1 :
日本@名無史さん:
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ヽツ.(ノ::::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
天下人・秀吉が、信玄と謙信が長生きしていたら、太刀持ちと朱傘持ちを
やらせたと言っていたが、信玄が長生きしていたら、織田家とその家臣が
やばかったんじゃねーの
いくつまで生きたらいいんだ(笑)
信玄は確か1521生まれだから秀吉同様なら1590年代まで生きたら不可能ではない。
ただ、守護大名からの脱皮、農兵からの脱皮が、遅いから時間はもっとかかりそう。
更に、上杉や北条の関係を考えるとツライな。
仮に天下をとっても、細川・大内程度の天下にすぎんだろうな
取りあえず、信玄が織田をつぶせば、歴史は変わる。
秀吉、家康もあぼーんだから、毛利、島津、伊達の天下もあり得る。
うーん。
武田が織田を撃破した場合でも織田・徳川は先細りするが、信玄がどの位長生きするかによるなぁ。
健康不安がなければ、まだじっくりと遠江・三河を調略したか・・・
となるとやっぱり戦国は長続きするか
死は敗北やなぁ
あと10年長生きしたら…天下も取れたのか?
と思う山梨県民。ええ俺のことです
織田を倒せば機内制圧は可能だが、
問題は、勝頼だな。
ヤツは無能ではないが、信玄の後継者として
認知されるには、信玄の下で、あと、5、6年は
戦功を挙げないと、信玄が死んだ後、
家臣団をまとめられるかわからん。
長篠までは普通に親族衆も勝頼にしたがっていたけどな
>>5 信玄が信長より強いかどうかは未知数。
両者は本陣同士が一度も争うことなく終わっている。
家康が弱すぎて信玄に蹴散らされたために信玄最強論が出ているが
信長率いる本隊とは一度も戦ったことないからな。
信長はよく負けてたけどね。
武田軍は何で強かったって言われたの?山育ちだから?食い物?
そりゃ最強の騎馬軍を有してたからだろう。
馬は何頭くらい生産してたの?
信玄が死ぬ前に、信長が勝ったガチ野戦って、
浅井、朝倉を相手にした姉川くらいだぞ。
永禄4年の謙信相手の川中島のような激戦と
比べちゃうとちょっと…
>>17 上杉謙信すら倒せなかった信玄が最強とかw
最強なら倒してるんじゃね?
結局は謙信も信玄もただの地方大名
都へ攻め上る気がなかったのではなく
その力がなかったために地方にいただけ
信玄はともかく謙信は変わり者だからなあ。
いくさ上手ではあったが。
浅井朝倉上杉武田連合だったら織田危うかったかもよ、まあ上杉はアレだけど。
義信が生きてて、武田が早い時期に飛騨方面を本格的に進行していたら、
面白い展開になった
信玄の急死が無ければ、信長がマジでやばかったのは間違いない
個人の資質云々ではなく戦略的状況として。
そしてもし反信長連合が最終的な勝利をすればもたらされるのは
武田の天下ではなく、乱世の続行
その場合、徳川は武田になびいて一大名としての地位を守るだろう
秀吉は織田に忠義を尽くす、独立する、他家に仕えるいろいろありえるけど
せいぜい弱小大名のひとつにのし上がれたら良い方だろうな
2万の兵衆で清洲城や岐阜城を相手にしないと駄目なんだよね?厳しくない?あと北条の援軍欲しいね。
二万の軍が岐阜城包囲した時点で織田軍の兵站や士気に相当大きな影響があるかと
その上将軍も明確に反旗を翻した状態で織田軍がどこまで結束を維持できるか怪しいところ
一方で本願寺や浅井朝倉側は士気もあがるし、織田軍が武田軍に対応するために兵を割けば
絶好のチャンスとばかりに襲いかかるだろうし、武田は背後に驚異がない限りゆっくり城を
落とせばよく織田方ほどあせる必要はない
焦点は岐阜や清洲が落ちるかどうかではなく、織田軍が前線を維持できるか、あるいは京を
握り続けられるかだろう。
(個人的には武田軍は徳川相手には講和をまとめるか最低限の守りを残して美濃から攻める予定だったと思う)
まあ武田軍にしても北条や上杉が背後を脅かさないとも限らないから同じ危険はあったろうけどね
武田は浜松と同じに、岐阜城素通りで、都に向う。
篭城戦を考えた織田は城を出て近江口で、武田とのガチ野戦の賭けに出るが、
武田が京都のコースを取れば、浅井、朝倉も近江口に結集するので、
武田は反転して、浅井、朝倉を引きつれ、岐阜に向かうことにする。
当然、織田は岐阜に戻り、またもや、篭城戦に突入。
しかし、武田は、兵站物資と兵站ルートは浅井、朝倉が担当させ、
岐阜を長期間、包囲。3ヵ月後、家康が信玄の元に土下座をしにやってくる。
さらに3ヵ月後、岐阜は開城し、信長は腹を切る。
信玄上洛時の織田の動員できる兵は何万くらいなん?
北条の援軍含めて、2万7千から3万
残りの兵は高坂が海津城で3千から5千を指揮
>>26 国力から言ったら
>>27の三倍くらいかな…
絶対に勝てない数ではないよ、
信玄にも思う所があっただろうね
ただ相手は天下無敵の織田軍団、怖いだろうね。
>>28 そのうちどれだけの兵が対武田以外の戦線に必要で
濃尾平野に武田軍が入った場合、どれだけ分の兵站が乱れるか
うん、めんどくさい計算になりそうだ
>>30 兵站とか経済力を考えると先輩の木曽義仲の二の舞になりそう
まさか信玄がそのまま京に居座るつもりだったとは思えんな
そういう兵站無視の無謀な戦をするタイプじゃない
さしあたっては浅井朝倉さえ滅びなきゃ良いんだし
適度に美濃を荒らしては引き返しを繰り返すつもりだったんじゃないか?
信長にとってタンコブだったんだね信玄って、そのためのプレゼント攻勢。
それを言うなら信玄にとっても脅威だぞ織田軍団は
>>34 織田軍が全力で対武田に当たることが可能ならば
信玄は信長に土下座してただろうな
でも実際は信長の方が信玄に気を使いまくっていた
それだけ信長が不利だったってことだよ
どっちが強いかとかそういう問題じゃなくってあくまで情勢の問題
36 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 02:26:33.96
信長より長生きしたのに彼の最盛期の5分の一の領土しか取れなかった信玄とは
信長は戦略家として格が違う。
長生きしても無理。
信玄が西上作品を開始した時、和睦の仲裁に、信長が散々に
馬鹿にしていた義昭に泣きつくあたり、本当に、信長、
情けなさ過ぎ
信玄は信長と違って兵農分離ができてないから農閑期以外は全軍を本国に引き上げないといけない
あと経済力も違う、織田軍は仮に戦で痛手を受けても兵隊をすぐに雇えるしな
当時はまだ堺が反発してたから万単位の軍隊をポンと雇うのは無理
本願寺や浅井朝倉の相手をしてる時点で手一杯だったろう
浅井がある限り兵站線も安定しないから全軍を自由に動かすこともできない
以前から武田に気を使いまくってたことも、危機に陥れば寝返る可能性がある徳川に
まともな援軍を送れなかったこともあの時織田に余裕が無かった状況証拠になるよ
信長が本隊を武田に向けていたら、とか言うヤツが未だにいるけど。
信玄が西上してた時、信長は2万5千くらいの兵で、浅井・朝倉と
対陣していたんだよ。
武田に割ける兵なんて、初めからあるわけないだろ。
武田軍は二万の大軍で敵前回頭で突撃なんてしちゃえるからな
下手な常備軍よりよほど練度が高い
常備軍以下の素人傭兵でしかない当時の兵農分離ならなおさら
急拵えで数だけ揃えても勝てる相手じゃないぞ
時代は違えど長篠では完敗だったよね、武田軍も言われてるほど強くないと思いますぜ。
44 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 13:58:30.43
時代も状況も違いすぎて比較にならない
45 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 13:36:15.25
信長は結局のところ、当時はまだ新興勢力だから、
畿内に覇をとなえていると言っても、
その配下の武士たちはせいぜい5、10年の間に降った豪族ばかりだ
織田の譜代でもないから、いざとなれば信長に義理立てるほどの恩義はない
そこで信長の気持ちになってみれば、鎌倉以来の源氏の名門、武田家、
しかも武名の高い信玄が上洛してくるとなれば、
いまは自分の下で従順にしている畿内、江州、濃州の地侍や豪族が
手のひらを返したように信玄になびいてしまう危険性は高い
ただでさえ「戦国最強」と言った触れ込みがある信玄軍団
合戦に動員した最前線の味方の兵も「風林火山」の旗印を目にしたとたん、
180度反転して、信長に向かってくることもい考えられる
若造の信長に刃を突きつけられて、いやいや従っている地侍たちは、
脂ののりきった武田信玄がやってくれば、
簡単に織田軍団から離反することはともありうる
そもそも力で配下にした武士たちだから、信長だってもう予想がたてられない
徳川家康と石田三成の戦でも分かるとおり、武威に「貫禄」はもっとも重要な要素だ
ぽっと出の織田サイコ$M長よりも、
武門の誉れ高い由緒正しい、武田甲斐源氏$M玄のほうが、
多くの武士にとって魅力的だった可能性は否めない
信長の立場では、信玄とはけんかをしたくないよ。予想がつかない
46 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 13:52:03.28
信玄存命中であれば、信長は「貫禄負け」してしまう
勝頼と戦った長篠の戦とは事情が全然違う
たとえば、橋下大阪市長がいくら人気が高いからといって、
政界で小沢一郎や亀井静香を相手にルール無用の権力争いをやったら、
果たして勝てるだろうか
勝てなかったらそれで政治生命は絶たれるよね
信長と信玄の関係もそれと同じだよ
勝てなければ、もう
信玄の老練さは、三方ヶ原の戦いを見てもわかる。
信玄は、武田とのガチ野戦を渋る家康を浜松城から誘き出す状況を
作り上げ、家康に大打撃を与え、徳川軍の無力化に成功。
この戦いにより、反信長陣営は大いに活気付き、義昭も挙兵し、
信長はさらに追い詰められたばかりか、現状を打破する
ための方策を全く考えられなかった。
48 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 15:58:23.53
でも、信玄は天下統一を目指していたわけではないから、特に信長に支障はないんじゃないかな?
49 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 22:30:03.53
武田がいつでも岐阜に大軍送れる状態になったら、その時点で信長詰みだろ
それまでに浅井朝倉を潰さないかぎり
50 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 08:02:44.95
信玄の場合、動員兵力うんぬん以前に、「上洛」自体に意義がある
信玄が三河に出て、家康軍を一撃の下に粉砕し、
さらに尾張に進攻し、美濃から近江、そして京師へと進軍すれば、
その行軍経路の周辺武士は信玄軍の下に、「われ先に!」とはせ参じる
信玄軍は自動的に「雪だるま式」に増大していく
甲斐を出立したときは2万の軍勢が、三河を過ぎたあたりで4万に、
尾張、美濃に到達した時点では、武田の真紅の精鋭軍を
多くの濃尾三州の武士たちが取り巻いて、7万、8万の巨大な勢力に成長しているだろう
信長はどこで迎え撃つのか
関ヶ原か、岐阜城に籠城するか
西からは信玄の上洛にあわせて、
信長に強い恨みのある六角、三好、細川といった足利時代の旧勢力が蜂起して、
東西から「挟撃」、はさみ打ちされる可能性は極めて高い
あれだけの老練な信玄のことだから、信長を蹴散らす上でその程度の根回しは万全のはず
東からは信玄、西からは畿内の古豪、
さらには、本願寺や比叡山らの僧兵らまで押し寄せることとなれば、
信長としては自刃以外に残された選択肢はない
信玄の上洛行為は、信長にとってそれほど絶体絶命の事態を招く驚異だ
51 :
原田京子:2012/02/20(月) 21:51:15.68
長篠合戦のように、鉄砲を使われると負ける。
武器には勝たない。
長篠で鉄砲がどこまで有効だったかは未だに不明。
馬防柵と堀で防御を固めた信長軍に、無謀な突撃をしたのが、
武田の敗因。
柵を越えようとする相手を殺すなら、槍の方が有効。
当時の槍は、2,5mの長さ。
一方、鉄砲の弾を込めるのには、練度によるが1分から2分くらいかかる。
長篠では、信長が防御を固めて、自分からは攻める様子がない
ことが勝頼の耳にも入っていたので、長期戦にして、長篠城を
落とせば、信長が撤兵する可能性が高かった。
53 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 21:12:19.89
そもそも武田軍も織田ほどではないにしろ鉄砲導入してるしな
で、なんで長篠時の織田軍を前提に語るんだ?
信玄のころとは動員力も鉄砲の数も戦略的状況も何もかも違うのに
武田が西上してた時は、信長に勝ち目がなかったから。
ただ信玄が長期遠征だと不測な事態が起こりそうだよね。
上杉が牽制を打破して行動する可能性もあるし、補給線と農繁期の話は前にあったけど。
あて
>>55 信玄としてはべつに一度の遠征で終わらせる必要はないよ
川中島のようにしつこく攻め続ければそれだけで信長は手が回らなくなり京を奪われる
信玄には、徳川を無力化したから、一度、甲斐に戻って、
次は、岐阜に直行と言うことも選択肢の一つにあったかも。
だが、朝倉との約束もあるから、春には三河から岐阜に行っただろうが。
武田が岐阜に行ったら、機内は朝倉、浅井の思い通りになるから、
この段階で、もう、誰も信長に従う者はいなかったはず。
58 :
巴御前:2012/02/22(水) 22:00:39.25
>>56 その時に領土を保持出来るか、
帰国中に尾張・三河・遠江が攻撃された時に
信長のように兵力を集中、高速で派遣できるか。
まぁ、病気じゃないなら順次三河・尾張・美濃あたりまで制圧したら根枯らしにいくか。
引いたら駿河まで帰るってのもありだし
>>58 そうならないように家康をコテンパンにしたんだろ
信康を通じてホットラインを作っていた可能性も否定できない
家康が果たして一度大敗した相手に危険を冒してもう一度挑むほどの
「忠節」をろくに援軍も送らなかった織田に対して見せるのか
家臣を説得できるのか、北条がそれを指をくわえてみてるのか?
家康視点だと水面下で武田との交渉窓口を開きつつ、
織田にはアリバイ作り程度に従うぐらいが妥当なんだよなぁ
義元が死んで、徳川が独立した時点で、家康はできれば、
武田と同盟したかったはず。
たぶん、今川の干渉や水面下の交渉の失敗などで、武田との同盟を諦め、
織田との同盟を選んだのだろう。
だが、22年後、家康は、三方ヶ原で、過去の己を恨むことになる。
61 :
徳川綱吉:2012/02/24(金) 18:08:52.75
>>59 同意はできるが、信康云々はもっと後かなぁ
築山殿って当時は武田にはどうだったかなぁ
家康としては、この先、武田が勝つにしても、織田が勝つにしても、
徳川の存在感を示しておかないと、勝った方の相手と交渉する立場にも
立てないと思ったから、一か八かで、武田と野戦に打って出たのかも
しれんが。
それに、あのまま、浜松に引っ込んでいたら、武田の思う壺で、遠江が
維持できないのが確実だったから、武田に寝返る武将も出るだろうし。
信玄も家康の心理を読んでも、祝田の坂で待ち構えていたという訳だろう。
逆に織田方が打ったであろう手段は何があるの?織田軍団だって歴戦の手練れなわけだよね?
>>63 何もないでしょ。
朝倉から敵前逃亡して、岐阜に逃げ帰った。
信玄が怖くて、義昭や朝廷に泣き付いて、仲裁してもらおうとした。
謙信に信玄の悪行を手紙で言いつけた。
こんな程度だろ。
>>64 確かに手はそんなに多くはない。
ただ新羅三郎以来の名門で、京との繋がりもある武田家が朝廷や幕府の調停を蹴れるかな?
まぁ、将軍は実際やったように立て篭もって調停拒否はできると思うけど、当時の朝廷は比叡山行幸とかできるだろうか?
どうせやられるなら織田も結構何でもアリやるんではなかろうか?
どうでしょうか?
武田本隊と織田本隊がガチで一戦交えるとかありえたのかな?諸勢力もそれ見て決めたかも。
>>65 信玄のことだから朝廷や将軍の調停を口実に撤兵もあり得そうだな
調停交渉で海ゲットできるなら簡単に乗っかると思う
そしてしばらくすればまた川中島に出兵w
お互い後顧の憂いを完全に断ててない状況だし…
とりあえずずるずる長引いてそうだけどなあ
信長も腹くくったら徹底抗戦しそうだけど
家康はやばかったんじゃないかな
よく耐えたと思うわ
69 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 09:50:31.78
家康はそりゃやばかったよ
信玄の西上でいとも簡単に三河軍団が粉砕されて、
家康としては「首の皮」一枚でつながったぎりぎりのところ
それが、信玄が急逝してくれて、
さらにはそれが三十年後の天下取りに至るのだから、
本当に奇跡のような人生
英雄が強運の持ち主であることの実例だよな
家康を見ていると、天下取りには能力では強運が条件だと思う。
ヤツは三方ヶ原で死んでも、伊賀で死んでもおかしくなかった。
秀吉が九州平定を優先させなければ、秀吉に潰されていた。
関が原でも、秀頼が出陣したり、家康が出陣する前に、三成が
福島らに強襲しても、東軍が敗北していた。
家康が信玄に降ってたら、信長の天下取りの戦略も大いに狂うよな
三方ヶ原の後、徳川は武田が勝つことも前提に根回ししようとしていたはず。
徳川は敗戦後、遠江どころか、三河の経営も絶望視せざるを得なかったし、
頼みの信長も宿老の佐久間に三千の兵しかあてがうことができない状況が
判明したし。
家康は対今川の時の信玄との共同戦線でイザコザがあったんで最初から下る気は無かったんじゃねえの?
下るぐらいなら死ぬ、ぐらいの勢いだったと思うよ
徳川が、遠江の領有問題で、武田に強行姿勢をとれたのも、
北条、上杉との後ろ盾があってのことだし。
武田の西上作戦でも、徳川が武田と対抗しようとしたのも、
織田の援助を期待してのことだから。
徳川だけでは武田に対抗するのは難しいことは、家康も
わかっていただろう。
75 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 13:54:42.76
まず今川にしろ武田にしろ、京都まで大軍勢を連れて遠征が成功するとは思えない。
武田は本気で京に行くつもりあったのか?
