1 :
日本@名無史さん:
新規スレッドです。
旧纏向スレは、スレタイの所為なのか、全く系統の違う話題の投稿が多く、既に機能しない状態です。
ここは、心機一転、再スタートと言うことで行きましょう。
参考までに「旧纏向スレ」のスレ主旨を掲げておきますが、
老教授氏自身の見解は、その後、かなり方向転回されています。
>次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
>「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
だから卑弥呼を中心にして各国が連合したのでしょ。
以上、スレ終了。
考古学だけでマキムクを語ってもジリ貧で続かないから。
卑弥呼やらモモソヒメとかと絡めるから発掘の予算も出る。
ただまあ確かに、ホアカリ馬鹿みたく記紀脳内解釈を延々書かれるのは確かに閉口するな。
せめて少しくらい考古学を絡めろとw
蜂子皇子こそが崇徳を超える祟り神ではないか?
違うな?
5 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 08:34:09.91
>旧纏向スレ
は古代史関連でも、
妄想、デンパ説の少ない比較的実証的なものの考え方をする人の書き込みが多かった
から、ここで再スタートならOK。
卑弥呼が葬られたのは円墳
しかし径百余歩=130メートル以上の円墳は存在しない。
大きさから考えて弥生墳丘墓ではなく、
すでに古墳時代に入っていると考えた方がいい。
で、箸墓が妥当という結論。
径百余歩が目測のふかしだったとは考えないのか
倭人伝にふかしはある。距離や人口などはそうだろう。
その理屈で言えば、確かに卑弥呼の墓もふかしの可能性はあるな。
ただまあ、大いに「塚」を作るだから、大きい古墳と考える方が妥当だろうw
あとまあ状況証拠として、箸墓とかの古墳は漢尺で設計されていて。
例えば箸墓の後円部は径百二十歩。
古墳ってのはその大きさが重要で、それによる序列化が意図されている。
箸墓の縮小版の古墳が吉備にあるように。
古墳の大きさや長さってのは古代の倭人にとってはとても重要なことで、
箸墓の後円部が径120歩ってことは当時広く伝わっていた可能性がある。
ギシはそれを聞いたのだろう。
11 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 01:20:42.94
>「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体で ある「ヤマト」が新設され >それが王権の礎になったってことです。
絵に描いたような、ゴッドハンドの見本ですねw
>>11 え?お前ゴッドハンドの意味わかってるの?w
13 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 09:38:50.19
もと〜い、ゴッドマウスだー
考古学アレルギーの人はすぐにゴッドハンドを言い出すからねw
まともな考古学者が書いた本も読まず頭ごなしに否定するw
確かに邪馬台国が大和にあったことは立証されてない。
しかし、少なくとも三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた。
奴国には畿内庄内カメのプランテーションが造られ、
西新町遺跡が新たに造られ、
更には那珂八幡というマキムク型前方後円墳が築かれている。
弥生終末期に北部九州が畿内勢力の風下に立ったことは間違いないだろう。
邪馬台国九州説が唯一生き残れるとすれば、ヒラバル王墓か。
国内産の大型銅鏡を埋葬したりとか、福永が指摘している通り、
後の吉備や畿内などの古墳祭祀とは明らかに異なる葬送儀礼を行っている。
邪馬台国九州説の対抗馬としては、
邪馬台国東海説、出雲説、吉備説、東四国説くらいかな。
ただ、これらの勢力が北部九州を押さえていた考古学的根拠が見当たらず。
畿内説が頭一つリードなのは間違いないだろう。
15 :
紫敷布:2013/03/12(火) 00:05:09.90
>>14 いくつか質問させてね。
>少なくとも三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた。
それ本当のことなの?考古学的な根拠はあるの?
>奴国には畿内庄内カメのプランテーションが造られ、 @
>西新町遺跡が新たに造られ、A
>更には那珂八幡というマキムク型前方後円墳が築かれている。B
>弥生終末期に北部九州が畿内勢力の風下に立ったことは間違いないだろう。C
Cは間違いないの?
@、Aは畿内勢力が造らせたと言えるの?
Bの那珂八幡前方後円墳は畿内の影響を受けて造られたものなの?
16 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 03:00:32.41
いきなり、ドカーン!と前方後円墓が出現して、これが卑弥呼の墓ですよ。
・・・なんて、胡散臭いだろ。
卑弥呼の前の王達の鏡を副葬した、数々の墓はどこにあるんだよ?
邪馬台国が大和なのか、それとも狗奴国が大和なのかって分からないよね。
18 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 06:45:21.02
確かと言えるのは魏志倭人伝しかないのに、
我田引水で考古学と結びつけようとすればするほど、
邪馬台国を語ることは妄想に似てくる。
>>15 クレクレじゃなくて、ちょっとは自分で調べたら?
寺沢の本とか読めば書いてるからさ。
その上で反論や対論を書かないと。
考古学アレルギーの人はせめて寺沢くらい呼んでるのか?
20 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 08:36:10.14
神話時代に山稜の文字はあちこち出てくる
初期に現れた卑弥呼の大墓なら、どのみち自然の円形丘陵を均した程度のものとは考えないのかな
21 :
紫敷布:2013/03/12(火) 13:17:25.15
>>19 寺沢先生の本を読んでも分からないから質問してるのよ。
「三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた」という証拠は何なのよ。
奴国の庄内カメは畿内勢力が作らせたものか奴国が畿内のカメ作り職人を連れて来て作らせたものか
分からないじゃないの。あなたには分かるの?
西新の「庄内型」土器は、一緒にイイダコ採りのツボやらと一緒にころがっている漁撈系庶民の集落で、
半島系の土器も混在する。特別ありがたがるような代物ではない。
しかし、関西での出土状況は興味深い。
あんた漁師をばかにしとらんね?
もともと煮炊き用の生活用品なんだから、
海岸部でイイダコの蛸壺と一緒に出てきても不思議はないと思うがな。
那珂八幡がマキムク型でさらには三角縁が出てるから、
当時の奴国の首長が畿内の影響を受けてるのは間違いない。
で、畿内式の土器を受け入れてる。
畿内の方形周溝墓も九州に伝播している。
>>16 > いきなり、ドカーン!と前方後円墓が出現して、これが卑弥呼の墓ですよ。
> ・・・なんて、胡散臭いだろ。
> 卑弥呼の前の王達の鏡を副葬した、数々の墓はどこにあるんだよ?
箸墓のことかな?
だとしたら的はずれ。
箸墓より古い、一二世代前の石塚、勝山などが既に王墓級。
なので、箸墓はドカーン!では無い。
なので、いきなりドカーン!と来た点を議論したいなら、纏向大溝開削辺りの事情から始めないと。
選択肢としては、
@大和の既存勢力が、吉備などとの交易を通して自生的に発展した。
A東海などの東方勢力が西進してきた。
B吉備や東瀬戸内の勢力が、大和盆地に進出してきた。
Cその他の勢力(神武東征でも騎馬民族でも何でも良いけど)
こんくらいに整理して、どれが一番蓋然性が高いか、と言うことだな。
大王家で初めて前方後円墓を採用した確実なの天皇は10代祟神だね。
行燈山か西殿塚であろうか。
じゃ石塚、勝山はその前の大王(欠史八代)かといえばそう簡単にはいかない。
記紀には奈良南西部に墓があると書いてある。
じゃホケノ、石塚、勝山などは誰の墓か。
祟神は物部氏の母や祖母がいるね。
祟神は物部氏が外威となって誕生した天皇だ。
皇居を奈良東部の桜井に呼び寄せたのは物部氏だ。
じゃホケノ、石塚、勝山など纏向古墳群は物部氏の墓だろう。
祟神は物部氏の墓制を採用したのだろう。
28 :
日本@名無史さん:2013/03/13(水) 08:29:56.60
課題は、卑弥呼・台与が奈良盆地にいたとして、
@記紀で言えば誰と誰?
A墓の編年で言えばどのあたりに位置づけられ?、
Bよって卑弥呼は○○墓(箸墓)、台与は○○墓となる?
この三つの一貫した説明なんだけど、いつも一つか、二つの説明におわるんだよな。
そもそも、マキムクでマキムク型初期墳丘墓と確認されるのはホケノ山からで、
それ以前のものは、まだマキムク型丘陵として人工の山という段階のものである(埋葬のための墓の痕跡が存在しない)。
また、マキムクでは最初期のマキムク型古墳のホケノ山は、いつマキムク型丘陵の人工の山として作られたのか、いつ墓として成立したのかを明かにする必要がある。
マキムクでの溝掘り、人工の山の造成など土木事業で使える人々の強制労働(活躍?)の賜物である。
あとは、関西では河内の土器づくりの巧みな人々の貢献も忘れてはならない。
>>28
>卑弥呼・台与が奈良盆地にいたとして、
@記紀で言えば誰と誰?
卑弥呼=初代皇后・ヒメタタライスズ媛
台与=4代天皇である威徳の皇后・アマトヨツ媛命
「ヒメ」と「トヨ」。
>A墓の編年で言えばどのあたりに位置づけられ?、
個人的には高鴨神社の本殿奥の神山を注目してる。
アレは間違いなく古墳だ。
ただ山自体が信仰対象なので永遠に発掘されないだろう。
Bよって卑弥呼は○○墓(箸墓)、台与は○○墓となる?
箸墓ではない。
箸墓は3世紀末ごろだろう。
32 :
紫敷布:2013/03/13(水) 20:21:56.56
>>25 >那珂八幡がマキムク型でさらには三角縁が出てるから、 当時の奴国の首長が畿内の影響を受けてるのは間違いない。
逆のことは考えられないの?那珂八幡の前方後円墳がマキムク型のハシリってことはないかしら。
>で、畿内式の土器を受け入れてる。 畿内の方形周溝墓も九州に伝播している。
これも逆の流れは考えられないの?
>>27 > 大王家で初めて前方後円墓を採用した確実なの天皇は10代祟神だね。
つーか、2−8代が「大王」だった確証も無い。
葛城方面が、ミマキ王の御先祖の地だとして、そこには、その時代の王墓らしきものは全く無いでしょう。
2−8代は、ミマキの直系尊属だったかもしれないけど、「大王」どころか「王」でも無かったと思うよ。
ミマキの功績で、系譜に名を残しただけの「贈・大王」だったと言うこと。
やはり、ミマキ以前の「王」は、纏向の墳丘墓の主たちでしょう。
纏向の墳丘墓は、当時の大和盆地の中では、隔絶した存在で、これを置いて王墓と呼ぶべきものは無いかと。
貴い人物を葬るのに豪華な副葬品を伴うのが文明のさきがけだったのであり、
それに、未開地で労働力を動員して、巨きな丘陵を作るという和風のアレンジがなされたということである。
いや、高句麗とか当時の東アジアで巨大なマウンドを造る流行があって。
それを日本で最初に採り入れたのが吉備の楯築のオウだ。
それが阿波讃岐播磨に伝わり、マキムクで花開く。
吉備の王権が続かない理由は分からない。
近藤先生の説なら吉備オウがマキムクに遷都したことになる。
記紀を馬鹿に出来ないのは、大王墓域が大和から河内に移る
という大まかな流れがきちんとトレースされている点。
細かく言えば、橿原ではなくマキムクが始祖王即位の地だとか。
桜井茶臼山・メスリ山の磐余地方の大王墓は無視とか。
吉備の楯築というのは、埋葬の副葬品という点で貧弱になり、地方での労働力を利用した大型墓というタイプである。
これは、マキムクでの人工の山の造成とも関連する要素である。
>>33 >つーか、2−8代が「大王」だった確証も無い。
葛城方面が、ミマキ王の御先祖の地だとして、そこには、その時代の王墓らしきものは全く無いでしょう。
2−8代は、ミマキの直系尊属だったかもしれないけど、「大王」どころか「王」でも無かったと思うよ。
そりゃそうなんだ。
神武の猛々しいイメージなんて後から作られたもの。
当時は通い婚の時代。
これは必然的に嫁の実家が権力を得る。(後の蘇我を見よ)
そういう意味では神武より嫁の父(祖父)の大物主の方が権力者であっただろう。
さらにニギハヤヒ。
神武に屈服したみたいに書かれてるが、ナガスネヒコを倒したのは彼。
神武はニギハヤヒに大きな「借り」を作ってただろう。
つまり、神武、大物主、ニギハヤヒの3者が「権力」として共立してた。
3系統あったわけだ。
では纏向墳丘墓は何系統の墳墓群か?
あのあたりは後の物部氏の地盤だ。
したがってニギハヤヒの子孫たちの墓だろう。
箸墓は、この前の調査で纏向型とはいえなかったんじゃないの?
40 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 19:57:45.56
>>26 確かに
>いきなり
とはいえないにしても、
石塚より約三倍の大きさ、しかも葺石で覆っているなどのことを考えると、
>ドカーン!
というのは間違いとは言い切れない。
>神武東征
戦後は否定論が主流だったが、
実証的な論考といえるものはなく、
いわば逆皇国史観による心情的な否定論。
関ヶ原の戦いだって壬申の乱だって、
考古学的にはいくらでも否定できるから、
この場合には考古学はほとんど意味をなさない。
高地性集落の遺跡も漠然としすぎている。
記紀を実証的に否定できないのであれば、
>神武東征
の蓋然性が高い、というしかない。
他の資料は皆無だから。
妄想論は素人専門家問わずあきれるほどあるが。
41 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:55:02.85
>>35 >吉備の王権が続かない理由は分からない。 近藤先生の説なら吉備オウがマキムクに遷都したことになる。
神武は安芸と吉備に15年も滞在してるからね。
妄想が膨らむよw
神武東征伝承とは、記紀の編者が日向三代神話を取り込む為、
天孫降臨の地を日向に選定。
初代大王は奈良盆地で即位しないとダメだから、
神武はやむなく瀬戸内海航路、倭国世界を東に大きく横断して、
ナガスネヒコを討って大和カシハラの地で即位する。
これがカシハラでなくマキムクだったなら、もう少しは信憑性があったのだが。
カシハラになったのは恐らくは蘇我氏の影響だろう。
初代大王が即位したとされる地は当初はマキムクで、
崇神がハツクニシラスと呼ばれるのもその所為。
その次に磐余に移り(雄略の頃か?)最終的に橿原=蘇我氏の勢力圏内に。
あのころの15年は7年か8年以下
三代としているがその前、忍穂耳→天照→イザナギに遡ったイザナギも日向に来ている
その時に天照、スサノオ、月読が生まれ、つまり三貴子まで日向生まれになってしまう
ここまでする必要なし
取り込むだけなら高天原からの天孫降臨だけでじゅうぶんなはずである
>>42 違う、神武が即位したのは本当にカシハラだ。
ただし現在いわれてる橿原神宮の地ではない。
あれは明治政府が適当に決めたもの。
本当のカシハラの地とは御所市柏原。
神武の先妻アヒラツ媛を祀るホホマ神社があり、
ホホマ丘である本間丘もある。
ところが学者たちはこの地について言及を避ける。
「橋のない川」の舞台になった水平社運動の発祥地だからだ。
45 :
日本@名無史さん:2013/03/15(金) 05:29:36.32
記紀神話というのも、どこにでもある王権神話のひとつで、
日本を統治するのは太陽神(女神)の子孫たる天皇家であるという、
観念にもとづいて律令時代に作られたもの。
多くの研究者が述べていることだが、
記紀神話(とくに日本書紀)を読めば、
古代においては太陽神、天照大神(大日霊の神)よりも、
万物を生成させる神、ムスビの神(男神、タカミミスビ)の方が
主導権を握っている。
持統、元明という女帝の時代に作られた神話だからだろう。
ただし、天照大神は実際は男神であったのではないか、
とも考えられ、そこから諸説紛々としてくる。
大伴金村、大伴 家持などから分かるように、
豪族としての大伴氏を「実在しなかった」と言う人は誰もいないだろう。
同じく、橿原にある久米という土地に久米御縣神社があり、
代々、大来目命を祀ってることからも、
久米氏の実在を否定するのも難しいだろう。
ならばだ。
大伴と久米が実在したなら、
彼らを引きつれ大和入りした神武の実在も否定できなくなるだろう。
神武は実在したのだ。
もちろんBC660年とかいうアホな時代ではない。
>>39 纏向形前方後円墳と違って、
前方部の端がせせり上がってる讃岐型前方後円墳だね。
>>46 「彼らを引き連れて」が嘘なんだよ。
伝説上の始祖王は最初の大王になるために、偉大な功績を挙げなければいけない。
そのために創作されたのがハツクニシラス伝承。
実際は畿内の首長連合が代表者を大王に推戴したというだけ。
ただこれでは権威づけにならないから、派手な東征記事が付け加えられた。
49 :
紫敷布:2013/03/15(金) 22:27:35.97
>>48 よく分からないので質問させてね。
>実際は畿内の首長連合が代表者を大王に推戴したというだけ。
これはどういうことから分かるの?記紀に書いてあることからなの?それとも、
考古学的に分かることなの?
>>40 とにかく、家族墓である方形周溝墓が造りつづけられていた大和に、
突然、100m級の個人墓、それも円形墓が出現したわけだから、これはただ事じゃないでしょう。
石塚を造った勢力はどんな人々だったのか。
箸墓は、初期の円形墓の延長線上にある完成型に過ぎない。
大きさだけにとらわれてはならない。
51 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 01:56:57.10
鏡を王権シンボル、或いは祭祀に使用する勢力は畿内が発祥地だと、いってる学者はいましたか
52 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 06:35:59.10
>>50 日本書紀、巻第五「崇神」記参照。
>>49 ヤマト王権は首長連合体から発展したという一つの説。
その論の根拠には、ヤマト王権も邪馬台国と同じような連合体を想定している。
記紀を読む限りではそれはない。
ヤマトに建国した王権が、崇神の代になって、王権を日本(大八嶋)全土に
拡げて統一国家を成した。
連合体による統一論の根拠は薄弱。
歴史的にみても連合体というのは強い権力ではない。
織田、徳川が同盟したといっても基本的には臣従関係。
連合体というのは邪馬台国のようにあっけなく瓦解する。
それは民主主義の世の中になっても同じ。
>>48 >「彼らを引き連れて」が嘘なんだよ。
嘘だと証明しなければな。
神武の先妻アヒラツヒメを祀ってる神社は、
宮崎県日南市と奈良の御所市柏原にある。
ここ以外には知らない。
これは偶然ではなかろう。
54 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 08:21:44.12
箸墓を「マキムク型」と言っていたのはもともといないよw
割と後世の天皇にしても、有力な臣下から推戴されて即位する
という形式をとってるからな。
考古学的に言えば、柳本古墳群、磐余の桜井茶臼山メスリ山、
佐紀盾列など、
同時代に複数の造墓集団が大王墓を造っている。
古市と百舌鳥古墳群は交互に大王墓を造っているし、
古代の王権は複数の持ち回りだったと推定されている。
中国史書で言うと、倭の五王は中国南朝に爵位を要求しているが、
自分だけではなく十人以上の自分の臣下の位も要求している。
大王位が他と隔絶しておれば、こんなことはしない。
交易を通じた商業連合や宗教を共通にした連合、
軍事同盟などのプロセスを通じて統一国家に至る例は西洋にもあるし、
別に珍しいことではないと思うが。
>>50 >石塚を造った勢力はどんな人々だったのか。
播磨や阿波讃岐にも初期前方後円墳やその前段階の古墳がある。
3世紀代には北部九州から関東の千葉・市原にも古墳ができる。
全国に散らばり、なおかつそのような剽悍さを持つのは、
ニギハヤヒの末裔・物部だろう。
>>55 >割と後世の天皇にしても、有力な臣下から推戴されて即位する
という形式をとってるからな。
よくそんな嘘を平気で言えるな。
大古墳が余ってるのは○○皇子など兄弟の墓で説明つくだろう。
58 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 08:56:50.42
マキムク型は、当初の寺沢定義では、後円部径:前方部長が2:1(石塚)ないし前方部長がそれよりやや短いもの(ホケノ山)だった。
しかし、その後、勝山は前方部がすでに長いことになり、本来の「マキムク型」ではなくなったが、
これも「マキムク型」の一種と概念を拡張しておかしくなった。
また、当初は庄内式併行から布留0式併行までの非定型的な古墳で上記比率のものに限っていたはずだが、
いつのまにか、後の時期の古墳まで適用して訳がわからなくなった。
例えば那珂八幡は、その後の周囲調査から前方部が少し長い、後円部8:前方部5ということが分かったが(だから厳密には「マキムク型」とは異型式)、
寺沢はここではなぜか当初定義の2:1にこだわり、根拠不明確なまま、後円部径がもっと大きいはずだから2:1でいい、とも言っている。
このように、調査成果による墳端の認識を無視またはいちゃもんをつけて、都合がいいところに線を引いて「マキムク型」と強弁している事例が、最近の著作中の論文に他にも多くある。
さらに、当初の「マキムク型」論文では、
「くびれ部」に「連結部」がある(要するに「くびれ部」が鋭角的に形成されずに後円部から前方部への移行がダラダラしているもの)ものが多いとした。
しかし、纏向遺跡の諸古墳は、これまでの調査の結果、いずれも「くびれ部」がしっかりしていて、「連結部」はなかった。
「連結部」のある「マキムク型」とされた古墳は、果たして「マキムク型」の直接的(設計や技術をもたらして造らせる)影響があったか疑問となるが、
那珂八幡など「マキムク型」とされた北部九州の諸古墳には「連結部」があり、「くびれ部」が曖昧である。これは、北部九州以外の「マキムク型」とされた古墳にも少なくない。
59 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 08:58:58.17
那珂八幡に関しては、当初定義の比率と異なること、実はマキムクにない「連結部」があることから、「マキムク型」とするのは今は正しくない。(「マキムク型」の間接的影響、刺激は否定しない。)
埴輪の特徴から少し新しくなるはずの吉備の中山茶臼山は、
当初の前方後円墳の原型的な存在としてのマキムク型の意味合いから「マキムク型」とするのには違和感があったが、今も「マキムク型」とする。
しかし、宮内庁の新測量図により、前方部がやや長いことが分かり、またこれは「マキムク型」と言わない崇神陵(行灯山古墳)の設計企画と同じとも言われ、これも未だに「マキムク型」と強弁する意味が分からない。
考古学ではなく、遺物学の一般化というローカルな部落学問だからな。
庄内式土器、布留式土器が畿内から北部九州に拡散する。
布留式にいたっては半島にまで拡散する。
拡散させた主体は誰か。
畿内にも北部九州にも強い縁のある物部だろう。
物部は後々まで半島との関わりごとに重用されたせいか、
韓国連という姓を授かる一派がいた。
ところがどこに行っても驚かれたらしい。
つまり今風に言えば「うわ!チョソみたい」ってことで、
この名が嫌で嫌で仕方なかったのか、
高原姓に変えてる。
62 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 12:14:45.69
3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
中河内の河内型庄内甕の濃厚分布域は後の物部氏の拠点に重なるが、
ニギハヤヒが降り立ったという北河内は庄内甕は希薄で「伝統式X様式」の世界だ。
奈良盆地の場合は、物部氏の大拠点の布留遺跡は大和型庄内甕が希薄で同じように「伝統的X様式」の世界、
マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ(古代史ヲタは磯城県主がニギハヤヒに関係するとか言いそうだがw)
奈良盆地でも、藤原京域下層あたりにも庄内甕主体の庄内式分布域が少しあるが、後の物部氏領域ではない。
「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
「筑前型庄内甕」が分布する福岡平野には、物部氏関係の神社や伝承地がほとんどない。
筑紫で物部氏の伝承地がある旧鞍手郡などの筑豊地域や、旧御井郡あたりにも庄内甕がほとんど分布しない。
よく、安本美典が引用する北部九州の「庄内式分布図」は、実際は「伝統的X様式」系が在地系土器セットにわずかにあるだけだったり、
布留式古相の伝播拡大時期に古い庄内式要素が残っているものだったり、真正の庄内甕でも客体的でしかないものがほとんどであるので、要注意である。
同じ基準で「畿内」周辺の「庄内式」分布を見ると、「伝統的X様式」の広がりがイコール広義の「庄内式」になってしまう。
逆に、しっかりした一定の確立された技法で作られた薄甕の庄内甕の分布から、
「畿内でも「庄内式」の分布は限られる」という同じ基準で見ると、筑紫では福岡平野(の一部)にしか「庄内式」は分布しないことになる。
>>58 ”マキムク型”を定義したいなら、
やはり、纏向地域内にあって、布留0以前と認められる非定型墳丘墓のこと、くらいに留めるべきだべ。
那珂八幡とかで類縁性を表現したいなら、纏向以外の地域の墳丘墓は”マキムク型併行期の”と冠すれば良いのでは。
64 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 12:38:15.53
当の寺沢氏の定義や適用範囲が融通無碍だからねw
ただし、「定型化した前方後円墳」とか「畿内型古墳」という概念も論者や地域により違うからね。
>>62 >3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
4世紀からだが、分かりやすく便宜上物部でいいだろ。
>マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ
大王家がそのあたりに宮や墳墓を作るのは祟神あたりからだろ。
3世紀ではないはずだ。
そして祟神の母も祖母も物部氏だろ。
物部が女絡みで皇位を簒奪して、祟神の時代に桜井に皇居を立てたのなら、
実質上、纏向は物部の土地であったということになる。
>「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
のちに播磨物部とよばれる集団が古くからいるわけだが。
66 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 12:54:51.68
まあ、纏向遺跡以外でも、例えば神門5号4号、矢藤治山とかいくつかは「マキムク型」でもいいでしょう。
しかし、定義や条件はある程度絞る必要があるでしょうね。
67 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:00:46.97
>63
「布留0以前」に限定すると、土器群の編年的位置付けや鉄鏃や銅鏃から布留0に下る可能性も指摘されるホケノ山や、土器から確実に布留0期になる東田大塚は「マキムク型」でなくなる。
だから、移行期(併存期)として、布留0併行期までは認めるべきでしょうね。
68 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:10:22.44
物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺)や、ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
また、北部九州の庄内式甕分布は物部とは全く関係ないし。
後の藤原京域の庄内式甕の分布も物部氏とは関係ないし。
逆に、古くから物部の根拠地のところなのに庄内式甕がほとんどないところが多いですが?
庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
考古学的にも古代史学的にも問題だらけだよ。
>>65 >
>>62 > >3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
>
> 4世紀からだが、分かりやすく便宜上物部でいいだろ。
>
> >マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ
>
> 大王家がそのあたりに宮や墳墓を作るのは祟神あたりからだろ。
> 3世紀ではないはずだ。
> そして祟神の母も祖母も物部氏だろ。
> 物部が女絡みで皇位を簒奪して、祟神の時代に桜井に皇居を立てたのなら、
> 実質上、纏向は物部の土地であったということになる。
>
>
> >「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
>
> のちに播磨物部とよばれる集団が古くからいるわけだが。
スレ内専用定義をしておいた方が無駄レスは減りますね。
私案
・後円部2:前方部1.5以下
・後高前低
・布留0以前
・貼石無し
・段築有り
70 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:27:34.43
>・後円部2:前方部1.5以下
>・段築有り
この条件だと、箸墓成立以後の前期前半「定型化前方後円墳」のかなりが入ってしまう。
前方部が細いバチ形で少し長い「讃岐型」まで入ってしまう。
いろいろ入ってしまうから、
>・布留0以前
なんでしょうが、今度は、確定的なのはごくわずかになる。
ホケノ山は箸墓併行という強い異論がある。
>・貼石無し
ホケノ山はなかったか?
吉備の「マキムク型」のよさそうな例の矢藤治山なんかもダメになる。
よって、却下。
>・段築有り
勝山は、少なくとも以降の前方後円墳みたいな段築がない。墳丘斜面中途で変則的平坦面があるだけ。「後円部2:前方部1.5以下」で勝山入れるつもりが、この条件で入らなくなる。
マキムク古墳群以外の各地の「マキムク型」候補にも、段築なし、あるいは不明確や変則的なものがある。
だから、この条件も却下。
最初の、
>・後円部2:前方部1.5以下
は、8:6まで認めることになるが、そうすると、当初概念の「2:1」から大幅変更な訳で、それこそ何でもありになってしまいますよ。
>>68 >物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺)や
4世紀だろ。それこそ時代が違うだろ。
>ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
ニギハヤヒ降臨が事実としても庄内式以前だ。
これも時代が違う。
>「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
播磨。
>庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
九州から半島にまで運ぶ力を物部と仮定して何か悪いのか。
72 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:00:58.01
> >物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺> 4世紀だろ。それこそ時代が違うだろ。
布留遺跡には3世紀の集落からありますが。そのまま4世紀の集落に発展します。前期前半の大型古墳の西山古墳もありますが、物部氏とは無関係ですか?そうですか?
>
> >ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
> ニギハヤヒ降臨が事実としても庄内式以前だ。
> これも時代が違う。
ニギハヤヒ降臨はいつなんですか?庄内式以前の根拠は?
しかしいずれにしても最初のニギハヤヒと物部氏の根拠のはずですね。前期初頭からの交野古墳群もあります。物部氏=庄内式なら、ここに庄内式甕が希薄なのはおかしいですね。
> >「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
> 播磨。
ダメだこりゃw
播磨も広いですよ。
播磨の具体的にどこが古くからの物部氏根拠地で、庄内式甕がたくさんあるかが問題な訳です。
ちゃんと答えてください。
> >庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
> 九州から半島にまで運ぶ力を物部と仮定して何か悪いのか。
悪いです(笑)
全く証明されていません。少なくとも証拠不十分。
むしろ、大陸との交易ルートの要である博多湾岸の庄内式甕分布は、北部九州における物部氏の分布と全く無関係なことが証明されますね。
73 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:10:06.34
ちょっとさあ、
もし、物部氏と庄内式の分布の関係を言うなら、全国にあるはずの物部氏の古くからの伝承地を列挙して、そこに庄内式がどれくらい出ているかの割合を出してくれるかなあ?
そうでないと、いくつかたまたま古くからの物部氏根拠地に庄内式があったからといって、偶然を排除できないよ。
同じ論理なら、尾張氏とか海部氏とか大伴氏とか多氏とか和邇氏とか大三輪氏とか土師氏なんかでも、古い根拠地や伝承地の数カ所でたまたま庄内式があったら「○○氏が庄内式を作った」と言えますよ。
学問になっていないことにいい加減きづいたらどうですか?
ホアカリ君は、別に庄内と物部の関係に興味は無いのだと思うよ。
単にホアカリネタを書きたいだけなのだが、それじゃスレタイの文字列と結びつかない。
だから。無理やり庄内、庄内、古墳、古墳と単語をばらまく、旧纏向スレでは、纏向、纏向、王権、王権だったし。
で、何でここのスレッドに居るかと言うと、多分、モチネタの想定年代がこのあたりなんだろうねえ。
ネタ的には終止符スレの方が向いてると思うんだけどね。
>>72 >>73 あのなぁ、「物部氏が庄内式を作った」などと一言も言ってない。
もともと畿内の弥生土器だったものを、
九州から来た物部が作ったというのも変だろ。
佐々木憲一さんの研究にもあったように、
3世紀、畿内系土器が西方に拡散していくわけだろ。
広島にも多いと書いておられた。
畿内系土器を「拡散させた(担った)主体は誰か」と言ってるわけだ。
瀬戸内にネットワークを持つ物部氏と仮定して悪いのか。
人の文章を読まず、何を喚いてるんだ?
>>75 拡散の担い手ではあるが、自分たちは受け入れなかった、と言うことですかね。
英国商人が清での阿片消費拡散に加担しても、自分たちは受け入れなかったのと同じか。
熱伝導の良い煮炊き甕は阿片の如しと。
>>76 「受け入れなかった」とはどういうことかな。
俺は纏向古墳群を物部系だと思ってるが、
纏向石塚は庄内土器が出てたよね。
だから?
>>77 ダメ。
庄内を物部氏が「受け入れた」と言う傾向が認められなければ、
纏向が庄内を受けいれたとしても、その地が物部の勢力圏とは言えない。
もう少し、論拠を増やさないと単なる「循環論法」にしか見えない。
所謂「三輪王朝」には、文献でも考古でも、物部の顕著な影響は見られない。
何が「ダメ」だよ偉そうに。
>庄内を物部氏が「受け入れた」と言う傾向が認められなければ、
>纏向が庄内を受けいれたとしても、その地が物部の勢力圏とは言えない。
畿内は3世紀から土師器の時代だろ。
ならば畿内いた氏族は庄内を「受け入れた」という事だろ。
それとも頑なに庄内を受け入れず、
畿内X様式のまま4世紀頃まで粘ってた例でもあるのか?
>所謂「三輪王朝」には、文献でも考古でも、物部の顕著な影響は見られない
祟神の母も祖母も物部だろ。
何言ってるんだ。
80 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:19:10.39
>>46 >神武は実在したのだ。もちろんBC660年とかいうアホな時代ではない。
百歩譲って、書紀を信用して書紀にある通りの東征が史実であるとするなら…
神功紀にみえる七枝刀。石上の七支刀から得られる年代369年。
書紀を信用すれば、神武〜応神が14世代。1世代25年として350年。神武東征とやらは1世紀の出来事だな。
81 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:22:14.83
瀬戸内沿岸に、タタキ仕上げの典型的庄内式甕 はほとんど無いよ。
佐々木健一氏の論文で取り上げている広島の「庄内式甕」は、外面ハケメ仕上げの「布留傾向甕」で、寺沢氏なんかは「0式布留甕」とする代物だ。
これらは、青木勘時氏などは「西部瀬戸内系(型)布留式甕」として、庄内式甕に含めないどころか、大和の「布留0式」よりやや新しく考えている。
瀬戸内沿岸には、播磨の一部に庄内式甕があるが、他はわずかにしか出土せず、瀬戸内沿岸を飛び越えて福岡平野に分布する。そして、福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
瀬戸内沿岸の「布留0式」甕にしても、物部氏と関係あるかというと、根拠ないだろと。
庄内式や布留0式の実態を知らない者が、「物部だ、物部だ」とわめくのは滑稽過ぎるw
考古学的には、瀬戸内沿岸の交易ルートはむしろ、真ん中の吉備があり、吉備型甕の搬入が河内と博多湾岸に集中しているから、吉備勢力(「吉備「氏」」ではないよ)が仲介しているとする次山淳氏の説がむしろ説得力がある。
82 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:25:33.71
>79
>畿内は3世紀から土師器の時代だろ。
ならば畿内いた氏族は庄内を「受け入れた」という事だろ。
ならば、庄内式=「物部氏」に限定できないだろ?
言っていることが自己矛盾じゃないか?
東征があったとすれば4世紀ではないかと思っているよ。
自分なりの根拠とするところはいろいろあるんだが…
3世紀までの銅鐸の記憶が全く消失しているのに、
1世紀やそれ以前の紀元前の記憶がそれ以上に詳細に残っているはずがない。
84 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:57:04.70
>>81 >福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
じゃ福岡平野には何氏の伝承が濃厚なのだ?
初期ヤマト政権との関係が注目される那珂八幡古墳を布留0式として3世紀中頃〜後半としようか。
那珂八幡からは椿井大塚山との同笵鏡も出てるようだし、
3世紀に畿内から派遣された国造的氏族と仮定してよいではないか。
物部、あるいは物部の派生氏族と見てもよいし、俺はそう見てる。
俺の意見であり、キミに頑なに否定される謂れはない。
>>82 >ならば、庄内式=「物部氏」に限定できないだろ?
3世紀に畿内にいた氏族が庄内を受け入れてるなら物部も受け入れてるではないか。
矛盾してるのはおまえだろ。
>>80 >書紀を信用すれば、神武〜応神が14世代。1世代25年として350年。神武東征とやらは1世紀の出来事だな。
いわゆる欠史八代が欠史でなく実在したとしても、
記紀に書かれてるように父子継承ではなく、
明らかに兄弟継承があったことは、複数の豪族の系譜から判断しても間違いない。
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/tennnou.gif 祟神から神武まで5〜6世代。
応神から神武まで10〜11世代くらいだろう。
当時の平均寿命からみて1世代間隔は20年弱だろう。
応神元年を390年とし、祟神没を古事記の318年として、
神武東征は2世紀後半だろう。
ちょうど奈良盆地の環濠集落が終わりを迎え、
銅鐸祭祀も終わり、
前方後円墳が作られ始める時代にピタリと合う。
86 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:39:32.19
>84
だからさあ、
庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ。
また、物部氏の古い伝承地に庄内式が主体的の様式をなしているところはむしろごく一部だ。
どっちにしても、物部氏だから庄内式、あるいは庄内式だから物部氏、という命題は成立しないんだよ。
論理学的におかしいことを理解してくれ。
87 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:54:27.67
>>84 >
>>81 > >福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
>
> じゃ福岡平野には何氏の伝承が濃厚なのだ?
考古学から「何氏」という話はそもそもできない。
あなたの得意な(?)古代史でも、福岡平野に物部氏の伝承は少ないでしょう?
それを置いておいて、「じゃあ何氏だよ」と言うのは筋違いも甚だしいでしょう。
福岡平野も「物部氏」とするなら、少なくともまず、古伝承や古文献の根拠をまず提示するのが先だ。
なおこちらは、福岡平野の勢力が当時、何氏かというのは、根拠が少ない以上、先に追究すべき課題ではないと考えている。
> 初期ヤマト政権との関係が注目される那珂八幡古墳を布留0式として3世紀中頃〜後半
> 那珂八幡からは椿井大塚山との同笵鏡も出てるようだし、
> 3世紀に畿内から派遣された国造的氏族と仮定してよいではないか。
三角縁の同型鏡があるから派遣氏族とか、そんなことどうやって考古学的に言えるのかい?
そもそも椿井大塚山は物部氏かよ?
いつの間に、三角縁神獣鏡=物部氏になったんだ?
三角縁神獣鏡があったら物部氏なんか?
あなたの論理は論証不可能な仮定しかないですよ。
あと忠告すると「国造」は、古代史学では6世紀以降とされていますよ。
> 物部、あるいは物部の派生氏族と見てもよいし、俺はそう見てる。
> 俺の意見であり、キミに頑なに否定される謂れはない。
頑なに否定というか、根拠のない仮定、論証不可能な仮説は学問ではない。
「思う」のは勝手です。
しかし、一応、ここは学問板だ。
>庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
キミはハゲか。
俺がいつ庄内は物部氏だけと言ったのだ?
>庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ
当たり前だ、俺の自説なんだから。
証明されたらこんな嬉しいことはない。
>どっちにしても、物部氏だから庄内式、あるいは庄内式だから物部氏、という命題は成立しないんだよ。
誰がそんな事を言ったんだ。
勝手に命題を作るな。
89 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 18:01:30.33
>>84 >矛盾してるのはおまえだろ。
????
人の話を理解できないのは見苦しいですね。
90 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 18:06:45.31
>>88 > >庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
>
> キミはハゲか。
> 俺がいつ庄内は物部氏だけと言ったのだ?
