1 :
日本@名無史さん :
2013/07/22(月) 17:20:39.12
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス) の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸一斉処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の張政/狗奴国による暗殺説)。 -分裂した「和」国 奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷 狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑≧神武東征ルート≧ ...................隅国(鹿児島)┘ 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を 一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。 「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国における五胡十六国の 内戦の影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・ 卑弥呼(アマテラス)&台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。 ※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代 4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍派遣→国造任命→日本武尊東西平定】 5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】 →高句麗の南侵に脅かされた百済支援により金官伽耶(後の任那日本府)からの「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化 6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】 ※ -26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕 …(×応神5世孫○日本武尊7世孫)継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発 -29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕 …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ -38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕 …「白村江の戦い」完敗→百済・任那日本府滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ -40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕 …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ -49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕 …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
>津堂という地名はいつからかは分からないが、 >川に面してた「津」が語源であることは間違いないだろう。 地名の多くは地形地勢から名付けられるが必ずというわけではない 支配者や居住者の人名に基づいた可能性や 施設であれば移転前の旧名が移転後の地形と無関係に定着した可能性もある 少なくとも大和川開削以前からの遺称かどうかくらい確認してから論じるんだな
津なんて姓無いからな
>>6 おまえの辞書には無いんだろうな
津史 津連 津宿禰
津史 津連 津宿禰 があの辺に定住したと証明しろ。
>>7 それらの何処に「津」姓があるのかな?ん?
1つも無いよね。出せ無いなら大人しく黙ってような
津堂の地名が少なくとも大和川開削以前に遡ることを確認しないと 古事記撰述の頃に長江と呼ばれた土地に結びつけられないよね なんで可能性として呈示しただけの人名由来を否定することに必死なの? 津堂が人名に由来したに違いないなんて言ってないんだけど 津堂と呼ばれた仏堂が別の場所から移転して来て当地の地名となったという可能性を全く否定できるの?
恵賀うわっ、まだ言ってるのかしつこいなぁ。 こんな事、2スレに渡って言いつづけるような話かよ。 元々が応神天皇陵墓より一段階古い大王墓で、 津堂という川のそばにある地名なので古事記の恵賀の長江なのではないかという自説を言っただけだ。 「否定することに必死なの?」 「可能性を全く否定できるの?」はこっちの台詞だ。 しつこいんで以後無視。
×恵賀うわっ ○うわっ w
都合が悪くなると無視
>>9 >>7であがってるのはみんな現代風にいうと「津さん」なんだけど…
船連が船に関連してる名前だと簡単に推測できるように、 津さんも船溜まりや港に関連してるだろ ならば津という人名が語源であっても津があったということ
>>16 津さん一族が未来永劫水辺でしか活動しないならそうだろうね
>>12 じゃあもうレスするなよ
>津堂という川のそばにある地名
この雑な考えを検討してるんだけどな
初め大和川のそばだと思ってたのに誤りを指摘されたら石川に変えて結局は東除川を選び
いつのまにか二つの川に挟まれた土地とか言い出しはじめた
長江も津堂も川に挟まれた土地なんて意味ではないよね
津堂城山はその名の通り中世には城砦として利用されていたけどその名称は小山城
当時この城砦のある丘は津堂と呼ばれず小山と呼ばれていたことになる
津堂の地名は中世までは遡れるかもしれないけど川のそばだったから名付けられたと言い切れる根拠は何なのか
この辺りは津氏が活動していた土地だったから
津堂の津が水辺に由来するのではなくて氏姓によった可能性も無いとは言えない
意味も発音も違うのに水辺っぽい地名だから津堂が長江で違いないというのは希望的観測でしかない
普通は地名から探索するならまんま音が変わってないか少し転訛してるくらいの場所を遺称地として考える
後世の津堂が古代に長江と呼ばれた場所であると主張するなら相応の説明を要するはずなんだけど
その必要が無いと思っているなら自説を只の思いつきとしてしか組み立てる気がないということだ
紀と式の長野を考慮しない理由は現在どこだかわからないからとか
そんなんで良いと思ってる程度だからまあ仕方ない
どうしても長江に着目したいなら最初期の二重濠を指して或はそれへ川の水を引き込むために作った堀なんかを
長江と称されたのが少なくとも古事記の頃までは伝わったいうような考え方のがすっきりする
板葺きの屋根が珍しかった頃に称された名前が後代にも伝わった飛鳥板蓋宮みたいに
>>17 http://www.maido-habikino.com/walk_page/machiaruki_1.htm 「王氏一族の白猪史(シライノフヒト)が元正天皇の養老5年(721年)に
河内恵我長野邑(藤井寺近辺の旧名)に土地をたまわり、
名も「葛井連(フジイノムラジ)」と改め、本拠地としていた。
葛井連の親族には柏原国分や羽曳野市野々上から
伊賀・南宮・北宮・島泉・小山・津堂附近にかけて分散居住していた
船史(フナノフヒト)や津史(ツノフヒト)があり、いずれも帰化系の文化人でした。 」
つまり津堂をふくむ長野邑に船史(フナノフヒト)や津史(ツノフヒト)が居住していた
船史や津史は川にかかわる地域だったからそう命名されたのだ
8世紀においても津があったということ
>>18 氏姓の始まりを考えれば、役目や地理が先ずあって其処から名前
津姓が先で其処から津堂と名付けるのは、古代には考えられない
大陸出身の帰化民でさえ読み名は役割や地名から付けられているし
>>19 >>20 津堂の地名が古代からあったのなら史料を教えてくれ
>>21 川の近くで津堂という地名が成立したとして
長江と津堂が同一地点であるというのは古墳から導いている希望的観測だというのが分からないか
特に理由なく川の近くでいいなら何処でも長江や津堂でいいことになるんだが
>津堂の津が水辺に由来するのではなくて氏姓によった可能性も無いとは言えない
と言ってて、
>>19 であのあたりに住んだ船史や津史を指摘され、
また
>>20 の「氏姓の始まりを考えれば、役目や地理が先ずあって其処から名前」
に対して
>津堂の地名が古代からあったのなら史料を教えてくれ
というのは
>氏姓によった可能性も無いとは言えない
という自分の意見を撤回したの?
>>23 津氏からの由来を否定するために津氏が活動する以前から津堂の地名があったことを確認したいのがそんなにおかしいかね
津堂の地名が古代から脈々と続いてきたとする史料がないのに古代の成立だと盲信して古代に人名由来の地名などありえないというのは乱暴ではないのかね
そもそも津堂がそんなに古い地名だとするなら長江がいつまで残っていたにもよるけど異なる場所だという蓋然性が高まるような気がするんだけど
長江が川のそばだから名付けられたのだろうというのは良いとしても
城山古墳を津堂と呼びはじめたのは近代以降のことで
村名をとったにすぎず川のそばだったから津堂と名付けたわけではない
この点が分かっていない
中世には小山と呼ばれていた所なのに近世では津堂村の領域となってるのは偶々村社が建立されたからだろう
中世以前に遡って津堂の地名の存否や領域について何の証拠も提示できてないのに勝手に古代以来だと確信してるのはどういうわけなのか
川のそばだったから津堂と名付けられたと主張するには
少なくともいま東除川との間にある島泉・小川・若林といった集落の場所がかつては津堂と呼ばれていたと言いうる証拠や
東除川がもっと津堂よりに流れていたことでも示されないと話にならん
大水川(旧大乗川)の方が近いけど東除川の場合と同じくより川に近い古墳が存在するし
間にある小山との関係を説明できないとやはり話にならない
隣村より川から遠いのに川のそばなのかね
>少なくともいま東除川との間にある島泉・小川・若林といった集落の場所がかつては津堂と呼ばれていたと言いうる証拠や 東除川がもっと津堂よりに流れていたことでも示されないと話にならん もはや日本中の川傍の地名が津堂でならなくてはならんという狂論 君は異常
>>24 >城山古墳を津堂と呼びはじめたのは近代以降のことで
だから津堂という地名は近代からという論理か?
ならばソースを示してくれ
http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,92,51,261.html 「この深居神社は、奈良時代の養老元年(717)の創建と伝え、
品陀別命(応神天皇)を祀っています。棟札から、
一間社流造りのこけら葺の本殿は、江戸前期の万治3年(1660)に建てられました。
また、寛政5年(1793)をはじめとする多くの絵馬が拝殿天井に掲げられています。
もともと、同社は小川だけではなく、津堂や市域の若林・大堀・川辺(大阪市平野区)の総産土神でした。
それが、元弘~建武期(1331~35)以降、現在のように小川一村の氏神となったのです。」
717年以前から津堂はありました ヾ(*・∀・)/
>>25 大和川開削以前に津堂が川傍だったかどうか確認できていなのに盲信する方がおかしいでしょ
>>26 津堂が少なくとも近世には遡れることくらい検索すれば分かるでしょ
>>27 その記事をどう読むと8世紀に津堂という地名があった証拠になるのかね
>>29 創建の時点で五箇村が成立していた証明になるのかね
元弘建武の時点で五箇村が奉斎していたようにしか読みとれないが
何れにしてもかなり古くから津堂と東除川との間に小川と若林が存在しており
津堂村が川と接していないことの傍証なんですがいいのかしら
そもそも長江の地名が古事記にしか出てこず 他の史料がみな長野である時点でアレだけどな
>創建の時点で五箇村が成立していた証明になるのかね そう書いてるのだからあきらめろ >何れにしてもかなり古くから津堂と東除川との間に小川と若林が存在しており >津堂村が川と接していないことの傍証なんですがいいのかしら 昔の地図なんてないのだからどこに川が流れてたのかは分からないが、 小川と言う邑があるのだから察しろよ おまえは病気 >津堂の地名が少なくとも大和川開削以前に遡ることを確認しないと >古事記撰述の頃に長江と呼ばれた土地に結びつけられないよね と言ってたのだから、 大和川開削以前に遡るわけだから「あった」でいいな?
>>31 触れたくないらしいね
>>32 元弘建武より以前に津堂村があったという証明にはなっても創建時に成立していた証明にはならないでしょ
近世中世の村落は全て古代に遡れるとでも思ってるのかね歴史人口学とか知らないの
小川は今も東除川のそばだけど津堂はそうじゃない
津堂が過去のある時点で川のそばだったと主張したいなら
当時の川筋を史料やら地図やら航空写真やらで考察すればいいだけのことなのに
地名は地形から名付けられたに決まってると勝手な臆測だけで論じてる方がよほど病気
>>津堂の地名が少なくとも大和川開削以前に遡ることを確認しないと
>>古事記撰述の頃に長江と呼ばれた土地に結びつけられないよね
>と言ってたのだから、
>大和川開削以前に遡るわけだから「あった」でいいな
もう飽きたのでしたらお好きなように
>となのに
>元弘建武より以前に津堂村があったという証明にはなっても 認めるのだな ならそれでいい
>>35 最初から否定してませんけど?
中世には小山と呼ばれていた場所なのに近世か近代以降の呼称に従って
古代は川のそばだったと確信できるだけの頭脳が欲しいわ
否定してないのなら津堂の津は川の傍または水辺じゃないか 当たり前な事 津氏も船氏も川があったからこその氏族名
津堂の地名が大和川開削以前に遡れることと 川辺から採られた地名だったかどうかは別の話 地名は大抵の場合は地形・地勢から名付けられるけど 人名から採った例や移転してきた施設の旧名を付けた例なんかがあるわけ 古代にそんな例は無いと言うなら古代から津堂という地名があったことを証明するのが先でしょ いまのところ南北朝まで遡っても津堂が川のそばだったかどうか分からない上に 川との間に別の村落が所在していることが明らかなんだから川辺を意味する地名が付けられた蓋然性は低いと言わざるを得ない 地名の語源が確定しているわけでもないのにその地名を根拠にして川筋が変わっていることを前提にするとか 希望的観測の積み重ねでしかないことがまるで分からないのならもうどうしようもないね それと無視すると言ったならちゃんと無視してください
>地名は大抵の場合は地形・地勢から名付けられるけど
>人名から採った例や移転してきた施設の旧名を付けた例なんかがあるわけ
>>37
やはりまるでわかっていないな 地形由来を否定するだけの明確な根拠がないから否定しないだけであって 他の可能性を全て否定しうる地形由来を肯定しなければならない根拠もないわけ そういうことが理解できないから長江=津堂なんていう風に安直に考えるんだろうけどね
>小山と呼ばれていた場所なのに近世か近代以降の呼称に従って >古代は川のそばだったと確信できるだけの頭脳が欲しいわ 小山は小さな山があったのだろうね なら津堂は津=船溜りがあったのだろう 水辺以外に船溜りはできないのだよ
>>38 河内は地名の通り中世まで無数の川が錯綜する地形で
津堂の地名は大和川開削以前に遡れるし
津とは元々水辺を意味する文字
川辺を意味する事から津堂の名が付けられた蓋然性は極めて高い
>>41 川筋とは関係なく津氏の祭祀する仏堂のあった場所だから津堂と呼ばれたとか
元々別の土地で津堂と呼ばれていた仏堂が今の津堂に移転してきて地名がそこから採られたとか
現時点で川のそばでなくより川のそばな場所があるにもかかわらずそういった可能性を根拠なく悉く排除して
意味も発音も違うのに古代の江津の跡で長江と同一地点だと確信できるのは不思議だね
>>42 蓋然性でいうなら古事記にしか伝わらない長江が正確かどうか怪しいのでは
>元々別の土地で津堂と呼ばれていた仏堂が今の津堂に移転してきて地名がそこから採られたとか 醜い言い訳
>>42 全くその事を言ってるわけです
にもかかわらずこれだけ言い逃れするやつも珍しいです
>>44 もう一つの方は醜くないのかな
>>45 前スレでも言ったけど石川と大和川の合流地点より北方なら分かるけど
藤井寺・松原・平野あたりでそんなに大きく川筋が変わっているとは思えないんだけど
>前スレでも言ったけど石川と大和川の合流地点より北方なら分かるけど >藤井寺・松原・平野あたりでそんなに大きく川筋が変わっているとは思えないんだけど 合流地点より南方でもいいではないか 津があったから津堂だろ 何が不満なんだ
東除川の右岸は島泉丸山の辺りまで標高が少し高いので 津堂のそばを通っていたとすると小川あたりから東進することとなるが急カーブを描くことになり近世まで知られる川筋から見て不自然 大水川(旧大乗川)が今より近くを通っていたとする方が理解はしやすいが そうなると川のそばの古墳で長江と呼びうる候補が津堂城山以外に数多くなり断定材料が乏しい そういう安直な思考でいいと思ってるならそれで別にかまわんよ
>>41 小山村の地名の元になった小山は
津堂城山古墳のことだと推測されている
(山川の地名辞典)
現地行ったら分かるけど、他に小山なんてないからね
東除川から考えるのならともかく
大乗川や石川から考えるなら川辺にある・あった数多の古墳を差し置いて
特に長江と称された理由を考えないといけないんだがね
>>49 まあそうだろうね
>>48 大和川を造成するとして高い土地をわざわざ開墾しないよね
ということは津堂のあたりは土地が低かったから造成に適してたのだろ
ならば昔なら津があったということだ
>>51 大和川の開削がどんな工事だったのかくらい調べればすぐにわかるよ
現代のだけど地図から標高を調べることができるからやってみなはれ
>>52 なんでそんなことするんだよ
川からすごく高いならともかく津があったであろうことくらいわかるよ
>>53 なんだエスパー様だったのか
それなら津氏に関わる仏堂があった可能性も否定できるし
長野の方が間違ってると断定できるな
恐れ入りました
津氏に関わる仏堂があった可能性なんて言ってる時点で終わりだ それより津に関わってるから津氏だろ ま、俺は蓋然性の話をしてて あんたは何とか津から言い逃れしようとしただけ
>>55 終わりならそれで結構よ
無視するはずが随分と気になったようで
誰と間違えてるのかな? まぁ名無しなんで意味ないけどね
長江=津堂で良いと思える人が多いんだな 勉強になったわ
59 :
日本@名無史さん :2013/07/24(水) 21:35:02.89
中国や朝鮮では「江」は川そのものを意味してるみたいだけど 日本では陸地に入り込んだ所って感じか・・・
>>51 津堂城山古墳は東除川と西除川に挟まれた低位段丘上に立地している
(現在は大和川に分断されているが、本来は南から北へ延びる低い丘陵の上)
だいたい大型の前方後円墳は港が立地するような低地にはつくられない
>>60 東除川と西除川の間じゃなくて東除川と大水川の間だと思うけど論旨には賛成
62 :
n :2013/07/25(木) 00:13:39.50
>>60 大型の前方後円墳を低地には作ったと言ってるのではなく、
そのどちらかの川に津があったから津堂と言う地名なのではという話でしょ。
>>60 応神陵のそばに川流れてるし。
低地に造られてるよ。
あと松原?に一津屋という地名があるのだが、
大和川からかなり南なんで大和川改修以前からの地名だろ。
津なんて普通にあったんだよ。
>>63 津がありふれてるなら長江にあたるかどうかの決め手にならないのでは
葛井氏の寺で藤井寺って地名の例がすぐ近くにあるのに 津氏の堂なんてありえないってのはおかしくないか
>>64 長江というからにはこれも川沿いだろ、
どこかは分からんが。
津堂地域は旧・長野邑なんでそれでいいんじゃないの。
くだらない話だ。
そろそろスレタイに戻さないか。
>>66 津堂は長野村じゃくて隣の村だし
記と式の言う長野と近代町村制の長野村が合致しているかどうかも知らないけどね
ほんなら長江なんての拘る必要なくて長野の陵ってことで決着じゃん
>>63 現地を知らないことが丸わかり
応神陵も南から北に伸びる台地上に立地している
近鉄南大阪線に乗ってみればすぐ実感できるぞ
同じ台地上に連なるのが仲津山であり允恭陵だ
古墳の分布図を見てみ
ま、大和川の付け替えも知らないようなアフォどもは
船橋遺跡とか知るよしもないのだろうなあ
>>73 応神陵のそばに川が流れてるが高台なのか。
津堂城山が高台ではないのでどうでもいいが。
>>72 古事記にしか伝わらずどういったものを指すのか分からない長江を頼りに
どこまで遡れるかも地形に由来したかも定かでない津堂を比定するよりは
津堂・小山あたりも長野の遺称地だと考える方がよほど簡単ですっきりしてると思うね
>>74 高台のすぐ下を川を流れてる可能性は考えないのか
76 :
日本@名無史さん :2013/07/25(木) 05:57:16.37
いいねこのスレ。希望的観測で論理を組み立てるなとか マンツーマンで普通のおっさんが論文の書き方教えてもらえる。
屁理屈だけで結局自分が何古墳だと思うのかさえ言えないやつ多いよね
78 :
日本@名無史さん :2013/07/25(木) 17:52:51.48
屁理屈だけで何古墳だと思ってるやつも多いよね
仲哀墓が4世紀後半の大王墓である津堂城山古墳だとして何が屁理屈なのだろう。
学問の世界では結論にいたる論証過程も結論と同様に重視されるものなんだよね 屁理屈というか、論証過程のおかしさを突っ込まれたら顔を真っ赤にして説明を二転三転させたという話だったな 学問的な話ができるレベルでないって自覚すらできないところが救いかな
学者ではないのに格好つけてもな。 津堂城山が河内王朝開始期の大王墓は定説。 川が流れてる事が分かって慌てて川から離れすぎで津ではないなんて 顔を真っ赤にして説明を二転三転させたという話だったな。
いつまで顔真っ赤にしてんだよw
細かいことだけど大王墓じゃなくて大王陵とか大王墳と言うべきなんじゃないの そういう細かいことが認識できそうもなさそうだけど
検索してみたら大王墓って使う人けっこう居るんだな 墓塚墳陵廟やたらに使い分けしたがるのも何かにとらわれすぎかな 失礼しました
宮内庁から天皇の墓と認められてるのが、 (たとえ間違ってようが)大王陵なんじゃないの。 たとえば応神天皇陵であって応神天皇墓なんて言う人はほとんどいない。
>>81 >学者ではないのに格好つけてもな。
学者とか格好とかそういう問題じゃないと思うけど、本当に自覚すらできないのかな。
>津堂城山が河内王朝開始期の大王墓は定説。
津堂と長江の地名の関連性から言及している学究を知っているなら教えてください。
>川が流れてる事が分かって慌てて川から離れすぎで津ではないなんて
附近を東除川や大水川が流れていることは大和川の付け替え以後も変わっていないよね。
津堂村は新大和川にしか接していなくて他の川へ通ずるには隣村を経由しなければならないけど、
そういう村でも川に由来する地名が与えられたとするなら、他所でそういう例を一例でも挙げてみればいいんじゃないかな?
どうたらこいつ真性のキティみたいだな。 >津堂と長江の地名の関連性から言及している学究を知っているなら教えてください。 そんなものない。 ないからって自分の意見言ったらいけないのか? 津堂地域は記紀の恵賀と長野に合致してる。 長江は不明(そんなもの分かるわけない)。 何か問題か?
>>87 ん?w
長江=津堂の人とは違うのかな?
それとも長江からの比定をいつの間にか無かったことにしてて長野に鞍替えしたのかな?
書紀と延喜式の長野はどこだか分からないなんて言ってのは夢か幻のようだね。
大和川の付け替えも知らないで川のそばだってはしゃいでいた過去は恥ずかしいもんね。
すぐ罵倒したがるくせは改めないとお里が知れるよ。
津堂に川が南北に流れてる事を知って大慌てだった過去は恥ずかしいもんね。w
>>89 大乗川が小山村を越えて津堂に接していたならその史料を挙げてくださいな
そんな気になるならお前が調べろ。 「津」とは船溜まりであり、昔からある津堂村は、 川や水辺に接してる蓋然性が高いと、 何度言っても理解しない、 あるいは異様な負けん気で「わざと理解したくない」のは惨めだねw 夜中も昼もPCの前にいるお前と違って仕事があるので寝るわw
無視すると言っておきながら気になるんだね
説明責任の彼我すら分からないならもう議論は止めた方がいいと思います
>>80 が言うように自覚すらできないのはある意味救いですわな
>>92 傍から見てるとオマエは的外れなんだよ
学者の真似事をしてみても、センスが無いから思索の意味に乏しい。
相手の揚げ足取りしか出来無いが
その相手の粗い推測にすらオマエの方向違いの思い付きは及ばない
>>93 学者の真似事に揚げ足を取られたくなかったら粗い推測をしなければいいだけのことですね
センスに欠ける見当違いの思い付きだと思うなら一々相手をしない方が沈静化すると思いますよ
学問・人文系日本史板としては ・大和川付け替えの事実も知らずにドヤ顔で語ってた奴 ・無知を指摘されたら火病ってそれまでの論理構成とは全く異なる主張を始めた奴 が一番的外れなんだがw
96 :
日本@名無史さん :2013/07/27(土) 05:57:49.04
どや顔とか火病ってとか感情の話なんかどうでもいいんだよ。
>>96 ・大和川付け替えの事実も知らずに語ってた奴
・無知を指摘されたらそれまでの論理構成とは全く異なる主張を始めた奴
感情の部分を削るとこうなるだけです
98 :
日本@名無史さん :2013/07/27(土) 10:45:20.68
学問・人文系日本史板としては 津堂とゆう地名が「津」から出たのではなく 津氏から付いた可能性が高い とか言っちゃう無知な馬鹿の方が大問題だけどね。 日本の歴史を何も解ってない
>「津氏から付いた可能性が高い」 可能性としてないわけではないが、 ぞの津という姓が「津」に関係してるからだろう、 ということさえ分からない、 いやごまかし続けるやつね。
津堂城山が河内王朝開初期の大王墓という事なので、 仲哀天皇の墓ではないかという説はけっこう多い。 完璧な証拠なんてあるわけもないのに、 むきになって否定してる方がおかしい。 むしろこの時代は空白の4世紀と言われてて、 それを理由に騎馬民族説のようなアホ説が戦後に跋扈してきたわけだが、 まぁ今となっては信者もいない。 むしろ古墳がどんどん巨大化し、 大和朝廷の高度経済成長期であっただろうというのがこの時代だろう。
編年から大まかに津堂城山を仲哀陵と推定することは別におかしくない 長江=津堂という比定の論理がおかしいということを指摘されているんだが分からない人には分からない
>>103 >87で「長江は不明(そんなもの分かるわけない)。」
と言ってるのだからそれでいいじゃん。
>>104 それでいいけど
津堂が川のそばだったに違いないから同様に川のそばだったに違いない長江と同一地点だったに違いない
という当初からの説明は全面的に抛棄することになる
長江は川のそばだって確信してたのにいきなりそんなもの分かるわけないと撤回
長野なんてどこだか分からないと言ってたのに津堂城山は長野にあたると軌道修正
こういう結論ありきで説明がころころ変わるおかしさ
>>80 を指摘されてるのであって
本人も支持者もそれで問題ないと思えるなら別にええよと
細かい粗を突いても結局相手の大前提を肯定する羽目になってるが
107 :
↑ :2013/07/27(土) 17:40:46.72
こいつ必死だねwww
>>106 津堂城山が仲哀陵であることを否定したくてしょうがなかったわけじゃないからね
109 :
107 :2013/07/27(土) 19:24:15.13
106氏失礼しました。
>>105 に言ったつもりでしたが…
すいません。
過疎過疎なスレだった筈なのにいつの間に2スレ目に・・・・・
ここは伽耶伽耶なスレです
113 :
日本@名無史さん :2013/07/31(水) 09:13:01.51
過疎スレというほどではないな。 任那日本府は韓国と日本の見方が激突する問題の一つだから。
「倭の五王」ではなく、「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王〜 413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳 430年★「倭国王」…履中 438年「珍」…反正 443年/451年「済」…允恭 460年/462年「倭国/興」…安康 477年/478年「武」@…雄略 502年※「武」A…武烈 ★430年の「倭国王」は履中。 → 438年「讃の弟珍立つ」 430年に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃」の子で、 その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、 台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王「讃」のイメージが強烈だった中国側にしてみれば、 名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と記録してしまった可能性がある。 つまり【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、大和朝廷の天皇系譜に合致する。 ※倭王「武」は2人いた。 502年梁の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、 雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年(古事記)や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。 ゆえに @讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈) 「倭の七王」となる。
可能性という名の恣意
117 :
日本@名無史さん :2013/08/01(木) 21:10:09.11
>>114 任那は百済王室から百済への援兵軍馬を養う為の拠点として与えられた領地なのに何で新羅王が跪いてんだよ日本府と関係無いだろw
任那駐在の倭政府大臣に百済王と新羅部族長が跪いていたんだよ 神功皇后の三韓征伐の後にね
八幡大菩薩御縁起絵巻は任那日本府とは関係なく、中世に三韓征伐を書いたものじゃないの? 新羅王が屈服してるのは、男装した神宮皇后じゃないかな。
120 :
日本@名無史さん :2013/08/02(金) 10:34:52.84
>任那は百済王室から百済への援兵軍馬を養う為の拠点として与えられた領地 倭国は百済の属国だったわけね
>任那駐在の倭政府大臣に百済王と新羅部族長が跪いていたんだよ 百済と新羅が倭王の臣下だったんだよな 中国の史書や満州民族高句麗の金石文に記されてるから知ってる
人質(太子)を差し出し、軍事支援/不介入を要請した百済/新羅(×:対立) 高句麗←┐ × │ 百済 × 新羅 │ │ └→倭←┘
124 :
日本@名無史さん :2013/08/04(日) 10:19:47.96
任那日本府は事実上、日本書紀の欽明記にしか出て来ない。その欽明記に描かれた 任那日本府は実に謎に満ちている。 ・任那日本府は安羅にある。 ・任那日本府には倭国の将軍が複数いる。 ・倭国の将軍たちは任那日本府の現地役人に牛耳られている。 ・その現地役人は新羅に内通している。 ・倭王の指示は任那日本府に対してでなく百済王に対して出される。 ・任那日本府は百済王のところに、倭王の指示を聞きに行く。 ・百済王は倭王の指示を実行しようとするが、任那日本府は百済王に対し面従腹背である。 ・百済王は任那復興の障害であるとして、任那日本府の一部の将軍の本国召還を希望するが、 倭王に無視される。 以上のような任那日本府の姿を否定する見方は、任那日本府の「欽明期以前」姿、あるいは 「本来の」姿を想像するものでしかない。
125 :
日本@名無史さん :2013/08/04(日) 10:21:48.99
訂正: 「欽明期以前」姿 → 「欽明期以前の」姿
>>124 ふむ…
欽明の頃は籠絡されてて末期的だったということだな
滅んで当然か
127 :
日本@名無史さん :2013/08/04(日) 16:46:04.76
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。 ・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。 ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。 ・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。 二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。 ・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。 ・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地 ・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
任那日本府の記録によれば ・任那日本府は旧狗邪韓国にある。 ・任那日本府には倭国から派遣された大臣がいる。 ・倭国の大臣は現地役人を統括支配していた。 ・任那日本府は属国新羅の朝貢も管轄している。 ・倭王の命令は任那日本府と共に百済王にも下される。 ・任那日本府と百済王は共に倭王の命令を受ける立場に居る。 ・任那日本府と百済王は倭王の指示を実行しようとする。
129 :
日本@名無史さん :2013/08/04(日) 20:24:09.82
>>124 の続き
日本書紀欽明記によれば、倭国王(欽明)は、任那日本府が新羅に内通しているのを放置したまま、百済王
には「新羅との内通は滅亡のもとだぞ」などと訓示していた。
この矛盾を説明する一つの考え方は、倭国が一体ではなかった、ということである。
つまり倭国もまた、新羅に浸透されていた。倭国の親新羅勢力は任那日本府を通じて新羅とつながっていた。
その状況下で欽明は孤立していた。しかたなく欽明は百済王をたよりにするとともに任那日本府を疎外した。
このように考えればつじつまは合う。
>>129 史実性は疑わしいが、葛城ソツビコの頃から任那日本府は独立愚連隊だよな
九州の磐井辺りの兵隊が多かったのか
邪馬台国や隋書倭国伝の記事にあるように、実際は倭国王の配下にある豪族の代理店に過ぎなかったのかも
>>128 の続き
史書に拠れば、新羅を征伐した大臣の息子は
任那に於いて専権を振るっていたが倭王によって召し返された。
また、倭王は大臣を派遣して任那十数郡を宰る任那国司と成し
倭国領任那の行政司法軍事を司り加羅百済新羅の属国を統括させた。
つまり、任那は倭朝廷に差配された大臣によって統治され
加羅百済新羅の属国を統括していたが
半島南部で大権を握っていた倭人も天皇の命1つで召還されてしまう存在であった。
>>130 倭国豪族の在任那代理店じゃなくて
在任那の倭人豪族なんでないの
そいつらと倭国中央の派遣してくる駐任那特派員とが
必ずしも一蓮托生ではなかったと
>>132 こんな感じっすかね?
