1 :
日本@名無史さん:
弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑ 【神武東征ルート】
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系末裔であることを示すため、神武は投馬国(日向)から船出し、
首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島へ軍事介入で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系の活躍=筑紫系の活躍)→「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の平城京から本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都
3 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 17:28:43.85
いきなり保守
5 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 23:29:11.87
大国主命の子孫としては
健御名方命の系統の諏訪氏と
大田田根子の系統の三輪氏があるが、
大国主命の子孫として嫡流なのはどちら?
6 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 05:31:19.40
天照とスサノオは兄弟で弟が先に亡くなったということですか。
漢委奴国と倭面土国の時代は」50年ははなれていると思いますが。
アマテラスがスサノオの6世孫(大国主)に国譲りを迫ったという時点で、
アマテラスとスサノオが姉弟であるのが嘘と判る。
応神朝に寿命100歳を超える天皇が頻発するのも、ここは嘘ですよと気付かせるためなんジャマイカ?
つまり記紀の記述には真実を記す部分と嘘の部分があり、
嘘の場所をわざと大げさに書くことで示し、真実の歴史を考えさせるようにしてると思われる。
記紀には、日本列島西半分を割拠する諸権力の最終休戦協定という意味合いがある。
だから論理的一貫性以上に、それぞれの諸権力の記紀の記述における案配こそが
当事者にとっての最大の関心事となっている。
別にアマテラスやスサノオのモデルになった人物が実在したという仮定に立たなくてもいいと思う
例えばヤマトタケルや役小角伝説みたいに、複数の人物の活躍を一柱の神に仮託したのかも知れないし
まったくの観念上の存在なのかも知れない
10 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 14:28:30.74
アマテラス = 卑弥呼 という線も捨て切れない。
11 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 16:00:25.62
記紀の天照大神の記述の大部分は、素戔鳴尊の乱暴に悩むだけで、結局は
怒って天岩戸に隠れてしまう。
天岩戸を出てからは、高皇産霊尊のほうが主役になる。
12 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 16:05:27.38
>>11 岩戸に隠れる前が卑弥呼で
岩戸から出てきた後がトヨという説もある。
13 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 16:36:23.35
>>12 恐らくそれが正しいだろうが、それを認めると、天照大神の時代が
3世紀後半まで続き、その後に神武東征があることになる。
これはまさに邪馬台国東遷説。畿内説がある限り、反対論は続くことになる。
14 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 01:25:36.82
三角縁神獣鏡が日本製だとすれば、出来た年代が重要かも。
四世紀中頃とすれば、その頃まで卑弥呼時代の記憶が残っていて、『景初』
なんて年号が入れられているわけだから。
卑弥呼の記憶はかなり残っていた可能性が高い。
支配者としての正当性が必要になるから。
16 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 09:20:23.38
>>7 そんなこといったらw 大国主はスサノオの6世の孫なのに
スサノオの娘と結婚していたりするんだぞw
自分は、大国主や、オシホミミや、ニニギや、ホアカリまでは実在の人物だが、
それ以前は、ずっと前の神話ぐらいにしか考えないけどねw
大国主が信仰していた神様がスサノオで
オシホミミやニニギやホアカリが信仰していた神様が
アマテラスだったという話。
オシホミミの誕生自体は、性行為で誕生したのではなく
アマテラスとスサノオが誓約(占い)をして
刀から球が飛び散って誕生したとか
神話的な誕生だから
実質的に、その次のオシホミミ、ホヒからが実在の人物。
17 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 09:22:25.65
あと、卑弥呼はモモソ媛命でOK。
何度も言われていることだけど。
アマテラス=卑弥呼ではないよw
よって、神武が実在の人物だとしても、西暦1世紀ぐらいの人物だし
また、ヤマト朝廷最初の人物は、神武ではなく、その大叔父のホアカリ。
18 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 09:53:26.14
百襲姫は王とかそういうクラスの人物じゃないから卑弥呼にはなれない。
天照大神など、つじつまの合わないところがどんどん出てくる。
箸が刺さって死んだか殺されたようなのが卑弥呼のわけない
どこかの伝承を取って付けたんだろう
昔の機内は銅鐸を神聖視し鉄器も極少で遅れた村社会だったからな
あるいは奈良はの水面下湖
21 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 18:59:36.27
梭が衝いたり
日が刺したり
蛇が衝いたり したら 孕む
22 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 19:21:08.50
太陽神は♂のはずのくせに
♀のの設定で出てくる「天照大御~」自体のが後付けの創作~でござるよ
天照は正統主張のための空想上の産物で天照を卑弥呼とは言って無いが卑弥呼だろうな
あるいは卑弥呼を卑弥呼として認識してはいなかったが卑弥呼的な者の話は伝承があったんだろう
>>22 主神が♀なのはへんだとは、平安期以来ずうっと言われてるよね。
平安期の学者の日本書紀アンチョコ本の想定問答集にも載っている。
25 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 19:49:50.76
♂の太陽神さんがほら穴にお隠れあそばしたら世の中が暗くなるとゆう構図で
世の中に明かりを取り戻すせれもにいで主役を演じる♀の人のがおるんだけど
「天照大御~」なる後付け創作~は
そこのところの主役を演じる本来の♀の人のにすりかわっておるだけだね
26 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 22:12:04.24
後の人々に卑弥呼の記憶が残っているとしたら、当然、記紀にはその痕跡が残る。
そういう目で記紀を眺めると、明らかに相似形の人物がいる。
そこから目をそらすのは、いわゆる所在地論争のなせる業ということになる。
27 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 22:23:33.14
土人の王家のは奈良時代とかになっても兄弟婚とかのが得意技だからね
まあね異母姉弟とかのペアリングのがごくごくふつう
母がちがえば育成環境とかのはまったく別な所なんだろ
かあちゃんの妹のが嫁はんとかのも散見だな
陳寿さんも知ってはおっても姉弟でどうとかのは書きにくいところだ罠
蔑字使ってるのに近親婚とかに気はつかわんだろw
29 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 07:06:22.94
天照大神を卑弥呼/ヒミコ(世間では呼んでるらしい)
と一緒に曰わくで書いているけど?
それは、(天照)大日霊女(霊の下に女)貴命(オホヒルメのムチのミコト)。=大いなる日巫女、大ヒミコ女王
30 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 07:55:00.53
>>20 卑弥呼は日蝕の責任を取らされて殺害されたという説も根強い。
31 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 12:41:23.49
やはり、東大か!安倍、福田、司法試験合格発表と辞任!!!
田中、中曽根の計略が全部バレた。
島根の理(ことわり)の邪魔をして、何になる!?検察と橡川だったら、上位に逆らったことになる。
藤田家→音読み苗字→黒川家(島根県浜田高校・黒川)の合格後の正統情報で、不合格の責任を音読みに負わせるはずだったんだよ、バカ!
藤田で止まって、浜田市が落ちた!
東京で音読み苗字の男に攻撃したのは誰だ?福田派か?
試験2発目がグラビドン級になったろ!一発目ザケルで十分なんだよ。
32 :
sss:2012/10/09(火) 14:46:29.37
天照大神=卑弥呼+台与とすれば、梁書にある男王が高皇産霊尊になる。
つまり、出雲の国譲りは、台与が女王になってしばらくしてから、瓊瓊杵尊の
日向降臨がその少し後と考えることができる。
年代をいろいろすり合わせると、神武東征は西暦300年前後と考えて
良いかもしれない。
33 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 15:05:20.23
>>32 > 年代をいろいろすり合わせると、神武東征は西暦300年前後と考えて
> 良いかもしれない。
ただし、崇神天皇が実在した場合の在位期間は270年から330年の間くらいだろうという説もある。
そうなると神武と崇神が同時代の人という可能性もでてくる。
ただし崇神=ナガスネヒコという感じはしない。
ハツクニシラス天皇が二人居るってアレか
35 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 16:23:35.94
そうなんだが、崇神=神武という感じもしないんだよね。
神武は神武だし崇神は崇神だろアホか
こんな風に無原則に何でもかんでも結びつけて読み替えていいなら、日本史はすべて雲散霧消してしまうわ
37 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 17:30:32.81
ざっと言い切っちゃうと
神武のハツクニのクニのは山門
崇神のハツクニのクニのは大和
38 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:30:04.08
神武紀の近畿侵攻攻略戦と
崇神紀の何者かに侵攻されて防衛戦を強いられた場面を
横に並べて読み比べすると・・・
39 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:39:34.49
奈良/ナラの「ナ」と「ラ」はどちらも国、領地、支配地域の意味。
ヤマトは首都、みやこ、国の中心の意味
40 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:41:58.40
崇神天皇10年(紀元前88年)9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、
丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。
しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、
倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。
武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、
天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、
大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、
これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
41 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 19:15:51.94
呪術的な記述の場面(香久山の赤土を云々)がどうやら同一事象を立場を替えて記述されているようにも思えます
42 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 19:30:54.19
ちょっと違う見地から・・・
ある方が神代?の天孫降臨からの人間離れした天皇の寿命や在位期間を除いた
歴代天皇の平均在位期間(平均偏差)を約15年と割り出し見積もってそれを基に・・・
実在が確実視されている崇神大王は
平均在位15年に×115代=1725年前の三世紀頃に生存していた事になります。
また、神武天皇が実在したとしたら、
平均在位15年×125代=1875年前の一世紀後半から二世紀頃の人
これは割と信頼度、確度の高い数字かも。
因みに、試しに第三十代敏達天皇(オサダ天皇)は治世14年の西暦585年に天然痘により崩御。
(日本書紀では筆が滑ったか、思わず本音がでたかで外国使節来朝の段で第二十代と記述も)
今年2012年ー(95代×15=1425年前)=西暦587年
近似値が弾き出されます
43 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 03:33:30.36
>>42 > 実在が確実視されている崇神大王は
確実視まではされていないでしょ。実在した可能性がやや高いという段階。
44 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 03:36:13.39
>>40 >武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意
孝元天皇も実在した可能性がある。
業績が記録されなかったのは、目立ったことをしなかったのか?
それとも意図的に記録されなかったのか?
だな。
45 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 03:39:00.47
>>41 神武天皇が九州から東征して、
崇神天皇系の王朝と戦ったという説ですな。
ナガスネヒコも神武天皇と同じアイテム(国土支配を正当化する)を持っていたと
記録されているのもあやしい。
46 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 03:41:47.89
すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。
あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、
神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。
長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢と歩靫を見せる。
すると神武も同じものを見せた。
(ウィキ)
47 :
sss:2012/10/10(水) 06:38:28.36
記紀の記述を尊重するならば、瓊瓊杵尊の日向降臨と前後して饒速日命は
大和にやってきたと考えるのが妥当。
纏向遺跡を饒速日命と関連付けるのもありだと思う。
48 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 11:09:37.82
饒速日命の祖先も九州から東遷して近畿に住み着いたのではないか。
つまり饒速日命と神武は「地縁」はあったのではないか。
ぶっちゃけニギハヤヒはアマノヒボコの子孫だと思うよ。
天孫降臨ってのは要は、鏡と矛を祭器とし、
鳥トーテムを崇める渡来氏族の流入を指してるんだろう。
これにより銅鐸祭祀は廃絶し、祭祀文化は大きく変容した。
これを神話的に表現したのが国譲り。
北九州に侵入した氏族の子孫が神武で、
北陸から畿内に勢力を張った氏族の子孫がニギハヤヒ。
遠祖が同族というくらいの間柄で、近い血縁はないと思うね。
50 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:23:09.36
>>49 ただ、銅鐸のルーツは任那のカウベル(牛の首につけるベル)との説もある。
となると銅鐸文化政権も日本の生え抜きではなく、任那出身だったのかも。
饒速日命も天孫の証拠であるアイテムを持っていたというのはこの辺にあるかも。
>>49 任那に住んでたのはこちらと同じ倭人だから、
銅鐸文化は単純に伝播しただけとも考えられるけどね。
アマノヒボコは新羅の出身で、伊都国王もその子孫を称したようだ。
ところで、アマノヒボコ関連の地名にやたらとアナという音が付くのだが、
侵略された側(=銅鐸勢力)の最高神の名が「大穴持」だというのも興味深い。
国譲りとは言っても、実際は「領土を割譲して支配下に置いた」という意味なのかな?
53 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 20:51:25.38
天火明命は、早くに大和国に天降り、この地の豪族である長髄彦の妹登美夜毘売をめとり、
天香山命、宇麻志麻治命という子をもうけて、大和国に君臨していた。
54 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 21:28:29.54
>>51 > 国譲りとは言っても、実際は「領土を割譲して支配下に置いた」という意味なのかな?
秀吉の天下統一みたいな感じだったと思うね。
既得権を認めつつ家来にしたという感じの。
55 :
sss:2012/10/12(金) 00:13:21.78
記紀を読むと、出雲の国譲りは、国譲りとは名ばかりの、高天原による
出雲征服戦争だというのが良くわかる。
つまり、記紀はその実態を比較的良く表現しているのに、
名前は「国譲り」という風に穏やかなものになっている。
なぜか?
崇神天皇のときの大災いを、この出雲戦争における残虐行為の祟りだと考えて
いるからである。なので、祟りを沈めるために、出雲の大物主神を祀る。
というわけで、残虐な征服戦争であることをちょっと包み隠そうという感じが
あるわけである。
遊牧民シンギスハンみたいに移動しながら征服していけば、
侵略側に史跡らしきものは残らないだろうからな。
やっと定着して史跡らしいものが残り始めたのは崇神天皇ぐらいからだろ。
そっから前は適当なんだろうな、デタラメではないにしろね。
卑弥呼にしても天照にしても、伝説の大きさに比べると残した物証は
出雲の足元にも及ばない。
彼女らは、実際の意思決定権者じゃなくて、
報道官やシャーマン的な役割なら、実体がボヤけてて当然だろうな。
個人と国を比べてどうする
イワレヒコは武力で制圧したわけでもないのに、入婿で政権を乗っ取って
天皇を名乗ってるのはなぜ?
婿なのにちょっと変だろ。
源頼朝みたいなもんじゃね?
60 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 14:33:19.68
>>9 実際にいたんだよ。
霊感の強い人はその姿が写真に写ったりして
あとから、お祭りしている神様がわかった人もいる。
歴史は書籍だけ読んでいてもわからない。
まずは神様を信じることから始めないと
神様も事実を教えてはくれないよ。
逆に神様を信じると、それ以来不思議と事実を教えて
くれたりするんだよね。
オカルト板へ逝け
62 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:35:59.84
>>58 記紀をよく読め。
神武天皇は武力で制圧しただろうが。
>>58 イワレヒコと書いてあったのか、うっかりミマキイリヒコのことだと思って読んでたぜ
質問。出雲大社って平安時代までは日本で一番高い建造物だったんだよね。
いつから高くなくなったの?
たとえば平安時代以後に火事かなんかにあって焼失したなら記録に
残ってると思うんだけど。法隆寺とかはちゃんと記録にのこってるでしょ?
65 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:08:54.79
何度か倒れたのは記録に残ってたはず。
それも、特に風雨とかじゃなく、
突然に、と言った書き方で。
66 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:13:44.51
ほったて柱の組んだものの上に、
ちょこんと社が建ってて、
前に長々と階段が伸びる構造。
階段側だけに荷重がかかって、
階段側に倒れたり、地面が陥没したりすると、
建設会社が推定していた。
出雲てなんで出雲大社まであるのに出雲勢力の存在を否定する説も多いの??
逆説の日本史読んでるんだけど
これの評価ってどうなってるの?歴史通にはどうなのかね。
69 :
sss:2012/11/07(水) 23:11:52.70
>>67 古事記や日本書紀では、出雲神話は高天原・日向と共に重要な一翼を担っている。
しかし、考古学的な遺跡・遺物が出てないということで、あまり重要視されて
いなかったらしい。
今では、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、大集落として妻木晩田遺跡などが
出ていて、考古学的にも重要な地域になっている。
今は、出雲の重要性を否定する人はいないだろう。
70 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:40:44.40
巨大な柱も出てきたしね。
昔の日本って石でなにか作ろうって文化なかったんだろうか?
石を削る鉄がなかったからなのかな?
日本最古の石像って何になるんだろう?
72 :
sss:2012/11/08(木) 22:50:00.59
石人、石馬。
八女の岩戸山古墳が有名だが、熊本県では、江田船山古墳から八代平野の
野津古墳群まで広く見られる。
>>71 古代建築においては必要性が薄かっただけでしょ
国土の大部分が「放っておくと森になる」なんて国はそうない
>>68 1巻の話だな。さすがに古い。
考古学って、ここ2年くらいでも発掘やら新基軸な科学的アプローチで
歴史見直しになるような大成果がバンバン上がってるのに。
文献にとそこからくる妄想に寄り過ぎてるわ。
でも、逆説シリーズ自体はいいこと書いてたりもするので
読んでおいてOK。面白いしな。
ただ、古代史の部分は一番いただけない。
>>74 具体的にどこあたりが問題なの?
アマテラス=ヒミコあたり?
それはよくある意見なので別にいい
いまどき九州説…とは言うまいw
AorB?でどっち答えるにしても
そのバックボーンがテキトー過ぎるんだわ古代黎明編は。
でも、最初の興味持たせるガイドとしては有用だとは思う。
初心者にもキャッチーな理屈をつけてくるから、印象に残りやすい。
でもその後にちゃんとホンモノを読んだ方がいい。
たくさん読んで、知識を丸くね。
「天皇の歴史01 神話から歴史へ」とかいいかも。図書館にあるんでないかな。
78 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 23:05:39.50
>>74 だから、考古学はあてにならない。
ちょっとしたことでバンバン見直されてはかなわない。
都合の良いように見直されたら、困ってしまう。
それは極論だな
出雲の扱いで見ても歴史書なんてどう見ても勝利者が自由に改ざんしてる
何で今更こんな小学生レベルの話になるん?
出雲に強大な勢力があったという記述は
発掘調査からも裏付けされたのに
子供「ちょっとでも恣意的な誘導がある場合は、その記述は全部嘘だよね」
出雲も筑紫も半島から近く、大陸の先進文化がもっとも早く到達する地域であるのは自明の理。
考古学的にもそこには畿内大和よりも古い時代に先進的遺跡があり、それを裏書するように記紀神話の舞台もそこにある。
こうした符号を無視して、天孫降臨以来日本の中心はずっと畿内大和だったと強弁するのは到底無理と言うものだ。
記紀は年代順に書いてあるから
それをひっくり返した仮説は全部デタラメ
国譲りの後、遠大な時間が経ち
神武は九州から東征した
特にここを曲げちゃダメだ
鏡と矛を祭器とする半島からの渡来勢力が、北九州〜北陸にかけて侵入・土着したという史実があったようだね。
これが国譲り・天孫降臨として神話化したのだろう。
天日鉾=ツヌガアラシトもたぶん同時期。
85 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 20:03:37.92
天日鉾は半島に渡った倭人のUターン組ですよ
86 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 03:09:06.91
先祖辿るとニニギの外祖父タカミムスビになるんだけど
その先が辿れない
87 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 06:13:51.16
そこから前は、もう世界がないんじゃないかと
88 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 11:31:17.39
神武天皇から五代遡るともうその先はない。
創作しようと思えばいくらでも創作できるわけだが、
そうでないところを見ると、人々の記憶に残って
いたのがそこまでということなのだろう。
要するに、実在の人物の反映ということになる。
89 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:54:50.89
仙台の遠見塚古墳が神武天皇の墓ですね。これで全て辻褄が合いますネ!m
90 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 01:49:55.01
その通り
西を東と間違えたんだね
東征じゃなくて西征だった
ほんとは全部わかってるけど天皇の出自が妖しくなるから隠してる可能性は無いの?
国策というか国関係機関の意向が全く反映されないかといえばそれは…
教授以下役持ち学者は国立大や国から助成金を貰ってる私大の所属だ
93 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 09:08:07.07
トンデモ扱いされているのが真の歴史に近い
日本民族大陸起源説が真相
94 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 09:26:18.18
伊邪那岐×伊邪那美→天照
???×天照→忍穂耳
忍穂耳×(タカミムスビ娘)→瓊瓊杵
瓊瓊杵×木花咲耶姫(豪族娘)→穂穂手見
穂穂手見×豊玉姫(海神族娘)→鵜草葺不合
鵜草葺不合×玉依姫(海神族娘)→神武
忍穂耳より前の天照やスサノオ、伊邪那岐、伊邪那美の抽象度が上がる
天照は太陽信仰と母神信仰の象徴的存在(非実在)で【対国内】、
伊邪那岐と伊邪那美は日本の領域確定のための作為【対国外】、
非実在から実在が生まれるはずがなく、天照→天忍穂耳は作為【対国内】、
スサノオ(複数人複数実在)と天忍穂耳以降は人間(実在)の神格化かと思う。
天照→天忍穂耳は作為【対国内・対国外】か
伊邪那岐伊邪那美の血を継ぐ子孫であることが統治正当性になる
97 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:26:35.28
天照はもとのが♂
98 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:37:48.28
天照(アマテル、♂)か
99 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 19:49:53.50
♀が覗き見とかしたらへんかもだろ
♀の裸踊りで♀が我慢できずについ覗き見なんて不自然だもんな
引き出すために屈強な手力男を忍ばせる必要もなし
怪力を忍ばせたのは天照は腕力は普通の♂だったとするのが自然
天照国照彦?
天照國照彦=饒速日尊
(男、陽、日、凸、+)(女、陰、月、凹、−)は人類的な認識で天照女神説はきわめて不自然と言わざるをえないな
103 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 22:53:43.92
次 淤母陀流~ ♂
次 妹 阿夜訶志古泥~ ♀ 其猿田毘古~ 坐 阿邪訶
次 伊邪那岐~ ♂ 其伊邪那岐大~者 坐 淡海之多賀也
次 妹 伊邪那美~ ♀ 僕(速須佐之男命)者欲罷 妣國根之堅州國
104 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 23:55:15.97
天照大神は女と決まっている。機織小屋で織物を織り、皮を剥いだ馬を
投げ入れられて、怒って天岩戸に隠れる男なんてのは、まずいないだろう。
アマテラス以前はギリシャ神話と似てる感じがする。
106 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 00:45:16.82
どこが?
人間味溢れる多神教が
天照=卑弥呼説はどうなの?
天照が卑弥呼なら5代は後になる神武の東征は4世紀半ばごろになる
110 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 04:52:17.26
卑弥呼は、モモソ媛命だろう?
だから、イワレ彦(神武天皇)は、西暦1世紀ぐらいの人物になる。
そのイワレヒコの曽祖父のニニギが、西暦前1世紀から西暦1世紀くらいの人物だろうから
ちょうど、そのころに、出雲国譲りがあり、
ヤマト王朝が全国制覇(といっても、九州から東北南部くらいまでか?)を
達成したと思われる。
111 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 04:57:13.62
>>82 先進文化、先進文化って、連呼するけど
この時代は農耕時代なので、日本どこでも、世界どこでも
経済水準は同じだよ。
たとえば、中国では中原が中心とみられていたが
中国を統一したのは辺境の秦だっただろう?
日本の考古学者は世界一の馬鹿の集まりだと思う
これだけ古代の謎が有るのに
ぜんぶ中国朝鮮由来と決めつけて
最近破綻してるので気が狂い始めているw
115 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 00:18:33.32
あと、日本の考古学者の問題点は、
土器編年で無理やり絶対年代を割り出そうとしているところ。
また、考古学的物的資料を万能のものと過大評価しすぎていて
それによって無理やり歴史を導き出そうとしているところ。
たとえば、鎌倉時代、日本の二大都市って、京都と博多で、
考古学的物的資料でも、この二つが最も大きい遺跡だろうが、
実は、その当時、日本を武力で支配していたのは、遥か辺境の小都市の
鎌倉を本拠地におく、鎌倉政権だった。
たとえば日本の水田稲作技術は中国朝鮮から伝わった
これが今までの常識
でも水路や水口を使った高度な水管理は当時の中国や朝鮮にはまったく無かった
しかし日本では九州の最古の水田や青森の水田でも実用化されていた
中国が技術を挿入するのは1000年以上後
朝鮮半島では2000年も後!
日本の歴史学者や考古学者にはゴキブリ並みの知性しかない
鎌倉時代が弥生時代と同様に文献としての記録に極めて乏しければ、
鎌倉が東北から畿内、九州を制していたなどと考えもしないことだろう。
地域エゴイズムが先に立ちああだこうだと…
土偶ってあるじゃん。あれって何時代になるんだっけ?飛鳥時代?
歴史博物館で見たんだけど土偶ってかなりデザイン的に面白いのあるよね。
仏教が入ってからの日本の美術品って全然面白くない。
仏教伝来前の美術品がもっと出土したらいいのに。神武の石像とか
天照の石像とかどっかに埋まってないかな。
どちらも仏教伝来以降に創作した新しい神だから無いね。
スサノオは古い神だから、どこかに像があるかもしらん。
天照とスサノオはスサノオの方が古いの?
>>121 神話によれば生まれた時期は同じ
スサノオは日本に来てヤマタノオロチを倒して住んだ
その子孫が大国主
アマテラスは日本に来た事は無い
家来を日本に派遣して、その子孫の子孫が神武
>>122 >アマテラスは日本に来た事は無い
記紀に、天照は筑紫で生まれたとはっきり書いてあるだろうが。何でたらめを言ってるんだ?
>>120で言ったのは、スサノオ伝説は、記紀神話の古層にあり、天照や神武は
それに上書きした層に属するということ。
>>123 それかw
でも筑紫でなくて日向だぞ
それも上流から下って終わり方は海中で生んでる
アマテラスは海から天に昇ったとも考えられる
>>124 そんだけのレスでよくそれだけつじつまが合わんことを書けるもんだなw
日向は日本じゃないのか?
海中に高天原があったのか?
「考えられる」ってあんたは天照という人格神が実際に天とやらに住んでいると考えているのか?
>>125 天に住んでると記紀に書いてあるぞ
記紀を信じないのか?
記紀に書いてあることが事実なら、
神武天皇は、鮫と人間の合いの子、天皇家は軟骨魚類の子孫だね。
そうそう
神話には読み方が有る
記紀は事実が伝えられたと考えられる
なにしろ出雲の高層神殿が出て来てしまった
伝承では上古で高さ96mの神殿である
国譲りの時点ですでに天下統一してるはずなのに神武が初代ってのは
なんでなんだろ?
130 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 01:54:09.88
天照大神の子孫で初めて国を造ったからじゃないの?
131 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 03:40:04.74
神武は皇位を禅譲された傍流家系だからでしょ。
たぶんそれまで卑弥呼系で何十代もあったはずだけどリセットされたんだよ。
海幸彦山幸彦は中国呉越地域からの南方経由の渡来人集団(海幸族)と
古来からそこに住まう集団(山幸族)の紛争と和解・婚姻・統一
>>133 山幸彦が後のヤマト
海幸彦がハヤトの始祖
二人ともニニギとサクヤ姫の子だぞ
確かに古代の倭人と呉人が兄弟ってのはありえる
135 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 18:59:07.06
洪水神話でみんな流されちまったから、神武が初代
136 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 19:22:14.07
>>129 北部九州邪馬台国=高天原から各クニに官が派遣されていた。
神武やニニギもその一人。
奈良を完全制圧して、後の大和朝廷のルーツになったのが神武。
その後、高天原は衰退した。
磐井の乱は高天原の最期 。
137 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 03:04:15.58
高天原=高天の原
現在の奈良県御所市高天の原野。
畿内王権が出雲王権との決戦に勝ち、全国をほぼ統一すると
全国の地方各地に地方官を派遣した。
九州南部の高千穂には、畿内王権の王族のニニギを派遣した。
このニニギの曾孫が、ワカミケヌ(神武)
139 :
サガミハラハラ:2012/11/28(水) 09:55:13.24
高天原であるが、これは中国の神仙思想の影響を受けて、記紀編纂のころに「つくりだされた造語です。よって、現在高天原という地名は全て後世の後ずけなのです。
奈良県の場合もこの地はタカマという地名だったのをタカマガハラという言葉から
高天という字をつけたのです。
ちなみに新井白石だか本居宣長だったかは、茨城県に高天原があったとしゅちょうしています。
これも茨城県に高天原という地名があったからなのだそうです。
天照大神もそうです。元々はオオヒルメとかいう名だったのですが、記紀編纂のころにもっと気高い
天照という名がつけられたのです。この場合は偶然一書にもとのオオヒルメムチなる名が残っていた(書き直し忘れた)
ために旧称がわかるのですが、高天原の場合は全てなおされてしまったために旧称はわからないわけです。
140 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2012/11/28(水) 12:42:35.93
>>139 2ちゃんまで荒らすな、このボケジジイ!
さっさと五反田のソープ行って遊んでいろ!
141 :
サガミハラハラ:2012/11/28(水) 18:23:32.04
五反田にはよく行きますよ。あそこには歴史研究の本社があるのでよく原稿を持っていきます。
また、ゆ―ぽーとの中に気にいった食べ放題の店があるので昼はそこで食し、その後歴研によって帰ります。
142 :
名無しさん名無しさん@腹打て腹。:2012/11/28(水) 18:56:15.41
五反田に行ったならワタナベボクシングジム見学してけ!!
143 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 19:00:10.70
>>141 歴研の本社って大室厨の西都バカ(地家靖一)の家のすぐ近くじゃねーかwwwwww
144 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 07:56:59.32
モナホテルもありますよ。
もう古いか。
146 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 21:50:26.72
>>137 アマテラスが筑紫生まれなのに、高天原が奈良県と言うのは無理があるな。
それに、日本書紀や古墳の鉄剣は朝鮮半島のことを「海北」としている。
これは、高天原が北部九州にあった頃の名残だ。
147 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:11:34.87
>>146 天孫はどこに天下りしたの?
バカでねw
148 :
サガミハラハラ:2012/11/29(木) 22:20:14.32
天孫ニニギノ命は、福岡市西区早良平野に降臨したとなっています。
149 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:40:01.06
>>147 プラス、ニギハヤヒの降臨地は奈良県だけど、それがどーしたのかな?www
150 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:47:56.51
記紀は日本列島西半分を割拠する諸部族の最終休戦協定だから、
有力部族の祖神は偉い神様として描かれているんだよ。
ただし覇権を握ったヤマト政権の祖神は葬られ、日本列島西半分
諸部族共通の新しい神様を創造した。それがアマテラス。
いや、アマテラスが筑紫に生まれて
福岡市にニニギが降臨したとか
本気で思っているのかナーー?
と疑問に思っただけwww
152 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:51:27.91
ニニギは登山家だったんだなw
153 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:59:26.19
あくまで筑紫國だと言うのなら、筑紫國内に日向>橘>小戸>阿波岐原or檍原
日向>橘小戸>阿波岐原or檍原の地名がある、あったとする説明責任があろう。
古事記あるいは日本書紀が記述された時点で日向國はあったことを諸兄が知らぬ筈は無い。
高天原は筑紫国
155 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 00:05:17.99
>>150あなたすごいですね。私が最近ようやくたどりついたことをよくみつけたものですね。
156 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 07:44:03.75
アワギ原が海という説もあるが、場所はよくわからんな。
福岡に、日向峠、立花山、小戸港、があるのは、
定番の話
157 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 18:22:02.11
朝鮮半島=「海北」
高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったから「海北」と言っていたころの名残なのだ。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北」を平定したと述べている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」と書いてある。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)
筑紫に邪馬台国があったとすると、その西に66国もあったのか?と疑問に思う。
>>158 筑紫の西じゃなくて、筑紫も属する九州島自体を「西=衆夷」と言ってるんだろ。
「東=毛人」は本州ってことになるな。
日本書紀編纂時にも「倭国の本宗は九州」という意識があったとすれば、後の宇佐八幡宮の権威の高さもうなずける。
道鏡事件のときに、どうして「皇統を改めてもよいか」という重大なお伺いを、伊勢神宮ではなく宇佐八幡に立てたのかね?
また大仏建立の際に、何でわざわざ鎮守神として勧請したのかね?
そもそも古墳時代の石棺の産地の問題だってそうだ。
どうしてわざわざ遠い九州から運ばせたかね?
自国を服すると表現するのか?
162 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 20:19:40.97
まあある種の乗っ取りだから自国を服するみたいな表現にはなる
163 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 20:23:46.17
倭五王の先祖は息長垂で、
その先祖は多婆発の出戻りの辰韓の王子の日矛だから
そおゆうことにはなる野田。
164 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 20:26:19.91
日矛の爺さんは現地でも記録保持者とかで700人だかおこちゃまぽろぽろのおひと。
165 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:08:33.47
>>158 神武東征後の巨大古墳の時代だから、倭国の中心は完全に機内ですな。
だけど、朝鮮半島のことを高天原邪馬台国=北部九州時代から「海北」と呼んでいたので、海北と書いた。
それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのだ。
166 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:55:00.93
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国
「服する」は渋々または納得のうえで従う意。「征する」は従わないので攻めて討つ。「平らげる」は平定する。
167 :
サガミハラハラ:2012/12/02(日) 08:17:43.38
>>158これは倭(邪馬台国)を併合した大和朝廷の王がいったことです。
九州のくび長の言った言葉ではありません。
其のての話しは明治にもやってる。北のアイヌ土人と南の琉球土人をどうのとw
古代中国大陸然り、己の歴史に滅ぶ。
169 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 06:30:17.98
>>160 宇佐八幡宮は、神功皇后繋がりなだけだろう?
宇佐のヒメガミは、本当に宗像三神だろうか?
伝説上の神功皇后ではないのか?
神功伝説と海人系女神はどっちが古いんだろうか?
171 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 08:16:55.11
宗像三神の宗像大社勢力と、宇佐神宮勢力が手を組んだか、
どちらかが食われて、上書きされたようにも見えるな。
宇佐が食われて、かろうじて残したのが、ヒメ大神か。
>>170 比売大神と神功皇后と八幡大神の三神が祀られているから別物
比売大神(宗像三神)の方が古い
比売大神は天皇を助けた土着系の武力集団だったと思う
なんで日本神話って三神でまとめたがるんだろうね。
174 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 03:09:50.59
実際、出雲系の巫女が3人、アマテラス=卑弥呼・台与に海上交通担当として仕えていたのだろう。
175 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:48:46.26
>>170 宇佐神宮の姫大神はトヨとその妹(神武のお婆ちゃんとお母さん)です。
そもそも「姫大神」とは「女性の偉大なる神様」の意味。
いちいち名前を言わなくても当時の人たちはそれが誰か解ったのです。
176 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 23:07:39.35
>>129 国譲りは欠史八代の間に成された事です。
神武、綏靖、安寧、懿徳の4代は出雲系の事代主一族と婚姻関係を重ね穏やかに暮していたのですが、
孝昭天皇の時、尾張氏(記紀には天尾羽張、と書かれています。)と婚姻関係を持ち、出雲系の一族に
対してクーデターを起こしました。
それが故に、神武を暖かく迎えた大物主は垂仁天皇の時代には祟り神となり、三輪山に祀られているのです。
>>176 だから妄想で時系列を無茶苦茶にするのや止めれ
178 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:04:39.67
>>177 だから人の妄想をけなす前に自分の妄想を書きなさい
179 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 14:57:33.84
>>176 出雲の国譲りは高天原時代の出来事。天照大神などが主導。
その後で、天孫・ニニギノミコトの日向降臨がある。
ニニギノミコトのひ孫が神武天皇で東征。橿原の地で即位して初代天皇になる。
その後にいわゆる欠史八代が続き、10代目が崇神天皇。
というのが、記紀上の時系列。
出雲ですったもんだしたあげく、九州の山の中に飛んでいくのがおかしいね
181 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:37:54.55
>>180 天孫は東から来て、手始めに日本を支配して
それから中国インドに行ったからおかしく無い
ただし神武天皇も何時だったか忘れるぐらいの古い話し
ニニギの国は洪水で滅んだ
聖書だとノアの洪水にあたる
183 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 03:47:46.10
近畿の高天から発生して、まず東国中心に平定し、
次に西国(出雲の影響が強い)中心に平定した。出雲国譲り。
平定が完了した時の近畿王は、ホアカリ命。
通称を天照国照彦という。倭王アマテルの誕生。
このホアカリ命にはニニギ命という弟がおり
兄の命令で日向の統治を任される。これが天孫降臨。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命。のちのイワレヒコ、後世は神武天皇と呼ばれる。
184 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 21:19:55.52
↑ラノベ?
