1 :
日本@名無史さん:
どうぞ!
2 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 08:15:30.84
1000 日本@名無史さん ▼ New!2012/09/08(土) 07:14:42.08 [0回目]
>>994 大切なのは当時何があったかで
それに比べれば魏志倭人伝も何説もたんなるゴミ
「何か」ではなく邪馬台国の話をしましょう!
3 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 09:58:21.96
不弥国、投馬国、邪馬台国は連続しているか、あるいはそれほど離れて
いないという考えにも妥当性がある。
4 :
サガミハラハラ:2012/09/08(土) 10:17:35.75
投馬国にかんしては、フミ国及び邪馬台国とはかなり離れていますよ。
邪馬台国は佐賀県小城市甘木。
フミ国は佐賀県小城市不二町
投馬国は、小城市小城町の大江から南へ有明海を通って二十日の宮崎県西都市です。
弥生時代末期の北部九州、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、和国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向 ・→神武東征≡瀬戸内海⊇≡「大和」
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。
その頃、中国大陸は五胡十六国の内乱状態となり、その戦乱に巻き込まれるリスクを減じ、国内統一に専念するため、
神武は男系祖先の本拠地である投馬国(日向)から船出し、首都を博多から大和へ東遷。「大王」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の子孫である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(日向系イリ三輪王朝の活躍>筑紫系ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王…「天皇」には「大王」という文字が隠されている。
大王はおおきみの漢字表記にすぎないよ
おおきみは隋書にあるとおり、あほけみと同じ
べつに大君でもよい
投馬国は出雲国
トウマ→トゥマ→(イ)トゥモ→いずも
あほけみのように古語は「おお」が「あほ」とより鼻にぬける音で発音されるよう
「たまう」が「たまふ」と書かれたのもそのためだろう
頭音(イ)が省略されたのはシナ人特有の略しのため
あるいはシナ人に認識できなかったか
阿修羅は修羅、阿弥陀は弥陀、と略されるのは、呉下の阿蒙(阿蒙とは呂蒙のこと)のように
阿〜とは〜ちゃんという意味があり、また頭音に気持ちを表現するために阿をくっつける習慣による
よって記述の際に避ける場合がある。
一闡提も、イッチャンティカの音訳だが、たいていの場合、闡提と書く。イが感嘆詞のごとき扱いにされるためだ
よって、いずももズモと略された可能性がある。イズモかアズモか正式な発音は知らんが
鼻にぬける音が多かっただろう和語で、シナ人には聞き取れない程度のものだったのかもしれない。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/08(土) 18:37:01.94
邪馬台国までの旅程を推理していく際、一番気を付けなくてはならないのは、
現在と三世紀の地形地理が大きく変化していることだ。
末盧国と比定されている唐津から、博多近辺とされている伊都国、奴国への
行程が陸行500里、100里となっているが、唐津から博多までの地形は、
今よりもっと内陸に海が侵蝕していた当時のことを
推測するに、何故、水行にしなかったのかと思う。
この事は、伊都国、奴国は博多近辺ではなかったことを証明していると
考えるのがまっとうではないかと推理する。
記述通りに陸行したと考えると、陸行し易い道に沿って
、今の唐津街道を記述の南東に向かい、その行き着く先の伊都国、奴国は
佐賀平野の佐賀市近辺であると比定するのが妥当だと思う。
10 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 19:01:03.00
>>9 当然だろうね。倭人伝は伊都国から放射式で書いている。つまり伊都国からすぐに南水行
が始まるんだ。怡土から水行するならば末盧国から伊都国へは陸行ではなく水行するのが
当然。伊都国が佐賀付近ならば、そこから放射式に書かれていることは良く理解できる。
マツラが博多で、下関を横断して大分の港がイト、ナ、フミかもしれんな
下関の海流の不定なのを避けて、安定的な港があった大分周りに陸行したのだろう
12 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 19:45:46.21
マツロ国が唐津だという証明は無い。他の可能性も考えろよ。あとがゴロっと
かわりまっせ。
13 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 21:20:48.89
>>9 >今の唐津街道を記述の南東に向かい
>>9に前面的にほぼ賛同。しかし、上記の一点のみに問題がある。
唐津街道沿いに唐津から佐賀市にある千餘戸の伊都國に到る行程途中に、国が一つも無いことである。
千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
すなわち、ルートは唐津街道沿いではないと言う事である。
ではルートは何処であろう。
現国道323号である。
玉島川をさかのぼり、観音峠を越え、嘉瀬川を下り、佐賀市大和町に出るルートである。
玉島川中流の七山の先が厳しい谷道であるが、これは「草木茂盛 行不見前人」に相応しい道である。
このルートで佐賀平野に出るところの佐賀市大和町には、
惣座遺跡があり、これは伊都國の城郭として相応しい遺跡である。
14 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 21:36:58.78
>>12 >マツロ国が唐津だという証明は無い。
渡海行程の文をよく読め。
末盧國の上陸地点は、鏡山と現松浦川東岸の付近となる。
此処に3世紀には古松浦湾があり、その南岸には中原遺跡がある。
この中原遺跡が末盧國の港である。
「松浦川」の名は、虹の松原の「松」林の南にある「浦」に流れ込む「川」からきているものと思われる。
15 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 21:52:46.94
>>13 >千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
説得力あるね。
263はよく通るが、323は経験ないな。
「百聞は一見に如かず」 一度走ってみよう。
16 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 22:15:15.99
最近の邪馬台国関係のスレでは、説得力のあるものが少なくなったな。
もしかしたら、対海国は北対馬で、一大国は南対馬かもしれん
昔は今より海水面が高かったからそれぞれほぼ方形の島で、その間はワニが並ぶように小岩が海面上に並んでいただろうから「瀚海」と呼ぶにふさわしい
もしそうなら末盧国は壱岐島で、その後の「東南陸行五百里到伊都國」は「東南の陸を500里行くと伊都国に至る」ということになるだろう
18 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 23:55:29.17
>>13 惣座遺跡は、肥前国庁があったところとなっている。
要衝の地ということで、一大率が置かれていた伊都国と対比できるかもしれない。
ということで、伊都国の中心部を惣座遺跡にすることは妥当と思うが、
そのために、変な道を通るよりも、むしろ小城市まで含めて伊都国でもいいと思う。
19 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:02:42.39
>千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
国と集落とを混同しているな。国というのは、いくつもの集落を合わせたものなんだよ。
邪馬台国七万戸、投馬国五万戸などが一つの集落のはずがないだろ。
20 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:33:34.73
>マツロ国が唐津だという証明は無い。他の可能性も考えろよ。
で、どこに可能性がある?
21 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:39:57.22
>>18 >小城市まで含めて伊都国でもいいと思う。
伊都國は千餘戸5000余人の小さな国である。
小城だけで千戸5000人以上の国が成立できる。
又、多久にも千戸5000人以上の国が成立できる。
伊都國が一万戸50000人の国であるのなら、
多久・小城・大和町・(江北・大町・白石・武雄)を含めた地域が伊都國であったと言える。
22 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:58:38.83
23 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:07:35.93
>>19 其餘旁國を見れば、集落のようなものじゃないの。
24 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:11:37.46
>>23 日本にはいくつ集落があるんだ。
集落の数だけ国があるのかい。
25 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:14:16.66
26 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:53:26.62
>>9 唐津から伊都国を佐賀市あたりとするのでは500里をこえすぎてしまうのでは。
呼子からならあうが、そうすると、呼子から唐津まで陸行するのか、ちょくせつ船で唐津の港によればということになる。
末蘆は松浦、松原
伊都は伊都県主の伊都
奴は、那津官家の奴
でいんじゃね?
江戸時代に整備された旧街道、唐津海道や長崎街道の名前があがっているが、これを弥生時代まで
さかのぼるのはいささか無理があると思う
とりあえず、古官道として整備されたものがあったのであげておく
ttp://bell.jp/pancho/k_diary-2/images/image-5/1118-20.jpg この七道駅路が延喜式の10世紀のものであるが、この道路は当然、当時の勢力拠点をつないでいたはずの
ものであろう、特に大宰府官道は大路として整備されている
ttp://www.qsr.mlit.go.jp/kitakyu/history/kandou/goki.html この中に、北九州近くに到津(いとうつ)がある、これが伊都国ではなかろうか
あと、もう一つ。
海洋の民の神である宗像三女神にイチキシマなる女神がいるが
これをまつる宮島厳島神社は、伊都伎島とも書くと言う、この伊都伎とは斎らしく、神聖なという意味だそうだ。
宗像周辺は飛鳥時代九州で唯一の神郡として認められていたそうで、大和政権にとって大切な場所であった
ことは疑いない。ここが伊都国の可能性もある。
名前でどこか決めるのは難しいとわかったよ
倭人伝で当時を解明するには参考にすべき記紀の地名は判明している部分が少なすぎると思う
よって、倭人伝は明史同様あまり役に立たない書。
30 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:10:13.90
>>26 唐津で超えすぎてしまうのが呼子ならあうとは意味不明だな。
>>29 >倭人伝は明史同様あまり役に立たない書。
地名にこだわるからだ。役に立たないのは君の頭。
31 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:39:31.85
古代の道というのは、まるで新幹線でも走らせるようなまっすぐな道なんだよな。
何といっても、目印になるものが全くないから、ちょっとでも道を誤ると遭難してしまう。
星だけが頼り。北斗信仰と密接な関係があるのはそのため。
まっすぐに進むためなら、猿が掛けたような神橋や断崖絶壁を綱一本で上り下りなんてコースも当たり前。
従って、その道を通れるのは修業を積んだ天狗のみ。
神武を道案内した猿田彦の子孫だろう。
邪馬台国へ続く道も、今のように地形を考慮したものにはなっていないと考えたほうがいい。
倭人伝には信憑性の高い部分と信憑性の低い部分があり、
前者は【倭国内の記述】政治状況や戸数、衣食住&冠婚葬祭の習慣
後者は【倭国に至るまでの距離・方角】である。
これらを区別しないから今までの無意味な論争の繰り返しとなってきた。
長安洛陽を含む中原を支配する曹【魏】にとって倭は孫【呉】を挟み撃ちにできる位置(東南)になければならないため、
倭国に至るまでの距離や方角を鵜呑みにすると遥か南の台湾やフィリピンに達してしまうのである。
(帯方郡から)邪馬台国へは海行十日陸行一月、投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである。
33 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:48:11.74
>邪馬台国へは海行十日陸行一月、投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
>そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである
くだらん。沖縄にでも朝貢させればすむことだ。
34 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:10:21.08
>>32 魏から見て呉の背後の海上に倭国が位置していなければならなかったんだろうな
35 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:17:11.98
>>32 うむ。倭の国内情報は信用できるが、位置情報は鵜呑みに出来ないことは確かだね。
魏→呉←倭 が一直線であってほしいという希望的観測が、倭国の位置を南に狂わせたのだろう
国家血統偽装だろw
その国家の血統は重要な要素。民俗描写にしろ位置誘導にしろ南で在る必要があった。だがな韓国並のホラ吹きが呉に通用為るにはそれ成りの情報じゃ無いとな
37 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:27:16.56
呉という国が滅亡してから書かれた倭人伝が、呉を意識しているはずがない。
位置を南に大きく狂わせたということは南九州が妥当という解釈かな。
畿内であれば九州からやや北上するので。
39 :
9:2012/09/09(日) 14:48:36.72
>>26 >唐津から伊都国を佐賀市あたりとするのでは500里をこえすぎてしまうのでは。
伊都國は、佐賀県庁の付近でなく、佐賀市大和町の惣座遺跡です。
末盧國は唐津市南部の中原遺跡(現在内陸地)です。
両地点間距離は500里約35kmです。
(唐津街道ルートでも、国道232号ルートでも)
40 :
9:2012/09/09(日) 14:59:33.41
>>32 >(帯方郡から)邪馬台国へは海(水)行十日陸行一月、
>投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
>そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである。
そのとおり。
水行十日=万餘里
陸行一月=千餘里
水行二十日=二万餘里
41 :
9:2012/09/09(日) 15:43:36.71
>>35 >魏→呉←倭 が一直線であってほしいという希望的観測が、倭国の位置を南に狂わせたのだろう
帯方郡から南に万二千餘里(約750km)の女王國は、大陸の呉の位置にあたる。
一大國からはどちらの方位でもかまいません
「マツロ」という地名もその他の地名も必要ありません
九州北岸あたりならどこでもお好きなところに船を着けてください
所詮 ONE OF THEM です。
43 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 20:11:24.69
>>42 >九州北岸あたりならどこでもお好きなところに船を着けてください
間違いである。
3回の渡海記事を注意深く読め。
3回南へ渡海しているのが読めるだろ。
まず、 「始度一海千餘里」至對海國
對海國では「乘船南北市糴」
次いで、 「又南渡一海千餘里」至一大國
一大國では「亦南北市糴」
最後に 「又渡一海千餘里」至末盧國
3回目の南への千餘里の渡海で、一大國壱岐から末盧國即ち唐津南部現在の内陸部(古松浦湾南岸)に着く。
44 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 21:05:33.43
所詮 ONE OF THEM の解釈
チェリーピッキングしてるだけ
45 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 21:24:46.15
>帯方郡から南に万二千餘里(約750km)の女王國
朝鮮半島の南は乍東すなわち東へ進む。
万二千里から南へ進まない部分は差し引かなければいけないだろう。
>>9 九州説によれば、歩きの方が早いんじゃないの?
佐賀から熊本まで水行10日もかかるんだろwww
47 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:57:23.74
>>45 「自郡至女王國萬二千餘里」
を単純に引用しているだけ。
「倭人在帶方東南大海之中」
については、配慮されていないようだ。
48 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 10:35:04.58
佐賀大和から佐賀市内までの領域は広い。
佐賀市内は海と思っていたが、1400年以上の神社があり、
一部は陸地のところもあったと思われる。
奴国が肥前国、佐賀県全域を示す国とすると、
やはり、中心域はのちに肥前国庁を置くところではないかと思う。
道なりの距離で考えると、伊都国は現状の小城と佐賀大和の間くらいになる。
そこで、個人的には伊都国を小城に、奴国を佐賀大和と考える。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/10(月) 11:11:51.49
三世紀頃の道は獣道に毛が生えた程度だろうから、
長旅は水行の選択が優先されるはず。だから奴国(博多方面)に向かうに
水行ではなく陸行は非現実的。即ち、奴国は博多方面ではないと推定される。
今の唐津街道の原型道路を東南に有明海方面に陸行するのが
素直な読み方ではないか。
佐賀市付近に奴国があり、今より陸地に浸食された不彌國から水行で
有明海沿岸にそって邪馬台国に向かう旅程が無理の無い解釈に
思う。(尚、一里は600−700メートル説を信じている。)
50 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 11:21:17.17
>>48 >伊都国を小城に、奴国を佐賀大和と考える。
これでは、伊都國の東南が奴國とならない。
末盧國中原遺跡から伊都國佐賀大和惣座遺跡の道のりは約37kmであるから、
伊都國は佐賀大和惣座遺跡とし、その東南(南南東)7kmにある佐賀城内が奴國となる。
佐賀城内は、背振山系山麓を除くと佐賀平野唯一の台地になっており、城郭適地である。
佐賀城建設の時に遺跡は破壊されたであろうが、佐賀城内では弥生遺物が発見されている。
四千餘戸の不彌國(唐津)と千餘戸の伊都國の間には、国の記載がない。
千餘戸の伊都國を小城とするならば、多久に千餘戸の国が記載されているべきである。
故に、陸行五百里のルートを唐津街道とすることは成り立たない。
伊都國を佐賀大和惣座遺跡とすると、陸行五百里のルートは途中に国がありそうもない国道232号になる。
>>46 熊本はけっこうでかいよ
それに「水行○日」の距離はだいたい確定している
卑弥呼の使者が6月に帯方郡に行き、そこから2400km離れた洛陽に12月に着いてる
52 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 11:49:34.35
>>50 佐賀城周辺が奴国であることは異存はない。
ただし、旧大和町も佐賀城周辺の集落と一体だと考えている。
弥生遺跡の中心部は大和町であり、一の宮の淀姫神社と、
佐賀城の近くにある与賀神社は上社、下社の関係をもつ。
また、肥前国庁の近くの嘉瀬川から分離する多布施川は、
佐賀城付近にいくための水路である。
おそらくは、大和町のほうが最初の集落であり、
湿地帯から水が引いて海は引いてくるに従って、
大和から佐賀城側に開拓が進んだという経緯があるものと思われる。
ただし、当時はすでに湿地帯であって、一部には乾いた陸地もあっただろう。
佐賀城付近にも古い神社などがあるからである。
大和と佐賀城の間に位置する、高木瀬の方には縄文貝塚もある。
基本的に、弥生遺跡はこの時代の倭の各国とは無関係だと思う
魏志の韓伝の記述と倭人伝の記述とを比較すると、馬韓や弁韓、辰韓が農業を基礎とする農耕社会なのに対して
倭国は漁業を基礎とする社会であって、漁民を中心とする社会としか読めない
仮に弥生遺跡で農業をやってた人がこの時代にいたとしても、実験的なものだったと思う
54 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 13:52:40.37
末盧国から東南陸行五百里の伊都国を佐賀平野に求めると、佐賀平野には
少なくとも、伊都国、奴国、不弥国の三つの国があったことになる。
ただ、弥生最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡を無視するわけには
いかないから、これがどこなのかも大きな問題になる。
新井白石以来の弥奴国というわけには行かないと思うが。
>>55 直線距離で測れば確かに1350kmだな
ソウル市中心部の汝矣島から漢江を下って海に出て、威海から山東半島に沿って黄河の河口に行き
そこから黄河を遡って支流から洛河に入って洛陽市の王城大道に架かる王城大橋までで1608kmだった
>>51のいう2400kmってのはもしかすると北朝鮮西岸から遼東半島を回るコースかもしれんが、そんな遠回りする理由はないだろう
1608kmを180で割って、水行1日あたり9km弱と見るのが妥当だと思う
そもそも帯方郡がソウルだったというのも数ある説にすぎず、遺跡などからはむしろ北朝鮮の黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城だという説のほうが有力。
だから1600kmというのは長すぎであって、1500km弱とみて、水行1日あたり8km程度と見るべきだと思う。
それはそうと
>>55のサイト便利だな。個人的にいろいろ利用させてもらうよw
58 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 17:35:46.78
まだ帯方郡はソウルだと思っているのか。
ここの奴らには学習能力というものがないのか。
59 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 17:40:48.88
屯有〈遼中〉
提奚<盖平>
<楽浪(今遼陽界公孫氏之所置也)>
<楽浪(今遼陽以西之地與段末柸連結)>
<樂浪城(此乃東部樂浪今遼陽海城界)>
60 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 20:03:09.20
<帶方(今安東縣附近地)>
<帶方>(<屯有>卽<遼中>以南之地)
61 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 21:16:53.65
>>54 >弥生最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡を無視するわけにはいかない
吉野ヶ里付近の地名:メタ:米多 目達原 筑志米多國 米田郷 倭面土國
吉野ヶ里遺跡は、2C初頭には帥升の都(城郭)であった。
2Cの倭國乱になると、吉野ヶ里城郭は邪馬壹國投馬國連合軍に破れ、
そこに連合軍側の不彌國が置かれる。
この頃2世紀前期に吉野ヶ里遺跡はその規模を縮小したのである。
帥升王統國の城郭は、吉野ヶ里遺跡から惣座遺跡に遷都。
しかし、帥升王統國は惣座城郭から末盧國を窓口に楽浪郡と接触を続ける。
又、倭奴国の後継である奴國が分国として新開地である佐賀平野の佐賀城内に城郭を置き、
佐賀平野の大部分を支配下にする。
帥升王統国は惣座遺跡周辺の千餘戸に縮小する。
魏は後漢に倣い惣座の帥升王統の小国を倭都國として扱うが、
女王國の支配下にあるため伊都國と名称変更したのである。
プータロー多いなw
>三世紀頃の道は獣道に毛が生えた程度だろうから
人類がいなくなるとたった一年でも植物が繁茂してとても人がすんでいたとは思えなくなるそうだ
福島がよい例。
しかし逆に言えば、人の行き来があるところは自然と道となる
>>51 くっそ遅いな水行
マツロから奴国まで歩いたのはそっちのほうが速いからで説明できるな!
>>62 邪馬台国なんて引退したじいさんしか興味ないだろ、JK!
>>64 韓伝の済州島への行程はもっと遅いよ
泗沘からの海路約250kmが「海行三月」だから、1日当たり2キロ半しか進まない
67 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 09:15:37.08
耽羅国とは台湾である、たぶん。
泗沘とはどこかといえば、
泗[沘]水(禮成江)
とあり、禮成江とは開城の西を流れる川であるから、
泗もその辺りである。
これまでの通説は完全に間違っているのである。
南北の海岸線が千里あって、東西の海岸線が数百里なんだから、東西に長い済南島じゃないと話が合わない
すまん済南島じゃなくて済州島
70 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 12:33:28.94
まったくここには変な奴が多いなw
耽羅島は南北に長い島である。
台湾は南北に長いが、済州島は東西に長い。
隋書百済伝によると耽羅国は南北千余里、東西数百里と書かれている
南北の国境線が千里以上あって東西の国境線が数百里しかないんだから東西に長いに決まってる
これが南千余里、東西北数百里だったら南が長い台形だって分かりやすいんだがな
「南北が長い」のと「南北に長い」のとでは大違いだな。
原文の「南北」は主語だから「南北が長い」としか読めん。
74 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 14:10:59.90
済州島の記事と台湾の記事が混同しただけでは
台湾は東西が300kmちょっとで北が100km、南はわずか10kmちょっとしかない
耽羅島は南北ともに千余里なんだから明らかに形が違う
76 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 16:11:31.68
原文
?「其國□□ 東西二千里 南北千餘里」高麗
?「其國□□ 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
?「□□□□ 南北千餘里 東西數百里」耽羅
?「其國境□ 東西五月行 南北三月行」俀
正解
○「其國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境長 東西五月行 南北三月行」俀
誤解
○「其國境間 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國境間 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國境間 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境間 東西五月行 南北三月行」俀
77 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 17:43:37.50
○「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境間 南北千餘里 東西數百里」耽羅
どちらであっても南北が長い、南北に長い、としか解せないのだがw
>>77 「南北が長い」と「南北に長い」じゃ正反対だろw
79 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 18:33:19.85
其國境長 南北千餘里
これは、その国の国境の長さは、南北が千余里である、という意味である。
南北が千余里である、ということは、南から北に引いた国境線の長さが千余里である、ということである。
80 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 18:43:03.74
>>79 「南から北に」だったら「自南至北」じゃね?
83 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 19:12:06.25
85 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 19:43:34.66
たてたてよこよこまるかいてちょん!
86 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 21:46:22.24
「国境の長さは、南と北は千餘里、東と西は數百里」といえば、
その国は横(東西)に長い国である。しかし、
「国境の長さは、南北千餘里、東西數百里」といえば、
その国は縦(南北)に長い国である。
不動産屋が「南北100m、東西50mの土地です」と言えば、
それは縦(南北)100m、横(東西)50mの土地である。
87 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 22:49:28.86
>>83 >>84 其の國境ではない
其の國の境である。
国境の概念のある時代ではない。
正解 「其國 境長」
誤解 「其 國境長」
正解
○「其國 境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國 境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國 境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國 境長 東西五月行 南北三月行」俀
誤解
○「其 國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其 國境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其 國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其 國境長 東西五月行 南北三月行」俀
88 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 23:19:56.46
其の国とどこの境だ?
89 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 01:00:03.85
>>88 隣国と接しているから国境がある。
隣国が無い国ではその勢力の及ぶところと及ばないところの境界。
其の国と其の国でないところの境界。
領海と公海の境界のようなもの。
90 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 09:46:17.20
済州島は日本固有の領土です。
91 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 11:36:07.54
耽羅國は、日本にも朝貢しているし。
耽羅國は、日本や百済に属する前は?
耽羅國は、地図上の位置的にみて半島南岸の倭の一部であったのだろう。
>>86 現代日本ではそうかもしれんがそれでは説明のつかん部分があまりに多いんだが
高麗の形が東西に長いってのは明らかに変だろ
93 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/12(水) 19:12:39.97
>>92 「其國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
「其地 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
文章が似ているから、上の高麗は高句麗のことだと思うが。
高麗のことはまったく知らないから返答のしようがない。
Wikiを見れば高麗の版図の図が出ているが、Wikiは信用できない。
94 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/12(水) 22:34:36.43
「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
「其地 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
耽羅と高句麗を比較すると、縦長と横長の違いはあるが、
耽羅は高句麗の約半分のべらぼうに大きな島だ。
とすると耽羅は済州島ではありえない。台湾だ。
95 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 23:07:55.84
>>94 >耽羅は高句麗の約半分のべらぼうに大きな島だ。
東西、南北それぞれが約1/2であれば面積は約1/4だな。それでもかなり大きいことは大きい。
しかし、高句麗は方4千里の韓に比べれば小さいな。面積だと約1/8しかない。
96 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 23:16:36.93
ということは、耽羅は韓の約1/32ということになる。韓の大きさを現在の韓国とほぼ同じとすると、
台湾はその1/32とするには大きすぎるな。
97 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/13(木) 08:39:49.56
古地図を見ても朝鮮半島はべらぼうな大きさで描かれている。
それが中国側の認識だったのだろう。
因みに韓とは今の朝鮮半島全体を指しているのであって、
今の韓国を指しているのではない。
とにかく耽羅とは台湾のことである。間違いない。
98 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 08:47:53.65
混一疆理歴代国都之図は朝鮮の地図だから、朝鮮半島が大きくなるのは
当然といえば当然。当たり前に書くような民族性はない。
99 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/13(木) 09:10:17.45
1402年に李氏朝鮮で作られた地図(Wiki)
中国より遙かに日本の事情に通じていたはずの、
しかも1402年の李氏朝鮮で作られた地図でさえ、
日本の位置が倭人伝の記載通りの位置で、
しかも南北に延びた形で描かれているのだから、
九州説に勝ち目はない。
邪馬台国とは、どう考えても、大和である。
100 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:17:48.68
元寇は13世紀。混一疆理歴代国都之図のような地理観で、よその国に
大軍を派遣できるわけがない。
十分に日本の地理を把握した上で、博多湾に大船団を集結させた。
15世紀の混一疆理歴代国都之図があんなでたらめな地図なのは、
朝鮮半島の知的レベルが低かったからだろう。
モンゴル人にしてみれば、北華の金王朝を倒しシルクロードを制圧してワールシュタットで神聖ローマ帝国軍を死体の山にし
南はアッバース朝イスラム帝国の息の根を止めてエジプトのマムルーク朝と大戦してたというのに
東の高麗を攻略するのに50年もかかってしまい、1273年にようやく済南島を制圧したという経緯上
朝鮮半島がユーラシア大陸なみにでかいってことにしないと体面が保てないんだよ
102 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 11:31:20.33
スペースの都合でああ描いただけだろ
それに日本の位置がちゃんとしてるバージョンも存在するし
スペースの都合
104 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 11:41:08.54
「卑弥呼は朝鮮にいた」は韓国人or在日か?
>因みに韓とは今の朝鮮半島全体を指しているのであって、
>今の韓国を指しているのではない。
>とにかく耽羅とは台湾のことである。
これでは、論理思考はないな。まるで信仰だな。
「独島、対馬は我領土」の主張と同じだ。
卑弥呼は朝鮮にいたは、脳の狂った韓国人の一人か?
まあ、脳の狂った韓国人は一人じゃないけどな
106 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 12:36:15.28
原文「 其地□□ 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
正解「 其地境長 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
誤解「 其地境間 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
6〜7世紀の高句麗=6〜7世紀の高麗
下記両者は同じ
○「其國 境長 東西二千里 南北千餘里」『隋書』高麗
○「其地 境長 東西二千里 南北千餘里」『魏書』高句麗
隋書以前に編纂された史書は表現方法が同じ。
(北史をコピーした周書は除く)
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
淡路島の鉄器工房、垣内遺跡が1〜2世紀だから時系列が合わないな。
倭国大乱は瀬戸内海が舞台と考えた方が自然だ。
109 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 17:42:14.47
しかしまあ、使者が混一地図みて進んだら、
どうやっても、南に行っちゃうよ?
東にはなにもないんだから。
>>109 実際時代は違うが、百済の使者は貴倭国へ向かうのに位置がわからず、
九州から先の迎えを依頼してるけどな。
111 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/13(木) 18:40:59.05
>>104 君は新参者なのか?
倭人伝の韓が今の韓国を指しているのではないこと、
言い換えれば、楽浪郡や帯方郡は朝鮮半島にあったのではないこと、
耽羅が台湾のことであること、
どちらもちゃんと根拠を挙げてこれまで説明してきたのだが。
112 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 19:42:54.38
>>111 いくら説明したつもりでも他人が納得し、認めなければ君の論理が通ったわけ
ではないよ。そこに邪馬台国問題の難しさが有り、最近の歴史学者達が何も言
わなくなった理由でもある。気の毒だね。
113 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 19:56:32.05
>>109 朝鮮半島からの使者は、みんな南に進んで海の藻屑となり、
二度と帰ってくることはなかった。
114 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 19:58:57.41
>>113 ということはないよなあ。
海の中に進んでいくことはありえない。
ふつう、沿岸沿いに行く。案内人もいるだろうし。
昔の人は皆普通に海の上を歩いていたのかもしれないな、天草四郎みたいに。
116 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/13(木) 20:59:12.22
>>112 君はトンチンカンなことを書いてるな。
私は邪馬台国問題のことを言っているのではない。
君が
>>104で、 私が何の根拠も挙げず、信仰のようなことを書いていると中傷してきたから、
これまでちゃんと根拠を挙げて説明してきた、と書いただけである。
それを他人が納得しようとしまいと、そんなことは問題ではない。
根拠を挙げて説明してきた、と書いたのである。
話の論点をすり替えるのはやめてもらいたい。
>>111 >ちゃんと根拠を挙げてこれまで説明してきた
しかし、反対意見にはキチンと反論していない訳だが、、、
偏った思い込みを一方的に垂れ流してるようにしか見えない。
119 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 21:51:16.92
トヨタの自動車もパナソニックのテレビも全世界にばらまかれている。
日本人がいったこともないアフリカ紛争地帯にもあるし、
物品の出土範囲をもって、交流があったと断じるのは最も愚かな行為だ。
歴史好きは、決してやってはいけない過ち。
何かローマと広島が交流があったと言ってるとでも勘違いしてるのかなw
流通システム、交通が発達した現代と古代を同列に考えるとはまた愚かだな
三韓式土器の出土で壱岐〜瀬戸内、畿内、東海まで物資が流通していたことは既にわかっている
壱岐には楽浪人の往来があったこともわかっている
壱岐を中継して希少な交易品が瀬戸内に運ばれるのは壱岐にいる楽浪人にもわかる
121 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 22:19:16.48
火星から、地球由来の黄色ブドウ球菌を発見。
それが宇宙船で運ばれたものだということは地球人も知っている。
地球と火星は、21世紀から交流があったのだ!
122 :
112:2012/09/14(金) 20:38:33.40
>>116 私は104ではない。もう支離滅裂になっているな。
まあ女王国が瀬戸内周辺諸国なのは既に確定してるだろ。
124 :
104:2012/09/14(金) 21:29:08.69
>>116 私が104である。もう支離滅裂になっているな。
「とにかく耽羅とは台湾のことである。」はないな。
125 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 22:15:30.57
中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市ヨウ寧区百済郷
こんなところに百済郷があるのだから、
耽羅が台湾だとしてもちっとも不思議ではないぞ。
126 :
104:2012/09/14(金) 22:42:58.72
>>125 >>125の様なことを書くから、君は支離滅裂だと書かれるのだよ。
理解できるかな?
理解できないだろうな。
127 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 23:12:29.64
>>126 全盛期の高句麗や百済は呉越の地にまで進出していたと、
新羅が中国の皇帝に提出した上表文にはっきりと書かれているのを、
君は知っているのかな?
現代の韓国の大学教授などが主張しているのではないんだぞ。
新羅の上表文に書かれているのだ。
ネット高句麗史にも、高句麗が呉越などの王を任命した記事がある。
信じようと信じまいと勝手だが、とにかくそういう記事があるのだ。
128 :
日本@名無史さん:2012/09/14(金) 23:41:28.32
>高句麗や百済は呉越の地にまで進出していた
そのころ高句麗や百済は呉越の地にあったんだ。朝鮮半島は倭の領土だったんだよ。
129 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/15(土) 00:02:30.16
>ネット高句麗史にも、
それで、書紀の言い分はどれだけ認められた?
好太王碑の言い分はどれだけ認められた?
>>127 それ領域支配じゃなくて出稼ぎだろw
しかも、八王の乱の晋が荒れに荒れたころだろ
131 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/15(土) 00:44:03.02
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文俶は東夷校尉となり、291年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる?)
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる?
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
316年 西晋滅ぶ。
132 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 09:19:56.00
>>128>>130 高句麗や百済が呉越の地にまで進出していた、といっても、
私が思うに、呉越の地が高句麗や百済の領土だったわけでもなく、
出稼ぎ地だったわけでもないのである。
当時は各国とも、政略結婚のような形で、王族が姻戚関係にあったのである。
で、国の力関係によって、たとえば高句麗の方が強大な場合は、呉や越は、
形式的に、言葉の上で、臣従という形をとるわけである。
で、高句麗の王女から生まれた呉や越の太子などを、
高句麗が呉や越の王として任命するという形式になるのである。
要するにそういうことで、単に支配者間の、王族間の、力関係の話なのである。
133 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 10:11:15.87
ヤマダ電機は全国の主要都市を制覇!
