西南戦争薩摩軍勝利の可能性

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1名無しさん@お腹いっぱい。
どうすれば西郷率いる薩摩軍は明治政府軍に勝てたのか考えてみよう
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 16:51:15 ID:/83W5I/u0
無理
武士道なんてもんはあそこで終わる運命だった、ただそれだけ
3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 19:44:06 ID:wIMzHNpm0
西郷どんが全国の不平士族に決起を呼び掛けて積極的に指揮を取ればもう少し粘れたかな
4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 20:00:42 ID:5h03RPKaO
西郷には勝つ気が無かったのでは。新政府を倒すつもりはなかった。だから勝てる分けがない。不平士族に死に場所を与えてやっただけ。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 01:33:36 ID:ldjq2RMX0
西郷小兵衛と野村忍介が指揮を取ってれば
6名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 06:02:20 ID:iwt48Z9SO
そもそも倒幕しなければ
7名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 02:37:47 ID:cFE3AtBN0
東京に船で行ってりゃよかったんじゃね?
8西郷新平:2007/02/23(金) 06:05:16 ID:q8xj10M70
なぜ、西郷は江藤と呼応して同時に決起しなかったのか?
9名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 18:57:00 ID:T3qXVtgd0
なんで西郷が人気なのか謎
会津をこてんぱんにしやがってあのおっさん
10名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 18:03:57 ID:kE+yCw/j0
>>9
会津執拗に許さなかったのは、長州藩では?実際の武力攻撃は土佐と薩摩が
主力だが。
勝利する方法?偶発的にはじまったきっかけではなく、もっと薩摩シンパの
中央要人をまきこみ、兵器を最新化してからでよかったのでは。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/26(月) 04:35:25 ID:e/wKkjEJ0
武器が余ってたからね
12名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 14:07:19 ID:L8xGGCA90
210 :日本@名無史さん :04/09/11 13:05:31
薩摩は、ただの芋軍団w

明治になっても抜刀突撃w

戦国武将が建てた城で立ち往生ww
13名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 20:35:43 ID:VUadH+lH0
728 :名無しさん@七周年:2007/02/22(木) 22:12:21 ID:k9qYDeZ/0

明治10年(1877年)の西南戦争を内戦と見てはならない。

もしもそれが、欧米ユダヤの意図的政策的介入のない純然たる
日本民族の内部の出来事であれば、西郷軍の圧倒的戦勝で
終結していたことを、日本民族は知らなければならない。

日本国内のみを見れば、明治初年の時点ではもちろんのこと、明治10年に
おいてさえ、岩倉・大久保らを支持する日本人は5%以下であったろう。
この逆賊たちの不人気は蔽うべくもない。日本を挙げて人心は、西郷さん、
西郷さん、に涙していたのである。

1877年から翌年にかけて、ユダヤ悪魔教(300人委員会)は、アメリカを
片づける大仕事、南北戦争を終え、ユダヤの日本支配に抵抗している西郷の
一党を取り除くという日本問題の処理ができる条件が整っていた。

ユダヤ・フリーメーソンの全面的で手厚い保護支援のもとに、大久保ニセ政権は、
莫大な軍費をユダヤ悪魔教に保証され、西郷軍を何ケタも上回る火力、機動力を
もって九州に出兵した。つまり、西南の役は、逆賊大久保を使ったユダヤの日本
撃滅戦争として組織されたのである。

だがこのとき、明治天皇の立場はいかなるものだったろうか。
岩倉・大久保・木戸らは、西郷軍を討つこの不義の軍を、明治天皇の名をもって発した。
西郷をこよなく愛された明治天皇は、不本意であったことであろう。

だが、もし明治天皇がこのとき、公然と大久保を斥け、西郷を支持するようなことが
あれば、大久保・岩倉は、一瞬の躊躇もなく、明治天皇弑逆!の挙に出たであろう。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 13:47:09 ID:j/Q8kXAp0
124 :名無しさん@七周年:2007/03/02(金) 11:35:25 ID:0MB1yaMS0
ここで一つ付け加えます。

よくこの「明治六年の政変」(いわゆる征韓論争)は、
西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)
との論争であると書かれている本がたくさんあります。

しかし、それはまったく事実と反します。
★★★
まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
★★★
今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、
平和的使節の派遣を主張すらしているのです。


また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、
大久保がその後にした事と言えば、

明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、
翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
また、朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、
修好条約を強引に結ばせました。
西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保が
こんなことをやってのけたのです。
これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったのかが
分かることでしょう。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm


15名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 01:14:10 ID:4q8wAcTb0
なんだよ。ユダヤってそこらへんの日本人にユダヤとか黒人とかの区別つく
わけないだろ。マンガよみすぎ。
16名無しさん@お腹いっぱい:2007/04/02(月) 22:34:23 ID:qkn5I7Fg0
負けるものは負けるべくして負けた。
勝とうと思ったら、西郷が西郷であること、薩摩が薩摩であることをやめる必要があると思う。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 21:25:48 ID:tKvdh7iB0
国内最強の海軍を駆使し、
一揆に首都東京を攻めていたら
勝っていた。

しかし西郷は日本の未来の為
陸から北上することを選択し
時代の変化に適応できない武士と共に
自決する道を選んだ
18:2007/04/10(火) 14:55:34 ID:uTHCMunj0
熊本城なんか見捨てれば勝てていたと思う。いっきに九州を北上し下関に上陸
し山陽道を進めば.江藤新平や前原一誠の残党の不平士族が呼応し.面白くな
ったであろう。
19名無しさん@お腹いっぱい:2007/04/10(火) 19:35:04 ID:tcpuDC9T0
後からいうのは簡単。
もちろんその意見は正しいとは思うけど
そのときにそう言う行動をとれなかったその時点でダメだったんだろうと思う。
受験生に後からあの問題はこうだったとかああだったとか言うようなものだと思う。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 00:19:52 ID:F9yhU/Fg0
 『歴史群像シリーズ(西南戦争)』で“「異端」ゆえに最後まで忌避された不運の知将
 野村忍介”を執筆した今井公雄だけど…
http://homepage3.nifty.com/imai-kimio/sakuhin/08samurai/baibun5.htm
 昔は中核派の中堅幹部だったんだよ。
http://homepage3.nifty.com/imai-kimio/sisaku/sayoku20y/sayoku20yp4.html
21名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 18:00:11 ID:5B10TNoY0
>>17
自決は極端だが、陸上による東上は一種の駆け引きだったと思う。
薩摩兵は強い、というのが威嚇効果があると思ったのだろう。
ただし、明治政府は一切応じなかった。この判断は正しい。
武士を何とかせいと言われても、何ともする必要はなかったからね。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 18:25:44 ID:uXdTBAOt0
でも薩摩が勝ったら、日本滅亡だよね・・・
23名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 01:30:26 ID:h/bqb2mO0
上田滋という方の本で陸上による東上の理由として21の言っているような事が書いてあった。
西郷の威名を絶対視して政府をみくびっていたと。
あと、西郷はあくまでも「糾明のための上京」で、正理を主張するためという姿勢をとり、戦争準備の
体制をとることを認めなかったのでは、とも書かれていた。
だから薩軍の行動は戦略も事実上無く、一種の「示威行進」や宗教的一揆のような感じだったらしい。
西郷自身は家族に「もう帰らない」と言っていたそうだから、それが本当なら
勝とうという気ははじめからなかったんだろうね。
上京できたとしても、政府を転覆させる気は少なくとも西郷自身はなかったのかも。

この本自体凄い西郷贔屓だったし、自分自身素人なんでどこまで信じていいのかわからんが
個人的には結構納得できた考えだった
24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 18:28:00 ID:Hso7QOhC0
>13
維新以来、この国がユダヤに魂を売ってしまったのは事実。倒幕派を影で支えた
グラバーもフリーメーソン!世界史は古来より現在までサタンに操られる偽ユダヤ
が影から動かしてきたのは事実。郵政民営化も同時多発テロもイラク戦争も・・・。
そういう事に気づかない、気づこうとしないのは日本人の悪いとこだと思います。
(そういう話になるとすぐ現実を確かめようとせず、すぐオカルトに持っていく。
UFOにしてもそう。どこどこで目撃された未確認飛行物体は○○であった事が判明!
ミステリーサークルは自分たちがやったと犯人がマスコミに名乗り出る!・・・。
あ〜!やっぱりそうだったのか!←怖いので否定材料を求めている!1回でもそういう
ニュースを聞くとすべて偽者だと決め付ける!・・・安心な方へ逃げる。)
ただここは「西南戦争スレ」!そういうネタは他所でどうぞ・・・。
 酔ってて前ふりが長くなってしまったが、これは多くの歴史家も言っている事やが
熊本城にこだわらず、どんどん北上して不平士族を巻き込みながら本州に上陸して京都、
江戸へと向かうべきだったと思う。佐賀の乱や萩の乱に見られるように当時、新政府に
不満を持つ、元侍や民衆は山のようにいた。そうなれば朝敵にされた俺の母親の高祖父
(備中松山藩士)もうかばれとったかもしれん。俺の母方の家系は新政府のせいでえらい
目にあわされとる。母の祖父は203高地で乃木(元長州藩士)の無謀な作戦で散っとるし
母の父親も名前も聞いた事のないような南の島から命からがら生きて還ってきた。
それにしても、今だ長州藩士のひ孫が総理大臣とは・・・。
(酔ってて文章多分、めちゃくちゃ!読んでくれてありがとうございます。)
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 18:09:06 ID:+ZdF8lJM0
208 :非公開@個人情報保護のため :2007/05/16(水) 13:32:03
霧○市の市長の公用車運転手妻との不倫、旦那にばれて慰謝料を自分の選挙の後援会
から払わせたこと(政治活動の支出として処理)、自分の後援者への不明朗な資金流出、
協議会旅費での海外視察(復命の必要がないため、海外でやりたい放題)を調べています。
この人は、自ら現場にでかけ、同行した業者に設計をさせ、その業者に入札させるとんでも
ないおじさんです。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 13:09:26 ID:dtoBuS3B0
西郷は、地元での挙兵を受けて、海路で東京に談判に行けば良かっただろうな。
薩摩に海軍の基盤が弱かったのが痛い。幕末はそれなりにあったのだろうが。
逆に言えば、海軍力がなかったのが、薩摩の敗因。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 06:24:54 ID:JpST7oIt0
行政管理室に電話をしました。中渡瀬氏のことも聞くために。
担当者、西氏と電話が繋がりました。
流出の件を聞くと、担当の者(上の者)がいないと言われました(まただw)
担当者は、何名いるのか聞くと4名だと回答をもらいました。
中渡瀬氏については、今回の処分で最終だということでしたが、任天堂のROMの件。
被害者女性の画像を削除しないで、自分だけの画像を削除した件や、県の職員が第一発見者なのか聞いた所、私個人はそこまでわかりませんという回答でした。

中渡瀬氏に電話を代わるように伝えると、えつだ氏という人が電話にでました。(さっき上の方はいないといってましたが、いましたね。また嘘ですか^^;)
中渡瀬氏は、行政管理室にいないので代われないと言われました。
熊毛支庁に電話をすれば対応してもらえるみたいです。

今回の1300名〜1400名の情報流出と裏金の資料について問い詰めました。
そうすると調査中とのことでした。
情報を流出した疑惑の人についても事実確認と調査中との回答でした。
電話は、17分(録音済み)しましたが、まぁ予想通りの回答でした。
流出した件についての対応はどうするのか聞くと、個人については、対応を検証中。
流出した情報は一生ネット上で出回りますが、どう対処するのか聞くと、それについてはそのような専門部署があるのでそちらでと言ってました。