185 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 06:00:06.34
某古社古伝に曰わく、
祭神。彦火明命(ホアカリ)。
亦云、天火明命。
又名、天照国照彦天火明命。
又号、天照御魂命(神)
亦云う、天照皇大神。
亦云う、天火火出見命。(ホホデミ)
秘伝に言う、賀茂別雷大神(上賀茂神社主祭神)。異名同神。
・・・・
/////
日本書紀、「神武記」。
一書に曰わく。
神倭磐余彦火火出見命(ホホデミ)
・・・一書ににはなんでも、神武天皇の御名はホホデミさまでつよ。('◇')ゞと言っているようだ。
/////
能楽。「三輪」(=天岩戸開きが題材)
・・・♪「思えば三輪と伊勢の神。一体分身の御事。今更なにを岩倉や。」
(中世の知識人たちの認識は)三輪山の神様と伊勢神宮の神様は一体分身(分神)なのは今更言う事でも無い一般常識ジャマイカ!
・・・記紀神話に反する内容の能楽「三輪」の上演が皇室、朝廷から禁圧された形跡は皆無?。
//「ミワ」とは古語で神の意味。
更には言霊「ミ」が神(魂/霊)の意。
「ミ」の音が「巳(み)」に繋がるため大三輪(「大神」おおみわ)の神様/神使が「大巳」となり、
同義の大蛇(「ヤマトのオロチ」)とされる由縁(カラクリ)。
考え出した人は文字と言霊に精通した天才。
186 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 07:44:14.67
出雲国譲りってのは、どうみても、近畿と出雲の戦いで、近畿が勝利したことを意味する。
高天とは、現在の奈良県御所市高天。
だからこそ、倭の五王の上奏文のような記述になる。
倭国は近畿より発生し、東に西に勢力を拡大したのだ。
神武東征とは、出雲国譲りよりも後の話。
ワカミケヌ命を、後の漢風諡号の神武天皇で解釈するから、認識を間違える。
ワカミケヌ命はワカミケヌ命であり、近畿に入った後、通称をイワレヒコといった。
この人物が、当時の倭国の王だった確証はない。
ただし、ワカミケヌ命は九州生まれだが、彼の曽祖父のニニギ命は近畿出身であり、
ワカミケヌ命が近畿に入った時に、彼の親戚がすでに近畿に多く住んでいて
彼を向か入れたことだけは確か。
187 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 07:50:01.03
ヤマト王朝の建国の祖は、イワレ彦ワカミケヌ命(後に神武天皇と呼ばれる)ではない。
ヤマト王朝の建国の祖は、アマテルクニテル彦ホアカリ命。
彼こそが出雲国譲りの立役者であり、また、彼も妃の天道日女命は、
出雲の大国主の王女であり、ホアカリ命は、妻の父親から天下を譲られたことになる。
このホアカリ命には、ニニギ命という弟がおり、出雲国譲りの直後
九州の高千穂の地方官として派遣されることになる。
このニニギ命の曾孫が、イワレ彦ワカミケヌ命(後に神武天皇と呼ばれる)
188 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 09:01:12.80
> 古墳時代の倭国の大王や、奈良時代の日本書紀の編纂者が朝鮮半島のことを「海北」と言ってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で確定じゃん。
>
> 奈良時代まで朝鮮半島のことを「海北」言っていた。
> これは、北部九州高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったから「海北」と言っていたころの名残なのだ。
> 宋書倭国伝に引用された478年(神武東征からしばらく後)の「倭王武の上表文」には、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北」を征服平定したと述べている。
> 日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」と書いてある。
ニギハヤヒも畿内に天降った
畿内が高天原の訳ない
190 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 18:00:46.79
真偽はともかく古来、ニギハヤヒさまの別名を天火明命と奉り。
さらに、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と
御号を称辞竟奉る。
日本中、天火明命。ニギハヤヒの異名同神だらけ。
神武天皇を亀に乗って明石海峡に出迎えヤマトへ導いたとされる
倭宿禰命。(宇豆(珍)彦命。/椎根津彦命//大和国造の祖)は、
天火明命の3世御孫君に坐す。
その御父君は天村雲命。(一伝、天押穂耳命)
191 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 19:00:34.66
>>189 ニギハヤヒが天下ったのは、河内国。
高天原とは、葛城地方にある高天のこと。
>>190 新撰姓氏録では、天火明命とニギハヤヒを別としている。
ニギハヤヒの正式名称の
天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命というのは、
天照国照彦である天火明の奇魂(形見)であるニギハヤヒ命
という意味。
よって、天火明命≠ニギハヤヒであり
ニギハヤヒは、天火明命の形見(御落胤?)を自称していたことになる。
櫛玉饒速日命を祖とする物部氏の系図をみると、
武何とか、とか出雲何とかという名前が出てくる。
出雲氏の系図をみるとクシフルと関係あるのか、櫛がつく名前が異常に多い。
やはり、物部出雲両氏は関係あるのだろうか?
193 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 23:59:01.17
高天原=北部九州というのは、確定している。
アマテラス生誕地が筑紫。
弥生時代の墓から鏡が出るのは。福岡佐賀
朝鮮半島=海北と言っていた
天璽瑞寶十種
嬴都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇布禮、蜂布禮、品物布禮
195 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 06:24:40.02
>>193 高天原=任那日本府があったあたり、と考えるのもアリかと。
196 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 07:12:28.54
天火明命=ニギハヤヒ説
のもとになるものは旧事本紀だから、
物部氏が祖神(祖先)を権威づけようとした後付け説。
197 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 08:42:52.34
高天の原とは、高天の原野って意味。
よって、それが実在の場所ならば、高天という地名のところ。
そして、ここの領主を高天彦といった。
現在の奈良県御所市高天という場所がそう。
皇祖ニニギ命は、畿内王権が出雲国譲りした直後、
この高天から九州高千穂へ派遣される。これを後世、天孫降臨というふう。
一方、高天から降臨せずに、高天周辺に留まったものもいる。
それが、ニニギ命の兄とされるホアカリ命。
通称を天照国照彦と言った。意味は、天津と国津の両方の支配者という意味。
まさに、出雲国譲りを実現させて、天津と国津の両方の支配者という意味だ。
そのへんの痕跡が播磨国風土記にあり、ホアカリ命は、義理の父親(妃の父親)である
出雲の大国主を降伏させたという記述がある。
出雲国譲りとは、出雲の王の大国主が、娘婿である近畿の高天のホアカリ命に
国を譲ったという意味合いもある。
198 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 11:41:55.32
>>195 日本の王権シンボルは今も昔も鏡。
半島南端に、それを物語る北部九州より古い遺跡があれば、成り立つが。。
無いでしょ。
高天原が実在するという考え自体、奇妙
故地奪回に向けて今から準備ですよ
畿内王権があり、国譲りで奪ったっていう人にお聞きしますが、
大国主の息子、建御名方神は何故、長野の諏訪に逃げたのですか?
敵の領土を通り過ぎて。
普通なら西へ西へ逃げて再起を図ると思うのですが。
202 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 14:47:03.72
>>201 建御名方神の生母が
越後の豪族の娘だった沼河比売(高志沼河姫)だから。
地理的に近い信濃に逃げるのは、あり得る話。
たぶん、日本海沿岸経由で、越後までのがれて、そこから
隣国の山奥の信濃に隠れ住んだんだけど、見つかったんだろうな。
>>201-202 縄文時代から確立されてるヒスイ交易ルートなんだよな。
出雲と諏訪の結びつきは古いよ。
建御雷神は出雲の沖で剣を立てたよな
海から攻めて来たんじゃないの?
神武東征だって船だぞ
205 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 15:27:10.19
>>204 この時代は水上輸送がメインだろう?
戦国時代でも、織田や豊臣のような広範囲な政権になると
最期は沿岸部すれすれを海上輸送がメインになってくる。
鉄道や自動車がある現代人の感覚では分からない。
豊臣秀吉の小田原攻めでも、海上から武器食料を輸送。
陸上輸送は敵に狙われやすいし、牛馬よりも、船のほうが速く大量輸送できる。
ましてや、古代には牛馬もないしね。
206 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 15:29:05.62
出雲国譲りは、一応、二方面から攻めている。
記紀では、日本海側から攻めたことが記載されているが
播磨国風土記では、今の姫路市周辺で、
出雲と大和が激突したことが記載されている。
207 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 17:49:00.35
俺は出雲は邪馬台国に次ぐ大国の投馬国だと思ってる。
式内社best20 式内社 名神大社(座数)
1 大和 286 50
2 伊勢 253 4
3 出雲 187 2
4 近江 155 13
5 但馬 131 14
6 越前 126 2
7 山城 122 29
8 尾張 121 8
9 河内 113 9
10 陸奥 100 15
11 伊豆 92 5
12 摂津 75 18
13 丹波 71 5
14 丹後 65 6
15 遠江 62 2
16 和泉 54 1
17 阿波 50 3
17 播磨 50 7
17 因幡 50 1
20 信濃 48 7
209 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:07:55.56
>>207 これか
┌┬┐
├┼┤夫餘 方可二千里 戸八萬
┌┼┼┘
├┼┤高句麗 方可二千里 戸三萬
┝┿┿┰┐
└┼朝╂┤東沃沮
├鮮╂┼┐濊 戸二萬──もうひとつの主要ルート
┝┿╋┿┥ │
郡★帶方┼┤韓 方可四千里 │
├馬╂弁┤馬韓 凡五十餘國│總十萬餘戸
├韓╂辰┤弁辰 合二十四國│總四五萬戸
└┴┸┴★狗邪 │
三千許家 ★對海國 ↓
天ハブセンター一大★ 女 多 ┬┬┬┬┐みみのぴょんぴょん
二萬戸奴國┏★國★婆┴┴┴┴┘投馬國 五萬餘戸
┣┫ ┃ 復有國└─→鉄とかを供給
神の狗奴國┗┫┏┛
クマの .┗┛邪馬臺國
20ヶ國七萬戸
九州 式内社 名神大社(座数)
筑前 19 16
筑後 4 2
豊前 6 3
豊後 6 なし
肥前 4 1
肥後 4 1
日向 4 なし
大隈 5 なし
薩摩 2 なし
壱岐 24 6
対馬 29 6
211 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 20:28:57.53
>>205 > ましてや、古代には牛馬もないしね。
魏志倭人伝に「日本には馬はいない」と書いてあるが、魏の使者が目撃しなかっただけで、
ちょっとは馬がいた可能性もあると思うんだが。
馬関係の遺物は後期古墳からしか出ないよ。
日本在来種と言われているウマはすべてモンゴル系で、朝鮮半島からの渡来品だそうだ。
>>212 残念だが、そんな証拠はどこにも無いよ
蝦夷が献上する馬が朝廷に取って黄金より価値が有った
西日本に馬は居なくとも北海道東北には馬が居た可能性が有ると思ってる
何しろ氷河期は北海道と大陸が完全に繋がっていた
そうじゃないと東国が名馬の産地だった理由が無い
ただし証拠は無いw
ちなみに日本の在来種は全て断種させられているから遺伝値追跡はほぼ不可能
大陸でも在来種は絶滅してるしな
蝦夷に馬と牛が居たかも知れない
http://ja.wikipedia.org/wiki/花泉遺跡 >化石床からヤギュウ、オーロックス(原牛)、野牛の一種ハナイズミモリウシ[1]、ヘラジカ、
>オオツノジカ、ナウマンゾウなどの化石骨が多量に出土している[2]。
>放射性炭素年代測定法により3.5〜1.6万年前と測定されている。
あと岩手からは2〜3万年前ごろの馬の化石も発見されている
縄文以前は、馬も牛も確実に日本に居たんだよ
その後、絶滅したって説が主流だけど
東北や北海道のどこかに生き残っていた可能性は有ると思ってる
そういや和牛の先祖ってバッファローぽいw
215 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 04:47:13.60
日本の馬は、縄文以前は別として、中国で輸入されたものが最初だよ。
東アジアの騎馬に使う馬具は、馬に乗るのが下手な農耕民の中国人用に作られている。
216 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 04:55:09.01
古代に限らず、幕末まで、日本の輸送の主役は、水上輸送だから。
牛馬にひかせるよりも、船に大量に積んだほうが速く大量に運搬できる。
日本は細長い島国だし、山が多くて川も多いしな。
あと、陸地よりも、沿岸のそって船で行ったほうが安全。
この時代は警察組織も未熟だし、今よりも日本国内でも地域によって遠い感じだしな。
陸地ならば、盗賊などに襲われる危険性があるけど、海だとその危険性が大きく減る。
それは幕末だろうが邪馬台国時代だろうが変わらない。
魏志倭人伝の使者も、途中から水行にかわっているので、この時代、
日本全域を旅するのには、水上交通がメインだったことが、おのずとわかる。
日本の山奥に入っていくよりも、海岸線を船に乗って移動したほうが安全。
217 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 06:31:38.26
纏向も、船着場から纏向中央部まで運河みたいのが作られていたらしい。
東殿塚古墳(天理市)の埴輪にも船が描かれてたな。
「うま」は習慣的に訓読みとされているだけで、実際は
「ま」「ば」と同様の漢語読みだからねえ。
同じく漢語読みしかない=外来種の菊を天皇家が家紋にしていることといい、
日本人は古来から舶来品が大好きなんだろう。
220 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 11:28:00.44
天皇家が菊を家紋にしたのは、鎌倉時代の後鳥羽上皇の頃から。
221 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 11:38:56.40
現代の感覚で日本の土地勘を見ると、大きく勘違いする。
現代人は、陸の交通中心に考えてしまうが
近代以前は、水の交通中心に考えたほうが良い。
たとえば、瀬戸内海の中心部にある備後国では
今でこそ、やや内陸部の福山市中心部が栄えているが
幕末なんかでは、海岸部の鞆の浦や尾道などのほうが栄えていた。
なぜなら、この時代の交通の中心には、水運だったからだ。
が、自動車や鉄道などの発達によって、陸の交通がメインになり、
鞆の浦や尾道は、経済よりも、過去の栄光を生かした観光地になってしまった。
ましてや、馬や牛のいない邪馬台国時代ならば、なおさら水運が重要。
江戸時代ですら、水運がメインだったのだから。
というかまともに陸路なんてあったの?
道路の整備も飛鳥時代ぐらいからだよね
>>222 人が一人通れる様な道は有ったと思うよ
隣村に行くとか峠越えとか
>>219 「うし」は?
224 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 13:58:51.18
>>222 飛鳥時代というよりも、記録に残っているのが、飛鳥時代からで、
それ以前もあっただろうけど、
日本の場合、ローマみたいに石畳の道路ない。
徳川時代の街道みても、現在の自動車道から見たら
狭い歩道に過ぎない。
でも、それくらいの陸路くらいはあっただろう。
魏志倭人伝でも、北九州周辺は普通に徒歩でいっているし、ちゃんと
道くらいだっただろうね。
225 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 16:45:52.94
そういや、平安時代には牛車が使われていたわけだが、
輸入してるという話は読んだことないな。
固有種がいたのかもしれないな。
むろん、すでに家畜として。
>>224 > 日本の場合、ローマみたいに石畳の道路ない。
神社仏閣の付近など、ごく限られた地域ではひょっとしたらあったかもしれないと思う。
>>226 熊野古道だと石畳の道が何十kmも続く
狭くて馬車は通れないが
しかし何故あんなところに石畳の道を造ったんだろう
>>225 牛は馬よりも早く弥生時代中期に入ってきたようだが、まあいずれにせよ朝鮮半島からの移入品だ。
牛の飼育は北部九州を中心に根付いたらしく、東国は馬・西国は牛という具合に定着していったようだ。
>>226-227 その手の石畳の道は、明治以降に整備されたものが多いみたいだぜ。
神社の参道は基本玉砂利の道が多いが、あれもどの程度古くからなんだろうかな。よくわからん。
229 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 08:23:31.74
現在、日本の都会の真ん中に船場という地名が全国各地にあるが、
それは、そこに大きな河川や海岸線があった名残で
当時の交通手段の主役が船だったことが分かる。
それは、邪馬台国時代どころか江戸時代でもそうだった。
牛馬は餌をやらないといけないし、世話をするのも面倒くさい。
また、積める数や速度も、船>>牛馬だし。
水に浮力はバカには出来ない。
中国や朝鮮に真っ黒の牛っていたっけ?
そもそも日本在来種だって黒ばかりではなく褐色も斑もいるわけだが。
どうしても中国は水牛で茶色というイメージが強くてさ
黒毛和牛は気が荒いと聞くし
日本の在来馬も気が荒かったと言うし
なんで日本に来て気が荒くなったのか?
野生種との混血の可能性を考えてみたのさ
>>232 黒毛に限らず、現在の「和牛」は西洋牛と在来種の交配による改良種だよ
>>233 そんなの分かってるよw
腑に落ちないだけ
なぜ西日本より東北の用が牛馬と親和性が高かったのか?
納得できないw
岩手の牛は北から連れて来たって説(伝説?)が有るようだが
これだと納得できる
とすると、馬も北からだろう
そういや、中国もいい馬は汗血馬とか、北方のイメージやね。
南部馬は気性が良かったみたいだね
おやじの田舎で、黒毛和牛を山に放牧していて、
夕方になって、俺がゲートを開けると、
県道通って自分で牛舎まで帰ってきていたが、
気性荒かったんかよ?
gkbr
日本の牛馬は気性が穏やかだったから、去勢の必要が生じなかったとも言われてるようだけど。
>>234 漫然と「北」と言われてもなぁ 具体的にはどこよ?
それから、前レスにも書いたけど古代の牛の産地はむしろ西国だよ
蝦夷は8世紀初に朝廷に蝦夷馬を献納してるから、在来馬か独自入手馬を繁殖させてたんだろうね
8世紀なんて遅い時期なら、関東以南の日本馬の蝦夷への移入もとっくにあっただろうがなあ。
>>239 縄文時代にはすでに犬と共存してた。犬はシベリア原産
北方アジアから日本に人が渡って来たという説も有る
人が渡って来て交流が有ったのに、家畜が全く来なかったと言うのは無理が有る
大陸とは継続して交流が有ったはずだ
縄文と沿海州の交流の証拠があるしな
>>238 在来馬は気性が荒いんで明治以降に断種になった
在来牛のトカラ牛も気性は荒いぞ
>>242 犬は狩猟文化だし人類が最初に飼育した動物なんだから、そりゃそうだろうw
牛馬についての具体的な北方伝播ルートについて語ってくれんと。
>>242 > 在来馬は気性が荒いんで明治以降に断種になった
体格が小さすぎて軍用に適さないからだろ?
蝦夷征討を本格的に開始するのが7世紀半ば
出羽郡の設置が8世紀初
軍事的拠点の多賀城(宮城)が8世紀前半、胆沢城、志波城(岩手)が9世紀初
この蝦夷征討よりはるか以前に、蝦夷は大和側の国から馬を輸入し繁殖技術をもっていたんだろうか
>>245 それはさすがに蝦夷を馬鹿にしすぎでは?
国レベルの接触より前に草の根の交流あるに決まってんじゃん。
それに北方からの蝦夷在来種の件が本当なら、とっくに飼育や繁殖の技術だってあるはず。
それがなかったとしても、西日本が馬を導入した古墳時代から3〜4世紀、伝播には十分すぎる時間が経ってる。
>>246 いや、だから
在来馬か独自入手馬を繁殖させてたのではないかと考えてるんだが
>>243 犬はそれほど古く無いよ
1万5千年ぐらい前にオオカミから分化したと考えられている
具体的な北方伝播ルート?
氷河器時代に地続きだった陸を渡って来た
これでいいか?
魏志倭人伝は九州から畿内について書いてある
倭に牛馬が居ないと書いてあっても
それを東北北海道に当て嵌める事は出来ない。そのまま当て嵌めたら間違いだぞ
>>248 > 犬はそれほど古く無いよ
> 1万5千年ぐらい前にオオカミから分化したと考えられている
人類が犬を飼い出したのはそれより後だよ、だから。
ひょっとして「狩猟文化」と「石器時代」の区別もついてねーの?
> 具体的な北方伝播ルート?
> 氷河器時代に地続きだった陸を渡って来た
> これでいいか?
ああー、「石器時代」か、残念。
その頃の人類はいかなる動物も飼育なんざしてねーよ。
紀元前1000年から後500くらいの間の、大陸との交流状況を踏まえて考えてくれ。
>>247 >>246のカキコのキモは、↓この一文な。
> それがなかったとしても、西日本が馬を導入した古墳時代から3〜4世紀、伝播には十分すぎる時間が経ってる。
>>250追記。
勘違いしてはならないのは、「動物を飼育するという行為」は、
立派な「文化的行為」である、っていうこと。
たまたまある人間集団の生息地域に、ある種の生物が野生の状態で生息していようがいまいが、人間の側に「飼育する文化」がなければ意味がない。
「北方からの馬の伝播」と言うときに、単に生物種としてのウマの伝来のみを考えていてはダメで、「馬を飼育する文化の伝播」を視野に入れないと無意味な議論になる。
と、いうことは、当然その文化の「発信元」、つまり大陸のどの人類集団からそれを受け取ったのか、に答えられなければならないのだ。
>>251 >草の根の交流あるに決まってんじゃん
7世紀以前に西日本の馬が草の根交流の民間取引レベルで、異文化圏にも流通していたのだろうか?
>>253 古墳文化の北限は宮城・山形だ。
律令国家以前に数世紀にわたって交流がある。
>>251 >西日本が馬を導入した古墳時代から3〜4世紀、伝播には十分すぎる時間が経ってる
日本が弥生期になってから、大陸から水田や金属器等の多くの文化や技術が伝播したが
馬匹文化が日本に導入されるまでに1400年くらいかかっている
>>254 >古墳文化の北限は宮城・山形だ
それより以北の秋田、岩手、青森の話をしてるんだが
>>256 > >紀元前1000年から後500くらいの間の、大陸との交流状況を踏まえて考えてくれ。
> それ新しすぎるだろw
馬のことを聞いてるんだよ。犬のことはもういいから本題に入ってくれ。
>>256 犬の件で最後にひとつだけ。
> あの、犬の祖先はシベリアンハスキーの先祖だぞ
> 狩猟目的じゃなくて犬ぞり用
人類が犬を家畜化した最初期の利用法がいきなり「犬ぞり」だなんてことはありえんだろう、常識的に考えて?
>>257 在来種が居たか、大陸から直に東北に入って来た
何か問題有るかい?
反論してみな。東国の馬がなぜ西日本より高価だったのか
>>258 食わない家畜は、普通は荷物運搬用だぞw
>>259 具体性ゼロの無意味な主張なので、反論するまでもなし。
>>260 犬ぞりのなかった時代にどうやってものを運ばせたんだよw
犬は野生において狩猟性の動物なんだから、まずはその特性を利用したに決まってるだろ。本気で馬鹿なのか?
262 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 09:50:07.07
犬の祖先は定説が定まっていない。
狼の家畜化したものという説や、
すでに野生犬がいて、家畜化されたという説がある。
小型狼説が最近は優勢。
>>261 オマエはただ物が理解出来ないだけかw
>>256でちゃんと交流の実体が証明されてるだろ
良く読めな
ソリが無かったなんて前提は間違い
荷物は雪の上を引っ張って運ぶもんだ
トナカイを倒したら背負って運んだのかwww
大人しいオオカミに荷物を紐で括り付け、ちょこっと餌をやれば家畜化完了だ
これが家畜化の可能性として一番可能性が高い
実際に今も犬ぞりとして使っている
野生の犬を狩猟に使うってのはかなり高度な技術だ
犬と用途として応用であり後世に生まれたと考えられる
餌を自力で捕まえられる狼は人間に飼われる必要が無いし、人間にとっても危険だ
264 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 15:14:29.29
柴犬と秋田犬の元となった秋田マタギはルーツが異なる。
265 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 16:53:53.38
高天原の最高司令部から出雲(倭)に天下り国譲り(乗っ取り)の特命を受けて天下った天若彦命は、何時までたっても無しの礫。
天津さえ大己貴命の媛、下照媛命と結婚。
地上の王者たらんとする云々。
・・・
天若彦はどうやら天火明命/彦火明命に比定できるかも。
古社古伝では、
天火明命の后が天道媛命。
亦名を市杵嶋姫命。亦名を息津嶋媛命。
亦名を高光日女命。(記紀では高光媛命の亦名が下照媛命)
父は大己貴命。母は多岐都比売/多紀理比売命/三保津媛命。
天火明命の父親は天之押穂耳命。(第三御子)
母親は高皇産霊神の媛、タクハタ千千媛命。
558 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 23:30:57.64 ID:HKIpReKk
また思い出したように馬ネタ。
弥生時代の日本にはまだ馬がおらず、古墳時代になって導入したと考えられている。
また、馬飼を含めた外来技術を取り入れた畿内の政権が、
蝦夷や隼人といった辺境の「未開」な集団を征服したと思われている。
というか、蝦夷や隼人は別言語を話す異民族とみなされることすらある。
でも、蝦夷や隼人を馬飼と結びつける記述が結構あるんだよね。
これは説明が必要だと思う。
『扶桑略記』養老二年八月十四日条
「出羽并びに渡嶋の蝦夷八十七人来り馬千疋を貢す。則ち位禄を授く。」
井上辰雄氏は、肥人はコマヒトと訓むべきとされ、
「いわゆる肥の国の人の意味ではない。肥人と『駒』との結びつきが強いことから、
隼人の中で、とくに駒などの飼養にあたっていた部族に名づけられたものであったらしい。
『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷の条
「彼の白水郎は、馬・牛に富めり。(中略)此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、
恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
267 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 10:12:52.73
高天原とは、現在の奈良県御所市高天。
グーグル地図で奈良盆地を見渡せばわかるけど
何故、御所市がヤマト王権の発祥地だったのかよく分かる。
安全保障上、金剛山と御歳山の山間あたりに王都をもってくると
敵に責められにくくて安全ということがわかる。
また、このあたり一帯には葛城川の水源が多くあり、ここを支配することで
奈良盆地の水を支配することができる。
全く馬鹿の一つ覚えみたいにw
それだと畿内のニギハヤヒの存在と降臨を全く説明できない
騎兵は戦争(戦闘)すれば相手も習得するよ
アメリカのインディアンとかも馬乗りになったじゃないか
日本の勢力が大陸の騎兵と戦争(戦闘)した後は確実に騎兵を自前で持つようになる
倭が習得した後に隼人が習得するのはすぐだ
270 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 20:31:09.23
朝鮮半島=「海北」 高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったから「海 北」と言っていたころの名残なのだ。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、「東は 毛人、西は衆夷、渡りて海北」を平定したと述べている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」 と書いてある。
倭王武は神武東征後の巨大古墳の時代だから、倭国の中心は完全に機内で すな。 だけど、朝鮮半島のことを高天原邪馬台国=北部九州時代から 「海北」と呼んでいたので、海北と書いた。 それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのだ。
271 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:23:15.30
イザナギとイザナミが生んだ八島には高天原はありません。
272 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:42:53.97
しかし、アマテラスは高天原でななく、筑紫生まれなのだ。
しかしって、アマテラスは高天原で生まれてないんだから、
>高天原邪馬台国=北部九州
は高天原じゃないでしょw
274 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:52:11.17
まさか、高天原=宇宙説じゃないだうなw
少なくとも奈良説はありえない。
だうなw
落着けよw
276 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 14:44:01.80
>>268 説明できるよ。
ニギハヤヒが高天原(御所市高天)から降臨したのは
河内国の磐船神社(大阪府交野市)のあたり。
277 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 15:25:23.52
まだお若い伊耶那岐命と伊耶那美命はお偉方に日本列島の平定の大命を承った征討平定軍の大将軍と副将。
どこかよそのから船に乗って征途につき、
伊島、沼島などの橋頭堡を築いたまでは良かったが、
端緒で戦略戦術を観誤って(力ずくのごり押し?)連続して手痛い失敗と大被害を被る
(ヒルコとアワシマ。海に流す行は水葬による葬送儀礼?)
一度大本営に戻り復命して善後策を検討。
改めて策を授けられ、その方針(パワー外交による懐柔策(此彼の利害得失を説く))それでも帰順しない場合は大戦力を以て殲滅等で再度雪辱戦に挑むと、
順調に事は運んだ。
以降、手を替え品を変えて同様なストーリーが何度となくリフレイン。
278 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:09:20.33
高天原は弥生時代の遺跡から鏡が出る所だろ。
地名をこねくり回すだけなら、新井白石の茨城説とかある。
279 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:11:37.13
>>278 「常世の国」=茨城説は昔からあるね。
香取神宮とかの地位が高いのとひょっとしたら関連があるのかも。
280 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 00:08:35.28
高天原は、高天の原。
高天(たかま)という地名の場所があって
そこの原野という意味。
タカマって地名が神話の前からあったとは確認しようがない
奈良の五畿七道時代の地名すら現代にろくに残っていないのに
胡散臭すぎる、却下
282 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 12:57:57.08
高天の原、高天ヶ原と、言い方がいろいろあるけど
いずれも、高天+原とわける。
御所市高天がその地。
ここにある高天彦神社。
このあたりの領主は、高天の領主だったので、高天彦とよばれ、
それが神社の名前になった。
283 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 13:37:34.04
却下だな。
根本テキストである、古事記日本書紀漢籍の記述分析と考古学的事実から導き出されたものじゃないとダメだ。
284 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 00:55:23.50
前出の高天地区が神話の高天原だと言うことは朝廷が延喜式のなかですでに認定済み
285 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 01:02:40.24
ここ(葛城一帯)が原初のヤマト。
卑弥呼(大倭姫命)もここに坐して、比定可能な陵墓も存在するとか
286 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 01:09:36.47
御所市の高天地区には苔むした「高天原伝承地」の石碑が建っています。
土地の年寄り達が代々の口伝による伝承もここが高天原だったとしています。
そんなもの何の証拠にもなってません
あんな山にまともな豪族は住みません
事実土蜘蛛が住んでいたと伝承されています
288 :
サガミハラハラ:2013/01/20(日) 07:38:25.90
つい最近であるが、ここの叔母さんにインタビュウしていたが、そのおばさん、はっきりと、「タカマです」といっていたよ。
高天原とはいってなかったよ。
289 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:50:16.83
でも御所市高天はだんだんと高くなるあのあたりで一番高い所にあって
まるで高天原みたいな立地ですね。
>>289 > まるで高天原みたいな立地ですね
要は、神話的観念としての「高天原」が成立して以降に、そのイメージにそって名づけられたってだけだよな。
信濃町が日本仏教の総本山だと千年後の人間が勘違いするような話だよね。
掘ったら高地性集落が出てきそうなところだな
294 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 15:43:28.72
延喜式が何世紀か見たら、事実の詳述か、既成神話の承継か判然としないのは明らか
296 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 17:26:36.10
延喜式のどこに、何が書いてあるの?
>>284 延喜式を見たら高天彦神社は2度出て来たが
高天原は一度も出て来てない
wikipediaを見ると高天彦神社は「延喜式では最高の社格とされた名神大社で、」とあるが
名神大社には、「名神祭式には、名神大社として203社285座が記されているが」とあり
とても最高と威張れる様なもんではない
ぶっちゃけどこにでも有る神社である
298 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:01:22.96
>>289 戦略的な要地だったのだろうか?
古代には砦みたいなのがあったのだろうか?
神社の形態は古いね
300 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:47:37.03
倭王武と日本書紀編纂者が朝鮮半島の事を「海北」といってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で間違いない。
さらに、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。
よって、高天原は北部九州である。
結論が早急すぎる
302 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 19:18:02.94
高天原=のちに任那日本府ができたあたりの地域ではないだろうか?
任那の倭人居住区。
303 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 19:35:53.08
卑弥呼とアマテラス≠ニ柔らちゃんと谷亮子≠ヘ、分類的に同じw
案外、日光=アマテラス だったりして?
柔らちゃんは漫画のキャラ
寿命って、ニニギがイワナガヒメを送り帰したことで宣言されてたと思うけど
そもそも高天原の神々って死ぬの?
高天原って墓がたくさんあって、墓の中に鏡が入ってるとこかな?
306 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 00:40:41.54
高天原の神も死ぬ。
イザナギの墓は島根県の比婆山、スサノオが暴れた時にアマテラスの侍女が死んでる。
307 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 01:13:48.15
御所市高天は、グーグルアースで見たらわかるけど
大和盆地のもっとも西南の高台の地にある。
戦乱期には、近畿王権がこの地に本拠地を置くのは
安全保障上の最適地だから。
葛城川の上流部もこのあたりに集結して、水を抑えることにもなる。
その後、太平の世になり、王権が安定すると、より経済性をもとめて
下流部の高尾張(葛城)に都を移したことも推測できる。
じゃ機織娘の墓1個だけあるところが高天原に決定
309 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 01:50:44.23
そもそも、出雲が後の高天原の後継的大社なのだから
出雲大社より古く、出雲大社以上の社殿だと邪馬台国か大陸(新羅を通過して来た、スサノオが出身の秦国とか)の何処かだろう。
310 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 02:10:29.62
古代チベット付近と言うと趙や魏、韓と戦ってた頃の秦国だからね。
国津神の出雲大社に対して居た、渡来系豪族の天津神の他の社殿は、当時、大半の全てが、韓人神社や新羅神社、百済神社等の渡来地名の社名を名乗って居たそうからね。
八幡義家・鴨二郎・新羅三郎の時代辺りまで渡来地名神社が存在していてように・・。
それにしては、ずいぶん南方系の神話と類似してるけどね
312 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 02:50:01.48
>>311 それは、おそらく当時の倭人が農耕民族で南方系でね後に、漢民族に追われた際、南周りした台湾系倭人も居る訳だしね。
天皇の皇統氏族は、秦国を通じて新羅経由。
韓国が言う壇君神話を伝える熊女の神話は出雲と沖縄にある様だが・・
出雲の国津神とは、先住のアイヌと渡来スサノオが高天原の意に背いて国津神とされた様に、渡来系中央氏族でも古くからの土着で時の朝廷に刃向かった勢力の一族の安倍氏も含まれてたりするので、
出雲に属する神々や一族が皆、元々、土人と言うわけでも無い。
本土のアイヌのルーツに、藤原氏嫡流筋の藤原南家の藤原仲麻呂が大化改新で敗れて恵美氏勝と名乗り、
アイヌの祖と成った事例もあるしね。
313 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 03:33:29.41
アマテラスとスサノオは筑紫で生まれている。
これは無視できない。
314 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 03:48:47.75
熊襲って熊祖の意味で熊女の子孫を現してたのかねぇ・・?