倭王=豊臣秀吉
在任那の倭人豪族=小西行長
駐任那特派員=加藤清正
>>134 行長がもともと任那の人ならそうだろうね
古墳時代における任那日本府の駐留軍は、戦前の満州における関東軍に近いのではないか? 百済の辰斯王暗殺事件は張作霖爆殺事件と、阿シン王即位は溥儀を傀儡として即位させたことに重なる。
韓半島産の純度の高い鉄を求めて設置された出先機関としての任那日本府は、 戦前の満州はもちろんだが、後漢の楽浪郡・帯方郡とカブるNe!
なぜFeじゃなくてNeなのか
>>136 いや、全然違うよね明らかに。
任那日本府の日本官員は、近代北海道や沖縄の官憲に該当する
>>138 前漢の遼東、玄菟郡や後漢の遼東、楽浪郡や曹魏の遼東、帯方郡と被るよ
其処にも漢人の入殖者、交易に従事する商人、戦乱で移住した農民が多数居た
朝鮮半島の鉄を狙って周辺国が虎視眈々か… 今で言うところの南シナ海(石油/天然ガス)みたいな感じ?
社会、政治組織が未発達で未統合な草刈り場 近代で例えるなら満州や半島や東南亜やエジプトやシリアみたいな感じ
神功紀で言う新羅の宝とは鉄のことであったか
神功紀で謂う新羅の珍奇な貢納品は 百済の使者を襲って朴李した物なんだが
>>140 詳しいようだね
その通り。古代朝鮮人とやらの正体は中国人(前漢人)
その様子は魏志韓伝の辰韓(秦韓)弁辰条からうかがえる
>>136 百済の辰斯王暗殺事件は百済の臣官たちが勝手に殺してしまったわけだが。
147 :
日本@名無史さん :2013/08/08(木) 09:21:35.02
>>146 下手人はそうであっても、やらせたのは倭国だね
『日本書紀』応神天皇三年:百済辰斯王失礼於貴国天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰。
嘖譲其无礼状。由是百済国殺辰斯王。以謝之。紀角宿禰等便立阿花為王而帰。
『三國志』によると弁辰韓は二十四国、馬韓は五十五国 『百濟本記』によると任那は十国 『駕洛國記』によると伽耶は六国 合わせて九十五国
おーそういう意味だったのか
倭王武は、高句麗以外の朝鮮半島南部の国全部の支配権のお墨付きを要求したんだろう。 > 使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王 結局、百済が治める領域は認められなかったけど。 三国志で言うところの馬韓が百済と慕韓になっとるんかな。
百済はそれ以前に鎮東将軍?だったけかな 称号貰ってたからね
任那地方に在った日本国(倭国)の府(機関)
153 :
日本@名無史さん :2013/08/28(水) 00:01:57.27
>>129 現代だって小泉や安倍がいくらアメ寄りでも支那寄り売国奴を放置してるじゃん
同じだろ
154 :
日本@名無史さん :2013/08/28(水) 09:44:57.24
たぶん任那日本府の起源は、倭国と金官加羅が共同作戦していたときの、倭国の半島方面軍司令部だ。 倭・金官連合軍が強大であったときはある程度任那諸国および新羅を支配していたが、 広開土王戦争後に金官加羅が弱体化すると任那日本府の地位も低下し、立場上は他の任那諸国と 同列になってしまった。 しかも欽明時代には任那日本府は事実上新羅に乗っ取られていたから、倭の大王からも疎外され、 正体不明の政治団体となってしまった。 しかし従来からの慣行で、倭国の将軍が派遣されてはいた。 その倭国もまた新羅に浸透されていたから、派遣将軍もおそらくは親新羅派であった。 だから百済王と対立した。 百済王は派遣将軍の召還を倭国大王に要請したが、欽明の力ではそれも叶わなかった。 かくして任那(金官の残党)は滅びるべきして滅びた。
金官国は伽耶であって、任那ではない
156 :
日本@名無史さん :2013/08/28(水) 14:57:34.68
>>155 金官加羅は狭義の任那。
「任那ではない」の任那は広義の任那。
伽耶と加羅は同じ。
欽明記の「任那」は狭義と広義が縦横無尽に用いられている。
任那の正体はは辰韓(秦韓)弁辰時代と同じで、隣保同盟の盟主が任那王なんだろう 欽明記にそれを匂わせる記述があるね
158 :
日本@名無史さん :2013/08/28(水) 21:04:39.99
宋書の「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大将軍倭王」の任那は狭義の任那(金官加羅)?
広義の任那の中加羅や馬韓や秦韓や新羅を含まない地域
160 :
日本@名無史さん :2013/08/29(木) 10:50:03.31
>>157 >欽明記にそれを匂わせる記述があるね
それはどこ?
どこ?
162 :
日本@名無史さん :2013/08/29(木) 22:26:15.14
>>158 >>159 秦韓と新羅は地域が重なって時代が異なる。つまり変な形で重複している。
加羅ははじめはなくて途中から加わっているから、これも任那との重複だろう。
そう見ればこの任那は金官ではなく広義の任那。
>>160 『任那諸国は春に集まり重大な議題を討議して云々』とかあったな
前スレだったか
欽明天皇紀じゃないかもね
日本人は昔から主君と家臣団が春に集まり重大な議題を討議してたよな
バカチョン発見
確かに
>>163 は如何にも馬鹿チョンの願望って感じだな
167 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 09:24:27.74
>>162 の続き。
加羅は狗邪韓国に由来するから任那より古い。
だから任那と加羅の重複も、新羅と秦韓の重複と同様、時代を超えた重複と
見ることができる。
なぜ時代を超えて重複させるのか。
それによってその地域への支配権の起源を示しているのだ、という説もあるね。
168 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 09:27:17.10
>>162 の続き。
加羅は狗邪韓国に由来するから任那より古い。
だから任那と加羅の重複も、新羅と秦韓の重複と同様、時代を超えた重複と
見ることができる。
なぜ時代を超えて重複させるのか。
それによってその地域への支配権の起源を示しているのだ、という説もあるね。
169 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 09:31:29.16
>>162 の続き。
加羅は狗邪韓国に由来するから任那より古い。
だから任那と加羅の重複も、新羅と秦韓の重複と同様、時代を超えた重複と
見ることができる。
なぜ時代を超えて重複させるのか。
それによってその地域への支配権の起源を示しているのだ、という説もあるね。
170 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 09:43:10.44
ついでに広開土王碑の「追(倭)至任那加羅從拔城」の任那加羅について私の考えを 書いておこう。 この任那加羅は金官加羅だ。 これは「加羅諸国の中の任那という特定の加羅」という意味ではなく、 「任那王朝の加羅国」という意味だ。 つまり狗耶韓国すなわち加羅国という特定の国が存在したことを念頭に置いて、 「現在は王統が変わって任那王朝となっている加羅国」と言っているわけだ。 高氏が支配する句麗が高句麗であるのと同じ事だ。
171 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 09:47:21.40
馬鹿は少し勉強してから書き込もうな 狗邪韓国は倭人の国であり位置は 任那中枢や金官と重なり、加羅とは全く別の地域
加羅は本来は韓の訛りなんだろうか 韓の名は後漢書の韓廉斯邑君が初出で、辰韓(秦韓)馬韓(慕韓)の名に引き継がれている
174 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 11:21:17.50
>>狗邪韓国は倭人の国であり位置は任那中枢や金官と重なり、 まったくその通り。 その倭人の国・狗邪韓国が王朝が変わって任那加羅国になったのだ。 だから任那加羅と金官加羅はイクオルだ。 狗邪に由来する加羅、任那加羅に由来する任那がどちらも名称として広域化して、 どちらも半島南部の倭国支配地域ぜんたいを指すようになった。 それが広義の任那であり、広義の加羅だ。 その後、半島植民地を失って観念だけになった加羅はさらに広域化して唐すなわち 中国まで指すようになった。 大和盆地南部の一部族国家に過ぎなかった大和が広域化して 大和盆地南部→大和盆地ぜんたい→畿内→日本全体と広域化したのと同じ。
>>172 魏志倭人伝はクヤカンコクから始まってるもんな
当時は都市国家の時代なんで、あまり領域を気にすることはないかもね
176 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 13:14:01.88
任那というのは、古代の加羅地域にあった複数の国の中の一つ。 おそらく、倭国が軍事拠点を設置した場所がそこだった。 だから、倭国側からしたら、その周辺もふくるめて 任那というようになったんだろう?
実年代化チラ裏(朝貢記録+古事記の没年情報+同時代人) 邪馬台国=狗奴国との争い -卑弥呼(?〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら) -台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ朝貢) ★三輪(佐紀)朝=国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得) 10祟神(〜318年)…神武として纏向に東遷280年頃?四道将軍派遣300年頃? 11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速 12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃? 大臣・武内宿禰 13成務(〜355年)…国造/県主設置 14仲哀(〜362年) 神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈) ★河内朝=半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化 15応神(〜394年)…「禰(でい)」 16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年) 17履中(〜432年)…「倭国王」(430年) 18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢? 19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年) 20安康(情報なし)…「興」(460年/462年) 21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣 22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし) 25武烈(情報なし)…「武」A(502年) ★近江朝=562年任那日本府滅亡、663年白村江敗戦で大和朝廷の求心力低下→中央集権強化 26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
178 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 13:32:59.01
任那加羅すなわち金官加羅は、発掘から見ると融合と言っていいほど倭と一体化したが、 このように一体化したことについては、前身の狗邪韓国が倭人国家であったことが 大きいだろうね。 金官加羅になったときに異民族に支配されたのかもしれないが、そうであっても 人民の大部分が倭人であることが、一体化の大きな推進力になった。 それと同時に、異民族かもしれない新しい支配者が騎馬戦術を持ち込んだことが、 倭の半島進出の足がかりになった。 つまり、現地倭人+列島から送られる人員+騎馬戦術という、圧倒的な支配力が 半島南部に生じたわけだ。
179 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 13:39:52.54
任那加羅すなわち金官加羅は、発掘から見ると融合と言っていいほど倭と一体化したが、 このように一体化したことについては、前身の狗邪韓国が倭人国家であったことが 大きいだろうね。 金官加羅になったときに異民族に支配されたのかもしれないが、そうであっても 人民の大部分が倭人であることが、一体化の大きな推進力になった。 それと同時に、異民族かもしれない新しい支配者が騎馬戦術を持ち込んだことが、 倭の半島進出の足がかりになった。 つまり、現地倭人+列島から送られる人員+騎馬戦術という、圧倒的な支配力が 半島南部に生じたわけだ。
180 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 13:47:24.51
魏志倭人伝などを合わせれば分かるだろう。 邪馬台国の時代から、半島の伽耶地域は 倭との交易の玄関口だったので 倭人が多く移住している地域だった。 その当時の半島は、中国の四郡が設置されていた地域で 中国による平和が実現していたが やがて、中国本土が内乱になり、その過程で中国の四郡が崩壊、 半島に力の空白がおこった。 そこで、倭国は半島にいる倭人を安全のためにという大義名分で 軍事介入するようになったんだろう。 その場合、倭国は中国の代わりに半島の安全を受け持つ大義名分が欲しい。 そこで、倭国はその空白を埋めるべく、半島に軍事介入するために 中国に朝貢し、そこで中国から半島を治めるための武官の官職を欲した。 それが、倭の五王の上奏文。
181 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 13:47:40.89
ごめん、また二連打になった。 スリープから復帰するとき書き込んだページが出ると、他のページに飛んだだけで (「書き込む」を押してないのに)残っていた文章が書き込まれてしまう。 書き込んだページが出たら、残っていた文章を消さないとだめらしい。
当然、韓半島南部の前方後円墳は百済や任那日本府に派遣された倭人官僚の墓だ。 在地の首長の墓であるわけがない。
横浜の外人墓地みたいなもんか?
日本の古墳を暴くと支石墓と同じ形になるぞ
185 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 14:37:09.14
>>180 >そこで、倭国は半島にいる倭人を安全のためにという大義名分で軍事介入するようになったんだろう。
それじゃまるで近代国家だ。
倭国にとっての半島倭人国家なんて、古代ギリシャにとってのトルコ半島ギリシャ人都市みたいなもの。
提携したり敵対することはあっても保護する義務はない。
古代に邦人保護の概念を持ってたってすごいなw 現代の常識でしか考えることができないお馬鹿さん
187 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 16:32:27.05
保護するとかなんとか言って、いつの時代も軍事介入を正当化するだろう? 実際は権益を奪うために、軍事介入するだけだけd。
武士でいう所の、 「俺の屋敷に逃げ込んできたからには絶対守る」 「だけど、お前は俺の下僕な」 みたいな精神はこの時代の日本にあるのだろうか? 将門ぐらいまでは遡れるだろうが…
>>148 『宋書』倭国伝 478年 雄略天皇、
中国に送った使者の大和朝廷の説明。
「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
>>187 ギリシャ世界でも殖民市を母市が保護する事は普遍的に見られたしな
尤も従属関係が基本にある場合が多いけども
191 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 18:06:17.49
>>189 その国の数って、もっと注目するべきだね。
三韓の国の数は、倭が宋に送った文章と
それよりも前に書かれた中国の三国志の文章とぴったり一緒。
よって、倭の国内の国の数もぴったり同じかもしれん。
東西で121か国。
漢書なんかにも、倭は元は100余国らしいしな。
旧事の国造本紀の国の数が参考になる。
昔は国といったら都市国家なので、村や町の数だろうね
193 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 19:49:15.38
>>192 村の大きいのが国。
村か国かは相対的な視点で絶対的なものではない。
村が集まって国だろ 村が巨大化して国になるのか?
中国人視点で国と判断されたもの、ってのは忘れちゃいけない
196 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 21:02:46.87
どこからが国で どこまでが村なんて 境界線あいまい。
197 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 21:30:07.35
邦人保護とか議論されているので、4世紀に倭が半島に首を突っ込んだ動機を考えて見よう。 古代、王朝の最大関心事は王朝の安泰だ。(現代でも北朝鮮王朝などそうだが) 全てのことは、人民の福祉・安全も含めて、王朝の安泰に関係するかぎりにおいて関心事となる。 さて、4世紀初頭に 伽耶で政治変動があったとき、畿内政権は敏感にその重大性を察知した。 そのころ、畿内政権はそれほど安泰ではなかった。九州や本州西部に、畿内と拮抗する勢力があったからだ。 畿内政権は、 伽耶の政変を自己の安泰化の好機ととらえた。 そこで畿内政権は新しく生まれた金官加羅と接触して、九州などをバイパスする直接関係を築いた。 そのことは発掘から証明される。狗邪韓国は九州と、金官加羅は畿内との関係が深い。 ではこのことによる畿内政権のメリットはなにか。それは「鉄と馬」の独占である。 鉄と馬は直接の戦力であるばかりでなく、それを分与することによる豪族制御の道具である。 一方、金官加羅のメリットはなにか。それは倭の兵力によって騎馬戦力を補完して周辺諸国への 支配力を高めること、および鉄と馬の安定市場の確保である。 このように双方にメリットのある関係によって4世紀の倭・金官同盟が生じた。 それを倭から見れば半島への軍事進出であり、金官との協同による半島南部の支配である。 そのための前進基地、あるいは方面軍司令部として任那日本府(倭府)が置かれたのである。 その位置は金官ではなく、欽明期と同じ安羅であろう。 なぜなら安羅は後の元寇において遠征軍のための港となったように、最も好適な上陸地だからである。
そもそも半島南部に倭人も雑居していたのではという視点が無いね ことさら列島へ進出したことばかり考えるのではなく かなり早くから(少なくとも魏代以前から)倭人の一定数は半島南部に住んでいたのでは 任那滅亡〜百済滅亡〜白村江敗戦の流れで倭人は対馬以南というのが固定化されたと
199 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 21:43:18.11
>>197 勝手なことを言うな。
同時期、漢の四郡が崩壊し、高句麗が南下してきていたんだぞ。
200 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 22:41:36.58
>>198 >そもそも半島南部に倭人も雑居していたのではという視点が無いね
なんで?
金官加羅の前身、狗邪韓国が倭人国家であったこと、それが倭の進出を容易にしたこと
はすでに言ってるが。
狗邪韓国が異民族かも知れない新支配者に乗っ取られたことは、それまでも
伽耶の鉄に依存していた倭国にとっては危機だ。
畿内政権は新支配者と直接接触することによって危機を好機に転じたわけだ。
そもそも古来から対馬海峡を支配していたのが本来の倭人だろう 倭寇の時代でも、半島や済州島の人間が倭語を学んで倭寇に参加するから困る、みたいな話が朝鮮王朝実録にある マラッカ海峡のマレー語のように、対馬海峡では日本語が支配的だったということ
202 :
日本@名無史さん :2013/08/30(金) 22:44:25.68
雛牟も倭人だし
>>197 ここまで、知られてる情報に基づかない完全妄想を
歴史板で開陳出来る精神性は酷いなwww
狗邪韓国はとっくに無くなって任那になってるし
半島南部の大任那地域と器物が酷似しているのは九州
>>203 遺物というべきでは?
釜山地域と福岡が文化的に共通する時期は弥生時代だよ
206 :
日本@名無史さん :2013/08/31(土) 09:48:38.11
>>203 >狗邪韓国はとっくに無くなって任那になってるし
その通り、狗邪韓国は3世紀末に滅びて任那(狭義)すなわち金官加羅に変わった。
>半島南部の大任那地域と器物が酷似しているのは九州
大任那とは聞いたことがない名称だな。大加羅ならあるが。
大加羅は日本書紀にも用いられる。加羅諸国を代表する加羅という意味で、どの国を
指すかは時代によって異なる。
それから九州と共通するのは狗邪韓国までな。
金官加羅になってからは筒型銅器、巴型銅器などが畿内と共通する。
207 :
日本@名無史さん :2013/08/31(土) 09:58:53.03
任那は、弁韓の一か国の国名。
208 :
日本@名無史さん :2013/08/31(土) 13:30:26.08
>>207 弁韓のころに任那(狭義、広義とも)はまだ存在しない。
>>206 巴型銅器はバカチョン学者でさえ倭系遺物と認めているね
筒型銅器も倭系遺物だよ
212 :
日本@名無史さん :2013/08/31(土) 23:36:05.27
筒型銅器みたいなちゃらちゃら鳴るやつのは光州あたりの倭人のが本場だろ。
銅鐸→筒型銅製品→筒型銅器 筒型銅器の出土量で半島が日本を上回ってようが関係ない。 日本のものだ。
漢代に流行ったある種の祭祀用青銅器や墓制も 中原より辺境の冊封国のあった地域から多く見つかってるしな 中心部では実用性重視になり流行が終わっても 周縁部では逆に有り難がって流行が進む逆行現象
215 :
日本@名無史さん :2013/09/01(日) 21:01:58.26
そう言えば銅鏡だって、日本みたいにまとめて出る事は中国ではないんじゃないかな
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1378036557/ 韓国史で最も論議になる問題の一つは漢国が古朝鮮を滅亡させて設置したとされる漢四郡の位
置だ。漢四郡の核心だった楽浪郡について主流史学界は韓半島にあったと規定しているが、満州
西側(遼東)に位置していたという反論も侮れない。
イ・ドクイル、ハンガラム歴史文化研究所長は先月30日、国会議員会館で「侵略(植民)史観再登
場の歴史的構造」を主題に開かれたセミナーで'漢四郡の韓半島内位置説'は植民史観解放後に
も定説に受け入れた結果と主張した。
イ所長は「日帝は大韓帝国強占直後、中枢院傘下に'朝鮮半島史編纂委員会'を作って3・1運動
後には総督府直属で'朝鮮史編集会'を作って植民史観を組織的に伝播した。植民史観の核心理
論は韓国史の時間と空間を縮小する二種類の観点に帰結される」と前提にした。
彼は「日帝は韓国史の時間を縮小するために檀君朝鮮を否認し、古朝鮮を韓半島北部に閉じ込
めた。漢四郡が遼東にあったことを立証する'三国史記'初期の記録を虚偽として韓国史を1千500
年余りの短い歴史で縮小した」と主張した。
彼は「日帝は韓半島北部が漢四郡という中国の植民地であり、韓半島南部は任那日本府という
日本の植民地だったと強弁することによって独立の意志を抹殺させようとした」と説明した。
>>216 憐れな連中だ
どうしても史実を受け入れないつもりか
>>217 韓国政府文教部のトップが、植民地主義者の実証主義を脱して
民族が誇りを抱く為に、新民族史観の見地に立って歴史を創らねばならない
とか、真顔で通達しちゃう国ですから
219 :
日本@名無史さん :2013/09/07(土) 09:16:29.70
>>218 韓国って戦前の大政翼賛会時代の日本みたいだね。
30年前の戒厳令下の独裁国家と同じだ。
違いが、独裁者が仕切ってるんじゃなくて、民衆の意思がそうさせているってこと。
しかし、漢字禁止にしたことは教育が社会にどういう影響をもたらすかの
実証試験中ってかんじだ。
>>219 要するに好きでやってるってこった
どーでもいいよ
降りかかる火の粉は払うだけだが
韓国は建国から独裁政権が続いた 政権を守るため反日教育を強硬に進めた 今、それら洗脳世代が主流になっているだけ まあハングルが日本起源と分かれば少しは目が覚めるだろうけど 関わらないのが一番だけど嘘は許さん
加羅国(韓国)から来た辛島氏、宇佐神宮を仕切っていたけれど、 今では東北楽天で投手として働いている。がんばれ。
223 :
日本@名無史さん :2013/09/07(土) 14:50:05.76
>>215 向こうじゃ珍しくないから余程出来の良いもの由緒の認められた品だけ残して後は鋳潰しちまったんだろ
銅鏡は夏、殷の時代から有って今更だしな
中国は鏡への信仰が少ないんじゃない?