嘘で固められた鹿児島。
身内擁護の鹿児島。
県民の皆さんには大変失礼ですが、この鹿児島県庁は、本当に終わっています。
腐れすぎです。
今後も間違いなく、流出は続くと断定しておきます。
http://www.mudaijp.com/wp/?p=405
28名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 08:22:13 ID:DwRwVbcp0
勝利の可能性って。。
熊本城を陥落させれば不平分子が放棄して日本転覆しただろ。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 09:19:11 ID:v4oxcRjiO
西郷は政府を潰したところで盲眛な昔ながらの芋薩摩武士が政権を打ち立てたところで日本を潰すだけだ。
もはや近代化日本では武士は足手まといなだけだと理解していたと思う。
私学の連中がいきり立つ中にいて西郷は醒めてたと思う「おまいらが政府作って何ができるのか?何もできないだろう」
やはり勝つつもりはなかったが政府には反省はしてもらいたかったから、同情すべき薩摩兵に命をくれてやったんだと思う。
そもそも彼らには新政府を作った場合の構想やビジョンがなかったから共感して各地から援軍くるわけでなく孤立していて負けるの当たり前。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 09:32:38 ID:77cWFt7XO
たしかに西郷が勝と思っていたとはとても思えない
日本について知りぬいてるし幕末志士の中で計数に一番明るいし。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 02:27:53 ID:1eE6MbuB0
政府の密偵がかなり私学校に入り込んでいた形跡はあるので、難しかっただろうが、
やはり他地域との提携に立った、同時多発的方法しかないだろう。
@大久保暗殺を、腰抜けと思われた金沢士族にやらせる。
A土佐立志社の少なくても一部を抱き込み、私学校より先に決起との情報を散布。
B熊本城焼き討ちと、福岡士族の決起を同時に行う。
C三菱の汽船と新橋横浜間の六郷鉄橋を爆破。
D横浜の居留地を襲撃し、外国の民間人を人質にとる。
E本隊、鹿児島進発。同時に貴島隊、豊後路を目指す。
F熊本鎮台を野戦にもちこみ殲滅。降伏した将兵は部隊に繰り込む。
G鶴岡や弘前の士族による東北陽動作戦開始。
H名古屋や金沢、広島で放火を多発させる。
I小倉、長崎、福岡占拠。
J勝海舟を仲介者にして政府との交渉開始。
K徳川慶喜公に調停を依頼。三条・岩倉・伊藤・山県更迭。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 11:07:19 ID:nsvshVk2O
おれがしりたいのは、熊本城陥落があれば対局はどうなったのかなんだよ。どうなったの?可能性はあった。あと一週間粘れれば城兵は餓死者が出始めるということ
33名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 02:58:22 ID:3mOOpuxI0
>>32
熊本城は、篠原の主張通り、損耗を顧慮することなく全軍の力で攻めきれば、
攻撃翌日の2月23日には落とせたかもしれない。
しかし、消耗した兵力で田原坂を守りきれたかどうか疑問である。
西郷小兵衛が戦死した高瀬の戦い程度の損害で済めば別だが、その程度では済まなかっただろう。
おそらく、数日後には政府軍に逆包囲され、田原坂と違ってかえって薩軍主力を捕捉しやすくなる。
鹿児島からの増援も、海軍で城下を監視、緑川に阻止線を引いて遮断。
弾薬では勝るので昼夜問わず、会津鶴が城を上回る砲撃をかける。
最後は3月末に砲弾下を生き残った薩軍が城門を開けて玉砕しただろう。
また、田原坂が突破される以前に熊本鎮台が降伏した場合も、多少の兵力の増援で攻防を長引かせただろうが、
結局は衝背軍に背後を突かれて熊本城に立てこもるか、やはり人吉に撤収するしかないだろう。
政府軍の脅威になるかたちで別の地方の士族が呼応するとしでも、
結局は数百名程度の決起で、逆に対立派閥や近隣の士族隊に阻止されてしまっただろう。
やはり>>31で書いたように破壊工作やテロしか方策がなく、それでも全体の動きに変化はなかっただろう。
熊本城にこだわらなかったからこそ、9月まで戦えた。
なお、熊本鎮台が反乱を起こし、樺山が谷と児玉を斬って西郷と合流したならば、局面は違ったかもしれないが、
現実には可能性は皆無だっただろう。


34名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 11:02:06 ID:qvnbN8qa0
落とせたかもしれない、がすごく重要な点だと思う。
仮に、すぐ逆包囲されて奪還されるとしても、何週間?かあるいは一月単位に
占領が長引けば、とたんにマスコミが全国ネットで「熊本鎮台陥落!」を報道する。
そこから何が起こるか。報道管制は無理ではないか?
そんなに、地方の不平分子は弱体だったんだろうか?
35名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 20:13:43 ID:fnPQ5/pyO
海軍の有無だった。もし官軍の八代上陸があんなに大規模な成功を収められなかったなら、熊本城陥落は必至なので、権威の象徴が破られたという歴史的意味合いが後世までちがうものになったはず。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:56:51 ID:8GKzSUhl0
敬神党にはわずか170人で軽々と落とされた。
一方、西郷は一万を越える兵でも落とせなかった。
何なんだこの城は?
37名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 02:18:02 ID:S0xWkMda0
>>34
熊本陥落を鹿児島占領が帳消しにした可能性もある。
また、薩摩と違って他県の士族はほとんど小銃や大砲を所持していない。
政府を支持する士族が多いからこそ、秩禄処分が粛々と行われたという事実もある。
ただ、戦いが長引くと別働旅団を肥大化させ、彼らの待遇が戦後に大きな問題になっただろう。

もし、たらればでいうと、
@1万の兵力で熊本城を落とし、捕虜を兵力に加える。
Aこれとは別に、貴島清指揮下の日向諸藩の部隊が大分を占拠、中津隊を編入
B立志社有志が決起、船で大阪に上陸
C福岡上陸の政府軍は、@に備えて高瀬に待機、Aに備えて一部兵力を広島鎮台とともに小倉に派遣。
D大阪鎮台兵の残余および、大阪に集結中の名古屋鎮台兵はBに警戒。
E郷士隊は鹿児島を固める
という展開もありえたが、海軍がないのは致命的だろう。
もっとも、鹿児島や延岡と違って、熊本は艦砲が届かない位置にあるが。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 02:25:18 ID:1b+L01HK0
【薩長軍は強姦部隊】

会津では老女から4歳の子供に至るまで、阿賀川の以北で暴行されずに残った
者はほとんどいないと言われている。しかもその残虐行為は上からの指示による
とも伝えられている。薩長軍が会津城下に突入して制圧した際、明治天皇は兵士
に対し「会津はおまえたちのものだ」といい、3日間の祭りを許可した。
会津の女性のほとんどが薩長兵によりレイプされ、奥羽列藩同盟に届けられたもの
でも10万件を越えた。また暴行による自殺者は6000人を数えた。
(「カラーで見る戊辰戦争・勝利と絶望」1999年12月10日、NHK教育
放送)
明治天皇の息子の証言もこれを裏付ける証言をしている。それによると、
明治天皇は東北を荒廃させることを奨励し、それに喜びを感じていた。
官軍の残虐さを許すことで東北の嫌悪を買い、親しくなることで堕落しないように
しむけた、といった複雑性を含んでいたという。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 01:36:18 ID:Lfc0XVZs0
熊本敬神党と手を組む。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 12:37:14 ID:+3z+jLud0
致命的な理由は、あくまでも、当時、人口の一割程度の士族のための反乱であって、
人口の大部分を占めていた農民の支持を得ようとはしなかったことだ。

仮に、熊本城や田原坂などで軍事的に勝利を収めたとしても、
それ以上の政治的なビジョンがないのだから、戦略的な勝利は得られない。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 22:28:14 ID:7iJXB30D0
そもそも熊本鎮台と戦闘になると思ってなかったんだろ?
政府に尋問の義これ有り、よって西郷大将を出迎えて整列せよってさ。
>>あくまでも、当時、人口の一割程度の士族のための反乱であって
この通りであいつらがもっと謙虚で思慮深ければいくらでも勝機はあっただろうさ。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 01:07:15 ID:UV2xLYwJO
政略。戦略がまずすぎる。
ほとんど突発的な暴発。勝てる可能性はない。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 02:49:27 ID:/iRkbzl00
敬神党が勝ったらね.
44名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 11:41:59 ID:l6UsQrzD0
熊本城を占拠できても、そのあと政府軍に包囲され、兵糧攻めにあっただろう。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 21:48:13 ID:EhxxM+U50
政府軍と薩軍というよりも日本政府と鹿児島県というくくりで考えればすぐわかる。
戦略とか戦術は枝葉。
財務状況(=戦争に当てられる費用)と人数(=兵員数)だけでも圧倒している。
おまけに、外交的にも日本政府は海外からの協力も得られる立場。
そう考えれば、薩兵が強いとか熊本城が落ちる落ちないとか無意味とは言わないけど全くの枝葉。

46名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 22:13:09 ID:ALcbOLeD0
>>40
薩摩に士族はいないぞ。
半農藩士のなんちゃって武士がいるだけ。
47名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 12:46:42 ID:ITUjnOzP0
郷士は農業やってたわけじゃーないよ
農業以外の産業に手をつけてたよ。鍛冶とか。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 06:19:00 ID:POSdrB1t0
>>45
大英帝国とドンパチやっちまう連中だから仕方あるまい。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 07:25:35 ID:IigIkryyO
ウィキ見ると官軍も薩軍も戦死者数はあまりかわらないんだね
意外だ
50名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 09:37:52 ID:xmEP4CEF0
>>49
硫黄島だってそうだろう
51名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 11:34:51 ID:G3NYdj510
>>48
ほとんどは農民だよ。
いずれにせよ農民や鍛冶屋に刀や鉄砲を持たせ、倒幕の機会をずっと窺ってたのが薩摩藩。
現代でいえばアルカイダのような集団だね。
明治になってその反政府テロ組織が解体されそうになったので、武力で抵抗したのが西南戦争。
薩摩が勝つ見込みはほとんどないけど、万が一勝ってたら日本は終わってた。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 12:29:41 ID:uNDTKVHmO
万が一勝っていても近代化は避けられん
大久保や伊藤が西郷や板垣に変わるだけ

53名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 18:37:12 ID:VYHs9eERO
元士族 抜刀隊


村田新八
54名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 19:25:47 ID:OTwXUaQ7O
豚骨ラーメンた!
55名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 03:01:04 ID:SVnO3TET0
ぶっちゃけ下野早々に反乱ののろし上げてたら歴史変わってたかもよ
首領の西郷が武力蜂起の意思最後まで持たなかったのが
敗因といえば敗因
56名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/17(水) 21:25:25 ID:UAUJMOl/0
>55
下野するまえにこのえ師団を率いている篠原と桐野を用いて太政官を占拠
すればよかっただけ。でもそれをしなかったのが西郷の偉大さ
57名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/17(水) 22:08:49 ID:+f4jzbguO
薩摩藩士、薩摩4人1人が武士
まっ下級藩士だけど
薩摩が財政難になった理由の一つが武士の多さ
西郷隆盛も大久保も下級藩士 庭先に畑を作る貧しき藩士
58名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/19(金) 01:25:25 ID:6vBCzLwwO
マジレスすると西郷は勝ったよ!
長州出身で後に日露戦争の陸軍で活躍した指揮官から錦の御旗奪ったんだから
59名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/24(水) 21:43:54 ID:SgbU45BW0
あいつが活躍ね・・・
60名無しさん@お腹いっぱい:2008/09/25(木) 20:02:38 ID:vqf7yFAf0
薩摩出身の政府軍ってどれくらいいたんでしょう?
61名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/26(金) 23:01:26 ID:CcyPZZYbO
『薩摩軍の編成』

