それでも邪馬台国は九州にあった17

このエントリーをはてなブックマークに追加
1佐賀原住民
前スレ
それでも邪馬台国は九州にあった16
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341927889/l50


                     /■\
                 (_´∀`)_     わっしょい!
               /,/-_-_-_-_-_\     わっしょい!
        ( (   /,, /― 九州説 ―\    わっしょい!! //
             (。'。、。@,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。@  ) )
             ∩ヽヽ∩ヽXXXXXXXX/ .∩
             i||i ∩i||i:||::::¥_][_¥::::||. i||i
             †人=†††¶┌┐¶††††
  /■\/■/■\[/■ /■\/■\]  /■\■\/■\
 ( ´∀(´∀(□二二( ´∀( ´∀( ´∀`).□´∀` )Д´)□∀`)
 ( |つ⊂|_ | | ノつつ|祭)~| |祭) ̄||祭) ̄|つ ⊂|_((|祭)~ノ | ) )つ
  〓_| |__〓」 〓_|=|_ 〓__ノ 〓二ノ〓二ノ) ( / (L〓|〓二|〓=〓ヽ
  し'し' (_(_ し(_) (_)_)し(_)し(_)(_(_,(_)(_)し'  (_)

九州説のみなさん頑張ってください。

AAを筑紫の民 様よりいただきました。
2日本@名無史さん:2012/07/21(土) 15:32:33.11
邪馬台国7万戸(35万人)の人口を恒常的に養うことが出来るのは、当時の災害発生頻度を考慮しても、九州最大の筑紫平野のみ。
熊本平野も水浸し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120719-00000073-jij-soci

他地域への優位を保つ「関門海峡」の重要性を考えれば、筑紫平野〜国東半島の間の「どこか」にあったことは間違いない。

魏志倭人伝より
「女王国より北にある国々については、その戸数やそこへ行く道里をだいたい記載することができるが【その他の周囲の国々は遠く隔たっていて】
詳細に知ることができない」と書かれている。

九州の中心、熊本平野に女王国があったなら、南の鹿児島へも東の宮崎への道里も、隣になるので詳細に知ることができたはず。
よって熊本平野ではありえない。
3日本@名無史さん:2012/07/21(土) 15:33:44.24
八女の大国。それが邪馬台国。
4日本@名無史さん:2012/07/21(土) 15:38:01.84
>>2
うむ
>魏志倭人伝より
>「女王国より北にある国々については、その戸数やそこへ行く道里をだいたい記載することができるが
>【その他の周囲の国々は遠く隔たっていて】詳細に知ることができない」

この一文で女王国が北部九州にあったことがよく判るな
5日本@名無史さん:2012/07/21(土) 16:24:56.95
熊本から、鹿児島宮崎は、九州山地の一番険しいとこ通るんで
遠いよ。

九州自動車道はずーっとトンネルの連続だし、
国道三号線はずーっと海沿いで山の中には入らないし。
6日本@名無史さん:2012/07/21(土) 16:31:25.21
自女王國以北其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳
の説明はつくとしても、
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これをどうにかしなければならん。
7日本@名無史さん:2012/07/21(土) 16:34:08.80
昔の人にとって山道はたいしたことない。

箱根峠、鈴鹿峠、八風街道も、現代人にとっては大変な難所に思えるが、
江戸時代まではそれが当たり前なので難所ではあるが距離や戸数が判らないほとではありえない。

また、【遠く隔たる】とは【遠く険しい】ではないことに注意。
87:2012/07/21(土) 16:36:41.88
訂正
○【遠く険しい】ではないことに

×【近いが険しい】ではないことに
9日本@名無史さん:2012/07/21(土) 21:01:03.19
對海國:1官1副官
一大國:1官1副官
末盧國:0官0副官
伊都國:1官2副官+1歴王
奴 國;1官1副官
投馬國:1官1副官
邪馬壹國:1官3次官+1女(兄)王+1男弟(王)
10日本@名無史さん:2012/07/21(土) 21:04:54.54
宮崎県串間市からはこういう凄いもんが出ている。
前2世紀にこんなもんが持てる人ってタダ者じゃないと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52384712.html
11正統派九州説:2012/07/21(土) 21:08:14.93
サッカーば応援せんかバカたれが。

テストマッチとはいえ、メキシコは強かぞ。
メキシコとの比較で、ニッポンがどこまでいけるか分かる。
勝ち負けはともかく、互いのポテンシャルを見極める試合になる。
そこんとこば、ちゃんと見れ。


おらはreds !! て・かんけいねーか。わりぃ
12日本@名無史さん:2012/07/21(土) 21:48:05.23
言葉で考えると、長崎、佐賀、熊本は同じ系統の言葉。球磨地方の人吉も
同じ言葉。しかし、加久藤峠を越えてえびのに入ると全く違う言葉になる。
大分方面も西九州とは言葉が異なる。
13日本@名無史さん:2012/07/22(日) 06:36:41.79
自女王國以北という場合、魏志の用法では女王国を含まないんだよ。万二千里よりも北ということで、
不彌國までの国々のことだ。
投馬国と邪馬台国は女王国に入るが、主要国だから道里戸数が書かれている。その両国の傍らにある
国々は書かれていない。両国の首都から国境までが遠いから其餘旁國遠絶不可得詳となるのさ。
14日本@名無史さん:2012/07/22(日) 08:13:45.64
>>12
まさか、弥生時代の国割りが現代まで延々と続いたと思ってる人?
15日本@名無史さん:2012/07/22(日) 08:42:41.84
いまだに女王国以北だの万二千余里だの倭人伝ネタ出してるとか
信じられんわwもうそのネタは俺たちが生まれるずっと前から
議論され尽くしてきたことだろうに。
つまりそのポイントからじゃ答えなどわからないから
いまだに邪馬台国論争は完全決着してないわけでそれに気づけ。
まあ考古学的にはほぼ畿内で決着してるけどw
16日本@名無史さん:2012/07/22(日) 08:46:42.03
完全決着してるけど私的にどおしても納得したくないへんなひとがいるだけ
17日本@名無史さん:2012/07/22(日) 08:58:20.21
>>9>>13
邪馬台国(7万戸)に匹敵する大国で、南に離れた投馬国(5万戸)に、王がいないということは考えにくい。
長官「弥弥」が実質的な王であり、安全保障のため、魏の後ろ盾を得た女王国に属してから、王から長官となったのではないか?

卑弥呼死後の男王を巡る「倭国大乱」に乗じて、女王国への加盟契約を解消して、長官から再び投馬国王に返り咲き、
狗奴国との決戦において絶体絶命の女王国に要請されて、「大王(天皇)の椅子」を条件に女王「台与」に婿入りしたと思われる。
18日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:15:27.35
>>13
アッホー。
19日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:16:30.25
もちろん投馬国に王はいるが、その名前は書いてないんだよ。
そして、官というのは、王が任命した王の代理人、つまりは首相のような
人のことだ。副官は副首相だね。
20日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:17:07.70
>>15

詐欺集団の畿内説は100l無いな。
21日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:20:18.08
>>19
数少ないまともな意見だ。
各国に王はいるが
末盧国の官・副が書いてないのと同じ理由で名前は記載してないだけ。
22日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:27:39.35
>>6
まったくだが、それに振り回されてもいかんと思う。

どうしても解けない問題は後回しにして、解ける問題から取り掛かるのが試験の王道。
物理的な条件:記載された国の戸数(人口)を養える田(ごはん)畑(おかず)が、当時の治水土木技術で開墾可能な平野面積(石高)
をまず割り出し、方角と距離から九州の各平野部に推定配置する作業は、どの道必要になるのだから、
それを先に片付ける方が賢明な時間配分かと。。。
23日本@名無史さん:2012/07/22(日) 09:58:45.10
>>17
だからその女王台与に婿入りだのなんだのと
くだらん妄想のオンパレードになるから
邪馬台国はやめとけってw
そういうオタが関祐二の古代史本でも買って
やつに貢献してるんだろうがw
24日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:11:54.71
畿内説は、今や倭人伝も読まず、考えもせず、「俺は信じる」って奴しかいなく
なってしまったね。
25日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:15:25.08
>>23
君もこのスレROMってるってことは、好きなんだよねw

-投馬国と見られる宮崎平野にある日本版「天皇家の谷」西都原古墳群(ニニギ、コノハナサクヤヒメ)
-狗奴国と見られる熊本の、南部に跳梁跋扈した、大和朝廷に「まるろわぬ者」ども熊襲

>>17のように邪馬台・投馬国連合が狗奴国を滅ぼしたとすれば、この2つ現象の説明はつく。一応w
同盟強化には婚姻関係が不可欠(例:清洲同盟→信長長女五徳と家康嫡男信康)で、
子供のできない同性結婚はありえず、女王台与♀には投馬国王♂だから、入り婿というのが最も自然な推理ではある。
26日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:18:25.42
>>24
倭人伝も記紀も畿内説とは合わない。だから、無視せざるを得ない。

適当な古墳を見つけて調査もせずに卑弥呼の墓だといい、桃の種を
見つけると卑弥呼の祭祀に使われたものだといい、さばの骨は卑弥呼への
献上品だという。こんな都合の良い考古学しか畿内説は拠り所にできなく
なっているというわけ。
27日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:25:02.56
倭人伝は完全に合っているよ。これまでは畿内説に引っ張られ、伊都国の比定が
まちがっていただけだ。
倭人伝どおりに東南に進み佐賀市付近に比定すれば何ら問題はない。
28日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:40:05.60
今の天ちゃん一家ってバカボン一家みたいでお人好しそうじゃん?
でも建国の時にはやっぱり上手い事立ち回ってやがったんだよ
だからこそ天ちゃんの先祖は全員日本の神様ってことになっちゃったんだと思うな 想像だけどw
29卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 10:43:15.34
代郡   戸五萬六千七百七十一
上谷郡  戸三萬六千八
漁陽郡  戸六萬八千八百二、
右北平郡 戸六萬六千六百八十九
遼西郡  戸七萬二千六百五十四
玄菟郡  戸四萬五千六
遼東郡  戸五萬五千九百七十二
樂浪郡  戸六萬二千八百一十二

Wikiなどでもいいから、これらの郡が大体どの辺にあったかを調べてみればよい。
そうすれば三韓の、

馬韓 総じて十万余戸
辰韓・弁辰 總じて四五萬戸

というのが異常に少ないことが分かり、三韓の資料はかなり古い物だと分かる。
そして、投馬国や邪馬台国は中国の一つの郡と同じ程度の広さだと見当が付く。
そうすれば、投馬国や邪馬台国は九州ではないことが分かるはずである。
30日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:44:09.58
>>22
これも数少ないまともな意見だ。

ただ
不弥国から残り千三百里に水行三十日陸行一月かかっている。
つまり
水行三十日陸行一月は所要日数ではないと言うことだ。

すなわち
投馬国も邪馬台国も距離を記載しなくても判る場所にあると言うことになる。
自女王国以北其戸数道里可略載其餘旁國遠絶不可得詳
の意味を正確に考慮すれば
結論は一つしか無いはずだ。
31卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 10:52:32.75
要するに投馬国とは山陰か山陽であり、邪馬台国とは大和である。
では卑弥呼は神功皇后かといえば、そうだとも言えない。

なぜなら狗奴国が攻めてくるのでお助け下さいと中国に救いを求めるのは大和王権らしくないからである。
狗奴国を熊襲としても、大和王権はそれを平らげるくらいの力は持っている。
わざわざ中国にまで助けを求めに行くのはどう考えてもおかしい。

そこで結論は、卑弥呼の倭は日本ではない、ということになる。これが正解。
32日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:12:57.24
對海國:1官1副官  千餘戸5000人
一大國:1官1副官  三千許家1500人
末盧國:0官0副官  四千餘戸20000人
伊都國:1官2副官+1王   千餘戸5000人
奴  國;1官1副官  二萬餘戸100000人
不彌國:1官1副官  千餘家5000人
投馬國:1官1副官  可五萬餘戸 推定250000人
邪馬壹國:1官3次官+1女(兄)王+1男弟(王)  可七萬餘戸 推定350000人

旁國:21ヶ国

狗奴國:1官+1男(兄)王 
33日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:22:22.18
>>25
天皇家の出自が日向の投馬国王で、筑紫の邪馬台国(女王国)へ婿入りして、肥後の狗奴国を滅ぼして九州倭国を統一し、
瀬戸内海を東遷して大和朝廷を樹立して大王(天皇)に即位したとすると、大王(天皇)家の男系が切れた時に、
投馬(日向)系と邪馬台(筑紫)系で相続争いが起きた可能性がある。

つまり後の、壬申の乱、道鏡事件(宇佐八幡宮へ神託を受けに行く)、南北朝の争いなどは、
舞台を異にしているものの、九州時代の投馬/邪馬台2系統からなる大王(天皇)家の宿命だった可能性が高い。
その意味において、宇佐八幡宮は卑弥呼の墓である可能性も捨てがたい。但し「女王之所都」は別にあったと思われるが。
34日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:42:13.55
>>31
>わざわざ中国にまで助けを求めに行くのはどう考えてもおかしい。

どう考えてもおかしいのは貴方の頭。
邪馬台国=畿内=大和朝廷などと頓珍漢な前提で考えるから
そんなおかしいことになる。
35日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:42:56.02
>>29
考察不足

内陸寒冷地ほど単位面積当たりの食料生産量が少ない。
即ち、内陸寒冷地ほど単位面積当たりの人口が少ない。
郡が同一人口なら、寒冷地ほど郡の面積は広くなる。

人口密度は、
倭>>韓>楽浪郡>高句麗>夫餘
となる。
36卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 12:39:51.79
>>34
邪馬台国を北部九州と考えてもおかしいのである。なぜなら、
北部九州が大和と対立していたというような様子は記紀には見られない。
だから、南九州に攻められたのなら、大和に救いを求めればよい。
実際、ヤマトタケルも景行も熊襲征伐に乗り出しているのだから、
北部九州からの要請があれば応じるはずである。
わざわざ中国にまで助けを求める必要はない。

またネットの朝鮮史によれば倭は加耶と王族の婚姻関係もあったのだから、
加耶に救いを求めればよいのである。わざわざ中国にまで助けを求める必要はない。

邪馬台国北部九州説によれば、結局、北部九州は南九州や大和とも対立していたことになり、
それは記紀の記事とも合わないし、現実問題としても、ありえないことと思われるのである。
37卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 12:47:23.28
>>35
張家口市あたりから鴨緑江までに八つの郡があった。
その面積を考えると、九州内にはせいぜい二つの郡しか入らない。

少々人口密度が異なっても、九州内に奴国と投馬国と邪馬台国と、
さらにその南の狗奴国を納めることは無理である。
おまけにそれ以外にも傍国がいくつもあったのである。
38卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 12:54:37.33
おまけに東夷伝によれば、あの広大な朝鮮半島に、
馬韓辰韓弁辰で、たったの14〜15万戸である。
奴国と投馬国と邪馬台国を合わせた戸数とほぼ同じである。

その14〜15万戸を九州内に納めるのはとても無理である。
39日本@名無史さん:2012/07/22(日) 13:41:26.54
田舎だったんだよ
40日本@名無史さん:2012/07/22(日) 15:03:54.65

    ┌┬┐
    ├┼┤夫餘 方可二千里 戸八萬
  ┌┼┼┘
  ├┼┤高句麗 方可二千里 戸三萬
  ┝┿┿┰┐
  └┼朝╂┤東沃沮
    ├鮮╂┼┐濊 戸二萬
    ┝┿╋┿┥
    ├┼╂┼┤韓 方可四千里
    ├┼╂┼┤馬韓 凡五十餘國 總十萬餘戸
    ├┼╂┼┤弁辰 合二十四國 總四五萬戸
    └┴┸┴┘
二萬戸┏┓┏┯┓     ┌┬┬┬┬┐
  奴國┣┫┠┼┨     └┴┴┴┴┘投馬國 可五萬餘戸
狗奴國┗┛┠┼┨邪馬臺
        ┗┷┛七萬戸
41日本@名無史さん:2012/07/22(日) 15:09:34.36
奴国:福岡平野
投馬国:筑紫平野
邪馬台国:熊本平野

他小国は上記の国に含まれる。
42日本@名無史さん:2012/07/22(日) 15:26:20.97
東夷伝によれば、朝鮮半島に馬韓辰韓弁辰で14〜15万戸である。
奴国と投馬国と邪馬台国を合わせた戸数とほぼ同じである。その他の旁国を
含めれば倭国は20万戸といったところであろう。
その20万戸は、九州内の戸数としてちょうどというべきであろう。

43卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 16:56:42.44
>>42
書きながら自分でも(く、苦しい)と思っているんじゃないのかw

東夷伝には加耶、金官、月奈などは含まれていないから、
それらを合わせると20万だ。

楽浪郡や帯方郡は遼東にあったのだから、鴨緑江以南が三韓諸国であった。
朝鮮半島全体で20万だ。その20万が九州にあったのか?

地図を見れば分るが、朝鮮半島全体に九州は5つほど入る。
ということは九州には朝鮮半島の5倍の人間がいたのか?

現在の半島の人口は北朝鮮と韓国を合わせて約一億。
日本は列島全体で約一億二千万だ。

君が言っていることは、九州だけで一億二千万人いた、と言っているのと同じことだぞ。
44日本@名無史さん:2012/07/22(日) 17:49:19.82
>>36
>北部九州が大和と対立していたというような様子は記紀には見られない。

どこまでお目出度い人だろう。
倭国大乱を集結させるために卑弥呼は共立された。

北部九州が大和と対立していなかったのだから大和は倭国大乱の当事者ではない。
つまり
共立された卑弥呼は大和とは無関係だよ。
45日本@名無史さん:2012/07/22(日) 17:53:06.59
>>36
>邪馬台国北部九州説によれば、結局、北部九州は南九州や大和とも対立していたことになり、

大和は無関係。

>それは記紀の記事とも合わないし、現実問題としても、ありえないことと思われるのである。

邪馬台国に関する記述が一切無いのだから矛盾しようがない。
いい加減
根拠の無い妄想は止めなさい。
46日本@名無史さん:2012/07/22(日) 17:54:26.51
>>42
またもや
根拠のない勝手解釈。
47卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 18:02:34.49
>>44-45
邪馬台国が大和と対立していなかったのなら、
大和に応援を頼めばいいじゃないか。
いや、大和でなくてもいい。山陰山陽、南韓。
助けを求めるべき国はいくらでもある。
わざわざ中国まで助けを求めに行く必要はない。
48卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 18:14:16.04
まあ、三韓の戸数はいつの時代の物か不明なので当てにならないから、
中国と比較してみよう。

九州の大きさは、せいぜい中国の郡二つ分くらいのものである。
中国の郡の戸数は五万前後だから、九州にはせいぜい10万戸しか入らない。

ところが九州論者によると九州に20万戸があったことになる。
ということは九州は中国の2倍の人口密度だったことになる。

そんなことが信じられるだろうか。
ヒマな人は、現在の、張家口市から鴨緑江までの人口と、
九州の人口を調べてみればよい。
それで九州の人口が上記の地域の2倍になっているなら、
一応、九州説の成立する余地もあると認めよう。
49日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:20:35.46
夫餘は平野部の2000里四方で8万戸
高句麗は山間部の2000里四方で3万戸
韓は漢江より南の南岸部を除く半島で14〜15万戸 南岸部は倭人居住地

奴國、投馬國、邪馬壹國は筑紫平野(北野平野筑後平野佐賀平野)で15万戸
もう一つの奴國は福岡平野で3万戸
その他倭20ヶ国は、福岡平野周辺、白石平野、その他中小盆地部で2万戸

九州北西部平地の総人口は20万戸
50卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/22(日) 18:25:32.40
仮に現在の韓国に三韓諸国があったとしよう。
九州論者によれば三韓諸国と倭の戸数は約20万で等しいのだから、
韓国と九州の人口も等しいことになる。

しかし韓国の現在の人口は約五千万、九州は千三百万である。
51日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:34:28.96
>>48
単位面積あたりの食料生産量を考えろ。
北西部九州の生産量は江南と同等以上。海があるから。
即ち、倭の人口密度は呉の人口密度以上であるから、
九州北西部平地の総人口を20万戸としても良い。
52日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:49:12.65
>>33
記紀は中国へ臣下の礼を取っていた過去の記憶を消すだけでなく、大和朝廷内の投馬系vs邪馬台系の交代の歴史をも消す、
つまり天皇家の男系先祖である投馬国(日向)系大王が、女系先祖である邪馬台国(筑紫)系大王の活躍を消すための歴史書
である可能性がある。
そうすれば、邪馬台国系の歴史(卑弥呼・台与〜倭の五王)が記紀に全く記されていない理由が説明できる。一応w

それは水野祐の三王朝交代説でも、前方後円墳の前期・中期・後期の円方比率や副葬品の違いからも明らかなように、
前期…イリ三輪王朝(神武・祟神・垂任〜仲哀)=投馬(日向)男系大王
中期…ワケ河内王朝(応神・仁徳〜武烈)=邪馬台(筑紫)女系大王(九州出身紀氏)「倭の五王」→磐井の乱へ
後期…近江王朝(継体〜天智)=投馬(日向)男系大王
と考えられ、磐井の乱とは、邪馬台国(筑紫)系ワケ河内王朝の元で、美味しい生活をしていた筑紫の皇別豪族である磐井が、
投馬国(日向)系近江王朝に交代することへの不満を爆発させた反乱であるともいえるのではないか?
53日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:55:54.68
ふむ、水野祐の三王朝交代説も単なる妄想にすぎないことが良く分かる。
54日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:57:45.64
>韓国の現在の人口は約五千万、九州は千三百万である。
韓国には首都圏が入っている。九州には入っていない。そんなことも考えずに
比較してなんになる?


55日本@名無史さん:2012/07/22(日) 19:08:05.87
>>52
確かに記紀は日向系の歴史の著述に多くの紙面を割いているね

また筑紫系は卑弥呼の時代から漢民族歴代王朝とのパイプが太く、筑紫出身の応神系の大王はそのコネを使って
朝鮮半島支配を強めて大陸の最新戦争・武器事情に明るく、以って大和朝廷をより強大な王権に変身させたことで、
騎馬系の特色も強めてしまい、後に江上波夫先生に騎馬民族系出身と勘違いされたのだろう(騎馬民族説)w
今で言えば、小沢一郎が田中真紀子を餌に中国共産党歴代幹部とのコネクションをフル活用して、
アメリカ政府の不当な対日要求を牽制して国民の人気を博してる(?)ようなもんかもw

日向系大王にしてみれば、筑紫系大王の活躍は面白くないから、意図的に倭の五王に対応させないよう細工したと思われ
想像だけどね
56日本@名無史さん:2012/07/22(日) 19:30:59.32
>>38
末廬國で四千餘戸なら、九州内でそれくらい可能な気もするんですけどね。
今の日本国内総計で百万人とか二百万人とか言われるけど、どうなんだろうね。
57日本@名無史さん:2012/07/22(日) 19:31:27.71
>>55
応神系の大王が江上波夫に騎馬民族出身と勘違いされたのって、
民主党政権がアメリカ言いなりの自民党政権から政権を奪うために、
田中派のコネを使って(ビザ発給大幅緩和をエサに)中国共産党、
旧社会党系のコネを使って(外国人参政権をエサに)北朝鮮や在日韓国系団体の支持を取り付けたことで、
ネトウヨから「反日政権」と言われて攻撃されるようになったのに似てるw
58日本@名無史さん:2012/07/22(日) 19:45:29.41
>>56
実のところ末盧国四千余戸はその範囲がはっきりしない。しかし、対馬国、
一支国は範囲がはっきりしている。その両国の戸数から考えれば、九州内で
二十万戸は何ら問題のない数字だ。
人口推計で百万とか二百万人というのは、根拠はないに等しい。
59日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:41:51.31
>>55>>57
天智天皇(日向系近江政権)の息子・大友皇子(弘文天皇)と天武天皇(筑紫系飛鳥/平城京政権)の争いは、
兄(甥)vs弟(叔父)の争いではなく、実は大友皇子(日向系)と大海人皇子(筑紫系)の皇位継承争いだった可能性が高い。

記紀は天武天皇(筑紫系)の息子・舎人親王が編纂したが、その後長屋王の変などを経て、称徳天皇で天武の直系子孫が途絶えると、
再び天智天皇(日向系)の直系が光仁天皇になる。その息子で天武(筑紫系)の作った平城京から平安京に遷都した桓武天皇の代に、
記紀は大幅に編集し直され、桓武の直系先祖である日向系大王の活躍を大きく、筑紫系大王の活躍を小さく修正された可能性が高い。
60日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:42:24.63
面積による生産力論争をするなら、
平野面積を考慮し無くてはならない。

いくら広大でも山岳地帯ではあまり足しにならない。
というわけで、朝鮮半島の平野面積を調査中。

その過程で、水稲と陸稲も考えなければならなくなりそうになっている。
61日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:57:32.03
>>59
まるでウィキペディアの編集合戦みたいだねw
俺の方が正しい!いや俺の方が優れてる!
このスレもそうかもしれないけどw
62日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:57:34.29
九州各県に一千万づつ割当てれば九州軍団で八千万
これで魏に勝てる!
63日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:10:06.60
>>52
>邪馬台国系の歴史(卑弥呼・台与〜倭の五王)が記紀に全く記されていない理由が説明できる。一応w

古田武彦が九州王朝を誇大(古代)妄想してしまった理由がやっと判ったよ…orz
64日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:27:58.99
ほんま根拠の無い妄想ばっかだなw
ここのやつらに限らず書店に置かれてる邪馬台国関連の本も
そういうのが多いんだが。
65日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:39:26.11
平野は米ぐらいしか作るものがないのでおかずがない
山だとぼたん鍋・鹿鍋・山菜・きのこ類も豊富で栄養満点だし、温泉もあるから傷の治癒も楽々で長生き
島も海鮮なんでもござれで、国際捕鯨取締条約もなくクジラは捨てるところがない
海なら海上生活もできる
山岳と離島が人口密集地帯で平野の貧乏な少数の民を支配していた

倭人伝にも『山島に拠って邑落国家を為している』と書いてある

66日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:01:30.75
>>65

思いっきり逆の結論出してんな。
狩猟採集生産なんて、面積あたりで
農耕生産の1/10も養えはしない。

そして、水稲は農耕生産の中でも
かなり生産効率がいい作物だ。
67日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:08:11.26
山岳の民は足腰が強い、心肺能力も高い
毎日が高地トレーニングだ

68日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:22:43.62
その気になれば海へ出て漁もできる臨海平野が最適
69日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:29:28.10
海の男は毎日が命がけだ、根性が違う、また長年養ってきた感も鋭い

70日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:59:18.38
その最適な臨海平野が筑後平野と福岡平野。
その両平野の人口は20万戸100万人。
平野の澱粉カロリーと海の魚介たんぱく質が高い人口密度で大量の人口を支える。
71日本@名無史さん:2012/07/22(日) 23:01:31.33
山男や海の男は目が輝いている
女はそういう男に惚れる

72日本@名無史さん:2012/07/23(月) 06:52:16.19
>>59
記紀を編集しなおすって言っても、すでに全国津々浦々に行き渡ってしまった正史を書き換えることは難しいと思われ。
筑紫系の舎人親王が最初に編纂した段階ですでに、日向系皇族への譲歩と配慮のために、あえて
筑紫系大王とその直系先祖(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与〜倭の五王)の栄光の大活躍は自ら消した可能性がある。

継体の大王就任が遅れたため、年老いた息子2人(安閑・宣下)と3代続いた日向系近江王朝の直系が途切れてしまい、
筑紫系の欽明が大王に就き、皇極(斉明)までは再び筑紫系大王(紀氏系蘇我家が猛威を振るう)に戻るよね。
でも日向系近江王朝の末裔・天智が中臣鎌足と起こしたクーデター「乙巳(いっし)の変」で、再度日向系に戻り、
その後「壬申の乱」で筑紫系天武が再び大王になり、今までの日向系と筑紫系の骨肉の争いを終わらせるべく天皇を名乗った。
天皇就任の代償として、天武は日向系大王の活躍を自らの直系祖先である筑紫系大王の活躍に優先させるよう命じたのではないか?

まとめると
-継体・安閑・宣下…日向系近江王朝
-欽明〜皇極(斉明)…筑紫系河内王朝
-天智〜弘文…日向系近江王朝
-天武〜考謙(称徳)…筑紫系河内王朝(飛鳥宮から平城京に遷都)→記紀編纂・日向系大王の活躍を優先
-光仁・桓武〜…日向系近江王朝(本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都)
7372:2012/07/23(月) 06:59:07.93
【補足】
-継体・安閑・宣下…日向系近江王朝→継体の大王就任が筑紫系河内皇族の抵抗で「磐井の乱」大幅遅延
-欽明〜皇極(斉明)…筑紫系河内王朝(紀氏系蘇我氏の横暴)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文…日向系近江王朝→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)…筑紫系河内王朝(飛鳥宮から平城京に遷都)→記紀編纂・日向系大王の活躍を優先
-光仁・桓武〜…日向系近江王朝(本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都)
74日本@名無史さん:2012/07/23(月) 08:17:37.51
投馬国系皇族と邪馬台国系皇族の間で延々と続いた骨肉の争いに終止符を打つべく、天皇就任と引き換えに、
邪馬台国系の栄光の歴史を自ら消すという天武天皇の大英断、つまり名より実を取って投馬国系に花を持たせたことにより、
投馬国系皇族も目を覚まし、自分たちが天皇に就任したときは、邪馬台国系皇族も大いに取り立てようと互いに団結したため、
天皇制という厄介な代物が今日まで続いたのかも。。。

想像だけどw
75日本@名無史さん:2012/07/23(月) 09:29:34.81
単純に平野面積で比較してみよう。
奴国2万戸→福岡平野250㎢
投馬国5万戸→宮崎平野900㎢
邪馬台国7万戸→筑紫平野1200㎢
狗奴国→熊本平野775㎢
狗奴国は4〜5万戸程の国かな。
76日本@名無史さん:2012/07/23(月) 09:39:44.23
狗奴国が熊本なのは疑問がある。
まだ南なんじゃないかと思うが、そうすると熊本平野は何国なのかとなるが。
球磨盆地も奈良盆地並の面積がある。
出水平野などの小平野も集まれば大になる。
77日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:08:48.24
単純に平野面積で比較してみよう。

奴国(旧倭奴國)3万戸→福岡平野250㎢

邪馬台国投馬国奴国14万戸→筑紫平野1200㎢

狗奴国→熊本平野775㎢
狗奴国は5〜6万戸程の国かな。熊本平野南部は沼湿地で非居住地域なので
78日本@名無史さん:2012/07/23(月) 12:36:48.81
>>75
倭種の国の一つ→大和平野300㎢
弥生時代の遺跡などから北部九州よりも人口密度はかなり低いと見られる。
戸数は凡そ1〜2万戸といったところ。
79卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 12:46:34.39
灤河〜大凌河の間に右北平郡(の一部)と遼西郡があった。
その戸数は約14万。

九州はこの二郡とほぼ同じ大きさで、その戸数は、
狗奴国を入れると約25万はあっただろう。

だから投馬国や邪馬台国を九州に比定するのは無理。

ついでにいえば、玄菟郡、遼東郡、樂浪郡の戸数も
右北平郡や遼西郡より少ないから、
その郡域はそれほど広くなかったことが分かる。

楽浪郡や帯方郡が朝鮮半島に及んでいなかったことが、これでも分かる。
80日本@名無史さん:2012/07/23(月) 13:40:49.77
>>79
桁ちがってないか?
81日本@名無史さん:2012/07/23(月) 13:41:00.71
中国のある地域に比べて戸数が多いから「無理」なんて言えるものではあるまい。
壱岐は133㎢で三千戸、そのことからすれば、九州(4万2000㎢)に百万戸
ぐらいあったからといって不思議ではない。
82日本@名無史さん:2012/07/23(月) 14:04:29.42
>>79

2郡は九州に比べて寒冷地しかも海から遠い内陸地。
2郡の単位面積あたりの食料生産量は、20%以下。

故に、2郡の食料生産量は北西九州のそれと同程度以下と考えられる。
2郡の人口14万戸も北西部九州20万戸以下となるる。
83日本@名無史さん:2012/07/23(月) 14:08:55.53
壱岐は何かの特殊事情で3000戸もあったんだよ
現代で2万8000とかなのに弥生に1万5000とかありえんわ
足りない分は本土の市に出掛けて物々交換なりしたか半島と九州との運輸交通の労賃として食料を手に入れたか…
特殊事情だからそういうこともあり得るとすることも許されるが、全域に当てはめるのは不可だろ
84日本@名無史さん:2012/07/23(月) 14:19:48.74
>>82
ほんとは「2郡の人口1.4万戸」 だから かあいそおだからいぢってあげないでね
85日本@名無史さん:2012/07/23(月) 14:39:10.58
壱岐対馬、どっちかの記述で、田畑、穀物が足りないから、
本土に言って物々交換するようなこと書いてなかったか?
86卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 16:01:45.47
>>80>>84 漢書、後漢書、幽州

代郡   戸五萬六千七百七十一
上谷郡  戸三萬六千八
漁陽郡  戸六萬八千八百二、
右北平郡 戸六萬六千六百八十九
遼西郡  戸七萬二千六百五十四
玄菟郡  戸四萬五千六
遼東郡  戸五萬五千九百七十二
樂浪郡  戸六萬二千八百一十二

涿郡 户十万二千二百一十八
广阳郡 户四万四千五百五十
代郡 户二万一百二十三
上谷郡 户万三百五十二
渔阳郡 户六万八千四百五十六
右北平郡 户九千一百七十
辽西郡 户万四千一百五十
辽东郡 户六万四千一百五十八
玄菟郡 户一千五百九十四
乐浪郡 户六万一千四百九十二
辽东属国 不明

どういうわけか、漢書と後漢書では右北平郡と遼西郡は極端な差がある。
まあ、後漢書を信じれば九州説も成り立つ。
しかし涿郡や漁陽郡などはそれほど広くはないと思われるが戸数が非常に多いから、
面積を対照するだけでは何とも言えぬ。

まあ九州説も成り立つ余地は残されたわけだ。よかったな、九州説諸君www
87卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 16:12:59.63
しかしこれだけは言えるぞ。
樂浪郡は漢代も後漢代も約6万だから、
楽浪郡がソウルにまで及んでいたなら、
北朝鮮全域で6万なのだから、
九州に20万も入るわけがない。

だから、九州説を採用したいなら、
楽浪郡は半島内にあったという説を捨てなければならない。
分かっているな。稗箕狐よ、お前もだ。
88日本@名無史さん:2012/07/23(月) 18:38:19.09
>>87
>楽浪郡がソウルにまで及んでいたなら、
>北朝鮮全域で6万なのだから、九州に20万も入るわけがない。

漢江流域以北鴨緑江以南半島西部域が6万戸だから、
北西部九州に20万戸が入ることができるのだ。

(現北朝鮮の東北部と東部は楽浪郡に含まれない。)
89日本@名無史さん:2012/07/23(月) 18:42:44.43
現北朝鮮の東北部と東部は楽浪郡に含まれない
=現北朝鮮の中央山脈の東側は楽浪郡に含まれない
90卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 18:48:05.42
>>88
その地域を地図で見てみたが、九州よりやや広い。
九州より広い地域で6万だから、九州には20万は入らない。
91日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:01:24.66
北海道は九州よりもだいぶ広いが人口は550万だ、
九州に1000万は入らない、ってわけね。
しかし、現実には入ってるなあ。
92日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:08:32.97
その人口論ももう半年以上前に議論になっただろw
またループかよ。さすがにもう同じようなネタばかりで見飽きたよ。
結論から言えば三国史記の戸数が正確なら九州に15万戸も
収容不可能だと結論でてるだろうに。もっともこの文献上の数字が
どれだけ正確かなどわからないし、結局不毛な言い争いなんだよ。
いつまで同じような不毛な言い争いやってるんだ、基地外にもほどがあるぞ。
93日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:12:10.51
調べたら九州全県で1330万なんだな
94日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:18:13.70
>>90
山地と水田不可能な平野で食料生産量は少ない。
平野部は食料生産の出来ない湿地帯にすぎない。
面積当りの食料生産量は西北部九州に比べて少ない。
国土面積は広いが6万戸を養うのに精一杯。
だから、前漢代から後漢代に人口の増加が無いのだ。
95日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:22:17.79

西暦236年10月度の九州の山岳及び海域の食物収穫量は全平野のおよそ12.3456789倍以上(試算)
九州の人口は山岳及び離島の合計約2,468,975人(試算)+平野α人(未計算)となる。





96日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:39:58.57
人口論なら延喜式に邪馬台国の時代から約600年後の
九州の人口が載ってるからみてみろ。それが信頼できる資料だ。
詳細なデータは忘れたがたしか平安時代の北九州(福岡長崎佐賀大分熊本)
で77万人程度だったと思う。なのでその600年前の3世紀の北九州で
200万人もいるかぼけwほんと馬鹿ばっか、基地外ばっかだな。
いても30万〜40万人程度だろう。それでも多い見積もりだが。
つまり倭人伝の戸数が正確だと仮定した場合、九州内に倭人伝に出てくる
すべての国があるなんてことは絶対にありえないよ。
97日本@名無史さん:2012/07/23(月) 19:49:24.01
人口論だけじゃなくあらゆる方向から検証しても
九州説はまずないよ。かといって畿内が絶対に正解だという
確証もないが、状況証拠をそろえればまあ暫定的に畿内だろうってとこ。
現段階ではそれ以上のことは言えない。新しい物的証拠でも発掘発見されないかぎり
もう進展はないんで、邪馬台国云々素人風情がああだこうだ言うのは
無意味極まりないんで馬鹿げてると言ってるの。まだわからんのか
98卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 19:50:44.30
>>94
地図を見ても、北朝鮮の西部地域に湿地帯のマークは無いがw

行ったことはないから知らないが、食料生産の出来ない湿地帯なのか?
99日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:00:28.67
>行ったことはないから知らないが

プサンよりソウルのほうが美人が多い
100日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:04:28.59
朝鮮半島の生産量を検討しているが、
湿地帯と思われる場所はたしかに少ない。

しかし、陸稲などを考慮しなければ正当とはいえない。

のだが、ちと行き詰まっている。
生産力が無いはずはないが、見積の手がかりがほしい。
101日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:05:37.63
山は▲←こうなってるから航空写真で見るより表面積が広い
山は侮れない

102日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:36:28.34
場所なし人なし根拠もなし。
妄想と願望ばかりの九州なんて有り得ない話だ。
103日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:38:43.10
だいたい、今で言うと、村か部落位の規模の集落を中国では国と言っていたんだから、
人が少ないからって九州に山タイが無かったとは言えない。
104日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:38:45.19
烏丸伝に米は常に中国からの供給に仰いでいるとある

その土地は青穄や東牆の成育に適している。東牆はヨモギのような草で、実は葵の種に似て、10月に実る。
白酒を作る技術はあるが、麹(こうじ)を作ることは知らない。
大人たちは、弓矢や鞍・勒を作り、銅や鉄を鍛造して兵器を作ることができ、
また皮にきれいな刺繍をし、毛氈(もうせん)を織り出すことができる。

米男だけが男ではない。

105日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:43:16.48
邪馬台国近畿説が正しいなら、卑弥呼が占いに使っていた、
骨や甲羅が出土しても不思議ではないだろう。
しかし出てくるのは桃の種や違うものばかりだ。
邪馬台国文化とヤマト文化は相違する。
106日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:56:27.83
ほな対馬っていわはりますのんのん
107日本@名無史さん:2012/07/23(月) 21:00:40.20
>>96
>3世紀の北九州で・・・いても30万〜40万人程度だろう。
なら、九州全体で100万ぐらいになるな。ぴったりじゃん。
108卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 21:04:46.37
>>103
これこれ、君、何を言ってるんだw
人が多すぎるから九州ではないという話をしているんだよw
>>105
これも笑える。
卑弥呼が骨や甲羅を使って占いをしていたとは知らなかったw
109日本@名無史さん:2012/07/23(月) 21:12:18.94
>>96
>3世紀の北九州で200万人もいるかぼけ

  3世紀の北九州で100万人だと言っているのだボケ
110日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:31:00.74
間をとって150万人でどうだボケェ
111日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:38:47.88
倭国二十万戸という数字は、北九州だけで考えるには多すぎる、列島全部と考える
には少なすぎる。こんな単純なことすら受け入れないの連中が多い。
112日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:49:16.48
単純に考えて壱岐に3000戸入るんなら九州に20万戸くらいは余裕だな。
朝鮮半島は田舎だったんだよ。
盗人の類がいっぱい居るし、国民は囚人や奴婢みたいだし、まだ国として統制されていなかったんだからな。
113日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:57:52.54
単純に考えたことに同意いたします。

114卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 23:29:01.61
漢書地理志をぱらぱらと見てみると、一つの郡で20万を超えているのが結構ある。
一つの郡で40万を越えているのも結構見受けられる。
ただしそれらの郡は県数が多い。ざっと計算したところ、一県の戸数は千戸前後のようである。

倭の人口に関してはネットの文献にこういうのがある。

五月 野人襲破活開城 城主湯燕降之 賊盡率城下男女 而歸 于船上 又掠邊民之女 至千人而去
盖野人地 澗人少 故掠我民 而移之 于其土也 湯燕遂入其土 爲千家君 A.D. 462

倭は人が少ないので人を略奪していくのだろう、と書いてある。
115日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:44:54.22
>どういうわけか、漢書と後漢書では右北平郡と遼西郡は極端な差がある。

説明つかないのがくず。
116日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:53:25.01
ぼおおっとしてながめただけのくせにいっちょまえに読みましたとかってわろす

地図片手において読み込まないと

>どういうわけか、漢書と後漢書では右北平郡と遼西郡は極端な差がある。

みたいなぶざまなレポートが出てくることにはなる

なかみの比較もできてないとゆうのがエロ痛いよな
117卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 23:55:59.02
間違えた。
一県の戸数は、人口密度の高い郡では一万を超えているが、
低い郡では一万以下のようである。
118卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/23(月) 23:58:53.26
>>115-116
そうか、では説明してくれ、エロ頭のいい稗箕狐くん。
119日本@名無史さん:2012/07/24(火) 00:10:34.01
>>118
うほっ本気で読めてないのか?うそだろ

縣とか城とかのなかみの数のことカウントしてみてわ
120日本@名無史さん:2012/07/24(火) 01:00:45.18
>>101
表面積は山も平地も一緒じゃないかな?
田んぼも畑も水平に作らないといけないんだから
121日本@名無史さん:2012/07/24(火) 05:42:23.00
>>114
なんじゃそりゃw
アホ丸出しで恥ずかしくないのか?
122日本@名無史さん:2012/07/24(火) 05:51:08.85
>>120
棚田米はおいしいですな
私のは▲←これの斜めんとこの硬いもんとか、青とか赤とかピンクとかドウでもいい話なんでスルーしておくんなさい

123日本@名無史さん:2012/07/24(火) 06:46:59.49
>>52>>73をニコイチ!

日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、狗奴国を滅ぼし、大和へ東遷、
樹立された大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武・祟神・垂任〜景行・仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神・仁徳〜雄略・武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(九州出身皇族→臣籍降下で紀氏へ)
【後期】…近江王朝(継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王※


-継体・安閑・宣下=日向系大王→継体の大王就任が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「磐井の乱」へ
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(紀氏系大臣蘇我氏の日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系大王(飛鳥宮から平城京に遷都)→記紀編纂(日向系大王の活躍>>>筑紫系大王の活躍)
-光仁・桓武〜=日向系大王(本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都)
124日本@名無史さん:2012/07/24(火) 08:52:49.91
>>123
神武朝::神武〜開化 9代
崇神朝::崇神〜仲哀 5代
応神朝::応神〜清寧 8代
播磨朝::顕宗〜武烈 3代
継体朝::継体〜宣化 3代
欽明朝::欽明〜孝徳 8代
天智朝::天智〜弘文 2代
天武朝::天武〜持統 2代
文武朝::文武〜光仁 7代
桓武朝::桓武〜
125卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/24(火) 08:57:57.21
>>119
城の数と戸数は全然比例していないぞバカ稗箕狐
>>121
お前もイミフな書き込みはするな
どこかどうおかしいのか指摘してから物を言え
126卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/24(火) 09:16:05.85
大体、2chには>>121のような手合いが多すぎる。
それで伊作なども苛立つのである。

その点、夢幻如などはマトモな男であった。
反論する場合も、ちゃんと根拠を述べて反論していた。
>>121の男や稗箕狐のように、理由も述べず相手をアホ呼ばわりするような男ではなかった。
19歳だって、ちゃんと自論を述べた上で相手を嘲笑しているのであって、
>>121のような横チャリ専門家ではないのである。

しかしまあ仕方がない。2chだからな。
>>121のような男はゴマンといるから、我慢するより仕方ない。
127日本@名無史さん:2012/07/24(火) 10:14:40.57
無限如も名古屋も説得力ゼロだったが、よくもそこまで礼賛できるなw
128卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/24(火) 11:16:54.11
ぷはっ またお前か、例のアンポンタン野郎だなw
まあ、この男は人をからかうセンスがあるから赦してやろう。

ひょっとして、大学で考古学を専攻したというのはこの男か?
129日本@名無史さん:2012/07/24(火) 12:00:28.34
まぬけ

遼西郡の中の縣の数かぞえれって

ほんとに鈍なおやぢだな
130日本@名無史さん:2012/07/24(火) 13:30:39.26
しかし大和平野には7万戸は無理だな
131日本@名無史さん:2012/07/24(火) 15:54:58.79
畿内説も朝鮮説も、前後の歴史を考えれば成り立ちえないことは、うすうす知ってるよ。

九州説以外では、日向から迷わず畝傍山を目指し、天皇に即位した神武東征とは一体何なのか全く説明できない。
電波を飛ばして、何も知らない初心者を巻き込み心中しようとしてるだけ。
132日本@名無史さん:2012/07/24(火) 16:07:52.61
みんな知ってると思うけど、天ちゃんは「大王」に「百」を足しただけっていうのはデフォ?
↓念のため書いとくと、

一白
大王
133日本@名無史さん:2012/07/24(火) 16:15:35.89
>>132
天皇に「百」の文字をくっつけると
どういう意味が生じてくるんですか?
134日本@名無史さん:2012/07/24(火) 16:16:40.90
畿内説も朝鮮説も成り立ちえないことは100%分かってるよ。

135日本@名無史さん:2012/07/24(火) 19:26:46.62
汚物にこきつかわれる毛人さんが不憫
136105:2012/07/24(火) 20:44:54.07
>>108
え?知らなかったの!
しょうがない、教えてしんぜよか。

「その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。
その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。」

魏志倭人伝にしっかり記述されています。
中国では殷の時代の占いの骨や甲羅が出土しているのよ。
卑弥呼が奈良県にいたのなら沢山出土しているだろうに。

白髪三千丈の大げさな中国の雰囲気で、何万個とか何千里とか、素直に信ずるほうが
アホだわ。
137日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:39:09.55
倭国の一般的な風俗のところに書いてるからねぇ
卜骨は青谷上寺地遺跡が我が国最多の240点出土
亀卜は5世紀に対馬、壱岐に伝わる
138日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:55:25.36
>>136
卑弥呼が用いたとは書かれてないけど?
それが鬼道かどうかは別問題だよ。
139日本@名無史さん:2012/07/24(火) 22:53:53.52
骨焼いて吉凶占う姿は書かれているが、銅鐸のようなケッタイなモノを祀ってる変わった人々の姿は全く記されてないな。
140日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:10:28.13
日本の青銅器祭祀のことは書いてないな、終わってるから
141日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:11:57.31
青銅器では銅鐸だけ書いてないよな。
142日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:23:48.04
銅の鏃も書いてないね。
143日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:37:27.18
ネットの個人サイトでは九州説の方達が多方面からすごく研究されていて、よく参考にさせてもらっている
そういった掲示板では話の内容もレベルがすごく高いので、投稿記事を読むのにあれこれ検索しまくる


144日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:48:25.55
倭人伝に書いてある(銅)矛は、近畿にはないよな
145日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:11:24.12
銅鐸を否定するのもいいが、北部九州でも出土、
造られてるのも忘れるなよなw
146日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:14:17.88
>>143
結局的外れで独善的なのが多いじゃん。
147日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:18:48.53
>>145
アホか絶対数が違うだろうw
148日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:20:04.76
>>146
情報だけ仕入れて自分で調べて確認してるよ
149日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:48:47.71
畿内説は銅鐸の話を出されたら屁理屈言ってファビョるしかない
鉄も矛も絹の話も...
方角も距離も有棺無槨も楼閣も...