熊本県南部(球磨)から鹿児島県北西部(囎唹)にかけての九州で最後まで大和朝廷に反抗していた地域のことです
>>314 ソはおまけでクマ(ク)という部族だと思うよ
久米とか屋久とか関わり有りそう
最後の隼人の乱の時隼人らは宇佐神宮に戦勝祈願のために参詣している
宇佐神宮とはさらに後日談がある
320 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 15:41:42.23
>>311 南方系の神話や風習(鵜飼いなど)を持つ日本人が
なぜ北方系のウラル・アルタイ語を話すのかは結論が出ていないはず。
321 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 15:42:24.14
322 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 15:44:09.30
>>318 記紀によれば、隼人の祖先と神武天皇の祖先は濃淡は別として親戚であったと記憶している。
今どきまだ日本語がウラル・アルタイ語だなんて言ってる人いるんだw
324 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:30:54.18
>>321 安倍総理の父が発言と今上天皇陛下の半島渡来発言も、たま出版だったが出元なの?
325 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:33:40.56
>>305 >寿命って、ニニギがイワナガヒメを送り帰したことで宣言されてたと思うけど
>そもそも高天原の神々って死ぬの?
正確には、送り返したのではなく
イワナガヒメは、妹を守るため富士高天原王朝で自作自演の醜態を晒した為
イワナガヒメを大室山の国王へ護送した
ニニギは特殊能力があっただけで普通の人間だっただけ
>高天原って墓がたくさんあって、墓の中に鏡が入ってるとこかな?
墓地は知らない、ニニギが国王のときにピラミッドを埋め、王朝を山の麓まで降ろした
326 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:04:57.91
オカルト板をおすすめします。
宮下さんですか。。。三浦氏ですかね
厖大な古文書つくるのには、なんかあったんでしょうけどね、何かね
アメノワカヒコも死んだし
大国主の娘と結婚してる
高天原の神は人間に近い
329 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:29:03.38
木花開耶姫命=多紀理毘売命/多岐都比売命(異名同神?)。
多岐都比売命/多紀理毘売命を后と為さったのは大己貴命/大国主命@九州の西都原。
330 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:31:02.10
危機神話に云う天若彦は、天火明命の御事。
そういえばニニギも芦原中津国で死んだんだよね
332 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 11:05:42.14
天若彦と天火明命は別人だと思うけどね。
どちらも大国主の娘とは結婚していたみたいだが。
333 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:38:26.47
出雲王朝はイツツヒコ王国と同盟国だったって本当?
334 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 13:06:52.78
出雲と吉備の関係はどうだったんだっけ?
時系列がどうなのか?という問題なんだよ。
出雲国譲りの時は、近畿VS出雲の戦いがメインで
それ以外の地域は、この二大勢力の勝者に自然とつき従った。
吉備が勢力を拡大するのは、それよりも後。
とくに、ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)の時代に
彼女の伯父や弟が吉備の国主の地位にあったので
ヤマト王朝の親藩豪族の国として、吉備は勢力を誇った。
336 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 15:58:56.89
神武東征の時には岡山県にしばらく滞在したとあるから
吉備と神武は良好な関係にあったと見るのが自然ではないだろうか。
神武の親戚が吉備に居た
338 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 20:54:32.26
今こそ、記紀の勝者のファンタジーに縛られずに様々な古記古伝、古系図、古神社を検証する時。
八百万神の実体や万世一系がひっくり返る大地雷原の可能性が大。
339 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 00:59:59.47
神武天皇も出雲っぽい嫁を貰っているから
神武東征では出雲と衝突してないと考えられる
340 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 07:57:13.51
神武天皇は出雲よりも大和のほうが攻めやすいと読んだのだろうが
そのわりには苦戦しているな。
そりゃ苦戦するでしょ。
纏向の状況から大和の支配地域は少なくとも海まで及んでいる。
大阪湾から上陸しようとして阻まれているし大阪側に及んでたのは確定。
日向だか吉備だかが全力でやってきても簡単にいくはずないし。
時系列がバラバラ。
卑弥呼こと、モモソ媛命は、
神武天皇こと、ワカミケヌ命の7代後の子孫。
神武が実在していたとなら、紀元1世紀くらいの人物。
大和朝廷が、出雲国譲りで建国したのは、紀元前1世紀から
紀元1世紀くらいの人物。
@紀元前1世紀〜紀元1世紀
出雲国譲りによって、近畿王権が日本全国で覇権を握る。
初代倭王は、天火明命。妃は、天道日女命(大国主の王女)。
近畿王権は日本全国各地に役人を派遣して統治させたが
九州高千穂には、倭王の天火明命の兄弟のニニギ命を赴任させる。
A紀元1世紀中頃から後半
近畿本国でクーデターが起る。
天火明命の御落胤だと名乗るニギハヤヒが義理の兄のナガスネヒコ命と
共謀して謀反を起こす。
倭王である天村雲命?は、各地に援軍を求む。
その中に、九州分家であるニニギ命の曾孫であるイツセ命とワカミケヌ命の兄弟がいた。
イツセ命は、その当時、吉備の知事になっていた。
そこから援軍として畿内に上陸、ナガスネヒコの軍とたたかうも、戦死し、
弟のワカミケヌ命は生きながらえる。
ニギハヤヒの乱は鎮圧され、功績のあったものは恩賞を貰う。
その中で、ワカミケヌ命は、イワレに居を構え、イワレ彦をなのり、
宗家である倭王家の政治を補佐する。
このイワレ彦命こそ、後の神武天皇と言われる人物である。
B紀元2世紀中頃
倭王の天忍男命の後継を巡って、彼の娘婿のカエシネ命と
彼の兄の息子である天戸目命との間で戦がおこる。
カエシネ命は、ワカミケヌ命の子孫に当たる。
これを倭国大乱と言い、結局、カエシネ命の曾孫であるモモソ媛命が
女王として統一する。これが中国の魏志倭人伝である卑弥呼のことである。
一方、天火明命の男系子孫である倭王家は畿内を追放され
現在の名古屋周辺に落ち伸びる。彼らの嫡流の子孫は尾張氏をなのる。
344 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 19:20:37.00
神武は出雲から嫁をもらってない。
古事記には、三輪山の大物主からもらったことになっている。
それが、日本書紀では、出雲の大国主の孫娘から貰ったことに書き換えられ
そこから、いつのまにか、大物主=大国主という説が生まれてしまった。
本来は、大物主と大国主は別なんだけどw
>>344 ただ、当時の流れから言って、敵対しない勢力とは通婚によってパイプを作っていたと思う。
346 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 20:28:33.45
神武が畿内で結婚したのは、三輪山の神主の娘。
しかしながら、日本書紀を編纂するときになって
それでは、まずいということで、
出雲の大国主の孫娘と結婚したことになった。
なぜか?
それは、当時の大和朝廷の正当性が、
出雲の大国主から国譲りされたことにあったから。
そのために、どうしても、皇室の先祖である神武が大国主の孫娘と結婚する
物語がほしかった。
でも、実際に出雲から国譲りされたのは
神武よりも三代前のニニギ命の時代で
大国主が国を直接譲ったのは、ニニギ命の兄弟のホアカリ命のほう。
そして、このホアカリ命の妻が、出雲の大国主の皇女の天道日女命だった。
三輪山も出雲直系だな
大物主は大国主命の和魂でございます。
そもそも嫡流だったら、生き残らせる必要ないだろう、殲滅するよ普通
350 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 11:23:17.02
徳川家は、自分たちの本来の嫡流だった
松平太郎左衛門家を殲滅させてないだろうw?
ただ、自分たちのほうが嫡流だと改ざんするだけ。
その松平の嫡流になんの価値があんだよw
徳川が征夷大将軍職になったのは松平の嫡流とは無関係だろうが
352 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 20:38:44.92
>>352 その方は戦後教育(特に昭和20〜26年)を青少年期に受けているんですよね。
354 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 21:01:37.04
古事記偽書説の人だから、そもそも我々とは相入れない人だw
355 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 09:07:10.96
記紀なんて、所詮竹内文書≠ベースに捏造された出鱈目な悪戯書w
竹内文書≠ベースに暗号化されながら正しく記述したのが旧約聖書
比較するだけ野暮だねwww
さすがにそれは無理
357 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:31:36.53
ニニギとは何か?という話になるけれど、禰宜だろう。
賀茂神社、松尾社、日吉社、平野社では禰宜は第一の神職とされ、香取神宮、鹿島神宮ではその上に大禰宜が置かれた。
ニニギは大禰宜ということだ。
ニニギを男だと誤解している人も多いようだが、実は女で、卑弥呼そのものということも考えられる。
358 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 09:30:22.59
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」であり、神の心を和ませてその加護を願うという意味である。
(ウィキ)
359 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 10:07:33.14
>ニニギとは何か?という話になるけれど、禰宜だろう。
>賀茂神社、松尾社、日吉社、平野社では禰宜は第一の神職とされ、香取神宮、鹿島神宮ではその上に大禰宜が置かれた。
>ニニギは大禰宜ということだ。
六世紀以降の話だなw ワロタ
360 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 16:03:39.05
ネギ、ナギ(ナ行の音韻変化含む)には「指導者」の意味があります。
出自は一説にオリエント。ユダヤ。
イザナギで、救う指導者=救世主
「高き屋にのぼりて見れば 煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」
ニギハヒ→満たされている状態
荒妙=麻の布 和妙(にきたえ)=絹=織り目の細かい
ニキ→詰まっている状態
>>361 ニニギのニギはその意味だとするとニって何よ
枕強調じゃないの音重ねの?
満タン腹イッパイw
天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝
アメニギシクニニギシ-アマツヒコヒコ-ホノニニギ
365 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 16:19:48.78
>>352 もう、飽きたわw その言い分は。
ちょっと前に、邪馬台国九州説を馬鹿みたいに主張していただろう?
神武天皇とか天照大神という名前は7世紀に出現したけど
それに当てはめられた人物は、皇室の先祖やその親族にいたんだろう?
ヒコホノニニギが正しい区切り方
367 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 20:04:00.64
「番能邇藝」=「火之邇藝」=火盛燒時所生之子名「火照命」
アマツヒタカヒコと読んではいかんのか?
369 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 05:44:05.14
>>365 神武天皇とか天照大神のモデルは実在していたが
この2人に本当に血縁関係があったかどうかは微妙。
370 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 11:33:46.89
>>369 違う。
神武天皇と天照大神のモデルになった人物は存在していたが
そのモデルの人物は本当に男系の直系でつながっていたのか微妙だということ。
血縁関係自体があっただろうから、神武天皇の子孫である天皇家は
天照大神を自分たちの王朝の祖として敬っていると思うけど。
じゃないと、記紀にある出雲の大国主の記述みたいに
敬いながらも革命された側として歴史書に記したはずだから。
もっと具体的にいうと、大和の始祖の天照ってのは、
天武天皇が編纂する前までは
皇祖ニニギ(神武天皇の曽祖父)の祖母の天照大神ではなく、
皇祖ニニギの兄のホアカリを天照国照彦のほうを
そのように敬っていた可能性が高い。
これは、実は物凄い大きな違いだ。
ヌルハチも女神が単為生殖(実を齧って妊娠)で産んだ男児の男系子孫だな
モデルとか言ってるが口承伝話だろ
そんなのはたいてい宗族で相承していくから血縁は問題ない
373 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 15:16:32.24
天皇家は、出雲の大国主のことも崇拝して
大事に祭っているが。。。
でも、記紀でもわかる通り
天皇家と出雲は別の王朝で、自分たちは出雲を降伏させたとしている。
これがすごく重要だ。
もし、インチキして、自分たちの歴史を長く見せるのなら
出雲の王統も、自分たちの万世一系の王統につなげるはずである。
しかしながら、そうはしていない。
じゃあなんで出雲は別系統と分かるようにしたのに
天皇の各代は別系統と分からないようにしたんだよ
375 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:19:46.73
もともと別系統じゃないからだろ。
現実に、王権シンボルは一貫して鏡じゃん。
出雲と大和は別の国だった。そんだけ。
無理に記紀を読み替えて、あれこれおかしな理屈をこねくり回す必要などない。
真実は実にシンプル。
377 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 19:04:34.90
>>375 ナガスネヒコ側も天孫であることの証拠品を持っていたからな。
長髄彦の妹がニギハヤヒと結婚
大国主の娘がアメノワカヒコと結婚
ニニギはサクヤヒメと結婚
ニギハヤヒはニニギとは別に来てるし
出雲国造の始祖のアメノホヒもニニギの前に来ている
これらは高天原の強い影響を付けたが
神武東征の時にはニニギ政権は崩壊しており、
各地で独自に天津神系や国津神系の豪族が勢力を持っていたと考えられる
その証拠として神武東征で熊野に立ち寄った時
熊野の高倉下の夢に出て来たアマテラスは、芦原中国は乱れているのでもう一度平定しろと言っている
379 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:59:33.73
まず、押さえておかないといけないのが
ニギハヤヒ≠ホアカリ
ここをゴチャゴチャにしている奴が多い。
たぶん、歴史が経過することによって、過去の記憶がグチャグチャになったのだろう。
ニギハヤヒの正式名称は、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命。
つまり、ホアカリの形見のニギハヤヒ王子って意味。
ニギハヤヒは、義理の兄のナガスネヒコと共謀して
ホアカリのご落胤だといってクーデターをおこした。
それを、ニニギの曽孫のワカミケヌ(神武)らに鎮圧された。
で、ホアカリだが、これは正室が天道日女命といって、大国主命の皇女。
播磨国風土記によると、大国主が義理の息子(娘婿)のホアカリに
国譲りをしたみたいになっている。
それが、出雲国譲りの実態だったのでは?と思う。
皇祖ニニギは、このホアカリの弟(兄という説もある)で
ホアカリが大国主から国譲りされ天下を統一した後
ホアカリの命令で、九州南部の統治を任された王族だったのでは?と思う。
380 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 01:01:08.14
天津神系や国津神系ってのは、
江戸幕府でいうところの
親藩譜代系と外様系ってくくりと同じ。
だから、瀬戸内貿易圏形成過程が記紀神話だって。
九州からの瀬戸内湾岸への移民が育って、日本海貿易圏と対抗するようになったのが
ホアカリやニギハヤヒの説話。
彼らは当初、出雲に従っていたが、瀬戸内が栄えてくるとそこから独立しようと試みた。
神武はやや後発移民団だったが最終的に瀬戸内を掌握。
よって、瀬戸内ではじめて勢力をもった吉備の神話を継承する形で出雲からの独立を描いた。
そして、そうした神話が可能だったのは、もともと彼らが九州からの移民だったというよしみがあったから。
なぜ九州からの移民があったのかといえば水田稲作が九州で発達したため。
西日本において弥生系遺伝子が多いのはそのせい。
>>381 神武は軍事援助してくれそうな勢力を求めて放浪してただけで、瀬戸内を掌握なんかしてないよ
神武は劉備玄徳みたいなもん。
彼が大和をとったことで、筑紫・出雲・大和の「天下三分」が成った。
それ以前は筑紫vs出雲の二国にらみ合い。魏・呉と一緒だね。
劉蜀は僻遠の要害から徐々に中原を侵そうとしたが、結局うまくいかなかった。
神武は同じような構想でド田舎の大和に陣取り、十数代かけて見事に成功。
つーことで、神武以前の倭国の中心は「当然」、大和なんかにはなかった。
384 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 08:12:01.59
記紀神話を読んだらわかるけど
神武の家系は、元は近畿の高天地方出身で
九州南部の知事を任されていた家系。
ニギハヤヒの反乱の時は、
兄のイツセと一緒に岡山あたりに任官していた時だった。
385 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 12:31:42.76
アマテラス=卑弥呼・台与 高天原は邪馬台国である
朝鮮半島は北部九州から見て「海北」にある。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」では、「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十六国を平らぐ」と述べてられている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」 と書かれている。
これらが書かれたのは、神武東征後の巨大古墳や奈良時代の事だから、倭国の中心は完全に機内ですな。
だけど、高天原邪馬台国=北部九州時代から 朝鮮半島のことを「海北」と呼んでいたので、その慣習から「海北」と書いた。
それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのである。
そして、アマテラスの生誕地が筑紫であり、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。
さらに、古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが、 手元の年表では、26継体天皇(507)から載っている。
これに、96後醍醐天皇(1318 )まで71代を計算すると、一代平均11.4 年だな。 26継体天皇(507)から11.4年×25代遡った神武即位は(322)だ。
そして更に、11.4年×5代遡ったアマテラス=台与の即位は(265)。
実際の台与即位は(247)以降近辺だが、十分に誤差の範囲といえるだろう。
その解釈はそもそも隋書と齟齬があるから却下
387 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 17:17:59.95
高天原は高句麗では?
鏡が出るんだから呉だろ
389 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 18:28:47.08
沖ノ島を「海北道中に在る」というのだから、沖ノ島の南=福岡か、佐賀だろ。
390 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 18:54:23.74
高天=たかま
高麗=こま
高天=こま
卑弥呼もだけど古墳からも鏡が出るんだよな
中国とどうしても繋がる
392 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 19:45:02.88
倭人の方は呉の太伯の後裔では
393 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 19:47:10.13
しかし、鏡を王権シンボルとする習俗は大陸にも半島にも無い。
世界で一番デカイ銅鏡は平原の国内産モノだ。
394 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 08:44:22.76
395 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 08:45:27.95
御所市高天にある。
ここが高天原。
396 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:40:40.01
御所市高天地区は土蜘蛛の住処
397 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:48:03.80
土蜘蛛の巣かよ!w
畏れ多くも高天を土蜘蛛の巣とは
399 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:59:54.93
>>387 > 高天原は高句麗では?
高天原=朝鮮半島説はあるが、高句麗ではなく任那のどこかではないか?
400 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 19:00:39.37
土蜘蛛ならともかく、セアカゴケグモは人間より強いらしい。
401 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 19:41:29.48
土にへばり付かないと死ぬ蜘蛛ってことだろ
402 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:10:56.77
半島の南端は倭国の辺境だよ。
高天原のわけがない。
古文書も出土品もそれを語っている
403 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:22:09.51
高天原が高天彦神社のあるところだというのは、平安時代に編纂された延喜式に
そう記載されているんだろう?
高天邑があったところは、現在の御所市高天だけではなくて
御所市北窪とか、あの辺り一帯が全部そうといった。
この高天邑の北には、高尾張邑があり、ここは後に葛城といった。
現在の葛城市笛吹周辺。
ここが、出雲国譲り後、近畿王権が首都を置いたところだと思われる。
また、高天邑の南には、高鴨邑があり、ここが
ヤマト王朝の譜代の家臣だった賀茂氏の発祥地。
神話上の高天原って、どのくらいの高さを想定してたんだろう。
天空にあると考えていたら、高天原が御所市高天一帯にあったなんて考えないと思うんだが…
天空(想像)か地上の高い土地かは同じ人でもどちらでも有り得ると思っていたりするからなあ
大国主は天孫様と同じぐらい高い神殿を建ててくれと言ったんだから
そのぐらいの高さでないかな
407 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 00:07:46.56
高天彦神社=高天原???
そんな凄い事が延喜式のどこに書いてあるのですか?!
日本史がひっくり返る、新発見ですよ!w
408 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 00:19:53.02
この景色は…
高天原のイメージぴったりだわ
410 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 00:32:07.50
2ちゃんでテキストで説明されても、ピンとこない。
写真なり、地図なり説明されると、ピンとくる。
現代人は様々なメディアのおかげでラピュタみたいな天界を想像できるけど、
古代人は山の上みたいな天界しか想像できなかったのかもね
412 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 01:15:09.64
奈良の弥生時代の遺跡からは鏡が出ないじゃんw
三角縁神獣鏡って何だろうな
414 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 01:32:55.51
415 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 02:37:31.09
>>408 安全保障上、もっと立地条件が良いかもね。
大和盆地の南端の端っこの高台にあるし。
出雲や高志などが攻めてくるとして、一番攻められにくい場所。
416 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 02:41:09.15
高天原にはない銅鐸と一緒に出土というところから見て、土蜘蛛の類いが何かの儀式に使ったものだろう。
墓から出る王権シンボルとしての鏡ではないな。
417 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 03:00:55.70
仮に高天がヤマト王朝のかつての拠点だとしても
それは、あくまでも出雲国譲りよりも前の話だろう?
つまり、まだ、ヤマト王朝の祖先たちが、地方の一王権だった時代の話。
軍事的に見たら、高天地区は有利な地域だけど
経済的に見たらそうでもない。
ヤマト王朝が覇権を握って中央集権体制が確立するに至って
やや川下の高尾張(葛城)や纏向(山処)に移転する。
ちょうど、戦国時代、初期は山城、後期に行くほど、
平山城、平城へ移行したように。
土蜘蛛って弥生時代に鏡や銅鐸を所持していたのか
国譲りして
なが〜い時間が経って
九州のヤマトから神武が立ち畿内に移住する
この移住先が奈良盆地南部
なぜ南部かと言うと、中部は他の勢力が居たから未開発の地を選んだ
奈良に移転した弱小のヤマトは徐々に勢力を増し
崇神天皇の時代に畿内の覇権を手に入れる
420 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 03:20:21.04
ヤマト王朝が高天に拠点があったときは、
完全に地方豪族だった時代だろう。
あそこは安全保障上は有利でも、王権が拡大するにしたがって
経済的に不便な狭い渓谷のど田舎。
戦国時代の越前国の中心地が、山深い渓谷の一乗谷だったのが
織田政権に併合されるにいたって、
経済性を重視して広い平野部の北ノ庄(福井市)に中心が移った。
そしたら、それまで中心地だった一乗谷は、ただの田舎になった。
そもそも高天がヤマト王権の拠点だった根拠に欠ける。
あくまで平安時代に高天原だと比定された場所にすぎない。
422 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 06:30:38.85
高天はヤマト王権の本拠ではなかったにしても
一帯の眺望がきくから、おそらく物見を常駐させるための監視小屋くらいは建てていたでしょう。
423 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 06:49:03.33
物見を立てただけじゃ何も意味は無いぞ
424 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:25:49.12
朝鮮式山城にしていれば、いざという時にはそこに逃げ込めるのだが
高天は地形的に重要だったかもしれないが、要塞化はしていなかったはず。
425 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 10:10:40.75
出雲や高志からみて、一番攻めにくい場所だな、高天。
なかなか、2ちゃんで文字情報で説明しても、実感としてわかないけど
図で説明したりしたら、高天の地政学がよく分かる。
河内からの上陸を阻止され
伊勢から回って一番近かったに過ぎない
攻めるのが難しいとかw
昔は湖だったから船で行けるし大差ない
時系列が意味不明
428 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 15:52:41.96
だから、奈良高天=高天原だと、延喜式の何処に何て書いてあるの?
旧来の考えでは、銅鐸は高天原→ヤマト王権とは無関係なんだけど。
それが事実なら、日本の歴史がひっくり返るぞw
430 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 17:00:53.37
>>425 神武対長脛彦の戦いでは、長脛彦が野戦に応じているんだよね。
長脛彦の側がどこかの山に朝鮮式山城を作って籠城すれば、神武側は兵站に不安があるから
逆転したような気もするが。
国譲りは今から1万7千年前
縄文人が日本に来た時の出来事
432 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 17:25:58.63
もう、初歩的な知識すらないやつが多いw
出雲国譲りと神武東征がごちゃごいちゃになっているやつとか。
だから、話が通じないんだよ。
433 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 17:29:00.00
>>426 おまえ、出雲国譲りと神武東征、ごちゃごちゃになってないか?
どうみても、高天は攻めにくい。
神武東征の時は、普通は勝てないんだよ、神武は。
あれみて思うのだが神武東征の時のメインの戦いは別のところにあり
神武軍は援軍で参加した一軍にすぎない。
出雲国譲りは吉備への移民が中つ国の覇権をにぎっていた出雲から独立を勝ち得たもの
これで群雄割拠時代が到来した
神武東征は河内周辺で海洋貿易をしていた海の民と組んだ移民が
大和へ移住していった過程
神武は後発移民だったからすでに来ている移民団がおり同族意識があった
しかし仲良くできる部族と仲良くできない部族があるのは世の常
要するに彼らとの島のとりあいの中で頭一つでてきたのが神武の部族
ワンオブゼムの存在を後世になってオンリーワンの存在として描き直したのが神話
深い意味はない
大和が台頭したあと、大和が吉備と結び、出雲を制した。
移民があったのは水稲の人工的に栽培がはじまって安定な人口増加ができるようになったあたり
つまり、壱岐には紀元前600年前の遺構があるが、東北には紀元前400年前の遺構がある
この200年のタイムラグを埋めるように移民があったと思われる
比較的温暖で貧乏だった西日本の瀬戸内沿岸地域に移民が広がった。
ここでのY型遺伝子の割合に共通性があるから
東日本へはおそらく初期移民組が出雲王権に従ったことを縁に出雲経由で全国へ流行していくこととなる
436 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:47:28.80
>>433 > どうみても、高天は攻めにくい。
> 神武東征の時は、普通は勝てないんだよ、神武は。
だから謀略かなにかで敵を平地での野戦に引っ張りこんだんだろ。
437 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:49:23.74
だから、出雲国譲りと神武東征がゴチャゴチャになっているんだよw
もう、あほかと。
初歩的な時系列もないまま語るやつが多すぎる。
>>435 まず、その絶対年代を疑ってみる必要がある。
あと、考古学上の年代観と遺伝子の年代観にも大きな違いがある。
稲の遺伝子の突然変異の変遷見たらわかるのだが
これらは定期的に起こるものなのだ。
水稲農耕の開始時期を弥生時代とみるのなら
遺伝子の突然変異からみたら、弥生時代の始まりは3300年〜3700年くらいと
みる向きが強い。
炭素年代でみたとき、もっとも遅くとも3000年前には弥生時代が開始したと
みるむきがつよかったが、これには信憑性があったということだ。
438 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:53:02.90
>>436 だから、神武東征の戦争のメインの戦争は別のところにあった。
分かりやすくいうと、関が原の戦いにたとえると
イワレ彦(神武)は徳川家康のよう総大将ではなく
本多忠勝や井伊直政の部下の位置づけだった。
イワレ彦(神武)側の総大将は、天村雲命か天忍人命かそのあたりだったのだろう。
>>437 だから、人工栽培と言ってるじゃん
自然採集と栽培はちがう
沼地に種籾をまくのと、流水にさらして苗にしてつくるのでは効率がちがう
弥生時代のはじまりが3000年前というのも調べ済みです
明確な形での大軍隊による東征などなかったというのが俺の見解
移民後にジョジョにしみこむように形勢が変わっていったのだと思うが
441 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:16:19.24
>>439 遺伝子というのは、定期的に突然変異するので
遺伝子調べたら、いろいろわかる。
そういうのをみたら、水稲農耕を弥生時代とした場合
3000年どころか、3500年くらいに水稲農耕が始まったらしい。
また、陸稲などの農耕になると、それ以前からあったということ。
これだとさかのぼると、もう、農耕の変遷とか、縄文から弥生の変遷と
邪馬台国の話とかは、何にも関係なくなってくる。
442 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:19:25.64
>>440 というか、神武東征戦争ってのは、実は神武がメインではなかったと思うのだ。
あくまでも、近畿本国で、ニギハヤヒ・ナガスネヒコが
その当時、近畿にいた倭王(天村雲命?天忍人命?)に謀反を起こした戦争。
その戦争に援軍として駆けつけたのは、神武兄弟。
だから、神武が近畿に移住しても、しばらくは、天村雲命一族たちが
正式な倭王として君臨していたのでは?と思うのだ。
ペロポネソス同盟とデロス同盟の戦いみたいな感じだったんじゃないかなあ
444 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:56:42.22
2ちゃんで文字情報で書かれても、何にもわからん。
たしかに、この辺の話って、歴史が明確な時代と違って
時代観があやふやで世間に共通認識がないので
みんな話が通じない。
時系列もむちゃくちゃなやつも多いし、全く話がかみ合わない。
>>441 わからんやつだなぁ
水田稲作がされたと言えるには遺構、痕跡が見つからないといけないわけで
たねもみが落ちてましたじゃ説明つかないんだよ
あと、苗づくりってのは暦についての高度な知見が必要だから
たねもみが輸入されたからすぐ量産可能なものでもない
陸稲ってのは7000年以上前からある。採集というかたちで自然にまかせて食料をえることは
縄文時代からされてたんだろう、でもそれは食料獲得手段の一つであって
基本的な風俗には影響がなかったんだよ、縄文人のライフスタイルが三内丸山から変わらず
人口も変わっていないのはそのせいだ
それが明確に変わったと言える遺跡が水田遺跡だよ
この遺構が紀元前700年前を出ない。つまり神武東征あたりが日本の人口が変わる明確な基点なんだよ
あと、遺伝子についてだが、Y型遺伝子というのは父系で民族の流動というものを見ることができる。
これは現在世界で民族の移動を考察するのに用いられている。
日本でしか使われないミトコンドリア遺伝子分析とはちがうんだよ
Y型遺伝子を見れば、日本のD型は縄文人とチベット人ぐらいにしか見られない世界でも珍しい固有性をもっている
のが分かる。その比率によって日本人が分類できるわけだが、
もちろん、北海道、沖縄が一番多い。そのつぎに東日本だが、西日本とあきらかに明確な差が見られる
そして九州においてもっともD型が少ないんだよ、その次にやや多い形で西日本圏が広がっているのが分かる
もちろん、のちの時代の影響も考慮しないといけないが、D型が他から流入することがありえない以上
その比率は縄文期の影響の程度をそのまま受けているとしていいだろう。大和朝廷以後
支配者の移動によって庶民は皆殺しにされたりといった影響をもううけることがなかったからな
だから、影響があるとすれば、抜本的に人口の変化がおこりえた黎明期を見るのが妥当な判断だ
とにかく、遺伝子分析が信用できないというなら反証を上げてくれ
根拠もなく信用できないってだけで毎回スルーされるからな
446 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:52:16.86
>>445 陸稲は7000年前ぐらいからだろうけど、
水稲は3300年前〜3700年前ぐたいだろうと
たしか、アメリカの学会で発表があったよ、日本の農耕について。
これは、稲の遺伝子が定期的に突然変異することから割り出された数値で
かなり正しい数値だと思われる。
考古学上の遺構ってのは、運よく発掘されたり残らないと分からないけど
稲や人の遺伝子ってのは、今あるものから、パターンを調べることによって
だいたい、どれぐらいに日本が来たのかわかる。
それだと、水稲農耕を弥生時代とするのなら、3500年前後くらいには
弥生時代の開始時期だと推測できる。
また、神武東征の時期については、卑弥呼=モモソ媛命だとして
せいぜい西暦1世紀中ごろぐらいだと推測される。
だとしたら、それよりも前の高天王朝(ヤマト王朝の前身)が
出雲国譲りによって覇権を握ったのも、せいぜい紀元前1世紀から西暦1世紀に
かけてぐらいのことで、いずれにせよ、
出雲国譲りも神武東征も、日本で農耕が始まって5000年、弥生時代が始まって
1500年経過した時代になる。
447 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:05:45.01
だから、奈良高天=高天原だと、延喜式の 何処に何て書いてあるの?
旧来の考えでは、銅鐸は高天原→ヤマト王 権とは無関係なんだけど。 それが事実なら、日本の歴史がひっくり返 るぞw
その卑弥呼=モモソって個人的な仮説でしかないだろ
449 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:21:08.43
卑弥呼=モモソならば、
狗奴国の男王の卑弥弓呼って
許乃国の国主だった武埴安彦命だろうな。
どちらも卑弥呼=モモソの死の直前に反乱をおこした。
コラっ!土蜘蛛の住処を勝手に横取りすな!
451 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:47:31.41
高天に本拠があったのは、出雲国譲り前の地方豪族時代でしょうが。
出雲国譲り後は、もっと広い高尾張(葛城)に本拠を移す。
そうすれば、高天あたりは、ただの山深い田舎だし。
452 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:00:57.33
土蜘蛛なんだよ?朝廷に逆らうゲリラ軍みたいな連中は
基本的に土蜘蛛なんだよな。
>>446 人の話を聞け
プラントオパールが見つかってはいるがそれでは水田稲作がいつ組織的に行われたかは判明しない。
いつ日本に来たか?ではなく、いつ日本が水田稲作を組織的に行い始めたかが重要なんだよ
そもそも稲の遺伝子の突然変異調べて稲がいつ日本に来たかは分からない
遺伝子の分布を調べて輸入経路が分かる程度。
卑弥呼という名は魏志倭人伝の言葉だから3世紀前期。
基本的な部分が曖昧でずいぶんテキトーこと言ってんなーおい
出雲国家が栄えていたのは日本海貿易側だから、三内丸山遺跡があるように
地域地域の特産品によって成り立っていた。
一方、ヤマト王権が育つ背景は国譲りの説話が土台になっている
それは瀬戸内海が発展していく過程であり、
その物質的な面を見れば水稲の組織的な耕作が画期となっているのが明らか
454 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:42:29.05
※結論
銅鐸信仰の奈良は高天原ではない!
国譲りは移民団全体にとっての歴史。つまり俺たちの歴史
神武東征は神武移民団にとって歴史。つまり俺の歴史
456 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:20:06.11
もう、時系列がグチャグチャ
話がかみ合わない。
うんざり。
457 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:27:48.71
国譲りの真相とは、
出雲の大国主命が、娘婿だった火明命に国譲りした事件。
それまで出雲の大国主は、日本海沿岸部を中心に覇権を握っていたが
新たに近畿地方中心に勢力を拡大させた高天の豪族の火明命に降伏した。
よって、ヤマト王朝の本来の初代天皇は、この火明命だった。
彼は通称を天照国照彦といい、これは天津と国津の勢力者という意味である。
つまり、出雲国譲りによって、天津と国津の両方の統治者になったという意味である。
だからこそ、長い間、ヤマト王朝は、出雲の神様も大切に信仰した。
自分たちの天下の正当性が出雲国譲りによって成し遂げられたからだ。
でも、このことは同時に、現在の皇室、つまり、ニニギ命の後胤である神武皇統にとっては
都合が悪い歴史でもあった。
神武皇統の祖先であるニニギ命とは、この実の初代天皇(倭王)であった火明命の弟であり
火明命の男系子孫である尾張氏らに比べて、自身の家系に正当性がなかったからだ。
出雲国譲りというのは、朝鮮系氏族の列島流入の記憶を神話的に表現しただけのもの。
なんらかの統一的政体が成立したわけではない。
時期はいわゆる倭国大乱のころ。
459 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:52:06.02
>>458 もう、飽きたwそういうトンデモ説は。
出雲国譲りは、だいたい紀元前1世紀から紀元後1世紀くらいにあっもので、
近畿王権が出雲王権を併合する形で、事実上の天下統一を成し遂げた事件。
また、西暦2世紀後半の倭国大乱は
近畿王権内部の王位継承争い。
近畿王権を建国した天火明命の男系子孫と、
その天火明命の弟のニニギ命の男系子孫が王位継承争いをした事件。
結局、後者が勝利し、そのニニギ命の男系子孫である女王モモソ媛命が
即位することになった。この辺は魏志倭人伝の女王卑弥呼の記述になる。
以上のことから、西暦2世紀後半の倭国大乱は、欠史八代と同時期になる。
>>459 統一的政体ができたのはどうみても古墳時代からだろ
その方が記紀の記述ともよく合う
462 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:25:25.64
>>460 そこには神武東征はぶいているが、普通に出雲国譲りと倭国大乱の間にあった。
たぶん、
紀元前1世紀〜紀元1世紀 出雲国譲り 高尾張王朝(ヤマト王朝の前身)建国
紀元前1世紀中盤 神武東征
紀元2世紀後半 倭国大乱=欠史八代
ぐらい?