総指揮官…西郷隆盛
参謀格…淵辺高照
副官…仁礼景通
1番大隊大隊長…篠原国幹
2番大隊大隊長…村田新八
3番大隊大隊長…永山弥一郎
4番大隊大隊長…桐野利秋
5番大会大隊長…池野四郎
6・7番合大隊…別府晋介 6番隊長…越山休蔵 7番大隊長…児玉強之助

協力諸隊
62名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/26(金) 23:54:30 ID:CcyPZZYbO
>>60
ゴメん
新政府軍の側の元薩摩藩士ことか?
63名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/27(土) 03:11:59 ID:REOxhEGgO
勝利の可能性は西南戦争の時点でゼロ
あえていうなら下野直後
それも綿密な計画のもとで協力関係を強化しながらすすめられなければならない。
大久保としては各個に撃破できれば満点
西郷にそんな気がなかったのは明白
64名無しさん@お腹いっぱい:2008/09/27(土) 08:37:20 ID:ANdbpXE40
>>62
そうです。大山巌、川上操六、野津兄弟、樺山等
が、薩摩出身の新政府軍の代表格ですが‥
西郷の下野にも近衛兵として東京に残り郷等らと
戦った薩摩出身の新政府軍兵士の人数です。
65市民:2008/10/24(金) 12:34:20 ID:nEuNcs0u0
西南戦争以来鹿児島の警察は特殊だった。

http://love.45.kg/mo0202/99/police.html

政府に対する謀反の取り締まり機関だった。

日本政府のよやる手口に、下の者に上のものを
いじめさせる手法がある。

気に入らない課長を部長がやっつける時、直接手は下さない。
課長の部下に課長を攻撃させる。

課長は部長に泣きつくこともできず、人事部は放置する。

鹿児島の場合、部長が日本政府で奄美群島が部下たちだ。
安岡・徳田に金をばらまかせ、巨大な政治集団を作り、
鹿児島を政治的に支配している。

鹿児島が離島の人間に教えてもらう事は何もない。

すべて金のなせる技だ。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/24(金) 13:56:50 ID:A6eZYZBg0
西郷は陸路をとったんだよね。
海路からいけばまだよかったかも
67名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 12:39:24 ID:5m+ZZwnS0
薩摩って、新政府では一番の大勢力だけど、
しょーも無い奴(血気逸る奴ら)ばっかりなんだよな。

それをまとめて処理してくれた西郷さんはやっぱりすごい。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 15:36:47 ID:vSzVCwIU0
このようにならなくて良かった日本の内戦
1.戊辰戦争で欧州列藩同盟勝利
2.西南戦争で薩摩軍勝利
どちらが起きても日本の内戦が長引く結果となった。
当然そうなれば欧米政府や死の商人に付け入られる隙になる。

どうせ考えるなら内戦を避ける手立てが無かったかにしてくれ。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 11:59:06 ID:l58H/tRk0
西郷が本気だったら全国の不平士族を糾合して
大久保と壮絶な謀略戦を展開してただろうけど
どう考えても勝つ気がない やる気がないとしか思えない

慶喜にその気があれば、奥羽越が勝つ可能性は少なくなかったろうけど
70武士道:2008/12/13(土) 18:55:11 ID:P0FuIEt80
田原坂戦あたりで勝海舟が間に入って停戦していたら
西郷を含め薩軍の人材も失われずにすんだのに‥
西郷、大久保がお互い協力してつくりあげた日本は
今の官僚社会とは違ったものになってたはず
71名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 19:27:42 ID:DA92fJGM0
西郷軍が原爆を持ってたら勝てただろうね。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 19:27:54 ID:qDTY/3HH0
>>70
ほら吹き男の勝にそんなマネができるワケがない。
だいたい江戸戦争が避けられたのは、イギリスのパークスのおかげ。
勝や西郷が決めたとする俗説は妄想にすぎない。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 21:46:11 ID:l58H/tRk0
こういう戦争に停戦はありえんよ
74名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 01:49:29 ID:HyIM9U0vO
>>70
言ってしまえば薩軍が目指してたのは「幕府」だからな。
いわば足利尊氏だよ。

大久保らと共に新しい日本になんてとんでもない。
室町時代に戻るだけだよ。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 21:00:56 ID:K4dt2OSWO
西郷はゴルバチョフの様に不平士族を周りに集め明治という新しい時代の為に自爆した 真の英雄であった
76名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 21:24:25 ID:hhnk/Ewm0
やるなら下野と同時に東京で決起。

薩摩からそれに呼応して大挙上京しかないお。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 23:25:00 ID:oaJXGOxh0
久光の出馬
78土屋 文明:2008/12/15(月) 11:38:04 ID:zW619xWPO
西南戦争って西郷隆盛が大暴れした戦争ですね。
簡単に言えばデブがキレちゃったと。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 18:15:44 ID:8Id0vj8GO
一年ぶりだ。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 18:43:00 ID:QSbxD0x20
薩摩と会津が組めば、おそらく
勝てただろう…
81名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 20:18:52 ID:8Id0vj8GO
西郷が永山の案を、受け入れていれば
82名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 21:06:55 ID:JSuyPveA0
熊本城を無視し九州に割拠か本拠の東京つくかでどうなったかわからない
83名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 21:18:05 ID:8Id0vj8GO
九州割拠が現実的
84名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 21:51:53 ID:JSuyPveA0
在野には反政府世論だらけでいかにこれらに火をつけるかが勝敗の分かれ目だった
それが九州の下の方の熊本城でごたごたしてしまったから萎んだ
85名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/17(木) 02:54:56 ID:sNACLsTW0
普通に考えて西郷は勝つつもりなどなかっただろ
あったらわざわざ以前に起きた中小士族反乱や
地租改正反対一揆に呼応したし
そうすればおそらく勝っていた。
それが分からないほど馬鹿じゃない。

明治政府に加担したのに特権を奪われてゆく
ある種正当性をもった士族の明治政府への不満を
解消するためあえてずらしたんだよ。
もちろん明治政府の留学組も西郷の意向は感じ取ってた。
元部下の山県有朋の手記「今日も前が見れない」って知らない?
涙で、を伏せる辺りがなんともいえないアツイものを感じるわ。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 21:13:06 ID:g0DTB/cU0
>>1
考えても無駄
87:2010/01/16(土) 18:33:22 ID:Pl7kO6DC0
.
薩摩藩士が西南戦争最中、中央アジアに居た

http://pwvx.hp.infoseek.co.jp/0202/5/150.html

その頃に中央アジアで何を調査していたのか…
88名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 14:43:21 ID:bzNcMBtJ0
桐野や篠原が陸軍のボスになってたら
どんな軍隊になったんだろう?
89名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 15:43:42 ID:Dzr6waZY0
薩摩側には生産力も兵站の当てもない。どうやっても続々増援される相手に勝てるわけがないよ。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/27(水) 00:47:02 ID:V9RVnHp50
日本の対外戦争そのものだな
91名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/28(木) 12:24:29 ID:72GbHvbWO
そも、戦略目的が何なのかが分からんので、割拠とか言っても何とも。
新しい政府を作るような勢いでもなかったようだし。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/29(金) 06:10:40 ID:Ps4dWDsYO
西南の役当時の薩軍は海軍力が無かったからな
榎本みたいに軍艦強奪して別地というわけでもない
西郷は地元に帰り隠居暮らしで戦争勘が希薄
故に陸路しか道も進めず政治的なビジョンも無い行軍
久光と連携が取れない時点で最初から負け戦
大失敗クーデターで終わり
93名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 21:36:28 ID:KlvkntAG0
外国が、真剣に支援しないとむりだろうな。(国レベルが支援しないと物量も兵器も劣るし、全国の士族が立ち上がろうにめも、貧乏すぎて自前で武器、弾薬を揃えるのはむりだ。)
戦略として、最初に威勢よく、熊本城をたやすく落として谷のクビでもとれば同調する雰囲気が国内に出ただろうし、そこそこやれたかもしれない。
戦術も、刀ふりまわすだけの時代なら精神力がつよい方が有利だけど。(双方同条件だから)
大砲と小銃で打ち合った後、白兵戦の時代に、幾ら精神力が弱くても、湯水の如く圧倒的に、物量が違えは精神力なんか関係なくなる。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/03(水) 11:00:44 ID:5mcLHXrG0
鎮台兵を舐めすぎだわ。
百姓階級出身で実戦経験無いとはいえ、全国から選りすぐって採用した連中だろ。
なんのソースも無いが、鹿児島兵よりみな体が一回り大きく精悍だったんじゃないか?
現代で言えば、

鹿児島の低身長ブサメンのおっちゃん VS 高身長イケメンスポーツ万能兄貴

みたいなもんだろ?
95名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/03(水) 11:30:19 ID:BoW4Pfma0
>>94
そこは、ソースがあまりないからなんとも、
比較した資料もないし。
ただ、政府軍は、百姓ばっかりじゃなくて、近衛は、士族で組織されていたし。
大量に投入された巡査隊は基本は、維新で落ちぶれた士族で構成された隊も数多く参加している。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/04(木) 04:19:05 ID:bwFnaHTL0
本気で勝つつもりだったんだろうか?
そりゃ勝つに越したことはないけど、西郷としては
やっぱり滅び行く士族たちに最後の死に場所を
与えてやりたかったのかな…
97名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/04(木) 07:56:07 ID:M8+nq6hu0
死に場所うんぬんの話しは200%ない。
後世の鹿児島人の作り話というか負け惜しみ。
そんなウソ話がある種の現実味を持つほど、
西郷軍の戦略戦術が粗雑で非合理的であったということでもあるが。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/04(木) 12:05:44 ID:DOEgDCG30
というより念密な計画じゃなく、弾薬奪いで連座的に暴発した形だからなぁ
99名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/04(木) 12:32:53 ID:NAt3S7f50
>>97
戊辰戦争と同じやり方しようとしたんだろう。
あのときは、錦の御旗掲げてほとんどの藩が天皇には逆らえぬと「金か兵隊」を供出させられてる。
もっと言えば、大阪の豪商にとんでもない額献金させてその金で戦争した。
そのくせ、征韓論に敗れて、
都合悪くなったら「尊王」を掲げてた連中が天皇を捨てて鹿児島へ帰ってる。
尊王なんて所詮は建前だってことだった。
西郷>天皇な思想がいつの間にか鹿児島に出来上がってしまって、
それが他の地方でも通用すると思いこんでしまったのでは?
行く先々で「西郷」は天皇並みに敬われ、畏敬の念を表すと。
もっとも、寺田屋事件で処分された、
大山、従道、篠原、永山らの末路をたどってみると、全員がそうだったとはいえんがね。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/05(金) 01:40:54 ID:MYjKtzjX0
幕末・明治の頃の薩摩では、カツオの豊漁が続き、
平均身長が日本人全体の平均より、はるかに高かったと言われている。
 ・日本人男子の平均身長=155cm
 ・薩摩隼人の平均身長 =170cm超
もっとも、小柄でずんぐりしているのが薩摩人の典型的な体系だが。
維新の頃には上記のような例外的な現象が起こっていた。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/05(金) 07:56:03 ID:skDZRyo80
>>100
それはさすがに眉ツバだなあw
ソースは?
102名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/05(金) 12:45:33 ID:BGxmQIr70
>>100
ググっても、それらしいもんでてこないなぁ。
(ネットの情報がすべてとは思わないが)
西郷が180超えてたとか大久保が178だったとかは
でも、体格はみんな良かったように思う。
篤姫とか写真で見る限り体格よすぎだろう。
あれ、絶対成長期にスポーツしてないとあんな骨格にならないよ。
今の考えならば。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/05(金) 20:18:45 ID:IHqLh6ns0
薩人皆、背低く手脚短し。物笑いの種哉。

