♪邪馬台国ドンと来い♪103

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1omikuji 【646円】
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!

出来るだけソースを出して後はお好きに!

  ∧ ∧     ┌─────────────
  ( ´ー`)   < 邪馬台国なんてシラネーヨ
   \ <     └───/|────────
    \.\______//
      \       /
       ∪∪ ̄∪∪

前スレ
♪邪馬台国ドンと来い♪102
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1324112438/l50
2日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:59:28.74
無限尿( 夢幻如 ◆vaujymvCDcV.)に見るアホの戯言

・方角
そもそも現場からの報告が東だろうが南だろうが結局は南と記録されるなら
実際の行程は東だったと言えても南であった可能性を否定できない。

 A(実際の移動が東のケース)orB(実際の移動が南のケース)→C(史書の記録は南)

この逆は

 C→AorB

にしかなり得ない。

・距離
仮に壱岐〜九州を一日で渡航、それを千里としたと言うのが妥当であっても
不彌國から先の航行に適用されたと言う根拠が無い。
なぜなら「水行二十日」でトータルの万二千里をオーバーするからだ。

単純に換算しうるなら「水行二十日」を「二万里」と書いて
トータルの数字もそれに合わせればよい。
何故それをしなかったのか?何故馬鹿みたいな計算違いをしたのか?
不彌國から先の水行はまた「基準」ないし「感覚」が違う物と考えるのが一番シンプル。
少なくともその可能性を否定できない。

※尚この基地害の常套句「ループしている」は
 大体が、過去に「脳内解決」「脳内ロンパ−」していると言うことで
 「ループしている」と吠えている場合が多いので気をつけましょう。
31  【豚】 :2012/01/01(日) 21:02:07.57
ありゃ?「おみくじ」リトライ
4日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:02:42.58
邪馬台国は無かった
あった事が証明できない以上無かったという結論にならざるを得ない
5日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:14:35.30
一支1st→已百支last.↓(PR) http://ameblo.jp/y52yd/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄├───┐  ┌───┐9.3f
支(防)┌──┐  ┏末盧┏┓└→□金印  └─┐┌
      └┐  └┐┃↓┗┫┗━─┘委奴国  ┌┘└
.  北 .   └─┐┗┛    ┗━┓.    (=筑紫) │↑
. φ  ....┌┐│放■@  ★不┗┓     斜陽 ┃海峡に疎い
 南   ┌┘││射■伊都→弥┏┛ 再掲 D  ┗┓
      │  ││式■┿┳↘ ━┛.██████.. ━━┻━━━┓
『伊都』└┐└┘┏■↓┃  奴←▉烏奴←██ 支惟← 巴利 ┗┓
飛地┌─┘遠絶┗■  ┗┳━━▋ ┫┏┓ ██ ┌躬臣┘  ┏┛
    └────┐■十  ┃其南▍ ┗┛┃┌■邪馬┏━━┛→
『奴』非親女王┌┘■日  ┃ 有 ▎E   鬼奴■┐  ┃四国認識
    非反狗奴└─■  ┏┛狗奴国 Kikuchi ■為吾┗━━━┓
      ┌──┐  ■  ┗┓      ┏━┛鬼■┘ C     ┏┛
    ┌┘┌─┘  ■  ┏┻━━━┛★┌┘■女王国以北┗┓
    │┌┘十    ■━┛      華奴蘇奴  ■戸数道里可得┛
    └┘  日┏━■一              ↑  ■略載(抄録)┗┓
      ┏━━┛  ■月    ┌蘇奴→呼邑  ■┏━━━━━┛
      ┃↓      ■↓★┌対蘇    Koyu. ■┛夷守:卑奴の
    ┏┛投馬 A ■    姐奴←不呼┐┏━■  南下監視
    ┗┓Satsuma ■ ┌弥奴─→ 好古津┓■
      ┃         ██都支..Aya..Miya┏━ ██  都支(城):宮護
    ┏┛    ┏┓  ██ └ 伊邪┏━┛ ██   伊邪那岐
┏━┛  ┏━╋┛   ████████████
┃    ┏┛┏┛    B  已百支┃  周旋五千余里
┗┓  ┃  ┃原  邪馬台  ↑┏┛
  ┗┓┃  ┃田○┏━●斯馬┃Kushima
    ┗┛┏┛    ┃  璧┏━┛次有
    ┏倭地温暖┏┛↓┗┛
    ┗━━━━┛南方に詳しい
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1105856.article.html
★佐賀は南九州と朝鮮半島を結ぶ役割を担っていた
6日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:23:18.60
ホームラン級のバカ無限尿よ

邪馬台国が何処にあろうが掛かる日数は「水行十日陸行一月」だ
日数的な理由で邪馬台国には行かなかったのだとすれば、邪馬台国の場所が何処であろうと関係ない

この単純な文章が本当に理解できないのならお前は場外ホームラン級のバカだな
どうせ逃げてるだけだろ
見下げた奴だな
7日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:24:23.05
 ○  >>1 乙 もうお前に用はない 
 く|)へ
  〉   ヽ○ノ
 ̄ ̄7  ヘ/
  /   ノ
  |
 /
 |

8日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:46:25.11
論争荒らしのテンプレコピペより

・違う話題がはじまっているのにしつこく蒸し返す→悔しかったのです。
・理詰めの反論ではなく人格攻撃をする→自分の意見に自信がないからです。
・相手を異常者認定する→ホントは自分も異常者ですが、そう言われないように先手を打っています。
・過去の事例をしつこく持ち出す→その時の当事者です。
・自分の意見をスレの総意だと主張しようとする→みんなは両方ウザがってます。
・自分で「スルー推奨」と書く→オマエがスルーしろよボケ。
9日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:10:01.49

           ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
           l‖‖‖ ||   f灯
            |‖‖‖ ||   | |
            |儿儿儿._」⊥厶
           〔__o____o_≦ト、
.          i / ⌒  ⌒  ヽ )
          !゙ (・ )` ´( ・)   i/
          |  (_人__)    | \
          \  `ー'    /  / ー- 、
.          ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃   /     rク\
.       /   | ̄r少}¨ ̄〃   /    /′ ヽ
      〃 l   |  l| | l| 〃    /     /    └ヽ
     /    l  |l | |l/″   /      !  厂    \
    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
    丿  |   | 丿} じ’  /      | /         |
   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
    (在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)

   民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
   そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
10日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:41:42.99
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
11 【ぴょん吉】 【20円】 :2012/01/01(日) 23:22:09.63
あけおめ
12本物の天才:2012/01/02(月) 12:38:32.24
学歴詐称高卒浪人ニセ国立大学生駆逐終了
http://8234.teacup.com/isaq/bbs
13日本@名無史さん:2012/01/02(月) 12:49:45.42
↑w
14日本@名無史さん:2012/01/02(月) 13:35:49.96
>>12
見たが高卒浪人ニセ国立大学生の勝ちだ。
そんなアホな糞ガキに言い負かされる天才などいない。
15本物の天才:2012/01/02(月) 13:47:04.58
>>14
そういうなら、今度はお前を相手にしてやる。こい
16日本@名無史さん:2012/01/02(月) 14:06:01.54
伊作のほうが100倍深く広い論拠を繰り出して、69歳名古屋は完敗だったなw
名古屋は「俺様の主観」が最後の砦だったが、こんなものは糞だ。
17本物の天才:2012/01/02(月) 14:32:37.54
>>16
ありがとさん。総合力の差だよ。
雲助山師にも同じことがいえるが、断片的な視点と断片知識では、
しょせん俺の議論相手にはならん。

というわけで。
我と思わん者があれば俺の掲示板にこい。
俺は脇を甘くしているから、バカには穴があるようにみえる。
穴でもないところを俺の穴とみてつつくはずが、
てめえの穴をほじられて蹴散らされるのを覚悟してな。
18日本@名無史さん:2012/01/02(月) 14:50:26.12
69歳名古屋が「数学の証明」を持ち出したが、これの言いぐさが
学問がまったく分かっていない「馬鹿の証明」となっちゃったな。

古代史は数学や現代史と違い、今から確認できないことがほとんどだ。
だから、部分的にも全体的にも矛盾が少なく蓋然性が高い説が、より
真実に近いと判断するしかないのだ。

そのなかでも、魏が邪教としている、敵対国様式の呉式鏡は作らないとか、
鏡は夏至の日に火入れして作るとか、天子の喪中に祝賀の使者を出さない
とか、非常に説得力のある論拠は、非常に説得力のある論拠だったと思う。
19日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:08:30.06
数学的証明ができるところは、ある意味、もう終わってる問題であって、
残ってるところは数学的証明ができない部分である。

必要条件、あるいは十分条件が、厳密な意味で適用できるところは
非常に少ない。

数学的証明ができるとするためには、論拠の条件が成立していることを
まず示さなければならない。
20日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:13:57.48
>伊作のほうが100倍深く広い論拠を繰り出して、

ホケノ山(225〜250年)の年代をひっくり返せなかった。
ホケノ山は大和が東海から瀬戸内までよの付き合いを認めている。
この直後に北部九州に庄内式土器が持ち込まれることも確かである。
卑弥呼邪馬臺國とこの北部九州はつながらない。

21本物の天才:2012/01/02(月) 15:16:40.72
>>19
議論以前に人品の問題が大きい。

国立の学生などと詐称したかと思うと、
その勢いで参加者の学歴を低く見積もってバカにしたり、
担当教授がどうのもプロの学者がどうのと、
ありもしないバックボーンをほざいてはったりカマしたり。
ほとんどウソばかり並べている。
(あの程度で入学できる国立大学などない。国立をバカにしてる)。

俺が無視してりゃ、論破しただの・もう出てこないだの。
カラ勝利発言を並べたり、人格誹謗を並べる。
かと思うと、聞かれてもいない自分の趣味や日常などを
ペラペラと並べてみたり。実に軽い野郎だ。

こいつが、畿内説のひも付き末端人材だったとしても、
たぶん、周囲からも小バカにされる三助タイプだろうさ。
22唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 15:18:00.99
北史 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

倭奴國乱(吉野ヶ里の衰退)→3世紀初頭の前原王墓→歴年無主→女王卑弥呼共立。

3世紀初めの前原王墓に暦年無主をつなぐと、卑弥呼の共立は、239年朝貢の
直前となる。239年の朝貢は、倭奴國王位継承の卑弥呼を頂点とする体制である。
倭奴國王位継承を認めるのが共立である。この共立にどの程度が参加したか?
卑弥呼の朝貢団は、官伊支馬までの勢力範囲ととらえ、最遠の場所、陸行10日、海行30日。
倭奴國から畿内大和までの勢力が卑弥呼を認める。

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。

肥前・肥後に邪馬臺國、卑弥呼を設定しても、庄内期に海上ルートを失う。
23本物の天才:2012/01/02(月) 15:23:12.76
>>20
>ホケノ山(225〜250年)の年代をひっくり返せなかった。
俺は畿内説考古学のウソをまったく信じない人だから。
ひっくり返ってるもナニも、225〜250年がウソだといっている。
そもそも、畿内説考古学と年代議論をするなどナンセンスだ。

纏向の大型建造物も、ジワジワと年代操作がバレはじめたし、
箸墓古墳の築造年代も、今ではほとんどの人が懐疑している。
世人は利口なのだ。趨勢と真実を見極める目をもっている。
お前たちはいつまでも、バカづらさげて
畿内説考古学のウソを孫引き喧伝してろ。
24日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:30:44.49
>>18
>そのなかでも、魏が邪教としている、敵対国様式の呉式鏡は作らないとか

その部分は根拠がない与太だな。

要するに三国時代の呉と春秋戦国の呉、あるいは地域としての呉を混同しているだけ。

そもそも神獣鏡は2世紀には出現している。
何も三国時代の呉で作られた鏡でもない。

じゃあ魏が荊州あたりを領有した時そこに神獣鏡があったら叩き割りにまわったのか?
呉地から神獣鏡が入って来るのを拒んだのか?

魏の中央に近い場所で神獣鏡が出ていないと言う事実があったとしても
果たして魏が神獣鏡を排斥したかどうかは分からない。

「呉」と言う文字に引っ掛けただけの単なる推測の域を出ない話。

25唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 16:06:24.94
> 纏向の大型建造物も、ジワジワと年代操作がバレはじめたし、

崇神(188〜216年) 崇神5,6年 災害 凶病(えやみ、飢饉)餓死 逃散
後漢 193年 6月寒風冬の如し。高句麗 冷夏凶作
新羅 192年 4月大雪、 193年倭人大餓
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡など各地の居住遺跡の放棄

崇神11年 異俗多帰  考古学:2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。

崇神世 任那建国  新羅 209年 伽耶に援軍
三國遺事卷二 降及仇衝朝末(541年),三百三十載之中←541年で建国330年

垂仁(217〜239年) 任那より鉄の流入、埴輪の導入
239年 田道間守の派遣
倭人伝 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
考古学 3世紀初期の大型建物=珠城山、その跡に土盛りと整地をし中期の建物=日代宮。
考古学 ホケノ山 穴あき壺=埴輪、鉄の副葬。半島式墳墓 西瀬戸内の壺。
田道間守の葬儀を許可。
景行(240〜261年)
晋書 正始元年 東倭重譚納具。景初3年、正始元年銘。
景行12年より 九州へ派兵 倭人伝 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
246年頃 黄旛下賜の決定。
景行20年 五百野姫=壹與即位 ホツマ 五百野姫を軍隊付きで派遣。
255年 景行27年 日本武尊を九州へ派遣16才。
256年 景行40年 日本武尊を関東へ派遣 倭国統一(大倭成立)。
倭人伝 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

今の纒向は、文献で説明することが出来る。
庄内式土器を主張する考古学が間違っていると出来る文献の読み方が存在しなければならないが
間違った数字では、書記があてにならないという結論のみである。
26日本@名無史さん:2012/01/02(月) 16:59:37.62
>>24

ぜんぜん、本論を読んでないでしょ?
魏の天子が国家の公式鏡として、そんな鏡は絶対作らないという話。
残念だったね。
27日本@名無史さん:2012/01/02(月) 17:08:31.63
>>26
>魏の天子が国家の公式鏡として、そんな鏡は絶対作らないという話。

根拠なし。

魏が神獣鏡の類を排斥したと言う文献なりの根拠を出してみろ。

いくらストーリーをそれっぽ語ってもそれは単なる推測でしかない。

2827:2012/01/02(月) 17:15:23.16
>魏の天子が国家の公式鏡として、そんな鏡は絶対作らないという話。

…まあこれも 森村伊作 なるゴミカスが言いそうなことだなw

自分の脳内で古代の「天子」や「王」「国家像」を組み立てる。
まあそこまでは良い。

で、その脳内モデルが根拠になってしまう。

その天子像なり国家像が如何に肉付けされた物であろうと
それが事実であると言う根拠が無ければ単なる作り話・フィクションに過ぎない。
29本物の天才:2012/01/02(月) 17:22:23.23
>>24 >>27 >>28
中国における考古学的事実を交えて、
王朝の威厳と格式とメンツと、信仰文化・精神文化・文様文化、
この面から説明してやる。俺の掲示板にこい。
大勢がみていて誰かが助けに入る場所でしか喧嘩のできない腰抜けやろう。

てめえはよいよいの散漫脳で与太文ばかり書いていながら、
他人のまちもな意見も「脳内・脳内」で逃げやがる。
てめえこそまさに「能無い」だ。この野郎。
30太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 17:24:04.05
古代史の真の年代を測るべき古代人が未来に残してくれていた天下の宝器。
大中臣からの偽編年壊滅の下命の文が大祓祝詞の 天津金木 の条である。
〜ニセ年々壊滅の宝器こそ、天津神算木(天津金木)なり。
天津金木とは半径r=3の円(三輪)の 球化の体積=表面積 の数式をいう。
この球の数式に秘められた年代こそが古代史の真の年代教示の数値である。
天津神算木(表面積では)は

 4πr**2=113.0973355292・・・ (**はべき)

右辺には先頭数列(主値)にて右がある。 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
景行に関しては以下の通り〜2番目数に死値にて崇神世お助け年代とする。

 A.D.130年 景行天皇 没年

大祓祝詞に曰く  大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 2≠113.097335

三輪の数3に因み不等式の右辺を三分数列とすれば 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0を除去:西暦0年を消すため)
335←崇神即位の実年代への誘引ジョーカー数 335年

ここから真の崇神即位年代への誘引は   335−97=238年   だが
西暦0年を除去するので1年分マイナスとなり


 238年−1年=237年=崇神天皇即位元年=景初元年


たる真の年代を得る。これに違える編年はまったくのデタラメ。
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 17:27:27.37
伊支馬=イクメ=垂仁←虚像の「猿の惑星 創世記」さながらの噴飯論ww

×→五百野姫=壹與即位

  ホツマ 誤訳のため五百野姫を軍隊付きで派遣せず。
32本物の天才:2012/01/02(月) 17:28:54.05
こんな稚拙な言い分を、反論だとでも思ってるのか。
こういう投稿をするにきちっととした歴史観と時代感覚と
きちっとした思考基準があってほざいてるのか?
ただ目についたことに対して思いついたことを散文的に書いてるだけだろ。
畿内説の悪徳論法丸出し野郎。
↓↓↓↓↓
>その部分は根拠がない与太だな。
要するに三国時代の呉と春秋戦国の呉、あるいは地域としての呉を混同しているだけ。
そもそも神獣鏡は2世紀には出現している。 何も三国時代の呉で作られた鏡でもない。
じゃあ魏が荊州あたりを領有した時そこに神獣鏡があったら叩き割りにまわったのか?
呉地から神獣鏡が入って来るのを拒んだのか?
魏の中央に近い場所で神獣鏡が出ていないと言う事実があったとしても
果たして魏が神獣鏡を排斥したかどうかは分からない。
「呉」と言う文字に引っ掛けただけの単なる推測の域を出ない話。

見せられるほうが恥ずかしくなるぜ。相手をするのはもっと恥ずかしい。
33唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 17:29:09.77
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/article/JITSUMORI2009.pdf
ネット斜縁神獣鏡の変遷と系譜
34日本@名無史さん:2012/01/02(月) 17:29:30.10
>>30
マジで言ってんの?
冗談だよね
35太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 17:37:36.70
>>34
崇神即位元年は景初元年ですよ。

これで崇神6年の鏡作神社の鏡改良鋳造文献と近接整合します。
おまけに崇神6年にはアマテラスの象徴たる日像鏡を祭祀している。

二重に鏡の記事が崇神6年に位置するということは、239年鏡の239年が
崇神6年近隣に来るということです。

さらにこれから年代下降を観れば、崇神没年=258年(記の干支 戊寅)
に対応してくるわけで、崇神崩御は258年説がほぼ真だということなのです。
36本物の天才:2012/01/02(月) 17:50:47.33
畿内説は畿内説に不利な発言する奴に対して、必ず「あらぬ誹謗宣伝」という手に頼る。
九州説者側から一方的に人格攻撃・誹謗中傷をしかけた例は皆無に近い。
(俺はとくに激しい誹謗と攻撃を受けるが、
「言われっ放しにはしない人」だから、奴らの上を行く反撃をする)。

その誹謗宣伝の度がすぎるんで、堪忍袋の緒が切れた。
82でもそうだったが、畿内説者で紳士的に正面から議論しようという者は皆無だ。
かならず人格攻撃や誹謗中傷に走る。なぜだ?  

畿内説考古学のウソを、発信者たる専門家が抗弁できず沈黙するしかないから、
畿内説の末端人材がこういう所を「非公式の場的」に利用して、
怒濤のような畿内説批判に対して賢明にフォローしている。

ところがしょせんは末端人材だ。
もともと頭が悪いから、
抵抗手段を見いだせないガキが「バカ」と叫ぶしか手がないのと同じで
イージーな誹謗と攻撃に走る。

こうした事実が、畿内説の「おかれた立場」と「実情」を物語っているのだ。
37唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 17:50:49.09
>>34
マジで言ってんの!!
冗談ならいいんだが。
38本物の天才:2012/01/02(月) 17:57:20.21
誹謗攻撃と誹謗宣伝は畿内説の18番。
だがそれは、畿内説の恥。
畿内説の苦しさを如実に物語る現象である。
39日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:12:41.97
>>29 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 
>この面から説明してやる。俺の掲示板にこい。

ここで起きた話はここで片付けろゴミw

いざとなったら削除できる。
削除しなくても一番自分にとってダメージの少ない場所でやりたいのかもしれないがwお前に指図される覚えは無いw

呉鏡というのはあくまで「呉地」で作られた鏡であって三国時代の呉で作られた鏡ではない。
現実問題じゃあ中国で永康元年銘や中平四年銘鏡と言った2世紀後半の鏡は呉鏡に数えられないのか?

確かに魏が道教色の濃い神獣鏡を嫌ったと言うストーリーも成り立つだろうが
逆に鏡のデザインまで神経を尖らせたわけじゃないと言う推測も成り立つ。
現時点ではどっちも単なる推測。

魏の官製工房で神獣鏡が”絶対”に作られないなんて根拠が出せたら
それで100%三角縁神獣鏡の製作地論争にケリがつく

まあそこまで自惚れて大口叩ける物だと感心するが(この自惚れ具合は無限尿と良い勝負だw)
「信仰文化・精神文化・文様文化」とかいつもの抽象論はいいから具体的な根拠をさっさと出してみろゴミカス。

40卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 18:41:01.20
伊作氏と名古屋君の論争を読ませてもらった。議論は五分五分。どちらとも判定しがたい。
それはさておき私が気になるのは次の二点。

1 朝貢の目的は何か。
2 倭の意志が帯方郡に来たのが6月。金印を与えられたのが12月。なぜそんなに長くかかったのか。

いずれにしても魏に朝貢したのは朝鮮の倭であって、日本列島の倭ではないだろう。
41日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:52:48.99
どこが五分五分だよw
誰が見ても69歳名古屋の100%完敗だろw
42日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:53:07.82
意志? 遣使のことか? 何と読んでいるんだ?
43日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:53:26.53
>>40 チョーセン

でだな仮に「朝貢したのが半島の倭」と言う説で”も”成り立つとして

「朝貢したのが列島の倭」とした場合決定的に矛盾するところと言うか
「半島の倭」で”しか”成り立たないってものがあるのかい?


44日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:56:09.95
>卑弥呼は朝鮮にいた

じゃあ、魏の天子は日本列島にいたかもしれないな。
お前の説だと、なんでもアリだ。
45日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:13:25.96
伊作 VS 19歳 の討論みたが、公平な目で見て議論は五分五分だが
二人ともなんつうくだらないことで争ってるんだ。景初2年でも3年でも
どっちでもたいして関係ないだろ。
46日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:19:55.06
どこが公平だよ。
どうみても、浅くて狭い根拠しか言えなかった名古屋の負けだろ。
47日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:22:11.28
主張自体は、どんなにデタラメでもいくらでもできるが
それをもって、相手を否定するのは難しい。

その点では、互いに相手を否定する力はない。
「数学的論理」で相手を否定するのは、非常に条件が限られるのである。

しかし、伊作氏がある程度ストーリーを構築して、
時代を背景として語っているのに対し、名古屋氏は、背景という
裏付けを持たない主張でしかない。

この点では伊作氏がリードしているといえるだろう。
48日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:25:07.35
個別問題の妥当性と、それを積み重ねた総合的整合性で、伊作の圧勝だ。
49日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:37:05.15
伊作と19歳の議論は>>12の掲示板での争いか?
読んでみたけど、こりゃほんとに醜い喧嘩だな(爆笑
伊作のほうが知識と経験で明らかに19歳を凌駕してるが、
伊作の完勝とまではいかないな。19歳の主張にも一理あるし
完全に論破まではしてない。ボクシングの判定で言えば、
ジャッジ1人は伊作の勝ちで、残り二人はドローってとこが
妥当なジャッジかな。しかし伊作も去年まで高校生だったガキ相手に
むきになって大人げない。年齢差を考慮すれば圧勝しないといけないのに
このざまか。


50太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 19:46:37.84
19歳はウソだろうな?
実際はもっと上だろう。ませすぎている。
19歳にしては学がありすぎるし、なかなか小悪党的頭脳書きこみが
少年には思えぬほど案外多い。だから実際はだいぶ成人の域だな。
51日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:02:38.82

い-635
ちなみに、平成18年度の民主党の収支報告書だが、
 電通が  690,150,988円(約6億9千万円)
 博報堂が 19,425,964円 (約2千万円)
 読売グループ系列(読売広告、読売メディアセンター)が 72,058,917円(約7千万円)なw
 フライシュマンヒラードジャパンが、1974000円かw
フライシュマンの本社はアメリカにあって、アメリカ政界や企業のPRも担当してるユダヤ系の会社だなw
ここが「マニュフェスト」っていう横文字を考えたんだなw

そういえば、今東電と電力総連がフライシュマンを雇ってるらしいじゃないww
札束で学者ひっぱたいてテレビででたらめ言わせても年寄なんかはまだまだテレビのいうことを信じるからなw
52日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:03:15.92
伊作が勝ってる論点もあれば、19歳が勝ってる論点もある。
こりゃどっちもどっちだな。伊作も熊本説に縛られすぎてるので
その呪縛から解き放たれればまた違ってくるだろうが馬鹿なやつだ。
53日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:13:32.25
伊作が熊本説と東遷説を考え直せば、ずいぶん違うと思う。
19歳は問題外だからどうでもいい。
54日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:15:32.60
>>53
>熊本説と東遷説

そこは 森村伊作 のアイデンティティーってやつに関わるんとちゃう?wwwwwwww 
55日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:21:21.23
>>54
彼はまだ、熊本説と東遷説をとことん考え抜いていないと思う。
だからあまり論じていない。
56日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:25:55.52
>>55
「考え抜いていない」と言うかそこが出発点だろうにwwww
こいつの言うことは全てその オレサマ脳内ストーリー に集約する。
57日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:28:11.68
>>56

いや、東遷説や熊本説なんか、さっさと捨てられるだろ。
58日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:28:49.13
>>57
じゃあお前が説得すれwwww
59唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 20:29:26.52
19歳は、現在の考古学を肯定しているが、纒向の説明もできていない。
伊作氏は現在の考古学を否定しているが、なぜ間違っているか?正しい時代は何時か?
を提示できていない。
60日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:31:16.64
伊作は19歳と勝負して勝った勝ったと大喜びか、かわいいもんだな。
61日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:32:05.53
>>59
>伊作氏は現在の考古学を否定しているが、なぜ間違っているか?

理由は簡単。

あの「畿内説」だからさwwwwww


62日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:32:49.70
>>58

まあ、これから議論が出るだろ。
そのまえに、トンデモ東北説だの、詐欺畿内説だのを撲滅しなきゃ。
63本物の天才:2012/01/02(月) 20:38:39.29
>>52
>>53
>>54
>>55
全員不正解。
今回のことは邪馬台国比定地とは無関係。その程度のことも見えないか。
邪馬台国の場所などよりも、
歴史の真相を見極めようという集中力に満ちた姿勢こそ見いだせ。
まいどまいど・軽薄で表層的な見方しかできんようではお前らのお里も知れたものよ。
64日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:39:07.82
伊作は19歳と互角の討論を展開か。ワラタw
65日本@名無史さん:2012/01/02(月) 20:40:59.07
>>63 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 
>歴史の真相

いやお前の妄想ストーリーはもう結構だから…うんざりだ。


66本物の天才:2012/01/02(月) 21:02:19.64
●畿内説末端人材の誹謗宣伝糾弾

畿内説は畿内説に不利な発言する奴に対して、必ず「あらぬ誹謗宣伝」という手に頼る。
九州説者側から一方的に人格攻撃・誹謗中傷をしかけた例は皆無に近い。
(俺はとくに激しい誹謗と攻撃を受けるが、
「言われっ放しにはしない人」だから、奴らの上を行く反撃をする)。
82でもそうだったが、畿内説者で紳士的に正面から議論しようという者は皆無だ。
かならず人格攻撃や誹謗中傷に走る。なぜだ?  

畿内説考古学のウソを、発信者たる専門家が抗弁できず沈黙するしかないから、
畿内説の末端人材がこういう所を「非公式の場的」に利用して、
怒濤のような畿内説批判に対して賢明にフォローしている。
ところがしょせんは末端人材だ。 もともと頭が悪いから、
抵抗手段を見いだせないガキが「バカ」と叫ぶしか手がないのと同じで
イージーな誹謗と攻撃に走る。

こうした事実が、畿内説の「おかれた立場」と「実情」を物語っている。
やればやるだけ恥の上塗りというものだ。
67日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:04:43.21
まあ、畿内説は所詮、
「今さら引っ込みの付かない馬鹿学者がやっている壮大な詐欺」だからな。
68唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 21:08:57.38
>>61 >あの「畿内説」だからさwwwwww
であるならば、考古学の数字を書き換える必要がある、できるか?

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
69本物の天才:2012/01/02(月) 21:10:18.16
>>65
>「見栄と嘘と知ったかぶりの塊」
>「前の妄想ストーリーは」
見る目のある者は、これがそもそも誹謗宣伝文句だということを知ってる。
俺の論考をちゃんと見た者ならば、不当な誹謗だと誰しも思う。
それを平気でやるところが、事実無根の誹謗宣伝たるところだな。

対面対話にも応じないと逃げる。1対1の掲示板対話からも逃げる。
そうして、匿名顔無しの板だけで虚勢を張ってウソをわめき散らす。
見下げたもんだぜ畿内説。
70日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:11:50.60
畿内説が破綻した昨今、詐欺として生きるしかないわけですから、
畿内説ならなんでもやります。
71日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:12:45.63
>怒濤のような畿内説批判に対して賢明にフォローしている。

これはいささかまずい誤変換だな。
72日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:13:23.60
詐欺に対する思いやりだろうw
73日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:36:40.26
●畿内説末端人材の誹謗宣伝糾弾

畿内説は畿内説に不利な発言する奴に対して、必ず「あらぬ誹謗宣伝」という手に頼る。
九州説者側から一方的に人格攻撃・誹謗中傷をしかけた例は皆無に近い。
(俺はとくに激しい誹謗と攻撃を受けるが、
「言われっ放しにはしない人」だから、奴らの上を行く反撃をする)。
82でもそうだったが、畿内説者で紳士的に正面から議論しようという者は皆無だ。
かならず人格攻撃や誹謗中傷に走る。なぜだ?  

畿内説考古学のウソを、発信者たる専門家が抗弁できず沈黙するしかないから、
畿内説の末端人材がこういう所を「非公式の場的」に利用して、
怒濤のような畿内説批判に対して賢明にフォローしている。
ところがしょせんは末端人材だ。 もともと頭が悪いから、
抵抗手段を見いだせないガキが「バカ」と叫ぶしか手がないのと同じで
イージーな誹謗と攻撃に走る。

こうした事実が、畿内説の「おかれた立場」と「実情」を物語っている。
やればやるだけ恥の上塗りというものだ。
74唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 21:40:30.86
旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

七支刀=369年では、半島占拠は否定される。つまり書記の主張と齟齬を生じている。
任那建国とできるのは、210年であり、この数字で大型建物からホケノ山につながる。
旧編年(崇神時代=卑弥呼)を支持しても、魏が半島を管理する時代に任那建国は存在しない。
75卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 21:48:10.63
>>43>>44その他すべての論者へ

君らは夢とロマンに浸っているだけである。詩人や作家ならそれでもいいが、歴史学は大人の学問、もっと現実的に考えなければいけない。
ごく常識的に考えて、日本からわざわざ魏に朝貢する必要はないのだ。
一体何のために朝貢しなければいけないのだ、別に日本が魏の属国でもないのに。
親善のためなら、ごくたまに朝貢すればいい。ところが卑弥呼は何回も魏と通行している。
そのうちの一回は軍事支援要請だ。日本からなんでいちいち魏にまで支援要請しなければいけないのか。
76唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:01:10.90
>一体何のために朝貢しなければいけないのだ、

景初2年に魏使(斥候)が倭奴國に朝貢を求めたからである。
九州でも大和でも進んだ中国文化を受け入れるのが、その王朝の立場を強くする。
77本物の天才:2012/01/02(月) 22:04:43.75
>>75
認識不足による独善はそこそこにしとけ。

朝貢外交とは、先進の中原王朝との唯一のトップ外交手段であり、
唯一の公式外交手段だ。
その目的としては、交流・通商はもとより、安全保障・軍事支援などなど、
国によって色々ある。

>朝貢しなければいけないのだ、
ではない。
先進の中原と交流することを望んで朝貢しのが圧倒的大多数だ。
みたところ、話にもならんことを執拗に連呼していいるが、
もっと、時代というものを勉強し直したらどうだ。
78本物の天才:2012/01/02(月) 22:06:43.28
>>76
>景初2年に魏使(斥候)が倭奴國に朝貢を求めたからである。
お前も、いい加減な我流害論を吹きまくるのをいい加減にしとけ。
79卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 22:10:55.95
君らの現実認識は完全におかしい。
君らは日本は中国の力を借りなければ自国の乱も収拾できないようなヘタレ国家だと思っているのか。

唐松山氏も伊作氏も中国を過大評価している。それは一種の自虐史観というものである。
80太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 22:16:44.98
崇神≠2世紀末

 等号では、鏡作の活動した崇神6年の 改鋳 倭笠縫の鏡祭祀 の出来事と
239年鏡銘文から著しく離脱することから成立せず。
81唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:22:03.79
>中国を過大評価している。

公孫氏の楽浪鏡は畿内を中心に出土するが、伽耶では出土しない。
魏が倭を鏡好きと表記する。
伽耶は鏡好きではない。

楽浪鏡以降、斜縁神獣鏡、△鏡と間断なく鏡は流入する。流入は3世紀中であり
4世紀の情勢では、流入が遮断する。
82本物の天才:2012/01/02(月) 22:23:06.61
>>79
お前さんの場合は、課題評価も過小評価もない。
歴史が分かっていないし、とんでもない飛躍論法だ。
それがウソだと思うなら、
俺の板で細かく説明してやるから来るといい。

>君らは日本は中国の力を借りなければ
>自国の乱も収拾できないようなヘタレ国家だと思っているのか。
何をバカげたことを遠交近攻撃・合従連衡・軍事同盟。助け合いなど、
武力支配時代における生き残り作戦としては日常茶飯事だよ。常識だろ。
現代でも常識だ。
それをやったから「へたれ」とはまた飛躍だな。
83本物の天才:2012/01/02(月) 22:25:36.17
>>79の投稿が >>77を読んだ上でのものならば、
まともに話が通じない論理に帰結するが・どうなんだい?
84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:27:55.05
>>78

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。...
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、...
詔書により、朝貢が成る。だから魏は、その時点で、「制詔親魏倭王卑彌呼。とつながるのである。
85卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 22:29:43.03
伊作氏よ、本州や九州が中国にまで軍事支援要請をするはずがないというのが私の現実感覚だ。
学者にも素人にもこの当たり前の感覚がない。

あなたは熊本説だそうだが、熊本からわざわざ中国まで支援要請に行くはずはないのだ。

>遠交近攻撃・合従連衡・軍事同盟。助け合いなど
こんなことは中国の話だ。中国と日本はちがう。記紀にこんな話はない。
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 22:29:56.10
考古学の数字は十年五十年後と、毎度の如く書き換えられることがある。
87日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:35:06.22
>>85

お前は>>75で、自分自身に対して諭しているようにしか見えない。
88唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:47:11.77
>考古学の数字は十年五十年後と、毎度の如く書き換えられることがある。

しかし、文献は書き換えられない。
であるならば、文献と考古学が整合する数字を正しいと出来る。

210年 任那建国 崇神世
3世紀前半の大型建物(古韓尺)珠城宮
3世紀半ばころホケノ山、埴輪(庄内式の穴あき壺)=垂仁末=伊支馬=イクメ=垂仁
3世紀半ばの大型建物 日代宮
89本物の天才:2012/01/02(月) 22:47:22.28
>>85
>本州や九州が中国にまで軍事支援要請をするはずがない
なぜそういえる。「はずがない」とお前さんの観念だろ。
だが現実に、倭国から出向いた要件はすべて軍事支援要請だし、
魏の対倭国政策は一貫して軍事支援だよ。

>熊本からわざわざ中国まで支援要請に行くはずはないのだ。
当時は現代よりも国際的だったのよ。
しかも、「頼るは拒まず服わずは討伐」が天子の王道だったのよ。
だから王者の歴史書らしく、「やってあげた」と恩着せがましく書いてない。
そこを読むのが解読だよ。

>こんなことは中国の話だ。中国と日本はちがう。
当時は現代よりも国際的だったのよ。

>記紀にこんな話はない。
そりゃそうだろ。
臣とへりくだって朝貢外交をしかれていた漢魏晋宋代の歴史を消してしまって、
「日出る処の天子が」といっちょ前の口上を垂れる時代から書いてる書き物だ。
消してしまった時代に関する自称等創作でしかない。

俺にその手の記紀の話はよしてくれ。
歴史記録の官吏たる「史官」が、史実を記録するために命を賭けた歴史をもつ
中国の歴史書が、そのよき伝統を保っていた最後の歴史書たる三国志が伝える
史実に基づいて論考と議論をしているところなんだよ。
90本物の天才:2012/01/02(月) 22:49:26.23
臣とへりくだって朝貢外交をしかれていた漢魏晋宋代の歴史を消してしまって、
「日出る処の天子が」といっちょ前の口上を垂れる時代から書いてる書き物だ。
消してしまった時代に関する自称等創作でしかない。
↓↓↓↓
臣とへりくだって朝貢外交をしかけていた漢魏晋宋代の歴史を消してしまって、
「日出る処の天子が」といっちょ前の口上を垂れる時代から書いてる書き物だ。
消してしまった時代に関する事象など創作でしかない。
91太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 22:53:27.34
半島文献は120年等の横ゆれがある。
そんなものはradioさんにまかせればいいことよ。

今後半島史の研究が正規に半島で出来うるか、あるいはもっと正確なかつ
詳細な文献などが出てくれば、現今の考古、半島書等アテにする必要はない。
そうなれば任那なんぞはいい年代に自然と落ち着く。

今の半島文献の横揺れと考古の毎回の書き換えでござんすを相手に持ち物
としたところで、それでの主張などいい加減なものだと認識できる。
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 22:56:07.30
=伊支馬=イクメ=垂仁 ←古今未曾有の滑稽噴飯節でデタラメpupupu・・・
93唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:58:51.84
>詳細な文献などが出てくれば、現今の考古、半島書等アテにする必要はない。

3世紀半ばころホケノ山、埴輪(庄内式の穴あき壺)=垂仁末=伊支馬=イクメ=垂仁
魏志だな。
94日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:58:52.39
もう、卑弥呼は朝鮮在住なんて馬鹿話は、去年までにしておけ!>朝鮮馬鹿
95本物の天才:2012/01/02(月) 23:01:34.95
>>94
俺が分かりやすく説き伏せようとしているところだ。
黙ってみてろ、一行横チャリ専門家。
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 23:01:37.41
=伊支馬=イクメ=垂仁 ←古今未曾有の滑稽噴飯節で猿の惑星pupupu・・・


97太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 23:03:21.48
伊作さん
八つ当たりないように〜〜見知らぬ敵が増えちゃう。
98卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 23:06:05.00
伊作氏も記紀を信用していないのが欠点だな。戦後史学に毒されている。邪馬台国スレに参加しているほとんど全員がそうだ。

当時は現代より国際的だったというが、それにしては陳寿は日本の地理を全然把握していない。

日本の戦国時代、九州の大名が中国に軍事支援要請しようとしたこともない。
中国に軍事支援要請をしようという発想そのものがない。
99日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:10:21.75
>>98
記紀は信用する対象ではなくて、
原典批判でしっかり腑分けして扱うべき対象だ。
馬鹿を晒すな。
100日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:32:46.23
>陳寿は日本の地理を全然把握していない。
陳寿は十分に把握しているよ。あなたが魏志の読み方をまちがえているだけだ。

101唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 23:33:13.05
>>98

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黃幢、拜假難升米、爲檄告喻之。
當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喻壹與。

魏軍の派遣はともかく、魏が倭国平定に関与した事実はある。
韓の反乱が平定された後である。だから、半島に倭国は存在しない。
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 23:35:14.43
文献名が無い。空んぽ〜唐んぽ??

「空」という文献なのか〜? オマエは空年物ばかりww
103太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/02(月) 23:37:18.02
「空年佛」で南無〜〜〜ww
104日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:25:05.68
>>97
>八つ当たりないように〜
ためになる意見をいうでもなく、一行ヤジを飛ばす奴は嫌いなのだ。
奴が俺の支持者だったとしても「朝鮮馬鹿」はないだろう。

>〜見知らぬ敵が増えちゃう。
どのみち俺の周囲は敵ばかり。
俺の正論は既存の邪馬台国論すべてに都合がわるいからね。
とくに、小細工解釈や論拠ねつ造による言説を垂れる奴は、
同じ九州説でも目の敵にする。もとより覚悟のことさ。
105本物の天才:2012/01/03(火) 00:31:10.38
>>104は俺だ。
106日本@名無史さん:2012/01/03(火) 01:36:34.58
わざわざ言わんでも判るわw
107本物の天才:2012/01/03(火) 01:45:55.59
>>106
そういうかとかと思うと、
俺でもない名無しに対して「伊作の自演」と誹謗する野郎もいるし、
俺は名無しでは投稿しないと宣言してるしなー。
108夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 07:17:57.64
時間がなくて書き込めないが伊作のアホには笑ってしまうよ。
お前にはあれが完勝だの駆逐になるのか。
しかし誰かに言われてたが、ありゃ批判を分散させるだけのものだな。
あそこに2ちゃんに自分のサイト。2ちゃんにはここ以外にもスレがある。
暇もて余してるオタクなんだろうが、これじゃ突っ込む方も大変だわ。
誹謗中傷が酷いからなどというのは誤魔化しで能力がないから一ヶ所に絞れないだけだ。
お前の誹謗中傷も相当なものだが、自覚なしなのは馬鹿だからだ ワラ
109夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 07:21:49.88
色々話さなきゃならないことがたまってるが、一個一個じゃやりきれないかもしらん。
俺は暇人じゃねえからよ。
突っ込まれてるとこは網羅する形でまとめて話させてもらう。
110本物の天才:2012/01/03(火) 08:01:41.69
>>108
分裂型散漫思考畿内説害宣末端人材を潰したら、
「口先勝負」のお前の相手をしてやる。
せいぜい不勉強・無知をさらさんよう、今のうちに勉強しとけ。
111本物の天才:2012/01/03(火) 08:05:15.57
>>108
>誹謗中傷が酷いからなどというのは誤魔化しで
誹謗中傷の度がすぎてるので堪忍袋の緒が切れたといっている。

>能力がないから一ヶ所に絞れないだけだ。
お前みたいな雲助や横ちゃり銀蝿が来ない所が必要なのだ。
1対1の無料鑑賞劇場よ。人品が知れる揶揄など無用だぜ。
112日本@名無史さん:2012/01/03(火) 08:09:03.79
名無しでも伊作の書き込みは癖があるからすぐにわかる。
113本物の天才:2012/01/03(火) 08:09:21.21
>>108
>お前の誹謗中傷も相当なものだが、
「誹謗中傷」の意味を知ってるのか?
誹謗中傷輩に対する反撃を誹謗中傷とはいわんのだ。
それを「誹謗中傷」というお前の言こそ誹謗中傷だ。
この理屈、さすがの口先勝負の山師にもわかるよな。
114夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 08:10:32.89
まず今やってるのは九州説の否定だ。
>>6の馬鹿頭。最初の使者は邪馬台国まで行っていないというのが主張の一つ。
最初の使者、これは間違いなく先遣調査だが邪馬台国が遠隔だから行っていない。
この場合はどこだっていいんだよ。東北でも畿内でも東海でも関東でもな。
邪馬台国はここだと比定を言ってるのではなく、ここでの主張は「九州にはない」だ。

根拠の最初に挙げたのが「至、到」の使い分け。
これに対し複数ソース説が出ていたが、話にならん。
国、行程紹介は何かの報告の転記なのは間違いない。陳寿は日本に来てないからな。
最初の使者の報告書は必ずあるはずだ。それが仮に先遣調査隊でなく正使であってもだ。
それを転記すれば済むものをなぜツギハギしなきゃならないか?
ツギハギしてより詳細な説明になるならわかるが、邪馬台国に近づくほど簡略になる。
魏の倭国軽視は再三言ってきたが、たいした興味がない倭国紹介など簡単に済ませたい。
中華思想からもこれは説明出来る。
陳寿がツギハギする理由もなければ、ツギハギした形跡すらない。
ツギハギしたとしなきゃならないのは「至」は到着する意味があるから
その意味で使った者がいなきゃいけない、というこれも「結論先にありき」の連中だ。
こう主張する根拠は何もない愚論で、こんなものは反論ではない。
あの行程紹介は一連と見る以外になく、その短文の中で全て「至」でもいい中で「到」は二回だけ。
「到」のみが「目的地に到着する」で使われているからでしか説明がつかない。
ここから最初の使者は伊都国までしか行っていないと断じる。
115夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 08:20:24.95
次に挙げたのが観察記述。

伊都国を境に消滅する。使者がその先に行ってないからというシンプルなものが一番自然だ。
ここにも複数ソースを言う奴がいたが、なぜ消滅させなきゃならないか理由がたたない。
最初の使者が邪馬台国まで行っていれば対馬国などのような観察記述が全てにあるはずだ。
それを削除し、わざわざ観察記述なしの別ソースを引用する理由がない。
これも別ソースがなければ不都合な奴らの強弁でしかなく反論にはならない。
観察記述の消滅は、この報告書を書いた最初の使者が伊都国より先は行っていないからだ。
116本物の天才:2012/01/03(火) 08:52:24.47
>>114  
所用に手をつける前に、こいつをちょっと構ってやろう。
>最初の使者、これは間違いなく先遣調査だが邪馬台国が遠隔だから行っていない。
「先遣調査」がきちんとした調査をせず仕事になるか。組織と組織人にことが皆目わかってないな。
お前は完全スルーしているが「お前が怖い社長の命令で外国に先遣調査で出張したとして
距離も方角も工程も日程も適当に報告するか?」。単純明解な理屈だろ。返答しろよ

>根拠の最初に挙げたのが「至、到」の使い分け。
たった一文字のがりゅう解釈で古代史の行方を90度も変えられてはたまらんぜ。山師

>国、行程紹介は何かの報告の転記なのは間違いない。
「何かの」と証拠を特定も提示もできず、憶測したことを「間違いない」と断定するか。
こういうのを支離滅裂というのだ。

>最初の使者の報告書は必ずあるはずだ。それが仮に先遣調査隊でなく正使であってもだ。
だから。最初の報告がデタラメだったら南方という認識なのに東へ向かうのか。ターコ

>邪馬台国に近づくほど簡略になる。
行程記事の最も大切な所だ。別に簡略になってはいない。

>魏の倭国軽視は再三言ってきたが、たいした興味がない倭国紹介など簡単に済ませたい。
これは最悪の「憶測の断定節」だ。事実を知らないから平気でいうのだろうが、
事実とはまったく逆のことを主張している。歴史に詳しい人間はみな失笑するぜ。

>中華思想からもこれは説明出来る。
お前のいう「中華思想」は、美味くない中華料理店のスローガンのことか?

>ここから最初の使者は伊都国までしか行っていないと断じる。
魏の使者たちは普段は伊都国に常駐していた。
だが、詔書と金印を携えた使節は邪馬台国へ行って倭王に会わないと仕事を遂行できない。
お前が口先詭弁で否定しても、どうしようもない歴史の事実だ。
たった一字のやりくり解釈で覆せることではないぞ。我流の異端者。
117本物の天才:2012/01/03(火) 09:11:39.50
>>115
>次に挙げたのが観察記述。 伊都国を境に消滅する。
奴国・不弥国まで同じテンポで戸数・道里を書いている。
国情もいろいろだ。説明要素も色々。
みな同じ文量で書かれるものだという勝手な前提での勝手論だな。

>使者がその先に行ってないからというシンプルなものが一番自然だ。
奴国・不弥国まで同じテンポで戸数・道里を書いている。
里程を知らない倭人に聞いても里程など答えられんぞ。

>なぜ消滅させなきゃならないか理由がたたない。
そもそも行程記事に略載されている内容は観察記述ではない。
伊都国とて、その国の特徴や経緯に簡単に触れているだけだ。
「観察記述の消滅」などとは、事実歪曲のねつ造論法だ。

>最初の使者が邪馬台国まで行っていれば対馬国などのような観察記述が全てにあるはずだ。
倭地全体の観察記録は「倭地風土記」ともいうべき部分にまとめてあるだろ。
まとまった文章を書いたことがない奴に、「それが文章構成だ」といっても分からんだろうな。

> 観察記述の消滅は、この報告書を書いた最初の使者が伊都国より先は行っていないからだ。
じゃ、邪馬台国のことを詳しく書いたのは誰なんだ?
卑弥呼が女王になる以前のこと、卑弥呼が女王になったあとのこと、
使者が訪問した当時の邪馬台国の様子。これらも倭人からの聞き取り記録で逃げるのか?

