1 :
神奈川県民:
2 :
吉備真備:2011/12/28(水) 19:44:41.07
天皇乃吳太伯の苗裔!爾等毋妄議!
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革
ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け
世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
4 :
サガミハラハラ:2011/12/28(水) 23:29:36.14
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
伊都国は多久市下多久中小路庄集落です。
5 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/28(水) 23:49:09.86
>>2 だれも、議っていない。
なぜならば、卑弥呼もわからず、その先祖を議る段階に達していない。
6 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:59:00.34
7 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 00:04:40.17
前スレ>994
コレを忘れたか〜? オマエが先にこちらを偽書といわれる書を持ち出し
たと文句をつけたんだろうが。秀魔電が偽書といわれてることをオマエが
知らぬわけもない。コチラをつついてオマエが持ち出すんじゃねぇ〜。><
↓
特別編板
274 : 唐松山 ◆ V0F34EbmQA 2010/06/18(金) 23:02:24 ID:tWjIJ5wc
ほ〜ら 偽書といわれる書物をもちだした〜。
でもねその出来事を説明出来ればいいんだよ。
8 :
メ:2011/12/29(木) 00:19:57.16
高島氏がよく言ってる
「魏志倭人伝の国の描写は北部九州の実態を示している」なることについては
畿内説と言うのは九州も含む「連合」なので意味なし。
日本書紀が言ってるように、もともと天皇家と言うのは"西"からやってきた。
鏡、玉、剣のセットにしても、九州州から伝わったのでありなんら問題は無い
9 :
メ:2011/12/29(木) 00:26:57.76
「玉璽」ていう、卑弥呼が貰った「金印」より一つ格が上なのがある。
順番にいうと、玉、金、銀となり、「金印」が最高の証なんて考えてたら駄目だよン。
実は、第二位だった「金印」なんて言ったらびっくりする人もいるんじゃなかろうか。
10 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 00:28:59.86
>>7 ホツマは自分の主張には使用するが、太国倍年を否定するためには使用していない。
結果が太国倍年を否定するだけならホツマは必要ない。
>でもねその出来事を説明出来ればいいんだよ。
私は、ホツマを使用して私の主張と同期させた主張をする。
太国が否定するためには、太国倍年を使用した主張である。
それが、この程度か?
>>890 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/27(火) 22:26:14.23
> 考古学と整合しない。という主張があっても容認される。
青谷上寺地遺跡の埋没は、弥生後期後半である 纏向1類(前) 弥生X様式土器
太国:崇神元年237年 纏向3類(前)ホケノ山(225〜250年)楽浪鏡 庄内3式期末
△ 鏡=纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
太国:青谷上寺地遺跡は崇神17以後である。
太国:崇神元年237年は △鏡を作ったことで証明できる。
つまり、纏向5類(プレ)は纏向1類(前)に先行する。
逆立ちして考えたんか?
11 :
メ:2011/12/29(木) 00:36:07.61
弥生時代初めに中国の長江流域を起源とする米が半島を経緯し
日本列島に入ってきたんですが、これがいま私達が食べているジャポニカ米でして、
九州をはじめとする弥生時代の遺跡でこれがよく出土していますよね。
あと、この時代の日本列島の森林をみても、カシやナラ類の実、それから
シイの実などの樹木が生い茂っていたらしいですね。
前者のカシやナラがいわゆるドングリでして、後者のシイの実ていうのがクリだったりする。
ドングリは食べたことありませんがw クリならば子供の頃よく食べていた記憶があります。
12 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 00:37:01.47
>>7 私の主張を否定する主張の中身が無い。
崇神5,6年の否定は、青谷上寺地遺跡は崇神17年以後。
青谷上寺地遺跡は弥生後期後半。
太国の主張する崇神は237年からである。この数字と青谷上寺地遺跡と整合させ(崇神17年以後)
さらに、崇神6年には、△鏡が大和で作られなければならない。
考古学を無視すればどんな主張も通る。しかし誰も認めない。
13 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 00:39:43.03
太国よ
自分の主張する年代とその時代を主張せよ否定したければ、その主張を根拠とできる。
14 :
メ:2011/12/29(木) 00:50:33.65
三雲、スグ岡本、平原遺跡が弥生時代の王墓なんてよく言われてますが、
これと同等か、これ以上の遺跡が本当にないのか、議論に思う人も居ると思う。
これらの遺跡の副葬品をみると豪華であり、他の遺跡を凌駕しているとは確かだろうねえ。
まあ、しいていえば、出雲の「四隅突出古墳」或いは、桜井馬場遺跡ぐらいだろうか?
又、魏志倭人伝には對馬國、一大國に南北巿糴ていう記述があると思うんですが
これは対馬、壱岐から出土した"土器"をみても分かる通り、朝鮮半島や北部九州の土器の出土物が
"北"や"南"と交易してたのは間違いないらしい。
>>10 ホツマは江戸時代の国学者が捏造したもので信用するに値しない
ちなみに倍暦も、記紀に太歳記述がある以上、原理的にあり得ない
16 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 01:00:27.61
>ホツマは江戸時代の国学者が捏造したもので信用するに値しない =我々の卑弥呼特定はさらに時代が下がるから信用するに値しない。
倍暦は書記の数字から得られると主張するが、倍暦から書記の数字は得られない。
この事実は認める。
後付説の太国も認めざるを得ない。
17 :
メ:2011/12/29(木) 01:10:07.37
卑弥呼は
"神の言葉を伝える巫女"なんですが、
たとえば古代のヨーロッパなんかをみると男尊女尊の国だったりして、
聞くところによりますと「女王」ていうのは無いらしいですね。
日本列島の場合は女性の社会的地位が高いというか、九州の風土記なんか観ますと
各地で女性の首長が活躍し、九州はとくに巫女が多いのは事実と思う。
巫女といえば、西から来た「秦氏」が有名なんですが、秦氏と言うのは渡来系氏族であり
道教や、仏教を持ってきた一族の一つだろうねえ。
18 :
メ:2011/12/29(木) 01:13:44.61
もう冬季休暇に入ってる人は多いのではなかろうか。
私も実家の九州に変える予定なんですが、古代史の旅をするのなら
何処に行きましょうかねえ。
何かお薦めあれば書き込み宜しくです〜all ではねるZZZZZZZZZZZZ
19 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 01:16:22.23
>>15 書記の主張を肯定し、ホツマの主張を肯定する。
これがいかなる意味を持つか?
たとえば、書記の主張を肯定し、寺社伝承を肯定する。
この二つを比べた場合、神武から景行までを肯定する。と、成務のみを肯定する
では、大きく意味が違う。
太国は、考古学は書き換えられると称して、弥生後期を古墳初期の後に設定する。
同一に見られては、迷惑である。
否定すべきところを主張してもらいたい。
扶桑国は沖縄の可能性もあるが、本土も含んでるのか微妙です。
21 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 05:41:48.02
つまり、邪馬台国は大和だったわけか。
そうだと思ってたんだよ。
九州なわけ無いよな。
22 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 07:30:27.29
>>8 天皇家は、元から近畿発祥。
厳密には、現在の御所市高天周辺の豪族から発祥した。
この御所市高天周辺のあたりを高天の原といった。
天皇家の先祖は、そこから、九州高千穂に地方官として
一時期、派遣されていた者の子孫。
>>8 でも九州からやってきたというのは定説になってるよ?
25 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 08:24:30.16
>>23 定説にはなっていない。以上。
ワカミケヌ命(神武天皇)は、九州の日向生まれで
近畿に引っ越ししたことになっているけど
彼の曽祖父のニニギ命は、高天の原から、九州高千穂へやってきた。
では、高天の原とはどこか?というと、
葛城地方にある高天の平原あたり。
26 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 08:32:26.07
現在の大阪府・奈良県・和歌山県の境にある金剛山。
この山々は、河内国側から見たら、金剛山だが
大和国側からみたら、高天山といわれていた。
その麓を高天といい、その平原を高天の原といった。
現在の奈良県御所市高天周辺の地域をそうだ。
近畿王権が出雲を併合し天下を統一した後、皇祖ニニギ命は、
九州高千穂へ地方官として派遣されることになる。
これを後世、天孫降臨という。
ニニギ命の一族は、そこで3代ほど、その地域の地方官を歴任していた。
これを日向三代という。
このニニギの後胤である日向の地方官の一族の中でも分家筋にあたるのが
現在の天皇家の先祖たちだった。
27 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 09:47:50.30
前スレの
>>993>>996 これは太国さんやメさん(あらためだよん君だと思うが)だけでなく、邪馬台国スレに投稿しているすべての常連に言いたいのだが、
天皇の年齢が百歳を超えているからといって、それを不合理だと思ってはいけないのである。
それを不合理と考えて、現代の常識で逆算すると、アダムが紀元前四千年の人だという珍説に至るのである。
安本美典のやっていることがそれであり、君らの思考法もそれと同じである。
よく考えてみるとよい。梨迹臣命が近江国風土記の羽衣伝説に登場するような伝説的人物なのに、
その子の神聞勝命が常陸風土記に崇神天皇の頃の人物として登場しているのである。
つまり梨迹臣命から神聞勝命までの子孫はすべて省略されているのである。
ここに古代史の秘密がある。これが分らないと古代史は理解できない。
邪馬台国の首都は奈良県桜井市付近
大和朝廷は神武一族が邪馬台国を制圧して祭り上げられた政権
神武一族と卑弥呼一族の血統は全く別物
神武一族が大陸から日本に渡ってきたのは魏王朝末期の260年過ぎ
それまで神武一族は魏の傭兵として朝鮮半島制圧や諸葛誕の乱の鎮圧で活躍した
29 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 10:26:05.66
>>15 それでは ↓ はどう考えるのか? 答えてくれ。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日
2日 2 16日 0 30日
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
古代マヤ暦には金星暦があるが、そのマヤの太陰暦は2倍暦である。
このことは,君の否定が早計そのものだということを意味する。
30 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 10:27:53.63
>>29 訂正追加
29日、30日の数字が抜けましたが、ともに0です。
31 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 10:38:05.91
>>29(+
>>30)の表を眺めれば、月の後半の日数が無い。
このことは朝廷が当時空年を採用したりごまかしの挿入をしてたんでは
ない。朝廷は八代時「空日」を採用していたのであるのだ。空年ではない。
ということは、宿主の主張は「空日」のこの表に逆らい空年だとして
いることは朝廷に逆らうの虚偽論であり、これから宿主は朝敵と
なる。空年ではない、空日である。
>>29表から、当時の1ヶ月は2週間であったと観るのが相当であり、
これは2倍年暦を採用していたことを物語る。
32 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 10:46:01.63
>天皇の年齢が百歳を超えているからといって、それを不合理だと思ってはいけないのである。
一人二人あたりなら直ちに不合理とは言えないが、十人くらいも百数十歳
もが隣り合わせの代で生きてたという話は考えにくい。
それがしが編年したところ、彼ら天皇は現今の人間の当たり前の寿命内に
収まるもので、こんなに多勢の天皇が百歳を軽く超える長寿だと許容
するのは懐疑的に考えるべきが妥当である。
ただし武内宿禰は仁徳天皇が日本一の長寿者であると驚いた歌を詠って
いるところから、この大臣は百歳を超えていたと観てよい。半島の長寿王も
エジプトのラメシス2世も長寿であるところから、少しの人物がかなりの
長寿であったということは、おかしくはない。
33 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 10:56:53.35
34 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 11:00:34.93
空年は書紀の数字から得られると主張するが、空年から書紀の数字は得られない。
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
35 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 12:34:41.30
>>29 太国倍年はこの数字を分散させるためにある
だから、分散には成功したが、1年の長さも1ケ月の長さも主張できない代物となる
太国倍年の数字に太国の主張する倍数をかけても書記の年代は再現できない。
そして、
>>34 の寺社伝承は、青谷上寺地遺跡を崇神17年以後に設定するのと同等に
時代背景は考慮されていない。
36 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 12:52:08.21
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
書記は、1月1日を季節と朔で説明している。つまり太陰暦である。
太陰暦の朔は29.53日の積み重ねで得られるが倍数で得られることは無い。
であるならば、月前半に偏るということは、朝廷に出仕するのは月前半であり、後半は自分の領地で過ごす。
だから、死亡日も書き換えられ、この前半におさめる。
春正月庚辰朔。この1月1日に振られた”庚辰”という数字を無視して太国倍年は成り立つ。
その無視する理由を主張したことは無い。
3倍年とは、季節が3回まわって1年となる。
37 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 12:53:33.30
>>28は誰かが私の名を騙って書き込んだものだから誤解しないように。
38 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 13:05:16.34
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
甲戌朔と癸卯朔から懿徳天皇二年1月は29日である。
39 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 13:11:41.12
>>37 卑弥呼は朝鮮にいた#あいうえお
と#のあとに文字を入れて打ち込むこと。
あいうえお の必要はないので覚えられる文字で良い。
40 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 13:17:51.00
宿主空年はこの↓数字を霧散させるためにある。宿主は霧散に失敗中。ww
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
41 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 13:28:07.22
邪馬台国論はレッキとして歴史学の一分野、つまり学問だ。口を出すなら主張
をするだけでなく、キチンと自説の証明、論証を行え。証明が無い主張だけな
ら誰でもできる。だからトンデモ説が横行する。4氏、8氏、21氏、22氏、26氏、
28氏、33氏、主張の証明を求めます。
42 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 13:30:14.21
>宿主空年はこの↓数字を霧散させるためにある。宿主は霧散に失敗中。ww
霧散させる必要はない。なぜならば、考古学では否定される数字であるから
この書き込みを続ける限り”太国倍年”が使い物にならないことを証明するのと同等
の効果しか期待できないからだ。
青谷上寺地遺跡(弥生後期後半)が△鏡(古墳時代初頭)の後ろに来る。←太国の主張が
いい加減であることをさらに助長する効果が期待できる。
43 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 13:39:01.09
>太国倍年はこの数字を分散させるためにある
分散させる必要はない。なぜならば、考古学では否定されない数字であるから
この書き込みを続ける限り”宿主空年”が使い物になることを証明するのと同等
の効果が期待できないからだ。
考古は〜
青谷上寺地遺跡(弥生後期後半)が△鏡(古墳時代初頭)前後不明。←太国の主張が
いい加減でないことをさらに助長する効果が期待できる。
44 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 13:43:10.89
>・・・分散させるためにある←この書き込み
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 13:48:20.77
>>43 さらに悪いことに、太国は寺社伝承に西暦を振ることが出来ない。
この事実は、書記の全ての年度が存在するという太国倍年が成立しないことを
物語っている。
太国:日々の干支は1日に1つであり、60日で一巡する。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
この1ケ月は29日である。太国の主張する1ケ月≒14日は崩壊する。
46 :
縦目仮面:2011/12/29(木) 13:48:42.32
お二人さん相変わらずですねえ。十年一日とはこのことだな。
それにしても邪馬台国関連板も奇妙な人たちが増えましたね。
それではお体に気をつけて よいお年を。
47 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 13:55:50.10
もはや完全にプロレスだなw
48 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 13:59:04.32
懿徳天皇元年(辛卯前五一〇)二月壬子◆元年春二月己酉朔壬子。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。
懿徳2年1月が29日であれば、
元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。
太国倍年は成立していない。
49 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 14:04:56.21
訂正
×元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。
○元年2月から2年2月までの1年間は、354日である。
50 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 15:42:18.08
さらに悪いことに、宿主は秀魔電笑に41年から西暦を振ることが出来ない。
この事実は、書記の全ての年度が存在するという宿主空年が成立しないことを
物語っている。
そんなものは簡単だね。毎回崇神年代を振って来たから、今度は成務年代
にしてやろう。↓下を見い。オマエは41年が出来ない。ウワハハハ・・・
皇紀 西暦 倍暦
791 131 323 成務元年 成務天皇 即位
792 132
793 133
794 134 324
795 135 成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
796 136 成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
797 137 325 成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
798 138 成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
・・・・・・・
830 170 336 成務40年 神功皇后 誕生
831 171
832 172
・・・・・・・
836 176 338
837 177
838 178 成務48年 仲哀天皇 この年 立太子
・・・・・・・
848 188 342
849 189 成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
850 190 成務天皇 崩御
51 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 15:45:41.00
>>49 オマエは1年が365日しか無いとうるさく言ってたが、オマエ自身は
いいわけか?ww
随分自分に甘いオマエだな。>< ヘヘヘヘ・・・
52 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 15:50:26.60
>元年2月から2年2月までの1年間は、355日である。
10日のズレは編年に大して影響はない。
美濃もん太氏も倉西女史もオマエをせせら笑っていたと観てよい。
そんなものは、極めて○ンマなやり方だ。ww
53 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:00:06.34
成務天皇元年(辛未一三一)正月戊子《五》◆元年春正月甲申朔戊子。
成務天皇二年(辛未一三二)十一月壬午《十》◆二年冬十一月癸酉朔壬午。
成務天皇三年(癸酉一三三)正月己卯《七》◆三年春正月癸酉朔己卯。
2年11月1日から3年1月1日までは、60日である。
54 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:07:44.02
成務天皇三年(癸酉一三三)正月己卯《七》◆三年春正月癸酉朔己卯。
成務天皇四年(甲戌一三四)二月丙寅朔◆四年春二月丙寅朔。
3年正月癸酉朔から四年春二月丙寅朔。までは、413日である。
つまり、成務3年は383か384日である。
55 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:08:11.07
う〜ん、誤魔化さなくていいいんだよ。ww
早くオマエもインチキ多数字の抽象羅列で説明したふりをせず、具体的に
説明の詳細を41年からしてみたらいかが? へへへへ・・・
いまだ1回も具体的説明が無いんだよ。どうすんの?
56 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:10:11.10
>成務3年は383か384日である。
再度言う。
オマエは1年が365日しか無いとうるさく言ってたが、オマエ自身は
いいわけか?ww これでは自語相違であるがねぇ〜。pupu・・・
随分自分に甘いオマエだな。>< ヘヘヘヘ・・・
57 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:12:24.08
>10日のズレは編年に大して影響はない。
懿徳天皇元年(辛卯前五一〇)二月壬子◆元年春二月己酉朔壬子。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
季節が倍年を否定している。
58 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:17:10.92
そんな季節は後付け。倍暦法の成立に不合理はない。不合理は成務4年分
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
「二月は春だ」というだけで、全然否定になってないじゃん。
60 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:23:31.15
>>56 太陰暦とは、19年7潤、つまり1章の積み重ねである。
うるう年とは、1ケ月長い、だから384日程度となる。
書記の”朔”は月齢1日を指す。その証拠として”季節”まで書き込まれている。
うその記載をしたら、舎人は大罪だろ?
だから、書記の太陰暦は認められる。
61 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:34:12.96
>うその記載をしたら、舎人は大罪だろ?
そのとおりだよ。だから年代撹乱の空年をインチキ挿入するわけもない。
オマエの『空年』は成立しない。
ホツマ真理教に、常識など通用しません。
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:38:31.45
64 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:42:37.18
仁徳天皇八七年(己亥三九九)正月癸卯《十六》◆八十七年春正月戊子朔癸卯。
仁徳天皇八七年(己亥三九九)十月己丑《七》◆冬十月癸未朔己丑。
履中天皇元年(庚子四〇〇)二月壬午朔◆元年春二月壬午朔。
仁徳87年10月から履中元年2月の間に閏月が隠されている。
266年仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月戊午《四》◆閏十一月乙卯朔戊午。
266+(19*7)=266+133=399年
399年仁徳87年には、閏11月が隠されている可能性が大きい。
65 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:46:59.30
そんな抽象数字の具体性の説明ない書きこみはクソの役にも立たない。
オマエの焦点外しはもう結構だねぇ。
西暦41年から具体性ある詳細説明としてみい。
出来ないんじゃぁ<空年>なんか2ちゃんの賢人はうなづかないぜ。
66 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:51:13.94
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
日本に仏教が入るのは、早くて6世紀末程度である。
その前に△縁仏像鏡があるが、これは仏像と認識できても、観音像とまでは認識できない。
認識できるのは6世紀末以降であろう。
考古学を否定している太国だからできる技である。
考古学を正しいとする私に西暦を振れないのは、正しい選択である。
太国倍年がさらに支持を失うだけのための書き込み。
67 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 16:56:11.60
オマエのは畿内の朝廷のほうの仏伝だよ。それに公式佛伝だ。
九州は景行が行ってもまだまだ畿内朝廷の傘下にはない。
つまり九州のかなりの地域が畿内とは別国だ。
別の国の佛伝は6世紀とは言えない。
68 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 16:59:12.71
>オマエの焦点外しはもう結構だねぇ。
書記に記載された季節は正しい。
であるならば、四季は書記の記載年だけ存在しなければならない。
太国倍年は成立しない。
結構な主張だろ?
書記に記載された、四季と朔は正しい。ただし―660年は無い。
69 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:00:13.40
70 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:04:03.68
季節は後付けなのさ。
雄略4年春2月(紀)=雄略4年秋8月(経)だという
ことだねぇ。つまり当時の8月が通常暦法では2月だっ
たということだな。双方の文献が、紀の季節の後付け
を支持してるのさ。マシなんか紀元0年は別だが、
存在しな〜い。そんなことをすればパクられて、失脚
せねばならなくなる。つまりでかい利害もないのに、
そんな危ない橋を渡ることは考えられない。つまり
オマエのよく調べもしないで考え出したオマエの妄想
だということだ。ww
上の雄略の記事は当時、春秋2倍暦法が存在したことを
裏づけているのだ。これを観ればオマエのマシなんぞ
信用する奴は限りなく0に近づく。ww
これは仮説で誰かさんが主張していたが、安康から以後
は元嘉暦、それ以前は春秋暦でだった可能性が、大成経の雄略4年のこの記事で有力になった感がある。その
春秋暦が安康の次代でまだ強く残存していたから、雄略
4年(安康の4年前)にこれがしっかり出ていたわけ
だな。雄略の寿命は
古事記 124歳
日本書紀 62歳
であり、紀が通常暦法、記が2倍暦法の数え方だったと
いうことになる。雄略4年の記事から、紀の季節は
後付けだとの証明にある。マシというはインチキだね。
71 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:07:53.63
72 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:09:15.31
ホ04157 アマノハラ ソムホゐますも ヒトヒとぞ
天の原 60年居ますも ひと日とぞ
太陰暦を19年=1章の積み重ねと考えれば、
正しい暦に空白の数字を加算して、n章多くしても太陰暦のまま読める。
この場合、書記の季節と朔は正しいが年度のみ加算されたとなる。
あとは、文献と考古学と整合させるだけ。
考古学をひっくり返して充てても整合したとはだれも認めない。
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:15:11.17
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜
〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。><
>正しい暦に空白の数字を加算して、n章多くしても太陰暦のまま読める。
読めたところで、誤訳ではウンコ論そのものだ。pp
>考古学をひっくり返して充てても整合したとはだれも認めない。
考古は湯理科誤の如くクルクル書き換えられる。数十年後にはまた換わる。
そんなものはアテにはならない。考古を駄目だという連中はいくらでも
いるぜ。ww
74 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:15:42.19
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇 西暦 増し
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜83年? ?
懿徳天皇 84年?〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1、2年の異常は崇神と同じ暦のため。
崇神天皇 188年〜216年 2章
垂仁天皇 217年〜239年 4章
景行天皇 240年〜261年 2章
成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含む。
仲哀天皇 266年〜274年 0章
神功皇后 275年〜344年
仁徳天皇 313年〜399年
応神天皇 345年〜387年
履中天皇 400年〜405年
75 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:17:20.01
空年数字加算?pp これで ↓ 57年の空年がどこにあるんだね?ww
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
76 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:21:05.59
天津神算木とは崇神紀の三輪山の説話の三輪(半径r=3の円)の球化の
体積=表面積 の数式をいう。(景行紀ではな〜い。)
天津神算木(天津金木)
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)
大祓祝詞に曰く(大中臣のニセ編年撲滅の<下命>の文)
大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335=113.◎97B350
左辺と中辺から
B.C.3113年 9月7日 マヤ文明元年 始原日
右辺〇数字◎Bは数的にミワ(三輪)と読む。その中
に B.C.97年 崇神即位元年 の通説年代がある。
この真の年代は右辺の〇数字の両脇の数列 113 350
から、その差にて求まるのである。すなわち
350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
を得る。大中臣の宣言により、インチキ年代たる188年
を祓いに祓って、日本古神道の真の年代が顕現される。
毒書秀魔電はイカサマたるお助け年代の景行世をことさら極超誇張をして
賛美するただのオッサンの編書を〜ペテンでのカリスマ化を狙う大妄想を
組み立てに至らしめる危険な史想の要警戒書であり、各々方はこの書に
厳しく用心せねばいけない。崇神没年=188年 を祓いに祓って、わが
神州をこの188年イカサマ説から防衛する。
77 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:22:20.13
神武天皇 42年〜63年 弥生X式土器の始まりと中期の銅鐸から後期の銅鐸への切り替え。
銅鐸の切り替えは、治世者の入れ替わりを意味する。
崇神天皇 188年〜216年 弥生後期後半 銅鐸祭祀の終焉。
この終焉は、新羅192,3年の飢饉がきっかけである。
つまり、銅鐸の神は飢饉で人々を守れなかった、だから人々は銅鐸を自ら捨てた。
78 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:24:51.86
土器でどうして41年だと分かる?
日本の土器には<年代>が振ってあるのか?ww
オマエが恣意的勝手に決めたわけのことよ。ご都合で何の説得力もない。
79 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:26:38.95
>この終焉は、新羅192,3年の飢饉がきっかけである。
新羅が飢饉だと即日本が飢饉になるわけもない。精神病院で診てもらえ。
80 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:28:59.06
>>70 >季節は後付けなのさ。
舎人は大罪を犯した。
太国倍暦は後付であることを証明できない。
季節を無視しても”月”は太陰暦である。”朔”がそれを証明している。
5,6月が無いと主張しても、1年の長さは太陰暦のそれである。
81 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:31:51.42
太国倍年の神功・応神紀は、書記の記事を無視している。
それを正当化する主張は無い=太国倍年は無視してよい。
82 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:33:28.01
>舎人は大罪を犯した。
そのとおり。
>太国倍暦は後付であることを証明できない。
季節は後付けなのさ。 ↓証明できている。空年じゃぁ説明できまい。
雄略4年春2月(紀)=雄略4年秋8月(経)だという
ことだねぇ。つまり当時の8月が通常暦法では2月だっ
たということだな。双方の文献が、紀の季節の後付け
を支持してるのさ。マシなんか紀元0年は別だが、
存在しな〜い。そんなことをすればパクられて、失脚
せねばならなくなる。つまりでかい利害もないのに、
そんな危ない橋を渡ることは考えられない。つまり
オマエのよく調べもしないで考え出したオマエの妄想
だということだ。ww
上の雄略の記事は当時、春秋2倍暦法が存在したことを
裏づけているのだ。これを観ればオマエのマシなんぞ
信用する奴は限りなく0に近づく。ww
これは仮説で誰かさんが主張していたが、安康から以後
は元嘉暦、それ以前は春秋暦でだった可能性が、大成経の雄略4年のこの
記事で有力になった感がある。その春秋暦が安康の次代でまだ強く残存して
いたから、雄略4年(安康の4年前)にこれがしっかり出ていたわけ
だな。雄略の寿命は
古事記 124歳
日本書紀 62歳
であり、紀が通常暦法、記が2倍暦法の数え方だったと
いうことになる。雄略4年の記事から、紀の季節は
後付けだとの証明にある。マシというはインチキなのさ。
83 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:37:09.45
>季節を無視しても”月”は太陰暦である。”朔”がそれを証明している。
朔は後付である。観測ならば、もっと目立つ月食の記事がかなり満載
のはずだね。だから観測値とは言い難い。
>5,6月が無いと主張しても、1年の長さは太陰暦のそれである。
それも即断だ。ww
神皇紀
神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、1年を300日と為す。
84 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:42:30.57
>>75 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 17:17:20.01
空年数字加算?pp これで ↓ 57年の空年がどこにあるんだね?ww
観音像が特定できなければ、西暦を振る意味さえない。
成務を倍年と主張し1〜4年の記事を詰まらせる、そして空いた空間に寺社伝承を突っ込んで
全てに記事があるかのごとく見せる。
そして、神功渡海前に大陸の文化が伝えられたとし、”倭は百済の属国”を主張する下地とする。
季節を後付と主張するが、その証明が無い。
月と朔は太陰暦を主張している。たいいんれきを倍数で朔を得ることはできない。
85 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 17:51:01.61
>古事記 124歳
>日本書紀 62歳
古事記が引き延ばされて、書記が正しいという主張には使えるが
書記が引き延ばされているという主張には使えない。
だから書記は、嶋王の誕生を正しく伝えている。
86 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 18:06:17.48
>雄略4年の記事から、紀の季節は後付けだとの証明にある。
嶋王の記述は、墓誌から正しいと認定できる。
ここでも舎人は大罪か?
神功・応神紀でも大罪を犯しているんだろ?
太国倍年はいったい何人の大罪者を想定しているんだ?
成務時代に仏教が流入したことも隠して大罪者を生んだんだろ?
350年ころに神功渡海は不可能である=大罪
87 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 18:09:10.02
>朔は後付である。
大罪
88 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 18:14:32.67
>新羅が飢饉だと即日本が飢饉になるわけもない。精神病院で診てもらえ。
年輪降水量のグラフを示して
後漢183年から193年の間は日本でも異常気象であったことを示している。
89 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 18:34:32.43
崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子《廿七》◆壬子。大彦命到於和珥坂上。
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月。悉平襲國。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲
景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑《二》◆冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。
景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
それ以外の戦が秋から冬にかけて行われる。
簡単に言えば、兵士は百姓を生業とする。だから、農閑期に戦が行われる。
戦国時代に百姓と兵隊が分業するまで続く。
だから書記の季節を無視することはできない。
神武軍は農業兼業軍じゃなかったな。
91 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 18:52:52.06
>月と朔は太陰暦を主張している。たいいんれきを倍数で朔を得ることはできない。
あろうとなかろと編年には変動は殆ど無い。太陰暦でやろうと太陽暦で
やろうと、年代は殆どかわらないね。これは美濃もん太氏もオマエの効率
の悪い方法を嘲笑していたようだ。ww
要するに○ンマな方法そのものだ。ww
それに季節を観測と主張するが、その証明が無い。
92 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:00:25.55
>成務時代に仏教が流入したことも隠して大罪者を生んだんだろ?
相変わらず精神病院ご歓迎のこちらの主張してない先行妄想を書きこんで
いる。
朝廷は畿内でない九州の佛伝ことなんぞ、当時の九州が外国であること
から記紀に載せる情報になっていないのは当たり前である。それが
たまたま九州行幸した景行の見分場所は載せてはいるが、こんなのは
例外だ。成務当時の九州は外国に朝廷の各拠点が出来たわけで、このため
成務48年の年代が残ったものである。
日本書紀は九州書紀ではない。ww
オマエは九州書紀という脳内が単純の状況で日本書紀を見回している。
93 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:02:57.74
>日食は数日間も続く
天津罪
94 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 19:03:48.43
>九州の佛伝ことなんぞ、当時の九州が外国であること
から記紀に載せる情報になっていないのは当たり前である。
成務紀を知らねば記載できない。
知らないのが当然であるから、寺社伝承は後代の作り物。
95 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:13:41.56
寺社伝承は後代の作り物ではない。
オマエの空年こそが後代(つまり現在)のオマエの作り物だということよ。
各寺社伝承は同一人物が残したとは到底言えない。これらは全国津々浦々
にまたがって存在してるのである、つまり各神社伝承等を記録した神官ら
は各々が別人である。すなわち各伝承が独立しているわけであって、
秀魔電笑のように単独少人で作り終えたものではない。
であるから、秀魔電笑は神社等伝承とは無勢に多勢である。多勢は当然
神社等伝承のほうである。おまけに神々に奉仕する等の仕事が各神官で
あるからして態度物腰は低くインチキをする可能性は極めて少ない。
伝承をゴミだと言い張ったオマエは不敬甚だしく、オマエは半島人では
ないかと2ちゃんの皆に思われても致し方あるまい。
96 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 19:13:49.01
>日食は数日間も続く >天津罪
だから数日と読むことはできない。昼1日以内の出来事。273年の日食
罪に問われない。
97 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 19:17:33.58
神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉《五》◆其年冬十月丁巳朔辛酉。
神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉《八》◆五月丙寅朔癸酉。
神武東征も複数年に及ぶから、月日は関係ないが、
一応出発は初冬である。
98 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:17:38.43
日を経てとは1日ではない。数日間ということである。
それに日食は1日間にも長くは続かない。
常夜が日食では1日でも続くことはない。常夜なれば皆既日食でなくて
はならぬが、コレで真っ暗の状態はせいぜい数分間であり日を経てには
えらくほど遠い。
つまりオマエの強行したい詭弁なのである。ww
99 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:18:49.31
神武東征時はいまだ神武は倍年暦法を行使してないから、そんなものは
こちらの倍暦には影響がない。
100 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:20:47.65
空年の秀魔電笑は現代の作り物。これが正解なのである。
101 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:25:24.70
>>82 訂正
>>舎人は大罪を犯した。
>そのとおり。
これはコチラは古代史捜査に関わっていないから、これは確認できない。
つまり そのとおり とは言えない。よって訂正する。
102 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 19:31:30.08
太国vs唐松山
プロレスを通り越して、殴り合い、蛇とマングースの死闘の様相を呈してきたなw
103 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:40:56.21
>だから書記の季節を無視することはできない。
書紀を無視してるのはオマエだよ。↓では空年でないと紀は言う。空日だ。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
104 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/29(木) 19:41:24.79
>日を経てとは1日ではない。数日間ということである。
それを太国倍年で証明してくれ、これまではことごとく失敗している。
105 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 19:45:29.10
それはオマエが宿主空年で証明してくれ。ww
どうせオマエは出来ないんだろう。pp
106 :
メ:2011/12/29(木) 20:37:29.32
107 :
メ:2011/12/29(木) 20:53:34.47
>>27 >これは太国さんやメさん(あらためだよん君だと思うが)だけでなく、邪馬台国スレに投稿しているすべての常連に言いたいのだが、
>天皇の年齢が百歳を超えているからといって、それを不合理だと思ってはいけないのである。
梨迹臣命の『話』はもういいからw
神武即位年、紀元前660年が正しいという証明をして下さいよ
話はそれから〜
108 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 21:41:07.98
>>107 メ君、私は神武即位紀元前660年が正しいとは言っていない。一応それを基準として物を考えよと言っているのだ。
たぶん君は爆笑するだろうが、私は神武は紀元前一万年くらいの人物ではないかと思っている。
ただしその理由は今は書かない。書くときは投稿者全員に向けて講義するつもりだ。
109 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 21:46:23.78
>>108 チョーセン
>私は神武は紀元前一万年くらいの人物ではないかと思っている。
キタ━━━(゚∀゚)━━━!!
111 :
メ:2011/12/29(木) 21:55:29.32
>>108 そうですか、楽しみにしてます。
>>25 >では、高天の原とはどこか?というと、
>葛城地方にある高天の平原あたり。
万葉集、
大君は、神にしませば、天雲の、雷の上に、廬りせるかも
とあるとおり、「高天の原」というのは
人間の生み出した天上という概念です。
だから〜葛城地方だとか、九州地方だとかの話で無いと思う。
113 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 22:18:51.92
>私は神武は紀元前一万年くらいの人物ではないかと思っている。
そんなに古くないですよ。神武は紀元前後の人です。
ハツクニシラススメラミコトは一人
複数の系統で口伝伝承されてきたものを文字化する際に混乱が生じて複数の人物として分断されてしまった
115 :
メ:2011/12/29(木) 22:28:02.28
>>113 おっさん
年末年始は九州国立博物館行きなよ
おれと会うかもしれんしwていうかまだ何処行くか決め取らんけど
なんかお薦めないのかい?
1万年前頃なのはニニギ
117 :
メ:2011/12/29(木) 22:31:19.21
>>116 君よく知ってるなw
うがや王朝73代だっけ?!
とりあえず古事記の天照大神のモデルは3人いる。
卑弥呼と壹與と魏王朝最後の皇帝曹奐の後見役の郭太后である。
卑弥呼は天岩戸に入る前、壹與は天岩戸から出た天照大神、
郭太后はニニギノミコトに天孫降臨を命じた天照大神を示している。
つまり天孫降臨とは魏の郭太后の勅を受けた神武一族による倭国(邪馬台国)征伐だった。
(ちなみに神武一族は皇太后の勅を受け三韓征伐を倭国征伐の直前に行ない成功している。)
だが実際は神武一族が魏の粗雑な扱いに嫌気が差したので日本に亡命してきただけだったらしい。
そして神武一族は九州で数世代かけて勢力を拡大しついに神武天皇の代で邪馬台国を制圧したのである。
ニニギも紀元後
”ニニギ”と打とうとして”ニギニ”と書いてしまって変換したら、なぜか”和に”が候補として現れた
なぜなんだろう?
すごく不思議かつ示唆的
>>117 記紀読むと、ニニギと神武はすげー物語が離れているだ
あと
新唐書で筑紫王朝32代ってあるぞ
121 :
メ:2011/12/29(木) 22:41:00.42
あ〜仕事疲れて帰ってきてレスする気になれんワw
最近勉強不足でいろいろ本読みたいんだが、仕事が忙しいと
ここを読むのがやっとちゅうか、なかなか手がまわらんよねえ。
みなさん仕事で疲れたりしないらしいww
”ニニギ”が本来は”ニギニ”だったとすれば”和に”=”倭に”ということだったのだろうか?
そうなると、”和邇氏”との関連性も検討したい
123 :
メ:2011/12/29(木) 22:47:45.54
>新唐書で筑紫王朝32代ってあるぞ
ああ、そうですね
あと、他の文献では、うがや王朝73代とかあって〜
いろいろ言われてるんですよね
124 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 22:59:32.60
”ハツクニシラススメラミコト”と呼ばれた人物、記紀では複数に分割されてるが、本来は一人の人物だったのではないだろうか?
