じのシーンが多かった
今度大阪の天保山に登ります。案内人は付けたほうがいいですか?
貴様案内料が欲しくてそんなことを言っているのだろう!!
>>574 遭難したら救助に行ってやんよ!
収容先はキタの看護婦さんがいる所でいいか?
もちろん救出費用は要救助者持ちって事でヨロシク!
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 21:41:38 ID:/ISadvAW0
アゲ
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/23(土) 21:01:26 ID:7b412hNr0
これ、いつの時代の話?
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 17:47:00 ID:+fFZ38IU0
その後、日露戦争で唯一のロシアからの攻勢といわれる
黒溝台会戦でぼこられんだよな
>>581 最低気温6度あったから助かったんだね
氷点下以下なら助かってなかっただろうね
山の要所要所には緊急通報電話とかつければいいのにね
下まで降りなきゃ電話がないっていうのも・・・
>>582 多分雪に埋もれて使えないと思う
埋もれていなかったら使う必要もないと思う
失礼します。
当方、八甲田山については門外漢であり、今後とも門外漢であり続ける人間です。
しかし、このたび社員教育の研修にて出された課題図書のひとつが「八甲田山死の彷徨」でした。
課題図書となった目的は簡単におわかりになると思います。
しかし、実際のところは、
弘前は3年もかけた計画であり、青森と準備その他比較してリーダーの資質その他を評するのは、不適切。
弘前の少数精鋭の編成に対し青森の大部隊になったことを山口少佐の干渉のせいとしているが、
そもそもが青森側の計画自体が、部隊の移動の可否であるから、大部隊になるのは当然。
遭難原因の基本はやはり天候にあった。
などなどで、この本をそのままリーダーシップと組織のありかたの題材にするなど、
死者に対する誹謗中傷だぜ、ゴラァ!
ということでよろしいでしょうか?
なお、山田少佐と神成大尉の確執というかについては、なかった、ということでOKでしょうか。
山田少佐が指揮について口出ししたことが、遭難に結びついたという点は、
自衛隊の発行した記録にもある様ですが、そこのところはどうなのでしょうか。
本当に指揮権の乱れにつながっていたのでしょうか。
また、青森は神成大尉が2週間前に担当替えになったばかりだったわけですが、
それまでの準備はなされていたのか、どうだったのでしょう。
>>585 「天候のせい」にしちゃうことのほうが誹謗中傷じゃあねえの?
>>585 「八甲田山死の彷徨」を“課題図書”としたと言うことは
「事実」ではなく「ストーリー展開」を“課題”としたと言うことでしょう
まずは一通り読んでからでは?
>>589 雪にない季節に遭難しないだろ、アホか?
去年の夏に遭難した米軍属がいたが。
探したらあった。
1 :釣りチルドレン17号(080731)φ ★:2008/06/30(月) 22:41:15 ID:???
青森市の八甲田山系に登ったまま行方が分からなくなっていた米軍三沢基地(青森県三沢市)
軍属のジェームズ・エヌ・リードさん(37)は30日夕、青森市駒込南駒込山の民宿付近まで自力で下山し、
青森署などの捜索隊に保護された。疲れているが、けがはないという。
同署によると、リードさんは午後5時半ごろ、下山し、公衆電話で妻の勤務先に連絡した。
登山の途中にコースを外れ、夜は岩陰でビバークするなどして過ごしたという。
リードさんは29日朝「午後8時ごろまでには帰る」と話して出発したが、帰宅しないため家族が通報した。
日刊スポーツ:2008年6月30日21時51分
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080630-378283.html
593 :
585:2009/05/30(土) 12:50:54 ID:ZRBcXINn0
>>587 読んではあります。
その上で、山田少佐と神成大尉の指揮系統の乱れの本当のところはどうだったか、などを
知りたく思いました。
多分課題図書に指定した人物は、大多数の人がそうであるように
この本に書かれていることを真実と思い、それゆえ課題図書にしたかと思います。
ある本では山田少佐が本当の指揮官で神成大尉は部下に過ぎなかった、としているようですが
さすがにそれはないと思うのですが。
>593
俺なら「事実はどうだったか」じゃなくて
「出題者はどのような解答を期待しているか」を考えてレポート書くけどね
歴史学の授業の課題じゃないんだし
>>593 だから「真実かどうか」は関係ないでしょう
「社員研修の課題」なんだから出題者は
「自分の身に置き換えて」どう対処するかを
知りたいのでは
>>590-592 まあ夏場の遭難ならよほどの大怪我でもない限り
一刻を争うと言うことはないからな
>>581のニュースにしても最低気温こそそこそこ高かったが
まだ雪に埋もれているというところが問題だったわけで
>>595 アホな上司に付き合って遭難死するのはまっぴらだから
体力が残ってるうちに隊を離れて自分が思う方向に行く
現代に置き換えれば、アホな会社に最後まで付き合って倒産するより
希望退職で多めの退職金もらって潰れる前に競合他社に良い条件で転職する
これ、最強なり
>>597 どちらかと言うと自分がその「アホな上司」になった場合どうするか、
を聞かれていると思う
もっと言えば
「本来部外者の癖に上司面するえらいさん」と
「自分の管理能力を超えた大人数の部下」の間にはさまった
中間管理職としてどうしたら良いか、だな
>>602 「それ以前の問題」と言うことを言いたかった
冬の八甲田での遭難は一刻を争うが
夏は遭難したとしてもたいしたことはない
つまり遭難しようがしまいがどっちでも良い
・・・・・。
あんな理由で実行の2週間前に担当を変えるなんて、PKO派遣のJ隊だってしないよ、
日本陸軍てorz。
と、思っていたが、最近、むしろそれだけ大変なことではないと考えていたんだな、と思えてきたよ。
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/14(日) 00:08:33 ID:YVPDd1u/0
映画にも小説にもあったけど、「あまりの寒さに気が狂って、いきなり軍服を脱いで裸になって死ぬ」
みたいな場面があったけど、これ、気が狂ったんじゃなくて凍死の前、体温が下がるため相対的に外気が暑くてたまらなくなり全裸になることがあるらしい
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 03:15:12 ID:2lXzFxjM0
>>501 韓国陸軍では冬季訓練の前に八甲田山を必ず見せるそうです。
そして映画終了後、教官が「ただいまより冬季訓練を開始する。各員防寒装備で中庭に集合」
と命令を出すと、みんな黙々と靴に唐辛子を入れたり、体に新聞紙を巻いて準備するそうです。
609 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 21:41:54 ID:vf3DZ/1jO
八甲田山の悲劇の原因にその後の関東軍の暴走や
作戦参謀達の横暴に
繋がるものを感じるのは
俺だけか。
>>609 合理的な考えに欠けてるんだよね
特に陸軍は
空軍や海軍は機械相手の部分があるから
精神論だけでは墜落や沈没になるからね
あと、赤紙一つでいくらでも連れてこれる人間と違って
飛行機や船は高いからね
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/20(土) 10:53:24 ID:OrzuyR3O0
>>610 アイヌの犬ぞりの研究をすればよかったのにな。
612 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/20(土) 23:51:03 ID:JBg4YHnHO
小人が人の上に立つと
悲劇が起きる
>>612 小峠の会議のときに下士官見習い連中が何を言おうが訓練で兵卒の命を無駄に失うわけにいかないと
帰営の決断下させる上官がいたらこんな事件は起こってなかったんだけどね
合理的だが慎重な意見は
非合理的で威勢のいい暴論には勝てない
まあ太平洋戦争前夜もそんな感じだったしね
良くも悪くも日本の組織の縮図というか宿病というか
615 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/24(水) 12:28:21 ID:HB0xFs0/0
武蔵野東中学校平成13年度卒業生で史上最悪の不良問題児だった田中一成(たなかいっせい)は夜中の八甲田山に行って行軍の足音を聞いて、
兵隊の霊に顔をずっと覗き込まれて毎日夜中にうなされて最後は恐怖のあまり白髪になって精神が狂って精神病院に逝ってよし。
もしくは真夜中田中一成(たなかいっせい)は一人で銅像の前に車を止めて駐車場でくつろいでいるときに何十人の兵隊の霊が車の窓から覗き込まれて、最後は恐怖のあまり心臓発作を起こして逝ってよし。
あいつは自閉症児をバカにして苛めていたからな、武蔵野東中学校史上最悪の不良問題児で高校も喫煙で退学になったほど相当のワルだったからな。
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/24(水) 23:29:52 ID:6b4JM3a70
無能なボンクラ国賊山口少佐の子孫てどこで生き恥晒してんの?
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 02:30:08 ID:3RXmnE2H0
>>617 山口少佐に責任はあっても子孫に責任は無いだろ。
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/04(土) 06:32:45 ID:7XB6y9C30
>>614 >合理的だが慎重な意見は
>非合理的で威勢のいい暴論には勝てない
2chでの論議そのものじゃないかw
>>620 論議以前の野次馬や
かまってちゃんも含み済み、それが2chクオリティww
2chレベルで部隊指揮してたらそりゃ全滅するわw
なんであんな危険なルートなのに安全な夏にでも途中に大きめの避難小屋とかでも作っておかないの?
冬は誰も通らないから
>>624 対ロシア戦を想定するなら前の年から準備しておくべき
>>625 冬季行軍ができるか?の試験だからやってないのさ
>>626 途中で気象がおかしくなって部隊が立ち往生したらどうするかとか考えてないしね
普通は行程をショートカットできる道とか途中に盛り込んでやるはずだけどそういうのも杜撰だし
628 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/10(金) 22:26:57 ID:kY7YVnzd0
>>623 指揮官の山口中佐が青森5連隊に着任したのが明治34年2月
この遭難事件発生が翌年の明治35年1月だから準備もなにもないだろう。
着任11ヶ月で避難小屋想定は疑問。
利用可能な小屋は点在していただろうが、あの日の気候は最悪。
なんでわざわざ雪中行軍の日にあんな数十年に一度の酷い気候になったのだろうか
運命としか言えないよね
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/11(土) 05:07:53 ID:5z7rsN7Q0
運命だろうね
あの日、あの事件が起きる事は避けられなかった、
気象観測所の観測結果が誰にでも共有出来る時代でもなかったし、
後出しだがこの事件の2年後には日本は日露戦争に突入している、
雪中での物資輸送とか兵の運用に関して随分急いでいたというか、無茶をしてただろう。
事件当時の八甲田山麓の気温の記録はないが、ふもとの青森市の1月24日の最低気温は-12.3℃
最大風速は14.3メートル 、標高差のある遭難現場の気温はもっと低く凄まじかっただろうし
風速も平地の値より強烈だったはずなんだ
そして冬は年に1度しか来ないし、現在の自衛隊の雪中行軍も積雪は2mを超えてから実施される
困難な状況下での演習が良しとされる風潮。
しかも当時の装備は外套の襟の部分は毛皮だけど他は木綿やウールの衣服で靴に至っては革の靴
地下足袋に油紙を巻いて藁の靴をはいた人もいるらしいけど、とても雪山に臨む装備ではない。
この状況で生存者がいた事自体がすごい。
運命といえば神田大尉のモデルが雪中行軍に入ることになったのも
前任の大尉が奥さんが身ごもって抜けたためだしな
その大尉は自分の子供のお陰で命が助かったことになる
逆に言えば神田大尉のモデルの人もそんな事がなければ助かってたのにね
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/11(土) 13:11:57 ID:GOdpzFMP0
>前任の大尉が奥さんが身ごもって抜けたためだしな
そうだったん?しかし日露戦争まで秒読み段階、聯隊の威信をかけた行軍で
良くそんな理由で抜けられたな〜
そういや神成大尉は当時3人の子持ち、福島大尉は独身だったっけ。
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/12(日) 10:32:23 ID:0AK3IwPZ0
検索してて興味を持ってこの事件を調べてみたが
一日目の野営地から元来た道を戻ろうとしたが迷走してしまい遭難したんだよな。
そのまま先を進んでも結果は大同小異だったのかな?
