♪邪馬台国ドンと来い♪118

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1川柳の達人
   /.             ヽ
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2川柳の達人:2012/11/14(水) 06:20:24.19
全スレ ♪邪馬台国ドンと来い♪117
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1351019967/l50
3日本@名無史さん:2012/11/14(水) 06:28:43.79
 弥生時代末期の北部九州、筑紫博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。

【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑┃ 【神武東征ルート】
...................隅国(鹿児島)

 卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系祖先の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の
首都を筑紫・博多から(先遣隊ニギヤハヒが拓いた)奈良・三輪山麓へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。

※記紀が、投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
天皇家(♂投馬国王♀台与夫妻の子孫)の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
4日本@名無史さん:2012/11/14(水) 06:29:34.50
【大和朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代】

〔前期古墳〕…三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂日向(投馬国)系大王
〔中期古墳〕…河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王
              (高句麗の南侵に脅かされた百済・新羅・伽耶への軍事援助で王権強大化)
〔後期古墳〕…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王

-継体・安閑・宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→余磐玉穂宮〕
継体の大王即位が河内皇族(筑紫系)の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜♀皇極(斉明)=筑紫系大王〔飛鳥板葺宮〕
筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を皇后に)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-天智・弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。国庫大消耗→「壬申の乱」へ
-天武〜♀考謙(称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京(恭仁京)〕
両系和解の記紀編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」・「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現在=日向系天皇
筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都。
5サガミハラハラ:2012/11/14(水) 07:29:34.14
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
私が1991年に発見しました。ですから私は日本のシュリーマンを名乗っています。
6サガミハラハラ:2012/11/14(水) 07:30:55.30
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
私が1991年に発見しました。ですから私は日本のシュリーマンを名乗っています。
7サガミハラハラ:2012/11/14(水) 07:32:16.97
すみません。ミスタッチで二度書いてしまいました。
8日本@名無史さん:2012/11/14(水) 07:36:49.69
今更いいんですよ…
あなたの研究、さらに人生そのものがミスタッチみたいなものですから…
9日本@名無史さん:2012/11/14(水) 08:10:35.32
>>1
また立てやがったのか
満州の遊び場を提供するだけだぞ
10日本@名無史さん:2012/11/14(水) 10:09:03.67
読売新聞に前方後方墳のことが載っていたな。前方後方墳から三角縁神獣鏡は
どのくらい出ているのかな。
11川柳の達人:2012/11/14(水) 12:10:10.82
>>9
このスレは日本史板の代表スレのようなもの。
私が立てずとも誰かが立てる。余計な御世話だ。
12日本@名無史さん:2012/11/14(水) 13:26:44.47
うるせー
13日本@名無史さん:2012/11/14(水) 14:08:27.03
>このスレは日本史板の代表スレのようなもの。
基礎がなってない。 正確に構築できるはずがない。
「全スレ」
出世しねえな、お前さんは。
14日本@名無史さん:2012/11/14(水) 14:36:47.09
「川柳の達人」=「卑弥呼は満州(朝鮮)にいた」
15川柳の達人:2012/11/14(水) 14:38:27.17
>>13
よく細かいところまで見ている。

「スレ立てありがとうございます川柳の達人様」くらいの
礼の一つぐらいほしいものだ。
16川柳の達人:2012/11/14(水) 14:49:32.68
>>14 全然違う

朝鮮と 一緒にするな 達人を

川柳下手ですまんな、じゃ・な。
17日本@名無史さん:2012/11/14(水) 14:57:51.84
>>16
「標語の達人」だろ
18日本@名無史さん:2012/11/14(水) 15:15:50.58
伊作と筑紫の民が2人で使ってんだろ
故に時折人格が2重に見える
19ローガン:2012/11/14(水) 15:44:22.80
>>1 乙!

前スレ>>981:ちはやぶる皇神
>「萬里」有効に使わせてもらってます。

「修辞の萬里」+「使者来倭に因る知見二千余里」=萬二千余里 という机上計算を首肯してもらえるなら、
水陸行2ヶ月という使者来倭に因る知見が、二千余里である。 でok?
20日本@名無史さん:2012/11/14(水) 15:55:41.70
>>10
最近、前方後方墳という言葉を良く聞くと思ったら狗奴国のシンボルと
化しているのか。いよいよ考古学は畿内説の都合の良いように利用されて
いる感があるなあ。
21日本@名無史さん:2012/11/14(水) 15:57:23.26
>>14
朝満男は他にもE-mail欄を空欄(緑色)にしたり、sage(青色)たりして自作自演してるよ。

いくら名前や色(青⇔緑)を変えても、品のないキムチ臭さは抜けないから馬脚を現してしまうけどw
22川柳の達人:2012/11/14(水) 16:02:22.83
テスト
23川柳の達人:2012/11/14(水) 16:02:57.49
>>21 なるほど・参考になった。
24日本@名無史さん:2012/11/14(水) 17:04:53.34
満州さんあんまり無理しないでください
25卑弥呼は満州にいた:2012/11/14(水) 17:36:39.89
あいかわらずあほな奴らがあほな書き込みをしているなw
しかし川柳の達人に絵の才能があるとは意外だった。

それはさておき私はまたまた画期的な珍説?を発見した。
満州源流考によると伊蘇とは満州語で九の意味だという。
ところで伊都国の旧名は伊蘇国という。
これは要するに九州の国という意味ではないのか。
また満州のどこかに伊蘇河というのがあったような気がする。
伊都国人というのはその辺りから渡来した人間ではないのか。

ここに書くのは惜しいような気もするが、
出血大サービスで書いておこう。
因みに私は最近まともな投稿はしていないが、
それは、ここに書くのが惜しいようなことばかり発見しているからである。
まあ来年あたり私の本が出るだろうから、それをお楽しみに。
26日本@名無史さん:2012/11/14(水) 17:55:09.58
新潟の城の山古墳の発掘で、四道将軍の実在及び祟神天皇が4世紀前半に実在じたことがほぼ確実になった。
しかしこれは卑弥呼=ヤマトトトビモモソ媛の否定に繋がる。
畿内説の最有力説が崩れ去るのだ。
なぜならヤマトトトビモモソ媛は祟神天皇の2世代前だ。
2世紀後半生まれの卑弥呼とするには祟神天皇を3世紀後半生まれと仮定して、
100年を2世代で説明しなければならない。
1世代20年くらいの時代に現在より長い50年は絶対無理。
石田純一みたいなのが2人いたという屁理屈はダメ。
27日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:25:59.65
ヤマトトトビモモソ媛=卑弥呼かはおいておくけど
歴史的に見て叔父や叔母と同じ位の年齢って不思議じゃないだろ
石田純一が複数居ても何もおかしくはないのでは?
ちなみの毛利元就とか70歳で子供産ませてるし
それだけじゃ何とも言えん
28日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:36:33.26
>>25
早めに出してね
29日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:40:03.14
>>27
毛利元就が70歳で生ませた子が毛利家の家督を継いで、
世代間70年だったのか?

ちなみに継体から祟神まで一世代が約20年。

だいたいヤマトトトビモモソ媛の兄・吉備津彦は四道将軍の一人。
ヤマトトトビモモソ媛を卑弥呼だとして推定180年生まれ、
吉備津彦を177年生まれと仮定しよう。
祟神が四道将軍を派遣したの年を300年と仮定したら、
吉備津彦は御年123歳になる。

あるわけない。
30日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:49:54.58
>>25
>私は最近まともな投稿はしていないが、
>それは、ここに書くのが惜しいようなことばかり発見しているからである。
>まあ来年あたり私の本が出るだろうから、それをお楽しみに。

↑こんな「卑弥呼は朝鮮(満州)にいた」が本を出すんだって!

みなさん、いくらなら買いますか???
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/14(水) 18:51:36.19
年違わず一致は金メダルもの 1年違いの整合は銀メダルもの

【開化崇神 編年表】

皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210  7
511 -150 辛卯     8
512 -149 壬辰     9
513 -148 癸巳 211  10  崇神誕生⇔崇神の御名に因み任那成立【金】
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220  27
531 -130 辛亥     28  崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230  47
551 -110 辛未     48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年【金】
552 -109 壬申 231  49
553 -108 癸酉     50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未     60  開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237  元  崇神元年 崇神即位 天津神算木と一致【金】
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238  6  崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳【銀】
570 -91 庚寅 239  7  景初3年鏡銘文年(鏡祭祀と1年違い)
・・・・・・・・・・・・・
627 -34 丁亥 258  64  倍暦戊寅年=古事記崇神没年(259年崩御と1年違い)
628 -33 戊子     65
629 -32 己丑     66
630 -31 庚寅 259  67
631 -30 辛卯     68  崇神崩御【銀】
 
32日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:54:07.92
>>30
>
> みなさん、いくらなら買いますか???

金くれるなら読んでやってもいい。
33日本@名無史さん:2012/11/14(水) 18:54:35.84
九州になったのって7〜8世紀頃では?
早くて6世紀?
34日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:03:18.74
>>30
内容にもよるな
税込み525円なら考えんこともないよ
35日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:12:02.36
↑自作自演乙
36ローガン:2012/11/14(水) 19:17:01.33
>>946
>なるほど、
>(魏)正始元年春正月、東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。
>というわけか。どうして「東夷条」に書かれていないんだろうな。

「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。」(晋書)ことでいいんでない?
「至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。」(梁書)
「卅九年。是年也、太己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守 夏遣吏將送詣京都也。」(日本書紀)
景初三年六月の帯方郡。喪明けに合わせて洛陽入り。
37日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:30:26.10
>>35
何と自作自演なんだよwwww


もしかして、同人誌って525円は高いの?
38ちはやぶる皇神:2012/11/14(水) 20:07:01.22
>>19 :ローガン

OK (95%)

 残り5%は考察中。

 基準の「萬里」は、生涯変わらないでしょう。
39日本@名無史さん:2012/11/14(水) 20:29:44.77
東スポ 「森光子は元気に退院!ダンスを踊り、スクワットも150回こなす」(11月14日16時)
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1352888940/

【訃報】森光子さん心不全で死去
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352888014/
東スポ・新潮とはいえ裏取りせず思いつきで記事書いてるのがよく判る
社内に頭おかしいのしかいないんじゃないか?
40日本@名無史さん:2012/11/14(水) 20:37:24.23
現在、シュリーマンの事績がほとんど否定されてるのを知ってちょっとショックを受けた。
41日本@名無史さん:2012/11/14(水) 21:19:45.00
>>40
トロイアも否定されてるのか?
42日本@名無史さん:2012/11/14(水) 21:26:35.27
>>41
シュリーマンが指摘した層とは違ってるってさ。
43日本@名無史さん:2012/11/14(水) 21:41:35.12
現在考えれば放置してもらった方がマシだったという意味で否定されてるんではないの?
きちんと記録にも留めず正確な検証を却って困難にしただけで
日本も同じで発掘調査と称した江戸の藩による調査とか迷惑以外の何物でもない
昭和初期の大学による調査ですら今再調査して誤りが明らかになるくらい
44サガミハラハラ:2012/11/15(木) 00:06:24.17
崇神天皇の崩御は288年です。4世紀まで12年あります。
しかし、考古学上の誤差を考えれば、妥当というところでしょうか。
45ローガン:2012/11/15(木) 00:39:54.86
>>38:ちはやぶる皇神
>OK (95%)

了解。
ただ、私が考える九州説では、翰苑引用魏略と廣志
『分職命官、統女王而列部。
【魏略曰:「從帯方至倭、循海岸水行、歴韓國到拘耶韓國七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。南渡海至一支國、置官至對馬。
地方三百里。又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五百里、到伊都國。戸万餘。置官曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。皆統屬王女也。】』
『邪届伊都、傍連斯馬。
【廣志曰:倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、自女王国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、蓋伊耶國也。】

ここに出てくる伊都国→邪馬台国という位置関係と、上陸後、「水陸行2ヶ月」は整合しないことから、
景初の使者と正始の使者の行く先が違うと捉えた上で、
卑弥呼後の政変と、古墳時代初期の畿内の求心力を、加味し
壹與代の東遷を考えるものです。
46日本@名無史さん:2012/11/15(木) 06:51:22.69
ところで、東遷する意義って何?
47ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 07:24:18.99
>>45 名前:ローガン
>景初の使者と正始の使者の行く先が違うと捉えた上で、

 OH YEAH !

>壹與代の東遷を考えるものです。

 大反対。

梯儁と張政では、来倭の目的が違う。同じルート、同じ日数のはずがない。
問題は「其國王皆屬王女也」から「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」
に陳寿が改変した事に集約されていると、現在は考えています。
48ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 07:36:33.73
>>45 名前:ローガン

糸島伊都国が、独立した一国で存在する可能性は皆無である。
伊都国について、もう一度検証し直すべきと思います。

また、後ほど。
49日本@名無史さん:2012/11/15(木) 07:47:44.89
糸島は博多湾の入り口にあり、
奴国といずれぶつかり、
下位に立つか吸収される運命にある。
50日本@名無史さん:2012/11/15(木) 09:31:15.13
行程記事を2人の記録を合わせたものだとか言い出したら、それはもう誤魔化しだな。
51サガミハラハラ:2012/11/15(木) 09:49:34.08
いや、そうとはかぎりませんよ。
チンジュは、いろんな資料をみて書いたのですから。
もっともティシュンとチョウセイが、ということはありませんが。
52日本@名無史さん:2012/11/15(木) 09:55:38.40
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
53日本@名無史さん:2012/11/15(木) 09:58:43.37
>>50
東南陸行五百里で糸島に行く自信はあるのか

>>51
郡使往來常所駐は後漢時代の記録だろう
54サガミハラハラ:2012/11/15(木) 11:24:54.25
後漢時代の記録だろ。
ご明察です。後漢の時代も漢の使者は倭国にきていたのです。
55日本@名無史さん:2012/11/15(木) 11:26:34.00
>郡使往來常所駐は後漢時代の記録だろう
過去に駐したというわけではない。駐まることとなる所ということだ。
56日本@名無史さん:2012/11/15(木) 13:44:45.79
>>46
異民族の征服
57日本@名無史さん:2012/11/15(木) 14:56:56.33
常にってあるでしょ。
58日本@名無史さん:2012/11/15(木) 15:27:50.84
>>55
>駐まることとなる所ということだ
過去の事実があってこそ常だろ
今回から未来にかけて常を予測するのか
59ローガン:2012/11/15(木) 15:41:09.02
>>47:ちはやぶる皇神
>梯儁と張政では、来倭の目的が違う。同じルート、同じ日数のはずがない。

いや、伊都国をハブ港と捉えたら、そこまでは同じ。書き方の変化が、別資料を示唆するでしょう。
上で挙げた魏略と廣志はそれぞれ
a「分職命官、統女王而列部」(職を分け官を命じ女王に統べ部を列ぬ)
b「邪届伊都、傍連斯馬」(斜めに伊都に届き傍ら斯馬に連なる)
という難解な本文の説明が目的。aは倭国の職制、bは倭国の地勢。しかし、いずれにも奴、不彌、投馬国は表れない。
魏略、廣志のテキストは、伊都国→邪馬台国だった…と考えてみた訳です。
なら、水陸行2ヶ月は別資料。なんてね(笑)

>>50
>行程記事を2人の記録を合わせたものだとか言い出したら、それはもう誤魔化しだな。

「参問」と出てくるでしょう。訳本ではたしか、「交え問う」と訳してた。
「照らし合わせて調べる」という意味でしょう。つまり複数の資料があったワケ。
60sss:2012/11/15(木) 15:56:10.64
>>46
明治時代になって、時の権力者、大久保利通はとにかく天皇を公家から遠ざけ
たいと思っていた。なので、大阪に遷都しようとしていたらしい。
しかし、前島密の進言で東京になった。

理由は、日本全体を視野に入れたとき、特に、当時、従わない勢力のあった
東北地方の支配には東京の方が便利だということだった。

九州から大和に遷都の理由も、日本全体を視野に入れたとき、近畿地方の方が
日本の中心になり、便利だと考えたのだろう。関東地方までを考えると、
九州では何かと不便になる。

それと、奈良盆地のようなところに都を築こうとしたのは、大陸からの
攻撃に対する用心のようにも見える。仮に、呉との関係が深かったとすれば、
西暦280年の晋による呉の滅亡も理由だったのかもしれない。

あるいは自然災害も考えられる。日向だったら津波とか台風とか。
吉野ヶ里遺跡の廃絶の様子などを考えたら、疫病などもあるかもしれない。
61日本@名無史さん:2012/11/15(木) 18:12:55.60
>>46
江戸時代の天皇は江戸幕府の命令で在位中京都御所から出ることを許されず、
御簾内に入ることを許される公家たち以外は天皇の顔をほぼ知らなかった。
大久保利通らは天皇を中心とする国家を樹立する際、これまでのように天皇を御所内に閉じ込めるのではなく、
広く日本国民全体にその存在を知らせるために、まず天皇が京都御所から出ることを提案した。
当初、明治天皇は大阪へ行幸。その後、京都へ戻った後東京へ行幸する。
江戸時代末期の東京は世界有数の100万人規模の大都市であり、街が廃れるのを嫌った前島密の建議が通ったためとされる。
明治天皇が京都から東京へ移動する間、街道の人々にもその様子を見せ、
天皇というものを広く国民に浸透させようとした。
62日本@名無史さん:2012/11/15(木) 18:18:39.12
ハブ港という概念なら、唐津と小戸が、古くからの港。
消えたのかもしれないが、今は糸島に大きな港の痕跡はない。
63ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 19:04:10.22
>>59 ローガン
今晩は。衣替えですかな?

>いや、伊都国をハブ港と捉えたら、そこまでは同じ。

 末廬國(唐津)から、東南陸行で糸島には行けない。
 魏略、廣志ルートは、伊都から邪馬台国へ直行。
 伊都は糸島に非ず。東南陸行五百里、戸万余の佐嘉国になる。
 糸島ならば、一大国〜呼子〜水行糸島が自明の理。
 わざわざ遠くに上陸して歩く理由はないでしょう。

>いずれにも奴、不彌、投馬国は表れない。
>別資料を示唆するでしょう。

 「分軄命官、統女王而列部」
職を分け官を命じ、女王に統べ部を列しぬ。
ここに官名がないということは、別史料と判断します。

>水陸行2ヶ月は別資料。なんてね(笑)

 南至投馬國、水行二十曰は、当然別史料でしょう。
 博多湾沿岸から、宮崎を想定しています。

 對馬國〜一支國〜末廬國〜伊都國〜邪馬壹國
  「 自郡至女王國、萬二千餘里 」
64ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 20:02:07.42
>>59 青いローガン
 紀元前の早良王国は、奴国をはるかに凌ぐ出土物である。
だが、弥生中期初頭に、武将らしき木棺墓が二人、甕棺墓
の王族が二人、木棺墓の王族が五人死んでいる。
 奴国に制圧されたと思われる。
この後、紀元前後にかけて奴国が急成長してくる。
それに伴って、糸島も成長している。

 大宰府南の筑紫野市から小郡にかけて戦死者が、多い。
また、倭乱の時期以前も異常に多いとされている。
これは、奴国が覇権国家であったと想像する。
この凶暴な国家が、贅沢品を埋葬する有千餘戸の小国を
見逃すはずはない。

 須玖岡本遺跡、三雲遺跡からは、王葬儀に用いる「玻璃壁」
が出土している。鏡、太刀とは重みが違う。後漢時代の同じ王統である。
糸島は、奴国の王墓と思う。

 奴国王都は、那珂川上流にあったのではなかろうか。
65ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 20:27:44.32
方向、距離、戸数、「皆統屬女王國」
佐嘉国は、条件を満たしている。

「邪届伊都」「憑山負海、鎮馬臺、以建都」
邪馬台国は、八女〜熊本北部を指している。
66ローガン:2012/11/15(木) 21:16:46.72
>>65:ちはやぶる皇神
貴説了解。では視点を変えて
前に書いたけど「差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」の壱岐の民が作物を求めて市糴。その本土側が「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。」人気の少ない海人国では変でない?
原の辻交易で云われる本土側は、やはり糸島の潟港。
交易を基軸とした壱岐との航路がある訳だから、使者の船も壱岐→糸島でしょう。
また、どこまで事実を伝えているかは?なれど
「今使譯所通三十國」とあるので、複数のクニが半島との通交があるとして
臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。
又後程。
67ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 21:20:01.71
 魏使来倭時、末廬國は独立国家ではない。 王、官がいない。
桜馬場遺跡は、広形銅矛の石製鋳型片が出土している。
奴国特有の物である。

倭国王帥升による、制圧と思われる。
糸島に眠る王墓は、この偉大な奴国覇権王「帥升」ではないだろうか。
68日本@名無史さん:2012/11/15(木) 21:29:50.64
王、官がいない国ってどうやって動いていくのかな?
69日本@名無史さん:2012/11/15(木) 21:35:11.41
>>59
>「参問」と出てくるでしょう。訳本ではたしか、「交え問う」と訳してた。
>「照らし合わせて調べる」という意味でしょう。つまり複数の資料があったワケ。
参問は周旋五千里についてで、行程記事には関係ないね。
70日本@名無史さん:2012/11/15(木) 22:26:18.38
ローガンは九州説に転向したのか?
ついに悔い改めたのか
71ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 22:37:54.86
>>66 ローガン
>臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。

私は、邪馬台国へ急いだ「張政ルート」の佐嘉伊都国と初の魏使来倭「梯儁ルート」の
「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」である糸島伊都国が状況的に順番的に似ていたが為に、
陳寿は、佐嘉と糸島が交錯しているという考え方です。

したがって、「 自女王國以北、特置一大率」は、梯儁の糸島伊都国と思います。
一大国と一大率は相対してます。 倭国上陸直前の壱岐に一大率は常駐していたと思います。
近畿勢力やその他の交易船は、当時の渡海能力からすれば壱岐は外せない状況だった。

伊都国を糸島にすれば、方向、皆統屬女王國で否定されます。
伊都国を佐嘉にすれば、「檢察諸國、諸國畏憚之」が現実的ではありません。

「伊都国は二つあった」が自説です。
72サガミハラハラ:2012/11/15(木) 22:41:27.42
>>67
帥升は当時シュセンと発音したようです。
倭面土国(イメンド国)は、今津今山の今として名がのこっています。
あ、それから姪浜(かつては前の浜)一帯もそうです。もちろん糸島半島から早良一帯も。
周船寺のスセンは帥升の名のなごりでしょう。
となると、糸島の王墓のどれかが、彼の墓ということになりますか?
73卑弥呼は満州にいた:2012/11/15(木) 22:45:28.10
唐松山      倭王は二人いた
太国       二倍暦だった
ちはやぶる皇神 伊都国は二つあった
74日本@名無史さん:2012/11/15(木) 22:45:32.65
まあ、佐賀と糸島、三瀬峠通って山の北と南と思えば、
今ならさほど遠くない。

でも、山越えは結構大変だから、当時は
一体とは思えないなあ。

あと、糸島に一大卒がいても、影響力は糸島だけだが、
佐賀は肥前全体に影響を持つ。
肥前国庁が置かれたのはそれなりの理由がある。
75日本@名無史さん:2012/11/15(木) 23:03:40.59
メンド
76ちはやぶる皇神:2012/11/15(木) 23:12:09.75
>>72 :サガミハラハラ
一大率の建物と思える遺跡地は、福岡教育委員会の周船寺遺跡第七次調査で
見つかっています。 私は間違いないと思ってますが・・・私だけかも?

福岡市西区周船寺3丁目で、今津湾を臨む標高7mの扇状地帯です。
750平方米で中央の建物の四面を縁でめぐらされています。
高床式住居ではなく、特殊な建物ということでした。

場所的には、ピッタリなのですがねぇ!
注目されてません。
77日本@名無史さん:2012/11/15(木) 23:19:26.49
二つあることは三つある
78日本@名無史さん:2012/11/15(木) 23:35:04.72
周船寺三丁目って、ここ10年くらいでどどっと開発されたとこだね。

周船寺から元岡桑原にいく道で、
三丁目から反対側に、確か神社があったはず。

なにか痕跡が残ってるかもしれんね。
79ローガン:2012/11/15(木) 23:52:27.87
>>70
ローガンは九州説に転向したのか?ついに悔い改めたのか

どちらでもいい。ただ短里とやらのアホ説相手、飽きただけ。 まともな九州説的思考は本意。

>>71:ちはやぶる皇神
>私は、邪馬台国へ急いだ「張政ルート」の佐嘉伊都国と初の魏使来倭「梯儁ルート」

これにちょっと言葉尻。(笑)
「急いだ」理由は?だいたい、六年詔の黄幢を届けただけでしょうに。

>>69
>参問は周旋五千里についてで、行程記事には関係ないね。

それ、複数資料の存在を認めたと受け取れるだけ。
しかし仮に反対意見だとしても、論ずる訳でなし、根拠を明示する訳でなし、いやはや…。こんなん多い。九州説。
80日本@名無史さん:2012/11/16(金) 00:22:13.44
黄幢は魏の勢力下の国々に向けてのものでしょ、JK
81日本@名無史さん:2012/11/16(金) 06:39:13.11
>複数資料の存在を認めたと受け取れるだけ。
参問の意味がちがうようだが、そこまでとがめる必要もないかと思っただけ。
参験問尋の略なりと解説していた学者がいたよ。 

>根拠を明示する訳でなし
倭人伝の文脈上明白なこと。言われても気づかぬほどアホとは思っていなかったが。
82日本@名無史さん:2012/11/16(金) 09:00:33.91
そうか、ローガンもやっと九州説に転向したか。

ま今どき畿内説だと、
満州クンと同列になっちゃうもんな
83卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 09:28:30.06
大率の話が出たから書いておこう。
大率を百済の官とする資料は二つある。

官有十六品 長曰左平 次大率 次恩率…(隋書百済伝)
次大率三十人二品一称達率 次恩率…(冊府元亀)

その大率が伊都国に常駐しているというのはおかしな話で、
どこかに錯誤があるのではないかと考えられるのである、
君らの頭と同じようにw
84卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 09:32:26.37
魏使が来た 鮑を出せと 一大率
魏使一行 貝でもてなす 一大率
85日本@名無史さん:2012/11/16(金) 10:13:24.27
魏使一行が一大率をもてなしているのか。
86卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 12:33:02.76
倭が、君らが思っているような日本ではない証拠を、もう一つ挙げておこう。

2002年に、百済の古都とされる風納戸城から「大夫」の銘のある土器が出たそうである。
風納戸城が果たして百済の遺跡であるかどうかは疑問の余地があるが、
とにかく朝鮮半島からそのような土器が出土している。

またネット史を見れば、朱蒙の時代から既に高句麗には大大夫、中大夫があり、
その後も中畏大夫、大夫という位階がずっとあった。

倭の使者が自ら大夫と称し、難升米も大夫と書かれていることは周知の通りであるが、
日本の古代に大夫という位階があったという史料は無い。
ところが高句麗や半島にはあったのである。
これを見ても、倭とは日本ではないことが分かる。
87日本@名無史さん:2012/11/16(金) 12:37:47.74
黄幢と名の付く地名があるのは、中国地方。
88日本@名無史さん:2012/11/16(金) 13:27:30.97
>>86
現代日本にAdmiralだとかcolonelだとかの役職は無いけれど、
自衛官がアメリカに行けば、そのように自称するよ。
89日本@名無史さん:2012/11/16(金) 13:29:07.67
鬼道、大率、大夫 ← 墨子
90日本@名無史さん:2012/11/16(金) 14:48:36.26
大阪維新の会 大口後援者にマルハン(密入国)、ソフトバンク(帰化)、パソナ(竹中平蔵会長)
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1346072621/
【政治】『大阪維新の会』の"大口後援者"にマルハン、ソフトバンク、パソナ [08/27]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1346027314/


また騙されるのかB 層。学習しろ
91日本@名無史さん:2012/11/16(金) 16:15:21.48
>>86
大夫というのは周時代から使われているもの。
後漢書に「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫」とあり、
日本では、西暦57年にはすでに使われていたことがわかる。
92卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 17:25:20.31
なんでここの連中はこうも物分りが悪いのか。

記紀を含めて日本の文献で日本の古代に大夫と呼ばれるような位階は無かったのである。
だから倭奴國とは日本ではないのである。
93日本@名無史さん:2012/11/16(金) 17:36:25.66
>>92

いたよ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2_(%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6)
太政官の史は、弁官が率いる弁官局に属しており、同局が左右に分かれていることから、
左大史・右大史・左少史・左少史に各2名合わせて8名存在することから八史(はちし)とも
呼ばれた。後に弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇るものが現れるようになり、
これを特に大夫史(史大夫)と呼んだ。
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/16(金) 18:19:36.27
>>92
記紀を含めて日本の文献で日本の古代に邪馬壹国と呼ばれるような国は無かったのである。
だから卑弥呼の女王国とは日本でないのである〜と考えて女王国を半島にあったと
主張してるのか?w

まあ伝の借り物なら紀の神功39年などにあるわけだが・・・?
これはそうそう〜借り物だからな〜例外だ。
95卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 18:24:08.42
>>88
Admiralとかcolonelというのは官職名である。
しかし中国で謂うところの大夫というのは官職名ではなく、
人間の身分を表わす言葉である。
王−公−卿−大夫−士−庶人−工商−奴隷(先秦時代)

>>93
それは律令時代の話である。
それ以前に大夫と呼ばれる階層が日本にあったという史料は無い。
96日本@名無史さん:2012/11/16(金) 18:38:27.61
大夫というのは中国で言えばそのような身分にあたる
くらいの意味だろ
97ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 18:43:40.62
>>72 :サガミハラハラ
>糸島の王墓のどれかが、彼の墓ということになりますか?

 やはり、ガラス壁、金銅四葉座飾金具が出土している三雲南小路王墓1号墓でしょうかね。
 時期が合うのか、勉強しなおしてみよう。もう一度「伊都国を掘る」でも読んで。
98日本@名無史さん:2012/11/16(金) 19:01:40.17
>>95

大夫という位階があった半島の国からの使者について「自称大夫」という記述はあるかい?
半島の国に大夫という位階があったなら、それこそ「自称大夫」の倭人ではないという証拠だ。
倭には、正式に大夫という身分がなかったし、
漢・魏の皇帝もそんな身分を倭人に許してなかったから、
便宜的に倭人が「大夫」と言ったことを「自称」と書いたわけだね。

>しかし中国で謂うところの大夫というのは官職名ではなく、
>人間の身分を表わす言葉である。

日本にジェントリという身分階層はないけれど、
過去、ジェントルマンと自称した日本人は数知れないよ。
99ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 20:30:37.98
>>66 :4枠ローガン
>臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。

   日本書紀 推古天皇
「將軍來目皇子、到于筑紫。乃進屯嶋郡、而聚船舶運軍粮」

【来目皇子を新羅討伐の将軍となし、筑紫に到り、進みて嶋郡に屯(いわ)
  みて船舶を聚(あつ)め、軍(いくさ)の粮(かて)を運ぶ。】

 今津湾は、古代のハブ港であった。
奴国王 対 女王国は、壱岐・今津湾の争奪戦である。
一大率は周船寺にいた。(福岡市西区周船寺3丁目?)

近畿勢は、宗像族の協力のもと沖ノ島・対馬ルートの開通を急いだ。
100ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 20:56:59.59
【東南陸行五百里、到伊都國】

 「 糸島誌 」 福吉村  第五章  交通

 本村は、地形東西に長く南北に狭く山脈海に迫れるを以って交通は便利ならず。
又、海岸に良港湾なく水運の便少なし。
福岡市より唐津に通ずる懸道は、平坦にして運送の便よく、且通路は多くは海濱に
沿えるを以って風光の佳麗なる処多し。

佐渡より堀までは其通路傾斜急なるも道幅廣く荷車を通ずるを得。
堀より真名子に至る道は嶮しく歩行に困難を覚ゆ。

 吉井より東松浦七山白木に通ずる道は嶮悪なれば将来改築の計画あり。
吉井より鹿家に通ずるには、新道と旧道とあり、新道は所謂懸道にして
旧道は立花嶺(現二丈CC)を越ゆるを以って頗る嶮なり。
 されど今は新道によりて運送をなす。
大正十四年北九州鉄道開通以来交通便利を得るに至れり。

   「二丈町誌」より

陸路が難所のため、出入りの出荷は、危険を冒してでも玄界灘の海運に
頼らざるを得ない状況だった。

明治時代でこの状況です。3世紀には荷物を持って陸行する道はなかったと考える。
目的地に遠い場所に上陸する理由は何処にもないはず。 水行糸島が自明の理。
それでも陸行で糸島ならば、その理由は必要だろう。
101日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:04:09.57
交通の難所だったから、筑肥線のトンネルの開通は、
地元の悲願だったらしいね。
102ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 22:10:28.42
>>101
関連書を読むと、まるで「菊池寛」の世界ですよ。
103日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:12:37.86
>>100
そのような話は2ちゃんでも時々聞いていた。
結局、壱岐から唐津経由で陸路の糸島行きには無理があるということ
だろうなあ。方向も違うし、陸路も不合理。
伊都国は佐賀平野に比定するのが妥当なのだろう。

しかし、それを認めると畿内説は直ちに消滅、そればかりでなく
北部九州説もなくなる。いわゆる山門郡以南だけが生き残る。
そうでないという奇説を唱える人もいるのだろうが。
とにかく、邪馬台国論争にとってはでかいな。
104日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:17:44.47
>>102
菊池寛の「恩讐の彼方に」の青の洞門は大分県中津市本耶馬溪町。
105日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:21:09.76
海が一定の気候なら、大陸からの船は壱岐からすぐ博多湾に入るだろうよ。
でも気候が荒れていれば、すぐにでも上陸すると思うよ。
台風や北よりの風が強ければ、西に流されて東松浦半島に辿り着くだろうね。
おそらく魏志倭人伝の航路のときは、そういう気候だったんだよ
106ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 22:22:09.84
「翰苑」 【卑弥娥、惑翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望】

 卑弥娥(カ)は、惑わすも翻って群情に叶い、
 臺與は幼齒なるも方に衆望に諧う。

    卑弥娥 =  ヒムカ である。

「伊都国」 諸先学は「イト」と読んで、糸島半島に比定してきた。
古事記「伊斗村」、日本書紀「伊覩県」がある。

 しかしながら、三世紀洛陽音で伊都を読むと、「ウタ」になる。
漢・魏・晋の時代に<伊>が<u>の音に近かったことは、
「後漢書」巻四十二  「楚王英伝」からも知れる。
「男性の仏教信者」を意味するサンスクリット語<upasaka>を「伊蒲塞」と
漢字表記しているのである。 「伊」は、<u>音であったことが分かる。

  伊都国は、ウタ国である。

       「邪馬台国の言語」 神戸外語大名誉教授 長田夏樹著より

 いや〜、図書館は有りがたい。 六千円の本がタダで読める。
107日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:25:18.28
弥生後期の楽浪土器出土から伊都国は深江の辺りまでだろうな
8世紀に12年かけて吉備真備が高祖山の糸島平野側斜面に、大宰府防衛のための中国式山城の怡土城を築城してるから
糸島平野、志摩は8世紀でもまだ大型軍船が停泊できる拠点だったんだろう
7世紀〜8世紀にかけての防衛のための山城の配置を見ると、博多湾、糸島、有明海側からの上陸に備えているように見える
唐津城は江戸初期に築城され、そのときに河口を西側から東側に掘削し変えているが、
唐津に大型船が停泊するような港は中世以前にあったのだろうか
呼子の方が自然地形的に港として利用しやすそうだが
108日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:29:32.25
呼子も古くからの良港のようだね。
109日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:32:21.36
>>106
伊がウでもいいが、しかし記紀では伊はイなのだよ。
伊都都比古はイツツヒコとして伝承されてきた
110ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 22:34:36.57
>>104
開通した時の感激の度合いを言ってるのよっ!

>>105
博多住吉神社付近から出発した遣唐使船は、志賀島まで風待ちで4日かかっている。
志賀島で、風待ちで6日間待っている。

古代船は波に弱い。海がうねると漕げない。
風波の強い時に、出航するバカはいまい。
111日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:38:24.21
まあ、玄界灘の波浪はばかにできないからなあ。
そういえば、嫁が、唐津の方にキムタクがサーフィンに来たことがあるといってたな。
112日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:42:42.10
日向というのは、元々「肥の国」のことを言ったのだよ。後に宮崎が日向と呼ばれた
113日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:45:32.43
なぜなら日向の名が最初に出てくるのは、建日向日豊久士比泥別=肥の国
114日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:51:04.48
>>110
そういえば、二つとも近かったなと思っただけだよ。
115ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 23:00:19.76
>>107
>弥生後期の楽浪土器出土から伊都国は深江の辺りまでだろうな

 深江はその名の通り、古代は山際まで深く入り込んでいた。
 山際に海岸を思わせる地名が残っている。
 糸島の西限は、一貴山だっただろう。

>呼子の方が自然地形的に港として利用しやすそうだが

 松浦川、玉島川を渡り、
呼子  〜東南 〜唐津
唐津  〜東  〜浜崎
浜崎  〜北  〜串崎
串崎  〜東  〜深江
深江  〜東北 〜周船寺

古田説のように、初期方向にでもしなきゃ、ね!
116サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:09:56.48
資料をしらべていて年代にかんしてとんでもない記載をみつけて唖然とした。
私はやはり天才なのだろうか。

どんなことかは、もう少し押してみてから書き込みます。
117ちはやぶる皇神:2012/11/16(金) 23:12:56.46
>>107
>糸島平野、志摩は8世紀でもまだ大型軍船が停泊できる拠点だったんだろう

 現存する元寇防塁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87%E9%98%B2%E5%A1%81

今津湾が一番頑丈に造られているそうな。
13世紀でもハブ港だったのでしょう。
118卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 23:18:16.83
>>98
まだこんなことを書いている馬鹿がいるのか。
自古以來其使詣中國皆自稱大夫
と、ちゃんと倭人伝に書いてあるだろうが。
日本には大夫という階層は無かったのに、
自古以來其使詣中國皆自稱大夫
と書いてある。つまり、
自古以來其使詣中國皆自稱大夫
は日本ではなかったということだよ。
なぜこんな簡単なことが分からないのだ。

で、こういう根本的なことに疑いを持たず、
あいもかわらず行程記事論争に終始しているのである。
まあ好きなだけ論争するがいい。

呆れつつひとり読む夜の2chは いかに空しきものとかは知る
119卑弥呼は満州にいた:2012/11/16(金) 23:20:36.93
19歳の言い草ではないが、
こんなことも分らんのか、
と言いたくなるような阿呆ばかりである。
120サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:33:23.84
満洲さん、あるがとう。あなたはわたしのこころのささえです。
121日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:35:59.42
いえいえ、サガミ先生こそ私の生きがいです
122日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:38:26.32
満州さん、名無しでも書いてるんですか
123日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:38:45.37
馬鹿なれば 普通の人が 馬鹿に見え
124サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:43:11.37
天才には天才にしかわからないこともたくさんあるのですよ。
125日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:59:31.53
>>115

深江に弥生後期の楽浪土器出土の遺跡があるから一貴山じゃなくて深江だろう
呼子から糸島には陸行しないだろうから方位は参考にしてない

ついでに
佐賀  〜東  八女になるけど熊本北部はどの辺りに比定してるのかな?

>>64で副葬品から早良王国、奴国、糸島の勢力関係を想定してるけど
>>65の >邪馬台国は、八女〜熊本北部を指している。 はどの遺跡の副葬品からの想定?

>この凶暴な国家が、贅沢品を埋葬する有千餘戸の小国を
見逃すはずはない。

三雲が奴国王の墓だったら、その前のどの墓が贅沢品を埋葬してる糸島王の墓?