趣味が違うだけだろ
227 :
日本@名無史さん :2013/09/08(日) 07:14:49.64
半島にいた倭人保護はないが、 倭人の有していた利権確保(特に鐵の生産、入手)。 崇神紀に記載されている、伽揶諸国の使者が来た、 というは事実だろう。 高句麗の南下、そして、それによって百済の南下、 そして国ができたかできかかっていた新羅の南下によって、 圧力を受けていたから、 倭に軍事援助を求めた。 崇神以後、倭に強大な統一王権ができつつあるという情報は半島にいた倭人から 得られただろうから。
辛島氏は秦氏で、べつに加羅からきたわけじゃないぞ カラは外国一般の意味でだろう
馬韓(半島西海岸)→伯済→百済 辰韓(東海岸)→斯蘆→新羅 弁韓(南海岸)→狗奴韓国(金官)→任那 弁韓にはすでに弥生時代中期(BC4〜3世紀)の弥生式土器が出土することから、倭人が交易のために居住していたことは間違いない。 ヤマト王権の前身、邪馬台国卑弥呼の頃には弁韓は狗奴韓国(金官国)として、邪馬台国の植民支配を受けていたものと思われ、 その直後に誕生した4世紀のヤマト王権の半島派兵を可能にしたと思われる。
>>219 大政翼賛会の場合、独走する軍部を掣肘するための必要悪みたいな側面もあったから……
と思ったら、韓国で軍事政権があった時期がけっこう新しい事もあるし、
未だあの時代の日本と大差ない状況と言えなくもないな
そもそも半島南部は倭人の土地。
>>229 >弁韓にはすでに弥生時代中期(BC4〜3世紀)の弥生式土器が出土することから
すまんがソースくれ。
弥生時代中期がBC4〜3世紀というのもアレだが、
弥生時代後期の北九州の土器が釜山に出るし、
4世紀ころの畿内系布留式土器が出るのも承知してるが。
233 :
日本@名無史さん :2013/09/14(土) 13:05:17.29
御眞津比賣のシマのところが御眞那ぢゃろ。
234 :
日本@名無史さん :2013/09/14(土) 13:08:42.37
御眞津比賣は 彌馬都日目だっつうの。 官には 彌馬升とか 彌馬獲支とかのもあるし。
235 :
日本@名無史さん :2013/09/14(土) 20:12:44.16
弥生の初期というか黎明期の九州の遺跡は、朝鮮半島の影響が強いらしい。 墓も支石墓があるらしい。ただ、その墓には縄文人の系譜を引く人が 葬られているそうな。弥生人がやって来たというよりも、縄文人が 弥生文化を運んできたっていうほうが当てはまるとか。 弥生人というか縄文人が九州北部と半島南部に海を越えて住んでいて、 水稲稲作が半島に伝わったらすぐに九州にも持ち帰った。というか九州の 一族に伝えた。 イヌイットがシベリアとアラスカと、海を隔てて住んでいるのと同じでさ。 古代には国境なんて無いんだし、海は山と違いバリアにはならない。 半島の南端だけなのかも知れないけどね。 北からいろんな民族が南下してきても、南端は倭人(かその系譜を引く一族) が住んでいたんじゃないかなあ。 百済が滅んだ時に、百済の王族やらと一緒にみんな日本へ逃げてきたんだろ。 まともに発掘すればいろいろ分かるだろうけど、そんな日は来ないんだろうね。
236 :
日本@名無史さん :2013/09/14(土) 21:22:15.80
>>229 >弁韓(南海岸)→狗奴韓国(金官)→任那
狗奴韓国というのは狗邪韓国のことか?
そうだとすれば:
狗邪韓国→金官(狭義の任那)だ。
境目は3世紀末。
>>235 シセキボは愛媛辺りまで広まったが百年足らずで姿を消す
不思議だよな
まあ、こういった訳のわからん連中が出入りしてたのが弥生時代なのかも
238 :
日本@名無史さん :2013/09/15(日) 10:04:05.56
支石墓って縄文時代に分類されてないか?
縄文時代にも似たものはあるが墓じゃないね
240 :
日本@名無史さん :2013/09/15(日) 12:14:07.48
稲作は半島から北野か
恐らく、稲作は、はじめは大陸から直接伝わったけれど、一部での試験栽培にとどまっていた。 結局は鉄製品や治水、灌漑工事技術と共に半島経由で伝わったと見るべきだろう。 平野の少ない半島より、日本の方が稲作に適しているので、集団で移民してきたのだ。
>>241 稲作に不適な地域から好適な地域へ先進技術が伝播する。
んなわけあるかいw
水田は日本の方が古いだろ。 でもまぁそんな事言ってても仕方ない。 おそらく東南アジア発祥のO2b集団が日本や半島に同時期にもたらしたものだろう。 従来言われた長身のっぺり顔の土井が浜弥生人はO2bではない。
>>235 逆、あらゆる器物や遺跡で北九州の方が開始年代が早い
土器や稲作は北九州から半島南部へ伝わってる
縄文時代には焼畑で稲作をやっていたのは確実だ 水田はその改良型なんだから、ちょっと知恵を借りるだけでOK わざわざ【水田民族】が大挙襲来する必要はないわな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C >2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが見つかり、
縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。それに加え、極東アジアにおけるジャポニ
カ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む満洲からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されない
ことなどの複数の論拠から、水稲は大陸(中国南部以南)から直接伝来したとする
学説(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)が有力となっている。
プラントオパールはもうダメだよ 稲作の論拠には使えないという認識になりつつあるよ
なんで? 縄文時代の地層から一塊に見つかるんだぜ
とりあえず純粋な農民だけでは東シナ海も対馬海峡も渡ってこれんだろうな 海洋民が運び手になったか、半農半漁の海洋民が渡ってきたのか
>>248 願望が事実より優先される国の認識とはそういう物
中国や日本ではプラントオパールを広く稲作の論拠としている
>>250 地層から見つかった物を否定するのか!
そんな事を言ってるのは誰?
青森からは2800年前の炭化米が見つかっているが? 縄文時代だよね しかも自生不可能だし
253 :
日本@名無史さん :2013/09/16(月) 11:00:11.06
稲でも人でも、生物の遺伝子は定期的に突然変異を起こす。 それらから考えると、考古学的にみたものと 大きく違う結果になるらしいから。 だから、弥生時代をどう解釈するかは分からんけど どんなに遅くとも3000年前くらいにもっていく考えは間違いではない。
プラントオパールはほかの植物の根痕に入り込んんだりして簡単に古い地層まで落ち込むんだと ネットだとまだそうした情報は反映されてないがな
>>254 プラントオパールが発見される密度が極端に高く
そんな説は成り立たない
妄想で語るなよ
258 :
日本@名無史さん :2013/09/16(月) 18:17:59.36
すべては今ある国家を絶対視するから 事実を認めなかったりするんだろう。 国家はひとまず横に置いといて事実から仮説を考えて その仮説の中で一番合理的なを暫定一位の真実とすれば良い。
259 :
日本@名無史さん :2013/09/16(月) 18:19:29.93
× 合理的なを ○ 合理的なのを
倭は日本のことだけでなく、後漢時代には内蒙古方面や南方の異種族をも指しており、 朝鮮半島南部にも倭人がいたと考えている。 中国人の知識人は倭人の確実な居住地は朝鮮南部と考えており、『魏志』倭人伝は 珍しい記事として、当時の人たちの好奇心をそそったに過ぎない。 倭が日本列島のみを指すようになるのは五世紀以後のことで、倭国は北九州狗奴国 (福岡市地方)を指していたようである。 厳密にいえば中国では大和朝廷のことを"倭"と呼ばず"日本"と呼んでいる。 すくなくとも七世紀の中頃までは倭を新羅の地続きの任那地方と考えていた。 倭を日本のみのことであり、大和朝廷のことであると考えてきた今までの研究者は 広開土王碑文にでてくる倭や『三国史記』や『三国遺事』にみえる倭を悉く決め付けており、 その記事の内容が倭尾を日本のこととすることが出来ない場合、任那日本府という出先機関が あったのだと説明してきた。 任那日本府という史料にもない幻の日本府を造作するのではなく、まずそれぞれの史料に 即して新羅人が用いた倭(任那地方の別名)を再検討するとともに古代の日本史・朝鮮史の 再構成はからなければならない。
261 :
260 :2013/09/17(火) 00:01:49.10
訂正 9行目 × 広開土王碑文にでてくる倭や『三国史記』や『三国遺事』にみえる倭を悉く決め付けており、 ◎ 、広開土王碑文にでてくる倭や『三国史記』や『三国遺事』にみえる倭を悉く日本のことと決め付けており、
>>260 南チョン人は気違いしか居ないとよく解るいい見本だな
広開土王碑など海外の史料に出てくる「倭」を、倭寇的なものだとか九州あたりの地方勢力とか見るのも、違うと思うんです。 高句麗の正規軍に対抗する兵力を動員できるのは、巨大古墳を継続的に造営する動員力が証明されている、ヤマトを中心とした王権と見るのが一番いい
任那は古くは金官伽耶といい首露王の支配するところの国である。 この地域では鉄が産出され優れた鉄器をもっていた。 当時の日本列島諸国の武器は青銅器である。 鉄器を武器とするこの地方の軍事力にまず勝てるわけがない。 そう考えると「任那日本府」は大和朝廷の朝鮮半島経営のための 出先機関ではなくそれどころかこの金官伽耶など伽耶諸国が日本列島を 侵略するための前線基地ではなかったのではないかと考えられる。 彼らはもっぱら裏日本つまり出雲地方に進出した。 この出雲地方はたたら製鉄で有名になるが恐らくこれは列島侵略基地 任那=金官伽耶からもたらされた技術だと考えられる。
いつの時代やねんw
>>263 そゆこと
常識的な判断だよな
古墳を作る何万という領民は、そのまま兵隊になる
>>264 任那は大小の都市国家の集合体だから、国家としての意思や政策なんかないよ
防衛のための隣保同盟でしかない
ちなみに始皇帝の秦は最後まで青銅武器だった
鉄は勿論存在している。しかし銅の鏃を使い続けた
青銅武器が鉄の武器に敵わないということはないよ
できたての青銅は金色に輝いて、研げば切れ味もいい
ただ鉄に比べて割れやすいというだけ
半島南部を中心とする国が成立したのは高句麗に粉砕され南遷した百済が始めて それまでは、倭国の領有する任那や加羅しか領域国家が無かった。 その任那が置かれる1世紀前には、既に鉄器が日本列島に普及している 割れ易いのは鉄、青銅は曲がったり傷が付いたりはし易いが 粘りがあって折れたり欠けたり為難い 大事なのは切れ味で、鉄器で長さを保ちつつ 強度と切れ味を出すのは割と高度な技術が必要 その証拠に半島では切れ味のある長い刃物というのは中世に到っても作れなかった
先日高山正之のコラム読んでたら、古代の製鉄は木炭を浪費しまくるので、9世紀には半島の山林ははげ山になった 結果製鉄が出来なくなったとあったが
禿山になる程鉄器が流通した形跡を確認出来ないw
>>264 >任那は古くは金官伽耶といい首露王の支配するところの国である。
>この地域では鉄が産出され優れた鉄器をもっていた。
>当時の日本列島諸国の武器は青銅器である。
釜山市の萊城(ネソン)遺跡では出土土器の94%が北九州系(城ノ越〜須玖T式)
だから紀元前から倭人は半島で鉄採ってるわいボケ。
ほざくなチョンコ。
>>271 >ほざくなチョンコ
やめなさい、恥ずかしい言動は。
国をからめずたんたんと議論してください。
論拠無しの妄想を一方的に垂れ流す馬鹿が議論とは笑えるw おまえらがやってるのは声闘な
274 :
日本@名無史さん :2013/09/18(水) 02:48:27.18
書店で古代に関する本とかよく売られているけど 普通に倭国が半島南部を軍事的支配下に置いていたという前提で書いてあるな、 どれもこれも。
275 :
日本@名無史さん :2013/09/18(水) 02:50:41.64
ヒッタイトは徹によって勢力を拡大させたが ついに青銅がメインだったエジプトを倒すことが出来ず ついにヒッタイトのほうが先に滅んでしまったとさ。
徹くんすげーw
277 :
日本@名無史さん :2013/09/18(水) 07:58:23.14
単純に 半島が大陸の支配下に落ちそうになって 日本がテコ入れしても持たないから 属国を作らせたってとこじゃないの? ん? 歴史は繰り返すなあ 地政学の成せる技か
中国だって日本だって勢力が一定でないから 日本が軍事政権になって盛り上がると半島に出かけ 中国やモンゴル勢力が盛り上がると半島を占領する この繰り返し 奇跡だったのは秀吉があっさり死んだ事だな それに元々半島南端は倭だったし 半島北部は中国でありモンゴルだった
>>278 軍事政権というより、強力な統一政権になると、半島にちょっかいを出したくなるのでは?
秀吉の朝鮮出兵も、列島に久々の全国規模の統一政権が出来てからだし。
征韓論から韓国併合の流れも、明治維新後に中央集権国家が成立した後だし。
少し不思議なのは、秀吉のことがあった後の江戸幕府はともかく、
鎌倉幕府も室町幕府も、泰時や義満の全盛期でも、朝鮮を征伐しようぜっていう興味が沸かなかったこと。
で、古代に半島で倭の活動が記録されている時期は、列島に相応の統一的な政権があったと見ていいだろう。
隼人が朝廷に服属するまで、九州の北部と南部が同一の政権に帰属したことは無かったと思われ、
九州北半だけの勢力では、国力的に朝鮮へ外征して継続的に服属させることができたとは思えないし、
九州の勢力が中国や四国にまで及んでいたなら、半島より畿内との戦いが優先されたはず。
磐井の乱も、九州に独立した政権があったことを示唆するんではなく、やはり畿内政権に服属する勢力の叛乱なのだろう。
北条得宗は各地の豪族の上に載っかってるだけで お飾りとまでは謂わないがそれに近い程度の強制力だったし 足利幕府も幕府の支配体制に組み込めていたのは 京都周辺と本拠地や数カ国くらいのもの。 豊臣政権や江戸時代に比べると公儀権力は相当薄弱で 半島へ侵攻を計画しても豪族や大名の反対に遭って 実行不可能になるくらいの力しかまだ無かった
>>280 そりゃ分かってるよ、でも全盛期に調子こいて外征して失敗して元も子もなくす国けっこうあるじゃん。
ま、どちらかというと言いたいことは、古代に朝鮮へ出張った時の列島政権は、
地方に限定された政権とかじゃなくて、少なくとも九州から畿内までくらいの勢力だったんだろうなということ。
ヤマト王権は墳墓のデカさは最強だかんな 動員力だけはすごそう
>>281 別に日本統一完成してから半島に出かけたわけじゃないかもね
畿内の豪族連合だけで数百〜千程度の傭兵は出せただろう
あの巨大な古墳を作らせた人口は伊達じゃない
>>283 統一完成というのがどの程度を指すのか分からないけど、
出兵したのが畿内の将兵だけというのはありえなくはない。
それでも、九州やら吉備やらは強い支配下にあるか、
彼我の勢力差がかなりあったと見るべき。
でないと外征中に本拠がやられちゃうもんね。
遠攻近交なら分かるが遠攻近攻は無理だろう。
白村江の戦いでは倭は5万を出兵した
286 :
日本@名無史さん :2013/09/18(水) 22:52:01.15
まあ、東北南部から北九州ぐらいまでの規模の王権だろうな 古代、半島へ軍事介入した倭の王権は。
というか、政略結婚や勿論武力制圧も含めて倭国王の領土が各地にあって、 それは飛び地になっていた そういうものの総称が倭国なのだとみるね ちょうどフランス王のように最初は弱小でも徐々に勢力を増していったのでは? 日本列島内には倭国王を凌ぐような勢力もあった そういうのが吉備の大型古墳を作っていたとか
>>271 倭人=日本人ではないよ
倭人は朝鮮半島南部から北九州にかけて住んでいた民族だと思われ
のちに北九州にいた倭人が列島各地に分散し日本人と呼ばれるようになったんじゃないだろうか
倭人=日本人な 倭人は東北の西日本海側を除く日本列島全域から半島南端にかけて住んでいた民族
>>289 出羽を除くってこと?なんで?
隼人・奄美・琉球も倭人の括りでいいんだよね?
291 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 16:00:22.95
最近、遅くとも3000年以上前には日本で水稲が 農耕自体はそれよりも前から始まっていたそうだ。 一昔前ならば、日本で農耕自体が始まったのは2300年くらい前だと覚えた。 ということは、卑弥呼の時代って、日本で農耕が始まって数千年 水稲が始まっても1000年以上たった時代の話。
292 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 16:02:27.03
「東方人名我爲阿」 阿委奴
>>290 隼人・奄美・毛人・蝦夷(エミシ)は倭人で、琉球は琉球人じゃね
>>288 時期の問題はあるね
怪しい書物だが論衡という書物に【周王に朝貢する倭人】の話が出てくるが、
チョウソウという霊芝を手土産にしてることからベトナム近辺の原住民と解釈される
ベトナムは越南とも言われるように、中国では越人と同種と考えられていた
越の上古音はwoで倭と通じる。日本でも越智(ヲチ)という呼び方が残っている
本来はこうした江南から南中国の住民を倭人と呼んでいたようだが、表記が越に変わり倭人の名は宙に浮いた
それが漢書では、こんどは日本列島人を指す名詞として現れる。それ以降は日本人のこと
晋書の【倭人、太白の末裔】説といい、混同するような原因かあったのかもね
文化的、社会的共通項が重なったとか
295 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 18:44:42.68
現代のような国境概念はなかったんだよ、というのはその通りだが そういうことを言うやつがなぜ現代の民族概念を持ち出すのか意味不明 倭王が存在する以上、倭人というのは倭王に属する人という意味の政治的概念だ 風俗習慣について記されていてもそれは「属性」にすぎず「定義」ではない
296 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 18:54:41.30
おおまかにゆうと辺境の王は漢王朝によってでっちあげられた産物。
日本神話の舞台は韓国だった ・高天原は慶尚北道高霊郡だった タカムスビノミコトは高霊で生まれた 日本書記では「高皇産霊神」と書かれ「高」と「霊」の文字がみられる ・大伽耶王伊珍阿鼓(イジンアシ)とイザナギは同一人物 「東国與地勝覧」に書かれている伽耶の天神夷毘訶の次男伊珍阿鼓(イジンアシ)は 韓国語で読むとイザナギとほぼ同音。そのため伊珍阿鼓はイザナギである ・「任那」とは韓国語では「母の国」という意味 のちに日本人が加羅を「任那」と呼んだことから加羅は日本(倭)の母国であるという意味にとれる ・加羅(伽耶)には彌烏邪馬国という国があった 彌烏邪馬国は韓国語で読むと「ミオヤマト」 大和朝廷も邪馬台国も元は韓国にあったということ
298 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 19:45:11.73
>>297 日本書紀や古事記を読めや。
高天原とは、どうみても、近畿地方南部の話。
厳密にいうと、古代に存在していた大和湖の南岸の地域で
現在の奈良県の御所市、橿原市、葛城市から
和歌山県の五條市、橋本市のあたりまで。
高天とは、高野と天野という二つの地域の
総称でもある。
299 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 19:48:08.26
>>297 いい加減なことを言うな。
任那ってのは、中国の歴史書にも登場する。
弁韓(加羅)にあった数か国のうちの一つで
中でも一番、南岸にあった一国。
>>294 霊芝は日本にも自生していた茸
越の上古音はgwat、wat
倭の上古音はwai、woi、wa
周王に朝貢していた倭人というのは倭人の事
倭人は勿論当時から日本列島に居住していた
>>295 > 倭王が存在する以上、倭人というのは倭王に属する人という意味の政治的概念だ
> 風俗習慣について記されていてもそれは「属性」にすぎず「定義」ではない
正しい認識だね
史書に倭人でなく倭国人と書かれていたら解りやすかったろうにね
>>300 自生してたソースくれ
ちなみにその【倭人】は越常という種族と上京してます
>>298 どこと言うこともないだろう
単なるおとぎ話だから
ちなみに神話学によれば、神話の最も古い部分、つまり冒頭部分というのは【最も新しく】作られるものらしい
ここにおられる「任那日本府肯定」論者の皆さま方は大伴金村による任那四県割譲問題をどうお考えですか? そんなに大事な半島における軍事的拠点をそう簡単に百済に渡すとは思えないのですが。
305 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 21:21:11.64
高天の原の高天は、高野と天野の総称。 高野山っていうけど、昔は、こうやさんではなく、 たかの山といっていた。 高野の王家が、タカミムスビ系の豪族たちで、大伴氏らの祖先だ。 一方、天野の王家が、天孫といわれる一族で、皇室や尾張氏らの祖先。 両者は婚姻関係で合流した。 そこから徐々に勢力を拡大させてきた。
306 :
日本@名無史さん :2013/09/19(木) 21:49:48.27
武寧王餘隆に化けた斯摩ちゃんは倭人だし
>>304 それなりの対価をキッチリもらったんでは?
アイタタタタ(´д`|||)
>>304 百済が潰れたらどのみち任那単独で維持するのは現実的ではないから、少しでもテコ入れになるように基地とその兵站に必要な分以外の土地をくれてやったんだろう。
>>311 鬱草はウコンではなく黄色の出る草全般
霊芝は日本に自生、どちらも日本で採れる
315 :
日本@名無史さん :2013/09/20(金) 17:22:20.46
百済が宋に朝貢し始めたのは、いつなんだ? また、百済が宋から官位を受けたのはいつなんだ?
>>315 晋書に、倭人は複数の国が度々朝貢していたとあるけど
馬韓や弁韓は1度も記述が無い、魏晋に領属していたか
或は国と呼べる存在が無かったかのどちらかと思う
>>314 > 霊芝は日本列島ではほとんど採れない希な植物なのに対し、
> 越(ベトナム)や裳(シャン=ミャンマー・タイ)の一帯には多産する。
だとさ
殷の青銅器が山形県で出土はしてるが、いくらなんでも周代に朝貢はない
あの倭人はベトナム近辺の原住民と考えるのが現実的
320 :
日本@名無史さん :2013/09/20(金) 18:29:17.90
新羅の正式な発音は、シロ 百済の正式な発音は、パクツァ
321 :
日本@名無史さん :2013/09/20(金) 18:53:36.94
百済(パクツァ)は、もともと馬韓諸国の一か国。 そこを中国にいた扶余という民族が征服し やがて、その民族の王は、その国の王を名乗った。
>>317-318 鬯艸は鬱草と同じ意味
霊芝は日本列島でも自生している、周の在った華北より遥かに。
殷の青銅器が山形県で出土しているなら
周へ朝貢していても何の不思議も無い。
倭人は前2世紀の前漢時代には中国と交易を行っていたし
前4、3世紀には半島南部へ大規模な入植を行って領有する程
航海には長けていたのだから
323 :
日本@名無史さん :2013/09/20(金) 19:09:26.52
倭人は4000年前に八丈島まで航海していたぞ 日本海なんか楽勝 天気が良ければw
>>322 周ってBC 1000年代だけど
しかも二代目王の時だぜ
バカチョンみたいな妄想はよせ
山形の青銅器はそれ一つきりだ
何も確定していない
>>326 妄想はそっち
中国東南部にはまだ国家が無いし
嶺南以南は更に未開発、部族国家すら無い、越南も同様
>>328 それ一つきりで周代に朝貢してた証拠にはならんて
韓国人みたいな妄想やめろよ
見苦しい
331 :
日本@名無史さん :2013/09/20(金) 23:47:54.28
>329 別にオマエの間違いを指摘しただけだ
渡来系弥生人って、倭寇みたいなふんどし一丁の海洋民族で、 下手すると毛皮を着た縄文人より野蛮人っぽい見た目の可能性が微レ存
>>330 鬱草と霊芝は日本列島でも自生しており
倭人が周へ朝貢していても何の不思議も無い
倭人は前2世紀の前漢時代には中国と交易を行っていたし
前4、3世紀には半島南部へ大規模な入植を行って領有する程
航海には長けていたのだからね
反論が無いようだから、
>>326 の考えを改めたと判断していいかな
334 :
日本@名無史さん :2013/09/21(土) 00:06:01.32
>>333 >
>>330 > 鬱草と霊芝は日本列島でも自生しており
> 倭人が周へ朝貢していても何の不思議も無い
ぶっ飛び過ぎ
あり得なくはないという発想だけならバカチョンと変わらん
オレは常識路線でベトナム近辺の原住民と見るね
>>333 春秋戦国時代の呉とか越からの移民だとしたら全身刺青で上半身裸だったはず。
長江文明の担い手だけあって高度な文明を持ってはいたが、史記とかを見るとやたら好戦的なお国柄でそういう意味では野蛮だな
318 ?? 322: 日本@名無史さん [sage] 2013/09/20(金) 18:16:01.89 > 霊芝は日本列島ではほとんど採れない希な植物なのに対し、 > 越(ベトナム)や裳(シャン=ミャンマー・タイ)の一帯には多産する。 ここポイントな
>>337 日本列島ではほとんど採れないが
九州では普通に採れるよ
>>336 戦争するのが野蛮なら
中国は世界一野蛮だが
そもそも弥生人の再現図で男が貫頭衣を着てるのは何で? そんなこと史書にはどこにも書いてないし、現物もみつかってないよね
340 :
日本@名無史さん :2013/09/21(土) 02:39:36.46
>>339 実際は全然、イメージ違うかもね。
なにせ史料にない話だから、色とかも分からんし。
>>335 越南の国家形成は非常に遅く、雲南や貴州の南蛮と違い
漢の支配が及ぶまで小規模な部族国家や城郭国家さえ無かった。
常識的に考えれば越南から来た可能性は限り無く低い
>>339 単純に再現担当者が無知なんだと思う
倭人伝には男は幅の広い布を身体に巻いていると書いてあるのにね
ギリシアやローマのような服装だったかもしれない
>>341 朝貢はただの【挨拶】だから国家とか利害とか関係ないよ
殷の商業ルートは江南の先に繋がってて、周はそれをぶんどったわけだから近隣の民族が挨拶に出向いたわけ
【遥か彼方の】民族やら国が朝貢にくることが中国王にとっては望ましい
倭人が紀元前1000年代に朝貢してたなら、そのあと紀元1世紀まで何してたって話だ
セットで記されてる越裳はどう説明すんの?
ムチャだよ
>>342 鳥越憲三郎によれば、横幅ってのは【腰巻き】のことらしい
貢納したのは倭国じゃなくて倭人なんだから別に国家が形成されてなくてもいくない?
古代の熊襲の習俗がまんま南洋だからありうるよ
>>343 商、周様式の都市が確認されるのは長沙が南限
それも商業路ではなく資源採取の為。
粛慎も倭人と同じく周へ朝貢した記録が有り
その後1000年記録から消えるが倭人と同じく再度出て来る
一方の越裳(ヴィェトデャン)は周の一度切りで
その後記録から消えちゃうけど、どうすんのかな
倭人が周に朝貢していたとするのが通説、きみの主張は無理筋だよ
>>347 >
> 倭人が周に朝貢していたとするのが通説、
聞いたことないね
誰の説?