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/12(日) 11:29:07 ID:MN8fDpCM0
こうゆうのは登山とかを知っている者じゃないとわからんだろ。
山の恐さはわからんものには無理。
普段日常の場がいかに人が死なないように整備されているかがわかる。
この問題の論点は、
日本には日本の自然への対処の知恵の蓄積が当然存在しただろうに、
西洋式で鳴らして実力を付けていくうちに、
全て初ものに戻ってしまったことが要因。そして力づくで乗り切ろうとした。
当時の時代自体にそうゆう風潮があったのだろう、という教訓ととれる事件。
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/12(日) 11:35:47 ID:0AK3IwPZ0
あとなんで深夜に行動するのやら。夜が明けるまで待てなかったのか?
初日は、不完全だったけど雪洞も作り、食べ物も支給されたんだよな。
火であぶれば、凍ったおにぎりも食べられるようになっただろう。
冷静に夜明けを待っていれば、確かに多くの人が助かったかも…。
でも、そうなると日露戦争での凍死者が増えそうな気がする。
塞翁が馬か。
>>633 先に進めばよかったね
露営してる間は磁石使えたから田代への方向はわかってたんだし
もしくはそのまま朝まで露営するしかなかった
あれだけの長距離を夜中に戻ろうとしたのがダメすぎる
先週、今ロードショーしてる剣岳点の記っていう映画見てきたけど
八甲田山の映画と雰囲気似てるよ、ぜひ見ることをオススメするよ
同じ明治時代後期で最初に対ロシア戦を備えていう作戦会議みたいな場面から始まるのも
ライバルがいて先に目的地に到着しなきゃいけないスピード勝負になってる点も似てる
八甲田山と違うのが主人公の隊が山の案内人とかなり良い関係になってたってことだね
雪の中で迷って帰り道がわからなくなるシーンがあったけどあくまで案内人を信じたおかげで助かるんだよね
かなり八甲田山を意識した映画だから見たらいいかも、名作だと思う
>>638 >八甲田山の映画と雰囲気似てるよ、ぜひ見ることをオススメするよ
…似てるもなにも。『八甲田山』のキャメラマンだった木村大作が監督やってるんだぜ
似ないわけがない
>>637 方向だけわかっても、そこは平野地区じゃなくて、ほんの少しルートを間違っても迷う地区なのだから
引き返した方が良かったと思うな。
>>640 距離考えたら前に進むしかなかったのでは?
もう数百メートル先に目的地あったのに
で、実際「道を知っている」という人について行って、とんでもない目にあったわけで…。
せめて、元気な兵士を斥候に出すべきだったよな。
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/12(日) 22:35:58 ID:0AK3IwPZ0
>>644 一日目に昼飯抜き(おにぎり凍結)夕飯抜き(雪の中で飯炊けず)
これが一番体力失う元になったんだろうね
寒さももちろんあるけど、腹減ると気力も無くなるし
まだ、現地で炊飯ができないことも想定して乾パンとか氷砂糖とか豆類とかすぐ食べられる物を携帯してれば
状況は少しは変わったかもしれません
冬山に行く人はチョコレートとかカロリーメイトとか必携だね
夏に現地に行ったことがある者から言わせてもらえば
「なんでこんなところで迷ったんだ?」
つまり冬の八甲田山は夏の様子からは想像も出来ないほど
様子が変わると言うことだ。
冬山は怖いと言うのは方々で聞くしな。
富士山頂の測候所が現役だった頃も
夏なら半日で登れるところが
冬は場合によっては1週間かかったなんて話もある。
>>646 橇に飯炊き用の釜を積んでたこといい、雪山で米を炊くって発想がアホすぎる。
太平洋戦争でも南方に米持って行って米俵のまま腐らしたりしてるよな。
米を炊くには新鮮な水と強力な燃料が必要で普通に考えて前線の兵士に持たせるには失格と思うのだが。
>>647 いきなり調査もせずにあれだけの大人数でいきなり雪中行軍したのが失敗の原因の一つ
まず本格的に雪が積もる前に10人以下の少人数で目的地まで歩いてみて
雪が降っても上部に露出してるような高い木の上にでも目立つような布を結びつけるとか
木肌を剥がして矢印を書くとか以後の行軍のときに備えて目印作っておかなきゃ
あと先に途中の何カ所かにスコップとか炭とか当日は重くて持ちにくい物をあらかじめ
埋めておくとか
で、当日は荷物軽めにして身軽に動けるようにするとか
そこらの事前の用意が完全に抜け落ちていたんだろうね
>>648 そう、そこらの現地ではどうなのとかの想像力が欠けてるんだよね
雪が積もったらどう炊飯するかとか事前に試してなかったのかも
いきなり現地で全部の事をやろうとするから時間が足りなくなるし荷物も増えて
身動きが取れなくなる
651 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/13(月) 19:11:31 ID:n7Tb/bS4O
弘前の部隊はどうやって、飯作ってたんだろ?
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/13(月) 20:21:06 ID:CqcqDmMk0
民泊だったのでお米と缶詰を宿泊先の民間人に渡して炊事と
昼飯用のお弁当作りをお願いした。
油紙とか唐辛子とかは行く先々の町で買ったようだ。
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/13(月) 22:04:49 ID:pC7DPs660
俺は完全なヌードよりも
着衣してる方が興奮する。
矛盾着衣ってやつだ
弘前隊は28日には青森隊が遭難している現場を通過しているんだよな。
猛吹雪だったのによく通過できたな。
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/13(月) 23:09:22 ID:opa3iIEu0
通過して田茂木野に到達してなきゃ弘前31連隊も全滅
7人のマタギを案内人に全員各々麻縄で結わえての雪中行軍だった。
青森5連隊の小銃2丁を持ち帰ったという話があるとかないとか。
>>654 一番天気が悪かったのは24日夕方から−25日にかけてだから
28日にはもうある程度回復してたんじゃない?
>>656 後知恵とはいえ、天候の件、24日の迷走の件、24日と25日の深夜から行動開始の件といい
この時の行動しだいでは犠牲者を減らせていただろうに。
なお弘前隊は27日夜を田代元湯で露営しているけど最後の依存者となった村松伍長と遭遇しなかったのかな。
>>658 一日目の深夜の露営時は半分パニックになって正しい判断下さなかったんじゃないかな
どう考えても視界が無い深夜にかなり距離がある元来た道を引き返すなんて自殺行為だし
村松伍長は田代近辺までは行ってるけど目的地には着いてないので弘前隊とは会ってないですね
たぶん、道じゃないとこから田代を目指してたから道沿いに行動してる弘前隊とは歩く場所が違うから
お互いが見えないんでしょうね
>>649,
>>650 基本的に「兵隊には米を食わせないと文句が出る」がある。
後に脚気予防の為に麦飯を出したら大不評だったしな。
当時の兵隊は「軍隊に入れば米が食える」ことを
期待していた連中ばかりだ。
海軍で食事と脚気の関係を調べるために1ヶ月西洋料理ばかり
食わされた兵隊は米の飯ばかりだった連中を
「うらやましがった」そうだぞ。
>>658 弘前隊は田代元湯で露営しとらん。同じ「田代」という地域ではあるが、想像してみ。
ズバリ同じ温泉小屋で遭遇でもしない限り、一方は動けず声も出せぬ瀕死の人間、
他方は風雪を凌ぐ準備で手一杯の連中が真っ暗闇の中での奮戦、こんな状況では
仮に数十mしか離れてなかったとしても互いの存在などわかろうはずがない。
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/16(木) 09:00:50 ID:PBGgM07x0
>>649 事前にスコップとか炭を埋めるも何も、
1月18日の予行行軍では物資を載せた橇を曳いて行って(総重量112s)
小峠(標高390メートル)でそのまま引き返しているし、目印の竹竿などの設営も無い。
この事件後そういう発想が初めて生まれたような気がする。
ただし橇の重さには後に変更があった
予行行軍時112s 本行軍時 80s
神成大尉は色々工夫はしていたのだと思う、残念だ。
>>660 ガダルカナルの1日の兵1人への支給米100g
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/18(土) 22:46:36 ID:z7xeNwfu0
この事故を題材にした新田次郎の小説ってかなり問題があるのでは?
事実を題材にしたフィクションてことになってるけど、読むほうはどこが事実でどこが創作か
わからないし、ほとんど事実と信じてる人も多い。。
神成→神田とか山口→山田とか、モデルを容易に特定できるのが特に問題で、山口少佐のことを
どうしようもないクズと信じてる人が少なからずいる。
そうかと言って、まともに反論しようとしても「これはフィクションだから」と逃げられてします。
フィクションにするなら、モデルが特定されないように配慮すべきだった。
666 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/19(日) 00:23:16 ID:QeACyj9c0
>モデルが特定されないように配慮すべきだった。
無茶言うな
これだけの、それこそ世界有数の山岳の大規模遭難事件で、しかも公式記録も残ってる事件で
モデルを特定されないように小説を、なんつーのは不可能だろ!!
モデルが判らんようにしたらそれこそ元の話が跡形も無くなって八甲田山を題材にする意味が無い
名前を変えるのはある意味一番判りやすい「フィクション」である事の表現だろ・・・・・
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/19(日) 07:44:33 ID:AFEXxo2L0
>>666 話を盛り上げるために、ある人は善玉に、ある人は悪玉に仕立ててるのが問題なんですよ。
悪玉にされた人の人権はどうなるの?