邪馬台国にふさわしい勢力範囲ですね。
邪馬台国は群馬にあった。
関東最大の古墳、太田天神山古墳こそ卑弥呼の墓だろう。
134 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 16:25:52.71
>>127 >全盛期の高句麗や百済は呉越の地にまで進出していたと、
>新羅が中国の皇帝に提出した上表文にはっきりと書かれている
原典を示せ。
135 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 16:48:15.13
>>134 メモしておいたつもりだが、探しても見つからなかった。
山形明郷の本に書いてあったと思う。
知りたければ山形明郷の本を読むべし。
この人は中国の正史全巻を原文で読んだという人だから、
嘘の引用はしない。
136 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 17:04:27.55
『魏書』百済伝にこうある。
去庚辰年後 臣西界小石山北國海中見屍十餘…
庚辰は440年。百済の王が、臣西界小石山と言っている。
この小石山というのは錦州の石山だろうというのが山形明郷の解釈。
また「括地志」にこうある。
百済国西南渤海中 有大島十五所 皆邑落有人居 属百済
これらから考えると、錦州や遼東が百済の版図だったことは確実。
百済の版図が遼西に及んだというのも首肯できる。
137 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 17:31:18.84
及隋軍度遼 百済亦厳兵境上 声言助隋 「資治通鑑」
徙熊津都督府於建安故城
隋軍が遼河を渡って高句麗を討とうとしたとき、百済が隋に加勢した。
百済の熊津都督府を建安(台安あたり)に移した。
こういう記事を見ても、百済が遼東方面にあったことは確かで、
ソウル以南にあったのではないことは明白である。
138 :
134:2012/09/15(土) 21:49:43.87
>>136 T「百済国西南渤海中 有大島十五所 皆邑落有人居 属百済」括地志
「西南渤海中」であるから、
「大島十五所」は徳積群島である。
U「又有州胡在馬韓之西海中大島上 其人差短小 言語不與韓同」魏志韓伝
Tの「大島十五所」は、馬韓の「西海中大島」にある「洲胡」のことある。
139 :
134:2012/09/15(土) 22:04:19.01
>>136 もし「大島十五所」を杭州湾沖(呉越)の舟山群島とするならば、島数が少なすぎる。
山形明郷は「大島十五所」を舟山群島と推測したのではないかと思う。
140 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 22:48:57.44
141 :
134:2012/09/15(土) 23:16:39.61
>>140 渤海の後世の呼び名は黄海
朝鮮半島の西側の海以北。
以南は東シナ海(東海)
変な奴の筆頭が朝鮮人だし。しかもバカw
143 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 09:21:36.26
>>141 括地志は唐代の書物だぞ。
唐代に渤海が黄海と呼ばれていた証拠は?
それに渤海が黄海と呼ばれていたとしても、
西南が渤海なのだから、百済は遼東方面なのである。
>>142 お前が馬鹿なのは十分分かっているから、静かにしていなさい。
144 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 09:29:09.21
大体ここには
>>141-142のような馬鹿しかいないのである。
数人の名無しの馬鹿が常駐していて、
年がら年中あーだこーだとアホ論議を重ねているのである。
まともな人間は投稿して来なくなった。
さすがにネタも切れてきたのだろう。
ある意味では良いことだ。正常になったのである。
145 :
134馬鹿:2012/09/16(日) 13:34:03.62
>>144 T「百済国西南渤海中 有大島十五所 皆邑落有人居 属百済」括地志
>西南が渤海なのだから
読み間違えているぞ、西南にあるのは大島十五所である。
>唐代に渤海が黄海と呼ばれていた証拠は?
何言っているだ。黄海は現代の呼称だろう。
146 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 17:28:53.30
>>145 ぷっ、変な奴だな、お前はw
百済国の西南の渤海中に大島十五所があるのだ。
百済国の西南に渤海があるのだ。分かるか?
仮に渤海が今の渤海と黄海を含めた海であったとしても、
これに該当する百済の地は二箇所しかない。
遼東と、遼東半島地区の南部である。
147 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 17:38:33.23
邪馬台国論争の発端は、江戸時代の新井白石及び本居宣長による。
新井白石は、初めは畿内説をとったが、後に「天皇が中国に従属するはずがない」として畿内説を撤回し撤回し、九州説をとった。
本居宣長は、「魏志倭人伝は誤りが多い」として批判的に読み、畿内説をとったが、後に九州の豪族が倭王(卑弥呼)の名をかたって中国と通交したと考えた。
ここから読み取れるのは、2人とも皇紀を踏まえて「倭王卑弥呼」の王都を畿内にもっていこうとはしたものの「魏志倭人伝の道程」をどう読んでも「邪馬台国は九州」
としか読めず、後に「天皇家とは別物である勢力が邪馬台国であり九州に存在した」としたのだろう。
明治43年、東大の白鳥倉吉が九州説を、京都大学の内藤湖南が畿内説を発表したのをきっかけに、東大系学者は九州説を、京大系学者は畿内説と色分けがなされ双方
の間で論争が重ねられた。
戦後は、文献史家に加え考古学者も登場した。特に、昭和、考古学者の小林行雄が発表した「同笵鏡」理論は畿内説の最大の拠り所となった。同笵鏡には三角縁神獣鏡
という鏡が多く、鏡の銘に「景初3年」という中国年号を持つものがいくつかあるということで、魏の明帝から下賜された銅鏡100枚は三角縁神獣鏡であるとした。
また、その出土例は圧倒的に畿内からが多い。以上のことから、小林行雄は大和にあった邪馬台国がこの三角縁神獣鏡を中国から大量に輸入し各地の豪族に分け与えたと
考えた。
ところが、中国の王仲殊が発表した論文において「日本の三角縁神獣鏡は中国に類例がないもので、中国本土からの出土例もない。それは魏の銅鏡ではなく、魏の南方に
あった呉の銅鏡に近い。三角縁神獣鏡は呉の後任が倭人の好みに応じて創作したものと思う。」と主張した。昭和61年出土した三角縁神獣鏡に「景初4年」という存在
しない年号が刻印されていた。王氏は「魏の官営工場が存在しない年号の鏡を作るわけがない。」と主張した
148 :
134馬鹿:2012/09/16(日) 18:24:07.13
>>146 百済国の西南方向、渤海中に大島十五所があるのだ。
百済国の西南に大島十五所があるのだ。分かるか?
渤海は百済國の西南方向だけでなく、西北方向や西方向にもあるのだ、
149 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 19:01:39.87
>>148 ぷっ 百済の西南に、渤海も大島十五所もあるのだ。
分かるか?
150 :
134馬鹿:2012/09/16(日) 19:32:05.91
>>149 >百済の西南に、渤海も大島十五所もあるのだ。
>>148と同じことを書いている。
反論したつもりか?
151 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 19:56:50.28
>>150 >>146では百済の西南に渤海がある、と書いたのだ。
>>149では百済の西南に渤海も大島十五所もある、と書いたのだ。
微妙に違うぞ。分かるか?
お前がどう解釈しようが、渤海は今の渤海だから、屁理屈は無駄だぞ。
渤海が今の黄海だというなら、その証拠を出してみろ。
152 :
134馬鹿:2012/09/16(日) 22:27:26.00
>>151 では、渤海が黄海でないと言い張るなら、
大島十五所がどこの群島か比定してみろ。
153 :
風の中のゴキブリ:2012/09/16(日) 22:48:18.14
ここも一昔前は面白かったのになあ
154 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 23:17:48.23
>>152 大島十五所は遼東半島周辺である。
大島は十五も無いとお前は言うだろうが、そんな数に拘る必要はない。
>>136-137に上げた記事だけでも、百済が通説のような位置にあったのではないことは確かだ。
ネット三国史も百済の首都を平壌としている。
ソウル辺りは新羅と伽耶が領土を争っている地域なのだ。
尚、渤海が今の渤海であることは史記朝鮮列伝を読めば分かる。
それを読めば古朝鮮が遼東であることも分かるのだ。
155 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 23:26:46.75
時は移り、議論は進化する。
いつまでも行程記事や考古学をネタに、
やれ九州だ、いや大和だと論争している時代ではないのである。
朝鮮説が現れ、ネット三国史の存在が知られるようになった。
君たちは今、時代に取り残されようとしているのである。
朝鮮説?そんなもんねーよw
台湾説の方がまだ可能性高いわ。
157 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 07:39:04.05
>>155 朝鮮
うんうん・朝鮮すばらしい独走しているよ
魏志倭人伝を無視し考古学を無視し・ん・で・もって邪馬台国だけは
ちゃっかり泥棒して朝鮮に持ち帰っている
多分朝鮮には誰もついていけていない・皆取り残されるのは当り前
相手にしてくれているのは日中ヒマなボケ老人倶楽部の皆様だけ
なあ朝鮮ここではハンネつけても名無しとなんら変わらん個人特定不能だ
つまり大した根拠がなくとも勝手気まま言いたい放題に書けるのだ
本当朝鮮説に自信があるのならHPでも開設するか日記でもつけたらどうだ
まず「ネット三国史」という名称を辞めた方がいいな
歴史小説の類と誤解されやすい(実はそうなんだろうが)
ちゃんと書名・著者名を出してもらわんと話にならん。
ついでにその由緒も
159 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 08:48:12.83
>>157 邪馬台国は朝鮮だなどとは言ってないぞ。
卑弥呼は朝鮮にいた、と言っているだけだ。誤解しないように。
邪馬台国は大和で卑弥呼は神功皇后だと書いてきたのだが、読んでないのか?
>>158 高句麗史は芻牟鏡と高句麗史抄だったか高句麗史略だったか、そんな名前だ。
百済史は百済王紀。新羅史の名前は不詳だ。
由緒も何も、そんなものはネットに上がっていないのだから不明だ。
韓国には原書が存在しているようで、ちゃんと写真が載っている。
160 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 09:14:36.07
それから、私は朝鮮説に自信を持っているわけではない。可能性を探っているだけである。
正直言って、ネット三国史を読んだからといって、自信が深まったというわけではない。
ただ当時の満州や朝鮮について、どこにどの国があったかということは段々分かってきた。
それが通説とはまったく異なることも分かってきた。
そして、各国の位置が明確に判明すれば、それだけで謎が解けるということもありうるのである。
そういう期待を持ちながら私はネット史や桓檀古記などを読んでいるのであって、
それは君たちが、考古学を究めれば邪馬台国問題が説けると期待しているのと同じことなのである。
君たちは考古学から、私はネット史などからアプローチしている、それだけの違いなのである。
今から二、三十年前ほどに、半島の某学者が
「好太王碑文、日本軍改ざん説」という、
もっともらしいお話を偽作して本を著したことを忘れたのか?
学者たるものが、そういうことを平気でやる国民性を忘れるなよ
162 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 09:33:35.71
そんなことを言うなら日本だって同じである。
津田左右吉とその一派が、デタラメな史観や半島地理を捏造した。
記紀は捏造だとか造作だとか、楽浪帯方郡が半島内にあったとかなんとか…。
この津田史観のせいで、君らの史観は滅茶滅茶になっているのに、
君らはそれに気付かず、逆に津田史観に反対する者をキチガイ扱いしているのである。
それはちょうど、地動説を唱えた者がキチガイ扱いされたのと同じ現象である。
ネット史を読めば、こんなものが後世に偽造できるような代物ではないことが分かるのである。
163 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 09:48:52.66
デタラメな史観は、捏造ではなく偽造なのだ。
それは、使用した3国史の捏造が先にある。それを無視して”半島地理を捏造”しても解決しない。
ネット史は、その間違いのある3国史の訂正にはなっていない。なぜならば、
新羅本紀の間違いである”奈勿麻立干”を固定し、それに合わせようとしている。
この時代の最も正しいのが「好太王碑文」なのだ。
164 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 10:17:02.53
韓国の人々にとって一番居心地のよい歴史は。
「375年 近仇首王即位キンキュウシュ(貴須、近肖古王の子)」
この数字上にある。この数字上では、好太王碑文や日本書紀の言い分がとおらない。
つまり、百済建国には、倭の関与はない。400年頃に高句麗の南下も無い。
この歴史認識がもっとも居心地が良いのだろう。
倭=日帝。高句麗=北朝鮮。この、潜在意識を歴史と分離することができない。
「375年近仇首即位」は、書記の干支を使用している。だから「120年差」となるが
「好太王碑文や日本書紀の言い分」を否定することができる。
そもそも百済建国には、倭の関与はないだろ。
日本書紀によると、神宮皇后が攻めた時点ですでに新羅も百済も存在し、敵国となっている。
166 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 11:33:37.71
3国史による歴史認識とは
崇神天皇 189年〜216年 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
神功52年 七支刀 326年。+46年で372年。
神功64年甲申 374年甲申 近仇首即位
神功64年甲申 374年甲申 近仇首即位から崇神を逆算すると
崇神天皇 189年〜216年→239〜262年。
考古学の時代50年遡上とは、 崇神天皇239年(卑弥呼の時代)を崇神天皇 189年で
新羅本紀に整合させた数字になる。この遡上させた数字に「239年邪馬台国官伊支馬」
を重ねると、伊支馬=イクメ=垂仁が重なる。
しかし、「神功52年 七支刀 372年」の説明が困難となる。
ネット朝鮮史は、この数字の齟齬を、奈勿聖帝紀で発見した。
だから、この数字の齟齬を修正することは正しい。つまり、時代修正にどちらを基準とするか?
後漢193年=新羅192年=崇神5年(243年)。
神功52年七支刀=326年(+46年で372年)
二択である。
そう言えば、数年前にも
韓国の「ノーベル賞級」の某教授が、
世界を相手にウソの実験論文を発表したっけな
168 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 11:48:28.77
>>159 朝鮮
>邪馬台国は朝鮮だなどとは言ってないぞ。卑弥呼は朝鮮にいた
どゆこっちゃ?魏志倭人伝ちゃんと見てますかー?
>邪馬台国は大和で卑弥呼は神功皇后だと書いてきたのだが
卑弥呼と神功皇后は年代がまるっきり違うぞ?
ひっつぶれたハッタリ説引っ張り出すな
>>160 >君たちは考古学から、私はネット史などからアプローチしている
ほら朝鮮は入り口を間違えているからとんでもない説になったのだよ
>そんなことを言うなら日本だって同じである
でた、彼の民族独特の責任や問題を回避する言い回し「お前たちも同じじゃないか〜」
>津田左右吉とその一派が、デタラメな史観や半島地理を捏造した。
何がでたらめなのか述べてもらおうか?「今まで書き込んできたからそれを嫁」と言わず
親切、簡潔かつ具体的に掲示してくれ
169 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 11:49:46.25
>日本書紀によると、神宮皇后が攻めた時点ですでに新羅も百済も存在し、敵国となっている。
神功52年七支刀=372年の場合の認識な。
この場合、崇神天皇239年(卑弥呼の時代)になる。
しかし、後漢193年=新羅192年=崇神5年を支持した場合
神功49年=323年 半島の占拠と領土分与。
神功前紀=274年渡海であれば、晋の冊封体制下での渡海になる。
この時代には、新羅から調(税)が毎年納められていた。纒向5類の時代である。
では何故毎年税が納められたか?
魏末 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
この1大卒の渡海であり、1大卒を半島の警察軍として活用する、その経費が調なのである。
>>167 ウソをついてないと生きていけないのが韓国人朝鮮人ですから。
171 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 13:42:34.61
神功52年七支刀 西暦372年
東晉廢帝太和4年 己巳 西元369年 七支刀・・16日丙午の存在しない年。
存在しない日付を刻んで、丁度120年差を主張している
なによりも書記の記事と時代が重ならない。
つまり
後漢193年=新羅192年=崇神5年=考古:纒向の始まり。
この設定を覆すには、その根拠が薄い。だから百済王家を遡上させると
神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年丙戌5月16日丙午(東晋17日丙午) 西元326年
この数字上であれば、書記の記事は正しいとできる。奈勿聖帝紀と重ねると
367年(307)丁卯 赤土(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须
372年壬申(水猿:妊娠)6月、基临帝崩 新羅本紀310年
奈勿王 7年[聖未383] 三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
奈勿王 8年[甲申384]夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
奈勿王9年(木鷄:을유385)10월, 침류(枕流)가 졸(卒)하고 아우 진사(辰斯)가 섰다.
172 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 13:43:39.10
307年 丁卯(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须(貴須結婚) (367年丁卯)
312年壬申(水猿)6月、基临帝崩 新羅本紀310年 (372年壬申)
奈勿王 7年癸未=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。(383年)
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。
書紀:307年貴須結婚、その孫である王子阿花は、339年時点、31年後で年少である。
百済:367年貴須結婚、その孫である王子阿花は、385年時点、18年後で年少なのか?
百済王家は、書紀の干支を使用した差込記事である。
173 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 17:10:10.71
>>168 神功皇后は170年−269年だ。
卑弥呼もほぼその頃の人物だ。大体重なってるぞw
お前が学校で習い、本にも書いてあり、ネットにも載っていること、それが津田史観なのだ。
今の日本に出回っているほとんどすべての学説が津田史観なのだぞ。
お前が学者の本を読み、考古学を学べば学ぶほど、お前は津田史観に洗脳されていくのだ。
分かってるか?
一言でいえば記紀を無視する史観だ。記紀の神話と古代の部分は信用できないから、
大和朝廷は推古天皇あたりから始まったことにして、それ以前に関しては、
考古学などを参考にして正しい歴史を構築しましょう、という史観だ。
われわれが学校で教わったのがそれであり、戦後すべての学者がその史観に従っているのだ。
いわば学問におけるファシズムなのだが、誰もそれに気付かない。
名古屋大学で歴史を専攻している学生ですら、記紀を信用していないのである。
174 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 17:26:08.71
マホメットを冒涜した映画が、イスラム教徒の怒りを買っている。
当然だ。内容があまりにひどい。
記紀を信用しないということは、いわばこれと同じことなのである。
品性下劣な人間ほど、記紀を信用しないのである。
なぜならそういう人間は、人間に対する畏敬の念に欠けているからである。
神武天皇というのは実に偉大な、素晴らしい人間だったのかもしれない、
という視点が欠けているのである。
175 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 17:40:11.10
もちろん我々は近代人であるから、もはや天皇を素朴に崇拝することはできないのである。
私だって、別に天皇を尊敬しているわけではない。
天皇制が廃止されても構わないとさえ思っている。
しかしそれと学問とは別で、古代の天皇というのは、我々の想像以上に、
偉大な、霊的な指導者だったのかもしれない、という思いがあるのである。
それが想像力というものである。
神武が、ただ単に武力で大和を侵略した、などと考えていては、
歴史の真実を見誤る惧れがあるのである。
176 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 18:09:26.31
>>173 朝鮮
>神功皇后は170年−269年だ。卑弥呼もほぼその頃の人物だ。大体重なってるぞ
ハッタリかますな。神功皇后のくだりは弥生時代から朝鮮出兵まで幅が広く
200年以上にまたがる話だ。この嘘つき
>一言でいえば記紀を無視する史観だ。記紀の神話と古代の部分は信用できないから、
>大和朝廷は推古天皇あたりから始まったことにして、それ以前に関しては、
>考古学などを参考にして正しい歴史を構築しましょう、という史観だ。
歴史を冷静に見るうえで正しいではないか。何も唾飛ばして必死になることもないだろう。
>われわれが学校で教わったのがそれであり、戦後すべての学者がその史観に従っているのだ。
>いわば学問におけるファシズムなのだが、誰もそれに気付かない。
何を必死になってるのだか・政治活動でもしたいのなら別の板逝け
> 品性下劣な人間ほど、記紀を信用しないのである。
痛いとこ突かれて反論できなくなるとこういった暴言を発するよな彼の国の人は
>私だって、別に天皇を尊敬しているわけではない。天皇制が廃止されても構わないとさえ思っている。
なんだ?やっぱり朝鮮は「日本人」じゃなかったんだ
>神武が、ただ単に武力で大和を侵略した、などと考えていては歴史の真実を見誤る惧れがあるのである
記紀信用している割には信用していないじゃん
おいおい・支離滅裂じゃないか
177 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 18:48:43.86
>>176 わはは、どことなく可笑しいレスだなw
ちょっと真面目なことを書きすぎて、気恥ずかしい思いがあったのだが、
お前のレスで救われた思いがするよ。
いや〜、この世にアホがいることは良いことだな〜www
178 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 18:50:57.77
アホは朝鮮人だって外野は皆思ってるよw
179 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 19:07:25.81
>>177 朝鮮
さらに・支離滅裂となってきたな・さらに稚拙ときたもんだ
天皇制を否定するような彼の国の人だ無理もないだろうが
180 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 19:13:41.06
>>179 お前のレスは、どことなく可笑しいw
いわば天然ボケでしか出せない味があるww
181 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 19:28:38.48
>>180 朝鮮
なんだ、逃げているのか?
反論に応えられないんだろうな無理もない元々歴史を正しく見ていない彼の国の人だから
すでに天皇制を否定している所が決定的だ
このような者がいかに「記紀を信じろ〜」と言ってみても誰も反応はしない
と・いうことで・朝鮮、この板から消えてくれ
チョンの分際で日本の歴史を騙るな!
183 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 19:53:55.20
なんだ、君らは天皇制の讃美者なのか、意外だったな。
なのに記紀は信じないのか? それでは論理に一貫性がないぞ。
184 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:04:25.78
>>183 朝鮮
天皇制を否定するような彼の国の者とは我が国の歴史を議論したくないんだよ
ましてや支離滅裂・誰も理解できない我説の垂れ流し・いい加減にやめてくれ
と・い・う・こっちゃ、はよ・出てけや
ちなみに、
津田左右吉は天皇制賛美者だぞ
記紀は造作説だが
文化勲章までもらってるぞ
186 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 21:13:04.32
私は政治にもイデオロギーにも関心のないノンポリである。
天皇制だって否定しているわけではない。
私が一番腹が立つのは朝鮮人を蔑視している奴である。
私は朝鮮人ではないが、チョンなどと平気で書いている奴を見ると、
メラメラと憎悪の炎が燃え立ってくるのである。
人間が人間を差別するということは、人倫を外れているのである。
君らは日本人を愛する、天皇を愛すると言いながら、
一方では平気で朝鮮人をバッシングしているのである。
人間として、果たしてどちらが立派であろうか。
学問というものは本来、政治や思想とは無縁であるべきなのに、
>>184などは感情に走っているのである。
187 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 21:53:52.06
>>186 朝鮮
>私だって、別に天皇を尊敬しているわけではない。
>天皇制が廃止されても構わないとさえ思っている。
この発言は天皇制の肯定・否定どちらかと言えば否定だ
このような者と「我が国の歴史議論ができるか」と言っているのだ。
>私が一番腹が立つのは朝鮮人を蔑視している奴
軽視などしていない・ただ「歴史認識上話が合わない」と言っているのだ
>学問というものは本来、政治や思想とは無縁であるべきなのに、
>>184などは感情に走っているのである。
そうでもないぜ〜・冷静にかきこんでるぜ〜ぃ・よくみてくれよ〜
188 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 22:04:33.78
>記紀は造作説だが
何故造作説が発生したかを考えればそれは、
百済本紀の百済王家を正しいとして編年を考えた結果だ。
この数字では書紀の編年ができない。だから、造作説が発生する。
書紀の編年ができない元凶が百済王家であるならば、その数字を書き換えれば編年ができるのか?である。
幸いにも、ネット朝鮮史で、新羅本紀が47年間延びしているとする説が浮上している。
神功52年七支刀を372年から326年に設定変更すれば、これに百済王家はついてくる。
189 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 22:21:20.39
>>187 お前は「我が国の歴史議論」と言っているが、
卑弥呼の倭が日本とは限らないのだぞ、分かっているか?
まあお前はそれほど悪い奴ではなさそうだ。
お前が朝鮮人差別の言葉を書き込んでいるわけではないからな。
しかしこのスレにも何人かは朝鮮人蔑視をしている奴がいるのだ。
以前私は参考のために渤海スレを覗いてみたことがある。
そいつらの知識はなかなかのもので、ここの連中より遥かに高度だった。
ところが、そこに参加している人間のほとんどが朝鮮人蔑視者であった。
私は幻滅すると同時に嫌な気分になった。
こいつらがどんなに知識があろうと、人間としては唾棄すべき奴らだと思わざるをえなかった。
今の三十代四十代の奴らが、なぜこんなに朝鮮人を嫌っているのか、正直私には分らない。
おそらくネット上に朝鮮人蔑視の言葉が溢れているから、それに感染したのだろうが。
とにかくあまりイデオロギー的になるな。天皇制云々についても冷静に論議すればいいのだ。
お前の言動は既に右翼に近くなっているぞ。
190 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 22:34:33.99
>>189 朝鮮
>卑弥呼の倭が日本とは限らないのだぞ、分かっているか?
分からんな〜
魏の使節は朝鮮半島から対馬・壱岐と海を渡って、九州にたどり着いている。
あとは、陸行1月で邪馬台国と魏志倭人伝に書いてある。
「朝鮮に卑弥呼がいたのだ理解しろ」と言うほうが理解できん。
>まあお前はそれほど悪い奴ではなさそうだ
当たり前・私は正直な男だ
>天皇制云々についても冷静に論議すればいいのだ
日本人にとって議論の余地はないのだ。天皇陛下はわが国民の象徴なのだ
>お前の言動は既に右翼に近くなっているぞ
私を右翼呼ばわりとは、じゃ・朝鮮は・極左の共産党か?
191 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 22:44:04.00
>>190 魏の使節が日本に来たとはどこにも書いてないぞ、分かるかw
天皇制は、そのうち、好むと好まざるとに関わらず、自然消滅するぞ、一夫一婦制を守っている限りは。
共産党だって日本を愛しているんだぞ、分かるか?
192 :
観客その4:2012/09/17(月) 22:54:20.62
>>191 朝鮮
もうよせ、決着はついている。
何時もどうりの無理やり堂々巡りロールプレイングゲームに持ち込もうとしてもダメ。
最後に言っておく、これ以上の自説は自らブログを開設してそこで続けてくれ。
193 :
134馬鹿:2012/09/17(月) 22:55:59.25
>>154 名護屋大文学部日本史学在学中の在日ガキ
>
>>152 >大島十五所は遼東半島周辺である。
>大島は十五も無いとお前は言うだろうが、そんな数に拘る必要はない。
大島十五所が遼東半島周辺とするなら、比定地を教えよう。
しかし、その島々は渤海湾ではなく黄海にある。
又、鴨緑江右岸が百済の領域であれば、
百済の南西に大島十五所が存在することができる。
大島十五所は、大連の北東にある長山群島の主な島々である15島と比定できる。
194 :
134馬鹿:2012/09/17(月) 22:58:27.66
× 鴨緑江右岸が百済の領域であれば、
○ 鴨緑江左岸が百済の領域であれば、
195 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 23:07:27.43
>>192 なぜそんなに朝鮮説を嫌うのだ。それは今流行のイジメと同じではないか。
九州説の諸君がよく言う「畿内論者は出ていけ!」と同じではないか。
>>193-194 だからそれは私が述べたように遼東半島か、遼東半島南部地域に該当するではないか。
因みにお前は私と19歳を混同してるぞ。
196 :
観客その4:2012/09/18(火) 06:46:33.45
>>195 朝鮮
おいおい、朝鮮こそこの間まで人を誹謗中傷していたではないか
しかも言葉汚く罵ってたくせに、朝鮮説を拒否したらイ・ジ・メか
よー言うわ、そーいう稚拙極まりない所が名古屋の鼻たれと一緒なのだ
>>186 >私は朝鮮人ではないが
韓国人なんだろ?それとも帰化人か?
まとも日本人は「韓半島」なんて言わねえんだよ。とっとと失せろ。
まあ朝鮮人とか韓国人とかは
蔑視されても仕方ないようなことを今までしてきたし、今もしてるからなあ。
歴史の捏造なんてのは犯罪行為そのものだよ。
199 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 09:06:15.49
>まとも日本人は「韓半島」なんて言わねえんだよ。
ときどきこういう書き込みが見られるのだが、
これがまったく意味不明だ。
どういうことなのか説明してもらいたい。
いや、本当に分らないのだ。私は政治的人間ではないから。
君らのように朝鮮人を憎んでいるわけではないし、
朝鮮説を唱えているから朝鮮のことを調べているが、
それ以外では朝鮮などに何の関心もない人間だから。
それにしても君らはなぜそんなに朝鮮を嫌っているのだ?
それがどうしても分らない、いや、ほんとに。
実生活で何か朝鮮人のためにイヤな目にでもあったのか?
それとも電波人間だからネットに汚染されているだけなのか?
とにかくそんなに朝鮮が嫌いなら朝鮮を叩くスレを作ってそこでやってくれ。
朝鮮説を唱えているというだけで邪馬台国スレで叩かれてはたまらない。
朝鮮人が嫌いというより、
「卑弥呼は朝鮮にいた」を嫌ってるんじゃまいか
そのとおり
「卑弥呼は朝鮮にいた」さんが嫌われてるだけでしょうな
言ってること支離滅裂だもんねえ。
朝鮮さんは自分のHP立ち上げてそこでやったほうがいいんじゃない?
そっちのが少しは支持してもらえるかもよw
203 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 10:11:51.86
ゴキブ李って何処にでも沸くんだなw
卑弥呼が朝鮮にいたというのは、たとえて言うなら
「昨夜A君が列車に乗ってソウルを出発し、大田、大邱を通過してどこかに着きました。どこでしょう?」と聞かれて
「水原」と答えるようなものだ
205 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 12:53:14.22
あいかわらずアホだな、君らは。
卑弥呼が、実際には満州か朝鮮のどこかの女王で、倭の女王として朝貢したとしても、
陳寿が、倭とは日本のことだと思っていれば、
陳寿は、日本の女王卑弥呼として、日本の地理風俗を書くのだよ。
倭人伝に日本の地理風俗が書かれているからといって、卑弥呼が日本の女王だったとは限らないのだ。
朝貢記事と、それ以外の記事を、切り離して考えなければいけないのだよ。
そういう、資料の分析ができないから、いつまで経っても、魏使が日本に来た、などという、
何の根拠もないことを、あたかも厳然たる事実のごとく見なして、
永遠に行程論争を繰り広げるという愚を犯しているのだ。
で、こういう指摘に接して、なるほど、と思うならいいのだが、
ここにいる連中は揃いも揃って○○であるから、一斉にそういう意見を嘲笑するのである。
君らが○○であることは19歳の少年にも分かるのだ。
君らの大好きな伊作だって、君らが○○であることは百も承知しているぞ。
206 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 13:05:45.18
大体、嫌われるということは優秀な証拠である。
伊作は君らより一段レベルが高かったから、議論の中心になって叩かれていたのだ。
19歳も然り。優秀だったから九州論者に嫌われたのである。
こういう場では、結局最も優秀な者が、議論の中心になってしまうのである。
私が嫌われているのも、結局それと同じだな(得意げに笑う)
207 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 15:41:08.74
あきれてるだけだろ。
208 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 16:13:55.82
ここまで来ると気持ち悪いな
推測に妄想を重ねない限りは、卑弥呼が朝鮮になんて論は無い。
根拠がネットの朝鮮史というだけでもう臭くてダメ。
210 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 17:56:44.37
あきれているだけではありません。
小バカにしています。
学生時代には、このような人を3シグマ(3σ)外の人といっていたのを思い出します。
211 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 18:51:39.24
>>209 この男にだけ答えておこう。
1 倭の女王卑弥呼の使いと名乗る者が朝貢してきた。
2 その一方で、陳寿は倭とは日本であり、その首都が邪馬台国という国であるという情報を得ていた。
1と2から、陳寿が、卑弥呼は日本の邪馬台国に都す、と誤解した可能性がある、のである。
分かるかな? これが分らないと私の朝鮮説は分らない。
また私はネットの朝鮮史を根拠にしているわけではない。
上に述べた推測から、卑弥呼が朝鮮にいた可能性を探っているのである。
自説に自信があるわけでもないのだ。ただ探っているのである。
212 :
観客その4:2012/09/18(火) 19:24:19.09
>>206 朝鮮
>19歳も然り。優秀だったから九州論者に嫌われたのである
おいおい、よりにもよって、ハナタレ名古屋と同列か、ま・いいけど、そんなもんだろうから
っていうか・朝鮮=ハナタレ名古屋だろ?幼稚っぷりが一緒じゃないか・プロコテハンであるところも一緒
213 :
観客その4:2012/09/18(火) 19:26:35.59
>>211 朝鮮
>上に述べた推測から、卑弥呼が朝鮮にいた可能性を探っているのである。
朝鮮のは推測と言わない・根拠なき妄想という
探りたいのならブログ開設してよそで探ってくれ
>>205 他人が全て敵に見えてきたか
狂信者・カルトの特徴だな
つーか客を散らすやつがプロ固定か?
216 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 21:28:50.19
いーやプロ固定もどきに訂正だな
217 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 21:55:16.76
まあ、朝鮮説でもこれだけがんばれるわけだから、畿内説ががんばれるのも
当たり前といえば当たり前か。
218 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 22:16:45.13
珍説唱えるのは勝手だけど、なんかねぇ…
こんなのがいりゃまともな人は近寄ってこんだろ
しかも一日中いるんだからな
221 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 22:34:46.17
朝鮮逃亡と思いきや【謎の女王】で暴れているではないか
こりゃ手が付けられない【プロもどきコテハン】だわー
222 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 07:33:44.93
日本書紀垂仁28年(補正AD239年)に殉葬の記事があり、
同32年埴輪で代替とある.しかし、
(書紀の著者は殉葬記事のある倭人伝を読んだ上で)
4代のち(補正では120年後)の~功39年に倭女王の記事を引用している.
論理的には、倭人伝を引用する年代を間違えたか
(私見ではこの可能性が大きい)、
殉葬の習慣が復活していたことになる.