あと、資源ルートってのは商業網だろ
>>347 > 一方の越裳(ヴィェトデャン)は周の一度切りで
> その後記録から消えちゃうけど、どうすんのかな
どうもこうも、オレが言ってるのは、
論衡の【倭人】は越裳(後の呉越、百越、閔越とする)と併記されてることから共に南中国の原住民と考える
それと併せて鳥越憲三郎はチョウソウの多産することを論拠としている
上の方で書いた越の上古音がwoで日本語の越智ヲチにその発音が残っている云々は共に『古代中国と倭族』から
うろ覚えなので、帰宅してから調べて書こう
>>348 何平、方国瑜、張風岐
倭人が周に朝貢した史実を否定する研究者を知らないね
越裳は越南とする見解もあるが 越裳という名称や通好路の描写からラオスとする見方の方が稍優勢 鳥越憲三郎は専門外
>>348 論衡
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
台湾、オーストロネシア、倭、呉越、北方ではアルタイ山脈で発見された2500年前のミイラ… 刺青のデザインや範囲は色々違うけど、古代では刺青を入れないほうがむしろ珍しかったのでは?
>>354 北方のアルタイはしらんけど、
台湾、オーストロネシア、倭、呉越は古文書と
考古学的に同じ文化圏。
>>352 論衡と山海経の元ネタが同じか、どちらかがどちらかをパクってるのが分かるだろ?
>>356 論衡の倭人が列島人を指すのは疑い無い
疑問が付くのは周代の出来事としている論衡の記述の信憑性だろ
ヰキペディアはソースにならない
戦後直ぐから冷戦期に掛けては、弥生時代の始まりは
今より700年以上遅い前3世紀以降とされていた。
金印を偽造と見る向きも多く、現代では周知の事実となっている
前漢代及び燕の時代の倭と大陸の交易を否定する学者も多数居た。
BC1000年と言えば 日本に水稲がもたらされた頃だな
>>358 素直に謝れば済むものを…
ま、信じるのは勝手なのでご自由に
だが、けして一般化された結論ではないことを忘れずにな
次の議論行こうか
>>356 記録が有ったという
事実を認められないんだなw
ではその倭人をなぜ日本人と思わないのかな?
紀元前は倭 = 呉越地方の東夷だったようだね。 風習が近いからあってるけどね。
倭人伝でも倭は「会稽の東治の東」あたりとされてるから 一致してるな
364 :
日本@名無史さん :2013/09/22(日) 21:04:46.37
冶縣が餘姚郡餘姚縣に化けたという構図らしいよ
365 :
日本@名無史さん :2013/09/22(日) 21:13:37.98
日本で農耕がいつ始まったのかってのも、 その後の日本の古代史や人口推移などに、大きく影響する話なんだよ。 たとえば、長年、定説とされてきた2300年前に日本が農耕が始まった説だと 日本で農耕が始まって、わずか300年ほどで奴国の話が出てきて わずか500年ほどで邪馬台国の卑弥呼の話になる。 しかしながら、現在、言われているように、水稲農耕が3000年以上前 農業自体ならば、それよりも前に始まったとなると 奴国や邪馬台国の話は、日本で農耕がはじまって、数千年、 水稲農耕でも1000年以上たった時代の話になるわけ。 これって、一つ前の定説(2300年前説)あらば、 農耕がはじまって千年って、平安時代だからね。 平安時代、鎌倉時代の話が、邪馬台国時代の話にずれるくらいの話なんだよ。
倭人が韓族より早く中国と接触していた事実を 許容出来ない民族が居るみたいだな そらウリナラファンタジー歴史強化書を創るわけだわ
翡翠とか取れても売りに行っていただろうからね
つうか新羅が朝貢したのが521年だし 百済だって400年ごろ 周代に記録が残る倭から見たら1000年以上も遅れている 古代の朝鮮なんて不毛の未開国家 もっとも半島南部は倭だったがw
おまえら「任那日本府」の話しろよ
釜山に有った倭館のようなもんじゃないの?
371 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 00:22:45.14
周代の倭って本当に日本だったのか? というのは、その時代は、倭という漢字の音韻は違うだろう? 倭が、ワという発音をするのは、上古音の時代になってからで。 まあ、前漢時代の倭は、間違いなく日本だと思うが...
372 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 00:24:05.39
周代にも日本と中国は交易していたとは思うけど 周代の頃に登場する倭は、東南アジアの倭だと思う。 単純に漢字の音韻の違いから。
というか倭を九州沖縄諸島と混同してるんだよ。 でひっくるめて東夷ということになってる。
>>372 そもそも水耕を日本に導入するにしても、灌漑などのインフラが必要なんだし、難民が一度漂着したくらいでは到底不可能で、最初のうちはそれなりに頻繁に本拠地との間を行き来しながら、計画的・組織的に入植していったんでは?
374の続き 結論としては周の時代においては、中国南方、東南アジア、日本の倭人は単にルーツが同じなだけでなく結構まとまりがある単一の集団だったんでは?
>>372 そうであって欲しいのは解るが
倭人は日本に居た倭人、否定する要素が何も存在しない
中国や東南亜の部族が倭人と呼ばれた事も全く無い
周に朝貢した倭人は日本に居た倭人、それが真実
山海経では倭は燕に属してると有るから 中国の近くに有ったと考えられる 半島に倭だった可能性も有る でも半島では南方とは言えないから やはり倭は日本で九州の可能性が高いと思う
>>377 確か長江中流に倭人が居た記録が有る
ソースは忘れたw
探してみる
381 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 02:22:07.81
>>377 周代の倭人は、別の倭人。
周代は、倭はワと発音しないから。
382 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 02:24:20.17
この当時の中国って、基本、異民族を表記するとき 現地語に近い発音の漢字を当て字にして表記する、 でも、漢字の音韻って、時代によって変化するのだ。 そのために、後世の人間が混乱する原因になっている。
384 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 02:34:32.01
>>383 根拠ないことないね。ようは漢字の音韻が重要。
前漢の頃だと、倭はワと発音するから、倭は日本で正解だと思うけど
周代の頃は、たしか、倭は全く異なる発音したので、
たぶん、ベトナムのほうじゃね?って話だと思う。
>>378 燕は黄海沿岸沿いに半島南部まで支配してたのが確認されてる
日本列島の倭人と考えて何ら問題無い
>>384 周代も漢代もワイ、ヲだよ、研究者によって音の推定は変わるが
周〜魏晋まで音に大きな変化は無い
388 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 07:01:44.09
誰か漢字の音韻の変化について 詳しいソースない?
389 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 09:04:51.41
倭の作りが「委」だから、「ウィ」のような発音だろう。 複合漢字は作りが音を表す。 魏志の時代でも同じだよ。 「ワ」と読むようになったのは唐のころだ。 「卑弥呼」の「呼」を「コ」と読むようになったのも同じ頃だ。 その前は「ヲ」と読んだ。
中国じゃあ呼はコなんて読まない 現代でもhu 古代日本語に/h/がなかったので、日本人が/k/で聞き取っただけ 漢[han]をカンと読むのと同じ理屈 現代日本語の/h/は、古代日本語の/p/から変化したもの
391 :
日本@名無史さん :2013/09/23(月) 16:32:19.11
>>388 学者によって言うこと違うし、元々漢字は表意文字なんで発音は大して問題にされない
いわゆる呉音ってのは日本人の分類だろうけど、南方訛り北方訛り、
さらには孔子が詩経を読むときに話したという雅言もまた全く異なる発音らしい
雅言とは夏言で、周代までは伝わっていた古い言語らしいが、もはや謎だな
言語というのは一度滅んでしまうと再現できない
かのラテン語も文章上のそれしか残っていないし
「ウィ」というよりも「ワイ」だろ 恐らく濊貊(ワイハク)が転じて倭になったんだと思う
>>392 確定報ではなくとも、それなりの研究の蓄積はあるだろ
中古音とか上古音とか
異民族言語の表音表記の揺らぎとか、詩歌の押韻とかで、
どの文字とどの文字が同音だったかを調べて研究してるとかで
呉音は上古音や中古音の名残を残す古い発音の系統で、漢音は遊牧民の影響で変わってしまった新しい発音だろ
もとは漢音じゃなく唐音って呼ばれてたヤツの系統で、奈良時代に日本に受容されたもの
漢音の元になった中国での発音は実在するが、漢音そのものは中国の発音とは違うしな
>>394 その辺は承知でレスってるよ
結局は反切と韻書からの推測に過ぎない
漢字は絶対音を表せない。表音文字じゃないから
平仮名でも七母音は表せないようだから至難の技なのだろうがね
北京語、上海語、潮州語、広東語…そして少数民族
漢字の発音に標準語はない
>>380 それ曹操の親父か何かの墓じゃなかったっけ
おかしな文字で倭人て書いてあるんだよね
なんか発音で揉めてるけど 倭が列島だったか否かに発音てそんなに関係してるのか?
>>397 して来ないよ、音が何でもどっち途表意文字だから
倭人は後世と同じ日本列島の倭人を指す呼称
400 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 10:17:36.19
任那日本府の正式名称は 任那倭宰。
倭の発音は正確には「ウワ」 「大正新脩大蔵経」 一切経音義巻第九十七 「倭国(烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声)」 (倭国、発音はウワという。東海の海のなかにある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。) これは魏志倭人伝より古いのだ。 何でとりあげられないのか不思議。 アカデミストは何をしてる。
烏波だとアハイになっちゃうけど
403 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 18:07:58.01
【烏波】だと【を】だす
404 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 18:13:40.05
【委声】だと【ゑ】【ゐ】に近いし
405 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 18:25:01.93
【烏】のはふつうは【wu】の【ぅ】だけど 【を】とか【ゑ】とか発声するのが今に伝わっている。 【烏滸】とか【烏帽子】とかですけど
406 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 18:45:41.92
チョンってのは高句麗のことなんじゃないか。中国の歴史書で朝鮮討伐というと北方の異民族を指す。
407 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 19:04:03.36
>>321 扶余の百済が日本に渡来して日本を牛耳っているということに誰も突っ込まないのな。
天皇さんも気前が良すぎる。
408 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 19:21:17.06
409 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 19:22:29.30
そのあたりにも倭人が住んでたんだろ。 その後追い出されたけどさ。 韓国ってなんでそれが気に入らないんだろうなあ。 あっちが勝ったんだから認めても良さそうなのにさ。
410 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 19:27:06.86
411 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 19:40:45.35
倭人は下から上に登ってきたということか。 北方の勢力ではなさそう。 みまなの発音から伺える。 北方だとにんとかにむとか向こうの発音になりがち。
412 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:04:38.78
>>320 新羅の正式な発音は、シロ 百済の正式な発音は、パクツァ
面白いなあ。
413 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:12:47.21
>>407 おまえのトンデモには興味ない。天皇の出自を変更するなよw
中国や日本の文献をみても、
倭王は倭族であり、どこにも倭が扶余なんて書いてないからw
だからこそ、新撰姓氏録には、天神地祇諸蕃って分けられて、
百済王族ってのは、当然、外国人からの帰化系だから諸蕃というカテゴリ
に分けられて、日本の貴族社会では出世は無理。
このカテゴリの連中は平安時代初期には
殆どが貴族階級から外されていた。
>>401 反切知らないのか?
烏波反
一文字目の音素(w)と二文字目の韻母(母音)で発音を表す
倭=wa
415 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:19:16.78
>>412 それは漢字の表記法から分かるんだよ。
漢字の音韻研究でもある。
半島の国家は中国に近いので、なるべく、
リアルタイムの中国の漢字の音韻に近い名前を付けようとした。
伯済→百済 パクツァ
斯蘆→新羅 シロ
という風に漢字の表記方法が変化した。
これは、漢字の音韻の変化によって、現地の発音に近い漢字のあてた結果
国名の漢字表記文字を変更したのだと思われる。
416 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:20:42.31
>>413 天皇の出自は色々。倭は倭。倭は扶余ではない。扶余は藤原。藤氏を知らんのか。
誰が倭が扶余なんて言った?
なに無茶苦茶なことを言ってるんだ?
417 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:24:28.62
>>416 藤原氏が扶余? あほかとw
関なんとかというアマチュアの歴史作家の本の読み過ぎだw
扶余が藤原ってのも十二分に無茶苦茶だが
419 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:26:05.63
関裕二と井沢元彦は、トンデモ系。 というか、彼らはアカデミックの歴史学者ではなく、 あくまでも嘘を描くことを商売とする小説家崩れの歴史作家。
420 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:28:29.88
藤原鎌足は扶余だろ。源氏を貶めることに長けているのが藤原。藤原は扶余で百済出身者だ。
421 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:29:16.10
>>418 そう言えるのはお前に藤原の血が流れてるから。
422 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:29:39.57
日本に扶余系の貴族もいたよ、百済王族とか高句麗王族の帰化人。 もちろん、新撰姓氏録では、諸蕃ってカテゴリで出自がくくられているわ。 藤原氏?藤原氏は中臣氏な。天神というカテゴリ。 天神とは、天津神の貴族。 ヤマト王朝譜代の貴族という言い方がわかりやすい。 中臣氏は、ヤマト王朝譜代貴族だが、その中では非主流派の中級家系だった。
423 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:30:09.28
424 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:31:07.84
源氏は新羅系だからな。
425 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:31:40.46
藤原鎌足は扶余だというトンデモ説をまきちらしたのは 関裕二なw こいつは、アカデミックの学者の先生じゃないぞw あくまでも、小説家崩れのアマチュアの歴史作家。 書いていることはオカルト系。
426 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:38:07.23
藤原鎌足は、生涯、中臣鎌足であり 本人は藤原とは名乗ったことない。 死ぬ前に送られたのが藤原姓だっただけで、あくまでも中臣鎌足だった。 その後、彼らの子供たちも中臣を名乗っていたが そのうち、不比等という子供が藤原を名乗るようになった。 それは、他の中臣氏との差別化な。 中臣氏は元来、神祇の家系だったんだよ。 でも、不比等は政治の世界を支配しようと太政官を支配したので 自分の子孫は藤原を名乗り、他の中臣氏と差別化をはかった。 一方、神祇官のほうは、不比等の従兄弟たちが支配し、こちらは大中臣氏をなのった。 つまり、律令体制化で、中臣氏は、太政官と神祇官の両方を支配し 太政官を不比等の子孫たちが支配し、これらは藤原氏を名乗った。 神祇官のほうは不比等の従兄弟の子孫たちが支配し、これらは大中臣氏をなのった。
427 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:41:54.27
まあ言うと、オカルトを無視出来ないだろ。繁栄を築いた藤原は歴史書の改竄位出来る。 日本には藤原だけでなく物部や秦の勢力だっていたわけだから。物部は日本古来だが、藤原は渡来系の流れだろ。 任那や倭人の流れではない。
428 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:48:24.39
任那を語る上で大伴氏を忘れてはいけないな。
429 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:49:27.89
>>427 もう、いいって。
オカルトはオカルト板でもいって
話してくれよ。
430 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 20:55:06.08
↑ほい。藤原発見。藤原は新羅ではなく、唐と百済を重んじた。百済というのは扶余による国家だ。 このことから藤原氏は百済系であると考えられる。
ビョーイン行った方がいいよ もちろん精神科
432 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:00:16.20
wikiに書いてあるじゃん。
433 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:00:39.67
424 源氏は21氏がでてるの知らんの?
434 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:01:32.48
だから、扶余の百済が日本に渡来して日本を牛耳っているということに誰も突っ込まないのな。 天皇さんも気前が良すぎる。という発想に至る。
狂った妄想にいちいち突っ込み入れるほど人は暇ではない …と言いつつ突っ込んでる俺は暇人
ところで、当たり前のように扶余はツングースorモンゴル系の北方民族とされてるが、本当にそうだったんだろうか? モンゴル・ツングース系の民族の特徴であるY-DNAの「C」ハプログループが朝鮮半島では思いのほか少ない一方で、O2(弥生人O2bと同じく南方系だがどこかで分岐している)が案外と多い。 倭人と若干異なるタイミングで北上した南方系の民族が、半島から北上して満洲まで進出していたということはないのだろうか? 文化や神話の北方的な要素は靺鞨や匈奴との接触で説明できて、必ずしも血統的な繋がりの証拠にならないし、どうなんだろう?
437 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:13:10.34
そうそう藤罪
438 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:16:00.70
半島は今の中国人と同族
>>415 パクツァじゃなくパクツェイ(PakTsei)ね
441 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:20:55.17
442 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:23:56.12
んだな、もとは韓字民族ってことだろw 漢字なんで捨てたってかんじだ_φ(・_・
443 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:25:21.56
445 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:33:07.85
今の半島は中国人だけでなくシベリアン、コリヤーク、ツングース、モンゴル、コミとかいるだろうからなあ。 欧米からコリアンって言われてるぐらいだし。 トルコとツングースは仲が悪いと聞いたことある。
446 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:35:29.37
百をぺクとするのは何なんだろうな。
447 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:35:31.99
紀元前5世紀ころから満州あたりから出土する人骨のDNA 五百年ごとにまったく変わってるの知ってる? コーカサスあたりの人間がきてたんだってな
まあ日本が「百済人は信用できない」とか口では言いながら百済には甘くて、同じ朝貢国のはずの新羅には辛く当たる傾向があったのは確か。 きっと新羅人はあのころから今の半島民のような気質だったのに対して、百済人はいい加減でお調子者だけど憎めない性格だったのだろう。
449 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:40:12.71
>>448 遠交近攻だろう?
あと、新羅は原住民の比率が高いけど
百済は扶余だから、満州族系の比率が高い。
450 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:41:29.01
PakTseiって、日本語のカタカナ表記では どういう発音に近いんだ?
451 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:42:41.92
パクッツェイって感じかな?
452 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:46:54.51
コーカサスやゲルマンは紀元前の中国へきてただろうな。 碧眼という漢字があるわけだし。山東でヨーロッパ人の人骨が見つかってる。 兵馬俑の人骨からはペルシャのDNAが見つかっている。
任那というのは、今風に言えば日本大使館、領事館。 周囲に日本人街、主権の及ばない広大な租界を有していたとしても、 それを持って、独立国家であったというのは間違い。 その辺の事情はわかるでしょう?
454 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:51:52.14
任那が日本書紀に始めて登場するのは崇神天皇の時代。 《崇神天皇六五年(戊子前三三)七月》六十五年秋七月。 任那国遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫国二千余里。 北阻海以在鶏林之西南。 とある。任那が朝貢してきたとさ。
新羅は中国に媚を売るため創氏改名したからねえ しかも百済と高句麗に勝利し唐との約束を破棄 朝鮮人の起源はここに始まってるよな
456 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:56:15.49
>>448 日本が百済を優遇したのは立地的な問題から。新羅と百済は別々に国を作ってたから同族ではないわな
457 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 21:59:24.66
朝鮮人はエベンキとかで。新羅は新羅だ。きっと騎馬民族的な特性が出て恨みを買ったのだろう。
458 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:01:09.55
>>455 扶余と高句麗が朝鮮人だという認識だったが違うのか?
459 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:05:34.88
任那はもともと真番とか漢の管轄化であった地域だ。 百済(扶余)と高句麗は北方の蛮族。
>>458 俺もそう思ってたは
ワイ貊族→南満洲人朝鮮人、韓族→韓人
461 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:16:56.84
そうなると鮮卑が朝鮮になるんか。 ワイはワイやで。
462 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:21:49.60
>>455 事大主義の起源は新羅だったのかよ・・・
てっきり李朝からだと思ってたが
まあ半島の小国が生き残る道だったんだから仕方ないか
463 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:27:00.79
事大主義の起源は新羅だったのかよ・・・ たぶん。Hunみたいなやつがいる。 李朝は言論統制とかやってセコイイメージ。
464 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:27:19.92
>>453 完全に地方の軍事管轄区だぞ、任那倭宰ってw
それと同じようなものをヤマト王朝は全国各地に作っていた。
吉備大宰とかな。
465 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:31:40.13
韓国の学者が任那日本府を教科書に書くなとウルサイから 仕方なしに、これを教科書から消したんだよw でも、消したのは、任那日本府という名前を消しただけで 大和朝廷が大軍を派遣して半島を軍事的な支配下に置いていたことまでは 別に消してないんだよ。 だって、倭の五王の上奏文とか、広開土王碑文とか、たくさん出てくるから。
新羅も百済も倭人の関与する政権。 半島南部は倭人の土地 返せ。
>>461 衛氏朝鮮を討った時の記録にその属民だったとあるから
元々あの辺に住んでのは確かだし
468 :
日本@名無史さん :2013/09/24(火) 22:49:45.00
>>462 それがイメージのすり替えってもんで。乗っ取りはあっただろうな。
昔の新羅は倭人の関与する政権だわ。
半島南部を返してもらっても 中国や北朝鮮からドドドっと人が密航して来るんだぜ? いくら国を作っても劣化劣化する しかもそこから本土へはほぼスルー 歴史は繰り返すだけだ イ ラ ネ !
新羅は始祖に倭人が関わってるからね 紀元前は出雲と関係が深かった気がする 国引き神話も有るし 新羅は元は倭人の国だったけど、中国人に汚染されたと考えられる 倭人の名残が有るのは言語ぐらいじゃないかな 統一新羅の言葉が朝鮮語になっている
いっぺん再占領してから、ロシアにかけあって北方領土返還、半島旧住民をシベリアのできるだけ日本から遠い所に強制移住させることを条件に樺太と交換するというのはどうだろう
>>471 それソ連が実際にやってる
ソ連は極東に居た朝鮮系を全員シベリアに移住させ
さらに中央アジアに移住させて駆逐した
日露戦争していなかったら朝鮮がロシア領になっていた・・
日本はつくづく惜しい事をしたよ
>>470 そう
勾玉を始め倭系遺物の多さは異常
朝鮮語の語調が九州弁に似てると言われるのは、朝鮮→九州ではなく、九州→朝鮮なのかも
>>473 言葉どうなってるんだろうね。
文法まで征服するのは困難。
沖縄は日本語の文法の上に中国語の単語やイントネーションが乗っかってる。
半島も比較できるのでは。
475 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 00:11:38.63
>>472 朝鮮はもともとシベリアにいたんだからシベリアに帰すべきだな。
コリヤークもカムチャッカ半島に住んでたわけだしさ。
半島は倭人より隼人族と関係あるんじゃないだろうか ・犬を食べる習慣 ・文献を見る限り、なんとなくホモっぽいノリが似ていそうな花郎と薩摩の郷中の制度
>>476 興味深いけど、あんまり二千年前の習俗が残ってる事は少ないよ
島津支配も長いし、奈良時代以来日本に組み込まれてよそ者も多い
地元の研究者の論文でアラという地名が多いことを理由に任那日本府との関係を説く人がいたけど、
鹿児島は単に荒れ地が多いので【荒】の地名がついたと解釈したい
鹿児島出身なので言わせてもらった
朝鮮=エベンキ説の始まりはね モンゴル人が今でもどうして朝鮮の事を(ソロンゴス)って怪獣のような名前で呼んでるのか、 それは満州語でエベンキの事を(ソロン族)と言い八旗の旗を(グサ)つまりソロングサ ソロングサ(ソロン族連隊)って意味、それをモンゴルなまりでソロンゴスって言うんだよ モンゴル人は遊牧民で支配者、エベンキ(ソロン族)は基本狩猟民で隷属民だから 後世までサゲスミを込めて現在までソロンゴスって言い、半島南部の方はムカリ(奴隷)って言うんだ。
>>463 李朝は典型的な官僚国家で生きにくい世の中だったんだろうな
朝鮮の特徴は新羅から始まって李朝で純化されたって感じかな 強い者には徹底して媚び諂い 詭弁と嘘で出世しようとする 自分より下の者を徹底して見下して溜飲を下げる 強かった者が弱くなったら必ず裏切る
>>479 科挙で官僚を登用してる割には平均的な質が同時代の中国や基本世襲の日本に比べて低すぎだけどな。
試験を受けられる身分を制限してたのもあるだろうけど、不正が横行してたんだろうな。
>>480 あまりにも貧乏な人間ってひねくれてるじゃない?
あれの民族バージョンだと思う
半万年の豊かな歴史とか言うわりに、国民が全然それを体現していない
>>480 そうそう全然儒教的な徳と関係ないんだよな。
単なる上下関係。
しかも上に立つものも下のものもどちらも徳がない。
日本に儒教の国とかゆってくるな
>>473 >朝鮮語の語調が九州弁に似てると言われるのは、朝鮮→九州ではなく、九州→朝鮮なのかも
そうだよ。その証拠が竹。
日本と半島の竹は100年以上ある開花時期がピタリ同じ。つまり同じものだ。
竹という植物は人の手を介さないと分布域を広げられない。
だから朝鮮→九州か、九州→朝鮮のどちらかになる。
答えは九州→朝鮮。
なぜなら氷河期に唯一残った竹の分布域が南九州。
南九州から日本全国や半島にまで広がった。
カヤという地名が南九州に多いのもそういうことだろう。
485 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 17:54:30.70
>>478 ソロンゴスとは蘇のことではないか? 蘇はルーツを辿れば楚の勢力。
北方エベンキによる乗っ取りがあったんだな。
■ソウル大教授「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」 2005年、「韓・露ユーラシア大長征推進委員会」がロシアの「バイカル湖」近隣 イルクーツク国立大学図書館で韓・露両国のシベリア文明研究者たちを集めて 「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」を開催した。 委員会やフォラムの趣旨は、最初からバイカル湖周辺で韓国民族の始祖を探すのが目的 そこでも報告をまとめると; ・バイカル近隣の少数民族「エベンキ族」は現在まで「アリラン」と「スリラン」という単語を使っている。 韓国でもっとも有名な民謡である「アリラン」の歌詞(リフレーン?)の「アリラン」は 「迎える」、「スリラン」は「感じて知る」という意味だという。 ・シベリア原住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型を分析した結果、約70%が典型的な モンゴロイドの遺伝型を見せた。父系を知らせてくれるY染色体の場合、シベリア原住民は 主にO型、南アジア原住民はC・D型。韓国人はO型とC・D型が混ざっているという。 イ・ホンギュ ソウル大医大教授は「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と 南方原住民の血が混ざって形成された民族」と主張した。
■韓国大教授「韓国人のルーツはエベンキ人」 韓国聯合ニュース 韓国外国語大学ロシア語科のカン・トクス教授はサハ共和国南北辺境に住んでいるエベンキ人たちが使うエベンキ(ツングース)語は 数字や一家親戚を称する単語が韓国語と非常に似ていると話した。 韓国人のルーツはエベンキ人ではないかと主張している。 エベンキ語のデョルは韓国語のドルで「石」 デュルはドゥルで「2(二)」 デュル-レはドゥル-レで「周り」 ムはムルで「水」 アミはアビで「父」 エニはエミで「母」 アシはアッシで「若い女性(アガシ)」 アキはアチで「おじさん(アジョシ)」 べイェはべで「輩」 〜ンイは〜ウイで「〜の」を意味する。 カン教授によれば「韓国語の起源がツングース語だという学説を後押しできる 実体的証拠が発見された、さらに多い研究が必要だ」ということ。 教授はまた、エベンキ人と韓国人の人種的類似性と関連、「何年か前にDNA検査のためにエベンキ人の髪の毛をソウル大学に渡したことがあるが、 まだ研究結果は聞けなかった。エベンキ人たちも私たち(韓国人)のようにモンゴル斑点があり、顔付きも似ている」とも話した。 ・バイカル近隣の少数民族「エベンキ族」は現在まで「アリラン」と「スリラン」という単語を使っている。 韓国でもっとも有名な民謡である「アリラン」の歌詞(リフレーン?)の「アリラン」は「迎える」、 「スリラン」は「感じて知る」という意味だという。 ・シベリア原住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型を分析した結果、約70%が典型的なモンゴロイドの遺伝型を見せた。 父系を知らせてくれるY染色体の場合、シベリア 原住民は主にO型、南アジア原住民はC・D型。韓国人はO型とC・D型が混ざっているという。 イ・ホンギュ ソウル大医大教授は「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」と主張した。
488 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 18:13:57.73
>>486 違うけどなあ。韓は紀元前中国にあった韓がルーツだろう。
モンゴルとシベリアの狩猟民が半島を侵略しただけ。
489 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 18:43:54.86
>>487 「韓国語の起源がツングース語」という時点で間違ってるが、ツングース語には好戦的な発音があるんだな。
トルコなんかの騎馬系にも特徴的な発音はあるがそれともまた違う感じだな。騎馬系の起源(武士含め)はD系統なはずだから、0型はシベリアなんだな。
最近エベンキエベンキって見かけるけど どこまで本当なのかね。 鳥のトーテムなら国内からも見つかってるし、 アリランだけじゃ。 語呂合わせaskaという単語が世界中にあるのと変わらん。
491 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 18:51:23.36
492 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 19:11:56.34
ソウル大教授や韓国外国語大教授が韓民族エベンキ起源説を唱えてるのに なぜか在日は否定するんだよな 不思議
エベンキは無いな エベンキより南に居た女真族に征服されてるのに それを認めて無い時点で いつもの願望準拠のウリナラファンタジーだと解る
495 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 20:24:00.86
>>494 高句麗とかエベンキじゃん。
新羅とか百済、半島南部は中国の影響がうかがえるが。
496 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 20:28:58.03
>>493 ソウル大教授や韓国外国語大教授を信じちゃうお前は朝鮮人。
韓民族とエベンキは別だ。韓とは下からのことを指す。三韓は下から。
高句麗とか上のほうは狩猟民だ。エベンキかは特定できないがツングース。
497 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 20:31:58.31
起源は韓国なんだって。女真はツングースだしな。だ か ら 任那日本政府が必要なのだ。
>>495 エベンキは夫余族や粛慎族よりもっと北の民族な馬鹿チョン
499 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 21:04:24.15
ちゃん ちゃん
500 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 21:08:41.31
ほらー 任那日本府必要じゃん
501 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 21:12:54.07
任那を語る上で金官加羅をわすれてはならない。
502 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 21:15:26.45
黒金棺の高良
503 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 21:18:07.60
粟末靺鞨が南朝鮮人の先祖
504 :
日本@名無史さん :2013/09/25(水) 22:41:53.82
クリスマス・・・つまり古代キリスト教ってことか?