遺族が反論しようとしても、「これはフィクションだから・・・」で逃げられてしまう。
作者は事実と異なる設定をいくつも創作してるのだから、モデルを特定できないようにしても特に問題はないと思いますが?
おそらく作者はノンフィクションのような印象を与えることで、読者をより感情移入させようと意図してるのでしょう。
>名前を変えるのはある意味一番判りやすい「フィクション」である事の表現だろ・・・・・
似ても似つかない名前に変えないと意味がありませんね。
というか、一字変えただけでは逆に「小説なので一応名前は変えてあるけど事実に基づいてる」
という誤った印象を読者に与えます。
吉良上野介を陰険なジジイだと本気で信じてる人がたくさんいるのと同じことです。
最近だと山崎豊子のJALの小説がありましたね。
こちらはモデルになった人が存命なので抗議されてましたが。
司馬遼を全否定するような事言うなよw
吉良上野介は、実は実際結構陰険で、うちらの殿様を悪く言うなってな精神から地元が擁護してるだけって話もあるな。
>>669 吉良の息子が養子に行った上杉家には吉良上野介が色々おねだり?した品の
リストが残ってて実際吉良家の買掛金だの普請だのは上杉家が出してたそうだ
養子以外の上杉家の人間と家臣は迷惑していたって話も聞いたなそういや。
実際上杉家の出納帳には「上野介殿江」なんつー項目が残っているそうだ
確かに「普通の」人のすることではないわなぁ・・・・・。
>>670 そのあたりはなあ・・・
そう言うことをやってたのが吉良だけなのか?と言う疑問もある。
賄賂やつけとどけは当時一般的な風習で田舎者の浅野が知らなかっただけ、
てな話もあるし。
672 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/19(日) 12:05:48 ID:dheEYhak0
アゲ
673 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/19(日) 14:53:30 ID:G553uauK0
> 賄賂やつけとどけは当時一般的な風習で田舎者の浅野が知らなかっただけ、
現代でも日本の商社やゼネコンは、途上国で普通にやってるんじゃないの
>>667 当時、小説が発表されたときに山口少佐の家族は告訴とか考えなかったのかな?
>>668 あれは昔すぎて直接の遺族がいないからね
これは発表当時直近の親族がいたはずだし
676 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/19(日) 19:29:23 ID:dheEYhak0
山口少佐の名誉回復これからの文芸小説家がやるしかない、
新田次郎は小笠原孤酒の研究を参考に八甲田死の彷徨を完成させた。
新田次郎にとっては山田少佐は程のいい指揮系統混乱の現況で、映画ではなお
拍車のかかる演出がなされている。
小笠原孤酒は確か山口少佐の家族に取材している。
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/22(水) 23:10:37 ID:9j1sJosj0
678 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/22(水) 23:14:13 ID:9j1sJosj0
>677
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/22(水) 23:15:51 ID:9j1sJosj0
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/23(木) 01:19:57 ID:D//kUQXb0
>>677 情報ありがとう。
山口少佐の父、成沢良作
幕末に御作事調役八等官 明治29年2月11日没
実兄は成沢知行:退役砲兵中佐
山口ユ
旧姓:成沢ユ
明治25年12月山口姓となる
第三師団 歩兵第十九連隊 (敦賀)
連隊大隊副官時の出来事
山口少佐詳細は以下近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html 雪中行軍:で検索すると「青森聯隊惨事雪中の行軍」が閲覧可能
54Pから55Pに山口少佐の詳細記載がある。
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/23(木) 01:32:09 ID:D//kUQXb0
成沢知行:軍人データベース
http://www.purunus.com/index.php/%E6%88%90%E6%B2%A2%E7%9F%A5%E8%A1%8C 2月18日の「東奥日報」に、ユの遺族への見舞金を狙っているらしいとの
中傷記事が掲載された事もあり、以後は家族にも断片的な話しかせず、生涯の沈黙を守った。
酷い話だ。以下山口少佐の名誉の為に
義損金一覧
22円 山口ユ 少佐 規定分配分
22円 倉石一 大尉 規定分配分
22円 伊藤格明 中尉 規定分配分
22円 長谷川貞三 特務曹長 規定分配分
2709円 後藤房之助 伍長
2361円 村松文哉 伍長
2112円 小原中三郎 伍長
2366円 阿部寿松 一等卒
1976円 阿部卯吉 一等卒
1474円 後藤惣助 一等卒
1005円 及川平助 一等卒
1198円 山本徳次郎 一等卒
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 00:45:31 ID:BE1bxCAj0
2週間発言なし。
????????????
どうしてロードーショーしたときに夏にやったの?
冬山の映画なのに
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 21:04:56 ID:m3gHLEi30
冬に撮影して編集してたら、夏になっちゃった。
寒い時期にこんな身も心も凍えそうな寒々しい映画見てもなぁ。
夏の暑い時期に見て貰って涼んでもらおうってのもあったんでないかい。
「剣岳」も7月にやってるけどな。
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/10(月) 14:13:16 ID:hJJNdQ+b0
大雪山で十人死んだんだな
夏なのに
山は恐えよな。動けなくなったら一巻の終り
>似ても似つかない名前に
>一字変えただけでは
長州少佐、塩特務曹長、稲妻大尉、クラウス大尉、エトー伍長
・・・・・それどこの国の映画だ?
>>688 青森5連隊は食料も燃料も用意していたが200人死んだ
雪が降る前にあらかじめ途中に避難小屋でも作っておくことはできなかったのかな?
つか、遭難の一番の原因は記録的な寒さでも食料・装備などを含めた計画の拙さでもなく
「道に迷った」ことなんだから、目印つけときゃ2日目早々には田代に到着、凍傷者は出てても凍死者は出なかった
>>692 避難小屋がどこにあるのかわからない
で全員死亡
仮に銅像茶屋のあるあたりに避難小屋作って置けたら
銅像茶屋のあたりでかなり部隊の進行に遅れが出てたのなら
今日はこの避難小屋の周辺で露営、小屋に入ってそこで炊事して
交代で中で食事して体温めて順番に仮眠を取るとかできたはず
>>693 その目印が雪に埋まって結局道に迷う
と言うか下見の時はそんなものが必要になるとは思えなかった
最初の段階で道案内を断っていたのがなぁ。
山口少佐は、部下が勝手に案内を断ったのを知っていたんだろうか。
>>697 地図と磁石だけでなんとかなると思ってたんじゃない?
指揮者たちは山登りとかの経験そんなになかったのでは?
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/14(金) 12:16:11 ID:gCiu0LQJ0
>>697 案内人を断るのは映画や小説の話
萬朝報 2月8日付
幸畑を出て田茂木野に至りし時、農民出でてその到底前進すべからずを切言して
之を諫止せしも隊長等は之を叱り飛ばして進行したり
「この先行くのは到底無理です旦那方」
と津軽弁で雪中行軍を止めるよう進言した田茂木野の人達を
隊長達が叱り飛ばしたのは事実のようです。
数日後は捜索隊がこの田茂木野の民家で寝泊りする事になる。
701 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/14(金) 22:29:12 ID:eQBfkvAj0
部隊が「案内など必要ない」と断ったのではなく、
田茂木野の人達が「無理です」と案内を断ったのではないか?
>>701 なんにしても「進軍は無理」と言う結論は変わらん
弘前31連隊は案内人と民泊で行軍したが
青森5連隊は案内人の要請や事前の道案内の申し合わせは無かった。
この遭難事件の前年にも青森5連隊は青森〜田代〜増沢〜三本木
を雪中下踏破する計画を立案しているが「不時の障害のため未実施」
この教訓というか失敗を活かすなら31連隊のような案内人という発想があっても
おかしくないのだが
1月18日の小峠までの予行行軍にも案内人は同伴していないし
小峠を越えて田代に向かう事もなく引き返している
>>704 不時の障害のため未実施って具体的に何があったんだろうね
あと、小峠の予行の時はちゃんと雪中で炊飯はできたのだろうか?
>>701 諫言ってのは「ムリですって。やめたほうがいいですよ。ホント、軍隊って言ってもこの状況で山越えなんてムリなんスから」
って意味でしょ
>>705 この事件の前年の1901年(明治34年)青森〜田代〜増沢〜三本木
の雪中行軍の担当は青森5連隊の第3大隊(第9から12中隊の4個中隊)
総人員数は各中隊45名編成として180名
180名分の被服や装備や橇の調達に問題があった、もしくは被服が調達出来ず
兵卒に凍傷事故が発生したとかが考えられる、あくまで想像だが。
補足記事として日清戦争時1894年(明治27年)
歩兵第22連隊(松山市)がすでに陸軍史上「凍傷」で酷い目にあっていたりする。
また、小峠への予行の時は米を炊爨して兵に配る事はせず
青森屯営での弁当を携行し昼食としている
>>707 >また、小峠への予行の時は米を炊爨して兵に配る事はせず
全然、予行演習になってなかったんだね、小峠までの遠足って感じで
どうせならもっと先まで行けばよかったのに
雪が深いから行軍困難との認識ができたと思うし
というか、小峠まで予行演習するときに一晩そこで露営してみればよかったのにね
そこからなら夜中に天候変わっても営舎まで戻れるだろうし
>>709 本当にそうすれば良かったと思う
実際本行軍では米を炊爨する際に雪を掘って地面で炭を焚くつもりだったが
地面まで雪を掘る事が出来なくて雪の上で炭を焚いた、そのせいで炭の多くが溶けた雪で無駄になった
雪壕で暖をとる際も雪の上で炭を焚いた、溶けた雪には兵が群りすすって飲んでいたらしい
天候のいい日に雪壕で1泊くらい露営していればこんな事にはならなかった
1年ぶりに、ここ覗いたんですがついに冬の八甲田に挑戦するひとが現れたんですね
すごいですね、しかもお2人も、とても興味深く面白く拝見しました
お2人には敬意を表します、ありがとうございました
>>713 ただ、小峠から田代まで全線突破じゃないのがね
二人とも行ってない区間があるし
まあ、無理なのかね
TV局とか数人でチーム組んでそういう企画で挑んでみたら面白いかも
近代的な完全装備の陸自が冬の八甲田をやるのさえ準備で長期間、支援体制で
凄い人数を使うのに数人のTV局のクルーが企画で・・・・・なんて普通に考えて
正気の沙汰じゃないだろ・・・・・
>>714 実に手前勝手で興味本位の小峠→田代踏破案だな
街道両脇の渓谷とか登り下りの吹きだまりとか洒落にならんのに・・・
718 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/29(土) 22:38:10 ID:Xu6LEoCt0
映画の方落ちやがった。
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/29(土) 23:52:07 ID:Etn+g+4S0
>>718 レスが980過ぎたら24時間書き込みなしでdat落ちだからね。
新しく立ったらここに告知でいいんじゃない?