その片割れがこの時代の人物とされてるのならば、本来がこの時代の時代の人物であったとのではないかという検討は避けては通れない
126 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:01:51.71
トミアキタラシナカオキ天皇 25代
127 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:06:06.03
神武と崇神は別人です。応神も各別人ですね。
128 :
メ:2011/12/29(木) 23:06:06.35
>>124 神代文字かよw
国東の山奥で少し地味というか・・・
どうせなら、もっと派手な所が良いですねえ
まあ、情報ありがとうです。
129 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:08:47.20
岩に、ウガヤ朝25代目の名が神代文字で書かれているということです。
130 :
メ:2011/12/29(木) 23:10:26.80
>>125 実質的、ハツクニシラススメラミコトは第10代祟神のほうじゃないのかな〜
たぶん我々と同じように奈良時代の人は、あの前方後円墳をみて、贈った名称でしょうね。
神武の方のハツクニシラススメラミコトは氏神に贈ったやつなんじゃないでしょうか。
132 :
メ:2011/12/29(木) 23:13:48.14
>>129 >ウガヤ朝25代目 富金足長息天皇。(神武天皇は73代)
富金足長息天皇なんて初めて聞きますわ。
しかし、太国さんよく知ってますねえ(感心)
>>129 太国さんって神代文字、ホツマを否定してるスタンスじゃなかったの?
134 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:17:38.43
古代史は探偵小説ではありません。過去のTVでの「忍者石川五右衛門」の
〜忍者の藤林長門守が百地三太夫だったというような〜エンタメそのもの
ですな。w それこそ妄想ですよ。
神武即位は西暦元年で すよ。
崇神即位は西暦237年=景初元年 ですね。
応神即位は西暦376年 で
皆別人ですよ。上は実年代です。
135 :
メ:2011/12/29(木) 23:19:30.41
トミアキタラシナカオキ天皇 25代 は大分県の国東に葬られたという事だろうか。
そういえば、大分県の「万年山」にもそういう伝承があったと思う。
136 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:20:52.05
>>133 神代文字で秀魔電は書かれていて偽書濃厚ですが、少しはメリットが
ありますものの、これは危険史書です。同書は完全否定ではないです。
つまり効用が少々はあります。
神代文字まで否定してるものでもありません。
137 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 23:23:22.75
>18
苅田と行橋の間、国道?沿いに、
前方後円墳があるよ。
九州唯一?
大宰府の北部、西鉄=都府楼駅の北、JR水城駅あたりに、
東西2kmにわたって、水城(みずき)堤(はば30mほど)が、伸びている。
白村江の戦いののち、新羅軍が大宰府を攻撃に来ることを
恐れたもの。
もはら、整備され過ぎている。
八女(やめ)、小郡(おごうり)のあたりには、
前文から、時代を数十年さかのぼり、
百済の援軍、新羅との戦いのために、
斎明天皇(女帝)が、しばらく滞在。
関連して、史跡は多いと思う。
>>136 ヲシテ文字を否定しているということは理解しましたが、あなたが信用している神代文字とは?
139 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:26:55.33
>>138 だから文字そのものを否定してるんではないですね。
秀魔電の中身ですよ。
140 :
メ:2011/12/29(木) 23:30:01.98
まあ、これだけ日本各地で「神代文字」は発見されてるので、
大陸から伝わる漢字・ひらがな以前に文字があったのは否定できませんよね。
ただ、「歴史」という枠組みの中に入ると、
六世紀以前は「文字の無かった時代」という区分になる。
まあ、実際〜漢字が書かれた墓誌だったか、土器だったか忘れたんですが・・・
古墳時代にも文字はあっただろうモノも出土されてるんですがね。
>>139 ホツマが偽書で秀魔電?は偽書ではないという根拠は?
142 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/29(木) 23:32:16.43
アラタメどの
夜もふけてきました。
明日その続きなどを書きこんで下さい。面白くなってきました。
zzzzzzzzz・・・・・・・
一晩ゆっくりと考えてくださいな
とことん追求していきますよっと
>>111 オカルトなら他でやってくれ。高天原は壱岐だろう。
天は、アマ族の住む領域だろう。玄界灘を中心とした地域。
145 :
メ:2011/12/29(木) 23:42:31.29
>>144 いや、いや おれはオカルトなんて言ってないでしょ・・・
高天原=葛城とか言う人がいたので、場所ではなく「天上という人間が作り出した概念」と
私が言ってるの。
あんた〜「高天原は壱岐だろう」て妄想ですか?www
146 :
メ:2011/12/29(木) 23:50:34.03
あんたさ〜こういう・・・三角形の中が三つに線が入ってて、
上から順番に「高天原」、真ん中に「常世の国」、最下部に「根の国」ていう図をみたことはないかい?
人間の頭の中というか、人間が作り出した概念で〜
まあ、それはどこか?なんて言われたら、場所ではないんだけど、しいて言えば、
高天原は天照大神の居る所「伊勢神宮」、常世の国は「出雲」、根の国は知らんがw
こんなかんじじゃなかろうか。
147 :
メ:2011/12/29(木) 23:58:07.30
あの〜あれだよ、あれ
「民俗学」だよ。
民俗学をよんでごらん〜たしかそんなことが書いてあったと思う。
148 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 00:03:58.09
>>147 偉い人が適当に思いついたことを言っただけだろ。
今日も、和風総本家で、鏡餅の解説をしてたが、
鏡、剣、玉の三種の神器を表してるとか抜かしおった。
そんなもの、後付のこじつけ解釈でしかない。
古代人は、丸餅をかさねて、神前に捧げた、それ以上の意味は無いのにな。
149 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 00:06:37.91
「ハツクニシラススメラミコト」でも、その呼称が登場するのは8世紀の文献なのだから、
神武や崇神がそう呼ばれてたかなんて、わかるわけがない。
後付の称号だろあんなもの。
それを根拠に、神武と崇神が同一人物だとか、バカすぎる。
150 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 00:08:56.74
古事記にだって、「ハツクニシラススメラミコト」なんて称号は出てこないのだから、
日本書紀だけの作文だよ。
他の文献には、一切出てこないじゃないか。
くだらん。
151 :
メ:2011/12/30(金) 00:11:28.48
高天原=葛城とか、高天原=壱岐とか言ってるのはお前らぐらいなもんでw
本を読むと私が言ってるような三角形のズの説明があるでしょう。
みなさんバカの一つ覚えみたいに考古学ばかり勉強するんじゃなく
民俗学とかその他の学問も読めよ〜馬鹿ジョーカーみたいになってしまうぞw
>>148 鏡餅と鏡、剣、玉の三種の神器の関係は存じませんが
なにかしらの意味があるのは間違いないだろうねえ。
152 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 00:14:53.69
>なにかしらの意味があるのは間違いないだろうねえ
なにかしらの意味が・こ・じ・つ・け・ら・れ・ているのは間違いないだろうねえ
153 :
メ:2011/12/30(金) 00:17:21.00
>>152 ん〜私は、鏡餅と鏡、剣、玉の三種の神器の関係について良く知らない。
唐さん〜何か知ってたら書き込んで下さい。
ハイ〜唐さんに注目。
154 :
メ:2011/12/30(金) 00:22:12.94
まあ、三種の神器とは関係が無いかもしれませんが
鏡餅をかさねる置き方ていうのは何か意味があるんじゃないかろうか。
ということです。
155 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 00:29:08.10
>>154 おまえは、古参のくせに鏡餅がとおぐろを捲いた蛇を表してることも知らんのか?
156 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 00:30:43.70
申し訳ない何も知らない。
ただいえることは、唐松家のしきたりを覚えなさいということばにはすべて反対して
全く覚えなかったことだけは確かである。
だから、何も知らない。
>>155 それは違うだろ
鏡餅は神に捧げる物であって蛇は神の使いだ
なんで神の使いを作って神に捧げるんだ?
158 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 00:44:23.35
神に3種の神器は不要であるが、餅と神酒は欠かせない。
平松サイド vs 橋下サイド
民主党 大阪市民
自民党 ν速民
共産党
財界
関西電力
連合
自治労
日教組
公務員
毎日新聞
MBS
解同
極左
大阪の敵が濃縮されてわかりやすくなったな
160 :
メ:2011/12/30(金) 00:49:09.48
広辞苑 第六版にあるのは、
「鏡餅」
平たく円形の鏡のように作った餅。
大小二個を重ね、正月に神仏に供え、または吉例の時などに用いる。
鏡餅がとおぐろを捲いた蛇を表してるなんて初めて聞くバイ〜☆
魏志倭人伝には、(倭の)兵は矛・盾・木弓を用う、ってあるのに剣が三種の神器になってる
なぜなんだろう?
天皇家は元々は倭人ではなかったのかな?
162 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 01:03:34.73
矛・盾・木弓を用いたもっとも有名な(当時の朝廷の話)のが、
鉄剣は垂仁が石上に蓄える。その後 景行による九州遠征である。だから
景行の墓とできる箸墓に存在する。
メスリ山は大量の槍で説明できなくてはならない。
神功渡海後、半島で徒軍が編成されたことをあらわす。
>>158 >神に3種の神器は不要であるが
そりゃ当然。
>餅と神酒は欠かせない。
わが家(実家のこと)では仏さんにも備えますな。
まあ、格式ばった家じゃないので、テキトーですが、二段モチの上に橙じゃなくて温州蜜柑と短冊熨斗を乗せたりしてましたね。
私の自宅の方は、スーパーでパック式のヤツを買ってきても、備えるべき場所が無いのでダイニングの隅に放っておかれたりしますw
>>162 崇神、景行、仲哀は全て卑弥呼以降ってことでオケ?
165 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 01:15:36.67
卑弥呼の朝貢団に伊支馬=イクメが都市牛利(たしうり)を出している。
166 :
メ:2011/12/30(金) 01:16:46.91
>>161 矛は九州各地に多く、盾は愛知県だったかな・・・
木弓は四国の愛媛県だったかな・・・三種の神器といわれる
鏡、玉、剣の3セットはスグ岡本周辺に多い。
全て日本列島から出土されてる。
天皇家は日本建国した人であり日本人なんですが、大陸や朝鮮からやってきたなんて言う説もありますよね。
>>161 武士でも刀は飾りでもあった、主力は槍と弓で最後は鉄砲
ただ刀は神聖化されてたね
陣でも護身刀みたいなのを専用に持ってる人とかいたし、良い刀=身分の高さ
帯刀が武士の証しだし、武士の魂とも言われた
逆に刀をここまで神聖化する文化も珍しいと思う、日本以外には無いと思うが
イギリスのアーサー王ぐらい?
崇神でなくて垂仁だったね
ごめん
>>163 浄土真宗は仏壇に鏡餅を飾るw
これは浄土真宗が仏教の殻を被った神道だったからだと思う
今はやっぱり仏教なんだけど
>>166 >スグ岡本
って何?
俺が無知なせいでここを理解出来ないんで先に進めない
教えてください、お願いします。
171 :
メ:2011/12/30(金) 01:28:50.42
「正月」を、広辞苑 第六版で拾うと
一年の一番目の月
と載ってあるとおり、正月というのは、現在でこそ3日間とか7日間、
はたまた、15日間なんて云われてるが、その昔は1/1〜1/31までの一ヶ月間であった。
「現在の常識」と、「従来の意味」とでは実感の違いが生じてるのは覚えてた方が良いと思う。
172 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 01:31:26.19
やよい後期の大型銅鐸はつくことが出来ない、となれば担いで神輿にするのが妥当である。
神輿を担いで神に祈ることは豊作と子孫繁栄である。そんな時
後漢193年または新羅192,3年の出来事が起こる。その内容は食人を含む飢饉である。
人々は、唐古・鍵遺跡と共に銅鐸祭祀も捨てる。
この事実を設定できるのは、考古学:2世紀末纒向に各地の土器が持ち込まれる。
ここを崇神11年異俗多帰。とすれば、崇神5,6年の出来事しかない。
それから40年後が、いわゆる卑弥呼の朝貢である。
垂仁は田道間守の帰国をまたずに崩御する。ホケノ山古墳(225〜250年)
墳墓形態から鏡や鉄器は任那建国後である。埴輪(庄内式の穴あき壺)は垂仁末。
田道間守(都市牛利)の帰国を待たず墓の中、その墓の前で殉死した田道間守はホケノ山の殉葬墓に眠る。
っ三正
古代の正月が現代の正月と同じ月のことを言ってるとは限らない
174 :
メ:2011/12/30(金) 01:32:26.29
>>174 ありがとう
甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、、、片磨岩製小銅鐸の鋳型、、、ですか
ちょっと検討してみます
176 :
メ:2011/12/30(金) 01:37:02.02
178 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 01:47:32.70
卑弥呼は倭奴國王位継承。
179 :
メ:2011/12/30(金) 01:48:03.99
木弓ていうのは、倭人伝に「木弓短下長上」とあるとおり、手を握る箇所が長王よりやや下にあり、
これは和弓と言われてて、マキムクか唐古・鍵遺跡だったか忘れたんですが、
四国以外からも出土しているはず。
ちなみに「骨鏃」ていうのも、神奈川県や愛知県などかが出土しています。
180 :
メ:2011/12/30(金) 01:50:44.60
あ、ごめん 誤字多いが勘弁。
手を握る箇所が長王→握る箇所が中央
愛知県などかが →愛知県などから
181 :
メ:2011/12/30(金) 01:59:59.46
182 :
メ:2011/12/30(金) 02:19:55.03
徇葬(じゅんそう)例を確認出来るモノは無いなんて話をたまに聞くが、
日本書紀の垂仁天皇時代の禁止令や、田道間守の例、
また、近代ですと、豊臣秀吉と柴田勝家との戦いである賤ヶ岳の戦いでの最終場面である
柴田勝家が切腹する時に何十人かの部下が、その時に殉葬してますよね。
考古学的には、平原一号周辺に穴があり、それらがそういう殉葬の跡じゃなかろうか?
なんて言われてたりする。
まあ、確実なものが無いだけのはなしだろうね。
>>161 剣は実戦では使いにくいだろう?
実際に兵が使うのは、斬る武器ではなく、突く武器。
剣なんてのは、どちらかというと、芸術品の意味合いが大きい。
中世以降だって、日本刀の位置づけってそうだろう?
時代劇では派手に日本刀を振り回しているが
実際の戦場での武器は、槍が主兵器。
184 :
メ:2011/12/30(金) 02:47:57.78
>やよい後期の大型銅鐸はつくことが出来ない、となれば担いで神輿にするのが妥当である。
>神輿を担いで神に祈ることは豊作と子孫繁栄である。
その時代に神輿を担ぐなんて誰が言い出したんだろうねえ・・・ローガンかな?
ちなみに神輿の起源は"宇佐"にあり、この地が神輿の誕生地でもある。
神輿が初めてこの世から生まれるのは、中津市大貞にある薦神社のマコモを御神体として
神輿の中に入れ、そして担ぎ、隼人討伐に向かったわけですが、この際に神輿が生まれたのであぅて、
この時、養老4年(720年)ですから、弥生・古墳時代に神輿が使われていたなんてありえないのではなかろうか。
都市牛利は、中古音で to-ziei-ngieu-lii
と発音する。
これって、片仮名で発音するなら、なんと発音する??
別に祭祀に使うものを担いで移動させるのは普通だったろ
ただ御輿とは言わないだけで
都市牛利 「 to-ziei-ngieu-lii 」
トジガウリ ぐらいが正しいか?
トジゴウリ..
188 :
メ:2011/12/30(金) 02:53:49.02
ああ、思い出した、思い出した〜
たしかローガンさんが以前、亡骸を神輿に乗せて運んだとか言ってたと思う。
でもそれって本当に"神輿"と言うんであろうか?
まあ、きょうはもう遅いので後日にしましょう。
ねる zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
>>185 そんなことをしても無意味だろ
それは中国人が倭人の発音を聞き取って漢字をあてだだけで
どれだけ元の発音を残しているかわからない
現代委中国語でもアインシュタインは「愛因思坦」 そうとう発音が変質してる
アフリカ人の名を現地の発音で聞いてカタカナに直したようなもんだ
>>189 いや、重要だよw
だいたい、倭語なんて、ほぼ母音中心の言語なんだし
発音が多いことで有名な中国語圏からしたら、
ある程度、参考になると思うよ。
なんと発音したのか、探るのは重要。
>>190 何もわかりやしないよ
ただ無根拠に近い推定が一つ増えるだけ
192 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 09:47:44.79
193 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 09:52:26.38
某軍神さまか。
メは基礎的な教養が欠如してるから何を言ってもムダだよ
195 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 09:58:15.95
>>184ホ28367 モなかゆえ ともにモにいり
ホ28368 ミコシなし アスヒラヲカに
ホ28369 をくるとき サルタがこえば
ホ28370 ゆるされて ミコシあくれば
ホ28371 サルタヒコ ワレつねにこふ
ホ28372 タマカエシ
196 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 10:24:20.55
>>191 ホケノ山(225〜250)を誰の時代に置くか?
穴開き壺を埴輪ととらえるなら、垂仁末である。垂仁はイクメであり、田道間守を派遣している。
景行は九州に出兵する=庄内式土器の九州上陸
大倭が伊都国に1大卒を置くと読めば、箸墓は最初の大王墓。
197 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 10:24:30.54
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜
〜〜ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜。
198 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 10:29:43.05
垂仁はイクメイリヒコであり、臣下の身分の伊支馬ではない。
199 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 10:36:45.08
箸墓は初代神武の墓ではない。
200 :
メ:2011/12/30(金) 10:38:59.83
201 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 10:41:46.88
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
>>197 君に提示したと思ってんの? 割り込む必要はない。
202 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 10:48:01.01
邪馬台国ドンと来い 特別編
274: 唐松山 ◆ V0F34EbmQA 2010/06/18(金)23:02:24 ID:tWjIJ5wc
ほ〜ら 偽書といわれる書物をもちだした〜。
でもねその出来事を説明出来ればいいんだよ。
203 :
メ:2011/12/30(金) 10:51:39.08
>>192さん
貴方は、
>鏡餅は蛇がとぐろを巻いた姿を型取ったもので、蛇身(かがみ)餅からの転用と推測される。
と思ってるのか存じませんが、
私は、こちらの
>お餅の形の丸さが昔の鏡に似ているところから「鏡餅」と名づけられたと云われています。
>鏡というのは「三種の神器」の一つで、天皇家が代々、受け継いできている神器のひとつにもあるように、
>日本人にとっては宝物の象徴の形ですね。
>また鏡には神様が宿るという言い伝えがありますから、鏡の形を象ったお飾りで
>一年の始めを神様と共にお祝いするというのも素敵な行事ですよね。
ttp://allabout.co.jp/gm/gc/198614/ のほうが、貴方がググった先にある、「蛇がとぐろを巻いた姿を型取ったもの」よりもシックリ来ると思う。
如何だろうか。
204 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 10:56:27.14
>>203 >のほうが、貴方がググった先にある、「蛇がとぐろを巻いた姿を型取ったもの」よりもシックリ来ると思う。
如何だろうか。
現代人の感覚から「しっくりくる」としても、それは現代人の考えた後付解釈だからだよ。
古代研究失格だな。
205 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 10:59:36.49
206 :
メ:2011/12/30(金) 11:07:10.90
「正月」を、広辞苑 第六版で拾うと
一年の一番目の月
太陰暦の月でいう睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走内の
「睦月」にあたり、英語でいう「January」ていうことかWW
207 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:07:41.06
208 :
メ:2011/12/30(金) 11:17:50.31
>>207 >YOUTUBEで邪馬台国の講義してるこの爺さんが伊作なのか?
その人は邪馬台国宮崎説みたいだが、伊作は熊本説らしいよ
>有名人なのかこの爺さんは?
君から見たら凄いんであって、他の人から見たらそうでもなく、
知名度でいえば河童氏のほうが有名なんじゃないかな。
209 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 11:24:05.25
>>207 熊本を狗奴国とし、宮崎を邪馬臺國だから、違う
211 :
メ:2011/12/30(金) 11:34:03.31
212 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:40:54.91
鏡餅の由来が、「鏡」だって?
バカなことを言うものじゃない。
実際にその通りなら、一番初めの神事では、「鏡を何枚も重ねて」飾っていたことになる。
それが、餅に代用されたとされなければならない。
しかし、実際の鏡は突起があるから、鏡を平たく重ねるなんてことは出来ない。
ましてや、鏡の上に剣や玉を重ねるなんて無理。すぐにひっくりかえるだろ。
もうすこし、常識でモノを考えるべきだね。
>>212 だから最初から餅を丸めて伸ばせばいいだけなのに
なぜ平らにして重ねてるんだよw
あと神社の鏡は大中小を前後に並べてあるのもある
小が一番前で中大が後ろに続く、重なって見える
214 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:55:00.94
天皇/即位年齢/崩御年齢/父/天皇出生時父年齢
継体 30 54 彦主人王 ?
武烈 9 16 仁賢 28
仁賢 26 36 市辺押盤皇子 ?
顕宗 19 21 市辺押盤皇子 ?
清寧 24 28 雄略 19
雄略 20 42 允恭 32
安康 27 28 允恭 24
允恭 29 50 仁徳 38
反正 29 31 仁徳 36
履中 30 33 仁徳 32
仁徳 37 61 応神 33
応神 27 66 仲哀 27
神功 26 51 気長宿禰王 ?
仲哀 24 27 日本武尊 ?
成務 16 20 景行 55
景行 51 69 垂仁 27
垂仁 51 77 崇神 34
崇神 50 84 孝霊 26(または傍系(安寧か懿徳)の孫か曾孫?)
開化 20 32 孝霊 43
孝元 20 29 孝霊 34
孝霊 43 53 孝安 20
孝安 28 62 孝昭 20
孝昭 22 47 綏靖 23
懿徳 22 23 綏靖 21
安寧 6 25 綏靖 18
綏靖 20 23 神武 52
神武 45 69
215 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:55:37.21
↑は、天皇の即位年齢と崩御年齢。
根拠はない(ないこともないが、ないとしておく)適当につくった数字。
人間的に無理のない年齢である。百歳以上がゾロゾロなんてありえない。
これからすると、卑弥呼の時代は欠史八代の後半あたり?
諸先生方、編年は自由だが無理のない年齢で繋がるように。
216 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 11:55:38.18
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末
倭人伝
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、
北史
又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
晋書
正始元年東倭重譚納具。
邪馬台国が倭王の都であり、官有伊支馬が存在する。
この場合“南”は、晋書により書き換えられる。
これが、丁度ホケノ山と重なる。であるならば、
伊支馬=垂仁、田道間守の派遣。田道間守の帰国を待たずに崩御。
田道間守は、垂仁の墓前で殉死→殉葬。
ホケノ山の形態そのものである。
217 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 12:00:52.92
>>214 允恭天皇四年(乙卯四一五)九月戊申《廿八》◆戊申。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之
裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。故諸氏姓人等。
沐浴齋戒各爲盟神探湯。則於味橿丘之辭禍戸 。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。得實則全。僞者必害。〈盟
神探湯。此云區訶陀智。或泥納釜煮沸攘手探湯泥。或燒斧火色置于掌。〉於是諸人各著木綿手繦而赴釜
探湯。則得實者自全。不得實者皆傷。是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。
允恭4年に世継ぎは書き換えられている。
その実態を暴かなければならない。
218 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 12:12:45.49
義煕九年[413]『是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物』(晉書安帝紀)
この時百済は高句麗国に含まれる。
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔◆三年春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
高句麗と倭国の手打ちが済んだ証拠である。
百済・新羅は高句麗の属国を認める。だから、新羅の扱いも仁徳時代とは違う。
219 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 12:20:10.36
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、冊封体制下、半島で1大卒の行為。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
316年 西晋滅亡、仁徳4年課役の停止。
317年 丁丑倭は朝廷に従わない。奈勿大聖神帝紀1年,
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, 水羊(癸未年)祭。熊彦=千熊長彦
平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある(46年程度)。
応神天皇 345年〜387年
326年 十四年秦氏大挙して渡来??。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵。
履中天皇 400年〜405年 6年兄王捜索の話は、404年帯方界の敗戦での行方不明者捜索。
允恭天皇 412〜453年 24年内乱は、倭五王のつなぎ目。
雄略天皇 457年〜479年 武寧王誕生は動かない。
220 :
メ:2011/12/30(金) 12:47:41.75
>326年 十四年秦氏大挙して渡来??。
「秦氏」ていつ伝来したんでしょうね
日本書紀でいうと応神天皇時代に、弓月君が百済から来て、天皇に奏上したらしいですが、
これでいいのか、どうなのか・・・
又、宇佐・八幡研究にも関わっており、「西の方からやってきた」と言われてる通り、
その道教の神が降臨した場所が宇佐辛嶋ですよね。
もちろん、秦氏はここら辺に住んでいた。
秦氏ていうのは道教の神を祀る巫女(シャーマン)一族でですから
卑弥呼研究をする人にとって欠かせない氏族かもしれない。
221 :
メ:2011/12/30(金) 12:57:56.41
222 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:04:29.36
武寧王誕生は動かない〜の保障が無い。
223 :
メ:2011/12/30(金) 13:07:42.25
今、チラットだけドンコイをみたんですが
>倭人伝はたった二千字
て偉そうなことぬかしてる人がおるがw
この中に居る人で、実際にその字数を数えたことがある人って
何人ぐらいいるんだろうね?
ああ、私?あるよ、あるよ。
倭人伝の字数は2008字数と一般的に云われてるんですが、
人によっては、1994字だったり1993字だったり諸説あるって話だwwww
私が数えた時は2008字なんてなかったねえ。
224 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 13:08:53.05
>>212 横レスだけど、そういう事言うからだめなんだよ。馬鹿って、言う奴が馬鹿だろ。
アメリカとか、既成の研究じゃなければ、授与者がいないから学位が貰えるんだよ。
荒唐無稽なものもあるが、それも思考実験として大事にされてる。
日本の特に文系学者はそういう言い方、「常識」で革新を阻害してきたんだよ。
鏡餅の起源が三種の神器って言うのは結構有力な説だよ。
225 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:10:50.14
伊支馬=垂仁←2ちゃん最高級噴飯の嘲笑妄想論pupu・・・ 左右は別人
臣下は絶対に天皇にはなれないのが、朝廷の掟。
道鏡も天皇になれず。当然だな。
226 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 13:18:23.28
>>214 手研耳は九州で生まれた子供であるから イスキヨリ媛との秘め事を神武15年目と見ると
神武元年=42年 西暦55年の出来事 ここから36年で2代、3世 世襲足媛誕生、
91年の生まれ 考昭元年93年、考昭は幼くして即位。同29年后を迎える。
同49年 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ うむときに アサヒかゝやき
孝安の生まれは、考昭49年 治世26年の内15〜20年目と計算される。
120年孝安元年 同26年后を迎える 同51年フトニノミコ誕生
146年孝霊元年 同2年后を迎える 同18年クニクル誕生
165年 孝元元年 同年后を迎える 同4年大彦誕生 同7年フトヒヒ誕生
184年 開化元年 后は即位前に迎える 同7年イキシコメを内宮とする 同10年ミコミマキ
イリヒコ誕生 治世4年以内の出来事
188年 崇神元年 后は大彦の娘 同29年次男ミコイクメイリヒコ誕生
弥生時代の寿命は40歳弱の埋葬が多い。だから、その程度で世継ぎを考えるなら
19才平均程度で世継ぎが生まれる。
手研耳は九州で生まれた子供であるから イスキヨリ媛との秘め事を神武15年目と見ると
神武元年=42年 西暦55年の出来事 ここから36年で2代、3世 世襲足媛誕生、
91年の生まれ 考昭元年93年、考昭は幼くして即位。同29年后を迎える。
同49年 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ うむときに アサヒかゝやき
孝安の生まれは、考昭49年 治世26年の内15〜20年目と計算される。
120年孝安元年 同26年后を迎える 同51年フトニノミコ誕生
146年孝霊元年 同2年后を迎える 同18年クニクル誕生
165年 孝元元年 同年后を迎える 同4年大彦誕生 同7年フトヒヒ誕生
184年 開化元年 后は即位前に迎える 同7年イキシコメを内宮とする 同10年ミコミマキ
イリヒコ誕生 治世4年以内の出来事
188年 崇神元年 后は大彦の娘 同29年次男ミコイクメイリヒコ誕生
だいたい、19歳程度の世継ぎです。
227 :
メ:2011/12/30(金) 13:22:47.00
弓削道鏡事件
>大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂が宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、
>道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、和気清麻呂が勅使として参向し
>この神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E9%8F%A1 古代史を追う者にとって"宇佐"の地は、おもしろい伝承が数多くあり
魅力的な土地なのは間違いない。
わたしも、大分県宇佐の奥にある「安心院」や三角縁神獣鏡出土地でもある「川部・高森古墳群」へは
行ったことがアル。
228 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 13:27:09.77
>>225 >臣下は絶対に天皇にはなれないのが、朝廷の掟。道鏡も天皇になれず。当然だな。
後世の出来事を古代に差し込まねばならぬ太国倍年。
△鏡(古墳時代初頭)が弥生後期後半より古いと主張する。
229 :
ひとぶた:2011/12/30(金) 13:27:14.83
>>210-212 鏡餅って、基本は「供食物」ですよね。
供食に餅を用いるなると、ヒビ割れやカビ着きへの耐性から、自然と丸餅が選択されると思うのですが、
直径が大きければ、相対的に平べったくなりますし、小さくて重ねられれば、雪だるまみたいに見えます。
その形から「鏡」を連想するのも「トグロ」を連想するのも、餅の形状とそれを見る人それぞれのことでしょうね。
本来、社殿や神棚に供えていたものが、床の間などの生活空間に持ち込まれ、もともとの御神体から切り離されることによって、
餅自体が寄り代と見立てられ、その解釈から「鏡」説とか「とぐろ」説とかが後付けで言われ出したんじゃないんですかね。
鏡型代表はこれかな?
京都市上京区安楽寺天満宮
http://blog.shinise.ne.jp/staff/images/2009/01/05/hatumo02.jpg 鏡説に立てば「鏡開き」の行事は「破鏡祭祀」の名残りだとか言えます。
蛇型代表は、大神神社のお供えなら間違いないと思い、WEBを漁りましたが公開されてませんでした。
ちなみに、私の実家は両親とも東京ですが、鏡餅は開かずにどんど焼きのときにそのまま焼いてもよいと言っておりす。
230 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 13:30:38.23
>>224 >鏡餅の起源が三種の神器って言うのは結構有力な説だよ。
そんなわけないだろ。
近年の、大衆向けの穏健な研究者が、
鏡餅=蛇じゃ、気持ち悪がられるご時世だから、というわけで、
大衆ウケしやすい鏡餅=三種の神器説を言い出しただけだ。
たとえば、江戸時代の文献で、「鏡餅とは三種の神器なり」なんて記述があるなら別だがな。
聞いたこと無いね。
むしろ、蛇をかたどった鏡餅の飾りが神社に残ってるくらいだ。
231 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 13:34:46.64
だいたい、鏡が伝わったのは、紀元前1世紀くらいじゃないのか?
それ以前は、「平たい丸餅」を神前に供えるという習慣が無かったとでも思ってるのか?
どうなんだ?
ドアホウども。
丸い物は縁起がいいの
蛇は長いから縁起がいいの
2匹が絡み合った蛇はしめ縄と同じでもっと縁起がいいの
でも、とぐろを巻いた蛇が縁起がいいとかないからw
234 :
メ:2011/12/30(金) 13:38:01.44
>△鏡(古墳時代初頭)が弥生後期後半より古いと主張する。
弥生時代後期というのは一般的にいわれてるのが
西暦に直すと「西暦50年」ぐらいでして、その後期後半となると
二世紀後半から三世紀初頭にかけてだろうが、古墳時代初頭というのは三世紀の前半、
又は、西暦260年前後ぐらいで、太国おっさんの考えはどうなってるんでしょうねえ。
昔は、弥生時代を三段階に分けて、前期、中期、後期となってたんだが、
前期は前3世紀〜前2世紀、中期は前1世紀〜後1世紀、後期は2〜3世紀で
古墳時代の始まりは西暦300年とかの4世紀からなんて云われてたと思う。
最近では、縄文文化と弥生文化の共存といいますか、並んで時代が経過した「弥生早期」なんてのがあるが・・・
235 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 13:39:29.56
いいかね?
「物事の起源」と「物事の解釈」は別のことだ。
丸餅を神に捧げるのは、「起源」というものがある。
鏡の代用が起源とするなら、
丸餅を神に捧げる習慣は、鏡が伝来する以前は存在しなかったことになる。
そのようなことが、考えられるのかね?
「解釈」というのは、丸餅を神前に捧げる行為にどういう意味を見出すかという後付のものだ。
神主が「鏡餅は三種の神器だ」といえば、解釈上は、そうなるだろう。
しかし、それは起源を説明したことにはならない。
古代史ではなく、神道の話だ。
ああ、水鏡になると起源はもう不明だな
237 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 13:51:36.65
>>222 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:04:29.36
武寧王誕生は動かない〜の保障が無い。
墓誌には 「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
がんばって動かしても1年だ。墓誌と書記の記述が合致するということは
倍年”が使われていなかった証拠である。
太国倍年が日付の特定もできていないということは、ただ西暦を積み重ねただけである。
雄略紀が崩れれば、神武元年までの全てが崩れる。
とうぜん
>>225 も崩れる。
238 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:55:45.61
後世の出来事を滅茶苦茶に差し込まねばならぬ宿主空年。
△鏡(古墳時代初頭)が弥生後期後半より古くないと主張してもアテに
ならず、鏡作は崇神6年代に活躍。→鏡作神社社伝(崇神6年鏡改良鋳造)
つまりコチラは整合している。これに拍車をかけるのが崇神6年の倭笠縫
のアマテラスの 鏡 祭祀であり、これがさらなる整合を強調する。
これは考古の239年鏡銘文の景初3年が崇神6年近隣に来る事を強烈に
示唆する。ならば 崇神元年=237年=景初元年 は不動であり、
コチラの編年は動かない。さらにこれで 崇神没年=258年 の記の文と
整合する。188年が崇神元年ではUFOに乗船する畿内千人の極ヤセ農民を
半島渡海させるプハハハ・・・論となり、→精神病院ご歓迎を妨げない。ww
239 :
メ:2011/12/30(金) 13:56:22.69
大陸から日本列島へと銅鏡が伝わったのは、
漢朝によって前108年に楽浪郡が設けられてからでしょうが、前一世紀ぐらいでいいと思いますよ。
各地で被葬者が墓に葬られるというのは、弥生時代に入ってからなんですが、
縄文時代なんかだと、その辺の食べカスでもある貝類や、魚類の骨と一緒に、被葬者も置かれていたというか、
人を埋葬するという概念が無かったらしいですね。
これは大陸の文化が日本列島に入ってくるようになり、祖先を敬うというか
ちゃんとしたお墓に葬るということが行われだしたのであり、
「平たい丸餅を神前に供えるという習慣」にしても弥生時代中期にあたる、紀元前二世紀以前にあったのかは少し疑問ですよね。
>>237 古事記だと124歳だから
2倍になってる
241 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:57:53.08
237年ころは倍暦の年代差が少なく、この少ない疑問が倍暦の論説で
合理的となる。オマエのでは梁書499年の顕宗が幽霊となる。ww
242 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:59:07.26
訂正
× 237年ころは
○ 523年前後は
243 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:06:41.06
>太国倍年が日付の特定もできていないということは、ただ西暦を積み重ねただけである。
まるで銀行強盗が多量の万札(年代)を強奪するときに、強盗の一員のみ
独りがおいおい1円玉(日数)を数えてないなどと言って万札束のみを
抱えている他の強盗連中を批判してるような○ンマな行動だ。ww
利口な強盗は万札束(年代の数字)のみしか感心がない。○ンマな強盗は
現場で1円玉の数(全日数)計算にも以上な関心をよせる。Puハハハ・・・
このような○ンマでは、ス〜グ警察に捕まって(編年失敗)しまう。bbb・・・
244 :
メ:2011/12/30(金) 14:08:16.85
245 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:11:33.25
紀の季節は後付け。 ↓ 証明できている。空年じゃぁ説明できない。
雄略4年春2月(紀)=雄略4年秋8月(経) だという
ことだねぇ。つまり当時の8月が通常暦法では2月だっ
たということだな。双方の文献が、紀の季節の後付け
を支持してるの。空年のマシなんか紀元0年は別だが、
存在しな〜い。そんなことをすればパクられて、失脚
せねばならなくなる。つまりでかい利害もないのに、
そんな危ない橋を渡ることは考えられない。つまり
オマエのよく調べもしないで考え出したオマエの妄想
だということだ。ww
上の雄略の記事は当時、春秋2倍暦法が存在したことを
裏づけているのだ。これを観ればオマエのマシなんぞ
信用する奴は限りなく0に近づく。ww
これは仮説で誰かさんが主張していたが、安康から以後
は元嘉暦、それ以前は春秋暦でだった可能性が、大成経の雄略4年のこの
記事で有力になった感がある。その春秋暦が安康の次代でまだ強く残存して
いたから、雄略4年(安康の4年前)にこれがしっかり出ていたわけ
だな。雄略の寿命は
古事記 124歳
日本書紀 62歳
であり、紀が通常暦法、記が2倍暦法の数え方だったと さらに拍車を
かけて言えることになる。雄略4年の記事から、紀の季節は
後付けだとの証明になる。宿主空年というは大インチキである。
246 :
メ:2011/12/30(金) 14:17:27.32
もぉ〜す〜ぐお正月ぅ~♪
今年の年末年始は、何処へ出かけましょうかねえ(もちろん古代史の旅)。
フライトまで、まだ時間があるのでもう少し書き込みましょうか。
東京のJR目黒駅を降りて、北の方に歩いていくと高級住宅街にさしかかると思う。
私もあそこらへんに住みたかったんですがw
何年か前に東京、渋谷駅前のハチ公前で年末にカウントダウンといいますか、
あの時間帯の渋谷駅は凄い賑わってますよね。
247 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 14:22:41.17
>>241 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 13:57:53.08
237年ころは倍暦の年代差が少なく、
雄略紀で崩れているんだからその主張は通らない。
>>245 書記の編年なんだから書記だけを使えば良い。
大成経は江戸時代の製作であることがはっきりわかっている。
248 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:23:43.92
成務4年間が崩れれば ↓ 神武元年までの全てが崩れる。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
249 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:24:59.40
>>247 雄略紀で崩れてないんだからその主張は通る。
250 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:26:03.29
秀魔電は江戸時代ころの製作であることがはっきりわかっている。
251 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 14:27:53.05
252 :
ひとぶた:2011/12/30(金) 14:28:17.13
>>246 > フライトまで、まだ時間があるのでもう少し書き込みましょうか。
> 東京のJR目黒駅を降りて、北の方に歩いていくと高級住宅街にさしかかると思う。
> 私もあそこらへんに住みたかったんですがw
山手線と自然教育園の間の住宅地?