考古と整合させたり無視したり、方位を正確に見たり無視したりしてるから
あなたの説は理解しずらい
126日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:05:30.88
失礼、 しづらいw
127サガミハラハラ ◆m8lkZ1oaDg/2 :2012/11/17(土) 00:06:16.31
突然ですが、トリップというものをつけてみます。
128ローガン:2012/11/17(土) 00:19:33.92
>>100:ちはやぶる皇神
>水行糸島が自明の理。それでも陸行で糸島ならば、その理由は必要だろう。

だから、「地誌」なんですよ。勿論、行程は南渡海で壱岐→糸島。 しかしチャイナタウンに滞在すると、呼子が壱岐に近い事を知る。
郡から近い順に記された地誌が倭人伝のテキスト。
また、当時の海岸線の確定は難しいが、海進の想定が可能なら、音無瀬戸は暗礁なんじゃない?
なら、今津湾というよりは、壱岐を出た船は糸島富士を目指し、加布里〜深江あたりに着岸…



因みに土地勘無しの無責任発言。
129日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:28:17.81
魏使の進んだ道順どおりに倭人伝の行程が書かれているという根拠はないだろう
むしろ郡使が常駐するようになてからの情報と考えた方がいいのではないか
130ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 00:35:21.14
>>125
>一貴山じゃなくて深江だろう
現在の深江の半分は水没していた狭い土地を主張したいだけです。
深江、一貴山でも、あまり影響ないでしょう。

>佐賀  〜東  八女になるけど熊本北部はどの辺りに比定してるのかな?
八女を想定しています。

>はどの遺跡の副葬品からの想定?
邪馬台国は大国ではなかった。 卑弥呼の宗教施設という考え方なので
大きな遺跡などには、拘ってません。
現在の出土状況では、ピンポイントの比定はできません。

>三雲が奴国王の墓だったら、その前のどの墓が贅沢品を埋葬してる糸島王の墓?
糸島王の墓はわかりません。というより無いでしょう。
定説の三雲、井原、平原が伊都国王墓だとしたら、奴国が見逃さない。
でなくて、奴国王墓だからこそ伊都国に存在できた。
伊都国は、使者には国に見えたが、奴国の一部であったという考えです。
三雲が帥升の王墓ではないかと思っています。
唐津桜馬場遺跡も、奴国系王墓と考えています。
131日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:42:19.97
纏向は明らかに後のヤマト王権にそのままつながる勢力だろう
ただし邪馬台国が大和と決まったわけでもない
弥生末期の遺跡や律令時代の集落数から推定するに
北部九州だけでも40くらいの国があったと考えられる
そのうちの30国が倭人伝に書かれた国々かもしれない
大和までの広い範囲を想定すればもっとたくさんの国があったはず
ただこう考えた場合は
邪馬台国は小国で7万や5万という戸数は怪しくなる
東征も考えにくい
132ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 00:45:49.65
>>4枠ローガン氏
>因みに土地勘無しの無責任発言。

 因みに、私は仕事と趣味で1千回近く往復しています。
 中原遺跡の唐津競艇場にも、唐津城の古の松浦川河口時代も参戦しています。

> しかしチャイナタウンに滞在すると、呼子が壱岐に近い事を知る。

 壱岐から呼子は、見えるでしょうに。
133日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:50:13.03
>>130
私も奴国、糸島、唐津は同族系だと見てますが、三雲・井原が墓専用地だったら60haも必要ないでしょうし
漢代に楽浪人は墓地には滞在しないでしょう
134ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 01:05:04.97
>>133
>私も奴国、糸島、唐津は同族系だと見てますが

いや、これは嬉しいですね。

>漢代に楽浪人は墓地には滞在しないでしょう

志摩側の今津湾の西に「泊」があり、今津湾の北に韓泊が地名として
現在も残っています、 滞在場所と考えています。

>三雲・井原が墓専用地だったら60haも必要ないでしょうし

「怡土」+「志摩」=糸島のはずです。
墓場と  重工業地帯   当時は、別地域の感覚だったと思ってます。

>三雲・井原が墓専用地だったら60haも必要ないでしょうし

いやいや、帥升は特別だったと思ってます。
135ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 01:07:04.68
>>134

 失礼!  眠くなって来た。  これにてzzz
136日本@名無史さん:2012/11/17(土) 01:16:15.04
>>134
三雲からの楽浪土器は運搬用だけでなく生活用の多種の土器が出土しています
「怡土」と「志摩」は地質調査から「泊」の辺りだけが縄文時代から陸橋だったことがわかっています
漢代に楽浪人が滞在したのは「怡土」地区だと考えられます
137ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 01:26:20.32
>>126
なるほどね。
古代史の勉強を始めて、4年目を迎えました。
土地勘だけが頼りの荒削り説です。
御指摘は、常に感謝します。
138ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 01:30:07.95
>>137

>>126 は、 >>136 の間違い。
脳死状況。 また、明日。
139日本@名無史さん:2012/11/17(土) 02:00:45.12
>>129
連合国めぐりの紹介だね。
邪馬台、投馬も実際は比較的近所だろう。
140日本@名無史さん:2012/11/17(土) 02:05:11.21
>>112
矢部川の中流域の地名。
141卑弥呼は満州にいた:2012/11/17(土) 09:54:19.39
たまたま中国から、あるいは半島から、民間人が松浦半島のどこかに辿り着いた。
そして苦労をして伊都国に到った、その記録か話が中国に伝わっていた。
陳寿はそれを倭国に関する貴重な記録だと思い、倭人伝にそのまま記載した。
それだけのことである。

それをここのアホ連中が、魏使が日本に来た時のルポだと勘違いして、
年がら年中あーだこーだと議論しているのである。
否、ここの連中だけではない。まともな学者までもがそう思い込んでいるのである。
142日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:00:18.17
つーか郡使が常駐してた記録とか
あとは倭使からの聞き取りとか
洛陽で倭の知識のある人からの聞き取りとかをまとめた
前書からの引用じゃね
143卑弥呼は満州にいた:2012/11/17(土) 10:01:41.16
で、魏使が南と東を間違えるはずがない、とか、
魏使の報告書だから嘘は書いてない、とか、
甚だしきに至っては、先遣隊が来た、とか、
九州を半周して周旋五千里を得た、とか、
小学生かと思うようなアホな議論を延々と続けているのである。

これが2chであり、これが今の日本の四十前後の世代の知能なのである。
144日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:02:34.47
>>143
そこは同意する
145日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:03:41.59
40代前後よりはもっと老人だろうけどな
146日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:05:35.20
倭国には魏使が常駐してると書いてる以上、
「たまたま辿り着いた」程度の記録内容じゃないことは明白
147日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:10:59.26
おそらく陳寿が三国志を書いた280年代に近い情報なんだろ
148日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:35:39.96
倭人伝には非常に詳しいところと大雑把すぎて訳がが分からんところがある。
いろいろな情報が混ざっていることぐらい読めば分かりそうなものだが。
149日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:55:33.92
1つ確実に言えることはもうこの問題は発掘でしか進展しない。
素人の出る幕はないよ。
150日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:59:04.04
つーか素人は好き好きに勝手なことを吹けばよい
それができるのが古代史分野なわけだし
アマテラス=卑弥呼でも何でもよいわ
証明はできんけどな

地域興しとからんだ半素人の古代史ゴロはたちが悪い
確信犯だからな
151日本@名無史さん:2012/11/17(土) 11:40:54.37
で、魏使が南と東を間違えた、とか、
魏使の報告書に嘘が書いてあった、とか、
甚だしきに至っては、周旋五千里は想像だ、とか、
小学生かと思うようなアホな議論を延々と続け、まともに読もうとしないのである。
152日本@名無史さん:2012/11/17(土) 12:28:51.71
狗邪韓国〜対馬間って、直線距離で60キロ以上あるね
対馬海流はすごく早いらしいよ。チェジュ島方面に漕ぎだして、海流に流されるのを
計算に入れると、120キロの距離を渡ることになる。
もちろん途中で寝ることなどできない

日の出から日没までの「1日で120キロを航行できた」ということだよ。

福岡から大阪湾まで500キロ程度を、何日で進めたと思う?
153日本@名無史さん:2012/11/17(土) 12:56:32.61
>>143
流石マン臭さん
鋭い意見ですね〜
154日本@名無史さん:2012/11/17(土) 12:57:54.93
60キロ以上はない
韓国〜対馬の陸から陸はちょうど50kmくらいだ
対馬〜壱岐も同じく50km
渡海中は漕ぎ手を潰す気で死ぬ気で漕いだんだろう
155日本@名無史さん:2012/11/17(土) 13:01:21.02
>>154
そうじゃないよ
海峡の船渡しは熟練じゃないと無理なのだよ
現代のアスリート、カヌーのオリンピック選手並みの、鍛えぬかれた体だよ
マラソンランナーは毎日50キロ走をするっていう
そのくらいの体力を持った人間が、海峡を渡したのだよ
156日本@名無史さん:2012/11/17(土) 13:24:34.69
鍛えぬかれてるんだろうがぶっ通しで漕ぐのは無理だ。
無茶な要求をすればマゼランのように船内反乱が起きる恐れもある。
漕ぎ手の1/3を休ませ2/3が漕ぎ、時速3kmを維持できれば17時間。
早朝暗いうちに出発して真昼に陸地を視認、暗くなって数時間で到達。
不可能ではなさそうだ。
157日本@名無史さん:2012/11/17(土) 14:55:40.33
だからつまり、水行20日+水行10日だと、関東まで行くくらいの距離になってしまうわけですよ
158日本@名無史さん:2012/11/17(土) 14:55:46.74
おまえら118スレも消費して答えは出たの?
159日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:04:59.99
>>157
無理をしなきゃならんのは狗邪韓国〜対馬〜壱岐〜末盧國の〜の部分だけだ
伊都国以降の水行日数は倭の小船でマイペースで行ってのものだろう
160日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:05:53.18
>>156
だからさ、想像スべき弥生時代後期の船を、みなさん、あまり想像してないと思うのですよね。

こういうの、沖縄のハーリーとかいう
http://img02.ti-da.net/usr/harlee/hamayu.jpg
これが大人数で漕いで、時速15キロとか出るのだよ

でこれが弥生時代の船の復元図だよ
これは大人数で、凄い速いよ
http://metamorphose-planet.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_853/metamorphose-planet/navio_antigo-9b3c2.jpg

しかも対馬海流の潮流って、なにもしないでも時速7キロで進む
161日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:07:12.25
答えを出したらそこで試合終了ですよ・・・?
162sss:2012/11/17(土) 15:10:15.52
>>158
しゃべる口だけ持っていて、聞く耳を持たない人が多いから、
なかなか決着はつかない。
しかし、聞く耳を持っている人もいるわけで、徐々に世論というか、
邪馬台国論争の趨勢が形成されていくことになる。と思う。
163日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:10:42.32
だね、ここは真実を追求するスレじゃなく
妄想を語り合って「俺の妄想のほうがすごいでしょ」って自慢し合うスレだからね
164日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:12:42.74
>>160
沖縄のハーリーとかいうのは内海しか航行できそうに見えないが…
横波受けたら転覆するんじゃないの?
下のは舷高もあるし渡海向きに見えるが速度は出ないだろ
165sss:2012/11/17(土) 15:24:30.97
>>160
それは1975年に西都原古墳群から出土した舟形埴輪を元に作られた
野生号じゃなかったかな。帯方郡(仁川港)から博多湾まで47日かかっている。
古代船とはいえ、現代の技術で作られているし、航行専門の船になって
いるので実際の船はもっと日数がかかったものと思われる。

ちなみに、九州から出た埴輪を元に作った船なんか乗らないぞ、というわけで
畿内説の人は大阪市の高廻り2号墳から出土した舟形埴輪を元に「なみはや」と
いう古代船を作ったが、これは構造上船とは言えず、見事な失敗に終わった。
166日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:27:54.77
>>165
復元自体に問題があったんじゃない?あまりに大きく作りすぎたとか
167日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:34:54.14
魏使は本土から帯方郡に渡った大船で来たんじゃないか
倭人が渡海する場合は小船だろうが航路の潮の流れなどを
知りつくしていただろうし
168sss:2012/11/17(土) 15:37:09.07
>>166
「古代研究」第9号:1999年5・6月号

そこで10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、
実際に木造船として作ってみました。
現在の船の構造設計者によると、とても構造的に船にならない、ということ
でしたが、直径2mの丸太をカナダから輸入し、埴輪を忠実に模することに
より、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。

この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に
安定が悪く、そのうえなかなか進みません。50cmの高さの波がきただけでも
バランスを失ってひっくり返りそうです。
1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。また喫水が
浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した
土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に
無理なことでした。

結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部
の学生に、古代の人が渡ったであろうと思われるコースで、玄界灘を越えて
韓国に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。

そのまま漕いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当が
つかないほど進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓国の港では、
学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかの
ように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に
牽引してもらっていたのです。
【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】
169日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:40:09.01
つーかなみはやも野生号も重量のわりに漕ぎ手の人数が足りない
あれだと現代人ならそこそこ鍛えてる人でも数百Mも漕げまい
170日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:43:26.99
死んでもかまわない奴隷労働ならもう少し漕げるが
漕いだり休んだりのくり返しだったろう
171日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:51:21.93
>>168
はにわの顔をそっくり原寸大に復元して、これが当時の弥生人の顔つきですって言ってるようなものではないか

(・o・)←これが弥生人の顔の忠実な復元。こんな顔をしていた
172日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:54:33.80
おそらく船は野生号よりずっと軽い船の船団で行って
ひっくり返ったら拾い上げるような形か
さもなければもっと長い船で漕ぎ手は30〜40人いたかのどちらかじゃないか
173日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:58:01.45
船は速度の三乗で抵抗が増えるので、
よほど急ぐ理由がない限りは、
ゆったり行くのが有利。
174日本@名無史さん:2012/11/17(土) 15:59:16.39
速度は3ノットもないだろ で休み休み
175日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:06:18.79
魏志倭人伝にさ〜、魏が大量の荷物を倭へ送った記述や、
エキヤクら20人を遣わし〜や、
男女生口30人を送ったなどの記述がある
簡単に転覆するような船ではあるまい?
176日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:12:05.16
つーか日常交易のために使ってたのはカヌーに毛が生えたような軽船で
多人数で渡るときはもっと長い船だな
野生号もなみはやも絵画土器からの復元は内海船に近いものじゃないかな
177日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:17:31.93
なみはや号を半分の高さにし、飾り気を無くして軽量化すると丁度いい
178日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:24:03.24
西都原の舟形埴輪は12人漕ぎみたいですね。
179日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:24:05.07
古代の船(というか蒸気以前の船)というのは、風待ちの日時が長いんだよ

江戸時代の朝鮮通信使でさえ、瀬戸内海などの内海でさえ
ちょくちょく適当な島に停泊して、風待ちのために数日費やしていたらしい
180日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:27:02.40
土佐日記では12日の航海中帆を用いたのは一日だけだし
弥生時代の船は帆はないか縦帆があったとしてもほとんど役には立たなかったろう
181日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:29:17.19
潮の流れや風に逆らって進むのは大変だから、どうしても良い潮、良い風を
待つことになるのかもしれない。
182日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:48:36.52
埴輪は浮かんでる舟を見て思い浮かべて作ったんじゃないかね。
つまり喫水があるんだけどその部分はカットされてる。
183日本@名無史さん:2012/11/17(土) 17:32:16.00
円仁が残した遣唐使の記録によると、風待ちで1、2週間待つこともある。

参考までに、順調にいった帰国の行路を書くと、
9/2に赤山浦(現在の山東半島)発
→9/6新羅の耽羅島(現在の済州島)
→9/10早朝に対馬を見る
→同日夜に肥前国松浦郡に停泊
→9/18筑前の鴻?館に到着。

で、海行半月というところ。
184日本@名無史さん:2012/11/17(土) 17:45:42.11
じゃあ水行10日っていうのは、実質航海した日数は1日かもしれないし10日かもしれないわけだ
185日本@名無史さん:2012/11/17(土) 18:24:13.48
同じ頃にイースター島やハワイに辿り着いたポリネシアンの勝ち
186ローガン:2012/11/17(土) 18:50:59.39
>>184そうですな。
斉明紀五年に引用の伊吉博徳書
「伊吉連博 書曰、同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使唐之路。以己未年七月三日、發自難波三津之浦。八月十一日、發自筑紫大津之浦。九月十三日、行到百濟南畔之嶋。嶋名毋分明。
以十四日寅時、二船相從、放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風、漂到南海之嶋。嶋名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等。州縣官人、送到洛陽之京。
十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風。風太急。廿二日、行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日、行到越州之底。十五日、乘驛入京。廿九日、馳到東京。天子在東京。」
7月3日難波津発
8月11日那津発
9月13日百済の南の畔の島着
同月14日東シナ海に船出
同月16日越州会稽県着
博多から百済の南端まで約1月。そこから浙江省まで3日。(笑)
おそらく、台風シーズンゆえ博多で待つのが長かったんだろうが…
187日本@名無史さん:2012/11/17(土) 18:54:36.99
玄界灘は上空に偏西風が吹いていて、船は東へ東へ流される。壱岐からまっす
ぐ南にくだり唐津に着いたはずは無い。
188日本@名無史さん:2012/11/17(土) 18:56:38.95
>>187
北風のシーズンだったんでは
189ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 19:01:48.97
唐津の「宇木汲田遺跡」と佐賀市大和町の「本村籠遺跡」は、多紐細文鏡が出土している。
唐津から佐賀への「多久の道」が紀元前から主な交通路であったことを示している。
両遺跡は、青銅製武器の多さからも王墓と思われる。

「多紐細文鏡」は、青銅製の舶載鏡で、紀元前7〜前6世紀の中国遼寧地方に起源を持ち、
 朝鮮半島では29面以上知られていて、日本では11面見つかっている。

他には、福岡県小郡市の小郡若山遺跡、壱岐の原の辻遺跡、吉武高木遺跡などから出ている。

この古い記録が、倭人伝に採用された可能性も確かにある。
190ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 19:50:55.48
>>187
紀元前三世紀頃は、唐津湾が倭国のハブ港。
唐津の宇木汲田遺跡は、吉武高木遺跡の王墓群の四倍以上存在している。
長期にわたる墓域である。
したがって、多久の道に繋がる有明海沿岸の方が、博多地域よりも
青銅器などの質が良いと指摘されている。

武寧王も呼子の北にある加部島で生まれている。
壱岐から見えて近い呼子に一旦寄港し、沿岸航行したのだろう。

昆支が、そう言ってたという話は聞かないが・・・
191日本@名無史さん:2012/11/17(土) 19:58:16.38
結局船の大きさが分らん事には速度もわからんって事かな?

外海とでは船の構造に違いはあるのだろうけど
赤壁の戦いで出てくるような船って実際はしょぼかったって事なの?
かなり大きなイメージがあるけど
192日本@名無史さん:2012/11/17(土) 20:08:59.61
結局は船の重量と漕ぎ手の数と帆の効率だが
帆が役立つかは風まかせだし
数百人乗りの楼船は速度ではなく輸送量中心に考えられていたと思われ
193日本@名無史さん:2012/11/17(土) 20:25:42.43
上空の偏西風は海面高度ではあまり関係がない。
一日の海流と風向きの変化のほうが効くだろう。
194日本@名無史さん:2012/11/17(土) 20:29:05.43
壱岐?なんて田足りず市に行くってなってる島で
船の輸送がそんなに貧弱なら住むかね?
命に関わるのに
それなりに外海対応で、生活に支障は出ない程度の輸送は出来たんじゃないかな?
195日本@名無史さん:2012/11/17(土) 20:50:04.95
>>194
同意。
倭人は弁辰から鉄も輸入してるんだから、貧弱な船なわけないと思うよ。
196ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 21:20:14.43
>>194
同意。
壱岐は比較的安全でしょう。
古代人達は、もっと遠い沖ノ島で祭祀を行っていたのですからね。
綿津見系神社が、対馬に77社あるのに対し壱岐は少ししかない。
危険度を表していると思う。

魏側も情報収集して、安全に渡海可能と判断したから来たのでしょうし、
安全な船を用意して来たということでしょう。

ま、私は船には興味ないので・・・というか、調べようがないから。
197サガミハラハラ ◆m8lkZ1oaDg/2 :2012/11/17(土) 22:03:18.97
今日は銀大の日でしたが、大雨のため事務局に電話をいれたところ、
全員今日は大雨のため欠席するという事になったので、今日は一日中家にいました。
そうしたら二人の学会員が家にやってきて、衆院選や東京都知事選では公明党に投票をお願いしますと
言ってきたので、わたしは共産党支持ですと言ってやりましたが、よほど共産党がきらいなのか
仏罰が下ると脅かしてきたのでインターネットを見ながら見ながら反撃してやりましたが、
わたしの言う事にまったく反論できず、最後に地獄に落ちると言ってようやく帰りましたが、
それにしても彼らのあたまの悪さにはほとほとあきれはてました。
198日本@名無史さん:2012/11/17(土) 22:06:49.13
刺激しないほうがいいですよ先生
199卑弥呼は満州にいた:2012/11/17(土) 22:31:30.88
私は、本に書こうと思っていることは、ここには書かないことにしているのだが、
>>186の伊吉博徳書は実に参考になった。
これは私の説を裏付ける決定的証拠の一つなので、本に引用させてもらうことにする。

ここに常駐していると、たまにこういう拾い物があるのでうれしくなる。
200日本@名無史さん:2012/11/17(土) 22:36:17.43
満州さんはやく本かけ
201卑弥呼は満州にいた:2012/11/17(土) 23:11:33.07
倭が日本ではないと思われる、もう一つの資料を挙げておこう。
これは本に書こうと思っていることだが、データ自体は既に発表されているのでここに書く。

河南省魯山県から難元慶(663年-723年)のという人物の墓誌が出土したそうである。
その銘によれば難元慶は代々百済の達率の家系だとか。
ところでこの難元慶という名前を見れば誰しも或る人物を想起する。
そう、難升米である。難元慶と難升米。難という姓が共通している。
とすれば、難升米は難元慶の先祖だったかもしれないのである。
であるなら、卑弥呼の倭は日本ではないことは決定的である。
202日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:15:04.55
難波から筑紫まで40日近くかかってるくせに百済南畔島から会稽県を3日ってすごいな
600kmはあるんだが
風向と潮流を得ればそのくらいも可能だったのか
203日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:27:02.21
銀大の日てなに?
204日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:32:44.04
>>201
難升米の難が姓とは知らなんだ。
205日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:42:24.11
>>202
お天気次第ってことでしょ
206日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:44:53.87
>>201
倭は会稽のトウヤの東でしょうがw
207日本@名無史さん:2012/11/17(土) 23:47:30.51
難升米はナジームと読む
現在のシリアあたりの人だ
そう、邪馬台国は中東にあったのである
208ちはやぶる皇神:2012/11/17(土) 23:50:40.75
>>202
「阿曇荒尾遭難」 万葉の悲劇
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/1688/2-8-2.html

博多湾から五島列島の福江島に一旦行き、その西端「三井楽町」から
北上し、海流にのって対馬まで行く。

金印シンポジウムでの、五島歴史民族資料館の塚原氏の説明では
漕がなくても、時速13K??位のスピードが出るらしい。

阿曇族の渡海技術の一つだったのだろうね。
209sss:2012/11/18(日) 00:00:59.23
航海の無事を祈って禁欲生活を送り、船が難破すれば殺されてしまう持衰と
いうのもいたくらいだから、かなり困難な航行だったのだろう。
潮待ち、風待ち、天候待ちくらいは当たり前だっただろうな。
210唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/18(日) 00:26:03.13
>難升米は難元慶の先祖だったかもしれないのである。

難升米(難斗米)は難(奴)国の太夫である。
そして、百済は建国以来倭に従う。
例外が400年前後の高句麗の南下とその軍隊の下にしか存在できなかった百済である。
211日本@名無史さん:2012/11/18(日) 04:39:13.17
サガミハラハラさんって東京に住んでるの?
で、銀大って何
パチンコ?
212日本@名無史さん:2012/11/18(日) 05:47:27.86
>>211
>サガミハラハラさんって東京に住んでるの?

過去のレスによると、以前は神奈川県相模原市に住んでいたが、現在は東京の日野市に在住。

>銀大って何
銀座の駅前にある、自称「社会人のための学校」だそうな。
213日本@名無史さん:2012/11/18(日) 06:18:13.43
難升米は客商売
214日本@名無史さん:2012/11/18(日) 07:45:43.78
遣唐使船南路で、代表的な日数は約千キロを20日前後。

最短8日から遭難した二年まで幅はあるが、
普通に行けば日速50キロ程度。

これは帆と櫂の併用で、昼夜運用したものだろうから、
時速にすれば、ニキロ〜三キロ程度と見てよいだろう。

当時、一日、明るいうちに移動したとすれば、日速20キロ〜30キロ
といったところではないか。
215日本@名無史さん:2012/11/18(日) 08:20:17.73
羅針盤の無い時代の航海は、夜はむしろ好都合。北極星が見えるので。
昼間は太陽の位置で航行する。

一番怖いのは、天候が悪く・風強く・波高い日。
方向が分からない上に、どこに流されるか不明なので。
216日本@名無史さん:2012/11/18(日) 08:49:06.95
>>212
ありがとう


それでサガミハラハラさんって、時折九州の地理が変な時あるんだ
佐賀県に住んでるのに変だなと思ってた
217日本@名無史さん:2012/11/18(日) 10:26:41.32
まあ、サガミ翁は、一度こうだと考え付くと、ず〜っと自説にこだわりすぎて、
他人の意見を全く聞こうとは絶対にしないからねえ……(溜息)
218日本@名無史さん:2012/11/18(日) 10:43:17.00
>>206
満州屋 都合の悪いことは 知らんふり

卑怯な奴だ
219こばやし こういち:2012/11/18(日) 11:36:10.03
中国「大連理工大学」図書館において
日本古代史(邪馬台国)の文献7冊のみ総体評価がされています。
他に邪馬台国出雲説を主張している本は無いのでしょうか?

【★★★星】 邪馬臺國は意宇出雲国/著:小林須佐男
【★★★星】 日本の歴史1・倭国の誕生/著:直木孝次郎

【★★星】 邪馬台国/著:松本清張

【★星】なし

【0星】「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国:遺跡分布から解く女王国の謎」著:安本典美
【0星】「日本古代新史」増補・邪馬一国の挑戦 著:古田武彦
【0星】「邪馬台国の位置と日本国家の起源」著:鷲崎弘明
【0星】「邪馬台国:清張通史」 著:松本清張

※2012年11月18日現在
以上です。

こばやし こういち
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/18(日) 15:13:10.05
>>219

現在の考古学の数字を否定する輩ばかりだな。
221日本@名無史さん:2012/11/18(日) 15:28:42.20
つか大連理工大学って・・・社会科学院にあたりゃ早いんじゃね
ただし中国は歴史的に日本が中国に臣従していたというような
理論武装に都合のよい文献のみ評価すると思われるけどね
222日本@名無史さん:2012/11/18(日) 15:31:51.60
共産主義だと過去は現在を肯定するための道具に過ぎないからな
そこらへんはシビアだろう
223日本@名無史さん:2012/11/18(日) 18:25:42.86
別に共産主義だけに限らん。
清朝なんかは明代の女真族の動向について記述することを禁止させている。
224サガミハラハラ ◆m8lkZ1oaDg/2 :2012/11/18(日) 18:37:39.59
今日は朝5時半に起きてしまったので、軽くお茶漬けを食べた後、
高幡不動尊のござれ市に行ってきました。
中年の中国人が出展していましたが、そこでヒスイの腕輪や山さんごの数珠のほか、
50センチちかい大きな皿を売っていたので、それをねぎって千円で買いました。
それから家に戻り、渋谷駅周辺のブックオフでわたしの著作を買い取ってもらいました。
そのあと渋谷センター街の熊本ラーメン桂花で太肉麺を食べましたが、いぜんとくらべて
キャベツや太肉が少なく、スープも味が落ちてきたように感じました。
225日本@名無史さん:2012/11/18(日) 19:11:18.31
>>224
ここはキミのチラシの裏じゃないよ
226卑弥呼は満州にいた:2012/11/18(日) 19:53:07.98
↑ この男だってここを落書き場だと思っているのだから、
サガミハラよ、気にするな。書きたいことを何でも書け。

>>225よ、偉そうな注意をするのなら、
お前だって絵を描いたり、ネトウヨ的な書き込みはするな。
ここはお前のスケッチ帳でもないし、ネトウヨ宣伝の場でもないぞ。
227日本@名無史さん:2012/11/18(日) 19:58:43.25
>>226
絵なんて書いた覚えはないが
別にいいけど紳士きどるなら「さん」とか「氏」とか付けてあげなよ
呼び捨てかよ
228日本@名無史さん:2012/11/18(日) 20:00:35.79
  _ , - 、 _
  | i`' 从从`ヾ i
  ||| ト`・ヮ・ノ ,|||<さあ〜、サガミ先生の日記がはじまっちゃうよ!
  W とトH'|つ W   みんな覚悟してね!
   .∠|ニ|ゝ
    U U
229サガミハラハラ:2012/11/18(日) 20:01:39.54
何故わたしが今日5時半におきたことをしっているのですか?
その後行ったところは、高幡不動ではなく上野のトンボの目の主宰の講演会でしたが。
230ちはやぶる皇神:2012/11/18(日) 20:16:40.73
奴国の王墓と見られている「須玖岡本遺跡」の南側に「大谷遺跡」の青銅器、ガラス工房がある。
西側には「赤井手遺跡」があり、鉄素材、銅矛、勾玉などが出土している。
弥生後半には、北側に工房が出来てくる。永田遺跡からは、周囲に溝を配した掘立柱建物工房で
鏡、銅矛の鋳型や中子などの生産工程に関連する遺物も多く出土している。
この一帯の主な製品は、銅矛といわれている。 銅矛の中子が多く出ているからだ。

 工房では、火を使い騒音も出る。 これらが須玖岡本の周囲にあるということは王都ではない。
御笠川と那珂川の間にあるので、いずれかの上流に王都は存在したと思う。
王都は、まだ出ていない。 
 
 那珂川町仲付近に、住吉神社の元宮と言われる「現人神社」がある。 須玖岡本遺跡の南には、
小倉住吉神社があり、北に日佐住吉宮、北東に若久住吉神社がある。 古海岸に現住吉神社がある。
那珂川の両岸に存在していることからも那珂川上流の可能性が大きいかもしれない。
231ちはやぶる皇神:2012/11/18(日) 20:58:34.52
奴国では有明海沿岸地域とは違って、早期に矛が祭祀化している。
剣は細形から広形に移り変わり、これも祭祀化している。

奴国というば、広形銅矛である。

  日本書紀
「伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下豈無國歟、廼以天之瓊矛、指下而探之。
是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋。名之曰磤馭慮嶋。」

国生み神話でも矛であり、天磐戸でも天鈿女命は、手に矛をもっている。

倭人伝
「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」

結局、最終的にはこの勢力が勝ち上がったのかもね。
232ちはやぶる皇神:2012/11/18(日) 21:09:31.98
因みに、近畿からは「兵用矛」は出土してないって本で読んだけど

どうなんだろうね?  ローガンさん!
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/18(日) 21:50:00.51
>>226
倭が半島だというなら、大陸から日本を当時何と読んでいたのか?

しかと答えよ。
234ちはやぶる皇神:2012/11/18(日) 22:07:21.97
【都府楼はわずかに瓦の色を看、観音寺はただ鐘の声を聞く】

  菅原道真の詩句にも詠われている名鐘の音色だ。

瓦は、南区老司(須玖岡本遺跡西)。 鐘は、東区多々良とされている。

天智天皇が、母斉明の為に創建したと伝えられている観世音寺の梵鐘は、
朱鳥13年(698)に鋳造された京都・妙心寺の鐘と兄弟鐘といわれている。
 
観世音寺の鐘は妙心寺の梵鐘銘から文武天皇2年(698)前後に鋳造されたものと
推認できるが、同じ工房で果たしてどちらの鐘が先に鋳られたものか大いに興味
をそそる。両方の鐘を比較すると、妙心寺鐘に梵鐘銘があり観世音寺のそれは無銘
である。加えて、鐘身の上帯、下帯の唐草文と竜頭の大きさが異なっている。
木型の製作時期の違いから生じたものであるが、観世音寺鐘の唐草文のほうが力強く、
竜頭もひとまわり大きい。妙心寺鐘の音域が広く感じられるのは、銅と錫との混合
割合の進化かと思われる。日本最古の当麻寺の鐘が無銘であることは、一般的に
無銘のものが有銘のそれより古いことを示唆している。

http://www.youtube.com/watch?v=Xlk8z8qvE5E

毎月18日午後1時、太宰府市にこの鐘の音が鳴り響く。 
奴国王都は、大宰府政庁跡の下に眠っているのかもね?

今日は、マイルCS勝負したので行けなかった。  ハズレた!
235ちはやぶる皇神:2012/11/18(日) 22:39:33.49
>>233

 耳赤の一手               秀策

「おい」と声を掛けたが返事がない。   漱石
236卑弥呼は満州にいた:2012/11/18(日) 23:05:45.19
>>233
太国よ、お前は倭人伝以外の文献を読んだことはないのか。
「倭・倭人関連の中国文献」
というのがWikiにあるから読んでおけ。たとえば、

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)

こんなのを日本人だと思っている学者は殆んどいないのである。
それと同様に倭、倭人と書かれていても、日本、日本人であるとは限らないのである。
なんでこんな初歩的なことをいちいち説明しなければいけないのか。
>>218などあまりにあほらしい質問なのでスルーしているのである。
お前は、倍暦説にかぶれている以外は、まあまあまともな人間だから、
お前にはちゃんと返事をしてやったのだ。
237卑弥呼は満州にいた:2012/11/18(日) 23:17:50.65
ここの連中は、学者も含めて、山海経までの倭は日本ではないと認めているようだ。
ところが漢書以降の倭は日本だと思っているらしい。
樂浪海中有倭人
これを日本、日本人のことだと解釈しているのである。

しかし楽浪海というのは、それが楽浪郡なら遼東湾のことだし、
それが楽浪国ならウラジオストク近海のことなのである。
だから要するに遼東あるいはウラジオストク近辺にいるのが倭人なのである。
日本人のことではない。
それと同様に、卑弥呼の倭も、五王の倭も日本ではないのである。
こんなことも、ある意味ではここに書くのは惜しいことだが、
これまで散々説いてきたことなので書いているのである。
238日本@名無史さん:2012/11/18(日) 23:23:41.38
日本書紀に書かれてることを「そのまま信じる」ならば、
神功皇后=倭女王
なんだけど、それはどうなの?
日本でいいの?四世紀よ。
239唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/19(月) 00:41:34.47
神功皇后と倭女王との関係を
神功39年=仁徳元年=323年=卑弥呼239+74年と言いたいのだ。
その神功39年を百済本紀の120年差と合わせようとするから、書紀の編年ができない。
240日本@名無史さん:2012/11/19(月) 02:06:22.05
>>237
三国史記に書かれているだろう。

670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、
日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。

これ以降、新羅本紀の記述は倭国から日本国に変わる。
241日本@名無史さん:2012/11/19(月) 02:07:35.32
>>237
でも須弥山である富士山を擁した島国だから山海経にまで記されたわけで
亜細亜圏でもちょっと特異な場所と言う認識はされていたはず
242日本@名無史さん:2012/11/19(月) 07:45:13.44
山海経の倭は、さすがに日本のことじゃないぞ
243日本@名無史さん:2012/11/19(月) 07:50:12.32
238+240=満州クン論破
ハイ、終了
244日本@名無史さん:2012/11/19(月) 08:26:29.50
>>231
現代に“広形銅矛”と名付けられた青銅祭器は弥生終末期までに廃棄されている。
『記紀』や「倭人伝」で“矛”と記されたのは、長柄の先端に刃部を付けた普遍的にみられる武器のことであり、
名称が同じだからといって両者を関連づけるのは短絡だ。
245日本@名無史さん:2012/11/19(月) 08:44:08.96
│イジメで名高い熊本県..三 ┃|
│   _  !  _     .三 ┃|
│  (O>――<O)    . 三 ┃| 
│  /( ・ ) ( ・ ) ヽ     ┃|
│  ○ /▼\  ○   .. ┃| ガラッ.
│  |( ヽ二フ )  |   三 ┃|
│  /   ̄ ̄ ̄  ヽ    (┃|
│ f           ヽ_/  ┃|

県のキャラクターが率先してイジメを実践する、
麻原彰晃と幼女レイプ殺人のまち、熊本へようこそ
246サガミハラハラ:2012/11/19(月) 09:46:45.74
そうですか。
私熊本の町結構気にいっているのですよ。
247日本@名無史さん:2012/11/19(月) 12:09:45.15
小学校から中学校のあいだ、関西から九州まで八つの学校に通ったが
イジメがなかったのは熊本だけだった。
248サガミハラハラ:2012/11/19(月) 15:13:17.49
あと、長野もないですよ。
よくいじめられていた子が長野に転校したら、みんなしんせつでいじめられることがなかったといってました。
249サガミハラハラ:2012/11/19(月) 15:15:58.28
書き込みテスト中。
250日本@名無史さん:2012/11/19(月) 15:28:48.95
>>247
熊襲はいじめられたから、いじめがないと
251太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/19(月) 15:50:47.67
>>236 朝満男よ
オマエは目がいいからそんなことを言えるんだよ。

コチラは目が悪いんだ。だから漢文の多いのは、コチラは読もうとしない。
そうしないと、もっと視力が落ちるからだ。
そのため、コチラは漢文の羅列で研究する古代史の連中とは研究の方法が
違う。自己にあわせて研究方法を変えるのは当然要領のいい方策だ。

オマエはオマエの目線で物事を考えるから、そんな口たたくわけだ。
だから質問には漢文の羅列より、軽い説明で結論を言えばこちらは通常
それで間に合う。それでだめなら、また質問をすればいいことよ。

オマエは倍暦否定派なわけだが、それじゃぁどのように古代の朝廷は
天皇の超長寿の記載をこうしてたと、合理的説明を出来るのか?

否定なんだから、それを上回る暦の説明を分かりやすく出来ねば、
オマエのその件の書きこみはクソの役にもたたない。

オマエはそれが具体的に説明できていない。これでは全然ダメだ。

説明ができてからでかい口をたたけ。w
252世界@名無史さん:2012/11/19(月) 15:50:55.17
川嶋芳子って知ってる?
253卑弥呼は満州にいた:2012/11/19(月) 16:01:25.66
天照大神 ジャスコでブラジャーと ショーツ買ひ
ワコールの ショーツは高いと 不平言ひ

わっちには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神
254ローガン:2012/11/19(月) 16:02:38.61
>>231:ちはやぶる皇神
高倉氏の論文、前に読んだきりで手元に無いので、拾ったのを貼り付け。
【高倉洋彰氏は、「中期後半以降に武器形祭器と化した銅矛は、その分布から、航海あるいは交通に関する儀礼に用いられたと考えられている。
その生産は中期後半〜後期前半の中広段階に福岡平野の須玖丘陵に集中する。以後、福岡平野、つまり奴国を中心として一元的に矛形祭器が生産され、流通網が整備されていく。
航海・交通の祭器の掌握は、制海権・交通権の掌握にほかならない。同様の検証は銅鏡でもできる」として、奴国連合という領域があるとすれば、その領域に佐賀平野・筑後平野は含まれた、と指摘する。】

鬼頭氏の論によれば、10世紀で人口6400000人。これを591郡(延喜式)で割れば1郡当たり10830人。
鬼頭論では3世紀頃の人口は、100〜200万人。つまり、10世紀の16〜31%。
1郡当たり10830人の16〜31%は1733〜3357人。
そこで高倉氏云う所の「奴国連合」(含む末廬伊都不彌)を26000戸とし、筑前、筑後、肥前、豊前、豊後計52郡がそのエリアだとすると、
1戸5〜6人×26000戸=130000〜156000人。 1郡当たり2500〜3000人ほど。
結構いい数字。(笑)
255ローガン:2012/11/19(月) 16:12:05.32
>>232:ちはやぶる皇神
>因みに、近畿からは「兵用矛」は出土してないって本で読んだけどどうなんだろうね?  

>>244氏の指摘通り。
例えば、遺物として銅剣と分類されても、小型のものなら、長柄がついていたかもしれず…
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/19(月) 16:18:32.52
朝満男よ
すこしは口を慎め! ><
257日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:24:22.94
「天照大神は夫余神である」という本があるらしいよ満州さん
258日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:37:18.68
>現代に“広形銅矛”と名付けられた青銅祭器は弥生終末期までに廃棄されている。
近畿で廃棄された広形銅矛なんて出ていたっけか?
259日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:38:35.24
マン臭という名前通りくっさいな
260日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:45:57.19
120 :サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:33:23.84
満洲さん、あるがとう。あなたはわたしのこころのささえです。
261日本@名無史さん:2012/11/19(月) 17:28:56.06
サガミ先生の日記の続きはないの?
262卑弥呼は満州にいた:2012/11/19(月) 17:45:04.32
>>253は私の投稿ではない。誰かの悪戯である。
私は基本的に午後は五時以降にしか書かない。>>260も誰かの悪戯だろう。

>>257の情報は面白そうだ。いつか暇があれば読んでみよう。
実は桓檀古記にもそれを連想させるような記事がある。

さて太国に説明しておくと、私はたぶん太国より目が悪い。
おそらく0.001くらいではあるまいか。メガネを外すと10cmくらい先しか見えない。
本を読むときはメガネを外して紙面に10cmくらい顔を近づけて読んでいる。
パソコンを見るときは175%に拡大して見ている。太国もそうすれば良い。

天皇の長寿に関しては桓檀古記でも初期の檀君はみんな百歳以上の長寿である。
これは実際に長寿だったのか、
あるいは非常に古い時代のことなのでそのように書いたのか、のどちらかだろう。
言い換えれば、欠史八代までの天皇は、
公式編年よりずっと古い時代である可能性があるのである。
263日本@名無史さん:2012/11/19(月) 17:58:25.64
満州さんくらい敵が多いと
トリップ覚えた方がいいよ
知らなかったら、ググッて調べて
264太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/19(月) 18:06:50.25
それはどうやら書きこみから、オマエのほうが目が悪いのかも知れんが、
こちらは極度のガチャメなんだよ。
だから左右の視力の差が極度に大きいわけのため、そういう漢文の長い
羅列は非状に目が疲れるのだ。それはまれにえらく重要で書きこまねば
ならぬときは疲労覚悟で書きこむが、出来るならそれを書きこんだり、長文
のそれは読まないようにして目をガードしてるのだ。

だからそういう漢文のことでコチラをつつくな。よく訂正するのもその
ためだ。左右の落差がどでかいのだ。

ところで、半島にも長寿がうんといるらしい情報は取っている。

た〜だ可能性だけでは論のひよこにもなるまい。w
しっかりするんだなぁ。倍暦以上に説明ができるブツを得た自信が出来てから
そういう暦での文句を言え。
265日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:24:10.43
メガネ同士の言い争いだったのか〜
266日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:45:13.04
また満州基地外は自演して荒らしているのかよ
267日本@名無史さん:2012/11/19(月) 20:04:22.61
メガネ同士というよりも、老人同士
268日本@名無史さん:2012/11/19(月) 20:10:40.17
どこへ行っても自演自演と言うやつがいるが
こいつらの馬鹿さ加減はネトウヨに匹敵する。
269日本@名無史さん:2012/11/19(月) 20:44:25.38
>実は桓檀古記にも

おいおい、これ、れっきとした偽書じゃんwwwwww
270唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/19(月) 21:13:45.78
目の前が見えるかどうかでなく、1700年前の纏向がどう見えるかが問題なんだ。
箸墓にモモソ姫を合わせるのは良いが、その場合の円筒埴輪の説明ができていない、など
どう見えるかが大切なんだ。

120日の1年があれば・・・・ こんな地球上にではありえない「1年」という単位や
「倭」を半島に配置しても、半島には辰国に馬韓人の王がひとりいるだけ。
全く見えていないんだよ。
271ちはやぶる皇神:2012/11/19(月) 21:30:10.08
>>254 ローガン
>奴国連合という領域があるとすれば、その領域に佐賀平野・筑後平野は含まれた、と指摘する。

物理的にありえない。
筑紫野市から吉野ヶ里近辺は、弥生前期後半から中期前半に至るまで戦没者の嵐だ。
倭乱の時期より、以前の方が多いんだ。 奴国は、筑後地方と戦っていたんだ。
奴国に筑後が含まれるのならば、それは奴国による倭国統一を意味する。

卑弥呼共立後、糸島は衰退している。
卑弥呼は、筑後・熊本側と思う。
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/19(月) 21:41:54.62
>>270
それでは神武以外月上旬の崩御 ↓ はどう考えるのか? 答えろ。

【紀の欠史八代間の天皇崩御日数統表】

神武 11日
綏靖 10日
安寧 6日
懿徳 8日
孝昭 5日
孝安 9日
孝靈 8日
孝元 2日
開化 9日

神武が11日という中旬(初日)死亡というのは、綏靖の代に神武の3倍暦
が特異で不便なため通常暦の戻したため、先帝神武の崩御を通常暦で
残したためだが、綏靖が五瀬命と同じ5月死亡したことで倍暦を再開したのだ。

以後、天皇の崩御に関しては五瀬命の戦死の凶を避けるため、3倍暦で
八代、それを行使している。
273ちはやぶる皇神:2012/11/19(月) 21:44:25.19
>>244

矛科だろ。 属しているのではないの?
274太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/19(月) 21:52:39.96
臭魔伝のアスス暦は1年265日での1.4倍暦を肯定している。
これを観ても、5級史料の臭魔伝でさえ倍暦を行使していたことを記して
いるということとなる。古代エジプトでも1年265日暦法を行使して
いたのであり、これは看過できない。

隅田八幡鏡銘文の「日十大王」の王名は、当時の1ヶ月が十日間でやって
いた天皇のことを示唆するために記したものである。

また大陸の日本に関する伝説には日が十個ある樹があることが語られて
おり、これは当時は十日間が一まとめの一ヶ月だったことを意味する情報を
教示している。つまり当時の1ヶ月を10日間とした時代があったのであり、
3倍年暦を行使してたのだ。古代マヤの夜の魔王暦(G文字暦)は1ヶ月が
9日間の準3倍暦である。
275ちはやぶる皇神:2012/11/19(月) 21:54:45.22
>>254 ローガン

「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」
何処とどの勢力が戦ったと想定できるの?

