南方三十三館

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1日本@名無史さん
南方三十三館ってどういうもの?
当時まとまって行動していたの?
どんな氏族がいたの?
2日本@名無史さん:2001/07/12(木) 15:59
常陸の三十三館?
おお。わたしもすごい興味あるんだが。
なにしろマイナーだからねぇ。佐竹にやられなければ…。
3日本@名無史さん:2001/07/12(木) 19:45
常陸武田氏いたよね。
うちはその分家らしい。
4日本@名無史さん:2001/07/12(木) 20:24
二十四館主の傍流です
5日本@名無史さん:2001/07/13(金) 22:08
まず
1.三十三館の特定
2.惣領権を誰が持っていたか
3.あの地域の石高や貫高
かな

一般的(には誰も知らんがw)には鹿行の土豪なんだろうけど
三十三館は実際には三十三ない、とか江戸崎の土岐氏なんかも含んだり
ネットで捜してもチョコチョコ違いがありますね

鹿行に割拠していた領主階級の氏族としては
鹿島大掾氏系(鹿島、烟田、中居、林、徳宿、他)
行方氏系(小高、麻生、島崎、玉造、手賀、他)
多気大掾氏系(芹澤、新撰組の鴨の家系)
馬場大掾氏系(札氏?)
甲斐武田氏系(武田氏)
下河辺氏系(下河辺氏、府中石岡と行方郡の間に小河氏)

領主じゃないけど変わりどころだと
橘氏系(水原氏、三浦氏族の真田氏を継いだらしい)
塙氏(織田家中の塙氏もこの流れらしい)

戦国以前は鹿島郡内は鹿島氏、行方郡内は行方氏の下に纏まっていたらしい
でもわからないのは鹿島氏は鹿島大掾氏と言われることもあるけど
行方氏は行方大掾氏と呼ばれる事はなく、鹿島の方が隆盛なのかと思えば
鹿島氏支流の烟田氏が行方氏にも地頭権を与えられている
これは烟田氏が本来の惣領鹿島氏ではなく行方氏の影響下にあったってこと?
6日本@名無史さん:2001/07/13(金) 22:12
↑くわしっすねぇ
7日本@名無史さん:2001/07/13(金) 22:40
>>6
ほとんどネットで得た知識っす
8日本@名無史さん:2001/07/15(日) 20:01
>7
どこ?
9日本@名無史さん:2001/07/15(日) 21:38
土岐氏も三十三館にはいってたの?
10日本@名無史さん:2001/07/16(月) 16:58
>9
土岐原氏はそうじゃない?
11日本@名無史さん:2001/07/16(月) 19:39
>10
名字の変化

土岐 → 原 → 土岐原 → 土岐

でいいの?
12日本@名無史さん:2001/07/16(月) 19:45
常陸武田氏って何家くらいあったの?
13日本@名無史さん:2001/07/16(月) 19:46
>11
たしかよかったはず。
14日本@名無史さん:2001/07/17(火) 00:20
へえ。おれさ一年くらい前まで、三十三館ってみんな平氏だとおもってたからさ。意外だよ。
15日本@名無史さん:2001/07/18(水) 00:27
間違えた、小河じゃなくて園部だった

>>8
城のサイトです、常総は結構ありますよ
「鹿島城」や「島崎城」で検索してみなよ

>>9
普通は鹿行だから入らないと思うんだけどな
城の作りも違うらしいし
大掾氏系の城は同じ常陸でも佐竹などとは違くて
常陸武田氏の城も他の常陸の城とは違う
土岐氏や岡見氏の城は北条流
16日本@名無史さん:2001/07/18(水) 02:04
くだらない質問ですが、自民党の林大幹・幹夫親子ってのは鹿島氏流林氏の子孫なんですかねえ。
あの一族が通字に使う幹つかってるし…地元も鹿島に近い…
17日本@名無史さん:2001/07/18(水) 14:40
江戸崎の土岐氏は三十三館には入らないのでは?
佐竹氏に抹殺されていないし、北条に属して滅んでるし。
18日本@名無史さん:2001/07/18(水) 18:34
>4
二十四館主ってなに?
19日本@名無史さん:2001/07/19(木) 22:04
お城お城 南常陸のお城
http://www.sea.sannet.ne.jp/s-natu/siro/siro.html
20日本@名無史さん:2001/07/19(木) 22:20
お城 お城 佐倉周辺のお城♪
http://homepage1.nifty.com/biji/meisyo/syu_shiro/ex_shiro.html
21日本@名無史さん:2001/07/20(金) 10:40
直リンはやめたほうがいいと思うよ
22日本@名無史さん:2001/07/20(金) 15:57
>>16
そんな議員いるんだ(ワラ 存在感なさすぎ
林氏って鹿行征伐んときどうなったんdしょう
23日本@名無史さん:2001/07/20(金) 21:27
24日本@名無史さん:2001/07/20(金) 23:23
>19,20,21
でもありがとう。
25東義比佐:2001/07/20(金) 23:43
マニアックなスレッドが出来ていてびっくりです。
佐竹派の私が書きこんでもよろしいですか?
26日本@名無史さん:2001/07/21(土) 01:36
三十三館の館主一族は断絶した,となっていますが,じつは名家好きの家康が子孫を保護してますよねえ
武鑑(?)など見ると鹿島氏などは江戸幕府後も平氏庶流として存続してます。
旗本,ご家人として捨て扶持をもらい存続...
27日本@名無史さん:2001/07/21(土) 01:39
三十三館主としてあげられる家を教えてください。
上のところ行ってみたけど、整理されていないので。
28日本@名無史さん:2001/07/21(土) 01:55
>27鹿行に割拠していた領主階級の氏族としては
大掾氏
行方氏
多気氏
馬場氏
武田氏
下河辺氏
29日本@名無史さん:2001/07/21(土) 02:09

中井
田野辺
小高
嶋崎
手賀
30日本@名無史さん:2001/07/21(土) 04:37
玉造
31日本@名無史さん:2001/07/21(土) 11:10
まだ14しかでてないぞー
>>28
しかし,府中って鹿行地方に入りましたっけ?
32日本@名無史さん:2001/07/21(土) 11:49
行方と小高は一緒では
33日本@名無史さん:2001/07/21(土) 12:22
>32
ほんとだねっ
スマソ
34日本@名無史さん:2001/07/22(日) 12:43
人が居る時にあげとこか
35日本@名無史さん:2001/07/22(日) 13:51
烟田氏
365他:2001/07/22(日) 13:58
府中大掾氏=馬場大掾氏
鎌倉以前は多気氏が大掾宗家、八田氏の諌言で多気氏が失脚し、
代わり馬場資幹が宗家を後継して以後、馬場大掾氏が宗家になる
37日本@名無史さん:2001/07/27(金) 19:30
>>26
家督は鹿島氏の正統が、禰宜職は他が継いだってことでいいのかな
38日本@名無史さん:2001/07/27(金) 19:56
>37
他ってだれ?
塚原高幹の実家はたしか禰宜。
39日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:14
水戸徳川家に仕えた千葉氏の一族が鹿島氏を継いだってのをどっかで見て
鹿島大掾氏は途絶えたのかなと思ってたのよ。でも>>26に旗本御家人として
残ったってあったから鹿島氏の家督は鹿島氏の正統が、禰宜織は千葉氏の一族
が継いだのかなと思って
40日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:15
そういや塚原卜伝も千葉氏の一族だ
41日本@名無史さん:2001/07/28(土) 09:37
詳しいことはわかりませんが,子孫は結構のこっていると思いますよ
私が確認したところでは鹿嶋氏,林氏などは徳川の御家人になっていました。
勿論,絶対確かということではないので,公式にでてる江戸時代の系図等をご自分でお調べになってください。
42日本@名無史さん:2001/08/04(土) 17:57
1さんスレを引率しなさいな
43日本@名無史さん:2001/08/04(土) 20:24
常陸平氏の代表的な家紋ってなに?
44日本@名無史さん:2001/08/09(木) 20:20
七曜
45日本@名無史さん:2001/08/10(金) 00:55
細川さんは九曜だっけ?
46日本@名無史さん:2001/08/10(金) 17:59
あげ
47日本@名無史さん:2001/08/10(金) 19:43
細川さんは九曜だったような
48日本@名無史さん:2001/08/10(金) 19:43
読み間違えた
49日本@名無史さん:2001/08/10(金) 21:04
http://www.machibbs.com/kanto/bbs/read.cgi?BBS=kanto&KEY=980622478