背後の家康にしても完全に潰した訳でもないし
かなり無謀だと思う。
ただし織田としては物凄いマズイ状況であるのは確かだよな
岩村城は落ちてる訳で岐阜城は目と鼻の先だ。
周囲に敵もかかえて絶対絶命。
ここで信玄が死ぬのは信じられない幸運だよな
俺はよくピンチになるとこの当時の信長を思って忍耐する事にしているw
あと三方原で完敗して後に天下を取った家康もマジで尊敬する
76 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 13:57:35.89
信長としてはどうせ武田と決戦をやるとしたら自領奥深くに引き込んで戦いたかったんじゃないかな。
関ヶ原あたりまで引き込んだら補給ができなくて撤退するだろう
武田が決戦に応じる必要があるかな?
信長が美濃方面に大軍を割いた時点で畿内の同盟国が攻勢に転じる
後はのらりくらりとかわし続ければ良いんでないかい
78 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 15:13:39.06
一応信玄の背後には家康もいる訳だし
濃尾平野は一応信長の地元だ。
一挙に信玄が京を目指したとしたら
やはりどこかで潰滅したんじゃないかな
京に上洛すると見せかけて反信長勢力を結集させ、その隙に徳川氏を滅ぼし、領内を固め天下取りの土台を作っておくというのが最良策だろうな
後は国力を充実させ、織田の弱体化を待ち、機を見て朝廷に働きかけて武田幕府を作れば実質的に天下統一ではなかろうか
79 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 15:25:47.09
信長としては信玄に三河を素通りしてもらい、尾張か名古屋で挟み撃ち、もしくはドロドロのゲリラ戦に持ち込むという戦法しかないと思うんだよな。その意味で三方原の戦いは全く計算外だろう
わざわざ敵に有利な時点で三河まで出向いて決戦をするほど愚策はないからな
背後に浅井朝倉だっている訳だし
この時の家康は信長にとってはなり困ったちゃんである
80 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 15:36:07.26
また、信玄も何が戦争目的なんだかよくわからんのだよね
本当に一直線に京都まで行くつもりだったのか?
三河侵略が目的だったにしては家康の追撃が中途半端だし
どう言う戦略を持っていたのか不明である。
81 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 15:46:04.08
家康の立場からするとここで信玄に屈服したらゆっくり領地が併合されてしまうだけだからな
また昔の国無し大名に逆戻りすることだけは避けたかったろう
ただよく言われているように信玄が死ぬならば別に三方原の戦いはスルーしても対して問題なかった気もするし武名に傷がつくという程でもなかったと思う。
82 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 16:47:37.67
いや武名って、そういうことで傷が付くんだよ
83 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:02:47.64
信長も何度か尻まくって逃げてる訳で、「戦略的スルー」を強調すれば、国人衆も納得したんじゃないか?
少なくともウンコ漏らし大名の汚名は後世に残らなかっただろう
>>80 信玄としては徳川領や美濃の一部を切り取れただけでも利はあったと思うな
もちろん海がとれたらベスト
本気で京まで一気にいこうとしてたとは思えないな
リスクとコストがやたら高いわりにメリットが名誉的なもの以外いまいち見えない
>>81 徳川があくまで歯向かうなら本気で潰してたと思う
海が手に入るし、兵站的にも京よりは無理がない
そして同盟国を守りきれない織田の威信も傷つく
85 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:12:23.68
家康の立場に立った場合、今の視点から考えても二股城で徹底抗戦すべきだったよな気がするんだが、どうなんだろう。
半年も頑張れば上杉謙信が背後から甲斐をついてくれる訳だし
信玄を足止めしておいて、浅井朝倉を片付けた信長と謙信、家康の連合軍で武田を包囲殲滅するのが最良の戦略だと思うんだが
86 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:17:30.03
信玄は周囲に敵が多すぎるよな。
越後の国境に強力な関所でも作って国交を断交する以外に解決法はないんじゃなかろうか
87 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:28:44.14
でも解るわ。
確かに国人衆(ビジネスパートナー)というのはやっかいで、常に強力な方針や力強さを示さないと
気が付いたら離れて行くものだ
戦国時代の歴史は身につまされて勉強になるよな
基本的に人間の行動様式って数百年レベルでは変わらないものだから
戦国時代は現代人に取っても最良のテキストと言える
88 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:30:25.09
大事な事は例えウンコを漏らしても闘うべき時は闘うというべきということだな
そのうち運が開けてくることもある
89 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 17:32:18.17
ウンコだけにウンが開けた訳ですよ
思えばこの時から家康のウンは開けていった訳で
ウンが良くなった。
ウンコですら漏らし損ということは無いのだ
>>85 そういう意味でも野戦で大敗したのはまずかったな
士気は落ちるわ戦力は減るわ、家康自身も自信なくしたかもね
ハナから野戦は相手にせず、こもるのが正解
91 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:00:01.95
これを見ると人生と言うのは運に左右される要素も大きいわな
強い者が勝つという訳でもないしな
まさか自分を追い回した武田軍団を全部併合出来るような立場になろうとは、この時の家康は思いもよらなかっただろうしな
92 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:13:34.32
>>90 でも逆に死地を共にしたということで国人衆との団結力は高まったかもしれない
逆に猪武者というマイナス評価も生まれたかもしれんが
あれで信玄が死ななければ「この殿様にはついていけんわ」となったかもしれんが、そこは幸運に恵まれているな
93 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:29:44.27
俺が信玄ならば三河、遠江を併合した時点で進軍停止。
毛利、長曽我部と手を結び、織田軍を分断して、岐阜、尾張を落とす。
浅井朝倉と手を結び決戦をしかけ、織田の勢力を畿内から一掃。
ここで満を持して京に上洛。
太政大臣となる。
北条は関東から追い払い、謙信を関東に置く。
後は適当に大名を太政官制度の中に取り込み天下統一。
平和的に明と外交し、百年の平和を築く。
94 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:40:28.27
信長が養女を信玄に送っていたのは本当に信玄を頼りにしていたのかもしれん。
西日本は信長に任せ、北条、上杉を討ち滅ぼし、甲州幕府を開く
寿命もあるのでこれくらいが限界かな。
三代目あたりに傑物が出て東西を統一する事を期待して逝去
95 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:50:52.39
真田昌幸などから見ると家康はアホ大名でしか無いだろうな。
しかし天才よりアホ大名の方が総合的に見て強くなるのだから歴史と言うのはわからない。
明治維新でも天才武市半兵太より凡才の後藤象次郎の方が結果的に出世していくのだから
歴史というのはわからない。
>>93 信玄は旧体制の完全な封建領主だぞ
強い決定権は持ってなくて家臣の顔色伺わなきゃロクに動けないんだけど
信玄の無軌道にも見える戦略構想ってその辺も関連してるんだがな
97 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 18:57:47.33
また家康の本番は結果から見ると、小牧長久手だったとも言える。
三方原は予行練習。
もし三方原でスルーする癖がついていたら
小牧長久手でも妥協して
後年の地盤を築け無かったかもしれない。
三方原で大敗した事で野戦の実地訓練と組織の再構築が出来たとも言える訳で
信玄は最強のコーチだったとも言える。
98 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 19:07:03.54
何よりも諦めなければ全ては良かったということになる。
家康が三方原で戦死していれば後の幸運は全部無いのと同じである
>>96 そう言う条件は信長も家康も他の大名も同じだと思う。
いかにして高い目標設定し、国人衆に利権を放棄してでもこの仕事をなす価値があると説得出来るかも大将に求められる才能の一つ。
その点だけは信長が他の群雄より首一つ抜けていた美徳。
ただ信玄の場合、信長的な権力集中型の大名父・信虎を追放していた手前、過激な改革が心理的にやりずらかったのかも
その意味では信虎は最も革新的な戦国大名らしい戦国大名であった
息子の方が保守派
99 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 19:15:07.24
もし二股城に篭ったのが真田昌幸だったら
信玄の大群をコケにして
十分足止めをさせ、春になったら謙信と連合して挟みうちで武田軍を壊滅に追い込んだかもしれない。
それに近いような事を後年やってのけているからね。
その意味でもやはり家康は戦の名人とはとても言えない人だった。
やはり、三方原の敗北当初は周りの目も冷たかったろうし、本人も凹んだんじゃないかな
美化されてるのは結果論で、本人も善戦出来るなら善戦したかったに違いない。
勿論、出来る事なら勝ちたかったに違いない。
100 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 19:21:55.63
これが歴史の面白い所で天才が最終的に勝利するとは限らないんだよな
天才過ぎて、目先の利益が見えすぎるということもあるだろう
また己の力を頼み過ぎて、他人の協力を得られずらかったり、他人に警戒されやすかったりする。
家康が昌幸並の才能だったらとっくに信長に殺されるか、信長を滅ぼしに行ってたかどっちかだろう
101 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 19:27:12.62
もし家康が昌幸だったら浅井朝倉と連合して信長を滅ぼしてたのではなかろうか。
濃尾平野を併合し、信玄と結んだり、離反したりしながら領土を拡張して行く。
一方でこう言う奴は警戒されて、途中で暗殺されそうだな。
もし家康が信玄を独力で撃破していたら、後々信長に暗殺されたような気もする。
>>98 織田軍は武田や徳川とは毛色がちがうと思うな
武田や徳川なら秀吉みたいな異常な出世はありえない
まあ武田軍も二万の軍勢で綺麗に敵前回頭やってのけるぐらいだから軍の統制は
下手な独裁君主よりもよほど優れていたとは思うけどね
103 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 20:00:23.61
信玄には織田軍と戦って一度、負けて欲しいと思うんだよね
一旦負ければ危機感が生まれて軍制改革が出来る。騎馬隊だけではなく火器の重要性にも気付くチャンスにもなるだろう
104 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 20:12:19.48
家康は若かったので勝ちに行く必要がある戦とそうでない戦の区別が付かなかったのだろうな(当時何歳くらいかな)
三方原は戦うふりで正面衝突はせず、信玄を足止めさせることが出来れば十分だったはずだ。
まあ若いし、戦の超人ではないので無理は無いんだが、
もう少し、参謀に経験豊富で洞察力がある人物がついていれば、そういう芸当も出来たと思うのだが、三河侍はそう言う大局観を持ってる奴がいなさそう。
さすがに信長はそう言う戦略的視点は持ってたように思う。
だから戦うなと家康に言ったんだろうし
もう少し気が利いていたら戦うふりをして信玄の進軍を遅らせたりしただろう
しかしこれが出来るのは我が国の戦国時代では真田昌幸のような天才だけだろうw
105 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 20:16:39.89
しかし禅の悟りでも得て無い限り、武田軍二万を目前にして「よーしからかってやれ!」みたいな冷静な判断は出来ないだろう。
逆に上田城攻防戦などの真田昌幸の落ち着きっぷりの方が異常なのだ。
なんであんなに戦のポイントを冷静に見極めることが出来たのだろう
家康と昌幸、この両者の比較と言うのはとても興味深い。
106 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 20:24:43.56
二股城に篭っているのが豊臣秀吉でも、恐らく阿吽の呼吸で戦略ポイントを理解しただろう。
信玄が通過したら追い掛けては退却し、追い掛けては退却し、進軍速度を遅らせ、兵糧が尽きたら、大反撃すればいいのだ
全面突撃をする必要は無いのだが、まあこれはあくまで織田軍から見た戦略で、徳川としては別の事情もあるだろうが
その場合でも撹乱しつつ、城をがっちり固めて時間を稼げば援軍が期待出来る戦ではある。
108 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 21:04:22.01
いや本心だよ
人間も社会も痛い目に合わないと変わらないからな
ちなみに
武田信玄の前世は、趙雲ですよん♪
上杉謙信は、諸葛亮♪
昌幸は地の利が良すぎだろ
馬鹿だから最後惨めなのに
111 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 23:08:15.01
地の利いいか?
上杉、織田、徳川、北條に囲まれてるんだぞ
信玄は戦よりも内政だよね。
甲州金をベースにした貨幣経済を近畿圏に確立すれば、後はどうとでもなると思う。
113 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:23:09.23
甲州人がそこまで経済観念発達してるかな
まあ伊達政宗の例もあるし羽柴秀吉か大久保長安のような経済通を側近にすればいけるかもな
貨幣経済にしても募兵制や常備軍にしても
あぶれ者の多い都市部があってこそ成り立つものじゃないかな
土地に縛り付けられた人間がほとんどの甲斐や信濃ではむずかしいかと
115 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:37:18.53
信玄が京に上洛した場合
何が起きるか。
まず天下人になる訳だから甲州だけではなく全国規模の仕置きを考えなくてはいけない。
甲州軍三万はどこに駐屯するのか
京都の治安は大丈夫か
上杉との関係はどうなるのか
足利将軍との関係はどうなるのか
なんか上杉謙信って
2度も上洛してるそうじゃない
117 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:43:35.06
あぶれ者に関しては織田徳川を蹴散らせば膨大なあぶれ者が出る訳で
彼らを吸収すれば十万規模の常備軍は編成出来るだろう
信玄の場合、本願寺勢力なども味方につけられそうだから、一揆を操りながら上杉なども余裕で屈服させられるだろう
勿論、京に上洛する前に謙信とは雌雄を決するバトルが必要になりそうだが。
118 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:49:27.85
上杉謙信の場合はお忍びで遊びに行っただけだろうからな
軍事力が伴ってない上洛じゃないと余り意味が無い気がする。
問題は足利義昭だが
信玄が配下になるのは考え憎いし京まで行った意味がないので
やはり太政大臣の地位を望むのではないか
義昭は十万程度の大名にして血縁の結び付きを深めておく
生まれた子供を将軍にでもしておけば良い。
119 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:06:31.50
軍事力が伴っている上洛〈修正
名族の武田が天下を取った場合、旧守護大名系は割と抵抗無く軍門に下るのではないか
信長は降伏しないだろうから安土で切腹。
旧織田系の武将でも羽柴や明智みたいなのは使えるので登用し、奉行にする。甲州系の武将と新規に召し抱えた武将で権力争いが起こる事が想定されるが、その辺はうまくやってもらおう
キリスト教は禁止の方向になると思われる
信玄の性格からして外交方針は保守的で調和型だろう
足利義満みたいな政治が理想になるのではないかな
120 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:16:48.40
安土を落とした時点で、浅井朝倉を先鋒にして謙信と決戦。背後から一向一揆を煽って撹乱。甲州は北條と同盟しているので何とかなるだろう。
北條は関東管令にでもしてやり本領安堵を餌にすれば味方になるだろう
四方向から上杉領に攻め入り、完全に屈服させる。越後は馬場美濃にでも任せる事にして
この辺で天下統一事業は一先ず完成するだろう
121 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:30:42.66
関白・太政大臣
武田信玄
征夷大将軍
武田勝頼
関東管領
北條氏
大納権
毛利輝元
中納権
島津義弘
長曽我部元親
なんでだがさんこんな所まで出張してきてるのん
そもそも、天下統一する気なんて、あったのん? > 信玄くん
124 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 03:54:49.16
まあ鎌倉幕府や足利幕府の踏襲くらいの事なら出来るんじゃないかな?信玄くんでも
125 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 03:57:50.13
まあ実際は信長も特に新しい事はやってないんだよね
秀吉にしても朝鮮に出兵したくらいの事であって
結局は過去の律令システムの中で出世しただけの話しだ。
>>125 あの時代に律令制度内での出世は古すぎて逆に新しい
鉄砲三段打ちは
天王星の知恵なんだってよ
>>123 家臣の言うがままに適当に周辺領地荒らしてただけじゃないん?
129 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 01:23:10.74
130 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 10:58:49.07
地の利を生かせるかも才能のうち。
信玄は攻城戦が下手そうなので二股で何ヶ月でも粘って織田、上杉の援軍を待つべきであった
戦略的にはそれが正解だけど信玄が城攻め下手はないだろ
退却戦の殿で敵の砦落としちゃうような奴だぞ
132 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 00:57:24.08
逆に上杉謙信が長生きしたらどうなっていたか
死亡時はまだ49歳であり
十年は生きれたはず
関東への大遠征が成功していれば勝頼と結んで織田と決戦。
野戦ではまず負ける事は考えずらいので
信長、家康の首も危うかったかもしれない。
133 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 01:01:46.33
まあ運がいいわ
信長も家康も秀吉も運が良過ぎる。
もっとも彼らは絶望的な戦いも何度もやっているので運だけだとは思ってないだろうし
実際そうだが
後世の視点で見ると
あたかも「見えざる手」が働いたかのように
危機を脱している。
特に信玄が生きていたらやはり織田家はかなり追い詰められただろう
武田って戦法が悪いってよく言われない?
軍事的には上杉の方が上のような
武田は勢いが凄い
上杉は戦術が凄い
両方戦略はダメダメ
>>133 運も実力の内って言葉があってな
運の無い信玄や謙信はやっぱり実力が信長には及ばなかったって結論
136 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 04:03:48.98
信長秀吉は戦略が凄い。
運じゃなくて本気で信玄が死ぬのを待ってたのかもしれない
勝てない奴とは戦わない戦術が徹底してる
信玄は政治で負けただけだ。神の力でも仏の力でもない。
敵の勢いが弱い時を叩くという兵法の基本を実践しただけともいえる
137 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 04:56:40.37
グーグル・アースで地形を見てるけど無理だよ
甲斐から京都まで大軍団で移動するのは殆ど不可能に近い。
一旦三河に出て、岐阜城落としてからじゃないと無理ですわ
岩村ルートも大軍を移動するのは至難のわざだし、補給が追いつかないだろ。
ただ三河を占領すれば、後は平野なんで何とかなりそう。
地政学的に見ると信長が天下取るのは自然だわな
信長がフェアウェイからだとすると信玄謙信はバンカーから出発しているようなものだ。
138 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 05:02:31.88
信玄謙信は天下を取る気が無かったんじゃなくて
単に地政学的に西に行けないだけだわ
戦略以前の問題。どうしたって彼ら(謙信・信玄・氏康その他)の戦場は「群馬県」になる。日本アルプスが東と西を完全に分断してるもの。
139 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 05:06:26.32
信長も信玄が関西にまず出てこれないのはわかってるんだろうね
岐阜をしっかり守ってれば関東の軍勢は関西に侵入出来ん。
というか名古屋までたどり着くまでに消耗してしまう。
140 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 05:23:27.03
もし信玄が天下を取るとしたら、家康を懐柔するしかない。
或は義元が滅んだ時点で今川の領土を占領していれば大分違っただろうが、果たして統治出来ただろうか
甲斐と駿河では民の気質から全然違う気もする。
家康さえ軍門に降せれば
斎藤家と組んで信長は倒せる。
しかし濃尾平野の統治にかまかけてれば上杉北條に本拠地を奪われるだろうから、やっぱり無理があるわ。
関東制圧して幕府を開く方が現実的。
頼朝も家康もこれで天下を取ったのだから
別に京に行くだけが天下取りの道じゃないんだよね
今川には大変優秀で忠義の譜代がいたと
ニコニコの今川氏真の動画で見た
142 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 07:10:03.53
歴史家が「謙信や信玄は戦略眼が無い」とか言ってるが、それって京都中心主義で物事見すぎだろ
謙信や信玄や氏康は「関東の王」になろうとしていたと考えれば彼らが関西を無視して戦っていた理由には説明がつく。
歴史を見ても関東を抑えたものが武家の棟梁になっているのだからね
野球で言えばセ・リーグとパ・リーグの違いみたいなもので信玄と信長は所属するリーグが違ったのだ。
武田信玄&父ちゃんはさておき、上杉謙信つか長尾さんちは、領土拡大の野心あったのん?