長者丸も最近は、相続対策で、マンションばかりになっちまったよ。
他人様の豪邸を羨ましげに眺めつつ、散歩するのには好いところだったけどね。
253 :
メ:2011/12/30(金) 14:29:07.92
年始の初詣では、明治神宮は凄いでしょうね。
私も何年か前に明治神宮や靖国神社へは参拝してきたんですが、
明治神宮の駐車場に車をとめて鳥居をくぐるまでグルッと回らないといけないし、
あの地面の石ころが非常に痛いですよねえw
明治神宮の石ころはなんか大きくありませんかw
「衣」「食」「住」の看板が目立つ、三重県の伊勢神宮へも行った事があるんですが、
内宮、外宮と分かれており、初めに外宮へ行ってから、
その次に内宮に向かうというのがシキタリ(マナー)らしいです。
254 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 14:29:38.62
>鏡作は崇神6年代に活躍。→鏡作神社社伝(崇神6年鏡改良鋳造)
崇神6年は前年の飢饉の影響が大きく残り、鏡作のあった唐古・鍵遺跡
の放棄された年。
当然鏡作りの職人も離散していると考えられる。
255 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:34:22.14
離散なら、なおさら千人も半島渡海は出来ない。
分散したのをまとめたりせねばならず、分散では乗船の回数が多くなり、
さらに面倒が増す。なお崇神17まで渡海の船舶は存在しない。
256 :
メ:2011/12/30(金) 14:35:05.40
>山手線と自然教育園の間の住宅地?
さあ、詳しくは忘れてしまったが・・・
考えてみれば、あそこらへん一帯は、高級住宅街ばかりだったですよねw
まあ、あそこらへんに住むのは庶民の憧れでもあるww
257 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 14:36:24.99
>>245 >紀の季節は後付け。 ↓ 証明できている。
崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子《廿七》◆壬子。大彦命到於和珥坂上。
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月。悉平襲國。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲
景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑《二》◆冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。
景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
それ以外の戦が秋から冬にかけて行われる。
簡単に言えば、兵士は百姓を生業とする。だから、農閑期に戦が行われる。
戦国時代に百姓と兵隊が分業するまで続く。
だから書記の季節を無視することはできない。
できていないだろ。
258 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:36:53.02
>書記の編年なんだから書記だけを使えば良い。
じゃぁオマエから率先して見本を示し、編年に秀魔電を捨てろ。
259 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:39:00.26
>景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
月が関係ないなら太陰暦太陰暦とうるさく書きこむな。
なおオマエは退院歴があるのか〜?
松沢病院か〜???ww
260 :
メ:2011/12/30(金) 14:42:54.67
太国のおっさんは、ホツマを批判してるが、
昔から言ってるとおり、私はホツマていうのは結構お薦め度が高いと言いますか
みなさんは、ぜひ読んでほしい書類の一つです。
261 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 14:46:56.70
大層に書いてあるけど、実際の動員は数百レベルじゃないの?
大中国なら記録にも残らないくらいの部族間闘争w
なら船の大きさなんてさして問題ないと思うよ。
ずっと後の唐や半島三国の争いの時代のコミットメントは
もっと多数の兵士動員の軍事行動だっただろうが。
262 :
メ:2011/12/30(金) 14:58:17.07
もぉ〜す〜ぐお正月ぅ~♪
私は、考えが若いというか、結構若く見られるんですが、
実際は三十代後半でそんなに若くは無いんですがw 同世代の人って何人ぐらい居るんでしょうねえ。
おっさんとか唐さんは私よりも年上ですが、
いつだったか、「蒸気機関車」が走っていた頃を懐かしむ人もいて、あれにはビックリしますよねw
ていうか、みんな邪馬台国の話をしろよw
263 :
メ:2011/12/30(金) 15:13:12.15
みんな〜「足」や「腰」が弱まる前に
古代史の旅へ出掛けてこいよ〜ww
さて、逃げるかwwwwwwwwww オチ
264 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 15:23:31.21
>226
それでいくと継体は西暦何年位になるの?
265 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 15:42:49.18
卑弥呼の時代は孝安末期〜孝霊〜孝元〜開化初期、壱与の時代は崇神です。
266 :
メ:2011/12/30(金) 15:50:22.33
まだ、出掛けてないんだよ〜ww
人豚さんって二十代ぐらいにみえるんですが、
実際の年齢て何才ぐらいなんです?
ジョーカーは足腰が弱いみたいなのでw
あまり出掛けれないというか、机の上でガタガタいってるだけなんだぜ〜
おそらくは50オーバーだろうねw
ドンコイの夢げんにょさんは〜レスの文脈から推測するに、俺と同世代とみた。
みんな邪馬台国の話をしろよw〜ていうか、間に合わん・・ほんコおち
267 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 16:01:12.21
>>264 履中以後はそのまま西暦に対応している。
そこで応神5世孫を問題にしていると思うが、允恭紀に書かれた通り
世継ぎは書き換えられている。
倭の5王にも対応していないから書き換えはそれ以上にあると思うがその辺の研究・思考は
停止している。
言えることは、允恭は倭王賛である。24年の内戦から不明。
倭王と天皇の2頭体制?
268 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 16:09:19.52
>>259 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 14:39:00.26
>景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
>月が関係ないなら太陰暦太陰暦とうるさく書きこむな。
書き込まずとも書記が太陰暦で書かれていることは、万人が認めている。
その太陰暦の日付のうち太陰暦のみを無視して、日付を分散させる。
不可能な論理である。
太国が使用する分には、こちらは無関心でいられるが、その数字でこちらを攻撃するから
その非合理性を暴くのである。
269 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 16:42:46.80
継体は応神5世孫で若野毛二俣王と、その娘允恭妃の忍坂大中津比賣をキーとする
274年応神誕生
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)春正月癸丑朔丁卯。立大兄去來穂別尊爲皇太子。
343年 応神天皇元年(庚寅二七〇)正月丁亥朔◆元年春正月丁亥朔。皇太子即位。
400年 履中天皇即位前紀◆去來穗別天皇 履中天皇◆去來穗別天皇。大鷦鷯天皇太子也。
書記では343年に立大兄去來穂別尊爲皇太子であるが即位したのは、応神天皇である。
そして去來穗別天皇の即位は400年。
応神=去來穗別として若野毛二俣王につなげる。
270 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 17:10:58.59
退院歴があるらしいか?ww↓ 空年こそ不可能な論理である。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
271 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 17:14:12.03
履中以後でもそのまま西暦に対応はしていない。
梁書の 永元元年=499年 に顕宗天皇(=乙祁:袁祁)が、オマエの
だと幽霊の顕宗がいたことになる。ww
272 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 17:22:18.94
>その太陰暦の日付のうち太陰暦のみを無視して
無視していい場合がいくらでもある。
↓
神皇紀
人皇第一代 神武天皇元年
太陰暦を【太陽暦】に改め、
30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
太陰暦をやろうと太陽暦をやろうと、編年に大してに変わりは無い。
退院歴でなくて太陽暦でも年代は大差な〜い。それが退院歴退院歴と
オマエは遠吠えしている。ww
すなわち
太陰暦とか太陽暦とかほじくっても、年代の変動には
殆ど影響がないことは、2ちゃんの美濃もん太氏が○ンマなやり口相当の
旨、オマエのを嘲笑しながら忠告していた。当然だな。ww
273 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 17:36:21.10
>その退院歴の日付のうち退院歴のみを無視して、日付を分散させる。
>不可能な論理である。
宿主が使用する分には、こちらは無関心でいられるが、その数字でこちらを攻撃するから
その非合理性を暴くのである。
退院歴の日数計算だと、日食が数日間も続くらしい。ppppp・・・
274 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 17:51:32.84
>宿主が使用する分には、こちらは無関心でいられるが、その数字でこちらを攻撃するから
その非合理性を暴くのである。
そういう主張なら、今後一切のかかわりを無視する。
だから、そちらも私の書き込みに反応するな。
バ〜イ
275 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 18:21:14.05
>>274 そうか〜?w 最後に↓と成務4年間だという脳内と睨めっこしろ。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
276 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 18:26:09.38
ハハ〜ン、逃走だな。ww
ただいま宿主は「逃走中」
そこへ ハンター !
277 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/30(金) 18:31:53.45
宿主はコチラにコテンパに論破され、ただいま逃走逐電!
早々と、モグラタタキを覚悟で顔を出すだろう〜?
いま奴は 「逃走中」 〜そこへ ハンター !
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 09.3
279 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:26:59.11
280 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/30(金) 19:54:42.79
>>279 ここに出入りしていない爺さんのひとり。
282 :
ひとぶた:2011/12/30(金) 21:11:36.79
>>266 > 人豚さんって二十代ぐらいにみえるんですが、
> 実際の年齢て何才ぐらいなんです?
50代ですよ。
参加は断続的ですが、2ch古代史スレでは最古参の一人です。
御存じの方も居るかと思いますが、捨てハン(馬関係は大概は私)と名無し(一発限りのツッコミやネタ系)の二刀流です。
多分、ここで私より古い方は、コテでは久留米さんしかいないと思います。
貴方がデビューしたころ(まだ、ドン来いが始まる前の名無し時代)のことも覚えてますよ。
283 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:19:15.20
みんな何才?
天才
基本、団塊以上でしょ。
古代の新年は春分の日と秋分の日だと思う
287 :
19歳某国立大生:2011/12/31(土) 10:54:49.70
>>279 見たけど誰?
伊作爺は熊本説だし宮崎説のこいつとは異なるみたいだが
邪馬台国関係者はほんと爺ばっかなんだなw
288 :
19歳某国立大生:2011/12/31(土) 11:06:06.74
東大の助手にしてはやや言ってることが稚拙だな。
俺の担当教授のほうが上だ。まあ邪馬台国なんか詳しくてもしょうがないんだがw
289 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 16:37:31.25
>>289 だったらお前さんも邪馬台国から完全に撤退しろ。もう二度と邪馬台国スレに
一切口を出すな。
69歳名古屋より、はるかにマトモじゃないか
>>279 くだらねえゴロ合わせなんかやってないし、詐欺のお追従もしていない。
291 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 17:14:24.67
292 :
289:2011/12/31(土) 18:25:23.68
293 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:37:03.59
AAA
294 :
あらため:2012/01/02(月) 16:38:35.64
295 :
あらため:2012/01/02(月) 16:45:47.77
だれか、古代史の旅してきた人はおらんの?
わたしみたいに、どこかでかけたのなら書き込みよろしくー!
私は、今回
>>294の場所を回ってきたのだが、他の博物館等は年末年始の休みで
入れるところは国立博物館しかなかった。
福岡博多、宇美町、久留米市らへんを回ってきたんだが、
八女古墳群や久留米市の古墳もまわりたかった〜。
あと卑弥呼の湯も佐賀県や福岡県の甘木方面にあるんですが、
大分の名湯天ケ瀬のほうがいいので、結局そっちに行きましたゎ。
296 :
あらため:2012/01/02(月) 16:55:04.26
チト話が変わるが・・・
卑弥呼の金印は、外臣に対する最高の証なんですが、
内臣に対しても金印を授けた場合がある。
これは後漢時代のことなんですが、この後漢王朝の頃の金印がでてる例は、
「漢委奴国王印」以外にもあと2例あり、合計3つだったと思う。
この「漢委奴国王印」について、いままでいろいろ言われてきたんだが、
本物で、「委」は文献によると「倭」となり、また、漢の委の奴国と読むのか?
漢の「委奴国(イド国)」と読むのか等、諸説ありますよね。
私が知ってる限りの話をしますと、言語学だったかな・・・
専門家の話によりますと、当時の「奴」の場合、ド、トみたいな「タ行」ではなく
ナ、ヌみたいなナ行が正解らしいですね。
「漢の委の奴国の王」なんていう表現はあり得ないだろ。
漢「の委奴国」の王としか読みようがない。
298 :
あらため:2012/01/02(月) 17:05:17.96
ドンコイは進むの早いね。
年末年始だというのにニートの集まりなのかw
他にやることないんだろうなww
まあ、私もドンコイの方もたまに書くんですが、
どちらかというとこっちのスレ専門にしてるので、
だれかこっちにも書き込んでほしいw
ちと落ち
299 :
あらため:2012/01/02(月) 17:07:49.58
>>297 「奴」は、
ド、トみたいな「タ行」では無いらしいよ。
「ナ行」のナ、ヌ らしいです。
よって、「漢の委の奴国の王」が真に近いのではなかろうか?
300 :
あらため:2012/01/02(月) 17:12:15.65
一度、
「委奴国(イド国)」と読むのか?
「漢の委の奴国」と読むのか?
議論をして、ここでハッキリさせようとは思いませんか?
この「金印」の読み方について、各自の考えを書き込んでてほしい。
今、ちと出かけないといけないので、またあとで来ます。
メ はこのスレにいないほうがいいな(自分の考え)
302 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 17:19:11.59
>>295 私は富山県富山市の生まれ育ち。だから夢幻如氏の投馬国=富山は完全に否定
できる。
今は大阪で暮らしていて時々奈良の明日香村などに行くことが多いが、畿内説
ひいては巻向説は絶対無いと信じている。やはりどこかからやって来た勢力に
征服され蹂躙された地域だと思う。軍事的に見ればそのような歴史を経た地域
の可能性が高い。
303 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 18:28:17.37
漢委奴国王の金印は偽物。
三浦佑之「金印偽造事件」を読むべし。
漢委奴国王は漢のインド国王という読みだろうな
>>303 詐欺の畿内説論議の一環だろ。
偽造説それ自身詐欺だよ。
委は夷と同義でしょ
委に蔑字を当てたのが夷や倭
那に蔑字を当てたのが奴
308 :
あらため:2012/01/02(月) 20:11:43.81
>>303 >三浦佑之「金印偽造事件」を読むべし。
数年前とかではないんですが、まだ記憶の新しい1981年に、
中国の江蘇省で志賀島の金印と同じ工房で作られた可能性のある
「廣陵王璽」金印は出土しています。
この金印は、「漢委奴国王」金印の57年下賜から、わずか一年後の58年でして、
大きさにしても23.0mmと、二つはぴったり一致しているのであって、
貴方は、この意味がわかるのか、わからないのかは存じませんが、
金印偽造説は、今の時代〜チト古くさいですよw
309 :
あらため:2012/01/02(月) 20:16:30.50
>>302 >私は富山県富山市の生まれ育ち。
>だから夢幻如氏の投馬国=富山は完全に否定できる。
そうですか。
良いライバル関係が芽生えてるみたいで羨ましい限りです。
論争がんばってくださいね。
キモイなあ死ねばいいのに
311 :
あらため:2012/01/02(月) 20:21:40.93
313 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 20:42:24.70
>漢委奴国王の金印は偽物。
金印が発見されたときその意味を知る者はその近くにいなかった。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
半島に辰王は認められたが、その配下は邑長・邑君である。
新羅は韓(辰韓)に属す。
馬韓は帯方郡の属郡であるから”王”は認められていない。
倭には、倭奴國王位継承の卑弥呼と新たに邪馬台国に倭王位授与。
314 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 21:29:43.89
>>305 畿内説の立場で書かれたものではなく、純粋に金印が本物か偽物かを検証した本である。
>>308 まあとにかく一度読んでみるべし。古代史ファン必読の書。
315 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/02(月) 22:06:26.68
>純粋に金印が本物か偽物かを検証した本である。
北史が間違いであると検証されたのか?
されていないとみる。
論証なしのトンデモ氏が推奨する本を読むほど暇じゃない。
馬鹿に推奨された本こそ、トンデモ本だと良くわかる。
無限尿推薦の「鯨統一郎の推理小説」とおんなじだ。
そういえば鯨統一郎ってのがいたっけ。ひどい本だった。
夜勤の無限尿は、ブックオフでそんな本しか手に入らなかったわけだな。
朝鮮馬鹿同様、学問板に来られるはずの人間じゃないのだ。
320 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:41:06.16
鯨統一郎の本、暇潰しには悪くないよ
真に受けちゃうバカには向かないけど
321 :
め:2012/01/03(火) 09:38:05.41
>純粋に金印が本物か偽物かを検証した本である。
今の時代、金印偽物説なんて言ってるの、その人ぐらいでは?
推理小説家の三浦佑之「金印偽造事件」なんて読んだ事がないし、
駄作本というか、単なる憶測で推理した本なら読む価値ないと思われます。
322 :
め:2012/01/03(火) 09:45:20.48
323 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/03(火) 09:50:05.49
君はよく本を読んでいる?みたいだから、君には読むことを勧めたい。
他の人は読む気がないようだが、どうせ暇なときは何か本でも読まなければならない。
そのときに、まあ、騙されたと思って読んでみたまえ。安い本だし、買うのがばからしいなら図書館にリクエストする手もある。
324 :
メ:2012/01/03(火) 09:58:29.40
金印は、上のホームページ先に書いてる「亀井南冥」氏がはじめて鑑定したんです。
彼は福岡藩の藩校の開設に伴って館主になるんですが、館主になって間もない時に、
この金印鑑定依頼が来たわけで、この時代は「江戸時代」です。
江戸時代ていうのは、私が上で書いた、1981年に中国の江蘇省で発見された
「廣陵王璽」金印よりも前のことで、23.0mmと、こんなにも志賀島出土の金印と
一致するわけがなく、あともうひとつの金印(漢時代に金印を授けて、それが発見されたのは全部で三つある)は
「滇王之印」金印と言いまして、これもその後の時代の、1956年雲南省石塞山6号墓から出土したもので
これの場合は紐の形が、志賀島出土の金印と同じ「蛇」の形をしている。
まあ、ここからいえることは、三浦佑之「金印偽造事件」は推理小説にすぎないと思われる。
325 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:02:30.59
金印偽造の動機が考えにくいが?
そんなことをすれば、偽造者は重罪だろう?
偽造は妄想だと思うがね。
326 :
メ:2012/01/03(火) 10:03:51.44
いや、読む前に大体憶測出来るというか、
ある程度、根拠のある本だと興味が引くんですがねえ・・・
まあ、金印出土した状況ていうのが、結構あいまいでして、諸説あるのはやむを得ないんですが、
しかし金印偽造説だけはないですよw
327 :
メ:2012/01/03(火) 10:16:02.82
いつだったか、サガミハラハラ氏が田んぼから出土したのではなく
海岸周辺の石から出土したなんていってたと思うが、これは金印発見者でもある
当時の金印出土地の所有者、百姓のジンベエの「百姓甚兵口上書」にもとずくものだろう。
ちなみに、その百姓甚兵口上書に書かれてるのが以下のことであり、
『私の所有地、叶の崎という所の、田んぼの境の水はけが悪かったので、
先月23日、溝の形を修理しようと岸を切り落としていたところ、
小さい石がだんだん出てきて、そのうち2人持ち程の石にぶつかりました。
この石をカナテコで取り除いたら、石の間に光るものがあり、取り上げて水ですすぎ
洗い流してみたところ、金の印判のようなものでした。』
328 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:19:34.25
アラタメ殿
まだそこの九州の博物館に真物の金印が展示されていたかね?
西村京太郎の推理小説「二つの金印」では、九州の博物館だと書かれて
いたが、いまもその博物館でないの? 近いけど、別の博物館かなぁ?
329 :
19歳某国立大生:2012/01/03(火) 10:21:46.56
海部氏系図という国宝の文献に日女命またの名を倭迹迹日百襲姫命、
または日神と書かれてますので、
この文献の信憑性がどの程度のものか、
僕にはわかりかねますが、
日女命(ひめみこと)すなわち卑弥呼であり、
日神すなわち天照大神であると書かれておりますので
卑弥呼が天照大神のモデルだった可能性もあるのかと思ってます。
日女というのも大日女貴神という天照大神の別名と一致します。
倭迹迹日百襲姫命の時代も箸墓が製造された時代が
240〜260年頃という測定結果が出されてますので
卑弥呼の死亡時期と一致します。卑弥呼=天照大神だったとすると、
卑弥呼の鬼道というものは祖霊神を祀る従来の鬼道+天神を祀る
新しい鬼道であったと解することになりますが、
天照大神を祀る以前の天神は饒速日命を祀ったものが多いので、
海部氏系図によると饒速日命の9代目子孫の孫である
倭迹迹日百襲姫命を祭王として共立したと考えられます。
330 :
メ:2012/01/03(火) 10:22:04.18
331 :
19歳某国立大生:2012/01/03(火) 10:23:40.46
当時このような太陽神が崇められていたのは、
気候の寒冷化が影響していると考えられます。
三国史記新羅本記に新羅192年4月大雪、後漢193年6月寒風冬の如し、
倭人が食糧難で渡海してきたと書かれてます。
2世紀末というのはちょうど倭国大乱〜卑弥呼共立の時期であるので、
寒冷化による食糧事情の悪化と後漢朝の衰退に伴う奴国伊都国の権威低下により、
倭国大乱となり、新しい政治システムが構築され、倭国が再編されたと考えていいでしょう。
倭国の王として最もふさわしいのが当時太陽神を祀る鬼道に仕える
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命だったのでしょう。
やがて卑弥呼の死後、天照大神は豊鍬入姫命によって、
宮中から笠縫邑に遷し祀り、
以後、垂仁天皇25年3月10日に倭姫命と交替になるまで祭祀を続けたといい、
そのことが伊勢神宮の斎宮制度の濫觴となったとされている。
このような過程で天照大神は太陽神を祀った卑弥呼を投影したものになっていったのではないでしょうか。
あと豊鍬入姫命が倭人伝に出てくる台与である可能性が高いです。
332 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:24:07.09
失礼
十津川警部 二つの「金印」の謎
という題名だな。
333 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:25:30.45
>日女命(ひめみこと)すなわち卑弥呼であり、
>日神すなわち天照大神であると書かれておりますので
当時でのデンパ説
334 :
メ:2012/01/03(火) 10:29:40.70
>>328 九博の金印は国宝ではなくレプリカであり、再現重要文化財に指定されてる物。
「国宝」のほうの金印は、福岡県「福岡市博物館」にあり、昔っからココですがな。
ちなみに、私は、「国宝」も「再現文化財」の方も、両方観てる。
335 :
メ:2012/01/03(火) 10:31:30.07
336 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:33:17.12
>三国史記新羅本記に新羅192年4月大雪、後漢193年6月寒風冬の如し、
>倭人が食糧難で渡海してきたと書かれてます。
これは対馬あたりの当時の倭人の渡海の記事。
崇神6年の畿内住民の飢餓での渡海ではないから、宿主に騙されないよう
に。当時九州(対馬等を含む)と畿内とは別の国同士であるから、畿内の
事件に関わるものではなく、日本書紀に入れる記事ではなく、全然無関係
のことである。
食糧難では畿内農民が千人も渡海できうる可能性は0と観て可である。
それは数人あたりなら危険を冒して日本海の荒波を越えての脱北
の逆は可能だが、千人もの無糧食での渡海なんぞとても無理。
337 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:34:16.65
338 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:41:33.57
>>336 補充
対馬なら眼前に半島が遠望出来たので、千人でも飢餓での渡海が出来たと
いうことである。畿内農民じゃあ到底無理。畿内から北九州までだけでも
大困難な道のりで、しかも飢餓の大やせでは途中で殆どが餓死してしまうか
強盗等に早代わり。
339 :
メ:2012/01/03(火) 10:41:50.56
サガミハラハラさんおる?
以前、田んぼではなく海の石がどうの〜言ってたと思うが
それは、筑前国続風土記付録の「絵図面」や「金印発見地付近略図」をみてから
言ったのだろうか?
私が、上のほうで、金印発見者でもあるジンベエの「百姓甚兵口上書」の内容を書き込んだんですが、
この口上書をみても分かるとおり、
「小さい石がだんだん出てきて、そのうち2人持ち程の石にぶつかり」とあると思うんだが、
これは考古学に詳しい人に聞いてもらえばいいが、「積石塚古墳」の可能性もある。
現在の金印出土地記念碑が建っている所よりよりも、少し海側とみても、
海岸の石があるところよりも少し上陸した所ではなかろうか?
金印出土地について、チトコメントいただきたいですね。
340 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:49:53.72
>倭迹迹日百襲姫命の時代も箸墓が製造された時代が
>240〜260年頃という測定結果が出されてますので
>卑弥呼の死亡時期と一致します。
両人はほぼ同時代の人物である。
前者は畿内の女性であり、卑弥呼は九州の女性である。
鑑定値は正確だと想う。鷲崎さんは不正確だと反対している。
卑弥呼のほうが7年ばかり百襲媛よりも後に死亡している。
341 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:54:23.17
この鑑定値論争と思い出すと、現今での物理学の光速超えの数値の論議を
想いだす。
342 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/03(火) 10:55:52.66
>>329 君のような優秀な学生が現代の学説を妄信しているのは悲しいことだ。Wikiによると
>周濠の底から布留0式土器が出土し古墳時代前期初頭の築造であることが確定した。
とあるが、周濠の底から出た土器によっては年代を決定することはできない。
後世に周濠に捨てられたものかもしれないからである。
モモソヒメは孝元天皇の兄弟で孝元天皇はBC274〜BC158の天皇。
また崇神天皇のBC92とBC88にモモソヒメの記事があるから、モモソヒメは紀元前の人物である。
もちろん君もそんな年代は信じていないのだろうが、現代の学説を信じるより記紀を信じよと私は言いたい。
343 :
メ:2012/01/03(火) 10:58:11.12
19歳某国立大生くんは>329
>>331なんか観てもらえば分かるとおり、
いろいろ調べてるねえ。
>太陽神が崇められていたのは、 気候の寒冷化が影響している
気候いうのは豊穣に関わることなんでしょうが、
世界中をみても主神は「太陽神」ですよね。
倭迹迹日百襲姫命、豊鍬入姫命というのは、本命中の本命だろうが、
箸墓が製造された時代、「240〜260年頃」という測定結果は
箸墓出土の土器に付着したものを炭素14年代測定、AMS法にて測定した導いた結果で、
土器編年でいうと280年〜290年頃といわれてるのが現状です。
ここらへんの議論ももうすこしするべきと思う。
344 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 10:59:59.27
古代の当時の朝廷は2倍年暦等を採用していたもので、崇神の代
あたり(通説B.C.97年)は200年代前半に来るから、紀元前は見かけの年代
であって、真の年代ではない。
345 :
メ:2012/01/03(火) 11:03:08.66
>>342 あんた〜地層ていうのをご存知だろうか?
土器による年代決定は、ほかの土器との「相対比」なので大まかな年代しか分からないのですが、
地層でいうと、下から出たものが古く、上から出たものが新しく、
そこからいえる事は、「モモソヒメは紀元前の人物」ていうのは、まず無いだろうねえww
346 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 11:04:04.92
>>344 続き
200年代ということは、かの千葉歴博鑑定値が整合性あると観て可
である。
347 :
メ:2012/01/03(火) 11:04:56.65
348 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 11:28:42.05
>周濠の底から出た土器によっては年代を決定することはできない。
>後世に周濠に捨てられたものかもしれないからである。
つまり、箸墓は布留0より古くなっても新しくなることは無い。
ホケノ山古墳(225〜250年)から1世代後であれば、箸墓は245〜270年程度となる。
後漢193年が崇神であれば、箸墓までは、孫のいる景行までである。
193+60=253年 箸墓築造はこの数字を下回ることは無い。
349 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:18:46.97
周濠から出てくるものと、
内部に埋葬されていたものは区別しないとね。
出てきた場所で、いろいろとランクらしいものが
ついてたはずだが。
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 12:26:49.01
>後漢193年が崇神であれば←この仮定は鏡関係から成立ぜず
351 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 12:40:56.63
>後漢193年が崇神であれば←この仮定は鏡関係から成立ぜず
この飢饉の中で鏡を鋳ることはできない。
なぜならば、職人も民であるから、猛災の中にいる。
その鏡造りの居住する唐古・鍵遺跡では食人が行われ環濠が放棄された年であるからだ。
だから、鏡は4年につくられたとみるべきである。
なお
崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子《廿七》◆壬子。大彦命到於和珥坂上。
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月。悉平襲國。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲
景行天皇四〇年(庚戌一一〇)十月癸丑《二》◆冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。
景行の九州遠征は数年に及ぶから“月”は関係ない。
それ以外の戦が秋から冬にかけて行われる。
簡単に言えば、兵士は百姓を生業とする。だから、農閑期に戦が行われる。
戦国時代に百姓と兵隊が分業するまで続く。
だから書記の季節を無視することはできない。
つまり 倍年は成立しない。
352 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/03(火) 12:56:14.03
>この飢饉の中で鏡を鋳ることはできない。
朝廷の使われ人はメシをたらふく食える。飢饉でも糧食の確保はできる。
でなければ皇統も無に帰する。
飢饉と百数十歳の重合を考えれば、朝廷まで飢饉の全部は及んでいない。
飢饉は一般農民のほうが全部かぶる。百数十歳と言うことは、倍暦を
考えても天皇と側近等には飢饉の災禍は及んでいない。
だから大成経の季節を無視することはできない。
つまり 空年は成立しない。
大成経の雄略4年の記事は書紀とは丁度6ヶ月の差がある。つまり半年の
差があるからであり、記紀の年齢は片方がもう片方の2倍である。
つまり倍年は肯定される。空年は成務の年表で示したとおり存在せず、
成務より先代〜神武までの空年の編年表は崩壊している。空年の同表を
掲示しても、成務のコチラの提示の表から空年のイカサマがミエミエで
ある。
353 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 13:21:56.36
>>331 その時代の天照大神とは、
女神アマテラスではなく、男神アマテル。
その正式名称は、天照国照彦と言い
モモソ媛命や三巻イリ彦(崇神)や豊鋤入姫命の先祖にあたる
ニニギ命の兄にあたる人物。
この人物をヤマトの始祖アマテルとして崇拝していた。
354 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 13:25:43.57
>大成経(偽書)の雄略4年の記事は書紀とは丁度6ヶ月の差がある。
355 :
メ:2012/01/03(火) 13:41:50.18
>周濠から出てくるものと、
>内部に埋葬されていたものは区別しないとね
まあ、箸墓の主体部は多くの人の関心を引くところなんでしょうが、
現時点では、周濠のみしか発掘できていない。
「鐙」にしてもそうだが、>349さんのいうとおり、
中心部と周濠部では、多少の時代差を考案しないといけないのかもしれないねえ。
356 :
メ:2012/01/03(火) 13:49:28.72
元旦に太宰府天満宮で初詣行ってきたんですが、
朝から人が多かった。
まあ、当たり前なんでしょうが、あの日、あそこに昼間に行ったら
たぶんたどり着くのに時間がかかるでしょうね。
私は朝一番に現地についてゆっくりできたんですが・・・
そして、福岡県周辺の博物館といえば、年末年始はどっこもお休みで
九州国立博物館しか開いてなかったのですが、館内の遺物を紹介してくれる学芸さんの姿もなかった。
そして、国立博物館から近い宇美町の、邪馬台国時代の古墳といわれる「光正寺古墳」、
それから、神功皇后・応神天皇伝承で名高い「宇美八幡宮」へ寄って来た。
357 :
メ:2012/01/03(火) 13:57:04.74
【古代史の旅】
宇美町から博多のほうへ行き、那珂・比恵遺跡は結構有名なので、
「比恵遺跡」へ行ってきたんだが、あそこは何もない。
当時、資料もなにも持たすに現地に向かったので、仕方ないことなんですが、
どうせならば、那珂八幡古墳に行けばよかったのかもしません。
まあ、あとの祭りなんですが・・・・
そして、次に「板付遺跡」へ向かったのですが、
資料館は開いておらず、遺跡をみるばかりでして、
稲作跡をみれたのは収穫かな〜まあ、大体の規模はわかったのでよかったのは、よかったんですがねえ。
次に向かったのが、久留米市にある「高良大社」、「高良神籠石」なんですが、
この地に来るのは生まれて初めてでして、昔読んだ、関ゆーじ氏の本を思い出させてくれる。
358 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 14:07:24.11
>多少の時代差を考案しないといけないのかもしれないねえ。
ホケノ山古墳
橿考研:225〜250年
私:239年 垂仁
箸中山古墳
橿考研:250±10年
私:263年 景行
十分考慮している。ホケノに筒型埴輪は存在しない。
だから、この埴輪が発生するまでの時間差と巨大化が可能な時間差を
やや少なく見積もっている。
359 :
メ:2012/01/03(火) 14:10:30.63
名無しの恨み説氏だったか、「御塚・権現塚古墳」も観にいきたかったのですが、
なんせ、レンタカーを借りて行ってるので時間がなく行けなかった・・・
あと有名な豪族・筑紫君磐井の墓、岩戸山古墳のある八女古墳群や、
安国寺甕棺墓群、祇園山古墳も行きたかったんですが今回はパス。
次回に行くことを決めました。
そして、夕方になって、佐賀もしくは、甘木方面にある卑弥呼の湯に行って帰ろうと
思ったんですが、甘木にある卑弥呼の湯は前回行ったので、まだ行ったことがない
かの三大湯(別府、湯布院、天瀬)で有名な名高い、名湯天瀬温泉へ行くことに決定。
もちろん、名湯で名高い「天瀬温泉」なんて、生まれてはじめていくんですが、
やはり、名高いだけあるというか、古代史旅のみではなく、
こういう現地の名所にも立ち寄ることも大切と思う。
で、みなさんは年末年始にどこかへ出かけた人はいないのだろうか?
360 :
メ:2012/01/03(火) 14:14:46.43
今回、私が行った、
太宰府天満宮(初詣) ⇒ 九州国立博物館 ⇒ 光正寺古墳 ⇒ 宇美八幡宮
⇒ 比恵遺跡 ⇒ 板付遺跡 ⇒ 高良大社 ⇒ 高良神籠石 ⇒ 名湯 天ケ瀬温泉
コース、いかがなもんだろうか?もう少し時間があれば、もっと周りたかったんですが、
あと年末年始ではなかったら、資料館等も開いてたんだろうが、冬季シーズンなので仕方がないのかもしれません。
冬季シーズン中ということを考えれば、百点満点じゃないにしろ、まあ、まあな方じゃないだろうか?
みなさんの意見を聞かせてほしいです。
361 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:15:51.65
>>329、331
「卑弥呼」は魏時代の発音では「ヒムカ」と発音する。「ヒミコ」や「ヒメコ
」ではない。この時点でお前さんの推論はまったく間違い。お前さんには邪馬
台国を論じるほどの資格も能力も無い。邪馬台国論から手を引け。ますます恥
をさらすだけだぞ。
362 :
メ:2012/01/03(火) 14:23:36.87
結構ねえ、国立博物館なんか行くと良い情報を手にすることがある。
たとえば、「石器」の時代から「青銅器」への時代へ、青銅器から、「鉄器」の時代へ
というひとつの時代の流れがあると思うんですが・・・・
石器から青銅器に移る際は、青銅器が爆発的に人気を有するんですが、
九州といえば、鉄器の出土は極めてほかの地方と比べて出土数は多く、
青銅器から鉄器に移るにあたり、鉄器が人気が出て爆発的人気をもって広がったと思われがちなんですが、
当初は、青銅器と鉄器がならんで同時に出土したり、しいては「青銅器」のが上位で
「鉄器の方が下位」という扱われ方をしたような出土例もあり、ここらへんは面白かったですね。
363 :
メ:2012/01/03(火) 14:29:02.43
>「ヒムカ」
古田信者でしょうか?
そういえば「金印」の話はどこへいったのだろう。
出土地の所有者で発見者でもあるジンベエの口上書あたり調べた人はいないのだろうかねえ。
江戸期にわざわざ高価な金を使って、金印を偽造して儲かる人などいない。
しかもその金印が荒唐無稽なデザインならともかく、今日でも他の印と比較対象して
矛盾のない金印を、江戸期に偽造するのは難しいだろう。
要するに、畿内説にとっては目の上のタンコブが、志賀島の金印だ。
畿内説としてはこれを抹殺したくて、ウズウズしているわけだ。
366 :
メ:2012/01/03(火) 15:19:40.80
>>365 ん?畿内説ですが、
志賀島の金印が目の上のタンコブなんて思ってませんけど?
367 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 15:31:25.01
>>365 九州説は病気だなw
見えない敵と戦っているw九州説は。
368 :
メ:2012/01/03(火) 15:40:41.09
九州国立博物館に出かけたことある人は
この中でいったい何人ぐらいいるんだろうね?
370 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 17:13:21.77
志賀島の金印って、あれは西暦57年の話だろう?
卑弥呼よりも200年も前の話だ。
しかも、あの金印には、漢の奴国王ではなく、
漢の倭の奴国王と刻まれている。
奴国よりも上のカテゴリに倭国という名称がある。
そのことをよく理解すべしだな、九州説は。
西暦57年よりも以前の時点に
奴国よりも上位に倭国の存在があった。
371 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 17:16:23.53
卑弥呼=モモソ媛命ならば、
ワカミケヌ命(神武天皇)は西暦1世紀中ごろの人物。
そして、畿内王権が出雲を併合し、天下を統一が完成したのは
おそらく、西暦紀元1世紀から西暦1世紀にかけてだろう?
しかし、その後も、畿内王権の全国支配を不完全であり
少なくとも、西暦57年の時点では、倭国は再び混乱の時代だった。
>>370 ゴミクズレベル畿内説
何が言いたいの? ニヤニヤ
373 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 17:31:27.70
>>370 北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
倭国は2王体制である。
景初3年に女王卑弥呼が朝貢するが、その帰国に付き従ってカテイ等は邪馬臺國を訪れ
そこの王に倭王位を授与する。
つまり、女王卑弥呼の国(女王国)では、魏の冊封体制に組み込めない。邪馬台国ならば
それが可能であろう。というくらい邪馬臺國は勢いがなければならない。
金印偽作(小説?)を読んだ人、もう一度よく読んでみ。
犯人とされている人の犯行動機の部分を。
お笑い草で、話にならんぞ。
ウケ(=金儲け)を狙っただけのもんだぜ。
375 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/03(火) 19:06:01.93
>>374 他市の図書館から借りてきた本なので今は手元にない。
私は金印偽造説を信じる。十分な説得力があると思った。
376 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 19:17:42.26
>>375 小説家の腕。
これを無視し、考古学と文献で歴史を再現せねばならない。
はたして、日本書紀は歴史の出来事を書いた(失礼。表記した)書物か?