奴国と近畿勢ってこと?
276ちはやぶる皇神:2012/11/19(月) 22:07:24.53
>>254ローガン
>奴国連合という領域があるとすれば、その領域に佐賀平野・筑後平野は含まれた、と指摘する。

 魏使来倭時、何故奴国王がいないんだろうか。
 九州の半分近くの領土を持った偉大なる王の名前がないとは?
 
 何かの間違いじゃない?
277日本@名無史さん:2012/11/19(月) 22:11:28.21
・・・古田の罪は重いな
278卑弥呼は満州にいた:2012/11/19(月) 22:50:13.98
古田はまだ生きているはずだな。
古田は恐らく浜名寛祐も山形明郷も読んだことがないに違いない。
古田という人は真摯な人だから、読めば必ず何かを悟ると思うのだが。

恐らく周囲にもこういう本を薦める人がいないのだろう。
周囲の人も、こういう本が存在することすら知っていないのである。
279日本@名無史さん:2012/11/19(月) 23:38:43.42
名古屋に住んでいるからわからなかったけれど、
JR山手線か東京メトロ銀座線を使えば渋谷から上野まで
乗り継ぎなしで行けるんだね>サガミ先生
280ローガン:2012/11/20(火) 00:21:58.11
>>271:ちはやぶる皇神
>物理的にありえない。

なるほど、高倉vs皇神という訳ですな。それはそれで結構。 ただ私のレスの本意は、「人口」。
二万戸とは、荒唐無稽じゃない…という訳です。

さておき私には、貴方の主張がわかりにくい(笑)。というのは、
>>64には、
>奴国が覇権国家であったと想像する。この凶暴な国家が、贅沢品を埋葬する有千餘戸の小国を見逃すはずはない。

しかし、>>71には、
>「伊都国は二つあった」が自説です。
と。まあ色々、考え中というところですかな。
281日本@名無史さん:2012/11/20(火) 00:38:54.71
>>274
1か月に太陽は30回登るのを、なぜ10日と解釈するのだい
282ローガン:2012/11/20(火) 00:42:20.41
>>276:ちはやぶる皇神
>魏使来倭時、何故奴国王がいないんだろうか。

さあ。いたとも居なかったとも記述は無い。使者が目指したのは、共立された倭国王だから。
ではお休みなさい。
283唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/20(火) 01:10:07.13
>魏使来倭時、何故奴国王がいないんだろうか。

遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,・・・
と続くのであれば、倭奴国は魏使の奨めで、女王卑弥呼を共立するのである。
つまり、魏への朝貢がなければ共立は必要なかったし、男王のままでも良かったのだ。
「相攻伐」で殺し合いを主導するのは「男王」である。よって、いがみ合う元「倭奴国連合」
を再構築するためには、「女王」でなくては共立が成立しなかったのである。
だから、女王卑弥呼の存立基盤は脆弱である。

その辺は魏も心得ているから、景初3年に倭奴国王位継承“卑弥呼”を認めると同時に
240年 邪馬台国へカテイ等を送り込み、倭王位を授けるのである。
そして、この倭国2王による和国統一をすすめる魏。

統一戦の始まりが247年?であり、その直前に黄旛下賜の決定。
戦いの中心は九州であり、庄内式土器が九州に持ち込まれた時期でもある。

つまり、纏向から九州に庄内式土器を持ち込んだのは、景行をおいて他にない。
284サガミハラハラ:2012/11/20(火) 07:59:10.09
おはようございます。きのう沖縄で天皇皇后両陛下とダライラマ14世が会われたそうですが、
どこのマスコミも2チャンネルでものっておりません。いったいどうしたのでしょうか、まったく不思議です。
285日本@名無史さん:2012/11/20(火) 08:02:14.15
あのなあ、ギ名を使ってかきこんだって、だれも信用しませんよ。
286日本@名無史さん:2012/11/20(火) 12:51:05.84
>>284
馬鹿w
287日本@名無史さん:2012/11/20(火) 14:32:14.70
>>254
延喜式あたりの1郡の水田面積は、1000〜3000町歩。
郡の中に郷(里)が平均7つ。郷は50戸で構成される(養老令)。
それが人口との比率なんだ。
班田収授法による正丁1人に2反(約24アール)から推測しても、妥当だろう。
つまり、古代において、それだけの人口を擁する事ができる水田が営めるかどうかがカギって事だと思う。
古代人も飯を食うんだよ。
288サガミハラハラ:2012/11/20(火) 15:56:06.49
>>286
馬鹿と天才は紙一重といいます。
2ちゃんの古代関係のスレの私のレスをよくお読みください。
私がいかに天才であるかがよくわかるはずです。

>>279
名古屋の方ですか。名古屋できしめんのおいしい店を教えてください。
289ローガン:2012/11/20(火) 16:07:04.98
>>271:ちはやぶる皇神
>奴国に筑後が含まれるのならば、それは奴国による倭国統一を意味する。

夕べのレスでは愛想無しなので、ちょっと視点を変えて…
a「倭國者、古倭奴國也。」(旧唐書) b「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」(隋書)
C「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書)
bのテキストはc、aのテキストはbとc。
で、通常は、cにある安帝永初元年は、「倭國王帥升等」なのに、bが「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」と間違って引用した為、
それを引いたaが、「古くは倭国=倭奴国だった」と解釈した… というように考えるんだけど
仮に、現存後漢書が「倭奴國王帥升等」 の「奴」脱字と考え、隋書は引用間違いを否定した上で、(笑)
倭奴国とは、北中部九州における一大勢力であったと位置づけ。
二万戸のエリアをおさえる強国として、倭国乱収束を目指し他勢力との「緩やかな連帯」を構築すべく、傀儡女王共立の首謀者となった。
290卑弥呼は満州にいた:2012/11/20(火) 17:34:47.78
>>287の投稿は非常に面白い。
郷は50戸なら山門郷はたったの50戸で、邪馬台国であるはずがない。
また郡は郷が平均7つだから350戸で、山門郡はたったの350戸だから、
これも邪馬台国であるはずがない。
要するに邪馬台国とは大和であると考えるしかないのである。

>>289の投稿も参考になった。
安帝時の倭國王帥升等と倭奴國が混同されていることを初めて知った。
291太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/20(火) 18:28:03.31
つまり、纏向から九州に庄内式土器を持ち込んだのは、景行をおいて他にないにはならない。

奴の糞古学のインチキ結論。
292唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/20(火) 18:54:53.38
>インチキ結論。

太国倍年とはなんでしょう?
120日を1年とするときには、120日ごとに新年を祝い、七草もあり〜の・・・
なんだろうね、きっと。
そして、180日を1年とするときも、七草もあり〜の・・・
なんだろうね、きっと。
293ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 19:23:54.57
>>280 :ローガン
>「伊都国は二つあった」が自説です。
と。まあ色々、考え中というところですかな。

現実の伊都国は、糸島です。 奴国須玖岡本が基軸です。
倭人伝「東南陸行五百里、到伊都國」は、佐賀小城市です。

二つ有ります。 すっきりしてますよ。

殆んどの史家達は、チョット変だな?と思いつつ、結果的に
伊都国は糸島なんだから、イイんじゃない、というスタンス。
それではいけないが、私の主張。
何故なら、邪届伊都
「廣志曰。倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、
  百女国以北、其戸數道里、可得略載」

奴國、不彌國、投馬國の引用は他書になく、伊都国の南に邪馬台国があるから。
邪馬台国から見た伊都国は、斜めの関係にあると思えるから。
294日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:34:02.58
南至邪馬壹國、自女王國以北其戸數道里可得略載、女王國以北特置一大率
書き違いではない。
勘違いにしろ、伊都国の南方向に邪馬壹國があると確信を持って書いていますね。
295日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:36:31.67
>>290
>安帝時の倭國王帥升等と倭奴國が混同されていることを初めて知った。
そう単純ではない。後漢書にはもともとは「倭面土国王師升」とあったらしい
と言われている。奴国のことなのかも知れない。
296日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:56:11.81
ウリは朝鮮忍者ニダ
忍者は朝鮮起源ニダ
韓国人は世界一ニダ
日本人は韓国人の末裔ニダ
天皇も韓国人ニダ
<ヽ`∀´>ホルホルホル

朝鮮忍者まとめ
http://www14.atwiki.jp/choson666/pages/1.html
297ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 20:11:32.17
>>294
奴國、不彌國、投馬國は、別史料による加筆。
魏略の以北は「對馬、一支國、末廬國、伊都國」
「奴國、不彌國、投馬國」の記載はなし。

奴國、不彌國、投馬國を以北に含ませる為に、魏略「其國王皆屬王女也」を
倭人伝「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」に改変し伊都国に限定した。


>>295
>奴国のことなのかも知れない。

OH YEAH !

「倭面土国」は面倒くさいので、飲んでないときにでも・・・
298ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 20:29:13.66
>>289 ローガン
「緩やかな連帯」
近畿説は、この言葉が好きなんだねぇ。

九州には、首のない死体、武器が体内の残った者がゴロゴロ。
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」

   
  奴國・末廬國を1000往復した者より

      伊都國に一度も来た事のないお方へ  無恙
299唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/20(火) 20:35:43.38
>伊都国の南方向に邪馬壹國があると確信を持って書いていますね。

実際には、時間差のある記事なんだが・・ 
時間差が記載されていないのが、倭人伝の欠点である。
時空としては、卑弥呼共立から壱与まで10余年の時間差がある。
300279:2012/11/20(火) 20:52:13.47
>>288
宮きしめんに決まっとるがね!
301日本@名無史さん:2012/11/20(火) 21:40:56.21
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」

2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」

2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、〜〜〜」

2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、〜」

以下無限ループ
302日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:04:02.75
>倭人伝「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」に改変し伊都国に限定した。
これを伊都国限定と読むのは誤読だよ。魏略と魏志は同じことを書いているんだ。
303日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:18:28.29
筑紫野から鳥栖にかけて、つまり、筑前と筑後の境目で、
筑前国風土記逸文や、肥前国風土記に、
そこを通ると、半数も生き残れない、
といったようなことが書かれている。

地形的にはゆるやかでそれなりに広い丘陵地帯が通っており、
険しい峠道というわけでもない。

風土記に載っているんだから、同時期か、さかのぼるとしても、
それほど遠い過去ではあるまい。

その頃に、筑前と筑後は一体化したのではないか。
そして、支配された側の残党が残っていたのではなかろうか。

このあたりにあるのが基山だが、追われる形で基山に逃げ込んでいたのでは。

もっとも、いずれは殲滅されただろうが。
304太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/20(火) 22:20:14.98
>>292
じゃぁ、オマエの影でこそこそ研究してる臭魔伝アスス暦1年265日は
どのように新年、七草を祝うのか〜?

しかと答えろ!

ところで松沢病院で診てもらったか〜?
オマエは重症のようだから放置してると特別室に入らねばならなくなるぞ。
305ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 22:21:54.14
>>302
>魏略と魏志は同じことを書いているんだ。

どう訳すべきなのですか?
306太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/20(火) 22:32:05.23
>>272 日本書紀が3倍年暦を行使していた記述の表

【日本書紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】

1日 0  11日 0  21日 0
2日 1  12日 0  22日 0
3日 0  13日 0  23日 0
4日 0  14日 0  24日 0
5日 1  15日 0  25日 0
6日 1  16日 0  26日 0
7日 0  17日 0  27日 0
8日 2  18日 0  28日 0
9日 2  19日 0  29日 0
10日 1  20日 0  30日 0

上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがない。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたという事である。隅田八幡鏡銘文「日十大王」はこれを裏づける。
上表は1日〜10日までと整然としている。
ということは、舎人親王らは原書群の選択にて、最も信頼おける記述を
選んだに違いないから、このように整然化されてるということは、紀の
八代間の原書群には2倍暦法での記載のものと3倍暦での記載のもの
があって、両者が交錯していたものもあったであろう。その中からこれ
が真であると舎人らが確信、選択をして紀の記述としたものであろう。
八代間の当時、互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと
受け取れる。だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい。
307日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:38:33.68
>>303
そこを通ると半数も生き残れないのは磐井の残存勢力が襲撃していたからでしょう。
渡海失敗した遣唐使船なども実は襲撃に遭っていたものと思われる。
308日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:55:43.35
>>305


「其國王皆屬王女也」それらの国の王は皆、王女に属するなり。つまり対馬国から伊都国まで
の王が卑弥呼に従っているということだ。

「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」世々に王有り、皆女王国に統属す。
つまり「それらの国には世々王がいる。それらの国は皆女王国に統属している。
309唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/20(火) 23:11:30.99
>【日本書紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
>11日以後の崩御 なされた天皇は誰一人としていない。
>互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと 受け取れる。
>だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい。

主張は、太陰暦の後付けだろ? その“後付け”の分析結果として、日付に偏りがあると。
そして、その偏りを「2倍暦、3倍暦」で表記することができない。
「だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい」となるのね。
310ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 23:15:00.87
>>308
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
対馬国から伊都国の国々は、常に郡使の駐する場所となりますが?
その訳し方でよろしいですか?

魏略の万余戸の伊都国は、「糸島」とお考えでしょうか?
よろしくお願いします。
311日本@名無史さん:2012/11/20(火) 23:20:35.52
>対馬国から伊都国の国々は、常に郡使の駐する場所となりますが?
そのとおりですね。

>万余戸の伊都国は、「糸島」
糸島は位置が悪い。まちがった比定でしょう。
312風の谷の名無しか:2012/11/20(火) 23:44:05.90
やはり倍暦の行使は事実のようです
313ちはやぶる皇神:2012/11/20(火) 23:53:09.40
>>311
>>対馬国から伊都国の国々は、常に郡使の駐する場所となりますが?
 >そのとおりですね。

 実は、私もその訳し方で良いと思ってます。
 「対馬国から伊都国の国々には、郡使往来のための宿泊設備が整っていた」と思ってます。

 その先は、またの機会に。  zzz
314ローガン:2012/11/21(水) 00:12:00.66
>>298:ちはやぶる皇神
>「緩やかな連帯」近畿説は、この言葉が好きなんだねぇ。

あまり時をおかず現れる、盟主墳と思しき特定個人墓の画一化と、未成熟の中央集権。
これを端的に表現するにうってつけの言い回し。 畿内説だから… とか、色眼鏡で見過ぎ。
315唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/21(水) 00:16:14.12
>臭魔伝アスス暦1年265日は どのように新年、七草を祝うのか〜? しかと答えろ!

臭魔伝なる書物は太国たぬき殿専用でしょ?

「西新町遺跡」の古墳時代前期の集落跡(三世紀後半‐四世紀前半)から、朝鮮半島からの渡米人が住んで
いたとみられる、かまど付きの住居跡や朝鮮半島製の土器が出土した。
しかし、この集落も古墳時代中期(4世紀半ば〜5世紀末)になると急激に衰え、あっさり消滅する。

天文 273年 北陸で日食(全食) 神功元年のあづないの罪。
274年 渡海
神功(275〜343年)応神(344〜386年)
書紀:神功渡海が縁となり、新羅が調を納めるようになる。
晋書 277年より東夷九国が盛んに洛陽詣り。(倭国は東夷の一国)
磐余稚桜宮(桜井茶臼山、メスリ山)から110年後が誉田御廟山。
仁徳(313〜399年)神功39年太歳が元年。
316年 仁徳4年 課役の停止 =半島から軍を引き上げる。

「西新町遺跡」は、神功渡海から西晉滅亡まで栄えた遺跡である。(高句麗の南下までは栄えた?)
同時期の桜井茶臼山から椿井大塚までの副葬鉄器は、新羅からの調である。
神功渡海とは、晉の要請による「1大卒」の渡海(半島で警察軍として活用され、その経費として新羅の調)
316sss:2012/11/21(水) 00:21:58.37
>>298
畿内説の矛盾点でもあるな。
伊都国に一大率を置き、諸国を検察する。また、九州の各国に「官」などを置く。
かなりの強権が予想されるが、意に反して畿内説はそんな強い権力を
想定しない。というか想定出来ない。

卑弥呼時代にそのような強権が畿内にあり、九州までも支配していたら、
ずっと後の大和朝廷も真っ青の支配力となる。これはもう時代錯誤に等しい。
だから、緩やかな連合などというわけだが、それでは一大率や官の存在は
どうなるのかということになる。
317日本@名無史さん:2012/11/21(水) 00:34:02.53
倭人伝は出鱈目だということにしておかないと畿内説そのものが成り立ちません。
318日本@名無史さん:2012/11/21(水) 00:34:18.34
糸島は筑前の国の端にある、山で囲まれた小国。
諸国に睨みを効かせる位置ではなく、どちらかと言えば引きこもった場所。

佐賀大和は、佐賀平野を見下ろす中心部。
後に肥前国庁もできる要所。
319ローガン:2012/11/21(水) 01:02:35.16
>>316:sss
>畿内説の矛盾点でもあるな。

そんなことを云うから九州説が馬鹿にされるんだ。

>伊都国に一大率を置き、諸国を検察する。

如刺史とあるだろうに。近けりゃ尹だ。

>また、九州の各国に「官」などを置く。かなりの強権が予想されるが、意に反して畿内説はそんな強い権力を想定しない。というか想定出来ない。

後の、国造→郡司→国司の流れから寸法取りしても、
「官」の記述から、「かなりの強権が予想される」を導くのは短絡。
320日本@名無史さん:2012/11/21(水) 01:06:10.99
官と身分は完全に分化していない時代だから
その地域の首長を官に任命したのかもしれない
現代の自治区という感じかな
その場合気になるのが卑奴母離の存在
321日本@名無史さん:2012/11/21(水) 01:23:39.99
卑奴母離ってソ連時代の第二書記に似てるような気がする。
たとえばカザフスタン共産党にはカザフ人の第一書記とロシア人の第二書記がいた。
ウクライナ共産党にはウクライナ人の第一書記とロシア人の第二書記がいた。以下同様。
実権を握っているのは第二書記。
322日本@名無史さん:2012/11/21(水) 06:30:52.06
>>290
国というのは、県みたいなもので、国の中に郷村がいくつもあったのですよ
だから郷=国ではないよ
小さな郷村がいくつもあつまって邪馬壹国7万戸だろうね
323卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 09:15:46.09
>>322
いや、だから私は郷=国などとはどこにも書いていないではないか。

郷→郡→国だろう。
で、50戸が郷なのだから、肥後山門郷は50戸で、
そんなものが邪馬台国と呼ばれるはずがない。

また郡は平均7つの郷だとあるから、郡は350戸で、
筑後山門郡は350戸だから、そんなものが邪馬台国と呼ばれるはずがないのである。

要するに九州説というものは既に完全に破綻しているのである。
それを認めたくない一部の者だけがしつこく粘っているのである。
まあ可哀想だから九州説者はそっとしておいてやろう、と私などは思っているのである。
324日本@名無史さん:2012/11/21(水) 09:26:01.47
200郡ならばいいのかな?
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 11:02:58.85
臭魔伝なる書物は空年多ぬき殿専用でしょ。ppp


神功元年のあづないの罪は当時の犯罪とかのことであり、天文現象
ではない。

相当症状が進行してるな。ww
326太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 15:41:58.35
主張は、退院歴の後付けでない。
そして、その偏りを「2倍暦、3倍暦」で表記することができる。
「だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい」となるのね。

臭魔伝なる書物は空年多ぬき殿専用でしょ?

神功元年のあづないの罪は当時の犯罪的行為のことであり、天文現象そのものではない。

〜なお暦が後付けなんぞ言ってはいない。

四季、干支が後付けだと言ってるんだよ。

オマエは思考のとびはねがひどすぎる。四季から暦に
鞍替えだ。オマエの脳内の構造を疑うぞ。

わるいことは言わねぇ〜。
早く松沢病院で診てもらえ。
327sss:2012/11/21(水) 16:18:34.95
>>319
何が言いたいのか良くわからないが…。

ちなみに、一大率というのは、伊都国だけに置かれていた唯一無二なもの。
刺史の場合は、もともと前漢の武帝が紀元前106年に13州に置いたもので、
基本的に各州ごとに置かれる。

というわけで、一大率が刺史の如きものというのはちょっとおかしいな。
刺史の如きものは「官」と考えるのが妥当だろう。
後に、刺史は各州に三人ということになる。
328日本@名無史さん:2012/11/21(水) 16:27:42.19
諸国を監視してたのだから、本部が伊都の一大率で、支部が全国にあったんだろうよ。そうじゃないと諸国を監視できないからね
329ローガン:2012/11/21(水) 18:20:33.95
>>327:sss
>何が言いたいのか良くわからないが…。

「如刺史とあるだろうに。近けりゃ尹だ。」わからなければ、京兆尹でググって。

>一大率が刺史の如きものというのはちょっとおかしいな。

どう考えるのも自由だが、
「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」が史料実態。
前々スレ辺りでやったネタ。
「国中に刺史の如き者がいる」 とは書いてないし、それでは前後の文とも繋がらない。
330唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/21(水) 18:30:50.91
>そして、その偏りを「2倍暦、3倍暦」で表記することができる。

つまり、「2倍暦、3倍暦」でも「偏り」がでるのであれば、「偏り」を理由に「書き換え」「後付け」を
主張できない。

>〜なお暦が後付けなんぞ言ってはいない。 四季、干支が後付けだと言ってるんだよ。

書紀は、四季、干支が正しい太陰暦であると主張している。
だから、「四季、干支」の後付けは「暦の後付け」なんだよな。そしてこの場合「2倍暦、3倍暦」が
存在しないと「後付け」ができない。
しかし、太国倍年には「日付」とできる数字がない。「数字がない」ものに、「四季、干支」の後付け
を主張しているのである。
「数字がないものに、四季、干支の後付け」をしたのであるから、【日本書紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
なるものの意味は無い。
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 18:42:51.74
つまり、「2倍暦、3倍暦」でも「偏り」がでるのであれば、「偏り」を理由に「書き換え」「後付け」を
主張できる。

書紀は、四季、干支が正しい退院歴であると主張していても倍暦では干支の空転で問題ない。
だから、「四季、干支」の後付けは「暦の後付け」とは言っていない。そしてこの場合「2倍暦、3倍暦」が
存在すると「臭魔伝の紀の後付け」ができる。なんなら臭魔伝には景行世の21ヶ月があり、四季がうんと抜けておる。
しかし、太国倍年には「日付」とできる数字がある。「数字がある」し、「四季、干支」の後付け
を主張しているのである。
「数字があるし、四季、干支の後付け」をしたのであるから、【日本書紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
なるものの意味はある。この表は正しい書紀の主張であるから、倍暦の文証となる。

なお臭魔伝とはそんじょそこいらのただのおっさんでない大中臣と異なり臭魔伝
の作者はただのおっさんであり、ご本尊にはふさわしくなく権威がまるでダメ雄
である。ww
332太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 18:48:29.30
書紀は、【日本書紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】が正しい太陰暦であると主張している。

同表から書紀は正しい月後半の空日を主張しており、臭魔伝も空年なんか主張しておらず、
アスス暦1年265日の倍暦を主張している。

つまりこの世に空年などというものは存在せず、強いてあるならばこれは宿主の妄想製造紀たる脳内
の撹乱思考にこそ存在するのみである。
333太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 18:51:09.97
>>332 訂正
× が正しい太陰暦であると主張

○ が正しい倍暦であると主張
334日本@名無史さん:2012/11/21(水) 19:21:43.75
宋書と紀の記述と、両者の系図を元にすると、
倭王興=安康なわけですが、

倭王興は462年〜477年と、15年在位してますね。
一方安康天皇の在位は3年ですね。
倍暦どころか分暦な件は
335日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:41:20.11
>>323
邪馬台国なるものは、ショボイ、さびれたようなところにあるんだろう。
336太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:09:13.91
>>334
興は九州王朝王権関係の王でしょう。

倍暦は畿内朝廷が行使していた特殊暦法であり、九州王朝王権で倍暦を
行使していたかは、まだ判明していません。

コチラの倍暦行使のことは、畿内朝廷に関してです。
337日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:11:50.88
九州王朝とか、記紀と中国資料が合わないことの言い訳にすぎない
338太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:16:26.78
339太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:18:24.93
340日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:19:32.29
興とは神輿のことだから、やはり秦氏系の王だろう。
鍵遺跡との関連が気になる。
341卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 21:22:14.42
念のために大和国の郡と郷を調べてみた。
15郡で、判明している郷は52、不明な郡は6で、
それが各7郷とすると42郷、計94郷で4700戸。
仮に全郡7郷とすると105郷で、5250戸。

倭人伝の7万戸とはあまりに差がありすぎる。
であるから倭人伝はあまり信用しない方がいい。
九州説の成立する余地はまだまだある。良かったな、九州説諸君(笑)
342太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:25:36.77
当時の大陸が鼎の3極での呉魏蜀支配だったように、半島も多極支配
だったように当時の日本は畿内朝廷の1極支配ではなく二本立て支配の
2極だったということだな。

これは江戸時代、江戸の徳川幕府と京の朝廷の2極であった如く(但し
興王のころとは政局の状況等の違いがある)、二本立てだったものだ。
これが当時の古代の真の姿なのである。
343唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/21(水) 21:40:18.27
>同表から書紀は正しい月後半の空日を主張しており、

つまり、後半の日付があれば、その主張は通らない。
垂仁天皇四年(乙未前二六)九月戊申《廿三》◆四年秋九月丙戌朔戊申。
9月23日があるから、太国倍年は誤りであると主張しているのね。
344日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:44:00.98
単純に計算しても、倭国は旁国を除いた国だけで、大和の30倍の規模ということだな
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:46:07.05
>>343
垂仁代は欠史八代ではな〜い。ww

垂仁の代では垂仁の代の倍暦行使のやり方があり、八代時の倍暦行使とは
同じ倍暦の名を使っても同じ行使方法ではない。

垂仁の代に月後半があるなら当然欠たる月が存在するかそのへんだね。
別におかしくはないぜ。とりわけ5月6月の記述が殆ど無いのがそのころの
書紀の記事だ。後半があって倍暦をやってたのが神武である。
だから神武即位からも月後半の記事があるも3倍暦が可能である。ハハ・・・
346太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 21:55:38.05
>>345 続き
神武の代では、即位手前のときでは通常暦を行使していたものであり、
たまたま皇兄の五瀬命が5月に戦死したことから、特別の事情がない限り
朝廷は5月を忌んで欠を好んだのである。

だから神武の代の即位から崩御までは月後半の記述があるも、5月以降の
記述は全然無い。このことは神武の時代(即位〜崩御まで)での1年が
1月〜4月の4ヶ月だったということなのである。
神武の即位〜崩御までの間、5月〜12月は使用しなかったのである。
だから神武の在位の時代では1年が120日ばかりで行使していたのだ。

臭魔伝での田舎暦たるアスス暦でも、1年265日の1.4倍暦を行使して
いたことは、宿主が影でよく知悉しておる。ウワッハッハ・・・
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/21(水) 22:11:22.88
>通常暦を行使していたものであり、

書紀で通常暦とは太陰暦だ。それが正しく使われていたのであれば
太国倍年は必要がない。
つまり、どこまで行っても太陰暦の束縛からは逃れられない。
天皇と天皇のあいだの、即位されない年も太陰暦だろ。
当然、途中途中ではあっても太陰暦である以上、それらの通常暦はひとつの太陰暦で表せる。
太国倍年部分もこの通常暦から逃れることはできない。
348日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:13:35.13
讃は讃岐の王のことだ。飯野山(讃岐富士)こそ卑弥呼の墓と考えるのが妥当。
会津の飯盛山、長野県飯田の元善光寺・・
この「飯(いい)」のつく地名というのは、倭の5王と関連のある土地と見て間違いない。
349太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/21(水) 22:18:11.54
古記は暦では相当参考にはなるが、編年には効果は薄い。
退院歴はオマエの脳内だけでいい。
太陽暦行使は神武の勅であり、臭魔伝の作者のようなそんじょそこらの
ただのおっさんではない。

神皇紀

人皇第 一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、三十日を一月とし、十月を1年と定め給ふ。

垂仁が八代だと認めてるのね。ppp・・・p

宿主空年が存在しないことを認めたのね。
350日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:40:33.54
>>340
ji ga tigau
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/21(水) 22:43:15.48
太国:神武前紀と神武死後は通常暦。
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
神武七十六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩
綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 
乙未・乙丑・{甲午}・甲子・癸巳・癸亥・壬辰・壬戌・辛卯・辛酉・庚寅・庚申・庚寅
己未・己丑・戊午・戊子・丁巳・丁亥・丙辰・丙戌・乙卯・乙酉・甲寅・甲申
癸丑・癸未・壬子・壬午・壬子・辛巳・辛亥・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅
戊申・丁丑・丁未・丙子・丙午・乙亥・乙巳・乙亥・甲辰・甲戌・癸卯・癸酉・壬寅
{壬申}
手研耳の乱による空白期間は、この様な“朔干支”と考えられる。
神武前紀が通常暦であれば、神武元年正月の干支も書き換える必要はない。

そこでだ、神武76年はその前後の“朔”に整合しなくてはならない(太国自身が付けた足かせだ)。
76年というのは丁度4章に当たり、6940*4‐1日 程度が期待される数字である。
太国3倍年では何日になるのだ?
352日本@名無史さん:2012/11/22(木) 01:13:52.26
律令制時代に駅伝(馬)での情報伝達があったが、3世紀頃もおそらく同様にあったのだよね。
馬は使わなかったにしても。
3世紀は木管は無かったが、一国には必ず識者が居て、土器片に書いて駅伝方式で
遠隔地へ渡したりはあったかもしれんね。
そういう文字情報は当時絶対的な機密であって、海にでも廃棄されれば見つからない
353日本@名無史さん:2012/11/22(木) 01:18:01.17
のろし伝達実験では北部九州から畿内まで数時間で情報は届いた
もちろん文字情報ではないが
354卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 09:53:11.92
しかし大和国の戸数がたったの五千戸前後だというのは、あまりに少なすぎる。
中国の郡は一つの郡だけで五万戸くらいはあったのだから。
尤も中国の郡は大きさが九州の半分くらいあったのだから、
それくらいあっても不思議ではないが、それでも大和の戸数は少なすぎる。
尤も、三韓の戸数も中国と比較すればあまりに少ないので、
陳寿の得ていた三韓情報はかなり古い時代のものと考えられるのだが。

因みに中国の郡は五万戸くらいはあったのだから、陳寿が、
邪馬台国は七万と想定?したのは誇大妄想ではない。
しかし馬韓の十五万の半分の戸数が邪馬台国にあると想定したのは、
やはりやや誇大というべきか。
355日本@名無史さん:2012/11/22(木) 10:57:21.28
>>354
奈良盆地自体が、おそらく古墳時代まで、湖だったからだよ
弥生時代を遡るほど湖は巨大で、耕作地が少なかった。
必然的に集落も小さかった。大和国が発展したのは、水を抜いた後だよ
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/09/000591.html
356日本@名無史さん:2012/11/22(木) 11:48:06.37
対馬、壱岐、合わせて4千戸だ。対馬と壱岐の合計面積は840&amp;#13218;、九州は4万2000&amp;#13218;だから
50倍ということになる。九州全体で20万戸以上あったことは当然だろう。
357日本@名無史さん:2012/11/22(木) 11:49:25.83
平方キロメートルがへんな変換されちゃった。
358日本@名無史さん:2012/11/22(木) 12:43:24.85
7万戸なら、首都の洛陽と同等で、あとは、7,5,3の数合わせ。
359日本@名無史さん:2012/11/22(木) 12:59:53.63
>>1
作るだけで、あとはロム専かい
人間、落ち目にはなりたくないねー
360卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 13:00:43.85
>>355
私は律令時代の戸数の話をしているのである。
大和に限らず日本のどの国も、中国に比べて、戸数があまりに少ないのである。

或いは邪馬台国とは大和だけでなく畿内全域を指したのかもしれない。
そういう想定をしなければならないほど、律令時代の戸数は、
中国と比べて、少なすぎるのである。桁を間違えているのではないかと思えるほどだ。
361日本@名無史さん:2012/11/22(木) 13:54:30.46
律令時代の戸数がデタラメなんだよ。
362日本@名無史さん:2012/11/22(木) 15:06:56.31
そりゃ〜聖徳太子の時代は全国で人口500万人しかいなかったんだし
363サガミハラハラ:2012/11/22(木) 15:33:23.61
八百屋で食用の菊の花が売られていたので多めに買ってきた。
クコの実も買ってきてホワイトリカーに一緒に漬け込もう。
364サガミハラハラ:2012/11/22(木) 16:22:25.35
今日もドルの値段が高くなってきている。しばらくドルの値段は上昇するかもしれない。
すこしばかりドルを購入してみたいな。
365太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/22(木) 16:28:40.05
神武前紀が通常暦であれば、神武元年正月の干支も書き換える必要はありうる。
なぜなら前紀は即位前である。即位により暦の一新は当然やるだろう。
平成元年では1/1が無く、1/7が始点日である。元旦に拘るのは○ヌケな業である。
おまけに 神皇紀

人皇第一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、三十日を一月とし、十月を1年と定め給ふ。

と、太陽暦に変えろと神武が言っておる。つまり暦変更の文証である。
なると干支の変更も充分言える。問題はない。

そこでだ、神武76年はその前後の“朔”に整合しなくてもいい(神武自身が付けた足かせだ)。
だから即位以後の干支は今後の研究にゆだねられる。
しかし現今の史料の少なさでオマエのような1円玉計算とかのこれは○ンマもいいところ
である。 史料が新たに出れば、この研究もいいだろう。
76年というのは丁度4章に当たるかどうか太陽の旗では、6940*4‐1日 程度が期待される数字と決めるのは
早計に過ぎる。いずれにせよ史料不足の日数計算とかでは、労して功なしの裏づけ不明の答えそのものである。
宿主空年では神武の5月〜12月は何の計算日数になるのだ?ww

臭魔伝なる書物は ↓ 空年多ぬき殿専用でしょ。ppp

[13853] RE:「ホ38016」と「ホ37227」の解釈だけのスレ、です。 Name:唐松山  NEW! 2012/11/21(水) 23:37

ホ37220      ノコシフミ ミコみたまひて・・・田道間守の遺書
ホ37221      カグキミが ハナタチバナは
ホ37222      かれがツマ ヲシヤマやりて・・・「かれ」とは田道間守である
ホ37223      よばしむる チチモトヒコと
ホ37224      のぼりくる ミコよろこびて
ホ37225      モトヒコに ユルシハたまひ・・・殉葬の許可
ホ37226      モをつとむ ハナタチバナが
ホ37227      サツキまつ ヨハにうむコに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ホ37233      タメシなるかな
366はばはな:2012/11/22(木) 17:42:14.19
暇だね。サガミハラハラさん。
367唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/22(木) 19:57:02.04
>太陽暦に変えろと神武が言っておる。

日本で太陽暦が使われるのは、明治時代だよな。
つまり、神武はその直前なのか?
また、「三十日を一月とし、十月を1年と定め給ふ」という暦は地球上に存在しない。
368太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/22(木) 22:08:12.47
空年こそこの世に存在しない。そんなものはどこにもない。

すでに臭魔伝もアスス暦1年265日暦1年385日暦があることは、1年が
365日でない暦法を軽く作れることはは朝飯前の当たり前だ。ww
1年が300日で出来るのは、このことからストレートに分かる。

なお臭魔伝とはそんじょそこいらのただのおっさんが当時妄想を育んで
こさえたインチキ性が大なる毒書であり、記紀を蝕ませる白蟻同然の
危険性をはらむ恐ろしい文である。それはすこしは役に立つものでは
あるから、アスス暦だとか当時の田舎暦の情報を書いてはいるが、
これら毒も万一には薬になるからであり、それでも副作用が甚大であり、
よく常人の脳内を妄想畑として台無しにする物騒なものである。
こちらはそんなものには騙されない。


空年なんかこの世に無いから安心してろ。ww
369太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/22(木) 22:14:41.33
日本で太陽暦を行使してたのはこの神皇紀の文から当然であり、そのことは
かの大陸が恐れる軍艦旗を眺めれば分かることだ。ww
370太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/22(木) 22:34:01.67
371日本@名無史さん:2012/11/22(木) 23:15:48.33
ヘブライ語解釈おもしろいな
372よそ者:2012/11/22(木) 23:20:09.71
368:太国◆yVAs7uaYlY
369:太国◆yVAs7uaYlY
370:太国◆yVAs7uaYlY



君の述べることはいずれも トピックとは関係ないものに思える
邪馬台国論とかとは別物 嵐に見える
違うトピックで活躍されれば 議論が深まるのでは?
373日本@名無史さん:2012/11/22(木) 23:53:56.30
>>364
自分のようなトレーダーはそれで儲けさせてもらってます。
資金が五億あれば一般サラリーマンの年収を一日で稼ぐことも可能ですからね。
ただ神経を使う重労働ではあります。ラクに金もうけしてんだろう?と
なかなか理解してはもらえませんが。

玄海灘を渡った倭人たちものるかそるかの大博打だったでしょうね。
こちらは命がかかっていたわけですから、せいぜい数億円の取引で脂汗流している
平成の個人零細トレーダーなどおよびもつきませんが。
374唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/23(金) 00:49:07.43
>人皇第一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、三十日を一月とし、十月を1年と定め給ふ。
>そこでだ、神武76年はその前後の“朔”に整合しなくてもいい

そこでだ、60進数の干支は1と31の二つあれば事足りるはずである。
ところが、干支はほとんど正しい太陰暦を示している。
まあそういうことだから、ガチャ目倍年は成立しないのだよ。
375唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/23(金) 00:59:11.86
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
神武七十六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩
綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 
神武七十六年 乙未・乙丑・{甲午}・甲子・癸巳・癸亥・壬辰・壬戌・辛卯・辛酉・庚寅・庚申・庚寅
己未・己丑・戊午・戊子・丁巳・丁亥・丙辰・丙戌・乙卯・乙酉・甲寅・甲申
癸丑・癸未・壬子・壬午・壬子・辛巳・辛亥・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅
戊申・丁丑・丁未・丙子・丙午・乙亥・乙巳・乙亥・甲辰・甲戌・癸卯・癸酉・壬寅
綏靖天皇元年{壬申}
手研耳の乱による空白期間は、この様な“朔干支”と考えられる。

76年というのは丁度4章に当たり、6940*4‐1日 が期待される数字である。
ところが、上の朔干支を正しいとした場合 神武76年は27759日ではなく、1日少ない27758日が算出される。
この1日の狂いこそ「当時の暦の使用方法」に原因があるのだよ。
376日本@名無史さん:2012/11/23(金) 08:13:31.73
>>373
「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェットを目指して数兆円の資産を持ちなさい!
377太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 15:36:40.83
>>372
卑弥呼の活動年代が確定できるため、臭魔伝にかぶれた野郎を破折
するために書きこんでおる。

だから年代論はここでも必要なのである。

そういうことは宿主に言え。
378太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 15:46:56.61
>そこでだ、60進数の干支は1と31の二つあれば事足りるはずである。

どこに退院歴だとあるのか?
神武は太陽暦を支持しておる。
皇宗神武に逆らうオマエは朝敵そのものである。そこでだ、60進数の干支は1と×→31の二つあれば事足りるのか?
ところが、干支はほとんど正しい太陰暦を示している。←何故だか証拠を出すんだな。

退院歴でも太陽暦でも年代のズレに殆ど影響がない。
オマケにオマエは欠史八代表で書紀の主張の空日を計算に含めて入れて
るらしい。これでは日数計算が合うわけがなくデタラメである。これでは正しいとは言えない。

さらに
これでは ↓ 応神より上代の編年が紀違いであることが判明している。ww

>応神天皇 344年〜384年←要強制入院 
>仁徳天皇 313年〜399年←要強制入院

はやく ↑ 松沢病院に行くんだな。ww
そうしないともう手遅れだ。

まあそういうことだから、球欠紀空年は成立しないのだよ。
379日本@名無史さん:2012/11/23(金) 16:23:58.45
>>378
その書き込みもうやめて!w
毎回毎回コーヒー吹き出して机がビチャビチャだよ…orz
380太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 16:36:26.55
>>379
スマン!
宿主が書きこむのが止まると、コチラも書きこみが少なくなる。