150日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:08:07.24
>>145

九州に銅鐸はあるが、近畿のような銅鐸ばかりの銅鐸国家などない。
また九州で、三世紀に銅鐸国家が突然滅亡、なんていう近畿のような事件はない。
151日本@名無史さん:2012/07/25(水) 05:33:06.15
国内各地で発掘作業が偏ってるのに出土品の数なんてあてにするなよw
未だに畿内は銅鐸文化圏とか何年前の話だよ?
今の数だけ言えば銅鐸出土が一番多いのは畿内じゃない。
一部九州説の連中は20年前で頭の中止まったのか?
152日本@名無史さん:2012/07/25(水) 05:48:40.89
まず建設工事なんかで遺跡に係る必要がある。
次に都道府県で発掘にかけられる予算額が違う。
数字の扱い方はよく考えたうえで行う必要がある。
153日本@名無史さん:2012/07/25(水) 05:56:01.16
>>151
僕ちゃん考古学はド素人ですって言ってるようなもんだなw
154日本@名無史さん:2012/07/25(水) 06:02:03.85
>>152
あれだけ掘って土器や木片しか出ない奈良県は弥生時代は相当な田舎だったんだな
出てくる青銅器といえば叩き壊され埋められた銅鐸ばかり
倭人伝に記されたような遺物はほぼ出ない
もう畿内説は無理すぎる
155日本@名無史さん:2012/07/25(水) 07:43:48.91
>>154
あんまり無知を晒すなよ‥
他の九州説の人に迷惑だ。
156日本@名無史さん:2012/07/25(水) 10:18:17.37
畿内は銅鐸圏の中心だ。
それが三世紀に滅亡しちゃった事実は、畿内説の云えない秘密だ。
157日本@名無史さん:2012/07/25(水) 11:45:42.98
だが銅鐸は島根県が出土数ダントツ一位で
北部九州でも造られてたというのが現実。
鉄だって淡路島に垣内遺跡が発掘された以上、
今までの解釈にとらわれてると恥かくよ。
158日本@名無史さん:2012/07/25(水) 12:00:40.11
島根県の銅鐸はまとめて埋めてあったというだけのこと。早くに消滅してしまった。
159日本@名無史さん:2012/07/25(水) 12:11:38.04
>>155
畿内説信奉者涙目w
160日本@名無史さん:2012/07/25(水) 12:13:05.58
>>157
お前ファビョって赤っ恥w
161日本@名無史さん:2012/07/25(水) 16:03:57.48
銅鐸の中心地は畿内。
この銅鐸畿内国家は、三世紀に突然滅亡してしまう。
だから畿内は、卑弥呼が長年君臨した場所じゃない。
162日本@名無史さん:2012/07/25(水) 16:24:36.84
結局考古学に頼るのに、自説に都合が悪いと文句ばかり言う。
それが九州説クオリティだなw
163日本@名無史さん:2012/07/25(水) 16:35:11.82
いずれにしても、銅鐸が出土している国単位では今のところ一番多いのは出雲です。
二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。
兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。
だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。42、3出ています。
その次が近江だったかな。
大和は上から十数番目にしか出てこないです。
164日本@名無史さん:2012/07/25(水) 17:03:22.89
銅鐸の祭祀という珍しい形態を
魏の使者が見た(耳にした)なら、必ず報告してるはず

それを驚きを以って、陳寿が倭人伝に記述してるはず
165日本@名無史さん:2012/07/25(水) 18:07:15.71
青銅器の中でも銅矛は半島の物まねで、祭器化してからは武器としての性能も必要なく、
少し幅が広くなっただけで装飾もないので技術面、文化面共にあまりレベルが高い青銅器とはいえない
糸島で製作されていた特大銅鏡、畿内・東海で製作された大型銅鐸は日本特有のもので、
技術面、文化面が日本において発展したもの
もし2世紀になっても日本にまだ銅矛や28cmの銅鐸程度の技術・文化しかなかったら、倭国は朝鮮半島より
かなり後進の文化的属国という位置づけであったろう

銅鐸文化の終焉から古墳時代の到来まで50年くらいある
銅鐸に取って代わるものは銅鏡しかないので、その50年の間に玄界灘地域と畿内の関係が密接になったということだろう

鉄器は近年の発掘で状況がだいぶ変わってきた
これまでも京都には早くから鉄器が多いのはわかっていたが、四国南部・東部にもかなり出だして来て
形状から北部九州との関係が密であったことが確認されている
四国東部との海上ルート上の拠点や四国東部と交流がある地域には鉄器がまわっていた可能性はある
鉱物資源を有する地域と北部九州は交流があったと考えていいだろう
166日本@名無史さん:2012/07/25(水) 18:07:26.73
単純に考えると銅鐸の祭祀を行っていた地域は邪馬台国とは関係がないのだろう。
167日本@名無史さん:2012/07/25(水) 18:39:31.19
そりゃわからん、銅鐸信仰=鬼道かもしれないからな。
168日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:36:14.70
単純に距離を考えてみる。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里。
帯方郡から末盧国まで一万里。
残り二千里はだいたい末盧国から対馬国までの距離。
とても九州から出ることはない。
169日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:36:18.68
よくもまあ毎日毎日無意味で不毛な妄想合戦を飽きずにできるもんだ。
そんなに邪馬台国やりたきゃ巻向の発掘員のバイトにでも応募しろw
それくらいしか邪馬台国に関わる機会はないわ。たんに自分の頭で妄想してるだけ。
人口論もほんと頭悪い馬鹿ばっかで、3世紀の九州に100万人もいるわけないのに
よくもまあそんな恥ずかしいことがいえたもんだ。
最大の奴国でも2万戸×5で10万人がせいぜいだろうに。
あとは倭人伝に万単位の戸数の国など投馬国と邪馬台国しかないわけだし
これらは九州外だ。3世紀の九州はせいぜい20〜30万人程度の人口。
それが邪馬台国から600〜700年くらい経った延喜式の人口と
比べても推移的にみて整合する。戸籍から奈良時代の日本の総人口で
800万人だ。3世紀などいても200万人程度だ。なのに
九州だけで100万人もいるわけないだろwほんと馬鹿ばっかだな。
170日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:40:27.71
>>163

だ〜か〜ら〜、数で言えば
古墳の数は、畿内より兵庫県や千葉県が上。
兵庫県と千葉県が日本の中心権力だったことなんかないだろ。

銅鐸圏の中心が畿内であり、三世紀に畿内銅鐸国家が滅亡している、
という事実が、畿内説を否定している、ということが分かればよろし。
171日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:47:28.00
>>170
分かりやすくてよろし。
172日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:52:25.54
>>133
伝統的な「大王」の歴史を残しつつ、大王(人間)を神に昇格させるためだろう。

それが天武が名乗り始めた「天皇」号の目的と思われる。
有名な「大王(おおきみ)は神にしませば」で始まる天武天皇を称える一連の万葉集の歌より
http://plaza.rakuten.co.jp/sailmssn/32000
173日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:58:00.63
古墳の数云々もまじアホな素人レベルの言い草だなww
ほんと素人の邪馬台国論などこんなんばっか。
どうせ九州説も比売大神が卑弥呼なので宇佐だとか、
神武東征が邪馬台国の東遷なので日向だとか、あげく伊都国に
卑弥呼がいて伊都国が東遷しただのもうめちゃくちゃもいいとこww
馬鹿馬鹿しいとは少しは思わんのかねえ。まあ素人オタってのは
邪馬台国に限らずどこのジャンルもそういう人種ばっかなのかもわからんけど、
あまりにも糞過ぎるわ。邪馬台国はもう状況証拠から畿内でほぼ間違いないし
邪馬台国論争も過去のものとなりつつある。邪馬台国が畿内だと
わからずまだ九州だとか言ってるやつは自分のおつむが足りてないだけ
なのに学者の捏造だとかなんとか難癖つけてるだけにすぎない。
174日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:05:37.65
銅鐸信仰=鬼道?には吹いた。
どう考えても鬼道はシャーマニズムでしょ。
それも神や故人やモノノケがミコにのり移った状態、憑依ね。
でなければ、わざわざ書物に載せるわけがない。
175日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:09:39.35
>>状況証拠から畿内でほぼ間違いなし

どういう状況証拠なんだ?
畿内にヤマト政権が有ったことは間違いないだろう。
しかし、ヤマト政権イコール邪馬台国(倭国)が発展した、とは言えないもんね。
176日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:11:19.97
>>173
また、いつものド○ホウかい。ごちゃごちゃ言わずにお前が邪馬台国=近畿と
立証すればいいことだろう。さあ、立証してみい。
177日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:21:27.53
もうさんざん立証したけどおまえらが勝手な妄想に取り憑かれて
九州だと妄信して取り合わないだけだろww
これってカルト宗教にはまったやつの典型的兆候なんだがなww
178日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:58:57.95
>>170
>銅鐸圏の中心が畿内であり、三世紀に畿内銅鐸国家が滅亡している、
>という事実が、畿内説を否定している、ということが分かればよろし。

銅鐸が畿内説を否定していることについては同意。
しかし、

>兵庫県と千葉県が日本の中心権力だったことなんかないだろ。

兵庫県(播磨國)が5世紀の近畿(瀬戸内東端地域)の中心地。
それは、扶桑國(播磨國)の王「乙祁」が顕宗天皇(弘計)であることからわかる。
(顕宗・仁賢・武烈が播磨王権の畿内支配を示している)
又、畿内の仏教伝来が播磨國からであることからもわかる。
179日本@名無史さん:2012/07/25(水) 21:09:42.04
>>173
私は九州説だが、下記は否定する。

@比売大神が卑弥呼なので宇佐だ
A神武東征が邪馬台国の東遷なので日向だ
B伊都国に卑弥呼がいて伊都国が東遷した
180日本@名無史さん:2012/07/25(水) 21:48:55.64
畿内銅鐸文化の消滅順序

@和泉・河内(大阪平野南部) 2世紀中葉から3世紀初頭迄に

A摂津西部(神戸) 2世紀中葉から3世紀初頭 大型古墳の発生の頃迄に

B大和(奈良盆地南部) 2世紀後期?  神武進入の頃から

C摂津・山城(大阪平野北部・京都南部) 3世紀後半 埴安彦の死亡、佐保彦の死亡

D近江(滋賀南部) 4世紀
181日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:05:16.74
さざなみの近江
つぎのう山背
アヲニヨシ奈良

お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる
182日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:06:27.93
記紀には、銅鐸祭祀はおろか、銅鐸そのものについても、ほとんど登場しない。
これは、大和王朝が銅鐸文化とは無縁であることを証明している、といえる。

つまり、大和王朝のご先祖(いわゆる歴代の天皇)は
三世紀以前の近畿には居ない、ということ。
183日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:15:16.38
銅鐸祭祀ってそもそも民衆の信仰なんじゃないの
184日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:23:57.56
>邪馬台国はもう状況証拠から畿内でほぼ間違いないし

世の中には頭が悪いのかずる賢いのか訳の分からない人間が居るもんだ。
倭人伝によれば、卑弥呼はAD180年前後に倭国の女王に共立され248年頃に死亡している。
その卑弥呼が女王に共立された頃の畿内はどういう状況であったか?

畿内の弥生遺跡に王墓らしきものはほとんど見られない。つまり、ムラの長老みたいな存在はあった
かも知れないが、権力構造としてはさほど影響力の大きいものはなかったと見られる。
それに対して九州は大陸や半島に近く、政治的、軍事的にもより影響力の大きい権力構造が生じてい
たと考えられる。九州の弥生遺跡がそれを物語っている。

この畿内と九州が(中国地方と四国も巻き込んで)畿内の卑弥呼を女王に共立するというシナリオが
成立するわけがなかろう。状況証拠は畿内説に不利なのである。
185日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:26:12.78
なんで畿内説連がここに来るんだ?
「ドンこい」で「畿内説の正当性」を書いてればいいじゃないか?
それとも畿内説はネタが貧弱でアンチ九州でもしていなければ成り立たないとか?
九州説はさらに細分化していて忙しいんだよ、それこそ「畿内説連」が言うように
九州説の統一も必要かもしれんが、なにせ弥生時代後期〜古墳時代の九州は
アチコチが先進国らしく繁栄していて、邪馬台国を比定するのに迷ってしまう。
「畿内説」など相手にしている暇ないからこっち来るな。
186日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:28:08.76
近江にも東海にもあるYO
近江→美濃・東海(多賀大社から見れば山(霊仙)の背中側にある)→奈良と遷都された見れば、考古学的にもオケ
187日本@名無史さん:2012/07/25(水) 23:41:26.71
>>174
銅鐸の紋様は鹿や巫女、渦巻等、シャーマニズムと
関連の深いモノが描かれているけど。
188日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:58:31.02
>>169
>そんなに邪馬台国やりたきゃ巻向の発掘員のバイトにでも応募しろw
それくらいしか邪馬台国に関わる機会はないわ

畿内と邪馬台国は無関係。
向の発掘員のバイトにでも応募しても邪馬台国とは関われない。
詐欺師の仲間になるだけ。
189日本@名無史さん:2012/07/26(木) 05:17:21.67
>>175
>畿内にヤマト政権が有ったことは間違いないだろう。
そんなものはなかっただろう。弥生時代の畿内には見るべきものはない。
邪馬台国は九州を統一した後本州を植民地にした、その前進基地として三世紀後半以降に畿内に進出
したんだよ。そのとき、本州の人々を畏怖させ服従させるために古墳を造ったんだろうな。
190日本@名無史さん:2012/07/26(木) 05:21:06.09
>>187
>銅鐸の紋様は鹿や巫女、渦巻等、シャーマニズムと関連の深いモノが描かれているけど。

巫女や渦巻等なんてない。

地模様に作業する人と動物が描かれているだけだ。
191日本@名無史さん:2012/07/26(木) 05:28:37.58
>>190
釣り?本気で言ってるなら無知すぎるだろ。
192日本@名無史さん:2012/07/26(木) 05:46:08.38
>>191
巫女や渦巻の絵がいくつある? 

ゼロ個だな。

現物を見ろ。
193日本@名無史さん:2012/07/26(木) 06:07:09.07
>>123を改良!

奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)──┼──投馬国(宮崎)→神武東征
.............隼人(鹿児島)

日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
自らが男系であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷、大王に即位し、大和朝廷を樹立。

大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(継体〜天智〜桓武〜現在※)=投馬(日向)系大王


-継体・安閑・宣下=日向系大王→継体の大王就任が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏の日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」敗戦で半島権益を喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系融和の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系大王の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
194日本@名無史さん:2012/07/26(木) 07:31:27.21
>>192
都合の悪い物は目に入らない、それが九州説。
さすが半島人と同一気質だね。
195日本@名無史さん:2012/07/26(木) 07:57:46.14
具体的にどこからでた銅鐸か指摘すれば?
196日本@名無史さん:2012/07/26(木) 08:02:03.49
渦巻きといえば、装飾古墳だが、
銅鐸のデザインとは、方向性が違うな。
197日本@名無史さん:2012/07/26(木) 08:05:11.44
★手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島
0.118…アイヌ人

(山口敏『日本人の顔と身体』より)
198日本@名無史さん:2012/07/26(木) 08:30:43.80
>>194
>さすが半島人と同一気質だね。

それを言うのは
大抵がが半島出身の大和朝廷系列のこざっぱである。
199日本@名無史さん:2012/07/26(木) 08:36:54.59
>>195
例えば桜ヶ丘5号銅鐸の工字型器具を持つ人。
同一コマに魚の絵もあるから釣り道具とする説もあるが
あんな道具はない。
三本指(鳥の象徴)で女性はシャーマン的な表現だよ。
渦巻自体は探せばいたるところに描かれてる。
200日本@名無史さん:2012/07/26(木) 09:00:57.04
銅鐸の線画って、どっちかといえば、漫画的な絵だよね。
201日本@名無史さん:2012/07/26(木) 09:02:50.72
>>194
南と書かれてるものを実は東だ!と都合が悪いものを、都合よく捏造するそれが畿内説!
どっちもどっちwww
202サングラス偽物 :2012/07/26(木) 09:16:50.19
サングラス偽物
ベルトコピー
新作_スーパーコピー送料無料專門店
送料無料

http://get.tf/g
担当者: 小谷 藤子
203日本@名無史さん:2012/07/26(木) 10:17:42.50
>>199
「三本指(鳥の象徴)で女性はシャーマン的な表現」と君は思い込んでいるだけだ。
T型の道具と三叉の道具をもって、何かの作業をしている人物にすぎない。

>渦巻自体は探せばいたるところに描かれてる。
どこに?
多重円が描かれたものはあるが。
204日本@名無史さん:2012/07/26(木) 10:26:07.13
そうね。三本指ではない。脱穀だろうな。筵の上に座り棒に稲束などを打ち当てて
実を落とすんだよ。
205日本@名無史さん:2012/07/26(木) 10:57:05.08
ちゃんと現物見てるか?
脱穀になんで魚が必要なんだよw
それに円と渦の違い位わかるだろ…
206日本@名無史さん:2012/07/26(木) 11:22:26.95
魚との関連を考えるなら釣りだろう。左手はオールかな。
207日本@名無史さん:2012/07/26(木) 11:40:19.30
>>205
魚なんかどこにもないぜ。
二等辺三角形の絵だ。
底辺が直線だから動物の絵ではない。
稲穂から籾を落とす脱穀器を地面に置いてあるようにも見える。
両手で振り上げている道具は、麦の脱穀道具にも見える。

現物をよく見ろ、多重円の模様だ。
バカな考古学者は多重円模様を渦巻模様と言っているようだ。
208日本@名無史さん:2012/07/26(木) 12:17:01.84
>>207
何故そんなに必死なんだw
209日本@名無史さん:2012/07/26(木) 12:49:32.97
銅鐸なんてどうでもいいだろ?
邪馬台国とは全く関係ないんだから
210日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:13:23.83
いや、銅鐸のある場所が女王を共立した国だからな。
倭人伝の記述にない?そりゃ埋めた後の記述だから無いだけの話w
211日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:19:20.19
目に留まらないかもしれないし、あったからと必ず書く保証があるわけでもない。
そもそも邪馬台国まで行ってないかもしれない。
212日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:20:00.97
銅鐸や土器に描かれている動物、幾何学文帯などの絵画はシンボライズされたもので
それぞれに意味があるから、ある程度知識ないとただ絵として見ただけじゃわからないよ
213日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:29:32.37
>>210
その根拠は?
214日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:51:35.42
>>213
元々銅鐸は北部九州で造られたものが一番古い。
つまり伊都から発生して各地に広がった訳だろう。
215日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:53:07.35
銅鐸の文様にも色いろあるだろうから、
一概には言えないだろうが、

銅鐸は人や動物、生活空間が書かれた、具体的なもの。
銅鏡は、神獣鏡や内向花紋のように、思想的、抽象的なもの。

両方共祭祀に使ってたのかもしれないが、
銅鐸のほうが、日本古来の神道的な感じがするな。
216日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:20:11.46
>>214
確かに初期の小型銅鐸は北部九州から出土している。
このことは銅鐸が北部九州から全国に波及していった可能性を示すものである。
しかし銅鐸祭祀は北部九州では発展せず島根、兵庫、徳島あたりを中心に拡がりを見せる。
その後2世紀になるとそれらの地域は銅鐸の祭祀をやめ、銅鐸祭祀の中心地は近畿、東海へと移っている。
畿内では2〜3世紀でその最盛期を向かえ、古墳時代の幕開けと共に銅鐸を捨てている。
つまり魏志倭人伝に記された邪馬台国の時代に、未だ畿内では銅鐸が祭祀の対象となっていた。
にも拘らず倭人伝には全くその描写が見られない。
勿論、記紀にもそんなものの記述は無い。
この事から、邪馬台国にしろ初期の大和政権にしろ3世紀の畿内とは無関係であったと考えるべきである。
217日本@名無史さん:2012/07/26(木) 16:31:50.28
倭人伝の記述は卑弥呼没後、イヨの時代だからな。

卑弥呼の共立、もしくは亡くなったのが、銅鐸を埋葬する
きっかけになったともとれる訳だか。
218日本@名無史さん:2012/07/26(木) 17:49:45.93
>>210
>銅鐸のある場所が女王を共立した国だからな。

根拠なし。
219日本@名無史さん:2012/07/26(木) 18:20:05.58
倭人伝には銅鐸祭祀だけでなく銅矛を土中に埋納する青銅器祭祀のこと自体が書かれていない
北部九州でも銅矛祭祀は筑後川流域、有明周辺、宇佐が盛んで博多湾岸、糸島は少ない
大和では大型銅鐸祭祀は盛んでなかったようで、出土も纏向の双頭渦紋片くらいしかない
銅鐸は3世紀には小型化していくので祭祀の変化により祭器として廃れていく
最終的に10cm以下のものは千葉の前期古墳でも副葬されている
青銅器祭祀は弥生の文化を知る上では重要であるが、最盛期や消滅時期が地域により異なるので
比定地の根拠としては決定的なものにはなりえない
220日本@名無史さん:2012/07/26(木) 18:47:46.08
島根で銅鐸と矛が一緒に埋葬されていた時点で、
従来の銅鐸、銅矛文化圏とかいう分類は消滅してるよな。

でも銅鐸に描かれた絵図は興味深い、特に渦紋様の研究は重要だよ。
221日本@名無史さん:2012/07/26(木) 19:04:59.88
>>220
重要だと思う
銅鐸の絵図と土器のものとの比較とか、銅鐸の周りによく使われている鋸歯文と銅鏡の比較とか、
銅鼓の絵図、文様との比較とかね
222日本@名無史さん:2012/07/26(木) 21:14:45.51
とにかく、銅鐸がいっせいに埋納されたことで、銅鐸勢力は征服されたということだ。
農業にいそしんでいた銅鐸勢力は、九州の武装勢力に征服され、植民地にされてしま
ったんだよ。
223日本@名無史さん:2012/07/26(木) 21:36:56.73
古代史研究にあまり興味がもてない人にはCivilizationシリーズをお勧めするよ
国家に必要なものが少しわかるから
224日本@名無史さん:2012/07/26(木) 21:45:13.74
九州説の人も一大率を置いた邪馬台国は畿内の大和だと思ってるんでしょ?
九州説の人は素直になって楽になればいいのに
225日本@名無史さん:2012/07/26(木) 21:49:28.50
>>224

そんな九州説は聞いたことが無いな。
そんな説をとなえているのは、具体的に誰?
226日本@名無史さん:2012/07/26(木) 21:56:53.20
>>224
>九州説の人も一大率を置いた邪馬台国は畿内の大和だと思ってるんでしょ?

一大率の伊都国が糸島にあったと考えているのが大間違い。
さらには
糸島の国が畿内に支配されていたと考えているのがさらなる大間違い。

何の取り柄もない妄想だ。
227日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:13:20.16
畿内に支配された糸島伊都国は鏡の輸入港の一時保管倉庫として一時期使われた
以前の周溝墓のうち目に付いたものは新支配者の畿内によって暴かれついでに鏡は叩き割られた
228日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:21:27.35
>>222
その理屈じゃ銅鐸が元々北部九州産という話と矛盾するわw
それに出雲に銅剣と一緒に埋められてのも説明出来ないよ。
229日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:33:02.20
糸島から早良区にかけては、博多湾の入り口でもあり、
筑紫国としては貿易の重要拠点である。重要な鉄の入手ルートでもあるだろう。

同時に唐津も貿易の重要拠点である。
こちらも鉄の入手ルートだろう。

肥国としても、肥前唐津ルートを明け渡すわけには行かなかった。
そしてまた、筑紫国としても、有明海に出るルートを必要としていた。
230日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:36:17.36
>>228
銅鐸は朝鮮から入ってきたものが発展したものだろう。朝鮮から入ってきたところは北九州
だよ。それが本州に伝わっていろいろな形に発展したんだ。北九州ではそんな農業祭祀の道
具は流行しなかったということだな。
出雲は銅鐸勢力と九州勢力の接点となっていた地域だろう。そこがまず九州勢力の手に落ちた。
そのときに出雲勢力は自らがもっていた宝物を地中に埋めたってことだ。
231日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:36:37.66
北部九州の銅鐸は、鋳型が出ているところから、
存在もしていたし、作ってさえいたことも間違いないが、
絶対数が少ないことから、祭祀の一部ではあったかもしれないが、
それほど重要視はしていないと思われる。

このへんは、前方後円墳などの墓制と同じで、
あまり統一感がなく、それほど興味も持っていないようである。
232日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:40:55.34
まあ、いろいろな痕跡を見ても、九州は
広域の統一支配など存在しない。

各地の豪族が、毒にも薬にもならない人畜無害な
名目だけの王を共立するのがせいぜいだろう。

必要とされたのは、各豪族間の紛争を抑えるための、
話し合いの場とそのコーディネーターである。
233日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:42:28.40
>>227
畿内勢力が九州糸島を支配したなんてことはないな。畿内勢力が北九州に
入った形跡はまったくない。
畿内はずっと鉄不足のままだ。
234日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:56:56.21
>>230
銅鐸は元々中国だと思うが。
それに魚や鹿の絵を見る限り、農業祭祀とは解釈出来ないなぁ。

当初から後期まで一番多く描かれたのは鹿と鳥。
普通はシャーマニズとの関連性を想定するよ。
235日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:59:41.84
鳥栖だったか吉野ケ里だったか忘れたが、ベロ付きの小型銅鐸が出ている。
まだその頃は実用品だったのかもしれない。
236日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:08:58.00
とりあえず倭人伝には矛や絹の記述があるが銅鐸の記述は無い。
数少ないものであったらわざわざ記す訳はないだろう。
矛、絹、鉄鏃などが大量にあったからその存在を書き留めた。
銅鐸などは特記するほどなかった。
つまり畿内は邪馬台国とは関係ない。
237日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:15:09.16
だいたい倭人伝には銅がでてこない。北九州や畿内ではないってことだね。
238日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:18:52.07
鉄が使われていた事が特記するべき事柄であっただけ。
珍しくないものはわざわざ書かない。
239日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:19:45.42
>>236
北部九州でも銅鐸は確認されてるよな?
240日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:19:45.89
元来日本語一音一音には意味がある
又、組合せによって同じ一音でも
違う意味になる

や・ま・た・い は

也・末・奏・以 となり

大王の始まりし国 となり

や・ま・と は

也・末・止 となり

大王が留まりし国 となる

ひ・み・こ は

比・美・己 となり

比類なき美人 となる


あとはわかるな
241日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:20:55.14
>>237
矛や鏡は何でできてたと思ってるんだい?
242日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:21:53.22
>>239
もう一度>>236を読み直してみよう。
243日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:27:33.73
>矛や鏡は何でできてたと思ってるんだい?
矛は鉄だよ。銅矛ではない。
鏡は魏がくれたものだろう。邪馬台国に鏡があったとは書かれていない。
244日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:28:50.72
>>242
出雲が一挙に最大の銅鐸所有地になった意味を理解してる?
九州だってその可能性はあるんだよ。
245日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:31:35.92
鉄の矛は畿内からは出ない。
ほとんど九州から出土してる。
246日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:32:35.80
>>244
倭人伝の話をしてます。
分かる?
247日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:33:52.91
>鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、
>九州から圧倒的に多く出土する。 
>福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
248日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:34:13.98
>>243
なぜ鉄製だと思うのか理由を教えてください。
249日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:35:28.15
>>246
当然だろw
つまり銅鐸は畿内説を否定する材料にはならないって事だ。
250日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:38:45.74
倭人伝での記述なら鉄より丹(水銀朱)の問題もあるしな。
今のところ弥生期の採掘跡は阿波にしかないはずだが。
251日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:39:06.55
>>249
考古学を分かってないみたいだね。
出雲が邪馬台国の候補から外れたというだけのことだよ。
252日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:43:32.74
>>248
倭人伝が書いているのは武器としての矛だ。しかし、弥生後期の銅矛は幅が広い
祭祀用であって実用的なものではない。
253日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:43:42.93
>>251
バカか、北部九州からも出てるだろ?
これがもっと増える可能性もある点を指摘してる訳だが。
254日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:45:19.17
そんなことを言ったら出ていないものだって「これから出るかも知れん」
といえるぜ。
255日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:51:44.19
>>254
少し違うな、現状でも確認されてるし。
銅鐸を否定材料に使うのは、九州説にとっても
決してプラスにはならん。
256日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:52:33.86
確かに北部九州からも出ているが数はかなり少ない
探し回らないと見つからないレベル
257日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:53:36.11
>>253
考古学を分かってないみたいだね。
そうなったら北部九州が邪馬台国の候補地から外れるというだけのことだよ。
258日本@名無史さん:2012/07/27(金) 00:05:26.36
>>257
いや、考古学的に考えるなら北部九州はもう外れてるでしょ。
259日本@名無史さん:2012/07/27(金) 00:10:03.21
次に倭人伝に記されている矛について考察してみよう。
鉄製にしろ青銅製にしろ九州からは大量に出土しているが畿内からは全くと言うほど出ない。
このことから邪馬台国は畿内と関係ないことが分かる。
260日本@名無史さん:2012/07/27(金) 00:44:57.65
その理屈だと中国産の水銀朱しかない九州は
邪馬台国とは関係ないという事だな。
261日本@名無史さん:2012/07/27(金) 01:29:47.29
そういえば、疑問に思っていたのだが、
九州の水銀朱が中国産で、
畿内の方の水銀朱発掘跡が弥生時代からあるとすれば、

畿内と九州が繋がっていないということでもあるよな。
262日本@名無史さん:2012/07/27(金) 04:56:53.30
九州で見つかる銅鐸は、小型の鐸で、中国・朝鮮にもあるレベル。
つまり、鐸として機能するものであって「銅鐸祭祀」とは無縁のレベル。

本州に見られる「銅鐸祭祀」は、魏使が特記すべき珍風俗と言えよう。
263日本@名無史さん:2012/07/27(金) 05:55:34.10
>中国産の水銀朱しかない九州
そんな研究あるのかね?
264日本@名無史さん:2012/07/27(金) 06:10:50.78
>>193>>240
投馬は「つま」とも読めるから、薩摩(さつま)隼人のことジャマイカ?

魏の書記は、邪馬台国の役人と通訳2人を通して倭人の発音を漢語で表記したわけだから、
倭人側2人が「さつま(薩摩)国」と言ってるのを聞いて、語尾の「つま」が強く響いて語頭の「さ」を聞き落とし
最終的に「投馬(つま)国」と書いてしまったんだと思われ

265264:2012/07/27(金) 06:21:58.63
【補足】
文明開化の時、アメリカから入ってきた小麦粉を(ア)メリケン粉と言う様になったのと同様w

投馬(つま)国=薩摩(さつま)説 ですた 
266日本@名無史さん:2012/07/27(金) 07:16:45.01
薩摩の呼称が古いものかどうかの確認が必要だな。
投馬国が、久留米の妻国か、鹿児島の薩摩国か。
267日本@名無史さん:2012/07/27(金) 07:23:50.08
>>262
倭人伝が書かれたのが3世紀後半。
それだと銅鐸は既に埋められた後にあたるのだが。
268日本@名無史さん:2012/07/27(金) 07:30:45.64
>>266
700年代より以前のものを文献で見つけるのは不可能なんでは…
朝鮮に残ってないだろうかな
269日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:03:17.49
8世紀の文献にあれば、候補に入れていいだろう。
クメ、クナ音で、久留米を候補に上げる人もいるが、
久留米は一番古くても15世紀なので、候補からは外れると思う。
270日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:04:43.30
おっと、ツマ音は、妻で、候補に入れていい
と思う。
271日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:04:55.34
>>266
>薩摩の呼称が古いものかどうかの確認が必要だな。
>>268
>700年代より以前のものを文献で見つけるのは不可能なんでは…

続日本紀文武四年(700)に、「薩末」と出てくる。
272日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:11:37.96
>>265
確かに、What time is it now? と「言って」もアメリカじゃ全く通じない。
掘った芋いじくんでねぇ!と「叫べば」、アメリカ人の脳内でそれに近いWhat time is it now?が自動検索されて通じる。

母音の長短でリズムを取る(区別する)日本語⇔アクセントでリズムを取る(区別する)英語や中国語(四声) の翻訳では要注意。
例:病院vs美容院(びょーvsびよう) ここに日本人が英語音痴と言われる原因がある。

しかし、投馬国が「(さ)つま」かどうかは、当時の中国でどういうアクセントで発音されていたのかによるだろう。
273日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:16:55.26
>>267
倭人伝では、倭人の古代から現代(=魏使訪問時)までの風習を記述してる
倭人伝を「書いた」時の風習ではない
274日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:25:22.30
>>273
銅鐸を奉っていたことが倭国にとって「恥ずかしい過去」ならわざわざ教えないかもね
275日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:30:45.33
九州で銅鐸が出ることは出るが、
あまり重要でもないマイナーな習慣だったんで、
誰も特に言わず、中国の使者も気づかなかったんだろう。
276日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:39:42.14
新年と田植えとお盆と収穫祭の年4回の村祭りにしか銅鐸(御神体)は使わなかったと考えると、
魏の使節がそれを書きたくても書けなかった可能性は一応あると見てもいいだろうが、
もしその年4回のお祭に出くわしていれば、巨大な鈴を祀る(御神輿のように担いだ??)習慣は絶対記録されたにチマイナイ!

277日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:49:27.05
九州で出てくるのは、ベロつき小型銅鐸なんで、
ヘタしたら、祭祀とは関係なく、鈴や鐘のような実用品かも。
278日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:50:18.47
たしか、佐賀県立博物館で、複製された銅鐸の音が聞けた。
279日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:06:49.13
鬼~を祭る時のふつうの鐸の用途
   常以五月下種訖 祭鬼~ 羣聚歌舞飮酒晝夜無休
   其舞數十人倶起相隨踏地低昂手足相應節奏有似鐸舞

鬼~を祭る時の大木とか鈴や鼓の用途
   信鬼~ 國邑各立一人主祭天~ 名之天君
   又諸國各有別邑 名之爲蘇塗 立大木 縣鈴鼓 事鬼~
280日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:13:17.20
稲作にとって一番大切なのは「太陽と水」なので、特に稲作が全国に普及した弥生時代以降は祭祀対象(御神体)。

銅鐸が巨大化していったのは、ほぼ間違いなく、銅鐸が太陽のシンボルだったからだと思う。
太陽を直接反射する銅鏡が中国大陸から伝わってから、銅鐸と入れ替わるように銅鏡祭祀が普及するのがその根拠で、
大和朝廷の歴代大王を祀る全国の神社のご神体が(銅)鏡なのも、明らかに「太陽」を祭祀の中心におく名残だし、
大阪府和泉市の池上曽根遺跡の刳り貫き大井戸や、古墳時代の導水施設の埴輪ももう一つの神「水」を祀る名残にチマイナイ!
龍(雨を降らせる)や蛇(川や池の主)を神とするのは、古今東西・農耕民族の本能だった可能性が高い。
ちなみに龍は、開墾に伴う作業で出土した巨大恐竜の化石からのイマジネート(想像)の産物だった可能性も指摘されている。

ウェールズ国旗 http://www.sarago.co.jp/nfgrp/fgb-wal.gif
ミラノ市紋章 http://blog-imgs-42.fc2.com/j/s/a/jsasame/C4-5-2.jpg

天照大神は仏教伝来後大日如来と習合された太陽神で、大和朝廷歴代大王(天皇)はその子孫。
「太陽(鏡)」の子が「水(蛇や龍)」を祀って稲作を司る大神官として、天皇制は残ってきたんジャマイカ? 
281日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:16:36.94
>>273
また勝手な妄想かよ。埋めたとされる時期と、
トヨ活躍時期は少なくとも数十年の差があるぞ?

風俗なんて見聞きした一時的な記録だよw
282日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:19:27.63
太陽神(銅鏡)と水神(蛇)のセクースこそ卑弥呼の「鬼道」の本質だったのキャモなw
283日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:19:37.95
本当にバカだね、銅鐸のヒントは女性だ。
それに気づいた奴は意味を理解できる。
わからない奴は一生工程パズルやってちょうだい。
284日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:27:35.29
九州の銅鐸? 毛人のお守りだよっていうお土産品ぐらいの物だね。
285日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:36:53.85
例えば河川周辺や山間部中腹のような、
耕作不適切な土地に埋められた銅鐸はどう評価するかだね。
鹿や魚、獣の絵からわかるように狩猟民族のモノだろう。
でも牛馬の絵が無いことを忘れずにな(重要だろ、これ)
286日本@名無史さん:2012/07/27(金) 09:40:32.08
287日本@名無史さん:2012/07/27(金) 10:15:17.37
耀姫様
「鬼道(高句麗道教)の祭祀を行う
 卑弥呼(日の巫女の王・斎王・ピミヲ)
 の神宮(神殿)の立地条件を12挙げてみなさい。
 話はそれからです。」

カフェ・プリマベーラの歴史フォーラムを訪れた生徒
「鬼道って道教なんですか? 仙人なんて実在しませんよ」
「どうしてヒミコをピミヲって???
 日の巫女と卑弥呼って関係があるんですか?」


「これじゃ、邪馬台国(邪馬壹国)の位置は特定不能だな...」
288日本@名無史さん:2012/07/27(金) 10:30:21.58
>>280
銅鐸は、オボ信仰の神憑りの神事に必須の楽器
銅鏡も楽器として使われることがあったが、
神事での両者の用途は大きく異なるようになっていく。

太陽神(陽の男神)は凹面鏡(日矛鏡)
日の光を紙で折った鳥に当てると燃え上がり、
金鵄が誕生する採火の神事が今に残る。

日女神(陰の女神)は凸面鏡(日像鏡)
宝玉を通した光を紙に当てると、太陽の姿が投影されて、
八咫烏(太陽黒点)を観察して、
その年の吉凶(気候変動)を占う神事が今に残る。

天照大神は陰陽二柱一対の存在。
天上に輝く太陽は、陽の存在であり男神だが、
その輝きを受ける巫(かんなぎ)は、
陰の存在であり女神である。

したがtって、天照大神が人の姿で降臨するときは、
男装した巫女の姿を取り、
赤い瑪瑙の珠をシンボルとする女神である。
289日本@名無史さん:2012/07/27(金) 10:37:49.90
おっと、 >>288 に補足

凹面鏡(日矛鏡)で反射した日の光(日矛)を
紙で折った鳥に当てて採火すると、金鵄が出現する。

太陽の光を宝玉を通して集めてから凸面鏡(日像鏡)に当てて、
反射した光を紙に投影して、日像を得ると、
そこに八咫烏(太陽黒点)の姿が出現する。

舌足らずになってた。
290日本@名無史さん:2012/07/27(金) 11:26:01.46
そういえば、倭人伝では卑弥呼の墓は甕棺ではなかったはずだが、
吉野ヶ里では、王の墓と思われる墳丘墓からも甕棺が出てくるので、
多分違う。

甕棺は筑前、筑後、肥前あたりから、たくさん出てくるので、
卑弥呼の墓は、この辺ではないだろう。
291日本@名無史さん:2012/07/27(金) 11:43:16.78
>>283
銅鐸はマトリョーシカ人形みたいに入れ子になってるから土偶同様、「多産」を意味するのかな?

>>288-289
おお、素晴らしい情報サンクスコ!

八咫烏(黒点)の多少でその年の太陽活動を占うのは理に適ってるね!
卑弥呼の鬼道も、銅鏡による太陽の活動観察が原点になっていたのは間違いないね。
ひょっとすると卑弥呼は、11年に一度太陽活動が活発化することも知っていた可能性があるyo!

しかし西暦247年3月24日日没時、北九州で観測された皆既日食を予想できなかったことで、
カリスマ性を失い毒殺された可能性は大いにある…orz
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-4.htm

292日本@名無史さん:2012/07/27(金) 12:33:23.35
>>290
弥生中、後期の円墳なら瀬戸内東部の円型周溝墓が該当するけど。
293日本@名無史さん:2012/07/27(金) 12:46:27.21
降臨した日女神(妹姫・斎王・天照大神)は、
男王(兄王・天皇)に太陽神(東明聖王)の力を授ける。
これによって、
天皇は天照大神(東明)と心身一体の状態になり、
鬼神の神威を顕現させ、
神事に列席した一同を、
その感化力によって失立(転換性ヒステリー・平伏)させる。

以上が、
斎王の神宮で行われる最も重要な
王権を継承する神事(戴冠式)だった時代があるらしい。
卑弥呼も本来は、この役目を担う巫女だった筈。
294日本@名無史さん:2012/07/27(金) 12:50:56.78
今も神や仏を呼ぶのに鈴や鐘を使うわな
縄文時代は土鈴があるしな
人間の根源的なものは変わってないのぅ
295日本@名無史さん:2012/07/27(金) 12:53:28.33
>>291
卑弥呼は月の満ち欠けの観察=弧読み(暦)の作成や、
ヒキガエルで天気予報みたいなことも当然やっていただろう

そういう最先進の特殊技術は大陸への玄関口である北部九州以外には考えられない
帝政ロシアで言えば「ヨーロッパへの窓」首都サンクトペテルブルク

卑弥呼はまさにコンピューターおばあちゃん!
296日本@名無史さん:2012/07/27(金) 13:07:41.36
ここでボクが機内説にトドメを刺そう
箸墓及びその周辺から殉葬者100人の骨は出たかい?
297日本@名無史さん:2012/07/27(金) 13:09:25.82
>>291
太陽の活動周期は11年かまたは12年。
干支を考えた中国人は、12年の太陽周期を観察していた可能性がある。
太陽の黒点の活動と気候の関係は、最近科学的にも分かってきたが、
昔の人は、地道に観察して、経験で悟ったとしか思えない。

宝玉(レンズ)と鏡の組み合わせで、太陽を拡大投影することに成功して、
黒い変なモノが太陽の表面をゆっくり移動していくのを発見した人は、
さぞ驚いたことだろう。
で、太陽には黒い火の鳥が棲んでいる! と誰かが言い出した。
298日本@名無史さん:2012/07/27(金) 13:10:17.01
>>291
卑弥呼寒冷期(地球規模の大異変)の頃は、
農作物がうまく育たなくなって、どこの地域でも飢饉に苦しみ、
結果的に土地を奪い合う戦乱も起こったらしい。
弥生時代から古墳時代に移行した原因も、そこにあるのだろう。

どうして太陽が陰って作物の育ちが悪くなったのかと、
統治者達は必死で考えて、太陽を観察していたに違いない。
扶余の国王なんて、王の徳がないから太陽の力が衰えたのだと、
国民から誹られていたらしいから、
神事にすがろうと考えるのは当然だ。

神道のルーツは、どうやら高句麗道教らしいが、
高句麗もかなり北に位置する弱小国家だから、
盛んに太陽に向かって拝んでも解決しないってことで、
日の巫女の王(斎王)が日国(日本)への里帰りを託宣して、
大勢引き連れて九州に渡来してきたらしい。
299日本@名無史さん:2012/07/27(金) 13:14:19.14
香春神社縁起によると、
「新羅神は比売許曽(ヒメコソ)の神(赤留比売・アカルヒメ)の垂迹、
 摂津国東生り郡・比売許曽神社と同体也」
となっている。

新羅神とは、辛国息長大姫大目命(神功皇后?)なわけで、
「第一座辛国息長大姫大目命は、神代に唐土の経営に渡らせ給比、
 崇神天皇の御代に帰座せられた」とある。

つまりは、日の巫女の王・赤留姫の託宣によって、
唐土から日国(日本)へと、多くの人が渡来してきた伝承が残っている。
この日の巫女の王が卑弥呼その人かどうかは分からないが、
多氏・秦氏が祀る天日矛・赤留姫のペアの渡来伝説と、
香春神社縁起と、神功皇后の伝承は、繋がっていると見るべきだろう。

記紀神話は、神功皇后(赤留姫)が
さも皇祖神・天照大神で卑弥呼でもあるかのように、
仄めかす書き方をしているし、
奈良のどの神社よりも香春神社を格式が高い神社として
朝廷が扱っていた以上、この線の推理は細くない。
300日本@名無史さん:2012/07/27(金) 13:18:25.32
金鵄と八咫烏を同じだと思っている人が多いが、
凹面鏡凸面鏡の二枚を二殿併設で祀って使い分ける神社の神事では
別物として扱われる。

多氏の社家だけでなく、似たような伝承はほかの神社にもある。
現在の伊勢神宮は一殿で、女神を象徴する八咫鏡一枚だが、
その移転元の、別宮扱いの瀧原宮と瀧原竝宮は、
天照大神の荒魂と和霊を祀る二殿が残っているし、
日前国懸神宮は、もっと明確に
凹面鏡と凸面鏡の二枚の鏡が御神体として伝わっている。

八咫鏡は大きな鏡の意味とする解釈が一般的だが、
そうではなく、女神を象徴する日像鏡を用いると八咫烏が観察できるから、
八咫鏡と呼ばれるようになった可能性もなくはない。
というより、多氏の社家ではそういう故老からの伝承がある。

日像鏡は凸面鏡で、神棚に常設展示可能だが、
日矛鏡は凹面鏡で取り扱いを間違えて焦点距離で太陽を見ると
目が潰れるから、普段は神庫に収蔵されている。
常設されない凹面鏡のことはいつしか忘れ去られて、
八咫烏の鏡だけが今も皇室に伝わっているのかもしれない。
301日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:30:15.44
>>291
あー、なるほど。可能性はあるね。

魏志倭人伝の書き方からすると、
卑弥呼が誅殺されてるようにも読めるし、何な不自然なんだよね。
302日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:57:08.43
>>295
日本最古の皇別氏族多氏の神庫には、
なんと、ピタゴラスの定理や円周率を計算する算額が残っているそうだ。
卑弥呼が天照大神だとして、その子孫に計算方法が伝わった可能性がある。

なにしろ、七百年頃、その測量と計算の知識を活かして、
こんな巨大図形を近畿地方に描いているのだから。
http://goo.gl/maps/3QLQ

多氏・秦氏には、
王国を滅ぼされた結果、シルクロードの西から渡って来て
万里の長城の建設に従事したユダヤ人の血が入っているというし、
ユダヤ民族は、モーゼの時代に出エジプトしているから、
ピラミッドの測量と計算技術が日本に入って、
この巨大図形が描かれた、と考えるしかない。

エジプトから伝わった測量や土木の技術があったからこそ、
弥生時代が古墳時代に代わるほどの変化が生じるような
大規模な治水・干拓が、奈良や京都の盆地の湿地帯を中心に行われて、
増えた農地への渡来系氏族の受け入れが進んだり、
巨大な古墳を造ることが可能になったと思われる。
303日本@名無史さん:2012/07/27(金) 22:50:51.07
すごい知識だね。そんな連中が方角や距離をまちがえるわけはないね。
304日本@名無史さん:2012/07/27(金) 23:24:53.26
銅鐸で邪馬台国を考証していくと「九州からも出るかも知れないじゃないか」という屁理屈をこねる畿内説がいるので、今度は対照的な事項で考察してみよう。
倭人伝では矛の記述がある。これに関しても「銅矛じゃない鉄の矛だ」などと言う、訳のわかっていない畿内説がいたがそいつはほっといて。
実際に九州では鉄、青銅に関わらず矛は大量に出土するが畿内の遺跡からは全く出土しない。
畿内は邪馬台国とは全く関係ないのである。