>
>
> >庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ
>
> 当たり前だ、俺の自説なんだから。
> 証明されたらこんな嬉しいことはない。
ですから、証明できません、反証されますよ、って言われていますよ。
それから、その自説、庄内式の分布をもって物部氏の活動としているようにしか読めないんだけど。
>キミはハゲか
こういう罵詈雑言しか言えない人がYahoo!掲示板によくいますね。
>>87 >考古学から「何氏」という話はそもそもできない。
あなたの得意な(?)古代史でも、福岡平野に物部氏の伝承は少ないでしょう?
それを置いておいて、「じゃあ何氏だよ」と言うのは筋違いも甚だしいでしょう
ここは日本史板だ。
考古学、神話も含めての文献史を総合して考えるのが日本史。
考古学の話を専門的にしたいのなら考古学板にでもどうぞ。
>三角縁の同型鏡があるから派遣氏族とか、そんなことどうやって考古学的に言えるのかい?
そもそも椿井大塚山は物部氏かよ?
祟神が母方の墓制を採用し前方後円墳を作った可能性が高い。
ならばホケノや勝山など纏向古墳群は祟神以前の物部氏の墓だろう。
椿井大塚山も那珂八幡も物部氏族の墓だと思ってる。
>「思う」のは勝手です。
しかし、一応、ここは学問板だ。
仮説、自説を言ってはいけないのか。
繰り返すが考古学板にスレたてたらどうだ。
92 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 18:19:37.38
仮説というのは、十分な根拠と論証可能あるいは反証可能な論理が必要だ。
そうでないものは単なる思いつき。
都合が悪い事実や論理矛盾を指摘されても訂正しないのは学問ではない。
考古学か日本史かという問題ではない。
また考古学だって歴史学の一部だ。
庄内式だとか布留式だとか、三角縁神獣鏡だとか、考古学の話を「自説」の根拠にするなら、それについて、謙虚に専門的な話しに耳を傾けなきゃいけないでしょう。
例えば、椿井大塚山も「物部氏」と「思う」と言われても、根拠不明だし。
タケハニヤスヒコとか、逆にそれを破った彦国葺、あるいはヒコイマス王ではないか?という説は聴いたことがあるが、物部氏というのは初耳だな(笑)
日本史学にしても、例えば「国造」に言及するなら、その成立時期などに関する研究史も参照しないとダメですよ。
あ〜疲れる。
いきなりスレ主の意向と違った展開になってしまって、皆さんごめんなさい。
>日本史学にしても、例えば「国造」に言及するなら、その成立時期などに関する研究史も参照しないとダメですよ。
忠告してくれるのは結構だが、
国造的氏族、「的」と言ってるだろ。
>祟神が母方の墓制を採用し前方後円墳を作った可能性が高い。
>ならばホケノや勝山など纏向古墳群は祟神以前の物部氏の墓だろう。
>椿井大塚山も那珂八幡も物部氏族の墓だと思ってる。
これだと、前期前半までの全国の前方後円墳はほとんど全て物部氏になるな。
「そんなことは言っていない」と言いそうだけど、そういう論理だよ、それ。
自分が言っている論理に無自覚なのは反論しようがない。
もう何でもありだな。
>これだと、前期前半までの全国の前方後円墳はほとんど全て物部氏になるな。
弥生時代からの鉄の供給システムの頂点にあったのが、
物部(ニギハヤヒ以前)だと思ってる。
鉄が弥生時代に北九州から全国に供給されてるようなので、
ニギハヤヒ系氏族は全国にいただろう。
千葉の神門古墳など大王家ゆかりと考える方がおかしいと思うがな。
退場!(爆)
98 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:16:28.45
まだやってるよ、物部ヲタ(嘲笑)
99 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:23:58.42
ま、今日はこれくらいにしといてやるよ。w
俺は物部ヲタさんの言う事正しいと思うな。
鋭い点を突いてると思うよ。
こんな事言うとすぐ自作自演ではないのかと疑うヤツも出てくるだろ。
ま、その通りなんだけどね。
ID出ないからやりたい放題だ。
101 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 22:09:52.18
>>80 天照大神の高天原には銅鐸が出てこない。代わりと言うわけではないが、
剣や玉や鏡が出てくる。
スサノオノミコトの十握剣。天照大神の八坂瓊之五百箇御統(八坂瓊之曲玉)。
さらに天照大神が天岩戸から出てくるときの八咫鏡。
鏡作部なんてのも出てきて、八咫鏡を作っている。つまり、大鏡を作る時代で
あると考えられる。
そんなに古い時代とは思えない。神武東征はさらに後になる。1世紀なんてのは
ありえない。
102 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 02:01:08.13
お知らせ
市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました
生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています
期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください
103 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 02:33:08.87
>100
あれが「鋭い」の?
まあ、尖鋭化しすぎて、誰もついていきません、という意味では鋭いかもね(藁)
>>58 「纏向型」とか「纏向は都市」とかちょっとおかしい人だからね。
物部は八十物部と言われる程同族が多く全国に分布している。
しかし普通の解釈は、
「物部氏は軍事・刑罰を職掌し、大和政権の地方経営に深く関与、
地方氏族の多くを血縁的同族関係に擬制して支配した」だ。
物部同族の多くが、聞物部や物部依網のように複姓の形を取るのもこのため。
>>103 物部と庄内はお笑いだった。
庄内の定義も無茶苦茶なままで書込んでいるから話が進まない。
しかし、最後の物部と鉄の関係については考察する価値はあると思うな。
御本人的には、単なる捨て台詞のつもりかもしれないが、
>>105 後世はね。
3世紀、あるいはそれ以前はどうだったろう。
神武が南九州から奈良に来たとしても(俺の計算では2世紀後半〜3世紀前半)、
大王家がその頃に関東にまで足跡を残していない。
そうすると千葉の神門古墳の説明ができない。
神武以前に足跡を残しえる集団、
つまり全国に散らばってた集団は鴨氏か物部氏。
鴨氏は銅鐸との関わりを言われてるから、
せいぜい東海までだろう。
そうすると残りは物部という事になる。
>>106 >物部と庄内はお笑いだった。
物部が庄内を作ったなどと一言も言ってないのに、
浅読み曲解してたおまえがお笑い。
109 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 10:03:47.53
結びつけてるだろw
んで、今度は鴨氏ですか?w
このスレも建て主の意向とは別の方向に行ってしまいました。
終了(*_*)
>結びつけてるだろw
俺は土師器を九州に拡散させた主体が物部とは言った。
が、しかし庄内は物部が作ったとは一言も言ってない。
それでもしつこく言い張るならレスを示せ。
示せないなら消えろ。
確かに物部氏は謎の氏族で、
同じ軍事系氏族の大伴氏は最初から天皇に仕えているのに対し、
物部氏の祖は別に降臨神話を持ち、一度は神武に抵抗さえしている。
他に降臨神話を持ってるのは出雲氏くらいか。
物部氏は天皇氏と対等の立場を主張出来る地位にあったのだろう。
それが継体以降の権勢によるものか、昔からの由緒ある系統によるものかは分からない。
ただまあ、全国に散らばる物部氏全部が、
実際の血縁関係にある同族とかは流石にない。
>>111 前期初頭の前方後円墳を考えても、
畿内、瀬戸内(阿波讃岐を含む)、北部九州、関東だな。
前方部のくびれがどうこうの細かい違いはあろうが、
共通の墓制を持つわけだから、
かなり近い同族と考えてよいのではないか。
どっちにしても4世紀以前の大王家の墓は前方後円墳ではない。
考古学的に言えば、全国各地でバラバラの土器やら墓を作ってたのが、
弥生終末期に大和に突然中心が生まれたと。
その文化が全国に波及していったのが古墳時代。
全国各地の古墳を作った豪族が全部同族とか無茶苦茶。
擬制的同族関係ってものを理解してないから、
「全国各地の物部と名乗ってる氏族は
全部実際に血縁関係がある氏族に違いない」
とか思ってしまうんだろう。それは錯覚だ。
血縁的に異なる氏族が、軍事・政治やら交易などの理由で一つにまとまる必要があって、
始祖・神様を共有化することで同族を擬制する形を取った。
身近な例で言えば産土神を共通にする氏子など。
例えば日向三代。
現在の記紀研究の水準では、日向三代神話ってのは
八世紀の大和朝廷の隼人政策のために挿入されたとされている。
隼人を取り込むために同族化を進め、「元々は兄弟」という神話が創られた。
日鮮同祖論が戦前日本の半島進出の正当化に使われたようなもの。
他にも吉備氏の祖とされる御友別は、応神に饗応を誉められ、
子や弟らを吉備各地に封建して貰ったという伝承がある。
その子孫たちが上道や下道、笠や苑などになったと。
考古学的には吉備も複数の首長が混在する連合だったと推定されており、
御友別の伝承は吉備内で複数の豪族たちが同族化した時のことを物語っているのだろう。
このような同族化は、同時に神話の共有化も行われ、
亦の名を多く持つ神様や始祖が生まれる。
元々は違う神様や伝説上の人物を、
同族化の為に無理矢理同一の神様や人物にしたための混乱。
116 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 11:30:45.99
>>114 自らの歴史書を捏造し、祖先の出身を日向にしなくてはならないくらい
隼人は大事だったのかい。
117 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:16:20.97
>>113 >全国各地の古墳を作った豪族が全部同族とか無茶苦茶。
言っておくが前期初頭、時代で言えば3世紀中頃までの話だよ。
その後の前方後円墳が同族とは言ってない。
大王家も祟神以降が前方後円墳だ。
例えば銅鐸を考えてみよう。
もちろん全部がそうではないが、
カモという土地との関連性が極めて高い。
加茂岩倉遺跡、川西市加茂遺跡、
三河国の豊橋あたりは日本最大の銅鐸発見密集地だが、
和名抄では宝飯郡賀茂郷だ。
他にも沢山ある。
そして大阪で発見された銅鐸の同じ鋳型で作られたものが出雲でも見つかってる。
実際の血筋は別として、同族を同文化を持つ者と定義するなら、これは明らかに同族だろう。
初期の前方後円墳も同じではないかというのが俺の意見だ。
いや、日向なんてのはたまたま降臨の地に選ばれただけでw
あくまで天皇は高天原の天神の子(孫)って事の方が大事。
それとあくまで初代天皇は大和で即位しなければならないという不文律。
だから神武はわざわざ遠路はるばる大和くんだりまで来なければならなかった。
神武より前は絶対に天皇であってはいけない。
大和は特別という記紀編纂における強い意思が根底にある。
>>114 >現在の記紀研究の水準では、日向三代神話ってのは
>八世紀の大和朝廷の隼人政策のために挿入されたとされている。
>隼人を取り込むために同族化を進め、「元々は兄弟」という神話が創られた。
それはおかしいな。
日南市にあるアヒラツ媛(神武の先妻)を祀る神社は記紀編纂以前に作られてる。
どうして地元の人達はアヒラツ媛の事を知ってたんだ?
「神話が創られた」のなら記紀編纂後に知ったはずだよね。
120 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:24:56.37
>>118 イザナギや天照が大和で初代天皇になっても良かったのだし、なんか矛盾してるなあ。
同族=同文化と認めるならそれでいいよ。
記紀とか旧事本紀の系図を無批判にそのまま鵜呑みにして、
「ホアカリはー」とか馬鹿な事を言わないでくれたらそれでいいw
>>116 >自らの歴史書を捏造し、祖先の出身を日向にしなくてはならないくらい
隼人は大事だったのかい。
全く賛成だ。
隼人を取り込むために創作したのなら、
じゃ蝦夷や熊襲にも同じ事やればいいだけだもんなw
記紀編纂当時の状況によって、隼人と蝦夷の差異が生まれたのだろう。
隼人の居住した薩摩や大隅は、昔は日向の国と合わせて熊襲国と呼ばれていた。
墓制からも分かる通り、隼人は蝦夷とかと違って古くから大和王権と交流を持っていた。
だから同族化が可能だったということ。
記紀編纂が八世紀ではなく大和朝廷の東北支配が進んだ九世紀だったなら、
恐らくは蝦夷も同族とされていた筈。
>>123 >筈
笑
だから日南のアヒラツ神社が何故記紀編纂より先に創建されてるのか答えてくれ。
>「ホアカリはー」とか馬鹿な事を言わないでくれたらそれでいいw
前スレなんて知らない。何の事だ。
俺は全く別人だ。
>>120 倭国全体をしらしめす大王の祖先の伝承が、
大和だけのローカルな神話だったら各地の豪族に示しがつかないだろw
大王が全国各地を支配する正当性を示すため、
全国各地に大王ゆかりの様々な神話が創られた。
出雲の国譲やら日向三代はそのために採用された。
>>126 大伴や久米をどう説明するんだ?
奈良の地元の豪族であったとでも言うのか。
吾平津姫とかw
神社創建の由来なんてどこまで信用できるのか?っていう話だが。
古ければ古い程御利益があるとされるから。
宇佐神宮みたく、記紀では一切触れられてない神社が、
隼人征伐の功績ために急に神威が上がり、
元々は地方神を祀っていたのが応神ゆかりの社改変されたケースもある。記紀神話に合わせて、祭神を変えた神社も多かっただろう。
129 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:56:25.18
>>127 記紀編纂当時において、記紀のあらすじでなくては各豪族の合意納得が得られなかった
また世論の信頼も得られなかったということだろ
要するに、あらすじに置いて当時天孫及び各豪族の伝承のままを採用せざるを得なかったわけだ
>古ければ古い程御利益があるとされるから。
ならばもっと古く紀元前とかにすればいいだけじゃないか。
創建は確か709年とかだったが、何でそんな中途半端な時代にしてるのだ?
>>129 意味不明。
もう一度聞く。
大伴や久米は奈良の地元の豪族だったのか?
大伴氏はその領地や勢力圏から摂津や和泉の大阪湾沿岸部発祥とされている。
大和にも拠点は有していたが。
紀を読む限り久米氏は大伴氏配下の氏族だろう。
ニニギ降臨の時、大伴氏の祖先が久米の祖先を率いている。
>大伴氏はその領地や勢力圏から摂津や和泉の大阪湾沿岸部発祥とされている。
大和にも拠点は有していたが。
何が発祥だよ。
大阪に拠点を有するのはもっと後の話。
時系列をごまかすな。
>>130 お前は神社の創建の由来を全部信じてしまう馬鹿なのか?w
>>134 何で709年という中途半端な年代を「創作する」必要があるのかを聞いてるのだが。
いやもう記紀原理主義者は記紀の一字一句を信じてしまうから大変だ。
大伴にしろ物部しろ、きちんと反論してるのに、
「それは時代が違う」って反論だけ。てか、根拠ないから反論にすらなっていない。
論理的に、大伴や物部の発祥の地がどこか教えてよ。
>>135 709年って中途半端だから全部真実ってか?w
吾平津神社のことが君の大好きな記紀に書いてある?
記紀に書いてあれば、少なくとも記紀編纂前に創建されたことが証明できたんだけどねw
残念!w
>>136 論理的におかしい。
記紀に神武が日向から来たと書いてあることは、
「隼人を取り込むための創作」だと君は言った。
ならばそれを証明する義務は君にある。
「だった筈」なんて言われても証明にならない。
>>138 は?
大伴とか久米の発祥の地が日向ってことを証明しないと、
神武東征に彼らがつき従ったという君の主張は受け入れられないと思うが。
まあそんな根拠は存在しないし、君の金科玉条である記紀でも
そんなことは一切書いていない。
彼らはあくまで天孫降臨につき従って天から降りてきただけで、
日向出身の豪族ではないだろう。
天から降ってきたことを信じてるなら仕方がないがw
140 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 13:57:20.20
>>118 捏造したいと思うのは、天皇が大和から始まるということかもしれないな。
しかし、天上の国から降りてくるのなら、むしろ三輪山なんかの方が
都合が良かったのかもしれない。日本の中心の大和に降りてきて、
そこから全国を支配していくというほうが物語としては都合がいい。
そこをあえて日向の高千穂に降りてくる理由はなんだろうか。
どうして神武東征が必要だったのだろうか。
実際に九州からやってきたからそうだったのだろう。
天孫族としてのカリスマ性もそこから生まれた。大和のごちゃごちゃした
勢力争いの中から天皇が生まれたとすれば、現代まで続く天皇の神性は
生まれなかったものと思われる。
>>139 >は?
>大伴とか久米の発祥の地が日向ってことを証明しないと、
>神武東征に彼らがつき従ったという君の主張は受け入れられないと思うが。
はい、悪魔の証明。
君はAではなくBだと言った。
ならば君がまずBであることを証明する事が先。
にもかかわらず俺に Aであること(つまりBでないこと)を証明しろと言う。
卑怯な議論はやめろ。
悪魔の証明って?w
大伴氏が大阪湾発祥って書いたら、
「それは時代が違う」とか泣きながら反論してきたのは誰?
それならどこ出身なのさ?と俺は訊いてるわけ。
>大伴氏が大阪湾発祥って書いたら、
それを証明しろ。
古代史で証明が可能なら苦労はないわな。
蓋然性の高い方を選択するしかない。
対論が提示出来ないなら黙っといた方がいいのでは?
あと、神武東征が史実だという証明もお願いw
大伴が大阪発祥なんて珍説を、
考古学的に証明する事なんて無理でも、
せめてはっきり書いてる文献を示せば良いだけ。
何も労を厭わない。
>>145 おいおい、あまり怖がるなよw
反論されるのが怖くて自分の意見が言えないのか?
そうやって物陰に隠れて、証明しろ、根拠を出せとか。
論破されたんだから潔く退場しなさいw
>>146 おまえは負けず嫌いか。
文献さえ示せないのだな。
おまえが提示した大伴氏大阪発祥説のどこが俺を論破したのだ。
俺なら恥ずかしくて消えるがな。
148 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 16:10:21.05
隼人の始祖伝承を語る山幸彦、海幸彦の日向の話もあながち否定できない。
隼人がいくら勇猛果敢な部族だといっても、
それだけでは神武とそれ以後の王権の親衛隊にはなれない。
まだまだ敵の多かったヤマトの中に建国した初期の王権にとっては、
ことあらば寝首をかかれかねない危険な存在となる場合もあるのだから。
>>147 日本古代氏族人名辞典(吉川弘文館)
お前が論破されてたのは、全国の物部は全て血の繋がった同族とかの妄想だよw
>>149 俺は>117で
「実際の血筋は別として、同族を同文化を持つ者と定義するなら、これは明らかに同族だろう。」と書いた。
大伴大阪発祥説なんて出して論破されたからと言って論点をすり替えるな。
というか何でおまえそんなヘラヘラ笑うんだ?
いやまあ大伴氏の発祥地なんて、正直どこでもいい訳でw
摂津河内あたりが信憑性があるが決定打には欠ける。
それに拘ってるのは「神武が大伴と久米を引き連れて」
とかを信じてる人でしょうw
ま、物部関連はここではスルーということで。
>>151 諦めたのだな。
ならそれでよし。
>それに拘ってるのは「神武が大伴と久米を引き連れて」
とかを信じてる人でしょう
信じる信じないより、その可能性はかなり高いとは思ってる。
>>153 「その可能性が高いと思ってる」ってw
他人には根拠、根拠言ってたのに大丈夫か?w
天に唾するとはこのことだw
>>154 何が天だよ、何様のつもりだ。
お前の大伴氏大阪発祥説には考古学的根拠はもちろん、文献根拠もない。
大伴、久米の九州発祥には記紀という文献根拠がある。
全然意味が違う。
一緒にするなハゲ。
人が百年以上生きて、蛇とまぐわったり、白鳥に化身して飛び立ったりとかw
記紀に書いてあることは眉唾で読んでいかないとw
だから記紀原理主義者と言われるw
>>156 極端な例を出してごまかすな。
だれが記紀の一言一句正しいと言った?
ベースの部分ではおおよそ正しいのではないかという事だ。
屁理屈言うな。
記紀は出鱈目書いてるけど、
「僕には正しいベースの部分が解る!」
ですか、ほー
お前、ほんとにからかい甲斐があるなw
159 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 23:45:45.98
>>158 だったら、当時のことを何で知る?
何でも有りの都合の良い考古学か?
土器を見れば全てがわかる魔法の考古学か?
それとも、トンデモ本の受け売りか?
己の都合の良い妄想か?
出た!考古学アレルギー!w
記紀に書いてあることを鵜呑みにする輩は、考古学重視のこのスレには相応しくない。
とっとと立ち去れ!w
161 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 00:15:11.13
>>160 考古学重視ならば、一つ教えてほしいのだが、纏向が始まった年代はいつ頃?
>>159 >当時のことを何で知る?
当然、考古も文献も両方だけどね。
ただ、このスレッドは”古墳の成立期”が中心話題なんで、古墳編年にかかる考古ネタは多くなるね。
ホアカリさんの言葉を借りると、考古資料をネタに古墳草創期の歴史を”妄想”するつーとこだな。
そんなことも判らんで、一所懸命になって絡んで来てたのかい。
あー、それから、考古板へ行けとか、言わないでね、
俺ら、埋文関係の専門家じゃないから、土器の刷毛目の向きが右か、左かとか、
胎土に含まれるカンラン石がどこそこの産とか、全然わからない、そこら辺は、基本受売りなので、
あっちの人とは、興味の対象レベルが違う。
その代わりに、アンタにも神話板へ行きな、とか言わんからさ。
マキムクが始まった暦年代=マキムク大溝が造られた時で、
寺沢は三世紀初頭、白石はもっと遡って二世紀後半。
あとまあ、寺沢も白石も箸墓築造を三世紀半ば頃としてる。
まあ、二人とも邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の墓だから割り引いて考えるとしても、
きちんとした根拠に基づいた反論は出てこない。
てかC14と年輪年代の研究の進展待ちというか。
ともかく、この暦年代で東遷説は否定されるようになった。
石野先生は今も箸墓三世紀後半築造説か?箸墓は台与の墓で、
卑弥呼の墓は石塚勝山矢塚のいずれかになるという考えだったような。
>>163 > ともかく、この暦年代で東遷説は否定されるようになった。
いや東遷説が否定されるのは墓制など文化の持ち込みなどがないため。
纏向の歴年代では否定出来ない。
165 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 09:48:24.73
東遷説を否定しながら、卑弥呼や台与の墓は奈良にあると主張するのは意味がない理屈だ
というか記紀でさえ採用しなかった筋書きだからな
>>163 だったら、まず石塚、勝山、矢塚が墓?かどうか確かめればいいだろう。
167 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 14:07:37.79
168 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 14:21:17.92
図書館でチラッとこんな本を見た。
「卑弥呼の謎年輪の証言」倉橋秀夫 1999年
なぜ、畿内説なのか...。畿内の弥生の年代が100年も古くなるとは、
いったいどういうことなのか...。決め手となった「年輪年代法」とは?
邪馬台国はどこに?そして、卑弥呼の墓は?ロマンあふれる謎の一つ一つを、
最前線の研究者の証言とともに探っていく。
畿内の年代が100年古くなったのは、そんなに昔のことではない。
しかも、決め手になったのは年輪年代だった。年輪年代は畿内の弥生時代を
100年遡らせて、人知れず消えていく。古くなったことだけは残っていく。
169 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 14:27:00.28
ここにも書かれている。1996年。池上・曽根遺跡
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html 年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観に
かなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を
無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
定説を根本から再検討する必要があったのです。そして、出された結論は、
まさに衝撃的でした。
これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、
同じ年表に並んだ瞬間でした。
畿内説の悪行は留まるところを知らないね
171 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 15:25:15.27
>169
なんだい、年輪年代法で100年繰り上がったために、
かえって邪馬台国畿内説は苦境に立たされちまったってことじゃないか、ま、それが事実だからしかたあるめえww
172 :
ローガン:2013/03/18(月) 15:37:31.90
>>168 >100年遡らせて
元に戻っただけ。
1950年代すでに、小林行雄や山内清男は古墳時代は3世紀からとしている。
1966年に、倭国乱をW期末とした佐原編年案は、1975年に自らが否定。
提唱者自らが撤回した編年案にしがみついて、「100年遡った」とは、ちょっとなあ〜。
173 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 16:02:02.57
箸墓築造を三世紀半ば論者=卑弥呼の塚、箸墓論者
だから、
かなり、強引な論だと批判がでている。
批判者は主に邪馬台国、九州論者だから、
どちらもどちら。水かけ論。
邪馬台国についてはわからないことだけら、
わからないゆえに妄説が乱れとんでいるだけ。
邪馬台国の所在地(九州/畿内/四国?)や、記紀・風土記の虚実に関わらず、
天皇家の女系先祖が卑弥呼の姪=台与であることには、みんな異論ないよね?
ということは、つまり【天皇家の男系先祖は一体どこにいた誰なのか?】が日本古代史最大の謎であることにいい加減気付くべき
>>174 【「いかなる功績によって」全国の蒼々たる有力豪族から大王として承認されたのか?】もね!
たぶん弥生時代の倭国大乱のエネルギーを前方後円墳築造に向かわせた功績だろうけど、
卑弥呼の「殉死者を伴う径100歩の冢」とは明らかに違う希ガス
176 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 17:24:41.56
神武が大王として認められたのは奈良湖の干拓事業を行ったからじゃろう。鉄器の威力と技術力でな。
>>176 縄文時代=新石器時代
弥生時代=青銅器時代
古墳時代=鉄器時代
と考古学的に整理すると、縄文時代に農耕ができなかった理由、弥生時代に前方後円墳が築造できなかった理由が見えてくるね。
青銅器と鉄器の鋤・鍬では耕作面積(養える人口)が雲泥の差で、古墳時代に爆発的に増えた人口は、
古墳時代中期に神功皇后と武内宿弥が更なる鉄を求めて朝鮮半島に派兵できた下地となったはず。
178 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 17:36:48.36
ついでながら、
奈良湖干拓地の農業用水を確保する巨大な溜め池を掘った。
そしてその残土で大古墳を作ったという一石二鳥の偉大な功績。
弥生時代の墳丘墓には見られない、
粘土質と砂礫質を交互に積み重ねた前方後円墳の版築工法は、暴れ川を治める堤防そのもの。
古今東西、
王の仕事=治水と治安
であり、鉄器が列島初の全国王権・大和朝廷を実現させたのである。
の
180 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 17:58:04.90
>>174 天皇女系=伊勢。
つまり男系は出雲だよ。別に謎でも何でも無いやね。
出雲のムスビ神=産す日=産神・日神・男神。
世界的に太陽神は男だから。
天照大御神=ヒルメ=男神の妻・巫女(贄)
>>162 おい、大伴大阪発祥説のハゲ。
俺は>159氏ではないぞ。
>>181 >倭国中心政権が北部九州から畿内に東遷しただろうことが一応伺える
まったく賛成。
ホケノ山の発掘以降、鉄器の出土量で畿内が北九州を上回る。
これは鉄の主権が北九州から纏向に移った事を意味する。
ただ纏向遺跡が当時の中心政権かどうかは疑問があるが、
幕府的存在というならそうかもしれない。
王墓の版築工法(弥生九州のみ)、鉄の出土状況(弥生九州の圧倒的多さvs弥生畿内の鉄の貧弱さ)、
どれを取っても、邪馬台国東遷説を裏付けているのに…どこに目を付けてるんだろう?>白石太一郎
東遷説が今更なのは、このスレの
>>1に書かれてることなのに。
定期的に湧いてくるなw
ま、版築のなんたるかを知らないレベルだししゃーない
版築工法といえば、水城がかなり高度なことやってんだよな
>>185 漏れもよく知らんが、
弥生の墳丘墓って前方後円墳みたいな版築してるのかな?
188 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:05:13.75
箸墓の層位は辻土坑4下層(南溝黒褐色土1)で纏向4類「後」だな。
そしてホケノ山の層位は南溝黒色粘土1下で纏向3類「前」になるから箸墓の5段階前だな。
かなり前だ。
ホケノ山主体部の小形丸底鉢3点は布留0が有力として、被葬者は3世紀中頃の埋葬か。
布留0の期間を3世紀中〜後半としても、箸墓の築造時期は後半の方ではないか。
整理すると、
・ホケノは寿陵で3世紀前半から築造で3世紀中頃に被葬者埋葬。
・箸墓は3世紀後半から築造。
これなら築造時期の5段階の差を説明できる。
しかしながら箸墓が卑弥呼の墓かどうかはかなり疑わしいと言わざるを得なくなる。
189 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:13:54.58
版築工法というのは、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓で聞いたことがあるなあ。
紀元前らしいから、残っているものとしてはこれが最古だろう。
版築と版築状あるいは版築様は似て非なるものなので混同しないように
191 :
日本@名無史さん:2013/03/19(火) 00:32:48.57
どう違うのか説明してくれないとわかんない。
「版築」は、土を木枠に詰めて敲いて固めた建築部材です。
構築物の壁や土台として利用されます。
恐らく「版築状」と言うのは、版築と同じ処方で固められた土の状態を言うんじゃないんですかね。
それのどこが、どう違うのか、と聞かれても、あとは、その用語を使う人の判断に任されるところでしょう。
とにかく、このスレッドには、全く異なった歴史観が混在してますので、言葉の定義はしっかりしときたいですね。
>>185が一番版築の何たるかを知らなかったようだなw
>>188 素人考えで申し訳ないが、布留0の期間がそんなに長くて、
なおかつ箸墓がそんなに後の方なら、次の布留1が混じってくるんじゃないですか?
「様」とか「状」とかは「〜のようなもの」っていう意味ですよ
つまり、この「様」「状」を付けているっことは
「似てるけど本当の版築ではない」って筆者が考えていることを表してるわけ
本当の版築は半端なく叩き締めるから、発掘の時もスコップの刃がたたないほどらしい
そうした本当の版築は寺院建築と一緒に伝わってくるものだよ
こちらのスレッドが前の「纏向」スレッドの続きのようですにで、申し訳御座いませんが、
また「大和説者」批判を投稿させて頂きます。
またYahooのtextreamで投稿不能になりましたので、こちらへ投稿しておきます。
また空をつかむさんへのお返事です。
>:雄略の泊瀬朝倉宮は磯城郡にあったことになってるよね:ってことで磯城宮って表記されても違和感はないけどね <
「郡名」を「宮名」にする例を知らないし、
雄略の宮名として書かれたのは、「磯城宮」ではないしね。
ここで、雑談。
textreamに変わってから、私の投稿は、かなり「投稿不能」に」されているが、
私宛の残った返事が大量にあるから返事を断念する訳にも行かず、
投稿内容を削除変更したり、2チャンネルに取り敢えず掲載したり、結局スルーしたりして来たレスが沢山ある。
他にも、mutouhaさんや、hn氏や勘太郎氏らの「異端的大和説者」も?、「投稿不能?」になった事があるらしい。
しかし、キミや天誅氏やごましお氏は「投稿不能」にはならないらしい。
そして、私は、過去レスから順番に返事を書いているんだが、そうすると、いくつも消去抹殺された投稿の番号もある事も判っている。
そして、私の投稿不能になる時の文言は、別に天誅氏やごましお氏らへの「人格的誹謗への言い返し文言」ではないらしい。
天誅氏やごましお氏の私への人格誹謗文言も「投稿不能」にはなっていないよう。
そして、私の「投稿不能」になるのは、
九州倭国、東海姫氏国、倭国と日本国の対比、呉王夫差の末裔、白村江の唐の相手国名などの史料事実内容の文言が含まれた場合ばかり。
だから、キミへの返事での説明も、まともに返信出来ないまま。
そのような「大和一元支配思想誘導をする天誅主義的textream」にお付き合いしても無駄だから、
別に長居をする気もないんだが、
残ったレスをの返信だけは、なんとか済ませてしまいたい。
>>194 箸墓の墳丘の裾の幅10メートルの周濠の底から布留0式土器が出土してますね。
造営が布留0の期間に始まったことは間違いないでしょう。
その布留0の期間がどれくらいあるかが問題でしょうね。
198 :
日本@名無史さん:2013/03/19(火) 11:42:38.15
>>195 吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は紀元前に作られたもの。数百年後の古墳と全く同じ工法と
いうのは考えにくいが、同じ種類というのが普通の認識。
知られている限りにおいて、吉野ヶ里の墳丘墓は版築の技術の出発点と
いえるかもしれない。
また人様に迷惑をかける糖質かあ
スレが壊れるなぁ・・・
200 :
日本@名無史さん:2013/03/19(火) 12:23:35.72
>>199 ここのスレはまさに畿内説そのものだな。
みんな仲良く同じ嘘をつけるものだけが集まれ。
そうでないものは出て行けかあ。
畿内説ってか、邪馬台国=マキムクが妥当、って程度で、
それ程強弁しているつもりはないが。少なくとも俺は。
こういう文献史料がちゃんとしていない時代を語る時は決定打に欠けるから、
例えば九州王朝説とかも、可能性が低い、根拠薄弱とは言えても、
完全に否定出来ないというw
ここのスレは、考古学重視ってことで、どうしても畿内説側に偏ってしまうが。
C14にしろ年輪のお陰でようやく邪馬台国の話が出来るようになったのに、勿体無い話だ。
>>201 旧マキムクスレも含めてだけど、ここの住人(多数派)の嗜好は、考古と言うより歴史社会学みたいな分野だろうね。
207 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 09:37:42.12
・層位による造営順
纏向2類 中 石塚
後
纏向3類 前 ホケノ山
中 勝山
後
纏向4類 前
中 矢塚・中山大塚・東田大塚
後 箸墓・燈籠山
纏向5類 (+) 西殿塚・桜井茶臼山
(前葉後) 東殿塚・下池山
(中葉前) 行燈山・黒塚・メスリ山
古事記による没年「戊寅」を318年として、
崇神天皇陵墓を西殿塚か行燈山のどちらかにしても、
箸墓とほとんど時間差がない。
したがって箸墓造営開始を3世紀中に持ってくるのは無理だろう。
普通に考えて箸墓造営開始は3世紀後半だろう。
箸墓の被葬者がモモソ媛であったとしても、彼女は【卑弥呼ではない】
推定年代
纏向2類 中 (200年) 石塚
後 (210年)
纏向3類 前 (230年) ホケノ山
中 (240年) 勝山
後 (250年)
纏向4類 前 (260年)
中 (270年) 矢塚・中山大塚・東田大塚
後 (280年) 箸墓・燈籠山
纏向5類 (+) (290年) 西殿塚・桜井茶臼山
(前葉後)(310年) 東殿塚・下池山
(中葉前)(320年) 行燈山・黒塚・メスリ山
改行がうまくいかないなぁ…
推定年代
纏向2類 中 (200年) 石塚
後 (210年)
纏向3類 前 (230年) ホケノ山
中 (240年) 勝山
後 (250年)
纏向4類 前 (260年)
中 (270年) 矢塚・中山大塚・東田大塚
後 (280年) 箸墓・燈籠山
纏向5類 (+) (290年) 西殿塚・桜井茶臼山
(前葉後)(310年) 東殿塚・下池山
(中葉前)(320年) 行燈山・黒塚・メスリ山
211 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 11:43:19.73
下池山古墳というのは、あのあたりでは珍しい前方後方墳だね。
これをどう考えるか…
東海地域との関わりか。
213 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:36:27.65
>>172 それについてはここに詳しく書かれている。
http://www.lbm.go.jp/mappie/00seminor.html 1996年4月27日付け朝刊各紙は、大阪府和泉市池上・曽根遺跡で検出された
弥生時代中期後半の巨大な東西棟持ち柱建物の柱の一つが、年輪年代測定に
よって紀元前52年に伐採されたものであることを一斉に報じた。
以来、考古学によって築き上げてきた弥生時代中期の年代観が100年遡ったと、
マスコミや一般向け書籍などでキャンペーンがはられ、「考古学者達の
研究史軽視と変わり身の早さ」(1)も目立つようになった。
先達考古学研究者が検討してきた年代観を捨て、多くの考古学研究者が
たった一人の自然科学研究者の成果に無批判に乗り換えてきた。
214 :
ローガン:2013/03/20(水) 14:53:32.09
>>213 ほら、貴方が貼ったサイトにもあるだろうに…以下抜粋してコピー。
●(3) 小林行雄
戦後まもなくの1947年、小林行雄は考古学者による「架空の対話」形式をとる概説書を刊行した(15)。ここでは、「弥生時代のはじまりは、いつごろと思うか、と聞かれれば、二千三百年ぐらい前だというかも知れない。
また、古墳時代のはじめは、と聞かれれば、千七百年ぐらい前だとなら、こたえもしよう」と言っている。1947年から逆算すると、およそ紀元前350年から紀元250年ごろまでが弥生時代と考えていたことになる。
●1951年の小林による『日本考古学概説』の中でも、理由は先述のものと変わらない(16)。弥生時代の実年代は、「紀元前二、三世紀より紀元後二、三世紀にわたる存続」とし、古墳時代「前期の始まりは三世紀の中頃よりはなはだしく降ることはない」という。
●(4) 山内清男
「弥生式文化」には、「西紀前二三世紀から後二世紀頃に亘る朝鮮又は支那の文物が盛んに伝来」し、古墳時代の「年代は西紀三世紀から七世紀位」という(19)。ただ、その根拠については述べられていない。
●(2) 森本六爾
そして、「青銅器の文化の後に起った純然たる初期鉄器時代の墳墓が、三世紀の後半ないし四世紀の前半」には東海地方にも及んで、「すでに青銅文化と交替していた」とする(24)
コピー終わり。
いずれも当時既に、3世紀中頃を境目とする可能性を示唆しているんだ。
小林行雄の概説に云う『古墳時代「前期の始まりは三世紀の中頃よりはなはだしく降ることはない」』にしても、小型精製三種の定型化をもって「古墳時代」とする年代観を支持するなら、充分首肯出来るものだ。
戦後、間もない頃言われていた年代観は、現在のものとは差異はあまり無い。
…という事が貴方が貼ったサイトから よく解る。
・16代仁徳・5世紀前 大仙陵
・15代応神・5世紀初 誉田御廟山
・14代仲哀・4世紀後 津堂城山
・
・
・
・10代祟神・4世紀前 行燈山か西殿塚
(以上、大王墓)
・箸墓
・
・
・ホケノ
・石塚
年輪年代でなくとも古墳時代3世紀前半は確実。
216 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:19:42.72
>>214 小林行雄って、あの超有名な伝世鏡理論の人だろう。
卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡だが、古墳とは年代が合わないので
全部、伝世されたってやつ。
こういう理論を考え出さなくてはならない年代観は、それではないだろう。
ともかく、吉野ヶ里遺跡が発表されたのは1991年。当時、畿内説の考古学者でも
その年代観に異論を唱える人はいなかった。で、年代が変わったのが1996年。
えっと思わなかった?
217 :
ローガン:2013/03/20(水) 16:48:38.41
>>216 >で、年代が変わったのが1996年。えっと思わなかった?