あるいは卑弥呼とイクメイリヒコイサチ(垂仁天皇)が別王朝であれば
矛盾は生じない 下記ページからの引用です
ttp://www006.upp.so-net.ne.jp/mnogami/
223 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 09:31:41.05
うるさい観客が多いなw
君らを相手に非難の応酬をしても仕方ないので、ここは冷静に書こう。
たとえば倭奴国の位置として考えられるのは、倭の極南界という表現から、
1 中国南部
2 沖縄、奄美
3 九州南部
4 朝鮮半島南部
5 その他
であるが、2と3は除外される。なぜなら古代の日本に大夫という位階はなかったからである。
倭王帥升にしても、生口160人を献上したことを考えると、中国大陸の近処の国である。
あの時代に日本から160人もの生口を連れて行くのは大変だから。
倭の五王にしても、献上品が貂皮と人参であることを考えると満州か朝鮮辺りである。
卑弥呼の倭も、景初二年六月に帯方郡を訪れたこと、難升米が大夫と書かれていること等を考えると、
満州か朝鮮辺りである。
これらはいずれも常識的な判断であって、突飛な判断ではない。
むしろこれらをすべて日本としてきたこれまでの通説こそ突飛であり非常識なのである。
狂信者・カルトは、むしろ君たちなのである。
本当に朝鮮人はチラシ裏レベルの妄想だなw
225 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 10:13:14.09
>>222 日本書紀の垂仁天皇記には、殉葬の姿が具体的に描かれている。
一方で、倭人伝には殉葬の文字があるだけ。これからすると、日本書紀が
倭人伝を参考にしているとは考えにくい。
226 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/19(水) 22:25:07.15
>>211 >1 倭の女王卑弥呼の使いと名乗る者が朝貢してきた。
其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼
卑弥呼の朝貢は、詔書にむくいる朝貢だぞ。
つまり、先に詔書を受け取っているのだ。
その勢力を北史は
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
九州倭奴国で卑弥呼は共立されたと言っている。
そして、この朝貢団に、邪馬台国官伊支馬は都市牛利(たしうり)を派遣したと見て良い。
だから、
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・。倭王因使上表答謝恩詔。
正始元年に梯儁等は、詔書をささげて倭国(邪馬台国)を訪れる。
最後の、倭王因使上表答謝恩詔。=晋書正始元年東倭重譚納具。←この状態が詔書にむくいる朝貢になる。
227 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 22:33:19.45
>>226 朝貢したから詔書報したんだよ、パカだな、唐松山はw
それに「九州倭奴国で卑弥呼が共立された」などとはどこにも書かれていないぞw
228 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 22:46:30.42
>>227 莫迦和詩菜奈脚那尾羅内とは唐変木のことよ。
229 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/20(木) 00:14:41.38
>「九州倭奴国で卑弥呼が共立された」などとはどこにも書かれていないぞw
北史に書いてあるだろ。
遞相攻伐,歴年無主。=3世紀初めで終了する前原王墓。
そして、卑弥呼に王位の下賜は無く、倭奴國王位の継承を認められただけ。
後漢の皇位継承の魏は、後漢の倭奴國王位を認める。
正始元年に邪馬台国に倭王位を授与。
邪馬台国官伊支馬はイクメ=垂仁による田島守の派遣。
田島守の大和出発は5月末?つまり、楽浪?で卑弥呼の派遣した難斗米(ナトベ、書紀)と合流するのである。
難斗米とは、ナ国のトベ、ナの太夫なのである。
>詔書報したんだよ、
報=報いる=むくいる。
奉=捧げる=ささげる。
230 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 08:58:09.98
>>229 いや、だから唐松氏よ、倭奴国が九州だとは、どこにも書かれていないんだよw
232 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/20(木) 22:57:16.62
>倭奴国が九州だとは、どこにも書かれていないんだよw
だから、考古学からその事実を割り出せばいいいのだ。
簡単に言えば、庄内式土器が北部九州に上陸するのはこの時代だ、
庄内式土器を北部九州に持ち込んだのは?
景行が持ち込んだのであれば、最初に挨拶に行った、筑紫の神夏磯媛(カンカシヒメ)が卑弥呼になる。
233 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:03:11.81
>>232 庄内式土器というのは近畿地方では出土する場所が限られているらしいね。
むしろ、九州の方が広範囲に分布するんじゃなかったかな?
234 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:04:42.29
近畿地方は、韓国と同じで、何でも発祥の地にしなくては気がすまないらしい。
235 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:13:11.09
この土器の話だと、マキムクに東海、北陸の土器が集まり、
畿内から、九州に土器が動いていく様子が伺える。
租庸調のような税や、兵士、労働者が九州へ運ばれていったのだろう。
236 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 09:20:53.59
>>232 倭奴国が九州であるかどうかという問題と、庄内式土器とは、
何の関係もないと思うがw
237 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 14:49:30.49
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
景行により、庄内式土器がもちこまれ、神功渡海時に滅ぼされる。
田油媛→田平媛。
神功39年大歳。景初3年 この記事で書紀は何を説明しようとしているのか?
それは、景初3年から74年後、渡海から40年後に仁徳が即位したということをあらわす。
つまり、神功39年は、313年仁徳即位の年であり、40年前274年に渡海がある。
長畑馬場遺跡は、274年に滅ぼされた遺跡である。
238 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 14:56:53.93
>倭奴国が九州であるかどうかという問題と、庄内式土器とは、
何の関係もないと思うがw
大有りなのだ。
景行天皇十二年(壬午八二)七月。熊襲反之不朝貢。
熊襲反之不朝貢とは誰のいい分か? 少なくともこの時点まで、大和が九州
を支配していたとの記録はない。であるならば、こに言い分は、筑紫の言い分だ。
そして、最初に筑紫の神夏磯媛に挨拶にゆく。
ヤマトは、筑紫女王に加担して、九州平定をはじめるのである。
239 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 18:56:40.40
>>238 唐松山氏よ、あなたの書いていることは、
倭奴国が九州であるかどうかという問題とは、
何の関係もないよw
240 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 20:30:41.37
>倭奴国が九州であるかどうかという問題とは、何の関係もないよw
だから大アリなんだって。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
景行20年(253年?)に壹與を軍隊付きで筑紫に派遣する。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
241 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 21:22:32.23
>>240 あなたは文を変なところで切ってるよ。
使大倭監之
これはその前の文にかかるんだよ。
自女王國以北
ここからが次の文だよ。たいていの解釈ではそのようになっているぞ。
242 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 21:54:58.81
倭人伝のその部分は、いろんな事が雑然と書かれている。
基本的には一文一文が独立していると考えるべき。
一緒にすると、全く違う意味になったりする。
まず魏志倭人伝を最初から順を追って読んでみよう。
・倭人在帯方東南大海之中。
東南に海があることから帯方は半島東岸にあったことがわかる。
・旧百余国漢時朝見者有
この記述から当時は漢時の記録が残っていたことがわかる。
※この後の記述は漢時の記録からも引用されてる可能性があることを念頭に置いとかなければならない。
・今使譯所通三十国
旧百余国と比較すると倭国が分裂しまってる。その後の倭国大乱という記述とも一致してる。
ここまでで、倭国大乱で争っていた勢力の一つが卑弥呼の勢力だったということがわかる。
続きは気が向いたら書く。
244 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 22:30:49.65
>たいていの解釈ではそのようになっているぞ。
倭人伝自体に句読点はない。だから、各自が勝手解釈で自説にあったところへ句読点を付ける。
「國國有市交易有無 使大倭監之」 これで1文とする読み方が存在するが
「大倭」とはなんぞや?
「國國有市交易有無」だけでも十分に通用する。
>一緒にすると、全く違う意味になったりする。 ということだ。
だから、書記の編年が重要な意味を持つ。
崇神世は卑弥呼の時代。従来からこの読み方が支配していた。であるならば、崇神世には
ヤマトが九州に関与することはない。よって
「使大倭監之」を先の文章につなげる。
景行、日本武尊時代であれば、ヤマトは九州に関与している。
九州の1勢力(熊襲)は、景行にまた背いたため、日本武尊を派遣されている。
諸國畏憚之。違うか?
>>244 >また背いたため
複数回にわたって背いたの?
その根拠は?
246 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 22:38:15.02
>>243 残念ながら、帯方が半島東岸にあった形跡はない。
帯方は遼東半島だから、倭人在帯方東南大海之中は理に適っている。
旧百余国漢時朝見者有
これは漢書地理志を踏襲したもので、日本のことではない。
楽浪海中つまり遼東の倭人のことである。
今使譯所通三十国
これだけが倭人伝初出の記事で、一応日本のことと考えてもいいが、断定はできない。
247 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 22:42:42.86
>倭人在帯方東南大海之中。
>旧百余国漢時朝見者有
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
奴國が難国・那国であり、筑紫で不都合はない。
不都合なのは、邪馬臺國に女王卑弥呼を住まわせること。
卑弥呼は、歴年無主の地で共立される。それは、邪馬臺國ではない。
邪馬臺國は、倭王の居所であり、女王と倭王は別人である。
248 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 22:44:34.58
>>244 ネット新羅史にこういう記事がある。
始開市京都 通貨於四方 以好助爲市典監 A.D. 490
初めて京都に市を開いて、市典監を置いたという記事だ。
市典監が倭人伝の大倭に相当する。だから、
使大倭監之は國國有市交易有無にかかる。
>>247 ◯那国というのを除外してはいけない。
それらは那国(中国流には奴国)の配下にあった国々だから、、、
250 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 22:52:06.91
考古学の50年遡上とは、文献も考古学に合わせて遡上せよ、ということだ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.htm l
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年
崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるがこれ以外に2年を開化から割り振られている)
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年=後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 神功渡海。
文化の伝播=人の移動なのかよ?
明治以降の日本へと大量の西欧人が移住してきたことになるな。
252 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/21(金) 23:21:50.03
市典監の文字から市を監督する典とか それ相応に判るが
大倭監となると?
魏から倭王位を与えられたのは、ヤマトの王である。
そのヤマトが女王国を含む全倭地を支配するようになって”大和”と呼ばれる。
大倭の成立は、前方後円墳の全国展開でもある。
そして、△鏡に景初3年や正始元年銘が存在する事実は、
239年邪馬台国官伊支馬と晋書正始元年東倭重譚納具。の年でもある。
△鏡自体は、274年神功渡海以後に作られた鏡である。
邪馬台国=東倭。 東倭とは、西の倭奴国(九州女王国)に対する言い回しだ。
東倭=東夷
元は東夷
倭も倭も後世中国を支配することになったの蔑称好きの新中国人(元は鮮卑)が名付けたもの。
うは、滅茶苦茶だ
修正はしないw
255 :
正統派右腕:2012/09/21(金) 23:42:23.57
>>252 唐松山
>239年邪馬台国官伊支馬と晋書正始元年東倭重譚納具。の年でもある。
チミは進歩というものを知らんのか?相変わらず間抜けなことを書いているな。
晋書にあるのは下記だ。
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
魏の元号である正始と西晋の元号である泰始の見分けも出来んのか?アホだの〜。
256 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 10:31:06.01
257 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/22(土) 23:18:45.20
>>255 晉書卷一 帝紀第一 宣帝
正始元年春正月,[七]正始元年 「正始」上各本皆有「魏」字。周家祿晉書校勘記以下簡周校:「『魏』字衍文,蓋前有『魏國既建』,
『魏文帝即位』,黃初以下皆蒙上為文。」今據刪。東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,
又搨髟風W。
258 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/22(土) 23:39:57.84
崇神10年モモソヒメの墳墓作りに、民がこぞって参加した。
これは、民の自由意思による参加である。
つまり、崇神5,6年の大飢饉。これで死んだ親子兄弟の鎮魂も兼ねた葬儀なのだ。
ホ37149 ヤソナホの キサラギヰカに 垂仁87年
ヰニシミコ ヰモトにいわく ワレおひぬ ミタカラもれよ オナカヒメ いなみていわく
タヲヤメの ホコラたかくて またいわく たかければこそ わがつくる カミのホコラも
カケハシの まゝとうたえば
イニシミコ、垂仁の兄だ。「ミタカラもれよ」とは、「蓄財をせよ」ということ。
そこで、心配して、親戚の墳墓は大きく作られるようになったが、私の墳墓は「カケハシの まゝ」
つまり、「モモソヒメと同じ程度の大きさで良い」と言っているのだ。
だから、モモソ媛の墳墓はそれほど大きくない。
そして、モモソ媛の墳墓築造こそ、銅鐸祭祀から墳墓祭祀への転換点でもある。
>垂仁28年に古墳造営の話しがあり
垂仁天皇 217年〜239年 4章の空白年。
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀) 崇神58年
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する 珠城宮。
纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
石塚がその時代かも?
259 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 02:34:02.95
東倭重譚納具→東倭重譯納貢 ??
260 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 18:01:17.88
261 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:15:20.96
>>250 古代の場合は土器しかないとはいえ、土器で歴史のようなものを語るのは
どうにも違和感がある。
戦国時代を考えてみればいい。土器で何がわかるのやら。
戦国時代を土器で考えたら完全に妄想になる。と言うか、誰も相手に
しないだろう。
各地の土器があるから「連合」だ、なんてのはおかしいだろう。
262 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:32:52.06
そのとおりだろうね。土器による年代は、数百年のちがいならば分かるかも知れないが
数十年のちがいなど分かるわけはない。同じ時代だって、うまい奴もいれば下手な奴も
いるからね。
鍋や食器の産地を以って連合とは、チャンチャラ可笑しいですか?
邪馬台(女王)国も、江戸幕府のように、宮殿周辺に各国(大名)に屋敷地を与え、正室や嫡子などの人質を取っていた、と考えるのはいかがでしょう?
江戸時代も各藩の大名は、故郷の料理(鍋や食器、野菜など)を調理して食べていたようですし、「秘密の県民ショー」を見ても判るとおり、
人間なかなかお袋の味を忘れられないものです。
264 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:42:08.75
だから、人質が持ち込んだ土器か、観光客が持ち込んだ土器か、単なる食料品の交換などで
持ち込まれた土器か分からんだろうて。
265 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:48:19.27
徳川家康が江戸に幕府を開いたときは、近隣の地域から大勢の人間、
特に男が集まった。三河以来の家臣は、譜代大名になって周辺に配置された。
食器なんかはわざわざ故郷から持っていくものじゃないな。
あるものを使えばいい。あるいは一番良い物を調達すればいい。
266 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:50:42.74
土方好物の土人編年自体のが有効性がエロ低い
そこのところはふつうに金属で編年するのがより有効
そしたら
板付の環濠のとかは鉄器時代以前とかって明確化しなければならなくなるのね
現状のだとむにゃむにゃですんじゃったりするけどさ
267 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 21:51:42.61
>>263 慧眼!
大和朝廷も、絶対に各国の国造・県主から人質(嫡男)を取っていたと思われ。
じゃないと、弥生時代の「倭国大乱」に逆戻りしちゃってただろう。
【弥生時代→古墳時代】と【戦国時代→安土桃山江戸時代】は時代相としてよく似ていると思われ。
為政者は「戦乱エネルギー」を「建設エネルギー」に転換する必要があり、それが前者は前方後円墳、後者は天守閣となって、
平和な国造りを志向したと考えられる。
268 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:07:55.85
>>264-265 食器は現地調達できるだろうけど、土器で故郷の食材(漬物や魚醤)などを送らせていたと考えれば、
土器が全国各地から集まっていることの説明が付く。
纏向遺跡は生活遺跡ではないから、大和盆地での米以外の食材調達は困難だったと思われ、
倭国大乱後まもない当時の道中の安全性を考えれば、観光客云々は論外だし、
物々交換の可能性だが、それぞれの元はどこから来たかを考えれば、結局振り出しに戻るだろう。
270 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 22:31:43.88
>土器で歴史のようなものを語るのは どうにも違和感がある。
崇神10年異俗多帰。4道将軍が連れ帰った連中だ。
なぜ連れ帰ったかの前に5年民の離散がある。飢饉の翌年の逃散だ。
この逃散した連中が世間に満ち溢れては、乱れのもととなる。だから、これらの民を中心に
連れ帰ったと思われる。考古学は、これを“2世紀末”という。
2世紀末=崇神10年が成立する。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀、崇神58年)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
3世紀前半に珠城宮、その跡に日代宮。
箸墓築造(260±10年)をもって纒向時代は終焉する。
土器編年が布留式に変わるということは、時代が変わったことをあらわす。
271 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:38:31.43
>>270 神武東征だろうな。布留式に変わるのは。
しかし、その年代は50年以上はずれるが…。
弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑ 【神武東征ルート】
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系末裔であることを示すため、神武は投馬国(日向)から船出し、
首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島へ軍事介入で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系の活躍≧筑紫系の活躍)→「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の平城京から本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都
273 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 22:43:06.88
3世紀前半に珠城宮。
垂仁は、”任那の鉄”という誰でもほしがる物を持っている。
鉄の対価として、各地の物産や労働力が纒向に集まる。
ホケノ山の同向式神獣鏡は楽浪で作られた公孫氏の鏡である。
そして、墳墓上に整然と並べられた穴あき壺こそ埴輪の始まりであり、桜井茶臼山も穴あき壺である。
纏向2類(中) 纒向石塚。これが大型建物(珠城宮)より後になる。まだ埴輪は無い。
274 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:47:47.44
>>258 ホ37149 ヤソナホの キサラギヰカに 垂仁87年
ヰニシミコ ヰモトにいわく ワレおひぬ ミタカラもれよ オナカヒメ いなみていわく
タヲヤメの ホコラたかくて またいわく たかければこそ わがつくる カミのホコラも
カケハシの まゝとうたえば
石上神宮の話
日本書紀にもある
275 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:48:36.52
鉄の希薄なところにたりひとがおったりするわきゃねえよな
276 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 22:59:18.68
>神武東征だろうな。布留式に変わるのは。
ホ30025 ヲシクモと ナガスネうてば にけゆくを をひてカハチに とゝまりて タケチノコリと
アウヱモロ ヤマトのソフに ふせがしむ モノヌシかえり ヲシクモは カハチにゆきて
ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる ツクシのタネコ
モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ ヲヲモノヌシは
アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて
しつかなり いまアマキミの クラヒなる
コシネのクニも サホコみな 北陸も出雲もみな・・・サホコ=出雲・・大量の銅剣埋納
銅剣埋納は弥生中期の終了。同時に中期の銅鐸も埋納される。
弥生第X様式とは、1世紀半ばから2世紀末程度の編年を持つ。
この第X様式の始まりと共に栄え、2世紀末に衰えたのが、近江の伊勢遺跡である。
大物主の初子タタネコが崇神に使えるのが後漢193年(崇神5年)冷夏、飢饉の直後である。
277 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:59:31.23
>>275 近畿地方の場合はおる。石器使っているから。
278 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:08:57.13
>>276 タネコ 天種子
アウヱモロ (人名)
ヲヲモノヌシ クシミカタマ
ヲヲクニミヤ 多賀?
アマキミ 神武
279 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 23:13:13.87
一番簡単な編年の読み方
神功39年 大歳、景初3年
神功渡海から40年後の“大歳”とは313年仁徳即位である。
つまり、神功39年から74年前が239年 邪馬台国官伊支馬(垂仁)であり、
考古学はホケノ山と前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期
の大型建物の時代である。
神功39年景初3年は74年の違いがあるとするのが書紀である。
120年差とする百済本紀とは46年差がある。
280 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:16:01.39
近畿地方の場合はレベルの高い平和な青銅器文化圏の海中に
銅鐸を欠落させた奈良県の孤島が孤立しているみたいなかんじ
野蛮人でも鉄の鏃とかお持ち込みだと多少のことは戦えるよ
しかし継続的な鉄器のサプライは確保できておらんからすりかわるのにはやや時間を要す
戦利品の青銅製品とか鋳潰せるから青銅製の鏃とかで我慢かあ
281 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:29:08.82
282 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 23:32:39.85
>石上神宮の話 日本書紀にもある
書紀の記事はすべて勝手読み替えになっていると思え。
その最たるものが稲荷山鉄剣銘。
ホ32138 ヰホセミナ ウチウツシコメ うむミコは ヤマトアエクニ ヲヲヒコぞ・・ナホキサラフカ・・
シハスハツ ヒノデにキサキ うむミコは イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
大彦と開化は1歳程度の違い?。
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
上祖名意冨比[土危]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ ( 167年生まれとして・開化 )
其児多加利足尼・・・・・・・・・・・・・其の児多かりたるに ( 186年 武渟川別の兄弟?・崇神)
其児名弖巳加利獲居・・・・・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 205年 磐鹿六雁命の兄弟?六雁は大彦の孫・垂仁)
其児名多加披次獲居・・・・・・・・・其の児名はタカヒジのわこ ( 224年 高橋神社に六雁は祀られる・景行)
其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・・・・其の児名はタサキのわこ ( 243年 ・日本武尊)
其児名半弖比・・・・・・・・・・・・・・・其の児名はハテヒ ( 262年 肥前?・仲哀)
其児名加差披余・・・・・・・・・・・・・其の児名はカサヒヨ ( 281年 伊勢風早国・応神)
其児名乎獲居臣・・・・・・・・・・・・・其の児名はコワコの臣 ( 300年生まれ 351年辛亥・仁徳)
274年生まれの応神の子供、313年仁徳即位、仁徳は294年程度の誕生か?
283 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:34:57.68
本例は、銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要であり、
銅鐸の年代観を確立する基礎資料、
そして銅鐸のみならず銅鏡の埋納の問題を考える重要資料として扱われてきているものである。
と掻いてあるわりにはちゃんと感想とか騙るひととかおらんよね
どおしちゃったんだろお
284 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:41:19.42
これって3世紀とかの近畿地方のレベルの高い平和な青銅器文化圏のご先祖のひとつに位置づけられるんだろうけど
彼らが銅鐸のほうのみをチョイスしてからに
銅鏡の方はいやがって見向きもしないで捨てちゃって鋳するのよしたとかのはふつうに疑問だわな
285 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:43:31.08
>>281 鏡のようなものは年代の決め手にはなりにくい。
2000年経った現代でも存在するものだから、捨てられた年代を
決めるのは難しい。
たとえて言えば、鎌倉時代の壷に福沢諭吉の札束を入れて隠すこともある。
286 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:52:16.01
287 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:58:27.26
288 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 03:40:06.73
伊作と19才と無限尿は死んだの?
うん
290 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 08:43:46.17
>>285 全国から集まった集団が一斉に鎌倉時代や江戸時代の壷に福沢諭吉を入れたとも考えられまい。
あんた、着眼点が枝葉末節すぎる。電波の素質ありすぎw
291 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:21:43.25
>>290 銅鐸と多鈕細文鏡の場合は一例だけだろう。
そういうのが何十件も何百件もあるように言うのはおかしい。
埋納状況を良く調べることによって、遺物の考古的意味が良く分かるかも知れない。
纏向遺跡の土器は、ワイン樽みたいなもんか?
ということは纏向に各地から処女が集められて、ワイン作りが行われていた
そして纏向に来ていた古代ローマの商人達がヨーロッパにワインの製法を広めたのかもなぁ
纏向は、古代から世界のワインセンターとして、醸造用ブドウの原産地でもあることが明らかになった。
296 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 06:50:13.93
大量の桃の種が出てきたので
桃ワインを作っていたのは、間違いなさそうだが。
桃は、方保田東原あたりから持ち込まれたというのは妄説であり、
独自に古代中国との交流を考えるのが正しい。
三内丸山で、山葡萄の種が入った壺がみつかって、
ぶどう酒と推測されてたな。
三国志に劉備の桃園の誓いてのがあるわけだし、
魏より蜀との関係がうかがえる。
300 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 09:27:35.02
畿内説 これが証拠だ 桃の種
畿内説 百襲の桃だと 洒落を云ひ
畿内説 中国の桃だと 出鱈目云ひ
301 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 12:45:17.56
桃の種 ペッと地に吐く 卑弥呼哉
桃の種 卑弥呼の唾が 付いてをり
桃の種 卑弥呼のDNA 出たと云ひ
302 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:20:40.92
邪馬台国は魏に朝貢し、対抗上、畿内は蜀と結んでいたと見るのがよさそうです。
菊池川流域の遺跡の桃は、呉との交流を物語るのかも知れない。
関西では、桃や鏡は稀少品だったろう。
304 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 21:19:21.94
邪馬台国を朝廷と結び付けるのは無理がある
305 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/29(土) 21:46:37.34
其年十二月詔書報倭女王曰
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
その12月(239年)卑弥呼は詔書にむくいる朝貢。
正始元年 梯儁等は詔書をささげて、仮の倭王にさしだす。
倭国は2王体制、
倭奴國王位継承の卑弥呼と、邪馬台国の倭王の2王体制。
306 :
本格派左腕:2012/09/29(土) 22:41:48.50
>>305 :唐松山
>其年十二月詔書報倭女王曰⇒その12月(239年)卑弥呼は詔書にむくいる朝貢。
「報」は「むくいる」ではなくて「inform( 知らせる)」だよ。証書に「卑弥呼を親魏倭王とする」と書いたことが述べられている
ところだよ。
>正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、⇒正始元年 梯儁等は詔書をささげて、仮の倭王にさしだす。
「假」は「仮の」じゃないよ。詔書印綬を倭王に直接渡したことを述べたところだよ。
そもそも「仮の倭王」などというものがあるか?
何回教えられれば理解するのかね。まったくどうしようもないの〜。
307 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/29(土) 23:18:09.12
詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
詔書に報いる倭女王、いわく:卑弥呼を親魏倭王に制す。
魏使が238年に奴国を訪れた時の記述が、倭国の博物誌と地理史となっているが
邪馬臺國の場所は不正確である。
正始元年に梯儁等は、田島守と共にヤマトに到着する。
この時にはホケノ山(垂仁墓)が存在し、田道間守の殉死はそのまま殉葬墓としてホケノ山に存在する。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。(倭王因使上表答謝恩詔。)←この部分がヤマト倭王の詔書に報いる朝貢の部分になる。
308 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 08:31:03.83
>詔書に報いる倭女王、いわく:卑弥呼を親魏倭王に制す。
曰くの主体を倭女王と思い込んでいるのかも知れないね。曰くの主体は帝だぞ。
帝が倭女王に対して言った、「卑弥呼を親魏倭王とする」とね。
309 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 09:50:02.90
>帝が倭女王に対して言った、「卑弥呼を親魏倭王とする」とね。
問題は、親魏倭王位が”倭奴國王位継承”か”親魏倭王位”授与であるかの違い。
邪馬台国倭王の場合は”倭王位”授与が存在する。
つまり、卑弥呼は239年の朝貢の時点で”親魏倭王”である。であるならば、正始元年に再度”倭王位”を
授与することができない。
だから、倭国は2王体制なのである。
そして倭王位を授与したのは、崇神ではなく景行である。
310 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 09:58:01.50
詔書など わちきは読めぬと 卑弥呼言ひ
中国は 何でも呉れると 卑弥呼言ひ
中国は 気前が良いと 卑弥呼言ひ
鏡より 桃が欲しいと 駄々をこね
中国の 桃は不味いと 文句言ひ
桃の種 魏でもらつたと 卑弥呼言ひ
むー過疎ってるな
もう「ドンと来い」と「謎の女王」を統一して
唐松と朝鮮専用にして
あとの議論は「それでも九州スレ」でやるでいいんじゃね
ここで人を集める力があったのは河童ぐらいだからな
あとは十年一日同じ事をつぶやくやつばかり
313 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 10:53:48.90
九州に女王卑弥呼と倭王の二人を置くことは不可能である。
だから、九州に邪馬臺國を設定することができない。
反対に
畿内邪馬臺國に卑弥呼を住まわせることもできない。
不可能ではない
今でも天皇と総理大臣があるように
祭祀王と俗世王が並び立つことは可能。
315 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 11:48:59.80
朝鮮氏も壊れてきたな。
この壊れ方には、一定の法則がある。それは、
太国倍年とラジオ氏の主張する書紀編年はほぼ同じである。
ラジオ氏は、私の編年にキレている。
太国は、私の編年にキレている。
ラジオ氏の主張するネット朝鮮史を支持する朝鮮氏も壊れた。
316 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 11:55:23.46
>祭祀王と俗世王が並び立つことは可能。
しかし、問題がある。その問題とは、
双方とも魏が認めた”倭王”の範疇に入る。
同時に同一地域に同程度の権力を認める。
封建制度への挑戦なのか?
皇帝を頂点とする封建体制に倭国を組み込む。
だから、ありえないのである。
3世紀の半島なんて東夷伝に書かれてるとおりだろ
あれを否定できるなにものもなかろ
318 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 12:01:40.13
邪馬臺國の条件として、伊都国から1ヶ月程度の行程があり、
晋書正始元年東倭重譚納貢。で説明できる位置にあること。
”東倭”とは、倭奴国(西の倭)に対する言葉である。
倭奴国(西の倭)の南では条件を満たさない。
319 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:10:05.65
願望にあわせて読み解いてみたり
お好きに時空の調整をしてみたり
ぼけたへんな無理読みしてみたり
自動翻訳で文字化けさせてみたり
原文読むの面倒だといってみたり
とかとかしてあげるのが唐松芸風
320 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 12:50:00.31
>半島なんて東夷伝に書かれてるとおりだろ
その通りである。
半島南部には、馬韓人の辰王しか存在しない。
だから、その状態で倭国を見た場合
倭奴国女王卑弥呼と邪馬台国倭王は1ヶ月を行程とするだけ距離が離れる。
不耐濊王と辰王。漢城と桂林。不耐濊王は247年以降の王位拝受。
不耐濊王には領土が存在しない。だから、郡の下働きをナリワイとする程度。
321 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 13:09:35.52
>>319 間違いに間違いを重ねた日本の歴史。
その日本史を否定するのが、考古学である。
だから、「考古学は、50年・100年狂っている」と文句を言っても
それを文献で指摘できない、文献史学。
文献史学で日本史を再構築するためには、すべてを壊さなければ再構築できない。
322 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 13:18:16.89
>>315 radio氏の編年はかなり正確である。
韓国の方らしいから翻訳の正確性に不便があり具体的解説の要求は無理
でこれはやむを得ぬところだが、一応編年は正解に近い。
だから相当評価できる。
日蝕が「既經幾日」だとか1年も続くと言い出し始めた宿主は、どうやら
さらに松沢病院行きが近づいて来た。ww
323 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 13:20:26.63
大臣は大王ではない高官の身分だな。
松沢病院にやたら詳しい人がいますね。
325 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 14:59:52.65
>韓国の方らしいから翻訳の正確性に不便があり具体的解説の要求は無理
ラジオ氏の主張は簡単だ。
百済本紀の百済王家を正しいとする。
それだけだ。
その結果、どのような歴史像となるか?
まあ、書紀の記事の大半の出来事は否定される。
326 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 15:04:07.06
ついに唐松山が脳内お花畑のおめでたさをじはく いいひとだなあ
327 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 15:29:15.13
うん、日食が1円玉日数計算で数日間とか1年も続く数値を産出してコチラに
計算出来ないと自慢してる野郎だよ。ワッハッハ・・・。
328 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 16:05:05.14
3国史記には誤りがある。この認識はラジオ氏も私も同じだ。
違いの出るのは、
奈勿王を固定するか、動かすか?の違いである。
沾解泥師今 247~261
味鄒泥師今 262~284
儒禮泥師今 284~298
基臨泥師今 298~310
訖解泥師今 310~356
奈勿麻立干 356~402 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。
奈勿麻立干とそれ以前の王朝の間に齟齬がある。
これは確かであり、奈勿麻立干を遡上させれば、百済王家も引き上げられる。
奈勿麻立干を固定してそれ以前を引き下げても世継ぎの齟齬は解消できる。
329 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 17:32:50.11
松沢を 突慳貪に 追い出され
330 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:42:26.71
晋書の正始元年東倭重譯納貢。唐松に惑わされる者がいるとまずいから、ちょっと
書いておくか。これは、「東、倭が譯を重ねて貢を納む」と読むね。東は中国から見た
東、つまり東夷のことだ。倭人伝に書かれている卑弥呼の遣使を指した文章。
倭と別に東倭なんて国があったわけではない。
331 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 18:10:53.99
>倭と別に東倭なんて国があったわけではない。
くるしいなあ
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。
このうちの
”倭王因使上表答謝恩詔”と”晋書正始元年東倭重譚納貢。”は同じであると言ってるんだ。
つまり、詔書を差し出された”倭王”が受け取って、正式な倭王となる。
そして、倭王に召してくれたお礼の挨拶を元年中に行う。
これは、倭奴國が詔書を受け取って、景初3年に朝貢したこと同じである。
この時点で、倭国の位置を正確に判断している魏である。
よって、”東夷の倭”を縮めたと主張しようとするが、 こんな縮め方は漢字の国では通用しない。
日本語に訳す場合でも
東倭=ひがしのワと訳せても、東夷の倭とは訳せない。
>倭と別に東倭なんて国があったわけではない。
だから邪馬台国であり、魏志のいう大倭なのである。
大倭とは、この東倭と倭奴国が一つになったもの。
やっぱり奈良は凄いわ。
この台風でも、ちょっと強目の風雨程度だもの
名古屋凄い雨だね
333 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 18:16:23.93
>くるしいなあ
そうだろう。ww
空年など無いからな。
空年は無いから安心しろ。pp
334 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:17:17.93
335 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:33:56.10
もう少し、わかりやすい文章を書いてもらいたいね。
>倭奴國が詔書を受け取って、景初3年に朝貢したこと同じである。
何のことだ? 倭奴国なんて倭人伝には出てこないな。倭奴国と倭人伝がいう
倭国は別だ(奴国は倭国の中の一つだが)。
>東倭=ひがしのワと訳せても、東夷の倭とは訳せない。
東の倭でいいんだよ。東夷、北狄なんて言葉知ってるか? 東で東夷、北
で北狄を指す場合があるわけだ。
>大倭とは、この東倭と倭奴国が一つになったもの。
大倭というのは倭国の実力部隊、つまり警察や軍隊のことだ。
市を監督するとか女王国以北にはその一大率がおかれているとあるだろうが。
336 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 18:36:30.91
337 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 19:03:08.89
>倭奴国なんて倭人伝には出てこないな。
だから別の文献で補う。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
北史では、歴年無主(前原王墓)の倭奴国に卑弥呼が共立される。
その最東端に邪馬台国官伊支馬。
伊支馬がイクメ垂仁であれば、都市牛利(たしうり)は田道間守となる。
その邪馬臺國に倭王がいる。
邪馬台国は最東端。=晋書正始元年東倭重譚納貢。
だから2王体制。
338 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:18:20.09
339 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 19:19:30.37
>卑弥呼のお使いのこと「景初二年」のところで書く余裕とかなかったから
景初二年10月まで公孫氏と戦争をしていた。晋書帝紀に書かれた通りだ。
まあその程度に魏志は劣化している。
其年十二月、詔書報倭女王、 詔書にむくいる倭女王とは、詔書を先に受け取っているから
朝貢のために、あわてて、卑弥呼を共立する。
こんな卑弥呼では心もとないから、正始元年に太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、
梯儁等は詔書をささげて、倭国(邪馬台国)を訪れる。
340 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:24:17.92
明帝の詔書まで代筆の偽造にしちゃうとか駄目なやつだな
341 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:26:37.86
>>337 だめだな。北史は7世紀にそれまでの史書を寄せ集めて書いたものにすぎない。
靈帝光和中其國亂は梁書からもってきたものだろう。ということは、其の国は倭国
だ。倭奴国ではない。部分的に読んでこじつけてはいけない。
342 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 19:32:22.05
倭国が2王体制であったことは、書紀の記事でもわかる。
239年伊支馬=垂仁。
247年?景行12年 熊襲反之不朝貢。←九州女王の言い分だ。
そして、九州筑紫の神夏磯媛(カンカシヒメ)に挨拶に行く。
そして神夏磯媛は我之屬類
倭王(景行)にとって女王(神夏磯媛)は我が属類といっておる。
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 19:33:41.06
伊支馬イキマがイクメイリヒコイサチノミコト垂仁ではな〜い。
344 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 19:39:50.28
239年伊支馬≠垂仁。
所詮、官は天皇には絶対になれない。
道鏡も将門も天皇にはなれない。 当然だな。ww
345 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 19:40:52.78
247年?景行12年 熊襲反之不朝貢。←九州女王卑弥呼の言い分ではない。
346 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 19:44:42.53
この戦争中に12年神夏磯媛死亡、18年男王死亡。
20年 遣五百野皇女令祭天照大神。(253年?)