だからあいつの出たときは勘弁しろ。w
381日本@名無史さん:2012/11/23(金) 17:28:09.39
>>341
大和は大国扱いで、15郡、 89郷、水田面積 17,905町歩、戸数およそ 4,450戸、推定人口 133,500人、水田率 8.00%
畿内  5カ国で、 53郡、 349郷、水田面積 55,298町歩、戸数およそ 17,450戸、推定人口 523,500人、水田率11.30%
東山道 8カ国で、112郡、 729郷、水田面積224,389町歩、戸数およそ 36,450戸、推定人口1,093,500人、水田率 3.40%
北陸道 7カ国で、 31郡 230郷、水田面積 73,980町歩、戸数およそ 11,500戸、推定人口 345,000人、水田率 4,80%
東海道15カ国で、128郡、1,010郷、水田面積213,493町歩、戸数およそ 50,500戸、推定人口1,515,000人、水田率 8.40%
山陰道 8カ国で、 52郡、 387郷、水田面積 53,956町歩、戸数およそ 19,350戸、推定人口 58,500人、水田率 5.40%
山陽道 8カ国で、 69郡、 498郷、水田面積 84,942町歩、戸数およそ 24,900戸、推定人口 747,000人、水田率 5.50%
南海道 6カ国で、 50郡、 322郷、水田面積 61,861町歩、戸数およそ 16,100戸、推定人口 483,000人、水田率 4.00%
西海道11カ国で、 96郡、 504郷、水田面積117,448町歩、戸数およそ 25,200戸、推定人口 756,000人、水田率 4.70%
全国で     、591郡、4,029郷、水田面積885,367町歩、戸数およそ201,450戸、推定人口6,043,500人、水田率 5.00%

これは私が延喜式などをエクセルで集計して出したもの。
全国で人口600万人という結論を得たが、どの学者も言っている500万人(奈良時代)と大きく違わないので、この集計は割りと正しいと思う。
戸数7万という数字なら、畿内と周辺の国を寄せ集めれば実現できる数だが、大和一国とかそいうローカルな発想では無理。
つまり、件の幻の国は、相当な広域を支配する政権だったと言う事。
日本列島の1/3ほども支配するようなね。
でも、そりゃそうだろ、倭国の王として魏に承認されるような突出した政権なんだから。
そして、この時点で、九州(西海道)には件の国は納まらないことに気付く。
水田面積では僅か13%を占めるに過ぎず、全国へ覇を唱えるには国力が弱すぎる。
382日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:25:53.33
>381 に追記
誤記  「戸数7万という数字なら、畿内と周辺の国を寄せ集めれば実現できる数だが」 → できないな(笑)
ここで言う「戸」とは戸籍の戸であって、筆頭名義人(戸主)の下に兄弟・妻・子や奴婢とよばれる隷属民をふくめた大家族。
1戸≒30人 という推測を学者がしている。
邪馬台国時代の「戸」とはちょっと違うのかも知れないが、奴婢(奴隷か、せいぜい後世でいう小作)もカウントしているから、
これ以外の幽霊人民がいたとは思えないな。
つまり、この人口はほぼ実数だよ。
もっと古い時代に、これ以上の人口がいたとは思えない。
383日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:27:58.31
まー七万とか五万の数字を虚妄と考えたほうがいいと思うが
それを受けつけない人は多いからな
384日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:41:58.96
虚妄と考えたいとゆう願望
385日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:50:15.60
アホか
これは畿内説とか九州説関係のない話だ
ゆるやかな連合の畿内説に従えば人口は多いほうがいい
瀬戸内全体を含んだ邪馬台国だからな
それに九州説の松本清張だってこの数字は修辞ととらえている
386日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:54:15.07
>>385
関係あるだろ
九州には平安初期でさえ7万戸の人口を養う水田がない
387日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:56:36.51
>>386
むろん水田はないが
これは倭人伝の著述姿勢の問題だと思うがね
数字に誤りや誇張はあると思われるが
それを認めたくないという人が多いという話
388日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:41:35.94
>>381

山陰道の推定人口 58,500人ってタイプミス?
389太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 19:45:24.28
>>3球欠紀の棺に当たる臭魔伝だが、ここんところは1年265日の1.4倍暦同様
倍暦において〜毒書だが毒も薬になる場合がこれなのだろう。ww

しかしこの書の副作用は記紀の血肉たる年代に大穴の空年を空け球欠
するものであり、球欠紀脳内の牙を出し始めることだ。それに太陽神の天照大神を
男だとかにしたく〜その凶悪性を発現させる太陰暦という〜月に異常なるppp関心が
あり、とりわけ太陽暦の太陽よりも満月、満月よりも新月の朔に極度なる興味を抱く〜恐ろしき大神男
たる狼男に変貌する害毒性甚大であり、いかに臭魔伝が健全思考の脳内を
破滅にもたらす〜これが危険史想の文であることが分かってくる。
390太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 19:48:01.48
>>3は誤植です。抜いて読まれたい。
391日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:52:33.02
米がない時代にだって人間は生き延びてきた。米の生産高なんぞで
ケチをつけたって無意味だね。
392日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:53:25.14
>>388
580,500人の間違いでした
393日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:55:41.03
>>391
そう米のない縄文時代はもっと人口が少なかった
稲作では2反ほど耕せば大人1人が食べていける
でも狩猟採集生活だと何ヘクタールの森が居るんだろうね
トラは1キロメートル四方を縄張りにするらしいが
394日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:56:56.92
現在の筑紫平野の面積が1250平方キロ
これは、107万反になる。

個人的にはここは、投馬国と思っているが、
1反一人、5万戸20万人で、20万反である。

海進で、当時海の部分もあっただろうし、
すべてを開墾できるわけではない。

現在の筑紫平野の1/5が必要なわけだが、
可能性はどんなものだろうか。
395日本@名無史さん:2012/11/23(金) 19:59:08.64
あくまでも平野部の面積で、山岳ははずしてある。
396日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:05:52.04
江戸時代の話だが、
久留米藩21万石
佐賀藩35万石
柳川藩10万石である。

1石で1名養える生産力の目安である。
397日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:12:25.14
石田三成の太閤検地のときは全国で1850万石
だから、人口も1850万人くらいだろうと言われている
平安初期の3倍に人口が増えている
その比でいくと、
久留米藩21万石 → 7万石
佐賀藩35万石 →  11.7万石
柳川藩10万石 →  3.3万石
さて、弥生時代だと、これに何分の一を掛ければいいんだろうか
398日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:16:00.57
弥生末でも全食料に占める米の割合は半分もない
399日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:24:10.79
この時代の食料は畑作物も多い
弥生時代の畑は水田に比べて遺構が残りにくいために
石器などの収穫具の考察から研究が進められているが
縄文以来のドングリ類、ヒエ、アワなどの雑穀、
マメ類、ウリ類などはかなりの割合を占めるようだ
もちろん獣肉や魚介も
400日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:25:38.80
米に関しては、弥生前期で反あたりの収穫量が2斗から5斗
後期でもせいぜい8斗ぐらいという研究がある
401日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:48:42.14
・大宝令では、
 上田(穫稲 500束/町) 500束×2升×1.54kg=1540Kg/町  =25.7俵/町 =10.3石/町
 中田(穫稲 400束/町)                  =20.5俵/町 =8.2石/町
 下田(穫稲 300束/町)                  =15.4俵/町 =6.2石/町
 下下田(穫稲 150束/町)                 = 7.7俵/町 =3.1石/町
・太閤検地では
 上田 一石五斗/反   =15石/町
 中田 一石三斗/反   =13石/町
 下田 一石一斗/反   =11石/町
奈良から江戸では、1.5倍くらい収穫効率が上がったのだろう。
だから、土地の評価基準も変化している。
平安初期の延喜式の時代、全国で885,367町歩となっているから、
全部中田として計算してみると、885,367町歩×8.2石/町=7,260,000石
これは、太閤検地の時の1850万石の2.5倍である。
前述の土地の評価基準の変化とも合致しているな。
1人1石で養えるなら、推定人口6,043,500人という数字とも合致する。
402ローガン:2012/11/23(金) 20:53:39.08
>>394
出先から横失礼。面白そうな話題。
「對馬島 管二 田四百二十八町本稲三千九百二十束」(倭名抄西海郡第六十七)
と、倭人伝の對海国ならどう?
403日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:00:33.19
>>401
ちょっと誤記

全部中田として計算してみると、885,367町歩×8.2石/町=7,260,000石
これは、太閤検地の時の1850万石の2.5分の1である。
1人1石で養えるなら、推定人口6,043,500人という数字とも合致する。
九州(西海道)は水田面積117,448町歩だから、963,074石となり、96万人くらいしか養えない。
ところで、伊都国 千余戸、奴国 二万余戸、不弥国 千余家、投馬国 五万余戸、邪馬台国 七万余戸 を合計すると、14.2万戸となる。
96万人÷14.2万戸=6.76人/戸 となり、そういう小家族制を想定すると不可能ではない。
ただし、邪馬台国の時代に平安初期の生産力があったという無謀な仮定が必要となる。
404唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/23(金) 21:06:34.43
縄文からみた弥生の人口 国立民族学博物館 小山 修三

弥生時代の人口は遺跡からの計算では約60 万となった。ただし、弥生時代の遺跡の重み付けを関東地
方の遺跡からとったため、全体量が低くなりすぎたようである。その後の発掘によってわかった、吉野ヶ里遺
跡をはじめとする西日本における弥生集落の大きさを考えると、弥生末期には100 万を越えていたのでは
ないかと考えている。

奈良時代までの1000 年間についてシミュレーションをおこない、最大で300 万、少なく見積もって
も 100 万という大量な人びとが大陸からやってきたという結果をだした。また、日本人の形質変化について
のシミュレーションをおこない、その検証とした。その結果、縄文的な形質をもつ「古モンゴロイド」のなかに、
大陸からきた「新モンゴロイド」が割り込み、拠点となった近畿地方から列島の南北にむかって混血がすす
んでいったという日本人二重構造説を出したのである。これをめぐって様々な議論が起こっているが、人口
問題を東アジアというより大きな枠でとらえていることと、日本文化の多様性を考えていることから、説得性
の高い説であると考える。
405日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:09:09.98
>>402
「田四百二十八町」というのは水田面積で、延喜式の数字と同じ。
「本稲三千九百二十束」というのは生産稲数ではなくて、對馬国の国衙の予算。
大宝令の田令第1条 による、
「田租 段租稲2束2把 町租稲22束」という税率で国衙に収納された正税をさす。
生産量そのものではない。
406日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:09:43.74
卑弥呼の時代は

寒冷期だった
有明海海岸線から内陸に5キロは海だった
筑後川は曲がりくねった荒れた川だった
森林が多く、耕作面積は少なかった
407日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:11:50.14
森林はない。
むしろ海か湿地帯。
408太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 21:12:15.24
記紀の赤血球は三輪山の記述であり、その白血球は半径3の輪たる円の
球体の体積表面積である。

これを大神男に球欠させないように、臭魔伝の棺の中から外部に出られ
ないよう、厳しくコフィンのフタを釘で叩いて閉じこめておかねば大変
なことになる。
409日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:12:17.12
>>405
「對馬島」を對馬国と書いてしまったが、対馬のことです。
>>402さんの引用した文は、そのまま延喜式に対馬の数字として上がっています。
410唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/23(金) 21:20:09.23
「新モンゴロイド」が割り込み、拠点となった近畿地方から列島の南北にむかって混血がすす
んでいったという日本人二重構造説を出したのである。

ここで重要なのが「拠点となった近畿地方から列島の南北にむかって混血」の部分なんだ。
つまり邪馬台国は畿内であり、畿内が神功渡海などで、渡来人と牛馬による農耕を受け入れた。
411日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:23:38.09
対馬藩

山がちで平野の少ない対馬では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり
412日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:26:54.67
この当時の稲作は天候などによって収量が不安定だった
耕作適地の河川の近くの低地はまた水害も受けやすい
その保険の意味もあって交易が盛んになった
玉加工品などの特産がある地域は有利だったろう
413日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:35:36.14
>>411
そうだな、古代〜近世に至るまで、米は税であり貨幣であり、全ての価値の源だった。
米本位制という言葉もあるほど。
延喜式にあがっている数字も、税としての観点から水稲にだけ拘ったものだ。
麦や雑穀を食べれば、水田面積で養える以上の人口が可能だったかもしれない。
でも、その資料はない。
朝廷の関心外である。
414太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/23(金) 21:37:17.43
ここの大神男は大神兼ヤセ多抜キであり、飯が食えずに餓鬼のくせに畿内
から半島まで平気の平左で渡海できるスタミナのある〜アルカード兼大神男
のトゥー・フェイスぶりを発揮する頑丈な体躯である。

まさに航空機内のドラキュリアそのものであり、まぁ空中を飛ぶのも
忍者とび以上の超能力らしい。

しかもコチラの編年表での銀メダルたる崇神6年が景初3年鏡銘文年の
239年近隣に位置する論をえらく嫌っており、白銅鏡の銅製より銀メダルの
(1年違いの)一致整合が奴の論生命を崩壊する危機に手負いの獅子その
ものの状態になってる脳内だと推理している。ww

この銀メダルの整合こそ球欠紀を閉じこめる銀の弾相当の文証であり、よく
球欠紀(兼大神男)の論を壊滅させる。当然太陽も嫌うのがアルカードで
あり狼男であって、その日神鏡祭祀の崇神6年の出来事は球欠紀の活動を
阻むに至る。だから月の太陰暦を頑張り通すわけで、神皇紀でいう神武の
勅たる太陽暦を日神鏡のごとく忌み嫌うのが球欠紀兼大神男なので
あるのだ。

まさに崇神6年の位置239年近隣位置把握での天津神算木は、球欠紀を
厳しく牽制するヴァン・ヘルシングそのものである。
415日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:40:10.85
弥生の水田跡を見てわかるのは
高低差や起伏のある土地を平らにならすのが非常な難事であったこと
前期頃は土地の起伏に応じた小面積の水田が多く
後期になるにつれて一区画が大きくなってくる
416日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:45:48.76
>>415
奈良時代の条里制って農業合理化の一種だな
面積を測りやすい四角張った田んぼに変えていくと言う
417日本@名無史さん:2012/11/23(金) 22:58:16.43
>>406 :日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:09:43.74
>卑弥呼の時代は 寒冷期だった

「寒冷期だった」は不適切な表現だね。現在よりは暖かい時代だったのだよ。
暖かいから現在より海水面が高かったのだよ。
418日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:13:19.31
>>417

いや、だから、卑弥呼の時代は寒かったんだよ

「CO2地球温暖化説」は間違い
http://tabemono.info/report/report_14.html

縄文〜弥生の気候変動と植生の変化
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/01/000504.html
419日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:15:48.42
アイソスタシーについても勉強しろ!
420日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:51:42.87
弥生後期にには現在よりかなり寒冷
そこから上昇に転じるけれどAD3世紀でもまだ現在より寒冷
古墳時代6〜7世紀に温暖の極に達してそこから再び寒冷化
421唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/24(土) 00:05:44.31
気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

新羅本紀の192年や後漢書の183年厳冬,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

西暦20年ころ 弥生中期後半〜末。唐子・鍵遺跡の環濠が洪水で埋まる。
西暦170年ころ 孝元9年 長雨、大水。
西暦193年 崇神5年 飢饉 (新羅192、3年)
422日本@名無史さん:2012/11/24(土) 00:42:26.21
九州は
寒冷化降水量増大:収穫量はそれほど変化なし
高温化降水量減少:干ばつにより大幅な被害
という傾向にある。
423日本@名無史さん:2012/11/24(土) 00:59:04.41
昭和14年の旱ばつでは北部九州の年降水量が900ミリ台で、収量は平年の2割〜3割程度だったらしい。
424日本@名無史さん:2012/11/24(土) 01:21:29.76
今みたいな治水技術や堤防すらない

http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/01/chikugogawa/index.html
筑後川は古くから、かんがい、舟運、発電などにより地域経済に寄与してきましたが、
反面、一度豪雨に見舞われると川はその様相を一変して暴れ狂い数々の災害をもたらしてきました。
425太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/24(土) 08:00:09.55
西暦193年←両年は関係がなし→崇神5年 飢饉 (新羅192、3年でない)

空腹農民千人も渡海は不可能。
426日本@名無史さん:2012/11/24(土) 08:17:42.02
おい、サガミハラハラ、

桜ヶ岡は第三紀層時代(700万年〜100万年)の砂岩と頁岩で構成されている
長年に渡って雨風に浸食されて、自然に円形に出来た地形じゃねーか。

てめーが桜ヶ岡が卑弥呼の墓だって主張するなら、卑弥呼はいつの時代の人間なんだよ?

いつまでもデタラメぶっこいてるんじゃねーぞクソジジイ!!
427日本@名無史さん:2012/11/24(土) 08:48:43.08
九州の場合、暑い夏で、降雨が少ない時に限って、
でかい台風が直撃することがよくある。

しかも、そういう台風はたいして雨も降らず、
ダムがなかなか潤うところまで行かない。
428日本@名無史さん:2012/11/24(土) 08:59:42.80
>>426
まー、アレは電波ですから放置しましょ。
429日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:00:22.97
サガミ先生はときどき名無しになって自演する人格者ですから
430日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:20:59.74
九州の台風ってのは、古代人からするとどう解釈してたんだろう?
なんか神格化とかされんのかな
431日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:40:02.42
>>413
何故そうまでして稲に拘ったと思ってるの?
生産性低ければどうなるかとか思い至らないの?
432日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:52:42.88
大学で歴史学専攻してる者ですが、みなさん結構歴史に興味あるんですね
驚きました。
433卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 12:46:22.81
>>432
たまたまかなり高度な議論が続いているときにやって来たからそう思うだけで、
そのうち呆れて来るよw
434sss:2012/11/24(土) 13:12:57.89
余談だが…。

先日テレビで見たのだが、中国で周が殷を滅ぼした後、周は周辺諸国に
漢字を刻んだ青銅器を送ったらしい。主従関係あるいは、従属関係を
書いたものだったのだが、諸国は漢字に俄然興味を示し、瞬く間に
漢字が普及したのだとか。漢字は、象形文字というか、表意文字なので
わかりやすかったらしい。

日本では、卑弥呼時代に皇帝から詔書が与えられる。帯方郡からやってきた
張政が檄を為して告喩する。当時の檄は木簡に書かれていたらしい。
というわけで、この時代に漢字に触れたと考えられる。その時にかなり普及
していたと考えてもよいのではないか。

にもかかわらず、多くの人が、日本での漢字普及の時期をもっと遅れたものと
認識しているような気がする。5世紀に倭王・武が宋の皇帝に贈った上表文は
名文として名高い。当時には立派な書記が天皇の周辺にいたわけである。

日本での文字の普及の時期は、記録の残り方とも関係するわけで重要だと思う。
435日本@名無史さん:2012/11/24(土) 13:20:30.93
文字を使える渡来人は各集落にいただろ
436日本@名無史さん:2012/11/24(土) 13:24:12.90
あと文字を使えるかどうかと漢文ができるかどうかは
区別して考えたほうがいいだろうな
倭語を漢字の音を借りて表す方法はそこそこ早くからあったんじゃないか
437太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/24(土) 15:08:29.08
九鬼文書

崇神65年7月(皇紀628年 実年代 258年戊寅)

 任那漢字を携え来り、是を献る。
 此事ありてより我国に漢字を伝る。
438ローガン:2012/11/24(土) 15:52:13.36
>>382
>1戸≒30人 という推測を学者がしている。

郷戸ですな。

>邪馬台国時代の「戸」とはちょっと違うのかも知れないが、

国内史料が無いのでやはり、後漢書郡国志辺りの戸と口数に参考に。

>>405
>生産量そのものではない。

ごめんなさい。丁寧に書けば良かった。
元和版の影印をそのまま書いたんだけど、對馬島だけ「正」「公」が割愛されてた…(多分巻末ゆえのスペースの具合かと)
439卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 15:53:04.83
弘仁私記の一説に
開化天皇御宇大伽羅人帰化而以来既有文字 云々
440日本@名無史さん:2012/11/24(土) 16:13:37.54
>>439
「弘仁私記」を読んだことがあるの?
441日本@名無史さん:2012/11/24(土) 16:17:52.75
一戸=1人説もある
442卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 17:23:38.81
>>440
上記の文の存在は浜名寛祐「契丹古伝」で知った。
で、この文が本当にあるのか確認しようと思って図書館から
『新訂増補 國史大系 第8卷 日本書紀私記・釋日本紀・日本逸史』
を借りてきたが、残念ながらどこに記載されているのか分らなかった。
この本は一部だけが活字で、大部分は活字ではないので読みにくく、あまり真剣に調べなかった。
443日本@名無史さん:2012/11/24(土) 17:34:18.01
契丹古伝は明らかに偽書だと思われてるんだから、
引用するなら、ちゃんと元の史料を確認しないとダメだろ
444日本@名無史さん:2012/11/24(土) 17:46:40.94
>>418
考え違いだろ。
地球が寒冷化すると極地や高山の氷河が成長し、その分海水の量が少なくなる(つまり海面が下がる)。
これは地球上の水(H2O)の量が一定だからだ。
3世紀が現在より寒かったら海水面が現在のそれより高いわけがないだろ。
445日本@名無史さん:2012/11/24(土) 17:56:45.98
>>444

406 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/11/23(金) 21:09:43.74
卑弥呼の時代は

寒冷期だった
有明海海岸線から内陸に5キロは海だった
筑後川は曲がりくねった荒れた川だった
森林が多く、耕作面積は少なかった

これの
>有明海海岸線から内陸に5キロは海だった

は、江戸時代以降に有明海の干拓・埋め立てが成されたため、という説明が不十分でした。
江戸時代以前は干拓埋め立てが成されておらず、有明海海岸線から内陸に5キロは海だった
http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/isahaya/outline/images/photo01_02.gif
http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/isahaya/outline/history.html
446卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 18:29:54.52
契丹古伝は偽書ではない。
著者は耶律羽之。遼史に耶律羽之伝というのがあるから、
もしかしたら契丹古伝を書いたことも記載されているかもしれない。

浜名寛祐はそれを解読して、自分なりの解釈を施しただけである。
浜名寛祐の解釈には当否はあるかもしれないが、原書そのものは偽書ではない。
447日本@名無史さん:2012/11/24(土) 18:41:12.46
現在の日本地図で邪馬台国に最も酷似した地名は大分県の「耶馬溪」。山国川=山都川。
宇佐八幡宮には日本最古の巫女さんがいたことで知られている。魏の使者は神事を行う巫女について尋ねた。
案内人(通史)は「あの者は神事により国政を占う卑巫女(卑弥呼)でございます。」と答えた。
遜って巫女に「卑」をつけたせいで巫女が女王と勘違いした可能性が高い。つまり、卑弥呼はいなかった。
香春町の鏡山神社内に「河内王の墓(小さな円墳)」が存在し、なぜか宮内庁の管轄で天皇の先祖にあたる人物であると考えられる。
ここで造られた鏡を宇佐宮に奉納する神事がある。宇佐宮も天皇の祖先を奉る八幡宮の総本山であり、
のちの豊前、豊後が邪馬台国に比例すると考える。
この説は松本清張氏はじめ、多数の著名人の方も支持している。
448日本@名無史さん:2012/11/24(土) 18:47:16.93
>>446
>もしかしたら契丹古伝を書いたことも記載されているかもしれない。
確認すらしてないのに、偽書じゃないと言いきってるのか、たまげたなぁ
原本が見つかってない以上、帝国軍人浜名寛祐の創作を否定できず、信頼のおける文献じゃないだろ

それに、耶律羽之が日本書紀私記を引用したのか?
449卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 19:03:50.46
>>448
偽書であるかないかは読めば分かるのである。
こんなものは一軍人が創作できるような代物ではないのである。
漢学者の家に育った浜名寛祐でさえ解読できないような難文なのである。

弘仁私記の一説に開化天皇御宇大伽羅人帰化而以来既有文字 云々

これは浜名寛祐が書いていることである。
或いは浜名寛祐は書名を間違えているのかもしれない。
450日本@名無史さん:2012/11/24(土) 19:19:41.27
>>449
難解だからこれは本物に違いない、と思えるのは幸せだな

>開化天皇御宇大伽羅人帰化而以来既有文字 云々
ってのを原文を確認せずに書き込みたかったら、

浜名寛祐氏の『契丹古伝』によると、「弘仁私記の一説に開化天皇御宇大伽羅人帰化而以来既有文字 云々」
ただし、原文では未確認

みたいな書き方の方が親切
451日本@名無史さん:2012/11/24(土) 19:21:45.46
おならプー助さん
452卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 19:33:08.37
大体、何で一軍人がそんな偽書を創作する必要があるのかな。
日露戦争中の忙しい時にそんなものを創作する暇はないのである。
同僚にも見せたが誰も解読できなかったのである。
手に入れたのも同僚らと協力して入手しているのである。
どうしてそこまで偽書偽書と勘繰るのか。

で偽書ではないと分ったら読む気はあるのか?
確認したければ自分で遼史の耶律羽之伝でも読んでみればよいのである。
ネット史にしてもそうである。それが偽書であるかどうか調べる前に、
自分で読んでみればよいのである。偽書であるかどうかなんて、
それを調べようと思えば一生かかってしまうのである。
453日本@名無史さん:2012/11/24(土) 19:54:37.57
>>452
ナチスのアーネンエルベみたいなものだろw
浜名寛祐の『東大古族言語史鑑』は読んだことあるが、こんなものを書く人間を信用なんてできない
454日本@名無史さん:2012/11/24(土) 19:55:23.25
耶馬渓は19世紀に頼山陽が名づけたんだろ、それまでは山国谷
455日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:15:55.97
じゃまけ うん じゃまたい
456日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:16:54.72
>494
ありゃ、本当だ。
まったく勉強不足ですいません。
ここ、難しい話ばかりで敷居が高いので、レベル低くて申し訳ないです。
457日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:35:31.75
ドンマイ、豊前、豊後説もがんばって
458日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:47:28.81
裴世清が行った先は、豊前くさいよな
459日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:55:39.41
香春神社の前の道は、奈良時代から平安時代にかけて官の古路「田河道」と呼ばれ、都と太宰府との間の官人の通路であった
460日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:55:45.58
邪馬台国は豊前、豊後っていい線行ってると思う。
ただ、わからないのは、水行20日や陸行1月が本当だったら、
距離的にはやっぱり大阪、奈良あたりに邪馬台国があることになってしまう。
461日本@名無史さん:2012/11/24(土) 20:59:36.13
耶馬渓とか山国川とかあのあたりは、次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 の邪馬國ではないの?
462卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 21:25:26.65
>>453
それはたぶん最初に読んだ本が悪かったのだろう。
タイトルからすると浜名寛祐が東大古族と名付けた、
原初の満鮮族の言語について考察した本のように思われる。
そして言語に関する考察というのは最も妄想に富んだ解釈が行われやすいのである。
しかし浜名寛祐自身は真面目に考察しているのであり、君が思っているような人間ではない。

結局は読み手の知識教養理解力が問題なのである。
君が読めば信用できないと感じる本でも、私が読めばそうは思わないかもしれない。
三浦祐之の「金印偽造事件」を読んで、こんなのは信用できないと思う人間もいれば、
なるほどそうか、と思う人間もいる。
倭人伝の行程記事を読んで、邪馬台国は大和だと思う人間もいれば、
邪馬台国は九州だと思う人間もいるのである。
463サガミハラハラ:2012/11/24(土) 22:32:44.51
>>461ご明察です。
464日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:03:33.33
>>463
卑弥呼とアメノウズメが異父姉妹だという貴殿の説について説明していただきたい。
465日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:12:32.53
>>460
>水行20日や陸行1月
私は若い頃、海上自衛官で多少ですが航海術を勉強し、カッターやヨットなどのモーターのない
船舶の訓練もしました。
当時の船舶や航海技術がどのようなものかわからないので20日で航海できる距離がわかりませんが、
実は船は潮の向きや風向きが悪いだけで離岸、出港さえ難しいのです。
現在の最先端技術でスクリューを真横にして離岸してえい船無しで出港出来る船がようやく発明されました。
20日の中には潮や風待ちの日も含まれるのではないですか?

陸ですが、偶然ですが自衛官退職後測量士の仕事をしていました。
当時の街道がどのようなものかわからないので、1日で歩ける距離が全くわかりません。
私は測量のために道のない場所を切り開いて進みましたが1日に2キロも進めません。
川や谷や崖や山もあります。そう言う場所は大きく迂回しないと進めないので、1ヶ月でどれだけ進めるのか疑問です。
川などが増水すれば足止めも食らうでしょう…。
橋は小さな川しかなかったと思いますし、街道が整備されるのはまだまだ先のことなので…。
466日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:13:05.77
>>462
一次史料と新書を同列に扱うなよw
467日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:17:46.66
お、サガミ翁が来ているな。では質問しま〜す。

267 :サガミハラハラ:2011/11/03(木) 04:22:15.94:
天皇家の祖先は高天原(後世名づけられた地名)出身ですので、日本在来種であり、
邪馬台国の人達は満州からの渡来人です。

このレスについての詳細な解説をおながいしま〜す。
468日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:47:19.28
>邪馬台国の人達は満州からの渡来人です。

その証拠は?
469サガミハラハラ:2012/11/25(日) 08:03:26.10
もう一人相模原はrをなのっておられるかたがいらっしゃるので、つい、私、そんなこと言ったっけ、とおもってしまうのであるが、
これは間違いないでしょう。
倭人伝には馬の付く国がみられます。これは、ある領域につけられた名です。そのなかにいくつかの国があります。
邪馬台国の邪馬は屋間のことで中心国という意味です。斯馬は糸島の島です。
宮崎は投馬で、遠間のことです。熊本はクマ川がありますから狗馬でその中に狗奴国(熊本北部)があります。
対馬は同じような二つの島が並んでいるで対になっているところで対馬です。
半島南部はミマナで、ミマに後世ナをつけました。
他に薩摩や嘉麻や海部があります。
半島の北部には蓋馬広原があります。ここは蓋の間なのです。
そのあたり一帯はコマといいます。
このあたりから満州にかけてが、地名にマをつけるひとたちの故郷なのでしょう。
大昔このあたりの人達が九州にやってきて征服し、マの地名をつけたわけです。
関東にもマの付く地名があります。高麗など。
この満州紀元のひとたちは、百済の王族になったといわれ、王族は扶余系の言葉をつかっていたと説くひともいます。
さて白村江の戦いで百済はほろび、支配階級を中心に亡命者が日本にわたってきました。大和朝廷は、かれらを関東を中心に居住させました。
関東にマの付く地名が西の山沿いに存在するのはその結果です。
こうかんがえると、邪馬台国の人達は満州系であるという(おそらく扶余系)結論がみちびきだされます。
また、風俗でも、武器を際しに遣う、おおきな袖の着物を着る、大倭など、似た制度がみられるなど、
共通ではないかとおもわれるものもあります。
470卑弥呼は満州にいた:2012/11/25(日) 10:11:39.79
>半島の北部には蓋馬広原があります。

この蓋馬広原という名は日本の学者が勝手に付けたのである。
現地の人にあそこは何と言うのかと訊いたら、知らない、名前などない、と答えたので、
学者が、満州にあった蓋馬を勝手に取ってきて付けたのである。
日本占領時代のことである。この学者は他にもいろいろ勝手に名前を付けているのである。
山形明郷の本にちゃんと書いてある。以前このことはここに書いたのに。

それがいつの間にか高句麗の蓋馬大山とは蓋馬高原だということになって、
それが通説になってしまっているのである。
あほらしいというか、怒りさえ覚える。
471日本@名無史さん:2012/11/25(日) 13:48:14.72
満州のマで終わる国名地名のサンプル数が少ないな
472日本@名無史さん:2012/11/25(日) 14:25:45.66
邪馬台国は、福島県耶麻郡、つまり、会津だろう?
景行天皇の時代に四道将軍大彦命と建沼河別命に滅ぼされた。
そのとき、邪馬台国の歴史を綴る古文書や石碑は猪苗代湖に沈められてしまったのだろう。
473日本@名無史さん:2012/11/25(日) 14:39:13.40
ツヤマ
キリシマ
トヤマ
アサマ

ぱっと考えてもいくらでも思いつくけど
474日本@名無史さん:2012/11/25(日) 14:42:55.32
トクシマ
カヌマ
サヤマ
ハヤマ
タカヤマ


もうこの位でいい?
475日本@名無史さん:2012/11/25(日) 15:33:22.89
ござれ市で買った大皿を郷土資料館に持っていき、見てもらったところ、
大皿の底の土の色やうわぐすり、大皿の文様などから、伊万里焼や九谷焼ではなく、
どうも中国で作られたものではないかと学芸員さんに言われるが、その学芸員さんは
中世以降の陶磁器は専門外なので詳しい事はわからないといわれた。
近いうちに専門の鑑定士さんにあらためて大皿を見てもらうことにします。
476日本@名無史さん:2012/11/25(日) 15:35:45.58
>>475
それは清朝につくられた大皿です
頭に清の字がよぎった
477日本@名無史さん:2012/11/25(日) 15:41:44.58
清の時代のものは文様の八色がもっとよくて整っており、
たいてい底に年号が書かれているのですぐにわかると言っていました。
478日本@名無史さん:2012/11/25(日) 16:00:17.17
はずれたか
479日本@名無史さん:2012/11/25(日) 19:56:48.64
>>473 >>474
それは満州の地名なのか?
どの歴史書から確認できる?
480サガミハラハラ:2012/11/25(日) 21:49:23.18
卑弥呼は満州に居た、さん、ありがとうございます。早速しらべてみます。
481卑弥呼は満州にいた:2012/11/25(日) 22:24:21.58
>>480
蓋馬広原という名は日本の学者が付けたものであることは、
平凡社の百科事典にちゃんと書いてあるそうである。
482日本@名無史さん:2012/11/25(日) 23:33:56.49
蓋馬高原だろ。だが、蓋馬は日本人が勝手につけたものではない。
483日本@名無史さん:2012/11/25(日) 23:56:36.80
確か、山海経で見た気がするな
484サガミハラハラ:2012/11/26(月) 07:56:23.40
平凡社百科事典を調べてみました。
「西朝鮮に楽浪郡がおかれたとき、東朝鮮に蓋馬郡があったのにちなんで、この産地うを小藤文次郎が
蓋馬台地となづけた。」とあります。台地や高原は日本人の命名であったのであるが、蓋馬という丹後は歴史的に古代に存在していたということになります。
よって、469の蓋馬広原は古代に蓋馬郡がありました、に訂正いたします。
485日本@名無史さん:2012/11/26(月) 08:54:45.35
調べたら、
「蓋馬」の初見は「漢書地理志下」だね
486日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:20:41.40
蓋國在 鉅燕南 倭北 倭屬燕

燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里(154km)至滿潘汗爲界
燕亦筑長城自造陽(上谷)至襄平(遼東)  (紀元前290年頃)

(BC31)東明七年庚寅 七月
上至瓠盧湖 與柘公妃桂孟子 泛舟湖上品瓜 賞月酒 然有絶世氣象
閃尼 以馬韓人水コ為其情夫 悉集國中兵 與我軍相待
其國 在黄龍 桓那之南 漢山之北 東至汗東之南
西至盖馬之東 南接馬韓 辰韓 常附庸於黄龍 盖馬
至是 與馬韓通好 與燕宜失和
487卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 09:24:40.30
>>484
その西朝鮮、東朝鮮というのは古朝鮮の東西と言うことである。
つまり遼東の東西のことである。

蓋馬郡などという地名はおそらくどの史書にも無い。
玄菟郡に西蓋馬という県はあった。
あとは蓋馬大山という地名と、
蓋馬国というのがネット史その他に出てくる。
この蓋馬国がまた私の説の傍証になるのだが、それはここでは書かない。

蓋馬大山というのは通説では長白山あるいは白頭山であるが、
諸説紛々としていて不明である。私も考察しているが、分らない。
すべての資料がバラバラな地域を指しているので、どう考えても合致しないのである。
488日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:25:24.04
                    _____________
                    ||                      |
                    ||   ちょっと待て .  .     .|
                    ||         .           |
                    ||    その無所属は  . |
                    |l -――-               |
                     '"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
                 ':.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ______|
                  /.::.::./.::.::.::.:j.::.::.:|.:ム;ヘ.::.:ハ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                  ,'.::.::.::i.::.::.::.:/|.::.:: l/  `|.::./7
                :.::.::.::j:|.:!.:_:/´|_.::_」   くV <|
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489卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 09:31:33.11
>>486はたぶん稗箕狐である。
ただしもうひとり名無しの男でネット史を読んでいる気配の男がいるから、
その男かもしれない。
あいかわらず二千餘里(154km)に拘泥している所を見ると、稗箕狐だと思うのだが。
490日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:36:09.71
>その西朝鮮、東朝鮮というのは古朝鮮の東西と言うことである。
>つまり遼東の東西のことである。
朝鮮満州はそう思い込んでいるんだろうが、誰もそんな思う込みには同調しないだろうな。
491日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:42:30.65
遼東の東南のパートは本来朝鮮に含まれるけど
燕將の秦開にやられて取られて遼東郡に編入された野田。
492日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:45:46.57
漢江の流域なんかは本来朝鮮だとかわ謂わなかった野田
本来の朝鮮はもっと北側な野田
493日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:54:09.28
高句麗 在遼東之東千里(76km) 南與【朝鮮】&【濊貊】
【濊】 今【朝鮮】之東皆其地也

【朝鮮】を東西に分けて東側のが【東朝鮮】で
その北側の高みのが【蓋馬大山】な野田
494日本@名無史さん:2012/11/26(月) 10:03:29.69
ここは、*日本史板の*邪馬台国スレッドだからな

日本から離れる話題ばかりなら、世界史板に邪馬台国スレッド作れよ
495日本@名無史さん:2012/11/26(月) 10:14:57.71
めずらしい國國の列挙は韓伝のところから始まる野田
韓伝と倭人伝とを分けて倭人伝だけで騙ろうとゆうのが本来間違いな野田
土人に国境は無い野田
とくに海の民にとってはその北岸ははずして騙ることのできないほど重要な野田
496サガミハラハラ:2012/11/26(月) 11:00:53.48
どちらにせよ、満州東南部の山地に蓋馬という地域があったことは確かなようですね。
497日本@名無史さん:2012/11/26(月) 11:12:17.44
厳密には満州の南限からはずれた山岳地のとこ
498卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 12:35:20.12
>>496
いや、確かではないのだよ。
そんなところが蓋馬なら、玄菟郡の県が西蓋馬と呼ばれるはずがない。
玄菟郡というのは開原辺りなのだから。

ネット史では蓋馬国を開魯に比定している。
満州の西である。全然方向が違うのである。

因みに浜名寛祐は単単大嶺を千山山脈、
蓋馬大山を千山山脈の摩天嶺に比定している。
499日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:04:05.67
>玄菟郡の県が西蓋馬と呼ばれるはずがない。
なぜ?
500日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:27:14.16
>玄菟郡というのは開原辺りなのだから。
その領域をどう考えているんだ?
501日本@名無史さん:2012/11/26(月) 15:14:14.40
中国の戦国時代(前3)、朝鮮の南東にはワイ(なぜか変換できない)があって
朝鮮の東北には貊(変換できる)があったのですよ。
だからこんな位置関係

                 
  \ 遼東/\       貊 /
   |  /   \朝鮮   /
   \/     |   ワイ(なぜか変換できない)
            \   |
             |  |
             |  |
               ̄ ̄
502ローガン:2012/11/26(月) 15:39:52.92
>>481:卑弥呼は満州にいた
>蓋馬広原という名は日本の学者が付けたものであることは、平凡社の百科事典にちゃんと書いてあるそうである。

>>484:サガミハラハラ >平凡社百科事典を調べてみました。「西朝鮮に楽浪郡がおかれたとき、東朝鮮に蓋馬郡があったのにちなんで、この産地うを小藤文次郎が
>蓋馬台地となづけた。」とあります。台地や高原は日本人の命名であったのであるが、蓋馬という丹後は歴史的に古代に存在していたということになります。


481は、出典が明記されているにもかかわらず確認しようともせず、孫引きした幼稚で恥ずかしい例。
503日本@名無史さん:2012/11/26(月) 15:58:11.04
玄菟郡は土人にやられて二度後退しているから郡治は3つある野田よ
504日本@名無史さん:2012/11/26(月) 16:07:28.63
1世紀のことだけど、首ちょん切られた高句驪縣侯騶は
配下の貉人・濊貉を率いて匈奴と戦ったってのは常識な野田
505日本@名無史さん:2012/11/26(月) 16:16:01.48
ちょっとオリジナルなことばらしてあげよお

>>486の下のほうのに書いてあるような
舟あそびして瓜喰らいながらお月見するのが
穢貊のの得意技な野田よ
すなはち
芻牟(東明)さんは穢貊の大酋長であってからに
高句麗の先祖だっつうのはちゃう種の土人が先祖を飾るあとづけな野田よ

これは卑弥呼は満州にいたののぢいちゃんがいちばん心当たりがあるはずだけどさ
506日本@名無史さん:2012/11/26(月) 16:33:51.03
今日も株価はすこし上昇した。このぶんなら株価の上昇はしばらく続くと考えられる。
先日見てもらった大皿のことについて電話があり、元や明の初期の時代のものではないかといわれる。
すこしその時代の陶磁器について調べたら、どんなに少なく見積もっても億はくだらないという。
あらためて大皿を見たら、傷もないしかけている部分も見当たらないので、本郷の美術専門会社にでんわしたら、
明日の午前中に鑑定士を派遣すると言う。いったいいくらになるのか今からとても楽しみです。
507卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 16:51:52.02
>>499
開原が長白山の西だというのはどう考えてもおかしいではないか。
西というよりどちらかといえば北だし、あまりにも距離が離れすぎている。
>>500
質問の意味不明だからパス。
>>501
魏志に朝鮮の東はみんな穢であると書いてあるだろう?
それは古朝鮮の東と言う意味で、要するに遼東の東はみんな穢であるということなのである。
穢や貊は朝鮮半島内にいたのではないのである。
>>502
私は山形明郷を信じているので、いちいち確認したりしないのである。
山形明郷は小藤文次郎が行ったことを知っている人から直接聞いて知ったのであって、
百科事典を見て知ったのではないのである。
また私は確認していないから「と書いてあるそうである。」と書いているのであって、
それを「 確認しようともせず、孫引きした」云々と批判されるのは心外である。
>>505
芻牟が穢貊の大酋長という証拠はどこにもない。
そもそも夫余と穢貊が同じか否かさえ学問的に確定しているわけではない。
508日本@名無史さん:2012/11/26(月) 17:15:16.34
>>507
五時前の書き込みだからニセモノだな。
509日本@名無史さん:2012/11/26(月) 17:32:23.79
http://www.japan-antique.net/html/column03.html
元染付壷が32億円で落札!!
510サガミハラハラ:2012/11/26(月) 17:43:56.57
これはすごいでもうれたらぜいきんがたいへんなだ
511サガミハラハラ:2012/11/26(月) 17:44:53.28
これはすごいでもうれたらぜいきんがたいへんなだ
512サガミハラハラ:2012/11/26(月) 17:46:23.70
すいません。うれしさのあまりミスタッチしてしまいました。
513日本@名無史さん:2012/11/26(月) 17:52:11.98
このスレは終わってるな
514日本@名無史さん:2012/11/26(月) 18:02:54.11
サガミハラハラあぼ〜んしたれ
515ローガン:2012/11/26(月) 18:21:50.38
>>507:卑弥呼は満州にいた
>私は山形明郷を信じているので、いちいち確認したりしないのである。