池上曽根の事? それならその時は思った。まるで伐採年=建築年みたいな論調だったのでね。(笑)
まあ古材ストック、転用を考えれば、ムチャな数字じゃない。(再建法隆寺の塔心柱も7〜80年落ちの古材。)
ただそれ以前にX期の量の多さから、X様式の期間を長く考える案はでてたと記憶。
218 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:16:54.11
ホケノ山は、加飾二重口縁壺の多様性や新出の型式の類例からすると、小型丸底壺を除いても、マキムク3類(マキムク2式後半)に置くのはおかしい。マキムク4類(≒布留0式)に下るはず。
それだと、例えば銅鏃なんかは新しい傾向があるんじゃないかという疑問も解消する。
>>218 古墳が作られ始めた時期と被葬者が埋葬された時期にタイムラグがある。
220 :
ローガン:2013/03/20(水) 20:46:38.58
>>216 >小林行雄って、あの超有名な伝世鏡理論の人だろう。
>卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡だが、古墳とは年代が合わないので全部、伝世されたってやつ。
それ、その時代としてある意味、致し方ない部分が在るんだ。
今でこそ歴史学=文献史学+考古学+民俗学 と言われる事が多くなったが、当時はまだ考古学は補助学。
上で引用したように、古墳時代の始まりが3世紀中頃を示唆しつつ、
古墳出現を300年前後とも述べ、理由は「3世紀の終わりの崇神をもって日本の古代王権の出現を考える文献史学の見解に合わせた」(日本国家の起源)と述べている。
文献史学を根拠に、より受け入れられやすい300年だと述べることにより、
考古学そのものの市民権…というか、補助学からの脱却を考えたと思う。
自説の中で生じた50年の差から派生したものが、伝世鏡理論だと思うんだ。
小林行雄の本当の考えは250年だったと思う。
又後程。
221 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 22:42:25.02
>>217 いや、吉野ヶ里遺跡が発表された時の年代観は、吉野ヶ里遺跡は卑弥呼時代と
被るというもので、これはみんなが認めていた。当時の記事などをけっこう
持っているが、石野氏も金関氏も佐原氏もみんながそれを認めていた。
ところが、ある日突然、纏向が卑弥呼時代になり、吉野ヶ里遺跡が
卑弥呼時代の前になったという印象で、何それって感じだった。
調査途上での中間報告的見解と
調査終了後の報告書刊行による総括で
遺構の解釈や時期判定が変わるなんてザラ
マスコミ報道が大々的に行われるのはもっぱら中間報告の段階で
最終総括までフォローされることは少ない
つまりマスコミ報道などをソースに持ち出す時点で
自ら情弱だと告白しているようなもん
>>221 当時は、県の工業団地事業を何が何でも中止させないと行けない状況だった。
世間の注目を集めるため、佐原が音頭をとって、学会内外問わず、総動員体制で宣伝活動に努めていたよね。
吉野ヶ里は発掘当初からあえて邪馬台国邪馬台国と騒いで
保存運動をしてたんだろ?確か。
小林の伝世鏡論にしろ、佐原とかの実年代に引きずられた話で、
要は弥生後期の始まりを倭国乱の時期に仮定したことで全てが百年ズレてしまったという。
(仮定した理由も「石鏃が大型化して争乱が想定される
→倭国乱とかいういい加減なもの)
225 :
日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:23:38.92
つまり、ゴッドマウスですね!
わかりますw
226 :
ローガン:2013/03/21(木) 16:00:23.26
>>224 >小林の伝世鏡論にしろ、佐原とかの実年代に引きずられた話で、
細かい話で悪いんですが、時系列的に逆だと思う。小林行雄が目指したものは、恐らく
既存の方法論にのった歴史学の補助的学問からの脱却。
文献史学に暦年代を委ねるのではなく、考古学者自らが文献史学や民俗学、東洋史等を積極的に取り入れ、考古学的知見から実年代を推定する
という歴史学の在り方を目指したのではないか と思う。
自説の古墳時代開始250年は 若干トーンダウンさせ、文献史学の云う「300年」を基準とする事により、自説の正否より、まずは方法論の確立を先行させたのではないだろうか。
それを踏襲したのが、倭国乱とW期を結びつけた佐原編年案だったと。
227 :
日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:59:41.94
当時の文献に依らない実年代推定なんて妄想に近いもので話にならない。
228 :
日本@名無史さん:2013/03/21(木) 21:22:10.04
>>224 吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかといわれたのは、倭人伝に書かれている
宮室・樓觀・城柵と見られる遺構が出土したため。もちろん年代も合った。
当時、天理大学の教授だった金関恕氏は、「見たとき、思わず倭人伝の国の
面影を重ねてしまった」と言っている。
考古学的には、吉野ヶ里遺跡が倭人伝に書かれている国だろう。
にもかかわらず、いっせいに、纏向に傾いたのは「年輪年代」を根拠に
していた。ちょっと合点がいかないんじゃなかろうか。
229 :
日本@名無史さん:2013/03/21(木) 21:32:48.53
>>226 言っちゃ悪いが、昔、そういう年代観の人がいたとすれば、その人は
単なる願望を述べただけだろう。そうだったらいいのにな、と言うわけで。
1996年4月27日付け朝刊各紙は、大阪府和泉市池上・曽根遺跡で検出された
弥生時代中期後半の巨大な東西棟持ち柱建物の柱の一つが、年輪年代測定に
よって紀元前52年に伐採されたものであることを一斉に報じた。
以来、考古学によって築き上げてきた弥生時代中期の年代観が100年遡ったと、
マスコミや一般向け書籍などでキャンペーンがはられ…。
http://www.lbm.go.jp/mappie/00seminor.html じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた
年代観にかなり近いものでした。
「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。権威ある「定説」の前では
「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を無視することも、
年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。定説を根本から
再検討する必要があったのです。
そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。
これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、
同じ年表に並んだ瞬間でした。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html こういうのが普通の認識。
230 :
日本@名無史さん:2013/03/21(木) 21:50:38.68
しかし、年輪年代を根拠に、近畿の弥生時代を100年遡らせた張本人は
いったい誰なんだろうな。それまでほとんど無視してきた年輪年代にちゃっかり
乗っかって、考古学者の多くが、異論を唱えなかったと言うのがそもそも
不自然と言うか、おかしい。そして、以後は年輪年代を無視すると言うのも
畿内説らしい。
当時の近畿説は、三角縁神獣鏡魏鏡説の破綻。唐古・鍵の失敗。吉野ヶ里遺跡の
登場で見る影もなく衰退していた。ほとんどの人が畿内説は終わりだなと
思っていたはず。年代観を変えることが、起死回生の一打だったんだろうが。
そもそも畿内の遺跡では舶来の遺物が少なくて、
暦年代が推定し難いという状況があった。
だからこそ佐原とかが倭人伝の倭国乱の記述をもとに畿内遺跡の暦年代を推定し、
それが権威となって考古学者は反論できなくなったという。
しかし当時から九州の学者は大陸遺物との関連から、
今に近い暦年代を推定しており、土器編年の併行関係が精密に解るようになり、
やっぱりおかしいと若い学者が言い出して、理化学年代がそれを裏付けたと。
旧来の実年代で、邪馬台国が弥生時代に収まるとしてさ、
邪馬台国は九州のどこにあったとするのか?って問題がある。
旧来の実年代が無根拠なのは何度も書かれているけど、
その無根拠な年代観にしがみつく以上は、それなりの考古学的根拠を示して欲しい。
弥生後期の玄海灘グループを制する程の勢力が九州のどこにあったのかを。
233 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:15:51.19
年輪年代も、年輪がよく出るようにスキャンして、
画像認識して、C14のintcal04あたりと、最小二乗法で一致させれば、
それで済むような気がするんだが。
どこともあまり一致しないようなら、
年輪年代法そのものが、あまり意味のない手法ってだけで。
234 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 15:25:26.85
木は何百年ももつのだから、いくらでもリサイクルするだろ。
山から切り出して加工する手間を考えれば、なおさらだ。
235 :
ローガン:2013/03/22(金) 17:51:47.60
>>229 >こういうのが普通の認識。
貴方は、自身で貼ったサイトを誤読しているんじゃない?
「近畿の弥生が100年遡った」って、何も古墳時代開始が、池上曽根で100年上がった訳ではない。
貴方が貼ったサイトにある旧都出編年案でも、古墳時代は300±30年とあるだろうに。
また、古墳時代は布留式以降とするなら、庄内は弥生時代。勿論布留0も庄内。布留0が250〜280年くらいなら、なにほども上がっちゃいないが(笑)。
236 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 18:21:28.41
>>235 なんかとんちんかんだな。
池上・曽根で四期が100年古くなり、何故か古墳時代もついでに100年遡った。
そういう姑息な年代合わせにも大きな問題がある。
だから、吉野ヶ里や唐古・鍵が古くなり、纏向が卑弥呼時代になった。
傍若無人の年代合わせといえる。こういう無理やりの年代合わせは、
昔、箸墓古墳でも経験した。卑弥呼の時代まで持っていくやり方はひどかった。
まさに、目的のためなら手段は選ばないという感じ。
>>236 応神天皇4世紀後半、
祟神天皇4世紀前半。
新潟県・城の山古墳の発掘で四道将軍の実在の信憑性が高くなり、
これがほぼ定点になりつつある。
箸墓もホケノもそれ以前だから、
もはや否定する方が難しいだろ。
238 :
ローガン:2013/03/22(金) 21:26:49.67
>>236 >なんかとんちんかんだな。池上・曽根で四期が100年古くなり、何故か古墳時代もついでに100年遡った。
自分で貼ったサイト、もう一度よく読んでごらんよ。
http://www.lbm.go.jp/mappie/00seminor.html 『筆者の学生時代には考古学演習の素材にもなったこの論文は、銅鐸の製作・土器の製作技法、土器の地域色、高地性集落と石製武器の発達などを中国文献と符合させ、「A.D.100前後を中期中葉とし、
女王卑弥呼を誕生させた倭国の大乱(A.D.180前後)を第四様式末」とするなど、その年代論は魅力的なもので、9年後に佐原がその方法論を自ら否定するまで(8)生き長らえていた。
しかし、この説がそもそも弥生時代年代論のはじまりではなかったし、一方で我々が機械的に覚えていた弥生時代の年代、弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までのおよそ600年間で前期・中期・後期を機械的に200年ずつ与えるという年代観はそれ以前のもののはずである。』
筆者が機械的に覚えていたという従来からの弥生時代は、紀元前300年から紀元後300年までのおよそ600年間。漠然と前、中、後期を各200年割り振ったもの。
池上曽根を端緒とする年代観の遡上は、中期の事。
で、貴方の貼ったもう一つのサイト
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html に、新旧の都出編年案がある。X期の幅を広げてあるのが解るだろう。
その上で、庄内を弥生時代とみるか古墳時代と考えるかは、人により違う。
小型精製三種の定型化をもって古墳時代とするなら、3世紀第4四半期と考えていいだろう。
どこが「古墳時代もついでに100年遡った」事になるのかね?
239 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:45:40.91
>>238 まったく何が言いたいのかさっぱりわからない。
こちらが言いたいのは、池上・曽根の木材が年輪年代で紀元前52年と測定された。
結果、畿内四期が100年古くなり、つられるように庄内期も100年古くなった。
その結果、吉野ヶ里が卑弥呼時代より古くなり、纏向が卑弥呼時代になったと
言っているのだが。
もちろん、年輪年代を信じるに至った経緯やその採用の仕方に
疑問があるといっているわけ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html ところが、ここへ来て土器の暦年代は大きな変革の時を迎えているようです。
その切掛けとなったのは、池上曽根遺跡出土の木材の伐採年代が年輪年代法により
紀元前52年と判明したことでした。これは、土器の様式では畿内IV-3といわれるもので、
従来は紀元後一世紀中頃とされていたものでしたので、一挙に100年年代が繰り上がって
しまいました。非常に大きな年代差であったために、発表当初は伐採年代と木材が
使われた年代が同じとは限らないといった強い批判もあり、私もそうだろうなとタカを
括っておりました。ところが、この数年のうちに多くの考古学者がこの年代を認める
方向にかわってきたようで、畿内の土器の編年は一気に様変わりしてしまった様です。
その結果、弥生中期と後期の境は紀元前後となり、畿内と九州の時代区分の捩じれは
完全になくなりました。
240 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:36:07.16
>>233 ぴったり合う資料なんてない。
何となくある時代が複数ある。(論文読めばそう書いてある)
説の都合のいい方を選んでる。
年輪年代法はまだこんな状況。
情弱さんは知らないんだろうけれど
小林行雄が説いた古墳時代4世紀開始説に対しては
1980年代後半には古墳時代の開始は3世紀に遡るという批判が語られ始めていたよ
決して年輪年代でいきなり年代が遡った訳ではないんだ
242 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 09:05:58.90
>>241 年輪年代を根拠にいきなり100年さかのぼった根拠がこれだけ示されているのに、
まだ、そんなことをいうのかねえ。
年輪年代が土器の歴年代に定点を与えた、なんていっているが、問題は年輪年代の信頼性。
だいたい、考古学者自体が年輪年代を疑問視していたのに、どうして突然採用したのか。
単に都合が良かったかだろうと思われても仕方がない。
>>242 ならば学者の恣意に基づく編年に戻すのかい?
時代を逆行しろと?
年輪年代が追試できないので信頼できないという意見があるが、
その追試自とは、コツコツと年輪を研究した上に自分で年輪パターンを作って、
それを光谷氏のパターンと比較する以外にない。
それをしない人間が光谷氏に「資料を出せ」などとは笑止千万。
俺は年輪について詳しくないが、しかし判断は俺に任せろという、この傲岸不遜さ。
いやまあ、現在でも「実年代は不確かだから土器編年でしか語らない」
という考古学者も多いし。
要は佐原などが言っていた旧来の実年代は至っていい加減だったということ。
「古墳時代の始まりを新しくし過ぎ」とは当時から言われており、
佐原自身も晩年そう言ってたようだ。
それが漸く「科学的根拠に基づいて」修正されてきているのが今日の流れ。
なんか陰謀史観みたく「突然百年遡った」とか連呼するのは的外れだよ。
考古学アレルギーにならず、もうちょっと冷静になろうw
C14年代測定なら必ず当時の表層より上を取らなければならない
結果より前に採取位置や種類を見てくれな
>>242 つ白石太一郎「年代決定論(二)ー弥生時代以降」『岩波講座日本考古学』1 研究の方法、岩波書店、1985年
248 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 10:23:29.01
>>247 白石太一郎って、いまだに箸墓は卑弥呼の墓だといっている人だろう。
249 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 10:26:43.62
>>245 あの時代のことを知っている人はみんな、庄内期が突然100年古くなって、
何が起こったんだと思ったはず。
250 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 10:33:58.44
>>244 俺が出した結果を何も言わずに信じろというのはおかしい。
一人で誰にも知られずに研究しているのならそれも良いが、
社会に何らかの影響を与えようとするのなら、それなりに説明責任がある。
まあ、誰も検証できないようなものを採用した考古学者のほうに責任が大きい
わけだが。
251 :
ローガン:2013/03/23(土) 10:45:18.23
>>239 >まったく何が言いたいのかさっぱりわからない。
これだけ言ってもまだわからないかね。
貴方が貼ったサイトにある都出編年案見比べてごらんよ。X様式が広がっているのがわからないかなえ。
上がったのは弥生中期の年代観。ほら、どこに「古墳時代もついでに100年遡った」とある?
弥生土器集成(佐原1968)では初期凹線文の出現をV期新としたが、近年は凹線文の出現をW期の括りに入れるんだ。
つまり旧のV様式新段階とはW様式という時代区分なんだ。
弥生土器編年内での時期設定の変化の話。
「古墳時代もついでに100年遡った」なんてどこで聞いたか知らないが そんなのに騙されたら駄目ですよ。
>>250 >俺が出した結果を何も言わずに信じろというのはおかしい。
>一人で誰にも知られずに研究しているのならそれも良いが、
>社会に何らかの影響を与えようとするのなら、それなりに説明責任がある。
だから疑いがある以前に自分で研究し標準パターンを作ればいい。
やってない人間に説明したって分からないので意味がないだろ。
>まあ、誰も検証できないようなものを採用した考古学者のほうに責任が大きい
わけだが。
幸い大河内さんという後継者も現れ、いくつかの大学で年輪年代も研究され始めてるようだ。
もちろん、地道に資料を集めていくわけだから、
先行してる光谷さんに追いつくのは時間がかかるが。
それよりも「やらないでグチってるやつ」ってたいがい恥ずかしいと思うけどね。
253 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:27:53.85
>>251 四期が100年遡り。五期も100年遡り、庄内期も100年遡った。
元々庄内期を100年古くすることが目的だったとも言え、その結果、
纏向が卑弥呼時代に届き、邪馬台国候補地になった。
そういうわけだろう。古墳時代というのは定義そのものが難しいので、
使うのは間違いかもしれない。
254 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:30:05.75
>>252 年輪年代を採用した考古学者は、自ら年輪のパターンを作り、確かめてから
採用したのかな。
>>254 いいやしてないだろう。
ところが紫香楽宮で正確な年代を出してるので信憑性が高いと判断したのかも。
どっちみち継体天皇陵を6世紀前半、応神天皇陵を5世紀初め頃とし、
古墳時代開始が4世紀以前、3世紀になることは明白。
256 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 14:10:36.41
この手の新技術は別の研究グループによる再チェックが不可欠
日本社会は再チェックを嫌うけど、それが近道で、学術発展の王道
257 :
ローガン:2013/03/23(土) 15:35:25.46
>>253 >四期が100年遡り。五期も100年遡り、庄内期も100年遡った。
貴方は
「従来から云う弥生時代とはBC300〜AD300である。それを5つの様式に等分して編年した。
1996年を画期とし、W様式末が100年上がった。それを定点とし、5等分された様式全てが同様に、100年遡上した。」こう思っているじゃない?だとしたら、間違い。
貴方が資料して挙げたサイトにある都出案にしても、X様式の幅を広げてあり、下限が100年遡上するようには考えていない。
又、庄内を弥生とみるか古墳時代とするかは、人により違う。都出氏は庄内式弥生派だ。
で、寺澤氏云うところの布留0は、庄内式。実年代250〜280年としたら、庄内式弥生派にいわせれば3世紀後期後半は弥生時代なんだ。
従来からの認識となにほども変わらない。
258 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:04:46.68
>>256 普通の感覚からすれば、年輪年代を根拠にして突然のように年代が100年
遡ったわけだから、ちゃんと説明しろってことになる。
なのに、光谷さんは年輪のパターンを公開しない。
これって、俺の出した年代を素直に信じればいいんだと言うことになる。
普通は信じないな。畿内説の考古学者はどうしてこれを信じたのか。
どうして、疑問を提起する人がいなかったのか。それが問題。
259 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:09:12.69
>>257 だから、畿内説の邪馬台国の候補地が唐古・鍵から纏向に移ったのは
どうしてか。昔から纏向が候補地というわけではなかっただろうに。
少なくとも、吉野ヶ里遺跡が発表された1991年当時は唐古・鍵が
畿内説の候補地だった。年代が繰り上げられたのは確かだろう。
>>256 だから再チェックすればいい。
誰もするなと言ってない。
>>258 一部公開してるでしょ。
また地道に年輪資料を集め、
研究する人には公開してるみたいだよ。
大河内さんとはほとんど同じパターンだったと聞いた。
だいたい年輪研究をやらない人間に何で全部公開しないといけないのだろう。
ただ粗探しをしたいだけだと思うが。
261 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:11:32.24
商業・営業ならともかく
学術論議に置いて、公開しないパターンデータなるものはなかったことと同じ。信じる方が#$%&(’)@¥−
263 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:34:03.05
>>262 その図の二つの年輪パターンが一致していると言うのか?
とても一致しているようには見えないがね。
264 :
ローガン:2013/03/23(土) 16:56:07.77
>>259 >少なくとも、吉野ヶ里遺跡が発表された1991年当時は唐古・鍵が畿内説の候補地だった。
何でやねん(笑)
1980年既に、纏向の他に類例を見ない搬入土器の多さについて、桜井教育委員会が発表している。
庄内式の期間が形式変化の多さにより、想定されていたより長くなった(7〜80年?)
てのもあるのでは?
結果的に弥生後期が三世紀に入り込む余地がなくなった。
C14と年輪くらいしか暦年代を推定する方法が今のところない。
まずこれが前提。
まあ、池上曽根の貨泉とかはあるが。
旧来の暦年代にしがみつくならまずその根拠を示さないと。
>>263 一致してると思うけど。
な、予想通りおまえみたいなヤツがでてくるだろ。
267 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 19:32:07.60
およそ7〜8年周期で現れる大波には合ってるが、その間の小波の方に合っていない
もちろん大波のほうには合わせやすい、
そしてこの大きな影響を数学的にキャンセルし、
残りの小波の方にもPLSかなんかで確認しながら合わせる必要あり
何偉そうに理屈こいてるんだよ。
てめぇは年輪一つ測定した事ないくせに。
269 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 20:47:11.35
何偉そうに理屈こいてるんだよ。
てめぇは年輪一つ測定した事ないくせに。
270 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 20:57:52.71
271 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:25:00.08
>>264 ローガンて何にも知らないんだな。
そして、以前の本筋の考えを知らず、キワモノ説だけを信じ込んでいる。
唐古・鍵も各地の土器が見られると宣伝されていた。
ついでに言えば、池上・曽根遺跡では建物の柱が東西か南北か知らないが、整然と
並んでいると宣伝されていた。これも纏向と同じ。まあ、考古学の発掘で
わかることといえばこの程度のものなのだが。
唐古・鍵からは鉄器が出てこない。それどころか、まだ石器を作り続けていた。
王らしき特権階級の存在も見られない。
吉野ヶ里遺跡と比べるとあまりにもみすぼらしい。だから、纏向に傾かざるを
得なかった。そういう人たちがいることは、昭和50年代から知られている。
奥野正男氏は、昭和58年の「邪馬台国発掘」の中で、三角縁神獣鏡を中心とした
畿内説の理論はやがて破綻する。その破綻を繕うものとして古墳時代の開始時期を
卑弥呼の時代まで繰り上げる運動が始まるだろう、といっている。
異端的な動きはいつの時代でもあるもの。ローガンは異端しか見ていない。
272 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:31:51.94
>>270 もしそうならば、楽しみだな。東北大学ならきちんと公表してくれるだろう。
光谷パターンも検証してくれるかもしれない。
ざっと調べたが、年輪年代について研究してるのは、
東北大学以外にも、北海道大学、福島大学、信州大学、
鳴門教育大学、静岡大学、宇都宮大学、京都大学、九州大学…うわ沢山あるw
274 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:39:47.46
>>273 そりゃあ、あるだろう。昔からたくさんの人が研究している。
しかし、日本の場合、気候が複雑でなかなかできなかった。
ちょっと場所が異なると、年輪の出来方が異なるというのではパターン化が
難しい。それを私は出来ました、といったのが光谷拓実氏だった。
>>274 >ちょっと場所が異なると、年輪の出来方が異なるというのではパターン化が
>難しい。それを私は出来ました、といったのが光谷拓実氏だった。
畿内の寺院や遺跡の木は当然地元産だろうな。
だから何?
東北大学では年輪による地域の特定も可能になるとしている。
何も問題なし。
276 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:33:54.29
考古学者がつくった土俵の上で相撲を取って
一儲けたくらんだのが東遷説の大家・安●
客の方ばかり向いているうちに
考古学者達は新しい土俵を造って取り組みを始めていた
自分では新しい土俵を造ろうとせず
移動していった考古学者に向かって
罵詈雑言を浴びせかけ続けるのが安●
>>271 > 異端的な動きはいつの時代でもあるもの。
なんだ、判ってんじゃないか。
そう、今の畿内説は当時の異端説の系譜なんだよ。
異端が主流を、批判、検証して、それを凌駕し、新しい主流になったのさ。
貴方の難クセの内容(伝世鏡論とか、古くは南は東がナンタラとか・・・本来は旧主流派に対して向けるべきもの。
それを、かっての異端派、現主流派に向けて言われても「今頃、何を言ってんだかw」と言う視線しか返ってこないよ。
まあ、某サイト主宰者の手法が、貴方の難クセの付けかたにそっくりだから、
毎日、毎日、そこを見つめて、独りで「そうだ、そうだ」とにんまりしていないさい。
278 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 01:42:59.80
279 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 02:13:17.51
>>276-277 基本的な問題点は、
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html にもあるように、
紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の
前半と出ました。当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理という
考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法で
得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。
にもかかわらず、なぜ、池上・曽根遺跡でいっせいに傾いたのか、ということ。
不信感を抱くことなく、年輪年代を完璧に信じたのはどういう理由かということ。
ちなみに、私には「安本」のレッテル張りは全く通用しませんので、あしからず。
>>247で示されている1985年の白石論文の発表後、
90年代前半には古墳時代の開始は3世紀後半だという説が主流となっていた
例えば70年代後半には古墳時代4世紀開始説に与していた都出比呂志は
93年の『新版 古代の日本』1古代史総論の「巨大古墳の時代」において
古墳の出現は3世紀の後半とはっきりと記述している
(だいたい白石論文が専門家のみならず上級アマチュアへ向けた講座本に掲載されているという時点で
その主張が当時の学界において既に受け入れられつつあったという証拠にもなるのだが)
池上曽根の年輪年代法による暦年代見直しはその後のはなし(1996年)
ここで暴れている東遷説厨はその暇があるのなら図書館へ行って専門書を熟読し、
時系列的に研究史をまとめるという作業をするべき
>>279 >>231に端的にまとめられている
なお、池上曽根でいっせいに傾いたというのは間違い
発表直後には寺澤薫などは純粋に考古学的に年代を決めるべきだと主張し
ほかにも疑義を表明した研究者はすくなからずいたよ
それでも、水面下で大きなうねりとなりつつあった主張と合致したことと
その後の年輪年代法の成果が蓄積されても不整合な点がなかったことで
主流派となった訳で、すぐに手のひらが返ったわけじゃないよ
282 :
281:2013/03/24(日) 02:58:53.42
ちょっと誤解を招く書き方だった
実際には、
多くの研究者がおかしいんじゃね?と思っていたところへの決定打という感じ
やっぱりじゃん!みたいなね
283 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 03:46:08.39
>>281 つか年輪年代の最大の問題はいまだに根拠が一切提示されていないことだろ。
測定グラフも標準グラフも公開されていない。
もう10年以上もだぜ。いくら何でも怪しすぎる。
俺はそんなものは最初から存在しない可能性が高いと思っている。
寺沢がダメ出ししたのは、そんな根拠不明なものに手を出すなという理由だろ。
純粋に考古学的とかそんな理由ではない。
石野もそれに同意して年輪年代には一切言及しなくなったし、これに追随する学者も
増えてきて、最近はこっちが趨勢になった。
284 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 03:59:38.56
>>280 白石は今は古墳の出現は2世紀後半と主張しているだろ。
そりゃ4世紀開始説から見れば、3世紀後半は大幅な遡上で当時はムリ筋感が
かなりあった。それ以上の遡上は無謀だった。
しかし、曽根池上が出てきて、地滑り的に3世紀前半になりさらに2世紀後半に
まで突き進んだ。
はたから見れば3世紀後半以降は恥知らずの放蕩としか見えないが、少しでも
とっかかりがあればその都度遡上してきたのが畿内説の歴史だ。
>白石は今は古墳の出現は2世紀後半と主張しているだろ。
すまんがそうした主張が書かれている文献を提示してもらえないか?
石野博信ならいざしらず白石がそうした主張をしたとは聞いたことがない
>そりゃ4世紀開始説から見れば、3世紀後半は大幅な遡上で当時はムリ筋感が
>かなりあった。それ以上の遡上は無謀だった。
無理にしったかぶるなよw
お前さんが当時の学界の研究状況を全く理解できていないことは過去ログみれば明らかだぞ
>はたから見れば3世紀後半以降は恥知らずの放蕩としか見えないが
だから図書館行って専門書を読めよ
こちらから見れば、新たな根拠すらあげずに問題ありありだった旧年代観へ戻れという方が
恥知らずにしか見えないのだがな
あと追加な
>測定グラフも標準グラフも公開されていない。
研究者が地道に何十年もかかって作り上げた成果を見せろとかアホか?
検証云々いうのなら、成果であるグラフを見たって意味がない
見せろというなら、標準グラフの基になった年輪の方だろ?
ホントに受け売りばっかりで薄っぺらな思考しかできないんだなw
287 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 07:46:02.67
研究者が研究成果を、論文として発表しないで、
なにをするの?
普通はその論文を読んで、他の研究者が同じ成果を出せるかを、
追試できるように論文を書く。
追試できない、または同じ結果がでない場合は、
研究成果としては、評価価値が下がる。
つまり、旧来の無根拠の実年代(当時の考古学の主流)
に寄りかかって書かれた安本の東遷説が、昨今の遡上した実年代では成り立たなくなった。
困った安本は「畿内説の陰謀」とかアレなことを言い出してw
色んな屁理屈をこねてはC14と年輪の揚げ足取りに終始しているのが現状w
で、このスレの考古学アレルギーの人がそんな安本ホームページを見て、
そのまま書き写しているというw
なんかまあ、ネットで拾える知識だけでは偏ってしまうという見本だな。
ネット右翼とかにならないでくれよw
安本の、甘木市と奈良の地名類似発見は、当時はセンセーショナルだったんだよね。
本も売れまくってたように思う。
しかし、考古学の主流が変わって暦年代が変わって、
安本の邪馬台国東遷説は成り立たなくなった。
安本は傍から見たら取り憑かれたような
バッシングを繰り返してるんだけどwそれは単に自説に都合が悪いから。
そもそも安本が準拠してた旧来の実年代って、今から考えるとかなりいい加減なんだよ。
なのに安本はこれにはまったく無批判で、頭から受け入れてる。
単に安本が本を書いた時の考古学の主流というだけの理由で。
そのことに対する後ろめたさか、安本が言ってるのが「畿内説の捏造」w
考古学アレルギーの人は「考古学」「捏造」とかでググって安本ホームページを見つけたんだろうけどさw
年輪、C14とかのがマシだと思うよ、普通の頭をしてればw
>>287 >追試できない、または同じ結果がでない場合は、
>研究成果としては、評価価値が下がる。
だからね。
同じ結果がでるかどうか追試やればいいだけ。
それをやるには光谷氏からデータの元になった木株でも借りて地道に研究していくしかないわけ。
そんなこと誰もやらない。
やらないやつが追試が大事とか言ってるこの矛盾。
>>278 東北大学は2000年間の標準パターンを作ったらしいよ。
ただし東日本の木だが。
重要なものなら、あちこちで追試され、様々に使われる。
やってないなら、やるのが困難な理由があるか、
価値があるものと見なされていないと言うことだろう。
そんな消えていく研究は山のようにある。
>>292 今までのレス読んでる?
消えるどころか各大学で研究されてて、
東北大学では「東日本を中心に過去2000年間の標準年輪曲線構築に目途が立った」
ということなのだが。
294 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 10:53:29.42
■ドラえもん募金が北朝鮮の核開発に使われている件■
公益財団法人東日本大震災復興支援財団 ← NPO支援組織、孫正義40億円募金団体
●登壇者一覧(50音順・敬称略):(※)
荒井優(公益財団法人東日本大震災復興支援財団 専務理事) ← ソフトバンク
大西健丞(シビックフォース代表理事) ← 日本赤軍関係者、ドラえもん募金詐欺
駒崎弘樹(フローレンス) ← NHK委員
吉岡達也(ピースボート共同代表) ← 日本赤軍、北朝鮮関係組織
555 :名無しさん@13周年[]:2013/03/13(水) 04:00:23.96 ID:nSHtnY4c0
>>470 ドラえもん募金の約9割を大西健丞氏のNGO経由で北朝鮮に送金ってどう思います?
●【テレビ朝日】ドラえもん募金の約9割を大西健丞氏のNGO経由で北朝鮮に送金か。
「テレビ朝日では、平成16年12月28日から平成17年1月31日まで 「ドラえもん募金スマトラ沖大地震被災者支援」
を行ってまいりました。 皆様から寄せられた善意の募金88,760,300円にテレビ朝日からの寄付金2,500,000円を加
え、 募金総額は91,260,300円となりました。 この結果、寄付先と金額は下記の通りとなりました。
募金総額 91,260,300円
AMDA 3,000,000円 3.28%
日本ユニセフ協会 3,000,000円 3.28%
日本赤十字社 3,000,000円 3.28%
ピース・ウィンズ・ジャパン 82,260,300円 90.13% ← 要注目 大西健丞
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1451772389
295 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 11:53:16.28
>>293 >過去2000年間の標準年輪曲線構築に目途が立った
標準年輪曲線だって。なんだそれは?
こいつ知ったかぶりのモグリだな。
気候条件によって年輪の間隔(年輪幅)が変わるというのが年輪年代法の基礎なんだが、年輪幅の変化
パターンを比較して一致すれば同じ年代に生育した樹木とするものである。年輪曲線とは1年輪の描く
丸い図形じゃないか。用語の使い方も知らないで大きな顔をするな。
296 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 12:11:49.65
年輪幅の変化をグラフ化したもんじゃねーの?
いやまあ、C14や年輪年代否定、
「百年遡上は畿内説捏造!」の輩は自分の信じる暦年代の根拠を述べてくれ給え。
話はそれから。
最後は、やはり暦年代は文献じゃないと確定できない、とか言ってトンズラだろうな。
299 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 12:45:34.63
>>297 アホか?
C14や年輪年代法による実年代についての結果が信じられるか否かを議論しているのに、これまでに
発表されたC14や年輪年代法による結果が正しいという論証を避けてどうするのだ?
>>299 え?w
従来の考古学では暦年代がなかなか分からなかったけど、
C14や年輪のお陰で漸く分かってきた。
が正しいスタンスだよ?w
反論があるならまずその根拠を出さなきゃw
301 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 13:09:43.63
>>300 >従来の考古学では暦年代がなかなか分からなかったけど、
>C14や年輪のお陰で漸く分かってきた。
>が正しいスタンスだよ?w
どこまでもアホだな君は。何が正しいスタンスだ。それは君の願望的見解に過ぎん。
ところで、東北大学には農学部も無く林学関係の学科もない。樹木の生理や組織構造に詳しい専門家
はいるのか?
それに、標本木の出所や本数など標準パターンの作成に必要な条件を満たしているのか?
302 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 13:16:13.26
>>301 いや、だからさあw
話を逸らさずに、君の信じる実年代観の根拠を述べてみてよw
早く早くw
>>295 >年輪曲線とは1年輪の描く丸い図形じゃないか
しったかはおまえ。w
年輪幅の平均をパターン化したもの。
年輪年代で検索してると、
かならず目に付くのが光谷氏のは時代は100年ずれてるという鷲崎という人。
100年ずれてるのなら纏向石塚は4世紀からか?
祟神天皇陵の行燈山か西殿塚と変わらなくなってくる。
まぁとんでもない人だな。
例えば池上曽根の貨泉が弥生後期の土器と一緒に出てきてた。
貨泉を作った新は短い王朝で、時代特定の指標になる。
普通なら弥生後期を西暦一世紀とするのが妥当だろう。
しかし旧来の実年代に拘る人は、貨泉が百年大事に保管された後、埋納されたとする。
馬鹿にしてる伝世鏡と同じ理屈を自分で言ってしまっているという馬鹿らしさw
そうだな
例えば安もの先生は三角縁魏鏡説を目の敵にするけど
自身が立脚する古墳時代4世紀開始説は三角縁魏鏡説に拠っているものなんだとかw
都合のいいところだけ見て、その学説の論理的構造を全く見ていないw
確かホケノ山の出土物をC14で計測したら4世紀中期で、
外の周溝から出たのが5世紀以降とされる馬具だったはず。
で、C14は日本では合わないとか色々と言われてた。
一見すると科学的に見える年輪年代で、
3世紀中期となったもんだから、年輪年代が一躍脚光を浴びた。
しかし、年輪年代は今のところ、三谷氏恣意的な操作が排除できないので、元データを公表してくれ、との意見が出て現在に至る。
というわけで、年輪とC14では、同じ科学的手法といっても、
かなり信頼性が違う。
色々と言われるが、一度C14だけで再編年してみるべきだろう。
むしろ、土器や年輪をそれに合わせるべきである。
C14は、太陽活動の放射線量の変化で、
何箇所かC14の生成量が逆転しているところがあり、
そういうところは正確には計測できない。
土器や年輪の編年は、そういうところに使用するに留めるべきだろう。
ついでにC14は、奈良時代の建築物など、
年代がわかっているものに対しては、
日本でもかなり正確に一致することは、確認されている。
従って、それ以前のものに対しても、
特に日本特有の修正を行う必要はないはずである。
>>308 トンデモ系、アンチ系のサイトからの聞きかじり、見かじりとしか思えない、
それも中途半端な理解で且つうろ覚えの文言を羅列しただけになってるよ。
精一杯の頑張りで、息も絶え絶えになって書込んでるんだろうけどね。
> 確かホケノ山の出土物をC14で計測したら4世紀中期で、
> 外の周溝から出たのが5世紀以降とされる馬具だったはず。
>
> で、C14は日本では合わないとか色々と言われてた。
>
> 一見すると科学的に見える年輪年代で、
> 3世紀中期となったもんだから、年輪年代が一躍脚光を浴びた。
>
> しかし、年輪年代は今のところ、三谷氏恣意的な操作が排除できないので、元データを公表してくれ、との意見が出て現在に至る。
>
> というわけで、年輪とC14では、同じ科学的手法といっても、
> かなり信頼性が違う。
まあ、わかってる人間にはあくびが出るような、
話しなのは確かだな。
それを繰り返したまでのこと。
313 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 16:08:23.55
314 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 16:28:13.97
むしろ、まだ評価が固まっていない年輪年代と、
C14炭素年代法を一緒にすんなや。
>>314 年輪年代法とC14炭素年代法の関係は以下のようなもの。
> C14炭素年代法の較正曲線を得るために、
> 年輪年代法で正確に年代の決まった資料からデータを取る。
> 遺物から(十分な)年輪を得られない場合に、C14炭素年代法で年代を推定する。
ちなみに海外でも年輪年代法のデータを出さないと批判されるケースが多々見られる。
データを出さないのは、年輪の欠けている年代を推定で埋めていたり、
あまり合致しない年輪を無理に重ねあわせていたり、自信のないケースが多い。
要するに賛同より批判が多いことが推定できるから公開しない。
C14と年輪は補完関係にある。
どっちかだけじゃダメ。
勝山で埋設状況からおおよそ同時に捨てられたと考えられるヒノキ材が
年輪年代法だと伐採時がAD198+1, AD131, AD129, AD103とばらついていることをどう考えるか。
318 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 17:55:12.97
邪馬台国東遷説に凝り固まった亡霊=安本。
本人も流石に無理だと思い始めているが、
今更自説を全て無かったことには出来ないというw
甘木朝倉の地名一致も斉明帝の時の名残りだろうし。
一応死ぬまで認めないというスタンスなんだろうけど。
今となっては、畿内説のアンチテーゼくらいの意味合いしかない。
安本の最後の寄る辺は記紀の神武東征伝承か。
ホアカリ馬鹿とか考古アレルギーの人と同じ発想。
わざわざ記紀で嘘を書く筈がない(爆)
321 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 01:57:56.22
ホケノはもうだめポだろww
堂の後古墳の周壕を、ホケノの周壕が潰しているが、堂の後は500年頃の古墳だよ。
どうみてもホケノは500年頃以降だろ
ホケノから出た年代の分かる埋葬跡も500年前後だよ。これをホケノが作られてから
2〜3世紀後の追葬という、「ありえない特殊な例外」でごまかすのももう限界だよ。
ホケノから出た銅矢じりだって類似品は500年頃からしか出ない。
もう「ホケノ最古論」なんて茶番に付き合うのは嫌だという学者も出てきたww
この状況を知らぬふりして、茶番を続けるのは無理がある。
322 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 02:05:04.67
>>295 逆に言うと、これまでの研究成果は存在しないという前提なんだよなあ。
結果の年代以外は、一切公表されることのない研究成果だが。
本当に基準グラフなんて存在するのかね?