領内安定で、エネルギーの7割くらい使ってたような。
144 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 11:08:03.45
関東管領だけあって関東の領地にはこだわりがあったらしいよ
北條と喧嘩してたのはそのため
謙信も信玄が死んだら、速攻で越中から越前まで突き進んだ訳だから、
領土欲はあっただろ。
つーか、信玄後の謙信を見ると、謙信と信玄、両者が互いに領土拡大の
阻害要因だったことがよくわかる。
仮に、西上作戦前に謙信が死んだら、上野など、謙信を支持していた
関東の周辺豪族も信玄に従って、5万〜6万くらいの大軍勢で信長を
攻めていたと思う。
>>145 それだけの勢力があったら当分信長を野放しにしといても
信玄にとって脅威じゃなくなるから地盤を固めるんじゃないか?
謙信が小田原城を囲んだときも、11万とか記録にあるしな。
148 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 12:32:57.42
>>145 能登、加賀の城守備に兵力を割き、越前から先には進軍できなくなったが
149 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 21:17:11.75
謙信が近畿地方辺りに居たらどうなったろうか
北陸の精強な軍隊あっての謙信かもしれないが
個人的な能力もずば抜けていた。
百騎くらいで越後を出奔して京都で活躍する謙信を見てみたいものだ
>>149 つ〇←『信長の野望・天翔記』(コーエー)のCD-ROM
2009年大河ドラマ『天地人』での一シーン
柴田勝家「上洛を目指します武田信玄の軍はおよそ3万。
将士とも百戦錬磨の兵ぞろいでございます。」
柴田勝家「三方ヶ原で徳川様が敗れて今、武田勢がすぐにも
ここ岐阜にも押し寄せてくると思われます。」
木下藤吉郎「殿、どういたしましょう。」
織田信長「俺は逃げる。」
織田方は、実際、こんな感じだったと思う。
この4人真田幸村味方につけたら勝っちゃわないか?
バカレスするけど
おじーちゃんが信玄の家臣だからのぉ
>>153 信玄からの感状があるなら10万円で買ってやる。
>>151 うん、相手にした時点で信長は詰みだ
最低でも京都の支配を失う
どうしても相手せざるを得ないところまで進んで
来るまでは無視するのが最善
姉川の時だって、信長は徳川の側面攻撃で、やっと浅井・朝倉連合軍に
勝てたわけだし。
この段階の信長にとって、武田信玄とのガチ野戦は荷が重過ぎる。
と言うようなことが、奥州の伊達家の文書に書いてある。
157 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 20:57:32.27
伊達がもう少し早く生まれていたら
天下が獲れたとか言っているのを観たことあるけど
ありえないよね。
伊達政宗が20年、早く生まれていたら、葦名盛氏、佐竹義重を
相手にしなくてはならないが、二人に勝てたか微妙だな。
盛氏は、一時、武田と同盟関係、武田は北条と同盟関係なので、
伊達と北条の同盟はなさそう。
家康なら、秀吉の時みたいに、一時的に、武田に従って、
信玄が死んでから、寝返るんじゃないか。
信玄と家康って、20歳くらい年齢差があるから。
家康ならありうる。
家康は武田との和睦は十分に頭にあったと思う。
上でも書かれていたけど、信長が佐久間に3千の援軍しか
つかられなかったのを見て、家康も信長が自分の予想以上に
追い詰められているのを感じただろ。
現に、信長自身が岐阜に逃げ帰ったわけだし。
信長勢力は最悪の状況だった。
あと、家康からすれば、氏康が死んで、頼みの北条が武田と
再度、同盟したのは、予想外だったと思う。
この段階で、家康の中では、対武田戦は大苦戦する予想が確定したはず。
信長からすれば
家康は信玄の戦力を少しだけでも削れれば良かったのと
信玄の強さを家康で測りたかったんだよ。
だから、家康があっさりと信玄にやられたのが想定外だし
やっぱり信玄は強いなぁと思ったんだろうね。
援軍は、家康がもう信玄に倒されるかも知れないから
カタチだけの最小限の援軍にしたと思う。
164 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 21:12:39.46
当時の老成してない家康が果たして秀吉の時みたいに背面服従できたかどうか
165 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:02:42.40
面従腹背だ。何言ってだ俺、死ねよw
当時、武田と上杉の強さは、東北の諸大名の間でも噂になっていたのに、
信玄率いる3万近い武田軍に対して、1万ちょっとで鶴翼の陣とかマジありえない。
合戦があと1時間早く始まっていたら、徳川は大将首とられていたぞ。
家康って、実は、運がいいだけで、ただのバカなんじゃないの。
大体、この時の徳川は、ガチの野戦って、姉川しか経験ないだろ。
家康は戦国武将ってよりも
運が良いだけのタヌキは同意。
武田は援軍含めて30000も出してないだろ
軍監で25000表記じゃん
北条の援軍が2千だから、合計で2万7千が定説だったと思うが。
それなら、「3万近い」と言う表記でも問題にするほどでもない。
171 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 19:43:45.32
>>158 政宗さんはやたら持ち上げる奴が多いけど戦国最大のDQNって以外は特に目立ったものが無いしな
いつもしなくていい事をして自分を追い詰めるし
(領土拡大をしようとして周囲の小勢力が伊達から離れる。一揆工作で先祖伝来の土地を失う。報奨の加増をうやむやにされる。欧州勢力を呼び込むという植民地フラグ)
172 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:55:10.79
>166
最近、古今東西の戦争を研究した自衛隊の元戦術教官が本出してますよね。
家康は野戦上手と言われているが、そんなに上手くないと言ってますね。
逆に最も芸術的な戦争をするのが上杉謙信で、最も最高な戦争(戦争前からの準備含む)をしたのが平清盛だと言っています。
また、謙信・信玄と比べると信長も家康も戦争については下の下だそうです。
政宗についてはコメントがないからわからない。
>>166 普通は兵が多ければ多いほど機敏に動くことは難しいから、真後ろ向いてる三万近い大軍が
その場で急旋回してくるなんて常識的にはありえんよ
そういう前提だと敵を取り逃さないように広がっておくという選択もわからなくもない
下手に突撃陣形とってかわされた方がこわいしね
あの戦いで家康を戦下手というのはちょっと酷だわ
>>172 家康って豊臣に降ってから豊臣が社交辞令で持ち上げるのに小牧長久手を絶賛したのを
天下とってからそのまま野戦上手ってことに定着させた感じだな
信玄とやって負けた以外弱ってるのとやった印象しかない
あと三河兵自体が強くて家康の指揮能力の問題でもない
戦術や戦闘が強い武将は
戦略や政治が下手な場合が多い。
あのナポレオンもそうだった。
>>172 その本の、タイトル教えてください。面白そう。
家康の下には結構有能な将がいたからなあ
劉邦みたいなもんじゃね
178 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 08:21:20.94
信玄の強さは勝てる戦しかしないから
状況が不利だろうが謀略・知略で形勢逆転してしまう所
異性にもてない=発達障害者
パチンコ好き=発達障害者
スロット好き=発達障害者
パチプロ、スロプロ=発達障害者
桜、内子=発達障害者
パチンコ店員、店長=発達障害者
部落やくざ=発達障害者
チビ=発達障害者
不細工=発達障害者
ヤンキー=発達障害者
デブ=発達障害者
低学歴=発達障害者
乞食=発達障害者
だとすると
信玄は謙信に勝てると思っていたのだろうか。
何回も何回も。
すごい戦力を疲弊させてまで。
181 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 22:49:23.58
愛だろ。愛(織田)
182 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 23:06:59.47
信長の野望みたいな体制が一律っていう前提のゲーム感覚だと見落としがちだけど
他の大名が領土拡大した場合の領国運営って、
信長みたいな軍団制みたいな転戦転属可能システムみたいに移行出来たんかな?
183 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 01:45:56.05
イメージ的には標的に全力であたって他所はそれぞれ守備を置いてるだけなイメージ
織田家のように重臣を各地の総大将に任命っていうのはむずかしいかもね
譜代の家臣や国人が多い一般の大名家だと、部下を先祖代々の土地から引き剥がすのに一苦労しそうだ
>>184 家康って、そういうのをながーいこと見てきたから、政権奪取後の大胆な改革が
できたのかな。
秀吉が国替えしまくった後だからやりやすかったってのもあるだろう
>>166 徳川は武田が坂を下っているとの前提での決戦だった可能性が高いが、
普通は、徳川は索敵を出して、武田の動向を探って、戦略を立てる
だろ。
ところが、徳川は、坂の手前で武田が魚リンの陣で構えているのに、
戦力、戦術に劣る三河兵を率いて鶴翼の陣とか。
どう考えても、徳川はバカだろ。
信玄は大将首を狙ったんだったら鶴翼の方がよかったんじゃね
信玄の立場だと家康の首なんて取っても取らなくてもどっちでもよくないか?
生きてても実力差を見せつけてやればおとなしくなるだろうし、死んだら死んだで徳川家はしばらく動けないだろうし
大将首だから信玄の部下にとっては是非とも欲しいものだろうけどね
山県、馬場のどちらかが浜松に突入していたら、
後続の部隊も突入して、家康は首を取られ、
敗走する徳川本隊は逃げ場所を失い、
武田に各個撃破されていた。
そうなっていれば、少なくとも
徳川の天下はなかった。
間違いなく信玄の勝利です。
信玄としてはまず松平の領土を占領して動員兵力を加増しその後、信長との決戦を視野にいれていたでしょう。家康が降服か死かの
選択となれば降服を選択したと思いますが。信長は動員兵力では信玄を上回ってますが包囲網により兵力が分散しなければならなか
ったし、包囲網で間違いなく一番脅威な武田軍と
の戦いで家康に援軍に送った兵力が3千程度、ただ単に国力での兵員数ではなく、この3千しか援軍だせなかった信長の当時の苦境の立場がみえます。
信玄がもし生きていれば、その後の包囲網を撃破することも難しいので
長篠の戦い時のような圧倒的に信長有利の状態もなかったことでしょう。
また信玄は謀略により信長軍の切り崩しも行うと思います。急激な領土拡張している織田軍の中に三方ヶ原での武田軍の強さを知り、武田に内応する者もでたかもしれません。
徳川軍を降服させ兵力も加増し、更に包囲網もある状態では絶対に信玄優位です。野戦での武田軍との戦いは信長は避け長期戦に持
ち込む戦略をとるでしょうが包囲網をひかれての長期戦は信長に益々不利な戦況になっていくと思います。
結末は武田滅亡時の時のような内部崩壊が織田におこり滅亡したのではないかというのが自分の見解です。
>>191 間違いが余りにも多すぎる。
まず第一に信長が3千しか援軍を件がそもそもおかしい。
突っ込み所は2点ある。
まず一つ目はこの三千という数字は決して少なくないと言う事。
兵法の常識として攻城戦の場合攻め手は守り手の3倍の兵力がいるというのがある。
さてこの場合武田軍は2万5千。徳川軍は単体だと8千。織田の援軍と合わせれば1万1千で
家康が篭城に徹すれば十分な兵力を信長は送ってるし、
信長は家康に篭城するよう厳命してる。
それを引きずり出した。信玄の謀略も凄いと言えば凄いが。
>>191 間違いが余りにも多すぎるというのはどこでしょう?
具体的に説明してください
しかも朝倉が三方が原の後に撤兵している。
翌年殆ど何の抵抗もできずに滅ぼされた事からもわかるように
浅井は当時虫の息で単独で軍事行動など起こせない。
朝倉がいなければ織田は兵力にだいぶ余裕が生じる。
雪が解けて朝倉が再出撃してくるまでの間に信玄が西三河まで進軍すれば
決戦に持ち込めるような兵力は恐らく調達可能。
>>194 朝倉浅井を滅ぼせたのは信玄が死んだからでしょう
信玄西上時に岐阜で何もできずに閉じこもっていた信長ですけどw
>>195 は?信玄が三方が原で勝った直後に朝倉が越前に撤兵した事もしらないの?
あと浅井は元々近江でも琵琶湖の北側を支配してるだけの小勢力で
朝倉がいなければ撤退する織田軍の追撃すらできなかったんだけど。
>>196 そんなのしってますよ
信玄の西上がなくなったから兵力を朝倉浅井撃破にさけたのぐらいわかんないの?w
>>197 だからー信玄が生きてようがあのまま進軍してれば朝倉が撤兵して
兵力に余裕が出た織田徳川連合軍にやられてたろうし、
朝倉再出撃後なら今度は吉田城当たりに残存徳川兵と織田の援軍で
再篭城すれば良いだけ。家康も同じ過ちを繰り返すようなことはしないだろうし。
>>198 まず間違いを具体的に指摘してくださいよ
>兵力に余裕が出た織田徳川連合軍にやられてたろうし
抽象的だなあw
信長は岐阜から動けなかったのは勝算がないからでしょう
あとさあ農閑期農繁期みたいな諸説ある話はこの際わきに置いとくとしても
武田と織田じゃ当時倍以上の国力差があった事、
そもそも遠征戦で戦ってる場所が徳川領内である事の補給の不安
加えて浜松城が無傷である事からの後方から補給線が切られる事の不安
そして当時織田徳川と同盟を結んでいた上杉の存在など考えれば
長期戦でやばいのは信玄も一緒なんだけど。
なんで、浜松城を武田勢は落とさなかったのん? ( ・ω・ )
家康が、んこ臭かったから?
>>201 空城の計みたいのを武田方が警戒して攻めなかったみたいに言われてるけど
自分は降服させればよかったのにと思ってます。
あのねえ
>>202 途中で送っちゃった。
あんな空城の計講談の類に決まってるでしょ。
っつうか降伏させられるならやってるに決まってる。
>>205 遂に反論も出来ずに草はやして煽るしかない惨めな武田信者w。
ご苦労さん
>>206 間違いも指摘してないよねw
んで >兵力に余裕が出た織田徳川連合軍にやられてたろうしww
哀れなのは絡んできたほうだと思うけどww
>>207 いやしたでしょ。
一つ目は三千の援軍は本来なら十分だった事。
2つ目は長期戦になってまずいのは武田の方である事。
朝倉が撤兵したらどう考えても兵力に余裕が出来るよね?
違うなら反論して見たら?
>>207 3千の援軍で十分ってのはあなたの見解であるだけで、兵力に余裕があるなら
1番の強敵にもっと増援できただろうし、兵力に余裕があっても何度も言ってる様に
織田は岐阜にこもってたわけでしょw
>>209 一番の強敵?誰が?
信長にとって一番重要なのは本国美濃と京の維持だよ。
つまり最重要エリアは美濃から京までの間。
つまり信玄が暴れてた静岡当たりとは地理的に正反対。
さっきも書いたけど長期の行軍は武田にとっても厳しいんだから
その二つを重ねて考えれば篭城で済めばそれに越したことはない。
包囲網で一番強敵は信玄でしょw
それに3千の援軍が少ないとか長期戦も包囲網維持したままだと織田に不利というのも
間違ってないよねw
>>212 書き方が悪かったわ。強敵かもしれないけど優先順位は低い。
京や岐阜より三河や遠江の方が信長にとって重要だとでも?
だから長期戦になったら信長にも不利かもしれないけど信玄にも
不利だよね?領国空にして上杉は?背後に浜松残した上での補給線の問題は?
まず上杉が足利将軍が加担している信長包囲網で上杉が武田を攻めるとは考えにくいし
一向一揆の扇動とかで足止めを武田は行ってたよね。
補給に関しては信玄は一挙に織田をつぶすのは難しいからまず徳川領を占領すること
が第一段階だったと思うよ。朝倉の撤退もあったからより一気に信長を攻めるのは
難しいから三河占領してから織田領へ進軍する対策ではないのかな?
これは自分の見解だけどね
>>214 上杉じゃないけど信玄は足利将軍の命令で結んだ上杉との
和睦をあっさり破って義輝から怒りの手紙がきたりするけどね。
他にも信玄が信濃守護に任じられてからも対立してたりするし。
あと幕府は敵にまわしても朝廷は信長が一応抑えてていざとなったら
勅命が出せる事も考えなきゃならない。
あと一揆に関しては1573年中にはほぼ討伐し終えてる。
徳川領占領するのが目的の人が何で戦に勝っておきながら当主の居城に
手さえ出さないんでしょうか?
>>215 自軍の兵力被害を抑えるために浜松上での攻城戦を避けたのかもしれない。
周りを落として浜松城を孤立させたら徳川はどの選択とると思いますか?
>>216 三河の徳川軍はまだ健在だしそれらと呼応すれば出来る事はある。
史実みたいにゲリラ化するとか、それこそ信玄が三河奥地まで進んで
兵站は伸びきったタイミングで補給を妨害するとか何千もいるんだから
出来る事はある。当主も健在だし同盟者も本国も健在で滅んだわけも
なんでもないんだから。
三方ヶ原での戦いの後、信玄がまだ存命していたら徳川方で武田に内応する者もいづれ
でるだろうし徳川方に武田への降服の意見もでてくるだろう。家康なら死より降服を
最終的に選択したと自分は思うけどね。家康はその後信長ではなく信玄の手法を見習ったわけだしね。
>>218 本当に追い詰められたらそうなるだけど当時徳川方の3拠点。
浜松、吉田、岡崎は余裕で健在だしまだまだ全然そんな状況じゃないよね。
あと家康が信玄のやり方を見習ったのは重臣中の重臣だった石川一数が
出奔して秀吉に降った為に内部情報が豊臣側に筒抜けとなり
早急に改革する必要があったから。
織田のやり方じゃ織田の重臣だった秀吉に丸わかりで意味ない。
家康は信長の死後武田の旧領をほぼまるっと統治した関係で武田旧臣を
多く召抱えていて早急に改革するなら武田のやり方を取り入れるしか無かったってのが理由。
>219訂正 石川一数じゃない滝川一益とごっちゃになった。
武田の徳川領攻めでその後信長が援軍を再度送るかというと信長は送らなかったと
思うんだよね。徳川だけが相手なら武田軍が有利なんだから徳川方の拠点を
時間かけて落としていけるだろうし武田有利になるのは間違いないけどね。
当時の家康としては信長か信玄どちらかにつかなければ生き残れない。
自軍が劣勢になって信長の再度の増援がなければ武田方につくことも十分ありえる。
>>221 朝倉が撤兵しても信長が援軍を送らない根拠って何?