ニニギ命の男系子孫は、出雲国譲り直後、九州南部の知事を歴任していたが
近畿王権(高尾張王朝)で、王家のご落胤をなのるニギハヤヒの反乱があったので
その時に援軍として駆けつけたのが、イツセ命とワカミケヌ命(のちのイワレ彦=神武)の兄弟。
たぶん、ニニギ命の男系子孫の中でも本家ではなく傍系だったので
本領の日向ではなく、他の地方官を歴任し、イツセ命が吉備あたりに赴任していた時に
ニギハヤヒ命の反乱があったのだろう。
弟のワカミケヌ命は兄にしたがって赴任していたと思う。
このワカミケヌ命が現在の天皇家の先祖。のちに神武天皇といわれる人。
たぶん、そこで功績があったので、その後、近畿本家をたすけるべく、
イワレに居を構えてイワレ彦として政治を補佐する出世をしたのであろう。
その後、記紀では詳しく書かれてないのは、まだ、この頃は、神武皇統の地位は
鎌倉幕府や足利幕府でいうところの執権や管領のような地位だったからだろう。
463 :
462修正:2013/02/13(水) 01:26:33.16
>>462 紀元前1世紀〜紀元1世紀 出雲国譲り 高尾張王朝(ヤマト王朝の前身)建国
紀元1世紀中盤 神武東征
紀元2世紀後半 倭国大乱=欠史八代
呉だと思うけどね
中国がそう言ってるんだから
朝鮮人ってなんでそんなに日本の先祖になりたがるのか
465 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:33:04.16
アマテラス=卑弥呼・台与 高天原は北部九州・邪馬台国である
朝鮮半島は北部九州から見て「海北」にある。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」では、「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十六国を平らぐ」と述べてられている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」 と書かれている。
これらが書かれたのは、神武東征後の巨大古墳や奈良時代の事だから、倭国の中心は完全に機内ですな。
だけど、高天原邪馬台国=北部九州時代から 朝鮮半島のことを「海北」と呼んでいたので、その慣習から「海北」と書いた。
それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのである。
そして、アマテラスの生誕地が筑紫であり、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。
さらに、古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが、 手元の年表では、26継体天皇(507)から載っている。
これに、96後醍醐天皇(1318 )まで71代を計算すると、一代平均11.4 年だな。 26継体天皇(507)から11.4年×25代遡った神武即位は(322)だ。
そして更に、11.4年×5代遡ったアマテラス=台与の即位は(265)。
実際の台与即位は(247)以降近辺だが、十分に誤差の範囲といえるだろう。
>>464 生物学的見地からは呉地域からの直接伝播らしいな>稲作
文学博士とかで朝鮮半島経由と言ってる人も多いらしいけど
昔の教科書は朝鮮半島経由説が圧倒的だったよ
467 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:41:33.54
>465
色々考えるけどやっぱり邪馬台国と高天原は北部九州だろうと思うわ
468 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:45:00.64
高天原は、御所市高天
高千穂は、宮崎
469 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:54:48.98
高千穂は固有名詞ではない
さらに日向の高千穂と言っても日向の地域名すら諸説ある
筑紫の地にて想像されたと思われる節もある
470 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 02:05:32.33
倭人のルーツが呉というのも、ある程度事実だろう。
なぜなら、神武天皇はワニの子供だからな。
父は神とワニのハーフで、母はワニだ。
中国南部には今でもワニがいるので、ワニがトーテムの呉人が来てるのは間違いない。
ワニ=サメと言う説もあるが、ワニ騙し神話は同じものが東南アジアにもある。
後の時代に日本にはワニがいないので、サメの事をワニと言うようになったのだ。
国譲りは移民があっただろう紀元前700-600年
神武東征は後発移民であるから紀元前600−500年くらい
国譲りは瀬戸内の独立であって出雲の覇権を崩しただけ。出雲はその後も存続するし
律令政治までおよそ統一ということはないのだから、そういった世界観を見ること自体ナンセンス
ホアカリの国照天照の称号は、九州移民でありながら、当初出雲政権に服従していたことを意味するもの。
播磨風土記でホアカリが大国主の子とされるのは、移民団が出雲の子分になっていたことを表す隠喩
はじめ、出雲にとっては僻地だったものを貸与えられ、航海技術などを教えてもらい大いに栄えたが
移民がさらに流入し、人口が増えてくると出雲に対抗する動きとなった
人口が東へと浸入してくるし、瀬戸内の利権でまとめられた結びつきもでてきて独立に至った。
出雲と本格的な戦いはなかったが、出雲連合のなかの小国と小競り合いはあっただろう
かくして中津国にまたがっていた大出雲連合は解体され、群雄割拠の時代がはじまった。
神武はその移民団の中の一つの集団にすぎない。
奴国が金印をもらったのは後漢の光武帝のときで紀元後57年。そのころには少なくとも大和王権が
九州の貿易窓口を直接管理下においていないのが分かる。
つまり、畿内と中つ国もうまく統一されていない状態なわけだ。
ハツクニシラス崇神天皇のとき四道将軍が覇権されてはじめて大和の連合が形になり、本州がまとめられるが
これが記紀では紀元前1世紀のこととされている。
神武のハツクニシラスが大和限定のクニ立ち上げのシラスなら、崇神のそれはかつての出雲覇権地域の完全吸収。
正確な意味での国譲りというなら、崇神のときというべきだろう。
472 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 03:27:14.13
>>471 勝手に言ってろw
興味ないよ、おまえのトンデモ説にはw
おやおや、さして反論もしないで遠吠えですかい?
福岡の地名って大宰府にとばされた連中がつけたのが多い
475 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 04:22:07.73
>>471 それって、初期の天皇が100歳以上の
長寿だらけという前提に立たないと無理げw
かなり、大雑把な味方しないと無理。
>>462は、魏志倭人伝の記述にある
春耕秋収で1年と計算して考慮しての年代だから
だいたい、そんなもんだよ。
出雲国譲りで、紀元元年前後くらい、
神武東征が、紀元1世紀中ごろ
倭国大乱、欠史八代で、紀元2世紀後半
卑弥呼=モモソ媛の活躍時代で、紀元2世紀後半から紀元3世紀前半
>>475 それくらい修正されていてもおかしくはないよ
それより問題は彼らの時間感覚を支那式に変換するときの齟齬のほうだよ
一般的に記紀以前に文章によって歴史が編纂されたことはなく
おそらく自家版の伝承記録、それは主に専属の語り部などによって紡がれていたものだろう
世界的に見てもインドのバラモン階級やケルトのドルイドなど特殊な伝承階級は存在する
それは紙がそれほど多く作られなかった時代において膨大な物語を伝承する一般的な方法であるからだ
童話などのように口述伝承とは、文字を用いない人たちにとって生活の知恵、人生の教訓の伝承であり
コミュニティの結びつきを高める作用であり、あるいは娯楽のない当時にあっての一つの教養・たしなみであり
それは当時世界で普遍的に行われ続けていた人類の営みの一つであったと言っていいだろう
よって、時間感覚がそもそも感覚的であり、それは紀伝体での筆記に向いていない
そこで、他の国の歴史書を参照しながら、伝承と同じ出来事と判別できるものを抽出して割り出していったのだろう
よって、まったく正確とは言えないが、さりとてある程度の整合性はあると俺は思う
おそらく100年差があることはないだろう
敗戦による国家権威の瓦解とそれに狂喜した共産革命思想によって
戦後、既存概念の破壊があたかも合理的であるかのような風潮が広がったが
流行病のようなもので、今はまた古代を純粋に見つめ直そうとする機運が高まっている
記紀の見直しもこれからそのような機運の中で正当な評価をうける日が来るだろう
477 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 06:38:23.52
年代論で言ったら、天照大神が卑弥呼&台与でしょ。
478 :
サガミハラハラ:2013/02/13(水) 08:24:23.41
同時代だからといって同一人物とはなりません。
さらに他の事象も考えませんと。
479 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 09:18:23.32
磐余の地形。
当時は大きな池があったので、農業には適していたような気もする。
480 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 09:19:22.06
>>477 同意する。
卑弥呼が死去(岩戸隠れ)したらトヨが出てきてなんとかなった。
481 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 10:15:45.08
天照大神は天皇の祖先で最高神扱いだが、神話を見るとそれほどは活躍していない。
しかし、その正体は人前に滅多に出なかった卑弥呼と、それに準ずるであろう台与であったとすれば納得できる。
邪馬台国の女王@大日孁アマテラスの偉大さは物部など、諸豪族にも伝わっていた。
そこで、実際は天皇の祖先が九州の豪族で鏡を授かっただけなのに、皇祖神に祭り上げたのだ。
482 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 11:30:58.38
>>480 それこそトンデモ
時系列を完全に無視している
海幸彦山幸彦を忘れてるぞ
あれだけ書いてるってことは重大なイベント
記紀は世界に良く有る神話や伝説を纏めた物で無い
代々伝わって来た口頭伝承を文字にしたもの
そこにはちゃんと歴史の流れが書かれている
まずはそれを読め
484 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:10:51.94
>>476 それくらい修正って。。。
そっちのほうが修正する箇所が多すぎるんだよw
神武天皇を2600年前にしようと思ったら、少なくとも
自然な形に考えようとするのなら、数十人の人物を皇室系図に追加しないといけない。
しかし、古代の暦をが違っていたと解釈して、神武天皇を1900年前ぐらいの人物とするのなら
実年代だけ修正して、系図などは手を加える必要がない。
485 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:12:41.26
卑弥呼=天照大神って飛びつきやすい説なんだけど
そもそも、皇室の始祖だった天照大神は、もともとは男神として
祭っていたという説があるぐらいだから
卑弥呼=天照大神は無理がありすぎる。
486 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:40:27.00
天照大神はスサノオと対峙する時には男装していたそうだから
男神として祀られていてもおかしくはない。
肉体的には女性であっても、男性に準じて扱われていたのではないか?
>>484 仁徳天皇以前は2倍年になっていると考えられるぞ
そうすると神武天皇の没年も東征も常識的な年齢になる
つまり神武東征は紀元前2世紀頃
これは奈良の遺跡の発掘と比較しても状況が良く一致する
この以前が、どーんと年代が開いて
海幸彦山幸彦 →1万年前(氷河期の終)
ニニギ →2万年前(アマテラス系)
大国主 →3万年前(スサノオ系)
さらにもっと昔で
スサノオ、アマテラス →10万年前???
イザナギ →100万〜10億年前???
天地創造 →50億万年前?
こんな感じで時系列が纏まる。年代の補正は全く無し
いや本当だから、なにも問題は無いぞw
488 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:04:23.67
洞穴に引き籠もった天照大御神は♂のだよ
引き篭もられて鬱になったのが
♀の天照大御神のモデルのひとりで
すりかわちゃってるのね。
ほんとは「烏女君」のところを「猿女君」って
記のはうそぴょ〜んしてるのね。
「烏女君」は「鬱」系の女王になれる血筋なんだ。
「宇受」とか「宇都」とか「宇津」とか「内」とか「禍」とかも書く。
「烏女君」は半島から見て「右」側にいらっしゃる。
「猿女君」は半島から見て「左」側にいらっしゃる。
489 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 18:00:32.07
アマテラスは女神に決まってるだろ。
日本書紀では大日「め」だし。
伊勢神宮の屋根の型式は女神のものだ。
490 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 18:13:17.50
起請文に使えないだめ神のが天照大御神
491 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 22:19:36.67
西暦8世紀、中国との外交で有利なように
編年体で歴史書を描く必要に迫られた。
だから、実年代なんて、その当時、記録して全く残ってなかったのに
無理して具体的に描く必要に迫られた。
それが、後世の人間が大混乱に陥った要因。
西暦8世紀の時点で残っていた記録は、
過去の天皇家の先祖たちが、どれぐらいの年齢で死んだとかその程度のレベル。
日本書紀は中国との外交で使う史書だったので、具体的な年代を無理して書いたから
かなり、年代に作為があるけど
古事記のほうは、国内向けに淡々と記載されたものだから、内容の真偽はともかく、
西暦8世紀の時点での伝承が淡々と語られている。
492 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 22:36:02.16
欠史八代の時点の天皇の記述が抽象的なのは
その時代の大和朝廷の真の倭王に別の王統が継承していたから。
欠史八代の神武皇統の天皇たちは、大和朝廷の最高執政だったかもしれないが
祭祀以上の正式な倭王の位にはいなかった。
それを神武皇統の当主が奪おうとしたから、倭国大乱が起こり
最終的には、モモソ媛命の倭王即位によって、神武皇統の勝利になった。
これを中国の歴史書では、倭国大乱→卑弥呼共立と記載している。
このへんのことは、平安時代、京都朝廷が、丹波の海部氏の系図で
欠史八代と同時代あたりの尾張氏・海部氏の歴代当主の記述について
書くなと脅していたことからも分かる。
欠史八代の当りの時代では、尾張氏らの先祖のほうが、祭祀上の正式な
倭王の地位にいたのだ。
そして、倭国大乱後、しばらくは
神武皇統の当主は最高執政の地位にとどまり
祭祀上の正式な倭王の地位には、一族のモモソ媛命(卑弥呼)がつとめた。
モモソ媛命の死後、このヤマト王朝の最高執政と祭祀以上の正式な倭王の地位を
一人で兼ねるようになった最初の神武皇統の当主が
三巻入彦イニエ命(崇神天皇)だった。
>平安時代、京都朝廷が、丹波の海部氏の系図で
>欠史八代と同時代あたりの尾張氏・海部氏の歴代当主の記述について
>書くなと脅していたことからも分かる。
これって何の史料からわかるの?
>>484 すでに指摘しているのだけど、伝承の時間感覚が現実と一致しないことはありうるのであって
一致しないことをもって、ある事実がもっと早かったとか存在しなかったというのはナンセンスと言っている。
楽しいことは時間が短く感じたりするのと同様に
感覚的に咀嚼されて物語化された出来事というものは擬人化や抽象化、統合・分化されている
そうすることで、過去の出来事の本質を効率よ理解し消化できるからだ
例えば、ペナントレースは総当たり戦を永遠とくりかえす事実しか存在しないが
そこに1位・2位の争いを見るのが人間による物語化機能というべきだろう
記紀においても伝承一般の例にもれずそうした口頭伝承の特質を有していたはずだ。
これをあえて支那式の歴史書によって記述したということは、古代において一つの試みであり、
今で言う、近代化文明化のたぐいであった。
よって、伝承を支那式に変換する際に齟齬があるであろうことは古代人でも理解できることなのだ。
それを現実をそぐわないからといって、古代人はバカだったと切り捨てるのは
現代人のおごりであるし、古代人の文献を土台に古代人の土台を否定するという本末転倒さを露呈している。
俺の歴史解釈メソッドとしては以上のようなものだが
このような解釈は、他国の歴史書と対照比較できたであろう時代以上を遡れるものではない。
よって、後漢書、漢書、百済記などとの整合性で確認できる部分は時代的に大きく差があることはあるまいが
それ以前についての記述は、伝承によるところが多いと言っていいだろう。
よって、日向三代のような治世期間の長さは他の移民と比べて長い時間が空いていた
という意味を求めてはならないと考える
また、天照は稲作にとっての暦と気候の重要性を象徴するもので、擬人化の最たるものであろう
>>492 だいたい同じ考えだけど
尾張氏には意義が有る
ニギハヤヒが居たと言ってるのに
神武東征に時間が掛かったのは、出雲や吉備なへの根回しだと思う
引っ越すから黙認してね〜と
欠史八代と言っても、通婚や系譜の記事を見れば大和王権が漸進的に勢力を拡張していった事情は読み取れる。
その時期の皇室が正統な立場でなかったなどという妄想を組み組み込む必要がどこにあるのだろう。
昔の歴史は王を一人一人覚えてたりしない
最初は、ヤマト、次はカマクラ、次はムロマチ、次がが乱れてトクガワだ
記紀の神話の代は、こんな感じで時代がおおざっぱな区切りになっていると思う
神の名を当て嵌めてな
だから大国主は一人じゃないし色んな名前が有る
死んでも甦る
これは、ある権力集団が噴火で滅んだけど、そのうち復活した程度の話しだと思う
一人二役乙w
そんな大それた歴史改ざんがあればどこかに証拠が残っているよ
亡命者を敵対国が見逃すはずもないしな
そして、そんな瑣末な問題をほじくり返そうとどんなことでもできるわけで
たとえば九州王朝説や三王朝交代説になるし、明治帝は替え玉だったってことになるが
すべてを真に受けていれば一瞬たりとて王統が続いたとは断言できないよ
だから、そうやって歴史の隅っこばかりを本道をおろそかにする超科学的な歴史解釈はナンセンスなんだよ
ムーにでも投稿してろ
499 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 23:20:30.04
古代天皇の平均在位年数は約11年だ。
徳川将軍ですら、約16年である。
アマテラスと神武はそんなに昔の話ではないのだ。
500 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 23:22:25.70
501 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 23:24:51.07
>>498 だから出雲の大国主が話題になっているのだろ
国譲りは神武東征の前の話しだし
何を言いたいのか分からんぞw
出雲の大国主、畿内のニギハヤヒ
神武東征より昔の国譲り
これらは記紀でも特に重要視されてる
これらを説明できない仮説は全てゴミでカス
>>501 アマテラスが稲作文化を奉ずる集団を象徴するなら
スサノオは海の荒れすさむ雄々しさを象徴するもの、神話からも海と貿易の関連性は抜がたい
それらの子であるオシホミミ、オオクニヌシ
オシホミミはいうまでもなく稲、大国主は中津国の束ねる大国であり、その覇者を意味する
これもあくまで象徴表現というべきだろう、アマテラスとスサノオという二項対立は変えず
フェーズが変わってくる様を表している。
>>502 国譲りは天孫族が半島から渡来し定着した経緯を神話化したもの
ニギハヤヒは山陰・北陸系統の天孫族で出雲の家臣
神武は筑紫の天孫族の傍流で出雲の属領だった大和を奪い取った
505 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 23:58:27.56
>>495 よく、尾張氏・海部氏の先祖であるはホアカリ命と
物部氏の先祖であるニギハヤヒ命を同一人物とみる見る動きがあるけど
一方で、皇室が認めた新撰姓氏録では、両者は別者だととらえている。
そこを抑えておかないとな。
で、よく、分析したら、ニギハヤヒの正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命とよぶ。
後世の人間、特に物部氏らは、これをもとに、ホアカリ=ニギハヤヒ
と解釈したがるのだが、
これを細かく分析したら
天照国照彦天火明+櫛玉+ニギハヤヒ命とわけられ
ホアカリとニギハヤヒを、櫛玉でつないでいる。
この櫛玉というのは、形見とかいう意味で、ご落胤などに通じ言葉。
よって、これは、ホアカリの形見(ご落胤)のニギハヤヒという意味になる。
おそらく、ニギハヤヒは、自分は天照王のホアカリのご落胤の王子だといって
義理の兄のナガスネヒコと共謀して、クーデターをおこしたのでは?
それを神武らの軍によって鎮圧された。
また、神武軍らを畿内に案内したのは、ヤマトスクネ、高倉下などの
ホアカリ命の正当な子孫たちなのだ。
国譲りは畿内の出雲からの独立戦争から始まり予想外に畿内側が大勝
天孫族が大和を攻めたのはその後
>>504 その調子で、海幸彦山幸彦もたのむ
時代的には国譲りの後だ
>>505 クシミカタマとかアカルタマとか同様の称号はいくらでもある
そこまでの含意を読み込むことはできない
>>507 海幸山幸は記紀が書いている通りだろう
それよりもニニギの天孫降臨は、北部九州の筑紫王権の意を受けた天孫族が南九州に進出したことを描いている
現地の隼人集団と通婚して服属・提携関係を築いた過程が海幸山幸だ
510 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 00:11:00.61
>>504 国譲りは、どうみても、出雲が近畿に降伏した話だ。
両者の戦いは、日本海側方面以外では
播磨国でも激突したと残っている。
これらは、播磨国風土記に記載されている。
播磨国は、昔から、近畿の勢力と中国地方の勢力が激突する場所なんだよ。
戦国時代も、毛利と織田は播磨国で激しく激突している。
で、その播磨国風土記によると
出雲の大国主が国譲りした相手は、
義理の息子(娘婿)のホアカリ命となっている。
このことは、記紀では伏せられていて、記紀では、出雲の大国主が国譲りした後
ホアカリの弟のニニギが登場し、いきなり九州高千穂に飛ばされたことになっている。
511 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 00:16:41.37
>>508 あくまでも、櫛玉(くしたま)の称号が、形見のという意味だ。
櫛玉=奇霊であり、形見という意味につながっている。
クシミカタマとかアカルタマは、形見とは異なる称号だ。
ニギハヤヒは、御所市高天で誕生した近畿王権の本拠地近くで生まれたが
その後、天の川にのって、河内に赴任し、そこで育った。
ここには、岩船神社があり、今でも、その近くを
生駒山系から流れる天野川が流れている。
>>510 記紀に記載のいわゆる「国譲り」と、
その播磨国風土記の大国主とホアカリとの争いは、
単に「別々の事件」だとしか言いようがない
513 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 00:19:40.33
>>506 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 23:59:23.81
>国譲りは畿内の出雲からの独立戦争から始まり予想外に畿内側が大勝
>天孫族が大和を攻めたのはその後
おい、言っていること、おかしいぞ。
出雲の大国主は、天孫族に国譲りしたのだ。
よって、出雲の国譲りした相手は、
天孫(畿内、厳密には、御所市高天あたりに拠点を置く豪族) ということ。
>>511 > 櫛玉=奇霊であり、形見という意味につながっている。
根拠は?
そう性急に称号の意味を固定するより、
むしろ「タマ」の称号を共有する人物の出自や来歴を比較してみて、
どういう意味でそうした称号がついているのかを探った方が良くはないか。
自分が描いた構図に都合よく当てはめたい、という意図が先走りしている気がするぞ。
515 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 00:24:40.28
播磨国風土記って、ホアカリ命は、大国主の息子って書いてあるんだよな。
息子に降参した話。
記紀や新撰姓氏録では、ホアカリ命は天孫だろう?って思ったけど、
でも、旧事本紀とか、海部氏系図とかみたら、
ホアカリ命の正室は、大国主の娘の天道日女命となっている。
つまり、娘婿なので義理の息子だったという意味。
516 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 00:29:21.42
>>493 それは、国宝海部氏じゃね?
これは、京都朝廷に提出した系図で、
裏で隠し持っていた系図と二通りあって、
提出したほうは、欠史八代の同時代の海部氏らの先祖が削除されていて
でも、裏で隠しもっていたほうには、ちゃんと記載されているというやつ。
そのことから、京都朝廷は、欠史八代の時代の
天皇家の先祖と尾張氏らの先祖との関係について
触れてほしくなかったのでは?という推測。
>この櫛玉というのは、形見とかいう意味で、ご落胤などに通
根拠がまったくねえな
そもそも親なら系図で分けて書いてあるだろ
それとホアカリが火の明かりであるかのような解釈は誤り
ホとは稲穂であって、これも稲作文化をもつ移民団を象徴する言葉
天照国照は、出雲従属しつつ稲作文化であったという両属性を表している
海幸山幸考は前スレに書いてある
で、移民においてニギハヤヒとホアカりが別されているのは
河内という土地への移民を行おうとしている神武にとっての視点だからだ。
ならばホアカリが歴史的に比定される特定の移民団の象徴たりえるのかというと疑問が残るが
特定の移民団と言えるものはなかったというのが俺の見解だな
そもそも当時においてそれほど出雲に対抗するための統一された一個のクニというものはなかったはずで
所詮、出雲に歯向かった小国家群をある場面においてはホアカリと表現している場合が多い、という範囲に
とどまるものであろうからだ。よって、ホカアリの後裔を名乗る氏族が同一の血族集団からはじまったとは
言えない。それほど正確な概念としてまだ神話が事実と符合性をもっていない時期の出来事だから。
>>516 ナンセンスだね、なら国外逃亡でもして、真実を記せばよかった
520 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 01:04:30.87
>>510 あの有名な人国記には播磨国人のこと
悪が蔓延る所と特徴・性質を記録してあるね
播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、
子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて
好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は
主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、
悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。
若き侍の風上にも可置国風にあらず。
偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし。
実際、姫路はヤクザ率の高さも知られるところだし
あの秀吉に明智光秀を討って織田家を乗っ取っとるように
そそのかして奸智を付けたのも播磨出の黒田孝高だし
本願寺のお寺町だった大阪に本願寺町を崩壊させて
本拠地を定めて城を築くように入知恵したのも知られるところ
521 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 01:09:11.60
国宝海部氏系図は、かなり有力な資料ではあるが
すべてがすべて額面通りにとってはいけない。
というのは、これでも所詮、リアルタイムに描かれたものではないからだ。
そのために、当然、過去の記憶が曖昧になっている。
その一つに、海部氏は自身の家系を天ホアカリ命の嫡流のように記載しているが、
どうみても、尾張氏こそが嫡流であり、海部氏のほうは傍流である。
しかし、なぜ、ゴチャゴチャなのかというと
尾張氏の当主は、一時期、尾張と丹波の両方の国主だったことがあるからだ。
よって、その時代の両国の国主は、同じ人物だったことになる。
だからこそ、尾張氏と海部氏のその時期の当主がダブっていて、混乱している
そのうち、尾張氏の中でも、二人にわけて統治し
丹波のほうは、分家した海部氏が統治し
本家のほうが、尾張をうけつもつことになった。
522 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 01:13:01.80
>>520 播磨という地域は、一応、関西弁で神戸大阪などに近いんだけど
一方で、岡山や鳥取にも近く、赤穂から岡山まですぐって感じ。
だから、中国地方との関係も深い。
海部氏系図も記紀の神武天皇の嫁も記述も
神武天皇と出雲は敵対してなかった事を意味している
と思うのだが
だって、崇神まで、各地域の支配者はタケルの名で呼ばれていることからも分かる通り
統一がなされていなかったからね
525 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 02:21:54.97
>>523 古事記のほうでは、神武が近畿でもらった嫁は
大物主の娘となっている。
古事記のほうでは、大国主と大物主を別だと記載している。
大物主は三輪山を神格したもので、
神武は近畿で三輪山の神官の娘を貰った可能性がある。
一方、日本書紀のほうでは、
神武の嫁は、大国主の子の事代主の娘ということになっている。
つまり、より政治的に編纂されたであろう日本書紀では
神武が出雲の係累のものを嫁にもらったことにしたがっている。
526 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 02:24:29.64
>>524 崇神よりも前に、かなりの部分を統一されていたけど
いぜん、倭国大乱の余波があって、一部、
尾張氏の当主を支持する連中がいたのでは
というのは、魏志倭人伝でも、倭国は100余国あるけど、
卑弥呼の支配する国は30余国とあり、
さらに東のほうには、倭人だが、
女王国(モモソ媛命と崇神の体制?)に従わない国々があるといっている。
>>521 分家以前に系図がちがうよ
>>525 天道日女命はニギハヤヒの嫁
よって、河内に住んでいた物部、皇室にとってさして嫁に差があることはない
>>526 崇神は漢名で後代のおくり名
和名はハツクニシラス
528 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 03:12:32.78
天道日女命の産んだ子供は天香久山命。
これは尾張氏の先祖であって、物部氏の先祖ではない。
ホアカリとニギハヤヒを同一とみる説でも
物部氏の先祖は、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に生まれた
子どもの子孫としている。
よって物部氏は、天道日女命ではない。
先代旧事本紀は物部によるものです
530 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 09:02:52.91
>>484 >神武天皇を1900年前ぐらいの人物とするのなら
実年代だけ修正して、系図などは手を加える必要がない。
だいたい西暦100〜200年くらいと想定すれば、
後の歴史につながっていく。
531 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 09:28:41.98
>>530 西暦100〜200年くらいだと、ちょっとギュウギュウすぎると思う。
西暦2世紀中ごろぐらいが、カエシネ命(孝昭天皇)だと踏んでいるので
神武はほぼ西暦1世紀~西暦2世紀前半の人物だと思う。
532 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 11:38:21.85
神武天皇を卑弥呼より後の時代と考える人もいるようだが。
533 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 12:03:36.91
神武天皇は長髄彦命の妹とニギハヤヒとの末娘を嫁として倭大国主命(大王)に即位
此処に齟齬が。
神武天皇はたしか倭宿禰命(ウズ彦、椎根津彦命)と同時代の人のハズ。
天火明命の子、可美麻手の妹(御炊屋媛)を娶って云々では、明らかに三代ほどの隔たりがあり、
ムリが有るのは明らかで、ニギハヤヒ(物部)と天火明命(倭大王家?)は別神(人)とするのが妥当。
長髄彦と椎根津彦(倭宿禰命/天御蔭命)の語感が似ているのがちょっと気になります。
534 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 12:06:45.42
畿内説は都合の悪いことが出てくると必ず年代をいじくる。
もともと纏向というか、大和に大きな変化が現れるのは300年前後というのが定説。
畿内説も九州説もこの同じ年代観で古代を考えていた。
神武東征もこの時期と考えられていた。畿内説はもちろん反対していたが。
ところが、吉野ヶ里遺跡の発表で畿内説は困ってくる。同じ時代の唐古・鍵があまり
にも貧弱すぎる。
というわけで、1995年に年輪年代をクローズアップ。
マスコミ、出版業界を総動員しての大キャンペーンを張り、年輪年代を根拠に纏向を
100年ほど遡らせた。
魏志倭人伝の記述を無視するというありえない強引な手法で、吉野ケ里を
卑弥呼時代の前にした。
なぜが古い研究結果を崇拝する九州説
神武が奈良から宮崎に下ったあとに再び奈良に東征して兄の王位を簒奪したなら、
どうして、神武がハツクニシラスなの?
仮に歴史を隠蔽するための称号だとしても
じゃあ、崇神のハツクニシラスはいったいなんなの?
神武と崇神の王朝は異なる、ただ王朝が長く続いたように見せたいから同一の王朝のように見せたというなら、
どうしてホアカリも改竄によって同一の王朝に加えなかったの?
中西遺跡が奈良盆地南部の大規模な水田遺跡で、これが2400年前だけど
洪水で完全に埋まっているから
神武天皇は荒れ地に住み始めた事になる
これでは東征と言うより移民w
その後に山沿いをコツコツ開拓して勢力を付けたと考えられるから
欠史八代は実際有って、そのコツコツ期間だと思う
崇神は急激に勢力拡大した時期で間違いない
景行天皇の御子が80人も居たので、次の代が倭国大乱だろうな
揉めるに決まっている
天皇が明確に決まってなかったので
次は政務天皇と言う仮の名前になったのだろう、これが卑弥呼の時代
神武移民 紀元前2世紀
(奈良開拓 200年間)
崇神天皇 紀元1世紀(やっと王になった)
景行天皇 2世紀
(倭国大乱)
卑弥呼 3世紀(女王国は畿内、ただし筑紫もヤマト国)
これで問題ない
旧事記は物部の手による、尾張氏系図は旧事記からの印用。
海野氏系図の本系図は朝廷提出用。勘注系図は海野氏自身のための門外不出の系図で
本系図の穴を埋め、注をつけたもの。おそらく旧事記より歴史は浅い。
付注者は当時、穴のあいた本系図を不満に思い、あらゆる人に口伝、伝承を聞き
穴を埋めていったものであろう、当然旧事記も参考にした、あるいは同じ情報源に達したと思われる。
しかし、大それたことであるし明確な情報源でもなく不安なこともあったのだろう、よって門外不出とした。
所詮、家族内で俺たちはどこどこの出であると密かに誇るという程度のものであったということ。
参照した資料も残っておらず、収集した情報の整理も独自におこなわれていなかったのはそのためだと推測する。
ところで、あのような歴史書や系図を参照したときに気づくのは
記紀の紀伝体の年譜をそのまま踏襲していることだ。年代に対する正確さは彼らも分かっていなかったのだ。
なぜなら、彼らのもっていた異説もつまるところ口述伝承のたぐいであり、
朝廷が草の根を分けてあらゆる伝承を収集し、総合勘案した結果を体系化してひとつの物語に書き起こし
さらに他国の歴史と対照比較し、年代を符合させたという研究結果を無視できなかったであろうし、
独自により正確な特定をしていくための財力も権限もなかったであろうからだ。
よって、自説に都合の良い伝承をもって、記紀の該当部分と交換、付加するという体裁をとったのだろう。
旧事記がその典型だ。勘注系図は旧事記より詳細さが劣る。少なくともそうした異説史の類型と言える。
さて、そうした背景を見れば、勘注系図もなんのことはない、朝廷とは別に独自に収集された一異説というにすぎない。
そして旧事記より詳細さは劣るのだ。してみれば、本系図の穴の部分は旧事記を参照した疑いすら起こる。
ということで、ホアカリとニギハヤヒが別人であったかはともかく
海野氏が所持していた異説では漠然とホアカリの子孫というところまでは伝承を受けていたが
物部と関係をもっておらずニギハヤヒの子孫であるとは思えなかった。そこで、倭宿禰命とホアカリの間を
旧事記を参照して埋めたと類推される。天道日女命とホアカリの子孫というのも同じ文脈で付注されたものであろう。
539 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 16:13:59.57
>>535 敗北も、失敗も、間違いも、何もかも古いで片付けてしまう畿内説。
今、懸命に主張していることも、数年経って破綻して、古いで知らん顔の畿内説。
少しは反省もしろよな。
>>537 神武が移民であるとしてもそれなりに争いはあったんじゃないかね
神武以外の兄弟みんな死んでるし
食いっぱぐれが移民するもんだから、相当必死だったと思うよ
開拓者ワカミケヌ命
542 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:54:06.99
>神武軍らを畿内に案内したのは、ヤマトスクネ、高倉下などの
>ホアカリ命の正当な子孫たちなのだ。
高倉下は高句麗系ですか?
282 :神様仏様名無し様:2013/01/18(金) 01:00:33.89 ID:H+Pg+cHI
490 名前:名無しさんにズームイン![] 投稿日:2013/01/03(木) 22:39:57.65 ID:58vNYehW
大阪府民880万人の出身地 大阪府HPより抜粋
大阪府出身180万人
近隣田舎出身150万人
九州沖縄出身 200万人
中国四国出身 160万人
北陸中部出身 60万人
関東出身 120万人
北海道東北出身 5万人
>>537 崇神から古墳時代に入るという年代観は動かしようがないから、
倭国大乱はそれより前でないとおかしい。
545 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:58:58.22
高倉下はどこ系なんだろうね?
Wikiでは応神から古墳時代区分になってるけどじゃああれは違うのか
547 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:31:04.55
古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが、 手元の年表では、26継体天皇(507)から載っている。
これに、96後醍醐天皇(1318 )まで71代を計算すると、一代平均11.4 年だな。 26継体天皇(507)から11.4年×25代遡った神武即位は(322)だ。
そして更に、11.4年×5代遡ったアマテラス=台与の即位は(265)。
実際の台与即位は(247)以降近辺だが、十分に誤差の範囲といえるだろう。
古墳の年代測定って意外とテキトーだった・・・orz
皇位の代数で見るのでなく世代数で見ないとな。
552 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:25:06.14
それでは、これから551が自論をぶちまけますよ!
なぜ、世代論でなかればいけないのか?