27年 熊襲が背く。日本武尊の派遣。16歳=255年
40年 関東平定。 これで倭国統一。大倭成立。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
壹與(五百野皇女)を軍隊付きで筑紫に派遣。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
347 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:45:21.75
伊佐知のは佐知佐知で佐治ののおひとなんだろ
348 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 19:48:46.40
>所詮、官は天皇には絶対になれない。
天皇イクメ(垂仁)を魏が官と呼んだ。
349 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:56:59.95
伊支馬(いくめ) の汚物読みのルールで逝くと
ぢゃああ 邪馬台のは (やめたい) (やめと) でよいのかな
350 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:10:10.11
邪馬台は、じゃまたい、かも知れないな。
351 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:11:43.67
それとも、やめたい、かな。
ひょっとして「八女たい」かな。
352 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:13:14.85
353 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:16:04.88
おぢいさま江
天皇の看板の発生過程に関してだけど
天皇の看板の先祖のは夜の酋長さんで昼の酋長さんとセットで機能していたりしたんだろ
この2つの酋長さんたちを酋長さんたらしめる権限を持っておったのが
鶏彌さんなる女王さまでおふたりの酋長さんたちよりもはるかにエロいおかたで
夜の酋長さんのが婿さんだとか昼の酋長さんのが弟さんだとかそのまぎゃくのとか
種々なケースがあったりしたんだろな
354 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 21:09:53.32
新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 ◎46年伸ばす 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中 400〜 405年兄王は前年帯方界での行方不明。
反正 406〜
允恭 412〜 413年倭、高句麗が東晋へ朝貢その翌年が新羅の医者。
安康 454〜
雄略 457〜 嶋王は動かない。
355 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 21:16:08.13
ラジオ氏や太タヌキ殿は
崇神天皇 189年〜216年 五,六年の記事は、新羅192年〜3年に対応。
崇神5年=新羅192年+47年=239年。
だいたいこの程度の数字を主張している。崇神世=卑弥呼だ。
しかし、後漢193年=新羅192年、この数字が1年しか動かせない場合
百済王家が46年遡上する。
356 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 22:06:50.56
空年空腹多抜キよ
>天皇イクメ(垂仁)を魏が官と呼んだ。
天皇なら天皇(当時での大王、オオキミ)と呼ぶぜ。
崇神五,六年の記事は、新羅192年〜3年に対応せず。
対応するなら万の食糧と水、大船を下っ端百姓にどうやって都合をつけ
るんだね? オマエはそれを合理的に説明出来ない。つまり対応すると
いうのはこれもデタラメである。
天皇を官とは呼ばないね。オツムは大丈夫か〜?ww
もしもオマエの主張する魏の皇帝が天皇を官と呼ぶならば、犬猿の仲
たる呉とか蜀の皇帝を官と呼んで魏の皇帝自身のみを皇帝と言い張るだ
ろう。魏の皇帝が隣国の呉、蜀の皇帝を官と読んだためしはなかろう。
まあ同盟国の皇帝ならなおさら官とは呼ばないことは確かだがな。ww
女王卑弥呼も女官とは倭人伝に書かれてないねえ〜。だから垂仁ならば
完全に大王(オオキミ)とかの王名で書くのは間違いない。官とは書く
わけがない。道鏡も将門も天皇にはなれないし、武内大臣も天皇ではない。
所詮垂仁は天皇であり官ではな〜い。
つまりオマエのここの論はデタラメであるのだ。
357 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 22:21:54.75
中国人が東夷の長に大王なんて呼ぶかよ
358 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 22:22:44.07
>>346 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし
つかえしむ クスコヲカミの ミツエシロ タケノミヤヰに
つゝしみて つかえはんべる ヤマトヒメ ウヂハタドノの
イソミヤに ひらきしづかに ヒノカミを まつればながく
うまなくぞ
倭姫命世記 【五百野皇女、日本武尊】
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけ のすめらみこと)の二十年[庚寅]、倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、
吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめ
みこ くすひめのみこと)に移し奉る。
即ち春二月[辛巳]朔[甲申]、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群
行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。
-------------------------------------------------
クスコヲカミの
ホ38309 ミツエシロ タケノミヤヰに
ホ38310 つゝしみて つかえはんべる
五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。
359 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 22:32:47.73
360 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 22:44:55.30
壹與(≠五百野皇女)を軍隊付きで筑紫に派遣せず。
軍隊をつけたのは宿主の創作脳内で大デタラメである。
361 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 22:48:27.73
>ヤマトヒメ コトシモモヤツ
垂仁天皇 217年〜239年
景行天皇 240年〜261年
ホ36002 ヤマトヒメカミしつむアヤ
タマキミヤ コホナツキソム キサキユメ ヤマトヲヲクニ カミのシテ たまえばはらみ
ツキみちて うまずにやめて ミトセのち ナヅキソムカに うむミコの ナはヤマトヒメ
あとやみて カナヅキフカに ハハまかる
ホ36024 フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
ヤマトヒメは、景行より年上である。
景行の即位年齢を推算すれば、17歳即位。
この時点で、ヤマトヒメを20歳とすると、
景行20年で、五百野姫が十四歳
多分この時点でヤマトヒメは、34歳程度と思われる。
362 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 22:53:24.96
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成さ れている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水の
地 であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネット
ワークで結ばれた集団であったことが推測される。
景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)
倭国乱の平定は、渡海ルートの管理でもある。
363 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 11:07:58.25
ミツエ
ホ36082 フソフホシハス スエヤカに ヤマトメヨシコ コトシソヒ カミにみつぎの ミツエシロ
ホ36093 ミトセのち トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならすと みならわせ
ホ38308 クスコヲカミの ミツエシロ タケノミヤヰに つゝしみて つかえはんべる ヤマトヒメ ウヂハタドノの
イソミヤに ひらきしづかに ヒノカミを まつればながく うまなくぞ
カミにみつぎの ミツエシロ
ミツエならすと みならわせ
クスコヲカミの ミツエシロ
御杖代ではないな。
364 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 17:47:59.68
神功渡海とは、
仲哀9年9月兵の募集、10月渡海、それが縁で新羅は毎年80艘の調を倭国に支払うようになった。
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [274年神功渡海]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。 新羅からの調(税)
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、仁徳4年課役の停止(兵の引き上げ)
つまり、半島に神功軍を迎え入れる強大な勢力がなくては不可能である。
と同時に、倭国にも渡海させる軍隊がなくては出来ない。
316年西晋滅亡。これ位後、半島に倭を向かい入れなければならない勢力は存在しない。
250年代には、ヤマトは九州(女王国)に1大卒を置いている。
この1大卒を半島の警察軍として活用する。駐留経費として、新羅の調。
365 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 18:10:58.79
364 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 17:47:59.68
神功渡海とは、
仲哀9年9月兵の募集、10月渡海、それが縁で新羅は毎年80艘の調を倭国に支払うようになった。
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←要緊急入院
↑
松沢病院特別室ご入室 bbb・・・b
366 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 22:45:31.61
トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならすと
トヨスキは百三歳で御杖代ができなくなった
豊鋤入姫命は、「吾、日足りぬ」といひ、姪の倭比売命(やまとひめ のみこと)に事を預け、御杖代と
定めた。 (倭姫命世記)
トヨスキ→ヤマトヒメ
ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ
倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、吾足りぬ」(倭姫命世記)
ヤマトヒメ→ヰオノヒメクスコ
クスコヲカミの ミツエシロ タケノミヤヰに つゝしみて つかえはんべる
五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群
行の始、是なり。(倭姫命世記)
多気宮は伊勢
367 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 00:29:34.57
ミツエとは、多分
貢ぎの餌、 種貸しのアガリ。
だから、ミツエならすと みならわせ。
「御杖均すと 見習わせ」ではない。「種貸しのアガリ」の使い道を勘案する。
368 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 06:59:49.82
巾3尺の石から卑弥呼
ホ38168はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ
ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ カエもふで
母身体熱さ1度息 皇祈り飛び上がる 故住吉治り神 両刃の社新に建て 之祀らしむ 代え詣
此だけでは弱いので景行の歌も一緒に。
ホ38221 カンココロ かくぞをぼして カミまつリ ミヤコのソラを ながむミウタに
はしきよし ワキべのカタゆ クモいたち クモはヤマトの クニのマホ またたなびくは
アヲカキの ヤマもこもれる ヤマシロは イノチのまそよ けむひせば タタミコヲモエ
クノヤマの シラカシがヱを ウスにさせこのコ
最後だけ訳す
只皇女思え クの山の 白樫が枝を ウズに挿せこの子
先日の 母(卑弥呼)高熱を発して死亡後の 続き何の神祀りか?答えは、後半2行でしょう。
書記と同じ 最後だけを訳すと
「白樫の枝をウズに挿せ」 解説すると 江戸時代の将軍の紫色の鉢巻き
病気平癒のおまじない この古代版。
369 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 07:16:59.51
仲哀天皇八年 到儺縣。因以居橿日宮。
橿日宮とは、景行九州上陸の時最初に挨拶に行った神夏磯媛(カンカシヒメ)の宮で
神夏磯媛亡き後 住吉神が景行の言で神夏磯媛を祀っている宮である。
370 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 08:58:11.49
けふもまた ぐちゃぐちゃぐちゃと 何か書き
371 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 09:10:06.47
天皇家の祖先は卑弥呼ですか?
いいえ
卑弥呼は魏に直接使いを送って親魏倭王の金印をもらった人
そんな大手柄をした人を日本書紀が遺してないということは、大和朝廷の祖先ではないということ
だから、畿内説で邪馬台国を比定するなら、大和朝廷と敵対した長脛彦や、謀反を起こした武埴安彦命のような勢力に比定すべきだし
九州説で邪馬台国を比定するなら、東遷説はありえないことになる
374 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 11:53:19.55
>そんな大手柄をした人を日本書紀が遺してないということは
卑弥呼のことは神功皇后として書いているよ。
375 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 12:15:21.47
実際に神功皇后に該当する人物は、
福岡市周辺を本拠地とする4世紀から5世紀の人。
北部九州に多い、由緒での関係や、神功皇后を祀る神社はほとんどそれ以降。
376 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 12:20:04.02
由緒を信じれば、だが、
糸島の高祖神社は、神功皇后を、、
高祖神社を再興した中興の祖として扱っている。
神功皇后とゆかりがあるのと同時に、
それ以前から存在していることを示している。
三瀬峠を通って、山の反対側の佐賀の方の、淀姫神社。
神功皇后の妹だそうである。
神社の創建で201年とかあるけどどうやって分るの?
文字はないから、言い伝えみたいなもん?
でも、どうやんだろ?
この神社は○○天皇の○○年に作られましたって伝えるのだろうか?
378 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 15:37:40.62
神功皇后は、摂政皇太后になったのは神功元年ということになるわけだが、これは現代から逆算していくと201年になるわけだね。
しかしこれは真の年代ではなく倍暦の行使の関係から年代が百年以上詰まり、摂政皇太后になった実年代は 353年 になるのだ。
だから神功元年時点で見かけの通説年代の201年は、真の年代との差 152年 が生じている。
379 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 15:53:38.28
その神社は神功元年創建とか言い伝え伝承が残ってるんだろう。
それで最近の神社関係者が逆算して201年と定めたか、とうの昔に神功元年
が201年というのが通説だから、そのままそれに従って云っているわけと
観てよい。
380 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 16:12:07.80
>>371 卑弥呼には子供がいないから、天皇が卑弥呼の子孫というのはありえない。
しかし、卑弥呼の権力の系統である可能性はある。
だいたい、世襲制が始まったのがいつなのかはっきりわからないから。
少なくとも、卑弥呼や台与の時代には世襲制はなかったと言える。
381 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 16:26:00.05
嘘てんこ盛りの間延びさせたスケールでも長期間に亘り連続していて
嘘つきまくる頼りないちょおてえのとはいいながら建前公権力からの公認のので
いちおうスケールとしては使えちゃって便利だから
高良玉垂の没年とかなんかもこのスケール使用して伝えられたりしておるよね
玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳78年(いわゆる390年)に没
~功皇后摂政六九年(389)夏四月ののと なあんか1年ずれちゃったりしておるけどさ。。。
ほんとの仁徳78年は書紀に記事とか無いとこだけど 427年の「丁卯年八月五日崩」のときの直前でござるよ。
ぢいさんの場合は支干あそびの書紀のなかみに頼って編年したいひとらしいから
もうちょびっとのところで呪縛から抜け切れてなかったりしてるもよお
382 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 16:36:29.02
仁徳78年(390年)の実年代は 416年。
だから通説年代との差は26年となる。
神功69年の通説年代は269年で、真の年代は375年だ。
389年だというが、これだと通説年代と120年差にしてるね。
383 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 17:14:40.98
やっぱりね
書紀の記事と年代の相関関係とか書紀の年代構成まるごととか
尊重なさっておられるのかあ
まあねそれもそれなりに一案ではあるけれども
もうちょびっとのところで呪縛から抜け切れてなかったりしてるとはおもふよ
もれのの復元案のをざっとで掻いてみるとこんなかんじだね
355 乙卯 成務60 「乙卯年三月十五日崩」
356 丙辰 仲哀元
357 丁巳 仲哀02
362 壬戌 仲哀09 「壬戌年六月十一日崩」
363 癸亥 ~功元
364 甲子 ~功03
365 乙丑 ~功05
366 丙寅 ~功46
389 己丑 應~28 ~功69 (~功没)
394 甲午 應~41 「甲午年九月九日崩」
395 乙未 仁徳元
427 丁卯 仁徳87
384 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 17:59:57.56
完全ではないにしても、貴殿のもなかなか正確性がある。
radioさんの編年と似てるかな?
385 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 18:31:50.06
太国は 三倍速く 年を取り
わやくちゃな 編年編み出す 稗箕狐哉
386 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 18:38:44.14
radio氏の場合は脱解の編年のも倍暦ご使用ぽいけどね
387 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 19:06:29.74
>>385 隅田八幡鏡の銘文の「日十大王」というのは当時の1ヶ月が十日間であったことを大王名に表現したものであり、当時の1ヶ月が現今の10日間であったこと示唆している。
この銘文にはこの文字も前に8月とあるから、残り9月から12月の四ヶ月で当時の1年を行使したであろう。
扶桑国(日本)には10個の日があるという扶桑樹伝説も、当時の10日間で1ヶ月を行使していた伝説化であって、このことは当時3倍年暦を行使していたというのが真であることだ。
388 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 19:20:05.85
>>386 radioさんは倍暦を肯定してるのか否定してるのか、答えてないんです?
389 :
不正確性のご指摘うけて:2012/10/02(火) 19:28:43.96
355 乙卯 成務60 「乙卯年三月十五日崩」
356 丙辰 仲哀元
362 壬戌 仲哀09 「壬戌年六月十一日崩」
363 癸亥 ~功元
364 甲子 ~功03
365 乙丑 ~功05
366 丙寅 ~功46
389 己丑 ~功69 (~功没)
394 甲午 應~41 「甲午年九月九日崩」
395 乙未 仁徳元
427 丁卯 仁徳87 「丁卯年八月五日崩」
もすかしたら仁徳が生まれたのがの363年かもと妄
そしたら 仁徳没年の427にはお歳が65歳でござる
倍暦かものチェック
「此天皇御年 捌拾參歳」83/2=42
427-42+1=386
應~天皇十六年(405) ←ここのはあさっての酋長のところに記事流し込みしちょる
是歳「百済阿花王」薨 天皇召「直支王」
謂之曰 汝返於國以嗣位 仍且賜「東韓之地」而遣之
(405) 「腆支妻」=「八須」=「仁徳女」 生子于島中 「久尓辛」
八須の生年の期待値が390年かそこらだから仁徳生年が386年であるのは_
あれっ くだらって「東韓之地」?
390 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 19:31:20.50
ああ「東韓之地」つうのはお土産だね
391 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 21:56:10.91
>ここのはあさっての酋長のところに記事流し込みしちょる
あさっての酋長っていうのは応神天皇の意味ですかな?
紀の半島記事は年代が合わない位置に挿入されている可能性があるから、
充分注意用心して可。
392 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 21:57:40.21
>362 壬戌 仲哀09
この年、9月に集兵、10月渡海、それが縁で新羅は毎年調を納めるようになった。
可能か?と聞かれたら、不可能である。
393 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 22:01:23.18
不可能は空腹農民千人が畿内から崇神17年より以前の崇神の代での大人数の渡海である。ww
また不可能は父より子が先に即位したという要緊急入院主張のデタラメである。ppp
394 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 22:05:54.23
>radioさんの編年と似てるかな?
ラジオ氏の編年目的は、書紀の記事が合わないのは承知の上で
百済本紀の百済王家を認めさせること。
書紀の記事が合わなければ、書紀の記事は捏造と出来、百済に助けられる倭、
という構図ができる。
その編年を認めるためにのみ、太タヌキ殿は存在する。
だから、太国倍年で読める歴史は語らない。
395 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 22:10:34.92
宿主空年は記事を無視しているから”空年”なんぞと言うんだ。
記事を無視してるオマエが典型な紀違いと言われることとなろう。bbb
応神紀仁徳紀には応神が先に即位したとある。オマエはこの史実の記事を無視して
この ↓ ひどさ〜〜 ><
応神天皇 344年〜384年←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←要緊急入院
だと、ホ伝子組み換えでの書紀の無視をインチキ強行している。つまりオマエは書紀の敵であり、朝敵であり神社の敵でもある。
どうだ〜? 人間(天皇)が猿(官)でもなれる猿の惑星からデンパがオマエの脳内にピピピと届いているか〜?ww
396 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 22:24:24.17
新羅本紀、百済本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年 第X様式末 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬。景行天皇 240年〜261年
成務天皇 262年〜265年 46年加算する 262〜311。仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算すると百済王家が整合する
神功52年 七支刀 326年。+46年で372年。
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする(46年加算の場合は使えない)。
履中 400〜 405年兄王は前年帯方界での行方不明(好太王碑404年)。 反正 406〜
397 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:29:05.66
唐松・太国はなんでドン来いと終止符の二つでやってるんだ?
邪馬台関連スレ全部でやれよwww
398 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 22:29:35.19
神功皇后321〜389。百済王家が整合する。
しかし、西晋滅亡後の渡海では、半島に迎え入れる勢力が存在しない。
つまり、書紀の記事程度で新羅から調を得ることができない。
そうだろ?太タヌキ殿。
399 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:35:46.08
首露さんのとこのも倍暦だね
三國遺事/卷第二 駕洛國記
(金官)駕洛國元君「首露」
獻帝立安(建安)四年己卯(199)三月二十三日而殂落 壽一百五十八歳矣(121-199 79歳)
屬建武二十四年戊申(48) (七年 168)七月二十七日
妾是阿踰陀國公主也 姓「許」名「黄玉」 年二八矣(14歳:155-168-189)
靈帝中平六年己巳(中平5己巳 189)三月一日后崩 壽一百五十七(155-189 34歳で没)
許黄玉さんのは5月にご両親相談して7月に到着だからなんかこれも列島発ぽいよね
400 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 22:43:40.51
>応神天皇 344年〜384年←このひどさ 要緊急入院390〜430
>仁徳天皇 313年〜399年←このひどさ 要緊急入院359〜445
唐松山
オマエはアタマがおかしいんだよ。正常な判断が麻痺している。
即刻 松沢病院で診療を受けるんだな。
オマエの脳内は完全にいかれている。><
401 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:45:26.92
>>367 ミツエとは、ミツエシロの略
トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならすと みならわせ
トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならず(できない)と (倭姫ヨシコに)見習わせ
かれイヰノミヤ ミトセのち トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならすと みならわせ
かねてねかえば このタビは ヨシコをウチの オミコとし ミタマゲかつぎ イヰノよリ
イソべにうつし しつめます
402 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 01:49:03.51
>オマエはアタマがおかしいんだよ。正常な判断が麻痺している。
だから〜
好太王碑
391年 「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
太国倍年 391辛卯 仁徳即位
記事に整合性が全くないだろ? なぜならば
仁徳天皇六七年(己卯三七九)天下太平。廿餘年無事矣。
この20年間に敗戦の事実は隠されてしまったからだ。
履中6年(乙巳四〇五) 悲哉。吾兄王何處去耶。←この記事は404年帯方界での敗戦行方不明。
履中天皇六年 葬百舌鳥耳原陵。
履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳では前方部上に球状の高まりがあることをあらためて確認。
上石津ミサンザイ古墳自体はそれ以前の築造であるが、この古墳に葬られたのであれば、
前方部の再葬墓が考えられる。
403 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 02:20:10.53
>>401 239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。景行日代宮
田代・代掻き。この”シロ”
ミツエならすと みならわせ
ミツエシロ
ミツエならす=ミツエシロ
こういう考えもある。
404 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 09:38:31.73
いつもより 三倍喋ったと 太国言ひ
405 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 10:21:44.36
>応神天皇 344年〜384年←このひどさ 要緊急入院390〜430
>仁徳天皇 313年〜399年←このひどさ 要緊急入院359〜445
オマエはアタマが狂ってるんだよ。紀違いにホ物。
今日でも松沢病院の診療を受けて来い。
406 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 10:24:55.20
~功元 仁徳生まれたと 稗箕狐言ひ
407 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 10:36:33.63
唐松は何を言われているのか分かってないんだろ。
408 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 11:30:13.35
>唐松は何を言われているのか分かってないんだろ。
いいか、書かれた記事は何年をあらわすか?
これを無視するな。
これを無視すると歴史認識が逆転する。
神功渡海、記事の内容をよく読め、この状態で渡海できるのは半島に呼び込む勢力の存在するとき
だけだ。しかも渡海が縁で新羅は毎年調を納めるようになる。
考古学の時空は纒向5類。西新町遺跡に半島の住居が存在する時空。
半島の住居がなくなるのは、316年の西晋滅亡。
だから、渡海は晋の命令行為であり、総司令官である仲哀の死に優先する。
大倭が女王国(九州)に置いた1大卒の行為を半島の警察軍として活用する西晋。
この諸経費として、新羅からの調。
理解できないのか?
409 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 11:48:59.03
274年 神功渡海(応神誕生)から40年後 神功39年大歳。
大歳即位、は仁徳、313年のできごと。さらに10年後神功40年323年
西晋は滅び、半島に覇権をとなえる勢力不在。ここであるから、半島の占拠と領土分与が可能なのだ。
324年 神功50年に大倭の真意を確かめるために、百済の使者がヤマトを訪れる。
神功52年 50年に領土分与が事実であることを確かめた百済は七支刀献上とともに大倭に臣従することを誓う。
仁徳天皇十二年(甲申三二四)七月高麗國貢鐵盾。鐵的。
324年といえば、高句麗にとっては、前燕慕容氏を攻めあぐねている時空だ。
326年神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
372年神功52年 369年東晉廢帝太和4年16日丙午が存在しない年。神功50年より前の年号。
だからありえないのだ。
410 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 11:56:24.92
太国が記事内容に言及しないのは、
太国倍年の時空であれば、書紀の記事を全て否定できる。
記事が否定できれば、百済は大倭の援助もなくして独立できる。
逆に大和の発展をくだらの援助としたい。
これを認めさせたがっているのが太タヌキ殿なのだ。
411 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 20:46:03.82
半島の土人酋長の息子は列島の質に入ると倭王の姫様げっとできるらしいね
412 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 21:34:30.78
413 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 21:38:08.82
そんな認めなど考えてはいないね。
オマエは盲象の想像をす〜ぐ決めこむから、まあ〜強力な治療が必要だ。
オマエはアタマがおかしいわけさ。ww
414 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 21:45:08.42
応神紀仁徳紀を→
>>408 無視すると ↓ 歴史認識が逆転する。
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←逆転 要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←逆転 要緊急入院
↑
この逆転↑こそ応神・仁徳の編年に失敗する。これ↑を紀違いだと応神紀仁徳紀が示している。
それが允恭紀に書かれてないのに書かれていると言い張る。
まあオマエは松沢病院で強力な治療が必要だ。
逆転→ つまりオマエはオツムが狂ってしまったのさ。
415 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 22:04:30.65
wとpとb 上手に使う 太国かな
息が切れ 一服をする 国と松
416 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:07:35.99
難しい話ですか、ともかく大和政権は邪馬台国とは関係があって
日本書紀にそれらしきことが書いてあるということでいいですか?
417 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 22:14:53.11
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
この20年後274年が神功渡海。そして、新羅からの調。
新羅からの調として、大量の鉄、鉄器。その鉄の副葬が桜井茶臼山あたりから、
この時代から鉄の副葬が増えるのは、鉄の輸入の対価を直接支払ったわけではなく
1大卒の駐留経費としてヤマト政権に納められたからである。
418 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 22:34:25.69
>>416 大和政権(畿内)と卑弥呼の女王国(九州)とは国交がありません。
従って双方をお付き合いさせている論説はデタラメと観てよろしいです。
419 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 22:41:48.29
>日本書紀にそれらしきことが書いてあるということでいいですか?
日本書紀の神功39年はそのとおりですが、これは外国文献の倭人伝からの借り物でして、純粋畿内所在の当時の文献にはそれらしきこと書かれていません。
このことは畿内に卑弥呼の情報がないわけで、畿内周辺に卑弥呼がいなかったことを物語っています。
つまり畿内から遥か遠隔の地にこそ畿内と国交のなかった卑弥呼の女王国があったということでして、
当然九州秘奥の地だということです。
420 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 22:44:15.46
太国は 相手に合わせ 丁寧語
421 :
www:2012/10/03(水) 22:53:23.89
>大和は伊都国に勅使の如きを置き、・・・・
今日もまた アホをさらして 老いる松
422 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 23:03:12.10
記事から見れば
仁徳即位直前、ウジノワキイラッコは幼くして死亡した。
応神紀のウジノワキイラッコは学問を修め、高句麗使を叱責できるまでに成長している。
ウジノワキイラッコは2名いる。同じく応神も2名いる。
仁徳は治世31年で立太子大兄イザホワケ。
この直後。応神の娘を后やウチメとしようとする。この応神は高句麗使を叱責した時代の
応神でもある。
渡海から36年程度で死亡した応神ではない。
423 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 00:33:17.36
424 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 01:23:01.28
http://inoues.net/ruins/nishijin.html 西新町遺跡が栄えている頃、福岡市博多遺跡群には、弥生時代には見
られなかった高温操業の鍛冶技術が登場する。・・・
奈良県纒向遺跡には、博多で見られた高温操業の鍛冶工房がある。
驚くことに、この先端的技術はまたたく間に南関東にも伝わる。
鉄器の需要がいかに強かったかを物語る。
274年神功渡海、以後鉄が大量に流入し全国に頒布される。
少量の場合であれば、鉄器として頒布されるが、鍛冶工房が
伝わった地方には、鉄素材として頒布された証拠である。
当然古墳に副葬された鉄器の量がそれを物語る。
桜井茶臼山から椿井大塚までの時空 纒向5類の時空こそ全国に
前方後円墳が普及する時代でもある。
425 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 08:11:22.30
ウジノワキイラッコは2名いる。同じく応神も2名いる←要精神鑑定
オマエはアタマが狂ってしまったんだよ。
即刻精神科医の診療を受けるんだな。
426 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 10:38:15.58
>>425 では聞くが、ウジノワキイラッコは何歳で高句麗使を叱責し、
何歳で死んだか?
とりあえず15歳から大人である。
427 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 10:58:58.89
古墳の作られた順番は、
上石津ミサンザイ古墳(石塚丘)→誉田御廟山古墳→ である。
崩御は、応神(誉田御廟山古墳)仁徳→(大仙古墳)→履中(上石津ミサンザイ古墳)となる。
この順番で葬られるとなると、ひと工夫いる。
大阪府や堺市などから成る百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議は、両古
墳群のほぼ全てに当たる82基を航空レーザー測量し、18日、結果を発表した。
履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳では前方部上に球状の高まりがあることをあ
らためて確認。大阪府文化財保護課は「天皇陵などに立ち入ることなく、より詳細な墳形
が分かり、研究にも役立つ」としている。
履中を上石津ミサンザイ古墳に葬るのであれば、“前方部上に球状の高まり”ここに葬ったの
であれば、伝承と齟齬がなくなり、順番どうりとなる。しかも、高句麗と対峙中であり、
古墳を築く時間の不足も説明できる。
しかし、上石津ミサンザイ古墳後円部に誰が葬られたか?
条件は“大王”とできる人物が必要である。
428 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 16:16:21.14
オマエの雲古学はもうしないでいい。
また空年はいくら頑張ってもこの世に存在しないから安心しろ。
429 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 16:32:55.75
>>425 空年ヤセ多抜キよ
15歳からであろうとなかろうと〜そんなことはいま関係ない。
この ↓ ザマはいったいなんだ〜〜?><
ウジノワキイラッコは2名いる。同じく応神も2名いる←要精神鑑定
オマエは史離滅裂のメチャクチャでアタマがおかしいんだよ。
オマエは狂ってるのさ。ひどいもんだ。末期だろう?ww
430 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 19:00:22.01
應~のは~功の申し出に應ので應~ですか?
應~のとおちゃんは武内宿禰だとのもっぱらの巷の噂
記の没年からカウントしてあげたら
なんか應~は~功より10歳年長さんで子ではありえないよな
應~のお名前は品陀和氣だけど 無理して読まなきゃ 日向(雛陀)和氣
古事記えでぃたーのひとは應~さんが大鞆和氣ってよばれるのが嫌そう
431 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 21:01:53.24
NHKのBS歴史館を見ていたら、伊能忠敬の日本地図の正確さが宣伝されていたけれど、
測量技術は,一朝一夕に出来上がるものではなく、人類1万2千年の歴史野中で培われたものだ。
その技術を伝えたのは、シルクロードを旅しながら行商を行っていたバビロニア人の血を引く秦人の子孫だろう。
江戸時代も古墳時代初期もGPSや電子デバイスがないことでは一緒ではないだろうか?
とすると、魏志倭人伝の距離や方向の記述は、きわめて正確だったと見るべきではないだろうか?
中国人「そこからどの方角に向かうんだ?」
日本人「方角ってなに?」
中国人「太陽のある方が南だ!」
日本人「(太陽が昇る方角だから)じゃ、その南とやらの方角に向かうんだよ」
中国人「ふむふむ、南へ向かうとφ(..)」
こんなかんじでしょ
433 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 21:41:59.96
古墳の古い順
@棺有槨無の前方後円墳
A棺有槨有の前方後円墳(竪穴式)
B棺有槨有の前方後円墳(横穴式)
畿内に@がどれほどあるのかな?
434 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 21:57:44.73
魏使一行 東へ進んで 叱られる
魏使一行 何が何でも 南へ行き
魏使一行 伊都から先へは 進みかね
魏使一行 卑弥呼の噂 伊都で聞き
複雑で 規則のうるさい 放射読み
435 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 22:02:26.05
436 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 22:05:36.83
朝鮮くん只今ぐぐって調査中すばらくお待ちください。
437 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 22:14:18.36
朝鮮、時間かかりすぎ、アウト
438 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 22:26:44.89
そんなこと 知つてたまるかと 邪険に言ひ
439 :
川柳:2012/10/04(木) 22:43:21.93
>>438 朝鮮
何じゃそりゃ? 朝鮮無知杉 こりゃだめだ
440 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 23:34:49.39
>魏志倭人伝の距離や方向の記述は、きわめて正確だったと見るべきではないだろうか?
そう、正確とみて何ら問題はないよ。
>>432は無知杉 こりゃだめだ。
441 :
ローガン:2012/10/05(金) 00:39:09.23
>>433 >畿内に@がどれほどあるのかな?