「畿内からも出るかもしれないじゃないか」というような屁理屈は受付けない。
305日本@名無史さん:2012/07/28(土) 00:06:14.46
つ・ま 国は

川・末・国になる

仮にさ・つ・ま・国としたら

砂・川・末・国となる

末は木の梢の先をあらわすので
この場合は河口になる

あとはわかるな
306日本@名無史さん:2012/07/28(土) 00:14:17.22
メスリ山古墳からは212本の茎式鉄矛などが出ているよ。
307日本@名無史さん:2012/07/28(土) 06:47:05.12
四世紀の話だろ
308日本@名無史さん:2012/07/28(土) 07:07:58.33
いいふりこいて背伸びしてからに

ふんだんに鉄に囲まれているふりとかしても

鏃のが鉄に切り替えられていない貧血ぎみの現状の

御尻の尻尾が見えちゃっているわけですけどね
309日本@名無史さん:2012/07/28(土) 07:44:53.26
四世紀にしろ大量の矛が出たということは、畿内は矛を使う地域だったということですよ。
弥生時代だって矛は出ているでしょ?
310日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:03:46.36
出てない
311日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:09:16.77
むだにでかくするのお好きな系の趣味だからして

今後出て来るとすれば

全長三丈の矛とか出てくるかもね
312日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:16:33.03
九州人に言わせれば、茎式なら矛とは言えんぞ。それは槍だ。

対馬に来て、どでかい銅矛を見てみろ。
卑弥呼の宮殿を守っていたのは、このど派手な矛に決まっとる
313日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:25:39.04
銅矛も鉄矛も、福岡県が圧倒的に多くて、
畿内では4世紀に入っても殆ど出てないようですな。
314日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:27:37.81
そもそも、畿内で矛が出ないから、
銅矛文化圏とか、銅鐸文化圏という言葉が出てきた。

それが変遷したような形跡もない。
315日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:09:00.34
   
畿内派いかさま学者は、槍のことを茎式鉄矛と言い換える。
   
そして畿内で矛があったと声高に主張する。
   
言葉のすり替えは機内説の常套手段。
316日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:13:31.49
>>312
そりゃ半島の窓口だからだ。

でも卑弥呼は武力ではなく鬼道で民を率いたのだろ?
顔も見せないのだから内陸深く引っ込んでるよ。
倭人伝を読めばわかるはずだが。
317日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:13:37.56
東遷がなければ九州説は成立しない。
考古学的にみて東遷はまずないから九州説はない。
それがわからないノータリンがいまだに邪馬台国は九州だとか
ばかげたことを言ってるだけ。時間の無駄。
318日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:19:29.02
>>304
水銀朱の山は北部九州には全く無いけどな。
三輪山は宇陀水銀の窓口だからズバリ丹山の資格有りだが。
319日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:21:39.99
>>317
矛で反論ができなくなったんですね、
わかります。
320日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:31:02.38
九州の水銀朱は、7世紀以前の痕跡がないだけで、鉱山自体がないわけではない。

さらに九州で出てくる水銀朱が中国産と言われることが多いが、
それが事実なら、畿内と交易をしていない。
つまり、関係が無いことを意味し、
それでも、中国産が入手できるから困らない。
ということでもある。
321日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:35:04.10
三輪=御倭山、丹をだす倭の山ですよ。
周辺の古墳には水銀朱がたっぷり。
その麓に巻向宮があり、横の箸墓には卑弥呼の比定者モモソの伝承。
そのモモソは国産み淡路島、鉄器の工房をもつ海人族の出だぞ?
この状況で九州説なんてよく主張できるな、真性マゾかw
322日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:37:37.68
そのたっぷりの水銀朱が九州に来ていない以上、
畿内と北部九州は関係がないといえるだろう。
323日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:39:42.56
九州の鉄の豊富さと、畿内の鉄の少なさも、
関係がないことを裏付けるものである。
324日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:40:13.88
日本神話に矛は出てくるけど銅鐸は出てこない
神代の話は全て舞台が九州か出雲
325日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:42:00.31
>>322
弥生期は北部九州で銅鐸作ってるじゃんw
それに倭人伝には「丹の山がある」と書かれてんだよ?
中国産のしかないんじゃ決定的に資格なくなるよ。
326日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:47:13.82
九州の銅鐸は小型で実用品的なもの。
鉱山なら佐賀嬉野や熊本、球磨地方にある。
大分にもある。
327日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:50:25.05
水銀朱が出るところには、丹生神社があり、古いところでは、
7世紀までは遡れるから、その頃に水銀朱を採取していたことは間違いない。
それ以前はわからないだけである。
328日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:56:35.88
>>317
邪馬台国=大和王権じゃないから東遷必要なし。
329日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:57:08.09
丹の山って単に赤土の山っていう意味じゃないの?
330日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:57:56.33
倭人伝の丹はベンガラに決まっとる

倭人伝には「真朱」とは書いてない。水銀朱とは書いてないの
水銀朱を体に塗りまくる風習が続けられる訳ないだろっての
331日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:59:07.97
九州の場合、主力は黄色味を帯びたベンガラ丹で、
水銀朱はごく一部にしか使われない。
重要は重要だったんだろうが、
なくてもさほど困りはしなかったんだろう。
332日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:02:29.23
水銀朱は強力な殺菌作用があるが、毒性も高い、劇薬。
ベンガラはただの塗料だが、鉄分が取れる健康食品。
333日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:11:16.86
>>330
肝心の中国に「丹は仙薬、水銀朱だ!」と抱朴子に記述されとる。
ベンガラの酸化鉄は当時仙薬とする記述がないからダメだな。
334日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:11:33.59
九州と日本海側の遺跡のいくつかが中国産水銀朱を含んでいる可能性もあるという程度だよ
中国産、国産の判定法、ブレンドの可能性からいって確定なものじゃない
水銀鉱床は西日本では佐賀嬉野、岡山、若狭湾周辺、中央構造線に沿って大分、四国、紀伊、愛知にあって
それらの周辺の遺跡で水銀朱が使われているし、国も発展している
335日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:26:29.84
どっかの古墳で、どっさり水銀朱詰め込んだところがあったが、
水銀朱は貴重ということだけは知ってても、
薬にしたり、利用することはあまり考えなかったのかな。

貴重だからどっさり入手したけど、使い道が思いつかなくて、
持て余した挙句、王の棺に放り込んだ感じだ。
336日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:32:56.74
船にも鏡の製作にも使うよ 金持ち王のステータスだね
337日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:34:24.39
>>330
水銀厨のは宗教だから、相手してもムダ。
理で納得できるタイプじゃないので

今までなどもループした議論だよ
338日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:39:45.49
>>333
三国志の中で「丹」の一字で「仙薬」の意味に使っているものは、ない。
三国志では、丹=朱色の意味。
「抱朴子」などは後世の定義に過ぎない。
339日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:58:19.64
塗料としての価値だけならかんたんに入手できるベンガラのほうが楽だな。
中国人は医薬品として使ってるから、重要視してるけど。
340日本@名無史さん:2012/07/28(土) 11:04:10.83
>>330 >>333 >>338 
>倭人伝の丹はベンガラに決まっとる
>倭人伝には「真朱」とは書いてない。水銀朱とは書いてないの
>水銀朱を体に塗りまくる風習が続けられる訳ないだろっての

その通り。
水銀朱を体に塗りまくれば、有機水銀中毒で死んでしまう。
体に塗りまくって健康に良いのは、ベンガラ朱。
ベンガラは健康に良いので、現在でも家畜の餌に混ぜている。
341日本@名無史さん:2012/07/28(土) 11:17:12.34
ベンガラについては「リモナイト」で検索すべし。
342日本@名無史さん:2012/07/28(土) 13:36:29.77
銅鐸と矛の問題で畿内説はまともな反論もできない状態となったが、次に絹について考えてみよう。
倭人伝には邪馬台国で養蚕が行われ絹が生産されていた事をはっきりと記している。
しかしながら奈良県の弥生遺跡では絹は全く出土しない。
弥生時代の遺跡で発見された絹製品は全て北部九州から出土している。
魏の使者は邪馬台国の人々が養蚕の技術を持ち、絹を生産している事を確認し報告し書き残した。
その絹製品が弥生時代、北部九州の遺跡のみから出土する事を考察すると、邪馬台国が畿内にあったとは到底考えられない。
畿内はやはり邪馬台国とは全く無関係だったのだろう。
343日本@名無史さん:2012/07/28(土) 13:47:46.17
絹は弥生中期には北部九州にあった
九州でも甕棺が終了すると豪華な副葬品を伴う墓からも絹が見られない
以上のことから絹は甕棺では残りやすい
弥生期の甕棺以外のところではなんともいえない
344日本@名無史さん:2012/07/28(土) 13:58:38.64
>>343
嘘もここまで来ると痛々しいな
345日本@名無史さん:2012/07/28(土) 14:36:01.68
福岡県の須玖岡本遺跡から出土した絹・錦は、
卑弥呼が魏からもらった絹製品と見ても遜色がないものである。

ただ遺跡の年代比定に問題があるのだが、
今の考古学編年はイマイチ信頼がおけないので、なんとも言えない。
346日本@名無史さん:2012/07/28(土) 15:12:52.51
>>342

ここは九州説スレ。
脳内畿内説相手に噛みあわないレス付けてないで、さっさと九州説を語れさ。
347日本@名無史さん:2012/07/28(土) 15:23:18.23
わかりますた
348日本@名無史さん:2012/07/28(土) 17:19:32.01
>>338
抱朴子は四世紀初頭の鉱物、薬草の資料書だが。
倭人伝に最も近い資料集だ。大体ベンガラをもらって
喜ぶ中国人なんて居ないよw
349日本@名無史さん:2012/07/28(土) 17:23:32.68
>>346
九州説なんて時間を無駄にするだけですよ。
まぁ年寄りの娯楽を潰して申し訳ないが。
350日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:18:31.91
魏からもらった絹製品で前漢鏡を包むの
351日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:40:03.04
ここの九州説が論点にしてることって、むっかーしっからおじいちゃんたちがさんざんやってきたことで
結局決着つかないことばかり
しかもおじいちゃんたちのような知識もない
352日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:49:24.01
>>317
>東遷がなければ九州説は成立しない。

とんでもない出鱈目。

>考古学的にみて東遷はまずないから九州説はない。

根拠無く言っているだけ。

>それがわからないノータリンがいまだに

ノータリンはお前。
353日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:54:22.17
>>321
>周辺の古墳には水銀朱がたっぷり。
>この状況で九州説なんてよく主張できるな、真性マゾかw

正確なことが判らない水銀朱だけで
よくここまでく主張できるな、真性マゾかw

おっ、それ以外何もないのか。
悲惨な奴だ。
354日本@名無史さん:2012/07/28(土) 19:52:35.73
日本に水銀朱があるってことを中国が知った時、
日本に貿易に殺到する、ゴールドラッシュみたいなものはなかったんだろうか?
355日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:09:18.99
>>303
アー、方角は間違えてないんだ。

漢民族と極東の膠着語文化圏(朝鮮半島にまたがる和人文化圏含む)では、
方位の認識の仕方が慣習的に違うんだよ。

高句麗国は遊牧民族の文化を色濃く受け継いでいる。
だから、モンゴルや沖縄に触れたものも、
同じように方位がズレた記述になっている。
郷に入れば郷に従えで、書き手も相手の民族の慣習に合わせてるんだな。

これは広範囲の文献に触れてないと気付かないことだから、
不勉強な、見落としてる人が多いようだね。

それと、魏志倭人伝には明らかに三角測量を行っている記述がある。
それを、移動経路と勘違いした解釈をしている、
不勉強な人が多すぎるのも、混乱を産んでいて問題だと思う。
356日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:15:07.23
>>304
日本に渡来した秦氏が所持していた、
最古の天日矛(蚩尤)の矛は鉄らしいよ。
銅より鉄のほうが、低温で叩けば形になるから、歴史が古いんだ。

最も古い鉄製品は、餅鉄と隕鉄製。
357日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:24:21.06
>>324
確かにそうだけど、

高句麗国との朝鮮半島での戦闘や、神籠石山城について、
記紀神話はほとんどスルーしてる。

つまり、
ある時期に、九州の倭から大和へと移動した人々の伝承ということになる。

九州の倭の五王などは、眼中にない人々が、記紀を編纂しているってことだね。
倭と大和は別の国。
日本国は大和の記憶を受け継いでいても、倭の記憶は受け継いでいない。
358日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:27:10.31
飛鳥朝の記録ですら、相当怪しいしね。
中国側の記録と齟齬がありすぎ。
なんとなくの伝承はあっても、
正確な記録は残っていなかったんだろうな。
359日本@名無史さん:2012/07/28(土) 21:09:13.02
>>357
九州王朝が滅んだのが筑紫君磐井(528)以降だから、九州王朝の学者や官僚はその多くが大和に再雇用されているよ。
360日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:34:50.90
>>359
記紀の編纂には中国の知識人も関わってたし、
卑弥呼や倭の五王を記した中国の文献に
まったく目を通してないってことはないだろうね。

だから、故意にスルーされてると見ていいね。

神功皇后の三韓征伐は、故意に妊娠期間が不自然な記述にして、
神話めいた雰囲気を醸し出して、
正確な記述になっていない点を、なんとか誤魔化そうとしている、
ように読めなくもない。

ところで、
九州王朝って、白村江の戦いの惨敗で滅んだんじゃないの?
それ以前にすでに滅ぼされてたのかなあ?
なにかそれらしい記録は残ってるの?
361日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:45:26.48
>>353
水銀朱なんて正確な事は今でも充分解明されてるよ。
初期道教当時の中国で何が一番価値が高いかといえば丹しかないですから。
代用品のベンガラ持ち出したり、
採掘跡が無いので無視するしか仕方ないのが九州説でね。
362日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:47:05.24
当時は九州で水銀朱が採取されていたんだよ。その跡が未発見なだけだ。
363日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:52:51.87
九州の倭から大和へ?まだ九州王朝とか夢想してんのかw
倭は瀬戸内東部が本拠だってはっきりしてんじゃん。
四国各地の伝承や風土記にも、奈良の香具山は
四国から別れたと書いてあるじゃないかw
天照大神の墓だって阿波にあるとされてるだろ。
364日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:01:53.61
>>362
それじゃダメでしょ。既に現状でも阿波南部の
冬も温暖な海人族の里で、採掘跡が発掘されてんだから。
普通に考えると中国人はここへ向かったと思うが。
365日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:04:53.12
未だ発見されていない水銀採掘跡が、九州にもいくつもあるだろ。
四国で見つかったからといって、唯一絶対であるかのように大騒ぎするのは馬鹿。
366日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:15:27.53
>>365
侏儒国を邪馬台国だなどというアホは相手にしなくても良いですよ。
367日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:21:04.97
>>355
>漢民族と極東の膠着語文化圏(朝鮮半島にまたがる和人文化圏含む)では、
方位の認識の仕方が慣習的に違うんだよ。
>同じように方位がズレた記述になっている。
郷に入れば郷に従えで、書き手も相手の民族の慣習に合わせてるんだな。

それは嘘。
乍南乍東
其北岸狗邪韓國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
東西南北を正確にきさいしているな。

>それと、魏志倭人伝には明らかに三角測量を行っている記述がある。
>それを、移動経路と勘違いした解釈をしている、

アホとしか言いようがない。

>不勉強な人が多すぎるのも、混乱を産んでいて問題だと思う。

不勉強以前に貴方はアホです。
368日本@名無史さん:2012/07/29(日) 01:14:16.55
九州王朝ってのは、大和朝廷にとってみたら大陸と交易してくれる便利な国って感じだろ。薩摩藩と琉球王国の関係。
大和など東国で取れた水銀朱その他宝物を中国に渡して、見返りにもらった鏡など宝物を東国に渡す。いうなれば商社みたいな役割。
大和にとったら何かと面倒な礼儀作法を要求される中国と付き合わなくていいし、九州にとったら金になるし、両者WinWinの関係。

神功皇后の朝鮮征伐(390年ごろ)は、大和朝廷は支援協力はしていると思うけど主役は九州王朝。
戦争ばっかりしているからか、九州はだんだん貧しくなって、大和朝廷は豊かになっている。
古墳の大きさからみて400年の頃には、大和朝廷が九州王朝を凌駕している。
それが雄略天皇の時代に力関係が決定的になって、九州王朝の武王が中国に使者をおくって一発逆転を狙っている。
中国貿易の分け前(手数料)を、九州王朝有利にするとか嫌がらせを始めたんじゃないか?
それで、大和朝廷が困っていたところ、独自日本海ルートで大陸交易している継体天皇が即位することになって、
「それなら磐井君をやっちまえ!」って九州討伐をする。
その結果、大和朝廷が九州の宝物(七支刀とか)を根こそぎ大和に持ってきて、さらに九州王朝は弱る。
開店休業状態になった九州王朝に見切りをつけた優秀な官僚は大和朝廷に再就職し、さらに大和朝廷が強くなる。
とどめの白村江の戦いが起こり敗戦、九州王朝は崩壊。
369日本@名無史さん:2012/07/29(日) 02:04:31.25
九州王朝は、白村江の戦いの惨敗で衰退したが滅んではいない。

しかし、唐進駐軍の上陸により、672年から684年にかけて畿内へ順次遷都。
倭國の東遷

九州王朝は696年太宰府へ都を戻す。

そして、九州王朝が滅んだのは、700年。

地方豪族としても命脈が尽きたのは、716年。
370日本@名無史さん:2012/07/29(日) 03:47:52.98
>>369は全く正しい古田説論者だな〜
でも実際に弥生時代から最先進地域だった北九州に当時の日本を代表する政権があったのは事実だろう

畿内説とかファンタジーのレベル、アタマ悪すぎ
371日本@名無史さん:2012/07/29(日) 04:06:51.93
太宰府周辺は弥生初期から奈良平安まで遺跡出土が続くからねえ。
紀元前と思われる出土物も珍しくない。

筑紫国と北部九州の中心であることは間違いない。
372日本@名無史さん:2012/07/29(日) 05:07:29.19
>>363
あのね、瀬戸内の倭国は、
比売許曽神社(ヒメコソ)神社、
つまり赤留姫(アカルヒメ)神社が残っている、総社地域のことだよ。
比売許曽は高句麗語で、姫神社を指す言葉。
そんな名前では、どの姫を祀っているのか普通分からないよね?
姫の中の姫と呼べる、元祖姫様を祀ってあるんだ。
香春神社に、唐土から里帰りした、息長大姫大目とあるよね。
彼女が、アカルヒメ様なんだ。

もちろん、岡山の鬼の城は、最も進化した、
そして最も東に位置する、倭国の神籠石城で、
東進の最前線基地だった時代がある。

それと、古墳(高句麗国伝来のオボー信仰)は、
四国で発達してから大和に移っている。
近畿地方に巨大古墳が出現する百年前から存在する墓制で、
これも高句麗から来ている。

つまり、全体に東進して、畿内入りしてるんだ。
373日本@名無史さん:2012/07/29(日) 05:24:40.68
>>367
分かりやすく書いたんだが、誤読してる?
酔っぱらったか、年老いて難読症?
いずれにしろ、無茶な曲解レスは、他の読み手にも迷惑だよ。

「到其北岸狗邪韓國」は、非常に重要な意味を持つ。

到の一字は、
狗邪韓國は目的地の倭国であり、倭国に到着したことを表している。
其北岸とは、倭国の北岸が狗邪韓國ということ。
つまり、朝鮮半島の狗邪韓國は、倭国の一部ということになる。
もしそうでなかったら、
狗邪韓國は朝鮮半島の南端と書き、
さらに到ではなく、意味も音も違う、至の字を使ったはず。
日本人と違って、中国人は音も意味も違うこの二文字を混同しない。

使者が目指した倭国の中心は伊都国。
だから伊都国にも到の字が使われている。
そこからさらに女王国への道筋が書いてあると読むのは誤読。
三角測量に必要な、斜め方向と真南方向の情報が示され、
測量に要した日付が記されている。

で、モンゴルと沖縄に関する史料でも、
同じように方角がズレていると指摘しても、
何を参照すればいいか、文献の名前も知らないんだね?
そんな、まともに勉強していない素人レベルで、罵らないでもらおうか。
374日本@名無史さん:2012/07/29(日) 05:53:08.89
>>369
「九州王朝が滅んだのは、700年。」
これを物語る史料を示して頂けますか。

「地方豪族としても命脈が尽きたのは、716年。」
どのような出来事を、命脈が尽きたと解釈なさっておられるのか、
お示し頂きたい。
375日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:00:15.23
>>365
見苦しい奴だな。未だに全く見つからないのと
既に確認されてるのでは大違い。しかも
イザナミやオオヒルメを祀る重要地の近くだしな

仮に今後九州で見つかっても、既存の採掘跡は消滅しないんだよw
376日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:05:42.21
>狗邪韓國は目的地の倭国であり、倭国に到着したことを表している。
わざわざ韓国と明記してくれてんのに、倭国のわけないよ。それに倭国ならば
女王国以北になるから戸数道里が書かれてなければいけない。

>もしそうでなかったら、〜到ではなく、意味も音も違う、至の字を使ったはず。
韓国の最後だから区切りを明確にするために「到」としているんだよ。

「倭の北岸」のような用法は漢文では結構あるよ。倭は方角の基点を示しただけ。
岸がどこに所属するかは無関係。榎や山尾が具体例を示しているから読んだ方がいいよ。

>使者が目指した倭国の中心は伊都国。だから伊都国にも到の字が使われている。
伊都国から放射式に変わるので 到で区切りをつけただけだよ。
377日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:09:29.41
畿内説でも伊都からは放射説でよい。
ただし奴国は本州西部にまたがる国だ、ナガトの名は由来だよ。
378日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:09:59.83
>>373
誤:>其北岸とは、倭国の北岸が狗邪韓國ということ。
正:其北岸とは、循海岸水行してきた海の北岸が狗邪韓國ということ。

誤:>そこからさらに女王国への道筋が書いてあると読むのは誤読。
正:そこからさらに女王国への道筋が書いてあるのは、
  女王国までの道筋が帯方郡から万二千餘里であることの詳細を示す為。
  奴國と不彌國は、其々が女王国を構成する国々である。
  帯方郡⇒奴國は万二千餘里、帯方郡⇒不彌國も万二千餘里。

>三角測量に必要な、斜め方向と真南方向の情報が示され、
>測量に要した日付が記されている。
これはあんたの妄想、
379日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:13:26.03
>>375
九州では弥生時代から大量の朱を使用しているよ。甕棺の中にも入れられているだろ。
輸入品のわけはないから、九州内で採取されていたとみるべきだろう。
それとも本州から運んでいたというのかな?
380日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:22:14.18
>>376
「区切りを明確にするために「到」としているんだよ。」

他に、そういう使い方をしている例を、魏志倭人伝以外から示してみよう。
ないよね?

というか、
到着したことを示す言葉と、通過点を示す言葉が、
音も意味も違う文字で、しっかり書き分けられていることを、
勉強してないの?

もしかして、
夏休みで暇してる小中学生の殴り書きに私はマジレスしちゃったのか?
381日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:29:41.15
>>376
「わざわざ韓国と明記してくれてんのに、倭国のわけないよ。」
そういう決めつけはよくない。

たとえば、香春神社に、辛国息長大姫大目命とある。
これを辛国(カラクニ)と読んで、日本列島以外の場所と思ってはいけない。
じつは、秦氏が入植した宇佐は辛国なんだ。

同じように、韓国と明記されてても、
そこが倭国ではないと、決めつけられないケースもある。

誤読まっしぐら、をやりそうな人のコメントだな。
382日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:39:12.39
>>374
>「九州王朝が滅んだのは、700年。」
>これを物語る史料を示して頂けますか。

続日本紀文武四年、薩末比売が反逆罪で捕らえられたこと。

>「地方豪族としても命脈が尽きたのは、716年。」
>どのような出来事を、命脈が尽きたと解釈なさっておられるのか、お示し頂きたい。

九州王朝の残党が政治犯としてではなく、盗賊として取り扱うようになったこと。

遣唐使が九州北部海域西部海域を通過するルートが取れなくなったこと。
以後の遣唐使は薩摩坊津の発着となり、渡海成功率がほぼ100%から凡そ20%と低下した。

近現代史部分のある日本書紀の編纂が始められたこと。
九州王朝勢力を政治犯から窃盗犯化することにより、口封じ体制が完成したので、
日本書紀の近現代史部分の編纂が可能となった。
383日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:46:49.93
>>378
其が海を指す言葉という、勝手な自己流の都合のいい解釈をしてはいけない。
倭国に行く方法を書いているのだから、其は前出の倭を指している。
この文章を書いた、中国人の凄く偉い雲の上のお役人さんは、
現代人が侮るほど頭の悪い人ではない。
当時最高レベルの学者様だということを忘れて、愚者扱いしてはいけない。

「奴國と不彌國は、其々が女王国を構成する国々である。」

勝手に自己流の解釈をしてはいけない。
女王国は小さな都市国家。
伊都国に付随する斎宮のみ、一山の構成で、領土(農地)を持たない。
これは、
当時の、日の巫女の王の斎宮の立地条件を詳細に検討することで、
明確に推理できる。物証があるに等しい状態。

「これはあんたの妄想」
当時すでに測量術が発達していたことは、他の文献から分かっている。
万二千餘里は、三角測量の結果で、かなり正確な数値。
あなたが、当時の測量や土木の技術レベルについて、
正しく認識していないだけのこと。
自分の勉強不足を、他人の妄想って話にすり替えて、罵ってはいけない。
384日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:47:16.67
>辛国(カラクニ)と読んで、日本列島以外の場所と思ってはいけない。
辛国などという国名はない。しかし、韓国は倭人伝自身が直前で書いている。
385太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/29(日) 06:48:25.79
このことは何を意味するか?

これは宿主という野郎が、景行の代に景行が日本統一したという主張が
デタラメであることを意味しておる。
386日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:49:20.85
>>384
「辛国などという国名はない。」
はい、誤情報。

ちゃんと宇佐神宮周辺の伝承に目を通してない、
不勉強の証拠。
387日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:52:23.70
>>379
>九州では弥生時代から大量の朱を使用しているよ。甕棺の中にも入れられているだろ。

ベンガラ朱は消臭剤であり殺菌剤でもあるので、
甕棺の中に大量のベンガラ朱を入れられているのは、当を得た使いかただ。
388日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:54:37.29
>>382
すごい深読みですね。
でも、確かに一つ一つ説得力がある推理。
389日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:54:50.57
何を勘違いしているんだか。宇佐は倭国だよ。
390日本@名無史さん:2012/07/29(日) 06:58:42.17
水銀朱の鉱山は、四国と紀州でいいんだよ。九州で産出する必要はない。
皆さんが追いかけているのは、
天日矛・赤留姫ペアを奉斎する、渡来集団・秦氏の鉱山技師グループ。

秦氏は、纏向遺跡を見下ろす高台に残る、穴師坐兵主神社っていう、
鉱山技術者の神を祀る神社を建てている。
この神社から、天日矛を祀っていた古い痕跡が出ている。

つまり、大和王権も、天日矛(兵主・蚩尤・牛頭天王・スサノオ)の子孫。
天日(息長)一族が、畿内に入って、王権を手中にしているんだな。
なにしろ、巨体で知られる都怒我阿羅斯等(つのがあるひと)達だからね。

高天原(五女山)の地域から出たこの一族は、
倭、大和、高句麗、百済、新羅、清の王位に就いている。
東アジア最強だったんだねー。その一族直系の子孫は、今でも身長197cm。

「あんた日本人じゃないだろ?」
「二千年前は、祖先は扶余・高句麗の王族だったそうですが...
 遺伝子で祖先を調べたら、モンゴルの王族の血なども入ってました。」
「握力何キロあるの?」
「ギネスブックに登録された人とあまり変わりません」
「やっぱり、あんたたちは鬼(つのがあるひと)呼ばわりされて当然だよ。」
391太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/29(日) 06:59:46.97
>>382
九州王朝の存在は何を意味するか?

これは宿主という野郎が、景行の代に景行が日本統一したという主張が
デタラメであることを意味しておる。
392日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:03:51.38
丹生都姫の伝承を調べれば分かることだけど、
赤留姫を奉斎する日の巫女の集団は、
大日女(大姫)が九州、稚日女(若姫)が紀州に、
姉妹に分かれて入植したことになっている。

九州は、白い黒曜石を産出する大分の姫島に、姫様の伝説が残る。
今は麓に香春神社があるが、
元は赤留姫(大日女)様が祀られていた銅山などにも、
しっかり伝承が残っているね。

紀州は、稚日女(わかひるめ)の丹生都比売神社として残っているね。

当時もすでに海運が発達していて、貴重品は交易されていた。
天日(息長)一族の穴師は、
丹土や金を求めて、九州から四国の大断層の鉱脈を辿って紀州まで来て、
紀州で探り当てた丹土を、他の地域にも運んでいたと見ていい。
393日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:09:57.22
>>383
>其は前出の倭を指している。

其は前出の「循海岸」の海を指している。

>「奴國と不彌國は、其々が女王国を構成する国々である。」
> 勝手に自己流の解釈をしてはいけない。

帯方郡⇒奴國の距離を積算すると萬二千餘里になると書いてある。
又、帯方郡⇒不彌國の距離を積算すると萬二千餘里になると書いてある。
君は読めないのかね?

>当時すでに測量術が発達していたことは、他の文献から分かっている。

そんなことは知っている、「万二千餘里は、三角測量の結果」の部分があんたの妄想。
394日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:16:21.70
>>389
「宇佐は倭国だよ。」

当たり前。

秦氏が入植して、倭国の中の辛国だって地名を付けた。
それが、香春神社に祀ってある神様の名前としても、しっかり残っている。

伊都国が倭人の国の中の一国と言う表現と、
宇佐周辺にあった(辛国)が倭国の中の一国と言う表現は、
同じ様式。

もしかして、本当に難読症の人がいる?
395日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:17:55.69
> 其は前出の「循海岸」の海を指している。

前出の「循海岸」の海とは繋がってはいるけど南側にある方の海だからちょっとちがうだろ
396日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:38:02.09
>>393
「其は前出の「循海岸」の海を指している。」

論拠を示さず、
自分の思い込みを相手に繰り返し押し付けようとしているだけ。
学問板でこういうことをすると、その説はゴミ箱行きになる。
397日本@名無史さん:2012/07/29(日) 07:51:53.69
>>393
「女王国を構成する国々」とどこに書いてあるの?
あなたの勝手な作文だよね?
こういう情報を、自分勝手な思い込みで流布すると、混乱の元なんだ。

当時は都市国家レベルの小さな国が、倭国内にひしめいていた。
倭国の中にある女王国は、
日の巫女の斎宮がある一山のみの国(城塞)を指している。

なぜ、卑弥呼の斎宮が、人口が多い海岸線ではなく、山中にあったか、
理由も分かっているし、
そこまでの距離が、伊都国からほんの数キロしかないことも、
はっきりしている。
本来、緊急用の施設でもあったのだから、遠いと機能しない。国が亡ぶ。

女王国への経路でもないのに、なぜか、
南とか書いて、日数が添えてあるよね。
その部分を多くの研究者は、南に進んで、到着に必要な日数と見て、
「おかしいなー、どうしてこんなに陸路?」と、首をひねってきた。
変だと思ったら見方を変えれば、容易に正解が見えてくる。

伊都国に、男王の職を代行する一大卒がいる以上、
一対になって存在する斎王国(女王国)は、
ズバリ、雷山の神籠石城跡しかない。
あの高度、地形、低地の城との位置関係などが、
日の巫女の王(斎王)が住む、斎宮の立地条件に完全に合致している。
今までの研究者は、当時の男王(兄王)と斎王(妹姫)の関係や、
斎宮の立地条件を検討することを、完全に見落としていた。
398日本@名無史さん:2012/07/29(日) 08:06:18.70
>>382

>>どのような出来事を、命脈が尽きたと解釈なさっておられるのか、お示し頂きたい。
>九州王朝の残党が政治犯としてではなく、盗賊として取り扱うようになったこと。

で、具体的には?

>遣唐使が九州北部海域西部海域を通過するルートが取れなくなったこと。

これはどう言う意味?
399日本@名無史さん:2012/07/29(日) 08:06:36.18
勘違いしてるのもいるが、アカルヒメは卑弥呼の年代より後の世代だよ。
400日本@名無史さん:2012/07/29(日) 08:09:34.02
>>397
>「女王国を構成する国々」とどこに書いてあるの?

順序が逆だ。
帯方郡から奴國及迄び不彌國迄の積算距離がそれぞれ万二千餘里だから、
奴國と不彌國は女王国であると特定できるのである。

奴國と不彌國は女王国であることは、
奴國と不彌國が女王国を構成している国であることを意味する。
401日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:11:15.13
>>399
アカルヒメがいつ渡来したか、
神話や神社の伝承は、時間軸がはっきりしないから、
正確には分からないよ。

息長大姫大目命は、神代の時代に唐土に行ったとなってるが、
神代っていつだよ? となるよね。

ところが、天日と息長が、同じ高句麗語の音写と分かってくると、
話が違ってくる。
息長大姫大目命は、神功皇后の御一族で天日矛と繋がってるし、
アカルヒメと同体という伝承は?
これを伝える香春神社は、奈良の最も古い神社よりも、
格式が上の扱いを朝廷から受けている。

天照大神=神功皇后=アカルヒメ=日の巫女の王(斎王)

つまり、皇統を生み出した皇祖神の正体は、ここに示されている。

天日矛は兵主(蚩尤)で、この信仰は遼東・山東半島のもの。
神話にある、新羅の王族という情報が正しいとは限らない。
当時の人は、渡来系と聞くと、すぐ新羅?百済?と解釈したがった。
神話の物語をすべて鵜呑みにしていると、事実を見失うから、
多くの伝承を突き合わせて、推理する必要が出てくる。
402日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:18:03.72
>>398
>で、具体的には?

続日本紀の716年頃(日本書紀編纂開始頃)の記事に見られる。
今、記事の原文を拾い出すのが面倒なので、探して下さいね。

>これはどう言う意味?

西部北部九州沿岸部にいる九州王朝の残党海洋民(漁民)が、
遣唐使船等畿内朝廷の船に海賊行為を始めた。
617年の遣唐使船には元九州王朝関係者(阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ム・井真成等)が乗船していたので、
安全に出発できたようだ。

播磨國以西の出身者は、畿内朝廷系ではなく、親九州王朝系人物。
403日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:20:48.34
あー、難破した遣唐使船と、
その乗船人物で、なにか関係が導けるかな。

どの国の人が乗ってたら、難破しにくいとかしやすいとか。
404日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:26:46.63
>>403
新羅国。
海域近辺は、当時は統一新羅の天下。
405日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:32:47.04
多氏の日の巫女の王を襲名している日女神様(生き神様)が、
メタバースにプリマベーラというカフェを開いているというので、
某私立大のサーバーにアクセスするアカウントを発行してもらい、
女神様が運営するカフェの歴史フォーラムに行ってチャットで質問してみた。

>卑弥呼の鬼道は高句麗道教と、多氏の日女神の家の故老が伝えています。
>多氏の巫女神道も高句麗道教がルーツで、その痕跡はたくさんありますよ。
>高句麗国の神宮時代の高天原は、現在の桓仁の五女山城跡だったんです。
>あのテーブルマウンテンを見れば、高天原って納得しますよね。
>うちの一族の故老の話では、アカルヒメは東明聖王(朱蒙)の妹で、
>兄王を精神面から支えて建国を助けるために、神宮を創建したのです。
>この業績を讃えられる形で、没後私は神上がって、神社に祀られたのです。
>斎王が姫と呼ばれるのは、周王朝の姫姓を受け継いできたからです。
>卑弥呼が登場する少し前に、地球規模の寒冷化が起こりました。
>高句麗国でも大飢饉が発生したので、未曽有の国難を解決するために、
>私は、今こそ先祖が住んでいた日国に里帰りする時と託宣して、
>自ら九州地域に渡来したのです。後を追って来た人々は秦氏と呼ばれました>高句麗のお城は、低地と山上に一対で築かれます。
>山中の神籠石城は、敵が攻めてきたときに立てこもるためのものですが、
>平常時は、日の巫女の王が住む斎宮として機能します。

つまり、高句麗道教系の日の巫女の王、卑弥呼が登場する少し前に、
アカルヒメがまず渡来して、
それを追いかけて、天日矛を奉斎する秦氏の集団が渡来したらしいのだ。
この秦氏の一族は、倭と大和両方に入植した遺跡があるらしい。
近畿のものは、ニギハヤヒの天降り神話の場所にほど近い太秦遺跡だろう。
かれらが、弥生時代を古墳時代へと変革していった主体と考えられないか?
高句麗道教では、太陽信仰とオボ(塚)信仰が習合している、
古墳を用いる神事が伝承され、今も行われているというのだ。
406日本@名無史さん:2012/07/29(日) 09:41:14.23
>>402
やはりそうなるか。

一番東の、見つかっている神籠石山城が、
岡山の鬼の城だから、あのあたりまでは、九州の倭国の勢力圏かなあと
以前から思ってたんだよね。
まあ、あまり大阪に近いと、
神籠石が大阪城の築城で使われて消えてる可能性もあるんだけど。

あと、秦氏の国が瀬戸内海のどこかにある筈。
姫路あたりも有力候補地だね。
407日本@名無史さん:2012/07/29(日) 10:10:41.08
>>402

>阿倍仲麻呂・玄ム・井真成

この三人が播磨以西と関係する根拠も無いと思うけど。
408日本@名無史さん:2012/07/29(日) 10:35:02.28
>>397
高句麗も大和も沖縄の王室も、似たような斎宮制度を持ってたね。
国を治める男王(兄王)を巫女(妹姫)が宗教面から精神的に支えるのが
極東地域の斎王制度の特徴らしい。

倭の卑弥呼も同じ系統の太陽の巫女なら、
伊都国の一大卒と卑弥呼はペアになって、
低地の城と山城に分かれて住んでいると推理するのも悪くないと思う。

「高麗国の意呂山に天より降り来らし日矛の末裔、五十迹手是なり」
と名乗ったそうだから、
伊都国の王は高句麗国の王族の末裔と信じられていた。
高句麗との繋がりは薄いかと思っていたが、
そうでもないらしい。
409日本@名無史さん:2012/07/29(日) 10:36:25.41
五女山の言い伝えによると、姫が軍隊を駐留させていたというから、
斎宮の神女(巫女)が五女の伝説になったとする、
多氏の故老の話も、傍証となる伝承が大陸に残っていることになる。
410日本@名無史さん:2012/07/29(日) 10:48:33.04
アカルヒメは半島に渡った倭人の末裔だろ。
卑弥呼の年代じゃない。
411日本@名無史さん:2012/07/29(日) 10:50:32.03
>>282
水神は龍ではなく、元は河童だよ。
高句麗国では扶余神と呼ばれていた。

朱蒙(東明聖王=桃太郎=賀茂別雷命)の母親が、
皇祖神=天照大神(神功皇后)の元型のようだが、
彼女は川の神の娘とされ、最初は河童だった。
長い時間を経ているうちに信仰が変化して、
日本では龍神(瀬尾律姫=乙姫様)になったり、
葵祭の斎王(赤留姫=赤玉依姫=玉依日売)になってるけどね。
412日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:13:18.51
>>410
いつ渡ったか不明だよね?
香春神社には神代としか書いてないから、古い古い時代。

他に何か参考になる情報はある?

神功皇后(たぶん、アカルヒメをモデルにした架空の人物)は、
さっと朝鮮半島に行って、三韓を征伐して、素早く帰ってきてる。
妊娠期間が異常に長いけど、卑弥呼よりずっと新しい話になっている。

これを、卑弥呼の実年代より百年新しい時代に、神功皇后を、
千年古い神代の時代に、天照大神を、それぞれ創作して、
卑弥呼の存在を隠蔽したことを、悟られないようにした、
と見る向きもあるらしい。

というのは、卑弥呼や倭の五王が、
中国の皇帝に対して臣下の礼を取った事実が後世まで残ると、
新生日本が、後々漢民族から侵略される口実になる恐れもあった。
だから、何としても国防上、倭国と日本は関係ありません、
と言い切るために、適当な作文で誤魔化して、
倭国で起こった出来事を、正確に読み取れなくしていった可能性がある。
413日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:23:03.57
現代の多氏の日女神の家の宗主
耀姫(アカルヒメ)様(お祭りの代役じゃないよ)は、
175cm 80kg弱、握力は80kgを超えているそうだ。
ツイッターに胸のサイズもあったようだが、それは見なかったことにする。

神社の修行は過酷とか、いろいろ書いてあるが、
左手の薬指一本でぶら下がって、修験道の行場の岩を登れるそうだから、
子孫も人並外れた女傑と思っていいだろう。
三韓征伐を作文した人の、多氏の日女様は普通の人じゃないんだ!
と思う気持ちが、分からないわけではない。

赤留姫は東明聖王と対になる名前という
多氏の故老の話が正しくて、
五女山(高天原)の神宮の創建が、紀元前277年とすると、
当時、漢民族が高句麗族の出没を認識し始めた時期に近い。
故老の話と、中国側の史料や、
現地に残る古墳の年代などの情報が、うまく噛み合う部分が多いから、
おそらく、約二千三百年間正しく語り継いできているのだと思う。

記紀が隠蔽した卑弥呼の正体を、搦め手から突き崩して暴く必要がある。
多氏の日女神様は、いろいろ切り札を持っていそうだ。
414日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:34:58.41
香春神社は、朝廷が最も重要視していた時代があるから、軽く見れないね。
ただ、奈良の大仏建立と、銅山の関係を見ないといけない。
415日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:36:37.64
秦氏は渡来の外様なのか、朝廷中枢に近い氏族なのか、
今一つ見えてこないな。聖徳太子の家来でいいのか、
平安京を建設した大金持ちなのか。

秦氏を束ねる多氏が、天照大神直系とされて、
皇統よりも位が上の扱いっていうのも、よく分からない。
辛国は大王家の出自と、宇佐八幡の謎を解く重要なキーワードか。
416日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:42:35.27
>>412
そう、アカルヒメが神功皇后のモデルになる。
詳しい話は相当以前に奈良の築山、二上山周辺の神職者に直接伺った話。
モモソヒメがやはり実質的卑弥呼だ。
417日本@名無史さん:2012/07/29(日) 14:00:50.76
>>416
渡来した(里帰りした)アカルヒメが神功皇后のモデルという話は、
幾つかの社家では、今でも語り継がれてるらしいね。

大阪の姫嶋付近は、
河川が運ぶ土砂によって次々と土地が増えていくことから、
国産みの神話の時代の、神々の力が残る場所とされ、
天皇に即位すると、加護を求めて報告に来て、
天皇の衣を海水で洗っていたらしい。
アカルヒメが、神功皇后の時代の新しい女神だとすると、
国産みの神々を祀るはずの姫嶋に、
アカルヒメの神社が建った理由が分からない。

明らかにズラされている印象を受ける時間軸を、元に戻さないと、
日本国成立期の、故意に隠された歴史は見えてこない。
418太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/29(日) 16:32:17.01
モモソ媛が即位した記述は記紀に無い。
つまり彼女は卑弥呼にあらず。ただし両人はほぼ同時代の人物である。
419日本@名無史さん:2012/07/29(日) 16:35:14.12
それは記紀に作為があるだけの話。
420日本@名無史さん:2012/07/29(日) 16:58:20.11
もう一つ忘れがちだが、卑弥呼は諸国に共立された立場だ。
つまり諸国で複数の伝承、名前を残しているのかもしれないよ。
421太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/29(日) 17:20:55.30
>>419
作為があるなら、神功39年の倭人伝からの借り物の卑弥呼の記事など載せ
るわけもあるまい。朝廷の書庫には純粋に日本製の書での卑弥呼の出来事の
記事がまるで無かったが、外国製の卑弥呼の記事の倭人伝は書庫にあっ
たため、ここから神功皇后になるのかならんのかと、それで神功年代に
卑弥呼の記事を参考に載せておいたものだ。

無記述の作為があるなら、神功39年の記事など載せるわけもなく消す
だろうが。w

つまり書庫には日本の書での卑弥呼の記述はまるで無かったわけで、この
ことは畿内での卑弥呼の行動など全然無かったことを物語る。だから
卑弥呼は畿内の女ではなかったことになる。ということは、彼女は九州所在
の女だということだな。
つまり当時は畿内朝廷と九州女王国との政局は2元であったと考えるのが
真である。
422日本@名無史さん:2012/07/29(日) 17:42:51.82
二元というか、多元だな。
列島各地にいろいろ政権(王朝と言えないかも)があった可能性もある。

で、歴史の名を残した(=記紀)のが、大和政権であったと。
423日本@名無史さん:2012/07/29(日) 17:48:12.21
唐に敗戦した後だからそりゃ日本国側もいろいろ考えて書く
3世紀の九州の知識がなかったかどうかはわからん
424日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:30:54.55
>>421
編纂者のなかには、
倭から大和に伝わった卑弥呼の伝承を知ってる人物と、
知らない人物が混在していた可能性はないかな?