韓国がエベンキだったらどうだっていうの? 日本語での言葉の響きだけですやんエベンキが面白いのは
李成桂が女真ってことすら教えてないんだろ?チョン国って
507 :
名無しさん@実況は禁止です :2013/10/04(金) 16:34:40.20
>>503 今度は靺鞨かよw ワイ電波もエベンキ電波も飽きたのか?
>>508 どれも全く無関係の高句麗(貊)、渤海(靺鞨)、金(李成桂は実際女真だがw)を先祖認定して
誇らしいニダ、したいだけだから、根は一緒w
>>509 李朝が満州人だって教えないんだろ?
よくそんなことできるよな
大伴金村によって百済に割譲された任那四県(上????、下????、娑陀、牟婁)のうち牟婁は、現在の木浦付近であったと推推測されます。 その理由として、サメ料理という食文化に絞って話を進めます。 日本にも和歌山県に北牟婁郡、西牟婁郡という地名が残っており、牟婁はかつては和歌山県から三重県に股がる広大な地域でした。 牟婁の湯に遊んだ有間皇子は、伯母にあたる 斉明天皇に、牟婁の温湯は景色もよく病に効くと行幸を薦めています。 朝鮮半島南西部に位置する木浦市は、日帝時代の貿易港として栄えましたが、特異な食文化を持った港町としても有名です。 その一つがサメやエイ料理。サメやエイはアンモニア臭があり一般に食用にしませんが、ここには書きませんがこの地域にはおぞましいエイ料理があります。サメはワニとも呼ばれ因幡の白ウサギにも登場するように海洋民族にとっては古代から因縁の深い生物です。 和歌山県の北牟婁や志摩にもサメを日干しにしたものを食べる習慣が残っています。タレと呼ばれるサメの干しものは伊勢神宮にも奉納されています。 この牟婁と類似した牟呂と言う地名は豊橋市にもあり、ここにもサメ料理があります。 また、栃木県にはモロと呼ばれるサメの肉を食べる習慣があり普通のスーパーで売られているように、サメは牟婁(ムロからモロに訛化)の代名詞でもあるのです。 こういう特異な食習慣と言うものは、実は人の移動によってしか広がりにくいものです。百済に割譲され、土地を失った牟婁の人々は日本に渡ってきたと考えるられます。 古代に国造が分立した時代には、牟婁郡の一帯は熊野国の領土でした。牟婁郡の名が歴史上初めて登場した時期は孝徳天皇の在位中(645年〜654年)で、百済滅亡の時期と一致するのは偶然ではないだろう。
512 :
日本@名無史さん :2013/10/05(土) 17:22:57.37
>>514 名前の一字が同じって以外になんの根拠もなく赤の他人を同一視w
古代史とはパズルごっこだと思ってる素人マニアにありがちな与太話やん
>>514 寧ろ磐井の「井」の字が新羅を想像させる
新羅初代王朴ヒョコッセの故事で「井」は重要なテームだ
ダメだこりゃw
518 :
日本@名無史さん :2013/10/10(木) 20:52:46.62
磐井とは斉い(いわい) 中国は山東半島付近にあった斉国こそ磐井のルーツ。 魏の第3代皇帝曹芳(そうほう)は、斉王と呼ばれることが多い。 先代の明帝の子が相次いで夭折したために、親族の秦王詢と斉王芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。 青龍3年(235年)、斉王に封建された。 邪馬台国女王卑弥呼の使者が洛陽において明帝に拝謁しているが、邪馬台国の使者が拝謁したのは曹芳だということになる。 斉王は、卑弥呼のも、もしくは甥だろう。身内が魏の王になったことを祝って施設を送ったのだ。これが祝い=磐井のルーツ。
519 :
日本@名無史さん :2013/10/10(木) 20:55:03.31
肝心なところを打ち損じた。卑弥呼の霊力によって封印されたのだろう。
電波もいいけどスレタイくらい見ろよ
飛んでますね電波
飛んではいません。続きがあります。 山東半島にあったその斉の国の人のうち海人系は、さんずいの済、つまり百済と呼ばれていた。 百家争鳴というように、春秋時代には数が多いもの例えとして百をつけるのが流行った。 秦によって斉が滅ぼされると斉人の多くは朝鮮半島南部に亡命することになる。それが百済だ。 なぜそういえるのかと言うと中国の 春秋左氏傳に斉国の属国として牟婁(ボウロウ)という地名があったことが書かれている。 任那4県の牟婁とそっくり同じ文字だ。 その辺の事情も改めてかく機会があるかもしれない。 春秋左氏傳には牟婁の他に、紀という国名も出てきて、 和歌山の紀や北牟婁郡の関係がさらに濃厚になってきた。ググったら以前にも書いた。
>>511 >日本にも和歌山県に北牟婁郡、西牟婁郡という地名が・・・・・・・・・・
任那四県の牟婁と同字地名は、紀伊牟婁郡1か所だろうが、ここは漢字でなく
集落が語義の「ムロ・ムレ・ムラ」で考えるべきだろう。
三河渥美郡牟呂
>>511 、大和宇陀郡室生、讃岐木田郡牟礼、信濃上水内郡牟礼、
周防佐波郡牟礼等々
全国各地にあり、紀伊牟婁郡に限定しなくともよかろう。
サメ肉の食習慣も、有名な広島県山間部以外に例示された紀伊・志摩・三河・下野
にもあるのなら、他の地域にもあるのではないか?
>>523 >語義の「ムロ・ムレ・ムラ」で考えるべき・・・・・・・・
伽耶・任那地域からの人の移動
>>511 移住してきた時代は、地名に漢字
あてはめ表現以前の時代ということ。
525 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 11:53:27.25
芻牟はほんとは牟婁の大酋長のが 嘘高句麗にぱくられちゃっているんだ。 やっぱ芻牟は倭人なんだな。
>>523 的確なご指摘ありがとうございます。牟婁とは何か?興味が尽きません。
同じ読みの「室」を含めれば、むろのつく地名は日本に無数にあることになります。
室町幕府の室町も村の意味である牟婁に町という新しい一般名詞を重ねています。
実は、足利政権と深い関わりのある栃木県の足利、両毛地区とサメ肉を食べる習慣のある地域は重なります。
これも単なる偶然、神のいたずらでしょうね。
527 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 12:08:30.53
「師」って書いて「もろ」と読むのもあったりする。 「師」と「帥」との通用関係のもあったり。 「室見川」のも関係あるかも。
528 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 12:23:17.08
室町の室と牟婁だけではなくて、足利幕府の足利(たり)と、任那4県の上多利、下多利(口篇)にも関連があるのではないかと想像している。 大伴金村もよって百済に譲渡されてしまった任那4県の王や大臣、配下の役人は、職工や農民、漁民まで引き連れて国を明け渡し、 日本に帰化しているのではないかと思うのです。それで新たに与えられたのは毛野氏と関係の深い東国栃木の両毛地区。 いわゆる利根川水系です。
牟婁の話は大変面白いが、室(むろ)まで一緒にしてしまうと、 氷室など全国にあったろうし、うちの近所にも室堂って地名もあるし、 これはちょっと違うだろう。
530 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 17:50:53.78
>>529 貴重なアドバイスありがとう。「牟婁」から意味の広い「室」に繋ぐことの難しさは感じています。
ただ、こういうことではないかといううっすらとしたものは持っています。
宇多法皇が建てられた御室仁和寺、この御室というのは天皇の御所という意味に変わって足利氏との関係が深い。
宇多天皇の曾祖父にあたる桓武天皇は藤原乙牟漏を皇后とし→嵯峨天皇→仁明天皇→宇多天皇という系譜を繋ぐ。
今上天皇は平成13年サッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
と公言しているように、百済系の天皇に牟婁の王女が嫁いだということになる。
藤原鎌足、任那4県の上多利・下多利、そして足利(タリとも読める)、抜き差しならぬ関係を感じます。
地名の由来は難しい問題だが、順序が逆のように思う 基本訓読みの音を重視すべきだ。訓読みは日本語ね その日本語に万葉がなとしての漢字を当てている 足利をタリと読んでも無意味だ それから、天皇のゆかり発言だが、単なるリップサービスなので無用な深読みはよしたらいい
532 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 18:17:42.18
宇多天皇の系譜は現代では実は少なくて貴重なんだよなあ。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)が殆ど。
534 :
日本@名無史さん :2013/10/13(日) 22:12:16.97
中国山東省の牟婁(ボウロウと発音する)がどこにあったかということなのですが、 牟婁でググっても具体的な地名は見つかりませんでした。 しかし、山東省煙台市に牟平区という港町が見つかりました。 ググって見ると、牟婁山路という記述も引っかかり、現時点ではここが有力です。 実は、私自身、狼煙台と牟婁の関係に非常に注目しています。 そのことは、いずれ書きます。
537 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 10:48:15.31
538 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 12:21:40.95
>>536 朝鮮人の認識が間違ってる。朝鮮人とは高句麗及びツングース民族のことを指す。
新羅人は新羅人だ。
539 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 12:30:34.96
任那と新羅はもともと友好関係だった。新羅には倭人が住んでたわけだし。どういう理由で百済と新羅が任那を含め争うようになったのか よくわからないな。新羅は唐と同盟を組んでいたわけだが、新羅には秦人もいてもともと中国との繋がりがあった。 そうなると百済と言うのはよくわからない国だ。
540 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 12:38:23.91
百済は秦人の国だから自分勝手で利己主義。 王族と支配民が別の民族という典型的な征服王。 土着していないから、新羅が攻めてくれば都を遷す。そういう発想になります。 古代史で論争になっている日本のどこかの国といっしょだな。
541 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 12:51:03.66
百済はツングース国家だら、 百済に秦人いたの?
>>539 君主制国家は王権の政策次第だから人種とか基本関係ないよ
領土も人民も王家の財産という国家形態だから
新羅は新興国だから手段を選ばず中国にすり寄っただけかも
新羅は布留式土器が出たり4代目王が倭人であったりするので、 大和朝廷からすれば近親憎悪のようなものだろう。 百済の王族は倭系でないため案外ドライな良い関係だったのだろう。
544 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 18:49:50.24
たしか秦人の王族が流れてきたんじゃなかったっけ? 秦氏だとすればもともと漢の国にいたわけで。
>>544 魏志の東夷伝で中国系渡来人の王が治めていたと言ってるのって東側、むしろ新羅方面ではなかったっけ?
百済王は扶余系で高句麗と同系だったはずでは
といっても新羅王はたしか、その中国系の王とは別系統だけど
546 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 19:00:45.91
秦の始皇帝の子の扶蘇が半島ではちょっとしたメモリアルなおひとだったぽいよ。
547 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 19:18:04.18
百済の王は扶余系のようだが、 任那の王は、山東半島から渡ってきた徐福集団と関係がありそうです。 山東半島には徐福村があって、徐福が旅立ったとみられる徐福鎮という港町もある。 徐福伝説は、和歌山県の熊野の新宮にも残っていて、牟婁とは徐福集団、もしくは、徐福伝説を実話として知っている集団が、 あとを追って移住したのではないかと考えられる。
549 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 19:49:33.25
百済王のは475年を境にして扶余系のから倭系のにすり替わっている。 このすり替わりの後に半島での前方後円墳がわらわら涌いてくる。 志摩王は列島産だしね。
550 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 19:54:09.95
扶余系でも正解だが、 扶余の支配者層のは濊貊系だから、濊貊系といったほうがもっと良い。
551 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 19:58:34.51
武寧王(島王=志摩王)、百済と和歌山県の北牟婁や志摩地方が関連があることは確実です。
>>549 倭系にすり替わったのなら5世紀前半の阿莘王(あしんおう)だろう。
すりかわるって何の話だよ? 何をもって倭系とよぶんだ? 百済王家はずっとつながってるだろうが 武寧王は母親が倭人の可能性あるけど 女系の話でいいなら皇室もいろいろあるだろ
>>553 ブネイ王から10世の百済帰化人が一匹入り込んだだけで天皇家をチョン認定する国もあるからな
>>553 >何をもって倭系とよぶんだ?
この場合は傀儡になったという意味。
辰斯王の無礼を紀角宿禰らが叱責に行ったら、
臣官たちが辰斯王を殺してしまったので、
阿莘王を立てて帰ってきたので、
それ以降は日本の傀儡だろう。
>>555 その辰斯とか言うのも、高句麗に屈するなと言われて降参した廉で責められたんじゃなかったか
最初から傀儡だろう 時代的に神功皇后が三韓成敗した結果が百済と新羅だし
558 :
日本@名無史さん :2013/10/17(木) 20:06:05.55
いまどき日本書紀の与太話を本気にしてるなんて失笑モノだな。 神功皇后なんて架空の人物だし、百済が倭の属国だったなんてありえない。
>>558 百済本紀には王子を倭に人質に出したと書いてある
確認してみたら?
日本書紀にも百済から人質が来たと書いてあるし
百済王は倭の出身と言って良い
もしかして好太王碑文が日帝の改竄とか言っちゃう系のヒト(モドキ)?
万年属国の哀れな隣人を愛おしむ気持ちは無いのかねw
古事記には、神功皇后は屈服した新羅王の門に住ノ江(住吉)大神を祀ったとある。 日本では崇高な自然現象も神ならば人も神である。 この場合は人を祀った、つまり支配者として置いたということであろう。 それが住吉大神だというのである。 新羅の4代目王・脱解が倭人であることは言うまでもない。 しかしながらこの脱解を娘婿に迎えたという2代目王・南解次次雄に注目だ。 普通、異国人を娘婿に迎えるだろうか? 神攻皇后が祀った(置いた)住吉三神のお一人にナカツツノオ命がおられる。 南解次次雄はナカツツノオと読めるではないか。 つまり新羅2代目王は住吉大神だったのだ。 またこれは新羅の慶州から日本の布留式土器が出土するという考古学とも合致するのだ。
確かに南解次次雄って完全な和名だな
新羅は勾玉など倭系遺物が多い
566 :
日本@名無史さん :2013/10/18(金) 18:25:57.83
狂信者だらけのスレだなw
狂信とは典型的には南韓の民族史観などである
568 :
日本@名無史さん :2013/10/18(金) 20:42:56.35
好太王碑文は北方土人の高連さんがとおちゃんがやったことにしてでっちあげた広報碑だし。
569 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 05:47:59.62
好太王の碑文に出てくる「倭」って、ヤマト政権のことではなくて、 朝鮮半島南部の倭人とか、後世の倭寇的な海賊集団って説もあるしな。
570 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 06:07:40.98
>>568 太王四神記とか見てたら、文明国の高句麗が、まだ半裸でウホウホ言ってた倭人ごときに、
戦場で苦戦するわけがないと思う。
そもそも、それが倭の正体。 倭とは日本海を支配していた海人集団。 金官伽耶や九州南部を支配するだけのさほど大きい集団ではなかった。 ところが倭の五王の時代に領土を急拡大、百済や新羅、瀬戸内から畿内まで支配する大倭、すなわち、大和となった。
572 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 06:46:28.34
明代の倭寇図巻ですら、倭寇は半裸に近いスタイルの野人状態で描かれてるから、 職貢図の倭国使の半裸に近い格好は、ますます信憑性が出てきたな。 どれだけ蛮族なんだよ・・・
>>571 応神天皇陵の陪塚・丸山古墳から鮮卑族の立派な鞍が発見され国宝になっている。
404年の帯方界侵入の「倭」が大和朝廷である証拠だと思うが?
>>570 >>572 夏は暑いのでね、明治まで半裸でした。
おいら、今でも夏は半裸だぜ。
倭人伝には裸足と書かれてるが、沓(くつ)は吉野ヶ里からも見つかってるし、
縄文時代からありました。
冬に沓がなければ凍傷になりますんで。
>まだ半裸でウホウホ言ってた倭人ごときに、戦場で苦戦するわけがないと思う。
鉄製甲冑、木製甲冑も揃い、弓兵も沢山おりました。
倭軍も高句麗の騎馬兵に苦戦しましたが、
逆に高句麗も倭軍に苦戦しました。
>>574 お見事
不勉強な連中ほどチョンドラに騙されやすいわな
576 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 08:19:56.27
倭の王の生活と雑魚兵隊の生活を一緒くたにするからバカげた話になる。 民間人は真っ裸で、顔に鮫除けの渦巻きを書いて海に潜って漁をしていても、王は王宮で優雅な暮らし。そういうものだ。 倭の兵隊は、倭寇で村を襲って気性の荒いのをたくさん集めて室伏のような怪物が統制して指揮を執る。 こいつらが戦えば、高句麗のような騎馬民族でも、罠や仕掛けで嵌めればいいわけだし、 武器もさることながら、指揮官が優秀かどうかが勝敗の分かれ目になるのはいつの時代も同じ。
>>572 “小人は肉体を労し君子は心胆を労す”
肉体を穢らわしいとみるのは儒教の観念だな
倭人にしてみれば蒸し暑い中何枚も重ね着してる人間がバカに思えた、かもしれんよ
中国文明の習熟度で半島が上回っていたのは分かるが、それは半島が前漢に征服されて、
【中国そのもの】になったからだろ
果たして誇るべきことなのか否か…
>>570 太王四神記は99.999%の嘘で出来ている
実態
魏志高句麗伝
「方可二千里、戸三萬。多大山深谷、無原澤。隨山谷以為居、食澗水。
無良田、雖力佃作、不足以實口腹。」
戸数三万www
普通に倭に蹴散らされる
579 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 14:18:48.79
任那日本府なんてなかったんだよ。 任那も日本府も8世紀の史官の捏造。
任那日本府は在ったよ。 任那や日本府を後世の捏造だと捏造するのが南チョン捏造史観。
581 :
日本@名無史さん :2013/10/19(土) 18:31:42.18
任那は港だ!
>>579 任那倭府だったとか言う言い訳はやめとけよ
>>578 戸数三万しかないってのは、まだ遼東郡も楽浪郡も併合する前の話だぞ
その頃は吉林省と北朝鮮の山奥だけで国やってたからな
遼東郡も楽浪郡も前漢の全盛期には十万戸に届く繁栄だったが
高句麗に併合された頃は衰微してて、楽浪郡4000戸、帯方郡5000戸
それに玄菟郡・遼東郡の四郡あわせても2万戸いくかいかないぐらい
それでも高句麗は五万戸の人口にはなったわけだ
人口の5分の2は高句麗人じゃなくて漢人だけど
584 :
583 :2013/10/20(日) 01:59:26.09
>>583 すまん自己レス自己訂正
×2万戸いくかいかないぐらい
○1万7000いかないぐらい
でも百済も新羅も崩壊した帯方郡を併合して大きくなったからな 高句麗だけが大きくなったわけじゃない
楽浪群滅亡が313年 任那の史料初出が414年の広開土王碑 倭の五王の朝貢は413年から 楽浪群や帯方群が潰されて、半島南端に逃れた漢人の残存勢力が、なおも迫ってくる高句麗の脅威に対して自主的に倭国に保護を求めてきたのが任那の始まりってところじゃないかな。 404年帯方群に倭人が攻め込んだのも、あんな奥地を占領しても倭国にとっては余りメリットなさそうだし、どちらかというと楽浪・帯方群復興のために兵を貸したという感じでは?
知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1382233495/ ■大陸進出の軍事的要衝立証
本書は、著者が精魂傾けて連続出版した『日本古代史 正解』(全3巻、講談社)に続くものである。
第3巻の「渡海編」では、日韓の古代史学会がその存在を否定する神功(じんぐう)皇后の新羅征伐が、
まぎれもない歴史的事実であることを突き止め、さらに倭国の朝鮮半島進出の橋頭堡(きょうとうほ)として半島南部沿海地域に手を伸ばし、
ここを任那(みまな)日本府とした事実を立証している。碑文や石碑の位置関係、
さらに歴史的文脈からこの事実を初めて証(あか)したことの意味には圧倒的なものがある。
今回の著作は、この任那日本府という、古代日本人の大陸進出の軍事的要衝(ようしょう)が、
これも日韓の古代史学会による否定にもかかわらず、確実に存在し、その存在のありようにまで想像力を働かせた意欲的作品である。
立証の基点は、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道の、任那日本府とその周辺地域で、1980年代に相次いで発見された前方後円墳(14基)である。
これだけの数の発見は、前方後円墳が半島を経て日本に伝わったものであることの証(あかし)だとする説となって流布したものの、
古墳の造営の年代が、全土で多数発見されている日本のものより新しく、この説は受け入れられないという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131020/bks13102009290005-n1.htm
>>586 4世紀前半の崇神天皇の頃に任那のソナカシチという人物が朝貢してきたとある。
半島南端に逃れた漢人の残存勢力かもしれないね。
護ってもらう代わりに鉄の支配権を大和朝廷に渡した。
以降、大古墳が日本全国に出来るが、これは大量の鉄が日本に来た証拠だろう。
日本の製鉄は3世紀には広まってる
>>589 一部はね。
ただ半島の鉄資源を無視してよいほどには広まってなかっただろう。
>>588 別名ウシキアリシチカンキだっけ?
別人か
>>590 一部ではなく全国的に、地方によって鉄器の成分が違う。
また1世紀には一部は製鉄を始めてる
593 :
日本@名無史さん :2013/10/20(日) 18:14:01.35
鍛冶遺跡と製鉄遺跡は区別してね。 鍛冶遺跡を製鉄と書いてあることがあるから。
製鉄遺跡を鍛冶と書いてあることが非常によくあった 今も頭の中を修正出来てない輩も少なくない。
595 :
日本@名無史さん :2013/10/21(月) 18:17:27.40
任那なんかなかったんだよ。 記紀の説話と史実を混同しないように。
>>595 前方後円墳なんかなかったんだよ。
ウリナラの歴史書にそう描かれている
598 :
日本@名無史さん :2013/10/21(月) 21:20:13.37
任那はあっただろ。向こうは伽耶とか加羅とか呼んでいたが 日本、倭国では任那と呼んでいた。
599 :
日本@名無史さん :2013/10/21(月) 22:12:32.57
当時は国境が定まっていたわけではないから、強いものが占領する。それだけだ。 倭は、朝鮮半島や中国への足場として、栄山江流域を支配していた。 しかし、百済や新羅に圧迫され土地を捨てて日本に退却した。 秀吉の作った日本式の石垣を持つ山城がたくさん残っているのと同じだ。
鉄の王キムスロを見る限り、加耶の人々が半裸でウホウホ言ってた倭人に征服などされないだろ。
>>600 半島で高度な技術を持ってたのはごく一握りの漢人系の職能民だよ。
彼ら(秦氏や漢氏)が殺戮・略奪・レイプに明け暮れる野蛮な半島の原住民に嫌気がさして、素朴で礼儀正しい倭人の住む日本列島に逃げ出してからは、倭国は高度成長期に入り、半島は荒れ放題の水車一つ作れない後進国になった。
梁職貢図、好太王碑、宋書 倭国が広大な任那を領有し、加羅と新羅を羈縻支配していたのは疑う余地が無い
>>600 4世紀まで中国に朝貢できなかった弱貧国が笑わせるなw
周代にも倭人の朝貢の記録が有る
半島より千年以上早いぞw
>>603 「鉄の王キムスロ」ってのはお花畑ファンタジーで有名な韓ドラの一つだぞ
600はネタで逝ってるんだ、察しろw
キムスロはともかく伽耶の勢力が出雲に国を建てたのは事実だからな
韓ドラなんか見ねーし
>>605 薄ら馬鹿だな
韓流ドラマに史実は無い
チャングムの何とかも史実は「女医が居た」これだけ
あとは全て妄想で出来てるらしい
608 :
日本@名無史さん :2013/10/22(火) 11:04:02.63
609 :
日本@名無史さん :2013/10/22(火) 11:07:51.84
韓ドラなどクズだろ
>>606 わかんねえ奴だなてめえも
ドラマと関係ねえっつーてるだろ
日本列島の勢力と関係が深いのは金首露王の金官伽耶ではなく伊珍阿豉王の大伽耶なんだよ
>>605 伽耶に四隅突出墳があれば認めてやってもいいが、全くない。
あきらめろ。
まずハイパードライブで1500光年先に飛びます 次に望遠鏡で地球を見ます するとあら不思議、1500年前の様子が見えます
歴史を通じて、戦後まで半島に土着勢力による政権が存在したことは一度もない。 箕子朝鮮:中国人 衛氏朝鮮:中国人 新羅:日本人、秦人(中国人) 百済、高句麗:扶余(中国少数民族) 高麗:中国人 李氏朝鮮:女真族(中国少数民族) 朝鮮総督府:日本人
614 :
日本@名無史さん :2013/10/23(水) 17:49:50.30
記紀の説話と史実を混同しないように。
三国史記の新羅本紀位ぐらい読めば?
