それでも邪馬台国は九州にあった15

このエントリーをはてなブックマークに追加
1佐賀原住民
前スレ
それでも邪馬台国は九州にあった14
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1333968272/l50


                                     ,○ _______
                        ,_      _   //ー(^o^=,,)◎))3333Ξ<
                          \\/|\// //  __二二二二二二 ̄
                          > /|\ <  //ー(^O^@)◎))3333Ξ<
                    ワーイ. /二二二二\//  __二二二二二二 ̄
           .ハ,,,ハ           ̄(´∀` ) ̄/ー(^O^=,,)◎))3333Ξ<
           (´・ω・)           (    つ    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           c(,,____,)            (⌒)ヽ__) ))
           ''^"~ "          ""^ ''" ''^"~ " "
  ''" ''^"~ " "
                  ''^"~ " "
九州説のみなさん頑張ってください。

前スレの>1をコピーさせて頂きました。
2日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:08:29.35
とりあえず魔除けにこれ貼っとく。

970 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/06/09(土) 21:02:57.62
普通考えて分かる。3世紀に西日本全体を統括するような勢力の
存在はありえない。

なら、近畿説はあり得ない。
伊都国なんかに一大卒を置けるわけがないから。

近畿説って、バカが言う説w
3日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:09:05.85
魔寄せだったりしてw
4日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:16:05.06
993 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 21:45:36.21
>3世紀に西日本全体を統括するような勢力の存在

これ主張してる説ってどの説???

995 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 21:52:55.18
>>993
俺はそれを信じてるよ
方形周溝墓の分布から、同一文化圏がかなり広く存在してたとしか考えられない

998 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 21:56:12.17
方形周溝墓って九州のが古いよ?

1000 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 21:57:52.74
>>998
でもここで問題にしてる時代には広く分布してるでしょ?
時系列を考えて欲しいんだが


九州説とか朝鮮人って時系列の概念がが苦手なんだよね
5日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:19:34.29
>>4

999 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2012/06/09(土) 21:57:31.38
銅鐸は、数は少なくなるものの、
九州から関東まで分布している。

多分、畿内勢力が広がる前は、うすくひろい文化圏があった。
支配、被支配の関係ではない文化が。
6日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:21:51.74
>>5
前方後円墳もうすくひろい文化圏で、支配、被支配の関係ではなかったの?
7日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:25:33.31
前方後円墳はホケノ山の3世紀後半から4世紀くらいに
一気に広がっていくな。

まあ、ホケノ山を5世紀という人もいるが。
8日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:28:14.05
墓制の違いを文化圏の隔たりと考えるのは間違った考えなのかな?
9日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:28:49.32
少なくとも九州では、前方後円墳は支配、被支配の関係は持ってなさそう。
前方後円墳より後でも大型円墳が作られたりしている。

それぞれの豪族の中で、前方後円墳に興味を持った人も
いたという程度だろう。

さすがに6世紀くらいになると、前方後円墳が増えてくるが。
10日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:29:24.69
九州に銅鐸なんぞないよ。
11日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:30:19.15
九州では違う墓制が同時進行で進んでいるからな。
均質な文化で覆われたという感じはしない。
12日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:31:18.89
>>10

吉野ヶ里で銅鐸と、銅鐸の鋳型まで出てるぞ。
小さいけど。
13日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:32:05.83
>>10
えっっ
14日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:32:15.56
吉野ケ里の銅鐸は、ベロがついてたから、
本当に鳴らして使っていたらしい。
15日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:32:27.90
はやっ、もう立ってるw
16日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:45:26.95
吉野ヶ里の銅鐸は牛の首に付ける鈴程度のものだ。
17日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:49:37.03
3世紀に西日本全体を統括する勢力なんて無いってのは
それこそ学会の定説。

>>2が困るもんだから慌てて新説捏造とか、早い話しが畿内説なんて
そのレベルのもん。
話しにならない。
18日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:51:45.62
軍事的な強制力を伴った統括ってことを言ってるんだぜ。
文化的に関係があったなんて話しをしてるんじゃないんだぜ。
19日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:57:16.99
軍事的に支配してても、その支配者が
墓制に口出ししなけりゃ、統一はしない気もするが、

軍事的に支配してそうな痕跡も、磐井以前にはあまりなさそうだな。
20日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:59:38.11
書き忘れてた
1 乙。
21日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:05:29.25
北部九州が大和の九州進出に抵抗してる痕跡はないな

22日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:06:34.86
>>18
軍事的な強制力を伴った隔たりがあれば文化的な違いも生じる
はっ、前方後方墳からの前方後円墳の派生はその一つの例なのか?
23日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:16:55.39
軍事的な強制力を伴わなくても文化は伝播するし、人は移動するからな弥生時代は
24日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:23:09.68
もういっぺん言う。
軍事的な強制力を伴った統括ってことを言ってるのであって、
文化的に関係があったなんて話しをしてるんじゃない。

そして、3世紀などと言う時期に、西日本全域を軍事的に統括するような
勢力など存在しないというのは、それこそ学会の定説。

これを正面切って反論・実証してみせた例など全く存在しない。
25日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:25:10.23
九州では、共立による統一の歴史があるから、各地の豪族の寄り合い国家。

岩井の乱は、筑紫平野の豪族王である岩井に対する玄界灘沿岸豪族の反乱。

だから、古墳形式も地域と時代によってバラバラ。
26日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:25:52.06
>>24
っ方形周溝墓、高地性集落
27日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:26:44.85
>>25
共立は他動詞ではなくて自動詞
28日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:32:58.51
ちょっとここの九州説は仮説を根拠にしすぎる
29日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:37:17.64
高地性集落ってのも、本当に戦乱を意識したものなのか
疑問がある。

吉野ケ里のように露骨に戦のあとがあれば
さすがにわかるだろうが、

高地性集落のあるところは、戦になりやすい場所なのか?
30日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:40:53.11
>>21

そもそも、大和が九州に進出している痕跡がないからな。
31日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:42:24.67
32日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:44:32.88
33日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:44:38.40
やっぱ畿内説ってアスペだよな。
畿内説ってほんと自己紹介ばかりやる。
34日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:44:46.08
>>24
>3世紀などと言う時期に、西日本全域を軍事的に統括するような
>勢力など存在しないというのは、それこそ学会の定説。
畿内説は最初は畿内が西日本を軍事的に統括したものと思い込んでいたんだよ。しかし、
だんだんと、それが無理だと分かってきたので、畿内は統括していなかった→統括する
ような勢力はなかった、と言わざるをえなくなったにすぎん。
35日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:47:28.53
>>32
あのね、歴史的事実と真っ向から矛盾することを堂々と言っちゃうわけ????
中国とかどうすんの。三国時代とか。
36日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:54:30.44
檀君神話って帝釈天が出てくるじゃん 仏教の影響がないとかないわ

それにちょっと調べたら衛氏朝鮮はピョンヤンにあったって出たよ
よっぽど変な本を調べないと遼東うんぬんってのは書いてないんじゃない

あと満州や朝鮮に民族が住んでいて国家がなかったって言うけど
国家どころかひとつの民族が住んでいたってわけじゃないだろう
つうか満州に住んでたのは満州人だろう
朝鮮半島の南部と満州とじゃ気候も違うし
言葉だって3世紀の時点ではっきり違ってたみたいだよ
37日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:54:46.25
魏志倭人伝に出てくる「冢」は、卑弥呼の冢が一つだけ。
しかも形は円型だ。△鏡も、魏鏡である可能性はゼロだ。

畿内説は世界でも最右翼のデタラメ・トンデモ学説であり、
もう無茶苦茶としかいいようがない。

38日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:55:29.09
>>35
歴史的事実と真っ向から矛盾することを堂々と言ってるのが九州カルト厨なわけだが
39日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:56:21.85
>>38

>>2

前スレで見た展開www
40日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:58:09.38
倭人は、全部初期の日本語をしゃぺっていただろうから、
すでに1つの国だったとか言い出しそうな勢いですな。
近畿カルトは。
41日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:04:55.70
畿内説は当時日本列島で一番大きな国は纏向にあったといってるだけ
それだけじゃ不十分で纏向にあった国が北九州を支配してなきゃいけないのに
いろんな本を読んだけどこのことを証明しているような本はないね
邪馬台国連合が成立したとか古代の明治維新だとかファンタジックなことばっかり言ってるよ

おまけにそのあとしれっと4世紀に北九州まで統一して朝鮮半島に進出したって書いてたりするからね
3世紀に統一したんじゃないのかよって言う
講談社学術文庫の日本の歴史とか
42日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:05:54.56
あのね、もういっぺん言うけど、>>2一発で敗走しちゃうような説が、
正しいわけないの。
早く気づきなさい近畿ゾンビは。
あんたらとっくに死んでるの。
死んでることに自分で気づいて無いみたいだけどね。

なんか言えば、すぐに自己紹介始めるしね。
それって負けてるやつの一番の特徴じゃねーかw

(他に否定する論拠いくらでもあるけどね。ここでは出さない。)
43日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:07:03.20
>>39
はっきりと言う
この時代の歴史的事実を証明してるのは考古学だけ
考古学的事実に反してれば、畿内説であろうとも九州説であろうとも、いかに詭弁を弄しても信用出来ない
44日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:12:53.27
各地の土器が纒向から出るなら、ポッと出の纒向権力が
いったいどこ由来かを考えるのが普通なのに、
低湿地の纒向が、あたかも先進的中心権力であるとして
3世紀に九州を制圧していたとするお馬鹿説が畿内説だ。

普通に考えれば、他の地の権力が、何もない纒向で
農地開墾をさせようと、人夫を集合させたと考えるべきだろう。
45日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:14:23.30
>>44
>普通に考えれば
ここに詭弁が入ってるわけで、そういう意見は信用出来ない
46日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:17:58.79
>>43
畿内説を判断基準にした考古学の部分はウソばかり。
47日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:21:06.25
>農地開墾をさせようと、人夫を集合させたと考えるべきだろう。
畿内何ぞに農地開墾はないだろう。本州を支配下に置いた九州勢力が物流センター
を作ったんだよ。東海の物資を九州に運ぶためのね。
48日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:22:39.80
>>47
東海がそんな重要な地域だったの?
都以上に重要な地域ってあったのかな?
49日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:25:46.85
>>36
衛氏朝鮮はピョンヤンにあったってってのは不正確なんだよな

ピョンヤン周辺の楽浪領域も支配下にあったというのがより正確な表現

衛満さんはもとのが燕の人だから

衛氏朝鮮は

箕氏のなれのはての朝鮮のを征服して

箕氏のなれのはての韓さんは南に逃げた

したがってその時点では馬韓に相当する領域とかは朝鮮ではないのね

衛氏朝鮮の本部は遼東の險涜縣にあったというのが本当らしいよ
50日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:26:07.01
東海の産物だよ。
51日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:26:16.54
>>47
>本州を支配下に置いた九州勢力
畿内に既に進出してるなら王都は畿内にするだろw
52日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:27:35.44
>畿内に既に進出してるなら王都は畿内にするだろw
勢力範囲に入れたからといって、未開の地に都を遷してどうすんだよ。

53日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:30:16.44
纒向に各地の土器があるのは、現地で土器を大量生産する
社会機構がなかったから、人夫に自前で用意させたわけだよ。
纒向に中心権力が無かった証拠。
54日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:33:47.67
>>52
>未開の地に都を遷してどうすんだよ
東海まで勢力圏に入ってるんなら開拓するだろ普通w
55日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:39:32.69
まあ、纒向は東海系、北陸系の人たちが
開発したのは間違いなさそうだ。
56日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:39:36.77
本州の人々は銅鐸祭祀をやってた程度で大した武装はしていなかった。
九州で倭国の乱を戦い抜いた九州勢力にはひとたまりもなかっただろうよ。
九州勢力は、東海、関東まであっというまに植民地にしてしまったわけだ。
当然、そこの産物を九州に運ばせるわけだ。最初は熊野灘を回っていただろ
うが、遠回りだし、大変な難所だ。そこで船で持ってきた荷を人力で津から
名張経由で大和へ運ぶ、そこから川を使って大阪湾におろしていたんだろう。
纏向はその物流センターだよ。
57日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:40:59.13
纒向出土の外来土器は15%くらいだっけか
58日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:49:10.83
まあ、纒向から無理して九州に運ばせなくても良い。
九州で本州の土器は殆ど見られない。

九州で外来土器が見られるのは西新町遺跡だが、
他のところと違って、朝鮮式土器など、
かなり広範囲な土器が出てくる。

逆に他の遺跡では殆ど何も見られない。
近傍の遺跡とは明らかに一線を画している。

こういうところが、外部との交易を担ってたんだろうか?
59日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:54:26.27
近代でも舶来の香りのする街ってあったけどね
でもそこが都だったわけではない
60日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:04:05.98
>九州で本州の土器は殆ど見られない。
間違ってるぞ。九州で本州の土器はみられる。九州の土器が纏向には少ないだ。

61日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:10:25.23
>>60

あれ、そうだったっけか。
西新以外では本州の土器はあまりなかった気がするが、
調べてみる。

西新は外来土器の宝庫で、かなり特殊。
62日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:13:01.02
西新町遺跡は、後世の鴻臚館など外国交易の拠点とも近いから、
まあ、そういうのに都合が良い場所なんだろう
63日本@名無史さん:2012/06/10(日) 03:48:42.96
こりゃやっぱり阿波だな。
倭の海人の活動拠点は瀬戸内だよ。
64日本@名無史さん:2012/06/10(日) 04:07:11.47
「宮室・樓觀・城柵」がまったく見つかる見込みのない、瀬戸内は無理でしょ。
65日本@名無史さん:2012/06/10(日) 04:48:52.82
阿波には発掘される可能性はあるよ。
淡路島から大規模な製鉄に関する遺跡が出たように。
66日本@名無史さん:2012/06/10(日) 05:46:00.01
>>2
銅鐸が北部九州で出てるじゃん、軍事的にはなくても
宗教的な繋がりは北部九州〜出雲〜瀬戸内〜畿内と繋がってるよ。
67日本@名無史さん:2012/06/10(日) 07:45:46.80
>63
>倭の海人の活動拠点は瀬戸内だよ。
出入り口の関門海峡は誰が抑えていたか。
その先の壱岐・対馬・朝鮮半島との交流ルートはどうだ。

>65
>淡路島から大規模な製鉄に関する遺跡が出たように。
鉄鍛冶工房だろ。鉄材はどこから供給してもらう?
弥生の鉄鍛冶も九州が本場だが。
68日本@名無史さん:2012/06/10(日) 08:00:13.84
>>67
倭の海人は倭人伝の記述ではどうみても南方系だろ。
海運に秀でた連中が半島や大陸の窓口である北部九州に
拠点を設けただけの話だな。
記紀の国産みだってそういう話だよ。
69日本@名無史さん:2012/06/10(日) 08:06:38.30
まぁ九州説自体はいいとしても、今更九州島内完結説やら
九州王朝説はいい加減諦めろ。
単なるバカか工作員としか見れないよ。
70ワイルドだ:2012/06/10(日) 08:45:22.20
>>68
>海運に秀でた連中が半島や大陸の窓口である北部九州に拠点を設けただけの話だな。
瀬戸内勢力が九州も経営していたという論証が先だぜぇ。
九州以外の地に、九州と拮抗もしは凌駕する勢力が自生していたという点は、
畿内も四国も、そして九州王朝説も同じだぜぇ。

「九州以外の地に大勢力が自生」を論理的に論証した例は皆無だぜぇ。
願望空論・憶測空論はイヤというほど見てきたが

>>69
>まぁ九州説自体はいいとしても、
畿内に王権が自生したという話を前提にしている点で、
九州王朝説は畿内説と「憎しみ合う双子」みたいなもんだぜぇ。
そこんところに気づいてたか?

九州王朝説では、九州と畿内は本家と分家とかいってたが、
「王朝」に本家とか分家はない。
武力支配時代に「ゆるゆるの連合」もない。
「食うか食われるか、取るか取られるか。支配するか属するか」だぜぇ。
ワイルドなんだぜぇ。 >>67は俺の投稿だっただぜぇ。
71卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 09:29:22.89
君らは全員、津田左右吉とその後継者である戦後日本の学者の説を鵜呑みにしているだけの、バカである。
君らの馬鹿さにはいいかげん飽き飽きした。
72日本@名無史さん:2012/06/10(日) 09:34:16.44
畿内説もうんこだが東遷説も九州王朝説もうんこだ
3世紀には北九州に倭国があり、大和には大和朝廷があった
ほかにも日本列島には出雲とか吉備とか丹波とか熊襲とか隼人とか蝦夷とかいろいろいた
いろいろあったけど全部大和朝廷に軍事的な手段で支配されたんだよ
記紀に書いてあるとおりだ
ちなみに北九州が大和朝廷の勢力下におかれたのは4世紀
神功皇后の三韓征伐の直前だ
73日本@名無史さん:2012/06/10(日) 09:41:34.31
戦後の朝鮮人学者の誇大妄想を鵜呑みにしているほうがよっぽど馬鹿だろ
漢人が朝鮮半島にやってきて原住民を支配した
それが朝鮮民族の歴史の始まり
さっさと認めろ
74卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 09:45:42.49
>>73
そんな史料は何処にもない。あったら出してみろ。
75ワイルドだ:2012/06/10(日) 09:56:52.92
朝鮮、大訂正、久留米にその他。
こいつらが跋扈してる間、古代史スレは「ごちそうさま」だな。
ちみたちのやりとりは・つまらん。
76日本@名無史さん:2012/06/10(日) 10:27:03.92
箕子朝鮮とか衛氏朝鮮とかね
出しても認めないんだもの手に負えないよ
77ワイルドだ:2012/06/10(日) 11:11:09.62
眉唾ジャンルに墜ちたものを、さらに眉唾ものにしている。
タチのよくない歪曲ごっこだな。
どれだけウソをいい通すことができるかの勝負になっている。

ま・邪馬台国に口出しする学者も、
まともなのはいないし大同小異ではあるが。
78日本@名無史さん:2012/06/10(日) 11:18:55.00
随書、後漢書に倭人が朝鮮半島を支配していたと書いてあったような。
79大訂正!:2012/06/10(日) 11:43:49.93
>>37 :日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:54:46.25
>魏志倭人伝に出てくる「冢」は、卑弥呼の冢が一つだけ。
>しかも形は円型だ。△鏡も、魏鏡である可能性はゼロだ。

「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
とあるから、これは前方後円墳である。

80大訂正!:2012/06/10(日) 12:02:37.42
>>75 :ワイルドだ:2012/06/10(日) 09:56:52.92
>朝鮮、大訂正、久留米にその他。
>こいつらが跋扈してる間、古代史スレは「ごちそうさま」だな。
>ちみたちのやりとりは・つまらん。

ゴジャゴジャ云わずに向かってきたらどうだ。

 ポンと一蹴りいれてやるから。 ははははは。。。。。

81大訂正!:2012/06/10(日) 12:05:15.87
>>943 :日本@名無史さん:2012/06/09(土) 18:19:53.35
夫餘  在長城之北去玄菟千里  方可二千里  戸八萬 76.5km 153km×153km
長城之北,行く(去)玄菟迄千里。千里≒432km。
方可二千里は、夫餘を平方形内に取り込みその最長さしわたしが二千里。
その一点は玄菟との界。
二千里≒864km。
高句麗は上記に習え。
>高句麗 在遼東之東千里     方可二千里  戸三萬 76.5km 153km×153km

>東沃沮 在高句麗蓋馬大山之東 西南長可千里  戸五千      76.5km
西南長可千里は長方形内に取り込んでのさしわたし。

挹婁  在夫餘東北千餘里              76.5km
濊   今朝鮮之東皆其地也         戸二萬
韓   在帶方之南       方可四千里          306km×306km
の原文は、馬韓伝. 韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。
『韓と倭』をface to face で眺めそれを正方形内に取り込みその最大さしわたしが方可四千里。  方可四千里≒1728km。
其の位置は、北緯22度の台湾・満州郷あたりになるが、これを中国は絶対に認めないだろう。

 馬韓                   總十萬餘戸 50余國
 弁辰                   總四五萬戸 24ヶ國
                   (ならすと1國あたり2000戸くらいだろ)
--------------------------------------------------------------


82大訂正!:2012/06/10(日) 12:16:34.27
ホイ! ワイルドだ。

「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
とあるから、これは前方後円墳である。

を、やるか?

お前の牙と爪をぶん抜いてやるから向かって来いYO.
83日本@名無史さん:2012/06/10(日) 12:28:17.34
伊作につられちゃ、だめだYO
84鄙箕狐:2012/06/10(日) 12:33:05.48
たんんたんタンはもっとすなおになればどおね

めいかくな根拠を提示できないくせにへんなスケール使って誇大妄想とかしてくれてもね

そおだなあ

おまいには高句麗縣と高句麗の区別とかはつかんのだろうな

王なんて騙ってもそんな素敵なものでもないでしょ

よするに舎弟になりましたよみおたいなもんだからなあ

85ワイルドだ:2012/06/10(日) 12:38:02.31
大訂正、朝鮮、久留米らが出没する間は遠慮する。
なぜならば、ちみたちの投稿はつまらん。
眉唾ジャンルの邪馬台国を、さらに眉唾ものにしてるだけだ。
86日本@名無史さん:2012/06/10(日) 12:40:47.89
皇室関係者は各種邪馬台国説について心情でおられるのだろうか

皇室関係者が徳島の府中(矢野遺跡周辺)を訪れたときに詠んだ歌

「いにしえの 歴史しのびつつ
 島訪ひぬ
 末が枝を揺れる 瀬戸内の風」

ものすごく意味深な内容かと思いますね

きっと皇室は知っているんだろうな(^^)
87卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 12:52:49.40
>>76
これは私に言っているのか?
だから何回も言っているじゃないか、箕子朝鮮や衛氏朝鮮は半島北部にあったのではない、と。

今のところ、これにうすうす気付いていると思われるのは、俾箕狐だけだ。
88日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:06:57.92

280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?

287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280
橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
89日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:16:34.40
>>87
アタマ大丈夫か?
90大訂正!:2012/06/10(日) 13:21:22.95
『後漢書』高句麗伝. 高句驪、在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。地方二千里、多大山深谷、人隨而為居。少田業、力作不足以自資、故其俗節於飲食、而好修宮室。

の「地方二千里」は耕作地の面積。
方二千里≒373.248平方キロしか高句麗の耕作地はなく
殆どが「多大山深谷」だった。
当然、高句麗は耕作地が欲しくて南下したくなるだろうNE。
『三国志魏書』高句麗伝. 高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里、戸三萬。多大山深谷、無原澤。隨山谷以為居、食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹。其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、 ...
の「方可二千里」は耕作地ではない。
高句麗の最大さしわたし距離である。

俺は狸ではないから、馬鹿し合いはごめんだYO. 藁。。。。。




91大訂正!:2012/06/10(日) 13:45:52.36
「都於丸都之下」

高句麗は遷都している。
「丸都之下」って平壌のことかね。?
だとすると、
平壌(丸都之下)を中心として五百里≒216kmがその都の領域となる。

どうだい、韓と高句麗のロケーションはあってるかNE.


92日本@名無史さん:2012/06/10(日) 14:10:15.69
玄菟→丸都 という差し替えがあるらしい

高句麗の発生地は所謂「第二次玄菟郡」が置かれた「高句驪縣」であろうかとおもわれ

卆本には扶余がいた

扶余と高句麗は同一枠の「部」に分かれて構成されていて根っこのところでコモンになってる

「玄菟」が複数存在したように「高句麗縣」は場所を移動して晋代にも存在する

「平壌」も複数存在しただろうとゆうのが現状でのふつうの流れだわ
93日本@名無史さん:2012/06/10(日) 14:31:14.14
赤山(烏丸山)在遼東西北數千里
赤峰・襄平間 370km  (短里だとあうのね)

鮮卑亦東胡之餘也 別保鮮卑山 因號焉
其言語習俗與烏丸同
其地東接遼水 西當西城
常以季春大會 作樂水上

鮮卑山は白狼山でないの?



「作樂水上」って高句麗もそうなんだけど

   あんがい親水性が高い模様なんだよね
94日本@名無史さん:2012/06/10(日) 14:48:06.90
ttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E7%94%B0-%E5%8A%9B/dp/4569802354

日本古代史を科学する (PHP新書) [新書]  中田 力

おまえらの意見をききたい

なんでも彼は九州説、短里60m、天文学が発達した当時は距離や方角は正確、数学の複雑系の計算をつかうと
宮崎西都原古墳群に導かれるという・・・

95日本@名無史さん:2012/06/10(日) 14:50:49.93
魏志倭人伝には、古墳群がいっさい書かれていない。
あれほど目立つ古墳群を書かなかったのは、
邪馬台国が西都原でなかった、決定的証拠。
96大訂正!:2012/06/10(日) 14:57:58.36
>>92 名前:日本@名無史さん :2012/06/10(日) 14:10:15.69
>玄菟→丸都 という差し替えがあるらしい
丸都とは朱蒙の都という意であろう。
朱蒙の母は卵を産んだ。その卵から朱蒙が生まれた。

丸は指鳥卵 [(of bird)egg]。
流沙之西,丹山之南,有鳳之丸,沃民所食。――《呂氏春秋・本味》
の丸とは卵のこと。

97大訂正!:2012/06/10(日) 15:04:09.57
>>95 名前:日本@名無史さん :2012/06/10(日) 14:50:49.93
>魏志倭人伝には、古墳群がいっさい書かれていない。

卑彌呼以死 大作冢 徑百歩

ある。
この「冢」は 「徑百歩」と表記しているから、
これは前方後円墳だ。

98日本@名無史さん:2012/06/10(日) 15:51:47.68
>>97

前方部のある古墳に対して、絶対に「徑」という表現はしない。
円型の冢以外に有り得ないだろ。
99卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 15:57:07.23
どうせ誰も信用しないと思うから書かなかったが、
平壌とか王険城とか阿斯達というのは、要するに都、首都というような一般名詞で、
真韓(辰韓、真朝鮮)にも馬韓(莫朝鮮)にも番韓(弁韓、番朝鮮)にもあったのだ。

ただしこれらの所在地は通説とはまったく異なっており、
真韓は満州、馬韓は朝鮮半島、番韓は遼東(それよりずっと西方にもあった)にあったのだ。
真韓の都はハルピン、馬韓の都は今の平壌、番韓の都は険涜かそこらにあった。

檀君22世索弗婁のときに三韓に分けたことになっている。
100日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:01:53.74
「卑弥呼も朝鮮半島に無数にいた一般的呼称です」って言いたいわけね。
101日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:03:09.52
>>70
まぁ、記紀にも国の始まりは淡路島からだと明記してあるけどなw
普通に解釈すりゃ、ここが倭の中心だべ。
102日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:21:47.40
記紀には、

国の始まりは淡島からだと明記してあるが、

国の始まりは阿波路島からとは書いていない。
103日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:42:49.32
すまんマルチになっちまうが

卑弥呼はシャーマンのリーダとして九州から近畿を巡回していた
だから特定の地に「国」などは作っていない
「邪馬台国」という呼び名は大陸人が勝手に付けたもの
大陸人に「邪馬台国」と呼ばれたものは、卑弥呼(これも大陸人の当て字に過ぎないが)が
当地で神事を司る為に設けた施設のことである

大陸人自身が「邪馬台国とは卑弥呼が都するところ」と書いてあることからもそれがわかるだろ?
ありえない日数がかかっているのも、巡回する卑弥呼一行を追いかけてと考えれば不思議ではない
104日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:44:31.58
淡島=阿波島=四国
邪馬台国徳島説
105日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:54:05.39
×邪馬台国
○邪馬壹國
106日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:56:32.06
確かに、記紀と淡路島とは関係が深い。
だが、記紀と邪馬台国とは無縁だった。
107日本@名無史さん:2012/06/10(日) 18:18:39.62
淡島は淡海にあった
108日本@名無史さん:2012/06/10(日) 18:20:00.99
淡海=琵琶湖
109日本@名無史さん:2012/06/10(日) 18:58:32.01
楽浪郡は朝鮮半島になかったし
満州人も韓族も倭人も朝鮮民族だったのだ
って言いたいのかなあ

気の毒な人だなあ
110日本@名無史さん:2012/06/10(日) 19:25:33.42
>>109
「朝鮮」なんて卑弥呼の時代には存在すらしない
「〜〜族」なんて括りも存在してないだろう
現代の言う「朝鮮」と「日本」は単に海があって行き来しにくいというだけの存在だったと思うよ
111卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 22:38:13.21
>>109
桓檀古記というのは、白山と黒水の間に降った民族の記録であって、
満州人も朝鮮人も元は同族である、という観点である。
夫余系も韓族も源は同一なのである。
契丹古伝も基本的に同じ観点に立っている。

ただ桓檀古記では倭人のことは、同族としては、語られていないようである。
契丹古伝では倭人(日本人)も同族として語られていると解釈できる部分もある。
112日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:23:21.03
>>102
記紀上では九州なんてもっと論外だけどなw
113日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:31:58.99
大和の先祖は日向から来たって書かれているよな。
114日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:37:17.36
まずはオノゴロ島を探そう
115日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:39:50.09
桜島だろ
116日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:48:47.85
一字も合ってねーじゃんw
117日本@名無史さん:2012/06/11(月) 00:43:33.51
オノゴロ島は島根だろう。
118日本@名無史さん:2012/06/11(月) 05:13:09.87
神話は神話 歴史は歴史
神代と人代ははっきり区別したほうがいいよ
天皇家の歴史は日向からだよ
119日本@名無史さん:2012/06/11(月) 06:04:02.09
神武をヤマトへ先導するのは、水運に長けた
速水の門で出会ったウズヒコだからな、当然阿波周辺の人物だ。
ここでも倭の海人が瀬戸内海を基盤にしていた事が記されている。
120日本@名無史さん:2012/06/11(月) 06:32:22.49
四国廚うぜー
121日本@名無史さん:2012/06/11(月) 07:24:33.48
まぁ瀬戸内をスルーして倭国を語るなんて所詮無理な話だ。
122日本@名無史さん:2012/06/11(月) 09:52:01.59
瀬戸内の連中は日向に朝貢していたな。
123日本@名無史さん:2012/06/11(月) 09:56:53.76
北九州から中国・四国瀬戸内沿岸、近畿瀬戸内沿岸一帯が邪馬台国と呼ばれた地域だろ
近畿から勢力を伸ばして北九州を支配下に、そして南九州勢との争い
国譲りは近畿勢が南九州勢から譲られたイベント
辻褄あうじゃん?
124日本@名無史さん:2012/06/11(月) 10:00:45.53
近畿の銅鐸を中国・九州にでもばらまいていれば話が合うんだがね。
125日本@名無史さん:2012/06/11(月) 10:10:52.13
>>124
近畿勢のシャーマンが祭祀において使う神聖なモノだとすれば、簡単にバラまくような事はしないだろ
しかも凄まじく貴重品だったはず
もし、下賜されたとしても、侵略勢力の祀るモノを大事に頂いたとは思えない
126大訂正!:2012/06/11(月) 12:12:25.69


98 :日本@名無史さん:2012/06/10(日) 15:51:47.68
>>97
>前方部のある古墳に対して、絶対に「徑」という表現はしない。

どのような、理由を以ってその様に断言できるのですか?
貴方は、直径とか半径という言葉にまどわされていませんか?
「徑」は「又《廣雅》徑,袤也。」とあり、
又、説文には、 同本义 [lengthwise from north to south]
南北曰袤,東西曰廣。——《说文》とあります。
南北に伸びる円形とは楕円ですか?

「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の「冢」は
南北に伸びた前方後円墳でしょう。
その徑は徑百余歩≒144m、
概算予測でその南北は100m位になりますかね。

若草山の山頂にある鶯塚古墳て誰のはか?


>円型の冢以外に有り得ないだろ。


127日本@名無史さん:2012/06/11(月) 13:02:34.62
瀬戸内が栄えていたのは石器時代と第二次大戦中だけ。
128卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/11(月) 16:55:52.69
四国は、天皇の宮が置かれたことがないから、四国説はちと苦しいだろう。
それより、意外な盲点は、山口説。

ここは豊浦宮が置かれたし、中国人っぽい人がいたという秦王国に比定されている。
南北朝時代の守護大名大内氏は百済王の後裔とされているし、大内氏は明・朝鮮との貿易で富強になった。
つまり中国や朝鮮と昔から通行があったと思われる。明治維新を主導した藩でもある。
紀に、私が日本の王だ、と称した怪しげな人物がいたのも、ここではなかったか。

素人の書いた本でもいいから、山口説の本があれば読んでみたいものだ。
129日本@名無史さん:2012/06/11(月) 18:05:50.95
むかし下関出身のおっさんが、邪馬台国下関説を延々と説き始めて、
話が細かくて面白くなく、辟易したのを思い出した。
130日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:12:59.68
>北九州から中国・四国瀬戸内沿岸、近畿瀬戸内沿岸一帯が邪馬台国と呼ばれた地域だろ

結局これが一番しっくり来る
ピンポイントで「ここ!!!」なんて場所はないんじゃないかな〜
131日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:45:25.26
奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)が、邪馬台国。
第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(りんごももか姫)が卑弥呼。
132日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:57:26.29
りんごなのかももなのかはっきりせい!
133日本@名無史さん:2012/06/11(月) 21:11:32.81
>ピンポイントで「ここ!!!」なんて場所はないんじゃないかな〜
ピンぼけの説だなあ。

134日本@名無史さん:2012/06/11(月) 21:53:00.18
>>123
>北九州から中国・四国瀬戸内沿岸、近畿瀬戸内沿岸一帯が邪馬台国と呼ばれた地域だろ

それは邪馬台国じゃなくて、倭国三十国だろう。
135日本@名無史さん:2012/06/11(月) 22:19:27.14
>>134
「国」ではなく「地域」なんだからあながち間違いではあるまい
136日本@名無史さん:2012/06/12(火) 00:40:03.87
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

いやそこいらへんもいちおう國だわな
137日本@名無史さん:2012/06/12(火) 01:24:13.22
東渡海千餘里は75km〜100kmくらいだから四国だな
行ってないっぽい書き方なんで九州完結説はかなり説得力ある
138日本@名無史さん:2012/06/12(火) 04:29:06.71
吉備や河内といった、瀬戸内周辺の弥生期の遺跡で
貨泉が出てるので、九州完結説はもう無理だよ。
139日本@名無史さん:2012/06/12(火) 07:26:54.69
>>136
大陸人がみたら国かもしれんが、
弥生人が「国」っちゅう概念を持っていたのか疑問
140日本@名無史さん:2012/06/12(火) 09:35:03.33
銅鐸の銅は朝鮮から買ってたんだろう。そのとき、貨泉ぐらいもらってきたからと
いって不思議ではない。それより、それしか出ていないというのが駄目なところだな。
中国と通交していたにしては金員も玉璧もでないというのは・・・
141日本@名無史さん:2012/06/12(火) 09:41:22.63
金印は死んだら返却が基本
ホントは出ちゃいけないもの
142日本@名無史さん:2012/06/12(火) 11:20:33.05
なんて、どっかに書いてあったか?
143日本@名無史さん:2012/06/12(火) 11:53:31.93
>銅鐸の銅は朝鮮から買ってたんだろう。
大型銅鐸の銅は国産。同位体がシナ産とは異なる。

>金印は死んだら返却が基本 ホントは出ちゃいけないもの
委奴國王は帥升に滅ぼされ返却できなかった。

>弥生人が「国」っちゅう概念を持っていたのか疑問
弥生人にとっては地域共同体とその長老リーダー。
144大訂正!:2012/06/12(火) 12:25:44.97
>>143 名前:日本@名無史さん :2012/06/12(火) 11:53:31.93

>委奴國王は帥升に滅ぼされ返却できなかった。

「年已長大」を正しく解釈していますか?

