謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!60

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1320252751/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:36:13.63
>>前スレの998
>豊かな社会に鉄器が多くあるということと
>鉄器が社会を豊かにするということは違う。

弥生時代、九州の鉄器が社会を豊かにしていないと断定した根拠は何?
3日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:40:17.76
なんか話がおかしいんじゃない。deshabari氏とジョーカー氏の論争の発端はdeshabari氏の
「王墓などの遺跡がある弥生時代の九州に比べて王墓もなく器具類出土品も縄文時代のものとさほど変わらない弥生時代のヤマト
に大型前方後円墳を築ける勢力が自生したとは考え難い(要約)」という書き込みではなかったか。

そして途中で鉄器の話になって、ジョーカー氏の
「鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い。」に対してdeshabari氏は
「鉄器の国力に与える影響を評価するためには鉄器が入る前後の人口や耕地面積などの変化が分かるデータが必要であるが、その
ようなデータは現在の考古学資料には揃っていない。したがって、考古学資料を基に”鉄器の豊富さは国力の増大につながらない”と
言うのは間違っている。考古学資料では判断できないのである。となれば常識的に考察するしかない」と答えている。

最近ではジョーカー氏が
「鉄器が国力を押し上げると言うことが証明されれば 鉄器の乏しいヤマトは後進地域といえるだろうが
鉄器導入”後”の先進性を証明できなければ そもそも鉄器導入”前”のヤマトを オクレテイルだの評価がしようが無い。
「オクレテイル」と断じるに鉄器の不足を挙げるなら 鉄器によって「ススンデイル」となる事を証明しろ阿呆。」

と取り乱した(阿呆などとコドモの喧嘩なみの書き方)発言をしたのに対し、deshabarisi氏は
「鉄器の有無は重要なファクターであるが、それだけで弥生時代のヤマトの後進性を語っているのではない。
ほぼ同じ時期の九州には須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。もちろん鉄器も鉄加工施設跡も出土する。大陸や半島
との交流も行われていて文化や技術が入って来ていたことが見てとれる。
それに対してヤマトの弥生遺跡には王墓と見られるようなものが無く、大陸や半島との交流を示す物品の出土もほとんど無い。工具は石器であり、縄
文時代からさほど進歩しているとも思えないほどである。」と冷静に議論の流れと本筋を外さず答えている。

どう見てもジョーカー氏はdeshabari氏と対等に議論できる器ではないようだ。
4日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:41:22.79
>>2
絡んでくるなら少しは過去ログ読んでからにしろ。

根拠は現在出されている「人口の推定」
散々出てきた話だぞ阿呆。

それが鉄器の出土量の多寡に全く連動していない。

じゃあ逆に訊く

『 弥生時代、九州の鉄器が社会を豊かにしたと断定した根拠は何? 』

答えろ。

鉄器が豊富だから社会が豊かだと言うのは無しだぞ?w
5日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:42:30.73
>>3
引用をダラダラ並べただけで何が言いたいのか分からないが

鉄器の影響を計る為の 資料=集落や田畑跡 が将来的にどうなるか分からない
今は判断できるものではないと言うのなら

鉄器そのものも同じ。

九州に大集落が相次いで出てくる可能性があるなら
畿内ヤマトからどっさり出てくる可能性もあるだろうと言う話だw

鉄なら大きなインゴットが何個か出てくれば統計数字も大きく変わる。

その点で既に自己矛盾、アホの地爆劇。

どの道リアルで鉄器が豊富だから人口に関して大きく下駄を履かせましょう…なんていっている奴はいない。

いたら教えてくれ。


6ひとぶた:2011/11/22(火) 00:44:03.38
>>1
もう新スレ立ってるw

前スレの>>995 www氏
スレ終わっちゃったのでドン来いに返事を書いときました。

7ひとぶた:2011/11/22(火) 00:48:38.77
>>4

> 鉄器が豊富だから社会が豊かだと言うのは無しだぞ?w

えー、それダメなんですか?
まあ、社会が豊かじゃないと鉄は入手できない。
資本主義社会では、資本がさらに資本を生みだすわけだから、
鉄資本がさらなる鉄資本を生みだすと言えなくは無いんだけどな・・・
8メ(寝る前):2011/11/22(火) 00:51:35.43
どうでもいいが鉄の普及が多いのは九州に違いないが、
当時のマキムクにもその鉄が来た跡が残っている。
これはマキムクと北部九州が敵対してたわけではなく友好関係からなる事柄なんじゃなかろうか。
どの本かは忘れたが鉄をつくるときの何かがマキムクから出てたはず。
マキムクと鉄について誰か書き込み宜しく〜☆
9縦目仮面:2011/11/22(火) 00:59:47.51
スレ立て乙。そろそろ復帰しようかな。
10日本@名無史さん:2011/11/22(火) 01:10:00.48
>>4

はあ?
鉄が世を豊かにするのは世界の歴史で実証済みで、自分で勉強して来い。
世界の非常識を立証すべきなのは、お前の方だろ。

ただし言っておくが、鉄鏃についていえば、これは農業生産をするための
道具じゃないから、共同体を守り、敵を攻める等に非常に有効だったということだ。
それが鉄鏃の豊かさだ。
11メ(ねる):2011/11/22(火) 01:11:25.97
ジョーカーが半べそかいて困るぅぅぅぅーw

では、縦目さんがネタ書き込んでくれるのであと宜しく〜ねるw
12メ(ねる):2011/11/22(火) 01:13:12.33
>>9
縦目くん ジョーカーの後始末頼んだw
あとネタの書き込みもw

では、、、、、、zzzz
13ひとぶた:2011/11/22(火) 01:15:31.54
>>9
>ろそろ復帰しようかな。
かなり前から復帰してませんかね?
14メ(ねる):2011/11/22(火) 01:16:53.79
倭人伝の牛馬ですが

扶余伝(三国志)は「家欲得、輸牛馬乃與之」
高句麗伝(三国志)は「其馬皆小、便登山」
東沃沮伝(三国志)は「少牛馬、便持矛歩戰」
挹婁伝(三国志)は「有五穀、牛馬、麻布」
穢伝(三国志)は「祭虎以為神。 其邑落相侵犯、輒 ...」
韓伝(三国志)は「知乗牛馬、牛馬盡於送死」
州胡伝(三国志)は「好養牛及豬」
弁辰伝(三国志)は「乗駕牛馬」  

倭人伝の「其地無牛馬虎豹 羊鵲」は上記の国々と精密な比較にもとずいて、記載されてある らしい。
15日本@名無史さん:2011/11/22(火) 01:32:01.15
>>10
馬鹿の一つ覚え

具体性が何も無い。

以前出てきた中世における鉄事情

Wiki 「鉄」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84
>農器具が鉄器で作られるようになると、農地の開拓が進んだ。
>中世日本では鉄は非常に貴重であり、鉄製の農機具は政府の持ちもので、朝借りて来て夕方には洗って返すことになっていた。
>私有地の耕作には鉄の農機具を使う事が出来なかったため、良い農地は政府の所有であった。すなわち、中世の日本の貴族は鉄の所有権を通して遠隔地にある荘園を管理した[22]。
>11世紀頃から鉄の生産量が増えると、鉄が安価に供給されるようになった。個人が鉄の農機具を持つ事が出来るようになると、新しい農地が開墾されるようになった。

さて弥生時代の九州にどれだけの鉄があったのかな?

16日本@名無史さん:2011/11/22(火) 01:36:45.97
>>15

論点そらして何言ってんの?農業生産の話は、別な板でやれよ。

鉄器は九州の方が圧倒的に多い。邪馬台国には鉄鏃があった。
畿内にはほとんど鉄器がなかった。
だから、邪馬台国が九州にあった蓋然性が高いのだ。
17メ(ねる):2011/11/22(火) 01:37:58.63
deshabari氏さん 私が相手しましょう

>「王墓などの遺跡がある弥生時代の九州に比べて王墓もなく器具類出土品も縄文時代のものとさほど変わらない弥生時代のヤマト
>に大型前方後円墳を築ける勢力が自生したとは考え難い

奈良には、標高四六七メートルの円錐型の三輪山があり、その西方にマキムク遺跡があるわけで
この三輪山というのは万葉集や記紀にものるとおり、かなり高名なヤマトを代表する霊山で
この高名な三輪山を無視して語るべきではないと思う。

>鉄器の国力に与える影響を評価するためには鉄器が入る前後の人口や耕地面積などの変化が分かるデータが必要であるが、その
>ようなデータは現在の考古学資料には揃っていない。したがって、考古学資料を基に”鉄器の豊富さは国力の増大につながらない”と
>言うのは間違っている。考古学資料では判断できないのである。となれば常識的に考察するしかない