まちBの鹿行スレ、三十三館の話題は皆無
50日本@名無史さん:2001/08/10(金) 21:13
佐竹スレにあっ というまに抜かれてる(w
51日本@名無史さん:2001/08/10(金) 22:39
そりゃあ,無名に近いからねえ
佐竹と常陸平氏とどっちが名門だろか?
おれは常陸平氏に苦しい一票...
52日本@名無史さん:2001/08/10(金) 23:35
じゃあ俺も
佐竹は創設時常陸平氏と姻戚を結ぶ事で勢力を伸ばしていたしね
53日本@名無史さん:2001/08/11(土) 00:36
そうそう,平氏からみれば佐竹は新興勢力なんだよ
54日本@名無史さん:2001/08/11(土) 20:53
k
55小梟純一郎:2001/08/13(月) 13:39
戦国大名>守護大名>国衙大名(造語)
よく1590年まで持った、感動した
56日本@名無史さん:2001/08/14(火) 16:11
↑ ヴァカ発見
57日本@名無史さん:2001/08/17(金) 17:45
1はいないのか?
58日本@名無史さん:2001/08/17(金) 20:33
1です。
59日本@名無史さん:2001/08/17(金) 21:40
いるのか?しっかりしてくれ
60日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:04
1ですが、何言ってるの?
61日本@名無史さん:2001/08/18(土) 01:17
wadaiwoteikyouseyo
62日本@名無史さん:2001/08/18(土) 11:15
大掾は国司だったから国衙大名なんだろう、〜大名なんて言葉はないが
63日本@名無史さん:2001/08/18(土) 11:36
話題を提供せよ
64日本@名無史さん:2001/08/18(土) 19:35
佐竹氏ね
65日本@名無史さん:2001/08/19(日) 03:26
話題は提供済み
66日本@名無史さん:2001/08/19(日) 21:14
下総兵も参加した徳宿城の江戸氏との攻防を語ってください
67日本@名無史さん:2001/08/19(日) 21:57
>62
大掾は国司じゃないだろ。
国司は「かみ」だよ。
68歴史の勉強:2001/08/19(日) 23:28
大掾氏は国司じゃないでしょう?
常陸は親王任国で、名目上の国司は親王さんの誰かしらだったはず。
だから「掾」が実質的にその国では一番偉い役職ってことになる。
大掾氏はその家系の出身。
その後、大掾氏は上杉禅秀の叛乱に連座、
鎌倉公方に謀殺されるという憂き目に……。
69日本@名無史さん:2001/08/20(月) 00:50
>68
それも違うだろ。
「かみ」の次は「すけ」だよ。
70日本@名無史さん:2001/08/20(月) 02:23
そうだね
71歴史の勉強:2001/08/20(月) 17:53
そうでした。守の次に偉いのは介です。
そりゃそうと、大掾氏は平国香の末裔でしたっけ?
72日本@名無史さん:2001/08/20(月) 19:44
国司ってのは守介掾目じゃないっけ
大掾は常陸ん中じゃ実質トップだよ

>>71国香の子で貞盛の弟繁盛の子孫
73日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:54
まさに平家の頭領
74日本@名無史さん:2001/08/20(月) 23:09
繁盛の母親って誰?
75日本@名無史さん:2001/08/23(木) 14:21
>>72
「実質トップ」と曖昧な表現はやめよう。
守の次は介であり、実質トップというなら「介」でしょう。
76マジで凄えよ:2001/08/24(金) 01:08
繁盛の次の世代から現在(林議員)まで同じ通字を使ってるって凄いな
77日本@名無史さん:2001/08/25(土) 20:23
>>76
ここで聞いてみればいかが?
http://www1.ocn.ne.jp/~motoo/
林幹夫(もとお)
自民党衆議院議員
林大幹の息子
78日本@名無史さん:2001/08/25(土) 20:43
常陸平氏の子孫って結構いてもいいだろうに。
お隣の千葉氏(千葉氏自体常陸平氏の分家だけど)なんか滅ぼされたくせに大繁殖してて、いまでも子孫の会みたいなのやってるじゃん。
2chにいる子孫の人カミングアウトしてくれないかなあ。
79日本@名無史さん:2001/08/26(日) 02:23
大掾氏は、平国香の末裔になり平安時代から常陸国に根付いた一族です。
”大掾”というのは常陸国国府の官職名で、
国司は常陸守(親王が京都にあって任命されるので、実質常陸国責任者は常陸介)
次官は常陸介(実質上の国司、藤原宇合〔藤原四子の一人〕・高橋虫麻呂〔万葉の歌人〕・菅原孝標〔更級日記の作者の父親〕など宮廷の官人が任命された)
三番目が大掾(三等官〔じょう:丞、掾などの字が充てられる〕の一番えらい役職)です。
上記のとおり国府の長官は有名無実。次官の常陸介は後代には目代(国司の代理人)が派遣され役たたず。そのため常陸国の国衙機能は大掾が担っていたと考えられます。
この大掾職を代々受け継いだ平氏一族が大掾氏です。常陸平氏宗家は、鎌倉時代には多気氏(小田氏に滅ぼされる)、その後馬場氏(馬場は水戸の地名らしい。水戸城を江戸氏に奪われた後は名乗っていない)と名乗っていましたが、最終的には大掾氏を名乗っていきます
80日本@名無史さん:2001/08/26(日) 03:46
うえのように、
実質的には大掾が実質的には一番えらかったみたいね。
81日本@名無史さん:01/08/26 19:45 ID:hkI1TQcw
bon
82日本@名無史さん:01/08/27 02:22 ID:81.BCtEY
>>76
余談ながら、林幹夫議員のご長男は幹人というお名前だそうです。
ここまで「幹」の字にこだわるというのは・・・
83日本@名無史さん:01/08/27 23:32 ID:5YOFkfFY
>>78
一般的に誰もしらないようなマイナーさだから
自分がそうでも気がつかないんじゃないかな。
千葉氏は凄いね、男系の子孫でも日本に数百万人いるでしょ。