『委奴國王』は宗女卑弥呼でしょう。

帥升に『大王』の地位を止められていただけです。YO.
145日本@名無史さん:2012/06/12(火) 12:32:47.88
>>144
私の勉強不足なのでしょうか

何を仰っているのか全く理解できません
146大訂正!:2012/06/12(火) 12:39:41.01
>>145 名前:日本@名無史さん :2012/06/12(火) 12:32:47.88
>>144
>何を仰っているのか全く理解できません

貴方は「年已長大」をどのように解釈していますか?
『年すでに長大なるも』とやっているようでは駄目ですね。



147143:2012/06/12(火) 13:10:19.79
>>144

私も、何を仰っているのか全く理解できません

委奴國王は一世紀後半の人物。
卑弥呼は二世紀末以降の人物。
148大訂正!:2012/06/12(火) 13:16:58.74
>>147 名前:143 :2012/06/12(火) 13:10:19.79
>>144
>私も、何を仰っているのか全く理解できません

>委奴國王は一世紀後半の人物。
>卑弥呼は二世紀末以降の人物。

「復立卑彌呼宗女壹【臺】與」の「宗女壹【臺】與」も「卑彌呼」です。



149日本@名無史さん:2012/06/12(火) 13:40:30.01
>大型銅鐸の銅は国産。同位体がシナ産とは異なる。
国産のどこの銅と同位体が一致するのかな?
150日本@名無史さん:2012/06/12(火) 15:00:55.96
>>147

倭奴国王の話は金印の話の流れだと思うが?
卑弥呼と倭王が同世代なんて書いてないだろ?
151大訂正!:2012/06/12(火) 15:22:11.70
 
>>150 名前:日本@名無史さん :2012/06/12(火) 15:00:55.96
>>147

>倭奴国王の話は金印の話の流れだと思うが?
「其國本亦以男子為王住七八十年」の「本」と「亦」の中が『委奴国王』で女王の時代。




>卑弥呼と倭王が同世代なんて書いてないだろ?

宗家の長が卑弥呼。 卑弥呼が倭国の長になれば倭王。

帥升が倭王だったのは安帝永初元年から。
但し帥升は「倭面上國王師升」で 真の倭王ではない、
表面上の倭王である。

倭王は女王です。







「其國本亦以男子為王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 
名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大」

152九州説者:2012/06/12(火) 18:18:26.90
   
畿内説者が異邦人なら、
大訂正!は異星人だな。
153日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:21:18.35
>>151
だから、「倭奴国王」の金印の話と卑弥呼の話はリンクしてレスしてないだろ?と言っている
倭王が男か女かなんてレスは誰もしてねえよ
154日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:31:56.16
姫・巫女は日本中にたくさん居るけど、
魏志倭人伝の卑弥呼は箸墓の人。
155日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:38:23.20
箸墓なんて、卑弥呼の死後200年後の造営だろ。
156日本@名無史さん:2012/06/12(火) 19:02:42.19
200年台後半だろ
157日本@名無史さん:2012/06/12(火) 21:09:13.08
箸墓は御食津神、豊受大神の墓
それが卑弥呼、モモソヒメ、豊鍬入姫と同一なのか、あるいは別の人物なのか、それは知らない
158日本@名無史さん:2012/06/12(火) 21:16:06.51
箸墓は4世紀の中庸だよ。前方後円墳で副葬とみられる庄内式土器が出土
したのは九州の古墳だけ、ヤマトの古墳から破片で出土した庄内式は古墳造営
時に現場の破片が紛れ込んだだけで、畿内型前方後円墳は一番古くとも3世紀
末から4世紀初め位だね。
159日本@名無史さん:2012/06/12(火) 21:21:17.12
記紀に於いて歴史と神代は同時進行だと思う
神代を歴史のはるか以前の出来事とするには、情報量が多すぎる
情報は時の経過とともに失われていくもの
160日本@名無史さん:2012/06/12(火) 21:26:17.61
>>159
思うのは勝手だが、ロクに記録する手段さえない中
300年も前の事をどうやって正確に書くのかね?
161日本@名無史さん:2012/06/12(火) 21:32:26.16
>>160
もちつけ
俺とお前は対立してない
162日本@名無史さん:2012/06/12(火) 22:05:05.04
そこでアレー稗田の出番ですよ
163卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/12(火) 22:53:29.91
大古墳はちっとも発掘しないで、前方後円墳衰退期の中小古墳ばかり発掘して、
古墳時代は4世紀だとか5世紀だとかぬかしているんだから話にならない。
学者も○○だが、その学者の説を信じている君らも○○。

箸墓のような大古墳は紀元前に造られているんだよ。
164日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:00:10.96
稗田阿礼の名は意味深だよ。
モモソの母の名がハエイロネ、
別名がオオヤマトクニ「アレヒメ」なんだよね。
165卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/12(火) 23:07:35.65
稗田阿礼というのは古代の霊視力の持ち主だった可能性があるのだ。
つまり古事記は、文献に基づいて書かれたのではなく、
稗田阿礼が霊視した過去の歴史を書き留めたものかもしれないのだ。
166日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:13:53.56
昔の人は超能力をもっていたから、空も飛べるし山をも動かせる
海を真っ二つに割ることだってできるんだよ
ぬっはっはっはっはっ
167卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/12(火) 23:24:24.05
君は何も知らないな、ぬっはっはっはっはっ

聖書は霊視によって書かれたのだ。
旧約聖書はモーセの霊視によって、新約聖書は四人それぞれの霊視によってね。
168日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:30:10.94
>朝鮮馬鹿

>箸墓のような大古墳は紀元前に造られているんだよ。
>昔の人は超能力をもっていたから、空も飛べるし山をも動かせる
>聖書は霊視によって書かれたのだ。

もう、学問やるのはやめなさい。

169日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:39:50.34
学問とは何ぞや 

170日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:40:32.98
キチガイの国だな
171日本@名無史さん:2012/06/13(水) 00:28:34.38
前方後円墳で最も古い形式は前方部が撥型で短いと言われているよね。
その形式から言えば西殿塚や崇神陵の方が古くならないか?
巻向遺跡は崇神天皇の時代じゃないかなあ。崇神天皇の時代は4世紀の中ごろ
だと考えた方がいいんじゃね?
172日本@名無史さん:2012/06/13(水) 00:31:44.92
景行天皇巻向日代の宮でも良いけどね。
173日本@名無史さん:2012/06/13(水) 01:29:33.19
崇神天皇は卑弥呼の甥じゃね?
174卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 09:52:29.04
>>168
>昔の人は超能力をもっていたから、空も飛べるし山をも動かせる

これは私が書いたのではないから、間違えないように。

>聖書は霊視によって書かれたのだ。

これは真実なのだから仕方ない。君が知らないだけで。
175日本@名無史さん:2012/06/13(水) 09:59:22.18
聖書も記紀も創作作品って事だな?
176サガミハラハラ:2012/06/13(水) 10:12:31.72
歴史や伝承等において、霊力というのは相当影響していると思います。
例えば小泉八雲という人物がおりますが、かれは出雲に於いてその地に根差した作品を数多くきしていますが、
出雲をさったのちは、そのような作品は全くないようです。
出雲の次は熊本に引っ越し、さらに日本で最も長くすんだところは東京なのですが、東京における作品はないようです。
つまり、八雲が出雲での創作活動は、本人の才能のみならず、出雲という霊地の霊がとりついて彼にかかせたともいえるのです。
177卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 10:14:51.70
君らに、あまり高度なことは教えたくないが、過去も未来も、透視できる人はできるのである。
テープやDVDに映像や音声が記録できるように、宇宙には、古代インド人がアーカーシャと読んだものが偏在していて、
それに、われわれの行動や思考や感情がすべて記録されるのである。
このアーカーシャの記録を霊視できる者は、過去の歴史を霊視できるのである。

現在の人類はこの霊視力を失っているが、古代にはまだこの霊視力が生きていた。
また、将来、人類はこの霊視力を手に入れる。そのときは、卑弥呼がどこにいたかを議論する必要はない。
なぜなら卑弥呼がどこにいたかは誰でも霊視できるからだ。

神武や崇神が実在したことを、そのとき日本人は知るだろう。
人々が箸墓を作っている様子も、映画を見るように、霊視できるだろう。
178日本@名無史さん:2012/06/13(水) 10:31:40.26
>>177
そんな「未来や過去を見通す霊視」なんてものがありながら
なんで始皇帝は不老長寿の薬(だかなんだか)を探させたんだ?
霊視できるなら探さなくても見つけられるだろ?
179卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 11:26:36.89
>>178
馬鹿だな、お前は。
歴史がアーカーシャに記録されることと、不老長寿の薬がどこにあるかは何の関連もないだろが。

過去や未来が霊視できることと、たとえば金鉱がどの山に埋もれているかを透視できることとは、何の関連もない。
180大訂正!:2012/06/13(水) 11:41:19.00
>>153 :日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:21:18.35
>>151
だから、「倭奴国王」の金印の話と卑弥呼の話はリンクしてレスしてないだろ?
>と言っている
>倭王が男か女かなんてレスは誰もしてねえよ
>>150 :日本@名無史さん:2012/06/12(火) 15:00:55.96
>>147

>倭奴国王の話は金印の話の流れだと思うが?
>卑弥呼と倭王が同世代なんて書いてないだろ?
 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」・・・@ と、
「其國本亦以男子為王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 
乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大」・・・・A 
は、別の国の歴史かNE?
@ との構図が読み取れないのでは、君には理解する事は無理がある。
「其國本亦以男子為王」は『其國本以男子為王と其國亦以男子為王』の
二つを重ねて表記してある。
『其國本以男子為王』とは 
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」以前で、「建武中元二年」以後は男子を以て王としていない時代。其の時代は所謂、女王の時代。
この女王は「安帝永初元年 倭國王帥升」によって倭国王の地位を追われる。

【「七八十年」を経て、倭国王女王卑弥呼の機運があがり「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」が誕生すべきして倭国王女王卑弥呼が誕生した。】・・・B
B 表記したところが、

「年已長大」

だ。

181日本@名無史さん:2012/06/13(水) 11:53:19.68
国内最古 戸籍関連の木簡見つかる

福岡県太宰府市の遺跡から、国内で最も古い戸籍に関わる公文書とみられる7世紀末の木簡が見つかり、当時の戸籍制度や中央集権国家の成り立ちを知る手がかりになるとして注目されています。
見つかったのは、長さ30センチ余りの木簡で、福岡県太宰府市にある国分松本遺跡の7世紀後半から8世紀にかけての地層で、ことし4月に発掘されました。
太宰府市教育委員会などが、赤外線を使った特殊な装置で木簡の文字を読み取ったところ、現在の福岡県糸島市周辺に住んでいた家族少なくとも16人の名前が、身分や続柄など詳細な情報とともに書かれていることが分かりました。
使われている文字や人物の位などから、木簡は7世紀末のもので、転入や転出を示す文字があることから「計帳」という当時の住民台帳の元になった公文書とみられています。
日本の古代史が専門で九州大学人文科学研究院の坂上康俊教授は「戸籍に関わる史料としては国内では最も古いものだ。当時の朝廷がどのようにして人々を掌握し、
中央集権国家になったかという過程を知るうえで手がかりとなる重要な史料だ」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120613/k10015790451000.html
182日本@名無史さん:2012/06/13(水) 12:51:00.51
>>179
バカだなぁ
どこにあるか霊視とやらができなくても、未来の状況を読めば実質的にどこにあるのかないのかわかるじゃないか
183卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 12:51:01.53
>>177の偏在→遍在に訂正。

君らの行いもすべてアーカーシャ(要するに霊界だ)に記録されているのだぞ。
君らがこっそり万引きしたことも、俾箕狐がAVを見ながらこっそりエロいことをしているのも、すべて記録されているのだw
184日本@名無史さん:2012/06/13(水) 13:10:30.09
戸籍とか文書が最も発展していたのは九州だったんだな
九州の邪馬台国から近畿へ文明が広がったんだろう
185日本@名無史さん:2012/06/13(水) 13:18:19.35
7世紀末まで行けば畿内の出先機関
186日本@名無史さん:2012/06/13(水) 15:02:00.69
>朝鮮馬鹿

霊視なんていう今日的な言い方ではダメだな。
コプト教では今の一般的な聖書は偽物が混入しているとして、
もっと厳選しているぞ。
187卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 18:41:11.68
>>186
コプト教が何と言おうと、そんなことは知ったことではない。
一体、コプト教に何が分かるというのだ?
現代の学者もキリスト教関係者も、聖書は霊視によって書かれたということは知ってはいないのだ。

ちょうど津田左右吉が、記紀神話の意義も価値も知っていなかったように。
188日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:25:44.20
>>187
聖書は霊視じゃなくて口伝筆記だよ。
黙示録なんぞは霊視風味の予言だな。
189日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:35:20.52
北九州で木簡みつかったじゃん?

飛鳥浄御原律令(689)が裏付けられたってやつ

これで九州王朝説は死んだ?
190日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:37:43.51
九州王朝は白村江663で滅んだことになってるんだろ
古田とその本に感化された爺どもが死ねば終わるだろ
191日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:38:00.91
中学の頃は、月刊誌ムーの読者だったから、霊視もアカシックレコードも好きだが、
日本史板でする話題じゃないな。
実証科学の範疇をはずれてる。
オカルト板に行ってくれ。
192日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:39:22.36
もうこのスレにはまともな人は来ないよ
193日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:43:53.42
吉野ヶ里で8世紀から9世紀の木簡が出ているから、
太宰府のトップが変わっても、地方はマイペースでやってるな。

割りと近くに肥前国庁があるはずだが、県庁と市庁のような関係だろうか?

これから考えても、ドラスティックな入れ替わりがありそうな感じがしない。
地方もわりとトップの入れ替わりを簡単に受け入れたということだろう。
194日本@名無史さん:2012/06/13(水) 20:18:44.90
なんで金印は糸島にあったの?
195日本@名無史さん:2012/06/13(水) 20:35:27.00
>>190
>九州王朝は白村江663で滅んだことになってるんだろ

九州王朝が滅んだのは西暦700年。
196日本@名無史さん:2012/06/13(水) 20:44:33.11
滅んだとゆうか移民の王家連のが自作自演して過去を消し去ったみたいなもんだろ
197日本@名無史さん:2012/06/13(水) 20:55:41.20
九州王朝、まだそんな戯言を信じてる奴いたのかw
198日本@名無史さん:2012/06/13(水) 21:26:21.54
ていうか、大和王朝が始まるのが701年から。
199日本@名無史さん:2012/06/13(水) 22:16:35.30
記紀の年代には、ちょいちょい年代操作してる形跡があるわけだが、

大化の改新を動かしたほうが、しっくり来るような気がするな。

ぶっちゃけ、白村江以降に。
200卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 22:58:21.89
>>188
君が知らないだけで、霊視なんだよ。
>>191
実証科学? 記紀神話が実証科学で証明できるとでも思っているのか?
君らのように科学的に立証できることしか信じないというのであれば、神話なんて永遠に立証できない。
邪馬台国問題も考古学の成果を待つしかない。君らは科学と考古学の奴隷なのだ。
>>194
だからあの金印は偽物なんだってば。君が本当に関心があるなら、
三浦祐之「金印偽造事件」を読みたまえ。ここにいる連中に訊いても無駄だよ。
201日本@名無史さん:2012/06/13(水) 23:05:03.83
>>173
崇神天皇は卑弥呼より120年後の人。ヤマトトトイモモソビメも卑弥呼
より100年以上後の人。
巻向遺跡は4世紀中庸の遺跡だよ。土器編年を作為的に古くして3世紀に
しようとしているのがヤマト説の連中。


202日本@名無史さん:2012/06/14(木) 00:42:57.90
>>200
お前はオカルトと妄想の奴隷だろw
203日本@名無史さん:2012/06/14(木) 00:48:43.07
崇神天皇が4世紀の人なら、だれが新羅征伐したのやら。アフォちゃう?
204日本@名無史さん:2012/06/14(木) 01:15:33.65
>>200
>実証科学? 記紀神話が実証科学で証明できるとでも思っているのか?

記紀神話の証明が、実証科学のテーマになりうるとでも思っているのか?
実証科学は万能じゃなく、出来ることは限られている。
だから、歴史学として論じる以上、出来ることからは踏み外さない。
ボールを手で投げたっていいじゃないかと言い出したら、
サッカーの試合は成り立たなくなる。
ボールを投げたかったら、他の競技をやってくれというだけ。
205日本@名無史さん:2012/06/14(木) 07:19:35.19
つーかこのスレには偉そうなことを言ってるやつが多いが
こいつらの言うことはけして定説にはならんし誰も鼻もひっかけない
ドブ川に浮かぶ泡のようなもの

206卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/14(木) 08:47:48.00
>>204
それは、神話は歴史じゃないから論じるな、と言っているに等しい。
私は、記紀は文献資料や伝承に基づいて書かれたものではなく、
稗田阿礼の霊視によって書かれたのかもしれない、と提案しているわけで、
記紀神話の成立についての実に重要な問題提起をしたのだ。
それをオカルトなどという今風の安っぽい言葉で片付けられては困る。
>>205
お前だって似たようなもの。エラソーなことを言うな。
207日本@名無史さん:2012/06/14(木) 10:23:22.10
>記紀は文献資料や伝承に基づいて書かれたものではなく、

あほんだら! ぼけ!
208日本@名無史さん:2012/06/14(木) 11:11:43.85

「国の借金」はデマ

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」は1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙され続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国の広報機関であるNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
   
 ---そのニュース 核心は、デマだ       長文失礼いたしました。---
209日本@名無史さん:2012/06/14(木) 11:14:55.45
>>195
>九州王朝が滅んだのは西暦700年。
>>196
>滅んだとゆうか移民の王家連のが自作自演して過去を消し去ったみたいなもんだろ
>>198
>大和王朝が始まるのが701年から。

700年は、九州王朝象徴女性天皇(薩末比売)が薩摩で文武大和王権の捕虜となった年。
210卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/14(木) 11:56:57.53
>>207
落ち着け。終いまでよく読め。
記紀は文献資料や伝承に基づいて書かれたものではない、と言っているわけではない。
霊視によって書かれた「かもしれない」と提案しているのだ。
211卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/14(木) 12:36:40.64
古事記の序文を読む限りでは、稗田阿礼は記憶力の良い抜群の秀才と書かれているだけで、
霊視の才があったようには思えない。ただ、もしかしたら…と私はおもっているのである。

モモソヒメや聖徳太子には予知能力があったようである。
行基が、ある女の前世を霊視したという話があるから、行基はアカシックレコードを霊視できたようである。
ノストラダムスは3500年くらいまでのことを霊視した。
黙示録には気の遠くなるような遥かな未来までが霊視されて記録されている。
212日本@名無史さん:2012/06/14(木) 13:20:43.30
>>197
九州王朝が怪しいのは、終了した時期だけ。
あったことは、まず間違いない。少なくとも倭の五王まではね。
213日本@名無史さん:2012/06/14(木) 14:26:59.00
>>210-211

霊視しているのは、お前の脳内妄想だけ。
214日本@名無史さん:2012/06/14(木) 16:50:17.49
>>212
ない。仮に九州王朝が存在するなら
河内、葛城、阿波も疑わなければな。
215日本@名無史さん:2012/06/14(木) 17:04:32.51
>>214
イミフ
216日本@名無史さん:2012/06/14(木) 18:36:20.44
>>212
>九州王朝が怪しいのは、終了した時期だけ。
>あったことは、まず間違いない。少なくとも倭の五王まではね。

倭の五王(倭武)まではプレ九州王朝。

王朝として律令年号が整った617年以降の岩井(倭薈)からが九州王朝。

九州王朝が700年に消滅したから、701年に大和王朝が成立したのだ。
217日本@名無史さん:2012/06/14(木) 18:41:48.05
九州脳が酷いなwィヨもそうだが賛とか珍、武だって
どうみても瀬戸内周辺を表す名が付いてるのに。
218日本@名無史さん:2012/06/14(木) 18:46:12.82
瀬戸内海周辺を表す名前とかwww

オマエの脳がまずwwwwwwwwwwwwwwwww

219日本@名無史さん:2012/06/14(木) 18:50:01.96
>>216
いや五王まででいいよ。その後はネタだな。
220日本@名無史さん:2012/06/14(木) 18:54:53.90
一応、二中歴では九州年号は517年の継体からと言うことになってて、
記紀の年代でも継体年代はほぼ同じ(前後に伸びてるが)

倭京年代で、太宰府に条坊制都市を作り始めたとおもわれる。
のちの藤原京でも平城京でも、完成が年代開始ではなくて、
大極殿?など、ある程度作り始めた時点で年号を変えているから、
多分同じパターンだろ。
221日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:07:35.85
でっ継体はドメインが九州の酋長さんとゆうことにはなるがな
222日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:09:28.54
白村江直後の、天智、天武の時代は、
最も政治が激しく変わった時代。

そして、戸籍や律令など国の根幹が大きく整備された時代である。
また、この頃が条坊制都市の建設とも重なる。

それ以前に存在した九州王朝が壊滅したあと、
かわりにやらなければならなくなったので、
大忙しである。

白村江のあと、百済の避難民が畿内に入ってきたそうだが、
九州王朝の文官などもいたのではなかろうか。
223日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:12:27.45
唐に抑留されたボスのひとのこと見限って

九州の取り巻きの酋長さんたちがみんなでこぞって新世界に逃げたんだよね
224日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:25:05.72
捕らえられた筑紫君薩夜麻は8年間捕虜にされて、
後に返されたそうである。

この薩夜麻さんは軍司令官に相当する立場の人間だろうが、
いわゆる天子ではない。では、天子はどこに行ったのか。

白村江直前に斉明天皇がなくなり、しばらくは即位しない天智天皇、
というエピソードがある。何かありそうであり、妄想はいくらでも出てくるが、
確証はない。

どう探しても畿内勢力と九州勢力が戦った形跡はない。
白村江により壊滅に近い状態で、戦争になるどころか、
九州は唐に占領されて消滅する危機感があったのではないだろうか。
225日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:26:21.55
九州の王朝って

通婚のが度重なるのはあるけど

中心になれる王家が複数あるから

大兄ののとかが同時にいてもごく普通で

中心にある王のが同時にいてからに

そいつが3人組みの仲良しだとかのもごく普通

兄王 弟王 女王 とかみたいにさ
226日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:31:45.67
だいたいにおいて8世紀後半もなかば過ぎた頃になっても

九州の神様ににお伺いたててみるとかって

皇位継承のルールとかまるでからっぽだよね
227日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:41:50.76
天智天皇が白村江のあと、筑紫の水城や山城を整備したとあるが、

まあ、壊滅したあとの大陸勢の侵攻を食い止めるためともいえようが、

常識的には若干年代をいじって、戦争直前に整備したのではなかろうか。
228日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:56:19.41
歴史を語る人って、都合の良い文献や記録だけを重視して、都合の悪い文献や記録は「ありえん!!」って排除するよね
「文献や記録」って勝者の論理で書かれてるのが理解できない「歴史の語り部」って多いよね〜
229日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:01:08.66
アマチュアはそれでOKだろ どうせ自己満足の世界だし
歴史の本道はわからんものは「現時点ではわからん」が最も正しい態度
230日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:01:51.83
いい加減九州王朝から少し距離置いた方がいいと思うぞw
殆ど妄想で何も始まらない、終わった話。
231日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:08:04.97
>>229
歴史の本道は「たぶん〜〜〜だった」だと思うが?
232日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:12:59.14
>>231
いや、推論だけでは間違っていたときのリスクが大きすぎる。歴史というのは
あくまでもこれはほぼ確実ということを1mmずつ積み上げていくもので、
研究者は俺はここまで調べたから次世代にバトンタッチというのが正しい態度
このあたりは昔とは違って大きな反省があるんだな

アマチュアは別に、自分一世代でどんな結論でも出せばいい
233日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:38:28.29
>>230
いや、ってより九州王朝説があやしいのは終わった時期。
あったのは間違いない。何度も言うが倭の五王まではあったのは確実。

それを、終わった時期がネタだと言う事実と九州王朝説自体がネタ
だということとを意図的にゴチャ混ぜにして、だから九州説はダメって話しに
すり替えようってのが近畿カルトがやっていることwww
234日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:39:32.35
海女女王の「壱岐長足姫」って

壱岐出身の「物部」のひとなんだろ

「保」ってお名前の人で

秋月の酋長さん殺したり

田油津の女酋長のこと殺したりしてからに

三瀦に入植して

にいさんは七支刀プレゼントされた
235日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:07:23.53
>>224
天智天皇記に「熊津都督府、筑紫都督府」と記述がある以上
唐が九州を支配していた事実がある
236日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:33:34.51
>>224
>この薩夜麻さんは軍司令官に相当する立場の人間だろうが、
>いわゆる天子ではない。では、天子はどこに行ったのか。

薩夜麻さんは外交軍事を担当する立場であるから、日王(弟王)である。
日王(弟王)は多利思北孤と同じで二人の天子のうちの一人。

では、もう一人の天子である天王(兄王)は誰か?
それが誰かは知らない。
天王(兄王)は、二中歴と海東諸国記によると元号白鳳(661年〜673年)の13年間在位していたようである。
薩夜麻が捕虜となっている間(663年〜670年)は、日王(弟王)の空位時代。
237日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:38:58.80
   
日王(弟王)の代行は、一時期天智がしたものと思われる。大津へ遷都。
238日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:50:44.73
>>220
>倭京年代で、太宰府に条坊制都市を作り始めたとおもわれる。
>のちの藤原京でも平城京でも、完成が年代開始ではなくて、
>大極殿?など、ある程度作り始めた時点で年号を変えているから、
>多分同じパターンだろ。

そう思う。

隋の琉球種子島への不穏な動きから、又、多利思北孤の時の隋との外交断絶から、
内陸の倭京への移転計画の開始。

天王(兄王)の倭京への移動。611年(定居元年)
239日本@名無史さん:2012/06/15(金) 00:03:57.02
>>233
>何度も言うが倭の五王までは(九州王朝が)あったのは確実。

「律令年号」の三つが揃って王朝。
どれか一つ欠けても王朝とはいえない。

三つが揃ったのは、517年以降の岩井の治世である。
岩井政権が王朝と呼ぶに相応しい最初の九州王朝。

倭五王の武までの政権は、プレ九州王朝である。
外国から官位を与えられている政権は王朝ではない。
他国の王に官位を与える立場の政権が王朝。
240日本@名無史さん:2012/06/15(金) 00:20:32.03
九州王朝が官位を与えたと思われる他国とは、
いずも、かが、なにわ、おわり、けの、の五ヶ国であろう。

筑紫、肥、豊の三ヶ国は九州王朝内の国々。

「府」を置いたのは、別のカテゴリーの国々。
瀬戸内に「府」が多いのは、上記五ヶ国とは異なる実力のある国々があるからのようだ。
241日本@名無史さん:2012/06/15(金) 00:30:34.26
う〜む、筑紫舞。
242日本@名無史さん:2012/06/15(金) 12:00:19.33
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
層化(公明・維新)、統一(自民)、オウム、総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
すべて繋がっている


----------------------------------
↑一連の騒動で「政治とオウムは一心同体」この繋がりご理解頂けただろうか
今日は消費税をどうするか決める日

今日まで泳がせてたのはそのため。
平田の出頭菊池の逮捕、今日迄すべて台本通り 
               この一連の騒動が、自民・民主の「基本合意」の正体
243日本@名無史さん:2012/06/15(金) 12:46:04.63
最近古代史に興味を持ったわけですが
邪馬台国についてはざーっと見るに安本さんってのが一番説得力がある感じなんだけど
おたくらおたくの感覚ではどうなん?
244卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 13:12:38.83
読んだことはないから、論評は出来ない。

なぜ読まないかというと、天皇の平均在位年数を割り出して、
そこから神武の即位年を割り出すという手法があほらしくて、
そんなアホ学者の本を読もうという気にならないからである。

しかしここの連中はそれを科学的と思っているようで、
要するにここには馬鹿が揃っているのであるよ。
君だけはそういう馬鹿にならないように。
245日本@名無史さん:2012/06/15(金) 13:55:00.74
九州王朝は事実上白村江で終わったとして良い。

ただし、今で言えば、内閣が消滅しても、
各省庁はしばらく残っていて運用されていた。

その残党が畿内に引越しするか、雲散霧消するかして、
順に各種公務が移管され、安定稼働したのが
8世紀初頭

天智から天武へ代替わり、壬申の乱などいろいろ
混乱している様子も見られる。
246日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:28:26.16
>>243
邪馬台国問題は、文献学的にはずいぶん昔にやりつくされて、
それでも確実なことはわからないので、
東洋史など、漢籍を専門に扱う分野のプロパーの学者は
もう手を出しません。興味も無いでしょう。
いま、邪馬台国問題で発言している人は、
ほとんどが素人か、学者といっても異分野の人ばかりです。
新証拠発見と騒がれても、その実、たんなる誤読だったりします。
そうでなければ、「神々の指紋」とか「聖書の暗号」とかの類です。
今後、何か知見が得られるとしたら、考古学でしょうが、
倭人が、邪馬台国だの卑弥呼だのを竹簡・木簡にかくわけもなく、
状況証拠ばかりでしょう。
文献学としては、中国で、古い墓から三国志の古い版本が出土するとか、
そんなことでもないと、もはや何もいうことはありません。
せっかく古代史に興味をもったのなら、邪馬台国以外の、
実りのあるテーマに取り組まれることをお勧めします。
「神々の指紋」とか「聖書の暗号」とかがお好きなら、とめませんが。
247日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:41:04.31
その逆境に耐えて、あえて困難な道を選ぶのが男ってもんよ。
248卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 19:23:08.07
邪馬台国論争は、もう解決されているよ。
南韓の地、少なくとも錦江以南に任那があった。
そこは神功以来、倭の領土であった。

卑弥呼の遣使はそこから出発した。
249日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:44:28.31
というオカルト説は、オカルト板でおねがいします。
250日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:54:45.99
卑弥呼はエジプト人です。倭とはギリシャ世界のことだというのは現在では定説となってきているような気がしなくもないです。
251日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:03:46.76
>>243
邪馬台国論に関して安本は全く信用出来ない。
特に地名相似説なんて何の根拠も無いし。
252日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:27:58.96
安本氏の功績は、邪馬台国の研究状況を
「分かりやすい文章」で、「面白い季刊誌・書籍」を媒体として
広く市民に広め、啓蒙した点にある。

残念ながら、安本氏独自の論証は見るべきものはない。
天皇の代数を統計的処理で、一代10年として立てた仮説には、
それなりの価値はある。
253日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:47:34.92
お勧めの本はね八幡和郎て人の書いた「本当は謎がない「古代史」」て本と
若井敏明って人の書いた「邪馬台国の滅亡」って本
あとはもちろん日本書紀ね
それ以外は読む価値がないね
古代史の本は読めば読むほど馬鹿になるからね
254卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 21:05:38.36
必読書

記紀
中国の正史
三国史記
契丹古伝
桓檀古記
揆園史話
満州源流考 ←今これを読んでいる
金印偽造事件
255日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:30:53.51
とりあえず○鮮くんに必須なのはぐぐるああすだな

緻密に比定ごっこしていくのが良いよね
256卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 21:44:53.61
現代の地名なんか分かっても仕方ない。
私は1997年発行の980円の世界地図帳を持っているのだが、
満州や朝鮮の地名は早くも変わってしまっている。

せめて戦前の地図帳でもあれば、と思うのだが。
257日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:53:41.46
あれっつハングル読めたりするのかな?
現状で北朝鮮なんて文字表示とかないしね
このひとはまじで利用とかしたこと無いんだね
文明とゆうものは大地において営まれるものだから
地勢を読み取っておくとゆうことは欠かせないんだよね
258日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:00:29.74
朝鮮の人は現在の朝鮮人がどのように形成されたとお考えですか
楽浪郡が朝鮮半島にあったことを断固として認めない方針のようですが
山東半島から海を渡ってやってきて稲作を伝えたと考えられる
もと江南にいた人たちのことはどう考えているんですか
259日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:09:24.24
ここの朝鮮には課せられた任務というものがある
260卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 22:20:58.64
>>258
私は統一新羅以後のことはほとんど知らない。
だから現在の朝鮮人がどのように形成されたか、なんてことは知らない。

稲作のことも知らないし、興味もない。
私が知っているのは、たとえば揆園史話に、今の江華島以南には、古代には、
南夷の人が住んでいた、のちの弁辰諸族は皆これである、と書かれていることだ。
この南夷の人というのが、倭人なのか、江南の人なのか、熊襲なのかは知らないが、
どうもソウル以南には昔から満州や朝鮮人とは異なる民族が住んでいたようなのだ。
261日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:29:01.91
俺は >>260 とは異なる者だが、知ってるのは、
その半島南部に西側には扶余族を王とする国家ができ、
古い中国語を話す難民を半島東部に住まわせたということだ。
262日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:39:24.55
>>261
それが馬韓でその後、徐福を始めとする秦の遺民がやってきて辰韓を建国したにか?
263卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 22:44:13.94
>>261は正確ではない。百済や新羅は半島南部だけにあったのではない。以下は満州源流考から。

麗東跨海距新羅南跨海距百濟西北渡遼水接營州北接靺鞨則自今奉天遼陽南至鳳凰城渡鴨淥江至今朝鮮之咸鏡平安等道者麗也

自今開元廣寧錦義寧逺南至葢平復州寧海又東南跨海極朝鮮之全羅黄海忠清等道者百濟也

而新羅之境東南兼有今朝鮮慶尚江原二道西北直至今吉林烏拉又西近開元鐵嶺出麗百濟之間故百濟之東北東南皆相隣近麗介處其中
通考所云亦在麗東南奉使行程錄所云自咸州至同州(今開原鐵嶺界)東望大山即新羅界遼志所云海州(即今海城始屬百濟後為麗所分復入渤海又歸于遼)東界新羅是也

高麗(高句麗)と百済と新羅の所在地だ。通説とは全然違う。
百済は遼西から遼東半島にかけてもあった。新羅は北は吉林まであった。
264日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:47:59.13
長里しか知らない人がまじめに妄想とかすると

そおうゆう曲解された作文がいとも簡単に発生したりするものだわ
265卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 22:58:22.57
>>264
俾箕狐よ、短里説などというばかげた説を信仰する前に、史書をきちんと読め。

百済が遼西を占拠したこと、帯方の地に建国されたことは中国の史書にちゃんと書かれている。
帯方とは遼東半島地区だ。おそらく現在の大溝河が昔は帯水と呼ばれていて、
帯方とは帯水に因む県名だと思われるのだ。

新羅の発祥の地は満州であることは桓檀古記にも書かれている。
鶏林都督府は吉林であることは考古学的にも立証されているそうだ。
266日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:00:53.34
百済は遼西にいたのが100家渡海して漢江のあたりにお引越しのはがち

扶余の末裔だって自称

素直に信じるとお引越しのは

夫餘王の依慮が鮮卑酋長の慕容渉帰の世子の慕容廆に攻められ自殺 子弟走保沃沮

の太康 6 (285) 以降

看板からしたら「比流王」さんあたりが流れてきたのだろ
267日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:05:46.01
考古学的にも立証されているとゆうところは妄想てんこもりで

あさってのを比定してくれちゃたりしているのは列島内のと同パターン
268卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 23:11:31.64
>>266
それはもっと詰める必要がある。沃沮というのは咸鏡北道かそれ以北だから、
そこから半島の西側に逃げるというのは理屈に合わない。

私は北夫余の東明系が建国したのが遼東半島と遼西の百済で、
卒本夫余(高句麗)の朱蒙系が建国したのが南韓の百済ではないかと考え始めている。
269日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:13:24.58
とりあえず○鮮くんは烏丸岸鮮卑東夷伝前文HTMLに落としてからに全文検索とかサクサクできる程度のことはしておいてしかるべきかな
270卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 23:21:34.65
>>267
吉林、長春あたりが新羅の故城であると桓檀古記に書かれている。
鶏林都督府は吉林であると満州源流考には書かれている。

考古学云々は山形明郷のサイトに書かれている。

お前は読んでないからエラソーなことを言っているだけなのだ。
271卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 23:24:25.37
お前はいつも烏丸鮮卑伝のことばかり書いてるな。
そういう中国史書しか読んでないからお前はダメなのだ。
272日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:26:05.42
沃沮というのは濊貊の故地

夫餘・高句麗・百済はルーツが濊貊なんだよ

ここのの濊貊の故地は嶺東とも別称されていて

衛満の時にはその支配域の一部である朝鮮の地に含まれている

衛満の時には南方の韓地に相当する地は朝鮮の地では無いのね
273日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:32:59.03
しかし、あれだな朝鮮は哀れだな
274日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:37:30.28
古田武彦 VS 山形明郷

275日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:38:04.33
烏丸鮮卑東夷伝ってのはめずらしくも同時代史だし量がまとまっているし

良質の註とかも添付されていたりするから

多くの派生編集史料とか発生させてくれたりしているからね

ネタ本のところはしっかり抑えておかないと

派生編集史料とかから信用するにたる付加データとか引き出したりできないんだよね
276日本@名無史さん:2012/06/16(土) 00:20:03.77
>>268
逃げたのは晉代265-316の平州の遼西郡から沃沮=夫租の地へだから読み違えないようにね

晉代の遼西郡とゆうとやられて逃げて限りなく右北平だったりするけどさ
277日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:39:26.65
>>251
それあるっしょ
278日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:18:29.13
いま朝鮮半島内に押し込められている連中が、昔はもっと大陸内に
領土を持っていたなんて常識を振りかざして得意満面な朝鮮馬鹿は、
一体何が言いたいのかね?