薩摩兵を目撃した江戸町人がたしかこんなこと書き残してたはずw
104名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 01:51:26 ID:ORkV7G640
ちびデブの薩摩芋と、もやしの江戸町人か…
構図が目に浮かぶなw
105名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 07:06:52 ID:YqGl71UC0
薩摩人でも東郷元帥は155ぐらいじゃなかったか
106名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 09:06:36 ID:B0Ix0+bfQ
鹿児島は市内や内陸部の田舎は
基本的にずんぐりむっくり体型だよ
島の人は高身長で痩せ形が多い
107名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 11:37:42 ID:eJ1h0ip30

鹿児島人の主な捏造話し

・英国ボーイスカウトの起源は薩摩郷中教育
・西郷が奄美に流刑中、藩の圧政を憎み、島民とともに蜂起→代官をこらしめる
・西南戦争ははじめから滅ぶつもりの戦だった

・幕末明治の薩摩の平均身長170cm超wwwwwwww

ここまでくると『ムー』とかそういう次元だわw

108名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 14:10:01 ID:bBm/hHdD0
写真見ると薩摩出身者はイケメン多いけどな
109名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 14:55:53 ID:LhnIEloC0
大久保が「薩摩だけ独立国の様相を呈してるなんとかならんか。」
って大山綱に言ったら「無理、お前やってみろよ」って言い返された。
ほんで、
・薩摩にある弾薬の回収
・警視庁の帰郷組
に挑発させたのは、西郷が益満休之助を使って幕府挑発しまくったのと同じ戦法なんじゃないか?
大久保は軍事力でも薩摩に勝てるっていう確信をどこまで持っていたか疑問だけども。
・長期戦になれば官軍有利
・列強各国は薩摩を応援することはない(現政権認定)
・佐賀も長州・敬神党等西国のおもだった不満分子は排除済み。
・どうしようが天皇はこちら側が握っている。
・久光もの権力も限りなく排除できる(所詮殿さまだから行動力なし)
・私学校を排除しない限り、自分の思っている政治に支障をきたす。
って見きったっとおもう。
唯、鎮台と警視庁の軍事力をどの程度評価したのか、誰からか理論明晰な分析を聞いたのかは謎だな。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/06(土) 20:56:04 ID:MU1nxU5M0
政府側が慌てた印象は無いな。
薩摩最強神話ってのも、政府側の薩摩人にとっては
あの時は幕府が弱すぎたからなあ、ぐらいに思ってたかもしれないし。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/07(日) 22:49:17 ID:ickfG/RZ0
>>107
西郷は蘭領東インドの強制栽培制度でもそこまでやってないってレベルの
奄美の黒糖専売制を維持させ、その収益を西南戦争の戦費に当て、廃止を
嘆願しに来た島民は監獄にぶち込んだ挙句に無理やり従軍させてるからな。
敬天愛人とか空々しい戯言だわ。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/07(日) 23:40:12 ID:My3ZrL160
>>110
ただ、佐賀の乱の時ほど、手回しがいいかって比較すると大久保の行動力は素早くない。
あまり直接はかかわら無いで一定の距離を引いてたような印象を受けるなあ。
これも気のせいかな。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 00:23:06 ID:wceXTrnR0
薩摩が自由民権運動を藩論化(県論化)すれば、
もういっぺん維新の再現ができたかもしれんがなあ。
自由民権とは正反対の全体主義的お国柄の薩摩じゃ無理か。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 15:46:45 ID:153dsdW90
汽船3隻しかないからなあ。
でも野村忍介の三道案で、豊後から土佐に突っ込んでそのまま大阪と言うのが、
大阪取れないまでも一番、政府が混乱しそうな気はする。

根本から言うと、鎮台が整うまでに、佐賀や萩に呼応してもっと早く決起するべきでした。
明治7年段階なら、土佐には林有造もいたんだから。
115名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 18:37:45 ID:Srp1iWp10
もう、持久戦は無理なんだから、大阪湾から伏見を経て、御所を襲って天皇確保。
木戸と大久保と三条粛清。
一隊は江戸に派遣して岩倉抹殺。
ぐらいしか出来んだろう。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 20:10:38 ID:1ABAUMC40
薩軍のダメっぷりを考えると、
鳥羽伏見もニセ錦旗が無ければ
どうなってたか分からんわ
117名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 21:57:28 ID:Srp1iWp10
>>116
すれ違いだけど、あんなちっこい籏でよく敵さんもわかったもんだねえ。
鳥羽伏見以降、旧新選組の面々が小銃隊に向かって、切り込みをしとるんだが、ことごとく失敗してる。
しかし西南戦争ではわりかし、薩軍の切り込み作戦が成功してる印象がうかがえるなあ。よくわからんね。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 22:13:29 ID:cAR3ALNt0
鎮台兵だからじゃね>薩軍の切り込み成功
119名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 22:22:33 ID:Srp1iWp10
>>118
賃代は弱いかもしれんけども、湯水のこどく銃弾を使用し、薩摩が、ミニエーだってのに、賃代は、最新型の後備装?銃を使ってた。なかなか物理的には切り込みは難しいと思うんだよなあ。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 00:21:54 ID:kuCabB7Z0
切り込みといっても、田原坂では夜陰にまぎれた奇襲が多かったらしいからな。
銃が使えない状態では逃げるしかないだろう
(当時銃剣はすでに存在していたが、西南戦争で使われた記録は無いようだ)
121名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 00:40:57 ID:DfMG0MIX0
>>120
日本軍の夜間の白兵突撃の原典だろうか。
戊辰で立見がよくやったと聞くが、
122名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 02:48:38 ID:0Rf9IdSX0
熊本城攻めたのが全て失敗
堅牢な城で手間取って釘付けになった
当事全国の世論は反政府だったし、熊本を無視し全国規模で展開し反政府を立ち上がらせるべきだった
123名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 12:29:05 ID:DfMG0MIX0
薩摩のナルシストぶりじゃ、むりじゃないかな。
自分達は強い。よその国は弱兵だからあてにならんというようなおごり。
世論が沸騰していたならば、西郷が立ち上がった時点で各地で自発的に立ち上がったと思う。
でも、そういう現象がおこっていなかったということは、
・様子見(うまく進めば参加する)
・金がなくて立ち上がろうにも、武器弾薬購入付加。
・東北地方は、士族が政府軍の警察隊として多数動員されており、
 「戊辰の復讐じゃ」っとやる気まんまんに政府軍に乗せられた。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 13:07:53 ID:erXmsoNc0
>>123事実強かったんじゃない?でも桐野の自信過剰ぶりはやばいなw竹棒一本で熊本城を落としてみせるって嘯くくらいだし…。敗戦目前の頃、高価な金時計を仲間から買い取ってたってのは最後まで状況わかってないな
125名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 13:25:06 ID:OPTyp4lK0
薩摩の師団って強かったっけ?
126名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 13:39:27 ID:320om/Ja0
そもそも自発的に連動して各地の不平士族が立ち上がるとは思えん
根回しとかの政治力がそれなりに必要
127名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 13:50:21 ID:DfMG0MIX0
第六師団(熊本、鹿児島等)か第八師団(東北地方)のどちらかが、日本最強ではないだろうかとは何冊も本に書かれていたと思う。
薩摩の士族は強かったというが、強いって根拠は戊辰に勝っただけじゃね?
確かに強いけども圧倒的かといわれるとどうも・・・
、(一部旧幕府歩兵軍の方が装備がすぐれていた)
弾薬等の兵站は奥羽同盟よりよほどすぐれていた要因も多かったし、
函館戦争では、二股口(記憶ちがいかも)で35000発小銃発射しても
20人ぐらいしか政府軍死んでない。
敵が弱すぎたのでは?
128名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 18:08:50 ID:g+EXCdqc0
師団の話になると
キチガイ牛が沸いて来るぞ
129名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 00:35:36 ID:P4CHN+kD0
薩摩武士が強いってのは、戊辰の勝敗が起因ではなく、戦国時代から有名なんじゃないのか?
圧倒的かはともかく・・・戦いぶりから常に勇猛であったことは事実だ。
家康にしても関ヶ原後、島津に対してだけは強気の姿勢を見せられなかった。
薩摩との諍いを避けるようにして、領土を削ることもなく、そのまま安堵している。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 09:35:11 ID:QnOfrQli0
戦場で死ぬことが武士の最高の喜びと徹底して刷り込まれ、
薩摩人=最強 という自己暗示で己れを奮い立たせていたんだろうな。

しかし桐野ら一部の薩摩人は自己暗示が効きすぎたようだ。
131名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 10:47:24 ID:6lykLvZi0
>>129
その辺りの歴史に疎いからよくわからんが、
朝鮮出兵でわずか、6000で370000の朝鮮・明の兵を破ったとは読んだことがあるし。
関ヶ原でも、西軍がまけたら中央突破を図っって成功した。
ってぐらいだなぁ。
強い割には、薩摩日向大隅ぐらいまでしか支配できてない。
>>130
それ太平洋戦争じゃん。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 11:09:08 ID:iaVrh9WZ0
最大瞬間風速であれば九州の大半を手中に収めたと思うが

秀吉がいなけりゃ九州全土完全に制圧したと思うよ
更に東に進むのは水軍戦に強い大大名がいるから不可能だろうけど
133名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 12:13:15 ID:6lykLvZi0
>>132
このころの傾向からして、城攻め苦手、防御苦手って感覚があるな。
野戦向きってのが、傾向なのか。
豊臣8万(10万説もあり)VS島津35000
って3倍の敵だから仕方ないっちゃないけど、
134名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 13:25:34 ID:iaVrh9WZ0
対豊臣戦は相手が悪いわなあ
一応戸次川では勝利してるけど、本隊が侵攻してきたらボロボロ崩されてるし
根白坂での決戦は進退窮まった挙句のやけっぱちに近いものがある
135名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 14:53:44 ID:6lykLvZi0
ということは、薩摩軍は弱くわないが特段強くない。
戦国時代から幕末にかけて「自分達薩摩隼人は強いんだ」
という信仰みたいなものがあって、戊辰で自分達が勝ったんじゃなく、相手が勝手に転んだ。
それを勘違いした薩摩の良心派以外は「やっぱっり薩摩は無敵」っていう根拠を持ってしまった
というところか。
豊臣時代に「郷中制度」をつくらなければならないほどに、若者の行動を抑制することはできない
体質が私学校にうけつがれた。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 16:14:18 ID:pMbxEmO40
強いと思うよ
日本で一番幼い頃に真剣持たされたり
ひえもんとりつって度胸つける為にしたり
侍の数が異様に多かったり
日本でもやっぱ異質だよ

太平の江戸の世の中でそんな事してたんだから
当時の他の藩と比べれば全然違うんじゃない?
薩の立ち撃ちが気質を表してるよ

ま、今の薩摩人がどうかっつったら分からんけど
やっぱ、その時の環境がどうかって事だろ、結局
137名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 23:59:12 ID:cZeC5/jd0
薩摩藩は飛び抜けた保守性と近代性という相反する両面の長所があった
この辺が薩摩がリードした背景だろう
138名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 00:03:25 ID:P4CHN+kD0
ま〜トータル的に見て、他藩や幕府の屁垂れっぷりと比較すると、薩摩は勇ましい方だわな。
少なくとも、戦況が決まる前から敵前逃亡をするような話は、薩軍に関しては聞いたことがない。