俺はお前の投稿をいちいち細かく読んではいないが、
奇妙なほど・執拗に「最初の使者」「先遣調査」にこだわるなー。
ま・いずれ理由も分かるだろう。
11819歳某国立大生:2012/01/03(火) 09:19:57.65
昨日、元大学講師で学会員で現博物館勤務のプロの古代史研究者に
伊作爺の本とこの掲示板でのやりとりをメールで送りジャッジを仰いだが、
その答えがきたので伝える。

「非常に面白かった。歴史学はどれだけ史料の中から事実を抽出するかにかかっています。そのため、
史料批判という手続きが必要となってくるんです。
 景初3年と書いている史料をすべて集め、
景初2年と書いているものとの比較検討も重要な点になってくると思います。
これが研究で、おそらく何十年とかかる作業になるかもしれませんね。 」

「先生、伊作氏の説についての信憑性についてはどうお考えになります?」

「、『三国志』自体は編纂物です。原史料がそのまま『三国志』の
文章に入っているとはなかなか難しいので、
一つずつ分析する必要があります。
私自身の考えでは司馬懿による帯方郡解放後と言うことで、
景初3年が良いのではないかと思っているところです。
戦時中に遣使したとは考えにくいです。」

「では伊作氏の景初2年説の証明は誤りでいいですか?」

「これだけで戦時中に遣使したと論証したことにはならないでしょう。ただ私は専門家なので軽々しく景初3年が正しいと断定はできません。
 あとは○○君、君自身が史料をよく読み判断してください。
がんばってくださいね。 」

「わかりました。どうもありがとうございました。」

ということでプロの専門家も伊作爺の景初2年の証明を読んでも
景初3年支持は変わらず、伊作爺の負けが確定しましたw
119夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 09:22:50.44
まだ途中だっつーのに馬鹿伊作うぜえ。
一通り終わったら全部答えてやるわ。引っ込んでろ。

俺はおめえみたいなオタク爺ニートじゃないんだからよ。
120日本@名無史さん:2012/01/03(火) 09:23:36.40
架空の権威に頼っても虚しいね。
架空の彼の名前出せるかね?
12119歳某国立大生:2012/01/03(火) 09:28:55.96
伊作爺が名無しでまた人格攻撃かw
ほんとにしょうもない爺さんだな。

架空でもなんでもない。京都府の研究者とだけ
言っておこう。さすがに本名はこんなとこでは出せん。
まあ嘘だと思うなら、直接専門家に問い合わせることだな。
専門家はおそらくほぼ同じような回答をするだろうしw
122夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 09:42:18.05
最初の使者が邪馬台国目で行っていない第三が距離表示の切り替わり。
ここは単純な話だ。
投馬国、邪馬台国まで実際に行っていれば里程表示にしているはず。
なぜそれまでは里程表示で、ここは時間表記なのか。
「行っていない。伝聞」という以外どんな説明がつくのか聞きたいね。

ここで修辞についても触れておこう。
伊都国は五百里、奴国、不弥国は百里となってるが、これは修辞だ。
隣接するものは百里、隣接しないがごく近いところは五百里。
実距離を示すわけではないから二百も三百もない。
で、これでは不正確といってきた奴がいたな。これで調査になるのかと。
上の伊作の社長命令云々話もこれを含む。
これで正確な報告になることがわからない馬鹿の突っ込みなのよ ワラ
修辞は書き手と読み手に共通認識がなければ使えない。当たり前だな。
百里、五百里を書けば読み手も上の修辞の意味を理解するから、これで十分正確な説明だ。
一里は何メートルだの、長里だ短里だ、果ては6.5倍だなどという感覚じゃ理解できなくて当たり前だ。
最初の俺のまとめで言ったが、こういう旅程での里は距離の単位ではない。
五百里は百里の五倍ではない。
奴国、不弥国は近隣だから伝聞でも修辞で表せる。
だが投馬国、邪馬台国は伝聞で遠方はわかるが修辞で表すには不正確になる。
だから伝聞をそのまま載せた。これが一番シンプルな解釈だ。

距離表記の切り替えからも最初の使者は邪馬台国へは行っていない。
123日本@名無史さん:2012/01/03(火) 09:52:35.79
>>114
やっぱりお前は満塁ホームラン級のバカだな

>遠隔だから行っていない。
ってのは「それなりの日数が掛かるから行ってない」ってことだろ
掛かる日数は邪馬台国の場所がどこであろうと倭人伝にある通り「水行十日陸行一月」だ
「水行十日陸行一月」の示す実距離が不明な以上、
「水行十日陸行一月」で到達する場所の候補地から九州を除外する事はできない
つまり伊都国までしか行ってないっつー理由じゃ九州だけ除外する事はできねーんだよ

文献解釈以前の、論理構成の話だ
わかったか、サヨナラホームラン級のバカよ
124夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 09:54:35.10
第四の理由が「持衰」
邪馬台国が九州なら帯方郡へは末廬国からになる。(前に伊都国と言ったが、あれは間違い。訂正)
まあ渡海基点はどこでもいいんだが、ともかく北九州からになる。
これは郡まで片道十日足らずの短期間航海になる。往復で航海自体は二十日以内。
途中に関門海峡みたいな難所があるわけでもない。
つまり、病人が出ただけで殺してしまわねばならない「人柱」を立てるような航海ではない。
これが片道「水行合計三十日」がプラスされる大航海なら「人柱」も理解できる。
邪馬台国が九州にあっては人命を賭けるほどの航海にはならない。
ま、これは傍証としておくがね。

以上から使者は邪馬台国へは行っていない。
九州内に邪馬台国があれば、最初の使者が行かないはずがなく
「行っていない=九州に邪馬台国は存在しない」になる。
125夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 09:59:32.94
>>123
「水行十日陸行一月」が仮に短距離なら、つまり九州内なら邪馬台国へ使者は行くだろうな。
だが、遠隔地だから行っていない。根拠は上記。
わかったか サヨナラ満塁逆転ホームラン級の馬鹿頭 ゲラ

さてと、面倒くさいが伊作へ一個づつ返してやろうかね。
126日本@名無史さん:2012/01/03(火) 10:10:32.49
>>125
プッ
反論になってないぞ
逃げる気満々だな
ランニングホームラン級のバカよ
12719歳某国立大生:2012/01/03(火) 10:13:26.28
伊作爺の掲示板は2chとなんも変わらないからもう行かないw
2chに書き込めばいいことだし。
>>125
使者は金印を直接渡すために邪馬台国に行ったと前にも言っただろ。
128夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 10:27:11.35
>>116
>「先遣調査」がきちんとした調査をせず仕事になるか。
極めてきちんとした仕事をしているじゃねえか。わからんの?
正使なら絶対に立ち寄るはずがない対馬や壱岐に立ち寄り倭国の風土などを報告し
行った伊都国までは正確に方角も距離も報告し、近隣諸国は書き手、読み手が相互理解できる修辞で報告している。
時間的に行けない投馬国、邪馬台国は修辞では不十分になるから、伝聞そそのまま伝え
それを「混一」的な誤った地理観に正確に当てはめて報告している。

>たった一文字のがりゅう解釈
我流解釈の意だろうが、これ以外どういう解釈が成り立つか言ってから言え。
お前も「結論先にありき」の複数ソース説か プ
ま、熊本という結論先にありきの奴だから、これかもな ワラ

>「何かの」と証拠を特定も提示もできず
あのな、陳寿は倭国へ行ってないの。わかる?
行ってない奴が著者なら「何かの」ものを引用するしかないだろうが。
こんな簡単なこともわからないで、よく天才を自称できるな、馬鹿頭 ゲラ

>最初の報告がデタラメだったら南方という認識なのに東へ向かうのか。ターコ

中央の認識、現場の認識、再三説明したがね。
正確な地理認識がないと仕事にならない現場の報告は中央には興味がない。
中華思想、わかりますか ワラ

>行程記事の最も大切な所だ。別に簡略になってはいない。

これは単なる強弁 プ
対馬、壱岐に短文ながら詳細な風土、風俗が記されている。これが伊都国以後はない。
これが簡略じゃないわけ? ワラ
129日本@名無史さん:2012/01/03(火) 10:31:51.35
>対馬、壱岐に短文ながら詳細な風土、風俗が記されている。これが伊都国以後はない。
女王国の風俗は細かく書いてあるね。
130本物の天才:2012/01/03(火) 10:35:55.71
>>128
お前とやってると。
供述がコロコロ変わる万引き犯を尋問する取り調べ官の気分だぜ。
131夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 10:38:56.13
>>116への続き

>これは最悪の「憶測の断定節」だ。
倭国軽視に対してのレスだが、どこが憶測よ?もう一回、中華思想わかりますか? ワラ
お前は倭国発見を一大事件で調査は文化事業だとまで言ってたな。
国を挙げての文化事業なら、なんで正確な地図一枚書こうとしなかったんだ?
重要視してると文献にある、なーんてのは反論にならないぜ。
これも前に言った。まがりなりにも国事業なら軽視していても重要だと記録する。
どこでも乗り気ではない新事業に手を出さざるを得ず、予算もろくにつけなくても
必ず「大いに期待してます」と言うのと同じよ。

>お前のいう「中華思想」は、美味くない中華料理店のスローガンのことか?

煽りにもなってねえ ゲラ
中華思想を”見て見ぬふり”も苦しいのう ゲラゲラ

>魏の使者たちは普段は伊都国に常駐していた。

していたさ。「地方公務員」はな。
卑弥呼が朝貢しようとするからには、当たり前だが魏という国の存在を知らねばならない。
その魏がどういう国で、どれくらいの力があるかも知らねばならない。
柵封がいかなるシステムかも知らなければならない。
これらの情報収集のために朝鮮とは頻繁に交流しただろう。その前線基地が伊都国だ。
帯方郡の「地方公務員」からの情報収集があっての朝貢だ。

>詔書と金印を携えた使節は邪馬台国へ行って倭王に会わないと仕事を遂行できない。

正使はな。それじゃなきゃ仕事にならない。
だが「国家公務員」たる魏の」中央の最初の使者は正使ではない。
金印携えて道草すんのかよってな ワラ
132日本@名無史さん:2012/01/03(火) 10:39:07.76
>>129
書いてあるのは倭国だな
女王国とは書いてない
133本物の天才:2012/01/03(火) 10:39:29.49
>>118 >>121  こっちでも、カラ処理宣言をしているからこっちも追走する。

>元大学講師で学会員で現博物館勤務のプロの古代史研究者に
教員資格を必要としない「大学講師」経験者で、現博物館勤務(たぶん下っ端学芸員)の半端プロの古代史研究者か。古くさい言説そのまま受け売り発言じゃないか。虎の威を借るつもりが狐の威ではダメだアホ。

>「景初3年と書いている史料をすべて集め、景初2年と書いているものとの比較検討も重要な点になってくると思います」。
>「一つずつ分析する必要があります」。
という返答をみると、こいつは俺がそれをきちんと実行していることを知らないようだ。
俺のサイトを詳しく見たわけではなかろう。さもなければ軽々にこんな発言はしない。

お前のことだ。自分に都合のいい所だけをメールして、誘導尋問よろしく、都合のいい解答がでるように仕組んだ内容だろう。
>「これだけで戦時中に遣使したと論証したことにはならないでしょう」。
というが、「どれだけ」見せたのか。不公平な情報を見せて「公平なジャッジ」てか。お前がどの程度情報をメールしたのか、そいつに見せたメールの内容を正直ここに書け。さもなければ、そいつの名とそいつが勤務する博物館名を教えろ。俺が直接本人に確認する。
姑息さが見え見えの高卒浪人野郎。
134本物の天才 :2012/01/03(火) 10:40:02.33
つづき

>自分自身が大学に潜って教授に聞くか、博物館に行き研究員に聞けばいい。
聞くから、その博物館の研究員の所在を教えろ。
姑息な手口を使ったから何も返答できないんだろ。
それとも全部でっちあげのウソか?。

>それをしないのは自分の説に自信がないからだろうw
自信たっぷりにその研究員に確認しに行くといってるが。

ほれ。どれか一つ俺の要求に応えろ。
@俺のサイトかこの掲示板を見るようにと、もう一度研究員に知らせろ。
A「どれだけ」その研究員に見せたのか。
そいつに見せたメールの内容を正直ここに書け。
 (といっても正直に書くはずもないが)
Bさもなければ、そいつの名とそいつが勤務する博物館名を教えろ。
俺が直接本人に確認する。

ウソが見え見えの高卒浪人野郎は、これにはまったく返答していない。
135本物の天才:2012/01/03(火) 10:44:27.05
あなの山師。
お前のは終始一貫・口先口実と詭弁ばっかなのだ。
掛け合い口論テクニックになってしまっている。
136夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 10:59:06.19
>>130
コロコロ変わっているというならレスコピペして並べて言え。
俺はお前と違って、逃げ隠れできないコテなんだぜ。

>>117
>奴国・不弥国まで同じテンポで戸数・道里を書いている。
 国情もいろいろだ。説明要素も色々。
風土、風俗が消滅する説明になってない。ただの難癖 プ

>里程を知らない倭人に聞いても里程など答えられんぞ。
邪馬台国まで行っていれば使者は里程で表す。
里程を知らない倭人からの伝聞だから”そのまま記載した”
何か不思議か?

>「観察記述の消滅」などとは、事実歪曲のねつ造論法だ。
対馬や壱岐の観察記述を無視したくても無理なことくらい分かれ、馬鹿頭。
あれが直接見聞した記述じゃなくて何なのよ?

>倭地全体の観察記録は「倭地風土記」ともいうべき部分にまとめてあるだろ。
それは正使以降の倭に渡った者の報告の引用だ。冒頭のものとは別な引用。
倭人伝は期間にしたら80年以上になるのかな?長期の倭国の紹介だ。
最初の使者の報告の後にいくらでも情報は入っている。
それくらい常識問題だろうが。オタクになると常識感覚はなくなるのか ワラ

>じゃ、邪馬台国のことを詳しく書いたのは誰なんだ?
上記で十分だな。卑弥呼の死後までの時間に訪れた多くの魏人の誰かだ。

ふう、くだらねえ突っ込みにいちいち答えるのもシンドイわ ワラ
137夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 11:04:41.13
>>135
文章の天才さんが、それですかい ゲラ
俺は具体的に話している。反論が出来ないことを誤魔化すな、糞頭。

「文章の天才」というなら俺様だろうな ワラ
しかし俺はこの類まれなる文才で煙に巻く気はさらさらない。
俺に勝てる自信があるならかかってきな。
俺もいい歳のおっさんだから遠慮はいらないぜ。
138夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 11:07:39.17
>>126
馬鹿頭・九州説者の遠吠えかな プ
九州に邪馬台国があれば、どんな横着者でも行くはずだがねえ。
反論は具体的に、な、ボウズ。

さて一旦ここまで。寝るわ。
13919歳某国立大生:2012/01/03(火) 11:09:45.53
その本物の天才を自称してる伊作爺なんだが、
プロ相手に戦ってみろというと逃げ回ってるようなチキンだからw
素人で勝てそうな相手にしかからまない人みたいだw
それでいて自分の証明は正しいという始末。
素人にしか通用しない証明を流布してるチキン爺だからw
140日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:23:45.16
さて例の 森村伊作 の逃げ込み用掲示板からこっちに話を戻すw

>古墳が「大きくなった理由・動機・価値観」とは何だ?
>権威づけか、権力の誇示か。それともほかにあるのか。きちんと答えろ

そもそもこの部分はあまり問題にもされていない
巨大な箸墓(卑弥呼の墓であろうとなかろうと)の出現は権力の飛躍と言うことでそれがヤマト王権なのだから。

もしこれが後のヤマト王権にも繋がらないようなものでそれ一つがポッと出たものなら
その出現の意味バックボーンを探らねばなら無いだろうが。

「大きくなった理由」なんて権力の拡大で何ら矛盾も無い。

要するに 森村伊作 は無い知恵絞って「段階的ステップ」とか言ってたが結局は箸墓の年代の話に戻るだけ。
 


141日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:24:10.70
夢幻如に伊作が全然通用してないじゃないかw
九州説ピンチ???www
142本物の天才:2012/01/03(火) 11:25:24.02
>>139

お前が相談したプロの端下研究員とやると、
その氏名と博物館名を教えろといったが、
スルーしておいてここでひぼう宣伝だ。

まったく信用のおけない奴だ。
143日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:35:14.78
某掲示板での見栄と嘘と知ったかぶりの塊 森村伊作 の質問 
>箸墓古墳が「大きくなった理由・動機・価値観」は権力の飛躍的拡大か。
>@ならば、箸墓以降は権力が衰退したのか。
>A某天皇の庶子でたいした人物でもない女の墓が、「権力の飛躍的拡大」を象徴する大古墳なのはどういうことだ。
>Bその箸墓が前後の天皇の墓よりも大きいのはなぜだ。

@については箸墓以後も200m超級の巨大古墳は出現している。
単に全長が箸墓より小さいからと言ってヤマト王権の衰退だなんていう奴は先ずいない。
馬鹿を言うな馬鹿者。

ABについては
そりゃ記紀の内容が現実に合致していないだけの話だろう?
つうかお前「記紀は信用しない人」と言ってたんじゃなかったのか?w

実のところ自分は被葬者が女性であるかどうかさえ疑っている。

少なくとも確認された話でもない。

…しかしやっぱりこっちの方が書きやすいわwwwwwwww
144日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:42:48.53
>>128 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)
>極めてきちんとした仕事をしているじゃねえか。わからんの?

ヨコからだが…

最終目的地まで言ってないのなら意味無いわ阿呆w
元会社シャチョさんの無限尿は部下からそんな報告書もらって納得するんか?w

しかもそう言った北部九州の地理は何も先遣隊でなくても調べられる。

と言うか里数なんて先遣隊が調べるもんじゃなくて現地に情報としてあった物だろうに・・・
145日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:44:13.13
>>138
やっぱりお前はホームラン級のバカだな

>時間的に行けない投馬国、邪馬台国は修辞では不十分になるから、伝聞そそのまま伝え

邪馬台国に行かない理由は時間なんだろ
掛かる時間が「水行十日陸行一月」であると倭人から聞いて「行かない」と判断したってことだろ
行かない理由が時間で、掛かる時間が同じならば、実距離は行かない理由にはならないんだよ
だから
>「水行十日陸行一月」が仮に短距離なら、つまり九州内なら邪馬台国へ使者は行くだろうな。

というお前の話は論理破綻してるんだよ
146本物の天才:2012/01/03(火) 11:47:07.18
>>136
> 風土、風俗が消滅する説明になってない。
あとで自爆することになるぞ。

「里程を知らない倭人に聞いても里程など答えられんぞ」。
>邪馬台国まで行っていれば使者は里程で表す。
伊都国の先の奴国と不弥国まで戸数と道里を略載しているが。
伊都国よりも差は気まで入った理屈だよな

>里程を知らない倭人からの伝聞だから”そのまま記載した” 何か不思議か?
伊都国の先の奴国と不弥国まで戸数と道里を略載している。とぼけるなよ。

「観察記述の消滅などとは、事実歪曲のねつ造論法だ」。
>対馬や壱岐の観察記述を無視したくても無理なことくらい分かれ
伊都国は対馬・壱岐ほどに詳しくなってはいないぞ。
そもそも伊都国の場合は観察記述というほどのものではない。
あえて「観察記述の消滅」というならば、末盧国で諸滅だ。事実歪曲だろ

「倭地全体の観察記録は「倭地風土記」ともいうべき部分にまとめてあるだろ」。
>それは正使以降の倭に渡った者の報告の引用だ。冒頭のものとは別な引用。
ずいぶん見てきたような勝手なことをいうな。かなわねーぞ?

>倭人伝は期間にしたら80年以上になるのかな? 長期の倭国の紹介だ。
ぬぁー!?

>最初の使者の報告の後にいくらでも情報は入っている。
どんどん飛躍するなー。

「じゃ、邪馬台国のことを詳しく書いたのは誰なんだ?」
>卑弥呼の死後までの時間に訪れた多くの魏人の誰かだ。
ぬぁー!? 都合のいいことばかりいうな・タコ。
147本物の天才:2012/01/03(火) 11:52:04.72
伊都国の先の奴国と不弥国まで戸数と道里を略載しているが。
伊都国よりも差は気まで入った理屈だよな
↓↓↓
伊都国の先の奴国と不弥国まで戸数と道里を略載しているが。
(倭人は里程を知らないのだから)伊都国よりも先まで行った理屈だよな
14819歳某国立大生:2012/01/03(火) 11:55:35.43
魏略+帯方郡にあった資料+魏の使者の記録+生口からの聞き取り

これらの資料を陳寿がまとめて書いたものが魏志倭人伝だという認識を
もったほうがいいな。
149日本@名無史さん:2012/01/03(火) 11:59:53.16
伊作 が押されているな。

頑張れ伊作!負けるな伊作!   
150日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:01:22.26
>>145-146
それじゃ反論になってないただの言い返しじゃないか。
どっちの肩を持つ気もないが今のところ
夢幻如は議論しているが
伊作は言い返しているだけで議論になっていない。
夢幻如の方が説得力で遥かに上だぞ。
15119歳某国立大生:2012/01/03(火) 12:03:26.46
その中で魏使が踏破した道はどこなのかを推測するしかないわけだが、
前にも言ったように魏の使者が陸路で一月も歩くわけないから、
これは伝聞だろう。水行記録が魏使の踏破した行程と考える。
これについて反論があるなら、当時の陸路の整備状況、宿営地の完備状況、
膨大な下賜品の運搬手段、盗賊に対処するための警備体制等々が
どの程度のものであったのかを説明してくれ。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 12:05:26.11
>>118
>景初3年と書いている史料をすべて集め、
>景初2年と書いているものとの比較検討も重要な点になってくると思います。

景初3年とする根拠は下記の如くである。まず、太陰暦が使われていた場合
開化天皇 184年〜186年 3章 崇神と同じ暦であるが調整前
崇神天皇 187年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応、後漢193年
垂仁天皇 217年〜239年 4章 纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。ホケノ山
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙・牛馬の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含む。
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある(46年程度)。

崇神から数えた場合、垂仁末は238年とすることもできるが、七支刀から逆算する限り
垂仁末は239年になる。この場合田道間守の帰国は景行元年。
カテイ等が大和を訪れる=晋書正始元年東倭重譚納具。魏使は238年に伊都国(倭奴國)にて朝貢の要請。
倭奴國に女王を共立して、239年 邪馬臺國(伊支馬=イクメ=垂仁)までの勢力による朝貢。
240年 その帰国にカテイ等は都市牛利(たしうり)=田道間守に同行して邪馬台国(東倭)を訪れる。
この10年後には、北部九州に庄内式が持ち込まれ、さらに10年後に大和に箸墓が作られる。
153太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 12:32:22.75
≪大中臣の下命≫
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
両端の○数字に注目。


 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年


の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これこそ本物なり。
崇神即位年≠188年
154本物の天才:2012/01/03(火) 12:32:42.91
>>145は俺の投稿じゃないが、どっちに対してゆってるんだ?
俺の投稿は146だ。倭人伝の記録内容に関する見解の相違と、
無限暴の「とぼけ小細工」を指摘しているが、わからんか?
155本物の天才:2012/01/03(火) 12:36:58.39
>>149
>伊作 が押されているな。
あのな。何かきちんとした論拠資料でも提示していうのならば、
その論拠を潰せば済むことなのだが、論拠なしの口先詭弁だけでは議論にならんのが当然だ。
そうなると、掛け合いのうまいのが有利に立ち回る。はっきりしてることだ。
だが、それは歴史解釈無議論ではない。
ただの掛け合い口論だ。俺は得意ではないし、深入りしても利はあるまい。
156日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:38:53.02
>>155
>あのな。何かきちんとした論拠資料でも提示していうのならば、

普段自分がやっていることです。
因果応報。
157日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:41:37.40
>>150
俺(>>145)は奴の論理が破綻している事を指摘している
文献解釈以前の話だ
158太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 12:42:18.58
>成務天皇 262年〜265年←ウソ ↓ 57年の空年はどこにも無い
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
159唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 12:47:27.54
>論拠資料でも提示していうのならば、

残念ではあるが、旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後

この数字を使う限り >>153 程度の自作資料しか用意できない。
160本物の天才:2012/01/03(火) 12:50:16.29
>>156
これも誹謗な。
俺はできるだけマジに論拠や検証内容を提示している。
そこまでいうなら、過去のことでもいいから実例を示せ。

それとなー。誰かと同じで、名無しで誹謗なんて最低だぞ。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 12:57:56.26
オマエのその数字を使う限り41年無説明程度の無自作資料しか用意できない。
162日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:59:59.78
夢幻如は一見もっともらしい事を言ってるが、結論に至るプロセスが雑過ぎる
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 13:01:52.94
太古の大中臣からの出鱈目編年の退治の下命文〜これが大祓祝詞である。
その文の焦点が天津金木(天津神算木)の計測による インチキ編年を祓い
に祓え との大中臣の作法なのだ。真の編年を教示するのがここにある。

天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)にある三輪山の説話の三輪
(半径r=3の円)の球化の体積=表面積の数式をいう。すなわち

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**は冪)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて


 3≠113.097335=113.◎97B350


右辺末桁50 をイスズ暦数あるいは単にイスズ暦という。両○数字は数的
にミワと読む。○数字に挟まれて B.C.97年 崇神即位年 がある。
崇神即位年の実年代は両○数字外側の数列 113 350 の差により求まる。

 350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

大中臣からの真の年代は、それがし 太国 が拝受した。インチキ188年説を
祓いに祓って、日本古神道からの真の年代が開顕されたのだ。
164卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/03(火) 13:03:45.16
ヒミコやトヨが朝鮮にいたかどうかは分らないが、とにかく魏に朝貢したのは朝鮮の倭だろうと私は思っている。

ところで伊作氏は景初二年説だが、それが正しいとすると倭は極めて正確に中国、遼東、帯方郡の情報を掴んでいたことになる。
そんなことが九州や本州にいて可能だろうか。半島に駐在員か情報員でも置いておかないと不可能だろう。
あるいは半島に日本府のようなものがなければ無理である。

だから半島の日本府のようなところから朝貢したと考えるほうが現実的なのである。
これは景初三年説でも同じである。とにかく半島の倭が朝貢したと考えるほうがはるかに現実的なのである。
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 13:06:12.50
>>161 続き
41年の説明が具体的に行われない限り、オマエの編年は自作にも至って
いない。自作とならこの核心の41年の説明の製作を恣意的でなくしなければ
ならない。
166唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 13:14:23.51
>魏に朝貢したのは朝鮮の倭だろうと私は思っている。

三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
任那建国は崇神世でなくてはならない。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラコク、金官伽耶、任那)は存在する。
狗邪韓国で鉄を採取する倭人は、播磨か阿波にかけて存在した連中と見ることが出来る。
とくに阿波方面においては、楽浪方面の墓制の導入がある。
そして、公孫氏に属す。
167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 13:18:26.15
>オマエの編年は自作にも至っていない。

当然である、自作ではない。
ただ書記の主張する数字を、太陰暦のまま歴史に合わせられる数字に直しただけ。
168日本@名無史さん:2012/01/03(火) 13:37:17.72
>>155 見栄と嘘と知ったかぶりの塊 森村伊作 
>ただの掛け合い口論だ。俺は得意ではないし、深入りしても利はあるまい。

頑張れ 森村伊作 爺さんw

そう言うのお前は得意だったんじゃないのか?wwwwwww

>(俺はとくに激しい誹謗と攻撃を受けるが、
>「言われっ放しにはしない人」だから、奴らの上を行く反撃をする)。

ここまで言っておいて「泣き」が入ったら終わりだぞwwwwwwww
169卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/03(火) 13:38:55.12
日本は絶海の中に浮かんでいると認識されていたのであって、中国は日本を侵略しようとは思っていないのである。
それは公孫氏や半島も同じ。公孫氏や半島が日本を侵略しようとしたことはない。それはその後の歴史が証明している。
中国や遼東や朝鮮で何があろうと、日本はそんなことはお構いなしにのほほんと生きていたのである。

しかし半島の倭は事情が違う。中国や公孫氏の情勢が直接自国に影響する。下手をすると滅亡する。
だから公孫氏の動きなどには注意せざるをえない。中国に朝貢する必要もある。
中国に朝貢したのは朝鮮の倭だということは明白だと思われる。
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 14:14:26.42
>中国に朝貢する必要もある。

伽耶・加羅が朝貢した記録が存在するのか?
存在しない。しかし
三國遺事卷二 より
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.

何事もなく330年の治世がある。
171太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 14:23:14.49
>ただ書記の主張する数字を、太陰暦のまま歴史に合わせられる数字に直しただけ。

書紀の主張は空日であって ↓ 成務の年表からも空年ではない。

【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 空
2日 2  16日 空
3日 3  17日 空
4日 3  18日 空
5日 6  19日 空
6日 3  20日 空
7日 2  21日 空
8日 3  22日 空
9日 3  23日 空
10日 1   24日 空
11日 4   25日 空
12日 3   26日 空
13日 3   27日 空
14日 7   28日 空
       29日 空
        30日 空
172日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:26:45.57
>>118、121
自分が適当にあしらわれたのも解らないらしいな。まじで邪馬台国を研究して
いる学者なら、素人の問いかけに本当の自分の考えを言うわけは無い罠。
173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 14:35:28.61
>中国や遼東や朝鮮で何があろうと、日本はそんなことはお構いなしにのほほんと生きていたのである。

その主張を古墳時代にかぶせて、古墳を説明できるのか?
副葬された大量の鉄器は、伽耶方面からすべてが輸入される。国産は金官伽耶が新羅に降ったことから始まる。
であるならば、鉄器を輸入した対価が必要である。対価を支払ったものであれば、対価の回収が必要である。
対価が必要であれば、鉄は大事に扱われるが、大量埋納はそれを否定する。
つまりここで考えられることは、神功49年の半島占拠。
馬韓の食料は伽耶に運ばれ、伽耶から鉄となって倭国にもたらされる。
だから、対価を払ったという感覚が無い。大量埋納も可能であるが
541年伽耶が新羅に降るのは、この伽耶の彊場である馬韓を百済が奪うが
倭は無関心である、伽耶は倭をあきらめる。つまり、ここから伽耶の鉄を手に入れるためには対価を払う必要がある。
倭で鉄が不足する。
174唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 14:43:47.92
>>171

季節・日付を書き換えた太国倍年は、作り物と断定できる。

容認されるのは、異常に長い年数を歴史の数字に合わせること。
歴史は、考古学と文献により説明される。だから、日本書紀も歴史に合わせられなければならない。
175日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:44:17.79
>>118には笑えた。→元大学講師で学会員で現博物館勤務のプロの古代史研究者

俺が九州国立博物館の学芸員(畿内説だったw)に畿内説の矛盾を詰問したら、
しどろもどろだったよ。専門家のくせに勉強していないなと思ったわw
専門家ほど、詐欺のお先棒を担がされているから、説明できないんだよ。
176日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:56:44.40
>>114
> 国、行程紹介は何かの報告の転記なのは間違いない。陳寿は日本に来てないからな。

「陳寿は日本に来ていない」ことは「国、行程紹介は何かの“報告”の転記」であることの理由にならない。
いえるのは、何かの“記録”の転記なのは間違いない、ということだ。その「記録」が何かを問題にしているんだが。

> それを転記すれば済むものをなぜツギハギしなきゃならないか?

なぜかというと「それ」がないからだ。夢幻如は、まず「先遣調査隊の報告書」ありきで考えているから理解できていない。

「倭人伝」の「伊都国までの部分」と「奴国以降の部分」が異なるソースをもとに書かれているというのは共通理解。
夢幻如は「先遣調査隊自身の見聞」と「倭人からの伝聞」と考える。
私的には、「漢代から魏代にかけて楽浪商人や韓人をはじめ官吏、伊都国に常駐した郡使など種々の人々がもたらした情報」と
「邪馬台国へ派遣された魏使の情報」と考える。

「先遣調査隊の報告書」などないからツギハギしなきゃならない。

> ツギハギしてより詳細な説明になるならわかる

それは“報告書であれば”という前提にもとづいた考え。
「調査隊の報告書」なるものを前提としなければ、詳細じゃないのはおかしいことではない。

編者が手許にそろえた原資料は「調査隊の報告書」などではなく、
「伊都国までの部分」と「奴国以降の部分」がそれぞれ書かれた別資料だった。
その二つの原資料の情報量に差があっただけ。

> 陳寿がツギハギする理由もなければ、ツギハギした形跡すらない。

理由も形跡も以上のとおり。
177日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:57:23.07
>>114
> あの行程紹介は一連と見る以外になく、その短文の中で全て「至」でもいい中で「到」は二回だけ。
> 「到」のみが「目的地に到着する」で使われているからでしか説明がつかない。

あの行程紹介は二つのソースをまとめたものであり、
「至」は「目的地に到着する」場合にも普通に使われるので
邪馬台国に遣わされた魏使の記録には「至邪馬台国」と書かれていたのだろう。
編者がそれを引用しているだけ。
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 15:26:55.03
>>174

>>171の書紀の空日表を見るに、書紀の主張の「空日」に逆らい「空年」
としているオマエの論は書紀の「空日」の違背であって、到底書紀に
基いてるとは言えない。

空日→空年と書き換えた宿主空年は、作り物と断定できる。

だから、日本書紀の歴史に合わせられてるとは言えない。
179:2012/01/03(火) 15:28:25.64
なんか、こっちのスレのが賑わってるねえw

>>元大学講師で学会員で現博物館勤務のプロの古代史研究者

>俺が九州国立博物館の学芸員(畿内説だったw)に畿内説の矛盾を詰問したら、
>しどろもどろだったよ。専門家のくせに勉強していないなと思ったわw

元大学講師が、博物館の学芸員さんなのか疑問だが・・・
たぶん本物のプロと言ってるのでボランティアの学芸員さんではないのではなかろうか。

まあ、いずれにしても、ここに投稿してる
君ら名無し連中よりも、古代史に精通しており、詳しいのは疑いようがないのは確かだwww
180太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 15:33:12.10
>>171表から

書紀は「空日」だと主張してるのであり、「空年」とは同表から書紀への
違背である。つまり宿主空年は作り物であり、成務のコチラの提示年表
からも57年の空年はどこに観られない。

つまりオマエの主張はインチキだということだ。

なお秀魔電はそんじょそこいらのタダの野郎が書き殴った当時の妄想入り
の偽書といわれる文であり、書紀に違背する重大箇所の在る危険史想の
書と断定出来る。
181:2012/01/03(火) 15:34:36.96
>>175
ん〜学芸員てボランティアでやっている博物館の説明役であり、
邪馬台国の説明係ではない。
周辺の学芸員さんい対する扱いを見る限りでは、
学芸員の説明は信頼されてるというか、私がじかに話した感じで言うとみな結構詳しいですよ。
182:2012/01/03(火) 15:45:18.65
元大学講師に聞いたっていう、>>118のレスは面白いね。
ちゃんと、大人の対応ができてるところがナイスと言うかw

しかも、よりによって伊作本をメールで送るかよw
183日本@名無史さん:2012/01/03(火) 16:32:14.73
>>181

あー、同館の別な場所に、学芸員が居るんだよ。展示の説明がおかしかったから
説明員に学芸員を呼び出してもらったの。
184唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 16:43:55.07
>書紀は「空日」だと主張してるのであり、

だから、季節を書き換えられる。
だから、書記の記事(神功・応神紀)を書き換えられる。
履中から世継ぎが短くなっても、書き換えられる。

と言いたいんだろ?
それら書き換えた部分が正しく書き換えられた。と主張するためには
自分で整合性のある作り物の文献で整合性が得られたと主張できる。
考古学と整合性のない場合には、その数字を並べ替えられる。とも主張しているな。

だからその数字をどう使うか?
おれ(太国)が数字を考えてやったから、皆は使う義務がある。とでもいうんか?
185太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 16:50:49.98
>>184
まるで意味不明??


最下段

おれ(宿主)が数字を考えてやったから、皆は使う義務がある。とでもいうんか?
186夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 17:09:07.56
ふん、伊作は泣き言か?
文章の天才さんがテキスト世界の2ちゃんでテキスト勝負では俺様に勝てないと? ワラ

>あのな。何かきちんとした論拠資料でも提示していうのならば、
 その論拠を潰せば済むことなのだが、論拠なしの口先詭弁だけでは議論にならんのが当然だ。

ここは推論のぶつけ合いになる。どの論を張っても論証することは難しい。
だが推論vs推論は「最も無理がないもの」が大体真実に近いものだ。
この推論を張るには論拠資料つまり「史料」のことだろうが、これだけが論拠になるわけではない。
史料至上主義を批判してたのは井沢元彦だったか?これは正しい。
当時の中華思想という思想や常識、はたまた倭人伝を読むことからわかる事実
あと今日出した「修辞は書き手と読み手の共通認識が必要」などという史料にはない事実。
他には根拠ある「推測」、これらもすべて「推論」をはる「論拠」になる。

ま、いいわ。お前は突っ込まれてたように反論ではなく言い返しに終始している。
あとでまとめて俺からポイントを整理して突っ込んでやる。
今度は俺が突っ込む番だ。
187夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 17:09:54.66
俺は今夜はオフだが、俺がオフの日はちょっと贅沢な外食というのが我が家の決まりだ。
この前はしゃぶしゃぶだったが、今夜は和牛ステーキを食いに行く。
そのあとはお気に入りのスーパー銭湯で古代人も入ったかもしれない(ワラ)
和風スチームサウナのような「釜風呂」で汗を流してくる。これが大好きでね。
俺からの突っ込みはその後だ。

それから伊作だけじゃないが、マジに議論する気がある奴はコテにしろ。
ころころHN変えるのは万が一の場合は逃げれるからだ。あれは俺じゃない、とな。
成り済ましが出てきたから、なんてのも言い訳。トリップつければ問題ない。
トリップのつけ方知らないなら教えてやるぜ。
名無しはもっと論外だがね。
コテは自分の発言に責任を持たねばならない。これが俺の信条だ。

あ、答え忘れてたが伊都国の観察記述が少ないことについては前に聞かれて答えている。
コテ検索すれば出てくるだろう。これがコテの必要性でもある。
過去に言ったことはコテで残るから重複説明は避けられるし、また誤魔化せない。
検索も容易だ。HNころころ替えられたら議論相手が検索もままならんだろ。

ということで、後でな。今日中に出てこれたらやるが
メインは多分明日になるだろ
188ローガン:2012/01/03(火) 17:32:37.14
景初二年伊作説の「喪中に遣使朝献などない」について。
●後漢安帝永初元年3月(107) 殤帝没は前年8月
●宗少帝景平元年3月(423) 武帝永は前年5月
●梁簡文帝太清3年10月(549) 武帝没は同年5月
●北魏文成帝興安元年12月(455) 太武帝没は同年3月
献文帝天安元年3月(466) 文成帝没は前年5月
 宣武帝太和23年5月(499) 考武帝没は同年4月
考明帝延昌4年7月9月10月12月(515) 宣武帝没は同年1月
●陳臨海王天康元年12月(566) 文帝没は同年4月
●唐高宗貞観23年9月(649)及び翌年正月 太宗没は同年5月
 叡宗景雲元年9月10月12月(710) 中宗没は同年6月

上記は前帝死後1年以内の諸国の遣使朝献の記録。ソースは冊府元亀外臣部朝貢。
結構ありますよ。
189日本@名無史さん:2012/01/03(火) 17:32:37.58
釜風呂から出てくんなよキチガイ
190唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 17:40:20.01
>おれ(宿主)が数字を考えてやったから、皆は使う義務がある。とでもいうんか?

おれ(唐松山)は数字を考えたから、おれ(唐松山)は使う義務がある。
太国は数字を考えたが、卑弥呼を阿蘇山深くに隠さねばならない。←魏が卑弥呼を
倭王位につけることはできない。
それほどにまでして太国倍年も隠さねばならない=後付説であるがそれを証明する必要はない。
なぜならば、まだ”月日”まで再現できていないからだ。

太国倍年で月日を再現するためには、1倍・2倍・3倍と書記の太陰暦で同じ数字を得る必要がある。
可能か?考えずとも結論は一つしか存在しない。
191ローガン:2012/01/03(火) 17:51:21.75
>>188訂正。
×武帝永は前年5月
〇武帝没は前年5月
それと、東夷伝序文の諸国を観察して回ったのは、あくまで位宮を追った流れでの記述。
これを倭への使者派遣と混同する事により、「序文の時系列のおかしさ」を強調という印象操作ですな。
192唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 17:53:05.88
>この推論を張るには論拠資料つまり「史料」のことだろうが、これだけが論拠になるわけではない。

それでも、推論をはる根拠となる論拠資料は必要である。

大和を邪馬臺國と推論する論拠資料は存在する。
しかし、乱と暦年無主の説明はできない。
乱と暦年無主を説明するのならば、九州に分がある。
それでも、山形に持ってゆくためには、移動時間を短縮しても、王権の下地も無ければ
乱の説明もできていない。

推論に持ち込むための資料が少なすぎる。
193唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:06:32.15
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

@謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
A至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

倭人伝
❶ 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
❷正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・
帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

北史に準ずれば、倭人伝でも女王卑弥呼と倭王は別人と考えることが出来る。
つまり、倭王登場後も女王が登場することが出来る。

この倭王を新潟・山形にするためには、景初2年(3年)時点でその勢力が認められていなければならない(この時女王共立の前に暦年無主の時空が必要である)。
194日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:19:54.30
ノーガードの殴り合いか?
195日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:20:55.96
>それから伊作だけじゃないが、マジに議論する気がある奴はコテにしろ。

議論以前の無限尿が、マジに議論しましょうって、どれだけ馬鹿なんだかw
196唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:24:00.91
>>193 の続き

ここに一つ余分な資料がある『晋書 正始元年 東倭重譚納貢。 』それがこれだ。
この資料がある限り
其年十二月、「制詔親魏倭王卑彌呼。」から、「倭王因使上表答謝恩詔。」につながらない。
つまり 景初3年の卑弥呼の朝貢は、、詔書に対応した行動であり、その時点で親魏倭王卑彌呼
が認められている。だから、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、につなげても
倭王因使上表答謝恩詔。(晋書正始元年東倭重譚納具。)の説明ができない。
卑弥呼が詔書で倭王卑弥呼を認められるから、正始元年の詔書と倭王につながることが出来ない。
倭王は、正始元年に倭王因使上表答謝恩詔(晋書正始元年東倭重譚納具。)。
と同じことを繰り返すのか?
繰り返しの説明ができないから、別人である。
197日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:27:17.29
マトモな奴はおらんのかね
198日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:29:36.58
ただ今、洗脳が解けない基地外の巣窟となっています。
199日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:32:02.49
一つ言えるのは来年の今頃も同じ事言っているんだろうなw

「熊本だー」「東北だー」「キナイセツ詐欺だー」etc…とw

200日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:36:58.10
東北説だけは分からん!
201唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:37:53.15
>一つ言えるのは来年の今頃も同じ事言っているんだろうなw

正解。
バカは死ぬまで治らない。
その一人である。
202日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:43:07.28
>>196
なんかとんでもない解釈で凝り固まってるようだな。
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 18:43:36.20
>>190
えれぇ〜支離滅裂だぞ。><

>太国は数字を考えたが、卑弥呼を阿蘇山深くに隠さねばならない。←魏が卑弥呼を
>倭王位につけることはできない。
コチラがつけるつけないは関係ない。なぜなら、コチラは当時の古代に
生まれてはいない。オマエ脳内は大丈夫か〜〜?

ひどい論理だぞ。これは危ないな。早く精神医に診てもらえ。

どうっしようもないぞ。><

>魏が卑弥呼を倭王位につけることはできない。

これはつけることが出来る。周囲から隔絶された地域に女王国があったこと
は堅い。それは完全に隔絶秘匿されてたものではない。周囲の国と敵味方の
関係があったんだから、少しは周囲と付き合いがあったこととなる。
この情報がなんらかのことから大陸に漏れ出たもので、コチラの論に
不合理はない。だから王位につけうる。
204唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:45:43.48
>なんかとんでもない解釈で凝り固まってるようだな。

これは仕方ない。
自分の編年に同期させる限りこの様な主張となる。
読み方に齟齬があるならば、それを書き込んでくれ。
205日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:46:08.56
彼は、ホツマ真理教に洗脳され、人と会話できない体になってしまいました。
通訳できる人間がいるとも思えません。同情してあげてください>>202
206唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:48:44.14
>ひどい論理だぞ。これは危ないな。早く精神医に診てもらえ。どうっしようもないぞ。><

だから、齟齬があるならば、それを主張せよ。
207太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 18:50:41.56
>それほどにまでして太国倍年も隠さねばならない

別に隠す必要もない。むしろオマエこそ隠してるんではないのか?

隠してないから、鷲崎さんの旧板でコチラの論を詳しく読める。

>退院歴で同じ数字を得る必要がある。

これも必要はない、神皇紀の神武の条にはオマエの関心深い退院歴でなく
太陽暦に変更した旨ある。
208太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 18:52:41.07
>なんかとんでもない解釈で凝り固まってるようだな

厄物た毒書秀魔電に完全の脳内を麻痺されている。
209日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:53:05.41
すげー、太国さん、
通訳なしで唐松山の言語が理解できるんだ!
あれってホツマ語?
210唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 18:56:21.31
>隠してないから、鷲崎さんの旧板でコチラの論を詳しく読める。
=新しく参加した”名無史さん”には説明する義務は無い。
211太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 18:57:36.11
理解できるのは古代マヤ文字。これはかなり読める。いま徹底して研究
しているのがマヤ文字とその暦法だ。
マヤの太陰暦(E,D,C,X,B,A文字暦)は2倍暦法である。

秀魔伝は吾郷先生のが秀訳。
212太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 18:58:41.00
>>210
オマエに言ってるんだよ。
ただ別のスレ民もその余慶にあずかれるのだ。
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:00:32.13
>>209
あれって何のことですか?
214日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:03:47.13
>>213
あれって、唐松山の書き込み全部ですが、特に
脈絡なくバババと書き込んでくる独り言のような書き込みです。
215太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:05:52.80
>>214
いや、分からん箇所も多少ありますよ。
奴は支離滅裂なときがある。
216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:08:28.30
>ただ別のスレ民もその余慶にあずかれるのだ。

このスレの民は関係ない。←というのか?

>理解できるのは古代マヤ文字。これはかなり読める。いま徹底して研究
>しているのがマヤ文字とその暦法だ。
>マヤの太陰暦(E,D,C,X,B,A文字暦)は2倍暦法である。

太国倍年の研究中であれば、その研究中の数字を正しいと出来る根拠を失う。
よって、太国の否定は、仮説を根拠とするが、その根拠に考古学や文献は使われていない。
太国が否定してもこちらは生き残っている。

217日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:10:34.60
>>215
日本語の通じない本人に訊けないから、太国さんにおききしますけど、
彼は卑弥呼と邪馬台(壱)国はどこだと言っているのでしょうか?
水星ですか?火星ですか?
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:11:03.05
>>214さんへ

太国倍年の数字を知っていたら書き込んでください。
太国はその数字をここで発表できないようです。
219太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:11:52.60
>太国倍年の研究中であれば、その研究中の数字を正しいと出来る根拠を失う。

いま書きこんだのは、マヤのことだ。よく内容を読め。

宿主空年の研究中であれば、その研究中の数字を正しいと出来る根拠を失う。
こうなるのか?pp

オマエは後生大事に退院歴をかかえているらしいが、
日食が数日間も継続することも、ここから出てるんだな?
220日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:15:34.96
元大学助手で学芸員やってるやつなら知ってる。
学芸員資格があれば博物館に勤務できる資格はある。
ただ枠が少なく空きがあった時のみの募集なので
博物館に就職するには相当な実力と運、もしくは強力なコネが求められる。
なので学芸員はかなり優秀とみていい。
221日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:18:57.21
>>218
すみませんが、会話の意味が分かりません。
失礼ですが、今世紀に入ってから人と会話出来たことがありますか?
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:22:24.77
>彼は卑弥呼と邪馬台(壱)国はどこだと言っているのでしょうか?

宿主という男はクルクルクルクルご都合によって説を換える。

通常は卑弥呼が九州にいて邪馬台国は畿内だという妄想を主張するか、
畿内でありかつ九州であるという兼用説で、つつかれた内容によって畿内説
を主張したり、たまには九州説にも鞍替えする。

つまり畿内説と九州説と畿内兼九州説のいずれでも主張するデタラメぶり
を発揮してるのである。だいたいは通常だと、いまこちらが説明した説を
ふりかざしている。

つまりこの論に関しては支離滅裂性がひどい。

ご都合というのは必ず卑弥呼が景行の年代であり景行が初代日本の大王
だということを、これだけは絶対曲げないで隠しながらこのご都合に
かなうように畿内九州兼用の三つをカメレオンの体表の如く置き換える。

さらに4世紀ころの畿内は五重在位という世界最高級かと想いたく
なる噴飯説を言うがww、これを奴はコソコソと基地外だと想われると
考えてるのか、たまにこの本音の正体を見せて論じる。
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:24:10.47
宿主空年の41年を知っていたら書き込んでください。
宿主はその神武即位数字をここで発表できないようです。
224唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:24:39.47
>>221

お願いは。
太国倍年の数字を知っていたら書き込んでください。
知らないの?

今は、焼酎。
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:29:39.54
お願いは。
宿主空年の41年以下、年代数字を知っていたら書き込んでください。
知らないの?
226唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:31:18.84
>宿主空年の41年を知っていたら書き込んでください。

神武元年は、弥生X式土器の始まりで説明できる。
しかし、神武が単独で大和に入植しただけでは説明できないほど大きな動きである。
ここを西暦42年とする文献は無い。
だから、考古学に頼るしか方法は無いが、太国が主張する紀元1年にはさらに方法が無い。
227日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:31:20.14
>>222

太国さん、解説をありがとうございました。
ということは、彼の正常な判断力はカラ(唐)っぽで、
言説は「松」のようにグニャグニャ曲がって定まらず、
頭には妄想が山ほど詰まっているということですね。
228太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:33:07.18
いやはや宿主は脳内が危ない状態にある。
かなり前から
229日本@名無史さん:2012/01/03(火) 19:33:41.04
>>224
意味が分からないので、もう一度お聞きします。
今世紀に入って、人と会話したことがありますか?
そのとき会話が成立しましたか?
230太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:35:31.26
いやはや宿主は脳内が危ない状態にある。
かなり前から診療を受けるように忠告しているが、行ってるのか、どう
なんだろうね?