李氏朝鮮が建国した時に大陸側の領土をゴッソリ明に献上することで、
建国を助けてもらったから、今のように半島に押し込められただけだ。
そんな事実が仮にあっても無くても、卑弥呼は朝鮮半島には絶対に
いなかったんだから、オカルトの妄想に耽るな。
279卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 10:55:51.36
>>272>>276
沃沮≒濊貊≒夫租というのなら話は分かる。
ついでにいうと貊は匈奴のいた方面にもいたと思われる資料があり、
韓国の春川が貊国だったというのは、おそらく真っ赤な嘘である。

>>278
新羅は北は吉林まであったと考えると、三国史記の記事がすんなりと理解できるのだ。
たとえば鶏林がしばしば高句麗に襲われたとか、畑の中で濊王の印が出たとかの記事が。
これが鶏林が今の慶州だと考えると全然理解できないものとなる。
濊王の印の話も然り。半島南部から濊王の印が出るはずはないのだ。

任那四県は通説で錦江以南とされているのであり、私は通説に従って話をしているだけなのである。
四件割譲の前に雄略が百済に久麻那利の地を与えており、久麻那利が熊津だとすると、熊津は定説では光州市とされている。
つまり錦江より北方でさえ倭の領土であった可能性があるのである。
私は通説に従って話をしているだけであり、特別奇怪な説を立てているわけではない。
紀を素直に読めば、少なくとも光州市以南は倭の領土だったのである。
そこに卑弥呼や倭の五王がいても、少しも不自然ではない。
280卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 11:02:31.01
一部訂正

光州市→公州市
281日本@名無史さん:2012/06/16(土) 11:36:49.13
?はどう考えても遊牧、もしくは狩猟採集系。活動範囲が頓に変わって当然だと思うが
縄文文化の遺跡が見当たらないのと同じ
282日本@名無史さん:2012/06/16(土) 15:55:16.78
魏の使いが玄界灘を渡ってから卑弥呼に会ったわけで、
朝鮮馬鹿が何を妄想しようと、卑弥呼は九州にいたのだった。
283日本@名無史さん:2012/06/16(土) 17:48:13.53
だれか>>281を翻訳してくれ
284日本@名無史さん:2012/06/16(土) 18:41:47.65
>>282
古代朝鮮は玄界灘を渡ったところにあったんだよ。
285日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:20:15.01
>>283
     ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::| │ 
    |:|: ..   :||    .. |:|  │ ||i||iiii;ilii;lili;||i;;;,,|i;,:,i|liil||ill|||ili
    :|: ..   ||    ..|| <  ;iill|||lli|llii:;゙|lii|||||l||ilil||i|llii;|;_
     :\ [_ ̄] /::|   │ 
::     |\|_|_|_|_/:::|    \___________
286卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 19:38:59.98
>>282
だから言ってるじゃないか、倭人伝はマルコ・ポーロの「東方見聞録」と同じようなもので、ただの伝聞録だと。
倭人伝を隅から隅まで読んでみたまえ、どこかに「魏使が日本に行きました」と書いてあるか?

ここの連中の九割までが、魏使が日本に来たという前提で議論している。
○○としか言いようがない。
287日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:54:02.68
「魏使が日本に行きました」と何処かに書いてあるのか?

初耳だなあ

倭地なら参問しているけどな
288日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:06:57.41
「伊都國・・・郡使往來常所駐」 

郡使の定宿は伊都國にあって

「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

諸韓國からも伊都國に遣使が来ているって掻いてあるのとか嫁ないのか?
289日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:57:44.46
>>286ほど低能な住民も珍しい。
290卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 21:53:46.39
なるほど確かに書いてある。しかしそれも伝聞であって、倭人伝が、
卑弥呼の朝貢によって郡使が日本に行ったときの見聞によって書かれた、とは限らない。
伊都国でそのようなことが行われているという伝聞を書いたにすぎないのかもしれぬ。

実際に何回もそのような通交があったのなら、日本の地理についてあんなに曖昧なことしか書けないのはおかしい。
291日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:59:17.97
朝鮮の話も伝聞だから、全部妄想だよ。
292日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:06:49.99
>>291
全ての歴史は「伝聞」だよ?
293卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 22:16:12.48
もし、実際に何回か郡使が日本を訪れていて、倭人伝が、
その郡使からの情報に基づいてかなり正確なことが書かれているとするなら、
邪馬台国の比定地は南九州しか考えられないのだ。宮崎、鹿児島、熊本…。
せいぜいそのあたりに絞られるのだ。それでもいいのだな?
どうなんだ? 九州説諸君よ。博多も久留米も全部否定されるぞ。
294日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:22:18.16
公孫氏が支配する以前の半島北部は蛮族の地
そこを経由しての中華と日本の交流はあり得ない
伊都国に滞在してたのは会稽郡の郡吏だろう
要するに、時代が違う
295日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:29:09.54
マツロ国、イツ国、ナ国、フミ国・・・こいつは明らかに北九州だ
クナ国・・・こいつは上の北九州を脅かす近い脅威
ツマ国、ヤマト国・・・こいつは遠い
ツマ国は諸説あろうがヤマト国は大和で世間は納得しているね
296卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 22:35:08.91
>>294
半島北部は蛮族の地じゃないよ。
馬韓という立派な国があった。
297日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:36:46.17
イヤン、馬韓、ムフフッ
298日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:40:49.82
>>296
それ、半島中西部でしょ
299日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:07:39.85
>日本の地理についてあんなに曖昧なことしか書けないのはおかしい
倭人伝にははっきり書いてある。何も問題はない。
倭人伝が書いているところとちがう所へ行きたい連中が倭人伝を無視した
読み方をしているだけだ。
300日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:08:08.93
公孫氏も養子関係の公孫氏だから信用ならないんだけどね
301南命:2012/06/17(日) 00:14:03.45
朝鮮 グダグダうるさい。南なんだ。決まりだ。
302日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:20:18.80
馬韓のは午だから南なんだろ
303日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:51:40.07
>>293
使者は来ている。記事は正確。だから南九州だ。
何が不満だ?
304日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:25:49.52
何日かかったかとか何日かかると聞いたか、それは間違えにくい。
方位はどうか。行くうちによく分からなくなったり書く時までに記憶が曖昧にもなろう。
日記のようなものを書けていたのかどうかにもよる。
とにかく邪馬台国の方位は間違った。だから奈良だ。何が不満だ?
305日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:36:52.37
方位が間違ったら、奈良にもつかんと思うが?
つか、そんな曖昧な方向感覚で、奈良にピンポイントで当てるほうが難しい。

距離の間違いなら、
早めに着いたり、遅めについたりはよくあること。
306日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:41:00.30
奈良に行くなら、何度も上陸なんかしないな。
船でず〜〜〜っと行き、最後に上陸するだけだ。
よって畿内説終了。
307日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:48:13.81
>>305
484 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/06/16(土) 20:01:33.95
お前ら瀬戸内海を東へ進めと言われてちゃんと高松(投馬国)にたどり着ける?
間違って岡山に行ってしまったりしない?

南水行(南岸沿いを進め)と言うのはそのような間違いを避けるための最も簡潔な表現なんだけどな
308日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:49:38.96
南水行というのは、絶対に奈良に着かないようにする良い方法だとは思う。
309日本@名無史さん:2012/06/17(日) 02:19:43.81
>>304
方位も日数も風土も合わない。だから畿内の目はない。
つまりは箸にも棒にもかからないんだ。
310日本@名無史さん:2012/06/17(日) 02:53:34.77
返却して新たに受けたと言うが滅亡してしまった王朝ならそう厳格でもないだろ。
金印はどこかに埋まってるよ。
箸墓から金印が出てこの話は終わるだろうね。
311卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 10:07:13.12
>>298
いや、そうじゃないよ。馬韓の都、月支国は今の平壌だと桓檀古記にちゃんと書いてある。

檀君王儉旣定天下,分三韓而管境,乃封熊伯多爲馬韓,都於達支國,亦名曰白牙岡也

命黎元興爲馬韓,治莫朝鮮…元興旣受大命,鎭守大同江,亦稱王儉城

白牙岡者,是謂馬韓古都,今大同江也

馬韓の都は達支國、またの名は白牙岡、またの名は王儉城で、今の大同江だと書いてある。
達支國はおそらく月支国なのである。

浜名寛祐は桓檀古記など読んでいなかったが、
馬韓の月支国は平壌だとみごとに推理していた。その考証の的確さに驚かされるのである。
312日本@名無史さん:2012/06/17(日) 14:42:45.98
人類はアフリカで生まれそこから広がっていった
朝鮮半島にもシベリアから南下してきた人たちが住んでいたのだ

3000年前その集団が
朝鮮半島北部に国を作った華北の集団と
稲作を伝えた江南の集団の強い影響の下成立したのが
韓族だね

もちろん扶余や穢族とは言語も生活習慣も違う別の文化を持った集団だよ
313卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 17:11:01.50
>>312
>人類はアフリカで生まれそこから広がっていった ←これは間違い。

半島の歴史が知りたければ契丹古伝や桓檀古記を読めばいい。
君が書いているのは単なる推定。
314日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:00:19.44
あのな、                          (以下省略


315日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:08:36.77
偽書じゃなあ。
316日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:10:45.29
万里の長城の北から浸透圧は受け続けたんだからよ。
317日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:13:54.84
考古学も言語学も分子人類学も無視して偽書だけ読んで
歴史を再現しようなんてすごいですね
318日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:19:32.17
そんなことは世界でもちょーしぇん人しかやらない

319日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:22:10.52
>>311
『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部)

遼東屬國
險瀆(縣) (險涜縣)【史記曰 王險 衛滿所都】

王儉城は遼東にあったのである。。。。
320日本@名無史さん:2012/06/17(日) 20:14:36.31
朝鮮半島も遼東だよ。
321日本@名無史さん:2012/06/17(日) 20:27:48.51
唐代になると「朝鮮半島も遼東」で良いが

それまではほぼ

「朝鮮半島の一部が遼東郡に属する」と逝ってあげるのがより正確

「燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里(154km)至滿潘汗爲界」

西安平とかはずううっと遼東郡下にありますですよ

やられて取られちゃったら遼東郡下にあるといっても支配の実効性とか無いんだけどさ
322卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 21:49:46.99
>>317
ばかだな。君らが考古学や言語学や分子人類学を学んで推定したことが、
揆園史話にはあっさりと書かれているんだよ、江華島以南は昔から南夷の人が住んでいた、とね。
現代の学術から検証される成果が、君らが偽書と読んでいる書物にちゃんと書かれているのだ。
だから偽書だといってバカにしてはいけないのだよ。

>>319
前にも書いたが、王険城は遼東にも平壌にもあったのである。
平壌も遼東にも平壌にもあった。桓檀古記にちゃんと書いてある。

>>321
俾箕狐よ、いいかげんなことを書くな。
朝鮮半島が遼東に属したことなど一度もない。
323日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:39:57.14
では朝鮮半島はどこに属してたの?
324日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:55:55.24
西方取地二千餘里のところは「故空地」域といって遼東郡に属しているのがでふぉ

ここいらへんのは楽浪郡に属している縣と遼東郡に属している縣とが混在していた時期もあったかも

制度史上ここいらへんのは管轄の移動が煩瑣にあったもよう

鉅燕にやられてからにさ

箕氏のなれのはてのは清川河以南に引きこもったんだよ

ようはそれだけのことさ

前漢のはじめに燕から衛満さんが移住したところが滿潘汗 満蕃韓って掻いてもよいかな

箕氏のなれのはてのは韓氏騙っていたからな

蕃韓ってのは逃げた結果残った支配下の蕃族の地に再設定されてた箕氏のなれのはての場所のことじゃろて

さらにやられて楽浪縣が呑列にセットアップされて後日に楽都城と呼ばれたとゆうストーリーもありかもね
325日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:01:02.65
ないしは、

楽都が終末期の箕氏の中心拠点で

それが後日郡県制下に移行した時に楽浪縣と呼ばれるようになったのかも
326卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 10:22:50.97
>>323
魏志に書かれている通り、半島は馬韓辰韓弁辰倭に属していた。
馬韓の月支国は今の平壌にあった。

>>325
楽浪という地名はずっと昔からあった。楽浪忽という名前で桓檀古記に頻繁に出てくる。
漢がそこを楽浪郡と名付けたのも、もともと楽浪という地名があったからである。
327日本@名無史さん:2012/06/18(月) 18:50:45.17
きむちくんのは

折角「郡」とか「縣」とか付加されているのみても

単なるある種の名称の地名があるってのが書いてますですよ

とゆうので済ましちゃうとゆうところが鈍いところ


東夷伝なるものは委鬼のところがこうゆうふうにして辺境の土人をてなづけましたよ

とゆうある種の自慢話とゆう側面のがあるが

基本的に郡縣國とゆう手下に見せかけるためのツールとか使用して関係を説明していたりするんだよね

その他手下に見せかけるためのツールとしては、王から始まって侯とか邑君とか中郎将とか校尉とかエロエロ

基本的に辺境の地においては國ののは縣として設定するには手におえないきつい土人のところを

なかには王の呼称使用の許可とか侯の呼称使用の許可とかで

飴しゃぶらせてだましてうまいことまるめこんでゆうこときかせたりとゆうのもあるわけだわな


>>324-325 のは 楽浪郡が武帝によりはじめて設定されましたとされる常識に一石を投じたものだから

そこいらへんちゃんとおさえてくれれないとなあんか折角書いてあげても無駄かなとゆうことになる

教育的指導のしがいがないとゆうか
328卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 19:38:38.07
そうか。とにかくお前の投稿は、一体何が言いたいのかさっぱり分らんのだよ。

どうでもいいけど、そうやって一行開けて書く癖を直さないと、
たまにまともな文章で投稿しているときもあるようだが、
お前の投稿だとすぐに分かるぞ。
329卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 19:45:11.08
のの、からに、エロ、ツール(←英語かぶれ)、おばか、まぬけ…

これらを組み合わせると俾箕狐の文の出来上がり。
330日本@名無史さん:2012/06/18(月) 19:49:21.63
あのさ こて進化しちゃったから たのむから 稗箕狐 でおながいすます。
331日本@名無史さん:2012/06/19(火) 08:01:53.32
>魏志に書かれている通り、半島は馬韓辰韓弁辰倭に属していた。
ふーん、朝鮮半島の上世は倭人伝が伝えるとおりってか。ではやはり
倭の中心部は九州だな。
332サガミハラハラ:2012/06/19(火) 18:24:03.40
箕氏ではなく、箕子とかいてください。
333日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:46:16.61
しつれい

姫姓の箕子さんは初代のひとでその末裔は箕姓を騙っていた
その後箕姓の筋が絶えたのだろうけど
いつのまにか韓姓のひとたちにすり替わっていて
ここらへんを魚豢さんたらゆうひとが
「箕子之後朝鮮侯」とか「朝鮮王(韓)否」とか「朝鮮王(韓)準」とか
韓姓のはあとづけですり替わりを擁護とのご指摘もあったりするが
ご本人たちが「箕子之後朝鮮王」のつもりでいるんだから
酋長のが実はすり替わりとゆうのでもべつにどおとゆうこともない
「箕氏のなれのはて」のはそのあたり込みで
「朝鮮」とか無駄に使用しないで
その筋の酋長さんたちの流れのを表現するがための用語ですからあしからず。
334卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 21:42:41.49
稗箕狐よ、無理しなくていいからお前はお前のスタイルで書けw

釐余 ←契丹古伝が伝える箕子の名(浜名寛祐は、箕は侯国名、子は爵位と推測)

桓檀古記が伝える箕氏の系譜

箕詡 須臾の人。最初の箕子朝鮮王。姫姓とは何の関係も無し。

箕U

箕釈

箕潤

箕丕(否)

箕準 ←衛満に敗れて半島に逃げる。
335日本@名無史さん:2012/06/19(火) 21:58:09.80
きむタンたらまたのおたらんことほざいてるのね

箕子さんはもとのが姫姓だってしらんかったのかい

もっとも句呉のほうも姫姓だけどさ

「大夫伊聲耆掖邪狗」の「伊聲耆」さんは

句呉のなれのはてだって系図とかあるらしいけどね

もれって「大夫伊聲耆掖邪狗」はひとりかなって勝手に理解しちゃってるけどさ
336日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:04:38.29
あっ のぎへんになおってるのね どもども
337卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 22:31:34.54
たしか浜名寛祐は、箕子が殷の王の親戚だというのは嘘だと考証していたように思うが。
実際、桓檀古記でも箕詡は須臾の人となっていて、殷の王とは関係ないようである。
尤も、須臾というのがどこのことかイマイチ分らないのだが。それより、

>「大夫伊聲耆掖邪狗」の「伊聲耆」さんは 句呉のなれのはてだって系図とかあるらしいけどね

こんなのは初耳だから、よろしかったら、お書きになって下さい。
338サガミハラハラ:2012/06/21(木) 07:24:29.94
>>334 浜名という方は、箕子の子は爵位とみているようですが、子は孔子孟子荀子などの子ですよ。
339日本@名無史さん:2012/06/21(木) 09:16:32.55
「水行十日陸行一月」は「水行十日陸行一日」の間違いという説がある

筆で書かれた月と日はとかく間違えやすく、倭人伝の他の部分では「日」で統一しているのに、ここだけ「月」になるのは不自然だから、という理由

仮にそうなら、こんなに揉めることもなかったのにねWWW
340卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 09:37:08.89
>>338
なるほど。

浜名寛祐の名誉のために一言しておくと、
浜名寛祐が子を爵位と解していたかどうかは、実はよく覚えていない。
私はたまにうろ覚えで書くことがあるので。

ところで子はもともと子爵の子に由来するのではないのか?
341日本@名無史さん:2012/06/21(木) 10:26:50.62
子爵の子ではない。男子に対する敬称だ。
342日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:00:06.60

姓名:胥余
  封号:箕
  爵位:子
  世称:箕子
343日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:33:55.54
>>339
>筆で書かれた月と日はとかく間違えやすく

いい加減な奴!
書体比較を勉強してから書け。

「大」と「支」、「北」と「比」では間違えやすい。
しかし、「月」と「日」では間違えようがない。
344日本@名無史さん:2012/06/21(木) 21:02:49.59
「水行十月陸行一年」
345日本@名無史さん:2012/06/21(木) 23:51:47.25
>>343

>書体比較を勉強してから書け。

書体比較なんて、意味を重視しない日本人感覚
346日本@名無史さん:2012/06/22(金) 09:09:48.03
>>345
>書体比較なんて、意味を重視しない日本人感覚

意味を示そう。

水行1日≒1000里≒70km

陸行1月=海行1月=船行1月=1月行≒1000里≒70km

船行1年=船行12月≒12000里≒840km
347日本@名無史さん:2012/06/22(金) 10:31:13.63
1日に70kmも行かないと思うよ
1日限りで漕ぎ手を壊す勢いでやるんでなく長く雇用して壊さないようにしなきゃならない
時速3kmくらいで8時間24kmくらいだろう
渡海はこの限りにあらず
16時間ほぼぶっ通しで漕いで渡ったりしていたかもしれないですね
今の時期なら日が出ている時間が14時間はある
348日本@名無史さん:2012/06/22(金) 10:54:58.56
船の大きさと、漕手の割合ってのもある。
船は速度の三乗で抵抗が増える。

そのため、人間を二倍にしても、速度はわずかしか
早くならない。単純計算で1.26倍程度。

逆に言えば、低速だとかなり楽に続けられる。

大体人の歩く速度程度、ニノット程度が手漕ぎでの実用上の上限。
349日本@名無史さん:2012/06/22(金) 12:42:49.45
帆は?
350日本@名無史さん:2012/06/22(金) 12:44:14.58
潮は
351日本@名無史さん:2012/06/22(金) 12:47:06.95
たいてい水路は陸路より早くて楽とされる
352日本@名無史さん:2012/06/22(金) 13:12:16.11
帆が役に立つ局面や、潮を上手く利用できれば、
非常に楽に航行することができる。

また同時に、これらが上手く利用できない場合、
非常に航行が困難になることも予測できよう。

まさに天国と地獄である。

釜山から松浦までの渡海では、
これらの自然現象を知り尽くしている、
玄界灘の舟手の腕と経験が必須であろう。
353日本@名無史さん:2012/06/22(金) 13:34:24.19
確率としては、

海流と行き先で、「同海流」、「逆海流」がある。
風と行き先で、「同行風」、「逆行風」がある。

1 「同海流」「同向風」であれば非常に楽に航行できるだろう。

2 「同海流」「逆向風」と
3 「逆海流」「同向風」、であれば、苦労する航海になるだろう。

4 「逆海流」「逆向風」、であれば、失敗するだろう。

だから、遣唐使の渡海成功率は3/4の75%なのである。




というのは嘘である。
354日本@名無史さん:2012/06/22(金) 18:36:49.17
水路は荷物を浮かせておけばいいし、地面とちがって坂道とかないから
摩擦だけ考える車輪走行より、摩擦力も少なければ、坂道の考慮もいらない
陸路での移動の何倍も労力を軽減できる
江戸時代において商業船が陸路のそれより何倍も設けることができた。
だから、長州藩とか航行において要所にある藩は関所で儲けることができたわけだし。

>>353
ヨット部が見たら笑うぞ
ttp://www.bgf.or.jp/lesson/yacht/060519y_09.html
355日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:20:14.53
>>354

うふふ…帆にも種類があるんですぜ。横帆とか縦帆とか。
356日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:40:50.23
3世紀にはまだセンターボード、キールが発明されてないから追い風の時だけだな
帆が使えるのは
357日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:23:11.17
たしかにセンターボードがなければ、
ヨットみたいな帆があっても、ただ流されるだけだな。
358日本@名無史さん:2012/06/23(土) 07:13:40.54
当時の船がどの程度の速度だったのかは、倭人伝の行程を考えて計算するのが
もっとも合理的だろう。末盧国(唐津)から東南五百里、伊都国は佐賀市付近
だ。そこから南へ水行20日で投馬国。となれば、投馬国の候補地は川内しか
ないよ。佐賀から川内までおよそ200キロ。1日10キロ前後、そんなものさ。
少ないと思うかも知れんが、海にでたり陸へ戻ったりするからかなりの無駄な
動きがあるはずだ。それに休みもある。十分合理的な数字だ。
359日本@名無史さん:2012/06/23(土) 08:22:04.22
>>357
>たしかにセンターボードがなければ、
>ヨットみたいな帆があっても、ただ流されるだけだな。

センターボードは無くても良い。
喫水の深い船であればよい。
それに、船幅に比べて船長が長ければよい。
たとえば、古代に於いては竜骨船の様な船。

センターボードタイプは水の抵抗を少なくしスピードを上げるのが目的。
特に追い風の場合には、船底が水面を滑空するので脅威的な速度になる。
360日本@名無史さん:2012/06/23(土) 08:37:33.83
「古代においては」って、バイキングの登場までは、キール船は存在しないんですが・・・
361サガミハラハラ:2012/06/23(土) 10:07:59.77
>>342 爵位:子とありますが、ソースはなんでしょうか?
362日本@名無史さん:2012/06/23(土) 10:38:51.06
外洋公開が可能な構造船の製造が、いつどこで始まっかのか?という問題ですね?
それは、今より気候が冷涼だった縄文時代、日本列島でもっとも温暖な地方だった南九州でしょう。
このサイトが詳しいです。

http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/hisho/jaja/08_yamato.html
363日本@名無史さん:2012/06/23(土) 11:10:56.15
センターボードはディンギーのような小型のヨット用、クルーザークラスになるとキールになる
追い風のときはセンターボードは上にあげて抵抗を減らす

364日本@名無史さん:2012/06/23(土) 11:12:24.88
>>361 名前:サガミハラハラ

http://baike.baidu.com/view/363507.htm
姓名
  姓名:胥余
  封号:箕   爵位:子   世称:箕子

http://www.china001.com/show_hdr.php?xname=PPDDMV0&dname=41FDC61&xpos=11
 箕子,名胥余,因封国于箕(今山西太谷县東北),爵為子,故称箕子。
365サガミハラハラ:2012/06/23(土) 11:37:32.74
どうもありがとうございます。
366359:2012/06/23(土) 12:26:01.17
>>360
>「古代においては」って、バイキングの登場までは、キール船は存在しないんですが・・・
>>362
>外洋公開が可能な構造船

外洋航海が可能な船として、キール船でも構造船でもなくても構いません。
船幅の狭い喫水の深い船であれば良いのです。
丸木船でも良いのです。
ただ丸木船の場合は浮力を稼ぐ為に船長の長い船になります。
そして、横波に対しての安定性を稼ぐ為に、波除け板、サイドフロート、
又は双胴船(ダブルカヌー)にする必要があります。

>>362の「舟形はにわ」は、丸木船に波除け板取り付けたタイプになっていますね。
ダブルカヌーにすることも可能な船形にもなっています。トリプルカヌーにもできる形です。
367日本@名無史さん:2012/06/23(土) 12:35:42.80
壱岐が東海の交易ハブセンターとして繁栄していたり
神様たちが毎年出雲にお出かけした割には
掘り起こされた数が少なすぐるよな
消えてなくなるような素材使用して組まれたものが主体なのかなと思ったりする
孔子さんのおことばまじめに受け取ったほうが良いかも

ハイテク筏とかさ
368日本@名無史さん:2012/06/23(土) 12:45:20.10

竜骨の意味も知らん奴が講釈を垂れてるwww
369日本@名無史さん:2012/06/23(土) 14:12:50.33
竜骨:鰐の骨、蛇の骨
370日本@名無史さん:2012/06/23(土) 14:17:45.44
竜骨:爬虫類の骨、恐竜の骨
371日本@名無史さん:2012/06/23(土) 14:58:15.77
ちょっとのおがきたれてあげよお

竜骨ってキールを翻訳したやつで

その構造的な側面と機能的側面で

二重の意味とか持つんだよね

機能的側面からゆうと

キールのシェイプを備えた船はドリフトとか防げるから便利なんだよね
372日本@名無史さん:2012/06/23(土) 15:10:12.42
前進方向を、y方向とすると、
キールやセンターボードは、x方向の動きを抑制する機能がある。
これを利用して、僅かだが風上に進むことができる。
これが無い船は、基本的に風下にしか進めない。
373359:2012/06/23(土) 15:52:56.73
竜骨船
背骨と肋骨の様な構造のある船のこと。
船底に背骨の様な構造が船首から船尾まで走り、
船底の背骨から肋骨の様な構造材が生えている。
肋骨の様な構造材の外面に板を貼り船の外板とする。
キールは船底の背骨の様な構造のこと

船首から船尾まで走る背骨構造(キール)が、水中に出っ張っているので、
ローリング方向の回転横揺れとドリフトが軽減される。

キールがあることで深い喫水がなくても、
ローリングとドリフトが軽減されるので、
水の抵抗が減り船速が上がる。

現代の動力船においては、ドリフト効果は無視して良いから、
より小さなキールを船底の横両端に付けて進行方向の水の抵抗を減らし、
ローリング低減をするだけになっている。
374日本@名無史さん:2012/06/23(土) 16:23:50.22
要するに竜骨なくても逆風での航海はできるということですね
要は船の構造として、水面での移動に、ある一方向にだけ水の抵抗が少ないという特性だけあれば
抵抗力と風の力との合力で風上に進むことが可能なわけだから
375日本@名無史さん:2012/06/23(土) 16:29:12.90
キールシェイプがもたらす機能はフィン等の付加物でもゲットできたりしますね
376日本@名無史さん:2012/06/23(土) 16:37:27.81
要するに、平底でキールやフィンの無い船は、
基本的に追い風を利用するものであり、
自由度があまりない船である。
377日本@名無史さん:2012/06/23(土) 16:55:55.51
キールはバラストでもあるから、これないとセイルで横風受けたらすぐチンするよ

378日本@名無史さん:2012/06/23(土) 17:03:05.62
キールのバラスト効果も効果的だが、
底をV形にするのも、復元には効果がある。

もっとも、当時の船でそんな形状はなさそうだが。
379359:2012/06/23(土) 18:33:01.37
喫水が深く、幅の狭い船は、船の構造自体でキール効果があるので、
竜骨がなくても横方向力に対しての復元効果がある。
しかし、進行方向に対して水の抵抗は大きくなるので、船の速度は遅くなる。

>>362の舟形はにわは、刳りぬき丸木船に横波避けの板を取り付けものである。
船の長さは実際にはもっと長いものであったと思われる。
実際の船の幅は1m以下と思われるので、この幅と全長の比では浮力不足。
380日本@名無史さん:2012/06/23(土) 21:40:32.66
>>379

で、
>古代に於いては竜骨船の様な船。
東アジアに竜骨船の様な船が登場したのは何世紀のことなの?
まさか、明朝を古代とかに区分したりしないよねw
381359:2012/06/23(土) 23:51:05.13
>>380
大型竜骨船が明代ですから、
竜骨船の始まりは南宋代と思われます。
明代や南宋代は竜骨ない構造船(ジャンク)がシナ南部での主流です。

ジャンク以前は、大型丸木船をベースに波除け外板を継ぎ足した準構造船です。
基本構造は>>362の舟型埴輪の様な船です。

竜骨船の様な船
  竜骨船ではないので水抵抗の為スピードが遅い。
  喫水の深い船・・船体が竜骨の働きをする。
  船幅に比べて船長が長い・・船体が竜骨の働きをする。
382日本@名無史さん:2012/06/23(土) 23:59:18.80
>>381

ぷっ!