いや、三國史記なんて12世紀のもんだから 倭軍侵攻に関しては日本書紀を参照してるフシもある
>>616 たしか新羅本紀には日本書紀にもない倭軍の侵攻とか頻繁に書いてて、
やられっぱなしだったはずだぞ。
卑弥呼の時代以前からの倭軍の侵攻もあったはずだ。
618 :
日本@名無史さん :2013/10/24(木) 19:04:26.92
新羅本紀に出てくる倭の襲撃って海賊集団的な連中じゃないの? 好太王碑の倭も倭寇的な海賊集団って説もある。
倭国は広大な任那を支配していたんでね
そりゃ、いくら電波だろうが唱えるのはタダだからな
>>618 >好太王碑の倭も倭寇的な海賊集団って説もある。
つまり大和朝廷は関わってないという意味かな?
好太王軍南下の時期に日本に来た秦氏は畿内に住むし、
伽耶から避難してきた集団も大阪長原遺跡に住む。
好太王と戦ってた倭が大和朝廷である証拠だ。
>>621 あの巨大な前方後円墳を作った勢力が半島に介入したと考えるのが合理的やな
巨大前方後円墳、何故あんな非実用的なものを作ったのか? しかし、巨大といっても、自然の丘陵を利用して造れば、たいした労働力はいらない。 大阪城と比べてほしい。幻の安土城はもっと巨大だった。そういう城が全国にできた。 実際のところ、信長も秀吉も、有力大名に共立されて国を統一したと言えなくもない。 信長も一介の戦国大名に過ぎなかった。それが鉄砲という新兵器を駆使して天下を統一した。 卑弥呼の時代に、それと同じことが起きたのだ。 鉄の刀と青銅鏡という武器と司祭器の有用性を一早く気づいた先覚者がいたのだ。 それが吉備だ。
>>623 自然の丘陵を利用して造られたという明証が無いんでないかい
625 :
日本@名無史さん :2013/10/25(金) 08:29:16.21
>>623 >信長も秀吉も、有力大名に共立されて国を統一したと言えなくもない
それはない 信長も秀吉も家康も 武力で他勢力を圧倒して 政権を確立した
「共立」の反対の顕著な例
>>623 >鉄の刀と青銅鏡という武器と司祭器の有用性を一早く気づいた先覚者がいたのだ。
>それが吉備だ。
北部九州なのだが。
>>623 エックス線で人工だって分かってるんだけど
>>628 何トンチンカン言ってるの。
銅鐸は出雲だろが。
出土地図くらい調べれるだろ。
そんな事も知らないのか?
コウジンダニの銅鐸のことか あれって隠されてたんだろ 日本書紀でもやたらと吉備はライバルとして描かれてるしデカイ古墳もある 目障りなほど強大だったのかもよ
紀記から消された大国、吉備こそ邪馬台国そのものだ。
>>632 おそろしく無知な教授と韓国人学生だな
生き恥として名を残しそうだw
日本の歴史学者も生き恥の歴史だけどなw ゴッドハンドを誉め称えたり 全く証拠のない畿内を邪馬台国と言ってみたり
新羅初代王の赫居世って今の日本語の「こがせ」と語源が同じだろう、漕ぐ+使役か尊敬の「せ」 漕がせ君? 前期新羅王の名ってやまとことばで分析できる予感、例えば奈解尼師今なんて今の「なかにしくん」だろwww
636 :
日本@名無史さん :2013/10/26(土) 06:02:17.77
任那日本府なんてなかったんだよ。 記紀の創作を信用しないように。
新羅初代王の赫居世、日本語にすれば越生(おごせ)だろう。 武蔵国には、高麗郡、幡羅郡(はたらぐん)、新羅郡など半島からの帰化人部落がたくさんできた。
>>637 そいつらは単に当時の辺境に封じられて蝦夷と戦う役目を負わされてただけ
良いように使われたんだろ
投降兵なんてそんなもんよ。信頼なんかされない
当時の朝廷には鳩山みたいのはいなかったろうからな
その鳩山も幡羅郡の秦氏ではないのか?
ようは関東人=チョンってことやな
641 :
日本@名無史さん :2013/10/26(土) 12:18:10.67
それでいいニダ。 バカボンのパパも韓国人ニダ。 北関東の尻あがりのイントネーションは、朝鮮語放送そっくりニダ。
>>637 百済郡は首都近郊だが、高麗郡と新羅郡はド辺境の未開拓地
扱いと役割の差がはっきり分かれてる
>>636 後漢書倭人伝では拘邪韓国は倭国に属する
東夷伝でも半島南部に倭が有ったと書いてある
644 :
日本@名無史さん :2013/10/26(土) 13:45:43.62
>>642 今上天皇が、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言されたように、日本と姻戚関係を持っていた百済王。
広開土王の戦いや白村江の戦で交戦した高句麗や百済とは一緒にできないだろう。
まあ、しかし、武蔵国で勢力を増した高句麗や新羅人は、後に鎌倉御家人や武蔵七党となって鎌倉幕府や江戸幕府を支えて主導権をとることになる。
>>644 鎌倉御家人や武蔵七党は開発領主として扶植した皇族やその眷属の出な
646 :
日本@名無史さん :2013/10/26(土) 14:41:30.51
半島南部の倭って日本列島の倭とは関係ないだろ。 好太王碑に出てくる倭って、半島南部の倭のことで海賊集団みたいな連中だろ?
>>644 ??ただのリップサービスを真に受けるなよ
武寧王の子「純陀太子」以下の約200年後の子孫が和乙継,
その娘が高野新笠で,その子が50代桓武天皇(在位781~806年)となった。
しかし,高野新笠は百済系でも,10 世である。
仮に百済の武寧王が朝鮮人としても,
桓武の母高野新笠の百済系の割合は10 代で0.5^10=0.00098 (0.098% )。
逆に日本系の割合は99.902% で,血筋から見て高野新笠は正真正銘の日本人である。
桓武天皇から70 代以上たった125代の明仁天皇との朝鮮との血縁関係は0.5^70=0だ。
つまり、朝鮮とは無関係。
だからこそ,ほんの少し関係しましたねと言う意味で
今上陛下の「ゆかり」というお言葉が出たのである。
桓武天皇の母親の高野新笠の系図
武寧王(在位501-523 年)
純陀太子 1世 (日本に人質)
斯我君 2世
法師君 3世
雄蘇利紀君 4世
和史宇奈羅 5世 (和氏に改名)
和史粟勝 6世
和史浄足 7世
和史武助 8世
和史乙継 9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠10 世
桓武天皇
>>647 これだけのことで天皇は韓国人だとか言えちゃう神経はある意味すごいわw
てか今の韓国に連なる新羅とは敵対していて、言語や文化も違った百済人からしたら今さら韓国人呼ばわりされるのは東ローマ帝国の人間をトルコ人呼ばわりするようなものだろう。
誰も韓国人とはいっとらんだろ 朝鮮半島から来たといっただけだろ
そもそも歴代天皇陛下の立派なお髭を持つ血筋は、朝鮮半島にはいないだろう。
652 :
日本@名無史さん :2013/10/26(土) 22:59:24.56
ユダヤ人だとでも言いたいのだろうか? 今上天皇も、最近、ユダヤ系の鷲鼻が目立ってきました。 純血を保とうとすれば、血が穢れて遺伝病や奇形児が増えるし、 朝鮮のように、同姓婚を禁止すれば、繁殖力の強いエベンキ族ばかりが増える。 なかなか難しいものです。
653 :
日本@名無史さん :2013/10/27(日) 02:52:30.21
イギリス王室みたいに他の国の血を入れればいいが、 中国や朝鮮には王室という概念はないからな、 なりすまし侵略王朝ばかりで。
654 :
日本@名無史さん :2013/10/27(日) 02:58:41.76
フィリップはノース人だが、ノルウェーやデンマークのほうが格上だからな 歴史的に
>>652 ヤマトの血筋は、毛深いだろ?
皇室は縄文人そのものだよ。
>>652 その手の動画YouTubeで見たわ
現代のヨーロッパ帰りの自称ユダヤ人は偽物で、だから純血ユダヤの日本人を憎んでいる!
とかマヂで言ってたな
皇室は縄文系(Y染色体でのD2)の可能性もあると思うよ。 あるいはO2b系かも。 これは東南アジアあたりから稲作と共に渡来してきたと思うのだが、 埴原のいう長身ノッペリ顔の土井が浜弥生人ではない。 土井が浜弥生人はO3だろう。 O2b系は新・縄文人、あるいは古・弥生人とでも言うべきかな。
土井が浜弥生人はなんと勾玉を身に付けてた。 これは彼らが日本社会に同化しようとした証拠だ。 したがってかれらは征服者ではないし、そんな力もなかった。 勾玉を身に付け同化しようとしたにもかかわらず、 哀しいかな異民族であることから襲撃されてる。
>>653 >なりすまし侵略王朝ばかりで。
日本も天武天皇まではそんな感じでしたよ
>>657 O2b1は日本列島で発生した系統
倭人の殖民、征服活動と共に半島南部へ広がった
661 :
日本@名無史さん :2013/10/27(日) 11:52:33.85
>>657 皇室は縄文系のD2a1bらしい
795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/18(日) 19:42:47.73 ID:CRSQkF+2
Mizuno et al. 2008
16 Y chromosomal STR haplotypes in Japanese
サンプル総数1079
並び順:YHRD Standard
DYS19 DYS389I DYS389II DYS390 DYS391 DYS392 DYS393 DYS385 DYS438 DYS439 DYS437 DYS448 DYS456 DYS458 DYS635 YGATAH4
D2a1b
最頻値 17 14 31 25 10 11 13 13,17 10 12 14 19 15 15 21 11 個数27 推定150万人
1つ違いまで 個数75 推定417万人
2つ違いまで 個数131 推定728万人
3つ違いまで 個数161 推定895万人
O2b1
最頻値 15 14 30 22 10 13 13 10,20 13 12 14 18 15 17 20 12 個数9 推定50万人
1つ違いまで 個数46 推定256万人
2つ違いまで 個数102 推定567万人
3つ違いまで 個数168 推定934万人
1つ違い15世代500年見当。
中世以降D2a1bの特定家系が突出して増加している。
源氏を代表とする賜姓皇族しか候補はない。
O2b1は古代に増加したが、中世以降は分散傾向。
662 :
日本@名無史さん :2013/10/27(日) 14:11:06.27
源氏は新羅系ってことか。
新羅王族は縄文系日本人だからな
>>658 あ、そうなの
面白い事実だね
だいたいからして難民は原住民の助けを借りなきゃ生きていけないわな実際
土井が浜弥生人の故郷は江蘇な。 DNAや、特殊な抜歯の状況からほぼ決定。
>>648 ぶっちゃけ、受け取りようによっては「お前らんとこの王族妾にして孕ませてやったぜプゲラwww」ともなりかねんのにホルホル出来る所が凄いわな
と言うか、逆の立場だったら絶対言ってると思うw
//blog.livedoor.jp/oboega/archives/32641431.html
>・日本の右翼たちは自分たちが世界で一番古い国であり、独自の文明を持っていると妄想をしている。
>さらに百済も自分たちが支配したと思っている。
>金大中大統領時代に天皇が直接やって来て、自分が百済の子孫であり、そのルーツが朝鮮半島にあるというインタビューまでしたの>に、右翼連中は捏造だといって、そのまま無視する。
高句麗は中国なの?韓国なの?あえて北朝鮮?
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1382836872/ 韓国史教科書、教育部が求める修正・補完事項とは
韓国教育部(省に相当)が今月21日に発表した「高校韓国史教科書修正・補完事項」は、近現代史のデリケートな問題だけでなく、古代史・中世史分野でも広い範囲にわたって、
学界の新たな研究成果を少なからず反映させている。この中には、一般の韓国人が持つ漠然とした歴史的常識とは異なる部分も多い。
■「紀元前2333年古朝鮮建国」の根拠は『三国遺事』ではない?
来年から使われる8種類の教科書のうち、教学社・金星出版社・天才教育社の教科書では、古朝鮮の建国年代を「紀元前2333年」だとする記録を紹介し、その根拠を『三国遺事』に求めている。
檀紀や「半万年の歴史」という表現を生んだこの建国年代については、実際に多くの韓国人が、一然の編さんした『三国遺事』に出てくるものだと思っている。
しかし教育部は「紀元前2333年というのは、『三国遺事』ではなく『東国通鑑』に出てくるものであって、修正すべき」と指摘した。『東国通鑑』は1485(成宗16)年に著された編年体(年代順に記録をつける方式)の歴史書で、
中国の堯が即位した甲辰年より後の戌辰年に檀君が即位したと記している。北宋の司馬光が著した『資治通鑑』では、堯の即位年を紀元前2357年とみていることから、「戌辰年」は紀元前2333年になるという計算結果が出てきたのだ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/10/23/2013102301264.html
>>667 こういうのほっとくとマヂでやられるよ
キッチリ抑え込んだ方がいい
>キッチリ押さえ込んだ方がいい 右翼かw
朝鮮人を甘やかして増長させてしまったのは日本の歴史上の汚点 半島のことは色々口出しせずに、奴隷の飼育と調教に慣れている中国様なりロシア様なりにお任せしておけば良かったのかも
朝鮮の学者だけでなく日本の高名な学者でも任那日本府や神功皇后の三韓征伐を疑問視する人は多いよ
673 :
日本@名無史さん :2013/10/27(日) 23:16:12.13
そりゃバカだから 日中韓、全ての歴史資料に朝鮮南部は倭だったと書いてある
日本人の学者で任那日本府や神功皇后の三韓征伐を疑問視する人は居ないよ 日本に棲む衒学者には居るがねw
朝鮮の漢字地名を出来るだけ遡って日本語で解釈するのをやってやればいい
>>674 任那日本府や神功皇后の三韓征伐を信じてる学者は日本書紀を盲信した人たちじゃないの
韓国人はテレビドラマを盲信して歴史を語るwww アリエネー
記紀の記述で盛ってそうな部分と言えば、高句麗も支配下においたことになってるくらいか。
679 :
日本@名無史さん :2013/10/28(月) 07:40:00.75
>>678 その一事を見ただけで、記紀の記述がいかにデタラメな与太話であるかがわかる。
本当は半島から渡ってきた人たちが建てたのが日本(倭国)なのにあたかも日本列島から半島に赴いて半島諸国を征服したという体にしたかっただけ そう書かないと天皇家や有力豪族の出自がバレるから
高句麗だけずっと敵対してたように書くと広開土王の子孫の高麗氏や背奈氏が困るだろ
>>679 百済や新羅を臣民にして
倭百済新羅連合軍になれば高句麗なんか簡単に蹴散らせる
問題は高句麗はさっさと大陸側に逃げるので殲滅は出来ない
征服しても一時的ですぐ戻って来るってことだな
魏志高句麗伝には戸数3万と書いてある もちろん韓国人は漢字が読めないからこんな事は知らない
684 :
日本@名無史さん :2013/10/28(月) 10:09:53.99
元来、韓国は日本国の従属国であります、韓国の宗主国は日本国であります。 「此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし」(日蓮)と、定義されています。
http://www.newscj.com/news/photo/201310/211042_164040_2818.jpg ▲1-1地点(ハゲ山)調査後の全景。(写真提供:文化財庁)
[天地日報=イ・ヒョンジョン記者]2005年10月、某メディアが百済時代の前方後円墳を報じてから
韓国考古学界で論議が止まらない京畿河南(ハナム)一帯の、I沙ポグムジャリ住宅団地造成地
区から先史時代の遺物が出土した。
2005年当時、河南地域の在野の史学者らが日本列島古墳時代に集中確認される独特の墓の様
式である前方後円墳だと主張した山は、発掘調査の結果、新石器から朝鮮時代に至るまで家と
墓に使った‘ハゲ山’であることが明らかになった。
埋蔵文化財専門調査機関である韓白文化財研究院と文化財庁は24日午後2時、河南I沙ポグ
ムジャリ住宅団地造成地区内にある1-1地点と3地点を中心に説明会を開いた。1-1地点のハゲ
山は先史時代の生活遺跡と朝鮮時代の墳墓遺跡が出土した。新石器時代の遺跡はハゲ山の南
側斜面下段部で住居地1棟と野外露地2基が確認された。住居地は火災によって廃棄され、櫛文
土器の破片が出土した。青銅器時代の遺跡は住居地6棟と竪穴3基が確認され、ハゲ山の北側
斜面を中心に分布している。
http://www.newscj.com/news/photo/201310/211042_164041_2842.jpg ▲出土した石。(写真提供:文化財庁)
住居地は内部施設は確認されなかったが、二重口縁単斜線文土器、長頚壷(首の長い壷)、紡錘
車)等が出土した。出土遺物で見れば、青銅器時代前期に造成されたと判断されると調査団は明
らかにした。初期鉄器時代の遺跡は長方形の住居地6棟と竪穴5基が確認された。
調査団は今回の調査で旧石器時代と初期鉄器時代の遺跡が確認され、河南一帯の漢江(ハンガ
ン)流域の歴史性と文化性に新しい資料が提供されると期待した。また、ハゲ山一代で前方後円
墳と関係した遺跡は全く確認されず、河南市前方後円墳の真偽論議は終わらせることができると
判断した。
ソース:ニュース天地(韓国語) ‘日本墓’論議河南(ハナム)一帯、先史時代遺物ら出土
http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=211042
>>684 日蓮ハゲの宗派は済州島出身のソンテジャクに乗っとられとるじゃないかw
>>687 それ典型的な2ちゃんデマ。
信じるのは2ちゃん脳。
690 :
日本@名無史さん :2013/10/30(水) 19:26:10.94
>>684 逆に防長の大内氏は、朝鮮王朝に対して、自ら百済王の子孫で半島系だと名乗って臣下の礼をとり、
半島内に所領をもらおうとしてたらしいな。
対馬の宗氏も、実際には惟宗氏という渡来人の子孫で、 朝鮮王朝に臣下の礼をとり、対馬は慶尚道の一地方に属していた。
>>690 大内義興、政弘は大明に対し日本国王として認められていた
つまり、当時の東亜秩序に於いて大内家>琉球>李朝
>>690 大内氏の子孫は、東北に移住した今も、だっちゃ豆なんか食べてて、
未だに語尾に・・だちゃ。とかつけてしゃべっているたり、未だに日本に馴染めてないっちゃ。
>>691 朝鮮王は天皇に臣下の礼をとり、朝鮮は日本の領土だった
大内氏は元祖オレオレ詐欺師
崇神から仲哀までが伽耶からの渡来人の王朝で 応神以降が百済からの渡来人の王朝だし 蘇我氏の祖となる武内宿禰にいたっては新羅からの亡命者なんだもんな
>>697 世界190カ国の歴史教科書では全然違うが
北朝鮮地域と南韓地域の歴史教化書ではその手の願望を教えているみたいだね
699 :
日本@名無史さん :2013/10/31(木) 19:14:01.38
任那なんてなかったんだよ。 任那日本府なんて創作上の存在。
任那の名前のもとになったところがあるはずなんだよ、辰砂というか水銀のとれるところが 任那は丹生那の訛りだろうから
ミマって孫の意味じゃなかったけ?
「すめみま」と関係ある?
奴国の子孫が治め給う土地、でミマナか、なるほどな〜
スメラミコトのミマゴ
707 :
日本@名無史さん :2013/11/02(土) 17:59:45.67
彌馬升 ← 難升米 ← 10. 【崇~】 ← 御眞木 入 日子 印惠 命 彌馬獲支 ← 掖邪狗 ← 11. 【垂仁】 ← 伊久米 伊理 毘古 伊佐知 命 御眞 津 日子 訶惠志泥 命 ← 05. 【孝昭】 御眞 津 比賣 命 ← 卑彌呼 御眞木 入 日子 印惠 命 ← 10. 【崇~】
708 :
日本@名無史さん :2013/11/02(土) 19:34:52.82
場所的に任那は港湾勢力 東シナ海と日本を結ぶ中継所
外洋航海が危険な時代に弥生人が長江あたりから来たんだとすると、後で占領したんじゃなくて渡来時から中継基地として任那を押さえていた可能性もあるな。
弥生陶器や水稲作の開始年代は倭国が早く任那は遅い 2つ共九州北部から半島南部へ入植と共に持ち込まれた物
地=ナ(地震を「ない」と書いてた希ガス)とすると、 みまな=孫地、ってことか?
ミ=敬称「御」exミカド=御門 マ=「真の」 exマナ=真の名 ナ=土地 なんでないの?
NIMANAが後ろの音に引きずられて記紀でMIMANAとなったとするほうが妥当だと思う、任の上古音がn?m-だし
715 :
日本@名無史さん :2013/11/04(月) 01:24:09.44
中国の史書には、半島南部には倭人が住んでいると書いてる。 倭人だけじゃなく、いろんな種族がいて、言葉も違うと。 古代は海の向こうとこっちで人が行き来してたんだろ。 日本にクニが出来てからは、半島側もムラだけじゃなくて出先機関のような ものになってたんだろ。 最終的には半島は北からの圧力が大きくなって、追い出されるが。
木浦近郊に任城里という名の駅がある。 これは黄海を隔てた山東半島にかつてあった斉の国の対秦防衛最前線基地の地名と同じだ。 任那も斉(いわい磐井)の朝鮮半島における前線基地という意味だろう。 山東半島の斉の国が滅んで朝鮮半島や九州に避難してきた斉人も多かったと見られる。
718 :
日本@名無史さん :2013/11/06(水) 23:32:01.27
>>680 出自がバレるって、バレたら何が困るんだ?
征服した側なんだからバレるも糞も、もともと当時の人には明らかだろうに
通常はむしろ誇るわけだが
征服者=勝利者の側がそれを隠さなきゃいけないっておかしくね?
倭人って日本列島にいた民族だけではないみたいだね おそらく濊狛(わいはく)とよばれるツングース系の民族が南朝鮮や日本列島に住み着いて倭といわれるようになったのではないかと思う
>>719 逆だな
元々縄文人が日本海沿岸の全域に住んでいて
大陸に取り残された人が倭を名乗ったが濊と呼ばれたのだろう
>>719 ツングース語と日本語は語彙が全然一致しない
全く別個の存在か、少なくとも数万年は隔離されていた
なのでその可能性は皆無
周囲の言語と膠着語的な文法はともかく語彙が似てないってことは日本語=縄文人の言語って気もしないでもないけど、一つ素朴な疑問はそれだとアイヌ語ってなんなんだろう?
日本語とアイヌ語は縄文時代に分岐 日本語と沖縄語は2千年前ぐらいに分岐 中国から日本に大量に語彙が入ったがアイヌ語は古いまま残った こんな説も有るよ 日本語に似ていると言われるのはバスク語、タミル語、チベット語、ヘブライ語 まあ謎の古代人系の言語だなw
血と言語は本来一致しない アイヌ語はシベリア系の別の言語だろうね しかしアイヌの血筋は縄文系だという不条理
氷河期があったのでアイヌも含め日本人はみんな南方から来た。 源郷はスンダランド。 日本語ってY-DNAのO2b1の言語でしょ。 7000年ほど前にO2bから分岐。 日本人に縄文系のD2が多いのは、中世以降に増えるから。 中でもD2a1bと言うグループが突出して増加する。 これは武家の台頭と一致する。 武家は隆盛順に源平藤橘とも言われ、 源氏、平氏、橘氏は皇別氏族。 ここから天皇家のY-DNAはD2a1bであると分る。 ちなみにそれ以前はO2b1が増加しているが、 これは藤原氏の台頭と一致。
埴原和郎の「弥生人は朝鮮半島から来た」と言う説が、 長い間、日本人の脳裏に刷り込まれてきたが、 Y-DNAでみるとO2b1も半島では少なく、 半島と共通するのはO3くらい。 いわゆる土井ヶ浜弥生人はDNAや抜歯の手法が中国の江蘇あたりだと判明してる。 彼らはO3の可能性が高いが、これは江蘇から半島と日本に流れてきた人達が、 今日、韓国人や日本人になってるというだけ。
>>725 武家はうまいこと男ばかりを産み出したの?
>>727 男と女は同じ比率だろうね。
何を言ってるのか意味不明。
てか武家なんて江戸時代の一番多い時代でも人口の10%以下。 従って足軽までほとんど全員源氏や平家の直系になったところでたかがしれている。 Dの縄文系が後になって増えたのだとすると、関東以北の農業生産性の向上とかなんかそんな理由と思われ。
中性に特定のグループが急激に増えると言う点に留意。 支配者層は多く子を残すのは世の摂理。 それが日本の人口の何パーセントであるとは一言も言ってないので、 江戸時代の一番多い時代でも人口の10%以下という話は意味をなさない。
×中性 ○中世
>>728 その時期男(武家)がわんさか増えたんで、
D型Y-DNAが現在多いと言いたいんじゃないのかい?
>>730 同じ理屈なら藤原家こそそうじゃないかい?
>>733 その通り。
中世にD2a1bが増える前はO2b1が目立って増加しているそうだ。
このO2b1が藤原だろう。
>>734 ちょっと待てw
なぜ昔の遺伝子がそんなに詳しく分かるのだ
>>735 例えばD2の中にもいろんなハプログループがあり、
辿っていけばいつ頃分岐したのかわかるらしい。
それ以上は俺に聞かないでくれw
>>736 その表のO2とは今ではO2b1の事を指してるのだと思うのだが、
日本以外ではベトナムに14%、タイに6%なので、
呉越というのはおおよそ正しいのではないか?