貴殿からも忠告してやってほしい。
彼はホツマ真離教に脳内を洗脳されており、つまり魔院度・コントロール
されっぱなしなんだよ。
231太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:36:55.27
>ここを西暦42年とする文献は無い。
文献がないなら退院歴退院歴と振りかざす前にだまってろ。
232太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:46:27.85
>>227
そういうことになりますね。

奴は景行を超誇大視しており、コレだけは頑として変えることはありません。

こうすることにより、秀魔電の超カリスマ性を持ち上げようとたくらんで
いるということです。
233唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:48:32.33
>>231
>ここを西暦42年とする文献は無い。

当然西暦1年 (西漢平帝元始元年 ?次:辛酉 生肖:? 西元1年2月11日(星期六)起)
とする文献もない。
神武元年を西暦1年と主張するためには、
元年1月己未朔 が神武元年とどう整合するのか説明が必要である。
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:53:51.77
>神武元年を西暦1年と主張するためには、
元年1月己未朔 が神武元年とどう整合するのか説明が必要である。

それは41年も同じだねぇ。ただしそれがオマエの言いたいらしい干支に適合
する具体的論をも必要とする。

どうせ出来ないだろう。いまだかつて無いからな。こちらはすでに年表
を過去に具体的にかきこんでいる。最後はオマエに見せた成務年表だな。
235太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:55:16.39
文献がないなら退院歴退院歴退院歴と〜〜振りかざす前にだまってろ。
236唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:57:34.24
>>227>>232 のヤラセであることは、太国倍年を表記できないことで明白となる。
太国よ
ここでその、太国倍年を表記できないのか?
出来ないのであれば、それを表記したことのある??(だれかのホームページ)だけで主張するのが
正しい。
だからここによりつく必要は無い。
237太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:57:44.03
>成務天皇 262年〜265年←ウソ ↓ 57年の空年なんぞどこにも無い
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
238おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/03(火) 19:58:04.94
新年の挨拶をと思いましたが驚きました。年末から年始にかけては普通であれば忙しくしているものですが、ここの書き込みは
凄かったですね。ほかにやる事がなかったんだななどと勘ぐったりはしませんが、ともかくも皆様が無事に年を越せたことをお
喜び申し上げます。

ざっと目を通しただけですが、畿内説ボケ老人クラブ会長殿が夢幻如氏を相手に正論を述べていましたね。立派でした。以後も
その調子で頑張って下さい。

独善的夢幻如説に対して、誰かが「水行1日=千里が常識ならば不彌国から水行二十日(=2万里)+水行十日(=1万里)だけ
で3万里となり、自郡至女王國萬二千餘里という記述と齟齬を来す」と指摘していましたね。陳寿がこんな単純な計算もできな
いアホな記述をした筈がないという訳です。

そうですよね。自郡至女王國萬二千餘里は行程記述の結びの文ですからこれが正確な里数であろうと大雑把なものであろうと、
郡から女王国までの里数は萬二千餘里であるというのが陳寿の認識です。したがって、水行二十日+水行十日が3万里を表すも
のではない(水行日数は距離に関係ない)というのが陳寿の意図である と読み取らねばなりません。夢幻如氏は読めていませ
んね。



239太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 19:58:52.19
やらせはオマエの特技ではないか?ppp・・・
240唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:59:29.67
>文献がないなら退院歴退院歴退院歴と〜〜振りかざす前にだまってろ。

太国の主張する時代を正しいと出来る文献が無いんだがどうすんの?
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:07:49.35
ホ33028      ミホナヅキ シギミヅカキに 崇神3年
ホ33029      ニイミヤコ ヨホメスエミカ 崇神4年
ホ33030      ミコトのり ミオヤのさづく
ホ33031      ミグサモノ クニトコタチは
ホ33032      カンオシテ アマテルカミは
ホ33033      ヤタカガミ ヲヲクニタマは
ホ33034      ヤヱガキと つねにまつりて
ホ33035      ミトカミと キはとほからず
ホ33036      トノユカも ウツハもともに
ホ33037      すみきたる やゝイヅをそれ
ホ33038      やすからず アマテルカミは
ホ33039      カサヌヒに トヨスキヒメに
ホ33040      まつらしむ ヲヲクニタマは
ホ33041      ヌナギヒメ ヤヤへのサトに
ホ33042      まつらしむ イシコリドメの
ホ33043      マゴカガミ アメヒトカミの 鏡
ホ33044      マコツルギ さらにつくらせ 新につくらせ、

神武4年であれば、5,6年の飢饉にあわずに鏡を作ったと出来る。

崇神6年に造ったのであれば、この年の出来事を説明できねばならない。

太国は「説明できる」と主張しても、この1年間の出来事を説明したことが無い。

4年より6年の方が整合性があると主張できない 太国。

242唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:14:27.42
>>237
かわいそうに
それを、正しいという文献をそろえてくれ。
243唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:19:36.19
>>237
しかもだ、>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
これは、九州であり大和は関係ない。とも主張している。
であるならば、その関係ない千如寺(福岡佐賀県境)で、成務48年を記録する必要がある。
その暦法を数字と共に書き込んでくれ。
これが出来ないならば、太国倍年は存在できない。
かわいそうに

244日本@名無史さん:2012/01/03(火) 20:22:06.89
>>233
神武元年を西暦元年に合わせるなんて、それこそ信用ならないw

あと、神武皇統の世代間はかなり短かったと認識しないと無理がある。
ってのは、神武皇統の系図は、諸豪族や神武皇統の分家氏族との
世代間のずれが多く起こっている。
たとえば、神武の7代目の子孫と、神武と同世代の豪族の4代目の子孫が
同じくらいの年齢みたいなことが、よく起こっている。
ということは、この時代は結婚が早く子供が出来るのも早かったので
甥よりも叔父のほうが年下みたいなことが、頻発していたとも思われる。
そういう風に考えたら、神武天皇は実在したとしても
西暦中ごろくらいの人物の可能性が高い。
245唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:50:46.53
>神武元年を西暦元年に合わせるなんて、それこそ信用ならないw

当然だ、日々の干支は1日につき一つで60進数で表せる。
この数字に日本書紀の干支を合わせねばならない。が最初の設定。
この干支を書き換えるための主張が”倍年”には無い。
だから、倍年がいくら”後付”を主張しても、書記の数字を得ることはできない。
書記の数字を得るためには、空白年の差し込み(それだけの日々の干支を差し込む)
これで、正しい数字に変換することは、ほとんど不可能。
逆に言えば、同一と出来る日時(太陰暦)はかなりの確率で再現できる。
だから、意味も確認できないような数字を私が書き込むことがあったが、
ふとは、その計算された年度さえ、今書き込むことが出来ない。
そのむかしこの数字を書き込んだ太国は、全員から拒否反応を受けた。
いまさら、ここで皆から拒否反応のアラシとなるすうじを書き込む気は無い。
だから、太国と私の因縁(太国が私の数字を拒否するその根源)が太国倍年にあることを隠す
ためである。
”倍年”=書記の季節・日付=1年の長さ(日々の干支から得られる)を否定しても
記事は、書記の主張する”1年”を否定することが出来ない。
崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子《廿七》◆壬子。大彦命到於和珥坂上。
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月。悉平襲國。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲
景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑《二》◆冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。

この数字を否定するためには、兵農分離が弥生時代から存在していた。とする読み方が必要である。
246唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:55:07.62
>神武皇統の世代間はかなり短かったと認識しないと無理がある。

書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=6940日が基本=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。近江伊勢遺跡。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇   〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章 吉備方面に軍を派遣。
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 天日矛の来邦 山陰に鉄?
開化天皇 184年〜187年 ≒3章-1年 1、2年の異常? 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=三国遺事541年で建国330年=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
鉄輸入権・配布権掌握を主要因とする大和政権。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。
247年? 景行12年 九州平定へ。
252年? 景行20年 五百野姫=壹與
255年 景行27年 日本武尊の九州
256年 景行40年 日本武尊の関東 倭国統一なる。遠国をまとめる為「魏の屯田手法」導入。
260年頃(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く。
247唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 20:59:50.57
>>244
>>246 の世継ぎで、”世継ぎ19歳”程度である。
だから、この世継ぎより短くするためには、さらに、兄弟間の世継ぎも認めなくてはならない。
248日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:17:13.62
249日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:31:03.57
<唐松VS太国>みたいに<森村伊作VS無限如>も定番化すんのかな?w 
250夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 21:49:10.58
>>249
それでもいいんじゃないか プ
ま、伊作はそのうち尻尾巻いて逃げ出すがな。

とりあえず複数ソースなど言ってる馬鹿名無しは無視でターゲットは伊作一本。
251日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:52:43.17
ていうか、夢幻如が誰からも相手にされてないだろw
252日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:57:26.70
夢幻如と19歳名古屋ほど、相手にされないのも珍しい。

大抵、部分的には見るものがあったりするものだが。
253日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:04:19.16
19歳は底浅いし、夢幻尿は単にデタラメを並べてるだけ
254日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:05:15.71
>>252
まあ、あの2匹に関しては知能レベルが知能レベルなんで無理もありませんが。
255太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:07:05.46
>太国の主張する時代を正しいと出来る文献が無いんだがどうすんの?

いくらでもあるぜ。
あるもの無いというのがいつもオマエの言い草だからな。
空年こそ、まともなのをただの一度例示したことがないのがオマエだよ。

つまりオマエはいつもこちらの言うセリフを先に言ってちょろまかすのが
常套手段だからな。ww

ところでオマエの後生大事に抱えている退院歴とやらで、日食が数日間も
続く〜とかを言い張っているが、オマエの通っているんだろう精神科医は
何ととこれに対しオマエにアドバイスをしてくれてるのか〜〜?
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:11:00.40
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。

なお毒書ホツマはそんじょそこいらのタダのオッサン
が恣意的妄想を注入して書いた危険史想の書である。

>神武4年であれば、5,6年の飢饉にあわずに鏡を作ったと出来る。
出来る説明がまるでゼロ。ww
257太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:13:00.07
>>242 唐松山君 ↓ どれどれどこに57年分の正しいという空年があるの??
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
258夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:13:51.34
1.「到、至」から最初の使者は伊都国までしか行っていない。
2.観察記述の伊都国を境にした消滅。ここからも使者は伊都国までしか行っていないとする。
3.距離表記が里程から時間表記に切り替わる。最初の使者が邪馬台国へ行ってない証拠。
4.これは傍証だが「持衰」の存在。

以上四点が、最初の使者=先遣調査隊 が邪馬台国まで行っていないとする理由だ。
説明はした。
さて伊作、これからやる俺の質問に逃げずに答えろ。
259夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:15:09.91
まず1の「到、至」だ。
これを俺は筑紫何とかが出した学者の
至るは「〜まで」到るは「到着する」という説もあるが、から論を張った。
これに対し「至」はこういう用法で使われていると言ってきた者がいたから、それは認めた。
「至」に到着するという意味、さらに「到」以上に汎用性があることも認めた。
その上で、なぜ国、行程紹介の短文の中で多くの「至」がある中で二ヶ所だけ「到」なのか。
全部「至」で済むはずが二ヶ所だけ「到」であるのは
これだけが「目的地に到着する意味で使われている」からが俺の推論だ。

@二ヶ所だけ「到」である理由を合理的に説明しろ

2.観察記述。行ってないから書けてない。これが俺の論。

A邪馬台国はさておき、奴国、不弥国、投馬国に対馬国などに記された観察記述がない理由を言え。

3.距離表記の切り替わり。
伊都国までは実測。奴国、不弥国は伝聞だが近隣だから修辞で正確に示せる。
投馬国、邪馬台国は修辞では表しきれないから伝聞そのまま。これが俺の論。

B投馬国にも邪馬台国にも実際に行っていれば里程表記になるはずがなっていない。
 これに合理的な説明をつけろ。

C「持衰」についてもコメントしな。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:16:21.67
唐松山君

頑張っても〜
成務48年は足仲彦尊の立太子年だぜ。48年は崩れないんだぜ。

泣いてやろうか〜??
261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 22:18:16.08
>太国の主張する時代を正しいと出来る文献が無いんだがどうすんの?
>いくらでもあるぜ。
>>257  がその証拠と言いたいんだろ?

だったら、それを太国倍年に割り当てて
これが太国倍年だ〜と主張するべきだな。

で、それは、西暦何年なの?
262夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:18:48.79
>>251-253
sageたりageたりで誰かさんの自演かな プ
論を張れず俺から逃げたいなら最初から出てくるな。糞ゴミ ペッ!
263日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:24:25.32
>>262

>論を張れず俺から逃げたいなら

偉そうな言い方は、まともな自論が持てるようになってから言え。
264夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:24:45.72
とりあえず、伊作の回答待ちにしておく。

別格の論客さんよ、「天才」で「論客」を名乗るなら逃げるなよ。
おめえはただのオタクだ。
言われたら言われっ放しじゃ済まさないんだったよな、言い返してきなよ プ

論客つーのは俺のことだ ワラ
265日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:25:28.62
と言うか 無限尿と 一番噛み合うのは ゴミ村伊作 だろうなw

大方の畿内説にとって無限尿が必死に東北説を主張しても
「あああるほどそう言う読み方もできますね」
で終わり。

仮に無限尿が本でも出してプロモかけて大々的に売り出しても
大方の学者も同じような反応なんじゃないかな?

森村伊作  とかは熊本説で譲らないと言う姿勢なのだからそれこそ不倶戴天w

自分か相手かどちらかが倒れるまでどつきあえるとw
 
266夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:27:26.30
>>263
俺の論がまともに見えないなら簡単に論破出来るだろうが、やってみろ。
糞名無しは誰かさんの誹謗中傷かもしれんから今後は相手にしない。

俺に突っ込みたいならコテ張って堂々と来い。
俺は逃げも隠れもしねえよ。
267日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:28:55.32
>>266
お前のは論になってないのに、どうやって論破するんだよw
268夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:29:49.91
>>265
馬鹿頭、畿内説もやり直して木っ端微塵にしてやるから待っとけ。
意味ないレスでぎゃあぎゃあ喚くな。

お前もコテは無理か プ
269太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:31:07.97
>神武元年を西暦元年に合わせるなんて、それこそ信用ならないw

神武元年は西暦元年ですよ。

一寸その跡形らしいものを掲げれば、紀元元年もB.C.660年も同一干支の
辛酉ですよ。つまり真の年代から660年も古くなっているのです。これは
紀の編者らが倍暦に未知で紀を損なわずに完成しようとして困惑して
しまい、辛酉は確かだとしてB.C.660年にしてしまったと観ていいで
しょう。41年じゃぁ辛酉になりませんよ。ww

あとは漢書王莽伝の紀元5年の国珍を奉じた東夷の王が神武ですよ。
新たに初代として即位したので、大陸に働きかけたということです。
270日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:32:09.66
無限尿の根拠

1:新潟の宣伝をしたいから新潟経由で行く場所に邪馬台国を持っていく
2:ヤマタイ=ハチマンタイのゴロ合わせを鯨統一郎からパクッて邪馬台国八幡平説にした

 → こんなバカ話、いったいどこを論破すりゃいいんだい?
271夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:33:01.53
>>267
お前は終了だな プ
最初の使者は伊都国までしか行っていない。
九州に邪馬台国が存在するならこれはあり得ない。よって九州説は成り立たない。

というのに反論不能でお前はお終い。さよなら ゲラ
272日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:34:52.09
ヤマタイ=ハチマンタイの低能ゴロ合わせに、どうやって反論すりゃいいの?
273太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:37:31.34
>当然だ、日々の干支は1日につき一つで60進数で表せる。
>この数字に日本書紀の干支を合わせねばならない。が最初の設定。

これが美濃もん太氏があざけ笑う○ンマな手法。現今の古文献では、
日数干支の突合せは不可能事。まるで地球から火星を望遠鏡で見るのが
一般的相当の方法だが、この火星を地球から顕微鏡で見るんだといって
るのと同然の○ンマな考え。ちいとも当然ではない。pupupu・・・

出来っこないから、いまだ抽象数字の羅列で出来たふりのカモフラージュ
をしてるのがこの○ンマな主張。ww
274太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:40:42.45
>>244君よ。ホ〜レ ↓ >成務天皇 262年〜265年が大ウソだと明確に判明
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
275夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:42:37.42
馬鹿名無し叩くの大好きな俺が我慢して回答待ちしてるんだからよ。

天才で論客な伊作ちゃん、コテ張ってトリップつけて逃げずに対峙しな。
突っ込みはわかりやすいように箇条書きにしてやったんだ。
回答は明確に、具体的に箇条書きに沿ってやれよ。

老婆心だろうがトリップのつけ方を教えてやる。
名前のあとに半角#、その後に半角なら12文字、全角なら6文字
アルファベットでも数字でも漢字でも平仮名でも何でもいいから入れればいい。
これでトリップが出来る。この12文字ないし6文字が自分だけが知る暗号だ。
他人が成り済ますことを防ぐ意味でこれがある。
ころころHN変えるような姑息なことをせずコテ、トリップでかかってきな。
276太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:45:19.64
>>257  がその証拠と言いたいんだろ?

だったら、それを宿主空年に割り当てて
ここが宿主空年だ〜と主張するべきだな。

で、空年57年は、西暦何年なの? →>>257のどのへんが空年なの?
277日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:45:28.44
倭地は温暖なんですよ。凍え死ぬような八幡平に、邪馬台国はありません。
そんな結論しか出ないなら、自分の考えが抜本的に間違っていると知るべきです。
278夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:48:51.44
>>272
今は比定はやっていない。九州説の否定、わかるか?糞頭。

>>277
説明済み。ループ馬鹿にも用はなし ゲラ
279夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:51:48.89
阿呆相手は楽しくて仕方ないがキリがなくなる。
馬鹿名無し相手も一旦切り上げ。

伊作、逃げるなよな。
お前が回答するまで小休止だ。あとは明日にするか。
280太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:55:07.13
崇神天皇×188年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に不対応・・・

垂仁天皇×217年〜239年・・・。

景初3年 ×・・・・・ ×→伊支馬=イクメ=垂仁
281日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:56:34.39
>無限如◆vaujymvCDcV.

↓ここで思いっきりやれ

誹謗と批判に答える掲示板(伊作の避難場所)
http://8234.teacup.com/isaq/bbs
282太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 22:57:56.52
>仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)

再度聞くが〜
ところでオマエの後生大事に抱えている退院歴とやらで、日食が数日間も
続く〜とかを言い張っているが、オマエの通っているんだろう精神科医は
何ととこれに対しオマエにアドバイスをしてくれてるのか〜〜?
283夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 22:58:34.91
>>280
お前も俺から逃げたヘタレだったよな。
俺は九州説を否定してるんだぜ。
否定されても反論出来ずの馬鹿がレス消費すんじゃねえよ。引っ込め。
284夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/03(火) 23:02:30.16
>>281
断る。
俺は十年以上あるコテを通した ちゃねらー だ。
ここの話はここでのみ決着させる。文句たれるな。

落ちるぜ、眠くなってきた。
日頃の寝不足を解消しなきゃならんしな。
285太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 23:02:47.11
>>283
プハッハハ・・・

オマエも精神病院で診てもらえ。pupupupu・・・

オマエのは超トンデモだ。そして妄想度は宿主の次番手だな。ww

泣け。東北も火星もエジプトも精神病院がご歓迎だ。bubububu・・・
286太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 23:13:08.73
>>283
オマエも俺から逃げたフタレだったよな。

オマエには十枚落ちでいい〜。王と歩1枚でもいいだろう。ww

歩を垂らしてオマエは雪隠詰めだ〜。

 雪隠で大クソでもしてろ。

ただいま夢幻如は「逃走中」

〜〜そこへハンター ←8日にまたTVでやるそうだな。オマエも逃走!!
287太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 23:14:13.12
セッチン詰め野郎はただいま 〜「逃走中」
288唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 23:29:34.24
>紀元元年もB.C.660年も同一干支の辛酉ですよ。

日々の干支は誤りを主張している。
289日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:29:56.95
>>278
おまえのは説明になってないよw
290日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:34:02.50
無限尿はいつにも増して攻撃的だなw
嫌な事でも有ったのかな
291日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:37:49.30
寂しい正月だったんじゃないかなw
292日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:14:57.11
>>290
と言うか無限尿いわく本人は十年来のちゃねらーらしいが
こう言う勢いの良いバカコテって昔の2ちゃんねるにはどの板にでもいたような気がするw

やっぱ2ちゃん全体が高齢化して丸くなってるってことなんだろうか?w

で、たまにこの無限尿みたいな永遠の16歳、万年厨房、とんがったおっさんがいるとwww
293日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:20:33.75
ジジゴラ
294唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 00:38:51.63
>>286 >>287
今年は、ただの荒らしでゆくのか〜?
295日本@名無史さん:2012/01/04(水) 01:29:30.19
>>250
> 複数ソースなど言ってる

夢幻如は、「伊都国までの部分」は「先遣調査隊自身の見聞」であり、「奴国以降の部分」は「倭人からの伝聞」だと言っている。
つまり、夢幻如も実は複数ソースだと言っているのだ。

「伊都国までの部分」と「奴国以降の部分」は書き方・内容が異なり明らかに区別でき、別ソースによるものだと思われる。
夢幻如は、それを先遣調査隊がまとめて報告し、その記録が残って「倭人伝」の原資料となった、と考える。
私的には、別々のソースがそれぞれ記録に残り、それらを原資料として入手した編者によってまとめられた、と考える。

したがって、「複数ソース」というのは妥当な考えである。

問題になるのは「複数ソース」ではなく、それを「誰がまとめたか」ということだ。

夢幻如は「到」と「至」が書き分けられているから「先遣調査隊」がまとめたものだと言う。
しかし「伊都国までの部分」と「奴国以降の部分」は別記録だとみるから、書き分けられているのではない。
「到」と「至」は同じ意味であり、ひとつの決まりにしたがって使い分けされるものではないからだ。
そこからは「先遣調査隊」などというものは出てこない。
296日本@名無史さん:2012/01/04(水) 01:29:59.83
>>250
「先遣調査隊」など実在しないという理由は、その調査の中身にリアリティがないからだ。
糸島からほぼ等距離の、唐津までと福岡までを五百里と百里と報告するのはおかしい、と言うと「実距離ではなく修辞だ」と言う。
「実距離を報告しない、修辞で報告書を書く先遣調査隊」など、さらにおかしい、と言うと
「隣接するものは百里、隣接しないがごく近いところは五百里」という「書き手、読み手が相互理解できる修辞」があるのだときた。

つじつまを合わせるためには「先遣調査隊」だの「相互理解できる修辞」だのといった架空を平気でもち出すようだ。
「隣接するものは百里、隣接しないがごく近いところは五百里という書き手、読み手が相互理解できる修辞」
で書かれた実例、もしくは、その修辞が類推できる類例でも出してもらいたいとこだが、それはともかく。

その「書き手、読み手が相互理解できる修辞」によると、末盧国は伊都国の「隣接しないがごく近いところ」になるわけだ。
「先遣調査隊」とやらは末盧国と伊都国は隣接しないと認識して、そう報告した。
それだけでも不正確な報告だと思うが、末盧国と伊都国が「隣接しない」なら、その間にはなにがあるのだろうか?
そして「先遣調査隊」が末盧国と伊都国の間にある「国?」を報告しなかったのはどうしてか?
架空の「先遣調査隊」の謎はますます深まるのであった。

ところで
>>122
> 伊都国は五百里、奴国、不弥国は百里となってるが、これは修辞だ。隣接するものは百里、隣接しないがごく近いところは五百里。
>>128
> 行った伊都国までは正確に方角も距離も報告し、近隣諸国は書き手、読み手が相互理解できる修辞で報告している。

五百里は“修辞”なのか“正確な距離”なのかどっちなんだ。自分でなにを書いているのか、わけわかんなくなってるようだが。
“修辞”が後付けのつじつま合わせだと思われても仕方がない。
297日本@名無史さん:2012/01/04(水) 02:57:18.23
この時代は明確な国境が線引きされていたわけではないだろうから、
ある国に属する集落から隣の国に属する集落までのおおよその距離じゃないのかな
唐津までと福岡までを糸島からほぼ等距離とは言えないな
末盧国と伊都国の間に国があったわけではなく、糸島から唐津間にはまとまった集落がなかったのだろう
いずれにしても地図上で直線距離で測った距離とはかなり違うだろう
298日本@名無史さん:2012/01/04(水) 09:04:00.72
>>271
>最初の使者は伊都国までしか行っていない。
>九州に邪馬台国が存在するならこれはあり得ない。

またもや得意の独善勝手解釈か
先遣調査隊だったらむしろ邪馬台国まで行ってないとおかしいだろ
何の為の調査隊だよw
仮に伊都国までしか行っていないとしても、何で
>九州に邪馬台国が存在するならこれはあり得ない。となるんだよ
調査隊なのに伊都国までしか行っていないんだとしたら、何らかのアクシデントで以降の国に行けなくなったと考える方が自然だろ
全て九州説否定ありきの絵空事
299日本@名無史さん:2012/01/04(水) 09:06:49.11
ガキの使い以下だなw
300夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 09:39:18.84
基本、名無しは無視していく。話があちこち飛びすぎてボケてしまうからな。
常にターゲットは一つにして話していかないとメチャメチャになる。
で、今は伊作をロックオンしてるんだが出てこない プ
その間だけ暇つぶし。

>>296
>末盧国と伊都国が「隣接しない」なら、その間にはなにがあるのだろうか?
 そして「先遣調査隊」が末盧国と伊都国の間にある「国?」を報告しなかったのはどうしてか?

>>297が言ってるように何もなかったと言うのが自然だろ。
ここでいう「国」とは「国邑」だ。実質は町か村規模だ。
おそらく塀や柵のようなもので囲われていたのだろう。
こんなものが国から国の間に隙間なくびっしり並んでるはずがないわ。

>五百里は“修辞”なのか“正確な距離”なのかどっちなんだ。

修辞だと何回言えば理解できるのかね?
そもそも旅行というか、ただ歩いただけで正確な距離など測れない。
歩測を言ってきた奴もいたが、それでも直線距離は出せない。
出せないものを無理やり実距離で表そうとすれば「あてずっぽう」しかなく
かえって不正確な情報になってしまう。
だから修辞で距離を感覚的に表現する。これで必要十分な情報にはなる。
修辞は不正確、ではないからな。
アバウトなだけで不正確ではなく、読み手も感覚的には十分正確に把握できるものだ。

ま、こんな感じで名無しレスにも反応するが
伊作が出てきたら途中だろうがなんだろうが中断あるいは終了させる。
継続して俺に突っ込んできたいならコテでこい。
名無しはまともに扱わないから、そのつもりで。
301夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 09:56:23.05
>>298
学問板で意見を言うにもコテになれない糞名無しが、またループか プ

朝貢を言ってきた国に正式な正使を出さねばならないが、相手は蛮国だ。
倭国が蛮国であることは彼らにとって微塵も疑うことがない確定事項だから
正式調査無しで正使など出せるはずがない。
しかし正使を出すのに馬鹿みたいに期間を空けるわけにはいかないから
調査には時間的制約はある。
郡使などの報告から邪馬台国が遠隔地とわかっていれば
時間的制約内で行けるところまで行き、途中で出来るだけ倭国の情報を集め
行けない所は伝聞情報を集めて来いと指示する。何が不思議よ?

九州内に邪馬台国があるなら調査隊は当然そこまで行く。
しかし、考察したように行ってるという証拠は何もない。
行ってないという証拠しかない。
九州には邪馬台国はなかった。これはこれらからの当然の帰結だ。

邪馬台国が九州にあるならな、最初の使者が調査隊で正使でなくとも一直線に向うはずだろ。
対馬や壱岐で時間を潰す理由はない。
九州にはなかったから行ける範囲、時間が許す範囲で倭国情報を収集した
というのが一番自然な解釈よ。
30219歳某国立大生:2012/01/04(水) 10:12:04.95
少しだけ読んだが、単純に帯方郡が公孫氏政権に属していた際に
邪馬台国と交流があり、その時の記録が帯方郡に残されていただけだろう。
それを魏が帯方郡を接収したとき手にしたにすぎない。
3世紀初頭製造の画文帯神獣鏡や、公孫度が遼東大守に任じられた際に
下賜されたであろう中平刀が近畿から出土しているので、
公孫氏政権の使者が倭国に来た可能性は高いだろう。
それ+魏の使者も倭国にきて記録をとっているので、
倭人伝と言うのはそうした記録を陳寿がまとめたものにすぎない。
303日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:14:51.45
>>301 無限尿

矛盾。

>しかし正使を出すのに馬鹿みたいに期間を空けるわけにはいかないから
>調査には時間的制約はある。

そもそもその時点では朝貢を受け入れるかどうかはまだ保留の筈だ。
既にGOサインを出していたなら時間制約もあるだろうが
それが出せるかどうかを調べる為の先遣隊。
それに時間制約がかかる道理が分からんなw

あ、「名無し」なんで無視してもらって良いぞゴミカスw

304夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 10:16:30.07
史料馬鹿で史料以外からの時代考察が出来ない伊作が避けて通る中華思想の初歩でも
暇つぶしに話そうかね。

中国こそ世界の中心で華であり、我々に帰順しない周辺諸国はすべて糞国というのが中華思想だ。
ご丁寧に東西南北にそれぞれ蔑称までつけ自分らの優位性を強調する。
東西南北につける蔑称を四夷という。倭国がある東は東夷だな。
他に北狄,西戎,南蛮となる。
これは傲慢で不遜な自惚れ中国にとって「そうかもしれない」という可能性ではなく
周辺国はすべて野蛮な後進国というのは確定事項だ。これを微塵も疑ってはいない。
まあ実際に交流が始まればそれなりに相手を評価しているが、正式交流がないうちは
相手がどこでも野蛮で、知恵遅れで、人でなしで、無学な馬鹿としか見ていない。
この中華思想を踏まえてないと古代中国は理解できない。
305夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 10:21:39.32
>>303
伊作が出てこないから(逃げた? プ)暇つぶししてやるよ。

>そもそもその時点では朝貢を受け入れるかどうかはまだ保留の筈だ。

保留なら尚更時間的制約はきつくなるだろうが。
家来にしてくださいという国の申し出をいつまでも放ったらかしには出来まい。
決定を下さねばならない。
柵封体制を維持するには申し出に対し決定は速やかじゃなきゃならないのは当然だべ。
306日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:25:13.62
>>301
相変わらず脳内ストーリーてんこ盛りだな

「遠隔地」かどうかの判断基準は何?
あと「時間的制約」ってのは具体的にどれ位の期間?
根拠も含めて説明してみ
30719歳某国立大生:2012/01/04(水) 10:25:15.86
いくら伊作の爺さんがアホでもそれくらいはわかってるだろうw
そもそも卑弥呼に対し制詔するという表現も格下の蛮夷の王に
使う蔑んだ表現であり、金印を仮授するという表現もとりあえず
仮にくれてやるという上から目線の表現。
倭国の評価など所詮そんなもん。
308日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:27:18.93
しかしこの 無限尿 とか言う阿呆は二言目には「中華思想」だが
流石にこの板の人間なら今更そんな事を得意げに語ってもらっても鬱陶しいだけだろうなw

そもそも例えそれが現実の地理と全く違う物であっても
時代を通して常に「南北に伸びる」と言う形を変わらずに持ち続けていたなら
それはそれで関心を寄せていたんだろう。

むしろ「入り口」が九州北部であとは東西に伸びていようが南北に伸びていようがお構いなし
…ぐらいのほうが「中華思想」似つかわしいと思うが、まあこの辺は水掛け論だろうがw



309太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 10:27:18.87
>太国の否定は、仮説を根拠とするが、その根拠に考古学や文献は使われていない
嘘を言うな。考古は239年鏡で論じ、文献は紀↓経、神皇紀等使用している。

書紀の主張は空日であって ↓ 成務の年表からも空年ではない。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
 1日 4  15日 空
 2日 2  16日 空
 3日 3  17日 空
 4日 3  18日 空
 5日 6  19日 空
 6日 3  20日 空
 7日 2  21日 空
 8日 3  22日 空
 9日 3  23日 空
 10日 1   24日 空
 11日 4   25日 空
 12日 3   26日 空
 13日 3   27日 空
 14日 7   28日 空
         29日 空
         30日 空
31019歳某国立大生:2012/01/04(水) 10:28:07.94
>>188
>ローガン氏
貴重な資料提供してくださり感謝します。
ついでに景初2年12月にも景初3年12月にも皇帝と倭国の使者との接見記録がない
のはなぜでしょうか?個人的には後者の説をとっておりますので
摂政である曹爽が対応してすませたと考えているのですが。
311日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:32:06.52
>>305 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)

アホだろう?お前w

そんな「見切り発車」してあとでやっぱり「朝貢受けるべきじゃなかった」なんてなったらどうすんだ?
相手は基本蛮国でしかも今まで付き合いの無い地域なんだぞ?

自称元シャチョさんは審査も済まない前に取引をするのか?契約するのか?

脳味噌使えゴミカス。

あこれも「名無し」なんで無視してもらって良いぞゴミカスw

312日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:36:22.07
つーか先遣調査隊wは伊都国までしか行ってない、という説を採用しても九州説は否定されないな
「何らかのアクシデントで以降の国に行けなくなった」でも説明が付くから
無限ちゃんもういいや
313日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:38:44.33
>>312
>「何らかのアクシデントで以降の国に行けなくなった」でも説明が付くから

例えば魏で邪馬台国の朝貢をすぐさま受けるべきと言う「前倒し」が起きて
先遣隊に「もうええから引き上げてこいや」と言う指令が下ったと言うのはどうか?w
314夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 10:53:41.64
中華思想なんて誰でも知っている、と言いながら
これを踏まえていない話が大半なのはなぜだろうねえ?

伊作は倭国発見が一大事で、調査は国を挙げての文化事業だと言ったが
んなはずは絶対にない。
これは正確な地図を作っていないことでわかると前に言った。
他でもわかるぜ。柵封体制からみても倭国は軽視されている。

卑弥呼は共立されたに過ぎない王で、実力で倭国を統一したわけではない。
属さない国も多数あり統一も出来てなく、基盤は磐石ではない。
だから絶対的力を持つ後ろ盾が必要で魏の柵封に組み込まれる選択をしたのだろう。
宗主国に対して属国になるわけだが、国内体制維持には絶大な後ろ盾になるはずだからな。
宗主国は属国を家来にし自国の版図に加え、勢力拡大する代わりに
この属国が何かの敵と戦う時はこれを助けてやるというのが決まりだ。
属国が武力介入されたら宗主国が武力を持ってこれを撃退する。これが本来だ。
だが魏は卑弥呼に対しこれをやっていない。
窮地に立っている卑弥呼に対し軍監のような人物を送り込んだり旗を贈ってはいるが
軍を派遣していない。これじゃ柵封など意味がなくなる。
黄色い旗も武器ではないから敵を駆逐できるわけじゃないしな。
明治維新の官軍の錦の御旗とは根本的に意味が違う。
敵にすればこんなものはただの飾りでしかない。
この程度で柵封もお茶を濁されている。倭国は徹底的に軽視されていたと見るべきだ。

この軽視されているという事実を忘れて魏志倭人伝を読むと迷路になるわけよ。
315森村伊作 先生 リングの上で無限尿がお待ちです:2012/01/04(水) 10:53:45.73
つかみかけた 熱い腕を
ふりほどいて伊作は出てゆく
わずかに震える 白いガウンに
君の年老いた 悲しみを見た
2ちゃんに向かう 長い廊下で
何故だか急に 君は立止まり
ふりむきざまに 俺にこぶしを見せて
寂しそうに笑った
やがて名無史とコテハンの怒号が
ひとりの男を のみこんで行った
(You're king of kings)
立ち上がれ もう一度その足で
立ち上がれ 命の炎燃やせ
316太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 10:55:22.33
>>244

【神武元年からの編年表】 西暦は見かけの年代 倍暦は実年代

皇紀西暦 倍暦
元 -660  元 神武天皇 即位 辛酉(倍暦干支)
2 -659
3 -658
4 -657  2
5 -656
6 -655
7 -654  3
8 -653
9 -652
10 -651  4
11 -650
12 -649
13 -648  5 元始5年 東夷の王(神武) 大陸に国珍を奉ず
14 -647
15 -646
16 -645  6
・・・・・・・
28 -633  10
29 -632     神沼河耳尊 誕生
30 -631
31 -630  11
・・・・・・・
40 -621  14 王莽貨幣鋳造
41 -620
42 -619    神沼河耳尊 立太子
43 -618  15
317日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:00:41.61
>>301
それだともう「邪馬台国は遠隔地にある」という結論が前提となる循環論法になっちゃってますね
取り消した方がいいのでは?
318夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:03:34.31
>>312-313
アクシデント ゲラ
もうそういう不自然極まりない空論しかないだろうな プ

倭人伝に記された行程紹介が正使のものであれ、調査隊であれ
なぜ対馬や壱岐に行ったんだろうね?
もし邪馬台国まで行ったならなぜ距離は里程で表さなかったんだろうねえ?
伊作にぶつけている話すべてが邪馬台国が九州に存在しなかった証拠なのよ。
一個だけじゃなく複合していくつも行かなかった証拠はある。
九州内に邪馬台国があれば、どんなことがあっても使者はそこまで行っている。
行ってない=九州にはない なんだ〜よ。
319太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 11:04:23.54
デ○○を把握されたい。
320太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 11:09:32.07
>>227
稀代のデ○○を確認しましたね?
321日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:10:45.06
>>318 無限尿
>もうそういう不自然極まりない空論しかないだろうな プ

空理空論というのは何処かの馬鹿がほざいている
途中で引き返したガキの使い以下の脳内先遣隊のことか?ゲラゲラ


                   ワハハハ
   ハハハ              ハハハ
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄\   ∧_∧
 ( ^∀^)<夢幻如アホか. > (^∀^ )
 ( つ ⊂ ) \____/  ( ⊃ ⊂)
  .)  ) )             ( (  (
 (__)_) (^∀^)ゲラゲラ   (_(__)
32219歳某国立大生:2012/01/04(水) 11:12:11.13
まず陳寿は魏略という資料をベースに倭人伝を書いている。
魏略がどのような資料をベースに書かれたかがカギとなるが、
倭人伝の記述だと投馬国と邪馬台国の戸数のとこだけ可という
曖昧な言葉が使われているので、伝聞の可能性もあるだろう。
末櫨から伊都まで陸行になってるとこから察して、
魏使とは別の誰かが伊都国に来た時に記録したものである可能性も高い。
推論部分が多くなるのでこれ以上は控えるべきだろう。
323夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:12:45.03
循環論法ねえ プ

よし、じゃあ邪馬台国は九州にあったという前提で疑問点を整理し直そう。

1 なぜ使者は対馬、壱岐に立ち寄ったのか?
2 なぜ邪馬台国への距離紹介が里程ではないのか?
3 奴国、不弥国、投馬国に観察記述がないのはなぜか?

ま、伊作にぶつけてる疑問だが名無しさんたちよ、九州にあったという前提で
この疑問を解決してくれ。お手並み拝見。
324日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:18:42.49
>>318
>>301みたいな脳内ストーリーを一生懸命捻り出すよか余程シンプルでいいだろw
325唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 11:24:53.44
>先遣調査隊は伊都国までしか行ってない、

これでほぼ正解なんだな。
先遣調査隊が目指したのは、後漢時代に実績のある倭奴國。ただし、狗邪韓国で邪馬臺國の情報も得ている。
対馬、壱岐、そして九州へ上陸した時点で海人の生活風景を残す。
その時の倭奴國の状況は、相攻伐、暦年無主である。
もしこの時卑弥呼が共立されていて、1大卒を配置しているのであれば、相攻伐、暦年無主、共立卑弥呼の
記事は不要である。そして、239年の朝貢で終了する。
ところが倭人伝では、240年に同じことが繰り返され、邪馬臺國王に倭王位授与となる。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

倭王=倭女王卑弥呼が同一人物であれば、「其四年」で倭王。 「其八年」に倭女王卑彌呼
と書き換えられている説明ができない。
326夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:25:15.04
一番シンプルなのが俺の推論だ。
まあ推論vs推論はどうやったって決着はつかない。
つかないが、疑問点からその推論の矛盾は引き出せる。
上記3つの疑問を明確に説明してみろ、糞名無しちゃん ワラ

伊作出てこないねえ。暇人だから見てるはずなのにねえ。
自分で無視宣言を放棄して俺に絡んできながら
テキスト勝負じゃ俺に勝てないと泣きが入っていたからな プ
「天才」「論客」をHNにしてこのザマだ。

逃げたなんて勝利宣言なんかしねえからよ、出てきてちゃんとやれ!
32719歳某国立大生:2012/01/04(水) 11:26:10.11
>>323
仕方ない。俺が答えてやろう。

1 対馬、壱岐だけでなく末櫨も余分だろう。魏使が踏破した道なら
  わざわざ倭国への下賜品を末櫨で下して、陸路で伊都国に向かったことになる。
  そのようなルートを取る合理的理由はない。自分たちの船でいっきに
  伊都国まで行ったと考えるのが合理的解釈。つまり倭人伝のこの記述は
  魏使が踏破したものではないと考えていいだろう。

2 これは先ほども言ったが、倭人伝に書いてある記録を取ったものが
  伊都国にて聞いた伝聞であるか、もしくは里数表記したものとは
  別のものが直接邪馬台国までいったさいに取った記録であるかの
  どちらかだろう。後者だと書き方に個人差があるので里数表記ではなく
  その人は日数表記しただけだろう。

3 これも伊都国で聞いた伝聞と考えるか、観察記述として載せるほど
  特筆すべきものもないから記録をとらなかったとも考えられる。
328夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:35:40.01
推論vs推論にならない証明の方に行こうか。
「万二千里は実距離を表さない」これは証明だが、ここに色々言ってきてたな。
それも踏まえて、ここもまとめ直し。

万二千里を実距離と考える者は倭人伝距離表記をすべて肯定しなくてはご都合主義になる。
里程であれ時間表記であれ、記載されたものは正しいとしなければならない。
そして個別に紹介された距離の総合計が郡から邪馬台国への実距離、万二千里にならねばならない。
個別紹介をどう見るかは連続説と放射説があるが、どちらをとるにしても
個別の総計、あるいは個別が示すもの=万二千里という実距離 
にならなくてはならない。

この前提に対し疑問や否定すべき点があるなら、まず最初に出せ。
32919歳某国立大生:2012/01/04(水) 11:40:38.72
万二千余里は実数距離ではないと考える。
陳寿自身も女王国までの実数距離は資料をみてもわからなかったはずだ。
投馬国と邪馬台国の行程は日数表記になっているのだから。
ではなぜ万二千余里などと表記したかというと西の大月氏に対する
対比でそのような記述をしただけだろう。遠方にあるという比喩的表現の範疇に
属するとみていい。
330日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:48:12.16
>陳寿自身も女王国までの実数距離は資料をみてもわからなかったはずだ。
万二千余里は陳寿が考えた数字ではあるまい。原資料にあった数字だろう。
33119歳某国立大生:2012/01/04(水) 11:52:01.62
>>330
おそらくそうだろう。なので原資料の記述を倭人伝でそのまま引用しただけだろう。
332夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:53:14.25
九州説者が>>328の前提設定に文句があるのかないのか確認するまで
坊やに答えてやろう。

>>327
1はまあその通りだろうな。伊作が言うような正使でないことは間違いない。
そこで最も合理的解釈になると思われるのが先遣調査隊だ。

2倭は軽視されている、という視点を考えな。
観察記述を書いた者、実際に邪馬台国まで行き時間表記で記録した者の合体記載
つまり複数ソース説になるわけだが、こんな面倒なことをやると考えるのは不自然だ。
ともかく魏志の報告書はあるはずで冒頭の紹介はそれを引用すればそれだけで済む。
わざわざ複数の情報を組み合わせる必要性などどこにもない。
複数組み合わせて、より詳細な紹介になるならまだしも、そうはなっていない。
陳寿も中華思想の持ち主である古代中国人なんだ。
たかだか倭国の紹介ごときに面倒なことはしていない、と考えるのが自然なのよ。


>観察記述として載せるほど特筆すべきものもないから記録をとらなかった
これは無理があるねえ。対馬や壱岐の観察記述程度ならどこの国でも書ける筈だ。
特筆すべきものはいらない。普通の生活状態を書けばいいだけだからな。
伝聞情報で行ってないから観察記述がない、という方が自然なのは
お前もわかっているんじゃないかね?

って、お前畿内説者じゃねえかよ ワラ
333森村伊作 先生 リングの上で無限尿がお待ちです:2012/01/04(水) 11:55:26.77
伊作はついに 立ち上がった
血に染まった 赤いマットに
わずかに開いた 君の両目に
光る涙が 何かを語った
獣のように無限尿は
おそいかかる おっさんパワーで
やがて君は 静かに倒れて落ちた
疲れて眠るように
わずかばかりの 字数のレスで
君は何を 考えたのか
(You're king of kings)
書かないで もうそれで充分だ
おお神よ 彼を救いたまえ

パソコンデスクにうつぶせて君は
切れたくちびるで そっとつぶやいた
(You're king of kings)
帰れるんだ これでただの爺に
帰れるんだ これで帰れるんだオー
ライラライ ラライ……
334夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 11:59:21.93
>>329
>遠方にあるという比喩的表現の範疇に属するとみていい。

それで終わったら「推論」なのよ。
そこで終わらせないために証明しようとしてるんだ。

九州説者、>>328の前提はこれでいいか?文句ないか?

335日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:02:44.84
>>310 19歳某国立大生

しかし君ねえ、森村伊作とローガンでえらい態度違うやないの?wwwwwwww 
336日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:03:47.36
>>188に19歳乳幼児馬鹿が欣喜雀躍しているが、
ローガンの言説は結構、嘘を混ぜ込んでるから、要注意な。
33719歳某国立大生:2012/01/04(水) 12:04:13.72
>>332
畿内説だが午前中は時間があるので答えてるだけだw
1に関してはそれでいいだろう。3に関してもやはり伊都国での伝聞の可能性が高い。
周辺の主要国の伝聞記事とみていいだろう。この二つはほぼ同意見でいい。
問題は2か、
>実際に邪馬台国まで行き時間表記で記録した者の合体記載
つまり複数ソース説になるわけだが、こんな面倒なことをやると考えるのは不自然だ。
ともかく魏志の報告書はあるはずで冒頭の紹介はそれを引用すればそれだけで済む。
わざわざ複数の情報を組み合わせる必要性などどこにもない。


これに対する返答は、陳寿がベースにした資料は伊都国までの記録で、邪馬台国に関する
記録は含まれてなかった可能性も考えられるだろう。つまり邪馬台国に関する記述は
あとから付け足されたものである。そういう可能性も十分ありうるということだよ。
338唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 12:05:59.69
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

其六年には、戦の始まることを知っているから、黃幢下賜。
其八年、詣郡、說相攻擊狀。戦は始まっている。
卑彌呼以死、...更立男王、...復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等

倭女王=難升米率善中郎將
倭王=掖邪狗率善中郎將
壹與=掖邪狗率善中郎將

倭女王と倭王は協力して戦争を行い、倭国を平定する。その時卑弥呼の宗女壹與は、倭王と関係がある。
339日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:08:11.60
街道がある道で、一日あたり無理なく移動できる距離が15キロ程度。
秀吉の昼夜兼行で駆け抜けた中国大返しの日速30キロがあるが、
これは非常識な速度である。

日本の場合だが、大抵の街道は長くても15キロ以内に次の宿場がある。
それより短い距離の宿場は数知れず。

日速15キロより一月行で450キロ、これは公里千里の435キロとだいたい同じ。
ここで一月行≒公里千里≒435キロ、とする。

倭人伝の場合は、公里よりも短い里程距離で示されているのは周知の通り。
ここで使用されていると推測されている、短里は公里換算で大体1/6程度。
周髀算経でもこれに近い距離が導きだされる。

一月行も同じように1/6して、72.5キロとする。
隋書百済伝の三月行でも、これに近い実距離となっている。

これを魏志倭人伝に当てはめると、距離、方向、水行陸行に伴う地形など、
全てで矛盾なく表すことができる。

また、これを短里の総里程に換算すると、12700里となり、
万二千余里との記述にも一致する。
340日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:11:53.87
>>115 :夢幻如
>最初の使者が邪馬台国まで行っていれば対馬国などのような観察記述が全てにあるはずだ。
>それを削除し、わざわざ観察記述なしの別ソースを引用する理由がない。
『観察記述』って「所居絶島方可四百余里」「方可三百里」のことか?
「對海【馬】國」「一大國」はそれぞれ島で国境は海であるから地籍が明らかにできるだけ。

>これも別ソースがなければ不都合な奴らの強弁でしかなく反論にはならない。
「末廬國・伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹【臺】國」もどの程度の領域になるかは記述されているが君には見えないだけだ。
>観察記述の消滅は、この報告書を書いた最初の使者が伊都国より先は行っていないからだ。
『・・・より先は行っていないからだ。』という記述は
「陸行・水行・船行」の「行」で決定されるが、それからすると
「水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「狗邪韓國」より先へは行っていない。
「東南陸行五百里 到伊都國」は「伊都國」より先へは行っていない。
「東行至不彌國百里」は「不彌國」より先へは行っていない。
「南至投馬國水行二十日」は「投馬國」より先へは行っていない。
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」は「邪馬壹【臺】國」より先へは行っていない。
という解釈が有効なの。
「伊都國」だけをとりあげて論ずるのは馬鹿だけだ。






34119歳某国立大生:2012/01/04(水) 12:15:14.30
>>336
こっちでも伊作の爺さんが負けた腹いせに名無しで人格攻撃かよw
ほんとにしょうもない爺さんだw
何歳だか知らんが僕より3倍以上は長く生きてるんだろうし
それでこの幼い精神水準はないわw
342日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:21:51.31
>>341
ばーか、俺は熊本説には反対だ。
詐欺の畿内説よりマシだけどなw
34319歳某国立大生:2012/01/04(水) 12:28:31.28
伊作の爺さんは熊本説も畿内説も反対なら
夢幻と同じ東北説支持に傾いたの?w
34419歳某国立大生:2012/01/04(水) 12:32:22.86
つーか伊作の爺さんも△鏡国産と主張して逃げ回ってるが、
だったら画文鏡は国産ではないので、この鏡の分与論で
畿内説が正論だと気付くおつむもないの?まあ景初2年説が
正しいと言ってるレベルじゃ気付かないかw
345日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:38:20.76
>>344
もう誰と話してるのかさえもわかってない
精神崩壊状態だなw
346唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 12:41:23.69
>>344

>>338 が説明できていない。
だから、考古学の知見のみで大和に比定しても整合性は得られていない。
347日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:44:41.39
>>300
> 修辞だと何回言えば理解できるのかね?