>センターボードは無くても良い。
>喫水の深い船であればよい。
>それに、船幅に比べて船長が長ければよい。
>たとえば、古代に於いては竜骨船の様な船。

なら、前段3行で終えておきゃよかったね。
竜骨でも無いのに「たとえば」だってさ
383日本@名無史さん:2012/06/24(日) 00:01:54.49
>>382
ま、>381氏も正しい知識がついてよかったじゃんw。
きっと慌てていろんなサイトで勉強してきたんだろうね。
384日本@名無史さん:2012/06/24(日) 00:23:49.03
西都原出土の舟形埴輪をモデルに建造されたのが野生号

385日本@名無史さん:2012/06/24(日) 00:46:36.41
倭人伝のころは野生号ほどの船があったとは思えない。
386日本@名無史さん:2012/06/24(日) 00:48:24.43
日本は喫水の深い船で3世紀から無風の時以外は艪より帆を推進機関に外洋を航行してたわけだ
387日本@名無史さん:2012/06/24(日) 09:03:08.39
準構造船だった野生号は、結局、渡海できなかったけどね。
388日本@名無史さん:2012/06/24(日) 09:27:20.85
古代の倭人は比類なき海洋民族だったろう。
抜群の操船技術をもっていたに違いない。
が、その技術は白村江で断絶し、後世には残らなかった。

後の大和王朝には、その技術は伝世せず、断絶している。
唯一、松浦水軍などの倭寇にその技術は残ったらしい。
389日本@名無史さん:2012/06/24(日) 09:50:47.93
水陸両用でたまに調子がいいときは空も飛ぶ
390三太穴:2012/06/24(日) 10:21:08.62
>>384
>西都原出土の舟形埴輪をモデルに建造されたのが野生号
埴輪はあくまでも埴輪だ。どうデコレーションしてどうデフォルメしているかは分からん。
しかも「平底」をしているところをみると、外洋航海用ではなく祭祀用の川船かも知れん。
(平底の船は水の抵抗が強く非常に遅い)。
中国では周代になると竜骨をもつ船が登場するし、戦国時代の呉越両国には、数10人乗りの櫂つき船が登場する。
これに類する船が、稲吉角田遺跡出土の土器に描かれているように、弥生時代中期には日本列島に伝わっていた。
竜骨を備えたゴンドラ型は明らかに外洋船で、造船技術と操船技術の発達した呉越の影響がうかがえる。
この土器には、ほかに動物、高床式建物、高床倉庫なとが描かれている。

>>385
>倭人伝のころは野生号ほどの船があったとは思えない。
似たような規模の船の線刻画もある。
天理市の4世紀初頭の東殿塚古墳で出土した土器に描かれていた船の絵は、
漕ぎ手が両舷合計で14〜16人乗る計算になる。

>>387
>準構造船だった野生号は、結局、渡海できなかったけどね。
埴輪にそっくりに作って、ど素人の学生に漕がせて、甘い冒険ゲームみたいな実験やって、
それが現実にいかほどに近いというのか。「バカげたことやったものだ」、とみるのが中庸な評価だ。
391三太穴:2012/06/24(日) 10:21:49.93
>>388
>古代の倭人は比類なき海洋民族だったろう。
そうだ。
>抜群の操船技術をもっていたに違いない。
その通りだ。
>松浦水軍などの倭寇にその技術は残ったらしい。
みな、大和朝廷下の倭人だが。

●列島古代人の航海能力
長野県野辺山高原の矢出川遺跡から出土した細石刃石核5点が、伊豆諸島の神津島産の黒曜石でつくられていることが判明している。
また、東京の武蔵台X層文化からも神津島産の黒曜石が確認されている。
@神津島産黒曜石の分布
長野県野辺山高原の矢出川遺跡、長野県奥信濃・野尻湖遺跡群、山梨県横針前久保遺跡、八丈島・倉輪遺跡、
東京都小金井市の荒牧遺跡、神奈川県相模野台地の紬石刃文化期の石器、神奈川海老名市・長ヲサ遺跡。
その他、関東南部・茨城県・静岡県の海岸地域など。
A九州産黒曜石の広がり
九州産の黒曜石は佐賀県の腰岳のものが最も多く、南は沖縄本島から、北は朝鮮半島南部の遺跡でも発見されている。
Bその他
ロシアの沿海州地方の新石器時代遺跡の石片の中に、北海道の白滝産、秋田県男鹿半島産、
島根県隠岐産の黒曜石がそれぞれ確認されている。

これらの事実が伝えるところは、列島古代人の航海能力が優れていたことである。
実に、約3万5000年前頃から海上航海を行なっていたことになるが、これは世界的にみても最も早い部類に入る。
392三太穴:2012/06/24(日) 10:31:22.98
●尾根道。
海上通交だけではない。秋田の「マタギ」が、
山脈の尾根だけを通って秋田から紀伊半島までやってきたという話がある。
しかも以外に早かったそうだ。
なるほど、谷あり沢あり崖ありの山をいちいち登り降りするよりは、
確かに安全で合理的だ。

海洋の民・河川流域の民・平地の民。そして丘陵の民・山岳の民と、
基本的には同じ民族でありながら、
少しずつ生活文化の異なる部族や種族が混在した。それが倭人だ。
その倭人の創造性・独創性・優秀さは、遥か古代にすでに発揮されていたのだ。

我々の遠い祖先に誇りをもって古代史を語れ。
393日本@名無史さん:2012/06/24(日) 10:37:18.17
高い航海能力を持つ倭人、今使訳が通じるのは三十国

394三太穴:2012/06/24(日) 10:50:27.59
ついでにいえば。

朝鮮半島の民は基本的には海洋民ではない。
中国の歴史書をみても、彼らが外海に乗り出したという記録はない。
そんな彼らに、対馬海流を逆走して渡海する技術などあったはずがない。
これは倭人にしかできない。
(長江流域から九州に渡海するには20時間もあれば足りる。
そうやって東を目指した人の中で、稀に五島列島をすり抜けて半島南岸に到達するのがいた。
これらは倭人と同じ民族だ。彼らが半島南部の倭をつくったものだろう)。

稲作だけではない。半島南部の支石墓も、中国南部のものが九州に伝わり、
そこから半島に伝わったという見方が定着しつつある。

現代の地図俯瞰による距離的な近接関係から
「何でも半島渡り」とする安易な言説が長く幅をきかせてきたが、 
弥生時代までの半島の文物や人は、みな倭人が倭人の船出運んだものと見たほうがいい。
395三太穴:2012/06/24(日) 11:20:53.31
長江河口から九州までは、九州から東京までとほぼ同じ900km程度である。

日本人とその文化の主流が長江河口からきた可能性について。
「長江を下って東シナ海に出れば、偏西風と黒潮に乗ることができる。
黒潮の流速は、本州南方で最も速く3〜5ノットに達し、
この流れに乗れば容易に日本に到達する。
舟山列島を春から夏に出た船は、南西風と対馬海流に乗って五島列島につく。
昭和19年3月、ジャンクで日本に帰った山手元枝氏の経験によると、
20日夜半、舟山島を櫓で漕ぎ出したジャンクが、舟山島沖合で潮に乗ると同時に帆をあげると、
一路、東に向かって走り出し、翌日昼ごろ五島列島を横切り、日暮れに唐津港に投錨したという。
わずか20時間ほどで東シナ海を横断できる。
秋から冬の間に出た船は、舟山群島沖を南下する寒流と西北風によって黒潮に乗り、
九州南端の野間岬とか紀州南端の潮岬などにつく」。 
(『四川と長江文明』古賀登・東方書店)

稲作をはじめとして、これに関連する鳥居・しめ縄・千木などの信仰文化はむろん、
衣食住にまつわる生活文化のほとんどが長江流域諸民族のそれに共通する。
誰もが知る環濠集落も棚田も高床式住居も、支石墓、土盛り墳墓(墳丘墓)、船形木棺、銅鐸も、
神獣鏡に代表される銅鏡までもが、ことごとく長江流域にルーツをもつ。
そして、極めつけは「黥面・文身・お歯黒・無文字文化」だ。

史実を直視する勇気を発揚してもらいたい。
古代の日本列島における大陸文化の圧倒的大多数は、半島経由ではなく、
東シナ海を超えて直接やってきた。
記録文物もないし見たこともなかったろう遥か古代において、
「太伯の末裔」と称する伝承と知識を倭人がもっていた事実は、実は驚嘆ものなのだ。
396卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/24(日) 11:29:52.41
伊作よ、高句麗や百済が呉越の地方まで進出していたという記録があるぞ。
397日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:31:21.59
全世界で約6万基の支石墓が報告されているが、朝鮮半島には3万弱の支石墓があるといわれている
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西部に分布する
全羅北道を境界に高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」
日本の支石墓は小型で碁盤式、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる

398日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:31:36.55
900キロを二十時間でつくためには、
時速45キロ、24ノットで行かにゃならんわけだが、

ケタか単位間違ってないか?

ヘタしたら、軍艦の戦闘最大速度並だぞ。
戦艦大和の公試最大速度が27ノットくらいだったかな。
399日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:34:37.53
周代に竜骨船だってさ。
いさくが、またまた歴史の捏造をはじめましたw
400日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:36:37.96
それも伊作迷言録(伊作スレ)に保存しとこう。
401日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:37:42.04
戦艦大和でも戦闘最大馬力は、そうは続けられないので、(機関が焼きつく)
大和でも休ませないと、その時間では移動できない。

また、これは全開で燃やしている時の出力なので、多分先に燃料が切れる。
402日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:39:24.64
駆逐艦なら瞬間的に30ノット出せるものもあるが、
燃料搭載量が少ないので、補給艦から時々補給を受けなければならない。
403日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:40:58.22
ついでに、遣唐使南路の直接上海に行く航路では、
20日位が平均。

早い時は8日という記録がある。
404よか男:2012/06/24(日) 11:42:07.20
「野生号」「野生号」とうるさいので、もう少しはっきりいってやろう。
あれは・『野生時代』 とかいう新刊本の宣伝キャンペーンとして、
出版社が企画したイベントだ。純然たる考古学的実験と錯覚するな。
いかに思考深度と思考領域の足りない素人とはいえ、
不特定多数に向かって意見を発信する前に、
もう少し「ものの道理」をわきまえ「見極め」をつけることだ。

きょーは・これくらいにしといたらー。
405日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:42:15.79
算数は苦手です
406日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:46:24.70
>>395

伊作よ。
最近知って、それがお気に入りなのかもしれんが、
60年以上前から、ほぼ定説とされてる考えだよ。
ま、最近じゃ、朝鮮氏が言うとおり黄海ルートの存在も確立していて、
複層的な渡来ルートの存在も認められるけどな。

文献学以外の分野では、常識的、基礎的知識なんだから、そんなエラそうに長レスかまされても迷惑な話だw

407日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:48:23.27
どうも、伊作氏は数値をいじることはしても、
その数値が実世界でどういう意味を持つかに、
むとんちゃくなところがある。

船の速度や重量、漕ぎ手の人数など、
妥当な数値ってのは案外狭いもんなんだぜ。
408日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:56:37.99
伊作号沈没
409日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:00:02.47
伊作はまだ2ch書き込みがやめられんのか
自ら3流と公言しておるようなものだな
孤独だのう
410日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:05:01.90
>>407 

飲み屋によくいる安っぽい薀蓄たれて悦にいってる独りオヤジみたいなもんだ。
周りがふんふんと聴いてくれてるそぶりさえ見せれば、自分の言ってることの中身なんてどうでもよいのさ。
「アンタ、そりゃ違うだろう」と指摘されたりしたら、ファビョって喚き散らして、あげ句はお出入り禁止。
自宅で独り酒(MYサイト)をやっても訪ねてくるものもいない。
そんなことを続けた末に、流れ流れて場末の立ち飲み、2ch酒店に居付いちまったわけだw
411よか男:2012/06/24(日) 12:16:06.08
閑古鳥が泣いてるところへ、ちょつと投稿すれば、
飢えたヤブ蚊のように昼間っからウンカのごと集まってきたぜ。

>>397
>中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西部に分布する 全羅北道を境界に
>高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」
半島南部のものは南方式で九州のものと共通する。
中国では、北方式の支石墓を箕子朝鮮の時代に求める人もいるようだ。

>>398
>ケタか単位間違ってないか?
偏西風と黒潮に乗ったという話だろ。
瞬間的にはもっと早いかも知れん。一元的な話など意味はない。

>>399
>周代に竜骨船だってさ。
おっ。そうか、周代に登場したのは楼船だったな。ありがとよ。

>403
>遣唐使南路の直接上海に行く航路では、
偏西風と黒潮に乗った場合と逆の場合を比較してどうするか。タコ

>>406
>最近知って、
最近判明した事実がほとんどだ。
>60年以上前から、ほぼ定説とされてる考えだよ。
今さら知ったふりか。よくいる嫌なタイプだな。
具体的にどれとどれが60年前から判明してるか挙げてみろ。
412よか男:2012/06/24(日) 12:18:47.56
続・飢えたヤブ蚊退治。
>>397  >中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西部に分布する 全羅北道を境界に
>高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」
半島南部のものは南方式で九州のものと共通する。

>>398  >ケタか単位間違ってないか?
偏西風と黒潮に乗ったという話だろ。一元的な話など意味はない。

>>399  >周代に竜骨船だってさ。
おっ。そうか、周代に登場したのは楼船だったな。ありがとよ。

>403  >遣唐使南路の直接上海に行く航路では、
偏西風と黒潮に乗った場合と逆の場合を比較してどうするか。タコ

>>406  >最近知って、
最近判明した事実がほとんどだ。
>60年以上前から、ほぼ定説とされてる考えだよ。
具体的にどれとどれが60年前から判明してるか挙げてみろ。

>>407  >どうも、伊作氏は数値をいじることはしても、
ん? 俺が独自に何か数字をいじったか? 提示した数字は出典を併記したはずだが。

>>409  >伊作はまだ2ch書き込みがやめられんのか
なんのなんの。閑古鳥が泣いてるところへ集客率ナンバーワンが投稿すれば、
昼間っからウンカのごと集まってきたじゃないか。笑ってしまうぜ。
てめえらこそ、ネタ不足・手持ちぶさたな暇人ってことだ。笑ってしまうぜ。

>>410  >飲み屋によくいる安っぽい薀蓄たれて悦にいってる独りオヤジみたいなもんだ。
てめえは、只見・只飲みの「無銭飲食の常習犯」ってところか? わらわら
413日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:20:42.18
30年も前であれば伊作ごときにも信奉者もついただろうが
邪馬台国ブームももはや遠い彼方だ
ネットでいくら吠えようが所詮はネットでしかない
論文で学会に斬り込んでいく気概もなく
このまま寿命を待つばかりか 哀れな
414よか男:2012/06/24(日) 12:21:57.25
なんだかんだと・かっこつけたことをいいたがる
2ちゃん覗くしかやることがないWEBホームレスども。

きょーは・これくらいに・しといたらー。
415日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:27:28.04
>>390

> これに類する船が、稲吉角田遺跡出土の土器に描かれているように、弥生時代中期には日本列島に伝わっていた。
> 竜骨を備えたゴンドラ型は明らかに外洋船で、造船技術と操船技術の発達した呉越の影響がうかがえる。

これもコピーものだなw
運河での小回りが要求されるゴンドラは典型的な平底船だ。
>>391なんかもそうだが、水切りが必要な船首部分の形状だけを見て、それが水面下まで続いていると早とちりする奴が多すぎ。
416よか男:2012/06/24(日) 12:36:23.90
>>413
>30年も前であれば伊作ごときにも信奉者もついただろうが
これからだ。

>邪馬台国ブームももはや遠い彼方だ
ブームなど問題ではない。

>論文で学会に斬り込んでいく気概もなく
かっこいいことをいったつもりなんだろうが、それこそ無知がいうことだ。
おまえバカ丸だしだぜ。
素人意見など黙殺する学会に何かを期待するほど俺は馬鹿じゃないぜ。
お前らが巣食うこうした「最底辺」を、素人なりに俺の言葉で意識改革してるのよ。
殊勝な心がけだろう。ど素人のくせにお高くとまるほどバカでもないんだ。

>このまま寿命を待つばかりか 哀れな
そうやって、何の価値も意味もない文言を書くだけのお前こそ哀れだぜ。
情熱もなければ・格別「これ」といった目的もない。惰性でやってる。
そういうのをゴミクズというんじゃないのか?
417よか男:2012/06/24(日) 12:45:09.45
>>415
>運河での小回りが要求されるゴンドラは典型的な平底船だ。
ゴンドラ型は平底船だと誰が決めたんだ?
そもそも、土の下から出た埴輪をそのまま再現して、
平底の船をつくって外洋実験したバカさ加減の指摘に始まった話だぜ。
だから、平底は水の抵抗が強く・重くて・遅いといったろ。
俺がツラ出す前に、なんで「そこ」を指摘しなかったんだ。この野郎

>水切りが必要な船首部分の形状だけを見て、それが水面下まで続いていると早とちりする奴が多すぎ。
稲吉角田遺跡出土の土器に描かれている船はゴンドラ型で明らかに外洋船だ。
418よか男:2012/06/24(日) 12:48:03.19
………それにしても。
てめえで話題を提供するでもなし、客を呼べるわけでもなし。
ただ、他人の投稿を待ち受けて、
知ったふりできそうな所へ食いついて衒学したがタコばかり。

ウンカのごとくタカってくる様なんざマンガだぜ。
419日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:04:39.85
>>417
>稲吉角田遺跡出土の土器に描かれている船はゴンドラ型で明らかに外洋船だ。

大型のカヌー型で、帆もないし、どうみても外洋ではなかろう。
420日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:07:29.39
ついでに、カヌー型は復元性が悪くて、喫水が低いから、外洋には向かない。

復元性については、棒を渡して双胴型みたいにしたのを見たことないか?
あれは復元性が悪いから、そうせざるをえないのだ。

くるんと回ったら戻れない。
421よか男:2012/06/24(日) 13:14:19.88
>>419
>大型のカヌー型で、
カヌー型の外洋船なんざ、世界中でザラにあるぜ。

>帆もないし、どうみても外洋ではなかろう。
帆がなければ外洋船じゃないと決まってるのか。
「カヌー型は外洋船じゃない・帆がなければ外洋船じゃない」と、
勝手な結論をならべるのではなく、反論らしい体裁をととのえてからやれ。
422よか男:2012/06/24(日) 13:15:34.45
それから。
>>406 のハナもちならない知ったフリ野郎に。

「民族の伝統的文様文化に息づく信仰的精神性」という視点から、
日本人の源流について「最近」俺が明らかにしたものだ。

日本人と稲作の源流については、
長江流域とする説がさまざまな角度から唱えられてきたが、
今回の試みがそのことをより確定的にした。

お前みたいなヤブ蚊とは七味も違う天才の片鱗をみれ。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011
423よか男:2012/06/24(日) 13:21:32.90
>>421 訂正とついしん。
カヌー型やゴンドラ型の外洋船なんざ、世界中でザラにあるぜ。

それから。
平底で帆のない野生号で外洋航海実験をした学者とその一味に対する批判こそ、
お前がここでやるべきだったのではないか。俺がツラを出す前に。
そうすれば俺がツラをだすことはなかったのだ。腹が立つ

そのくせ、俺の意見のディティールに食いついて、
知ったフリして「まとわり」ついてきやがる。
そうまでして俺とかかわりたいのか、俺をやり込めたいのか。タコが
424日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:36:28.31
>>423

野生号で全力で漕いで3ノットくらい。
そして、とうとう手漕ぎでは渡れなくて、
動力船に引っ張ってもらってというあの話か?

まあ、そんなもんだろ?、と言う感想しかないがな。

900kmを20時間で行くなどという、非常識な話よりはまともだろ。
その話を批判されていないはずはないと思うんだがな。
425よか男:2012/06/24(日) 13:46:26.49
>>424
>900kmを20時間で行くなどという、非常識な話
お前、いったい何を否定したんだ?
事実は、お前の常識を遥かに凌駕している。それだけのことだ。

長江河口の沿岸漁民は今でも「沖に出て黒潮に乗れば簡単に九州に行ける」
「漂流すると必ず日本に流される」という。
そのルートでやってくれば、潮流の関係で有明海や五島列島あたりに到着する。
現在でも、(さほど騒ぎにはならんが)長江河口の漁民の漂着はあるんだぜ。
この現実を前に、船がどうだ、大きさが・帆が・時間がなど意味はない。
426日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:51:58.17
>>425

黒潮は早い所で3ノットくらいだぜ。
時速45キロ、24ノットなら、あと21ノットほど出さねばならん。

ちなみに、カティーサークで、最高記録の平均速度17ノットな。
427日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:53:28.32
ちなみに、20時間での平均速度が24ノットだから、
瞬間的には30ノットくらい出さなければならないかもな。
428日本@名無史さん:2012/06/24(日) 14:01:01.81
あと、日本近海で違法操業している中国漁船の中には、
何台もエンジンを積んで、30ノット以上出せて、
巡視船を振りきれるようなものもある。

そして、たまに耐え切れず自壊して沈没する船もある。

それだけの速度にはそれだけの大馬力が必要なのだ。
429三太穴:2012/06/24(日) 14:25:37.31
>>424 >>426 >>427 >>428
行き違いがあることに気づいた。

@ 春から夏に出た船は、南西風と対馬海流に乗って五島列島につく。
A秋から冬の間に出た船は、舟山群島沖を南下する寒流と西北風によって黒潮に乗り、
●春から夏には「南西風と黒潮に乗る」、秋から冬の間は「寒流と西北風に乗る」と、
条件が前置きされている。これが、長江河口からの渡来の可能性をいう文言。
古代人たちが東シナ海を渡ってきたことは事実だが、どんな船出・どれだけの時間をかけて渡ったのかまで言及することはできない。

B 20日夜半、舟山島を櫓で漕ぎ出したジャンクが、舟山島沖合で潮に乗ると同時に帆をあげると、
一路、東に向かって走り出し、翌日昼ごろ五島列島を横切り、日暮れに唐津港に投錨したという。
わずか20時間ほどで東シナ海を横断できる。 (『四川と長江文明』古賀登・東方書店)

山手元枝氏の経験談はジャンクだから帆がついていたのだろう。
これは、「古代人たちが東シナ海を20時間で渡った」ということではない。
このあたりに誤解あるだろう。俺のサイトも誤解が生じないよう一文追加しといた
430日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:18:29.35
Bは昭和19年のことらしいが、
帆とエンジンを使ったハイブリッドではなかろうか?

初期の軍艦でも、帆とエンジンのハイブリッドは多かった。
咸臨丸とかの明治初期はほとんどがそういう形態。

帆だけで24ノットを出すのは、巨大な帆を持った、
専用の帆船ですらなかなか不可能。
431日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:26:25.73
どの程度のジャンク船かも書いてないくらいだから古賀登氏の勘違いかもしれん
432日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:42:06.56
いずれにせよ呉越は滅んだ後九州北岸、南岸、紀伊に渡った者たちは少なくなかろう
有明海の水行にはとんでもなく時間がかかるらしいから、有明海沿岸には行ってなかろうな
433三太穴:2012/06/24(日) 17:37:27.36
とりあえず。
俺が最初に書いた通り、河川用の儀仗用か祭祀用にデコレートした平底の船を、
埴輪からそのまま復元して、アルバイト学生に漕がせて外洋航海実験をした野生号の件を、
古代人たちの外洋航海の方法や航行速度の史料にするバカさ加減は分かったわけだ。

じゃまた・朝鮮の妄想書き垂れ閑古鳥スレに戻れ。
434日本@名無史さん:2012/06/24(日) 19:21:24.23
>>417
> >>415
> >運河での小回りが要求されるゴンドラは典型的な平底船だ。
> ゴンドラ型は平底船だと誰が決めたんだ?

オマエが決めることなのかw

> そもそも、土の下から出た埴輪をそのまま再現して、
> 平底の船をつくって外洋実験したバカさ加減の指摘に始まった話だぜ。
> だから、平底は水の抵抗が強く・重くて・遅いといったろ。
> 俺がツラ出す前に、なんで「そこ」を指摘しなかったんだ。この野郎

馬鹿かw
流れは竜骨構造を持たない古代中国船の航行能力についてではあったが、
その中で「野生号」の話はただの「ネタ」だ、笑うところでマジレスするの2chでは約束違反w

> >水切りが必要な船首部分の形状だけを見て、それが水面下まで続いていると早とちりする奴が多すぎ。
> 稲吉角田遺跡出土の土器に描かれている船はゴンドラ型で明らかに外洋船だ。

話をそらすな。
かってにゴンドラに竜骨を付けちまった落とし前をちゃんとつけろ。
ゲス野郎がwww
435日本@名無史さん:2012/06/24(日) 19:33:51.10
>>431
> どの程度のジャンク船かも書いてないくらいだから古賀登氏の勘違いかもしれん

古賀さんは、もともと古事記など神話学の分野の人だよ。
主な活動期は、20世紀の中半。
項成し遂げた齢80になって出版した本の資料なんて、人任せでノーチェックだと思うよ。
436日本@名無史さん:2012/06/25(月) 13:23:31.06
上海ー九州フェリーで20時間だね。
437日本@名無史さん:2012/06/25(月) 16:21:03.13
>>425
結構船足の速い瀬戸内海のカーフェリーででも、450キロを12時間かかってるのに。
438日本@名無史さん:2012/06/25(月) 16:30:47.69
>>425
じゃあ、なんで、鑑真和上は5回も来朝航行に失敗してるの?
吉備真備の帰朝の際には、船団4艘中3艘も行方不明なの?
平群広成は唐からの直接帰国に失敗して渤海経由で帰朝してるの?
阿倍仲麻呂は二度も安南の知事に任命されてるけれど、帰朝航海に何度も失敗しているよ。
長江は、首里長安城と安南の間にあるよ。
439日本@名無史さん:2012/06/25(月) 16:31:18.17
伊作によると帆と手漕ぎで、900キロを20時間でいけるらしい。
440日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:42:13.34
鑑真は会稽に向かったの?
吉備真備は半島ルート?
どちらも海流に逆らうルートだね
441日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:56:13.88
>>440
何言ってんだ
442日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:04:13.38
>>440
じゃあ、なんで、古くから長江河口から九州の西ッ側へ簡単に渡るルートが知られているのに、
なして、吉備真備はわざわざ半島ルートで帰ろうとしたの?
あまりにも阿倍仲麻呂の帰朝が遅いから渤海国から渤海使に便乗して帰ってこいなんて
呼び声がかかるの? 渤海国使の航路って、今のナホトカ〜敦賀航路とかなり近いよ。
阿倍仲麻呂、長安と安南との間を少なくとも二往復してるよ。長江は4回は渡ってるはず。

443日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:18:24.25
>>438
>じゃあ、なんで、鑑真和上は5回も来朝航行に失敗してるの?

遣唐使船の航海技術が未熟たっただけでなく、
九州王朝水軍残党による航路妨害を避ける為の航路をとったから。

8世紀にはいると、九州北西海岸及び西海岸沿岸には旧肥水軍と旧筑紫水軍(後の松浦党)がおり、
彼らは畿内朝廷の船を襲い、たぶん乗員全員虐殺したと思われる。生還者の記録が無いから。
玄界灘沿岸からの渡海ルートは不可能になり、遣唐使船は薩摩坊津からの出発帰着となったのだ。

遣唐使船の航路が対馬黒潮等で九州西海岸にずれると九州王朝残党水軍の襲撃に逢ったのだ。
帰路は特に、九州西海岸沿岸に近づくことを避けるために、
南よりの航路をとるので、琉球か太平洋上に流され易くなる。
>>425が書いている様に、自然に任せると対馬黒潮により、どうしても九州西海岸か対馬海峡に流されてしまう。

遣唐使の船団の7〜8割は、九州王朝残党水軍に殺されるか、
太平洋上に流れてしまうのが実情であったのだ。
444日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:20:57.07
こらこらwww
445日本@名無史さん:2012/06/26(火) 08:09:32.61
鑑真来朝は天平の時代だよ。帝は聖武天皇だよ。九州王朝の残党とか何を寝言ほざいてんだか。
日本武尊に熟瓜のように裁たれてどんだけ経ってんだか。
446日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:18:49.06
>>445
あんたが寝言

九州王朝水軍残党の活動が始ったのは8世紀初頭から。

大和朝廷が太宰府に軍を駐屯し(701年)、九州各地の九州王朝残党狩りを始めた為。
駐屯大和朝廷軍は、内陸部の九州王朝残党に対して716年頃には犯罪者として処分できたが、
九州西海岸沿岸(肥前・筑紫)の九州王朝水軍残党に対してはその反撃を阻止できなかった。

その為、遣唐使の渡海の出発地は、博多湾から薩摩坊津に変えたのである。
出発地の博多から坊津への変更は、716年出発の遣唐使派遣から。
702年の遣唐使は博多出発。
447日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:38:25.16
つーか、そもそも残党っていたんかね?
そのまま、新王朝に組み込まれたような雰囲気だが。

人口それなりにあるから、残党狩りしてたら、
一時的としても、プチ戦国になってもおかしくないと思うが?
448日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:44:30.52
ちょっと質問したいんだが、邪馬台国が九州にあったにしろ関西にあったにしろ
当時は両方の地域に近い規模の集落があったってことでいいの?

それとも勢力差はかなりあったの?
449日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:44:44.30
九州王朝の残党が畿内王朝の船を見つけては襲撃していたので遣唐使の成功率が低い
って説は昔からあったが教科書なんかでは一言も触れられてないな
証拠がないただの説なんだろう
450日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:34:32.02
>>446の間違い修正
誤 :その為、遣唐使の渡海の出発地は、博多湾から薩摩坊津に変えたのである。
   出発地の博多から坊津への変更は、716年出発の遣唐使派遣から。
   702年の遣唐使は博多出発。

正 :その為、遣唐使の渡海の出発地は、博多湾から薩摩坊津に変えたのである。
   出発地の博多から坊津への変更は、733年出発の遣唐使派遣から。
   702年、716年出発の遣唐使は博多出発。

733年出発の遣唐使は大和朝廷だけの選抜メンバー。
702年、716年出発の遣唐使メンバーには旧九州王朝出身者がいる。
701年から716年までは、旧九州王朝の親大和朝廷派が豪族として筑紫に居たからだ。
九州王朝と大和政権との並立は、700年に薩末比売が大和政権の捕虜(九州王朝の消滅)となるまで。

>>447
701年から716年までは、新王朝大和朝廷に組み込まれ元九州王朝の豪族として残ったが、
716年に新王朝大和朝廷の犯罪者としてのあつかいになり、九州王朝は完全に滅亡した。
しかし、西九州沿岸部では新王朝大和朝廷の支配が行き届かなっかた為、
九州王朝残存勢力は、ゲリラとして残ったのである。これが後世の松浦党。
そのゲリラの標的が遣唐使でもあったのである。
451日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:09:52.75
そういや、大化の改新って、九州年号の大化とすると、しっくりするんだよなあ。
その直後に、大和朝廷の怒涛の国家整備が始まるから。
452サガミハラハラ:2012/06/26(火) 22:14:34.58
しかし、都から坊津へはどのようにしてかよわれたのですか?
453日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:50:54.81
>>450

壬申の乱はどう見る?

白村江で九州王朝主力壊滅、唐の駐留により九州から敗走。
畿内勢力に身を寄せる。

九州王朝系につく勢力と、大和朝廷系につく勢力で壬申の乱。
外部の支持をなくした壬申の乱の負け組が、大化の改新で
消去される。

こんなかんじで、九州王朝残党と、その支持派、
そして大和朝廷とその支持派の戦いを、壬申の乱に当てているのだが。
454日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:12:40.51
>>452
記録があるが、何なのか忘れた。

難波津⇔茅渟の海⇔紀淡海峡⇔紀伊水道⇔土佐沖⇔日向灘⇔都井岬沖⇔佐多岬沖⇔薩摩半島沖⇔坊津⇔東シナ海渡海⇔杭州湾付近
455サガミハラハラ:2012/06/27(水) 08:26:17.09
なるほど、瀬戸内海航路(海賊が跋扈)は徹底してさけたわけですね。
456日本@名無史さん:2012/06/27(水) 10:09:07.13
>>453

横からで申し訳ないが、白村江敗戦後の九州王朝は以下の二つに分かれたのでは?