竪穴式は@だから、沢山あるね。
設問が 上手く出来ない 九州説
槨出来て 棺が見えない 竪穴式
442 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 01:32:38.02
竪穴式石室はAだね。石室すなわち槨だ。
443 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 06:16:53.32
でたなローガン
ということは
>>433は畿内説に不味いお題ということだ
そのとおり。
痛いところを突かれると言い訳が始まるのが畿内説のいつものパターン。
445 :
ローガン:2012/10/05(金) 09:25:29.82
今起きた。仕事なんで又、午後に。
それまでに竪穴式石室の構築工程を順を追って書いておきなさい。
宿題だ。
446 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 10:09:05.60
>>440 測量の専門家が来たわけではない。一般的な知識としても当時は低かったと
思われる。というわけで、あまり正確ではないと考えるべき。
だいたい、千とか五百とか百とかいうきっちり数字ばかりなのは
感覚的な距離であることの証拠。
447 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 10:26:59.49
>>445 馬鹿か、言いたいことがあるなら自分で書け。
>>446 測量の専門家でなくとも、方角や距離は分かるよ。
もちろん、距離は目測、航行時間、歩行時間、聴き取り情報等を
総合したものだろうがね。
448 :
ローガン:2012/10/05(金) 15:11:55.29
>>447 わからないなら仕方がない。ではネタの投下。
黒塚でも下池山でも構わない。埋葬施設の写真をみるがいい。
棺と板石の間に人の入るスペースが無いのが判るだろう。棺を置いた後、石を積んだんだ。
手順は、まず棺床レベルで、しかも、作業員が石積み作業に動ける程度の広さに墓坑を掘るんだ。
次に棺床を設え、棺を据え、棺に近い方から板石の積んでいく。その後、河原石や土を裏込めし、棺上を石で閉塞。で、土で封じるんだ。
槨は、「外箱、上棺」棺を納める為に予め作られた施設だ。
よって、上記手順で構築される竪穴式石室は槨ではない。
449 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 16:26:54.47
>槨は、「外箱、上棺」棺を納める為に予め作られた施設だ。
予め作るかどうかは関係ないよ。外箱は槨だ。石室はまさに槨さ。
それに、棺を置いた後、石を積んだかどうかは分からんぞ。考えてもみろ、
石を積むのには中に人が入った方が積みやすい。ある程度石を積んでから
棺をロープで吊り下ろし、入れるということも十分に考えられる。
450 :
ローガン:2012/10/05(金) 16:35:56.77
>>449 >棺をロープで吊り下ろし、入れるということも十分に考えられる。
では、粘土床に残った「ロープ痕」の見つかった例を挙げてみ。
451 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 16:48:32.53
自分で探したらいいだろう。
ただし、ロープ痕が残るとは限らんよ。どこにかけるかによる。
452 :
ローガン:2012/10/05(金) 16:56:16.94
>>451 >自分で探したらいいだろう。
勿論、調べたさ。君と違ってね。答えは「ない」だ。
君の「思い付き」を裏切るようで申し訳ないがね。
>ただし、ロープ痕が残るとは限らんよ。どこにかけるかによる。
どこに掛けるん?(笑)
453 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 17:00:06.08
想像力のない奴だな。いろいろあり得るさ。
454 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 17:04:03.51
>勿論、調べたさ。
いくつ調べた? 古墳はたくさんある。まだまだ調べる対象はあるよ。
455 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/05(金) 17:29:16.20
ロープとは 縄のことかと 弥生人言ひ
456 :
ローガン:2012/10/05(金) 17:36:00.41
>>453 >想像力のない奴だな。いろいろあり得るさ。
君にはそう見えたか。
生憎、根拠に基づかない空想は苦手なんでね。悪いね。
457 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 17:49:34.15
>>447 そんなに大量の人の移動があると思ってるのか?
根本的にアホなんだよな
458 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:51:34.29
>>456 ごまかさないで、本題の「槨は、〜予め作られた施設だ。」と断定した根拠
を示してくれ。
459 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 19:44:05.92
>>448 ローガン
苦しい詭弁を言ってるんじゃない、棺を納めた室それすなわち槨だ。
その棺を前方後円墳の土中に直接埋めた例はあるのかと言っているのだ。
460 :
ローガン:2012/10/05(金) 21:18:05.14
ほれ
「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」(魏書董卓伝)
「藏」に入った水に「棺」と「槨」が浮いたんだプカプカとね。
「藏」「槨」「棺」にこのような認識を持つ国の人が、竪穴式石室を見て、「槨」と判断するか?
そんなこともわからんのかね。
しかし毎度毎度…
君はここへ来てまなしか知らんが、毎年お約束のループネタなんだ。
本来なら、過去ログ漁れ でいいのかもわからんがね。
で、圧痕か残らないようにするには、木棺のどこにロープを掛けたらいいのかね?(笑)
461 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 21:50:39.97
前方後円墳の前方部から後円方向を見る。
桜井茶臼山は、箸墓を向き
箸墓は、ホケノ山を向き、
ホケノ山は石塚を向く。
石塚は、唐子・鍵遺跡を向く。
462 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:32:19.93
>>460 >「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」(魏書董卓伝)
これだけか?これだけで棺と槨をかたっているのか?
ならば、その「大風暴雨」でプカプカした「槨」って何でできたものか?
棺は木製、槨も木製の船型だったのか?いい加減な例外を持ち出して何がしたいんだ?
確実に根拠となるものを示してもらいたいね、ローガン君
>圧痕か残らないようにするには、木棺のどこにロープを掛けたらいいのかね?(笑)
なんのことだ?私は知らんよ
まあ、曹操の墓も分かってるから
比べて判断できるっしょ。
464 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:50:08.00
魏書は董卓を敵視しているから墓までボロカスに叩くってか?
465 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:57:07.51
>>462 槨はそとばこだ。動く槨の例をみつけてそれだけだと思い込むとは軽率だな。
○○の一つ覚えというやつだ。東沃沮の記事でも読んでみろ。
墓室の意味で使用されている。
466 :
ローガン:2012/10/05(金) 23:09:19.00
>>462 >いい加減な例外を持ち出して何がしたいんだ?
でも君は「いい加減な例外」である根拠が言えない。とはいえ、その書きぶりに独特の香りが…
>なんのことだ?私は知らんよ
前レスはアンカー付けずに書いたんだが。君が該当しないなら関係ない。
にもかかわらず「なんのことだ」と反応。
「レスは全て自分宛て」そして「全てが自分中心」
伊作ちゃん。やろ?
オープンマインドで書いてみ。
467 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:13:49.14
普通に考えれば『有棺無槨』というのは、穴を掘って棺を入れ、土を被せた
だけということになる。その後に書かれている『封土作冢』というのは、
けっこう身分に高い人の墓を連想する。
前方後円墳や大きな古墳だったら、そのことを書かないはずはないから、
それほどでもなかったのだろう。
そのとおり
469 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:25:49.28
>前方後円墳や大きな古墳だったら、そのことを書かないはずはないから、
大作冢径百余歩と書かれているだろ。大きな古墳だということは書かれているわけだ。
前方後円墳とは書いてないが、それを文章で表すのは難しいぜ。円墳ならば円冢と書け
ばいいが、前方後円墳は横から見たら不規則な形だ。で、形は書かなかったとも考えられる。
470 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:29:02.73
畿内説代表ローガンらしい嘘八百打法だな
石棺が浮かぶのか?ぷかぷかと?議論の本筋を外すなよ
私は古墳の埋葬例の古い順を言っているのだ
畿内で棺が前方後円墳に直接埋葬されている例があれば教えてくれと言っているのだ
たったそれだけなのだ、なのに、何を言い訳がましい事語っているんだ?
471 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:29:09.81
槨と室の大きさの観点からの使い分けが日本でも中国でも曖昧だからね
倭人伝の「有棺無槨」も一般風俗記事の部分に書いてあることだから
これを論点にしても意味ないよw
472 :
ローガン:2012/10/05(金) 23:29:30.02
>>465 >槨はそとばこだ。
そうだ。
>○○の一つ覚えというやつだ。東沃沮の記事でも読んでみろ。
そうだ。予め作られた施設だ。やっとわかったね。
九州説、釣ったつもりが 墓穴掘り。
寝るか。
473 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:32:41.14
>>469 『径百余歩』というのは卑弥呼の墓だから、書かれている部分は
別のところだけどね。
しかし、径百歩を魏の時代の長さで考えて約145m程度とすれば、
これを作るのにいったいどれくらいの時間がかかることやら。
474 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:33:07.80
やっぱり、○○の一つ覚えだ。
475 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:35:01.30
邪馬台国が九州であることは確実だ特に議論の余地はない。
あとは何時邪馬台国の首脳たちが東遷したかが議論となるだろうね。
前方後円墳の埋葬方式は、それを教えてくれるのだよ。
476 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:44:16.72
いや、ローガンは墓室の例を出されてだいぶ悔しかったんだろう。(笑)
477 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:58:01.07
竪穴式石室も後に簡略化されていくから、石室のあるなしだけでは年代は決められないんだよ
478 :
ローガン:2012/10/06(土) 00:05:05.07
>>479 >畿内説代表ローガンらしい嘘八百打法だな
代表?とんでもない。当たり前の通説だ。
>石棺が浮かぶのか?ぷかぷかと?議論の本筋を外すなよ
議論以前に、石棺は浮かばないだろう。と思う。
>私は古墳の埋葬例の古い順を言っているのだ
懸命に否定すればするほど、前期古墳が卑弥呼の時代であると、主張しているんだけど。
「卑弥呼の時代、竪穴式石室を持つ古墳が畿内の墓制、これは『無槨』とは言い難いので、邪馬台国とは関係ない」(笑)
3世紀第2四半期とは、定形外した前方後円墳が既に登場している時代であった。という主張ね。
>畿内で棺が前方後円墳に直接埋葬されている例があれば教えてくれと言っているのだ
直接、棺を墓坑に置くんだ。て昼間に書いたのに。
「前方後円墳に直接埋葬」の例。 『全部』 としとこうか。(笑)
2ちゃんでは 千でリセット 九州説
だなあ。 寝るか。
479 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:25:38.83
老眼でも先見の明があるということを言いたいのかな?
480 :
ローガン:2012/10/06(土) 00:32:52.30
>>478 おっと訂正。
>3世紀第2四半期とは、【定形外】した前方後円墳が既に登場している時代であった。という主張ね。
【 】内は「定型化」ね。
481 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 06:52:40.16
棺を納めた室を槨というのだ大きさは関係ない。
それを小さいから槨じゃないなんて言えば何でもアリってことだ。
前方後円墳は3世紀2四半期だって?でたな古墳時代遡り詐欺
482 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 07:16:21.43
大阪府や堺市などから成る百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議は、
両古墳群のほぼ全てに当たる82基を航空レーザー測量し、18日、結果を発表した。
履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳では前方部上に球状の高まりがあるこ
とをあらためて確認。大阪府文化財保護課は「天皇陵などに立ち入ることなく、
より詳細な墳形が分かり、研究にも役立つ」としている。
前方部上に球状の高まりに履中が葬られているのであれば、須恵器を遅くできる。
>前方後円墳は3世紀2四半期だって?でたな古墳時代遡り詐欺
文句は付けるが、遅く見るべき文献が存在しない。
邪馬台国官伊支馬を垂仁にすれば、時代に誤りはない。
483 :
ローガン:2012/10/06(土) 09:19:02.30
>>481 >前方後円墳は3世紀2四半期だって?でたな古墳時代遡り詐欺
『魏志倭人伝に「無槨」とある。畿内の前期古墳は、「有槨」だ。よって、使者が認識した墓制とは違う。』
と、主張しているんだろう? なら、前期古墳が使者来倭時に既に存在したというのが 君の主張な訳だ。
自分自身の主張が詐欺だ… って事になるが。(笑)
484 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 09:27:05.70
>前期古墳が使者来倭時に既に存在したというのが 君の主張な訳だ。
起き抜けの詭弁か。誰もそんなことは言っていないだろ。
俺は君が攻撃している相手ではないけど・・・
485 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/06(土) 09:31:21.25
有槨とは 遊ぶ所かえと 高尾言ひ
中国でいう槨というのは基本的には可動式で馬車に積んで運んだりする
棺の外箱のことだな
日本の考古学でいう槨とはちょっと違う
東夷伝じゃ他国の墓制についても詳しく書いてるじゃん。
扶余は「有槨無棺」だが、実際は石棺墓や木棺墓もあるし
あまり意味の有る議論じゃないと思うが。
まーな
中国人が倭の埋葬状況をすべて見知ってるわけではないととらえるのが
基本常識だが九州説はそういうのをすごく嫌うんだよ
489 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 11:12:08.86
相変わらず不毛な妄想ばかりか。いい加減現段階の証拠じゃいくら考えても無駄だと気づけよ
490 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 11:29:24.47
たぶん耶馬渓あたりだろう。
卑弥呼は、仙人のような隠匿生活をしていたに違いない。
1万1千年前の土偶が滋賀県で発見
492 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 11:57:57.76
たぶん張政だろうと思うが、葬式とか墓に興味があったらしく、倭人伝には
かなり詳しく書かれている。
喪のことについても詳しく書かれている。
にもかかわらず、墓の築造に数年かけたような記述はないし、それを窺わせる
記述もないので、卑弥呼の墓を含めそれほど大きくなかったと考えられる。
493 :
ローガン:2012/10/06(土) 12:09:22.27
>>484 >起き抜けの詭弁か。
まあ、そんなとこだ。
>誰もそんなことは言っていないだろ。
え?3世紀第2四半期の墓制の話だろう?
竪穴式石室=槨とし、魏志倭人伝との齟齬を主張するなら、竪穴式石室が、3世紀第2四半期に存在することが前提だが。
>俺は君が攻撃している相手ではないけど・・・
攻撃したつもりは無いが、そう見えたんなら謝る。
>>490 山国川流域の遺跡は馬鹿にしたもんじゃない。
卑弥呼は鬼道を操り、ローガンは詭弁を操り人々を惑わす。
>>492 土木事業の場所や労働力を確保出来る所で、という意味なら関西地方でもおかしくない。
政情が安定してからだろうけど。
497 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 14:00:10.77
僕 棺有槨無の前方後円墳が畿内にあるのか?有ったら教えてほしい」
ロ 棺有槨有の前方後円墳を「棺有槨無」
⇒と詭弁回答
僕 ちがうそれは棺有槨有だろ
ロ 「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」(魏書董卓伝)
「藏」に入った水に「棺」と「槨」が浮いたんだプカプカとね。
「藏」「槨」「棺」にこのような認識を持つ国の人が、竪穴式石室を見て、「槨」と判断するか?
⇒問題すげ替えね
僕 私は古墳の埋葬例の古い順を言っているのだ
畿内で棺が前方後円墳に直接埋葬されている例があれば教えてくれと言っているのだ
ロ 懸命に否定すればするほど、前期古墳が卑弥呼の時代であると、主張しているんだけど。
「卑弥呼の時代、竪穴式石室を持つ古墳が畿内の墓制、これは『無槨』とは言い難いので、邪馬台国とは関係ない」(笑)
3世紀第2四半期とは、定形外した前方後円墳が既に登場している時代であった。という主張ね。
⇒弥生時代の話をしているのじゃないぞ古墳の埋葬例の古さを言っているのだぞ
ロ 直接、棺を墓坑に置くんだ。て昼間に書いたのに。
「前方後円墳に直接埋葬」の例。 『全部』 としとこうか。(笑)
⇒石で作った「室」を墓坑ってか ごまかすな
前方後円墳の埋葬も「棺有槨無」から「棺有槨有」へ変化していったものだろう。
九州でも甕棺墓→石棺墓→支石墓と変化していくがいずれも「棺有槨無」
九州の前方後円墳も初期型は「棺有槨無」だ。しかも西都原古墳群の西都原81号墳は
土器棺(甕棺だな)が埋葬されていたそうだ。宮崎市の生目古墳群の前方後円墳は埋葬
箇所を発掘していないから不明だが「棺有槨無」の可能性が高いな。
前方後円墳の発祥元についても議論の余地がありそうだ。
詐欺師ローガン
499 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 14:40:09.55
畿内説はいろいろと苦しい答弁が多いな。
東に海を渡るというのは、伊勢湾を渡ったのだ、とか。
何百年も停滞している社会だから。
身内ではんなりしてれば良いよ。
501 :
ローガン:2012/10/06(土) 15:24:23.53
>>497 >⇒問題すげ替えね
君の謂わんとすることが、「?」だったんだが、やっとわかった。
君、さては「有棺無槨」の『槨』と、「粘土槨石槨」の『槨』を同じだと思ってるね。
>畿内で棺が前方後円墳に直接埋葬されている例があれば教えてくれと言っているのだ
だから竪穴式石室の構築工程を書いたんだ。
君等が、「竪穴式石室という槨に棺を収めた。だから有槨だ」…と云うのが目に見えていたからね。
石室を設えてから納棺するんじゃないんだ。墓坑に直接棺を据えるんだ。 東山や芝ヶ原にその前段階を見ることができる。
> ⇒石で作った「室」を墓坑ってか ごまかすな
粗方、土を搬入してから墓坑を掘るんだ。石積みは、後工程だと言ったんだが。(笑)
>九州でも甕棺墓→石棺墓→支石墓と変化していく
え??
>いずれも「棺有槨無」
おいおい、竪穴式石室が槨だと云う主張なら 箱式石棺は尚更槨だろうに。
502 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 15:30:33.48
>九州でも甕棺墓→石棺墓→支石墓と変化していく
支石墓に甕棺、石棺が伴っていて甕棺と石棺は分布域が異なる
支石墓は弥生前期で消滅するが、甕棺、石棺は継続する
上の表現はおかしいな
支石墓ってちょっと前の土葬のこといってるつもりなんじゃね
504 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 15:52:33.29
槨、ってのは、棺を直接土をかけて埋めるんじゃなくて、
棺が入るような空間を作ることをいうのだろうと思うが、
それがないんだから、直接棺を埋めたってことじゃないのかな?
無棺、無槨ならば、直接遺体に土をかぶせたってことで、
無棺、有槨ならば、石室などに直接遺体を安置したってことだろ。
有棺、有槨ならば、石室などに棺を入れることを指す。
505 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 15:56:36.30
石室を整えるとか、順番がどうとかの議論が、
何を問題にしているのかわからんが、
有棺無槨、ってのは、棺を納めるような構造を作らずに、
直接、棺を埋めたってことじゃないのかね?
中国でいう槨というのは身分がある程度高い人の場合は
どのような形に作るかの格式が決まっていて
あらかじめ専門の工人が棺といっしょに作って
馬車に乗せて墓坑まで運んでいって設置するものだよ
507 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:10:32.13
有棺無槨、ってのは、ひょっとして、甕棺にも当てはまらないかな?
甕棺は、大抵石室などは作らず、甕棺を直接埋める。
>>506 なるほど、当時、倭には馬が無いから
必然的に槨も無いって事か。
献帝紀にはその死に際して大匠が柏の木の黄芯で作った槨をなどを
馬車に乗せて陵に運ぶ場面がでてくる
ローガンの引いている董卓の槨もおそらくその類いのものだろう
当時の中国人が何をもって槨と見てるかは判然としがたい
前方後円墳時代になると、円墳でも石室つくってたりするから、
その時代以前ということは、間違いなかろう。
弥生方形集溝墓では、王の墓でも、棺の直接埋葬だな。
まあ、そのくらいの時代だろう。
511 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:31:56.82
古墳と埋葬の話になると畿内説が騒がしくなるな?
ここは畿内説にとって痛点なのか?ブヒヒヒ
512 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:32:20.65
まあ、倭人伝から大型の前方後円墳を想定することは無理ってことだ。
卑弥呼の時代はそういう時代ではない。
倭王なんだから大陸文化を取り入れて立派になる分には違和感無い
なんだ、またローガン詐欺か?
515 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:59:29.75
前方後円墳の新旧
|-------------------------------|
| 旧 |新 |
|---------------|---------------|
| 弥生式土器 |埴輪 |
|---------------|---------------|
| 棺直接埋葬 |石室に棺を安置 |
|---------------|---------------|
| 葺石無 |葺石無 |
---------------------------------
516 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:01:54.79
前方後円墳の新旧
|-------------------------------|
| 旧 |新 |
|---------------|---------------|
| 弥生式土器 |埴輪 |
|---------------|---------------|
| 棺直接埋葬 |石室に棺を安置 |
|---------------|---------------|
| 葺石無 |葺石有 |
---------------------------------
517 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:03:12.49
だめだ、うまくいかない、あとたのむ
前方後円墳の新旧
|-------------------------------|
| 旧 | 新 .|
|---------------|---------------.|
| 弥生式土器 | 埴輪 |
|---------------|---------------|
| 棺直接埋葬 | 石室に棺を安置 .|
|---------------|---------------|
| 葺石無 | 葺石無 |
-------------------------------
ローガンさんはこの板で唯一信頼出来るコテ
前方後円墳の新旧
┌───────┬───────┐
│ 旧 │ 新 │
├───────┼───────┤
│ 弥生式土器 │ 埴輪 │
├───────┼───────┤
│ 棺直接埋葬 │石室に棺を安置.│
├───────┼───────┤
│ 葺石無 │ 葺石有 │
└───────┴───────┘
522 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:50:35.63
埴輪とか葺石とか観音堂とかはメンテとか改修で後日に追加とかもできたりするよ
523 :
515〜517:2012/10/06(土) 17:53:00.89
構造は津古生掛をイメージすればよろしい。
まあ、前方後円なんぞにこだわらず、円墳、周坑墓で良いのだが。
525 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:57:41.49
いいふりこいてローカルルールでぶれまくる「槨」とか無駄に使用して騙るからおはなしがまんどくさくなるだけだね
526 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:13:01.58
お墓のなかみの解析用のツールは単純に 「ほらあな」 と 「ひつぎ」 だけでエエよね
527 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:19:11.51
あちゃあ
「ひつぎ」って掻いてぞっとしたぞ
しかし久々に来たがこのキモいやつは何だ?
529 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:24:18.83
>>524 >前方後円なんぞにこだわらず、円墳、周坑墓で良いのだが。
ええ、それでも良いのですがね・・・前方後円墳の発祥を求めたくてね・・・
前方後円墳への埋葬法を比較していけば九州に古い埋葬法が見えてくるのですね・・・
これ「邪馬台国東遷説」につながる可能性が大なのですね。
530 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:31:04.57
「邪馬台国東遷説」とかむだないいかたしないで「土人移住説」ので良いとはおもふが
531 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:31:08.37
>>528 タイミングよく久々に来たんだな┐(´ー`)┌
532 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:01:11.52
>竪穴式石室が槨だと云う主張なら 箱式石棺は尚更槨だろうに。
槨の意味がまつたく分かってないな。
この一行が、ローガン詐欺の典型例だな。
534 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:37:14.30
>>532 >>533 ローガンは分かっていて詭弁を申しているんだよ
そうでもしないと畿内説もたないからねローガンの応答を見れば一目瞭然さ
ん・で・もって今の所このスレの畿内説の頂点はローガンなんだな
まあ、九州説を唱える学者がほとんど居なくなった現実を直視しようよ
536 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:06:36.87
537 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:07:10.57
畿内説を唱える学者がほとんどいなくなったの間違いでは?
お前の中ではそうなのだろうな
539 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:10:19.47
そんなに九州説が正しいなら早く健軍神社掘り起こしてこいよ
あっ、くれぐれも無断はダメな
ちゃんと許可取ってからやるように
自信あんだろうから、ちゃんと関係各所を説得してな
540 :
ローガン:2012/10/06(土) 20:16:31.70
>>534 >そうでもしないと畿内説もたないからね
ああ 可笑しい。
通説なんだ。畿内説は。 頑張らにゃならんのは、君等。
541 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:17:24.65
掘り起こす必要なんかないな。黙っていたって畿内説を主張する考古学者が
証明してくれているじゃないか。畿内はいくら掘っても桃の種ぐらいしかで
ないんだろ。それじゃだめだよ。邪馬台国ではない証明をしているようなも
んだ。邪馬台国は七万戸の領民を有する大国、その都ならばそれに見合った
住居跡がでないことにはな。
542 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:23:07.16
結局、九州説諸氏は金印と封泥が見つからないと納得しないだろう。
奈良は古墳時代から奈良時代までは、重要なところだが、
九州を別にすれば、弥生期の重要拠点は、兵庫県周辺だと思うのだが。
大量の弥生遺跡は九州に匹敵する。
545 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:33:46.04
健軍神社に自信がないならそういえばいいのに
ぷっwww
546 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:34:52.26
淡路島は兵庫県だけど、それで兵庫ってのもな・・・
547 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:36:12.43
九州邪馬台国(文献・考古からしても確実)+前方後円墳九州発祥
これから読み取れるものは「邪馬台国東遷」であり神武東征と関係ありそうだ
548 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:47:39.53
自分の都合のいいように発祥を決めてるだけじゃね
すぐに発祥とか本当にチョンみたいな思考だよな
549 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:52:09.86
>>548 それだけか?なんだか悔しそうだな。対抗するものはすべて「チョン」なのか自らの無能さを省みずに
ショボイ単発書きなんかしないで自ら調べて「九州説はここが間違っている」と書き込んでみなさい。
無理でしょうけど
550 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:58:46.23
「九州説」より「海峡とその周辺のの多島海説」のがもっとましだろ
なにそれ
552 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/06(土) 21:10:45.63
筑紫の王 貧乏なので 槨はない
SMの 新手の技なり ローガン責め
553 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:12:15.81
それって棺桶に片足つっこみかけてるぢいちゃんのの本意のところですねえ
554 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:21:37.92
>>552 朝鮮
おばかさん どこで覚えた 575
朝鮮に ネタ見つからず 荒らしだす
555 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:22:41.50
はいとが10mとかある盛り土のに竪穴ので2mかそこいら掘り込んで埋葬とかのは
効率が悪くってなんかへんかなってかんじないのがまぬけさん
下側に何がお隠れあそばしておるのかなあののほおがおたのしみだ罠
556 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:42:17.16
畿内説は学者を含めて感情的に東遷説に反発している。
要するに、そんなのヤダと言っているだけ。
557 :
www:2012/10/06(土) 21:44:49.72
遊郭は 如何でしたか ローガン氏
そんなもん 知るわけないわ わたしゃゲイ
558 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/06(土) 21:47:43.25
記紀を読み そんなのヤダと 九州説
記紀よりも 土から出る物 崇拝し
559 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 21:49:19.92
>これから読み取れるものは「邪馬台国東遷」
どうしても「東遷」させたいようだな。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
九州には倭奴國王位継承の卑弥呼と、機内ヤマトに倭王がいる。
卑弥呼・男王の死後は、壹與(五百野姫)が宗女となる。
この支配関係が崩れるのが274年神功渡海、翌年の内乱だ。
この内乱により、畿内の有力継承者が殺される(忍熊王)など。
しかし、応神は妾気長媛の子供。こちらも王位継承には役不足。
そこで、応神系(渡海派)は壹與(橿日住吉)の王位を継承し、河内で覇権をとなえる。
これで畿内に2王が存在する。
まあ、歴博による、弥生の九州500年、関西100年の繰り上げに、学者は対応してるでしょ。
561 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 21:55:39.39
壹與(≠五百野姫)
畿内朝廷と九州の卑弥呼の女王国とは国交はない。
等号はデタラメである。
なお当時の〜王朝を組む畿内の大王は天皇一人である。
二つはオツムがおかしいデタラメ。
562 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:58:45.34
邪馬台国 と 大和 の音の響きから関連を主張する説は正しいの?
西都から他の文化何もなしで墓の形だけ畿内に飛んで、畿内を中心に墓の形が全国に広まるってのは、
さすがに単純すぎやしないか?
564 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:09:24.23
太国・唐松山の妄想の繰り返しはもう秋田。
見よ、スレには地に足つけた説があふれかえっている。
太国・唐松山両氏が荒唐無稽の説をぶちまけている限り朝鮮のような奴が好き放題語りだす。
つまり太国・唐松山と朝鮮は同類なのだ。
で・彼ら3同類があほな発言繰り返しているうちは「畿内説は安全」なのでローガンは黙っている。
君ら妄想3人衆が語っている間はこのスレに発展はない。
ま・畿内説にとっては・「良好な状態」だろうけど
565 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:12:47.96
>>563 西都原古墳群の件は、墓制の参考として提示したまで。
現在の西都市に巨大勢力があったとは考えていません。
西都原古墳群(当然宮崎平野を含む)を墓地とした勢力は別の地域にあったと解釈しています。
太国・唐松山がここでやってないときも朝鮮はずっといたぞw
>>565 西都に勢力がいなくても、その勢力の墓が西都で、西都の墓の形が畿内に飛んだ
っていってるんじゃないの?
別の地域の墓?
568 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 22:23:51.51
畿内説は成立しない。
記紀には女王卑弥呼の記事もとりわけ即位の記事もない。
それは神功39年の記事はあるが、これは外国文献の倭人伝からの借り物だ。
日本独自の書から採用したと思われる記述は記紀に見当たらない。
このことは畿内に卑弥呼のデータが朝廷の書庫にないということを裏書して
いるのであり、畿内周辺に卑弥呼とその女王国が存在しなかったことを意味している。
となれば、彼女の国は当然九州所在だったと観るべきなのだ。
探偵小説ではないから、記紀が卑弥呼を隠匿してはいない。
569 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:24:08.14
>>563 畿内の弥生文化と古墳文化には全然つながりがないと思うが。
「畿内」に勢力が居なくても、その勢力の墓が「畿内」に在り、「畿内」の墓の形が全国に飛んだ?
571 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:25:50.20
>>566 いたいた、朝から晩までずーっといたみたいだ。
で・最近はネタ切れで息切れの575ときたもんだ。
畿内の古墳時代の文化全てを持ってるのは九州のどこよ?w
573 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 22:33:43.21
秋田県だったか、唐松神社という社がある。
ここは物部文献の根城らしいが?
盲象王の宿主はこの神社との縁を過去に否定している。
縁があるのはホツマ真理教と臭魔伝だということだ。
574 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 22:33:56.99
>両氏が荒唐無稽の説をぶちまけている限り朝鮮のような奴が好き放題語りだす。
纏向遺跡がいつの時代の遺跡で、そこに誰が宮を構えたか知っているのか?
知らないんだろ?
575 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:34:55.10
576 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:35:21.03
妄想は無駄だ。
たとえば、西新町遺跡では、イイダコ壺が残る漁撈系の庶民の住居にカマドが設置されており、
半島系土器や「畿内式?」土器もころがっている。
文化の水準とは、古代ギリシャのポリス社会とペルシャ帝国のような社会をどう評価するか?
関西の遺跡マニアにとっては、ペルシャ帝国のほうが好みになるだろう。
確実に畿内が古墳時代に持つ文化の一つを前時代に持ってるのは博多湾岸勢力だけだろ
>>578 それは、関西以外は識りたくないということだ。
581 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 23:00:22.20
>前時代に持ってるのは博多湾岸勢力だけだろ
しかし、この時代は、「遞相攻伐,歴年無主」の時代でもある。
3世紀初頭の前原王墓で終了した勢力。
卑弥呼共立とは、自分では大王を立てられないという状況である。
>>581 博多湾岸勢力のものすべてで畿内の文化を上書きしてないってことは吸収されたんだろう
しかし祭祀、政治に関わる文化の一つが畿内に伝播してるということは
大和を中心とした倭国体制の中でも博多湾岸勢力の地位が高かったということだろう
「古墳時代」の文化は、それ以前の「畿内」の文化を完全に上書きしている。
列島の文化は、半島、中国との文化交流が連綿とあったが、「古墳時代」の定立以降、独自の交流が困難になった。
九州説の者ですが
兵庫県内の弥生遺跡の数々はもっと注目されるべきでしょうね。
586 :
ローガン:2012/10/07(日) 00:02:22.59
東遷説って…
ある種、広域政権を了解済みでしょう。で、「いつか?どこか?」に纏わる各論って割と興味あるけどねえ。
ただ、
三角詐欺だ!百回掘って種しかでない!湖だ!神武の排水だ!無人だ!有槨だ!小枝だ!堂ノ後のレーダーだ!中平刀だ!年輪は密室だ!…
悪の畿内説、昇進、保身の畿内説。
いかにその醜さを浮き彫りにしたとこで、「東遷の根拠にはならん」ことに気づいてね。
恨めしい、単なる愚痴だと、 それについて同情は吝かではないよ。
587 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 00:03:18.81
>>583 近畿弥生を代表する銅器である銅鐸は、古墳時代になるとこの世から消え去って、
二度と表に出てくることはなかった。これが上書きか。
しかも、古墳近畿を席巻するのは鏡ということになる。
畿内説が憎いんだよ
銅鐸の精神文化は後の三角縁神獣鏡に影響してると考えられるからな
精神、信仰は畿内中心で技術は九州北部から取り入れてる
九州の土器がでない巻向でも九州北部に伝播した鉄加工技術は伝播している
上書きとはバージョンアップのことだよ。
>三角詐欺だ!百回掘って種しかでない!湖だ!神武の排水だ!無人だ!有槨だ!小枝だ!堂ノ後のレーダーだ!中平刀だ!年輪は密室だ!…
悪の畿内説、昇進、保身の畿内説。
恨めしい、単なる愚痴だと・・・
妄想のしすぎ。
591 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 00:32:24.73
古墳なんてのは階級社会の権化みたいなものだけど、弥生時代の近畿地方は
そういうものが見られない。唐古・鍵遺跡なども王の存在を窺わせるような
ものは何も出ていなかったはず。
副葬品の習慣も元々は九州のもので、近畿地方ではまず見られない。
連続するものは見られず、非連続の証拠のみが浮かび上がる。
まず、マキムクは「弥生時代」なのか?「古墳時代」なのか?
自分で整理してくれる?
弥生時代の近畿地方は、階級社会の萌芽もみられないことを説明出来たらして下さい。
弥生時代は技術革新、宗教改革の時代だから非連続のように見えるんだろ
594 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 00:51:36.48
>>592 まあ、唐古・鍵遺跡と同じタイプの遺跡ならば弥生時代。そうじゃなかったら
弥生時代ではない、というのはどうだろうか。
近畿地方などで威信財といえるものは銅鐸くらいだが、これは個人の所有とは
考えられていない。集落の所有物というのが一般的。
となると、個人に富のようなものが集中する階級社会とはいえない。
つーかこのスレの九州説も唐松・太国と同じで
同じ話題をループさせてることにいいかげん気づけよな
九州説・・・うんぬんは、関西説の連中だけどな。
文化的にもう変わりようがないだろ。
まあ、現実の歴史には、同時代に古墳時代タイプの遺跡と弥生時代タイプの遺跡が混在する。
唐松のが記紀から三国史記にきて碑石(だっけか)でちょっと迷い
今は考古学に来てるだけ進歩してるw
せめて三国志を通読して自在に引けるくらいにはなれよ
だから伊作にも笑われる
599 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 01:00:38.39
纒向にある王宮は
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 穴あき壺=埴輪
邪馬台国官伊支馬、都市牛利(たしうり)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
ここまでだ。
纒向に王宮を築いたのは垂仁と景行。
箸墓(箸中山)は最初の大王墓である。
600 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:08:35.71
村で銅鐸使って仲良くお祭りするような集落社会から、突然のように
個人のために巨大な墓を作るような階級社会に変わってしまったわけで、
これも劇的な変化と言える。
601 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:16:55.63
支配者の交代でなくてそんな変化はありえないな。
602 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:22:28.03
>>586 は、まさに畿内説の捏造の歴史であり、
論破された畿内説崩壊の歴史でもある。
要は恣意的に弄れる領域でしか、
畿内説を主張できず、それすらも論破されてきたということだ。
ここ最近の一連の槨の話も、槨がないとする倭人伝の記載に対して、
槨がある前方後円墳を比定したいローガンの詭弁に過ぎない。
>>599 唐松ちゃんのやってることはとりあえず意味はわかりますよ
韓国の考古学で出てくる数字は三国史記の影響が強くて疑問が多々ある
日本の考古学がかつて崇神没年に惑わされたのと同じような道
「弥生時代」の方形周溝墓の墓制でも、序列化が始まっている。
関西が支配者の交代にさらされたのは、ここでよく言われてるね。
605 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:37:44.02
近畿地方の方形周溝墓って副葬品あったかな?