それは解っている。だが、
>>128
> 行った伊都国までは正確に方角も距離も報告し、近隣諸国は書き手、読み手が相互理解できる修辞で報告している。
と、ここでは、末盧国→伊都国間の五百里表記が「正確な距離」になっているのはなぜかということだ。

「修辞だと何回」も言っているにもかかわらず、イサクに
> 「先遣調査」がきちんとした調査をせず仕事になるか。
と突っ込まれると、
> 行った伊都国までは正確に方角も距離も報告し、
などと、その場しのぎに言説を変えているわけだ。

このことから、夢幻如はその場のつじつま合わせに“修辞”だのなんだのをでっち上げていることがわかる。
348太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 12:48:58.36
41年が説明できていない。
だから、考古学の知見のみで能書きを垂れても整合性は得られない。

そうだろう、だいたい景初元年あたりじゃ鏡作の活動記事なぞ無い
からな。ww これでは 景初3年=239年 の整合は得られない。
349唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 12:53:03.40
到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

女王卑弥呼=崇神世 この設定で
女王卑弥呼を大和に配置しても、伊都国が大和の傘下であることを証明できない。
倭王を崇神とし、卑弥呼を伊都国近くにおいても、崇神と伊都国に関係があったことを証明できない。
350太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 12:57:49.81
>卑弥呼を大和に設定←デンパ説ww
351太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 12:59:42.96
崇神の代は朝廷の勢力範囲は畿内あたりしかないから、伊都国と関係が
ないのが当然である。関係あるとするのはデンパ説。ww
352唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 13:02:39.71
倭王を崇神とし、卑弥呼を伊都国近くにおいても、崇神と伊都国に関係があったことを証明できない。

だから、考古学はこの数字を捨てて、50年遡上したのである。
そこで、書記の時代も50年遡上すれば、考古学と同期できる。
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王(男王)の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=景行 になる
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
353本物の天才:2012/01/04(水) 13:06:28.61
去年から引きずっていた仕事をやっと片づけた。
俺が逃げたとでも思ってイキってるのがいるが、ふざけるな。
もともと、2〜3日前に俺の掲示板で「所用がある」と予告している。
疑う野郎は確認しろ。

しばらく休憩した、じっくり相手をしてやる。
354太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 13:13:56.58
崇神と伊都国には関係がない。よって証明不要。

>伊支馬=イクメ=垂仁←天下の噴飯説ww 臣下は天皇に絶対なれない

 よって両者は別人と断定。等号は道鏡同様成立しない。

>イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向←秀魔の恣意的インチキの誤訳

 これも等号は成立せず、両女は別人と断定。
355怒りの天才:2012/01/04(水) 13:34:17.10
>>188
●ローガンに告ぐ。
俺の「旧帝の喪中に新帝への朝献などしない」という
常識論・原則論に対する反証事例提示のつもりだろうが、
例によって卑劣な手法で、都合のいい部分の原文抜き書き羅列だけか。
反論・反証であれば、「この事例は確かに喪中にあって、どこからやってきた」という確かなことを確認できるよう提示しろ。
ただの「前帝死後1年以内の諸国の遣使朝献」ではないぞ。「喪中の即位祝い」だ。
遣使朝献これらは本当に新帝への「遣使朝献」か。
朝献とは生身の天子に接見することだが、喪中に新帝に接見しているか?
朝貢といって、朝貢担当窓口へ貢ぎ物を置いて行っただけのものもあるだろう。

よしんば朝献だったとしても、ものごとには何ごとも例外というものがある。
無数の朝献の中から一つや5つ事例を出したからといって、
原則論を否定したことにはならないし、
倭国の朝献が例外的な喪中の「即位祝い」だと決まったわけではない。
お前のやることはつねに薄汚い帰納法だ。
お前が提示した事例が喪中であったか否か。喪中にあって、どういう事情で朝献したのか、
朝貢担当窓口へ貢ぎ物を置いて行っただけのものもあるだろう。
(儀礼を知らない周辺異蛮族だとか、前帝の血脈王侯貴族の国が追悼を兼ねて朝貢〔新帝への朝献ではなく死んだ前帝の追悼貢献〕など、細かい事情を一つ一つあるはずだ)。
そこまで調べて提示するのが反証であり反論だ。男らしい男のやることだ。

俺が次にツラ出すまでの宿題だ。
中途半端なことをせず、責任をもって調べてから出し直せ。
356本物の天才:2012/01/04(水) 13:55:54.61
世間知らずで非常識の学歴詐称ハナたれが、俺のサイトにこう書き込んでいる。

>専門家にあんたの本とこの掲示板のアドレス貼り付けて恣意的な情報操作などなしで
見せた結果、
>あんたの戦時中遣使の論証は不十分というダメだしされたんだし、

どんな論旨の専門家だ。3年説をとる畿内説の悪徳専門家か?
どの程度の力量の専門家だ。大学教員資格のない下っ端学芸員か?
どの程度信頼のおける専門家だ。「学者」とはいわん所が苦しいな。

こういうことは裁判と同じだ。
当事者たる俺にとって、素性も名前も不明の第三者の意見を聞いたからと、
当事者たる俺に反論と釈明の機会を与えない証言など法廷では何の証拠能力もない。
そんなものをふりざして「高らかに勝利宣言」とは、
お前が最低の常識すらない軽薄無知ということだ。
357本物の天才:2012/01/04(水) 14:12:56.41
学歴詐称ハナたれのいうこと。
「ある人が犯人を見たといって証言してくれました。だからこの人が犯人です」。
誰も、その目撃者の素性を知らないし顔も知らない。
その人物が本当に目撃したのかも分からない。
その人物が本当に証言したのかも分からない。
この目撃者が、奴のいう「某専門家」にあたる。

一般には、証言者は法廷の証言台に立たせて顔を確認して、
本人の姓名と素性と被害者など当事者との関係の有無などを確認した上で証言させる。
↓↓↓ハナたれのやったこと。
誰もその専門家の素性を知らないし顔も知らない。
その専門家が本当にいるのかも分からない。
その専門家が本当はどう発言したのかも分からない。
そもそも、ハナたれが専門家に公正な方法で判断をあおいだのかも分からない。

茶番以下の三文芝居。
経歴と立場を虚飾してウソをいうような男のこの発言を信じるバカはいないだろう。
358唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 14:17:00.13
>伊支馬=イクメ=垂仁←天下の噴飯説ww 臣下は天皇に絶対なれない

女王卑弥呼も倭王も魏皇帝の臣下。王位授与以前はただの臣下(官)である。
魏は後漢から譲位される。倭奴國王位もそのまま引き継がれる。
倭奴國王位継承の卑弥呼は、239年時点で親魏倭王卑弥呼を授与。
この朝貢に参加した大和以下の諸国王は”官”と記される。魏から見ての官である。
正始元年に邪馬臺國王に”倭王位”授与。
つまり、魏は女王卑弥呼より邪馬臺國倭王を真の倭王とする。どれだけ実力があろうとも
爵位を授与する前は、魏から見てただの”官”としか記載できない。


359怒りの天才:2012/01/04(水) 14:19:05.49
つづき。
証言者と、その証言者証言の信憑性を確認せずに、証言を採用する愚かな法廷はない。
360夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 14:42:31.19
>>356-357
まあまあ、ケツの穴のちっこい小物の感情的なレスだな ワラ
「天才」で「論客」名乗るなら、もうちいと余裕を持った書き方が出来ないかね プ
能力がないからこうなる見本みたいなレスだぜ。
ま、そっちはそっちで勝手にやってろ。
坊やも他人の権威にすがるようなことをやってテキストでの勝負が出来てねえし
どっちもどっちだ ゲラ

>>347
あのね、俺は何回か自論をまとめているが最初にやったまとめで
「里は距離を表す単位ではない」と断言したんだ。
伊都国までは使者は実際に行っている。距離は実感で掴んでいる。
それを里程で表した。しかしその里は距離の単位ではない。わかる?
これも修辞なんだよ。
何回も言うが実測しようにもする方法がないんだ。
だから実感して掴んだものを修辞で表した。
末盧国から隣接していないがわずかな距離に伊都国がある。だから五百里だ。
実に正確な報告じゃないか。
奴国などは伝聞だが近隣だし、隣接しているとかがわかればこれも修辞で表せる。
投馬国と邪馬台国は遠方過ぎて修辞では表しきれないから伝聞をそのまま表記した。
なにか疑問が?
361怒りの天才:2012/01/04(水) 14:49:30.10
>>360
お前のような粗暴で粗雑な人間には、考証な論理など通じまい。
好んで他人のもめごとに口だすバカが。この件に構うな。
伊作、伊作と、俺をバカにすれば己を高みおけるとでも思ってるようだが、
だいたいお前のお里というものも分かった。かっこつけるな雲助。
362伊都は丹波 ◆LKBz7cw376 :2012/01/04(水) 14:49:33.26
>>360

横だけど、距離を実測する方法がない というのは矛盾してると思うな。
そもそも「里」とは実測した結果でしょ。それの表現だよね。
測定方法はいろいろあるでしょう。

前提として倭人伝を軍の記録から記載されていると考えるなら
その量の記載については、兵站に役立つものと考えるべきだよ。
363太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 14:49:51.08
>女王卑弥呼も倭王も魏皇帝の臣下。王位授与以前はただの臣下(官)である

官だというなら倭人伝の卑弥呼の記事が女王卑弥呼ではなく、官卑弥呼と
書けばいいことよ。
おまけには倭人伝伊支馬には官とせずに天皇伊支馬とか大君伊支馬とか
にはなっていない。

天皇は皇帝より上位の格付けである。つまり天皇は皇帝の臣下ではない。
さらに垂仁は九州行幸なんぞしていない。倭人伝は畿内のことにタッチ
などしていない。全部九州とその周辺のことだ。せいぜい吉備あたりまで
は周辺国としての記載の可能性はあるも、畿内は全然関係ない。

おまけに倭人伝に書かれ伊支馬が239年にトタンに突然死したなどとは、
話がうますぎる。ww つまりオマエの恣意的つじつまわせそのものの
インチキだね。

つまり伊支馬は垂仁にはなりえない。等号は最高級の噴飯説だ。bbb・・・
364夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 14:51:08.01
>>340
アホくさくて論外。無視 ワラ

>>339
里を距離単位と思っている阿呆の計算遊び ゲラ
周髀算経ねえ、それを出してた奴のレスを利用して
俺は「万二千里は実距離ではない」と証明したんだが ワラ
365日本@名無史さん:2012/01/04(水) 14:59:05.64
>>364
> 俺は「万二千里は実距離ではない」と証明したんだが ワラ

だれか証明したと理解できた人はいるかね?
俺は思い込みの主張以外にめぼしいものはなかったという認識だが。
366夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:05:23.97
>>365
ほざくだけでは否定にならんよ プ
以下が過去スレで再三、周髀算経を出し、ボソボソと邪馬台国は熊本南部になるようだと
繰り返していた奴のレスコピペだ。

帯方郡−狗邪韓国:7000里
狗邪韓国−対馬:1000里
対馬−壱岐:1000里
壱岐−松浦:1000里
松浦−伊都:500里
伊都−奴:100里
奴−不弥:100里
不弥−投馬:水行二十日=666里
投馬−邪馬台:水行十日陸行一月=1333里

合計12699里=万二千余里

これを利用して俺は万二千里は実距離ではないと「証明」したんだがね。
誰か否定できたっけ?プププ
367唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 15:07:11.12
>官だというなら倭人伝の卑弥呼の記事が女王卑弥呼ではなく、官卑弥呼と書けばいいことよ。

だから卑弥呼は倭奴國王位継承。この時点で”王”を名乗ることが出来る。
魏が後漢を倒して新たな王朝を打ち立てたのであれば、魏に対して”王”は名乗れない。

>天皇は皇帝より上位の格付けである。つまり天皇は皇帝の臣下ではない。
=「天皇は中国に朝貢したことは無い」と言いたいの?
それとも「中国皇帝は天皇に朝貢した」とでも言うの?
または「中国皇帝を天皇が授けた」と?
歴史とは、過去にそれ以後の出来事を当てはめてもダメ。
△鏡を青谷上寺地遺跡の前に当てはめることもできない。
368日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:13:33.56
>>366
それは俺もみたが、実距離で問題なさそうだが?
369伊都は丹波 ◆LKBz7cw376 :2012/01/04(水) 15:14:18.80
>>366

誤解をされると困るので付け足しておくけど
おれも万二千里は実距離ではない というのは同意だよ。
渡海路においての 千余里は港から港までの距離ではないのは明らかだから。
だからといってすべてを修辞としてしまうのは反対だけどね。
370唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 15:16:59.32
>倭人伝に書かれ伊支馬が239年にトタンに突然死したなどとは、話がうますぎる。ww 

垂仁の死亡は、田道間守を派遣した後で7月崩御、同12月埋葬
その翌年に田道間守の帰国。そして、垂仁の墓前で殉死、この葬儀を景行が許可。
罪人でもない田道間守の葬儀を許可したのであるから特別な許可ととらえれば
垂仁墓に田道間守を殉葬する。
ホケノ山を垂仁と推察する要素の一つである。


371夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:17:36.00
もう一回やろうか。
狗邪韓国(釜山近辺)〜対馬の千里は水行に置き換えたら、間違いなく「水行一日」だ。
これは現実。
対馬〜壱岐、壱岐〜松浦も現実的に水行で一日。
つまりここから「千里=水行一日」がわかるし確定する。
ところがこいつの計算では

不弥−投馬:水行二十日=666里

これはなんだと?
水行二十日が666里、これでは千里の釜山〜対馬間は一ヶ月かかることになる。
現実問題としてあり得ない。
つまり里をなんとか辻褄合わせしようとすれば、こういう矛盾だらけになるわけよ。

ついでだから、水行一日=千里 を導き出し、万二千里は実距離を表さないとした
俺の証明を否定したいなら改めて受け付けてやるぜ。
372夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:23:28.50
ところで、この話をする前提は>>328でいいんだな?
文句ないな?
373日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:24:49.30
>366

当然水行、海行は誤差は存在する。
地図上の常識的な航路による実測距離を示す。
周髀算経による千里≒77kmより誤差の範囲

狗邪韓国−対馬:1000里 :104km:+35%
対馬−壱岐:1000里 :72km:-7%
壱岐−松浦:1000里 :45km:-42%

数倍の違いがあるわけではない。
この誤差を大きいと取るか小さいと取るかは
人次第だろう。


374日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:28:24.04
>>371

残念ながら、各島間での距離は「千里」であって、水行一日ではない。
特に当時の船の速度から考えると、釜山-対馬間は2日掛かる可能性もある。

つまり、千里=水行一日は証明できない。
375夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:29:25.03
そんな机上の計算なんかどうでもいいんだよ。

水行二十日が666里なら、1000里の釜山〜対馬は水行何日になるんだ?
376日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:34:43.34
>>375

一月行を千里と仮定した上での論理である。
千里であれば一月行だろう。

隋書百済伝によると、すぐ横にある済州島から百済の都まで三月行である。
比率的にも妥当な距離だろう。
377日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:36:51.23
>>371
>>372

きみの論法は九州「論者」への反論としては十分、有効だと思うよ。

おれは渡海路の「千余里」については違う考えを持っているけど
興味深いので、そこは静かに観戦してますよ。
378夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:36:54.52
>>374
別に水行二日でも全然問題ないんだがね。
それなら水行一日=五百里だ。

連続説なら不弥国から投馬国まで水行二十日。「水行一日=五百里」なら1万里。
さらに邪馬台国まで水行十日を含み、これが五千里。万二千里はオーバーする。
放射説なら伊都国から邪馬台国まで「水行十日陸行一月」と見るわけだが
この水行だけで五千里。
郡から松浦までに既に一万里を費やしているから、これでも万二千里をオーバー。

わかるかな?
379伊都は丹波 ◆LKBz7cw376 :2012/01/04(水) 15:40:10.08

あ、>>377は俺ね
380日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:43:21.10
>>378

氏が示した>>366のとおりである。
万二千余里で、700里ほど、「余」が存在するだけである。

一月行千里で、なにも矛盾はない。
381日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:45:21.60

           ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
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            |‖‖‖ ||   | |
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          !゙ (・ )` ´( ・)   i/
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.          ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃   /     rク\
.       /   | ̄r少}¨ ̄〃   /    /′ ヽ
      〃 l   |  l| | l| 〃    /     /    └ヽ
     /    l  |l | |l/″   /      !  厂    \
    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
    丿  |   | 丿} じ’  /      | /         |
   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
    (在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)

   民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
   そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
382夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:45:32.54
>>376
水行一日=千里 に抗し切れなくなった九州論者が持ち出した愚論が
水行一日は千里と認めるとして、水行二十日の水行一日が千里ではない可能性がある、だったな。
ふざけたダブスタなんだが、これと似たようなもんだな。

>一月行を千里と仮定した上での論理である。

その論理(ワラ)では釜山〜対馬は一ヶ月かかるわけね。
机上の空論だけで現実が見えない馬鹿の戯言だ。
383夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:47:56.76
>>380
だから釜山〜対馬は一ヶ月かかるのかと聞いてんだよ、ボケ。
お前が二日の可能性を言ったんじゃねえのか?
二日なの?一ヶ月なの?はっきりしな。
384日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:57:54.91
>>383

>>339で書いたように、一月行は周髀算経で示される
古い時代の千里(短里)を示す単位である。

隋書百済伝で書かれているように、240キロ程度の距離を三月もかかるはずはない。
そのため、実日数ではなく距離の単位であると考えるのが妥当である。

つまり、釜山ー対馬間が何日かかろうと知った事ではない。
わかることは、倭人伝による「千里」である。

不弥国までは常日頃往来しており、明確な里程が分かったであろうが、
そこから先は不明だったのであろう。
そこで、倭人が周代以前から使われている日数しか、正確にはわからなかったのであろう。

ただしこの部分は推測である。
385夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 15:59:52.81
ついでだから>>374の愚論も粉砕しておこう。
こいつの言い分認めて水行一日=五百里にしても何も問題ないんだが
釜山〜対馬は間違いなく水行一日だ。

壱岐〜松浦の短距離も同じ千里で表しているからな。
ここはどう見たって一日行程だ。
難癖馬鹿はここにも、休み休み行けば三日かかることもあるなどとほざいていたが
釜山〜対馬を休憩地なしで航海できる船が、この半分の距離の壱岐〜松浦を
休憩しながら進まなきゃならない理由はない。
常識を無視した必死の難癖でしかないんだが、これくらいしか抵抗のしようがないわけよ。
馬鹿じゃない限り現実として壱岐〜松浦は一日航海だと認める。水行一日だ。
これが千里。
同じ千里表示されてるものは、ここからすべて水行一日に置き換えられる。
つまり釜山〜対馬も水行一日で間違いないわけよ。
386日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:03:22.23
>>382
前スレできみの言ってることは「証明」ではないでしょと突っ込んだんだけど、どうも話が噛み合わなかった
しかしきみの言ってることがやっとわかったよ
なんのことはない
「『倭人伝の内容から「万二千余里は実距離ではない」という結論を導き出すことが出来る』という事を証明した」
って事だったのね
つまり「こういう解釈も出来ますよ」って事を証明したと
それなら文句は無いよ
387夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 16:06:23.73
>>384
机上の計算で現実を見ないからこういう馬鹿になるんだよ。
水行一日は距離の単位で一日航海のことじゃない、というわけだ。

もう一回聞く。釜山〜対馬はこの表記なら一ヶ月でいいんだな?
388日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:08:52.58
>>387

距離の単位、短里千里を一月行と呼ぶ、という意味であれば
そのとおりである。
389日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:09:54.09
>隋書百済伝で書かれているように、240キロ程度の距離を三月もかかるはずはない。
単に3日の誤写と考えるべきでは。
390日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:12:47.79
>>389

そうかも知れないのだが、済州島の大きさである一月や、
九州島の大きさである三月、五月行をみると、
ある時期に月行単位を使ったような気がして、捨て切れないのである。

それと、日行にすると、今度は長すぎるという問題がある。
391日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:27:38.45
チェジュ島と台湾とが混同されているとか、チェジュ島の記事と台湾の記事
との間が抜けてしまったと考える余地もある。
392夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 16:47:44.85
>>388
あほくさ、時間表記にすらならない一月や一日かよ。
古代中国人は一日旅程を一月表記とし常用していたとでも言うつもりか。
伊作もそうだが史料しか見ないで、現実や常識がぶっ飛んだ馬鹿の愚論だ。
393日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:50:46.97
修辞修辞とわめくと、倭地は温暖でなく寒冷地の八幡平になるって、どういう理論?
394日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:52:19.48
水行二十日といったら船旅二十日間と見る以外どう解釈するんだよw
普通に見ようよね、普通にwww
395夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 16:57:45.85
>>393
ゴミは引っ込んでろ。
今は東北説は関係ない話をしているし、北九州が倭の最北との認識なら当然の記述でこれはループ。

腐れた頭の馬鹿は学問板にはいらねえよ。
厨房板に行け、低脳児。
396日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:58:48.96
ローガン、返答を待ってるぞ。(怒りの天才)
397卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 17:01:10.99
あいかわらず、実際の渡海にどれくらいかかったか、というような議論をしているようなので、ちょっと一言。

前にも書いたが「唐六典」に一日水行45里とあるのである。それで計算すると千里水行するのに約22日かかる。
つまり陳寿は狗邪韓国から対馬まで渡海するのに22日も要すると考えていたのである。
それほど対馬は狗邪韓国のはるか南方にあると考えていたのであり、倭国もはるか南方にあると考えていたのである。

だから倭は会稽東冶の東にあると考えたのであり、その風俗が海南島に似ていると考えたのである。

398夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 17:02:06.26
>>394
史料馬鹿になると、その普通の感覚がなくなるわけよ。
こんな非常識頭の連中で邪馬台国論争は続いてきたのだろ。
300年以上論争し結論がいまだに出ないのは当然かもな。
399夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 17:18:29.69
>>397
古代中国と日本を見る時に自虐史観を持ち込んだり
柵封体制が何かも理解できていない馬鹿が言いそうなことだ プ
お前の話なら魏は馬鹿の集団になってしまうわ。

馬鹿は出てくるな。
400太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 17:26:15.62
>>370
そんなことを言ってるんじゃねぇ〜。
オマエのは紀からの見解だ。コチラは倭人伝からの見解だ。倭人伝で途端に
伊支馬が死亡というオマエの主張が、付け刃的の話がうますぎる出来事
だということよ。ww

所詮、伊支馬と垂仁は別人。

卑弥呼の記事が記紀に無いんだから、オマエの畿内天皇と卑弥呼の協力
とか付き合いなどの親密的主張は虚像のデタラメよ。
401夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 17:30:54.47
まあこの点では「水行一日=千里」を認めている伊作の方がまだましかな。
史料馬鹿らしく、魏志だけではなく他の例まで出してこの論を補強していたからな。
ただ、あいつは多分連続説でも放射説でもなく
郡から「水行十日陸行一月」と見ているらしいがね。

まあともかく、倭人伝においての「海路千里は水行一日」に置き換えられる。
これは現実的に見て間違いがない確定なのよ。
402日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:32:54.69
>>355 怒って頭から湯気出して視野狭窄おこしいる自称天才 森村伊作

ヨコから、というかまあ水を注すつもりは無いんで無視してくれていいが…

>よしんば朝献だったとしても、ものごとには何ごとも例外というものがある。
>無数の朝献の中から一つや5つ事例を出したからといって、
>原則論を否定したことにはならないし、

おいおい例外を認めておいて「この事例は例外じゃない」と言うのは話が続かないだろう?

老眼が何を出してきても
「それは例外であってこれは例外にあらず原則にのっとったものだ」と言ってしまえば
老眼が何をしても無駄。

どうないせえっちゅうねんw

403卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 17:36:54.16
>>399
つまりそれほど陳寿は日本の地理を把握していなかったということであり、帯方郡使が来たのは日本ではなかったということだ。
帯方郡使が行ったのは朝鮮南部の倭国なのである。

ついでにいうと私は自虐史観とは正反対の立場であり、日本の女王が中国に朝貢するはずはないと考えているのであって、
だからこそ朝鮮説を唱えているのである。
それから、冊封体制などという言葉は学者が勝手に考えた用語であって、そんなものも私は信用していないのである。
404日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:37:57.39
>>401
>「海路千里は水行一日」に置き換えられる。

置き換えられるなら置き換えれば良い。
トータルの数字もそれによって変えれば良い。

逆にそれでどうやってもつじつまの合わない「万二千里」 と言う数字がある以上
その等式は成り立たない。
405日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:40:06.67
>まあともかく、倭人伝においての「海路千里は水行一日」に置き換えられる。
>これは現実的に見て間違いがない確定なのよ。

論破されて一生懸命言い繕っている努力はわかるが、
まずは、その根拠を出せというところだなw
406日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:44:23.42
個人的には、距離も方向も日数も万二千里にも合わない論よりは、
>384氏の全部に整合する論を取るね。
407日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:46:17.58
>>406

間違えた、384氏は日数は実日数ではないという立場だから、
日数だけは合わないかな。
408日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:52:10.02
東北「信じる信じないはあなた次第」
畿内・九州「・・・」
畿内「モモソは卑弥呼」
九州「じゃあ、台与はどこよ」
東北「おい、ちょっと待てよ。こっちは寝不足なんだよ」
畿内・九州「永遠に寝てろ」
東北「お前らバーカ、バーカ。寝る」
409唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 17:52:15.58
>オマエのは紀からの見解だ。コチラは倭人伝からの見解だ。

倭人伝に伊支馬や都市牛利が複数回登場するのか?
無いだろ、だから否定はできていない。卑弥呼の記事が無くとも 考古学が
庄内式土器が九州に上陸する。庄内式は箸墓までである。景行が庄内式土器と共に九州に渡って何が悪い。
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁は、大彦の孫で景行の関東行幸まで同行している。
複数回登場することが出来る。磐鹿六雁の年齢を推定すれば、景行初年で30歳程度
それから20年ほどは景行に仕える。ベテランと表記できるだろ。
それから、少し後の布留1式期には、半島の土器が管理されたかたちで西新町遺跡に存在する、ここが
神功渡海である。
神功稚桜宮=桜井茶臼山が指標、ここから110年後が誉田御廟山。
410夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 18:16:09.64
>>404
さあ、そこだ。
万二千里を実距離と認める奴は倭人伝の距離表記を全て認めなければならない。
そこに矛盾が出た場合どうするかだ。
どちらかを間違いとしなければならない。

海路千里を水行一日としているのは説明した通り崩しようがない。
一日を一ヶ月と表記するのが古代中国の常識という暴論くらいしか対抗出来ない。
あるいは水行一日は千里と認めるが、水行二十日の水行一日あたりは基準が違うはずというダブスタ論か。
どちらも現実を見ていない馬鹿論でしかなく、万二千里が実距離でなくなると困る奴らだけの愚論だ。

水行一日が千里は、した通り正しさを検証出来るが、万二千里は実距離とは検証出来ない。
そうなれば間違っているのは万二千里を実距離と解釈することになる。
わかる?
411太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 18:30:16.24
>無いだろ

無いのが分かるなら、垂仁が九州行幸して【無】いのが分かるだろう。

倭人伝は九州のことだ。紀無いの垂仁は卑弥呼とも伊支馬とも関係ない。
つまり伊支馬は九州の官であり遠隔の畿内の垂仁天皇ではな〜い。

つまりオマエのひどい脳内の創作の積み重ねが、こんなひどいデタラメ
を形造ったということだ。ww
412おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/04(水) 18:33:46.21
>>404
昨夜ちょっと引用したのですがあなたのレスだったのですね。
おっしゃるとおりですね。陳寿は郡から女王国まで万二千餘里だと認識して記述している。認識しなきゃ記述出来ませんからね。
水行二十日や水行十日を距離に換算する(水行1日=千里とする)アホな間違いをしないように行程記の結びにわざわざ「自郡至女王國萬二千餘里」
と記述していますからね。水行二十日や水行十日には別の意味があると示唆しているようですね。

私は投馬国で水行二十日、邪馬台国で水行十日陸行一月の行事を行った記録の断片(日数)だけが採録された可能性があると思っていますがね。
413日本@名無史さん:2012/01/04(水) 18:42:49.11
>>404
「万二千余里」って書いてあるのだからそれに合わせて水行二十日や水行十日を解釈しても別にいいんじゃないの?
記述内容を最大限に尊重するという読み方は別におかしくはないでしょう
きみに言わせりゃ馬鹿論・愚論ってことになるんだろうが、それはあくまできみの感じ方だし

結局読み方の方針の違いでしかないよ
414日本@名無史さん:2012/01/04(水) 18:45:34.90
>>413>>410宛てだった
スマン
415唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 18:49:25.61
>無いのが分かるなら、垂仁が九州行幸して【無】いのが分かるだろう。

垂仁が九州に行幸しなければ、田道間守を派遣できないのか?
田道間守は垂仁により派遣されたのだから、官=伊支馬=イクメと答えることが出来る。

それより難しいのが、阿蘇の山奥に住む卑弥呼を共立することだろ。
阿蘇の山奥に住む卑弥呼がどうやって朝貢したんだ?
416太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 19:00:04.47
田道間守は垂仁ではない。外行しても卑弥呼の国に行って来たとは
記紀に書かれていない。それは半島からの遣使もこの男も九州に足を踏ん
だろうが、垂仁が田道間守にオブられて行ったわけでもあるまい。

垂仁の九州行幸はない。つまり田道馬守が九州の地を一時踏んでも垂仁が
天皇の下っ端の官に格下げなどするわけもなく、垂仁も田道間守も
別に女王国に行ったなどと記紀に書かれていない。

つまり等号は成立せず、伊支馬は垂仁にはならない。
当然 官=伊支馬=イクメと肯定することが出来ない。
つまり等号は噴飯ものである。ppp
417唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 19:03:07.83
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

倭女王=難升米率善中郎將
倭王=掖邪狗率善中郎將
壹與=掖邪狗率善中郎將

女王卑弥呼と倭王が別人であることは疑いない。
そして壹與は倭王により卑弥呼の後継者に選ばれる。
418日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:10:14.82
>>417
時代が下って、事情が分からなくなってからの資料をもとに語ると、
真実から遠ざかるばかりだ。
419太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 19:13:20.94
>それより難しいのが、阿蘇の山奥に住む卑弥呼を共立することだろ。

共立は距離的に遠隔の難路を行くわけでもないしこれは頭脳労働であること
から、イエスかノーの事項であって、イエスならばすーぐ決まり、別に
それ以上に難しくはない。

卑弥呼は外界から隔絶した地域にあったが、これが運よく事前に北九州の
どこかに来ていた大陸人が情報をつかんだから、魏と女王国の付き合いが
出来たということだ。なんら不合理などない。
不合理なのは垂仁九州行幸がないのに、伊支馬になるわけがなく、等号
はデタラメである。
42019歳某国立大生:2012/01/04(水) 19:15:40.22
記紀に邪馬台国や卑弥呼の記述がなく
神功皇后のところに魏志倭人伝の記事がはさまれてるのみに
とどまってる理由は、おそらく卑弥呼は二ギハヤヒ(ホアカリ)系の
氏族であると海部氏系図に書かれているので、
入り婿の形で入った崇神とは系統が違うので、
二ギハヤヒ系氏族の歴史は消し去られ、記紀で言う二二ギ系に
一元化して万世一系の天皇家の統治理論を主張したかたっためと
考えるしかない。
42119歳某国立大生:2012/01/04(水) 19:20:11.92
いかん。やはり記紀における虚と実の区別が難しいし不毛だ。
記紀以外の書物を抹消したのが捏造の証拠だし、どこまで本当の
ことが書かれてるのか判別不能。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 19:25:39.91
>一元化して万世一系の天皇家の統治理論を主張したかたっためと

そうしたいのなら、雄略武烈の悪事こそ抹消するだろうが・・・。
即興のインチキ論を書くな。

>記紀以外の書物を抹消したのが捏造の証拠だし

何を言う? 紀にはところどころに「一書に曰く・・・」とあるのだ。
他書の記事を載せている。抹消なんかしていないではないか。
19歳よ、ウソを言うと宿主のような最低級の論者に下降だぞ。><
423日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:27:51.31
記紀は、漢籍に通暁した編者が、漢籍の記述内容に
付かず離れず、大和朝廷史を書いたもの。
特に日本書紀のインチキぶりはひどい。
424夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 19:27:54.64
>>413
それは「万二千里は実距離である」という結論が先にくるからなのよ。
実距離か修辞か不明という立場から検証をすべきものをそうしていないだけの話だ。

いいか、俺は前提を提示してこの話を進めている。
万二千里を実距離であるとする者は倭人伝のすべての距離表記を正しいとしなくてはならない。
個別の距離表記の合計あるいは個別表記そのものが万二千里にならなくてはならない。
この二つだ。
具体的に言うなら、対馬などの千里を正しいとしなければならない。
連続説なら各個別距離の合計が万二千里にならねばならない。
放射説なら伊都国から水行十日陸行一月を加算したものが万二千里にならねばならない。
これが前提だ。

ここで対馬、壱岐などへの実際水行は一日であることから「千里=水行一日」が導きだせ
これを他の水行に当てはめれば万二千里はどうやってもオーバーし実距離説は成り立たない。
これで万二千里を実距離とする者が守らねばならない前提が崩れるのだよ。

240キロを三月行なんてのが出た時点でおかしいと思わなきゃならない計算を無理を承知で持ち込むか
水行一日と水行二十日の水行は別物というダブスタ論を持ち込むかしか否定する方法がなくなる。
これは「結論先にありき」とする者の愚論と思うのが正常ではないのかね?

こういう検証は結論を先に持ってきてはならないんだよ。
425日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:30:41.92
>ここで対馬、壱岐などへの実際水行は一日であることから「千里=水行一日」が導きだせ

異質な概念だから、換算なんかできないんだよ。ハチマンタイ馬鹿。

426日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:32:43.86
雨が降れば、陸行は中止、海が荒れれば、水行は中止。
それと1日をどう換算するの?
42719歳某国立大生:2012/01/04(水) 19:34:53.35
天孫族が丹波に降臨した氏族と九州に降臨した氏族に別れ、
大和を支配してたのは二ギハヤヒ系の天孫族だ。
記紀では二ギハヤヒ系は徹底して消し去り闇に葬り去ってる感があるので、
崇神のところで系統が変わったとみていいだろう。崇神も初国シラスだし。
二ギハヤヒ系の卑弥呼=モモソ姫=日女命 も尾張氏系図と海部氏系図
ともに一致する人物であるので実在だろうが、万世一系の天皇家の皇統の中に
組み込まれたとみるべきか。魏志倭人伝の女王卑弥呼を二ギハヤヒ系に比定したくないので
神功皇后の時代に合わせたとみるべきか。記紀の解釈は難しいわ。
もう頭痛くなってきたのでやめた。今日はこれまでテレビ見よ
428日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:34:56.44
東京から名古屋へ出張→陸行1日
東京から神戸へ出張→陸行1日

この二つは1日だから等距離、っていうのが馬鹿の計算。
429日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:36:27.88
卑弥呼=モモソの証拠って、全然存在しないよね>>427

「詐欺の畿内説を糊塗するために、モモソ=卑弥呼でないと困る」証明はできるけどね。
430404:2012/01/04(水) 19:36:48.55
>>410 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)
>どちらかを間違いとしなければならない。
>海路千里を水行一日としているのは説明した通り崩しようがない。

半島から九州間の「海路千里を水行一日」を「崩しようがない」かどうかは別にして
その部分の水行と不彌國から先の水行を『別物として』分ければ済む話だ。
頻繁に船の往来がある海域と今まで無かった航路を数回通っただけでは話も違うだろう。

20日もあればロスも累積する

半島〜九州間の単区間 A→B
水行20日の長区間A→B●→C●→D●→E●→F●→G●→ 
(●=潮待ちや宿泊等によるロス、20日もあれば天候不順だって入った可能性がある)

まず”自説=おらが東北説”ありきで脳味噌凝り固まっている奴には選択肢としてないだろうがw

まあ名無しなんで無視してもらって結構w
もっと 森村伊作 との死闘を見せてくれ(ゲラ 
431日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:37:42.15
>>355
横からだが、「ソースは冊府元亀外臣部朝貢」と挙げられているんだから、伊作が自分で確認しろよ。
そんで、その例文が反論・反証に相応しくないのなら、なぜそう判断したか、
それを論理的に披歴すれば済む話だろ。

自分がやるべきことは何もせず、反論・反証した者への口汚い罵りしか書かないのが論客のすることか。
432日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:40:31.62
>>431

俺も横からだが、ローガンの意見を自分の意見として取り上げた
19歳乳幼児かローガン自身が、まずは一つ一つ解説すべきだぜ。
433唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 19:40:53.75
>やはり記紀における虚と実の区別が難しいし不毛だ。

書記の記事がすべて正しいとするならば、
考古学が50年遡上したのであれば、書記の設定も50年遡上せねば整合性を得られない。
そして、似た発音=同じ人物と同定できる。
ホケノ山古墳はその形態から垂仁末に設定できるが崇神世では説明できない。
同じく庄内式土器の九州上陸は景行で説明できるが、崇神では説明できない。
つまり、書記の設定を50年繰り上げねば説明できない。
まあそういうことだから、そこからやり直す必要がある。
43419歳某国立大生:2012/01/04(水) 19:42:43.50
景初2年の証明に関しては僕の判断力が上回った。あたりまえだがw
伊作爺の証明は証明と言うレベルに達してないから。
もうこの論点はこれにて終了。次は何?鏡?箸墓?
次もこてんぱんにしてやるよw
435夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 19:45:06.94
しかし邪馬台国論争は何もかも「結論先にありき」だからな。
まともに検証をしてる奴は皆無なんじゃないか?

万二千里問題もフラットに検証をすれば簡単な証明も
実距離でなければ困るという連中は愚論を駆使して認めたがらない。
240キロを三月行とする計算を持ち込む愚行や、ダブルスタンダードも平気な愚論でしか対抗出来ないのは
逆に「万二千里は実距離ではない」ことを証明してることにしかならないんだよ。
436430追記:2012/01/04(水) 19:46:12.69
狗邪韓国→対馬国 対馬国→一大国 一大国→末盧国 の各区間の航行が一日で済んだとしても

じゃあ、狗邪韓国から末盧国までの移動がトータルで3日で済んだかどうかは別の話…と。 
437夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 19:52:27.84
ふむ、今出ている名無しはみんな無視でいいな。
>>428みたいな真性馬鹿にまでレスしてたらキリがないわ ゲラ
438日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:52:40.42
結局、19歳は何の証明もできなかったなw
だからさっさと伊作から逃げて帰ってきたのかw
439日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:56:34.92
ヤマタイ=ハチマンタイのゴロ合わせって、そんなに面白いですか?>無限尿
440夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 19:56:39.82
俺が証明した「万二千里は実距離を表さない」
これをまともな論で否定出来る奴はいないと判断する。
文句あるか?
441日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:57:18.35
夢幻如がすでに無視されている。
442唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 19:58:36.20
>>419
>共立は距離的に遠隔の難路を行くわけでもないしこれは頭脳労働であることから、イエスかノーの事項であって、
>イエスならばすーぐ決まり、別にそれ以上に難しくはない。

誰がイエスというのか?卑弥呼であれば共立した国人の範囲は?
伊都国に1大卒を置くのは誰?
そして何時?
さらにそれが魏使に受け入れなくてはならない。
何故魏使は山奥の卑弥呼を容認したの?
その時の倭奴國王は?
443日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:00:05.98
万二千余里は実距離を表す。
夢幻如自身が>>366で引用したとおりである。
444日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:00:14.54
>>440
いいでしょうね。
貴方の論には無理がない。否定する側の論は無理がありすぎる。
445日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:01:12.07
>>444
自演乙!
446日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:02:41.73
八幡平が温暖だって?
ヤマタイ=ハチマンタイだって?

そんな説には無理が無いと思う馬鹿がいるの?
447唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 20:05:57.39
>>434
>次もこてんぱんにしてやるよw

19歳さん
君の考えている数字では、纒向の説明さえできていない。
だから”勝ち”とするわけにはゆかない。
448日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:06:37.87
>>432
一つ一つ先帝の没年を挙げて解説してるじゃん。
冊府元亀なんて、あちこちのサイトで見れるんだから、これ以上の解説必要かね?

たとえば、
●宗少帝景平元年3月(423) 武帝永は前年5月
の原文は、「少帝景平元年三月高?国遣使朝?。」これ以上、何を説明せよと?
それより、これが反証として不適切だとするなら、罵倒するんじゃなくて、
なぜ不適切なのか、論理的に説明するのが論客というものだろ。
そうしたら、反論に対して、ローガン氏に再反論の義務が生じる。
それが議論というものだろ。
罵倒してるだけじゃ、何の議論にもならん。
449夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 20:08:38.80
少なくともコテを張り、自分の発言に責任を持つという奴らの反論は皆無だな。
煽りしか出来ない馬鹿名無しは論外だが、他の名無しの反論も言い逃げに近い。

繰り返すが、ここは学問板だ。
論には論で発言に責任を持った奴以外は適当にしか扱わない。

取りあえず「万二千里は実距離ではない」の証明は完了だ。
これを信じなければ成り立たない九州説はすべて否定される。
450日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:09:47.38
>>449
勝利宣言した後に逃亡か。
2chの風物詩だなあ。
451日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:12:02.73
>>449
OK
九州説は今日をもって終了w
452日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:13:38.69
19歳も夢幻如も勝利宣言して逃げるのが好きだな。
453夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 20:15:41.61
>>450
誰が逃亡だ、馬鹿頭。
発言に責任持つ奴が責任持てる論でかかってきなと言ってるんだがね。

まともな反論も出来ない負け犬以下の無能は引っ込んでな プ
454日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:17:24.52
九州説終了でいいよ。文句なし!w
455日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:20:38.54
>>453

夢幻如の根拠のない証明終了宣言では、
書き逃げ逃亡と判断して差し支えないだろう。
456日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:29:03.69
>>448

伊作があり得ないとしている状況と同じか違うか、全然検証していないじゃん。
列挙しても意味ないよ。
457日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:30:00.83
>>454
え、畿内詐欺説が先に滅亡してますがw
458日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:32:47.08
>>424
きみの言うこともわかるが、やっぱり読み方の方針の違いでしか無いと思うよ
修辞か実距離かを検証すべきとする立場と記述内容は出来る限り正しい物として読むべきという立場の違いだな
結局「水行十日」「水行二十日」に解釈の幅があるからね

ま、この辺の考え方は平行線だろうから止めときましょう
459日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:37:35.32
こういう議論の場では、相手を論破するよりは、
周りで見ている人間を説得、同意させるほうが有効である。

どうせ相手は、いくらでも屁理屈こねて、敗北を認めることなどないからである。

世の中、自分より賢い人間など、周りにいっぱいいるものである。
騙しや捏造などは、すぐに見抜かれて、信用を落とす行為であることを
覚悟すべきである。
460日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:40:13.73
まあ、
ヤマタイ=ハチマンタイという語呂合わせや、
八幡平は温暖で潜水漁が盛ん、という説に
みんなが納得できるかどうかだ。
461夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/04(水) 20:45:42.44
>>458
俺は記述内容は出来る限り正しいとする立場だがね。
だが読み方だ。
万二千里が修辞であっても倭人伝記述を正しいとする立場は変わらない。
実距離でなければ正しい読み方にならないわけではないのだよ。

ともかく検証は何事も結論を先にもってきてはならんのよ。これは鉄則だ。
覚えておきな。

さて仕事だ。
462日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:47:59.55
毎日、深夜の営業職って、麻薬ですか?暴力団ですか?
463おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/04(水) 20:48:05.84
>>440 夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
>俺が証明した「万二千里は実距離を表さない」
>これをまともな論で否定出来る奴はいないと判断する。
>文句あるか?

当然文句ある。
「水行二十日=2万里、水行十日=1万里」というアホな前提で「万二千里は実距離を表さない」と言っているだけでしょ。

万二千里が正確な数値であろうと大雑把なものであろうと陳寿は行程記の結びで明言している。それと齟齬をきたすような
記述をするほどボケてはいないでしょう。「水行二十日も水行十日も距離に換算できるようなものではない」と見るべきで
しょう。強いて言えば、「水行二十日」+「水行十日陸行一月」は不彌国から邪馬台国までの千三百里の道中にかけた日数
でしょう。
464日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:55:35.91
>>463

縄文人キタ━━━(゚∀゚)━━━!!
465怒りの天才:2012/01/04(水) 21:24:06.04
>>448
歴史を語ってるんだ。
万もある朝献じる・朝貢の中で、たった一つや二つのれいがいだ。
例外的なりゆうがあったはずだ。
「これはこういう状況下で、こういう事情があって、こういう国がやったことだ」と、
きちんと説明するのが反論反証というものだ。

>「少帝景平元年三月高?国遣使朝?。」これ以上、何を説明せよと
てめ・バカか? これじゃ証拠能力がないというのだ。常識だろが。
それで、他人には証拠を示せというんだろ。
466日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:27:15.58
ついに壊れた
467怒りの天才:2012/01/04(水) 21:27:37.93
>>431
>伊作が自分で確認しろよ。
なんでこ畿内手法の穴まで俺がほじる必要があるか。
こ汚い手法を使ったから変とうできないんだろが。

反証として事例を出したほうが、
「これはこういう状況下で、こういう事情があって、こういう国がやったことだ」と、
きちんと説明するのが反論反証というものだ。
この手殿筋論も見えんほどのバカか? クソ野郎
てめーなんざ罵倒するしかなかろう。
468怒りの天才:2012/01/04(水) 21:31:38.70
んじゃほれ。自分の反証の「検算方法」を教えてやらー。

●後漢 先帝殤帝の延平から、安帝の永初に年号が変わっている。
●宋  先帝武帝の永初から、少帝の景平に年号が変わっている。
●梁  太清は武帝年号で簡文帝年号は大宝から。
●北魏 文成帝興安元年。献文帝天安元年。宣武帝太和23年。考明帝延昌4年。
    受けるほうも騎馬民族なら朝貢したのも騎馬民族か土民だろう。
    こいつらが中原の儀礼をどれほど理解していたか。論外だ。
●陳  臨海王天康元年。天康元年は先帝文帝の年号。ただし中原の覇者ではない。
●唐  貞観23年は太宗の年号。高宗の年号は永徽から。
    当方の年表では叡宗景雲年号は神竜、昇竜という年号を経て景雲年号になっている。
    (先帝中宗の年号は嗣聖で終り)。

@期間は短くても即位して年号が変わっているものは、完全な服喪中とはいえない。
どういう状況だったの提示した側が説明しろ。
Aこの中で、先帝の年号のまま朝献か朝貢があったとするのは、
梁:簡文帝の太清。唐:貞観23年。陳:臨海王天康元年。
これらがどういう事情または状況下で、誰が朝献か朝貢をしたのか。
反証として提示した者が明らかにして提示するのだ。

いかにもたくさんあるように書いているが、数多くの朝献・朝貢の中で例外的に少ないのは事実だ。
その例外の中でも特殊な事情か状況があってのことではないのか。
きちんとした検証をした上で提示しろ。

わかったか、無知のきくせにいっちょ前にほざくタコ野郎ども。
469日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:33:23.26
一定のライン(自身のブログに書いてある内容)を超えると
脳の処理能力を超え熱暴走、火病を起こすのが 森村伊作 の特徴やねw
470日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:37:16.24
いやあ、自説で闘えずに、ボコボコにされたまま逃げた
19歳乳幼児と、シラッと嘘を出して消えるローガンは、
どちらも、ぜんぜんダメだろ。
471メ(畿内説):2012/01/04(水) 21:37:21.17
太宰府天満宮(初詣) ⇒ 九州国立博物館 ⇒ 光正寺古墳 ⇒ 宇美八幡宮
⇒ 比恵遺跡 ⇒ 板付遺跡 ⇒ 高良大社 ⇒ 高良神籠石 ⇒ 名湯 天ケ瀬温泉

行って来たぜ〜 誰かコメント宜しく!(今のところスルーされてる)
472怒りの天才:2012/01/04(水) 21:38:13.31
返答に詰まると、精神の問題のするのも畿内説の常套手段よ。
それが出たら「お手あげ宣言」とみなす。
473日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:43:57.60
レッテル貼って否定するのは簡単だよな
ある集団に1人でも変なやつがいれば、個々の検証することもなく全体を否定できる
474日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:52:16.11
伊作から、這う這うの体で逃げ出した、ジョーカーと19歳は、
畿内説の旗手として、みっともなさすぎるだろ。
475太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 21:54:18.95
考古学が50年遡上したとしてもいずれ十年とか数十年後に下降
することは湯理科誤の如くであり考古はアテにはならぬわけで、
書記の設定も50年遡上しなくても整合性を得られる。
476怒りの天才 :2012/01/04(水) 21:55:11.73
俺も負けずに反畿内説宣伝をやるぜ。ただし正々堂々だ。

箸墓古墳築造年代のウソ
http://8234.teacup.com/isaq/bbs/96

簡単ではあるが、誰にも手に取るように整理した。
これで畿内説のいう箸墓古墳が、
「3世紀築造の突然変異的、巨大ばち形前方後円墳の完成形」。
ということが鮮明になった。
477怒りの天才:2012/01/04(水) 21:59:32.79
年齢詐称・経歴詐称・論拠ねつ造小僧と分裂思考半キチジョーカー。
こいつらの反伊作・誹謗宣伝に対しては断固戦う。
478太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 22:00:32.57
>そして、似た発音=同じ人物と同定できる。
似てもおらず、似たことにしているのは○ンマ論である。

たとえ似てたとしても、それ位で同一人物にはならない。
俺は元横綱の大の国ではない。ppp・・・

宿主よ、オレは元横綱なのか〜?
精神病院で本当に診てもらったほうがいいよ。オマエ、もう重症だ〜。

さらに〜
一例を挙げれば武烈がワカサザキノミコトというが、崇峻もワカサザキノ
ミコトという。二人はは別人だぞ。同一人物ではないんだよ。
479日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:00:38.09
>>468
やりゃあ、できるじゃん。
最初から、顔真っ赤にして罵倒するんじゃなくて、こういうことを書いてれば良いんだよ。
そんで、これに対して、ローガン氏が再反論しないといけなくなった。
議論って、こういうもんでしょう。論客さん。
480太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 22:02:21.38
>誰がイエスというのか?

それは卑弥呼の近隣とか付き合いのある奴だな。
くだらないことを聞くな。
481太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 22:06:17.20
>>447
宿主と19歳とを比べると、まだ19歳のほうがマシだ。
宿主はこの日本史板では最低の評価。0点にもならぬ大ネガティブだ。

19歳も妄想がかなりあるが、宿主よりはずっと脳内の働きが正常だ。
宿主はもう重症で〜〜支離滅裂さがひどい。
482メ(畿内説):2012/01/04(水) 22:07:50.27
おい 無視すんなw
483日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:08:39.09
ぜんぜん、メに入らないな。
484日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:09:51.01
不弥国まで10,500里と出していて、総計12,000里余りと書いているのはかなり
確信に基づいた距離を記したと解釈すべきだろう。修辞であるとは証明できな
い。夢幻如氏の説明は論理を逸脱し破綻している。
また北九州上陸からさほど進まぬ不弥国で残り1,500里余りとなれば、邪馬台国
は九州内に有ったのは間違いない。温暖という記述にも合致する。
要は不弥国からの水行・陸行をどう解釈するかというだけの問題である。
485怒りの天才:2012/01/04(水) 22:09:54.75
●箸墓古墳築造年代のウソ
@全長200mを越える古墳の築造時期比較。
200mを越える古墳が造られ始めるのは4世紀前半からで、
それよりも100年ほど早い3世紀半ばの築造とされるのは箸墓古墳だけ。
その箸墓古墳は、なんと規模の面で全国11位になる。

A全長200mを越える古墳の築造年代区分。
箸墓古墳だけが築造年代と規模の面で、他とは100年近くかけ離れている。
(箸墓古墳前後の多くの歴代天皇陵よりも大きいという不条理も露呈する)。
箸墓古墳を4世紀前半から半ば以降の築造とみれば、段階的拡大の脈絡もつながる。

B3世紀築造とされる全長30m以上の前方後円墳と前方後円墳から。
(円墳・方墳・四隅突出型古墳は除く)。
時代的にみても箸墓古墳だけがケタ違いに巨大なことが一目瞭然となる。

C3世紀築造とされる箸墓古墳と同じ「ばち形前方後円墳」(前方後方墳を含む)。
3世紀半ばに登場したばち形前方後円墳は、
登場最初期の3世紀中葉に完成形が造られたことになり、
しかも、抜けて巨大な箸墓古墳が造られたことになる。

詳しい分類と比較はここ。
http://8234.teacup.com/isaq/bbs
486日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:12:36.57
そもそもその実年代がどうあれ大王クラスの墓としては 箸墓→西殿塚 が当たり前だと思っていたが
(年代に異を唱える物もこの順番には同意していたと思うが…)

この見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作  のご高説だと

先ず4世紀前半の最初の定型化巨大古墳が
メスリ山  行燈山古墳 桜井茶臼山

その後4世紀後半に
渋谷向山 や 佐紀の五社神…等が来て

4世紀末に
西殿塚 がやっと登場する。

…こんなもの今まで見た事も聞いた事も無いわw

一体どこのサイトから拾ってきたんだ? 森村伊作 w

是非是非ソースを出してくれwwwwwwww 
487日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:21:31.23
二人がかりで伊作叩きを始めたくせに、初日からスゴスゴと
逃げ出しちゃった19歳とジョーカーって、凄く恥ずかしいぞ。

そのくせに、負けて逃げた後から大威張りだなw
488怒濤の天才:2012/01/04(水) 22:21:43.97
>>479
>議論って、こういうもんでしょう。論客さん。
最初から議論らしいことを一貫して事項しているのは俺だけだ。
議論のイロハも知らず偉そに大口叩く奴、議論の手順を踏まず否定ばかりする奴、
こ汚い手口を駆使するや奴。こういうのばかりだから、
回転の速い俺が瞬間湯沸かしするのも分かるだろう。

そういうてめーも、正しい議論手順と手法でかかってきたらどだ。
口先掛け合い口論テクニックは苦手だが、
論理と論証での勝負なら、俺は負けない自信があるぜ。
小細工解釈や論拠に乏しい推論には頼らんところが強みだ。
489日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:22:54.66
伊作はキチガイだな 特殊器台の編年とかもわからないんだろう
490日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:23:22.58
>>488
やーい キチガイ
491日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:24:26.83
二人で伊作に負けて、さぞかし悔しいんだろうなw
492卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 22:36:20.47
箸墓はモモソヒメの墓で、モモソヒメは紀元前の人物だから、箸墓も紀元前の築造に決まっているのである。
周濠の底から出た土器の年代測定をしても、そんなもので築造年代が決まるわけはないのである。

はっきり言うが、君らは全員馬鹿である。現代の学説より記紀を信じたまえ。
君らは学者の書いた本を読んでそれを信じているだけなのである。
本居宣長が生きていたら、現代の学者も君らも罵倒するだろう。
493日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:37:20.56
いやだからそれ、破たんした畿内説の詐欺ですから。
494太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 22:44:08.20
>>492
モモソヒメは紀元前の人物ではありません。
ほぼ200年代の初めころの人物ですね。崇神の代に死亡しています。
卑弥呼より7年くらい前の没年でうsね。
495日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:44:30.77
>>476 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 
>「3世紀築造の突然変異的、巨大ばち形前方後円墳の完成形」。

知ったかぶりのキチガイ爺さんが必死に考えたコピーなんだろうがwww
普通の人間には意味が分からないだろうなw

「え?その通りじゃん?何か問題でもあるのか?」

…とw

まあ厳密には「完成形」といっても段築が後円部で五段、前方部で三段だったり
後方部側面には段築が見られなかったり(あったと言う説もあるが)
円筒形埴輪じゃなくてまだ器台のものがあったり
(森村伊作 の謎の編年だと円筒形埴輪に変遷を遂げているメスリ山が箸墓より前になる…) 

…とまだイレギュラー的と言うかプロトタイプ的要素はあるんだがw


496メ(畿内説):2012/01/04(水) 22:45:18.26
>小僧とバーカー。
>こいつらの反伊作・誹謗宣伝に対しては断固戦う。

ほら、二人供、
伊作に本気で向かっていかんか〜www 俺と太国さんは見学する。
497日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:47:29.23
つか伊作はマジでその古墳の築造順を自分のホームページに書き込んでくれ
たのむ
498日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:49:12.23
>>497
年代はともかくアレだけデタラメな順番って何処かにあるのか?