ただ、これだけ細分化されてくると、 例えばO3系統であっても、祖先は東南アジアあたりから直接日本に来たのか、 中国南部経由か北部経由か、半島経由で来たのか、 あるいは仲間が半島に渡っていったのかが分って来るだろうね。
741 :
日本@名無史さん :2013/11/07(木) 13:20:49.52
コ川家康は出自を詐称したとも言われてきたが、そうではなかったのかも。 いつの時代にもそういうネグった考えをするやつがいるという事だ。 今でも有名人をすぐにチョン認定したり、B認定するやつがいるもんなw
まあ、分からなくはないが… しかし人口構成は圧倒的に下層民が多いだろう。農民とか 下層民は産まれ易く死に易いわけだが、激減したとも思えん あまり関係ない疑念かな
>>744 むかしは上流階級ほど子供が多く子孫が多かった
下層階級ほど子孫断絶の発生率が高かった
何百年もたてば貴種の子孫の人口比は劇的に高くなったはずだ
それこそ、そこらの庄屋の分家の分家の分家ぐらいの庶民でも源氏の子孫だったりしただろうさ
746 :
日本@名無史さん :2013/11/07(木) 23:44:49.15
天皇は征服王だから、天皇の言葉を理解できる国民はほとんどいなかった。 昭和に入って終戦の玉音放送でさえ、一般国民の話す言葉とは相当違っていたし、 ユダヤ人かツングース系か半島渡来かことはわからないけれど、庶民とは違う人種だという感覚は多くの国民が持っている。
ムー読者でした
>>744 >しかし人口構成は圧倒的に下層民が多いだろう。農民とか
人口構成じゃなくて、D2系でも数種類、O系でも数種類確認されるY-DNAのなかで、
飛びぬけて人口を増やしてる勝ち組がD2a1bだから、
農民とか平民の平均増加率をはるかに超えてるという意味だ。
これは源、足利、徳川などの皇別将軍家以外になかろう。
749 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 09:34:00.98
鉄の王キムスロを見る限り、加耶の人々が半裸でウホウホ言ってた倭人に征服などされない。
>>748 DNA割合の変遷ってどうやってわかるの?
>>750 Shogun modal(D2a1b)に属するY-STRハプロタイプは、1718個のサンプルのうち、
日本全域に分布した32個のサンプルが17個Y-STR loci値が完全に一致して、
残りの40個のサンプルも比較的変化利率が高いDYS439、 DYS456、DYS458、DYS389II、DYS385bなど1、
-1程度の変化が発生しただけで基本的に同じモーダルタイプに属することは疑いの余地がない。
だそうだ。
武士に情けで、
これ以上詳しい事は聞いてくれるな。
俺には無理だ。
要するに多様性が非常に少ないから 増えたのはかなり近い時代って事か
>>741 に書いてあるが、
通常17 lociが一致すれば、700〜800年以内に約90%以上の系の共通の祖先があると判断するので、
このD2a1b Shogun Y-STRモーダルハプロタイプに属する誰かが約700〜800年前からの影響力を拡大始めて、
その子孫を日本中に残しなければならならない。
だそうだ。
貴族が地方に赴任すると土豪が娘を差し出すからな 特定のDNAがばらまかれることはあり得る
755 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 16:03:46.55
で、半島からやってきた少数の弥生人に先住の縄文人は血統を上書きされたと。 倭人は加羅あたりの韓人の子孫であると。
756 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 16:17:46.70
757 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 16:23:10.11
イト県主の一族って、渡来系豪族ってことになってるけど、 すると伊都国王は半島からの渡来人だったのか。 なるほど、加羅=韓国(からくに)からやってきた弥生人が、 在来土着の縄文人を征服して、同化したってことなのか。
>>755 中世栄える縄文系D2a1b以前に栄えた弥生系O2b1は、
半島にもいるが南側に多く、逆に倭人の遺伝子。
新羅建国に倭人が関わってるからね。
もちろん支配層であった。
で、半島と共通してるのはO3系くらい。
これは華北あたりから来て半島と日本に住み着いたのだろう。
しかし日本の歴史の中では少数派になった。
分ったかチョン。
悔しいのうw
>>757 在チョンや南トンスリアンの願望と妄想も虚しく
現実は
>>758 、縄文人直系の倭人が半島南部を征服した
新羅王の名前の多くが大和ことばで分析できるね 奈勿尼師今なんて那持ち主君だろうがw
762 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 20:09:33.69
日本オタの妄想、妄言は聞き飽きた。
763 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 20:31:01.27
基地外が必死になっている記紀の任那に関する眉唾ものの伝承は 民話と同じ創作ファンタジー 大半が天武朝から奈良時代に天皇家が捏造・改編させたもの
(そうあって欲しいニダ。ソースは軍人用売春婦と同じく勿論0)
>>763 あなたの様な気違いが必死に否定するというわけですねw
766 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 22:10:24.04
ここもタイワピーノ工作部隊が湧いてるな。 朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら、我々日本人のルーツを 台湾汚物の祖先故郷の江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドに 改竄する事を目論む悪の権化、タイワピーノ工作部隊が 張り付いているから、みんな気を付けてくれ。
768 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 22:35:15.52
>>767 「朝鮮人を叩く正義の味方を装う」というダマしのナイフで
我々日本人を殺してから、マンマと台湾汚物の祖先故郷の
江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドに全てを改竄してしまうという
バカ撃ち抜き世論工作手法のタイワピーノ乙。
>>768 次から次へとスレを荒らすのは楽しそうだが止めてくれよな
770 :
日本@名無史さん :2013/11/10(日) 22:48:45.23
>>769 「朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら改竄手法」でバカを
ダマシ殺して江南改竄するのは楽しそうだが止めてくれよな。
>>770 他のスレに居られなくなったからってよそへ移るのは止めてくれよな
>>771 ×他のスレに居られなくなったからよそへ移る
○他スレで妄想を論破され恥掻いたらコピペ爆撃で埋めて他所を荒らす
773 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 01:12:53.42
「朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら手法」を働いてバカを欺き殺して、 台湾汚物の祖先故郷の江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドに 改竄する情報工作手法、世論工作テクニックは止めてくれよな。 タイワピーノ工作部隊。
>>757 ヒガミ鮮人がさりげなく電波まぜてんじゃねーよw
775 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 02:26:17.80
弥生人が加羅からやって来といて、何で朝鮮土器が弥生開始土器に なっていないのかという事実にさえ気付ければ、弥生人が半島人だという 嘘など、すぐに瞬殺できるわな。 弥生人は弥生開始土器との特徴の一致から、ある時代の沿海州南西部から やって来てきている。
>>775 はいはいチョンチョン、トンスル臭いぞ糞酒の飲み過ぎだ
>>773 どの辺がどう台湾誘導なのか、一度説明してくれんか
ドキチッド君
778 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 12:13:21.47
台湾誘導じゃなくて、おまえら台湾汚物の祖先故郷の江南改竄だろが。 バカを簡単にダマし落とせるように、 「朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら登場」 というエアーを入れてから江南改竄に入るというロジックの 工作プログラムだろが。 つか、さっさと鮮人とともに日本から出てけよこの台湾テロ汚物が。
779 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 12:23:14.25
>>776 弥生人が半島人ではないという事を簡単に見抜く方法を
教えてやってるのに、何でチョンチョンなんだよ?
おまえ、脳みそにウジが湧いてねえか?
さっさと鮮人とともに日本から出てけよこの台湾工作汚物が。
民族差別的な書き込みはやめようね ここはニュー速じゃないんだからw
>>778 専門スレに集まる連中は基礎知識はあるし、そうそう騙せるもんじゃない
おまえは古代中国との関係を説くと即台湾ガーだ
頭おかしいだろ無職
面接には行ったのか?近所のコンビニで募集してただろ
782 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 16:03:20.62
最近、若い男が草食系なんて言われてるけど よく見てみると弥生男がかなり増えてる気がする 大学生なんて弥生男まみれだな あと、正しく言えば草食系じゃなくて農民系なんだよな まあ草食と言えば草食なんだけど、人間は雑食だからなぁ
783 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 18:26:57.49
>>781 おまえこそパソコンのある環境で働いたらどうだ?w
今どきモバイルやスマホも知らねえリアル無職の台湾乞食がw
つか、さっさと鮮人とともに日本から出てけバカヤロウ!
「任那」の話をしない奴は出て行ってくれないか
>>783 おまえは台湾人に何されたんだ
とにかく出ていけ
786 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 21:42:11.96
バカを簡単にダマし落とせるように、 「朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら登場」 というエアーを入れてから、 台湾汚物の祖先故郷の江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドに 改竄するというロジックの工作プログラムなw さっさと鮮人とともに日本から出てけよ台湾広鼻褐色ブタマニラwwww
台湾のことしか眼中になく 任那のことを何も語らない荒らし
788 :
日本@名無史さん :2013/11/11(月) 22:23:03.89
さっさと勝手に任那を語ればいいじゃねえかw 「朝鮮人を叩く正義の味方を装いながら登場」 というエアーを一発入れてから、 江南改竄を働くベトナム顔した台湾ハノイブタがwwww
789 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 00:43:49.24
半島南部に有った日本直轄の領土 それ以外の解釈は不可能だな
以前かわいそうな朝鮮人のトンデモ本を読んだことがあったな 自分に都合の悪いことに関しては見えないふりをするという 典型的な朝鮮人丸出しの本だった
791 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 01:38:38.25
まるで台湾人のようだな。
日本人にもそういうやつは多いよ。
「台湾」をNG推奨
ドキチあわれ
昔は伽耶から出る甲冑と日本の古墳から出る甲冑が同じ物であるから、 伽耶人が日本を征服したのではないかと考える人もいた。 ところがその後の研究で日本の甲冑が伽耶に出現することが判明した。 さらに百済地域にまで日本の甲冑が出現する。 したがって任那日本府は当たり前だし、 日本が百済を臣下としていたことも判明。 記紀の通りの内容だ。 あきらめろチョン。
796 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 12:18:51.93
>>796 ほう…いろいろ応用効くもんだね染色体って
798 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 17:28:13.96
>>748 農民は一夫一妻だけど
権力者たちは、一夫多妻だから
権力者たちのY染色体は異常に増えるんだよな。
皇室や藤原氏は、とくにY染色体を増やしたのが、おのずと推測できる。
799 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 17:33:59.50
D2系でも数種類、O系でも数種類確認されるY-DNAのなかで、 飛びぬけて人口を増やしてる勝ち組がD2a1b。 これは、日本で誕生したといわれるY染色体で おそらく、皇室や藤原氏のY染色体の可能性が高い。
>>799 しかしアイヌと沖縄もDだろう
原住民じゃないのか
>>798 確かに清和天皇って皇子だけで80人いたんだっけか
そら増えるわな
802 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 19:48:34.02
>>799 武家政権誕生後突出して増えてるD2a1bは皇室系でしょ
奈良平安時代に増えて中世以降あまり増えなかったO2b1が藤原系では?
795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/18(日) 19:42:47.73 ID:CRSQkF+2
Mizuno et al. 2008
16 Y chromosomal STR haplotypes in Japanese
サンプル総数1079
並び順:YHRD Standard
DYS19 DYS389I DYS389II DYS390 DYS391 DYS392 DYS393 DYS385 DYS438 DYS439 DYS437 DYS448 DYS456 DYS458 DYS635 YGATAH4
D2a1b
最頻値 17 14 31 25 10 11 13 13,17 10 12 14 19 15 15 21 11 個数27 推定150万人
1つ違いまで 個数75 推定417万人
2つ違いまで 個数131 推定728万人
3つ違いまで 個数161 推定895万人
O2b1
最頻値 15 14 30 22 10 13 13 10,20 13 12 14 18 15 17 20 12 個数9 推定50万人
1つ違いまで 個数46 推定256万人
2つ違いまで 個数102 推定567万人
3つ違いまで 個数168 推定934万人
1つ違い15世代500年見当。
中世以降D2a1bの特定家系が突出して増加している。
源氏を代表とする賜姓皇族しか候補はない。
O2b1は古代に増加したが、中世以降は分散傾向。
803 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 20:45:36.56
>>802 藤原氏の男系子孫は中世以降も増えまくっているよ。
とにかく、日本の歴史において、Y染色体において
圧倒的な勝者は、天皇家(源氏、平氏など)と藤原氏。
O2b1系は、渡来系に多かったけど
渡来系貴族は、日本に帰化しても、大半が下級貴族だったので
時間が遡るごとに、貴族階級から外されていった。
804 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 20:47:33.10
普通の一般人は、一夫一妻だけど、 権力者は、一夫多妻なので、そりゃ、 権力者たちのY染色体は増えまくるわなw
805 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 21:04:13.93
O2b1系は、古代に渡来系の移民が多く入ってきたから増えたけど 彼らは日本社会では、一般庶民待遇が多かったので 日本に定着してからは、さほど増えてないんだろう? 逆に日本固有のD2a1b系は、日本の権力者層に多かったので 一夫多妻制という文化から、その末裔を多く増やしていった。 その代表格が、源平などを輩出した天皇家や藤原氏など。
806 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 21:07:51.19
O2b1系が古代に増加したのは、移民の急増によって。 D2a1b系は、古代、中世を通じて、常に増加したのは、 彼らの多くが被支配階級層に多くおり、一夫多妻制という文化によって 増殖していったから。
807 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 21:28:09.73
歴史に残るのは王。 DNAが残るのは住民。 住民の中から力のあるものが王になったということは実は多くないのだ。 多くは征服王。征服王の場合、住民と王族のDNAは異なることになる。 住民のDNAを研究しても、王朝の歴史は全く分からないのだ。
808 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 21:41:41.54
D2a1b系の元のD2型が日本にやってきたのは 3万年前の氷河期。 その中で、日本の風土の中で突然変異で誕生したのは D2a1b系。 このD2a1b系だけが、古代から近世にかけて、常に急増している 彼らは、日本の権力層にあり、一夫多妻制文化にいたから。 彼らは高い確率で、天皇家(源氏、平氏)や藤原氏の可能性が高い。
>>803 o2b1は日本で発生した系統、渡来系は出戻り組以外居ないよ
>>805-806 o2b1は日本で発生した系統、渡来人でo2b1を持つ氏族は出戻り組以外居ないよ
812 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 22:20:57.30
任那日本府の存在は常識であるが、その任那日本府に便乗して 我々日本人のルーツを台湾汚物の祖先故郷の江南ハッカクブタマニラ ハノイ汚物ランドに改竄しようと目論む悪の化身、 タイワピーノ工作部隊が張り付いて改竄工作を働いているので、 ダマされやすい方、頭の弱い方はダマされないように、くれぐれも ご注意下さい。<all
813 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 22:36:05.55
>>809 そんなの文献的にも常識だぞ。
曹操は父親か祖父かが他氏からの養子。
よって、前漢初期の曹参とY染色体が違うのは当たり前だ。
814 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 22:52:19.14
O2b1系も日本で誕生したんだな、一応。
>>813 少し前に曹操の子孫の曹氏と夏候氏とのY染色体が違っていたとあったような
その時の結論は異姓養子は嘘だったとかだったはず
遺伝子の話もいいけどなんで任那スレでやるの?
819 :
日本@名無史さん :2013/11/12(火) 23:41:03.49
台湾汚物がバカを欺罔して江南改竄するときに使うのがmt遺伝子。 gmやHLAなど遺伝子にも色々あるが、バカを欺罔しやすいから mtかYしか絶対に出てこない。
820 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 00:29:35.73
D2a1bって、いつ誕生したんだよ?
821 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 01:53:48.33
もしかして鎮西八郎を称し九州で暴れた源為朝のYDNAはD2a?
源為朝
琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、
追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、伝説的な人物。
グクソ日本に集中D2aモーダルを発見した。
http://gall.dcinside.com/board/view/%3Fid%3Dhistory_qna%26no%3D4412%26page%3D1%26search_pos%3D%26s_type%3Dsearch_all%26s_keyword%3DD2a1b&usg=ALkJrhiNHCJsHm-J1P87yidf3bwyeDA9_w このモーダルはDYS385aが9、DYS635 24で不思議な値を示す。
DYS385bが15、DYS448 17、DYS456 17、DYS458 17なのも特有の値とすることができるが、
上の表を見れば分かるように、沖縄、福岡に集中している。
出身が知られているサンプルの沖縄で6個、福岡の5個、大阪1、茨城1個、経常1個、ソウル1つ発見され、
沖縄のものは6例はすべて1step以内を示し、比較的数百年以内に拡大したとみられ、
福岡のものが0〜4steps程度を見せて、大阪から出てきたなサンプルが標準値から9stepsを見えるが、
この大阪のサンプルは9-15 D2aモーダルグクソ日本で拡張するより前に分岐したとみられる。
沖縄83サンプル中6サンプルが出て7.23%、福岡212サンプルのうち5例を示して2.36%、大阪131サンプルのうち1例を示して0.76%、
鳥取、仙台、山形はサンプル数が200を超えているのにもかかわらず、9月15日D2aモーダルが一つも出てこなかった。
韓国では708サンプルにも及ぶPark2012論文でぴったり1つ出てきた、出身はソウルだった。
ソウル572サンプルのうち1サンプル出てきた0.17%を占めており、ジョナムスデータ1,021サンプルのうち1サンプルが出てきて0.01%、
最高検察庁2,668人のデータのうち3例を示して0.01%を示し、朝鮮族201人で1つ、大田134サンプルで0個、天安316サンプルでも0個出てきた。
沖縄のハプログループではなく、単純なモーダル7.23%に出てきたのは驚くべきである。
モーダルって数百〜千年内に拡張したものであるが、9月15日D2aモーダル7.23%は、
おそらく沖縄のテン野茂月、将軍モーダル数値と似ているかも知れないという考えだ。
822 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 02:08:35.02
第一尚氏、名和氏(村上源氏)説ってのもあるんだな 第一尚氏、名和氏説 第一尚氏は佐敷按司の出であるが、その元を名和氏に求める説が存在する。 これは折口信夫が唱えたもので、肥後国八代を拠点にしていた名和氏の一部が沖縄佐敷に渡り、第一尚氏になったのではないかとする説である。 名和氏は元来伯耆の出であるが、建武の新政の際、恩賞として肥後国八代の荘の地頭職を賜る。 南北朝期、南朝方に属していた名和氏は北朝方に圧迫され、征西府を頼りに九州へ下向し八代に拠点を構える。 名和氏はこの地で日朝交易に携わるなど、水軍としても活発に活動している。 折口説によると、この名和氏の一部が沖縄本島に渡り東南海岸のヤマトバンタに拠点を構え、 八代近くの肥後佐敷に因んで佐敷と名付け、第一尚氏になったのではないかと推測している。
823 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 02:16:41.91
D系統 瓊瓊杵尊 Family Tree DNA会員N114578は、父系祖先を瓊瓊杵尊と登録しており、 Y染色体はハプログループD2である。 竹村健一 政治評論家・竹村健一のY染色体はハプログループD2である。 2009年8月5日東京・お台場の日本科学未来館で開催された 「私たちはどこから来たのか?」という イベント(日経BP社・ナショナル・ジオグラフィック主催)で、 スペンサー・ウェルズ博士によって竹村健一の長男で、 文化人類学者・竹村真一(京都造形芸術大学教授)の Y染色体ハプログループは縄文系のD2系統であるという 解析結果が公表された[45][46]。 これに伴って、父・竹村健一のハプログループも D2系統であることが明らかとなった。 (竹村健一の父祖は、兵庫県朝来市生野町黒川の出身[47]) 細川茂樹 岐阜県大垣市出身の俳優・細川茂樹のY染色体は ハプログループD2である[48]。 堀江貴文(40歳) 堀江貴文 福岡県八女市出身の実業家・堀江貴文のY染色体は ハプログループD2である[49]。 (堀江貴文の父祖は、福岡県久留米市の出身)
824 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 02:34:51.67
清和源氏武士団発祥の地の多田神社がある兵庫県はD2a1bが多いな 4 of 73 Gunma 199万人×4/73 新田荘のあるとこ 3 of 74 Hyogo 557万人×3/74 清和源氏武士団発祥の地 123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/29(日) 17:06:51.05 ID:KFGCGTk5 コピペされてたので追加情報。 水野論文は有料だが、データはYHRDにアップされてるよ。 D2a1b modal: 4 of 73 Gunma 新田荘のあるとこ 3 of 97 Tokyo 3 of 95 Aomori 3 of 74 Hyogo 2 of 78 Wakayama 2 of 37 Chiba 2 of 144 Shizuoka 1 of 148 Okinawa 1 of 50 Hokkaido 1 of 42 Yamanashi 1 of 103 Ehime 1 of 76 Okayama 1 of 60 Nagasaki 1 of 45 Mie 1 of 30 Nara O2b1 modal: 2 of 95 Aomori 1 of 144 Shizuoka 1 of 37 Chiba 1 of 53 Yamaguchi 1 of 42 Toyama 1 of 74 Hyogo 1 of 148 Okinawa 1 of 45 Mie
825 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 08:50:28.52
あれこれ、タラタラとmt遺伝子とY遺伝子でバカを巻いて、 で、最終的には日本人のルーツは台湾汚物の祖先故郷の 江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドである、と誘導する んだろタイワピーノ工作部隊w その工作戦略ももう見飽きたぞw
>>824 群馬県?の多胡郡のデータとか知りたいね
ホントに雑胡が集められた地域だったのかどうか
>>825 目障りだ。失せろ。
827 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 13:49:22.35
>>827 O2b1は日本列島の縄文人に発生し
子孫の弥生人の頃に半島南部の征服と植民によって半島へ広がった。
o2b1はo2bから分岐した別の系統
>>827 韓国人で最も多いタイプはO3で45%
それにO2bとO2b1の分化は5000年前
おまえら任那の話しろよ、なんで遺伝子厨のすくつになってんの?
831 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 18:20:13.28
832 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 18:49:13.20
で、最終的に江南ハッカクブタマニラハノイ汚物ランドに 誘導してフィニッシュなんだろ?w タイワピーノ工作部隊w
834 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 20:13:05.09
閑話休題 本題に戻すと、任那なんかなかったんだよ。 任那日本府は8世紀の史官の捏造。 日本列島の倭人が加羅を支配などできたわけがない。
835 :
日本@名無史さん :2013/11/13(水) 23:19:24.46
>>833 任那日本府があったという公然の事実を利用して、朝鮮人を叩く正義の味方を
装いながら、馬鹿ダマしに使いやすいmtとY遺伝子でバカを巻きに巻いて、
で、最終的にはおまえら台湾汚物の祖先故郷の江南ハッカクブタマニラ
ハノイ汚物ランドに我々日本人のルーツを改竄してフィニッシュという
ロジックの工作プログラムだろがw
さっさと鮮人とともに日本から出てけよ、このパソコン環境のある職場で
働いた事もない、モバイルもスマホも使った事がない、
リアル無職の台湾乞食がwwww
>>834 中国の歴史書だと
半島南部は倭の一部ったと何度も出て来るぞw
ハングルで書かれた歴史書なんて皆無
韓国人が歴史を語るのは無理
だいたい中国的な世界秩序の中では、朝貢は守ってもらえる上に有利なレートで貿易できるなど、頭さえ下げておけば基本いいことずくめ 半島南部の小王国は北から迫ってくる高句麗の脅威を前に、倭国内が軍事的に征服するまでもなくおおむね自発的に勢力下に入ってきたのだろう
>>824 群馬と言えば4世紀初めに皇別・毛野氏が派遣された所だからな。
皇別氏族の派遣は、この時代に群馬以外の地域ではなかったはず。
当然、毛野の子孫も増えただろう。
四道将軍などは地方に派遣されても大和に戻ってきてるしね。
>>834 任那という呼称はあったけど朝鮮総督府みたいな任那日本府はなかったという話だよ
朝鮮総督府みたいな任那日本府は無かった 九州奥州探題みたいな任那日本府が存在した
実際は任那【倭府】だったろう 日本書紀はヤマトや倭を日本と書き換えているからね 半島南部の支配の事実は動かしようがない
>>840 「〜みたい」ってなんだよw
「みたい」か「みたいではない」かはどこに着目するかでなんとでもいえるだろ
>>842 岡田英弘の信者乙「任那之倭宰」だろうが、常識では
四道将軍の派遣された地域は、女が強い地域でもある。 薩摩おごじょ、篤姫の薩摩。 かかあ天下と空っ風の群馬。 八重の桜の会津。 つまり、女王国邪馬台国の残党。
常識をもちだすってことは「これ以上は説明する気がない、 自分で調べろ」って意味じゃないのか、常識では
誰も反論しないから俺は学界で認められたのだって 電波説がよく使うレトリックじゃね?w、常識では
信頼性が高い日中満の文献によって裏付けられている 日本が半島南部を支配していた歴史的事実を受け容れるのが常識ある態度という物だよ
「倭宰」って文字をみてもなんだかわからなくて 「倭府」だったはずだぁ〜って言ってるアホのことだよ、非常識ってのは
853 :
日本@名無史さん :2013/11/16(土) 11:09:52.66
倭府なんて総督府的な行政機関はなかったってことだろ。
当時の半島にはそもそも行政機関が存在してないけどな
855 :
日本@名無史さん :2013/11/16(土) 12:42:03.12
権力者がいて、一定地域を支配して、住民から税を取り立ててれば、 どんなにチャチで素朴なものでも、一応行政機関になる。 アフリカの部族長の家来や庄屋や名主の手代でも行政機関と言える。
任那、つまり、栄山江の河口の湊、木浦。 木にあった日本の朝鮮総領事館は、太平洋戦争での日本の敗戦ととも廃止されて町も寂れた。 大伴金村の失策が、その後の故地回復にどれ程の損失になったか計り知れない。
当時(てか律令制以前)の倭国内の行政の仕組みについては官職名以上のことは分かってるの?
当時(てか滅亡するその時まで)の新羅の行政の仕組みについては官職名以上のことは分かってるの? 解って無いよね、無かったから。
>>851 倭宰ってのは官職で行政府じゃないよ
>>852 漢字の上ではなw
>>853 じゃ、ぽまえの考えでは「倭府」って文字がなくて「倭宰」だからって
一国から派遣された大使が裸一貫で一人で乗り込むもんだとでも思ってるの?w
そういうの学者バカっていうんじゃね?