またひとつ覚えの堂の後古墳ネタかよ
いまその問題のボールは天理大学考古学研究会がもっている
反論を促すメールでもおくったらどうだいw
324 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 03:43:10.27
今の段階では、年輪年代法は話半分で、
そんなネタもある、という程度に深入りしないのが吉。
325 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:12:45.77
828 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:16:00.58 ID:pUByzXYn
キャーッ 3年ぶりだって
【社会】 "偽名で宿泊容疑" 革マル派幹部3人を逮捕…大阪府警・警視庁
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362365622/ 50 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:05:55.31 ID:iWyU+OZf0
革マルアジト摘発は「3年ぶり」だと
さっきTBSで言ってた
59 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:08:41.93 ID:pFeC4OeP0 [2/2]
>>50 wwwやっぱり!!!
67 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:22.29 ID:Ki8Dbsot0
>>50 わかりやすいねぇw
民主に投票した馬鹿は腹を切れ。
69 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:39.44 ID:OhEOkH090
>>50 3年ぶり・・・・・・・・・・・あっ!w
326 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:25:25.55
>>262 つか、これって「こんな感じでちゃんとやっているんだ」というアリバイ作りだろw
実際のグラフの詳細は一切明かされていない。
和田家の屋根裏の門外不出の古文書とやらに基づいてわめいていた連中と同じ。
だから、畿内説でもまっとうな学者はこれを無視するようになった。
この種の資料を無視することは学者としての最低限のモラルだよ。
327 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:36:12.78
年輪年代法のネタ、知ってるだけでも4〜5回は繰り返してるな
328 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:44:55.33
つか、今でも年輪年代を絶対視している学者っているのか?
三角縁からフェードアウトした学者もそうだが、奴らはやばそうになると
距離を取りたがるよな。
>>321 > もう「ホケノ最古論」なんて茶番に付き合うのは嫌だという学者も出てきたww
ホケノ最古論?
いったい誰の説だw
オマエの説かwww
330 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:09:16.66
三角縁神獣鏡、纏向、箸墓古墳、ホケノ山古墳、年輪年代。
畿内説の年代いじりはもう神の手の域に達している。
>>329 昨日言ったことでも都合が悪くなれば知らん顔というのが畿内説らしい。
C14に必要なのは年輪が示す順番であって、
年輪の幅ではない。
ホケノ最古論はねえよな。
4世紀以降だから。
332 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:05:06.56
>>320 日本にはその時代を代表する権力者がいたが、天皇を除いて全て
消え去っている。どうして天皇だけが現在までも存続しているのか。
それは天皇が古くから神格化された存在だったからである。
地域のごちゃごちゃした争いの中から生まれた権力はこういう神性を持たない。
それは神武東征のような出来事から生まれる。
遠来の天孫だからこそ、神性を持ち得たのである。
いやまあ、年輪とC14は概ね合致してて。
だから古墳時代開始が三世紀初頭あたり、てのが主流になったと。
それを覆すような根拠なんて皆無。まあそれくらい古代の実年代の推測は難しい。
だから考古学は土器編年で語られるのが主流だった。
334 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 10:10:00.24
一番根拠が無い土器編年で語られてもなあ。
335 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:25:52.96
ここまで古墳時代開始4世紀説の根拠は全く語られていないがな
吉本興業
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 60,000 株 12.13%
日本テレビ放送網株式会社 40,000 株 8.09%
株式会社TBS テレビ 40,000 株 8.09%
株式会社テレビ朝日 40,000 株 8.09%
大成土地株式会社 40,000 株 8.09%
京楽産業.株式会社 40,000 株 8.09%
BM 総研株式会社(ソフトバンク子会社) 30,000 株 6.07%
株式会社テレビ東京 20,000 株 4.04%
株式会社電通 20,000 株 4.04%
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐ ┃
┃│.ワイプ.│ テロップ.. ┃
┃│ 画面 │ テロップ.. ┃
┃└───┘ ┃ <ナレ:次の瞬間! と、そのとき!
┃ 【やらせ・ステマ垂れ流し】 ┃
┃ ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃ 流れるテロップ・・・・ ┃ どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
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>>335 いやまあ、根拠なんてないからw
昔の偉い先生が言ってたから間違いないとかw
昔は根拠の無いいい加減な暦年代しか無理だったから、
土器編年による前後関係しか分からなかった。
338 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:43:23.87
前方後円墳の始まりは那珂八幡古墳だろ。
那珂八幡はたしか布留0だろ?
なんで畿内系土器があるのだ?
340 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 09:41:38.85
だいたい古墳時代以前の遺跡みたいのでてないんだろ
その時点でな〜、普通に森林とか山対称の自然信仰でしょ
341 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 11:01:09.44
畿内系土器と言うけれど畿内で生まれたものとは証明できないだろ。
>畿内系土器と言うけれど畿内で生まれたものとは証明できないだろ。
畿内弥生土器をベースにし発展した物が庄内や布留という土師器。
庄内式土器が九州発祥というトンデモさんがけっこう多い。
安本もそんな事言ってた。
あきらめなさい。
343 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:28:40.86
西新式は福岡オリジナルじゃなかろうか?
344 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:07:56.95
>畿内弥生土器をベースにし発展した物が庄内や布留という土師器。
畿内弥生土器を作っていたところに新しい焼成技術が入ってきたんじゃないの。
345 :
ローガン:2013/03/27(水) 16:17:07.78
>>271 >奥野正男氏は、昭和58年の「邪馬台国発掘」の中で、三角縁神獣鏡を中心とした畿内説の理論はやがて破綻する。その破綻を繕うものとして古墳時代の開始時期を卑弥呼の時代まで繰り上げる運動が始まるだろう、といっている。
おやおや、最後のページだけ読んで悦に入っているのかね。では、そのトンデモ本の紹介だ。
この筆者は、倭国大乱と中期末を結びつけた、既に提唱者本人が撤回した編年案を、「主に近畿の研究者から……実年代が示されている」とし、
九州の実年代、原ノ辻上層の貨泉を根拠に弥生後期前半を紀元50〜100年と述べる。
以下コピー
●考古学界での実年代観のズレは、両者に百年近い開きがあるため、近年、その調整が試みられ、九州原ノ辻上層(後期初頭〜中葉)と畿内第W様式(中期末)を併行とみる編年案が示されてもいる。
しかし、このように調整してみたところで、実年代観をどちらかに統一しない限り、年代上にズレは元のままである。
むしろ、この調整で併行とされた九州・畿内の両時期に、鉄器の普及状態に大差があるという事実こそ、鉄器がその時期の生産力や軍事力に大きなかかわりをもつだけに、倭国の大乱にも無関係ではありえない。(邪馬台国発掘P.108)
コピー終わり
で、あろうことか、この筆者は、原ノ辻上層と畿内第W様式の併行という新たな編年案を首肯しつつ、
驚いたことに第W様式=倭国大乱をちゃっかりいただいてるのである。
そこで、原ノ辻上層の鉄器の多さを倭国大乱と結びつけ、中期末の他地域の鉄器の少なさとの比較から「倭国大乱」を説明しようとしている。
「実年代観をどちらかに統一しない限り、年代上にズレは元のままである。」
この統一に際し、貨泉を根拠とした九州の年代観を棄て、提唱者本人が既に撤回した佐原編年を採用。
奥野氏は、どうやら銅鏡の伝世は一切認めないが、貨泉は100年伝世しても知らぬ顔のようだ。(笑)
346 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 16:38:28.14
いま不思議に思ったんだが、
推古天皇や聖徳太子の飛鳥朝関係の墳墓って、
前方後円墳が殆ど無いんだな。
古墳時代終末期なんで、統一が崩れ始めているのかな?
誤解を恐れずに簡単に言ってしまうと
古墳時代終末期=大王墳が方墳に変化
だよ
>>346 考え方にもよるが、逆に中央の規制が働いた結果と見られることが多い。
前方後円墳がこっちで廃絶、あっちで継続、っていうんではなくて、
西暦600年頃にほぼピタッと築造が止んでいる。
しかも古墳後期という時代は、大型の墳丘(中期に比べればかなり小型だが)を造れる人が限られて、
むしろ豪族の集約化が進んだと考えられる時期。
あとは横穴式石室の盛行も影響してるでしょうね。前方部があまり意味を持たなくなる。
方墳の王陵への採用を主導したのはおそらく蘇我馬子。本人も含めて蘇我系の大王は50m級の方墳に葬られる。
一方で蘇我氏と直接関係の無い王系の墓と考えられるものには円墳が多い。
そしてさらに集約(集権)化がなされたのが、舒明陵以降畿内に数例見られる数十m級の八角墳であり、
規模だけでなく墓の表象からも、大王の特別化が進んでいったと考えられる。
>>344 >畿内弥生土器を作っていたところに新しい焼成技術が入ってきたんじゃないの。
焼成技術の問題ではなく、従来の畿内弥生土器に、小形器台・小形丸底鉢が出現成立する段階をもって庄内式土器の始まりとする。
布留式というのは小型精製三種(小形器台・小形丸底鉢・小形丸底壷)とよばれる土器の成立。
布留0式は、その小型精製三種のうち、小形丸底鉢がまだ定式化してない段階。
>>346 仏教の渡来と前方後円墳の造営停止はけっして無縁ではないだろうね。
貨泉が流通したのは短期間だから、実年代推定の確かな手掛かりになる。
倭奴国王が後漢の光武帝に遣使してることからも、
新が滅びたことを倭人が知らない筈がない。
発掘された貨泉をみればわかるが、
デザインや、鋳込みの精度が違うものが、
それも非常に多く出ている。
複製品が作られ、出回っていたとすれば、
年代に使えるかどうかは怪しい。
また通貨は状況が許せば、非常に長期間使われ続ける傾向にある。
ローマ時代の貨幣が18世紀まで使われていたところもあるそうである。
いやまあ、新が短期間で滅びてるのに、
有り難がって貨泉の複製品まで造るとかないでしょうw
新の成立後も五朱銭が使い続けられ、使用禁止令が発せられるくらい。
後漢で五朱銭が復活、鋳造されてるのに、
わざわざ嫌われ銅貨の貨泉を百年も大事に保蔵する理由がない。
354 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 07:42:08.84
貨泉をありがたがると言うよりは、
一種の偽造じゃね?
現代ですら、
法律が無ければ(もしくは法律が効かないなら)
偽造紙幣が多く出回るだろうな
いや、だから、短期間で滅んだ新の貨幣を、誰が好き好んで偽造なんかする?
ということだ。
もし偽造されたとすれば、新がまだ健在だった頃だろう。
どこの王朝のオリジナルデザインであろうが、
流通して機能しているという事実が重大であって、
現実に「使える通貨」なら、後代になっても偽造は止まない
358 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:05:32.58
貨泉廃止の際に余った貨泉を銅原料として、日本人がもらってきた可能性もあるな。
359 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:09:16.72
日本の貨泉が出土した遺跡は、弥生から鎌倉、室町時代まで、
範囲が広い。
360 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:14:46.59
日本の貨泉の出土する遺跡の年代で、
一番新しいのが14世紀あたりらしい。
いやまあ、貨泉が鎌倉時代やら現在も持ってる人がいるから、
その時代が西暦一世紀になるの?のと同じでw
一部の特殊事例を持ち出して、煙に巻こうとしてるのかな?w
どの時代のどの遺跡で集中的に見つかってるか?を冷静に考えないとw
北部九州の弥生後期だろ。
貨泉が北部九州で百年保存された上で一斉に埋納され出したという主張は、
君たちが嫌いな伝世鏡とまったく同じ理屈なんだが。
鏡みたいな威信財ならともかく、貨幣を伝世?
なぜか実際流通してた頃と同時代の遺跡からは出土例がなく、
百年後の遺跡から出てくるのか?
それはその暦年代が間違えてるからだよw
363 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:48:01.37
まあ、通貨なんてのは、長く使い続けられるということだ。
中央では入れ替わっても、地方で長く使い続けられることは、
いくらでもあることだろう。
14世紀に出てきたということは、それに近い時代まで、
まだ使い続けられていたと見て良い。
364 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:51:59.89
貨泉の出てきた遺跡50箇所中、14箇所が中世(鎌倉室町)
の判定になっている。
一つの遺跡が縄文から中世まで層を持って重なっていることも、
少なくないので、同時に弥生時代層と中世層の両方から出土する例もある
貨泉は弥生期の遺跡に見つかってるのが重要だろ。
岡山や河内のは間違いなく弥生期のものだし。
中国人が北部九州から瀬戸内を目指していたのは間違いないぞ。
366 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:56:13.42
中世に大量に銅銭を輸入した時期がある。
そのころに、中国のもう使わない銅銭をかき集めて、
日本に売っぱらったのかもしれない。
どちらにせよ、中央で使われなくなっても、
中国全土ですぐに消え去ることはありえない。
367 :
ローガン:2013/03/28(木) 15:51:43.22
私が
>>345で言わんとした事は
1983年以前に、旧佐原編年を否とし、原ノ辻上層をW期併行とみる編年案つまり、W期の実年代を1世紀に充てる編年が出されている。
奥野氏はこれを逆手にとり…、畿内考古学者は原ノ辻上層はW様式併行という。W様式とは倭国大乱頃の土器様式だというのは以前からの考古学界の通説。
ゆえ、考古学者は原ノ辻上層とは倭国大乱時の遺跡と主張している…という馬鹿げた理路に基づき、畿内説批判をしたつもりになっている。
少し読めば誰でも気付く欺瞞だ。そんなトンデモ本を、あたかも正論のごとく吹聴する
>>271に代表される東遷説とやらの幼稚さ。
貨泉も弥生中期以前の土器編年で出てくれさえすれば、
100年のズレも解消されるのだがw
昔は、大陸遺物が多い九州の暦年代と、佐原などの畿内の暦年代が百年ズレてる
と言われてて。で、C14と年輪で漸く九州のが正しいと証明されたという流れ。
いい加減、考古学アレルギーの人も認めた方がいいよw
何かまあ、考古学に恨みがあって、
「考古学なんて無価値」と言いたいみたいだが。
邪馬台国九州論は考古学の進歩によって否定されるようになった
九州信者は考古学に恨みあるからぜったい認めないとw
370 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 13:20:28.83
ある遺跡から貨泉が出てきてわかることは、
その遺跡が西暦8年以降14世紀の範囲内にあるということだけである。
372 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:19:26.39
貨泉が貨幣のような役割をしていたなら、長く持ち続ける可能性がある。
持ち続けるというか、流通し続けるというか。転々と渡るというわけで。
鏡の場合は、同じ人の持ち物である可能性が高いので、墓に入れることになる。
373 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:36:03.84
>>367 ローガンて、吉野ヶ里遺跡が発表された時どう思った?
年代的な疑問を持ったのかという意味なのだが。
374 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:42:28.70
>>369 考古学の進歩で三角縁神獣鏡魏説は破綻したのかな。
だったら、畿内説の破綻だろう。
考古学の何で、畿内説が成立するんだ。
桃の種か。鯖の骨か。
375 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:55:17.80
畿内考古学の三角縁神獣鏡魏鏡説を振り返ってみるといい。
卑弥呼の時代に日本に渡った可能性のあるのは、内行花文鏡や方格規矩四神鏡。
王仲殊氏はそう言っている。しかし、これらの出土はほとんど九州。
畿内説が三角縁神獣鏡を持ち出したのは、単に近畿地方に多く分布するからに
ほかならない。中国から一枚も出ないといえば、特鋳したのだという。
500枚も出土しているといえば、ほかにも朝貢したという。
年代が合わないといえば、「伝世鏡理論」ということになった。
椿井大塚山古墳の出土状況は公開されない。
黒塚古墳で三角縁神獣鏡は、棺を囲む葬具であることがわかる。
バリが付いたまま収められていたこともわかる。画文帯神獣鏡のほうが明らかに
重視されている。椿井大塚山古墳もこんな状況だったのだろう。
卑弥呼の鏡説は完全に破綻する。
結局、何十年にも論争した挙句に消滅。インターネットで検索しても畿内説の主張は
出てこない。
376 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:06:37.15
箸墓も同じ。もともとは中期の古墳だったのだが、特殊器台形の埴輪を
根拠に年代が遡る。古墳の編年を変える。なんだかんだでの年代合わせ。
そして、年代が合うから卑弥呼の墓だという。
大きさや形が違うといえば、前方部が後から付け足されたという。
発掘調査も、立ち入りさえ出来ないのに「卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳」と
宣伝しまくる。
挙句に、やはり無理があることがわかり、卑弥呼の墓を主張するのはごくわずか
な人だけになってしまった。
こんなことばかり経験していたら、考古学が信頼できるなんてどうして言えるのは
不思議でならない。
うん、うん、まったくその通りだな
てか、王仲珠は三角縁を卑弥呼の時代の中国の工人の手によるものと言っていたが。
で、呉の工人が倭国に渡来して作ったのが三角縁という説。
当時の倭国で作られた鏡とは明らかに技術の精度が違う。
379 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:18:26.31
纏向も同じ。
最初に問題提起したのは、
1996年4月27日付け朝刊各紙は、大阪府和泉市池上・曽根遺跡で検出された
弥生時代中期後半の巨大な東西棟持ち柱建物の柱の一つが、年輪年代測定に
よって紀元前52年に伐採されたものであることを一斉に報じた。以来、考古学に
よって築き上げてきた弥生時代中期の年代観が100年遡ったと、マスコミや
一般向け書籍などでキャンペーンがはられ…。
ということなのである。
考古学によって築きあげてきた弥生中期の年代観が100年遡った、というわけ
なのである。マスコミや出版業界を巻き込んでの大キャンペーンをしたのはなぜか。
結局、これにより、纏向の年代が卑弥呼時代に届いたとされ、邪馬台国の候補地と
なった。
年代観が変わったのは1996年であり、その根拠は年輪年代法だった。
いやだからさーw
考古学によって築き上げられてきた年代観とかーw
単に、倭国乱=弥生後期っていう思い込みだけなんだよ?w
何度も書いてるのに、頭大丈夫?w
自分に都合の悪い情報は頭に入らないという、
所謂アレな人なの?w
反論があるなら、さっさとその100年遡る前の暦年代の根拠を出してみてよw
381 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:53:57.54
>>378 呉の工人が日本に渡って、というのは、魏の可能性を否定する王仲殊氏独特
言い回しかもしれない。どう見ても、呉の系統の鏡ですよ、というわけで。
まあ、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言い出した人は本当に勇気のある人だと思う。
最もインパクトの有ったのは、歴博のC14判定による弥生開始500年遡上説発表だろう。
2003年のことだ。
これを境に、世間(つーか、マスコミ関係者)の認知が高まった。
383 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:06:06.81
>>380 個人的には、吉野ヶ里遺跡の「宮室、樓觀、城柵」がその根拠になると思う。
倭人伝に書かれているのは間違いなく卑弥呼時代。その倭人伝に書かれている
ものが出土している吉野ヶ里遺跡は3世紀前半で間違いない。
一方で、畿内説の主張する纏向からはそれが出てない。纏向を卑弥呼時代と
する根拠はない。吉野ヶ里遺跡が3世紀前半ならば、纏向は300年前後か。
今度はそちらが年代の根拠を言いなさい。
本当に邪馬台国に宮室・楼観・城柵があったことを証明できるかい?
吉野ヶ里以外の遺跡に宮室・楼観・城柵があるかもしれない可能性を否定できるのかい?
考古学者の主張を無視した時、吉野ヶ里の存在時期について何の根拠もなくなってしまうことに気付いてる?
君には歴史を語るセンスが欠けているようだね
385 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:33:59.14
>>384 邪馬台国のことを言っているんじゃなくて、吉野ヶ里遺跡のことを言っている。
吉野ヶ里の時代のことを言っている。わからないかな?
今まで言ってきた意味がわかっていないみたいだな。纏向は、三角縁神獣鏡であり、
箸墓古墳であると言っているのだが。
歴史的センスを語るなんて笑ってしまう。
考古学者は何を根拠に纏向を邪馬台国といっているのだろうか。
386 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:42:20.56
吉野ヶ里が邪馬台国と短絡するつもりはないが、
倭人伝と出土物では、一番邪馬台国に近い。
少なくとも邪馬台国に近い文化圏であるとは言えるだろう。
距離と方向が倭人伝とは一致していないので、
吉野ヶ里が邪馬台国であることには否定的だが、
畿内説論者が主張する、「距離と方向は信用出来ない」という説に立てば、
自動的に吉野ヶ里が邪馬台国の候補ということになる。
やっぱり歴史を語るセンスがないな
例えばセンスのある人間なら、
ソースの異なる伝聞情報からなる倭人伝に対して
>倭人伝に書かれているのは 間 違 い な く 卑弥呼時代
などと簡単に断定しないし
宮室・楼観・城柵が他の時代に存在する可能性を否定できない以上、
>吉野ヶ里遺跡は3世紀前半で間違いない
なんてアホなことはいわない
388 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 01:07:47.68
これは、いつもの、「倭人伝は信用出来ない」ネタかな?
389 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 01:30:44.76
>>383 >吉野ヶ里遺跡が3世紀前半ならば、纏向は300年前後か。
応神天皇が4世紀後半でほぼ確定。
祟神天皇が4世紀前後でほぼ確定。
その祟神天皇陵墓が行燈山か西殿塚でほぼ確定。
ならばそれ以前の墓が多くある纏向遺跡が何で300年前後になるのだ?
しかし九州説の連中ってみみっちいなぁw
391 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 07:26:28.48
そういえば、記紀では景行天皇が2世紀だが、
景行天皇陵は4世紀から5世紀と比定されてたな。
「倭人伝の記述が吉野ヶ里に似ているから、倭人伝の時代の遺跡に間違いない」ですかw
その訳の分からん理屈と、年輪やらC14、貨泉などの物的証拠とどっちが説得力があるか?だよなw
393 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:17:20.20
吉野ケ里からも貨泉出てるしな。
まあ、吉野ケ里は邪馬台国よりは古い時代だろうが、
ある程度古くから栄えてた集落からは、貨泉の一つくらいでても、
何ら不思議ではない。
倭人伝が根拠にしろ、宮室・楼観・城柵の六文字で妄想し過ぎだろw
まあ確かに倭人伝のこの部分は弥生由来の環濠集落を描写してるように、
一見見えるかもしれない。しかしよく読むと、
むしろ卑弥呼は市井に交わらず、千人のハシタメにかしづかれ、
衛兵に守られて生活してると書かれている。
環濠集落みたく、卑弥呼は一般人と一緒に生活していた訳ではない。
これは弥生環濠集落のことではなく、首長権力確立後の豪族居館の記述と見るのが正解。
大きな塚を作る、とか、倭人伝の記述は弥生ではなく、
すでに古墳時代に入ってると考えるべきだろう。
395 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:23:30.55
貨泉は中国大陸との交易の有無を論ずる材料であって、
年代を決めるための材料として使われる例はない。
貨泉は新の時代の西暦8年から23年まで作られたそうだが、
貨泉が出てきたから、その間の時代だとは、誰も論じていない。
もともと北部九州が大陸と交易をしていたのは明確だが、
畿内で大陸まで交易していないのではないか、という話。
北部九州では、鉄は当時朝鮮半島から輸入していたと考えられるが、
畿内では鉄は非常に少なく、輸入していなかった。
つまり交易していなかった可能性が高いからである。
396 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:32:55.66
自己レスで追加
>貨泉は新の時代の西暦8年から23年まで作られたそうだが、
>貨泉が出てきたから、その間の時代だとは、誰も論じていない。
当然だが、通貨なんてものは、一旦流通すれば、非常に長期間使われ続け、
当時では偽造の意識すらなかったかもしれないが、銅を入手でき、製造する技術があれば、
当然複製品を制作しただろう。
ましてや、その当時の新は非常に混乱していたそうである。
そんな状況では、貨泉を年代決定に使えないことは明白であり、
そんなことをやっている例はあい。
【大泉五十・貨泉】
平成13年8月に出土した中国の古代貨幣「大泉五十」は、「新」を建国した王莽(おうもう)(紀元前45〜紀元23年)の時代に初めて鋳造された青銅貨幣。
大きさは現在の500円硬貨と同じくらいで中央は四角な穴があいている。国内では福岡市の鴻臚館跡でも見つかっているのでこれは2例目である。
貨泉も「新」時代、紀元14年に王莽によって鋳造された貨幣で、昭和26年の調査でも出土している。
最近では吉野ヶ里でも出土しており、発行期間が短いため弥生時代の暦年を特定する基準とされる。
これらの貨幣の出土は、原の辻遺跡が大陸との交流地点であったことを証明している。
九州の遺跡の年代観も出鱈目ということか
398 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:21:32.27
399 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:26:49.46
貨泉は西暦8年から23年に作られたとされているが、
貨泉が出てきた遺跡を、全てその年代の一世紀前半に収めるとすれば、
すべての遺跡の推定年代が崩壊するのは、当然のことであろう。
たぶん、そんな馬鹿なことはどこの遺跡でもしていない。
これでわかるのは、上限が西暦8年より、遡らないということだけである。
400 :
ローガン:2013/03/30(土) 10:28:54.41
>>395 >年代を決めるための材料として使われる例はない。
じゃあ、その材料とやらは何?
>北部九州では、鉄は当時朝鮮半島から輸入していたと考えられるが、
ではその「当時」と決めた年代の根拠 その材料は何? 答えられるかな?
401 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:42:09.28
変な日本語の設問だな。
貨泉が、同じ重さの銅と同じ価値を持つだけなら、
均衡してながい期間流通していた可能性もあるな
403 :
ローガン:2013/03/30(土) 10:59:39.67
ごめん。言い方を替えよう。
「当時」とある以上、書き手は原ノ辻上層に対し、ある実年代をあてている。
その実年代とは何年頃の事か?又、その根拠は何か?
404 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:09:55.42
>>403 >「当時」とある以上、書き手は原ノ辻上層に対し、ある実年代をあてている。
知っているだけでも九州だけで24箇所以上、貨泉が出土しているわけだが、
原ノ辻と特定し、他の資料を使わずに、実年代を当てていると考える理由は何か?
ローガン詐欺っぽい匂いがしてきたぞ。
>>383 > 個人的には、吉野ヶ里遺跡の「宮室、樓觀、城柵」がその根拠になると思う。
> 倭人伝に書かれているのは間違いなく卑弥呼時代。その倭人伝に書かれている
> ものが出土している吉野ヶ里遺跡は3世紀前半で間違いない。
「宮室」とは王宮の意だろうから、吉野ヶ里で言うと南内郭の中に有る竪穴住居の一つがそれなんだろうね。
「樓觀」とは物見やぐらのことだろう、これは・・・遺跡公園を造る上で、シンボリックなモニュメントになるので、
三内丸山とか、唐古とか、縄文、弥生を問わず、あちこちの遺跡で「復元」展示されてるよね。
と言うわけで、以上の二点は、時代も地域も問わず存在することから、吉野ヶ里の実年代判定の根拠にならない。
「城柵」・・・これが一番のポイント、ただの柵じゃなくて、城柵だからね。
この場合は、柵は内側とセットで「城」を形成して、初めて「城柵」と呼べるわけだ。
じゃ、内側には何が必要か、柵で守るべきものだから、倭人伝の場合なら、卑弥呼の宮室だろう。
王様が居た竪穴式住居を囲う柵でも「城柵」と表記されるだろうが、別に他の建物でも同じことだ。
と為れば、これも、別に吉野ヶ里じゃなくても、どこでも、何時の時代でも存在するもので、特別な設備では無い。
よって、「吉野ヶ里遺跡は3世紀前半で間違いない」と言える判断の根拠にはなり得ない。
吉野ヶ里の特筆される点は、大掛かりなムラと言うか、クニと言うか、
そう言うものが、丸ごとずっぽり残っていたことであって、パーツの一つ一つは、普遍的なものが多いんだよね。
407 :
ローガン:2013/03/30(土) 11:45:20.48
>>404 >原ノ辻と特定し、他の資料を使わずに、実年代を当てていると考える理由は何か?
後期初頭がおさえられるからに決まっているやん。
で君の云う「当時」とやらは何年頃の事? その根拠は何?
408 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:01:29.86
>>406 倭人伝の記述は、「常有人持兵守衞」(常に人あり。武器を持ち守衛す)と続く。
城柵と合わせ、警備が厳重な環濠集落が連想される。
しかし、畿内説の年代観では、卑弥呼時代には吉野ヶ里を含め、
環濠集落は存在しないとされる。
そこには、纏向の状況と合わせ、大きな矛盾がある。纏向には倭人伝の記述を
思わせるようなものが出土していない。
それにしても、畿内説は人には年代観の説明をさせるが、勝手に変えて置きながら
自分たちの年代観を説明することはないな。
>>407 「当時」なんて言葉に食いついて、ひたすら根拠を要求して、
破綻したように見せかけるディベートのテクニックがあるけど、
そんな姑息な手を使わないで、
自分で理由を出して、否定するなりしたらどうかな?
自分が根拠を出したら、そこを突っ込まれるから出さないんだろうけど。
だからローガン詐欺と呼ばれるんだよ。
>>408 環濠集落ではなく、豪族居館。
卑弥呼は環濠集落みたいに一般ピープルとは一緒に生活してないよ。
>>408 > 倭人伝の記述は、「常有人持兵守衞」(常に人あり。武器を持ち守衛す)と続く。
> 城柵と合わせ、警備が厳重な環濠集落が連想される。
「環濠集落」だと、何故に有人警備が「厳重」と言うことのなるの?
宮室には守衛さんを常置していると言う文章だ。
別に集落の形態を問うような話では無いでしょう。
倭人伝を読むと吉野ヶ里の風景が「連想」されるのでは無くて、
逆に吉野ヶ里の風景に合わせて、倭人伝の文章を読むと、と言うところでしょうかね。
まあ、実年代については、C14でも、年輪年代でも、指標遺物を基にした交差編年でも、
とにかく、科学的な実証を積み重ねて行くしかないでしょう。
ただ、旧来の畿内説の年代観を打破したのは、新しい畿内説、畿内説内部の論争で変わったことなんで、
もともと立ち位置の違う九州説さんに絡まれても、論点がかみ合わないんだよね。
なので、旧纏向スレからの伝統で、ここでは邪馬台国の位置論争は論点からはずすべきでしょう。
あくまでも、ここでのテーマは、弥生時代から古墳時代への転機が何か、と言うことで論じましょうよ。
412 :
ローガン:2013/03/30(土) 13:49:55.87
>>409 >「当時」なんて言葉に食いついて、ひたすら根拠を要求して破綻したように見せかける
破綻してないなら、根拠の提示出来るだろうに。しかし一向に出てこない。
実年代の根拠無しに「北部九州では、鉄は当時朝鮮半島から輸入していたと考えられるが、」なんて書けば、misleadの誹りを受けて当然。
>そんな姑息な手を使わないで、自分で理由を出して、否定するなりしたらどうかな?
何ら、根拠を示されないものに対して どのように「理由を出して、否定」すれば良いのかな?
提唱者本人が撤回した旧編年にすがりついているだけかい?
なら、佐原氏がとらえた倭国大乱に、準拠せねばならん。九州内に留まらない広域が「倭国」だ。
でなければ単なるチェリーピッキング。
てか、宮室楼観城柵はあっても肝心の環濠の記述が無いんじゃないの?
倭人伝を読んで「僕はこう読んだ!」が実年代の根拠とかw
お前、年輪とかC14を研究してる人に謝れw
414 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 14:32:58.01
根拠なるものがそこいらに落っこちてて、それをひろってくるのなら、こんな楽なことはないさ
弥生の鉄産業については新しい課題、
これまで見つかっても、鉄か!、こんなんどこにでもあるさ
とかいって埋め戻しちゃったなんてのもあるらしい
まず仮説あり → その根拠発掘あり → 次考察仮説あり → 次根拠発掘あり→ 次考察仮説あり・・・、多くはこんなぐあいさ。
レスを目にするたび根拠、根拠、根拠と性急にやりこめるだけでは良いけっかにはならぬ、
重要な根拠はすぐ出てくるわけでない
2ちゃんといえど、じっくりゆっくり丁寧に、役立つ議論、進歩する議論に育てなくてはならぬ
>>412 元は貨泉の話で、一世紀初期に貨泉が作られた。
このころは弥生中期から後期で、「当時」鉄が輸入されていた。
弥生中期から後期に、九州では鉄が大量に出土するわけだが、
この「当時」にそもそも実年代の根拠が必要なの?
ローガンが食いついている意味がよくわからない。
鉄の出土時期が、弥生中後期って認識が、
なにか間違っていたのかと考えて、
さっとぐぐってみたが、概ね間違っては居ないようだ。
というか、大量に鉄が出てくる吉野ヶ里がそもそも弥生中期と言われている。
場所によっては弥生早期と判定される遺跡にも鉄器が出て、
その頃には半島でも鉄はまだ作っていないので、謎らしい。
>>414 まあ、年輪やC14の根拠を求めて散々ディスっておきながら、
自分の実年代観の根拠を求められると、
「僕は倭人伝をこう読んだ」だからなw
天に唾するとはこのことだw
「考古学で築き上げられてきた実年代」とか言うからーw
もうちょっとまともなの期待したんだけどw酷すぎるw
>>412 疑問を持つのは大事だが、「弥生期に鉄を朝鮮半島から輸入している」
という部分に食いつくのはなぜ?
ほとんど常識の範囲内だったよ。
420 :
ローガン:2013/03/30(土) 16:25:51.79
>>415 >元は貨泉の話で、
そう。
>>345だ。
九州と畿内の併行をとらえた新しい編年案を肯定しつつ、30年近く前に撤回された旧編年の、都合の良いところを採用している80年代のトンデモ本の紹介だ。
>一世紀初期に貨泉が作られた。このころは弥生中期から後期で、「当時」鉄が輸入されていた。
なら、認識が共有出来る。「このころ=貨泉の作られた頃」だ。通常、よほどの根拠が無い限り1世代程度の伝世を考えるのが常識。
W期末は2世紀にかからない。
>弥生中期から後期に、九州では鉄が大量に出土するわけだが、この「当時」にそもそも実年代の根拠が必要なの?
だから、併行関係から北部九州での鉄器急増の時期は畿内W期あたりになるんだ。
奈具岡もW期だ。又、X期の石器激減は、鉄器の普及を考えないと説明出来ない。
加えて、鴨都波や纏向…護岸関連の木製品制作 X期に鉄器の浸透を考えるのが妥当。
勿論、W期末X期初頭とは、1世紀の話。
貨泉は、開始時期はかなり明確に決定できるが、
終了時期が決定できないのは、今までに書いたとおり。
いつまで使われたかは分からない。
無理に終了時期を決定してないかな?
422 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:49:42.00
>>416 熊本県玉名市の斉藤山遺跡の鉄斧、福岡県曲り田遺跡の鉄片は、縄文時代に
届くかも、とも言われる。
歴博のC14ように弥生開始を紀元前10世紀とすれば、中国より早いといわれるな。
423 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:52:08.16
年代の捏造は畿内説の常套手段、年代をいじくらないものはないといえる。
424 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:57:06.63
>>417 倭人伝の記述が一番年代が確実なんだよ。年号が書かれている。
少しは纏向について考えてみろよ。何の根拠もないだろう。
桃の種や鯖の骨で満足しているのか?
あきれるほど何もない。よその批判なんかしている場合じゃないだろう。
>>424 年号がって・・・・突然何をw
スレの流れを読んでますか?
別に倭人伝に出てくる年号の検証をしてるわけじゃないでしょう。
>>422 結果としてそうなったなら、それはそれでいいんじゃね?
海洋民族の活動範囲で捉えるならそれでもいいと思うが。
427 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:20:20.96
>>425 スレの流れを読んでいないのはそっちだろうに。
もともと、吉野ヶ里遺跡は卑弥呼時代を含んでいるとされた。だから、吉野ヶ里遺跡が
発表された時には、倭人伝に書かれている「宮室、樓觀、城柵」の跡が出土して
いるから邪馬台国だとも言われた。
ところが、1996年あたりに、畿内説は、年輪年代を根拠にして畿内四様式を
100年古くする。ついでに、庄内期も100年古くなり、吉野ヶ里は、卑弥呼時代には
廃絶していたと畿内説は主張した。代わりに、纏向が卑弥呼時代に重なり、
邪馬台国だと主張するようになった。
では、倭人伝に書かれた「宮室、樓觀、城柵」はどうなるのか。纏向では出ていない。
郡使はいったいどこで「宮室、樓觀、城柵」を見たのか、という話なのだよ。
年輪年代をどういう理由で採用したのか、なぜ、庄内期までもが古くなったのかと
いうことなのだよ。
今までのやり取りは、無かったことにして、全てリセット、最初に戻るのねw
まさに無限ループだね。
429 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 22:05:52.07
>>428 誰も答えていない。もう一度質問するから答えてくれ。
郡使はいったいどこで「宮室、樓觀、城柵」を見たのか?
年輪年代をどういう理由で採用したのか。なぜ、庄内期まで古くなったのか。
430 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 22:06:18.56
// ̄~`i ゝ `l |
/ / ,______ ,_____ ________ | | ____ TM
| | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>>
\ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~
`、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
ヽヽ___// 日本
______________ __
|街宣右翼の正体 朝鮮人工作員 .| |検索|
「昔の偉い先生が言ったら正しい」とかさーw
大事なのは「誰が言ったか?」ではなく、
「なぜそのような実年代」と推定されたのか?の理屈だよ?
例え偉い先生が言ったとしても、根拠があやふやなら
是正されるべきだし。
倭国乱の実体がどんなものかも分からないのに、
いきなり弥生後期の石鏃の巨大化に当てはめられてもなw
残念ながらキミの言ってる漢字六文字が根拠ってのも
児戯にも劣るというか。学会どころか一般でも全く相手にされない。
根拠薄弱過ぎw
で、年輪やC14には根拠根拠と言うw
頭大丈夫か?w
>>429 だから豪族居館だって言ってるじゃん。
まあ、濠の記述が無いから環濠集落ではないのは確か。
まあ、俺の解釈が絶対正しいとかは言わないが(馬鹿ではないので)、
このように二千字足らずの倭人伝は如何様にでも解釈出来てしまうということ。
そんなことで強弁されても戸惑うしか出来ないw
>>429 >郡使はいったいどこで「宮室、樓觀、城柵」を見たのか?