おっしゃるとおり鉄器は国力に影響します。
畿内説というのは九州〜近畿におよぶ西日本一帯が連合してるわけで
九州に出土例が多いからと言って畿内説は成り立たないというわけではない。
筑紫に鉄が多いなら〜そりゃ畿内のモノでしょWWW
18日本@名無史さん:2011/11/22(火) 01:45:48.98
>>17

残念でしたね。
万葉集は、九州〜中国〜四国地方出身者の歌がほとんどない、
いわば畿内万葉集なわけ。
記紀は、九州系人脈をほとんど切った大和朝廷下で作られた
いわば畿内系人脈史書なわけ。
だ〜か〜ら〜、三輪山が魏志倭人伝には出てこないで、イ妥国伝
には阿蘇山がでてくるわけ。

で、問題は中国側に、畿内の様子がほとんど知られていないわけ。
だから、邪馬台国が畿内のわけないでしょ?
19:2011/11/22(火) 07:42:33.22
>>18
ほう、そりゃ三輪山が弥生時代にはなく古墳時代に入り突然現れた
ということかね?そんなことあるわけないでしょw

それに誰も阿蘇の話なんてしてないしw 
今話してるのは古墳築造以前の弥生時代のヤマトの事だよwww
20筑紫の民:2011/11/22(火) 08:29:59.15
おはよう「メ」ちゃん。
21名古屋のサガミファン:2011/11/22(火) 09:10:32.19
そんなに自説に自信がおありなら論文でも書いて投稿すればいいでしょ。
それで自分のレベルをお確かめください。相手にされないならその程度なんですよw
社会人なのに邪馬台国について深く勉強するモチベーションが僕にはわかりかねます。
すでにプロが畿内マキムクと結論出してるのになぜ素人がうだうだ言ってるのか・・
分からない人だなあw
22名古屋のサガミファン:2011/11/22(火) 10:27:46.56
yahoo検索でいいもん見つけてきましたよ。
邪馬台国のアマチュア論争大会があるようですw
http://inoues.net/club5/kunisaki8.html

ってかこれに参加してるのみんなおじいさんばっかでウケルww
もしかしてこのスレにいるのもみんなこういうおじいさんばっかなんですか?
23筑紫の民:2011/11/22(火) 10:37:21.05
<鉄>について

日本の歴史(寺沢薫氏)農機具の鉄器化は飛躍的か(P82〜84)要約
弥生の農業生産の増大は「農具の鉄器化」が大きく影響を及ぼすものではない。
<理由>
@北部九州を除けば農具の鉄器化は弥生農業に大きな影響を及ぼすものではない。
 それに、北部九州でも、鉄器化は農具ではなく土木・開墾具から徐々になされた。
A以前に木製の幅の狭い打ち鍬で耕作実験をしたが乾田の荒起こしはできた。鉄刃
 をつける意義はさほどないというのが実感だ。

<上記に対する反論>
@に対して
 土木による灌漑設備の構築及び開墾は農産物の増加に影響しますね。これに鉄器を
 使用したとなれば鉄の影響が大きかったということだね。
Aに対して
 鉄器により開墾された農地だから木製鍬でも荒起こしもできたのだろう。
 あわせて、その木製農器具を作成するにも鉄の工具が必要だろう。

弥生の奈良盆地に「鉄」があまり出土しないから、「鉄の有用性は無い」
と言っているのだろうが…自ら「墓穴」を掘ったようなものだ。
24日本@名無史さん:2011/11/22(火) 13:51:59.94
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています

「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット

「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」

「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット

「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」 
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット

「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット

「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット

他にもカットシーンがたくさんあるので、ブータン国王の演説 でyoutube検索してください
25:2011/11/22(火) 18:58:32.34
>>21-22 名古屋のサガミファンさん
>相手にされないならその程度なんですよw

君はあいてされてる?w

>yahoo検索でいいもん見つけてきましたよ。
>邪馬台国のアマチュア論争大会があるようですw

君以外の人はみなさん知ってるはずでw
たぶん、ご本人は気付いてないダケと思う(10人中9人知ってて、君1人ww)

>ってかこれに参加してるのみんなおじいさんばっかでウケルww
>もしかしてこのスレにいるのもみんなこういうおじいさんばっかなんですか?

私は30代ですね(きみからみたらおじさんかな?w)。
20代も居ますし、結構若い人も居るはず(まあ年寄りは確かに多いねw)
26:2011/11/22(火) 19:04:33.28
筑紫の民さんは3年ぐらい前に凄い顔でにらんで来た奴に似てるんですがもしかしてご本人?!
まあ、それはいいとして・・・

> <鉄>について

で、寺沢薫氏の反論したので私にコメントしろってことでしょうか?
寺沢の反論を書いても薫氏はココにはいないというか・・・w
27日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:18:22.29
鉄が貴重品だった時代、鉄器の最優先目的は軍事だろう。
国家が優位に立つためには、軍事的に優位である必要がしばしばだ。
半島に出入りし、内乱の経験もある邪馬台国では重要であったろう。
鉄がわずかしかない畿内が、この状況に登場する可能性はない。
28:2011/11/22(火) 19:20:52.41
>>27
>鉄がわずかしかない畿内が、この状況に登場する可能性はない。

畿内が「取って来い」って九州に命令したんですよw
29日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:24:05.59
鉄が独占できた畿内の一部の豪族と、

入手が容易で鉄が独占できない九州では
統一過程が変わってくる。
30ローガン:2011/11/22(火) 19:24:24.44
>>23
>弥生の奈良盆地に「鉄」があまり出土しないから、「鉄の有用性は無い」と言っているのだろうが…自ら「墓穴」を掘ったようなものだ。

やれやれ、読めて無いなあ。筆者の主張はそんな下らない事じゃない。
鉄製農具が普及したからといって、飛躍的に収穫が増大した訳では無い。と述べているんですよ。
ここでの主張は、弥生時代の農業生産力は、従来想定されていたほど高いものではなく、緩やかに増大していった」(p,94)
だとすると、余剰がもたらす富の集中による国家誕生といった考え方では、時間的な無理がある。
よって筆者は、「コメの力」とは別の「この時期に凝縮された社会関係や政治関係の中で」 王権誕生の原動力を模索すべきだと結論付けたんですよ。
31:2011/11/22(火) 19:30:19.33
>>29
ソノ時代の鉄というのは大陸や朝鮮からですからどうしても九州に入る。
鉄の出土例は九州のみっていうのなら、九州説さんの言う通りになってしまうが、
日本海沿岸地帯の島根県だとか、鳥取県とかにも多くの鉄が出てるわけでして・・・
上で書いたようにマキムクにもその爪痕はありますし、「九州には鉄がアル」なんて
言われてもですね、「出雲にもあるじゃないか」というか、あまりピンとこないんですよね。
32日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:33:20.01
出雲と言うか、山陰は製鉄によるものじゃないかな?
もうちょっと後の時代の。
33日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:33:53.28
>>28

考古学的にも文献的にも、完全否定できるから、泣いていなさい。
34:2011/11/22(火) 19:39:27.73
で、スグ岡本、三雲、いわら、平原、の王墓に対して、マキムクは共同墓地ばかりですが、
マキムクの勢力は出雲や吉備の勢力と繫がりがありますし、ジョーカーもどっかで言ってたと思うが
出雲の四隅突出弥生墳丘墓が大型ですよね。
九州だけが王墓ばかりというのならまだしも・・・そうではない。
35日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:41:14.50
>>34 
>マキムクは共同墓地ばかりですが

は?
36日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:42:25.33
前原の王墓って副葬品は多いが、別に大きくはない。
九州はそんなもんよ。

古墳時代のかなり後にならないと、大型古墳はない。
37:2011/11/22(火) 19:42:49.61
あ、ごめん
マキムクではなく奈良全体のいみね
38:2011/11/22(火) 19:45:14.91
>>32
弥生時代の鉄〜入って無かったけ?俺の勘違いかな?


>>33
どう完全否定できるん?