720 :
718:2009/08/30(日) 02:06:16 ID:Xkw7JAv00
>レスが980過ぎたら24時間書き込みなしでdat落ちだからね。
これ全く知らなかった。
俺立てれるかな?ちょっとやってみる。
721 :
718:2009/08/30(日) 02:20:04 ID:Xkw7JAv00
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/03(木) 17:49:56 ID:rZEI3oGH0
「神成」って苗字は最高にカッコいいね。
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/03(木) 21:31:53 ID:zfgsz2cf0
寒かったろうに。
日露戦争では教訓として大いに役立っただろうけど…。
725 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/05(土) 01:48:09 ID:faIqA9r20
<自衛隊にまつわる話>自衛隊
561 :2006/04/21(金) 00:10:04
友人の元自衛官から聞いた話。
十年ちょい前の春先こと。
アメリカのロッキー山脈のあたりで陸自と米陸軍の合同演習がありました。
「この場所からこの場所まで移動しろ」っての。同じ演習だけど、陸自と米軍は別経路で集合地点まで向かいます、徒歩で。
……演習が開始したら数十年ぶりの大寒波で大雪・吹雪!レスキューを飛ばそうにもそれすら出来ない悪天候!米陸軍側には死者まで出る大騒ぎ!!
「……はたして自衛隊は大丈夫だろうか……」
米陸軍のレスキューは集合地点に向かった。そこで、米陸軍の見たものは……
……そんな事故があったとはつゆ知らず雪合戦をしてのんきに遊ぶ自衛隊の姿でした……
まあ、米陸軍が個人では水や食料等の補給物資をあまり持たないで、輸送にはヘリを活用してたしてたとか、
陸自が使い捨てカイロ持っていってたとか原因はいろいろあるらしいんだそうですが、でも米軍に
「自衛隊すげぇタフだ!」
と思わせたのは本当だそうな。
てか、東京から八甲田に向かう7人乗りのRV車が中央分離帯に衝突
というニュースを耳にしたんだが安否が気になる
>>726 7人乗りに8人乗ってたらしいね。何の目的で八甲田へ向かってたんだろ。激しく気になるわ。
>>728 サンクス 登山だったのか。この時期寒そうだな。山は綺麗なんだろな。
>>730 登山板なら゛山に登る前にパンパカ゛って、言われそうだなorz
732 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/14(月) 14:58:41 ID:prH30E4/0
行き先が八甲田だと言うのに「7人乗りに8人乗車」と言うあたり
先行きを暗示してる…
734 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/15(火) 18:54:21 ID:1Yvb3eRmO
無駄な訓練だったな
無駄だったのかな?
ロシアの雪質と青森の雪質は確かに違う
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/16(水) 01:50:19 ID:N5IyyRzcO
物を知らん上司が介入するとろくな事はないとの知験や
防寒対策などいろんな得るモノはあったが。
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/16(水) 01:53:36 ID:GcHcDwPXO
>>735 ロシアの雪ならば北海道のアイヌの方々がエキスパートだよw
100年以上前の木こりとかマタギの知恵のほうが上なのかな
新素材や交通網が発達しても、積雪とか無くても山は怖いね
>>741 やはり天然素材には敵わんと言う話もあるようだが
ああいった人達はある程度の技術レベルに達しないと
山にいれてもらえないと言ったこともあるだろうしな。
もちろんそう言った見識も大事だが。
>>742 そういえばこのスレに「山の神様の日」というのがあったな
旧暦の12月12日はマタギや木こりは決して山に入らなかった
毎月の12日も同様で行動する仲間が12人の場合
「さんすけ」という木偶を作り13名仕立てとし入山した。
毎月の12日という事だから季節は関係ないという事で毎月戒めがあったんだ
遠野物語に有った、山の神様の日に、入山禁止の理由
〉その日神様は山の樹木を数えるので、間違って数に入れられない為。
神様は、100本毎に樹木を捻って目印にするので、うっかり100本目にされない為に…みたいな事が書いて有った。
〉捻られるのは ちょっと嫌かな。
746 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/20(日) 17:17:07 ID:T1xeHdQj0
あ、あの、捻られるってのは具体的にどうなってしまうんでしょう・・・・・・
今年の9月30日が旧暦の8月12日
満月の5日前、深月の日(朔)から12日目が山の神様の日
なんか理由あるのかな?
雪中行軍出発の1月23日は 旧暦の12月14日
太陽暦の採用は明治5年
明治22年2月22日に12名の若者が賽ノ河原の仕事小屋で無惨の凍死を遂げるのは
太陽暦の12日???
崖から落ちた兵隊はいるんだろうか?
映画では帰路を発見できず沢の崖を登る途中転落して
脚を折るシーンがあった。
>>26 映画も完全に悪者になって、見るたびにDQNぶりに閉口させられる。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/24(木) 18:50:19 ID:KuP9V7Xz0
自分は映画観てて『悪気が無いのが命取り』みたいな気の毒な人に思えたけど<山口少佐
指揮官は、悪気がなくて無能なのが一番ダメだろ。悪気があって有能もアレだけどさ。
指揮官だから責められるのは当然だと思うけど山口少佐が責められるべきでない理由でもあるのか?
指令本部も現場の指揮官より階級が上の上官を一緒に行かせるなと
命令系統がメタメタになるし
>>753 5連体に着任したのは事件の前年の春で、山口少佐は雪中行軍に関しては
経験はほとんどないんだよね
>>755 だったら、口出しをするべきではなかった。
自分が不勉強であることをきちんと認めて、部下に任せる度量が必要。
明治になってからとはいえ、まだまだ身分制度が色濃く残る世代だからね
仮にも士族出身の家柄の人が地元の農民達に頭下げて物を教えてもらうとかは
プライドが許さなかったんだろうね
だからこそ、それ以前から部下達がちゃんと調査して目印でも高い木の上にでもつけて
明確に地図を作成して全てのお膳立てしてから行軍しなきゃいけなかった
予行演習をしたときになんで田代まで少数で行かせて道を調べさせなかったのか
あの日は天候が良かったから田代まで行けただろうに
>>746 詳しい説明は無かったです。でも荒れた(手入れされてない)山には゛捻りん棒飴゛みたいな樹木が有るんで、そんなのでは?
…やだなw
>>757 当時の兵隊は既に農民出身者が主力だったと思うけど
それでも軍隊が農民に協力を求めることを恥だと思ってたのかな
神成大尉は明治21年から5連隊所属
山口少佐は明治34年2月から5連隊に着任
2人の寒地訓練の実績の差は歴然なんだが、それでも小説や映画のように
意味不明の横槍を入れていたのだろうか?
762 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/26(土) 02:28:54 ID:nc5PxrIl0
寒地訓練の実績の差以前に両者には階級差と、さらに出身の差。
明治の御世と現代の感覚の違いもある。
そういや神成大尉も福島大尉もアウトラインはわりと似てるが(平民出身で
かつ教導団出身)。しかし福島大尉は陸軍士官学校出。
神成大尉は陸士考えなかったのかな?
神成大尉は秋田県出身
千葉県国府台の陸軍教導団歩兵科生徒が軍人としてのスタート
当時の福島大尉と比べ、陸士に推薦されたり、それに受かる程のエリートで
なかったのかもしれない
平民出身士官にも家柄や何らかの格差はあったかもしれないね
農家なら地主>百姓、
百姓も水稲で生活する者と陸稲と麦・粟・ヒエ・蕎麦で生活する者では豊かさが違う。
商家>農家のケースも考えられるよね
話はそれるが
身体創建で相撲は横綱級、部下の掌握に非常に長けた伍長さんが
伝令の際、文字が読めず文書をそのまま手渡しするという事はあった
優秀でも読み書きが不自由なため士官にはなれない典型
764 :
763:2009/09/26(土) 03:45:52 ID:XVT9jOSR0
補足
相撲は横綱級とは隊内の番付で格技の評価です
なんでダウンジャケット着ていかんのかと
革靴もNGだろ
新聞紙は着てたな映画では
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 19:44:43 ID:E3waiz7I0
新聞紙で命が拾えるなら安いもんじゃないか
手足は助からなかったけどな
英雄として扱われたのなら良かったけどいじめられたりしたら本当に悲惨だ
嫁になりたいという申し込みが殺到したという話だからな。
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/19(月) 18:23:51 ID:oCOdda3W0
リアル『芋虫』…あっそうか乱歩よりずーっと前の時代か。
砂漠で死ぬか雪山で死ぬか
どっちかと言えば雪山で死ぬほうがいいな
寒くなってきましたね。
八甲田は今とても寒いのでしょうね。
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/24(火) 14:45:24 ID:DBHRV0H+0
このスレの住民の一部は7人乗りのRV車に8人乗りで八甲田に向かって事故にあったに
違いない、あの日以来スレ伸びてないし。
なんだか怖い展開だ。
>>775 リアルであの行軍ルートを探検した人が2名もでたぐらい盛り上がってたのにね
UPされた現地の写真を食い入るように見ましたよ
明治のあのときも行軍した兵士たちはこの景色を見てたのかってね
一つ疑問なんだけど
五連隊がいよいよ八甲田に入る直前の朝に宿舎を出て
過去の軍人の慰霊碑みたいなとこにお参りしてから行ったんだけど
その時の写真が今でも残ってるんだよね
あの写真は誰が撮ったんだろうね、普通はその行軍についていった兵士の
誰かが撮影したのかと思うんだけど
これから帰らぬ航海に出航しようとするタイタニック号の写真みたいに
なんか悲しいよね、ああいうぎりぎりの時間に写された写真は
778 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/24(火) 23:23:30 ID:lxmGBCvA0
>>777 あれは違うそうですよ。地元の人が言ってました。
あの当時の陸軍墓地の松がまだ伸びていなくて苗木状態。
あの写真は背景に木が写っているので違うものが
何かキッカケで勘違いされて本などに載せられてるらしいです。
>>778 ありがとう、情報感謝
あの事件からかなり年月がたってるから
色々間違った情報がそのままになってたりしてそうですね
当時は写真機って完全に普及してたのかな
5連隊も調査目的な部分もあるから写真機もって行軍したらよかったのにね
そうすれば途中で撮影しただろうから後の世にどうなっていったのか
記録残ったのに
780 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/25(水) 09:35:13 ID:MLdkzQhiO
>>779 当時は、写真機は手軽に持ち運べる様な物ではなかったからね。
陸軍自体が演習等を撮影して記録するって考え方が無かったんじゃないのかな?