私は古田武彦を信じているので、いちいち確認したりしないのである。

>山形明郷は小藤文次郎が行ったことを知っている人から直接聞いて知ったのであって、

古田武彦は和田喜八郎から直接聞いて知ったのであって、

同じようなもんだな。
516卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 18:38:50.29
>>515
私が百科事典を確認しなかったのは種々の理由による。
一つは浜名寛祐も読んでいたので、
蓋馬大山が蓋馬高原などであるはずがないという確信があったからである。
山形明郷の言だから信じたのではない。

山形明郷を信じていると書いたのは、
山形がそれを年配の人から聞いた、という言を信じているという意味であって、
山形の説を信じている、という意味ではない。
仮にそれが嘘であったところで、蓋馬大山は蓋馬高原ではないという確信があるので、
いちいちそれが百科事典に載っていることなど確認しようとは思わなかったのである。

もう一つの理由は、一応確認してみようかと思ったが、
図書館に平凡社の百科事典が無かったのである(笑)
517日本@名無史さん:2012/11/26(月) 19:51:07.74
大皿の値段について最低五億まで交渉してみよう。
五億もあれば一般サラリーマンの年収を一日で稼ぐことも可能だし。
518サガミハラハラ:2012/11/27(火) 07:49:29.53
きょうのしんぶんで2500万円でかっただいやもんどが9000万円で楽さつられた
大分の黄金タイもつくったときは2800万円だったのがいまは金の値段があがtって9000万円で三菱マテリアルに売却されると言う。
そのむかし徳川家康が将軍になった時に江戸には4兆円もの金銀がかくわえられていて、日本と中国と海外の金銀格差をりようして
徳川家康が死んだとき数十兆円もの遺産がのこっていたといいますがこのふけいきのなかけいきはかくじつにかいふくしています。
519サガミハラハラ:2012/11/27(火) 07:50:05.17
きょうのしんぶんで2500万円でかっただいやもんどが9000万円で楽さつられた
大分の黄金タイもつくったときは2800万円だったのがいまは金の値段があがtって9000万円で三菱マテリアルに売却されると言う。
そのむかし徳川家康が将軍になった時に江戸には4兆円もの金銀がかくわえられていて、日本と中国と海外の金銀格差をりようして
徳川家康が死んだとき数十兆円もの遺産がのこっていたといいますがこのふけいきのなかけいきはかくじつにかいふくしています。
520サガミハラハラ:2012/11/27(火) 07:52:32.52
だめだこうふんがおさまらないよるもねむれないあさひがまびしくてけしきがみんなかがやいている
521日本@名無史さん:2012/11/27(火) 09:02:29.73
あんた、ホントにサガミ先生なの?
522サガミハラハラ:2012/11/27(火) 09:29:03.76
もちろん偽者ですよ。とはいっても、商標登録していないのでだれでも同じネームはつかえるんでしょうが。
昔、わたしがネットをやり始めたころ、サガミハラハラの名で、風俗の体験談をのせた方がおられましたですよ。
523日本@名無史さん:2012/11/27(火) 09:30:46.82
トリップを使わないのが悪い。
524日本@名無史さん:2012/11/27(火) 09:34:02.99
名前の後に##○○○○(○は任意の英数字)って書いてほしいなあ
#以下が別の文字に変わって表示されます
暗証番号みたいなもので成り済ましが防げるよ
525日本@名無史さん ◆P1ZCfZKQqc :2012/11/27(火) 09:43:09.71
名前欄に日本@名無史さん##1111って書いたらこんな感じ
526日本@名無史さん:2012/11/27(火) 10:33:15.49
で、例の骨董品はどうなったの?
527日本@名無史さん:2012/11/27(火) 10:39:33.88
これは新しいコピーで、・・三千円ですな。
528サガミハラハラ ◆sKtSMUE4HM :2012/11/27(火) 12:52:12.73
ほつま伝
529日本@名無史さん:2012/11/27(火) 15:50:18.63
なんだかんだ言われていたけど、
なんだか伊作はさすがだったという気がする。
近頃は下らん書き込みばかりだからなあ。
530日本@名無史さん:2012/11/27(火) 16:13:23.45
鑑定士さんに見てもらったところ、うわぐすりが薄くてわずかに黄色をしているそうですが、
うわぐすりの色が元の時代特有の薄い青い色をしており、
底の土も赤茶色の手ひねりで、元の時代でも13世紀後期から14世紀初頭の元の時代の、
それもまだ染付が開発されてまもない品物の可能性があるといわれましたが、
鑑定士さんもすぐに判定できないのでしばらく預からせてほしいと言われたので
専門家の方に預けることにしました。
鑑定士さんのはなしでは今年の世田谷のボロ市で明の洪武年間の釉裏紅の茶碗が
四千円で売られていたそうですが、発色がとても鮮明だったのでだれも本物とは信じず、
弊店間際に見せてもらったら本当の本物で、後日、七千万円の値がつき、
現在、京都の博物館に展示されているそうです。
531日本@名無史さん:2012/11/27(火) 18:11:57.51
サガミハラハラさん、あなた、「痴漢プレーが大好きです」とばらされていましたよね(w
532サガミハラハラ:2012/11/27(火) 18:21:14.89
どうだったっけ、内容はもう覚えていません。
自分が行ったことではないので。
533日本@名無史さん:2012/11/27(火) 18:32:16.94
まあ〜、しらばっくれちゃって…… 五反田 ♪
534日本@名無史さん:2012/11/27(火) 18:46:17.86
851:サガミハラハラ:2011/12/17(土) 08:05:13.90
近頃は中川翔子ちゃんがかわいいと思います。
でもAKB48もいいかな。
でもこのまえかれらといっしょに体操した石原知事や蛭子さんを見て
うらやましくおもいましたね。
535日本@名無史さん:2012/11/27(火) 19:08:49.23
サガミ先生、趣味わる〜い。
536日本@名無史さん:2012/11/27(火) 19:26:34.99
サガミハラハラはアホだと思うし嫌いだが、ちょっと上を見れば解るように成り済ましも多い。
そんな中傷目的で成り済まししてる奴、成り済ましを引用して更なる中傷をする奴は、
ヒトモドキ以下のカスだと思う
537サガミハラハラ ◆V0F34EbmQA :2012/11/27(火) 20:53:10.96
テスト
538日本@名無史さん:2012/11/27(火) 22:42:14.86
このスレももうおしまいだな。
伊作やジョーカーが去ってしまったのもわかる気がする。
539日本@名無史さん:2012/11/28(水) 00:07:31.21
竹島岩礁の戎夷 そは何 朝鮮勢  傲慢無礼もの  倶に天を戴かず

いでや進みて忠義に  鍛えし我が腕(かいな)  ここぞ国のため  日本刀を試しみん
540日本@名無史さん:2012/11/28(水) 00:26:33.14
いよ〜大統領!
541日本@名無史さん:2012/11/28(水) 00:45:31.72
八百八州のこじき ザル持って 門に立ち〜 だっけか?
542名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2012/11/28(水) 12:33:33.78
>>536
サガミハラハラは単なるアホどころか悪質な荒らし。
しかも自分が荒らしだという自覚がまったくないから余計にタチが悪い。
八年前以上前になるけれど、
「東アジアの古代文化について考える人の掲示板」に
サガミハラハラが「卑弥呼の墓=小城桜岡説」を連続投稿したため
掲示板の許容量を超えてしまってサーバーダウンを起こして消滅させている。
そのあと、サガミハラハラは別な掲示板にもまた連続投稿を行ったため、
書き込み禁止にされ、IPから住所まで公開された。
それからまもなくしてサガミハラハラは住所を神奈川県相模原市から東京都日野市に
逃げるように転居したが、あいかわらず別な掲示板で「卑弥呼の墓=小城桜岡説」を
全く懲りずに書き込んでいる。
しかも他の投稿者に過去の投稿や矛盾点指摘されると「そんな事覚えていない」と開き直る。
当時の状況を知っているものとしては、サガミハラハラを小一時間以上かけて
問い詰めてやりたい気がおさまらん。
543卑弥呼は満州にいた:2012/11/28(水) 12:46:04.58
なにはともあれ、サガミハラハラの投稿には、重みが無い(笑)
544日本@名無史さん:2012/11/28(水) 13:02:29.56
だから、トリップをつけなかったのか
545日本@名無史さん:2012/11/28(水) 13:07:54.99
つーか伊作にしてもサガミにしても曲学の徒にしても古代史狂は
迷惑な輩ばかり
どっからこのエネルギーが出てくるのかねえ
546サガミハラハラ:2012/11/28(水) 14:11:39.78
もちろん古代史探求の情熱からですよ。
547太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/28(水) 15:02:27.40
>しかも他の投稿者に過去の投稿や矛盾点指摘されると「そんな事覚えていない」と開き直る。
        ↑
これなどは宿主空年ヤセ多抜キの得意技。
奴は都合が悪いと、スーグ覚えていないと〜書きこみで誤魔化しキング。
548☆☆:2012/11/28(水) 16:35:40.64
畿内説
549日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:40:50.30
卑弥呼は満州にいたはいつもへんなこといいがちだが
ねはまじめでがむばってよくうぇぶ調査するおひと
550日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:06:54.89
782 :卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 21:24:39.30
天照大神 ジャスコでブラジャーと ショーツ買ひ
ワコールの ショーツは高いと 不平言ひ

わっちには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神
551日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:16:19.46
朝鮮人はホント品が無いなぁ〜
552サガミハラハラ:2012/11/28(水) 18:18:03.92
ここから退散します。
553日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:21:29.13
おつ >>552 が豚だ 汚物かな?
554日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:26:58.75
>>546
てめーは「古代史探求の情熱」に名を借りた、飽くなき自己顕示欲からだろーが!
このキチガイが! (*゚д゚) 、ペッ
555卑弥呼は満州にいた:2012/11/28(水) 18:38:09.36
>>549
私は、稗箕狐と違って、あまりwebは調べない。まともな本を読む。
最初はネット史などもパソコンで読んでいたのだが、
目が疲れるので、仕方がないからプリンターを買った。
五千円の安物だが、インク代が高価なことに閉口している。
インク代だけで既に一万円を越えた。

>>550は、言うまでもないが、誰かの悪戯である。
トリップを使えという意見もあるが、放っておこう。
556ローガン:2012/11/28(水) 18:51:53.60
なんで荒れてんのん?
557日本@名無史さん:2012/11/28(水) 19:07:04.26
>>555
リサイクルインクは安いし十分
558日本@名無史さん:2012/11/28(水) 19:09:03.55
満州がヘンなこと書くから。
559サガミハラハラ:2012/11/28(水) 19:18:55.70
やはりここにもどります。
560日本@名無史さん:2012/11/28(水) 19:35:57.71
>>550 はだれかの悪戯ではないよ 
ご本人が悪ふざけで荒した野田。
野田に嘘ついたら野田になる野田。
561日本@名無史さん:2012/11/28(水) 19:43:38.68
正直言うと件の「ふたなり」の記事のやつは

なかみに「娘宿」の如きものがあったって書いてあったからきわめて貴重な史料だね
562日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:52:45.93
まあ、あれだ。
魏志倭人伝には銅鐸が出てこない。古墳らしき墓も出てこない。
卑弥呼は鏡が好きらしい。
弥生時代か古墳時代か。近畿地方か九州か。

>>555
インクは互換に限る。互換インクを使うと、純正インクは半分か3分の1しか
入っていないのではないかと思ったりする。
563サガミハラハラ:2012/11/29(木) 05:51:29.81
おはようございます。
菊の花とクコの実をつけたお酒と牛車腎気丸のおかげでとても元気です。
564日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:28:59.52
>>563
歴史研究編集部も「伊都国は多久と読みます」などという愚説を掲載するほど無能ではないぞ。
565日本@名無史さん:2012/11/30(金) 09:48:25.43
維新の会は第二民主党+新自由主義の反日政党です(右翼{保守}を装う反日{革命}政党)

維新の公約
最低賃金の廃止(企業は時給1円で雇える←新自由主義の柱・セーフティネット無し)解雇規制緩和(時給1円が嫌なら首に出来る)
相続税100%・遺産全額徴収 消費税11%

橋下は人権擁護法案推進 (解同が作った団体役員に就任) 在日地方参政権賛成
・地方分権推進(在日に地方を乗っ取らせるため)
大口後援者 ・マルハン、電通、博報堂(カジノ利権目当て)・ソフトバンク(電力利権目当て)・パソナ ←在日朝鮮人の会社

・今井豊  (大坂維新の府幹事長)元自治労東大阪役員、元同和利権組織ティグレ生野所長
・井上哲也 (元社会党) 社会党副委員長で同和利権ボスの井上一成の甥
・谷畑孝  (元社会党・外国人参政権賛成) 同和利権組織ティグレの候補 部落解放同盟 ハンナンから支援
・小沢鋭仁 (元民主党・外国人参政権賛成) 小沢一郎支持★ 「脱原発して、韓国から電力の直接輸入を行う」
・松野頼久(元民主党) 小沢系★ 鳩山内閣のブレーン TPP反対(維新はTPP推進w)
・今井雅人 (元民主党・外国人参政権賛成) FX情報会社会長 芸名マット今井
・柳ケ瀬裕文 (元民主党) 東京都都議 「蓮舫」公設第一秘書
・石関貴史 (元民主党) 小沢系★ 習近平の特例会見を擁護 丸刈り白スーツ
・富山泰庸 (元吉本芸人)(株)アベブ(パチンコ店向け人材派遣会社)取締役

在日朝鮮人「我々は合法的に日本を侵略する」「どうせデモの1つもできやしない」
大阪人は頭空っぽだから、ドラマや映画を見る感覚で選挙に行く。
我々は、有権者が幾度と無く騙される事は既にあらゆる詐欺を通して実証済みである
566日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:03:29.67
こんなん学問でもなんでもない。ただの妄想
567日本@名無史さん:2012/12/01(土) 10:50:04.95
学問的には伊都国は怡土ではありえない。佐賀市付近だな。
邪馬台国の所在地はそれでほぼ確定だ。
568日本@名無史さん:2012/12/01(土) 11:53:04.40
佐賀大和から糸島は、三瀬峠通って、
山向こうのお隣さんという感覚だが、

親戚関係でもあったかな?

歩けば勿論、相当大変だが。
569日本@名無史さん:2012/12/01(土) 11:55:45.05
三瀬峠から、佐賀方面に降りる道が2つあるのだが、
一つは惣座遺跡、肥前国庁付近、
もう一つは吉野ケ里付近に出るのだが、

これは、なにか示唆しているのだろうか?
570日本@名無史さん:2012/12/01(土) 12:39:42.84
地形からみて、佐賀と関係が強いのは松浦、唐津だよ
571日本@名無史さん:2012/12/01(土) 13:07:11.60
松浦、唐津が佐賀と関係が深いのは言うまでもない。
肥前国風土記の記述は、佐賀から唐津にかけての、
唐津街道の順で記載されている。

糸島と性の関係では、
糸島から福岡、篠栗にかけて、多くの事績を持つ神功皇后だが、
佐賀大和のヨドヒメ神社は、神功皇后の妹とされている。

また、北九州の仲哀天皇、久留米高良大社と、
福岡の神功皇后には、多くの関係があるとされる逸話が残されている。

北九州の仲哀天皇、福岡の神功皇后、
久留米の武内宿禰、景行天皇、

北部九州で、ネットワークが張られていることは想像に難くない。
572日本@名無史さん:2012/12/01(土) 15:15:17.72
本居宣長以来、邪馬台国所在地論争の主役は南九州だった。
しかし、江戸時代の固定観念として、その時代は神功皇后の時代であり、
大和朝廷の存在する時代だった。だから、卑弥呼偽僭説ということになった。

明治末期以降は、もっぱら北九州説と畿内説で争われてきて、南九州が
脚光を浴びることはまずなかった。
最近、ちょっと様変わりしているかな。
573日本@名無史さん:2012/12/02(日) 08:49:48.65
考古学が役に立たないって分かってきたからじゃないかな。
考古学は実のところ細かい年代など判定できないんだよ。そこで、畿内説を前提として
畿内発祥の古墳が地方に伝播するまでには五十年かかるだろうとかね百年かかるだろう
と考えて地方の古墳の年代を決めてきた。そうやって決めたにもかかわらず、そのこと
を隠して、各地の古墳の年代を比較すれば畿内が中心であったことはまちがいないと主
張してきたわけだ。その化けの皮がはがれてきたということだね。
574くまたろう:2012/12/02(日) 09:28:22.76
西暦600年の「隋書」倭国伝には邪推靡(ヤマタイ)の
阿毎王・アペヒミこと用明天皇は自称『我夷人』アイナ(アイヌ)と
語った記載があります。
また、継体天皇妃の‘目子郎女’メノコ(アイヌ語)いらつめ、が
安閑・宣化天皇を誕生させており、
小野妹子こと中国名:蘇因高(ソインコ)アイヌ語「ソンコ・エムコ」大使の意。
小野妹子の息子には‘毛人’ケヒトがいます。

古事記に登場のイザナギ命とイザナミ命が
“美斗能麻具波比”ミトのまぐあい、こと性交後に大八嶋が
誕生した記載があります
美斗の美(み)とはアイヌ語『成女の女核』の意。
美斗の斗(と)とはアイヌ語『突起の男茎』の意。

※『アイヌ語小辞典』著:山本多助より引用。

そして“おのごろ嶋”の“おのごろ”とは
アイヌ語『オンネ・コル』古い・大きな人神こと
日本本州“御祖大神の嶋”の意と思われます。
575くまたろう:2012/12/02(日) 10:01:40.96
『誅殺』とは、上級者が悪い下級者に対する粛清処分を言う。
※対等な戦闘ではない。
『天誅』とは天に代わって罰すること。

魏国の領地である帯方郡の大守「王頎」が魏帝・斎王芳から
預かっていた『詔書』『黄幢』を難升米に拝授させ
「張政」と共に狗奴(アイヌ)國との抗争に和解命令を発動したのだが、
卑弥呼・高天原の宗族一派は同意しなかったために、
将来とも後継者争いの火種となる高天原の宗族一派を
難升米は『誅殺』したものと推察する。

その後、高天原の宗族一派は高千穂に逃避。
熊襲・隼人族と結合したように思われ、
西暦5世紀中頃に政権奪還のために神武東征があったと考えられる。
576卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 12:30:16.90
それは間違いであると考えられる。
577日本@名無史さん:2012/12/02(日) 12:52:50.10
うんち
578日本@名無史さん:2012/12/02(日) 23:00:17.67
プロにもわからんことを素人にわかるわけがないだろ
579日本@名無史さん:2012/12/02(日) 23:02:28.54
歴史レスは一見もっともらしい~名とか地名が出てくるから
まともそうに見えるが
よく読んでみると実にトンデモな内容が多い
580日本@名無史さん:2012/12/03(月) 14:28:10.17
488 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] : 投稿日:2012/12/03 09:26:59ID:RC/vqUba0 [1/1回(PC)]
名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/12/03(月) 09:18:26.68 ID:Qt45Fz4s0
16 +4:名無しさん@13周年 ::2012/12/03(月) 02:18:01.01 ID: xm0FnEtg0 (1)
500 名前: イエネコ(西日本)[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 00:21:44.74 ID:9Ejy1hpx0 [2/2]

道路保全技術センター wikiより

財団法人道路保全技術センター(どうろほぜんぎじゅつセンター、英: Road Management Technology Center、現在は解散)は、
日本の国土交通省所管の財団法人。
道路および道路構造物の保全や調査研究、道路管理システムの提供、技術指導や資格制度の運営などを行っていた。
行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。

ちょw


道路保全技術センター
事業
・調査・研究および開発技術の提供
・レーダーを用いた路面下空洞探査、道路の防災管理、トンネルの保全、道路標識や路上工事削減に関する調査・研究などを行った。
トンネルの保全・・・

>行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
581くまたろう:2012/12/04(火) 06:07:32.69
『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸鮮卑東夷傳の記載より。

原文『長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、
小大區別、各有名號、可得詳紀。』

 訳『ある長老の「説」話によれば(東大海の日本に)異面(黥面)人こと
倭(委)奴人(アイヌ族)がいる。
 長老は「近日」太陽に近い所(日の本・常陸国)から出発後「諸国」を
「周觀」見回った。(舟で倭國を)各国を 周旋した様子)
そして、その国々の特有な風俗と規律を「采」記録した。
国々には 「小大」大きさの「區別」が あって「各」其々「名號」国名の「有」あり、
詳しい「紀」記録が「可得」あった。』
582日本@名無史さん:2012/12/04(火) 09:08:57.04
満州クンに続くスター誕生か?
583日本@名無史さん:2012/12/04(火) 11:17:29.48
「東方人名我爲阿」

「阿委奴」=「あゐぬ」

われらはいぬなり
584卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 12:52:34.54
又遣偏師、致討窮、追極遠。
踰烏丸骨都、過沃沮、踐肅慎之庭、東、臨大海。
長老說、有異面之人、近日之所出。
遂周觀諸國、采其法俗、小大區別各有名號、可得詳紀。

周觀諸國したのは長老ではなく偏師である。
585卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 12:55:21.01
長老說、有異面之人、近日之所出。

これは日本や北海道のことかもしれないが、
樺太かもしれぬ。
586卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 13:08:11.56
言うまでもないが、周觀諸國の諸国とは、
烏丸鮮卑を含む東夷諸国のことであって、日本のことではない。

間違えないように。
587日本@名無史さん:2012/12/04(火) 15:31:34.67
>>581
長老の言葉は「有異面之人、近日之所出」の部分だけ。
「異面の人あり、日の出る所に近し」
異面の人が日の出る所の近くにいるという意味で、
長老が太陽に近い所から出発したのではないよ。
588日本@名無史さん:2012/12/04(火) 15:31:39.94
凄まじい。既成政党を打破とか言ってるけどお前のとこが一番独善的
共産党やナチスより酷い妙ちくりんな集団
前科者も複数紛れて、いかにも大阪らしい

無党派さん[] 投稿日:2012/12/03(月) 21:55:03.05 ID:3W6Dp3GZ [11/13]
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012120300800

維新 比例名簿の登載順位は次の通り。
(丸囲み数字は順位。同一順位の重複立候補者名は省略。前=前職、元=元職、新=新人。敬称略)
 【北海道=4人】(1)重複候補3人 (4)米長知得(新)
 【東北=11人】(1)小熊慎司(新)=福島4区 (2)重複候補2人 (4)重複候補8人
 【北関東=18人】(1)上野宏史(新)=群馬1区 (2)石関貴史(前)=同2区 (3)重複候補14人 (17)植竹哲也(新)(18)仲田大介(新)
 【南関東=20人】(1)小沢鋭仁(前)=山梨1区 (2)松田学(新) (3)重複候補16人 (19)田中甲(元) (20)横田光弘(新)
 【東京=22人】(1)石原慎太郎(元) (2)今村洋史(新) (3)山田宏(元)=東京19区 (4)重複候補18人 〔22〕上村昭徳(新)
 【北信越=10人】(1)中田宏(元) (2)重複候補8人 (10)堀居哲郎(新)
 【東海=14人】(1)藤井孝男(元) (2)今井雅人(前)=岐阜4区 (3)重複候補11人 (14)近藤浩(元)
 【近畿=40人】(1)東国原英夫(新) (2)西村真悟(元) (3)重複候補8人 (11)三宅博(新) (12)重複候補28人 〔40〕喜多義典(新)
 【中国=8人】(1)重複候補6人 (7)藤井昇(新) (8)谷本彰良(新)
 【四国=7人】(1)重複候補4人 (2)重複候補2人 (7)大内淳司(新)
 【九州=19人】(1)松野頼久(前)=熊本1区 (2)重複候補17人 (19)黒仁田典之(新)

マスコミに踊らされる前に、中身見たほうがいいな
589日本@名無史さん:2012/12/04(火) 15:52:59.29
>>586
>烏丸鮮卑を含む東夷諸国のことであって、日本のことではない。

烏丸鮮卑は含まない。

其後高句麗背叛,又遣偏師致 討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。
長老?有異面之人,近日之 所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。

高句麗が叛いたので、軍隊を派遣して、
烏丸、骨都をこえ、沃沮を過ぎ、肅慎之庭をふみ、東で大海に臨んだ。
そこで長老が日の出る所に近い=さらに東に異面の人がいるというので、
その諸国を周観した。
烏丸を越えた所で、さらに東の話をしているのだから、烏丸は含まれない。
590日本@名無史さん:2012/12/04(火) 16:05:42.16
>異面の人がいるというので、その諸国を周観した。
肅慎までしか行ってないんだよ。あとは伝聞。諸国とは肅慎までの国々のこと。
591日本@名無史さん:2012/12/04(火) 17:21:43.15
異面の人ってので牛頭とかアラハバキが思い浮かんだよ
592日本@名無史さん:2012/12/04(火) 17:39:02.25
>>590
>肅慎までしか行ってないんだよ。あとは伝聞。諸国とは肅慎までの国々のこと。

それでは、「遂周觀諸國,」の「遂」が意味をなさない。
「遂」は「その結果・かくて」という意味。
肅慎まで行って、東の海岸で長老の話を聞いた。
「その結果として」諸国を見て回ったというのだから、
肅慎より東、異面の人の住む日の出る所に近い=更に東の諸国を回ったんでなければ、
文章の意味が通じない。
593日本@名無史さん:2012/12/04(火) 18:47:44.52
委奴人はアイヌだったのか。それにしては言葉が日本語とかけ離れた
594卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 18:59:47.34
公孫淵や高句麗を討伐したことによって東夷諸国の事情が分かったという記事であり、
この記事の後に夫余、高句麗、東沃沮…等の記事が続く。
実際、夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、穢、韓、倭の伝は三国志が初出なのである。

東臨大海まで行ったのは高句麗討伐軍だろうが、その軍が日本まで来るはずはない。
とにかく公孫淵や高句麗討伐によって東夷諸国のことがかなりよく分ってきたという記事である。
595卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 19:11:24.30
逆に言えば、それまで中国は沃沮、挹婁、馬韓、辰韓、弁辰については無知だったのである。
なにしろこれらの国はそれまで朝貢してきたことも無かったのだから。

言い換えれば、後漢時代に倭と呼ばれたのは、
沃沮、挹婁、馬韓、辰韓、弁辰…のことかもしれないのである。
596日本@名無史さん:2012/12/04(火) 19:17:51.64
そうすると東夷は総じて倭語ということに
597日本@名無史さん:2012/12/04(火) 19:31:16.30
>>594
違う
当時、半島北部は未開の地だった
半島西南部は海の難所で当時の船では航行不可能
中国と日本の交易路は会稽発の南方ルートしかなかった。
ところが魏の領域が半島東部にまで及んで、比較的に航海容易な半島東部から日本海経由の航路が拓けた
そのことによって世界が繋がったというのがこの記述の真意
当然、帯方郡は半島東岸にあったということになる
598日本@名無史さん:2012/12/04(火) 20:08:46.55
>>592
>「遂」は「その結果・かくて」という意味。
だからこそ、肅慎までなんだよ。「その結果・かくて」というのは、「それまでに
書いたことから」という意味だ。君はそれを「更に」と混同しているんだよ。
599くまたろう:2012/12/04(火) 20:49:35.06
「魏書」東夷傳倭人の条より
『(略)參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』

解釈
『倭の地を問えば、海中(日本海)の洲島の上に点在し、
或いは離れ或いは連なり、周囲は五千余里(約2200Km)程。』と、
日本海より見た倭國の形状を説明をしていると解釈。

『海中(日本海)洲島の上に点在している。』とは、
対馬島・壱岐島・北九州諸国・隠岐島・島根列島など
日本海側の『洲島』を説明しており、その勢力範囲は、
太平洋・瀬戸内海沿岸の諸国を含め約2200Km周囲に
及ぶ事を表記している。
600日本@名無史さん:2012/12/04(火) 21:55:53.26
点在しているとはないぜ。
601卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 22:01:09.34
>>597
>当時、半島北部は未開の地だった
>帯方郡は半島東岸にあった

その根拠は?
602日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:26:59.50
>>599
>周囲は五千余里(約2200Km)程
倭人伝の里は80メートル前後。周旋五千里とは四百キロぐらいのものさ。
それに周旋は周囲ではない。巡って行く距離だ。唐津から日向の南端までの
距離だよ。
603日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:36:38.12
>>601
未開の地っていうのは中国文化の及んでなかった地ってことね
上:半島側に於いては漢江を挟んでの文化の断絶。方形周溝墓は漢江南岸までにしかなく、北方から伝わった形跡がない
  大陸側に於いては万里の長城に見られるとおり、はっきりとお互い拒絶しあっていた
下:その推測のもとでの当然の帰結
604日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:15:08.45
>>598
>君はそれを「更に」と混同しているんだよ。

「更に」というのは、東に進んで大海に突き当たったところから、
日の出る所といえば、海岸より「更に」東だという意味。
この「更に」は「遂」の解釈とは関係ない。
605卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 23:20:12.90
>>603
半島北部には中国文化は及んでいなかったという意味なら首肯できる。
しかし漢江の南北で文化の違いがあることと、この問題は関係ない。
ちなみに揆園史話にも江華以南は昔は南夷の人が住んでいたとあるから、
昔から漢江の南北で国や文化の断絶があったのではなかろうか。
漢江以南が加耶だったのかもしれないし、狗邪韓国だったのかもしれない。
加耶も狗邪韓国も、われわれが想像しているような小国家ではないのである。

尚、半島北部には中国文化は及んでいなかったということと、
帯方郡は半島東岸にあったということとは論理的に結びつかない。
606日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:53:17.26
>>605
会稽経由or帯方経由、これ以外の中国と日本の交易の記録って残ってる?
607卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 09:16:28.18
>>606
帯方郡の位置は東側ではないという明白な資料がある。
帯方郡は西側にあるのである。
どこの西側かといえば遼東地方の西側だ。
はっきり言えば遼東半島方面にあるのである。
中国の正史にその位置を示す記述がはっきり書かれている。

勿体ぶらずにここに書いてもいいが、なんとなく書くのが惜しいから書かない。
誰でも、読めばすぐに分かることだ。ほんのちょっと調べればすぐに分かる。
誰も、興味がないから調べない。調べないから分らないのである。
608日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:29:19.25
帯方郡が朝鮮半島の西側にあるということは、倭人伝に明白に書いてあるよ。
609サガミハラハラ:2012/12/05(水) 09:51:17.20
>>605の卑弥呼は満州に居た三は極めて重要なことをかいています。
揆園史話に江華以南に南夷のひとが住んでいたとあるとのこと。
これは東夷といわれている地域にさらに南夷がるということになるでしょう。
つまり、東夷のなかがさらに、東西南北の夷となるようです。
晋の時代に東夷三十カ国西南に二十カ国とありますが、この西南夷は、ベトナムのほうではなく、半島の西南部のことをさすとみてよいのでしょうか?
610卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 10:05:41.92
>>609
江華以南の南夷の人とは、満州から見て南夷の人という意味だろうから、
中国人の謂う所の南夷とは別だと思うよ。
揆園史話の著者は朝鮮人で、揆園史話とは満鮮の古代史を語った書物だから。

大昔は江華以南には満鮮族とは別の民族が住んでいたという話だ。
それが日本人なのか、沖縄人なのか、中国南部人なのかは不明。
あるいはそれが熊襲と呼ばれている民族だったかもしれぬ。
611日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:48:34.26
乍南乍東って半島西部の地形に合致しない
半島東部ならピッタリ
612日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:56:42.45
半島東部をしばらく南へ進み、しばらく東へ進んだら竹島か隠岐だぞ。
613日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:58:14.77
つ「倭地に牛馬なし」
614日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:39:01.80
朝満老人よ、

倭とは、朝鮮でも満州でも沖縄でも台湾でもなく、日本列島だということが分かったかな?
615唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/05(水) 19:25:31.43
>江華以南の南夷の人とは、満州から見て南夷の人という意味だろうから、

夷は、中華の周辺国5000里の外
蛮は、夷の外側 10,000里の外

満州は中心になれない。
616日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:33:21.41
委とは東の意
それに人偏が付いて倭
中華思想の元では支那人以外は人間ではない
始皇帝の焚書抗儒に抵抗して、徐福はじめ多くの知識人が秦を脱出した
その行き着いた先が倭で、その文化的影響を受けてるのが倭人
617唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/05(水) 19:52:00.99
後漢書志第二十三  郡國五 より
涿郡 廣陽 代郡 上谷 漁陽 右北平 遼西 遼東 玄菟 樂浪 遼東屬國
右幽州

遼東屬國を遼西や玄菟に設定できるのか?
遼西の東に遼東があり、その奥に玄菟 樂浪 遼東屬國がある。
618卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 19:57:57.96
>>613-614
君らの如き低レベルの人間を相手にしている暇はないので無視しているのだが、
黙っていると負けたと思われるので書いておこう。

もはや倭人伝の風俗記事に頼るしかないとは、哀れである。
倭人伝の風俗記事には南方の資料も混在しているのだろう、というのが学者の一致した見解である。
倭人伝に書かれていることに誤謬は無い、等と考えているのは、 古田と君らくらいのものである。

おまけに私は倭人伝に書かれているのは日本のことだと前々から言っている。
そこに書かれているのは日本の地理であり日本の風俗なのである、少々南方の資料も混在しているとはいえ。
邪馬台国も大和のことなのである。

ところが後漢時代に倭と呼ばれたのは日本のことではない、と私は言っているのである。
卑弥呼の倭も五王の倭も日本のことではないと主張しているのである。
だから倭人伝の地理や風俗記事をどんなに研究しても無駄ですよ、と言っているのである。
なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。

畿内論者も九州論者も、どんなに記紀その他の文献や考古学を勉強しても無駄である。
百年研究しても無駄である。なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
619日本@名無史さん:2012/12/05(水) 20:43:01.47
↑もはや廃人だな…
620日本@名無史さん:2012/12/05(水) 20:48:37.85
>>618
>後漢時代に倭と呼ばれたのは日本のことではない、と私は言っているのである。

後漢書東夷伝
「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。詩人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬以ってす。
安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、相更攻伐して歴年主なし」

これについてはどういう見解をお持ちで?
621日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:15:10.30
こらこら、>>620クンよ

満州のような低レベルを相手にしてる暇はないだろ、君は
エサをやっちゃいかんぞ
622卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 21:16:27.82
>>620
それも日本ではないよ。
大夫などという称は日本には無い。
また生口を百六十人も連れて行くのは大変なことだ。

ちなみに生口というのは大抵の場合捕虜を意味する。
ネット史で生口と書かれているのは殆んど捕虜のことだ。
卑弥呼の使者が連れて行った生口も恐らく捕虜にした公孫氏の兵なのである。
朝貢は景初三年だと説く人はそのことを計算に入れていない。
喪明けの新帝への挨拶に捕虜を連れて行くようなことはしないだろう。
公孫氏との戦争中に公孫氏の兵を捕虜として連れて行ったのである。
だから朝貢したのは景初二年である。
623日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:29:22.93
>>619>>622は朝満老人のトンデモ真骨頂。永久保存版だなwww
624卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 21:40:27.12
ネトウヨが なぜか恐れる 朝鮮説
625卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 21:50:30.28
これは古田も書いていることだが、
卑弥呼の最初の朝貢品はいかにもみすぼらしいのである。
男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈
たったこれだけである。こんなものを新帝への祝賀として持っていくはずがない。
戦争中に、ろくな準備もせず、あたふたと朝貢したのである。
古田は、鋭い時は鋭い。
626唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/05(水) 21:52:56.88
>また生口を百六十人も連れて行くのは大変なことだ。

新羅 193 倭人が大飢饉となり避難民到来 (後漢193年冷夏 翌年逃散)
この倭人は、新羅南部の過疎地に入植。半島における水田の始まりか?