三十三館じゃないけど、豊田泰光(俺とお前と大五郎)さんて
豊田氏と関係あんのかな。

伊達氏が常陸平氏の出かもって説の信憑性はどの程度あるのかな
この説がもっとメジャーになれば大掾一族の後押しにもなる。
国香┬貞盛
  └繁盛┬余五将軍維茂
     └常陸介維幹┬多気為幹―繁幹―致幹
           └伊佐為賢―為宗―為弘

常陸平氏の幹と藤系伊佐氏の朝って、字体と読み(モト・トモ)が似てる。
84日本@名無史さん:01/08/27 23:43 ID:5YOFkfFY
千葉氏って常陸平氏の分家かな
平高望と同じ上総介は国香でなく良文が叙任されてるけど。
国香が将門に殺され、乱の平定後、貞盛が京に引っ込んで以降は
良文の流れが坂東平氏の惣領
だから坂東八平氏は総て良文流なんだと思ってた。
南北朝期の、大掾高幹-詮国-満幹の名前に見るように
一目置かれていたのは事実だろうけど。
85日本@名無史さん:01/08/28 22:22 ID:OxLJltzs
>>83
そうそう、千葉氏なんて東北から九州まで広く分布してるしね。
86日本@名無史さん:01/08/28 23:26 ID:mYy.qnCo
age
87日本@名無史さん:01/09/03 05:27 ID:wwpk8xIk
age
88島崎城は小高と同規模:01/09/05 23:32 ID:a2GgkIlE
城の規模を既出サイトの記述でみると
鹿島城−総郭600×500−本丸180×150 小高城−総郭600×270−本丸100×100

そこで別サイトの記述
>蔵重一彦氏(測量士でもある)の調査研究による労作「北相馬郡五城址解説」から著者の
>見解を抜粋してご披露したいと思います。
>著書の中ので(8)「石高と城の総面積」について次のように推論を下している。
>領主が支配している土地から取れる米の収量で賄える馬と武士の数は決まってくるし、
>馬と武士の数がきまれば、城の広さと石高は比例関係にある ことが想像される。
>当時の主要兵具は馬で、これは広い面積を必要としたであろう。そこで北相馬五城各郭の
>面積と総面積と石高を対比した表を下に掲げた。尚石高の大きい土浦と弘前も参考に示した。
>           石高  本丸  二の丸  三の丸  総面積
>筒戸城(水海道市)  1.2万石 190アール  585アール  なし   7.7ヘクタール
>守谷城(守谷町)   3.2   236   -221   -362   18.2
>高井城(取手市花輪) 2.0   -27   -230以上 -なし   2.5?
>大鹿城(取手下高井)  ?   24    60   -940   10.2
>府川城(利根町)   2.0   -57   -134   1740   19.3
>土浦城(茨城県)   7.8   -70   -450   2800   32.2
>弘前城(青森県)  -15.0   366   -746   4968   60.8

で、鹿島−本丸270アール−総郭30ヘクタール、小高−本丸−100アール−総郭16.2ヘクタール
これらの数字が大まかな物で、鹿島城は改築の際の圧政で老臣等の主君挿げ替えがあった(と
されている)のを踏まえても、石高が???になる。鹿島郡内の石高は知りませんが、行方郡内
の総石高は太閤検地で2万6000石余。城郭の数値参照元のサイトでは島崎氏が4万5000石とある。
89日本@名無史さん:01/09/09 18:12

よくしらべましたねー
90日本@名無史さん:01/09/11 23:00
>83
平安時代はわからないけど現在は幹をトモと読ませることも可能
91日本@名無史さん:01/09/12 10:50
>>90
それは現在の話だろ?
それに幹をどんなりゆうがあって「とも」と読ませるんだ?
92>82かえってうそ臭い?:01/09/16 16:15
ん?、平安時代はわからないけど現在は、て前置きして書いてるんだが
とりあえず漢和辞典みてたら、幹の〈人名〉とこに、トモってあったのは事実
理由は名づけ親に聞かなきゃわからないな。。。

この一族の幹は初め(正式には?)韓だったらしい
系図の写真をみると初期平氏系の武士の宗は棟だったりもする
武家平氏とは別流だが、公家平氏の祖高棟王とおなじ棟
字体ってのも結構重要?

藤姓伊佐氏もしっかり任官してた(=公記録が残ってる?)ろうから、同地同姓ってだけじゃな
93日本@名無史さん:01/09/30 21:23
三十二党に負けてる(当然か?w)age

負けずに三十三館逝ってみよう
1林大幹・2東幹久
94歴史の勉強:01/09/30 21:43
いんや、33館の氏族名はさほど重要じゃないと思う。
しかし33館の存在を知らないのは犯罪的だ。
戦国時代を別の視点から見るためにも、こういう群小豪族は大切だと思う。
紀伊の雑賀党が重要なのと同じで。

佐竹や宇都宮より、33館研究のほうが価値あると思う(暴論ですが)。
95日本@名無史さん:01/09/30 23:16
>>94
確かに暴論かもしれないが、気持ちはわかる。すごいわかるぞお!
おれも三十三館が気になって仕方がない。しかし、資料が少なすぎる。
三十三館の発展の歴史は非常に興味深い。おれも時間と能力があれば研究したいのだが。
96歴史の勉強:01/10/01 00:52
>95
おお! 同志!
いっそここの掲示板仲間で「33館研究会」を始めませんか?

「三好氏」のとこでもボロクソに批判しといたけど、
日本人は「戦国群雄、知名度高けーの」にしか興味ないのか?
佐竹と宇都宮の知名度だって、宇都宮が改易されちったから、
佐竹が強お〜みたいに思ってるだろう?
佐竹氏は豊臣秀吉がいなかったら、水戸にも進出できなかったんだぞ?
(この時やったのが「33館大虐殺」)
いや、佐竹氏を批判したいんじゃなく、関東地方の特性を無視してる連中が許せん!
関東は特殊な地域なんだ。東関東だと、33館のあたりが一番進んでたんだ。
後北条氏が急激に勢力を拡大できたのも、武相の群小武士の支持があったからで、
これも関東の特殊性なのだ(特に西関東と33館地域の)。
武田信玄/毛利元就みたいな典型的な戦国大名にしか目が行かん連中は、歴史をわかっとらん!
関東、畿内のように、経済的先進地域はかえって群雄割拠状態になりやすい。
33館地域が大大名を生まなかったのは、その先進性ゆえなのだ。

すいません、興奮しちゃいました。
でも、あと30年もしたら、我々の考えが優勢になってるかも知れない………。
97日本@名無史さん:01/10/01 01:08
ていうか江戸って佐竹の外様みたいな物じゃないの?
鹿行なんて利根川(旧鬼怒川)に道路ができるまでは
死ぬほど田舎だったよ。
どう考えても日本で一番遅れていた地域のひとつだよ。

それから「進んでいる=いいこと」って本当かな?
何の変哲もない田舎でいいんじゃないですか。
98歴史の勉強:01/10/01 01:21
でも、江戸氏が佐竹の外様だったら、わざわざ亡ぼす必要あったかな?
佐竹氏が常陸で一番有力だったのは事実でも、けた外れに強かったってことはないでしょう?
江戸氏が佐竹氏に臣従する形式を取ってたとしても、
それはもともと江戸氏(=那珂氏)が南朝に属してたことと関係あったと思う。

33館地域が先進的だったことは間違いないと思う。
あの辺は霞ヶ浦(今よりずっと広かった)があり、河川交通の要衝で、
経済力はけっこう強かったはずだよ?
これって、九州北部と似てるんじゃない?
松浦なんか、田舎で人も少なかったと思うけど、経済的には先進地域で、
それゆえに少弐/大内/大友のあいだで独立を維持できたわけじゃない?