遭難後の写真を撮影したのも地元の写真館だし。
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/25(水) 09:47:28 ID:socUisbP0
この頃の写真ってすぐ写ったの?
幕末なんかだと露光に何十分もかかったんでしょ?
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 22:27:39 ID:fyR4BzIY0
天候が良ければ5秒程度
曇りや室内だと45秒くらいが露光時間
方位磁針が凍りつく寒さじゃ、乾板も凍って使用不能になりそう。
786 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/04(金) 00:22:23 ID:ZQ6zdenj0
>>783 銀塩写真だと、撮影時は低温度の方がノイズが少なくていいんだ。
天体写真だと昔は(いまもそうか)、カメラを液体窒素で冷やしたりした。今は、ペルチェ素子かな。
地図で見るとそんなに山奥には見えない、街のすぐ近くの山の麓でウロウロしてる様に見える
地元の人から見たら実際にはどんなレベルなんだろう
雪山の怖さを聞きかじった程度の知識でしか知らない都会人の安易でバカな感覚で例えるなら
東村山から西武球場・・とか、千里中央から箕面の滝・・とか、桑名から員弁のゴルフ場・・
に行く程度の行程で遭難したイメージにしか、地図の上では見えないんだわ
>>788 そう、雪がない季節なら
遭難するわけがないルート
軍隊で足腰鍛えた人たちなら早朝出発すれば昼ぐらいには着ける距離
ただし、足腰まで沈むぐらいの積雪&前が全然見えないぐらいの猛吹雪
この状態になるとまったく別世界・・・
しかも小銃とか重い荷物とか行軍の足を引っ張ってたし
あっち方面にツーリングに行った時の思い出。
道路の脇に白いポールがやたらと立っている。
それも結構背が高い。
「なんじゃこれ?」と思って地元の人に聞いたら
「冬そこいらが雪で埋まった時に
どこが道路か知るためのものだ」と言われた。
世の中にはそう言う世界がある。
>>790 当たり前つーかなんつーか。そんなモンで驚かれても…。
792 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 04:00:57 ID:5kduWmfT0
>>791 地元民には当たり前の世界でも、雪の少ない&無い地方の人間には初見で珍しいモンなんだよ
んな言い方ないだろ・・・・・
>>792 想像力無い人なんだろうね
他の雪がない地域から来た人がどう感じるとかさ
雪に埋もれない所の者には雪に埋もれる生活は想像出来ない、
冬になれば由貴に埋もれるのが当たり前の生活には雪の無い都会の生活はいまいちピンと来ない
どっちも当たり前の生活に慣れてるだけなんだから
それを想像力が無いとか無理矢理煽るような言い方するのはおよしなさいな
>冬になれば由貴に埋もれるのが当たり前の生活
ハァハァ、そ、それはどんな女子なんじゃ?フヒヒ…。
796 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 14:17:14 ID:toVaWxJa0
>>794 TVも映画も何も見てない人ならともかく
実感は無くても生活はわかるはずだよ
明治期みたいに一般家庭には何もないんじゃないし
>>790は西日本の人?自分は九州人だけど、あれ初めて見た時同じように驚いたよ。
あと交差点手前にある゛上から矢印゛とか。
九州でも阿蘇辺りには高いポールはあるけど、殆ど見る事が無いから知らないんだわ。
799 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 21:57:09 ID:+NUL4zKu0
裸足や地下足袋に雪沓(ゆきぐつ)をはいて歩いたり
という感覚は現代では理解しにくい。
豪雪地帯での履きものはゴム長靴の普及する前は藁の雪沓だったと
新潟の人から教わった事がある。
スキーも当時はなかったし、遭難者の捜索で使用された通信も
電話ではなく電信だったとか。
この時代は予備知識なしではピンと来ないよ。
>>794 の意見に賛成。
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 01:09:41 ID:7YGs8ht+P
>>800 ムキなるなよw
ま、オレも不適切な発言だったかもな。
1960年代に、南極昭和基地の外に「ちょっと」出た隊員が、
そのままブリザードの中行方不明になって、数年後徒歩で2-3時間
かかる場所で遺体が発見された。
ヘタに体力があったので、どうにか基地に戻ろうと移動しまくったんじゃないかという話。
リングワンダリングってのはそれぐらい恐ろしいんだよ。
別に南極まで行かなくても
梅雨時に山中に入れば
「伸ばした手の指が見えない」
ような霧に簡単に出くわせるぞ。
足元の白線すらろくに見えんから
怖くて迂闊に動けん。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/07(月) 22:02:33 ID:rxuHCfal0
どう対処すれば良かったのかね・・・・・・。
それなりに気温がある所ならやたら動かずビバークして天候の回復を待つってのが
ベストなんだろうが真冬の八甲田山だの南極のブリザードだのの中だったら動いても
動かなくても待っているのは凍死だろ・・・・・・
じっとしてても死ぬなら動いた方が万が一基地に辿り着けるかも、とでも考えたかな?
>たった3メートルなんだから、建物間をロープでもゆるく繋いでおけばいいのにね
>で、吹雪の時にやむをえず移動しなきゃいけないときはロープを伝って移動するとか
昭和基地では確かもうコレやってるだろ、各棟の間にロープ。
>>805 現場で雪山に不慣れな隊にその場でどうしろっていうより
行軍前に雪のない季節に現地の道の高い木のてっぺんにでも赤い布でも
巻き付けて目印作っておかなきゃ、道筋に
雪で道が消えてもいいようにさ
もしくは賽の河原とか平地があるのなら避難できる山小屋とか作っておくとか
どうせ対ロシア戦始まって物資輸送する気なら途中で物資集積倉庫でも
作るんだろうし
山小屋でもあれば途中で立ち寄って中で炊飯してできたての食事取らせることも
できたんだし
200人分の飯とか味噌汁とか作るの大変だろうけど
早朝に炊飯要員を軽装で先に行かせるとかね
半日以上、行くにも戻るにも時間がかかるとこを行軍する時点で途中の気候の激変に
対応するのは無理だったんだろうね
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/08(火) 06:25:38 ID:HX+F+g0K0
映画の方で原作読んでなかったことを指摘された奴か?
810 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/08(火) 20:32:47 ID:y/e/4aCU0
110 :この子の名無しのお祝いに:2009/12/01(火) 20:31:53 ID:ur0RPagX
>>105 原作なんか関係ないだろ、アホか?
124 :この子の名無しのお祝いに:2009/12/03(木) 20:37:07 ID:UxS5uFlv
>>121 わめくな、馬鹿
読点の打つ場所同じだしな。
ID:gENrMBpI0
キチガイが粘着w
そろそろ雪中行軍に行って頭を冷やしてきなさい
まあ、いさかいはともかく
雪中行軍ネタはこれからです。
本当に寒気というのは人を打ちのめし混乱させる。
頭冷え過ぎた結果思考が半端ない遭難を生むし
イカダを作って川を下る発想を導く
なぜ行程を避難小屋作ってショートカットする発想が当時なかったのか疑問
途中でけが人や病人が出ても休ませる場所もないのに
理由わかる人います?
年柄年中雪が吹きすさぶような北極や南極と違って
本当に人が行き来できなくなるような地形になってしまうのは
ほんの3ヶ月ほどなのに
819 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/11(金) 00:30:12 ID:28OG3NG70
ゲイコミックかと思ったらスーパージャンプかよ誰得w
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/11(金) 00:57:55 ID:PInAfZmT0
うほっ
>>817はゲイコミックじゃありません純然たる料理マンガです
画像のシーンは雪山で遭難した主人公と友人が互いの体を温め合うところ
俺もおしくらまんじゅうしたい
雄死暗漢汁(おしくらまんじゅう)
もともとは寒冷地において春の訪れを山の神に祈念し
男たちが肉体をぶつけ合った神事を意味する
現代では祭礼的な意味は薄れ
子供の遊戯として名残を留めるのみである
民明書房刊「ウホッ!いい筋子…」より
素人で長文ですまん。
このスレを見てから、昔見たような見なかったような記憶でしかなかった映画八甲田山を見て、
さらにこのスレを読み進めるうちに、小説浅田次郎の八甲田山死の彷徨を読みました。
ここ半月ほど、一人で八甲田山祭りをやってるものですが、
今の時点で一番関心があるのは、防寒装備についてです。
行軍時は冬装備が充分でなかったと思うのですが、今の知識で、今の装備であれば、
当時と同じ天候であっても行軍は成功していた思われますか?
自衛隊の方が、除雪車を使いながら訓練している動画を見ましたが、あのような重機を
使わずに身の回りの装備だけで、同じような天候状態で成功できると思われますか?
弘前31連隊は成功をしているので、当時の装備であっても成功といえば成功しているのですが、
青森第5連隊も行軍時の間違った判断をしなければ、彼らも行軍を成功できたのでしょうか?
装備よりも正しい判断さえできていれば、彼らも成功していたのでしょうか?
主として装備がしっかりしていれば防げていた事故なのか、主として判断が間違っていたのか、
そこが知りたいところです。
判断が間違っていた事故であれば、現在でも同じような事故は発生しうると考えます。
想定としては、昨今起きている素人の事故ではなく軍隊行動での話です。
すごくわかりづらいです。三行で書くと
今の自衛隊の装備で同じような雪中行軍を行ったとして、当時の天候状況で
成功していただろうか?またはしなかっただろうか?
主として判断の問題であり、装備の問題では無いのか?どうだろうか?