>>858-859 どっちもある程度は推測つくぐらいには記録あるよ
くだらない喧嘩すんな
861 :
!omikuji :2013/11/17(日) 00:31:47.47
牟頭婁塚墓誌 大使者牟頭婁(下缺)」 □(下缺)」 河泊之孫日月之子鄒牟」 聖王元出北夫餘天下四」 方知此國郡最聖□□□」 治此郡之嗣治□□□聖」 王奴客祖先□□□北夫」 餘隨聖王來奴客□□□」 之故□□□□□□□□」 世遭官恩□□□□上」 聖太王之世□□□□□」 祀□□□□□□□□」 非□枝□□□□□□□」 叛逆□□之□□□□□」 牟□□□□□□□□」 遣招□□□□□□□□」 拘□□□□□□□□□」 曁農□□□□□□□□」 □□□□□□□□□□」 恩□□□□□□□□□」 官客之□□□□□□」 牟令彡靈□□□□□□」 慕容鮮卑□□使人□知」 河泊之孫日月之子所生」 之地來□北夫餘大兄」
862 :
!omikuji :2013/11/17(日) 00:32:57.51
大使者牟頭婁(下缺)」 □(下缺)」 河泊之孫日月之子鄒牟」 聖王元出北夫餘天下四」 方知此國郡最聖□□□」 治此郡之嗣治□□□聖」 王奴客祖先□□□北夫」 餘隨聖王來奴客□□□」 之故□□□□□□□□」 世遭官恩□□□□上」 聖太王之世□□□□□」 祀□□□□□□□□」 非□枝□□□□□□□」 叛逆□□之□□□□□」 牟□□□□□□□□」 遣招□□□□□□□□」 拘□□□□□□□□□」 曁農□□□□□□□□」 □□□□□□□□□□」 恩□□□□□□□□□」 官客之□□□□□□」 牟令彡靈□□□□□□」 慕容鮮卑□□使人□知」 河泊之孫日月之子所生」 之地來□北夫餘大兄」
863 :
日本@名無史さん :2013/11/17(日) 00:34:22.09
牟□□□公□彡□□□」 □□□□□□□□□□」 牟婁□□□□□□□□」 命遣□□□□□□□□」 □□□□□□守□□□」 □□□□□□□□□□」 □□□□□造世□□□」 □□□□□苑□□□」 □□□□□□□□□□」 □□□□□□□□□□」 □□河□□□□□□□」 □夫□□□□□□□□」 □河泊日月之□□□□」 □□□祖大兄牟壽盡」 □□於彼喪亡□由祖父」 □□大兄慈□大兄□□」 □世遭官恩恩□祖之□」 道城民谷民□領前王□」 育如此□至國上大開」 土地好太聖王□祖父□」 □恩ヘ奴客牟頭婁□□」
864 :
日本@名無史さん :2013/11/17(日) 00:34:58.01
牟ヘ遣令北夫餘守事河」 泊之孫日月之子聖王□」 □□□昊天不弔奄便□」 □□奴客在遠哀切如若」 日不□□月不□明□□」 □□□□□□□□□□」 □□□□□國□□□□」 知□□□在遠之□□□」 □□□ヘ之□□□□□」 □潤太隊踊躍□□□□」 □令ヘ老奴客□□□□」 官恩□□□道□□□□」 使□西□□□□□□□」 極言ヘ□心□□□□」 □□□□□□□□□述」 □□□□□□□□□□」 □□□□不□□□□□」 □□□□□□□□□□」 □□□一□□□□□□」 □□依如若□□□□□」 知□□□□□□□□□」 可□□□如□□□□□」 □□□朔月□□□□□」 □□□□□□□□□□」 (□□ 10□ □□) [□□ : 『譯註 韓國古代□石文』T(1992)]
倭ってザックリ東シナ海沿岸にいた海洋民族だか半漁半農の奴らのこと言ってんじゃないの? で、日本に大きめの国作ったから大倭→大和にして、山多いからヤマトとか言い出したとか。 完全な素人妄想だけど。
>>865 少なくとも漢書以降の倭は日本列島人のことだな
そこをごまかしても仕方ないだろう
867 :
日本@名無史さん :2013/11/17(日) 18:39:06.12
倭人が日本列島とはどこにも書いていない。
>>866 そんな統一認識あったんだ。
甲子園が大阪にあります的な勘違いがいっぱいあるかと思ってたよ。
広開土王碑に倭という民族名で書かれているのは、倭国王配下の軍なのかどうか決めかねたからだろうか にしても日本列島の倭人に違いないと思う それを倭は南韓の原住民だの任那の傭兵だっただの、ムリ筋だろうよ
日本列島の倭人と南韓の原住民って全く違うの? そんなはっきりと線引きできるのかな。
871 :
日本@名無史さん :2013/11/17(日) 21:46:57.25
どうやら、広開土王碑の解釈に誤りがあるようだ。 倭は、広開土王と戦うため、海を渡ってやってきたけれど、 それは支援部隊であって、倭国自体は古くから朝鮮半島と九州の両方に拠点を持っていていた。 しかし、朝鮮半島には、新羅や百済、高句麗といった既存勢力があり、領土を拡大するのは難しかった。 そこで、日本列島での勢力拡大に重点を置き、特に畿内への進出に力を入れてきた。 畿内に巨大前方後円墳を作ったのも、まつろわぬ未開人に、倭国王の偉大さを見せつけるためだったのだろう。
広開土王碑では百済や新羅を配下に置いて、新羅なんか首都を何度も包囲されてる そんなのが南韓の倭人盗賊レベルとは思えん
873 :
日本@名無史さん :2013/11/17(日) 23:33:52.62
倭人と韓人は服装と髪型で識別してたんジャマイカ?
>>873 言葉や行動様式で識別していたよ
>>871 倭人が半島へ進出したのは前1千年紀後半
前漢〜西晋の間に、馬韓辰韓を征服、加羅百済新羅を服属させ
半島南部の広範囲を支配下へ置いた
支配下においたというより誰も居ない地に住んでいた
土器が原住民の様式から別系統の弥生土器に切り替わるから 国は無かったが人は住んでいた
878 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 00:45:29.54
★★★ アメリカ国内で韓国による「日本バッシング」と闘っておられる「クリス・ミヤケ」さんからの「署名の依頼」です。
拡散!署名に御協力をお願いします!
目標 25000 現在 21988
皆様のご協力に感謝いたします!
「請願内容」は、
・いわゆる「慰安婦」を自称している韓国人女性の発言には一貫性、信憑性がないこと
・アメリカには公式文書として、当時の慰安婦が高給で売春に従事していた証拠があること
・アメリカの学校教育の場においては、韓国が主張する「虚偽」を教えないでほしいこと
などです。
アメリカでは、実際に「インチキ慰霊碑」が建てられ、
アメリカで暮らしている「日本人の子供たち」へのいやみや嫌がらせが韓国人により行われています。
私たちができることは、「メルアド」と「名前(ハンドルネーム可)」と「国名」を書いて送信することだけですが、
あなたの「一つの請願メール」がアメリカで「日本人の名誉」のために戦っている人たちへの「応援」になります。
「請願メール」のサイトから、
「Name(名前・ハンドルネーム可)」、
「Email(メールアドレス)」を記入して、
「国籍」を選択してから、
「Sign the petition!」を押せば送信できます。
あなたの力が必要です。 お願いいたします。
請願はここから→
http://petitions.moveon.org/sign/comfort-women-fabrication.fb28?source=s.icn.fb&r_by=8546588
879 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 06:32:15.53
ミズラとか神話の神様みたいな服装は、もともと半島の服装だろ。 倭人は、腰巻きか貫頭衣みたいな半裸体。
どっちかつうと遊牧民の服装だね 鎧の下に着る柔道着みたいなやつ しかし、時期的には君のいう腰巻きスタイルと重なってる
881 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 12:27:08.43
男は袈裟だろ。
倭人伝では女は貫頭衣、男は幅の広い布を巻き付けてたと有る 布は腰と上半身に巻き付けていた みずらは冠を被るのに邪魔になるから中国の影響で冠を被るようになってから廃れた
半島の服装って、わかってるの?
884 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 12:55:24.31
下はスカートのような感じで、上は長いマフラーを首から 上半身全体に巻いたような感じかな?
886 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 14:01:25.54
手足にサポーターを着けているのが興味深い。
887 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 14:34:51.40
倭人の左隣の黒い人はフィリピン人だな。 広州から二万千里の海中にある場所と言えばフィリピンか ボルネオくらいしかないしな。 しかし、古代中国は想像以上に国際的だったんだな。
朝貢は中国側が呼び寄せて国民に対して 『どや?遠方の国々が皇帝を慕ってやって来たで』 と、見せつけるのが目的だったらしい 必ずしも交易があったとは限らない
>>886 あれが腕抜きと脚絆だよね
もののけ姫でアシタカがしてるだろ
庶民は古い服装を長く伝えていたんだな
891 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 20:36:37.63
>>885 を見ると、倭人は一番肌の露出が多く、色黒、暖かい地方に住む民族だとわかります。
南太平洋のサモアとかニューギニアあたりから来たようにも見える。
やはり、倭人とは、帯方郡から1万3千キロ離れたオーストラリアのアポリニジと同族だったのではないだろうか?
892 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 20:49:32.45
倭人は色黒じゃないだろ。
その絵を書いた梁には国交はなかったんだよな
いや、あったよね。記録に残っている
895 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 23:17:59.15
民間交易みたいのは当然あったろうが 倭と梁には公式の国交みたいのはなかったんじゃないのか? 502年の倭王武の叙任は梁が一方的に行ったことで 倭国の知らなかったことだってのが通説だったように記憶してるが…
896 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 23:18:07.50
倭人はまだ服飾や裁縫の技術が無かったんだろう。 だから秦氏は機氏=ハタシと呼ばれたんだな。
898 :
日本@名無史さん :2013/11/18(月) 23:34:02.29
なんか急にウンコに似た台湾褐色広鼻臭が漂ってきた。 ブタくさ、ブタくさ、広鼻くさ、ハノイくさ、マニラくさ、 ハッカクくさ、褐色くさ、突顎くさ、ギョロ目くさ、 汚らしい。
>>896 縫い針は6000年前の縄文遺跡から見つかってるぞw
裁縫の技術は有ったけど機織りはアイヌ人が参考になるかも
木の皮の繊維で衣類を織っていた
でも絹も有ったぞ
卑弥呼が絹織物を中国に贈っていたからな
900 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 02:04:03.82
裁縫技術はあったが服飾技術は無かったのかな? 袖という概念が無さそう。
>>900 オマエ、東北の冬の寒さ知ってるか?
あんな格好してたら凍死するってw
倭人の服装は夏服か九州だろうな
>>902 それが合理的な解釈だろうが、宋に朝貢したとき、倭国王以外の倭人連中に将軍号が与えられてもいる
この倭国使以外の連中、つまり隼人など九州の豪族の姿なのでは?と想像している
904 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 09:46:39.29
倭人の冬服も見てみたいな。
重ね着してる様子の埴輪がそうなんだろう 服はまず出土しないよね 残念
906 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 12:50:13.01
夏服だけでも知れること自体、凄い事だよ。
ふつう変わり映えする方を描くわ
>>902 そこで不思議なのがアイヌだよな
浴衣一枚的なカッコに見えるんだが
909 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 18:56:11.04
神話の神様みたいな服装の人物埴輪は6世紀のもの。 さすがに、この時代になると支配階級はマトモな服装になっているが、 この神話の神様みたいな服装やミズラは北方系というか半島の服飾だな。 5世紀は、おそらく職貢図に出てくるような半裸の野人スタイルだったんだろう。
>>909 半島に埴輪あんの?どうやってわかるの?
912 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 21:40:07.31
冬は半裸で大丈夫だったのかな?
913 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 22:16:05.71
全羅南道なら全裸でも大丈夫です。
914 :
日本@名無史さん :2013/11/19(火) 22:25:51.60
ストリーキンスミダ
ミズラが半島由来とは初耳だが
916 :
日本@名無史さん :2013/11/20(水) 13:00:27.07
ミズライソヨ
917 :
日本@名無史さん :2013/11/20(水) 16:55:38.11
ミズラはミズラヒムだろ
918 :
日本@名無史さん :2013/11/21(木) 19:40:14.37
>>895 その梁による叙任のとき、なぜか武は「鎮東大将軍」から「征東将軍」に格下げになっている。
大将軍→将軍って、不可解な格下げ人事。
それ格上げな、称号の上下くらい調べてから書こう
920 :
日本@名無史さん :2013/11/21(木) 20:07:01.53
なんで大将軍→将軍が格上げなんだ?
大将軍という呼び方に官職としての意味が無いからだよ 鎮東将軍から征東将軍へ格上げされた、それが現実
山下清のように、裸の大将を名乗ってたんだろうな。
924 :
日本@名無史さん :2013/11/22(金) 18:06:08.32
ま、高句麗や百済に比べて格下なのはイナメナイけどね。
百済は常に日本より格下だよ、官職の差を書き上げようか? 高句麗王は北朝に対して内臣、藩王。
>>924 別に中国の評価なんかどうでもいい
新羅には勾玉等の倭系遺物が多く、百済には前方後円墳があった
隋書はこの二国が倭国を大国と慕っていたとある
そういうことだ
>>924 坂元の本が学界では通説化してると思うがね
俺がいったのは「通説だったような?」って話であって
それが正しいかどうかって話ではないんだが。
内容吟味せず脊髄反射で議論より先に敵味方認定しちゃうのは
どこかの民族みたいですぬw
すまんこ
アンカーミス。
>>924 じゃなくて
>>927 ね
ついでだから
>>924 ,
>>928 高句麗のほうが倭より官位が高いのは朝貢はじめた時期が古いからだよね
中国側としては年功序列的に徐々にあげてる
倭王武はぶちきれて朝貢やめちゃったけどもし続けてれば
倭王も高句麗に並んだろうといわれてる、通説ではなw
>>927 は「オマエの捏造記憶」というだろうが何と戦っているのやら
むろん倭が朝貢やめたのは官位の高さがどうのじゃなくて
宋が先に朝貢してた百済への叙任を四角四面に優先して
百済への軍事指揮権を倭王に認めてくれなかったから。これも坂元説だったかな
ここでも官位の高さという形式的なことよりも
官職に伴う権限の範囲のほうが重大視されてたんだろうと想像するね、
まぁ俺の想像だけど、最後のは。
931 :
日本@名無史さん :2013/11/22(金) 22:39:30.82
高句麗は朝貢は早いが高句麗王と認められたのは遅いだろ 朝貢が最も遅いのは新羅だけどな
朝貢が最も遅いのではなく 建国が最も遅い、筆を曲げるとは当に此の事
>>930 倭王には毎回使持節が与えられていたのに対して
百済王はそうではない
倭国が朝貢を始めるより早く南朝の属国と成っていたにも拘らずね
倭国は又宋の後も梁に朝貢している
新羅が倭の属国であったと記録されている職貢図が有名だね。
高句麗は北朝の属臣であるから
敵対する南朝が懐柔の為に厚遇するのは当然の事。
そして坂元ってチョン御用達のウリナラファンタジー歴史作家だよね、暴論も多いし
>>932 新羅という国は昔から有った
ただ小国で辰韓あたりに支配されてた
朝貢は建国より遥かに遅いぞ
辰韓という国は無いよ、地域名か民族名か知らんが 新羅部族が小国を併合して周囲の認知出来る様な国体を成したのも斉か梁の時代だし
938 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 01:13:56.34
>>937 辰韓が明記されてる
辰王が居ると明記されてる
あの、理解出来ないほど白痴なの?
>>938 辰韓(秦韓)は都市国家連合だろう
辰韓王を名づけて辰王と言ってるだけ
その証拠に辰王の都が国になっている
楽浪郡が辰韓(秦韓)や馬韓(慕韓)を一国ずつ相手するのが面倒なので、
代表で辰王を選ばせたんだろう
その証拠に【自ら立って王となることができない】云々記されてる
940 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 12:46:28.43
隋の時代、高句麗は上開府・儀同三司・遼東郡公高麗王に、 百済は上開府・儀同三司・帯方郡公百済王に冊封されてるのに、 倭のタラシヒコは、ただのタラシヒコのままだったな。 悔しくなかったの?
大清国属高麗の伝統は健在だなw 冊封の意味を理解せずにホルっちゃう奴隷根性 天子様の領土を一時的に代行管轄するのが冊封 高句麗も新羅も毎年欠かさず朝貢し、隋唐の臣下となり藩屏となった 日本は隋にも唐にも冊封された事が無く、内臣や属国になった事が無い
942 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 13:55:03.19
8世紀の遣唐使のときは、「日本国王に勅す」って、しっかり臣下扱いされてるけどね。
お返しが「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」だけどなw
>>940 半島はその時代から属国だったんだね
属国で嬉しそうだなwww
945 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 14:32:58.90
高句麗→遼東郡公 新羅→→楽浪郡公 百済→→帯方郡公 倭国→→なし なんで郡公をもらえなかったんだ?
>>945 指し示す郡(=中華帝国直轄領の痕跡)が無いからw
つまり、日本列島は「外国」、朝鮮半島は「中華域内の辺境」。
半島は、本来は中華なのだが、朝鮮なんて支配が面倒で実益がないので、野蛮人に代理統治させてるだけ。
日本列島は、もともと外国であって、西域と同じく、外国として通信する間柄。
もちろん見下すんだけど、外国として見下している。
魏志倭人伝が、途中からガリバー旅行記張りの、フィクション盛り過ぎの謎記述だらけになるのは、
魏としては、政権ご自慢の「使節団大旅行記」みたいなものだから。
他の東夷伝部分とは、性質が異なる。
遼東郡、楽浪郡、帯方郡 この三郡は完全に中国の領土だった場所
>>942 いや、されて無いよ。
勅は朝廷の最高権力者としての皇帝が降す文書という意味しか無い
勅令勅命じゃないから
949 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 22:19:09.04
飛鳥時代、聖徳太子が隋に対して「日出処天子」とか「東天皇」とか尊大な国書を出したとき、 隋からの返書の書き出しは「皇帝、倭王に問う」だった。 その約1世紀のち、遣唐使の時代に唐から下された手紙の書き出しは「日本国王に勅す」だった。 「皇帝、○○に問う」と「○○に勅す」では、前者の方が扱いがよく、後者の方が扱いが悪い。 要するに遣唐使の頃は完全に臣下扱いだった。
>>942 いや、新羅と違って臣下扱いされて無いよ。
勅は朝廷の最高権力者としての皇帝が降す文書という意味しか無い
勅令勅命じゃないから
951 :
日本@名無史さん :2013/11/23(土) 23:39:05.77
>>947 漢時代はそうだね。
新羅時代はペルシャとかアラブから人が流れてた
ソグド波斯商人が向かったのは長安や唐の大都市であって 決して安東九州や鶏林州ではないよ
953 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 04:48:03.46
さらに言えば古新羅はスキタイの影響がある。 百済と高句麗はツングースや扶余だけどな
スキタイ? 新羅と時代が全く合わないんだけどwww
955 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 12:38:16.38
>>946 5世紀に半島南部の軍事的支配権を認められてたんだから、
楽浪・帯方以外の郡名で適当なのをもらえばよかった。
たとえば、「上開府儀同三司真番郡公倭王(日本王)」とか。
956 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 12:41:55.10
隋唐のような世界帝国から王号や各種称号を与えられ、序列化されるってのは、 現代の国際社会に置きかえたら、アメリカのような超大国から国家として承認され、 国連安保理の非常任理事国に当選するようなものだろう。
結局朝貢は中国側の解釈なので支配されてたかどうかは、朝貢国側の史料を当たるしかない 朝鮮は口出しされてて、日本にはそういう記述はない ま、中国の隣国という事情に同情はするけど それで日本を恨むのはお門違いだな
でも、「郡公」や「開府儀同三司」がないのはカッコ悪いよね。
959 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 14:07:02.99
大宰府の前身的な組織って、唐の進駐軍によるGHQ的組織だったの?
陸奥国府や朝鮮総督府と同じ日本の出先機関だったよ
>>959 古田武彦という教員上がりのキチガイに言わせると、【倭国】の都だったらしい
962 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 20:07:03.03
太宰府には不完全ながら藤原京と同時期に、条坊制をもつ 都があったことがわかっている。 また、4世紀以前と推測される時期には大宰府を 囲むように神籠石山城が整備され、 5世紀から6世紀には、水城が建設されており、 古水城の木樋が発掘されている。
963 :
日本@名無史さん :2013/11/24(日) 20:08:14.18
大和朝廷の支配下に入る前は、 普通に九州豪族の都だったんだろうな。
日本で言えば奥州探題や九州探題みたいなもんだしな
966 :
日本@名無史さん :2013/11/26(火) 22:12:34.37
六波羅探題とは、実は、「むつはらたんだい」、つまり、牟頭婁(むつろ)探題だった。 朝廷の動きをいち早く探知するために、旧清盛邸を改修して役所としたとある。 つまり、平氏とは、高句麗の牟頭婁だったということになる。 また、驚愕の事実が見つかった!
>>967 当人は幸せなんだろうから放っといてやれよw
969 :
日本@名無史さん :2013/12/02(月) 19:28:59.99
日本人がウホウホ言ってた頃、中国では王朝樹立 中国には既に国家が出来てた時代、俺たち日本人はまだ原始生活してたんだよな orz
日本には既に国家が出来てた時代、おまエラの祖先は倭国領任那でまだ原始生活してたんだけどな
971 :
日本@名無史さん :2013/12/02(月) 20:07:28.78
任那人、百済人と今の朝鮮人は違うだろ モンゴル人にレイプされて出来た民族なんだしw DNAからレイプ文化が刷り込まれてるんだろうな
972 :
日本@名無史さん :2013/12/02(月) 22:23:50.26
>>967 ,968
奈良時代以前に音読み訓読みがあったのですか?
古墳時代の地名、人名は、文字化する過程で音に漢字をあてられ、それが更に元の音を無視して読みを変えたものが多いのではないでしょうか?
973 :
日本@名無史さん :2013/12/02(月) 23:49:53.92
>>972 奈良時代以前はわからんけど古事記には音読みと訓読みが併用されてる
ということは奈良時代には音読み訓読みがあったって事だ
今の訓読みみたいに洗練される前ではあるが。
訓読みの原型に当たる表記は奈良時代より前にもあった模様
音読み訓読みとかの前に六波羅をムツハラと読んだという史料を呈示しないとただの思いつきでしかないんだけど
六波羅をムツハラと読んだという史料を呈示しても、未だ只の思いつきだけどな
>>972 仏典の扱いで漢字の読みなんかは発展しただろうね
>>972 もともと地名に漢字表記はなかったわけだが、文字表記が広まったのは律令時代、藤原京の頃じゃないのかな?
古墳時代には漢字表記される地名はほとんど無かったと思う。後代の郡評レベル以上の、いわゆる国名ぐらいなら文字表記したかも
978 :
イタクァを作らないか? :2013/12/03(火) 19:19:30.71
このスレの感想を唄にしては、どうかね?
979 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 22:15:16.25
平清盛(たいらのきよもり)と平家(へいけ)、このような読み変えは頻繁に行われていたと思われます。
>>979 ヘイノキヨモリとかタイライエと読んでいた史料はありませんか
六波羅をムツハラとしている史料は呈示できませんか
981 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 22:41:26.28
六波羅とは、新羅六部に因んでつけられた地名だろう。 平氏とは多羅国(たら) 、一時は任那(みまな)諸国の一つであった。 多伐とも書く。現在の朝鮮慶尚南道陜川の地と推定される。とある。
>>981 その説はちゃんと査読されるところに掲載されたなら認めてやるよw
懲りねえ電波少年だな
984 :
日本@名無史さん :2013/12/04(水) 14:35:13.77
貧乏人を踏み台にして金持ち王族同士は2600年間一貫して仲良しで在った史実の物証
985 :
日本@名無史さん :2013/12/04(水) 18:39:14.51
20世紀終わり頃の朝鮮を客観的な立場と視点で詳細に記述してある「朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期」イザベラ・バード著
イザベラ・バードは英国人の女性で、1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。
イザベラ・バードが朝鮮を自分自身の目で見て感じたことが事細かく書かれており、歴史検証資料としても価値の高い貴重な文献です。
バードは清国と日本も旅しているので、この3カ国を比較した記述も多く興味深い。
読書が苦手で、こんな分厚い本は読めない、時間がなく読んでる暇がないという人のためにも、
↓のスレで、要点と思われる部分のみを抜き出して貼ってあるので必見。
>>838 から
↓
韓国www大ピーンチwww part4
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/eleven/1349130059/l50
986 :
日本@名無史さん :2013/12/04(水) 21:35:16.49
>>982 おまえに認められるために書いているわけではない。悪いなw
>>986 いえいえ思想にも表現にも自由がありますのでお好きなように垂れ流してくださいな
988 :
日本@名無史さん :2013/12/05(木) 20:57:19.51
限られた根拠だけで、この時代の朝鮮半島南部の歴史を論じようとするとすぐに行き詰ってしまう。 なぜなら、考古学的、もしくは、文献学的物証があまりにも乏しいからだ。 従って、どうしても状況証拠を集めてこの時代の朝鮮半島南部の歴史を推測せざるを得ない。 証拠を見せろ、証拠がないなら黙っていろといって自由な論争を封じるのは容易いことだ。 しかし、それはまるで国家秘密保護法と同じではないか。 職務上、重要な証拠にいち早く接することのできる御用学者のいうことが正しく、 在野の研究者のいうことは信用ならん。黙っている。嘘を書くと逮捕だ。ということになる。 今、このスレの住民も、そのことを改めて考えるべきなのだ。
倭国領任那が半島南部の広い範囲に存在していた事実に関して 考古学的、文献学的史料は十分に揃ってますがwww
990 :
日本@名無史さん :2013/12/05(木) 21:54:54.51
半島人は認めちゃいないみたいですよ。
少なくとも日本、もしくは倭の軍事的拠点が 半島南部にあった時代があることは間違いないんじゃね?
995 :
日本@名無史さん :2013/12/06(金) 21:59:25.06
マグマ大使は朝鮮人
996 :
日本@名無史さん :2013/12/07(土) 07:12:56.60
高句麗…天孫(扶余) 百済…扶余・倭人の居住地 漢人や中国の流民が管轄 新羅…倭人の居住地 任那(金官加羅)…倭人の居住地 鮮卑 モンゴルやエベンキ(ツングース民族)来襲 李氏=朝鮮
997 :
日本@名無史さん :2013/12/07(土) 07:20:12.75
韓(西周)→韓(戦国)→三韓→新羅→韓人(からひと)
998 :
日本@名無史さん :2013/12/07(土) 12:30:26.27
牟田口という姓は、もともと高句麗の牟頭婁からきていると思われます。 牟頭婁で検索してみてください。広開土王関連のサイトが出て来ると思います。 牟頭婁→牟頭呂→牟田口と長い年月を経て変化していったのでしょう。 ちなみに牟頭婁とは白頭山のことです。 牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。 最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 高句麗の牟頭婁は、任那4県の牟婁、九州大牟田、和歌山牟婁郡と進行している。 牟田口 廉也もインバール作戦が成功すれば、満洲からインド、南太平洋に跨る大日本帝国=大倭国が完成したかもしれないのだ。 しかし、再び夢はついえた!
999 :
日本@名無史さん :2013/12/07(土) 12:31:58.59
999
1000 :
日本@名無史さん :2013/12/07(土) 12:35:02.05
1000なら北朝鮮による半島統一達成 鬱陵島、竹島、済州島は日米の管理下へ
1001 :
1001 :
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