それに、経済的な先進/後進なんてしょっちゅう入れ替わるわけで、
たとえば江戸と並ぶ商業港だった六浦は江戸時代に観光地になっちゃったんだから。
江戸時代後期や近代を元に考えちゃいけない。
経済的に進んでることは別にいいことでも何でもないが、
進んでる地域ほど人が多くなるので、やっぱり重要だと思う。
東関東だと、水戸のあたりか33館地域が最先進だったと思う。
だって南は房総半島だもんね。
9997:01/10/01 01:31
言われてみれば確かに
霞ヶ浦と北浦の漁業権だか通行権だかをめぐって
江戸時代にひと悶着ありましたね。
琵琶湖の堅田衆に近いのだろうか。
また、真壁の辺りもあの時代は
沼沢地の水運が盛んだったと聞いたことがある。
中世の常陸はまさに関東の水運業の中心地だった、か。
100日本@名無史さん:01/10/01 19:13
100ゲット!
101日本@名無史さん:01/10/01 19:23
>97,98
どうかな?
中世の関東の水運業の中心はいまの東京湾だろう。
102歴史の勉強:01/10/01 22:19
もちろん、関東で一番経済的に進んでた地域は東京湾の西側ですよ。
これは、頼朝公の御代からあんま変わんないね。関東〜東国の特色。
港としては、六浦、神奈川、品川が特に大きかった。
足利時代は、六浦が次第に衰退し、神奈川と品川の比重が高くなるころ。
だから、江戸を押さえてた太田道灌が強い部将になるわけです。
道灌が特に強かったのは、品川に集まる傭兵を雇ってたから。
その傭兵を使った戦法を「足軽軍法」というわけです。
結局合戦なんて兵力で決まるからね。

ただ、ま、河川交通も無視しちゃいけないわけでして。
15世紀後半、上杉氏と古河の公方が利根川を挟んで対峙した理由もそこにある。
霞ヶ浦は今よりずっと重要だったんです。
103てんぴん:01/10/02 13:26
南方三十三館の中に、かの剣豪塚原ト伝がいたってききました。
あのあたりは飛鳥天平時代くらいから、蝦夷東北を睨んで「鹿島神宮」「香取神宮」が設置されたとか。
これは武術の神を祭る神社で、ここから「関東七流」と称される剣術が発したとか。
日本の神社で江戸時代以前から「神宮」の名を持っているのは他には三種の神器を奉る「伊勢神宮」「熱田神宮」くらいしか聞きません。
「明治神宮」は大政奉還後だから、この際別ということで。
104日本@名無史さん:01/10/02 23:09
>97
ttp://salad.2ch.net/test/read.cgi/warhis/998987904/l50
津による交易範囲の広さを考えて(済州島〜九州〜土佐〜紀伊半島〜尾張〜。
鹿島家家臣の塙氏の一流が尾張に流れ、織田家臣塙直政の家系を生んだのも
この海上ルートが大いに関係してると思う。
津から上がる利益を具体的に説明する事は出来ないが、鹿島城下(神宮門前)には
市が立ち、島崎領潮来長勝寺の鎌倉執権北条高時寄進梵鐘には「客船夜泊常陸蘇城」
と詠まれている(賑わいが大陸の蘇州(水運で栄えていた)のようだという意味。
実際、香取海、椿海近辺の城館跡からは、唐物や青磁、白磁等も出土してるよう。
中世史料に残る大まかな津の分布(津の管理は本来、香取大禰宜のものだった
土岐氏勢力範囲、阿波崎、福戸など8
鹿島氏勢力範囲、大船津、奈良崎など鹿島郡沿岸に17
島崎氏勢力範囲、潮来、牛堀など行方郡沿岸に21
小田氏勢力化(現霞ヶ浦町)で中世確認できる津は、柏崎1つ
下総は香取海の下総沿岸と椿海沿岸で30強
史料に残っていないだけで、実際には小田氏領にも津はあったと思うが、
香取海に跳梁した海賊の取り締まりを公方に命ぜられたのも、土岐と手賀(行方氏系。
105歴史の勉強:01/10/03 23:31
落ちるな!
106日本@名無史さん:01/10/05 01:11
史跡 鹿島城(別称吉岡城)址

 鎌倉時代初期約800年前の昔から、室町時代の天正19年(1591年)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。
 永正の終わりの頃(1520年前後)義幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛)につながったと鹿島治乱記はいう。
 現在の本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。
 昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書土器等も出土した。
 城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和63年より城山公園として開園。毎年整備を進めて四季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。

            鹿嶋市教育委員会による看板

ttp://www.asahi-net.or.jp/%7Edg8j-hsmt/utanokami.html
107日本@名無史さん:01/10/05 19:40
>>106
鹿島氏の後裔発見!!!
2chにいる大掾氏の末裔の諸君はハはずかしがらずに出てきてくれたまへ。
108歴史の勉強:01/10/06 19:46
書き込みたいけど、ネタが無い〜
(帰りたくても帰れない〜、と高田淳二の歌で)
109日本@名無史さん:01/10/07 00:25
大掾
110日本@名無史さん:01/10/07 02:22
武田氏ってどの程度の勢力だったの?
111歴史の勉強:01/10/07 21:08
上げるべ
112歴史の勉強:01/10/08 11:34
させるかー!(byガンダム)
113日本@名無史さん:01/10/08 16:47
勉強さん神奈川の人ですか?
K県某K市の電話帳みてたら、鹿島○、烟田○、徳宿○、札×、中居○、林○(幹夫さんも数人
石神○、相(逢)賀×、行方○、玉造○、手賀×、鳥名木×、真壁○、赤須○、伊佐○、大掾×
以上大掾氏族の姓で特異(?)な分
他に
足利○、徳川○、松平○、大友○、(今話題の)蒲池○、城井○、千々岩○、江里口○
円城寺○、宗像○、帆足○、赤星○、香曽我部○、結城○、宇都宮○、小田○、岡見○
笠間○、薗部○、少弐×、竜造寺×、長宗我部×、喜連川×

基本的なことですまないけど
真壁氏は信濃や陸奥方面にも領地を貰い分流、行方氏も上総や武蔵に分流してるわけだけど
鹿島氏は鎌倉〜室町に常陸以外に領地を貰ったり他地域に分流してるの?