>>826 ちゃんと現代の冬山登山用の装備なら犠牲者ほとんど出なかったと思う
途中で露営するときもちゃんと雪洞掘って風を防いでれば体温の致命的な低下は
避けられたはずです
なぜ失敗したのか、装備も進退時の判断も天候も全ての面で裏目に出たからです
あと、現地の住民とのコミニュケーション不足もあります
軍隊っていうのは致命的なミスを犯すまでは精神主義や過信で動きますから
下も上からの命令でロボットみたいに動くだけしかできないですし、悲しいものです
日清戦争時
歩兵第二二連隊連隊での凍傷被害案件あり
明治三十一年
北海道で行われた定山渓雪中行軍では遭難案件あり
しかもこの遭難では、あちこち迷走せず、各員が一人分の縦雪濠を掘り待機。
ほとんどの者は七日の間死を免れ、他の一兵は三十九日の間生を保ち、
今に至りて現在(勿論、凍傷の為め足部を切断したれども)する事例も
あるなり。
という先例があるにも関わらず
青森5連隊の遭難事件は199名の死者を出した
日清戦争の凍傷はともかく定山渓雪中行軍の遭難が青森5連隊に伝わっていれば
全く話は違っていただろうに。
ゴム長靴があるだけで相当違うと思うね
あと
>>825 新田次郎な。浅田次郎じゃない
皆さんどうも。
なるほど。やっぱりいくつもの条件が重なった事故だったということですね。
運が悪かったとしかいえないですね。
装備がしっかりして、雪濠で天候の回復まで待機するという判断であれば、
ここまでの事故にならなかったのでしょうね。
浅田次郎と思ってました。ぽっぽやの人が八甲田山書いていたと完全に誤解してました。
訂正ありがとうございます。
そうか、よく考えればパーティーを組んでる現代のエベレスト登山などのことを調べれば、ある程度の
死傷率や実際の装備などがよくわかるかもしれないですね。
アタッカーがよく亡くなるというのは聞きますが、生還した人の話から、
極限状態のことがわかるかもしれません。
ちょっと調べてみます。
>>829 そこらのホームセンターで1000円で特売してる長靴を見て
これを200人分、タイムトラベルして送って上げれれば
何人かは助かった人も増えたんじゃないかな
片山右京、富士山で遭難、本人は無事だか同行の二人は死亡らしい
遭難の連絡があった18日午前1時現在の富士山山頂の気温は氷点下24・9度
八甲田山と同じ状況じゃないか!
近年まれに見る大寒波の中の雪中行軍。
山の神様に見放されたんだな。
>>836 今、青森は平地でも猛吹雪だけど、八甲田麓の雲谷スキー場でさえ、前に伸ばした
手が見えない程の吹雪になる。
道を外れて鳴沢渓谷の方に向かって行ったから、其時点で一巻の終わりだったんだろう。
>>836 家の中に確実にあるはずなのにどうしてテレビのリモコンはなかなか見つからないんだろうな?
山岳遭難は繰り返される
>>840 お前は駄賃が欲しくてそんなファイルを流してるだニャン!
842 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 22:15:14 ID:5gJpcTkS0
木綿の軍服と外套にネル生地の下着
靴はくるぶしまでの皮靴か藁靴に地下足袋。
そんな装備で寒気に長時間さらされると脳みそが冷えて異常行動をする
遭難しない方がおかしい。
>>842 本当なら2日で終わってるはずの行軍だからね一泊二日
明くるを待ちてまた更に 前へ前へと進みしが
み空のけしき物すごく たちまち日影かき暗し
行くも帰るも白雪の 果ては道さえ失いぬ
www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Mutsu_no_Fubuki.htm
歌詞は忠実に悲劇的だが曲調はえらい元気がいいな。
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 01:10:12 ID:/vp27/OT0
この猫達の遭難慰霊碑は何処にあるの?
前に明治時代は今よりも気温が低かったって書いてた人いたけど
統計か何かでてたんですか?
昔から今までの気温の差とか
明治以前とか日本の気候ってかなり変わってきたのかな
>>836 第一露営地から第二露営地まで移動するのに丸一日
魔の台地と言われるこの場所は、現地行くと呆れるほど大して広くない。
それほどの異常な状況だったということですね。
あと、誤解が多いが、5連隊の目的地は元湯ではなく新湯だそうです。
>>850 他に魔の台地の現地情報ないですか?
確か平沢だったと思うけど。
強風にさらされそうな地形だとか、台地の縁には新雪が吹きだまりそうだとか
そして
夜なのに雪濠から出て新湯まで行けそうな雰囲気があるとか・・・・。
異様な気候の中
ソリを飲み込んだ雪深い鳴沢を再度登り馬立場に戻り帰営するより
田代新湯を目指す方が容易な感じがするのは何となく理解出来るのだが
朝を待たずに第一露営地を出る理由がそこにあったのか
興味深いです。
>>851 夜明けを待たずに出発命令出したのは山口少佐なのは確実なのかな
これ以上進軍するのは怖くなったのかな
どう考えてもホワイトアウト状態の中を来るのに半日以上かかったとこに
戻るのは相当に危険なのに
>>852 調べました
第一露営地出発命令は映画や小説では山口少佐
川口泰英:著 「雪の八甲田で何が起こったのか」では以下の通り
大隊長は決断する。
中隊は、午前二時半露営地出発、帰営の途に就かんとす
「遭難始末より」
1月24日午前2:30、鳴沢方面に引き返し馬立場に戻り帰営するため
山口少佐が命令しているようです。
田代新湯ではなく青森を目指し帰営するため青森5連隊は雪濠を出たようです。
間違った情報を書き込んで失礼しました。
>>853 いえいえ、情報ありがとう
2時半か・・・微妙な時間帯ですね
あと3時間ほどで夜が明けたのに
その3時間を惜しんで本格的に遭難してしまった
もし夜明けまで待って青森方面じゃなくて田代方面に
向かってたらどうなってたかな
足下の雪はかなり減ったんじゃないかな?
もう平地に近くなってきてるだろうし、田代の近くなら
歩きやすくなったのは確かなんだけどね
他の方ももし田代の方に向かったらどうなってたと思います?
田代方面がわからんから迷ってるのではないか?
>>855 第一露営地の段階では日が暮れて視界が無くなったから
露営したんだし
本格的に彷徨いだしたのは2日目以後だよ
第一露営地で朝まで粘ってれば風もやんで一時的に視界が開けるときも
あるんだろうし、まだなんとかなんとかなったんじゃないかな?
もう目的地は2キロもなかったんだし
>>856 田代には元湯と新湯の2つの温泉があり
建物は4〜5軒 冬には小山文次郎という住民一家が山篭りをして
湯治場を守っていた、当時冬場の交通は途絶えてしまうため
3ヶ月分の食料が蓄えられていたといいます
加えて5連隊遭難始末記では
田代には番人の家族3人と炭焼き職人15人住居してありて
米5〜6俵と濁酒5樽と鮭1本を貯えてある…
と調査済み、田代に到着すれば村人に協力を要請できるし
食べ物も火もある、これじゃ田代に向かいたい心境になってしまう。
しかし、なぜ田代ではなく青森帰営の判断を山口少佐が下したのか?
疑問です。
>>858 観させていただきました!!
感動しました!
明治35年には舗装された道もなく堅牢な建物もなかった。
街道に生える木々も昔は炭や薪に使うため伐採されていた筈だ。
積雪量は穏やかに見えた。
2010年、今年の寒波激しい今時だと、もっと酷い有様になっているのでしょうね。
標高が増すごとに雪深いロジックが恐ろしいです。
860 :
858:2010/01/10(日) 19:11:32 ID:6Opn+q8m0
実は車の動画撮影は1/9なんですよ。
銅像茶屋、鳴沢、平沢など車で行ける所の撮影は終わっているんですが
徒歩部分がまだなんです。
数名のパーティーで行かないと危険なので…。
もうすぐもう一度八甲田に行きます。
>>857 温泉があるだけでも生存率がかなり上がるよね
手足を温められるし、そのまま飲んで水分補給もできるし
>>858 素晴らしい!良い作品を作っていただいて感謝です
田茂木野に道の横にりんご園とか書いてますが
あそこに凍死体の安置所があったんですよね
映画の名場面が挿入されてて嬉しいです
「お前は案内料が・・・」というシーンはぜひ字幕を
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 20:45:07 ID:BRIRJWVv0
できればつべにして欲しかったorz
>>858 今年は雪が多いんじゃないの、くれぐれも気を付けてくれよ
三浦雄一郎のTVを見ていたのだが…雄一郎の父の三浦敬三って青森営林署に勤めながら、
戦前、八甲田山をスキーで横断していたんだな。で、それを動画に撮っていたし…。
>>864 今は、防寒装備も発達してるし
何よりも途中で銅像茶屋という避難場所あるからね
途中でも鉄塔とか目印あるし
当時とは全然難易度低いだろうね
867 :
331:2010/01/11(月) 02:32:17 ID:ihwnbi6c0
>>858 昨年1/23〜に行ってきた者です。
今年は程よく雪が積もってそうで行き応えありそうですね。
まあ、雪山登山ほど危険はないですけど気をつけてください。
ちなみに鉄塔は吹雪いたら見えなくなると思います。
ニコ動だと動画みれないのが惜しい・・・
>>858 >>331 気をつけて下さいね
夏には7人乗りのRVに8人乗りで八甲田に向かう途中自動車事故に遭ったり
なにかいわく付きの八甲田山
青森5連隊遭難の関連書籍を調べるだけで疲れる不思議
869 :
858:2010/01/11(月) 20:38:48 ID:aHmmODq+0
870 :
858:2010/01/11(月) 23:03:25 ID:aHmmODq+0
>>858 イメージ映像でいいから、小峠を通り過ぎるときに雪の中におにぎりを落とす映像入れて欲しかった・・・w
>>870 一度、大峠まで行って戻ったんですか?
次は大峠からってことは別の日に行き直したとか?
873 :
858:2010/01/12(火) 00:32:01 ID:tlyhvp1C0
>872
まだ大峠から先は行ってません。
経験がありますが現在でも大滝平と賽の川原は本当に危険なんです。
今度数名のパーティーで銅像茶屋から目指します。
>>873 了解です、お気をつけて
天候が良い日にあたることを祈ってます
>>870 今その1とその2を見終わりました
文句なしで面白かったです!
次回も大いに期待しております!
お体にはくれぐれもご注意を。。
皆さん、すごいっす。
八甲田山の現地の状況を動画と写真で紹介してくれているなんて、
現代の技術に感謝っす。
こんなにも現地の情報が出てくるとは、うれしいっす。
それにしても、晴天時の写真はとても遭難現場に見えないですね。
こういう晴天時に最初の予行演習をやって、遠足気分となってしまったんでしょうね。
私は、吹雪いた山を想像できない東京の人間ですが、富士山での遭難事故も
直近にあり、あらためて冬の雪山の恐ろしさを感じます。
特に現場検証している皆様は、ご自身の身を一番に考えて行動なさってください。
>>876 そこ、わかりやすいね
写真に加工してどう動いたか予想図をうまくわかるようにしている
>>877 >それにしても、晴天時の写真はとても遭難現場に見えないですね。
1 降雪で周りが見えない
2 足下が積雪で動きにくい
3 強い風による低温による体温低下
この3つが合わさって白い地獄になるんだね
3つ全部重なってしまったのと
事前の準備や装備不足などあらゆるものが重なって最悪の状況になってしまったんですね
880 :
858:2010/01/12(火) 23:33:54 ID:tlyhvp1C0
881 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 00:12:53 ID:B5Fdf5ir0
>>873 >今度数名のパーティーで銅像茶屋から目指します。
頑張ってこいやぁー!!!報告期待してるでぇ!!!