>>36
副葬品が豪華なので王墓なんですが、列島の主というまではねえ・・・・
39唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/22(火) 20:55:45.23
謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,遞相攻伐,歴年無主。

九州の”鉄鏃”をこの時の遺物と考えているかもしれないが、
事実は、この直後の景行が使用した遺物である。

だから、鉄器からこの鉄鏃を抜いて考える必要がある。
そして、鉄には2種類がある。
鋳鉄の使いまわしは、弥生中期から存在するが、鍛鉄は、この時代からである。
鉄鏃はこの鍛鉄に含まれる。

40:2011/11/22(火) 20:57:50.43
>日本の歴史(寺沢薫氏)農機具の鉄器化は飛躍的か(P82〜84)要約

みんながあまりにも〜王権誕生ぉ、王権誕生ぉうるさいので
私も試しに、購入したんだがwww 
内容がびっしりと書かれてるって感じがしていいですよねwwwww
これみなさん持ってるの???
41日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:17:26.14
>>40 改めドツボ
別にその本にしても「不磨の大典」では無いからちゃんと内容を消化しつつ読んだ方がいいと思うぞ。

このドツボと言うのはどれだけ本を読んで知識を得ても言うことが何処かピントがずれている気がするというかずれている…
傍から見ていてとても負案陀wwwwww

まあ寺澤と言う学者自身がかつて学会を支配していた京大の小林佐原の年代観に反旗を翻し
今の畿内説というより考古学の年代観を作り上げた改革者・立役者の一人といえるんだろうか?
(他に近畿では森岡、九州では橋口、柳田ら
 あと保守本流の京大で都出を宗教改革時のカトリック内部から出た改革者に例えられるか?wwwwww)
42筑紫の民:2011/11/22(火) 21:24:14.45
>>30 ローガン
>鉄製農具が普及したからといって、飛躍的に収穫が増大した訳では無い。と述べているんですよ。

飛躍的に収穫が増大したと見積られるんでないんかい?
寺沢氏は「鉄器化は農具ではなく土木・開墾具から徐々になされた。」
つまり、数少ない鉄を<土木・に開墾使用>して開墾された農場には<鉄で作った木製農機具>を活用した。
行間を読めばそうなるでしょう。
なのに、「鉄製農具が普及したからといって、飛躍的に収穫が増大した訳では無い」などという詭弁・・そしてそれを放置する畿内説

こっちが、「やれやれ・・・」ばい。
43日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:29:15.31
鉄器が原始社会を変貌させるなんて世界の常識で、
日本列島だけは例外なんてトンデモ論は、無視してよろしいでしょう。
44筑紫の民:2011/11/22(火) 21:35:07.50
>>43

うん、本来ならば無視だけど、相手はローガンだからね。
放置したら<承知・納得・理解・そのとおり>となる。
45日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:36:39.41

      検索    「韓国は“なぜ” 反日か?」

46唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/22(火) 22:08:38.75
>鉄製農具が普及したからといって、飛躍的に収穫が増大した訳では無い。と述べているんですよ。

鉄は肥料じゃないんだから、使っても飛躍的収量増大は無い。
鉄を使えば、労働時間の短縮にはなる。
短縮され、余った時間をどう使うか?
水田開発に回すには、ため池の開発からである。
古墳づくりにも時間を回すことが出来る。
垂仁(217年〜239年)
最初の古墳(石塚?)からホケノ山古墳までこの垂仁時代と思われる。
47日本@名無史さん:2011/11/22(火) 22:41:27.47
鉄器があれば、木製農具がバンバン作れる。
鉄器があれば、未開発地を農地に変えるのが容易。
鉄器があれば、石器で攻撃してくる敵を容易に射殺せる。
48deshabari :2011/11/22(火) 22:50:11.74
>>5
>鉄器の影響を計る為の 資料=集落や田畑跡 が将来的にどうなるか分からない
>今は判断できるものではないと言うのなら
>鉄器そのものも同じ。

ここ2日ほど出張していたので閲覧できなかったのだが、進行が速いですな。
さて、上記引用文は私の発言に関したもののようであるが、どうも誤解があるようだ。
私は「鉄器の影響を計る為の 資料=集落や田畑跡 が将来的にどうなるか分からない 」とは言っていない。

「鉄器の影響を評価できるようなデータが考古学資料には揃っていない。揃う見込みもない」というのが私の
見解なのである。ある遺跡で鉄器が用いられる前の時代の耕地面積と後の時代の耕地面積を比較できるような
データを得ることは無理であるし、現実にそのようなデータは無い。

したがって、「今は判断出来るものではない」ではなく、「評価に使えるデータがない。将来も無い」である。
もちろん「鉄器そのものも同じ。」と言うのはナンセンス。事象の次元の違う話である。

>九州に大集落が相次いで出てくる可能性があるなら
>畿内ヤマトからどっさり出てくる可能性もあるだろうと言う話だw
>鉄なら大きなインゴットが何個か出てくれば統計数字も大きく変わる。

どうも「鉄の影響の話」と「集落遺跡の数や規模からの人口推定の話」がごっちゃになっているようだ。
それにしても、話の持って行き方がひどいな。
私は「九州に大集落が相次いで出てくる可能性がある」などと馬鹿げたことは言っていない。むしろ、都市化な
どで発掘できなくなったり壊された遺跡が多いだろうから悲観的である。それはそれとして、

私は遺跡の発見率について「全国各地の遺跡発見率には違いがあるだろう」と述べたことがある。理由は
土地開発の程度、遺跡に対する市民の関心度、教育委員会などの遺跡発掘に対する熱意、予算が全国各地
で同じとは考え難いということである。



49太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/22(火) 22:56:45.67
垂仁(×217年〜×239年)

△鏡が多出する事由が整合しない。つまりデタラメ。
50唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/22(火) 23:12:28.43
△鏡が多出する事由が整合しない。

△鏡は274年以後の晋鏡である。
ここに景初3年・正始元年銘鏡が存在するためには、何が必要か?
景初3年の朝貢と、晋書正始元年東倭重譚納具。の年号がなぜ247年に必要か?
それは、274年に晋による冊封体制への参加。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。274年神功渡海
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
この辺から古墳築造に弾みがつく。その初めが
239年の朝貢であり、240年の倭王位授与である。

崇神6年が景初3年であっても魏と崇神は何の関係もないんだろ?
であれば、景初3年を刻む関係が見えない。
成務48年を関係のない九州で記録できるのであれば、”崇神6年”と刻めば事足りる。
51日本@名無史さん:2011/11/22(火) 23:24:35.14
>>484 deshabariな縄文人

言っていることに全根拠も蓋然性も無い。

非科学的非論理的。

現在そして将来にわたって出土する集落や田畑の跡はデータになりえないと言うのなら鉄器も同じ。

鉄器の現在のそして将来の出土数が古代の実情を反映しているのかいないのか分からないとするのが道理。

鉄器の出土数と言う自分に有利なところだけはそのままにしたいと言う浅ましい考えが見え見えの牽強付会。

どの道リアルで人口の算出に鉄器の出土数を考慮して…なんていっている人間はいない。少なくとも俺は知らない。

なんなら国外でも良いから例があるのなら教えてくれw





52太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/22(火) 23:24:39.34
王氏の解説が信用がおける。△の500枚は舶載品ではなく、日本製。

つまり日本の鏡作が製造したもの。

鏡作神社社伝  崇神6年9月3日 鏡を改造し鋳る。
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/22(火) 23:30:15.78
>”崇神6年”と刻めば事足りる。

崇神当時、崇神天皇を崇神とは言わない。これは後代つけた天皇号。

大陸から大陸人が渡来している。崇神以前の王莽の銭が畿内に出てる。
54deshabari :2011/11/22(火) 23:52:01.75
>>51
>現在そして将来にわたって出土する集落や田畑の跡はデータになりえないと言うのなら鉄器も同じ。

わらず理解力がないですな。もう進歩の余地のない頭の構造となっているんでしょうな。
私が言ったことは「鉄器の影響の評価に必要なデータの話」である。ある地域に鉄器が入った時点の前と後
での変化を算定できるようなデータは無いと言っているのである。

>鉄器の出土数と言う自分に有利なところだけはそのままにしたいと言う浅ましい考えが見え見えの牽強付会。

それは貴殿の僻み。九州の弥生遺跡のうち鉄器を出土するものの比率と奈良の弥生遺跡のうち鉄器を出土するもののそれを
比較したらどうなるの?まさか「奈良で発見された弥生遺跡は鉄器を出土しないものばかりで、鉄器のある遺跡はまだ発見
されていないのだ」と言うんじゃなかろうね。

>どの道リアルで人口の算出に鉄器の出土数を考慮して…なんていっている人間はいない。
それは当然だろ。人口算出の基本は住居数だろ。但し、住居遺跡が全て見つかっているわけではないから正確な人口は得られないがね。
なんでこんな愚にもつかないことを言うのかね。あほらし。



55日本@名無史さん:2011/11/23(水) 00:12:58.69
>>54 deshabariな縄文人

毎度毎度何とか誤魔化そうと哀れなやつだ。

>ある地域に鉄器が入った時点の前と後での変化を算定できるようなデータは無いと言っているのである。

前後=時間軸で比較できなくても地域間で比較できる。
鉄器の多い地域と少ない地域。

少ない地域は鉄器が入る前の状態。
多い地域は鉄器が流入した後の状態。

両者にさほどの差がなければ鉄器の及ぼした影響は少なかったと見るべき。

>人口算出の基本は住居数だろ。但し、住居遺跡が全て見つかっているわけではないから正確な人口は得られないがね。

要するに今出ている人口と言うのは全くあてにならないと言う話だなw
(恐らく日本も国外も関係が無い)