大体主戦場が浜松から西三河まで移るんなら美濃から大分近くなって
信長も心情的に放置はヤバイと思うだろうし、美濃から近くなって
援軍も送りやすくなるだろうしね?
岐阜から浜松ってどれだけ遠いか知ってる?
>>222 国力も兵力もあると言われてるのに、はじめに送ったのがわずか3千、これ普通に考えてさ徳川を救うにはやっぱり少ないよ
東美濃を武田に侵攻されてそのままにした信長、武田方との対戦を徹底的に避けてた信長が
援軍を再度送るとは思えない。三河侵攻されたらヤバイのは初めからわかってたことなんだから
>>223 だからそれはまず前にも書いたが家康が篭城策を取るよう信長は厳命してるし
篭城するなら十分な数字だった。三方が原がなければ三河への本格侵攻なんて出来ないはずなんだから。
それにと岩村城なんて山奥のド田舎で要地でもなんでもないし
信長は身内に甘くて割と信用する傾向があるのに
おつやがあんなとんでも行動するとは思ってなかったんじゃない?
本来身内に檄甘の信長が血の繋がった叔母のはずのおつやには容赦ないのが
その証拠だと思うがね。
追記すると篭城策を取らせるのにあんまり数が多くても今度は兵糧が早く尽きるだけだ。
かといって決戦しようとすれば最低でも2万は浜松まで送らなきゃならんだろうが
さすがに京から反対方向で遠い遠江浜松にそんなに送る余裕はないだろ。
>>224 いやいやw
領土を侵食されてさ、普通そのままにしてるなんてありえないでしょ
それも信長の性分でさ
最後の最後まで武田との決戦を避けてなんとか講和しようって態度でしょ明らかにさ
三方が原がなかったら三河侵攻できるでしょ、家康が動かないんなら余計やりやすい
>>226 いやいやw
岩村には一応援軍も出したし、何度も奪還しようとしてるよ。
秋山もそう簡単には落とせないと思ったからおつやと結婚なんて
奇策に出たんでしょ。それにおつやが信長を裏切って乗ってしまった為に
ああいう事態になってしまっただけで。それに岩村なんて凄い奥深い山中にあって
一度取られたら中々落とせないくせにド田舎で戦略的意味はないという
まさしく鶏肋ものの土地だったり色々事情があった。
あろ三河の件だけど無傷の城と一万一千の兵を無視して三河に侵攻するの?
挟撃って言葉知ってる?
>>227 あのさw
無視した結果が三方が原じゃないの?w
>>228 あれは無視したわけじゃないでしょ。無視した振りして家康を
誘い出しただけで。同じ浜松市内の話じゃん。
三河まで進んだらそんな事できなくなるよ。遠江と違って徳川の完全ホームなんだから。
>>229 三方が原じゃなくて他の場所でも家康が出てくれば結局一緒でしょ
三河侵攻まで行く前に家康は出陣するわけだからさ、だから籠城してるだけじゃ
だめなんだから3千の援軍でいいわけがないということだよ
>>230 突っ込み所その1。だから何度も言ってるけど補給線はどうするの?
家康が城から出てたのがわかってもそう簡単に引き返せないところまで
進んだら補給線切られて終わりだよ?
その2 三河まで進んだら吉田や岡崎があるんだよ。
全て素通りするの?それら大城の攻略に掛かったら否が応でも挟撃されると思うんだけど。
>>231 補給線の確保を信玄が考えないわけないだろよ
家康が出てきて叩くのを想定してるわけだしさ
三河の長篠城は既に山県に攻略されてるし、浜松城を孤立させればいいだけの話でしょ
>>232 長篠城なんてそれこそ小城だし、あの高天神城が残ってるのに
浜松城が孤立するわけないでしょ。
あとね。何度も言ってるでしょ。信玄は家康を城から誘い出す為に素通りした
演技をしただけ。もし家康が乗ってこなければ三河には当然進めない。
小城でもなんでも補給線の拠点になるだろよ
家康を降服させなくても三方ヶ原の後、東三河に実際進んでるしね。
あなたの理屈だったら三方ヶ原の後も家康がいる限り三河に進めないとなると思うが
>>234 一応徳川に大損壊を与えた場合と1万1千の兵が丸っと無傷で残っているのでは
全然違うでしょ。
あと家康が拡張する前の長篠城にそんな深い戦略的な意味があるとでも?
まさしくあの当時の長篠城なんて無数にある小城の一つだと思うんだけど。
いや、小城でも三河に拠点作られれば、家康は浜松で孤立することになる
実際東三河を武田に抑えられたら徳川はその後どうすんの?
あと風呂入って出かける準備するからこの後は帰ってきた後返答することがあれば
するよ
>>236 高天神城が残ってるのに孤立するわけないだろうと。
それに小城があれば補給できるなんて単純なもんじゃない
吉田攻略に取り掛かれば浜松の城兵と挟撃。
岡崎まで出張ってくれば信長本隊が登場すると思う。
奇遇だな。俺もそろそろ外出の用が会ったんだ。
続きは時間あれば夕方以降ということで。
さいが崖 の、ごく近所に住んでるおっさんですが∩(´・ω・`)
あの話は本当にあったんですか?
>>238 武田の兵の怨念の幽霊話のことでしょうか。
突き落とされた武田の兵がいたことは事実だと思いますが、
幽霊話はわかりません。
と言うか、近所の人が一番ご存知なのではないでしょうか。
>>239 ああ、すいません。実際に、武田の兵が夜襲で亡くなったのかなー、と。
諸々の資料はあるんですけどね。
さいが崖の周辺は、あれこれ碑文立ってるんですが。家康の身代わりになったおっさんの
碑とか。
幽霊話は、まあ、さておきまして。
>>237 横槍ながら、
徳川方は浜松に兵力を集中した状態でも武田の補給線を破壊できて
武田方は徳川より兵力に余裕があるにもかかわらず、
大した兵数のこもっていない高天神ひとつに邪魔をされて身動き取れない
とするのはちょっと都合の良すぎる展開だと思うよ
織田の本隊が出てくるなんてそれこそ幻想
そんなことしたら京都や近江を手放すことになる
長篠に3000ほどでも残しとけば家康が1万ちょいで押し寄せても当分持つし
高天神経由で武田軍の前に出ればそれこそ正面から粉砕されて終わり
徳川はどうにかして野戦で武田に打撃を与えなきゃ、
織田が本気で助けに来るまで(そのアテも無いが)
じわじわ侵食されるのを待つだけだろうよ
浅井朝倉はもはや虎御前砦が突破できなくなってるし、義昭は史実から八千ほど
動員できるが基本的に篭ってるだけ。長島一向一揆は守備力は鬼だけど
遠勢力はない。三好は本国で内乱が頻発してる。石山とは当時停戦中。
これらが史実なわけで。基本的に織田側は守備戦。
当時の信長の動員兵力は六万ちょっと。
浅井朝倉の動員兵力が史実から考えて2万くらいだろうから
虎御前砦の秀吉隊に1万。
畿内の抑えに1万5千。岐阜と名古屋の守備に1万。
こんだけあれば半年やそこらは持つだろう。朝倉撤兵中なら
虎御前砦には5千でも多すぎるくらいだろうし。
それでも信長が攻勢に出ず守備に徹すれば2万7,8千は残る。
あとは三河の信康隊と合流すれば3万2千くらいにはなる。
岡崎あたりで余裕で決戦可能
>>243 石山本願寺の停戦も足利義昭が攻勢に出ないのも当然ながら、織田に余力があるのを見越してだろ
織田が武田相手に大軍を出せば嬉々として兵を動かすのは目に見えてる
というか、そうしないなら大連合の意味がない
>>244 石山との停戦は信玄が死ぬ前の話ですが。
あと石山はともかく義昭はうってでる事も見越した上での1万5千。
ついでに義昭は信玄の死を知らずに武田が攻めて来る事を期待して
挙兵したんで織田の余力云々はあんまり関係ないと思うよ。
>>245 いや、信玄の死を前提には話していない
包囲網として連携して戦っているのに、先走って消耗戦なんて普通はしない
石山としても義昭としても当然ながら好機を待っての停戦や守勢なわけで
いざ信長と信玄の決戦となったら動く準備はしているはず
本当に余力ゼロで停戦や守備に追い込まれていて、神頼みの気持ちで
信玄到来を待っているほど顕如も義昭もバカじゃないだろ
それとも顕如が、チャンスが来ても動かないほど律儀に停戦守るだけの
なんらかのメリットがあったのかい?
信長が決戦に向かっても動かないぐらいなら停戦じゃなくて降伏した
方がマシだと思うんだが。
>>246 もうちょっと調べてから書こうよ
顕如なんて志賀の陣なんて信長の人生史上最も追い詰められていた時期に
あっさり和睦してるんだぞ。あの時こそ信長は追い詰められていたわけで…。
248 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 17:20:46.27
信長があと10年はやくうまれていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない。
なにせ斉藤は義龍と道三との内紛や浅井との戦いや義龍の死や稲葉山乗っ取り事件等で信長が侵略する前に既にガタガタだったし
信長は義龍相手に手も足も出なかったしな
249 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 17:21:32.64
信長が指揮とってまともに勝った戦なんて一つとしてねえよw
斉藤戦では圧倒的大軍で龍興に大敗したけど敵勢の目に砂ぼこりが入って相手が動揺したのに攻めかかったら大敗して
北畠は敵が後ろから味方に襲われたから勝てただけだし
250 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 17:21:49.65
>>247 信長ってピンチになると土下座か騙まし討ちばっか。
信玄の死と朝廷の力がなきゃ一次包囲網の時点で
織田領国は崩壊してたに違いない
>>158 信長から圧倒的大軍取ったら、斉藤龍興にも劣るから
政宗は圧倒的大軍を前にしても勝つ
>>171 戦国DQN四天王とか
お前は2ちゃんねるの見過ぎかよ
秀吉が生まれるのが後10年早かったら織田家中で全盛期の森可成や佐久間信盛との
出世競争に大敗して侍大将クラスで終わっていたのは間違いない。運がよかったな
信長があと10年はやくうまれていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない。
なにせ斉藤は義龍と道三との内紛や浅井との戦いや義龍の死や稲葉山乗っ取り事件等で信長が侵略する前に既にガタガタだったし
信長は義龍相手に手も足も出なかったしな
そうなりゃ秀吉は足軽レベルで終わっていた。運がよかったな
>>252 2ちゃんねるは妄想話が多いけど
かなり信憑性のある説も出てくるからな
>>247 事実を挙げるのはいいけど何を言いたいのか分からない
志賀の陣では、織田が攝津から引いているから
石山本願寺側としては当初目標は達成しているし
浅井朝倉が織田との和睦をしている以上
石山本願寺が単体で戦い続けても不利になるだけで
何のメリットも無いだろう
それと信玄が動き始めたときの状況は全然違う
それとも顕如は一回和睦すれば織田とはずっと平和的に
共存できると考えていた、とでも言いたいのかな?
256 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 18:49:24.97
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けて運良く寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう大連合を自力で突破した。
自分より弱い相手には強いけど自分より強いやつが現れると戦うこともなく土下座しっぱなしだろ>政宗
しょせん田舎大名
>>256 斎藤氏→幼君とはいえ一つの家(勢力)
連合→芦名や最上を除けば小大名の寄り合い
信長→尾張の一部でしかなかった領地から強大な版図を築く
政宗→親父が積み上げた奥羽の連合構想をぶち壊して無用な争いを起こしたうえで大して領地を広げられない
259 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 22:11:16.04
信玄が長生きしていたら、勝頼の代わりに晒し首・1
260 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 02:57:55.54
秀吉は朝鮮王になってるよ
それは無理。
中国が大軍でそれを阻止してくる。
つか、信玄て、なんで、そんなに慌てて上洛しようとしたのん?
徳川平定してからでもいいじゃん。
>>263 実際に徳川を平定するか屈服させるつもりだったんじゃないか
とても慌てて上洛を目指しているような進軍速度ではない
実際に武田が来るか怪しかったから朝倉も本願寺も一旦引いているんだろう
信玄が途中で死んでるから真相はわからんけどな
265 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 19:54:49.62
>>264 徳川平定
尾張美濃の国人・家臣の切り崩し
尾張進軍
美濃進軍
という流れでしょ
266 :
日本@名無史さん 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/05/08(火) 20:01:17.84
いや、それは無理でしょう、どう考えても。
武田はともかく他の連中がそんなに長持ちしないな
どうしても急ぐなら三河遠江方面はある程度国人を切り崩したところで守りに徹させて
徳川の甲斐信濃急襲への防波堤を作った後、美濃から全軍かな
それなら織田は美濃に兵を割かざるを得ない、つまり足利本願寺浅井朝倉にとっての大チャンス
ただ、武田側にそんな危ない橋を渡るだけのメリットがあるかどうか……
268 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:07:48.19
信濃→美濃って大軍動かせる?
269 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:19:27.33
>>268 1582武田征伐軍(美濃→信濃)
1600徳川秀忠軍(関ヶ原遅参)
270 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:27:38.27
信長が生きていたら、目障りな猿(秀吉)は飼い殺しにあって潰されただろうし、
秀吉の築いた基盤の上で家康に全国平定することはできなかったはず。
東国では、甲斐武田や伊達正宗などが覇権争いを続けて、
日本は複数の国に分裂したまま、列強の侵略にあっていたと思われる。
271 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 17:08:06.82
>>268 ほぼ動かせない
信長公記によると武田征伐時にそのルートで進入したが
狭い険路のため普通の道の数倍の時間がかかったことが記載されている
>>269 もうちょっと資料の読み込みをしましょう
272 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 22:21:45.13
数倍時間がかかろうが、実例もあり大軍を動かせるというのは正しい
主攻を駿河でなく美濃と定めていたら、信玄のことだから進撃路は調略済みだろう
273 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 22:34:00.87
関ヶ原の時の徳川本隊(秀忠)
9月10日:小諸
9月13日:下諏訪
9月14日:本山
(9月15日:関ヶ原の戦い)
9月16日:木曽福島
9月17日:妻籠(関ヶ原の勝報を聞く)
9月19日:岐阜〜赤坂
9月20日:草津
274 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 22:55:05.13
言うほど時間がかかってないw
275 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 23:41:07.62
明らかにかかってるだろw
276 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 23:48:10.84
悪天候で増水など条件が悪かったにしてはかかってないだろ
地元民だが、下諏訪から木曽福島まで3日で歩ききる自信ない。
その上、鎧兜担いでってなると…
昔の人って凄いね。
278 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 01:19:49.81
やはり、南下政策は誤りだったな
当時は浅井朝倉も健在で、畿内も不安定
氏康が病に倒れて北条との戦いが収束したからよかったが
氏康健在なら北条相手に泥沼状態w
美濃に出た方が吉
だがさんこんなところでなにやってはんの?
ここじゃ金稼げないだろうから他行けよ
>>277 すごいよねえ……。
しかも下はアスファルトじゃないから雨降ったらドロドロだし。
靴はワラジ。スポーツドリンクもない。アップダウンは激しい。
道の駅もない……。
281 :
日本@名無史さん:2012/05/14(月) 13:32:40.96
>>278 それは無関係だろ、駿河攻めあたりなら問題無し
大体氏康が健在でも駿河一国は信玄に取られてるよ
実際三増峠で信玄追撃に失敗してるし、その後駿河を信玄に取られてる
また外交戦略でも信玄の方が一枚上手だな、氏康は謙信の援軍を得られずに失敗してる
北条は早雲で終わってた。
283 :
日本@名無史さん:2012/05/14(月) 20:33:11.60
284 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 00:47:11.50
2chは潰すか、システム変えるかしてくださいよ
信長さん
285 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 00:48:42.08
翻弄させるような書き込みは禁止、とかね
hoshu
287 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 13:07:51.15
武田チン玄
288 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 14:49:15.62
信玄には三方ヶ原の戦いの後
全力で浜松城を攻めて家康を葬って欲しかったなあ
その後どうなったかを想像すると楽しい
289 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 14:59:30.51
家康舐めすぎだ
攻めあぐねてるうちに信玄の寿命尽きる可能性もある
290 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 16:23:39.25
いやいや 三方ヶ原で惨敗した直後に攻囲されていれば
可能だったろう
291 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 17:49:05.08
それならむしろ三方ヶ原で逃がさないようにすべきだろ
城攻めは下策だよ。
もし三方ヶ原で家康討ち取ってたら
その後の勝頼の歴史も変わってたんだろうな。
293 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 19:18:24.88
でも,あのへたれバイが信長まで倒して上洛出来るとは思えません。
でとりあえず
長篠以後遠江駿河での家康との追い掛けごっこがなくなるのは勝頼にとってプラス
295 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 20:11:48.72
>>271 道が険しいのは確かだが関ヶ原の時に秀忠が使ったルートだろ
東西の幹線道は元々中山道で東海道は脇道だよ
誰かも書いていたが、三方ヶ原の追撃戦の時、山県が
浜松城に突っ込んだら、後続の馬場も山県の後に続き
完全に家康を討ち取っていたはず。
信玄の死もそうだけど、山県の一瞬の判断が歴史を変えた。
>>296 突っ込めたんですかね?
いまみたいな浜松城ではなかったですけど、それなりに防衛策とってたんじゃないんですか?
>>297 いや、籠城する力があれば最初からするのでは?
三方ヶ原で背後をつくのは起死回生の奇策だと思う。
結局武田に読まれちゃったけど。
敗残兵収容するためにあけっぴろげだからな 一瞬で落ちそう
一番最初にさらし首になるのは家康で決定
その後は・・・
301 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 05:56:06.71
>>300 となると、東側の防壁を失った信長は信玄に擦り寄ってくるだろうね
信玄がそれを受けるかどうか?
なんだか、信玄の過大評価が甚だしいね。
信玄なんてただの田舎大名。
三方ヶ原?家康が、籠城の方針を無視して勝手に攻めたから、負けた
典型的な自爆だろ。そもそも、信玄には浜松城を落とすだけの兵糧は
なかったしね。だから、浜松城を無視した。結局、上洛は出来なかったよ。
まあ、この辺は八幡和郎先生などの著書に詳しいが、やはり信長、秀吉は
突出してたよ。
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
304 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 09:08:52.16
>>302 信玄には信長との一戦が控えてるから無理はできないさ
家康なんて潰そうとすればいつでも潰せるけど
信長屠るほうが先だったから生殺しにしといただけだよね
306 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 14:08:50.04
浜松城を攻めるとなると弾薬が足りない。
家康は長野業盛みたいに討ち死にか
自分だけぬくぬくしておいて
隙を突いて一気に岐阜・京まで駆け上ろうなど
朝倉様がお許しになるわけがない
他人の兵をあてにして、信長の相手をさせ
自分だけおいしいとこを、労せずえようなど
朝倉様がお見逃しなるはずなのだ
そのような姑息な精神で、反信長同盟の盟主面しようとしても
総スカン食らうに決まってる
朝倉も信玄に出馬を頼んだことを知らんのか
武田が敵対した時点で織田はもう詰んでるよね
包囲網を打破するために決戦を挑んでくるだろうが野戦で勝つ見込みはないし
尾張と岐阜が火の海になるなか信長脱糞敗走&謀反死
ええ、すごく根本的な疑問です∩(´・ω・`)
武田軍て、本当にそげに強かったとですか?