何処か心当たり無い?wwwwwwwwww


499日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:49:35.58
>>440

>>373の言うように狗邪韓国から松浦までの各距離は千里の誤差の範囲内だな
それぞれ単に実距離として千里としたと読むのが自然だろ
一日航海だったから一律に千里にしたってのはちょっと無理があるな
だから水行一日=千里は成立しないな
500メ(畿内説):2012/01/04(水) 22:51:58.30
このスレ
イサクで盛り上がってるのは分かるんだが、
何について議論してるのか、いまいち分からん。
箸墓の形状について議論してるのだろうか?んで年代がどうのと・・・
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 22:57:56.76
埴輪の存在する箸墓をモモソヒメの墓とするから、トンデモ説となる。

箸墓は、任那建国から50年後である。その間に大和は九州北部に進出し
伊都国に1大卒を置き、諸国に屯倉を設けたそんな時代である。


では、モモソ姫の箸墓にふさわしいのは。
まず、崇神5,6年の飢饉。飢餓・餓死・食人・逃散 この災害が去って一息ついた時代が
モモソ姫の箸墓とその葬儀である。
つまり、皆が参加するということは、先の災害の鎮魂の意味がある。

502日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:58:33.39
>>500 ドツボ
現在ゴミクズレベル九州説の超大御所 森村伊作 大先生は
その他にも対夢幻如、対19歳ローガンで景初三年問題と孤軍奮闘八面六臂で
群がる相手をちぎっては投げちぎっては投げの大奮闘中だよ!wwwwwwwww
503メ(畿内説):2012/01/04(水) 23:03:27.05
小僧とバーカーへ

よく分からんが、とりあえず九州説伊作氏の>>485の@〜Cを
畿内説論者である君等二人が先に答えろよ
↓これね

>●箸墓古墳築造年代のウソ
>@全長200mを越える古墳の築造時期比較。

>A全長200mを越える古墳の築造年代区分。

>B3世紀築造とされる全長30m以上の前方後円墳と前方後円墳から。 (円墳・方墳・四隅突出型古墳は除く)。
>時代的にみても箸墓古墳だけがケタ違いに巨大なことが一目瞭然となる。

>C3世紀築造とされる箸墓古墳と同じ「ばち形前方後円墳」(前方後方墳を含む)。
>3世紀半ばに登場したばち形前方後円墳は、登場最初期の3世紀中葉に完成形が造られたことになり、
>しかも、抜けて巨大な箸墓古墳が造られたことになる。
504日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:11:25.16
>>503 ドツボ
おい鍋奉行
じゃあお前がそれにどう答えれば良いか一回シミュレーションしてみ?

そもそも箸墓へのサイズの飛躍は「あった」としか言いようが無い
森村伊作にしても最初大口を叩いていたようにそれを「スムーズな出現」としてみせる理論があるわけじゃない。
ひたすら「3世紀では無理で突然で4世紀なら合理的スムーズだ」と何の根拠も無く繰り返しほざいているだけ。

箸墓出現後通常なら西殿塚がそれに続くはずだが
これを何故か4世紀末にしていてこれも根拠を出さない。

こんな与太のどこにどうやって答えるんだ?え?

505ローガン:2012/01/04(水) 23:13:40.32
>>468:怒りの天才
ごめん遅くなった。新年会続きでね。

>@期間は短くても即位して年号が変わっているものは、完全な服喪中とはいえない。

なんちゅう反論や…。(笑) では、その意見に従うと。
ざっと見ただけでも、後漢から隋朝の間で、「帝」と呼ばれているのは89人。
そして細かい数字の間違いはあるかもしれないけど、前帝没後、一年以内に改元があったのは57例。(勿論、譲位、廃帝、王朝交代は省いてある)
89帝中、57代は一周忌までが「服喪」という訳ではなかったという事やね。

506メ(畿内説):2012/01/04(水) 23:25:35.41
対夢幻如、対19歳、対ローガン で景初二年なのか?三年なのか?で盛り上がってたようだね。

んんんん・・・・・
私は畿内説ですが、どっからどうみても「景初二年」じゃんwww
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a003-02.html

まあ、実際の年代は「景初三年」なんでしょうが、
なぜ景初三年と言えるかと言うと、通称魏志倭人伝というのは、原本は無く、
今では十二世紀に写されたものをみて、我々は議論してるのであり、
原本である、陳寿氏の三国志が成立したのが三世紀ですから、およそ900年の歳月が経っていることになる。

だから、陳寿氏が誤字をして間違えてしまったというよりは、その900年の間に
原本を写す際に間違えたのではなかろうかとみるのが自然であろう。

景初「二年」「三年」の問題は、日本書紀が八世紀の成立で、我々がこんにち眺めている
十二世紀に写した魏志倭人伝よりも「前の」魏志倭人伝をみて記述したことが分かるので、
その日本書紀内にある神功皇后の条に注記されてるのは「景初三年」で、
当時の三世紀の魏志倭人伝は「景初三年」だったであろうことが推測される。
507日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:29:07.25
距離に関しては夢幻如が正論だろ
508メ(畿内説):2012/01/04(水) 23:36:43.78
>>504
>おい鍋奉行
>じゃあお前がそれにどう答えれば良いか一回シミュレーションしてみ?

おまえら、議論が下手だねえ
509唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 23:42:52.20
>>480
>それは卑弥呼の近隣とか付き合いのある奴だな。くだらないことを聞くな。

阿蘇の山奥の近隣と言えば、同じ山奥。

素晴らしい答えだな、でこれを魏使は何故認めたんだ?
ほかに人間が住んでいなかったのか?
510怒濤の天才:2012/01/04(水) 23:43:36.89
>>506
>完全な服喪中とはいえない。
この言い回しの意味わかるよな。せっかくだからどんな状況だったのか。
キーワード検索で原文羅列するんじゃなく、前後の文章を解読して、
「ことの真相」というものを詰めてからやれ。

まー・お前の手口は・お前とやり合った奴や
ここの常連ならば熟知しているだろうから・あえていわんが、
毎度毎度、片手落ちか意図的操作ともいえるズルい手口専門だからな。

>89帝中、57代は一周忌までが「服喪」という訳ではなかったという事やね。
ほらな。こっちは10例あれば10パターンの例外的事情や
何か特別な状況があったろうといってるのだ。
しかも、王朝儀礼が形骸化したり薄れたりで、
原則を重んじなくなった時代もあろう。画一的に事例だけを出してどうするか。

毎度の事だが、お前はすぐにこういう切り返しをする。
89帝中57代はすべて同じ状況・事情だったといってると、
発言をねつ造した上での切り返しになっている。こんなのに何の意味があるか。

とにかく。俺の要求したことの10%も返事になっていないぞ。
きちっと、証拠能力を備えた出し方をしろ。
511日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:45:20.05
何か自分が納得できない(したくない)からダダをこねているだけだなwwww
512唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 23:55:01.40
>@全長200mを越える古墳の築造時期比較。
>A全長200mを越える古墳の築造年代区分。

大きさで時代区分が決まるのでなく”土器編年”で時代は決まってくる。
それが正しいかどうかの時代判断に古墳は使われる。

箸墓は大和(大倭)が全国統一を果たした結果だと主張しているが
全国統一とできるのは、景行時代しか存在しない。
次は神功渡海とできる場所は、布留1式期が妥当である。
高句麗の南下が真実であれば、400年以降に巨大古墳は作れない。ここで大山陵も終了する。
513日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:56:00.42
その土器編年自体が、畿内説の都合で捏造されているわけだが
514メ(畿内説):2012/01/04(水) 23:57:04.67
>485の「●箸墓古墳築造年代のウソ」は
箸墓という墓の規模についての問題であって

>@全長200mを越える古墳の築造時期比較。
>200mを越える古墳が造られ始めるのは4世紀前半からで、
>それよりも100年ほど早い3世紀半ばの築造とされるのは箸墓古墳だけ。
>その箸墓古墳は、なんと規模の面で全国11位になる。
>A全長200mを越える古墳の築造年代区分。
>箸墓古墳だけが築造年代と規模の面で、他とは100年近くかけ離れている。
>(箸墓古墳前後の多くの歴代天皇陵よりも大きいという不条理も露呈する)。
>箸墓古墳を4世紀前半から半ば以降の築造とみれば、段階的拡大の脈絡もつながる。

巨大な古墳については、倭迹迹日百襲媛命の箸墓(3世紀)〜第30代敏達天皇(6世紀末)と
非常に永い時間にかけて造られてるのであって、箸墓古墳と同じ形状のモノに
祟神天皇陵、垂仁天皇陵、景行天皇陵などがある。
箸墓古墳ダケが100年ほど早いと騒いでるのは、伊作さんだけじゃなかろうか。

>B3世紀築造とされる全長30m以上の前方後円墳と前方後円墳から。 (円墳・方墳・四隅突出型古墳は除く)。
>時代的にみても箸墓古墳だけがケタ違いに巨大なことが一目瞭然となる。
>C3世紀築造とされる箸墓古墳と同じ「ばち形前方後円墳」(前方後方墳を含む)。
>3世紀半ばに登場したばち形前方後円墳は、登場最初期の3世紀中葉に完成形が造られたことになり、
>しかも、抜けて巨大な箸墓古墳が造られたことになる

「ばち形」ていうのは定型化する前の巻向型を言ってるんだろうが、
前方後円墳の型式にもT期、U期、V期、W期とあり、
T期ていうのが、通常「最古期」といわれるもので、U期が古期、V期が最盛期、W期が後期だったと思う。
巻向型前方後円墳の多くに庄内式などの土器が出土していて、巻向型はどれも
箸墓と同じく三世紀の古墳だろう。規模については、取り決めが合ったらしく「力」が関係してるのでこの際は議論の相性がいになると思う。
515日本@名無史さん:2012/01/04(水) 23:59:34.12
>>514

一つの古墳が350年かかって作られた、
と言っているのは君だけだと思うが?
516日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:00:05.20
>>510
横からだが、

>@期間は短くても即位して年号が変わっているものは、完全な服喪中とはいえない。

これ読めば、状況・事情がどうであろうと、即位して年号が変わってると完全な服喪中ではないっていうのが伊作氏の主張だろ。
ということは、状況・事情がどうであろうと、89帝中57代が完全な服喪をしてないってことは動かない。
常識的にはかなり考えづらいよね。
だったら、常識的ではない事を主張する伊作氏の方に、その証明責任があるんじゃないの。
まあ、オレは、ローガン氏・伊作氏どちらが説明してくれても良いんだけどね。
517日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:01:29.96
それとも、箸墓は6世紀の古墳だ、という主張なのかな?
どちらの主張?
518唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 00:04:53.44
三正説に従って景初元年〜3年は建丑の月すなわちもとの12月を正月としたらしいのですがすぐに元に戻されました。

この数字を建寅年に戻すために、景初3年12月の次の月も12月として
正始元年から、元の建寅年となる。

このために改元をしなかったともとれる。
喪の期間とは、通常1ケ月とか2ケ月とか期間が決まっているのであり
改元は、その後の即位式に付帯する。
519日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:05:34.05
一般論の前に、個別論があるんじゃないの?
日本の天皇の喪だって、定型パターンじゃないと思うよ。
520メ(畿内説):2012/01/05(木) 00:06:58.76
>>515
ああ、ちゃう、ちゃう

>巨大な古墳については、倭迹迹日百襲媛命の箸墓(3世紀)〜第30代敏達天皇(6世紀末)と
>非常に永い時間にかけて造られてるのであって

と言ったのは、一つの古墳が造られた時間じゃなくて
巨大な墓が造られた「期間」があってそれを言ってるのです。
ですから、初めに巨大古墳が造られたのが箸墓でして、順に祟神天皇陵・・・となる。
巨大な、箸墓と祟神天皇陵、景行天皇量に開きがあるとは思えません(同じ最古期)。
521日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:14:16.89
>>520
その解釈が、合理的だとする理由は?
不合理にしか思えないんだけど。
522メ(畿内説):2012/01/05(木) 00:19:20.27
小僧とバーカーへ

同じ畿内説の、私が「君等の立場」で伊作と議論するならば
>>506>>514とかになるだろうし、まあ、こんなかんじで、あとは二人で頑張れw

てことで私は寝るぜ〜〜 誰か私のレス>>471についてコメントしろ〜あばょw
523唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 00:19:51.49
>>513
>その土器編年自体が、畿内説の都合で捏造されているわけだが

旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

七支刀=369年は、日韓の間で半島占拠は存在しないと確認されている。
つまり、年代に誤りがあることが確認されたと同等である。
考古学は、この誤りのある時代を捨てて、独自に正しいと出来る時空に移動した。

最初の設定変更は、年輪年代により 2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。からである。
崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年で両書の間には1年の齟齬があるが。
崇神11年異俗多帰=2世紀末 と文献と考古学は整合している。
210年 加羅伽耶建国=新羅本紀・三国遺事=任那建国。

まあ時代が狂っていうのであれば、そこに整合させられる文献で否定することはできる。
524メ(畿内説):2012/01/05(木) 00:22:45.51
>>521

あのレスは>>504でバーカーさんが

>おい鍋奉行
>じゃあお前がそれにどう答えれば良いか一回シミュレーションしてみ?

て言っていたので、仮にシュミレーションをしてみただけで、深い突っ込みは無しでお願いしますw
525日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:22:49.01
>>523
箸墓は、刀や崇神と無関係です。
526唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 00:28:02.47
@箸墓はモモソ姫の墳墓であるのに埴輪があるから書記は信じられない。
A書記の主張する、箸墓には、埴輪があるからモモソ姫の墳墓ではない。

2択問題ではあるが、Aの場合どのような選択肢があるかをすべて検証してから
まったく整合性が得られない場合のみ@の結論がある。
527日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:31:53.16
>>526
原典批判が先でしょ。
なぜ紀が箸墓をモモソの墓と書いたのか、その理由や状況を探ってから。
528唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 00:41:14.07
>箸墓は、刀や崇神と無関係です。

その通り。
箸墓は、庄内式土器が九州に上陸した後で作られている。
九州に上陸したのは景行である。
倭女王=難升米率善中郎將
倭王=掖邪狗率善中郎將
壹與=掖邪狗率善中郎將
景行が倭王であった場合、壹與も景行のにおいがする。ここで倭国統一があれば
最初の大王墓の主は景行である。
529唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 00:47:26.45
>なぜ紀が箸墓をモモソの墓と書いたのか、その理由や状況を探ってから。

箸墓にモモソ姫が葬られたとき、今言う箸墓は存在していない。
天武元年の箸陵が現在の箸墓である。
箸陵が箸墓に変わるのも時間のなせる業。
その時にはモモソ姫の箸墓が存在しているかどうかも分からない。
530日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:50:43.25
>>528
記と紀の景行記を比較して、紀を鵜呑みにして
景行の九州統一がそのまま事実だったと判断するのは、
原典批判が出来ていない証拠です。
531唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 01:01:02.94
>>530
だそうか。まず私の編年と土器編年を知っているものとして。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。3国遺事=541年時点で建国330年。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳=楽浪鏡(公孫氏の鏡)、鉄器、半島式木郭墓に田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)

景行は壹與(5百野姫)を派遣するとともに、伊都国に1大卒を置く。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
532日本@名無史さん:2012/01/05(木) 01:14:19.86
209年とか西暦に換算する手法って合ってるの?
そもそも魏の成立年とかどうやって西暦に直してるの?
533唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 01:27:54.62
>>532 だから最初に編年を知っているということで書いたのであるが
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ←この4章(19年*4=72年の空白年が垂仁紀に差し込まれている)
田道間守の派遣(垂仁の崩御年)は、239年である←最初の設定として
神功渡海は274年 神功元年275年→七支刀=神宮52年=326年
神功49年=323年であれば、半島は政治的空白 ここで半島占拠が可能な時空である。

訂正 ×成務天皇 262年〜265年 3章 
○ 成務天皇 262年〜265年 3章  成務・仲哀は同じ暦の可能性がある。
19年単位であれば太陰暦はそのまま使える。
534日本@名無史さん:2012/01/05(木) 01:54:27.05
>>300
> ここでいう「国」とは「国邑」だ。実質は町か村規模だ。
> おそらく塀や柵のようなもので囲われていたのだろう。

説明として「官」があるのだから、「国」とはその行政範囲を指している。
一大國なら三千家の範囲だ。「実質は町か村規模」ではおさまらない。二万戸の奴国ならなおさら。

對馬國は方四百里、一大國は方三百里で、
末盧国では「山海に濱いて居む。草木盛んに茂りて行くに前人を見ず」。
これらは「塀や柵のようなもので囲われていた」「邑」の説明ではない。

したがって「国」とは「国邑」ではない。
一大國なら壱岐島全体を指しているのは明らか。

末盧国と伊都国が「隣接しない」で、伊都国と奴国が「隣接」と報告した「先遣調査隊」が架空なのも明らかだ。
535日本@名無史さん:2012/01/05(木) 02:08:52.50
>>531
いきなり枝葉の整合を始めるのは、学問として原典批判も何もしない、
盲目的信仰からの読みこなしであり、所詮デタラメになります。
536唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 02:43:14.94
>>535
書紀は太陰暦で書かれている、しかし現実の寿命などで説明出来ないほど引き延ばされている。
簡単に言うと、太陰暦を誤魔化すことの出来るのは、太陰暦のみである。
書紀の日々に全て干支を差し込んで−660年になる。一見すると正しく見える。
これが当時の朝廷が太陰暦を引き延ばしていた証拠となる。
つまり、人がウソを付くとき、自分を正しいと主張するために、日々の干支がふられるわけであるが
ウソを付いている証拠とも出来る。
どれだけの空白年を差し込んだか、推理する。
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=6940日が基本=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。近江伊勢遺跡。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇   〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章 吉備方面に軍を派遣。
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 天日矛の来邦 山陰に鉄?
開化天皇 184年〜187年 ≒3章-1年 1、2年の異常? 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=三国遺事541年で建国330年=任那建国

274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く。
応神 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。秋津遺跡≒明宮
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。仁徳4年戦線離脱の決定(課役の停止)。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 半島は空白地帯。半島占拠、百済建国。
326年 七支刀。
537唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 02:44:47.54
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。

千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗
休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。

316年西晋滅亡まで、半島に存在し、その地で伊都国の1大率と同じ様な職務を随行している。
だから千熊長彦の如く現地語を話し、現地住民と仲が良く、かつ流民が生活出来る様配慮までする。
これだけの信頼関係を築くのに10年,20年程度では少なすぎる。
後進国であった倭国の軍が住民と信頼関係を築けるだけの時間が経過している。
274年 渡海。 これ以後の倭軍の活躍を書紀は空白とする。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
仁徳4年 課役の停止
538唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 02:48:32.85
開化 184〜188年(基本的に57年の空白、崇神と同じ暦)
崇神 188〜216年(基本的に38年の空白)
新羅に合わせれば188年から29年間、後漢に合わせれば189年から28年間。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)
纏向2類(後)
景行 240〜261年(38年の空白)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁99年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
539日本@名無史さん:2012/01/05(木) 02:56:45.27
>>536-538

原典批判とは、日付を入り繰りする作業のことではありません。
なぜ編者は事実を曲げて書いたのか、あるいは書くべきことを
なぜ書かなかったのか等々、様々な観点から、克明に洗っていくことです。
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:00:46.31
扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ都や村に散置してきた。

半島には、扶余系の居住区が散在する。
つまり、それが可能なほど倭軍は半島に存在しなければならない、

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。

景行諸県=玄海町諸津 庄内式土器
神功 油津媛=田平津媛 土蜘蛛征伐
541唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:05:00.03
訂正
×神功 油津媛=田平津媛 土蜘蛛征伐
○神功 田油津媛=田平津媛 土蜘蛛征伐
542日本@名無史さん:2012/01/05(木) 03:10:05.43
落葉松の妄想もここまでくると芸術だなwww
543唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:12:19.32
>原典批判とは、日付を入り繰りする作業のことではありません。

正しい日付を知らずにどうやって原典批判をするのか?解説してください。

旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

旧編年を使えば、すべてを否定することが出来る。
だから、まず正しい年代を求めねばならない。
544日本@名無史さん:2012/01/05(木) 03:27:39.94
>>543

日付云々ではありません。
ある原典が、なぜ書かれたのか、どういう意図をもって書かれたのか、
誰に対して何に配慮して書かれたのか、何を誇張し、何を隠して書いたのか、
書いた人物はどういう人間で、どういう時代にどういう背景で活きていたのか、
そういう裏を克明に探ることで、事実と事実でなかったことを腑分けし、
原典を読み込んでいく作業です。

日にちを合わせるような単純作業は、原典批判のずっと後にやる事です。
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:35:11.25
>事実と事実でなかったことを腑分けし、

時空を合わせずに、事実であるかないかをどう判断するか?

百済本紀に七支刀=神功52年を重ねても、半島占拠は否定される。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, は、神功49年に重ねられる。
ここに重ねた場合は、半島占拠は肯定される。

どちらが正しいかどう判断するんですか?
546日本@名無史さん:2012/01/05(木) 03:40:21.46
>>545

こて先の「日にち合わせ」など、原典批判のはるかに後に行うべき作業です。
547日本@名無史さん:2012/01/05(木) 03:41:50.40
>>468
春秋経の中でも、先君が死んだら次の君は服喪中でも元年を称するのが普通だよね。
その年に元年を称したか、次の年に元年を称したかは、学説に由るらしいけど。
元年を称するということは、元号ができてからは、元号が変わるってことだから、

>@期間は短くても即位して年号が変わっているものは、完全な服喪中とはいえない。

とうことはないんじゃなかろうか。
548唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:46:47.46
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。

神功渡海が274年であれば晋の冊封体制への参加であり、天皇仲哀の死に先行する。
これも数字を割り出したから言えることであり、書記の記事のみでは否定されても仕方ないことである。
549唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 03:56:06.54
>>546
康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,

公孫氏の時代から、東夷は九種に分類され皆服事焉。魏・晋時代もこの延長線上にあり
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
この 東夷九國に倭国は含まれる。であるならば、この勢力を特定する必要がある。

何もなしで、この倭の勢力を特定できますか?
550唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 04:12:31.12
>こて先の「日にち合わせ」など、原典批判のはるかに後に行うべき作業です。

倭人伝を100年こねくり回しても、まだ正解が得られていない。
なぜならば、書記の「日にち合わせ」が出来ていないからだ。
正解を得た後に日にちを重ねることが出来ないという証拠なんだよね。
551日本@名無史さん:2012/01/05(木) 04:15:53.05
>>550
いいえ、ちゃんと原典批判をしてこなかったからです。
日にち合わせなど、そのあとの作業です。
552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 07:24:52.88
>>546
>こて先の「日にち合わせ」など、原典批判のはるかに後に行うべき作業です。

この原典批判のむなしさがどの程度のものか判っていない。
日本の歴史は、そく韓国の歴史とつながる。
まず資料
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。

韓国においても、百済本紀と新羅本紀の間には誤差のあることが知られている。
そして、正しいとするのは百済本紀である。誤差は50年ほどである。
新羅192年4月大雪≒後漢193年冷夏。←ほぼ正しいと出来るが
Radio氏は、新羅192年4月大雪を50年ほど繰り下げて百済本紀と同期させたい。
千熊長彦(神功49年)を383年(癸未年)とさらに遅くしたい。
何故か?領土分与より、倭は百済の属国を選択するからだ。
だから、百済本紀では、夢村土城に“未知の4世紀遺構”が存在してもかまわない。
という思考方法なんだ。
七支刀を369年から326年に設定変更をすれば、未知の遺構は解消する。
書記の主張が通る。それがわかっていても応ずることは無い。

だから、原典批判より編年が優先されるのである。
書記の編年であれば、考古学と新羅本紀と中国の史書で出来る。百済本紀は雄略以降のみ。
553唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 07:56:34.20
履中天皇六年(乙巳四〇五) 悲哉。吾兄王何處去耶。この話は、前年404年 帯方界での敗戦で行方不明
者捜索の話である。
義煕九年[413]『是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物』(晉書安帝紀)高句麗と倭国は和平協定
を結び、百済・新羅は高句麗の属国となる。
允恭天皇三年(甲寅四一四)春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。医者に対する態度から、新羅は高句麗の
傘下であることを認めている。であるならば、允恭は倭王賛。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)夏六月。御膳羹汁凝以作氷。天皇異之卜其所由。卜者曰。有内亂。
ここで記事は途絶え、その後の倭王とは重ならない。
雄略天皇五年(辛丑四六一)六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。
この記事は、墓碑で確認できるから動かない。

継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子《五》◆冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈或本云。天皇廿八
年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。
是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。〉

欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
欽明天皇も動かない。

問題は、倭王と継体の死に齟齬があること。
河内の巨大古墳が2系統をあらわすならば、任那の主体である金官伽耶の亡命まで続くとみてよい。
554夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 09:35:52.13
相変わらず空疎な議論ともいえない言い合いが続いてるようだから
俺もスレチから入らせてもらうぜ。

伊作の底が完全に見えてしまったから、そのお話でも ワラ
555夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 09:37:03.10
>>502
>その他にも対夢幻如、対19歳ローガンで景初三年問題と孤軍奮闘八面六臂で
 群がる相手をちぎっては投げちぎっては投げの大奮闘中だよ!wwwwwwwww

他の奴は知らんが、俺はちぎって投げられた憶えはねえぜ ワラ
というか、よく見なよ。伊作は俺を完全回避している。
俺のことを誰がスルー、無視しても勝手なんだが、こいつの場合だけは事情が違う。
俺を無視すると宣言しながら、自らそれを破り俺に絡んできた。
で、俺が質問をぶつけたらまた回避だ。完全に俺を避けている。理由はこれ。

>>488
>口先掛け合い口論テクニックは苦手だが、
 論理と論証での勝負なら、俺は負けない自信があるぜ。

これをちゃんと訳してあげよう。
「ディベートでは夢幻如に敵わない。しかし史料を論拠とした勝負なら誰にでも勝つ自信がある」
こういうこと。ポイントは ” 史料を論拠とした勝負 ”
「天才」だの「論客」だのと言いながら、テキストワールドでのテキスト勝負に自信がないわけよ。
こいつは邪馬台国オタクでしかないのは皆知ってるだろうが
もっと突き詰めれば「ただの史料馬鹿」だ。それもみんな知ってるというかもな。
もっと突き詰めて言うなら、伊作は「史料から離れた議論が出来ない」んだよ。
こいつが言う「論拠」とは「史料」のみを指す。
当然こういう議論は史料は重要になるが、何かの論を張る場合の論拠は史料だけではない。
史料以外を論拠として議論されるとたちまちお手上げになるのよ ワラ
だから自分から絡んできた俺を今は避けているわけ。
556夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 09:39:23.92
こいつは自分の限界を多分知ってるのだろうねえ。
だから「天才」だの「論客」だのと虚勢を張る。
そして限界を知る故に自信がないから突っ込まれるとファビョる。
もうこれは醜いくらいの火病だ。興奮すると誤字脱字、未変換のオンパレード。
感情に任せた罵詈雑言。自分への誹謗中傷には事のほか異常反応する。
俺も相手を罵倒するし挑発するが、俺のは計算づくだ。感情が先にでることはない。
煽り合い大好きという、我ながら困った一面もあるが ワラ
俺は誹謗中傷も俺の存在の大きさの裏返しになるから歓迎だしな。
俺は自分に自信があるから絶対にファビョらない。火病持ちは自信がない奴がなるものなのよ。

伊作は史料を離れた議論が一切出来ない、ただのオタクだ。

伊作は本を出しているそうだが、こういう奴はそれでおとなしくしてればいいのよ。
著書は一方通行で、言いたいことを反論を受けずに発表できる。
だが、こういう場では反論はあるし議論もしなきゃならない。
史料論拠の得意な土俵だけがあるわけじゃない。
ましてテキスト勝負を避けるくらいの議論能力しかないなら、はじめから来なければいい。
自信はないがプライドだけは以上に高い。それで無理をする。
こんな奴は俺にすれば赤子の手を捻るようなものだ。マジでな。
557夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 09:47:17.25
ま、いいさ。
伊作は言われたら言い返すのがモットーとも言ってたが、どうするかね?
避けてスルーならそれでよし。
プライドが許さずかかってくるなら相手をしよう。
俺は絶対に逃げない。だからコテを張っている。

スレチはこれくらいにして本線に行こうか。
558日本@名無史さん:2012/01/05(木) 10:05:13.49
ここもトンデモばっかになったなぁ
559夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 10:12:49.50
>おばんです秋田名物乳頭パイ
>>412
>陳寿は郡から女王国まで万二千餘里だと認識して記述している。
認識しているさ。ただそれが実距離認識か修辞での認識表明かだ。

>水行二十日や水行十日を距離に換算する(水行1日=千里とする)アホな間違いをしないように
 行程記の結びにわざわざ「自郡至女王國萬二千餘里」と記述していますからね。
お前の間違いは万二千余里を最初から実距離と決め付けていることだ。
決めつけていて、つまり結論を先に持ってきては検証は出来ない。

>>461
>「水行二十日=2万里、水行十日=1万里」というアホな前提で「万二千里は実距離を表さない」と言っているだけでしょ。

水行二十日などは「前提」ではない。
倭人伝にある海路千里は現実問題で実際に「水行一日」ということから出した「水行一日=千里」を
水行二十日などに当てはめた「検証結果」だ。

>万二千里が正確な数値であろうと大雑把なものであろうと陳寿は行程記の結びで明言している。それと齟齬をきたすような
 記述をするほどボケてはいないでしょう。
明言しているのがなぜ実距離だと断定できるわけ?修辞として結んでいても当然の記述になる。
「水行二十日」を二万里としても陳寿の記述はどこにも齟齬はないぜ。
以上から

>「水行二十日も水行十日も距離に換算できるようなものではない」と見るべきで
しょう。
これは成り立たない。おわかりかな?

お前もな、検証する気などさらさらなく「万二千里が実距離でなければ困る」から
結論先にありきなんだよ。お前の話は反論になっていない。出直せ。
560夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 10:25:44.79
>>499
こいつは馬鹿か プ
>>373の言うように狗邪韓国から松浦までの各距離は千里の誤差の範囲内だな

373をそっくりコピペしてこの距離で話す。

狗邪韓国−対馬:1000里 :104km:+35%
対馬−壱岐:1000里 :72km:-7%
壱岐−松浦:1000里 :45km:-42%

104キロと45キロ。これは倍以上の距離差だ。これが同じ「千里」だ。
これを見て
>一日航海だったから一律に千里にしたってのはちょっと無理があるな
と思う方が無理無理だ ワラ
おめえには「普通の感覚」はねえのかよっと プ

倍以上の距離差があるものを一律千里としている。ここからわかること。
距離でこれくらいアバウトだということは船の性能差など細かいことも関係ないということだ。
魏の最新高性能船であろうが旧式低性能船であろうが、倭国の船であろうが
「当時の船」でさえあれば一日航海はすべて千里としていたと見るべきなのよ。

水行一日=千里の実例は伊作が出している。聞きたきゃ伊作に聞け ゲラ
561夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 10:49:57.22
あと、どうでもいいことだが。

>>506
>対夢幻如、対19歳、対ローガン で景初二年なのか?三年なのか?で盛り上がってたようだね。

二年だ三年だの比定に直接関係ない無駄話には一切関わっていない。
俺は「邪馬台国を魏志倭人伝はどこだと言っているか」にしか興味がない。

ついでだから言わせて貰うがな、景初二年、三年だけじゃない。
記紀の古代部分は歴史的信憑性はきわめて低い。これは常識だ。
俺は仲哀以前の天皇(当時は大王)はほとんどすべて捏造、創作だと思っている。
この頃は逆立ちしても万世一系はあるはずがなく、ないから創作されたのが記紀だ。
この架空天皇を論拠にした馬鹿話の言い合いには呆れて眺めてるだけ。
よくよく見れば同じ話を延々と繰り返しているだけだしな。

古墳、土器話も馬鹿馬鹿しくて今ではまともに見てもいない。
前に言ったな。
99の発掘から得られた情報で出来上がった常識はたった一個の新たな発掘で覆る。
勿論、全部が全部じゃないが考古学的発掘調査というのはそういうものだ。
だから出てきた物をそこに限定した見方で見ていかねばならないのが考古学だ。
一つの発掘から「こんな可能性が考えられる」という考え方は排除していかねばならない。
今発掘された何倍、何十倍、何百倍もの眠れる遺跡が存在するはずだ。
今まで発掘された限定的な情報ですべてを考察しようというのは所詮無理で無駄。
考古学を否定はしない。
しかし謙虚さがなければ考古学はいくらでも拡大解釈が可能になる。

記紀根拠話も考古学論拠話も
ただの趣味での言い合いだと思うから、口も挟まず、今では見もせず流しているがね。
どうせ比定には絶対結びつかないから、好きにやってろ ワラ
56219歳某国立大生:2012/01/05(木) 11:12:25.06
伊作の爺さんよ、自分が負けたからって
あっちの掲示板でも僕の書き込み削除かよw
自分に都合の悪い書き込みは消去隠滅するそのくせは
改めたほうがいいぞ。北朝鮮とやってること変わらんよ。
ほんと年寄りってのは政治家といいやり方が汚いもんだ。
563日本@名無史さん:2012/01/05(木) 11:16:01.81
>>561
こりゃ伊作もローガンもジョーカーも太刀打ちできねえな
論陣を張れるのは唐松山か卑弥呼は朝鮮ぐらいだな
レベルが違いすぎる。
564日本@名無史さん:2012/01/05(木) 11:37:52.36
>>560
そう思うならそれでいいわ
ではこれではどうだ

狗邪韓国〜松浦のトータルは104+72+45=221km≒2800里
アバウトな感覚で大体合計3000里とし、各航海をそれぞれ千里にしたと考えられるな
航海日数が書いてあるでもなし、一日航海だったから一律に千里にしたって解釈よりもこっちの方が自然だな
565日本@名無史さん:2012/01/05(木) 11:42:44.26
>>300 :夢幻如
>>296
>末盧国と伊都国が「隣接しない」なら、その間にはなにがあるのだろうか?
 そして「先遣調査隊」が末盧国と伊都国の間にある「国?」を報告しなかったのはどうしてか?

お前は馬鹿だから
『末盧国と伊都国』の間には奴国が横たわっていることを読み取っていない。
所謂、
「到」の解釈が出鱈目だということだ。
「伊都国」の西だけが海で北、東、南、つまり回りはすべて奴国だ。
566日本@名無史さん:2012/01/05(木) 11:50:28.63
説明がつかなくなると修辞とごまかすわけだな。
567日本@名無史さん:2012/01/05(木) 12:08:05.62
>>366 :夢幻如
>>365
>合計12699里=万二千余里
>これを利用して俺は万二千里は実距離ではないと「証明」したんだがね。
>誰か否定できたっけ?プププ
間違いだらけの解釈を利用して
『万二千里は実距離ではないと「証明」したんだがね。 誰か否定できたっけ?』
て、その証明された本質でなんだ。 只の寝言にしかならんだろう。
此処に宣言して置く、
「自郡至女王國萬二千余里」は、可也正確な実距離である。


568唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 12:19:17.04
>>561
>記紀の古代部分は歴史的信憑性はきわめて低い。これは常識だ。

旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

旧編年で歴史を読めば、雄略以前に整合する文献は無い。これが常識。
だから、考古学はこの数字を捨てたのである。
よって、新編年で歴史を読む必要がある。
その場合
239年 倭奴國王位継承の卑弥呼朝貢、朝貢団は、奴國を筆頭に邪馬臺國までの
範囲であり、最遠の邪馬臺國(大和)は、伊支馬=イクメ=垂仁が都市牛利(たしうり)=
田道間守を派遣する。
その帰国に同行して、カテイ等が大和を訪れ、景行に倭王位を授与、その年の中に
洛陽を訪れて、感謝の意を伝える。
569日本@名無史さん:2012/01/05(木) 12:22:33.56
>「到」の解釈が出鱈目だということだ。
「伊都国」の西だけが海で北、東、南、つまり回りはすべて奴国だ。

はい、アウト。
そんな場所無いな。
570太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 12:37:59.11
>素晴らしい答えだな、でこれを魏使は何故認めたんだ?
ほかに人間が住んでいなかったのか?

何を認めたのかというのか?
しっかり書け。素晴らしいなら文句をつけるんじゃねぇ。

国なんだから他にもいたに決まっているぞ。くだらねえことを言うん
じゃねぇ〜。
571日本@名無史さん:2012/01/05(木) 12:39:19.01
>>567
>「自郡至女王國萬二千余里」は、可也正確な実距離である。
「自郡」 は、洛陽を出た最初の「郡」であるから、「自郡至女王國萬二千余里」の起点は洛陽と解釈して問題ない。
洛陽→威海市まで( 927.006 km)→帶方まで(沙里院337.781km)→歴韓国迄(光州385.074km)→其北岸狗邪韓國まで(与那国島 1,247.099km)

洛陽→其北岸狗邪韓國まで(与那国島)2,896.960km≒6700里(ほぼ七千里)
(一里=43.2km、千里≒432km)

其北岸狗邪韓國→女王國迄約五千里。
其北岸狗邪韓國まで(与那国島)から五千里は新潟県新発田辺りとなる。
勿論、
其北岸狗邪韓國から千余里(432km)の對海【馬】國は会稽東治【冶】之東に当たる北緯26度の沖縄。
對海【馬】國から千里の一大國は会稽之東に当たる北緯30度の種屋久島。

「自郡至女王國萬二千余里」の「萬二千余里」の距離算定に
「水行二十日・水行十日陸行一月」は直接的には係わっていない。
洛陽→其北岸狗邪韓國の七千里と其北岸狗邪韓國→五千里の女王国で万二千里である。

對海【馬】國は対馬ではないし、一大国は壱岐ではない。

572太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 12:40:06.58
太陰暦を誤魔化すことの出来るのは、宿主の脳内である。
573日本@名無史さん:2012/01/05(木) 12:43:10.39
>>569 名前:日本@名無史さん :2012/01/05(木) 12:22:33.56
>「到」の解釈が出鱈目だということだ。
「伊都国」の西だけが海で北、東、南、つまり回りはすべて奴国だ。

はい、アウト。
そんな場所無いな。

伊都国は現出雲だ。
末廬國は現下関。
下関から五百里(216km)が現出雲、ここが魏志の伊都国だ。
574怒濤の天才:2012/01/05(木) 12:45:45.54
>>555
>伊作は俺を完全回避している。
できるだけ、お近づきになりたくないのでな。基本的にスタンスが違いすぎる。
お前には理屈だろうが常識だろうが論理だろうが、何をいってもも通じない。

>「史料から離れた議論が出来ない」
お前は史料から離れた議論をしてろ。
「史料から離れた」独りよがりの論証宣言ばかりで、そのうち皆が飽きるだろ。

>史料以外を論拠として議論されるとたちまちお手上げになるのよ
「史料以外の論拠」というものがあるのか? 驚いたな。
「史料から離れた」思いつき強弁の連ちゃんじゃ読む気がしない。

そもそも、まがりなりにも自論なるものをひっさげて板に登場する奴は、
例外なく自己主張と自我が強く、他人の意見など聞かない。
プライドの高い俺としては、そういう奴と醜態をさらしてまでやる気はないのだ。

以前にもいったと思うが、ほかをあたれ。
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 12:49:42.33
×成務天皇 262年〜265年←↓成務仲哀は同じ暦の可能性がない。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
57619歳某国立大生:2012/01/05(木) 12:50:03.21
伊作の爺さんよ、さすがにもうあんたの掲示板には行かんよ。
都合の悪い書き込みは全部削除されたんじゃアンフェアすぎる。
あんたやることが汚すぎるよww
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 12:53:42.89
大中臣のニセ編年撲滅の下命から〜まがい物編年188年説壊滅の宣言!
古代史の真の年代を測るべき古代人が未来に残してくれていた天下の宝器。
大中臣からの偽編年壊滅の下命の文が大祓祝詞の 天津金木 の条である。
〜ニセ年々壊滅の宝器こそ、天津神算木(天津金木)なり。
天津金木とは半径r=3の円(三輪)の 球化の体積=表面積 の数式をいう。
この球の数式に秘められた年代こそが古代史の真の年代教示の数値である。
天津神算木(表面積では)は

 4πr**2=113.0973355292・・・ (**はべき)

右辺には先頭数列(主値)にて右がある。 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
景行に関しては以下の通り〜2番目数に死値にて崇神世お助け年代とする。

 A.D.130年 景行天皇 没年

大祓祝詞に曰く  大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 2≠113.097335

三輪の数3に因み不等式の右辺を三分数列とすれば 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0を除去:西暦0年を消すため)
335←崇神即位の実年代への誘引ジョーカー数 335年

ここから真の崇神即位年代への誘引は   335−97=238年   だが
西暦0年を除去するので1年分マイナスとなり


 238年−1年=237年=崇神天皇即位元年=景初元年
578怒濤の天才:2012/01/05(木) 12:54:51.04
「3世紀築造の突然変異的、巨大ばち形前方後円墳の完成形」
この事実をさらに分かりやすく、作図して提示した。
http://8234.teacup.com/isaq/bbs
579怒濤の天才:2012/01/05(木) 12:57:49.45
>>576
なんでもかんでも誹謗に理由するんだな。

>都合の悪い書き込みは全部削除されたんじゃアンフェアすぎる。
>あんたやることが汚すぎるよww

そういうお前の言動は卑しすぎる。
これまでに何度か事前通告した。
「お前の投稿は汚ならしいからすべて削除する。必要な箇所はコピーしとけ」。と
いったことを実行しただけだ。別に反対もしなかったろ。
ここでもそうだが、お前の投稿は議論よりも誹謗宣伝が多すぎる。
何かにつけて俺の誹謗ばかりするが。よほどの事情があるらしいな。
卑しすぎる。


58019歳某国立大生:2012/01/05(木) 12:57:54.58
その伊作の爺さんの掲示板はアリ地獄だから行かないほうがいいぞw
都合の悪い書き込みはすべて削除できるように仕組まれた
トラップだからw自説のためならなんでもありなのがこの爺さんのやり口だぞ。
581卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 13:03:28.65
伊作氏が何を根拠に水行一日千里と考えたのかは知らないが、資料的根拠があるならともかく、
史料的根拠がないなら、「唐六典」の一日水行45里で考えるべきである。
陳寿は文人であって、当時の通念というか常識で以て里数表記をしていると思われるからだ。

それから夢幻如氏が記紀の古代部分を信じないのは勝手だが、それは要するに明治以後の学者の説を信じているからで、
学者の説など信じる必要はないのである。

まずは本居宣長のように、記紀を素直に信じてみよう。
そりゃ漢籍の丸写しのような部分もあるかもしれないが、それだけで全否定してはいけない。
書紀が信じられないなら、古事記を信じてみよう。
582太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:10:03.75
崇神5,6年≠新羅192,3年=後漢193年?

ここで倭国統一もなく 最初の大王墓の主は景行でない。

>伊支馬=イクメ=垂仁←滑稽至極の猿の惑星そのものの噴飯節

景行天皇×240年〜261年
垂仁天皇×217年〜239年 4章 ←この4章(19年*4=72年の空白年が垂仁紀に差し込まれてない)

つまり宿主がウソを付くとき、宿主が正しいと主張するために、日々の干支がふられるわけであるが
ウソを付いている>>575←証拠とも出来る。
583日本@名無史さん:2012/01/05(木) 13:18:24.67
>>581
その前に、倭人伝を信じたら?
584怒濤の天才:2012/01/05(木) 13:28:09.70
>>580
>都合の悪い書き込みはすべて削除できるように仕組まれた

誹謗もだんだんエスカレートするようだ。
しかも、誰がみても見え見えのウソをいい続ける。
不当なでっちあげイメージを創作して宣伝する手法も
畿内説の常套手段ではあるが、見え見えのウソまでついて
誹謗しなくちゃならんほどに俺は畿内説にとって強敵なわけだな。んー?

お前の、ウソに基づく誹謗の投稿は削除した。
まがりなりにも意見らしいことを述べた投稿は残してある。
お前とジョーカーの投稿の半分はただの個人誹謗だ。
585唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 13:29:55.52
>>582
かわいそうに 文献が無ければ自分でそれとできるもの(>>577)を作った。
だから >>575 も >>577 の自作自演の文献?でしか整合性を得られない。
太国も主張していない倍年(何時がその年の初めかわからない)を使って、
成務の領地以外の民が記録したものである、と主張する。
どうすんだ?

586怒濤の天才:2012/01/05(木) 13:32:28.95
>>581
>資料的根拠があるならともかく、
えー・驚いた。以前提示したが。
ま・今ここをにぎわしているビギナーに説明する気はないよ。
ひところよりもさらにレベルが落ちた。
たぶん、理解する能力も理解する度量もなかろう。徒労がみえてるしね。
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:35:33.84
×成務天皇 262年〜265年←↓成務仲哀は同じ暦の可能性がある文献を出せ。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
588太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:37:59.96
≪大中臣の下命≫
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
両端の○数字に注目。


 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年


の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これが本物だ。
崇神即位年≠188年
589太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:40:46.20
>成務の領地以外の民が記録したものである

成務の領地以外のものとオマエが主張したことは、先代の景行が日本統一
が出来てない領地が日本各地にあったことになる。

つまりオマエの言い分は、論上でのオマエ自身の首を絞めたも同然。
590太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:46:22.25
192年≠崇神5年

崇神5年には船舶の製造がない。つまり神武が畿内に来てからまだ勢力狭小の
ちょっとした豪族程度であったから、畿内中あたりから海上へまで触手を伸ばせ
なかったわけで、畿内盆地にて小勢力でいたのだ。

それで船舶は製造する必要がなかったわけで、崇神の代になって勢力が畿内全円
に近く至ったことから、紀の崇神17年に始めて船舶が製造されたのである。海上
に進出する局面に至ったということだ。

その12年前の崇神5年においては船舶を製造するには至っていないわけで、
これでは、この男の言う畿内飢餓農民千人もの多勢の半島渡海は出来っこない。

すなわち上の不等式が成立し、崇神5年に船舶のアリバイが無いことから、
唐松山の下手クソなカモフラージュ の編年 192年=崇神5年
は成立しないデタラメである。
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 13:52:06.67
>先代の景行が日本統一が出来てない領地が日本各地にあったことになる。

日本統一をしても、引き延ばされた太陰暦では記録できない。
だから、仲哀時代以後は、正しい太陰暦が使用される。
つまり、大和周辺の暦日変更を知る人々しかそれは使えない。
>成務の領地以外のもの とは太国が主張した。
この結論から言えることは、寺社伝承は、太国倍年と同じく、後世の作り物。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:56:09.63
>日本統一をしても、引き延ばされた退院歴では記録できない。

日食主張をしても、引き伸ばされた数日間継続は記録できない。
     ↑
宿主の作り物。ww 日食は数日間続かないのは秀魔電よりずっと権威
ある現代天文学の鉄則である。

秀魔電は、宿主空年と同じく、後世の作り物。
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:59:30.32
さらに悪いことに、宿主は秀魔電笑に41年から西暦を振ることが出来ない。
この事実は、書紀の全ての年度が存在するという宿主空年が成立しないことを
物語っている。ま〜だ? 西暦41年の具体的説明は〜?