「歴史人口学」とか丸々抹殺だなw、ゴミクズレベル九州説の常識は世界の非常識。

でも鉄の量が人口の増加に大きく寄与したことは脳内設定で真実。

客観的データも何も無い、主観のみの与太話。





56ローガン:2011/11/23(水) 00:27:31.54
>>42:筑紫の民
>行間を読めばそうなるでしょう。

なんで?読んだんなら解るはず。たった4行。しかも直前に「弥生時代を通じて」とあるのに…
君自身が引いたp,82の最初の4行をもう一度読んでご覧なさい。読んで無い人もいるだろうからコピーすると
「権力醸成の背景には農業の生産力があると言われてきた。そして、生産力の増大と言えば、誰しもが「農具の鉄器化」を考えてきた。
しかし、弥生時代を通じて、北部九州を除けば農具の鉄器化は弥生農業に大きな影響を及ぼすほどのものではない。
それに北部九州でも、鉄器化は農具ではなく土木・開墾から徐々になされたのである。」

そして次の行から、増産のペースは従来説よりも遅いものである事についての論拠を述べている。
君は、行間を読むというが、それ以前に章のテーマ自体を理解できていない。
57日本@名無史さん:2011/11/23(水) 00:31:42.69
「行間を読む」…便利な言葉だなw
「すなおに読んだら」と同じかwwwww
58日本@名無史さん:2011/11/23(水) 00:38:15.11
でさ、ローガンは

鉄器がない社会と、鉄器がある社会の差が無い、って断定してるわけね。
59日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:03:35.46
>>54 名前 deshabariな縄文人
>まさか「奈良で発見された弥生遺跡は鉄器を出土しないものばかりで、鉄器のある遺跡はまだ発見
>されていないのだ」と言うんじゃなかろうね。

あ、書き忘れてたな。

お前みたいにゴネ徳を狙うなら言えないことも無いぞ?w

荒神谷や加茂岩倉で銅鐸や銅剣の出土分布図が一気に変わったのはお前も知っているよな?
鉄にしたって中期の丹後奈具岡遺跡の建物跡から同時代屈指の8kgの鉄器が出た。

「鉄関連遺構が全て見つかっているわけではないから正確な数は得られない」といえばそれでお終い。

その場しのぎの屁理屈はちょっと変えれば諸刃の剣とwww



60日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:16:33.80
さあさあ、箸墓や△鏡を無理矢理ドンドン卑弥呼に関連付けた詐欺畿内説が、
今度は

   これから畿内には九州を上回る鉄器が出るはず だとか

   鉄器など有っても無くても社会はまったく変わらない だとか

次々に大嘘・デタラメ・ペテン・詐欺説を繰り出してきそうだなw
61日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:21:48.92
>>60

現在の地域間の比率を大きく変える住居跡が出てくる可能性を強弁できるなら
「これから畿内には九州を上回る鉄器が出るはず」と言っても何ら問題ない

>鉄器など有っても無くても社会はまったく変わらない

実際今問題にしている人口とかは変わっていないのだから仕方が無いな。

62日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:35:42.02
九州には畿内を越える規模の集落は見つからんのが、九州説の弱点だよな
63日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:44:28.92
畿内にそんな弥生遺跡あったか?
64日本@名無史さん:2011/11/23(水) 01:56:27.23
畿内って、九州の指揮による開墾地でしょ?
奴隷的人夫が招集されて畿内に集められ、土木工事をしたわけでしょ?
いわば最果ての地だから、そんな状況だったんじゃないかな。
65日本@名無史さん:2011/11/23(水) 02:27:12.17
畿内には吉野が里の何十倍もある弥生遺跡が複数見つかってる
唐古だって、吉野が里の何倍もある
66日本@名無史さん:2011/11/23(水) 02:30:07.47
え?
67日本@名無史さん:2011/11/23(水) 02:43:29.41
畿内には広大な銅鐸文化圏があったが、とっとと滅亡しちゃった、の間違いでしょ。
68日本@名無史さん:2011/11/23(水) 02:47:37.05
それはとっくに否定されてるな
秋津やマキムクも九州にはない規模
前方後円墳も畿内を中心に拡がる
集落遺跡の規模なら、九州は中国地方にも負ける
69日本@名無史さん:2011/11/23(水) 03:25:12.29
それは、何でもかんでも卑弥呼の時代に繰り上げる
畿内説詐欺の常套手段。
70日本@名無史さん:2011/11/23(水) 03:26:05.63
箸墓古墳周辺もまだ5パーセントくらいしか、発掘されてないしな
71日本@名無史さん:2011/11/23(水) 03:31:58.33
まあ、卑弥呼の時代に向かって滅亡していた畿内文化圏は、
他からの入植地という色彩が濃いね。
72筑紫の民:2011/11/23(水) 07:23:23.41
こっちにも<再掲>

<魏志倭人伝中「倭国乱れ・・・」の一文>
「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、
乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。」
↑ ↑ ↑
これに対して
↓ ↓ ↓
日本の歴史(寺沢薫氏)倭国乱れる

略・・しかも私は、「倭国大乱」(「後漢書」)が文字通り戦闘を伴う大規模な騒乱であった
可能性は薄いと思っている。2世紀後半に鉄鏃や鉄剣の出土量が増えたとはいっても、西日本
が大規模な戦乱に見舞われたという考古学的な痕跡はほとんどない。・・・
・・・私は、「倭国乱」の実態とは、それまでのイト倭国(九州にあった「倭国」と言いたい
らしい。)の一局的な均衡が崩れ、イト国を盟主とすることに同調しないクニ・国がイト倭国
内部にも出始め、さらに、イト国に替って新しい倭国の枠組みを作りだそう、という瀬戸内以東
の国々がけん制し合っている状況を示しているのだと思う。・・・・・
↓ ↓ ↓
瀬戸内から畿内において戦いの跡が無いものだから「戦ってなかった」と言って
邪馬台国を無理やり畿内に持ち込もうとしようとしているのが見える。

九州には「戦いの跡」はいっぱいあるよ。(戦闘で死亡したであろう被葬者など。)
ついでに、熊本は平野〜盆地〜山地の稜線(多分に主要接近経路)は石鏃がザックザックでるよ。
「倭国争乱」はほぼ、九州内だけの事なのだよ。
73筑紫の民:2011/11/23(水) 09:01:43.53
日本の歴史(寺沢薫氏)七章王権の誕生 1新時代の幕開け(P248)

略・・・奈良盆地では画期的な事態がおきていた。「ヤマト王権」の最初の王都と考えられる
桜井市巻向遺跡の出現である。
・・・略・・・この遺跡は規模が巨大なだけでなく、北部九州のイト倭国の時とは比較になら
ないほどの広域な交流の輪を拡げ、周辺に前方後円墳が築造され、・・・略・・・三世紀の
日本列島でこれに匹敵する政治的、祭祀的な遺跡を他に探すことはできない。・・・略・・・
つまり、卑弥呼の共立によって新しく誕生した倭国の実体がこのヤマト王権であって巻向遺跡は
その王都であり、かつ日本最古の都市だというのが私の主張である。

この本のタイトルは<王権誕生>である。話の中心はつまり上記部分だな。これが話したいがために
やれ<農業の発展に鉄は関係ない>だとか<倭国争乱では戦いは無かった>だとか言い張ってたんだな。
74筑紫の民:2011/11/23(水) 09:36:31.06
魏志倭人伝から
○伊都國 ・ 千余戸有り。
○奴國  ・ 二萬余戸有り。
○不彌國 ・ 千余の家有り。
○邪馬台国・ 七萬余戸ばかり有り。
○投馬國 ・ 五萬余戸ばかり有り。

これだけの人々を養うには大量の農産物が必要だね。
大量の農産物を生産するには「農地の開墾」が必要だね。
農地の開墾のために石製の農機具で樹木を倒して斜面を削ってというのでは非効率だね。
ましてや、木製土工具で「農地の開墾」するか?
鉄製の土工具で効率的かつ迅速に開墾できたからこそ、倭人伝でつたえられる多くの人々を養う
大量の農産物を生産することができ、国が豊かになった。
と普通考えるわな。
で、その時代「大量の鉄」を輸入し使用できたのは九州勢力で、倭人伝にある国々は当然九州内に
すっぽり収まる。
だから、残念だけど畿内に邪馬台国は無かったんだな。

75唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 09:36:53.04
<魏志倭人伝中「倭国乱れ・・・」の一文>
「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、
乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。」
↑ ↑ ↑
これに対して
↓ ↓ ↓
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂。←倭奴国の乱を畿内大和に設定できない。
だから、九州女王国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。

共立女王卑弥呼は、魏への朝貢のためのみに共立された。
だから、乱を平定する力は無い。魏はそのことを把握しているから正始元年に邪馬臺國
に倭王位を授与する。女王共立の最大勢力は、女王の出身母体である旧倭奴國勢。
倭奴國と大和が協力するのが、景行による九州平定である。
76唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 09:43:42.83
>ましてや、木製土工具で「農地の開墾」するか?