たとえば、
日本人は妻を妹という、変だ、
といった注釈を付けた編纂者がいた。
彼は日本人ではなく中国人だから、当時の日本の常識を知らなかった。

卑弥呼=天照大神の神話、と知っていた人も一部いたが、
スルーすることが内々に決定されていて、
なんか卑弥呼のことに触れてる人がいるけど、
仄めかしてる程度だからまあいいか、
と、当たらず触らず済ませたとか。

いずれにしろ、
神功皇后の朝鮮半島の事績が、ほぼ創作で、
かなり作為的なのは間違いないと思う。
425日本@名無史さん:2012/07/29(日) 23:38:42.96
息長大姫大目命・神功皇后・赤留姫が
日本(倭国)に渡来した入植位置は、
九州の京都郡の香春と大阪の日下などなど。

天日矛を祀る一族が秦氏だったことはほぼ確定で、
日国への里帰りを託宣した赤留姫を追いかけるように移動したから、
息長大姫大目命・神功皇后・赤留姫・天照大神を奉じる一族の動向は、
秦氏系の特徴を持つ遺跡を追跡すれば一通り分かる。

ニギハヤヒが天降りした太秦遺跡の他に、
九州にも秦氏が各地に分散して定住した痕跡が残っている。
そして、神籠石を用いた大規模な大陸式の山城跡は、
高句麗国から渡来した人々がいたことを、見せてくれている。
また、トンカラリン遺跡にまつわる信仰は、
高句麗の宗教について記した中国の史料から拾い出せる。
息長大姫大目命・赤留姫が元いた唐土が、じつは高句麗国で、
卑弥呼の鬼道のルーツが高句麗道教という点から、
ルーツが重なってくる。

卑弥呼の女王国を、人口密集地に求めたがる人が多いが、
密集地を避けて秦氏が入植していった場所のどこかが、
女王国と見るほうが自然かもしれない。
426日本@名無史さん:2012/07/29(日) 23:44:09.56
神武東征という、
九州と近畿の二つの勢力が衝突した伝承が残るが、
この時どちらが持っている神器も、
天照大神の子孫であることを証明するものだったとされている。

秦氏が九州と近畿に分散して入植した事実と
記紀神話は噛み合っている。
つまり、秦氏を統べる大王家は、九州と近畿二つに分かれて存在した。
倭と大和は、別の国だったと考えるほうが、
伝承にも遺跡の痕跡にも、うまくマッチする。
427日本@名無史さん:2012/07/29(日) 23:46:07.04
白村江の戦いで大敗した結果、九州倭国の天皇家は存続できなくなって、
秦氏の民を引き連れて近畿地方に亡命した。
配下の秦氏に、
当時はまだ沼地だった奈良や京都の盆地の中心部を埋め立てさせて、
そこに居を構えて京都と命名して住んだ。
九州の高天原、京都郡みやこ町の神籠石山城などからの移動だったなら、
古い地名を新しい土地に持って行って付けても、不自然ではない。

秦氏が平安京を建設できたり、
日本全国に八幡・稲荷系列の神社を数万社も建てまくれるほど、
桁外れの財力を持っていたのは、
その正体が亡命した九州倭国の天皇御一行様だったから、
とすれば、ある程度しっくりする。
428日本@名無史さん:2012/07/30(月) 00:08:39.93
コテハン(ハンドル)つけて投稿してよ
429日本@名無史さん:2012/07/30(月) 00:25:23.98
倭人は3世紀頃はまだ金銀の装飾品で身を飾らんですろ
430日本@名無史さん:2012/07/30(月) 03:24:54.01
>>429
倭人は3世紀頃は既に銀の装飾品では身を飾っていた。
惣座遺跡から銀の指輪が出土している。
431日本@名無史さん:2012/07/30(月) 03:26:56.65
いろいろと面白い話があるようだが、
根拠と推測と結論の関係が曖昧。

知らない部分だから、正しいとも間違いとも言えないが、
根拠と推論をもうちょっと整理してくれるとありがたい。
432日本@名無史さん:2012/07/30(月) 03:52:24.91
つかあの手の世界に足を踏みこまないほうがいいと思う
433日本@名無史さん:2012/07/30(月) 06:51:38.22
卑弥呼の邪馬壹国と、天照大神が住む高天原と、
アカルヒメ(神功皇后)の神籠石山城が、一つに繋がる線が存在する。

以下は、
多氏の日の巫女の王・アカルヒメを襲名した当代宗主が営む、
メタバースのカフェ・プリマベーラの
歴史フォーラムで公開されているログに、私見を加えて再構成したもの。

高句麗国の神宮(高天原)は、高句麗建国当初の都を見下ろす、
遼寧省 本渓満族自治県 桓仁満族自治県 五女山城にあった
と伝承されている。
五女山の遠景を見れば分かるが、
ttp://www.lntour.gov.cn/jp/4a34.html
巨大なテーブルマウンテンで、高天原の名前がぴったり当てはまる。

五女山周辺に今も残る伝承によると、
お姫様達が軍隊を駐留させて住んでいて、困った人々を救ったという。
神宮の巫女達のことだとすれば、多氏のアカルヒメの伝承と一致する。
飢饉の国難を解決するため、高句麗国の神宮五女山から九州に渡来して、
神籠石の大陸式山城を築いて、そこを新しい高天原と定めたとすれば、
神話や社家の伝承と、国内の遺跡がうまく重なってくる。

卑弥呼の女王国の呼称・邪馬壹国だが、
邪馬壹をもしヤマイと読んで、山囲の文字を当てたらどうか。
山を石で囲んだ女王の国は、
神籠石を用いた大陸式山城を神宮とする、高天原とも重なってくる。
434日本@名無史さん:2012/07/30(月) 06:54:49.91
ほとんどの邪馬台国論者は、
邪馬壹国を、倭国の最も栄えた人口密集地にある、と見てきた。

ところが、飢饉の国難を解決する目的で遼東半島付近から渡来した秦氏は、
密集地を避けて新たな農地を求めて入植し、治水・開拓して定住している。
そして、日の巫女の王は、平地ではなく、高い山の上の高天原に、
石造りの神宮を構えて居住する慣習を持っていた。

卑弥呼(日の巫女の王・斎王)の邪馬壹国(山囲国)が、
高句麗からの慣習に従って築かれた神籠石山城だったならば、
人口密集地に存在する筈がなく、標高数百メートルの山中を探すべきだ。

つまり、纏向遺跡が高天原の筈がないことになるし、
九州の平野部に残る遺跡も、該当しないことになってくる。

実際、多氏の巫女神道の社家の現宗主耀姫(アカルヒメ)様は、
六甲の標高五百メートルの高台にある奥池の住宅地に住んでおられる。
この隠れ里が、平安時代からの高天原だったそうだ。
日本で初めて豪邸条例が施行されたこの超高級住宅地に車で侵入するには、
南北とも有料道路の料金所を通過する必要があるほど警備が厳重だ。
435日本@名無史さん:2012/07/30(月) 07:00:36.67
高句麗国の王室の血を引く、多氏の姫神の家の現宗主耀姫様は、
大陸北方系の汗かきの体質で、平地より気温が低い高地に建てられた、
半地下構造(竪穴式)の住居でないと、夏は辛いのだそうだ。
地中の温度は一年を通じてほぼ十数度で、大きく上下しない。
五女山からも、半地下の石組みを持つ建物の痕跡が見つかっている。

高天原に住みたがる理由の一つがコレだとすれば、
雷山の四百メートルの高い場所に、神籠石山城がある理由も分かる。
耀姫様の古い分家筋の隠れ里が紀州にある。
丹生都比売神社だそうだが、その立地を見ると、
やはり、標高五百メートルの高地にある。

丹生都比売の伝承では、
九州に大日女(おおひるめ)、紀州に稚日女(わかひるめ)と、
分かれて渡来したことになっている。
日女(ひるめ)は、現代日本語の姫に相当する高句麗語だそうだ。
香春神社の息長大姫大目命が、丹生都比売伝説の大日女(おおひるめ)
であり、彼女達太陽の巫女が、天照大神のモデルと見て間違いないだろう。
耀姫様がメタバースで使っておられるアバターは、
有翼日輪の護符の形の装飾が施された、赤い珠を胸に下げている。
それが日の丸や旭日旗の元型になった御神体だそうだ。

邪馬台国がどこか、安易に結論は出せないが、
卑弥呼が高句麗道教の流れを汲む鬼道の祭祀を行う日の巫女の王で、
高句麗王室の血を引いている暑がりの体質の人物だったとすれば、
標高が高い、容易に人が近づけない、高天原と呼べそうな場所が
邪馬壹国の立地条件と考えるべきだろう。
436日本@名無史さん:2012/07/30(月) 07:58:18.06
>>427
地名の一致なら畿内は四国の方が多いのだが。
その時点で九州からの移転説は根拠を失うよ。
437日本@名無史さん:2012/07/30(月) 09:24:32.13
>>436
天照大神(神功皇后)のモデルが赤留姫で、
丹生都比売の伝承が、
天日矛を奉斎する秦氏の穴師(鉱山技師)の入植を伝えるもの、
と考えると、四国経由の土地の移動は全く問題なくなる。

赤留姫と天日矛を祀る人々は、
遼東・山東半島も含む高句麗国周辺から、
赤留姫の里帰りの託宣に導かれて日国(日本)に渡来してきて、
入植後は、秦氏と名乗った。その中には鉱山技師もいた。

秦氏系の穴師が天日矛を祀った場所は、
九州の銅山がある香春神社周辺と、
纏向遺跡を見下ろす高台に置かれた穴師坐兵主神社。
兵主(蚩尤)は天日矛の別名。
つまり、大和王権は、天照大神(赤留姫)の末裔。
438日本@名無史さん:2012/07/30(月) 09:26:51.02
>>436
丹生都比売の伝承によると、
大日女は九州、稚日女は紀州に分かれて入植している。
赤留姫は高句麗国神宮の斎王だから、
里帰りの託宣後、巫女集団や、家臣団を従えて来ている。

扶余・高句麗系の王族は、後に女真族になったが、
高句麗、百済、新羅、倭、大和、日本、清などを建国した
東アジア最強の覇王(スサノオ)の血統。
とうぜんのように纏向の地に入って、大和王権を打ち立てている。
牛の角を模した兜を被った天日矛が、牛頭天王(天皇)と名を変えて、
京都の祇園祭りで今も広く信仰されているのは、当然のこと。

赤留姫(神宮の巫女集団)を追いかけた人々が、
九州と紀州に分かれて、分散して入植したとしても、問題ないし、
そのほうが、ニギハヤヒと神武天皇が戦った神話のなかで、
どちらも天照大神(赤留姫)の子孫であることを証明する
神器を持っていた、というエピソードとうまく噛み合う。
439日本@名無史さん:2012/07/30(月) 09:31:40.68
>>436
赤留姫の託宣に従って九州に渡来した秦氏の穴師(鉱山技師)達は、
どうして九州から、紀州まで移動していったのか。
答は、大断層に沿って、貴重な金属の鉱脈が存在するから。

九州から四国を形成した大断層を辿って東に来たのだから、
当然四国から畿内へと、後に出雲系とされた種族の地名が移動する。
出雲を山陰と思って、騙されている人が多いが、
島流しされてあの地に行っただけで、本来は四国が本拠地。

近畿地方に巨大古墳が出現する百年前ほど前から、
四国で同じ墓制の古墳が作られている。
伊弉諾・伊弉冉も四国から淡路島経由で畿内に入っている。

赤留姫の託宣に従って動いた渡来氏族は、
岡山県にも比売許曽神社を建てている。
比売許曽は、姫の神社を意味する高句麗語。
神奈川県の秦野市にも入植して、秦野の地名を残している。
近畿地方の豪族の3割は渡来系で、なかでも秦氏は大集団。
東明聖王の直系の男衆は巨漢揃いだったらしく、大和王権を掌握した。
纏向遺跡を見下ろす場所に神社を置き、崇拝させている。

日の巫女の斎宮は、高天原と呼ばれる高地に作られる慣習があり、
事実、紀州の山奥の僻地に丹生都比売神社があるのだから、
纏向遺跡が卑弥呼が祭祀を行った神殿跡の可能性は低い。
440日本@名無史さん:2012/07/30(月) 12:18:47.23
針金くらいの太さの銀の指輪を金銀の装飾品で身を飾っていたと考えるかどうかだが
鏡も小型仿製鏡と鏡片だし、甕棺だけど… 惣座遺跡は高句麗人にしとくか
441日本@名無史さん:2012/07/30(月) 13:03:04.98
その時期に肝心の高句麗人とかが発生していると良いけどね
442日本@名無史さん:2012/07/30(月) 15:00:24.48
>>440
お前はパカチョーセンか?
   
惣座遺跡は帥升王統の城郭。

すなわち、伊都(イト)は倭都(イト)の意味。
443日本@名無史さん:2012/07/30(月) 16:02:28.14
>>439
何度も指摘されているが、アカルヒメは卑弥呼の年代より後年ですよ。
鉱山、水銀朱を追いかけてた山師の来日は何度もあります。
卑弥呼は練丹術がまだ確立されてない時代の人物で、
その新技術を持つ秦氏とは別です。
444日本@名無史さん:2012/07/30(月) 17:18:45.97
>>442
なに必死になってんだw
高句麗人じゃいやか?強いぞw
惣座遺跡は鏡から見て連合内でも、地位は低いな
楽浪土器もない外交窓口なんかないしな
445日本@名無史さん:2012/07/30(月) 18:16:01.42
記述にある倭人は基本的に海人だろ。
半島奥の連中なんてハナから論外。
446日本@名無史さん:2012/07/30(月) 18:18:41.25
まあ5世紀からだな遊牧民の技術、文化を吸収するのは
447日本@名無史さん:2012/07/30(月) 18:24:03.98
216年 丙申 阿達羅 4年 4月 多婆那以迎烏カ爲君

これにあわせると

214年 甲午 垂仁元年  新羅王子天日槍 (天之日矛,目頬子)渡来

ということになるよ
448日本@名無史さん:2012/07/30(月) 18:47:33.10
渡来系の姫様の息長帶日賣さんは340-389あたりに生息していたみたいで

天之日矛の御子孫なのだけど

天之日矛さんが214年 に渡来して

216年に多婆那の君におさまるとゆうスケジュールにはべつに無理とかは無いよね

んで息長帶のご先祖の多婆那のとこの嫁はふつうに読むと逃げてきたおひいさまとは別人だな


あと 著名な渡来系の姫様としては

安楽應寳秘命 安羅大姫

あらをほひめ            とゆうのがおるよ

ニックネームが八幡大菩薩で 日明玉連 尚たらゆうひとらしいよ

渡来したのが 522年 善記元年で、死亡したのが 589年 端政元年で

阿輩雞彌天子さんと小徳阿輩臺太子さんが出てくる直前のひとだよ
449日本@名無史さん:2012/07/30(月) 19:27:31.06
根拠のない妄想だらけの書き込みばかりで話にならんわ。
450日本@名無史さん:2012/07/30(月) 23:59:24.79
>>444
>惣座遺跡は鏡から見て連合内でも、地位は低いな
>楽浪土器もない外交窓口なんかないしな

文化レベルの高さは軍事力の巨大さを意味しない。
シナ王朝の交代がそれを物語っている。

帥升王倭國の都は吉野ヶ里。
倭國乱の頃、新興邪馬台国と投馬國に圧迫されて、
帥升王統倭國は都を惣座に遷都。

吉野ヶ里遺跡と惣座遺跡の環壕の形態と構造が同じであることが、
両者が同一政権の城郭であることを物語っている。
451日本@名無史さん:2012/07/31(火) 01:35:38.08
>>450
客観的に北部九州全域、菊池川流域、宇土半島基部の弥生遺跡を細かく見たほうがいい
452日本@名無史さん:2012/07/31(火) 14:10:31.40
さて、投馬国の比定地について薩摩という意見があったが鹿児島に5万戸の大国を求めるのは難しい。
奴国を福岡市あたりとしてもその2倍以上の戸数を薩摩で補う事は少々無理があるのではないだろうか。
私の意見としては国の生産力の指標ともなる平野部面積、また魏志倭人伝に記されたミミという官命から宮崎平野のほうが有力だと思える。
453日本@名無史さん:2012/07/31(火) 14:21:07.59
西都市には妻という地名があるんだよね
454日本@名無史さん:2012/07/31(火) 14:35:13.65
>>452
投馬国の領域を広く考えればいいんだよ。鹿児島だけで足りないなら熊本も
含むと考えたらどうだい?
邪馬台国だって日向だけではなく、大分までその領域だったと考えるんだよ。
455日本@名無史さん:2012/07/31(火) 14:38:27.87
>>453
都萬神社もあるし、官名のミミと美々津や耳川も関係あるのかも。
456日本@名無史さん:2012/07/31(火) 15:46:43.01
しかし、投馬を宮崎に持っていくと、邪馬台国は本当に南西諸島のどれかになってしまいそうだ
それを避けるには比定地を阿波に持っていくしかなくなる
457日本@名無史さん:2012/07/31(火) 16:48:42.45
あわあわ、あわわ、アハ
458日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:16:37.18
>>436
何もしらないんだね。
459日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:20:46.52
>>454
3世紀にそんな巨大国家があろうはずもない。
460日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:29:29.78
>>458
九州の地名は奈良から移した事は知ってる。
461日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:30:16.73
ゆるやかに連合してるんだろw
462日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:38:19.84
まぁ、結局は阿波しか選択肢が無くなるんだけどね。
邪馬台国じゃなくとも中国人が倭国の風土を記録したのは土佐周辺だ。
これに関しては水銀さんが正解だよ。
463日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:51:06.20
>>460
やっぱり何もしらないんだね。
464日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:52:03.02
>これに関しては水銀さんが正解だよ。

問題外。
465日本@名無史さん:2012/07/31(火) 19:48:15.39
>>459
巨大というほどのことではないね。あなたは北九州説かな?
466日本@名無史さん:2012/07/31(火) 20:23:48.74
まぁ九州説も一昔前の間抜けな
行程解釈が減っただけでも進歩したな。
467日本@名無史さん:2012/07/31(火) 20:40:57.22
まぬけってゆう
468日本@名無史さん:2012/07/31(火) 20:46:40.96
まあ、今に決定的考古学的証拠が出て、畿内説の学者は三角帽子だ。
楽しみだね。
469日本@名無史さん:2012/07/31(火) 20:54:17.80
え?九州説は考古学を信用しないんじゃ…
470日本@名無史さん:2012/07/31(火) 21:52:30.89
考古学は大切だよ。ただ、今の考古学者の多くがアホなだけだ。
471日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:01:47.19
>>470
同意。
箸墓を卑弥呼の墓とする段階で、
その根拠が、学者としての許容範囲外。
472日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:07:59.37
阿波の性格を考えると阿波説もトンデモと言い切ることもできないな
473日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:23:27.32
考古学にもいろいろあってな、
土器の絶対年代と年輪年代は信用していない。

474日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:37:10.30
自分は年輪年代より放射性炭素年代測定の方を信用してない
C14は他が1800±なんとかという値なのに1200±なんとかとかそんな数字が出てるの見たことあるし
土器的にもありえないのにどういうことだか知らないけど
475日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:47:35.22
測定ミスでとんでもない数値が出ることもあろうが、
ちゃんとした計測をやってるところなら、基本的には信用するな。

1800年前が弥生時代で、1200年前が奈良時代くらいなら、
普通にそれくらい続いている遺跡はゴロゴロしてるだろ。

大宰府なんて、紀元前から鎌倉までまんべんなく出てくる。
476日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:58:30.88
吉野ヶ里も弥生中期の遺跡だが、それ以降もそれなりの集落ではあったらしく、
9世紀あたりの木簡が出てたと思う。

佐賀惣座遺跡も、すぐ近所が肥前国庁跡だから、
その辺一帯がずっと続く集落なんだろう。

というか、ある程度人が集まるところや交通の要衝でもなければ、
肥前国庁や国分寺をつくることもなかろう。
477日本@名無史さん:2012/07/31(火) 23:39:32.34
そのあたりは現代まで絶えることなく営まれてる遺跡もあるだろうな
478日本@名無史さん:2012/08/01(水) 00:09:39.64
吉野ヶ里は弥生中期の遺跡だが、弥生後期(2世紀倭國乱の頃)には縮小し始めている。
吉野ヶ里遺跡に本拠を置いた勢力は、2世紀中ごろにその勢力を縮小していったのである。

弥生時代の惣座遺跡には、墓からの出土品から見て、大陸と通好する大王クラスの勢力がいた。
後に彼らが滅んでも、交通の要衝に立地する惣座遺跡には肥前國庁等が置かれるなどして、
地域として繁栄し続けたのである。
479日本@名無史さん:2012/08/01(水) 00:17:33.34
北部九州は伊都、奴国エリアだから弥生期の繁栄は当たり前の話。
だが邪馬台国では無いだけの事だよ。
480日本@名無史さん:2012/08/01(水) 00:24:08.21
>吉野ヶ里は弥生中期の遺跡だが、弥生後期(2世紀倭國乱の頃)には縮小し始めている。
吉野ヶ里の紹介には次のように書かれているぜ。

弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)
をもつようになります。特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたります。
481日本@名無史さん:2012/08/01(水) 00:36:08.75
吉野ヶ里とその周辺は、
支石墓、甕棺墓、墳丘墓、方墳、円墳、前方後方墳と、
墓の見本市みたいな状況になってる。

なぜか近所にないのが、前方後円墳。

ちょっと距離を置けばあるけど。
482日本@名無史さん:2012/08/01(水) 02:14:56.56
>弥生時代後期(紀元1〜3世紀)

吉野ヶ里遺跡の最盛期はAD1世紀弥生中期末(帥升の時代まで)
遺跡が縮小して継続するのが、AD2〜3世紀弥生後期(倭國乱の頃以降)

吉野ヶ里の地元は卑弥呼を担ぐために曖昧な表現を取っているようである。


>なぜか近所にないのが、前方後円墳。

前方後円墳の時代(4世紀以降)には、吉野ヶ里は既に滅んでいる。
吉野ヶ里に権力者がいたのは、3世紀末迄。
483日本@名無史さん:2012/08/01(水) 10:05:02.71
奈良に引越しちゃったんだね
484日本@名無史さん:2012/08/01(水) 20:04:19.60
鳥栖付近の筑紫国と肥国の国境が落ち着いていない時の
最前線が吉野ヶ里あたり。

国境が落ち着くと、それほど強化する必要もなくなる。
木簡が出ているから役所機能自体は残ってたようだが。
485日本@名無史さん:2012/08/01(水) 20:36:41.88
なぜ衰退したのか?
なぜ遺棄されたのか?
あの時代、住みやすい台地で、耕作地も有れば、
住んで損の無い処だろうに?
486日本@名無史さん:2012/08/01(水) 20:36:54.08
吉野ヶ里付近は、後世では肥前米田郷や筑紫米多國があったところ。
権力者がいなくなっても、役所機能は必要。
487日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:05:22.63
>なぜ衰退したのか?
>なぜ遺棄されたのか?

筑紫平野の権力バランスが変わり、筑紫平野の他地方の権力者が支配したから。
3世紀の吉野ヶ里付近は、
北が背振山地、南が現在より北に張り出した有明海に挟まれた、
海と山が近く、佐賀平野と北野平野を繋ぐ東西に長い地峡であった。
吉野ヶ里遺跡は、北に背振山系の山麓、南に有明海が迫る、
佐賀平野と北野平野を支配するには重要な軍事拠点であった。

しかし、3世紀の末頃には、有明海の海岸線が南に後退し、
吉野ヶ里遺跡は地峡における軍事拠点としての価値が無くなったと思われる。

488日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:46:08.33
>肥前米田郷や筑紫米多國

これも、国境が落ち着いていない傍証と言えるかな
489日本@名無史さん:2012/08/01(水) 22:49:47.29
>>485
最初は東側の港が使用された。
後には
西側の港が使用された。

何故か?
それは東側の水深が浅くなり港として利用できなくなったから。

なぜ遺棄されたのか?
それは西側の水深も浅くなり利用できる港が無くなったから。

だと思う。
490日本@名無史さん:2012/08/01(水) 23:43:52.25
吉野ヶ里は平家が神埼荘手に入れて政庁を移すまで
院領神埼荘の役所機能があった
491日本@名無史さん:2012/08/02(木) 00:05:15.45
感謝
492日本@名無史さん:2012/08/02(木) 09:21:09.10
>>489
倭国が統一されて戦いに備える必要がなくなったから平地に住居を移したんだよ。
493日本@名無史さん:2012/08/02(木) 09:34:36.37
>>492
思いつきだけが根拠の駄説。
494日本@名無史さん:2012/08/02(木) 10:41:24.90
狗奴国は熊本かな
495日本@名無史さん:2012/08/02(木) 13:24:25.22
>>493
ウィキには次のようにあるよ。

古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。
集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような
経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御
施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、
丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来る
ようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。

496日本@名無史さん:2012/08/02(木) 13:28:56.80
    ┌┬┐
    ├┼┤夫餘 方可二千里 戸八萬
  ┌┼┼┘
  ├┼┤高句麗 方可二千里 戸三萬
  ┝┿┿┰┐
  └┼朝╂┤東沃沮
    ├鮮╂┼┐濊 戸二萬
    ┝┿╋┿┥
  郡★┼╂┼┤韓 方可四千里
    ├┼╂┼┤馬韓 凡五十餘國 總十萬餘戸
    ├┼╂Fe┤弁辰 合二十四國 總四五萬戸
    └┴┸┴★狗邪
三千許家 天★一大ハブセンター
二萬戸奴國┏┳┯┓┌┬┬┬┬┐みみのぴょんぴょん
        ┣╂┼┨└┴┴┴┴┘投馬國 五萬餘戸
神の狗奴國┗╂┼┛
クマの      ┗┛邪馬臺國
          20ヶ國七萬戸
497日本@名無史さん:2012/08/02(木) 23:55:00.44
狗奴国は熊本平野だろう。
菊池平野には狗奴国の最前線の官、狗古智卑狗がいた。
狗奴国を球磨郡だけ乃至それ以南に比定する方もいるが、それだと九州中北部にまで及ぶ勢力を相手に戦い、魏に窮状を訴えさせる程の力があったとは考え難い。

ましてや畿内に邪馬台国があり北部九州まで支配下に治めていたとするならば、狗奴国を比定する場所は何処にもない。
498日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:06:29.22
>九州中北部にまで及ぶ勢力を相手に戦い、魏に窮状を訴えさせる程の力
そんな国があったとしたら、魏と独自に通交していたはずだろうが。
499日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:21:34.68
http://inoues.net/museum/tachumon2.gif

これが出土してないところのは政治的には僻地だからな

これが欠片で出土しただけのはたんなるお持ち帰りのでだめなんだろうけどね
500日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:30:32.87
>>497
正解だよ。
501日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:32:44.10
>>498
>魏と独自に通交していたはずだろうが。

卑弥呼の直前に朝貢していたはずだ。
502日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:51:25.09
>>497
熊本全部が狗奴国だとすれば大き過ぎる。壱岐や対馬や末盧国など
こまごました国ばかりの北部に比べて、山鹿・菊池から球磨盆地までが
一つの国だとすればあまりにも大きさが違いすぎる。

逆に、菊池地方だけを狗奴国とすれば、現在の熊本市から宇土市、宇城市、
八代市から人吉近辺まではいったい何だと言うことになる。
503日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:54:20.39
青銅器の刃物の出土のもうすいのがくまさんだね
504日本@名無史さん:2012/08/03(金) 01:12:41.86
>宇土市、宇城市、
八代市から人吉近辺まではいったい何だと言うことになる。

周旋可五千餘里から
倭人伝の言う
倭国の中には入らない。
505日本@名無史さん:2012/08/03(金) 01:37:55.16
周旋可五千餘里からすれば、九州全部が倭の地だ。
506日本@名無史さん:2012/08/03(金) 07:43:45.95
九州全部は無理。
507日本@名無史さん:2012/08/03(金) 07:51:30.89
周旋可五千餘里からすれば、対馬から西北部九州が倭の地だ。
508日本@名無史さん:2012/08/03(金) 07:52:34.44
>>506
周旋の意味を知らないな。
509日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:12:37.61
しゅう‐せん 〔シウ‐〕 【周旋】
ぐるぐると回ること。めぐりあるくこと。周遊。「ひろく所々を―して」〈洒・雑文穿袋〉
(デジタル大辞泉)
510日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:20:08.45
相変わらず九州脳は酷いなw
511日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:23:08.21
松浦から邪馬台国まで残り二千里
行って帰って四千里。

ちょっと寄り道した程度で、周旋五千里
512日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:25:06.85
    ┌┬┐
    ├┼┤夫餘 方二千里 戸八萬
  ┌┼┼┘
  ├┼┤高句麗 方二千里 戸三萬
  ┝┿┿┓┐
  └┼朝╂┤東沃沮
    ├鮮╂┼┐濊 戸二萬
    ┝┿╋┿┥
  郡★┼╂┼┤韓 方四千里
    ├┼╂┼┤馬韓 五十餘國 總十萬餘戸
    ├┼╂鐡┤弁辰 二十四國 總四五萬戸
..月支★┴┸┴★耶神の狗邪     郡→狗邪 . 7,000里
 千餘戸對海國★          狗邪→女の園 5,000里
. 三千家一大國★天ハブセンター
   二萬戸奴國┏★┳┓┌┬┬┬┬┐ミミの
           ┣┳┛┃└────┘投馬國 五萬餘戸
   神の狗奴國┗┫┏┛
   クマの      .┗┛邪馬臺國
             20ヶ國七萬戸
513日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:36:31.36
「方五干余里」ではなく「周旋五干余里」と書いたのは、
朝鮮半島と違って、あるいは絶え、あるいは連なっているからで、
意味はほとんど同じだろう。
瀬戸内のような海には大きな土地が無いことを考えると
九州から近畿がすっぽり入るぐらいの大きさだ(地図で方四千里の韓と比べてみろ)。
ただし、これは倭人の住む地全体の大きさであって、狗奴国や、
女王国の東千余里にある倭種の国(四国か近畿)も含んでいると思う。
四国や近畿が女王国に属していたかどうかは分からない。
また東海や北陸などについては
514日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:38:05.80
遠絶していて把握していなかっただろう。
515日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:39:26.90
>>497
>>507

>>497の言う通り。
狗奴國は菊池地方だけだ。
熊本平野全体は卑彌弓呼王が率いる男王國だ。

後漢書では東鯷人二十餘國が書かれている。
その東鯷人は東シナ海海外の九州南部にあたる。
後漢書には女王国の南に狗奴國が描かれていない。
それは女王国の南は東鯷人二十餘國があると考えたからだ。
後漢書では、魏書にあった狗奴國に該当する国を書けないので、
女王国の東に別途倭種拘奴國を登場させたのである。

東鯷人二十餘國の王が卑彌弓呼なのだ。
東鯷人二十餘國の文化的特徴は彩色石室をもつ
横穴型、地上型、半地下型、地下型の墓である。
この形式の墓は熊本県と鹿児島県北部に分布する。
516日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:46:54.62
しかし異常に九州に執着する意図はなんだ?
弥生中期に中国人が瀬戸内や河内まで頻繁に来てるのは確実だよ。
517日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:48:01.92
ぐるぐると回ること。めぐりあるくこと。

A点からZ点までの片道なら、周旋。シュウセン
A点からZ点を通りA点まで戻る往復なら、周匝。シュウソウ
518日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:49:02.04
死んでも生体の供御要求するような女大酋長さんは

生前にも同様に生体の供御要求とかしていた?
519日本@名無史さん:2012/08/03(金) 09:23:19.65
>>516
その根拠が貨泉なら、うかつな論拠だよ。
貨泉は多くが贋造流通品(いわゆる踏み返し)なので
520日本@名無史さん:2012/08/03(金) 09:37:55.17
周旋の意味は517 が正解、しかし507みたいに対馬国から考えるのはまちがい、
倭の領域ではなく倭の地だからね、末盧国から五千里だ。
つまり、末盧国から九州南端まで約400キロということだ。
521日本@名無史さん:2012/08/03(金) 09:50:20.42
九州だけだと韓より小さくなっちまうんだよ
522日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:10:00.27
>>519
当然出土状況と込みでの判断だろ。
大体貨泉だけな訳じゃないですよw
523日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:14:57.39
倭を九州だけに留めたいのは、半島勢力下にしたい一部の連中だし。
524日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:26:22.25
>>523
倭人伝には、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とある。
女王国の東に海を渡ること千里あまりでまた国あり。みな倭種。

東に海を渡ったところにある倭種の国が、倭国として書かれている30カ国
あまりに含まれているとは考えにくい。
525日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:29:49.60
貨泉をググって写真を見たら、
そうとういろいろな形があるね。

上手いのから、下手くそなのまで。

銅そのものに価値があるから、どこで誰が作っても、
余り混乱しなかったんだろうかね。
526日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:46:01.53
三国志東夷伝(魏志倭人伝)で、陳寿が
「はじめて東夷諸国を周観し」て、中国人が倭国に訪れた

みたいなことを記述している以上、弥生時代中期に中国人が
“多く”倭国を訪問している状況はあり得ない。問題外。
527日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:51:48.72
>>524
四国もあるのに九州限定で考える方が余程無理があるだろ…
528日本@名無史さん:2012/08/03(金) 10:56:43.06
九州脳では丹波で出てる鏡やら剣は無視ですかそうですか。
529日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:29:18.88
>>527
四国は侏儒国
530日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:43:07.82
九州は倭王からみたら衆夷の国だろw
531日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:45:24.97
>>520
>周旋の意味は517 が正解、しかし507みたいに対馬国から考えるのはまちがい、
>倭の領域ではなく倭の地だからね、末盧国から五千里だ。
>つまり、末盧国から九州南端まで約400キロということだ。

「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連」は、倭地が列島或が群島であることを示している。
即ち、>>507の言う通り、倭地は対馬から西北部九州までを指すことになる。

倭地は、対馬、壱岐、福岡平野、筑紫平野、熊本平野までの地域である。
対馬から熊本平野(熊本平野北部)までの5000里(350km)が倭地の範囲である。
532日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:45:49.51
527 528
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書いてくれてるだろ。
 無視はしてないよ。
533日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:53:38.13
女王国は四国からですよ。
多婆奴国との位置関係もあるからね。
534日本@名無史さん:2012/08/03(金) 11:59:36.03
うばすてっぽいおなまえだな
535日本@名無史さん:2012/08/03(金) 12:06:04.41
>>534
君は鋭いね、トヨが晩年を過ごす土地なんだよ。
536日本@名無史さん:2012/08/03(金) 12:34:49.69
>>502
>逆に、菊池地方だけを狗奴国とすれば、現在の熊本市から宇土市、宇城市、
>八代市から人吉近辺まではいったい何だと言うことになる。

現在の熊本市から宇土市、宇城市、八代市から人吉近辺までは、卑彌弓呼王の男王國。
狗奴國は狗古智卑狗を官とする卑彌弓呼王の男王國を構成する国々の中の一国に過ぎない。

卑彌弓呼王の男王國を構成する国々とは、漢書と後漢書に記されている東鯷人二十餘國のことである。

東鯷人
会稽から見て、東の海(東シナ海)の海外にある、鰻の様に並ぶ列島(薩南諸島、大隅諸島、九州西岸とその諸島、五島列島)に住む人々。

楽浪海中は、対馬、壱岐、九州北西部。
会稽海中は、舟山群島(杭州湾の東海上)。
537日本@名無史さん:2012/08/03(金) 12:49:41.51
>>533
>女王国は四国からですよ。

四国(土佐)は侏儒國。
倭種の南、且つ女王(筑紫平野)から4000余里(300km)の所は四国土佐。
538日本@名無史さん:2012/08/03(金) 12:56:06.72
>>521
韓が4千里四方、倭地がぐるっと回って5千里。
韓より倭の方が小さいって書いてある。
四国はどう考えたって倭種の国だよ。
539日本@名無史さん:2012/08/03(金) 13:31:38.47
>>538
>韓が4千里四方、倭地がぐるっと回って5千里。
>韓より倭の方が小さいって書いてある。
>四国はどう考えたって倭種の国だよ。

 韓が4千里四方、倭地は北の端から南の端までが5千里。
 韓より倭の方が大きいって書いてある。
 中国地方はどう考えたって倭種の国だよ。

 
540日本@名無史さん:2012/08/03(金) 13:40:40.38
倭の中心は淡路島ですよ、日本の常識です。
541日本@名無史さん:2012/08/03(金) 14:31:58.38
>>539
>中国地方はどう考えたって倭種の国だよ。

「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種」魏書
「自女王國東 度海千餘里 至拘奴國、雖皆倭種」後漢書

どちらも、「女王國の東方で、千餘里の海を渡ると 國が(拘奴國に)在る(至る)」と書いてある。

九州東海岸から、千里(70km)の海上を渡ったところは、山口周防である。
542日本@名無史さん:2012/08/03(金) 15:00:11.62
今の感覚で当時を考えてはいけないとはよく言われるが
今の感覚が当時の感覚に共通することも多々あるわけで
普通、九州から本州に渡るには関門海峡を渡るだろうと
それは千余里もかからんだろうと
543日本@名無史さん:2012/08/03(金) 15:27:13.32
>>642
関門海峡なら文が異なる。
以下の様な文になるだう。

「女王國北 渡海十餘里 復有國 皆倭種」
544日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:15:26.13
渡海千余里というのは大分から四国までのことだよ。
545日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:34:47.28
ここは流石に冗談みたいなレベルの話しかでないなw
546日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:52:09.20
渡海千余里は、国東半島から伊予松山と考えることが出来るな。

しかし、国東半島の北にある周防を飛ばして、
周防より更に東千里の伊予松山のことについて書くことに不自然さを感じる。

周防より更に真東千里の伊予松山も倭種に含まれる様に思う。
547日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:57:49.78
>>545
おまえの頭自体が冗談みたいなレベルの低さなんだよ。
548日本@名無史さん:2012/08/03(金) 17:09:26.01
>国東半島の北にある周防を飛ばして、周防より更に東千里の伊予松山のことについて書く
>ことに不自然さを感じる。
使者は日向にいて大分あたりのことを書いているんだよ。周防のことは知らないんだ。
549卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 17:30:37.70
君らは当然知っていると思うが、こういう資料があるぞ。

規方千里 即四面五百里也 (「漢書」顔師古注)

方千里とは一辺が五百里だという意味だ、と顔師古先生は仰っておられる。

それから、侏儒國は四国(土佐)だなどとアホ丸出しのことを恥ずかしげもなく連呼している奴がいるが、
根拠も挙げないで何を言っても無駄だよ。
侏儒國や裸国については中国に意外とたくさんの文献資料があるのだ。
それらを読んでから物を言った方がよい。
550日本@名無史さん:2012/08/03(金) 18:17:20.41
>>547
さすがに夏休みらしいレスだw
551日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:14:16.17
>>549
侏儒國の存在場所についての根拠は提示済。だが再掲。

@女王の居所(筑紫平野)から四千餘里の円周上。 「去女王四千餘里(300km)」
A倭種地域(周防山口県東南部)から南方向(東寄りに約35°東南方向)へ引いた直線上。 「又有侏儒國在其南」

@Aの交点は土佐高知平野、ここが侏儒國。
552日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:23:11.27
ふつうにかんがえたら侏儒國の住人って 日本猿のご先祖様だわ
553卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 19:25:38.52
>女王の居所(筑紫平野)
>四千餘里(300km)
>倭種地域(周防山口県東南部)

これらすべて何の確証もない。
それに土佐に侏儒が多いというような伝承も記録も一切無いと思うがw
554日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:27:12.20
侏儒はペンギンのことだよ
555日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:37:46.62
ほんとくっだらねー素人の勝手な妄想ばかりだなww
556日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:40:26.32
>>551
女王の居場所自体に根拠が無いよw
557日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:43:59.57
>>553

>女王の居所(筑紫平野)  女王の都する所は久留米付近

>四千餘里(300km) 1000里≒75km・・周髀算経

>倭種地域(周防山口県東南部)  上記レスで説明済

土佐に侏儒國説は上記仮説に基づくもの。

558日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:54:03.49
土佐にはペンギンがいるという伝説があるけどな
559日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:58:13.89
単にシュジュかそれに近い音の国があって
侏儒という悪字を当てただけっていう可能性は?
560日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:00:28.13
シバテンぢゃろ
561日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:01:58.02
侏儒国とかは「山海経」などの先書の記述を踏襲してるんだろ
中国史書ではよくある話
562aa:2012/08/03(金) 20:02:47.92
普通に邪馬台国は巻向を中心とした
大和のことだよ。巻向が突如出現した時期と
魏志倭人伝で卑弥呼が登場する時期がほぼ一致するし
もう九州説などないわ。まだ邪馬台国は九州だ云々言ってるのは
ただの馬鹿なマニアくらいになりつつあるw
563日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:18:05.43
>>562
だから、そう思うなら、邪馬台国=畿内を立証してみろ。畿内が邪馬台国だった
ことを立証すれば論争は終わる。さぁ、やってみろ。
564日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:36:14.86
畿内銅鐸国って、あっけなく滅んでるよね。
邪馬台国が畿内のわけないでしょ。
565日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:55:51.94
九州説支持者のレベルが低過ぎるな。
566日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:18:53.73
九州説なんてまともな候補地も人も何も無いんでしょ?
何で未だに支持する人がいるかというと、
根拠も裏付けも少なくて、逆に自己流に
妄想出来るからに過ぎないだけで。
567日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:20:27.04
桃の種でも卑弥呼の証拠にしちゃう畿内説って、詐欺ばかりでもう飽きた。
568日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:40:43.60
魏志倭人伝を普通に読めば九州から出てないもんなあ
東南を真東と読み替えても東方向には700里しか移動してない
569日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:45:37.23
普通に読めば九州から出るよw
570日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:53:48.17
普通に読んだら出ないよ。東南五百里の伊都国は佐賀だ。そこから南へ行くだけ。
十分、九州の中に収まるよ。
571日本@名無史さん:2012/08/03(金) 21:55:12.73
>規方千里 即四面五百里也 (「漢書」顔師古注)
>方千里とは一辺が五百里だという意味だ、と顔師古先生は仰っておられる。
きちんと引用して、どう読むのかを説明してくれ。
572日本@名無史さん:2012/08/03(金) 22:02:17.70
邪馬台国論争は江戸時代からあるが、九州から出ると読んだ人はいない。
そういう読み方を最初にしたのは、畿内説の内藤湖南。
しかも、だから『南』は『東』の間違いであると言った。
まあ、畿内説最初にありき、はここから始まったと言える。
573日本@名無史さん:2012/08/03(金) 22:35:32.66
>>572
江戸以前には普通に邪馬台国=大和なんで
問題なんか存在しなかった訳だ。
574日本@名無史さん:2012/08/03(金) 22:37:10.04
>>570
そうだね、沖縄も九州なんだね、きっとw
575卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 23:07:31.29
>>571
規方千里の意味は不明だが、たぶん方千里と同じような意味だろう。
ある本に、この部分だけ引用されていたので、全文は分らない。
同じ本に次のような引用文もあった。

「方四千里は、すなわち四面で二千里なり」(「中国古代史」)

その本の著者は一周で二千里と解しているようだが、私は一辺が二千里と解す。
576日本@名無史さん:2012/08/03(金) 23:37:46.65
いいかげんな著者だろう。まともな学者じゃあるまい?
577卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 23:42:45.57
中国里については次のような資料もある。

歩弓 度地論 二尺為一肘 四肘為一弓 三百弓為一里 (「続十八史略」)
578日本@名無史さん:2012/08/03(金) 23:51:48.59
史料なら、なんでもOKというわけじゃないんだyo!
信頼できるかどうかの一点こそ重要
579日本@名無史さん:2012/08/04(土) 00:22:38.15
>>562
>まだ邪馬台国は九州だ云々言ってるのは
ただの馬鹿なマニアくらいになりつつあるw

まだ邪馬台国は畿内だ云々言ってるのは
邪馬台国が畿内にあったと捏造しようとしている偉い学者達と
それに騙されて真に受けている馬鹿だけ。
580日本@名無史さん:2012/08/04(土) 01:07:48.37
畿内説信者は、倭人が奈良県で鮑を潜水して採っていたと思っているんだろ。
その程度の馬鹿しかいない。
581日本@名無史さん:2012/08/04(土) 01:20:45.17
>>580
いや、淡路島周辺で獲れた海の幸を
河内湖〜亀の瀬経由、広瀬衆が水運で運ぶんですよ。
知らなかったの?
582日本@名無史さん:2012/08/04(土) 04:10:36.32
そういえば、奈良周辺の土地勘がないので、わからないんだが、
大和川水系やその周辺の川で、
海から奈良中心部にさかのぼれる川はあるの?