歴史に対応しない書物なら、私の編年までもが否定されるが…
七支刀を326年に設定すれば、半島占拠は可能な時代である。
377 :
メ:2012/01/03(火) 20:59:20.56
朝鮮説さんは、みんなを笑わせようと努力してるのは分かるんですが、
マンガ版「日本の歴史」ではなく、真面目に古代史について語ったりしないのだろうか。
ていうか、この人真面目に言ってるの?ALL
378 :
メ:2012/01/03(火) 21:03:42.39
いまテレビで古代史のやつやってるねえ
出雲がどうの言ってる・・・きゃいーんが出てる番組。
379 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:12:24.43
つかまだ卑弥呼=モモソヒメとか言ってるのな近畿説は。
完全に終了してんじゃん。
380 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:13:54.11
近畿説って纒向にモモソヒメだろ?
ダメじゃん。終わってるじゃん。
381 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:15:30.99
九州説にとっては悪夢の存在だもんなw
モモソ媛命ってw
この人物に焦点が行くことを、九州説論者は恐れまくり。
382 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:18:36.95
自分は九州説で飯食ってきたような人間だけど
まじで、纏向遺跡でモモソ媛命の話題に触れてほしくない。
世間の人間はますます畿内説のほう行ってしまうから。
モモソ姫だしても、鐙や4世紀の小枝が出てきた箸墓は
卑弥呼の死よりはるかに後であって、
畿内説の成り立つ余地はないから心配するな。
384 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:32:59.76
その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。
こう書いてある以上、台湾か沖縄で間違いない。
行程的にもそこ、政治的にも、本来呉に朝貢すべき地理の国が
魏にわざわざ朝貢してそこまで魏が支配していたというアピールな訳で、
解釈からして倭を日本列島に求める事自体が間違っている。
邪馬台国が日本の何処か?卑弥呼が誰か?
など論ずる事が論外、無意味。
>>384 今のように、「メルカトル図法の地図で東」と言っているわけじゃないでしょ。
386 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:58:04.95
「会稽東冶の東」は、女王国が会稽と東冶の東にあるということさね。つまり、北緯30度
から北緯26度までの間にあるということ。実際は33度から30度くらいだから、実際よ
りもだいぶ南にあると誤解しているわけだが、それは彼らなりに計算した結果だよ。
どういう計算をしたのか? 女王国は万二千里から始まる。それで、郡から万二千里という
のはどの程度南へ行ったところかを考えたわけだ。万二千里は大部分が南へ進むわけで、南
へ進まないのは乍東の部分と末盧国からの東南陸行五百里の部分だけだ。
だから、郡からおよそ一万里南が女王国の始まる緯度ということになる。
郡の緯度から会稽の緯度まで約八百キロ、これが一万里という計算だな。合理的な思考だ。
女王国の始まりから終わりまでは何里か、これは良く分からなかったが、だいぶ南へ行く
ことはまちがいがない。それで、万五千里あたりを考えた。それが東冶の緯度ということだよ。
台湾だとか沖縄だとかいうのは、彼らの計算を理解できないアホの戯言。
387 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:29:41.29
>>382 >自分は九州説で飯食ってきたような人間だけど
流石にキナイセツの自演を疑うなwwwwwww
つうかマジな話今時邪馬台国論争で飯が食えるのかと…
邪馬台国ブームなんて精々80年代だろう?
畿内説は、一度言い出して引っ込みの付かない馬鹿学者が、
飯を食う種に嘘を塗り固めている、詐欺説だったよねw
389 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:41:21.78
>>388 サイキバ君
今年も「サギダーサギダー」で一年送るつもりなのかい?
おい、馬鹿ジョーカー!
伊作から尻尾を巻いて2chに逃げ帰って、楽しかったか?
391 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:02:47.99
>>390 地縛霊サイキバくん
実際の話「負けた」と言う実感が持て他方がまだマシだった。
森村伊作 が自信満々に言うから掲示板を変えれば何か「とっておき」が出てくるかと思ったが何も出てこなかった。
要するに 森村伊作 が「自分を叩く奴は隔離したい」と言うことだけに作っただけの掲示板だったなあ・・・
392 :
メ:2012/01/03(火) 23:07:48.09
関係ないが・・・平原の次の王墓は
福岡県小郡市の「津古生掛古墳」があるねえ。
ローガン&ジョーカー、如何だろうか。
393 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:18:28.01
394 :
メ:2012/01/03(火) 23:28:05.74
九博出版の本によると〜津古生掛古墳というのは、
那珂八幡古墳よりも、宇佐赤塚古墳よりも、久里双水古墳よりも、古い年代で記載されている。
まあ、いずれも前方後円墳なんですが・・・
>>391 ジョーカーよ、お前、自分の畿内説の全体像も提示しなかったな。
早く負けすぎだろw
まあ、どうせ詐欺だから、別にききたくないけどな。
397 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/03(火) 23:39:11.19
>>392 まあ 北部九州も古墳時代に入った証拠である。
古墳時代を大和がけん引したのであれば、大和に吸収された証拠とできる。
久留米祇園山古墳は、景行がこの地方に仮宮を築いた250年ころと思っている。
398 :
メ:2012/01/03(火) 23:50:25.14
>>396 うーん 津古生掛古墳てよく知らなくて、
>394で言ってるように本をみて面食らったというか・・・
考古学専門てかんじの御二人ならば、何か知ってるだろうと思って話をふったんだよ。
豊前石塚山ていうのは、宇佐赤塚古墳と同時期だろうし、その年代別の王墓に当てはめると
津古生掛古墳依り後になるのだろうか・・・。
その年代の順番を決めてる材料はよく分からないな〜なんだろ。
399 :
メ:2012/01/04(水) 00:01:24.06
>>397 前方後円墳だからその通りになるんだが、
その前方後円墳の中でも平原の次の王墓はどの墓か?てことですよ。
唐さん的には久留米祇園山古墳を候補に挙げたいんだろうか。
400 :
396:2012/01/04(水) 00:04:13.47
まあ結局のところ大きさで言えば十数メートルだが
副葬品の豪華さで言えば後の200m超級の古墳の物に匹敵凌駕する
九州の弥生王墓の系譜はやはり平原で終わったと見るしかないんじゃないかと・・・
ポスト平原を前方後円墳の中に探すこと自体あまり意味があるようにも思えない…身も蓋も無い話だろうがwwwwwww
まあ、中国じゃずっと薄葬だから、巨大古墳なんか作らなくなるわな。
402 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:09:31.22
>>401 豪華な副葬品は薄葬の思想ではないなw
つうか馬鹿は何にでも口を挟むな。
403 :
メ:2012/01/04(水) 00:12:53.12
大体、平原以後の九州王墓ていうのは、
那珂八幡古墳、宇佐赤塚古墳、久里双水古墳、豊前石塚山古墳、祇園山古墳、
そして、津古生掛古墳。
他にも、光正寺古墳や立岩遺跡らへんも入ってくるんだろうけど
津古生掛古墳が宇佐赤塚古墳より豊前石塚山古墳よりも「前」の可能性が有るっていうのには
マジで面食らったな〜ほんと材料て何だろうねえ 鏡の型式?古墳の形状?土器の年代?
まあ、ここいらへんになっては来るんでしょうが…
404 :
メ:2012/01/04(水) 00:20:40.46
ああ、ジョーカーは前方後円墳ではなく、
それ以外の墓で平原後の王墓を探していたのか。
早ようそれを言え て言いたいWWW
405 :
メ:2012/01/04(水) 00:26:04.62
ここ終止符スレをみてても、
ドンコイの方をみてても、
津古生掛古墳てあまり聞かない古墳だなあ。
みんな〜本当に知ってたあ?津古生掛古墳て。
なんかあやしいんだよねWWW
406 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 00:32:36.63
ポスト平原とは、言い換えれば卑弥呼共立である。
その最初の古墳を久留米祇園山古墳とした場合、津古生掛古墳は何を象徴する時代になるのか?
留米祇園山古墳=庄内式土器が北部九州に上陸した証拠品の古墳版。
津古生掛古墳=遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。
庄内式土器が九州に上陸すれば、すぐに布留0(古墳時代)になる。
庄内式土器の九州上陸から神功渡海までが25年、
留米祇園山古墳から津古生掛古墳までが、25年以内であれば、大倭が伊都国に1大卒を置く時代。
それを過ぎれば、渡海の証拠。
その分け目は、桜井茶臼山より新しければ渡海以後。
>>402 バーカ、巨大古墳を造らない、殉死もさせないのが薄葬なんだよ。
408 :
メ:2012/01/04(水) 00:38:53.62
>>406 唐さん
>津古生掛古墳=遺跡名 長畑馬場遺跡
て津古生掛古墳は「福岡県」で、
長畑馬場遺跡は「長崎県」で、二つの遺跡は別々だってWW
409 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 01:23:16.83
>>407 無施葦炭、無蔵金銀銅鉄、一以瓦器、合古塗車芻霊之義。
>>409 始皇帝の秦以来、薄葬の意味はいろいろと変遷してるんだよ。
411 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 09:41:42.29
>>411 ちょーせん
>阿古米は難升米を連想させる。豊比売は台与を。
空耳アワー
>>411 > 邪馬台は八幡(ヤハタ)か。
いい加減にせい。無知非常識、何度言われたら分かるんだ?
414 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 10:07:50.60
まあ、そうカリカリするな。邪馬台国宇佐説を唱えている学者もいるぞ。
辛嶋氏が朝鮮渡来系のシャーマンの家系だとしたら、私の説に都合が好いのである。
邪馬台国や卑弥呼が、朝鮮や辛嶋氏や八幡神とまったく関係がないとは断言できない。
まあ、メ君は八幡神に興味を持っているようだから、少しは興味を示してくれるだろう。
卑弥呼が朝鮮にいたなら、朝鮮とは日本列島のことだなw
416 :
19歳某国立大生:2012/01/04(水) 12:42:49.25
箸墓に関しては、卑弥呼の死亡時期は狗奴国との戦闘状態継続中であるので
そのような時期に大量な人員を投入して巨大古墳建設したと考えづらい。
卑弥呼の墓は箸墓の円墳部分で、魏使が見たのはこの墓。方墳はのちに
改めて作り足したと考えればいいだろう。なので箸墓の製造年代が判然とせず
ばらつきがでてくる。
417 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/04(水) 13:02:09.99
神功皇后は母親が朝鮮系なので、朝鮮に対する関心を持っていたと思われ、三韓征伐はやはり史実だと思われるのである。
問題は年代比定だが、私は定説より古い可能性があると考えているので、倭人伝の時代には既に朝鮮南部は大和朝廷の支配下に入っていた可能性がある。
そうすると朝鮮の倭が大和の神功皇后の名で朝貢した可能性もある。
まあ君らは現代の学説しか信じていないから、そんな早い時代に大和朝廷が成立していたはずはないと反論するだろうが。
418 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 13:12:32.39
>倭人伝の時代には既に朝鮮南部は大和朝廷の支配下に入っていた可能性がある。
残念ではあるが、半島が大和の支配下にはいるのは、神功49年以降である。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)(任那建国)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中) 大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 神功渡海
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧纏向5式 326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。
419 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/04(水) 13:21:45.34
残念ではあるが、畿内が船舶の運転下にはいるのは、崇神17年以降である。
>>385 >>386 オマエラアホでしょ。
魏志倭人伝自体が、呉の向こう側まで魏が支配していたと言うアピールが主な訳で、
もっと政治的意図を読み込んで見れないと歴史的な考察は無意味なんだよ。
バカが。
421 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/04(水) 14:32:09.07
>>416 >箸墓の製造年代が判然とせずばらつきがでてくる。
纏向遺跡の説明はできたのか?
纏向遺跡の説明もできないのに、箸墓築造だけで歴史を語っても整合性は得られない。
______
r〃〃〃 f7⌒ろ)
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|儿儿儿._」⊥厶
〔__o____o_≦ト、
. i / ⌒ ⌒ ヽ )
!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (_人__) | \
\ `ー' / / ー- 、
. ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃 / rク\
. / | ̄r少}¨ ̄〃 / /′ ヽ
〃 l | l| | l| 〃 / / └ヽ
/ l |l | |l/″ / ! 厂 \
く, Y ! l」fレト! / | / 1
丿 | | 丿} じ’ / | / |
/ l | `¨ / レ′ |
真の思考停
(在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)
民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
縄文時代は半島南部と東部は倭人しか居ないっしょ
縄文人=倭人
倭人は釜山周辺にいた
425 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 08:02:08.14
現代人の血液は、北方系(扶余など)が濃い。
つまり、古墳時代に半島南部より北部の移住者が大量に入っている。
426 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 10:05:19.81
倭人は釜山とか洛東江周辺、要するに慶尚南道の一部だけにいたと思われているが、そうではないと思う。
それでは馬韓と弁辰は南で倭と接すという記述に合わない。
実際、全羅北道と全羅南道から前方後円墳が発見されている。
おそらく北緯36゜以南は倭人国家だったと思われる。
で、地図を見ると分かるのだが、それだけでほぼ九州に匹敵するほどの広さがあるのだ。
だからそこに卑弥呼がいたと考えてもおかしくはないし、そこから魏に朝貢したと考えるほうが自然なのだ。
427 :
19歳某国立大生:2012/01/05(木) 11:16:03.69
卑弥呼は饒速日命の子孫であるので、
記紀読んでも誰だかわかるわけないw
記紀は饒速日命の系統に関しては消去隠滅してるから。
428 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 13:40:50.00
19歳某国立大生君よ
君はまだ纒向遺跡の説明できないことを肝に銘じる必要がある。
429 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:47:43.26
19歳某国立大生君よ
宿主はまだ西暦41年の説明できないことを肝に銘じる必要があると、宿主を
追求せよ。
430 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 13:52:17.65
なお恐ろしい厄物たる毒書ホツマはそんじょそこいらのタダのオッサン
が恣意的妄想を注入して書いた、危険史想の書である。
431 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:21:57.35
縄文と弥生という見方から卒業したほうが良いよ。
432 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:26:50.97
卑弥呼はモモソ媛命で、説明がつく。
433 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 15:40:37.93
>卑弥呼はモモソ媛命で、説明がつく。
しかし纒向遺跡の説明ができない。
モモソが卑弥呼だという証明は絶対にできないね、別人だから。
ただし、畿内説にとっては生命線だから、詐欺を言い張るだけ。
435 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 15:51:24.19
卑弥呼がモモソ媛命ならば、
狗奴国(コノ国)の男王・卑弥弓呼と、副官の拘右智卑狗は、それぞれ
許乃国(コノ国)の領主だった武埴安彦命と、
その外戚だった河内彦のことだよ。
狗奴国王の乱とは、つまり、
ヤマト王家の庶系の王族だった武埴安彦命が、
その外戚だった河内彦にそそのかされて、
モモソ媛命(卑弥呼)や三巻入彦(崇神天皇)に対して謀反を起こした戦争。
436 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 15:52:00.75
>恐ろしい厄物たる毒書ホツマ
日本書紀とホツマは同じく太陰暦で書かれ同じ長さで書かれている。
太国にとってホツマがなぜ毒となるか?
それは、太陰暦で書かれ、正朔の文字の存在する書記は、後付と称して強引に書き換えることが出来たが
ホツマの書き換えに失敗したからである。
簡単に言えば、同じ長さと同じ太陰暦であるにもかかわらず、ホツマに太国倍年を重ねられない。
だから、太国倍年を主張する限り、ホツマは太国倍年の毒として致命傷を負うからである。
唐松さん、なんで偽書を信仰してるんですか?
438 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 16:08:19.53
>日本書紀とホツマは同じく退院歴で書かれ同じ長さで書かれている。
それは全部インチキだ毒だとは、コチラは申していない。役立つところ
があるも両刃の剣であって〜
オマエのような日食が数日間も継続するとかいう大ウソをオマエの退院歴
に記録として存在するという根源を海だしたその秀魔電笑の恐ろしさを
言ってるんだよ。秀魔電の中には当然朝廷の厳正なチェックなんどない
わけで、記紀の記述の転覆を企てているオマエが把持しているアマテラス
男神節という大ウソの蔓延菌のタネが潜伏している。
つまり秀魔電は危険史想の書である。
439 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 16:52:32.15
>>437 >なんで偽書を信仰してるんですか?
それは、書記の主張する通り太陰暦で、歴史の長さに出来たからである。
太陰暦を正しいとすれば、書記もホツマも記事に齟齬は出ない。
太国も認める如く書記では得られない記事が得られる。
例
倭女王=難升米率善中郎將・倭王=掖邪狗率善中郎將・壹與=掖邪狗率善中郎將
倭王と壹與には関係がある。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
同じ答えを得ることのできる書物としてホツマしか存在しない。
だから使用するのである。
440 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 17:01:22.86
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜
〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。><
成務の代に成務のでない領地があったと認めたオマエの説は、
景行当時に日本統一が出来ていないことを吐露した。
つまりオマエ自身の論がオマエ自身の論での首を自ら絞めたこととなる。ww
なお毒書厄物ホツマはそんじょそこいらのタダのオッサン
が恣意的妄想を注入して書いた危険史想の書である。
>>439 偽書は、読み手を眩惑しようとしていますから、
わざとそういう風に出来ています。
442 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 18:00:52.17
>読み手を眩惑しようとしていますから、
書記の記述と齟齬をきたさない読み方であれば、偽書と断定することはできない。
書記の太陰暦を後付と主張する輩には、太陰暦が使われているホツマは偽書に認定しなければ
その主張が否定されるホツマを偽書と偽ってでも排除する必要がある。
で、君はどの記事を持って偽書と断定するのか聞かせてくれ?
>>442 偽書は正当性を主張するために、はなからインチキに見えないよう、
本当を混ぜ込んでいるのは当たり前。
444 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/05(木) 18:16:39.94
>>443 出来ないということね。ハイさようなら。
>>444 ホツマ真理教を信仰してるのね?
ハイ、さようなら!
446 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 18:50:15.66
447 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 18:55:14.39
>〜退院歴が使われているホツマは偽書に認定しなければ
>その主張が否定されるホツマを偽書と偽ってでも排除する必要がある
おいおいオマエ、大丈夫か〜??
意味不明?? えらく支離滅裂の書きこみだ?
448 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/05(木) 18:57:32.22
449 :
19歳某国立大生:2012/01/05(木) 19:11:27.07
喫丹古伝に卑弥呼が朝鮮にいたことが書かれてるってほんとか?
451 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/05(木) 21:47:49.49
>>449 初耳だ。そういう情報はえてして胡散臭いのが多いから、何とも言えないが。
ちなみに三国遺事の駕洛国記?にも卑弥呼の記事が出てくるらしい。
半島の古文書は、捏造は少ないけど、製作年代は新しいから要注意。
453 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:17:03.66
>>381>>382 ↑
だから、畿内説ってこんなんだろ?
終わってるよなキレーに。ほぼ自己申告だよな。
454 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:18:54.37
455 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:28:37.86
喫丹古伝なんかに食いつく奴て
どういうオツムをしてるんだろう?www
俺も食いついて しまったっ(汗)
喫丹古伝、駕洛国記になんち書いてるん?
卑弥呼って長生きしたんだなあ
朝鮮半島とスサノオの関係は結構有名なのですが、
喫丹古伝では邪馬台国が馬韓に在った?これは、いままでに聞いたことすらないな」。
どっからこの情報を仕入れてきたのか知らんが、まず原本をろくにみてもいないのに
喫丹古伝なる本を批判するのもどうかと思う。
昔から居る460さんでも知らない情報を19歳君はよくもってこれたな、少し感心する。
喫丹古伝なる本に邪馬台国は馬韓に在ったなんち事
知ってた人おる?
え、もしかして俺だけが聞いたことなかったのかな?wwwww
もう、仲間はずれはよしてくれよぉw
463 :
19歳某国立大生:2012/01/06(金) 10:25:49.36
ごめん。喫丹古伝には卑弥呼が朝鮮にいると書いてあるんじゃないみたいだ。
卑弥呼の祖先がいた元の国が朝鮮にあったらしい。
鮮卑系民族でのちに日本に渡来したとさ。、この書物は資料価値があんまり高くないようだから
専門家も研究対象としては使ってなさそうだな。全然話題にも出ないし。
464 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 11:19:50.61
@其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
A正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、
北史 倭國
❶漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
❷至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
❶倭女王=難升米率善中郎將 書記:難斗米 難=奴=那
❷倭王=掖邪狗率善中郎將 邪馬臺國=大倭=大和
❷壹與=掖邪狗率善中郎將
女王卑弥呼と倭王が別人であることは疑いない。そして壹與は倭王により卑弥呼の後継者に選ばれる。
使大倭(邪馬臺國)監之 自女王(壹與)國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、
於國中有如刺史。
465 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/06(金) 11:37:48.90
契丹古伝のような本は、当然、学者はまともには扱わない。
しかしそういう本に却って真実の一端が書かれていることもあるのである。
並みの学者の限界は、まともな資料しか扱わないところにある。
知の巨人といわれる人たちは、どんな偽書やトンデモ本にも興味を示すものである。
466 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 11:59:09.09
倭奴國 歴年無主。で説明できるのは、3世紀初頭で終了する前原王墓。
邪馬臺國は晋書正始元年東倭重譚納具。で説明できる大和。
大和が九州に上陸するのは、庄内式土器で説明できる景行。
景行が壹與(5百野姫)と軍隊を筑紫に派遣。
日本武尊16才で九州へ。(景行元年生まれであるから、255年の出来事)
神功渡海はこれから20年ほど後の274年 晋の冊封体制への参加(軍の派遣)
布留1式期の初めであり、西新町遺跡に半島の土器が存在する直前。
遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
250年ころから庄内式土器の影響を受け、神功渡海時に滅亡する。
467 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 12:00:46.41
>❷倭王=掖邪狗率善中郎將 邪馬臺國=大倭=大和
>❷壹與=掖邪狗率善中郎將
国名では「臺」の漢字を使い、人名では「壹」の漢字を使っているのは、
この男が恣意的に自分の論の都合にいいほうを選択したものであり、
遠まわしにデタラメであることを物語る。ww
468 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 12:03:04.16
景行が壹與(≠5百野姫)と軍隊を筑紫に非派遣。
469 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:57:25.69
おまえら、なぜ、偽書で、そこまで熱くなれるんだw?
470 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/06(金) 13:09:29.47
使大倭(邪馬臺國)監之 自女王(壹與)國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、
於國中有如刺史。
太国がこれを否定したければ、
阿蘇の山奥に住むという卑弥呼で主張したらいいんじゃないか?
日本武尊は8才で九州に遠征したのか
472 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 13:33:52.20
>>470 オマエは文献名が書けない。
つまり自身がないわけだ。五重在位とかいう2ちゃん最高級の超噴飯論を
書き出すときはコソコソやるようだからな。ppp
あるときは「臺」〜〜またあるときは「壹」で、都合に合うよう平気で
漢字の取替えっこを演じている。これでは信用はまるで無く、点数は
0点を下回る。ww
473 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 13:38:27.34
>>470 オマエは文献名が書けない。
つまり自身がないわけだ。五重在位とかいう2ちゃん最高級の超噴飯論を
書き出すときはコソコソやるようだからな。ppp
あるときは「臺」〜〜またあるときは「壹」で、都合に合うよう平気で
漢字の取替えっこを演じている。これでは信用はまるで無く、点数は
0点を下回る。ww
>>471 ほぼそのとおり。現今での年代計算でそういうこととなる。
だから彼を 日本童男 というわけ。
474 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 13:56:14.97
>❷倭王=掖邪狗率善中郎將 邪馬臺國=大倭=大和
>❷壹與=掖邪狗率善中郎將
国名では「臺」の漢字を使い、人名では「壹」の漢字を使っているのは、
この男が恣意的に自分の論の都合にいいほうを選択したものであり、
遠まわしにデタラメであることを物語る。ww
これ↓もそこからの選択。景行に合わせたいため弥馬獲支を ? とする。
唐松山説
伊支馬=垂仁 弥馬獲支?
第二唐松山説 ↓何故こうしない?
弥馬獲支=崇神 伊支馬?
伊支馬を?としたくないのは、景行に合わせたいがための恣意的操作。
インチキは不自然な箇所がところどころに現出し、虚像と見破られる。><
475 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 16:39:25.18
東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
477 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:55:45.76
>>476 そのコピペ、よく見るけど
どこのテレビ局か、もっと分かりやすく書けよ。
>>476 そんなこと、みんな知ってるからわざわざ書くな。
TV局は全部、電通が支配してるし、
NHKの子会社(NHK幹部天下り先)は電通が筆頭株主。
その電通は在日コリア企業であり、反日CIAのエージェント。
日本人のための局なんかあるはずないじゃん。
つーかテレビなんてほとんど観ないけどなwwwww
480 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 09:34:45.71
>>457 おい、黒歯国って、お歯黒とは何の関係もないぞ
単に「こくし」と発音していた国を、中国でその漢字に当てただけだ
481 :
19歳某国立大生:2012/01/07(土) 09:41:00.73
金スマみたけどAKBも苦労してるんだなあ
482 :
ローガン:2012/01/07(土) 16:25:48.49
ドン来い
>>801:あらため だよん
張政等の来倭目的は、六年詔に基づいた集兵、出兵要請。「黄幢」とは出兵を促す道具。
呉書周魴伝に「乞請幢麾數十以爲表幟使山兵吏民…」とある。山兵を集兵する為に幢麾數十を乞うている。
黄幢も同じ。旗を渡すという行為は、渡す側の集兵作戦。倭人伝にある檄も人を集める為の木札。
魏は韓で戦争をしている。軍の派遣要請と考えるのが妥当。その最中、太守戦死等により、六年詔に基づく行動が八年以降にズレる。
八年以降、来倭した張政等は、自軍中郎将難升米と、臺與に檄を為す。何故13才女子に檄告諭したのか?
それは当然、その時点で彼女が倭王だったから。 つまり卑弥呼→男王→臺與の流れはごく短期間。
黄幢下賜が使者の来倭目的ゆえ、長期滞在は無い。 その短期間のうちに使者は、死後間もない卑弥呼の墓の作冢現場を見た。
墓の規模を記録する際に必須事項である高さについての言及がないと云う事は、造り始めて間もない段階だったのだろう。
この円墳が箸墓である。箸墓は完成時には、高さ19mまで土盛りしている。この搬入路として作られ、使われたのが、所謂「前方部」である。
一見、左右対称に見える前方部だが、隅角の勾配が違う。緩い勾配を持つ隅角(概ね向かって左側)が円墳への通路となる。
本設としての墓道であるとともに、円墳築造時の仮設通路として設けられたものが後世「前方部」と名付けられた部分。
「前方後円墳」と云うのはあくまでも現代の認識。釈日本紀引用筑後国風土記逸文に
「有筑紫君磐井之墓墳高七丈周六十丈 墓田南北各六十条東西各四十丈」
この墓墳の規模は八女岩戸山の後円部と同じ。それ以外は墓田、つまり墓域と古代では認識された。
繰り返しになるが、前方後円墳は、その名称が出来るまで、丸い部分が墓であると理解された。
私とローガンさんとで、意見が食い違ってるようで、
私達のどちらの言ってることが支持できるのか、みなさんに観て貰いましょうよ。
大体、ローガンは「倭人伝自信あるよ」言ってる私に、考古学ならまだしも、
「倭人伝」で勝負を挑んでくる事態、間違ってるのであり、とても議論が長けてるとは思えんw
まあ、「すべて誤字やん」て片づけてしまう
ローガンぐらい、軽〜〜〜くひねってやろう思うww
見てきたような嘘を言うな>ローガン
>箸墓は完成時には、高さ19mまで土盛りしている。
>この搬入路として作られ、使われたのが、所謂「前方部」である。
純粋100%完全な嘘だなw
485 :
19歳某国立大生:2012/01/07(土) 19:34:15.00
別スレでも書きましたが、古代の土木工法では箸墓クラスの墓を造るのに
毎日2000人を動員して8時間労働させて、10年超かかるそうです。
仁徳天皇陵クラスで15年だそうです。箸墓造り着工は250年前後であり
その後男王が立つも服さず、戦乱状態となるので墓造りなどしてる場合では
なくなるので墓造りは中断されます。
壱与が女王の座に就いたのは260年前後とみていいでしょう。
そこから即墓造りをしたと考えるよりまず国力の回復に努めると
考えたほうが自然かもしれません。国力も回復してないのに
大規模な公共事業に着工するのは民間人からも怨嗟の声が充満するはめになりますし。
そのような悪政をしていては再び国が乱れかねません。
なので墓造りを再開後、完成に至るまでかなりの年月を要したとみていいのでは
ないでしょうか?現代の第2東名ややんばダムと同規模の公共事業だったと
考えていいと思います。周壕から出た土器編年に完成時期を合わせると
やはり280年前後に完成した可能性が高いです。あるいわもう少し早く
260年代に完成したとみるべきでしょう。
鐙は4世紀初頭のものと考えるしかありませんw
>ローガン:2012/01/06(金) 23:33:04.80
>改めさん。倭人伝読んだら魏に対しての援軍要請なんか書いてないのは明らかなんだから
>
>>790氏に説明うける前に粗方 把握しないと…。
>あらため だよん:2012/01/06(金) 23:43:57.11
>何言ってるの???眠たいのかい?ローガンさん
>軍隊が実際に倭に来たのか?来てないのかは?は置いといて、
>「要請」はしていますよ。
↑ここだったと思うが、倭人伝でいうと以下の部分になる。
正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、犭付、短弓矢。
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。
【倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。】
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。
政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
487 :
ローガン:2012/01/07(土) 20:20:16.04
その段落の記述は時系列。
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。」の起因は何?
解釈でなく、元の文を書いてちょうだい。
>>482 その文章は 臺與女王にしろ、短期間にしろ
とくにオカシイことは言ってないと思いますが・・・
ドンコイのレス
>倭人伝読んだら魏に対しての援軍要請なんか書いてないのは明らかなんだから
という認識はオカシイと思う。
其六年、の「黄幢」については、
ローガンさんの言ってるように「魏国からの軍事要請」の可能性もあるのですが、
其八年に限っては、あきらかに「倭国側からの要請」である。
>魏に対しての援軍要請なんか書いてないのは明らか
と言ったのはどこをみて言ってるんでしょうねえ?
ローガンさん
其六年、の「黄幢」については、諸説言われてることでして
以前ですね、其六年、の「黄幢」と 其八年、の「黄幢」について調べた事があるんですが、
まず、難升米が率善中郎將になった証という意味で授けられたていうのがあって、
他にも、ローガンさんの言うように「帯方と倭で協力して韓民族を抑えようとした」説なんかもある。
また、一般的に言われてるのは倭と同盟的な証(同盟ではないが・・・)でしょうね。
其六年、の「黄幢」が
帯方と倭で協力して韓民族を抑えようとした というのは大いに考えられると思いますよ。
いずれにしても諸説ある中の一つでして「ありうる」ダケしか言えないと言いますか、
ハッキリと其六年の記事が韓民族を抑える為にとは書いてありませんので
なんとも言えないのが現状でしょうね。
491 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 20:41:59.80
>>485 まあ一見きれいに説明できたつもりだろうが、大和に鉄が流入するのは崇神世の任那建国
後の朝貢からだ。ということは、モモソ姫の葬儀に似つかわしくないのが今の箸中山古墳
をモモソの墓とすることなのだ。だから、昔の編年は箸墓を4世紀としていたのである。
つまり、モモソ姫の墓とする場合は、木鍬、木鍬で作らなくてはならない。
鉄器を使っても10年かかるならば、木器だと100年ぐらいかかるんじゃないか?
つかマジメにC14信じてるのか?どんだけ考古学知らずだ。あれはピンポイントなど不可能、
前後100年以上の±があっても不思議じゃない。まだしも土器編年のほうがまし。
493 :
19歳某国立大生:2012/01/07(土) 20:50:34.90
C14はたしかに測定物がその時代のものをピンポイントで
表してるわけじゃなく、違う時代の物も混ざってるケースがあるらしいな。
まだ年輪年代のほうが精度が高いようだ。
ホケノ山や石塚は3世紀中盤と認定されてるんだし、
とりあえずその時代に畿内に大規模な王権があったというのは事実でしょ。
>>487 >「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。」の起因は何?
>解釈でなく、元の文を書いてちょうだい。
起因ですか?もちろん、女王卑弥呼による献上でしょうねえ。
他に何かある?
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」
495 :
ローガン:2012/01/07(土) 21:03:35.32
>>488 >どこをみて言ってるんでしょうねえ?
書かれているのは「説相攻撃状」
倭からの援軍要請なのか、魏の出兵要請に対しての断りの口実なのかは、解釈。史料実態はあくまで「説相攻撃状」であり、援軍要請など記述されていない。
さて六年、詔はあれど黄幢は倭に届いていない。八年以降、詔が出た記述は無いのに、詔書と黄幢が届く。
つまり、この2件は同じもの。そして旗を渡すという行為は、上で書いたように渡す側による集兵。
六年の詔が何故出たか?は倭人伝には無いが、先に読む韓伝にある。
ん?私ですか?
私はですね、ローガンさんが、細かいところを突いてくるので
困ってしまったんですがW
私は、其六年の「黄幢」は
>>489の諸説ある中の3番目というか、
「一般的に言われてるのは倭と同盟的な証(同盟ではないが・・・)でしょうね。」
といったとおり、仲間内の一つの儀礼として授けたのではなかろうかと感じています。
そして、魏は倭に何を求めてたか?と言うと、朝鮮半島の制圧ではありません。
この時代は三国時代であって、魏・呉・蜀といって中国大陸を三分にした戦いでもあった。
「倭」というのは、會稽、東冶の東にあり、ここでいう魏にとって最大のライバルでもある、
呉をけん制するために、倭国の存在は魏にとって欠かせなかったのであろう。
その倭国朝献は大いに喜ばれたのではなかろうか?魏にとって朝鮮半島の制圧が目的ではありません。
>>475 >書かれているのは「説相攻撃状」
>倭からの援軍要請なのか、魏の出兵要請に対しての断りの口実なのかは、解釈。史料実態はあくまで「説相攻撃状」であり、援軍要請など記述されていない。
あちゃ〜それは、ローガンさんの認識がオカシイですゎ。
>さて六年、詔はあれど黄幢は倭に届いていない。八年以降、詔が出た記述は無いのに、詔書と黄幢が届く。
>つまり、この2件は同じもの。そして旗を渡すという行為は、上で書いたように渡す側による集兵。
>六年の詔が何故出たか?は倭人伝には無いが、先に読む韓伝にある。
韓伝のどこにあるって?
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩
この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?
>さて六年、詔はあれど黄幢は倭に届いていない。八年以降、詔が出た記述は無いのに、詔書と黄幢が届く。
>つまり、この2件は同じもの。
ん?何言ってるの?難升米さんは二度「黄幢」を貰ってるべえ?なあ〜みなさん?
>そして旗を渡すという行為は、上で書いたように渡す側による集兵。
意味不明。
ローガンさんも図書館に行って、
邪馬台国の本読んで来た方がいいんじゃね?なあ〜?みなさんW
あのねえ、ローガンさん
>「黄幢の旗を渡すという行為は、渡す側による集兵
なんて、ドンと来いの無限ニョさんでも、そんなバカなことは言わないよWWW
馬鹿だね〜ローガンさんはWWW
501 :
ローガン:2012/01/07(土) 22:16:57.77
>>500 >馬鹿だね〜ローガンさんはWWW
では、もう結構。二度とレス付けないでね。
だって〜
>黄幢の旗を渡すという行為は、渡す側による集兵
なんて、失笑するしか無いだろうWWW
河童さんよりもヒドイというか
たぶんドンコイの名無し連中の前では通用してたのだろうが、
他のコテさんにも聞いてごらんよ。ローガンおまえ〜馬鹿だろ?て言われると思うょ。たぶん
503 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 22:50:11.31
>>493 何度か土器編年の表を出したがよく見ていないのかあきめくらなのかわからないが
2世紀末の土器の流入は年輪年代、その材木の炭素を量れば、炭素も年輪と同じになる。
それが、ホケノ山(225〜250年)箸墓(260±?)である。
土器編年もこの数字で齟齬が無いとする。
だから、箸墓の完成を280年ころには設定できないのである。
葬儀とは墓に埋葬して行うものであるから、葬儀が行われたということは、崇神10年死亡なのだ。
葬儀が行われなければ喪の期間。
504 :
ローガン:2012/01/07(土) 22:53:02.46
>>502:あらため だよん
>だって〜
>>黄幢の旗を渡すという行為は、渡す側による集兵
>なんて、失笑するしか無いだろうWWW
その理由は問われる以前に記述済み。
人のレス読みもしない、具体的な反論など一切出来ず、切り返しの質問ばかり、その挙げ句馬鹿呼ばわり。
君が私の立場だったとして、そんなゴミクズと会話を続けようと思いますか?
505 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 23:01:36.73
>>493 景初2年は景初3年であると言い負かしたように、天狗になっているがもう少し学生らしく
文献だけで否定できなかったのか?
同じことを文献のみでやってやろうか?
晉書卷一 帝紀第一 宣帝
時有長星,色白,有芒鬣,自襄平城西南流于東北,墜於梁水,城中震慴。文懿大懼,
乃使其所署相國王建、御史大夫柳甫乞降,請解圍面縛。不許,執建等,皆斬之。...
曰:「古之伐國,誅其鯨鯢而已,諸為文懿所詿誤者,皆原之。中國人欲還舊鄉,恣聽之。」
時有兵士寒凍,乞襦,帝弗之與。或曰:「幸多故襦,可以賜之。」帝曰:「襦者官物,人臣無私施也。」
妖星客星
景初二年八月,彗星見張,長三尺,逆西行,四十一日滅。占同上。張,周分野。 十月癸巳,客星見危,
逆行,在離宮北、騰蛇南。甲辰,犯宗星。己酉,滅。占曰:「客星所出有兵喪。虛危為宗廟,又為墳墓。
客星近離宮,則宮中將有大喪,就先君於宗廟之象也。」三年正月,帝崩。
どうだ?