さらに、世代による年数論をぶってもらいましょう!
記紀の年代は、出来事の伝承を紀伝体形式にあてはめていったものであるから
合わせるべきは年数ではなく、出来事の方だね
天皇は実際はもっと多くの人がいたが、抽象化されて少なく見積もられている
554 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 03:44:16.91
国宝海部氏系図ってのは、平安時代以降の系図だから
単純にその時代になったら、もう過去の事忘れ去られている。
そんなわけで、海部氏の人なんかも、自称ホアカリとニギハヤヒは同じ
と答えている物部氏の系図もみて、系図作成しているので
全部は鵜呑みにはできない。
少なくとも、尾張氏も海部氏も、平安初期以前の記憶が確かな時代までは
皇室と同じで、物部氏を同族とは思ってなかったみたいだし。
ただし、皇室と尾張氏らはお互いを同族だった認識していて、
それで何かで対立しあっていたことは分かっている。
おそらく、それはヤマト王朝の前身である高尾張王朝(葛城王朝)創世記の話
出雲国譲りにおける両系統の正当性についてだと思う。
オオアマ(天武天皇)とオオスミ(尾張大隅)とで天村雲剣の所持いついて喧嘩していたみたいだし。
555 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 06:56:07.76
>>554 新撰姓氏録でもそうだが、
本来、国津神系となるべき氏族が、天孫(皇別)天神系に
系図の書き換えを行っているから、祖神の系譜はほとんど怪しい。
記紀に書かれた氏族は書き換えのしようがなかった。
>皇室と尾張氏らは……、 対立しあっていた
>オオアマ(天武天皇)とオオスミ(尾張大隅)とで天村雲剣の所持いついて喧嘩していたみたいだし
その論拠は?
556 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:59:42.66
>>554 > 少なくとも、尾張氏も海部氏も、平安初期以前の記憶が確かな時代までは
> 皇室と同じで、物部氏を同族とは思ってなかったみたいだし。
ただ、物部氏も天孫アイテムを持っていたということは
濃淡は別としても血はつながっていたものと思われる。
>>544 それは無いな
魏志倭人伝
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、
「その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで
一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい」
つまり、倭国大乱の前に王が居た! こっちこそ否定できない。
その支配が、7-80年で中断し、倭国大乱委なっている。
この王は崇神の可能性が一番高い
卑弥呼が神功皇后なら、成務、仲哀あたりで7、80年の治世だから、成務のことでは?
崇神は中つ国を統一しただけで九州まで手がおよんでないし、統治の安定性もない
景行で内政、大和武尊で九州東国へ外征をすすめるから、崇神ということはないよ
559 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 18:00:31.42
>>557 邪馬台国(大和国)の王朝を建国した男王ってのは、
天照国照彦(天火明命)だろう?
その後、天忍男命まで王位が継承されたのだが、
その後の王位継承争いに口を出したのが、カエシネ命(孝昭天皇)。
彼の正室は、天忍男命の皇女であり、彼はその間に生まれた天足彦国押人命を
母系経由で継承させようとして、それにより倭国大乱が起こった。
保守派は、あくまでも、
建国者である天火明命の後胤(男系子孫)による継承を望んだ。
一方、革新派であるカエシネ命は、
母系経由で息子(天足彦国押人命)に王位を継承させようとした。
ただし、これだと出雲国譲りと同じで革命になってしまう。
カエシネ命は、天火明命の弟のニニギ命の男系子孫であって
天火明命の男系子孫ではなかった。
このことが、西暦8世紀の記紀の編纂でも問題になった。
561 :
559:2013/02/15(金) 20:47:04.37
>>536の質問は答えようがない。どう答えるのだ??
俺の言っていることと違うし。。。
562 :
559:2013/02/15(金) 20:48:37.37
やっぱり、2ちゃんに文字だけ書いても
まったく話が通じねえw
ちゃんと、自分でサイトを作って、図解で説明しないと伝わらないのかもね。
でも、面倒くさいし。。。
563 :
559:2013/02/15(金) 20:55:23.25
それと、神武が初めての天皇の一人とされたのは
神武皇統の祖先で、再び畿内に戻って中央政界で政治をみた
重要人物だったからだと思うよ。
だからこそ、彼に初めての天皇号をつけた。
だから、8世紀に記紀が編纂されるまでは、そこまで重要ではなくて
実際に西暦5世紀の倭の五王の上奏文見ても
神武東征らしき建国の説明など全くしていない。
あれ読んでみても、近畿を中心に東に西に平定していったとしか読めない。
もうひとつ、重要な人物が崇神だが
かれは、政治上の王と祭祀上の王の両方を兼ねるようになった最初の人物で
おそらく、神武皇統の先祖の中では、正式な倭王になった真の最初の
人物だったからだと思う。
>>562 そうしてくれ。
ホアカリが国譲りで出雲と畿内を統一したのに
神武のハツクニシラスが簒奪したとしても
さらにまたあとで崇神がハツクニシラスは矛盾してるでしょ
少なくとも初じゃないよね
>>563 倭の五王がわざわざ神武の功績を書かないといけない必然性はないんじゃないの?
奏上はあくまで臣下として自分たちが周辺地域の安定に貢献してきたというものを表すだけなのだから
祭祀を兼ねたというような記述はないよ
戸籍をつくって民の生活が向上したというもの
はじめて出雲と近畿を合わせた中つ国と呼ばれる地域を統一したことが
そのような大和王権の行政の及ぶ範囲の拡大をもたらしたのだろう
566 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:35:12.53
>>564 また、自分で説明したサイトつくりたいが
今は自分の仕事も忙しいし、そっちが大変なので。。。
余裕が出来てからにしたい。
たぶん、神武の時点では簒奪できてないと思うわ。
だからこそ、欠史八代のあたりは、詳しく書けなかったのだと思う。
神武が鎮圧した相手は、あくまでも、ニギハヤヒとナガスネヒコでしょう?
ニギハヤヒは、ホアカリの櫛玉(奇魂=形見=遺児?)を自称してクーデターをおこして
神武はその鎮圧で貢献したんでしょう。
その時、畿内には、正当なホアカリの男系子孫が健在だし
神武の河内での大敗の経緯を見ても、神武は援軍として奮戦はできても
ニギハヤヒの敗北の決定的な要因ではなかったと思う。
おそらく、本体は、ホアカリの正当な男系子孫たちだったと思うので
その後も、ホアカリの男系子孫たちが、正当な倭王を継承していたはず。
567 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:41:27.99
神武皇統は、すぐには簒奪できずに、段階を踏んで
宗家のホアカリの男系子孫から徐々に力を奪っていたと思う。
それが神武、欠史八代の過程だと。
欠史八代の人物で注目しているのは、カエシネ命(孝昭天皇)。
彼の正室は、天忍男命の娘で、その間に生まれたのが、
天足彦国押人命と、その弟のヤマト足彦国押人命。
おそらく、前者の天足彦が、天忍男命の後を継承しようとし
弟のヤマト足彦のほうは、父親のカエシネ命の後を継承したように思う。
当然、天火明命の男系子孫たちは反発で、倭国大乱。
568 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:01:53.00
江戸時代の紀州徳川家と同じで
一族の吉宗が徳川宗家を継承したけど、
紀州徳川家はそのまま一族の別のものを継がせただろう?
神武皇統の場合も多分、同じ。
神武皇統の当主が権威と権力の二役をこなすのではなく、
一族の者から最高権威の祭祀王を継承させたが
そのまま、最高権力者として神武家当主の地位もあったはず。
こういう面倒くさいことやめて、一人で二役をこなしたのが
崇神が最初だったのでは?と。
その崇神も、前期は、大叔母のモモソ媛命が祭祀王の地位を継承していた。
崇神がハツクニシラスと言われたのは、モモソの死後の話。
>>567 すまない、
まずクーデターをおこしたような出来事があったなら旧事記や系図にそのようなことが書かれていておかしくないと思うが
そして、あまりに卑怯なことをしておいて、その子孫たちを根絶やしにしないとか危険すぎないか?
もしかしたら未来に復讐にくるかもしれないのだから。いわんや、国造にすることはありえないと言っていい。
そして、天武天皇はそのような復讐にくるかもしれないホアカリの子孫たちを壬申の乱で頼りにしていたというのも解せない。
結論ありきのご都合主義にしか思えないよ
応神が西日本統一を果たしたから、初代の神武も「天皇」ってことにされたに過ぎない。
神武以後9代の時点では単なる大和地方の首長。
>>568 いやよくわからない。御三家は将軍家の血筋が耐えたときに跡を継ぐことを認められていたから。
秀忠の系譜を否定もしていないし。そもそも血筋が耐えてるし。吉宗は僭称もしていないし。
紀州徳川家がそのまま存続するのも別に悪いことではないだろう。
それにそのあと、御三卿がつくられるから、御三家は意味がないし。
将軍後継者争いがおこさないためには合理的なシステムだよ
例えるなら、室町幕府の将軍家と鎌倉公方との関係の方がたとえとして適切だよ
>こういう面倒くさいことやめて、一人で二役をこなしたのが
裏付けとなる根拠がひとつもないじゃないか。
我田引水どころの話じゃないよ
>>570 俺もその意見。
神武の名は移民団が大和に足場を築き、自分たちの国を打ち立てたことを
はじめて自分たちの国を統治した王として讃えたもので
崇神の名は国譲り後、中津国をはじめて統一したことを称えたもので
はじめて国々を平定して統治した王としたのだと思う
>>557 中国史書の言う「倭人の王」ってのは、単にその時点で最も勢力のある地方政権の首長を指して言っているに過ぎない。
漢書や魏志の段階では、筑紫(場合によっては出雲)の首長=王が最も有力。
記紀の記述を信じる限り、初めて西日本に安定的な統一政権を打ち建てたのは応神で、
その統一による平和を背景としているからこそ、この河内の王墓は巨大なのだ。
崇神の段階では、畿内より西は丹波と吉備しか押さえられていない。出雲も九州もまるで手付かず。
この事実を無視してはならない。
>>570 崇神忘れてるぞw
ボケたか?
応神の親は神功皇后
熊襲の反乱を制圧し、三韓を成敗し
しかも帰路に義理の兄弟に狙われたw
内乱を収めた人
しかも神功皇后はトヨと呼ばれていた形跡が有る。豊玉姫の再来と言われたし
>>573 「国譲り」というのも、事実としては垂仁朝以降に出雲の服属に成功したということを土台に、
この歴史的勝利は神々の時代にすでに決定されていたのだという観念が生じたことによって神話に組み込まれたものであり、
文字通りの「歴史的事実」としてあったと短絡するのは早計。
>>576 いや、神話時代に統一があったとは俺も思わんよ
でもホアカリが統一したって人がいるから、それじゃ
ハツクニシラスとつじつまが合わんだろと言っているの
俺としては、国譲りは日本海を中心とする交易圏から瀬戸内交易圏が独立したことを
意味していると思っている。
579 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:34:38.90
>>576 そういう話には、のらない。
そういう説を出したら、どんな解釈でもできてしまうだろう。
ウィキより
『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、崇神の代、天穂日命の11世の孫である
宇賀都久怒を国造に定めたとある。
出雲国造は崇神時代に天津神系の子孫が任命されたとあるよ
581 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:45:37.49
>>571 きみは話が通じそうだな。
たとえ話として、徳川幕府を出したけど
徳川幕府の場合、紀州徳川家も、初代将軍の家康の男系子孫なので
まったく問題にならなかったと思うんだ。
あと、室町将軍のほうも、かりに関東公方家が将軍になっても
関東公方家は、初代将軍の足利尊氏の三男の男系子孫なので問題ないと思う。
むしろ、ヤマト王朝創世記に近いパターンは、
たとえば、足利幕府で、
斯波家や吉良家や今川家から将軍が出た場合に近いのでは?と。
あるいは、もっと近くたとえるのなら、足利直義に男系子孫がいるのなら
足利直義の男系子孫に継承させるケース。
>>581 その想定は事実ではないので相似の事象として論じる価値はないよ
義家の嫡流が絶えたあと、当然傍流に源氏を統率する総領の立場が
望まれたが、新田が足利より嫡流の立場であっても
足利が幕府を立ち上げてしまったというようなものだろうか
まあ、新田はそもそも鎌倉幕府立ち上げから嫡流の頼朝に疎んじられていたが・・・
583 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:35:34.61
天忍穂耳命が出雲国譲りしていたのなら
彼をヤマト王朝の初代天皇として祭ればよかった。
しかしながら、出雲国譲りを実現したのは、その子供の天火明命。
一方、現在の皇室先祖は、その弟のニニギ命。
だから、問題になった。
まったく赤の他人ではないが、初代建国者の男系子孫ではなかあったので。
大和朝廷は天皇のみが倭国の絶対無比な王と言う考え
例外は大国主だが
主であって王では無い
もちろん大国主は神武天皇以前
問題にしてるのは君だけだろ
そもそもホアカリと皇室が血縁かどうかも神代においては不明だよ
DNA的にイザナミとイザナギが日本のすべての子を産んだことはありえない、
神話部分は漠然とした象徴表現として解さないと読むことはできないのだから。
仮に血縁があるとしても、その限りにおいては、他にも親族は大勢いるし
ホアカリだけ皇室にとっての尊属じゃない、
神武の祖父からしても長男じゃないし、神武も長男じゃない。
ホアカリもオシホミミの長男ではない。
神武だけが簒奪と非難されるようなものではないよ
国譲りでの勝利者はオシホミミではあるが、
その後継者がホアカリだとは決められていないし
嫡流という概念が存在するほどの高度な社会的基盤があったとも思えない、
血族組織が組まれていたようにも神話を読む限り認められない。
およそそのような説が成り立つような蓋然性が感じられないんだよなぁ
586 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 04:27:31.75
もう、話が通じな長文のやつが、また出てきたw
こいつとか
>>585 言おうとしていることが、全く通じないやつw
系図や血統の意味が理解できてないから、
こいつ
>>585には話が通じない。
嫡流だとか、長男がどうとか、そういうことを重視しているのではない。
系図のどこでスタートしているのか問題なんだよ。
足利幕府の場合は緩かったが、足利一門の中でも、
足利幕府である初代将軍の尊氏の男系子孫と
それ以外には明確な区別があったのだよ。
だから、尊氏以前に分家した吉良氏や斯波氏には、よほどのことがないかぎり
将軍継承権はこなかった。
一方、徳川幕府はかなり厳格だった。
家康の男系子孫とそれ以外、つまり、家康よりも前の代で分家した松平一族とは
親藩と譜代ぐらいに明確に分けた。
587 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 04:39:33.35
新撰姓氏録をみても、同族の間でも、どこで分岐したのか、すごく重視された。
皇室の場合、皇室は基本的に天孫なんだが、
天孫の中でも、初代天皇と認定されたイワレ彦(神武天皇)の男系子孫には
皇別という新しいカテゴリでわけられ、
イワレ彦(神武天皇)よりも前に分岐した天孫一族との間で区別した。
そういうわけだから、上の書き込みにもあるように、
実はヤマト王朝の初代倭王が天火明命だったとしたら、
天火明命の男系子孫と、天火明命よりも前に分かれた天孫との間に区別かできていたはずである。
天孫の中でも、天火明命の男系子孫だけがヤマト王朝の王家とされ、
王位継承の対象になっていたはずである。
しかしながら、現在の天皇家の先祖は、天火明命の兄弟のニニギ命であって、
現在の天皇家は、天火明命の男系子孫ではないのだ。
だとしたら、現在の天皇家は、ヤマト王朝建国当初は
王家の親族ではあっても、王家の王族からは除外され、
王位継承権からは基本的に外されていたはずだ。
>>586 何が言いたいのか意味がわからんwww
武家社会のアナロジーをそのまま古代に適応できる蓋然性も説明できていないし
話が論点先取すぎる。思い込み先行で話されても説得力ないよ。
もっと論理立てて書く事できないの?そんな高度なこと要求してるかな、俺。
少なくとも努力したあとぐらい見せてくれねえかな
別に俺ははじめから結果ありきで相手を否定してるわけじゃないんだけどな
ホアカリが天下統一したって根拠はどこにあるのかな?
文献をあげずにそう断定されても、空想とどこがちがうんだよ
皇族に対して不敬な内容が書かれている旧事記においても書かれてないよ
海部氏にしても皇室が簒奪したなんていう弾劾を行っていない
自分に都合の良い解釈だけをして歴史を語るなんて、ウリナラファンタジーと何がちがうんだよ
少し反省しろ
>>587 そもそも天孫がみな血縁であるという証拠なんて一つもないだろ
家格に差があったというメソッドを用いることが適切かどうかも定かとは言えない。
にもかかわらず、なぜ論点先取して問答無用に持論を押し通そうとするんだ?
試論というには、固執しすぎだし、とても正常な精神状態にあると思えない
>実はヤマト王朝の初代倭王が天火明命だったとしたら、
もしもそうだったなら、な。
>王家の親族ではあっても、王家の王族からは除外され、
もしも皇室がホアカリの親族だったなら、な。
もしそうだったなら、そうなんだろう
そういえる蓋然性なんてまるでないけどな
590 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 07:09:53.07
もう一つ重要なのは
天火明命の妃が、天道日女命。
彼女は、大国主の娘。
そして、播磨国風土記では、大国主と天火明命の関係を親子の関係とし、
大国主が息子の天火明命に降参した話が出てくる。
この親子は、義理の親子、つまり、娘婿の関係だった可能性が高い。
よって、出雲国譲りとは、大国主が娘婿の火明命に国譲りした話ともいえる。
戦国時代、斎藤道三が娘婿の織田信長に国譲りした話にしている。
この場合、天火明命と天道日女命の間に生まれた天香語山命は、
ヤマトと出雲の合一の象徴ともいえる。
彼は、大和三山の名前にもなっている。
こういう風に考えている、天火明命の兄弟のニニギ命は微妙な位置。
591 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 07:20:34.91
全然ダメだな
>斎藤道三が娘婿の織田信長に国譲り
講談の話を根拠にされてもねえ・・・
>天火明命と天道日女命の間に生まれた天香語山命
天道日女命の親は大国主じゃない件について・・・
593 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 08:15:46.86
天道日女命の父親は
播磨国風土記では、大汝命
旧事本紀、海部氏系図なのでは、大己貴命
そうなっている。
いちおう、大国主=大己貴命=大汝命とされている。
一方、大物主に関しては、大国主と同一という見方と
別だという見方と、両方が存在している。
594 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 08:19:28.39
>>589 たしかに、天孫は皆、同族かどうか確証はない。
しかしながら、大伴氏、中臣氏のような名門貴族
とくに、藤原氏は記紀の編纂で有利だった一族なのにもかかわらず、
彼らは自身の家系を天孫としてしていないことは注目される。
もし、改ざんしようと思ったら、藤原氏は自分の家系を
天孫、下手すれば皇別にだってできたはずであるが。。。
そうはしていないのではある。
595 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:01:23.95
本当、2ちゃんで長々
テキストでか書かれても、
まったく、ピンと来ないよ。
596 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 11:25:32.84
>>594 周囲を囲むように天孫の子孫平家が連なっている最中で、藤原家が天孫の子孫
と嘘は書けない、また安倍晴明がニニギの転生体と理解している以上
藤原家末裔がのちに滅ぼされかけない事態を避けたのだろう
源氏、平家に瞬殺され兼ねない緊迫した情勢下、悪事=消滅を意味する
>>596 記紀が作られた当時、源氏も平氏も
存在してなかったんだが・・・・
598 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 13:39:04.64
>>597 平家は存在していた
また、源氏は名前を帰る前、つまり別の氏を語っていた
藤原不比等は、コリアンがUFOから出て来たあと「お待ちしていました」と語った
コリアンは、UFO内から帽子掛けを取り出し武器として使うつもりだった
しかし、貧弱な帽子掛けは、銅剣の前で役に立たない
599 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 13:52:30.62
× 源氏は名前を帰る前
○ 源氏は名前を替える前
600 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 15:14:54.64
藤原鎌足の出自は鹿島の蝦夷らしい
601 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 16:47:57.36
>>600 鹿島には有名神社もあったし、当時すでに倭人がたくさん住んでいたはずだが。
>>593 おいおい、播磨国風土記には天道姫命は大国主の子とはかかれていないぞ
ホアカリが大国主の子と書かれている。
大国主の子と書かれているのは海部氏系図のみ
但馬故事記には、ニギハヤヒとホアカリは同一人物として書かれているが
天道姫とは高天原から付き従っている
また、名前の天の冠詞からして天津神と考えるのが筋じゃないか?
>>594 いやさ、大伴も中臣も物部も皇室の外戚になったこと一度もないでしょ
記紀編纂時に藤原氏は関わっていないし、不比等と以前だから朝廷を牛耳ってもいない
仮に牛耳っていたとしても、明らかな改竄であると見透かされているだろう
天孫族という概念そのものが伝承をカテゴライズする分類法であって
事実との符合性があるとは言えない。
古くから皇室と婚姻関係があったような有力な氏族であるとは言えても
同じ男系系統であるとは言えない。それゆえの皇別と神別の差だろう
鹿島神宮は社伝によると
諏訪を平定した建御雷神が東国も平定し
鹿島の地に鎮座したのが始まり
中臣氏は鹿島神宮の宮司の家系だから天孫系かもしれん
ただ断絶が有ったぽい
神武天皇は畿内人もえみしと呼んでいたし
どうも蝦夷にも天孫や天神系が居ると考えた方がよさそう
605 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:20:04.76
>>604 「常世の国=茨城県のどこか」説を採る人は昔からチラホラいるが、
その場合、鹿島神宮と常世国に何らかの関連があるようにも思う。
606 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:21:53.66
「千葉県銚子市常世田町=常世の国」説というのもあるな。
608 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:50:18.42
>>607 例外なく末子相続というわけではなかったと思うが。
記録にはなくても「遺言」などで末子以外が相続するケースはあったと思う。
612 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 22:55:30.50
記紀を読んで、新撰姓氏録をみて、わかったことが
藤原氏の前身の中臣氏ってのは、ヤマト王朝の譜代の豪族ではあるけど
非常に微妙な地位の豪族だったんだな。
中級クラスの貴族って感じ。
のちの藤原摂家の地位からは考えられないかんじ。
中臣鎌足の時に飛躍しだした豪族。
その後、その子の藤原不比等の時に名門貴族になる。
太政官を支配した不比等が藤原氏を名乗り
神祇官を支配した不比等の従兄弟が大中臣氏を名乗ることになった。
一族で、政治と祭祀を分担して掌握というかんじ。
613 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 22:58:31.77
>>607 >古代の日本は末子相続だよ
それは完全に俗説だよ。
よく見たら、別に末子というわけではない。
要するに、その時々の政治的状況が影響したんだろう。
一夫多妻なので母方がどうとか、人物の優劣と、そういうの。
一方、蘇我氏・大伴氏・平群氏などは凋落していった…
615 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:07:12.95
616 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:18:51.23
蘇我氏自体は、新興の貴族な。
武内スクネの後胤だから、皇別氏族。
武内スクネの後胤の中では、葛城氏の婿に入った長男の後胤が
事実上の嫡流だったけど、途中、失脚する。
そこで傍系的だった三男の後胤の蘇我氏が台頭する。
そのうち、その蘇我氏も失脚して没落。
結局、武内スクネの別の一族である次男の後胤だった紀氏がその後を継承する。
617 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:23:24.56
大伴氏は、ヤマト王朝の譜代の中では、超名門だあった。
高皇産霊尊裔氏族であり、この系譜は、譜代最高の名門氏族。
なぜかというと、おそらく、ヤマト王朝の王家の祖である
天忍穂耳命(ホアカリやニニギの父親)の正室の実家だから。
ヤマト王朝の発祥地の御所市高天周辺も、この氏族の所領だったと思われる。
おそらく、天忍穂耳命らは、この氏族との婚姻で同盟により飛躍したと思われる。
>>615 古事記では、アメノコヤネはニニギと一緒に来た
中臣氏の始祖と明記されている
古事記に中臣が出て来るのはこれ一回のみ、あとは全く出てこない
まあ推古天皇が最後だしな
ところが日本書紀になると、神武東征にも中臣が出て来る
その後もしつこいぐらいに何度も出て来る
最後は天皇家を救った立役者のようになってる
つまり鎌足は、自分が出てこない古事記が超不満だったと考えられる
で、中臣が活躍する日本書紀を書き直した
古来から天皇家と関わりが深かったように作らせた
これが日本書紀の真相だな
やぱり中臣氏は鹿島の地方にずっと居て
突然、京の檜舞台に躍り出たって感じだね
自身に流れる忌まわしき蝦夷の血をどうにかして隠蔽したかった
621 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:06:10.58
>>619 中臣氏が蝦夷説は胡散臭い。普通にヤマト王朝の譜代の豪族だろう。
日本書紀ほど書かれてないが、古事記にも書いてあるし、嘘ではないだろう。
のちに忌部氏(斎部氏)が、
藤原氏は大繁栄して、あいつら威張っているが、
俺の先祖と藤原氏は大昔は同格だったんだと主張しているぐらいだし
中臣氏の先祖は、神武皇統の近くにはいたと思うけど、
江戸幕府でいう大老や老中になれるような家系ではなかった。
側用人とか、そういうレベル。
田沼意次とか、新井白石とか、そういう感じじゃね?
逆に大伴氏とか物部氏ってのは、江戸幕府でいうところの
水野氏、酒井氏、本多氏、井伊氏みたいな名門譜代。
>>620 全然隠してないぞ
春日大社を作って堂々と鹿嶋神を祭ったし
623 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:12:32.72
中級クラスの譜代貴族だった中臣氏の先祖だけど
一時期、すごい重要な地位にいたこともある。
それが、梨津臣命。その地位は外交官としてな。
モモソ媛命からイニエ命(崇神天皇)の時代にかけて活躍した人物。
ただし、その活躍は記紀では封印されている。
なぜかというと、それは、中国の魏王朝への朝貢だったから。
中国側の資料では、難升米という風に書かれているけどな。
梨津臣命は、ヤマト王朝の外交官として、西暦240年代に
中国の洛陽へ訪中している。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
624 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:22:26.31
>>621 鹿島神宮の紀元は神武元年
朝廷もそれを認めている様だから
中臣が神武天皇に付いて東征したとすると無理が有る
626 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:44:53.12
むかしの列島のひとって
本地垂迹みたいのとか得意だから
在地の酋長さんのこと
記録されて著名なお人と
ごったにして伝えているだけでわ。
627 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:47:20.05
>>625 中臣部氏は、鹿島大宮司家になったけど
鹿島神宮自体は、中臣部氏が創建したものではない。
中臣部氏が鹿島に移住する前からあり
ヤマト王朝の対蝦夷の最前線になっていた。
それを任されたのが、梨津臣命の曽孫である国摩大鹿島命だと思われ。
この時に鹿島に下ったんじゃね?
>>627 鹿島辺りの豪族は、自分から大和朝廷に家来になった
そして拠点になった
大和朝廷が豪族を倒して武力で征服した土地ではない
この場合、鹿島の豪族の地位は安泰だったと思われる
物部氏も天皇の家臣となったし
得難い協力者なのに、宮司を派遣して交代させるとか無いと思う
交代させるメリットは無い
逆に反乱を起こされる可能性が出てしまう
それに中臣氏が神武天皇に最初から付き従っていたのなら
春日大社に天照大神が居ないのも変だ
鹿島から都に親族を派遣したとも考えられ
そのうち京に住んでるから格が上のつもりになったんだろうな
京の中臣が上なら、鹿島は下とはっきりするが、
なんか揉めてる様な気がする
629 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 03:09:17.10
>>628 >それに中臣氏が神武天皇に最初から付き従っていたのなら
>春日大社に天照大神が居ないのも変だ
ここ、意味不明。なんで、そういう解釈になるのかな?
別に変でもなんでもないけど?
>鹿島から都に親族を派遣したとも考えられ
>そのうち京に住んでるから格が上のつもりになったんだろうな
中臣氏が鹿島から親族を派遣したん事実だが
中臣氏のもとの出自は、ヤマト王朝の譜代豪族だと思う。
中臣氏の先祖で最初に鹿島に在住したのは、国摩大鹿島命だと思うが
その曽祖父の梨津臣命のころは、近江あたりに所領があったもよう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
630 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:20:23.16
>>629 変だよ。中臣が古来から天皇の家来なら
天皇の祭祀をずっと担当していたはずだからな
そのリンク先が真実だとも限らない
京の中臣から鹿島に宮司を出したのは有るだろう
それは後世になって立場が逆転したからでないかな
中臣と言う性も鎌足の3代前に授かった物らしい
その前は鹿島と呼ばれていた様だ
日本書紀・垂仁天皇に「中臣連遠祖大鹿嶋」とある
忌部氏の拠点が葛城で大和朝廷の故地
中臣氏の拠点が山階で東国からの入り口
これも中臣が東から移住して住み着いた事を伺わせる
古来からの家臣で、天皇の祭祀を担当していた氏ってあんの?
忌部じゃないかな
神武東征の結果、物部が軍事祭祀担当になって
忌部、物部体制になって、少し経って鹿島(中臣)が加わった感じかと
ニニギ隊長の子孫が東征したので
家来の子孫が東国から駆けつけたw
いい話しじゃないか
部民制度ってさ、
鳥飼部にしても、要するに専門職を奉ずるってことだろ
忌部がとりわけ祭祀に関係する分野を受け持っていたことと彼らが古参であることは
関係のないことなのでは?
あと、物部が軍事に関係していたことは伺えるが祭祀にとりわけ関わっていたとは思えないなぁ
石上神宮は祭神が物部系だったから代々物部氏が斎宮をやることになってたんじゃないの?
伊勢神宮の斎王は内親王がうけもつのと同じようにさ
634 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:24:43.51
636 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:52:38.49
『先代旧事本紀』はそのあとの出来事についても、気がかりなことを書いていた。
ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。
この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。
このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。
物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど
http://1000ya.isis.ne.jp/1209.html
637 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 20:12:30.40
・・・たとえば「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える。
これは宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)とまったく同じ呪詞で、天皇家のオリジナルとは思えない。物部の呪詞がまじっていった。
そういう物部一族の頂点にいる石上朝臣麻呂が、兵士が弓の弦を鳴らすのとあわせて、楯を立てているというのだ。
実は、元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。
これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。
そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。
こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。
その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった。
古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。
なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。
♪はりつめた弓の ふるえる弦よ〜♪(もののけ姫)
638 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 20:31:28.31
ジブリは物部&高句麗崇拝?
『千と千尋の神隠し』のハク(本名はニギハヤミコハクヌシ)
高句麗=貊族=狛=コマ
『コクリコ坂から』
コクリコ=高句麗
ヒロインの父親が朝鮮戦争時に米軍の後方支援=LSTに従事し撃沈された(日米安保の犠牲者)
『トトロ』
トトロの森=狭山丘陵=物部天神社が鎮座
主人公が草壁サツキと草壁メイ(くさか、日下)
『もののけ姫』
祟り神、大物主?
♪はりつめた弓の ふるえる弦よ〜♪(物部の呪術)
>>635 それは物部が従来の土地に根付いた勢力だからだろ
豪族たちは土地々々で自分たちの神を祭っていたんだから
突然、仏を拝めって言われて、朝廷主導で自分たちの土地の祭祀を差配されては困るから
反対したんだろ。しかも、朝廷の仏教布教政策は渡来人と関わっていた蘇我氏が担当するんだから
蘇我氏の権力が拡大することにもなる
それを危ぶんだ既存勢力としては対立しても不思議ではないよ
蘇我氏は皇別であるから、権力から離れていった皇族のなれ果てなんだろう
祭祀を受け持つことすらできないほどの地位だったが
渡来人との交易の中で存在感を持つようになった。仏教布教したところで痛くも痒くないはずだ
まあ、結局仏教は導入されて、中央集権化へと向かうわけだが
導入までに時間をかけているのを見ると、豪族に配慮もしていたのかね
国分寺は置いてるが、神社の神も、出家して菩薩になってたりする
八幡神も八幡菩薩になってるし、地方の祭祀はそのままにされたのだろうな
菩薩はあくまで、仏になるために修行している存在で、仏ではないが
本地垂迹を取り入れたあとは、天照は大日如来の仮の姿というふうに上下関係もなくなってくる
本格的に神仏習合がおこなわれると、神社で個人救済や自立といった面にシフトしてくる
民衆に受けれられるには鎌倉まで待たないといけないけどな
642 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:01:42.60
>>637 > 古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。
> なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。
これは今でもやっている。
愛子さまの誕生日だか節目の日だかに、
徳川家と前田家の当主が皇居に呼ばれて、
烏帽子姿で、弓の弦を鳴らす儀式を行なっていた。
643 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:11:32.50
情報ありがとう
武士ってのはもののふと言われるが、もののふは物部から来ていると言われるね
邪を払うのに、軍神の加護を期待するのは自然な心の流れではないだろうか
朝廷の軍事を司っていた物部の祭祀にあやかっていてもおかしくはないだろう
結論
中臣は天津神だが、地方豪族
>>639 石上神宮と言えば
朝廷の武器庫ともいわれ神武東征にも関わる最古の神社だが
そこを管理し祭祀もしていたのが物部だよ
これを見ると物部は、天皇の家来と言うよりパートナーだな
古来は祭祀と武力が一体化してた
それが物部であり中臣、そして天皇家
後世になって分離するけど、古代の戦いは祈祷と呪詛から始まり、次に実際の戦闘になる
647 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:27:34.55
>>645 それを言ったら神武だって、天孫だけど地方豪族w
いや、家来だろ、パートナーだったら婚姻関係がある
家臣と婚姻する大名がいるか?