崇神の任那建国は210年である。
筑紫の水田開発は、神功時代。
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 09:46:37.76
>イト国に替って新しい倭国の枠組みを作りだそう、という瀬戸内以東
の国々がけん制し合っている状況を示しているのだと思う。・・・・・

魏が関与している時代に魏の意向を無視した思考である。
78唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 10:00:25.73
>その時代「大量の鉄」を輸入し使用できたのは九州勢力で、

鋳造鉄斧とその使い回し、鉄鏃を除外すれば、九州にもほとんど”鉄”は無い。
九州が「大量の鉄」を輸入できたのであれば、公孫氏の鏡、楽浪鏡も輸入されたか?
答えは”否”である。
楽浪鏡を輸入できたのは、東瀬戸内以東の勢力であり、その時代の墳墓として
ホケノ山古墳(225〜250年)が存在する。
ホケノ山古墳の地”茅原”をスガワラと読めば、垂仁の墳墓にしかならない。
景行の九州遠征が、”乱の平定”である。
79日本@名無史さん:2011/11/23(水) 10:03:32.67
ところで倭国が鉄を大量に購えるほどの代価ってなにがあったんだろう?
80太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 10:04:40.20
>崇神の任那建国は210年である。←何の根拠もない。

崇神垂仁の代あたりにかかろうが、210年などオマエの恣意的な決めこみ。
120年等大幅にぐらつく半島年代が、そんな簡単に当たるわけがない。
81旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 10:21:25.49
ほんと九州説とか低学歴じみたマニア臭い意見ですねw
元の知能が低いんでいくら勉強しても低学歴で素人のおじさんじゃあ
間違った答えしか導き出せませんよ。
我々高学歴派の言うことにちゃんと従ってくださいw
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 11:01:35.06
19歳?ジョーカーの化けコテ
83旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 11:15:18.67
太国さんも素人の民間人のおっさんなんだろうし、
名門大の学徒である僕にちゃんと従ってくださいw
ちゃんと分をわきまえましょう。ジョーカージョーカーと
何言ってるのかわからないですし気味が悪いですよ。
84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 11:21:12.98
これまで文献史学が誤った年代を正しいとしてきたのは、
旧帝大(現東大)の御威光である。

新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。三国遺事 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 11:33:43.48
>>79

崇神世(ホツマ同58年)の任那建国(210年)は、大きい。
これにより任那で鉄の採掘権を得たのであれば、狗邪韓国(カヤカラ)での倭人は
畿内(東瀬戸内、阿波)から派遣されている。
ホケノ山古墳(225〜250年)木槨、楽浪鏡、大量の鉄器は任那以後。
東海、東瀬戸内の壺は、異俗多帰以後。
穴あき壺(庄内式)は埴輪の始まり、垂仁末。
茅原(スガワラ)チガヤ、スゲカヤは植物学的に同一である。漢字導入時にスガワラに茅原を振ったのであれば
ホケノ山古墳=垂仁である。
86日本@名無史さん:2011/11/23(水) 11:44:01.30
>>62
> 九州には畿内を越える規模の集落は見つからん

須玖遺跡群は、中心部分が30万uを越え、後背丘陵の一般居住地を含めると100万uを越える。
比恵・那珂遺跡群も終末期以降、規模が拡大する。
三雲・井原遺跡群も、居住地の範囲は40〜50万uほど。墓地や谷部を含めると100万uを越える。

後期以降のこれら集落は環壕を巡らさず、全体として面的に集住する大集落だ。
津寺遺跡、中田遺跡群、加美・久宝寺遺跡群、纒向遺跡などと同様の新しいタイプの拠点集落である。

>>65
> 唐古だって、吉野が里の何倍もある

唐古・鍵は約30万平方メートル(中期後半)、吉野ヶ里は約40万平方メートル(後期前半)。

どちらも後期後半まで環濠を巡らす古式の集落にあたる。
87日本@名無史さん:2011/11/23(水) 11:46:58.12
遺跡の規模なんか言い出したら鳥取最強になっちまうやんけ
88日本@名無史さん:2011/11/23(水) 11:49:27.26
そういうこと。
別に畿内にだけ大規模集落があるわけではない。
というか、狭い奈良盆地では、どうしても集落も小さめ。
89旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 11:54:41.77
地政学という概念をみなさん考慮しなさすぎですね。
瀬戸内ルートの交通と、東国経営の両面を考慮した結果、
大和に都を置くのがベストな判断なので3世紀にマキムク政権が誕生したんでしょう。
90日本@名無史さん:2011/11/23(水) 11:59:08.96
ぶっちゃけ、畿内に大集落が出たと大騒ぎしても、
もっと大規模な集落が多数出ている地方では、

「何を行ってるかわからない」と呆れているだけ。
91旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 12:03:15.60
>>55
>前後=時間軸で比較できなくても地域間で比較できる。
>鉄器の多い地域と少ない地域。
>少ない地域は鉄器が入る前の状態。
>多い地域は鉄器が流入した後の状態。
>両者にさほどの差がなければ鉄器の及ぼした影響は少なかったと見るべき。

全く非科学的な考えですね。物事の因果関係の調べ方について何も理解できていない。低学歴で素人のおじさんじゃあ
無理も無いですけどね。

鉄器の影響の有無を調べるのに「鉄器の多い地域と少ない地域。」の人口で比較することができるか?
先ず、人口が正確に算出できるかという問題がありますが、それはクリアしたとしても、
比較しようとする地域の自然条件(土地の状態と広さ、天候、水(河川)の状態などなど)など鉄以外の条件が等しく
なければ鉄の影響を見ることはできないのです。

例えば山陰地方は関東平野部に比べて平地が少ないのですが、この山陰地方に鉄器が入ったからといっても広大な関東
平野部の人口を凌駕するのは容易ではありません。

それから、鉄器の有用性を食糧生産力の面に限定して国力を論じるのもおかしいでしょう。鉄器は土地の開墾に力を発
揮するだけでなく、工具として木材の加工(これには木製農具の製造も含まれますが)を容易にし、建物の建設や橋な
どの施設の建造の工期を短縮するなど労働生産性を飛躍的に高めます。これにより国民生活に余裕が生まれます。

さらに軽視してはならないのが武器としての鉄器です。接近戦は石の斧や棍棒でも戦えるとは言っても、鉄製工具が
有ればより硬い木で棍棒を作れるでしょうし、弓や矢も沢山作れるでしょう。
92日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:19:49.89
鳥取最強ってなに?
93旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 12:39:36.13
私のHN勝手に使わないでくださいw
91は私の偽物ですww

私は邪馬台国などに深入りするほどアホではありませんので
94日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:45:40.66
まともに論を構築できてるから、
ちょっと見直していたが、偽物だったか。
95日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:47:19.31
>>91 低大
>例えば山陰地方は関東平野部に比べて平地が少ないのですが、この山陰地方に鉄器が入ったからといっても広大な関東
>平野部の人口を凌駕するのは容易ではありません。

何れ誰かがそう言うツッコミするだろうと思ってたが…

実際「人口密度」でもやはり鉄器との関連をうかがわせるものが無い。

「倭国誕生」より 泉拓良・西田泰民編 1999 の数字だが
弥生時代(単位: 人/Km^2)
東北0.50 関東3.20 北陸0.85 中部3.07 東海4.50 近畿3.33 中国1.80 四国1.61 九州1.56 

無論「平地の割合」が問題になってくるがこの数字が平地の割合に準じたものであるのなら
結局鉄器によって人口密度を上昇させたことは伺えないとなる。

恐らくこの程度の話はここの畿内説の常連連中は念頭においている。

そもそも「鉄器の多寡が人口の増加に多大な影響があった」と主張するなら
それをデータをもって論証して見せろ。



96日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:54:39.19
恐らく デシャバリな縄文人 他ゴミクズレベル九州説 にとって現行の人口推定は満足いくものでなく
本来なら(その鉄器量に見合った)他地域を圧倒する人口を示してなきゃならないのだろうが
そんなことは夢のまた夢、与太話w