1:唐の指図に従って、九州王朝を唐の傀儡政権として再興しようとする勢力
2:朝鮮半島で新羅に完敗中である唐の足元を見て、唐敵対政権として九州王朝を再興しようとする勢力

結局2の立場だった大海人皇子が、畿内を拠点に移して(壬申の乱)、唐と敵対する独立国家の道を選んだ。
457日本@名無史さん:2012/06/27(水) 16:14:09.36
0:唐の侵攻前に、首都を大宰府から畿内に移そうとした勢力
1:唐の指図に従って、九州王朝を唐の傀儡政権として再興しようとする勢力
2:朝鮮半島で新羅に完敗中である唐の足元を見て、唐敵対政権として九州王朝を再興しようとする勢力

0の立場は中大兄皇子
1は外部の支配を甘んじて受ける消極的な集団 唐進駐軍の破壊活動も見て見ぬ振り。
2の立場は大海人皇子
先発の0と後発の2の衝突が壬申の乱

壬申の乱は九州王朝の天子(天王・兄王)と無関係。
九州王朝の天子の九州から大和への公式移動は674年

大化の改新は、九州王朝天子の暗殺695年から696年の事件。
畿内王朝の成立。697年〜700年
再興九州王朝の成立。697年〜700年

大和朝廷の成立。701年〜
458日本@名無史さん:2012/06/27(水) 16:57:56.68
>>456 >>457

いいね、イメージに近いし、大化の改新、壬申の乱、大宝律令、
九州年号、大和年号、そのほかの大和朝廷の活動が無理なく説明できて、
理にかなっている。

細かい部分を論証するには時間も力もないから、
参考にさせてもらうだけだけど、おなじように、
実在の歴史とリンクする考え方を見て、
自信を持った。
459日本@名無史さん:2012/06/27(水) 17:00:43.74
これらを細かく整合、検証させていって、
動かされた年号や事件、そのままのものなど、
矛盾のない歴史が見えてくると楽しい。
460日本@名無史さん:2012/06/27(水) 17:08:39.07
九州王朝自体が最大の矛盾だろw
461日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:02:37.99
あれか
大和のが山門のぱくりで
阿礼さんから山門の系図まで買収していたとなると
嘘山門の大和の方は
まるっきり酋長さんのお名前さえ残されていないのか?
462日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:26:53.68
大化の改新の詔(wikipedia)

罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。
初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河。
初造戸籍計帳班田収授之法。
罷旧賦役而行田之調。

現代語訳:

従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、
そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。

初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、
駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。

初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。

旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。



九州王朝からの決別宣言とすれば、これほど納得できる文章もないな。
463457:2012/06/27(水) 18:36:49.75
間違い発見

誤::九州王朝の天子の九州から大和への公式移動は674年

正::九州王朝の天子の九州から大和への公式移動は684年
464日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:47:26.54
>>446
磐井は国造で地方官だろ。何が王朝だか。まつろわぬ熊襲と違って既に支配下に組み入れられてるわな。
465日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:50:56.67
>>464
ウン十年前の教科書から一向に進歩しないのな。
466日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:51:43.18
>>454
土佐沖のような航行しにくい海を通るのか?干満に合わせて
難波から日向までは潮待ちすれば何の労力もなく往還できる瀬戸内海の航行ではないのけ?
467日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:56:43.16
>>462
部族社会から、中央集権への移行。
朝廷の支配強化だろ。

上代から古代に移行するにあたって、世界中、どこの地域でもやってるわな。
468日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:59:41.79
>>466
だよな
日向から難波までは方向調整の労だけで良い外洋航海に利があるんだろうが
逆は干満で海流が変わる瀬戸内海を通る方が楽に航行できるよな
瀬戸内海の治安が悪かったとか相当の理由があったんだろうな
469日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:04:03.19
筑紫の君、磐井や薩夜麻は筑紫の君であって、天子ではない。
周囲と比べれば有力な王だろうが、筑紫一国の王にすぎない。
470日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:08:47.40
>>464
九州発で連続する年号の始まりが「継体」からスタートだからさ
「継体」さん自体が九州の酋長とゆうことにはなるがな
「継体」さんまでぱくっちゃってるんだから
記紀エディターてほんとに悪よのお
471日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:11:51.36
根拠もない妄想を真に受けた可哀想な人ですね。
472日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:18:56.15
九州年号と思われる年号が各地の古文書などで500件ほど出てくる。
それ以前に、奈良時代以前の「白鳳時代」の白鳳が正史に存在しねえ。

誰だ、白鳳時代なんて名付けたのは!!
473日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:23:50.26
日本最古の条坊制都市、藤原京は、676年に着工し、694年に遷都されたとされる。
474日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:29:31.28
>>469
>筑紫の君、磐井や薩夜麻は筑紫の君であって、天子ではない。

その通り、シナで言うとろの天子ではない。
磐井や薩夜麻それに多利思北孤は日王(弟王)。

煬帝が理解できなかった様に、倭には2人の天子がいた。
天王(兄王)と日王(弟王)。
夜の天子と昼の天子だ。
475日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:33:33.42
ほんとうはそのうえに雞彌(きみ)がいて女王蜂みたいなことしてたんだろ
476日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:37:49.37
>>474のは文盲の久米氏だってよめた
477日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:43:15.56
ほとんどの天皇の立ち位置と同じで、

実際に地方をまとめる王と、
全体を宗教的にまとめる天子がいた。

地方の王は地元のしがらみがあるから余り動けないが、
看板の要素が強い天子は、受け入れ先があれば移動できる。

天子は九州から畿内に疎開した。

だから、各地に豪族がいても、比較的戦争を起こさずに、
遷都する事が可能。
478日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:43:51.09
>>472
九州年号と思われる…だからその根拠がねーだろw
479日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:45:30.82
>>478

つ二中歴
480日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:51:20.51
所詮は九州脳w
481日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:53:46.71
>>477

当時の天皇にどのくらい権威があったかわからんが、
看板を地元に引き入れるのは引き受けた豪族に有利だったろうからな。
482日本@名無史さん:2012/06/27(水) 19:57:06.61
無論、筑紫豪族も平常であれば、天子を引き渡すはずはない。

白村江による大敗北で、手放さざるを得なかったと考えるべきだろう。
483日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:38:26.47
紀における景行天皇の討伐記
大分県宇佐市、福岡県田川市、同北九州市、大分県速見郡、同竹田市を討ち
日向國高屋宮にて議討熊襲、襲國の厚鹿文、?鹿文、球磨郡、葦北郡、玉名郡を討つ
これはほぼ九州全域に渡っていてもはや別王朝レベル。
484日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:45:24.20
磐井の主要領域は侵略できていないのが重要
485日本@名無史さん:2012/06/27(水) 21:11:57.28
>>483
その時代は九州は平定できてないよ。あたりまえじゃん。
486日本@名無史さん:2012/06/27(水) 21:50:06.65
景行天皇の次の成務天皇はよくわからんが、
仲哀天皇は宗像から北九州が本拠地。
神功皇后は糸島から福岡市全域が本拠地

あ、景行天皇の本拠地は、久留米高良大社で、
ほぼ磐井の所。

これで九州全クリアかな?
487日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:02:33.16
毎日階段上るの大変だな、健康にはいいか
488日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:31:03.17
神功皇后は大和の葛城地方生まれだけどな。
489日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:43:28.18
景行、成務、仲哀と神功皇后の実在可能性は低い。
490日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:46:56.01
むしろ、このへんは九州の豪族の話が、
記紀に組み込まれたというべきだろう。
491卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/27(水) 23:04:22.86
君らの妄想に水をぶっかける。

大夫は百済の階級
難升米は百済人
大率は百済の官
492蘇我入鹿:2012/06/27(水) 23:09:59.62
宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!

http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/
493日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:24:22.20
九州内の話をくっつけた感が拭えない
新羅侵攻なんかは北九州倭国のやったことを畿内がくっつけた分がかなりあるだろ
途中からは畿内によるものもあるだろうが
494日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:30:00.04
「アマ タシリヒコ」は九州王朝の男王か?
495日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:49:13.68
ご先祖が上哆唎・下哆唎の領有権とか持ってた「タリシホコ」な
496日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:51:55.97
〜ヒコは九州の人物の名じゃないけどな。
497日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:56:10.44
「タリシホコ」のは
哆唎國守(國主)穂積臣押山(石山)とあるひとの子孫だろ
このひとの別名は委意斯移麻岐彌(ゐ・いしいまきみ)とあるけどね
498日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:59:07.23
「タリシホコ」は九州王朝の日王(弟王)天子
499日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:01:50.44
「男弟王」とゆうのはリアルな弟であるとゆうことではないらしいよな
500日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:20:22.13
倭王武によると九州は討たれる存在、衆夷なんだから
王朝はない。勿論畿内へ東遷なんて有り得ないだろw
501日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:24:48.14
>>499
「倭王以天(天王)爲兄(兄王)、以日(日王)爲弟(弟王)、
 天(天王)未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟(弟王)」
502日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:30:31.34
『宋書』列傳 夷蠻
とゆうやつは
どのような夷蠻がどのように分布とかしていて
先方とどのような交流があったのかとゆうのがかいてある
その夷蠻のなかのひとつが倭國であってからに
倭國のひとは分類上は「夷」ないし「夷人」「東夷」にあたるわけよね
そこのの「夷」の東方に分布して生息しちょるのが「毛人」にあたるわけさ
503日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:33:00.15
むつごろうの子はりゅうほうさんが単于さんの弟だったとかてしらんの?
504日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:01:05.14
自分の出身の国を夷扱いなんてしないな。
505蘇我入鹿:2012/06/28(木) 01:06:18.54
九州+朝鮮半島南部=九州王朝(熊襲王朝)でOK?
熊襲は記紀の捏造名?

宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!

http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/

506日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:49:38.18
タラシ朝の一族

景行天皇:
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇

成務天皇:
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと)

仲哀天皇:
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇

神功皇后:
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・
大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后

久留米高良大社:高良玉垂宮
大善寺玉垂宮
507日本@名無史さん:2012/06/28(木) 02:04:47.51
高良玉垂宮の祭神、高良玉垂命の武内宿禰説というのがある。

武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの300年ほどを
仕えたとされる。
508日本@名無史さん:2012/06/28(木) 09:31:23.87
朝鮮半島南部は倭ではない。
509日本@名無史さん:2012/06/28(木) 10:48:21.42
6世紀終末と7世紀初頭に煬帝に対等の態度をとって、激怒させたのが多利思比孤

隋書より
「?王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩?彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩?彌という

タラシ朝系のつながりがある可能性は高い。
時代的には九州年号=九州王朝時代のド真ん中。

7世紀中期に白村江だが、7世紀初期のこのころから、
そろそろ生意気になってきていたらしい。(中国視点)
510日本@名無史さん:2012/06/28(木) 10:52:59.01
記紀の記録では景行天皇以下の年代は1世紀以降だが、
実在の年代は4世紀くらいと多くの人が推測している。

4世紀〜5世紀が景行から仲哀神功とすれば、
6世紀終末から7世紀初頭の多利思比孤まで、
1世紀程度しか空かない。

案外近い時代の人かもしれない。
511日本@名無史さん:2012/06/28(木) 11:08:48.08
大雑把に年代を当てはめると、

景行天皇から仲哀神功が4世紀

倭の五王が朝貢記録では、413年〜502年の5世紀

九州年号が517年〜700年の6世紀〜7世紀

と、そんなに空白がない。
512卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/28(木) 12:56:21.06
婆娑尼師今記 126-158 三韓征伐のときの新羅の王が婆娑尼師今
神宮皇后   201-269
      141-209
      81-149

神功の紀年は60年か120年ずらす必要がある。

肖古王 226- (←百済王記 仇知王紀。この書は中國史書と紀年がピッタリ一致するので信用できる。)
肖古王が応神に馬を贈った。応神の崩御は甲午(古事記)。これに該当するのは274。

肖古王 226-(274)
応神  270-310
    210-250

応神の紀年はそのままか、あるいは60年ずらす必要がある。
神功との整合性を考えると60年ずらすのが妥当。

書紀に合わせた結論。神功の在位は141-209。応神の在位は210-250。
513日本@名無史さん:2012/06/28(木) 13:04:11.76
>神功の在位は141-209。
神功は卑弥呼だぞ。248までは生きていなければね。
514日本@名無史さん:2012/06/28(木) 13:20:03.60
邪馬台国と書いてヤマトって読むの?
515日本@名無史さん:2012/06/28(木) 13:40:11.39
邪馬壹國と書いてヤマイ国って読むよ
516日本@名無史さん:2012/06/28(木) 13:44:44.70
邪馬壱国も邪馬台国も決してヤマトとは読めません。
けれどもこれを、ヤマトと読みたがるペテン師群がいます。
彼らは畿内説論者と呼ばれています。
517日本@名無史さん:2012/06/28(木) 14:45:02.54
まあ九州にヤマタイ国は100%無いけどな。
518日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:30:41.14
九州にヤマタイ国は100%無いけど

九州に100%あるのはヤマヰ国。
519日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:59:18.07
魏志倭人伝には、銅鐸も△鏡も前方後円墳も出てこないから、畿内とは無縁。
520日本@名無史さん:2012/06/28(木) 16:02:19.54
>>518
文献学できっちり研究したら、壱の可能性は低く、臺の可能性が高いだろ。

いろんな分野の専門家たちの研究を十把一絡げでまとめて否定しないと成り立たないような珍論奇論はデムパ確定だよ
521日本@名無史さん:2012/06/28(木) 16:05:16.53
>文献学できっちり研究

学閥の思惑に汚染されたり、学者の身勝手な思い込みの強い
劣悪で低レベルな研究ばかりだろ。
522日本@名無史さん:2012/06/28(木) 16:28:01.33
古くなっ田 方式ほど劣悪ではないから、
523日本@名無史さん:2012/06/28(木) 17:38:06.09
邪馬台国というか、倭国の本拠地は四国ですよ。
524日本@名無史さん:2012/06/28(木) 18:58:07.95
四国が根拠地なのは、新石器時代のムラ。
525日本@名無史さん:2012/06/28(木) 19:01:52.61
鉄器製造・石工の先進地の四国だよ
526日本@名無史さん:2012/06/28(木) 19:38:04.52
邪馬台国など研究対象にしてるのは素人マニアくらいで、
まっとうな専門家はそんなオカルトじみたもん
恥ずかしいからスルーしてるよ。
527日本@名無史さん:2012/06/28(木) 19:40:35.68
オカルトなのは、何でも卑弥呼ゆかりにしてしまう畿内説だよ。
528日本@名無史さん:2012/06/28(木) 19:41:28.28
朝鮮くんげんきかなあ

おべんきょうできないおちこぼれのにいさんとかかまわないのがよいよ

史料名書いてあげても読まないで脊髄反射でかきこしるひとだからさあ

それにどのみち翻訳かけたキムチページのこぴぺ専門ので

キムチ読み強制してるぽいのがなんかへんだよ

なあんか日本語もふじゆうぽいしね
529日本@名無史さん:2012/06/28(木) 20:00:54.21
>>527
つ鏡
530蘇我入鹿:2012/06/28(木) 20:11:07.18
オカルトなのは、何でも卑弥呼はインディアンだったという
飛鳥昭雄説


宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!

http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/




531日本@名無史さん:2012/06/28(木) 20:19:43.25
>>530
あすかあきおって、デムパ売りの漫画家だよな
むかしはよく読んだ
532日本@名無史さん:2012/06/29(金) 13:31:59.65
>531
50才までに死ぬと言っていたのに、もうすでに62才。
533日本@名無史さん:2012/06/29(金) 13:36:15.17
>>532
初期にはコロコロで、後にはワンダーライフで読んでたんだよな。懐かしい。
ワンダーライフは半年ぐらいで廃刊になったんだっけ。
534日本@名無史さん:2012/06/30(土) 00:49:29.68
タイソンに匹敵する日本人
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/boxing/1340981495/

8 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:25:53.38
平将門

9 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:28:26.13
ひみこ

10 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 00:29:38.91
神武天皇

11 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:34:42.16
足利尊氏

12 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:36:49.08
西郷隆盛

13 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:38:54.45
加藤清正ならタイマンでも勝てそう

14 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:40:35.54
織田信長

15 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:41:34.81
徳川家康

16 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:46:37.60
福島正則
535日本@名無史さん:2012/06/30(土) 04:35:15.51
日本列島逆立ち説、邪馬台国インディアン説、仁徳天皇稜マナのツボ説
等飛鳥昭雄説は唸らせる?記事が多かったですね?(惑星ヤハウェ、グレイの写真はしらけた)
あの教授とかカトウって何者かね?

個人的には「ザ・超能力」の麻原らしきインチキ超能力者との対決が面白かった。
536日本@名無史さん:2012/06/30(土) 19:24:34.82
邪馬台国論争などもうかれこど江戸時代から300年くらいやってるんだし
ほぼ資料も出尽くし研究され尽くしてるよ。
新たな発見でもないかぎり進展しないもんにああだこうだと妄想全開で
言い合うのは時間の無駄で頭いいやつのすることじゃない。
537日本@名無史さん:2012/06/30(土) 19:40:47.15
だから頭の悪い奴ばっかり。
538日本@名無史さん:2012/06/30(土) 19:43:47.84
江戸時代から300年やってるのにあんまり進歩してないが、
纒向がキーポイントになりそうだと分かってきたのは進歩。
539日本@名無史さん:2012/06/30(土) 20:39:41.96
誰もが知ってる常識的な答えも当たり前に目の前にある。
それを受け入れられないだけ。
540日本@名無史さん:2012/06/30(土) 20:47:43.88
畿内説はいよいよ論拠が無くなって、九州説だけが残ることがわかった
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper12.html
541日本@名無史さん:2012/06/30(土) 21:20:01.62
>>540

この人はおおむねいいこと言ってんだけど、
南水行で東の豊前宇佐に行っちゃうところが残念。

南水行で南の熊本南部に行けば、完璧だったのに。
542日本@名無史さん:2012/06/30(土) 21:26:09.40
短里短日までたどり着いたなら、
あとは何も、トンデモ解釈は必要ない事に
気づいてくれたらよかったのになあ。
543三太穴:2012/06/30(土) 21:31:37.92
「水行なら10日、陸行なら1月」という読みだったな。
トンデモ解釈。
544日本@名無史さん:2012/06/30(土) 22:47:00.40
>>540
邪馬台国の卑弥呼の都する処は、久留米高良山近辺。
邪馬台国は、筑後平野内陸と北野平野。
投馬國は、筑後平野の沿岸。

水行十日は、帯方郡から唐津まで約一万里。
陸行一月は、唐津から八女(狗奴國紛争前線)まで約千里。

水行二十日は、帯方郡から山門(狗奴國紛争前線)まで約二万里。
545日本@名無史さん:2012/07/01(日) 06:11:20.54
いよいよトンデモ。
546日本@名無史さん:2012/07/01(日) 06:14:42.55
よほどの方向オンチでない限り、伊都国は佐賀。つまり有明海沿岸。
水行20日の投馬国は薩摩。水行十日+陸行1月の邪馬台国は日向。
遺跡、伝承すべて一致。
547日本@名無史さん:2012/07/01(日) 06:18:27.36
人によって細かいところまでは違うとしても、
かなり突き詰められましたね。

今からはその詳細の違いを検討していく段階ですかね。
548日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:29:16.58
>遺跡、伝承すべて一致。

ダメだね、松浦半島への方角 ・距離が合わないよ。

549日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:51:10.06
松浦までは、畿内説でも九州説でも、たいていの論で
成立しているはずだが。
550日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:56:53.44
まあ、ケチをつけようとしてもつける所がないってことだろ。
551日本@名無史さん:2012/07/01(日) 11:00:15.27
>ダメだね、松浦半島への方角 ・距離が合わないよ。

松浦川への方角 ・距離は合うよ。
又、伊都国は佐賀。つまり佐賀平野の北端、嘉瀬川の辺。
552日本@名無史さん:2012/07/01(日) 13:30:11.29
>>550
ケチつけても認めないのが殆どの九州説だw
一支から末羅=松浦半島だと距離は合わない。
方向も南とも書かれないのに、名前が似てるだけで判断してるだろ。
邪馬台=ヤマトと同じだね。
553日本@名無史さん:2012/07/01(日) 13:36:28.31
畿内説のデタラメぶりよりは、ずっとマシな気がする。
554日本@名無史さん:2012/07/01(日) 14:22:53.95
卑弥呼の墓が見つかるまで 

つづく予感
555日本@名無史さん:2012/07/01(日) 16:10:16.97
楽浪郡が山東半島にあったって聞いたけど
すると邪馬台国への距離変わってきますか?
556日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:23:56.88
九州説は水行陸行がの計算が小さすぎるだろ、どう考えても
ジャングルでも探検してたのかっていうくらいの進行速度
557日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:31:42.52
潮の関係で2千年の間に列島が反時計回りに90度位回転したか
縦長だった九州島が半分位の長さに縮んでしまったかのどちらかだろう
558日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:55:54.94
単に太陽の位置をまちがえただけだろ
559日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:25:13.46
不正受給説:
魏使が出張旅費精算の際日数を多く記入した
実は邪馬台国は伊都国のすぐ隣にあった(徒歩1分)
560日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:55:15.45
だから全部根拠の無い妄想だってww
そんなもん学問でもなんでもないからもう賢明な専門家ほど
邪馬台国問題などスルーしてることに気づけww
巻向あたりから新しい有力な物的証拠でも出ない限り
もうこの問題は大きく動かない。素人マニアがああだこうだ言ってても
延々堂々巡りで終わるだけ。
561日本@名無史さん:2012/07/01(日) 20:20:30.32
[場所or方法]行1月≒1000里・・・距離の単位
海行1月=陸行1月=船行1月≒1000里≒70km
船行1年=船行12月≒840km

(岸沿いの)行1日=水行1日≒1000里≒70km
 ・・・元は内水(水・江・河・湖)の1日行程の距離
562日本@名無史さん:2012/07/01(日) 21:29:06.99
邪馬台国に至る道は蚊取り線香状であった説
563日本@名無史さん:2012/07/02(月) 04:06:39.39
偽史日本伝に書いてあった邪馬台国の興隆から衰退までの話は馬鹿らしくて面白かった
564日本@名無史さん:2012/07/02(月) 06:38:30.98
邪馬台国は熊本にあったんだよ!
565日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:06:18.89
どう考えても九州には無いのは確実。
566日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:26:00.42
少し興味を持って色々見てみたら邪馬台国は纒向だろうなあって思うねみんな
そしてそれで間違いないね
九州カルトももう終わりが見えてきたね
567日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:27:23.58
末盧国から東南500里の伊都国は佐賀市だよ。そこから行く先は九州に決まっている。
そのほかにはないね。
568日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:32:21.58
纒向周辺には弥生時代の居住地は発見されていない。

随分と立派な、平城京のような建物の跡が幾つか発見されてるけどな。
唐代の大尺と一致するらしい。
569日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:41:33.82
>随分と立派な、平城京のような建物の跡が幾つか発見されてるけどな。
>唐代の大尺と一致するらしい。

それじゃ、平城京のような建物は、7世紀末以降のものだな。
570日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:49:10.13
たいていの発掘が宅地1戸分ぐらいの狭い範囲だから、
これまでの発掘が水田区画を離れてたって事だろ。

建物はかなりの規模の施設群が見つかってるじゃん。

反畿内の人らが主張してきた、ヤマトに大規模水田なしってのも覆っちゃったし
邪馬台国よりかなり以前の、弥生時代の段階でも国内最大の水田跡が出土したもんな。
倭国大乱より以前の時点でも畿内に大規模な水田があったことで、九州説側からの反論がまた一つ覆った。
571日本@名無史さん:2012/07/02(月) 15:24:49.31
ふーん、その水田で米何俵とれたの?
572日本@名無史さん:2012/07/02(月) 21:48:49.91
箸墓を始めとした巻向古墳群がほぼ3世紀のうちに作られたのはほぼ確実なんだし
その時点でもう中心は吸収ではないわ。ダメ押しで画文鏡が近畿中心で出るし、
これでも九州とか言ってるのは頭悪いマニアくらいw
マニアはプライド高いから自分の考えが独特で正しいという主張を崩さないからな。
邪馬台国問題など結局、邪馬台=大和 のことなのに馬鹿が勝手に
邪馬台=ヤマタイ とか読んで、さらにあいまいな行程記述を曲解して
九州だと勘違いしただけにすぎない。倭人伝を書いた陳寿が実際に
倭にいったわけでもあるまいしねw
それだけのことなのにあることないことああだこうだとよくもまあ
懲りずに毎日のようにくだらん無駄な議論ができるもんだ。
こういうの見てるとマニアはやっぱいかんってのを実感するわ。
573日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:23:39.52
>>572 に聞きたいけど、
じゃあなんで、倭人伝には瀬戸内海や大阪湾の記述がないの?
銅鐸とか、奈良の古代の特徴的なモノが記述されてないのさ
574日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:27:23.82
銅鐸ってあんた…                       (以下省略
575日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:39:08.66
箸墓が作られたのは、紀元前だろう。
年代測定法に問題がある。
576日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:47:33.92
3世紀の日本列島で、仮に奈良が最大の有力者だったとしても
イコール邪馬台国とはいえんぞ。

つまり、中国の認識は九州までであって、
奈良は認識の外にあったわけだよ。
577日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:51:29.96
>中国の認識は九州までであって

貨泉が畿内まで来てるのでそれは無いw
578喃駄菰璃耶:2012/07/02(月) 22:53:53.62
>箸墓を始めとした巻向古墳群がほぼ3世紀のうちに作られたのはほぼ確実なんだし

ガハハハ・・・・・
579日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:59:45.70
>>573
銅鐸は北部九州でも造ってたはずだけど‥
580日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:15:08.14
貨泉を「中国人が」持って来たという保証はないぞ
581日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:18:44.53
大和に邪馬台国があったなら、

・倭人伝で壱岐・対馬をあれだけ詳しく書く必要性がない。
・一大率が伊都国で物品を検査するのは冗談の類となる
 (これからの道のりの方が長いというのに検査してどうすんの)
582日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:28:45.61
>>573
火山のような、中国で見かけにくい特殊なものが無いから風景描写がなかった、のではないの?

そもそも風景描写は行程記事の初期の部分しか描かれてないっしょ。

あと、銅鐸の盛期は紀元前後まで。前漢時代のことだよ。
三国時代の畿内には銅鐸は残存してないはず。

>>578
理化学年代が、考古学者以外の世界では結構広く使われてて多くの研究者に利用されてるのも知らない、かわいそうな子供だね。
実年齢じゃなく頭が子ども。
583日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:56:39.09
>>580
それを言い出したら九州から出土する全ての物にも言えるよw
584日本@名無史さん:2012/07/03(火) 01:29:01.54
今時畿内説なんて言うのは
ゴッドハンドの畿内説詐欺師の学者と
それを真に受けるアホだけ。
585日本@名無史さん:2012/07/03(火) 01:35:36.68
先日から畿内説詐欺師の学者達をことごとく逮捕するようにお願いしていたが
一向に逮捕してくれないので
「もう逮捕しなくても良いです。その代わり見つけ次第射殺してください」とお願いしておいた。

そしたら
「せいぜい楽しんでください」だと。
とんでもない職務怠慢だ。
586日本@名無史さん:2012/07/03(火) 01:56:19.27
結局、584や585のような人はあらゆるところからデムパ人間とみられてるって事なんだな?
587日本@名無史さん:2012/07/03(火) 05:23:25.25
>>583
もちろん。
貨泉を根拠にしている九州説なんか聞いたことないしな
588日本@名無史さん:2012/07/03(火) 06:59:13.08
貨泉は、九州じゃ数は少ないものの広域からでてるから、
特に珍しいものでもないしな
589日本@名無史さん:2012/07/03(火) 07:20:02.56
>>587
貨泉だけじゃなく、中国縁とされる全ての出土品への皮肉だろw
590日本@名無史さん:2012/07/03(火) 07:28:01.36
所詮は九州脳、あの目と鼻の先の関門海峡を越えられないんだよw
591日本@名無史さん:2012/07/03(火) 09:17:06.76
要するに、邪馬台国の根拠は倭人伝オンリーなんだYO!
592日本@名無史さん:2012/07/03(火) 14:59:10.52
>>591
× 倭人伝オンリー
○ 倭人伝(の曲解)オンリー
だと思う
593日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:25:04.41
3世紀中に九州から畿内への東遷があれば
かろうじて九州説も成立するが、もうそんなもんはないというのが
ほぼ定説となってるんだし、邪馬台国は九州ではないよ。
曖昧な魏志倭人伝の行程解釈に拘泥するのは前時代のやり方だし、
いつまでもそのポイントで南だからとか言って九州だと言ってるやつは
自分で低脳だと言ってるようなもんだよ。
もっと視野を広げて総合的に解釈すれば邪馬台国は畿内で間違いない。
594日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:31:07.81
あったんじゃない?>3世紀中に九州から畿内への東遷
595日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:47:18.64
ないないw
むしろ東遷とは真逆の流れ。
いい加減邪馬台国論争から卒業しろ。
こんなん無意味で不毛すぎる。
いまだにこんなことやってるのは、
理解力乏しいオタくらいだ。
妄想のオンパレードだし、学問でもなんでもない。
現状ほぼ畿内が定説になりつつあるし、
新しい物的証拠がでないかぎりもう進展はない。
現状の物的証拠だけでも8割〜9割程度は畿内で証明できる。
596日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:49:37.73
そんな願望ばかり語られてもなあ
597卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/03(火) 19:51:12.95
だから言ってるじゃないか、倭とは百済(馬韓)だと。

大夫は百済の階級
難升米は百済人
大率は百済の官
598日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:52:18.80
軍事的に勝利すればいいんだからマキムクがいくつあっても東遷を否定する根拠にはならないんじゃない?
599日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:56:58.27
宮崎の小豪族が、瀬戸内海沿いに転々として、
最後に畿内の空白地帯に上手く潜りこむくらいあってもいいんじゃない?
600日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:01:30.83
紀元前660年頃、つまり補正のかからない神武東征の時期には
そういうことも考えられるだろう。
大量の渡来人が訪れ、九州を押し出された人が東へと進んだのは史実だろう。
601日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:03:50.29
縄文晩期の橿原遺跡は土器などを見ても東日本の影響が強いもので
あれに住んでいた縄文系の人々が弥生時代の早い時期に
大陸系の人種にとって代わられたことは間違いない。
602日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:05:13.20
巨大な祭祀施設や大きな径の柱を立てた後があったとしてもそういうのは(続)縄文遺跡でだってあるんだし
3世紀の九州から見た畿内は鉄器も少ない遅れた後進地域で九州からの攻撃に敗北しておかしくないね
603日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:18:59.05
畿内兵の弱さは戦時中にも言われてたしなw
商人の子だからソロバンでも持って戦ってるんじゃないか?wって昔爺さんたちが語り合ってたで〜
修羅の国福岡を見ろよ
武器の性能でも上回っていたんなら九州に勝てるわけないだろ
604日本@名無史さん:2012/07/03(火) 21:01:43.37
遺伝子的にはある時期に今のコリアンにも通じる遺伝子が入ってきたみたいだ。
この遺伝子は畿内から山陰に多くて山陽から九州にかけては数字はそれほど高くない。
既に勢力が出来上がっていた場所を避けて外縁地域に入って行ったか。
605日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:32:34.95
>>602
倭王武によると九州は衆夷なのに
出立地を夷扱いする訳ねーだろw

東征とか東遷とかいつまでも寝言いってんじゃねーよw
606日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:39:01.96
東夷よりも毛人のが土人

毛人の土人でも人扱いされてるからほかより優遇されてるけどさ

毛人でも倭種なんだから熊襲のによだれ流してからに

すり替わりたいとか恥ずかしいことは止めるのが良いよ
607頭の悪いのを叱る:2012/07/03(火) 22:48:34.43
東は毛人を「征する」こと55国。
西は衆夷を「服わす」こと66国。
渡って海北を「平げる」こと95国。

九州は倭王武の先祖の故地だが、服わぬ社会部族がおおかった。
熊襲・隼人・土蜘蛛・熊鷹その他。
「征伐する」「平らげる」と、「服わす」は意味がまったく違う。
608日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:53:37.18
縄文を弥生に変えたものは西方からやってきたんだから畿内が遅れた地域だった時代は必ずあったことは認めようよ畿内の毛人さんw
609日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:57:02.06
そんなの嘘ニダ!
稲作も弥生も鉄器も文明はぜんぶウリら畿内の発祥ニダ!
さすが半島人に近いだけある
610日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:08:55.47
>>607
本当に馬鹿なんだなw
西は九州、間違っても故地を夷扱いなんてしないよ。
どちらにしても九州は服属させる場所だろ。
611卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/03(火) 23:12:22.27
>>607
これは伊作だと思うが、「征する」「服わす」「平げる」は、
文章に変化を持たせるための修辞。美文術。文章作法。

意味を細かく詮索するのは無駄だと思うが。
612日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:14:00.63
北の土人南の土人を支配は明治にもやったろw
613日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:17:13.06
馬鹿はどいつだ
誰がいつ書いたんだ?
倭王武が直筆で書いたのか?
雄略だとしてその故地を出て何代後だ?
今自分の住まう土地の中心思観になっていたとしておかしくないだろう。
614日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:32:46.32
畿内は毛人ではない。

衆夷が九州で66ヶ国であるならば、
毛人は瀬戸内海沿岸、中四国の55ヶ国とみなせる。
最も東部の国は播磨國が限界。畿内の摂津國はありえない。

なお、海北の95ヶ国は半島南部と西南部の沿岸地域。
615日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:44:17.71
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。
616日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:57:59.80
>>608
邪馬台国の時代より1000年近く前の時代の事じゃん

邪馬台国より500年ほど前になれば、中部以西が軒並み弥生時代だろ。

鉄を九州の国々が独占してた時代はその後も続いてるけど、それとて紀元前に限った話しだし。
617日本@名無史さん:2012/07/04(水) 00:37:13.02
>倭王武が直筆で書いたのか?

小学生かよw
618日本@名無史さん:2012/07/04(水) 00:44:36.53
わが国倭國が代々中国に朝貢したのは倭王武まで。516年まで。
619日本@名無史さん:2012/07/04(水) 00:48:48.80
>>617
うん?
推し量れる範囲が狭い小学生にも分かるように書いたのよw
もはや天皇に九州の記憶はなく伝聞だけか元々無い畿内在住の臣らが書いたのだろうと言っているんだよ。
こう書かないと分からんのか。
620日本@名無史さん:2012/07/04(水) 02:23:45.13
>>618
遣唐使は朝貢だし遣明船も形式上は朝貢だぞ
621日本@名無史さん:2012/07/04(水) 02:38:59.55
>>620
年号を持つ国は朝貢できない。中国は自分の年号を使うことを強制する。
日本は中国に対して自国の年号があることを隠し、朝貢の形式を取っただけである。
日本は朝貢の形式を取って、面子より実利を選択したのだ。腹の中では舌を出して。
622日本@名無史さん:2012/07/04(水) 03:22:52.70
卑弥呼と名前がにてるから日向に決定
623日本@名無史さん:2012/07/04(水) 05:12:12.34
>卑弥呼と名前がにてるから日向に決定
それ大川降法先生説。
624日本@名無史さん:2012/07/04(水) 07:38:03.77
>>621
それをいうなら元号だろw
元号がなかった時代の日本や李氏朝鮮が中国年号を拝借していただけで
元号をもてないなんてことはない

だいたい、推古朝の遣隋使でもまだ日本に年号はなかった
625卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/04(水) 09:08:51.14
卑弥呼は魏に救援を依頼した。ある意味では情けない国だったのだ。
高句麗はいざ知らず、百済や新羅も中国にそういう要請をしていたと思う。
倭王武の上表文も、高句麗が邪魔なので何とかして下さいという要請文だ。

ところが日本はそうじゃないのだ。
いきなり日の没する処の天子へ、などと書いて皇帝を怒らせた。最初から対等の姿勢なのだ。
これだけ見ても、卑弥呼の倭は日本ではないと分かる。それは朝鮮の国だ。
とくに怪しいのは魏の官名をそのまま自国の官命に採用している馬韓である。
626タチの悪いのを叱る:2012/07/04(水) 09:18:00.04
↑↑↑↑このバカ。
いつまで害悪言説を垂れ続ければ気が済むのか。
627日本@名無史さん:2012/07/04(水) 10:24:20.38
>>625
推古朝の遣隋使でも日本の呼び名は「倭」なんだが?
天武朝頃、倭が国名を日本と改めたと言ってきた、と中国の史書に書かれてある。
つまり、倭=日本。
628日本@名無史さん:2012/07/04(水) 10:44:52.54
王姓は阿毎氏、自ら言うには、〜、およそ三十二世、皆が、〜、筑紫城に居住する。
以上のように書かれいる。つまり、倭は九州。
629卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/04(水) 11:48:18.84
君らは単純すぎる。とくに>>626の伊作のようにハナから論外視されてはかなわない。
記録によれば馬韓が初めて朝貢したのは277年、百済は376〜396頃だ。
卑弥呼の時代は、おそらく百済は伯済という小国で、伯済が朝貢したとしても、
中国の史書では伯済とは書かない。三韓地域を倭と見なしていれば、倭が朝貢したと書く。
馬韓が朝貢したとしても同じ。朝鮮半島を倭と見なしていれば倭と書くのだ。

こういうことを考えてみなければいけない。
私はこういうことを考えてみようと提案しているのである。
伊作のような態度は、学問をやる人間の態度ではない。
630日本@名無史さん:2012/07/04(水) 12:12:59.54
今更だが倭とは阿波が中心、北部九州は半島窓口だよ。
いい加減現実を認めなきゃ。
631日本@名無史さん:2012/07/04(水) 12:34:29.77
卑弥呼は朝鮮がんばれ!