この二つの文献があれば有無もないだろ。
え、、、とですね。
卑彌呼と卑彌弓呼の不和があって、
互いに攻撃し合う様子を、倭の使者が帯方郡に報告に行ってるんです。
そして、張政等が倭に赴いて、この事件の問題解決へと導いてるのです。
そして、「ありがとう」と言わんばかりに女王壹與は、使いを出して張政等を郡まで送り、
そのついでに洛陽まで行ってるというストーリーですよ。
ローガンさんは、本当に倭人伝を読んだことあるのだろうか?
で、506で書いたストーリーの中にどうして
黄幢の旗を渡す行為は、渡す側による集兵となるんだい?
>>504 これかい〜?
>張政等の来倭目的は、六年詔に基づいた集兵、出兵要請。「黄幢」とは出兵を促す道具。
張政等の来倭目的は〜ちがうよ、ちがうって。
倭人伝のストーリーをよく読めょ。
>呉書周魴伝に「乞請幢麾數十以爲表幟使山兵吏民…」とある。山兵を集兵する為に幢麾數十を乞うている。
>黄幢も同じ。旗を渡すという行為は、渡す側の集兵作戦。
出発点の「張政等の来倭目的」が間違ってるので話になりません。
>倭人伝にある檄も人を集める為の木札。
檄文はここにかいてある
自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書ですよ。激励という意味。
http://dic.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&dtype=2&ei=utf-8&p=%E6%AA%84 >魏は韓で戦争をしている。軍の派遣要請と考えるのが妥当。その最中、太守戦死等により、六年詔に基づく行動が八年以降にズレる。
ストーリーは見えてない証拠と思う。
>八年以降、来倭した張政等は、自軍中郎将難升米と、臺與に檄を為す。何故13才女子に檄告諭したのか?
>それは当然、その時点で彼女が倭王だったから。 つまり卑弥呼→男王→臺與の流れはごく短期間。
うんうんコレはいいと思いますよ。
>黄幢下賜が使者の来倭目的ゆえ、長期滞在は無い。 その短期間のうちに使者は、死後間もない卑弥呼の墓の作冢現場を見た。
そうですね、そうですね。
>墓の規模を記録する際に必須事項である高さについての言及がないと云う事は、造り始めて間もない段階だったのだろう。
高さについての言及がないのは、よくわかりませんわ。
>この円墳が箸墓である。箸墓は完成時には、高さ19mまで土盛りしている。この搬入路として作られ、使われたのが、所謂「前方部」である。
前方後円墳の前方部については諸説ありますが、搬入路とみてもいいと思いますよ。
>一見、左右対称に見える前方部だが、隅角の勾配が違う。緩い勾配を持つ隅角(概ね向かって左側)が円墳への通路となる。
>本設としての墓道であるとともに、円墳築造時の仮設通路として設けられたものが後世「前方部」と名付けられた部分。
>「前方後円墳」と云うのはあくまでも現代の認識。釈日本紀引用筑後国風土記逸文に
>「有筑紫君磐井之墓墳高七丈周六十丈 墓田南北各六十条東西各四十丈」
>この墓墳の規模は八女岩戸山の後円部と同じ。それ以外は墓田、つまり墓域と古代では認識された。
>繰り返しになるが、前方後円墳は、その名称が出来るまで、丸い部分が墓であると理解された。
墓の形状に関しては、ここでは問題になってませんし、別件ということで・・
510 :
ローガン:2012/01/07(土) 23:33:25.68
>>507 君程度の考え等、全て折り込み済みで書いたのが、
>>482 読んでから反論があるなら、用例を添えた各論に進むだろうが普通は…。
それを、切り返しの質問と馬鹿呼ばわりしか出来ないんだから。「君が私の立場ならそんなゴミクズを相手にしますか?」と言ってる訳。
その意味も理解出来ないゴミクズ以下なのか?(笑)
メ はゴミクズです(きっぱり)
ゴミの中のゴミ 開魔招下人です
>>510 あれ〜、ローガンさんが怒ってるの?><
ていうか、あまりにもワケの分からん事を言ってたので〜アホかいっとW
誰だって言うと思うぞ。
>読んでから反論があるなら、用例を添えた各論に進むだろうが普通は…。
張政等の来倭目的以外はまともなことを言ってるようでしたので
>>488で
>とくにオカシイことは言ってないと思いますが・・・
とレスしたんですが。
514 :
ローガン:2012/01/07(土) 23:44:18.20
何を今更昼間のレスを引用しとるか。
22:53に書いた
>>504 「その理由は問われる以前に記述済み。人のレス読みもしない、具体的な反論など一切出来ず、切り返しの質問ばかり、その挙げ句馬鹿呼ばわり。
君が私の立場だったとして、そんなゴミクズと会話を続けようと思いますか? 」
に返事せんか。
ローガンがなんか怒りだしたぞWWWWWW
みんな観ろ、みんな観ろWW
さあドツボ叩きタイムの始まりだ〜
重譯納貢
518 :
ローガン:2012/01/07(土) 23:56:47.74
なんか、ローガンさんが凄い顔して怒りだして
おっかないので、逃げましょかねW あーー怖い、怖いWWW
ZZZ・・・・・・・ (´0ノ`*)
521 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 23:59:02.00
つうか傍から見ていて分けが分からないのはドツボは
>>489 >難升米が率善中郎將になった証という意味で授けられたていうのがあって
と、もし中郎将にその本来の役職の意味を見ているのであれば
「黄幢」についても老眼の解釈はそれに合致するはずだが…
まあドツボロジックを理解しようなんてのが無茶なのかもしれんがw
単に万年反抗期の中二病か?wwwwwwww
まあ自分は後漢には単なる名誉職・形骸化していたと言う理解だが・・・
難升米が率善中郎將になったのは皇帝の引見があるからだろ
無官の蛮人では引見できないから
>>521 ちなみにそれは私の考えではなく、
佐賀県の教育委員かなにかの本に載ってる例をだしたんであって
説の一つとして書いただけだよ
ああ、率善中郎將の意味について書いたの?
ていうか率善中郎將に意味もなにもないだろう。
525 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 00:17:43.18
>>522 まあ日本だと帝の前に出るのに無位無官という分けにはイカンという話やなw
526 :
ローガン:2012/01/08(日) 00:27:50.85
>>520 >ローガンの
>>482からして、トンデモだろ。
いつもありがとう。具体的に突っ込んでくれたら、私も勉強になるんだけどなあ。
527 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 00:28:12.31
意味もなにもないだろう。といっても、魏からみれば、王に次ぐ位である。
そして、洛陽を詣でる体力がある。文官ではなく武官の筆頭と見ることもできる。
528 :
ひとぶた:2012/01/08(日) 00:30:17.08
>>482 >その短期間のうちに使者は、死後間もない卑弥呼の墓の作冢現場を見た。
正始6年詔書ネタとは直接関係ないけど、
「卑彌呼以死〜殉葬者奴婢百餘人」は、一連の文章なのだから、
魏使が作冢現場を実見したと言うなら、殉葬者奴婢百餘人も実見したと言う解釈なんだろうか?
529 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 00:34:54.99
邪馬台国を大和と見るのは良いが卑弥呼を配置しようとすると
数年にわたる戦いが無ければ卑弥呼を設定できない。
本当は、魏志を使う限り相攻伐暦年である。暦年とは19年(1章)の積み重ねが暦であるから
20年前後の戦いが無ければ成立しない。
530 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 00:40:31.74
>>529 箸墓を卑弥呼、西殿塚を壱与(と男王)に当てて
その間約一世代20年とすればどうだ?wwww
>>526 張政等の来倭目的が、倭兵をたくさん集めるためだったら、
倭兵が全然いない畿内説は破綻するけど、それでいいわけね。
532 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 00:46:55.75
と言うか老眼翁の
>>482のネタで一番疑問なのは
じゃあ結局倭が魏からの要請に応じて兵を出したとして
結局「倭国が兵○人を遣した」とか言う記録は無いんだろう?
史書として、特に(陳寿がよったであろう)官府の資料としては要請のプロセスより結果を書くべきだとも思うが・・・
533 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 00:55:33.56
>「黄幢」とは出兵を促す道具。
そうかな。
「黄幢」とは魏平州軍の旗下の倭軍の軍旗。
百済が領土分与をうけてから、黄い旗を軍旗とするのは、倭の旗下の軍であることをあらわすため。
ローガンって、ややこしい議論にシラッと大嘘を混ぜ込むんだよな。
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩
この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?
536 :
ひとぶた:2012/01/08(日) 00:58:25.44
>>532 > じゃあ結局倭が魏からの要請に応じて兵を出したとして
> 結局「倭国が兵○人を遣した」とか言う記録は無いんだろう?
> 史書として、特に(陳寿がよったであろう)官府の資料としては要請のプロセスより結果を書くべきだとも思うが・・・
皇帝直々の出兵要請をスカされたら結果なんて書けないでしょう。
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。」
これだって、倭が魏に対して言い訳していると言うよりも、二年近くも詔書をたな晒しにした帯方郡が都に対してした言い訳でしょう。
要は出兵要請が有ろうが無かろうが、倭にはそんな国力は有りませんでした、だけど渡すべきものは渡しに行きました、と言うこと。
538 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 01:14:58.98
539 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 01:20:40.44
崇神天皇十一年(甲午前八七)是歳◆是歳。異俗多歸。國内安寧。
この文がある限り、畿内は安寧である。
>>539 紀は年代を古くして書いたりしてるので、
字面通りに信用してはダメだろ。
541 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 04:38:28.63
>>540 考古学に合わせて読む必要がある。
旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。
七支刀=369年では、半島占拠は否定される。つまり書記の主張と齟齬を生じている。
そして、この数字が正しいとするのは、百済本紀のみである。他の文献とは整合しない。
考古学が、“半島占拠が否定される”数字を捨てたのであれば、文献史学は、考古学の主張
する数字に書記(歴史)を合わせねば整合しない。
土器編年
>>418 倭人伝の読み方
>>464
542 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 07:07:47.23
>>533 たとえば、難升米(梨迹臣命)が、倭軍の指揮官として半島へ出兵したら
それを、魏は、倭が三韓に侵略したと見なし
魏による国際秩序を倭が乱したとみなす。
しかしながら、難升米(梨迹臣命)は、魏から武官の官位をもらっており
魏の旗をもらっているから、半島へ出兵しても
それは、魏の軍隊とみなされるから、魏への挑戦行為とはみなされない。
543 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 11:04:10.39
>崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。
後代の成務の年代に空年が57年分存在しないことは自明であるから、それより
上代の編年は57年分狂うわけであり、上の崇神の年代主張はメチャクチャと
判明。つまりデタラメである。
544 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 12:22:37.92
>>542 この時代に、勝手に倭軍が渡海したのであれば、命令を出していないのに出兵したことになる。
軍務違反にあたる。軍は命令どおりに動かねば、戦争に負ける、だから軍務違反がどのような罰を受けるか
545 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 12:28:10.87
>>543 金石文七支刀が4世紀の指標である。
七支刀を使って、渡海から半島占拠までを事実とできる数字がただしい。
546 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 12:35:12.58
>>542 神功渡海は、この軍務命令による、倭軍の初渡海である。
だから、この渡海を274年であると主張するのである。
倭の出雲軍を忘れているな
>>541 フランス王朝史にプロイセン皇帝を宛てはめていくような無駄な努力は、意味がありません。
549 :
ローガン:2012/01/08(日) 15:40:19.81
>>528:ひとぶた
>魏使が作冢現場を実見したと言うなら、殉葬者奴婢百餘人も実見したと言う解釈なんだろうか?
いや、そうではなく、
誤解を恐れず云えば、葬と墳頂の儀礼を、現代の葬式と納骨という風に分けて考え
死直後の屋内儀礼を葬と捉え、その葬に多数徇ったという解釈です。
「卑彌呼以死」既に死し なので、死直後の殉死を現認したとは読めません。
つか魏使はその築造中の1回しか邪馬台国に来なかったわけ
あるいは完成後の情報とか伝わらなかったわけ???
551 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 16:33:12.59
>>547 出雲は崇神の末には大和の配下である。
この後に任那からの朝貢がくる。朝貢の証拠とできるものは
3世紀初めの大型建物に古韓尺が使われる。
ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓、楽浪鏡。完全に半島の影響があるが
楽浪鏡は半島南部では出土せず楽浪と日本のみ。←公孫氏と接触が考えられる。
552 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:30:47.74
震災前
/::::::::::::::::::::::::::::::;;::ノ ヽ;::\
/::::::::;;;;;;;;;,,,;;...-‐''"~ ヽ:;::l
|:::::::::::| 岡田 異音 |ミ|
|:::::::/ ,,, ヽ,、 '|ミ|
'|:::::::l '''"" ゙゙゙゙` |ミ|
|:::::|. ,,r ‐、 ,, - 、 |/
,/⌒| ノ ・ _), (. ・ `つ|
| ( "''''" |"'''''" |
ヽ,,. ヽ |
| ^-^_,, -、 |
| _,, --‐''~ ) | マニフェストもう守れない。どうしよう・・・・
'ヽ ( ,r''''''‐-‐′ /
震災後
|:::::::::/ |ミ|
|::::::::| ,,,,, ,,,,, |ミ|
|彡|. '''"""'' ''"""'' |/
/⌒| -=・=‐, =・=- |
| ( "''''" | "''''" |
.ヽ,, ヽ .| キリッ
| ^-^ |
. | ‐-===- | 大震災が起こったのだからマニフェストの破綻も致し方ありません
,\. "'''''''" /
朝鮮民主党
おわり
>>551 古韓尺ってなあに?
>『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという
これって徐福のことだよね
辰韓に本拠を構えた徐福が蓬莱調査のために日本へやってきた
これが日本各地に残る徐福伝説の正体
その子孫が後年日本へ亡命してきたのが秦氏
始皇帝の子孫なんてのは誇張しすぎだけどw
秦氏が日本へ持ち込んだのは始皇帝の時代の尺度で、古韓尺なんて変な名前のものではありませんから
554 :
19歳某国立大生:2012/01/08(日) 19:44:44.61
尾張氏系図と海部氏系図、全く異なる文献に同じことが書かれてるから
信憑性は高いとみていい。海部氏系図は最近まで一族が保管してて門外不出だったし。
日女命(ひめみこと)=モモソ姫 と書かれていて、兄弟に弟彦がいて、
その孫に小止与(おとよ)がいる。かつ同時代に崇神までいると書かれてるわけで、
ここまでくると偶然の域を超えるだろう。唐松山や太い国産とか
記紀のくだらん解釈ばかりしてるが他の文献に目を移したほうがいい。
555 :
19歳某国立大生:2012/01/08(日) 19:56:38.04
箸墓も短期で造れるような代物じゃないよ。
長期で行った公共事業とみるべきで途中戦乱による
中断期間があっただろうから、周壕から出た土器編年どおり
280年代に完成したとみればいいだけの話だ。
それですべて整合する。
556 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:58:39.41
>>554 海部氏系図ってのは、記紀の系図や新撰姓氏録、
物部氏の旧事本紀とも微妙に違うよ。
ただし、微妙に違うだけで、大方が同じだ。
よって、戦後の反皇国史観論者が言うように
記紀の系図が全くの創作されたものという解釈はおかしいw
海部氏の系図は間違いだと思うよ。
尾張氏の系図とゴチャゴチャになっているし。
おそらく、尾張国にいた尾張氏が、丹波のほうの領主も兼ねていたから
あういう混乱した内容になっているのであろう。
モモソ媛命に関しては、記紀などにあるように
孝元天皇の兄妹だという系図のほうが説明しやすい。
ただし、ヤマトトトヒモモソ媛命という名前なんて
本名というよりも、身分を表した通称だから、
海部氏のほうにも、自らがモモソ媛命だと主張した女性がいても
不思議ではない。
557 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 20:00:28.38
モモソ姫が、大物主に嫁ぐとは、モモソ姫が三輪山の斎女となったことをあらわす。
斎女になる条件はヤマト姫の場合と同じである。何が条件か知っていないからそんなことが言えるんだ。
条件を教えよう、条件は、出産時の母親の死亡、つまり、モモソ姫の誕生=母親の死亡。
だから、年上の兄弟は可能でも年下はいない。
558 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 20:09:18.99
四道将軍派遣の目的は、騒動未止。結果は、畿内安穏。
つまり、乱に設定できる時空が存在しない。
纏向遺跡は、2世紀末の始まりから、箸墓築造まで、平和的に発展し続ける。
これが、庄内式土器期だ、ここで、土器編年が布留式に変わる。この変化は何を意味するか?
それは、政権の中枢が纏向から他に移ったことをあらわす。
丹波への派遣は、最初から丹波の地が目的地だったのだろうか?
それとも山陰道制覇が目的だったけど抵抗勢力がいて丹波から先には進めなかったということなのだろうか?
560 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 20:22:52.72
>箸墓も短期で造れるような代物じゃないよ。
モモソ姫の葬儀は崇神11年。
葬儀の後で箸墓を築造しても、モモソ姫の葬儀は死亡直後に終了している。
天皇の場合、死亡から葬儀まで1,2年程度が多い。ということは、死亡から葬儀までの間が喪の
期間であり、葬儀をもって終了する。
だから、箸墓(箸中山古墳)はモモソ姫の墳墓とはできない。
では誰の墓か?天武元年に”箸陵”が登場する、陵とは、天皇の墓である。
箸陵(箸墓)は260年ころ死亡した天皇の陵である。
誰の墓かを推定すれば、ホケノ山に葬られた天皇の次の天皇の可能性が最も高い。
561 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:33:22.96
卑弥呼が死んだあと、乱があったというのは
四道将軍派遣戦争のことかもね。
動員された軍や範囲は、日本全国規模だから、かなり規模の大きい戦争だよ。
といっても、大して抵抗がなかったかも。
ちなみに、卑弥呼の死の直前の狗奴国との戦闘は、
武埴安彦命の乱だよ。彼の支配地域は、「許乃国(コノ国)=宇治の旧名」だし。
また、狗奴国の副官を拘右智卑狗とは、河内彦のことだよね。
武埴安彦命の生母や妃は、河内彦の一族だもん。
そんなわけで、武埴安彦命は幼いころ、河内で育った伝承が多く残っている。
562 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 20:38:24.95
でかい箸墓を景行にしたい創作論が朝敵宿主のデタラメ論である。
563 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 20:44:39.30
>丹波への派遣は、最初から丹波の地が目的地だったのだろうか?
吉備は、孝霊時代から大和と親戚関係がある。
だから、丹波までで、その向こうは吉備に任せることが出来る。
吉備は大和と共に発展する。
564 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:45:36.59
>>558 >四道将軍派遣の目的は、騒動未止。結果は、畿内安穏。
日本書紀読む限りは畿内平定が終わったから「四道将軍派遣」のフェイズに移行したはなっているがw
まあ実際は武埴安彦の反乱?平定がメインだったと言う想像もできるがwww
記述もそっちに割かれている。
565 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:50:52.77
少なくとも、西暦8世紀には
大まかな伝承は残っていたけど、明確な年代の記録は残っていなかった。
せいぜい、歴代の天皇の干支没年と寿命くらいだ。
しかし、日本書紀は、中国との外交で提出しないといけないから
日本側も無理して年代を記録しようとする。
なぜかというと、対中国外交で、ちゃんとした歴史書を編纂しないと
中国はその国を認めないからだ。
しかしながら、古来の日本では、どうも、暦の計算が違っていたらしく
春秋で1年と計算していたので、それを考慮せずにいると
古代の天皇の寿命がやたら長かったり、あるいは、
中国側との文献の内容も合わないわけだ。
その中で女王の卑弥呼という記述が合わずに大混乱した。
街頭人物がいないのは、
暦が違っていたことと(春秋で1年と計算していた)
西暦3世紀の倭国の政治制度や王制が複雑だったこと(祭祀王と俗世王と二人いた)
そのへんのことを日本書紀の編纂者たちは、考慮せずに
けっきょく、比較的に年代の近い神功皇后を
卑弥呼と台与の二人に合わせるという無理やりな年代を改竄するにいたった。
>>563 うろ覚えでスマン、酔っ払ってて検索する余力はない
吉備の特殊器台は4段階に分類されれて、最初の2段階は大和にはなくその時代には大和と吉備は断絶状態にあった
大和に特殊器台が現れて吉備の関係が修復されたと推測されるのは、特殊器台の第3段階以降の時代
567 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 21:10:33.47
埴安の乱は、1対1の決戦でしかない。
先忌矢可彈。爾其建波爾安王雖射。不得中。於是國夫玖命彈矢者。即射建波爾安王而死。先忌矢可彈。爾其建波爾安王雖射。不得中。於是國夫玖命彈矢者。即射建波爾安王而死。
>古来の日本では、どうも、暦の計算が違っていたらしく
残念ではあるが春秋暦の類ではなく、当時の暦法で記録されたものである。
太陰暦とは、19年(1章)の積み重ねである。正しい暦に空白年を差し込んでも太陰暦にほとんど齟齬をきたさない。
だから年初のころは詳しいが、最後になるほど記事が荒くなる。
初めは小さく、途中は適当に、死亡時で残りの全てを処理する。
崇神65年=同68年、垂仁90年=同99年。この数字が最後の数字合わせ。
568 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 21:19:45.14
>>564 武埴安彦命は、四道将軍派遣で
畿内がガラアキになるのを見越して、反乱をおこしている。
よって、四道将軍派遣自体は、武埴安彦命の反乱がメインではないと思う。
結果的に、それを察した四道将軍側が途中で武埴安彦命を倒して
その後に、予定通りに、四道将軍の派遣遠征を行った。
569 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 21:41:46.81
>>566 器台の4段階と言うのは立坂・向木見・宮山・都月の事と言うのはともかく
>大和と吉備は断絶状態にあった
と言うのは何が根拠なんだ?wwwwww
>関係が修復された
と言うからにはそれまでに交流があったものが悪化したと言うシナリオなんだよな?
570 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 22:38:44.43
19年の積み重ねだどと○鹿の一つ覚えのごとく言おうとも、暦はそんな
単純ではない。単純計算じゃぁ〜到底真の年代にはたどり着けない。ww
暦の行使はもっと多角的事情が入るものであり、それを無視して退院歴が
どうのこうの〜日蝕が数日間も続くなど〜単純脳な野郎がそんな19年の
メトン掛け算なんかで目的の年代にたどれるとの軽く考えるのは小賢しい
ものである。ww
秀魔電に冒されると骨の髄まで脳内とともにしゃぶられてしまう。
ご用心ご用心〜!
マヤの一部族のカクチケル族なんぞは、1年を400日でやっていたという。
必ずしも1年が365日でやるとは限らない。
昨年末も南太平洋の某島で日数削りをやっており、日が飛び石暦になって
しまった。このように日数が無の年代が存在するのであり、欠史八代
なんぞは月後半が空日ばかりである。だから単純計算で日数を割り出して
も全然合わなくなるのだ。やるだけ○ンマな業であ〜る。
572 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 22:57:15.88
崇神65年≠同68年、垂仁90年≠同99年
573 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/08(日) 23:01:55.58
>>567 >崇神65年=同68年
↑
ウソ この間の年代が存在する。以下のとおり
熊野奥照神社(弘前市)
崇神67年 勧請
574 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:03:17.50
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩
この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?
>>527 唐さん
銀印、「率善中郎將」、「率善校尉」ていうのは、同じぐらいの価値があり、
又、中国大陸の内臣「太守」と同等と言われてるはず。
そして、率善中郎將ていうのが外臣に対して与えられる位だった。
金印「親魏倭王」というのは、帯方郡太守よりも位が高く、皇帝は倭に対して
高い評価(過大評価?)を与えていたんでしょうなぁ。
>文官ではなく武官の筆頭
文官ではなく武官ていうよりも、内臣ではなく、外臣ていうことではなかろうか
576 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:12:06.63
>>575 過大評価ではないと思うよw
だって、魏書東夷伝に出てくる倭国は戸数からみても大国でしょう?
邪馬台国=ヤマト国で、卑弥呼がモモソ媛命ならば、
想像以上に早い時期に倭国はかなりの部分を統一していて
巨大王権の歴史も想像以上に古かったことになる。
577 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:13:25.86
>内臣ではなく、外臣
こちらは、女王卑弥呼に対する、官イクメ
>>576 じゃあ〜まっとうな評価てことでW
我等のにっぽん〜、にっぽん〜、にっぽん〜、ですからあWWW
>>575 全然違う
「率善」の部分が、蛮夷に与えられる位ということを表す
ただし外臣という言い方は適当ではなく扱いはいちおう魏の直属だ
「中郎将」の部分が武官を表しこれは将軍位
「校尉」はそれより下の尉官ということだ
だってえ 佐賀県教育なんたらの本には〜
「内臣」「外臣」という記述で載ってますよおお ><
ああ、細かく言ったらそうですよね。
「中郎将」のほうが「校尉」よりも先というか・・・
でも、大体同じぐらいですよ。
率善校尉も立派な太守と同等の「銀印」ですし・・・・・・・・
>>580 皇帝に「外臣」つまり他の王などの家来が直接会うのは難しい
そこで難升米らが皇帝に引見する前に位を与えて魏の直属の部下としたのだ
ローガンの説もこのことに基づいている
黄幢と檄を与え集兵を依頼したというのは魏の直属としてのことだろう
もちろんトンデモだが
「率善中郎將」、「率善校尉」ていうのは、もちろん任命されたわけですから
魏の直属になると思うんだが、じゃ「太守」との差は何って事になると思う。
「太守」は魏から派遣された軍の長ですから、
ここでいう場合「内臣」「外臣」という表記にしてもいいとは思うんですが如何だろうか。
585 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:36:16.74
>「中郎将」の部分が武官を表しこれは将軍位
倭女王=難升米率善中郎將
倭王=掖邪狗率善中郎將
壹與=掖邪狗率善中郎將
つまり”王”一人に対し一人の将軍。の場合は、倭国2王体制をあらわす。
だから倭王登場後も女王も登場する。
586 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:39:15.05
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
女王卑弥呼は倭奴國王位継承
邪馬臺國王に倭王位授与。
>>584 檄が集兵の札に載せる告というのは理解できるし
魏が難升米に対してそのようなことを命じる権限もあるだろう
ただし倭人伝の記述全体を通してそこまで推論するのは難しいのではないかということだ
ああ〜中郎将が、将軍位 ていうのは、そうでしょうな。
以下の文章はしらんが・・・W
589 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/08(日) 23:43:50.23
>黄幢と檄を与え集兵を依頼したというのは魏の直属としてのことだろう
帯方郡の管理下に入る倭軍の創設。
神功渡海は、晋の呼び出しに応じた倭軍の渡海。
アハハ 582さんおもしろいね。
>皇帝に「外臣」つまり他の王などの家来が直接会うのは難しい
>そこで難升米らが皇帝に引見する前に位を与えて魏の直属の部下としたのだ
>ローガンの説もこのことに基づいている
>黄幢と檄を与え集兵を依頼したというのは魏の直属としてのことだろう
と一生懸命説明していて最後に〜
>もちろんトンデモだが
だしWWW それオチかい〜W
>>590 わからんやつだな
だから大衆に行動を促すmつまり集兵の文書として立てられたのだ
通俗史を思い浮かべればわかりやすいと思うが
黄巾の乱に際して劉備らはこの檄を見て戦に参加したことになっている
後漢末には中郎将号は乱発された
ああ、ああ、ああ、間接的に「集兵」てことね。
兵が出たのか、出てないのかは置いといて・・・「集兵」の意味で用いられたと〜
>>594 普通は「義に応じる者はこの戦いに参加せよ」というような内容だ
三国志演義でよいから通読すれば当時の状況がわかるだろう
596 :
ひとぶた:2012/01/09(月) 00:00:05.68
>>549 > >魏使が作冢現場を実見したと言うなら、殉葬者奴婢百餘人も実見したと言う解釈なんだろうか?
>
> いや、そうではなく、
> 誤解を恐れず云えば、葬と墳頂の儀礼を、現代の葬式と納骨という風に分けて考え
> 死直後の屋内儀礼を葬と捉え、その葬に多数徇ったという解釈です。
> 「卑彌呼以死」既に死し なので、死直後の殉死を現認したとは読めません。
「殉葬者奴婢百餘人は伝聞で、しかも別葬なんじゃないかな」説として理解させていただきます。
でも、彼が言うのは、
>黄幢の旗を渡すという行為は、渡す側による集兵
と、なんかまるっきり180度「逆」を言ってるようで・・・
>>595 おK おK 貴方が言いたいことはなんとなく分かったが
しかし、ローガンさんの考えではそうではないと思う。
>>597 ローガンは「 ?書 陸遜伝」から用例を引いていたが、あの場合はその意味で正しいだろう
ただしあの部分に出てくるのは「幢」だ
「黄幢」となれば「黄」の部分は魏を表すから、魏の後ろ盾の証と解したほうがよいと思う
「呉書」だ
陸遜伝の場合はそうなるんでしょうねえ(知らんが・・・)
まあ、いずれにしても、ここで議論してるのはたった約2000字しかない、
倭人伝の記述にある「檄」の事を議論してるのであって、
倭人伝の記述「檄」に関しては、私の言ってるとおりです。
602 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 00:19:18.13
>>564 崇神天皇十一年(甲午前八七)四月己卯《廿八》◆十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之状奏焉。
☆『日本書紀』巻五崇神天皇十一年(甲午前八七)是歳◆是歳。異俗多歸。國内安寧。
古韓尺とは、この時代に半島、楽浪で使われた建築などに使う尺度。
>>601 普通に考えれば倭人伝の檄は「卑弥呼の後ろには魏がついている
正義は卑弥呼の側にある 迷っている者は卑弥呼の側について戦え」
というような内容ではないかと思う
だからローガンの説はトンデモと書いたのだ
ただし倭人伝の用例は特殊だということも付け加えておこう
>>603 >普通に考えれば倭人伝の檄は「卑弥呼の後ろには魏がついている
>正義は卑弥呼の側にある 迷っている者は卑弥呼の側について戦え」
>というような内容ではないかと思う
同意、同意
では、今日はここらへんで失礼しますね 眠い>< ・・・ZZZ
605 :
ローガン:2012/01/09(月) 00:46:46.58
>>603 「相攻撃状云々」を魏が知ったのは八年以降。よってこれが黄幢下賜六年詔の、事の起こりではない。 というのが史料実態。
「既に前から相攻撃状を訴えていた」などという史料に無い推測を嫌気した上で、
旗を渡すという行為の意味を考えたら当然出てくる解釈。
>普通に考えれば倭人伝の檄は「卑弥呼の後ろには魏がついている
正義は卑弥呼の側にある 迷っている者は卑弥呼の側について戦え」
旗やるから、お前ら頑張って自分達でなんとかしろ。気合いだ……って?
>>590 >激励という意味。
間違った意味「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」で使う人が72.9パーセントという逆転した結果が出ている。
607 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 00:56:50.85
旗を渡すという行為の意味を考えたら倭軍の編成。そのためには
そこそこの武器と戦い方を教える必要がある。
つまり、魏は240年にはこの国で誰が一番頼りになるかも考えて邪馬臺國王に倭王位授与。
それから、複数回の朝貢は、向こうでの軍事訓練や方策を教え込む。
体制のできた6年に倭軍編成。だから、箸墓から魏の最新兵器や武具が出ても驚くことは無い。
608 :
ローガン:2012/01/09(月) 01:01:36.01
>>596:ひとぶた
>「殉葬者奴婢百餘人は伝聞で、しかも別葬なんじゃないかな」説として理解させていただきます。
例えば、神葬祭でいうところの葬場祭が「葬」 埋葬祭が「墳頂儀礼」
使者が訪れたのが殯期間 ぐらいに考えてます。
609 :
ひとぶた:2012/01/09(月) 01:05:53.72
>>603-605 ローガン氏の主張のとおり、時系列で見れば「黄幢下賜」は正始6年に決定して、その後、帯方郡へ渡されます。
そして、年次不明(正始6〜8年)ですが、郡へ倭人側から国内混乱の報告が有り、
正始8年、太守王キの都への倭人事情の報告を経て、黄幢は、やっとのこと倭地に渡ります。
このことから「黄幢下賜」は、倭人側の事情でも帯方郡の意思でもなく、魏本国の都合で決められたものでしょう。
それが、どのような「都合」であったのか、倭人伝の記述からはわかりませんが、ローガン説どおりの可能性もあります。
しがし、黄幢下賜の目的がローガン説のとおりであれば、これは倭人側の事情を全く認知できていない魏本国の凡策で、
韓地の武寧にも窮していた帯方郡としては、実益も無い迷惑なだけの任務だったの2年も店晒しになったのでしょう。
そんなわけで、倭人伝では「黄幢下賜」の目的を敢えて書かず、単に事実関係のみを記載したんじゃないんですかね?
>>603 >普通に考えれば倭人伝の檄は「卑弥呼の後ろには魏がついている
正義は卑弥呼の側にある 迷っている者は卑弥呼の側について戦え」
というような内容ではないかと思う
当たらずとも遠からずかな。
檄告喩の場合
檄は卑弥呼側
>普通に考えれば倭人伝の檄は「卑弥呼の後ろには魏がついている
正義は卑弥呼の側にある 迷っている者は卑弥呼の側について戦え」
というような内容ではないかと思う
当たらずとも遠からずかな。
檄告喩の場合
檄は卑弥呼側だけでなく双方
つまり
狗奴国にも檄告喩している。
つまり
魏と交流のある邪馬台国と狗奴国
双方に檄告喩したと言う事はもう言わなくても判るはず。
停戦命令だ。
兵を送る必要など無かったのだ。
魏と交流のある邪馬台国と狗奴国は
その停戦命令に従うしかない。
黄幢は檄文を狗奴国へ届けるときに必要な物だ。
>>611 貴方の言ってる通りです
双方に停戦命令し、解決へと導いてるのです。
みんな〜611さんに詳しく教えて貰え〜〜〜〜他の人よりも知ってるっぞ
ではまじでねるZZZ
613 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:25:20.09
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩
この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?