毎回崇神年代を振って来たから、今度は57年分の空年の無い成務年代
にしてやろう。↓下を見い。オマエは41年が出来ない。ウワハハハ・・・

皇紀 西暦 倍暦
791 131 323  成務元年 成務天皇 即位
792 132
793 133
794 134 324
795 135     成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
796 136     成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
797 137 325  成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
798 138     成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
・・・・・・・
830 170 336  成務40年 神功皇后 誕生
831 171
832 172
・・・・・・・
836 176 338
837 177
838 178      成務48年 仲哀天皇 この年 立太子
・・・・・・・
848 188 342
849 189      成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
850 190      成務天皇 崩御
594太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:03:11.16
>>587は各年代が各々独立しての充填性があり、

 サイズで空年されている事実は無い。

595唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 14:14:15.14
>畿内盆地にて小勢力でいたのだ。それで船舶は製造する必要がなかったわけで、

新羅本紀には、大餓のため倭人渡来 としか記録されていない。
であるならば、飢饉は、畿内のみならず全国的であったろう。
畿内の民が散る如く、全国で起こる。
大彦が北陸に派遣されたのも、南下する民の畿内流入を阻止するためと思われる。
青谷上寺地遺跡が示す如く、食人をあらわす人骨が腐りきる前に土砂が覆い隠す。
ここに船団の絵が出土した事実は、崇神が船舶を作る前から、日本海側には船舶が存在する。
当然九州にも存在するであろう。
であるから、渡海したのは畿内の民の必要は無い。
4道将軍がこの逃散した民を連れ帰ったとき、異俗多帰と記録される以上この飢饉は畿内に限定できない。
596太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:16:18.09
>新羅本紀には、大餓のため倭人渡来 としか記録されていない。
渡海距離を考えるならば、飢饉は、畿内のみか+αの限定的であったろう。
597太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:17:48.82
ここに船団の絵が出土した事実は、崇神が船舶を作る後から日本海側には船舶が存在となる。
当然九州にも存在するであろう。
598唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 14:19:26.31
>>587は各年代が各々独立しての充填性があり、 サイズで空年されている事実は無い。

充填性であり記録ではないと主張したいの?
書記の空白年を主体に後世に充填したものであると。
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:20:48.46
>>596 訂正
渡海距離を考えるならば、飢饉は、対馬等のみか+αの限定的であったろう。
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:22:50.25
寺社由緒伝承の記録↓から57年分の宿主空年は空年佛で否定される。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
601日本@名無史さん:2012/01/05(木) 14:25:08.76
無限尿のまとめ

1:邪馬台国は俺様の故郷、新潟にそばにしたい
2:鯨統一郎の推理小説をパクッて、
  ヤマタイ=ハチマンタイにしておこう
3:俺様の邪馬台国論は我田引水だとバレ無いように、
  機関銃のようにムダ話を並べて誤魔化そう
602唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 14:29:18.68
>ここに船団の絵が出土した事実は、崇神が船舶を作る後から日本海側には船舶が存在となる。

でそれを証明できる文献の提示が出来ないのが太国倍年である。
青谷上寺地遺跡が△鏡より後世になる文献の読み方を文献と共に提示してくれ。
文献が無ければ、考古学の読み方でもよい提示してくれ。
提示できなければ、太国のたわごと。
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 14:43:07.82
>ここに船団の絵が出土した事実は、崇神が船舶を作る前から、日本海側には船舶が存在する。

でそれを証明できる文献の提示が出来ないのが宿主空年である。
青谷上寺地遺跡が△鏡より後世にならない文献の読み方を空年と共に提示してくれ。
文献では、秀魔電笑の読み方でもよい提示してくれ。
提示できなければ、宿主のたわごと。

日食が数日間続くという退院歴の記録は、宿主のたわごと。
604唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 14:50:23.78
太国:皇紀西暦 倍暦
13 -648  5 元始5年 東夷の王(神武) 大陸に国珍を奉ず
>>590
つまり神武が畿内に来てからまだ勢力狭小の ちょっとした豪族程度であったから、

太国の主張は、この程度のものよ。
605卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 15:41:32.20
伊作氏の「陸路と海路の距離尺度」を読ませてもらった。では批判してみよう。

1 まず帯方郡の位置比定が問題である。帯方郡が現在のソウルあたりにあったかは疑問である。
2 韓地がどこかが問題である。韓地が鴨緑江以南だと考えれば、洛陽〜遼東間が3600里だとすれば、
  韓が方4000里だというのは、大雑把に言って適合している。
3 水行1日千里という資料がどこにもない。伊作氏が挙げているのは、水行は里数もしくは日数で示されていて、
  里数で示される場合は百里単位もしくは千里単位だけである、ということだけである。
  どこにも、その百里単位もしくは千里単位の水行が日数に換算して何日に相当するという資料はない。

伊作氏はあまりに厳密に、現実的に考察しすぎているのである。漢人の文章は修辞に近いいいかげんなものなのである。
一瀉千里という言葉があるように、千里とは非常な長距離を謂うのであって、一日水行が千里などという通念はない。
606日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:44:00.25
美醜善悪だのといった主観ならともかく、
距離だの時間だのに、修辞は無いだろ。
607日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:50:58.53
http://8234.teacup.com/isaq/bbs
>遠くの応援者さん。 投稿者:管理人 投稿日:2012年 1月 5日(木)13時19分49秒 返信・引用
>返答が遅れました。
>あのコーナーがあることを知らず、
>本日はじめて気持がつきました。応援ありがとうございます。
>あなたのように、しっかりしたスタンスを持つ人が多くなるとを信じています。
>畿内説支持者の目に余る誹謗作戦を蹴散らしてがんばります。

「投稿者:管理人」ってまさか伊作の自演か?
他人の掲示板に「管理人」なんて使うやつもいないだろうしw
 
608ローガン:2012/01/05(木) 15:56:55.29
>>510:怒濤の天才
>完全な服喪中とはいえない。
>この言い回しの意味わかるよな。

「完全な服喪中」なんてあんまり云わんが、三年服喪の事やね。
勿論、それが基本だろうが、そんな事してたら国政が止まってしまう。
だから、短喪制になっていった。その始まりが後漢末、応劭いうところの「凡三十六日而釋服矣。此以日易月也」だろう。
以日易月…36ヶ月を36日とした。君が云う「完全な服喪中」とはこの約2ヶ月の事だ。だからといって、基本の三年服喪がなくなった訳じゃない。
心喪という形で続けられたんだ。
609太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 16:00:09.85
>>604
別におかしくはない。神武の頃あたりだけは別だね。

神武は空腹農民ではない。天下を取ったんだし、半島へは九州から畿内に
東征した途中でその道筋の土地鑑と乗船経験がある。千人もの農民は海上
経験の豊富な漁師ではな〜い。

神武を過ぎて畿内朝廷は奈良盆地一帯に勢力がとどまって、3代4代以降
は当然海の経験は殆どなく時代が経過して崇神の代に来たもので、そこで
初めて神武あたりは別として再び海上経験を欲することとなるほど勢力が
出てきたことから、崇神17年ここで神武のころ以来始めて船舶製造と
なったものである。別におかしくはない。


おかしいのは1回も20年30年とかの空年の具体的年代箇所に口をつぐんで
いるオマエであり、それをはっきり見せれば、これは信じてくれる可能性
が出てくる。オマエのは単なる数字の抽象的羅列のみであり、どこから
どこまでの各天皇の在位年代が空年なのかの大量空年具体的箇所を提示
する能力が全く無い。これは宿主空年がイカサマの証拠なのである。
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 16:20:14.32
伊作氏の古墳年代表を見ての感想
箸墓は新編年(崇神=2世紀末)の設定であるが、上石津ミサンザイ・誉田御廟山・大山陵などは
旧編年(七支刀369年)の設定となっている。
旧編年では、広開土王碑の文言は古代表記と主張されるが、
407年に金官伽耶が東半分を失ったことは韓国考古学が確認できる。
金官伽耶はご存じの如く任那である。この半分を失ってから巨大古墳が作られるのが、旧編年である。
 義煕九年[413]『是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物』(晉書安帝紀)
この時百済は高句麗国に含まれる。この属国百済を独立国のまま存続させたのが、百済本紀である。

倭が百済・新羅を失ったのであれば、400年以降に巨大古墳を築造する原資が無い。
であるならば、大山陵は書記に書かれた如く399年に築造途中で終了する。
611唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 16:24:04.27
>神武の頃あたりだけは別だね。
>つまり神武が畿内に来てからまだ勢力狭小の ちょっとした豪族程度であったから、

齟齬をきたしているだろ?
神武のころは強大で、崇神のころは凋落してたとなるんでないの?
612唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 16:29:48.97
訂正
×旧編年では、広開土王碑の文言は古代表記と主張されるが、
○旧編年では、広開土王碑の文言は誇大表記と主張されるが、
613卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 16:31:51.49
>>606
洛陽〜遼東間を地図で大雑把に計算すると1000〜1100kmくらいだ。
一方後漢時代の一里は414mだから3600里は約1500km。まあ大体合っているといえば合っている。

しかし韓地が方四千里というのはどう大目に見ても2〜3倍誇張されている。半島〜対馬間の千里にいたっては完全に狂っている。
つまり不案内な土地に関してはかなりデタラメなことが書かれているのだ。
614太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 16:57:14.39
>>611
凋落なんかしていない。だから崇神17年に船舶を製造できる力が
あったのだ。
615日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:04:14.46
>>613
1里=70数mという短里がこの世になければ、デタラメと言うことになるね。
しかし、短里があるということは、君の判断力がデタラメというしかない。
616日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:09:17.34
>>613

短里による方四千里=94864平方キロ
現在の韓国で、98,480平方キロ(wikipedia)
617唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 17:46:26.62
>>614
そうでもないだろう
神武のころは丸木舟だ、四道将軍派遣以降領土が増えたから造船が可能となったとしたら
丸木舟で大海を渡るのは、瀬戸内海の船師では役不足だ、それだけ費用が掛かる。
崇神はまず瀬戸内用の船舶を1艘づつ作ってゆくことも可能であるが
丸木舟の神武の方がはるかに費用が掛かるんじゃあないのか?
それが崇神元年頃は凋落していて(相攻伐暦年)その後持ち直す。
618日本@名無史さん:2012/01/05(木) 18:11:12.52
>>617
「役不足」の意味、分かってますか?
619日本@名無史さん:2012/01/05(木) 18:23:57.74
>>561 無限尿(おらが国のゴミクズレベル東北説)
>俺は「邪馬台国を魏志倭人伝はどこだと言っているか」にしか興味がない。

位置論争限定・特化型かw
要は「行程記事を読んだら東北以外に考えられません」と自説を布教することに絞っているわけやねw
まあ分かっていたことだが…「米所」とか「縄文」とかほざいてた時点で”それが”(今はあえて”底が”とは言わないw)が見えたしなw
全体の歴史の中でどういった背景で東北邪馬台国が出てきて、どのようにして姿を消し去ったのか?
その出現により東北の地、東日本、あるいは当時の日本全体にどういう意味があったのか?については興味の対象じゃないと…
まあ 森村伊作 の様な九州熊本邪馬台国が東遷して大和朝廷の祖となったと言う東遷説や
場合によっては「7・8世紀頃まで列島を支配していたのは九州王朝だ!」…なんて与太話が出てくるよりマシかもしれないがwww

>考古学を否定はしない。

普通に全否定だぞ?w
将来全てをひっくり返す物が出てくる可能性があるからと言って言及できないのなら凡そ学問として成り立たない。
(東北から「親魏倭王」の金印が出てくる可能性だって理論的にはゼロじゃないw)
出土した物から帰納的に論を組み立てるがその手法ゆえに「現在ある資料で」と言う限定がつく。
こんな事は最初から分かっていることでわざわざ言う必要も無い事だアホらしい。
お前がこんなことをわざわざほざくのは

>史料を離れた議論が一切出来ない

…と要するに自分が出した物以外の史料・資料を出されるのがイヤw
ボックンが用意した土俵・材料の中でやってくれなきゃイヤ と言う馬鹿の甘え。
相手が自分の知らない史料・資料をきちんとソースをつけて出してきたら
自分で調べるか相手に教えを乞うか…
何れにせよ史料・資料を離れたらもはや議論ゴッコですら無い。
必死に固執した自説(=おらが国の東北説)を相手に認めさせたいだけのディベートゴッコかロンパーゴッコなら他でやれ低脳ゴミクズ。
毛色の変わったゴミクズが増えるだけの話だ。

※尚、名無しなので自称 名うてのちゃねらー コテの無限尿君には
  このレスは無視して頂いて結構です(ゲラゲラ
620日本@名無史さん:2012/01/05(木) 18:25:08.46
>>578 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 
これ↓を馬鹿が火病おこして頭から湯気でも出しながら必死に作ったと思えば、もう哀れさすら感じるなwwwww

http://8234.teacup.com/isaq/bbs/image/detail/comm_id/105/id/1/

>箸墓古墳を4世紀前半以降の築造とみれば、200メートルを超える大古墳が登場し始める時期でもあり、そうした不条理感も解消する。

そりゃ既に200m超級の物が出現した時期に持っていくんだからなw
がその図だと今度は箸墓に代わってメスリ山(250m)がトップに来るだけの話w
200mをも超える古墳の出現のトップバッターが単に代わるだけw
一体この阿呆は何が言いたいのだ?wwwwwwwwwwwwwwwwww

ある時期から急激なサイズ拡大をし200mをも超えるものが出だすことに何ら変わりはなく
じゃあそれが3世紀はありえず4世紀でしかありえないとこの馬鹿が最初に広げた大風呂敷の根拠の説明もなく
「科学的」「物理的」「心理的」等々の言葉だけを羅列して誤魔化すだけのゴミカス。

しかもメスリ山は円筒埴輪(器台型埴輪)が出ていてその前身たる特殊器台の出ているとされる箸墓が後になると言う
それこそこの馬鹿言うところの「段階的ステップ」が一つ消失するどころか逆転してしまいかねないw

で、結局、西殿塚を渋谷向山や佐紀の五社神より後にするこの編年の根拠ソースは結局教えてもらえないのかな?w
いやあ実際のところ本当にこんな物は初めて見たんだが一体何処からこんなもん引っ張ってきたんだ?wwwww

(…とここまで書いて、どうやらその元ネタを見つけたようなので続くwwwwww)
621>>620 の続きwww:2012/01/05(木) 18:26:31.88
…で、この見栄と嘘と知ったかぶりの塊 森村伊作 が西殿塚を4世紀末としたソースだが
多分この馬鹿が参考にしているここ↓からじゃないかな?

http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&title0=%90%BC%93a%92%CB%8C%C3%95%AD&choice0=q4400260&printer=&photoview=53&index=195&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=
>この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろと推定されています。

確かにここで西殿塚を4世紀末としているが根拠は不明…
そもそも本人が撮影した現地の説明の看板にも例の手白香皇女の墓としては一致しないと説明したもの以外
「天理市教育委員会」による「3世紀後半」との説明があるのみだが…(上記で画面右下「スライドショー」のところを参照)
単なる勘違い思い違いか?

しかしこのサイト何故か楯築を前方後円墳としていて 

http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&title0=%8F%7C%92z%8C%C3%95%AD&choice0=k6303270&printer=&photoview=30&index=787&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=

森村伊作 もそれを鵜呑みにして以前赤っ恥かいたんだがw
また鵜呑みにしてそのまま引いているみたいだな、学習能力の無い阿呆が。

それとも今回は鵜呑みじゃなくてきちんと「裏」が取れているのかな?え?自称天才の 森村伊作 先生w
(つうか複数のサイトで確認するぐらいのことはしたんか?w)

まあ自前で撮った写真も豊富で複数の外国語にも対応していてその意味ではありがたいサイトなんだろうが(駐車場の情報まで載っているw)
色々「ご愛嬌」が入っているサイトとしてみなければとても論拠にできるようなサイトじゃない。まだwikiの方がマシ。
恐らくそのサイトの人も学術的なところまでやるつもりも無く、自身が歩いて見た古墳を紹介するのを目的としたのだと思がw
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 18:48:24.40
>丸木舟で大海を渡るのは、瀬戸内海の船師では役不足だ

それが分かるなら、千人もの船師でない渡海経験の無い農民の大海渡海など
成立しない役不足のひどいオマエの妄想だと気づかないのか〜?ppp
623おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/05(木) 18:53:20.17
>>559 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/05(木) 10:12:49.50

>>461
>>「水行二十日=2万里、水行十日=1万里」というアホな前提で「万二千里は実距離を表さない」と言っているだけでしょ。

>水行二十日などは「前提」ではない。
>倭人伝にある海路千里は現実問題で実際に「水行一日」ということから出した「水行一日=千里」を
>水行二十日などに当てはめた「検証結果」だ。

あらら。「倭人伝にある海路千里」とは狗邪韓国ー對海国、對海国ー一大国、一大国ー末盧国の渡海のことですね。それらの各渡海が
1日航海と看做せるから水行1日は千里に相当するというわけですね。それはまあいいでしょう。しかし、倭人から聞いたものだとす
る投馬国と邪馬台国のところの水行二十日と水行十日に同じ換算が適用できるかどうかは分かりませんね。

あなたは「検証結果」だと言いますが、ただ単に「水行一日=千里」を「水行二十日などに当てはめた」ら「万二千餘里は実距離とは
言えない」と言っているだけですよ。どのような水行においても1日千里が誰にでもわかる常識であったかどうかの検証もされていな
いではありませんか。

>万二千里が正確な数値であろうと大雑把なものであろうと陳寿は行程記の結びで明言している。それと齟齬をきたすような
 記述をするほどボケてはいないでしょう。
明言しているのがなぜ実距離だと断定できるわけ?修辞として結んでいても当然の記述になる。
「水行二十日」を二万里としても陳寿の記述はどこにも齟齬はないぜ。

仮に修辞で結ぶとしても、「水行二十日」を二万里と換算することができるのならば、それより小さな数字の万二千里では辻褄が合わ
ないことぐらい誰にでも分かるでしょ。修辞なら4万余里くらいにしないとね。

>お前もな、検証する気などさらさらなく「万二千里が実距離でなければ困る」から
>結論先にありきなんだよ。お前の話は反論になっていない。出直せ。

アホなあなたがそのような大きな口をきいてはいけませんよ。人間謙虚さを失ったらいけません。
624怒濤の天才:2012/01/05(木) 19:11:05.86
>>607
あれあれ。これも自演で片付けるわけか。
じゃ、俺の掲示板の「足あと帳」というコーナーに陶工されたものを再掲しておこう。
てめえら、どこまでも根性が腐ってるな。

http://8234.teacup.com/isaq/bbs
62519歳某国立大生:2012/01/05(木) 19:19:10.91
伊作の爺さんよ、そんなごきぶりほいほいみたいな
掲示板にもう書き込まんよw都合の悪い書き込みは全部削除しちゃうんだし。

しかし伊作の爺さんといい太い国さんや唐松とか
みんな一日中こんなことしてんだなwオタにもほどがあるわ。
626怒濤の天才:2012/01/05(木) 19:26:30.17
>>625
>掲示板にもう書き込まんよw
こなくていい。

>都合の悪い書き込みは全部削除しちゃうんだし。
不当な誹謗を書かせるための掲示板ではないのでな。
誹謗に対する反論を載せる掲示板だタコ。
627怒濤の天才:2012/01/05(木) 19:33:01.89
>>625
>一日中こんなことしてんだなwオタにもほどがあるわ。
お前がその代表的な一人だ。
学生などと詐称してるが、勉学に時間をさいてる雰囲気は一切ないし、
年齢も役回りもジョーカーレベルのタコだろが。
62819歳某国立大生:2012/01/05(木) 19:38:57.10
伊作の爺さんよ、勉学なんぞに時間さいてないのは認めるが、
学生なのは間違いない。嘘だと思うなら名古屋大学に来てみろ。
なんなら教授にあんたが大学で特別講義したいと言ってたと紹介してやろうか?w
それに俺は一日中はこんなことしてないわ。時間あるときだけだ。
今も面白いテレビ番組やってないからネットしてるだけだ。
2ch以外のサイトもやってるしあんたらと一緒にするな。
629怒濤の天才:2012/01/05(木) 20:33:59.62
>>628
とうとう錯乱したようだな。
どうやら、精神的にスカスカなものをかかえた奴らしい。
………聞かれてもいないことをペラペラと。

>教授にあんたが大学で特別講義したいと言ってたと紹介してやろうか?w
伝えろ。お前みたいなボンクラが集まった大学にはもったいないが。

>面白いテレビ番組やってないからネットしてるだけだ。
テレビみてるかネットしてるかかぁー? 彼女いない歴25年か。タコ
ほかにやることはないか。
俺などは、自宅のMacで仕事しながら相手してるんだ。

>嘘だと思うなら名古屋大学に来てみろ。
名前をこつそり教えろ。問い合わせる。
ついでに、勉強もせずウソを並べて誹謗ばかりしてると報告してやろう。
630日本@名無史さん:2012/01/05(木) 20:52:11.80
未だにつまらない議論を長々と続けてたのかw
魏から来た吏の目的が軍派遣のための先見調査とか、もう笑うしかない

魏志倭人伝の冒頭にある、倭人在帯方東南大海之中依山鳥為国邑、これだけで魏吏がわざわざ日本まで出向いて来た意義が充分にあったということ

中華にとって根本にあるのは中華思想だけど、一方では神仙思想というのがあって、神仙の地を探すのが永遠の課題だった
そのために徐福を派遣したりしている
そんなところへ突然、卑弥呼という者からの使者が唐突に帯方郡へやってきた
49年の使者の来訪もあり倭国は中華にとって既知の存在だったけれども、
徐福が蓬莱を探す旅に出た出発地が江蘇省であったこと(徐福村は江蘇省)、
日本に呉由来の神獣鏡が氾濫してること、
以上2点から見ても、中華にとって東夷への窓口は会稽郡という認識だったのだろう、
その卑弥呼からの使者が倭国からだとは思いもしなかったのだろう
伝説の蓬莱国からの使者が来たのかと色めきだって過大な贈り物をし魏吏を送って確認作業を行っただけのこと
その結果は、そのムァティ(街=人と物が集まるところ、都)まで行く必要もなく、伊都国まで行った時点で、
何のことはない、既知の倭国からの使者だということが解った、魏志倭人伝はただそれだけの話し

萬二千里というのも、当時認識されていた会稽郡經由での倭国への里程として認識されてたものであろう、
魏志倭人伝に出てくる里程はその数字に合わせるために辻褄合わせされたもので、はっきり言って意味のない数字

そして、詳しい説明は
(中略)
とさせていただいて結論だけ述べさせていただくと、

邪馬台国(ィヤムァティコク)は近江にあった、ということ
631日本@名無史さん:2012/01/05(木) 20:53:55.66
ひいい差別主義者にして在日の近江厨だ
632日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:07:12.45
そろそろ蝦夷厨とか琉球厨とか出てきそうだなwwwwwwwwww
633日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:07:14.52
お、また変なのが出てきたぞ
どのくらい楽しませてくれるかお手並み拝見
634日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:09:32.84
>>630
ムァティ(街=人と物が集まるところ、都)って何語ですか?
635日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:11:36.36
やまとことば
=まち
636日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:14:51.28
>>634>>630への質問です。邪魔しないでください。
637日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:14:57.18
くえええ 差別せんとや 生まれけむ たはぶれせんとや 生まれけむ

差別する子の声聞けば 我が身こそさえ 揺るがすれ くえええええ
638日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:24:39.34
なんで差別主義者なんてことにされてしまうのか?って思ったけど経由が經由に変換されてしまったせいかな?w
それだけのことで差別者扱いする方が差別者

>>636
なぜ他人がレスしてるんだと思ったのか、その理由を簡潔に述べてみよ
639日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:28:31.17
>>630

>そのために徐福を派遣したりしている
>そんなところへ突然、卑弥呼という者からの使者が唐突に帯方郡へやってきた

徐福と卑弥呼じゃ400年も離れてるぞ。
秦にあった蓬莱への憧れなぞ、魏には全く無いだろ。

>その卑弥呼からの使者が倭国からだとは思いもしなかったのだろう

卑弥呼の使者に対し、お前の国はどこにあるのだ、と徹底的に尋ねるのが当たり前。
卑弥呼の国は会稽郡だなどと勘違いする余地はない。
640日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:39:17.36
>>638
そんなやまとことば聞いたことがないから何語かと訊ねてるんじゃボケ
641日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:53:39.30
>喫丹古伝に卑弥呼が朝鮮にいたことが書かれてるってほんとか?
642日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:56:16.59
喫丹古伝で日本の古代史が解明できたためしは、ほとんどない。
643卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 22:09:56.17
>>642
あなたは読んだことがあるのですか?

まあ私は最近は朝鮮の倭が神功皇后の名で朝貢したのだろうと思っているので、
卑弥呼が朝鮮にいなくてもいいと思っているのだが。
644日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:27:40.86
邪馬台国は馬韓にあったようだ。

http://www.hachiman.com/books/89350-561-0.html
645日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:41:44.45
喫丹古伝なんかに食いつく奴て
どういうオツムをしてるんだろう?www


646日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:40:12.03
>>630のキチガイもう逃げたのかよワラ
647日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:50:07.20
>>646

尿の別キャラ(こっちが本体かも)だよ
648日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:51:10.46
人種差別の在日だよ
649日本@名無史さん:2012/01/06(金) 01:30:04.36
まさにケイオス
650日本@名無史さん:2012/01/06(金) 01:45:44.20
邪馬台国が何処に在ろうと大した問題じゃないんだからもっと気楽に議論・意見交換しようや
651日本@名無史さん:2012/01/06(金) 07:47:32.69
ココすごく面白い
652怒濤の天才:2012/01/06(金) 08:30:14.02
>>607 の名無史
投稿した本人からの返信がある。
非常に手厳しす畿内説批判だ。糾弾の声だ。あれでも俺の自演というか。
http://8234.teacup.com/isaq/bbs

ウソつき経歴詐称学生も、自分に対する批判文を名無しが書けば、
俺の自演だというが、それとて濡れ衣の誹謗だ。
俺は名無しでは書かない。そのことは誰もが知っている。
それでもなお、誹謗攻撃をしなければならないのもまた畿内説の醜さだ。
653日本@名無史さん:2012/01/06(金) 08:33:20.37
またアホウが朝から湯気あげとるがな
早く鬼籍に入ればいいのに
654日本@名無史さん:2012/01/06(金) 09:25:35.36
自演がばれて必死か
655怒濤の天才:2012/01/06(金) 09:55:55.39
>>653  >>654
「手段を選ばず」の畿内説煽動小市民といっしょするな。
見る目のある良識も見ているということを忘れると、
お前たちみたいに「なりふり構わず」何でもありになるんだ。

それにしても畿内説は評判がよくないなー。
他者を誹謗宣伝しているつもりが、自分たちの醜態をさらしてるのだ。
遠くない未来において、畿内説を標榜することが恥ずかしくなる時代がくる。


656日本@名無史さん:2012/01/06(金) 10:04:48.53
pppp 破綻に破綻を重ね病気になって鬼籍に入る伊作
657日本@名無史さん:2012/01/06(金) 10:05:24.83
>>656
こら馬鹿をからかうんじゃない
65819歳某国立大生:2012/01/06(金) 10:29:00.28
伊作の爺さんの名無しでの自分への援護射撃が見破れないとでも
思ってるのかwあんたの本、教授にも見せていいが、
立ち読みできる個所が僕にも論破された例の景初2年の証明のとこなので
教授が読んでも、こんな作家を大学には呼べないとOKサインでなさそうだけどw
659夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 10:36:05.92
ふう、忙しすぎだ・・・
超早期リタイアをやりきれず「国民の義務」を果たしながら「仕事とは何か」を考えようと
週三日くらい働くつもりが成り行きで5日になり6日になり、おまけに夜勤専門なんてやりすぎだ。
中途半端が嫌いで出来ない、頼られると嫌と言えない、この性格が災いだぜ。

時間制限がある中だが、やれるだけやろうかね。
660竹斯の民:2012/01/06(金) 10:38:13.83
>>656 >>657 >>658
君達恥ずかしくないのか?
君らの書きこみは「畿内説の信用性低下」につながっているのだよ
北朝鮮の瀬戸際外交にも似た「破れかぶれ度」が見てて「哀れ」だよ
661夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 10:48:10.90
>>564
お前に限らず史料を妄信する奴らに言っておこう。
「普通の感覚を持て」
こういう歴史の謎解きに最も必要な感覚がこれだ。
史料に頼りすぎ、ここしか見えなくなるとこの「普通の感覚」が麻痺する。

>アバウトな感覚で大体合計3000里とし、各航海をそれぞれ千里にしたと考えられるな

麻痺するとこうなる プ
トータルして3で割るのが「普通の感覚」かどうか、よく考えろ、馬鹿頭。
狗邪韓国〜対馬国、対馬国〜一大国、一大国〜末ろ国、それぞれ個別に書かれてあるものは
「普通に」「そのまま」読みな。
662怒濤の天才:2012/01/06(金) 10:58:42.45
>>658 某国立大生
>名無しでの自分への援護射撃が
俺は名無しでは書き込みをしない。何なら徹底的にしらべるか?
で・間違いでしたじゃ済まんぞ。

>あんたの本、教授にも見せていいが、
実際に俺のサイトを見せて、実際に返答が出てから書け。
俺も名古屋大学の考古学専門の准享受にはいいたいことがあるんでな。

名古屋大学文学部には「考古学研究室」てのがあったな。
俺の記憶では、名古屋大学のホームページに考古学が専門の准教授のページがあって、
そこで、素人研究をばかにした内容の文章を網羅して、
学生たちに素人研究に影響されないよう警告していた。
非常に無礼な内容の文章だった。(今は削除されているようだ)。

2〜3年前のこと。
この考古学研究室の生徒か准教授の生徒かが82にやってきて、
准教授の文章そのままの物言いで「素人はどうこう」「学歴が低い」「とんでもばかり」
などといった暴言を吐いていた。ちょうど最初の頃のお前と同じだ。
俺が出て駆逐したが、そいつはどうやら、
レポートか何かを書くために素人研究の現場視察として82に来たようだった。

お前、あの准享受の生徒か? 態度といい、物言いといい、論旨といい。
ほとんど82に来たガンたれ生徒と行動様式も言動も同じだ。
一つ違うところは、82に来た生徒ののほうがお前よりはずっと利口だった。
何よりも、お前には国立大学生の品位と知性がない。凛としたものがない。

名古屋大学考と古学研究室の恥さらしだ。もう消えろ
663日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:12:54.64
>>661
千三百里、千里、六百里てな具合に凸凹に表記するよりそれぞれ千里と表記したほうが綺麗だろ
修辞的な表現ってやつだな
まあ夢幻如の解釈もおれの解釈も所詮は推論だからな
「普通の感覚」かどうかは第三者が判断するさ
664夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 11:13:57.64
>>574 >与作ちゃん(これでいいな ワラ )
スルーすると言う奴は本来なら放っておく。だがお前は別だ。

>できるだけ、お近づきになりたくないのでな。
>プライドの高い俺としては、そういう奴と醜態をさらしてまでやる気はないのだ。

だったら、俺を無視すると自分で言った宣言を捨てて俺に絡んできたのはナンデカナ? プ
お前は俺の力量を見誤って潰せると思ったから宣言捨てて出てきたのよ。
だが敵わないと悟った。だからまた逃げた。それだけのことだ ワラ
お前はプライドだけが高くて無能なただのオタクだ。
俺に関わりたくないなら関わるな。もう宣言を撤回するなよ。
お前が関わってこなくとも俺はお前を一方的に叩いていく。俺は容赦がない性格なんだ。
俺の性格の悪さは前コテ時代から自他共に認めるところなんでな。

>「史料以外の論拠」というものがあるのか? 驚いたな。

馬鹿だから驚いてろ ゲラ
史料以外の論拠があることをお前は身をも体験したはずだが。

お前は倭国発見、調査は魏にとって一大事業で文化事業とまで言った。
これは史料にそう書いてあるから。これがお前の論拠。
俺は「中華思想」と「三国志が正式な正史編纂事業で書かれた書ではないこと」を論拠に
これを否定した。
文化事業であるなら正確な地図はあって然るべきだが
これすら記してていないことから「倭国は軽視されている」と論じたが
お前はこれを覆せない。
ここが史料に書いてあることは事実だという前提から抜け出せない、オタクの限界だ。
史料馬鹿の限界なんだよ。



665日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:27:49.25
>>661 :夢幻如
>お前に限らず史料を妄信する奴らに言っておこう。
>「普通の感覚を持て」
>こういう歴史の謎解きに最も必要な感覚がこれだ。
>史料に頼りすぎ、ここしか見えなくなるとこの「普通の感覚」が麻痺する。
本末転倒だな。
史料に根拠を置かないものはただの妄信にすぎない。
所謂、お前のかきこのすべてが、史料に根拠を置かない
夢幻如くの妄信である。 


666日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:36:09.78
いや、まあ…なんというか
資料を無視することを一生懸命正当化する奴も珍しいな
667怒濤の天才:2012/01/06(金) 11:37:00.07
けっきょくの所、俺にかまってほしいようだな。雲助

>「三国志が正式な正史編纂事業で書かれた書ではないこと」を論拠にこれを否定した。
無知丸出し。歴史記録の歴史、歴史記録の禅譲の歴史、歴史書編纂の歴史、
そもそも「正史」の意味すら分かっていない。教えてやる気はないから自分で調べろ。
何の証拠もない結論を論拠とはいわない。論拠の意味も調べろ・な。

>文化事業であるなら正確な地図はあって然るべきだが
中国の周辺民族の調査記録はみな「正確な地図とセット」か?  他の歴史書を見たことあるのか?
これまでに見たのは倭人伝の行程記録の数行だけかぁー?
「ほかの歴史書では西域やジャワ島の地図がセットになっている。倭人伝だけが地図がない」
といのなら、それもよかろう。
その事実を提示してからいうのが議論・反論というものだ。

>これすら記してていないことから「倭国は軽視されている」と論じたが
きちんとした土台がい゛きないままの飛び石論法だ。しかも乱暴すぎる。

>お前はこれを覆せない。
無茶をいうな。正統的正論の論客と議論になるはずがなかろう。

お前をみていると、剣法を正式な習ったことのない町民やくざが、
刀をもって滅茶苦茶振り回している図を連想する。
こういう輩のチャンバラを「度胸剣法」という。
668日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:47:39.83
無限尿の資料は鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか?」だけだからな
倭人伝すらまともに読んではおるまい
669日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:53:41.92
自演者 伊作
670日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:53:56.57
自演者 伊作
671日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:54:10.34
自演者 伊作
672日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:54:57.47
自演者 伊作
673日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:56:18.28
ああ、そろそろ壊れ始めてきたか。
674日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:02:20.64
>>669 >>670 >>671 >>672
自演者 伊作

>665 名前:日本@名無史さん
は、伊作ちゃんではないぞ。

夢幻如の論旨は本末転倒の塊だ。
675怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:02:34.86
>>669  >>670  >>671  >>672 >>673
だめだなーお前ら。打つ手なしというわけか。
676日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:03:44.53
>>675
プププ 自演者
677竹斯の民:2012/01/06(金) 12:05:07.57
>>669~>>673
テポドン発射準備か?
678日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:06:17.51
そーれ 自演せんとや生まれけむ たはぶれせんとや生まれけむ

自演する子の声聞けば 我が身こそさえ揺るがすれ
679怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:06:52.86
手足をもがれたゴキブリ同然の畿内説に、俺の掲示板から俺の発言を。

文献史学は、本来はごまかしがきかない学問です。
たしかに、小細工解釈や意図的誤解による曲解が横行していますが、
それらは必ず看破され、相手にされず埋没する宿命にあります。

考古学の場合を土器を使ってたとえると。出た地層、出た場所、出方など、
発掘当事者しかわからないことが多く、ほとんど密室作業のようなもので、
操作する気になればさほど難しいことではないでしょう。
その意味で、そうした誘惑と背中合わせの学問だと私は思います。
藤村某による旧石器ねつ造事件は、
まさに「出た地層、出た場所、出方」をみごとにねつ造したものでした。

畿内説考古学は、土器に付着した炭素を使ったC14測定法で、
その土器の編年を割り出したといいます。
その土器の出方、炭素の付着の仕方などの写真が公開されているのでしょうか。
当事者の発言だけでは信用するわけにはいきません。
また、土器に付着していたという炭素が、
確かにその土器と同じ時代のものだという証明がされているのでしょうか。
こうした前段階を明確にせず、「土器に付着した炭素を使ったC14測定法で」というのであれば、
藤村某と同じ手法の可能性を疑われても文句はいえないでしょう。

考古学には、ねつ造しやすい状況とねつ造したくなる誘惑がつきまといます。
畿内説考古学にかぎっていえば、学者・権威といえど信用できません。
国公立の研究機関といえど、その種の学者・権威の息のかかった組織なのです。
畿内説考古学に自浄作用を期待するのは無理でしょう。そうであれば、
私たち古代史愛好家が、外野から厳格な目で監視していく必要があると私は思います。
680日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:07:35.72
と自演者が申しております
681怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:07:36.40
困った雲助に。

度胸剣法の町民やくざが、
手練れが集まった道場にやってきて師範代に対戦を申し込む図だな。
(俺が師範代というのではない。ただののたとえだ)
で・相手にされないと「道場破り」をやったとほざく図。
現実に、師範代どころか中堅クラスさえ相手にしていない。

何にでも口出しする二束三文の名無しは、いつもあのていたらくだ。
お前を相手にしていない手練れがほかにいることを悟れ。
682日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:09:42.21
伊都國は現出雲市也。

文句有るか?
683日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:09:58.58
夢幻尿と伊作は同レベル
684怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:10:03.57
>>676 >>678

濡れ衣誹謗宣伝作戦。82でもさんざん見せられた畿内説の手口。
素直に「お手あげ」といえないところが、ナイスだぜ。
685日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:11:14.23
>>684
恥知らずが
誰が畿内説と言った
わたしは宮崎説だ
自演の上に捏造か
686宮崎説:2012/01/06(金) 12:12:10.05
遺作は 自演者
687日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:16:06.65
怒濤の波は砕ける。
688日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:22:13.23
み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり
689怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:25:40.30
>>685 >>686 宮崎説
>自演の上に捏造か
て・この野郎。名無しじゃ間違われても文句はいえまい。
盗っ人たけだけしいぜ。
自演でないものを自演と決めつけるのがねつ造だ。

>恥知らず
とはてめえのことだ。
発言する勇気もなく歯ぎしりしながら傍観してるだけのタコが。
690怒濤の天才:2012/01/06(金) 12:30:08.58
>>686 宮崎説
てめえ、卑劣に一人で何度も「自演」と書き込んでいるが、
どれが自演なのか、ちゃんと指摘してみろ。
俺はテメーみたいに名無しのダブハンはつかわないぜ。

俺が自演じゃないことは、
俺の自演と疑われた投稿者本人一番よくが知ってることだ。
691唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 12:34:40.11
>文献史学は、本来はごまかしがきかない学問です。

旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

旧編年の数字は、百済本紀しか存在しない。
その百済本紀を使用した韓国考古学には、夢村土城に”未知の4世紀遺構”が存在する。
百済本紀自体が正しいと証明されていない。だからこの数字を使うと、神功49年の半島占拠は否定される。

その数字を捨てた新編年に文献を整合させれば。
崇神5,6年=新羅192,3年 1年違いで後漢193年
崇神11年異俗多帰。=考古:2世紀末各地の土器の持ち込み
崇神世 任那(金官伽耶)建国 新羅209年 三国遺事
垂仁 考古:3世紀初めの大型建物 古韓尺の使用
ホケノ山古墳(225〜250年)半島の影響と埴輪(庄内式の穴あき壺)から垂仁末
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守 伊支馬=イクメ=垂仁
庄内式土器の九州上陸=景行の九州遠征

この様に文献と考古学は一致させることが出来る。



692宮崎説の王:2012/01/06(金) 12:38:57.30
>>690
やーい自演者
693唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 12:39:43.65
>>690 名前:怒濤の天才
名前の後にアンカーを付けること たとえば
怒濤の天才#ほんもの
この様に#から後を書き込むこと。
694日本@名無史さん ◆wzntxAxs9Y :2012/01/06(金) 12:49:57.10
邪馬壹國は畿内だ。

文句あるか?
695日本@名無史さん ◆wzntxAxs9Y :2012/01/06(金) 13:02:58.80
倭人伝の行程地図の
其北岸狗邪韓國からは、
其北岸狗邪韓國→對海【馬】國→一大國→末廬國→伊都國
末廬國から伊都國に到るに別行程あり。
末廬國→奴國・・・@
末廬國→不彌國・・・A
末廬國→投馬國・・・B
末廬國→邪馬壹【臺】國・・・C

@ の奴國の先、同方位四百里に伊都國がある。

と、言う事だ。
文句あるか?
696太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 13:42:49.87
崇神5,6年≠新羅192,3年 1年違いで後漢193年?

左辺の年代ではまだ船舶が無製造であり、等号はデタラメ。
なお千人もの渡海経験のない農民が半島渡海は出来ない。大ウソだな。ww

伊支馬=イクメ=垂仁←これも最高級に位置させたい噴飯節。ww

道鏡も天皇にはなれない。当然だな。
697日本@名無史さん:2012/01/06(金) 13:50:23.34
さて、九州の地図をみてみると耶馬溪という地名がある
邪馬台国と音の響きが似てるな
698怒濤の天才:2012/01/06(金) 13:51:28.63
>>692 宮崎説

こいつもどうやら俺を誹謗したがってるようだが、
ここで宮崎説を潰された逆恨みか。
俺がいては宮崎説を吹くことができないのか。
どのみち「伊作憎し」で固まった小ものだろう。

俺がいては宮崎説を吹くことができないのなら、
自論の穴や小細工解釈を自覚してるというわけだ。
ハンドルを「小ものドラゴン」にするってのはどだ。小ものよ。
699日本@名無史さん ◆wzntxAxs9Y :2012/01/06(金) 13:58:31.54




>>697
>さて、九州の地図をみてみると耶馬溪という地名がある
>邪馬台国と音の響きが似てるな

頼 山陽のいたずらに耶馬溪があったが。
700日本@名無史さん:2012/01/06(金) 14:08:18.27
>>692
ガキか?
同じ九州説として恥ずかしいな…
畿内説と同レベル。
701日本@名無史さん:2012/01/06(金) 14:18:29.44
>>697
椎茸が美味しい
702日本@名無史さん:2012/01/06(金) 14:18:33.14
『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現しているらしいが
邪馬台国が畿内なら普通に「倭」と書くだろう
つまり魏書と晋書の邪馬台国は別のものということだ

『隋書』では都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」
とあるがこれなら九州にヤマト(都)があったとしてもおかしくない
703日本@名無史さん ◆wzntxAxs9Y :2012/01/06(金) 14:44:25.43
>>702

あっちとこっちをくっ付けて何かを作ろうとしているようだが、
それで『賞』でも貰おうともってるの?

あんたが貰えるのは『賞』ではなく

『笑』

だけだ。
704日本@名無史さん:2012/01/06(金) 17:51:20.26
この板で師範代のような書込みを見たことがないんだがw
中堅クラスさえ相手にしていないコテ達の飛び石論法はよく見受けるが
705夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 18:07:34.36
与作〜お前議論は出来ないが煽り合いならやりたいってかぁ ゲラ
無視する宣言、関わらない宣言どうすんだよ?どっちなんだ ゲラゲラ
俺はお前にわざわざ箇条書きにして質問ぶつけてるんだがなあ。

ほんとプライドだけが高い中身無しのオタクだぜ。
ま、お前はあと。
寝てしまってレスしなきゃならんのがまだ残っている。
706夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 18:16:37.74
>>581
ぶっ飛び馬鹿、お前は糞名無しと同程度にしか扱わない。
言ってる内容もメチャメチャだが頭も悪いしな プ

自虐史観を持ち込むような馬鹿だとを言ったら

>私は自虐史観とは正反対の立場であり、日本の女王が中国に朝貢するはずはないと考えている

反応がこれ。呆れるわ プ
朝貢するということを自虐史観として捉えて否定してるだろうが。
お前が自虐史観者だと言ったのではない。持ち込んでると馬鹿にしたの。
こんなこともわからない程度のオツムの奴じゃ話にならんわ。

お前は似非右翼の街宣車でアジるのが似合ってんじゃねえの? プ
707夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/06(金) 18:22:43.49
>>623
>しかし、倭人から聞いたものだとす
 る投馬国と邪馬台国のところの水行二十日と水行十日に同じ換算が適用できるかどうかは分かりませんね。

>どのような水行においても1日千里が誰にでもわかる常識であったかどうかの検証もされていな
いではありませんか。

話したばかりのことを把握できない。俺のレスを見ているのに把握できない。
人の説明に重ねて反論するなら話は進むが、把握せず突っ込んでくるのはループになる。
今は馬鹿レベルに下りて説明してやるサービス期間中じゃないんでね プ
直近の俺のレスをよく読みなおしてから出直せ、無能 ワラ
708日本@名無史さん:2012/01/06(金) 18:25:35.21
>>629 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 
>俺などは、自宅のMacで仕事しながら相手してるんだ。

ほうほう、 森村伊作 はMac使いと…

以前自分を
「文系でも理系でもない芸術家云々」
ほざいていたことをあわせるとデザイン・印刷関係かな?w

漢籍以前にニホンゴのレベルが酷いんで
(「天才から見れば名無しは一蓮托生」とか「行程手段」とか、これも言い出したらきりが無い無論タイプミスで言い訳できる物でもない)
編集とかは無いだろうなw

で更に推理するとだこいつが過去に本を出したと言う出版関係者とのコネはそれであったものだと・・・

まあ脳味噌沸騰させて
自分の馬鹿さ加減をご丁寧にグラフにしたのだからご苦労さんとしか良いようが無いwww

であのデタラメな古墳の編年の根拠はこっちが推測した>>621で良いのかね?

箸墓の年代について異を唱えるサイトなんて五万とあるだろうが
あんな並びははじめて見た、参考にしたものが違うと言うのならソースを出して欲しい物だがwww

もしあそこから引っ張ってきたのなら以前
「楯築は前方後円墳」
で赤っ恥かいて同じところからまた確認せずに引っ張ってきていると言う学習能力の無さ。

冗談抜きにサルに劣るwwwwww
709怒濤の天才:2012/01/06(金) 18:26:39.49
>>705
「史料からはずれた論拠」という名の思いつき言説など誰も相手にはしない。
基礎のない度胸剣法がどこまで通用するか。勝手に「なまくら」長ドスを振り回してろ。

>無視する宣言、関わらない宣言どうすんだよ?
あおっておいて何をいうか。そういういやらしさが地金だろ。
俺は気まぐれで気がかわりやすいんだ。
お前など限られた人生経験しかない男が描いた
先入観や概念でつかまえられる俺ではない。いずれ分かる。

放置するつもりだが、度がすぎればいつでもでてくるぞ。
ガキじみた掛け合いはご免だ。俺の沽券にかかわる。

710怒濤の天才:2012/01/06(金) 18:28:59.20
「史料からはずれた論拠」か。
俺などは絶対に思いつかないセリフで、今年の流行語候補だ。
711日本@名無史さん:2012/01/06(金) 18:35:33.72
>>710
うくくく 自演者のくせに
712日本@名無史さん:2012/01/06(金) 18:36:15.12
伊作自演して しんしんと 雪降りつむ
713唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 18:39:10.09
>『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現しているらしいが

晋書 東倭とは、卑弥呼の倭奴國(九州)に対する東(邪馬臺國)。
714日本@名無史さん:2012/01/06(金) 18:41:08.81
>見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 

あ、そうそうお前が必死こいてつくったあのグラフだと
結局お前は3世紀の纏向の古墳(勝山・石塚…等)の発生は認めていることになるがいいのか?w

九州熊本から邪馬台国が東遷するまでそれはあったら不味いんじゃないのか?

それとも東遷の先発隊がヤマト入りしていたと言う話なのかな?w

そう言えば銅鐸の鋸歯文(△▼△▼△▼△▼△)も東征勢力によってもたらされたんだっけ?w

お前は 無限尿 の先遣隊ネタを笑えないぞwww
715卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/06(金) 19:00:12.74
>>706
夢幻如氏よ、私はあなたの説を知らないのだが、八幡平とはもしかして十和田八幡平国立公園の八幡平のことか?
もしそうなら朝鮮説以上の珍説である。まさに夢幻如の説は夢幻の如しだ。

私の言ってることをメチャメチャだと思うのは知識、理解力、想像力、推理力、判断力が足らない証拠である。
それだけですでに○○であることが分かる。
716日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:03:12.71
♪じゃまだい国ドンと来い♪103
717夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/06(金) 19:19:10.87
>>709
結局、具体的に突っ込まれたことへの議論は無能の馬脚を現すのが怖いから無視するが
馬鹿にされたら煽り合いには応じるつーことかな? ゲラ
俺様の頭脳に太刀打ち出来ないことをわかっている中々利口な選択だ。
好きにやれ。
71819歳某国立大生:2012/01/06(金) 19:21:08.03
C14測定法で箸墓の周壕の底から出てきた布留0式土器についてるおこげから
260年前後の物だと断定されたんだし、C14測定法の精度がある程度正確であれば
箸墓は3世紀内のものでいいだろう。布留0式土器の年代から280〜290年代
に築造された可能性もあるが、土器編年は相対的な基準なので、絶対的基準の
放射性炭素による測定のほうに重きを置きたい。
伊作の爺さんがいうように3世紀にしてはでかいから4世紀以降のものだとかいう
稚拙な意見は却下wただ卑弥呼ではなく台与の墓である可能性はまだ残るな。
倭人伝によると卑弥呼の墓は円墳臭いし、箸墓の円墳部分だけ先に造ったと
考えればつじつまはあうが、やや無理があるか。
71919歳某国立大生:2012/01/06(金) 19:23:14.98
倭人伝の記述を見るに張政が邪馬台国に来た、
250年前後に卑弥呼の墓を見た臭いので、
この年代まで製造年代を繰り上げないと卑弥呼の墓にはならんな。
C14測定の結果は260年前後だしぎりぎり範囲内に入るかどうか
ってとこか。
720卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/06(金) 19:31:44.03
名古屋君、周壕の底から出てきた土器では年代は決められないぞ。

それから卑弥呼の墓は一年や二年では築造できないだろうから、張政は実見したわけではあるまい。
あの記事はおそらく伝聞で書いたものだろう。倭国ではこれこれこういう墳墓を作るという伝聞を。
721唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 19:36:08.83
南は倭と接し、方四千里ばかり。三種あり、一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁韓と曰う。

半島に倭種があるとは書かれていない。
だからこの場合、南は倭人と接触する。と読むのが正しい。
722日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:37:02.77
宣長さんのゆうよおに

卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長

で良いかとはおもふが
723ローガン:2012/01/06(金) 19:37:14.76
>>719
いや、来倭した使者が目の当たりにしたのは、さしわたし150mの作冢現場。
完成後の姿を見た訳じゃない。
724太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 19:41:13.95
>晋書 東倭とは、卑弥呼の倭奴國(九州)に対する東(邪馬臺國)


漢書王莽伝

 元始5年(西暦5年)東夷王大海を渡り国珍を奉ず

つまりオマエの 神武元年=西暦41年説 の論 は自語相違の支離滅裂の
デタラメなり。41年では整合しなくなるも同然!