倭人伝のどこにも郡使が見たとは書いてないな
434 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 07:06:44.49
>>429 今風にいえば倭人伝は、政府発行の「政治経済白書」のようなもの
すべからく政府見解の形式であり、誰彼が見たなどとは書くはずもない
環濠集落って2世紀後半あたりには無くなってるから、
邪馬台国の時代には当然ないだろう。
城柵ぐらいはあったかもしれないが、
見つかってないから「ない」、
だから邪馬台国では「ない」は乱暴な議論だ。
>>435 環濠集落がなくなったという二世紀後半って、
土器編年で言えばどのあたりになるのかな?
437 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 07:53:35.88
>>429 倭人伝に書かれた「宮室、樓觀、城柵」は九州・筑紫城にある
その筑紫城は末蘆国・古松浦港から南2000里だ
>>436 庄内より前だろうね。弥生Xあたりじゃないの。
>>438 「畿内説が無理やり百年遡上させた」とか言ってた人とは別人なんだね。
紛らわしいなw
>>439 考古学的に九州説なんて成り立ちようもないのだから、
そんな人はごく少数でしょ。
とはいえ、俺は畿内説だが、纏向遺跡は邪馬台国ではないと思うがね。
>>440 いや、ヒラバルとかあるから九州説は可能性0ではないだろ。
東海や吉備くらいには可能性がある。
邪馬台国東遷説がないだけ。
>>434 >今風にいえば倭人伝は、政府発行の「政治経済白書」のようなもの
>すべからく政府見解の形式であり、誰彼が見たなどとは書くはずもない
三國志の成り立ちについてものすごく誤解してる悪寒
>>440 考古学的には九州説成り立たない は完全同意
さらに「不確かな魏志倭人伝の記述にあれこれ理屈つけて自分の都合の良いように解釈」
する論者からも完全に一線を引いている
極論すると魏志倭人伝以外にはどこにも出てこない「邪馬台国」wというへんな名称も
スルーしてプレヤマト王権なり初期ヤマト王権というとらえ方になってきた
444 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:09:57.12
445 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:12:41.81
卑弥呼の祭殿、宮殿と電波を飛ばしていた纏向の某は4世紀の遺構で切断されていたでしょ?
446 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:16:13.11
まあ、畿内説は、素人目にもありえないような三角縁神獣鏡を持ち出して
これは卑弥呼の鏡だ、だから、邪馬台国は畿内だと主張した。
こんな馬鹿げた説で、専門家が数十年も論争した。
結局、三角縁神獣鏡魏鏡説は破綻したが、畿内説は全く反省していないから、
同じ事を繰り返す。馬鹿な支持者が繰り返させているともいえるな。
447 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:17:21.17
>>442 東夷伝が国史では具合がわるいかw、そうだろうな、東夷と定義された畿内人にとってはな。
九州人もまとめて東夷ですが…
449 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:20:33.19
まこと畿内論者のすることは、贔屓の引き倒し。
九州論者の方々はせいぜい おらが故郷の「邪馬台国w」を妄想して
しあわせになって下さい
451 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:24:35.08
九州人は自ら東夷と心得ておる。
畿内人のように頭が高くないからな。ゆえに倭国邪馬台国は九州であることを歓迎する。
西服‘衆夷’六十六國 東征‘毛人’五十五國 渡平‘海北’九十五國
>>446 鏡なんか持ち出さなくても、
中国製の小札革綴冑が、
3世紀後半から4世紀前半までの古墳で10数例発見されてるが、
九州の石塚山古墳の1例を除いて、全て畿内の古墳だ。
これは3世紀後半の朝貢(おそらくトヨの時代)が、
「畿内勢力を中心」に成された事を意味する。
したがって九州説、撃沈w
石塚山を含め、畿内型の殆どは石室がある。
倭人伝は石室なし。
終了
455 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:42:53.08
>>453 それこそ邪馬台国・卑弥呼外交による対中貿易で輸入したもの
>>447 まさか編纂開始の詔勅とかが残っているとか言うのか
457 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:47:14.69
>>456 意味がよくわからんな?
魏王朝の高級官僚・サカイヤタイチあたりが勝手に書いたとでもいいたいのか
>>457 編者は判っている。
もちろんサカイヤと言う人では無い。
”国史”と言うコトバをどう言う風に定義して使ってるのか興味があってね。
459 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:56:48.18
460 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:05:04.77
国史における第三国の記述は非常に参考になるが、
国史における自国の記述ほどアテにならんものはない。
自己正当化、自画自賛、隠蔽の山。
三國志は正史として編纂されたもんじゃないんだが…
462 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:15:17.86
魏誌のいわゆるヤマタイなる者也
せいぜい魏朝と共に消えた小国、偉大なる大和王権としてはほっとけばよろしい
>>454 倭人伝の信憑性なんて60%もないでしょ。
だいたい縄文時代から靴があるのに倭人は素足って書かれてるし。
ましてや石室があるかないかなんて中国人らしく適当な記述w
464 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:29:22.21
倭人伝は信頼性がないと言いながら、
邪馬台国の名前だけ欲しがる畿内説。
倭人伝が信頼出来ないなら、邪馬台国も卑弥呼も放棄すればいいのに。
466 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:36:20.18
信憑性に欠けても名前だけはほしいか、ニセでもブランドほすい畿内説ww
>>457 > 魏王朝の高級官僚・サカイヤタイチあたりが勝手に書いたとでもいいたいのか
この書き方じゃ、「国史」をどう言う意味で使っているのかわからんな。
日本書紀のように詔勅に基づき編纂したものか、吾妻鏡のように任意に編纂したものなのか。
ストレートな返しが来ないところ勘繰れば、最初のレスのときと、現在ではニュアンスを変えたいと言うことかなw
>>464 わかった、邪馬台国はキミにアゲるから、余計な書き込みはしない出ていってくれ。
ここは、もともとヤマタイスレじゃないんだからさ。
469 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:52:07.39
>>469 うん、都合つーか、じゃまなんだが、それはどうでもいいよ。
まあ、とにかく
>>1をよく読んで、スレ違いの書込みは遠慮してくれ。
471 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:03:15.12
邪馬台国、卑弥呼、トヨ、魏志倭人伝を話題に出さないという、
ローカルルールでも作るべきかもね。
箸中山の話は除外できないだろうけど、卑弥呼の話題は要らないよな。
九州スレでも相手にされないような、つまり、”ネタ無し”のかまってちゃんが、
ここに迷い込んで来るのは困ったもんだ。
そう言う人用のスレッドは、幾つも有るのに、たまたま、ここがアガってると目に付いちゃうのかな。
スレタイは、もっと検討しないといけないかもな。
話題の幅が広がり過ぎになるかもしれないけど、
ここは、弥生は捨てて、古墳時代に特化したタイトルの方が紛れが無くてよいか。
畿内説憎しの考古学アレルギーの人は、まともに議論出来ないしw
実年代なんて、なかなか分かるもんじゃなくて、
それが漸く分かってきて、昔の年代観が見直されたと何度説明しても、
「畿内説の捏造」しか言わないからなw
要は倭人伝も使い方というか。
倭人伝は解釈によって千変万化するから、
あくまで軸足は考古学に置いた上で、邪馬台国の時代を語る、
ってのがこのスレだったと思うがな。
せっかく暦年代が分かってきてるのに、倭人伝を排除するのは勿体無さ過ぎ。
倭人伝を都合よく千変万化させるから、
捏造とされるのではなかろうか?
477 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:41:56.56
畿内説は、何もかも都合の良いように変えたがるのが多いからねえ。
考古学による検証って刑事事件の法医学や科学捜査と似てるところあるな
とくに初期ヤマト王権あたりは 考古学的な考察による細かい状況証拠の積み重ねから
全体像を描く って感じだね
もちろん決定的証拠はないから反論はいくらでも出来るが
最低限考古学的見地から反対意見を言わないと意味ない
479 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:50:01.36
畿内説は頭が高い、
倭人伝に畿内のことが書いてあると思うのが問題の発端
倭種なのに、ニセでもいいからブランド買って、ねえ、ねえ、ねえ。
>>478 そう、ベースは細かい作業の積み重ね(文献でも同じかもしれんがw)だからね。
俺たちは、そう言う作業の成果だけをネットで頂いて、あれやこれや言って楽しむ。
文献のACADEMIA SINICAや青空文庫みたいな、考古版の使えるデータベースが欲しい。
481 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 15:46:30.99
>>474 実際の年代がわかるのは文献だけ。
文献の年代に合わせようと、考古学的なものに年代を持ち込んだのは畿内説。
その年代観の説明を求めても全く説明しないのも畿内説。
俺たちは正しい、間違っているのはお前たちの一点張り。もう、宗教だ。
だから応神天皇4世紀後半、祟神天皇4世紀前後は定点なのだから、
纏向遺跡は3世紀代になるのは必然。
女々しいのう九州説はwww
483 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 20:40:24.58
>>482 九州説にとっては願ったり叶ったりの定点だな。
祟神天皇は神武天皇の分身、邪馬台国と巻向は一時期並立していたと考えるとなにかと都合がいいんだ。
最近の東遷説は、神武じゃなくて崇神東遷なのかw
祟神天皇は神武天皇の分身なんて古臭い考えは勝手だが、
掖上(腋上)の柏原、
本間丘(ホホマ丘)、
秋津など記紀ゆかりの地名が御所にある以上、
神武は御所近辺に宮を構えたと考えるのが合理的。
したがって桜井に宮を構えた祟神とは別人。
486 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 22:10:11.90
>>485 分身でなくてもいい、
爺〜兄弟〜孫あたりの親族か、それとも養子か、とにかく隣り合わせにはならないものかねえ
487 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 22:36:39.30
>>485(つづき)
九州説の都合で言えば、
書紀にある神武天皇の橿原宮即位(紀元前660年・辛酉)が、実は西暦301年・辛酉あたりであったなら、万事、丸く収まるのだが・・、という次第。
神武帝の次代が崇神帝だよ
>>487 干支はむしろ古事記の方が信頼できる。
たとえば古事記では祟神の没年干支を戊寅としてるが、
その前後の天皇の没年干支は記されてない。
記憶でききれなかったから書かれてないわけで、
何でもかんでも強引に書いてる書紀は逆に信用できない。
490 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 23:20:58.31
>>487 辛酉の年というのは、意味のある干支なので、その年に合わせて大事が
起こったことにした。なので、辛酉の干支はあまり現実味がないと思う。
>>481 文献だけで語りたいなら、邪馬台国は弥生時代のどこの遺跡とかも語れなくなるよ?
弥生時代って考古学の名称だから。ちゃんと分かってる?
492 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 04:28:32.19
5世紀以前となると、文字の記録自体が行われた可能性が低いのだが、
口伝口揺で、干支まで意識していたのかどうか。
むしろ、口伝口揺では干支が唯一の年月記録かもしれない。
493 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 14:40:48.31
<日立金属・たたらの話>
>日本書紀に神武(じんむ)天皇のお后になる媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)のお名前が出て来ます。
>蹈鞴と書いてたたらと読ませていますが、蹈鞴は踏みふいごのことです。
>この姫は出雲の神、事代主命(ことしろぬしのみこと)の姫と言われ、
>我が国の鉄の主要な産地となる出雲の姫の名前に蹈鞴がついていることは非常に興味がありますね。
只の政争にあらず、ヤマト王権成立の前後、古墳黎明期の巻向あたりでなにがおきたのか?
しかし 可笑しなのばっかし湧いてきよるの〜 おまえらええ加減にさらせよ〜
やっぱりスレタイ元に戻したら?
495 :
ローガン:2013/04/01(月) 20:45:57.71
>>471氏の言い分
>邪馬台国、卑弥呼、トヨ、魏志倭人伝を話題に出さないという、ローカルルールでも作るべきかもね。
わからんでもないが
>>1 に「伊都国主導というのも有力説ですし、」とあるので排除すべきではないような…
お茶の水の青木先生も、「文献あっての考古学」と言ってた
勿論、他スレとの軸足の違いを、住人が尊重すべきだとは思うが。
496 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 21:42:38.95
ローカルルールについては、あってもなくてもどっちでもいいけど、
邪馬台国の話題を出したら、間違いなく今までと同じパターンになっちゃうとおもうよ。
纏向遺跡は邪馬台国の遺跡ではないかと言われてるのだから、
邪馬台国の話が出るのは当然のこと。
纏向遺跡=邪馬台国説は橿原考古研でも複数の研究者が支持してると聞いた。
俺は違うと思うけど…
498 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:06:15.50
まあ、畿内説だけは容認するんだろうが、畿内説の宣伝みたいな書き込みや
九州説批判とかがあると呼び込むことになってしまう。
そうでなかったら、ここに来る人はいないだろう。
他にスレはいっぱいあるわけだし。
考古学の見地に立ったら、ヒラバルなんて邪馬台国の候補地の一つになると思うが。
畿内王権とは明らかに異質な葬送儀礼を行っている。
あとはまあ、吉備の楯築か東海の朝日遺跡あたり。
↑ コイツ バカ アホマヌケ
>>492 > 5世紀以前となると、文字の記録自体が行われた可能性が低いのだが、
> 口伝口揺で、干支まで意識していたのかどうか。
>
> むしろ、口伝口揺では干支が唯一の年月記録かもしれない。
干支が紀年表記に用いられるのは、けっこう後代。
早くて周代、広まったのは漢代。
いずれにしろ暦法がベースになっています。
口伝でも暦は伝わるとは思うけど、定着するのはやはり文字記録が普及してからだと思う。
502 :
ローガン:2013/04/03(水) 00:57:16.18
あ、同意します。
文字ベースの共通認識がある上での口伝でしょう。
例えが適切かどうか別として…姉三六角蛸錦みたいな。
>>499 平原は伊都国でほぼ決まりでそ。
邪馬台国にするのは無理がある。
いい加減九州説の人は九州スレに帰って
行程パズルと漢字の語呂合わせしてなよ
まあ確かにヒラバルが伊都国なのは通説なんだけどね。
ただ倭人伝の伊都国の記述を読む限り、世々王が女王国に統属すとか、
戸数が千余戸しかないとか
卑弥呼が一大率を置いたとかの記述がしっくりこない。
ヒラバルの王の葬送儀礼は畿内とは一線を画してる(超巨大国産鏡とか)。
その後、畿内王権の葬送儀礼を採り入れた形跡もない。
畿内王権と一定距離を保っていたのではないか?
三雲の出土品を見る限り、奴国二万戸の二十分の一の人口の小国とは思えない。
かなり先の話になるが筑紫君磐井が大和に反旗を翻すが、
彼の勢力圏の筑後〜肥後にかけてあたりが邪馬台国と見る可能性はないかな?
卑弥呼とは火の巫女で阿蘇山の神女。
南の熊襲が狗奴国で、常に小競り合いを繰り返していたと。
>>505 >畿内とは一線を
三世紀になれば御道具山古墳があるじゃないか。
507 :
日本@名無史さん:2013/04/07(日) 20:59:51.46
卑弥弓呼
509 :
日本@名無史さん:2013/04/08(月) 13:56:28.73
|: 民主党・元民主党議員に とどめを刺すのは :|
|: :|
|: /| ̄ ̄ ̄∧,,∧ あなたの一票です!! :|
|: /| ̄ ̄ ̄|..(ω・` ) :|
|: /| ̄ ̄ ̄|....|φ ∪ ) ∧,,∧ :|
|: | ̄ ̄ ̄|....|/ `u-u´ ( ) . :|
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|: || || (´・ω・) ∧,,∧ `u-u´ . :|
|: ( つロと) (´・ω・) :|
|: `u-u´ (∪ つロ____ :|
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|:┃ 選挙へ行こう!! ┃ | 投票箱 | | . :|
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総務省・中央選挙管理会・都道府県選挙管理委員会
春休みが終わって、急にひっそりしましたね。
ここはコテコテの畿内説の巣だと思うので質問。
騎馬民族征服王朝説についてどう思いますか?
江上波夫って、中期からの古墳の副葬品に急速に馬具が普及する
という考古学的観点からこの説を主張した。
ところが、この説を一番痛烈に批判したのは同じような考古学重視の考えの
邪馬台国畿内説の人達だったという落ちが付いている。
畿内説の人の基本な観点が良くわかるところだな。
四世紀末以降の大王権は、各地の首長に大陸から渡来品やら技術、
中国南朝から爵位をもらってやるという役割があったのだろう。
また実際に南下する高句麗と戦う中で、武具やら戦術の影響を受けたとか。
騎馬民族征服説とか持ち出さなくても、まともに考えればこうなる。
513 :
ローガン:2013/04/12(金) 16:02:32.18
>>511 短甲じゃ、馬に乗りにくいだろうに…
ちょっと考えたらわかりそうなことだ。
>>511 日本の乗馬用甲冑は大陸の物ではなく、
衝角付冑や眉庇付冑など日本のものに乗馬用・桂甲がセットになった状態。
つまり騎馬文化を日本風に消化したもの。
この時点で騎馬民族説は破綻。
そもそも騎馬民族って何よ?
遊牧民?
結局江波は最期までお茶を濁して明言しなかったよね
516 :
日本@名無史さん:2013/04/12(金) 17:57:30.94
>>516 俺の知ってる限り騎馬民族征服王朝説を最も痛烈に批判したのは九州説の安本だが。
日本書紀 巻第廿二 推古天皇 廿年春正月
摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩 多智奈羅麼 句禮能摩差比 倍之訶茂
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真さひ うべしかも
日本在来馬の染色体数はモウコノウマの子孫とされる2n=64ではなく、
西方系統の2n=66。
馬で思い出したが箸墓の周濠から布留1式とともに鐙が出土したが、
そんな古い時代の日本に馬はいないと九州説の反論にあった。
ところが同じく4世紀前半の秋津遺跡から祭祀用の馬の歯が出て、
やはり4世紀前半には馬がいたことが証明された。
マキムク成立期の葛城の動向は気になるところ。
中河内と奈良盆地東南部を結ぶのは大和川な訳で、
葛城地域の協力がなければマキムク王権は成り立たなかった筈。
神武やら欠史八代が葛城ゆかりとか、
サヌカイト利権で奈良盆地最初のオウだったとか。
522 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 01:13:59.93
>>517 つまり、畿内説の人は、おおむね騎馬民族征服説に好意的ということか?
523 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 01:38:40.44
基本的に考古学者は騎馬民族征服説に否定的だったろ
524 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 01:59:35.69
では、考古学者でない安本美典が一番批判していたと言ったやつは嘘つきか?
525 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 02:18:50.85
つまり、戦後、畿内説は東遷説を感情的に批判し続けてきた。その理由は皇国史観と
いうことだった。一方で、騎馬民族征服説も辛らつに批判している。
もちろん、騎馬民族征服説は皇国史観というわけではない。
ということは、東遷説を皇国史観ということで批判してきたのは単なる口実に
過ぎなかったのか、ということなのだ。
騎馬民族征服説は帝国史観だな。
関東軍の走狗として活動してた江上波夫の弁明。
日本だって東北アジアの征服者に支配されてできたんだ、日本が東北アジアを植民地して何が悪い!
俺は悪くねぇ!
そういった精神が、敗戦で正統性を失った民衆の心を癒した。
527 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 02:56:41.53
ま、史観なんてどうでも良い。事実の方が先にあるわけで、その事実を探るのが先。
○○史観だから、どうのこうの言うのは本末転倒。
だいたい畿内説の考古学なんてそんなに上等なものだとは思っていない。
三角縁神獣鏡を取り上げるまでもなく、纏向史観も怪しいものだ。
各地の土器があることから各地の豪族連合を導き出すのなんてすごいの一言。
しかも、ほとんど土器の見当たらない九州までちゃっかり一員に加えている。
ここまでくると神業か。まあ、神の手という人もいるわけだが。
>>524 騎馬民族説が正しいかどうかと、
邪馬台国がどこかとは関係ない。
九州説の安本が騎馬民族説を批判してるからといって、
「つまり、畿内説の人は、おおむね騎馬民族征服説に好意的ということか?」
と言ってる
>>522ってバカなのか?
東遷説なんて信奉してる時点で察してやれ
春休みが終わって、うっとうしい春厨が消えたら 今度は騎馬民族説の中二病の出現か。
だんだんレベルが下がってくる タスケテ〜
532 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 01:30:20.13
畿内説には骨のあるやつがいないから話にならん。
纏向から鯖の骨が見つかった時に、海に近いところからの献上品なんて
言っていたな。卑弥呼は鯖が好きなのか?あんな腐りやすい大衆魚ではなく、
タイくらい献上すればいいのにな。
まあ、畿内説の考古学ってのはほんと傑作だ。
記紀には、銅鐸が全く登場しない。高天原の記述には、天岩戸の前に
榊を立てて、鏡をつるした、なんてのが書かれている。つまり、銅鐸ではなく
矛(天沼矛なんてのもある)や剣や鏡が登場する。
という風に、皇室の祖先は、銅鐸文化圏を全く経ていないと言われる。
こんな風に、東遷説の根拠なんていっぱいある。
しかし、根拠はいっぱいあっても、認めなければ話にならないわけだが。
父親に似ていることを決して認めない娘もいるしな。
>>532 神武が九州南部から東征してきたことはその通りだろう。
また纏向地域の初期前方後円墳も、
鏡、玉、剣が埋葬され、鉄器が急激に増えるのだから、
北部九州勢力によるものだとも思ってる。
桜井茶臼山古墳の傍に宗像神社があるのも示唆的だ。
が、問題はその時期であって、
卑弥呼の時代にはすでに移住が終わってる。
つい最近まで筑紫の影響が過大評価されてて、
それが漸く適正な評価に戻ったという感じだが。
マキムクは筑紫単独でなく、吉備や東四国、播磨とかの影響も強く受けている。
むしろ筑紫は庄内瓶や方形周溝墓など畿内の影響を受けるようになっている。
三種の神器厨は、中間域での普及状況から目をそらしている。
鏡とか剣は、吉備や出雲から、玉はもともと畿内でもレガリアだったしな。
逆に筑紫名物の広型銅矛祭器なんかは、結局、最後まで畿内に届かなかった。
神武さんの遠征と言うのは、300年から600年くらいかかって成し遂げた成果だよ。
別に筑紫と畿内の関係だけ見なくても、
間に吉備があるのだし、その影響が大きいのは当然。
纏向遺跡の搬入土器でも北部九州系はわずかしか出てないらしいし。
>神武さんの遠征と言うのは、300年から600年くらいかかって成し遂げた成果だよ。
何でそんなにひねくれて考えるの?
神武は普通に来てるよ。
ホホマ丘、掖上、秋津、国見山など記紀ゆかりの地名が残る御所の柏原が都。
いまの橿原神宮ではない。
537 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 22:05:00.28
出雲には妻木晩田遺跡がある。吉野ヶ里の五倍とも言われる大集落遺跡だが、
鏡の破片が出ているくらいで、ほとんどめぼしいものは見られない。
弥生時代の鉄器はあるようだが、鉄製武器はないみたいだ。
要するに、九州の弥生遺跡とは異なる。
吉備のほうも、楯築遺跡ばかりが強調されるが、それ以前の墓制については
なかなかわからない。むしろ、楯築が突然変異の墳丘墓と考えたほうが
良いと思われる。
ということになると、楯築を起源という風に考えるよりも、楯築もどこかの
影響を強く受けたと考えたほうがつじつまが合う。もちろん九州の影響だが。
吉備楯築のマウンドは朝鮮半島とか大陸の影響だろう。
楯築以前の筑紫にそのようなマウンドは見当たらない。
あとまあ、神武東征伝承が眉唾なのは、江戸時代から言われてることで。
日向から畿内に至るまでは単なる行程記事で、
畿内に入ってから急にリアルな描写になる。
リアル部分は何らかの史実、奈良盆地の統一伝承みたいなのがあって、
それに基づいてるのかも?くらいかなあ。好意的に考えても。
せめてカシハラでなくマキムクで即位してたら少しは信憑性が増したかも?
541 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 22:46:41.70
熊野上陸あたりも眉唾?
神武東征ってようは九州にいた遠い昔のご先祖さま御一行(少数)の
苦労に満ちた新天地探しってだけだろ?
話の核となる部分以外は正直語る価値はないと思う
だって同時代の文献もおそらくろくになく、考古学的に東征を証明しようにもおそらくそれらしきもの
すらでてこないだろうし・・・
核となる部分は長いあいだ語り継がれ多分ホントのことだろう
ただそれ以上は求めるべきではないと思うそこで終わるべきだと最近思うようになってきたなあ・・・
本屋の棚にある無数の在野の自称研究者の電波説が書かれた本をみてると思うよ
・・・かえって人々の古代史への認識を歪めるだけだと思う
長々と書いちゃったけどさ
ようは自称「真実を求める者」の小遣い稼ぎのオリジナルストーリーはうんざりってことだな
これ以上人々を惑わせないで、どうぞ(懇願)
>>539 >吉備楯築のマウンドは朝鮮半島とか大陸の影響だろう。
吉備楯築以前、朝鮮半島にマウンドなんてないのだが。
東に奈良という良い土地があった。
風穏やかで湖沼が干上がり広々とした土地。
しかしそこは別に天下った者が治めているという。
弥生時代にそんなことをどれほど知り得たろうか。
古墳時代なら規格を持った古墳を作った所なら知り得たろう。
高句麗の積石塚を知らんのか?
吉備の楯築や出雲の西谷はおそらく同じ流れ。
筑紫の副葬品は豪華だが、大きな墳丘を造らないのとは一線を画してる。
>>546 吉備の楯築や出雲の西谷は積み石塚ではないよ。
あと高句麗の前方後円型積石塚は北朝鮮政府による嘘。
20年前、朝日というバカ新聞が北朝鮮政府の言うままに垂れ流した。
近いうち詳細が分かると言ったまますでに20年。
何の音沙汰もない。
あれは80年代から始まる中国と朝鮮の高句麗・渤海の帰属問題と関係があると思うな。
1992年に北朝鮮と深い関係がある江上波夫がNHKとともに招待されたわけだけど、
同年、埼玉の高麗神社に将軍標が設置されて報道されたんだよね。
高句麗を日本にアピールする必要に駆られてだと思われる。
東大の江上、京大の上田、同志社の森という3馬鹿大将は、
北朝鮮で予想外の接待を受けて気分が高揚し、
北朝鮮にある積石塚を見せられ、
「前方後円墳や四隅突出墳のルーツは高句麗だ!」と言ったハゲですね。
いや、だからさー。
大きなマウンドを造るという流行が当時の東アジアにあって、
日本で最初に採り入れたのが出雲と吉備、ということ。
楯築を筑紫由来とか言ってる馬鹿はいないよ。
いや、いる。
縄文時代以来の柄鏡型住居の伝統を考えなければならないし、
ストーンサークルから、円形埴輪へ、和風の東国文化(当時の関西も)によるアレンジがあったろう。
>>550 出雲の四隅突出墳墓みたいなのは半島南部にも高句麗にもないから。
出雲は自発的に生み出したもの。
×出雲は
○出雲が
いや、別に高麗人がやって来て厳密に同じに造ったんではないだろうから。
各地で受容する過程で改変されて地域色が出るのは当然だ。
要は二〜三世紀の同じような国家形成の時期に、部族連合から大王権力への発展があって、
マウンドを造り、首長霊祭祀をするのが流行ったということ。
検討せずに何でも筑紫発みたいな風潮が確かに昔はあって、
それが東遷説なんだろうけど。
考古学の成果で、当時は大和筑紫の二極だけでなく、
もっとモザイク状に各地でクニが存在してたことが分かっている。
北朝鮮って国は戦前には存在してないはずだけどなw
三内丸山にも積石塚があるのをご存知か?
いや、必ずしも「部族連合から大王権力へ」ということではなくて、
銅鐸の異様な大型化のように、むしろ未開の心性による反応だろう。
後期の見る銅鐸は、大型化に目が行きがちだが、
実は様式が統一化され、一工房での大量生産→配布が想定される、
という点の方が重要。
北部九州の広形銅矛と同じく、銅鐸を共通の祭器とした首長連合、
それを配布する権力の中心が想定出来る。
後のマキムク王権に繋がるオウの萌芽だ。
縄文土器の様式の統一化も、「配布」、「権力の中心」、「オウの萌芽だ」なのかねえ。
△鏡で懲りたもんだと思ったが。
561 :
日本@名無史さん:2013/04/16(火) 21:44:35.10
進化論的には、各地で自然発生した場合にはバラバラ、
どこか一箇所のものが広がったら、均一となる傾向がある。
魚と鯨の関係のように、全然別なのに、似たものに収斂する場合もあるが。
562 :
日本@名無史さん:2013/04/16(火) 22:17:15.92
近畿地方などの銅鐸社会では、特権階級の存在がうかがわれない。
だから、銅鐸は集落の宝物。共有財産、祭祀用具といわれたのだろう。
今更、首長連合を持ち出されてもねえ。まあ、畿内説は何が飛び出しても
おかしくないびっくり箱ではあるが。
いやまあ確かに、銅鐸が村落の祭器だったというのは根強い説なんだがな。
福永とかの研究によれば、見る銅鐸は、
吉備の特殊器台、筑紫の広形銅矛、出雲の四隅突出型と同じく、
葬送儀礼=神話を同じくする部族連合の共通の祭器と見るべきだろう。
マキムクで銅鐸の破片が見つかってるように、
前方後円墳の直前まで銅鐸祭祀を行っていたと思われる。
東遷説みたく、突然奈良盆地に王権が誕生したなんて無理が有り過ぎる訳でw
その前段階、首長権力の増大を見る銅鐸に見るべきだろう。
楯築墳丘墓にしても副葬品が貧弱だし、吉備以東は筑紫と違う葬送儀礼だったんだろう。
筑紫のように副葬品が豪華なのは確かに特定の個人に富が集まったことが推測される。
恐らくは半島やら大陸との交易で莫大な富を得たのが玄界灘グループなのだと思う。
吉備以東は縄文由来の族長社会が残っていたので、銅鐸のような宝器が
個人の墓に副葬されることがなかったのだろう。
古墳なんてものは、環濠集落の環濠みたいなもので、
特定の集団の結束力を高めるために造られたのかもしれない。
565 :
日本@名無史さん:2013/04/16(火) 23:42:26.60
九州も畿内も銅鐸以前は文化的に統一されていない。
古墳時代以降の畿内は、異様な統一感を示す。
九州はいつまでも統一感がない。
相変わらずマイペース。
後発の後進地域だったからこそ、
九州の先進地域、筑紫やら肥、豊、熊襲国と対抗するために、
畿内の部族が連合する必要があったのだろう。
問答無用に超巨大な墓を造り、大王を神聖化。
各地域の部族を黙らせる必要があった。
567 :
日本@名無史さん:2013/04/17(水) 00:16:24.69
>>563 石野さんがテレビでやっていただろう。銅鐸は普通では破片にならない。
破片にするためには、銅鐸を一度熱く焼いて、その後で大きな木槌などで
目一杯叩く。こうすれば、銅鐸の破片が出来る。
いったい、何のために、こんなに手間暇かけて壊さなくてはならないのか。
私はその理由を一つしか思いつかない。再び溶かして銅器を作るため。
恐らく鏡かな。大きなまま溶かすにゃあ、巨大な容器が必要になる。
破片はその際の目こぼれだから、見つかったのはごくわずかのはず。
しかし、新井研究によれば、後期銅鐸とその後の普及型銅鏡では成分比が違うわけだが。
恐らくは稲作と一緒に入ってきた青銅の神が、
弥生終末期に一斉に扼殺されたと。
出雲や東海、近江野洲などは銅鐸を丘陵地に埋納するという穏便な形を採ったが、
畿内の場合は苛烈で、銅鐸は破壊され、他の青銅器に鋳直されたようだ。
和辻哲郎とかの東遷説はこの辺りが根拠なんだろうな(後年、本人が撤回しているが)。
マキムク当初に畿内を中心に宗教改革があったのは間違いないだろう。
恐らくは揚子江流域の神仙思想が流入して、倭国全体で流行ったのだろう。
黄巾やら五斗米とか、救民を掲げた宗教が中国でも流行っていたように。
弥生後期、大地震やら冷害とかの自然災害が多発して、
それまでの弥生拠点集落を中心にした社会が存続出来なくなった。
人々は青銅の神から神仙思想に乗り換えたのだろう。
572 :
日本@名無史さん:2013/04/17(水) 00:55:32.76
>>569 銅鐸が埋められていた理由はいろいろあると思うが、銅鐸が没収され、
溶かして鋳直されるとしたら、当然、取られないように隠そうとする人は
現れるものと思われる。
出雲の場合はもっと理由は異なると思う。出雲の場合は、銅鐸だけでなく、
銅剣や銅矛まである。銅剣にいたっては358本もある。
出雲では古代から神名火山信仰がある。この山に対する奉納品が銅鐸や銅剣
だったと考えられる。戦国時代の尼子経久は神名火山を仏経山と改名し,
この山に12の寺を建て、尼子の安泰を祈ったといわれる。
こういう信仰の一環と思われる。
去年か一昨年のマキムク祭祀土坑の発見も、モモソヒメやら神仙思想との絡みで、
桃の種の方に注目されてしまった。まあかなり大量だったから、目立ったのだろうけど。
しかし本当に大事なのは銅鐸の破片の方。
銅鐸を壊す、弥生以来の神様を殺すという畏れから、
粉々にした銅鐸の一部破片を丁重に埋葬し、祟りを回避しようとしたのだと思われる。
一部以外はリサイクルしたのだろうが。
何人かの研究者が言ってるが、
加茂岩倉遺跡や三河の加茂郷(日本最多発見地)など、
銅鐸と加茂(鴨)という地名にはやはり関連があるのだろう。
神武が鴨氏の娘ヒメタタライスズ媛と結婚した事で、
銅鐸から鏡へと祭祀が変更したのだと思う。
575 :
日本@名無史さん:2013/04/17(水) 21:29:10.55
加茂は銅で、岩倉の「岩」は鉄のことではないかと思うのだが。
つまり鉄器を揃えた国営倉庫ができたので銅器は不要になった・・、とか??
うろ覚えだけど「かも」って川の側って意味じゃなかったっけ?
577 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 00:04:02.31
熊はいないが、なぜかくまモンがいる熊本県。
578 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 00:48:02.09
ところで、箸墓はどうなった。
立ち入り調査までは大々的に発表しておいて、その後は誰も何も言わない。
誰か何か言えよ。
579 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 01:04:03.18
立ち入りったって、外周一周だろ。
あれは陵墓に立ち入ったことをアピールする政治的パフォーマンスだよ
581 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 02:18:16.51
卑弥呼の墓だと散々宣伝しまくって、素人をだまし続けて、
都合が悪くなったら黙して語らず。という畿内説のいつものパターンじゃ
ないのかな。
582 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 07:14:23.86
ゴッドマウスですねw
語らずも何も主体部を発掘できないのだから…
箸墓、マキムク、考古学に憎しみを抱く、感情的な輩だから、
まともな、理性的な判断は期待出来ない。
やれやれ。
585 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 09:35:48.97
>>583 コメントは「何もわからなかった」でもかまわないんじゃないか。
せっかく立ち入り出来たのだから、何か言うのが当然だと思う。
検索してみたが、2月23日?以降の箸墓の記事は何も出てこない。
>>584 たとえば、三角縁神獣鏡については畿内説としてきちんと統一見解を出すべきじゃなかろうか。
椿井大塚山古墳の調査以来、長年にわたって論争を続けてきたわけだし。
586 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 10:27:38.69
畿内人はマスコミに踊らされやすいのとちゃうか?
×畿内人は
○九州人は
>>572 > 奉納品が銅鐸や銅剣だったと考えられる。
青銅祭器の埋納はカミへの奉献なのか
銅鐸や銅矛などの青銅祭器が埋納されたのはなぜなのかという問題について、
カミへの奉献だというのはアリかもしれない。
時代はのちになるが、三輪山のカミ、沖ノ島の海のカミなどの信仰がある。
「神名火山信仰」といったアニミズムが弥生中・後期にもあっただろう。
ただ、銅鐸はマツリの場で経年使用された祭器であって、奉納するために製造されたわけではない。
古い銅鐸を埋納したあとは新しい銅鐸をマツリで使ったことだろう。
また、使用済みの祭器を奉納するというのであれば、青銅製以外の土製・木製の祭器も一緒に埋納されるのではないか。
青銅祭器は単独で出土するので、そういった例はきかないし。
589 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 12:31:04.06
先祖代々御世話になった御下賜の銅製品の数々を神にお返しするという意味での奉納
荒神谷や加茂岩倉の状況、大量に一斉に埋納されてる状況は、
青銅祭器との決別を物語っていると一般的に解釈されてるが。
丁度同じ時期に四隅突出型が始まっている。
青銅祭器→古墳(鏡)てのは、時期が違えど日本各地で起きていて、
出雲はその嚆矢だったんだろう。
>>590 > 大量に一斉に埋納されてる状況は、青銅祭器との決別を物語っている
一概にそうだともいえないだろう。
銅鐸の場合、神岡銅鐸はその例外になるし、
銅矛の場合、対馬の例は渡海の安全を祈願するための奉献だろう。
また、福岡平野周辺の山地に大量埋納された例がいくつか『王権誕生』に紹介されていたっけ。
592 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 16:10:32.64
1000年〜2000年のちに至るまで掘り出されなかったということは、
その建前はともかく、当人たちの本音がさよならの気持ちであったことは疑いない。
>>592 なるほど、それは賛成。
神社の敷地やその近くから銅鐸が見つかると聞いた事ある。
なにやら示唆的だね。
594 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 22:40:50.32
明治以前、伊勢神宮の神宝は、遷宮の時にコピーを作った後、壊して埋めていた
銅鐸も同じノリってことはないだろうか?