家康に聞いてみれば?
武田の強さは源平の合戦から健在。
武田の初代・武田信義は、以仁王の令旨をもらって、
独力で甲斐、駿河、諏訪を平定。
武田信義が木曽義仲と組んでいれば、源頼朝も
あぼーんしていた。
そんなに強いならなんで直接美濃に出なかったのかが不思議
勝つ自信が無かったからこその遠江荒らしだろ
強いから直接美濃に出なきゃならないってその思考回路が不思議
まあ負け惜しみなんだろうが
どこがどう負け惜しみに聞こえるのか理解に苦しむ
勝てるなら直接やりゃいいじゃん、一発で終わるし
じゃあ織田も勝てるなら甲斐に直接来いよ
秋山に攻められて手も足もでない織田が美濃に来い!だってさ
お前はまず秋山を倒して信濃に攻めこんでから物を言えっての
織田がビビってないなら徳川助けに信長自身が来い
強いならできるはずだよねw
320 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 00:24:07.86
>>268 古来より中山道こそ大軍の通る道です
関ヶ原も秀忠率いる主力は中山道を行きました
東海道が整備されるのは後の江戸時代です
>>320 だが乙
戦国板でも普通に論破されつくしたネタをここでも吹いてるんじゃないよ
>>320 未だに平気で嘘をつく香具師がいるな。
あんた、戦国板でも大嘘を言っていた人?
結局、信長って、本領である美濃の要衝・岩村城を奪還するのって、
明智に謀反を起される直前だろ。
信長が、信玄に勝てるとは思えん。
長篠の戦い1575年6月
岩村奪還1575年11月
武田征伐1582年2月
本能寺の変1582年6月
直前ではないな
325 :
323:2012/06/14(木) 08:39:29.72
武田の人らは、そげに強かったのに、なじょして上杉さん家には勝てんかったの?
327 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 09:38:16.80
>>319 徳川なんか信長にとって捨て駒だからな
常に先陣切らせていつでも死んでいい小大名
信長にとっては都を抑えることのほうが重要
信長には、都から岐阜が絶対防衛ライン。
武田が尾張に侵攻してもスルーしたかも。
いやいやいや
尾張も絶対防衛ラインだからな?
あそこの収入はバカにならんので
それと堺は絶対防衛ライン
信玄が健在で春に尾張に進撃したら、
信長も困っただろう。
信長本隊を尾張に向ければ、京が
浅井・朝倉の手に落ちる可能性が大。
朝倉は軍役拒否状態
浅井は小谷に押し込まれて動けない状態
兵站伸びきった信玄が敵地の尾張に入るってのは桶狭間の義元以上に拙い状態
徳川は軍役拒否状態
信長は岐阜に押し込まれて動けない状態
戦線伸びきった信長が尾張に向かえば包囲網はより活発化で信長は桶狭間の義元以上に拙い晒し首
徳川は軍役拒否状態じゃないな
三方が原後も武田軍の補給経路荒らしたり武田軍が帰ってすぐ長篠取り戻したりと元気だけど
徳川より朝倉のほうがよほど元気だがな
補給経路荒らす?荒らされてるのは徳川だろ
荒らされても虫の息でなーんもできず晒し首待ち状態
武田が帰国してから長篠を取り返しましたとか自慢にもならんわ
信玄が長生きしたら信玄の代で武田滅亡
むしろ良い時期に死んだ
死に逃げだな
337 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 01:27:04.89
どうせならもっと早くに死んでれば武田が滅亡することはなかったのに
義信に早々にチェンジして(信玄追放もあり)織田との同盟をキープしておけば
生き残る道もあったのではないかと思う
>>329 その堺が一番脆いよな
本願寺がその気になれば取れる
>>336 信玄が死ななければ、そのまま織田を蹴散らして上洛してる可能性が濃厚と思うが
>>339 滋賀の陣で本願寺が信長と和睦しなければ、
信長はもっと早くあぼーんしたかも
>>336 信玄が徳川領で暴れていた時、信長がしていたこと。
@朝倉から敵前逃亡して、岐阜に逃げ帰った。
A信玄が怖くて、義昭や朝廷に泣き付いて、仲裁してもらおうとした。
B謙信に信玄の悪行を手紙で言いつけた。
>>342 これも追加しといて。
C東美濃の要衝・岩村城を見捨てた
>>341 何か和睦しなきゃいけなかった理由があったんでないか?
朝倉と浅井はもうギリギリだったから和睦するしかなかったみたいだけど
>>340 本気で上洛する可能性は低かっただろ
実際に信玄って家康の領地を犯した程度で
それ以上進まなかった
>>345 進まなかったんじゃなくて進めなかったんだろ
岡崎派の家臣が頑張ったんだと思う
>>345-346 それは本気で書いてるのか?
信玄は上洛しようとして病が悪化し、途中で引き返す事になり、現在の長野県下伊那郡根羽村辺りで没してるじゃないか
もしも健康体だったなら普通に上洛してるよ
348 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:48:14.80
>>326 謙信はその遥か上を行ってたからな。
でも領地争いでは信玄に押し込まれ、越相同盟結んで
謙信ー氏康ー家康の三人がかりで封じ込めようとしたけれど、
更に信玄が全方面で押し込んでいった。
上杉→北陸道 武田→東山道 今川→東海道って住み分けてれば
それぞれ京も狙えたし無駄な争いをすることもなかったのにね。
350 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 01:48:06.21
んだな〜
信長は桶狭間のあと5年で美濃を獲得して武田と並ぶ大名に成長
それにに対して信玄ときたら三国同盟を破って駿河に侵入
信玄が美濃か或いは三河に攻め込んでれば信長が急成長することも無かったのにな
351 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 11:16:19.48
>>347 それがifの世界
信玄は一度も信長本隊と戦をしたことがないんだから勝つ保証などないだろ
地方大名の上杉謙信にすら勝てなかったんだよ?
>>351 直接ぶつかってないのに勝てないも何もない
謙信と戦ったのは柴田だろ
353 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 14:25:20.38
>>352 信玄とぶつかったのは信長ではなく弱小大名家康だしなw
>>351 信長軍はあまり強くないよ
直接対決なら信長軍に勝機はまずなかったと考えられる
355 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:08:43.35
>>354 信長軍は浅井朝倉・石山本願寺などとガチ対決で勝ち戦国最強
で、信玄が勝ったのって諏訪ぐらい?
356 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 19:33:05.30
信玄て、上洛してなにするつもりだったんじゃろ? (´・ω・`)
>>355 信長は桶狭間の奇襲で有名なので誤解されがちだけど
その他の戦は数の力で押す確実に勝てる戦が大部分
山間部の戦は地形を活かした巧みな戦略で来る
信濃に中小の土豪が割拠して統一がなされなかったのも
知略で地の利を活かして戦っていた事も原因の一つ
信長と信玄とでは武将としての格が違いすぎる
>>358 信玄は相手より多くしか集めてないのに引き分けと負けが多い(特に引き分け)
んで、信長は意外と劣勢で勝ってる事多い
確かに格が違うな
>>359 幾らネットでも「信玄<信長」だなんて史実に反する事は書いちゃいけないよ
あなたの話を鵜呑みにして、騙されて、人に話して馬鹿にされる人が出た場合、あなた責任取れるの?
嘘を書いた張本人である以上、嘘を嘘と見抜けない人は(略)みたいな自己責任論で自分の責任をなしにはできないよ?
361 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:20:47.01
>359
信玄は孫子の具現者だから引き分けが多くて当然
362 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 12:31:43.91
「信玄の戦争」
↑この本は信玄論では秀逸だよ
戦術研究者が分析しているから小説家とはレベルが段違い。
しかも読みやすい
信玄があと5年生きてたら信長も秀吉も家康も死んでた
364 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 14:49:37.91
>>360 信玄馬鹿登場w
>お前の話を鵜呑みにして、騙されて、人に話して馬鹿にされる人が出た場合、あなた責任取れるの?
>嘘を書いた張本人である以上、嘘を嘘と見抜けない人は(略)みたいな自己責任論で自分の責任をなしにはできないよ?
東照権現様万歳の馬鹿にそのまま返すわw
365 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 18:17:06.08
366 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 11:04:31.42
信玄があと5年生きることは不可能。
信玄が健常なら信長と直接対決をする
ただえさえ出兵から半年近く経っている上に、信長以下の実績、
よって信長急死とかでもない限り、どうあがいても信玄は負けてそのままだらだらと生きて死ぬ
5年生きるとすれば信玄が病気の後遺症であばばば状態になって勝頼へ家督相続を円滑に行った時くらい
>>366 専業武士団で戦闘能力が戦国でも一、二位を争う弱さだった織田軍
普段は農民で、腕力があり、米の取れない土地ゆえ、長期間の粗食にも耐えられ
持久戦になればなるほど強さを増していく武田軍
勝負にならないよ
持久戦最強って織田なんだけど…
包囲網相手に何年耐えたと思ってんだよw
369 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 15:15:03.49
信玄の戦いは三方ヶ原までだね
その後の軍事行動がおかしいから三方ヶ原直後に病が重くなったと推測するが妥当
>>367 田植えがあるから武田軍は春先には帰らないとなんねー
とりあえずコピペしときますね
のぶやぼ脳の法則あげ
一.本拠地移転の効果は全てにおいて絶大無比。 (ゲーム信長の野望より)
一.代替わりしても勢力間の力関係は変化しない。 (ゲーム信長の野望より)
一.徴兵制の大名はどんなに有利でも農繁期に必ず自国に帰る。(ゲーム信長の野望より)
一.傭兵制度の織田兵は、他家の兵より忠誠度が高い。 (ゲーム信長の野望より)
一.中仙道は悪路。東海道は良路。渡し場と迂回路を備え
商用/軍用道路として最適だった。 (ゲーム信長の野望より)
371 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 16:08:04.39
>>362 その本これだよね?
著者は謙信好きで、更に信長についてもベタ褒めだったけど、
面白いと思った。
信玄の戦争 (ベスト新書)
(戦略論 孫子の功罪)
海上 知明 (著)
372 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 16:22:39.09
>>370 俺のこと?
足軽は百姓の次男坊、三男坊が多いから必ずしも春先には帰らなければならないってことはないけど・・・帰った方がいい
信長が信玄より強かったら、何で信長はあんなに
信玄に媚びてたの?
信玄の西上作戦の時も、何で信長は和睦したがったの?
374 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 20:51:55.56
>>373 浅井朝倉と戦っていたから。
背後から攻撃されるのは誰でも嫌がるだろ。
ちなみに、戦術かとしては信長が戦国最強だよね
チートじみた会戦がおおすぎる
>チート
何のことかよくわからないから調べてみたんだけど
ゲーム関連用語みたいだね
ゲームで歴史を語るのはやめて欲しいものだわ
大体、手取川の戦いで、上杉謙信に後世に残る大敗を喫した織田軍が
上杉軍と互角の戦いを演じてきた武田信玄に勝てるわけがないじゃないか
現実のいくさはゲームとは違うんだよ
お前ら鬼だ
>>373 信長の養女と武田信玄の四男勝頼が婚姻している時点で
どっちが媚びているかわかるだろ。
そもそもこの時の武田は今川と決裂していたせいで、
今川、北条、上杉と三方全部敵。誰を頼るかわかるよな?
しかも手取川とか信長不参戦だし。
長篠の要領でいけば織田は上杉に余裕勝ちともいえるな
379 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 00:25:39.34
>>376 大敗の割りに、主だった武将が一人も戦死してない罠
そもそも、手取川でたたかいなんてあったの?って言いたくなるレベル
もしかしたら信長は知らなかったじゃね?w
そもそも、謙信にしろ、信玄にしろまともな会戦をやったことすらねーだろ
のぶやぼ厨即死www
381 :
d:2012/06/30(土) 03:22:25.57
>
>>378 勝頼の縁談は、信長側から進めた事すら知らない人がいた事に驚きだわ・・・・
「すでに贈り物などをして武田家との友好を保っていた信長」ってこのサイトでも触れてるが
実際にはそんな生易しいレベルじゃなく、媚び諂って貢物を贈ってる状態だった
信長は合理的な人物なので、勝てる相手に貢物を贈ったりしない
だから戦ったら勝てるかという質問自体が愚問なんだよ
http://sengoku.wablog.com/219.html 【信長史】武田勝頼と信長養女の婚姻
永禄8(1565)年9月、信長は美濃攻めを本格化させる一方、美濃隣国、信濃を治める武田信玄への警戒も強めます。
信玄を敵に回すことは得策ではなく、すでに贈り物などをして武田家との友好を保っていた信長でしたが、
更なる友好関係強化のため武田家との婚姻を模索します。
9月9日、信長は織田(津田)掃部助一安を武田家に使者として派遣。武田家との縁談を持ちかけます。
武田家もこの時期、越後の上杉氏と敵対しており駿河の今川氏との関係も不穏なものとなっている状況で、
西方の斎藤氏が信濃に侵攻することを封じ込める上でも織田家との同盟関係強化は意味があり、縁談を承諾。
信玄の四男・諏訪四郎勝頼(後の武田勝頼)に信長の養女を正室として迎えることになります。
この信長の養女は、のちに遠山夫人と呼ばれる人物で、
天文22(1553)年(他説あり)に美濃苗木城主遠山友勝と信長の妹の間に誕生。
信長の姪で幼い頃から信長の養女としてかわいがられていたともいわれています。
11月13日、勝頼と遠山夫人の婚儀が執り行われます。
遠山夫人は永禄10(1567)年、嫡男・太郎(武王丸後の信勝)を生みますが産後の肥立ちが悪く同年死去。
若くして出産したことが原因だったとも考えられているようです。
系図上、信玄と信長の孫に当る武田信勝は15年後、悲運の最期を遂げることになります。
>>378 結局、信長との同盟って全く役に立たなかったね。
信玄が孤軍奮闘、北条、今川、徳川を打ちのめして打開しただけ。
>>376 手取川
救援しようとした城が落ちていた事が分り
撤退を開始
撤退途中に川で攻撃を受けた
という事だけ
正面からぶつかって負けたわけじゃない
帰ろうとして士気が落ちていた所を後ろからやられただけ
まあ迅速に行動して後ろを襲った謙信の戦術眼は上等だと思うが
永禄四年の川中島の戦の詳細はわからないままだが、
結局、ガチ野戦で謙信に大打撃を与えた武将って、
信玄だけなんだよな。
386 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 16:05:37.56
信長が上洛したあたりからは拮抗してくるけど、信玄が生きてる間の主導権は武田にあった
浅井・朝倉を滅ぼした時点で武田・織田の地位が完全に逆転ってところだろ
>>386 篠原長房が死んだのも大きいと思う。
旧三好勢力が雲散したよね。
長生きしたにしても正直な話どこまでやれたか判らない。仮に織田と戦っても通過した三河には
家康がいるから補給線に不安が残るし、ご近所の北条だってかなりやんちゃな性格だから事前工作だって
どこまで効果があったか判らない
織田との合戦中に領国を襲われたらもともと武田は中央集権的な勢力じゃないから家臣団だって分裂しかねないじゃない
信玄は、尾張に侵入する体勢をとるだけで信長に大きな
プレッシャーを与えていたから、三河で暴れて、遠江、三河を
自分の領土に編入する下準備をしているだけでもよかったんだよ。
信玄が生きていたら、あの状況での信長を見て、
信長を見限る武将がどんどん出たと思うよ。
補給戦も中山道が繋がってるから全く問題無いな。
譜代はあんま裏切ってないからなー
出奔の理由は家臣自身の不手際ってのが多いし、何より尾張と美濃の領民にはどうやら慕われてたっぽいし、尾張方面では信玄の勝ち目が既にないレベルなんだけど
なんか、秀吉ってすごかったんだなあ……と思ってしまう(´・ω・`)
>>391 ガチの戦になったら、信長に勝ち目はないよ
甲陽軍鑑は伊達じゃない
まあ信玄はスタート地点が悪すぎたって思う
南の今川は桶狭間で散々な叩かれようだけど基本的に大勢力だし当主がそれを纏め上げた傑物だし
東の北条も同じく大勢力で当主も戦方面ではなかなか。家柄的に約束守れないし空き巣に入られる危険が高い
北の上杉も戦が強いうえに年がら年中戦ってるような人間な上に自分を頼ってきたなんとかいう国人の領地奪回の名分で侵略をかけてくる
となると出口は西だけど仮に浅井朝倉のどっちかを襲った場合はあの二家は超人師弟コンビなんで襲いかかると自然とハンディキャップになるし
>>甲陽軍鑑
それってどんな戦艦?って思った時期が俺にも5秒ほどありました
>>382 ほとんどが甲陽軍鑑による捏造説をそのまま採用しているな
そもそも信濃と美濃の間は遠山氏という別の勢力が存在していて、信長が信濃から美濃への侵攻に備える必要性はほとんどない。
この遠山氏は織田武田双方と友好的な関係を持っており、少なくとも信濃から美濃へ武田軍が大挙するなんて考え方は信長にはないわけ。
大体浅井長政との婚姻政策も足利将軍家の仲介によるもので、信長自らがやったという記録はなく、
浅井長政の「長」も、信長の「長」から来ているものじゃないからな。
>>387 篠原長房が死んだのは三好氏による派閥争いの結果。これは三好研究の天野忠幸氏が主に提唱している。
これによると1573年の4月に三好存保(十河存保)が堺で柴田勝家を通じて織田信長と接触しており、同年5月〜7月に篠原が殺され、以降四国三好が親織田勢力になった、
篠原長房は志賀の陣の際に反信長方として兵を出すくらいの反信長派であり、邪魔者の篠原を消すことで三好を親織田勢力にしようとする動きがあったと言われている。
やはり元亀四年で確定なんだ。
信玄が死んだ後に風向きが変わったのか。
風向きが変わったと言うより最後の希望が断たれた
この頃の反織田勢力は信長はおろか家臣の秀吉や光秀すら満足に撃退できないくらい落ちぶれていたからね。
「それでも信玄なら・・・信玄ならやってくれる」と期待した矢先の病死だから。
篠原長房の死、荒木村重の離脱と三好三人衆の影響力が急激に低下した理由は
信玄の死が理由のような気がする。
第二2包囲網の時に、荒木村重、松永弾正が一緒に謀反起せば、
織田は崩壊してたのに。
ついでに光秀も早目に裏切っておけば良かったんや
でも小早川秀秋がいたら信玄も
ヤバかったよな
天才や秀才は長生きできないのかな?