その言い訳に(これもよくあるパターンだがw)予算云々を言ったところで
問題は九州と近畿の間だけじゃない。
そもそも北部中部九州は他のどの地域より鉄器量が抜きん出ているのだから
逆に言えば北部中部九州が”狙い撃ち”で予算を不当に削られていると言う陰謀論を唱えるしかなくなるw

まあ時代や地域をもっと細かくしたものなら何らかの傾向が出てくる…という可能性もあるのかもしれないが
そもそも遺跡そのものの規模や構造に鉄器の多寡が影響しているような話は聞いた事が無い。
97旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 12:56:39.83
>>94
邪馬台国関連の本など数冊しか読んでないので
私はそんなに詳しくないので気付いてくださいww

何十年もマニアやってる爺にはかないませんよ。
また馬鹿馬鹿しいのでかないたくもありませんがww
98日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:57:38.08
>>91 低大
>それから、鉄器の有用性を食糧生産力の面に限定して国力を論じるのもおかしいでしょう。(以下略

本当に同じところをグルグル回っているばかりの阿呆だな。
だからそうやって鉄器の便利さを並べ立てたところでじゃあそれが国力国勢にどのように繋がったのかを論証して見せろと言う話だ馬鹿者。

「鉄器は便利だ!」ハイハイハイそれは良い。

がどんなに便利なツールも数がなければ意味が無い。
畿内や他の地域に比べて圧倒的に多いとしてその絶対数はどうだったんだ?

ハンドル変えて多少文章を変えても中身はつまるところ「てつはべんりなんだぞ」だけの繰り返し。







99日本@名無史さん:2011/11/23(水) 13:01:17.07
恐らく >>91 旧帝大歴史学徒 は 森村伊作 か deshabari=縄文人 だろう 
100太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 13:14:43.49
崇神世(ホツマ同58年)の任那建国(210年←無証明)の、文献120年差等の
ぐらつきは、大きい。
101ローガン:2011/11/23(水) 13:56:45.30
>>58
>でさ、ローガンは鉄器がない社会と、鉄器がある社会の差が無い、って断定してるわけね。

やれやれ。前レスは、私が何らかを主張しているという訳じゃない。
君が王権誕生批判をするといいながら、肝心のその内容を理解できていない事に対しての指摘。
102唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 14:28:54.88
>文献120年差等のぐらつきは、大きい。

七支刀=369年で、4世紀に”未知の遺構”を発生させる”百済本紀。ここが神功52年であれば、半島占拠は否定される。
神功49年をこの近くに配しても、日本書紀の数字を復元できない太国倍年。
この事実は、太国倍年に限らなく、この年代を正しいとする限り”纒向遺跡”を日本書紀で説明できていない。

後漢193年6月寒風冬のごとし≒新羅192年4月大雪→193年倭人大餓。
ここを崇神5,6年にあてがえば、
考古学:2世紀末纒向に各地の土器が持ち込まれる=崇神11年異俗多帰。
ホツマ崇神58年ツノガアラシトに兵を授ける≒新羅209年加羅に援軍=三国遺事。
ホケノ山古墳(225〜250年)≒垂仁の墳墓=239年朝貢=都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
3世紀前半の大型建物(珠城宮)の跡に土盛り、整地をして中期の大型建物(日代宮)
274年神功渡海
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
ここで渡海すれば、晋による渡海命令であり、冊封体制への参加、であるから仲哀の死より優先し、渡海ができる。
326年七支刀=神功52年 半島は政治的空白であり、倭国は直前まで半島に兵力を置いていた。
つまり、半島占拠も事実である。
103日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:39:27.33
>>101
鉄器がある社会のほうが優位だと思うぞ。
畿内説詐欺師=ローガンは絶対に認めないだろうけどなw
卑弥呼の前後に戦乱があった地域は、鉄器があってこそだと思うぞ。
104日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:47:47.37
つうかだな老眼はヤマトの鉄(の残り)に関して墓制や土壌の違いを問題にしているんだから
そこから考えてここの畿内説では鉄の社会に及ぼす影響を評価しているとか考えないのかゴミクズレベル九州説のアホどもは?

自分の与太を叫ぶことに必死で相手の言うことは全然聞いていないなw

で、こっちはその(リアルじゃ全然役にも立たない)与太話をそれなりに分類(各コテごとの主張)してやっていると言うのに…

結局馬鹿は利口な人間に甘えるだけw
105唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 14:51:14.78
”纒向遺跡”を日本書紀で説明できなくてはならない。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 前半の建物跡を土
盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭
纏向3類(後)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標260年頃、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古:九州北部に庄内式土器(纏向3類)。 纏向5類と半島の土器の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡
106日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:55:41.38
ローガンは屁理屈しか言っていないと思うが?>>104
107日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:55:59.83
>>95 アホのジョーカー
>「倭国誕生」より 泉拓良・西田泰民編 1999 の数字だが
>弥生時代(単位: 人/Km^2)
>東北0.50 関東3.20 北陸0.85 中部3.07 東海4.50 近畿3.33 中国1.80 四国1.61 九州1.56

ここの低脳畿内説の連中はその数字が怪しいことにも気付かないんだな。アホ丸出し。
弥生時代の集落の全てが遺跡として発見されてもいないのに人口密度なんか算出出来るか?ボケ。 

108ローガン:2011/11/23(水) 14:58:52.86
>>103
>鉄器がある社会のほうが優位だと思うぞ。

うん。そりゃそうだ。ただ優劣云々についてコメントしたつもりは無い。 批判といいながら対象書の記述が把握出来ていない事を指摘しただけ。
さておき、「九州説」では卑弥呼の時代頃の土器様式をどのあたりと考えているの?
柳田編年、橋口編年はどの程度首肯出来る?
109日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:59:03.40
>>95を見ると、畿内は東海王国傘下の部落にしか見えないな。
110日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:00:40.28
>>108
魏志倭人伝のどの記述を指して訊いてるの?
根拠がないことを訊いても意味ないよ。
111日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:03:42.98
>>107 名無しゴミクズレベル九州説
>弥生時代の集落の全てが遺跡として発見されてもいないのに人口密度なんか算出出来るか?

今まで人口の問題が出るたびに言ってきたことだが…

この数字が今後大きく変わる可能性はあるだろうが
何処か特定の地域のみ遺跡が出まくる…なんて事が無い限りそうそう比率としては変わらないだろうと言う話だ。

お前みたいなゴミクズレベル九州説が突っ込むような事は織り込み済みだ阿呆。

せめて文句言うなら「時代や地域の区分が大きすぎる」とか言ったらどうだ?
112日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:07:07.19
ヤマト人伝
113旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 15:09:44.12
邪馬台国の位置論に拘泥するのは愚かだと
言ったでしょ。これだから素人オタは困るw
もっと大局的見地から歴史を考察すべきです。
所在地論ばかり話したがるのは大学でちゃんとした
歴史学も学んでない低学歴の一般庶民層なのが
丸わかりですw
114日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:11:05.85
>>109

ちなみに、この数字は縄文時代だと関東がトップになっているwww



115日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:15:47.70
「卑弥呼の共立によって新しく誕生した倭国の実体がこのヤマト王権であって巻向遺跡は
その王都であり、かつ日本最古の都市だというのが私の主張である。」

寺沢薫氏(同志社大学文学部文化学科(文化史学専攻)を卒業。その後奈良県教育委員会に入り、奈良県立橿原考古学研究所の研究員として
発掘調査にたずさわった)は畿内説を唱えているが、資料の分析、評価において恣意的であることが同氏の著書の王権誕生を見ればよくわかる。

纏向の前方後円墳や建物跡の年代についてはまともな考古学者であれば「確定できない」としか言えない筈であるが、氏は3世紀のものであると
し、巻向遺跡は卑弥呼の王都であると主張する。頭が悪いとしか考えられない。
116ローガン:2011/11/23(水) 15:17:36.83
>>110
>魏志倭人伝のどの記述を指して訊いてるの?