だからオマエは困って、即興で東倭の王は東夷の王とは違うというふうに、
「倭」の字と「夷」の字によりくらましの言い訳をしてインチキを防衛
する。ww こちらはその言い訳に騙されない。
72519歳某国立大生:2012/01/06(金) 19:44:37.51
箸墓周濠から鐙が出たってのはどう解釈すればいいのか、
箸墓築造後の30年後の地層から出たのでこれだと
箸墓の製造年代はやはり土器編年通り3世紀末ということになるな。
馬具はさすがに3世紀内にあったとは思えんし。
726夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/06(金) 19:45:41.84
>>715
うむ、お前の話は目茶苦茶 ワラ
古代史考察に自虐史観持ち込み国粋主義的視点を持ち込んだ時点で馬鹿決定だ。
土台が出鱈目なんだから、どうやっても上にまともな物は建たない。

俺の論は極めてシンプル。
魏志倭人伝が邪馬台国をどこだと言っているかを考えているだけ。
簡単に言うなら
国、行程紹介は連続説。
地理観は「混一〜」的な誤ったものを古代中国が持っていたと断定している。
ここから投馬国は北九州から日本海側に東(記述では南)に水行二十日の地域。
邪馬台国はそこからさらに日本海側を水行十日した地域から陸行一ヶ月の地域と考える。
陸行一月から邪馬台国は海岸線にはなく内陸部と判断している。
倭人伝からわかるのはこの「地域」のみでピンポイント比定は不可能だ。
だがこの説明だけでは具体性が無さすぎだから、投馬国を富山、邪馬台国を八幡平と仮比定している。
別にこの想定範囲内ならどこでも構わないから、富山にも八幡平にもこだわる気はない。
少なくとも倭人伝は九州も畿内も指していない。
そこでまず九州説を今否定している。
727日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:46:41.09
狗奴國が熊襲だろ
それに熊襲は単独の国だから他の国を従属させることはないと思う。
728日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:48:45.15
>>721

韓 
在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓
辰韓者 古之辰國也


從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國


歴韓國 乍南乍東 --- 水行してからさらに陸行してからに

           前方後円墳がたくさんある領域に至るんだよね


其(=倭の)北岸(である)狗邪韓國

倭の中心領域は海上の島にある「天」だよ
729夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/06(金) 19:51:51.02
しかし忙し過ぎだ・・・
もう一度リセットして仕事を減らすかな。

まあ、やれる範囲でぼちぼちと。
73019歳某国立大生:2012/01/06(金) 19:51:56.67
狗奴国は熊襲より記紀に言う武埴安彦の国である可能性があるが、
これって謀反による反乱だし、比較的短期で鎮圧されてるんで
わざわざ魏に救援頼むほどのことでもなさそうなんだよなw
なので狗奴国は濃尾平野のS字甕の勢力を一番手に挙げたい。
東国経営の過程で争いになったと考えたほうが時代的にも整合するし、
勢力的にも邪馬台国勢力と戦えるだけのレベルにあるだろう。
731日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:57:21.20
>>726の訂正

× 俺の論は極めてシンプル。
   魏志倭人伝が邪馬台国をどこだと言っているかを考えているだけ。
     ↓
○ 俺の論は極めてシンプル。
   俺様の故郷新潟の宣伝として邪馬台国をダシに使うことを考えているだけ。

× 別にこの想定範囲内ならどこでも構わないから、富山にも八幡平にもこだわる気はない。
     ↓
○ 俺様の故郷新潟の宣伝に都合がいいので、ヤマタイ=ハチマンタイのゴロ合わせにこだわっている。

732日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:57:24.34
>>730
いやもう
神功記の記述から素直に狗奴国とは熊襲のことだよ
733日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:59:50.86
牛若丸(卑弥呼は朝鮮にいた氏)>>715

弁慶(夢幻如氏)>>726の遭遇に注目しよう。

牛若丸が勝つのか?弁慶が勝つのか?判定はみなさんで。
734唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 20:04:23.19
>なので狗奴国は濃尾平野のS字甕の勢力を一番手に挙げたい。

纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁99年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、

時代の整合性は無い。
735日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:05:52.90
>>733
シンプルでわかりやすいのは夢幻如
さすがに朝鮮はねえ(苦笑)
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 20:07:12.60
×>・・・[239年 垂仁99年]←この年代では△鏡だ多出する出来事が無い。
73719歳某国立大生:2012/01/06(金) 20:08:36.27
狗奴国は最初自分も熊襲と考えてたが、
倭人伝の記述から女王国勢力の南に狗奴国があるので、
混一地理観だと濃尾平野のほうが適合すると思ったわけ。

鐙は周壕から出るから古墳の内部の築造とは関係ないとみていいか。
738日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:18:44.10
>私の言ってることをメチャメチャだと思うのは知識、理解力、想像力、推理力、判断力が足らない証拠である。

ここのスレは、
自分自身が、知識、理解力、想像力、推理力、判断力が人よりも優れている
と思ってる輩が多いように感じる。
739日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:20:42.07
伊作は自演者
740日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:23:59.92
>>738
それでいいんじゃない
伊作みたいにただのバカだと底が割れた時の落差が面白いからw
741虚妄の論客:2012/01/06(金) 20:26:26.95
あ、自演〜す〜るなら〜 こういう具合に しやしゃんせ〜
アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ
742唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 20:32:54.55
>鐙は周壕から出るから古墳の内部の築造とは関係ないとみていいか。

鐙はこの時代(240〜260年)に牛馬の輸入があったとみてよいのではないか。
743日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:46:45.72
>>735
なるほど、な〜るほど
とりあえず二人を比べてみたが、
朝鮮さんのほうは「そんなことも知らないのか?」て突っ込みやすい部分が多い気がする。

>卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 13:03:28.65
>伊作氏が何を根拠に水行一日千里と考えたのかは知らないが

>夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/06(金) 19:45:41.84
>俺の論は極めてシンプル。
>魏志倭人伝が邪馬台国をどこだと言っているかを考えているだけ。
>簡単に言うなら 国、行程紹介は連続説。
744日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:47:28.82


 東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
 中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
 もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ  
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
745日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:00:27.26
>>737
狗奴国とは、当時の漢字の音韻でいうと、コノ国というのが正しい。
これは、山城国風土記逸文にもある
京都の宇治のあたりの旧名である許乃国(コノ国)のことだ。
狗奴国王とは、つまり、許乃国主のことであり、
卑弥呼が死の直前に戦った狗奴国王とは、
モモソ媛命が死の直前に戦った許乃国の領主だった武埴安彦命のことだ。
746745続き:2012/01/06(金) 21:06:23.08
ついでに言うが、
漢字の音韻の研究で混乱した要因は
漢字の音韻は時代によって絶えず変化するんだけど
一度、有名になった漢字名は、漢字の音韻が変化しても
わざわざ新しい漢字名がつけられず、
慣習として古いものが受け継がれやすいということ。
747怒濤の天才:2012/01/06(金) 21:09:35.33
●畿内説の欺詐シリーズしょのひゃく:箸墓古墳の周濠から出た鐙。

「鐙が出たのは箸墓周濠堆積層の軟弱な上層」だという。
これは、木製の鐙が周濠に捨てられた時点で、
そのまま沈殿したという前提からなっている。
ここに畿内説の言い訳の欺詐がある。
木製の鐙は、捨てられた時から数年から数十年は水面に浮いていて、
沈んだあとも土砂よりは軽いことから、
数年から数十年は底土の一番表面にあり続ける。
「軟弱な上層」にあることは当然であって、
これが箸墓古墳よりも後の時代に捨てられたという意見は、
物理学的な常識の観点からはあり得ない。

一説によると、布留1式土器が鐙といっしょに出土しているとか、鐙だけではなく、香芝市下田東遺跡では木製の鞍が、布留1式土器をともなって出ているそうじゃないか。
748日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:11:37.16
>>745
邪馬臺國は何て読めばいいの?
749746続き:2012/01/06(金) 21:11:42.45
魏志倭人伝の最初のほうに登場する奴国は、
魏志倭人伝が書かれた漢字の音韻でいうと、ノ国と
発音するのが正しいんだけど
この奴国は、それより200年前の西暦57年に
中国の漢王朝から金印をもらい、その時代に中国から
奴国という漢字名がつけられている。
この西暦57年は上古音の時代であり、奴国はナ国と発音する。
その時の名前が中国側に有名になると、それが慣習として受け継がれる。

その後、上古音から中古音に漢字の音韻が変化したが、
一度、ナ国が、奴国という漢字名で有名になると、
新しく中古音で、ナ国に近い漢字名に付け直すと
逆に混乱するので、前の時代につけられた奴国
という名前が慣習として残ったと思われる。
750日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:14:02.33
>>748
ヤマトに近い発音。
実際に、臺与は、トヨと解釈するだろう?
臺は、トに近い発音。
751日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:16:28.55
結局根拠ナシの戯れ言か、残念
なぜ臺与をトヨと解釈するのかも説明出来なきゃな
752日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:22:45.95
>>748
じゃまたい
753日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:24:04.08
>>730
>狗奴国は熊襲より記紀に言う武埴安彦の国である可能性があるが、
>これって謀反による反乱だし、比較的短期で鎮圧されてるんで
>わざわざ魏に救援頼むほどのことでもなさそうなんだよなw

それが思い込みで、倭は魏に救援を頼んでなんかいない。
魏側が倭に要請したのは、むしろ、帯方郡に対する三韓の反乱。
これにより、当時の帯方郡の太守が戦死している。
そこで、魏は冊封体制を円滑にするために、
倭王に援軍を頼んでいる。
そのために、魏は、倭の大夫だった難升米(梨迹臣命)に
魏の軍旗を与えて、魏の武官の地位に任命している。
こうすることによって、仮に倭軍が魏に援軍するべく兵を出しても
それが、魏の外藩の武官の軍ということになり、
大義名分が出来るのだ。
754日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:26:27.84
>>751
当時の中古音の音韻でいうと、トヨと発音する可能性大。
おそらく、卑弥呼の一族の娘のトヨとは、
モモソ媛命の弟の曾孫にあたる豊鋤入姫命の可能性が高い。
755日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:32:08.93
邪馬臺國と狗奴國は戦争していた ??
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/inuyama_1_yamatai_kunakoku.html

このソースが面白い。
ここでは、当時の朝鮮半島情勢について書かれており、
魏と倭の外交についての真相を推測している。
このソースでは、狗奴国との戦闘自体を疑っているが
自分は、狗奴国の乱とは、許乃国の領主の武埴安彦命の乱だと推測し
実際にあった戦闘だったと思うが
当時の帯方郡に対する三韓の反乱に着目し
魏の外交の意味を推し量るうえで注目されると思う。
756日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:43:01.25
>>754
個人ブログなんでソースは省くが、「馬」という字について、
>これを日本に入ってきた順に書くと
> 呉音「メ」漢音「バ」唐宋音「マ」です。
これについてはどう考えますか?
757日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:50:27.86
>>756
馬ってのは、魏志倭人伝に登場する投馬国についての話ですか?
魏志倭人伝が書かれた時代は、まだ、倭国では漢字が公には導入されてない。
よって、魏志倭人伝に登場する国々の漢字名は
当時の中国人が日本人が発音した言葉を聞いて
当時の中国の漢字の音韻で適当にあてたもの。

投馬国ってのは、ヅマ国と解釈するのが正しく
これは、イズモのことでは?という推測もある。
後の例だと、伊達という名詞は、イダテと発音するのが正しかったけど
時代の変化によって、ダテと発音されるようになったのにも似ている。
758あらため だよん:2012/01/06(金) 21:52:08.88
奴国は、ノ国と 発音するとか、なんかこの人詳しいんですが
>>753
>それが思い込みで、倭は魏に救援を頼んでなんかいない。

という記事はどうだろうか。
もし、よかったら出典をお願いします。
759日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:57:45.55


 東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
 中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
 もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ  
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
760日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:01:38.14
>>758
>>755なんか詳しいと思うよ。
当時の朝鮮半島情勢における
魏と倭の外交への影響。
帯方郡の太守が戦死しているしね、三韓の反乱で。
761日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:04:21.17
>>757
邪馬臺國についてでしたけど、投馬国でもいいです
630のように馬臺がマチに準ずる発音になり得るのかどうか、ってのが私の知りたいことです
更に言えば、オオナムチを那(奴)のマチの王、那(奴)国王と解釈することが可能かどうかを知りたくて、
詳しそうなあなたに絡んでしまいました、スミマセン
762日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:06:09.19
>>758
あと、魏志倭人伝には、○奴国という漢字名の国が多く登場する。
これらは、日本語の格助詞のノの発音の影響では?と思われる。
日本の国名では、武蔵の国、相模の国、駿河の国というふうに
助詞の「の」をよく使うけど
当時の中国人が倭人が発音するのを聞いて、
それを漢字名をつけるうえで影響したと思われる。
763あらため だよん:2012/01/06(金) 22:06:45.53
>>760

>755のどこが?w
764日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:09:38.41
>>761
馬臺は、魏志倭人伝の時代の中古音の時代ならば
マト に近い発音になると思う。
マチ と発音するのは、難しいと思う。
765日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:11:44.82
>>764
そうですか、、、
ありがとうございました。
766日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:12:34.01
>>763
西暦240年代ってのは、魏が公孫氏を討った直後の時代で
この時代、魏は漢王朝時代にあった
中国の朝鮮半島における支配権を回復しようと動いた時代。
その過程で、三韓の大規模な反乱があり、帯方郡の太守まで戦死している。
そんな最中に、倭と魏の間で数回の外交があった。
767あらため だよん:2012/01/06(金) 22:12:36.62
>>762
うんうん、そうですね。
「奴」國というのは、「ノ」もしくは「ナ」でしょうね。
そして貴方のおっしゃってるように、これはヤマト「ノ」クニという場合ろ同じで
○○の○○という意味で用いられてることが考えられる。
しかし、断定までは出来ませんけど・・・
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 22:20:02.28
邪馬臺國と狗奴國は戦争をした。それは、景行による九州遠征である。

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等
詣郡説相攻撃状。 遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。

其六年 黄幢、付郡假授。245年に黃幢下賜の決定とは、郡の下に倭軍を設ける。そ
の象徴が黃幢である。つまり魏はまだ統一できていない倭国を冊封体制に組み込むため
の武力による枠外の組織(まつろわぬ国々)の平定。その戦が始まることをあらわす。

其八年 狗奴國は、まつろわぬ国々の象徴であり最大の対戦相手でもある。
倭の載斯烏越等は郡に詣でて戦争が始まったことを告げる。
郡は、張政等を派遣し、黃幢を渡し、激を飛ばす。卑弥呼の死亡したのは、まだ戦が始ま
ったばかりであり、狗奴国との戦いにもなっていない。狗奴国との戦闘に入ったころに
男王が死亡し、しばらくしてやっと終結する。
 筑紫に帰った景行は、男王の後継者を伊勢にいる5百野姫とし、翌年に軍隊付きで
筑紫に派遣する。
769日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:20:21.84
>>766
書き直してきたら?
770日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:21:38.36
>>766
ごめん
へんなとこで改行しないでね
771日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:22:52.21
>>769
犬山さんに言ってくれ。
772766修正:2012/01/06(金) 22:24:11.85
>>763
西暦240年代ってのは、魏が公孫氏を討った直後の時代で
この時代、魏は漢王朝時代にあった中国の朝鮮半島における支配権を回復しようと動いた時代。
その過程で、三韓の大規模な反乱があり、帯方郡の太守まで戦死している。
そんな最中に、倭と魏の間で数回の外交があった。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 22:27:36.67
邪馬臺國と狗奴國は戦争をした。それは、景行による九州遠征でない。

筑紫に帰った景行は、男王の後継者を伊勢にいる5百野姫とせず、翌年に軍隊付きで
筑紫に派遣してない。
774日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:33:33.28
魏に委の俾彌呼がご挨拶
775あらため だよん:2012/01/06(金) 22:34:27.34
>>772 766訂正さん

当り前のことを書いてるようですが、そんな時代だからこそ
倭と魏の間で外交があったのでしょう。

それと〜755が詳しいと言ったのは
ここのHP先?
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/inuyama_1_yamatai_kunakoku.html

たとえば、どの部分なんです?
776唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 22:34:55.17
>その過程で、三韓の大規模な反乱があり、帯方郡の太守まで戦死している。

274年神功渡海
晋は、郡の軍で半島を管理していたが、(三韓に軍を再編成しても背かれたら困る)
経費が掛かる。そこで、従順な倭に目をつけ、渡海命令が下る。
倭軍じたいが、魏主導で編成されたものである。だから仲哀の死より渡海が優先される。
777日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:38:48.57
漢委奴国の委ってどういう意味なんだろう?
委の意味を検索すると、
http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_113.html
「低い」「しなやか」「女性」
ってことで、女王国だったのかな?
778あらため だよん:2012/01/06(金) 22:41:06.33
私が詳しいと言ったのは、749さんの

>奴国は、 魏志倭人伝が書かれた漢字の音韻でいうと、ノ国と発音するのが正しいんだけど

に対して言ったのであって、みんなが知らない事をよく知ってるな〜と・・・
別に、HP先の犬山さんに言ったわけではないよw
779あらため だよん:2012/01/06(金) 22:44:29.35
>>777

「倭」だよ 
これぐらいで「詳しいね」とかは無しでw
780日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:48:16.07
狗奴は神野で熊野なら山越えてお隣だぞ

卑彌呼と卑彌弓呼ってなんかセットみたいだけどね
781日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:52:55.37
>>779
倭って和の蔑字だろ
この時代にはまだ和国は誕生してなかったと思う

今の時代で言えば、和・日本、和人・日本人を全て小日本・日本鬼子に書き換えたものが中国の史書
782あらため だよん:2012/01/06(金) 22:58:23.53
>>781
>倭って和の蔑字だろ

もういっぺん図書館でお勉強して来ることだねえ。

>この時代にはまだ和国は誕生してなかったと思う

和国てなんですかw 貴方は、伊作ちゃんとでも遊んでなょ
783あらため だよん:2012/01/06(金) 23:02:52.88
760(755?)さんはどこへ行った?
784日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:06:24.37
>>782
中華思想のもとでは辺境国(中華的認識で)には全て蔑字が当てられる

取り敢えず、これには同意してもらえるのか、否か
785あらため だよん:2012/01/06(金) 23:08:36.84
>>784
>中華思想のもとでは辺境国(中華的認識で)には全て蔑字が当てられる

この文章には同意出来ますが。
786日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:10:48.05
>>785
それならば何故、和に対して倭の字が当てられた、ということを完全否定できるのですか?
787あらため だよん:2012/01/06(金) 23:13:53.23
>>786
>何故、和に対して倭の字が当てられた、ということを完全否定できるのですか?

完全否定もなにも、貴方話になってないでしょ〜う

http://dic.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%92%8C&aq=-1&oq=&r_dtype=all&ei=UTF-8
788怒濤の天才:2012/01/06(金) 23:15:57.34
魏という文字も、「鬼」や「委」と省略している。
ちゅこくでは、倭も魏も委も、発音はおなじ「wei」だ。
789日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:18:42.01
>>787
ある国が国号を和とした
その和国に対して中華が倭国っていう蔑称で表現した

この2つの事象は全くパラレルに存在しうることなんですが、、、
790日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:20:54.31
>>775
意外に、魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記述だけで
解釈する人が多いが
実は、魏書東夷伝全体で見たほうが、いろんなことが見えてくる。
魏と倭が外交交渉を活発化させた西暦238年〜西暦248年は
それと同時期に、満州から朝鮮半島で様々な軍事的な動きがあった。
そんな北東アジア情勢全体の中での倭国の記述を考えると
いろんな見えてこないことが分かってくる。

漢王朝は、倭国との間に正式な外交関係があり、そういう資料も
経験もあったんだけど、
それを受け継いだ魏は、倭国についての情報はあいまいだった。
漢王朝から色々受け継いだものもあったけど
少なくとも、公孫氏や三韓を討った魏の将軍たちは、
倭国のことを知っている者が少なかったような記述。
わざわざ、朝鮮半島の日本海沿岸まで魏が軍をすすめた時に
魏の将軍が、現地の三韓人たちに、海の向こうの倭国について
聞いているくらいだから。
791あらため だよん:2012/01/06(金) 23:22:33.34
え、、、とですね、
たしか「和」というのは八世紀から使用されたのであって、それ以前は
この文字はないと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8C%E9%96%8B%E7%8F%8E

まあ、一説には聖徳太子の頃には実はあったのではなかろうか?なんて言われてたりするんですが、
今、我々が確認することができるのは、大体八世紀頃からであって、
「和に対して倭の字が当てられた」なんて言われても、頭の中が真っ白と言いますか・・・
何のことを言ってるのか、サッパリなんです。
792あらため だよん:2012/01/06(金) 23:26:05.30
>>789

「和国」なんて、私は生まれて初めて聞きました。
で、どこにあって、どういう国なんですか?
793日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:27:43.64
>>791
よく意味が理解出来ないんですが、
・和同開珎以前には和という字はなかった
・和同開珎の流布と同時に和という字も発明された
こう主張してると理解すればいいんですか?
794日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:28:52.76
>>792
大和国でもいいよん
795日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:32:04.15
こうゆう用例はあるけど

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和



if 倭女王と倭國女王が同時期に存在していたとしたら

then 倭女王のほうがえらいんだよな
796日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:32:17.42
倭国のワ国ってのは、
倭人が自分たちの国のことを
我が国っていっていたのを
中国人がきいて、ワ国と発音し
あの漢字をあてたらしいし。
797ローガン:2012/01/06(金) 23:33:04.80
改めさん。倭人伝読んだら魏に対しての援軍要請なんか書いてないのは明らかなんだから
>>790氏に説明うける前に粗方 把握しないと…。
798あらため だよん:2012/01/06(金) 23:38:04.94
>>793
大体、八世紀頃と言ってるんです。
和同開珎以前なのか、以後なのか、そこらへんと言ってるんですよぉ〜><

>>794
大和国ですか。
この「大和国」にしても八世紀あたりから使われだしたのであって、
それ以前は、万葉集にもある通り」「山跡乃國」とか「倭國」ですね。
ですから、八世紀以前に「大和国」なんてなく、便利上に使ってあるのであって、
いちいち「八間跡能國」とかメンドクサイですもんね。
799あらため だよん:2012/01/06(金) 23:43:57.11
>>797
何言ってるの???眠たいのかい?ローガンさん

>援軍要請なんか書いてないのは明らかなんだから

軍隊が実際に倭に来たのか?来てないのかは?は置いといて、
「要請」はしていますよ。
800おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/06(金) 23:44:16.49
>>707 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
ほほう あなたはあんなもので検証したと言うのですね。誰も納得させられない理屈を述べても検証したことにはならないのですよ。

万二千餘里に話を戻しましょう。

先ず、あなたは国、行程の記事は先遣調査隊の報告によるものとして、先遣調査隊は伊都国までしか行っていないのでそれ以降の国や行程
については倭人からの聞き取り記録であると断じていますね。これに問題があります。

魏が卑弥呼を親魏倭王に叙するか否かを決するに当たっては難升米ら倭の使者からの事情聴取や帯方郡に残された資等の調査や商人など倭
国に知識のある者からの事情聴取など情報収集をしたであろうことは当然考えられます。しかし、先遣調査隊まで派遣したかどうかは分か
りません。卑弥呼の派遣した使者が郡に到着したのが6月で、魏帝(明帝)の詔書が出されたのが半年後の12月です。

帯方郡に着いた難升米らは天子に詣でて朝獻したいと願い出、太守劉夏は吏將をつけて洛陽に送ります。帯方郡から洛陽までどのくらいの
日時を要するでしょうか。急いで3ヶ月はかかったのではないでしょうか。それから事情聴取、資料調査などの審査が始まります。そして
その3ヶ月後には卑弥呼を親魏倭王に叙するとの詔書が書かれるのです。とても先遣調査隊を派遣してその調査結果を待つ時間的余裕はあ
りませんね。

魏の使者は少なくとも正始元年の梯儁らと正始八年の張政らの2回は来倭していますし、彼らは邪馬台国の卑弥呼に会いに行っています。
さらに伊都国についての記事に郡使往來常所駐とありますから郡使は複数回来倭しています。倭人伝の原資料は単一ではなくこれら使者達
の報告記録や倭人からの聴取記録その他があったと見るのが妥当でしょう。陳寿がそれらの原資料から取捨選択して纏めたものが倭人伝で
しょう。

少なくとも梯儁らや張政らの魏使団は邪馬台国の位置を把握していたと見るべきでしょう。その報告(梯儁らの報告)に自郡至女王國萬二
千餘里とあったのでしょう。郡から末盧国まで1万餘里でのこりは二千里と判断していたと考えることができます。
801あらため だよん:2012/01/06(金) 23:48:07.58
ヒマなんで、人気の高いローガンさん 相手に議論してもおKですよ。
なんせ、

ローガン 文献○ 考古知識◎ ディペート能力○ だそうですから、

ここでは、その「文献○」とやらを、私の前でぜひご披露して下さいよWローガンさん
802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 23:51:06.69
>軍隊が実際に倭に来たのか?来てないのかは?は置いといて、「要請」はしていますよ。

魏が倭王に平定を要請した、とする方が箸墓以後の説明がしやすいんですが。
803日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:53:20.01
>>798
>大体、八世紀頃と言ってるんです
抽出してみたが798で初めて登場した
>後半
朕なんて言葉も限られた場面でのみ使われてたし、
国内向けにはやまとことば、中華向けには漢字による号を用いていたのかもしれないね
804日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:00:46.44
加羅ってw
805ローガン:2012/01/07(土) 00:07:11.61
>>799:あらため だよん
>何言ってるの???眠たいのかい?

うん。

>「要請」はしていますよ。

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。」
ただ、仲が悪くて揉めている状態を説いた訳だが。 これが要請?
で、旗だけ、もらったん(笑)。
806あらため だよん:2012/01/07(土) 00:12:58.02
>>790
>意外に、魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記述だけで 解釈する人が多いが
>実は、魏書東夷伝全体で見たほうが、いろんなことが見えてくる。
>魏と倭が外交交渉を活発化させた西暦238年〜西暦248年は
>それと同時期に、満州から朝鮮半島で様々な軍事的な動きがあった。
>そんな北東アジア情勢全体の中での倭国の記述を考えると
>いろんな見えてこないことが分かってくる。

そうですね、そうですね。
東夷伝の大事な部分は「序」の部分に書いてあり、倭にしろ、韓にしろ、
全体で「東夷伝」の文章であり、東夷の諸国の間で、比較されて記載されてる部分もありますね。

>漢王朝は、倭国との間に正式な外交関係があり、そういう資料も経験もあったんだけど、
>それを受け継いだ魏は、倭国についての情報はあいまいだった。
>漢王朝から色々受け継いだものもあったけど少なくとも、公孫氏や三韓を討った魏の将軍たちは、
>倭国のことを知っている者が少なかったような記述。
>わざわざ、朝鮮半島の日本海沿岸まで魏が軍をすすめた時に
>魏の将軍が、現地の三韓人たちに、海の向こうの倭国について聞いているくらいだから。

「參問倭地」という記述があります。
中国の調査が入ったのは、この卑弥呼の時代と言いますか、これが初めてでしょうねえ。
「公孫氏」との外交関係は一時的ですし、楽浪郡が紀元前に設けられて以来、
倭と中国大陸とは、深い関係を築いてきた間でもありますよね。
807日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:21:14.32
漢委奴國王
  ↓
親魏倭王  今使譯所通三十國を代表するトップ

808あらため だよん:2012/01/07(土) 00:23:11.18
>>805 ローガンさん

以前、河童さんが頻繁にここに来てたと思うんですが、
彼は、倭人伝は「部分的」に読むんではなく、「全体的」に読むようなことを言ってたと思う。

>>「要請」はしていますよ。

>「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。」
>ただ、仲が悪くて揉めている状態を説いた訳だが。 これが要請?で、旗だけ、もらったん(笑)。

何を言ってるのかサッパリだが、
まず、反論したいのならば、景初二年〜最後までちゃんと読んでからにしなさい。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_gen2.htm
809あらため だよん:2012/01/07(土) 00:29:36.52
ん〜ローガンさん や 人豚さんとか いろいろ詳しいとは思うんですが、
「倭人伝」という部分に関しては、私の右に出るモノはいないのかもしれない。

だって、みんながアホにみえるもんW(ハッキリ言ってごめんよW)
810日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:32:31.45
2000字しかない文献のスペシャリストか
凄いね
811日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:40:20.26
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩

この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?


812日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:44:21.67
>>807
漢委奴國王  漢時有朝見者 (朝見した国) の王
  ↓
親魏倭王  今使譯所通三十國を代表するトップ
813日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:55:25.43
>>809
>みんながアホにみえるもんW(ハッキリ言ってごめんよW)

あらため だよんがマジでアホにみえるW(ハッキリ言ってごめんよW)
814唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 00:59:21.88
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

其六年には、戦の始まることを知っているから、黃幢下賜。
其八年、詣郡、說相攻擊狀。戦は始まっている。
卑彌呼以死、...更立男王、...復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等

倭女王=難升米率善中郎將
倭王=掖邪狗率善中郎將
壹與=掖邪狗率善中郎將

倭女王と倭王は協力して戦争を行い、倭国を平定する。その時卑弥呼の宗女壹與は、倭王と関係がある。
815ローガン:2012/01/07(土) 00:59:57.35
>>808:あらため だよん
>何を言ってるのかサッパリだが、

まあ、判らんならいいけど…檄とは集兵の木札。また、旗は味方を募る道具。
では「説相攻撃状」の数年前に出された、黄色の旗を下賜する旨の詔の意図は何?(勿論訊きたいのはその論拠部分)

>まず、反論したいのならば、景初二年〜最後までちゃんと読んでからにしなさい。

はいはい。又明日。
816日本@名無史さん:2012/01/07(土) 01:12:04.39
>>809
>ん〜ローガンさん や 人豚さんとか いろいろ詳しいとは思うんですが、
>「倭人伝」という部分に関しては、私の右に出るモノはいないのかもしれない。

「倭人伝」という部分?いままで「わじんでん」って読めなかったの?
817日本@名無史さん:2012/01/07(土) 02:28:04.13
夢幻如という人は、いいとこをついてるね 八幡平説は別として
本人もこだわってないようだが
818日本@名無史さん:2012/01/07(土) 03:19:12.52
夢幻如という人は、出身地新潟を宣伝するために、いいとこをついてるね
819日本@名無史さん:2012/01/07(土) 04:23:14.38
459:日本@名無史さん :2012/01/06(金) 13:43:20.57
無幻とか19才名古屋は、こうと信じたことを主張するところがありますね、この人達は。
それが正しいかどうかは別にして強く主張する。これはいいことですけれど、体質上というか体力といいますか、その主張が続かないところがある。そういうふうに私はみています。
それはね、続く場面もあります。スムーズにゆけばやるんだから。
けれども、いくら主張してても、なかなかその通りにはゆかない、
これはむずかしいぞ!ということになると音をあげるところがあります。
だから、いうなれば熟慮した意見、主張ではないわけだ。感じで言うとるから、続かない。
熟慮しておったら、これはこういうことになると、 こうなって続かんだろうということを考えるはずですから。
そのときの勢いでやる、それがありますな。
820日本@名無史さん:2012/01/07(土) 04:34:05.30
>>788
これって実は凄い話だよね
821太ふぁん:2012/01/07(土) 04:47:43.22
太国がいないと落葉松が暴走する
昨日の夜もそうだった
落葉松なんて、つまらない語呂合わせとくだらない編年作業に自己満足を感じている変態野郎だ
落葉松の妄想暴走を止めるのは太国しかいない
822日本@名無史さん:2012/01/07(土) 05:28:35.36
唐松は正しいことも言ってるだろ!
犬国のほうがキチガイレベルwwwww
823夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 07:17:20.37
>>800
言っちゃあ悪いが、お前はマジでなってないよ。
議論の仕方も論の張り方も全然駄目 アキレ
余りに酷いからしょうがねえ、馬鹿レベルに下りるサービス期間にしてやるよ。
よく読んで勉強しな、サービスは期間限定だからよ ワラ

824夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 07:19:31.82
まず第一。
>倭人から聞いたものだとする投馬国と邪馬台国のところの水行二十日と水行十日に同じ換算が適用できるかどうかは分かりませんね。
>どのような水行においても1日千里が誰にでもわかる常識であったかどうかの検証もされていな いではありませんか。

これに対し俺は既に述べている。それを把握してないからのループになる突っ込みとはねつけた。
俺のここについての意見を把握出来たのかね?
「あんな検証では」と漠然とぼかして話てるが、納得いかないなら具体的に突っ込め。それが議論だ。
お前がぶつけてきた最初の論点はここのはずだ。
ここをあやふやにしたままで論点を移すんじゃねえよ。
というか、お前さ、俺の言い分まだ把握してないんじゃね?

825夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 07:21:29.35
第二。
その移した論点は「万二千里について」だと言いながら、そうはなっていない。
俺が先遣調査隊とするものへの否定で「万二千里」の話ではない。
国、行程紹介をどう判断するかを論点にした話じゃないか。

>倭人伝の原資料は単一ではなくこれら使者達
の報告記録や倭人からの聴取記録その他があったと見るのが妥当でしょう。

この言い分をぶつけたいわけだ。どこが「万二千里」だ、ボケ。

第三。
その「万二千里」についてはこれだけ。

>その報告(梯儁らの報告)に自郡至女王國萬二
千餘里とあったのでしょう。郡から末盧国まで1万餘里でのこりは二千里と判断していたと考えることができます。

これはただ推測を出しただけの馬鹿レスだ。
推論vs推論だから推測を出すのは当然なんだが、そこには根拠がいる。
お前のこの話にはそれがない。
万二千里は実距離に違いないという決めつけだけの馬鹿レスよ。
万二千里を実距離だと思うなら「〜だから」という根拠を示した推論を出せ。
826夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 07:22:47.85
論点を整理して話す初歩すらなってない。
こんな能力でよくコテ張って学問板にいれるもんだと呆れるよ。
俺に突っ込みたい点は何?

魏の水行が倭の水行に当てはまるのかと、水行一日=千里は常識であったかか?
国、行程紹介は先遣調査隊のはずがなく、各種報告書や聞き取りの複合ソースをまとめたものだってか?
「万二千里は実距離だ」と主張することか?

論点整理からやり直して出直せ、無能。
827日本@名無史さん:2012/01/07(土) 07:34:32.52
うひゃあ、これじゃ乳頭パイじゃ勝負にならんぞw
828夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 08:03:53.23
>>819
お前は何をぶつぶつ独り言ほざいているんだ?
足りない頭で俺を判断すんじゃねえよ プ

デブ国と空松のレスは今は脳内あぼーんしてるから見てないが、レス食い過ぎだ。
誰かこいつらのために専用スレたててやれよ。
どうせ邪馬台国比定には結びつかない趣味の掛け合い漫才だ ワラ
どこかに隔離しろ。
829夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 08:08:18.67
>>827
当たり前だ。
しかしまともな奴がいないな プ

ヤバイ、もう眠くなってきている・・
83019歳某国立大生:2012/01/07(土) 08:55:08.86
箸墓は記紀によるとモモソ姫の墓なんだし
3世紀内でおさめたほうが文献とも整合するだろう。
崇神を4世紀の人物に比定すると、応神までの間隔が
つまりすぎる。
831日本@名無史さん:2012/01/07(土) 09:01:59.18
>箸墓は記紀によるとモモソ姫の墓なんだし

だから、卑弥呼の墓じゃないのが初めから確定してるわけだが
83219歳某国立大生:2012/01/07(土) 09:08:19.71
どうかな。同時代にモモソ姫に比定できる人物は卑弥呼くらいだろうし。
海部氏系図と尾張氏系図も一致してるし、日女命(ひめみこと)が卑弥呼で
系図に弟もいて、弟の孫に、小斗与命(おとよのみこと)までいるわけだがw
日女命はまたの名をモモソ姫、日神ともいうと書かれてるようだし、
卑弥呼候補一番手と考えていいんじゃないか
833唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 09:29:53.32
>>830

崇神10年がどんな年かわかっていない。
崇神5年 疫病(飢饉、飢餓、餓死、食人)
崇神6年 民の離散(逃散)
崇神7年 民はなんとか食料を得た
崇神8年 祭りが出来た
崇神9年 神を祀った
崇神10年 先の大疫で北陸方面へ南下してくる”流浪の民”を農民に戻すため大彦を派遣
そこで、ハニヤスの乱を聞きつける。同対処。
モモソ姫の葬儀。
四道将軍の派遣、目的は騷動未止。大彦を北陸に派遣するだけでは不足なので四方に派遣する。
離散民の収容と、種もみまでを食べつくした村へ種貸し。
崇神11年 各将軍が異俗を連れての帰還。
崇神12年 5,6年をふり返って 是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
どうだ?今の箸墓をつくる能力があるか?


83419歳某国立大生:2012/01/07(土) 09:46:29.64
記紀の虚と実の区別がついてないようだなw
四道将軍派遣は明らかに虚だろう。3世紀内で北陸東海関東に
攻め入り平定して将軍同士が会津であったとかでたらめすぎるw
そこいらは大和朝廷の版図に入るのはもっと後の話だ。
ただ箸墓をつくる能力があったかはたしかに疑問だろう。
なので箸墓着工から完成まで長期に渡ったとみればいい。
なので完成したのは3世紀後半と考えれば考古学とも整合する。
835唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 09:59:54.33
>攻め入り平定して将軍同士が会津であったとかでたらめすぎるw

目的は騷動未止。戦争目的ではない。将軍の派遣は、10月からで、帰還は早春。
会津の位置もわかっていないのか?これは、今の岐阜県。

寒暑矢序は、後漢193年。または新羅192,3年倭人大餓渡来。
同11年の異俗多帰。は、考古学:2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。

旧編年では、すべてが否定できるぞ。
83619歳某国立大生:2012/01/07(土) 10:09:44.78
>目的は騷動未止。戦争目的ではない。将軍の派遣は、10月からで、帰還は早春。
会津の位置もわかっていないのか?これは、今の岐阜県。

どうしてそのような見てきたようなことが言えるんだww

837日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:10:58.95
>>828
ついでにお前も入れてもらえw
838日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:19:38.00
弥生後期から古墳時代の高地性集落の分布は四道将軍の遠征ルートとよく対応しているけどな。
特に東海地方は、ヤマト王権と協力的な勢力とそうでない勢力とがあったようで、ヤマト王権と
結んでいない地方は北へ追い立てられ関東などに移住していった様子がよくわかる。

それから会津には東北最古級といわれる4世紀後半の会津大塚山古墳などがあるな。これらのこと
から見れば記紀の四道将軍の記事は何らかの事実を反映していると見てよいだろう。ただしむろん
大規模な軍事進攻などがあったわけではなく、交渉や懐柔、地元勢力の利用などで拠点を増やして
いったのだろう。宮崎の生目に3世紀末の前方後円墳があることを考えれば、ヤマト王権は面的に
各地を制圧していったのではなく、飛び地的に拠点を増やしていったのだろう。
839唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 10:21:23.82
>どうしてそのような見てきたようなことが言えるんだww

大彦派遣の目的が”騷動未止。”と書いてあるだろ?四道将軍も目的は同じ。
「会津」はたぶん「相津」となり岐阜であることは昔からいわれている。
840日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:25:25.30
前方後円墳にしても、古墳時代前期には地方の対立する勢力の一方だけに前方後円墳築造の
許可が与えられたのではないかということが疑われる事例がいくつか見られる。これはヤマト王権
側からしかけたというより、地方勢力の一方が対立勢力より優位に立とうとして自らヤマト王権と
結んだと考えた方が理解しやすいかもしれない。

つまり四道将軍といっても、大軍を従えての征服戦を展開していったということではなく、各地方勢力
との交渉役と考えた方が史実に近いだろうと考えられる。
841唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 10:30:27.39
崇神天皇十二年(乙未前八六)九月己丑《十六》◆秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。

昔の朝廷のシノギは種貸しだ。貸付先が増えれば、米を徴収しても食べきれない。
だから、税として、機織りや土木の人工にまで広げる。
戦争で得た領地には兵隊を置かねばならない、そうすると直ぐには税収増とはならない。
それが12年の時点で出来るということは、戦争による領土拡大ではありえない。
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/07(土) 10:34:07.46
>>821
稀代のデンパの暴走を確実に防止せねばなりません。

話は別ですが、宿主は秀魔電にて記紀の転覆を企てている張本人の
朝敵です。

>>828
オマエは雪隠で大クソでも垂れて寝ていろ!><
843日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:36:46.82
むろん地方統治は、8世紀の律令時代でも大きな困難があった。この3世紀から4世紀の
時代において、遠隔地を制圧し役人や兵をおいてその地を統治するなどということは夢物語に
近い。あくまでも成長し続けるヤマト王権と結んだ地方勢力という意味合いでしかないだろうね。

北部九州の古墳時代前期の状況を見れば、前方後円墳の築造許可を与えられた勢力が、次の
首長の代においても継続して前方後円墳を築いているというわけではない。これは地元での勢力
争いがあり、ヤマト王権と結んでその権力を利用した勢力がその時代時代において優位に立った
ということだろうね。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/07(土) 10:37:48.90
宿主のご都合での恣意的操作は大クソを垂れる野郎以上の
〜日本史板での大糞臭。

>❷倭王=掖邪狗率善中郎將  邪馬臺國=大倭=大和
>❷壹與=掖邪狗率善中郎將

国名では「臺」の漢字を使い、人名では「壹」の漢字を使っているのは、
この男が恣意的に自分の論の都合にいいほうを選択したものであり、
遠まわしにデタラメであることを物語る。ww

これ↓もそこからの選択。景行に合わせたいため弥馬獲支を ? とする。

唐松山説

 伊支馬=垂仁  弥馬獲支?

第二唐松山説 ↓何故こうしない?

 弥馬獲支=崇神  伊支馬?

伊支馬を?としたくないのは、景行に合わせたいがための恣意的操作。

インチキは不自然な箇所がところどころに現出し、虚像と見破られる。
845日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:46:41.88
夢幻如氏、ちょっとかっこいいかも
トンデモ説を言うだけの珍客かと思ってたけど違うみたいね
846唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 10:47:58.68
前方後円墳の全国拡散
全国拡散に100年もかかっていない、しかも全国一律。そして、△鏡のばらまき。
これを可能にするのが、274年神功渡海。晋の冊封体制への参加である。
景行、成務は各地に屯倉を作って領主を派遣するわけであるが、奈良時代以降の屯倉とは様子が違う。
これは、魏の屯倉手法を取り入れたものであり。魏の手法とは、領地の領有を求める代わりに兵役の義務を負う。
各地から兵を集め半島で、伊都国に置いた1大卒の行為を郡軍に代わって行う。倭軍の半島駐留。
これにより、半島、大陸の進んだ文化の吸収ができる。兵の帰国は同一文化の拡散に役立つ。

この手法は江戸時代の徳川将軍と各藩の関係の元となって生き残る。
847日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:48:22.29
また自演か?この板もID導入せんといけんかのう
848唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 10:50:06.36
>>846 の訂正
×領地の領有を求める代わりに兵役の義務を負う。
○領地の領有を認める代わりに兵役の義務を負う。
84919歳某国立大生:2012/01/07(土) 10:56:13.48
唐松山とかいうやつと太い国産が来ると
記紀のキモい書き込みばかりになり、こちらまで
気持ち悪くなるんで落ちるw
850日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:59:58.15
19歳某国立大生のボケは830 832 を読み返せ
しれーと捏造を推進してんじゃんw
畿内派って、捏造が好きだよなー。
851唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 11:05:57.67
19歳某国立大生 も自分の低能に気持ち悪くなったか。
852太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/07(土) 11:15:26.36
>日本統一をしても、引き延ばされた退院歴では記録できない。

日食主張をしても、引き伸ばされた数日間継続は記録できない。
     ↑
宿主の作り物。ww 日食は数日間続かないのは秀魔電よりずっと権威
ある現代天文学の鉄則である。

秀魔電は、宿主空年と同じく、後世の作り物。

またまた
おかしいのは?1回も20年30年とかの空年の具体的年代箇所に口をつぐんで
いる宿主であり、それをはっきり見せれば、これは信じてくれる可能性
が出てくるが、宿主のは単なる数字の抽象的羅列のみであり、どこから
どこまでの各天皇の在位年代が空年なのかの大量空年具体的箇所を提示
する能力が全く無い。これは宿主空年がイカサマの証拠なのである。
853日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:18:37.17
つかこの19歳は記紀の四道将軍は信じられないとかいいながら、モモソの部分や9世紀成立の海部氏系図は
鵜呑みにするわけか?いいとこどりとしか言いようがないが。
854日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:52:06.06
>>846
飽きたわ。
なぜ、倭国が急速に中国文化を導入しようと思ったのか?
それは、冊封体制において、
中国は、中国文化を信奉する国のほうを評価するからだ。

その当時、楽浪郡の崩壊の後の朝鮮半島の混乱に乗じて
倭国が積極に朝鮮半島に遠征し、
朝鮮半島南部の鉄利権を確保しようとしていた。
そのために、倭国は朝鮮半島を軍事的に支配する武官を
中国から認められようと動いていた。

しかしながら、なかなか、中国は倭国にその地位を認めようとは、しなかったのだ。
逆に、楽浪郡からの中国系移民が多い百済のほうに
朝鮮半島における武官の地位を与えようとした。
そこで、倭国の中国外交が活発化する。
そのうえで、倭国は中国に認めてもらうために、中国文化の導入に積極的になる。
855唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 12:10:59.69
>>854

魏晋が半島を管理する時代に、倭が武力で半島に進出することは不可能である。
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅(神功38年)倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
316年 西晋滅ぶ。
317年 倭は朝廷(崔)に従わない。奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年丁丑

277年から毎年のように東夷の朝貢がある。そして団体である。
278年の朝貢では、東夷9国がそろっている。当然倭も含まれる。
856日本@名無史さん:2012/01/07(土) 13:19:22.08
>>829
お前が一番まともじゃねえよ
一生寝てろカス
857日本@名無史さん:2012/01/07(土) 13:42:14.77
>>856
いや、お前だ!www
858日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:29:34.34
>>855
それ、ソースなんだよ??
859卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/07(土) 15:38:48.81
>>726 退屈だから夢幻如大明神へ
私が記紀を信じているのは国粋的感情からではないのである。私は古代史の秘密を知っているからだ。

本居宣長がえらいのは記紀を素直に信じたことである。それは国学的心情からだけではなく、それが宣長の学問態度だったのである。
古代のことは、どうせ今の人には分らないのだから、賢しらな詮索はやめて、そのまま認めようとしたのである。
天皇の年齢が150歳となっていても、それには何か理由があるのだと考えて、そのまま認めたのである。

明治以後、学者は馬鹿になって、現代人の常識と理性で合理的に解釈しようとした。
それで、崇神以前の天皇は創作だとか、三王朝交代説だとか、騎馬民族説だとか、九州王朝説だとか、出雲王朝説だとか、
邪馬台国東遷説だとか、大和朝廷の成立は○○世紀だとかの、珍説奇説愚説盲説のオンパレードとなってしまったのである。

それが公教育で教えられ、学者のバカな学説を全国民が信じてしまう有様となってしまったのである。

大和朝廷が魏に朝貢したはずがないと私が考えるのは、記紀にそんなことは書かれてないし、
大和朝廷が中国に軍事支援要請をしたことなど長い日本の歴史において唯の一度もないし、
現実問題として、大和からいちいち中国に軍事要請するなど、どう考えてもありえないからである。

あなたの東北説にしても、東北からわざわざ中国まで軍事要請に行くとは、どうしても思えないのである。
860卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/07(土) 15:50:19.01
午前中、新井白石の「古史通或問」を読んだのだが、驚いたことに、白石は私とほぼ同様の見解を述べている。

1 卑弥呼は神功皇后で、神功が三韓征伐で渡海したときに魏に朝貢した。
2 倭の五王は、大和朝廷の臣である任那日本府の国守が、天皇の名で朝貢したものである。

1は当たらずとも遠からずである。2は宣長の見解とまったく同一である。

江戸時代に既に答えは出ていたのである。朝鮮の倭が、大和朝廷の天皇の名で朝貢したのである。
861卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/07(土) 15:56:15.17
卑弥呼が、神功皇后もしくは神功皇后の風聞によるものであることはほぼまちがいない。

というのは松浦、宇美、鞆という地名が、すべて神功皇后と関係しているからである。
不弥国は宇美、投馬国は鞆でほぼまちがいないだろう。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 16:05:33.76
>>858
晉書卷三 帝紀第三など。
863太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/07(土) 16:14:21.17
卑弥呼は神功皇后にあらず。
実年代は120年位はズレている。全然別人だ。
864ローガン:2012/01/07(土) 16:30:09.77
>>801:あらため だよん

終止符スレに書いときました。
865唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 16:35:09.67
>>858 再度
http://hanji.sinica.edu.tw/index.html?
瀚典全文檢索系統 2.0 版→ 漢籍全文資料庫→免費使用→史→正史→晋書 と進めばあるが集めるのは大変である。
㊉(プラス記号)をすべて開くこと。
晉書卷三  帝紀第三   武帝

二年春正月,以疾疫廢朝。賜諸散吏至于士卒絲各有差。
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
二月丙戌,河間王洪薨。甲午,赦五歲刑以下。東夷八國歸化。并州虜犯塞,監并州諸軍事胡奮擊破之。
66
初,燉煌太守尹璩卒,州以燉煌令梁澄領太守事,議郎令狐豐廢澄,自領郡事。豐死,弟宏代之。至是,
涼州刺史楊欣斬宏,傳首洛陽。
866おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 16:43:52.99
>>823, >>824, >>825, >>826 :夢幻如 ◆kOv7TOzs8w
ははは。悪態が多くなりましたね。かなり余裕を失ってきているようですね。
私はあなたの「行程記事の資料は先遣調査隊の報告」という見解には問題があるとして私の見解を述べました。それに対してあなたは議論の仕方だとか論点がどうだとかの批判
ばかりでこちらの指摘した点には何も答えていませんね。
答え難いときにはとりあえず相手の議論の仕方に難癖をつけて逃れるというのがあなたの習性とするテクニックなのでしょう。まあ、私も急ぎ過ぎたようですから論点を絞って
やり直しましょう。

先ずあなたが検証した結果という「水行二十日や水行十日」問題についてです。

「水行二十日や水行十日」に「水行1日 =千里」という換算が適用できるというあなたの主張は下記の如くですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「狗邪韓国ー對海国ー一大国ー末盧国という渡海行程の距離が何れも同じ千里となっているが実際の距離は違う。
距離でこれくらいアバウトだということは船の性能差など細かいことも関係ないということで 、魏の最新高性能
船であろうが旧式低性能船であろうが、倭国の船であろうが 「当時の船」でさえあれば一日航海はすべて千里と
していたと見るべきである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは検証ではありませんね。単なる主張です。
狗邪韓国ー對海国ー一大国ー末盧国の各渡海距離については出発港と到着港が分かっていないと確かめようがありませんね。あなたはそれらは何処だと思っているのですか?
検証したのですか?各渡海距離はいくらになって相互に大きな差があるのかないのか、それを一律に千里とするのは許容できるものかどうか、つまり実際の距離感で全て千里と
したものかあるいは単に一日航海だから千里としたものかのいずれであるかを検証しましたか?(つづく)

867おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 16:45:26.82
866のつづき
そしてここが重要なところですが、投馬国と邪馬台国のところの「水行二十日や水行十日」に「水行1日 =千里」の換算が適用可能であるかどうかをどう検証しましたか?
前記のあなたの「魏の最新高性能船であろうが旧式低性能船であろうが、倭国の船であろうが 「当時の船」でさえあれば一日航海はすべて千里としていたと見るべきである」
という主張は正しいですか?

あなたは狗邪韓国ー對海国ー一大国ー末盧国の各渡海は1日航海だとしました。魏の先遣調査隊で急ぎの用務であれば魏の最新高性能船での航海でしょうね。ではこの航海を
倭の低性能船で行ったらどうでしょう。各渡海に2日かかったかも知れませんし3日かかったかも知れません。そうしたら狗邪韓国ー對海国の距離は2千里や3千里に変わる
のですか?