193年で千人以上が新羅へ渡ることができている。
627卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 21:57:10.32
>>626
だからその倭人が日本人であるという証拠はどこにもない。
渡海してやって来たとも書かれていない。

その倭人は日本人ではないのである。
渡海して来たのでもない。陸続きで来たのである。
新羅も唐松山が思っているような地域にあったのではない。
628太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/05(水) 22:01:12.53
それは渡れたろう。
その千人以上というのは対馬あたりの住民だからだ。
そこから半島の先端が見えるくらいだろう?
これなら渡れるね。

しかし畿内からは到底無理だな。
先日も半島から死人となった朝鮮人が5人も船上にいて日本の海岸に
着いた状態だったという。

これを観ても半島に近い対馬あたりなら可能だが、畿内から空腹では諸葛孔明
でも不可能だ。ww
だから崇神6年の離散農民は飢餓で疫病に罹っている状態であり、到底半島にそこからでは渡海は出来ない。
崇神当時、特別の事情がない限り書紀に書かれるのは畿内の中の出来事だ。
その例外は遣使だとか戦争だとかなら畿内のでなくても書くだろうが、朝廷には倭内でも当時の外国である対馬
農民の記事など書紀には書くわけがない。
629サガミハラハラ:2012/12/05(水) 22:09:08.87
>>625朝貢品がみすぼらしかったのは、途中で賊に出会い、ほとんどのものを掠奪されたからですよ。
当時は公孫氏がほろんだばかりで、半島の治安は悪化し、敗残兵などが徒党を組んで各所をあらしまわっていたわけです。
その賊に遭遇してしまったわけです。
ちなみに中国の賊は数百人からときには万単位の集団だったそうです。
630太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/05(水) 22:15:43.06
満州にいたというんなら、倭人伝に対海国、一大国の記述なんぞするわけが
なかろう。
所詮朝満男のひどい盲象。

だが宿主よりはその盲象度はかなり低いから、矯正の余地があろう。w
631日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:15:58.96
その公孫氏のなかみがあやしいのですよ

たいほう王として生き残って百済のルーツの一部になるわけでさ
632卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 22:17:17.25
ここの連中の書くことを読むと思わず笑ってしまうことが多々あるのだが、
サガミハラの投稿などもその類だな。

太守劉夏遣吏将送詣京都

ちゃんと護送されて洛陽に至っているのだから、賊には遭ってないよ。
賊に遭ったという資料はどこにもない。
資料的根拠も無いのに好い加減なことを書くから笑われるのである。
633日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:22:16.09
芻牟のプロパティは半島住まわった倭人に限りなく近いのに注意
634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/05(水) 22:53:15.10
>その千人以上というのは対馬あたりの住民だからだ。

対馬から千人が消えたら、対馬に多大な影響が出ていなくてはならないが
何の影響も出ていない。何しろ海の幸でなんとかしのげるからな。
635サガミハラハラ:2012/12/05(水) 23:05:16.30
賊にあったのは倭から帯方郡にいく途中です。帯方郡から都へはおっしゃるとおり護衛がついていますので安全です。
636日本@名無史さん:2012/12/06(木) 06:32:16.11
太国先生、
朝満老人(>>619>>622)を唐松山のように、松沢病院送りにしてやってください!w
637日本@名無史さん:2012/12/06(木) 08:31:06.31
太国先生!
あっしからもお願いいたしやす。
638日本@名無史さん:2012/12/06(木) 08:57:31.75
よっ!太国!大将!
639日本@名無史さん:2012/12/06(木) 09:04:04.60
::::::::        ┌───────────────-┐
::::::::        |満州が、イカれたようだな.…      │
:::::   ┌───└───────────v───┬┘
:::::   |フフフ…奴は邪馬台攻撃隊の中でも最弱.… │
┌──└────────v──┬───────┘
|新参者相手に、手こずるとは.  │
|一門の面汚しよのう.…      │
└────v─────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡      ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   ( ゚ω゚ )
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\ '    `
  太国         老眼       唐松山    満州
640日本@名無史さん:2012/12/06(木) 10:06:23.94
生口とは生け贄のことだ
殉葬に使うのか人柱に使うのか解らないが
ある程度の身分の未成年男女だ
生口を差し出すのは最大の臣従儀礼だ
641日本@名無史さん:2012/12/06(木) 12:14:32.49
>>618>>622 オワタw
642卑弥呼は満州にいた:2012/12/06(木) 12:26:50.91
>生口とは生け贄のことだ

その根拠資料をすべて挙げてみよ。
また新帝への祝い、あるいは新年その他の祝賀に生口を献上したという例を挙げよ。

ちなみにネット史では殆んどすべての場合に於いて捕虜の意味で使用されている。

>>641
終わっているのはお前の頭。
643日本@名無史さん:2012/12/06(木) 12:31:39.07
>>641
ついに壊れた朝満老人、松沢病院行き決定だなwww
644卑弥呼は満州にいた:2012/12/06(木) 12:36:37.38
>>643
この男の頭もすでに終わっている。
なんで2chはこんなにバカが多いのだ?
645日本@名無史さん:2012/12/06(木) 12:38:11.99
>>643
いや、生ゴミ焼却炉or飼育放棄家畜屠殺所行きっしょ!w
646卑弥呼は満州にいた:2012/12/06(木) 12:49:54.64
アラフォーの バカが主役の 2ch
647日本@名無史さん:2012/12/06(木) 12:56:27.12
618 :卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 19:57:57.96

おまけに私は倭人伝に書かれているのは日本のことだと前々から言っている。
そこに書かれているのは日本の地理であり日本の風俗なのである、少々南方の資料も混在しているとはいえ。
邪馬台国も大和のことなのである。

ところが後漢時代に倭と呼ばれたのは日本のことではない、と私は言っているのである。
卑弥呼の倭も五王の倭も日本のことではないと主張しているのである。
だから倭人伝の地理や風俗記事をどんなに研究しても無駄ですよ、と言っているのである。
なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。

畿内論者も九州論者も、どんなに記紀その他の文献や考古学を勉強しても無駄である。
百年研究しても無駄である。なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
648日本@名無史さん:2012/12/06(木) 15:07:06.95
倭の神仙の子を生口として送ったのだ
真珠や翡翠と同じ地域特産品だ
649日本@名無史さん:2012/12/06(木) 15:22:02.44
アンチ涙目ワロタwwwwwwwww
ち〜ん(笑)
650日本@名無史さん:2012/12/06(木) 16:23:23.74
先方に届けた時に死んでいれば「生口」とは言えない野田。

ちなみに「生口」は「せいこう」と読むのではない野田。

「いきろ」と読む野田。
651卑弥呼は満州にいた:2012/12/06(木) 17:25:17.17
>>648
だからそれを資料を挙げて説明してごらんよ。
資料を出せば説得力が出るのだよ。
652日本@名無史さん:2012/12/06(木) 19:47:15.58
生口の生
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/23586/m0u/%E7%94%9F/
>(5) 無理に,あくまで
これからすると、
無理やり(連れてこられた)人=奴隷・捕虜ってのもあり得るな
653卑弥呼は満州にいた:2012/12/06(木) 19:51:54.50
せい‐こう【生口】

古代中国などで、捕虜または奴隷。魏志倭人伝などに見える。
広辞苑第六版より引用
654日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:30:32.02
生口とは童貞と処女、身長でいうと140cm未満の子供だろうな。
このくらいの年齢なら、反抗することなく、奴隷として育てることが出来る。
655卑弥呼は満州にいた:2012/12/07(金) 09:11:12.94
>>654
だからそれを資料を挙げて説明してごらんよ。
資料を出せば説得力が出るのだよ。

君らは資料も出さずに好い加減なことを書くから笑われるのだよ。
どこかの名無しがいつも投稿しているではないか、

こんなの学問でも何でもない。ただの妄想だ。

と。まったくその通りだ。
656日本@名無史さん:2012/12/07(金) 09:31:06.25
ネット朝鮮史などというのは、資料にはならないぞ。
657日本@名無史さん:2012/12/07(金) 11:12:32.29
契丹古伝
檀君古伝
も史料にはならんぞ
658卑弥呼は満州にいた:2012/12/07(金) 12:48:56.68
立派な資料だよ。
君らのようなのを中国史書崇拝教というのだw

一種の中華思想というやつに君らも染まっているのである。
文字の国中国の書を何よりも尊しとし、周辺国の書は一段劣っていると見なす。
その姿勢が記紀軽視にも表れている。記紀はデタラメだと断言して憚らず、
その一方で倭人伝には一字一句の誤謬も無いと見なす。

それでいながら日本を愛し天皇を愛し、朝鮮民族も中国人も軽蔑しているのだから、
無茶苦茶だ。論理に一貫性が無い。日本を愛しているなら記紀を信じろ。
少々の間違いがあろうと神武は紀元ゼロ年だとか崇神は三世紀だなどと好い加減な事を言うな。
659日本@名無史さん:2012/12/07(金) 16:07:19.57
いつ、誰がどんな資料に基づいて書いたものかが問題だよな。
660卑弥呼は満州にいた:2012/12/07(金) 18:50:50.15
読んでみれば有益な情報満載なのに、
それが偽書とされているから読まない、というのは惜しいことである。

それは例えば、邪馬台国は大和というのが定説だから、
邪馬台国論争など勉強しても無益だ、と思うことと等しい。

そういうのは、結局、世間の通念に屈服しているのと同じことなのである。
自分の考えより、他人の考えを尊重していることである。
661卑弥呼は満州にいた:2012/12/07(金) 19:00:55.20
史学というものは、結局は、知識がすべてなのである。
稗箕狐はネット史を読んでいる。君らは読んでいない。
君らがどんなに頭が良くても、朝鮮史に関しては、
君らは稗箕狐に太刀打ちできないのである。

唐松山や太国は偽書とされるものも読んでいる。
なにはともあれ、その分だけ、我々より知識があるのである。

読み手の理性と判断力がしっかりしていれば、偽書を読んでも損をすることはない。
662日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:35:10.62
>>660
>>661
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1352841537/550
こんな事を書く奴に言われてもなあ┐(´〜`;)┌
663日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:43:33.31
満州くんてえっち
664くまたろう:2012/12/07(金) 22:45:35.34
『三國志』巻五十一「呉書」宗室傳第六の条

原文『孫賁字伯 陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕,堅同産兄也。』と記載。
〔聖臺〕を(聖壹)と記載した理由は、敵国の「呉書」に登場する
西戎族国出身「羌人」の字(あざな)故に陳壽が変歪のうえ
記載したろだろうか?。

「中華書局」編集部において、陳壽?が(聖壹)と記載した文字を
「續後漢書」巻五十三・郝經著「校記」の〔聖臺〕を根拠に採取している。

即ち、誤りの(聖壹)を削り(表示刪的)そして正しい
〔聖臺〕に〔表示増的〕訂正している。
665卑弥呼は満州にいた:2012/12/07(金) 23:12:10.88
結局は知識である。
知識の有無が勝負を制するのである。

上でくまたろう君が何か書いているが、
くまたろう君はよく勉強していてこういう知識があるのである。
われわれはくまたろう君が上に書いていることを知らなかったのである。

考古学の知識が豊富な奴もいるし雑学の豊富な男もいる。
どんな知識でもいい。知識は豊富であればあるほどいいのである。

興味が無ければ読む必要はないが、
興味があるなら契丹古伝や桓檀古記を読んでみればよい。
世界が広がる。知識が豊富になる。人間の器が大きくなる。
666日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:18:30.08
「われわれは」じゃなくて「私は」だろ
ごく有名な話じゃまいか
667日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:26:37.45
>人間の器が大きくなる。

かえって偏狭になるとしか思えんが。
668日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:29:43.87
塵コレクションしがちな大器のなには小器
669日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:38:33.36
間違った知識をは持たない方がいいな。
670くまたろう:2012/12/08(土) 00:28:22.45
【臺と台】陳壽時代において「臺と台」は同義語に扱っていないようだ。

『三國志』全65巻(魏書35巻・蜀書15巻・呉書20巻)記載表記の
「臺」と「台」の文字採取の表

【魏書】{地名}南巡臺。東巡臺。九華臺。漸臺。鄴臺。天臺縣。銅爵臺。
鸞臺。蘭臺。惟宮臺。鹿臺。 銅雀臺。金虎臺。陵雲臺。永始臺。
(計15箇所)
「人名」字・偉臺(王観)(計1箇所)
「楼閣 」下藏臺閣。且臺。臺閣據。衡專於臺閣。臺閣献之。臺閣総之。
疑誤臺閣。臺閣近臣。(計8箇所)
「その他」有明臺之議。遂召柔詣臺。不營小臺之娯。典行臺獄(牢屋)。
令於其上作臺觀。(計5箇所)
「魏帝」因詣臺。(計1箇所)
「国名」『邪馬臺國』を邪馬壹國(「東夷傳」のみ)に記載。
※陳壽が記載したものか南宋紹興再版本時代に変歪したのか?不明。

【蜀書】「地名」平臺。臺登。(計2箇所)

【呉書】「地名」臨釣臺。堕(臨釣)臺中(酔って臨釣臺に落ちる)(計2箇所)
「人名」文臺。幼臺。玉臺。聖臺(聖壹)。(計4箇所)
「その他」臺令有本末。臺以此臺觀。宮無高臺。昭王築臺。以尊隗郭。
故遣中臺近官。(計6箇所)
※呉書は人名に『臺』文字を使用している?。
671くまたろう:2012/12/08(土) 00:36:59.27
【魏書】「人名」馬台。與台。台後坐法。仇台。優台(官職名)
(計5箇所)
672日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:22:41.38
マン臭は 偽書キチガイの 精神異常者w
673くまたろう:2012/12/08(土) 06:28:04.90
『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳倭人条より

原文『自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。』

訳『女王國から北に行く所の人口や国境の広さは(信越・関東地方など)
概略で知る事が出 来る。
其の他の国(東北地方・北海道)は遠く辺鄙なので記録することが出来ない。』と記 載があり、

邪馬台国を九州に比定すると邪馬台国の“北”は玄海灘・日本海であり、
この文脈では大きく矛盾する。

「隋書」原文『自竹斯國以東皆附庸於俀』

その意は『竹斯國(筑紫国こと北九州)「自」から東の国は皆倭國の
「附庸」附属の弱少国。』と、明確に都・邪靡堆(邪馬臺國の国都)が
筑紫国の【東】方向に位置していることが明記されている。

従って邪馬臺國時代(西暦200年代)には 「伊都國」を『府』としていた。
また、竹斯國(筑紫国)時代(西暦600年頃)も国都・邪靡堆の
附属国と言える。
674日本@名無史さん:2012/12/08(土) 07:51:06.28
>邪馬台国を九州に比定すると邪馬台国の“北”は玄海灘・日本海であり、
>この文脈では大きく矛盾する。
博多湾沿岸説は確かに矛盾するが・・・ 以北の国というのは里数や戸数が
書かれている奴国までの国々。その南に女王国があるというわけで、女王国
は九州の中だよ。

>『自竹斯國以東皆附庸於俀』
竹斯國よりも東は倭にくっついている国々であり、倭ではない。
倭国の中心国である邪馬台国は東にはないってことね。
675日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:41:15.90
古墳時代の倭国の大王や、奈良時代の日本書紀の編纂者が朝鮮半島のことを 「海北」と言ってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で確定じゃん。

奈良時代まで朝鮮半島のことを「海北」言っていた。
これは、北部九州高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったか ら「海北」と言っていたころの名残なのだ。
宋書倭国伝に引用された478年(神武東征からしばらく後)の「倭王武の上表 文」には、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北」を征服平定したと述べてい る。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」と書いてあ る。
676日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:46:08.68
>>675
まさにそのとおり、やな。
こういう簡単なこともわからんのが多いから困るんや。
朝鮮は九州のことを長らく「南倭」と呼んでたしな。
日本と倭は別もん。誰でもわかることや。
677日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:52:56.30
>>675 >>676
北九州では水行二十日、水行十日陸行1月の説明ができないね。
678卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 09:28:01.25
>>673
訳『女王國から北に行く所の ←これは誤訳
自竹斯國以東皆附庸於俀  これの訳はほぼ正しい。
要するに九州は大和に附庸していたわけだ。ところが九州論者はそれを認めようとしない。

>>675
九州も日本である。だから朝鮮を海北と表現するのは当たり前のことである。

>>676
朝鮮が九州のことを長らく「南倭」と呼んでた、という資料はどこに?

>>677
まったくその通り。その文章があるがゆえに九州説は決定的に不利である。
尤も、そういう君は南九州説者かもしれないがw
679日本@名無史さん:2012/12/08(土) 09:40:15.73
>要するに九州は大和に附庸していたわけだ。
大和は九州よりも東だってことを忘れているらしい。
680日本@名無史さん:2012/12/08(土) 09:43:24.36
>>677
ここで問題になるのは、それだけではない。
水行なら二十日で行けるところを
わざわざ、水行十日と陸行1月、つまり倍の40日かけて行かなければならなかったのはなぜか?
その説明ができないね。

ずばり、邪馬台国は日本海側にあった。季節風の吹着、海が荒れる冬の間は、日本海ルートは使えなかったということです。
冬でも比較的穏やかな瀬戸内海ルートをたどって難波津から上陸して1ヶ月かかる日本海側の都市、
邪馬台国は、ヒスイの産地として縄文時代から栄えていた糸魚川にあったことは間違いない。
大国主も沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)と結婚して権力の座を手に入れている。

邪馬台国は、百越のひとつ、新潟から富山付近にあったと見るべきではないのか?
681卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 09:43:49.77
北九州の人間が朝鮮のことを海北と呼ぶ。
そして日本書紀のその箇所は宗像の女神のことが書かれた箇所で、
宗像の女神は筑紫の人が海北と呼ぶ道中の島にあるという意味で、それだけのことである。
筑紫地方の地名を用いて筑紫地方の女神を語っただけの記事である。

朝鮮が九州のことを南倭と呼んでいたなら、論理的には、
朝鮮は北倭である。
682卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 09:54:08.71
自竹斯國以東皆附庸於俀

なるほど、これはよく読めば竹斯國以東は俀に附庸するが、
竹斯國は俀に附庸しないとも解釈できる。

では筑紫国は何と呼ばれたのだ?
本州が俀で竹斯國が倭か?
それは古田の説とは正反対なのだがw

それとも竹斯國とは九州全体を指すのか?
さあ答えてくれ九州説諸君。
683日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:37:56.24
マン臭の言ってる事は根拠が示されていないものが多すぎる。
単なる妄想や偽書に拠るものなら、オカルト板にいきたまえ。
684日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:42:24.23
ジョーカーは去り、伊作も近寄らず
この現状ではむべなるかな
685日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:52:25.30
別にいいんじゃない?
マン臭とかいうのはここで妄想垂れ流すくらいしか人生の楽しみが無いんだろうからさ
その楽しみまで奪っちゃったら本当に発狂するかもよ
686日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:54:47.14
竹斯國は北九州だろうな。それは倭と=ではなく、倭に含まれる国だ。それより東の本州の方は
全部倭に附庸する国だよ。
687卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 13:09:38.10
何の根拠も無い妄想を垂れ流しているのは君らである。
とくに九州論者である。だからこそジョーカーという男はいみじくも言った、

ゴミクズレベル九州説

と。これはまさに名コピーである。
688日本@名無史さん:2012/12/08(土) 14:10:24.74
ヤクザやなりすましを使い成人式を荒らしているのは広告代理店やテレビ局の自作自演です。
反原発デモでチンドンや太鼓を鳴らし、ソントを行っている在日
街宣車に乗り、騒音を撒く朝鮮人

構図は全て同じだということを覚えておきましょう。
http://mamorenihon.files.wordpress.com/2011/10/zainichi_seijinshiki_1.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-1_jEcAWVs1s/Tm4X2mLBhhI/AAAAAAAABok/MObw2nzMyoI/s1600/IMG_9062-714071.jpg
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/timg/middle_1228711905.jpg

ソント(声闘)・・朝鮮人は、声が大きければ音が大きければ、主張が通る、どんな凶悪犯罪でも無罪になると思い込む。
だから、朝鮮人は大音量で街宣車を走らせる。
原発サウンドデモ=ソント

在日(もちろんテレビや新聞は通名で報道)が凶悪犯罪を起こしたとき、人権派()弁護士が異様に沢山付くのも
弁護士が多ければ=声が大きければ、無罪になると思い込んでいるから。
689日本@名無史さん:2012/12/08(土) 19:43:53.23
>>687何の証拠もないと申すけれど、卑弥呼の時代の証拠といえば魏志倭人伝のみ
そんなものしか証拠がないのに、犯人を特定しようとすれば、後は、状況証拠(想像力)以外にないだろう?
690サガミハラハラ:2012/12/08(土) 19:47:49.98
きょうは心霊会の本部でもちつきがあったので参加した。
きなこもちやあんころもち、くろごまもちのほか、お汁粉ももらった。
ココナツミルクのお汁粉をもらったが、あずきやタピオカ、マンゴーが入っていて
おそるおそる食べてみたが、思った以上に美味だった。
心霊会の会長の奥さんは神功皇后の孫の大山守皇子の子孫の家柄だというので、
拙著「神功皇后は実在した」を差し上げた。すこし時間があったのでホテルオークラのなかの
郵便局を利用しようとしたが、場所がわからないので女性接客員に声をかけたが
雅子さまにそっくりな女性だったので思わずびっくりしてしまいました。
それから稗神社と国会図書館により、閉館したあとは、渋谷経由で京王線にのり
高幡不動で降りて駅の近くの商店街のすし屋に入りましたが、そこは創価学会員のみせで
上すし定食を2人前たべてからちょっと創価学会のことを聞いたら創価学会の話を聞かされたが
結局上すし定食の代金はいらないと言うので夕食代はただですんみました。
691日本@名無史さん:2012/12/08(土) 20:26:50.42
>>686
自竹斯國以東皆附庸於俀の語句の重大さに気づいたようだね。
まさか竹斯國を畿内というわけにもいかない。となれば、何の根拠も無い妄想
などと抽象的な言葉で逃げるしかないってことだ。
竹斯國よりも東は倭国ではない、倭国の植民地だよ。
当然、畿内もその植民地。はい、これで決まりだ。
692日本@名無史さん:2012/12/08(土) 21:22:11.51
そもそもさ、ニギハヤヒが最初に畿内に入って邪馬台国の「植民地」を作って、
そのあと神武天皇が武力でその「植民地」を乗っ取ったと考えるほうが自然じゃね?
693日本@名無史さん:2012/12/08(土) 21:38:01.24
そうだろうね。北九州勢力がまず吉備や畿内へ進出した。その後、九州では
倭国の乱が起こり、北九州と南九州が戦い、南九州が九州全土を統一した。
そして、吉備、畿内へと進出していったということだろう。
694日本@名無史さん:2012/12/08(土) 21:50:41.27
>>692
そのあたりはさ、山幸海幸の話と関連してるんだよ
西へ大陸との交易路を求めに行った山幸=仲哀=景行と神功=卑弥呼
その子供、神武=応神が帰還するにあたって先遣隊として遣わされたのがニギハヤヒ
留守中にクーデターされてたけれど
695卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 23:21:14.96
>>692は案としてはユニークで面白いが、
>>693-694は2chらしい漫才w
696日本@名無史さん:2012/12/08(土) 23:31:02.82
満州クンはさ、
頼んでもないのに、いちいち他人を評価するクセがある
それが他人に嫌われる理由だろな

これ人生訓な
697サガミハラハラハラ:2012/12/08(土) 23:47:05.75
>>690は私のなりすましです。区別をつけるために、本物のわたしはハラをもう一つつけて
サガミハラハラハラといたします。(このスレだけね)
698ギーコギーコ:2012/12/09(日) 00:00:43.48
ギーコギーコと首を斬る ギーコギーコと首を刈る
699日本@名無史さん:2012/12/09(日) 01:00:33.12
>>696
満州は自分の説がまともに取り合ってもらえないので、ふてくされてるんだろ。
700日本@名無史さん:2012/12/09(日) 01:13:21.00
隋書は聖徳太子の時代だから、完全に倭の中心は筑紫国の東の畿内に決まってるだろ。
300年も前の、北部九州邪馬台国とは関係ないわな。

隋書では倭国の領域は東西五ヶ月、南北三ヶ月だと。
かなり大きく書いてあるな。
701日本@名無史さん:2012/12/09(日) 01:24:15.94
斯馬國………下関、斯馬の関
己百支國……厚狭 
伊邪國………ぃやマグチ 
郡支國……… 櫛ヶ浜
彌奴國……… 
好古都國……岩国、厳島のイツク
不呼國……… 
姐奴國……… 
対蘇國……… 
蘇奴國……… 
呼邑國………呉、コオ→訓読み化 
華奴蘇奴國… 
鬼國…………岡山、鬼ヶ島 
為吾國………相生 
鬼奴國……… 
邪馬國……… 
躬臣國………姫路 
巴利國………播磨 
支惟國………紀伊 
烏奴國………津、穴津=安濃津
奴國…………東海・美濃
蘇がついてるのは蘇州由来の家船の民のいた地域だろう
702日本@名無史さん:2012/12/09(日) 01:31:20.84
好古都は博多でしょう。
703日本@名無史さん:2012/12/09(日) 01:31:26.65
那古耶の那は那國の那
704日本@名無史さん:2012/12/09(日) 02:13:15.50
>>700
大きく書いてあるわけではない。それが当時の感覚なんだ。
隋書がかく倭国もやはり九州のことさ。
705日本@名無史さん:2012/12/09(日) 03:12:03.37
>>700
太平洋の島々まで倭人国ってことじゃないかね
706日本@名無史さん:2012/12/09(日) 07:21:12.26
>>699
満州さんのアレは説って言えるのかなあ?
小学生並みのただの妄言だと思うけど。
でもまあ満州さんの書き込み見ててひとつだけわかることがある。
知能が低いんだなあということ。
こんなとこで自分の馬鹿さ加減を晒すのが趣味だなんて
満州さんって人は随分とまあマゾなんだなあと。
707日本@名無史さん:2012/12/09(日) 08:29:22.60
>>647
708日本@名無史さん:2012/12/09(日) 09:07:07.79
後漢書は五世紀の著作で、三国志よりも後に書かれたもの。
後漢書を書いた范曄は、陳寿の倭人伝を見ながら書いた。
709卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 09:57:11.56
君らは資料も見ないであれこれ言うからダメなんだよ。
中国史書で東夷の国々の境域がどう表現されているかを研究してみたまえ。
そうするとたとえば数千里と書かれているのは非常に広大な場合だと分かる。
倭が南北数千里と書かれているということは非常に広大だということだ。
東西五ヶ月南北三ヶ月、これも非常に広大だということだ。
九州なんて遼西郡と同程度の大きさしかないのだ。
そんな島を東西五ヶ月南北三ヶ月などと表現するわけがないのである。

それから私は常に資料を根拠にして物を言っているのであって、
たとえば大夫という身分は日本にはなかったから倭は日本ではないと言っているのである。
それを知性が低いと思う人間はよほど頭がどうかしているのだろう。
君らは世間のまともな人間から見ればただのアホである。
私は世間のまともな人間の代表としてここに来ているのである。
710卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 10:12:02.15
古代史となると、人間は途端に変なことを言い出す。
古代のことは分らないので、判断が付かないのである。
それで、一流の知識人と目されている人までが、
卑弥呼は天照だなどと、とても正気とは思えないことを言い出す。
上で山幸=仲哀と書いている奴がいるが、
この男なども神話と歴史の区別がついていないのであって、
完全な時代錯誤を犯しているのである。
これほどひどくはないにしても、卑弥呼はモモソだと唱える奴もこれと同類である。
711卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 10:29:45.29
私は別のスレで天照が筑紫で生まれているのを知らなかったので笑われた。
たしかにそれは私の不覚であった。私は天照は太陽のことだと思っていたので、
その箇所を注意して読まなかったのである。先入観が私を誤らせたのであった。

それは君らについても言えるのである。
君らは邪馬台国も卑弥呼も日本のことだという先入観がある。
それで、倭奴国の使者が大夫と自称したとか、大夫難升米と書かれているのに、
そのことに注意を払わず、とにかく倭とは日本だと決めて議論を先へ先へと進めている。
よく考えれば、倭人が呉の太伯の子孫を自称するというのもおかしな話で、
その倭人とは明らかに中国南部の倭人のことであり、
陳寿の倭人伝は南方の倭、日本の倭、満鮮の倭をごちゃまぜにしているのである。

とまあ、私はいつもまともなことを書いているのだが、
ここの一部の人間にとってはトンデモに聞こえるようだ。
712日本@名無史さん:2012/12/09(日) 10:44:30.88
618 :卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 19:57:57.96

おまけに私は倭人伝に書かれているのは日本のことだと前々から言っている。
そこに書かれているのは日本の地理であり日本の風俗なのである、少々南方の資料も混在しているとはいえ。
713くまたろう:2012/12/09(日) 10:51:42.14
女王俾彌呼・邪馬臺國連合30ヵ国名列挙のうち
14番目〜30番目の記名国のみ説明。

14・ 彌奴國 ミヌ 美濃 ミノ 岐阜県美濃国。
15・ 好古都國 ナコト 長門 ナガト 山口県長門市。
16・不呼國 フオ 周防 スオウ 山口県防府市。
【瀬戸内海四国ブロック 】
17・ 姐奴國 シヌ 伊豫 イヨ 愛媛県姐奴(ソヌ)と伊豫の二名の地名国。
18・ 対蘇國 ツサ 土佐 トサ 高知県土佐国。
18・ 蘇奴國 サヌ 讃岐 サヌキ 香川県讃岐国。
20・ 呼邑國 アパ 阿波 アワ 徳島県粟(アワ)国。
【太平洋海域ブロック 】
21・ 華奴蘇奴國 カヌサヌ 遠江岩田 オオミイワタ 静岡県遠江磐田郡。
22・ 鬼國 キ 尾張大桑郡 オワリ 愛知県尾張丹羽郡大桑郷。
23・ 為吾國 イカ 伊賀 イガ 三重県桑名市伊賀町。
24 ・鬼奴國 キヌ 紀伊 キイ 和歌山県新宮市木の川(紀ノ川)。 
25・ 邪馬國 ヤマ 大和 ヤマト 奈良県大和郡山市(古代額田郷)。
【瀬戸内海本州ブロック 】
26・ 躬臣國 クオミ 近江 オウミ 滋賀県近江国琵琶湖周囲。犬上郡多賀町「多賀大社」・
三上山麓の中主町・野洲町・守山市一帯。
27・ 邑利國 ハリ 播磨 ハリマ 兵庫県播磨国。
28・ 支惟國 キビ 支(吉)備 キビ 岡山県備前国・備中国。
29・ 烏奴國 オヌ 安芸安那郡 アキアナ 広島県備後国。
【狗奴國系ブロック 】
30・ 奴國 ヌ 信濃 シナノ 長野県信濃国。
※ 狗奴國 クヌ 委奴(ウェイヌ)→アイヌ。 富士山東北の相模国・武蔵国・上野国・下野国など毛人国
(アイヌ国)男王卑弥弓呼。 日本国(日立:常陸)
以上
714日本@名無史さん:2012/12/09(日) 11:42:14.17
>君らは資料も見ないであれこれ言うからダメなんだよ。
>大夫という身分は日本にはなかったから倭は日本ではないと言っている

そんな資料があるわけがない。
715日本@名無史さん:2012/12/09(日) 11:49:42.40
倭人伝の「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」は、
倭国に古来「大夫」の称号があった何よりの証拠だろ
中国への使者が倭王に無断で自称するはずはない。

かつ魏帝が詔の中で難升米を「大夫」と読んでいるからには、
中国も倭国の大夫の称号を追認している。

この状況で
「倭国には大夫という身分はなかった」とは言えない
これが常識的判断というもの。
716日本@名無史さん:2012/12/09(日) 12:25:52.76
神武天皇からにしてワニの子供なだから、揚子江・呉国からのワニトーテム渡来人が倭国にいても不思議ではない。

さらに、隋書には竹斯国の次に秦王国へ行き、そこの住人は中国人と同じだと書いてある。

倭国には大陸からの渡来人は、いくらでもいたのである。
717卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 12:41:22.83
>>714-715
君らはまったく論理が狂っている。
日本に大夫という身分はない。→倭は日本ではない。
これが論理というものだ。

高句麗に大夫という身分があった。
ソウルの遺跡から大夫の銘のある土器が出土した。→倭とは高句麗か百済ではないのか。

これが論理であり私の説なのである。どこにもおかしなところはない。
大体、日本人が大夫などという中国風の身分を自称するはずがないではないか。
倭奴国というのは恐らく中国南部の倭の国なのである。
帥升だって北から来たとも南から来たとも書いてない。
これもまた中国南部の倭人の王かもしれないのである。
718卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 12:48:14.44
遼東郡は洛陽東北三千六百里と書いてある。
地図で洛陽から遼河までの距離を見てみたまえ。
それが三千六百里と書かれているのだ。

一方で日本の地図を見てみたまえ。
九州程度の大きさを南北数千里などと書くと思うか。

コツコツとこういうことを調べるのが学問というものなのである。
陰気で地味な作業なのだ。惨めなことなのである。
719日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:12:36.94
日本に大夫という身分はないなんてどうやって認定するんだ?
倭国歴代の身分表でも手に入れてるのかな?
720日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:21:12.66
>洛陽ら遼河までの距離を見てみたまえ。
>それが三千六百里と書かれているのだ。
>一方で日本の地図を見てみたまえ。
>九州程度の大きさを南北数千里などと書くと思うか。
九州について南北数千里と書いた資料があったかな? 南北3月行だろう。
あるいは周旋五千里だ。この五千里はいわゆる短里、洛陽東北三千六百里
というのは長里、ごっちゃにしないことな。
721卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 13:26:54.66
>>719
いや、だからそういう身分があったと思うならその証拠を出せばいいのだよ。
今のところそんな証拠はないのだよ。
倭の諸国の官名がいろいろ書いてあるが、どこにも大夫などという官はない。
尤も官名と身分名は違うと言ってしまえばそれまでだが。

とにかく私はまともなことを書いているのであって、
世間の普通の人が読めば誰でもなるほどと思うのだ。
ここの人間だけが、変なプライドがあるのか、それを認めようとしないのである。
もし古田が私と同じことを唱え始めると、君らは一斉に古田に賛同するに違いないのだ。
722日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:34:02.58
>>711 名前:卑弥呼は満州にいた
>陳寿の倭人伝は南方の倭、日本の倭、満鮮の倭をごちゃまぜにしているのである。

陳寿の親分は、張華。
張華は司馬昭の私設秘書室として仕え、東方方面軍総司令官を勤めた。
馬韓の二十余国を初朝貢させたりして何度も表彰され、東夷の知識は豊富。
陳寿の死後、司空まで登り「三国志」の請願を出して正史となした。
その子分の陳寿が、東夷を「ごちゃまぜ」にしたりしない。

「張華列伝」でも、読めば!
723卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 13:51:15.11
>>722
張華は232年の生まれ。
倭国大乱などは張華の生まれる前の話で、
卑弥呼の朝貢も張華がまだ六歳の時だ。
そんな人間が卑弥呼の倭が実際はどの国だったかなど知るはずがない。

尤も私も張華のことは調べる必要があるとは思っているから、いつか読んでみる。
君も張華伝を読んでいるほど勉強しているのなら、
そう簡単に何でもかんでも決めつけてしまわないほうがいい。
学者にとって必要な資質は、簡単に結論を出さないということなのである。
724日本@名無史さん:2012/12/09(日) 15:18:57.62
>九州程度の大きさを南北数千里などと書くと思うか。

↑何に書いてありますか???
725卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 16:59:41.30
間違えた。旧唐書日本国伝であった。

其國界東西南北各數千里

旧唐書倭国伝はこうなっている。

東西五月行、南北三月行。

どちらにしろ、この日本国も倭国も九州ではないことは明らか。
北海道を除く日本列島のことを指しているのだろう。
726卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 17:29:24.62
桓檀古記にはこういう面白い記事もある。

自古仇州對馬乃三韓分治之地也本非倭人世居地

九州対馬は古くより三韓分治の地で、
もともと倭人が住んでいた地ではない、と書いてある。

伊都国に百済の官である大率が常駐していたなどという記事を読むと、
なんとなくこの記事を想起する。
そして、この記事は九州説にとっては、ある意味、有利な記事である。
なぜなら九州は百済の支配地で、そこに邪馬台国があったから、
大率が常駐して中国や半島との取り次ぎ任務に当たっていたと読めるからである。
727日本@名無史さん:2012/12/09(日) 17:41:32.23
文献をどこまでトンデモ解釈でき得るか?への朝鮮としては古田の同類だが、全く現実的ではないな
728日本@名無史さん:2012/12/09(日) 18:39:47.07
>>721
倭人伝の「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」は、
倭国に古来「大夫」の称号があった何よりの証拠だろ
729日本@名無史さん:2012/12/09(日) 18:41:53.10
>南方の倭、満鮮の倭
そんなものないね。
730日本@名無史さん:2012/12/09(日) 18:46:52.14
>>725
日本国伝と倭国伝のちがいも意識していないのか?
日本国伝は本州も含む日本について書いた記事。倭国伝は九州について書いた記事だ。
東西五月行、南北三月行は九州についての記事な。覚えておけ。
731日本@名無史さん:2012/12/09(日) 19:15:53.70
>伊都国に百済の官である大率が常駐していたなどという記事を読むと

3世紀に何処に百済があったのかな?

3世紀の百済の場所を教えてくれ。

3世紀の百済の官の記事、何処に書いてあったのか教えてくれ。
732日本@名無史さん:2012/12/09(日) 19:22:04.25
今や朝鮮人が嘘つきなのは世界中の常識だからねw
733卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 19:59:56.94
君らはほんとにアホだな。話にならん。

>>728
だからその倭が日本だというなら日本に大夫という称があったという証拠を出せ、
と言っているのだ。まだ分らんのか、どアホ!
>>729
お前は南方に倭があったという文献を知らんのか。
別スレに安徽省の倭人のことが出ているだろ。
楽浪海中有倭人とあるだろ。楽浪海が日本にあるのか、どアホ!
>>730
東西五月行南北三月行 これが九州か、どアホ!
>>731
三国史記もネット史も三世紀には百済は出来ているのだ、どアホ!
>>732
お前らが馬鹿なのは世界の常識だ、どアホ!
734日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:05:08.08
日本という国は八世紀初頭からできた名称なんだが。
これは古代史の常識だろ?
735日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:11:52.56
>>733
トンデモ曲解への賛同がないと、すぐにキレる朝鮮老人ってホントに品がないな
736日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:16:04.26
マン臭は 偽書依存症 精神異常者w
737日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:20:24.61
東西五月行って九州から関東まで行きそうだな
738日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:23:53.60
だったら3月行はどこからどこまで?
739日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:31:51.69
薩摩〜出雲とか紀伊半島〜能登半島とか
740日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:40:17.17
既存の通説は信用出来ないが、卑満はもっと信用出来ない
741日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:43:29.20
どうして能登半島から薩摩半島にしないんだ?
742日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:53:54.08
南北って言葉から離れるから
743日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:53:55.32
いや、どうして下北半島から薩摩半島にしないんだ?
744日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:56:50.33
>南北って言葉から離れるから
ならば、薩摩の北は筑紫だろう、能登半島の南は尾張だろうが。
745日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:57:55.70
下北半島まで勢力が及んでないから
746日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:04:57.84
薩摩南端から筑紫北端が三月行は過大だし
肥前西端から豊後東端まで五月行はもっと過大
747日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:10:30.90
>下北半島まで勢力が及んでないから
だが、「各々海に至る」と明記されているんだ。勢力が及んでいないからぶち切る
なんて問題じゃないぞ。
748日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:13:03.29
>薩摩南端から筑紫北端が三月行は過大だし
>肥前西端から豊後東端まで五月行はもっと過大
別に過大ではないぞ。ホテルも何もない時代だ。道だって直線ではない。
その程度はかかって当然なんだよ。飛脚のような者を考えてはいかん。
749日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:17:46.11
南と西は海、東と北は大山
750日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:24:58.43
>南と西は海、東と北は大山
それは東西五月行南北三月行の島ではない。
751日本@名無史さん:2012/12/09(日) 22:09:36.56
行=徒歩
1日5kキロ説も有る。
大昔は藪コギとか、まともな道は少ないのだ。
752日本@名無史さん:2012/12/09(日) 22:14:48.17
舗装道と落葉・倒木がある道では歩行速度は倍くらい違ってくる
藪漕ぎなら時速1キロくらいになるな
753日本@名無史さん:2012/12/09(日) 22:38:31.66
百済、百越・・・日本海を挟んで、沿海州から津軽にかけて、斉人の国や越人の国は、百を数えるほどあったということだろう?
そのうち、どこに卑弥呼がいたのかという話は、とてつもなく難問だ。
754日本@名無史さん:2012/12/09(日) 23:07:58.39
邪馬台国にいたんだよ。斉人の国や越人の国は関係がない。
755日本@名無史さん:2012/12/10(月) 07:58:47.57
>>753斉人や越一の国が百ぐらいあったというが、だったら中国語がかなりつかわれていたり、官の名など
中国風でなければならないだろう。
756日本@名無史さん:2012/12/10(月) 12:34:05.03
戦後すぐのぼろ漁船で、低品質の石炭で魚を満載して、
全速で3ノットしか出ないという話を、青空文庫でついさっき読んだ。
757日本@名無史さん:2012/12/10(月) 15:49:17.76
>752
古代道とはいえ道の機能が無ければ道でないだろう
現状の低山の登山道でも時速3キロは出る
言わんや足が達者な古代人おや
758日本@名無史さん:2012/12/10(月) 17:36:55.59
マツラ国は草木が繁って前が見えないとかいてある。
現代の街中ですら、空地を春夏に放置すれば草がボーボーだわな。
759日本@名無史さん:2012/12/10(月) 19:32:38.27
草木が繁っているところ=普段人が往来していない道=貴重品の運搬に使用されない道
760日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:11:58.05
>>758
でも輿や馬が通れる道だろうからなぁ
大陸の風景に比べての話だろう
761日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:20:31.77
馬が通れる道w
762日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:33:57.96
名古屋の熱田貝塚、神奈川の豊田本郷遺跡からは弥生時代の層から馬骨が出土
縄文時代の遺跡より四川馬系の小型馬の歯と骨が出土している
弥生時代から日本に馬はいる、倭人伝の記述が疑わしい
763日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:48:21.23
>>762 2行目
出土したなら場所ぐらい書け
情報価値ゼロ
こういうのを「記述が疑わしい」というんだボケ
764日本@名無史さん:2012/12/10(月) 22:02:42.83
各地の縄文貝塚から馬の骨は出土してるらしいけど、組織的学術調査による発掘でなかったり
考古学の非専門家による発掘資料など、正確な出土層基準が不明みたいだね
9遺跡、14点で馬以外の伴出哺乳動物骨とのフッ素分析の再検査では後世の混入とされる結果が出てるらしいから
まだ今のところ縄文馬は断定できないね
765卑弥呼は満州にいた:2012/12/10(月) 23:17:12.50
天照とスサノオの話にも馬が出てくるから馬はいたのだろうよ。
尤もアマテラスやスサノオの話の舞台が日本とは限らないが。
倭地に馬がいないというのは南方のどこかの話なのである。
かの有名な持衰の記事にしても、よく読めば
其行來渡海詣中國
とあり、中国へ行く時の話なのである。
日本から朝鮮半島伝いに行くときは持衰など必要ないに決まっている。
だから持衰というのは沖縄辺りの風習なのである。

要するに倭人伝には南方の風俗も誤載されているわけだ。
コチコチの倭人伝信者の九州説諸君よ、こういうことも少しは考えてみたまえ。
766日本@名無史さん:2012/12/10(月) 23:37:31.91
七世紀以前に「日本」なんて国は存在しないんだが
767日本@名無史さん:2012/12/10(月) 23:39:49.63
というか倭の王統って東南アジアから来たのだろうし
その風俗を身に付けていても不思議は無い
越南→東南アジア→南九州→北九州→若狭→大和 と100年以上かけて入ってる
ところで天照は崇神の妹の登与
倭人伝のいう卑弥呼が何なのかは解らない
768卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 09:28:54.39
2ch 越南から来た 倭の王統
2ch 崇神の妹が 天照
769卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 12:41:40.96
2ch 倭の王様は ベトナム人
770日本@名無史さん:2012/12/11(火) 15:20:17.09
マン臭は 偽書依存症の 精神異常者w
771卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 18:46:01.79
私が満州説を唱えていのは、桓檀古記等の資料に依拠しているのではないぞ。
すべて中国の正史その他に依拠しているのである。

帥升は辰韓か弁韓の王だろうという根拠も中国史書に依拠している。
卑弥呼は馬韓か辰韓か弁韓の女王だろうというのも、倭人伝に依拠している。
倭人伝をよく読めば、それらしき記述があるのだ。
772日本@名無史さん:2012/12/11(火) 19:51:09.14
妄想ばっかで馬鹿馬鹿しいわ。こんなん時間の無駄だ
773日本@名無史さん:2012/12/11(火) 20:10:49.19
>>767
>越南→東南アジア→南九州→北九州→若狭→大和 と100年以上かけて入ってる

 「若狭→大和」の判断材料は、何?
   よろしく。
774日本@名無史さん:2012/12/11(火) 20:33:12.45
マン臭は偽書を根拠に、百済が三世紀にあったと言い張っているのだwww
775日本@名無史さん:2012/12/11(火) 20:40:41.05
呉・越・越南→南西諸島→南九州→北九州→瀬戸内海→大和
776日本@名無史さん:2012/12/11(火) 20:48:58.32
そもそも邪馬台国(魏志倭人伝)の話に畿内大和が出てくる必然性は皆無。
何度言われても理解できない奴を白痴という。
777卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 21:12:09.27
百済も新羅も謎が多いよ。
百済に関して言えば、中国史書は夫余と百済を混同している可能性がある。
また遼西方面の百済と朝鮮半島の百済は別であるかもしれない。

新羅も、新羅と辰韓弁韓はまったく別である可能性がある。
新羅の発祥は慶州だというのは真っ赤な嘘で、おそらく吉林である。
778日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:03:04.44
>>776
少なくとも倭人伝を解釈すると、九州に無いのは確定だけどな。
779日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:03:37.49
百済や高句麗の発祥は吉林あたりだろうけど、新羅の発祥は秦からの逃亡流民じゃないん?
780日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:07:29.29
>>778
少なくとも倭人伝を解釈すると、伊都国は佐賀市付近であり、邪馬台国が
九州にあるのは確定だ。
781唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/11(火) 22:55:40.00
>卑弥呼は馬韓か辰韓か弁韓の女王だろうというのも、倭人伝に依拠している。

倭地に牛馬はいない。
馬韓か辰韓か弁韓地方の風習として、乗馬はない、牛馬は食料として存在する。
天日矛は自分の牛を食われたことにより新羅(辰国)を恨む。

地続きで牛馬がいない??
782日本@名無史さん:2012/12/11(火) 23:03:37.98
牛馬がいないというのは前漢ー帥升の時代の記録からの引用だろう
その後、状況は変わってる
783 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(1+0:5) :2012/12/11(火) 23:49:43.60
確かに状況は解るよ。
784日本@名無史さん:2012/12/12(水) 00:48:24.46
>>780
仮に伊都が佐賀付近に存在しても邪馬台国は九州ではない。
倭の気候風土が北部九州では合わないしな。
倭の中心は瀬戸内しか存在し得ない話だ。
785日本@名無史さん:2012/12/12(水) 00:50:18.70
銅鐸の絵に牛馬なんてないしな。
銅鐸の出土範囲が倭だろ、単純な話だ。
786日本@名無史さん:2012/12/12(水) 04:11:25.80
前漢ー帥升って、何?