社会の変化、序列化をもって支配者の交代を想定するのか
九州北部の支配者はどこから来たのかな
連続性と不連続性を両極にとらえると、説明は楽にはなる。
縄文時代でも序列化が認められており、もちろんサルの社会でも研究者の仕事のネタになったいる。
一方、この板の住人の先祖の関西人の弥生時代では、まだ序列化も始まらないのは特に不思議なことではない。
609 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 04:50:59.04
>三角詐欺だ!百回掘って種しかでない!湖だ!神武の排水だ!無人だ!有槨だ!小枝だ!堂ノ後のレーダーだ!中平刀だ!年輪は密室だ!…
これだけ疑惑を浮き彫りにされたら如何に邪馬台国畿内説が嘘八百であるのかが理解できるじゃないか
ならば弥生時代大した勢力が存在しなかった畿内に古墳時代をもたらした勢力は何処から来たのかってことだわ
元祖前方後円墳・・・九州じゃね?これ東遷のしょうこじゃね? ま・これから逐次解明されていくだろうけど
610 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 05:02:22.41
古墳時代をもたらしたって
元々たいしたもんじゃないだろ
所詮墓なんだから
611 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 08:12:37.86
何回同じような話題でループしてるんだと
612 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 09:48:31.38
吉野ヶ里遺跡は紀元前から墳丘墓が築かれていて、王族の墓といわれる。
王の誕生がかなり古いことがわかる。唐古・鍵ではその痕跡がない。
613 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 10:06:15.16
昔に学んだ老人はいまだに古墳やピラミットは権力者が奴隷を酷使して作った墓だと思ってるのか?
ついでに江戸時代は、庶民は米を食べる事はなく、ヒエやアワのみだと?
時代が変った事についてけないのも哀れだよな
614 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 10:06:29.14
纏向4類(後)箸中山(最初の大王でない260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
615 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 10:20:57.98
箸墓(箸中山)は最初の大王墓でない。
初代は神武である。
景行は臭魔伝で末代の大王である。
616 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 10:45:30.35
>>612 唐古・鍵は滅ぼされた。銅鐸は消滅した。そこに銅鐸とは無関係の勢力が入って
きて巻向を造った。と、言うことだろう。
617 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 10:54:08.19
お墓鉱山からの採掘はとても生産性が高くて便利だったんだよね
618 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:46:59.18
記紀に銅鐸の事が書かれていないのはよく言われるが、実は倭人伝にも
書かれていない。
619 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 14:31:35.64
>三角詐欺だ!百回掘って種しかでない!湖だ!神武の排水だ!無人だ!有槨だ!小枝だ!堂ノ後のレーダーだ!中平刀だ!年輪は密室だ!…
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。 ←1年の狂いがある。
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。←政変から1ヶ月後。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(欽明天皇二年541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔欽明天皇二年541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
後漢193年=崇神5年。
2世紀末 崇神10年 異俗多帰=考古:各地の土器が纒向に持ち込まれる。
210年=新羅=崇神58年 翌年が加羅(任那)建国。
崇神末は220年を超えることはできない。
3世紀前半の大型建物=垂仁珠城宮。古韓尺を用いた建築。
ホケノ山(225〜250年)=石囲い木槨墓=楽浪の影響がある。
239年邪馬台国官伊支馬=イクメ=垂仁。
考古学の言う年代に齟齬はない。
620 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 14:38:06.51
>唐古・鍵は滅ぼされた。銅鐸は消滅した。
崇神5年疫病(えやみ・飢饉)餓死。
崇神6年民の離散(逃散)。
唐古・鍵遺跡では青谷上寺地遺跡のバラバラ人骨が示す”食人”がおこなわれ
住民が自分の意思で放棄したのである。
この災害の鎮魂がモモソ媛の葬儀にこぞって住民が参加した理由である。
621 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 15:08:00.72
後漢193年≠崇神5年。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
210年=新羅≠崇神58年
崇神末は220年を超えることはできる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
239年邪馬台国官伊支馬≠イキマ≠垂仁
622 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 15:10:18.82
訂正
× 239年邪馬台国官伊支馬≠イキマ≠垂仁
○ 239年邪馬台国官伊支馬=イキマ≠垂仁
623 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 17:21:56.20
邪馬台国は長野県、元善光寺のあった上田市山田ではないだろうか?
善光寺如来と聖徳太子の往復書簡を読めば、善光寺のほうが畿内より先進地域だったことが分かる。
624 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 17:53:43.86
625 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 18:09:56.09
ホ34077 ソヒウヅキ・・・このミヨを ハツクニしらす ミマキのヨ タミたのしめば
崇神11年以前の崇神は大和の1地方のうらぶれた纏向あたりに居を構えた王であった。
17年以前に構造船を持たなくて当然である。
つまり、新羅193年を否定できていない。
これを否定できるのであれば、太タヌキ殿はゴットハンドを持っている。
626 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:14:37.02
17年以前に構造船を持たなくて当然である。
つまり、新羅193年を否定できている。
これを否定できるのであれば、空年空腹多抜キ殿は誤ッ度飯度を持っている。
627 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:18:37.19
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
↑
このひどさをオマエは感づかないわけだな〜。www
即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。
オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしい〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本だよ。ハハハ・・・
フゥ〜〜 ヒドイヒドイ。
恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。
628 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 18:42:18.80
驚くな 長野県にも 邪馬台あり
629 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 19:13:24.02
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯
これは書記の主張と古事記の示す年である。
>このひどさをオマエは感づかないわけだな〜。www
書記の主張は正しいことに気がつかない、スカベラゴットハンドクソ虫太ちゃん。
書紀は仁徳時代をなんといっていると書き換えるんだ?
930庚寅 376丙子 應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
970庚午 389己丑 應神崩御
973癸酉 391辛卯 仁徳即位
1059己亥 419己未 仁徳崩御
391年「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
これが正しいのか?
仁徳六七年(己卯三七九) 是以政令流行。天下太平。廿餘年無事矣。
書紀は高句麗の南下で大敗した時代の前半を”天下太平”の言葉で「なかったことにした」と言っておる。
630 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 19:33:05.55
ファラオを恐れぬ脳内の狂う狼藉者よ。いや狸藉者のほうかい〜? ハハ・・・
オマエは古代エジプトのファラオらに泥を塗ったな。
この前は神社に対しゴミだと不敬を働いたお前が、今度は古代エジプトを踏み躙るとは何事だ〜。><
ファラオの呪いを恐れぬ極道者よ。フフ・・・〜オマエはアタマがおかしいんだよ。ハハハ・・・
オカシイと思わないからそんな論理を考えて行くわけだ〜。ww
まとも賢人なら、おかしいと気づいてもとに戻る構想態度になるからなぁ。
まだオマエはおかしいのに気づかないわけだ。ww
じゃぁ〜早急に松沢病院で診てもらわなけりゃぁ〜こりゃぁダメだ。
ひどい末期のようだねえ〜。治療は名医でも困難のようだ。
オマエはアタマが狂ってるのさ〜。ppp
631 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 19:36:37.76
古代エジプト王らに泥を塗った空腹多抜キの極道者よ。
オマエのアタマがいかれている↓この文。ww
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
↑
このひどさをオマエは感づかないわけだ〜。www
即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。
オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしき〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本なわけだ。ハハハ・・・
フゥ〜〜 ヒドイヒドイ。
恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。
632 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 19:56:05.60
>古代エジプト王らに泥を塗った空腹多抜キの極道者よ。
だから〜太国倍年とは、ご自分でスカベラのごとく太陽を操った結果の編年なんでしょ?
こういうことは、ゴットハンドでなくしては成し得ない。
だから、ゴットハンドクソ虫太ちゃんと褒めてあげてんですよ。
この名称に喜びしか存在しないはずなんですがね。
633 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:57:44.15
古墳も作るの面倒だからもう止めねって感じで禁止令出したから
銅鐸も、埋める為だけに銅を使うって生産性ないしドウよって話になって止めただけじゃね
世の中そんなもんだよ
634 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 20:03:00.84
まぁ実際、古代のことで解ってる事ってそんなに多い訳じゃないから
見える部分の少数の事全てに意味があると思ってしまう
人のサガやね
635 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 20:13:38.67
そう、邪馬台国は佐賀にあった。
636 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 21:00:42.90
さういへば 群馬にもある 邪馬台国
637 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/10/07(日) 21:06:13.77
近畿説が存在する理由理屈裏付けが全くないのに今だに消えないね。
近畿説を崩せない背景が6世紀以降の歴史に在ったんだろうね。
638 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 21:10:07.99
九州説 屁理屈だけは よく覚え
639 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:16:53.50
古代エジプト王らに泥を塗った空腹多抜キの極道者よ。
オマエのアタマがいかれている↓この文。ww
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
↑
このひどさをオマエは感づかないわけだ〜。www
即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。
オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしき〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本なわけだ。ハハハ・・・
フゥ〜〜 こりゃヒドイヒドイぜ、このオマエのアタマ。
恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。
640 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 22:44:38.00
>このひどさをオマエは感づかないわけだ〜。www
かわいそうに、ご自分の編年があるんだからそれを使って反論できない悲しさよ
641 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:48:43.12
ヘヘヘヘ・・・
古代エジプト王らに泥を塗った空腹多抜キの極道者よ。
オマエのアタマがいかれている↓この文。ww
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
↑
このひどさをオマエは感づかないわけだ〜。www
即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。
オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしき〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本なわけだ。ハハハ・・・
フゥ〜〜 こりゃヒドイヒドイぜ、このオマエのアタマ。
恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだとさ〜。
642 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:52:35.15
空腹空年ヤセ多抜キよ オマエは松沢病院特別室へ入院せばならぬ。ww
@日蝕が数日間日を経て続く日数計算を自慢する。←要精神鑑定ww
A雄略は稲荷山鉄剣銘辛亥年471年に死に479年にも死ぬ←要強制入院
B道鏡将門武内宿禰でもなれない天皇に家来の官がなる←不合理
C空腹ヤセ農民千人が畿内から遠方の半島に渡海する←不合理
D応神とウジノワキイラツコは各々2人いた←要精神鑑定
E応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院 ppppp
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院 ppppp
F当時の畿内に当時仁王さまの二王朝があった←要精神鑑定
G允恭紀に仁徳が父で応神がその子だと書かれてる←要強制入院
H臭魔伝1年265日の1.4倍暦を論じてるが1年は365日だけだ←要精神鑑定
I崇神17年に始めて畿内に船舶を造るも以前の崇神6年に船がある←不合理
J俺(←宿主)はコンビにで毎日1円玉だけで買い物をする←迷惑笑いもの
1年265日の古代エジプト暦を見つけられない赤面保育園ヤセ野郎よ。オマエの脳内点検をしろ。
なお空年佛なんぞこの世に無いから安心せい。
真っ赤なお腹の多抜飼いさんは〜いつもみんなの笑いもの〜♪
643 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/08(月) 08:48:38.25
適当に 駄洒落を入れる 国と松
644 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 09:49:11.90
@日蝕が数日間日を経て続く日数計算を自慢する。
これはゴットハンドで1日(昼間)のうちに闇(夜)が分けたという文章を数日にする。
A雄略は稲荷山鉄剣銘辛亥年471年に死に479年にも死ぬ
大彦から数えた8代目は、仁徳になる。ゴットハンドで孝元から数えて仁徳にしかならない世継ぎを読み替える。
B道鏡将門武内宿禰でもなれない天皇に家来の官がなる
魏皇帝から見た官が伊支馬。ゴットハンドでなくては、この”官”を天皇の下には置けない
C空腹ヤセ農民千人が畿内から遠方の半島に渡海する
半島南部に水田を持ち込んだのは彼らだ。
D応神とウジノワキイラツコは各々2人いた
年齢の推定ができていない。高句麗使を叱責した年齢は?幼くして死亡した年齢は?
E応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午
365年 応神22年大隅宮
百済本紀に合わせれば 応神天皇はこの数字に46年を加える 応神天皇390〜430年
ところが、応神を430年までとすると、仁徳87年の差込ができない。
仁徳67年からの20余年は天下泰平という時間が必要となる。
書紀に”倍暦”の文字はない。つまり、”1年間”という数字は、太陰暦上で不変であるこの不変を書き換えるゴットハンド
つまり、存在しない”倍歴”なるもので書き換えた主張の裏返しなのである。
645 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 10:00:03.38
@日蝕が数日間日を経て続く日数計算を自慢する。
>これはゴットハンドで1日(昼間)のうちに闇(夜)が分けたという文章を数日にする。
それは半日だぜ。数日ではな〜い。常夜とは永く夜が続いたということだ。
それに紀は常夜だと言っておる。皆既日食は最大で7分間余であって到底常に夜だとの解釈は出来ない。
それの半日じゃあ通常の夜の在る時間だぜ。
よってオマエの主張はインチキである。つまりオマエの日数計算値が皆既日食が数日間継続してた数値だということを自認したも同然だ。
これでは日数計算が出来てる自慢にはならず逆にオマエの赤恥なのさ。bb
646 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 10:03:08.02
>大彦から数えた8代目は、仁徳になる。ゴットハンドで孝元から数えて仁徳にしかならない世継ぎを読み替える。
↑
こうだと「047は二度死ぬ」のか?
オマエの脳内はジェー無理・ボンドだ。ww
要松沢病院緊急入院
647 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 10:19:38.59
B道鏡将門武内宿禰でもなれない天皇に家来の官がなる
>魏皇帝から見た官が伊支馬。ゴットハンドでなくては、この”官”を天皇の下には置けない
これもまたおかしな論だねえ。pp
これは女王から観た官なのだよ。オマエはコンビニの店員を客から観て客だと言ってるようなものだ。ハハ・・・○ンマよ。
だからオマエは 要精神鑑定
C空腹ヤセ農民千人が畿内から遠方の半島に渡海する
>半島南部に水田を持ち込んだのは彼らだ。
その彼らは対馬あたりの倭民だよ。すぐ前に半島が見えて離れ島だから漁が主体だ。だから渡海が千人でも出来る場なのだ。
畿内の紀の記載の飢餓農民は畿内の農民であって当時畿内から外国に当たる対馬の人民千人ではない。
日本書紀では外国の記事は特別重要でないと書かない。日本(←当時は畿内周辺まで)だけのことを書いてるのだ。
その特別重要なのとは、遣使、双方の戦争、部下の外国旅行とかであって、あとは景行の大旅行たる九州行幸だとか
に限られる。対馬という畿内から遥か遠方の離れ島の渡海なんぞ紀に載せるまでもないことよ。
今なら尖閣あたりでも軽く電信、航空機等の威力で瞬時に日本全体に出来事が広まるが、
当時は飛行機も新幹線もない徒歩か船かよくて馬あとは狼煙くらいなものだ。これでは書紀には載るまでのものではない。
つまり
崇神6年≠193年
だからオマエの論は不合理。
机上の空論ばかり並べてないで地面を掘ったらどうだ?
△鏡と一緒に、ずばり邪馬台国と書いた石碑か粘土板か木簡を掘りあてろ。
ゴッドハンド、現代のシュリーマンになれ。
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 11:05:21.55
D応神とウジノワキイラツコは各々2人いた
>年齢の推定ができていない。高句麗使を叱責した年齢は?幼くして死亡した年齢は?
推定が出来ないと2人3人いたことになるという←要精神鑑定。ww。
オマエのオツムがおかしいわけだよ。ワハハハ・・・・・
E応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午←要緊急入院
>365年 応神22年大隅宮
>百済本紀に合わせれば 応神天皇はこの数字に46年を加える 応神天皇390〜430年
>ところが、応神を430年までとすると、仁徳87年の差込ができない・・・
ということは46年加えることがおかしく〜要緊急入院となる。ご苦労。
書紀に”空年”の文字はない。つまり、”1年間”という数字は、アスス暦上で変動があるこの変動を書き換えるアスス1.4倍暦。
つまり、存在しない”空年”なるもので書き換えた主張がデタラメなのである。
650 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 12:54:47.85
倭国は2王体制。
景初二(3)年六月 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻
其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼
女王の遣使が6月に郡に到着、それから半年後に洛陽にて皇帝の拝謁を受ける。
では、何故半年も要したのか? この謎解きである。
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ カクのキヨサホ
カグヨサホ もちきたるマに キミまかる
ホ37226 ハナタチバナが サツキまつ ヨハにうむコに ミコトのり ムカシのヒトの
オをとゝむ オトタチバナと ナをたまひ にたるスガタの ヲシヤマに とつぐハハコも おんめぐみ
田道間守は3月の帰着の9ヶ月24日前に大和を出発。
田道間守の嫁さんは、ハナタチバナであり、遺児を4月の末頃に生む。であるから、4月末で、10月10日の満月。
ハナタチバナが但馬に住んでおり、田道間守が大和を出発後、但馬に寄り、郡へ向かう。
郡までが2ヶ月とすると、6月半ばに但馬を出る。郡に到着するのは、8月末、
郡を9月初めに出立したとして、洛陽に着くのは、11月末、
12月前半に皇帝の拝謁。景初3年12月、余12月、正始元年正月に郡。そこから
2ヶ月後の3月ヤマト帰着。
651 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 13:54:53.34
南北朝以外仁王さまはいない。
た
652 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 13:58:52.86
入力ミスのため再書きこみ〜
南北朝時代以外仁王さまはいない。
他王朝があった事実は記紀に存在しない。
畿内の中なら天皇国の近隣だから、まだ大王がいたのなら朝廷とその大王の
国との国交、戦争等が必ず記紀に書かれる。それが無い。
だからそんな大王は畿内に別に存在しない。
所詮盲象大王はここにいるわけで、そいつの勝手に捏造したデタラメなのである。
653 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 15:10:10.83
>他王朝があった事実は記紀に存在しない。
だから、書き換えは、書記の主張の一つ。
書き換えの事実を書き換えて、1王朝にまとめたのが太国倍年。
王朝が一つなら、記紀で時代が整合しなければならないのにそうではない。
倭王と紀は整合しない。記とも整合しないが、両書には、つなぎ目が存在する。
例えば、
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。ここで紀は口をつぐむが、ここは、倭王のつなぎ目でもある。
654 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 15:17:47.37
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・難波高津宮
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・404年帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・428年? 413年東晋へ朝貢
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。倭王賛から珍へ
安康天皇 454年〜456年 珍・済 元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年
とりあえず倭王のつなぎ目は、中国からみれば、事実であった。
655 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 15:50:38.06
だから、非書き換えは、書紀の方針。
書き換えの非存在を書き換えて、2王朝に創作したのが宿主空年。
王朝が一つなら、記紀で時代が整合しなければならないのにそうなる。
天皇と紀は整合する。記とも整合するが、後者には倍暦使用での交錯が存在する。
オマエのほうの例えは、
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。ここで紀は口をつぐむ必要などないが、ここは、盲象王のオマエのつなぎ目でもある。ww
オマエのいう書き換えがあれば、とうの昔に書紀の編者は当時での公文書偽造で当時の糾察官に逮捕されて、死罪か軽くても流罪、蟄居を免れない。
そんな事実はないから、オマエの盲象なのさ。それは当時いろんな古文書があったろうから、事実の少しの誤認はあろうが、改造捏造などはなくそういうのははオマエの得意技だろうが・・・。ww
656 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 15:54:43.51
>雄略天皇 457年〜479年・・・
オマエのは471に死に479に死ぬ。ppp
「479は二度死ぬ」がほら吹きオマエのいかれた脳内盲象。
657 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 20:39:21.29
邪馬台国は大陸からやって来た騎馬民族に滅ぼされた。
征服した者たちの族長が大王一族。
この説は今どうなってますか?
658 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 21:51:33.66
>>657 騎馬民族征服王朝説。最近はあまり聞かないなあ。
個人的には、馬では海は渡れないと思う。
つまり、騎馬民族が海を渡ることはないだろう。
いや、空からやってきたんだよ
660 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 22:04:19.59
馬や武器、大量の兵士を一度に運べる大型構造船は、
騎馬民族が造ったものではなく、海洋民族の船大工に作らせたものだろう。
領土を拡大していく間に、大量の財宝を集めているから、
金と武力にものを言わせて買収するのは簡単だろう。
元寇の船も、フビライの部下が自分たちで作ったものではない。
>>657 日本の首長墓から出土する甲冑は大陸の物ではない。
したがって騎馬民族説は成立しない。
むしろ日本の甲冑が百済にまで波及する。
これをどう考えるかだ。
662 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 09:16:03.10
空から降る 瓊瓊杵尊と 騎馬民族
663 :
ローガン:2012/10/10(水) 14:00:01.47
川柳で 反論したつもりが スルーされ
川柳で揶揄するほどに ネタが無い
……イマイチやな。
664 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 21:32:52.38
槨の話はもう終わったのか。少しは興味を持って見ていたのだが。
九州に無槨の古墳が多いからといって、邪馬台国東遷の証拠にはならない。
なぜならそれは、無槨は古墳の初期形態である、ということを前提にしているのだが、
その前提には根拠がないからである。
無槨は古墳の後期形態かもしれないのである。
また財力のない小国の王は槨を省略したのかもしれない。
また無槨の古墳は王より身分の低い人物の墓なのかもしれない。
さらにそれらがすべて否定されたとしても、築造年代が問題である。
現在の定説は、あくまで通説である。
無槨の古墳が通説よりずっと古いものである可能性もあるし、
もっと新しいものである可能性もあるのである。
665 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 21:36:14.62
ただ、三世紀前半、邪馬台国では無槨だったんだよ。
666 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 21:42:00.06
それは倭の風俗ではあっても、邪馬台国の風俗であるとは限らない。
667 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 22:01:26.55
にゅうふろんてぃあのとちがってふつうに先進地とゆうのはエロエロ多様なんですよ
古墳の後期形態って....6世紀かよ!!
669 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 22:17:30.57
頂上に石棺のと鏡勾玉の甕棺のとがまざりっこででてくるピラミッドの祇園山古墳がすきかも
北部九州は、古墳時代の終わり頃まで、
色々ごっちゃで、バリエーションが多いというか、
全然統一されてねえ。
671 :
川柳の達人:2012/10/10(水) 22:38:39.87
>>664 >>666 朝鮮
そんなものはメンタルチェックと言って文にしないものだ。
つまり見てて恥ずかしい(痛い)。
「必死さと 無知さがコラボ 朝鮮痛」
672 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 23:07:01.85
では君らに訊くが、卑弥呼の時代以前に九州に有槨の古墳は無いのか?
たしか後漢代の鏡と思われる鏡が出土した古墳が幾つかあるはずだが、
それらはみんな無槨の古墳だったのか?
そんなことはあるまい。鏡が出たからには有槨の古墳だったのだろう。
するとそれだけで九州説は崩れるのだ。
そういことを考えてみたことがあるのか?
673 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 23:12:18.03
そもそも、卑弥呼の時代は弥生後期で、
古墳と言うよりは、墳丘墓、方形周溝墓(円形周溝墓?)の時代だからなあ。
前原の平原遺跡も、吉野ヶ里も槨はなかったし、
確実に卑弥呼以前に、槨があるといえる遺跡は記憶にないなあ。
674 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 23:16:12.53
後漢代の鏡が出ただけで卑弥呼以前だと思い込むところが単純だなあ。
675 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 23:27:50.23
5世紀以降くらいの、古墳時代中期、後期の装飾古墳とかなら、
確実に槨があるけどな。
676 :
川柳の達人:2012/10/11(木) 06:21:46.48
>>672 朝鮮
>では君らに訊くが、卑弥呼の時代以前に九州に有槨の古墳は無いのか?
え?卑弥呼以前に古墳あったの?かなりぶれてはしないか
年代不明だが西都原古墳群の81号墳は前方後円墳で甕棺が出てきたな
生目古墳群もまだ発掘していないからわからんが甕棺か石棺が出てきそうだな
>鏡が出たからには有槨の古墳だったのだろう
おいおい、甕棺墓からも鏡は出ているのだよ、もう朝鮮の無知
「鮮の無知 恥の上塗り 激痛書」
甕棺墓からも鏡が出ていることひとつ知らないようなのが
エラそうにエラ張りながらファビョって恥をさらしているわけです。
恥という概念も自分の無知を知るアタマも持っていないから平気なのでしょう。
678 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 09:35:33.14
つい最近も、佐賀の甕棺墓から、鏡が出てきてたね。
しばらく発掘してたけど、ついにマンションが建ち始めた。
しかし、あんなところにマンション作ってどうするつもりだろうか。
駅からもはるかに遠いのに。
しかし開発がないと発掘の機会もないぞ
それでも市街地はまだいいが田んぼとかまず発掘されることはないからな
680 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 09:44:30.92
それくらいのことはネットで調べればすぐに分かる。
私は興味がないから調べないだけである。
で、早い話、九州は貧しかった。それだけである。
九州で甕棺とか無槨の墓を造っている時期に、
大和では箸墓のような巨大古墳を造っていたのである。
こんなことを書くと君らは箸墓は四世紀前後だと笑うだろう。
ところがそんなのは通説に過ぎない。
紀の公式編年では崇神は紀元前であり、箸墓も紀元前なのである。
681 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 09:54:09.82
鏡が出てきた甕棺の発掘現場は、佐賀市大和町大字尼寺から、
大字春日あたりの領域。
尼寺は、奈良時代の国分寺、国分尼寺からきている。
印鑰神社もあり、肥前国庁もそれほど遠くない。
1300年ほど前は、大都会だったのだ。
つーか、この辺、1300年前から、集落そのものは変わってないんじゃなかろうか。
最近、ちょっと大きくなったくらいで。
682 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 13:26:09.20
>>681 >この辺、1300年前から、集落そのものは変わってないんじゃなかろうか。
>最近、ちょっと大きくなったくらいで。
私もそのように思う。
と言うより、過去二千年間にわたって、
筑紫平野は都市部を除いてあまり変わっていないでは。
3世紀頃の大きな集落が、現代の都市市街地に変わっただけの変化かな。
683 :
川柳の達人:2012/10/11(木) 20:38:51.59
水田自体が弥生時代から先祖代々受け継がれてきたものだろうからね。
684 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 20:47:25.45
弥生時代って水田は個人所有だったの?
何か共同体所有な気がするけど
685 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 21:58:51.18
土地の所有という観念が成立したのは班田収授法で口分田が与えられてから。
それまでは、焼き畑農業だったし、しょっちゅう場所を移動していた。
水田も、種をまいて育てた稲の所有という観念はあっても、土地の所有という観念はなかったと思われる。
686 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 22:46:11.05
トンデモを さらりと書く 2ch
全ての土地・海域は王のもの
水田になると、田を整備するのが大変だから、
所有のいしきもつよくなるだろうな。
689 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 00:56:23.52
古代においても所有の意識はあっただろう。しかし、問題はそれを守ってくれる共同体の
力、ひいては国の力だ。それが弱ければ、強力な勢力がきたときに所有権は侵害され、奪
われてしまう。畿内が村々を破壊され、銅鐸を埋めざるを得なかったようにね。
土地はただで奪われ、そこに新しい勢力の基地や都市を造られてしまうんだよ。
日本に銅鐸があってよかったよな
銅鐸もないとか後に銅矛とかきてたら、今頃邪馬台国関連スレはハングルで溢れかえってるよな
691 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 01:31:08.20
銅鐸が消滅したころはすでに鉄の時代だ。銅矛の時代ではないよ。
倭国の乱を経て九州が統一されたころ、朝鮮半島で敗れた公孫氏の残党が数多く
倭国へ流入してきただろう。そうなると、狭い九州だけではその連中を住まわせ、
食わせる余裕はない。そこで、倭国はその連中や倭国乱の敗者の連中を使って東
方への勢力拡大、東方の植民地化を始めたということじゃないかな。
日本には青銅器より鉄器のほうが少し早く伝播してるね
実用品は石器→鉄器へ、青銅器は祭器に
九州北部(除く博多湾沿岸)は弥生後期も銅矛祭祀をやってる
鉄の武器で東征したなら大和で鉄鏃が大量に出るだろ
693 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 02:09:43.92
対朝鮮半島の為に北九州に軍事拠点を置いたからだろ
弥生時代では後期になっても全食料に占める米の割合は大きくはない
当時の水田は技術的に高低差のある土地を平坦にならすのは難しいので
そのような場所では小区画の田が連なる形になる
自然の勾配を利用して上から下に水を落とす棚田的な水田だな
平坦地では一枚の田が大きくなり水路などが整備される
ただしこのような田は水害に弱い
695 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 09:32:07.13
2ch 班田収授まで 焼畑なり
2ch 公孫氏残党 日本へ逃げ
焼畑は・・・むろん縄文以来日本でもあったけれども
弥生時代の中心的な農法とはいえないだろう
水田を作れない山間地で雑穀を育てるためのものだな
公孫氏の残党は・・・晋書によれば襄平城中の男子はほぼ皆殺しに近い目に遭ってる
その他の地域にいた協力者などが倭に逃れてきた可能性はあるだろうが
魏は公孫氏後の半島の懐柔にも努めているのでそれほどの数だったとは思えない
そもそも卑弥呼が公孫氏滅亡後いちはやく魏に朝貢したのは
公孫氏一味として攻められるのを懼れたからという話もあるくらいで
公孫氏の残党が倭の中枢に受け入れられたという可能性は低いんじゃないか
698 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 12:49:27.79
まあ焼畑はともかく最近は弥生時代の畑作の研究が進んでるようで
けっこう論文が出てる
弥生時代=稲作という研究の方向が見直されてきてるんだな
700 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 08:16:35.74
>>699 そもそも米で腹いっぱい食えたわけもなく…
環濠集落は土地所有の始まりといえる。
弥生時代の集落で一人あたりに米がいきわたる量の推計が行われたのは
登呂遺跡あたりだったかな
食料は麦類、豆類、ウリやキビなどの畑作物、縄文以来のドングリなど
魚介や鳥獣肉などの占める割合は大きい
ただやはり弥生時代は水稲耕作の時代というイメージも大きかった
遺構にしても水田跡は残りやすいし、畑地跡は残りにくいし
最近は出土した農具から畑作の割合をさぐるなどの研究が進んできている
703 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 11:10:13.56
魏志倭人伝はなんで邪馬台国の場所について間違ったことを書いたんだ。
そこではっきりと正しく書いていたら、今頃こんなスレで、無価値な
証拠をあげてあれこれ議論しなくてもよかったのに。
編者の陳寿が倭国に来たわけではないからな
資料を元に書いたのだが、頭の中に具体的な地理的イメージがあったかは疑問
705 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 11:44:33.66
3世紀の中国人が日本のことを書いてるんだからだからこんなもんだろう
出版社にとってはいい商売の題材だったし
普通なら一般人からは見向きもされない古代史や考古分野の学者にとっては
この論争は終結してほしくないだろうな
古代史や考古学は一般人というより公的な予算から見向きもされないww
軍事や産業の発展に寄与するものではないから
まさに資本主義の外に置かれた分野だ
一般人が一般向けの本を買ってくれるだけでもありがたい
纏向遺跡なんかの発掘も主に桜井市の教育委員会がやってるわけだが
年間予算は纏向小学校のトイレ改修費より少なかったりする
これが最先端物理とかなら巨大加速器を気の遠くなるような予算をかけて作るが
これはいずれ産業に応用して元が取れる可能性があるからだ
日本古代史なんかは世界と競争がある分野でもないし
ただ最近は領土問題がうるさいくなって
領有や貴族に関しての歴史的な理論武装が出てくるかもだな
貴族→帰属
710 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 13:11:56.22
卑弥呼は桃の花の咲き誇る桃源郷 邪馬台国の場所を魏の悪党に知られないために、
わざわざ遠まわりをして目的地に案内したのだろう。
711 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 13:25:13.33
ここは複合遺跡で奈良時代の遺構とかも貴重なんだけどね
奈良の御所市ってとこの秋津や南郷、名柄も発掘するべき。
市政がやばいから手付かずのまま放置されてる
>年間予算は纏向小学校のトイレ改修費より少なかったりする
それはかなり辛いねorz
纏向遺跡の調査が進まないはずだね
中国、韓国も最近は考古調査に予算まわってるみたいだし
韓国は年代を古くもって行く傾向にあるから
説に関係なく日本の古都である奈良の調査には国の予算をかけてほしいな
715 :
川柳の達人:2012/10/13(土) 22:14:45.57
国家予算の使い方か?
そりゃ当然防衛やら産業やらインフラは重要だが教育にも十分な予算を充当している。
ただ、考古学に関しては「国の進展性」を考えれば必要最小限であるのは当然。
だからその少ない予算を勝ち取るため考古学者どもは自説を必死になってアッピールする。
そのアッピ〜ルが畿内説は度を越えていて痛すぎる。
716 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 22:32:11.49
そら畿内は四世紀の日本を解明するのに重要な遺跡群があるからな
どんな分野でも同じと思うが
717 :
川柳の達人:2012/10/13(土) 22:41:00.38
ま・大事な・国家予算を・畿内説立証に回さないのは、行政としては賢明だわな。
弥生時代の重要出土物を比べれば九州が圧倒しているから国の成り立ちを調べるには
畿内の発掘に予算を充当していても埒がない。国家予算を組むのは東大出身の官僚たちだ、
その辺は理解しているようだ。
718 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 22:52:41.92
へたに御所市ってとこの名柄本気出してやっつけると大変なことになるから避けてるのだろ
日本全国民から集めた税金で弥生時代に朝鮮人が九州に持ち込んだものを掘り出すわけにはいかんだろうが
九州人の一部にとっては違っても、奈良、京都は日本人にとっての建国の歴史の地であるから
中韓の留学生に200億円以上やるくらいなら、古都の考古調査に使ったほうがいいな
達人の川柳が読みたい
721 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 23:49:29.86
邪馬台国がどうこうじゃなくても大和政権発祥を探るには重要だろ
ついでに邪馬台も浮かび上がるかもしれんし
722 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 00:00:21.39
邪馬台=やまと=大和 って判明って事になったら日本全国ずっこけるなw
そらそーだわなってw
723 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 00:03:22.55
「まんまや〜ん」だなwww
724 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 08:27:17.60
飲茶壹國
725 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 09:15:06.41
やたらと 痛いを使う 達人かな
726 :
川柳の達人:2012/10/14(日) 09:56:58.07
なんだい、激痛書朝鮮老人
天気の良い日曜日に朝から書き込みか?