信用はしてないが、
2chの読み物としては楽しめるぞ
632卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/04(水) 12:52:17.68
前々から倭とは百済(馬韓)であることを論証すると予告してきたが、今は勉強が忙しくて書けない。
そのうち、じっくり読んでもらうために、別のスレに書くつもりである。

大夫は百済の階級
難升米は百済人
大率は百済の官

この三点について、文献資料と考古学資料に基づいてきっちりと検証する。
633日本@名無史さん:2012/07/04(水) 18:07:50.65
>>624
>だいたい、推古朝の遣隋使でもまだ日本に年号はなかった

日本国(倭國)最初の年号は、517年の継体1年。
継体1年 517年 〜 大長3年(大化5年) 700年。
大宝1年 701年 〜 平成24年 2012年
634日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:19:53.62
胡散臭い文献から邪馬台国は九州とかいうのは
典型的な素人マニアのやり口だなww
そりゃ邪馬台国関係者はそんなんばっかじゃ
専門家は嫌気がさして邪馬台国から距離置くわけだわww
635日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:30:00.76
九州には100%無いよ。
未だ主張してるのはイデオロギーの問題だね。
だから文献・考古学で既に矛盾した主張をずっと行うのだろう。
636日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:49:12.26
文献・考古学で既に矛盾した主張をずっと行っているのは畿内説。
637日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:09:11.71
畿内には100%無いよ。
未だ主張してるのはイデオロギーの問題だね。
だから文献・考古学で既に矛盾した主張をずっと行うのだろう
638日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:30:27.57
御用学者と呼ばれる寄生虫がいてだな
マスコミやら使って畿内説をゴリ押ししないと連中は喰いつぶれる訳よ
639日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:52:40.83
>未だ主張してるのはイデオロギーの問題

どういうイデオロギー?
640日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:56:34.75
朝鮮半島ルーツ史観系の奴らだろ。
641:2012/07/05(木) 00:12:47.52
機内節? 無い。
み な み だ。
642日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:40:26.82
>>638
御用学者なんて、いても少数派で学術面での影響力なんて持てるはずがない。
多くの金が動く産業系とは違うんだからさ。

邪馬台国で御用学者とか言ってるのは、そういう空想上の敵を作らないと自説の敗北を説明できないという妄想にすぎない。
643日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:45:25.84
>>638
過去にマスコミ・メディア散々利用したのは九州説だよw

>朝鮮半島ルーツ史観系の奴らだろ。
九州説推しは基本これ。
何でも半島由来にしたい連中だからね。

644日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:46:37.54
現代政治が絡むだろがよ。周りは日本のヘタリを待つ基地外国家だらけで内部は渡来系w
645日本@名無史さん:2012/07/05(木) 01:58:30.18
>>644
出鱈目言い放題のバカ。
646日本@名無史さん:2012/07/05(木) 07:49:48.03
-古代における【関門海峡⇔瀬戸内海】外交・貿易ルートの重要性
-九州に弥生遺跡は豊富だが、古墳時代の遺跡が少なくなり、大和盆地に弥生遺跡は少ないが、古墳時代になると大増殖する

この2つに着目しただけで、誰もが

「九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になった」 という基本認識を確立することができるはず。
647日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:22:35.72
>>642
>多くの金が動く産業系とは違う
人間金のためだけに動くわけではない。
教授職や博士号、勲章が欲しくて動くのもいる。
御用学者は基本これ。
648日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:51:54.30
日足紋を使う家系は東遷後も九州に残った最古の皇別集団
代表的なものは筑後草野氏・肥前龍造寺氏、大村氏・肥後菊池氏など
649日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:58:56.44
>>648
地場血統維持してんの?それ等
650日本@名無史さん:2012/07/05(木) 13:19:04.42
>>647
そういうなも含めても、御用学者が少数派で、さほど大きな影響力を持ちえないことにかわりはない
実在しない敵を幻視してるだけさ
651日本@名無史さん:2012/07/05(木) 13:23:15.69
菊池と大村は室町後期に乗っ取られたが
この辺りは近親婚が多くその弊害が出ていたのだろう
草野系と龍造寺系はまだ続いている
652日本@名無史さん:2012/07/05(木) 16:52:47.69
>>646
それは基本認識でもなんでもない、単なる無知。
653日本@名無史さん:2012/07/05(木) 21:16:54.80
巻向古墳群が3世紀初頭のものもある時点で
九州などありえんわww
いい加減目を覚まして邪馬台国なんかから卒業しろ。
654日本@名無史さん:2012/07/05(木) 21:48:58.10
>>653
3世紀初頭の古墳があれば邪馬台国なら、
徳島にも神戸にも邪馬台国があったことになる。
655日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:10:33.69
結局こういう理解力低い馬鹿のオタクが
いまだに邪馬台国は九州だ徳島だ神戸だとか
低次元なこと言ってるだけなんだよなww
総合的にみれば畿内でほぼ決まりだし、
その前に邪馬台国問題など、仮に九州だったとしても
4世紀以降は畿内に吸収され、結果大和朝廷の時代に入るんだし、
対極的歴史観からみてここまで騒ぎ立てるほどのネタではない。
どこにあろうが、そんなもん大きな問題でもないのに
歴史オタには格好のネタなんでああだこうだとくだらん議論しすぎ。
くだらん邪馬台国の所在地探しなどいい加減やめろ。レベル低すぎるよ。
656日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:13:51.54
画文帯神獣鏡が近畿中心に出土するし、
その時点で九州説はない。
2世紀末から3世紀初頭の大陸の鏡だし、
つまり近畿の王権と大陸と交流があった証拠。
それなのに邪馬台国は九州なわけがない。
657日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:14:46.71
畿内なんて認識も時代によって曖昧なんだけどね。
658日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:52:12.50
>655
それに対する答えは一つだね。

それなら来んなよ、ぼけ!! www
659日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:18:29.36
>>653
九州の勢力が畿内の卑弥呼を共立して
九州の勢力を畿内が支配していたとするならば
それ以後再度九州の勢力を攻める必要など無い。

ところが
大和朝廷が九州の国々を支配下に置いていったのは4世紀以降。
つまり
3世紀までは九州は大和朝廷の支配下にはない。
つまり
九州の
末盧国、伊都国、奴国。不弥国を支配していた邪馬台国は畿内ではない。
660ローガン:2012/07/05(木) 23:20:35.03
>>655
いや、なんと云うか、それは、その、まあ、、そうなんだけど、
取り敢えずスレタイの頭に「それでも」と、あるんだから そこら辺 斟酌…
661日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:21:30.32
邪馬台国大分説
662日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:27:06.88
>>660
>取り敢えずスレタイの頭に「それでも」と、あるんだから そこら辺 斟酌…

邪馬台国の学会をリードして詐欺師学者が
邪馬台国が花井にあったことにしようとしている。

「それでも」邪馬台国は九州にあった‥‥‥
と言う意味だ。

「それでも」の意味は・
663痾奔駄螺:2012/07/05(木) 23:33:08.07
>>656
>2世紀末から3世紀初頭の大陸の鏡だし、

それらの鏡が出土した遺跡は何世紀の築造ですかな?
664ローガン:2012/07/05(木) 23:58:14.71
>>662
なるほど。
「とにかく」「誰が何と言おうとも」「他の見解に目もくれず」 が『それでも』に込められた意味だと承知。


ただ…「邪馬台国の学会」とやらは 初めて聞いた。
665日本@名無史さん:2012/07/06(金) 01:11:20.52
>>664
>「とにかく」「誰が何と言おうとも」「他の見解に目もくれず」 が『それでも』に込められた意味だと承知。

そんな曲解をして恥ずかしく無いのだろうな。
ゴッドハンドの仲間は。
哀れだ。
666日本@名無史さん:2012/07/06(金) 06:10:22.16
「それでも地球は回っている」ガリレオ
667日本@名無史さん:2012/07/06(金) 06:25:05.98
畿内説(天動説)と九州説(地動説)の論争は、天皇制が廃止され、天皇陵が発掘可能となるまで続くのであります。

ちなみに私は、断固として畿内説(天動説)を採る者であります!
668日本@名無史さん:2012/07/06(金) 08:43:37.11
>>667
畿内説(政権不動説)vs 九州説(政権移動説) の論争と言い換えてもイイだろう

前者は発掘調査によって箸墓が卑弥呼の墓と確定されない限り、後者はその位置が確定&一致しない限り、説得力を持ち得ない
669日本@名無史さん:2012/07/06(金) 14:39:00.23
>>667
もともと、皇国史観と整合するのは邪馬台国九州説のほうで、畿内説は皇国史観と折り合いが悪かったってことを知らない無知な人なのか。
670日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:37:57.58
↑バカか?
671日本@名無史さん:2012/07/06(金) 17:28:49.34
熊襲の女酋長のこと記録したものを

みだらに天皇家の先祖のだと同一視するのわ

おそれおおしで不敬罪
672日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:21:01.25
近畿王朝史観(=皇国史観=記紀)では、
邪馬台国も卑弥呼も存在しないのは知ってるよな。

日本書紀を読むと、
明らかに邪馬台国・卑弥呼を知っていながら、
それを隠蔽しようとする意図され感じられる。

本居宣長が、卑弥呼=女酋長と定義したのも、それが理由。

つまり、皇国史観では、邪馬台国≠大和王朝なんだよ。
673日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:25:09.75
江戸末期の国学者の中には天皇家が中国に朝貢してた事実を消そうとして
九州の偽王党の系図まで捏造した人がいて
それが今九州王朝説によって証拠として使われているという皮肉
674日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:26:43.83
大和朝廷っつうのはやはり北方羊血統系だな。
675日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:28:03.98
つーか8世紀の記紀成立頃の天皇家と邪馬台国はまったく血のつながりはないだろ
これは邪馬台国がどこにあったかとは別の話
676日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:38:35.88
>>675
ところが、中国史書では、旧唐書になるまでは、
邪馬台国=倭国という記述で埋まってるんだな、これが。
677日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:46:32.53
>>676
そういう話をしているのではなく、
3世紀頃には権力の世襲はなかっただろうということ

九州では副葬品の伝世がほとんど見られないし
畿内でも皇太子的な子供の大きな墓というものもない

だから畿内においても記紀に書かれているような
古代の天皇の系譜というのは信じがたい

大王位の世襲が始まったのはせいぜい早くても5世紀頃からだろう
それまでは大王はその時代時代の有力者がなっていた
678日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:53:53.69
どうも中国史書の影響を強く受けているやつが多いんだが
日本は千年おくれてるからな

つまり中国で王朝の世襲制がとられていたから日本もそうだったとか
中国で大規模な遠距離軍事遠征ができたから日本もそうだったろうと
考えるやつが多すぎる

弥生末、古墳時代初期の日本にはそんな力はない
679日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:54:35.57
>>674
まあ、南の方で真床御衾とかやってたら汗濁になっちゃうもんね
ただそれが初代からなのか、継体からなのか、いつからなのか
680日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:01:30.31
みだらに天皇家のご先祖のことを

蠅娘だとか書いてある記紀なんてゆうやつのは

天皇家のこと中傷する偽物に決まっている

おそれおおしで不敬罪
681日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:11:36.27
3世紀頃には権力の世襲はあったよ

女系での相伝ではあったがね

3世紀の婚姻形態を想像するに

武家とかがやっていたようなのをモデルにして考えちゃだめだろ

もしどおしても考えたいのであれば

むしろ

平安朝とかでの公家さんとかの通い婚のことモデルにして考えるべきだな
682日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:29:41.49
高地性集落や鏡とか考古学的見地からみると、
倭人伝の世界を九州限定にするのは視野が狭すぎるね。
倭国大乱ってのは明らかに列島全域に渡って行われたものであり、
その結果、畿内邪馬台国を中心とした連合体制が構築されたと
見るのが明らかに正論。九州限定では考古学と全く整合しないし、
倭人伝の行程における方位や放射説や総日程説やそういう
不毛な解釈で九州だとこじつけるしかないわけで、あまりに子供じみてて
馬鹿馬鹿しいw
683日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:32:31.87
>>681
それは豪族の子は豪族になる場合が多かったろうが
3世紀頃の大王が記紀にあるような血筋でつながってると
考えることはできないな
684日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:36:42.52
入り婿さんのこと丁寧に拾い上げて繋げようとしても無理があるからな

倭人伝に出てくる「宗族」とゆうのは定義はずしてからに女系で連綿と続いておるわけですわな
685日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:37:01.15
>>682
画文鏡や庄内甕などのの分布をみるかぎり弥生末には広範囲で交易連合の
ようなものがあったのは明らか 交易ルートもほぼ決まっている

ただし高地性集落を見ても弥生末でも戦争は近隣同士で行われていたと
推測できる 戦傷武器などの産地を調べれば近隣のものが多いんだな
ただ瀬戸内を流す海賊的な存在はあったかもしれない
686日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:44:56.49
>>682
「明らか」を2回も使っているが、何が「明らか」なの?「明らか」な理由を論証して下さい。
687日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:54:55.09
東遷しないともはや九州説はありえないわけで、
画文鏡や△鏡を全部持って東遷したとかまずありえないからww
そもそも九州に卑弥呼や邪馬台国の伝説などどこにも残ってないでしょ。
神話から日向を持ってくるしかないが、神話から日向が邪馬台国で
神武東征が邪馬台国東遷とかそれはオカルトの話だからww
学問としては話にもならんよ。
688日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:56:20.28
東遷は7世紀の終わりのころだからな
689日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:04:31.72
>>686
だから弥生末〜古墳時代の早期かけて交易の連合のような
ものがあったのは明らかということ
画文鏡の出土地分布図は見たことがあるだろ

布留0〜1期の吉備形甕の出土は博多湾沿岸ー周防灘ー松山平野ー
今治平野ー備後東南部ー吉備播磨、摂津沿岸ー大阪湾ー河内湖ー大和川ー大和
こんなルート
九州の西新町遺跡と纏向遺跡に出土が多い
690日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:07:44.02
ただしこの時代はもちろん古墳時代になってもしばらくは面の支配は行われていない
広域を支配統治するためには兵の数も徴税などの制度面でもまだまだ未発達
だからこれらは拠点となる集落同士の連合ということだな

691日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:08:26.30
>>688

661年 白鳳元年 辛酉 斉明 7 年 「阿曇比邏夫等百済救援軍派遣 高句麗救援軍派遣近江遷都」
662年 白鳳2年 壬戌 天智元年 「船師一百七十艘送豐璋等於百濟國」 筑紫君薩夜麻捕わる
665年 白鳳5年 乙丑 天智 4年 「高宗封泰山 仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」
667年 白鳳7年 丁卯 天智 6年 11月薩夜麻帰還
670年 白鳳10年 庚午 天智9年 庚午年籍
672年 白鳳12年 壬申の乱

683年 白鳳23年 筑紫君薩夜麻死亡?
684年 朱雀元年 長期年号の白鳳が終了して朱雀
692日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:11:46.65
>>687
いや、それは別に不要でしょ
九州にあった邪馬台国を、勢力拡大した大和朝廷が征服・併呑したってのは、べつに問題ないじゃん。

九州説のネックとして、三世紀には早くも、九州北部の一部が大和の支配下に入ってたことではないかな。
693日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:12:31.65
その当時は、九州王朝(倭)と大和朝廷(日本)が並列であったんだろ。隣の国として。
九州王朝は、中国や半島と交際していたけど、
大和朝廷は、引きこもって古墳ばかり作っていた。
倭の五王ぐらいまでは九州王朝頑張っていたけど次第に衰え、岩井さんか白村江あたりで
大和朝廷の属国(完全な地方組織)になった。
694日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:14:04.29
結局画文鏡が3世紀の巻向古墳群から出ただろ。
ホケノ山だったっけかな?
もうその時点で九州説はほぼないだろ。
3世紀に大陸と交流があったのは畿内であり、
九州から画文鏡も△鏡もほとんどでない。
なぜこんなこともわからんだか理解に苦しむな。
邪馬台国が九州なら当時大陸と交流あった畿内についての
記述がないのも明らかにおかしいし九州説じゃ全然整合しないよ。
695日本@名無史さん:2012/07/06(金) 21:47:45.49
磐井の乱のときに、九州王朝の宝物はみんな大和朝廷がおいしくいただいたんだろ。
696卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/06(金) 22:14:19.45
鏡くらい朝鮮でも出るぞ。
そんなことで議論しても仕方ない。
卑弥呼が何のために朝貢したのか、それを考えないと。

帯方郡は遼東半島にあり、馬韓の月支国はピョンヤンにあったのだ。
それに百済の仇知王は公孫氏の娘を娶っていたのだ。
公孫氏が伐たれたら百済も伐たれる恐れがある。だから、その前に、
百済は公孫氏に味方しません、魏に反抗しません、と伝える必要もあったのだ。

馬韓や百済には朝貢しなければならない理由がある。
しかし日本にはそんなものは何もないのだ。
697日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:30:47.28
百済とかないのね 伯濟國ならあるけどさ

「大國萬餘家」だから

伯濟國のはせいぜい5万人くらいのサイズでしょ
698日本@名無史さん:2012/07/07(土) 00:00:49.03
手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
0.000…朝鮮半島
近畿 0.007
中部 0.012
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048
東北 0.068
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118

山口敏「日本人の顔と身体」より
699日本@名無史さん:2012/07/07(土) 01:21:55.37
>>695
>磐井の乱のときに、九州王朝の宝物はみんな大和朝廷がおいしくいただいたんだろ。

磐井の乱は九州内の戦乱。
磐井の乱は、磐井弟王に対する福岡平野勢力の反乱。
磐井の半島政策に抗しての反乱。
700日本@名無史さん:2012/07/07(土) 07:05:30.18
そんな地方勢力同士の戦乱だったら、わざわざ大和朝廷の歴史に書き加える必要は無かろうにw
701日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:37:55.39
聖徳太子の遣隋使は、中国側との記録と合わず、
非実在説があるくらい、情報が少ない。

でも磐井の乱はかなり詳しく書いてある。

ルーツが見えてきたな。
702日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:39:42.71
だからそういう磐井の乱のときに宝物をいただいたとか
妄想全開だから邪馬台国をネタにした議論は馬鹿馬鹿しいと言ってるのw
ほんと素人オタが個人レベルの妄想で自分に都合のいいようにこじつけてるだけじゃん。
703日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:53:01.95
ていうか、畿内説は妄想どころか詐欺なわけですが。
704日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:01:15.16
倭国大乱というのは朝鮮半島からの大量移民のことだろう?
もちろん、軍隊が地上げを行ったあとに移民が移ってくるわけだし、
軍事力を背景に、大量、かつ組織的な占領政策を行ったわけだから、
元の住民は、土地を手放して山の民になるか、さもなくば奴婢になる下がるしかなかったのだ。
こうして日本は半島系住民の支配する土地となったのだ。
705日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:07:49.59
なんでこんなに必死な人がいるの?
邪馬台国が畿内にあったことにしないとどうしてこんなにも都合が悪いの?
第一2ちゃんなんかで相手を論破(2ちゃんでは相手をあきれさせ辟易させて黙らせることを論破と言うらしいが)したところで意味ないだろうに。
706日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:14:12.58
畿内でも九州でもどっちでも大勢は変わらないと言ってるだろ。
どの道大和朝廷を中心に歴史が動いていくんだし、
邪馬台国が畿内ならそれがそのまま発展して大和朝廷になったんだし、
九州なら3世紀はまだかろうじて九州が畿内に吸収されてなかっただけの話。
吸収されるのは4世紀からってこと。でそれがどうしたんだっていう話w
九州か畿内かで歴史に与える影響などたいしてないだろうに。
707日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:21:56.53
>でそれがどうしたんだっていう話w

ならなんでこんなとこ来てるの?
708日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:42:27.84
九州だと主張するならもう少し具体的な根拠を示さないとな。
妄想で塗り固めた説じゃ馬鹿馬鹿しくてそりゃ相手にされんよ。
特に魏志倭人伝の行程に関する個人的な解釈とか前時代的な
やり方で九州だと言うのは学問と呼べるレベルではないだろう。
もう少し具体的な物的証拠等を提示して自説を主張してくれ。
709日本@名無史さん:2012/07/07(土) 09:47:12.02
つ鏡
710日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:08:56.38
九州説はファンタジーどころか携帯小説レベルのご都合主義だね。
711日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:11:46.68
箸墓が280年頃築造なのは土器編年とC14測定とで
ほぼ学会でも定説化してるんで、この時点で九州はないわw
箸墓以前の石塚やホケノ山は見事に卑弥呼の時代と重なるわけだし。
箸墓を基準規格とした前方後円墳も4世紀以降全国に散らばるわけで。
どこをどうしたら邪馬台国が九州だと思うのかさっぱりわからんわ
712日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:27:22.09
そもそも畿内は、九州の衛星国だろ。
畿内優位は7世紀後半からだ。
713日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:30:59.05
衛星国のほうに巨大古墳がぼこぼこあるのはなぜだ?w
714日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:44:06.07
墓場は遠くに作るよね。
715日本@名無史さん:2012/07/07(土) 10:45:42.62
衛星国と言っても北部九州ではなくて、宮崎の衛星国だな。
大型古墳の執着度、記紀神話の日向神武東征、文献でも考古学でも一致する。

もっとも、個人的には年代的にはもう少し後だと思うが
716日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:13:04.52
畿内説みたいに願望だけではだめだよ。まず、行程的にきちんと説明ができるかが
問題だ。マツロ国から東南五百里のイト国は佐賀市付近。
そこから南へ水行していけるところとなれば、自ずから範囲は決まってくる。
南九州に九州随一の勢力があったことは、弥生末期から古墳時代を通じての遺跡を
みれば明らかだ。当然、それが邪馬台国の遺跡ということになる。
神話、伝説もそれを裏付けている。
717日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:14:22.60
記紀神話と現実の混同とかやっぱ古代史関係者は電波過ぎるww
学問じゃなくオカルトの領域だよ。
妄想の域を出てないんだし、もう少し科学的年代測定とか
正確なデータを算出する努力をする方向とかに力注ぐべきで
おまえらのやり方はほんと典型的な文系馬鹿で、頭の中で
妄想したファンタジーを展開してるだけ。
箸墓あたりの正確な年代測定が可能になれば、完全に九州説など消えるよ。
今のC14測定は若干曖昧だからね
718日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:19:05.39
>>716
それが典型的な邪馬台国オタで九州説の誤った不毛なやり方だと言ってるのww
そもそもその倭人伝の行程が全部正しいという根拠すらないだろ。
正しいかどうかもよくわからんような行程記事を元に
邪馬台国はここだとこじつけるやり方が愚かで時間の無駄なわけ。
現代人の地理感覚で倭人伝を読むのも馬鹿だしね。
1800年前の古代中国人の地理感覚と同じとは思えんし。

719天からの声:2012/07/07(土) 11:20:49.37
混一彊理歴代国都之図、三角縁神獣鏡の欺瞞、土器編年と古墳築造年代の操作、年輪年代法疑惑、
C14炭素年代法活用法の疑惑、そして、箸墓は卑弥呼の墓説、纏向は卑弥呼の王都説………。
これらを観察して、畿内説を唱える一部の学者にとって邪馬台国は研究対象ではなく、
処世ツールであり助成金の蛇口にすぎないのだと、つねづねいってきた。
考古学・古代史学の世界には畿内説でつくるヒエラルキーみたいなものがあって、
これに依存して生きることを選択した者は、このヒエラルキーの中で就職・昇進・栄達というコースを歩む。
そうして、死ぬまで畿内説を叫ぶことになる。

ここにチョロチョロする「畿内」連呼のハナたれは、そうしたヒエラルキーの末端にいる若造ではないのか?

本題だ。一部の学者を含めて見え見えの欺詐を用いて、ある種堂々と・ある種使命感すら感じさせて
畿内説を推進する者がいるのは、「お上の意向」を具現化しているからではないのか。
ここでいう「お上」とは、管轄する官庁組織、研究費・助成金を管轄する組織だ。
●邪馬台国は永久に不明を願う「心理」と、
●真相解明の足を引っ張る「動き」と、
●畿内にあったことにしなければならない「都合」があるかぎり、この現象は続く。
正論は聞き流し・黙殺しつつ、新手の畿内説推進手段を模索し続ける。それができた者は栄達を約束される。
邪馬台国に関する古代史社会は、正論をいえば通る世界でもないし、正しい見解が認められる世界でもない。
世界規模でみても最も汚れた社会で、学術社会としてはほかに例がなかろう。

つづく
720天からの声:2012/07/07(土) 11:21:33.92
●畿内説正当化の道を模索してみた。
どのみち一発穴を狙うなら、畿内説を有利にする新説でも構築すれば、
「お上」以下「畿内説学界」やマスコミまでが喜んで取りあげて一躍時の人になれる。
そう考えて、九州説の自分がまったく別の人間になりきって、正反対の視点で畿内説を唱える気になってみた。

「どうやれば畿内説が成り立つか」を考えたとき、文献史料面では、まっとうな『倭人伝』解釈では成立しない。
そこで、「距離・日程は誇張・デタラメ」、「方角は何度か回転している」。
「陸行1月は1日の間違い」、「水行なら10日、陸行なら1月と読む」などなど、
思いつきそうな詭弁と「ねつ造解釈」は出尽くしている。どれも陳腐で・いまいちだ。

考古史料の視点からはどうか。混一彊理歴代国都之図を持ち出して
「当時の中国人の地理感覚では日本列島は南北へ長く逆転していた」もダメ、
三角縁神獣鏡の欺瞞は底が見えた、土器編年と古墳築造年代の操作も信頼性を喪失、
密室科学(年輪年代法・炭素年代法)のご都合利用は非難轟々、
そして、箸墓は卑弥呼の墓説・纏向は卑弥呼の王都説はブーイングの嵐………。

巷間で畿内説を指示する素人衆も、これらを孫引きしているだけで、目新しいものは何も見られない。

弥生時代の2〜3世紀に、九州と競合するほどの「先進的勢力」が大和に自生し成長し得た可能性を検証するための
「大陸・朝鮮半島との通交ルートと関門海峡の支配の形と使われ方」という天才が提起した大命題に対しては、
現実的な歴史動向としての論理的な説明をしきれない。
「ゆるゆるの連合」などという詭弁もあるようだが、「武力支配時代は食うか食われるか・取るか取られるか・
支配するか従属するか」という超現実を前に・ゆ〜るゆるの論理破綻。

正直なところ、畿内説を有利にする新説は、この天才をもってしても・もう出そうもない。
それでも、野心と野望に燃える畿内説者たちは、ジレンマを抱きつつ穴狙いの手法を模索してるのだろうな。
721日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:29:04.59
願わくば叶う 卑弥恋し

 願った人のところに幸運は訪れるものだ。
722天からの声:2012/07/07(土) 11:29:59.25
極めて個人的なかつ矮小なエゴに支えられた畿内説など、
ムキになって相手にすることはない。
彼らの都合と欲望で、あったことにしているだけなのだから。

……本当の古代史へ、視界良好となる日がくるか否か。
「官僚組織の仕分け」からゆるべき気がする今日このごろだ。
723卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/07(土) 11:54:11.46
>>711等は名古屋だし、天からの声は伊作だな。
また名古屋VS伊作のバトルが始まるのかw
724日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:55:02.19
一番ムキになってる自称天才氏が言うなw
725天の声:2012/07/07(土) 12:14:01.71
>>724
悟りを開いたのよ。「自分はあまりにも純粋すぎた」と。

一部官僚のご意向かは知らんが、畿内説の拠り所はそこだけだ。
いま、畿内説ヒエラルキーの頂点は佐倉の歴博か? その分非難のターゲットでもある。

いずれ、畿内説広告塔を継承したHが館長にのぼり詰めるんだろうな。
ここの下っ端が、掲示板でプロパン(プロパガンダ)やってる匂いがする。

726日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:02:31.65
九州説じゃ行程も全く駄目だし候補地も確定すらしない。
オマケに頼みの豊富な鉄器だって、倭人伝にはたった一言しかないじゃんw
727日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:17:40.52
行程、行程 とか言うけど、
あの行程のとうりに進んだら沖縄県東部の海上で、陸地ですらない
728日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:20:07.56
九州説には西都原という有力な候補地があります。
彼の地の人は口下手で、主張しないから盛り上がっていないけれど、
客観的に見て、邪馬台国は、ここ以外にありえないのではないかと思います。
729日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:20:46.59
当時の日本列島で一番大きな国が邪馬台国ってことにはならない
どうしてそんなことがわからないのか
畿内にあったのは邪馬台国じゃなくて大和朝廷
各国の王に共同で擁立された卑弥呼じゃなくて神武天皇の子孫の天皇がいた
魏に使者を送っていたのは北九州にあった国で
纏向の大和朝廷には任那からツヌガアラシトが来てて魏とは縁がなかった
3世紀の時点では大和朝廷の権力は北九州には及んでないよ
730日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:34:16.26
三世紀に大和朝廷なんか無いよ。
でも中国人は畿内へは確実に来ている。
河内の平野周辺や唐古調べりゃ余程のボンクラ以外、誰でもわかる事だw
731日本@名無史さん:2012/07/07(土) 13:43:24.29
調べてないよw
九州のですら調べてないのに
732日本@名無史さん:2012/07/07(土) 14:36:39.56
>>728
戸数にして数千戸程度の、「傍国」じゃん。
733日本@名無史さん:2012/07/07(土) 15:15:18.52
最近、読売新聞に載った記事です。
http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/-m-bec7.html
最近の科学的な検証の方が派閥、偏見、主観がなく客観的。学会は当然認めないが。

天孫降臨神話とは大陸(中国南部か)から海流に乗り渡来した航海民族が、鹿児島県薩摩半島の
坊津付近に流れ着き、大隅半島へ渡り、@王子遺跡(鹿屋市) → 曽於・都城 → 宮崎 → 西都原 と
A王子遺跡(鹿屋市) 肝属川河口(神武東征の碑あり) → 日南 → 宮崎 → 西都原 と@Aから移動したと思われる。

鹿屋市の王子遺跡が2000年前の南九州最大の集落跡で、伊勢神宮の建物の基となったと思われる棟持造り、
鉄の矢じり、瀬戸内海まで航海していた痕跡が出土。2000年前で大集落は住居だけ残して人は消えている。
桜島、霧島等の大噴火で集団移転したのではないだろうか。それが南九州からの神武東征ではなかろうか。

また、北九州の勢力も出雲 → 吉備 → 畿内と移動した。これは軍事又は文化的移動だったのか?
こう考えると神話と古墳も合致してくる。因みに、鹿屋市と都城市の間の曽於市に弥五郎なる巨人伝説がある。
これは熊襲の首長で曽我氏の祖、竹内宿寝とも言われています。また、都城市の山之口、日南市にも兄弟がいますが、
特に日南はハルクホーガンそっくり。巨人伝説=トルコ系又はユダヤ系の渡来人では。これも神話と同じ地域です。

日向神話、宮崎県と思われていますが、日向は宮崎県、鹿児島県からなり、その中心は大隅です。熊襲征伐、やまとたけるが
内之浦から大隅に入り、熊襲をだまし討ちし、くまそたけるが亡くなる寸前に自分の名前を授けてやまとたけるを名乗らしたとか。
これも熊襲(後の隼人)を大和政権が服属させ、その後大隅の国が日向から独立し日本書紀も編纂。面白い動きです。これと同じことが
西南の液後にもにも行われ、鹿児島県、宮崎県が幾度も変えられ今に至っています。
734日本@名無史さん:2012/07/07(土) 15:23:21.95
南には古代宗教権威物の貝製品の供給地が在るぞw
735日本@名無史さん:2012/07/07(土) 15:27:11.34
>>733
「末盧國」を「末蘆国」に改竄しているのは何か意味とかあるのか?

●「末蘆国」を佐賀県唐津市付近とし、出発点とする

作業仮説として残念ながらここのはくるっているとおもうぞ
736天の声:2012/07/07(土) 15:35:59.96
>>728 >>733
このように、
九州説もまた稚拙なものが多く、良質のものが皆無に近い。
どっちも・どっちだ。
737ローガン:2012/07/07(土) 16:26:52.89
>>720:天からの声
>そこで、「距離・日程は誇張・デタラメ」、「方角は何度か回転している」。

絶域であった東夷の島国。その玄関口にあった金印の奴国までの「萬里」は当然ながら修辞。
使者来倭により、二千余里が付加。誇張やデタラメというより、複数の資料に基づく机上での創作。

>「陸行1月は1日の間違い」、「水行なら10日、陸行なら1月と読む」などなど、

距離を出来るだけ縮めようと図ったのは九州説なんだが。
それに、「or」の用例なんて無いんだから、却下。

>考古史料の視点からはどうか。混一彊理歴代国都之図を持ち出して「当時の中国人の地理感覚では日本列島は南北へ長く逆転していた」もダメ、

それ程、いい加減なものだと云う事。まして3世紀、言わずもがな。

>三角縁神獣鏡の欺瞞は底が見えた、

銘文の件、文様のありよう、縁の形状等国産説への再反論は提示済み。

>土器編年と古墳築造年代の操作も信頼性を喪失、

意味不明。

>密室科学(年輪年代法・炭素年代法)のご都合利用は非難轟々、

気に入らないなら自分で標準パターンを提示するよろし。何もせずに非難するするだけ?
738日本@名無史さん:2012/07/07(土) 16:31:36.10
土人の熊襲の女酋長のこと取り合いとかしてなんか良いこととかあるのかな?
739ローガン:2012/07/07(土) 16:40:18.13
何にもない。ただの暇つぶし
740日本@名無史さん:2012/07/07(土) 16:46:00.24
裏でなにやらかしているのかわからないきもい女酋長とか取り合いしても良いこととかあまり無いもんな
741日本@名無史さん:2012/07/07(土) 16:48:57.64
満干珠使いの神功皇后なんてのも土人の熊襲の女酋長のひとりで九州のひとだろ

山門郡のところの田油津女酋長ともめてやっつけちゃったって書いてあるけどな

現地では神功皇后は若い旦那と再婚して楽しく暮らしましたとさの伝承とかごろごろだぞ
742天の声:2012/07/07(土) 17:30:38.56
>>737
>距離を出来るだけ縮めようと図ったのは九州説なんだが。
>それに、「or」の用例なんて無いんだから、却下。
こういう手法はダメだといってるのだが。

>国産説への再反論は提示済み。
すでに勝負はあった。

>気に入らないなら自分で標準パターンを提示するよろし。何もせずに非難するするだけ?
俺は年輪年代法・炭素年代法を批判したことはない。畑違いでできないのだ。
巷には批判と非難が渦巻いている・ということ。

要するに、俺が、功名心をムキ出しにして畿内説を唱える気になっても、
手法がみつからない・無理だったということ。わかった?
743天の声:2012/07/07(土) 17:32:15.93
そもそも、悪知恵がそなわっていないんだわなー。
クリーンでクリアな人間に育てられたから。
744日本@名無史さん:2012/07/07(土) 17:51:40.26
箸墓古墳が後世の築造であったら、畿内説は瓦解する。
745天の声:2012/07/07(土) 18:03:40.50
いやはや・驚いた。
3世紀前半には(銅鐸の出土する少ない)畿内に、鉄が豊富にあった。
ナニにしろ「突然」が頻出する畿内のことだ。これで畿内説をフカしてみるか?