同じ航路でも潮の流れや風の向きや強さが変われば航海の所要日数が変わるでしょうが、その度に表記距離数が変わるのですか?
そんないい加減な話が通じる筈はないでしょう。
868おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 17:21:26.66
自女王國以北 其戸數道里可得略載

自郡至女王國萬二千餘里

從郡至倭
循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
7000+5000=12000

從郡至倭
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月


5000=1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100
869おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 17:27:44.49
>>825 :夢幻如 ◆kOv7TOzs8w
>>その報告(梯儁らの報告)に自郡至女王國萬二
>>千餘里とあったのでしょう。郡から末盧国まで1万餘里でのこりは二千里と判断していたと考えることができます。

>これはただ推測を出しただけの馬鹿レスだ。

ははは。推測に決まっているではありませんか。陳寿は原資料を示していないのですから万二千餘里がどこからきたものかは推測する
ほかはないでしょうに。

私は実際に邪馬台国に来た梯儁らの報告記録から採られたものと言いました。
「奉詔書印綬詣倭國拜假倭王」の記述から梯儁らが卑弥呼に会ったことは確実です。初めての倭への使節団ですから武官、文官の他に
地理を測る技術者も同行していたと考えられます。このような団体が水行二十日や水行十日陸行一月の間あちこち巡りながら道中であ
っても凡その距離を把握できなかったとは考えられません。出来なかったら無能集団です。

何故千三百里の短い距離に「水行二十日や水行十日陸行一月」という月日をかけたかと言えば、梯儁らが魏の威光を倭人達に見せつけ
るために特に大国である投馬国と邪馬台国の有力豪族の集落を訪ね廻ったからだと考えられます。最新兵器と装束を纏った武官の行進、
豪華絢爛な装丁の下賜品などを見せながら、一方では卑弥呼にとっても後ろ盾となる魏の威光を倭人達に広く知らしめることが望まし
く、難升米らを案内役として接待させながら巡回させたのでしょう。
870日本@名無史さん:2012/01/07(土) 18:10:07.95
一般的には常識とされている、
 真実は一つだけ
 怒りは自然な感情
 戦争・テロは無くならない
 死刑には殺人の抑止力がある
 虐められる側にも虐めの原因がある
 自己チューな人間ほど自己愛が強い
などの命題の間違いを解説しています
感情自己責任論
871日本@名無史さん:2012/01/07(土) 18:24:45.15
>>869
>何故千三百里の短い距離に「水行二十日や水行十日陸行一月」という月日をかけたかと言えば、

万二千里は女王国までの話だ。投馬国や邪馬台国までの「水行二十日や水行十日陸行一月」とは
別の話だろう。千三百里ぐらいの短い距離に「水行二十日や水行十日陸行一月」なんてかかるわ
けがない。
872おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 18:27:01.86
魏の最新高性能船かあ

明帝のとおちゃんが池掘って開発させたやつなのか?
873唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 18:53:55.79
@其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
A正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、

北史 倭國
❶漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
❷至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
❷晋書正始元年東倭重譚納具。

❶倭女王=難升米率善中郎將 書記:難斗米 難=奴=那
❷倭王=掖邪狗率善中郎將  邪馬臺國=大倭=大和
❷壹與=掖邪狗率善中郎將

女王卑弥呼と倭王が別人であることは疑いない。そして壹與は倭王により卑弥呼の後継者に選ばれる。

❶+❷使大倭(邪馬臺國)監之 自女王(壹與)國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如刺史。
874唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 19:15:35.70
>「奉詔書印綬詣倭國拜假倭王」の記述から梯儁らが卑弥呼に会ったことは確実です。

239年 詔書に応じて卑弥呼は朝貢団を送り、親魏倭王卑彌呼に詔す。

>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
北史では、倭王の都であり、240年に梯儁等が、詔書を持ってその王にあう。その王は
使いを洛陽に遣わして 倭王に詔してくれた謝意を表す。
87519歳某国立大生:2012/01/07(土) 19:18:58.56
箸墓に関しては着工したのが250年前後で、
その後男王を立てるも服さず、戦闘状態に突入するので
この間、墓造ってる場合じゃない。
壱与を女王に据えて、国内が安定してから墓造り再開するとみるべき。
266年に壱与の朝貢記事があるのでこの時はすでに戦闘は終了してる。
なので260年前後には壱与は女王の座に就いてるだろう。
箸墓クラスの墓を古代工法で作るとしたら土木工学の見地から、
毎日2000人を動員して最低10年かかるようなので、
やはり260年代に箸墓は完成した可能性が高いだろう。
放射線炭素測定の結果とそれで一致する。また土器編年に
合わせるとしたら280年くらいか。現代のやんばダムや第2東名と一緒で、
数十年規模の公共事業だったとみればいい。国内が安定し墓造りが再開されるまで
時間がかかったとみればいい。
876日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:27:36.70
箸墓は4世紀以降の墓。卑弥呼と無縁。
877夢幻如 ◆kOv7TOzs8w :2012/01/07(土) 19:30:55.09
>>866
悪態が多くなるのはお前の馬鹿さに呆れたからよ。
俺は馬鹿が大嫌いなんだ。馬鹿は徹底して叩く主義で長年通しているんでね。
俺に論点整理してもらってやっと議論の場に立てるてめえの低能さを自覚しな。
俺が答えずらいとか、笑わせんじゃねえよ。
お前が突っ込みたいのはこういうことだと整理してやったのはこの俺様だ ワラ

自分で何を論点にしてるかすらわからない馬鹿相手だから、相手としてはつまらんのだがね。
やってやろう。
俺は今通勤中だから本格的には明朝になるがな。
やれるだけ触りと前振りだけしておくか。
878おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 19:35:04.99
景初三年正月(239)魏明帝崩御
三年春正月丁亥、太尉宣王還至河内、帝驛馬召到、引入臥内、
執其手謂曰:「吾疾甚、以後事屬君、君其與爽輔少子。吾得見君、無所恨!」
宣王頓首流涕。即日、帝崩于嘉福殿、時年三十六 ---
魏氏春秋曰:時太子芳年八歳、秦王九歳(明帝紀)
明帝無子、養(齊)王及秦王詢
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立爲皇太子。是日、即皇帝位---
大將軍曹爽,太尉司馬宣王輔政。(少帝紀)


ここで魏王朝サイドのコアなひとって太尉宣王でしょ

司馬 懿(しば い)とか司馬仲達ってぽまいら知っているでしょ


879おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 19:37:45.66
いちおう死ぬ前にお仕事済ませたかたちにはなってはいるが

景初二年(238)
春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。(明帝紀)
六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、
    太守劉夏遣吏將送詣京都。(←東夷伝)
秋八月、宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。(明帝紀)
十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼。(←東夷伝)
88019歳某国立大生:2012/01/07(土) 19:38:17.52
記紀でも海部氏系図でもモモソ姫の墓だと言ってるし
箸墓は卑弥呼の墓とみていいだろう。二つの文献が同じ人物の墓だと
言ってるわけだし。墓造り着工から完成まで長い年月がかかったとみればいい。
張政がみたのは卑弥呼を埋葬した円墳部分のみだろう。
881夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/07(土) 19:38:25.99
酉変わっていたな。これで戻るかな?

>>866-867
最初からそうやって、まずこの問題をやればよかったのよ。
それをお前は馬鹿で俺の言い分を把握してないからうやむやにして話を変えた。
先遣調査隊はどうたらにな。
やっと把握出来たらしいから、明日はそこから話をしてやるよ。
88219歳某国立大生:2012/01/07(土) 19:42:04.12
景初2年の証明などもうとっくに決着してるよw
伊作の爺さんの証明は不十分という結論でFA.
883おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 19:45:16.12
とおちゃんにかあちゃんころされた明帝てかあいそおだなあ
884夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/07(土) 19:51:34.60
>>869
お前の頭の悪さにはヘドが出るわ。
マジで俺が言ってることを理解出来ないんだな アキレ

推論なんだから推測を出すのは当たり前だ、と言ったのは俺だ。
だが、それを出すには根拠がいると教えてやったんだよ。
そのレスで書いてあるのが一応お前の根拠だから、それが先に出てこなきゃならねえんだよ。
順序が逆。こんなこともわからないのか、馬鹿頭。
推測vs推測は、こうやって根拠を出してきてはじめて議論になるんだ。
この程度の根拠じゃ潰すのは容易だから面白い議論にはならんがね。
885日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:54:25.71
>>869 
>初めての倭への使節団ですから武官、文官の他に地理を測る技術者も同行していたと考えられます。

ヨコからだが・・・

根拠なし。

この手の話をまことしやかに言う奴は多いが
返礼使に測量班を伴ったと言う言うような事例があるのか?

886日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:57:51.03
無限尿のまとめ
・俺様の故郷=新潟のそばに邪馬台国を比定したい
・鯨統一郎からパクッたヤマタイ=ハチマンタイのゴロ合わせで押し切ろう
887おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 20:16:43.04
郡から末盧国まで11400って明記してあるのに読めないだけだな
888日本@名無史さん:2012/01/07(土) 20:24:37.03
人は読みたい物しか読めないのです
889夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/07(土) 20:27:54.74
こいつにレスするの忘れてたわ。

>>859
お前はもうどうでもいい。

>天皇の年齢が150歳となっていても、それには何か理由があるのだと考えて、そのまま認めたのである。

そういう学問態度では何も明らかに出来ない。
明らかにする気がないものを信じて、その立場から好き放題言いたいなら勝手にやってな。
邪馬台国問題に首を突っ込むなら、誰かに言われてたよな。
日本書紀、古事記を信じるのも結構だが、その前にまず魏志倭人伝を信じな。
これを否定するとこからスタートしてる奴には用はねえよ。
890日本@名無史さん:2012/01/07(土) 20:28:13.71
無限尿
俺様が読むと「八幡平は温暖」って読める
891おまいらしってるくせに:2012/01/07(土) 20:36:03.65
景初中 明帝密遣帶方太守劉[日斤]

これは景初元年だな
892唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 20:57:27.00
>>875 19細君
>合わせるとしたら280年くらいか。

>>854 を見てくれ、270年代には、東夷9種(9国)は、郡に属している。
当然倭国もその一つである。ところが、大和が渡海するのは神功だ。
240年あたりに崇神を配しては、この時の郡に属すのは、大和ではない。
ではどの勢力だ?
893日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:19:44.53
>>873
> 其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

ごみまざってるよ

正始八年にはもお死んじゃってるよね

それと

> 其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等

のの倭王は倭女王卑彌呼のことで

「冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。」

とゆうのがあるぞ
894日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:21:51.45
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩

この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?


895卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/07(土) 21:29:54.49
>>889
まず記紀を信じよ。日本の地理もろくに把握してない中国人の書いたものを信じるな。
あなたは中国は東夷には何の関心も持っていないという立場のはずだ。
伊作氏が中国を過当評価しているのを嘲笑していたのではなかったのか。
896日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:59:47.51
およそ話が噛み合っていないなw

無限尿「倭人伝を信じろ!」
チョーセン「記紀を信じろ!」
897おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 22:09:28.91
>>881 , >>884:夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
あなたとは生活の時間帯がずれているのでリアルタイムでのやりとりができませんね。では明日のレスを期待することにしましょう。

その前に、前日あなたの先遣調査隊説について触れた理由を話しておきましょう。
あなたは行程記事は伊都国までしか来ていない先遣調査隊の報告によるものだから伊都国より後の行程記事は倭人からの伝聞によるものだ
としました。表記が里数から日数に変わったことについては、里数を知らない倭人が投馬国や邪馬台国の距離を日数で答えたのをそのまま
記載したからだとしました。

この先遣調査隊の報告というのがあなたの東北説の前提の一つをなしていますから、この前提が正しいか否かは重大な問題なのです。
そこで私は先遣調査隊の可能性について検討してみました。その結果をもう一度示します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
卑弥呼の派遣した使者が郡に到着したのが6月で、魏帝(明帝)の詔書が出されたのが半年後の12月です。
帯方郡に着いた難升米らは天子に詣でて朝獻したいと願い出、太守劉夏は吏將をつけて洛陽に送ります。帯方郡から洛陽までどのくらいの
日時を要するでしょうか。急いで3ヶ月はかかったのではないでしょうか。それから事情聴取、資料調査などの審査が始まります。そして
その3ヶ月後には卑弥呼を親魏倭王に叙するとの詔書が書かれるのです。とても先遣調査隊を派遣してその調査結果を待つ時間的余裕はあ
りませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いかがですか。これであなたの前提の一つが極めてあやふやなものであることが分かりましたか?
898おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 22:28:51.46
>>885 :日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:54:25.71
>>869 
>>初めての倭への使節団ですから武官、文官の他に地理を測る技術者も同行していたと考えられます。
>ヨコからだが・・・
>根拠なし。
>この手の話をまことしやかに言う奴は多いが
>返礼使に測量班を伴ったと言う言うような事例があるのか?

根拠として文献を挙げよというのでしょうか?返礼使に測量班を伴った事例などが文献に残されたでしょうかね?
私は常識で話しているのです。使節などの外交官の任務にはいろいろなものがありますが、直接の用務の他に諜報
活動が重要なものです。出向いた相手国の内情や地理などの情報を収集するのです。

梯儁らは魏が派遣した最初の使節団ですから倭国についてできるだけ詳しく調べてくることが当然に課された任務
だったでしょう。
899日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:32:47.35
>>898
>倭国についてできるだけ詳しく調べてくる
49年の時点で既に調べて記録に残ってたはずです
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/07(土) 22:52:32.80
>240年あたりに崇神を配しては、この時の郡に属すのは、大和ではない
         ↑
妖書 秀魔の〜〜悪魔のささやき
901日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:08:27.07
無限尿がいるとレベルが下がる。
お前の言いたいことはよく分かったから二度と出てくんな。
902日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:16:08.94
>49年の時点で既に調べて記録に残ってたはずです

無理だろう。
903日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:22:03.63
正体もわからない相手に金印渡すなんてずいぶん太っ腹だな
俺も町内会代表として贈り物してたら金印を貰えてたのか?w
904日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:27:08.03
>>903

正論です。
それが見えないフリをし続けないとここでは語れません。
905日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:28:00.28
>>898 
>私は常識で話しているのです。

根拠なし。
単なる誤魔化し。
非常識。

「常識」と言うのならそれこそいくらでも例があるはずだ。

測量班を同行した返礼使なんぞ無限尿の先遣隊と五十歩百歩。





906日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:30:27.57
しかし、1週間で1000達前、900オーバーっていくらなんでもスレの消化が早すぎるわwww



907905:2012/01/07(土) 23:35:16.47
そもそも単なる日数なら別に測量するまでも無い。

それとも日数も測量技術を持った者にしか数えられないのか?馬鹿馬鹿しい。
908日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:39:08.59
だから別の目的があったんだよ
それが630
909おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 23:39:16.27
>>899
>49年の時点で既に調べて記録に残ってたはずです

49年に何があったのですか?もしかして後漢書の「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬」
の件ですか?あれは57年ですね。
あの頃とは状況が異なっていますからね。昔の記録では役に立たないでしょう。
910日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:43:26.82
>>897
これもヨコからだが…

無限尿はその先遣隊が(時間が無かったから)結局邪馬台国まで行っていないと言う謎の設定だぞ?w
911おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 23:48:24.66
>>905
>「常識」と言うのならそれこそいくらでも例があるはずだ。

初めての土地に出向く使者の場合はその土地の情報を収集して来るのが常識です。まあ、常識だから史書などに
書き留めるまでもないでしょうね。
912日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:51:22.19
素で覚え間違いしてたわ、スマン
913おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/07(土) 23:57:51.23
>>907 :905
>そもそも単なる日数なら別に測量するまでも無い。
>それとも日数も測量技術を持った者にしか数えられないのか?馬鹿馬鹿しい。

なにをアホなことをおっしゃいますか。地理を測る技術者とは現代のような測量器具を持ったものではありませんよ。
時間を測る器具(線香みたいなものでもよい)や歩測の技術や方角を見定める知識を持った者です。
倭人伝では日数で書かれているが実際には別に里数の記録があってそれが万二千餘里のもとになったという推測です。
914おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/08(日) 00:04:39.91
>>910
>無限尿はその先遣隊が(時間が無かったから)結局邪馬台国まで行っていないと言う謎の設定だぞ?w

先遣隊を派遣して帰国するまでの時間(洛陽ー邪馬台国間の往復時間)を考えて半年以上かかると予測できるなら
実行には移さないでしょう。

915日本@名無史さん:2012/01/08(日) 00:04:49.07
>>913
>倭人伝では日数で書かれているが実際には別に里数の記録があってそれが万二千餘里のもとになったという推測です。

だったらその(積算根拠たる)数字が何故記録に残っていないのか?と言う話だな。
測量班がついていたなら途中からの日数表記が益々不自然だ。

…しかし 相 変 わ ら ず 詰が甘いのうw

最後の部分で「常識だ」で押し通そうとするのはいつもの芸風だなwww
916日本@名無史さん:2012/01/08(日) 00:07:11.20
ちなみに距離を測定しようとしたら「記里鼓車」なる古代のメカがあるにはあるw

http://www.toyota-ct.ac.jp/~jimu/syomu/suematsu/navigator/navigator.html

まあここまで手が込んで無くてもワッカ転がす程度の測量方法はあったんだろうw
917唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 00:39:26.99
「記里鼓車」なる古代のメカがあっても、倭の獣道では使い物にならない。
残念。
それとも、強引に使ったから距離に差が出るのかな?
918夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 06:24:36.28
さて水行からだな、やるか。

>>866-867
いいか、何回も言うが旅程に出てくる「里は距離の単位ではない」
ここをまず忘れるな。
王朝交代や時代で変わるが、確かに一里は規定され何メートルと換算できる。
しかしこれは土木工事などの時に使うもので旅程の場合は大雑把な概念あるいは修辞だ。
なんせ測りようがないんだ。
歩いただけでは歩測で踏破距離は出せても直線距離は絶対に出せない。
海路となれば陸路以上に測定出来ない。勘しかなくなる。
星宿図がどうのと言ってたのもいたが、いちいちやってるはずがない。
つまり、測りようがないから測れない。測れないから、出てくる里程は距離ではない。
大雑把な概念、あるいは修辞だ。

これじゃ納得しないだろうな。
もう少し具体的に話す。
919夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 07:18:25.19
釜山〜対馬、壱岐〜松浦は距離で倍以上違う。しかし同じ千里だ。
ここから色んなことがわかる。

まず上で言った里が距離の単位でないことが如実にわかる。
海路は距離測定が難しいとは言っても倍も違うんだ。
船乗りなら経験的に勘でも半分の距離だとくらいわからないはずがない。
旅程においても里が何メートルとか明確で、それで表すなら同じ千里とは絶対にしないだろう。
現実に距離は倍以上違う。一里を何メートルと決めた場合、説明がつかなくなる。
旅程において里は何メートルだというのが成り立たないのはこの二つの航海記録でわかる。

次に千里の意味だが、壱岐〜松浦はどう間違っても一日航海だ。
これを千里としてるところから水行一日=千里は容易に想像がつく。
他が距離が伸びていても同じ千里表記だから釜山〜対馬、対馬〜壱岐も水行一日に違いなくなる。
これを否定するなら屁理屈くらいしかないだろうよ。

さらに倍以上違う距離が同じ千里から、こんなこともわかる。
千里表記の距離で倍の誤差範囲があるということは
船の性能差からくる船速差の許容範囲もこれくらいあるということだ。
倭船が仮に魏船の半分の速度しか出せなくても水行一日は千里ということだ。
倭からも大陸に渡ってるわけで、それなりの船はあったはずだから速度半分なんてこともないはずだがね。

>同じ航路でも潮の流れや風の向きや強さが変われば航海の所要日数が変わるでしょうが、その度に表記距離数が変わるのですか?
>そんないい加減な話が通じる筈はないでしょう。

通じるんだよ。里を距離と見れば出鱈目になるが、里は距離ではない。
一日航海したら千里という決めごとみたいなものと見ればなんの不思議もない。
倭からの帰りに仮に壱岐をすっ飛ばして松浦〜対馬、対馬〜釜山と二日で帰れば二千里だ。
いや二千里というから距離に見える。
千里×2、つまり水行一日×2という意味で見ればいいだけだ。
行きは水行三日で三千里、帰りは水行二日で二千里でも古代中国人は疑問に思わないだろ。
おかしく見えるのは里を距離と見るからよ。
920夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 07:34:59.70
使節は詳細に地理を調べるのは常識とかほざいていたな。
調べるかどうかが常識かは置いておくが、詳細には調べていない。
これは十分に判断できる。

詳細に調べているなら器具を使わなくとも歩測がある。
直線距離は出せないが踏破距離なら出せる。出したらどうなるか?
かなり詳しく記述は出てくるはずだよな。
倭人伝の行程紹介は百里、五百里だ。一と五の三桁表記だけ。
こんな風にはならないわな。
少なくとも何十里の二桁単位くらいは出てくるはずなのよ。百三十里とかな。
投馬国、邪馬台国も時間表記になるはずがない。
つまり詳細に地理は調べられてはいない。
百里、五百里しかないんだぜ。
二桁単位がなくても三百や七百なんてのもない。一か五だ。
百里も五百里も距離単位ではないからなのよ。
921夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 08:28:49.47
次、水行二十日、水行十日。
水行一日=千里としても水行二十日や十日に同じ一日千里があてはまるのか、だな。
俺は「普通の感覚を持て」と言った。これがなくては推理は暴走する。

例えば万二千里を実距離としたい机上計算で
対馬まで千里とあるのに「水行二十日=666里」と出して、なんの疑問も持たない。
これなら対馬への千里は水行三十日になる。
実際は一日航海を水行三十日としなければ成り立たないことに疑問を持たない。
普通の感覚がなくなっているからだ。
普通なら、ここでこの計算は成り立たないと思う。
普通でなくなると計算には疑問を持たず、ここから暴走し
水行二十日には水行一日×20とは違う意味があるはずだ、になる。

240キロを三ヶ月行というのもあったな。
普通ならありえないと、この記述や計算を疑う。
普通でなくなると「240キロを三ヶ月行はあり」とし、これを他に当てはめようとする。これも暴走だ。

水行二十日は水行一日の20倍。
この当たり前すぎる「普通」を否定しなきゃならないのは
「否定しなくてはならない」理由がある奴のコジツケか
普通感覚が麻痺した文献馬鹿の暴走しかない。

水行二十日、水行十日は水行一日の20倍、10倍以外の意味はない。普通に見ればな。
常識を言っていたが、これこそ常識だ。
922日本@名無史さん:2012/01/08(日) 08:34:40.24
あほくさ、ただのつじつま合わせで、お前はこんなことに時間を使って面白いのか?
923日本@名無史さん:2012/01/08(日) 08:36:30.03
ただディベートしたいがためにこんな休みの朝早くからぜったいありえない東北説とか
書くおまいの人生はどうなっておるのだ?
924夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 08:41:59.25
距離に関してはこんなとこだ。
倭人伝に書かれている里程は距離単位ではない。
修辞と言って悪いなら、伊作の表現になるが「符丁」だ。
百里と言ったら隣接を意味し、海路千里と言ったら水行一日だ。
これが書き手、読み手の共通認識なら、倭人伝は読み手に十分わかる正確な記述だ。
この修辞というか符丁の意味が通じない現代日本人という読み手には難解なだけよ。
まして里は距離単位のはずで、何メートルだのと言ってる奴にわかるはずがない。

いいかな?
925夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 08:44:05.00
>>922-923
ゴミはゴミ箱 ゲラ
926日本@名無史さん:2012/01/08(日) 09:15:21.28
お前がゴミだと思うがなあ しかも不遇な人生がかいま見える
927卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 09:43:20.85
あいかわらず不毛な議論をやっているな。

>一瀉千里という言葉があるように、千里とは非常な長距離を謂うのであって、一日水行が千里などという通念はない。

陳寿は、韓国から対馬までの距離を、千里もあるような非常な長距離と考えていたのである。
当時の水行で約二十日もかかると想像していたのである。
陳寿が日本の地理を正確に把握していないことは明白である。
928夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 10:20:58.98
>>927
邪魔。引っ込め。

次、先遣調査隊について。乳首坊やは時間的に無理と「してやったり」だな プ
ご丁寧に二回も同じレス繰り返して
>これであなたの前提の一つが極めてあやふやなものであることが分かりましたか?
だとよ 爆ゲラ
お前は常識という言葉を出しながら、常識がないねえ。
非常にいい、気に入ったレスがある。>>903だ。いいねえ、これ。秀逸だぜ ワラ

いいか、魏にとって倭国は「野蛮で、馬鹿で、知恵遅れで、人でなし」の国だ。
これは「そうかもしれない」の疑問形ではない。間違いないと確信してることだ。
そこがいくら家来にして下さいといってきたからといって、ほいほいするか?
たかだかわずかな期間の審査で金印渡し、後ろ盾になってやり国王と認めるか?
常識で考えろ。
簡単な審査と適当な貢物で大国がバックについてくれる国王になれるなら誰でもやるわ。
だが魏も馬鹿じゃない。国の威信もかかってくる。
蛮国と確信してる国においそれとはお墨付きを与えるわけには行かない。
当然調査がされる。帯方郡の人間からや倭に行ったことがある民間人からの情報も集めるだろ。
しかし郡使は所詮、朝鮮出張所の地方公務員だから、その情報だけで国の威信もかかる国王認定は出来ない。
朝廷直属の国家公務員を派遣した調査はあって当然だろう。
これらがあって「よかろう」になってから正式な倭からの申し出になり、魏の受諾になる。
朝貢も魏からの受諾もセレモニーとまでは言わないが、八割がた話が煮詰まってからと見るのが常識だ。
いきなり申し出があってたかだか半年後に「親魏倭王」を認める馬鹿はいない。
先遣調査隊はお前が言う前の段階にあったと見るのが「常識」なの。
929日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:32:29.83
乳頭も無限も肝心な部分は勝手な決め付けを押し通しているだけだね
不自然さに気付かないのか、はたまた目を瞑っているだけなのか
930夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 10:38:48.60
あと、行程記述は複数のソースを陳寿がまとめたもの、つーのもあったな。
これも可能性はかなり低いねえ。ほとんどないと言っていいだろ。
理由は観察記述。

邪馬台国はともかく、なんで奴国、不弥国、投馬国には対馬国にあるような観察記述がないんだ?
複数ソースから成り立つ記事ならこれらの国の情報もあって然るべきだ。
略載するなら対馬国なども略載すりゃいい。載せなきゃならない理由はない。
逆に奴国などだけを略載する理由もない。
仮に先遣調査隊じゃないとしても、最初に倭国を訪れた使者たちの単一報告書ならこれは「あり」だがね。
使者は伊都国までしか行っていない。あとは伝聞。これで説明がつく。
これ以上に合理的な説明があるなら聞いてみたいわ。
距離紹介が時間表記に切り替わる。「到」は倭国内では伊都国のみで使われる。
これらを併せて他の説明が出来るならやってみれ。
931夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 10:41:57.19
>>929
俺は乳首坊やの不自然さを具体的に指摘している。
俺の話に不自然なところがあるなら、お前が ”具体的に” 突っ込んで来い。
ま、名無しじゃ無理かな プ
93219歳某国立大生:2012/01/08(日) 10:42:55.49
倭人伝の記述は先遣隊が伊都国まで行きそこで得た記録でいいだろう。
末櫨から伊都まで陸行になってるのがおかしいと何度も言ってるだろ。
魏使なら卑弥呼への膨大な下賜品もってきてるんだし、陸行などせず
水行でいっきに伊都まで行くに決まってるだろ。こんなこともわからんのか
933夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 10:44:34.74
ふう、さすがに疲れたぜ ワラ

寝るわ。俺にとっては今日は休日じゃない。平日だ。
今夜も仕事出しな。
934夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 10:49:20.64
>>932
そこはそれでいいのよ。
正使なら大事な大事な金印や詔書を持って対馬や壱岐に道草するはずねえんだし。

正使なら、ここはどう説明するんだと伊作に突っ込んでるんだが
答えられないから自称「天才」の凡才も回避する、ここは倭人伝の肝なのよ ワラ

じゃあなあ〜、おやすみ
93519歳某国立大生:2012/01/08(日) 11:18:55.33
陸路の街道整備はだいぶ後になってからの話だろう。
3世紀時点で陸路は整備されてない。
なので魏使が陸路を1月も歩いたわけない。
936卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 11:40:27.72
あいかわらず不毛な議論をやっているなww

九州北岸地域の古墳から前漢鏡や漢鏡が出ているのだから、往古から日中間に交易などがあったことはまずまちがいないわけで、
日本に関するある程度の情報はもたらされていたと思われるのである。いわば民間採取知識。陳寿はそれを書いただけ。

風俗記事などは琉球などの情報が混入していると思われる。
卑弥呼と台与の記事なども、いかにもリアル記事のようだが、神功皇后の伝説が混入しているかもしれない。
937唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 12:10:47.37
>神功皇后の伝説が混入しているかもしれない。

神功は、金石文七支刀と百済王朝の説明ができなければならない。
つまり、魏が管理する240年に倭が半島を占拠するようなことは無い。
だから、卑弥呼を説明する以前にその説明をするべきである。
938卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 12:35:17.50
唐松山氏よ、韓半島には倭人が住んでいたのだ。特定の時期にどっと移住したというようなことは考えられないから、
ずっと以前から、紀元前何千年以上も前から、住んでいたに違いないのだ。国邑も形成されていたと思われる。

問題は神功渡海は何時かだが、定説より古い時代であってもなんら不思議ではない。
松浦や宇美の地名が神功皇后に由来するとされているからには、倭人伝の時代より古いと考えてもおかしくはない。
939日本@名無史さん:2012/01/08(日) 12:47:26.69
釜山〜対馬は天気が良ければ肉眼で見える
だから目測で千余里としたのだろう
対馬〜壱岐島も同じ
壱岐島〜松浦は千余里もないだろと言う意見もあろうが、修辞的に数字を盛った、若しくは末ろ国≠松浦(壱岐島から千余里の場所が真の比定地)ということだろう
水行一日=千里なんて古代中国人を馬鹿にし過ぎ
940卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 12:52:53.44
郡使「狗邪韓国の南に対馬国という島がありました。」
陳寿「そうか。で、その島まで水行でどれくらいかかったかね?」
郡使「一日です。」
陳寿「そうか、ふむ。では五十里くらいだな。では五十里と書いておこう。」

ところが陳寿は千里と書いた。つまり郡使や先遣調査隊の報告に基づいて書いたものではない。
941唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 12:55:34.00
いいかい、魏の黃幢下賜は、郡軍の下に倭軍を創設したことをあらわす。
そして、神功渡海とは、軍務命令による渡海であり、それは、七支刀から逆算できなければならない。
倭国は存在しても百済国の説明ができていない。
>定説より古い時代であってもなんら不思議ではない。
七支刀で説明できるのは、七支刀=369年の場合
百済本紀を使えば、韓国夢村土城に未知の4世紀遺構が存在し、半島占拠は否定される。
この、未知の4世紀遺構分だけ数字を引き上げると、七支刀=326年となる。323年神功49年半島占拠は事実である。
だから、この数字から逆算できるところに、女王卑弥呼は存在する。
逆算した場合、247年ころの黃幢下賜で説明できる戦争は、景行の九州遠征である。
この九州遠征から、崇神を逆算すれば2世紀末となり、考古学の主張する巻向年代と整合する。
247年ころの黃幢下賜から、神功渡海を割り出せば、274年であり、西新町遺跡に半島の土器
が出現する時代と整合する。
これが、書記の数字を当時の人間の寿命で説明できる。しかし、神功は長すぎることは確かである。
942唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 13:17:15.61
>韓半島には倭人が住んでいたのだ。
縄文時代は半島南部と縄文人は同一の民族である。
弥生人の半島からの移住まではほぼ同一と考えてよいが、
239年の時点で、半島は馬韓・弁韓・辰韓の3種の居住地帯であり
倭人の居住地帯は存在しない。しかし、弁辰の製鉄地帯には倭人が存在する。

この倭人を説明したいんだろ?
210年金官伽耶(任那)建国。216年任那より朝貢。大和は、任那での鉄の採掘権を得る。
大和は、天日矛にこの業務を委託する、播磨・淡路島・阿波が初期の鉄生産基地となる。
238年 魏使は、狗邪韓国で邪馬臺國の情報を得る。後漢に朝貢した実績のある倭奴國を訪ねる。
倭奴國の状況は、相攻伐のあとの暦年無主。朝貢団を派遣するよう求められた奴國王は、卑弥呼を共立する。
この共立の範囲が、『難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王(男王)の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守』の範囲である。
239年 朝貢して洛陽で倭女王卑弥呼は認められる。帰国団に同行したカテイ等は、邪馬臺國を訪れ
倭王位を授与する。だから、倭国は2王体制である。
943日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:03:45.37
>>918
誰も直線距離だとは考えていないよ。今まで直線距離だと考えていたの?

>>919
松浦半島が魏使たちの上陸地点とは証明されていない。他の地に上陸した可能
性も高い。決め付けるな。決め付けるのは頭が悪い証拠だ。19才を見ろ。
944卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 14:14:22.33
唐松山氏よ、あなたの話は妄想が多すぎる。
そもそも、その七支刀とやらが、百済から神功に贈られたものだとは証明されないわけで、そんな仮説の上に理論を積み重ねても無駄である。

神功皇后の寿命が長すぎても、それを不自然と考えてはいけないのであって、それにはちゃんとした理由があるのである。
945日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:26:02.18
ホツマ真理教+日本書紀信仰=唐松山

これ、学問じゃありませんから。
946日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:29:16.64
しかし近来まれに見るレベルの低さだな 
唐松、太国はいつものことだが、このトンデモ軍団はどっから出てきたんだ
947日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:42:10.01
たしかに最近は湧いてるのが増殖していますね。
19才どうのこうのとか、無限尿とか。
948日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:49:18.67
寿命が長すぎたら神功皇后はほとんどがばあちゃんで使いものにならんな
949卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 14:53:10.82
神功紀262年に葛城襲津彦新羅派遣の話があり、百済記382年に沙至比跪新羅派遣の話がある。

それで学者は、書紀は120年ずらしてある、と考えた。
しかし襲津彦と沙至比跪が同一人物とはかぎらないし、百済記382年の紀年が正しいともかぎらない。

さらに葛城襲津彦は神功紀5年から仁徳紀41年まで登場しており、205年〜353年まで登場しているのである。
普通の学者はこれは不合理だと考える。しかし本居宣長はそのまま認めたのである。

宣長の偉さは君らには分らない。古代史を現代の常識で解釈してはいけないのである。
現代の常識で解釈すると、アダムは紀元前4004年の人という珍説に至る。
950日本@名無史さん:2012/01/08(日) 15:13:37.61
まあ逆に言えば夢幻如なんかがそれなりに論を組み立てられるように、倭人伝の
行程部分は解釈の操作がいかようにも可能ということだわな
文献史学が結論不能として投げ出したものをアマチュアがおもちゃにしていじくりまわして
いるにすぎない 夢幻如のようなゆがんだ人格の輩にはぴったりか

19歳は自分では一般的な畿内説を言ってるつもりなんだろうが知識が浅すぎる 
本当に現役の名古屋大生なら、タンデトロンが2台あったはずだから、
年代測定研究センターの中村俊夫先生のレクチャーでも受けてくればいいw
951おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/08(日) 15:43:44.92
>>918 , >>919:夢幻如
>釜山〜対馬、壱岐〜松浦は距離で倍以上違う。しかし同じ千里だ。

なるほど。あなたは狗邪韓国を釜山とし末盧国を松浦(唐津?)としているのですね。それならそうなるでしょうね。
しかし、違う見方もあるんですよ。狗邪韓国を巨済島とし末盧国の港を松浦でも伊万里とする見解です。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國の其北岸が「倭国の北の端」を意味するとすれば巨済島
はぴったりです。

巨済島南岸から対馬の浅茅湾が最初の渡海航路、対馬の厳原から壱岐の郷ノ浦が第二の渡海航路、郷ノ浦から伊万里が
最後の渡海航路だとしますと直線距離でも1:0.95:0.76くらいになります。郷ノ浦から伊万里の航路では浅瀬や岩礁
が多く存在しますのでそれらを避けてのいわゆる道なりの航路距離は2割くらい長くなるとすれば前記の比率は1:0.95:
0.91となりほぼ同じと見ることができますね。

あなたの論を否定する上記のような見方もありますよ。さあどちらが正しいと言えますかね。
952唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 16:06:34.17
>>949
>神功紀262年に葛城襲津彦新羅派遣の話があり、百済記382年に沙至比跪新羅派遣の話がある。

神功49年の半島占拠は証明されていないのになぜそれが正しいと言える。
説明できるんか?
953おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/08(日) 16:23:11.42
>>920 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
>倭人伝の行程紹介は百里、五百里だ。一と五の三桁表記だけ。

倭人伝の里数表記値が二桁以下を省略しているのは(四捨五入みたいに)丸めているのでしょう。また二桁以下まで詳しく書く意味が
ないと判断したのでしょうよ。国会議事堂正門から上野公園の西郷隆盛像までの直線距離みたいなものが書かれているわけではありま
せんからね。末盧国の何処を出発点とするか伊都国の何処を到着点とするか標識点があるのであれば二桁を省略しないでしょうが、そ
んなもの(末盧国の豪族・・の館の門から伊都国の官庁玄関までみたいなもの)はないのですからね。

なお、距離表示には一と五の三桁表記以外にもありますよ。對海国については方可四百餘里、一大国については方可三百里と距離を表
すものとして四も三も出ています。伊都国への五百里、奴国への百里、不彌国への百里はたまたまそのとおりだったということでしょう。
これ(たまたま)を否定しようとしても不可能でしょう。
954おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/08(日) 16:29:17.45
>>921 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
ここであなたが述べていることの根拠に関わる問題を>>951に示しました。その問題を解決しなければあなたの論は崩壊します。
955おまいらしってるくせに:2012/01/08(日) 16:35:47.20
宣長さんのゆうよおに

卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長

で良いかとはおもふが

熊襲の女酋長が金印とか貰ったって

なにもねたむ必要とかないかなとはおもふが
956卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 16:43:12.27
>>952
>神功49年の半島占拠

まずこれの意味が分らないのである。神功の新羅出兵は神功元年のことではないのか。

まあ何年であろうとかまわないのである。神功皇后の三韓征伐に関連した伝承が九州各地に残っているのだから、
史実であることはまちがいないのである。それを後世の造作だと言っているような学者はみんなアンポンタンなのである。
957日本@名無史さん:2012/01/08(日) 16:44:27.66
>>955

皇国史観を復活させてどうする?
958唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 16:57:51.20
晋書 地理
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,
而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。

魏の半島支配は、東夷校尉の管理下にあり、馬韓は帯方郡の属郡である。辰国には、国王が置かれるから、1国として管理される。
馬韓(光州)方面に前方後円墳が多いということは、大和の影響があったということである。
大和の影響とは、神功渡海と半島占拠で説明されるべき事項である。
七支刀=369年では半島占拠が否定されている=369年でないことが証明されたと同等である。

959日本@名無史さん:2012/01/08(日) 17:01:23.83
金印とか貰った熊襲の女酋長は実在とゆうことになるよね

てか熊襲の女酋長なんてのはたんなる符牒だろ

きにすることねえよね

960卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 17:04:42.29
唐松山氏よ、あなたの投稿は誰も読んでいないと思うぞ。
そもそもあなたが何を言おうとしているかさえ読者には分らない。

もっと論点を整理して、分りやすい文章を書きなさい。
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 17:42:12.67
>>959
>神功紀262年に葛城襲津彦新羅派遣の話があり、百済記382年に沙至比跪新羅派遣の話がある。
>神功の新羅出兵は神功元年のことではないのか。

紀200年 神功出兵は神功前紀(仲哀9年)天皇仲哀の死に渡海は優先する。
その渡海も、斥候を派遣して渡海ルートを確認してからの渡海である。

紀262年 神功62年に葛城襲津彦新羅派遣の話があり、←だろ?だからそれに先立つ
紀249年 神功49年の半島占拠は証明されていない。ということだ。

前紀神功渡海と、神功62年の話では、全く話の内容が違う。


962日本@名無史さん:2012/01/08(日) 17:57:46.88
陳寿は神功なんちゃらについてはなんら騙っていない

熊襲の女酋長のおはなしとかしたら?

てかできないまぬけな夫とかもつときのどくだなとはおもふが。
963唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 18:04:34.14
>>959
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇) ここを任那建国に設定すると
神功皇后摂政六二年(壬午二六二)  ここで 新羅を下す。という設定か?
だから七支刀などは無視すると…。


964日本@名無史さん:2012/01/08(日) 18:35:19.17
神功皇后は葛城地方出身の姫だしな。
965日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:02:18.69
>>964
根拠は?
966夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 19:20:29.34
>>939
なんで古代中国人を馬鹿にすることになるんだろうねえ?
里を距離単位と見るからで、そこから離れられないからそうなるのよ。

>>943
別に直線距離じゃなくてもいいんだが、踏破距離ならなぜもっと正確に書かない?
書けないならともかく、やればできる。
お前も乳首坊やと同じで「正確な調査をしたはずだ」と言いながら「そこまで正確さは必要ない」の矛盾かな? プ

壱岐から先もいくらでも遠い港とすることもできる。
だが、ここも常識問題。
行程紹介は先遣調査隊のものだ。(結局、誰もこれを否定できない ワラ )
この調査隊の目的地は伊都国。その間に倭国の国情調査。
より近くで上陸するはずで遠方に行く理由はない。
96719歳某国立大生:2012/01/08(日) 19:20:43.40
尾張氏系図に日女命=卑弥呼 と同時代に崇神もちゃんと書いてあるから
ほぼ決まりだろう。
968日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:24:19.87
ていうことは、畿内の王は、九州女酋の奴隷ってことでいいな。
96919歳某国立大生:2012/01/08(日) 19:29:24.78
尾張氏系図と海部氏系図、全く異なる文献に同じことが書かれてるから
信憑性は高いとみていい。海部氏系図は最近まで一族が保管してて門外不出だったし。
日女命(ひめみこと)=モモソ姫 と書かれていて、兄弟に弟彦がいて、
その孫に小止与(おとよ)がいる。かつ同時代に崇神までいると書かれてるわけで、
ここまでくると偶然の域を超えるだろう。唐松山や太い国産とか
記紀のくだらん解釈ばかりしてるが他の文献に目を移したほうがいい。
970日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:30:31.30
震災前

     /::::::::::::::::::::::::::::::;;::ノ ヽ;::\
    /::::::::;;;;;;;;;,,,;;...-‐''"~    ヽ:;::l
     |:::::::::::|    岡田 異音    |ミ|
     |:::::::/     ,,,  ヽ,、   '|ミ|  
     '|:::::::l    '''""   ゙゙゙゙`   |ミ|
       |:::::|.  ,,r ‐、   ,, - 、  |/
     ,/⌒|  ノ ・ _), (. ・ `つ|
     | (   "''''"    |"'''''"  | 
      ヽ,,.        ヽ    |
       |       ^-^_,, -、   |   
         |    _,, --‐''~    ) |  マニフェストもう守れない。どうしよう・・・・ 
         'ヽ  (   ,r''''''‐-‐′ / 


震災後

     |:::::::::/            |ミ|
     |::::::::|   ,,,,,    ,,,,,   |ミ|
     |彡|.  '''"""''   ''"""'' |/
     /⌒|  -=・=‐,   =・=-  |
     | (    "''''"   | "''''"  |  
     .ヽ,,         ヽ    .|  キリッ
        |       ^-^    |
   .     |     ‐-===-   |   大震災が起こったのだからマニフェストの破綻も致し方ありません
         ,\.    "'''''''"   / 
朝鮮民主党
     おわり
971夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 19:30:46.44
>>950
文献史学が結論不能とするのは九州や畿内に邪馬台国をもってこれないからだ。
唯一の直接証拠文献を解読不能にしなければならない候補地てのはなんだ?って話になるだけよ。
で、お前も論には論で来れないヘタレか?
俺は前コテでは自他共に認める性格の悪さだから、人格を歪んだと批判するのは構わんぜ。
しかし論に対抗出来なくなっての人格批判か?
さすが、2ちゃんだねえ ゲラ
972夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 19:41:13.85
>>954
何があなたの論は崩壊するだ ワラ

お前の話は崩壊しまくりなのは理解出来たのか。
調査に時間的余裕がないとした非常識わかった?
複数ソース説で奴国、不弥国、投馬国の観察記述なしはどう説明すんだ?
使節団が詳細な地理調査をしていないというのには「たまたま」だけか ゲラ
投馬、邪馬台国の時間表記はどう説明すんだよ。
破綻しまくってる馬鹿がほざくんじゃねえ ゲラ
973日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:53:40.77
>>966
3世紀当時の中国人が陸上距離を測るのにどんな方法を採ったのか研究してから
邪馬台国に口をだせよ。フ゜ッ。
974夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 19:56:31.23
>>951
こんな出発地点、上陸地点も考えられます、とはじめたらキリなく言える。
末ろ国、伊都国などを出雲にもってくる奴もいるからな。
こんなのまでには付き合えん。
大方の九州説、畿内説者の双方が認める地で話す他はあるまいよ。

さて破綻しまくりビーチク坊や。
都合悪いとこはスルーで流して終わりかな プ

行程紹介の使者は先遣調査隊で伊都国までしか行っていない。
邪馬台国が九州に存在するなら調査隊が行かないはずがない。
九州にはなく、遠隔だから行かなかったとしか考えられない。
九州に邪馬台国は存在しない。

この本線は否定出来ませんでいいのかな〜
975日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:58:02.74
近江説者のこともたまには思い出してあげてね
976夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 20:01:04.98
>>973
3世紀の中国の陸上距離を測る具体的実例でも出してから言いな。
コテになれないヘタレ名無しくん プ
977日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:02:08.05
>>971 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)
>文献史学が結論不能とするのは九州や畿内に邪馬台国をもってこれないからだ。

違うな。

「何 処 に で も も っ て い け る 」からだド阿呆。

>唯一の直接証拠文献を解読不能にしなければならない候補地てのはなんだ?って話になるだけよ。

単一史料である事とその記事から位置を特定できることは何ら繋がらない。

これが分からないのはもう馬鹿というか白痴レベル。


978卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 20:02:39.42
夢幻如氏へ
実は私もよく理解していないので整理してみた。
146〜189 卑弥呼共立?
178〜184 卑弥呼共立?
200 神功渡海、三韓征伐
204 公孫氏 帯方郡設置 その後、韓と倭が公孫氏に服属す
238 公孫氏滅亡 卑弥呼朝貢?
239 卑弥呼朝貢?
247? 卑弥呼死去
249 神功、将軍を派遣して新羅征伐、伽耶諸国平定
252 百済から神功に七枝刀が贈られる

まあこんなところか。卑弥呼と神功が同一人物かどうか、また神功の実年代は何時頃か。
軽々な結論は出さず、じっくりと考察する必要がある。
979日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:02:48.32
>>969
海部氏系図ってのは、記紀の系図や新撰姓氏録、
物部氏の旧事本紀とも微妙に違うよ。
ただし、微妙に違うだけで、大方が同じだ。
よって、戦後の反皇国史観論者が言うように
記紀の系図が全くの創作されたものという解釈はおかしいw

海部氏の系図は間違いだと思うよ。
尾張氏の系図とゴチャゴチャになっているし。
おそらく、尾張国にいた尾張氏が、丹波のほうの領主も兼ねていたから
あういう混乱した内容になっているのであろう。

モモソ媛命に関しては、記紀などにあるように
孝元天皇の兄妹だという系図のほうが説明しやすい。
ただし、ヤマトトトヒモモソ媛命という名前なんて
本名というよりも、身分を表した通称だから、
海部氏のほうにも、自らがモモソ媛命だと主張した女性がいても
不思議ではない。
980日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:04:08.81
宣長さんはどおかんがえても

熊襲の女酋長としか云わざるを得なかったんだよな

宣長さんはふつうによめるこだからしょうないよな
981日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:04:41.22
唐松山の年表の方が俺は納得ができるな
982太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 20:24:47.94
日蝕が数日間も続くという宿主の論は、日本史板最高級のひどいデタラメ。
983日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:26:05.79
近江説>八幡平説>畿内説
984夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2012/01/08(日) 20:26:12.52
>>977
名無しだから無視しても構わないと言いながら、何回もレスしてくるなぁ プ
お前はずーっと無視だから俺にレスしても無駄だぜ ワラ
これはサービスレスだ。アンカーまでつけてやったんだ、泣いて喜べ ゲラ

>>978
右翼街宣車くんにも用はない。
985日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:26:27.05
おらよ、次スレだゴミクズどもwww
尚、「105」は通算として修正したもの。

♪邪馬台国ドンと来い♪105
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326021893/l50
986日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:31:18.86
>>984 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)

黙れゴミクズ、
そもそも俺はお前を無視してレスしないとも言っていない。

無視するとほざいたのはお前だゴミカス。

結局 オサレマ説=東北説 を主張できても他説を否定できない。

なんの事は無い数多ある(と言うかブームの頃に”あった”)中のワン・オブ・ゼム。

大口ほざいて結局の竜頭蛇尾。知ったかぶりのクズのクズ。

987日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:39:36.12
>>985
カスでも役に立つこともあるんだな、乙
988日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:41:10.22
>>928 無限尿(中身無しのゴミクズレベル東北説)
>そこがいくら家来にして下さいといってきたからといって、ほいほいするか?
>たかだかわずかな期間の審査で金印渡し、後ろ盾になってやり国王と認めるか?
>常識で考えろ。

まあこのゴミクズの自己矛盾なんていくらでも指摘できるが
これも一貫性の無い馬鹿丸出し。

それほどに相手の実力に懐疑的、外臣の席に加えることに消極的であれば
何故相手のことを知る為の先遣隊を途中で引き返したか?

普通に考えればつじつまが合わない。

まあこれにも「ああだこうだ」のオモシロストーリーが着いて来るんだろうが
それも結局この馬鹿の脳内劇場のお話根拠なし。

ゴミの中のゴミ。
989日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:56:05.80
無原尿のまとめ

・俺様の故郷=新潟のそばに邪馬台国を比定したい
・鯨統一郎からパクッたヤマタイ=ハチマンタイで押し通そう
990卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 21:51:04.00
近江説は、まあ珍説といえば珍説だろうが、まるっきりカスっていないわけでもない。
なぜなら近江は息長氏と関係があり、神功皇后と関係があるからだ。
神功と関係のある継体天皇の生誕地でもあり、のちに天智天皇が都を置いた土地でもある。

まあ東北説ほどの珍説ではないことは確かだ。夢幻如もせいぜい越前越後あたりで止めておけばよかったのに、
東北まで手を広げたのでみんなに笑われる羽目になった。
991日本@名無史さん:2012/01/08(日) 21:58:36.99
俺は夢幻如の話を笑わないけど。
八幡平にこだわってるわけでもないようだし、話はわかりやすく筋が通っているし。
992唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 22:00:47.71
>252 百済から神功に七枝刀が贈られる

晉書卷一百九  載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕
342年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
347年 遣其世子儁與恪率騎萬七千東襲夫餘,克之,虜其王及部眾五萬餘口以還。

342年に高句麗が敗れたことにより、この地は安定する
だから、百済が倭に協力して領土を分与されることも無い。
神功49年に分与した土地は“西”の土地である。つまり、帯方郡を分与できなければ
ならない。
七支刀=369年と同様に252年でも否定されている出来事。
だから、七支刀=326年であれば、この地方も政治的空白であるから可能なのだ。
993卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/08(日) 22:41:45.25
>>991
まあ夢幻如の説は、卑弥呼を蝦夷の女酋とし、狗奴国を大和朝廷と考えて、
大和朝廷に圧迫されているので魏に支援を求めに行った、と考えれば成立しうる。

伊作氏の説も、投馬国の投を設、殺の誤記と考えて、投馬国=薩摩と考えれば成立しうる。

>>992
唐松山氏の投稿はどうもよく理解できない。氏が前提としていることが読者には分らないのである。
一から丁寧に説明してくれないと読者には理解できない。
994日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:02:00.02
次スレでは各コテハン諸氏が自説を簡潔にプレゼンしてくれるとありがたい
995三馬鹿大将:2012/01/08(日) 23:12:59.76
19歳某国立大生
森村遺作
夢幻尿
996日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:13:38.99
>>993
お前のはどうやっても成立しないけどなw
997唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:19:44.87
>>993
私の主張は、書記の記事がどこまで正しく書かれているか?です。神功紀で説明すると
前紀渡海は西暦何年なら正しいと出来るか?
神功元年あづないの罪≒273年の日食
神功49年 半島占拠= 
998日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:19:49.63
唐松山のは記紀の出来事を西暦で読めるようにするという作業だな
定説よりも前倒しされているけれども
999唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:24:49.73
>>993
書記の記事の大部分は、歴史上の出来事である。
これが私の基本姿勢である。だから、卑弥呼を半島に設定できない。
下記の323年に相当する部分が神功49年であり、韓国の文献である
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。

千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗
休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。
1000おばんです秋田名物乳頭パイ:2012/01/08(日) 23:26:45.40
>>972, >>974 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV.
「馬鹿がほざくんじゃねえ ゲラ」みたいな文句が増えて来ましたね。狼狽の程度が上がってきているのがよく分かります。

論点を絞らずいろいろと書いてありますが、やはりあなたの「里数は実距離ではない」論の根拠とするものは「狗邪韓国から
末盧国に至る3回の渡海航路距離が大きく異なっているにも拘らず一様に千餘里としてある」というあなたの主張であります
から先ずはここに論点を絞って議論しましょう。

>こんな出発地点、上陸地点も考えられます、とはじめたらキリなく言える。
>大方の九州説、畿内説者の双方が認める地で話す他はあるまいよ。
倭人伝の記述に合わないもの(例えば末盧国を出雲とするなどは方角無視)は論外です。「大方の九州説、畿内説者の双方が認める」ということを基準にする
というのはどうでしょうかね。それは多数決あるいは人気投票で決めるというのと同じ考え方でしょう。学問的ではありませんね。あなたは論理で議論をする
みたいなことを言っていたように思いますが、こんないい加減な考え方をするのですね。笑えますねえ。

倭人伝の記述に最もよく合うものを選ぶべきでしょう。私が>>951で紹介したルート(巨済島ー対馬ー壱岐ー伊万里)は倭人伝の記事に矛盾するところはあり
ません。こういうルートが考えられるということはあなたの「航路距離が大きく異なっても一様に千餘里と書かれているから里数は修辞であって実距離ではない」
という論が正しくないことを示すものです。あなたの論が正しいとしたいなら(巨済島ー対馬ー壱岐ー伊万里)ルートは有り得ないということを示さなければ
なりません。あなたに出来ますか?アホなあなたに出来るわけがないことは承知していますけどね。



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