ロージンホームはヒマか?誰も面会も来てくれんか?
私はは日曜日で天気がいいから今から出かけるところだ、だから相手にしているひまはない。
じゃ・な
達人の川柳が、どんなもんか、読んでみたい♪
728 :
川柳の達人:2012/10/14(日) 10:04:57.91
川柳は ホントは下手なの 達人は
なんちゃって、じゃ・な
プッ
730 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 12:51:41.75
はるか紀元前に名柄に入植している半島系の酋長さんのことが木になって夜も眠れません
眠れないときは、無理に寝ようとせず、寝ないまま外でいっぱい遊んでくるといいよ
その後生ビール5杯も飲めばコロっと寝ちゃうからね
どんどん外に出て行動範囲を広くするんだよ
そうすれば倭国のイメージも広くなっていくからね
732 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 18:52:19.49
邪馬台国が実は半島にあった可能性はないですか?
紀伊半島にあった事は良く知られているよ。
734 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 19:15:36.25
基肄郡も「女王」が[command]するところの「邪馬壹國」の領域の一部ですよ
735 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 19:28:18.79
朝鮮半島にあった可能性は出ていないのですか?
ないね
737 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 20:31:15.16
あねね あそこの盲腸状のところのこと
大韓民国のひとはなんか朝鮮半島とはよばれたくないらしいけどね
大韓民国における呼称は韓半島(かんはんとう)ですと。
でもさ 北の方ので
とりわけ遼東に属していたような領域は
歴史的に韓とか呼ばれたって時期って無かったようだから
全部を韓半島とかのはなんかへんだな
これののまぎゃくのもしかりで
列島側からの呼びで「から」とかの領域を朝鮮なんちゃらとか称すのもへんかな
日本人も韓半島って呼ばないといけないの?
739 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 21:31:38.54
「夏王朝」の貴夫人は、首を切られたうえ下腹部に牛の角を刺されて死んだそうです。
これは、卑弥呼の殺され方と全く同じ。
過王朝は、秦の始皇帝に追われて日本に渡来し、新王朝を打ち立てた。
邪馬台国こそ、人類最古の文明の正統だったのだ。
740 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 21:32:08.88
諸説の中に、邪馬台国が朝鮮半島にあったという説があってもおかしくないが、なんだか嫌だな
741 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 21:35:19.76
稗箕狐は勉強不足だから、私が訂正しておく。
遼史地理志辰州本麗盖牟城渤海盖州又改辰州以辰韓得名
馬韓北與樂浪接所轄則在今盖平復州寜海
辰州即今之盖州
韓州
東平軍下刺史麗置鄚頡府太宗置三河榆河二州
聖宗併二州置隶延昌公兵事屬北女真兵馬司統縣一蜑ヘ縣
遼東行部誌癸酉次蜑ヘ縣舊韓州也
742 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 21:44:20.56
>>740 南は北の間違いってわけかな。方向を間違いとすればどこでも可能に
なるわけだが、日本に渡ってきて、引き戻すというのはいくらなんでも
有り得ない。
743 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 21:47:51.35
ちんさんのれぽーとのでは
「韓」と「朝鮮」とはそれぞれ別別のものとしてお取り扱いを受けておる
2つの異質なものを統合したような史的な政治勢力は
その別別のものをひとつのものとして騙りたいとの要求を持つであろうことがふつう
『遼史』のような史的産物を史料としてお取りあつかいしたければ
そおゆうバイアスを消し去る作業が要求されるのが業界的には常識
某氏はそこいらへん基礎レベルに達しておらないから
変なのチョイスしてコレクションしてからにしったかするのがお上手
744 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 22:04:38.07
遼は韓も 統合したと 稗箕狐言ひ
745 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 22:06:59.39
よくもまあ 平気で嘘書く 稗箕狐かな
746 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 22:42:00.27
はは 某氏のまぬけさんたら まげてよむの得意技だもんね
さいきんのぽまいだらけているからあそんであげないもんねw
佐賀県の基肄郡は支惟国。
烏奴国をはさんで奴国がある。
烏奴国を今の福岡県大野城市春日市付近と考えると地理的にもぴったり合う。
748 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 23:22:47.48
そこのは烏越の地名が残っているところの南側のが烏奴国
749 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 23:46:14.09
750 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 05:39:24.99
751 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 08:46:06.43
パカ稗箕狐 悔し紛れに 何か書き
>>749 それで倭国の一国じゃないよ、一国の一部
そこは同笵鏡が有名なとこだろ
そのイメージだと華夷の一番外側になってるよ
753 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/10/15(月) 23:28:10.86
三世紀に天文学、暦学等、今に通用する文明文化に裏付けされた中国の
倭国への旅行記が魏志倭人伝。少なとくとも正確な日、里、方角で記述された
旅行記を日本の考古学者連中が意図的に勝手解釈し、近畿説をブチ上げている
のが今の日本の考古学。
三世紀に日本側には文字もなく口述伝承以外の裏付け資料がない。
口述伝承が神話として比定されるのが三世紀頃とされる、
あの高天原神話であり天照大神の存在である。
倭人伝を素直に旅程通りに解釈すれば、高天原(宮崎日向)の邪馬台国に
たどり着き天照大神である卑弥呼に会ってきたことを示す、
旅行記ということになる。
何か書きやすそうなスレだな
しばらく居着くか
755 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 09:07:59.28
2ch 天照大神は 卑弥呼なり
756 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 09:14:47.73
2ch 高天原は 宮崎なり
そりゃ無論 イスラエルにも 卑弥呼ゐる
つーかだな
卑弥呼の事績の記憶がアマテラス神話に転化したなんて
永久に証明できんから
死ぬまでいい続けるしかない
卑弥呼の話を神話として書紀に取り込みました
とかいう舎人親王の手記とか出てくるとか思うのか
758 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 09:34:23.22
卑弥呼が目から生まれたことを証明できれば道が開けるね
759 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 11:07:27.38
結局、天照大神は史実が伝承として残ったものか。それとも全くの作り話かと
いうことになる。
伝承に基づくものであるとすればモデルがいることになるし、作り話ならば
誰が何のために作ったのかという事になる。
まあ、とりあえず記紀を読んでみるべきだな。誰かの色眼鏡を通したもの
ではなく、訳でいいから現物そのものを読んでみなくては話にならない。
760 :
日本@名無史さん :2012/10/16(火) 12:02:15.08
アマテラスがもともとは伊勢大神という男神性を持った神だった
というのはほぼ定説化してきてるだろ
たくさんの根拠がある
762 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 12:33:47.21
たとえば?
何で女性化したんだ?
まず7世紀代の伊勢の神宮は地元の渡会氏が祀っていた伊勢大神で
これは男神的な性格の強い地方神だった
それが持統6年(692)の行幸から祭神が変わった可能性が高い
大和の初瀬に祀っていた日神を三輪氏の反対を押し切って
伊勢多気郡に移したと考えられる
で、文武即位(697)の詔に高天原という語が出てくる
それからこれは「続日本紀」の記述になるが
多気郡にあった伊勢神宮を文武2年(698)に度会郡に遷す
この持統ー文武朝の間にばたばたとできあがったのが今の伊勢神宮
これは中部大学の大山誠一らの研究で
むろん状況証拠ばかりではあるが説得力はかなりある
あとは溝口睦子の説なんかもだな
>>763 持統天皇の事績を反映させたと見るむきが多いな
>>764 697年没で古事記成立が712年だから近過ぎね?
下手したら編纂の指示とかしてる可能性ありそうだし
>>765 訂正
×
697年没で古事記成立が712年だから近過ぎね?
下手したら編纂の指示とかしてる可能性ありそうだし
○
703年没で古事記成立が712年だから近過ぎね?
下手したら編纂の指示とかしてる可能性ありそうだし
在位にあったのが697年まで
767 :
sss:2012/10/16(火) 14:33:31.32
>>764 天照大神は独身で夫はいない。持統天皇には天武天皇という立派な夫がいる。
素戔鳴尊との争いはどうなるのか、天岩戸隠れはどうなるのか、出雲の国譲りは
どうなるのかなど、似ていないことが多すぎる。
どんな人間を比較しても似ている点の一つや二つはあるもので、一つや二つの
類似を根拠に同一人物ということは出来ない。総合的な比較が必要。
総合的に比較すると、天照大神と持統天皇は全くの別人。
>>767 アマテラス=持統は推測だが
学説の柱となる部分はアマテラスが急ごしらえの神ではないかという疑義だな
実際、記紀以前に遡るのが難しいため
かなり以前からアマテラスについては疑いがもたれていたが
不敬に当あたるなどの理由で研究が進まなかった
769 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 15:05:40.41
770 :
sss:2012/10/16(火) 15:10:29.64
>>768 天照大神の話は皇祖としてふさわしいものではない。
素戔鳴尊に怯え、負け、高天原を荒らされ、ついには怒って天岩戸に
隠れてしまう。
やはり、狗奴国との争いで困り果て、魏に援助を求める卑弥呼がダブる。
いずれにせよ似ている、似ていないレベルの話が定説になることはない
それはアマテラス=持統説にしても同じだろう
しかし紀に伊勢大神の名が出なくなって
天武2年から天照大神の名が出てくる理由をさぐるという点では
説得力はあると思うね
772 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 15:43:03.40
>>761 アマテラスは女神。
これは臭魔伝が当時のまがい物の日神男神説を強信し出して、記紀の文に違背するインチキを公然と文としたもので、臭魔伝は危険史想の文書であるから警戒を要する。
その話が現今流布して広がったから、妄想の男神説が根を張ったもので、早急にこの根を壊滅させる必要がある。
いわば臭魔伝は毒書、毒紀乃古である。これを食用した宿主がその未消化の雲古学を蔓延させて、悪影響を及ぼしている。
しかし役に立つ参考箇所もあり、オール偽書というものでもない。
773 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 17:24:37.97
アマテラス 2chでは 男なり
下卑た奴 女の証拠 見せろと言ひ
774 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 17:31:43.78
>>770 ちょっとあくせられえとしてみよお
「天照大神の話は皇祖としてふさわしいものではない。」
もっとゆうと
天照大御~の話は皇祖としてふさわしいものには仕上がっていない
というか 作りこみ及び推敲が不足で杜撰
そのせいで同一内容のくせに矛盾があって命令が実現されていないとか
読者にとってはあたりまえのことなのに矢鱈とくどく語らせたりとかへんなとこいぱいあるし
とくに上下関係から逝くと天照大御~よりエロい~さんおったりするよね
775 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 18:08:07.69
アマテラスは超ミス・ユニバース級の美女であり、断じて男ではない。
御姿を拝見、知ってるのは、この日本でそれがしだけだろう。
だが、彼女が邪馬壹国の女王卑弥呼でもない。だいたい年代が違う。
アマテラスのほうが古い年代だ。
776 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:14:58.65
「天照大御~」は何と読むかから始めるのが良いよ
無駄に過剰装飾しているわけでも無いかとはおもふよ
「天照大御~」のなかに地名が込められているとかの発想とかはできないものかな?
777 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:25:44.15
>>770 神話なんてそんなもんじゃないの?
ある意味完璧に優れてるといえる神なぞいない
ギリシャ神話みてもゼウスとか酷いもんじゃん
で、ふと思ったんだけど他所の国も国の始まりは神話だったりすんの?
さすがに今の中国とか米は違うだろうけど
778 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 18:58:48.52
アマテラス フリルのブラジャー 付けてゐる
アマテラス ピンクのショーツ はいてゐる
sss 天照談義で 顔を出し
779 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 19:22:38.73
いっことんだな あらしかな
780 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 19:28:59.26
本物のアマテラスはそれが好きなんだろうが、
西欧のマリー・アントワネットの来てたようなドレスを着ている。
瓜実顔の極めて品のいい女で、柳腰の超美女だ。
中森明菜がアマテラス
782 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 21:24:39.30
天照大神 ジャスコでブラジャーと ショーツ買ひ
ワコールの ショーツは高いと 不平言ひ
わっちには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神
783 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 21:31:57.59
>>770 スサノオも、出雲で大穴牟遅に大岩で閉じ込められたがね
784 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 22:07:53.18
それっていうのは、そのドレスのことだよ。
785 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 22:20:09.64
だからマリ-・アントワネットの着ている形のドレスがお好みのようで、
平常時はこういう感じのドレスを好んで着ていますよということだよ。
あと、額の上部に鏡のある冠をかぶっているよ。
786 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 22:40:49.71
天照大御神のかぶられてる神鏡の前面にある冠を至上のものとし、飢饉等
の災害の凶事を避ける祈りを兼ねて、崇神天皇は崇神6年に倭笠縫に鏡を
祭祀したもので、この祭祀の重要性を臣民に知らせしめるために、239年鏡を
大陸人の援助を含めて多数製造したのであり、このことは崇神6年が239年
近隣に位置するということが真なのである。
景行元年≠239年 を意味するのが崇神6年のこの鏡祭祀であり、同6年が
伊勢神宮の始まりだということだ。内宮には今でも神鏡が祭祀されておる。
景行元年を239年とするは、朝敵たる悪魔の所業なのである。
このインチキ説の誤記ブリを足で蹴潰して景行当ての盲象を粉々に葬るべきであるのだ。
わが神州は神武がハツクニシラス初代大王なのであり、景行のほうは臭魔伝
で末代たるアトクニシラス大王になる。
787 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 23:06:40.07
239年を崇神6年にせず景行なんかにすると、日神のテリトリーから外れ
ることになるから、魔に魅入られることとなる。
つまり紀の狂う所業言動が目立つようになり、最終的には発狂してくることになる。
そのいい例が ↓ であろう。アタマが ↓ おかしくなるのだ。
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
788 :
ローガン:2012/10/16(火) 23:32:00.99
>>782:卑弥呼は満州にいた
お前。不謹慎にもほどがある
たしかに、大らかな(という表現が適切かどうか別にして)昔ゆえ、「生」「死」「生殖」などについて
今の倫理観を当てはめるのは賛否あって然るべきだが、
茶化したような書き込みは控えなさい。
云っておくが、お前が、無頓着なのは構わない。おそらく「象徴」が理解出来ないだろうからね。
でもノンポリの私だが、お前のこの書き込みは見過ごせない。書きたいなら自国の掲示板でやれ。
ここは日本だ。
789 :
ローガン:2012/10/16(火) 23:43:32.79
お前がどこの国の人間かは、知らないし 知りたくもないが
その国に生まれ育ったら、某かの矜持は誰しもあって然るべきと考えんのか
屑野郎が、さっさと消えろ。お前のこのレスは日本人をバカにしたものだ。どこの国の人間か知らんが
ここは日本だ。去れ。二度と来るな。
これ本物のローガン? いや怒ってるね
まあ神仏つーのはその出自とか研究上のことはともかく
長い年月のうちにいろんな人の思いがこもるもんだからね
それに祈りながら死んでった人だっているかもしれんし軽々には扱えない
ただのキャラではないんだな
791 :
ローガン:2012/10/17(水) 01:51:36.54
>>790 はい。本人です。
そうなんだ。考察に於いて、神の性別に言及すること自体は吝かではないが、これはあまりに酷い。
「わっちには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神」
平気で書ける神経がわからない。
ただ、価値観が共有出来る友達もきっとどこかに居るはず。そこで思う存分書けばいいと思う。
しかし、それはここでは無い。
満州クン 老眼翁に 怒られた
ローガンの 逆鱗に触れし 満州クン これから咲き いかに逝くべき
∧,,∧ローガンキーーーーック
(´・ω・) ,∧_∧ . . ,∵:.;.',; .’;.,∴ ・
⊂( ⊆ ̄つ☆))Д`).';.,:;・,.∴.;.・;.',.',∵
\ /⊂ ⊂~ノ ←満州クン
と丿⊂ と_ノ
794 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 07:09:10.03
壊れたの検知できてせっかく見えなくしてあったのに
老眼の単細胞氏のが平気で引用できる神経がわからない
いずれのもきもい
795 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 08:55:47.13
ローガンはなぜそんなに怒っているのだ。
天照大神をそんなに真剣に崇拝している人なんているのか?
それに最初の人類は両性具有だったというのは昔からある説だ。
乳房のあるアダムの像なんてのがよく本などに載っているではないか。
私が真面目な人間であることはこれまでの私の投稿を見てもらえれば分かることだ。
まあ少々悪乗りしすぎたことは確かだが。
796 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 09:12:35.33
で、ローガンに訊きたいのだが、あなたは記紀をどう見ているのか。
ここの連中は殆んどが記紀を信じていないわけだ。
記紀は捏造だとか創作だとか継ぎ接ぎだらけのインチキ文書だと考えているようだ。
畿内説者にしても記紀の編年は信用していないようだ。
卑弥呼から天照大神を創作したなどと書いている輩もいる。
天照大神は男だと論じている奴もいるぞ。
それは構わないのか。そういう輩には何も感じないのか。
大体あなたは天照大神をいつごろの人物だと思っているのか。
天照大神なんて縄文や弥生の人物ではないんだぞ。
おそらくレムリア時代の神なのだ。
数百万年、数千万年前の神だ。女となっているが、
その頃の人間は現在のような形をしていたわけではない。
人間が現在のような形姿になったのはアトランティス後期のことである。
797 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 10:13:19.67
2ちゃんとかの掲示板は仮名無名で書きこみするのが大半だから、
何処の誰だか分からん状況なので、その人物の本音が出るのだ。
通常の職場ではこんなひどくはないだろう。
あと、酒を飲むと本音が出るようだが?
朝満男は少し口を慎むべきだ。
798 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 12:47:37.00
大体、川柳の本を読めば、この程度のバレ句はざらにある。
こんな句に過剰反応するのはおかしいのである。
この句に反感を覚えたのはローガン氏くらいなものだろう。
氏はそれだけ真面目なのかもしれない。
世の中にはもっとひどいことを考えている人間はいくらでもいる。
以前本屋で阿川弘之の本をぱらぱらと読んでいたら、
当時の海兵が天皇のことを「天ちゃん」と読んでいるのを知って驚いたことがある。
親しみを込めてそう呼んでいたのかは知らないが、
現代の感覚からいうと天皇をバカにしているとしか思えないのである。
私は別に天皇崇拝者ではないが、その私でさえそう感じたのである。
とにかく天照大神を天皇と同程度に崇拝している人間がいることを知ったのは、
意外と言えば意外であった。
朝鮮人にはわからんやろね。
>>29 >この中に、北九州近くに到津(いとうつ)がある、これが伊都国ではなかろうか
>
>宗像周辺は飛鳥時代九州で唯一の神郡として認められていたそうで、大和政権にとって大切な場所であったことは疑いない。
>ここが伊都国の可能性もある。
面白いご意見ですね。 伊都の津(いとのつ)が、到津(いとうつ)に、現代は到津(いとうづ)に変わった。
地図を見ると、朝鮮半島から對馬、對馬から壱岐、壱岐から宗像、この距離は大体同じ、宗像から到津までの距離は、その半分です。
到津から周防灘までは、それのまた半分以下となります。
到津八幡宮(いとうづ):北九州市小倉北区
神功皇后が三韓征伐の後、宇美の里で御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、御座船を当地に着けられました。
後に一祠を建て皇后の和魂をお祀りしたのが当社の起源といわれています。
到津の近くに遺跡が有るのか無いのか、判りませんでした。伊都國の中心から外れていたのでしょうか?
至一大國又渡一海千餘里至末盧國東南陸行五百里到伊都國東南至奴國百里東行至不彌國百里南至投馬國水行二十日
到津の北西に末盧國が有ったことになります。末盧國は松浦と比定されています。
末盧國は宗像周辺とお考えなのでしょうか?
そして、東南に奴國が有ったことになります。奴國は福岡と比定されています。
奴國は何処になるのでしょうか?
伊都国は大きな國だったのでしょうね。
松浦と福岡の双方を否定するのは、難しいように思います。
松浦の地名の由来
日本書紀巻第九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月 「皇后曰希見物也希見此云梅豆邏志故時人号其処曰梅豆羅国今謂松浦訛」
住吉大社神代記 「皇后曰希見物他故時人號其處曰梅豆邏國今謂松浦訛」
神功皇后が居た頃は違う地名であった。
日本書紀には神功皇后を卑弥呼に比定できるような記事が有ります。
邪馬台国への道筋の末盧國は松浦では無いと解釈が出来る記事を残した理由が疑問です。
801 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 14:41:19.19
>>781 幾分顔の輪郭は中森明菜に似てるかな?
目の感じは似てないな。
802 :
ローガン:2012/10/17(水) 14:52:58.61
>>796 >卑弥呼から天照大神を創作したなどと書いている輩もいる。
>天照大神は男だと論じている奴もいるぞ。それは構わないのか。そういう輩には何も感じないのか。
屑野郎が。返信したいなら上を読め。
>>791 「考察に於いて、神の性別に言及すること自体は吝かではない」
場末の掲示板とはいえ一応学問板だ。論に関わるなら、性別への言及などあって当たり前だ。
しかし誰一人、
「わっちには アレも付いてゐると 前めくり ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神」
などという不謹慎な書き込みはしてないだろうが。
お前だけだ。 お前の書いたことは我々日本人が持つ心象の原風景を土足で踏みにじるものだ。
でもお前には、非難されている意味が理解出来ないのだろう。勿論 こちらも敢えて理解を求めている訳じゃない。
価値観が共有出来る自分の国の仲間達と川柳なり、なんなり 好きにすれば良い。
「ここへ来るな」といっているんだ。
>>798 >世の中にはもっとひどいことを考えている人間はいくらでもいる。
挙げ句の果て、自身の正当化か。最低だな。お前。
満州の 書けば書くほど アリ地獄
まあ天照大神が皇祖神だから揶揄するのが不敬とか
そういうことは言いたくはないけど
神仏には多くの人の念がこもるからな
実際、浄土宗や浄土真宗で阿弥陀仏の名を唱えて死んでいった人は多いだろう
うちの近所でも子供たちが神明社の神輿をかついだりしてるしな
自分的には神話学等で神名を扱う場合はアマテラスとカタカナ表記にしてるし
神として尊崇する場合は天照大神だな
他の人もそうしろつーことではないが
満州は 他人のフリ見て わがフリ直せ
(´・ω・`)らんらん
満州は 身だから出たサビ 不徳の至り
808 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 16:17:48.93
>>798 :卑弥呼は満州にいた
北へ帰れ!
この恥知らず
809 :
ローガン:2012/10/17(水) 16:39:46.73
どうも、邪魔をしてすみませんでした。
さて
>>764 >それが持統6年(692)の行幸から祭神が変わった可能性が高い
>大和の初瀬に祀っていた日神を三輪氏の反対を押し切って伊勢多気郡に移したと考えられる
「以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀」(用明天皇即位前紀)と整合しないような気が…。
>>809 なるほど
雄略紀と継体紀では伊勢大神と出てくるはずだが
ここでは確かに伊勢神宮になってるな
811 :
ローガン:2012/10/17(水) 17:11:28.31
>>810 ええ。用明紀と他紀に名称の違いあるので、随文改称(評を郡、大王を天皇、隋を唐みたいな) という操作は考えにくい。
よって伊勢=天皇家の日神は、敏達帝以前に遡っても良いと思う。
勿論、
>>764にある文武帝代の創建については同意。
812 :
卑弥呼はカムチャッカ州にいた:2012/10/17(水) 17:46:14.47
「法華経を弘むれば、釈迦仏の御使いぞかし。
僅かの天照大神、正八幡なんぞ申す神はこの国には重けれども、
梵釈日月四天に対すれば、小神ぞかし。
・・・・・・(中略)・・・・・・天照大神、正八幡も頭をかたぶけ、
手を合わせて地に伏し給うべき事なり。」
813 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 17:59:03.56
175 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 17:40:11.10
もちろん我々は近代人であるから、もはや天皇を素朴に崇拝することはできないのである。
私だって、別に天皇を尊敬しているわけではない。
天皇制が廃止されても構わないとさえ思っている。
朝鮮とはこんなやつなのだ。
814 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 18:00:14.19
法華経は一種の特殊な小説だよ。
大乗非仏説は間違いないだろう。
だからといって、仏者がわるいという意味ではない。
いいには違いないが、上のようなことだ。
815 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 18:02:44.76
天皇制は継続される。
皇位は金剛不壊といって、廃止と言い張ってもこれはなくならない。
一系は無窮だということだ。
816 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 18:43:50.53
>>812 それは 種種御振舞御書 か?
また 縮刷遺文録 を書庫から引っ張り出さにゃぁならんか。W
817 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 18:50:28.01
どうやら朝満男は日蓮宗団体の信者らしいな?
キチガイ日蓮の書いた書物を引用されてもなあ・・・
第一、日蓮が記紀を読んでいた可能性は低いし・・・
819 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 19:01:28.13
逆に書物が少ない時代だから、
学僧ならば、読んでても不思議はないかも。
820 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 19:02:22.21
私を叩くのは構わないのだが、そもそも天照大神をローガン氏のように敬っている人などはいるのか?
それから、天皇のことを悪く言うのは許せないが、朝鮮人はいくら悪く言ってもいいのか?
君らは既に国粋主義の右翼に近い。
稗箕狐という男などは、いつも変な投稿をしてはいるが、彼が朝鮮人を悪く言っているのを読んだことはない。
恐らく彼は朝鮮人などに何の偏見も持っていないのである。
伊作も朝鮮という言葉を聞くだけで蕁麻疹が出ると書いていたが、
伊作がチョンなどと書いているのは見たことがない。
19才だって生意気だが、朝鮮人差別をしているのを見たことはない。
これに反し、私がほんの少し天皇を崇拝してはいないと書いたり、
川柳で天照大神を揶揄しただけで、まるで非国民、人非人扱いである。
私は天皇や天照大神に対して、大した関心は無いのと同様、
朝鮮人などにも何の偏見も持っていないのである。
ノンポリとはこういうものだ。ローガン氏などはやや特殊なのである。
821 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 19:05:53.43
朝満男は創価学会かも知れんな?
とに古代天皇の記紀上の寿命をストレートに見解して〜超長寿で各数百歳生存してたからそのまま信じなさいと強く言い張ってたところを考えると、
学会ではなくても、何らかの特殊な日蓮宗系+神道をくっつけた宗派のようだ?
822 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 19:08:01.10
とに
は、とにかくの文字抜け。ご免
823 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 19:14:40.57
太国よ、私は創価学会でもなんでもないぞw
>>812は私ではない。私以外の誰かが貼ったのだ。
824 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 19:17:04.99
この
>>812の男はセンスがある。
実は私は倭とはカムチャッカではないか、とも考えているのだ。
825 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 19:18:36.37
>実は私は倭とはカムチャッカではないか、とも考えているのだ。
WWW
オマエのアタマは大丈夫か〜?
宿主と同じ仲間では〜〜う〜んへへへ・・・W
満州は 反論するほど アラが見え
>>824 鹿島fの「北倭」説?
それなら鹿島fとリンクしている大室なんちゃらスレでやってくれ。
>>820 卑弥呼は満州にいた
話をごまかそうと、勝手に他コテまで書連ねて必死だが
お前が
>>782で書いてる内容を不快に感じる日本人は圧倒的に多い
わからないなら2ch以外の掲示板に行って同じ事を書いてみろ
お前らのそういう無神経さ、下品さを日本人が嫌ってるんだよ
829 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 19:38:35.85
>お前が
>>782で書いてる内容を不快に感じる日本人は圧倒的に多い
統計を取ったことはあるのか?
今やニューハーフ、シーメール、ふたなり、は世間に浸透しているぞ。
そういう漫画やAVが世間に出回っている。
バラエティ番組でもニューハーフは引っ張りだこだ。
タイなどではニューハーフが普通の仕事についている。
ニューハーフはもはや嫌悪すべき対象ではないのである。
私の句を読んでも、若者などはケラケラと笑うだけだよ。
830 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/17(水) 19:43:58.10
175 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 17:40:11.10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>天皇制が廃止されても構わないとさえ思っている。
わが神州は皇祖皇宗の一系連綿と続く世界無比の國體で
あり、神武即位から現代まで神武が最初の大王で
あることは恒久不変であって、天壌無窮の未来まで最初
の大王は神武天皇その御方である。
景行が最初だという野郎は皇祖皇宗の御遺訓に逆らう
デタラメ朝敵であり、國體を崩す白蟻たる敵でもある。
なお景行は臭魔伝では日本最後の末代天皇である。
今後1万年後も天壌無窮の文言のとおり数字どおりに
天皇は萬世一系となり、このころ天皇は日本を離れ
ロシアか蒙古あたりに皇居を構えている。
そのころの中国は太古の皇帝がおらず、次第に皇帝の
必要性を痛感してくるのだ。そして無皇帝の状態を
改めようと、ここに明治維新のように大陸維新の動きが
次第に高まってくる。いまは皇帝を置くなどとんでも
ないと否定の状態だが、1万年も続くと次第に考えが
変わって来る。昔はよかったと想うようになるのだな。
しかし皇帝の子孫は分派希釈され、いっこうに皇帝に
したい人物は見つからず戸惑うのだ。そこでロシア、
蒙古あたりに皇居を構える日本の天皇を知り、皇帝の
子孫でのふさわしい者が見つからない代替として、天皇
の紫禁城入りを要請することになろう。
これは明治天皇が京都から江戸城入城した続編の如きだ。
このとき異民族支配を受けるのを反対する派とバトルが
起こるのはやむを得ぬことだろう。
それを押し切って天皇受け入れ派が勝利し、時の天皇は紫禁城に行幸する日が来るのだ。
国名は縦書きで「中日本国」だ。どうしてかは、タテにして考えること。
>>829 卑弥呼は満州にいた
>私の句を読んでも、若者などはケラケラと笑うだけだよ
ならしばらく他の掲示板に行って試しにお前の句を披露して来い
忘れずに同じコテ使えよ
>>829 ふたなりが普及って・・・w
おいおい・・・ww
コミケじゃねーんだから・・・www
卑弥呼は満州にいたは若いのかねぇ?
60過ぎてフタナリとか書いてる爺さんにだけはなりたくねぇー
834 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 21:03:13.36
道鏡との関係で有名な称徳天皇をからかったバレ句などは沢山ある。
中にはこんなエゲツナイこと書いてもいいのか、と思うような句もあるぞ。
だからといってそれらの句の作者が捕まったなどということはない。
当たり前である。川柳とは遊びなのである。冗談なのである。
それを分らない奴は野暮な野郎と馬鹿にされたのである。
江戸の庶民は大人だったのだ。
君らももうアラフォーなのだから、それくらいは解るようにならないといけない。
835 :
川柳の達人:2012/10/17(水) 21:26:09.92
なんだか必死だね朝鮮クン
オタオタと 書けば書くほど ドツボクン
836 :
川柳の名人:2012/10/17(水) 21:33:17.79
朝満 言い訳だけは 糞真面目
837 :
川柳の偉人:2012/10/17(水) 21:37:01.98
2ch 味方がいない 北卑弥呼
>>834 お前の下品な句を不快に感じる日本人はローガン氏だけではないことだけはわかったようだな
それでもまだここで嫌がらせを続けたいのか?
839 :
川柳の秀才:2012/10/17(水) 21:41:45.68
垂乳根の 北の卑弥呼は 糞ババア
840 :
日矛は馬関におった:2012/10/17(水) 21:59:10.69
こら
垂乳根なるは多羅酋長のルーツたるものぞかし
多爺馬那國の智魅魍魎の祖ならむ
841 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 22:06:29.62
大体だな、天照大神なんて、何と読むかさえ若者は知らないぞ。
これをテンショウダイジンと読むのが漫才のネタになったのは、
もう十年も二十年も前のことだ。
普通の日本人が、天照大神をそんなに畏敬しているなどということはありえないのである。
ローガン氏などは真面目に歴史を研究してきた人間だから、
私の句に腹が立ったのだろう。
君らも一般の人間よりは歴史通で、イデオロギー的なものも抱いているので、
私の句がふざけていると映ったのだろう。
恐らく私を叩いているのは朝鮮人を差別している連中なのである。
イデオロギー、思想を抱いているのである。
普通のノンポリなら、こんな反応は見せない。
>>841 屁理屈を言って正当化しようとしても、お前がやってることは人が不快に感じることを
わざとやってるだけのことだよ
843 :
日矛は馬関におった:2012/10/17(水) 22:13:35.14
亦於姓日下 謂玖沙訶
於名帶字 謂多羅斯
如此之類 隨本不改
帶字をたらしと読むのは良くないだら
ここのは古事記えでぃたあさんのご忠告ちゃんと訊いてあげたほうのがええよ
だら だら だら ♪
たら たら たら ♪
844 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 22:25:50.10
私は単に悪ふざけで書いただけである。
悪意などはさらさらない。
私はローガン氏と議論したことはあまりないので、
この人がどういう人かはあまり知らない。というより殆んど知らない。
どうやら畿内説の人らしい、ということだけは最近知った。
この人が朝鮮人差別をしている人かどうかも知らない。
朝鮮人差別や国粋主義とは何の関係もなく私の句に嫌悪を抱いたのだとしたら、
それはそれで素直に謝らなければならないが、
私には何の悪意も無かったことだけは確かである。
私はただ面白おかしい句を書いてやろうと思っただけである。
こんな句でローガン氏が怒ってきたことに、少々驚いているのである。
845 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 22:31:55.20
あふぉ太国に同調しておばかなむだなこと掻きました って
ちゃんとごめんなさいしたほおがええよ
満州は たった一言 言えぬ奴
すみません たった一言 言えばイイ
>>844 悪乗りしすぎて調子に乗って書いてしまったのなら、その後にそういう態度を見せろ
お前のは、だからなんだ何が悪いという態度を続けてるだけだろ
それではお前が批判しているあらし連中とかわらんだろ
848 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/17(水) 22:54:57.41
2ch 寄ってたかって 殴る蹴る
殴る蹴る 省みすれば さもありなん
850 :
日矛は馬関におった:2012/10/17(水) 23:29:19.42
すり替えの構図がのおないに沸いてこないひとのがどんかん
三國遺事 卷第一 紀異卷第一
延烏郎 細烏女
第八阿達羅王即位四年丁酉<em>(215)</em>
東海濱有延烏郎細烏女 夫婦同居
一日延烏歸海採藻 忽有一巖(一云一魚)負歸日本
國人見之曰 此非常人也 乃立為王
細烏怪夫不來歸尋之 見夫脱鞋 亦上其巖 巖亦負歸如前
其國人驚訝 奏獻於王 夫婦相會立為貴妃
是時新羅日月無光
日者奏云 日月之精 降在我國 今去日本 故致斯怪 王遣使求二人
延烏曰 我到此國 天使然也 今何歸乎
雖然朕之妃有所織細綃 以此祭天可矣 仍賜其綃
使人來奏 依其言而祭之 然後日月如舊
藏其綃於御庫為國寶 名其庫為貴妃庫祭天所名迎日縣 又都祈野
851 :
日矛は馬関におった:2012/10/17(水) 23:55:19.64
これもはっとくよ
----------------------------------------------------------------
天宇受賣命(あま・うつ・めめ)者 【猿女君(さめきみ)等之祖】
----------------------------------------------------------------
852 :
ローガン:2012/10/18(木) 00:07:55.63
今来た。
>>847氏に同意。したうえで、
屑野郎は、失礼だった。謝ります。すみませんでした。
でも上で書いたように「心象の原風景を土足で踏みにじるもの 」であり、看過出来ないものである事は確か。
ただ、これを、解れ! 理解しろ! というつもりはない。
所詮、我々日本人と、もって生まれたものが違う以上、相容れないのは然るべきだとは思う。
君にも生まれ育った国、地域に対する誇りがあるだろう。なら、つまらん自己の正当化などせず、我々日本人の心情にも配慮すべきだとは思わんか?