>107
自分そうだけど、現代の当主スレみたいなとこに大掾如きの名前を出されると恥ずかしいです
114歴史の勉強:01/10/08 18:28
ハイ、神奈川で−す。
三浦半島出身。
三浦半島には随所に歴史的地名が残ってて、
ここに生まれて良かったなあ、とよく思います。
南方33館は非常に興味がありますので、ぜひ教授せられたし!
人に教授できるほど知りません、すまそ
116日本@名無史さん:01/10/08 20:36
>>113
そっと名字を教えられたし
117113=115:01/10/08 20:38
無理です
118日本@名無史さん:01/10/08 21:26
残念だな
119日本@名無史さん:01/10/08 21:27
>>117
江戸時代は何をしていたか教えなさいませ
120日本@名無史さん:01/10/09 17:00
鹿島?
行方?
島崎?
真壁?
121日本@名無史さん:01/10/10 01:29
鹿島城って、けっこう大きかったんだね。このまえ地図みたよ。
戦国時代の城だから、小さいのかと思ってたら…。でっかいでっかい。
佐竹も鹿島氏を攻めるのにちょっと躊躇してたみたいなんだよね。
122日本@名無史さん:01/10/10 22:39
age
123日本@名無史さん:01/10/11 21:43
どこの藩にいたか言ったら名字いうのとかわんないじゃん(笑
ちなみに113には書いてない(当り前だけど
120の4つみたく歴史に少しでも名前のでるとこの子孫だったら
もう少し鼻が高く男前になれたのに(w
124歴史の勉強:01/10/12 00:45
浮上!
125日本@名無史さん:01/10/12 00:46
なあんだ
126日本@名無史さん:01/10/16 06:43
age
127日本@名無史さん:01/10/17 05:33
ワラた
128日本@名無史さん:01/10/17 06:41
>>121
よし、見てこよう。
129日本@名無史さん:01/10/17 18:29
>>121
近くにすんでるの?
130日本@名無史さん:01/10/20 23:19
mada
131南方三十三館:01/10/25 00:16
緒形幹太
132日本@名無史さん:01/10/25 00:17
>131
だれだそりゃ
133日本@名無史さん:01/10/25 00:37
緒形直人の兄貴じゃなかった?
134日本@名無史さん:01/10/25 11:51
e?
135日本@名無史さん:01/10/26 13:19
ところで、今までの中で、33家カウントできないけど。
誰かカウントしてみて。
136日本@名無史さん:01/10/28 00:17
三十三館って呼称はいつ頃から言われだして、何に出てくるの?
謂れは別に、確実に三十三の内に入るのは義宣に謀殺された
鹿島、島崎、中居、烟田、玉造、相賀、札、島並、小高、手賀、武田
と、林、徳宿、麻生、あたりかな
137日本@名無史さん:01/10/28 18:25
龍ヶ崎城主の土岐胤倫(たねとも)は
三十三館かい?

佐竹と宇都宮では戦国期には佐竹のが勢力あると思われ
秀吉がいなけりゃ水戸にも進出できないは極端な物言いと思われ
138歴史の勉強:01/10/28 19:54
しかし、佐竹氏が水戸に進出できなかったのも事実であり、
33館の領主を虐殺できたのも秀吉の後ろ盾あってこそだ。
戦国大名の力なんてどっこいどっこいで、
しかもいつ内部崩壊するかわかんなかった。
戦国末まで生き残った、徳川時代に大藩だった、
なんてことで歴史を解釈すると大失態を犯す。
139日本@名無しさん:01/10/29 12:45
>>138
越中富山の佐々氏の処罰が原因らしい。
越中国人衆の反乱で、領主の佐々成政が秀吉に詰め腹切らされた事を聞き、このままの状態で常陸を統治しても三十三館や江戸氏らに反乱起こされでもしたら、
詰め腹切らされる危険性があると。
なにしろ、石を投げれば名家に当たる地域だから、当時の常陸国は。
独立心旺盛な連中ばかりだし。
140日本@名無史さん:01/10/29 17:27
佐竹嫌い
141日本@名無史さん:01/10/29 20:16
33館=敗者
142日本@名無史さん:01/10/29 21:17
>>141
成り上がり者、佐竹発見!!
143日本@名無史さん:01/10/30 03:58
成りあがりってほどでもないだろ
144日本@名無史さん:01/10/30 06:41
成り上がりつーか、名門やん。
血統藤原、姓源、常陸守護やってて秋田藩主になって。
今でも市長にもなれる。なにが不満なんだ?
145てんぴん:01/10/30 12:34
>>144
やっぱ、伊達氏や小田原北条氏からすればうざったいことこの上なしだからでしょう。
146日本@名無史さん:01/10/30 14:12
大掾を知らぬ馬鹿発見!
147日本@名無史さん:01/11/01 23:47
1はもういないだろうが、やはり、スレタイは常総平氏にしたほうが良かったかも..
148123:01/11/01 23:58
佐竹が成り上がりって・・・いやだな
大掾なんてのは正七位下相当
対して、大国の介は正六位下相当
(義重は従五位下常陸介らしい、常陸が親王任国だからかな

佐竹義篤、右馬権頭(私称?)も従五位下相当(右馬頭
他に当主が名乗ってる大夫も、従四位下(左京・右京職)、正五位上(大膳職)に相当
比べもんにならないよ
149日本@名無史さん:01/11/02 01:38
>>148
あなたこのスレの123氏ですか?つくづく謙虚な方ですな。頭下がります。
150日本@名無史さん:01/11/02 11:01
大掾氏で本当に常陸大掾になっているのは誰と誰?
151日本@名無史さん:01/11/03 18:01
>>148
佐竹が常陸介になるようになったのは、かなり時代がくだってからでしょ。
佐竹氏が常陸では新興勢力だってのは否めない
152歴史の勉強:01/11/03 19:21
佐竹氏が「新興」と言えるかどうかは疑わしいよ?
一応、源義家の弟・新羅三郎義光の時代から佐竹ノ庄に入植してますからね。

ただ、ぼーくが気にくわないのは「信長の野望」あたりを鵜呑みにした連中が
(あれ、ホント問題あるよなあ;人間の能力はああも単純に数値化できるものか?)、
常陸っていうと佐竹、って考えることですね〜。
小田、宍戸、大掾、南方33館、ぜーんぶ無視で。
常陸の国って、水戸から北しか存在しないのかしら〜なんて思ったりして。
153歴史の勉強:01/11/03 19:26
官位を考えるのは不毛な気もしますね。
どうせ頼朝のころから、京都の官職は形骸化していたろうし。
常陸の国司も介も、あまり価値を有してなかったんじゃないかな?