●椿井大塚山古墳
三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡が出土。
(3世紀末の築造だったものが最近では3世紀中葉の築造になっているらしい)。
・三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡が出土。
・鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が出土。
・鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が出土。
・鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土。

武器・武具・工具・漁具と、あらゆる鉄製品が出てるじゃないか。
畿内にも3世紀前半には鉄が豊富にあったということだ。
そうじゃなかろう。畿内説考古学のいう古墳の築造年代が古すぎるのだ。
鉄製品が国家的統制品で、鉄製品を所有することが・
じゃがいも豪族たちのステイタスになっていたということだ。
だから、限度を知らないじゃがいもが、バカみたいにあらゆる鉄製品を副葬しているのだ。

・三角縁神獣鏡と豊富な鉄製品。これらを副葬するのは古墳時代になってからという話じゃなかったのか?
どや・畿内説プロパン担当のローガンくん。
746日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:04:56.98
>箸墓古墳が後世の築造であったら、畿内説は瓦解する。

そんなことはない。
又、悪知恵を働かせて新説で修辞する。
747日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:05:56.10
弥生時代の鉄は九州が圧倒的、古墳時代の鉄は大和盆地が圧倒的。

これが意味することは何か?
748天の声:2012/07/07(土) 18:06:04.77
3世紀前半には(銅鐸の出土する少ない)畿内に、

3世紀前半には(銅鐸の出土すら少ない)畿内に、
749日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:07:24.77
弥生時代の首都は九州に、古墳時代の首都は大和にあったということだ。
750日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:19:20.48
>>744
それが全く瓦解しないんだよ、そのうち発表されるかな?
まあ九州には関係ない話でねw

>>749
は・ず・れ
751日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:22:01.61
>>746
どんな手を使うの?
752日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:30:34.30
>>747
慧眼!

中国に朝貢していた倭国が「塩鉄専売」を知らなかったはずはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%89%84%E8%AB%96
753日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:51:57.91
椿井大塚山古墳の近くの田辺天神山遺跡(弥生後期後半)の高地性集落からも
鉄鏃、刀子、鉄鍬鋤先、やりがんな が出てるからな
754日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:59:14.98
>>718
>倭人伝の行程が全部正しいという根拠すらないだろ。
馬鹿なことを。資料があり、それが間違っているといえない以上、それに
従って考えるのは当然のことだ。
倭人伝がどこかちがっていると言えるかな?倭人伝はどこもちがってないよ。
755日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:01:12.81
>>747
九州が圧倒してたのは、紀元前に限った話だよな
畿内が勢力を伸ばす前に山陰が鉄の輸入窓口の地位を奪ってただろ
倭国大乱より前の話だが。
756日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:04:14.25
>>754
史料の信憑性を評価する方法がない以上、「それはそれとして」という扱いが限界。
記紀だって同じ扱いを受けたわけだが。
757日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:13:35.52
記紀は内容が正しくないことが明白だからな。全部とは言わんが・・
まさにそれはそれとしてという程度だ。しかし、倭人伝はちがう。
間違っていると言うべき記述はない。
758ローガン:2012/07/07(土) 19:23:21.35
>>745:天の声
>(3世紀末の築造だったものが最近では3世紀中葉の築造になっているらしい)

誰がそんなことを?
特殊器台を持つ古墳と△鏡を出す古墳、マストが権現山51号。
ここで出た△鏡の持つ唐草文様から、263年頃をあまり遡れない。その上、多少の伝世を考慮したら、
特殊器台を持たない つまり編年上、権現山51号より後の椿井大塚山は、決して3世紀中葉にはならん。
759日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:25:55.78
箸墓から出てくる土器は布留0式だし、
めちゃくちゃ後世に築造されたものではない。
古墳の築造形態からも前方後円墳の最古のものだ。
3世紀後半から4世紀初頭の間におさまる。
もう少し早い可能性もあるが、遅い可能性はほとんどない。
つーか画文鏡が畿内から出る時点でもう畿内で決まりなんだが、
どうも素人オタってのは自分の考えに意固地になって
自説を絶対に曲げないから困るw専門家はもう少し柔軟なので、
九州説派もほとんど畿内に鞍替えしただろw
760日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:39:29.95
3世紀の出来事に記紀を文献資料として扱い、
神武と邪馬台国を絡めるとかほんと素人すぎるww
そんなやり方だから、専門家からは素人の邪馬台国関係者は
痛いやつだから邪馬台国問題には極力関わらんとこと馬鹿にされるんだよ。
文献史学で邪馬台国扱うのはまず無理。せいぜい倭人伝の信憑性の高そうな
文章くらいしか使えん。あとはほぼ考古学の領域だ。
そこから可能な限り復元するしかない。
△鏡の初期舶載鏡も3世紀の間におさまるし、△鏡が大量に出土する
畿内に邪馬台国があったとみてほぼ間違いないわ。
もうそういう所在地論の時代など終了してるわ。
あとは巻向の発掘調査待ちで素人など出る幕はもうないよw

761日本@名無史さん:2012/07/07(土) 19:56:41.33
普通に考えれば伊都国が外交における
重要な位置を占めてるので、後世の大宰府と
似たような扱いだと思われるので、
邪馬台国が北九州にあればわざわざ伊都国に
一大卒を常駐させたりする意味がない。
畿内の邪馬台国が、対中外交の窓口で伊都国に
一大卒を置いたとみるほうが明らかに妥当だろう。
762卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/07(土) 19:59:57.33
だから鏡くらい朝鮮でも出るって。

大体、画文鏡が三世紀のものとされるその根拠は何なのだ。

それに楽浪鏡とは何だ? それは平壌近辺で出る鏡なのか?
それならそれは馬韓鏡、あるいは高句麗鏡、あるいは百済鏡と呼ぶべきもので、
要するに朝鮮鏡なのだ。

学者が仿製鏡と読んでいるものも朝鮮鏡かもしれないぞ。
763日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:02:17.86
>画文鏡が畿内から出る時点でもう畿内で決まりなんだが、
画文鏡はいつ作られたか分からない鏡だ。だいぶ遅いことが明白な古墳からも
でている。
764日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:02:20.56
箸墓よりも古いホケノ山からも画文出てるし
三世紀のものでほぼ相違ないだろ。
それを否定するほうがおかしい。
765日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:04:07.64
注意!電波発生中!
766日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:04:13.09
箸墓よりも古いからといって三世紀とは限らんな。
767日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:07:40.77
△鏡も画文鏡も製造された時期に幅があるし
紋様なども製造された時期により微妙に異なる。
ある一定の時期にまとめて製造されたものではないよ。
△鏡にいたっては、舶載〜倣製まで何段階にも渡って
存在するし。△鏡の初期版は3世紀中盤から後半からなので、
卑弥呼の朝貢時期とほぼ重なるし、重要な物的証拠であることは相違ない。
画文も△鏡もほとんど出ない九州には邪馬台国はないよ。
768日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:14:38.92
ほんと九州説とか電波すぎるよなww
自説に凝り固まった典型的なキモオタだよ。
邪馬台国論争自体ほぼ終了してるしいまだに
やってること自体かなり痛いってのに。
鏡も古墳も邪馬台国とは関係ないもっと後の時代だとか
そうまでして九州に拘泥する理由が分からんわ。
769日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:17:53.97
この必死な人は何なの?
素人が好きなことを書くのが2ちゃん。
専門家は論文書いたり本書いたり学会で発表しててください。
あんまり専門家専門家と言ってると
今やビデオが各国語に翻訳されyou tubeで配信されて世界の笑い者になっている「我々専門家」が口癖だった東京大学大学院教授大橋弘忠を思い出す。
770卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/07(土) 20:55:13.78
その必死な人が19才、名古屋君。
名大文学部史学科だそうだ。
論文は世界史にするらしい。
卒業後は公務員志望とか。
伊作といろいろ論争して、
終いに伊作が19才はスレから消えろと脅かした(笑)
771日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:00:56.71
>>770
レスありがとうございます。
ああ、そうなんですか。
実は私数日前からロムしている新参者でよく知りませんでした。
一日中2ちゃんに張り付いて何やってるんでしょうね。
772日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:06:35.06
その19歳とやらもまた、邪馬台国にとらわれてるのに変わりはないのだよ。
自分がアカデミックな中にいると思うなら素人が何を言おうが気にしなければ
いいのに、それができないあたりはこの問題にとらわれてしまっている証拠。
773日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:20:45.57
プロは現時点でわからないものはわからないとするのが正しい態度。
実証を重ねて学問を少しずつ進めていけばよい。
自分一代で結論を出す必要はない。後進がさらに引き継いで進めてくれる。
むしろ不確かなことを言うことこそ怖れるべきなのだ。

それに対してアマチュアは自分一代で好きなことを言い、好きなように結論を出せばよい。
古代史というのはキャバクラ通いなどよりはずっといい趣味だろう。
774日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:28:09.22
だからプロの間で邪馬台国問題は畿内説で決着しているなどということもない。
決定的な証拠がないから、この問題は未解決のままだ。
確かに一部の考古学者は畿内説を説くが、あれも一般向けの本やメディアへの
対応であって、論文で邪馬台国の名を出すことは多くはない。

戦前は太平記に出てくる楠正成や記紀や仏教資料に出てくる聖徳太子蔵が一般に
信じられてきたが、あれも実証的に見れば実像とは違っている部分も多い。
戦後でも騎馬民族制服説などがあった。そのような反省の元に、不確かな推論を
後代に残すことは大きな罪であると考えられるようになってきているのだ。
775日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:44:42.82
キャバクラに行って古代史の話をすればいいのだ
776日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:45:28.19
一番やっかいなのは、自分のちっぽけな視野で結論が出たと思い込んでいる奴らだよね。
学問としては、邪馬台国にはまだまだいろんな可能性が有るのにね。
777日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:59:23.33
最近まともな人が来るようになったな
778日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:03:13.85
邪馬台国を推測する資料自体が少なく
僅かな文章の中の大切な1文を『古代の中国人の勘違い』扱いをして
無理やり畿内説で半分決定させてしまう強引さ

近畿の過疎が止まらない街の
町おこしの為に日本の歴史を改ざんしてる

邪馬台国の証明は金印のみ
今後、発見される可能性は極めて低いだろうから
やっぱり永遠の謎なんだろうな
779日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:10:09.64
>>778
金印がちゃんと届いたかどうかすら定かじゃないしなぁ
780日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:16:48.39
>>779
そうなると文字を持たない邪馬台国を証明する手段はないよ

金印が存在しようが無かろうが
邪馬台国王印の他に完璧に証明する手段はないと思う
781日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:37:29.93
邪馬台国の証拠となりそうなものは遺物では金印
しかしこれは卑弥呼の死で魏に返した可能性があるかも
魏帝詔書の木簡か竹簡 おそらく木簡で残ってない可能性が高い
張政の檄文なんかもそうだろう
難升米らがもらった銀印
あるいは台与の晋からの王印 黄幢なんかもそうだな



782日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:43:15.40
ただ東遷説の場合だとこれらが畿内で出ても畿内に持って移ったことに
なるんだろう
783日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:45:31.71
文字が下級役人にまで読み書きできるようになれば、
広域の支配が可能になる。

文字がなければ、それぞれの集落の長を通した間接支配であり、
半独立となる。

木簡は下級役人が文字を使えることを示す、
つまり広域支配ができる貴重な証拠である。

いまのところ、それの上限は6世紀である。
784日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:54:12.95
>邪馬台国にはまだまだいろんな可能性が有るのにね。

文献解釈に考古学的に、九州の可能性はもう無いけどね。

785日本@名無史さん:2012/07/07(土) 23:06:55.32
まあ、畿内説詐欺がまず候補から消えていることが大前提だ。
問題は、九州のどこかということに絞られる。
786日本@名無史さん:2012/07/08(日) 00:21:14.24
2chでは畿内説が有力だよな
京都大学の伝統の畿内説は学会の派閥問題であり
学術的な信憑性は無い気がする
787日本@名無史さん:2012/07/08(日) 00:22:06.56
文献解釈に考古学的に、畿内説の可能性は皆無。
788日本@名無史さん:2012/07/08(日) 01:10:50.48
戦前に邪馬台国九州説の牙城だった東大って、御用学者とかの、
政治にすり寄る系統の学者が多く集まるとこだったよな。
789日本@名無史さん:2012/07/08(日) 01:12:39.24
九州説は朝鮮学者とタッグくんでるからな、
それだけでもう信用出来ないね。
790日本@名無史さん:2012/07/08(日) 02:00:27.92
まあ学閥というのとはちょっと違うが、師の意見に異を唱えにくいというのはあるだろうな。
ただ、今は昔と違って古代史を概論風に語る人は少なくなった。
昔はいわゆる碩学といわれるような人が、4世紀なら4世紀、弥生時代なら弥生時代を
通して大局的な意見を述べたりして、それはそれで拝聴すべき点は多かったけれども、
やっぱり考古学の成果との齟齬は出てくるし難しい。
だから狭い範囲を専門にして古文書をこつこつ調べていくような研究が多くなった。
上の人も書いてるけど、間違ったことを定説として後世に残さないというのは大切なこと。


791日本@名無史さん:2012/07/08(日) 02:03:00.33
畿内説が朝鮮
九州説が南方経由
792風の中のゴキブリ:2012/07/08(日) 04:10:52.96
伊作無限19才
793日本@名無史さん:2012/07/08(日) 07:50:07.37
>>784
たからあんたみたいな頭カチカチは要らないよって言ってんだ。邪馬台国研究に何の役にも立たないだろうが。

邪馬台国がどこだったか特定する方法は有る。邪馬台国は魏と交流が有り、トップクラスは漢字が読み書きできたはずだ。
だから倭人が書いた漢字文字が発見されればそこが邪馬台国の可能性の一箇所になる。
まだ九州からも畿内からもそのような遺物は発見されていない。可能性はまだまだたくさん有る。
794日本@名無史さん:2012/07/08(日) 08:31:46.07
岡田英弘史観というのがあって、3世紀あたりの倭国というのは中国系の渡来人、
渡来人と現地(日本)人の混血が多数存在していて、現在のシンガポールのような
ごった煮状態になっていたというもの。
これがどこまで本当かはわからないが、当時の渡来人がどのくらいの割合でいて、
どんな役割を果たしていたかは今後の研究の課題になるだろう。

あと漢字資料はおそらく木簡や布などに書かれる場合がほとんどで、土器や石版
に刻まれたものの出土などは期待できなさそうだな。
795日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:10:37.26
畿内説は古墳時代(箸墓・ホケノ山築造・纏向遺跡)を3世紀に遡らせて邪馬台国と被せたがるし、
九州説は場所が特定できないし、一体どちらを信用したらいいのか!?
796日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:41:41.70
>九州説は場所が特定できないし、
邪馬台国はかなり広いんだよ
797日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:04:02.78
>>795
巻向の石塚や吉備の古墳なんかの発展延長線上でホケノ山や箸墓があるので
これらの連続性を考慮しないからわからなくなる。箸墓が4世紀築造だとしても
箸墓からは吉備の特殊器台もでたし、3世紀に畿内を中心とした
連合体制が構築されてたのは明らかなのだよ。
土器編年からも箸墓から出た土器は布留0式であり、九州説が言うような
箸墓は4世紀後半から5世紀築造なんて言う説のほうが明らかな暴論。
798日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:13:52.96
布留2は馬具と併行するので、400年以降
布留1はその前、長くても50年、普通なら30年程度。
布留0は布留1の前の短期間10年前後。

さらに、

葬送儀礼にはわざわざ古式豊かな土器をつくって供える傾向がある
一つの様式の土器が現れて消えるまでには長いタイムラグがある
その様式の土器がどの年代の時点でつくられたものかは正確には不明

土器をもって邪馬台国を畿内にもっていこうとするほうが無謀
土器編年法は畿内説を説明しようとした色々な手段の1つで結局ダメだった説

ちゃんちゃん
799日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:15:43.83
今日も朝から粘着しているのか。
学生なら勉強でもしたらどうか。
800日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:24:39.35
魏志倭人伝に、多数の古墳があった記述はない。
これだけでも畿内説は消える。
801日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:28:01.56
布留0式こそ50年と長いスパンであり、
最速だと3世紀中盤からで、これ以上は遡らないのは
調査済みだろうになぜそういう出鱈目を言う?w

もう一つ、箸墓築造30年後の地層から4世紀初頭の木製鐙も
出土したわけで、箸墓築造を280年〜290年とする
従来の説とも整合するし、土器編年の布留0式とも符合するだろうに。
九州説派の箸墓は5世紀の古墳とかいう説のほうが明らかに間違いであり、
仮にそうなら箸墓以降の前方後円墳も5世紀以降になるわけで、
そんなわけないよwつまり九州説なんて今時言ってるのは自説に
凝り固まった馬鹿なマニアくらい。
802日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:40:22.62
>>801
君の書き込みは「天に唾す」って言うんだよ。
もう一度時分の書き込み見返してごらん。
803日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:42:32.97
>>800
それを言うなら卑弥呼の死後に大いに塚を作る。径百余歩という
古墳らしき記述があるし、逆に九州にそれだけの規模の墓など存在しないんだし、
自分らの首絞める発言だろうにw馬鹿だねほんと。
804日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:45:13.07
卑弥呼時代以前は倭国大乱があった。
卑弥呼時代は狗奴国との戦争状態だった。
卑弥呼の死後また戦争状態になった。

畿内に戦いの後あるいは戦いを準備した痕跡あるかい?

土器ばっかり見て、その時代の事象は見ない
多分見ないふりだろうね見たら畿内説が違うことがばれてしまう
805日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:48:28.72
>>803 この脊髄反射単細胞が

>>800 は =魏志倭人伝に、多数の古墳があった記述はない=
と言っとるやないかwww
=古墳はない=とは言ってねーぞWWW
806日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:52:43.17
やあっぱ神功女大酋長が船出したとこのの帆立貝のが限りなくルーツに近いんだろうな

つこ つこ つこ
807日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:56:39.91
>>804
【倭国で大乱】があった→卑弥呼が共立された→卑弥呼が死んだ→倭国は【再び大乱】に陥り1000人以上が戦死した】

卑弥呼を挟んだ、二度に渡る【大乱の痕跡】を示す遺跡は大和盆地にはないのか?
808日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:58:13.69
>>804
倭国大乱というのはその当時の中国人の認識であり、
各国が戦争していた状態ととらえるほうが単細胞w
後漢の衰退と気候の寒冷化に伴う九州内部でのパワーバランスが崩れ、
不安定な状態が西日本全域に及んだと現時点ではとらえるべきだろうに。

それと畿内に戦いの跡があるか云々も、考古学上の問題だし、
考古学的には九州が圧倒的に不利なのでこれも自分らの首を絞める発言w
ほんと九州説って馬鹿だねwというかいまだ邪馬台国論争など
やってるやつが馬鹿なんだけどw
809日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:03:26.28
もっといえば△鏡は国産だというのが九州説派の言い分だが、
仮にそうだったとしても景初3年や、正始元年といった
卑弥呼の朝貢した年が鏡に刻まれてるわけで、邪馬台国との
関連性はないわけがない。むしろ国産だとしたら
その年号が非常に意味のあるものだから鏡に刻んだわけで、
鏡の分与理論からも△鏡が大量に出る畿内に邪馬台国があったに決まってるし、
九州はその当時すでに衰退してるよ。
810日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:11:07.94
>>808
畿内説は邪馬台国と戦争してた狗奴国はどこに比定してるの? 紀州?
811日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:19:32.73
>>810
そういう議論も妄想の領域になるから好ましくない。
なので邪馬台国論争は素人チックでだめだと言ってるんだよ。
あえて言えば、狗奴国というのも1国で邪馬台国連合29カ国と
対抗しているわけで、九州説のような熊本というより、
もっと広域な勢力としてとらえるべきだろう。
邪馬台国連合が領域拡大途上で、東国経営の段階で衝突した
東国の勢力と現段階では考えられる。それ以上は妄想しないw
812日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:21:03.50
畿内の毛人さんたちも熊襲の女酋長のことを尊しとしてひれ伏しておった

んでまねっこして無駄にでかい墓に育てて大量に盛り土してからに褒めてもらおうとの企画
813日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:25:39.96
>>811
裏を返せば、倭国大乱を示す痕跡もなく、交戦状態にあった狗奴国も比定できないのに、
4世紀の古墳(ホケノ・箸墓は3世紀に繰り上げ)と土器と△鏡だけ見て「畿内にあった!」と喚いてるだけでは?
814日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:28:28.18
時代遅れ過ぎるww
邪馬台国が九州なら台与とその次の男王の代まで
邪馬台国が九州で命脈を保ち九州は連合体制だったってことになるが、
そんな痕跡こそどこにもありゃしないわ。
痕跡はむしろその真逆で3世紀以降の九州は衰退の一途を辿ったことを
示しているし。4世紀に入る頃まで邪馬台国が九州に存在して
九州は畿内の影響を排除していたとか、あまりにも視野が狭い歴史観で
話にもならない。
815日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:33:39.09
>>811
裏を返せば、「倭国大乱」を示す痕跡もなく、交戦状態にあった狗奴国も比定できないのに、
「陸行一月」の南を東に読み替え、4世紀の古墳を3世紀に繰り上げて、土器と△鏡だけ見て「邪馬台国は畿内にあった!」と喚いてるだけでは?
816日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:34:19.13
>>813
倭国大乱を示す痕跡は高地性集落がちゃんとあるし、
これらは九州よりむしろ瀬戸内周辺に多いので、
倭国大乱の域を九州限定にする九州説のほうが暴論だw
狗奴国など九州説だって比定できんだろうにw
何を自分のことは棚に上げて言ってんだ?
妄想でならいくらだって比定できるがそんなもんしだしたら
ほんとに学問でもなんでもない素人の低レベルなお遊びになるから
やるわけないだろ。むしろ手を出さないほうが賢明だ。
ホケノと箸墓を3世紀に繰り上げなくても吉備の墳丘墓や巻向の
石塚はそれ以前のものだし、なんの問題もないわ。それらの
延長線上にホケノや箸墓があると言ってるだろ。
817日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:38:40.40
高地性集落と倭国大乱の関係は、なにも証明されちゃいない。
818日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:39:55.71
陸行一月の南とかまたそういう箇所を根拠に邪馬台国は九州だとか
ほんと前時代的な素人マニアの典型的なやり口だと言ってるだろうがww
これだから素人の邪馬台国論などだめなんだよ。
それらの倭人伝の行程からは300年邪馬台国論争やっても
答えは出ないわけ。つまりどこかがおかしいから現代人がいくら
考えてもわからないわけ。おそらく古代中国人の日本に対する地理認識は
われわれとは異なるから。いつまでもそんなとこに拘泥して
ああだこうだ言ってるのは不毛だしなので邪馬台国論争は
馬鹿馬鹿しいから専門家はほとんど手を引いたと言ってるだろうに。
819日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:44:08.86
>>817
証明されてるってww
魏志倭人伝における倭国大乱の時期と
高地性集落が突如現れ消える時期がほぼ一致してるんだし。
文献と考古学両面ともに整合してるわ。
つまり九州内のパワーバランスの乱れが東に波及したのが
倭国大乱で、なので瀬戸内周辺に高地性集落が多いわけ。
で倭国大乱後に西日本が畿内邪馬台国の卑弥呼を中心に再編されたんでしょ。
820日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:46:15.78
畿内説なら奈良盆地に大規模な戦乱跡なんて
あれば逆に困る話なんだけどね。
瀬戸内で覇権争いしたのが
倭国大乱というのが畿内説での認識だろう。

狗奴国なら紀伊半島南部だろ?
王がいてお互い魏とも繋がりがあり丹の山も確認済み
821日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:53:08.33
戦うにしても当時は錢のごときものを飛ばせる余裕の土人のが最強だろ

毛人のところは半島東岸の運送業者経由で入手せざるを得なかったんだろ
822卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/08(日) 12:30:23.20
鏡も高地性集落も畿内説の根拠にはならない。

なぜなら、早い話、画文鏡が中国鏡だという証拠はないだろう。
それが朝鮮鏡なら、そんなものが畿内からいくら出たところで、畿内説の根拠とはならない。

<沾解>送<吳>人釼師・蠶師各二人(AD259 第十二世<中川大帝>紀)

新羅が吳人釼師・蠶師各二人を高句麗に送ってきたという記事である。
AD259の段階で新羅には呉の工人が入っていたのである。
鏡を作る工人がいたとしてもおかしくはない。

高地性集落も、朝鮮式山城と同じようなもので、
単に朝鮮からの移住民の居住址かもしれないのである。
823卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/08(日) 12:34:26.18
日本人学者は、朝鮮人が優れていることを認めたくないので、
何でもかんでも中国のものにしてしまうのである。

画文鏡のことは私はよく知らないが、これが中国鏡だという根拠はあるのかな?
824卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/08(日) 12:45:09.92
伊作が、私の朝鮮説に、極端な反発と嫌悪を示すのも、
それが単に説として信じられない、というだけなら構わないのだが、
朝鮮に対する嫌悪が根にあるのかもしれないと思ってしまうのである。

しかし、早い話、西日本はほとんど朝鮮からの移住民だろう。
九州、山陰山陽、四国、近畿…。みんな朝鮮移住民である。
伊作なんてのは、江南渡来族の子孫か、朝鮮渡来族の子孫なのである。
825日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:11:47.85
やっぱり朝鮮人は真正のアホだw
鏡についての認識も何もないのに
よく邪馬台国問題に首突っ込めるな。
826日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:12:19.10
>>808 根拠なき妄想を吐き捨てて逃げてったかwww
低知能ド素人畿内説にある一般的反応よwwwww
827日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:21:50.28
畿内だ九州だと、よくあきないねぇ
この堂々巡りは何周目だよ?
八周、いやきゅうしゅう目かな
828日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:37:54.00
>>827 踊るアホウに見るアホウよ
お前も屑みたいなこと言ってないで踊ってみたらどうだ?
天気の良い日曜日の真昼間からWWW
829日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:42:54.53
筑後平野の環濠集落のように瀬戸内の高台の環濠集落から大量の武器が発見されたのか?戦史の墓でも発見されたか?
高地性集落とは、ただ、高台にこさえた環濠集落だろ?瀬戸内の高地性集落など倭国大乱とは無縁の集落だわいWWWWW
830日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:45:45.69
「陸行一月」の南を東と読み変え、交戦状態にあった狗奴国は全く比定できず、高地性集落だけを以って【倭国大乱】の証とし、
4世紀築造の古墳(箸墓、ホケノ山古墳など)を3世紀中頃と時代を遡らせて卑弥呼の墓とし、
そこから出た土器や鏡だけで邪馬台国と結論付ける畿内説は もはや学問でも何でもない。愉快犯工作だ。
831日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:47:43.43
まさ倭国大乱の最中に平和的に存在した唐古鍵遺跡の存在が、畿内説を打ち砕く
832日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:51:09.28
そもそも
このスレタイ自体もおかしい
もはや畿内説が当選であり大多数が支持してるような書き方
畿内説支持者は何を根拠に、こんなにも自信があるのだろうか?

九州説支持者はピースが足りないパズルを組みながら推理し
あくまでも客観的に考えているのに対して

畿内説支持者はヒステリックな○国民のように理論も証拠もなく喚いている
曖昧な証拠を論破されそうになると猿のようにウキッキと騒ぐ

話にならん
833日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:54:26.51
>>831
纏向遺跡の目と鼻の先にある唐古・鍵遺跡が、吉野ヶ里遺跡のように単なる環濠集落ではなく要塞集落だったら、畿内説もまだ説得力があるんだけど・・・
834日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:59:33.57
おい、畿内説連、高地性集落は倭国大乱と無関係なのだから、もう持ち出すなよ。
こっちが疲れるわ┐(´ー`)┌  
835日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:02:12.33
吉野ケ里が戦争の痕跡を色濃く残しているのは周知のことだが、
鳥栖の安永田遺跡にも戦争の痕跡があるね。

銅鐸銅矛の鋳型、
甕棺の中の、
被葬者に刺さっていたと見られている銅剣の先端。

このあたりは、筑紫国と肥国の境界。
戦闘の最前線だったんだろう。

山や河の境界と違って、ここは平地で境界が接しているところ。
戦闘が起こりやすいところだと言える。
836日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:12:14.14
だいたい、纏向遺跡には環濠や城柵、櫓など防御施設が全くないばかりか、戦争の痕跡すらない。

対して九州には環濠、厳めしい城柵、高櫓を巡らせた要塞遺跡が数多くあり、首のない骸骨や体中に槍が突き刺さった骸骨、刀や鏃で傷ついた頭蓋骨がゴロゴロ出てくる。
837日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:12:49.10
>>830
なんだ、やっぱり畿内説で正解じゃないかw
838日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:18:56.09
這い這いw
839日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:19:53.56
>>837 
その程度しか言えんのか低能畿内説は、だからバカにされるんだよ。
倭国大乱やら、弥生時代の畿内の先進性を示す何からやら、文献上畿内説がどうしたやら無いのか?無いんだろうな、だから、幼稚な1行反抗くらいしかできないんだよな。
840日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:20:33.39
>>836
ただその場所が戦場になっただけの話で終了だ。
それに畿内説じゃ当然北部九州も倭国の範疇だろw

大体九州は気候風土条件や行程が全然合致しないけどな。
841日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:27:01.38
必死で九州の先進性やら戦場の痕跡とか主張しても
無意味なのはまだわかってないのかね?

畿内説じゃ北部九州も倭国だよ、で終わる話だ。
単なる半島や大陸への窓口です、でおしまいw
842日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:28:40.04
倭国というのは、朝鮮半島の東岸から南部、九州北部から中国地方の日本海側あたり。
そのあたりが、倭人の居住地域ですよ。
843日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:31:30.58
>>840 言ってる事支離滅裂のうみそだいじょ〜ぶか〜?
倭国騒乱で相攻伐すること歴年だぞ?畿内で戦いの後がなければ、畿内は倭国騒乱の枠外ってことじゃね〜か、ここでいない説は消滅だぞ〜

>大体九州は気候風土条件や行程が全然合致しないけどな
これ笑わせようとしてんのか?
844日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:31:34.92
いやあ、反論できないからって、
九州を取り込まないでほしいな。
845日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:32:48.54
そもそも、弥生時代に奈良には唐子程度の遺跡しか無いからねえ。
846日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:33:23.33
倭人伝に記載された生活風俗はどうみても南方の海人です。
合致するのは、九州の南部宮崎辺りから四国東南部のみですよ。
それに丹の山もあるしね。北部日本海側は絶対ないけどな。
847日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:37:07.88
>>843
瀬戸内海淡路島には2〜3世紀にかけての
大規模な鉄器工房が発見済みですな。
何の為にあの場所にあるのかな?
848日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:40:39.05
>>840
>大体九州は気候風土条件や行程が全然合致しないけどな。

全部あっているはずだ。
一体
具体的にどこがおっていないのかな?
849日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:42:31.61
>>841
>畿内説じゃ北部九州も倭国だよ、で終わる話だ。

北部九州は倭国だが
畿内は倭種の国だ。
倭国ではない。
850日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:45:01.83
>>846
>倭人伝に記載された生活風俗はどうみても南方の海人です。
>合致するのは、九州の南部宮崎辺りから四国東南部のみですよ。

候補地に有明海沿岸が含まれないのは何故?

有明海沿岸の冬は天気も良く暖かい。博多側天候とは全く違う。
851日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:45:19.48
>合致するのは、九州の南部宮崎辺りから四国東南部のみ

問題外。
852日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:48:02.20
北部九州なんて冬寒いからな。
少なくとも宮崎以南じゃないと、距離近すぎて話にならん、
だから無理やり珍解釈が連発されるだけだ。
853日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:50:24.60
>>852
だから
矛盾する記述を具体的に挙げなければ
根拠無く叫んでいるだけ。
854日本@名無史さん:2012/07/08(日) 15:09:21.64
>>929
瀬戸内の高地性集落と言われるものの実態は、
海上を行き来する舟の監視所兼狼煙台。

そこで発見された遺物を知り、そして、
そこに登って展望すれば、誰にも判ることですよ。
机上で考えれば、それは空論だね。
855日本@名無史さん:2012/07/08(日) 15:23:48.52
>>852
>北部九州なんて冬寒いからな。

北部九州って何処を指す?
玄界灘沿岸のことか?
背振山系の南側は、冬には晴れの日も多く、雪も降らず暖かい。
久留米、佐賀から福岡市に毎日通勤している人の実体験でも聞いてみるのだな。
856日本@名無史さん:2012/07/08(日) 15:31:58.79
実家が糸島で、佐賀大和在住の人だけど、
佐賀のほうが温かいね。

両方とも、あまり雪は降らんけど。

福岡から鳥栖経由で筑後に行くと、気候が違う。

本日は、風がカラッとしていて、わりかし過ごしやすい。
857日本@名無史さん:2012/07/08(日) 16:10:35.21
高地性集落とは、
敵の船が来襲すると、物見台にいる見張りが知らせる。
すると低地の田んぼで働いていて人たちは一斉に山を登って巧緻性集落というか砦に逃げ込む。
どうやって知らせたかが問題なんだけれど、銅鐸を使ったのではないだろうか?
858日本@名無史さん:2012/07/08(日) 16:20:57.91
>>856
>両方とも、あまり雪は降らんけど。

糸島は福岡市内の様に雪が降らないのでは?

冬、飛行機で着陸する時、糸島あたりの海上で雲の下に出たときは雪が降っていないのに、
空港に着陸すると雪が降っていることが多い。
859日本@名無史さん:2012/07/08(日) 16:35:33.88
>>857

>どうやって知らせたかが問題なんだけれど、銅鐸を使ったのではないだろうか?