日本が成立したあとは天皇に敵対者がいないから家臣と婚姻せざるをえないが
敵対者のいる大名ってのは、大名同士で婚姻する
そうすることが、政治的に重要になってくるからな
足利氏の家宰の高氏が足利氏と婚姻したことがないのと同じ
上杉氏の家宰の長尾氏や太田氏が上杉氏と婚姻したことがないのと同じ
>>647 あくまで今、天智時代の話をしているからな
朝廷という中央に対する、地方という意味
そういう文脈だったろ
650 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:43:31.86
中臣氏の先祖は、天津神の一つで、発祥地は御所市高天かその周辺ぐらい。
ただし、中臣部氏や中臣氏を名乗るようになったのは、中央政界ではなく、
地方知事になっていた時代。そういう意味では地方発祥ともいえる。
ヤマト王朝が、出雲国譲りする前、
まだ御所市あたりの地方豪族だった時代からの臣下だが
その中での地位は微妙だった。
古事記を信じれば、中臣氏の先祖は、ヤマト王朝宗家の尾張氏の先祖の近くではなく、
九州南部の統治を任された神武皇統の先祖の近くにいたようである。
つまり、ヤマト王朝初期、その時の王家だった尾張氏からみると
中臣氏の先祖は、直臣ではなく、陪臣だったもよう。
ただし、神武皇統がヤマト王朝のトップになって、王朝の直臣に格上げになった。
そして、ヤマト王朝の祭祀を担当する名家になっていった。
ただし、当初は忌部氏のほうが重要な地位であり
中臣氏の先祖はそれよりは格下であったもよう。
また論点先取か、そう言える理由を言え
652 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:52:31.93
天孫降臨に従った一族だからホアカリとは関係ないだろうな
タカミムスビは造化の三神の一人、稲作がはじまる以前の生活形態をもっていた人たちだろう
高天原はほぼ九州と言っていいから、九州で皇室と合流した一族ということになるな
隼人族
655 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:10:34.21
656 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:18:09.38
大伴氏と久米氏
>>648 欠史八代の嫁は、シキ県主の娘を貰っているのが居る
シキは現代の河内だと思われるので
後の物部と同族でないかな
秭帰県
659 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:26:15.27
欠史八代の天皇は
あちこちから嫁を貰っている
生き残りに必死だったとうかがえる
まあ、そのころは大和を治めるだけの豪族だから仕方ないだろ
661 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:41:24.43
こうして見ると
崇神は偉大だったな
信長と秀吉と家康を合体させた感じか
トヨタ創業者とトヨタを世界シェア1位までにもりたてた豊田代取くらいの差かね
663 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:32:29.39
欠史八代の天皇たちは、神武皇統の当主というだけで、
その時代、正式な倭王の祭司をうけついでなかった。
後世に例えるのなら、神武皇統の欠史八代の当主たちは、
藤原摂家の当主みたいなもん。
が、正式な倭王だった尾張氏の先祖たちから、
正当な倭王の地位を奪ってしまった。
藤原摂家は、天皇にはならなかったのにな。。。
なぜ、藤原摂家が天皇になれなかったのかというと、
それ以前に神武皇統が歴史をちゃんと記すことによって、
自身の家系の神聖化に成功したから。
逆に尾張氏の先祖たちが倭王だった時代は、歴史を記す習慣がなかったので
神武皇統は尾張氏の先祖からの簒奪が可能だった。
あと、神武皇統の家系は、王朝の建国者だった尾張氏の先祖と兄弟だったので
王族ではなかったけど、一応、同族だったこと。
足利や徳川でも、義家嫡流の歴史を改竄して
自分たちこそが嫡流であるというような暴挙に出ないのに
いわんや神武がそのような暴挙に出る理由はないだろう
歴史を長く見積りたいなら、ホアカリが暴君だったので
家臣たちの協力をえて禅譲を迫ったという方が得策だろうにな
頭がおかしいので理解できないのだろう
665 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 00:09:02.08
神武
河内に上陸しようとして兄を射殺された
どこがすごいんですか?
結局、大和に自分たちの国を打ち立てたのだから十分英雄では?
667 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 00:39:45.60
国を打ち立てたのは崇神で、神武は移民では?
668 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 00:57:33.74
神武天皇はなぜに大和盆地に都を築いたか。
崇神は中津国(中国、近畿を含む概念)を統一した天皇で
出雲国譲り以来はじめて中津国に安定をもたらした。
神武は移民によって大和(奈良)に自国を立てた天皇。
670 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:07:51.67
>>664 天火明命と神武は世代が違うと思う。
神武東征の時は、世代から見て、天村雲命、天忍人命ぐらいだと思うよ。
あと、神武を向かいれた高倉下命は天村雲命の弟という説があるしね。
ニギハヤヒは、櫛玉(奇魂=形見)というぐらいだから、天火明命の御落胤
だったんじゃね?
>>665 普通にみて、神武東征なんて成功できない。
兄貴が河内上陸戦争で戦死、命からがら和歌山方面から少数の生き残りでせめて
たまたま矢を放ったらあたってナガスネヒコを倒せたなんて、荒唐無稽な話。
おそらく、神武東征の真の真相は、
天村雲命、高倉下命 VS ニギハヤヒ、ナガスネヒコ の戦いで
神武らが援軍として、前者のために戦ったんじゃね?
>>670 いや、よく分からんのだが、世代がちがったら
どこがどういう風に
>>664の解釈ができないってことになるの?
それとクシタマってのは奇魂と書いて、奇跡によって直接人に幸を与える働きのことだぞ
それに父親なら家系図で分けて書いてあるはずだって前にも指摘したよな?
だから、文献によりながら文献を否定するのはナンセンスだって言ってるだろ
神話は象徴表現がされるのだから、今の価値観で勝手に評価しなおしても
我田引水で、そう言える正当な根拠にはならないって。
学問として成り立たない単なる空想なんだよ
672 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:16:28.84
崇神が初めての天皇といわれたのは、四道将軍派遣戦争に成功してから。
それは、卑弥呼と噂される大叔母のモモソ媛命の死後の話だ。
魏志倭人伝によると、卑弥呼の共立で静まったと書いてあるが
実際は、邪馬台国は30余国の連合体で、東に女王国に従わない倭人の
国家があったんでしょう?
後漢書東夷伝をみても、倭国は100余国だったらしいし、
旧事本紀や倭王武の上奏文を読んでも、110か国ぐらいだから
あんがい正しい。
だから、崇神以降に本当の意味で再統一されたというのが本当かも。
モモソ媛命の時代は、まだまだ盤石ではなかった。
673 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:20:46.93
>>671 奇魂というのは、形見の意味があるはず。
ニギハヤヒの正式名称は、
天照国照彦 天火明 櫛玉 ニギハヤヒ命。
で、この名前は、天火明命となってなくて、天火明できれて、命ではなくて、
その次に櫛玉となっている。
そして、命は、ニギハヤヒの後ろについている。
>それは、卑弥呼と噂される大叔母のモモソ媛命の死後の話だ。
まず、思い込みから話をはじめられても議論にならないということをそろそろ覚えよう。
自分はこう解釈している。なぜなら〜とはじめるのが筋だろ?
そうした後ではじめて、こちらの方がうまく解釈できるという結論できるのだから
>あんがい正しい。
まず、残念ながら後漢書は魏史のあとに書かれたんだよ
そこをまず押さえよう
魏史の他残された文献を網羅しながら書かれてはいるが
魏史の内容にいきずられている可能性がある。
そして、当時日本は、連合国家であったのだから
大和王権の中であっても国がたくさんある。
基本的に日本が中央集権体制を確立するには律令制度が整うのを待たなければならないのだからね
よって、7世紀まで大和を盟主とする連合国家と熊襲や蝦夷の国々がごったがえしていたと
考えたほうが良い。
>>673 いいかげん、根拠をあげろ。
一次資料のどこにそれをうかがわせる記述があるんだ?
676 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:27:21.59
>>672 卑弥呼は九州に一大率を置いたりして壱岐や対馬まで支配下に置いている。
崇神天皇は、越前や東海などの近隣に四道将軍を派遣して支配下に置こうと
している。矛盾だな。
国譲りは結構過酷な出来事で(仮定)、畿内政権の脅威を受けることになった吉備や
話を知った九州が畿内政権に怒りや恐れを抱いて連合軍として東征して、そのうち
神武天皇が最有力となった…とか想像するけどな。学問板で想像っていうのもあれ
なんだろうけど。
>>677 おそらくなんだが、東征を3世紀以降に比定してるってことでいいか?
じゃないとそこまで組織化されたような国家群のやりとりができないはずだからな
早馬が通る道も整備されていない古代で諸国家が文字もなく遣使のみによって意志を統一して
はるか遠国の畿内政権とやらに恐怖を抱いて連合して叩くんだからな
すくなくとも、盟主のような存在がいて、トップダウン的に支持するような存在がなければ
うまく機能しないだろ、寄せ合わせがぶっつけで戦術なんて立てられるはずがないからな
679 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:51:23.98
>>676 そんなこといったら、きりがないけど。
足利幕府は、何度でも、遠征しているし。
大内義弘の乱、山名氏清の乱、足利持氏の乱など。
平安朝も、平将門の乱とか藤原住友の乱とか。
徳川幕府は、島原の乱とか、長州征伐だとか、いろいろ。
どういうこと?
反乱があったって言いたいのか?
681 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 02:07:05.92
>>679 卑弥呼は九州の壱岐、対馬、末盧国、伊都国などを自由に往来している。
恐らく朝鮮半島の狗邪韓国もそう。各国には「官」も置かれているし、
一大率を置いて諸国を検察している。
こんなところまで勢力を伸ばしていながら、北陸、東海、丹波、西海など
つい、ご近所しかも周辺諸国を支配していないのはおかしい。
普通は周辺をしっかり固めてから遠征する。でないと、遠征している間に
攻められてしまう。というわけで、やっぱり不自然。
682 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 02:17:23.12
一大率はもとのがお里一大國の海賊もどきさんだからええのよ
683 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 02:21:55.03
一大國は黄海から東シナ海から日本海にかけてのトレードセンターで
列島内の鉄仕切るのには、ここの酋長なのが有利なんだよ
>>678 自分はいつに比定していいのかわかりませんw
東征がもし3世紀以後の時代の出来事だとすれば九州説か畿内説かで可能性が全然違ってくるね。
魏志倭人伝によると壱岐対馬や奴国等にヒナモリを置いているのだけど、
畿内がその時代にそこまで統治体制を築いていたのなら、それら卑奴母離を九州反乱軍側に寝返ら
せるか、壊滅させなきゃならないだろうし物凄く困難になる。
まだ畿内の勢力が畿内に限定的で、軍事的圧力を受けずに瀬戸内海を自由に往来出来たなら、
九州と吉備の合意形成も不可能ではないように思うな。
当たり前のことばかりですまんけど。
685 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 02:33:56.76
当時出雲がなんと呼ばれていたのかは良くは知らんが
國の名前は嫁さんみたいなので
ボスはウサギさんみたいなお名前で、
むすこさんは時期が来てひっくり返ったらウサギさんになるみたいなお名前で
合計したら弁韓+辰韓と同規模の五萬戸とかって戸数
3世紀の時点で国譲り前の五万戸の出雲投馬国が健在なら国譲りも東征も3世紀末〜4世紀台
邪馬台国が畿内なら国譲り後の畿内王権は最低12万戸で東征とかもう絶望的
国譲りと神武東征は 無関係
記紀を読めば分かる
時代がまったく違う
688 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 05:22:52.48
「大國主」は「王」ではなくて「玉」の方らしいね。
「宇都志國玉~」だとさ。
「大國主~」は「大國玉~」のが訛ったのかもしれんよね。
息子さんのおひとりには「大國御魂~」さんもいらっしゃるしね。
「大國主」と神仏習合して出来たのが「大黒天」らしいけど、
これってもともとのが「大黒主」なのかもしれんよね
てか正規表現のは「大黒玉」かなもし。
黒曜石の酋長とかだったらぴったりのお名前かなとはおもふが。。。
689 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 12:35:49.52
>>687 出雲の国譲りは、高天原Vs出雲。主導したのは天照大神と高皇産霊尊。
そのあとにニニギノミコトの天孫降臨があり、舞台が高天原から日向に移る。
ニニギノミコトのひ孫が神日本磐余彦(神武天皇)で、日向から東征し、
大和の橿原で初代天皇として即位する。
出雲周辺には弥生最大級の集落跡である妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡がある。
どちらにも出雲の国譲りの痕跡が残っているかも。
>>689 問題は高天原勢力が考古学的にどこにも存在し無いって事だな
691 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 17:21:08.99
神武天皇を補佐する八咫烏や高倉下は高句麗系ではないですか?
692 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 17:41:33.36
>>691 高句麗系ではないと思う。任那系か百済系ならありえるかもしれないが。
俺は基本、北九州だと思うけど。
”弥生人”はおそらく、呉越、水稲の起源である長江流域の民であろうがその人たちだと思っている
彼らが海流にのって、北九州にたどりついて、縄文人と友好的に混じっていったのが
弥生人の誕生であると思う。つまり、弥生人とは、縄文人と”弥生人”の混血。
半島南部においても縄文人はいたかもしれないので、半島南部に弥生人がいなかったと仮定するのはやや早計である躊躇いがあるが
大枠においてそうであると解釈している。
それに半島南部より北九州の方が稲作が広汎に分布したことを考えると、”弥生人”が1000年かけて徐々に日本列島に
訪れていった背景があることと照らし合わせて、弥生人集団が比較的縄文優位の文化によって成り立っており、それが影響していたのだと思うし。
加えて、秦韓の建国背景に秦の末裔がからんでいたという文献があることを考えると、半島には漢からの流民や北方の狩猟民も多く入りこんでおり
日本海がその流入を抑えていたことが、文化の差を生んでいたとも思う。
>>684 別に当たり前だとは思わないよ
自分の中で当たり前の論理であっても、相手はまったく同じ知識を共有しているわけじゃないから、
相手にとっては当たり前とならないことが多いのではないかな
逆に、当たり前と感じるということはそれほど自分の中で説得力のある論理であるということだから
かえって有益だと思う。
たしかに東征が3世紀以後なら、九州説の方が説得力があると思う
東征というような、整然としたものがあったとは考えにくいが、
物的、人的資源を求めて、アブレ者が東へ、東へという流れはあったろう。
>>693 >”弥生人”はおそらく、呉越、水稲の起源である長江流域の民であろうがその人たちだと思っている
それは倭人?
倭人はおそらく縄文人ベースで語られるものであると思う
縄文人優位の文化集団であると思われる以上、言語もクレオール言語であったであろうが
主として縄文言語がベースとなっているだろうし。風俗がめだって半島と混同されることがなかったと思う
だから倭人は日本にしかいないものでは。
>>697 以下に関してはどう思われますか?
■呉の太伯−日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。
この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。
歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、
これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、
『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、
徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。
九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。
鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。
『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
699 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:54:41.04
700 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:01:29.43
>彼らが海流にのって、北九州にたどりついて
揚子江の流れ出たやつに助けられて真東の薩摩半島の坊津あたりに向かうと
終いには対馬海流に流されて海峡域に流れ着くケースが多いかも
701 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:13:37.57
前473年のちょっと後あたりに漂着したのかもしれん
「句呉」の末裔のが
「句媽」の呼称とかだと
「こま」のも
「縄文のに混ざって倭人ができた元のお人」のも
「穢狛系」ので
言語の共通部分とかのがうまいこと説明できちゃたりする
>>698 刺青は漁猟をする民にとって一般的な風習であると思う
海の嵐に巻き込まれない、溺れない、大漁などの願いをこめた呪術的な意味や、
人間や動物に対する威嚇などの意味もあると思われる
三内丸山遺跡は”弥生人”がくる以前の人たちによるものであるが
日本海交易をしていたし、漁猟や採集によって生活をしていたから
縄文人が海と無縁であったとは思えないし、入れ墨もされていたと思う。
よって、刺青をもって倭人と呉越人との同一性を論じるのは適切ではないと考える。
それと、呉越が周の太白の末裔であるというのは眉つばであると思う
長江文明があったことは華陽国志を見ても分かるし、
春秋時代において周を王と崇めていた中原諸公とは異なり、
楚だけは自ら王を名乗っていたことから文化的に黄河文明とは異なる自我意識があったと思われる。
呉越も五覇に数えられ、中原の覇権を競った春秋の英雄であるが
やはり、王を名乗っており、諸公と異なる雰囲気がうかがえる。
秦も異民族であると言われるが、そもそも周王朝に臣下としてはじまった経緯があるため別して論ずべきものだろう。
しかし、史記においては黄河文明中心の視点で歴史が書かれており、
異民族の視点が欠けているため、呉の太白の逸話にしてもその分をさしひく必要があると思う。
周王朝と交易関係があり、早くから黄河文明諸地域と交流があり、認知されていたことは確かであろうし
周王朝の子孫らが移民した伝承があり、呉越において国を立てたこともあったのだろうが
総じて、呉越において文化を担い、国を支えていたのは長江文明をもつ異民族であったと思われる。
だからこそ、周とは異なる文化風習をもっていたのではないだろうか。
しかし、司馬遷は史記において、そういった背景はことさら取り上げるといったことはせず
黄河文明の人たちが関心をもっており、よく記憶していた事実のみを記述したのだと思う。
ただ日本人が周の太白の子孫であるかは別として、呉越の人たちの血をいくぶんか受け継いでいることは否定しない。
>>701 ”弥生人”は紀元前1000年くらいから水稲をもってやってきたことが
プラントオパールの発見によって証明されているよ
呉越の滅亡を待たず、彼らが日本列島に流れ着いてたであろうことは確か。
滅亡後に大量移民があったことはあったかもしれないが、千人も流れ着くようなことは
ないと思う。それほど大きな船をつくる造船技術はないであろうし
どこに流れ着くか分からない以上、船出するより、陸伝いに逃げる方が生き延びる確率としては高い。
越南(ヴェトナムの語源と言われる)という言葉が示すように
もともと越人は長江流域の諸民族の一つであり、華南一体に広汎に分布していた民族の一つであろうから
南に逃げていくのが無難であると思う。
三国時代では越人が広州まで追いやられていた。
漢字文化を受容し黄河文明を中心とする中華帝国に関わりはもちつつも
独立意識は保っていたように思う。そうした意味では今となっては朝鮮民族と近い立場かもしれないが、
ベトナム地域が独立した背景の一因となっていると思う
ビン越は福建を中心として少数民族としてまだ存在しているようではあるな
704 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:52:27.07
太伯は紀元前11世紀の人物で呉の始祖とされる。
倭人伝の書かれた卑弥呼の時代よりも1200年も1300年も前の人物。
当時の人にとっても伝説上の人物で、当時の人が太伯との明確なつながりを
認識していたとはとても思えない。
伝え聞いた太伯を祖先と思い込んだ可能性も十分にあるな。
太白の子孫であることを強調する日本の書物ってかなり後代のものだよね
707 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 23:39:12.56
>>703 弥生人が来たのはもっと後
水田だけが日本に来た
>>706 晋書倭人伝にも書いてある
倭人自ら太伯の後裔だと言った
『魏略』や『梁書』東夷伝は?
710 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:09:51.13
太伯の子孫だとか
秦の落ち毀れだとか
山東の夷人だとか
狛の土人だとか
大陸のなまはげだとか
何度もど〜んときた。。。
>>708 たしかに呉越の知識階級が少数いて伝承が残っていたのかもしれないが
あとづけで吹き込まれて言ったとも十分考えられるよ
少なくとも人口に膾炙されていれば、日本の歴史書にも書かれていたはずだから。
>>709 初出は魏略ということになるのかな?
魏略の編纂は清代だから、校訂の信頼性がどれほどのものか疑わしいが
オリジナル以外はすべて、初出の情報をそのまま踏襲したものと言っていいと思う。
よって、問題は誰が、いつ、はじめに周の太白の末であると言ったかということだけど
支那の歴史書に通じている知識人が多い時代であればあるほど、
仮帽である可能性が高いと思う。そんなところかね
712 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:21:32.85
>>707 弥生人は日本で誕生したんだよ。
大陸には弥生人なんていない。
厳密にいうと、新アジア人種と古アジア人種の混血が
現代人とほぼ同じ弥生人。
これが日本に来たのは、3000年前よりももっと前の可能性が高い。
713 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:26:00.82
Y染色体O2b1の弥生人は紀元前6000年±2000年頃に日本列島で発生し、
人口を増やした後、朝鮮半島南部へ入植を始めた。
Y染色体O3はどこから来た?
>少なくとも人口に膾炙されていれば、日本の歴史書にも書かれていたはずだから。
滅ぼした方が?
wikipedia.org/wiki/魏略
『翰苑』巻30の逸文に、倭人の出自について
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
と、自ら太伯(たいはく)の後と称していたとある。
肝炎て晋書よりあとだよな、たしか。つーか。すべての歴史書の記述は同一の一つのオリジナルの情報源にたどりつけるだろうよ
しかも、太宰府に残ってるってことは、日本が呉の末を滅ぼしたって解釈は適当じゃないな
wiki/倭・倭人関連の中国文献
・後代の史書『晋書』『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。
・1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって
「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。
特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、
福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」という発表がされた。
つまり現代の江蘇省(春秋時代の呉)で発掘された百越人の一部族である「呉」人の人骨が、
隈西小田遺跡(大宰府一帯)で発掘された人骨と同じ部族のものであることが証明された。
・また、志賀島一帯の地域名である「香椎」は元明天皇の時代、「百越人」(長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意。春秋時代の「呉」「越」も含む。
ここで言う「呉」は現在の江蘇省一帯)の住む地帯を『古事記』などでは「コシ(越)」と読んだことから、
北九州でも百越人の一部族である「(春秋時代の)呉人の住み着いた場所」という意味である蓋然性が極めて高いことが明らかになってきた。
「越」は山陰地方名として『日本書紀』の「国生み」で登場する。「越人」も「呉人」も、どちらももともとは「百越人」と呼ばれ
長江文明の稲作水稲文明を日本のもたらした弥生人の一種といえる。
・文献については以前の歴史書のトレースでかたづく
・人骨については江戸時代と現代人の比較からも分かるように食生活で変わりうる
・ミトコンドリア遺伝子は民族の移動を分析する上で適切ではないとされる
・Y染色体をみるかぎり、日本固有のD2型は日本以外に存在しない。
・「香椎(こし)」に漢字の「越」を当てるからと言って、それで越との関連があることにはならない
高志(こし)とも当てれば、もろこしであれば唐土とも当てる。
もろこしとは、海の外から海を”こし”てくる”もろ”もろの人たちという意味だろう
しかし、半島の人たちは「韓(から)」と言うし、唐の人たちも同じく「から」と当てる。
こしはおそらく初期に使われた海からくる人たち、からは日本人意識ができて以後の外から来る人、
という程度の意味にすぎないだろう
>Y染色体をみるかぎり、日本固有のD2型は日本以外に存在しない。
O系統は?
O系統にしても、割合的に日本を征服して混ざったものとは言えないらしいよ
あくまで友好的に混ざってないと説明できないらしい
しかも、O系統は弥生期以降も日本に流入してるわけで、その分さっぴくと
弥生期に流入した遺伝子は相当少ないらしい。
まあ、おれはある程度あるとは20%ぐらいはあるんじゃないかと思うけどね
主なY-DNAの構成
C3a 旧石器系 約3%
C1 旧石器系 約5%
N 旧石器系 約4% (NO:2.3% N1:1.2% N1c1:0.4%)
D2 縄文系 約35% (D2a:16.7% D2a1:12.0% D2:3.9% D2a1a:2.3%)
O2b 弥生系 約32% (O2b1:22.1% O2b*:7.4% O2b:0.4%)
O3 渡来系 約19% (O3a3c:10.5% O3:6.6% O3a3:3.1%)
O2 弥生系 約32% (O2b1:22.1% O2b*:7.4% O2a:1.9% O2b:0.4%)
727 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 10:11:32.27
日本人
O2b 32%
O3 19%
韓国人
O2b 33%
O3 42%
漢民族(華南)
O2b 30%
O3 33%
漢民族(華北)
O2b ?%
O3 66%
728 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 10:52:35.22
福岡住民の形質・遺伝的特徴
長頭が多い
下戸が少ない
A型が多い
HLA型A33-B44-DR13が首都圏より少ない
mtDNA M7aが首都圏より多い
Y-DNA C3が他地域より多い
729 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:12:48.56
Y染色体 C3
オロチョン族 91%
エヴェンキ 68%
朝鮮人 12%
ツングース系?
狩猟民族は人口が少ない
農耕民族は人口が多い
C3a 日本固有旧石器時代人
C3b 北アメリカ先住民
C3c モンゴル、ツングース
スサノオが倒したヤマタノオロチとは、多くのオロチ族(ツングース系)の意味でしょうか。
もしくは、大和の大蛇で三輪山の蛇神?
734 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 01:01:50.92
>>705 国立国会図書館と東京世田谷の静嘉堂文庫に所蔵
「松野連姫氏系図」
------------------------------------------------------------------------
呉王夫差━忌━順━恵弓━阿岐━布怒之━玖賀━支致古━宇閉━阿米━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗━熊鹿文━┳厚鹿文━┳市乾鹿文女
┗迮鹿文 ┣市鹿文女
┗ 宇也鹿━━┳ 子 ━━━━━┓
┗伊馨耆● ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗━謄━讚━珍━済━興━武━哲━満━牛慈━長提━廣石━津萬━大田満呂━猪足━
------------------------------------------------------------------------
677、678、687、694
国譲りが先で、東征が後ですからね。
神武天皇の4代前の忍穂耳命が出雲攻撃を命じられる様子が出てきますが断ってますね。
東征は北部九州や吉備と合意が出来ている様子が見えるので、畿内に対する共通の意識
があったのでしょうね。恐怖なり憤怒なり。
しかし記紀当時の政治の中心は畿内で、畿内人の血を引くことも明らかなので、そのような
箇所は東征にしろ出雲にしろ、ぼかすか記されなかったのかもしれませんね。
いや、よくわからん
>>732 鍛冶師集団と考えられている
山を崩して川に土砂を入れて
土砂をさらうと砂鉄が取れる
川に土砂を流すと川底が上がって氾濫を起こす
堤防をいくら作っても足りない
>>735 畿内の外はよくわからないが正解じゃないの?
畿内の人が覚えていることを整理すれば
畿外のことがよくわかることにはならない
24 : ななしのよっしん :2012/08/10(金) 04:55:27 ID: zLft9DBjzv
フィリピンに似たような話があるらしい。
ネグロス島の王国にアニナ(Anina)というお姫様がいた。
島の最高峰の Kanlaon山には7つの頭を持った巨大な龍が棲んでいる。
5年ごとに、額に傷のない乙女を龍の生贄としなければならない。
王様は娘の顔に傷をつける事ができなかったために彼女を生贄にしなければならなくなる。
姫が生贄に差し出されようとした時、Khan Laon という名のインドの王子が訪れる。
Laon は蟻と蜂と鷹に龍と戦うように命じる。
鷹はLaonを山の上に運び、蟻は龍の舌を、蜂は目を攻撃する。
Laon はもだえる龍の首をひとつひとつ剣で切り落として殺す。
Laon と姫は結婚。ネグロス島のKanlaon山は、この若者の名前にちなんで名付けられたのである。
日本で鹿崇拝してる氏族は高句麗やツングース系か?
鹿の角や骨で占いをするのは、中国でも見られるから何とも
殷もツングース系では?
殷ツングース説は情報が少なすぎてトンデモ
>>742 なにをもってツングース系なの?
DNA?文化?
言語だろう、どうせ。消去法という理由だから、俺も耳を傾ける必要がないと思う。
文献と言語では古代を分析をするのに限界がある。
俺は畿内説だな。
東と南をまちがえたで済む問題だと思う
747 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 06:12:09.64
まず、出雲国譲りの内容と神武東征の内容がゴチャゴチャになっているのぬ
ここで議論をしようとするやつが多すぎる。
とにかく、このへんの内容って、学校の授業どころか
漫画や小説やドラマでも全くやらないところだから
共通の歴史観や確固たる歴史館というものがないので
みんな初歩的な事も知らなくて、話が通じないのだ。
そのへんは戦前の人の方がマシかもね
749 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 06:24:46.75
>>735 出雲国譲りってのは、出雲王権が近畿王権に降伏した話。
この時の近畿王権の王が、火明命であり、その兄弟が皇祖ニニギ命。
その直後、近畿王権は全国に地方官を設置したはずで
九州高千穂に地方官としていったのが、ニニギ命。
それから、数代たち、
ニニギ命の曽孫のイツセ命やワカミケヌ命(神武天皇)の時代となる。
その時に、近畿本国で、火明命の櫛玉(奇魂=形見)を名乗るニギハヤヒが
妻の兄であるナガスネヒコと共謀して、反乱を起こし
それの鎮圧に、イツセ命やワカミケヌ命(神武天皇)らも参加することになり
それを後世、神武東征という。
出雲の国譲りって、出雲王権が近畿王権に降伏したとかじゃ無くて
後の日本史で例えると、江戸城無血開城からの大政奉還に近いと思うんだが
少なくとも、記紀に書いてある通りに読むならば
751 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 10:47:19.31
>>749 ニギハヤヒも降臨したと日本書紀に書いてある
ニギハヤヒは畿内に居た
しかも日本書紀には170万年前に九州に着たとも
降臨が数代前ならそんな事書かない
752 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:21:22.83
>>751 ニギハヤヒは河内に降臨したとなっている。
その神社が岩船神社と現在もある。
天野川に沿って降臨したと。
畿内説の影響だろうと思うが、神武天皇は架空だという人が多い。
それはいいとしても、神武天皇については全く知らず、知らないのが良いのだ
というような風潮もある。
それに便乗するかのようにトンデモ説が横行する。基本は記紀だという事と
まずは記紀を読むことが重要だということに気付いていない人が多い。
1、出雲の国譲り。…主体は高天原(天照大神・高皇産霊尊)
2、天孫の日向降臨。…高天原(天照大神など)
(3、饒速日命の大和降臨。) …高天原(天照大神など?)
4、神武東征 …日向
という順番になる。
出雲が国譲りした相手は畿内であることは大概の人は一致する
高天原がどこかってことなんだが、国譲りを迫った主体は高天原なんだから高天原=畿内になるよな
つまりニニギは畿内から派遣されたように見えるんだけどな
高天原は、話しが変になるから九州でも畿内でも無い
とすると残るは東北
新羅の始祖も倭の東北から来た
756 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 14:34:30.86
>>754 高天原というのは天照大神が治める国となっている。
実は、天照大神が天岩戸から出た後に高皇産霊尊が登場し、この神様が
登場してから歴史が動き出す。出雲の国譲りも天孫の日向降臨も起きる。
高天原、出雲、日向が神代の主要な舞台だが、実は西北部九州が全く登場しない。
出雲や日向の事はたくさん書かれているのに、その間の西北部の九州が全く
登場しないのはおかしい。というわけで、ここが高天原と考えるのが妥当だと思う。
757 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 15:34:55.77
黒マンタか?
高天原の場所が時々で変わってんのかもな
天という文字を使っている事から、
天智や天武の頃に作った迷信だということが推測される。
760 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:05:34.26
白山信仰(イザナギ、菊理姫)って高句麗系?
761 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:16:04.78
高天原と高千穂がゴチャゴチャになっている奴も多いしなw
出雲国譲りと神武東征もゴチャゴチャになっているやつ多いし。
それにもかかわらず、いろいろ語ろうとしている奴
おおすぎw
762 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:17:34.21
国譲りはただの領土割譲。
弥生時代、半島から侵入してきた天孫族に出雲大国主が土地を与えて、お抱え軍事集団として支配下においただけ。
その子孫が植民地の総督として畿内に赴任した。それがニギハヤヒ。
一方で、同時期に北部九州にも侵入した一派があって、そちらは代々伊都国王として倭人国家の一角を占めた。
その傍系の人物が南九州の隼人族征服に派遣されたのが天孫降臨であり、その子孫が神武。
神武は国盗りを目指して畿内攻略の計画を立て、当時の筑紫大王に謁見して外征の許可を得て出発。
瀬戸内を東進しつつ軍事援助の支援を求め、ついに吉備の協力を得て畿内攻略を成功させた。これが神武東征である。
764 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:36:26.06
765 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:44:43.81
>>753 記紀にはその順番で書かれているんだけどその順番どおりだとすると奇妙な事があるんだよ。
1番の国譲りで出雲の大国主がタケミカズチに国譲りし天照の子孫には逆らわないとしたのに
4番の神武東遷では神武一行は大和川で邪魔され紀ノ川で邪魔されて吉野の獣道から畿内に入らざるを得なかった。
思いっきり逆らわれてる。そしてその神武を畿内で迎えたのは国譲りしたはずの出雲系の大物主。
おまけに綏靖、安寧と出雲系の事代主と御縁をむすんでいる。
全然国譲りなんてされてないんだよね。神武が入った畿内は思いっきり出雲の支配する世界となってる。
766 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:57:52.24
>>765 そのへん、皇室がいろいろ歴史を改ざんして
何が何だか分からなくなっているんじゃないの?
ちなみに、大物主≠大国主で、出雲系じゃないの思うけどな、大物主は。
大物主は三輪山の神格化だから、神武が畿内にはいって結婚した相手は
三輪山の神主の娘ぐらいだと思う。出雲の大国主とは、そんなに関係ない。
また、古事記と日本書紀は記載が違っていて
先に書かれた古事記のほうでは大物主と娘と結婚したことになっているが
日本書紀のほうでは、大国主の息子の事代主の娘と結婚したことになっている。
つまり、もともとは、神武が畿内で結婚した相手は、三輪山の神主の娘ぐらいだったのに、
のちに出雲の近い人物と結婚したことに改ざんしてきたと思われる。
これらのことから、当時の倭国では、出雲国譲りが重要視され、
出雲の係累と縁結びをしたことが重要視されていたが、
その点、神武一族は出雲との関係が曖昧だったので、
より、神武と出雲の関係を密接なように歴史に書く必要が迫られたんだと思う。
767 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:03:51.82
>>756 高千穂に「天下った」神々はそこから日向に向かいコノハナサクヤ姫と結ばれる。
この方は神武のご先祖様になるんだけど、ここで書かれてるのは要するに神武の系譜。
人間が空から降ってくるわけが無く、神々は「天下った」のではなく「天上がった」、
つまり九州山地の西から高千穂の峰に登り、そこから日向へ向かったと考えるのが自然。
高天原は高千穂の西にあります。
768 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:08:52.56
>>766 崇神・垂仁は大物主の祟りに悩まされていたがその際祀ったのは出雲。
大物主が出雲系だったからだろう。
ついでだけど神武を迎えた大物主が崇神・垂仁の時代には祟り神になってしまっていると言う事は
その間の欠史八代の間に大物主が「国譲り」を強いられたからだろう。
769 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:11:21.74
>>765 出雲の国譲りというのは実質的には出雲征服戦争。
高天原が出雲に戦争を仕掛けて、結局征服してしまった。
この場合の出雲は、島根や鳥取とかあの付近のこと。
その後、出雲との争いは記紀では見られない。
この後に瓊瓊杵尊が日向に天降る。そのひ孫の神武天皇が東征した。
宇佐、岡水門、安芸から吉備を経て近畿地方に入っていく。
このあたりは出雲とは違う勢力になる。
>>767 天下りって、空から降って来ると言う意味では無いよ
今の政治家も天下り先に空から降って来る訳じゃ無いし
771 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:59:56.90
773 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 22:55:19.12
>>770 天下りの意味って古代史と関係ないじゃん
文学のスレにでも書いたら?
>>773 >>767を書いたのはお前か?
>高千穂に「天下った」神々はそこから日向に向かいコノハナサクヤ姫と結ばれる。
この方は神武のご先祖様になるんだけど、ここで書かれてるのは要するに神武の系譜。
人間が空から降ってくるわけが無く、神々は「天下った」のではなく「天上がった」
>人間が空から降ってくるわけが無く、神々は「天下った」のではなく「天上がった」
文学のスレにでも書いたら?
>>764 記紀の記述と考古学的状況を勘案したらこうなるんだよ。
客観的根拠のまるでないタカマガハラ王朝説の法がよっぽどファンタジーだろ。
いい加減気付けよ。
776 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:31:34.39
>>774 ここは古代史スレなんだよ
おまえのように「天下り」という単語の意味を偉そうに講釈するスレじゃないんだよ
言葉の意味を解釈したいんなら文学のスレへ行け
ところで「天下り」が「空から降ってくる意味でない」として
それが古代史にどういう意味を持つんだね?
早く答えなさいよ。www
777 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:47:13.21
778 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:51:13.79
天孫降臨というくらいだから、「天降り」のほうがいいんじゃなかろうか。
779 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:56:47.85
>>776 >人間が空から降ってくるわけが無く、神々は「天下った」のではなく「天上がった」、
つまり九州山地の西から高千穂の峰に登り、そこから日向へ向かったと考えるのが自然。
高天原は高千穂の西にあります。
で、古代史的には山登りを天上がりと呼ぶ訳?
これは文学じゃ無くて古代史の話なんだよな?
お前は確かに古代史の話をしてるんだよな?
文学以下だろコレ?
この天上がりの理屈で言うと天下り=下山じゃねぇか
781 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:37:23.54
782 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:41:30.10
>>780 >古代史的には山登りを天上がりと呼ぶ訳?