黄幢を掲げて
狗奴国が攻撃を仕掛けることは
魏を攻撃することだぞ、と牽制する。
問答無用で攻撃されたら狗奴国に檄文渡せないから。
魏というか司馬懿が倭国を利用するために金印やってるんだから
だいたい中国が金印だすときは余裕がないときだしね
黄幢には当然ローガンの解釈が司馬懿の裏の思惑にあるはずだが、
書いてないっつったってそんなもん文献の表には出てこんよ
>>611 あ、ちなみに檄文は激励だし、
檄文も黄幢も狗奴国へは届けてないけどねWWW
609の、ひとぶたさんは、何か思う所があり
ジッと聞いていたが、我慢できずに告白したのだろうかWWW 寝るZZZ
617 :
ひとぶた:2012/01/09(月) 01:32:38.69
>>608 > 例えば、神葬祭でいうところの葬場祭が「葬」 埋葬祭が「墳頂儀礼」
> 使者が訪れたのが殯期間 ぐらいに考えてます。
ただですね、倭人伝の風俗段では、
「其死有棺無槨封土作冢。始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飮酒。已葬舉家詣水中澡浴以如練沐。」
其の死にあたり、棺有りて槨無し、土を盛り冢を作る。
始め十餘日、喪に服するに、肉を食べず、喪主は哭泣し、他者は歌舞飲酒す。
葬の後、家人皆水中に詣で澡浴す、練沐の如し。
と、先ず死して最初の儀礼が「喪」、そして次の段階が「葬」とされているように見えますね。
で、葬が埋葬の段階のことなのかどうかは倭人伝だけではわかりませんが、
韓伝等ではストレートに納棺、埋葬が「葬る」と結びつけられていますです。
618 :
ひとぶた:2012/01/09(月) 01:42:03.81
>>611 > 檄告喩の場合
> 檄は卑弥呼側だけでなく双方
> つまり
> 狗奴国にも檄告喩している。
狗奴と魏が通交していたかどうかは、事実関係がどこにも書かれていないのでわかりませんが、
檄告喩されたと記述されているのは、難升米と壹與だけですよ。
狗奴国王には「告喩しなかった」とも書いてはありませんけどねw
>ローガン氏の主張のとおり、時系列で見れば「黄幢下賜」は正始6年に決定して、その後、帯方郡へ渡されます。
>そして、年次不明(正始6〜8年)ですが、郡へ倭人側から国内混乱の報告が有り、
>正始8年、太守王キの都への倭人事情の報告を経て、黄幢は、やっとのこと倭地に渡ります。
>このことから「黄幢下賜」は、倭人側の事情でも帯方郡の意思でもなく、魏本国の都合で決められたものでしょう。
あ〜やっぱり、そうなのかな。
私は上のほうで、ソノ6年と8年とで2度「黄幢下賜」はあっただろう
言ったんですが、これは私が間違えてるのかもしれない。
まあ、ソノ6年の記事はよくわからんというのが本音ですねえ。
>>618 まあ、そうですが、
女王壹與は丁寧にも張政達を送り届けている。
ここから言えるの、魏の旗が明らかに役に立ったであろうことが推測できるのではなかろうか。
ん〜黄幢下賜に関しては、人豚さんの言う通りかもしれません。
611さんは魏と狗奴国が交流のあったような事を言ってますが
「今使譯所通三十國」とは狗奴国を除く国々ですし、これも人豚さんの言うとおりでしょう。
しかし、611さんの
>停戦命令だ。兵を送る必要など無かったのだ。
には同意したいと思います。 まじでねるzzz・・・・・
>狗奴国王には「告喩しなかった」とも書いてはありませんけどねw
片方だけに告喩は片手落ち。
>「今使譯所通三十國」とは狗奴国を除く国々ですし
8国+21国+狗邪韓国=30国
>狗奴と魏が通交していたかどうかは、事実関係がどこにも書かれていないのでわかりませんが
狗奴国男子爲王其官有狗古制卑狗
>檄文も黄幢も狗奴国へは届けてないけどねWWW
じゃ告喩できない。
8国+21国+狗邪韓国=30国
訂正
8国+21国+狗奴国=30国
625 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 03:12:00.85
王は勝手に涌いてくるわけではないからね
626 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 03:16:32.48
名無しでいいよ:2011/08/15(月) 23:20:15.53 ID:2fed4jwtO
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628 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 10:24:03.25
王は勝手に涌いてくるわけではないから、最初の朝貢は、倭奴國王位継承の卑弥呼である。
倭奴國王位継承の卑弥呼が畿内大和に居住しないことは、正始元年の邪馬臺國王倭王位授与
以後に倭王、と女王が登場することでわかる。
だから、女王を邪馬臺國(大和)に居住させる前提条件。
相攻伐暦年か、7,80年相攻伐、暦年無主でなくてはならない。暦年とは、20年程度以上の時空である。
>>609 黄幢下賜が遅れたのはそれこそ集兵にかかわるものではないということだろう
単なる魏の傘下に入ったという印ではないか
>>605 張政のような武官でもない郡役人の名前しか出てこないのが援軍を送らなかった証拠だろう
630 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 11:31:12.31
狗奴国一宮
631 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 11:41:58.02
てかさ
自演して叱られた燕の嘘王さんと
王騙っても叱られない3件の倭種の王さんのこと
ちゃんとしっかりかんがえあわせたほおがよいよね
632 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 12:17:43.80
>>623 >>624 8国+21国+狗奴国=30国 で正解でしょう。
狗邪韓国は、韓国のうちであることが明記されており、倭国ではない。
633 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 12:22:39.62
もちついてちゃんと嫁
狗邪韓国というのは中国がつけた呼び名であって駕洛や伽耶が自称だろう
地理的には半島内だが、どうせ国境線もなく韓国などという国もない時代
半島内に倭がいても不思議ではない
635 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 12:31:31.72
澱んだ海しか知らないのが海峡を見たときに
川とのアナロジーでその北岸と逝っているんだろ
636 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 12:37:36.86
>>634 >半島内に倭がいても不思議ではない
いたかどうかの問題ではない。陳寿(又は原資料を書いた者)がどのように認識していたかだ。
狗邪韓国と書いているということは、狗邪国は韓国のうちだと判断したということさ。
>>636 >いたかどうかの問題ではない。
大問題だよ この半島の倭によって列島の倭人は鉄を得ていたと考えられる
鉄は伽耶の主な交易品目だ
そして金海の大成洞遺跡の発掘結果からは3世紀代に大きな政変があったことが読み取れる
つまりこの勢力の動きで列島の倭の動向が左右された可能性があるのだ
単なる文献上の話ではない
638 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 12:48:50.20
おまいらてきほんてきににぶい
國って符丁自体の用法が不安定なんだよな
國をまとめあげたものも國で表現せざるを得ないののところ理解してあげろよ
国境とかいってる香具師はまあ問題外だけどさ
639 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 12:55:52.58
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
210年は崇神世でなくてはならない。
ちなみに古墳時代に入って伽耶の新政権と結んだヤマト王権は鉄の保有量を
徐々に増やし、それとともに勢力を拡大していった
この伽耶が後に任那という名で書紀に登場し半島との争乱の火種となっている
狗邪韓国とは何かということは邪馬台国問題を超えた東アジア史の一大争点になっているのだ
641 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/09(月) 13:15:31.55
>>637 > >いたかどうかの問題ではない。
>
> 大問題だよ この半島の倭によって列島の倭人は鉄を得ていたと考えられる
> 鉄は伽耶の主な交易品目だ
もう少し、今の論点(倭人伝では狗奴韓国を「倭」に区分しているか、否か)を理解して反応しましょう。
つまり、狗奴を倭の30か国に数えるかどうかが論点です。
だから、その地に倭人が居たかどうかは、直接の問題ではありませんよね。
>>641 しかし半島の倭が魏に朝貢したというならあんなしょぼい朝貢内容ということは
ないだろ 難升米らは公孫氏討伐の一報を知り半島内で情報収集していたのでは
ないか
645 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 13:24:28.88
一 一
大 大
國 率
646 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 13:27:35.34
享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
仇衝は、永無違者と主張し、大伽耶の家系を主張している。
倭人伝に出てくる倭の三十国というのは魏との関係があった国ということだろうが
もちろんそれ以外にも国がありこの三十国とやらにも影響を与えていたであろう
結局、倭人伝は中国との利害で書かれているのであって当時の倭国の真の姿とは
いえ 倭人伝を出て3世紀代の実像をみることが大切
○当時の倭国の真の姿とはいえない キーボードの調子が悪いスマン
649 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 13:30:13.18
韓
在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
南以海爲限 ではないのな
倭人
在帶方東南大海之中
海の中にあるのな
だいたい倭人伝で解決すると思うから夢幻如のような馬鹿が出てくるんだ
>>644 > 倭人伝だけ見てても答えなんか出ないよ
とにかく、「今使譯所通三十國」について、文理上の解釈を議論してる流れだ。
2〜3レス遡ればわかるような論点が見えないようじゃ、キミはこう言う掲示板でレスをつけてはいけないヒト。
>>649 だからそれは当時の中国人のあやふやかつ大ざっぱな認識
こちらは倭人伝を読むより遺跡どうしの関係(どっからどこの土器が出てくるとか)
で交友関係をつかもうとしているから参考にはしていない
結局方法論が違うのだ
653 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 13:54:46.87
>「今使譯所通三十國」について、文理上の解釈を議論してる流れだ。
狗奴国は倭の国の一つとして記載されている。だから、これを入れて30国でなければ
ならんということだ。それが分離的な解釈として当然のこと。
654 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 13:57:40.55
壹與タンの同時代のひとの陳寿の特殊表現からいくと
邪馬壹國 とゆうのは
o 倭人の住む領域内にある
o 女王國の一部で
o 女王境界の内側にある
o 女王之所都で
o 七萬餘戸の規模の
の國(koku)であってそれ以上のものでもそれ以下のものでもないのね
女王境界の外側には
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 とかだから無視とかされてるわけでもないから安心してみてわ?
女王境界の内側にあるのが 「今使譯所通三十國」 で
外交交渉する相手の呼称が「倭國」みたいなふいんき
8国 + 21国 = 29国 → 今使訳所通三十国
魏志はトラベルガイドじゃないぞ。著者も想定読者も倭の地を訪れたことがなく
これからも多分訪れることはないから、距離、日数、戸数等々すべて概数で書いている。
一個所だけ「戸五万八千八百四十」とか「使訳所通二十九国」とか書いたら文が乱れる。
後世の2chは「想定外」でございます。(二十四史編集室)
656 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 14:23:42.48
とりあえずかたちのうえだけは
女王國は2件の王さんのこと咥え込んだ
30カ國の國國連合だわ
この暴力装置て海賊のDNAに裏打ちされているから沿岸域には強いんだよね
657 :
651:2012/01/09(月) 14:35:33.57
>>653 > >「今使譯所通三十國」について、文理上の解釈を議論してる流れだ。
> 狗奴国は倭の国の一つとして記載されている。だから、これを入れて30国でなければ
> ならんということだ。それが”文理”的な解釈として当然のこと。
そのとおりです。
で、「使譯の通ずる所」とは、如何なる国々であるか。
「始度一海、千餘里至對馬國〜食海物自活、乘船南北市糴。」と64文字も費やされている對馬國も
「其餘旁國遠絶、不可得詳。」と国名のみ記載されるような斯馬國も、使譯の通ずる同じ30か国です。
遠絶にして詳らかでない諸国も「使譯の通ずる所」と言うことで、このことから「使譯」とはどういう意味か理解しなければなりません。
つまり、国名程度が伝わる程度でも使者譯人が通じている、と言われるところなのです。
このことから、「外交関係があれば即ち使譯通ず」とは言えても、「使譯通ずれば即ち外交関係有り」とは言えないことが判ります。
倭では女王を中心に魏と外交関係を結ぶわけですから、女王の「使譯」が、傍国と通じていれば、魏とも間接的には外交関係を持ちますが、
件の狗奴国については、女王に属さずなわけですから、これが魏と外交関係を持ったとするには、倭人伝の記述以外の論証を要します。
658 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:24:38.68
「使譯の通ずる所」とは、魏と通交していた所。すなわち、外交関係があった所だろう。
狗奴国もその一つと考えられる。でなければ、魏が卑弥呼と卑弥弓呼との紛争に双方を
告喩するわけにはいかない。双方、冊封国だから、魏が争うなと告喩したんだよ。
卑弥呼が使者を出すときに、倭の諸国は狗奴国も含め連名で出したということだろうな。
659 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/09(月) 15:26:42.40
>>643 卑弥呼の朝貢を景初二年と考えれば説明がつく。
古田武彦「邪馬台国はなかった」に詳しい考察がある。
660 :
651:2012/01/09(月) 15:31:06.57
>>658 > 「使譯の通ずる所」とは、魏と通交していた所。すなわち、外交関係があった所だろう。
> 狗奴国もその一つと考えられる。でなければ、魏が卑弥呼と卑弥弓呼との紛争に双方を
> 告喩するわけにはいかない。双方、冊封国だから、魏が争うなと告喩したんだよ。
> 卑弥呼が使者を出すときに、倭の諸国は狗奴国も含め連名で出したということだろうな。
狗奴国王に告喩などしていないのだから、狗奴国と魏に外交関係が無かったことはわかる。
女王に属ささないところが女王配下の国々と連名になるわけないでしょうwww
661 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:54:08.43
王騙っても叱られない3件の倭種の王さんたちって血縁関係とかあるにきまってるよね
世の中が騒がしいときに生き残ろうとかて自演して敵味方演じるとかってよくあるよね
べつにそれだとご推奨とかするわけでもないけどさ
陳寿もあまり詳細に騙るべきではないところはそれなりに掻いているんだろ
狗奴國に関しては「今使譯所通三十國」でなくても触れないようにしているんだよね
卑弥弓呼タンが手品使って告喩うけてたりつうのもあるかもね
662 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:55:21.57
>狗奴国王に告喩などしていないのだから、
そうではない。狗奴国王にも告喩しているんだよ。けんかを止めるってことは、
双方に「やめろ」ということだ。そうでなければ、意味をなさない。
実際は、邪馬台国が魏使の檄文を狗奴国側に示すということだろう。
663 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 16:03:28.09
男の王さんが立つと荒れるとゆう法則だから
なかみ入れ替わっていると
他の使譯所通ののがいまひとつの告喩の対象だとゆうのもあるかも
664 :
ローガン:2012/01/09(月) 16:25:41.30
>>609:ひとぶた
>ローガン氏の主張のとおり、時系列で見れば「黄幢下賜」は正始6年に決定して、その後、帯方郡へ渡されます。
>そして、年次不明(正始6〜8年)ですが、郡へ倭人側から国内混乱の報告が有り、正始8年、太守王キの都への倭人事情の報告を経て、黄幢は、やっとのこと倭地に渡ります。
私の解釈は、ちょっと違います。そこで王キ の任官が八年だと書いているだけで。
だから私はいつも「相攻撃状云々の訴えは八年以降」と書いているんです。東夷伝には、八年以降の年表記はありません。
恐らく、情報の低下があったんでしょう。曹爽→丘倹→王キというラインが曹爽失脚によりなくなったのが原因かなあと。
又、晋書に限断の議論があるように、魏代がいつまでか?が確定していない。
正始以降または、嘉平以降の遠方情報は、テキストたる先行史書にあまりなかったんじゃないかと思います。
ここは、倭からの相攻撃状云々の訴えが、太守王キにあった。 それが何年の事かは定かではないが、王キが太守に赴任したのは八年である。
という記述だろうと思います。
665 :
ローガン:2012/01/09(月) 16:41:17.26
>>617:ひとぶた
>先ず死して最初の儀礼が「喪」、そして次の段階が「葬」とされているように見えますね。
夫余伝引用魏略に「魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有熟。喪主不欲速而他人彊之、常諍引以此為節。其居喪、男女皆純白、婦人著布面衣、去環珮、大體與中國相彷彿也。」
とあり、喪は長ければ長い方が栄誉。なので喪が、始めの儀式という訳ではないでしょう。死に起因した「俗停期間」の事だと思います。
>で、葬が埋葬の段階のことなのかどうかは倭人伝だけではわかりませんが、
韓伝等ではストレートに納棺、埋葬が「葬る」と
勿論、葬が葬送儀礼全般を指す事を否定できませんが、
洗骨再葬という事例から寸法取りすれば、二重葬の間にある殯の期間が短期間とは考えにくい。
又、貴人における大型墳墓の築造期間を考え合わせれば尚更でしょう。
始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
の記述、古事記の「日八日夜八夜を遊びき」に類似しており、死直後の儀礼の姿であると思います。
半島の国が初めて中国に朝貢したのは
倭より遥かに遅れて6世紀頃の新羅と百済だと思ったが
三韓は朝貢してない
つまり三韓はすごい弱小国だって事だ
667 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/09(月) 17:17:49.02
266年 泰始二年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始九年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。(神功元年あづない)
274年 泰始十年二月,分幽州五郡置平州。
276年 咸寧二年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧三年是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落 內附。
278年 咸寧四年三月東夷六國 來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年六月東夷十國歸化。秋七月,東夷二十國朝獻。
281年 太康二年三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。
282年 太康三年九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康七年八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。
287年 太康八年八月,東夷二國內附。
288年 太康九年九月,東夷七國詣校尉內附。
289年 太康十年五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年二月辛丑,東夷七國朝貢。三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,
散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尚書武茂,皆夷三族。
太熙元年 是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
晋の冊封時代には、倭国の名もないが、馬韓が登場する。
668 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 19:26:01.13
狗奴国一宮
ローガンと人豚が楽しそうに議論してるようだが、
使者が訪れた時には、「喪」、「葬」はもちろん、
「徇葬」も終えた後と解釈するのが順当だと思いませんか。
卑弥呼、すでに死し、大いに冢を作る。
徑百余歩、徇葬する者、奴婢百人余り。
更に男王を立てしも、國中服さず、更に相誅殺し、当時千余人を殺す。
また卑弥呼の宗女壹與、十三歳を立て王となし、國中遂に定まる。
上記の記述は張政等の証言ですし、
壹與の使者が、張政等を帯方郡まで送り届けてるので、
わざわざ「喪」の時に来訪したとする理由が無いといいますか.....
まあ、想像や妄想するのは各自、自由ですし、とやかくは言いませんがw
>>605 >「相攻撃状云々」を魏が知ったのは八年以降。よってこれが黄幢下賜六年詔の、事の起こりではない。 というのが史料実態。
>>609 >それが、どのような「都合」であったのか、倭人伝の記述からはわかりませんが、ローガン説どおりの可能性もあります。
>しがし、黄幢下賜の目的がローガン説のとおりであれば、これは倭人側の事情を全く認知できていない魏本国の凡策で、
>韓地の武寧にも窮していた帯方郡としては、実益も無い迷惑なだけの任務だったの2年も店晒しになったのでしょう。
>そんなわけで、倭人伝では「黄幢下賜」の目的を敢えて書かず、単に事実関係のみを記載したんじゃないんですかね?
なるほど、なるほど、という事は〜私が初めから言ってた通り
>499 :あらため だよん:2012/01/07(土) 21:30:04.31
>ん?何言ってるの?難升米さんは二度「黄幢」を貰ってるべえ?なあ〜みなさん?
が正解でしょうかねえ。お二人さん
あ、、分かり易くここを読んでる人にも説明しなきゃならんね。
なんで「正解でしょうかねえ」 になるかと言うと
ローガン説の場合、その六年に黄幢下賜、その八年に黄幢を届けたていうのでして、
これに対し、人豚氏のほうは「倭人側の事情を全く認知できていない魏本国の凡策」とある。
「黄幢」ていうのは、その八年に倭の使者が帯方郡に「相攻撃状」を報告し、
「黄幢」が来たのであって、六年と八年とで二度「黄幢」を貰ってると解釈するべきだろう。
昼間に「今使譯所通三十國」について、
狗奴国を含めるとか、含めないとか議論してると思うんですが、
ローガン氏と人豚氏は、どうのように考えてるのでしょうねえ。
まあ、よかったらお二人さん、こたえて下さいな。
673 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/09(月) 22:29:11.85
>>567 >垂仁90年=同99年。この数字が最後の数字合わせ。
↑
ウソ この間の年代が存在する。以下のとおり
天書
垂仁93年 2月24日 五十瓊敷入彦 討ち死に
674 :
ローガン:2012/01/09(月) 22:54:02.77
>>669:あらため だよん
>わざわざ「喪」の時に来訪したとする理由が無いといいますか.....
ひとぶた氏も私も「わざわざ」そのタイミングを狙った…というような主張をしていないのはわかりそうなもの。
わからないのか?それとも判らんふりで煽るような書き込みをして、レスを伸ばそうとする プロ固定ってヤツか?
ドツボはプロ固定に復帰したのか
やれやれまた低レベルに逆戻りだな
>>674 >主張をしていない
ローガンさん、嘘つくなよ。
>608
>例えば、神葬祭でいうところの葬場祭が「葬」 埋葬祭が「墳頂儀礼」
>使者が訪れたのが殯期間 ぐらいに考えてます。
677 :
ローガン:2012/01/09(月) 23:34:15.54
>>676:あらため だよん
「
>>674 >主張をしていない
ローガンさん、嘘つくなよ。」
674に嘘があるという指摘。「主張をしていない」がその嘘とやらに該当という事ね?
当該記述は 『ひとぶた氏も私も「わざわざ」そのタイミングを狙った…というような主張をしていないのはわかりそうなもの。』
では、ひとぶた氏もしくは私が、わざわざそのタイミングを狙って来訪したと、主張しているレスを貼ってご覧なさい。
678 :
651:2012/01/10(火) 00:08:21.67
>>662 >そうではない。狗奴国王にも告喩しているんだよ。けんかを止めるってことは、
>双方に「やめろ」ということだ。そうでなければ、意味をなさない。
何で何処にも書かれていない檄の内容がわかるのwwwww
>>677 なんだ〜ローガン、泣いてるのか?w
>ひとぶた氏も私
>ひとぶた氏もしくは私
人豚さんは案外まともだけど、
貴方は「その六年、その八年の黄幢」にしろ「使者が訪れたのが殯期間」にしろ
まともなこと発言したためしがないじゃないかW
>674に嘘があるという指摘。「主張をしていない」がその嘘とやらに該当という事ね?
>当該記述は 『ひとぶた氏も私も「わざわざ」そのタイミングを狙った…というような主張をしていないのはわかりそうなもの。』
>では、ひとぶた氏もしくは私が、わざわざそのタイミングを狙って来訪したと、主張しているレスを貼ってご覧なさい。
私は、挙げ足取りゴッコしてる暇はないよW
681 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 00:25:34.52
>>678 >何で何処にも書かれていない檄の内容がわかるの
あなたは
>>660で「狗奴国王に告喩などしていないのだから」と言ってるね。
これも何処にも書かれていないことだが、あなたはそう読んだ。
わたしも、事の流れで檄の内容をそう読んだわけだよ。
682 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/10(火) 00:32:07.85
>>680 今見させてもらったが、旧編年で語っている。
旧編年では、文献で纒向を語ることもできない。
>>682 うん 私も思った。
すこし古い感覚の年代論ですな。
最近では発掘が相次いであり、炭素年代法も精度が増してきてるようで
従来言われていた年代よりも早まるはず。
684 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/10(火) 00:52:03.94
景行12年から同20年五百野姫までは、最低六年。
685 :
ひとぶた:2012/01/10(火) 01:58:47.10
>>664 ローガン氏
> 私の解釈は、ちょっと違います。そこで王キ の任官が八年だと書いているだけで。
あー、以前にも拝見した御説でした、失念失礼。
私は、店晒し状態だった対倭人関係の処理が、王キの着任とともに全て動き出したように読んでますので、
載斯等の詣郡は着任前、張政の派遣は着任後速やかにで、既に壹與の擁立後のことと見立てていますが。
卑弥呼の終焉は・・・載斯等の遣使が正始5年以降で、張政の来倭が同8年以降として、
男王から壹與立位までの期間を考慮すると、正始6年が妥当かなと。
まあ、徑百餘歩の冢が完成するには短すぎる、と言うか「更相誅殺」の騒動の最中には工事も出来ないでしょう。
なので、張政は卑弥呼の冢の完成を見ていないと言う貴説には同意します。
>>665 > 喪は長ければ長い方が栄誉。なので喪が、始めの儀式という訳ではないでしょう。死に起因した「俗停期間」の事だと思います。
まあ、普通に「喪」のイメージはそうですけど。
それを終了し、俗に復帰する契機の一つが埋葬儀礼であることが多い。
埋葬儀礼だけが「葬」だなどと申し上げるつもりもありませんが、
作冢の記述に続いて記される「殉葬者奴婢百餘人」の「葬」も埋葬をイメージさせますね。
>>670 メ氏
> 難升米さんは二度「黄幢」を貰ってるべえ?なあ〜みなさん?が正解でしょうかねえ。
不正解。
理由は、
>>664ロ氏へのコメを参照してね。
686 :
ひとぶた:2012/01/10(火) 02:05:24.62
>>672 > 昼間に「今使譯所通三十國」について、狗奴国を含めるとか、含めないとか議論してると思うんですが
さあ、どうでしょうかね。
私は、特に理由は有りませんが、「含めて」読んでますね。
狗邪韓國を含めるよりは、そっちの方がしっくりするでしょ。
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
ドンコイは、
ムゲンニョ、イサク、19歳専用と化してきてるなw
世間では3連休だったらしいが、私は休日出勤してたので
代わりに今日と明日、お休みをいただこう。 てことで誰か相手宜しく!
689 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 13:48:43.02
>>680 鷲崎さんは、ますます衰退してゆく
邪馬台国九州説論者の人だな。
>>685 >不正解
貴方はそう思うんでしょうが、この問題は非常に難しい。
古代中国では、皇帝が内臣に与える「節」があります。、
この節というのは、皇帝に成り代わって、生殺与奪の権限を一時的に委託するものです。
たとえば、我が日本でも遣唐使の際に、権力を委託するしるしとして節刀が下賜されてるのが有名ですよね。
その六年は少帝が詔して帯方郡の手によって難升米に授与する。
その八年には「節」を与えられてる太守の王頎が皇帝に成り代わって
「其六年の詔に基づいた行動」を独断で遂行したともとれなくなはい。
有名なのかどうかはしらんがww
本を読んでいたら遣唐使の話があって、そこで節刀ていうがあったんですが
これは、埼玉県稲荷山古墳出土の「鉄とう」や熊本県江田船山古墳のやつとか、
千葉県稲荷台古墳群のやつや、奈良県の東大寺山古墳のにも通じるんではないかと思う。
>>689 よく図書館などまわっても彼の本は見かけますし
掲示板のあっちこっちで名まえを聞く人ですよね。
あの人は早稲田大学の講演やら、宇佐邪馬台国論争やら〜元気ですよねw
あらためドツボ説 節刀=鉄刀
694 :
ローガン:2012/01/10(火) 15:19:58.86
>>691:あらため だよん
>そこで節刀ていうがあったんですが
>これは、埼玉県稲荷山古墳出土の「鉄とう」や熊本県江田船山古墳のやつとか、
>千葉県稲荷台古墳群のやつや、奈良県の東大寺山古墳のにも通じるんではないかと思う。
どれも返却してないやん。
あらためはプロ固定だから返答して話を終わらせる必要はない
はっきり言って答えなど出なくてもよいし論争は負けてもよいのだ
レスが伸びれば勝ち
696 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 15:58:34.92
魏志倭人伝の西暦240年代の出来事は
日本書紀の崇神紀の前半部分の話。
それを、そのまま、あてはめればよいだけ。
あと、国宝海部氏系図には注目しているけど
あれを、そのまま受け入れられないと思うよ。
あれも、しょせん、平安時代に書かれたものだし。
まだ、記紀に書いてある系譜とかのが書かれた時期が古い。
697 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 17:05:37.82
神功皇后1号とか
神功皇后2号とか
神功皇后3号とか
698 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 17:10:37.00
宣長さんのゆうよおに
卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長
で良いかとはおもふが
陳さんのおかげで熊襲の女酋長のプロパティがよくわかりますね
たいへんたすかりますわ
陳さんありがとお
はあと
行あけするのは池沼
700 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 17:19:15.38
卑弥呼タンは神功皇后タンとは別人格だろ
神功皇后タンは多重人格だけどね
>>628 >最初の朝貢は、倭奴國王位継承の卑弥呼である。
いや、王位継承問題とかではなく
強国、魏の後盾(背後を守る。後方から支援する。陰で援助する)を求めたのではなかろうか。
702 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 19:47:49.07
王朝交代劇の中で必要とされて先方から出演要請があったんだよな
ちゃうなあ
卑弥呼の朝貢は公孫氏からののりかえだろ
司馬懿は公孫氏勢力数千人を殺してるし、後難をおそれたというのもあっただろ
>>629 >黄幢下賜が遅れたのはそれこそ集兵にかかわるものではないということだろう
>単なる魏の傘下に入ったという印ではないか
>張政のような武官でもない郡役人の名前しか出てこないのが援軍を送らなかった証拠だろう
「錦の御旗」というのはご存じだろうか?
こういうのだよ
http://obihozonkai.blog105.fc2.com/blog-entry-66.html 錦の御旗というのは、天皇の軍(皇軍)のしるしとなり、これに逆らうものは
「朝敵」とされてきた。日本に住む人は皆これを恐れたのであり、戊辰戦争の際にも
この錦の御旗が出たらおしまいというか、大いに役に立ったと聞いている。
古代も近代もあまり変わらないというか・・・
「黄幢」というのは、(魏の旗)が来ただけにしろ、
魏の援軍が来たと解釈するべきではなかろうかと思う。
>卑弥呼の朝貢は公孫氏からののりかえだろ
まあ、そうですが、
朝献以前は帯方を占領する公孫氏でしょうが、
その後はその公孫氏を討った「魏」の後盾が目的でしょうね。
706 :
19歳某国立大生:2012/01/10(火) 20:07:31.55
海部氏系図通りでほぼ間違いないだろう。
尾張氏系図のほうともほぼ一致してるし。
日女命が卑弥呼。記紀でいう倭迹迹日百襲姫のこと。
あとは箸墓発掘さえすればほぼ決まりなんだがそれができないから
議論が長引いてるだけ。仕方ないから状況証拠から
張政は箸墓を円墳だと勘違いして径百余歩と記録したわけで、
まだ完成した状態を記したわけじゃない。その後の戦乱と、
壱与を女王に共立後の国内の民力回復期間中は
箸墓の築造は当然中止してるから、完成したのは土器編年通り、
280年前後とすればやはり卑弥呼の墓で間違いないだろう。
707 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:09:25.02
後漢の終末期のことでしたとさ
金とかが好物のけちの董卓さんから
公孫度がどさくさまぎれに遼東太守に任じられてからに
その子の公孫康が楽浪郡のを分割して帯方郡を設置
その子の公孫淵が燕王自称して逆らったのが景初元年で
景初二年には速攻でやられた
とおちゃんにかあちゃん殺されたかわいそおな魏帝さんと
晋にすりかわる準備した司馬仲達さんが
極東域のこと支配下に編入する途上で
韓のこと直轄下におくには
倭にご出演願うのがいちばん出費が抑制できるねっておもたんだろ
708 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/10(火) 20:24:37.73
>いや、王位継承問題とかではなく
朝貢が無ければ、分裂小国王もままでも問題ない。
問題は、238年の魏使による朝貢要請、その中になるべく多くの勢力をまとめての
朝貢とするよう要請が入る。
魏が冊封体制へ組み込む場合分裂小国家群を一つ一つ説得するわけにもいかない
となれば、それをすべて倭国の勢力にゆだねるしかない。
そこで、選んだのは、倭奴國王位継承者。奴國に背いた国々までをもまとめるためにばあさんの卑弥呼を王に推す。
奴國男王に拒否反応を示す勢力も、卑弥呼であれば応ずる。
そして、朝貢団は、奴國から畿内大和までの勢力となるが、魏は奴國より邪馬臺國王をアテにする。
魏関与の元、倭国統一を画策する。そのために戦いが247年と始まるまでの時間が
必要であった。
まあ、唐さんお言うように
統治の社会は中国が天下をとってると言いますか
中国に「倭王」として認めて貰う必要もあったんでしょうねえ。
中国に「倭王」として認めて貰うまでは暫定倭王でしかないと、いう一面もあったのかもしれません。
710 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:35:29.21
燕王のは自称だけど倭王の3件のは自称のでは無いのね ← ここメモしておこうね
711 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:39:51.20
712 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:40:05.82
晋がスタートする直前にも壹與タンにご出演要請があったんだろ
泰始2年だけどさ
イヨタン・・・・・・・・・・
714 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/10(火) 22:17:44.11
715 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 22:32:41.00
からまつよ もっといえ
716 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 22:52:55.15
時太守弓遵 樂浪太守劉茂興兵伐之 遵戰死 二郡遂滅韓
二郡遂滅韓
これが正始6-正始8(245-247)のあいだにはさまる
帶方郡は西晋末の313年まで形式的には続く
717 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/10(火) 23:12:46.87
帶方郡は韓(馬韓)を属郡とする。
この安定的経営には、軍隊の見回りが必要不可欠である。
しかし、韓で軍を再編しても裏切られる可能性がある。
そこで、黃幢授与(軍の編成)をした倭軍に任せる。これが274年神功渡海となる
伊都国の1大卒と同じような行為を行う。
この実績があるから、同49年の半島占拠も可能となる。
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
719 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:54:07.24
いっぱんてきに史料の残り方としては
安定的な実効支配ができている間には
そこの領域に出兵しましたとかの記事が残ることは無いのね
兵隊が逝くのはふつうの事だからさ
安定的な実効支配が無いところに実効支配を欲して兵を出す
ないしは
実効支配が退化しつつあるところに安定的実効支配を欲して兵を出す
このあたりがふつうかな?
スポーツしてきたんだけど
あまりレスが進んでないようだね。
>>713 >イヨタン・・・・・・・・・・
あんた、久しぶりにみるね。
最近はイヨタンに興味が薄れてきたのか?AKB48のほうに走ってるんじゃねーのw
721 :
ひとぶた:2012/01/11(水) 00:58:49.70
>>690 > 古代中国では、皇帝が内臣に与える「節」があります。、
> この節というのは、皇帝に成り代わって、生殺与奪の権限を一時的に委託するものです。
南北朝あたりになると安っぽくなりますけど、三国時代では、まだまだかなりなもんですね。
> その六年は少帝が詔して帯方郡の手によって難升米に授与する。
> その八年には「節」を与えられてる太守の王頎が皇帝に成り代わって
> 「其六年の詔に基づいた行動」を独断で遂行したともとれなくなはい。
郡太守クラス(二品)で節持ちでしょうかね?
魏志を「使持節」や「持節」で文字検索して、ざっと見渡したところ三公、大将軍クラスに、
同じく下位の「假節」で検索すると刺史や四征将軍クラスに与えられているみたいです。
もちろん、その時々の特命が有れば与えられて然るべきところでしょうから、王キも節持ちの可能性は有るのでしょうが、
「持節」「假節」の権能に、皇帝に代って黄幢を与えるとかいうところがあるのでしょうか?
また、正始8年以降の記事中で渡される黄幢は詔書が添えられているのでしょう。
ならば、これが二本目の黄幢だとしても、別に王キが「独断」で行ったなどとは有り得ないでしょう。
ところでスポーツって何を?
723 :
ひとぶた:2012/01/11(水) 01:26:04.00
>>722 その時、一緒に渡された「詔書」はどこから出てきたの?
まさか、自分宛ての「詔書」も難升米にあげちゃったわけ?
>魏志を「使持節」や「持節」で文字検索して、ざっと見渡したところ三公、大将軍クラスに、
>「持節」「假節」の権能に、皇帝に代って黄幢を与えるとかいうところがあるのでしょうか?
王頎さんはその六年の詔にもとづいた判断をしたのではなかろうか。
よく言われてるのは、その六年の黄幢は半島の乱を抑える為に倭軍の協力を求めたと・・・
これも考えられると思う。
ただ、倭人伝には詳しく書いてませんのではっきりとはわかりませんが・・・
まあ、六年の黄幢と八年の黄幢は別と思いますよ〜
>また、正始8年以降の記事中で渡される黄幢は詔書が添えられているのでしょう。
>ならば、これが二本目の黄幢だとしても、別に王キが「独断」で行ったなどとは有り得ないでしょう。
六年のコピーてことでw
>ところでスポーツって何を?
今日はジムに行って走ってきましたよwww
728 :
ひとぶた:2012/01/11(水) 03:03:54.35
>>722 > その八年の黄幢は"相攻撃状の報告を受けて天皇家でいう「錦の御旗」が降りたのであり
> ここから考えると帯方郡の太守にも与えられていたのだろうと考えています。
「節」は軍内処罰権の証ではあって、指揮権とか任命権とかとは別の機能みたいですよ。
節鉞(せつえつ)
節と鉞は軍権の印として皇帝から与えられる物。
節には、使持節(刺史以下を処刑できる)、
持節(戦時にあっては有官無官の、平時にあっては無官の軍令違反者を処刑できる),
仮節(戦時にあっては無官の軍令違反者を処刑できる)がある。
仮鉞は、非常時にあって、軍を統率する権限。
>>728 人豚さん
>>690で太守の独断と書き込みましたが、
別に「節」や「独断」にこだわってるわけではない。
その八年に"相攻撃状"の報告を受けた太守が魏の少帝の居る洛陽まで使いを走らせ、
その詔書、黄幢を持参して難升米に授与したのでも良いと思ってる。
ただ、言いたいのは
貴方は「六年と八年の黄幢」は同じものと考えてるようですが、
私は別だろうと考えてるんです。
730 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 14:12:29.52
__________ | 見ろよ! |
./::::::::::::::::::ノ、ヽ | 民主党支持者がいるよ!w |
./:::::::;;;-‐‐''"´ |:::| \____ ________/
|:::::::| 。 .|:::| ノ´⌒ V _____
.|::::/ ⌒ ⌒ ヽ:| γ⌒´ ヽ, / _____)
|:::| /・\ /・\|| // ""⌒⌒\ ) | / ヽ
げひひw .|´ ⌒_ ヽ⌒ | . i / ⌒ ⌒ヽ ) | 〉 ⌒ ⌒ |
.| :::⌒(__人_)⌒| !゙ /・\ /・\i/ |/. /・\ /・\ヽ
⊂ ̄ヽ___ ヽ \__| ⊂ ̄ヽ_ | :::⌒(__人_)⌒⊂ ̄ヽ_ | ::::⌒(__人_)⌒:: |
<_ノ_ ヽ_ _/ <_ノ_. \ \__| / .<_ノ_ \ ´ \__| ノ い〜ひっひw
六年と八年の黄幢を同じにするならば、
その四年、倭は伊聲耆、掖邪狗等を遣わして生口、倭錦等を献上すると共に、
狗奴國との不和を訴え、黄幢を求める。
その六年、皇帝は詔を決める
その八年、倭は、まだか?と言わんばかりに、狗奴國との相攻撃状を報告する
太守の王頎は張政等と遣わし詔書、黄幢を倭の難升米に渡す
としなきゃならんね。
まあ、書いてないことを推測するしかないのですが・・・
『倭人伝』
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
の「素不和」というのは、「もともと不仲」だった と訳すべきで
このもともとを考えると、わたしは731で書いたこともあり得ると思う。
ここを読んでる他の人の意見はどうなんだろうね?
私と、人豚しとの議論をみて何を感じてるのだろうか。
733 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/11(水) 19:02:44.86
黄幢下賜は、魏の関与による倭軍創設。
そして、乗馬はともかく、物資輸送に牛馬は必要である。
http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_44_2.htm 摂河泉で最古とされる亀井遺跡の例は出土遺構・層位が明確であり、信頼度が高いよう
である。ここでは流路SD〇一のW層で古墳時代前期(布留一式)の土 器が数個体出土し
ており、その下のX層(流路の最下層)からウマの臼歯が出土している。X層では二重口
縁の壺二点と、弥生土器の伝統を残す平底の小型壺が 出土している。これらはやや古そう
な傾向を示すが、確実とまではいえず、土器様式の下限をW層の布留一式に置くのが安全
であろう。また、紀伊の鳴神遺跡の 例も、庄内-布留式と報告されるほど古く、やはり布留
一式が下限とみられる。そうだとすれば、布留式土器の年代からみて、遅くとも四世紀の
倭人社会には馬 がいたことになる。時あたかも古墳時代が始まったばかりのころである。
大量渡来前史の意義
馬に関しては、古墳時代前期前半に渡来の第一波、中期前半に第二波があったかにみえ
る。現状ではいずれも小規模であり、またその間の経緯は不明である。 第二波の渡来は
、その直後からの大量渡来につながるものと理解するのが自然であるが、第一波の渡来は
どう考えるべきだろうか。
734 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 19:10:09.68
あたらめだかえだまめだかしらんけどさ
つっこみどころがちゃうよおな
けのないささやきあいとかしあってくれてもな
其八年からあとの記述のところには遡ってあったこととかも混ざりこんでいるでそ
でっ
正始元年(240)に無駄げにしつこくお邪魔して 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 で
景初二年(238)十二月にもらった倭大夫難升米の率善中郎將はどおなったのさ?
難升米タンてどおゆう立場で黄幢もらってるのか妄想してみたほおが良いよね
邪馬台国=九州説で有名な筑後川の流域ですが、
筑後川の別名を「筑紫次郎」というんです。
もともと九州説というのは、国学者の尊皇思想に基づいた
天皇の祖先でもある日の御子が、異国の皇帝に朝貢などするはずが無い
とする考えからきたもので、今の九州説とはちと違うと思う。
今の九州説の場合ですと、純粋に邪馬台国は九州だったと考えてるように感じる。
その昔は、畿内説で当たり前というか、神功皇后と思われてたんでしょうね。
736 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 19:23:18.67
ぷっ 4ねんずれちゃったなあ
○ 其四年(244)
× 正始元年(240)
>>735 本居宣長:1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日)
金印発見:1784年(天明4年)
金印を受け取ったのが天皇家直系の勢力だったことに気づいて、本居宣長はその事実を隠すために九州説をでっち上げたんでしょうね
金印に対する思い入れなんて中華の一方的なもので日本には関係ないのに・・・
本居宣長も歪んだ中華思想カルトの信者だったってことですね
本居宣長が金印が発見された状況、古墳から発見されたこと隠すためにその古墳を破壊してしまったのは本当に残念ですが、
金印そのものをなかった事にしなかったってのはかろうじて残ってた良心からか、それとも隠しおおせない状況があったからなのか・・・
いや、本居宣長がていうよりも
ソノ時代の一般人の間でも尊皇思想が根付いており、
その時代を象徴する考えなのではなかろうか。
739 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 20:27:00.01
>>737 >本居宣長が金印が発見された状況、古墳から発見されたこと隠すためにその古墳を破壊してしまったのは本当に残念ですが、
とても興味深い発言ですね。
本当は、何処で発見されたのですか?