音程の低い太鼓のようなものだと思う。
銅鐸の様に音程が高いと音が遠くまで通らない。

>低地の田んぼで働いていて人たちは一斉に山を登って巧緻性集落というか砦に逃げ込む。

それは、稀に来る大船団の時だけだろう。
多くは、戦闘準備をして待ち構えるだけ。軟硬両面待ち。
860日本@名無史さん:2012/07/08(日) 17:08:57.84
北九州は知らんが、奈良盆地は冬半端なく寒いぞ。京都より寒い。
なんでも大昔、湖底だったようだ。
861日本@名無史さん:2012/07/08(日) 17:34:19.86
夏暑く冬寒い盆地性気候

夏暑く:高温ではなく高湿度と無風。
冬寒い:放射冷却、冬に生菜は育たない。
862日本@名無史さん:2012/07/08(日) 17:34:46.26
とにかく、畿内の弥生遺跡は貧弱だ。邪馬台国へのつながりがない。
863水銀厨:2012/07/08(日) 18:04:34.97
奈良は唐古で充分だよ、あそこでちょうど千人規模の遺跡だ。
卑弥呼の都維持でピッタリ。
鏡に勾玉造りをそこで行い、三輪の麓へ水運で通うのだよ。
距離もすぐ近いし内陸部でも海の魚の骨ばかり出るぞ。
当時から大阪湾との流通が日常的に行われてる証拠だ。
当時の邪馬台国は淡路島周辺一帯の国だよ。
864日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:05:28.28
倭地に温暖でもない地域が含まれてるのがわかってんのに、何温暖自慢してんの?w
865日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:08:25.01
千人規模の遺跡だとざっとで200戸とか200家とかのサイズなんだけどそれってどおなの?
866水銀厨:2012/07/08(日) 18:15:02.66
まあ七万戸は相当広い範囲の国とみるのが妥当だろう。
867日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:43:01.54
>>863
交戦状態にあった狗奴国はやはり紀の国か?
868日本@名無史さん:2012/07/08(日) 19:05:48.91
邪馬台国が国の始まり淡路島なら、敵対する狗奴国は徳島という可能性も考えねばなるまい。
869日本@名無史さん:2012/07/08(日) 19:33:10.03
ほんと邪馬台国はオタの妄想ばかりで不毛すぎるなww
専門家などもうほとんど畿内で納得してこの問題には触れないようにしてるのも
あたりまえだ。ここまで素人オタがやかましいわけだしww
九州なわけないってwwオタは学会に反抗するのがかっこいいとでも
思ってアンチテーゼで九州説とる傾向にあるが、どう考えても九州はない。
九州は3世紀以降はむしろ衰退してると言ってるだろうに。
考古学軽視も典型的素人オタの傾向だし、倭人伝の南とかいう
方位から九州だとかもういったいいつまでそんな不毛な馬鹿馬鹿しいことに
拘泥して言い続けるのかと。気味悪くすらあるわww
870日本@名無史さん:2012/07/08(日) 19:55:42.55
あのな〜、
ここのスレッドは九州説の専門スレッドなんだよ。

畿内説、四国説の諸君は、出て行って呉れ給え
871日本@名無史さん:2012/07/08(日) 19:55:59.82
>>869
>九州は3世紀以降はむしろ衰退してると言ってるだろうに。

九州王朝説批判は古田のスレでやれ。
872水銀厨:2012/07/08(日) 20:04:32.82
>>867
倭人伝の書かれた時点ではそうだろうと認識している。
争うと言っても当初はお互い冷戦が続くような間柄だろう。

何にせよ九州範囲内で収める次元の話はもう過ぎている。
873日本@名無史さん:2012/07/08(日) 20:54:46.81
>もういったいいつまでそんな不毛な馬鹿馬鹿しいことに
>拘泥して言い続けるのかと。気味悪くすらあるわww

このままお返しする
874日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:15:14.39
文献を曲解、考古学も無視して、4世紀築造の箸墓古墳を3世紀中頃に繰り上げ、3世紀の日本で最大の遺跡=邪馬台国とする近畿説は学問ではない。
愉快犯的工作活動に過ぎない。
875日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:33:16.32
>専門家などもうほとんど畿内で納得してこの問題には触れないようにしてる
専門家で畿内説ってだれだ? 
876日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:34:32.13
737 :ローガン:2012/07/07(土) 16:26:52.89
>密室科学(年輪年代法・炭素年代法)のご都合利用は非難轟々、
気に入らないなら自分で標準パターンを提示するよろし。何もせずに非難するするだけ?

ほらこれが畿内説代表ローガンってやつの底意地悪い反論だ。
これこそ畿内説の逃げ口上ってことだな、この程度の反論しか残っていないということは、
もう終わっているってことだ。
877日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:41:02.56
そもそも納税者の税金で維持管理してる天皇陵の発掘もさせない、公開もしないという国は、民主主義国家と言えるのか?
878日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:51:48.56
名ばかりの、子供だましの民主主義国家、日本
名ばかりの、子供だましの似非学問、畿内説
879日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:17:10.84
吉野ヶ里遺跡や妻木挽田遺跡群は竪穴住居の数は300以上ありますがな
吉野ヶ里は鏃が刺さったり首がなかったりする遺体も見つかってるのもまた重要
攻められた証
880日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:31:27.83
畿内説の考古学者達はもう議論するつもりなんかない。
畿内説で決まり、を連呼するだけ。
畿内説に基づいて都合の良い日本の古代史を組み立てることに
専念しているところが怖い。
881日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:40:13.00
いまのところは、年輪年代法は自説に都合が良くても、
利用しないほうが安全。

本来は莫大なサンプルから、統計を取らないと
モノにならない手法。

サンプル固有の誤差を排除して、全体の傾向を
抽出しなければならない。

一つのサンプルだと、同じ木から取った年輪でも、
北側、南側ですでに違う。
882日本@名無史さん:2012/07/09(月) 00:20:36.29
北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。
武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、
前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的である。
中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

倭国大乱はおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流。
前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、
具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。
倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
(wikipedia)
883日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:52:38.52
>>879
300以上って数字が本当ならば。
遺跡の継続期間やら住居の寿命(継続使用期間)を考えたら、
同時期に存在した住居の数は十数件だろ。

もう一桁ぐらいないと、都市的な大集落などとはとても呼べそうにないよ。
それともその300というのは、同時期に300戸以上、という意味かな?
884日本@名無史さん:2012/07/09(月) 07:02:03.24
大和盆地で弥生時代の戦闘の痕跡はどのくらいあるの?
885日本@名無史さん:2012/07/09(月) 07:10:02.04
>>883
ヒント:現在発掘されるものは、実際にあったもののごく一部
886日本@名無史さん:2012/07/09(月) 07:24:40.81
唐子鍵遺跡では、住居に限れば、数軒の住居の存在が
確認されている程度。

多分、環濠内は公的施設で、住人は外に住んでいたのだろうが、
案外少ない。
887日本@名無史さん:2012/07/09(月) 07:34:27.76
畿内説「木を見て森を見ず」vs 九州説「森を見て木を見ず」
888日本@名無史さん:2012/07/09(月) 08:00:21.37
吉野ケ里でも、環濠内の住居は王や臣、使用人の住居と
考えられている。

それで、300戸以上も住居跡があるなら、
逆に規模がでかすぎるような感じもする。

これらの幾らかが、兵士の駐屯所と考えれば、
戦乱が多かった傍証になろうか。
889日本@名無史さん:2012/07/09(月) 08:16:41.47
唐古は巻向の使役の為の居住地区ならピッタリだね。
楼閣の絵も出たり環豪もある。何より鏡作神社の存在が大きい。
仙果の桃の種ばかり出土して、三輪は酒造りに真菅は勾玉造り。
鬼道を用いるにはこれ以上の環境はないぜw
890日本@名無史さん:2012/07/09(月) 08:20:57.26
>>887
今、電波工作活動に勤しむ畿内説のニートどもが九州説に仮転換し、
「女王之所都」「狗奴国」の候補地を探せば、邪馬台国問題は瞬時に解決。
891日本@名無史さん:2012/07/09(月) 10:31:04.20
平安時代以降九州はだんだん影が薄くなるが、奈良時代以前には宮中の政でも一々九州の神社にお伺いを立てるなど、朝廷にも九州は絶大な存在だった。
一番顕著な例が歴史の教科書にも載って一応高卒以上の日本人なら誰でも知っているであろう道鏡事件での宇佐八幡へのお伺いだよね。
その辺畿内説はどう説明してるの?(それともしてないの?)
素人だけど教えて。
892日本@名無史さん:2012/07/09(月) 11:36:12.01
>>891
宇佐は瀬戸内からすると西の拠点。
その時点で意見を聞くべき人間が、その場所に居ただけの事。
893日本@名無史さん:2012/07/09(月) 11:48:16.62
>その時点で意見を聞くべき人間

え?
人間に聞いたの?
神にお伺いしたんじゃないの?
894日本@名無史さん:2012/07/09(月) 11:52:29.68
そりゃ神さんだって人経由じゃないと話せませんぜw
895日本@名無史さん:2012/07/09(月) 12:22:17.08
当たり前だが、邪馬台国は一つしかない。つまり、邪馬台国が九州だとすれば、
畿内説は嘘っぱちということになる。うそを前提にして日本史を作るのは間違っているから
とりあえずは、決着をつけることが先になる。
国を挙げての大論争をやるべきかもしれないな。
896日本@名無史さん:2012/07/09(月) 12:43:40.35
△鏡詐欺だの、箸墓詐欺だの、年輪詐欺だの、詐欺ネタを振りかざすだけの
イカサマ詐欺師集団と論争しても、結局詐欺以上の論争にはならないような気がする。
897日本@名無史さん:2012/07/09(月) 12:46:44.41
>>891
あれ?
宇佐八幡宮って、道鏡の事件より前は、あまりぱっとしないマイナー感があるんだが?

おおかた、道鏡の件で最初はなにか好意的な託せんを出してて、それで注目されたから、例の「おうかがい」を求められただけじゃないか?
898日本@名無史さん:2012/07/09(月) 12:54:54.35
>>895
決定的な証拠が発掘されない限り決着はつかないよ

それに、決定的な証拠もなしに間違った歴史を作成するのは止めるべき
そして決着が付かないから盛り上がる事もある
899日本@名無史さん:2012/07/09(月) 12:59:16.35
>>891
宮中のほうから政について一々宇佐八幡宮にお伺いを立ててたことはないよ。
宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の歓心を買おうとした宇佐八幡宮のほうから
道鏡を天皇にせよという神託がありましたと称徳天皇に報告したもの。
そこで称徳天皇が和気清麻呂を遣わしたって話。
もともとは藤原広嗣の乱鎮圧のために九州へ向かった大野東人が宇佐八幡宮で戦勝祈願をして勝ったことから
聖武天皇が大いに感激、東大寺を建てるときに宇佐八幡宮を鎮護国家のため東大寺の鎮守社として大和に分社した。
このときに朝廷との縁ができたので娘の称徳天皇にも関心を持ってもらいたかったのだろう。
900日本@名無史さん:2012/07/09(月) 13:28:48.17
>>895
少なくとも北部九州に無い事は断言していい。
どう解釈しても有り得ないから。
九州説論者はまずそこからですよ。
901日本@名無史さん:2012/07/09(月) 13:33:11.59
道鏡に皇位を譲りたい称徳(孝謙)は、そんな神託は無かったと奏上した和気清麻呂を
和気ウンコ麻呂とかゴミ麻呂とか改名させて島流しにしたんだろ?
清麻呂が孝謙に抗さなかったら皇統断絶しとったよw
902日本@名無史さん:2012/07/09(月) 13:41:55.48
現代から考えればそんな神託は無かったのが正しいし和気清麻呂が正しかったんだよね。
903日本@名無史さん:2012/07/09(月) 13:43:36.55
>>901
天武系は事実上称徳天皇で断絶
天武と天智が兄弟か否かという話は置いといたとしても
壬申の乱で敗れた天智系は当時皇統から遠く
称徳天皇は天涯孤独を意識しもはや誰が天皇になってもよかったのだろう

称徳天皇死後、聖武天皇皇女である称徳天皇の異母姉・井上内親王の夫を光仁天皇とし
井上内親王の皇子に皇統を伝えるはずが藤原氏の横やりでご和算
904日本@名無史さん:2012/07/09(月) 14:00:34.65
孝謙天皇は孤独感で過剰に依存したり不信になったり自棄になったりしてたのかね
905ローガン:2012/07/09(月) 14:15:49.74
>>891
>道鏡事件での宇佐八幡へのお伺いだよね。その辺畿内説はどう説明してるの?(それともしてないの?)

九州にいた弟の浄人を使ったヤラセだから。
906日本@名無史さん:2012/07/09(月) 21:31:13.54
九州説の箸墓は5世紀の墓とかのほうが詐欺だしww
築造形態や出土品から確実に最古の前方後円墳だという
結論が出てるのになぜ5世紀なのかとww
6世紀の丸山古墳を最後に前方後円墳が消えるわけで、
そうなると前方後円墳のスパンが100年程度になってしまうし
仁徳天皇陵なんかもあれも箸墓と同時期のものかと。
ほんと畿内説だの九州説だのいつまで同じようなネタでループしてるのか。
いい加減卒業しろ。結論なんてでやしないんだしさ。
907日本@名無史さん:2012/07/09(月) 21:42:25.23
そういえば、吉野ケ里の周囲に前方後方墳があり、4世紀と言われている。
もともと吉野ケ里周囲ってのは墓域がおおくて、弥生時代全域の墓制が存在する。

でも、前方後円墳は何故か無い。
908日本@名無史さん:2012/07/09(月) 21:58:10.22
箸墓からは吉備系の特殊器台も出てるんだし、
段築もまだ古墳として洗練されてない初期のものだし、
前方後円墳は箸墓のサイズを基準に、2分の1、3分の1と、
古墳で豪族のランクを表す役割を果たしてるわけで、
箸墓は3世紀後半から4世紀初頭くらい築造とみてほぼ相違ない。
畿内説の言ってる250年頃というのは早計な気はするがね。
その可能性もあるが今はまだそう決め付けるのは早い。
つまり年代測定の精度をもっと高めるか、発掘であたらな発見でも
なければもうこの問題は動かない。完全に考古学の領域だし、
いまだに倭人伝の南とかから九州だとか延々言ってるやつは
もう頭おかしい基地外くらいwマニアってのはそんなんだから
世の中では嫌われるんだよ。
909日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:07:09.26
九州は4世紀くらいまでは各地マイペースの文化で動いている。
円墳も方墳も前方後円墳も、特に統一された形跡はない。

支配ではなくて、共立なんだから、
そうそうそれまで培ってきた文化が変わるはずもない。
910日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:21:22.14
>>909
動いてないってw
九州の鹿児島にもすでに巻向型の前方後円墳があるし、
すでにそこまで巻向を中心とした連合体制が成立してるよ。
北は福島にもある。倭国大乱を境にいっきに日本全土が
巻向を中心とした連合体制に移り変わったとみていいだろう。
それで倭人伝の各国の卑弥呼共立の記述とも整合するし。
4世紀まで邪馬台国が九州に存在したとかまだ思ってる奴など
相当な馬鹿くらいwいい加減目を覚ませ。そしてこんな議論は不毛だから
無意味だということくらい理解しろ。
911日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:40:24.62
畿内説、懐かしい言葉だ。
どこかで聞いたことがあるような気もするけれど、
もうそんなことを言う奴はいない。
912日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:59:55.67
都合の悪い物は耳に入らないからなw
さすが本国と同じ思考回路してますね。
913日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:59:59.74
5世紀と推定される大型円墳もいくつかある。
むしろ、五世紀以前とされる前方後円墳など、
宮崎以外では、九州には数えるほどしかない。

大型の前方後円墳は5世紀以降だな。
それもそれほど多くない。

全体の墓制が変遷している気配はないが、
仮に墓制が変遷するとしても5世紀から6世紀だな。
914日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:07:22.28
前方後円墳がなくてそれが何か?
915卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/09(月) 23:10:06.74
古墳くらい朝鮮にもある。鏡もあるぞ。
召文では大乱も起きている。加耶は女王がいっぱい即位してるぞ。
女王から女王へのバトンタッチもある。
女王→男王→女王というパターンもある。
しかもそれが卑弥呼と同時代だ。
916日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:11:26.25
崇神天皇が3世紀初め、日本武尊が4世紀初め、応神天皇が5世紀初め、継体が6世紀初めだな。
917日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:12:15.30
九州は大陸に近いから人・文物が複数直接的に入ってきて、まとまりにくいんだよな
九州内広域連合や統一王権というのはできにくい
918日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:20:22.00
筑紫国の海外交易ルートは糸島、博多
肥国の海外交易ルートは唐津、長崎、場合によっては直接有明海へ

そして、弥生時代には、筑紫国と肥国が平地で境を接する、
久留米から鳥栖の周辺で、戦の痕跡のある遺跡が幾つか存在する。

平地で境を接している場合、とかく、大きな戦になりやすい。
919日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:21:44.23
幼稚なやつはでかいのが好き
だとか
なかみの用意できない人はでかいのでなかみの代用にして我慢
とか
いろいろあるわな
920卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/09(月) 23:32:10.48
辛未九歲,通<連山>鑄鏡‧用<漢>字 BC50(<芻牟鏡>卷二)

高句麗の始祖、朱蒙が九歲で、<漢>字 を用いて鏡を作ったという記事だ。
どうだ、面白いだろう。鏡は中国と日本だけのものじゃないんだぞ。
921日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:46:13.78
まあ弥生中期からの円形周溝墓といえば瀬戸内海東部。
この辺りだと色々箸墓にも繋がっていくからな。
前方後円墳もこっから発展したのは確実だろう。
922日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:49:35.27
そして、その前は出雲、その前は九州だよ。
それに古墳の被葬者は、隼人の盾に守られていたそうだ。
923日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:52:48.25
>>919
そのとおりだねえ。
田舎の貧乏人の引き出物はかさばるだけで安物と決まっていた。
人件費が何より高い現代人の感覚で「この陵墓を作るのにのべ○万人!!!」なんて言われると騙されそうだねえ。
で、その立派な墳墓から黄金の出土品でもあったのか?
924日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:07:54.66
>>920
www
925日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:15:27.86
このスレでも副葬品の話とかするんだw
926日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:28:38.17
古墳が造られているところは、軍が駐留していたところだといううことに気づく
べきだろうな。軍が駐留する必要がないところには古墳はない。
927日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:37:54.44
どして?
928日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:44:49.52
ああゆうのの発生に関しては

@定型化されたものが何処かから持ち込まれる
乃至は
A突然変異みたいのが成長して定型化されていく

だろうけど●■の場合は

列島内で発生の可能性が限りなく高かろうし

Aであるの可能性が限りなく高かろう

であればふつうに突然変異する直前の母体になるやつから

へんてこな●■に切り替わるトランジッションのところの

切り替わりのストーリーがちゃんと描かれないようではいかんよね

ふつうにかんがえれば定型化された馬鹿でかいのが突然現れて

その1/2とか1/4とかのがそれに倣って拡散していくとゆうストーリーは

まぬけそのものだとはおもふが
929日本@名無史さん:2012/07/10(火) 04:27:24.09
>>928
前方後円墳の前に「前方後円型古墳」ってのがあるんだぞ
930日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:38:47.56

前方後円墳は道教の神仙思想(不老不死)の象徴という説がある。

陰陽道で、■は陰=女(崑崙山・西王母)、○は陽=男(蓬莱山・東王父)。
○陽と■陰を上円下方墳のように上下に重ねるのではなく、地上絵のように左右に並べることから「西方東円墳」ともいえる。
陰■と陽○が補い合って被葬者の魂の復活、土地の活性化と繁栄を願って、この形が生み出されたと思われる。
よって前方部は単なる祭壇ではなく、被葬者の魂を復活させるのに不可欠な装置というわけだ。

http://www.k2.dion.ne.jp/~penta/LOVELOG_IMG/8EED92BF95F3.jpg
http://www.k2.dion.ne.jp/~penta/LOVELOG_IMG/Scan10602819A.JPG

東京は太極図そのもの
http://blog.goo.ne.jp/yugo4keita/e/f6e299a13e8b70230d4421dfd6d3947c

ピラミッドも被葬者の魂を太陽の船に載せて再生復活し、永遠の生命を願う装置であり、
洋の東西を問わず、権力者の考えることは同じようだ。
931日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:49:35.51
ちょっと無理じゃね
932日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:52:05.59
道教の本場でやってないことを何でわざわざ当時の僻地で
933日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:54:24.06
>>930
卑弥呼の時代はまだ道教が確立していなかった

「鬼道」と呼ばれる太平道や五斗米道(初期道教)が幅を利かせていた時代で
卑弥呼の墓は前方後円墳ではない可能性が高い
934卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 19:11:17.78
鬼道が日本に伝わっていたとは思えないから、
卑弥呼がいたのは日本ではないな。
935日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:14:50.51
↑電波ニートの登場!
936日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:17:54.34
そういや、前方後円墳も日本独自のものだね。
ちょっと朝鮮から見つかるくらい。

三角縁神獣鏡も日本独自のものだね。

オリジナリティを意識してたんだろうか?
937日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:28:15.03
>>936
そういえば、△「神」獣鏡には「西王母と東王父」が良く出てくるNe
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D
938日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:28:40.58
倭人伝の行程記事のみで方角から九州臭いからとか
言ってるやつは視野が狭い低脳すぎるw
当時の東アジア史の視点からみれば、後漢朝の衰退の影響が
朝鮮、そして九州まで及んで、伊都国奴国の統治力が低下したこと、
かつ九州内の人口増加率と九州内の耕地面積の量とが
アンバランスになり、寒冷化に伴い飢饉に対応できなかったことが、
主な倭国大乱の原因で、その余波が東に及び、瀬戸内周辺に
高地性集落が多いわけ。結局食料生産力に勝る吉備や畿内が主導して、
卑弥呼を共立した連合体制を構築し、九州もその傘下に入っただけのこと。
それなのにいつまでも倭人伝の世界を北九州限定にとらえてるやつは、
いい加減この問題に首突っ込むのやめろ。延々ループの不毛な作業になるだけ。
邪馬台国はもはや最新の考古学でしか進展しないので素人など出る幕はもうない。
そんなにやりたきゃ巻向の発掘員のでも応募しろw
机上でああだこうだと妄想を言ったとこでまったくもってナンセンスだ。
939日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:43:27.68
>>938
>そんなにやりたきゃ巻向の発掘員のでも応募しろw
940日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:44:30.88
九州では、寒冷化ではあまり生産力は落ちないよ。
逆に高温による干ばつは昭和、平成でも、いくらでも例がある。
941日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:47:44.95
前方後円墳なんて分類、呼称自体最近だろw
箸墓だって古い案内絵図では円墓で描かれてるよ。
942日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:49:42.23
>>934
魏志で鬼道という語句が記されてるのは張魯伝と倭人伝の二ヶ所だけだろ

その片方が鬼道じゃないなら、鬼道って、いったい何なんだ?
943日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:57:06.16
九州は台風上陸率が高いのがネック。
年平均3回はくるし、水害も多い。
最近のニュース見ててもわかるだろ。当時治水の技術なんてないに等しいだろうし。
農業やってればわかるがちょっとした自然災害でもいっきにおじゃんに
なってしまうこと多々あるし、農業には適さない土地なので、
自然と畿内に中心が移ったのは必然。
944日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:00:39.27
寒冷化だと台風も余り来なくなるから、いいね。
暑い夏に直撃食らうと、歴史的な奴が来る時がある。

暑い夏はふんだり蹴ったり。
945日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:02:55.45
どうやら、九州、梅雨も開けたっぽいが、暑いぞ。

今年はでかいのが来なければいいなあ。
946日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:03:38.65
>>936
1400年ころになってやっと南方の韓地が朝鮮と呼ばれるようになったもようですけど

祖国のを分断とゆうの自体が大嘘ぽいですよ

歴史的な地名呼称を尊重してゆうと

いまのところ朝鮮から●■は発見されていない

韓からはとりわけ西南側中心にして6世紀以降のがぞろぞろ

そこの領域は石器の時から青銅器にかけて背の低いタイプの兀ののメッカ

半島南部からは卵殻棺との組み合わせで出ていたりする

韓国では古朝鮮の説明に北方型の背の高いタイプの兀の分布が使用されているらしい
947日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:11:26.99
鬼道は祖先霊を信仰することだったと思う。
南朝鮮で行われていたのが日本に来た。
道教ではない。道教は危険宗教なのでんなもん信仰してる卑弥呼を
倭王に封じるわけがない。
948日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:17:58.25
円形・方形周溝墓の陸橋が発達して四隅突出型や前方後円墳・後方墳の前方部になったんだろ
949日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:18:03.64
伊都国が大宰府で、一大卒が大宰府長官ってとこだろうなw
なので邪馬台国は大和でいいと思う。じゃないと伊都国が
こんな重要な位置占めてる意味がないから。
950日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:22:53.71
>>948
それも違う。たしか中国の皇帝の即位式が前方後円墳の形状と一緒で
それ見た倭国の使者が日本に導入した。いわゆる先代の王の
祖先霊の継承儀式の場が前方後円墳。なので魏や晋に朝貢した
邪馬台国の卑弥呼や台与から前方後円墳が作られたとみていいので、
最古の前方後円墳の箸墓が卑弥呼または台与の墓とみていい。
951日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:23:36.31
>>947
(正統派漢民族王朝を自認する)魏が造るわけがない△神獣鏡は、やはり呉鏡で、卑弥呼が貰った鏡ではないってことになるね。
952日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:26:38.48
>>947
朱を用いる時点で鬼道=初期道教だよ。
わざわざ日常でも丹を用いると書かれてるだろ。

よって半島には縁が無い事です。
953日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:27:29.78
>>950
>たしか中国の皇帝の即位式が前方後円墳の形状と一緒で
>それ見た倭国の使者が日本に導入した。

ソースきぼんぬ!
954日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:28:12.06
紐が通せないタイプの下手△は確実に国産

国宝扱いされてるとかのがわろす
955日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:54:33.03
つかここほんと知識浅い馬鹿なオタが九州だとか延々言ってるだけだなw
△鏡は舶載鏡と国産とに別れるし、どっちか片方だけってことはない。
初期のものは魏が公孫氏を滅ぼしたときに
半島にいた呉から移住した鏡職人を使って作らせたもので、
景初3年とか年号入りの鏡がそれ。卑弥呼がもらった鏡の中にもいくつか含まれてる。
証拠に景初4年というありえない年号入りの鏡もあること自体が、
後世の国産ではないことを示している。半島にいた職人たちは
改元の情報を入手できなかったためそういう年号入りの鏡が作られたとみるしかない。
国産の鏡が日本で作られだすのは楽浪郡が滅亡する313年でこのために
舶載鏡の入手ルートが絶たれてから。なので△鏡の分布図も
邪馬台国の位置を示す一つのファクターとみていい。
分与論から、畿内を中心に分与されてるのでやはり邪馬台国は畿内だよ。
△鏡よりやや時代が古い画文鏡もやはり畿内中心だ。
956日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:59:00.30
なんぁ〜だ、ソースなしの妄想連呼かw
957日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:59:26.26
下手△は紐が通せないタイプで確実に国産

紐が通せないタイプの下手△は確実に国産
のちがいが読み取れないとゆうのが悲惨ですねえ

「紐が通せないタイプの下手△は確実に国産」

これはだれにも否定のしようもないないはずだがな

「紐が通せないタイプの下手△は確実に国産」
958日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:59:26.61
いずれにせよ古墳や鏡や土器等の多方面のどれかから
検討してもすべて九州ではなく畿内に邪馬台国があったという
結論に行き着くわけだし、いい加減前時代的な
倭人伝の行程で南に邪馬台国があるから九州だとか言う
子供じみたこと言うのはやめろ。ほんとそれは視野の狭すぎる
低脳の思考レベルだ。というかもういい加減邪馬台国からは撤退しろ。
いったいいつまで不毛なことに時間使ってるんだ?
959日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:05:56.05
銅鐸鋳潰して拵えたにきまる「紐が通せないタイプの下手△」のこと子分にばら撒いてゆうこときかすとかのが子供じみた発想だね
960日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:06:26.15
△は舶載鏡が4段階、国産が2段階に製造形態がわかれるよ。
国産に移行するのは輸入が困難になってからの話。
△にかぎらず他の鏡も一緒。九州説のやつらがいうように全部が国産ではない。
てか全部が国産のほうが国産なのに景初とか卑弥呼が朝貢した
年号が入ってるんだし、邪馬台国と関係してる人間が作ったことになるんで
九州説はもっと不利になるんだがw
つか九州説ってほんとに地元が九州でわが町に邪馬台国をとか
いう願望だけで言ってるとしか思えんわ。
じゃなきゃよほどの馬鹿くらいだよ。どう考えても九州には
邪馬台国はないことくらいわかるはずなのに。
ほんとにもう邪馬台国はやめとけ。専門家は馬鹿馬鹿しいから
手を引いてるやつばかりだといってるだろうが。
おまえらみたいな馬鹿なマニアがうざったるいからw
961日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:06:52.96
>>958
畿内説ってのは、倭人伝に『径百歩』と書いてあるのを無視して、
墳長280mの前方後円墳を卑弥呼の墓に仕立て上げた。
年代が異なるのを無理やり合わせて、年代が合うから卑弥呼の墓と言った。

全部、こんな調子。何から何まで全部でたらめ。
962日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:07:44.19
>>958
この視野狭窄症には、覚えがあるぞ
963日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:07:44.24
>おまえらみたいな馬鹿なマニアがうざったるいからw

そのままお返しする
964日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:10:11.71
>>961
ついでに言えば、畿内説の捨て台詞は、『倭人伝は間違い』
965日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:12:29.20
死んでから百餘人のこと生贄にして道連れにした熊襲の女酋長のこと

大切に思っていた毛人のところの酋長さんが

むだに景初の文字がお好きなのではあったのだがな
966日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:18:44.79
○◇の鏡に埋もれて眠るのが熊襲の女大酋長で

よおやくのこと1枚抱いて眠れるかどおかとゆう程度のが毛人のところの酋長さんだな

まわりに▲がずらりで無駄に盛り土のサイズだけがでかい
967日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:20:28.33
>>957
どちらも同じ意味じゃん
どちらの文章も、下手△ではないタイプの存在をうかがえる表現になってるぞ
違う意味の文例を作れなかったのか?
968日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:22:08.62
>>961
たしかに、百歩なら百五十メートルちょいだしな
969日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:28:04.96
>>967
てぬきではあったがよくよんでてえらかったな

文頭のの「下手△は」の「下手」は「△」全体に対する罵詈雑言で読めばよいのだ
970日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:31:43.38
>>961
必殺生ゴミ桃の種まで卑弥呼の物だと証拠にしようとしたし。
971日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:34:06.98
「下手△ではないタイプの存在をうかがえる表現だ」とゆうことは
>>955 は日本語とんと駄目だとゆうことだ罠
972日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:37:42.53
卑弥呼なんて裏でおとこ女装させて呼び込んでからに生贄ストックとかしていたのかもしれんし

むだに大和のほうにひきつけたりしないほうが良いかとはおもふが
973日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:43:50.29
ストックといえば、糸島の平原遺跡の大量の方格規矩四神鏡。

あれ、どうみても配布の余りだろうね。
974日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:48:02.92
三角縁の銘文。
まだ、文字の書の意味もわからないらしく、
書き順、留め、払いがでたらめな、
いわば絵のように写しているそうな。
975日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:51:13.07
紐を通せない鏡って、実用性低いよね。
墓に入れるだけだからいいや、ってことなのかね
976日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:03:50.20
九州勢力が本州の毛人に配った△だからな。いい加減なものさ。
977日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:12:08.12
心のこもらないプレゼントとか貰ってもありがたくもないよ

プレゼントで拡散とかしたのなら

土人ので技術は伴わなくてしょうがないけど

それでも誠意のこもったものとして

▲のはハンドリングされたんでしょ
978日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:16:20.66
三角もらった卑弥呼は、こんなもの要らねえとばかりに下民に分け与えてしまったのだろうな。
それが回りまわって畿内に流れ、宝物にされるとは思ってもみなかった。
ブッシュマンのニカウさんが拾ったコーラ瓶といっしょだ。
979日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:29:23.95
オラ男だから鏡なんかいらねぇ、たとえ孤立しても、それでも他人の指図は受けねぇという集団はおったろうな
980日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:38:38.62
全部朝鮮鏡か倣製鏡
卑弥呼に下賜した鏡百枚はどこかに埋まってるよ
981日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:46:03.39
新スレ立てました。

それでも邪馬台国は九州にあった16
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341927889/l50
982日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:22:38.21
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にするにはあまりにも不備・不都合が多すぎる。
言っていた本人たちは知っていた筈なのだが…。
983日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:25:15.39
>>971
いや、おれ(967)は955ではないんだが。

つか、955の文章も読んでないし。



意味が違う文章を書くなら、きちんと違う意味と分かるように書けよ。

で、だな。
九州には、直径150mオーバーの古墳がいくつあるんだい。
984日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:56:45.15
径というのは直径のこととは限らんぞ。
985ローガン:2012/07/11(水) 00:03:09.28
>>950
>たしか中国の皇帝の即位式が前方後円墳の形状と一緒で

その説、提唱者がのちに撤回。
986日本@名無史さん:2012/07/11(水) 00:04:51.54
うど古墳は辺境の地の人口密度の小さいところにのみ製造可能な墳墓形態だわな

大和に例外的に存在する中身のが超充実した塚古墳もサイズは小さかったはずだがな
987日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:04:02.81
>>983
>九州には、直径150mオーバーの古墳がいくつあるんだい。

径23mの円墳又は方墳でよろしい。

平地の盛土や山頂や尾根に神社があるところも卑弥呼の冢の候補地。
988日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:46:44.17
23mって、直径15歩かよ。ミニチュア級だな。
989日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:48:12.08
100歩≒144m(魏)
100歩≒138m(漢)
100歩≒25m(周髀算経)
990日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:04:57.41
ローガンが九州説に翻意すれば、邪馬台国問題は一気に解決!
991日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:41:04.92
「邪馬台国が大和朝廷になった」という点では、九州説も近畿説も共通してるわけだからな。
992日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:46:30.46
そうね。隋書が伝えるタリシヒコのことを考えれば、大和だけでは説明がつかない。
大和とは別に和国の朝廷があったと考えないとね。
993日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:50:00.11
九州王朝説は古田スレでやれw
994日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:51:45.94
邪馬台国と大和王朝が連続しているという根拠は?
995日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:53:03.04
九州王朝説は古田スレでよろw
996日本@名無史さん:2012/07/11(水) 07:04:25.54
それが熊襲、隼人、蝦夷、日高見、海人族(ゴロ)王朝でしょう?
997日本@名無史さん:2012/07/11(水) 07:13:51.74
周髀算経古田説
998日本@名無史さん:2012/07/11(水) 07:54:30.71
古田説だと思うところが浅はかだな。
999日本@名無史さん:2012/07/11(水) 08:05:34.82
999なら、邪馬台国は九州で決まり
1000日本@名無史さん:2012/07/11(水) 08:10:51.76
九州王朝は古田スレでやれw
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。