大掾氏は上杉禅秀の叛乱の余波で衰退が始まったと考えるべきじゃない?
あの時に江戸氏(那珂系)に水戸を奪われてしまってるから。
しかし、鎌倉〜足利時代を通して意外なくらい大掾氏の名前を聞かない。
以外と勢力が小さかったってこと?
154日本@名無史さん:01/11/03 19:28
大掾のほうが佐竹より古いのは歴然としてるよ。
155歴史の勉強:01/11/03 19:32
大掾は、ある意味、平氏の嫡流だもんね。
平貞盛の末裔でしょ?
大掾があまり厚遇されなかったのも、
良文流(貞盛の叔父さんの末裔)が鎌倉の中枢になったからとも言う。
これも関東史……武士の歴史の一側面か。
156日本@名無史さん:01/11/03 20:27
>153
大掾の勢力が小さかったってのは納得いかないね。
やはり常陸の旧勢力を統べる勢力として無視できないでしょう。
佐竹も最初はびびってたらしいし。
157教えて厨房:01/11/03 20:50
>>152
ゲームをあたかも史実のように話すやつもドキュソだけと、
ゲームに対して本気で腹を立てるのも、カコワルイ
158歴史の勉強:01/11/03 20:51
いや僕、よく知らないんですよ、大掾氏の歴史。
まあ、ただでさえ、戦国以前の関東史なんて情報が少ないけどさ。

頼朝入府時期の大掾氏の勢力ってわかりますか?
もし、頼朝が氏を警戒してたなら、
常陸守護に八田知家を入れた理由が納得できるから。
159日本@名無史さん:01/11/03 21:22
官位が不毛って大掾氏の成立を否定するようなこと言うなぁw
大掾は貞盛の末裔ではなく、貞盛の弟の繁盛の子、維盛が貞盛
家督を継いだことになっている。本流は貞盛の嫡流だが。
鎌倉の中枢wってなら、良文流よか三浦、和田の良茂流のがまだ
中枢と呼べるだろうなぁ。
常陸介のなら佐竹の祖、満仲、頼信、義光がなっており、佐竹2代
忠義も常陸介だヨ。つか忠義は常陸大掾でもある。3代〜10代まで
常陸介で、11代で切れるけど、既に常陸守護になってる。
義家の後三年役には大掾一族は従っている。平氏政権下では佐竹は
平氏について常陸介に任じられている。勢力的には佐竹氏成立時から
ずっと大掾氏の上をいってると思われるが?
160日本@名無史さん:01/11/03 21:31
頼朝が警戒していたのは平氏と通じて勢力のあった佐竹氏
だと思われる。というか佐竹征伐してるし。これくらい
知ってるでしょ?
161歴史の勉強:01/11/03 23:18
何か、大掾氏をめぐって熱くなっている……。
歴史好きの真骨頂を見る思いだ……。

それにしても、大掾氏さんて、どんぐらいの勢力があったの?
ほかの武家に比べてもよくわからんし(の割に有名)。
佐竹氏が頼朝以前から相当有力だったことは疑いない。
それに、義光流も嫡流候補だったわけで(義家流だけが候補だったのではない)。
頼朝が武田氏(特に嫡流)を警戒し、佐竹氏を討った背景もここにある。
しかし、頼朝以降は官位なんてあんまり意味を持たなくなったんじゃないか?
特に鎌倉を中心とした世界では。
どっちみち言えるのは、豪族の「頭数」が多かった常陸(経済力が強かったことを表すか)
を、佐竹氏が独力で抑えるほど強くなかったことでしょう。
162日本@名無史さん:01/11/04 03:34
なんで武田を警戒して佐竹を討つんだ?
武田と佐竹は頼朝期つうか最初から別に動いてるぞ。
163歴史の勉強:01/11/04 10:07
武田氏は、不思議と嫡流が厚遇されず、庶流が活躍している。
小笠原氏、南部氏、がその典型。
これも頼朝から北条氏に受け継がれた「名門の分裂」策かも知れない。
嫡流を中心として強大化することを恐れて、庶流を厚遇する。
新田氏もその典型で、里見氏、山名氏は頼朝時代から御家人に列せられている。
新田氏が南北朝時代に分裂して争った遠因もここにある。
164日本@名無史さん:01/11/04 10:21
佐竹氏は武田氏の庶流じゃありませんが
165歴史の勉強:01/11/04 21:29
佐竹と武田はあまりに遠すぎて、とても同族って感じはしないですねえ。
でも、佐竹が嫡流と考えることもできるでしょうね。
源氏の嫡流、と違ってこんな嫡流はあまり意味がないと思うが。
166てんぴん:01/11/04 22:01
佐竹の祖昌義自身、大掾氏から嫁取っていたからね。
平氏というと西国のイメージ強いけれど、本家本元は常陸の国。
平清盛はどちらかというと分家筋の伊勢平氏。
それから「大掾」の名前自体、職名でもある。

佐竹や武田の義光流自身、頼朝の義家流に比べて非常に大きい勢力になっていたし。
なにしろ、義家は弟義綱と京都内部で勢力争いの果て、共倒れで衰退の危機に面していた。
一方義光は両者を反面教師として、京都での勢力争いに割ってはいるより、京都と関東奥州勢力の中継ぎになる事で勢力を拡大していったとか。
頼朝決起の際も、佐竹は参内しなかった。平家勢力に比べ、源氏義家流は当時かなり貧弱だったのが最大の原因かな。
富士川合戦の後、上洛より後顧の憂いを断つためにも、佐竹を討つのが頼朝の方針と化した。
討伐したものの、秀義自身は奥州へ逐電、家人の岩瀬与一が
「何の落ち度もない佐竹を討伐して、それで源氏が安泰するはずがない」と訴えて、
後の奥州征伐の際秀義の参内の時頼朝に許され、その際扇に月の丸の家紋を授かったとか。
167日本@名無史さん:01/11/05 17:42
天敵佐竹あげ
168歴史の勉強:01/11/06 00:29
そうですね。
「てんびん」さんの言い分が妥当な気がします。
源平合戦たって、頼朝自身は直属の軍事力持ってないんだもんねえ。
源平合戦(治承内乱)の本質は、
「経済が発展し人口余剰になった関東地方の有力者が西日本や東北に進出した」
ってとこでしょうし。
頼朝が「武門の棟梁」になったのだって、たまたま彼の与党が武相で勝ったからであって、
この両国でだって、頼朝が絶対勝つとは言い難かったはずだ。
新田や佐竹が頼朝に与せず「中立」(この辺が妥当か?)を選んだのだって、
妥当なとこだと思うんだよなあ。
血筋よりこっちのが重要なんじゃないでしょうか?
足利氏のばあい、藤原系の足利氏との争いがあったから、頼朝に与したんじゃないの?
あと、宇都宮、小山も頼朝党だったしね。
169日本@名無史さん:01/11/06 02:40
富士川も甲斐源氏のおかげだしな・・・
170日本@名無史さん:01/11/07 00:18
どういう意味?>169
171日本@名無史さん:01/11/07 22:58
>152
ゲーム的な不満は少しわかりますね
ゲームでの常陸は人材どころか生産力まで低いんですよ

平安末期の常陸平氏の所領
簡単にいうと、戦国時代の小田氏、岡見氏、土岐氏の領地は丸々多気流
禅秀の乱後に接収されたところが吉田流(鎌倉以後の主流
石下らへんが石毛流、小栗御厨が小栗流、平姓伊佐氏の所領はわかりません