戦国期には全国的に勇猛だった侍階級が、江戸期ですっかり骨抜きになっていたところ、
侍の性根を強く維持していた例外が薩摩だったということだろうか。

136の言うように、その時の環境や風土が人を作るってのは納得。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 00:11:29 ID:ePpoEvwJ0
薩摩兵がいくら勇敢でも
作戦担当する連中が無能じゃどうしようもない
140名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 00:13:26 ID:PNm4JT3w0
それは別の話だからw
141名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 00:57:52 ID:5xf4xoA60
西南戦争も後半になると鎮台兵が自信をつけて、
逃げまどう薩摩士族を捕まえてはなぶり殺しにしていたそうだ。
それを見た武士あがりの政府軍士官は心中複雑だったらしいが、
士気を下げないように、見て見ぬふりだったとか。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:04:58 ID:b0XWDEL80
>>136
度胸があるのと、強いのは似でいるようで、違うんじやないかな?
薩摩は子供の時から教育として、血気さかんな猪突猛進型な人間を育てとるだけに思うよ。
示現流と北辰一刀流や斉藤道場と試合したケースてあるのかな。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:07:58 ID:PNm4JT3w0
百姓上がりの鎮台兵だから、勢いづくと侍への恨みも混じって捕虜を暴行したと言うのは、
戦争では日常にあり得る話だろうな。
しかし、聞いていて非常に後味の悪い話だ・・・
144名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:16:23 ID:PNm4JT3w0
>>142
たしか示現流は他流試合を禁じていなかったっけ?
唯一知っている話は、薩の大山格之介が、一刀流だか江戸の道場の師範と試合をすることになって、
一瞬で叩き伏せてしまったのだが、相手がもう一手と言ってきたので、「おたくの流派では死人が何度も試合をするのか?」とか何とか言って、
取り合わなかったという話が残っているくらいか。。。

それと、血気盛んで猪突猛進型は薩摩よりも、長州の方が当てはまるのではないのか?
145名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:32:51 ID:b0XWDEL80
>>144
長州も猪突猛進だけど、それは政治が本流で軍事は二の次てイメージがあるけど、間違ってんのかな。益次郎が仕切り出してからは、火力重視だしな。
薩摩は軍事有りしが先立ってるんじやない?
146名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:41:09 ID:PNm4JT3w0
>>144
ごめん。長州だけ政治が本流で軍事が二の次のイメージが納得できんわ。
薩摩も政治を目的として軍隊を出しているわけでして。
147146:2010/02/11(木) 01:42:11 ID:PNm4JT3w0
アンカーミス。
145さんへです。
148名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 01:56:07 ID:ePpoEvwJ0
長州の猪突猛進は禁門の変がピークで
薩摩の猪突猛進は西南戦争がピーク
動員数と戦火の規模で薩摩の猪突猛進ぶりの方が
強烈な印象が自分もある
149名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 02:45:46 ID:PNm4JT3w0
まあ、禁門の変と西南戦争を比較するのも、毛色が全く違う戦争だけにどうかとは思うけど。
禁門の変は京都政界から弾き出された恨みが根本の原因となって、ある事件を機についに切れて暴発したのだが、
西南戦争の場合はずっと深刻で、廃藩置県から廃刀令へと続く、士族の存在そのものを否定する動きに対する反発が背景になっている。
京都政界における権力争いと、直接生活に関わる死活問題とでは、ぶちキレ度合が違うのも当然ではないだろうか。
薩摩の士族比率を考えれば推測できることだ。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 10:34:06 ID:sGV4b97j0
>>141逆に鎮台兵達が休憩中の薩摩兵
を銃で撃ったらそれに気付いて薩摩兵が
日本刀片手に襲い掛かってきて蜘蛛の子散らす
ように逃げ惑って士族出身の仕官が大変だった、
てのは聞いたことあるけど。でも終盤はほとんど
刀対銃だから嬲り殺しなんだろうな。太平洋戦争の
終盤に似てただろうね。白兵突撃対銃火砲
151名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 12:05:14 ID:kTG/2rpv0
>>146
池田屋事件や818や蛤門は政治による猪突猛進だと思う。
押さえに行った高杉や久坂の説得がまるで効かないぐらい気負ってた。
挙句、勢いに巻き込まれて、久坂参加させらてたじゃん。
あそこで久坂を説得にいかせなかったなら、幕末史は変わったか?
といわれると疑問だが、明治維新までは似たような経過をたどるとおもうが、
その後の歴史はだいぶん変わったと思う。
長州閥は全く違うもんになっただろう。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 12:14:11 ID:WCRUQG3D0
>>151
なんで池田屋事件がそれに入るんだ?
153名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 12:34:20 ID:kTG/2rpv0
なんというか、長州藩の暴発のトリガーを引かせてしまったような感が否めない。
吉田稔麿を殺されたっていう側面もあるけど、蛤まで暴発させてしまうきっかけはこれだろうと思う。
154名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 13:37:46 ID:eAvkRNZ90
池田屋そのものより、同時に会桑の兵に留守藩邸が武装包囲されたことの衝撃の方が大きかった
一浪人の自白だけで、いきなり長州藩が満天下のもと罪人扱いされたってこと
長州藩としては武門の名にかけて何らかの行動を起こす必要があり、放置はできなかった

ってなんか話がズレてるな
155146:2010/02/11(木) 13:46:35 ID:PNm4JT3w0
>>151
長州の蛤門は猪突猛進だな(池田屋はきっかけだが)。それはいい。
薩摩が軍事ありきという根拠がわからんと言っているのだが。
軍事力を背景にして政局に打って出てる事を言っているのかな?
久光による幕政改革や、王政復古のクーデターなど、薩摩は軍事力を背景にして剛腕を発揮しているからな。
ところが、薩摩も志士単位になると、長州以上に過激な連中はいる。
ただし寺田屋事件における有馬のように、久光の指示で藩内で粛清されたので目立っていないだけ。
新撰組などは池田屋事件で、久光のやり方を丸パクリした感があるな。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 13:53:39 ID:oKhfG8xD0
西郷を最後追い詰めた時、西郷側数百に対し政府軍は数万動員してたな
157名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 14:12:35 ID:kTG/2rpv0
>>154
>>155
どっちも正論だと思う。
久光はあくまで公武合体派というところが長州とは違うと思う。
(自藩の過激尊王攘夷派をうむといわさず殺してしまって、
 本気で尊王攘夷を考えていない「祭り」気分の攘夷家がみんな逃げちゃった)
久光が薩摩に帰った後、ごそごそと長州が出てきて公家に取りいって、
「おら、いつから攘夷すんだよボケ!」って
幕府に対してサディスティックなイジメをしてたら、しっぺ返しされたら。
「俺たちは何にも悪くないのに、何で京都追い出されたんだよ。」
って自業自得じゃないのかなぁ
スレッドの趣旨とは違うからあまりこんな話をすると怒られるけど。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 15:13:24 ID:eAvkRNZ90
先に長州・長井の航海遠略策が京朝廷で脚光を浴びてたのが
久光東上で京の攘夷派が盛り上がって薩摩大フィーバー
逆に長州は朝廷への献策に不敬ありと言われて長井が没落し、
藩論が公武合体・開国路線から攘夷へと突如大転換
そのタイミングで久坂たちの所司代襲撃計画に薩摩の攘夷派が加わろうとして
寺田屋の同士討ち、西郷の再遠島
久光帰国後、入れ違いに長州藩主が京に入り、長州が朝廷を独占
この時点での薩摩の長州憎しはよくわかる

ただ攘夷期限切って実行を迫ったのは長州でなく朝廷であり、孝明天皇その人
幕府はどうせ京の攘夷派の工作だろうとたかをくくってたのが
朝廷から本気で一切の港を閉じ、外国との全面戦争せよと督促されて青くなった
長州は朝廷の督促に唯一答えて攘夷戦争した藩
だから政変後も朝廷では長州への同情論が根強くあり
京に視察に行った久坂はその同情論と、政変後の参与会議の瓦解を見て
慎重派から発進派に転向した
159名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 15:37:41 ID:PNm4JT3w0
正確には京都残留組の長州勢が朝廷を牛耳ったのは、久光が幕政改革のために江戸へ行った後だな。
文久年間の薩長土を始めとした、京洛における草莽志士の群集現象は、
久光の上京を倒幕と勘違いし、俺も薩摩軍に混ぜろって田舎から湧きあがったのが理由だ。
首領株の西郷・村田については、単独活動を処罰され、再び島送りになっている。
薩摩の尊攘派がポシャったため、やむなく長州に鞍替えしたのがこの時期。

久光が公武合体など考えず、初めから倒幕を決意していれば、この時に維新は起こっていたかもしれない。
160名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 15:47:57 ID:HZ/fnkJ70
>>159
西郷が久光を「ジゴロ」と読んだのはその辺りだろうね。
京都の情勢、幕府の権威力をまるで分かっていなかった。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 16:50:45 ID:u8+r/f4f0
生麦事件はそういう状況で起きたの?
162名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 17:08:47 ID:TSp4U3it0
>>142
新選組の近藤は
示現流と戦う場合は相手が構えたらとにかく逃げろ、初太刀だけは
絶対に受けようと思うな、ただし初太刀さえ交わせば問題はないと
隊士たちに言ってたらしい
163名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 18:23:45 ID:HZ/fnkJ70
>>162
基本的な問題だけど、相手方が示現流かどうかどうやって見抜くんだろか?
示現流は構えが独特とか読んだ事がある気がするが、はっきり思い出せない。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 18:59:35 ID:nEk5scwO0
>>162
それが、その初太刀を置けとめる事が不可能だから避けるしかないのだな。
特に示現流の初段(他の流派で三段匹敵)だと、ほぼ絶望的。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 20:12:03 ID:5xf4xoA60
初太刀を受けれるかどうかは、
流派より個人の能力に大幅に依存してるんじゃないか?
示現流だろうが、北辰一刀流だろうが、新選組だろうが、
流派信仰みたいなものは無邪気なお国自慢と大差無いと思うが。

たとえば西南戦争の田原坂では、
実戦では役に立たないと言われてる北辰一刀流の政府軍抜刀兵が
示現流薩摩兵を圧倒した。
しかし、これはたんに政府側により強い剣士が集まっていただけだと思うし。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 21:35:48 ID:kaqG1css0
今、翔ぶが如く読んでんだけど
薩摩武士を
「戦士としては日本一」
てのはなんか納得できるけど

「1人が政府軍の5人に当たりうるかも」って
そりゃないだろw司馬さんw
それは地球人じゃないわ


167名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 21:46:06 ID:PNm4JT3w0
>>160
久光上京前の鹿児島で言ったらしいな。
殿様(ではないが…)に対して言うのだから、たいした度胸ではある。

>>161
生麦事件は江戸での幕政改革が成功し、京に引き上げる途上に起きた事件。

>>163
トンボの構えの事か。八相に似た構えで、示現流の構えは基本これだけだったと思う。
防御の思想がなく、相手より如何に早くに太刀をぶち込むかを追求した実戦剣法。
新撰組と薩摩藩士が戦闘についてはわからないが、見廻組と薩摩藩士が戦闘した記録はあったと思う。

示現流と一口にいうが、幕末の京洛にいた薩摩藩士の多くは、亜流の薬丸自顕琉。
「じげん」の読みは同じで、トンボの構えも同じだが、示現流よりも手を高くあげた姿勢から、
走りこんで片膝が地面に着くほどに長刀を前のめりに振り降ろして斬込むらしい。

鳥羽伏見では、受け止めてもへし折られて斬られるか、受け止めた自分の刀の峰を頭蓋に食い込ませて絶命している幕軍の死体が多かったようだ。
近藤勇が言った話は、なまじ受け止める事ができない初太刀なので、避ける方が賢明ということだろう。