秀秋は天皇の次か次位に身分が高く
偉かったし 武将としても
かなりやりてだったらしい
間違いなく長生きしてたら
小早川家が天下人になっていたよな!
>>402 普通にバカ。と言うより、秀吉の一族、特に京都豊臣家(木下家)は本当に出来が悪い。
中途半端に出来が良いと、秀次みたいに滅ぼされたしね。
小早川秀秋も秀吉が毛利の養子にしようとして(当時毛利輝元は嫡子がいなかった)、
余りにも出来が酷いので小早川隆景が自家を犠牲にして引き取った程。
小早川秀秋の儲者って生まれて初めて見たかも
バカというかバーカーサー
大将なのに最前線で槍働きをしちゃって中途半端に活躍
それを秀吉に怒られると拗ねて一族の将来を棒に振って徳川についた
あれは前線指揮官程度の武将で気概だけはそれ以上の典型
そのお茶目さが後世にこれだけ信者を生み出すんだからわからんものよな
皆 勘違いしているが秀秋は超エリート
大納言であり本来は関白職に着く予定だった人物で秀吉の後をそのまま
受け継ぐはずだった!
また血筋が素晴らしい!
朝廷→平家→木下→豊臣→小早川
天下を収める為に生まれてきたと
言っても過言ではない
武将が大勢いる中 関ヶ原では
秀秋一人をなんとか見方に
しようと両大将や軍師が奪い合いをした
つまり小早川家や秀秋を
武将達は恐れていたためである
信玄や信長や家康や謙信 秀吉も武運は
あったが残念ながら秀秋や小早川家には
かなわないという事になる!
だから、繰り返すが秀吉は優秀な一族は秀次みたいに全部除いているんだって。
秀秋はバカの中のバカ。何のとりえもなく、何の功績もなく、秀吉の威光だけで
威張り散らしていた典型的な小物。秀吉が放置したのも、余りにも無能だから
害になることはないだろうし、いざとなればいつでも容易に除けるだろう、という
目論見から。
秀吉が殺した身内は秀次ぐらいだろ?
むやみやたらに殺しているわけでもなんでもない。
小早川秀秋が秀吉の養子になったのは5歳の時で(おそらく北政所ねねの願いだろう)、
その時点で本人の才覚などわかるわけがない。
なんで武田信玄 (武田家)は
天下とれなかったの?
どうして徳川家が天下とれたの?
411 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 13:55:31.36
知らんがなw
そんだけの実力がなかったからに決まってるだろw
>>383 武田は基本的に軍事的には相手を頼らないよね 同盟相手にはいつも用心棒として頼られまくるけど
織田は将軍かついでるからその取次として利用したくらいだな
>>413 信玄はかつて今川・北条と三国同盟を結んでおり娘を嫁がせたのに
織田信長が今川義元を敗って台頭すると
表向きは今川との同盟を維持したまま一方で織田と結んだんだよ
武田勝頼と織田信長養女の結婚は、信長が足利義昭を担ぐ前だから
>>414 ここが信玄の限界だと思う。三国同盟破棄で信頼を失った。
信玄は信長の器量を認めるなら、早いうちに潰すべきだったと思う。
信長と中途半端に結び、最後は信玄は信長によって物流を断たれ、
取り返しのつかない段階になってから信長と対決するが、もう遅い。
何が限界だよ糞織田厨がw
信頼を失った?北条は土下座して再同盟申し込んできたし
上杉に愛想つかせた関東州は味方につけるし
なにもかもうまくいったぞw
ソフトバンク(笑)
最近のソフトバンク、マジで良書多いよ。携帯は持とうとは思わんが、少なくとも
出版事業では大成功している。
黙れ禿織田厨w
夏 暑くて怠くてダレちゃったり
夏バテしたり暑くて寝れない時
信玄や勝頼はどうやってクソ暑い夏場を
乗り切り 過ごしていたのか教えてください
>>417 武田知弘氏の本は面白いの多いよね。
大蔵OBだけあって、銭と国の関係をシリアスに見てるし。
その本は知らなかったので、買ってみる。ありがとう。
おいおい 言われたのは俺なのに何勝手にレス返してるんだよカス織田厨w
>>416 武田信玄は上杉謙信と戦って奪われた土地を
娘婿の北条氏政に取り返してもらうなどずいぶんお世話になってるよね
北条氏は今川氏との同盟を重んじて今川領分割を断ったが
信玄は新たな同盟者織田信長と一緒に今川領を攻めたり良識のかけらもなかった
当然、北条から見放され信玄娘は離縁されて返されている
北条は後に武田との同盟を復活させたが上杉を共同の敵とみなした利害関係によるもので
北条が一方的に土下座して頼んだわけでもなんでもない
北条氏政は妹を武田勝頼の継室として嫁がせてやったが義弟武田勝頼のていたらくにより
氏政妹まで道連れにして死んでしまい、武田の無能ぶりはどうしようもなかった
武田が助けてやらなきゃ北条は上杉に滅ぼされてたな
その北条より先に滅んでしまった武田
家臣に滅ぼされたマヌケ信長
428 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 10:49:57.30
どんぐりの背比べ
>>430 織田信長>>>武田勝頼は何をどうしようが決定だよ
北条も支援してくれない孤立無援状態
いくら信長は明智光秀に騙され討たれたことを強調しても
武田はそれより弱かったことの証明にしかならない
明智光秀のほうが信長より強いもんな
その光秀を倒した秀吉を倒した家康を倒した武田が最強ってことで織田は最弱決定
信長→奇襲でやられた
信玄が育てた武田→正面から信長に撃破
よって信長>>>>信玄は決定だな
正面から信長に撃破「される」
されるが抜けたでござる
光秀も正々堂々攻めこんでますが?
要塞本能寺に籠城する姑息な信長を力攻めにし圧倒しました
信玄って病死したんでしょ?
病名は何だったの?癌?
昔は抗がん剤も無く高度な治療
手術もできなかったんでしょ?
最後の方はメチャクチャ
苦しんだんだろうな?
秀吉や家康も謙信も かなり苦しんで
逝ったようだが・・・
苦しさを和らげる為に
水銀をそのまま飲んでいたようだし
437 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:53:48.47
東日本勢って圧倒的に強いのだけど、周囲に強大な武家が多すぎて
いつもなかなか動けないんだよな
頼朝の時も佐竹氏、武田氏が強力で鎌倉から動けなかった
信玄の時も上杉氏、北条氏に足を引っ張られて時間を浪費した
家康の時も上杉氏、佐竹氏を警戒し関ケ原へ直行できなかった
438 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 16:04:52.30
>>435 明智光秀の手勢はわずか11日で豊臣秀吉に敗れるほどに弱小
光秀は自力で勝てないので織田信長の軍に徳川家康を攻め殺すと騙して本能寺を攻めさせだろ
殺したのが織田信長と分かった途端、皆明智のもとから逃げ出した
439 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 16:07:08.46
..438
>殺したのが織田信長と分かった途端、皆明智のもとから逃げ出した
はい嘘w
440 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:36:44.22
だがさんの捏造スレ出したことでお前がだがって解ったよ
442 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:49:13.24
だがって何?アンチ信長?
443 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:57:40.78
全部秀吉の仕組んだこと。
自分が大軍を預かってる時にあくまで援軍規模の兵力で光秀に謀反を起こさせたくてやった。
嘘で援軍クレクレ。
本能寺を知ったときにはヒャッハー!って感じの秀吉。
事前に沿道住民に道路修繕や食事や飼葉の補給準備もやらせとったし中国大返しも計画のうち。
黒幕は秀吉だよ。
444 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:03:58.50
>>443 織田家内で秀吉より上位にあった明智光秀が
秀吉に天下を取らせるために信長を攻めたって阿呆すぎるだろ
445 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 06:11:49.76
信玄が生きていたら家康秀吉信長はよき家来になったことでしょう
??
その場合信玄は合戦で負けて殺されてるのにどうやって家来になるんだろう
447 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 10:38:44.50
一文字間違えたスマソ
玄→長
いや間違えてないけど
おいおい、どう見ても間違えてるだろ
全然
何せ城攻め下手な信玄ですもの、勝てるわけがない
よくて引き分け
451 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 16:44:01.75
信玄が生きていたら家康秀吉信長はよき家来になったことでしょう
信玄って一生を費やしても地方大名どまりだった人
歴史の舞台に上がっていた、でも歴史に何も残せなかった人
そこで信玄だけリセットボタン
寿命を増やして再挑戦、トンデモ検証番組スタート
失敗したら又、リセット
453 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:28:22.72
江戸時代からあるテーマだろ
・信玄が10年長生きしたら
・謙信が10年長生きしたら
・政宗が10年早く生まれたら
・家康が10年早く死んだら
・
・
織田厨はアホすぎて史実検証できない
結果が出なければどうする!
「リセットです」
455 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 18:01:09.79
検証をリセットですって意味がわからない
どういう意味???
負け組み人生
結果を出したやつが憎い!
対戦ゲーム
ボコボコにされて悔しい!
現実は残酷だ、空想に癒されたい
ノンフィクションでは救われない
フィクションで思いのままじゃなきゃ納得できない
そんなあなたが欲しい物
「リセットボタン」
これで納得できる結果をどうぞ
買ってきました「信長の野望」
武田信玄でスタート
「リセット」
「リセット」
「リセット」
「これだよ、こんな歴史がほしかった」
あなただけの歴史を創ろう!
僕は長野業正で天下取り!
458 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 18:06:52.89
>>456 織田厨がゲーム脳全開すぎて意味がわからないwww
459 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 18:07:50.24
清盛が1000年長生きしたら?
今も清盛の治世
その場合戦国大名なんて存在しなかった
信玄って名前 かっこいいよね!
>>462 現実を認めない信者乙!
逃げずに天田論文論破してくれ
本当に偉大だったら自分が死んでも進軍出来るくらいの準備はしとけよ
それぐらいのシステムは構築しとけよ
死んだらあとはどうでもいい、返り討ちくらってもいいじゃ三流もいいとこ
465 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 02:05:52.05
信玄は3流で信長は5流でいいよ
信玄より勝頼が好きなんだ
武田勝頼は戦国最強だよね
467 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 14:11:49.47
歴史に疎いニワカは
>>1みたいな空虚な妄想を平気で言っちゃうんだよね
歴史に博識な人は、信玄が長生きしても武田滅亡の時期が早まっただけだと知っている
馬鹿は
>>466みたいな妄言垂れるチンカス
勝頼なんて親族衆からすら見捨てられたゴミ屑以下の存在
469 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 16:02:02.31
そんなシステムを残した信玄は無能
うわぁ信長の野望をやりすぎた信長厨が連投してる
テレビとか見てるとわかるけど信長厨はゆとりスイーツの情弱ばかりだよねー
勝頼は父 信玄ではなしえなかった
領土を拡大したんだよ
信玄も武田家は天下は取れるはずだった
親が天才なら子も孫も天才!
勝頼もエリート天才で秀才だったが天才は
出る釘は打たれる 最強で恐れられるの
だが途中で駄目になる!
つまり秀秋も龍興も秀頼も
天才すぎて勝頼どうよう天下は
取れないで終わってしまう
そのため織田 徳川 両軍が焦った!!
俺のほうが焦るわ
勝頼がそんなに天才だったらもっと早くに嫡男義信と家督相続争いしてるがな
あんなのを諏訪においといたら武田本家が危ないということで
義信切腹で仕方なく担ぎ出された劣り腹の四男坊なのに
その前にもしも信玄が優秀だったら田舎大名から脱却できただろ
家康は神!
↓
じゃあそれをボコった信玄も神!
↓
じゃあ、信玄といい勝負した謙信や氏康も神!
ってことになってますので、いくら信玄が神でも周りも神だから躍進できなかったのです
でも義元は神じゃないです
476 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 11:30:15.63
幼稚園の部チャンピオンの信長とかどうでもいいよ。信者も園児だけみたい
だし
信長が幼稚園なら信玄なんて精子レベルだろw
信長厨は本当に品性の欠片もない蛆虫だなぁ
479 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:37:59.33
うほっ
信長より4年も長生きしているのに100万石にも満たない領土しか持てなかった無能
481 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 18:20:05.04
無能信玄が養分となったお陰で家康が大きくなれました
>>480 織田厨って本当に馬鹿だな。
寿命はもっと長かったのに身から出た錆で家臣に裏切られて水泡に帰した糞以下のゴミ長
>>481 家来同様だった家康に拾われた乞食で雑魚の織田(笑)
織田家なんて先祖が誰かもわからず信長から系図三代遡っただけでわからないくらいなのに
信長一代の武功が大きすぎて天下人家康ですら無視できなかったほどの影響力を持って大名として存続した織田家と
甲斐源氏武田という遡れば天皇に行きつくような高貴な家柄でありながら
時代を重ねるごとに見る見るうちに衰退して、天下人家康に家の名前だけパクられた挙句
信玄から数えて五代先の子孫になってようやくお情けの高家旗本という不名誉な職についた武田家
484 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 22:57:17.59
リセットだのチートだのゲーム用語使いまくってる痛々しいゲーム脳の織田厨
義元以上に無様で馬鹿丸出しの最期を遂げた基地外信者は幼稚なクソガキだって事がよく分かるねw
485 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 23:00:06.17
信長の野望っていうキャラゲーの植え付けたイメージって本当に罪深いわ
信玄厨はかわいそうにな
いくら信玄の凄さを語りたくても
結局は、小さな領地限定の話だもんなw
山梨人の田舎自慢いじょうのことを言えないから、
信長厨を見下してるように装いながら、必死に重箱の隅を見つめ続けるしか術がないんだなw
>>467 >>467 >>467 歴史に博識な人は
だとさw
チョンみたいに歴史をコリエイトしてるのか?w
基地外がばれるからリアルで言わないほうが良いよ
信長は当時明らかに死に体だったのにこのスレの織田厨に言わせると何故か武田の滅亡が早まるらしいw
どう飛躍したらそういう結論になるのか理解に苦しむね
>>486 最速で領土を広げて最速でポシャった信長の信者はそれしか拠り所が無いから話が噛み合う訳無いわな。
普通なら内政だとか軍事の才能とかで人物を見るところを信長は欠点だらけで能力じゃ勝負にならないから領土の話で誤魔化すしかないよな。
武田も上杉も北条も決して領地狭くないぞ。お前の感覚が麻痺してるだけだ。
弱小勢力しか居ない畿内への地の利と周辺の情勢が味方しただけだろ。
近江に武田か上杉が居たら織田なんて伸び悩んで滅ぼされてたからその辺考慮に入れとけよ。
織田厨が沸いておかしな流れになったね。
前半のほうはなかなかの良スレだったのに。
491 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 03:55:09.48
最盛期の石高
織田信長700万石
北条3代250万石
毛利元就120万石
武田信玄100万石
上杉謙信90万石
492 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 03:57:43.09
>>489 >普通なら内政だとか軍事の才能とかで人物を見るところを信長は欠点だらけで
普通に考えたら内政だとか軍事の才能でずば抜けていたから圧倒的に領土を拡大できたんだろw
493 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 08:26:02.41
「長野とか木曽とか戦国最強に感じるほど強い弱小大名がいるんだから領土が増えるわけがない」
「織田はいいよな、弱小大名ばかり相手にして。浅井・朝倉・六角・一向宗・武田、そりゃ楽だよな」
494 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 09:49:02.80
浅井、朝倉、一向宗、武田って信玄死後じゃねーかw
その書き方だと信玄がいる限り信長は動けないって
言ってるように聞こえるぞ。
むしろ斎藤とか三好三人衆を挙げたほうが良いんじゃないか?
家康は浜松城に残ったのが敗因。
あそこでは岡崎に引かなくてはいけない。
そうしていれば、武田も家康を倒すのは難しかっただろう。
三河武士を寝返らせるのは武田でも困難と思う。
ところがあの状況では、浜松城は孤立。
三方ヶ原に出ていったのは、遠江の武者が武田に寝返るので仕方なかったのでは。
三方ヶ原の後は浜松城を守るのは絶望的。
それで家康が武田に降伏してしまった場合は、家康を見捨てたことになるので、家康より信長の評判の方が落ちる。
その場合は、武田も楽に三河を通過できるので、信長も危うかっただろう。
信長の捏造合戦集
桶狭間=一次資料にないデタラメ
尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上
長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死
姉川=実際には痛み分け程度
信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
497 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 11:27:59.99
>>492 >>493 斉藤義龍が早世してなければ信長なんぞ逆に斉藤に攻め滅ぼされてた糞雑魚w
本当に運が良かったお陰で低脳織田厨に祀り上げられちゃった
>>498 その大した才能ない奴より信長が雑魚だったんだから仕方が無いw。
戦では義龍に負けまくってるよ。結局美濃を攻略出来ず勢力拮抗したまま伸び悩み
第3勢力に滅ぼされてただろう。
秀秋も勝頼も実は
超絶イケメンだったんだよね?
秀秋と親友になりたかったな
これであったならきっとこうであると都合のいい妄想を繰り返し、
ラッキーであると烙印を押す
信玄厨は他に脳みその使い道ないの?
502 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 13:57:34.44
>秀秋も勝頼も実は
超絶イケメンだったんだよね?
歴史の中で
蘇我入鹿、水戸光圀、柳沢吉保、吉良上野介などは意外とイケメンだとか
吉良上野介は若き時は旗本の娘の間でイケメン若殿様として人気があったらしい
>>498 義龍は史料見る限り軍事より内政調略に長けていたっぽい
逆に道三は軍事や経済向けの人材だったみたい
>>503 親子仲良くやってれば基地長なんてイチコロだったね
505 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:37:37.77
117 :人間七七四年:2011/12/07(水) 18:23:40.05 ID:rcDhd5oh
斎藤義龍―斎藤龍興の父子に一票。
義龍は、軍事でも内政でも相当力があったように見える。
義龍が早く病死しなければ、信長が美濃をとれたかどうか、また取ったにしても、より多く時間がかかった可能性が大きい。義龍病死は、戦国史でかなり重大事であったかもしれない。
龍興が無能であったかどうか、少し資料が少ないが(龍興から美濃を奪った織田家が、無能さを強調した余地もあるが)、相当無能ということになっているのでw
>>505 30代で脳卒中になって死ぬような不節制なヤツだからダメだよ、義龍
家康だって長生きしなければ、ただの田舎大名だったわけで
>>496 甲江約定って何?
検索してもお前のイタいレスしか引っかかってこんのだが。
すまんが、自分ルールで決めた専門用語は使わんでくれ。
あ、あと、甲江和与は成立してないから。
その時点で武装解除してたら唯のアホ。
大体、信玄の北信濃支配の流れのがすごいぞ。
謙信と和睦結ぶ度に和睦条件無視。
なかなか大したものだと思う。
圧倒的兵力差がないとまともに正攻法で勝てない糞雑魚織田軍w
正規軍では無い百姓に弟親族多数討ち取られるw
卑怯な騙まし討ちしか出来ない(北畠、伊勢長島、岩村城etc.)