他に、奥七郡が義光流源氏、下館近辺の少領に藤姓伊佐氏、笠間らへんに宇都宮
現鬼怒川の対岸は下総平氏の領土
172日本@名無史さん:01/11/07 23:09
禅秀の乱後に接収されたところと鹿行両郡が吉田流でした
173歴史の勉強:01/11/07 23:44
>171
戦国時代の常陸の経済力がそんな小さいとは思えませんね。
だって、秋田転封以前の佐竹氏は「50万石」とかでしょ?(不正確とは思うが)
たしか、太閤検地で、常陸の石高が54万石だったと思う。
ちょっと大きい数値って気もするが(太閤検地は人口を反映すると言われるから)、
上野が49万石だってことを考慮すると、そんなにおかしい数字ではない。
東国は米が経済基準になっていなかったから、石高なんて問題あるはずですが、
常陸は上野、武蔵と並んで、東国では最も経済力の強い国だったはず。
そうでなきゃ、群雄割拠なんて有り得ないよ。
174日本@名無史さん:01/11/09 22:37
>173
生産力が低いってのはゲームの中での扱いですよ
攻略本を唯一買った天翔記で比べてみたら越後より低かったんですよ(笑
175歴史の勉強:01/11/09 23:22
越後より低い……ならまだ許容範囲か。
越後の国の正確な経済力なんて、当時把握しようがなかったろうし。
その割に上杉氏、長尾氏の最大の勢力基盤になってたから、
かなりの経済力はあったと思うけど。
176日本@名無史さん:01/11/10 20:47
越後のゲームにおける豊かさは長尾氏による、石高には現れない青ソの生産等による利益も
含んでるような感じだね

ゲームだと商業的による経済的な豊かさが反映され難いものが多いんで
常陸は割を食ってる面もあるかも
177日本@名無史さん:01/11/10 20:48
わ、変な文章
商業的による経済的な豊かさ×
商業による経済的豊かさ○
178日本@名無史さん:01/11/14 03:53
しょせんゲームでしょ
179日本@名無史さん:01/11/14 18:39
例えゲームでも思い入れの有る対象が不当な評価をされてると思うとムカツクよ、うん
180日本@名無しさん:01/11/15 12:07
あと、南方三十三館の精神的バックボーンは、やはり香取神宮と鹿島神宮。
建てられたのが香取神宮は神武18年、香取神宮は皇紀元年(西暦紀元前660年)・・・てヲイ!
卑弥呼・キリストはおろか釈尊ゴーダマシッタルダさえまだ生まれてねーじゃんかよ!
まあ、でまかせなんだろうけれど、関西の平城京・平安京よりも歴史が古いことは確か。
大掾氏や南方三十三館が小田原攻めの時に参陣しなかったのが討伐の口実にもなったけれど、
これだけ古い歴史をバックボーンにしていたら、天下人とはいえ所詮は関西の百姓成上り
(本当は関西じゃなく愛知尾張の人間だけど)に頭なんぞ下げられるかってプライドがあったんだろうな。
同じことは小田原北条氏にも言えたけど。
181怒れる青年:01/11/15 12:29
あれだろうな。
おれたちが最新の知識でアカデミックに調べたいと思ってる南方33館も、
歴史をチャンバラの循環ぐらいにしか思えない、
思考系統の貧相なゲーム連中には「強い弱い」しかねえんだろうな。
昨日の「その時、歴史は動いた」でやってた加賀百万石だって、
徳川に卑屈卑屈のペーペーで幕末までもったってのによ。
182日本@名無史さん:01/11/15 17:41
そういう人はゲーム板とかへいくべきだ。
183日本@名無史さん:01/11/16 04:10
大掾氏と南方三十三館が、香取神宮と鹿島神宮と関係が深かったてことがわかるエピソードみたいなの知ってますか?
鹿島氏・林氏が鹿島神宮で役職を持っていたというのは聞いたことあるけど。
184アカデミックですか:01/11/16 22:47
ちょっとゲームのことに同意しただけで凄いな
>180さん
33館中、島崎安定だけは小田原に参じて、馬と太刀を秀吉に献じています
>プライド
勅使?の代役みたいなこともしてたから、「頭なんぞ下げられるか」
っていうよりは誅されるなんてことが想像外だっんでしょう

>183さん
めちゃくちゃ乱文ですが
鹿島大使ですね、元々は勅使が毎年常陸に下ってきてたみたいだけど
めんどくさいから大掾氏族が費用も含めて執行することになったようです
大掾氏の7氏族(このスレの鹿島氏、行方氏とか)が1年毎に7年周期
各氏族の嫡家はもちろん、その支族(林、烟田、島崎)も
185日本@名無史さん:01/11/16 23:25
>184氏
文章途中できれてます?
その鹿嶋大使って具体的にどういう役職なんでしょうか。
位階とかは?
186日本@名無史さん:01/11/19 23:16
書いてて〆かたが思いつかなかったから書き捨てちゃった
誰かフォローしてくれる人がいるんじゃないかという淡い希望込みで

鹿島大使は鹿島神宮で年1回行われる祭りの責任者(費用持ち)です
位階はわかりません
187日本@名無史さん:01/11/20 05:30
なんかマ○マ大使みたい
188日本@名無史さん:01/11/20 20:38
大掾という官職の故に大掾氏をおとしめることはできないね。
大掾氏の庶流が常陸大掾より高い官位をもらってるし。
(なにがいいたいんだろ スマソ)
189日本@名無史さん:01/11/21 18:11
大掾氏が常陸大掾で
佐竹氏が常陸介だから佐竹のほうが偉い!
って感覚がわからん。
(実際そのとおりなんだろうが)
常陸における歴史だったら大掾のほうが古いでしょう?

なんか秀吉は関白で、頼朝は右将軍だから秀吉のほうが偉い!
成り上がりではない!っていってるみたい。
(なにがいいたいんだろ スマソ)
190日本@名無史さん:01/11/21 18:45
 常陸平氏御三家
   大掾氏
   行方氏
   鹿島氏
191日本@名無史さん:01/11/22 06:13
age
192歴史の勉強:01/11/23 10:43
大掾さんと佐竹さん、どっちが偉いってことはないでしょ。
官位云々は屁理屈みたいなもんだ。
大掾さんと佐竹さんの根拠地はちょっと遠いしね。
この両氏が争うってことは少なかったんじゃないの?
大掾さん、佐竹さん双方にとっては、
その中間に割拠する江戸氏(那珂氏)のほうが深刻な利害対立あったんじゃない?
大掾さんは江戸氏に水戸を奪われてしまっているし(禅秀の乱の余波)、
佐竹さんは江戸氏のせいで1590年まで水戸に進出できなかったから。
193日本@名無史さん:01/11/23 16:04
鹿島大使の続き希望
194日本@名無史さん:01/11/23 20:48
age
195日本@名無史さん:01/11/24 20:24
age
196日本@名無史さん:01/11/26 13:23
sage
197日本@名無史さん:01/11/28 10:27
いまでも鹿島大使っているんでしょうかねぇ。
あと、香取神宮と大掾氏ってなにか関係があるのでしょうか。
198日本@名無史さん:01/11/30 18:14
だめか
199日本@名無史さん:01/11/30 21:00
むかしニフティの歴史フォーラムかなんかに33館の系図かなんかが
あったのにプロバがニフじゃにから見れなくて悔しい思いをした
このスレ覗いててプロバがニフの人いない?内容のコピペして
200日本@名無史さん:01/11/30 21:02
>>182-183がこのスレに帰ってくるのを期待しましょ
201訂正:01/11/30 22:12
>182-183
  ↓
>>181-182
202日本@名無史さん:01/12/01 22:22
スレの上下が激しいからあげとく
203日本@名無史さん:01/12/03 20:37
age
204日本@名無史さん:01/12/08 00:36
かなり下
205日本@名無史さん:01/12/11 00:13
age
206日本@名無史さん:01/12/11 10:48
sage
207日本@名無史さん:01/12/11 14:18
208日本@名無史さん:01/12/11 18:54
sage
209T代メンバー:01/12/12 22:31
>>207を覗いたらヤバイっすか?
210209:01/12/12 22:48
どうなんだろ
このスレには関係ない内容?それとも本当に最高な情報?
211日本@名無史さん:01/12/14 18:47
しかし房総が後進的だったって歴史の勉強氏はいっているが、何を根拠にいっているのかな。
鎌倉時代は房総半島の東京湾(現在)は水運交通も非常に発達していたらしいのだが
212日本@名無史さん:01/12/14 23:50
>>211
南方三十三館については門外漢だが、水運に関して言えば
利根川水系の方が発達していたんじゃ無いかと思うのだが
213日本@名無史さん:01/12/15 02:09
>>212
そうなのか。是非持論を展開してほしい
214日本@名無史さん:01/12/25 23:59
215日本@名無史さん:01/12/28 20:04
期待あげ
216日本@名無史さん:01/12/28 20:34
もう空アゲやめたら
鹿島大使だの利根川の水運だの議題はあっても語る意思なさそうだし>アカデミック熱望者
217日本@名無史さん:02/01/04 00:06
大掾氏の詳細な家系図とかあります?
218日本@名無史さん:02/01/04 01:59
219歴史の勉強:02/01/04 02:47
短慮不才の徒がずいぶん前に書いたことを思い出させてくださってありがとう。
すっかり忘れてました(おいおい)。