呼ぶわけないだろ?w おまえ凄く頭悪いだろ?www
もうちょっと国語の勉強したら? バカなんだからあwww
783 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:52:33.58
だから天降りも、その言葉通りの意味
記紀は真実を書いていて
後世の人が信じられないとダダこねてるだけ
784 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 04:30:43.57
高天原って、ふつうにみて、近畿地方の事だわなw
まあ、もっと厳密にいえば、現在の御所市高天地方の地名だけど
まあ、出雲国譲りの時は近畿・濃尾平野中心の王権といってもよいだろう。
その高天原から、九州高千穂へ飛ばされたのがニニギ命。
>>781 神道用語辞典に基づいて古事記を執筆したのか?
ここは古代史スレで神道スレでは無いんだよな?
>>782 つまりお前にとって
>>767は自信作だったんだな
まぁ、御所市高天でも高千穂の西でも好きな事を書き込めば良いさ
ここは文学スレじゃ無く、古代史スレだもんな
ツッコミなんて野暮だったわ
787 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 13:10:56.38
>>784 つまり、ニギハヤヒ系こそ高天原直系で
今の天皇は傍流ってことか
788 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 13:37:29.19
記紀を読む限り、今の天皇は日向系だろうな。
最初は高天原の天照大神などが主役だったが、瓊瓊杵尊が日向に降りてからは
高天原は全く登場しなくなった。出雲もなくて、完全に日向一色。
神武東征以降はその日向も全く登場しなくなった。大和一色というべきか。
記紀神話のすべてを天皇が日向から持って来たわけではないと思う
いろいろ混ざっているんだろう
神武天皇だって事代主神に婿入りしたようなもんだし
>>788 その理屈だと日向系じゃなく大和系になるんじゃないの?
791 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 16:05:00.64
もとは高天原なんだろうが、饒速日命は直接、大和にやってきた。
神武天皇は日向を経ている。そういう意味で日向系と言っているわけだが。
792 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 18:38:04.50
神武は、神代の人物とは何の関係もないよ。だから神武以降が人代なの。
しかし、まさか正史に初代を「日向から来たと称する正体不明の男」書くわけにもいかないから、神武を日向神話に登場する神々の子孫ということにして、日向と大和の神話を無理矢理つなげただけ。
その割には神武東征で天降りした証拠品を見せ合って
お互いに納得していた様だが
高天原から持って来た証拠品が有るのでは?
794 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 21:38:07.76
饒速日命と神武天皇は、同じ天羽羽矢と歩靫〔かちゆき〕(矢入れ)を
持っていて、共に天神の子である証拠としている。
饒速日命は、天神が本当に気にかけているのは天孫であることを知っていた。
なので、神武天皇に末代まで忠誠を誓うことを約束した。これが物部氏の
祖である、となっている。
日本書紀に真実味があるのは、神武天皇がけっこう悪者に映ることがあるという
こともある。たとえば、長髄彦が、同じ天神の子でありながら、饒速日命とは
仲良くやっていけるのに、どうしてあなたとは戦わなくてはならないのですか。
と言ったりする。長髄彦には到底わからないことだと言って殺してしまう、
なんていうのもある。
記紀で降臨の地を九州のようにしてるのは、白村江での大敗後の政治的意図からだよ
初代天皇の出身地であるはずの地に、延喜式神名帳では名神大社は一座もなく
日向國の式内社はわずかに4座(下から3位) しかない
日向國一宮 都農神社の祭神は大己貴命
記紀と延喜式神名帳の間の期間に、意識の変遷があったのかね?
記紀がもし政治的に神武天皇のルーツを定めていたとすると、
当時のインテリたちはその意図を理解していたんだと思うけど、
二百年後には、その意図はすっかり忘れられていたってことか
797 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 23:14:57.91
大己貴命(神)の字義は、大国主命(神)と同意味の別表記。
大、己(ナ=国)・・・大国、
貴(むち)命・・・至貴なるお方。
大(倭)国を統べる偉大なる大王陛下に同じ。
要するに特定の人(個人名)では無く、その至尊なる地位、職掌の呼称。
798 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 23:19:22.71
天智系から簒奪した天武系から直ぐに天智系がリベンジして復古。
神社を建てるのは政治的意図で天皇の教化の度合いが低い地域に建てるものです
具体的には戦った歴史のある地域に建てられている場合が多い
特に教化の必要なその時々で重要な周辺地域には大社級のものを配す
式内社が多い國 式内社 名神大社(座数)
1 大和 286 50
2 伊勢 253 4
3 出雲 187 2
4 近江 155 13
5 但馬 131 14
6 越前 126 2
7 山城 122 29
8 尾張 121 8
9 河内 113 9
10 陸奥 100 15
11 伊豆 92 5
12 摂津 75 18
13 丹波 71 5
14 丹後 65 6
15 遠江 62 2
16 和泉 54 1
17 阿波 50 3
17 播磨 50 7
17 因幡 50 1
20 信濃 48 7
九州の式内社 名神大社(座数)
筑前 19 16
筑後 4 2
豊前 6 3
豊後 6 なし
肥前 4 1
肥後 4 1
日向 4 なし
大隈 5 なし
薩摩 2 なし
壱岐 24 6
対馬 29 6
九州以外で式内社が少ない國 式内社 名神大社(座数)
志摩 3 0
安芸 3 3
長門 5 3
上総 5 1
伯耆 6 0
安房 6 1
飛騨 8 0
佐渡 9 0
出羽 9 2
805 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 00:37:01.99
>>795 わかったようでわからない。と言うか論点のすり替えに思える。
神武天皇が日向の出身と言うのは、記紀にはっきりと書かれている。
式内社の数にどういう因果関係があるのかは不明。
延喜式は時代がぜんぜん違うし…。
806 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 03:09:51.19
天皇家というか、ヤマト王朝の発祥地は
大和国に葛城の高天地方。
九州日向は一時期、住んでいただけの土地で
本籍地はずっと大和国にあった。
だからこそ、神武東征は可能。
分かりやすく言うと、江戸幕府で本拠地の江戸で内乱があったので
尾張家や紀州家が援軍として江戸に行くみたいなもん。
その通り。
記紀にニニギは高天原から来たと書いてある。
>>806 そこは土蜘蛛の故郷
記紀にもそう書いてるし、神社にも史跡が残る
809 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 03:18:25.73
饒速日命が天孫降臨した地は、河内国で、
その後、大和に入った。
ここで重要なのは、ヤマトという地名の領域も常に変化しているということ。
もともとはヤマトって、三輪山の麓の狭い地域の名称だが
律令制度導入期には、現在の奈良県全域を示す地名になっていた。
810 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 03:31:11.74
>>808 それがどうかしたのかよw
土蜘蛛、土蜘蛛って、うるさいなw
そもそも、土蜘蛛って何者だよw?
そこからスタートだ。
だいたい、土蜘蛛の洞窟があろうなかろうとと、
橿原市や桜井市などからみて
至近距離だしな。
どこに住んでいようと、ヤマト王朝のずっと近くにいたのだから、大差がない。
>>810 タカマガハラ王朝のお膝元な割には、「まつろわぬ原住民」がわんさといるのは矛盾だろ、って話よ。
神武東征以前の大和はどうみても王化の及ばぬ化外の地、ド辺境としか描かれていない。そんな場所が倭国の中心であるはずがない。
考古学的に言っても、纏向以前の大和は文化の遅れたド田舎だ。
>>795 西都原古墳群は無視かよ
延喜式の時代には寂れた田舎かもしれんが、
前方後円墳体制全盛期の日向は一大勢力だぞ
ド田舎じゃないですよ。
あの時期にマキムクのような大規模な掘立柱建物群は全国どこにも見つかっていない。
また弥生後期以後の日向は外の文化が浸透していく方向で、外に出て行ったものは限られる。
全国何処でもそうなんだが。
古墳時代は常に畿内が最大勢力
前方後円墳は大和王権の象徴
九州中南部は発展した都市遺構もないのに、南九州との境界の宮崎、熊本南部に
大和の象徴ができるのが九州の中でも早すぎる
半島からの渡来人が多い九州は、元々中央の大和からすると弱点
663年に唐・新羅連合に大敗したことで、九州の日本人勢力が弱体し
律令化が遅れていた南九州の支配体制の強化が急務となった
713年に大隅国を設置し、大和と関係が深い豊前から移住させたが
720年に隼人の反乱が起きてしまう
720年に完成した日本書紀は、中国人が読んでもある程度わかるように
漢文体指向で書かれている
九州への降臨は、古墳時代の国内向けの大和の象徴と同じで、中国、半島勢力に対して
九州が古来より天皇の統治する地であることを示すためのもの
だから、出雲国譲りとストーリーが繋がらなくなってしまっている
816 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 10:15:47.98
九州の場合、南は熊襲との前線
817 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 10:21:01.07
>>815 つまらい。意味不明w
そんなことせずとも、神武東征よりも前の段階でも
九州とか出てきているぞ、国土の誕生でw
本当に神武は九州生まれだったんだよ。
ただし、曽祖父のニニギは、近畿の高天出身だったが、
九州南部統治のために、近畿王権の命令で、日向に送り込まれた。
神武の一族はそういう家系なので、日向に赴任しているが
本籍地はあくまでも近畿だった。
だからこそ、九州への思いれが少ないだけ。
818 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 10:28:50.62
これ本当?
・最初に天照大神を祀った檜原神社(三輪)は式外社
・高千穂に式内社が無い
・神武天皇を祀る式内社は無い
確か素戔嗚尊の式内社は多いんだよね。
だったら、式内社をまとめた頃の醍醐天皇は素戔嗚尊系の血筋だったんでは?
王朝交代は何度かあったでしょう。
819 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 10:35:45.63
天照大神は筑紫生まれだろ。
弥生時代の墓から鏡が出土するのは、福岡と佐賀だけだ。
客観的に見て、高天原は九州北部ですね。
820 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 11:59:36.94
高皇産霊尊(高木神)、神皇産霊尊って、あれこれみているとどうも須佐之男命のことジャマイカ?
♪♪そんな〜気が〜してならないの〜♪
古来、須佐之男命並びに異名同神や係累に
皇室と朝廷は高い神階や称号(日本総鎮守、日本総社ほか)と
丁重なる祭祀と崇敬を捧げつづけているのも
記紀神話からしたら妙な話
821 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:36:07.60
高天原は、経津主神と武甕槌神を出雲に派遣して、大己貴神とその子の
事代主神に国を譲ることを約束させた。二神は姿を消し、従わない神々は
ことごとく平らげられた。
となっているが、その後、出雲はどうなった?
822 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:54:47.25
823 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:07:37.55
神武天皇という名前は後世の人間が付けたもの。
本名はワカミケヌ、通称がイワレ彦(イワレの領主)
現在の天皇家の先祖であるが、彼が本当に正式な倭王の地位にあったのか
疑われる。
実は、イワレ彦の何代か前に分かれた尾張氏の先祖のほうが
正当な倭王の地位にあったらしいし。
824 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:25:49.26
>>818 >式内社をまとめた頃の醍醐天皇は素戔嗚尊系の血筋だったんでは?
>王朝交代は何度かあったでしょう。
もう、何でもありだなw
いくらなんでも、無理。
悪魔の証明を議論しても有益なことは何もないよなぁ
いろいろな仮説が立てられるわけで
蓋然性から何が一番適切かという議論しか出せない。
早く新しい発見があればいんだけどさぁ
そんなホイホイ出るわけでもなし
新参の知識収集スレとしてしかあまり役にたってない希ガス
826 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 15:23:50.59
いくつか候補しぼってあとは発掘するしかないな。
女性が埋葬されていて、100人の骨でてくれば
個人的には宇佐神宮を発掘してほしい
あそこが誰かの墓なのは確かなんだから
>>817 怖くて大和平野の中央にも出てこれずに、高天に隠れ住んでるような状態で
九州の南の端まで統治に行けるわけないだろw
九州の端まで統治が及ぶ頃には、下向される者の前に何代も王の名が存在するはずだろ
わからなくなってたら、創作してでも羅列するよw
828 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:34:17.35
>>824 なんで?
出雲、倭国・委奴国王家など征服された方が人質として妃を差し出してるんだから、
いつでも浮気して男系血筋をかえるチャンスがある。
男系DNAが重要なんでしょ?
DNAなんてこの時代の人間がわかるかよw
この時代に大切なのは、その男の息子として周りから承認されるかだろう
830 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:39:09.67
内緒でいいんだよ。
831 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:41:31.04
母のもとで洗脳すればいいんだわさ。
832 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:58:23.97
高天の周辺って、安全保障上、大和平野の中でも
一番守りやすい場所だけどな。
でも、一度、天下を平定すると、あとは経済性重視して
もっと広い平野部に移す。
高尾張(葛城)であったり、三巻(ヤマト)であったり
戦国時代でも、例えば、越前国の場合、乱世においては、
朝倉氏が一条谷に本拠地を置いたが
織田政権以降は、越前の中心地は北ノ庄(福井)にうつった。
833 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 20:14:24.49
土蜘蛛の子孫が必死過ぎて涙をさそいます・・・
彼のライフワーク()なんだろうな
もうちょっと考えてから書けよと思うが
835 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 20:00:42.23
高天原が畿内にあったって考えてる人たちって
天孫は畿内から九州の高千穂に降臨したって考えてるの?
836 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 20:30:54.19
饒速日命って出雲系なんじゃない?
この辺は先代旧事本紀のほうが記紀より信憑性があると思う
837 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 20:47:28.46
ニギハヤヒの神宝を見た神武が仲間だと認めているのに??
838 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 21:19:29.89
>>837 大物主とナガスネヒコの間には神武一行を迎えるか否かで対立があったんだろう
最終的に大物主はナガスネヒコを支持せず神武一行を暖かく迎えてる
その事を持って仲間だと認めたのがホントじゃね?
839 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 21:28:30.09
>>809 >ここで重要なのは、ヤマトという地名の領域も常に変化しているということ。
>もともとはヤマトって、三輪山の麓の狭い地域の名称だが
>律令制度導入期には、現在の奈良県全域を示す地名になっていた。
そう言われてるよね。
もし邪馬台国が畿内にあったのだとしたら、
ヤマトが三輪山の麓の狭い地域の名称に過ぎなかったというのは
じつに奇妙な話ではないだろうか?
840 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 21:38:23.84
ガス抜きスレw
841 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 22:21:01.17
>>839 そう、邪馬台国の七万戸が奇妙だな。
七万戸に合わせるために邪馬台国の範囲を広くすると、後の大和が
おかしくなる。大和朝廷のお膝元なのに、邪馬台国よりずっと小さく
なってしまう。
842 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 22:59:24.04
神武とニギハヤヒは同じ民族、国出身だったんでしょう。つまり高天原は日本じゃないと思うが。
宮崎駿は、ニギハヤヒや高句麗を好きそうだし、高句麗の白山信仰のある文京区出身。
しかし、土々呂(トトロ)は神武が出発した日向灘にあり、
宮崎という姓も 狭山(トトロの森)のいくつかの神社の社家によくある名で、
神武東征に従軍した宮崎宮の社家の宮崎さんからきてそう。
ちなみに神武天皇の幼名が狭野尊らしいが、狭山と関係あるだろうか。
狭山(入間)には、ヤタガラスを射落とした伝承がある。
とにかく、ニギハヤヒも神武も高句麗人なんだと思う。
そうでないと、ジブリ映画の意味がわからない(笑)
まあ君達じゃ辿り着けるのは無理でしょう(笑)
>>842 土環夫(ドワーフ)は坑道を掘って貴金属を鍛えていた民みたいなノリだな
845 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 23:33:12.09
846 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 23:36:45.62
そういう何も意見を書く事のできない無能な
>>843が一番辿り着くのが無理そうなのであった(笑)
847 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 23:45:38.38
>>843 はいはい、おじいちゃんそろそろオムツ交換の時間でしゅよおお〜w
848 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 04:01:59.77
>>842 >>高天原は日本じゃないと思うが
高天原は朝鮮半島の何処かだろう
朝鮮半島と北九州に勢力を持っていた倭国の倭人の列島の旧勢力の
日の本への東征混合と政権の統一なんだろう
倭国は列島の旧勢力の日本という国名を乗っ取ったんだよ
大和政権の大陸・朝鮮半島への拘りは故国の失地回復運動みたいなも
のだろう
高句麗も百済も新羅もすべて満州南部の国で朝鮮半島は倭人の連合国家
だったのだろう
遊牧民中心の朝鮮半島(耕地が狭く稲作に適さない)よりも稲作に適し
ている列島東部へ移動して統一した歴史
849 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 04:08:14.16
昔の朝鮮半島は現在の満州北部から南下した朝鮮・韓国人とはちがい
日本列島の住民との会話に通訳が要らなかったと言われている
すなわち当時の朝鮮半島の支配者は現在の日本語と共通の同族だよ
稲作文化も日本列島から遊牧民の朝鮮半島に伝わったんだよ
すべて逆なんだと思うね
850 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 05:09:46.14
半島には鏡を王権シンボルとする習俗はないので、無理が有り過ぎますね。
縄文人と弥生人は同じ言葉を話していた!
とまで言い出しそうだな。
朝鮮には、当時日本では採れない純度の高い鉄があった
日本人との交易では貨幣の代わりに鉄で支払っていたらしい
北九州には、朝鮮より高度な鉄加工技術があった
農耕具や兵器に有利な鉄を手に入れた九州の豪族が、
なぜ、関西の銅や石器の豪族に制圧されるのだろうか
853 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 06:48:32.67
>>848 天孫族って倭人なの?
天グリ(天神)信仰だから、ツングース、高句麗の可能性は?
>>853 日本ってテングリ信仰なのか?
記紀には、天そのものをあらわす神って出てこないんじゃない?
855 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 08:07:13.36
856 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 08:12:06.69
…本稿はこの要素を、アマテラスよりもむしろタカミムスヒに属するものと考える
要旨だけじゃ良く分からんな
日神的天神ってのもこの韓国人のオリジナル用語みたいだし
それに要旨を見る限り、
神であり天そのものっていうテングリの性質を天照大神や高皇産霊尊から見出してるわけじゃないだろ
日本人のルーツがミャオ族だって知らなかったんだなw
偶然の産物を無理矢理意味付けして分類してもなあ
ミャオ族と天照大神や高皇産霊尊が関係あるのか?
ミャオ族の風習を調べたらこの論文のおかしさがわかる
海で見る太陽の方が山で見る太陽より美しいとか、そんな主観的なことを判断基準にされてもw
桜美林大学のレベルならしょうがない
863 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 12:22:04.89
よくも、まあ、ここまでトンデモ説をまき散らせるなw
864 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 12:27:46.18
>>852 それじゃ、質問するが
戦国時代、一番、鉄砲や大砲を導入していたのは
大友家や島津家などの九州の諸大名だったけど
でも、実際に日本を統一していったのは、
鉄砲や大砲の導入が遅れていた畿内や中部地方の諸大名だったよな。
なぜ?
同じことだ。
鉄の導入の早い遅いよりも、地理的要因、動員兵力の多さのほうが
前近代においては、有利不利が働くんだよ。
そういう風に考えたら、古代から日本を統一していった主導的な勢力や
畿内や東海地方の勢力な。
実際に倭の五王の上奏文でも、東に西に統一したといっている。
どうみても、畿内中心に勢力を拡大したとしか思えない。
なぜ畿内から東の勢力は記紀に登場しないんだろう
866 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:05:24.92
そりゃ、屈服しなかった勢力を書きたくは無いわw
867 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:07:56.09
>>865 尾張氏とか伊勢氏とか毛野氏とか出てくるじゃん
868 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 20:52:36.84
畿内には卑弥呼以前の鏡を埋葬した王墓がでたないじゃん。
箸墓なんかゴッドハンドにきまってるし。
さらに、箸墓より前の王墓はどれよ? とゆう疑問には答えられない。
869 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:48:46.88
ホケノ山古墳とか纒向石塚古墳とかあるだろ
九州には3世紀の鏡を埋葬した巨大古墳がたくさんあるんだっけ
870 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:35:34.44
鏡のある古墳はそれなりにあるが、
北部九州は基本的に大型古墳にはあまり興味を持っていない。
大型古墳を作り始めるのは、5世紀より後
弥生期の大型古墳なら宮崎だな。
あと、九州に多いカメ棺からも、鏡が出てくることもある。
871 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 08:52:43.15
付き合いきれないから、カルト説を読んでいて面白可笑しく笑っていまふw
高天原とは、実はアトランティスだよ
しかも南米だよ
これマメなw
知ってた
おお
仲間がいたw嬉しいな
信じられないならググレカス
875 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 22:37:26.32
「旧唐書」によると「日本」は「倭を征服した小国」としている。
新唐書では記述が逆で、日本という国を倭が征服して日本と名乗るようになった、となっているが、
ここで重要なのはどちらも「日本」と「倭」は別の国であると言っていることだ。
その書かれた年代から、恐らく、倭が日本になったのはは天武天皇の御代であると考えられる。
天武天皇は壬申の乱によって政権を得て、古事記、日本書紀の編纂を命じた天皇だ。
これは極めて重要な示唆であると言える。
壬申の乱における天武天皇の手兵は伊勢・近江・信濃の豪族だ。
これらの地域は日本の土着太陽信仰が盛んな地域で、それ以前には幾度も中央から征伐を受けてきていた。
近畿・出雲は「ムスビ神」で、その祭祀氏族から外来の神であることは間違いない。
つまり、古事記や日本書記が言っているのは、一度外来勢力の秦氏などに屈した日本を、現地勢力が再征服したということ。
この視点から見れば、高天原は外国ではあり得ない。
876 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 23:07:30.69
>>875 部分、部分、抜き出してみたら、そういう印象受けるけど
そこでは同時に、倭国という名前が嫌なので
日本国に名前を変更してくれとも言っているんだよ。
で、日本の使者の言うことなどが二転三転するから
中国側が不信に思ったと書かれている。
明史の日本の記述が杜撰なのを考慮に入れるとだな
我が国が壬申の乱後に国号を日本に改めたことはちがいあるまいが
その理由が、倭に侮蔑の意味があることを恥じた、あるいは日本が倭を滅ぼした、とされているのを見ると
伝聞によって多分に曲解を生じていると思われる
そもそも、漢字で倭と当てられてはいるものの、本来我が国は自分たちの国を「わ」とは言っておらなかった。
単に”われら”という意味において「わ」と言っているのを、向こうが勝手に国名を倭と勘違いしたのであり、
外つ国が、我が国のことを長年倭と呼び習わしてきたのには、心中鬱積たるものがあったと思われる。
そこで、聖徳太子が日いずる処の天子と自己を呼称したように
積極的に仏教導入がなされ、また漢字圏の政治思想が輸入され、それにならった国家制度の整備を行われるにつれて
対外的に、我が国を正式な形で漢字によって表記し、呼び表そうとする機運が起こることとなったのだろうか、
果たせるかな、天武期において、国政の刷新を機として日本号を用いることが裁可され
唐に対してこれを表明するに至ったと思われる。
ところが、唐はまたもや我が国の突然の国号の変更がされた意を解してはいなかった。
我々はもともと「わ」ではなかったのだ、天を尊崇し、太陽神に親しむ国柄であるのであり
漢字の国から見て、日の出ずる処の国であるのだから、日本と称したいと言ったのを
理が分からない、きっと倭という字を恥じたのだろうと言い、
あるいは、折からの壬申の政変によって、勝者側である国の号をもって国号としたのであろうかと想像したのではあるまいか。
878 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 23:32:13.54
前方後円墓の全国展開を考えたら、天武時代まで2つに分かれいるわけないだろw
879 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 23:40:40.22
>>875 旧唐書の記述が正しいとすれば、「倭国は古の倭奴国なり」というのも
正しいのかな。
つまり、こういうことだ
はじめ倭の奴国がずっと中国側と通商の窓口として肝煎で交渉してきた
大和政権が列島を統一してからも、奴国がずっと交渉を引き受けていた。
大和政権が倭人と呼ばれる人たちの国をたばねてはいるが、奴国は連合国家の一つの長、国造として存在し
中国側とすれば、以前から通商のよしみのある倭奴国と背後の大倭は同一の存在であるとの認識があった。
天智時代に移り、中央集権制度になると奴国は消滅。倭の代理で交渉をすることとなった。
その後に天武になり、国号が日本に変わると、日本の代理で交渉することとなる。
>「倭国は古の倭奴国なり」
「倭国はいにしえの委の奴国」だったらおかしいから、委奴国だよね?
882 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 08:04:34.20
旧唐書によれば、倭国は島嶼。
日本国は東北に山があり、それから先は毛人の国で不明。
ちゃんと地勢も書き分けられている、明らかに別の国。
883 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 09:07:50.37
自分は、倭国という名称は
出雲時代、つまり、ヤマト王朝が出雲国譲りさせて国家統一するよりも前から
対中国で使われた日本側の名称だった。
それをヤマト王朝も惰性で使い続けていたので
そろそろ変えたいという意味だと思うわ。
中国側の文献をみたら、すくなくとも紀元前の時代から倭国と呼ばれていたみたいだし。
委奴国から倭国へ換わったのはいつ?
山城州の頭目、関白信長の部下で、薩摩州の奴隷だった平秀吉が後に関白を僭称したということだの
886 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 09:49:06.86
委奴国は、倭の奴の国という解釈で良いと思うわ。
倭国は紀元前から、対中国の日本の国名になっていたけど
西暦57年の時点では、倭国は何らかの国家分裂期だったので
倭の中にあった奴国が直接、
倭国側の代表者として外交するようになっただけだと思う。
対馬の宗氏みたいなもんだな
戦国期、江戸期、明治初期を通して朝鮮との通交を独任されてたが
衝突を避けるために外交文書を改竄していた。
それが征韓論の原因にもなっているし。
同様のことは長崎出島の通詞が自己の利権のために
オランダ風説書を利用したことにも言える。
中央政府首脳と外務担当が一蓮托生の関係にないかぎり
ふつー似たようなことは起こる
888 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 14:59:46.51
戦国時代、大内氏、毛利氏なども日本国王の勘合符で
中国と貿易していたから、それと似たようなことがあったんだろうな。
とくに、倭の奴国なんて、そうだと思う。
ただし、邪馬台国に関しては、倭国の大部分(100か国のうちの30か国で、
人口で行くと6割ぐらい?)を代表していたと思う、
全部とは言わなくとも。
>>886 これはどういう意味?→「倭国は古の委奴国なり」
あと、委は「わ」と読めるの?
>>889 古田氏の九州王朝説だろう
九州には後漢の系譜を受ける漢人の国、イト国があったとされる
まあ、学会では誰も相手にしてないそうだ
891 :
サガミハラハラ:2013/03/04(月) 18:12:09.23
イト国が漢人の国とは初耳です。書名教えてください。
知らないよ、古田説なんだから。
九州ってのは天下を表す言葉らしいし、邪馬台国の台ってのは天下人をいるところを表す言葉らしいので
野蛮な異民族に対して用いる漢字じゃないそうだよ
委奴国が漢人の国だから、漢委奴国王 なのですか。
「松野連」の系図より
http://adat.blog3.fc2.com/blog-date-20091215.html @ 「忌」(呉王夫差の次の代、つまり渡来一族の初代首長)の時
「姫氏」は、紀元前473年に火の国(肥の国)山門郡(現在の福岡県八女市の南西)周辺に渡ってきた。
「忌」のところに「孝昭天皇三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」とある。
「孝昭天皇三年」は皇暦(神武天皇から数えて何年という大和政権独自の年歴)では
「紀元前473年」にあたる。夫差の呉国が滅んだ時である。
鈴木真年という系図研究家は、「資治通鑑」(1084年成立)という中国の史書に、
「周の元王3年(管理人注:「十八史略」では「周の元王の4年」となっている)、
越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記しているという。
確認できていないが、中国でも、夫差の一族が日本列島に落ちのびて倭人になったという伝承が伝えられていたようだ。
「周の元王3年」は、「孝昭天皇3年」と同じく紀元前473年である。
中国の正史では晋書や梁書にも、
「倭人自らいう、太伯の後(子孫)なり、と」
と記録している。
A「順」(「忌」の次の代)の時
委奴に移住して王になり、前漢の地節2年(紀元前68年)、宣帝に使いをだした。
「委奴」の位置について、内倉さんは次のように述べている。
「委奴」は現在の福岡市西部から佐賀県北東部の唐津市周辺、糸島半島を中心にした地域である可能性があると筆者は思う。
魏志倭人伝にいう「伊都(いと〉国」の地である。伊都国を望む志賀島は「漢の委奴国王」の金印が出たところである。
糸島半島は後まで「火(日、肥)の君」すなわち「紀氏」が住んでいた場所でもある。
現存するわが国最古の戸籍、大宝2年作成で正倉院文書に残されていた「筑前国嶋郡戸籍川邊里」に数多くの「火の君」が記録されている。
896 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 20:22:53.05
みんな難しく考えすぎなんだよw
卑弥呼=モモソ媛命を照らしわせれば、ほぼなぞは解決。
モモソ媛命は天皇(倭王)ではないじゃないか?という人いるけど
そもそも、漢風諡号で、神武天皇、崇神天皇、雄略天皇という名前を付けたのは
記紀が編纂されて数十年後の西暦8世紀中ごろの話。
897 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 20:26:01.37
あと、時系列めちゃくちゃなやつが多すぎ。
中世以降でいう、足利尊氏と徳川吉宗を同時代の人間として
語るぐらい無茶苦茶な説を言う奴がおおすぎ。
898 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 23:05:15.16
大倭媛命。
大倭途途日百襲比売命。
一云、豊鋤入媛命。
国造が廃止されたのは大化以降だそうなので
早くとも645年以降に倭奴国はなくなって、倭奴国造家は地方国家を統制する権力の座から降りたと思われる。
隋書には倭国のみの記述があり、内容には冠位十二階と思われるものなど日本書紀の聖徳太子らの業績の記述がある。
一方、旧唐書には倭国と日本国が別立されており、倭国の記述は貞観22年(648年)、新羅を通して消息が確認され、これで終わっている。
また貞観5年の記述がおもしろい。遣わされた高表仁は、日本の王子と礼についてあらそい
皇帝の言葉を伝えないまま帰国した、とある。
礼とは、つまり中国を皇帝とし、日本はその臣下であるという立場を守れというようなことであったのではないか。
しかし、表仁が綏遠の才(中国から遠い国の人たちを統治し安んずる才、威光)がないと評されているところからすると
外交的にはフォローが入ったと思われ、おそらくそのフォローが貞観22年の消息であろう。
旧唐書・日本国伝の条には、690年に唐朝が廃された後の則天武后の長安3年(703年)に入朝したとある。
このとき、日本はちょうど文武天皇の御時にあたり、648年から約五十年の格差がある。
ついで新唐書は、日本国の記述しかない。
古の倭奴とあり、旧唐書の倭国伝の記述とかぶる。
しかし、おもしろいのは旧唐書とは異なり、日本書紀の内容がそのまま記述されていることだ。
そして、古の倭奴と言いながら、用明天皇の御時(585ー587)、用明をまた曰く多利思北孤として、
開皇(581−600)末に”始めて”中国と通じる、とある。おそらく遣隋使のことだ。
これは隋書の、開皇20年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌・・・の記述と同じものだ。
しかし、開皇20年には用明はすでに亡くなっており、日本の天皇は、崇峻をはさんで推古天皇の御時にあたる。
多利思北孤は用明の子である聖徳太子かもしれない。
また新唐書には、貞観22年以降の記述がある。
永徽初(650年)に日本は、皇極の白雉年間に琥珀・瑪瑙を唐に献上しており
日本書紀によれば日本はこの時期であっても、唐・麗・済・羅・蝦夷のみなと通交している。
孝徳崩御後、斉明のおそらく655年に、毛人と共に唐へ入朝している。
咸亨元年(670年)に、遣使が高句麗平定を祝賀して入朝し、倭名を憎み、日本と改号したと記述される。
そして、長安元年(701年)文武が立ち、その御時に、遣使を遣わしたとあり、これは旧唐書に同じである。
さて、倭から日本となるまでの歴史をもう一度省みれば
645年に中大兄皇子に蘇我入鹿が暗殺されて、大化の改新が行われているが
一方、その前後の半島情勢もさらにめまぐるしく動いている。
そもそも隋は、遼西を侵す高句麗に対し、文帝の598年、皇位継承争いを挟んで煬帝の611年から三度の遠征を行ったが、
突厥との連携もあり尽く失敗した。結果、度重なる負担から反乱を招き隋は滅亡、代わり李淵によって617年唐が興される。
李衛公こと李靖が突厥征伐に成功し、貞観3年(630年)突厥は一時滅び唐に服す。
南北朝を統一する中国に危機を抱き、折から軍事態勢を強化しようとしていた高句麗は、新羅と対立する百済と同盟し、
642年、共に新羅を攻める。しかし、唐が644年高句麗遠征(644 - 645)に踏み切ると、648年に羅唐同盟が結ばれる。
高句麗遠征は失敗するが、新羅と唐の関係は続くこととなる。
654年、新羅では以前から唐化政策の推進に勤めてきた武烈王が即位。
一方唐では、655年に武皇后が立后すると、高宗に代わり政治を専断するようになる。
日本はこの間も遣唐使を出しており、麗済同盟後である白雉年間(650-654)にも通交はあいかわらず続く。
660年、麗済同盟に追い詰められつづける新羅の請願を受け入れて、唐が百済へ遠征すると
あっけなく百済は滅亡。翌661年より日本は百済復興のため出兵をはじめる。
武烈王は高句麗遠征の陣中で死す。唐の高句麗遠征は再び失敗。
つづく663年に白村江の戦いがあり、日本は敗戦。滅亡の危機を前にして中央集権への改革が急ピッチ化。
664年には北部九州での戦いに備えて城砦を築き、665年に唐と戦後交渉、667年に捕虜返還や瀬戸内海沿岸にもさらなる防衛を固め、防人を配備する
667年に近江大津宮へ遷都、翌668年には中大兄皇子による称制から即位して天智天皇の親政となり、近江令など律令政治が試みられる。
668年に666年からの唐の侵攻によって高句麗が滅亡。高句麗に属していた、高句麗遺民・契丹・靺鞨は唐に属す。
669年、日本は、唐との国交正常化を図り、遣唐使を派遣。しかし、高句麗滅亡後、再び半島情勢は荒れる。
新羅と唐の関係が険悪となり、670年新羅文武王は、高句麗遺民の復興運動を支援し、半島にて唐と戦うこととなる。
新羅本紀、新唐書によれば、670年に更號日本とあり、倭は国号を日本にした、としている。
671年に新羅は唐を撃破、旧百済地域、黄海を制するが、672年に敗れて平壌まで迫られ、文武王は唐に謝罪。
しかし675年に再び侵攻を行い、半島より唐を駆逐した。676年、新羅と唐は停戦。
高句麗復興は止み、高句麗王家の安勝は新羅内にて冊封されるも684年の反乱によって失われる
唐に服した高句麗遺民は遼寧省強制移住させられることとなる。
一方、日本は672年に天智天皇が崩御。壬申の乱ののち、天武天皇が立つ。
天皇号が用いられたのも天武の御時からとされるように、
壬申の乱以後、皇親政治が行われ、天皇が圧倒的な力をもった。
天武期において、日本は争いが続く半島情勢に手を出さず、国内情勢の安定化を計るとともに
外交においては天智期とは異なって唐とは結ばず、低姿勢で日本に朝貢を示す新羅と通交した。
天武期における統治政策が今に与える影響は少なからぬものがあると思われる。
唐風文化への盲従を質し、神道を代表とした土着文化への回帰が見られる。
日本の国号もこのような背景から、天武期に始まるとする説もある。
他、済州島にあった耽羅、種子島、屋久島、奄美大島などの島々、北は陸奥の蝦夷をも治めている。
681年新羅文武王が死す。
永淳元年(682年)、突厥が唐の羈縻支配を脱し、再び独立。
686年天武天皇崩御、皇后であった持統天皇が立つ、外交政策はそのまま踏襲された。(唐と国交なし)
690年、則天武后が唐を廃し、周を立てる。
唐が北方民族を鎮圧したものの、暴政もあり遼東遼西の情勢は再び悪化。696年契丹が反乱。
697年、文武天皇が即位。
698年、契丹の反乱に乗じて、靺鞨は高句麗の遺民と共に渤海を建国。
701年、大宝律令が完成し、翌年公布。669年以来はじめての遣唐使。
705年、655年より唐の政治を差配してきた則天武后死す。
745年、東突厥滅亡。トルコ系移民へ。 894年、遣唐使廃止。
907年、唐滅亡。移民流入後、宋へ。 926年、契丹(遼)によって渤海滅亡。金へ。 935年、新羅滅亡。高麗へ。
巷では、多く、天皇号は天武以後とのことから、672年以前に出てくる天皇に関する記述も後代の改竄であるとする。
よって、670年の日本号も偽物であるとさえ言われるし、ましてや600年からの聖徳太子の隋煬帝への親書もなかったとするものもある。
倭はずっと隋(中華)に臣従していたということだ。
しかし、古代日本人が外国の唐人に虚言を弄し、新唐書に日本人によって改竄された歴史を書かせたと主張することは
極めて説得力に欠けた非常にキビシイ意見のように思われる。
遣隋使のころから仏教が取り入れられて、日本が文明化していたことは隋書からして明らかであり
これは旧唐書では倭国の条に書かれ、新唐書では日本国の条に書かれる。
仮に日本国が倭国と別ものであったとしても、白村江で唐と戦ったのは倭国だ。
倭国はもともと南北朝時代に半島に覇権をもっていたのだし、
唐と戦争を決断するほどの国家であったわけで、単純に隋唐の臣下であったとは言えない。
よって、聖徳太子の親書もありうるのだ。
では、日本国は倭国とは別もので、隋のころにも存在し非文明国だったという意見は妥当だろうか?