しかしまあ、出雲で後期銅鐸が見つからないから。
弥生中期後半には青銅祭器と決別して、四隅突出型墳丘墓という
大陸由来の首長霊祭祀に移行していただろうな。
鐘ヶ淵とか鐘ヶ崎とか、沈鐘伝説が残る場所と銅鐸には関連性があるように思う。
沈んだ鐘を引き上げようとしたら暴風雨に見舞われるとか。
鐘=銅鐸だとすれば、銅鐸が水神とか竜と縁が深いと考えられる。
竜は怒ると暴風雨を呼び、実る前の作物の実を落とした。
逆に水神の住み処であるところの滝壺に、
獣の死骸を投げ入れることで怒らせることで、
旱魃の時に雨を降らせるという荒技な呪術もあったらしい。
古くは鈴をサナキ=小鳴きと呼んでいて、
鈴の音が水流の音に似ていることから、
雨雲を呼ぶ呪術具として機能していたと思う>銅鐸
金属に水滴が付着することからも、金は水を生ずとする陰陽五行に由来する可能性もある。
>>596 なかなか興味深い考察だな
古墳時代はもとより弥生時代の宗教観ていうのは現在からは想像しづらいけど
そういう仮説も成り立つな
後期の巨大銅鐸は吊るす事もできなかったので、
仰ぎ見てたと言われるね。
初期の小型銅鐸は村の入り口やトーテム的樹木などに吊るして本坪鈴みたいに使ったんだろうね。
その吊るしたという小型銅鐸も、
岡山あたりで吊るした痕跡のある銅鐸が見つかった程度で、
他の銅鐸にさほど明確に痕跡があるわけではないと聞いた。
むしろ吊るされたという銅鐸が例外なのではないか。
同時期に大きさの違う銅鐸があったのなら用途によって使い分けたのが当然だろうし、その中には鳴らすためのものも間違いなくあっただろう。
ん?
おおよそ初期が小型、だんだん大きくなって後期(末期)は大型だろ。
地域も出雲、畿内から東海へと拡大してるね。
菱環紐式の時代なら普通に吊るしてたでしょ。
小型の銅鐸は実際に鳴らしてみるとおどろくほど澄んだ大きな音がするな
さすがブロンズ製現在でも金管楽器に使われる理由が良く分かる
後期銅鐸がマキムク開始時の大和では破砕されてリサイクルされている
という特殊な事態こそこのスレで語られるべきだろう。
東遷説の言うような「征服者が銅鐸を駆逐した」を否定意見が多い。
マキムクで誕生した王権が神仙思想に基づく新しい宗教を創始した。
それが前方後円墳の祭りだったのだろう。
佐賀県立博物館に、鳴らせるレプリカがあるよ。
銅鐸を出雲系氏族の祭器だとして、
大物主は自分の孫(あるいは娘)を神武と結婚させてるので、
少しも征服なんぞされてないわけだが。
どこから征服者が破壊論が出てきたのだろう。
記紀は一部の権力者の捏造であって、私たちは「真実の歴史」を考えなければならない
基本的な大和民族(日本人)の特性として
例外はあるが
○出来るだけ戦さを最小限に抑え協調性に富んでいる
○外圧(異国からの影響)に敏感で極端から極端に思想が移行する
があるけどこの特質は古代から現在までほとんど変わってないらしいね
銅鐸文化(稲作ムラ制度)もおそらくはその後の外来文化(中国の道教等)の影響でクニ制度へと
混乱しつつも一気に移行したんだろうと思うがどうだろうか?
>>608 何をどう捏造してるのか言え。
もちろん古代天皇の途方もない年齢は論外だが。
>>609 1億2千万も人口がおれば、普通は地域対立もあっていいはずだが、日本ではほとんどない。
これは古代史を考える際のおおきなテーマだろう。
612 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 17:34:05.43
>>605 東遷説のほうが普遍的。誰でもが納得しやすい。
「纏向で誕生した政権」「新しい宗教を創始した」畿内説のほうはいちいち
理解不能。まあ、机上の空論の極み。
>>612 年代的にみて、記紀の伝える天照大御神の活躍の時期は、
卑弥呼の活躍の 時期に重なりあわない。
卑弥呼が活躍した3世紀前半には大和に王権があったことが明白だ。
したがって東遷説は意味を成さない。
>>612 東遷説って言っても様々なバージョンがあり、
具体的にどれか言わないと論証のしようもない訳で。
君の東遷説はどれ?安本ですか?
アンチってだけで、自分の考え、なさそうだけどw
日本書紀自体が
神武東遷で「東遷説」なわけだが
そうw神武東征くらいしか根拠ないんだよなw>東遷説
こんなにあっさり認められると拍子抜けするw
神武東征は久米氏がポイント
619 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:03:51.24
>>613 天照大神が伝承に基づいているとしたら、
記紀がどの程度古い記録を持っているかが問題。
紀元前の事が記紀に記されているとは思えない。
日本書紀には、天照大神が天岩戸に隠れた時、鏡作部に八咫鏡を作らせて
榊につるしたとある。天照大神と鏡には強い関係があると思われるし、
鏡を自製できる年代であることもわかる。
天照大神の時代と卑弥呼の時代を重ね合わせることにそんなに無理はないだろう。
620 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:10:42.88
>>614 東遷説は、明治期からあり、大正時代の和辻哲郎あたりははっきりと
東遷説を示している。戦後、津田左右吉の影響というか、畿内説の執拗な
レッテル張りで影を潜めて、その間に古田説が幅広い支持を得た感はあるが、
九州説は基本的には東遷説ということになる。
卑弥呼=天照大神ならば、その東征・東遷の過程は記紀から窺えることになる。
卑弥呼=天照大神は、寝言レベル
卑弥呼=モモソも同様レベルだが
622 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:17:42.83
>>616 いくら尋ねても、畿内説は人を非難するばかりで、自説の根拠を言わない。
思うに、畿内説の学者自体が自説の根拠をわかっていない。
泥縄的に、根拠を言っても、自分でわかっていないわけだから、二番煎じの
支持者にわかるわけがない。だから、畿内説支持者も根拠はわからない。
わからないから答えられない。ということだな。
日本最古の歴史書に書かれていることは、それだけで最大限の根拠になる。
これを否定していたら、ほかに頼れるものなどない。
中期の箸墓を、いつの間にか最古の古墳にしてしまえるような何でもありの
考古学を根拠にするのはちょっとおかしい。ところでその後箸墓はどうなった?
623 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:26:39.83
そもそも畿内の箸墓説は中学教師二人の思い付きからはじまった。女子の墓ならこれだってね。
それが根拠といえば根拠ww
624 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:28:09.86
>>621 日本の古代史上最大のヒロインである天照大神と、中国の歴史書に登場する
日本古代史上最大のヒロイン卑弥呼。普通は同一視から始まると思うが…。
625 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:36:20.90
古代の夫なき女王であり、多くの国々から推戴され、
しかも格別の権力・能力を発揮し、鏡で男どもを従えたとなると候補は限られる。
626 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:40:53.23
>>618 古事記には、神武天皇に随行して来た大久米命の刺青(黥利目)について書かれている。
三輪に住む伊須氣余理比賣は、大久米命の刺青を見て奇妙に思った。
つまり、東征軍は刺青をしていた。倭人伝には、男は大人も子供もみな刺青をしていると
書かれている。一人、刺青をしていたとすれば、その集団はみな刺青をしていたと考えるのが
普通ではないかと思われる。しかも、大和ではその習慣がなかった。
また、履中天皇時代には刺青(黥)が罪人の証のようになっている。
これらを総合すると、古事記の信頼性、東征の真実味が窺われる。
うーん。記紀の記述が根拠と言われてもなあw
でたらめが多い、ていうか、神話や説話文学的側面が強いだろう。特に継体以前は。
で、記紀が根拠と言う割には、自分に都合の良いところだけのつまみ食いだからな。
信じるなら全部信じたらいいのにw「この部分は正しくてこの部分は間違い」とかw
恣意的に解釈してるのに、自分はそのことにまったく気づいてないw
やれやれ。
>>622 >中期の箸墓を、いつの間にか最古の古墳にしてしまえるような何でもありの考古学
箸墓の年代観が決まったのは、宮内庁がそれまでに採集していた遺物を公表した昭和51年のこと
決して「いつの間にか」ではない
そもそも中期といっていたころの方が明確な根拠などなかった
>ところでその後箸墓はどうなった?
立ち入り調査でどんなことするのかすら知らない情弱さんですか?
それとも検索しても理解できない頭の不自由な方ですか?
あるいは考古学者に対して悪い印象を与えようとして
わざとやってる学問的な負け犬さんですか?
630 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 23:24:40.36
>>628 文献が一番の根拠になる。
畿内説の場合も、卑弥呼の鏡も卑弥呼の墓も邪馬台国や卑弥呼という名前自体も
全部、倭人伝から取っている。倭人伝がなかったら、いったいどうなっていたか。
にもかかわらず、倭人伝などの文献は信頼できないというのはおかしい。結局、
都合が良いところばかり拝借するのは畿内説のほうじゃないのかな。
記紀も同じ、固有名詞のようなものは全部、記紀から借りているのに、捏造などと
言ったりする。
わかりやすくでたらめにしているわけだからw
瓊ってのは赤玉のことだよ
632 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 23:30:13.07
>>629 だから、箸墓は結局どういうことになったわけ?
検索しても、2月20日あたり以降の記事はほとんど出てこない。
あれだけ大々的に立ち入り調査の報道があったのに、その感想について
語る人が現れたと聞いたことはない。
>>630 いや、だから、文献だけで判断出来ないから、
考古学を用いる訳だよ。
倭人伝は同時代の一級史料で大変貴重なものだが、
二千字しかないので分かりにくく、外人が書いてるので、誤解や錯誤が多い。
記紀に至っては五百年後に編纂されたものだからな。正しく伝わってる保証がない。
考古学の発展で実年代が分かるようになり、漸く倭人伝やら邪馬台国が研究の対象になり得たと。
記紀が根拠とか言ってる人は、歴史を語るセンスがない。
いいとこ取りで、記紀の一部分を抜き書きしても、そんなのは根拠にならない。
記紀の全文の内、どの部分が正しい歴史を伝えていて、
どの部分が間違いや後世粉飾されたものか?の判断は、考古学に拠るしかないだろう。
君が「この部分が正しい」とか恣意的に言ったって、誰も相手にしない。
635 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 00:17:46.37
たとえば、吉野ヶ里遺跡はかなり発掘調査された遺跡だが、なんと言う国か
わかるかな。これは考古学では絶対にわからない。せいぜい倭人伝に
書かれている国の中から適当なものを探し出すくらいのもの。
邪馬台国も同じで、元々考古学で出てきたものではない。
畿内説が考古学、考古学というのは、考古学が推定の学問であり、いざとなれば
とんでもない推理をすることも可能だということ。だから、便利ということになる。
出土した桃の種が卑弥呼の祭祀に関係するというくらい朝飯前になる。
もう何でもありで、大きな建物の跡が出てくれば卑弥呼の宮殿にしてしまえる。
だから、考古学は畿内説にとって便利ということになるわけだ。
>>635 確かに「卑弥弓呼の宮殿」というのは聞いたことがないな。
かといって、さして文献の研究してるようでもないしw
638 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 01:45:33.00
どこで何が出た てとこは聞いといて、
何という組織で何に使ったものだ てとこは学者の言でも馬耳東風くらいでよかですよ
マスコミと同じ感じ
639 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 06:29:10.23
年輪は胡散臭いよね。
材木はリユースするから、何百年も使われるものだってある。
伊勢神宮は建て替えしても、その材木は他所の神社でまた使っている。
>>639 じゃあ法隆寺五重塔の心柱もどこかから持ってきたやつなのかな。
>>635 かと言って、考古学無しでの倭人伝だけでは無根拠の妄想羅列になってしまうだろ?
文献を「どう解釈するか?」なんて、幾通りも成立してしまう訳だから。
文献学ってのは複数の文献があって比較検討出来て始めて成立する学問。
記紀は成立が数百年新しいし、中国の文献からの引用とか明らかな水増ししてるし。
かなり眉唾で読まないと。
最近は地道に、記紀の記述が他の史書や仏典からの引用かどうかを調べてる
こういう研究が進めば、各人が勝手に記紀の記述をつまみ食いしながら、これが「真実の歴史」だ!っていう人も減るはず
遠藤慶太『東アジアの日本書紀』とかいいよね
643 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 09:32:19.15
>>642 最初からそういう気持ちでは駄目だな。
ノストラダムスの大予言の研究と同じように、あれはこれを意味しているに
違いないということになってしまう。何かにつけて類似性を探すことになる。
以前から、各地の神話の類似性なんてのを言う人はいた。こういう人が何を
言いたいのかというと、記紀は史実を反映したものではなく、各地の神話と
同じような想像の産物と言いたいわけである。
最初に記紀を否定しようという意図があるわけである。
森博達とかもそうだけど、漢文の内容ではなく音韻や文章表現をみてる
記紀は記紀として、その成立を明らかにしようとしてるのであって、
記紀を否定しようという意図があるわけであるわけではないよ
>>643 いやむしろ、ノストラダムスは記紀信者の方だと思うがw
記紀は正しいという思い込みが強い。
ほんとに日本書紀が正しいなら、卑弥呼=神功皇后と編者がはっきり書いてるんだから、
畿内説で決まりなんだけどなーw
その部分は間違いと何故か断じて、他の部分は正しい。
正しい部分と間違いの部分は僕には分かるんだ!
ですかw
>>626 久米が目の周りに刺青してるのを見て、
あなたは何でそんなに大きな目をしてるのか?って訝しがった話だね。
刺青自体を珍しがったわけではない。
647 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 19:48:11.12
爾大久米命、以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
爾大久米命、答歌曰、
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
いやまあ、卑弥呼=神功なんて成立しないのは分かっているが。
そんなのを信じてるのは紀の編者くらいなものでw
で、卑弥呼が神功でないと分かったのは考古学の知見による。
考古学アレルギーの馬鹿はそのあたりの事情も分かっていないらしいw
>卑弥呼が神功でないと分かったのは考古学の知見による
kwsk
650 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 21:13:11.05
前スレから
855:ローガン:2013/02/27(水) 15:44:17.87
>>831 >
>>826の記紀の記述以外はどれも九州説の根拠にはなっていない
いや、記紀の記述すらダメですよ。(笑)
>>826 には
「古事記には、神武天皇に随行して来た大久米命が顔に刺青をしていたことが書かれている。それを見た五十鈴姫は奇妙に思った。つまり、東征して来た 人は刺青をしており、近畿地方周辺ではその習慣がなかった。
倭人伝からもわかるように、倭人の男は大人も子供も刺青の習慣がある。 これなども邪馬台国東遷あるいはそれに近い出来事の証拠となる。」
とあるが、肝心の神武に刺青無し。神武さんは「大人も子供も刺青の習慣がある」土地からの東遷では無い という笑い話。
その刺青の人「大久米命」は書紀では天クシ津大来目。久米部の分布の中心は中国、四国地方。 九州と関係無し。
860:ローガン:2013/02/27(水) 19:54:56.10
>>857 >普通はこの文章を見れば、神武天皇も刺青をしていた可能性が高いと推定する。
おや? 私も
>>856氏も「刺青はない」だが。 普通とやらは君一人。(笑)
さておき、ここの歌「誰をし枕かむ」と 大久米が天皇に向けていうなんておかしいだろうが。 この歌は、神武が詠んだ
「倭の 高佐士野を 七行く媛女ども 誰をし枕かむ かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ」 を2つに分けて問答形式に改ざんしたものだ。
元にもどせば「高佐士野」という野で、天皇が刺青をした者を従えていただけの事。 その風景は、まあ、履中五年の淡路島と似たようなもんだ。東遷なんて関係無し。
また、倭名抄に見える久米郡は、出雲、伯耆、伊予だ。本貫地が中国四国と考えるのが妥当。
895:ローガン:2013/02/28(木) 16:23:45.60
>>862 >大久米命が刺青をしていたならば、
黥の記述は 阿曇部 鳥養部 河内飼部 猪甘 いずれも狩猟飼育に関する低層の集団に見える俗。
ちょっと訂正
>>860の
>また、倭名抄に見える久米郡は、出雲、伯耆、伊予だ。本貫地が中国四国と考えるのが妥当。
は、出雲ではなく美作。 2皇子発見の来目部小楯は 伊予の人。 星川皇子反乱に加担した城丘前来目は吉備稚媛の異父兄。
651 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:08:00.12
>>646 魏志倭人伝には、男子は大人も子供も皆「黥面文身」と書かれている。
刺青は、国によってあるいは身分によって異なるとも書かれている。
これは三世紀の倭国の話である。
伊須氣余理比賣が倭国の人間だとしたら、どこにあろうと、刺青自体を
奇妙に思うわけがない。男はみんな刺青をしているわけだから。
さらに、倭人伝の記述からすれば、一人が刺青をしているとすれば、
その国のあるいは倭国の男子は全て刺青をしていると考えるのが普通。
神武天皇も刺青をしていたであろうとする根拠はここにある。
すなわち、大和は倭人伝のいう「倭国」には入らないと考えられる。
さらに、神武東征とは、倭国から倭種の国への東征と考えられる。
黥面文身とは書かれているが
邪馬台国まで実際に行って見てのものかは分からん
伊都国までしか行ってないのではないかとも思う
即ち投馬国や邪馬台国については伝聞ではないかとね
653 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:24:18.22
>>652 卑弥呼が送った難升米などの使者は邪馬台国の人間だろう。
都市牛利、伊聲耆、掖邪狗等八人などもそうだろう。
彼らが刺青をしていなかったら、「男子無大小皆黥面文身」とは書かれていないはず。
その使者らが黥面文身だったか否かは記載されておらん
黥面文身なら記載される可能性は低くはないのではないか
邪馬台国の使者らが黥面文身だったのかもしれんし、
伊都国までに見た人々が全員黥面文身だったのかもしれん、
あるいは黥面文身にしたい意図があったのかも分からん
>>650 久米部って、狩猟飼育に関する低層の集団なのか?
少なくとも人面文土器から見るに、東海地域は刺青が当たり前だったようだが。
余り記紀の記述に引っ張られ過ぎない方がいい。
>>649 いやまあそうならさ、正確無比とされるw日本書紀に書かれてる
卑弥呼=神功皇后が間違いとする根拠は何なの?
日本書紀の「この部分は正しくてこの部分は誤り」と君が峻別出来る根拠は何なのだろうか?
ほんとにまあ、馬鹿で楽しませてくれるというかw
それとまあ、アンチ畿内説、考古学アレルギーの人が唱える
東遷説って、一体どんなのか?の提示が未だに無いのだが?w
試しに書いてみてよ。全力で叩き潰してやるからさw
>>657 神功皇后を日本書紀では
卑弥呼と壹与の二人に比定してるからだろ
こんなデタラメ比定をする以上、当然正確とは断定できない
というか、正確にいうと
書紀では、神功皇后を卑弥呼に比定してる訳じゃない
倭人伝を挿入して、それとなく匂わせているだけ
「神功皇后=卑弥呼」と記述してる訳じゃない
日本書紀がデタラメなのは、当方も同じ意見なので。
結局のところ、記紀の記述で信用出来るのは継体以降。
それより前は、神話や説話文学の類で、
何らかの史実がモデルになっている可能性はあるが、
そのまま鵜呑みにしてはいけない。
それを検証出来るのが考古学だということ。
662 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 23:58:23.77
>>658 人の説を叩くのは良いとして、自分の説の根拠を堂々と披露できるのかい?
東遷説の基本は、天照大神=卑弥呼(+台与)ということになる。
これさえ押さえれば、記紀によって東征までの経緯は明らかになる。
少なくとも、東征は動かしがたい事実となる。
卑弥呼が死んで、台与が王になる。男王が立つ。これは、天照大神が天岩戸に
隠れた後、再び出てきて、高皇産霊尊が登場することに相当する。
高皇産霊尊が登場すると、積極的に外向きの姿勢になる。出雲の国譲りがある。
天孫の日向降臨がある。
ただ、天孫降臨後の高天原については記紀には書かれていない。こういう記紀に
書かれていない部分は推理することになる。
まあ、ちょっとやそっとでは全部書くことはできないが…。
>>660 におわせるも何も、近肖古王を120年前の五代目の肖古王として、
紀編纂時の定点の一つにしてるというのが、
現状の紀研究で分かっているのだがな。
いい加減、記紀を神聖視して「わざわざ嘘を書くわけがない」
とかの世迷い言を吐くのは止めにしてもらいたいw
>>662 おいおいw
自説を開陳せず、被害妄想敵に畿内説を攻撃してるのは君じゃないの?w
まあ、俺自身は、邪馬台国の所在地について、マキムク七割、東海二割、
ヒラバル一割くらいに考えてるのだが。
665 :
日本@名無史さん:2013/04/23(火) 00:16:58.85
>>664 何だ、こだわっているのは所在地か。
まあ、畿内説らしい。畿内説の場合は最初に所在地ありきだからなあ。
所在地を言えというのなら、候補地は肥後中心の筑前から日向まで。
666 :
ローガン:2013/04/23(火) 00:30:45.49
>>662 横失礼
>東遷説の基本は、天照大神=卑弥呼(+台与)ということになる。これさえ押さえれば、記紀によって東征までの経緯は明らかになる。
自説の根拠が自身の推論。循環論法
>少なくとも、東征は動かしがたい事実となる。
「基本」とやらが共有出来ないので、ならない。
>まあ、ちょっとやそっとでは全部書くことはできないが…。
いくらでも書けばいいが、「基本」とかいう共有出来ないものに立脚した話は 残念ながらまともな議論の俎上に乗る事は無い。
三世紀という、殆ど文献やら考古学の資料が無い状況で、
絶対に百パーセント畿内説が有り得ないと言い切る根拠は何なんだろうねw
畿内説の捏造とか、考古学に対する恨みとか。
何か気持ち悪いんですけどw
668 :
日本@名無史さん:2013/04/23(火) 00:45:04.26
>>666 ローガンの場合は何が言いたいのかいまひとつわからないが、
天照大神と卑弥呼(+台与)の類似性についてはよく言われるとおり。
中国の歴史書に記述があり、実在性が確実視される卑弥呼が、日本の記紀において
天照大神として登場しているとすれば、記紀の信頼性が高まるのは当然のこと
その後の展開についても信頼性が出てくる。
卑弥呼以降について、記紀によりその後の展開が明らかになるというのは
そういう意味なのだが。
基本が共有できないなんていっていたら、議論なんて出来ないだろう。
畿内説の基本を九州説の人間が共有できると思っているのか?
>中国の歴史書に記述があり、実在性が確実視される卑弥呼が、日本の記紀において
>天照大神として登場しているとすれば、記紀の信頼性が高まるのは当然のこと
ただの推測が根拠ですか
媛蹈鞴五十鈴媛(ひめタタラいすずひめ)「日本書紀」
比売多多良伊須気余理比売 (ひめタタラいすけよりひめ)、
富登多多良伊須須岐比売(ほとタタラいすすきひめ)「古事記」
勢夜陀多良比売 (せやダタラひめ)=母
蹈鞴=製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)
蹈鞴か崇りかはっきりしない。
>>648 >卑弥呼が神功でないと分かったのは考古学の知見による
kwsk
卑弥呼=アマテラスなんか、記紀のどこにも書いてないしw勝手に妄想してるだけ。
神様が実在の人物とか、神話が史実とか、ノストラダムス信じてる人とそう変わらんだろw
That's right
>>673 神様が実在の人物でなくて実在の人物が神様なんだよ。
そういう俺は卑弥呼=アマテラス説ではないけどね。
676 :
日本@名無史さん:2013/04/23(火) 13:23:31.45
九州島を、西から見れば倭人伝の舞台、東から見れば古代神話の舞台
どこでどのように入れ替わったか、記紀イリュージョン
鍵は宮崎にある
678 :
ローガン:2013/04/23(火) 16:46:34.17
>>668 記紀に登場する天照大神には卑弥呼と共通点がある。
↓ ↓ ↓
卑弥呼は実在。よって共通点のある天照大神も実在。
↓ ↓ ↓
実在した天照大神のことを記した記紀の信憑性は高い。
↓ ↓ ↓
よって記紀神話は創作ではなく史実。
って事ね。これ、天照大神を百襲媛に置き換えたらどう?当然、首肯できるでしょ?同じ理路なんだから。(笑)
>基本が共有できないなんていっていたら、議論なんて出来ないだろう。
その通り。共有出来るものが「基本」つまり、根拠だ。
>畿内説の基本を九州説の人間が共有できると思っているのか?
思っている。
根拠となる資料は共有。違いは、その扱い方や解釈。
つまらないレスですまない。
679 :
日本@名無史さん:2013/04/23(火) 17:36:23.19
>>卑弥呼には百襲媛と共通点がある
畿内人には良く似て見えるのか、トンデモない、両方とも女というほか似てる処なぞあるものか、
実際刺青はいつごろまであったのか
>>679 すぐ感情的になるよな、君は。
考古学アレルギーとかアンチ畿内とか、
頭から否定する傾向があるよ。
モモソヒメが紀で活躍する女性霊能力者で、
卑弥呼も鬼道で衆を惑わしてるんだから、
共通点が多いと思うが。
あとまあ、敵に塩を送る訳じゃないけど、東遷説を主張するなら、
原田大六とか柳田とかの著作は読んどいた方がいいんじゃないの?
卑弥呼とトトヒモモソヒメは、どちらも女性霊能力者だった。
どちらも三世紀に生きていた。
どちらも大きな墳墓に葬られた。
アマテラスと卑弥呼との共通点って何なの?
683 :
日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:27:51.90
肝心な点、卑弥呼は女王、モモソヒメは女天皇?
>>682 おっと、卑弥呼の墓は大きいと決まった訳じゃないぞ
倭人伝には「冢」を作ったと書いてある
同じ三国志の諸葛亮伝に
「亮、遺命葬漢中定軍山、因山爲墳、冢足容棺」とある
冢は棺を容れれば足る、と読む
「大作家」と「冢足容棺」ぜんぜん違うじゃんw
あまた悪りぃ〜
687 :
ローガン:2013/04/23(火) 21:27:13.06
>>684 >同じ三国志の諸葛亮伝に「亮、遺命葬漢中定軍山、因山爲墳、冢足容棺」とある
それ、冢の定義じゃないし。
ただ、その話続けるなら別スレ。
「卑弥呼の墓が大きいとは決めつけられない」
というだけの話
径百五十歩は無視ですか
↑百余歩の間違いでした<(_ _)>
俺の100歩で40mくらいかなあ。
百余歩ってきっちりした大きさでなく、
ほどほどって意味ではないの。
中国人ってかなりいい加減だもんな。
>>683 モモソヒメは女王だったと思うよ。
箸墓の古代史における重要性を考えれば、初代倭王だったとして良いと思う。
その後、四百年続く古墳時代の幕開けを告げる古墳が箸墓だ。
で、何故記紀でモモソヒメが天皇と記されてないか?については、いろいろ先学がある。
俺が個人的に有力だと思うのは、
古代ヤマト王権はヒコヒメ制で、ヒコが世俗王でヒメが祭祀王だったとする説。
卑弥呼が祭祀王で男弟が世俗王だったと。
日本では古くから採用されていた政治制度らしく、記紀にも多くのヒコヒメが出てくる。
前方後円墳も、前方部と後円部に別々の人が埋葬されていたみたいだし
(記紀にはそんなことは書かれていないが)。
琉球の聞得大君とかオナリ神が日本文化のベースにあるのは、
柳田や折口の研究でも著されている。
それがある時期、祭祀王の権限が世俗王に奪われた瞬間があった。
恐らくは四世紀末、高句麗と戦う中で、軍事的リーダーが求められた結果だろう。
記紀神話のアマテラスとスサノオのウケイの研究によれば、
女系→男系に移ったことで、勝者がアマテラスからスサノオに変わった
というプロセスを鮮やかに論証して見せている。
神話を安易に史実と見る輩に是非読んで欲しいものだ。
さあ!始まりましたぞォ
箸墓の埋葬者が男だったら、色々修正が大変そうだ
箸墓の被葬者は男でしょう
男だとしたら被葬者はアナニー死したってことに…
699 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 07:28:40.73
あいかわらずのループ。
日本書紀、神功皇后の後注に卑弥呼の記述があるのは、
建国紀年を西暦換算で前660年に設定したため。
それによって(当時としては)古代の天皇の寿命を長くした。
そして、その紀年換算から神功皇后の時代が卑弥呼の時代と重なるために、
そういう注を挿入しただけ。
実年代が一致しないのは当然のこと。
時間を経るにつれて、その差が縮まっていき、
ほぼ一致してくるのは、安閑天皇以降。
>>699 神武即位年が実年代比定の定点の一つになったのはそうだけど、
もう一つの定点が神功=卑弥呼なんだよ。
たまたま神功に重なったからとかではない。意図的にやってる。
肖古王を同じ名前の120年前の人物にしたり、など。
紀の編者はこの定点二つで実年代を復元しようとした。
外国にも見せる訳だから、外国の歴史書ともある程度の整合性が求められる。
>>694 なるほどね、整合性とれて納得しやすい
日本の天皇制は男系が絶対だから女系は歪曲、矮小化して記録するしかない
ちなみに時代が下るが飛鳥時代の推古天皇も女性霊能力者的要素があったらしいね 関係ないがスゴイ美人だったともw
702 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 12:24:09.29
卑弥呼≒モモソヒメとする場合、
台与の相当するヒメも用意しておかないと破たんする、この前もそれでケッつまずいた。
外国に見せるために、当時の東アジアの公用語である漢文で書いてるんだろ>日本書紀
>>704 『日本書紀』が唐に提供されていないのは『宋史』日本伝で「日本国王年代記』という私撰の系図が資料に用いられ、
『新唐書』日本国伝もそれを下敷きにしていることから明らか。
大変申し訳無いが、日本書紀が国外向けで、古事記が国内向けってのは、"嘘”やで。
日本書紀は政府公式発行やけど、古事記は一部スタッフが持ってただけやからな。
日本書紀は国内ですぐに勉強会が始まっとる。
国内で勉強会を開くから海外に向けて書いてないとか意味が分からないが?
708 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 01:35:15.85
>日本書紀が国外向けで、古事記が国内向け
これって誰が言い出したんだろ?
日本書紀が漢文で、古事記が一部万葉仮名だからでは?
漢文で書いてるんだから、外国で読まれるのは前提
→外国の歴史書との整合性が必要。
この理屈に難癖をつける理由が分からん。
渡来人文官向けでしょ
712 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 09:37:39.93
>>700 >外国にも見せる訳だから
この「見せる」のような文例は、地方により異なる解釈がなされる(一種の方言的解釈)。
@外国人が見せろと言えばあえて拒否しない・・、
A外国に見せる目的で・・、
よく分からない難癖だなw
紀の編者が外国の歴史書とすり合わせをしようとした、
に反論がないなら、別にいいだろ?w
714 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:56:17.18
見せるじゃあなくて
早い話当時のグローバルスタンダード(中華思想)に軸足をおいて書かれたのが日本書紀
そのグローバルスタンダードに収まりきらないナショナルアイデンティティまたはローカルスタンダード
を表しているのが古事記
こういうことでしょ
>>662 「記紀に書かれてないところは推理になる」ってw
その推理ってちゃんとした根拠あんの?w
さんざん批判してた年輪とか考古学よりまともなんだろうな?
是非聞かせてくれw
716 :
日本@名無史さん:2013/04/26(金) 07:34:51.08
記紀は基本的には中国の記録は無視している。
倭の五王なんて完全に黙殺。
卑弥呼の記述は後注。
今も当時(書紀が書かれた時代)
通称、魏志倭人伝には興味深い記述があるので、
紀年換算をもっともらしくしようとして、
つい書き込んでしまっただけ。
後注ってwさも確定みたいにw
そういう説もあるだけだろ?
結局、「記紀を読むだけで東遷説が立証出来る」とか言ってた馬鹿は逃亡したかw
次はもう少し考古学を勉強してから来るようにw
719 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 11:12:23.34
>>678 卑弥呼と倭迹迹日百襲姫には女である以外に共通点は全くない。
これは倭姫も同じ。
一方で、天照大神とは共通点が非常に多い。
>>718 近年、古墳時代という言葉を良く聞く。元々は大和時代といわれていたが、
これが古墳時代と飛鳥時代に代わった。どうしてか。
また、古墳時代とはどういう概念か。すなわち、古墳とは何か。
また、古墳時代はいつから始まり、いつ頃終わるのか。答えよ。
だから、卑弥呼とアマテラスに共通点が多い、って主張も疑問だし(甚だ恣意的)、
君の大好きな記紀にもそんなことは書かれてないしw
古墳時代の件は何が言いたいのか分からないがw
定型化した前方後円墳を造っていた時期とするなら、
三世紀半ばの箸墓が最初で、前方後円墳が造られなくなる
六世紀末をもって終結したと見るべきだろう。
河内や吉備で大王墓級の前方後円墳が築造されてるから、
大和時代は相応しくないという解釈。
721 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 13:51:09.64
>定型化した前方後円墳を造っていた時期とするなら、
「とするなら」、はあまり好ましい表現ではないなあ、前方後円墳以外もたくさんあるんだし
ま、前方後円墳時代と言えば誤解なしだ。
722 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 15:26:01.60
>>720 >古墳時代の件は何が言いたいのか分からないがw
大和時代をあえて古墳時代に変える意味は何なのかということ。
箸墓古墳を卑弥呼の墓ということにして、卑弥呼時代は古墳時代の始まりと
いうことにしたかった。つまり、四世紀あたりには大和地方には大きな
前方後円墳ができるが、その時代に卑弥呼時代を含める意味があった。
要するに、邪馬台国畿内説というわけだ。
しかし、けっこう無理がある。今となっては、箸墓を含め、纏向あたりの
古墳の始まりの時期も揺れている。
古墳の概念もけっこう身勝手な解釈をしていると思われるな。
723 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 15:32:13.70
>>720 ついでに言えば、卑弥呼は三十カ国あまりを従える倭王。
外交的にも、魏から親魏倭王と呼ばれている。
つまり、最低限、内外から王と呼ばれるにふさわしい地位にいないと話に
ならない。さらに、倭人伝から、夫が居ないことなども条件になる。
もっとあるが、倭迹迹日百襲姫や倭姫は、この最低限の条件さえ満たしていない。
おいおい、モモソヒメも倭姫も、夫なんかいないじゃないか。
もう滅茶苦茶だなw
記紀に書いてないことも読み取れるエスパーか何かなの?お前w
725 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 15:48:50.62
>>724 王にふさわしい地位にあること、という一番の条件を無視して、
夫が居ない、というところに噛み付くのがいかにも畿内説らしい。
ちなみに、倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻になったと日本書紀には書かれている。
もう少し勉強しようね。
おいおい、大物主も実在の人物なの?w
身実がヘビなのに?w
大国主とかの神話の時代から生きてる超長寿の人物なんだ?
頭大丈夫?w
727 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 16:00:36.59
>>726 だから、倭迹迹日百襲姫や倭姫を卑弥呼に比定する根拠は何なのだ。
それを言わなくちゃ話にならないだろう。
いやそれより前に、アマテラスと卑弥呼の共通点を言ってみてよw
君の言う東遷説の唯一の根拠がそれで、
記紀を読めばそれが分かるんだよね、確か。
何か面白くなってきたw
729 :
sss:2013/04/28(日) 16:19:45.57
>>728 そちらも必ず、根拠を言うように。
天照大神と卑弥呼の類似点は、
卑弥呼は倭王であり、天照大神は高天原の主宰神であること。
共に、女性であり、夫がおらず、巫女的に地位にあること。
卑弥呼には狗奴国という宿敵がおり、天照大神には、素戔鳴尊という
宿敵がいること。
卑弥呼は魏から百枚の鏡をもらっており、天照大神は岩戸を出るとき鏡が
重要な役割を果たしているなど、共に鏡に関係が深いこと。
卑弥呼は狗奴国との争いの最中に亡くなり、天照大神は素戔鳴尊の乱暴に
怒り、天岩戸に隠れること。古代の表現で、岩戸の隠れるは貴人の死を意味する。
卑弥呼が死ぬと、跡継ぎをめぐる争いが起こり、千人あまりが殺され、
天照大神が岩戸に隠れると、高天原も葦原中国も真っ暗になる。
台与が女王になると、国中がつい定まり、天照大神が岩戸を出ると、
高天原も葦原中国ももとのように明るくなること。
台与が王になった後、男王が立ち、中国爵命を並び受ける。また、
天照大神が岩戸を出ると高皇産霊尊が登場し、高天原を主導する。
つまり、どちらも男女の王が共存するきわめて珍しい体制に入る。
おいおい、根拠って?
妄想の間違いじゃないの?w
で、なぜ君の大好きな記紀にはそのことが書かれてないのかな?
君は恣意的に記紀を読んで、アマテラス=卑弥呼と思いこんでるだけだよ。
731 :
sss:2013/04/28(日) 16:43:14.55
>>730 畿内説は人の説を批判するだけで、何の根拠も示さないのか。
畿内説は根拠のない説なのか。アンチ九州説に過ぎないのか。
だけどさあw
君の東遷説の根拠の根幹が「アマテラスと卑弥呼の類似」なんだろ?
年輪とか考古学をあれだけ批判しといてこれはないよなw
>>732 俺は畿内説なので、九州説者を擁護するつもりはないが、
君は卑弥呼を誰だと思ってるのだ?
>>731 ここでは「九州説」の批判なんかしてないよ。
スレ違いの荒らしまがいさんが、ここに粘着するのかわからんが、まあ、相手にしてないだけだ。
貴方が書きたいようなことに皆は興味が無いんだから相手にされないのは当然だろう。
たとえば、サッカーの試合中に俺だけラグビーのルールで参加させろと言われたような感じかな。
わかる?
卑弥呼が箸墓の被葬者の可能性は高いと思うが、確証はない。
畿内説の人の認識ってこんなものだろ?
実年代観の違いで、石塚とかに比定する人もいる。
箸墓=モモソヒメか?はまた議論がある。
俺は記紀重視派だからw崇神紀のモモソヒメの記述を重要視するがw
他の天皇でも見られない、陵の築造にまつわる伝承が
わざわざ記紀に特記されてることからも、箸墓が特別な墓
という認識は後世の人も持っていたのだろう。
東遷くんも、せめて柳田とかは読んで、考古学の知識を仕入れてから書き込みしてくれよ。
今のままじゃ、「僕は記紀をこう読みました」の読書感想文。
作者の意図を超えて勝手に妄想しているので、点数をつけるなら0点だが。
百歩譲って、卑弥呼や台与などの古代の女性祭祀者や、
伊勢神宮とかの斎王、推古や斉明、持統とかの女帝などが、
アマテラスのイメージを形作った可能性はある。
ただまあ、アマテラスは実在の人物で、倭人伝の卑弥呼だとかは、安易というか。
根拠薄弱の妄想と言われても仕方がない。
東遷説を主張するにしても、そんな難しい切り口ではなく、もっと色々あると思うが。
もっとまともな東遷説の人はいないのか?