>>165
結局、個人の能力に依存するのは古今東西同じだなw
田原坂の警視庁抜刀隊が北辰一刀流で占められていたかは知らないが。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 22:08:03 ID:HZ/fnkJ70
>>167
要は野球で言うと、ど真ん中に来るストレート一本狙いで、当たれば確実にホームランだが、変化玉で、来られると、かならず振ってしまうタイプか、清原みたいなもんかな
169名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/11(木) 22:41:52 ID:PNm4JT3w0
初太刀は渾身の一撃だから、当たれば防御力無効の会心の一撃ってところだな。
示現流が集団で攻めて来たら、相当おっかないと思う。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 12:20:21 ID:Tq0OelPw0
>>166
1;5のスポーツなんてみたことがないな。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 14:17:53 ID:lQpDXd6e0
薩軍の抜刀突撃の際は、皆、刀を天に高く突き上げるような構えをしていたから、
まるでススキの穂の群れが押し寄せていく様な感じだったらしい。
おまけに彼等の刀身が陽光に反射してピカピカ光って、それはもう凄まじい光景だったそうな。
(目撃者からは、彼等の体は草木かなんかに遮蔽されて見れなくて、その高くに突き上げられた刀身の
群れだけが確認できたのかと思う)

相手の顔を見ることができないが刀身だけ見える。それも一振りや二振りどころではない、数多くの抜き身が
煌きながらこっちに向かってくる状況。
すごいね、政府軍も。
赤帽なら真っ向から立ち向かっていったんだろうけど、俺だったら逃げる前に腰抜かすな。
172名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 14:35:56 ID:lQpDXd6e0
>>165
薩軍の最精鋭(使い手)は熊本城攻防戦の初期の段階で既に戦死したからだと思う。
もっとも警視抜刀隊も強いんだろうけど。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 14:58:58 ID:youZgyas0
田原坂で使用されたスナイドル銃
の玉の数は21万発以上。銃ありきだしそれに
もう薩軍は疲弊してて政府軍は大山とか予備軍
も来てたはず。
弱いと言われて滅多に白兵突撃しない
鎮台兵さえ銃剣突撃をやったらしい
174名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 15:01:29 ID:youZgyas0
政府軍の撃った弾の数が21万発以上って事ね
175名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 15:39:31 ID:U+ZYYKyN0
>>172
警視庁の抜刀隊も、最初は薩摩の郷士出身がやったんじゃなかっけ?
他の地方の警官もいただろうが。
示現流vs示現流だったんじやないか。
警視庁が、どんな剣術を推奨してたかは知らないが。
示現流で切り合ってる光景というのは、相続も及ばんが。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 15:50:27 ID:PxgyE7fr0
鎮台兵弱い弱いって言うけど、あれ、1ヶ月も良く頑張ったと言うべきじゃないの。
直前の敬神党の乱で種田政明が殺されて、緒戦で連隊長の与倉知実も失ってるんだから。

桐野が熊鎮の長官だった頃とはまったく違ったんだろうな
177名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 16:41:41 ID:OkJETt2/0
日露戦争を勝利に導いた児玉とかいたしね
178名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 20:07:09 ID:pm14OVx30
>>175
斎藤一を始めとした会津勢も多く参加していたらしい
179名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 21:10:09 ID:jc2y0vaC0
桐野とか西郷とか、いかに戦争の素人だったかってことだよな。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 21:26:42 ID:U+ZYYKyN0
乃木の14連隊だけが、弱かったんじやないか。
植木、木葉で、まずい戦しただけで。
田原坂は元々、守りやすい様に清正が作ってた。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/12(金) 23:42:42 ID:+b35lel40
会津勢が大勢、警視庁抜刀隊にいた事実は無いがな。
それは小説か漫画の読みすぎ。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 00:33:40 ID:ok1vGvMY0
とりあえず、薩軍は人と物を揃えて琉球へ殴り込み、そこで独立国を作り、台湾までを制圧しておいて、八丈島から東京にジャンプしたら良かったと思うよ。

種子島では愛人に自家製のサボンをプレゼントしてね。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 12:56:55 ID:dkr+5m4X0
>>181
やはり中心は、薩摩郷士のようだね。
上士の方と郷士の時限流に差があるかといえば、そうでもなさそうだな。
武器はどうこうはないけど、実力じゃ伯仲してるんではないかい。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 16:48:36 ID:sQgPuaPl0
土方歳三 : 永遠の不良
桐野利秋 : 永遠の不良品
185名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 17:24:25 ID:nJnSeGQx0
桐野、辺見、篠原辺りが牛耳ってて
村田やらの意見を黙殺してたんだっけ?違った?
186名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 18:29:16 ID:aA2/0EUA0
警視庁抜刀隊の中心は薩摩郷士の出身らしいな。
実力は個人の能力によるだろうが、警視庁は選り抜きの剣客を集めているだろうし、
補給が充実している政府側の方が当然有利だろう。
田原坂を守っていた薩軍についても、西郷を担いでいて士気は高かったようだ。
が、物量で圧倒的に上回る政府軍の前に、次第に押される格好となったのはやむを得ない。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 19:23:02 ID:a1/1ifFy0
物量だけ?
指揮官の能力も 政府軍>>薩軍 だろ

鹿児島人としては、物量に負けたんであって
人的には勝っていたと思いたいんだろうがw
188名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 19:25:26 ID:UIpLXfz80
>>187
それ真理だけど。
太平洋戦争と同じ体質だからね
189名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 21:20:41 ID:nJnSeGQx0
政府軍の指揮官だって鹿児島人だらけだろ
190名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 21:29:32 ID:aA2/0EUA0
>>187
思いたいも何も、事実だからなw
189の言うように、政府側も鹿児島人だらけだよ。
191名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 21:41:32 ID:aA2/0EUA0
>>188
太平洋戦争まで持ち出すのが笑えるw
192名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 21:46:47 ID:aFqMTb+m0
ん?軍部は長州人ばかりだろ。
193名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 22:28:55 ID:UIpLXfz80
>>191
何がおかしいの?
194名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/13(土) 23:35:42 ID:nJnSeGQx0
>>192長州人は西南戦争の頃軍部で目立ってないよ。
そもそも西郷が陸軍大将のころに薩摩人だらけだから。
警察も薩摩だらけだし、現地の指揮権野津鎮雄だろ。
司令長官格の乃木、三好、何かがいたけど田原坂までに
病院送りだし、三浦吾楼なんかは前線まで出ようとしないで
東京まで悪評が届いてたらしい。
長州人は基本的に鹿児島同士の争いって見て傍観してたっぽい。
盛大に同士討ちしてくれて薩人が減って一人勝ちって感じだろ。
195名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 00:08:30 ID:QfyIcgbJ0
>>194
山懸、山田、谷、
196名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 00:26:35 ID:bkWCoF460
>>193
在日うざいよ
197名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 00:37:51 ID:QfyIcgbJ0
>>196
だから何がおかしいのさ?
198名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 02:15:08 ID:pnnm5F1H0
>>186
その話「抜刀隊」のWIKIで見た。
今でも警視庁には鹿児島県人が多い、と定年で引退した警察官から聞いた。

薩摩人の兄弟友人知人同士で田原坂で斬り合った話、どこかにないかな?


ところで、お金の話なら悪名高い「西郷札」ですよ。

でも薩軍が行った先で米や牛馬とかの現物を巻き上げて、持ち主に西郷札渡して
「我々はちゃんと代金を支払った。強盗ではない」と言い張ることはできても、
これで外国から武器を買う、というのは流石に無理だろうな。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 05:22:45 ID:UwoJoUFc0
>>194
当時軍部は長州の天下というか西郷が大将でいたときも軍部は長州の管轄だよ。
西郷はお飾り。
警察は薩摩の管轄だけどね。適当なこといってんじゃねーぞ。
200名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 10:11:55 ID:bkWCoF460
>>197
全く関係のない話を持ち出すからさ
201名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 10:23:51 ID:bkWCoF460
>>199
トップが山県のような長州人であって、長州の管轄ではないがな。
軍政は確かに長州勢が多いが。どちらかと言うと薩長共同統治が正しい。
指揮官には大山、野津のように、後の元帥レベルの薩摩人がゴロゴロいる。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 10:35:46 ID:wtszvDDU0
はいはい薩摩人は凄かったねwwwwwwww
203名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 11:16:24 ID:Rc2xgXWC0
児玉源太郎は熊本城に居たんだっけ。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 11:54:52 ID:bkWCoF460
>>198
薩摩人が親族・知人で殺し合った話は、あったとしても語らないんじゃないか?
大河「獅子の時代」では、主役の政府側の士官(旧薩摩藩士)が、田原坂で親父の消息を探すために抜刀隊に加わるのだが、
やっと見かけた親父が政府軍の雑兵に銃剣で突き殺される瞬間を見てしまい、
雑兵に取り付いて「おのれ〜!」とぶった斬るシーンがあったが…
205名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 13:53:43 ID:o+Y4Olsg0
>>204
郷士VS上士の階級の戦いだろう。
郷士の抜刀隊は長年の抑圧での精神的負担のはけ口を見つけたんじゃね。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 14:04:18 ID:Q93wEsxh0
島津の階層支配は巧みだよなw
207名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 14:46:25 ID:Ly6RtTKz0
田原坂の戦いの均衡破る八代から背面つく北上軍の
指揮取った薩摩の黒田参軍、旅団長に薩摩の高島、黒木、
川路、長州の山田。
熊本の鎮台司令長官は土佐の谷で参謀は薩摩の樺山、少佐
参謀として長州の児玉源太郎がいる。熊本鎮台の篭城突破
したのに小倉の奥少佐、薩摩の大迫大尉。政府軍の初めて
熊本鎮台に接触したのは軍令違反だが、会津の山川中佐。
北方軍は長州の山県参軍、長州の三浦吾楼、薩摩の野津鎮雄
、道貫、大山・・・

主な田原坂での人物はこんなんだろ。あと薩摩の警察幹部
の奴らが会津人なんかで作った集団を山県が「抜刀隊」って名
前をつけた

208名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 18:45:06 ID:pnnm5F1H0
>>204
>>205
サンクス、勉強になった。城下士出身者 .vs. 郷士出身者か

今まで散々威張散らしていたものの、新しい時代に対応できずに没落して、「武士」という
既得権益にしがみつくしかない者を斬れば出世もできる、と思えばなんか分かるような気が
するな。戦国時代と同じ下克上のガラガラポンですな。

↓以下、郷士のWIKIから引用

しかし、薩摩は明治維新で多くの人材を出したが、鹿児島県そのものはその後ダメダメだった
理由まで分かった気がするよ。



明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、
西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われる。その後、城下士出身者の多くは
郷里・鹿児島を離れ、藩閥の力で中央官吏や軍人として立身を目指し、一方の郷士出身者は警察で派閥
を形成した[8]。また、中央に出られない者は地元で公務員、教師、警察官や消防吏員の道に進むものが
多かった。戦前の鹿児島県においては新政下で「平民」に置かれた者がこれらの公職に就くことは至難
の道であったといわれる[9]。昭和20年(1945年)の敗戦によりGHQのてこ入れがあるまで、鹿児島県政
のこの政治構造は変わらなかった[10]。