ただし!!本当にヤバいと思った時はためらわず自分の身の安全を第一に考えて
即引き返すのが本当の勇気だぞー!!!
今日明日はやばいので動かない方が宜敷い。
一気に降ると思われ。
今年もまた誰か死ぬのかね
現代の装備と技術でも毎年毎年誰かは逝くんだよな
>>880 動画うp乙でございます
今見終わりました
歩いている時に汗かかなかったのですか?
一度汗をかくと冷えてから大変なことになるのでご注意を。。
次回も期待してます!
>>884 >一度汗をかくと冷えてから大変なことになるのでご注意を。。
映画にそんなシーンあったね
>>880 あなたはすごすぎる
まだ1年が始まったばかりだけど
このスレのMVPだよ
そういえば銅像茶屋の駐車場に観光バスみたいなの止まってたけど
あれは何ですか?スキーバスかな?
何が日本語以外の言葉が飛び交ってたような・・・
撮影時は茶屋は開いてないんですね、開いてれば良い休憩場所になるんだけど
888 :
858:2010/01/13(水) 06:54:18 ID:pAs2Y/GI0
>>887 実はあそこ駐車場ではないんですよ。県道のど真ん中です。
ただ除雪されてなくて行き止まりなので駐車場みたいになってます。
あの場所まで八甲田ロープウェイから下る銅像コースと呼ばれる
スキーのガイドツアーコースが設定されてます。少し危険です。
あと、後ろで聞こえる言葉は津軽の方言で外国語ではありません。
正直私にも全てを理解することは出来ません…。
今日の天候は酷い
くれぐれも御身後大事に
>一度汗をかくと冷えてから大変なことになるのでご注意を。。
登山用品店で売っている下着を着込めばだいぶましじゃねぃ
ちょいと高いが通販でも買える
でもまぁ本人は冬山用のフル装備ぐらいはしているだろうから
いらぬお世話か、、、
>>880 臨場感がありますね。
続きも楽しみにしています。
新聞記事でアンタの名前知るなんてヤだからな
生きて帰って来いよ
>>858 天候悪すぎ、雪多すぎ、頼むから無理せんでくれよな
東京大手町勤務の者ですが
近年にない異様に寒い今日この頃
今の青森の山岳部の気候は尋常でないでしょうから慎重に
895 :
858:2010/01/15(金) 22:46:06 ID:vEH5UKUB0
>>895 あいかわらず、映画と組み合わせた見事な編集ですね
どこの箇所が映画のどのシーンがかなりわかりやすいです
>>895 乙であります。
雪がほとんど降らない地方の者だと、雪がちらついているのも、何か怖い印象です。
非常にわかりやすい動画ですが、映画のシーンの音が若干小さいのですが、
これは少し大きくできると良いなぁという感じです。難しいでしょうか?
聞こえることは聞こえるのですが、現地の映像との音の大きさが違うので、もう少し
音量が近いとうれしいです。
898 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 10:48:52 ID:Bx62FCph0
週末になってやっとその1を今見終わった―――――――!!!
凄い!!素晴らしい!!臨場感溢れる映像と途中差し込まれる映画のカット、
簡潔で判りやすい解説、何かで表彰したいくらいだ!!
録画も膨大な時間になったっしょ!!
ちょっと残念だなーと思ったのは途中の道路でちらちら写る距離の標識が良く
見えなかったことですな〜、見れたらああ、この映像は地図のこのあたりだな
とか判って感慨もひとしおだったんですが ← ワガママ
しかしその1の映像、荷物運搬用のそり隊の遅れの解説が入ったちょうどその時
現代の荷物運搬用そり・トラックがずーっと写り込んだのは笑ったw
899 :
858:2010/01/16(土) 19:11:47 ID:dc1kLlBG0
>>858 感動です、平沢の両端は急な斜面だというのが画像でよくわかりました。
視界曖昧な情況で露営地を出てしまったため、遭難が最悪の状況になったんだと裏が取れました。
それにしても最近の気候は八甲田遭難事件にシンクロしているようで
このスレッドが神のように感じます。
実は私、数年前に作家を廃業して現在は会社員ですが
いつか八甲田遭難事件を書いてみたいと思ってます。
参考文献を超える画像はまさに圧巻、是非参考にさせて下さい。
可能なら寒さの元で尋常な会話が出来るのか?
とか興味あります。
「天は我々を見放した」は
一部の兵卒にしか聞き取れていないと想像したりするのです。
とにもかくにも御身大切に。
901 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 01:24:39 ID:/n5Ngn/N0
_, ,_ 858無理せずガンガレ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
( n`Д´)η
( ノ
(_)_)
""'~"''"""゛"゛""''・、
"”゛""''""“”゛゛""''' "j'
:::::ヘ :::::....ヽ :::;;;ノ ::(
:: ゝ :::::......ノ:;;..:::::::ヽ
>>899 かんじき履いて雪に足が埋もれてたけど
スノーシュー履けば楽になるよ
>>900 >いつか八甲田遭難事件を書いてみたいと思ってます。
資料探ってればいつかは行き着くのですが
未だに小銃が2丁?と銃剣がいくつか行方不明のままなんです
今でも八甲田の遭難地点のどこかに埋もれたままなんでしょうね
もしフィクションを織り交ぜて書かれるならその事も想像で書かれたら
面白いかも?
あと、ギリギリで雪中行軍隊に参加せずに難を逃れた人たちも
その後の足取りとか後日談とか書かれたらいいかも
ちなみに5連隊の本来は隊長になるべきだった人は嫁さんの出産のために
行けなかったのでギリギリで難を逃れたそうです
タイタニックとか飛行機の墜落事故とか運命は一瞬で切り替わるものですね
たまたま居合わせてしまった人たち、ギリギリで助かった人たちとか
>>903 >未だに小銃が2丁?と銃剣がいくつか行方不明のままなんです
それって結局判明したでしょ
>>906 なんの書き込みもなくそういうのだけ貼られても気持ち悪いからクリックしない
>>908 そのサイトは「東奥日報」の号外に載った、
東海勇三郎「従軍記」を参考に書かれているのだと思います。
●「従軍記」全文は
二十八日・・・・又も携ふる所の餅を取て朝餐に代へ、尚ほも進んで、八甲田山に登る。
上るに従ふて雪漸く薄く、頂上に至れば雪殆んどなし。而かも一面凍りて滑ること甚だしく、
歩を運ぶに苦しむ。若し夫れ渓谷に至ては、三尺余の積雪あるを見る。
然れども風力猛烈、殆んど人を飛ばす。午餐は又餅を以て之に充つ。山上を徘徊するや、
兵士の死屍二箇を発見せり。嗚呼是れ何者ぞ。或は云ふ、自殺者ならんと。
誰か図らん、是予等と同じく雪中行軍の途に上れる五聯隊の惨死者ならんとは。
然れども死屍は如何ともすべからず、予は即ち傍らに棄ててありし軍銃二挺を肩にして山を下る。
「東奥日報」号外より抜粋 1月 29日 東海勇三郎「従軍記」
伝聞記事ですが他紙も同様に記しています
二十八日の夕刻、途上にて小銃二挺を発見したり。たぶん猟者の棄てさりしもの
ならんと取り上げ見るに、三十年式の兵器なれば、青森支援隊兵の所持せるものに相違なしと、
その付近を捜索したるに、二個の凍死したる屍体を発見せしなりとぞ。
「 時事新報 」 1月 31日 付
しかし三十年式小銃 重量4kg強 二挺を
麻縄で身体を繋ぎ合い行軍している遭難寸前まで追い込まれていた
弘前31連隊が拾ったのかどうか疑問?
と
福島大尉の甥にあたる高木勉氏は著書に書いている。
2丁の銃の真相はともかく
平成14年「東奥日報」で
田茂木野で5連隊捜索隊の木村少佐に
「5連隊と田代で遭遇」という旨の福島大尉の報告を受けたという資料が見つかった。
と報じられています。
あと、小銃だけど福島隊は途中で発見した2丁を5連隊の捜索隊に渡して現場を離れてるんでしょ?
後に死体も全部回収してなおかつ2丁足りなかったようなんだけど、それはカウントしてなかったの?
>>910 6月20日
銃2挺・銃剣8挺は未発見のまま捜索活動は完了する。
というか、明日1月18日は小峠まで予行行軍の日・・・・・・。
>>913 そもそも、31連隊と5連隊は、公式には遭遇したことにはなってません。
そして、2丁の銃が未回収として残ります。この銃の行方の答えとして、案内人
の証言が出てきます。そおいうストーリーになってるんだろうと思います。
実によくできた話で、良く出来すぎてかえって案内人の証言の信憑性を落として
いるような気がします。真偽のほどは横に置いておいて、このストーリーに乗って
答えるなら、2丁の銃は公式にはカウントされていないということになるんだろう
と思います。
当然のことですが真実は私にも分かりません。
まだ小銃2挺は五連隊の行軍ルートのどこかに埋もれてるんだろうね
金属探知機か霊能力者に頼んで探してもらえばいいのにね
将来どこかのTV局がこの事件を取り上げたSP番組やるときに
同時にやるかもね
冬の間は雪に完全に埋もれ、春先にはぐじゅぐじゅの雪に完全に浸され
木材の部分は水分を含みに含んだ状態で夏の間、微生物の分解活動に晒されるし
金属の部分も、当時はアルミやクロームなんて気の利いた酸化に強い金属はほとんど使っていないだろうから
酸素いっぱいの緑あふれる自然環境でどんどん錆びて朽ちていく・・・
そんな環境でもう100年以上経ってるんだぞ?
跡形もなく分解されてるだろう・・・
>>916 お前はロマンがない退屈な人間だろ?
雪中行軍行ってこい
小銃2挺は31連隊が発見して
七勇士に担がせて田茂木野に到着。
5連隊の捜査隊長木村少佐に返還したが、
31連隊の福島大尉の公式発表では「八甲田では何も見なかった」と、
5連隊との遭遇を否定。
真実は違っていただろうが、軍の報告書という建前では
@
青森5連隊は小銃を叉銃として放置せず勇敢に殉死した。
A
弘前31連隊は見事に八甲田雪中行軍を完遂した。
5連隊遭難者の遺骸を見過ごしなどしていない。
なぜなら、出会った事実がないからである。
という双方利のある政治判断をしたのだと思う。
だから小銃の返還も無かった事になり、カウントも出来ず
未回収扱いなのでは?