740 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 20:31:50.11
壹與タンも神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長だど
元の形は方形周溝墓だったでしょうね
743 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:18:36.84
ちょっとサービスしてあげよお
伊都國
官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
有千餘戸 世有王 皆統屬女王國
郡使往來常所駐
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國
皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
糸島水道の西の入り口からちょっと入ったところの北岸にある軍事政治港湾集落だ
長期的に「太夫」を名乗って大陸と交流してきた履歴があったところを
光武帝に「王」を名乗ることを公認されもらった印綬がそれだろ
「世有王」で一旦手に入れた「王」の名乗りは伝世継承される
でっ
「王」でも「太夫」でも長期的に「太夫」を名乗ってきたやつらにとっちゃたいした問題でもないのね
当然のこと狗奴國男王卑彌弓呼は血縁関係のある身内なのね
やつらの支配のベースには海峡とその周辺を完全掌握しているとゆうのがあるのね
744 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:20:14.37
745 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 22:14:05.70
>>634 >狗邪韓国というのは中国がつけた呼び名であって駕洛や伽耶が自称だろう
でしょうな。 クナとカヤはなんか通じるところがあると思う。
>地理的には半島内だが、どうせ国境線もなく韓国などという国もない時代
>半島内に倭がいても不思議ではない
そうでしょうな。
>>636 >狗邪韓国と書いているということは、狗邪国は韓国のうちだと判断したということさ。
>>637にしてもそうだが
狗邪韓国について、もう少しみんなで議論を深めるべきですな。
魏略の逸文だと
>従帯方至倭循海岸水行歴韓國至狗邪韓國 七十里
(帯方より倭に至るには海岸に循いて水行し、韓國を歴て狗邪韓國に至る。七十里。)
韓国とは別に書かれている。
うんうん 狗邪韓國は倭域の一部として記載されておる。
そして今使譯所通三十國の三十国は、この狗邪韓國を含む三十国(狗奴國は含まない)
なんですが、人豚氏は違うらしく、狗奴國を含む三十の国らしいですよ。
>>642 >もう少し、今の論点(倭人伝では狗奴韓国を「倭」に区分しているか、否か)を理解して反応しましょう。
>つまり、狗奴を倭の30か国に数えるかどうかが論点です。
>だから、その地に倭人が居たかどうかは、直接の問題ではありませんよね。
>>647 >倭人伝に出てくる倭の三十国というのは魏との関係があった国ということだろうが
>もちろんそれ以外にも国がありこの三十国とやらにも影響を与えていたであろう
>結局、倭人伝は中国との利害で書かれているのであって当時の倭国の真の姿とは
>いえ 倭人伝を出て3世紀代の実像をみることが大切
ここらへんで三十国について本格的に議論するべきでしょうね
金海付近からは弥生土器も出ているし、古くから交流はあった
しかも対馬、壱岐からは近いし言語も倭寄りだったと考えられる
751 :
あらため(鍋奉行):2012/01/12(木) 00:01:44.16
この記事は、恨み節くんかな?
大体、くわしいのはローガン、ヒトブタと彼ぐらいなので
なぜ三十国に狗邪韓國は含むのか、いろいろ書いてほしいな。
752 :
あらため(鍋奉行):2012/01/12(木) 00:10:35.65
>>686 >私は、特に理由は有りませんが、「含めて」読んでますね。
>狗邪韓國を含めるよりは、そっちの方がしっくりするでしょ。
ん〜わたしはしっくりしませんけどね。
上のほうで恨み節氏らしき人物が書いてると思うんですが、
金海周辺の遺跡をみると日本列島と非常に深いつながりを感じる。
そして、対馬、壱岐の遺跡では半島系の土器がかなりの数が出土しており、
ここからいうと、ある一定の繫がりがあり、狗邪韓國を含めるべきと思う。
571の「特殊器台」について誰か書き込めよ〜
岡山には行ったことが無いんですが、機会があれば一度は行ってみたいところ。
あと〜「対馬」はもちろん、昨年だったか、壱岐市立一支国博物館がopenした
「壱岐」には一度はいってみたいですよね。
http://www.iki-haku.jp/ この中に居る人で壱岐市立一支国博物館へ行ったことがある人はいるのだろうか?
たとえば壱岐でいえば、原の辻やカラカミ遺跡なんかが有名だと思うんですが
原の辻なんかだとその規模が吉野ヶ里に匹敵する遺跡と言われてるんでしていいですよね。
754 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 00:29:07.32
そこのところは韓伝の終いの方の
「弁辰與辰韓雜居」のあたり見ると良いよ
今辰韓人皆褊頭男女近倭 亦文身
今有名之爲秦韓者始有六國 稍分爲十二國
自言古之亡人避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之
有城柵 其言語不與馬韓同
倭人に似たグループのが言語コードのちがうグループの難民を受け入れたってゆうか受け入れざるを得なかったってゆうか
それと
「韓国」ってゆうのは無しだよ
「韓國」って書いてあるのは「諸韓國」の意味だし
領域をあらわすのが「韓」ですからね
住んでいる人は「韓人」ね
755 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 16:03:42.86
2chやニコニコ動画に民主党から反日工作費が流れていることが知られるようになってきた。
民主党が用意した資金で工作員が2chを荒らしていることもだんだんと知られるようになってきた
756 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 22:16:33.56
箸墓は卑弥呼と壱与、両方が眠ってる墓と考えるのは無理があるのか?
卑弥呼の墓が箸墓なら壱与の墓はどこになるのか・・?
時代も場所も違うから、無理でしょ。
758 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 22:35:03.47
無理じゃないでしょ。卑弥呼が埋葬されてる箸墓に
壱与も死後埋葬されたと考えられるし。
ありゃ4世紀の古墳だよ。
760 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 23:07:09.92
卑弥呼の古墳=箸墓古墳。台与の古墳=西殿塚古墳。間違いなし。
761 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/12(木) 23:19:31.06
箸墓は、
庄内式土器が九州に持ち込まれた後の古墳である。
つまり、
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は自ら女王国(九州)の北に置く1大卒を監督し諸国を検察する。
この直後に作られるから、最初の大王墓と認識されるのである。
762 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 23:25:10.66
そんなもの掘り繰り返したら銅鐸の基地とかが出てくるだけだろ
764 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 23:40:53.14
まともな鏡とか出てくる王墓といえるようなやつは
古いのはBC2から始まり
吉武高木遺跡→三雲遺跡→須玖岡本遺跡→井原遺跡→平原遺跡で
いずれも「三種の神器」なんかが伴うんだよな
>>763 イエスキリストの墓は日本にあるのたぐいだな
まあ畿内節ってのはそんなもんだ
766 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/12(木) 23:52:13.94
@其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
A正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
景初3年 詔書により、親魏倭王卑彌呼。
正始元年 詔書により、倭王。
同一人物に2度も詔書を発行する事はない。
同一の勢力圏内に2王を承認することも無い。
@〓A
>>766 其六年と八年の黄幢は同じということですか?
769 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 00:57:57.00
>其六年と八年の黄幢は同じということですか?
同じ人に2度は、何かしっくりいかないですね。
>>767 北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
770 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 01:17:35.61
7世紀にまとめて作文したやつかあ
陳寿ののぱくりじゃん
誤読まであるしね
>>1 >邪馬台国問題に終止符!62
何スレッド目に終止符を打つの?
772 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 08:54:23.26
グダグダやってないで、
誰かさっさと金印でも掘り出せよ。
金印の在処は天皇の陵墓だろから無理
774 :
19歳某国立大生:2012/01/13(金) 11:18:36.29
箸墓は布留0式時に築造されたもので間違いないようだから
280年〜290年の古墳だね。台与の墓である可能性も残るが、
やはり文献からはモモソ姫の墓なので卑弥呼のほうが可能性は高い。
張政がみた卑弥呼の墓は、まだ造り始めたばかりの箸墓の円墳部分のみ。
その後戦乱と、壱与が女王になった後の民力回復期間で築造は凍結。
270年頃から再び築造再開して10年かけて完成させたものと考えていいだろう。
775 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 11:53:49.31
纏向遺跡は、崇神・垂仁・景行の3代の都であり、その設定が50年遡上した。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺の使用=任那より朝貢)
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散[美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年[九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
777 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 12:37:21.10
纏向遺跡の設定が、2世紀末になることにより、崇神世の任那建国は、文献により確認でき、
初期の大型建物には、古韓尺が使われる。朝貢の記事も正しい。
垂仁末の田道間守派遣からが、魏志倭人伝の世界になる。
纏向3類(庄内式土器)の九州上陸は、景行による九州派兵と同等である。
であるならば、使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。
景行、諸県(玄海町諸津)から、神功、田油津媛(田平)までが確認できる。
古韓尺って、百済それとも、新羅、高句麗
779 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/13(金) 14:43:00.67
>>775 >成務 262〜265年←↓基本的に57年の空年は無い
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
780 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 15:44:34.94
古韓尺は、216年に楽浪方面の寸法が任那より伝えられたと思われる。
古墳時代の建物や墓の造営に用いられた尺度は? → 新井宏氏の古韓尺が紹介されています。
3種類の寸法が混在していれば、机上の寸法に違いが出るが、実質は同量である。
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/osirase1.htm 「斛法は乱れていたのか?」ということで問題にした「斛法」とは、稲穀1斛の(寸)3法のことです
(1斛=10斗)。これが、天平六年(734)七道検税使算計法では、3様に指し分けられています。
2700寸(東海・山陽道)2800寸(東山・北陸・南海道)3200寸(山陰・西海道)
天平尺(29.7cmほど)1尺、曲尺(30.2cmほど)1尺、古韓尺(26.8cmほど)1尺2寸
ここの要点は「造酒司御酒料212斛9斗3升6合9勺9撮」と「三種料275石1斗」との関係を
明らかにすることですが、主税寮の升で3斗1升1合の米は、造酒司の升で量ると4斗0升2合になる
ので、前後の料の間に実量の増減はないことがわかりました。また、主税寮の升は27.9寸。造酒司
の升は21.6寸のようですが、畿内の斛法は、2700寸と考えられるということまでわかる。
781 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 15:54:17.83
>>779 基本的に、”倍年”が存在できない資料と見ることが出来る。
そして、
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す 。は、後世の出来事と解するのが妥当である。
このこの資料を正しいと出来る資料を提示できない以上。この資料には、”後世の作り物”以上の価値は無い。
782 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/13(金) 16:01:41.60
基本的に、”空年”が存在できない資料と見ることが出来る。
そして、
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す 。は、後世の出来事と解するのが妥当でない。
上人の没年は応神2年である。
あのあの秀魔を正しいと出来る資料を提示できない以上。あの資料には、”後世の作り物”以上の価値
はあまり無い。
783 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/13(金) 16:27:16.90
九州王朝とその周辺の属国的九州の国々の佛伝は畿内より古い時代だと
いうのはなんら不合理はなく、畿内が552年538年ならば、畿内とは別の〜
九州の国の佛伝が成務年代にすでにあったと観ても当然可である。
784 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 16:43:24.35
九州王朝とかゆうと拗ねる人とか出てくるから
委王朝でやつたら良いよね
785 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/13(金) 16:56:13.89
>九州の国々の佛伝は畿内より古い時代だというのはなんら不合理はなく、
これを、太国倍年で記録する太国倍年の1年が存在しない。
786 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 16:58:56.35
九州王朝とかゆうと
日本書紀とか編纂した畿内の王朝のこと偽者だって攻撃する気負いてゆうか
うちにこめているから
こおゆう武器使用して思惟しちゃうと
過去についての理解の妨げになってしまうこともままありがち
まあ
邪馬台国とかありもしないような武器使用のはもってのほかだけどさ
787 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/13(金) 17:04:14.42
>>779 これを、宿主空年で記録する宿主空年の57年分が存在しない。
788 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 19:09:20.77
789 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 20:44:56.86
肥前風土記で、以前は肥国で、
肥前国、肥後国に別れたって書いてあるそうだが、
肥前風土記の成立は8世紀前半。
それ以前に肥国という、長崎、佐賀、熊本を範囲とする、
有明海周囲の広大な国があったことになる。
そしてこれは、九州王朝があったとされる、
筑紫国ではない。
>>790 スレ違いも
あまりに多いとうざい。
うせろ!!!
俺はこの夏豊の国を旅した。家族も連れてw
宇佐八幡は、本殿入り口の鳥居に、「皇族下乗」と大書した立て看板があって、驚いた。
わざわざ皇族、と書く理由は何なのか?
本殿も、確かに真中が閉じられていた。「ヒメ大神」。
宇佐八幡のHPに、こうある。
「宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮です。八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后を
ご祭神にお祀りし、725年に創建されました。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になり、一般の人々にも鎮守の神として古来
より広く親しまれてきました。」
堂々とそう書かれている。
事実、皇室の最も多く参拝したのは八幡様である。ちなみに、伊勢神宮の方は、実はほとんど参拝していな
いし、行っても我々庶民と同様、中には入れない。
では、事実上最高位の皇室御用達の神社は、何なのか?
こんなシンプルな問いにすら日本の歴史学者は何も答えられないのだろうか。
それから、いくつか寄って、次に熊野にいった。熊野+仏教と言うと、和歌山を想起するが、
ここは大分である。
行ってみると、なかなかに厳しい。子供たちは元気で、どんどん登って行くが、いつまでも
高い石段が続いていく。昔は無かった由。
そして、ようやく出会えた。一つは比較的新しい感じの大日如来だそうだ。そして、もう一つが
有名な、不動明王。俺は、赤不動も青不動も見に行ったが、やはり、怖い。それはそうだ。
ところが、このお不動様は、柔和である。歳月の長さをあらわす丸みを帯びて、とても心が
穏やかになる、素敵な仏様である。
だが。
他にこのような不動を見た事はない。やはりなにか違う、と見るのが普通だろう。
年代についても、なんとなく奈良とか鎌倉とか、不詳らしい。だが、見た感じは、もっと古い。
更に遥か石段は続くが、そこで断念した。また、十分でもあった。
更に別府や杵築城など回って、それから普光寺磨崖仏にも行った。
ここもけわしい。熊野と同様に。
もしかしたら、熊野=仏教の聖地・行場、それはこちらこそ本家かもしれない。
普光寺は、これまた古さが分らない寺である。もしかすると、現存する最古の
寺かもしれないw
しかも、旧名が筑紫尾寺、というそうだ。
国名が「豊の国」、色々と面白かった。と同時に、面白いではすまないただならぬ
ものを感じるのは、私だけだろうか。
邪馬台国とは関係のない
大和朝廷のはなしだな。
796 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:40:48.79
反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人
朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。
797 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:57:43.56
>>795 そのようにしか読めないのか。
豊(台与)=比売大神 ではないか?と言いたいわけだが。
脇持が応神・神功で、大和朝廷の改宗時(大仏勧進)にもお願いに行ったり、余程
の事がないとそうはならない。
仏教帰依でもめた時にも聖武天皇が伊勢に行ったのも、卑弥呼=祟り神としての
「ご先祖」だからわざわざ承認を受けに行った。
799 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 22:34:01.45
比売大神さまは卑弥呼なの?
800 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/14(土) 22:43:53.77
比売大神は卑弥呼ではないですよ。
神功応神の代ころ、九州にいた女王です。
801 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 23:01:07.00
802 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/14(土) 23:05:30.05
これはとくに証拠があるわけでないので、他説を否定してませんが、
宇佐神宮に神功応神と肩を並べて祀られているでしょ。
九州王朝の女王ですよ。
>>798 豊(台与)=比売大神 ではないか?と言いたいわけだが。
豊≠台与
>>803 それも根拠は?
邪馬台国を連合王国とすると、卑弥呼と台与(壱与)の出身国が違う事も
あり得るわけで。
巫女だから、直系血族の必要はないよね。
比売大神が誰かは分からないけど、字のない鳥居、出雲大社しかない
「四拍手」、余程格の高い女王だったことが明らか。
しかも記紀には何の記述もない。神功が卑弥呼だとこじつける歴史学者も
普通にゴロゴロいたが、そんな事で飯が食えるなんて、楽な商売だよねw
「皇族下乗」、これも凄い。天皇が最も多く行った男山(石清水)八幡は、
宇佐に籠った僧がご宣託を賜ったことから勧進されたというが、まあそういう
政策と言うか、指令が下ってたんだろうw
男山ができるまで、単に「八幡」=宇佐だった事からも、総本山で日本の
神仏混淆の祖形なのは明らかだと思う。
男山は、真中に応神と、配置だけは変更されてるよね。
トヨ(イヨ)タン・・・・・・・・・・
806 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 05:14:14.13
>>798 >卑弥呼=祟り神
誰にそんな洗脳を受けたのかな?wwwwwwwwwww
なんでも、神様は祟り神だから〜なんて、一時期の怪奇現象ブームにのった俗説だろうが。
807 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 05:37:26.72
トヨ(いと)はん・・・・・・・・・・
808 :
19歳某国立大生:2012/01/15(日) 09:41:23.18
比売大神など宗像3女神の人格部のようだし
卑弥呼や台与とは関係ないだろう。
809 :
メ:2012/01/15(日) 19:22:03.91
こっちにも誰かカキコメヨ
それにしてもムゲンニョ一人相手に
大勢でよってたかって、恥ずかしいやっちゃな〜w
>>806 何の説明もなしに罵倒する日本史板の伝統はしっかり生きてるんだなw
ろくに史学文献も読まない馬鹿のレスなど不要。
お前には学問マインドの欠片もない。しっしっ。
>>808 その説は誰が言ったの?
>>806 >>卑弥呼=祟り神
>誰にそんな洗脳を受けたのかな?wwwwwwwwwww
うん、おれも聞きたいW
>>810 >その説は誰が言ったの?
あ〜これね
>比売大神など宗像3女神の人格部のようだし
今、必死になって本の中を探してるんじゃないのWW
>比売大神など宗像3女神の人格部のようだし
あ〜思い出した(ひらめき)
たしか、ワッシーの掲示板か何かにそんなこと書いてたような気がするWWW
こいつ、ワッシーの掲示板をよんでるのかW
813 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 23:52:49.50
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
首になった蓮○はシャブで逮捕歴のある人間と仲が良いな。蓮○自身はやってんの?
い-6-1
テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
黄幢に関してはどうなんだろうか。
上で書いたはなしをどのように思うのか各自の意見を聞こう
>>792-794さんは正月休みに宇佐・別府にいってきたようで羨ましいな。
ヒメ大神ていうのは、なぜか宇佐神宮の真ん中に祀られてる。
そしてここには昔から言伝えがあって、この真ん中の二之御殿の位置は絶対に動かしてはいけないらしい。
宇佐神宮の謎について興味有る人はまずは宇佐の地に赴くことだろうね。
私はと言うと年末年始に福岡県のまわってきた。
他に何処かへ出かけたって人はいないんだろうかね。
>宇佐氏の言い伝えによると初代神武は安芸で死んでいて
19才君はいろんな本を読んでるな。
この19才君が持ってきたこの知識を2CHに書き込んでる人の中で
どれだけ知っていた人がいるんだろうか?
わたしは、これについて宇佐氏談話の本を読み、もちろん知ってたんですが
その続きがあって宇佐津姫は神武の後を追ってその安芸で亡くなったと伝えられてる。
ところで、19才君はどっからこの情報を仕入れてきたんだろうかねえ。
それと、安芸ていうのは広島県で、この神武の亡骸と宇佐津姫の亡骸を葬ったのが
あの有名な宮島だったと思う。これ聞いたことある人おる?
>この19才君が持ってきたこの知識を2CHに書き込んでる人の中で
>どれだけ知っていた人がいるんだろうか?
トンデモ情報は腑分けして排除し、絶対読まないようにしていますが何か?
>>815 どうも。夏って書いたんだけどね。
神武記は、最もリアルなのが出だしの行程と河内侵入以降、熊野再上陸あたりまでかなと
思ったりする。河内までは、あっちいったりこっちいったり、時間も不定で、どのような事情が
あったのかよくわからないから、途中で一族郎党の誰かが死んだ事もあったかもしれないね。
日下の戦いが元で兄二人まで死んでしまったくらいだから、神武という栄光の初代は実は
ただの三男坊だったわけだ。それも、長男はそれこそ安芸(中つ国?)で死んだかもしれない。
闕史八代などと言うが、本当の意味で学問的方法論に基づいてその正否真贋を仕分けわれて
きたわけじゃないから、まだまだ簡単に何かを断ずる事は出来ないと思う。特に神武記は妙に
詳細でかつ主人公が勝手に侵入して大敗逃亡するなんて、面白すぎるw
返す返すも奈良時代の焚書の歴史的犯罪性を悔やむのみですな。
神社の過去帳、社伝などは、依然一級資料としての価値があるから、是非どこも公開してほしい
ですね。特に太宰府天神は、物凄く重要だと思う。当主も是非決断して頂きたい。
>>817 まあ、言いたいことは分かるがWW
彼は今、一生懸命に本を読んでいるようで、温かく見守ってやってもいいんじゃないか。
神武の後を追ってその安芸で亡くなった話なんて本を読んでないとなかなか出てこないと思う。
>>818 ああ、夏期の旅行でしたか。
神社の過去帳に関しては明治時代の政府が一度調べ上げる意味で
「神社明細帳」というのを造ってますよね。
一般の人でも、各都道府県にある県立図書館などに行って、そのコピーが観ることができるはず。
820 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 08:56:53.39
謎の女王卑弥呼は誰かって?もうそれは分かったよw
海部氏系図に載ってる初代日女命でほぼ間違いないだろう。
兄弟もいるし、その孫に二代目日女命(小豊与)もいるわけで。
初代日女命は別名倭迹迹日百襲姫、又の名を日神、
神大市姫、と言うので、大市というのは箸墓のある地名だし、
神とまで言われるのは女王であった証だ。
日女というのは太陽神に遣えるミコのことで、当時の太陽神は
日女命の先祖の二ギハヤヒだ。二代目日女命である台与の別名は
稚日女命ともいい、若い日女命と言う意味で卑弥呼と対比した名前に
ちゃんとなってる。
卑弥呼に孫がいたら、おかしいだろ
822 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 09:13:08.21
日女命の兄の乙彦命の孫だよ。乙彦命の別名も
記紀の孝元天皇の和名と一致するし、
尾張氏系図の系図ともほぼ一致するので信憑性は高いとみていいだろう。
卑弥呼に兄がいたら、おかしいだろ
824 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 09:26:54.10
おかしくない。
倭人伝にも男弟ありと書かれてる。
825 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 10:27:32.41
>>816 邪馬台国本ではなく、アラハバキ神についての本を読んでたら
神武は7代いて安芸でうさつひめと死んだと書いてあっただけだ。
古代史はこのアラハバキ神がカギを握ってることはわかったが、
まだ詳しいことはわからん。内容も難しいので。
前の代の「名」を引き継ぐ意味で「世襲」というのが古代からあったわけで
ウガヤにしても大物ヌシにしても、よくいわれてることで、神武天皇の
イワレヒコにしても、著者は〜そう考えたんだろうね。
ところできみは、月に何冊ぐらい本を読んでるの?
ここに書き込んでるみなさんから無知、無知言われ続けてて、
必死になって調べてるように感じるんだがw
827 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 10:43:41.49
最近は月に約5冊くらいかな。
邪馬台国関連は2冊程度で、あとは経済関連が1冊、小説等が1冊、
他の歴史本1冊程度。邪馬台国本だけ読んでるわけじゃなく
バランス良く読むようにしてるよ。古代じゃない他の時代のことも知らないと
だめだし、現代の経済についても知っておかないといけないし、
優れた感性を磨くために小説も読む必要がある。
そもそも邪馬台国本はどれも似たような内容ばかりでもう飽きてきたよw
828 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 10:50:01.17
タイムマシン欲しい!
829 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 10:56:10.26
ちなみに最近読んでる本は、
・古代アラハバキ神と古代史の原像 近江雅和
・古代出雲とヤマト朝廷の謎 倉橋日出夫
・日本中枢の崩壊 古賀茂明
・逆説の日本史忠臣蔵の謎 井沢元彦
・霧越亭殺人事件 綾辻行人
・親魏倭王 大庭脩
だいたいこんな感じで。たしかに最近はやや読む本の量は
多いかもね。でもせいぜい月6,7冊までだよ。
邪馬台国とか古代史関連の他の掲示板はネットでは見てないから
鷲崎とかいう人も言われても誰だか知らない。伊作の爺さんくらいしか
わからないw
>19歳
そか
それじゃ、その5冊を使って君の最大の論敵でもある、
伊作の爺さんをとっちめてやってなw
831 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 11:16:16.76
この爺さんは
「最南端の北に南端は存在する」
と言ってるが、ここの2chでそんな説は聞いたことが無いな〜
アラハバキってなんかスサノオに近いイメージを感じた
アキハバラかと思った。新しいコスプレ喫茶スサノオ
835 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 13:47:30.28
>812 :あらため だよん:2012/01/15(日) 22:43:31.75
>>比売大神など宗像3女神の人格部のようだし
>あ〜思い出した(ひらめき)
>たしか、ワッシーの掲示板か何かにそんなこと書いてたような気がするWWW
>こいつ、ワッシーの掲示板をよんでるのかW
「あらため」って、でかい顔してるわりには、バカなんだな。
宇佐の女神が宗像三女神なのは日本書紀に書いてある。
眼を皿のようにして読み込むことだ。
836 :
ローガン:2012/01/16(月) 14:16:50.93
>>831 19歳某国立大生
>YOUTUBEで邪馬台国の講義をやたらしてる爺さんがいるんだがほんとに2ch内にいる人じゃないんかい?
それ、前に居た「阿蘇山は移動した」ってHNの人。
さておき、河内大塚山調べてご覧なさい。古墳築造の行程がわかるから。 HPにまとめるならね。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/16(月) 14:54:10.88
>乙彦命の別名も
>記紀の孝元天皇の和名と一致するし、
何処が一致なのか??
>「あらため」って、でかい顔してるわりには、バカなんだな。
最近では、古株ていわれるようになりましたし
お前等のアホなレスをみる限り、誰だってつけあがってしまうわw
↓たとえば、これ
>宇佐の女神が宗像三女神なのは日本書紀に書いてある。
>眼を皿のようにして読み込むことだ。
おまえは、あほか?そんなこと誰だって知ってるだろう。
840 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 16:45:29.33
>>839 自分で無知を晒しておいて、いまごろ、言い訳しても遅いよ。
>>840 おれが言ってるんは「人格部」てところだよ
>>808のあれは、卑弥呼の人格部分が「宗像さんにょしん」で
神名部分が「アマテラス」て言ってるのは鷲崎ワッシーの掲示板で読んだ気がすると・・・
みんな知ってるとおり 改めはすごく馬鹿なんだよ
843 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 21:26:38.93
>>836 阿蘇山は移動したとはまだトンデモですねww
古墳築造行程はたしかにあまり詳しくないのでもう少し調べときます。
>>838 太い国産、もう諦めてくださいw
欠史8代も二ギハヤヒ朝の人物ですって。
全員が二ギハヤヒ朝の人物とは言いませんが、
入り婿で入ってきた人物もいますよ。尾張氏系図のほうには
ちゃんと書かれてます。崇神のときに三輪王朝に
乗っ取られてます。なので崇神もはつくにしらすなのです。
844 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 21:31:07.36
比売大神はうさつひめのこととみていいだろう。
そもそも宇佐なんて田舎に邪馬台国があったわけないでしょ。
宇佐は秦氏とか渡来人の居住地でしょ。
845 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 21:34:15.96
>>844 >宇佐は秦氏とか渡来人の居住地でしょ。
無知もここまでくると、芸術的だな。
だな
847 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 21:43:05.71
宇佐周辺の東九州に渡来人が居住してたと
聞いたことがあるがそれは嘘だったんかい?
3世紀の話ではない
849 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 21:47:22.69
宇佐は田舎だし当時の最大人口七万戸もいたわけないことくらい
わからんのかとw
まあ畿内なんて、銅鐸国家が儚くも滅亡したように、
どうしようもなく民度の低い僻地だったとしか言いようがない。
畿内説詐欺かゴッドハンドで、畿内の年代比定をドンドン
古くするしか、畿内説の生きる道は無い罠。
出土物でも魏志倭人伝に記録されているものが出るのは
圧倒的に九州だ。もう、結論は出ちゃってるのよ。
>>宇佐は秦氏とか渡来人の居住地
>宇佐周辺の東九州に渡来人が居住してたと
>聞いたことがあるがそれは嘘だったんかい?
あるよ、あるよ
基本、名無しさんていうのは、その場限りの無知なやつが多いので
コテさんを批判をする前に自分のスキルの低さをどうにかしろっていいたいw
まあ、さすが邪馬台国三流士の一角といったところかw
852 :
19歳某国立大生:2012/01/16(月) 22:29:40.86
九州なわけないだろ。
九州なら台与の後に男王が立ったと梁書にあるので、
3世紀末〜4世紀初頭まで、九州は邪馬台国を中心とした
連合国家だったことになるわw
そんなことありえんことも理解するおつむもないんかい
853 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/16(月) 22:37:26.07
19歳老人
答えられないというんだな。><
ついにオマエはコチラに論破された。
29才君は、畿内論者か。おしいな、折角幅広く(藁)雑読してるのに。
井沢元彦なんか漫画だよなw あれは、元になった論拠を整理して読まないと、
意味がないし、逆にそれをやれば、価値はある。
ニギハヤヒにこだわってるが、それはどういう論拠かな?
確かに結論は面白いが、論拠も大切だよ。どっかの疑似学者の結論の剽窃じゃ、
意味がない。実は私もニギハヤヒ実在・最初の頃はその子孫が王家という考えだが、
それは結構な確率で九州渡来王族説に向かうんじゃないかと思うんだが。
>>850 結局は放射年代測定なんですよね。あと、天皇家古墳の発掘と。
編年なんて無理のある方法を中心に据えて、あといいとこどりでいろんな説を持ってくる
なんて、とてもじゃないが現代科学と思えない方法論を早く変えて行かないと。
中国でも、辺境に行くほど祭器の巨大化は起ってて、実際銅鐸に角が生えたようなのも
実に巨大だった。法隆寺かな?の展示で(10年くらい前)古代中国文明展やってたの
見たけど、何でも巨大化してたのがワロタw
学者には、あの銅鐸の巨大化と廃棄(埋納)の意味が未だにきちんと答えられない。
シンプルな問いに弁証法や色んな推論で答えを見つける外国の学問スタイルからは、
特に何も答えられない日本古代史は、学問じゃないと思います。どんだけ常識外の
トンデモ説でも、科学的思考の推論があれば、きちんと学会で評価される。
855 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:47:47.23
邪馬台国は畿内だろ。
ばかじゃないの?
856 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 09:34:27.66
>>852 >九州は邪馬台国を中心とした連合国家だったことになるわw
そうだな。本州では無理だが、九州ならばあり得る。
857 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 10:33:01.72
二ギハヤヒを太陽神として祀る神社が
全国に数多く残されているのが証拠でしょう。
記紀では二ギハヤヒを隠匿して神武に禅譲したかのように
書かれてますが、実質的なヤマトの王は二ギハヤヒだったとみていい。
二ギハヤヒの王国があった河内の日下という地名も
7世紀に倭から日本に国号を改めるときの大元になった可能性もあり、
皇祖神を天照大神にした理由も、元は太陽神天照は二ギハヤヒの
ことを指していたからだと思われます。
858 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 10:38:29.57
なぜ記紀では二ギハヤヒが神武の敵役で登場させたのかは、
おそらく崇神のところで王朝の系統が二ギハヤヒ系から
三輪系に交替したからでしょう。崇神のみまきいりひこという
名前からも渡来系民族である可能性が高いですし、
崇神一族の渡来から畿内定住までの流れを神武東征として
表したものとみていいでしょう。
859 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 10:39:34.98
電波だねえ。
860 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 10:54:01.16
もちろん、一つの可能性を言ってみただけですw
日本と言う国号はやはり日出ずる国という意味でつけた可能性のほうが高いでしょう。
ただ記紀をすべて信じるのも電波すぎるでしょう。
虚と実の区別をつけないと。
861 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 11:07:00.19
神武という人物の東征などあったとは考えづらいので、
こんなもん信じるほうがおかしい。
862 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 14:00:31.83
19歳某国立大生がんばれ。
電波というなら、九州説のほうがよほど電波だからな。
ただ、「崇神一族の渡来」は、何の考古学的根拠も文献上の証拠も存在しないはずだがね。
863 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/17(火) 14:26:40.02
これでは論説といえない。自分の恣意的選択の口実。
なお19歳老人はすでに論破済み。
864 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/17(火) 14:28:19.40
なるほど。じゃあ、ニギハヤヒは認めるが、神武は否定か。
ふむ。
とりあえず、物部=ニギハヤヒについてはどうかな?
神武以後祟神の前まで、その嫁が志紀=磯城の出とした文献もある。
あと、大阪に天孫降臨の地として営々千数百年続く神社があるのはご存知かな?
ご丁寧に、現天皇家とは違う系統であり、ニギハヤヒだと書いてある。これを
どうするかねw
何故九州ではなく、また何故神武が拠点を得た磯城周辺は天孫降臨と呼ばないのか。
これらを論理的に組み合わせれば、結論はおのずと明らかではないか?
神武記は、繰り返すが非常に問題が多い記述となっている。
リアルすぎる地形、先行するニギハヤヒの存在、ニギハヤヒとの三種の神器の真偽論争、
敗北して南方から回ってくるリアリティー、惨敗やだまし討ちなどという、栄光の初代におよそ
相応しくない内容になっている。藤原の不比等らが、わざわざこんなものを捏造するとは非常に
考えにくい。
記紀まで電波言ってしまうと、じゃあ何を持って研究の礎とするのかって話だよ。
電波なんて無意味無内容な言葉は使うべきじゃない、そこに理性的科学的推論があるかどうか
で見ないと、君に将来性は無いね。
>>855>>859>>862みたいな虫けらは無視するのも力だよ。
867 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:09:55.04
19才がレスしていることはすべて「だろう」という駄労。
電波ばかりになったなあ
869 :
あらため:2012/01/17(火) 19:52:03.09
>二ギハヤヒを祀る神社が
いや、全国には無いよw
近畿を中心に、愛知や北陸にもあるようだが数は少ない。
ニギハヤヒといえば、物部氏の始祖として有名で、天磐船に乗ってやってくる。
何処からやってきたかとうと九州の高良山付近だったような気がする。
まあ、ニギハヤヒは、別名、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊とかいって名前が長いですよね。
ここで注目したいのは「天照」でして、天照=ニギハヤヒという部分に注目してほしい。
870 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:57:30.82
そういや、高良大社が物部氏の宗社って説をどっかで読んだな。
基山から佐賀にかけてのラインでも、物部氏の伝承が色々と。
871 :
あらため:2012/01/17(火) 20:21:47.68
先代旧事本紀かな?たしか・・・
高良大社周辺から、物部氏がやってきたっていう記事があったと思う。
私は大野氏の本でみたんですが・・・・
872 :
あらため:2012/01/17(火) 20:42:04.26
そういえば、この板の連中は、ニギハヤヒについてあまり語ったところをみたことが無い。
みなさんは、ニギハヤヒについてどれだけ調べてるんでしょうね?
物部氏のお宝といえば、十種の神宝ですが、奈良県の天理市にある石上(いそのかみ)神宮が
その宝物の倉庫だったんじゃないかなんていわれてますよね。
十種の神宝ていうのは、こういうので
おきつかがみ、へつかがみ、やつかのつるぎ、いくたま、
まかるかへしのたま、たるたま、ちかへしのたま、おろちのひれ、はちのひれ、くさぐさのもののひれ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D 私が何年か前に、石上(いそのかみ)神宮に行った際にそこの巫女さんに聞いた話では、
神宮内にも御神体じゃないけど、そういう古代から伝わる物が大切に保管してるらしいことは聞いてる。
873 :
あらため:2012/01/17(火) 20:52:34.81
あ〜あれって、この十種の神宝だったのだろうか?
う〜ん、たぶんそれっぽいw
昔から伝わる、十種の神宝てどこにあるんだっけ?石上(いそのかみ)神宮だよね?
たぶん、巫女さんはこの十種の神宝のことをいったのだろうか。
私が巫女さんにそれ見せて下さいよ〜言ったら断られましたけどねw
874 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 21:12:13.74
二ギハヤヒの伝承が多く残されてる古代丹波王国が
当時最大の鉄の使用量を有し、貿易立国として
日本海ルートを使い栄えてたようだから、
倭国大乱時は、丹波の軍事力経済力が、丹波の海部氏の
日女命を女王に推戴するキャスティングボードになったとみていいだろう。
875 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 21:26:59.96
ドンコイで
スレの乗っ取り合いが始まったw
ここは僕の陣地だどおおおおおおお ていう感じなのかな?ww
まあ、あそこに書き込んでもすぐ次スレになってしまうので
だれかこっちおいでな。
876 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 21:28:14.23
崇神は神武と同じはつくにしらすなのも、崇神が実質的な王朝の始祖であることを
示しているとみていいでしょう。
神武というのは数代に渡った一族の畿内移住までの流れを一人の人物で
表してるだけでしょう。神武の東征も邪馬台国の東遷も両方ありえない。
物部は筑紫にたくさんいた一族ですね。
高良山から来たという事は、まさしく筑紫の王族そのものと言う事になります。
多分事実でしょう。
三種の神器を持ってきたのも、誰でもが振りかざせるシンボルではないので。
その一族の誰かが、東方経営の先兵として、淀川を遡り、交野の磐船神社に
到達した。そこから天の川の名も生まれた・・・。
19歳君は、こんなのは知らないのかな?そこから物部、海部、尾張など多くの
士族の祖ともなっているんだが。
www.genbu.net/data/dewa/karamatu_title.htm
880 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 21:38:34.67
東征なんて物騒なものはなかったでしょう。
せいぜい倭国大乱により西日本連合が編成され、
それに伴い九州から畿内に移住した一族がいた程度。
九州の食糧生産力じゃ、人口増加に伴う食糧難に対処できないから
東に移住した一族もいたとみていい。
岩船神社は、噂に違わず実に面白いところでしたね。
是非皆さんも行って見て下さい。
そんなに高地でもなく、先代旧事本記によればまあ途中下車的な感じもあるん
ですが、決して特殊な所や非常な高地ではありません。でっかいいわくらがあるが、
それが初めからあって、ここがいいってなったのか、それとも後から作ったのか。
「高千穂」の語感だけで宮崎の高千穂や韓国岳などの高い場所をイメージしま
すが、そんな必要はないんじゃないかな。
宮崎は、それらしい名のついた名所旧跡はいろいろありますが、肝心の遺跡が
空っぽですよね。
882 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 21:52:00.42
自分は名古屋だし、九州まではとてもじゃないが旅行に行けませんw
奈良なら修学旅行でいったけど、すごい田舎だった印象しかない。
自費出版して邪馬台国の本出してる人は、どうやら九州まで取材にいってるひとも
いると聞きましたw僕にはそこまでの情熱はないです。
売れればいいけどまず売れないでしょうしねw
岩船神社て大阪の?