まともな人が東遷説なんかに(ry
東遷説つーよりも、日本書紀の歴史観を日本の共通認識にしたいだけだと思う。
史実とか真実とかよりも、決めごととして、日本の成りたちについて科学とは別のものとして考えたいと。
なんで、唯物史観である現在の古代史学、彼的には邪馬台国畿内説がその代表なんで、
かくもしつこく粘着してくるんだろうな。
議論せず、誹謗中傷と勝利宣言ばかりする畿内説。
誹謗中傷も勝利宣言も、ましてや議論もしていません。
目指すところが全く違うので議論にならないだけです。
と言うことでさようなら。
天照大神が卑弥呼かどうか、邪馬台国が東遷したかどうかはさておいて、天皇家の祖先が九州から武力を持って奈良盆地に移ってきたこと自体は、日本書紀・古事記に書かれており、明確に否定する証拠もないのだから、ひとまず尊重するのが当然だと思う。
これまでの考古学的発見も、記紀を否定するよりも裏付けるものが多いように思うが違うのだろうか。
たとえば纒向遺跡も記紀の崇神〜景行の記事とよく合うように思うのだが。
いやまあ、記紀も重要だと思うよ。
ただ、考古学>倭人伝>>>>>>>記紀、というだけで。
古代ヤマトの大王がマキムクに宮を造って、
三輪山の神妻だった女性が箸墓に葬られたとか。
非常に興味深い伝承を今に伝えてくれている。
あとまあ、箸墓の被葬者のモモソヒメが吉備津彦と姉弟関係にあったとかも、
箸墓の吉備色の強さからも興味深い。
あと、モモソヒメと吉備津彦の父が唐古鍵近くに宮を営んでいたのも。
吉備(楯築)と大和(唐古鍵)が談合してマキムクに都を造った。
前方後円墳の源流は東四国の讃岐や阿波の萩原。
てのが主流?
モモソヒメがキビツヒコと姉弟関係にあるというのも、大和=吉備連合のメタファーか。
古代祭祀を司った忌部氏が東四国と関係が深いのも何らかの歴史的事実を伝承しているのかもしれない。
>>742 でもその天皇氏による南九州から大和への征服?移転?
がいつの時代か?の問題がある。
少なくともマキムクの開始時に九州の影響は希薄で、
むしろ吉備や東海との関係が密だったようだ。
マキムクの開始で環濠が埋められるのも、
遥か南九州から遠征してきたオウが、
敵地の真っ只中に環濠も造らず居住したとは思えない。
マキムクが例え外部主導だったとしても平和裡に造営されたと推測される。
最初のマキムクの大王は記紀が書いてるような軍事的な侵略などはしていないだろう。
746 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 01:49:19.66
>>743 箸墓、箸墓といいながら、記紀は信用できないとは…。
箸墓について書かれているのは、記紀なのだが。
倭迹迹日百襲姫も倭姫も記紀に書かれている人物名。
卑弥呼の墓、銅鏡百枚は、倭人伝に書かれているもの。
考古学がそんなに重要ならば、記紀や倭人伝から一切引用しなければいい。
考古学がいかに無力かがわかるはず。
こんなことは何度も何度も言っていることなのだが、畿内説は答えない。
まあ、答えられるわけがないのだが。畿内説ってのはそんなもの。
>>745 >最初のマキムクの大王は記紀が書いてるような軍事的な侵略などはしていないだろう。
時代はともかくとして、纒向を作ったのは、記紀によれば、九州から奈良盆地に入ってから10代目なのだから、別に記紀と矛盾していないのではないか。
>少なくともマキムクの開始時に九州の影響は希薄で、
>むしろ吉備や東海との関係が密だったようだ。
よくこの意見を見るが、九州よりも吉備や東海の方が遙かに畿内に近いのだから、あまりにも当然で、これで何か主張することはできないのではないか。
たとえば、明治時代の東京に、薩摩・長州のものがあふれていたわけではなかろう。
しかも上で書いたように、畿内に入ってから10代目ですよ。
>>747 しかし弥生後期に畿内での特定個人の墓の階層化が見られず。
王権が確立してたとは思われない。
また畿内の盟主的な拠点集落は、唐古鍵、東奈良、池上曽根遺跡とかになるのだろうが、
これらの遺跡が始まった時に九州からの軍事的侵攻があって、
それがマキムクから十代前ということ?
だいたいいつ頃を想定しているの?
>>746 どこをどう読めば、「記紀が信用出来ない」になるのやら。
そもそも考古学抜きで三世紀の日本を語ろうというのが無茶苦茶な訳で。
確かに考古学者で、記紀を頭から否定する人がいるけど、
それは「記紀はどうとでも解釈出来るから学問的ではない」
という判断なんだろう。
750 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 09:02:48.68
>>749 記紀にしろ、倭人伝にしろ、文献に基づいて考えれば畿内説は成立しない。
だから、考古学で都合よく解釈しようとする。そういうことなのだ。
何度もいったが、桃の種だろうが、鯖の骨だろうが、卑弥呼に関係させる
ことができる。普通の人は恥知らずと言っているが…。
そもそも邪馬台国や卑弥呼自体、考古学で出てきた名前ではない。
考古学的に邪馬台国は存在しない。
邪馬台国論争は純粋に文献上の問題なのだよ。
記紀や倭人伝からの引用を全くせずに、考古学だけで三世紀を語ってみ。
751 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 09:48:38.97
考古学者は百年後でも誉められる報告・論文を書け
畿内説とか何とかに影響されず、
出土物をそのままに考証する手法だ
また畿内説陰謀論とは芸が無いなw
文献だけでは何も結論が出ないことは、
江戸時代から続いてる邪馬台国論争を見ても分かりそうなものだがw
倭人伝抜きでも、三世紀にマキムクで王権が誕生してたのが分かってる。それが大前提。
で、そのマキムク王権が邪馬台国かどうか?が今議論になっている。
記紀読んで妄想してるだけの馬鹿はお呼びではないw
754 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 13:02:32.60
そのマキムク王が女王で、その後継も女王であるなら可能性もいくらかあるであろう
問題は女王かどうかに尽きる
755 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 13:26:27.59
考古学で分かるのは何時、そこに何があったかで
王権があったかどうかは文献でしか分からんでしょ?
記紀には筑紫島に女王がいただとか、大国があっただとかは一切書かれていない
高天原は国生みがなされる以前より存在してるから、高天原も筑紫島にはない
消去法で九州は確実に消えて、神武以降の大和の天皇の中から女王と考えられる
人物を探さなければならなくなる
757 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 15:24:35.32
>>756 記紀の仮想物語と地上の現実がごたまぜになってるよ
758 :
ローガン:2013/04/30(火) 15:52:39.39
>>746 >考古学がそんなに重要ならば、記紀や倭人伝から一切引用しなければいい。考古学がいかに無力かがわかるはず。
真逆なんだよ。例えば、大池に落ちた芝山の玄武岩から、歌謡が史実の一端を伝えているのが判るのさ。
こういう地道な調査の積み重ねが、史料の中から史実を明らかにしていくんだ。
鉄輪造営図だって宇豆柱出土により、確かさが認められただろうに。
だいたい、紀元前7世紀に初代天皇がいた…なんて書が、全て史実を伝えている訳が無い。
そこに包含されている史実を紡ぎ出すのに、考古学的知見を利用するんだ。
759 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 16:54:29.48
>>753 文献では、畿内説にならないというだけの話。
そもそも畿内説を前提に考えるのが間違っている。文献の記述から
演繹的に所在地を求めるべき。
>>758 考古学的な遺跡は、弥生時代だけでも星の数ほどある。
その一つでさえ、どんな人がいてどういう国だったのかは考古学では
わからない。
神武天皇の即位が紀元前660年というのは、間違っているが、これはこれで
いろんな情報が得られる。三世紀、四世紀あたりの年代観はおかしいと
いうのがわかるのも重要。
また、日本の古代の状況は中国の歴史書が参考になる。たとえば、漢書・地理志
や後漢書など。
考古学はあまりあてにならない。全部の遺跡が出現しているわけではないから。
760 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 18:14:56.90
>>759 文献でも考古学でも畿内になるよ。
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼
豊鍬入姫命=台与
で、九州にある王朝に偉大な女王がいたとかかれてある
一次史料って何かあるの?
ヒラバル王墓なんて、恐らく副葬品から考えて女王だったと思うが。
ただまあ、考古学全否定だとそれも使えないかw
しかしまあ、記紀を読んで無理やり倭人伝に当てはめていく
ってスタンスを学問的とは言えないよなw
考古学も少しはかじって、自説を補強すればいいのに。馬鹿だなあw
で、大好きな日本書紀の編者が、邪馬台国=大和、卑弥呼=神功皇后という
最初の畿内説だというのも哀れw
モモソヒメ、とトヨイリヒメが王位についたと
文献のどこに書いてあるの?
>>759 > 文献では、畿内説にならないというだけの話。
> そもそも畿内説を前提に考えるのが間違っている。文献の記述から
> 演繹的に所在地を求めるべき。
だから、それは貴方が貴方の手法で勝手に求めてりゃいいじゃん。
こっちに興味の無いことまで、一々相手にする義務は無いんだから、荒らしっぽい粘着は止めて欲しい。
>>756 いやまあ、景行紀に出てくる神夏磯姫とかが、
邪馬台国後継の女王とかの可能性はないかな?
榊に三種の神器をぶら下げて、白旗で服属してきた女酋。
個人的には邪馬台国が北部九州のどこかにあって、
それがいつの段階かでヤマト王権に併合された可能性はあると思っている。
>>761 > で、大好きな日本書紀の編者が、邪馬台国=大和、卑弥呼=神功皇后という
> 最初の畿内説だというのも哀れw
で、それは無いだろう。
日本書紀は、煬帝に対等外交で臨んだ日の出処の天子様の路線そのままだよ。
邪馬台国に関して言えば九州説そのもの。
766 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 21:53:44.82
>>761 具体的な論点を出してくれたら、考古学でも相手してもよいが、
考古学を勉強しろといわれても、レスのしようがない。
ついでに言えば、平原遺跡でも、多くの鏡が副葬されていることは重要。
全て割られているのも重要。ただ、被葬者はわからない。
女性という説も、武器類がないのを根拠にしているが、向野田古墳のように
女性の人骨が出土していて明らかに被葬者が女性でも、すごい数の武器類が
あるように、武器類のないのが女性の証拠ではない。
言えるのは、棺が発掘されても、骨でも出ない限り、男女の区別も
つかないということ。もちろん、名前はおろか、どういう人物かもわからない。
これが考古学の限界。そういうことは文献がないとわからない。
767 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 22:30:41.49
要するに考古と文献と両方必要なんだろ?
768 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 22:37:30.74
>>761 考古学を全否定しているのは九州説でしょ。
古墳や遺跡の規模では九州は畿内にかなわない。
3世紀の畿内に日本最大級の巨大な王権があったことは
動かしがたい事実で、考古学なら畿内優位。
文献では九州だというから
九州に30か国をおさめた女王がいたという一次史料を出してと言ったのに
一切出してこないんだもんw
769 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 22:44:24.47
>>767 それは言える。考古学は時には非常に重要だが、守備範囲が違うのは
知っておかなくてはならないと思う。
あえて言えば、論争に加わるのではなく、論争に資料を提供するのが役目と
言うか。
どの分野から研究を進めるのも自由だよ
共産国でもないんだからw
熊本は縄文後期からの考古を見るといいんだよな
大和の橿原とは幼なじみみたいなもんだから
遺跡の規模が大きいので、邪馬台国とは限らない
仮に
>>768の言うとおりだったとしても
畿内が魏王朝に認知されていないなら、
文献上には登場しない。
>>766 文献に誰それの墓がどこそこにあると記録されていても
候補となる墳墓遺跡の中から特定していくには考古学的知見が絶対必要だがな
記紀の前に敗戦と政変が起きてるからね
775 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 00:42:59.83
文献文献とお題目のように言っているがw
同時代史料の倭人伝と、五百年後に編纂され、史実ごっちゃ混ぜの記紀では、
信頼性、優先順位が変わってくる。ってのは分かるよな?
で、記紀でもとりわけ信頼性が低い、最古の部分、
蛇と結婚したり、人が白鳥になって飛んでいった、
とか書いてるあたりを読んで、
更には無根拠に自分なりに解釈、書いてもないことを空想してw
「僕は記紀をこう読んだ!」
とか書かれても噴飯ものだよと言ってるわけ。
その「自分なりの解釈」の根拠も記紀という循環論法。
自分がいかに非科学的なことを書いてるのか理解出来ないらしい。
だからせめて、考古学とかの知見も絡めたら?と老婆心で書いている。
おう、そうだな
>>775 墳丘の一番下の段の上を歩いて、土器やら葺石石材が転がっているのを確認した
779 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 21:19:58.54
>>776 たとえて言えば、文献というのは、ある人間の記録とか日記のようなもの。
何が起こったとかも書かれているし、その人の考え方のようなものもわかる。
一方で、考古学の対象はその人の住んでいた家の跡のようなもの。何かが残っていれば
儲けものという感じ。古ければ、誰が住んでいたかもわからない。
纏向遺跡は掘らなくては何もない。掘っても出てくるのは土器や建物の跡くらい。
土器をつなぎ合わせて復元する。年号や生産地が書かれているわけではないから、
推定する。建物の柱穴が出てきても、上に何が建っていたかは推定になる。
この種の推定が正しいとは限らない。
考古学でわかるものは非常に限られていることがわかるだろう。
考古学を全く知らないものが、邪馬台国関係スレで考古学を賞賛するのはおかしい。
780 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 21:45:09.95
>>779 九州の考古学も同じ方法だろw
纏向に限らず九州の考古学も無茶苦茶だといいたいわけか?
少なくとも畿内の三輪王権に関する文献はあるが、
九州王朝に関する文献なんてあったか?
781 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 22:01:54.29
>>780 九州王朝には関心はないが、あれは中国の歴史書から来ている。
たとえば、2世紀の帥升から3世紀の卑弥呼それに5世紀の倭の五王まで、
一貫して倭王となっていることなどがある。
この連続性は九州王朝あるいは東遷説を前提にしないと説明できないところがある。
ハイハイ♪(ワロス
783 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 22:33:16.81
>>781 卑弥呼も倭の五王も等しく「倭王」の称号を得ているということは
それが同一王権(畿内王権)である可能性が高いということだろ。
九州の一地方王であった奴国の王は「漢委奴国王」の称号しか得られず
倭王の称号は得られなかったんだから。
文献史学と考古学それぞれに長所と短所があって現在の歴史研究では両者を用いて補完させなきゃいけないって流れなんだけど
そもそもまともな研究の相手にすらなっていない東遷説では、そんな基本的な状況すら理解していないってことがよく分かるなぁ
そもそも「歴史」つー言葉に対する定義が、
東遷氏と私たちでは違うんだよ。
ボタンとチャックくらい違うんだから全く議論にならない。
相手にするだけ無駄。
786 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 22:40:48.09
>>783 帥升が後漢に朝貢したのは西暦107年。
この時代の遺物として中国鏡等が出土し、中国との交流が認められるのは九州。
近畿地方ではその痕跡はほとんどない。
なので、帥升は九州の王というのが一般的。
ここでは、畿内説に反することは全て否定される傾向があるが…。
例えば文献だと熊本は土蜘蛛以外に人がいないようなことが書かれているが
考古だと向野田古墳の前方後円墳のように4世紀後半には大和が直接統治しているんだなとわかる
弥生期に瀬戸内系の土器が多く出るから、文献だと「熊本は狗奴国」の疑いも晴れるw
788 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 22:45:54.24
>>785 結局、畿内説はそこに行き着く。
議論しても負けるだけ。既成事実を作るほうに専念するということだな。
弥生中期、紀元前後の北部九州の豪華な副葬品は舶載品に対して国産品が少なすぎるね
あれだけの中国製のものと原料の銅を入手するためには、かなり広範囲から国産物を集めなければならないが
そういった痕跡がない
>>779 いや、だからさー
何回も書いてるけど、同時代史料が二千字足らずの外国人が書いた倭人伝しかないから、
考古学に頼るしかないということなんだよ。
信頼性が?の記紀を読んで、勝手に、それも書いてないことを妄想で補って
演繹とか言ってる君は大丈夫?という立場w
何回言っても分からないなあ、ホントに。
791 :
ローガン:2013/05/01(水) 23:46:40.56
>>788 >結局、畿内説はそこに行き着く。
君は、
>>785氏の意図が読めて無いと思う。
君が云う所の、「故人の日記(=文献)をオレはこう読んだ!どうだ!」 というような主張を否定している訳じゃない。
それはそれで結構。ただ、それに同意や共感を求めても無駄。私はそういうニュアンスだと捉えた。
邪馬台国がどこにあったか?なんて判る訳が無いし、どうでもいい。
ただ、3世紀頃に、後の中央集権国家の黎明期を見る事ができる……これと切り離して「邪馬台国論」やるなら、相応しいスレッドは他にいくらでもあるがね。
792 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 23:49:04.16
>>790 具体的に考古学のどこに頼るのかを言わないとあまりにも漠然としている。
考古学的根拠をいくつか言わないと話にならない。
といっても、答えてくれた人はいないが。
ジョーカーならがんばって答えるだろうな。
二千字足らずの魏志倭人伝がいかに重要かがわからないと話しにならない。
古代日本に関する最重要文献だ。当時の日本の政治・社会・風俗・文化などが
全て盛り込まれている。これがなかったらと考えると空恐ろしい。
畿内説は帰納法的。邪馬台国は畿内にあったが大前提。
すべてはこれに帰結する。これに反するものは全て間違っている、と
いうことなのだろう。
793 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:00:52.10
>>791 邪馬台国がどこにあったかはどうでもいい、というのは間違っている。
これはちゃんと論争して結論を出すべき。
というのは、畿内説と九州説(東遷説)ではその後の展開が変わってくる。
従来、教科書などは記紀の記述から神武東征を前提とした内容だった。
たとえば、最初から大和朝廷で、その時代は大和時代という感じ。
しかし、畿内説はこれとは異なる見解を採っている。文字的には大和王権
あるいは大和政権、そして古墳時代などと従来とは違う言葉を使っている。
内容も異なる。畿内説は神武東征を前提にしていない。だから、高校生の
中には、豪族の連合である大和政権がどのようにして天皇中心の大和朝廷に
変わって行くのかわからないという人もいる。わかるわけがない。
文献的な根拠がないわけだから。
畿内説の見解は文献に基づくものではないから、ちゃんと議論して同意を得て
からにすべき。古代史は言ったもの勝ちであるべきではない。
倭人伝が重要なのは百も承知だよ。
ただまあ、文献が大事→だから記紀は信用出来る→記紀を読んでどんどん妄想を膨らまそう
にはならないだろうということw
文献史料が倭人伝ぐらいしかないから、考古学に頼らざるを得ないという
理屈が何故理解できないのかが理解できないw
多くて8ヶ国、1/3も見てないし、どんな資料が元になってるのかもわからない
>>791 残念。
主旨はただ一つ。
荒らしの相手をする必要は無い、つーこと。
万年ループ話で、これ以上sssと絡みたい奴は、
ドン来いへでも行って畿内説を吹聴すればいいんだよ。
そうすりゃ、ここから出てってくれるだろう。
あっちで相手にされてないから、こんなところに出没してるわけだし。
797 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:06:12.12
>>794 だから、その愛して止まない考古学の根拠を言えと何べんいったら…。
じゃあ、具体的に質問しよう。纏向を邪馬台国とする考古学的根拠は?
>従来、教科書などは記紀の記述から神武東征を前提とした内容だった。
何時の時代の教科書なんだw
話が合わないのも仕方が無いな。
799 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:11:16.42
>>798 今でも、文部科学省の学習指導要領は「大和朝廷」となっている。
恐らく、畿内説が教科書に進出したのは、韓国との間で教科書検定の
問題が起きてからだろうと思う。あれから検定がゆるくなった。
考古学には限界があるし、文献が大事なのも分かる。
しかし、それと記紀を全面的に信じるのとは話がまったく違うだろ?
いつも君は話をすり替えるからなあw
記紀の内容を語るにしろ、ある程度の考古学的裏付けやら、
比較神話学とかの知識が必要ということだ。
記紀に書いてあることをそのまま史実だと鵜呑みにしたり、
自分で勝手に書いてないことを妄想するのは学問ではない。
ここまでは理解出来る?
記紀に書いてあること=史実ではない。考古学的裏付けが必要。
→考古学では分からない、文献でしか知り得ないことがある
の無限ループだな。
論点は記紀の内容が信用出来るか?出来ないか?なのに、
東遷くんは「文献は」と話を一般化して煙に巻いてるというw
楽しそうに考古の話をするなと言いたいんだろう
気持ちはわからんでもない
皆が持ってるおもちゃを自分だけ持ってなきゃ、なんか投げつけたくなる子供さんもおろう
>>800 おいおい、スルーしてくれよ。
「神話学」なんて言ったら「歴史をおとぎ話扱いするな!」とか言い出すよ。
彼にとって歴史とは国の成りたちを示す、聖なる取り決めなんだよ。
後の世の民の価値観、行動理念、正義まで既定して、社会の有るべき姿を描く。
それが事実と如何にかけ離れていても、歴史とはそういうものだと、そう言ってるわけなの。
804 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:40:43.28
>>800 まあ、唐古・鍵遺跡、三角縁神獣鏡、箸墓古墳。
畿内説の考古学にはけっこう不信感がある。
それと、吉野ヶ里遺跡の「宮室・樓觀・城柵」にも疑問がある。
何回か言ったが、倭人伝に書かれているものが出土している吉野ヶ里遺跡が
卑弥呼時代ではなく、出土していない纏向が卑弥呼時代というのは
考古学的に見て、妥当性を欠くと思う。
まあ、言いたいことはいっぱいあるが、この辺で…。
「歴史を知るには文献が大事」
→「だから、文献である記紀を読めば歴史的事実が分かる」
これってなんて詭弁だっけ?
倭人伝に書かれているものが出土したんじゃなくて、
倭人伝に書かれているから宮室・樓觀だろうとの仮説だろ
樓觀なんてどこにでも有る、
池上曽根や三内丸山にも有るべさ。
唐古鍵の土器片の中にも有しw
宮室だって吉野が里のは竪穴住居w
倭人伝の卑弥呼の居所の記述は、
古墳時代以降、集落から首長が離れて住むようになった
豪族居館の記述だと何度言ったら…。
あとまあ、肝心の環濠の記述が倭人伝に無いことはスルーなの?w
東遷くんは、何度同じことを言われてもまったく頭に入らない人だから、
誰かテンプレ作ってくれないか?
「考古学には限界がある。文献でしか分からないことがある」
→「だからといって記紀が全面的に正しい根拠にはならないよ?」
「吉野ヶ里で倭人伝の記述通りの楼観・城柵・宮室が見つかった」
→「肝心の環濠の記述が倭人伝にありませんが?」
みたいな。
東夷伝の高句麗伝、韓伝に書かれている鬼神=死者の霊魂を祭る文化と、
倭人伝では鬼道と区別されて書かれている
吉野ヶ里のように大量の墓がある集落は鬼神文化のほうだな
吉野ヶ里の遺構は
考古学者が発掘によりその存在を確認して
遺構の形状や配置から考古学的見地によりその性格を推定して
土器編年の方法論によりその時期を推定したものだ
考古学を信じられないというのであれば
吉野ヶ里の遺構に対しても信じることはできないはずで
当然を論拠とするなどできない
結局東遷説の人はそうした論理的思考ができない、
学問以前の主張に終始してるだけ
アンチ考古学の東遷くんの主張は、
「今の考古学は畿内説の捏造」だからなあ。
昔の「九州説が優勢だった頃の考古学に戻せ」だから。
昔のがいかに無根拠で、それが修正されてきた話をしても頭に入らない。
さらには、世の中の人はみんな邪馬台国論争にシャカリキになってて、
学者も何とか畿内説が有利になるよう捏造も厭わない、
とかいう陰謀論、被害妄想に取り憑かれている。
考古学のシンポジウムとか行けば分かるけど、
邪馬台国について積極的に話すのは、石野、白石、寺沢、赤塚くらいのもので、
彼らは結構意図的に、客寄せパンダ的に邪馬台国やら卑弥呼を扱っている。
考古学者の多くは邪馬台国に冷ややかな態度だよ。
814 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 10:06:15.71
>>813 当たり前。邪馬台国は考古学で出てきた名前ではない。
中国の歴史書に出てくる文献上の名前。
つまり、考古学的には邪馬台国は存在しない。
なのに、考古学的に邪馬台国はここだ、なんていうのが居るから誤解を招く。
日本国中くまなく掘りつくしても、それら遺跡が弥生時代のなんという国か
知るのは難しい。一つ掘ってここが邪馬台国だなんていうのは神か詐欺師か
のどちらかだろう。まあ、神といわれた詐欺師もいたが。
815 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 10:11:38.06
九州説とか畿内説とか大仰にいうけど、
有力候補地は福岡県内か奈良県内であった。
どうみても邪馬台国論争の実態は、福岡県関係者と奈良県関係者の口争いに過ぎぬ。
しかし最近登場の伊都国佐賀説では、
伊都国は佐賀平野、邪馬台国は熊本地方及び部分的に宮崎地方に比定する。
論争の主体は佐賀県・熊本県・宮崎県に移りつつあるのだ。福岡・奈良シンパシーの御一同おっかれさん。
816 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 10:46:09.95
出土したものから推定するなら、吉野ヶ里で自動的に決定する。
これほど倭人伝と一致する出土物がある遺跡は、他にはない。
モ〜 イヤッ! バカばっかしになってしまった。
もう一度 スレタイを「巻向」スレに戻しませんか?。
九州説禁止の ジミーなスレが良いです。 今のままではアホ九州説と、基本文献もまともに理解できないバカ畿内説が我が物顔でのさばっているだけ。
818 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 11:33:21.00
九州説は可能性がある。
東遷説は可能性がない。
マキムクの成り立ちを語る以上、吉備、東海、筑紫などの
外部勢力の影響を語らざるを得ない。
また同時代の可能性が高い倭人伝も無視は出来ないだろう。
排除すべきなのは記紀を読んで全部分かった気になってる馬鹿。
820 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 12:38:18.47
いままで奈良県人が吹きすぎたのよ
とうぶん祟るな
821 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 13:22:43.48
せいぜい巻向村の村長ww
822 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 15:36:49.48
庄内辺り(東北地方日本海側)にある方墳て何者のなの?
七曜とか中国(〜朝鮮)の風水だか北斗七星だか信仰の影響見られるみたいだけど。
庄内辺りになると地名にアイヌ語もあるし蝦夷との境界線辺りだし、
高句麗渡来+蝦夷側なんだか百済・伽耶渡来+朝廷側なんだか、
それとも白村江なのだか混乱する。
エロい人教えて。
九州説の嫌がらせばっkし。 まるっきし チョン
824 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 15:52:41.73
>>819 記紀の記述は九州説に都合の悪いことだらけだから
記紀を排除しろと言いたいだけじゃないかw
九州説に都合の悪い史料は完全捏造だから無視してくださーいw
九州の発掘調査は全部正しいが畿内の発掘調査は捏造だから全部無視してくださーい
魏志倭人伝は九州説に有利な方位は正しいが
畿内説に有利な距離は捏造だから全部無視してくださーい
ってただの馬鹿だろ
825 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 17:03:49.62
記紀の記述は神武東征、九州説有利
倭人伝の行程と距離、九州説有利、
倭人伝の生活描写、九州説有利、
考古学的出土遺物、九州説有利
なにか、九州説に問題があったっけか?
826 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 17:34:29.34
>>825 全部畿内有利だろ
根拠を上げずに書いたってw
記紀、風土記、延喜式神名帳の文献からすると
九州は天皇に従っていない辺境の民=土蜘蛛が多い
土蜘蛛は全て延喜式の名神大社の周辺に存在する
逆にいうと土蜘蛛がいたところには名神大社はない
(名神は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神)
壱岐6座、対馬6座、筑前・筑後18座10社、豊前3座1社、肥前は呼子に1座、肥後は阿蘇に1座
九州北部、中部はこれら名神大社の周辺に天皇に従わない辺境の民がいる
ここにいる土蜘蛛は小勢力で連合もしておらず、簡単に討ち取られている
名神大社がある国は大和の天皇が来るまで、自力では周辺を服属させることができなかったことになる
豊後、日向、大隅、薩摩には名神大社はない
豊後の土蜘蛛とは激しい戦闘がなされたように書かれている
南九州の熊襲は内容的には娘を差し出したようなかたちになっている
肥前国風土記には、「この島の白水郎(あま)は容貌が隼人に似て、つねに騎に乗って弓を射ることを好み、
その言語は世人とはちがっている」とある
隼人族は東夷伝馬韓伝にある州胡に近い胡族系の一種だと思われる
>>827の追加
肥前国風土記の隼人似の記事は五島列島
829 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 17:56:06.36
高天原のとりわけ皇祖につながる神社や故事は延喜式には記載されなかった。
なぜなら高天原だけに地上にかかわるはずはないからである。
よって延喜式にあるのは二流以下のみ。
830 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 19:56:50.73
>>827 仁徳天皇の妾に日向の豪族の娘が献上されているよ
つまり大和王権と九州の力関係なんてそんなもん
5世紀には大和王権に娘を妾として差し上げて
家来としてお仕えする身分だった
831 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 20:06:03.70
いや、だからさ
三世紀における日本列島最強国家=邪馬台国
じゃないんだよ。
三世紀に魏王朝に貢献した国家=邪馬台国
なの。何回言ったらわかるの
833 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 21:47:04.05
>>827 熊襲が最初に登場するのは12代・景行天皇の時代。
景行天皇は日向に宮を築き、6年かけて熊襲と戦っている。
しかし、決着はつかなかったようで、息子の日本武尊が遠征したのは有名。
さらに、14代・仲哀天皇も熊襲征伐に出かけるが、熊襲の反撃に遭い、
敗走したとなっている。非常に強敵だったことがわかる。
5世紀の磐井の乱は、大激戦で、大和朝廷の存亡をかけた戦いとも言われる。
しかし、それ以前、神武東征以後には大和朝廷と九州の勢力がまともに
ぶつかったという記録はない。崇神天皇の時代の四道将軍派遣があるにも
係わらず、熊襲以外の九州と円満だったのは不思議である。
834 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 21:48:07.16
835 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 23:39:45.51
ちょんは高句麗に憧れ日本人に自分達を高句麗人に思わせようとするけど、
日本に渡来したイスラエル起源の高句麗人と、
いま半島にいる中国の歴史書に「小便で顔を洗う汚い民族」と記されたワイ人=エベンキ=ちょんとは違います。
836 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 23:57:04.27
>>832 しかし、卑弥呼は魏から「倭王」の称号を貰ってるんだよ?
九州のどっかの一蛮族の酋長が朝貢したなら漢に朝貢した「奴国王」みたいにさ、
「邪馬台国王」の称号がふさわしい。
中国では王朝の交替を「革命」(天帝の命によって王の姓が易わるという意味の易姓革命の略)というが、
それには禅譲と放伐の二つの形式があり、その一つの禅譲は前王朝から譲りを受けて、平和的に新王朝が成立する場合を言う。
三皇五帝の尭から舜など、理想的な継承方式とされた。
歴史時代においては、最初の例としては、後漢から曹丕が帝位を継承し魏に交替したのが最初とされる。
その魏も、重臣であった司馬氏に実権を奪われ、司馬炎が禅譲を受けて晋を建国する。
禅譲は五代の後周の柴氏が趙匡胤に禅譲して宋が建国されたのを最後として行われなくなる。
禅譲といってもほとんどは実力で帝位を奪ったもので、形式だけ前王朝の最後の皇帝に譲位をみとめさせたにすぎない。
それにたいして実力で前王朝を倒して王朝交替を実現することは放伐という。
強いものが正義、これは世界共通
魏晋代の中国皇帝が倭王と認めるのは、(中国が知る限りにおいての)日本列島内最強国の王
838 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 02:39:22.21
親魏倭王に任ぜられたのは邪馬台国王ではない。「倭王」(九州島30国の共立王)だ。
ここを間違えとるヤツらは、こんがらがった三世紀論に迷い込むのだ
制詔親魏倭王卑彌呼
>>838 しかし、その九州の共立王の痕跡が見当たらないという問題が。
弥生後期の広形銅矛を共通祭器とした宗教的?連合みたいなものは想定出来るが、
三世紀は大和の影響をかなり受けている。
九州島だけの連合とは考え難い。
>>836 倭人伝時代(三世紀)の「倭国」と、
隋書時代の「倭国」とを、同じ領域と考えてはいけない。
三世紀時代は、近畿地方は中国の認識には入っていない。
842 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 09:52:36.38
>>840 三世紀は鉄製武器・鉄器及び製鉄など、半島大陸から技術導入した時代、
それをになったのは九州各国、もっといえば卑弥呼に象徴される九州連合で、列島にさきがけて九州は鉄の時代にはいったのだ
有明海沿岸の鉄鍛冶・製鉄遺跡の発掘調査は遅れているけれど、
かといって銅で語ろうとするのは時代遅れ
843 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 10:02:42.51
844 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 10:06:13.23
鉄でこの時代を考えれば、九州の優位性は際立っている。
九州では製鉄の行われていた痕跡もたくさん見つかっているが、これを
認めると、近畿地方の後進性はどうしようもないレベルになる。
垣内遺跡でごまかしているが、鍛冶工房としての水準は比較にならない。
>>838 徳川幕府の小型版と考えれば理解しやすいと思われる。徳川将軍は、
江戸に拠点を置いているが、江戸の王というよりは日本の王と呼ぶのが
ふさわしい。卑弥呼の場合も、邪馬台国にいるが、倭王というわけだろう。
845 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 10:44:01.45
さよう
九州の片田舎の女族酋長では魏王朝の体面にかかわる
先進の鉄技術地帯である九州島30国を束ねる実力者であればこそ、破格の親魏倭王待遇を得たとみるべし
まあ、今の天皇制と同じで、
実質の政治は各国国王がやっていて、
揉めた時の取りまとめとか、
名目上の代表者が卑弥呼という扱いだろう。
そして、小国の王の中でも、
実質上の権力者は筑紫王だと思う。
847 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 12:22:13.03
後世、源氏にしろ足利氏にしろ徳川氏にしろ、
クーデターで自ら国王天皇になる大武力は無いわけではなかったと思う。
しかしそうしなかったのは、
それが卑弥呼時代だったとは言わぬまでも、
かっていつのころか行われた共立天皇という経過を尊重する事で円滑安定な長期政権を目指したのだと思う。
まさに中華における夏王朝の役割影響と同様、これは日本列島における伝統なのであろう。
じゃあそれだけの軍事力を持った邪馬台国連合と張り合う狗奴国はどこにあったんだい?
鉄は古墳前期でも九州が際立っているのは確か。
しかしそれでも権力の中心が筑紫→大和にシフトしてしまっているのが重要。
鉄の多寡がイコール権力に結びつかない。むしろ人口の多さこそ重要な時代だった。
850 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 12:54:25.81
・・、此女王境界所盡。
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
残念ながら、これだけしか分からぬな、
なおその後も反乱軍であり続けたのか、鉄の邪馬台国連合に参加したかどうかも分からぬ。
ただ後世の景行天皇の熊襲征伐の進軍路はある程度の参考になるのでは。
古墳時代以降、山陰中国地方での製鉄の成功もあって、
徐々に畿内方面の国家群も力をつけてきていた。
その過程が畿内勢力による出雲支配である。
九州は大量の弥生遺跡からわかるように、ほぼ飽和状態。
これ以上発展する余地は少なく、神武東征のように、
小豪族が新地に移民するようなことは、しばしばあったに違いない。
むろん現地の豪族と衝突するのは想像に硬くないし、
運良く住み着くことができたものもいれば、
できなかったものもいるだろう。
畿内でも葛城や明日香など、各地で豪族が台頭してくる。
この辺りは記紀で書かれているように、激しい勢力争いである。
蘇我、物部の合戦など、豪族の勢力争いが落ち着いた時に、
台頭してきたのが藤原氏であり、藤原京以降が、
畿内勢力がまとまった時期であろう。
畿内勢力がまとまると、九州勢力が相対的に弱体化する。
もともと朝鮮半島に勢力を持っていた九州勢力は、
白村江で勢力減少を食い止めようとしたが、大敗北。
九州勢力でも最大の有力者筑紫王が捕らわれ、
軍事的能力はほぼ完全に失われた。
それどころか、唐に占領支配される可能性さえあった。
九州勢力は、倭国の支配権を完全に喪失。
権威の象徴である天氏は、畿内に移動する。
同時に多くの文官も畿内に移動し、
畿内勢力の下につく。
それから、畿内大和朝廷を中心とした国家整備が急速に進められていく。
853 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 16:33:17.12
>>849 それも東遷(東征)を考えるほうが理解しやすい。
東遷説で唯一可能性がありそうなのは、マキムク開始前のタイミングだろう。
しかしそれだと、古墳前期でも鉄が九州>大和の説明がつかないな。
855 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 19:11:28.50
江戸時代の末期のように、
東に繁栄する江戸あり、西に衰退気味の京の都あり、
あるとき明治維新勃発であれよあれよと言う間に東京に変わり、 明治天皇も東京城(皇居)に御移りになった。
同じような成り行きで、
神武東征なる出来事は300年ごろ、
マキムク開始期と鉄の九州>大和の両方の説明がつく短いタイミングで邪馬台国は輝いたということではなかったか?
江戸末期の京都が衰退とかどこの国の歴史ですか?
857 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 19:32:33.29
衰退でよろしからざれば、停滞といいかえよう
858 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 20:33:15.29
>>854 考古学的な遺物というのは棄てられたもの。
あるいは墓に副葬されたもの。
捨てられるほど豊富にないと、考古学的には認識されない。
鉄のないところにいった場合、そういう状態になるまではかなりの
時間がかかると思われる。
>停滞
幕末の政治の中心がどこだったか
高校レベルから日本史をやり直した方がよい
幕末に天皇を奉じたのが薩長土肥だが、
明治維新した直後に、
天皇ごと江戸に行っちゃったな。
やはり、すでに政治の中心は江戸、東京。
861 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 21:05:39.42
日本史を理解してないのが混ざりこんでるな
こういう浅い理解しかできないから東遷説をやってられるんだろw
邪馬台国の位置は文献でしか分からない(キリッ)
とか言っておいて
鉄の出土量は九州が圧倒的!
としれっと考古学の所見を使う時点で察してやれ
文献でも九州。
鉄でも九州
那珂八幡とか庄内カメを見る限り、畿内抜きで三世紀の筑紫を語ることは不可能。
むしろ東遷というよりマキムクの文化が西遷している。
ヒラバルとかの筑紫の葬送儀礼は前方後円墳に採用されていない。
吉備の楯築の影響が大きい。
マキムク前の単純な筑紫東遷とかは成り立たなくなっている。
866 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 22:16:26.50
>>895 江戸時代、徳川幕府は京都におかれ、
全国の大名は参勤交代のため京都へ上りました。
867 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 22:47:40.70
「今でも京都が日本の首都。東京の皇居は別荘で、京都の御所こそご本居」。
畿内の人達の中には、現在もこの考えにこだわっている人が少なからずいます。
東京遷都して130年も経た今日、なぜこのような考えが残っているのでしょうか?