講和に応じる振りして牛蒡丸を返してやるとまた手の平返しの糞外道
上杉謙信にも烏合の衆と罵倒される織田軍じゃ精強武田軍の敵じゃないね
>>509 武田軍団いくら強くてもなあ、所詮は土豪の連合
震源以外は使いこなせない
512 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:44:00.96
>圧倒的兵力差がないとまともに正攻法で勝てない糞雑魚織田軍w
ゲームじゃないんだから、勝てれば何でもいいじゃん。
513 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:10:33.77
コーエーのゲームだとほっとけば武田・上杉・毛利・島津が天下を分けるね。
織田は知らないうちに滅んでる。武田って歴史的実績はないのに物語のおかげで評価高いね。
ゲーマー的には武田一押しだけど、スレ的にはゲーマーや小説好きは織田厨じゃないと辻褄が合わないような感じ?
まーたゲームの話かw
好きだねえ
>>513 歴史的実績って何よ?
スレタイ通り天運味方すれば武田が天下を取った可能性はかなり高い
織田も一時的にバブッたが明智に謀反されてポシャった
結果的に天下を取れなかった事実は変わらない
516 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 00:45:53.70
>>513 武田信玄は戦前からずっと武将として評価高いだろ。
信長なんて光栄が利用するまで一般の人気や評価は最近と比べてずっと低かっただろ。
秀吉や家康に美味しいところを持ってかれた格下の負け組みとして歴史に埋もれてたんだから仕方が無いなw
517 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 00:58:19.61
>>515 信玄は安土時代のような一時代を創った?
尊氏や頼朝のように幕府とかは?
天運が味方すれば足軽や農民だって天下取れる可能性はある
金メダルを目差して競う。予選敗退の選手が「天運が味方すれば」とグチグチ
その女々しさが嫌い。
日本人の価値観や美意識として信長のような非道な独裁者を嫌う傾向があるよね。
どんな手段を使っても勝てばいいとか朝鮮人の思考だよ。
長島の大量虐殺、比叡山焼き討ち、越前一揆の大虐殺とか人として許されない。
戦国の世を早く終わらせるために仕方が無かったとか太平洋戦争を早く終わらせるために原爆投下は必要だったってのと同じ身勝手な考え方だ。
織田厨は尾鰭の付いたイメージで勝手にマンセーしてるけど。
自分の思い描く絶対の信長像を傷付ける信玄や家康を憎悪してやたらと攻撃的になる。
>>517 本能寺の変で終わった事をグチグチ女々しい織田厨さんこんばんはwww
>>517 お前スレタイも読めないで書き込んでるの?
歴史は勝者が作ってきた!
だから今となっては事実はわからないが
実は勝頼や秀秋や明智が天下を取った
可能性も充分にある!
幕末 明治に勝頼が嫌いだから徳川家康が
実に歴史は面白い
信玄が三方ヶ原の戦いの後も生きていても信長と互角に戦えたかは難しい
この時点では信長は謙信とも表面上では仲が良かったわけだし
謙信が信濃へ攻め込むことだってありえたでしょ
そうなると信玄といえども信長と正面からの戦いは避けたのではないかと
ヒント
関東管領上杉謙信にとっての重要度
将軍義昭>>>信長、家康
だとしたら何で第一次包囲網に加わらなかったのか
全然ヒントになってないな、単なるお前の願望だ
>>525 第一次は武田中心の面子で十分やれるからだ。
北陸は一向宗の領地で謙信はその時点でどこ進むんだ池沼
義将謙信が将軍家に弓を引いて格下の信長ごときの言いなりになると考えるほうがよほど織田厨の願望
信長が貢物攻勢でうるさいから相手してやっただけ
528 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 17:48:10.01
>>526 全然やれてねーだろカス
武田は徳川すら潰せず
信長との決戦にビビッて敵前逃亡
そのせいで浅井・朝倉速攻滅亡
池沼はてめーだ
本能寺で滅んだどぶ長
>>528 岐阜で震えてるしかなかったチキンが何だって?w
信玄が 美味しいね!って言いながら
信玄餅を食べた
ところで信玄と明智光秀って
仲良かったの?
ご飯食べたり 遊びに行っていたのかな?
光秀も信玄や勝頼の家臣になれば
良かった気がする
もしくは義元の家臣になったりしたら
現代の日本はなかったはず
533 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 21:18:11.00
>>523 正面からかはともかく織田は表面上は将軍に侘びを入れて朝倉にも敗北宣言してる
そして二人ともそれで満足しちゃったから信玄としては織田攻めには大義名分がいるだろ
むしろ武田にしてみれば今川領やら徳川領から少しでも土地を奪って円滑に統治したいだろうから
織田攻めしなくて済むなら参加したくないのが本音じゃね?
>>526 まさかの関東
534 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 13:40:12.60
ほす
535 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 22:34:34.81
キチガイが立てた糞スレさらしsage
>>536 >>536は高校卒業後、職場のイジメで1ヶ月で辞職、その後は
母親を脅して母親から年金を取り上げ、自分の小遣いにしている。
母親を脅す時の口癖は、「お前が俺を生んだんだから、息子の責任取れや、ばばあ。」である。
引き篭もりで友達もいないので、コーエーの「信長の野望」が唯一の友達。
漢字が読めず戦国時代の専門書を読んだこともないので、「信長の野望」が
唯一の真実と思っている。
自分も生まれ変わったら、織田信長になりたいと真剣に思っている。
人前ではビクビクと他人の顔色を伺っているが、ネットだけは
デカイ口を聞く。
日本史板は十年以上前から敷居が低くなったけど。
歴女とかが出てきて余計ひどい状態になった。
彼女たちはNHKの歴史ヒストリアが事実を語っていると
思っている始末。
三方ヶ原の後に、信玄が浜松城を無視して野田城を攻略した。
これは家康の降伏を狙ったのではないか。
信玄も、単純な戦力比較では織田優位なのは知っていたに違いない。
経済力も織田の方が上だし、鉄砲もある。
ところが野田城を攻略すると、完全に浜松城は孤立する。
家康は三河に脱出できない状況になるから寝返る可能性はあった。
そうなると、かなり武田に勝機が生まれて、むしろ織田は内部崩壊の危険もある。
家康が浜松城に残ったのは愚策だったと思うな。
岡崎に移っていれば、武田はかなり苦戦しただろうし、信玄に勝機は生まれなかったと思う。
信玄が遠江の各城を落としている間に、信玄は徳川方の
武将に凋落をかけていたらしいから、家康も乾坤一擲で武田に
大勝負をする賭けをせざるを得なかったのであろう。
だか、それこそが信玄の真の目的であった。
武田に大敗した徳川にもはや国人衆をまとめる力はなく、
信玄が三河を攻略している間に徳川が内部崩壊していたはず。
希望的観測多すぎだろw
信玄が生きていても織田が鉄砲かき集めて結局、織田・徳川が勝っていただろう。
別に鉄砲だけなら怖くはない。
事実、鉄砲を主力として買った戦は存在しない。
長篠で武田が織田に負けたのは、馬防柵、堀で
防御していた織田の陣地に、武田が強襲したから。
武田がこんな攻め方していたら、当時、鉄砲より
飛距離が劣った弓矢だけでも織田は勝てる。
>長篠で武田が織田に負けたのは、馬防柵、堀で
>防御していた織田の陣地に、武田が強襲したから。
まさに旧日本軍にも劣るバカだったからな、武田勝頼と長坂長閑は。
あの時に決戦を挑まずに織田徳川の主力を抑えつつ、長篠城を落とすのは無理だったのかな?
まぁ戦力的に、地形的に厳しいかな?
しかし退いても難しい状況だしな。
信長が長生きしなくても、勝頼、信勝は晒し首
清和源氏の名門・武田が織田の軍門に下るとは思えないから、
武田と織田の激突は時間の問題でした。
信玄が長生きして、北信濃の謙信のおじさんの家の領土の不可侵を
謙信に約束できたら、第二次包囲網で、信玄、謙信の共同作戦で
織田を瓦解できたのだが。
>>547 武田家は信玄自体が問題。弱みを見せたらすぐ同盟破棄は、戦国時代では
それほど珍しくなかったとはいえ、信玄は余りにも露骨過ぎた。だから、信頼を
失って、武田家滅亡の時は誰も武田側につかず部下にも見放された。
まあ、親父を追い出したのも効いてるよね。
当時の道徳には反してるだろうし。
源氏の名門、武家の棟梁を名のるには血生臭すぎる。
信繁が健在ならそういうのも抑えてくれそうだけど。
信玄が長生きしても、巨大化しそうな武田を恐れて謙信が圧力かけてきたら、
信玄は三方ヶ原の時みたいに大軍率いて三河まで出てこれんだろうな。
謙信は、信玄が長生きしても史実とだいたい同じように動いていたのかな?
>>544 以前は、甲陽軍鑑の誤表記で、実際には長篠の戦いに
長坂光堅が参陣していなかったと言う意見が学会の通説だった。
しかし、現在は、それを見直すように言っている連中も多い。
この件については軽々しくは言えんぞ。
詳しいことは武田氏研究会会長の小和田さんに聞いてくれ。
553 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:22:56.93
if、戦国時代の話題は板違い
このスレ一度削除依頼して削除されたんだがな
>>1はまだ懲りてないのか?
また削除依頼してやろうか?あ?
>>553 黙って削除依頼を出せばいいんでないの?
結局、大和田が一般向けに刊行している本って
今川なんてほとんど出てこないじゃん。
それとこの前、教育テレビで小和田が出ていたけど
戦国時代は1467年から始まったと言うのが通説みたいな
言い方していたのはどうかと思った。
一応、今川を専門にしているんだろ、この人は。
556 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 23:37:51.70
設楽が原は当時は、湿地と水田だとわかっている
そして季節は梅雨だから
道の他は泥濘地となっていた
馬は道を外れて行動できたはずがない
人間もほとんど無理だったろう
道をめぐる戦いだったはずだ
信玄さん、京都いって、なにしたかったのん?(´・ω・`)
行く気もなかったので何かしたい事もなかった
単に巨大な隣国に余裕が無い時にそこの同盟国の領土を掠め取ろうとしただけ
武田の主力の甲府出発予定が三日遅れたわけだから、
この時点で信玄の持病が悪化し自ら余命わずかと思っていた
可能性がある。
自分の死んだ後の武田家を考えれば最低でも徳川の
息の根を止めて織田が武田に泣きつくような戦況には
持っていきたかっただろう。
557です
>>558-559 あれえ? 信玄は京都いこうとして、病気になって死んじゃったんだよー……と学校で教わったような。
本当は違うのですね。
>>560 信玄が上洛しようとしていたと明確に書いている資料は
ほとんど江戸時代に出た戦記物だけ。
信玄が存命していた当時には信玄自身が上洛する
と明言したと言う資料はない。
ただ、信玄は、朝倉への書状には、春には岐阜に向かう
とは書いている。
江戸時代には信玄上洛説が有力だったが、
明治になって西欧から実証歴史学が重視される
ようになってから、特に最近では、上洛説以外に
色々な説が乱立している。
ただし、どの説も決定的な証拠がなく通説と言うものがない。
信玄上洛説を取り上げた
>>560の歴史教師は
信玄上洛説の提唱者の一人か、ただの知ったかぶりの
バカかのどちらか。
つーか。質問が初歩的過ぎる。
大和田の本を買うか、ググれ、と言いたくなる。
562 :
561:2012/10/06(土) 11:06:56.69
>>560 書き忘れが、信玄の死因についても、色々な説がある。
野田城攻めの時に鉄砲に打たれたと言う説もある。
鉄砲説は黒澤が映画・影武者で採用している。
最近の個人研究によると脱肛及び疣痔破裂による失ケツ死
強すぎた武将武田勝頼。
しかし、武田家を継いだ時期が最悪だった。
財政の疲弊は信玄の時代から始まっていたとする
主張もあるし。
長生きしたら、信玄さん、なにやりたかったのん? (´・ω・`)
hoshu
信玄は病気だから仕方ないが信繁が川中島で
無茶をせずに長生きしていたら
武田家の運命も変わったとは思う
一方、伊達政宗は、もう少し早く生まれていれば天下をとれた
というもしもスレ
hoshuhoshu
HS
三方が原の後に信玄が存命なら、織田の戦略は縦深陣地で徹底的に時間稼ぎ
信玄が三河と遠州を自領にしてそこに定着しない限り、いつか甲府に帰んなきゃいけない
ところが、武田軍の古い体制では本拠地を移すのは無理で、三河と遠州を
自領にするには、その土地の地侍・豪族を配下に組み入れないといけないが
信玄は約束(和議)を守らないという評価が固まっており、本領以外では
心底の服従は誰もしない
従って、信玄が軍を返せばまたそれぞれ徳川や織田の領地に戻ってしまう
結局元の木阿弥になり、遠征の費用も回収できないまま数年分の蓄えを亡くす
一方、信玄が戻れば信長は近江に引き返し、浅井朝倉を史実どおりに滅ぼす
そうして、信玄がまた上洛できる体制を整える前に近畿と中部を手中に収める
その段階になったら、彼我の経済格差(=動員力)は10倍近くにもなるかもしれん
そうなったら、今度は野戦で10:1の戦いに→武田家の滅亡
>>572 >信玄は約束(和議)を守らないという評価が固まっており
そうなのですか?(´・ω・`)
やあ、知らんのです。
>>573 逆。信長が約束を守らないクズ
信玄はむしろ裏切られてばっか。
戦国板でその話題は完全に論破されてる。
織田厨はアホだからすぐ織田の国力が〜とか言い出して誤魔化すが、
まったくそこに根拠がないデタラメ。
信玄は貫高に応じて軍事動員していたが、信長はそんなことをまったくやってないし、
兵種ごとに再編成が可能な武田と複数兵種混合の烏合の衆の織田では話にもならないし、
そもそも信玄上洛時の信長が実行支配していたのは80万石程度まで急縮小していた。
一方の武田は120万石で金山による軍資金もあった。
結果、織田軍は金も米もなく。誰が敵で誰が味方かも分からず泣きを入れていた1万
そして信長を朝敵認定させることに成功した官軍武田軍は6万の軍勢だった。
576 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 19:18:02.80
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
577 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 22:32:04.33
信長が光秀に殺されないで、長生きしたら明治維新のような日本の近代はあと100年早かった
信玄が西上途中で病死しないで信長殺してたら、その後の秀吉、家康時代をえないで朝鮮に攻め込むことなく恨みを買うこもなく
もっと早期に武田幕府が誕生した・・・が・・・・徳川幕府より150年早く幕府崩壊 明治維新
で双方結果同じ だが150年早く近代化出来るので 西洋より先に日本がアジアの覇権を握れたため、史実のように欧米から文句を言われることはなかった
だが史実は徳川幕府成立が日本の近代化を100年遅らせた
578 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 22:36:14.32
謙信は
足利将軍に
”信玄と仲良くしなさい”と言われたら
素直に”はい”というだろう
579 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 21:06:22.10
はい
580 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 01:04:00.73
>>575 田舎のサル武田農だな。米高がすべてかよw金山も埋蔵量が終われば終わりだろw
信玄の時残り少なくなってたのに無計画に掘ってた。
そんなことよりおまえ、信長は「堺」を抑えていたのを知ってるのか?w
堺を抑えれば、1回貿易船を出してそれを護衛するだけで1万石分の
金が手に入るんだよ?