209名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 18:51:41 ID:iORMHElN0
日清日露の軍司令官・師団長クラスが経験積んでるね。
立見尚文の新撰旅団は7月下旬の都城段階からの参加だっけ。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 19:42:57 ID:bkWCoF460
>>208
明治政府は「日本」を意識して徹底的に中央集権化を推し進めたからね。
ある意味、通常感覚でいう勝者としては、多大な犠牲を薩摩は払っている。
地元と親族還元型の戦国時代と、明治維新はそこが違う。
211名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 20:29:21 ID:6ZrQl42k0
>>210
長州も薩摩も最終段階では中央政権に討伐される側になっているしな
212名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 21:29:14 ID:MBwLdyA10
>>211
薩摩長州閥がいいとは思わないけど、まがいなりにもそこそこ少年時代から戦を肌で覚えた人物が生きてる人物が、軍部の中央にいたのは、意義があったと思う。
戊辰から日露まで10年間隔で戦をし続けたのは、意義があった。
西南戦争で、徴兵制に疑問を持っていた、旧士族、兵に取られる事に不満を持っていた農村にその必要性は認めざるおえん。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 22:08:34 ID:bkWCoF460
勘違いして優越感に浸る東京の人間が多いから、中央集権って言葉はあまり好きじゃないんだけど、
それを京や江戸から遠く離れた薩摩や長州の人間が、故郷を犠牲にしてでもやったのは、素直に偉いと思うよ。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 01:21:53 ID:/CsjiKo90
そんなことで優越感に浸る東京人はいませんし、
すべての地方に中央集権化を押し付けるからには、
自分らが率先してそうするのは当然のことで
べつに偉くないと思います。

薩長閥で官職を貪らずに公平に人材を登用してれば偉かったもしれませんが。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 04:23:19 ID:6+HrlZYX0
西郷さんは自決なんてしていません
あれは影武者です

本当の西郷さんは、シンガポールに密航して商人として活躍しました
216名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 12:40:37 ID:nCYw7jQq0
別にお国自慢したくてやった訳じゃないだろう。
徳川が藩を統治して、急激な富国強兵政策・殖産興業進行を行うには無理。
まがいなりにも四侯会議をやってみたけど、結局慶喜とその背後(幕府)が国策より幕府の影響力を確保しようとして有意義な会議にならない、話が進まない
結局仕方なく排除した。解釈の違いはあるけれどこれだろう。
薩摩と長州閥については色々議論があるだろうが、山縣のじいさんが死ぬまでは日本はわりかしまともだったし。
あのジジイが死んでから完全に秩序が崩れて、官僚の主導権争いになったんだろう。
軍隊>国家主義。
217名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 23:27:26 ID:NwiM24EG0
>>214
ほんとは幕府がやらなきゃならないことを、
幕府が保身に走ってダメダメなので、薩長が肩代わりしてやった感じだな。
218名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 15:36:58 ID:NcFZY26z0
幕府は保身に走ってないでしょ。
保身に走ってたら、阿部正弘が薩摩の後継問題に介入したり、
諸藩に開鎖の意見を諮問したりしないよ。

それに、大原勅使下向以降の幕府はそれまでの幕府とは別物だよ。
統一政体樹立までの暫定政権と言うのも言いすぎだけど、それにやや近い。
219名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 20:08:56 ID:LCcE4GGI0
参与会議潰したの誰だよ
220名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 20:46:08 ID:NcFZY26z0
参与会議潰したのは慶喜くんです、ごめんなさい。
でも慶喜くんは幕府の代理人オンリーでもないよ。幕権派とは一線画してたし
孝明天皇の攘夷意志の代弁者として行動したんじゃないかと言う研究者もいるじゃん。
家近さんとか。
221名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 22:15:18 ID:C2fHtMni0
天皇の代弁者か…将軍としては頼りなさすぎるな。
222名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 11:30:32 ID:rO3wdM4o0
>幕府の代理人オンリーでもないよ。幕権派とは一線画してたし
これに尽きるだろう。
前からだけでなく、薩長だけでなく、後ろから鉄砲玉打ってくる幕閣もいたし。
慶喜が完全に幕府からは信頼されていないし、そうなろうとする努力もしてなかったように思える。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 12:14:09 ID:aH4aZA4F0
でも「征夷大将軍」の本来の語義から言えば、攘夷が当然だよね。

話を戻すと、やはり永山弥一郎案が王道だったと思う。軍事だけでは勝利は無理なので。
視察の件は「知らない」で済んでも、大久保政権は政治的に相当譲歩を迫られるでしょ。
224名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 12:33:50 ID:rO3wdM4o0
>>223
大久保に面と向かって文句言える薩摩人はいない。
だから、みんな一斉に職場放棄して鹿児島に帰って
大久保が「すいません。皆さんがいないと政権運営できません」って頭下げさせようとした。
そしたら、征韓論も江華事件で韓国を開国させる。
佐賀の乱、秋月の乱、敬神党の乱もさっさと片付ける。
結局自分たちなしでも政権運営してるの「自分たちの存在する意義」がわからなくなっちゃったんじゃね?
225名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 12:38:10 ID:/I1XNIK70
>>223
西郷と一部幹部だけ上京して、西郷暗殺の件を政府に問いただすという案?
仮に暗殺指示が事実だったとしても、知らぬ存ぜぬで通されたらそれで終わりだからね。
幕末維新の薩摩の政治力(発言力)=軍事力だから、薩摩人個人で来ても相手にされないよ。
久光個人も空気だったし、西郷個人も征韓論では醜態を晒しただけだったじゃないか。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 18:08:50 ID:lyVXuiQi0
この戦争では辺見十郎太が一番度胸あったかな?
227名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 23:16:54 ID:ADqT/4cQ0
忍助を参謀にしてれば勝てた
228名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 00:57:08 ID:uP9D5qAh0
>>210
いやそんな中央集権とかマクロな話でなくて、>>208の「戦国時代云々」で俺が言いたかったのは、
警視庁抜刀隊に志願した、郷士出身の腕自慢の心境はそうだったんじゃないか?

という話。槍働き一つで一国一城の主とはいかなくても警察で出世くらいはできるだろう、とね。

「下克上云々」ついては「一日兵児は紙切れ一枚」という言葉が頭にあった。


マクロな話を俺もするならば、明治維新では戦国時代と違って、先祖が一度手に入れた地位は原則
世襲の前提が崩れたのは大きいね。もっともこれが西南戦争の遠因とも言えるけど。
229名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 00:58:21 ID:uP9D5qAh0
>>210の続き

↓屯田兵のWIKIを見てたら、面白い記述を見つけた。
薩摩の城下士出身者はさすがに身内と戦うことに躊躇があったわけか。そりゃそうだわな。


屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰戦争の敵だった鹿児島県士族を相手と
するこの戦争に奮い立った。しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、8月2日の
一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、屯田部隊で「戦争をしているのは下士兵卒で将校ではない」
と評したという。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 01:34:55 ID:0RrMcvKh0
WIKIソースは馬鹿にされるぞ
231名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 02:07:28 ID:uP9D5qAh0
>>230
WIKI以上に説得力のある話をしてくれるなら、よろこんで耳を傾けますよん。

ただ単にバカにする分についてはご勝手に、と言うしかないなあ。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 12:19:13 ID:t0rpnkgw0
>>226
それはつまり、現場の小隊長クラスが適任だったんじゃないか?
参謀クラスの秀才ではないなぁ。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 23:33:06 ID:Sv6DTE/s0
>>229
西南戦争の戦後の論功行賞は屯田兵には薄かったらしいな。
反対に戦意の乏しかった鹿児島出身将校に厚かったらしい。
戦意を利用されただけの屯田兵もみじめだな。
234名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/19(金) 20:59:06 ID:OBAM+fsY0
>>232俺も参謀は合わないと思うけど。まぁ、なんとなく好きなんだよね、こういうタイプ・・・。
235名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 00:54:04 ID:+rRv4kNa0
西南戦争に論功行賞なんてあるの?
236名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 11:07:38 ID:76MY2OEQ0
論功行賞はあった。この戦争では軍令違反した山川浩が最下位らしい。会津出身ってのもあるだろうな。
屯田兵は戦死者7人ってのはたいした戦いしてないってことだし、薩長閥陸軍ならそりゃ論功行賞に差がつくだろ。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 11:24:59 ID:B78Cw4ui0
>>234
西郷の側近兼、参謀、部隊長ってイメージがあるな。
気性が強引すぎて駆け引きとかの交渉とか戦略といった相手がある仕事には向かないだろうねぇ。
>>235
論功に不満があった近衛師団が反乱をおこしている。
238237:2010/02/20(土) 11:26:35 ID:B78Cw4ui0
近衛師団→近衛だ。
間違ったスマソ。
239名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 11:46:42 ID:NkmDeOGz0
>>236
会津出身は関係ないだろ
軍規違反は大きなマイナス評価になって当たり前
240名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 19:47:46 ID:IaJ4bSgu0
どんな軍令に違反したのか分からんと、何とも言えんな。
長州閥で有望視されてても、汚職事件一つで永遠にバイバイした奴もいるし。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 21:57:32 ID:76MY2OEQ0
山川浩中佐は「突出するな。15日に合図をするからそれと同時に各旅団は所定の道路で熊本に進め」というような軍令があったんだが抜け駆けで13日に熊本に入って熊本城に一番乗りし谷少将に面会してるらしい。
その後山田顕義少将に本営までよびかえされ激怒された。

ちなみに佐賀の乱の時は少佐になり勇戦し軍部内でも名を知られた存在になる。戦上手らしい。

熊本鎮台のほうは味方に接触できてすごく喜んだみたいだね。
242名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 22:22:32 ID:ASxD5c2k0
山川は山田の直属の部下だからね
それが抜け駆けしたから面子丸つぶれ
論功行賞で最下位にしないと他に示しがつかない
243名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/21(日) 14:16:22 ID:v7oHyUuS0
山川としたら、政府の論功なんぞ興味ないんじゃないか?
244名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/21(日) 16:36:33 ID:m7qFg6MY0
戊辰の復讐を人生のテーマにしている奴だからな。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 11:07:07 ID:xuWOCO9z0
戊辰の復讐ってのがないっというのは嘘になるけど。
やはり、会津旧士族の事が山川の思考の大半だと思う。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 11:34:44 ID:prFQT+wR0
抜け駆けは世話になった谷への恩返しが原動力?
それとも会津の名を上げたかったから?
247名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 12:11:47 ID:xuWOCO9z0
論功で最下位だとはいうけど、少佐から大佐になったし。
明治20年までに陸軍少将まで出世した。
その後は、政治家に転職した。(男爵にもなった)
その栄達に対し。
・明治政府で出世した山川への旧会津藩の恨み節
・山川に金をたかりまくる旧会津藩関係者
がいたのも事実だ。
(おかげで家計はいつも火の車だ)
248名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 19:28:53 ID:49Ma25w20
ぶっちゃけ西南戦争で薩軍は、海路帝都を急襲するべきだったよね 何で陸から大迂回したの?(´・ω・`)
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1266821509/l50
249名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 23:55:49 ID:k3T5rPs40
>>248
天皇の居ない東京襲ってもなあ。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 00:05:06 ID:T4n9NOCu0
てか薩摩って単独で軍艦とか輸送船持ってたっけ
251名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 11:58:06 ID:3cH9haBo0
>>250
持ってないんじゃないか?
ソースはどこか忘れたが。
だから長崎まで行って船を強奪しようという作戦を西郷小兵衛が提案してなかったけ?
252名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 14:00:57 ID:j4cBsCpA0
薩摩の軍艦は政府の物になって兵や食料の輸送するのに使ったはず。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 15:21:23 ID:HPTYIwnv0
まあ、早ければ早いほど、可能性はあったのでは?
下野した明治6年に即やるべきだった
254名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/25(木) 11:24:37 ID:6tFuah190
それは正しいようにおもうが、政府軍が未整備のように、
西南戦争の中核となる私学校も未整備だ。
どっちもどっちじゃね?
西南戦争で西郷軍の主力銃は何なんだ?
スナイダー?ミニエー?
255名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/25(木) 19:33:03 ID:UNYwbYju0
鹿児島士族の独りよがりの反乱が
世論の支持を得られるとは思えないから
どっちにしろ自滅しただろう。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/26(金) 17:47:09 ID:PECZc6UJ0
熊鎮の樺山か海軍の川村が寝返れば勝ったんじゃねーか?誤算だったな。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 08:25:18 ID:/6kqVNak0
鹿児島人は維新の頃の薩摩をマンセーするが、
ただの一兵卒や百姓としてこの当時の薩摩に生まれたかったと思う?