明治2年(1869)3月28日、
明治天皇は、江戸城改め皇城(1888年宮城と改称、現在の皇居)へとお入りになりました。いわゆる「東京遷都」です。
この際、明治天皇は「ちょっと(東京へ)行って来る」と言って京都を立たれたといいます。
「ちょっと行って来る」という以上、「暫くしたら京都へお戻りになる」、
当時畿内の人達は、せいぜい東京への「行幸」程度にしか考えていなかったといいます。
しかも東京遷都に際し、明治天皇は「遷都の詔勅」を発していなかったので、このように受け止められたようなのです。
868 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 23:09:56.77
>>867 関東は平安時代頃までは辺境の地だったからな
今でも日本の中心は近畿だと頑なに信じてる人はいる
869 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 23:34:28.16
まあ、天皇は有史以来、めまぐるしく遷都している。奈良から京都に
移ったりもした。皇室の前身が邪馬台国であり、九州にあったとしたら
ここでも遷都が行われていた可能性もある。
中国では埋蔵量が少ない銅錫の供給不足となり、春秋戦国時代から鉄器が普及するが
初期の鉄器は脆く鉄は悪金、青銅は良金と呼ばれた
春秋末期に楚、呉、越から製鉄が発達して硬い鉄ができるようになるが
中国を統一するのは秦 武器は青銅器、農具は鉄器
日本の古代の最強の武器は宗教=兵の動員力
日本に伝播した希少な青銅器(技術)は、武器としては発達せず祭器化する
倭人伝にも倭王は祭祀王であることが書かれている
鉄器が武器として威力を発揮するようになるのは
原料を輸入に頼らないタタラ製鉄が本格化し大量生産できるようになってから
中国はこの時期すでに石炭を使用した製鉄をしていて日本はかなり遅れてはいるが
産鉄、製鉄の技術を獲得することにより、急速に大量武器保有国となる
幕末の政治状況や明治初めの遷都の議論、何より東京遷都の建白書の内容
こういうことを調べもせずに自分に都合よく妄想
それが東遷説信者のレベルw
872 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 08:27:32.54
天皇 都宮名
神武 大和国橿原宮[かしはらのみや]、奈良県橿原市畝傍町
綏靖 大和国葛城高丘宮[かつらぎのたかおかのみや]、奈良県御所市森脇
安寧 大和国片塩浮孔宮[かたしおのうきあなのみや]、奈良県大和高田市三倉堂
懿徳 大和国軽曲峡宮[かるのまがりおのみや]、奈良県橿原市大軽町
孝昭 大和国掖上池心宮[わきのかみのいけこころのみや]、奈良県御所市池之内
孝安 大和国室秋津島宮[むろのあきつしまのみや]、奈良県御所市室
孝霊 大和国黒田廬戸宮[くろだのいほとのみや]、奈良県磯城郡田原本町黒田
孝元 大和国軽境原宮[かるのさかいはらのみや]、奈良県橿原市大軽町
開化 大和国春日率川宮[かすがのいさかわのみや]、奈良県奈良市子守町
崇神 大和国磯城瑞籬宮[しきのみずがきのみや]、奈良県桜井市金屋
垂仁 大和国纏向珠城宮[まきむくのたまきのみや]、奈良県桜井市穴師
景行 大和国纏向日代宮[まきむくのひとろのみや]、奈良県桜井市穴師
「日本の首都は今でも奈良である」、と多くの奈良県民は信じている。
だから大三輪山を望むマキムクは高天原、箸墓は卑弥呼(=天照大神)の墓でなくてはならないと叫びたいのであろう。
いい加減、高天原がどこか?とか馬鹿げた話は止めろよ。
神様、天上の話なんだからさ。
まあ、天照大神=卑弥呼とか言ってる馬鹿には無理な相談か?w
高天原は奈良
875 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 10:06:23.48
韓国語で、トットリ(鳥取)はドングリ、ナラ(奈良)は首都だか都だかの意味と聞いた
奈良県民は格別の想いをいだいているのだろうな
奈良は平城山ナラヤマからだろ。
なんでも韓国にするのは頂けないな
日本語は系統が明らかになっていない古い言語だからな
日本人がもつD系統の遺伝子は地中海や中東のE系統の仲間で東アジアでもっとも古いから
隣接した地域の言語には影響を与えてるだろうな
D系統の祖型はインド東部のアンダマン島で見られるから、その周辺の言語とも似た
単語があるだろうな
878 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 12:24:42.08
いつの世も、都は移り、時代は変わる
そういう時の流れの中で古代の都も、奈良の都も、理解しなくてはならない
卑弥呼は数十年、邪馬台国は長くても2〜3百年、奈良の都はおそらく4〜5百年、超長命の京都でさえ千余年の繁栄にとどまる
879 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 14:27:33.69
高天原は高句麗。高句麗は扶余系でカリエン人+バビロン人+バビロン捕囚でバビロン人と一緒なってた南ユダヤ人。
880 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 21:02:09.46
>>872 日本書紀などを読むとわかるが、古代人は死を非常に穢れたもの、
汚いものと考えている。黄泉の国の伊邪那美命の姿を見ると良くわかる。
そういうことから、天皇が死ぬと、その土地、その宮殿は穢れたものと考えられ
転地や宮殿の建て替えなどが行われていた。
ていうか、マキムクは三世紀初めから四世紀後半あたり、
100年以上存続してたみたいだが。
天皇の宮と都は別と考えるべきなのだろう。
882 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 02:08:38.54
>>872 まあ正直こんなもん全部後生のあとづけだけどな
すでに古事記編纂の時点でさえ邪馬台国の情報さえ失われていたのが現実だからな
祟神〜景行〜応神あたりでばったばたと既存の政権が倒れては新しく入れ替わっていったんだろな
特に景行はおそらく、九州土着の豪族で間違いない。
神武と応神(神功)の時に東征があって、
景行と継体の時に西征があった。
瀬戸内海の東の端と西の端で何度か綱の引っ張り合いがあったのは確かだろう。
後世、細川と大内、織田と毛利が争ったように、
瀬戸内海航路を牛耳った者が倭国の覇者になるという伝統があったのだろう。
神武東征でさえ小豪族程度
大きい戦闘は出雲の国譲り。
それ以上に古代で大きい戦闘があった気がしないけどなあ。
いやまあ、初代の天皇は輝かしい武勲を挙げないといけなかったから、
創られたのが神武東征伝承でしょ。
大和と吉備で談合して大和王権では、有り難みが湧かないw
そもそもハツクニシラスが二人いてる時点で、神武が後世創作された人物だと分かりそうなものだが。
神武東征なんか、紀伊半島に上陸するまでは単なる瀬戸内海航路の行程記事程度。
もともと倭は呉の太伯の末裔を名乗っていて、
当初のヤマト王権のハツクニシラスの物語は、太伯が日本に移り住み、その何代か後の人物が、
マキムクの王(崇神)に即位したというものだったのだろう。
それがある時期に、太伯の裔であることを否定。
崇神の前の何代かを潤色し、最終的に天から降臨した神様の子孫という話に作り変えた。
>>885 いやまあ、初代の天皇は輝かしい武勲を挙げないといけなかったから、
創られたのが神武東征伝承でしょ。
じゃなんで日向になったんだよ。
>そもそもハツクニシラスが二人いてる時点で、神武が後世創作された人物だと分かりそうなものだが。
奈良南西部に神武、
ほぼ1世紀後、
奈良東部に祟神なら別に変ではないが。
変と言われても、現在の考古学的見地に立てば、
畿内で王権が誕生したのはマキムクが最初で、それには恐らく吉備が大きく関与している。
日向は西都原もマキムクより古くはならないし、
日向三代も史実ではなく、後世追加されたと見られるというだけ。
大量の古墳で日向と畿内は共通点がある。
形状的にも日向のほうが原始的で小型のものも多い。
日向から畿内に移動して、古墳が洗練されて大型化すると
考えればしっくりくる。
有明海側は、一部に前方後円墳もあるが、
古墳時代に末期まで、円墳あり方墳ありとカオスであり、
そちらとはあまり関係がない。
西都原が一時、かなり古くなる、みたいなニュースは聞いたが、
結局尻つぼみだった記憶が。
少なくとも庄内3のマキムク石塚より古くはならないだろう。
前方後円墳のルーツは、今のところ吉備楯築とされている。
讃岐地方には前方後円形の墳丘墓が古くからあって、関連が注目されている。
寺沢は筑紫吉備讃岐播磨が大和王権を主導したと言ってるが。
残念ながら日向は入ってないなw
日向が天孫降臨の地に選ばれたのは当時の政治情勢による。
隼人征伐が危急の命題だったから。
あとまあ、筑紫は磐井みたいに反乱を起こすから信用できないが、
日向国造家はそこまでの力の無い「田舎」だから、天孫の地に選んでも安心
という考えも働いたのかもしれない。
892 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:37:33.14
西都原古墳は近畿の影響をうけて築造、という大先生達の大前提による編年だからねえ
893 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:44:59.42
皇統の根幹を改ざんして自分らの王をへりくだらせるのはやり過ぎ
894 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:50:26.44
今は田舎なれど、選ばれたのには、それ相当の理由あり
理由なくして菊花御紋の神社をみるはずもなし
>>892 土器編年の併行関係で、どちらの遺跡が古いかは分かるということ。
変な被害妄想は止めとけw
西都原81号墳だな。
当初はマキムク型で三世紀半ば、箸墓より古いと言っていたが、
後から土器が沢山出てきて四世紀初めに変更されたという。
残念ながら、マキムク石塚より前にはならないだろ、流石に。
>>891 >日向が天孫降臨の地に選ばれたのは当時の政治情勢による。
>隼人征伐が危急の命題だったから。
どんな理屈だよ。
ならば蝦夷の地にするのが先だろうが。
>>888 >畿内で王権が誕生したのはマキムクが最初で、それには恐らく吉備が大きく関与している
纏向遺跡を邪馬台国の王都と見てるのは橿原考古研の研究者の中でも半分くらいだよ。
>>898 だろうなw
寺沢も邪馬台国は唐古鍵遺跡だと言ってたしw
邪馬台国論争なんて、結論は出ないよ。
ヤマト王権の成り立ちを語る上の材料の一つなんだよ、倭人伝は。
>>897 いやまあ、前スレから何回も書いてるが。
隼人は四五世紀の早い段階で畿内王権の影響を受けている。
八世紀の大和朝廷が隼人征伐を重要視したのは、宇佐八幡宮が急に権威を高めたことからも分かるが。
あとまあ、こんなことはどうとでも解釈出来ることでw
要は、日向から大和に東征したなんて根拠が記紀以外に存在しないのが一番の理由なんだがw
901 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 20:32:33.10
ま、東征は無かったことにするこった
十年後、百年後、千年後のいつかは知らぬが、
皇居内の資料が明るみに出る可能性を想定しなかったことに臍をかむことだろうよ
結局、神武東征伝承以外に東遷の根拠など一つもないといういつもの結論。
東遷説とかやっていて虚しくない?w
903 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 20:42:01.10
邪馬台国は古代史に多くの人に関心をもってもらうための「餌」
結論なんかでないし、ここだ!あっちだ!言うだけでホイホイ本が売れるんだから
商業的にもおいしいし、本当にありがたい存在だよ
問題は、自分の「学説」で飯を食ってる連中が自説と異なる説を徹底して潰しにかかる醜い状態だな
あんなもん永久に結論は出ないんだから、各人自由に主張すればいい
ぶっちゃけもう、面白ければそれでいいのよ
邪馬台国ってそういうもん
>>900 >要は、日向から大和に東征したなんて根拠が記紀以外に存在しないのが一番の理由なんだがw
記紀で充分なんだが。
纏向遺跡に日向の土器がないから否定されるなんてのは愚の骨頂。
だいたい記紀には神武の宮は纏向遺跡のある桜井ではなく西部の御所あたりだし。
>>902 考古学を尊重するなら、畿内圏は弥生時代後期くらいまではほぼ未開の辺境だった
それがある時、突然最先端文明が栄え「かのピラミッド」さえ軽々と越える規模の古墳が次々と現れる
東遷をないと考えるのは、密室で人が死んでいて、犯人がわからないから殺人自体をなかったことにするのか、という話に近い
神武が眉唾だとしても、崇神から応神で政権が入れ替わっているのはほぼ確実
その間の景行がかなり怪しいんだよね
巻向にて政権を執っていたという記述はあるもののその行動はほぼ全編、九州地方で彩られている
やはりこの時代に、九州から畿内へとじわじわと足がかりをつかんだと見るのが妥当だろね
906 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 20:49:28.00
邪馬台国論争が転換期を迎えつつあるのは明白。
近い将来それに合わせて日向も東征も語られるようになる
907 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 20:52:19.94
そうだな
桜井市は、崇神、垂仁、景行あたりからだから、
東征は眼の上のタンコブ、あっては困るだろうな。
>畿内圏は弥生時代後期くらいまではほぼ未開の辺境だった
んな事ない。
唐子鍵も池上曽根もあるじゃないか。
>九州から畿内へとじわじわと足がかりをつかんだと見るのが妥当だろね
九州の影響はあった。が、中枢勢力は2世紀後半には畿内入りしてる。
したがって邪馬台国は畿内になる。
>>905追記
そもそも、記紀に記されているレベルの中央集権がその時点で成立していたとすれば、
天皇御自らが熊襲などと呼称する蛮族風情征伐に、わざわざ出向いてそこで臨時政権をたてる必要もない
ましてや熊襲という呼称が突然歴史上に出現したのも、景行時代であり
このことが彼が九州地方で覇権を握った豪族上がりであることを如実に証明している
>>904 記紀の記述を一字一句信用するという原理主義、
宗教的立場なら学問板から立ち去るべきw
記紀の記述にも検証が必要。ろくな文献もない中で、
500年前のこと書いてるんだから、間違いもあって当たり前。
911 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 21:00:48.73
眉唾だの史料批判だの言うが
皇統に都合悪く書かれてることを都合よく解釈することが史料批判かね
基本逆だろ
機内の2世紀は銅鐸勢力じゃない?
>>908 邪馬台国時点での日本でさえ、倭人伝に記された内容はほぼ原始人みたいなもんだよ
ここから世界最大級(っていうかむしろ「最大」なんだけど)の古墳を次々と作り出すのには
かなりの差がある。邪馬台国が畿内で、そこから古墳時代に進化するっていうのはちょっと無理があるよ
縄文時代は1万5000年続いたが、弥生時代に渡来人がくるまで文明の飛躍はなかった
なにかしら、大きな力が働かない限りは文明は開花しない。
あと当時の中国には「倭国」と「日本」のふたつの国があったという認識が既にあることからしても、
倭国の邪馬台国に関しては、九州でほぼ間違いないと思う。問題は、日本が最終的に勝ったことも確実なので、
そこで東遷説もひびが入るということだが・・・・
やはりあれか、謎の関東王国か
しかしそれを絡めるとますます意味不明になるな
完全に記紀をスルーしないとたどり着けない領域になってしまうしな
そもそも記紀なんてものは八世紀の大和朝廷、天皇に都合よく書かれたものだから。
吉備楯築の大王がマキムクを主導したとか、
四世紀末〜五世紀にかけて吉備が大和と対等な立場だったとか
書ける訳がないんであって。
特に吉備や筑紫に関しては、大和より先に王権があったことを
かなり入念に抹消しているように思う。
916 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 21:21:56.73
書けるだろ
初代天皇に隼人の血が入ってると書けるんだから
>>910 >記紀の記述を一字一句信用するという原理主義、
>宗教的立場なら学問板から立ち去るべきw
一字一句信用なんてしてない。
古代天皇の途方もない年齢なんて話にならないしね。
しかしながら奈良県御所近辺に、
神武天皇に関わる柏原、ホホマ丘(本間丘)、
掖上、国見山など、記紀に書かれた地名が濃厚に残ってるのに無視はできないだろう。
これが虚構だというなら何故虚構を書いたのかを説明しなければな。
アマテラスなんかは完全に後付けされた神
>>913 いや、弥生後期を通じて奈良盆地でかなりの人口増があったことが分かってるから。
単純に人口が増えた奈良盆地に弥生終末期に王権が誕生したんだよ。
考古学的に考えるとそういう結論になる。
あとまあ、政治的な綱の引っ張り合いがあって、
吉備や東瀬戸内の王が奈良に迎え入れられたとかはあるだろうが。
>>913 >ここから世界最大級(っていうかむしろ「最大」なんだけど)の古墳を次々と作り出すのには
かなりの差がある。
弥生墳丘墓から漸次的移行をしてるわけだが。
半島南部の鉄資源を握ってたからこそ大古墳を造れたのだろう。
そもそも日本書記なんかは何十回も改変されてる
まだ長い間スルーで放置されてきたという点で古事記の方が遙かに信用性に長けるよ
事実、書記じゃ出雲なんて完全スルー
記紀を一字一句信用しないという立場で、
どの部分が正しくて、どの部分は正しくないかは、
お前が恣意的に決めるんだな?w
記紀の正誤を検証するのに記紀を用いるとかさーw
まともな神経では出来ないw
これも東遷くん対策のテンプレに入れといてw
>>922 >記紀の正誤を検証するのに記紀を用いるとかさーw
そんなことは言ってない。
記紀と現在の地名が何故符合するのだ。
おまえは答えてない。
>>921 それは日本書紀が「日本(にほん)」の歴史書だと思ってるから起きる間隔のズレじゃない?
日本書紀は基本「日本(やまと)」の史書だって考えるべき。
>>919 東の方はとんでもない数の縄文人が住んでいたらしいから
中国の歴史で四方の未開人を制圧して人員に駆り出した陣営が勝つ基本パターンで
圧倒的規模の労働力をゲットしたんだろね
となると同時に夢の関東王国も結局はあわと消える。
まずは朝鮮半島で最先端技術を確保して、それから東に一挙に領土を広げ人員を確保
きわめて合理的だな
>>921 記紀両方から抹消された神や氏族も極めて重要やね
>>924 じゃあ、記紀の記述の真偽はどうやって検証するの?
考古学を使うってのが一番ポピュラーだと思うけどなあw
東遷を頭ごなしに比定するのは何か、変なイデオロギーに感染してそうな気配すらある
完全にコピーされたかのような地名の一致などそれ以外で説明がつかない
卑弥呼はアマテラスだった!とか言う素っ頓狂な説とかよりは遙かに合理的
>>928 俺は924さんじゃないけど、
記紀の記述と考古学的知見て大まかな部分ではけっこう一致してるよ。
卑弥呼の時代に東遷があったと思ってる奴のほうが変なイデオロギーに感染してるっぽいがw
>>928 >考古学を使うってのが一番ポピュラーだと思うけどなあw
それは当たり前だ。
しかしながら纏向遺跡の桜井あたりは、記紀では神武の宮ではない。
大王家が桜井に居住するのは祟神以降だ。
ハツクニシラスとはこういうことだろう。
しましまぁ残念ながら神武の宮があったであろう御所の柏原あたりは発掘できない。
ここを発掘できないで邪馬台国の話はするなというのが俺の意見だ。
畿内説者の一部が言うように邪馬台国は纏向遺跡で決定なんてのはとんでもない。
この分野は、本を売るためにことさらにセンセーショナルな説をでっちあげ
それを形式だけ論理立てた数字やデータで理論武装する輩がうじゃうじゃいることだな
しかも、それを大まじめの風采を装ってやっている
いわゆる飛鳥昭雄とか最初から娯楽として本を書いて売ってる人間の方がよほど良心的だとすら思える
>>931 神武よりは合理的じゃない?
卑弥呼はともかく、邪馬台国が九州をそれなりにまとめたのは事実で
それがのちの東遷勢力につながったと考えるべきでしょ
ただどちらが勝った負けたじゃなく、最終的に合流して一大勢力になったんじゃないかな
神武がマキムクでなくても、せめて吉備や唐古鍵あたりで即位してたら、
もう少し信憑性があったのだが。
橿原が選ばれたのは当時の政治中心地、アスカに近いという理由だけだし。
神武陵は古くはスイゼイ陵に比定されていたようだ。
そもそもイワレヒコって名前自体が磐余地域を暗示している。
橿原即位に無理やり変えたのだろうな。
>>932 アンチ考古学の東遷くんてのがいたからさー
君は一応まともみたいだな。
ただまあ、根拠なく記紀を盲信するのは慎むべき。
>橿原即位に無理やり変えたのだろうな。
おまえは何故そんなにひねくれてるのだ?
橿原神宮のある地ではなく、御所市柏原で何か不都合あるのか。
ただ発掘されてないというだけだ。
>>935 逆に神武以降開化までが「欠史」であることにもっと注目すべき。
保守派も進歩派もみんな「神武」を過大評価しすぎなのよw
神武ってのは、言ってみりゃ徳川氏なら得川義季(あるいは松平親氏)、
足利氏なら足利義康みたいなもん。
939 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 22:24:19.21
アンチ考古学というよりもアンチ畿内考古学といったほうがいいだろうな。
だいたい、近畿地方の弥生時代は、特権階級の存在が認められない集落単位の
社会であり、その象徴が祭祀用具と目される銅鐸だった。
ところが大きな古墳が作られるようになると、銅鐸は完全に消滅する。
階級社会の権化のような古墳が作られ、鏡が主要な祭器となる。棺の副葬品は
剣や鏡、玉類の弥生九州の棺の内容を引き継ぐような形になる。
棺の内部は朱で染められるようになる。
八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙の剣は皇室の三種の神器となる。
考古学的にも重大な社会的変化が認められるわけである。
記紀的には神武東征が主要なモチーフとなっている。
にもかかわらず、畿内説の考古学者の中には、東遷の考古学的根拠は一切ない
などとのたまう人がいる。ひとつの発掘ですべてが覆る可能性のある
考古学で、しかも、全てを発掘しているわけでもないのにこのように
断定的な発言をする人がいる。
ということだな。三角縁神獣鏡でもわかるだろう。年代が合わないとなれば
伝世鏡理論。後に無理やり合わせたりする。しかし、三角縁神獣鏡は
どうも国産で結論が出たらしい。箸墓古墳もちぐはぐ。
おかしいと思わないほうがおかしい。
>>937 ひねくれるってw
記紀の記述を鵜呑みにしてはいけない、ってのは共通認識じゃなかった?
その真偽を検証出来るのは考古学だというのも理解してくれたと思ったんだけど。
記紀にも書いてない葛城即位を主張するなら、まずその根拠を述べようよ。
昨年秋の新潟の城の山古墳の発掘で、
祟神と四道将軍の実在が確実視されたと思ってるが、
その四道将軍の父親が「欠史」であったりするわけだ。
つまり欠史八代は実在しただろう。
しかしながら、
記紀に書かれてるように全部が親子継承ではなく、
兄弟継承が多かっただろう。
>>939 なんか、書いてることが古いんだが。
2〜30年前に書かれた本を読んでる?
>>940 >記紀の記述を鵜呑みにしてはいけない、ってのは共通認識じゃなかった?
地名の一致という客観的事実が何で記紀の記述の鵜呑みになるのだ。
もう少し考えてから言え。
おいおい、まさかカシハラって地名が同じだけなの?根拠は?w
大阪府にも柏原市ってあったような?
じゃあ、おれは大阪の柏原市即位説でw
開発ブームみたいな時代には、未開の部分が多いところに人は集まるだろうな。
集まった結果、そこが周辺に優って一番になってしまったのが纏向。
どんな人達が集まったかと言うと、
一番多いのが、奈良盆地内の人達で、次が河内や南山城、東海の人達で、
吉備、播磨や阿波、讃岐、そして出雲、日本海沿岸でしょう。
庄内式は、吉備から河内経由で、
埴輪と円形墳は、吉備から播磨、南山城経由で、
銅鏡嗜好は、玄海灘から吉備経由で。
物流ルートは、西は、河内経由で瀬戸内、玄海灘へと
南山城経由で淀川、瀬戸内へとか、日本海、出雲へとか、
又は、紀の川経由で瀬戸内へ。
東は、伊勢経由で三遠、関東へ。
西(吉備、出雲)以西から東へのルートは、
後世の東山道ルートのように奈良盆地を通過しない手段もあるので、
東西交易の権益を独占していたわけではないと思う。
しかし、政治的に成功したのか、何か別の条件があったのか不明だが、
結果として、王権が芽生えたのだから地域条件が有利だったことは間違いない。
東遷説な人は、こういった「何故、奈良盆地が王権の地に為りえたのか」、
こういった観点での主張が全く無いので、ここでの議論に加われないことに気付いて欲しい。
まさか、「青山に囲まれし美し国」が有ったから攻め込んだだけ、
紀に書いてある以上のことは考える必要が無い、と言うことなんだろうかね。
新大陸の「未界の地」が、旧宗主国イギリスを凌駕するまでになるには、
最初の移民が渡海した15世紀末から、第一次世界大戦で覇権を制した19世紀初頭まで、
400年以上の時が過ぎている。
東遷説的な考えに立てば、神武はこれに似たことを半世代で成し遂げたことになるのだが。
946 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 22:31:52.67
出雲・四国〜機内の銅鐸文化圏のうち、
何故か機内だけが徹底的に誇大化されていることと、
同時に、出雲・四国が抹消されていることはかなり重要だろうな
特に四国なんて「そんな島あんの?」状態。
崇神の諡号すらまともに書けないやつが文献重視とか片腹痛い
>>944 >おいおい、まさかカシハラって地名が同じだけなの?根拠は?w
おまえはアホか。
>>917にも書いたが柏原、ホホマ丘(本間丘)、掖上、国見山など、
あと秋津と言う地名もある。
>>948 いや、大阪府柏原市説もあながちない話ではないとおもうがw
大和川水運の重要な場所だし、玉手山古墳群もある。
古代に有力な首長がいたのは間違いない。
で、君の説は、記紀の編纂時に、橿原市のカシハラと御所市のカシハラを混同、
取り違えたということ?結構いい加減なんだな、記紀はw
>で、君の説は、記紀の編纂時に、橿原市のカシハラと御所市のカシハラを混同、
取り違えたということ?結構いい加減なんだな、記紀はw
記紀がいい加減なのではない。
明治新政府が取り違えたのだ。
御所の柏原が「橋のない川」の舞台になった水平者運動の発祥地である事も、
何らかの影響があったのかもしれない。
>>950 これはアカンわ。
「ウネビのカシハラ」言うとるやん記紀とも。
まあ、誰かさんが言うように何回も書きかえられたりしとんならしゃあないけど。
神武は畝傍山の麓に宮を造ったんだろ?
明らかに記紀は御所ではなく橿原を想定している。
あとまあ、橿原神宮にも被差別部落があって、強制的に立ち退きさせられたみたいだが。
>「ウネビのカシハラ」言うとるやん記紀とも。
ところが畝傍山の麓にカシハラという地名はなかった。
そこに適当かつ強引に明治政府が橿原神宮を作った。
以降、あのあたりは橿原市になった。
それ以前、カシハラという地名は今の御所市柏原しかなった。
ここが真のカシハラ宮であることは周辺地名から考えても明白だ。
え?どういうこと?
畝傍山は御所市にあった山なの?
地名って何百年経っても必ず残るものなの?
教えて教えてw
×しかなった。
○しかなかった
956 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:08:05.82
神武が今でいう被差別系の出自であった、ということは正直に書いてんだよね>記紀
ただ紀元前云百年なんてのは眉唾だしそんな時点で被差別氏族が認知されてるともいまいち思えない
目にバリバリの入れ墨していたという記述から見ても、邪馬台国くらいの時代の人物やろな
>>954 >畝傍山は御所市にあった山なの?
大昔に「市」なんてあったのかアホ。
神武は実在。
御所の柏原で即位。
っていう結論がまず有りきだから、議論のしようがないよなw
考古学的に無理があるよと言っても「掘ってないだけ」とかw
そんなことを言えばなんでもありになるw
もう少し一般人でも分かる根拠を揃えて出直して来て下さいw
>神武が今でいう被差別系の出自であった、ということは正直に書いてんだよね
ではなくて隼人の一部が被差別になったということだろう。
明治になって畝傍山から降りてきた人達も、
自分たちの祖先は神武天皇と共に九州からやってきて、
ずっと神武の墓守をしていたという伝承を持つ。
被差別民でこんなはっきりした伝承を持つのも珍しい。
960 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:14:06.46
もちろん、神武登場時点では被差別民ではなかったろうけどね
ああいうのは、支配層が政権を覆されることで一気に被差別民に転落するってのがデフォっすから
>もう少し一般人でも分かる根拠を揃えて出直して来て下さいw
地名の一致は客観的事実なんで一般人でも分かる根拠だろ。
おまえが分からないふりしてるだけだろ。
>>957 いや、だから逃げないでさーwちゃんと答えてよw
畝傍山ってどこにあった山なの?
古代でも結構ポピュラーな山だから、普通は橿原市の畝傍山だと思うよね?w
実は違うの?w
>>961 地名が同じだから、てことね。
これ以上訊いてもろくな答えが無さそうだからw
>>953 むしろ宮名が地名として残ってる所ってそう無いでしょう。
上に付くウネビとかマキムクとかイワレとかハツセとかの方は残ってるけど。
>普通は橿原市の畝傍山だと思うよね?
今現在の区別で言えば橿原「市」だが、
当時は市などあったのかと聞いてるのだが。
本居宣長も畝傍山のちかくにカシハラなどない、
もう少し西南にあると書いてるが、
それが御所の柏原村だ。
966 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:20:09.50
神武なんて、言っちゃ悪いけど100%いないよ
ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
それが誰か、ということが問題。
>ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
それが誰か、ということが問題。
ならいるんじゃねぇかw
柏原くんは東遷くんと同一人物なの?
まずこのあたりをはっきりさせて欲しいなw
>>968 別人。
君が言うに事欠いて大伴氏大阪発祥説を言った可哀想な人だとは知ってるよw
970 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:23:49.02
>>967 崇神・神功・応神
神の名がヒントだろな
ヒントっつーか、多分記紀の編者もわからなかったんだろう
だから比定されうる人物に「神」の文字をつけた。そう考えるべきだろうな
>>960 >ああいうのは、支配層が政権を覆されることで一気に被差別民に転落するってのがデフォっすから
まったくその通り。
おれはタギシミミの反逆でタギシミミ側についた隼人たちが被差別民になったと考えてる。
>>966 いや、(結果的な)覇者は崇神でヤマト出身でしょう。
その御先祖(神武)が、倭国大乱期に北九州〜吉備を経て
ヤマトに入って一家を立てたということ。だから「後進地域」の南九州に、
箸墓期以降(すなわち崇神朝以降)いち早くヤマトと相似の古墳が築かれる。
南九州ってのは、徳川氏でいえば三河、足利氏でいえば下野みたいなもん。
>>966 > 神武なんて、言っちゃ悪いけど100%いないよ
>
> ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
> それが誰か、ということが問題。
おいおいw
「誰が」よりも「いつ」「何処で」「何故」「どうやって」の方が重大なんだけどね、歴史学では。
>>965 本居宣長を出すなら、卑弥呼=熊襲の女酋ということでw
あとまあ、畝傍山は高市郡にあるから、郡を越えて葛上郡の柏原を
畝傍の橿原なんて記紀は書かないと思うが。
そんな用例あるの?
結構苦しくなってきたんじゃない?大丈夫?
日本書紀では、剣を持って出雲に遣わされた武甕槌に、大己貴が広矛で統治した国は天孫に譲ることを告げる
考古的には出雲は銅剣、銅鐸が大量と銅矛も出土している
銅矛は対馬、北部九州を中心に出土するが、糸島、博多は広矛埋納をしていない、壱岐も少ない
銅鏡の出土は糸島、春日が圧倒的に多く、糸島、壱岐は中国系土器が独占的に出る
銅矛祭祀文化圏に統治権を譲らせることができる勢力は、西日本においては銅鐸祭祀文化圏しかない
出雲には両勢力がいたと考えられる
東夷伝には&#28618;(ワイ)が大きな矛を巧みに使うとある
&#28618;貊(ワイハク)系は中国の討伐対象
九州 対 大和とか、出雲 対 大和というような単純な構図ではない
中国系勢力の思惑も絡んでいるであろう
>>975 畝傍山の近くにカシハラという地名はない。
こういう場合、「近く」という概念をどこまで広げれるかという話だ。
本居宣長が言うように西南の柏原村しかないわけだから、
繰り返すがホホマ丘、秋津、掖上、国見山など周辺地名も含め、
ここである蓋然性が極めて高いだろう。
君にはそうであってほしくないという何かあるのか?
>>969 なんだ〜別人なんだw
思考回路が似てるから、てっきり同一人物かとw
あとこのスレに出没してたホアカリ君とは別人?
ちなみに僕は大伴氏の話はしてないよー
ホアカリ君とやらとは別人だ。
>ちなみに僕は大伴氏の話はしてないよー
嘘付け。
語尾にwをつけるのはおまえしかいない。
>>978 あ、なんか、やばい空気出てきてるなw
自説に反論するのは、左翼的思想に取り憑かれた津田史観の人間だと思い始めてる?w
単純に、記紀編者が畝傍の橿原って書いたのは、畝傍山の麓だろうし、
御所市の柏原は離れ過ぎてると思うだけだよ。
で、考古学的に見ても、葛上郡に王権が誕生したのは、マキムクより新しい。
残念w
>単純に、記紀編者が畝傍の橿原って書いたのは、畝傍山の麓だろうし、
御所市の柏原は離れ過ぎてると思うだけだよ。
畝傍山の麓のカシハラという地名を紹介しろ。
そんなものあれば誰も苦労しない。
>で、考古学的に見ても、葛上郡に王権が誕生したのは、マキムクより新しい。
残念
纏向遺跡はたまたま雇用促進住宅建設の偶然で発掘されただけだろ。
君の意見ならそれ以前は櫻井にそんな遺跡は「なかった」ということだな。
>>978 いや、近くに無いから手近なカシハラで済まそう、ってのはどうなの?
学問的に考えて。一度頭を冷やして冷静に考えてごらん?
地名って未来永劫無くならないものですか?
平成の大合併とか知ってます?w
まあ江戸時代とかならいざ知らず、
考古学の調査がいろいろされてて、ある程度畿内王権の成り立ちが分かってきてる現代なのにw
地名が同じだから!を何度も強弁されても納得出来ないよw
>いや、近くに無いから手近なカシハラで済まそう、ってのはどうなの?
>学問的に考えて。一度頭を冷やして冷静に考えてごらん?
あのな。
何度も言うが周辺に掖上、秋津、ホホマ丘、国見山もあるカシハラだ。
普通はここである蓋然性が高いと思うだろ。
>地名って未来永劫無くならないものですか?
それが今も残ってると言ってるわけだ。
客観的事実さえ見れない君はかわいそうな人だな。
あと神武の先妻アビラツヒメを祀る祠も柏原村にある。
式内社だ。
俺の知る限り宮崎県日南市と御所市にしかない。
どうせまた神社なんて何も関係ないと言うのだろうが、
古代からのマツリの流れだからこれは無視できないぞ。
>>984 まあ、精一杯頑張ったレスだな。
今日はこのへんで。
>>985 警告してやろう。
考古学はしょせん最小公約数しか分からない学問だ。
文献史学と整合できてはじめて生きてくるのだ。
この両輪がないと史実は分からない。
神武は記されている情報の緻密さ、具体的な記述からみても
間違いなく断言してもいいが、かなり後代の人物だよ。
仮に歴代天皇に比定するとすれば、応神あたりでもおかしくないだろうね。
神武実在説って2chぐらいだろ
>>984 まずは現代の式内社を古代から続いていると文献的に論証してもらおうか
990 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 03:46:40.57
他人に検証を要求しないで、
まず自分から、続いていないことを検証してみせるのが先でしょう
宮崎県日南市と御所市柏原のどっちも式内社じゃないだろ
柏原の神武天皇社の摂社のホホマ神社は、ほんだわら社で
ホンダワラとはヒジキのような海藻で万葉では玉藻などと詠われている
神武天皇社は1736年の『大和誌』、1772年の『菅笠日記』の時点で存在してないし
日南市油津のは例によって明治維新に乙姫大明神から吾平津神社に名前変えてるし
>>990 現在の式内社のほとんどは後世に推定したものなのだが
歴史をかじってる者には常識でもあなたは知らないとみえる
来歴が怪しいものであれならば、それを論拠にする側が怪しさを取り払う
これも常識なのだがな
993 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 07:47:53.89
一般的に古代といえば、一番古い文献が残っている時代あたり、
飛鳥、白鳳、奈良、平安あたりとなる。
鎌倉あたりからは中世か?
記紀、風土記、続日本紀、延喜式あたりに乗っているものなら、
古代に存在する根拠があるといえる。
>現在の式内社のほとんどは後世に推定したものなのだが
延喜式神名帳編纂時に存在したと言う事だな。
それ以前からあったわけだが、だから?
神武の宮周辺の地名が記紀と一致してるのにもかかわらず、
頑なに拒否する理由が何かあるのか。
神武実在を否定するなら論証義務はそっちにある。
考古学なんて纏向遺跡に吉備の影響が強いからという理由での、
吉備東遷説程度だ、くだらない。
996 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:25:50.95
考古学は古代の文化を研究する学問と定義される。
ごくわずかな発掘調査から全体的なものを推定するわけで、
そこには限界がある。
誰がいて何をしたかというような歴史学的なものとは本来、異質なもの。
>>996 > 考古学は古代の文化を研究する学問と定義される。
> ごくわずかな発掘調査から全体的なものを推定するわけで、
> そこには限界がある。
> 誰がいて何をしたかというような歴史学的なものとは本来、異質なもの。
ただし、学問の手法は特にかわらない。
Aと言う素材とBと言う素材とCと言う素材について考察し、違いと共通項を見出し、真実に近いものを推定する。
文献で言えば、日本書紀と風土記と古事記を比較考察しするのだろうし、
考古だったら、A遺物とB遺物とC遺物を検証する作業だ。
遺物素材は石ころだの木片だのに特定されるわけでもない。
例えば、鎌倉道の発掘結果からは、ある時期に鎌倉を中心とした非経済物流ネットワークが成立がわかるし、
稲荷山の金象嵌銘鉄剣の研究からは、大王制度の存在を確認できるわけだ。
考古学とは英語の”archaeology”の訳語だ、英語の語源はギリシャ語の「古伝承」で
古えの人類活動の記録を考証する学問だ。
文献史学と言う文字資料に特化したジャンルはあるが、考古の対象は文化だけでは無いし、時期も無文献時代に限らない。
何度も指摘されているはずだが、議論をしたいなら勝手な定義を振りかざすなよ。
相手の言に堅く耳を閉ざし、疳癪じみた己の言を呟きつづけるためだけなら完全なる荒らし行為だ。
次スレに絶対来るなよ。
奈良盆地の2世紀後半というのは革新的時期だ。
環濠集落が終わり、銅鐸祭祀も終了し、古墳時代に入る。
これら劇的な変化は外来の何かでしか説明できない。
俺はそれを神武軍の侵入だと見ているが、
ところが考古バカは神武そのものを認めない。
>>998 神武とか固有名詞を出しただでお茶を濁さないこと。
浸入方法は軍事でも非軍事でもどちらでもよい。
肝心なのは、何時頃のことか、どのような事情でか、と言うことだよ。
それは考える必要が無いと思ってるならそれでもいいけどねw
1001 :
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