倭の気候風土は筑紫平野と同じ

大型銅鐸記述がないから大型銅鐸の出るところは倭ではない。
787日本@名無史さん:2012/12/12(水) 09:10:07.14
唐津市菜畑遺跡では前期の層位から食材としてウシが出土している。
788卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 09:35:55.70
銅鐸は高句麗古墳群からも出ている。

鴨緑江流域が高句麗古墳群とされているが、そんなのは真っ赤な嘘で、
その辺りは馬韓や百済の境域である。
卑弥呼がその辺りにいたとしても決しておかしくはない。
789日本@名無史さん:2012/12/12(水) 09:46:54.16
>倭の気候風土は筑紫平野と同じ
冬は温暖でもない、合致するのは九州南部か四国南部辺りだろう。

銅鐸分布は北部九州から始まって出雲、瀬戸内畿内を
中心に分布している。

貨泉出土や丹(水銀朱)を用いていた痕跡とも大体一致しているしな。
そこが中国の倭人伝に描かれた倭人の分布です、常識。
790日本@名無史さん:2012/12/12(水) 09:47:14.02
鴨緑江流域が馬韓や百済の境域というのは、真っ赤な嘘で、
その辺りは高句麗の境域である。
791日本@名無史さん:2012/12/12(水) 10:17:43.22
華北から朝鮮半島を通ってやって来たんだから筑紫平野でじゅうぶん温暖だよ
792日本@名無史さん:2012/12/12(水) 10:33:47.56
筑紫平野に丹山も無いし青玉も産出しないけどな。
海人が多いというのも含めて、厳密に
倭人伝の風俗に合致してるのは四国東南の海部辺りだろう。
793日本@名無史さん:2012/12/12(水) 10:38:51.69
そうかもしれないけどandでもorでも陸行一月が弱点だね
794日本@名無史さん:2012/12/12(水) 11:54:17.28
倭人伝どおりで南九州、そこは温暖、陸行1月も問題なし。
795日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:35:42.90
3世紀の高句麗の領域

C 高句麗
  鴨緑江流域と吉林省南西部(千山山脈北東部)の2万5千㎢(方可二千里)の山間地域
  南は朝鮮と濊貊、東は沃沮、北は夫餘に接している。
  西には千山山脈中部の山間部70km(千里)の空白地域(寛甸の居住地)を挟んで遼東がある。
796日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:39:11.50
ミニ銅鐸は高句麗古墳群から出ている。
797卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 12:45:19.48
『三国志魏書』高句麗伝
高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。

何度も書くが、ここで書かれている朝鮮とは古朝鮮のことで遼東のことなのである。
遼東も遼河の東という意味ではなく、もっと西部北部も遼東と呼ばれたのである。
<遼東(彰武)>
満州南部は古朝鮮穢貊の地であり、高句麗はそれより北にある。
鴨緑江豆満江の北部は百済新羅高句麗が争いを繰り返していた国境地帯である。
798日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:49:27.60
筑紫平野では鉄丹(リモナイト)が産出する。

海人は有明海沿岸にいる。
3世紀の有明海東岸は多島(洲)海。
799日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:56:20.41
水行二十日は帯方郡から投馬國までの航程

水行十日は帯方郡から末盧國までの航程
陸行一月(千餘里)は末盧國から邪馬台国までの道程
800日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:59:46.28
筑紫平野は温暖で、真冬でも露地栽培の生菜が食べられる
801日本@名無史さん:2012/12/12(水) 13:17:42.06
筑紫平野で食べられるなら、勿論九州南部や四国南部でも可。
高知辺りは今でも酒飲み多いしなw 倭人伝の風俗そのもの。
802日本@名無史さん:2012/12/12(水) 14:55:13.15
高知辺りは侏儒國。

侏儒國は、倭種(周防:千餘里の海[周防灘]を東に渡った所)の南で、
女王(筑紫平野久留米付近)から4000餘里(300km)にある。
803日本@名無史さん:2012/12/12(水) 15:00:11.10
新羅の故郷は挹婁
挹婁は、第二松花江の東にあり夫餘と接しており、
長白山脈の北側、豆満江及びその支流流域の吉林省南東部、
3世紀には日本海沿岸部まで進出。
804日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:29:22.95
唐津街道にちかい嬉野に丹(水銀朱)のでる山はあるよ。

嬉野川流域に丹生神社もある。
805日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:38:24.01
ついでに、熊本市の南側の緑川流域に、丹生宮って地名がある。
丹生宮という神社そのものは残ってなさそうだが。
806卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 18:41:50.18
滿洲源流考/卷04
奉使行程録自咸州九十里至同州皆北行東望大山金人云此新羅山
按遼之咸州金為咸平府同州金為銅山県倶在今鐵嶺開原之間

同州は今の鉄嶺開原の間で、東に大山を望む。金人はこれを新羅山と云う。

新羅はそんなところにあったのである。
ちなみにこの新羅山が蓋馬大山ではあるまいか。
玄菟郡の西蓋馬とは鉄嶺開原の辺りだと思われるので、ピッタリである。
807日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:48:18.90
満州の話は他所でやれ
808卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 19:06:27.10
高句麗や新羅のことについて書いている奴がいたから書いたまでだ。
それのどこが悪いのか。なんで満州のことを書いてはいけないのだ?
なんでお前はいつまでもそうやって満州や朝鮮の話題を避けようとするのだ?
この方面に関心を持っている奴はいくらでもいるのだ。

そんなに九州説について語りたいなら、お前が九州スレに行け。
あそこは今ガラ空ききだ。とにかくくだらないレスを書くな。
お前も四十をとっくに過ぎた男だろう。
いい年して寛容さも度量もないのか、バカ者。
809名無しさん@お腹いっぱい:2012/12/12(水) 19:07:41.69
邪馬台国は倭人伝の記述通りとすると、海が側にあることから、
日南付近に比定出来る。
その伝でいうと、投馬国は五万戸を養える豊穣な熊本平野となろう。
810日本@名無史さん:2012/12/12(水) 19:14:59.85
満州や朝鮮の話も聞きたい
811日本@名無史さん:2012/12/12(水) 19:18:56.90
満州の話は満州スレで
邪馬台国の話は邪馬台国のスレで

これが2chでの最低のエチケットな
812卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 19:19:32.78
とにかくここには年がら年中九州説について語りたい男が一人いるのである。
その男は九州スレで書け。他のスレには来るな。

それが嫌なら、他人に、よそでやれ、などとは書くな。
813卑弥呼は満州にいた:2012/12/12(水) 19:28:45.09
>>811
私は満州説だから満州について書いているのだ。それのどこが悪いのだ。
東北説の奴は東北について書けばいいではないか。
四国説の奴は四国について書けばいい。
宇佐説、近江説、何でもいいではないか。
満州説、朝鮮説、大いに結構、となぜ言えないのだ。
814日本@名無史さん:2012/12/12(水) 19:36:09.47
>>808

バカ者。とかゆうのはよしたほおがええお。

そおゆうことゆうてると

めぱちぱち になっちゃってみんなにきらわれることになるよ。
815日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:44:05.05
>>813
東海説もヨロシク
つーか近江か東海かのどちらかだろうが結論を出すための決定的な根拠を見いだせない。
結構一体化してたような印象だが。
いずれにせよ象鼻山が卑弥呼の墓だろう。
816日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:44:56.22
まるで、ごろつきのような奴だな
817日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:46:04.61
↑これは満州クンの話ね
818日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:53:21.99
邪馬台国は会津にあった。
福島県耶麻郡こそ邪馬台国。
四道将軍の大彦親子に滅ぼされるまで、東日本最大の勢力でした。
819日本@名無史さん:2012/12/12(水) 22:22:42.47
>海が側にあることから、日南付近に比定出来る。
そうかな? 陸行1月でたどりついたってことは、海には近くなかった
ということだと思うが。
820日本@名無史さん:2012/12/12(水) 22:31:04.24
海か船で遡れるような大きな川の傍になきゃならないのは投馬國
邪馬壹國は 水行10日and陸行1月/水行10日or陸行1月 どちらか判然としないので沿海でも内陸でも可
821サガミハラハラハラハラ :2012/12/12(水) 22:38:46.72
海なら日向灘、川なら大淀川。投馬国は宮崎県できまり。


私のなり済ましがいますので、本物はハラをもう一つつけてサガミハラハラハラといたします。
ただしこのスレだけね。
822日本@名無史さん:2012/12/12(水) 22:40:42.82
トリップつけりゃいいじゃね
823日本@名無史さん:2012/12/12(水) 22:45:46.77
サガミ先生の人の良さが表れてるなぁ
「ハラ」1つ付けたくらいで、
成りすましが真似しないと思ってるなんて
824日本@名無史さん:2012/12/13(木) 09:48:55.51
サガミハラハラさんの名前は、相模原市の原当麻と関係のあるの?
825くまたろう:2012/12/13(木) 10:44:25.27
「宋史」日本国伝の書頭に倭国を「日本」と改名した記載がある。

「宋史」日本国伝より
訳『日本国は本(もと)の倭奴國(ウェイヌ国→アイヌ国))なり。
「自らその国日出ずる所に近き」を以て、故に日本を以て名となす。
あるいはいう、その名を悪(にく)みこれを改むるなりと。
その地東西南北、各数千里なり。
西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山(富士山)を以てす。
山外は即ち毛人(アイヌ民族)の国なり。』と、ある。

ウェイヌ国こと倭(委)奴國は「アイヌ国」からの語音表記であり、
富士山以東・北の狗奴國は、毛野国・毛人国であり、
武蔵国・相模国・上野国(群馬県)・下野国(栃木県)そして常陸国も
含めた国を言う。
日本国伝の原文『自以其國近日所出』
訳『自らその国(常陸国)の日出ずる所に近い』との意。
826日本@名無史さん:2012/12/13(木) 10:56:32.91
やっぱり満州クンに続くスター誕生か
827日本@名無史さん:2012/12/13(木) 12:01:32.16
くまたろう説は、流求でもないのに「身面皆有毛」とあるのがアイヌ説のよりどころかな。
828卑弥呼は満州にいた:2012/12/13(木) 12:59:13.88
アイヌは樺太にも住んでいたのではないのか。
また毛人というのは中国史書にも多く登場する。
日本の東北部の民族だけを謂うのではない。

海北という語も中国史書にはたくさん出てくる。
これもまた日本から見た朝鮮半島だけを指すのではない。
829日本@名無史さん:2012/12/13(木) 15:23:43.67
まあ、アイヌ語から日本語が派生したとは思えないから
830日本@名無史さん:2012/12/13(木) 21:00:19.85
日本全国には古代からのアイヌ語があります。
【人名・地名】
阿部・足立・新井・伊納・土井・森・嵯峨・鳥羽・田辺・田代・坂東・
梓・徳間・宇野・熊襲・愛知・駿河・明石・荒木・飛鳥・明日香・畝傍・
渥美・千葉・千草・岐阜・日野・揖斐・伊賀・加賀・甲賀・伊勢・神戸・
吉備・木津・伊香保・戸部・野毛・利根・串本・葛・葛が谷・水戸・
越・牟礼・久慈・野尻・諏訪・登呂・佐賀・佐田・天満・珠洲・徳島・
阿波・土佐・鳥取・島原・別府・筑紫・丹波・敦賀・土肥・但馬・柘植・
津軽・阿寒・釧路・稚内・野付牛・登・湯・・・。
【山・崖】茶臼・平。
【海川】(津・泊・内)
【その他】神居(カムイ)・目子(メノコ)・オイドン(鹿児島弁)・
シトギ(団子)。など、枚挙にいとまがなく名残が現続しています。
※『日本アイヌ地名考』著:山本直文より引用。

西暦600年の「隋書」倭国伝には邪推靡(ヤマタイ)阿毎王・アペヒミこと用明天皇は
自称『我夷人』アイナ(アイヌ)と語った記載があります。
また、継体天皇妃の‘目子郎女’メノコ(アイヌ語)いらつめ、が安閑・宣化天皇を誕生させており、
小野妹子こと中国名:蘇因高(ソインコ)アイヌ語「ソンコ・エムコ」大使の意。
小野妹子の息子には‘毛人’ケヒトがいます。

古事記に登場のイザナギ命とイザナミ命が“美斗能麻具波比”ミトのまぐあい、
こと性交後に大八嶋が誕生した記載があります。
美斗の美(み)とはアイヌ語『成女の女核』の意。
美斗の斗(と)とはアイヌ語『突起の男茎』の意。
※『アイヌ語小辞典』著:山本多助より引用。

そして“おのごろ嶋”の“おのごろ”とはアイヌ語『オンネ・コル』
古い・大きな人神こと日本本州“御祖大神の嶋”の意と思われます。
アイヌとは古代日本(聖徳太子時代頃まで)からの先住民族であり、
後に渡来の朝鮮半島の高句麗、新羅、百済系などの弥生人と結合しているのです。
現日本人のDNAにはアイヌとの混血が証明されている事は日本医学会の常識です。
831日本@名無史さん:2012/12/13(木) 22:40:58.90
日本人固有のY染色体ハプログループD2をアイヌ人は90%近く持ってるね
D系統(YAP型)は親切遺伝子なんです
832サガミハラハラハラハラ :2012/12/14(金) 07:49:20.02
>>824 サガミハラハラのHNはサガミハラ音頭の歌詞のサガミハラハラハラリトサイサイ
からとりました。
833日本@名無史さん:2012/12/14(金) 09:35:41.37
ここでは九州説が有力になってるみたいだけど
いま一般的に畿内説が推されているのはどういった根拠の違いからなのですか?
834日本@名無史さん:2012/12/14(金) 11:18:05.04
388 名前:無党派さん[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 12:23:45.94 ID:8XEDPTxF
          /´⌒⌒\
         /        \
       /  ///| .| /ヽ ヾ
        i / ━ |/|/━ ! | ルーピー橋下
        !/   (・ )  ( ・)i/  
        | u   (__人_)   |   投票まであと1週間か
      _\  ∩ノ ⊃ /   巻き返しできるかな?
     (  \ / _ノ |  |
     .\ “  /__|  |
       \ /___ /


         /´⌒⌒\      ノ´⌒ヽ,,
        /        \ γ⌒´      ヽ,
       /  ///| .| /ヽ // ""⌒⌒\  )
       i / ━ |/|/━ | / ⌒  ⌒   ヽ )
       !/   (・ )  ( ・)i!゙ (・ )` ´( ・)  i/
       |     (__人_)  ||   (_人__)    |
   ,-、  \    `ー'  /\  `ー'   /_
  / ノ/ ̄/ ` ー ─ '/>< ` ー─ '┌、 ヽ  ヽ,
 /  L_          ̄  /        _l__( { r-、 .ト
    _,,二)       /        〔― ‐} Ll  | l) )
    >_,フ       /   ルーピー   }二 コ\   Li‐'
      私たちに一度やらせてみてください
835日本@名無史さん:2012/12/14(金) 12:29:13.33
>>833
畿内説は論争すれば負けるので、広報活動に力を入れているのです。
マスコミを巻き込んだ宣伝に長けています。
マスコミの発表では、必ず、「卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳」とか
「邪馬台国の最有力候補地である纏向遺跡」などの文字を入れます。

出版業界でも力を持っています。既成事実化に精力を注いでいるのです。
だから、一般の人は畿内説有力と思っているのかもしれません。
しかし、ちょっと詳しい人は、畿内説には根拠がないことを知っています。
836日本@名無史さん:2012/12/14(金) 13:35:34.98
倭人伝を素直に解釈すれば、近畿邪馬台国説なんか
有り得ないのに、巨大な前方後円墳が存在するから
近畿に在ったと説いている。
唐津から近畿までのルート解釈が滅茶苦茶。勝手に
方角や距離を変えている。
その当時の圧倒的に進んでいた中国の天文学、暦、地理学に
基づいた倭人伝を勝手に都合よく解釈する、日本の歴史学者
は原発御用学者と同じレベル。
837くまたろう:2012/12/14(金) 14:02:29.79
三國史記巻第24 百済本紀第二(古尓)より

古尓13年秋8月(正始7年:西暦246年)魏の幽州刺史の
毌丘倹が高句驪を討伐した記載がある。

※古尓王 生年未詳 - 286年)は百済の第8代の王(在位:234年 - 286年)
であり第4代の蓋婁王の第二子。
諱・諡は伝わっていない。234年に第6代の仇首王が死去した際に、
その長子の沙伴王がいったん王位についたが、幼少であったため
政務を執ることができず、肖古王の王弟の古尓王が王位を継いだ。
838日本@名無史さん:2012/12/14(金) 14:58:06.73
倭奴國がアイヌの語源だとは思う
かつての日本の支配者はアイヌの先祖って事だな
あとで入ってきた大和朝廷によって東北に圧迫され、
奈良〜鎌倉初期のあいだに併合される
839日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:40:25.75
満州の次はアイヌがトレンドか
840日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:41:20.03
I Know
841日本@名無史さん:2012/12/14(金) 19:24:32.98
 古文書なんか残せる方は、権力者か其の手下でしかなく文盲が殆どの時代を、
   全体感で語るのはいかがなものでしょう。
   たとえば、万葉集が編纂された時代、日本の文盲率はいかほどだったでしょう。
   一部の権力者やその周辺の書き残した古文書に意味はあるが、自慰的要素も強いのでは?
日本史は古文書や遺跡等に頼らなければ学問として成り立ちません。
歴史学者のジレンマをついてますが、仕方が無いとご理解ください。
時の権力者により、廃棄された古文書もあるでしょうが、無いから語れません。
権力者の歴史、権力者に背かない古文書、隠された古文書もあり、歴史学は中世以前は謎解きです。
文盲の話ですが、耳の痛い話です。万葉集も当時の日本人は存在すら知りません。字が読めないし、印刷技術も無いのですから・・・
其の意味で、御経は耳から入ってきますし、目で仏像や寺院は確認できますので仏教は広がったのでしょう。
朝廷の研究者もいますが、朝廷内部やその関係筋の文献でしか研究できません。文献も後に書かれたものも有り、真実性も疑問視されるのも事実です。
歴史とは今残ってる資料等による謎解きと理解ください。
新たな歴史資料が出てきて、今の説が覆されることも往々にあります。(考古学者の捏造事件もありました・・・わからなければ考古学の歴史も変わったかも?)
私見ですが、戦国大名の文献は捏造が多いと思います(勝てば官軍????負ければ歴史から去るか悪者???)
842日本@名無史さん:2012/12/14(金) 19:30:59.19
最近は文献史学者がよく勉強していて
新資料がよく活用されてる
やっぱ変体仮名を読む力は必須だな
843日本@名無史さん:2012/12/14(金) 22:33:11.23
くまちゃんは三國史記程度のでがむばっているのか?

214 建安19 甲午       新羅王子天日矛渡来
214 建安19 甲午       四月田氏生王子素古(肖古)(仇知王第五子)(214-226-254-274)
230 太和 4 己酉 (崇~ 9) 八月沙氏(花理)生(肖古)王子仇首(仇須)(230-254-264)
235 青龍 3 乙卯 (崇~21) 正月上宮(沙氏)生(肖古)子古爾(235-266-286)
259 甘露 4 己卯 (垂仁24) ?(肖古王女素爾)生(仇須)子(沙伴)(259?-264-266)
274 泰始10 甲午 (垂仁54) 十月太王(太上~王)(素古)(肖古)崩於山宮 春秋六十一

(188-226) (仇知王)
(226-254) (肖古王)
(254-264) (仇須王)
(264-266) (沙伴王)
(266-286) (古爾王)

(254-274) 太上~王 太王 (肖古)
844くまたろう:2012/12/15(土) 09:18:55.50
三國史記 卷第二 新羅本紀第二より
新羅第8代阿達羅尼師今20年 (後漢・熹平2年:西暦173年癸丑)
原文「二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」

三國史記 卷第二十七 百済本紀第五より
武王9年(隋・煬帝・大業4年:西暦608年戊辰)
原文「九年春三月。遣使入隋朝貢。隋文林郎裴清奉使倭國。經我國南路。」

三國史記 卷第十七 高句麗本紀 第五より
高句麗東川19年 (魏・斉王芳・正始6年:西暦245年乙丑)
原文「十九年春三月。東海人獻美女。王納之後宮。」
※東海人とは倭人と思われるが上記の解釈教えてください。
845卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 09:38:20.85
東海人というのはおそらく沿海州あたりの人間のことである。
朝鮮半島の東岸の人間という解釈が通説だが。
846卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 10:05:47.18
隋文林郎裴清奉使倭國。經我國南路。

これには私も関心があって、倭国は百済の南にあったのではないかと思っているのである。
847日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:09:00.64
南に決まってるだろ。北に見えるか?
848日本@名無史さん:2012/12/15(土) 11:00:43.72
>>846
>倭国は百済の南にあったのではないかと思っているのである。
満州は逝かれてるのか?

「上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國
 經都斯麻國 迥在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。」隋書倭國伝

竹島:珍島  [身冉]羅國:済州島  都斯麻國:対馬
一支國:壱岐  竹斯國:北部九州の一部

珍島は百済の南西海上にあり、珍島から壱岐まで東行となっているから、
珍島から壱岐までは百済南路となる。
849日本@名無史さん:2012/12/15(土) 11:00:47.39
180 光和 3 庚申 只珍内禮生 逸聖子阿達羅(180-212-243)
212 建安17壬辰 二月逸聖薨 (鵲鄒子)伐休爲太子 (阿達羅即位)
232 太和 6 壬子 (阿達羅20) 五月倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘
850日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:25:15.31
倭人は、バイカル湖東岸からアムール川(黒竜江)を下って、サハリン、北海道を経由して南下してきたわけだし、
その過程で、周辺の民族を混血、融和が進んだのだろう。
851卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 12:57:01.94
經我國南路

倭が百済の南にあるのは当たり前だが、上の表現は、海路ではなく陸路という印象なのである。
海路で倭に向かうというのは当たり前だから、わざわざ經我國南路とは書かないはずである。
經我國南路は陸路という印象だから、くまたろう君もこれに注目しているのである。
つまり半島の南部に、百済と陸続きで、倭国があるという印象なのである。
852日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:57:23.14
>>850
それは縄文人でしょ
853日本@名無史さん:2012/12/15(土) 13:35:52.06
倭人とは縄文系の人のことではないのか?
854日本@名無史さん:2012/12/15(土) 17:22:15.64
>>851
>海路ではなく陸路という印象なのである。

陸路なら、南に済州島を望むのは不可能。
「百済南路」は、百済の南の路が百済領域には無いことを示しているだけ。
例:天山北路、天山南路 等

百済領域の南は新羅の領域と接している。
「其國 東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅 北拒高麗」隋書
855卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 18:46:23.19
>>851
>南に済州島を望む ←これは三國史記の記事にあらず。
>南接新羅 ←これは疑問符のつく記事。

馬韓と弁辰はその南で倭と接すると中国史書にはっきりと書かれている。
新羅や百済の南には、加耶、阿羅、金官、古自、月奈…等の国があった。
また浦上八国というのも恐らく南韓の国々である。
中国史書はこれらを倭と呼んでいるのである。
卑弥呼がこれらのどこかの国の王であることは十分に考えられる。
特に加耶はほとんど女王ばかりが即位しているのである。
856卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 18:52:03.20
>>851>>854の間違い
857日本@名無史さん:2012/12/15(土) 19:25:48.96
阿羅満州馬韓加耶
858日本@名無史さん:2012/12/15(土) 20:33:47.88
>>855
>南に済州島を望む ←これは三國史記の記事にあらず。
裴清遣使の時の隋書の記事

>南接新羅 ←これは疑問符のつく記事。
>馬韓と弁辰はその南で倭と接すると中国史書にはっきりと書かれている。
馬韓と弁辰は裴清遣使の時ではない。

>新羅や百済の南には、加耶、阿羅、金官、古自、月奈…等の国があった。
>また浦上八国というのも恐らく南韓の国々である。
>中国史書はこれらを倭と呼んでいるのである。
裴清遣使の時の状況ではない。
6世紀後半頃までは、百済に南接して倭があった時期があったが。
859縄文人 ◆V0F34EbmQA :2012/12/15(土) 20:38:28.84
>>852
儂を呼んだか
げははははあ〜
860日本@名無史さん:2012/12/15(土) 21:28:39.12
でたー!おばけ
861卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 22:49:03.23
>>858
私は別に裴清遣使の時の話だけをしているのではないよ。
馬韓と弁辰は倭と接するというのはいうまでもなく卑弥呼の時代の話である。
その倭とは加耶、阿羅、金官、古自、月奈…等の国のことだと言っているのである。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/15(土) 23:00:53.25
>馬韓と弁辰は倭と接するというのはいうまでもなく卑弥呼の時代の話である。

そして、倭地にのみ牛馬は存在しない。
半島、大陸に隔離地を設けようとしても足で歩いて行ける。
863日本@名無史さん:2012/12/16(日) 03:08:56.32
思い違いしてる人がいるが、韓と倭というのは、呉越と東夷の合いの子なのだよ
864日本@名無史さん:2012/12/16(日) 03:09:54.45
姫姓の呉だ
865日本@名無史さん:2012/12/16(日) 07:06:53.54
>海路で倭に向かうというのは当たり前だから、わざわざ經我國南路とは書かないはずである。
そうは言えないだろうな。当時の船は何度も港に入る、寝泊まりや食料・水の補給など百済の
世話になっているんだよ。
陸路を来て途中から船を都合するなどということは無理な話、それこそありえない。
866くまたろう:2012/12/16(日) 08:57:03.32
『南至投馬國,水行二十日』について

不彌國から投馬(トマ→ツマ・隠岐都万)國まで‘南’に舟で航行すると
水行20日で行けると記載があるのだが、当時はトモド(殿謄戸)舟・
ほかけ舟・はにわ舟などを使い航行しており、この条文に従って
北九州沿岸から出航して東廻りの航路にて南下するには関門海峡と
豊予海峡(豊後水道)を乗り切らなければならない。

豊予海峡は、急流うずまく速吸瀬戸とも呼ばれ、大分県北海部郡佐賀関町
佐賀関半島地蔵関崎と愛媛県宇和島郡三崎町佐田岬間の海域を言う。
豊予海峡こと速吸瀬戸を南下航行するには‘逆潮流’に向かう事であり
現在でも至難と聞く。

海上保安庁第七管区「海の相談室」の説明
海の相談室談『関門海峡(早鞆瀬戸)においては下関(壇ノ浦)の
ほぼ高潮(満潮)時に西流最強で、ほぼ低潮(干潮)時に東流最強とる。』
『本日は(2004年6月3日)大潮であり約10ノット(時速約20Km)。日本でも第3位の潮速です。
近代船でも前に進まない事がある。』(1ノットは時速1・852km)
『瀬戸内海でも満潮と干潮の差が大きく数mある。
瀬戸内海の沿岸より少しでも離れると難破する。』との説明。

当時のトモド舟・ほかけ舟・はにわ舟などにての航行は
不可能だったように推察する。
不彌國から南・投馬國に至るには水行20日かかる。
さらに南へ女王の都・邪馬臺國に至るには水行10日または陸行一月かかる。
など邪馬臺國へ行くには、水行20日+水行10日(合計水行30日)の
航行がとれたとしても、舟は大隈半島を超え遥か沖縄諸島までに
到達する様に思われる。
また、陸行一月もかけて九州内陸を縦断すると九州南端の
大隈・薩摩半島に到着するだろう。
九州南端には邪馬臺國に該当するような遺跡が無いように思われ、
この距離を考えると陸行一月もかからないだろう。
867くまたろう:2012/12/16(日) 09:19:35.38
【豊予海峡・速吸瀬戸】について
「大分県佐賀関漁業協同組合」K氏に「豊予海峡」について尋ねてみた。
『豊後水道こと速吸瀬戸は潮の流れがとても速く波も高いので
昔の舟(丸木舟など)での航行は危険であり難しい。』と述べてくれる。
そして『引潮(北→南)と満潮(南→北)があるので潮をよく見ないと
一直線で南下(大隈半島方向への)は、まずあり得ない。』との説明。

「宮崎県漁業協同組合」某氏に日向灘の潮について尋ねてみた。
『日向灘沿岸での潮流は南方から上がるが、北方からの潮流は無いですね。
北方からの航行は逆流となりますので、まずあり得ないでしょう。』
『沖の方では、日によって下り潮と上がり潮がありますが、それが
何時なのか全く解りません。今日あったからと言って明日あるとは
限りません。』との説明を受ける。

「佐賀関半島関崎」土産店主の説明。
『「豊後水道」の潮流れはとても速く、特に引き潮時には白波が立ち、
川のように、ジャージャーと音を発て流れます。
潮流速度は6.5ノットです。』『また、大潮(満潮と干潮の水位差)が
月に2回(1日と15日ころ)あり、潮流速度は12〜13ノットです。
それに、渦巻きが発生すると、舟が立ち吸い込まれてしまい
残骸は上がらないです。
おまけに、南風が吹くと三角波が立ち、舟は転覆します。』

※大潮とは、満潮と干潮の水位差のことであり新月と満月のときにおきる。
小潮とは半月のときのこと。
関アジや関サバが有名 。特に、漁師言葉でホゴゼまたホゴデと言われる
個所に、魚が住み着いており、海底の潮流もとても速い。
以上の点から『かなり熟練の漁師でないと、ここの豊後水道は
危険水域なので舟を出せないとのことです。』と
「佐賀関半島関崎」土産店主の説明があった。
868卑弥呼は満州にいた:2012/12/16(日) 09:30:26.13
>>865
經我國南路

これはどう見ても陸路を通ったという表現である。
百済の南に(半島に)倭があったのである。
869卑弥呼は満州にいた:2012/12/16(日) 09:32:50.99
>>866-867
この調査は面白い。
要するに九州の東海岸を南下したのではないということだ。
有明海を南下したのでもない。

日本海航路で大和に行ったということなのである。
870くまたろう:2012/12/16(日) 09:36:50.86
【西廻り南航行をとった場合】
舟は現長崎県から南に向かうことになり、わざわざ「伊都國」「奴國」
「不彌國」まで来なくても「末盧國」から直接、投馬國や邪馬臺國に行ける。
不彌國から水行20日(または陸行一ケ月)で南・投馬國。
さらに南へ水行10日で邪馬臺國に至る。
などの航行をとると九州・薩摩半島を越えてしまうと思われる。
したがって、南至投馬國への南航路はとても危険であり不自然でもある。

何故?倭國の中心国である邪馬臺國の方位を「南」に改訂したのだろうか。
やはり、魏国が呉国に対する軍事戦略‘遠交近攻の策’をとったものと考える。
三国鼎立の戦乱期に、自国の同盟国である「倭国」邪馬臺國の正しい情報を、
その認識が無い敵国の「呉国」などに、わざわざ知らせることは無いだろう。
「呉国」の背後に、魏国の同盟国である「倭国」邪馬臺國が控えてていると
認識させたほうが「呉国」に対しての軍事行動を制御できる。

事実、遠交近攻の策にはまった「呉国」は「倭国」に対しての船団をくみ
出航したのだが大失敗している。
同盟国の邪馬臺國の正確な位置や軍事力を示す人口などの数値は
「魏国」にとっては重要な国家機密と思う。
871困ったろう:2012/12/16(日) 10:50:50.96
くまたろう。  
投馬(とうま)を「つま」と読んだり、伊都(いつ)を「いと」と読んだり。
「邪馬台国は思うがままなり」というわけだ。
そのお前の「ねつ造言説」を処断する。以下の詰問に明確に回答せよ。

●『三国志』は、魏も呉も滅びて存在しない晋代に書かれた。
そこに書かれた邪馬台国へ至る方角や距離や日程が、
どうやって呉に対する戦略として生きるというのか。
●『三国志』は、陳寿の死後に恵帝が正史採用を決定するまでは、
編纂者・陳寿の家に大切に保管されていた。
これが陳寿が死亡した297年以降に人目に触れたとして譲ったところで、
・すで存在しない呉にとってどう有利に機能するというのか。
・すでに存在しない魏にとってどう戦略的に働くというのか。

●魏が倭国調査記録をねつ造してすぐに印刷して、これを呉の陣営にバラまいたというのか。
●それならば、撹乱戦術のために呉にバラまかれたねつ造記録が晋政府の公文書保管倉庫に保管されていて、
『倭人伝』担当者は考証もせずに「行程・日程・距離・方角」の部分だけは、
そのねつ造記録のほうをそのまま書いたというのか。(正しい記録は破棄されていたのというのか)。

撹乱戦術のためにねつ造記録が呉にバラまかれたと万歩ゆずろう。
●ところが、呉に対して脅威でなければならない「倭人の兵力」については誇張していない。
「兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨」。
戦車もなければ騎馬兵もいない。こんな後進国戦力を呉がひびったとでもいうのか。
●『倭人伝』は、倭地がタン耳・朱崖に距離的に近いとは書いてない。
「ある物とない物を比較するとタン耳・朱崖に同じ」だ。
朱崖・タン耳に距離的に近いと解釈をしたのは、『三国志』よりものちに編まれた『後漢書』倭伝だ。
『後漢書』倭伝の「タン耳・朱崖に相近し」を『三国志』倭人伝が述べたようにしたうえで、
「魏が倭国はタン耳・朱崖に近いという作為的な地理情報を、呉側に流した」と、
錯誤か論拠操作をしてはいないか?。

不特定多数にむけてねつ造言説を流すからには、この程度の異論は想定して、
対処詭弁でせてぜて理論武装をしてからいえ。………なーにが「遠交近攻策」じゃーい。
872日本@名無史さん:2012/12/16(日) 11:01:20.97
これは臭い伊作か?
873日本@名無史さん:2012/12/16(日) 11:10:18.16
>不彌國から水行20日(または陸行一ケ月)で南・投馬國。
>さらに南へ水行10日で邪馬臺國に至る。
>などの航行をとると九州・薩摩半島を越えてしまうと思われる。
連続説はまちがい。放射式によむべきなんだよ。
佐賀付近から水行二十日で薩摩川内、これが投馬国。
佐賀から水行十日で八代付近、そこから陸行1月で日向。これが邪馬台国。
沖縄なんてのはとんでもない話。海流は人が漕ぐ速度と同じぐらいの速度
で北上している。北九州から二十日や三十日で行けるとは思えない。
それに外洋だ。遭難の危険もかなりでてくる。
874日本@名無史さん:2012/12/16(日) 12:29:20.62
「困ったろう」こと森村伊作が涌いて出てきますたね!
875日本@名無史さん:2012/12/16(日) 12:50:45.63
139がこんなに上品なわけないだろ
876日本@名無史さん:2012/12/16(日) 13:01:58.68
伊作先生おかえりなさい
877日本@名無史さん:2012/12/16(日) 16:41:21.44
伊作先生お帰りください
878日本@名無史さん:2012/12/17(月) 00:57:05.51
『都』=「ツ」は6世紀の対馬音 日本書紀では「ツ」「ト(甲)」の両方で使用 また上代日本語の「ツ」はtsuではなくtu
『都』の上古音はtag 中古音はto
879くまたろう:2012/12/17(月) 07:40:08.02
女王俾彌呼・邪馬臺國連合30ヵ国名列挙のうち
14番目〜30番目の記名国のみ説明。

14・ 彌奴國 ミヌ 美濃 ミノ 岐阜県美濃国。
15・ 好古都國 ナコト 長門 ナガト 山口県長門市。
16・不呼國 フオ 周防 スオウ 山口県防府市。

【瀬戸内海四国ブロック 】
17・ 姐奴國 シヌ 伊豫 イヨ 愛媛県姐奴(シヌ)と伊豫の二名の地名国。
18・ 対蘇國 ツサ 土佐 トサ 高知県土佐国。
18・ 蘇奴國 サヌ 讃岐 サヌキ 香川県讃岐国。
20・ 呼邑國 アパ 阿波 アワ 徳島県粟(アワ)国。

【太平洋海域ブロック 】
21・ 華奴蘇奴國 カヌサヌ 遠江岩田 オオミイワタ 静岡県遠江磐田郡。
22・ 鬼國 キ 尾張大桑郡 オワリ 愛知県尾張丹羽郡大桑郷。
23・ 為吾國 イカ 伊賀 イガ 三重県桑名市伊賀町。
24 ・鬼奴國 キヌ 紀伊 キイ 和歌山県新宮市木の川(紀ノ川)。 
25・ 邪馬國 ヤマ 大和 ヤマト 奈良県大和郡山市(古代額田郷)。

【瀬戸内海本州ブロック 】
26・ 躬臣國 クオミ 近江 オウミ 滋賀県近江国琵琶湖周囲。犬上郡多賀町「多賀大社」・
三上山麓の中主町・野洲町・守山市一帯。
27・ 邑利國 ハリ 播磨 ハリマ 兵庫県播磨国。
28・ 支惟國 キビ 支(吉)備 キビ 岡山県備前国・備中国。
29・ 烏奴國 オヌ 安芸安那郡 アキアナ 広島県備後国。
【狗奴國系ブロック 】
30・ 奴國 ヌ 信濃 シナノ 長野県信濃国。
※ 狗奴國 クヌ 委奴(ウェイヌ)→アイヌ。 富士山東北の相模国・武蔵国・上野国・下野国など毛人国
(アイヌ国)男王卑弥弓呼。 日の本国(日立:常陸)
以上
880くまたろう:2012/12/17(月) 08:45:21.97
【三国志・呉書・巻二・呉主伝・孫権条】より

魏・明帝太和4年:呉・黄竜2年(西暦230年)の春三月
孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および
亶洲を求めさせた。
魏と親交があった邪馬台国には勇猛で命知らず、強くて獰猛な兵士がいると
考えられており、孫権はこれを支配して戦争に利用しようと、
衛温と諸葛直に1万の兵を与えて夷州(台湾)とともに倭国を攻めるように
命じた。
しかし衛温と諸葛直はその住んでいる所(邪馬台国)は果てしなく遠く、
将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。
だが、夷州から言葉の通じぬ住民数千をつれて帰国。この遠征に行軍した
兵1万はみな疫病にかかって死んでしまったという。

亶洲は海の中にあり、長老は伝えて(次のように)言っている。
「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に、童男童女数千人を連れて
海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、(徐福一行は)この島に
留まって帰らなかった。
代々続いて数万家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て交易する
ことがある。
会稽の東の県人は海に出て風に流され、(そのまま)移って亶洲に
行った者もいる」
881くまたろう:2012/12/17(月) 08:48:50.31
【東アジア古代三国志】著者・汪高鑫:程仁桃より
“遠交近攻戦略”について

「(略)三世紀には、中国に魏、蜀、呉の三国鼎立の政治局面が出現し、
朝鮮半島も諸国紛争、国家興隆の時代に入った。・・・」
「(略)南方の呉国は高句麗の支持を得て南北から曹魏を挟み撃ちにする
局面をつくろうとして、高句麗との遣使往来を頻繁に行った。
曹魏も当然ながら自国の置かれた状況を知って、朝鮮半島と海を隔てた
日本の邪馬台王国との交際を重視したため、すでに述べたような
女王卑弥呼との頻繁な相互遣使を行ったのである。

曹魏の外交目的は明確で、これによって高句麗を牽制することだった。
曹魏は準備が整った240年(魏・斉王芳・正始元年/呉・大帝・赤烏3年)
突然高句麗に進攻したが、当然ながら戦争は実質的な勝利をもたらさなかった。

曹魏のこの高句麗出兵に際して日本の邪馬台王がどのような役割を
果たしたか、という点については文献の記載はない。
だが曹魏の“遠交近攻戦略”が倭国勢力の朝鮮進出に絶好の機会を
つくりだしたことは疑いない。・・・(略)」
882卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 09:22:50.29
>>881
そんなことはその学者が空想で述べていることであって、根拠はない。
魏は公孫淵を討つ前にちゃんと高句麗その他の応援を取り付けている。
それは文献で確かめることが出来る。ネット高句麗史にも書いてある。

しかし魏が倭と同盟を結ぼうとしたというような資料は無い。
その学者は倭人伝をそのように解釈した、というだけの話である。
883日本@名無史さん:2012/12/17(月) 09:30:20.10
根拠のない空想ばかりの満臭がエラそうに
エラ張って興奮すんなよ
884卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 09:39:41.41
根拠のない空想ばかりの九州論者がエラそうに
エラ張って興奮すんなよ
885卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 09:54:17.61
>>883
この男が年がら年中ここに張っていて、九州説を語りたい男なのである。
私に向かって、よそでやれ、とか、消えろ、と書いている男である。

>>875とか>>877もこの男である。
こういう一行横チャリしか書けなくなっているのである。哀れな男だ。
こういう馬鹿男がスレ主気取りで居座っていることが2chの問題点である。
もっとましな男が常連なら2chはもっとましなものになっているのである。
886日本@名無史さん:2012/12/17(月) 10:41:40.38
883だが>>875でも>>877でもない
九州説?アホか
徳島説だ
この洞察力の無さこそ満臭の真骨頂
鮮人は巣に帰れ
887日本@名無史さん:2012/12/17(月) 12:06:19.40
満州クンは、よせばいいのに、他人の人格の品評をしたがる
これが疎外される原因だぞ

他人の論証への批判
自説の開陳
これだけ書いてれば、これほどまでには嫌われないだろう
888卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 12:27:22.84
>>883のようなことを書く男がいるから、カチンと来て人格攻撃をするのである。
君らだって人格攻撃をしているではないか。お互い様である。
889卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 12:36:07.32
ちなみに徳島説など唱えているのは>>886の男だけだろう。
この男がそれほど叩かれないのは、なにはともあれ日本説だからだが、
もう一つの理由は、あほらしくて誰も相手にしていないからであるw
890日本@名無史さん:2012/12/17(月) 12:52:04.31
まあ満州さんを嫌ってる人がいかに多いかってことだな。
>>887さんが言うように自説だけをきちんと述べてればここまで嫌がられないんだろうけど。
朝鮮人みたいな口汚さも皆から疎外される一因だろうね。
891日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:10:26.83
そうそう。
892日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:14:01.04
満州さんは、うんち拾って来るのがお得意。
893決まったろう:2012/12/17(月) 17:16:51.31
>中古音はto
隋は中古音の時代にあたるが、都斯麻は「としま」か?
894卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 17:19:25.44
>>890-892
負け犬の遠吠えw
895卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 17:28:56.64
ここの奴らがどれほど阿呆であるかがハッキリ分った。
私を攻撃している男が四国説の男だとは夢にも思わなかった。
もう少しまともな男だろうと思っていたのだが。