「卑弥呼の時代頃」では話が通じないか。(笑) じゃあ200〜250年辺りと言い換えましょうか。

>根拠がないことを訊いても意味ないよ。

根拠? 意図って事かな? だとしたら言うまでもなく、どの程度年代観が共有出来ているのか知りたい為。
117旧帝大歴史学徒:2011/11/23(水) 15:20:58.29
同志社卒程度のおつむじゃ理数系全然ダメでしょうし、
そりゃ分析力甘いわww
バブルとか恵まれた時代だったからアカポスに就けただけでしょう。
118唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 15:33:02.53
>>115
>建物跡の年代についてはまともな考古学者であれば「確定できない」としか言えない筈であるが、

ホケノ山古墳(225〜250年)考古学はこのように言っているぞ。
倭人伝 伊支馬=イクメ=垂仁 であれば、ホケノ山古墳=垂仁=239年で確定する。

>巻向遺跡は卑弥呼の王都であると主張する。頭が悪いとしか考えられない。

確かにあたまがおかしい。
巻向遺跡は、倭王の王都である。
119日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:49:34.24
>>116
土器の様式で卑弥呼の居場所がわかるという理論って、どういう理論?
120日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:51:17.32
旧帝大歴史学徒=19歳=名大生=79歳国民学校中退耄碌爺
121ローガン:2011/11/23(水) 16:30:55.66
>>119
>土器の様式で卑弥呼の居場所がわかるという理論って、どういう理論?

さあ?そういう主張をしている人に訊いてみて。
私の質問は、九州説者が考える3世紀前半の北部九州の土器の様式は、編年案の中で、なんという名称を持つものであるか?
意図は既述。わからんならスルーしといて。
122太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 16:44:42.85
成務4年間に空白年を配しても、日本書紀の数字を復元できない宿主空年。
この事実は宿主空年に限って、この年代を正しいと出来ず、成務空年が日本書紀で説明できていない。
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 16:48:12.44
伊支馬=イキマ≠垂仁=イクメイリヒコイサチノミコト

239年を景行の近くに配しても、日本書紀の数字を復元できない宿主空年。
この事実は、宿主空年に限って、この年代を正しいとする限り”500枚鏡”を日本書紀で説明できていない。
12495:2011/11/23(水) 16:57:30.59
ちなみに>>95の人口密度で東海が一番とか同じデータで縄文時代は関東が多いと言うのは
今出ている『王権誕生』を読んだ人間なら合点がいく部分があるんじゃ無いかな?

所詮、畿内説にケチをつける為に読んでいるようなアホには分からないだろうがwww
125日本@名無史さん:2011/11/23(水) 16:59:11.05
>>121
日本列島の発掘品に、卑弥呼の記述があったのかね?
土器の様式を確定すると卑弥呼の居場所がわかる、という前提で
ローガンが話をしていないなら、目的は畿内説詐欺理論の振り回ししか
考えられないんだけどね〜。
126太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 17:09:08.03
>後漢193年6月寒風冬のごとし≒新羅192年4月大雪→193年倭人大餓。
>ここを崇神5,6年にあてがえば、 後漢193年6月寒風冬のごとし≒新羅192年4月大雪→193年倭人大餓。

ここを崇神5,6年にあてがえば、畿内から半島にメシ無しで千人も到達
出来る○ヌケな論となる。ww
127ローガン:2011/11/23(水) 17:48:39.26
>>125
>日本列島の発掘品に、卑弥呼の記述があったのかね?

なるほどね。「卑弥呼」と書いていなければ如何なる出土品も、考察対象外と言う訳やね。(笑)
九州説者は件の時代を、「弥生時代」だと認識していると思っていたんだが、(私がそうだったから)
ここの九州説者はどうも違うようだ。アッサリ卓袱台をひっくり返された…。
128deshabari :2011/11/23(水) 18:52:29.52
>>124 
>今出ている『王権誕生』を読んだ人間なら合点がいく部分があるんじゃ無いかな?

『王権誕生』が貴殿のテキストの一つでしたか。どうりで。
しかし、お気の毒ですなあ。遺跡、出土物などの資料から読み取れることはいろいろありますが、読み取れない
ことまで考古学的事実であるかのごとく仰られるあの先生の恣意的見解の虜になっているとはご愁傷様です。

あの先生は「倭国乱では戦闘はなかった」と言っているがその根拠は「2世紀後半に鉄鏃や鉄剣の出土量が増えたとはいっても、
西日本 が大規模な戦乱に見舞われたという考古学的な痕跡はほとんどない。」というものである。

これなどは邪馬台国を畿内に持って行きたいという願望のために判断を誤った例である。そもそもここの畿内説の諸兄がしば
しば口にする「鉄の武器など必要ない。石や棍棒で十分」な戦闘であれば戦闘の痕跡として残りようもなかろう。まあこれは
畿内説諸兄の口から出まかせの戦闘論のマヌケさを揶揄するだけのものであるが、戦闘の痕跡はなかなか残り難いものである。

文献に記されている壬申の乱にしても源義経と平家の壇ノ浦での戦いにしても戦闘の痕跡として何を挙げることができるか?
戦闘の痕跡が残っていないからこれらの戦いは無かったと言えるか?
倭国乱では戦闘はなかったとは断定できない。それどころか、

九州ではかなり広い範囲に亘って鉄簇が出土する。鉄簇は戦闘の道具である。これが出土するということは戦闘の可能性を示す
ものである。倭国乱が起ったとすれば鉄簇が多く出土する九州に於いてであったろうと見るのが常識的な(道理に適った)判断
というものである。
129日本@名無史さん:2011/11/23(水) 18:53:43.68
>>127
いや、インチキ臭漂う土器編年や、
畿内の何でも卑弥呼の年代に合せてしまう詐欺が、
当たり前のように横行している状態で
土器が土器がと言われてもねぇ〜。
130日本@名無史さん:2011/11/23(水) 18:57:54.30
「邪馬台国九州説は絶滅危惧種」と言う自覚が足りないようだ。
131唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 18:58:15.93
>>123
>”500枚鏡”を日本書紀で説明できていない。

この鏡すべてを国産とした場合、その元画像をどこから入手したか?
そしてそれは何時か?

その答えの一つに274年神功渡海以後に、ここから△鏡舶載がはじまる、という思考が存在する。
崇神が239年の朝貢となんら関係がない、とした場合
崇神にとって”景初3年”銘と崇神はなんら関係がない←これが結論である。
△鏡の問題点は、”景初3年”と副葬された時代(桜井茶臼山)に大きな隔たりがあること。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 19:03:48.57
景行の代に鏡の鋳造記事は見当たらない。
くやしければ出すんだな。ww
133日本@名無史さん:2011/11/23(水) 19:05:29.12
>>128 縄文人

まだいたのか、と言うかまだそのハンドルで引っ張るのか?w
激しい戦争があった根拠を「鉄簇」に求めても同じ
お前の屁理屈をそのまま利用して

「鉄関連遺構・鉄製武器が全て見つかっているわけではないから正確な数は得られない」

…でお終いだなwww

自分に都合の良い物ははしゃいで飛びついて都合の悪いものは

「そんなのでわかるものか!」

…とヒスってちゃぶ台返し。もう少し自分の言うことに統一性をもたせなさい馬鹿者。

ついでにハンドルも統一してくれると分かりやすいんだがwww

134太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 19:06:57.50
135133:2011/11/23(水) 19:10:24.98
ちなみに>>124で言ったのは食料体系の話を言ったつもりなんだが…

>>128のような頭に血が上っているゴミクズには考えていただけなかったようだ(苦笑

136太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 19:12:09.72
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 19:20:25.19
○ンマな宿主空年はすでに論破されている。
インチキの成務4年間 ↓ 宿主空年はイカサマ。空年使用の形跡は無い。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
138太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 19:30:56.02
>>137 続き
上表のように 19×3年=57年 もの空年の形跡は無い。となると、これ
より上代の編年は57年分、成務61年の翌年の仲哀元年から空とせず増やさ
なければならない。
逆算で〜

すると奴の言う 景行元年=239年 は 239−57=182年 と、
さらに上代での 崇神元年=188年 は 188−57=131年 となるように
せねば、成務より上の年代論は崩壊する。ww

神武元年は 41−57−1=-17年 と せりゃならぬ。pupupu・・・
139唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 19:58:39.22
ホケノ山
画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」)
内行花文鏡1面の破片2点
画文帯神獣鏡2面の破片数点

桜井茶臼山
三角縁神獣鏡7または8面、画文神獣鏡3または4面、内行花文鏡3面、その他に方格規矩四神鏡や獣文鏡などが4面出土している。

景行はホケノ山から箸墓までであり、桜井茶臼山は神功の稚桜宮の指標である。
三角縁神獣鏡が景行時代に作られていなかったことは明らか。
桜井茶臼山=278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
三角縁神獣鏡は冊封体制への参加と軍の派遣、その根源が、景初3年の田道間守であり、
晋書正始元年東倭重譚納具=倭王位授与。に存在することを表す。
140唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 20:03:08.48
>>137
850庚午  342壬寅  成務崩御
852壬申  344甲辰  仲哀即位