あるいはさかのぼれる程度にゆるやかな
川はあるの?、かな?
583日本@名無史さん:2012/08/04(土) 04:50:24.86
>>582
大和川
大和川の大阪府と奈良県の県境である国分から亀の瀬の間は、水量が少なく勾配がきついので遡るのは無理。
下る時は下船して沢歩きをしながらロープで舟を引っ張らないと通過不能な場所が多い。
大和川を舟で下る実験をした番組(ナイトスクープ?)があったが、川下りは大失敗。
大阪府国分からの下流と、亀の瀬上流側の王寺より上流も舟運可能。

木津川
淀川をさかのぼって木津川に入り、木津川市木津まで舟でさかのぼれるが、
木津から平城京奈良市内まで平城山越えの徒歩が約6kmある。
584日本@名無史さん:2012/08/04(土) 05:20:20.84
河内と奈良盆地を結ぶ古道は二本しかない。
生駒山の南側と北側に各一本づつ。

南側は暗峠越え、現国道308号。
北側は逢阪(逢坂)の清滝峠越え、現国道163号。

古代以来昔の人はこれらのいずれかの道を通って大坂河内と行き来したのである。
585日本@名無史さん:2012/08/04(土) 05:34:55.83
>>584続き
暗峠の南約5kmにある高安山は7世紀末に高安城があったといわれるところ。
神籠石のようなものがあるが、現在未確定。
586日本@名無史さん:2012/08/04(土) 06:30:42.23
亀の瀬は昔から崩落の繰り返しで地形が変わってるよ。
また河内平野も奈良盆地も地形が全くが異なります。
大型船は現柏原市辺りまで。ここと奈良の王寺駅周辺で船乗り換え。

徒歩で峠越えなら普通穴虫か竹内越え、もしくは関屋越えですよ。
古代大和の塩はこの竹内集落辺りから配ったとされます。
587日本@名無史さん:2012/08/04(土) 07:12:43.57
やはり邪馬台国と大和朝廷はほぼ無関係だろう。

朝廷の伝承の中にない。
奈良時代ですら困ってたぐらいだし。

アマテラスがどうこうって、もともとあれは
男性太陽神だろう。

皇室神話を大和・難波の太陽神神話と融合するときに
混乱がおきたはずだ。


ウリは生粋の関西人ニダ。
しかし邪馬台国は大宰府あたりだと思う。

巻向はそれこそ初期大和朝廷。
588日本@名無史さん:2012/08/04(土) 07:28:55.41
>>587
まそれが、良識派の判断だよな
歴史に利害ではなく真理を求めるのなら
589日本@名無史さん:2012/08/04(土) 08:20:27.81
大宰府なんてどうみても伊都だろ。
散々観光の為にマスコミ利用してきた九州説なんて
利害の塊のような気がするぞw
590日本@名無史さん:2012/08/04(土) 08:21:14.46
大和朝廷と邪馬台国が繋がってるかどうかは分からないが
天皇家の祖先が九州から来たことは間違いない
591日本@名無史さん:2012/08/04(土) 08:37:08.51
皇室の祖先は別に九州でもないよ。
九州にも縁があるだけの話
592卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 09:12:23.99
戊申十年,豆只州濊邑叛,命余守己斬其酋素尸毛犁,自是稱其地曰素尸毛犁,今轉音爲牛首國也。
其後孫有陜野奴者,逃於海上,據三島,僭稱天王。

豆只州というのはおそらく長白山〜豆満江〜ウラジオストク〜咸鏡北道あたりで、
その辺りの濊君陜野侯が日本に来て王を称したわけで、それが神武だとすれば、
天皇家は濊族である。要するに満州朝鮮族である。

アトランティスの沈没から逃れた人々がゴビ砂漠から満州朝鮮を経て
日本列島に渡ってきたことは間違いないわけで、それはBC一万年年頃のことだが、
その後も半島から陸続と移住してきたことはほぼ確かである。
593日本@名無史さん:2012/08/04(土) 09:26:52.87
神武が九州から来たのでなければ神武東征説話など記紀には絶対書かない
神武が奈良を手中に治めたことをもって天孫降臨と書いたはずだ
594日本@名無史さん:2012/08/04(土) 09:47:59.25
俺は、邪馬台国は大和にあるけど、使節は九州の窓口にきただけってのが真相だと思うね
水行、陸行は、使節が倭人に聞いて書いたから、里程で書かれていない。
大宰府か、それに準ずる九州の出先機関にかなりの漢文理解者がいたからそこで事務をおこなった。
卑弥呼に体面したというのも、そこの替え玉。おそらく卑弥呼はめったに人の目に触れるような人物では
なかったかの理由で、体面は憚られたが、使節としてはそうも言っていられないので
互いの雇われ者の理屈を建てるために取引をした。小野妹子の二重外交と同じ。
595日本@名無史さん:2012/08/04(土) 09:55:20.91
神武東征はなかったと思うが、九州からの移民はあったと思う
奴国の金印が九州にあるが、それも出先機関に保管が委任されていたと見るなら
やはり畿内に政権があったと見ることもできるかもしれないが、
まあ、大体の見方として、はじめは九州の方が発展していたことは確か。
人口の増加とともに、畿内へと人が流れてきて、住みついて村が発展した中に
神武などの伝承をもった村もあったのだろう
そういう村々が力をつけて、崇神あたりで、本格的に統治が形をなした段階で
過去を振り返ったとき、神武という人物の創業に思いを馳せたのだと思われ
596日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:01:24.11
>>595
それが4世紀
纏向を皮切りに古墳時代が幕を開け、そして大和朝廷としての治世が始まる
597日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:21:59.96
神武東征といった記紀説話を用いるなら、
四国に二名島といった「男女二神」の名がついたり、
国生みが淡路島〜四国〜の順なのをどう説明するのかな?
都合いいところだけ摘んじゃダメだよ。
598日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:25:32.49
そうかな
俺は神武東征ほどの大事業はなかったとは思うが
時期的なものはおおよそあっていると思う
つまり、村落国家形成と稲作が全国展開したのは紀元前6世紀ごろらしいが
少なくとも村々の統合はちょうど紀元前後であると思われる
金印直後あたりには、畿内の独立性はたかまっていると思うんだけどな
で、卑弥呼ごろには、半島との連携にも大和の意志がからむようになった
それほどの連合国家への成熟をみせていたという感じがするのだが。
あとは対外貿易に根差した利を中心としたゆるやかな連合国家から
統治の徹底へとベクトルが向かうころから古墳などの統一意識の形成が起こってきたのだと思われ
599日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:29:57.79
いろいろ妄想を書き連ねてるのがいるけど、金印を出先機関に保管を委任する?
自分を王たらしめている宝の中の宝を自分から遠く離れた人手に預けるという発想ができるなんて頭がおかしいとしか思えない。
600日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:36:04.02
熊本平野が狗奴国、宮崎平野が投馬国、筑紫平野が邪馬台国となると他の地域や鹿児島はどうなのか。
おそらく鹿児島では各隼人の集団は大きな国としてではなく部族単位で行動し、後に邪馬台国や投馬国に恭順したのだろう。
九州最北部の国々の事は倭人伝に詳しく記載されているが、九州東部や西部の国々はその余の傍国として記されている。
中国地方や四国、近畿の国々は倭種の国々または侏儒国とされ、倭人ではあるが邪馬台国とはさほど関係はないようだ。
沖縄や東南アジアなどの島々を黒歯国、裸国としてあるが、これはほぼ倭人からの伝聞であろう。
601日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:40:51.79
>>597
中央構造線をまたいで文化がちがったんじゃない?
国生みは島が小さいものから、大きなものへと夫婦の仲が高まるにつれ
生まれる子も充実した内容へと変化していったことを表してるんじゃないの?
そもそもはじめはオノゴロでしょそのあとヒルコだし
だいたいの神話のはじまりとしても、当時の人たちの村落形成過程に准じているというより
なぜこの世が存在するのかという疑問を身近な例から説明することが多いと思う
国生みもその一つじゃないかね
それも単なる思い付きとかでなく、生活圏がひろがりいろいろな事実が分かってくるにしたがって
得られた推論群を会通するかたちで神話が体系としてあるのだと思うけどね
602日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:53:14.00
>>599
王というのはあくまで、中華秩序の中ででしょ
日本はそれほどまでに中華化していないよ
海の向こうにいる力をもつ人たちという程度の認識。
むしろ、そこから来る幸こそ信仰の対象だったと思うよ
金印は親書を渡す際に必要のあるものだから、漢文の才のあるものがもっていなくちゃいけない。
都で王がもっていたとしても、漢文が解読できなければ意味はないし、
それほどの知識を王がもっていたのなら、木簡のひとつやふたつ残っているはず。
にもかかわらず存在しない。九州にも畿内にも。
ということは、使節との交渉は、貿易にあたっていた利害関係者が直接あたっていたということ。
いちいち、親書を王に確認するのはそもそも王は読めないので意味なし、手間がかかるだけ。
だから、王の親しい者が港へ直接言って監督するほうが手っ取り早く効率的。
603日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:53:33.83
国生みは当然九州も含まれてるのにw
その中で先に四国、しかも神名が付けられてるぜ。
イザナミや天照大神を祀るのも阿波だし。
これだけでも九州勢力が主力として大和への移入は有り得ない。
神武だって四国から対岸の宮崎に降り立った以降の話だろ。
604日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:54:50.29
時期の問題だけだよな。
弥生時代は九州のほうが先進的だった。古墳時代は中心は近畿になってる。
どこかで日本の中心が移ったわけだが。

九州説なら邪馬台国はどこになるんだろ?甘木?
605日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:01:54.61
記紀神代の話は、各部族が奉ずる神々が実は天皇家が奉ずるアマテラスの子孫であり、
故におまえらの親分は天皇家なのだということを説明するために、
各部族の神々をアマテラスの下に嵌め込んでいったに過ぎない
こんなものから史実を探ろうとするとトンデモないことになるぞ
記紀神代の話から窺えることは、アマテラス、オシホミミ、ニニギ、スサノオ、オオクニヌシ等
神代に登場する神々を奉ずる部族が大和朝廷内で有力だったことぐらいだ
もちろんそれらの神々に血縁関係は無い
全部アマテラスの身内にされているが血縁関係は無い
それぞれの有力部族が奉っていたそれぞれの神々だ
606日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:08:00.17
弥生時代九州の方が先進だったというのも怪しいよ。
単に半島に近いというだけだし。

よく未発掘が多いというが、それはどこも同じ。
むしろ四国や奈良の葛城地方の方で未発掘が多いだろ。
607日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:09:19.08
>>604
筑紫平野のなかのどこかという認識でいいだろう。
7万戸の国といえば福岡市辺りとされる奴国2万戸の3倍以上であり相当大きな国である、首都をピンポイントでは示しづらい。
これというような遺跡が出るまでは文化の中心地を弥生時代の遺跡から割り出すしかない。

勿論奈良県にはそんな弥生時代の遺跡も、生産力を裏付ける平野面積もない。
608日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:10:47.86
>>603
だから国生みは村落形成過程というより、この世がなぜ存在するのかという説明のための神話なんじゃないの?
天照大神を祭る式内社は全国的にあるみたいですよ
609日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:11:40.64
>>606
考古学は素人でいらっしゃるか
610日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:14:58.96
>>609
むしろ発掘作業は当事者ですが。
いくつかの図録作成も手掛けてるよ。
611日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:16:01.38
>>607
現在都市がある部分が遺跡だった可能性もあるのでは
612日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:18:07.02
>>606 >>609
畿内説の考古学者も、近畿地方で鉄が出ないことをなかなか認めなかった。
奇妙な説をいろいろ出したが、結局、古代の政治や権力に、鉄は
関係ないというような結論を出したらしい。
畿内説は古代の常識をどんどん覆していく。
613日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:26:12.61
>>612
発掘や発見が進んで畿内周辺各地に鉄に関する
遺跡が確認されたからだよ。
最近石野氏なんかも「九州説は鉄に関する出土数で攻めれば?」
なんて言うように、別に決定的な物ではない事がわかってしまった。
614日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:26:51.79
まあ、製鉄所が明治にできる以前は、金属って鉄は刀とか矢、農機具、鐘(あれは青銅?)ぐらいだもんね
江戸時代をさらにさかのぼると、もう農機具にも用いられていないから、庶民の包丁も石だったんじゃないかね
そんな鉄が不足しているのでさえ少なすぎると現代人は感じるのに、
それより供給が不足していた古代となると、鉄が再利用されててもおかしくないよ
古戦場で刀が落ちてないのと同じでさ
615日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:27:08.93
>>611
その通り
那国なんて倭人伝の頃から作っては壊し作っては壊しの連続だから遺跡なんか残りようもない
奈良に遺跡が多いのは田んぼのまま今に伝わっているからだ
616日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:38:09.53
>>614
熊本県の方保田東原遺跡からは石包丁型の鉄器も出ている。
石包丁は、稲刈りなどのときに大量に使うもので、これが鉄で出来ていると
いうことは、鉄が隅々までいきわたっていたことを示しているとも言われる。

畿内説の考古学者も最初は鉄を必死で探していたのは事実。
小さなかけらが見つかっただけで大騒ぎしていたというような話もある。
でも見つからないので、近畿の鉄は廃品回収が進んでいたから出てこないとか
近畿地方の鉄は溶けてなくなったと言うような奇妙な説を出していた。
617日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:39:54.33
要は、都市部以外での遺跡からうかがい知れる世界を基調として当時を再構成していくわけだけど
鉄の発掘量て、見つかったものと単純な比例関係で当時の勢力を比較できるもんなのかね
618日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:42:34.48
>>616
俺は別に鉄の包丁だったから、そこは進んでいたとは思わんよww
裕福な農民の中には鉄の包丁をつかっていたものもいただろう
今の車みたいなもんで、ちょっと借金してももっていたほうがいいと思える道具だったのかもしれんし
鉄の包丁一つ見つかっただけで、当時、そのまま一般的に使われていたことにはならんだろ
再利用され忘れたということもあろうしな
619日本@名無史さん:2012/08/04(土) 12:01:01.35
620日本@名無史さん:2012/08/04(土) 12:19:03.46
まあ、ギリギリ金印は志賀島を中心とする小国家で九州内さえ統一していない
黎明期だったと思われ
その後、卑弥呼まで一気に日本内の意識が形成されてくるんじゃないかね
その中で瀬戸内海のネットワークもできる
まあ、そういうわけで、邪馬台国は畿内かなと
621日本@名無史さん:2012/08/04(土) 12:29:52.83
で、銅鐸勢力はどこの勢力にやられたの?
622日本@名無史さん:2012/08/04(土) 12:36:02.08
そんなものは存在しないんじゃなかったっけ
623日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:04:18.65
九州では鉄器は住居に置き忘れられるくらい結構ありふれた存在だったが
畿内では鉄は超貴重品で延々と石器を使い続けた
九州王朝一派の東征によって制圧されるまで
624日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:13:49.65
九州は外国の文化に接するところで脅威も受ける場所だ
明治の時も戦火を交えるほどに脅威を受け何歩も先に開化していた、しなければならなかった
東の方にはそんなこと露知らない平和旧態依然のバカ、黒船に怯えて一戦も交えない旧時代の
権威を笠にした口先だけのへタレ、商売と金しか頭に無いバカ、幕府を有難がるバカで溢れてた
同じことが昔もあったというだけのことだ
625日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:14:43.52
>>605
まったくそのとおり。

626日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:39:42.49
>>623
江戸時代まで日本に鉄器はそうそう庶民に一般的でなかったのに古代で豊富なわけないだろ
九州で多く発見されるのは村ごとねこそぎ殺された結果、鉄を漁りきる前に放置され忘れ去られた結果じゃね?
とか考えてみる。九州は戦いがひどかったらしいからね
627日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:43:30.64
日本は骨の髄まで血統主義だよね
国会議員が、その能力の有無に関わらず
半数が2世3世で占められてるの見ると
それが今の時代まで繋がってるのかなと思う
神武以前に大和を支配していたニギハヤヒが
なぜあっさりと神武に帰順したのか、
あるいは蘇我氏がなぜ天皇になれなかったのかも
これで理解出来る
628日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:51:59.06
>>616
方保田東原遺跡は弥生後期からの集落だからね
既に鉄の技術をもつ勢力が造った集落
山陰、近畿など西日本各地から持ち込まれた土器なども多数出土しており、
西日本一帯の活発な交流が窺える

629日本@名無史さん:2012/08/04(土) 14:53:16.84
鉄は都怒我阿羅斯等(天之日矛=蚩尤=兵主神=牛頭天王)を祭る一族が、
敦賀の地に入植して、山間部で大量に生産していた遺跡の痕跡があるらしい。
近畿には、そこから供給されていたと考えていいね。

天之日矛は、山東・遼東半島では八旗(日本の八幡宮)の神のひとり蚩尤だった。
この神は、フイゴと製銅・製鉄・武器の神とされる。

天之日矛の渡来については、古事記と日本書紀で時系列が逆転している。
新しい時代の新羅の王子とされながら、まるで神代の時代の人のような名前を持っている。
神功皇后の一族の出自を捻出するために、
故意に挿入された祖先のエピソードという見方もできる。

神功皇后(赤留姫)は、九州地方にも、数多くの伝承を残す、
天之日矛の夜逃げした妻という伝説も持つ神功皇后の一族が、
赤留姫の子孫と分かる香春神社は、九州一の銅山。

天之日矛と赤留姫は、渡来氏族・秦氏の神。
だから秦氏のアイアンロードの東進を見れば、いろいろ分かってきそうだ。
630日本@名無史さん:2012/08/04(土) 14:57:31.32
今に及んで九州王朝やら東征を主張するのは
何かの罰ゲームなのか?
それ位無理がある話なのに。
631日本@名無史さん:2012/08/04(土) 15:12:06.62
>>628
方保田東原遺跡は、
高句麗国の東盟際で使われる隧穴の可能性もある、トンカラリン遺跡に近いね。

皇室の最重要神事、新嘗祭の古い姿を追っていくと、
纏向からも見つかっている土坑に行きつくらしい。
その土坑が、高句麗国の東盟際で使われる隧穴と同じ、
大地母神のホト(女性器)の、穀物を生み出す産霊の象徴で、
その穴に棲む白い蛇達が
隧穴の女神(竜宮城の乙姫=瀬尾律姫)の使いとされていたらしい。

纏向遺跡の真東の山に鎮座した、穴師座兵主神社とか、蛇信仰と、
新嘗祭は一体になっていた時代があるらしい。
兵主神は、大陸の山東・遼東半島付近では蚩尤と呼ばれ、
フイゴと銅や鉄の武器の神だったらしい。
纏向遺跡の主神は、高句麗国の地域から渡来した兵主神=天之日矛で、
トンカラリン遺跡の祭祀集団と同祖だったかもしれない。
632日本@名無史さん:2012/08/04(土) 15:29:59.26
>>630
纏向遺跡で、どんな系列の祭祀が行われていたか、今も理解できない勉強不足の人達は、
いまだに、纏向に卑弥呼の祭祀跡があると、盲信しているの?

卑弥呼が使ったハシ(トイレでお尻を拭くための木の棒・今も多氏は使用)でも、
纏向から出てきたかい?
箸墓古墳と、トイレでお尻を拭くための木の棒を使って死んだ人の話は残っていても、
大姫系の神道の祭祀が行われていたことを証明する物証は、一つも出土してないだろう?

纏向遺跡の祭祀形態の全てが、
纏向は稚日女系の巫女集団を斎王とする、
高句麗国の東盟際で使われる隧穴と同じ宗教施設を用いた、
現代の新嘗祭に至る、古い祭祀の存在を裏付けている。

九州に残る祭祀形態の多くは、
稚日女の姉とされる、大日女系の巫女集団を斎王とする、
高句麗国の東盟際で使われる隧穴と同じ宗教施設を用いた、
現代の新嘗祭に至る、古い祭祀の存在を裏付けている。

したがって、九州倭国は大日女系、奈良大和は稚日女系の大王を頂く、
天之日矛と赤留姫の子孫の王朝と結論出来る、十分な物証が出揃っていることになる。

丹生都比売伝承と、両地域の祭祀形態が完全一致している以上、
九州と奈良に二派に分かれて、アカルヒメを祭る巫女集団が渡来して、
皇祖神天照大神となったと見るのが正しいだろう。
633日本@名無史さん:2012/08/04(土) 15:50:48.48
なんかへんなのがでてきたな
高句麗と日本関係ないだろ、当時の高句麗はまだ小さな国だし
そもそも狩猟民族だから国の広さがそのまま国力というわけでもない
日本に影響を与えるとしたら商売人が渡りにくるくらいじゃね?
634日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:00:34.41
>>443
人が書いたことをまともに読んでないな。
そんなことでは、前に進めない。

天之日矛は、神代の時代の人物のような名を持ちながら、
新羅の王子という設定と、都怒我阿羅斯等といった、奇妙な名を持っている。
古くもあり、新しくもある、非常に不自然な存在だからこそ、カギを握っている。

これは、妻である赤留姫(息長大姫大目命)も同じで、
神代の時代に唐土に行った、などと書いてある。
神代と卑弥呼よりも百年新しい時代の、両方の時間軸に存在している。
天之日矛夫妻は王族が祭る神だから、一族の社家が存続する限り、その寿命を維持する。
しかも、次々と習合して、名前が変化する性質を持っている。
いつの時代に渡来したかだが、おそらく高一族(高句麗の王族、後の多氏)
の第一波は、紀元前に日本に来ていたと思われる。
もちろん、遺跡に特徴のある痕跡が残しているから指摘できる。

日本書紀と古事記の、新羅の王子・天之日矛の伝承を見比べると分かるが、
両者で時系列が逆になっている。
これは、神功皇后を輩出した一族の出自として伝わっていた、天之日矛の伝承を、
両者が異なった時間軸で見て、想像で適当に皇室の歴史の中に組み入れたからだ。
つまり、正確な渡来時期が分かっていて書かれた神話ではないことになる。
神代から伝わる神話の伝承が、全て正しいと考えていては、真実を見失う。
当たり前のことだが、神話は物語であって、史実そのものではない。
635日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:21:44.52
また妄想か、根拠のないのはウンザリ。
636日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:25:49.52
朝鮮人はまず新羅は本来倭人の国だという点を認めなきゃいけない。
637日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:32:52.31
>>443
重要なのは、記紀の編纂者達が、
卑弥呼のことを知っていて隠蔽しようとした痕跡があることで、
卑弥呼がいた時代よりも千年古い、神代の時代に天照大神を置き、
卑弥呼がいた時代よりも百年新しい、応神王朝の時代に神功皇后を置き、
両者が卑弥呼ではないか? と仄めかすような仕立て方をしている点にある。

神功皇后の朝鮮半島での事績はまったく朝鮮・中国側の記録にない。
したがって、新しく創作されたものと見るのが妥当。

明らかに、時間軸がズラしてあることを、後世の読み手が意識できるようにしてある。
謎かけになっているのだから、そのままの時代のモノと真に受けるのではなく、
秘密を解かす姿勢を取る必要がある。
そうしなければ、なぜ弥生時代は古墳時代に移行したのか、
どのように倭国から日本へと移行していったのか、といた疑問の答は得られない。
638日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:34:00.51
>>443
すでに書いたが、卑弥呼と倭の五王の存在を中国側の文献で知りながら、
明確に触れないようにしていたか、あるいは、無視する姿勢を取っている。

その理由として最も根拠がありそうなのは、
卑弥呼と倭の五王が中国の皇帝に臣下の礼を取っていたため、
倭国から新生日本へと移行した筈の天皇の国も、
中国の属国として侵略を受けて支配される口実を与えることが懸念された、
という推理だろう。

そうでなければ、千年古く、百年新しい時代に、二人の女神を作ってまで、
真相を不透明にしていく必要はない。
二人の女神を繋ぐのは、香春神社の赤留姫伝承と、
アカルヒメを祭る秦氏が残した遺跡群だ。

当然のことだが、神話の伝承に一致する物証を得られなければ、
推理を前に進めることは難しい。
639日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:36:07.95

天之日矛を祀る秦氏一族が拠点を構えた敦賀の気比神社に近い、
古代製鉄跡、林・藤島遺跡は、
後に、高句麗や渤海が日本に使節を送ってくる、
日本側の到着地点に近い。

したがって、九州の製鉄地域と同じように、
この地で製鉄が発達したのは、
渡来系氏族の影響があったから、と見るのが妥当だろう。
640日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:46:50.23
なんかね、記紀のなぞときをするというレベルじゃなくてさ
記紀のこの部分は他の遺跡で見つかったこれにちがいない
だから、ほにゃららっていくつもの論点を先取して勝手に議論をくみ上げていっても
議論が発展しようがないと思うんだがどうなんだ?
641日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:50:56.15
いろんな証拠をもとに当時の時代の景色をつくりあげておいて
そこに記紀の神話の話を大きくあてはめていくってのは神話の抽象性から言ってありだとは思うが
一一の証拠をとりあげてそのつど記紀との符号させていっても思い込みにしか思えんのだが。
反例はあげられないのか、他の地域と比べてどの程度の分布、割合なのかってのを論じないと
特異なものをポッともってこられてもねえ
642日本@名無史さん:2012/08/04(土) 17:30:20.41
夏休みの自由研究レベルの妄想だね。
643卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 17:31:19.23
あいかわらず金印を本物と信じて論じている奴がいるが、
あれは偽物だから、あんなものを根拠に歴史を語っても仕方ない。

それから蚩尤は檀君王険の先祖で、要するに満州朝鮮族で、
最初に兵器を発明し、おそらく最初に鉄器を製造した人物(一族)で、
つまり鉄器の発明も満州朝鮮族なのであるが、蚩尤は天之日矛ではない。

それから、その赤留姫とやらが何者かは知らんが、
神社に祭られる神というのは遥かな古代に日本に渡来した人物なのだから、
卑弥呼とは関係ない。神功と関係あるとしても、神功の母方の遥かな先祖なのである。
644日本@名無史さん:2012/08/04(土) 17:57:03.58
>満州朝鮮族

満州と朝鮮では、言語も生活習慣も墓制も異なる。
両者を混同して、

「朝鮮族は高句麗の末裔だから素晴らしい」とか、
「朝鮮族の高句麗国の子孫が天皇になったのだから、
 日本は朝鮮族が支配する権利を有する」
などと、身勝手な主張はしないでもらいたい。

高句麗の王族・高氏(本来は日氏だが)の血を引く、
日本最古の皇別氏族とされる、多氏の日女神の家は、周王朝の姫姓を受け継いでいる。
卑弥呼の使者が、周の古い官職を名乗ったのは、
高句麗国が周の伝統を受け継いでいて、
卑弥呼は、渡来した高句麗国神宮の巫女集団の子孫だからだ。

多氏の日女神の家の巫女様達が、高句麗語の文語を今も伝えている。
日本語と朝鮮語よりも、日本語と高句麗語のほうが、はるかに近い。
たとえば、日本語と朝鮮語の数詞はほとんど一致しないが、高句麗語とはほぼ一致する。
したがって、高句麗国の神宮の巫女達が日本に渡来して皇祖の一族となり、
天照大神として祭られているが、朝鮮族の言語や慣習や墓制は継承していない。
両者の違いは明確になってきている。

高句麗の王族・高氏は半遊牧系で、朝鮮半島の人々とは食生活などの習慣も異なる。
たとえば、主食は今も、麻の実の発酵粥や栗などの木の実だ。
645日本@名無史さん:2012/08/04(土) 18:46:08.54
>>643
>蚩尤は天之日矛ではない。

無茶を書いてもらっては困る。

日本に蚩尤の信仰がどう伝わったか、
どのようにして、山東・遼東半島の八旗の神々が、八幡宮になっていったか、
残念ながら、宇佐八幡の宮司クラスでも正確に答えられない状況なので、無理はないが、
神道が仏教と習合していく過程を正しく学んでいれば、
このような間違いを書くことはないと思う。

大和王権の中枢の巨大祭祀施設、纏向遺跡を見下ろす、穴師坐兵主神社には、
古い時代に、天之日矛が祭られていたことが分かっている。
多氏の日女神の家の故老の伝承によると、
いつまでも、渡来神の天之日矛のままでは、
和をもって尊しとする、大和民族の精神を一つに出来ないから、
和名の兵主神に切り替えたのだという。

兵主神は蚩尤。これに関しては、多くの人が解説しているから、
この場で語る必要はないだろう。
646日本@名無史さん:2012/08/04(土) 18:47:15.06
>>643
>蚩尤は檀君王険

それは、朝鮮半島で後世になって作られた神話。
多氏の日女神の家が伝えるのは、紀元前277年創建の、
現五女山城にあった、高句麗国神宮・高天原の神話。

成立年代が、千五百年も隔たっている。

高句麗国の建国を紀元前33年とする伝承が朝鮮半島にあるが、
これは、あまり古い時代に高句麗国が興ったとすると、
古い時代の、百済や新羅のことを語る材料がないことが、明らかになってしまうからだ。

日本書紀が歴代天皇の寿命を水増しして、歴史を古く見せかけているように、
朝鮮半島の古い書物は、歴史を新しく見せかけることで、
伝承が存在しない空白の時代があることを、隠そうとしている。
百済や新羅は、高句麗で起こった飢饉を解決するための南下政策の結果興った国。

高天原の名前の由来は後日紹介するが、あの地域の古墳を調べると、
紀元前33年ではなく紀元前277年が正しいと思われるものが存在することが分かる。
よって、朝鮮半島の人々は、異民族の王の歴史を正しく伝えておらず、
直接の子孫である、日本最古の皇別氏族多氏の日女神の家のほうが、
より正確に、古い時代からの情報を、神事とともに大切に受け継いできた可能性が高い。
647日本@名無史さん:2012/08/04(土) 18:50:22.02
>>643
>卑弥呼とは関係ない。

日本神道のなかでも、日の巫女の王(斎王)の神道は、高句麗国の道教を受け継いでいる。
伊都国王などが、天之日矛の末裔を名乗っており、
この神を祭る秦氏が山東・遼東半島の技術を持って渡来していることから、
卑弥呼もまた、この文化を継承する日の巫女の王と考えるのが妥当である。

神功皇后の三韓征伐の事績には疑問があり、多氏の日女神の家に、
この女神は架空のものであり、赤留姫がモデルとなった新しい女神で、
朝廷の要請に従って、各地の神社は祭る神の名を書き換えた、とある以上、
神代の時代に唐土に渡って里帰りしてきた、
長大な時間を生きている赤留姫由来の、日の巫女の王の祭祀を、
卑弥呼が受け継いでいた可能性がある。

事実、九州からは、高句麗国の山城の建築様式の、神籠石山城が多数発見され、
トンカラリン遺跡などの、高句麗国の祭祀と共通する遺跡も発見されている。
また、多氏の日女神の家には、卑弥呼の生前の立ち居振る舞い、気質、モノの考え方、
と思われるものが伝承されていて、
卑弥呼を神降ろしして、心身一体の神憑り状態になる神事も伝承されている。

生前の立ち居振る舞いなどの、言葉では伝承出来ない要素を伝えているということは、
この伝承は他家からの伝聞ではなく、卑弥呼が多氏の日の巫女の王の血縁であったため、
身振り手振りを交えて、神事を通して大切に保存されてきた、と考えるのが妥当である。
648卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 18:50:45.69
>>644
満州族も朝鮮族も、源は同じで、白山と黒水の間に降った民族である。
その檀君王険族の後継国が高句麗で、ネットの高句麗史を読めば、
高句麗は百済や新羅より格上だったことが分かる。

実は私は最近の投稿では君の投稿に最も注目しているのであって、
君が高句麗に関心があるなら、桓檀古記やネットの高句麗史を読んでもらいたい。
高句麗の中心地域がどこだったかが分かると、それが通説とあまりに違うので仰天するだろう。
649卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 19:23:04.82
その多氏の日女神の家にどんな文書が残されているのかは知らないが、
世の中には桓檀古記、契丹古伝、ネットの高句麗史などがあるのだから、
まずそれを読んでもらいたい。

上記三文献がすべて蚩尤は満州族と語っているのだから、間違いはない。
また蚩尤は漢民族と戦って死んでいるし、蚩尤が日本に渡ったというような伝承は皆無だから、
天之日矛は蚩尤ではないということは明々白々な事実である。
650日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:26:36.34
それ明治以後につくられた偽書じゃね?
651日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:32:14.85
>>648
>満州族も朝鮮族も、源は同じ

言葉も、食生活なども、墓制も、伝承している神話も異なる民族が、同じ筈がない。
勝手な思い込みの妄想を流布するのは、はた迷惑になる。

満州族は半遊牧系だが、朝鮮族はそうではないところが、最も異なる。
高句麗国が半島に押されて移動したことから、朝鮮族と混血した、という話なら分かるが、
源は同じではない。

なお、清王朝は女真族だが、
高句麗が興った五女山城付近を、祖先の聖地と定めて、禁足地としていた。
これは、人の居住を妨げるほど、数多くの祖先の古墳が残っている土地を
荒らされることを嫌っての措置だが、
多氏の日女神の家の現宗主耀姫(アカルヒメ)様は、
「清王朝の皇帝は同族なので、清の滅亡後も保護して、満州の皇帝にしたのです。」
と、カフェ・プリマベーラの歴史フォーラムで解説なさったことがある。

したがって、女真族の王家は、日本の皇室とルーツが同じであり、
20世紀まで、同族意識を保持していたことになる。
652日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:32:54.98
そのネットの高句麗史を解析可能な俺にいわせれば

BC37年の高句麗建国と呼ばれるイベントの詳細は

(卒本王)延陀勃病不能視事 其女(卒本女王)召西奴代政
(卒本女王)召西(奴)與仇台情好生女阿爾 仇台以卒本世族美而無勇遂至愛衰
(卒本女王)召西奴 欲改嫁于芻牟 使人勧仇台自殺而稱喪夫 是年十七
BC37年二月 卒本王延陀勃薨 (卒本女王)召西奴以國獻順奴
(卒本女王)召西奴爲妃 召西奴生(仇台女)女阿爾


卒本女王の召西奴を嫁にして卒本の相続権を手中にしたとゆうところだよ

653日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:35:06.59
>>648
>檀君王険族の後継国が高句麗

檀君王険族は、まったく遺跡の痕跡すらない、13世紀成立の神話上の存在。
対して、高句麗国の神宮の伝承は、きちんと古墳も生活跡も残っていて、
考古学的に、ひととおり裏が取れている。

さらに、同じ建築様式のものが、日本各地の秦氏の入植地域に存在し、
現在、多氏の日女神の家の現宗主耀姫様が住んでおられる、
平安時代末期に建てられたとされる、六甲奥池の宮(生き神様が住む住居)も、
五女山城跡に残る半地下構造の建物と、共通する立地条件と構造を持っている。

高句麗国の神宮の建築様式から食文化や祭祀形態に至るまで、
明確にその特徴を伝承していることが分かるが、
檀君王険族については、何らの物証も、文化的痕跡も残っていない。

卑弥呼寒冷期に渡来したと思われる、赤留姫(天照大神)の一族が、
朝鮮半島で13世紀に成立した、よその国の関係のない新しい神話を、知る筈がないから、
伝承の痕跡すら残っていなくても当然と思われる。
654卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 19:39:03.64
じゃね? と聞く前に読んでみればいんじゃね?

いや、実は君らには読んでほしくないのである。
なぜなら私はこれらの書をネタに本を書こうと思っているからだ。
これらの書が世間に周知されてしまえば本を書いても意味がないからな。

私が思うに、ネットの朝鮮史は、遅かれ早かれ、古代史を志す者の必読書となるだろう。
これを読まずに古代史を語る者は馬鹿扱いされる時代がきっと来るだろう。
655日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:43:26.18
>>652
BC37年の所謂高句麗建国のころにも阿爾さんたらゆうお名前の女王蜂が登場しますねえ

所謂高句麗建国のころの高句麗の中の人は4世紀後半に出てくる扶余と称される百済

そして、「月嬭神經曰」の中の人へとダイレクトに繋がる土人とみるのがふつうですよね
656日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:43:32.24
>>653
>BC37年

どうしてそれらの出来事が、BC37年に起こったと言えるのかな?
当時のことが、BC37年なんて、西洋の暦で書かれていたわけではないんだよね。

BC37年ではなく、別の表現をとっていた筈だ。
現代人に分かるように、訳したり、西暦で書くのは問題ない場合が多いが、
ここは高句麗国の建国から、日本国成立までの流れを見るうえで重要なポイントだから、
元の史料の正確な表記が欲しいな。
657日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:49:48.91
どうぞ

東明元年甲申 二月 卒本王延陀勃薨 召西奴以國獻順奴
卒本之民推上爲皇帝 即位於沸流谷西城山
國號高句麗 建元曰東明 命漢素造船鄭共製兵 馬黎畜馬
658日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:55:26.06
答を書こう。

多氏の日女神の家の故老が伝える長期孤立伝承は、
爺さん婆さんの、余所では聞いたことがない昔話だから、いったん横に置くとして、

文献資料に残っているのは、高句麗の建国の年は「甲申年」というもの。
これでは西暦何年か不明だが、東明聖王(朱蒙)の古墳らしきものを発掘しまくって、
紀元前277年じゃないの? となった。この説は何人か唱えてる人がいる。

で、多氏の日女神の家の故老に聞いても、今の暦に直すと紀元前277年ってお話。

こうなると、偶然の一致じゃないでしょう? となる。
659日本@名無史さん:2012/08/04(土) 19:59:19.96
面白いのは、二本角の兜がトレードマークの牛神・天之日矛(スサノオ)は、
山東・遼東半島の八旗の神の一柱、蚩尤(兵主)とも習合していて、
神功皇后・応神王朝絡みで、八幡の神にもなっていること。
神仏混淆で牛頭天王に置き換えられ、祇園祭の神として今も盛んに信仰されている。
このような変化は、天之日矛神が辿った二千年以上の歴史の長さを物語っている。

皇室の最重要神事、新嘗祭は、
纏向遺跡の真東の山に鎮座した、穴師座兵主神社と繋がりを持っている。
この神社に、古い時代は天之日矛が祀られていたことが分かっている。
纏向遺跡の土坑には、今日、新嘗祭で使われるのと同じものが、ひととおり捨ててあった。
お祭りが終わると穴に投げ込む風習が、祭祀形態の変化を辿る手掛かりを残してくれた。
高句麗国の東盟際の隧穴(大地母神のホトの象徴)と同じものが纏向遺跡にあり、
多くの収穫物が得られたことを神に感謝し、来年も多産の年であることを祈る新嘗祭は、
もともと隧穴を用いて行われていたと見て良い状況にある。

高句麗王室の血を引くとされる、多氏の巫女神道の家では、
現在も、九州のトンカラリン遺跡の石組みと同じ系統の、地下神殿(隧穴)を用いて、
紀州の山中で古式の新嘗祭を行っているらしい。
非公開神事なので、直接列席して見学できないものの、
以前、セカンドライフと呼ばれるメタバース上のバーチャル神社で、
東盟際の詳細な内容に関する講義が、伝承されてきた所作などを交えて行われた。
残念だが、高句麗語の祝詞などはヒアリングが困難だったが、
新嘗祭へと変化していく流れを、発掘された遺物のレプリカを用いて、
順に辿っていく作業は、丁寧で見事だった。
660日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:02:55.90
芻牟大帝紀 でぐぐるとぶつはみれますですよ

このセットのは前世紀の後半から大量にでてきていますですよ

このセットののこあの記述はいわゆる新羅の王家の先祖のところの列伝になりますけど

付録で添付ぽい形式だけど高句麗のところの列伝は時間的にも長期で連続的に残されていますよ

661日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:07:46.91
魏志倭人伝を読むと、
 兵用矛楯木弓木弓短下長上
とある。

和弓:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yumi01.jpg
    :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:YumiKai.gif
これは短下長上に合致する

モンゴル弓:http://www.his-j.com/tyo/special/mongol/img/p06_04.jpg
中国弩:http://arms.cybrary.jp/db/projectile/crossbow/jpeg/nu.jpg
これらは上下対称で倭国の弓とは関係ないルーツを持つことがわかる

朝鮮弓:http://www.kjclub.com/UploadFile/exc_board_62/2011/02/22/mongol_extra_iii_composite_bow.jpg


日本と朝鮮は異なった文化ルーツを持ち、朝鮮は倭国とは全く関係ないことがわかる
662日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:09:38.86
穴師は鉱山の神でもある。
天之日矛を祭る皇祖の一族は、
高句麗の周辺地域から渡来した、鉱山技師、製鉄技師、なども擁する集団で、
纏向の地を支配した時代があることが、残された穴師座兵主神社からうかがえる。

問題は、
敦賀の林・藤島遺跡の地域に、200年頃住んでいた製鉄技師達は、
1000点を超える鉄器と鍛冶(かじ)跡を残しているが、
その後どうしたかにある。
日本海側の大陸との交易拠点だった敦賀に、
朝鮮半島の鉄が入ってきていたので、
弥生時代末期にこの地域が栄えていたと考えられるが、
敦賀が貿易拠点だった痕跡については、今探している途中だ。

越の国が、鉄器の先進地域であった時代から、かなり下って、
多氏(天日氏=息長氏)の名を持った、男大迹王(おおどおう)継体天皇が、
この地域から登場することになる。
越の国を、僻地と侮るのではなく、日国の玄関口としたほうが良いだろう。
663日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:18:19.09
216年 丙申  阿達羅四年四月 多婆那以迎烏カ爲君
664日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:39:42.31
>>661
着眼点がいいね。
卑弥呼の時代にもあった、和弓は独特。

東明聖王(朱蒙)は、モンゴル系の短弓を使った可能性が指摘されている。
でも、そうでない、長い系統の弓が南から?高句麗国に持ち込まれて、
それが優秀だったから、日本に伝わって、
今も流鏑馬神事の形でその姿を伝えている、という説もある。
どちらが正しいのかな?

朝鮮半島には、多氏が鉄資源を求めて進出し、
その一人は、昔氏を名乗って新羅の王に擁立されたこともあるから、
倭国の領土もあった筈だし、倭人は山東・遼東半島付近まで船で進出していたのに、
なぜか、世界一長大な和弓は、半島に残らなかったらしいね。

おそらく、
鹿革を煮詰めてゴムを得る技術とか、
弓のナカゴに使われる竹をあぶって、カーボンファイバー化する技術が、
国家軍事機密扱いで、他所の国には漏洩しなかったからかもしれない。
665日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:50:12.28
面白いのは、皇室は新羅や百済の王のことを、王と呼んでいたが、
高句麗の王のことは神子と呼んで、格別に敬っていたこと。
丹生都比売伝承は、皇祖の一族へと繋がる渡来氏族の、
おおよその動向を伝えてくれていて、
どうやら、纏向遺跡の大和王権、九州の倭王権とも、その子孫と考えられるのだ。

これについて知ったのは、多氏(昔氏=息長氏)の巫女神道の家の
現宗主・耀姫様のサロンに突撃して、いろいろ質問していたときだった。

「応神王朝の祖先は、高句麗国神宮の斎王だった私(アカルヒメ)とされてきました。
 継体王朝も、多氏と関連付ける名前を名乗っているし、
 皇祖大兄の別名を持つ、押坂彦人大兄皇子に始まる蘇我王朝も、
 押坂=多氏と名乗っていますから、後の源氏と名乗れば将軍に就ける発想と同じですね。
 大和王権は高句麗王室の分家だからこそ、神子という言葉を用いて私達を敬ったのです。
 高句麗建国の王朱蒙の父は、天帝(日)の子(下)を自称する解慕漱です。
 解(ヘ)は日本語の日(ヒ)、慕漱(モス)は日本語の下(モト)です。
 つまり、解慕漱という神は、日下(クサカ)神、日本(ひのもと)神なのです。
 日本の天皇家が、高麗神子と呼んで、他の王族と区別するのは当然のことです。
 高句麗国王は、皇祖神 天照大神・天日矛(男神)と心身一体になった、
 天照大神・赤留姫(女神)とワンペアの生き神様なのですから。」

天照大神が男神と女神の一対で存在し、その子孫の王と斎王は神子という敬称で呼ばれ、
天皇よりも格上の扱いを受けてきた生き神様などと、聞いたことがない。
しかし、日矛鏡と日像鏡を用いる、金鵄と八咫烏(鳳凰)にまつわる新年の神事は、
一対のものとして存在し、二社殿並列になっている神社が幾つかある。
日本神なども初耳だったが、高麗神子、という言葉なら、史料に出て来るし、
さまざまな史料と矛盾しない説明の流れを持っていることは、把握できた。
666日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:52:44.54
>>664
結局勝ち残ったのは和弓ってことだよね
生き残ったものと滅んだもの、どちらが優秀だったかってのは議論の余地はないよね
そして、特アは優秀なものを作る技術がなくても形だけは真似た物を作る習性があるってのは現在の特アが証明してる
667日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:57:32.34
NAGATARASI people
668日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:01:23.49
アカルヒメは卑弥呼じゃないのは理解した。
669卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 21:02:53.76
>>651
満州朝鮮族が白山と黒水の間に降ったのは、おそらくアトランティス時代のことで、
何万年も何十万年も前のことである。元は同じ民族でも、何万年も何十万年も経てば、
住む地域によって言語も風俗も違ってくるのは当たり前。
>>653
遺跡がないからといって、檀君王険の国がなかったとは言えない。
なぜそんなに考古学的証拠というものに拘るのか。

五女山城。そんなところは高句麗発祥の地ではない。
そもそも高句麗遺跡かどうかも怪しい。百済遺跡かもしれない。
高句麗発祥の地がどこかを知ったら、君はビックリ仰天するだろう。
>>659
天之日矛はスサノオではない。
670日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:06:23.79
確かにスサノオと日矛に共通点なんて皆無だ。
671日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:08:03.53
BC40年 芻牟19歳 辛巳 禮后生@光明(瑠璃)(涓奴部)
BC39年 芻牟20歳 壬午 (卒本女王)召西奴 欲改嫁于芻牟 使人勧仇台自殺而稱喪夫 是年十七
            召西奴爲妃 召西奴生(仇台女)女阿爾♀
BC37年 東明元年 甲申 二月 卒本王延陀勃薨 (卒本女王)召西奴以國獻《順奴》
BC36年 東明 2年 乙酉 (卒本女王)召西奴生子A沸流(順奴絶奴)
            二月桓那國女主桂婁来降納為夫人
BC33年 東明 5年 戊子 (卒本女王)召西奴生子B温祚(灌奴桂婁)
BC31年 東明 7年 庚寅 十月桂皇后以創毒崩 中流矢於黄山 春秋三十二
BC19年 光明元年 壬寅 四月 上崩於西都 東宮即位
BC17年 光明 3年 甲辰 以順奴艴(絶)奴爲A沸流治 以灌奴桂婁爲B温祚治 (涓奴爲@光明治)

後に涓奴部を簒奪して高句麗王についたのが実は温祚の末裔だったわけですよ
672日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:08:51.76
スサノオが半島に木を植えて回ったって話はどうなんかな?
神武東征と同じように、帰路だけが強調されてるって可能性は否定出来ない
673日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:15:34.98
BC31年 東明 7年 庚寅 十月桂皇后以創毒崩 中流矢於黄山 春秋三十二

この土人の女酋長さんでみずから戦場に出て毒矢に中るとかってアマゾネス
674日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:19:40.96
なんか流れ早すぎて読める気しないわ
在日コミュでは意外に偽書がまことしやかにささやかれてんだろうな
日帝がうんたらかんたらっていつもの理屈づけでさ
675日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:19:41.41
残された桂婁の記号読み込んで金の蛙さん連想妄想してからに書き残した人ってなんか低脳ぽいよね
676日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:20:11.49
皇位継承と連動した大嘗祭では、悠紀殿と主基殿の2殿を建てて、
それぞれの神殿で、神が夢枕に立つことを期待してか、天皇は仮眠を取る。

そういう儀式を見ると、
天照大神が、本来は女神と男神の陰陽一対だった可能性は考えられる。

纏向遺跡にも痕跡が残る、新嘗祭の古い姿を高句麗国の東盟際まで追っていくと、
作物を生み出す大地母神の象徴の隧穴と対になる、隧神(男神)の象徴が存在し、
一対の神のお祭りだったことが分かる。

卑弥呼の鬼道が本当に高句麗の道教をルーツとするものだったら、
九州の卑弥呼の神殿跡からも、纏向と同じような土坑の痕跡が出て来るはずだ。
隧穴で神事をおこなって、お祭りが終わったらそこに使ったものを投げ込んで、
後世に神事の内容が分かる物証を残してくれていれば、非常に助かる。

トンカラリン遺跡は、大規模な隧穴と言えるが、
残念なことに、中にお祭りで使ったものが捨ててあるように見えない。
卑弥呼よりも新しい時代のものかもしれないし、よく分からなくなっている。
677日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:21:18.98
崩って天子・天皇にしか使えないんじゃなかったっけ?
678日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:25:10.52
>>671のA沸流(順奴絶奴) のところは高句麗の嫁さん出す専門の家系だけど

ここのの筋から戸七万の扶余が捏造されているとゆう構図がばれちゃっていますねえ

扶余が貰ったのが実は「濊王之印」だったりしたんですよね
679日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:26:00.28
最近在日さんの工作活動が活発ですな。
卑弥呼は南方系の人物で、決して半島由来からの人物ではないですよ。
680日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:33:17.00
阿禮だわ

おれにいわせたら

月嬭神 とセットなのが

日嬭神 だわね

両方とも南方系
681日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:37:03.54
トンデモスレ化
682日本@名無史さん:2012/08/04(土) 23:04:17.29
国内の製鉄拠点の話をしていた筈だが、かなり流れているような。

多氏(昔氏=息長氏)の巫女神道の家の現宗主・耀姫様の講義から、
製鉄に関する部分を拾い出してみよう。

「天日の高句麗語の音写が転じて、息長となっていること、
 天日矛の祭祀の痕跡地と、秦氏の入植地の分布を突き合わせることで、
 記紀からは読み取れなかった、天日矛を祀っていたのが秦氏だったこと、
 多氏(息長氏)がその社家だったことが、明らかになってきます。
 敦賀もまた、天日の音写が転化した地名で、
 林・藤島遺跡が、卑弥呼が登場する時代の、鉄を扱う拠点だったことが分かります。
 うちの一族(多氏と秦氏)は、製鉄の原料を求めて新羅に移動して、
 昔氏と名乗って、王位に就いて新羅を治めていることは、半島側の史料からも拾えます。
 朝鮮半島に行って、そのまま昔の王として扱われたのは、
 辰韓(秦韓)の王家も高句麗王室の子孫で、同族意識が残っていたからです。
 多氏配下の秦氏が日本国内を移動した、アイアンロードの遺跡を辿って、
 私達が伝承してきた神話に、ぜひ裏付けを与えてみてくださいね。」

耀姫様が示した、纏向大和王権と九州倭王権は、ともに高句麗王室の分家という情報は、
丹生都比売伝承などとの関連性が見て取れるが、
多氏の長期孤立伝承にすぎない部分も多い。
渡来氏族が残したアイアンロードと、この一族の動向は密接な関係を持ち、
孤立伝承が、残された遺跡の内容や記紀の内容と、大きな矛盾を持たない点が興味深い。
683日本@名無史さん:2012/08/04(土) 23:19:29.34
問題を不透明にしているのは、
息長大姫大目命・赤留姫が、いつ日本(倭国)に渡来したかだ。

記紀の天日矛とアカルヒメの神話の伝承は、いつのことか判然としない。
新羅の王子という新しい時代設定だが、
天日矛の名は、神代の神の名と受け取るしかない。

神功皇后の事績がオカシイ物語は、卑弥呼の時代から百年ズレているが、
これは、新しい農地を開拓して、
主力となる人々が入植できる環境を整えるのに要した時間の可能性もある。
秦氏の渡来は、一度に押し寄せたのではなく、
長期に渡って繰り返されたと見るほうが自然だろう。

四国で登場した古墳(出雲系)が、
近畿地方で巨大な前方後円墳になるまでに
百年を要したことが分かっている。

高句麗国で発生した大飢饉の国難に対処するため、
当代の赤留姫が里帰りを託宣して、日本に渡来したのだとすれば、
託宣による渡来開始は、卑弥呼寒冷期の頃だった可能性が一番高い。
この渡来勢力が、九州と近畿に、倭と大和二つの王権を打ち立て、
オボー信仰の象徴として、古墳を用いた祭祀を広めていったことで、
弥生時代が終わって古墳時代に移行した、と見るのが最も自然だろう。
684日本@名無史さん:2012/08/04(土) 23:24:25.80
ヒント:
息長 朱智神社 内珍朱智
685日本@名無史さん:2012/08/04(土) 23:36:08.11
神籠石山城は、後世増築されていて、
渡来当時のものがどうだったか、分かりにくくなっているが、
高句麗国の山城とかなり似た、特徴ある石組みのモノが現にある。