それから類推すると他の奴らも四国説男と同程度の奴らなのだろう。
19歳が、こんなことも分らんのか、と呆れるのも無理はない。
伊作や19歳はこの連中と比べると相当レベルが高いだろう。
とにかくここの連中の程度が分かってガッカリしたというのが正直なところだ。
896日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:15:38.23
>>893
中国人が「都」中古音to と表記しているから7世紀の倭人が現代の「と」と発音していたことにはならない

上代の日本は母音が多かった、または音韻の使い分けが曖昧であったと考えられている
大陸に近く人の往来が古来より頻繁であった対馬と、近畿とでも発音は均一ではないであろう
日本人の発音を中国人は正確に漢字に表記できない
「都」はtag→ to→ tu→ tuと変化しているが、これらの音韻は変化しやすいのであろう
pinyinは発音を正確に表現した記号ではない
897日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:20:46.31
>>895
もうちょっと謙虚になったらどうですか。過去から傲慢なレスをする人は必ず
集中攻撃を浴びる。
第一、不勉強のそしりはまぬかれまい。徳島説には「水銀厨」という第一人者
がいることを知らんようだな。
898日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:25:37.51
水銀は言ってることは支離滅裂でも他人に罵詈雑言浴びせるようなことはしなかったもんな。
マン臭とは人格レベルが違う。
899日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:05:47.96
>>889
その他大勢「満州説に比べれば、徳島説の方がだいぶマシだろな」
900日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:58:45.61
近江or東海説は?
901卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 22:24:50.99
何回も書くが、君らが人格攻撃をしてくるから私もするのである。
>>890-892 >>897-899
これが人格攻撃でなくて何だというのか。

伊作だって真摯な男なのだが、君らがくだらん攻撃をするから反撃するのである。
誰だって君らのような低劣な野次や中傷に遭えばカッとする。

ちなみに、その水銀厨とやらがどんな男かは知らないが、
四国説なんてあほらしいと君らも思っているのではないのか。
正直に言ってみたまえ。近江説、東海説、群馬説…
どれも馬鹿馬鹿しいと思っているのではないのか。
902卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 22:48:59.92
まあハッキリ言えば、一番賢いのは、2chなどには参加しないことである。
こんなところにいれば毒される。汚染されるだけである。

一番好ましいのは、2chが潰れることである。
こんなものは日本の青年子女にとって有害無益である。
903日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:34:32.41
おまえが一番の有害
904日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:37:44.47
2chが悪いのではなくて2chに来る層が悪い
その中でも特にたちが悪いのは何らかの信条を持って
自分の説を広めたいと思っている輩で
不都合な事実は見えません聞こえませんと言うやつだな
905日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:17:05.82
マン臭の説など愚の骨頂w
卑弥呼と古代日本人は鏡マニアだが、満州に鏡マニアが居たことなど無い!
906日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:20:14.40
実は邪馬台国関連スレの2/3は半島人か在日
907日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:22:19.97
まあ、本気で主張しているわけではないだろう。
908日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:32:24.16
夫余では銅鏡の出土はどうなの?>餃子の満州
909日本@名無史さん:2012/12/18(火) 01:02:24.24
満州さんは手の内を明かさず批判しているからバッシングされるのである
いままでずっと満州さんの話を読んできて、満州さん説を推測すると

帯方郡は遼東半島
晋書「卑弥呼は公孫氏也」、つまり卑弥呼は夫余と公孫の系統
邪馬台国は◯韓
つまり倭は三韓の地域にあった
2つめの奴国が金印の奴国
狗奴国は熊襲

こんな感じかもしれない。あくまでも推測だが如何に?
910日本@名無史さん:2012/12/18(火) 01:49:08.54
サガミ先生もくまたろう先生も満州先生も必要な人材
911日本@名無史さん:2012/12/18(火) 03:16:42.85
倭は太白の末裔なんだから公孫氏の系統かもしれない
太白とは西方の偉大な民族って意味だよ
太秦となるとイスラエルになる
秦はローマ
912日本@名無史さん:2012/12/18(火) 07:42:12.91
今の九州説なんて半島人ばかりだな。
913日本@名無史さん:2012/12/18(火) 07:50:11.17
畿内説は歴史捏造ドラマみたいな根拠ないイメージ宣伝みたいなのばかり
914唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/18(火) 08:20:07.14
邪馬台国は大倭=大和
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
そして
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。

公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文俶は東夷校尉となり、291年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
915卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 09:22:04.01
>>905
君は契丹古伝もネット史も読んでないからそんなことが言える。
契丹古伝は冒頭に鏡の原義の説明がある。
高句麗なども鏡を尊重している。朱蒙の伝記は「芻牟鏡」という。
これはおそらく日本の大鏡、増鏡などの歴史書の書名の淵源である。

>>909
合っているのは >帯方郡は遼東半島 だけ。あとは全部違う。
卑弥呼の倭としては当時満鮮にあったすべての国を想定している。
毎日毎日、卑弥呼の倭は実際は何処なのか、ということを考えている。
いくつかのアイデアがあるが、それはここには書けない。
916卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 09:37:30.79
邪馬台国は大和だろうが、彌馬升、彌馬獲支などという官名を見ると、
大和とは全然関係ないような気もするのである。つまり邪馬台国は大和だろうが、
陳寿が得ていた官名の資料は大和国のそれではないような気もするのである。

倭の諸国とされている国々もそれが日本の国とは限らないわけで、
たとえば昔は沿海州あたりを伯利と呼んだのだが、
これは倭人伝の巴利ではないか、などと思ったりしているのである。
917くまたろう:2012/12/18(火) 11:21:48.89
【東アジア古代三国志】著者の
汪高鑫氏 とは「北京師範大学」教授であり歴史学博士です。

専門は中国古代史学思想史であり
古代中国史学の第一人者と言えるでしょう。
918くまたろう:2012/12/18(火) 11:48:48.04
「魏書」東夷傳倭人の条原文『國國有市,交易有無,使大倭監之。』
この条文の中で、特に『使大倭監之』が重要な意味をもっている
『使大倭監之』の『使』は「魏國の派遣使」のこと。
『大』は「大臣」のこと。
『倭監之』は「倭國を統治監理する。」との意。
従って「魏國の派遣使大臣は倭國を統治監理する」となる。
そして、原文『自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之。
常治伊都國,於國中有如刺史。』
解釈『自女王國以北,特置一大率』は「俾彌呼女王邪馬臺國の以北の
狗奴國こと毛人国(アイヌ国の勢力圏)に対する魏國の派兵部隊・
大率(大帥)を一個特別に置く。」の意。
※「帥」と「師」は意を異にする。
邪馬臺國への派軍は『百数十名くらいの騎馬軍団こと精鋭部隊を一個置く。』
因みに「一亮子」こと「一亮兵」は『五百人の兵士』と「中國語大辞典」
(発行所 株式会社国書刊行会)には説明がある。
また「一卒」は100兵士を言う。※「大率」が「大卒」との誤転写・誤転刻と思われる。
そして『大率』の注釈は「大概」と記載があった。
また『率土』の注釈に「全国・全境」「式望・仰慕」と記載がある。
以上の注釈を包括して考えると、『大率』の意に一番近い解釈は
『大帥』である。
『檢察諸國,諸國畏憚之』は「各国を巡察する魏の軍隊(檢察)に
諸国は畏憚(いたん)こと恐れていた。」の意。
即ち、邪馬臺國連合の諸国を魏国の騎馬軍団が甲冑の装備で
巡察していたので各国はその武装に震え恐れた。との意。

因みに、秦始皇帝(BC259年〜BC210年)の「兵馬俑博物館」
(陜西省)には紀元前の兵士と馬などの姿が見られる。
それから、400年後の三国志時代には相当の軍備に向上しており、
甲冑で装備のうえ鉄の武器などをもった軍隊を、魏國は送り込んでいる。
※6世紀初頭の榛名山の噴火で被災した群馬県金井東裏遺跡
(渋川市金井)から古墳時代の鎧を着た人骨が国内初出土されており
魏国の騎馬軍団の甲冑装備の兵士と何らかの関係がある様に思われる。
919卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 12:33:27.56
>>917-918
くまたろう君のレベルがだんだん分かって来たぞw

学界の権威が何を言おうと間違いは間違いなのである。
日本でも東大や京大の教授が好い加減なことを平然と書いている。
魏が高句麗や公孫氏討伐の前に倭と提携したというような資料は無いのである。

國國有市 交易有無 使大倭監之
これは文脈から見れば市を監督する官のことで、それが定説である。

大率が大卒の誤転写・誤転刻だというなら、
大卒と書いた異本がなければならないが、そういうものはあるかね?
920くまたろう:2012/12/18(火) 13:36:04.44
「魏書」東夷傳倭人の条に記載されている第13番目に記載の
都岐國の「都」は「郡」との誤転写・誤転刻ではと考える。
何故かと言うと『三國志』全65巻を通して言えるが、
誤転写・誤転刻と思われる個所が多く確認できる。
 『三國志』全65巻の中での誤字は、本文だけでも合計85箇所以上はある。
 其の内訳は「魏書」44箇所以上。「蜀書」12箇所以上。「吴書」29箇所以上である。 
【『三國志』本条の誤転写・誤転刻文字の訂正文字一覧】・・・晉 陳 壽 撰の条文より
※例( )は削文字。〔 〕の増文字。などは後世に
「中華書局」編集部に於いて校正している。
 (画数の少ない簡単な文字のみ抜粋)
「魏書」44箇所以上 「蜀書」12箇所以上 「吴書」29箇所以上
(郡)〔郯〕。(考)〔孝〕。(友)〔攴〕。(灌)〔濩〕。
(如)〔茄〕。(管)〔菅〕。(備)〔襌〕。(天)〔大〕。
(則)〔財〕。(漢)〔漠〕。(出)〔去〕。(因)〔目〕。
(淮)〔準〕。(倹)〔検〕。奮(威)・奮〔武〕。
上(谷)・上〔洛〕。西(川)・西〔州〕。
(単)于・〔箄〕于。(似)〔以〕 (彼)〔披〕。
(真)〔員〕。(寶)〔實〕。(主)〔帝〕。(不)〔亦〕。
李(郃)・李〔邵〕。末(及)・末〔乃〕。
黄(權)・黄〔柱〕。河(閨j・河〔關〕。
河(間)・河〔關〕。(真)郷候・〔員〕郷候。 聖(壹)・聖〔臺〕。
(本)〔古〕。(今)〔令〕。
(授)〔據〕。(雖)〔離〕。(徙)〔從〕。(至)〔巫〕。
(慮)〔憲〕。(幸)〔永〕。(至)〔主〕。(慢)〔蔓〕。
(遇)〔逼〕。(可)〔閨l。(平)州・〔半〕州。
(官)亭・〔宮〕亭。孫(河)・孫〔皎〕。永(康)候・永(寧)候。
※「都岐國」が「郡岐國」との誤字であると(クキ・クシ→コシ)判断できる。
921くまたろう:2012/12/18(火) 13:38:07.50
【『三國志』注釈の誤転写・誤転刻文字の訂正文字一覧】・・・宋 裴松之 注の条文より
例( )は削文字。〔 〕の増文字。などは後世に
「中華書局」編集部に於いて校正している。

 (画数の少ない簡単な文字のみ抜粋)
「魏書」21箇所以上 「蜀書」11箇所以上 「吴書」13箇所以上
(省)〔著〕。(資)〔質〕。(智)〔志〕。(告)〔吉〕。
(備)〔襌〕。(天)〔大〕。(向)〔而〕。(神)〔袖〕。
(竟)〔意〕。(交)〔文〕。(合)〔谷〕。(令)〔今〕。
(使)〔史〕。(君)〔召〕。(防)〔仿〕。(太)僕・〔火〕撲。
(商)陵・〔高〕陵。(崔)豹・〔崔〕鈞。(封)部・〔封〕丘。
左(髪)丈八・左〔髭〕丈八。 (世)〔廿〕。(後)〔復〕。
(綬)〔緩〕。(乃)〔爲〕。(任)〔位〕。
(斗)〔升〕。(分)〔忿〕。
922太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/18(火) 15:28:05.43
>邪馬台国は大和だろうが、彌馬升、彌馬獲支などという官名を見ると、大和とは全然関係ないような気もするのである。

そのとおり。この件ほぼ同意。



しかし、邪馬壹国は大和(←この場合、畿内)ではない。
923卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 18:24:56.48
マヤ暦によると12月21日に世界は滅亡するらしいから、
太国の倍暦説を聞けるのも今の内だけだぞ。

うれしいような、悲しいようなw
924卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 18:34:02.90
郡岐

漢音  j&ugrave;nq&iacute;
朝鮮音 kwunki

どう見てもコシにはならないな。
925卑弥呼は満州にいた:2012/12/18(火) 18:37:26.72
漢音 junqi
926日本@名無史さん:2012/12/18(火) 20:32:18.77
>>918
>『使大倭監之』の『使』は「魏國の派遣使」のこと。
>『大』は「大臣」のこと。
>『倭監之』は「倭國を統治監理する。」との意。
>従って「魏國の派遣使大臣は倭國を統治監理する」となる。

これは、漢文の文法を完全に無視している。
『使』は「魏國の派遣使」ではないし、『大』は「大臣」ではない。
『使大』が「魏國の派遣使大臣」となるような用例はない。

仮に、『使大』が「魏國の派遣使大臣」だとしても、
「魏國の派遣使大臣は倭國を統治監理する」ならば、
動詞の『監』は、目的語である「倭國」の前にくるのが漢文の決まり。
だから、『使大監倭』にならなければならない。
これでは、『之』が浮くし、そもそも、原文はそうなっていない。

『倭監之』は、「倭が之を監理する」である。
そして『使』は使役形の印。
「使+A+B+C」は「AをしてCをBせしむ」という形。
すると『使大倭監之』は、『大倭』というひとまとまりで考えないと、
文として成立しない。
つまり「大倭をして之を監せしむ」となる。
927太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/18(火) 22:46:20.13
>>923
0バクトゥン帰還はもうすぐだな。

しかし朝慢心の言うようにはならんぞ。
928卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 18:24:01.03
晋書の倭人伝にこういう記事があった。

不知正歳四節 但計秋收之時以爲年紀

秋の収穫の時期が来ると、倭人は「ああ、一年が経ったんだべな」と思うということである。
これで古田のような解釈がいかにバカ読みであるかが分かる。

と、これだけ書いても2chの連中の中には倍暦説に固執する者がいると思われる。
なにしろここの連中は同じことを百回言っても理解しないのである。
929太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 18:31:09.84
肯定には不充分の文面だが、否定できる事由も薄い。
これ ↓ は畿内朝廷が2倍暦を行使していた文証である。

【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0
2日 2  16日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0
       29日 0
       30日 0


上表を見ると日数はすべて1日〜14日の2週間に収まっている。その
末日の14日は7回も使用されている。有効数字は表の左半分のこの14日
までであり、右半分は全部0行進である。これは朝廷が14日という日を
強調したいため、14日を多用したのではあるまいか? その強調したか
った事とはいったい何か? 他でもない。当時の1ヶ月は14日間なの
だよ、14日で終りなのだよということを印象付けたいための14日多用
だったのであろうと想う。
これだけ見れば当時の1ヶ月が現今の半月の14日間しかなかったと充分
想定できるのである。
930太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 18:34:23.42
3倍暦の ↓ 文証。
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】

1日 0  11日 0  21日 0
2日 1  12日 0  22日 0
3日 0  13日 0  23日 0
4日 0  14日 0  24日 0
5日 1  15日 0  25日 0
6日 1  16日 0  26日 0
7日 0  17日 0  27日 0
8日 2  18日 0  28日 0
9日 2  19日 0  29日 0
10日 1  20日 0  30日 0

上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということなのだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがあるまい。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたということなのである。
前表は1日〜14日まで、後表は1日〜10日までと整然としている。
ということは、舎人親王らは原書群の選択にて、最も信頼おける記述を
選んだに違いないから、このように整然化されてるということは、紀の
八代間の原書群には2倍暦法での記載のものと3倍暦での記載のもの
があって、両者が交錯していたものもあったであろう。その中からこれ
が真であると舎人らが確信、選択をして紀の記述としたものであろう。
八代間の当時、互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと
受け取れるのである。だから倍暦の変更は相当行われていたと観たい。
いよいよ13バクトゥン完了だ。マヤ暦の新時代が到来する。
931日本@名無史さん:2012/12/21(金) 04:58:52.42
928はやっぱいつものよおおにいつものごとくまぬけ

其俗不知正歳四節 但計 春耕秋收   爲年紀 ←(魚豢)魏略曰(3世紀同時代史)
   不知正歳四節 但計 秋收之時 以爲年紀 ←『晉書』房玄齡(578-648)等撰

400年も経過したりすると、「房玄齡さんちゃんと読めていないのね」ということにはなる


其人壽考或百年或八九十年 其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦(ちんさん)
                         ↓
    人多壽百年 或八九十    國多婦女(晉書)(劣化版)
                        ↑
男が女を独占的に囲うみたいな思い込みベースで理解したりすると
得てしてこおゆうまぬけなことにはなる
932日本@名無史さん:2012/12/21(金) 08:34:21.90
資料批判をしないで使うのは、
満州クンの得意技じゃないの
933日本@名無史さん:2012/12/21(金) 08:38:28.51
>>931
>400年も経過したりすると、「房玄齡さんちゃんと読めていないのね」ということにはなる

それ、倍暦が正しいという前提がないと、房玄齢がまちがってることにならないよ。
魏略は、春耕し秋収める農事を暦の基準とすると言っている訳だから、
秋の収穫の時期を暦の基準にするというのは、同じ事を言ってる。
つまり、房玄齢は正しく読んでいて、「古田さんちゃんと読めてないのね」ということになる。
934卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 09:17:53.16
>>933
この男は賢い。まったくその通りだ。

稗箕狐という男がいかに阿呆であるかがハッキリ分かってきた。
935日本@名無史さん:2012/12/21(金) 10:43:07.94
>>931
>男が女を独占的に囲うみたいな思い込みベースで理解したりすると
>得てしてこおゆうまぬけなことにはなる

古田氏の説を鵜呑みにしてるな。
大人は全てのものが四・五人の夫人がいる。
つまり、適齢期で未婚の女性がそれだけ減る。
それなのに、下戸という低い身分のものでさえ、二・三人の夫人を持つことができる。
男女比が同数なら、そんなことが起こりえるか?
女性が多いと判断するのも、あながち間違いとは言い切れない。

古田氏は、「或」とあるのだから、下戸の大部分は「0〜1」婦だといって
范曄を笑っているが、本当に笑えるのか?
よく考えると、「0〜1」というところが、論理のトリックになっている。
もし、男女比が同数ならば、大人や下戸の一部が複数囲っている分、
あぶれて独身の者が出なければならない。
古田氏が正しくて、范曄を笑うためには、独身の下戸、つまり夫人が0の下戸が沢山いなければならない。
「下戸の大部分は「0〜1」婦だ」といっても、大部分が一婦なら、古田氏は范曄を笑えない。
大部分が独身だと言えるだろうか?そんな記述は、どこにもない。

しかし、「下戸には独身の者が多い」などという記述はない。
936日本@名無史さん:2012/12/21(金) 11:43:15.21
>>931
>>935
何を勘違いしているのだ。

戸主が複数の妻を持つことを誤解している。
戸主の複数妻は当時の社会福祉制度だ。

父親が死ぬと新しい戸主は父親の妻を戸主の妻として迎える。
戦争等で、戸主の兄弟が死んだ時にはその妻を戸主の妻として迎える。
経済的余力のある大人の戸主は、死亡した親類縁者の妻も戸主の妻として迎えるということだ。
ただ、戸主の実母の場合は妻に迎えたとは思われない。
937日本@名無史さん:2012/12/21(金) 15:32:40.89
>>936
そういう嫂婚制は、匈奴の習俗として、漢書匈奴伝などに紹介されている。
倭人伝の「其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦」が嫂婚制を言っているのなら、
陳寿や後代の注釈者が、匈奴の習俗との共通性を指摘していないのはおかしい。
実際、倭人伝では、文身の習俗を夏后少康之子云々と比較したり、
「所有無與?耳、朱崖同。」と記述している。
漢魏の人間にとって、匈奴は、それらよりも余程馴染み深い存在。
938日本@名無史さん:2012/12/21(金) 16:21:44.49
>>937
陳壽は、匈奴嫂婚制と似ていると書きたかったのだよ。

しかし、魏代には匈奴は既に無く、
匈奴の故地にあったのは鮮卑との認識であったので、
陳壽は、儋耳朱崖でその風俗を引用した様に、
匈奴の嫂婚制を引用できなかったのだ。
939日本@名無史さん:2012/12/21(金) 16:39:13.95
>>938
同じ東夷伝夫餘の条に「兄死妻嫂,與匈奴 同俗。」とある。
940日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:33:24.71
>>935
「古田氏の説を鵜呑みにしてるな」 というのは読み方が半端

母系で宗族がまわっている社会に関しては世界史的に研究自体が希薄

女王と婚することで王が発生する あたりまで想定しておるのを読み取ってね

実は烏丸鮮卑東夷伝の鮮卑のところでおもしろい記述がある

父系の兄弟おじおいには簡単に殺人とかが起こる

しかしながら母系に関しての殺人とかは起こらない

それは報復が必至であるから殺したりは避ける とゆうやつ

また「戸主の複数妻は当時の社会福祉制度」というのも

父系で相続のが当然のヘッドの人が思いつくへんな理解

高句麗の王家は特定のファミリーから嫁もらう 嫁奪って簒奪とゆうのもあるしね
941日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:44:21.35
大人皆四五婦 下戸或二三婦

下戸與大人相逢道路 逡巡入草


「下戸或二三婦」のは「二三婦」を囲っているとゆうよりは

通い婚で「二三婦」がお相手

その「二三婦」の女性のひとは専属で広範に「下戸或二三婦」だと

女性多多でないと計算合わなくなるから 複数の通い男としでかしていた

だろな
942日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:49:12.43
10日以降に死んだ天皇がいないのは、慣例に則した措置でしょう。
最初は偶然だったけれど、それが重なると、しきたりになるのです。

今日は冬至。伊勢神宮の宇治橋で冬至歳が執り行われたように、
鏡作神社でも、三輪山から昇る太陽を拝めたはずです。

本当の歴史を知りたいのなら、そういう季節に実際に自分の目で確かめた方が良いでしょう。
943卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 22:57:17.98
しかし稗箕狐という男はなぜこれほど母系社会という理念に拘泥しているのかな。
そんなのはあくまで一つの説に過ぎないのだがね。

新羅などは実権は王妃や王母が握っていたようで、
王は飾り物に過ぎなかったようであるが、しかし男系社会である。
加耶はこれとは違って殆んど女王ばかりが即位しているから、
ある意味では女系社会とも言えるだろうが。

古代は女系社会だというのも、おそらく一部の学者の空想なのである。
944ローガン:2012/12/21(金) 23:36:06.82
女系社会…
母系相続とか、通婚とか お相手とカテゴリーを摺り合わせてから 議論しないと意味ない。
945日本@名無史さん:2012/12/22(土) 00:25:09.77
女系社会なら女王が単独の王であって、婿は王配にすぎないのでは
イギリスがそうですよね
エリザベス女王が王であって、婿はエディンバラ公という臣下にすぎない
日本の古代は歴史マニアが期待するような、西洋・中国的な王ではなくて、
神と対話できるのが唯一天皇であるというだけで崇められている王なのです
しかも元々は女系で女王が霊媒となり神の言葉を聞くというのが公務
婿になる男は財力武力のある氏族であって女王のパトロンとして王宮を支えるわけです
王配として子を残し、皇女ならば次の女王へ、皇子ならば婿の実家の跡継ぎにしたりします
聖なる女王の血を引いている皇子だから、領地の者も喜んで迎えるわけです
都には女系の王家だけが連綿と維持され、時の勢力ある氏族が代わる代わるその血に繋がろうと婿入りを志願する
日本の古代は女系であったのに、それを善しとしない後世の人が皇統譜を男系に無理やり作り直したと
そう解釈すれば、あのぐちゃぐちゃな皇統譜の不可解さをまっすぐに読み直す事ができます
いま皇統譜とされている物は王配の婿入り録でしかなく、そこに父子関係も無ければ出自もちがう男の羅列でしかないという事
逆に、皇后や妃して、○○○○の子女・△△媛命などと記された女こそが、女王であったのです
もちろん、皇子でも資質があれば霊媒として神の言葉を伝えた例はあるようです
最終的に男系の天皇家となって血が残ったのは、どの王配の系統から出たものか、あるいは霊媒の皇子の系統から出たものかは解りません
天皇にまつわる神話に筑紫や出雲系の話が絡むところを考えると、その地方の氏族が婿入りして生じた系統が発端かも知れないです
946日本@名無史さん:2012/12/22(土) 03:38:21.81
エリザベス女王は単に父親が王だったから王なんだろ
947日本@名無史さん:2012/12/22(土) 04:09:13.09
血統こそが大切な時代に血統の無視が前提になるわけないだろ?
948日本@名無史さん:2012/12/22(土) 06:42:11.99
元々男系だったのですが戦争で殺し合う男は断絶の危険が大きく、
倭国大乱を経て広域を統治するのにじゅうぶんな求心力のある血統が無くなってしまった。
そこで卑弥呼を共立した。女王は臨時であり結婚しない子を産まない伝統は既にあった。
夫や子が居ると男系化し争いを避けるために女王を立てる意味が無くなる。
例えば宗家を実力で武力で簒奪する等じゅうぶんに諸王を納得させ得る男王が現れるまで女王。
神武帝は男酋長でも女酋長でも構わず討っていった。
949日本@名無史さん:2012/12/22(土) 07:08:32.82
「倭國亂、相攻伐歴年」
何年も激しい戦争が続いたら男は減るよね。
すると国に婦女が多くなって、下戸でも二三人の嫁を持てるようになる。
第二次世界大戦後の日本も、男が少なかったとか。
范曄や房玄齢のほうが正しく倭人伝の行間を読んでいて、
それを「ユーモラスなあやまりをおかした」なんて書いてる
古田さんのほうが間違ってるんじゃないの。
950卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 10:14:49.55
>>945
>しかも元々は女系で女王が霊媒となり

これがそもそも思い込み。
もともとは男王が霊的な能力を持っていたのであり、
女性の霊媒なんてのはその退化した形態である。
951日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:24:51.43
ある意味、帥升が始まりだったと思う。その体制が卑弥呼時代も続く。
ただ、帥升時代から世襲制があったかは疑問。むしろ、後継者争いが常態
だった可能性も高い。実力のあるものが後を継ぐというわけ。

卑弥呼は共立というわけで世襲とは異なるだろうし、台与もその後の男王も
世襲とはいえない。こう考えると、この時代は血縁による世襲は考えられて
いなかったのだろう。権力を継ぐにふさわしいものという考えだけがあった。

世襲制が始まったのがいつなのかは興味のあるところ。少なくとも卑弥呼時代
あたりはそうではなかった。
952日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:28:51.37
3世紀頃の九州の墳墓で副葬品が伝世された様子はあまりない
日本全体で(高貴な身分を約束されていたと思われる)子どもの墳墓などもない
権力の安定した世襲なんてずっと後だろ
953日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:37:06.82
卑弥呼が新しい王統なら、そこで新しい国が建国されたとなる。
しかしながら、少なくとも、魏志倭人伝を書いた中国人は
卑弥呼の前も後も、同じ国家が継承されていることから、
卑弥呼の前に存続していた王統と卑弥呼は同じ王家だというふうに
解釈している。
954日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:39:49.20
>>951
師升なる人物は、基本、倭国全域を代表していないと思われる。
倭の面土国(めたこく)の王とあることから、
これは、筑紫の米多国(めたこく)のことでは?と思われる。
現在の吉野ケ里の周辺の地方豪族ではないのか?

卑弥呼の王統とは、これらは直接的に無関係と思われる。
955日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:17:43.49
>>954
後漢書には「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」と
書かれている。帥升は「倭国王」との認識で、29カ国を従えていたと
される倭王・卑弥呼と同じだろう。
倭の五王のところでも「倭王」と「倭国王」を同じように使っている。
956日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:42:07.44
帥升は107年ころの王。倭国全体の王なのか倭の中の一つの国の王なのかという問題がある。
そして、倭国の王だとしても、そのころの倭国と卑弥呼のころの倭国とが同じ範囲かどうか
という問題がある。倭国の乱は、107年より後のことだからね。倭国の乱で倭国の領域が拡大
した可能性が大きい。
私は107年ころの倭国は北九州のみ。倭国の乱で北九州と南九州が戦い、卑弥呼のころには
九州全土となったと考えるね。
957日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:55:00.17
古記古伝諸家系図から、彦火明命六世孫。(倭宿禰命(神武天皇と同世代)から3世代(約100年)後。)
「宇那比姫命」。
(いわゆる初代のヒミコに比定可能。ほぼ確定的)
亦の御名は竹野姫命。
御称号を「大倭比売命」。
亦の御称号を「天造日女命」。
亦の御尊号を「大海「霊女」姫命」(偉大なる巫女で在らせられた)
と称え奉る

・・・彦火明命(大己貴命と多紀理毘売命の御子)の3世御孫にあたる椎根津彦命(倭宿禰命/珍彦命/大和国造祖。//∴「神武天皇」にあたる御方と同世代の人」。)の
ひ孫(天火明命六世孫)。
「竹田勢(建田背)命」の御妹君。
また、孝霊天皇の母(押姫命/日本足彦国押人命(=孝安天皇)の妃)方の祖母。
かつ、和邇氏祖。天足彦国押人命(第五代孝安天皇の兄)のお妃さま。
958日本@名無史さん:2012/12/22(土) 12:17:38.21
孝安天皇さまがまさに宇那比売命(大倭姫命/天造姫命/大海霊女姫命/(ヒミコ))の男弟(義理の弟)
宇那姫命の兄、建田勢命(竹田背命ほか)の孫姫が
天豊姫命。
亦の御称号が大倭姫命。(女王陛下の意味)
いわゆる、齢弱冠十三才で共立されたヒミコ。トヨ姫。
959卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 12:47:38.25
孝安天皇 在位BC392-BC291

時代が全然違う。
そんな空想に浸っていてはダメだよ、稗箕狐君。
960ローガン:2012/12/22(土) 15:50:27.75
>>945
>日本の古代は女系であったのに、それを善しとしない後世の人が皇統譜を男系に無理やり作り直した

稲荷山鉄剣銘に見えるのは男系相続。又、雄略紀の埴輪馬説話にある
田辺史伯孫は、娘が嫁ぎ先で出産した子供を見に行く話。
いずれも母系を否定。
961日本@名無史さん:2012/12/23(日) 00:25:09.57
>>960
それは地方豪族の場合でしょ
彼らが婿入りを志願するんですよ
962日本@名無史さん:2012/12/23(日) 00:41:17.91
有名な大学の先生たちが読んでも結論が出ない。
したがって、素人がいくらやっても時間の無駄。
考古学に期待するしかないのでしょうね。
963日本@名無史さん:2012/12/23(日) 00:41:31.05
沃沮の東の大海中に女だけで男がいない国がありますと古老が言いました。
964日本@名無史さん:2012/12/23(日) 00:53:21.40
吸い尽くされて終いには取って喰われちゃう
965日本@名無史さん:2012/12/23(日) 06:22:39.22
中国人が邪馬台国を発見!
http://www.smjsearch.com/yamatai/yamatai.html
966日本@名無史さん:2012/12/23(日) 07:24:40.10
>>618>>916
朝満ジジイ、もうメチャクチャだね!
967日本@名無史さん:2012/12/23(日) 09:51:30.19
>>965
シナ人張国平はバカですか?

>・九州説にしろ、近畿説にしろ何故水行と陸行を繰り返すのか。
>そのまま目的地まで水行すれば良いではないか?
帯方郡から投馬國、帯方郡から邪馬壹國に直行となっているから、
距離を「里」で表現してい無いのでアール。

>・南に投馬国に至るには水行20日とあるが、
>伊都国をどこに仮定しても南に船で行く場所など見つからないではないか?
伊都國から船で行ったとは書いていない。伊都國からは陸行のみ。

>・女王国の東海上千余里にある倭種の国やその南の侏儒国など説明できないではないか?
倭種の国は周防、侏儒国は土佐、有裸國と黒齒國は相模と武蔵である。

以下の項目はバカバカしいので省略。
968日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:01:07.46
倭人の風土や産物、気候条件の詳細が記されてるのだから、
中国人の目的地はそこしかないでしょう。
四国周辺部が倭人の本拠地、北部九州はこの時点で論外だな。
969卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 10:14:45.65
>>965の論考にも見るべき所はある。
それは辰韓は釜山ではあり得ないという指摘だ。
これはまったくその通りで、私の想像では、
辰韓とは豆満江の北、吉林省南部辺りなのである。

>>966
文章から察すると君はいかにも若いという印象だ。
もっと勉強して知識を積めば私の説がトンデモではないと分かってくるのだよ。
私に個人攻撃されたわけでもないのに朝満ジジイなどと汚い言葉を書くのは止めた方がいい。
汚い言葉は他人を傷つけるだけでなく自分でも嫌な後味が残るのである。
970日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:54:21.74
倭人の風俗は、明らかに縄文系のものだ。
縄文の大規模集落といえば盆地に決まっている。
しかし、九州には盆地がない。
971日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:11:24.64
>>965の論考にも見るべき所はある。
それは辰韓は釜山ではあり得ないという指摘だ。
これはまったくその通りで、私の想像では、
辰韓とは南漢江、北漢江流域と洛東江上流域なのである。
しかし、北漢江流域の辰韓8国は辰韓から分割され楽浪郡に併合される。
972日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:24:13.09
もう、とっくに結論出ていると思うけど
邪馬台国時代を語るのに
考古学の知識と歴史学の知識が分断されてしまっているので
たどりつけないだけだろう。
どちらか一方に偏るのではなく、考古学と歴史学の知識を整合させていかないと
いけないんだけど、それが出来る偉い先生が存在ということだと思われ。
973日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:28:29.24
>>970
>九州には盆地がない。
九州の地図を見ろ、盆地がいっぱいあるぞ。

>倭人の風俗は、明らかに縄文系のものだ。
3世紀の倭人の風俗は、南方弥生系だ。
「所有無與儋耳朱崖同」と書いてある。
974日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:32:55.78
倭国の南、去女王四千餘里にある侏儒国
四千餘里300km余りは現実味がある数字じゃありませんか
架空なら船行半年とでもしとけばいいんだが四千餘里なら行ける
975日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:44:59.67
ほぼ九州全域が邪馬台国だった。
976日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:50:14.16
九州の盆地地形
宗像市、若宮市、飯塚市、田川市、日田市、武雄市、嬉野市、
菊池市、阿蘇市、人吉市、えびの市、小林市、都城市

それに北野平野と西都市も盆地と見なせなくもない。
977日本@名無史さん:2012/12/23(日) 12:08:23.06
>>974
>倭国の南、去女王四千餘里にある侏儒国
>四千餘里300km余りは現実味がある数字じゃありませんか

その通り。しかし侏儒国は倭種(周防)の南(東南にズレ)。
且つ、女王(筑紫平野)から四千餘里300km余り。
それらの軌跡の交点にあるのは土佐。
故に、侏儒國があるのは土佐高知平野となる。
978日本@名無史さん:2012/12/23(日) 16:08:21.05
名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞


自爲王以來 少有見者 

女の園にはたまにはゲストをお迎えして種付けの神事とかしてたんだろうな
979卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 17:34:26.81
種付けの 話が好きな 稗箕狐かな
980日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:13:21.20
>侏儒国は倭種(周防)の南
読み方を間違えているようだ。侏儒国は女王国の南四千里にあるのだよ。
981日本@名無史さん:2012/12/23(日) 23:11:55.45
>>980

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」

女王國の東の千里の海をわたると倭種の国。
女王國と倭種の国とは千里以上離れていることに留意。

其(倭種の国)の南に侏儒國がある。
倭人伝では方向が時計回り方向に約35度ずれているから、
侏儒國が実際にあったのは倭種の国の東南方向になる。

又、侏儒國は女王の居所から四千餘里離れている。

女王の居所は筑紫平野であるから、倭種の国は山口県周防付近となる。
山口県周防の東南方向で、筑紫平野から四千餘里300kmのところは土佐高知平野である。
故に、土佐高知平野が侏儒國となる。

以上
982日本@名無史さん:2012/12/23(日) 23:46:58.12
>其(倭種の国)の南に侏儒國がある。
其のは女王国を指すのだよ。
983サガミハラハラ:2012/12/24(月) 08:45:45.15
女王国の東の海をわたる千余里の倭種の国は山口県のことです。
後漢書の、女王国の東、海をわたること千余里、拘奴国のことです。
拘奴国(コウドコク)=山口県の人は自国をコウトとよんでいました。
やがて漢字がはいってくると、孔の地をあてて孔門(こうと)コクと書きました。
やがてときはすぎ日はあらたまり、孔の字を訓読みしてアナトとしました。
さらにアナに穴の字をあてて、穴門としました。
それが長門となった事情はわたしにはわかりません。
984日本@名無史さん:2012/12/24(月) 09:07:06.07
山口ならば渡海百里でなけりゃね。
985卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 09:48:27.64
倭種の国は山口でも四国でもないだろうし、
侏儒國が土佐だなどというのはトンデモ説。
986日本@名無史さん:2012/12/24(月) 11:56:44.13
倭種の国は四国だろう。そこから、侏儒國が土佐だという考え方もでてくるが、
倭種の国の南と言ったところで倭種の国は広いわけでどこから南か分からない。
侏儒国に関する其南は次の裸国黒歯国の関する其東南と同じだ。そこに着目する
と、其は一連の文章冒頭の女王国を指すものだということが分かる。
つまり、侏儒国は九州の南四千里にあるというわけだ。奄美の喜界島にはこびと
伝説がある。そこが侏儒国だったのではないかな。
987日本@名無史さん:2012/12/24(月) 17:20:36.19
反日石破は官僚の犬!
【円安】 自民党の石破茂幹事長、適度な円相場「1ドル=85〜90円ぐらい」★3
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356127992/
財務省のとあるデータでは
円相場は87円位が「財務省にとって」都合よくてそこらへんに収めたいらしい。

許すな!!
988サガミハラハラ:2012/12/25(火) 00:20:41.74
一日の終わりにネットを覗いて、最後にユーチュウブで竹内まりやの駅をききます。
このかたわたしの好きな中川翔子ちゃんににているので好みなのです。
しかしこの歌、魂の奥底まで揺さぶる歌ですね。あめもやみかけたこの街に、ありふれた夜がやってくる。
再生回数437万回というのも頷けます。
989日本@名無史さん:2012/12/25(火) 21:32:54.19
誤爆乙。
990卑弥呼は満州にいた:2012/12/25(火) 21:37:51.37
今日、もしかしてこれが狗奴国か、と思われる国を発見した。
なんとなく音が似ているのである。
中国の正史に出てくる国だが、東夷伝には出てこないから、
たぶん君らも知らないだろう。
念のため検索してみたら満州源流考にも出ていることに気付いた。
満州源流考は二回読んだのだがまったく気付かなかった。
不注意というのは恐ろしい。
991名古屋大学生:2012/12/25(火) 22:55:29.11
約一年ぶりくらいに覗いてみたが、信じられんことにまだやってたの(笑)
ほんと気持ち悪いヲタクどもだ、一年前と似たような書き込みばかりだし、
延々ループかよ。妄想でしかないんだし時間の無駄。いい加減やめとけ。
992日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:05:41.83
おう、一年坊主、調子はどうだい?
落第しそうか?
993サガミハラハラ:2012/12/25(火) 23:18:55.24
皆さんの中で、逵志保(つじしほ)なる女性をごぞんじのかたおられますかな。
彼女は徐福伝説考という書物を出版しています。
これは彼女の卒業論文を富士通が出版したものです。
この本を私は、古本市でみつけました。そしてこの本は私の徐福研究
バイブルともなったのです。
彼女とは今月の3日に横浜の神奈川徐福研究会のシンポジュウムで
お会いしました。
彼女はその後も徐福研究をつづけていたのです。
彼女はいまでも燃えていたのです。
私の好きな歌にアリスの「ジョニーの子守唄」というのがあります。
その中に「ふと聞こえてきた君の歌 コーヒ―カップが持つ手がふいに ふるえ
だしたのが恥ずかしくて
   ・
   ・
   ・
風のうわさできいたけど 君はまだ燃えていると ・・・・・」みなさん、燃え続けていますか。

 
994日本@名無史さん:2012/12/26(水) 00:39:48.90
>>984
> 山口ならば渡海百里でなけりゃね。

山口なら百恵でなけりゃw
995日本@名無史さん:2012/12/26(水) 07:23:05.90
徐福研究会とかいかにもマニアックなキモオタ揃い臭いとこだな(笑)
996サガミハラハラ:2012/12/26(水) 09:47:34.67
問題は徐福が本当に日本にきたのか。そしてどのような痕跡をのこしたのかです。
私は今この問題にとりくんでいます。
997日本@名無史さん:2012/12/26(水) 14:57:20.10
998日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:05:28.46
>>996
秦の始皇帝(BC259〜BC210)の命令を受けて、3,000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って東方に船出し、
平原広沢を得て王となり、中国には戻らなかったという徐福が、日本に来て王となったとすれば、
どの神様なんだろうか?

秦(はた)氏の氏神とされるお稲荷さん(宇賀御魂大神うがのみたまのおおかみ)?
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ukamitama.html
999日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:24:38.41
知ってるけど教えてあげない
1000日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:29:20.53
>>999
秦(はた)氏って始皇帝の秦王朝から来たから秦(はた)氏を名乗ったの?
次ヌレで教えて!
10011001
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