旅行好きさんいろいろ言ってるんですねw
宮崎の高千穂周辺では有名な古墳などが少ない気がする
あそこは古墳時代よりも前の古い伝承なんだろうか。
>>880 それは一理あるね。
筑紫、豊、火、などの国にとっては一部を派遣した程度だったのかも。
ただ、まきむくのような巨大計画都市を、そんな移民開拓団程度で作れたのかどうか。
先住民をひれ伏させるだけの権威と軍事的脅威があったのかなかったのか。
俺は、あったと思うね。鉄器の普及とその実戦投入、魏などの中国の戦争技術の輸入、
その他先進地域でしか作り得ない各種道具など、田舎の地方にとっては相当の脅威
だったんじゃないかな。
君の言ってる丹波には、アメノヒホコの伝説もある。半島から来たか、由来の九州豪族
かは不明だが、やはりはっきりとした侵入経路を持ち、多大な影響力を持って北上し、
定住にいたっている。
人口稠密地帯から来た重装備部隊なら、当時人口僅少とも言われる畿内相手には、
むしろ大部隊だったともいえはしまいか。
885 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 21:57:09.11
なんか、宇佐旅行氏さん詳しいぞww
886 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:08:00.58
ではわしも書き込もう。
よく邪馬台国は、筑紫なのか?大和なのか?議論があるところなのですが、
福岡県の平原遺跡をみてもらいますと、その副葬品に破鏡が伴ってるわけでして、
この破鏡というのは大和の古墳で多く見られる。
ツクシとヤマトを分けて考えるのではなく、九州から〜近畿にかけて一つの共通する文化があったことが分かる。
たとえば三種の神器ですが、これも北部九州で、鏡、玉、剣のセットが副葬されてる遺跡が多いのですが
三種の神器といえば天皇家のシンボルでもあり、こういうところをみていくと
ツクシとヤマトは別々にとらえるのはよくないのじゃなかろうかと思う・
887 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 22:08:06.34
巻向というのは吉備・出雲・丹波・東海 とかここいらの豪族が
共同で作った連合政権でしょ。その長が卑弥呼で、軍事力では
鉄保有量NO1の丹波が優位なので、丹波の日女命を女王にしたんでしょ。
男王では他の王と差別化がはかれないから女王にしたんでしょ。
軍事的にはそれで十分九州勢に対処できるよ。
九州勢も巻向連合政権の傘下に入ったのは、軍事力の問題ではなく、
経済的な問題で、食糧自給がままならず、もう九州だけじゃどうにも
ならんかったからだよ。
>>882 名古屋なら熱田神宮があるじゃないか。
岡崎の天恩寺とか、小牧のおっぱい寺とかw
朝日遺跡には是非行ってみたいね。資料館とか出来るのかな。
岩船神社の交野は、大阪府だよ。
面白いもんで、現地に行ってみると、なんかわかった気になったりする。
君の奈良の感想も、間違っちゃいない。
なんと言っても盆地だし、海上交通華やかなりし海の民の古代には、正直
中心にはなりにくかったと思うよ。事実、古代は湖と大和川の大氾濫原だし。
巨大な中華帝国の文化も、ここまで来るには相当の時間と労力を要するし、
倭人伝に付庸する別種と言われた程度の存在って言うのが当たらずとも遠
からずって所じゃないかな。
それは、古地名の数や質からも、言えると思う。
889 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:16:21.34
>鉄保有量NO1の丹波
とか言ってるが、奈良県の古墳は天皇陵が多いので調べることができないという部分もある。
天皇陵を全てあけてみたら、実は鉄保有率No.1は奈良県だったなんてこともありえるかもしれないよw
890 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 22:20:07.45
一応自分は今年二十歳だし神社巡りはあまりしませんねw
名古屋で行くとこは栄の街中にある風俗店とか、カラオケとか
遊び場ばっかですよw
邪馬台国に関しても本読み始めたのはまだ昨年の秋くらいからなので
そんなに詳しくないですね。最低5年はやらないと通用しないと
他サイトでは言われましたw
891 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:24:18.56
へえ 旅行好きさんって神社めぐりもいろいろしてそうですね。
熱田神宮は何度も行ったことがあるんですが、熱田神宮と言えば草薙の剣でして
その名古屋周辺にも草薙の剣のヤマトタケルノミコト伝承地が数多くありまして、
三重県の亀山周辺にもいったことがある。
そこの亀山には、ヤマトタケルノミコトが伊吹山の神を怒らせ怪我を負い、
その帰りに果てた場所ていうのがありまして、そこが亀山の地といわれてるんです。
もちろん、ヤマトタケルノミコトを葬ったという墓がありましてそうゆう所をまわってきた。
892 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:28:15.83
こいつ風俗店とかで遊んでるのか。
まあ、人のこと言えんがw
893 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 22:30:30.29
トンデモ言われそうですが、記紀編纂時の天皇が天武なので
天武の影響が記紀に反映してる気がしてなりません。
神武も天武をモデルにした人物の可能性があるし。
名前も似てるしw紀伊半島の熊野ルートでヤマト目指すのも
天武軍の壬申の乱の進行ルートがモデルなんじゃないかと思うのですが。
なので僕は神武という一個人が東征したという考えは支持しかねます。
あくまで一族の畿内移住の流れとみる程度です。
894 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:32:25.00
>邪馬台国に関しても最低5年はやらないと通用しない
あらため、ローガン、www(ジョーカー)なんかはここへきて5年以上経過してると思うが
通用してるのかなwどうなんでしょう?みなさんwww
895 :
19歳某国立大生:2012/01/17(火) 22:32:52.48
風俗店は金に余裕があるときにたまにいきますw
彼女もいないんで、男なので性欲処理にそういうとこ行くしかないんですww
では今日はこれにて。
896 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:38:40.25
亀山はついこの間行った。寒すぎw
神武も謎の多い御仁だが、ヤマトタケル程じゃないよねw
とてもじゃないけど、一人の事績や行程とは言い難い。
景行記自体が破たんしているところが多すぎるので、相当後世の政治的意図を
持って構想されたんじゃないかというのが私の考え。
景行の時巻向に都があったってえのも、香ばしすぎるw
巻向遺跡は、この当時のものだったと思うね。間違いない。
各地の勢力の代理戦争的な綱引きが行われていたと思う。
ただ、東海エリアの伝承の多さは、なにかしらリアルなイメージがありますね。
景行自体実在も不明だけど、その当時英傑がこの地域で活躍したのがモデルに
なった気がする。天叢雲剣と言うのも、いろいろ難しくて、これだという自信は
ありませんね。特定の剣なのか、当時席巻したであろう鉄剣の総称か、文字通り
宝剣なのか。まあ、面白いですね。色々と。
898 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/17(火) 22:52:44.96
宇佐旅行氏も、19歳君も、神代と歴史時代の区別がついてないな。
ニギハヤヒの降臨なんて、ニニギと同時期だとすれば180万年前だし、
そうでなくても、少なくとも1万年以上前の話だろう。
ただし、もしかしたら神武と同時期で、1万年前くらいの話かもしれない。
899 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 22:55:40.40
日本書紀に日本武尊を能褒野陵に葬る とあるが、
能褒野陵の伝承地がいくつかあり、大まかに分けると、
三重県亀山市の能褒野陵と三重県の鈴鹿市にある白鳥塚古墳でしょうね。
亀山市にある能褒野陵のほうは比較的に整備されており、車で行ってもすぐ行けるんですが、
鈴鹿市にある白鳥塚古墳の方は、山の奥にあるというかw
細い山道を歩いていかなければたどり着けない。 まあ、人ケの無いところですね。
>>264 計其道里、當在會稽、東冶之東
その道のり(を合計すると)會稽、東冶ノ東に相当する。
てことだよ。
901 :
おれおれ:2012/01/17(火) 23:15:59.58
計其道里 當在會稽東治之東
>径百歩が約150mだとしても、前方後円墳の後円部の大きさをもって「倭人伝の記載に一致する」というのは恣意的な解釈に過ぎません。
>周濠も含めて完成した全体が墳墓なのであって、それを目の前にして後円部だけの大きさを計りますかね?
ちょとK−MATのレスについて考えてみるが
これは多くの人が言ってることで、箸墓の全長は280メートルだから
その矛盾点をついてきてるていうことか。
箸墓だとかその前に造られた巻向型はおたまじゃく型というか、
あれをみて、円墳だとか、楕円形だとか分かるかどうか疑問なところがある。
最盛期の前方後円墳とは違うので円形部の部分だけを計った可能性もあるんではなかろうか。
>墳丘自体の大きさは小さくても、周濠を含めて径百歩で良いと思います。
これは考古学の高島氏も同じことを言ってるね。
>それはそれとして、箸墓の年代については、
>歴博の恣意的な年代推定や土器付着炭化物による炭素年代の問題が残っています。
土器付着物をAMS法で測定したところ西暦260年頃という測定結果が出たらしいですが、
ここでいう問題てどういうことなんでしょうね。
精度のことをいってるのだろうか・・・
904 :
ローガン:2012/01/18(水) 00:28:45.50
>>902 あ、そういう勘違いしている人、時々いますね。
「前方後円墳」という分類上の名称と、 空から撮った写真のイメージが抜けないんでしょう。
>畿内説の生命線は箸墓の築造年代位しかないのでは?
>(卑弥呼の墓=前方後円墳=邪馬台国は畿内=ヤマト王権という理屈)
まあ、「鐙」の問題も残ってるし、箸墓は四世紀の古墳と考える人も多いのは確か。
今よく言われてるのは、AMS法で260年、土器編年だと280年とか290年だったと思う。
しかし、箸墓説をとる人を勘違いしてるようだが、上記の、
卑弥呼の墓=前方後円墳=邪馬台国は畿内=ヤマト王権ていう単純なもんじゃないと思う。
>だからこそ、記紀との整合性が問題なのであって、記紀は邪馬台国の実情や位置は教えてくれなくても、
>「邪馬台国は畿内には無かった(加えて、ヤマト王権との政治体制としての繋がりも無い=東遷説も成り立たない)」事を教えてくれてる。
なんで記紀でそうなるんでしょうねえ・・・ようは記紀を語りたいてやつなんだろうかw
906 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 00:31:37.70
>>895 19歳某国立大生
自分の風俗巡りの披瀝か、痛いやつだな。
>>904 あ、ローガンさん良いことを言う。
そうです、そうです、みんな空から観た古墳のイメージしか無くて
現物をみてみろとw
908 :
おれおれ:2012/01/18(水) 00:42:40.01
卑弥呼人気だね
この熊襲の女酋長さんて利用価値とか絶大なのかね?
この熊襲の女酋長さんは、僻地の畿内王みたいに民度が低くないから、価値あるんじゃない?
910 :
おれおれ:2012/01/18(水) 00:59:43.88
でもさ
これがばぁあちゃるののげえむであったとしてだな
じつわあ
陳寿さんがうそぴょ〜んでした
とかって自白とかしたら
ぽまいらどおするの
911 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 01:02:16.46
熊襲の女酋長さんて、熊襲の女酋長さんて、
八女津媛?田油津媛?神夏磯姫?それとも速来津姫?
912 :
ローガン:2012/01/18(水) 01:05:27.28
>>881:宇佐旅行氏
>岩船神社は、噂に違わず実に面白いところでしたね。是非皆さんも行って見て下さい。
私、中河内在住なんで、ニギハヤヒと云えば石切さん…。お話に出た北河内の磐船神社も何度か行ってます。
雨が続けば翌日晴れても お詣り(岩窟くぐり)は無理です。(笑)
さておき、物部没落後、住吉を祀る背景には木津の息長…塚口説が云う所の
「神功伝承を語り伝えた山城南部の息長の系譜」が私的には割と理解し易い。
914 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 10:00:54.52
ニギハヤヒとか、まじめに考えてるやつはバカとしか言いようが無い。
しかも九州か来たとか言ってるが、九州のどこの神社で
ニギハヤヒが祀られているというのが?
まったく、事実に基づかず、脳内で勝手にストーリー組み立ててんじゃねえよ。
915 :
19歳某国立大生:2012/01/18(水) 10:21:56.13
二ギハヤヒを軽視してるほうがアホだよ。
古代史上の最重要人物と言ってもいいのに。
そこに早く気付いたほうがいい。
ホームページ作るのに5年、自費出版するのに10年、
商業用の本出すのに15年と言われましたので、まだホームページ作るのは
自重しますw
916 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 11:06:05.28
画文帯神獣鏡&三角縁神獣鏡と庄内式土器の分布図で畿内説で間違いない。
917 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 11:13:35.00
918 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 12:24:38.75
伊勢國號 (萬葉集註釋 卷第一) (今井似閑採択)
天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の
長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ
ホ27054アマテラス ニギハヤヒキミ モにいりて シラニワムラの ミカハなす
ホ29043シホツチノ オキナすゝめて ニギハヤか いかんぞゆきて むけさらん
ニニギは天の磐船から降り立つ。←帰ることが出来る。
ニギハヤヒは磐船から飛び降りる。←帰ることが出来ない。
つまり、ナガスネ・ニギハヤヒは、九州から出奔する。これだけでは罪にならない。
罪になることをして、逃げ出すのであるが、スサノウの罪状でさえ、
追われ殺されることは無い。
逃げ出した時代は、神武東征の直前であり、弥生後期後半の始まる直前。
この時代前100年ほどは安定した気候の時代が続き、九州の人口が増え
各地に分散したことがうかがえる。
気候と社会の共振現象。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf 後漢183〜193年は日本でも異常気象である。
919 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 12:40:02.86
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
920 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 12:40:18.56
ホ30030ヲシクモは カハチにゆきて ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて
カミとなる ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
近江伊勢遺跡など、近江の遺跡が栄えるのは、弥生後期前半(X様式のはじまり)からであり
弥生後期後半に衰退する。
弥生後期前半(1世紀半ば)から弥生後期後半(193年)までである。
つまり、神武即位は、1世紀半ばであり、崇神5,6年までである。ここからは、河内陶邑(タタネコ)
が、時代指標の基準となる。
921 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 12:55:07.72
訂正
×逃げ出した時代は、神武東征の直前であり、弥生後期後半の始まる直前。
○逃げ出した時代は、神武東征の直前であり、弥生後期の始まる直前。
922 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 13:10:14.46
>>917 アマテルは、圧倒的に畿内で祭られてますな。
鉄が多いから九州有利とか言うなら、アマテルを祀る神社が多い畿内が天照大神発祥と考えるべきだ。
923 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 13:12:51.70
コシネのクニ(北陸)もサホコ(出雲)みな
崇神10年に大彦をコシに派遣する。つまり、この直前に大物主より譲位されたことをあらわす。
崇神末に出雲の神宝を見る行為もそれを裏付ける。
ここに、任那建国と任那よりの朝貢を置くと、210年(三国遺事、新羅209年)が妥当であり
辻の大型建物に古韓尺が使われていることも説明できる。(3世紀前半)
924 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 14:01:34.86
>>914 饒速日命については日本書紀書かれている。
天磐船に乗って天から奈良盆地にやってきた一族であり、神武天皇と同族であることが書かれている。
また、未来永劫、天皇に仕えることを誓った物部氏の遠祖であるとも書かれている。
文字通りに解釈すれば、高天原の出身ということになる。神武天皇は高天原から日向を経て
大和に入った。饒速日命は高天原から直接大和に入った、ということか?
925 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 14:25:07.71
アマテル(天火明命系)と血縁して同族になったんじゃねーの饒速日命。
>>915 19歳名古屋のウェブサイトなんんか、誰も読まないから、
作る前から心配するな。
927 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 14:36:31.47
天照大神が「あまてらす」ならば、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は、
あまてらす・くにてらすひこ・あめのほあかりの・くしたまの・にぎはやひのみこと
大変な名前だ。天照大神よりも立派だ。
>速日命は高天原から直接大和に入った、ということか?
あくまでも神話を現実に置き換えてみてのことだが、
俺は、饒速日は先遣開拓部隊を率いた長で、
彼の「祖先」に先遣開拓を命じたのが神武の「祖先」だとみている。
このことが判明したからこそ国譲りめいたことをしている。
さらにいえば、弥生期に計画的に大集落化した
唐戸・鍵のような(大和盆地の低湿地開拓集落)が彼の拠点ではなかったか。
929 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 15:38:52.31
>>927 神話は読まないなどといいながら、結局、ニギハヤヒと神武は同族だなどと、
神話を額面通り信じるボケナス。
では、古代より日本列島に来た人種は、全員イザナギ・イザナミと同じ種族だというわけだ。
縄文人も弥生人もありゃしない。
おそれいったね。
930 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 16:40:42.92
>>924 ちょっと訂正。
>神武天皇は高天原から日向を経て大和に入った
神武天皇の「系統」は、高天原から日向を経て大和に入った。
>>929 そういうのを相殺の詭弁というのだよ。イザナギ・イザナミの物語が作り話だから、記紀の話は
全部作り物というのでは畿内説も困るだろう。
記紀には、記憶にない遠い昔のことを想像したものがあり、記録のない伝承の部分があり、
記録に基づいているものもある。
全部一緒にするようでは困る。
アマテラスなんて読み方は、本居宣長等の国粋主義者が、
天照大神=アマテルオオカミに大げさな読みを振って、
あたかも唯一絶対神のような至上の神を装った馬鹿な読み方。
現地対馬にあるのは「あまてる神社」であって、「てらす」とか
「おおかみ」とか「おおみかみ」などという誇張表現はない。
932 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 17:30:41.10
>>929 >神話は読まないなどといいながら、
「神話は信用しない」だ・タコ野郎。
お前みたいな短絡攻撃野郎を想定するからこそ、
「あくまでも神話を現実に置き換えてみてのことだが」とことわっている。
お見立て通りの短絡野郎だな。
>古代より日本列島に来た人種は、
現在、中国に50以上もいる少数民族のうち、
長江流域で稲作と漁労を営んでいた種族。南蛮・荊蛮・百越といわれた種族だ。
これら複数の種族が縄文後期から継続的にやってきた。
文身をする・お歯黒をする・文字を持たない。
少しずつ生活文化は異なるが、基本的には同じ種族だ。
同じ日本人でも、複雑多用に生活文化が異なるだろ。
>縄文人も弥生人もありゃしない。
そういうことだ。来た時代に違いはあっても、もとは同じ種族だから。
他人の論考を吟味する殊勝さがあるならば。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
933 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 17:32:16.60
>>931 なこた・どうだっていい。本論をみれ。こもの
934 :
おれおれ:2012/01/18(水) 17:35:30.91
>>932 おまいは ひょおげんが そざつ
もっといいかたせんれんとかしたら
935 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:46:08.00
>>930 >記紀には、記憶にない遠い昔のことを想像したものがあり、記録のない伝承の部分があり、
>記録に基づいているものもある。
>全部一緒にするようでは困る。
自説に都合の良い神話は事実で、
自説に都合の悪い神話は創作か?
神話のどこに事実があると実証できるのかね?
笑わせるなタコ。
936 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:50:04.81
>>932 人類は、アフリカ起源だアホ。
おまえの理屈なら、アメリカ人も高天原起源だな。
おめでたい野郎だ。
わらわら。
その通りですね。
>>914・
>>929みたいなカスが跋扈する原因になる。
怒涛の天才氏は、キャラかも知れんが気を付けた方がいい。
なにせ、古代史学者の連中始め、教育委員会や研究所の下っ端連中まで異論を認めず、
巻向以外全部キチガイ扱いだからね。興ざめも甚だしい。
学者達自身が下品だし、その事で学問としての古代史を貶めてる。
>>931 アマテル神社は行かれましたか?太秦の三つ鳥居とか。
アマテル=アマテラス、アマテラスは別格で書紀当時の造作、いろいろ説がありますね。
ニギハヤヒ=アマテルと言う人もいます。神話は難しいw
かと言って、全部無視するのも暴論で、何でも埋蔵物一本に頼るのは、逃げだろうと。
939 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:08:38.51
>怒濤の天才
だったら何か?
高天原は、中国朝貢に実在しましたってか?
伊作は、中国文献に詳しいようだから聞くが「高天原」は中国読みで、意味が通じると思ってるのか?
バカじゃねえの?
旧約聖書古代ヤマト訳判=古事記
941 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/18(水) 19:25:01.48
>>920 ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と、
コチラを口撃していた男が〜〜
〜〜偽書と言われる書物を持ち出した〜〜
>>927 >天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
これって系図っぽくない?
天照 \
天火明 \
国照彦 / 饒速日命
櫛玉 /
943 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:58:21.77
>>947 読み直したら、またトンデモなこと言ってるな。
>饒速日は先遣開拓部隊を率いた長で、
>彼の「祖先」に先遣開拓を命じたのが神武の「祖先」だとみている。
「先遣開拓」とか「国ゆずり」とか本当にあったと思ってんの?
神話を表面的に読みかじって、わかったつもりになってるんだろうが、恥ずかしいにもほどがある。
944 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:58:48.50
945 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 20:55:23.41
>>939 >>943 あのな。横ちゃり攻撃もいいが、
最低限、相手が何をいってるのかぐらいは把握してからやれ。
神話ほ信じないという俺が、
「あくまでも神話を現実に置き換えてみてのこと」といってるんだ。
てめえらいったい、どこに軸足があるんだ。
「俺は馬鹿だ」とアピールしてるようなもんなんだぜ。
946 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:20:42.04
947 :
19歳某国立大生:2012/01/18(水) 22:00:13.76
箸墓が台与の墓臭いので、設定リセットしなおし考えるわ。
948 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:06:42.29
台与てだれ? しらねえなあ
949 :
怒濤の天才:2012/01/18(水) 22:09:51.82
ざっと見渡したところ、
時代遅れの畿内説をほざていてるのは、
たったの1〜2名になったようだな。
利口な奴は、バツが悪くてとっくに矛をおさめたというわけだ。
950 :
19歳某国立大生:2012/01/18(水) 22:30:04.26
台与がモモソで箸墓に葬られたなら、卑弥呼は海部氏系図で繰り上がった日女命ということか。
951 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 22:31:01.62
>箸墓が台与の墓臭いので、設定リセットしなおし考えるわ。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、
この記事を266年と考えることが出来る。
250年に13才であれば、266年ではまだ30歳弱、箸墓が260年であれば該当しない可能性が高い。
△鏡はさらに後の桜井茶臼山からである。桜井茶臼山が300年以後になると
舶載△鏡の説明ができなくなる。舶載は3世紀中であり、4世紀は倣製鏡の時代である。
952 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:36:33.50
棺桶におみあしつっこみかけてる爺さんが
卑彌呼のこと ひみかって 読んでるけど
これしきで 処理すると
壹與は いとハン になっちゃうよね
漢文読みのの発声の援用ですよね
>>931 > アマテラスなんて読み方は、本居宣長等の国粋主義者が、
> 天照大神=アマテルオオカミに大げさな読みを振って、
> あたかも唯一絶対神のような至上の神を装った馬鹿な読み方。
> 現地対馬にあるのは「あまてる神社」であって、「てらす」とか
> 「おおかみ」とか「おおみかみ」などという誇張表現はない。
「アマテル」か「アマテラス」かは別にして、「オオミカミ」の方は、古事記を見れば間違いは無いだろう。
954 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/18(水) 22:51:40.09
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 [九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
庄内式土器で編纂された時代が布留式になるということは、
王朝が纏向から移動したことをあらわす。纏向は、崇神・垂仁・景行の都市である。
240年=崇神=卑弥呼の設定をしても、纒向遺跡の説明ができない。
纏向は、2世紀末から急速に大きくなる。鉄の流入は、その纒向と同期し、
3世紀前半の大型建物からであり、
土盛りと整地をして中期の大型建物(240年)は、日代宮とできる(纒向珠城宮のあとに纒向日代宮)
モモソ姫を設定できない。
だから、卑弥呼は九州であり、邪馬臺國は大和でなくては説明することが出来ないのである。
955 :
思:2012/01/18(水) 23:00:43.00
オシホミミ
伊勢→多賀(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦))
天照−オシホミミ−クシタマホノアカリ(テルヒコ)
日高見(東北)多賀→イカルガ→アスカ
ニギハヤヒ(クニテル)(国照)
天照−オシホミミ−ニニギ−ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))−ニギハヤヒ(クニテル)
ハラ(富士)→アスカ
神武
多賀(近江)→宮崎→大和
(ホツマツタエ)
ニギハヤヒは秋田物部伝承によれば
鳥海山に降臨し秋田に住んでから畿内に移ったらしい
嘘だろって?
秋田には雄物川が有るし鳥海山は大物忌神が居るとして大和朝廷が恐れていた
大が付いてるから結構すごい神
ニギハヤヒは物部の始祖だらか一致する、神話や伝承をバカにしたら駄目だ
957 :
奉行は寝る:2012/01/19(木) 00:08:47.19
なんだ、あのドンコイの〜レス消化速度わww
3日で500オーバーじゃんw
伊作、旧縄文に、ムゲンニョだろ
あとジョーカー、民に、サイシバとか言う奴に豪華メンバーが集結してるもんなw
サイシバwww
959 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 00:40:41.11
>サイシバ
いや本来その読み方が正しかったんだけどねwwwwww
960 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 00:42:06.18
コピペ投入ゝゝ
実は卑弥呼なんて最初からいなかったりして。
聖徳太子みたいな架空の人物ってオチじゃね?
961 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 00:44:31.85
寝る前に少し書き込もうか
>>914 >しかも九州か来たとか言ってるが、九州のどこの神社で
>ニギハヤヒが祀られているというのが?
で、伊作のホームページをチラット観てしまったんだがw
そこにあるのは
>福岡県久留米市の伊勢天照御祖(いせあまてるみおや)神社、
>京都府宮津市の元伊勢籠(もといせこもり)神社に祀られている天照国照彦天火明命こそが、
>伊勢神宮の本来の天照大神なのかも知れない。
なんて〜よく調べてるんですが・・・
九州からやってきたというのは「先代旧事本紀」でしょうねえ。
日本書紀や古事記や、神社の伝承ではナイ。
伊勢系を出すなら元伊勢がどこだったのか特定しないと、、、
963 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:08:16.40
>>427 >俺は、饒速日は先遣開拓部隊を率いた長で、
>彼の「祖先」に先遣開拓を命じたのが神武の「祖先」だとみている。
祖先て天照大御神や高木の神のことだろうか?
ていうか、この記事は記紀のまんまじゃない?
宇佐伝承の方で、古に「猿田彦」系の民族が日本列島にやってきて
あとから「菟狭族」系の民族が移住し、日本列島の各地に住むようになるんですが
菟狭族ていうのは本州のどこだったか忘れたが、もともとの拠点は九州ではなく本州に住んでいて、
猿田彦系の民族から現在の大分県周辺に追いやられたような話は来たことがある。
伊作さんは、こういう饒速日や神武以前の民族的な話は知ってるんだろうか。
964 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:09:36.85
【訂正】
話は来たことがある・・・×
話は聞いたことがある・・・○
965 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 01:15:35.92
>>957 ドツボ
お前がこのスレに取り戻すべき顧客は「ドン来い」じゃなくて
「それでも邪馬台国は九州にあった」じゃないのか?w
このスレが一番賑わっていたのはお前が九州説で河童と「漢字談義」に明け暮れていた時じゃなかったのか?w
966 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:18:32.55
>あのな。横ちゃり攻撃もいいが、
>最低限、相手が何をいってるのかぐらいは把握してからやれ。
>神話ほ信じないという俺が、「あくまでも神話を現実に置き換えてみてのこと」といってるんだ。
とか言われてるがw
>>939さん、
>>943さん 記紀だよ、伊作氏は「記紀」に載ってることを
その「まんま」説明したと思われるw なんて単純なんだw
それと
>>932の
>>古代より日本列島に来た人種は、
>現在、中国に50以上もいる少数民族のうち、長江流域で稲作と漁労を営んでいた種族。
>南蛮・荊蛮・百越といわれた種族だ。これら複数の種族が縄文後期から継続的にやってきた。
>文身をする・お歯黒をする・文字を持たない。少しずつ生活文化は異なるが、基本的には同じ種族だ。
>同じ日本人でも、複雑多用に生活文化が異なるだろ。
コレは形態人類学のことをいってるんだろう。
大まかに「縄文人」と「弥生人」と・・・
967 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:26:07.67
>>965 あ、どうぞ、どうぞ、彼等はどうでもいいというかw
ただ、私は人が多いところは少し苦手で>< かといって少なすぎるのも困るというか・・・
968 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 01:31:41.76
人がいないと「仕切り」もできないからなw
969 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:36:22.97
>>956 >ニギハヤヒは秋田物部伝承によれば 鳥海山に降臨し秋田に住んでから畿内に移ったらしい
ニギハヤヒではないんですが、大国主なんかは青森周辺にもその伝承を残してますよね。
どうしても邪馬台国時代の事を話すときには九州などの西日本周辺の話になってしまうが、
やよいの稲というか、水田稲作は東北の方にもちょく、ちょくその跡地が発見されてますよね。
東北地方などは時代をすこし遡らせると(弥生や縄文)、はなしの話題としても重要な土地と思う。
970 :
(鍋奉行):2012/01/19(木) 01:37:45.97
>>968 あはは けっこうなことをいいますねw
ていうか、そろそれ寝ないといけません・・・ てことでこの辺でzzz
>>953 >古事記を見れば間違いは無いだろう。
なんで古事記の時代にまで降りるわけ?
アマテルは古事記の8世紀よる数百年古いでしょ。
むしろ「アマテラス」自体がニギハヤヒへの対抗上持ってきたんだろう。
そうでなければ何故あれだけ元伊勢がやたらとあるのか、かえって理解しにくい。
物部の勢力が最終的に敗北したのは蘇我の時代、本貫の八尾で決戦して本家が
滅亡するまで、勢力を保っていた。記紀の成立はその後だから、実際のところどう
だったのかはわからない。大王→天皇の過程で神性を付与するのに、ご先祖より
先に来ていた九州王家由来の大勢力は都合が悪かったわけだ。
そこで何故「アマテル=アマテラス」なのかだが。
これがなかなかに難しい。当時としては自明のことだったのかもしれないが、今と
なってはわからない。
捏造キング・不比等さんを証人喚問したいところところだなw
973 :
19歳某国立大生:2012/01/19(木) 09:41:58.77
天照自体が二ギハヤヒのことを指してるのだよ。
女神なのでそれに気付かないだけで。
崇神天皇に宮中から追い出されてるのはここで
二ギハヤヒ朝から三輪朝に交替した証拠であり、
最終的に伊勢で隔離された。天照なんて神は7世紀まで
末端の神扱いで皇祖神でもなんでもない。
記紀編纂時になって皇祖神に格上げされただけ。
ついでに持統天皇の影響で男神から女神に変貌して。
国号を日本と改めたので、それに合わせて太陽神を皇祖神としたんだろう。
この馬鹿もだんだん畿内説から外れて電波になっていくな
975 :
怒濤の天才:2012/01/19(木) 10:04:36.35
ここで一句。
「プロ固定 無視され続けて あがったり」
プロ固定とみなした奴は、みなで無視すべし。
肩すかしのカラ振り投稿をさせて奥歯で嘲笑。
976 :
怒濤の天才:2012/01/19(木) 10:05:10.24
また誤字か
ジョーカーと改めはプロ固定だな
夢幻如はたぶん違うだろう
2chで死に近きジジイどもがどんなに騒ごうが学会的にはもう畿内説で確定だわな
九州説は地域興しとして残るだけだろう
980 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 10:29:07.90
邪馬台国が畿内なんてのは学生の僕でもわかることだ。
頭悪い爺さんが九州とか言ってるだけでw
画文の分布図のみでも畿内とわかるのに。
あとは卑弥呼や台与が誰なのか比定する段階に入ってるだろう。
九州に後漢滅亡以降王墓はない。各地の土器や物資が集積した中心地もない。
威信財の副葬も少なくなり、もちろんそれを分配した中心センターもない。
3世紀代のうちから九州を通って畿内へ画文鏡を流通させるルートが通じ、
ルート上の北部九州の首長は画文のおこぼれをもらっている。
公孫氏滅亡以後、画文が三角に変わるだけでこの図式はますます強化される。
3世紀後半に入ると北部九州、東部九州、日向にも早期の前方後円墳が発生する。
大陸との窓口は怡土から西新に変わり、北部九州には煮炊きに効率のよい庄内式
土器が流れ込む。
そして畿内から入植者が入り、環濠集落が解体し、畿内式の豪族居館ができていく。
>>980 つーことで畿内説のほとんどは馬鹿臭いので2chを離れた
お前はなぜこんな死臭漂う場所で電波の人の仲間入りして騒いでいるのだ?
983 :
19歳某国立大生:2012/01/19(木) 10:55:04.97
その前に高地性集落のみでの倭国大乱は九州限定でもなんでもないんだし
この時点で九州説は消えることも理解できないようではなw
>>792 725 年に宗廟を宇佐神宮に譲る前は、高良山が宗廟だった。
高良山には、玉垂尊=建内宿禰=武内宿禰が祀られている。
景行天皇は高良山の木で舟を作ったと有る。
新羅から人質が頻繁に来て居たが、大和での記述はないが、高良山では正月に人質の王子が犬の面を被って舞ったと言う記述がある。
神功皇后の伝説愚堂訓も高良山の宮司が招かれて書いた物。
倭国大乱。弥生時代後期の戦傷人骨の研究によれば、鏃や石製武器が残っている場合
それは近隣に産地があるもの。つまり弥生時代の戦争は近隣同士の争いであり、ある勢力が
長駆遠征して戦った形跡は見られない。この時代の神武遠征はなかっただろうし、ある地域が
遠くの地域を武力で制圧し、統治するようなことはできなかった。
986 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 16:31:02.10
>>982 俺の場合は、畿内説の講義のために、どうやってバカを教育したらいいか見物ってところか。
「原発は絶対に安全です、コストも一番安いです」なんて大嘘がまかり通ってきた世の中で、
詐欺の畿内説がのた打ち回って死んでいくのを、じっくりと観察するのは楽しいものだ。
988 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 17:43:03.53
>弥生時代の戦争は近隣同士の争いであり、ある勢力が長駆遠征して戦った形跡は見られない。
謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,遞相攻伐,歴年無主。
乱は九州内の出来事。
庄内式土器を持ち込んだ勢力が鉄鏃を使用して平定する。
この直後の布留1式期には、神功渡海。
989 :
おれおれ:2012/01/19(木) 18:07:06.59
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。(三國志魏書烏丸鮮卑東夷傳-晉陳壽撰)
↓
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。(後漢書東夷傳-劉宋范曄撰)
↓
謂之倭奴國。桓、霊之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。(隋書東夷傳-唐魏徴等撰)
ぢいちゃんが范曄さんがご丁寧に誤変換してくれたって
二倍年暦で七八十年ぽいのをさ
990 :
メ:2012/01/19(木) 19:27:26.87
ジョーカー
おめー変なこと言うなよ〜おれまでプロ固定とかいわれてるじゃんw
でもまあ、掲示板なのでジョーカーみたいにプロ固定というかw
いかにしてスレをまわすしていけるか(今ドンコイが人気なのは全てジョーカー氏の「技」)
だとか、そういう楽しみ方もあるんじゃないかと思う。
ただ単にレスをするんではなく、彼みたいにテーマを決めて楽しむのも良いと思う。
たとえば、ジョーカーだと「いかにドンコイをまわせるか(お前等ジョーカーにまわせられてるぐらい気付けてはなしでw)」だが、
「あいつより知識を高めてやろう」とか「この前言われまくったので言い返してやる」とか
「論破してやるとか」楽しみ方はそれぞれなので、自分なりにテーマを決めてやるのもいいと思う。
991 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:42:40.36
ジョーカーを論破してやろう!
そう、思っていろいろ知識をつけたところ、畿内説が正しいことがわかりました。w
そういう人は多いんじゃないかな。
992 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 19:47:15.56
古事記の崩御干支 編年考察
崇神天皇 188年〜216年 戊寅・・・?
垂仁天皇 217年〜239年
景行天皇 240年〜261年
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。ここで干支を合わせる。
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・応神死亡から120年後(311年から120年。431年死亡? 賛)。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済 元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年
顕宗天皇 485年〜487年
仁賢天皇 488年〜498年
武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・?
993 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:53:57.29
994 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/19(木) 19:59:59.43
宿主の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の 」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)
4πr**2=113.09733552923255658」46・・・
右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。
本物は天津金木だ。 崇神即位年≠188年
995 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 20:08:01.24
プロ固定は嫌だな
>>974>>979>>982>>986のようなクズが実社会では学者面して偉そうに
ものを教えてるなどと、吐き気を催すな。
しかも画文帯とか、三角縁に、あとは布留?庄内?
言い大人が、馬鹿なの?(´._ゝ`)y―・~~
お前らのは学問とは言えないんだよ馬鹿w
・・・などというはじまり方は誠に気分が悪いですねw
まあノイズとして無視すればいいんでしょうが。
十九歳君、あんまし影響されんなよ、そんな残りかすの大人モドキには。
998 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 20:27:11.79
筑紫次郎 氏もこっちくればいいのにねぇ
おいで、おいで
ドンコイでも良いのだが、定員人数オーバーしてる感がある。
まあ、せっかく投稿するんだから約1か月ぐらいはもってほしいよな
>>997 この板の全員が論理的に考証を進めていくという学問の基本が出来てない
ただの妄想を大声で喚いてるだけで、自分と異なる意見には一切耳を貸さないから進歩の全くない永遠ループ状態
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。