トンカラリン遺跡については、当代の耀姫様が、
同形式の地下神殿が紀州にもあって、
今も神事で使っている、そうだから、
高句麗道教由来の巫女神道(皇室神道)の遺跡と見ていいだろう。

新嘗祭と土坑の関係は、纏向遺跡の発掘が明らかにしてくれた。

天智天皇が唐・新羅連合軍の九州への侵攻に備えて築いた城と、
大陸式の神籠石山城は、様式が異なっているため、
同じ王朝のモノとは思えない。
大和の王朝の歴史を記した記紀に登場しない神籠石山城は、
その規模から言っても、九州の倭国が築いたものだったと見るしかない。
686日本@名無史さん:2012/08/05(日) 02:30:26.55
3世紀に高句麗道教だってw
アホらし、また朝鮮人の捏造癖が始まったな。
687卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 08:53:05.98
天日矛と秦氏は、おそらく何の関係もないだろう。そういう文献資料がない。

神籠石山城は、おそらく朝鮮式山城というやつだろう。
それが九州にあるということは、朝鮮人がそこに入植しているということである。

陜野侯が日本に渡って王となったと解釈できる記事が、桓檀古記の三箇所にあるが、
それは高句麗時代のことではない。それ以後に、
大和王権は高句麗王室の分家だと匂わせるような記事は、どんな史料にもない。
688日本@名無史さん:2012/08/05(日) 08:56:49.64
秦氏は徐福が連れてきた3000人の子供や職能者達の子孫だもんね
689日本@名無史さん:2012/08/05(日) 09:34:46.61
>>575
「規方千里,最近王城者為甸服,則四面五百里也。甸之為言田也,主為王者治田。」
690正統派:2012/08/05(日) 10:05:11.48
●何でも高句麗を潰す
高句麗は、紀元前108年に前漢が四郡を置いて以来、
玄菟郡下の少数異民族として長く漢文化の影響を受けてきた。
高句麗古墳といわれるものも始まりは中国であり、
墳墓に壁画をを描く様式も描画法も描かれた信仰的精神性(三足烏・四神、神農・伏義、女媧)も、
源はみな中国にある。これ墓制を積み石塚を築いていた高句麗支配層が取り入れたにすぎない。
(高松冢とキトラの壁画も中国人絵師によるものだ。高句麗の影響ではない)

※話題になっているアメノヒボコとて、
神農系の人身牛蹄で頭に角があるといわれる蚩尤(しゆう)を書記がパクったもの。
蚩尤は中国でも日本でも「兵主神(戦の神)」として祀られている。

●5世紀摩でに高句麗の影響はない
高句麗は内陸部の少数民族で、3世紀には一度魏によって滅ぼされているし、
少なくとも5世紀頃までに、彼らが船を使って大海に乗り出したという史実はない。
むろん、倭人がわざわざ交易や通交に出向いたという記録もない。
倭人と高句麗の接触がはじまるのは4世紀終末からであり、
それ以来5世紀に至るまで、高句麗の文化の影響を受けるほどの友好的接触ではなく
「敵対的接触」である。この事実を見逃すな。

倭国に3世紀半ばに出現する前方後円古墳に、高句麗の影響があろうはずがないし、
5世紀までに倭国でみられる文化・文物に「高句麗の影響」などあるはずがない。
このところをしかと認識して、「何でも半島渡りの影響」を吹く言説を冷静にみることだ。
691日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:20:18.29
>「何でも半島渡りの影響」を吹く言説を冷静にみることだ。

最近特に目につくね、高句麗〜とかネットを見ろとか。
これは例の工作活動の一環でしょう。

692正統派:2012/08/05(日) 10:20:49.35
ついしん。

アメノヒボコと都怒我阿羅斯等を同一人物とみているが、
これが高句麗と関係があるとすれば、
高句麗からの集団移住民などからもたらされた文化が
8世紀成立の記紀に取り入れらただけのことだ。

それを、さも記紀に書かれた時代に実在したかのような錯覚して、
いかにも古くから高句麗と関係があったというのは「錯誤」でしかない。

高句麗文化が「どうこう」、高句麗の影響がどうこういうほどに、
高句麗の影響がはじまるのは6世紀か7世紀以降だろう。
693日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:44:21.45
関裕二みたいな妄想ばかりのトンデモ説ばかりだなw
素人なんかが下手に首突っ込むとほんと糞レベルの内容ばっかになるわ。
古代史とか史料ない分、糞な素人オタクが参入しすぎて
妄想ばっかでマジ歴史学の中でも一番カスな領域だ
694日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:49:54.23
弥生から古墳時代前期にかけては後代のように全体的な流れをとらえようとしても
難しい ほとんど推論に近い物になってしまう
ただ食物史、住居史、農耕史、土木史、武具の発達など各論で論じられることは多いし
学問上の宝も転がってる
695日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:55:34.49
キャ!
イサクよぉ、イサクが来ちゃったわ!
皆さーん、臭すぎてまたーり出来ないから、ドン来い!に避難しましょう!!
696日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:28:35.41
高良宮のが
高麗宮の良き字をあてたものだったり

平群の正規表現のが
平句麗であってからに
高句麗とワンセットであったり

そおゆうことがほんとであると
やなひととかもおるかもしれない

697日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:50:56.29
693は伊作氏ではないよ。名古屋の19才のド○ホウだ。
人のレスも邪馬台国も、もっと深く細かく洞察しろ。
698日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:54:06.45
>>697
690 692の方。
699日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:54:58.10
関がアホなのは同意せざるを得ない。
700日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:03:05.85
>>686
もちろん、
当時は高句麗なんて呼ばれてなかったさ。
本来なら高麗と書くべきだろう。

しかし、
現代の日本語では、高麗と呼ばずに高句麗と呼んでいる。
後に生まれた高麗という国と区別する慣習が定着しているからだ。

言語というのは、表現様式の慣習だから、
定着している慣習に基づいて記述するのが正しいんだ。

同じように、
高句麗道教の神仙思想なども、当時は道教と呼ばれてなかったが、
現代の日本語では、高句麗道教と呼ぶのさ。

君は歴史を語る前に、日本語の慣習を勉強するほうが先のようだね。
701日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:22:38.65
>>700
どこから拾ってきて書いているもんだかね

玄菟郡に高句驪縣がセットアップされたのは大楽浪郡が成立したのとほぼ同時

BC75年あたりなんだけどね

もっとももとのが涓奴部のボスの若き芻牟さんに

「あんたのとこの高句麗は云々であれだね」っていってあげても

「高句麗かい隣の郡の下働きしている侯のところなんかとごったにされてもね」とか

いわれかねないとゆうことにはなるがね
702日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:24:36.04
まぁ高句麗道教とやらは南方系の卑弥呼と何の関係もないだけの事。
703日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:30:30.45
>>701
とは書いてあげたが ひとつの可能性として

涓奴部のボスの若き芻牟さんは

郡の下働きをする縣侯の役割を担当するところから

ワイ族のトップに立つことが可能化した

とゆう理解も否定しにくいかもしれないね
704日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:30:50.58
>>189
君の意見は相当古いよ
3世紀には畿内にヤマトはあった証拠がでてるし
邪馬台国とヤマトとは別だよ
705日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:35:29.43
>>701
>>703
何なんだろう、この頭の悪そうな文章は?
日本語として変だし
706日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:45:03.89
>>687
>天日矛と秦氏は、おそらく何の関係もないだろう。そういう文献資料がない。

知ってるよ。だから、耀姫様は、以下のように解説した。

>>682
>天日矛の祭祀の痕跡地と、秦氏の入植地の分布を突き合わせることで、
>記紀からは読み取れなかった、天日矛を祀っていたのが秦氏だったこと、
>多氏(息長氏)がその社家だったことが、明らかになってきます。

これは、きちんとした学問的手法の成果さ。
同じ作業をすれば、誰でも同じ結論を得られる。

同様の作業を行った研究者は他にも数人かいて、ネット上に情報があるよ。
「天日矛と秦氏」の関係は、根拠もなしに主張されているわけじゃないんだ。

学会で認められているかどうかは知らないけど、
耀姫様は、天照大神と心身一体になる神憑りの神事を担当する
生き神様として信仰されている、神道界の頂点に位置する方のお一人だから、
そのお言葉は軽視できないと思うよ。
御専門は、脳の自己組織化という、生物畑の人だけどね。

もちろん、神話や伝説は創作が入ってると見るべきで、
社家の故老が語る伝承全てが正しいと、鵜呑みにする愚はあり得ない。
707日本@名無史さん:2012/08/05(日) 12:50:26.62
>>687
>大和王権は高句麗王室の分家だと匂わせるような記事は、どんな史料にもない。

史料にはないけど、以下のような流れになる。

丹生都姫伝承伝承と呼ばれるものが、語り継がれてきて、広まっていている。
そして、大和王権を生み出す母体となったとされる多氏の日女神の家の故老が、
長期孤立伝承ながら、同じような情報を持っている。

さらに、纏向遺跡の土坑を観察すると、
史料に残された高句麗国の宗教との共通性や、
現存する新嘗祭に至るまでの、祭祀形態の変遷を追いかけることが出来た。
考古学的傍証が出てきたとなると、信憑性は一気に増すね。

ついでに、纏向を見下ろす東の丘、
東盟祭を行う方角に位置する穴師座兵主神社から、
天日矛を祭っていたことを示す証拠が出てきているから、
渡来した天日矛の一族は、纏向の地を掌握して大和の大王になったと考えられる。
天日矛の子孫神功皇后は架空の人物の可能性が高いけど、
皇室が皇祖神扱いしてきたというのも、核心に迫る重要な鍵の可能性がある。

1.民間伝承、2.日女神の社家の物語伝承、3.日女神の社家に残る神事、
4.日女神の社家が使っている神殿、5.他の神社の伝承、
6.纏向遺跡の出土品から見て取れる祭祀形態との一致、
7.現在の皇室に伝わる新嘗祭への変遷の流れ、8.現存する神社との照合、
9.記紀の神功皇后の存在と赤留姫を繋ぐ線が何本も存在する。
他にも、30項目近くあるけど、全てが噛み合って矛盾が生じないように見える。
しかも、歴史学者達が「宗教なんて」と敬遠してる空白地帯だから謎解きが面白い。
708日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:11:04.86
>>687
>大和王権は高句麗王室の分家だと匂わせるような記事は、どんな史料にもない。

忘れてたけど、匂わせる記事が史料にあった。
このスレの >>665 にも挙がってるね。

「高麗神子」は非常に重要な鍵になる言葉だよ。
百済や新羅は王なのに、なぜ高麗は神子と呼ばれて、敬われていたのか。
よほどの理由がない限り、倭国の末裔が、
盛んに敵対していた、高句麗の王を神子と敬ったりはしないと思う。

倭と大和が別の国で、大和には高句麗と敵対した歴史がなく、
皇祖神が渡来した高天原の伝説の国、と認識していたとしたら?
敬意を表して当然ということになる。

高天原の語源と位置の特定は後でやるつもりだけど、
答だけ書くと、朝鮮半島と中国大陸の境にある高原地帯の呼称で、
もっと限定的には、高句麗建国の都の王城、現五女山城跡を指していた、
のだと思うんだ。

あとは、
日本の国号の由来が、耀姫様の解説のとおりだったとすれば、
皇室が、高句麗の国王を神の子と崇めても、当たり前だよね。

つまり、倭国は九州にあったのだ。
709日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:12:26.18
日矛も丹生都姫伝承も卑弥呼が活動した年代よりは後の話だけど。
710日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:21:13.50
>>708
朝鮮系は「原」の意味を理解した方が良いなw昔し「ばる」が朝鮮語の方言だ言ってたがならばその意味も当然理解出来る筈なんだがw
711日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:21:44.30
高句麗?海人の要素がまるで無いです。
712日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:22:27.47
阿達羅四年四月 多婆那以迎烏カ爲君

216年 丙申 の年のことでした
713日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:28:39.76
>>709
まず、日矛と呼ぶのは間違いだよ。
彦(日子)との関係で日矛が名前と思いたがる人が多いけど、

天日の高句麗語の読みを音写すると、息長や気長や敦賀、という表記になるんだ。
だから、直系の子孫の多氏の日女神の家の耀姫(アカルヒメ)様は、
天の日矛なんて表記しないで、自分の夫のことを、天日矛と現代語表記している。

天日矛って、神代の時代に登場する、神様の名前だよね?
ところが、新羅の王子だとか、新しい時代のエピソードが付いている。
しかも、最も重要なのは、日本書紀と古事記で、時系列が反転していること。
これは、神功皇后の出自を創作する段階で、古い天日矛の伝説を挿入するときに、
日本書紀と古事記の編纂者の意思の疎通が甘くて、
食い違いが生じたってことなんだよね。
つまり、時間軸が正しくない、神話の世界の情報が、記紀に載ってるんだ。

だから、卑弥呼が活動した年代より百年近く新しくても、真実は違う、
と見たほうがいいんだ。

これは、天日矛の妻、赤留姫にも、まったく同様に見られる現象で、
香春神社の伝承では、神代の時代に唐土に赴いたことになっている。
赤留姫は、神代の時代から存在する神様で、
卑弥呼よりも百年新しい時代に、天日矛と結婚したというお伽話の展開。
これを信じる?
私は信じない。
神話の世界の情報を、神功皇后の出自を捻出するために挿入したから、
時間軸が狂って、記紀神話の内容に破綻が生じている、と見るのが正しいと思う。
714日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:37:19.10
アカルヒメは倭を懐かしんで戻る話だけどな。
それを追って日矛がやってくる話。
三世紀前の話でないのは明らかです。
715日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:41:10.47
倭は冬も暖かい海人の国というのをスルーするなよ。
716日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:48:21.87
やっぱりなぁ
マキムクヤマト王権のほうが最終的には
半島とダイレクトに繋げると思ったは
717日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:49:23.74
冬も温暖、さらに水銀朱が採れる。
東渡海千里で倭種の国有り。
九州の佐賀あたりから水行十日陸行一月にも合わせられる。
国産みで最初に作られた阿波路島。
阿波が最有力候補地だな。
718日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:50:49.75
扶余高句麗のその実態はワイ族の部衆のその一部ですからね
719日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:54:20.43
720日本@名無史さん:2012/08/05(日) 13:57:52.51
本例は、銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要であり、
銅鐸の年代観を確立する基礎資料、
そして銅鐸のみならず銅鏡の埋納の問題を考える重要資料として扱われてきているものである。

扱われてきてたわりには銅鐸がクリアされちゃた説明とかできていなかったりするよね
721日本@名無史さん:2012/08/05(日) 14:04:20.86
扱われてきた とゆうか たなざらし とゆうやつ

わいくんなんろとかのおなまえだしたりするのが怖いんだろうね
722日本@名無史さん:2012/08/05(日) 14:19:43.11
>>711 >>715
海人?

秦氏って書いて、高句麗国王室の多氏とは、みんな明確に区別してるよね?

渡来集団秦氏は、山東・遼東半島付近から渡航した、雑多な職業と人種の集団。
測量技師もいれば、土建屋もいるし、河川の改修や沼地の干拓の専門家もいれば、
鉱山技師も、農業指導者も、蚕の繁殖業者も、紡績関係者も、医薬品製造業も、
天文学や測量の専門家に、医師に、宗教関連に、兵器メーカーに、食品加工業に、
海運業に、漁業関係者に、猟師に、忍術(遁甲)の使い手や、戦闘集団などなど、
最終的には、数十万人規模になっていった大集団だよ。

だからこそ、大和王権を掌握できたんだ。

この集団は、
孔子曰く、嫌になったら海を渡って東に行こう。
赤留姫曰く、今こそ祖先の国、日国に里帰りする時。
なんて、エライ人の言葉に誘われて、大陸から噂の仙郷日国へと、
長い時間をかけて、少しずつ渡来してきた人々なんだね。
その影響で、弥生時代が終わって、古墳時代に移行したんだ。

そんな、統一性のない秦氏だからこそ、
八幡系列(武家用)や稲荷系列(農家用)の神社を日本全国通津浦々まで、
数万社も建てて、神仏混淆の宗教を掲げて、連帯感を作ろうとしたんだね。
723日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:03:56.22
いい加減に根拠無しの妄想撒き散らすの止めてくんないかなあ
724日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:22:27.25
>>690
残念だけど、いろんな人が書いてることを、完全にスルーしてるね。

高句麗の宗教 東盟祭と、纏向遺跡から出ている土坑の関係は?
都合よくスルー・フィルター、右の耳から左に抜けて終わってるのかな?

高句麗は中国の影響を受けていて、独自の文化を持たないような書き方をするけど、
独自の文化について指摘されているよ?
九州に残る大陸式山城の話も、都合よくスルーなんだね?
そんな遺跡はない、といった、事実に反する主張でも、始めるつもりかな?

正統派と名乗って、相手が重視している事柄をすべてスルーして、
この場で、見当違いの情報を流布していると、荒らしてるのかと思われるよ。
725日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:23:20.51
やっとわかった

騎馬民族の征服王朝説を
今度は馬抜きでやろうとしてるわけだ
馬の代わりに鉄で行こうと
そして、かつて騎馬民族征服王朝説の派生で生まれた九州王朝説は切り捨て
今度は逆に畿内一系統王朝派(邪馬台国→ヤマト王権)に取り入ってるわけだ
それのキーパーソンとして
ツノガアルシトをフューチャーしてるわけね

騎馬民族はどうしても証拠がないというか
海人による海洋移動がメインだからな
今度はそれと半島を製鉄で逆に畿内とダイレクトに繋げると
726日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:27:12.71
>>690
アメノヒボコは、皇祖神扱いの神功皇后(アカルヒメ)とセットで考えるべき、
隠蔽されている、皇室のルーツに関わる、最も重要な観察対象。
倭や大和の王権の、隠されてきた成立過程を解き明かす、最重要人物。

それを、スルーフィルターを用いて軽視するのは、見識不足では?

アメノヒボコは八幡神と習合してるし、
疫病に関わりが深い牛頭天王とも習合してるし、
スサノオとも習合してるし、
葵祭の神にもなっていて、
今も信者が熱心にお祭りしている、スーパーな変身の達人。

この事実を軽く見ているようでは、
史料が乏しい邪馬台国の時代の、欠けているパーツを補って、
謎を解き明かすことはできない。
727日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:31:41.24
>>690
>5世紀摩でに高句麗の影響はない

だから、スルーモードで、重要なものを身勝手に無視してはいけない。

伊都国王は、アメノヒボコの子孫を名乗っている。
伊都国の王家はいつから存在するのかな?
アメノヒボコは、どこから来て、どこの山に天降りしたことになってるのかな?

史料がまったくないならともかく、文書化された風土記などが残っている。
都合よくスルーして、ただ強弁しているだけで、
事実存在する史料と噛み合ってないよ?

トンカラリンの評価は二転三転したけど、
最新の分析では、3世紀頃の、高句麗から来た独特の石組みの遺構。
なぜ、高句麗国の特徴ある文化はないなんて、嘘を書いたり、
都合よく無視して、事実に反する主張をするのかな?
728日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:34:13.56
>>690
確かな文献史料と言うなら、古事記も日本書紀も神話の書だから、
国史の書として扱ってはならないことになる。
桓武天皇が日本書紀を改ざんさせたとあり、その個所が不明だから、偽書扱いが妥当。

でも、それでは、日本国が生まれて来た、国の礎が築かれた時代のことが、
さっぱり分からないままになってしまう。
卑弥呼の邪馬台国から日本誕生に至る経路を辿る史料が少ないから、
みんなで推理して、ジグゾーパズルを組み立てようとしてるんだよね?

故意に、事実に反するナンセンスなことを書いて、解明の邪魔をしたいのかな?

>少なくとも5世紀頃までに、彼らが船を使って大海に乗り出したという史実はない。

確かな史料はなくても、弥生時代には来ていた痕跡があるよ。
証拠の品が出土しているのに、そんな事実はないと、
故意に事実を捻じ曲げたホラ話をしているように見える。

正統派と言うのは嘘で、事実誤認のインチキ情報を撒く人と理解していいね?
729日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:41:15.18
>>690
>倭国に3世紀半ばに出現する前方後円古墳に、高句麗の影響があろうはずがないし

勉強不足だよ。
倭国に3世紀半ばに出現って、どの地域に?
このスレは、九州と近畿を明確に分けて考える人達が集まってきている。
明確にしないと駄目だよ。

前方後円古墳は、近畿地方で大きいものが作られる百年前に、四国で生まれてるよ?
この指摘は、このスレッドの上のほうで出ているけど、都合よくスルーしてるね?

さらに問題なのは、
「高句麗の独自文化は存在しない」と指摘しておきながら
「高句麗の影響がない」と断言するのは、論理が破綻した言説ということ。

独自の文化が見当たらないのならば、影響の有無を判断する材料がないから、
影響があったかどうかは分からない、と結論するのが正しい論理。

論理的に破綻した間違った考察結果を、
正統派を自称して、さも正しいことであるかのように流布する意図は何?

故意にこの場を荒らしている、悪質な人物と判断していいね?
730日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:58:54.77
すごいうろたえぶりだなwww
731日本@名無史さん:2012/08/05(日) 16:01:31.96
前方後円墳なんて高句麗全く無縁だよなw
732日本@名無史さん:2012/08/05(日) 16:23:17.16
九州説あるところ朝鮮説ありだからな
733日本@名無史さん:2012/08/05(日) 16:27:00.64
畿内が朝鮮にくっつけられてんだろがよw
北部九州から畿内ライン。
734日本@名無史さん:2012/08/05(日) 16:42:19.86
>>690
高句麗国独自のものがあると、これまでいろいろ採り上げられてきたのに、故意にそれら
の指摘を無視して、無いと平然と強弁。(虚言)高句麗国の影響の有無を知ることが出来
る判断材料が見当たらないと前置きしていながら、影響を受けていないと、論拠がない不
適切な指摘を行ってみせる。(詭弁)論理が破綻した嘘を書き並べておきながら、思わせ
ぶりに正統派を名乗る。(欺瞞)

あなた、最低のことをしてるって、自覚はある?

某学会では、これらの問題行動が堂々と通用することを知ってはいるけど、このスレッド
で、このような非行をして欲しくない。史料が乏しい時代のことだから、社家の伝承とい
ったものに頼るのも仕方ない。というより、下手な資料よりも、主要な社家が伝えてきた
情報のほうが正確で、重要だったりすることもよくある。

記紀や風土記の記述が、史実かどうかは、怪しい部分もあるから、遺跡から出てきたもの
や、今も残っている神社などを観察して、いろいろ補って繋ぎ合わせていく作業が必要に
なる。史料頼みの、学会の学者とその生徒では、これは出来ない難しい微妙な作業。だか
ら、古事記や日本書紀の世界と、それ以前の古い年代は、範疇ではないと理解して、お引
き取り頂けるかな?

二度と、あなたの、虚言、詭弁、欺瞞、をこの場に持ち込まないでもらいたい。抽象的な
言葉が理解できない人かもしれないから、平易な言葉で分かりやすく書くと、あなたの、
嘘、トリック、騙しのテクニックを、この場に持ち込まないでもらいたい。多くの人が迷
惑する。 
735日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:04:41.72
新参の人は知らないだろうが、
>>690はイサクという伝説的な悪辣非道人なんで、相手しないこと。

エサを撒くようなもん。
スルーでお願いしときます。
736日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:04:54.78
神籠石と呼ばれている古代の石組が何世紀に築造されたものかはっきりしないので
2世紀後半から3世紀にかけての西日本各地の遺構・遺物と同時期の高句麗のものとで
共通、類似しているものは他にありますか?
737日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:06:00.57
イサクについて、詳しくは↓参照
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316716114/
738日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:11:51.06
高句麗の影響なんて少なくとも五世紀以降の物だわ。
不自然な強調は何の意図があるんだろうね?
739日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:13:27.31
まああれだわ

高句麗道教とゆうのはご使用控えておいたよろしいかな

紀元前から2世紀後半まで後ろめたい思いして騙らにゃならんからなあ

宗教活動がしたければ他所でやるのが良いよ
740卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 17:40:35.61
伊作には悪いが、蚩尤、神農、伏義などは檀君王険の先祖だと、
桓檀古記、揆園史話、契丹古伝などに明記されているから、
満州族であることは間違いない。
ネットの高句麗史でも、高句麗は蚩尤の廟に詣でるという行事を行っているから、
蚩尤が満州族であることは確実である。

それから、高句麗を軽く見てはいけない。
檀君王険の国も右賢王高登や解慕漱に乗っ取られているが、
高句麗は一応檀君王険の後継国で、百済や新羅より格上である。
高句麗が主、百済新羅は従としてネットの満州朝鮮史は書かれている。
日本と無関係だったと即断してはいけない。
741卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 18:23:50.52
陜野侯が倭に派遣されて倭の王になったというのは檀君王険の時代のBC666である。
この陜野侯が神武だとすると、日本は檀君王険の分国だということになる。

高句麗はその檀君王険の後継国なのだから、日本は高句麗の分国だとも言えるわけである。
742日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:33:19.56
エサ役、狂言回し
最後に物分かりのいい刑事役か

半島がどうたらと十支族がどうのに集約したいんだろうな
騎馬九州王朝説をサヨク系の捨て駒にして
まずは強烈なトンデモから頭を真っ白にして書き換えか
今度は鉄と高句麗でやるのか

一系統王朝から一統に文面と文化が動く
民族大移動型の大陸史観が島国の実情と違うと思うんだよね
ここが大陸史観の騎馬民族征服王朝説がダメだった理由なんだ
稲作騎馬民族になるもんな

特に倭の島の「和」の概念からすると
和を以てナンチャラ
743日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:40:30.67
確かにブサヨ御用達だった変形版騎馬民族征服説だなw
わかりやすいネット工作活動だね。
744日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:42:42.21
たぶん、司会役が一人いれば、こんなくだらないレスのたれ流ししないで2、3スレで済むような話なんだろうな
ここの話って。くだらねw
745卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 18:50:58.70
君らの、やれ九州だ、いや大和だ、という話の方がずっとくだらない。
大和王権は高句麗王室の分家説を出してきた男。
今面白いのはこの男の投稿だけだ。

君らは一生行程論と考古学の話をしていればいいよ。
所詮君らはその程度の人間なんだ。
746日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:55:41.53
相変わらずつまらん自作自演だなw
747日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:07:17.24
>>739
高句麗地域の神仙思想が日本に入ってきて、
多氏の日女神の家に伝わっていることは明白です。
なにしろ、高句麗語の文語が社家に残ってますから。

卑弥呼の鬼道は、その呼称だけでは、どうにでも解釈出来てしまいます。
当時の各地域の祭祀の痕跡の比較として、銅鐸と矛の広がりが注目されてきましたが、
纏向遺跡の土坑の調査が進んで、新嘗祭に至る流れがかなり詳細に見えて来たことで、
隧穴・土坑を用いた祭祀の比較も、視野に入ってきたと思います。

香春神社に多氏の赤留姫の伝承が残っているだけでなく、
卑弥呼の時代の、九州の遺跡の祭祀跡には、
多氏系のオボー(塚)とイルの信仰、
簡単に言えば日の巫女の王が行う神事特有の、
痕跡が残っているようです。

高句麗の信仰形態、九州(大姫系)の信仰形態、纏向(稚姫系)の信仰形態の、
三者比較によって、卑弥呼(大姫系)の邪馬台国はどこにあったか、
ある程度明確に見えてきます。
748卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 19:08:30.94
ぷはは、パカな奴だなw
名前の印字の色を見れば分るだろ。

私は緑色だが、高句麗分家説の男は青色だ。
749日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:17:28.27
>>731
>前方後円墳なんて高句麗全く無縁だよなw

そうではない。

古墳時代の宗教形態、オボ信仰について理解するには、
大日と呼ばれるキーワードを、正しく把握する必要がある。
高句麗語や朝鮮語では、大日はテイルと読んで、一文字に短縮すると照るとなる。
※音訓入り乱れているが、湯桶読み、重箱読みは、この時代普通のこと。

上の予備知識を持ったうえで、
天照大神がなぜ大日霎貴神と呼ばれているのか、推理できた人は冴えている。
大日は一文字で照と表記できるから、それに、天神であることを表す天を付けてやれば、
天照という言葉になる。二つの神の名前には、ともに大日という言葉が潜んでいる。

大日(テイル)という高句麗語の意味をみていこう。

大日の大は、大きいという意味ではない。多氏の多と同じ意味の言葉で、
太、大、意富、飯富、於保と記されることもある、高句麗語なのだ。
では、多とは何か。これは、日本、沖縄、朝鮮半島、満州、モンゴル、チベット、
にかけて、広く分布している、オボー(塚)信仰と呼ばれる宗教形態を指す言葉だ。
オボー信仰の一つの姿として、恐山のイタコをイメージすると分かりやすい。
塚や霊山を崇め、祖先の霊を降ろして、その言葉を受け取って、懸案を解決する。
今日残る、神社の神憑りと託宣を賜る神事もまた、オボー信仰の一つの形だ。
業績のあった祖先を神として祀り、霊を降ろして、
祖先から受け継いできた考えかたを、神様のお告げとして示して、行動規範とするのが、
巫女神道(皇室神道)の本来の姿だ。
この、オボー(塚)信仰が、古墳に祖先を祭るスタイルで広まった結果、
弥生時代が終わって、古墳時代が出現してくる。
750日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:17:34.71
巻向の土孔調査…まだ何も結論付けた事発表してませんが?
751日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:20:26.06
>>731
最古の皇別氏族多氏が、なぜ多氏と呼ばれるのか、
多氏の巫女が皇祖神天照大神と、同一視されて、崇拝対象になってきたのかは、
オボー(塚)信仰の実体が見えてくれば、一発で分かる。

オボー(祖先崇拝)の神事を行う巫の家だから、多氏であり、
日神の子孫とされているから、祖先崇拝と太陽信仰が習合して、大日となる。
帯姫とか、足姫と書いて、タラシ姫と読む。多氏の姫がなぜタラシなのか?
じつは、照らしが転化したものなのだ。
多氏の巫女は、耀姫(あかるひめ)照姫(てらしひめ)といった呼ばれ方をする。
明るく照らす、日の巫女の名として相応しいものが選ばれていることが分かる。
息長は、天日を高句麗語読みしたものを音写した文字だ。
天日を日本語では、息長、気長、敦賀、などと表記する。
したがって、神功皇后=息長帯比売は、天日照姫とも表記できる。
これは、天日一族の、大日(オオヒ)信仰の日女(ヒメ・日の巫女)という意味になる。

後に皇祖神 天照大神となる巫女神の元型と見て取ることが出来る。

多氏の巫女神の家には、今も古墳を用いた神事が伝承されていて、
現宗主耀姫(アカルヒメ)様は、セカンドライフと呼ばれるメタバースの、
バーチャル神社で開催された神道教室で、
古墳で行う神事を公開し、解説してくださったことがある。

倭国の卑弥呼もまた、大日(オオヒ)信仰系の日の巫女の王(斎王)だったとすれば、
その宮の跡には、大日系の神事に必要な道具立ての痕跡が残っているだろう。
752日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:21:01.56
>>749
所詮全部が自己満足な憶測にすぎないよ、それじゃ。
753日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:21:18.75
>>731
前方後円墳の形は、高句麗国の古墳群には見られない独特のものだ。
これは四国で百年近く費やして発達してから、淡路島を経て近畿地方に持ち込まれている。
伊弉諾伊弉冉が淡路島に足跡を残すのは、移動ルート上だからだろう。

出雲を山陰と思っている人が多いが、出雲の神々が信仰されていた痕跡を調べると、
山陰ではなく、元は四国で信仰されていた神々だということが分かる。
つまり、四国から近畿地方に入って、古墳の墓制を広めて、
弥生時代を古墳時代に移行させるきっかけを作った一族は、
都落ちして、出雲に島流しになっているのだ。
この出来事は、大国主命の国譲りとして今に伝わっている可能性が高い。

古墳の構造を見てみよう。円墳に扇形の前方部が付いた形をしていて、
前方部の手前に来るほど高くなっている。
これは、先代の王の霊が、巫女に降りて託宣を下す、大日の神事の内容を、
列席者が見やすくするために、設けられた傾斜の可能性がある。
古墳には、祭祀を行う巫女が待機する場所が、突起として存在する。

前方後円墳のルーツを考えるとき、
大日の神事の内容を、どのように演出して見せる慣習を持っていたか、考える必要がある。
祖先の王達を権威づけ、それをどのように後継者の王が正当に引き継いでいるか、
しっかり見せつけることが、国を束ねるうえで重要視されていたのだ。

単純に、こんな形の古墳は高句麗になかった、という発想では、本質は見えてこない。
古墳の形は短時間で流行が変わるが、祖先を敬う信仰形態は、
祖先から王位と伝統を受け継ぐ発想が根底にあるから、そう簡単には変わらない。
大日の信仰形態が、高句麗国から来たものであることを、流れとして見るべきだ。
古墳の形のほうから先に見ていくと、見誤ることになる。
754日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:45:13.43
KPOPの次は歴史か
N+から出張することはあんまりないけど
妙に気になって追跡したけど
何となくあった嫌な予感があったけど
今度はTPPとか推進するようなグローバルナントカと手を組んで
ネットでまくし立てやるかもな
もう予算は動いてそう
韓国の学者とか言い出してるもんな
755日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:47:59.43
吉備や阿波、畿内だと水銀朱に前方後円墳という特徴がある訳だが。
高句麗の古墳とは無縁の物ですな。
それで高句麗道教?とやらの神仙思想の影響とかは
全く認める事が出来ないね。
756日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:48:27.37
>>750
纏向遺跡の土坑は、考古学者が見たら、祭祀跡のただのゴミ捨て場。
多氏の日女神の家の者が見たら、
新嘗祭までの変遷を詳細に辿ることが出来る貴重な品々の宝庫。

これは、素人とプロの差だね。

素人の考古学者に発掘を任せていると、
たとえ、卑弥呼の祭祀跡を運良く掘り当てても、
判断の決め手となる重要な痕跡を、それと気付かずに損なって、
永遠に発見できない状態にしてしまう可能性がある。

祭祀跡だと感じたら、考古学者の諸君は、素人判断しようと思わないで、
まず専門家を呼んで判断を仰ごう。
探さなければならない、祭祀形態の詳細を確認できる痕跡を知らずに掘ってしまうと、
証拠を隠滅して、台無しの状態にしてしまう可能性もある。

というより、すでに多くの遺跡を台無しにしてきた実績があるらしい。
たとえば、神事に使う鏡を置いた台の痕跡が残っていても、
掘るとき気付かずに消していき、建物の柱の跡にばかりマーキングしてたら、
致命的だよね。

考古学の教授達って、どうして、
紀元前からの神道の変遷を、各年代を追って勉強してないんだ?
一世紀の遺跡、二世紀の遺跡で、祭祀の痕跡がどう変化してるか、講義出来る人はいる?
見つけなくてはいけない痕跡がどんなものか、まったく理解ないで発掘するなんて、
オカシイよね?
757日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:53:04.37
>>754
あっちの連中は結局2ch好きだからなw
TVで工作する限界感じたのかな?
758日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:56:09.94
3世紀に突如巻向が現れるし鏡や古墳等からも
ほぼ畿内で決まりだよ。九州とかいまだに言ってるのは
ただの馬鹿マニアだけ
759日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:03:32.52
最近高知辺りの神木に工作したりする朝鮮人集団いるからな。
マジで今後は捏造主張が増えるだろう。
760日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:06:23.94
単純に2系統を認めればいいんだよ
一系統で一統で歴史が動いたと考えるから
そこを半島勢力に隙をつかれる
また失われた十支族を入れたい連中もいる
この連中もなぜか一系統派なんだよな

九州王朝説派は騎馬民族征服王朝説で自爆しただけで
騎馬民族のとこさえ外せば、まだわかる話だったのにな

また今度は「鉄」で一系統派に取り込まれるのかねぇ
761日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:21:11.22
>>760
だからそういう書き込みばかりなんで
邪馬台国は素人のくだらん妄想ばかりだと批判されるんだよw
そんな根拠のない妄想垂れ流してるようじゃ
学問でもなんでもないだろうに。
考古学的にはもう九州説では無理だよ。畿内で決まり。
文献がない以上、考古学しか伸びしろがないわけで、
現状では畿内説が定説だよ。覆したければ
自分で土地でも買収して掘ってなんか重要な物的証拠でも
発見するしかないわw
762日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:36:24.08
畿内派のわからんのは
魏志倭人伝を軽視してるのに
なぜか邪馬台国の比定はしたがるんだよな

・騎馬民族征服王朝派(九州王朝)
・半島から王統降臨派
・すべては畿内でしか歴史は動いてない畿内派

これらの共通認識は一系統で説明して
それに付随して文明を一統であると

むしろそれのほうが有り得ない
古代になればなるほど中央集権が確立されてたなんてさ

まくし立て方も似てる

もう決まったことだから
みたいな言い方すんのな
どの勢力も
結論は一系統
763日本@名無史さん:2012/08/05(日) 21:47:29.49
第10代崇神の時点で大和勢力の支配が及んでいたのは山陰・山陽・四国のみ
やっとこさ四道将軍を派遣して他の地域の征服に向かったが
景行、仲哀の時代においてもなお九州にはまつろわぬ国がゴロゴロあった
764日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:05:48.87
考古学的にみても畿内説って怪しいと思うんだけど
纏向遺跡から東海地方の土器がたくさん出てくるところとか
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:13:58.80
もう九州で決まり。

朝廷にはその相当年代に女王が即位した事実はない。
このことは卑弥呼が畿内及びその近隣に所在しない女だということを
物語る。百襲媛は女王(女天皇)に即位した事実がないから、彼女は
卑弥呼ではない。
つまり畿内と卑弥呼は無関係である。無関係だから記紀に当時に女天皇の
即位した事実が書かれてないわけだ。

ということは、卑弥呼は畿内でない九州の女王だったということになる。
766日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:19:45.60
纏向は邪馬台国ではなく大和朝廷の都なのです
崇神垂仁景行天皇の時代に都をおいていました
この時代大和朝廷は北九州を傘下におさめていませんし、記紀には魏と使者のやり取りをしたなんてことも書いてません
したがって魏に使者を送っていた倭国は北九州にあった大和朝廷とは別の国です

私いろいろな本を読みましたが上のような説に対するちゃんとした反論ってみたことありません
記紀をもとに歴史を語ろうとすると反論されるどころか、無視されるか感情的に反発されるかのどっちかなんだそうです
邪馬台国の滅亡って本に書いてありました
767日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:21:10.14
その結論はおかしいw
768卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:26:51.29
細国よ、いかにも正論のようだが、事はそう単純ではない。
神功が卑弥呼で、魏に朝貢していたとしても、新羅征伐の記録は残っていても、
朝貢の記録が残っていなければ、記載しようがない。
また神功と台与をまとめて神功一人のこととして書いた可能性もある。
また、朝貢は屈辱的なことだから卑弥呼のことも五王のことも書かなかった、
という可能性もやはりあるのだ。

とにかく邪馬台国問題というのは人が思っているほど単純な問題ではないのだ。
実際、これほどの難問はないのであって、九州で決まり、とか畿内で決まり、
などと書いている奴は例外なくただのパカである。
769日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:29:14.96
ある時代まで日本も中華も大歳記年法を用いてた
ところが太陽太陰暦を使用するようになって大歳記年法による記述を太陽太陰暦へ変換する作業を行った
その際に多くの齟齬が生じた
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:32:02.11
屈辱的だと〜WW

そうならば、むしろ日本側が大陸側を家来だと記紀に書けばいいことだ。
なにも隠すこともあるまいし、卑弥呼を隠匿したいなら神功39年の記事で
さえ編者蓮は削るはずだが記載されているのだ。これは卑弥呼を隠匿したの
ではないことを物語る。隠匿刷るならこの記事は削除されるはずだ。

オマエは思考の読みが1手先くらいで考察が非常に幼稚である。W
771日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:32:40.69
皇紀と西暦が一緒だと思っているボンクラがいるようだ
772太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:35:32.80
>>770 訂正

× 編者蓮
○ 編者連

× 隠匿刷るならこの記事は削除されるはずだ
○ 隠匿するならこの記事は削除されるはずだ
773日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:37:42.56
>>764
われわれの生活の痕跡の中で、土の中に残るものはごくわずか。
しかも、発掘されるものはそのまたごくわずか。
それで、すべてがわかるのだから畿内説の考古学者は凄い(皮肉!)。

ふつう、土器で政治的なものを考える人はいない。
だから、畿内説の考古学者は凄い(呆れ果てる)。
774卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:44:15.89
>>770
たしかに以前は私もそう思っていたのだ。
隠すつもりなら卑弥呼朝貢の記事も載せるはずはない、と。

しかしだからといって、神功は卑弥呼ではないと断言することもできないのである。
卑弥呼は神功のことかもしれないと思われる諸々の要素もあるからだ。
早い話、九州に倭の女王を名乗れるほどの女性や王朝があったかは甚だ疑問だからである。
775太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:46:54.41
神功皇后≠卑弥呼
776卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:49:34.34
神功皇后≒卑弥呼
777太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:50:21.48
卑弥呼は神功の代ではない。

卑弥呼は百襲媛のころの女性である。
前者は九州に後者は畿内にいたのである。百襲媛のほうが7〜8年ばかり
卑弥呼より早く死亡している。
778日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:51:26.89
3世紀に朝鮮半島の南部楽浪郡の南には小さな国しかなかったんだよ
馬韓だって50カ国くらいに分かれてたし辰韓や弁韓にも小さな国しかなかった
そんなときだから北九州の30国というのは十分大国だよ
大体一世紀の時点で奴国が金印をもらってる
北九州には倭の女王を名乗れるほどの王様がいたと思うよ
779卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:58:39.04
>>777
講釈師 見てきたような ……………
>>778
馬韓は遼寧省〜吉林省南部からソウルくらいまで版図があった。
ソウル以南に加耶があった。
三韓、加耶、金官は君らが思っているよりずっと広い版図を有していた。

金印は偽物で奴国とは何の関係も無し。
780日本@名無史さん:2012/08/05(日) 23:06:45.24
何かの本で読んだけど19何年だかに出たはんこと奴国の金印がそっくりで
江戸時代に偽造できたわけがないってさ
今その本がないのであれだけど

ネットの歴史によれば楽浪郡はピョンヤンにあったらしいですよ
だから三韓はその南です
781日本@名無史さん:2012/08/05(日) 23:16:13.86
朝鮮は日本はともかく歴史問題で中国を挑発してると滅ぼされるぞ
そのうち
782日本@名無史さん:2012/08/05(日) 23:36:48.59
まあ、対日戦略的に朝鮮を泳がせてる側面が在るからな琉球と同じ扱い受けたら韓国の皆さんは電波飛ばし続けられるか?
北朝鮮博物館は漢系考古遺物を俺たちの歴史に関係無いと売りに出した事がある。将軍様の遺言と云い中国に命綱握られてる割には真面だ。
783日本@名無史さん:2012/08/06(月) 01:57:20.84
「その南に狗奴国」って、とこで
邪馬台国の南なのか奴国の南なのか、邪馬台国連合ひっくるめて南なのか
どうなんでしょう?

文章順通りなら、奴国に至った境界線の南ってことだが・・・つまり奴国の南
その奴国が、先述の奴国と同じ国を指してるのか・・・どうなんでしょ?
784高天原(タカアマハラ)の成立過程:2012/08/06(月) 06:56:11.18
高天原は、高一族の尊い国という意味。原は古い時代、都市国家を指した。
高句麗は本来、高麗と書き、コマと読む。(句の文字は後世生まれた書き分けの慣習)
高句麗系渡来人のコマ氏は、高麗氏と狛氏の二通りの書き方があって、氏族が少し異なる。
両者を混同しないよう呼び分けるために、高麗氏のほうはタカマとも読むようになった。

高麗(コマ)という高句麗語は、
朝鮮と中国の国境地帯を指す、蓋馬(ケーマ)高原という地名として今も残っている。
多氏の日女神の家の故老が高天原と伝承する、現・五女山城址も蓋馬高原に含まれる。
蓋馬高原のことを古い時代は高麗(タカマ)原と表記して呼んでいたが、
天孫降臨の考え方が固まってくると、天を特別に強調する意味で、
高天原(タカアマハラ)と呼ぶことになり、皇子女は多氏の阿礼の女官達から、
息長庄(今の奈良県桜井市忍坂集落付近)の阿礼の宮で、そのように教えられて育った。
それでは言いにくいので、いつしかタカマガハラに転化していった。
結果古事記には、言葉が創作された当時の古いタカアマハラの読みの注釈が残った。

孝徳天皇が645年の7月に出した詔勅に、高麗神子の使いとある。
百済王の使い、新羅王の使い、という表現とは、異なる扱いになっている。
これは、高句麗の王は天神の子孫であるという、
特別な認識を当時の朝廷が持って、敬意を払っていたことを意味する。
後に天照大神と呼ばれるようになった日女神、
アカルヒメを祀る高句麗国神宮から渡来した巫女集団が、
皇統を産みだした母系集団(妻問婚の対象)で、
その一族のアカルヒメを襲名した日の巫女の王が神子(生き神)と呼ばれるように、
高句麗国=高天原の王は、アカルヒメと一対になる神子(生き神)と考えられ、
皇室から崇拝の対象とされていたから、孝徳天皇の詔勅に高麗神子と記された。

倭と高句麗は半島で領土紛争を繰り返したが、大和王権はその記憶を持っておらず、
高句麗は、天照大神赤留姫が宮を構えて天孫降臨を命じた高天原と認識していた。
この地域から出て清帝国を興し漢民族を支配した女真族を同族とみなした当代の耀姫は、
清帝国崩壊後皇帝を保護するよう託宣し鏡などの神器を与えて満州国皇帝として擁立した。
785高天原(タカアマハラ)の成立過程:2012/08/06(月) 07:18:33.28
というわけで、
卑弥呼が天照大神のモデルで、高天原が日本にあって、邪馬台国のことだ、
と考えてきた人達にとっては、残念な結末みたいだね。
私も高校生までは、漠然とそう思っていたから、最初聞いたときは焦った。

大和は倭ではない、
九州と近畿は、卑弥呼よりも少し古い時代に統一されたことがあったが、
卑弥呼の時代には分かれていたと、
皇祖神天照大神のモデルになった、皇室を産みだした母系集団が言っているんだから、
間違いないと見ていいだろう。

意外だったのは、その古い時代に九州と大和を統一した倭国?の大王は、
卑弥呼とは比較にならない量の貢物を携えて、
中国の皇帝の宮殿に自ら乗り込んで、話をして帰ってきた、という伝承があることかな。
記録にないんだから、昔話で片づけられて、誰も見向きもしないんだろうな。

多氏の阿礼(王族の出産と育児に関わるモロモロを神聖視してこう呼ぶ)の女官達は、
皇子女を養育する宮を息長庄(現・奈良県桜井市忍坂集落)に構えて、
大和大王家(皇室)の古い伝承を教えることも担当していた。
その伝承内容を文書化したものが古事記なんだから、
古事記<多氏の阿礼の女官達が持っていた情報、という図式が成り立つ。
786日本@名無史さん:2012/08/06(月) 07:24:46.12
>>784
最初の一行だけでいいからソースを出してくれ
全部の行にソースの提示を求めたいが大変なので
最初の一行だけでいいから出してくれ
787日本@名無史さん:2012/08/06(月) 07:51:25.15
   ,-ー─‐‐-、
   ,! ||     |
   !‐-------‐
  .|:::i ./ ̄ ̄ヽi
  ,|:::i | 中 濃 ||
  |::::i | ソ ー ス ||
  |::::i |................||
  \i `-----'/
     ̄ ̄ ̄ ̄
788高天原(タカアマハラ)の成立過程:2012/08/06(月) 07:52:49.20
ごめん。勉強不足だった。

倭国王帥生は107年に生口160人を貢いでる!