組織の保身は個人・少数派の心境や真実など顧みない。
>>918 単に福島大尉が行軍中に拾ったでいいじゃない?
その道を通ってるんだし
で、死体は見なかったと
920 :
858:2010/01/20(水) 23:15:56 ID:1LftEvKI0
>>920 もちろんです、いつも素晴らしい映像をありがとう
>>920 実際の現場写真とか残ってるんですね
遺品とか色々映像ありますか?
どんな実際の装備で雪中行軍したのか見たいですね、当時の
いよいよ明後日は出陣の日だぞ!!
準備はいいか〜
この事件以後は同様の集団遭難事件はほとんど起きてないよね?
これが後の世に教訓になったかと思うと死も無駄ではなかったのかも
926 :
858:2010/01/21(木) 23:12:21 ID:WXqJfxrj0
>>922 幸畑の遭難記念館に沢山遺品はあるのですが何せ有料なもので
大量に動画に上げるのは気が引けて…。
一部動画にしておいて今さら感は強いのですが何卒ご了承下さい。
是非時間が御座いましたら青森にお越し下さい。
但し、21世紀の現在においても八甲田は非常に危険な場所なので
山に入ることは土地勘がない限りお勧め出来ません。
>>926 青森まで死ぬまで一度も行けない人が大半なんですよ・・・
858殿
亀ですがシリーズ1〜6、只今見終わりました。力作乙であります!!
実は自分も青森赴任時代に行軍路はくまなく踏破しましたが、春〜秋の間のみ、という
ヘタレで、雪中行軍隊と同じ冬にトライなど思いもつきませんでした。
夏でもあの鳴沢〜平沢から駒込川への急斜面には恐怖と難儀がハンパでなかったのに、
これをあの時期に越えるなんて無理だろ〜!! と思うようなモンでしたね。
殆どのシーンが懐かしかったですが、一面雪の景色はこうだったんだ〜、と新たな感動
でした。続編期待しております。急がなくて結構ですから。
しかし...... いよいよ明日ですね。例年の実況中継より今年は858殿で盛り上がりですね。
過去の書き込み見てたら冬山登山用の装備とスノーシュー履けば普通に山歩きしてる人なら
冬でもなんのことはないルートみたいだね
もちろん天候が良いときの話だけどね
田茂木野から田代まで歩き通す人もそのうちでるかも
また寒気が来るようだな
今日は1月23日
運命の日だ。
伍長 = 主任?
分隊長 = 係長?
小隊長 = 課長?
中隊長 = 次長?
大隊長 = 部長?
連隊長 = 執行役?
旅団長 = 取締役?
師団長 = 副社長?
軍団長 = 社長
総軍団長 = 会長?
933 :
858:2010/01/23(土) 20:18:27 ID:6LRIElVg0
>>927 すいません。出来るだけ期待に添えるように頑張ります。
ただ、記念館の中は本当にこれ以上は御容赦下さい。心が痛むんです。926で書き込んでから考えたんですが動画にしたのも本当はやってはならない事をしてしまったのではないかと反省しております。
今後は陸上自衛隊青森駐屯地内の資料館等へ向かいます。
今後は、青森に来ることが出来ない人の為に、より臨場感のある動画を作成して行きます。
もし良ければ最後までお付き合い願います。
934 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 20:56:38 ID:DtB6PgW/0
白雪深く降り積もる
八甲田山の麓原〜♪
108年前の今日だな・・・
>>933 心が痛むっていってもあの動画見て、じゃ実際に行ってみようかという人もいるだろうし
逆にあそこまでは一生行かないだろうなって言う人には見せても見せなくても同じだよ
少しぐらい見せても客は絶対減らないよ
逆に全部見たくなって行く機会があればあそこによるだろうし
コンビニの雑誌の立ち読みみたいなものだよ
本当に見たい人はコミックスでも買うでしょ?
自分は一生あんな遠くまでは行けないと思うから
誰かがサイトに写真UPしてくれるか動画配信してくれるまでは永久に見れないです
残念・・・
雪中行軍関係のイベントとか周辺でやらないのかな?
慰霊祭とか
>>937 遭難した日の前後にやらなきゃいつやるの?
>>938 半年後の6/23
この時期にやったら慰霊祭の参列者も遭難しちまうだろ
>>939 なんで?まさか雪が積もってる山中でやるとか思ってる?
馬鹿ですか?
941 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/24(日) 04:06:59 ID:+FhiU+3H0
(´-`).。oOなんでこんなに喧嘩腰なんだろう?
明治34年4月
青森5連隊着任の山口少佐に雪中行軍演習を指揮出来たかどうか疑問だ
事件は明治35年1月に起きている
雪のキャリアでは神成大尉の方が経験豊富
指令系統が歪んだのは別な部分にあると思う
>>941 頭悪い書き込みしてるからでは? ID:F4YIksCV0
まあまあ、ここは冷静に
5連隊はそろそろ鳴沢第二露営地あたりだろうか・・・
>>920を見た後、映画「八甲田山」をどうしても見たくて映像を入手した
でも3時間近い作品なんだな、とりあえずこれから30分ずつ見ていくことにする
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/24(日) 20:24:47 ID:roqS7FVj0
948 :
858:2010/01/24(日) 21:32:28 ID:NbuKy6Y00
>>948 乙です
199名が散った八甲田は今年も寒いのでしょうね
>>949 寒くないよ、昨日の深夜でもマイナス2度程度だし
山の中はもっと寒いかもしれないけど
>>948 遺品の写真とか動画にいれてくれないのか・・・残念
当時の遭難時の装備とか見たかったのですが
>>948 動画乙でございます、さっそく見ました
風の音を聞いていると身震いしそうです
次回も大いに期待します
(個人的にはこのシリーズが
できるだけ長く続くのを強く希望します)
>>948 かんじきとスノーシューでは歩くのが負担がかなり違います?
茶屋の近くの車の行き止まりでは他にも車が何台か止まってましたけど
その人たちはどこに行ったのでしょ?近くに住んでるのかな
>>948 半長靴の皮靴で雪の上を歩くとどうなりますか?
>>948 ずっと見させて貰っている。感謝!
下手なテレビ番組よりよっぽど面白い。
続編を期待している。
>>955 そういう貴方は雪中行軍演習の210人の足周りの装備を把握しているのか?
返答願う。
961 :
小沢一郎:2010/01/25(月) 19:38:59 ID:ULM4SD3aP
俺の顔に免じて喧嘩はやめてくれや
>>960 いわゆる「オウム返し」発言しかできない
へタレ。
脳細胞が少ない事はよく判った
何か示してみろ。
954 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/01/25(月) 14:31:19 ID:G9NLnIIS0
>>948 半長靴の皮靴で雪の上を歩くとどうなりますか?
957 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/01/25(月) 18:55:58 ID:G9NLnIIS0
>>955 そういう貴方は雪中行軍演習の210人の足周りの装備を把握しているのか?
返答願う。
959 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/01/25(月) 19:08:25 ID:G9NLnIIS0
>>958 煽るだけで知識が無い事はよく判った。
962 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/01/25(月) 19:58:51 ID:G9NLnIIS0
>>960 いわゆる「オウム返し」発言しかできない
へタレ。
脳細胞が少ない事はよく判った
何か示してみろ。
映画スレの空白改行荒らしの奴か。ホントクズだな。
965 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/25(月) 21:43:35 ID:BF7IOse+0
少し荒れているようですが、私も少し質問があります。
動画を投稿されている方は、前回はかんじき、今回はスノーシューというものを
履いていらっしゃいますが、膝まで埋まるとのことです。
(スノーシューは違いますか?ちょっとわかりませんでした。)
雪にはあまりなじみのない者でして、上記のような装備なしでたとえば長靴等で
同じ行程を歩いた場合、より深く足が埋まってしまうものなのでしょうか?
例えば、腰まで埋まってしまうとか。
雪の降る地方の方にとっては、あまり疑問に思うことではないのかもしれませんが、
雪自体があまり身近でない私のようなものは、どうなってしまうのだろうかと疑問を持ちます。
やはり歩きやすさなど全然変わってくるものなのでしょうか?
あー、すみません。
スノーシューで検索したら、いろいろと情報が出てきました。
ちょっと調べてみます。
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 01:46:34 ID:ty73tFu80
ID:V2c+Ss7FP 馬鹿か?
>>968 いちいちそうやって煽らなくていいから(呆)
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 03:51:27 ID:ty73tFu80
>>969 荒らしに構わないで下さい。
荒らしにレスすると図に乗ってまた荒らすだけだから。
972 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 15:20:17 ID:6g33As050
邦画板で荒らしてるやつと同一人物か?
どうでもいいけどそろそろ次スレ立てんね
逆に同一人物じゃななかったら驚きだわ。
あとこいつ毎回たらればのこと書いてないか?
事前に調査しておいたらだの、救助隊を配置してればだの。
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 22:54:24 ID:oS5LH3zJ0
ID:4P45nrBSも自演くさいな。
>>977 ID変えればバレないとでも思ってるのか?自演っていうのはもう少し上手くやるもんだ。
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 23:42:07 ID:RhKTjNde0
新動画が待ち遠しい。
新着があるたびに新動画か、とワクワクする
全くこのスレの勇士の動画は映画より判り易かった
感謝します
沢に下りてそのまま引き返せば事態はここまで悪化しなかった。
しかし沢に下りて彷徨した事が最悪の事態だと
動画を見ているとよくわかる
次スレも宜しくお願いいたします
無理をなされずに出来る範囲で
984 :
858:2010/01/27(水) 19:34:06 ID:YZZRUkJK0
>>858 極寒での会話を気にとめて頂きありがとうございます
寒気は会話による情報伝達を妨げ指揮に障害を及ぼす
この遭難事件は絶望的な沈黙下で進行したような気がしてならないんです。
くれぐれもお気を付けて
>>858=984
大作をありがとう!
臨場感たっぷりで、ハラハラしながら見ておりました。
本当にお疲れさまです。今まで見たどの解説よりもよく分かりました。
ネタも楽しみにしています。
>>984 素晴らしい。感動しました!!
地形図で想像するだけでは分からなかったが、映像で見ると実感できます。
晴れた日でさえこれほどの状況なんだから、吹雪いていたらひとたまりも
ありませんね。ネタ編期待しています。
>>858-984 乙でした!! 最後の「お願い」がこれまた自分も前から思っていたことで......
八甲田はさんざん眺めましたが、確かに「こんな美しい八甲田は......」と自分も
思いました。
山の天気の急変がなかったのが幸いでしたがネタ編期待してます。ごゆっくりどうぞ。