房総が最後進地域だったような印象を与えますね、僕の98の文だと。
房総半島は関東でも最も「謎に満ちた」……つまりは資料の乏しい土地柄。
現在の千葉県は両総と安房国が一つになってるけど、
下総はわりとリッチだったんですよね(というより大国)。

でも、これだけは忘れてはいけない:関東は経済最先進地域だったこと。
関東を凌駕しうる地域は近畿しかないわけで。
だから、よっぽどの山間部を別にすれば、関東は、
東日本では圧倒的な人口(だいたい奥羽の2〜3倍の人口は有していた)
と経済力を有する地域だったわけです。

33館の時代は、期限未確定(南北朝かな?)〜1590年でしょうから、
相模の地位がようやく後退して、武蔵を中心とした地域が有力になるころかな?
戦国期、里見氏はしばしば鎌倉に侵入しますが(1526、56だけではないらしい)、
やっぱり北条氏に対して劣勢を否めない。
国府台合戦の時も、北条氏の半分ぐらいの兵力しか集められなかったようです。
僕はこの原因を、関東地方西南部と房総半島の経済力の差異だと考えます。
もっとも、千葉氏の勢力圏までは里見氏も進出できなかったから、
北端は今の千葉市(おゆみ辺)に比定すべきか。
やっぱ、北条氏の基盤は関東で一番リッチなとこだったんだよ。
第1次国府台合戦時は相模〜江戸まで、第2次は武蔵全域まで、かな?
他の地域の先進性を考えると、房総の後進性は否定できない気がする。
でも、あくまで「関東に限定して」の話であって、その辺は誤解なきよう。
やっぱ、東北と比較すると、経済は発達してたんじゃないの?

この辺が僕の「歴史小説ぎらい」に直結してくるんですが、
里見氏の当主たちは北条氏の当主たちよりバカで無能だったのではない!
大将のバカ利口で歴史は動かない。
強い大名は、個人の能力で勝ったのではなく、経済力で勝ったのだ!
この辺が僕の33館びいき、佐竹ぎらいにも関係してくる……。
220日本@名無史さん:02/01/04 03:47
里見より、千葉氏のほうが勢力強いでしょ。
221日本@名無史さん:02/01/04 10:30
まあ下総は大国だし、上総は親王任国、安房は小さい国ながらも国として認められていたのだから、房総半島は経済的に安定した地域なのだろう。
33館だが、私はほんとうに取るにたらないちっちゃい領主の集まりだと思っていた。
しかし、33館について勉強するにつれて、あんがい個々の領主が力をもっていたことがわかってきた。
しかも、意外に日本史の表舞台で活躍しているのだ!
222歴史の勉強:02/01/04 16:05
千葉氏全体を総合すれば、日本有数の大武家だってのは事実だったでしょう。
相馬氏、武石氏(いずれも東北に割拠)、東氏(美濃)も、千葉氏だから。
しかし、戦国時代の千葉氏(関東の)は分裂していたから、
個々の勢力はそんなに強くなかったのではないでしょうか?
千葉氏分裂の濫觴を尋ぬると、享徳の大乱(1455〜)に行き着く。
この時に千葉宗家は武蔵に追われ、「まくわり」流の千葉氏が下総の実権を奪うんですよ。
「まくわり」は通例「馬加」と表記されますが、今の「幕張」のことです。
連歌師宗祇への「古今伝授」で有名な、東常縁(とうのつねたね)は、
関東に派遣されて、幕張あたりで戦ってます。
しかも、享徳大乱時すでに千葉氏の実権は原氏(千葉氏庶流)に移行しつつあった。
千葉氏が漸次後北条氏の勢力下に入っていくのは、
この分裂による衰退が根底にあるでしょう(その結果、太閤に所領を没収される)。
戦国の半ば、1518〜37年に「おゆみ御所」に千葉市あたりを奪われているし。
このせいもあってか、千葉氏は佐倉に拠点を移します。
江戸時代は佐倉が房総一の大都市だったはずだから、
豪族の動向は歴史に大きな意義を持ってことがわかりますね。

ま、里見氏も房総全域を支配してたわけじゃないから。
上総には武田氏、酒井氏などが蟠踞していて、里見氏はそれより有力という程度。
上総が群雄割拠(スケールは関東中央部ほどじゃないが……)状態だったことは、
上総がわりと経済力強かった証左じゃないでしょうか?
里見氏が最後の最後まで後北条氏の傘下に入らなかったのは、
地理的要因もさることながら、水軍あってのことと僕は思うのですが。
223日本@名無史さん:02/01/04 21:48
>>221
もったいぶらずに教えてよ
224日本@名無史さん:02/01/04 22:58
>>223
なにを教えるの?
225日本@名無史さん:02/01/06 21:28
>>224
これについて
>しかし、33館について勉強するにつれて、あんがい個々の領主が力をもっていたことがわかってきた。
>しかも、意外に日本史の表舞台で活躍しているのだ!

表舞台で活躍した領主っていっても全然思いつかない
北畠親房を攻めた鹿島や、応永の乱で足利持氏を守って討死した島崎は表舞台と呼べるほどの物じゃないし
戦国(33館の時代)でもない
226歴史の勉強
それにしても、徳川家康の一存で、助命嘆願とかできなかったかねえ?
だって、東海地方捨てて関東に入るわけじゃん?
経済力は関東西半部のほうがあったと思うけど。
もし、豊臣の10年を生き延びたら、33館は旗本とかで全部生き残れて、
後世に歴史を伝えることができたような気も……
(ああ! またアンチ佐竹めいた文を!)