多氏の伝承って、ろくに史料に残っていない変な?ものが多いし、
神憑りなんてものはオカルトの世界だから、
てっきり統一倭国の大王の大げさな昔話も、
社家に伝わるただの伝説かと勘違いしてたよ。
中国側にもしっかり記録があったとは、古い時代を見てなかった。
というより、どうして倭国王帥生は、卑弥呼より軽視されてるんだ?

卑弥呼の時代は倭国大乱があって、細かく分裂した後だし、
倭の五王の時代も、九州の小国だから、
こんな数の生口を中国の皇帝に差し出せなかったらしいけど、
九州から近畿地方まで統一倭国を築いた時代の大王なら、
可能だったってことか。

古事記の原典、多氏の阿礼の巫女集団の口伝恐るべし。
やっぱり紀元前277年からの歴史をしっかり伝えてきてるのか?
789高天原の:2012/08/06(月) 08:30:48.01
>>786
ソースはだね、
古事記の原典とも言われる、多氏の阿礼の巫女集団の情報を今に伝える、
多氏の日女神の家の現宗主 天照大神耀姫様と、ちゃんと明らかにしてあるだろう。
きちんと書いてあるものが読み取れないようだと、難読症? と受け取られるよ。

社家の口伝だから、早い話が、神社のお家の爺さん婆さんの昔話。
だから、そのまま真に受けるのはチョット待て! なんだが、
あの古事記のソースになった、多氏阿礼のお家の言い伝えだから、軽視できない。
その情報を疑うなら、古事記も同じように疑わしいって話になる。
メタバースのカフェ・プリマベーラの歴史フォーラムの古代史コーナーで、
天照大神耀姫様が講義なさっている内容>古事記なのさ。

もちろん耀姫様も、社家の長期孤立伝承の危うさはよく理解している。
神事がないときは、人間の脳の自己組織化という、
最先端分野の研究をなさっておられる、科学的に物事を見ることが出来る女性だから、
幽霊の存在を真っ向否定してるし、神事の解説も迷信を避けたものになっている。

神話や物語は、創作されたものだから鵜呑みにしないように、と仰っておられる。
他の文献や遺跡からの出土品と突き合わせて合致しない多氏の伝承は、
当然のように、ハテナマークを付けておく必要がある。
もちろん、同じように多氏の口伝をソースとして創作されていった経緯を持つ、
記紀神話も同じ取り扱いをして、オカシイ箇所は修正していく必要がある。

しかし、耀姫様、神庫から古文書をひっぱり出してきて、
平気で古事記や日本書紀の内容に、赤線引いて添削していく。
中学生の頃読んだ日本書紀の内容が間違いだらけだったと気付かされると、なんか焦る。
790日本@名無史さん:2012/08/06(月) 08:37:58.49
また高句麗君かw
結局水銀朱や前方後円墳は高句麗からの影響はあったのかな?
791卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 08:38:38.96
>>784
蓋馬という名は、日本統治時代に、東京帝大の小藤文次郎が、
土地の古老にこの山岳の名を尋ねたが、まったく分らないという返事だったので、
たまたま満州にあった東蓋馬という名称の蓋馬を付けたのである。
1960年平凡社刊「世界大百科事典」に明記されているそうだ。

この小藤文次郎は山岳に限らずかなりの名称を満州から移動させて附名した、と、
山形明郷は生き証人から聞いたと書いている。

神子というのは王ではないだろう。
詔勅に高麗王のことだと書かれているのか?
792高天原の:2012/08/06(月) 08:41:27.20
書き漏れてたので補足。

現在でも、高句麗国から渡来した氏族の末裔が名乗る、
高麗、高間、高天の三つの姓が、タカマという読みを持っている。
したがって、
高麗原(タカマハラ)が、高天原(タカマハラ)に置き換えられた、
という伝承を肯定する、名残りが認められる。
793卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 08:44:31.14
それにそもそも蓋馬高原は高句麗の版図ではない。
それは百済か新羅の領土だ。

高句麗の発祥地、本拠地は通説よりずっと北方でしかも東方だ。
794高天原の:2012/08/06(月) 08:48:27.43
>>791
清の皇帝が定めた禁足地(祖先が眠る聖地)だったから、
誰も立ち入れなかった長い時間の間に、地名の伝承が途切れていたんだね。

あと、不敬罪に問われないようにする必要があるし、
当時は耀姫様など、表に名を出せる人ではなかったから(今でも神様だが)
こっちから移しましたよ、という話にしておいたんだね。

世界大百科事典の記事は、直しておいたほうがいいね。
795日本@名無史さん:2012/08/06(月) 08:49:42.25
高句麗の影響なんて5世紀以降の話だよ。
卑弥呼はアカルヒメの世代的にずっと前のはずなんだが。
一応実家が聞いていた伝承による話だ。
ちなみに本家は高野山麓の九度山〜花園〜清水周辺で
水害以前に鉱山持ってたような家です。
796卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 08:54:59.92
あいかわらず金印は本物だと信じている人がいるようなので一言しておこう。

金印が偽物であることは三浦祐之「金印偽造事件」を読めば分かるが、
そんなものを読まなくても分かる。

倭奴国は倭の極南界と書かれている。
倭の王が朝貢してきたのではなく、倭の極南界にある倭奴国という国の王という認識だ。
中国の皇帝はそんな、倭国の中の一国の王に金印を与えたりはしない。

それに博多は日本の極南界ではない。博多を日本の極南界と認めるなら、
久留米説も熊本説も宮崎説も大和説も成立しない。
成立するのはせいぜい福岡説か朝鮮説くらいのものだ。

とにかく博多は日本の極南界ではないのだから、倭奴国は奴国ではない。
したがって博多から金印が出るはずがない。
797日本@名無史さん:2012/08/06(月) 08:55:23.66
>>789
その現宗主アカルヒメ様には虚言癖があるかも知れないな
てか執拗にアカルヒメ様を連発する君は本人か関係者だろ
798卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 09:01:52.55
>>794
清の版図は蓋馬高原にまで及んでいないと思うが。
それに禁足地なら却って名前が知れ渡っていたはずだ。
799日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:08:15.51
>>788
>てっきり統一倭国の大王の大げさな昔話も、
>社家に伝わるただの伝説かと勘違いしてたよ。

このワザとらしさ!!
詐話師としてはまだまだ未熟だよ
倭国王帥生の朝貢なんて中学の日本史でも習うだろ
800太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 09:09:02.68
朝鮮男よ
偽造をやる動機は何だ?

オマエは古代史捜査をして偽造の証拠を固めたのか?
それともそれに近い根拠が充分言えるか?

そうでないなら、オマエのデマカセだ。捜査したなら書きこんでみろ。
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 09:10:26.48
>倭国の中の一国の王に金印を与えたりはしない。

卑弥呼の金印も与えないと言い張るのか?w

悉くがオマエの盲象だ。
802日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:16:55.76
>>796
じゃあ日本は倭ではなかったの?
803卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 09:22:22.24
細国よ、あの金印は、立身と功名に駆られた福岡藩の儒者が、
友人であり身内でもある大商人や奉行所役人と組んで偽造させたものなのだ。
中国の印の見本帳は市販されていたから、それを見れば簡単に作れる。
費用も20万円くらいで、大商人にとってははした金だ。
しかも当時日本一と称された金細工師ともコンタクトがあったようなのだ。

卑弥呼は倭王であって、倭の中の一国の王として朝貢したのではない。だから金印を与えた。
倭奴国の王に金印を与えたとはどこにも書かれていない。
804高天原の:2012/08/06(月) 09:30:08.77
>>791
>神子というのは王ではないだろう。
>詔勅に高麗王のことだと書かれているのか?

王を指すとは限らないし、慎重に真相を読み取りたい部分だね。
史料から読み取れることは少なく、判断し辛いから、神頼みするしかないかな。

新羅、百済とは別格の存在として、高句麗の王の使者に敬意を払ったのは事実と思う。
神子は王ではなく、日神の子、その子孫、生き神様のことを指すと、
耀姫様は解説なさっておられる。

高句麗を建国した東明聖王(朱蒙)は、天帝の子を自称する解慕漱の子だが、
高句麗語の解(へ)は日本語の日(ひ)に対応し、
高句麗語の慕漱(モス)は日本語の下(もと)に対応する。
解慕漱は、日本語では日下(ひのもと)または日本(ひのもと)と表記され、
太陽神の子であることを意味する神名と伝承されてきたらしい。
本来の物部氏の国は天照国(天日照(大日)国)だったが、
王朝の交代後に、日本国に変更したらしい。
皇孫は、天孫降臨神話が示す、大和大王家の末裔の生き神様を指す言葉だが、
神子は、日神の子である解慕漱(日本神)の末裔の生き神様を指す特別な言葉だそうだ。

耀姫様の手元には、神子という言葉が登場する古文書が、6冊あるそうだ。
この6冊は、江戸時代の学者が偽書扱いしたため、
不敬とされて斬首され、京の都の河原に首を晒された、と言い伝えられているそうだ。
写しを託された人がいたらしいが、当代の耀姫様の指示で
幕府に、御禁制の遁甲の書を所持していたという冤罪で捕えられて拷問死したらしい。
当時の学者の指摘は稚拙、本来なら世に出しても問題ない内容、と仰っておられた。
805日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:37:36.82
ご都合のいい解釈ばかりですなw
806日本@名無史さん:2012/08/06(月) 09:41:04.89
卑弥呼の金印と倭奴国の金印とは別の物だよ。倭奴国の印は後漢書に出てくるものだ。
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
807高天原の:2012/08/06(月) 09:49:26.95
>>799
多氏が伝える古の統一倭国の大王の昔話には、
倭国王帥生なんて名前は出てこなかったと思う。

この大王は、英彦山に天壇を建てて、天子として天に祈った、
といった大袈裟すぎる話だから、中国の皇帝に貢物を捧げた話とズレがあって、
ピンと来てなかった。

この、天に祈る祭りを実行するには、
国が一つに統一されて、長期間安定して治められている必要があるらしい。

英彦その他、多氏の伝承に出て来る大王の名前と、
倭国王帥生では、名前が一致しない。

今も英彦山に祀られていた痕跡が残るらしいけど、
あなたは、中国の皇帝と肩を並べる天子として振る舞った伝説上の統一倭国の大王が、
倭国王帥生と同一人物と推理できる材料を持っているの?
808高天原の:2012/08/06(月) 10:00:37.78
>>797
どうしてそうなる?

天照大神耀姫様は、私立大学の理事をなさっておられる。
その私立大のメタバース上にカフェを構えて、歴史フォーラムで講義をなさっておられる。
私はその受講者だよ。

故意に情報を捻じ曲げようと、穿ったことを書き込んでないか?

あと、神社に祀られている本物の天照大神に、虚言癖があるなどと、
日本人なら絶対に書けない。
ご本人が、多氏の伝承の全てが正しいとは言ってないのだから、
なおさら、虚言を流布する意図などないと見るべきだろう。

カルト系の怪しい人は、絶対に神様の言うことは正しいと主張するが、
天照大神耀姫様は、そういう無茶な知識の押し付けはしていないよ。

歴史フォーラムには大学教授も集まっているが、誰もそういう、
日本人にあるまじき、礼を失するようなことは言わない。
809日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:02:22.64
>>808
内容はカルトそのものじゃないかw
810日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:04:16.15
スカラー波が強すぎるわ

タマちゃんはパトラッシュでありケルベロスである
その暗号を解いたパナウェーブ研究所の女所長の神託を畏れて
スカラー波攻撃されたのだ

この話には整合性はある
811日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:08:51.64
で、結局前方後円墳と高句麗道教の関連性は?
3世紀以前に水銀朱を用いる例はあったのかい?
812日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:13:25.47
倭国を統一したことを天に報告したのが、倭国王帥生かどうかは不確定として、

倭国統一時代→倭国大乱→倭国分裂時代→卑弥呼擁立時代、

という流れがある可能性はどうなんだ?
これが解ければ、倭と大和に分裂してたかどうか、ファイナルアンサーまで行ける。

倭国大乱は、高地性集落の発見に始まって、イロイロ証拠が発見されているが、
倭国王帥生の時代に、一時的にでも統一されてたような痕跡は残ってないかな?

邪馬台国の東に海があって、それを渡るとまた国があるのだから、
九州説で良いと思うけどね。
813日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:32:16.32
橋下がCIAに倭国統一を報告するのは早過ぎる
まだ大阪統一すらしてない
大阪都の地方分権による倭国大乱すらしてない
814日本@名無史さん:2012/08/06(月) 10:35:55.00
>>784
さり気無く嘘付いて ww
ところで、契約の箱は半島のどの場所から出土したんだ?
アークの中身は何?
815日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:07:20.73
朝鮮人のネット上歴史捏造活動の一環だな。
しかし内容的にも無理だらけ。中途半端で偏った内容だから
突っ込まれたらボロだらけになるんだよ。
816日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:17:09.88
>>811
四国の前方後円墳の元型が作られた地域に、高句麗系の石積の祭祀跡がある。
あれと、古墳の葺石の関係を指摘していたと思うが、
4年も前のことで、チャットのログがハードディスク吹っ飛んで消えてるし、
思い出せない。
817日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:19:10.57
故意に誹謗中傷に走り始めたな。
表面的に、決めつけるようなバッシングをしているだけで、
まともな中身のある反証が書き込まれなくなってから、そういうのはスルーが正解。
818日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:34:37.37
多氏というのは、皇室神道を担当する最古の皇別氏族とされるから、古墳祭祀の主体。
さらに、古事記は多氏の阿礼の伝承と、はっきり序文に書いてあるから、
古事記の伝承主体でもある。
その社家が持っている、体系的にまとめられた膨大な伝承を前にすると、
神道をよく知らない素人では、なかなかツッコミを入れにくい雰囲気がある。
だが、耀姫様は、古事記・日本書紀に収録された神話を含む
多氏の伝承を、神話は創作を含むから鵜呑みにしないように要求してくる。
どう受け止めればいいのか、これはまいったね。
819日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:38:01.48
>>811
すでにこのスレでは、
高句麗道教の実態は、アジアに広く分布するオボー信仰と太陽信仰が習合したもので、
高句麗の解慕漱(日下)を祖先とする、大日(オボヒ)信仰って話に移行してるぞ。
820日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:42:23.39
高句麗国の王室は、朝鮮民族とは異なる、が耀姫の情報。

耀姫のツイートがブログ化されたサイトにひととおり目を通してきたが、
言語も生活習慣も墓制も、高句麗と朝鮮では異なると、はっきり書いてあった。

故意に、朝鮮人の工作活動に持っていくのは無理な話。

成立年代が新しい檀君神話は、多氏の古い伝承と合致しないことが、
このスレの上のほうで指摘されているから、
多氏の伝承は、檀君神話を信じる人々のアキレス腱になっている。
彼等の歴史の捏造の邪魔になると理解して、潰しに来ていると見たほうがよさそうだな。

神道の由緒あるお家の伝承を、カルトそのもの、などと罵るのは、
日本人の発想ではないな。
821日本@名無史さん:2012/08/06(月) 11:54:01.06
>他の文献や遺跡からの出土品と突き合わせて合致しない多氏の伝承は、
当然のように、ハテナマークを付けておく必要がある。

物証といえるものが一つも提示されていない

822日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:07:52.61
中身のある考証が一つもないもんな
全部、口伝とかで
一応、全部信じないでって保険をかけてるだけでさ
823日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:17:37.46
>>798
私にとっては自分の庭だが、土地勘がないんだね?

桓仁満族自治県は、清の康熙帝以降、祖先の古墳があるという理由で封禁地となり、
1877年になってようやく懐仁県が設置されている。
このとき、古い土地の名前がよく分からなくなっていたから、
他所の土地から地名を借りてきてるんだ。

多氏の日女神のお家は、
研究者が紇升骨城(現五女山城)に着眼するより早く、古墳の調査団を差し向けて、
荒らされないように、桓仁ダムを建設して、ダム湖の水の下に沈めている。
そのあと、世界遺産に登録させて、聖地高天原を守っているわけだ。
824日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:20:40.53
>>816
流石にそれだけで影響下云々の話は弱いですよ。

>>819
では吉備や阿波、畿内に散見される
朱を大量に用いた様式とは無関係ですね。
825日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:23:56.28
騎馬民族征服王朝でもない限り
文化文明の移転なんて
まず無理なんだよな
アレキサンダーのヘレニズム文化だってやっとこさっとこ
王統の降臨と口伝だけで
一統に文明が移行したって無理があるし
またそれを秘密にする理由が全くない
826日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:28:34.48
カルトだとか、証拠が何一つも示されていないとか、
無茶苦茶書いて荒らして遊んでいるワルがいるな。

>>690 に無茶なこと書いて、
>>734-735 あたりで、きっちり叱られて、正体を暴露されたのに、
まだ懲りないらしい。

書き込み禁止にしたらどうだ?
827日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:33:37.21
そこまで言うなら2chに書き込むのやめたらいいのに
自分のブログで他人の書き込み禁止すればいいさ
828日本@名無史さん:2012/08/06(月) 12:35:00.19

カフェ・プリマベーラにでもお帰り

829卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 12:46:18.06
>>823
だから蓋馬高原は桓仁満族自治県じゃないって。
蓋馬高台というのは小藤文次郎が付けた名前だよ。
清の康熙帝が付けた名前ではない。

それにネットの高句麗史を見ても、
倭の王族は百済や加耶の王族との婚姻は結んでいるが、
高句麗とはそういう婚姻関係はない。
830卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 12:56:38.94
それに解慕漱という名前についてはいろんな説があり、
君が書いているのはその一例に過ぎない。
もともと言葉の解釈というのは最もインチキが混ざりやすい事項だから、
直ちに信用するわけにはいかないのである。

それに五女山城なんてのは高句麗の発祥地でも本拠地でもない。
そのあたりはおそらく百済の版図だったのだ。
831卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 13:03:19.56
それに稗田阿礼が多氏だという話も聞いたことがない。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 14:51:41.21
>大商人や奉行所役人と組んで偽造させたものなのだ。

これではインチキ検事の先入観の結論が先行してるのと同然であり、
結論だけで根拠、証拠にもならない。

コチラはそんな先行話なんぞ信じやしない。
キチンと根拠、証拠を並べてみろ。

出来ないなら、オマエの話は無実そのもののデタラメだ。
833日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:19:42.93
>>829
誤読、推論の間違い、どうにかしようよ。

>蓋馬高台というのは小藤文次郎が付けた名前だよ。
>清の康熙帝が付けた名前ではない。

誰もそんなことは指摘してないよ。

小藤文次郎は、耀姫様の名前が畏れ多くて出せなかっただけだよ。
明治時代にも不敬罪で斬首された学者がいるのだから、
皇祖神の御一族の名前など、不用意に出せない。心情を分かってあげよう。

>高句麗とはそういう婚姻関係はない。

婚姻関係を結んだなどと、誰もこのスレッドで指摘していない。

倭と高句麗は朝鮮半島で国境を接して、領土紛争を繰り広げていた。
だから、親高句麗の大和と、嫌高句麗の倭は、
正反対の歴史観を持つ、まったく別の国。
834日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:21:01.85
>>830
素人が適当に解釈して流布している、いろんな説は関係ないよ。

耀姫様は、第一言語が高句麗語(文語)。
神座に座っているときは、日本語をお話にならない。
言葉を取り次ぐ人がいて、氏子の日本語を高句麗語に翻訳してお伝えする。
御簾の向こうの耀姫様が話す高句麗語を、
言葉を取り次ぐ人が聞いて、日本語に翻訳して氏子に伝える。
これが古くからのシキタリ。

そんな生活をしている日の巫女の王が、
高句麗語のなかでも重要な意味を持つ、解慕漱を正しく読めない筈がない。
もちろん、言葉は時間とともに変化するから、
昔はどうだったか分からない点も出て来ることはあるだろうけど、
解慕漱、日下、日本といった文字は、
日本の国号を決める書類に、書かれた時点からは劣化しない。
この意味は分かるね?
835日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:24:27.21
>>830
>それに五女山城なんてのは高句麗の発祥地でも本拠地でもない。

古墳を現地調査して得た、年代特定の結果に目を通してないね?
百済が出現するより何百年古いものが存在すると思ってるの?
高句麗建国は紀元前277年説もある。その頃百済は存在してないよね?
高句麗から百済へと、さまざまなモノや人は動いているけど、逆はないよ。

五女山城の半地下住居の形式が、平安末期に建てられた、
日本の高天原、六甲奥池の耀姫様のお住まいに使われている。
半地下、つまり石組みの竪穴式住居。当時最新の寝殿造りではない。

竪穴式住居? どうしてそんなにボロいものに住むの? と思うよね。
ところが、地下はほとんど温度が変化しないから、クーラー無しで涼しい。
一年を通じて18度程度の室温がキープできる部屋にお住まいなんだ。
理由は、北方系の暑がりの体質だから。

私も、六甲の奥池が高天原という話だけなら、信じ難いと思うが、
建築様式が五女山城址に残ったものと一致する、となると話は違ってくる。

さらに、五女山は、姫様達が軍隊を駐留させていたことに由来する、
という伝承が現地に残っている。
これは、五女山城址は日の巫女の王(斎王)がいた神宮だった、
とする多氏の社家の伝承と噛み合っている。

一つ二つの話だけでなく、全てが綺麗に噛み合うから正しい伝承だと分かる。
836日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:31:10.55
>>831
>それに稗田阿礼が多氏だという話も聞いたことがない。

これは私も、耀姫様ルート以外の情報を拾ったことがない。
ただし、状況証拠はほぼ出揃っている。

阿礼は、王族の、出産や育児に関するモロモロのことを神聖視した言葉だ。
謎の人物稗田阿礼は、女性の可能性が、多くの論者によって指摘されてきた。

耀姫様のお家には、
息長庄に、皇子女を養育する宮があり、
多氏(息長氏)の阿礼の女官達が仕えていた、という話が伝わっていて、
うまく噛み合う。

皇子女を養育するための本として、古事記が使われていた可能性は高い。
耀姫様は、古事記の原資料と思われる古文書をお持ちで、
講義のなかで、古事記や日本書紀の間違いを、次々と直していく。
そんな本は、どこにでも転がっているものではない。
837日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:34:38.65
>>834
>言葉を取り次ぐ人が聞いて、日本語に翻訳して氏子に伝える。
>これが古くからのシキタリ。

チョン丸出し
838日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:47:34.45
>>835
>六甲奥池の耀姫様のお住まいに使われている。

あほんだら!
839国家機密の移動:2012/08/06(月) 15:54:31.11
>>825
良い点突いてるね。

たとえば、武器の製造方法などは、最重要国家機密なんだ。
古い時代、漢民族は、主要な交易品の養蚕や紡績技術が流出しないように
努力していたぐらいだから、当時から機密保持の発想があったことが分かる。

ところが、大陸から次々と、日本にそれらの技術が入ってきている。
これは、国の中枢に位置する人物が、
国家機密クラスの情報や技術を持った人々を、
ある程度引き連れて来たことになる。

普通の食糧難民の移動とは違う、国家の移動があったことになる。

倭国に対して国の移動があったなんて、どこにも記録がない?
そんなことはないよね。
弓月の君が大勢連れて来た、といった話なら残っている。
なぜ? 国が滅んだの? そうじゃないらしい。
その理由は、普通に眺めていても、見えてこない。

この謎を解いてくれるのが、アカルヒメの神話と伝説なんだ。
840日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:12:58.13
高句麗クンはよくそんな矛盾だらけの話を真に受けられるなw
841日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:16:43.48
こっくりくんw
842国家機密の移動:2012/08/06(月) 16:20:05.11
>>825
天日矛と呼ばれる神様は、赤留姫を怒らせて、家出されてしまった。
日国に里帰りした赤留姫を追いかけて、日本に来るが、
渡りの神に行く手を遮られてしまったらしい。
ところが、逃げたお嫁さんを追いかけて来た元祖ストーカー?にしては変だ。
日本の地方豪族と戦闘出来る大人数を連れてやって来ている。
嫁に逃げられて、こっそり隠密で連れ戻しに来た、ようにはとても見えない。

つまり、この神話は史実そのものではなく、真相は別にあると見るしかない。

まず、天日矛が、赤留姫を怒らせたというのは、どういう意味だろう?
天日矛は太陽神で、赤留姫は奉仕する巫女の王。
祀っている神様の態度が悪いからと、放り出して逃げる斎王などいない。
後に天照大神として祀られる彼女にしては、非常識すぎて話が不自然だ。

よく分からないので、耀姫(アカルヒメ)を襲名した多氏の巫女様に、
神話に描かれた夫婦喧嘩の真相について、直撃インタビューを試みた。
結果は、
「太陽神の力が衰えて、寒冷化して飢饉の国難が発生したことを、
 そのような、神話の物語に仮託しているのです。」

これはすぐに裏が取れた。
扶余の国で日が陰って飢饉が発生したのは、王に徳がないからだと、
国民から攻められたことが、中国側の史料に残っていた。
卑弥呼寒冷期が深刻だったことは、気象学者達も指摘している。

太陽の力が衰えて高句麗地域で飢饉が発生したため、
神宮の斎王赤留姫は、国難を解決する、日国への里帰りを託宣した。
斎王赤留姫に従って巫女集団が日国に移動し、
それを大勢の民が追いかけた、というのがストーカー騒動の真相らしいのだ。
843日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:25:07.03
そこで何で理由を一つの神話に集約するかな?
ここが騎馬民族征服王朝と変わらんのよね
ある意味、騎馬民族征服王朝説は一系統の理論体系に利用された

何て言うかな
結局は一系統王朝で日本の歴史を説明しようとする
倭国大乱はあってもコップの争いにしたい
Aの強烈電波かBの畿内説の思考停止か
Aが勝てば大陸から一系統で一統の流れ
その中核に半島から実は十支族
Bで思考停止した場合でも中核に十支族が居てもいいよねで特に反論なし

こうだろう

いっそのこと騎馬民族征服王朝だったら
誰が見ても2系統あったってハッキリしてたんだけどな
征服側と被征服側でさ

これがそうじゃないから
タイムターンがあって実際に習合した部分や
記紀編纂で強引に習合させてしまったために
わからなくなった部分
そして、わざと「わからなくしてる」部分

これによる混乱とそれに乗じてる

特に半島みたいな中途半端に大陸に繋がってる連中には
ある特定思想によって乗っ取ったように見えちゃうんだろうな
844日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:25:53.22
今のところ巻向にやってきた連中は皆南方からの海人系のはずだが…
やっぱり朝鮮人の歴史捏造工作なんですかね?
845国家機密の移動:2012/08/06(月) 16:26:20.63
>>825
神宮の斎王自ら託宣して、日国への大移動を敢行したのだとすれば、
それに従った、国家機密クラスの知識や技術を持った人々が、
高句麗周辺地域から集団で渡来してきても不自然ではない。

多氏の伝承をうかがって受けた印象だが、
製鉄や絹の生産などの貴重な技術は、赤留姫の里帰りの託宣の一言で、
大陸から朝鮮半島を飛び越えて、一気に日本に持ち込まれたらしい。

赤留姫が、後世天照大神と呼ばれるようになり、
皇祖神と位置付けられた、十分な理由と言えるだろう。
この女神の一言が、弥生時代を古墳時代に変え、
日本国を産み出す流れを作ったのだから。

問題は、どうして、倭と大和という、二つの大王の家に分かれているかだ。
じつは、赤留姫が渡来した伝承地は、大きく見て、九州と近畿の二か所ある。

余談だが、
一気に渡ってきた、と言っても、古い時代に大人数の船旅は無理があるので、
実際には、海峡を渡れずに朝鮮半島南端に留まって、
後の新羅へと発展していく、辰韓(秦韓)を興した人々もいたらしい。
この渡来集団は、秦氏を名乗っていたから、秦韓という名が付いたらしい。
後に天日矛の一族が昔氏と名乗って新羅の王になれたのは、
このような歴史があったから、と多氏の日女神の家に伝わっている。
846国家機密の移動:2012/08/06(月) 16:30:36.85
>>825
赤留姫の託宣に従って日国に到着した巫女集団は、
二派に分かれて入植したと、多氏の日女神の家では伝承されているらしい。

大姫が率いた赤留姫を祀る巫女集団の渡来地姫島は、
九州の大分県の姫島と考えるのが妥当のようだ。
稚姫が率いた巫女集団は、大阪の姫嶋に辿り着いて、
日下の地に定住して、後の日本国に至る歴史を作っていったらしい。
両地域には、多氏の伝承と一致する、神社や伝承が残っている。

機密を要する製鉄技術は、弥生時代末期に、九州だけでなく、
敦賀付近の隠れ里にも、天日矛の一族によって持ち込まれたようだが、
卑弥呼の時代、倭国の主要産物だった絹の生産拠点は、
九州が中心で、近畿地方に達していなかったようだ。

引き連れてきた技術者、または蚕の数が足りなかったのか、
神話にある、渡りの神に妨げられて、押し戻された結果なのか、
詳細を推理しようにも判断材料が見当たらない。

じつは、絹用の蚕の渡来は2系統あり、まず、華中系の四眠蚕が入っていて、
そこに後から、品質の良い山東起源の三眠蚕が伝わったと考えられる痕跡が、
九州の遺跡から出ている。
赤留姫の託宣に動かされた人々が、倭に持ち込んだ寒い地域の三眠蚕は、
卑弥呼の時代に、中国への朝貢に耐える高級な絹織物を生み出していたらしい。

倭国の特産品だった、細い糸を吐くため肌触りが良い高級品種の蚕は、
漢民族の技術ではなく、高句麗地域を経由して伝わったと考えたほうが自然だ。
多氏の伝承どおり、高句麗から倭と大和への技術移転があったと思われる。
847日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:35:47.61
結局アカルヒメ≠ヒミコという事だな。
848sage:2012/08/06(月) 16:44:16.53
ファンタジー小説板でやるべき
849日本@名無史さん:2012/08/06(月) 16:57:00.15
で、高句麗クン的には前方後円墳や
頭部に朱といった南方系要素については結局どうなんだ?
大事な所をスルーしてるのは半島人ぽいよねw
850国家機密:2012/08/06(月) 16:58:27.39
>>843
>そこで何で理由を一つの神話に集約するかな?

天照大神のルーツが、意図的に不透明にされていて、
天日矛と赤留姫のペアの渡来神話しか残されてないからだよ。

アカルヒメという女神の知名度は非常に低くて、
神功皇后のモデルと指摘しても、ほとんどの人が、ピンと来ない。
後に天照大神とされた巫女神の元型と説明しても、
そんな話は聞いたことがない、という人がほとんどだ。

ところが、アカルヒメの情報を集めて、
天日矛ヨロシクこの女神の後を追い掛けていくと、
弥生時代が終わって古墳時代になり、
倭国が消えて日本国が現れる流れが、綺麗に見えてくる。

記紀神話がなぜ、アカルヒメという皇室のルーツを、
神功皇后という、架空の人物を創作して、
三韓征伐なんて、史実に合わない神話を作ってまで隠したかったのか、
真意をうまく説明できる。

日本国はどのようにして生まれたのか、日本書紀が語っていない部分を、
多氏の日女神の家の耀姫様は、解き明かして見せてくれる情報をお持ちだ。
それもそのはず。この家の阿礼の巫女達が、
皇子女に皇室のルーツを教育していたのだし、古事記のソースなのだから。
日本書紀も、基本的にこの一族の伝承を下敷きに組み上げられている。

高句麗国神宮の日の巫女の王が、日国への、里帰りの託宣をしなければ、
日本は生まれなかった。だから、天日矛と赤留姫のペアの渡来神話が、
全ての謎を解く糸口になっていて、
記紀が隠蔽してきた、真の日本国誕生に至る歴史が浮かび上がってくる。
851日本@名無史さん:2012/08/06(月) 17:00:01.91
チームヒミコの発想はいいんだよ
それを特定の家伝を基本に結論がな
ヒメミコが一統だけじゃ意味ないんだ
歴史を口伝する縦軸よりも
同時代の情報共有を横軸でやってたのが一番の「仕事」だったんだな
もともと邪馬台国の卑弥呼の「お話」もそういう話だろう

最低でも「大王」に比するのは2系統あったはずなんだよ


これが騎馬民族征服王朝ならわかりやすい
クレオパトラは征服王朝の血筋で
エジプトのファラオとは別の2系統の王朝が併存してた
852日本@名無史さん:2012/08/06(月) 17:22:40.24
>赤留姫が、後世天照大神

アホですかww
853日本@名無史さん:2012/08/06(月) 17:34:40.73
なんかいいかげんうざいな
状況証拠が出されるたびに挑戦説がくつがえされてるのに
その都度どこからひろってきたのかしらんが手前味噌な理屈づけで
朝鮮節がささやかれはじめる
アホかと、いいかげん、おまえらに救いはないってアキラメろ
そうしてはじめて本当の自分と向き合えるってもんだ
嘘にしがみつくから、朝鮮人はいつまでたっても同じ穴の朝鮮人だ
854日本@名無史さん:2012/08/06(月) 17:43:50.40
まず倭人伝の記述との整合性が全くない。
朝鮮人は一体何処へ話をもっていきたいんだ?
記紀神話への高句麗の影響なら、五世紀以降なら
別に不思議でもなんでもない。
855日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:01:29.45
玉やら石やらが美しい娘になったりはせん。
856日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:05:26.21
一体ここはどうなってしまったんだ
857日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:11:24.83
朝鮮による歴史捏造工作か?次々と来るな
858日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:30:37.43
>>853
当時の朝鮮と高句麗は明らかに、言葉も民族も異なる、
と、繰り返し書いているのだが、

執拗に、
書かれている内容と異なる、
捻じ曲げる情報を書き込んで来る。

ウザイどころか、迷惑そのものだ。

曲解の流布は、悪質。
859日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:38:39.92
天照大神の祖先が渡来したのは遥か昔のこと。

弥生時代が古墳時代に変わっていく過程で、
長期間をかけて、渡来人が渡ってきて、数十万人に達している。
近畿地方の豪族の3割が渡来系、といった状況だが、
その子孫を朝鮮人呼ばわりすることが、正しい学術的態度とは見えない。

故意に、不適切なバッシング活動をしているとしか受け取れない。
読み手は、影響を受けないで、スルーするように。
860日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:40:57.10
明らかに論調が異質。最近多い半島人のネット工作活動だね。
861日本@名無史さん:2012/08/06(月) 18:46:40.78
大分の姫島産の黒曜石は縄文時代から瀬戸内に流通していて、中央構造線に近く元火山のこの島では藍鉄鉱が採れたり
湧水に鉄分が多く含まれているから、香春のように渡来系の鉱山士集団は調査に行った可能性はあるけどね
巫女集団じゃなくてね
862日本@名無史さん:2012/08/06(月) 19:06:46.02
遊女の集団かもしれない
863日本@名無史さん:2012/08/06(月) 19:14:46.10
想像なら小説にして公開すればいいが日本史板でやることじゃないわ
韓流歴史風ドラマ板や小説板でやってくれ
さようなら
864日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:21:58.96
>>854
>朝鮮人は一体何処へ話をもっていきたいんだ?

故意に無関係な特定の民族をバッシングするムードを作って、
この場を荒らしたい意図はよく分かった。

>まず倭人伝の記述との整合性が全くない。

スレッドをよく読むように、
すでに倭人伝や卑弥呼との関係は言及済みだ。
女王国の立地条件を提示し、位置を特定する作業は、
すでに上のほうで終わっている。
865日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:24:23.36
>>854
>記紀神話への高句麗の影響なら、五世紀以降なら

五世紀以降の文化の影響など、邪馬台国論争にとって重要ではない。

弥生時代から古墳時代へと移行した理由が、
大陸からの文化の流入にあったからこそ、
その橋渡しとして、大陸の高句麗国が重要性を持っている。

ところが、記紀は五世紀以前の人々の動きを、はっきり伝えていない。
ここに難しさがある。

弓月の君が百済から、百二十県の民を率いてやってきた。
これを応神天皇14年としているが、
この時期に、それだけの数を率いて来なければならない理由が見当たらない。

弓月の君は秦氏の祖とされるが、じつは秦氏は天日矛を祭る集団と、
入植地の祭祀の痕跡の分布調査から判明している。
天日矛は新羅の王子とされているのに、なぜ百済から来たと書かれているのか。
さらに、祭祀の痕跡と弓月の君のエピソードが一致しない。

この場合は、物的証拠が今に残る、入植地の祭祀の痕跡を真とし、
記紀の記述のほうを偽と見るしかない。
なぜ、間違ったことが書かれているのか、謎解きの必要がある。
866日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:42:03.71
結局倭人伝における記述に、南方系、海人族的な影響が
強い点についてはスルーなんだねw
867日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:44:02.97
弓月の君が秦氏を引き連れて、渡来する前にいた場所が、
百済と書いてあるが、真実は新羅の可能性があって、何かが怪しい。
単に、国の名前を間違えたのか、それとも、情報が不確かになる理由があったのか。

この謎を解くカギは、渡来氏族秦氏が握っている。

秦氏が祭っていた神は、天日矛と赤留姫だったことが、
入植地の祭祀の痕跡を調べることで判明している。
天日矛は神代の頃の名前だが、なぜか比較的新しい、新羅の王子と設定されている。
同じように、香春神社の伝承では、赤留姫は神代の時代に唐土に渡ったが、
記紀神話では、比較的新しい時代の人物、天日矛の妻となり、里帰りしている。

卑弥呼の時代よりも、千年古い神代と、百年新しい時代に、同時に存在している。

これは、神代の時代の皇祖神天照大神と、
百年新しい時代の応神王朝の母 神功皇后にも、同様に認められる奇妙な傾向だ。
つまり、一定のルールで構成されたパターンがある。何かの符丁のように。

神代というのは、天皇の数を水増ししたうえで、
その在位期間(寿命)を極端に引き延ばした結果、創作されたものにすぎない。
実際には、神功皇后=赤留姫ということが、香春神社の伝承や、
多氏の日女神の家の伝承から、明らかになっている。
卑弥呼の時代より百年新しい時代に、神功皇后が存在していたわけではない。

応神天皇14年に弓月の君が秦氏を引き連れて渡来した、という情報は怪しい。
赤留姫を祭る一族が渡来する前に、
赤留姫が日本で応神天皇を出産しているのだから、辻褄が合っていない。

したがって、秦氏は応神天皇14年百済から渡来したと、真に受けることは出来ない。
868日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:48:18.01
たしかに、秦氏の集団渡来はあったのだろう。朝鮮半島にも辰韓(秦韓)の痕跡がある。
ではなぜ、渡来前にいた国や、渡来時期が不正確なのだろう。
これは、正確な渡来時期が分からなくなるほど、古い時代の入植の伝承を、
神功皇后と応神王朝の創作に合わせて、
適当な場所に思い付きで突っ込んで、体裁を繕ったからと考えるしかない。

耀姫様の御一族に尋ねれば、正確な渡来時期は定まったかもしれないが、
神代の時代と新しい時代に、同時存在させるような、無茶なことをやっている手前、
聞くに聞けなかった、とも考えられる。いずれにしろ、話の流れが破たんしている。

香春神社の伝承や、多氏の日女神の家では、
赤留姫は、神代の時代から存在する日女神という設定になっている。
実際には、弥生時代が古墳時代に切り替わる時期に、渡来してきた技術がある。
個人的な難民ではなく、国家機密レベルの技術を持った人々が集団で引っ越してきている。
その痕跡を遺跡から見つけて、天日矛・赤留姫を祭る秦氏の渡来時期を推理すべきだろう。

卑弥呼が登場する直前の、寒冷期の飢饉の発生が、倭国大乱の原因であり、
遥か西の高句麗国から、神宮の斎王の託宣に導かれて、民が引っ越してきた理由だろう。
869日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:48:48.33
前方後円墳のモデルはどこ?
桜井茶臼山みたいに沢山の水銀朱使った例はあるのかな?
870日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:49:56.84
邪馬台国論争は、大和王権の成立過程を解き明かす鍵を握ることから、盛んになった。
目的は、邪馬台国の所在地の解明だけではなく、日本国の誕生秘話の解明にある。

大陸の文化の窓口は、高句麗であって、朝鮮半島の影響は重要ではない。

漢民族の言葉が膠着語圏の言葉に置き換えられる、一定のルールが作られたのは、
中国語→日本語よりも、中国語→高句麗語、のほうが先だったと思われる。

これは、天日矛の天日の高句麗語読みが、息長、気長、敦賀と音写されていたり、
大日の高句麗語読みテイルを通して、大日=照るとなり、
天照大神の名前が組み立てられているなど、数多く見受けられる。

飛鳥と書いてアスカと読むのも、高句麗語の発想が間に入っているからだ。
今も高句麗語を話すことが出来る耀姫様によると、
日明香、日明郷、飛鳥郷は、皆、高句麗語では同じ発音になるそうだ。
高句麗語の読みを解説しても分からない人が多いと思うから、
便宜上、共通性を持つ現代の朝鮮語の発音で代用するが、
「ナルセ(日が明ける・飛ぶ鳥)コヒャン(郷・香)」と読めるらしい。
日が明ける、を漢語で表記すると、動詞が前に来るので、明日になる。
明日香と飛鳥という地名を、どちらもアスカと読むのは、
この二つの表記が、日明郷という高句麗語を音写したものだからだ。

上の例では、説明の便宜上、分かりやすいように朝鮮語を用いたが、
実際には、日本語と朝鮮語よりも、日本語と高句麗語のほうが、はるかに言葉が近い。
高句麗から大量の渡来人が日本に来ていたこと、
大和王権の成立に、高句麗の言葉と宗教文化が大きく関わっていたことを物語っている。
871日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:52:29.16
結局高句麗の影響は五世紀以降で済む話だよ。
872日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:54:27.16
列島側から高句麗構成の一部血統に影響を与えた。
873日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:04:40.01
てかねまぬけな脳内でお花畑の高句麗とか構築されてもな
874日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:08:57.86
875日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:09:37.36
高句麗とりす
876日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:21:22.26
そいつはあれだね 高句麗語とゆうよりはワイ族の言語だな

もとのが南方系で句呉の姫氏のなれのはての流れなんだろうけどな

3世紀の高句麗のは座して食するのが万余とかってゆう征服型の社会構成だよな

座して食するのがワイ族のやからで

やられて食べさせてあげているほうのが烏丸鮮卑の仲間なんだろ
877日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:24:20.70
   
パカ パカ パカ パカ

パカ チョーセン ね!

犯罪者の巣窟 パカ チョーセン 
878日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:37:36.55
>>807
>あなたは、中国の皇帝と肩を並べる天子として振る舞った伝説上の統一倭国の大王が、
>倭国王帥生と同一人物と推理できる材料を持っているの?

そんな材料があるわけが無い。
そもそもあなたの言う「英彦山に天壇を建てて、天子として天に祈った大王」なるものは、
あなたの脳内にのみ存在する大王なわけで、あなたの脳ミソの外にいるオレが持ってるはず無いでしょ。
879日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:42:39.41
倭国王帥生とは何者だ? 帥升の間違いか?
880日本@名無史さん:2012/08/06(月) 21:45:11.94
>>870
飛鳥時代の王都は、日明郷だった!

だから、大和王権はアカルヒメ様(神功皇后)を国母神とする王権なんですね。

日が明ける郷の主神は、明る姫!

久々に面白い、スカッとする心地良い謎解きを見せて頂きました。
この地名の謎を、ここまで完璧に説明できる説は見たことがありません。
高句麗語を話す天照大神という説明に首を傾げていましたが、本物とお見受けします。
貴重な情報をお持ちの耀姫様に、是非お会いしてみたいです。
881日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:01:09.21
帥升さんて倭委のキングでしょ
882日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:20:44.13
帰化人の影響を大きく見すぎなんだよ
どいつもこいつも

大体高句麗語がどんな言葉だったかなんてわからないだろ
883卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 22:23:26.32
>>835
君は百済という名は高句麗より新しいと思っているようだが、
桓檀古記に次のような記事がある。

蚩頭男,蚩尤天王之後也,以勇智著聞於世。檀君乃召見而奇之,卽拜爲番韓,兼帶監虞之政。
庚子,築遼中十二城,險瀆、令支、湯池、桶道、渠庸、汗城、蓋平、帶方、百濟、長嶺、碣山、黎城是也。

蚩頭男は蚩尤天王之後也とあるから随分古い時代の人物だ。
その頃に遼中に十二城を築いた。その中に百濟という名が現れている。
百済という名は随分古い時代からあったのだ。

それに君は天日矛と秦氏は関連があると書いているが、具体的な説明がない。
渡来族は概ね似たような地域に住んだのだから、その痕跡が重なっていても不思議ではない。
天日矛は主に但馬だが、但馬に秦氏の伝承はあるのかな?
884日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:30:29.90
金印を江戸時代に偽造するのは難しかったらしいですよ
安本美典って人の本に書いてありました
今手元にないんであれですけどなかなか説得力がありましたよ
江戸時代に入手可能な資料と近代になって以降中国で発掘されたはんこを比較して
江戸時代に偽造するのは無理だっていうことでした

それから倭の極南界っていうのは南に熊襲があったからでしょう
日本の極南界の奴国ということじゃなくて日本の中のひとつの国である倭国の極南界の奴国という意味でしょうね
ひょっとしたら北九州の倭国は朝鮮半島の南部にも領土を持っていたかもしれませんよ
885卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 22:31:59.83
馬韓なんてのも、桓檀古記によれば、随分古い時代からあるのだ。
高句麗よりずっと古い。
五女山城なんてのは、馬韓の古跡かもしれないのだよ。
とにかくそのあたりは馬韓か百済の版図だったのであり、
高句麗とは関係ないのだ。
というより、馬韓も百済も高句麗もみんな同じ民族なのだが。
886日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:32:11.87
ちょおせんまんさん

ここの由緒ある所のもタジマだけどね

http://maps.google.co.jp/maps?q=33.555826,129.890499
887日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:42:11.95
大体朝鮮半島にあった国を過大評価しすぎなんです
百済も新羅も3世紀の時点では存在しません
百済が歴史に登場するのは416年
新羅なんて521年です
神功皇后が朝鮮半島に攻め込んだ後ですよ
百済も新羅も初めて歴史に登場したときはもうすでに日本の属国だったわけです

三国志に書かれた3世紀の時点では
馬韓は50カ国辰韓や弁韓も24カ国に分かれていて小さい国しかなかったのです
その当時倭国は30カ国の国がまとまったかなり大きな国で
おまけに1世紀の時点で漢から金印をもらっている200年は続いている国なのです
三国史記を見ると新羅なんかはやたら倭国に攻め込まれています
新羅も後に辰韓地域を統一するほどの国ですから倭国と衝突することも多かったんでしょうね
888卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 22:45:14.77
>>884
>安本美典って人の本に書いてありました
それなら三浦祐之の本も読んでみればいい。
反対意見の人の本も読んでみなければいけないよ。

君の論では博多以南は熊襲の国ということになるぞ。
それに熊襲は倭ではないという観念が一般的だったという資料は無い。

狗奴国も倭国の中の一国という論調で書かれているぞ。
889日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:45:27.50
神功皇后が朝鮮半島に攻め込んだって大嘘

お里帰りしたら歓待されてたくさんお土産もろただけだろ
890日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:51:26.34
神功皇后さんは後の山門郡のところにあった

さきの邪馬臺國の1/20のの流れのの田油津媛さんのこと

熊襲扱いにしてからにやっつけてくれたんだよな

ほか2件とかまだありますけどね
891日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:56:12.06
朝鮮半島でなぜ国家の形成が日本より400年も遅れたかといえば
それはやはり楽浪郡の存在が原因でしょうね
もともと朝鮮半島の北部には箕子朝鮮や衛氏朝鮮などの漢人の国があって
漢の時代にそれを直接統治するようになるわけです
そんなわけで朝鮮半島南部には大きな国を作るような動きがなく
日本に大きな遅れをとったわけです
892日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:56:29.43
宣長さんは卑弥呼が熊襲の女大酋長だってさ これって卓見だわな
893日本@名無史さん:2012/08/06(月) 22:58:45.01
卓見?単なるご都合主義です。
894日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:05:06.91
でも三国志では九州から西にある国のことを倭国とか倭人の国とかじゃなくて倭種の国って書いていますよ
それに三国史記でも昔脱解の故郷について倭国の東南にある多婆那国から来たって書いてあります
これは丹波か但馬のことだと思いますけど倭国と丹波を違う国として書いているわけですよ
思うに倭国と倭人の国はきちんと区別されていたんだと思います

大体日本列島がどんな形になっていたかもわかっていなかったっていうのが正直なところでしょう
895卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/06(月) 23:06:53.95
>>891
だから何回も言うが楽浪郡も箕子朝鮮も衛氏朝鮮も遼東にあったのだよ。
本やネットに書いてあることを簡単に信じてはいけないよ。

君は教科書を丸暗記するだけの、思考力のない勉強家だよ。
名古屋の19歳と似たタイプだ。単に教科書を素直に信じるだけの男。
896日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:13:00.48
結局ソースも何も無い、考古学上の裏付けもない
憶測に妄想ばかりだな。
897日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:13:12.76
田油津媛さんのことも熊襲の女酋長で女王塚とか残しているけど

雨が降ると赤い血が流れるらしいよ老松神社の蜘蛛塚ね

http://maps.google.co.jp/maps?q=33.162595,130.505283
898日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:14:06.66
日本が朝鮮半島に攻め込んだことは否定できない真実ですよ
日本書紀にも広開土王の碑文にも三国史記にも書いてあります
それに宋書にも書いてあります
倭王武の手紙に朝鮮半島の95カ国を従えたとあります
宋の皇帝はそれに対して怒った様子もなく武にいろんな称号を与えています
899日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:15:10.23
>>895
トンデモ本に書いてあることを簡単に信じてはいけないよ。

900日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:15:41.94
豊の国から熊襲国までの東九州、瀬戸内海文化圏と、
筑紫国、肥国文化圏は、あまり関係を持っていなかった。

熊襲国、日向国の神武、道鏡問題の宇佐など、東九州瀬戸内海文化圏は、
大和朝廷と関係が深い。多くの古墳を作る文化もつながりの深さを感じる。

筑紫国、肥国は、金印も倭の5王も大和朝廷には情報がなかった。
901日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:15:47.10
他のところにもあげてしまったのですが、

いきなりすみません
通訳ガイドを目指している者ですが、歴史の範囲が広すぎてよくわかりません

→外国と関係のあった範囲が出る確率が高いそうですが、
どのあたりを勉強したら良いですか?