一握りの声の大きい幹部に生殺与奪の権を握られ、
百姓なら八割も年貢を取られ、
人としての尊厳も何も無い暮らしを強いられるんだぜ。
258名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 18:52:01 ID:i7ItO4hQ0
この時代に生まれたい現代人なんているかよ。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/01(月) 10:45:52 ID:PEFUCcpU0
>>257
この年結構打ちこわし、一揆が起こってるんだけどな。

260名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/02(火) 22:38:47 ID:vHWEaMho0
いくら薩軍に勢いがあろうが、頭脳となる人がいない。
ブレーンがおらず、戦略・戦術も無いに等しい薩軍に
先はなかったろう。、
261名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/02(火) 23:00:15 ID:KslmKnN10
大義も無いしな。
新政府に対する不満は全国的にあっても、
じゃあ、薩摩による新新政府を求めるかというとそれはまったく違うし。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 00:22:50 ID:/0S8T5R40
大義はあるだろう。バックに天皇がいないだけで。
正義感は薩軍の方が強いと思うな。
263名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 01:25:32 ID:TOAxyut70
どんな大義や正義があるというんだ?
264名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 01:31:40 ID:zxxGt1vj0
薩摩士族は別に国や国民のことを考えて蜂起したわけじゃないからなぁ
265名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 10:38:17 ID:NR3/lD3v0
>>215
「士族の商法」ですね。わかります

266名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 13:21:23 ID:Rcrm5EYe0
>>262
正義感wwwwwwww
267名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 22:00:05 ID:/0S8T5R40
>>264
不平不満が全国に満ちている時に中央に対して反乱を起こしてるのだから、
国や国民のことを考えていると思うのだがな。
単なる暴発であったら、あそこまで大規模な戦争にはならんだろうと思う。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 22:21:59 ID:t7cvkiE20
西郷暗殺未遂から私学校が暴発したんだから
国や国民のことを考えて反乱起こしたわけじゃないだろ
私怨じゃん
269名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/03(水) 23:12:43 ID:/0S8T5R40
>>268
それ本当の話かな?
暗殺未遂(未遂にもなってないけど)による暴発で、周辺国からの義勇軍も加わっての戦争になる?
って正直疑問に思うけど。
270名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/04(木) 08:25:01 ID:+IS+WPbt0
政府も薩もどっちもどっちだと思うが、
薩には「国民」とか「国家」とかいう発想無かったと思うがな。
国民のためとか一切思ってなかったと思うぞ。
士族とか郷中の延長で国際社会まで行けると壮大に勘違いしてたと思うが。
宮崎八郎とか除けば、義勇軍も終わってる連中っぽいし。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/04(木) 09:42:59 ID:2bdVJfhF0
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。

そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照)
272名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/04(木) 20:28:37 ID:kxagKXQ50

薩摩藩士が露国留学し中央アジアを踏破した

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/34/225.html

金メダリストの父がその藩士だった。
273名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/06(土) 16:53:21 ID:MdvYQd0I0
>>271
>禄支給廃止にあった士族の生活権

端的ですな、大義だの正義だの言ってもつまりはそういうことですな。

そこでふと思い出したのだが、昔、某電機メーカーの工場に出張に行ったら、
国道の大きな橋にたもとに

 道義高揚宣言都市

と大書した看板があって吹いたことがあった。道義的責任の道義ですよw
あれは国分市だったか隼人町だったか。

そういうこと言ってる奴に限って、己の独善性を隠したいだけだったりする、
という意識はないんだろうな。

274名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/06(土) 19:51:21 ID:fCaigoNu0
道義高揚宣言都市www
それ考えた奴に、道義とは何ですか?
道義を高揚するとはどういう意味ですか?
と聞こうものなら、「ギヲユナッ!」って怒鳴られそうw

鹿児島はそういうの多いね。
子供たちに「努力しなさい、勉強しなさい」とやたらと言うけど、
「何をどう勉強するの?」と聞かれて答えられる大人がいないのが鹿児島。

ほんとうに中身のある奴は、馬鹿らしくて、東京とかに行っちゃう。
275名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/06(土) 21:49:58 ID:fP9n+ufh0
>>273
某電機メーカーって京セラのことか?
稲盛さんは鹿児島出身だったな。
276名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 00:54:40 ID:ku6ElgbJO
よくある人権都市宣言なんかは一部の人たちが頑張った結果だったり
なんとなく流行りに乗ってみたりした結果だけど、
道義都市宣言は鹿児島の市民のリアルな総意に基づいてそうで嫌だなw

道義は結局のところ法の対義語だから、市民の圧倒的な支持でリコールを切り抜けた
例の市長のあの暴走っぷりも、彼個人の資質の問題ではなく
鹿児島の伝統的な思想文化に基づいたものであることがわかる。
277名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 01:28:49 ID:/Al5cxUd0
鹿児島人の心には西郷さんが生きていますからw
278名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 01:48:42 ID:TFdWIvSL0
つうか、薩摩人はもうそれしか選択できんだろ。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 01:55:55 ID:/Al5cxUd0
薩摩人って言うなよ…笑われるぞw
280名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 01:58:18 ID:P8RVo3Cx0
一種の仮想現実都市だろうな、鹿児島って。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 02:01:10 ID:/Al5cxUd0
きっと行ったこともない連中が脳内妄想してるんだろうな。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 02:01:38 ID:yXFySL9p0
ジャーディン・マセソンがそう決めたからこうなったんだよ
283名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 21:39:55 ID:hfH/YnAN0
>>274
よそ者なりに思うに「正義ッ!」「大義ッ!」「道義ッ!」「チェストー!!(笑)」とか
叫んでるうちに、だんだん熱く気分が高揚してきて陶酔できるからじゃないかな。

要するに、のぼせ上がっていい気持ちになると。このスレ見てても鹿児島にはそういう人が
沢山いそうだもん。

焼酎呑んで酔っ払うだけじゃ足りないみたいねw


「勉強云々」については、親や大人の本音としては「鹿児島にいても地域社会丸ごと貧しくて
どうにもならない。学力つけて上京しなさい。世界を目指しなさい」ということなんだと思う。

でもそれをあからさまに言うと「じゃなんでお父さんお母さんは鹿児島でくすぶってるの?」で
子が親をバカにしたりするから言いにくいのかもね。

でも「議を言うな」で頭ごなしに押さえつけると、若者としては反抗するしかないわけで難しいね。

284名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 21:45:58 ID:hfH/YnAN0
>>275
残念ながらもう一方の方だ。

そういや稲盛和夫は大学まで鹿児島なのに京都で創業したんだったな。

その背景は地場資本の厚みの違いがあるような気がするな。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/08(月) 00:06:11 ID:/Al5cxUd0
稲盛さんは今や日本経済界の大物だもんな。
鹿児島の田舎から出てきて、一代でよくここまで成功したものだ。
京都だか大阪だかの経営者たちが懇願してできた、稲盛の経営塾があったと思ったが。
286名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/08(月) 00:27:48 ID:Y+2ah6vlO
野村が後年「あれは桐野利秋の戦争だった」って言ったんだよな
287名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/08(月) 00:34:59 ID:fzePfPw30
実際西郷どんとさっつま藩士が幕末の主役だしね
他は居ても居なくてもいいようなの

征韓論後も韓国を武力で開国させてるし台湾に出兵するわで、征韓論も西郷を追い落とすためでしかないし
288名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/08(月) 00:53:24 ID:Y+2ah6vlO
>>287そうだよな。結局やってるんだよな。
桐野は死ぬ前日に政府に伝言で「いつか戦争になる。台湾・朝鮮をとるのは簡単だ、でも清国がやっかい。」って伝えたらしいが清も大したことなかったな。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 21:17:42 ID:IfVqzuwn0
>征韓論後も韓国を武力で開国させてるし台湾に出兵するわで

台湾に出兵したのは、琉球の漁民が殺戮されたのだからやむを得ない。

江華島事件については、日本が開国し、列強の関心がまだ鎖国を続ける
朝鮮の開国に移って、米英がペリーみたいな砲艦外交をやるのが判っていたから
日本としては一足先にやったまで。西郷のように無計画にやっていない。

大久保は勝てる外交戦をやったまで。負ける外交戦(征韓論)なんて論外だ、というのが
大久保や西郷従道などの考え方だろうな。
290名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/09(火) 23:25:50 ID:b9S6Ul+y0
>>289
まったくその通り。
291名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 11:49:42 ID:liSIEOhX0
>>289
負ける外交って何だよ?台湾出兵は薩摩士族を慰めるためだしw
江華島事件如きであっさり開国した韓国なのに、西郷らに嫉妬し主導権を握ろうと大騒ぎしたのが政府w
292名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 12:19:37 ID:I6zmHyMC0
台湾出兵は勝てる外交なんて高度なもんじゃなくて
薩摩士族のガス抜きメインだろってのは同感
国内手続き無視してまでやった蛮行だよ

293名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 16:46:07 ID:xJ4MPrJE0
いずれにしろ、帝国主義の萌芽が見えるよね
294名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 20:48:03 ID:xCjgRmMn0
征韓論とか外交以前の問題だろう。
外交も軍事もド素人の妄想。
西南戦争で化けの皮が剥がれた。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 21:01:18 ID:daxwdE8F0
>>291-292
宮古島の漁民が台湾で54名も虐殺されたのに、台湾領有を主張する清国が
何の補償も処罰もしなかったんだから、出兵する大義名分は十分にある。
征韓論には何の大義名分もない。
296名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 21:05:26 ID:l+SLLJ+M0
大義名分があっても軍が暴走したのは駄目だろ
そこを無視して台湾出兵と征韓論を同列で
勝てる外交戦、負ける外交と色分けする意味あるのか
297名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 11:08:02 ID:fO/OmAJE0
西郷が無計画?w

征韓論も、自分を全権大使の正使として韓国を開国させる交渉に送ってくれといっただけだが?w
殺された場合は出兵になるかもしれんというだけの話でw

全権正使が殺されれば当然出兵の大義になるしw
最初から兵を送れなんていってないし、正使たるもの身に寸鉄も帯びずに行くと言ってるくらいでw
298名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/11(木) 13:53:34 ID:WWOdEb7N0
戦国時代かなんかと勘違いしてるバカがいるな
299名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 01:24:23 ID:G9akPhN00
>>298
いや、>>297が戦国時代と勘違いしてるわけじゃなくて、西郷が国内での交渉と、外交を勘違いして捉えていた。

>>297はある意味、西郷の主張を正確に伝えている。
しかし、悲しいのは西郷の失敗を喧伝する結果にしかなっていないこと。
300名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 18:49:53 ID:DWTQFYVAO
>>1勝てる可能性はないよ。
薩摩軍って言うけど薩摩の不平士族の一部と政府軍だよ?
勝てるわけないじゃん。
301名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 19:22:08 ID:4/JN3hsL0
wikipediaによれば、私学校に入れるのは城下士出身者に限られた、とある。
知らなかったよ。
西南戦争では郷士も大量動員されたはずだけど、
上のような事情があるなら、郷士の士気は低かったろうな。
302マンチカン
マンチカン