いや、配慮を求めている訳じゃない。君は君と考えを一とする同国の人々と、会話なり議論なり、有意義に過ごせば良い。
それがどこにあるか知らないが、ここでは無い事は明快だ。
君の数ある投稿を読むにつけ、思想的背景に違いがある他国民を、不快にさせるのは、君の本意ではないとも思う。
ようは、「お互い、違うんだ」 これは、善悪でも良否でもない。
心置きなく、思った事を述べられる仲間達のいる場所へ移りなさい。ここは君のいる場所じゃ無い。
853 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 07:52:39.16
あのさ、、九州説があるなら
可能性として朝鮮南部とかも入るのではないの?
例えば、古墳時代の加羅の存在とかは
それがかつて邪馬台国がそこに存在していたかもしれない可能性
意味するのではないと思うのですが。
いかがですか?
>>853 邪馬台国というより、倭国が朝鮮南部にあった可能性は、むしろ高い。
「到其北岸狗邪韓國」の「其の北岸」を「倭国の北岸」とも読めるし。
ただ、倭人伝を読めば、邪馬台国は朝鮮半島には無いだろ。
855 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 09:23:51.89
ローガン氏は本気で私を朝鮮人だと思っているのか?
私が朝鮮人ではないことは明白だ。
言っておくが、記紀を疑うということは、天皇家を疑うことであり、不敬罪に当たるのだ。
天照大神を卑弥呼や後代の女帝をヒントにして創作した、などという説も不敬罪といえば不敬罪だ。
聖徳太子非実在説なども不敬罪といえば不敬罪なのだ。
ネトウヨ、それがどういう意味なのかは知らないが、ここにも右翼的思想を持った人間が何人かいる。
朝鮮人叩きをしている奴は勿論、私に北に帰れ、とか出ていけと書いている連中だ。
そしてあなたもその仲間入りをしようとしているのである。
川柳というものは誇張におかしみがあるのだ。
バレ句などはわざと下品にどぎつく書いた方がおかしみが出るのである。
天照大神が男か女かで議論になっていたから、
両性具有にしてからかってやろうと思っただけなのである。
私はあなたに謝る気もないし、出ていく気もない。怒りたければ勝手に怒ればよい。
私はあなたのご機嫌を取るためにここにいるのではないのだ。
畿内説を書けば九州説者が怒るからといって、畿内説を書かないというわけにはいかない。
九州説を書けば畿内説者に嘲笑されるからと尻込みをしていては何も書けないのである。
書きたいことを書けばよい。嘲笑されようと叩かれようと、書きたいことを書けばよいのである。
それが言論の自由である。
狗邪韓国は「其の北岸」、つまり倭の領域の北岸にある。
韓伝に出てくるトクロ国は「倭と界を接する」とある。
狗邪韓国は倭国最北の国であり倭人の国だった。
おそらくその場所は古来より日本朝鮮航路の半島側の出入り口であり
秀吉軍が半島入りした時にも足がかりにした巨済島。
ちなみに「巨済」の韓国語読みは「コジェ」。
「心象風景」と権力が造ったものを同一視してはいけない。
あの時代に、渋澤敬三、柳田国男ほどの人々が意図したことを、ゆとりの愚か者たちが無にしてはいけない。
折口信夫はナイーブすぎたけれども。
859 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 10:21:46.81
>狗邪韓国は「其の北岸」、つまり倭の領域の北岸にある。
言葉を知らん奴だなあ。埼玉県の北岸なんて言うか?
860 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 11:15:43.95
>>859 表現としておかしいというのはみんなが承知している。
しかし、倭の北岸と考えるのが一番妥当性があるということ。
861 :
川柳の努力家:2012/10/18(木) 13:08:50.73
不敬罪 満州卑弥呼は 不経済
宮武外骨、内藤愚童なんぞ不敬罪の最たるものだが、
ああいう奴らのような、マトモで気骨がある日本人は稀である。
863 :
ローガン:2012/10/18(木) 14:51:01.05
>>855 君がどこの国の人間か などどうでもいいと云っているだろうが。
他の方も気分を害したと述べられている通り、君の投稿
「わっちには アレも付いてゐると 前めくりふたなりで セックスに狂ふ 天照大神」は
我々日本人の矜持を逆撫でするものだ。
指摘したが、改めるつもりも無いどころか、他の例を引いて「私のほうがマシだ」と云わんばかりの自己弁護。
そこには、我々日本人が根底に持つ「恥」と云う気質など微塵も見えない。
君とは、日本人としての価値観が共有出来ない。しかし外国人なら仕方がない。
まだ居るつもりなら、今後は日本人を愚弄するような書き込みは控えてくれ。
他の住民の迷惑になるので、これまでにするが、以後、気をつけるように。
>>856 >狗邪韓国は「其の北岸」、つまり倭の領域の北岸にある。
それは、大海の北岸。
864 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 16:33:54.53
「其の北岸」は、倭の北岸でいいんだが、それは倭の領域の北岸ではなく、
倭の北方の朝鮮半島の岸にあるという意味だよ。
山尾の倭人伝にそうゆう使用例が載っている。
865 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 16:50:42.00
記には半島のほうが天下り先であるという記述もあるし
交易の実績からいうと壱岐に広域交易センター機能あるし
倭のは酋長が海民の勢力なんだろうし
海峡にごっつい流れもあることだし
「其北岸」は河川と同様なふつう表現でしよ
てか
一
大 = 天
國 国
866 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 17:44:21.96
>>863 だから私も言ってるではないか。あなたは特殊な人なんだよ。
他の連中は誰もあなたほどあの句に反感を抱いたわけではないよ。
あなたが私を攻撃してきたから、私を叩く絶好のチャンスとばかりに、
尻馬に乗って騒いでいるだけだ。
日本人であなたほど天照大神を畏敬している人なんていないよ。
嘘だと思うなら街頭インタビューをしてみればいい。
「あなたは天照大神を崇拝していますか?」と。
たいていの人はキョトンとするか笑い出すだろう。
「なんでそんなこと訊くんですか?」と。
若いギャルなら「何それ? アニメの主人公?」と言うかもしれない。
戦後の日本人は神話教育を受けなかったから、
常識のある人は天照大神は知っているが、そうでない人は知らない。
そういう人間が天照大神を崇拝しているなどということはありえないのだ。
あなたは、おそらく、自分で思っている以上に、右翼的心情の持ち主なのである。
867 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 18:45:39.75
もすかすたら神主さんのおしごとのひとかもしれない。
んで
きちがいのひとに
すとおかあしてないでどっかいけよって
要求してもむだだって気付いたほおがエエよ
868 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/18(木) 18:51:00.12
畏敬してる人は多数いるよ。
本日の読売夕刊のトップにマリー・アントワネットの靴が競売で多額
だった旨の記事が載ってたな。
彼女の面相とアマテラスとは全然似ていない。
しかしアマテラスは彼女のよく着てるあのドレスが好きで、普段はこの
ようなドレスを着ている。日本古代絵でのアマテラスの古代服が見られるが、
平常ではそんな型の服装はしていないね。
悪いことは言わん、松沢病院で一度診てもらえ?
早いうちだったら家族にも迷惑かけんから、な?
870 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/18(木) 19:26:45.10
それは宿主に言え。
オマエは日神の本物を見たことがないからな。w
皇族だって簡単に拝めないんだぞ。
コチラを舐めるなよ。
872 :
川柳の努力家:2012/10/18(木) 20:16:14.06
やれ打つな 満州手を摺る 垢をする
873 :
川柳の逸材:2012/10/18(木) 20:28:51.49
満州は 人気ないのに 毎日出
874 :
川柳の博徒:2012/10/18(木) 20:31:39.61
満州や あぁ満州や 万舟や
住之江は、松井でな?
満州は 悲しからずや 畿内説 九州説に 染まずただよう
876 :
川柳の誉:2012/10/18(木) 20:50:12.70
満州は 松沢病院 精神科
さすがに「天才」は使えない。
877 :
川柳の英雄:2012/10/18(木) 20:56:07.04
満州の 昔懐かし 晩御飯 茶碗の底に キムチ忍ばす
狂歌じゃね
879 :
川柳の将軍:2012/10/18(木) 21:13:58.21
アマテラス 後の天皇 見向きせず
880 :
川柳の親方:2012/10/18(木) 21:17:08.44
アマテラス 持統と元明 2連単
881 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 21:24:15.28
うっとおしい
882 :
川柳の彗星:2012/10/18(木) 21:28:51.73
うっとおしい そういうおまえも うっとおしい
883 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/18(木) 21:58:47.25
>>871 この日神の解説についてはウソではないからな。
本物の姿を説明してるのだ。オイ、気をつけろ!
藤村某の如きインチキではないぞ。
オマエはコチラに真物を教えてもらってるんだから、有り難く思え。
884 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 22:06:34.02
つひに 本物になる 太国かな
885 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/18(木) 22:25:51.59
百年前だったか、英国の某少女が妖精の写真を撮ったと
発表したが、それは4〜5枚の写真であり、ある日時が
経過して、そのタネ写真らしい〜誰かがどこからの絵
か何かに酷似してることをつきとめ、この彼女の妖精
写真をインチキだと断じたのだ。
トンボの羽様のものが背中について空中を飛ぶ若い女の
妖精の群れの感じの写真であり、これを彼女に追及
するとイカサマであることを自認したとのことだっ
たそうだ。これは日本のある雑誌にも掲載されたこと
があり、それがしも拝見したが、結局彼女に騙されたと
いうことになる。
ところが彼女は最後にこんなように言ったそうだ。
「これらの写真はウソです。・・・だけども、この最後
の1枚だけは真物よ。それだけは本当の写真よ。」
と言い張って、最後の1枚だけは本物だと頑張ったそう
だ。その1枚は派手な他のと比べて地味であり、草むら
に蛾の繭のような感じで立っている雰囲気の異なる写真だった。
これだけは本物よと最後まで言い張る1枚は
本物なのか〜? もう百年くらい前のことだから、どう
なのか分からない? 場所は英国のコテングリーという
地名の処だ。
まぁ、宿主の日食が数日間続くという話はインチキで
あることが明確に自明だが・・・。ww
886 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 22:33:31.02
妖精は 蛾の繭のやうに 立つてゐる
887 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 22:49:34.34
努力家から 彗星になり 消へてゆき
コティングリー妖精
かわいい少女達のかわいい遊びを、大人が寄ってたかって否定して
子供達の夢を壊してしまったことに途中で気づき反省したんだな
だから最後の一枚を二重露出を使っていると暴くことまでしようとしなかった
じじぃが持ってきた写真だったら徹底的に叩き潰されとるわw
889 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 15:20:49.85
そうかも知れないね? その可能性はありうる。
890 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 17:32:00.98
繭のやうに 立つてゐるのは 本物だ
太国は 天照大神の 顔を見た
891 :
サガミハラハラ:2012/10/19(金) 17:47:12.15
宇佐での第5回邪馬台国論争大会の卑弥呼役のかたは、天照大神のうまれかわりかと思われるるほどのすっげー美人だったそうです。
太国は卑弥呼の顔も見ている
それだけではなくシバの女王やトロイのヘレンの顔も見ているというぞ
893 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 18:17:43.95
2行目は見てないぞ。
それは分からん?
894 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 18:33:28.17
天照大神 中森明菜より 美しい
天照大神 白石麻衣に 嫉妬する
895 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 18:39:33.97
白石というギャルも似てないな。
日神のそっくりさんという女性は見たことがないよ。
896 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 19:01:03.85
いい加減、"太国"と"卑弥呼は満州にいた"は気持ち悪い
897 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 19:27:38.47
あまりふざけすぎると反感を買うので、少しは真面目なことも書こうか。
私は今は満州源流考を読んでいるのだが、伊が亦、野、益とも書かれている例が数例ある。
そのうち野の例だけを挙げると−
伊穆河衛(名已見前此又訛野木…)
伊爾登河衛(舊訛野兒定…)
とすれば諸書で伊倭、伊和、伊国と書かれているのは野倭、野和、野国かもしれない。
つまり伊倭、伊和、伊国は大和のことかもしれないのである。
今のところ、野が伊と書かれている例はない。
898 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 09:31:22.37
何と読むの? 何を言ってるのか分からない・・
899 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/20(土) 09:37:46.36
伊穆→野木
伊爾登→野兒定
と書かれているということだよ。つまり伊が野と書かれている。
だからたとえばネット史で野、野人、野国と書かれているのは、
伊、伊人、伊国の可能性もあるわけで、
たとえば伊都国を指している可能性もなきにしもあらずということだ。
その場合は九州説に有利になる。
>>897のように解釈すれば、大和説に有利になる。
900 :
サガミハラハラ:2012/10/20(土) 18:28:59.15
>>891 一言付け加えるのをわすれました。
太国さんはごらんになりましたか?
901 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:02:29.25
あいかわらずの堂々巡り、
新展開へ。これを見よ!
902 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/20(土) 19:07:45.05
903 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/20(土) 19:44:43.52
904 :
サガミハラハラ:2012/10/20(土) 22:35:50.15
そうそうこの方ですね。
905 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/20(土) 23:07:44.74
與倭和親互市交婚稱其國曰野
왜(倭)와 화친하여 호시(互市)를 열고 교혼(交婚)하였는데
그 나라를 야(野)라고 칭했다.
曰野 いわく”野”
以前に直訳したときこの”野”が”野党”となった、発音すればヤトウ=ヤマト
906 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:27:58.83
ところで、今東京で、畿内説を糾弾するという会を作ろうという不穏な空気が流れていることはご存じですか。
いまさら、糾弾するほどのことではないだろうが・・・
908 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 06:14:37.04
畿内説は糾弾されるべき。
でないと、日本の古代史はめちゃくちゃになってしまう。
根拠のない畿内説物語を作り、宣伝・洗脳することばかりに躍起になっている。
909 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 06:41:04.37
朝鮮半島説は?
910 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 06:42:09.37
真摯さというものはまるで無いですね
自治体や市井レベルはまず願望ありきで
九州説もだけど畿内説はバックが強力なだけに
911 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 10:21:51.96
>今東京で、畿内説を糾弾するという会を作ろうという不穏な空気が
流れていることはご存じですか。
どこですか???、参加しようかな。
912 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/21(日) 10:44:53.30
>>904 いい娘だね。なかなかいい女だな。
彼女は卑弥呼より、アマテラス役のほうがいいだろう?w
アマテラスのソックリさんっていう感じの女の子は見たことがないな。
913 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 10:45:52.00
>>906 そんなことをすると纏向原理主義者たちが暴徒化するよ。
914 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/21(日) 14:11:09.40
>>904 サガミハラハラさんはこの会席に居たんですかな?
915 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 17:50:01.97
>>909 :日本@名無史さん
>朝鮮半島説は?
救済されるべきだろう
916 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 17:56:28.95
243年 正始4年 阿達羅31年3月 阿達羅崩
このひとが逆らって殺された辰韓の王様かもしれんよね
917 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 18:37:35.34
李氏朝鮮の
哀王(準) 紀元前220年 - 紀元前194年
この人は衛満に追われて逃亡して消息を絶ったのだが、実は日本に逃げ込んだとの説もあり。
918 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 18:54:42.88
李氏朝鮮って始まりは14世紀じゃないの?
919 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 19:02:57.40
920 :
サガミハラハラ:2012/10/21(日) 20:42:58.48
>>914残念ながら、不参加でした。
彼女の写真をみて、しまったと思いました。
921 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 21:37:51.45
922 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/21(日) 21:44:15.32
ああそうでしたか。
えらく美人で、彼女はアマテラス役ができるね。w
日神は両眼が円らでなく少し左右に横の、真っ直ぐな目の感じのお方だから、彼女が
古代エジプト美人のように両目の両端を真横にメスデメト(古代エジプト語
の黒アイペイント)の線を入れると少々アマテラスに彼女は似てくるだろうと
想いますがね。
山中教授のIPS細胞の作成方法の発見と同じで、
歴史的な発見というのは、運の良さが重要なのです。
なんであいつだけ?というような幸運の持ち主でないと、
邪馬台国の謎に迫る大発見をすることは不可能なのです。
卑弥呼も、人知を超えた霊感の持主だったことに間違いなく、
残念ながら、ツキのない人に邪馬台国発見は不可能なのです。
924 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/21(日) 22:02:05.34
ああそうですか。
925 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/21(日) 22:07:25.84
>>922 続き
艶っぽくウアジュウ(古代エジプト語で緑のアイペイント)でもよろしい
でしょう? アマテラスはこの娘よりもう少し細目に見えましたよ。
映画「日本誕生」の同役だった原節子さんは真物の日神には似てないな。
これは真物にお目にかかったことがないんだから、やむを得んでしょう。
上の娘のほうが彼女よりはアマテラスに似てるといえば似てるね。
926 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/21(日) 22:18:57.89
ああそうですか。
927 :
サガミハラハラ:2012/10/21(日) 22:36:21.78
:::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |満州クンが、やられたようだな… │
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴は卑弥呼親衛隊の中でも最弱… │
┌──└────────v──┬───────┘
|ローガン如きに、手こずるとは │
|一門の面汚しよのう… │
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
太国 唐松山 アラタメ 満州クン
929 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 23:40:23.06
930 :
無名さん:2012/10/21(日) 23:54:38.52
931 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 05:23:21.20
932 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 16:36:45.06
933 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 17:15:08.42
>>932 炭素法は1つの物を測定しても100年以上も振れ幅があるのは変わらんのかね
934 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 17:19:11.75
金玉丸出し小僧参上
つーか5万3000年とかなら
考古学より古生物学とかのほうが喜ぶだろ
936 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 17:53:44.06
937 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:09:36.51
最近のC14は、だいたい25年以内くらいの精度だな。
基本的に、正規分布なので、中心部が一番確率が高いと考えて良い。
938 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:29:52.33
しかし箸墓古墳は3世紀中〜5世紀説まであるから
939 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:50:57.15
>>938 箸墓は増築工事とかしているんじゃないだろうか?
940 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:52:16.97
邪馬台国が任那にあった考える説もありなのですね?
941 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 23:06:17.55
・魏志倭人伝の海行のあたりが説明できない
・志賀島の金印が説明できない
・任那及び日本府の存在は実証できていない
・前方後円墳の分布は畿内が中心で、盛期の一時期に朝鮮半島南部に現れるがまた途絶える
その説はかなり厳しい
倭人伝の記述から対馬、壱岐ときてまた半島に戻るとか考えられんだろ
それに大成洞遺跡は発掘がかなり進んでる
944 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 06:34:39.19
任那日本府そのものは実在したと思うが
その機能とか、影響力が及んでいた範囲はわからない。
ちょっと前の香港やマカオみたいに、狭い範囲だけを日本が抑えていたのかもしれない。
945 :
サガミハラハラ:2012/10/23(火) 07:54:25.65
前方後円墳の分布からして、かなりの広範囲であったと思いますよ。
946 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/23(火) 10:14:27.89
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf 日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
降水量が多い時期が続く=異常気象である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。三国遺事 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔欽明天皇二年541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
947 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/23(火) 10:18:37.73
崇神元年は、後漢193年の記事から、189年以前にはならない。
崇神58年=210年であるから、崇神68年は220年を超えることはない。
垂仁(217〜239年)
任那より鉄の流入(鉄の配分権)、埴輪の導入
239年 邪馬台国官伊支馬、田道間守の派遣
倭人伝 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
考古学 3世紀前期の大型建物=珠城山、その跡に土盛りと整地をし中期の建物=日代宮。
考古学 ホケノ山(225〜250) 穴あき壺=埴輪、鉄の副葬。半島式墳墓 西瀬戸内の壺。
景行(240〜261年)
田道間守の葬儀を許可。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。
倭人伝 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
246年頃 黄旛下賜の決定。
247年? 景行12年より 九州へ派兵
景行20年 五百野姫=壹與即位 ホツマ 五百野姫を軍隊付きで派遣。
255年 景行27年 日本武尊を九州へ派遣16才。
256年 景行40年 日本武尊を関東へ派遣 倭国統一(大倭成立)。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
考古学 箸墓(260±10年) 最初の大王墓、特殊器台(埴輪)、布留0式
948 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 10:28:40.89
神58年=210年である証拠がなく、崇神68年は220年を超えることが出来る。
倭人伝 ・・・ 伊支馬=イキマ≠垂仁
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・五百野姫≠壹與即位 ・・・ 五百野姫を宿主が恣意的解釈にて軍隊付きで派遣を付加挿入。
949 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 14:13:32.52
三国時代の呉が日本か台湾か沖縄のどこかに遠征軍を送ったが
風土病でバタバタ死んだ事件がなかっただろうか?
これは230年くらいの出来事だったと思うが。
あったけど
951 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 14:38:46.70
奴の糞古学 箸墓(260±10年) 最初の大王墓ではない、特殊器台(埴輪)、布留0式
952 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 14:49:47.68
230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり
(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないか
と考えられているが、日本ではないかとも考えられている。
(ウィキより)
呉軍の一部が日本にたどり着いた形跡はあるのだろうか?
たぶんないと思うが。
953 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 15:48:25.28
230年は開化の治世の末期ころ。
954 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:07:57.81
神徳寺:沖縄県那覇市字安里38 真言宗
八幡宮の別当寺として建立
日本に襲来した外敵は開化48年(230年:倍暦逆算)に20万3千人
これはそれがしの倍暦逆算が正確だったことを物語る。
有難う。
八幡愚童訓(甲本)
>>954 >日本に襲来した外敵は開化48年(230年:倍暦逆算)に20万3千人
日本本土または沖縄のどの地域に上陸したのか?
本土のほうにはそういう伝承・神話はないようだが。
956 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:21:42.80
以前、神徳寺のサイトだったと思ったが、これを見つけてノートしておいた。
これ以上の内容は確保出来てない。
957 :
お得♪:2012/10/23(火) 16:23:44.65
958 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 16:25:56.39
開化天皇は「欠史」ではあるが実在の可能性がある天皇とされている。
記紀の編者が書きたくない出来事があったのだろうか。
例えば呉が攻めてきて、未開地の日本がボロ負けしたとか。
959 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:29:10.04
それは半島が通常暦を当時行使していたのに対し、畿内は2倍暦等を行使
していたために膨大な年代の不一致が各記録に出てしまった。
そのため合わないから、安全のため記載を保留としたということだ。
960 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:35:01.70
このことから237年が崇神元年になることが濃厚になった。
となれば、記の崇神没年 戊寅は318年ではなく258年になる。
これでそれがしの倍暦計算が1年も狂わず整合していたとなる。
ならばやはり 239年=景初3年≒崇神6年
になり、実際は 崇神7年=239年=景初3年 だ。
961 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 16:46:49.37
>>960 それだと崇神天皇と卑弥呼が同時代の人だったということになるね。
962 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:46:53.21
皇紀西暦 倍暦
544 -117 227 太和元年
545 -116
546 -115 228
547 -114
548 -113 229
549 -112
550 -111 230 開化48年 呉兵 20万3千人 沖縄襲来
551 -110
552 -109 231
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 236
563 -98 開化天皇 崩御
564 -97 237 景初元年 崇神天皇 即位
963 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:48:50.42
>>961 そのとおり。
彼女の即位は 太和元年=227年
だから年号が「大和」「大倭」に似るよう、当ててるわけ。
964 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 16:57:15.98
965 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 17:13:22.84
>>963 ただし、倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼とはどうも思いにくい。
966 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 17:17:04.00
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と
倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
↑
伝染病も流行したが、呉の軍もやってきたかもしれない。
中国側の記録でも「呉の軍は戦闘には勝ったが風土病(伝染病かも)でバタバタ死んだ」とある。
967 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 17:50:26.11
>>965 卑弥呼と百襲媛とはほぼ同時代の女性ですが、別人ですよ。
卑弥呼は九州、百襲媛は畿内の女性ですから・・・。
968 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:06:10.77
>>954 3世紀に20万の兵士が海を渡って沖縄まで来れるとは思えないけど
969 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 18:13:27.19
これは大陸人の習性なんだろう?
今回の尖閣の件もそれほどまで行ってないが、人数を増やし徒党を組んで
押し寄せている。
孝霊61年にも月支国の大船団が出雲の海岸に押し寄せている。
神風が吹いたらしく退散した。(日御碕神社社記)
970 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:13:50.63
あと15世紀の創建みたいだけど
971 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:18:54.41
尚徳王が建立したから1441年〜1469年の間じゃね
972 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:21:47.94
八幡愚童訓が鎌倉時代の成立みたいだけど
1000年サバよんでね
973 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:22:52.75
>>969 衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、
馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。
(ウィキ)
この人、日本にやってきて倭王または土豪になったと見る人もいる。
974 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 18:40:25.69
>>972 だからそのころ、古代の年代の情報がどこかに残っていて、そこから
そういう出来事を残したということだろう。
それがしのが合っていても、これから千年後に平成の文献だからダメだという
野郎が出て来る如きで、計算が合っていればいいわけで、こういう何らか
の作法、年代計算の出来る何らかのブツがその頃あったなら、いいことに
なろう。
975 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 18:54:44.83
元寇の頃ならたしかに数万の軍勢が沖縄まで来たってのは理解出来るよ。樺太にも来てるし
しかし、あたなはそれを3世紀と言ってる
正気で言ってるの?
尚徳王は確かに琉球の実在の王で建立もしてる15世紀に
モンゴル(元)が攻めて来たって話じゃないの?
八幡愚童訓も蒙古襲来の事を書いてるみたいだし
何故それが3世紀の話になるのか理解出来ないけど
沖縄は隋の時代にも侵略を受けてるぞ
「隋書琉球国伝」に詳細がある
琉球っていつ位から国が成立してると思ってるの?
978 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 19:26:09.02
>>975 3世紀だよ。
この八幡愚童訓(甲本)上での情報では開化48年とはっきり言っている。
判然としない話だというならば、開化の治世とか書けばいいわけで、それ
より年数まで示しているということは、鎌倉当時により古代の精度のある
情報が保全されてたということだ。
このことから崇神元年が237年に相当し、そうなれば崇神天皇が倭笠縫に
災厄を鎮めるためにアマテラスとその象徴たる神鏡を祭祀した崇神6年が
畿内から多出するという 景初3年=239年 近隣に位置するということが
濃厚になる。
実際畿内に鏡作神社の文献にも、崇神6年9/3に鏡の改鋳が行われた記述
が存在する。だから崇神6年近隣こそ239年なのであるのだ。
そしてここから年代逆算をすれば、開化48年が八幡愚童訓の内容どおり
開化48年に位置することが分かる。→
>>962 人数においてはある程度推量もあろうが、倭人伝のも確か万の数字で戸を
数えていただろうから、そのくらいの推定数字の計算はやれるだろう。
3世紀の琉球や台湾の戸数は判っているのだろうか?
980 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 19:30:00.43
魏志倭人伝もそうだけど、隋書琉球国伝も適当ぽいな
3世紀の琉球は凄い大国だったんだろうな
研究者の度肝を抜くような大発見だな
論文発表すればいいのに注目受ける事間違いなし
あっ、竹内文書では神武以前に凄い文明があったことになってんだっけか
与那国の海底に一万年以上前の神殿も沈んでることだし
982 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 19:38:23.24
>>978 訂正
× 畿内から多出するという 景初3年=239年 近隣に位置するということが
濃厚になる。
○ 畿内から多出するという 景初3年鏡=239年鏡 銘文の年代近隣に位置するということが
濃厚になる。
983 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 19:41:33.91
>>978 「日本が異国に攻められた歴史は第九代開化天皇の時より弘安の役にいたるまで十一度あり、
それらは皆追い返され日本国は未だ他国の属国になっていない」ことが述べられる。
ついで「仲哀天皇はみずから敵地に乗り込み敵の大将を討ち取った。しかし流れ矢にあたってしまい、
自分の子を宿している神功皇后に子供を王にして敵国を降伏させることを託して息をひきとった」とある。
・・・以下略
って言うような事が「八幡愚童訓」には書いてあるみたい
この場合の開化天皇とは、古より日本は降伏したことないよって意味で
開化の時代とは限らない
余談
11回あるっていうけど、後の9回は何を指してんだろ?
仏教用語で11は縁起がいいとか?
985 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/23(火) 21:12:41.29
太国が日御碕神社社記という興味深い資料を提示してくれたので調べてみると、
アッと驚くような記事が載っていた。
神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、
根の国に渡り熊成の峯に登り給い
熊成の峯とは明らかに朝鮮だろう。つまり根の国とは朝鮮だったのだ!
孝霊天皇61年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。
この記事も面白い。月支国の王が彦波瓊といういかにも日本的な名であるのも面白い。
これは卑弥呼馬韓女王説の補強材料になる。
ついでにいうと、桓檀古記に次のような記事がある。
丁未元年,番朝鮮王箕準久居須臾,嘗多樹恩,民皆富饒,後爲流賊所敗,亡入于海而不還。
諸加之衆奉上將卓,大擧登程,直到月支立國。月支,卓之生ク也,是謂中馬韓。
丁未元年は前193年だと思われる。ちなみに孝霊天皇61年は前230年だ。
986 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/23(火) 21:24:58.69
上の桓檀古記の記事で面白いのは、月支国のある所を中馬韓と呼んでいる点だ。
中馬韓があるからには上馬韓、下馬韓、あるいは北馬韓、南馬韓があったと思われ、
事実、中国史書や満州源流考などでは遼東半島を馬韓の領域と捉えているのである。
で、遼東半島はまた帯方郡の置かれた所でもあった。
卑弥呼はおそらくその周辺にいたのである。
卑弥呼は遼東周辺にいた。倭の五王もそのあたりにいたのである。
だから私は「卑弥呼は満州にいた」に改名したのである。
987 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/23(火) 21:32:06.20
>この場合の開化天皇とは、古より日本は降伏したことないよって意味で
意味不明?
とにかく開化とは降伏の意味ではなく、天皇の名であり、年号の代わりと
しているもの。
988 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/23(火) 21:35:05.32
もともと島根には日本という意味があるらしいのだが、
その理由が分ったような気がする。
つまり根の国が朝鮮なのであるから、
島根とは島(日本)の根(朝鮮)という意味ではあるまいか。
日本の中の朝鮮という意味である。
古来、そこは朝鮮人が定着していたのではあるまいか。
989 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/23(火) 21:53:22.73
あるいは日本はもともと朝鮮から渡った人が住んだ国であるので、
「島である朝鮮」という意味で、日本のことを大和島根と呼んだのかも。
990 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 22:04:39.38
広島、福島、鹿児島・・島でないのに島の名のつく県には共通項がある。
「シマ」とは縄張りのこと。しかし、陸続きの土地で「シマ」を守るのは容易なことではない。
海の中の島だけに実態としての「シマ」という名称が残ったのだろう。
ちなみに、環濠集落は、濠に囲まれた、島としての機能を果たしていたのだ。
991 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 22:38:36.62
>>990 シマとは、異質なものに囲まれる。
という意味だよ。
992 :
sss:2012/10/23(火) 22:39:22.68
>>989 古代の日本人は「倭者、自云太伯之後」(梁書)ということで、中国江南地方の
出身だと言っていたらしい。刺青も共通するというわけだ。
倭人伝にあるように、航海に慣れた日本人でも海を渡るときには持衰のような
ものを必要とした。難しいものだったことがわかる。
朝鮮人あるいは騎馬民族が海を渡れるわけがない。
ところで、「太国」というのも実在の人物なのか?
誰かの語りではないのか?あったことのある人はいるのか?
卑弥呼も同じじゃないか。妄想の産物。
脱北電波バカは相変わらず何でもかんでも祖国・朝鮮に結びつけようと必死だなw
このスレの「太国」や「サガミハラ」といった人物でさえ、
その実在を証明することは容易でない。
IPを突き止めたとしても、なり須磨氏ということもある。
ましてや、二千年近く昔の異国の書に書かれた人物など、
どうしてその存在を検証できようか?
996 :
卑弥呼は満州にいた:2012/10/23(火) 23:21:49.40
2ch 渡海できない 朝鮮人
2ch 日本人は 江南人
日本人 朝鮮出自で うろたへる
遺伝子的には日本も朝鮮も元は上海周辺の民族と考えられるな
姫姓の呉だろう
998 :
sss:2012/10/23(火) 23:50:32.41
だいたいなんでも朝鮮起源にしたがるのが間違い。
唐辛子やサツマイモなど、起源のはっきりしている農産物は
日本から朝鮮半島に渡っている。稲もそうだろう。
で、新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來(隋書)となる。
999 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 23:58:21.47
逃げてこれなかったひともたくさん残留なんだから同情してあげろよ
1000 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 00:01:19.84
晋作さんは殿様背負って亡命する企画のところだからな
わるいのすべては軽薄な諭吉のせいだろ
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