堺を抑えて税金取ってるだけで毎年200万石分くらいのアガリが出る。
しかも堺がもっぱら銃の産地なわけだからw
農本主義の田舎の猿が都会のことを何も知らず米米うるさいw
581 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 01:07:18.38
東北北陸が米の取れ高日本一だからって、東京より上!とか言ってるようなもんだな。
田舎の百姓脳はこれだから…
582 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:58:16.40
所詮は生涯かけて甲斐、信濃だけの田舎大名。
583 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 15:39:19.31
信長って、信長の父時代から、津島の通商利権を抑えてたからこそ、
守護代の家老という小さな領土ながら大金持ちで守護や守護代を凌ぎ、
ああやって下克上できたわけ。
だから通商権益ってものに対する信長の神経はスルドイ。
当時の経済は九州〜京都大阪が中心だったが、尾張というのは、
経済が動いている日本最東端地域だった。
逆に毛利とかは瀬戸内海にいるわりに、通商権益をちっとも利用できてない。
>逆に毛利とかは瀬戸内海にいるわりに、通商権益をちっとも利用できてない。
厳島の戦いやそれ以降は思いっきり利用しているよ。というか、小早川を乗っ取ったのは、
露骨に瀬戸内海の利権目当てだしね。それ以前に利用できなかったのは、毛利の領土は
小早川を乗っ取るまで長い間内陸国だったから。
ちなみに、瀬戸内海の利権を全く利用できていなかったのは陶晴賢。
ついでに、毛利元就は大内時代の勘合貿易を復活させようとして、明に拒絶されている。
毛利元就は相当海上利益に敏感だったよ。
586 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 15:56:21.58
当時は肉弾戦から銃撃戦みたいなのに移行してたんだから、
銃量産地域である畿内を支配できない武田なんて終わっている。
信長の一番の強敵はせいぜい大阪抑えてる石山本願寺。
長篠で100mも手前から銃撃してくる織田軍に対し、肉弾で
バンザイアタックしてきてた武田軍は、旧日本軍にも劣る。
信玄が長生きしてたら恥晒しただけで終わるな。
587 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 16:23:20.30
信長が本気で東のほうに関心を向けてたら、武田なんて信玄在世中に滅んでたんだろ。
東の貧困地帯であるド田舎などに興味がなかったおかげで、西に進んだから、
ちょっと長めに生き残れただけ。大事な西の勢力と交戦中でなく、武田に全力を
注いでたら織田軍の勝利に決まってんじゃん。
織田信長は死ぬ年に、武田滅亡後に東海道を凱旋パレードするまで、富士山を見たことが
なかったくらい東のど田舎には興味がない。
588 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 16:34:26.97
信長は、意図的に銃の生産地を抑えた上で、銃の売却規制してたからな。
1970年ごろからは、織田軍の支配地で生産されてた鉄砲は
織田家だけに売却され、他の大名家には渡らなかった。
堺は信長の支配下になる前までは「自由都市」として、
どこにでも金さえ支払えば鉄砲を売ってたが、それも禁止された。
近世的織田軍と田舎野蛮人との戦い。武田など、ジリ貧。
589 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 16:35:08.01
1970年ごろからは→1570年ごろからは
590 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 16:40:15.60
茶道の千利休(堺の商人)とかも、当初、織田信長に、
茶器ではなく銃を数十ばかり陣中見舞いにプレゼントして
気に入られた。
591 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 18:59:35.59
全盛期の信長伝説
敵国侵略は当たり前、自国の領土を攻め取ることも
初陣大将首を連発
信長にとっての敵国侵略は大将討ち取りの出来そこない
城にいるだけで敵将が悶絶死した、一族郎党滅亡する敵将も
信長に滅ぼされたことを気づかない敵将も多い
あまりに敵を滅しすぎるので敵でも謀叛扱い
その謀叛もガンガン鎮圧する
信長が一睨みしただけで浅間山が大噴火する
三職推任状も馬上で受け取った
軍兵を使わず1人で攻め込んだことも
刀を一閃すると周囲が焼け野原になるので力をセーブしていた
熱田神宮に願掛けしたら今川義元が急死した、ついでに斎藤義龍も急死した
信長と戦うと決意した武田軍が信玄急逝で失意の中帰国すると、何ヶ月も前に信長からお悔やみの書状が届いていた
民衆の敵対行動に流暢な尾張弁で説得しながら敦盛を舞っていた
長篠の山奥から丹波平定の軍を指揮していた
刀を3回振るだけで天下統一ができた
返書は常に褒め倒し、息子を叱るときもまず褒める
洛中行事に手が回らず分身したことも
1576年世界10大事件 第1位「信長が大腿部を負傷」
信長の着る鎧兜は、防具ではなくオーパーツ
信長を驚かせた人間は信長自身だけ
本能寺の変は信長の過去旅行に対する送別会
それでも気に入ってたのか「天地夢ノ助」と名乗っては時々秀吉にちょっかいかけに行っていたらしい
592 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 01:46:56.04
武田軍は農繁期に遠征できないので、常備軍を持ってる織田軍には勝てない
593 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 12:33:33.07
最終的には、武田と北条の残党を率いた家康の勝ち。
信玄が北信濃に執着しなければなぁ。
謙信に戦略性が無い。後に信長に攻められるなら信玄をスムーズに西へ向かわせてやれば良いのに。
日ソ不可侵条約の様なものを結んで。信用できないが。
594 :
日本@名無史さん:2013/10/01(火) 00:03:26.78
何が最終的だよ。織豊がダメでも、瀬戸内海抑えてる毛利のほうが有望だろ。
>>592 完全に真逆ですね。
武田は農繁期でも自由に出陣してる。
むしろ織田軍は家臣に兵糧調達を丸投げしていて
兵站の概念が完全に欠如している。
それに常備軍なんて織田には存在してない。
596 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 17:25:25.51
597 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 20:41:13.42
軍事力=経済力
山梨県がいまでもブドウしか取れない貧乏県なのは皆もよく知ってるなず
尾張名古屋相手では信玄も勝ち目はなかっただろう
長篠の戦での騎馬軍団封殺見てもわかるように
軍事力=経済力 これを元にした場合、織田は武田や上杉や北条よりも弱いな。
信長自身は所領の大きさに比例して、家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない
家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。 従って武篇道と戦果が問題となる。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
池上裕子 武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地 興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
そして新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
内政放棄で軍費調達方式が略奪恐喝犯罪組織型統治の織田組
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
(織田は兵糧が手に入らず1万を養うのも不可能になる反面、朝倉軍は3万で比叡山で豪遊)
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
(志賀の陣での和睦条件である荘園返却を実行すると織田財政は完全破綻)
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、 これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
現地略奪方式を取らざるを得ない。 織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は言わば、牟田口司令官のような者が信長であった証明であろう。
アスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
602 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 17:16:26.88
前世で信長にボコボコにされたんか?
豆知識
鎌倉時代後期以降の人身売買は最低価格が2貫文だったと磯貝氏が指摘してる。
実際、借金苦から子供を売る習慣を宣教師があり得ないと驚いているが、
2貫文で売れるなら止むを得ず売り、
残された家族を養うのも止むを得ないかも。
またキリスト教徒同士では敗者であっても奴隷に出来ない代わりに
イスラム教信者は奴隷にできるため、
奴隷狩りが戦の目的となる場合もある。
日本人は宗教による差別が存在しない代わりに日本人同胞を奴隷にできる一方、養子にしたり、
奴隷が得た物は奴隷の所有物に見做されるなど恩情的奴隷制度であった。
しかし九州南部を中心に倭寇文化圏は残虐な扱いを奴隷にしていたり、
しばしば奴隷獲得のために戦を惹き起こしている。
まったく蛮族と言う他はない。
ポルトガル商人は酷い扱いを受ける日本人や朝鮮人奴隷を買うことで、
待遇をよくしてやったと開き直ることができたのは、
恩情的奴隷制度の無い島津を代表とする九州倭寇文化圏の習慣を悪用したからである。
島津は豊後進攻で拉致し肥後に連行した奴隷の量が多過ぎて、それ以前に肥後で略奪しまくっていた理由により
肥後が史上最大の飢餓地獄にしてしまったほどの賊っぷり。
信長みたいに有無を言わさず女子供ごと全員虐殺されるよりは温情的奴隷になった方がいい
信長みたいに捕虜なんて取らずに
和睦したフリして騙しまで皆殺しにして略奪三昧したりするよりいいだろ。
信長の越前府中での書状では、視界に映る辺り一面、死体ばかりで生きてるやつが全くいなくてスッキリするわーって高揚してたりと、
女子供関係なく根まで根絶の撫で斬りである根斬りなる言葉まで作り出した信長。
この殲滅政策を大和の僧侶たちは一国平均とか一国亡国と書いて、
織田軍の暴虐を恐れまくり、
織田軍の奈良進軍があるごとに乱暴大逆を恐れて上納金を高利貸しから借りてきて払ってるからな。
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信玄が人身売買したのはこの志賀城での援軍が敗走してもなお
徹底抗戦をした篭城軍捕虜に対してのみだけの例外的な事例。
奴隷商人のようなものが存在するような恒常的に人身売買があったなら、信玄もたった1回しかやらなかったとしたら奴隷承認は困るだろう。
謙信がやった1度だけの人身売買も、佐竹義昭の死去をチャンスに火事場泥棒をした小田天庵への報復で
しかも謙信は関東のことはまったくくわからないので古河公方重臣の簗田氏の指図に従うと以前書いていて
この時はさらに結城や小山らが小田氏の処理のことは一任してくださいと申し出ていて
奴隷売買というのも奴隷側が著しい道理的・倫理的違反に対する関東の流儀に沿った臨時的なものであり、捕虜救済を視野に入れた性質である可能性が高い。
倭寇文化圏の九州南部とそれ以外の地域では全く別だと思われるが。
九州南部は海外奴隷売買目的だが、
関東では捕虜を釈放するための金銭解決法と
戦場とは関係なく借財の質となった人ではまた違うし、
畿内では信長が捕虜や奴隷の管理負担を嫌い虐殺してまわっただけだというな。
篭城して最後まで降伏しなかった敵愾心の強い捕虜をどう処理するかといえば
古今東西、反乱一揆防止や将来の報復を恐れて捕虜を殺すか、
食事を与えてほとぼりが冷めるまで牢獄にいれておくくらいしかないだろう。
そして捕虜の地位や親類関係や罪状やコネなどで価格もかわるのが当たり前で
(荒木謀反において人質虐殺を回避するよう信長へ親類が助命活動や陳情をしていたが聞く耳を持たない信長が700名近くを極刑にした例もある)
その背後関係と経済力と誰へ降伏斡旋を頼んだかでも違うだろう(取次ぎや手管や指南によりだいぶ変わる)
武田に続き、天正三年軍役帳の作成によって軍制・内政改革を終えた上杉軍は常勝無敗の勢いを見せた。
一方、織田軍は家臣へ丸投げ制度によって、各々の家臣が才覚をもって
現地国人豪族と信頼に基づく主従関係を作り上げて軍閥化が進展した結果、
信長は家臣の謀反で殺され、織田家は乗っ取られた。 なぜなら土地支配がデタラメだから、
武装賦課や兵役賦課や兵站戦略や内政政策や支配構造など致命的に織田は遅れていた。
だから構造上、謀反抑止機能や家臣団による織田家乗っ取り防止機構が存在せず、
あっけなく信長は死に、織田家は乗っ取られた。
武田勝頼は円満に跡を継ぎ、上杉景勝は後継争いの権力闘争が起きても上杉家の乗っ取りを考える家臣はいなかった。
そんな杜撰な政権が統一までこぎつけるわけねーだろが。国家体制が曖昧どころか退化し、地方国人豪族は織田家でなく、
才覚ある秀吉や光秀らと主従関係を結び軍閥化。 内政基盤整備もしてない。
武田ですら全領地に布告徹底した統一法令を家康も学んでいたが信長にはそれすら無い。 しかも民心は離れる一方。
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり 北条も今川も一段が500文だったので
遠江?関東に渡って共通した荘園の統一基準。 しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて 500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも 武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。むしろ歓迎してたのは明らか。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。
濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
信長は恐怖支配を進め、荒木の時は部屋に閉じ込め焚殺し、
越前では府中住民全てを釜茹で苦しませて煮殺す。 別所の人質は車裂きで殺し、
浅井の時は爪を剥がし、指を一本ずつゆっくり斬り落として楽しんでたし、
杉谷善住坊主には首から下を埋めてからノコギリ引きでゆっくり首を斬っていったり、
甲斐では快川和尚らを火焙りで殺したり、 他の大名はやらない残酷さがある。
特に生きながら苦しみもがきつつ死んでいく刑罰は残酷で、
一般的にそういう刑罰は西洋では温情として火をつける前に死刑囚を殺してあげて苦しみを回避するほどだったが、
信長はそれを眺めてスッキリしたと大喜びしたというから精神がおかしくなってる快楽殺人鬼という極めて矮小な偏執アスペ狂人と規定できる。
信玄は特筆するほどの謀反は起きてないし謙信の場合はそもそも人質を取らなかったから謀反が起きていたわけで、
本庄の乱のあとは人質を取るように迫られ、しぶしぶ言い訳しながら人質を取るようにしたのでそれ以来、謀反は起きてない。
信長の場合は人質を当主だけでなくその家臣からも大量にとってても謀反されてる。
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。これが信長のやり方で、暴君以外のなにものでもなかった。
そして信長への怨嗟がどんどん広がるばかりであった。 700人大虐殺で信長大満足wさすが日本史上最凶キチガイ。
こんなカス人格の信長を殺してくれた光秀は正義の英雄だよな。信長の一国平均戦略は虐殺が基本だからね。
でもまぁ信長の尼崎全焼消滅や越前府中無人化焦土戦に比べたらまだまだ甘い。
信長は想像を絶する大量虐殺をして、日頃の鬱体質の自分の気を晴らす解決方法とし、虐殺するごとに鬱憤が晴れたと症状が改善するも長くは続かない。
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
3月に入ると山崎離宮八幡宮が信玄に諸役免除と禁制発給を求めるなど摂津〜山崎間の勢力も信長を見捨てる。
山崎の八幡宮の神人は中世日本最大規模の油座である大山崎油座であり、畿内経済の主要勢力である。
(荏胡麻から作製した油を広範囲に渡って独占販売した特権商人)
彼らの経済力が巨大なもので、本能寺後に光秀はこの経済力を秀吉から死守しようとした山崎の地に、
清洲会議後に秀吉は城を作り、大坂城が完成するまでは、ここを拠点に全国統一事業に邁進していた要路。
でも、ぶっちゃけ、信玄って短命でもないよね?
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり
犯罪者集団織田久美の酋長信長はほんと民草の御敵そのものだな。
実際、信長率いる織田軍の行動とは
チンピラ集団による凶悪犯罪組織による京の不法占拠であり、
数十万人の女子供を問わない虐殺や恐喝が横行し
京の半分を消失あせるなど蛮行を繰り返す白日テロ集団だった。
そして信長が正義の鉄槌を受けて死ぬ間際には
信長を神と規定する恐怖支配組織キチガイカルト教団に成長していた。
愛知県安城市今池町3丁目7-32 サニーグレープU
実際、信長が上京焼き討ちした際、
その延焼は都周辺まで焼き尽くした為、50か村もの村々まで消失し、まさに最後の審判の情景だったと書かれ、
織田軍は盗賊となって僧院にまで押し入り略奪追い剥ぎ、
虐待や拷問を駆使して口を割らせ全財産を奪い取り、
一般民の避難者も出会ったそばから次々と女どころか子供まで、
持っているものは残虐行為とともに全て奪い取られたとフロイスは書き残してるし、
初めて岐阜に宣教師がいった時に信長は内裏や将軍の言うことは無視してよい。
なぜなら彼ら全ては、俺の権力の下にあるから、
俺が述べることのみ聴いていればよい。
などと話ししており、激昂し易い信長が非合法無政府主義者かつ理不尽な蛮族の頭目であることがわかる。
616 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 23:28:31.76
アスペにして鬱病の信長は殺戮することで、
鬱憤が晴れたと快楽殺人によってのみ、
精神的病を一時的に好転させることが出来た。
しかしすぐ重度鬱病に戻ってしまい殺戮を欲した。
信長って現代に生まれてたら絶対に凶悪犯罪で逮捕されて死刑になってるよな。
他の大名武将って平時に生まれてたら、
それはそれで環境適応して生きて行けるけど、
信長だけは極端な殺人渇望異常性が著しくて無理。
また自分以外の全てを見下す性格とかキチガイ過ぎる。
618 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 11:16:50.53
武田信繁と義信が信玄よりも先死にしてたのも武田家滅亡の要因の一つだったのではないかと思う。
信玄が亡くなっていても信繁と義信が信玄より長生きしてただけでも天下は取れずとも関ケ原までは滅亡はしなかったんじゃないかな。
619 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:07:56.34
武田軍は強くても、全国統治のビジョンがないから結局、将軍家の威を借りて、畿内を治めるのが精々だよ
>>618 義信は武田家を二分する内乱を起こす寸前までいっていた。
あいつを許していたら武田家は自壊し、上杉領になっていた。
信繁が死んでしまったものの、信濃利権が確保できたし、
武田家臣団も優秀なので、信繁ひとりの差なんてほとんどない。
>>619 少なくとも内政・裁判をほとんどやらなかった虐殺マニアの信長よりは
武田は放置国家としての国法も作り上げ国家経営ビジョンはあった。
訂正 放置ではなく法治。
法には信玄も従うと宣言してるあたりは非常に確革新的。
また小山田領での理不尽な裁判を、民の訴えを根拠に
是正したり、
穴山領へは文書書式の指南などで教化し
甲斐全土で反武田自立国衆への介入を通じて
戦ではなく、内政法治の指導で、甲斐を纏め上げたのが信玄。
金銀で兵糧の大量買いや、恩賞や調略ができた時代
信長領国は破綻し、武田や上杉の金山生産で潤っていた
興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした。
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
秀吉は生野銀山を押さえて独自勢力を築くに至ったのは信長最大の失策である。
その後、豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
金山を多数所有し東国一の鉄砲を所持していたとされる佐竹も偽造疑惑がある。
>>620 義信当主で信繁補佐の武田家の方が勝頼当主の武田家よりも家臣団への統制はできたんじゃないのか?
最も今川家寄りの義信が当主だと駿河侵攻も無かっただろうから甲州金山が枯渇していた武田家の財政はますます貧窮してたかもしれんが。
>>623 信繁が義信を支持するわけないし、
そもそも義信を支持した大身家臣が飯富だけという人心の無さは致命的。
あと甲州金が枯渇なんてのはデタラメだから。
だがのオナニースレ
武田信玄なんて戦国最大の過大評価。
だって自勢力より遥かに雑魚にしか勝ってないもん。
周辺の有力大名とは越後(上杉)とガチで闘ったのは4回目の川中島だけ(実質ドロー)
北条とは睨めっこ程度、駿河進行時の今川は既にボロボロの状態。
まともな勝利と言えば3倍の兵力でもって経験の浅い若き日の徳川家康をボコったくらい。
自分達と同等かそれ以上の勢力を打ち破ってのし上がった毛利や島津、北条じゃなく、武田が最強扱いされる理由がわからんね。
おそらく後の天下人の家康の一番屈辱的な敗戦が三方ケ原だった・・・それだけの理由だろう。
武田を実際以上に持ち上げる事で己の黒歴史を覆い隠すみたいな。
>>626 信濃攻略そのものが、
村上と小笠原が組んでの共闘で武田挟撃体制を作り上げ
実質、甲斐衆と信濃衆の戦いになってたし、
信玄は最強の上杉や北条やランク落ちる織田から、
領土を奪って、逆に一寸足りとも彼らから領土奪われてないからな。
しかも尼子晴久や大内義隆らが死んだあとに、
死体を漁って領地を拡げたハイエナ元就や、
無能大友義統や有馬大砲隊の活躍と鍋島の内応で勝てた島津みたいな他力本願とも違うし。
地方辺境ではなく、
武田は中部東国の弓箭国で切り取りやってるし。
関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。
河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
天文17年の村上戦だろう。
これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。
2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんで
軍をいれたりを繰り返していたが武田側が打ち負けて板垣や甘利が討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、」小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。
アッシー何んて40年以上前の死語。
バブルの時の流行を紹介するテレビで初めて知った。
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
信長の国家ビジョン
9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
こんな身障者の特権すら賄賂欲しさに剥奪する判決を
信長本人の私欲で是認する秩序崩壊社会は前代未聞の暴虐。
身障者は死ねと言わんばかりの残虐で狂った私刑社会の織田政権。
633 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 23:40:08.98
634 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 04:05:13.70
謙信は将軍が畿内を統一するように命じて畿内5ヶ国の守護にしたら関西は平定して管領にはなれただろうな
そのほうが足利将軍家はもっと長く存続できたな
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
636 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 04:18:25.50
で信玄みたいな甲斐の人に西日本の商人を統治
できたの?
信玄って足利幕府と宗教マンセーだけだったんじゃ。
仮に信玄が信長、秀吉、家康を晒し首にしてても
そのあとは武田家の人達が島津、毛利あたりに
皆殺しにされてオシマイという展開では?
信長ものし日本の商人を統治してたとは言いがたいしな。
でも、信玄は家臣にぶっ殺されるようなマヌケじゃないわな。
638 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 13:44:40.05
>>595 今だに信長は兵農分離した
他の大名は農繁期に遠征できないと信じてる馬鹿がいるとは驚きだな
家康晒し首はありえるけど、信長までは届かないし、信玄もそこまでするつもりは無かったと思う
まず京までの遠征に出費に見合った利益があるとは思えない
徳川を降伏させるか征服するかすれば一旦そこで仕切り直しだろう
640 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:19:02.18
武田騎馬軍団対
鬼島津
勝つのはどちらか?
641 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 11:28:32.10
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈 だって全員俺が嫌いな連中だし
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | |
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| | 菅沼 遼太
642 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:52:56.40
>>640 勝者:島津
武田…信玄ドーピング
島津…あいつら頭のネジどうにかなってんよ・・・・