旧唐書劉仁軌列伝には、「(顕慶)五年、高宗征遼、令仁軌監統水軍、以後期坐免、特令以白衣随軍自効。
時蘇定方既平百済、留郎将劉仁願於百済府城鎮守、又以左衛中郎将王文度為熊津都督、安撫其余衆。」
とあるように、劉仁軌に水軍を率いらせ、すでに蘇定方が百済を平らげていたところ、彼にそのまま百済国府の守りに
当たらせ、王文度を熊津都督とし、彼らを以て百済の残存勢力の鎮撫に当たらせた。とある。
次に、「文度済海病卒。百済為僧道深、旧将福信率衆復叛、立故王子扶余豊為王、引兵圍仁願於府城。」
文度は病死。百済は僧道深とかつての将軍福信に衆を率いらせ再び叛き、かつての王子扶余豊を王に立てた。
同様の内容は、百済伝にもある。
「文度済海而卒。百済僧道深、旧将福信率衆拠周留城以叛。遣使往倭国、迎故王子扶余豊立為王。」
文度は渡海後に病死。百済僧、旧将福信は衆を率いて周留城に拠し、使いを倭国に往かせ、
王子であった扶余豊璋を迎えて、王として擁立した。
劉仁軌列伝に戻る。「俄而余豊襲殺福信,又遣使往高麗及倭国請兵,以拒官軍。」
百済王扶余豊璋が俄かに福信(鬼室福信、百済の王族・将軍)を殺し、
遣使を高句麗と倭国に送り、兵を請い、以て官軍(唐軍)を撃退しようとした、とある。
さらに、文を下ると「於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、
会陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘、煙?漲天、海水皆赤、賊衆大潰。余豊脱身而走、獲其宝剣。
偽王子扶余忠勝、忠志等率士女及倭衆并耽羅国使、一時並降。」
仁師、仁願と金法敏こと新羅文武王は陸路を、劉仁軌は別途、百済太子であった扶余隆らを率いて水路を進んでいたが
熊津江から白江へと出たところで、陸軍合流し、いっしょに周留城に攻めるつもりであった。
しかし、白江への入口で倭兵と遭遇、戦闘状態へ入るが、戦うこと四度の後大勝、倭の船400艘は炎上。
その煙や炎は天を覆い、海を赤く照らし、倭軍を潰滅させた。扶余豊璋は敗走し脱出したが、彼の宝剣を獲た。
偽王子忠勝・忠志ら、女や倭兵ら耽羅国使までもみな一斉に降伏した。とある。
また「麟徳二年、封泰山、仁軌領新羅及百済、耽羅、倭四國酋長赴会、高宗甚悦、擢拜大司憲。」
665年高宗が泰山で封禅の儀を行ったときに、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝す。
よって、663年に唐と戦ったのは倭国。戦後に唐と交渉を行った守大石も倭国人。670年高句麗滅亡で唐に参賀を寄越したのも倭国人だろう。
旧唐書では、長安三年まで日本国の事跡が存在しないのだから。
つまり仮に倭国と日本が別ものであり、いつ倭が日本に変わったとすれば、670年から701年までの間で
その間、日本であった主な反乱としては壬申の乱しかない。天武を日本国の建国者と仮定せざるをえない。
白村江での敗戦後、天智が唐への盲従を進めたのに対し、天武は新羅や渤海を朝貢国とし、日本独自の文化に着目する。
日本が倭国に劣る非文明国であったならば、そのような外交の転換をすることができたであろうか。
その後、仏教を振興し、奈良時代を迎え、古事記や万葉集などが編纂されることがあっただろうか。
倭国と日本が別物であるということに、とても説得力があるとは思えない。
おそらく、670年、天智のときに国号の変更があった、ということでよいと思う。
『百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけではなく、先立って663年4月には新羅も
また鶏林大都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じられていたように、
唐は百済の故地に熊津都督府を、高句麗の故地には安東都護府を設置し、
それぞれの遺臣を用いて統治させるという羈縻政策を用いようとした。
こうした唐の姿勢に対抗しようとして、高句麗の宝蔵王の庶子である安勝が残存勢力とともに新羅に亡命してきたのを利用し、
金馬渚に住まわせて670年8月に高句麗王として封じた。
674年9月には安勝を報徳王として再封し、旧高句麗に対する新羅の宗主権を誇示した。
安勝を高句麗王に封じたことで唐からは叱責されたが、新羅は却って旧百済領域の支配をめぐって
唐との対抗姿勢を明確にし、671年には泗?の占領と所夫里州の設置を初めとして、次々に旧百済領域を奪取していった。』(Wiki)
旧唐書にも、「仁願、仁軌等既還、隆懼新羅、尋帰京師。儀鳳二年、拜光祿大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王
令帰本蕃、安輯余衆。時百済本地荒毀、漸為新羅所拠、隆竟不敢還旧国而卒。
其孫敬,則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。其地自此為 新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」とある。
百済遺民を慰撫するため、665年、義慈王の王子の扶余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として
旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当たった。その後新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。
高句麗、百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。
則天武后が隆の孫扶余敬に衛尉卿を授けて帯方郡王に封じたが、旧領の回復は全く出来ず、子孫も断絶した。
唐の異民族統治は、基本、羈縻政策であり、倭国においても帰順は強いるものの戦後処理は穏やかなものであったはずだ。
倭国は670年、慶賀をよこしたが、665年以来、遣唐使を送って唐を具に探っていたのであれば
半島情勢がうまく行っていないことは明らかなことであったのであろう。
さらに新羅が親日的であることが分かると、新羅同様自国の統治について主張すべきところは主張しようと
思うようになったとしてもさしておかしくはないのではなかろうか。
907 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 02:04:11.20
政治、とくに外交の面でばかり語っているが。
日本と倭は宗教面で大きな違いがあるように思える。
当時の宗教は=政治形態であるから、この点を見逃すと大きな齟齬を生むよ。
何よりも大きな違いは天照大御神の存在だ。
延喜式神名帳では、大御神は末席であり、紹介すらされない。
「これは伊勢にいる神です」と言われるだけだ。
それが、天武以後「ムスビ神」をごぼう抜きにして後の時代には最高神となる。
これは、ここに明らかなる権力の交代と祭祀体系の刷新があったことを示す。
908 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 02:34:12.28
秦氏の天照御魂神と伊勢の天照大神を同じ神のマイナーチェンジ版だと思っている人間は多い。
しかしこれは明らかに性格も立ち位置も違う神で、
大きな意味では同じ宗教圏に属するが、実質はまるで違う神だ。
御魂神は先ず男神であり、日神であり、産神であり、死と再生の神である。
これは汎世界的な元始太陽信仰の典型であって、世界中にその類例ある。
いわばグローバルな神である。
ところが大御神は女性で、機織り女で、「ホトを突かれて死に」「洞穴で再誕する」という
非常にマイナーな神である。
これが何を示すかというと、大御神は、本来は神ではなく「ヒルメ」、
つまり、日神に捧げられる贄であって、人間の血に神の血を混ぜるための巫女であり、道具である。
当然ながら、御魂神>>>>>>>>>>>>>>>>>>>大御神で、
本来は同じ土俵にすらあがれないほど、その立ち位置は違う。
その神をわざわざ最高神に格上げした天武の狙いはなんであったか。
909 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 04:21:53.60
天武が行ったことはある意味、明確だ。
近畿・出雲サゲ、九州南岸、紀伊、諏訪アゲだ。
記紀において九州や伊勢の持ち上げは半端ないが
出雲は敗者認定され、近畿に至っては、高御魂神の痕跡すらほとんど排除されている。
では結論の前に、これを見てほしい。
http://www.japan-world-trends.com/ja/RIMG0094.JPG この角度で見る日本海は、「海」であるというよりは湖に近い。
そして、京都・富山・島根、などの「ムスビ神」の本拠がすべて日本海側にあることが解るだろう。
つまり、天武以前のこの地域は、環日本海文化圏の一部、
いわば大陸と同文化圏にあったことを示す。
現代の我々の感覚からすれば異様だが、中部に外来政権の拠点があったのだ。
これがいわゆる「日本」、ヤマトであったと考えられる。
対する「倭」とは列島全体の連合体のことであり、いわば連邦名であったのだろう。
つまり、新唐書の「倭が日本を征服して、日本と称するようになった」という記述の方が正しい。
これは、時代を経て、ようやく中国人が日本の使者の弁の意味を理解した結果、修正されたのだろう。
九州のヤマトが畿内に移住し、
そこでもヤマトを名乗り、最終的に出雲を倒して倭の覇者となり
日本を名乗った
これだけだが?
>>907 不確かな伝聞証拠や推論を出すより、他国の史書とも整合できる歴史的事実のみを取り上げただけだよ
天智・天武で対外政策の断絶はない。ちがうのは情勢の変化。
唐は国境を安定させたかったので、異民族の自治は認めて、冊封体制を敷いた。
だから百済国や高句麗もあわよくば残してもいいつもりだったが、冊封した諸国も異民族を利用して、
自分たちの言いなりになる息のかかった者に冊封を受けさせ、自国の権益を拡大させようとした。
それは、つまり敗戦後、日本はいちはやく唐に冊封を受け、新羅や唐が自分たちに都合のよい王族を擁立しようとする動きを
制さなければならなかった。同時に裏切りの可能性のある国内勢力にも対処しなければならず
戦後交渉で恭順の意を表すと同時に、遷都し防衛拠点をもつくっていく。
しかし、唐と新羅が仲違いしはじめると、新羅は日本に恭順の意を示し、唐を牽制していく。
そして再び遼西遼東が不穏な動きになる。
よって日本は少なくとも百済旧領の権益をめぐって唐と新羅が衝突した時点で侵略の危険は去っていた。
国号変更もさして外交上問題のある行為ではなかった。聖徳太子の改革、大化以来の中央集権の流れの一つと思われる。
壬申の反乱はそれまでの天智の唐化政策に対する揺り戻しであって対外的な意味はない
912 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 07:32:50.10
日本国と倭国とうのは、名前の違いだけ。
どちらもほぼ一緒。
913 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 08:01:26.53
>911
国号の変更が対外的な意味では無いことは同意。
変更はあくまでも国内に向けたメッセージであったと考えるのが妥当。
記紀の編纂も、ナショナリズムの確立のためだろう。
彼の施策の基本は元に戻す、であり、大陸からの影響を可能な範囲で排除した。
とすれば、ここに天武の信濃遷都計画は非常に意味を帯びてくるのではないか。
現在においても過去においても、この挙の真意は今だ謎のままだ。
太田亮氏は仮説としてその理由を信濃の軍馬に挙げ、竹越与三郎も同様の見解を示すが
本人たちですら納得はしていない。
もし、遷都の目的がナショナリズムの確立と東国の帰順にあったのなら
天武がかつての都に王権を戻そうと考えたとしても不思議は無い。
かつて高天原は富士山麓にあったとされる「信濃高天原説」が真実である可能性もあるのではないか。
史書の編纂は、新国家が前国家に対して正当性を主張するためのもの。
歴代中国王朝は常にそれを続けている。
中国王朝を参考に多くを取り入れた、新大和朝廷がそれを知らないはずはない。
915 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 09:50:31.93
結論が先にあって、それに合う証拠を探し出してくるという傾向があるらしく、
小難しい根拠が良く見られるな。
より正当性のある根拠(記紀など)を否定しなくてはならないからさらに小難しくなる。
916 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:02:02.55
>>914 ヤマト王朝にとっての前国家とは、出雲王朝の事。
ヤマト王朝は、出雲より国譲りされたことが、
自身の正当性になっている。
>>913 高天原とは、現在の御所市の高天山(金剛山)の山麓。
>>916 > 高天原とは、現在の御所市の高天山(金剛山)の山麓。
天岩戸はどこ?
918 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:10:30.65
奈良県橿原市 「天岩戸神社」 天香久山の南麓。
出雲が盟主の時代に天皇家の祖が大和にいちゃまずかったんだろうな
920 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 18:55:39.86
記紀を読んだら分かるけど、高天原には
天の香久山、天安川、天の岩戸がある。
これが全部、そろっている場所は、
御所市・橿原市・葛城市のあたりしかない。
また、狭義のヤマトという地名は、三輪山の麓の狭い範囲。
それが、やがて奈良県全域、そして日本全体の表す言葉になった。
高天原神話のころ、ヤマトとは、三輪山周辺の狭い範囲の地名だったと思う。
出雲=委奴国ですか?
922 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 20:28:35.38
出雲国=投馬国(ヅモ国)
923 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 20:30:57.70
>>919 そりゃ、そうだ。
出雲が盟主の時代に、天皇家の先祖が大和にいたのなら
なぜ、天皇家の先祖たちが出雲国譲りを達成した後
天皇家の先祖は、九州高千穂へ降臨しなきゃいけなかったのか?となる。
出雲から国譲りをされた後、三代経てもまだ大和すら統治できていない
国譲りを強要したのは高天原と命を受けた建御雷であって、天皇家の先祖の天忍穂耳なら
彼地未平矣 不須也頗傾凶目杵之國歟 乃更還登 具陳不降之状 とか言って要するに拒否してた
926 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 21:08:02.56
>>920 ということは畿内から九州の高千穂に降臨したって考えてるの?
南近畿の南部奈良が神武さん大和創業地
>>907 延喜式神名帳が書かれたのは古事記の200年も後だ
>>909 だれが宇宙から見たんだwww
>>911 日本は冊封じゃないよ。朝貢な
新羅は冊封
南部奈良といえば大和朝廷に反抗した国樔・国巣・国栖がいたところだな
南部奈良に神武達が開く大和朝廷創業の地にこだわった訳か
何故だろう
人が集まらず未開で北部近畿は荒れはれた土地だったのだろうか?
人がいないから、新参者は安心して開拓できるってもんだ。
932 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 22:34:32.11
国巣、国栖・・・クズ。
葛・・・・・クズ
葛城族の事かと
933 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 22:42:22.96
土蜘蛛のことだろ?
934 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 22:48:17.64
神武が畿内に受け入れられたのは、神武が天津神の出自だから。
天津神とは、高天原周辺が本籍の貴族ということ。
高天原は、現在の奈良県御所市高天を中心とした地域の事で
広義には御所市、橿原市、葛城市のあたり
もっと広義には、畿内を中心とした一帯。
ヤマト名は、定説では三輪山周辺ってことらしいが、
古地名としては残ってないんだよなあ。
最近は一族の名前ではないかと考え始めている。
ヤマトトヒモモソヒメ、みたいに古い記録は、
必ず人名につくから。
937 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:02:54.64
^^
939 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:31:14.07
山処=ヤマトだろう?
昔から、各地にいる名主とか地主などの有力者は
たいがい山の麓に家を構えている。
あと、その地域の川上を抑えているケースが多い。
山の麓の子=金持ちの子
橋の下の子=○○な子
現在でも、高級住宅街は、山側にあるだろう?
逆に川下とかは下町。
ヤマト朝廷のヤマトも、三輪山の麓の山処(やまと)からきている。
真剣な思考巡らせて
答えを探ってるんだろうけど
精神基盤の前程から不可能
的外れ
答えは全然違うところにこれがあるんだな(笑)
941 :
[―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2013/03/06(水) 01:12:24.55
畿内は元々は土蜘蛛の巣だ。
高天原のわけないだろw
神武天皇
『古事記』では 神倭伊波礼琵古命
『日本書紀』では 神日本磐余彦尊
これで十分だろ
ヤマト元は地理地形呼称だろ今は日本人90%以上の民族呼称だがな。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-6.htm 我国の学者は、倭奴国を倭の奴国と読んで、伊都国とは別の国とし、
倭国王帥升の方を伊都国王に当てています。
しかし、「隋書倭国伝」によると、安帝のときに朝貢した倭国王帥升も倭奴国王になります。
そして2世紀後半には倭国で戦乱がおこり、次々と攻め合って何年もの間、
倭国全体の王が定まらなかったとあります。
そのような時期に卑弥呼が王に立てられた訳ですから、
金印第1号の国=倭奴国の政権が、金印第2号の国=邪馬台国へ移動するという大事件が、
2世紀後半の倭国で起こったということになります。
そのつもりで見ると、「天孫降臨」神話に関る、出雲の大国主命の「国譲り」神話によって、
かなり具体的に、倭奴国から邪馬台国へ政権が移動したことを匂わせています。
ヤマトが倭の支配者となり
倭が気に入らなくて日本に改名した
そして記紀によれば
ヤマトは元々は九州に有り、畿内に拠点を移した
これは否定しがたい
946 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 08:30:39.36
帥升に関しては、中国側の文献に
倭の面土(メタ)国王って、記載されているものがあるんだよ。
これは、米多(メタ)国王って意味だろう?
現在の佐賀県吉野ヶ里遺跡のあたりにあった国だ。
それが、奴国をせめて征服して、中国に倭側の通商代表権を認めさせようとしたけど
中国側は認めなかった。
そういうのが真相だと思う。
また、この王は、直接的には、大和朝廷とは無関係。
>>845 ヤマトの地名は全国にあるが、大和朝廷のヤマトは
三輪山の麓の山処(やまと)からきている。
この大和朝廷の祖先は、もとは高天原(現在の奈良県西南部)の出身だが
その王権が出雲を倒して全国規模の王権になると、その王権の命令で
九州南部のある地域の統治を任されていた王家の分家一族だった。
そに一族の中で、ワカミケヌ(神武)が再び近畿に移り住み、王家を支え
何代か後に、王家の地位を奪ったというのが真相だと思う。
あのな海から見れば大概の場所はヤマトなんだよw山が海岸線近くまで切れ込む。
まつろわぬ人々は2千年後もまつろわぬ人であった。
土蜘蛛魂っていうのかな
949 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 11:38:36.52
山裾をヤマトと呼ぶのなら、日本中どこでも該当する。
それよりは、古地名にヤマトが残っているところのほうが、
可能性は優勢なのではないかな?
少なくとも、5〜6箇所はあるだろ。
山裾っていうか山が両側から迫って門みたいな地形になってる所、
宇陀に通じるあたりの狭い平地、あのあたりのことだったんじゃないかな。
山門は上代仮名遣いの観点から否定されてるんじゃないの?
視野の狭い日本史ばかにありがちなこと
上代日本語の知識を前提とせず語呂合わせレベルの発想で土地比定
953 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 15:22:01.57
読みの問題なら、そもそも、大和も大倭も、
ヤマトとは読めない。
記紀で無理に音を当てて、読み替えた形跡がある。
大倭とは数ある倭の中でもっとも高位にある国という意味。
(治天下)大王や(天照)大神と同じ。
もっとも高位の国がヤマトだったから、ヤマトにふさわしい漢字として大倭があてられた。
955 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 18:26:06.97
大和朝廷のヤマトは、山門や山戸ではなくて
山処のほうが正しいって感じになりつつある。
三輪山の麓の山処(やまと)から来ているのだと思う。
ただし、この地名は一般名詞でもあるので、全国各地にそういう地名があったと思う。
956 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 18:29:47.53
倭に大をつけて大和とか大倭と読ましたのは
対外関係でのメッセージだよ。
この時代、自分の国の名前に大をつけるのは、中国の中央王朝だけな。
大漢、大宋、大隋、大唐などといった。
それに対して、倭国も自らを大倭といった。
それだけのこと。
日本国内的には、三輪山の麓の山処(やまと)を王朝の名前とした。
そんな原始人がつけたような、どこにでもある地名を
日本を統治するようになってからも使うかいな
958 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 20:04:43.39
江戸も大した名前ではないな。
海の玄関口って意味だから。
でも、そこが徳川幕府の首都の名前になり
大江戸というふうになった。
959 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:09:45.00
ヤマトって山への入口っていう意味だったんじゃね?
山地から川が流れ出してくるあたりの事。
例えば佐賀の大和町は嘉瀬川が背振山系から流れ出してくる所にあり、
熊本の山門郡は諏訪川が山地から流れ出してくるあたりにあった。
ちなみにミナトは川が海に流れ込むあたりの事を言ってたらしく、
記紀では「水門」と書かれてるらしい。
960 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:15:39.02
>>936 >ヤマト名は、定説では三輪山周辺ってことらしいが、
>古地名としては残ってないんだよなあ。
そうらしいね。という事はやっぱり邪馬台国は畿内には無かったんだよ。
もし邪馬台国が畿内ならヤマトが古地名として残っていないというのはいかにも奇妙。
江戸は徳川が入る前から鎌倉時代の文献にも見られるし、
江戸氏もいて江戸っていう地名が定着してるけど
山処じゃどこの山処かわからない程度の地名だろ
962 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 00:02:59.42
まじめにヘブライ語の「神の民」でいいんじゃない。
963 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 01:26:39.22
ハヤトもよろしく
964 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:37:29.71
倭の衰亡は祭祀器具である銅鐸と銅矛の分布から推論できるな。
紀元前1世紀頃まで広く近畿一円に広がっていた銅鐸文化圏は、
出雲を中心とした銅矛文化圏と後に対立し、2世紀頃から急速に衰退、銅矛地域が拡大する。
やがて銅鐸は消滅するが、同時に銅戈文化圏も九州に生まれた幅広銅戈文化圏に浸食され、
以後、四国、吉備が幅広銅戈文化圏になったのち、銅戈は銅鏡へ変化する。
つまり、神武天皇率いる天孫族は3世紀頃に九州に現れた「出雲勢力の親戚」ということになるのだろう。
一方の銅鐸文化は、消滅手前が尤も巨大な鐸を作っているが、
これは勢力が大きかったからと考えるべきではない。むしろ逆で危機感の現れであったといえるだろう。
銅鐸はそもそも破壊して境界の地中に埋める霊的な封印と呪詛であったからだ。
大きいということは、すなわちより強大な呪詛の必要に迫られていたというとだ。
965 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:48:35.87
ただ、ここで重要なのは、銅矛、銅戈ともに、銅鐸と同じように地中に埋めるのだが
対馬にのみ70数本も埋められていたということ。
これは前述のように境界の呪詛であるから、当然、呪った相手は半島である。
要するに、出雲文化圏は半島を敵と認識していたということになる。
これは、記紀が新羅王子、天日矛に非常に好意的である記述と考え合わせると実に興味深い。
966 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:10:17.17
近畿には秦氏系を中心にウシ祭りがある。
意味不明な祭りだが、銅鐸がウシの首飾りであることを考えれば、無関係であるとは思えない。
967 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:42:17.41
つまりこういうことではないか。
銅鐸近畿勢力=邪馬台国(ヤマト)。燕王の流れを汲む江南系海人族。姫姓。
近畿銅矛勢力=北方系、魏王の流れを汲む中原以北の山人族。同じく姫姓。
つまり、大陸では親戚同士。
2世紀→出雲伸張、近畿政権没落、離散。伊勢と尾張に女系の王族が残る。
北陸、関東まで出雲文化圏の拡大。
3世紀→筑紫平野に広型銅戈勢力(天孫族)出現。出雲の分家。
熊襲(久米族)と同盟し、伊予、吉備を攻め陥落させる。
そのまま北上、伊勢勢力の女系旧王族と婚姻。
墓制が前方後円墳に。
地元勢力物部氏と連合し、本家出雲をしのぐ勢力に成長→国ゆずり。
7世紀→近畿姫姓の末裔が蜂起。クーデター、壬申の乱。
天武天皇が即位し、出雲姫姓の勢力が衰退。
伊勢勢力が発言力を増し、血統が女系であることから、天照が女性に。現代に至る。
968 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:46:24.41
>近畿銅矛勢力=北方系、魏王の流れを汲む中原以北の山人族。同じく姫姓。
出雲銅矛勢力、の間違い。
>>964 それなんども論破されたやん
クニ草創期において、そういった文明物がそのままクニの勢力圏図に反映されることはないと思う。
銅鐸は寺の鐘のように、時を告げる道具であろうし銅矛は武器であろう
それが交易品として売買されていった結果が出土範囲の分布になっているにすぎない。
なんで同じ話ばっかしてんのかね、誰も過去スレを見てないとでも思ってるのか
971 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:00:14.20
>>969 銅戈も銅鐸も、実用上の意味はない。それは間違いない。
明らかに祭器であり、呪具だよ。
銅鐸は初期でこそ「聞く」祭具だったが、やがて「見る」祭具に変わり、
同時に「破壊する」呪具に変わる。
銅鐸の多くは耳がないが、それは首飾りとして別の場所から出土する。
耳がなければ吊るせないから、つまり鳴らせない。
銅戈も幅が何十センチもあり、実用上は何の役にも立たない。
太陽の光を反射させるために幅がひろくなっていったと考えられる。
銅鏡も、初期に輸入されたのは全部凸面で、顔が映らない。
やはり、これも実用ではなく、太陽光を反射させるためだったと考えられる。
972 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:02:18.73
銅器を埋めるにしても理由はいろいろあって全国一律の理由では
ないと思う。たとえば、不要になったけど、大切にしてきたものだから、
始末に困って結局、埋めるしか処分方法が見つからなかったというのもあるだろう。
銅鐸は纏向で破片が見つかっていたな。
普通はこんな破片は出来ない、というわけで石野さんが作り方をテレビで
披露していた。銅鐸を焼いて、大きなハンマーで叩くとそういう割れ方を
するんだとか。
これは相当に悪意のある処分の仕方だな。異教徒の処分方法と言えるかも。
あるいは、溶かしてほかの物(鏡)を作る工程の一環かもしれない。
973 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:20:15.38
ちょっと油断すると、トンデモ満載になるなw
道具としての面を考慮しないほうがおかしい
凸面鏡であるからといって呪具とはならない
光の反射は合図を予め決めておけば遠距離間での交信が可能だし
耳なし銅鐸とて、壊れたから捨てられたのかもしれないし、
寿造過程でのできそこないだから忌避されて壊され捨てられたのかもしれない
そもそも飾り耳がないからと言って鳴らないということがありうるとは思わない。
青銅は、本来赤銅色の金属であって、外見を重視された形状のものであっても
それがまったく実用物たりえないわけではない。
刀だって人は三人程度しか殺せない、当時圧倒的に弓矢での攻防の方が主力であったが
貴人には刀剣が長く宝物として武家で伝授されたように
主力としては非実用品でもあっても、実用物として長く形をとどめて今に残っているものはある。
また、一見それだけでは実用に適さない、しかもそれのみが長く形をとどめていることをもって、
当時それが祭器で呪物であったとはならない。
また、どんどん実用的でなくなるとの意見も同様。
戦国期に作られた当世風兜のほとんどは数寄者が流行と威風を好んでつくったもので、実用上の意味はない
財力の象徴であり、特権階級の象徴であった。また兜という実用も加味しつつ、その威風を見せつけるものでもあった
また実用物を利用するからこそ、逆にそのようなものさえ使える傑物と相手に思わせる力もあるのだろう
実用に耐えないから呪物ということにはならない。
975 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:51:54.63
壊して埋めるのはちゃんとした理由があるんだよ。
土偶と同じ。
説明すると長いんで、また後で。
{イズモ ヤマト ハヤト} って
同族な感じがするんだけどやっぱ違うんかな
名前を見る限り同言語を使ってるようには見える
980 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:31:18.54
どうみても、出雲、大和、隼人は、ほとんど同族。
少し違うのは、蝦夷、熊襲だろう?
981 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:33:04.35
記紀を読めばわかるけど、高天原には
天香久山、天岩戸、天安川があった。
これが全部、そろっている地域って、
大和盆地の南部。
もう君の説は聞き飽きた
新しいことを思いついたらまた来なさい
983 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:44:44.37
出雲平野部の方言は特殊で古代の名残と思う、驚くことに新潟方言に通ず(出雲崎
隼人、ヤマトとは違うな
いっぽう出雲山間部の方言には沖縄語に通ずる単語が残る
984 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 11:52:28.24
(・∀・)アマツヒコヒコホノニニギノミコトは天智天武持統文武の4種のDNAを組み込んだ皇統のiPS細胞!!
985 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 12:09:08.87
(・∀・)天津彦彦火弥弥杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、一部活字が足りないスマソ)を分解してみると、
天津彦彦=天智&天武
火弥=女陰=持統
弥杵=男陽=文武
尊=命人
であり、
天津の彦彦火弥弥杵尊
や
天津彦彦の火弥弥杵尊
では無く
天津彦彦火の弥弥杵尊
となっているのは世代や序列を示す為。
986 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 12:20:24.50
(・∀・)あっ崇神まで?こりゃまたどーも失礼しました!
987 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:14:25.40
>>974 まず、銅鐸などは何故埋められているか?
それを理解するには病気・厄災が地下からやってくるという、
根源的な「ケガレ」思想があったことをまず、理解せねばならない。
土偶はほとんどが意図的に破壊されて見つかる。
これは「身代わり」であって、人間に取り付いた悪霊を土偶に憑依させ
土に埋めることで、病気などを根治し「根の国に返す」という意味だった。
そのため土偶はあえて巨大な目をしてるにもかかわらず、すべて「閉じている」つまり、死んでいる。
つまり、土は死者の国のモ世界であり、ケガレであった。
だから、五穀の創世神話は死んだ神から生まれる。
この発想そのものは、埋葬した場所から植物が生えたり
あるいは病気が発生したりという経験則から来ているのだろう。
だがそれは数万年前からのモノで、縄文時代には既に、太陽信仰と結びついていた。
988 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:36:03.64
太陽は海から生まれて地に潜って死ぬ。(根の国に行く)
太陽は死と再生の神だった。
いっぽう、銅鐸は、その初期から「見る」という要素が大きい。
例えば、半島から直接もたらされた個体でも、あえて、文様が削り取られ
つるつるにしたあったりする。
また、その銅組成は他の銅清貧と異なり、黄金色に輝くようになっている。
さらに、波形の文様が刻まれている。
これは、いずれも太陽の光をより美しく反射させる工夫で
いわば銅鐸は地上の太陽だったと考えられる。
そのことを裏付けるのは、銅鐸を埋める際にあきらかに法則性があることだ。
そのほとんどが上を東に向け、そして意図的に破壊されている。
ではなぜ、破壊されているのか。
それが前述の土偶と同じ、死と再生の思想から来ている。
祭器は地霊を治める間、その地霊の力を一新に浴びて魔が蓄えられてきたと考えられてきた。
そのため、「ハレ」であるべき神も、いずれは「ケガレ」となる。
そのため、一度死に、ケガレを全て土に帰して、ふたたび生まれ変わる必要がある。
だから、壊して、埋める。
この思想は現代の神道にも継承されていて、正月の人形焼などはこれが元になっている。
989 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:53:50.50
同時に、ケガレた神はその魔力故に、大きな厄災の力を持つと考えれてきた。
その力を呪術に用いて他国からの厄災の侵入を防ごうと考えていた。
それが境界のかみの概念で、前述のように厄は「地下からくる」ので国境に埋めるのだ。
境界の神は非常に強大な者であると考えられていたらしい。
代表例は猿田彦だ。「八達(ちまた)の神」とは境界神のことだが、
猿田彦は序文、「天のちまたにいる神」と紹介される。
神武東征のおり、猿田彦が出迎えるのはそういう理由だ。
では、何故にその猿田彦の話をしたか。
じつは、猿田彦は銅鐸の擬人化ではないか、と言われているからだ。
「口、尻、赤く輝けり。目は八咫鏡のようで、照り輝くことあかかがち(ほおずき)のようである。」
口とは、銅鐸の内側のことだ。銅鐸は内側もきれいに磨かれている。
目、は、普通に、銅鐸には目の文様が描かれていることが多い。
ほうずきは夕日の比喩で、古代には用例が多い。
つまり、猿田彦は境界におかれてある元始太陽信仰の道祖神で、その神体が銅鐸であった可能性がある。
へー(∵`)
991 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 17:07:03.11
普通に見て、高天原とは、現在の御所市を中心とした地域。
狭義には、御所市高天を中心とした地域。
広義には、御所市、葛城市、橿原市などを含む地域。
一方、その当時の大和盆地には、大和湖があった可能性が高く、
御所市、葛城市、橿原市からみて対岸の地域が、桜井市、天理市などで
これらの地域の事を協議に山処(やまと)といった。
あいかわらず声がでかいだけのバカしかいねえな
993 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:05:49.68
普通に見て、土蜘蛛の巣とは、現在の御所市を中心とし た地域。
狭義には、御所市高天を中心とした地域。
広義には、御所市、葛城市、橿原市などを含む地 域。
994 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:45:10.06
古事記の特集本が出ていたけど
高天彦神社の事でていたな。
995 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:47:52.60
高天原って、高天山(金剛山)の山麓の名称で
古代、大和盆地には、水深10m未満の大和湖が存在し
その南岸を高天原といい、その東岸をヤマトといった。
996 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 19:02:27.46
昔は御所市高天が高天原だと普通に言われていたようだ
もう君の説は聞き飽きた
新しいことを思いついたらまた来なさい
998 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:16:52.72
土蜘蛛の子孫が頑張ってるねw
999 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:18:18.73
御所市高天が高天原って無理があるでしょ?
そこからどうやって九州高千穂に降臨するのよ?
1000 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:20:47.84
1000なら邪馬台国は九州甘木地方
1001 :
1001:
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