→小説で良いものはありますか?

→歴史の舞台である場所で、仲居をしてみたいと思っているのですが、
おすすめの場所はありますか?

→今は平清盛をやってますが、宮島でオススメの本があれば教えてください

司馬遼太郎さんの本が読みやすく、時々読んでますが、出来れば小説から入りたいです
ずっと海外暮らしだったので、基本的な歴史の知識くらいしかありません

協力していただけると助かります。ありがとうございます
902日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:19:31.57
卑弥呼と台与がやった時代のことを、神功皇后として書いてるだけ
起こった出来事はまんま
903日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:22:14.40
私は百済が馬韓地域を統一したり新羅が辰韓地域を統一したりしたのと
神功皇后が朝鮮半島に攻め込んだのがほぼ同時代だと考えています
つまり百済や新羅は歴史に登場したのと同時に日本の属国となったわけです
904日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:24:37.02
神功皇后とゆうのはスーパー海女さんだろ

息長くとめて潜れる

腹に巻いたとかの石が残っているけど

ウエイトあったほうが潜った時楽に動けたりするよね
905日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:33:58.72
神功皇后なんて卑弥呼像とは違いすぎだよ。
女王となってからは人前に顔出す事は稀なのに、
あちこち飛びまわっとるじゃないか。
906日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:47:53.18
神功皇后は佐賀から鳥栖、福岡平野全域、糸島で伝承があり、ゆかりのある神社も多い。
これと旦那の仲哀の宗像、北九州を加えたのが筑紫国である。

近江の息長氏と合併されているが、実質は福岡の氏族だと思われる。

佐賀まで勢力に加えているから、筑紫国が一番勢力を持っていた時期だろう。

実際に行ったかどうかはわからんが、朝鮮半島に進出しようとするなら、
それくらいの余力を持たなければできない。

景行天皇は筑後から熊本にかけて、多くの伝承と、
ゆかりのある神社がある。

907日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:52:35.65
近江の息長氏の近江は無意識下に朝鮮くんと同様なパターンの妄想読みに誘導されてるとゆう構造

近江の息長氏は淡海の息長氏と考えるべきで女の園のウオーターフロントのところです。
908日本@名無史さん:2012/08/07(火) 00:16:23.75
なんか変な宗教かぶれが暴れてたんだねw
やっぱ歴史に介入しようというネット上活動か?
909日本@名無史さん:2012/08/07(火) 00:24:18.78
>>904
なるほど! 息が長ったらしい姫=息長帯比売命か!!

>>908
でも、彼(彼女?)の必死さは見ててほのぼのするものがあった。
散々叩かれたが、めげずに明日も出てきて欲しい。
910日本@名無史さん:2012/08/07(火) 00:44:18.34
息が長いなら愛のメモリーとか歌わせたらうまかろうなw
911日本@名無史さん:2012/08/07(火) 00:47:06.26
神功皇后は新羅王の末裔ってことだから、大和朝廷ではなく九州王朝の姫だろうね。

それが、九州では手狭になってきた九州王朝の者たち、もしくは、奈勿王(17)に追い出された
新羅の旧系統の王(神功皇后の親族)の仲間たちが、神武とは別に近畿開発していて、
その末裔が近江の息長氏。
そう考えたら、継体が擁立されたのがよくわかる。
912日本@名無史さん:2012/08/07(火) 00:58:03.66
>大和朝廷ではなく九州王朝の姫だろうね。

バカ発見w
913日本@名無史さん:2012/08/07(火) 01:24:09.99
九州王朝ってなんですか?
914日本@名無史さん:2012/08/07(火) 01:40:57.93
まだ九州王朝なんて言う人いるんだね。
915日本@名無史さん:2012/08/07(火) 01:50:12.68
「倭王朝」乃至「委王朝」のが看板としてはもっと良いよ

朝廷とかのは田舎くさいからやだな

関西のほうのは正式に王に任命とかの記事無いからたんなる私称だろうしね
916卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 08:31:39.88
新聞に、こんな本の広告が出ていた。

「阿礼の計り 古事記倭史の血縁思想」
古事記に織り込まれていた阿礼の思想と真の倭史に迫る。金澤豊弘著 東京図書出版

ひょっとしてここで高句麗のことを書いているのはこの男か?
917卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 08:41:11.69
ついでだから、ネットの新羅史で面白い記事を見つけたから上げておこう。

始開市京都 通貨於四方 以好助爲市典監 A.D. 490

始めて市を開いて、市の監督官を置いたという記事だ。倭人伝とそっくりではないか。
だから、倭人伝は、朝鮮半島の光景を、日本と間違えて書いているという疑いがあるのだ。
918日本@名無史さん:2012/08/07(火) 08:48:59.79
>>916
苗字、やっぱりw
宣伝したかったのかな?

>>917
冬温暖とか気候風土はとても当てはまらないけど
919卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 09:00:31.78
ついでだからもう一つ書いておくと、ネットの朝鮮史には采女という語も出てくるのだ。
意味も日本のそれとほぼ同じ。

采女と聞くといかにも日本的な語というイメージだったが、
これすら朝鮮渡来の語だったのである。
920日本@名無史さん:2012/08/07(火) 09:06:20.61
ネットの朝鮮史w
ダメダメ、それは一切信用出来ないよ。
921日本@名無史さん:2012/08/07(火) 09:48:50.31
ネットの朝鮮史?なんだそりゃ
誰が書いたの?
いつ?

最低それくらいは調べようぜ。
922日本@名無史さん:2012/08/07(火) 10:33:47.30
>>916
関係無いと思う。
ネットで検索して目次見てみたが、彼の本にしては、アカルヒメとか高句麗とかいう単語が無かった。
天日矛という文字はあったけど。
923日本@名無史さん:2012/08/07(火) 10:39:41.41
ネットの朝鮮史はNGワードだよ。
ご都合主義とこじつけ話の特大盛りだからな。
924日本@名無史さん:2012/08/07(火) 10:55:44.87
神功皇后は三韓征伐で有名。自ら朝鮮半島に渡り、戦っている。
問題は、応神天皇だな。はたして誰の子なのか…。
925日本@名無史さん:2012/08/07(火) 11:44:38.98
>>924
武内宿禰の子に1票
926日本@名無史さん:2012/08/07(火) 12:55:33.76
古代日本は色んな国王が存在していたし
まぁ今で言う豪族みたいなもんか
大和と邪馬台国が合体w
927日本@名無史さん:2012/08/07(火) 13:15:58.91
弥生時代の大和はさびしい村だよ。
928サガミハラハラ:2012/08/07(火) 13:37:31.58
応神天皇は仲哀天皇の子供ですよ。
ただし、仲哀の死の直後、神功皇后は武内宿禰とつうじたことはたしかです。
その結果神功皇后は武内宿禰の強力をとりつけることができたのです。
929日本@名無史さん:2012/08/07(火) 13:47:06.88
武内宿禰は、久留米高良玉垂宮に社を建てられている。
ここは景行天皇が拠点にしていた場所である。

神社の由緒や伝承から、神功皇后は福岡市周辺を、
拠点としていたのは間違いない。

景行天皇は久留米から熊本(北部?)を拠点にしており、
冷水峠を通って筑豊から北九州が仲哀天皇。

景行(成務?)仲哀の勢力と、福岡の勢力が、
政略結婚?でつながりを持ったのが、
仲哀−神功の結婚なのではないか?

福岡は古くは金印の時代からかなりの一大勢力を持っており、
そう簡単に潰せるものではないのだ。

930日本@名無史さん:2012/08/07(火) 13:55:13.88
>神功皇后は福岡市周辺を、拠点としていたのは間違いない。
大和の神功が福岡に出掛けたというのを信じるのかい?

931日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:45:31.46
福岡に神功皇后の事跡を持つ人物がいて、
それを大和朝廷が記紀を描く際に取り入れたということだろう。

おそらくは、景行、成務、仲哀、神功、そして武内宿禰は、
北部九州の人物だろう。

その伝承を無理やり大和の応仁天皇に繋げたので、
日数や移動にいささか無理があった。
932日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:56:15.69
景行、成務、仲哀、神功、武内宿禰の九州での逸話は、
筑紫平野と福岡平野の勢力関係の一端を描いたものであろう。

景行については、豊と日向との勢力争い(遠征)も描かれている。
933日本@名無史さん:2012/08/07(火) 16:09:49.15
>>931
それは願望による憶測以外の何物でもないわ。
934日本@名無史さん:2012/08/07(火) 16:24:45.04
まさか、統一教会が入り混じっているとは
935日本@名無史さん:2012/08/07(火) 19:17:17.32
弥生時代の奈良盆地は人もあまり住まなかったさびしい所。稲作にも適していない。
銅鐸が出るのは主に大阪、和歌山などの海岸線だ。
936日本@名無史さん:2012/08/07(火) 19:24:05.45
筑紫平野って地形的に括っても、佐賀市は平野はないし久留米あたりから河口は沼地で浮島状だし
大部分久留米より上流の筑後平野でしょ
937日本@名無史さん:2012/08/07(火) 19:24:46.15
無知は怖いね…
938日本@名無史さん:2012/08/07(火) 19:32:39.20
仲哀は大和の人でしょ。子供が2人残っていたはず。神功皇后に殺されたけど。
神功皇后が九州王朝の姫で、政略結婚のため大和の仲哀天皇に降嫁したんでそ。
939日本@名無史さん:2012/08/07(火) 19:33:12.96
>河口は沼地で浮島状だし

わけの分からんことを!
940卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 19:46:10.61
第三者から見た客観的な感想

九州論者 → 妄想家が多い
畿内論者 → 素直で単純
941日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:16:26.68
942日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:22:09.37
943日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:50:05.49
>>887
そのとおり。
耀姫様も、秦氏と名乗る集団の移動と秦韓(辰韓)の成立によって、
ようやく朝鮮半島は少しずつ文明化していった、と講義なさっていた。
桓檀古記は、1911年に出版されたお伽話。
百済が高句麗より古いという伝承は、半島から大陸にかけて分布する古墳と合致しない。
1911年当時は、古墳の調査が進んでいなかったため、話が食い違ってしまった。
史実ではなく、物的証拠が伴わない、紙の上だけのお伽話にすぎない。

半島の鉄の産地などに、幾つかの交易拠点(都市国家)を持つ倭国が、
大陸勢力の高句麗と国境を接するように存在していたため、
朝鮮半島で領有問題を巡って、小競り合いを繰り返すようになった。
半島の主要国の王族は、ほとんどが扶余・高句麗の王族から分かれた高氏の末裔で、
倭国の王と元は同じ一族だが、倭国王のほうが歴史が古いから、
百済も新羅も、高句麗または倭の属国のような扱いが長く続いた。
いずれにしろ、朝鮮民族はずっと異民族の王に支配されてきた歴史を持つ。

その点、大和朝廷は、渡来系であるという記憶を、日本書紀まで作って捨て去り、
和をもって尊しとする大和民族の心で、一つに国を束ねる融和政策を実施した。
そのルーツは、5民族を無血統一して高句麗を興した英雄、東明聖王(朱蒙)の教えにある。
異民族支配の面影は、国風文化の開花によって完全に消滅し、今の日本には残っていない。
944日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:51:06.35
日本側に、朝鮮半島へ攻めて行った記録がある。
半島にもそれがある。

応神の母、つまり倭の五王の少し前。
一致するのは、神功皇后(と後の人が名付けた)の時に行ったやつ。
広開土王の碑にある391年頃と整合性がある。

神功皇后は卑弥呼ではない。
945日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:10:51.87
東明聖王(朱蒙)の教えを受け継ぐ、
和をもって尊しとする大和民族の心で、一つに国を束ねる融和政策を託宣して、
日本国成立に至る流れを作ったのは、皇祖神天照大神のモデルとされた、
多氏の日女神赤留姫を襲名した日の巫女の王(斎王)だった。
祖先から受け継いできた考え方を、神憑りした巫女の託宣の形で提示して、
国家国民の行動規範とするのが、日本神道の真の姿。
東明聖王(朱蒙)の教えは、日本に移植されて、大和民族の崇高な精神に成長していった。
だから、隣国の悪口を言い続けなければ、国民の精神を一つに束ねられないような、
情けない朝鮮半島の民とはまったく違う、誇り高い精神文化を日本人は持っているのだ。
946日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:13:58.61
高句麗地域から渡来した天日矛&赤留姫ペアを祀る一族は、
大姫系と稚姫系に分かれて九州と近畿に天降りし、倭と大和の大王になった。
最初に近畿に大和王権を打ち立てたのは、四国の朱を掘っていた稚姫系秦氏だった。
四国から前方後円墳を携えて近畿に移動して纏向を押さえたが、
神武東征神話として知られる、九州勢の東征によって、
大国主命の国譲りの形で、山陰の出雲などに島流しされてしまった。
東征した大王は、稚姫の一族に妻問婚を試み、入り婿として新王朝を打ち建てた。
倭国は白村江の戦いで壊滅的打撃を受けて大和に亡命し、
秦氏を名乗って京都盆地の沼を干拓し、平安京を建設した。
大姫系の卑弥呼の子孫は、近畿の稚姫系と合流したことで、
卑弥呼の生前の気質や立ち居振る舞いやものの考え方など、
言葉だけでは伝えられない要素が、多氏の日女神の家に残った。
大和王権の皇室にも卑弥呼(大姫)系の血が流入し、
その優れた精神を受け継ぎ、日本の建国に生かすことができた。
947卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 21:14:19.36
>>943
辰韓というのは、もとは真韓(真朝鮮)という国で、満州にあった国で、檀君が治めた。
遼東遼西方面には番韓(番朝鮮、弁韓)があり、半島方面には馬韓(莫朝鮮)があった。
いずれも満州族の国だ。箕準は馬韓に逃げたが、箕準が辰韓を作ったわけではない。
朝鮮民族がずっと異民族の王に支配されてきたなどというのは俗説で、
満州も朝鮮も同じ民族である。

君は倭国が高句麗と国境を接するように存在していたと書いているが、
具体的にはどこらあたりに存在していたのか教えてほしいものだ。
根拠のないことはどんなことでも言えるのである。根拠となる資料を提示してもらいたい。

>>944
広開土王の時代は仁徳の時代である。ネットの高句麗史にちゃんと書いてある。
神功が広開土王の時代だなどと、現代の俗説に惑わされたいいかげんなことは書かないでもらいたい。
948卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 21:27:34.84
>>945-946
根拠となる史料も提示しないで、そんなことを長々と書いてもダメだよ。
君が書いていることがどんな資料に書かれているのか、
その資料はどうすれば入手できるのか、そういうことも書いてくれないと。
耀姫様が大学でそういうことを教授しているのなら、それを本にして出版してもらいたいものだ。
それほど自信があるなら、本にして世に問えばいいのである。
耀姫様がそれをしないということは、どこかにいかがわしいところがあるのだろう。
949日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:27:45.56
広開土王談コの太子の時に息長帶日賣の没年がかぶるから

もしかしたら本当は息長帶は攻め込まれたりして殺されちゃったりしているのかもしれない
950日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:32:14.54
>>947
>君は倭国が高句麗と国境を接するように存在していたと書いているが、

広開土王の石碑に、国境に倭人が溢れていることが書いてある。
史料を踏まえて、半島の遺跡の状態を見ながら指摘している。
物証も史料も踏まえない、宙に浮いたデタラメな歴史の捏造者のあなたとは違う。

>満州も朝鮮も同じ民族である。

満州と朝鮮は言葉が違う。遺伝子を調べても、元の民族が明らかに違う。
墓制も生活習慣などの文化も、ものの考え方も違う。
あなたは事実に反する嘘をついて、歴史を捏造している。

満州族が半島の民族と同じ恨文化を持っているとでも主張するつもりなのか?

これ以上、嘘つきの文章を読む気はない。
951日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:34:24.02
多氏の日女神の家の主食は、醍醐と呼ばれる麻の実の発酵粥だそうだ。

麻の実(ヘンプ)は縄文時代から日本でも食べられていたし、
中国の皇帝の食べ物として、紀元前から言及した史料があるが、
発酵粥にする調理方法は、かなり珍しい。

この熟撰のルーツを辿ると、
紀元前五百年頃?
お釈迦様が過酷な修行をしすぎて死にそうになっているときに、
スジャータという娘が発酵粥を食べさせて救った。
栄養状態が戻って脳がシャキッとしたお釈迦様は、
菩提樹の下で瞑想して悟りに至った。
このインドの伝説の食べ物が、伝わったものらしい。

高句麗国の建国は、どうやら紀元前277年らしい。
清の皇帝は、高句麗国の最初の王都があった地域一帯を、
祖先の墓があることを理由に禁足地としてきたが、
清の滅亡によって、人が入って古墳群が荒らされる可能性が出てきた。
先の代の耀姫様が、高句麗の古墳を保護するため、
桓仁ダムを建設して、ダム湖の水の下に沈めて、
荒らされないようにして欲しいと働きかけた。
そのため、醍醐の生産拠点の痕跡も、残念ながら水の底に沈んだらしい。

しかし、日本では発酵粥を製造した痕跡が、遺跡から出てくる可能性が十分あるそうだ。
倭国の日の巫女の王だった卑弥呼の神宮跡を発見したいなら、
麻の実の発酵・貯蔵の痕跡を探すことも、忘れないほうが良いだろう。
有機物は変化しやすいから、発掘には専門知識を要する。
952日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:40:49.04
メタバースの耀姫様のカフェ・プリマベーラの入り口に、テレポーターが設置されている。
行き先は、紀州の山中をマッピングした場所のようだが、
特定できないように、現実のマップと一致しない地形を用意してCG化したという。

卍構えと呼ばれる強固な石積み技法を用いた、コケが生えた切り石で出来た洞窟があった。
巫女が洞窟に籠って神降ろしして神託を賜る、
高句麗国由来の東盟祭を踏襲した、隧穴信仰用の地下神殿を忠実に再現したものだという。
神殿の名前を案内の人に尋ねたところ、
トンカラリンです、と当たり前すぎる既知の答えが返ってきた。
天帝(トンカリ)君主(リン)は東明聖王のことだから、
東盟祭の祭祀施設は、トンカラリン以外に相応しい呼び方がないのだろう。

九州で最大のトンカラリン遺跡は、入り口の高さが7メートルあるが、
紀州のものは、人(アバター)が一人入れるかどうかの狭さで、岩戸が塞いでいた。
入り口の前には、人が乗って神楽を舞うための石舞台があった。
巫女は、この場所でトランス状態になるための神楽を舞い、隧穴に入って神降ろしを行い、
東明聖王と心身一体の状態になって、岩戸から出て来て、人々に託宣を下すのだという。
なんのことはない、天岩戸開きの神事を行う宗教施設のことだった。
見回すと、飾り付けもすべて、天岩戸伝説に記されている構成になっていた。

トンカラリンは、天岩戸伝説として伝わる東盟祭の祭祀施設、がファイナル・アンサー。
しかし、隧穴と隧木の関係については、凄くエッチな説明があり、
「高句麗の風俗は淫」とされた理由が分かる気がした。
天岩戸の前で、天鈿女神がストリップショーをした、という神話は事実ではないと、
耀姫様はツイッターに書いていたが、それよりもっと凄い内容の、
男神と女神のピー(擬音です)について、詳細に解説されていた。
良い子の皆様には見せられない内容のため、非公開神事になっていることが分かった。
953日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:55:35.73
天岩戸伝説を、皆既日食を喩えたものとする説など、いろいろ聞かされてきたが、
巫女がストリップショーをすると皆既日食が解決できる、という信仰が、
どのようにして生まれてきたのか、仮託された真意の見当がつかず、疑問を持ってきた。
天岩戸伝説と日食は無関係だったのだ。

スサノオ(天日矛)と天照大神(赤留姫)のウケヒには、意味があるのだろうが、
東盟祭や天岩戸伝説とどう繋がるのか、まだ理解できていない。

大地の恵みに感謝の祈りを捧げるために、大地母神のホトを崇拝する宗教施設として、
割れ目を持つ磐座や隧穴が造られたのだ。豊かな実りがあったことを感謝し、
翌年の豊穣を祈る神事を行うのが、天岩戸伝説としても知られる東盟祭だ。
それを、宮廷の神事に移行させたものが新嘗祭で、高句麗道教を継承している。

トンカラリンの入り口を塞ぐ岩戸の横に案内板があり、
「部外者が、特定の手続きを踏まずに入ろうとすると、土砂が崩れて生き埋めになります」
と書いてあった。リアルの遺跡でなくてよかったと胸を撫で下ろしながら入った。
メタバースは、CGで構成された世界なので、岩戸はスクリプトが動かしてくれる。

洞窟内部の高さは、17メートルあるそうだ。
岩戸の外側は石舞台以外はコケが一面に生えていたが、
内部の石は綺麗に仕上げてあり、奥の祭壇に、握り拳の大きさの輝く宝玉が置いてあった。
洞窟の反対側の狭く細い通路から、陽光を鏡で反射して洞窟内に導き入れて光らせている、
と説明があった。

神降ろしの神事の正体は、催眠暗示ということだ。
地下神殿内は質素な造りの印象もあったが、
日の巫女の王(斎王)が心静かに精神統一する空間の荘厳な雰囲気を、
巧みにCG空間として再現できていると感じた。
954卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 22:05:36.19
>>950
広開土王碑に書いてあるのは、確か、新羅の城に倭人が溢れている、という文章だったと思うが。
それに倭人は渡海してやって来たと書かれているはず。
君のように、倭国が高句麗と国境を接して存在していたなどと解釈している者は一人もいないよ。

南韓(甲比古自)には南夷の人が住んでいたと揆園史話に書かれているから、
後世の新羅と満州人はそりゃ少しは遺伝子も異なるだろうよ。
しかし新羅も百済も高句麗もみんな同じ満州族だよ。
夫余も濊貊も沃沮も靺鞨も…みんな元は同じなんだよ。
955卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 22:11:52.79
それから桓仁ダムのあたりは馬韓や百済の版図だったところで、高句麗とは何の関係もないよ。
その耀姫様とやらは桓檀古記も契丹古伝もネットの朝鮮史も読んだことがない、ただの素人だよ。

とにかく君の書いていることは新興宗教のようなもので、
そんなことをいくら書いても賛同は得られないよ。
尤も、世の中にはオウム真理教に入信する人もいるのだから、
一人くらいは信者を獲得できるかもしれないがね。
956日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:30:36.40
>>870,>>880

クシタマホノアカリがイカルガ宮に遷ってそのアスカ(明日、翌日)
白庭山にカラスが飛ぶのを見て(飛鳥)
クマノと思って宮遷し(アスカへ)

(ホツマツタエ)

957日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:31:23.67

>>953

158年 7月13日 皆既日食 日没直前 (長夜(日本書紀))
琵琶湖 京都 大津 津
元伊勢(籠神社)、伊勢遺跡、伊勢神宮 のライン
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)

天岩戸隠れの時の宮
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ 7アヤ)

天安河=野洲川 説 
近江高天原説

滋賀県守山市 伊勢遺跡
弥生時代後期 二世紀初めから半ばが最盛期
東西750メートル、南北400メートル
大型建物が半径約100メートルの円周上に並んでいる
958日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:32:06.05
桓仁ダムのあたりは延陀勃さんの娘の召西奴さんの出身地だな

いわゆる西部とか右部とか呼ばれる涓奴部の卒本だとおもうけどな

17歳の召西奴さんは旦那の仇台さんに自殺勧告して死んでもらって

近場の芻牟さんの嫁になってからに沸流さんと溫祚さんをぽろぽろ
959日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:37:36.54
統一原理とか起源説とか
半島由来の思想とかと
一系統王朝から一統文明論との相性がいいのが不幸だったな

コックリさんも
もともと一つが二つになって一つなったみたいな説明に帰着する
何ていうのか、お里がわかるつうか
960卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/07(火) 22:42:11.85
>>958
全然違うよw
ネットの高句麗史を読んでいるのじゃないのか?
延陀勃や召西奴はそんなところの人ではないし、卒本はそんなところじゃないよ。
後世の書き込みがあるやつは信用できん、などと虚勢を張らずに、
比定地が書いてあるサイトを読めばいいんだよ。
961日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:48:24.07
高句麗道教なんて五、六世紀だよな?
卑弥呼の年代とは全然合わないよw
962日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:58:48.58
>>960 うんちょっとちがってかいちゃってるとこがあるなあ

東明元年甲申 二月 卒本王延陀勃薨 召西奴以國獻順奴

順奴=卒本で

順奴=東部=左部 とゆうことは

西部とか右部とか呼ばれる涓奴部は卒本よりもっと西にあるとゆうことにはなるが
963日本@名無史さん:2012/08/07(火) 23:52:06.60
百済・新羅・任那は、民衆は江南人か倭人の国だよ。農耕民族で米を作っている。
百済には、扶余人が南下してきて、俺が王様だって言い出した。
新羅は、穢貊が南下してきて、初代〜16代の王族を追い出した。
964日本@名無史さん:2012/08/08(水) 06:20:48.52
>>954
>それに倭人は渡海してやって来たと書かれているはず。

時間軸の認識が滅茶苦茶だな。

辰韓(秦韓)は、大陸の高句麗文化圏(山東・遼東半島付近を含む)から東進した、
高句麗国の王族の流れを汲む人々が興した国。
敦賀に入植した秦氏の一部が鉄の産地を求めて半島に移動し、
昔氏を名乗り、新羅の王になっている。
日本の鉄はそのままでは固すぎて脆く、剣にするのに適さないから、
柔らかい鉄を調達する必要があったんだ。

新羅も百済も倭も大和も、大陸の高一族の血族であり、半島は異民族支配されてきた。
新羅が体を成したのは、秦氏が日国(日本)に移動するために半島を南下して、
秦韓を興してからかなり後の事。
「倭人は渡海して来た」は、海人系の倭人である秦氏が高句麗地域から移動したこと、
昔氏の話などを総合した結果。
当時の倭人文化圏は、山東・遼東半島付近まで広がっていた。

新羅は倭・大和勢力の属国状態だったが、独立の機運が生まれて、
高句麗を頼ったのが真実。
高句麗は、倭・大和連合勢力傘下の国である新羅と国境を接していた。
だから、倭の五王は、中国の皇帝に対して、
半島の多くの国々の領有権の正当性を、繰り返し主張している。

こういう認識が完全に欠落しているのは、捏造された歴史しか勉強していないからか?
965日本@名無史さん:2012/08/08(水) 06:35:13.93
>>954
倭人と漢民族が呼んだ人々の分布すら頭にない(遺跡を調査してない)レベルで、
歴史認識の捏造みたいなことを書き殴っても、空論視されるだけだよ。
倭人文化圏が高句麗付近の海まで広がっていた事実を、正しく認識しよう。
卑弥呼の祖先の天照大神(アカルヒメ)の日国姫島への渡来は、
倭人文化圏の広がりがあったから可能だったんだ。

倭国の特産品の高級絹用の蚕は、山東半島原産の3眠蚕だ。
漢民族の4眠蚕より糸が細く繊細でしなやかだから、超高級品とされていた。
きちんと九州地域の遺跡から、この細くて高級なシルクは出土していて、
分布も分かっている。

だから、あなたのような遺跡の調査もしてない空論じゃないよ。

倭人文化圏の存在なくして、
天照大神(アカルヒメ)の渡来も卑弥呼の絹の献上もありえなかった。
966日本@名無史さん:2012/08/08(水) 06:41:17.52
>>963
違うよ。

百済は、民衆が馬韓人漢人倭人の国だよ。
百済には、扶余人が南下してきて、俺が王様だって言い出した。

新羅は弁辰倭人の国だよ。
新羅には、穢貊から挹婁人が南下してきて、初代〜16代の王族を追い出した。
967日本@名無史さん:2012/08/08(水) 06:52:17.52
理解していない人が多いと思うが、
邪馬台国論争の謎解きは、
現代の日本と朝鮮半島の問題を解決する切り札になる。

朝鮮民族による日本叩き、反日運動は、大きく国益を損なってきた。
この問題を解決する方法がないか、
天照大神のモデルになった、巫女神道を伝承する多氏の日女(姫)神のお家の、
現宗主、耀姫(アカルヒメ)様のところにも、以前から氏子が相談に訪れてきた。

政教分離の原則がある以上、表立って動くことを控えてきた耀姫様だが、
天照大神に神憑りする神事を行って、この懸案を解決する託宣を下しておられる。
内容は、下のスレッドに貼っておいた。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1342682579/166-167

天照大神耀姫様は、和をもって尊しとする、大和民族の精神の由来が、
高句麗国を無血統一した、東明聖王(朱蒙)の教えにあることを示し、
朝鮮半島の民が、先祖の精神を正しく受け継ぎ、帰順することを求めている。
高句麗国神宮の日の巫女の王(斎王)を襲名した耀姫様の託宣に背くことは、
朝鮮民族の祖先が崇め誇りとした英雄神の精神に背くことに等しい絶対の禁忌である。
968日本@名無史さん:2012/08/08(水) 07:24:04.85
>>966
>百済には、扶余人が南下してきて、俺が王様だって言い出した。

高句麗の王族の子孫とする説と、扶余の王族の子孫とする説二つがある。
高句麗は扶余の分家だから、いずれにしろ解(日)一族(後の高一族)だ。
解(日)姓に、天(あま・海)神であることを示す天を付けると、天日矛となる。

解(日)姓で、フルという王がいて、
日本の某神社には、その王権を象徴する、同じ発音の神剣が御神体として伝わっている。

耀姫様は高句麗語のフルは日本語の昼に相当し、
昼(ヒル)とは、日(ヒ)の霊気(ル)が満ち満ちている状態を指す言葉と解説した。

以上の情報をまとめると、
高句麗はもともと、日一族が支配する日国だったことになる。
高句麗国の神宮を司る日の巫女の王(斎王)が、
里帰りの託宣を行って、巫女集団を引き連れて、倭と大和に移動したから、
日国が高句麗地域から、倭や大和へと移動したんだ。

つまり、
高句麗も百済も、日一族の下に統治される国、日本(ひのもと)というのが、実態だよ。
だから、
大和の大王は、高句麗の王を、天照大神耀姫と同じ、神子という呼び方で敬ったのさ。
969日本@名無史さん:2012/08/08(水) 07:28:27.62
>>966
>新羅は弁辰倭人の国だよ。

だから、その地域の人々の文明化は、
日の巫女の王の里帰りの託宣によって動かされた、秦氏の影響を受けて進んだんだ。
山東・遼東半島付近から、漢民族の優れた文化が、高句麗地域を通って半島に、
王族の移動に従った民の移動とともに、流入していった動きを見よう。

>新羅には、穢貊から挹婁人が南下してきて、初代〜16代の王族を追い出した。

その挹婁人も、高句麗の王族の分家。
高句麗滅亡後興った渤海を、皇室は高句麗として扱っている。
これも同族意識があったからこそだよ。

あの地域の王族は皆、アジアの東地域で最強の王族から枝分かれしているんだ。
末子相続だし、妻問婚だから、兄達が散っていく傾向を持っていて、
そういう結果になるんだ。

たとえば、神武天皇なども、結局は妻問婚の形で大和に婿入りして、
新しい王朝を打ち立てた形になっている。
男性の移動は普通だが、母系継承集団の移動は、非常に特殊で、重要な意味を持つから、
男系で繋がっていることを非常に重要視している筈の天皇の一族の皇祖神が、
女神なんだよね。
高句麗の時代から、昔は妻問婚の風習があったから、
みんな入り婿扱いになってしまったのさ。
970日本@名無史さん:2012/08/08(水) 07:35:31.19
>>286
そのリンク先のサイト、読んでて違うなと思った。

多氏(秦氏)の刀鍛冶の家が伝承する技術を侮ってもらっちゃ困る。
きっちり2mmの銅鐸は、今でも作れるよ。

というか、
フランスにある耀姫様の店で売られている
叩くと良い音がする七宝焼きの壺の厚みを見てこい、と言いたいね。
あれなら、非公開神事で使われる神器と違って、
一般人でも直接現物を見て、許可さえもらえれば、触れることも音を聞くことも出来る。

マイクロ・アセンブリーされたものは、また別だ。
今は、プラズマの技術を使えば、カーボン・ナノ・チューブだって当たり前に作れるから、
ハイテクを使った作品は、とうぜん除外する必要がある。
そういう知識がなくて、混同するようなら、見ても触っても分かる筈がないし、
銅鐸の製造技術に言及する資格などないだろう。

本物の伝統の神業が使われている作品に触れれば、
「現在の技術では厚さが5ミリぐらいが限度」などと
見当違いの情報を流布することもなくなると思う。
971日本@名無史さん:2012/08/08(水) 07:58:11.75

朝鮮族って、鎌倉時代に出来た新興民族 wwwwwwww

中国人とモンゴル系の間に産まれた汚物民族
972日本@名無史さん:2012/08/08(水) 08:21:21.21
>>951
考古学者が、有機高分子に関する知識を求められ始めているのは確かだろう。

たとえば、古墳を開いたら見事な壁画が出てきたが、
あっという間にカビが生えて、台無しになってしまった。

何千年間も、湿度が高い古墳の中にカビが生えなかったのは、
埋葬者の遺体が分解して生じた有機物が、防腐成分として働いて、
カビから壁画を守っていたからだ。
古墳の蓋を開いた結果、防腐成分が外に拡散して失われ、見るも無残な結果になった。

発酵、腐敗、有機高分子の働きを理解していない、穴掘り職人では、
たとえ卑弥呼の祭祀跡を掘り当てても、
土木作業をやってしまい、無造作に発酵食品の痕跡を消し去りかねない。
973日本@名無史さん:2012/08/08(水) 08:38:27.35
新興宗教が出てきてからこのスレも終了だなw
974日本@名無史さん:2012/08/08(水) 08:48:56.16
・・・・・・つーか朝鮮がからむ前から、邪馬台国は飯のタネになってて
九州説、畿内説、その他でも、どうせ結論がでないだろうことを見越して商売してる人たちはいた
邪馬台国ゴロと呼ばれるようなやつらだな
九州説からすれば畿内説の考古学者連中はそう見えるだろうし、
逆に畿内説から見れば、安本や古田なんかはそうだろ
それに遅ればせながら朝鮮が参入してきたってことだろうな
これは歴史捏造の問題とからめて十分予想できたこと


975日本@名無史さん:2012/08/08(水) 09:01:38.37
何の文献や考古学的裏付けもなく参入されてもねw

付け焼刃なんで矛盾を指摘されても「教祖様が仰った」で
逃げるしかない訳ですよ。
976卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/08(水) 09:16:35.69
>>964
君は何か勘違いしていないか?
好太王碑に書いてあるのは倭人が渡海して襲ってきたということであって、
倭人の出自や居住地の話ではないよ。

それに君の意見には根拠となる資料が一つも提示されていない。たとえば、
>辰韓(秦韓)は、大陸の高句麗文化圏(山東・遼東半島付近を含む)から東進した、
>高句麗国の王族の流れを汲む人々が興した国。
これを裏付けるような文献資料なり考古学資料を提示してから物を言うべきだよ。
今のままでは、君の書いていることはすべて妄想だよ。
977日本@名無史さん:2012/08/08(水) 10:17:39.17
韓国人はパンスト被って生まれるから、他の民族とはやっぱ違うかな
978日本@名無史さん:2012/08/08(水) 13:07:16.52
多氏の末裔の耀姫様ってのは仮想世界(メタバース)での架空の設定だね
耀姫になりきってTwitter書いてる本人でしょ
ここに書くようになってから更新されてないね
HPの天照神宮のほうはまだ作りかけかな

ストーリーを固めてしまわずに研究したらいいと思うよ
979日本@名無史さん:2012/08/08(水) 15:45:01.91
高句麗に拘る奴は南方系の影響を中途半端にスルーする点がダメだな。
980日本@名無史さん:2012/08/08(水) 16:01:16.26
>>967
邪馬台国論争は日本を救う切り札になる!?
981日本@名無史さん:2012/08/08(水) 16:07:57.69
多氏の末裔の巫女ネタは
まったく外野が予想しない展開になったな。

下馬評では
1.朝鮮大好き工作員が流す朝鮮ネタ
2.反日工作に使える親朝鮮情報の提供者
この二つの見方をされていたわけだが
どちらも違ってた。

遥か右斜め上の、予想外の、
今まで誰も考えないような切り口から見ている人物の情報だった。

新右翼系と呼ぶべきか。
982日本@名無史さん:2012/08/08(水) 16:48:13.57
>>969
>その挹婁人も、高句麗の王族の分家。

間違い。

高句麗、穢貊は扶余系言語。
挹婁語は、新羅語を経て現代朝鮮語に連なる言語。
983日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:20:04.74
>>978
論拠のない、邪推流布か?

研究者ならこういう決めつけはやらないから、
工作員の書き込みと判断していいだろう。

言論の自由を奪い、歴史を捏造して、反日感情を煽って、国民を精神支配してきた
韓国の軍国主義者達から見たら、
引き出しにどんな情報を持っているか分からない、目障りで厄介な存在だろうな。

レッテルを貼って、誤情報を流すやり口で、片づけたい、
という本音が丸見えの書き込みになっているようだな。
明らかにそう読める。
984日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:20:38.20
以前から、滋賀県を中心に、寺の宝物が盗まれて、
韓国に密輸され、国宝に指定された疑いが浮上するなど、
日本国内で活動する、不穏分子の動きがあった。

昨年は、
天照大神をツイッターで自称した挙句、靖国神社の放火を予告したり、
実際に、靖国神社の門に放火して大騒ぎにしてみたり、
多氏の神庫にある、
朝鮮半島の王家の儀式を記した古文書を盗もうと狙ったり、
多氏が管理する神社の賽銭箱に、着火剤を投げ込んだり

あれやこれや、反日工作活動が目についたのだが
その関係者の悪さ、と見るのが妥当な線だろう。
985日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:21:22.13
>>978「ここに書くようになってから更新されてないね」

これは、
自分達が提供した錯誤へと読み手を誘導するための、捏造情報の提示だよな?

実際には、
昨年の秋から冬にかけて、メタバースでの講演が多かった時期は
ツイッターの書き込みも多かったが、
それが終了してからここ数か月は、途切れがちになって、数が激減している。

講習会参加者や、カフェの常連なら知っていることだし、
ツイッターをブログ風にまとめた例の有名サイトに目を通せば、
即拾い出せる事実だが、
なぜ、事実と異なることを平然とこの場に書きこむのかね。

嘘を事実のように流布して、錯誤へと誘導する目的は、一つしかないだろう。
「多氏の末裔の耀姫様ってのは仮想世界(メタバース)での架空の設定だ」
という憶測のデマを流布すること。

まともな文献研究者は、こういう根拠のないことを書いて
事実誤認へと誘導することは避ける。
工作としか受け取りようがない。
986日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:26:23.15
日女巫女が示した、他に出所が見当たらない、独自の情報が幾つもある。

明日香と飛鳥が、日明郷という高句麗語の音写、という情報などは、
本当に高句麗語を知る者でなければ、提示できない。

高句麗語は、滅んだ国の言葉で、話者がいなくなって久しい。
今では神社に神として祀られている人々が、遥か昔生前使っていた
祝詞などに痕跡を残すのみとなった、古い言葉という認識しかない。
伊勢神宮や石上神宮にも、読み書きできる者はいない。

「架空の人物になりきっている」という >>978 氏の妄想は、
耀姫を襲名した巫女が、高句麗語の文語を明確に知っていて、
いままで誰もうまく説明できなかった、
飛鳥時代の王都の名前の由来を、端的に解説できた事実一つで否定される。

まともな研究者なら、簡単に気付くことだ。
987日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:39:33.11
>>976
>好太王碑に書いてあるのは倭人が渡海して襲ってきたということであって、

それは、いつどこからどの程度、ということが明示されてない、伝承的な記述。

1.倭人が数百年前から渡って来て、朝鮮半島に建国し、住み着いているのか、
2.倭軍が2か月前に、日本から朝鮮半島に敵前上陸したのか、
勝手に判断できない書き方になっている。

当時半島に倭国の領土があったことや、どの時点で移動があったかも、
すでにかなり解明されて、ある程度明確に語れる状況になってきている。
あなたは、それらの情報を見事にスルーして、
自分に都合の良い決めつけをしている。
これでは、歴史捏造組とみなされかねない。

>これを裏付けるような文献資料なり考古学資料を提示してから物を言うべきだよ。

数万点の資料をここに書き込めと、不可能な無理難題を要求して、
それが出来ないなら、妄想だと決めつける暴論を用いているわけだが、
学術板でそんなことが本当に通用すると思っているのか。
988日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:41:18.64
四国の神木に穴あけて枯れさせる半島人もいるらしいからな。
何とか半島史観に持ってゆきたい、
組織的に動いてる連中がいるんだろう。
989日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:43:39.40
>>986
飛鳥の説明?単なるこじつけだよ。
990日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:49:19.18
「架空の人物になりきっている」という >>978 氏の妄想が成り立たない、
もう一つの証拠を示しておこう。

2mmの極薄の銅鐸を作った古代技術を、現代の技術者は再現できない
と上で指摘されていたが、
フランスにある七宝焼き店に行けば、
現代まで伝わる多氏の伝承技術に直接見て触れると、
コメントが付いている。。

七宝焼きが耀姫様の趣味だということは、ネット上に置かれた既知の情報だが、
彼女が「架空の人物」なら、2mmの極薄の銅鐸に並ぶものを作ることは出来ないし、
そのような情報が、このスレッドに堂々と書き込まれたりはしない。
991日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:50:04.92
>>986
>高句麗語は、滅んだ国の言葉で、話者がいなくなって久しい。

だから「明日香と飛鳥が、日明郷という高句麗語の音写」だと
適当にデッチ上げても誰からも突っ込まれないんだよね。
「天日」の高句麗語の発音は「息長」や「気長」や「敦賀」の
高句麗語の発音と同じだと適当にデッチ上げることも簡単だよね。w

ところで、「天日」って高句麗語では何と発音するの?
992日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:57:38.24
>>989
違うね。

「日が明ける」と「鳥が飛ぶ」、「香」と「郷」
これらが同じ発音になると知っていなければ、あの回答はあり得ない。
おそらく、知っている者から見れば、自明のことだが、現代人には自明ではない。

漢語表現の明日に引っくり返った日本語が定着してしまったことが、
より真相を不透明にしていたわけだが、
漢語が膠着語圏に流入した経路上に高句麗語があり、
日本語がその影響を強く受けていることの証左として、大きな意義を持つ情報だ。
993日本@名無史さん:2012/08/08(水) 17:59:56.37
根拠が無ければダメだよw
994日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:05:59.88
鳥の地上絵で有名なナスカも飛鳥と同意である。
根拠無しでいいならこれでもいい訳だ。
995日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:10:48.88
>>991
言語学者達は、そうは見ていない。

メタバースのカフェのフォーラムには、大学教授が常駐しているんだよ。
オカシイ情報なら、そこでストップして、このスレまで流れてこない。

天日に関しては、昨年出回ってた情報なのだが、
君の情報網や判断力は貧弱なようだね。
996日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:16:46.68
>>995
オイラの情報網や判断力が貧弱なのは認めるから、
一言書き込んでおくれ、「天日」は○○と発音するんだよって。
たった一言書き込めば済むことです。

てか、そのメタバースのカフェのフォーラムとやらに
オイラを招待しておくれよ、アカルヒメ様〜〜〜。。。
997日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:35:01.56
根拠とは、どういうものを求めているんだ?

明日香村の遺跡を探し回るまでもなく、
「明日香」「飛鳥」の言葉のもとになったと指摘された「日明かり」は、
神社に祀られた神の名として残り、記紀でも馴染みの言葉で、
知らない古代史研究家はまずいないだろう。

「日明」がまさか高句麗語で、アスカに化けるとは、誰も気付いていなかった。
後から知らされれば、言語学者の誰もが、偶然ではなく必然と納得する情報だ。

アカルヒメは、やや日本語として不自然な姫の名という印象があるが、
日が明ける意味だったと、種明かしされてみれば、
この姫が天照大神のモデルになったことにも、
必然の流れがあると納得できる。
単に古代の村の名前の由来が分かった、というレベルの話ではなく、
信仰形態の変化、神道の成立過程を、他との組み合わせて追跡できる情報だ。

物部から次の王朝へと、まさに動いていく言葉の流れを追うことができる、
と講義内容にコメントした言語学者もいた。

値打ちが分からずチャチャを入れるだけで、素人と丸判りだな。
998日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:40:39.22
こいつはただのアスペか?
999日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:41:19.31

耀姫
Second Lifeの住人か
Freja Charron と Mayumi Charron の垢使ってるんだな
3年前から2chでも有名人じゃないかwww

1000日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:53:24.72
多産系の土人の子孫かあ
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。