皇歴851年を空年と主張する太国であれば、>>137に西暦を振って
空年がないことを証明する義務がある。
141唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 21:28:53.97
  後漢末期の黄布の乱に端を発した戦乱により洛陽は焼け野原となり、銅鏡の製造
は疲弊したようで、このころ黄河流域で作られた鏡は粗末なつくりのものが多く、ま
た、鉄製の物まで作られていたようです。このような背景を踏まえると、魏朝から卑弥
呼に下された詔書の中に、銅鏡ばかりをプレゼントします、という言外の意味を感じ
取っておられる学者もおられます。
 また、黄河流域で三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が作られ始めた
のは卑弥呼の時代を下がる西晋の泰始年間になってからだということは、三角縁神
獣鏡が卑弥呼が魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、銅鏡の製造
が衰退していたことを考えると、特注説も物理的に難しいといえるのではないでしょう
か。

△鏡が卑弥呼が魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、
太国 >569 -92    ☆紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳
>570 -91 239 ☆景初3年鏡銘文年←鏡製造は↑鏡作改鋳のほぼ4ヵ月後

時間軸に差がなければ、考古学と整合しない。
だから、太国の説明する239年=崇神6年は太国の作文である。
142太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 21:57:33.19
皇歴851年を空年と主張する主張であれば、西暦4年間に西暦を振って
空年があることを証明する義務がある。bububu・・・

なぜか〜? この前も言ったろうが。
851年は空年ではない。不在位年だ。そこを空年と言ってるのはオマエだ。
コチラは西暦0年以外空年を認めない。

時間軸に差がなければ、考古学と整合しない。←抽象的で意味不明??

早く精神病院で診てもらえ。
143太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 22:05:56.08
〜成務より上の年代論は崩壊した。ww

よって宿主空年はデタラメであり、すでに論破済みである。
144deshabari :2011/11/23(水) 22:21:30.24
>>133
私は縄文人ではない。以前にもそう言った筈だがね。

>「鉄関連遺構・鉄製武器が全て見つかっているわけではないから正確な数は得られない」
それはそのとおりである。それがどうしたというのか?

私は正確な数を問題にしているのではない。九州のかなり広い地域にまたがって鉄簇を出土する弥生遺跡
が存在する。畿内の弥生遺跡からは出土しない。つまり、九州のかなり広い地域にまたがって戦闘用の鉄
簇が備えられていたが、畿内の場合はその備えがなかった可能性が高い。とこういう考えなのである。

人口の推定とは次元の違う話なのである。貴殿の頭では理解できるかな〜。
人口の推定に住居跡遺跡を用いるならば、その住居跡の発見率が問題となる。人口では「人が住んでいた。
人が住んでいなかった」が問題になるのではなく「住んでいた人の数」が問題なのである。

武器としての鉄簇の場合は「それを出土する弥生遺跡があちこちに存在する地域」と「弥生遺跡はいくつも
あるが鉄簇は出土しない地域」では違いは明白である。
145唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 22:30:39.20
>851年は空年ではない。不在位年だ。
ここから仲哀年間は、1倍年。
1年の長さは、1ケ月が30日で10ケ月を1年とする。
であるならば、この10年間は3000日である。
西暦に直すには、3000日を365日で割る必要がある、
850庚午  342壬寅  成務崩御
852壬申  344甲辰  仲哀即位
860庚辰  352壬子  仲哀崩御 應神誕生
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)

とても正しく変換されているとは言い難い。
だから、たとえ1倍でも、書記の数字に変換できない。
146太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 22:39:01.89
239年が景行の代にすることは、まるでウィンドウズ95を1995年に爆発的
に使用してなく、宿主は2045年に爆発的に使用したという言い分であり、
これはインチキそのものである。ウィンドウズ95は1995年に爆発的に
民衆が使用したのであって、50年後の2045年ではな〜い。

239年が崇神6年に近接するのは崇神6年9月3日に鏡作が鏡の改良製作
をしておりさらに同6年倭笠縫に日神の象徴たる鏡を祭祀している事から、
239年銘文△の非舶載品500枚の多数の製作は崇神6年に近接するわけで、
極めて近接整合している。

だから、宿主の説明する239年=景行元年は宿主の作文である。
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 22:45:04.10
> 352壬子  仲哀崩御 應神誕生

352年と言えば、
342年に高句麗が前燕に大敗し、高句麗、百済が前燕に帰順する。
347年には扶余も前燕に帰順し、ここ地方での戦争は無くなる。
そのあとに神功渡海は可能か?
答えは不可能であるが、352年に神功渡海を配する以上説明できなければならない。
七支刀は領土分与の謝礼である。領土分与も正しいとする読み方も必要である。
148唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 22:51:33.90
>非舶載品500枚の多数の製作は崇神6年に近接するわけで、

であるならば、崇神6年を西晋の泰始年間に近づければよい。
崇神6年と魏景初3年は関係のない数字であるからだ。
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 22:52:31.02
1年の長さは、1ケ月が30日で10ケ月を1年とする。
であるならば、この10年間は3000日とは限らない。

これは神武のころの暦法行使であり、仲哀時は別である。仲哀なんか
もっとずっと後代だ。オマエは常に常に同じ暦法を使うと思いこむ
○ヌケな単純計算の思い込みがある。ww

>1年の長さは、1ケ月が30日で10ケ月を1年とする。
これは神武のまだ始まったばかりの倍暦の具体的行使が未熟な時代の
最初の倍暦宣言である。

5月6月を除けば1年が単純では10ヶ月だが、1月〜4月は3倍暦で
使え、7月〜12月は2倍暦で使うという、倍暦の観念的宣言であり、
実際はそれを基盤とするも、いろいろ変更をやっている。だから10年で
5000日などとは必ずしもならない。単純○カは即結論を考える。ww
150太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 22:58:33.92
非舶載品500枚の多数の製作は崇神6年に近接するわけである。

であるならば、崇神6年を西晋の泰始年間に近づける必要はない。
すでに鏡作神社の鏡の社伝と倭笠縫の鏡祭祀の最重要出来事があるからだ。

即ち崇神6年と魏景初3年は関係のある数字であるからだ.

宿主空年はすでに論破された。
151太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 23:01:23.15
>352年と言えば

半島文献は120年等の膨大な年代差があるわけで、352年ころでは年代が
津波の上の船の如く大揺れであり、そんなものはアテにはならない。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 23:03:37.17
>そんなものはアテにはならない。

つまり、太国の主張する年代は、あ・て・に・な・ら・な・い。と理解してよろしいか?
153太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 23:04:53.54
つまり、宿主の主張する年代は、あ・て・に・な・ら・な・い。と理解してよろしい。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 23:08:27.51
なお秀魔電波とはそんじょそこいらのただのオッサンが暇にまかせて
恣意勝手なその者の妄想を入れこんで書いた危険史想の書であり、
脳内がアワレな秀魔エイリアン虫に同化、蹂躙されることとなる。

こうなったらもうオ・シ・マ・イ。
155唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 23:17:48.52
△鏡の元となる元画像が晋に流入するのが西晋の泰始年間なのである。

元画像鏡なしで作ったと主張するのか?
△鏡の副葬は桜井茶臼山からである。この茶臼山が崇神世に近いのであれば
纏向遺跡の説明をどうするか?
太国倍年では、せ・つ・め・い・きょ・ひ かあ〜?
156唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 23:26:20.55
274年 神功渡海
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)

晋の冊封体制への参加であれば、仲哀の死にかかわらず渡海できる。

323年 神功49年 半島は政治的空白地帯である。占拠も肯定できる。
157日本@名無史さん:2011/11/23(水) 23:41:42.34
>>144 縄文人

仮に一箇所から多数の鉄簇が出れば何故そこに集中していたのかと言う話になる。
逆に満遍なく出ているのなら単に入手しやすかったからそれぐらいの備えがデフォと言う話になる。
大量に出れば必ずその理由が必要になる。

例えば戦いの結果武器を集中管理する勢力が出現したとかなw
満遍なく出ているから有利と言う話ではない

自説に都合の悪い資料を否定して都合の良い部分だけつまみ食いしている
お前はどうやっても自分がほざいたヘ理屈が自分に帰ってくるだけだ。

>人口の推定に住居跡遺跡を用いるならば、その住居跡の発見率が問題となる。

何故現在鉄器の豊富な地域が発見率が低いとみなせるのかね?

予算云々と言うのなら予算書なり何なりソース根拠をつけて示せ。

鉄器が少なくても人口の多い地域は何も近畿だけじゃないぞ?
「確率」を持ち出すなら北中部九州は何故か他地域より余程発見率が悪い問い言うことになる、馬鹿馬鹿しい。

北部中部九州がまるで狙い撃ちされるように予算を削られているのか?wwww

要するに鉄器保有数のアドバンテージが肝心の国力に結びつかないから
「今のデータは正しく無い」とちゃぶ台をひっくり返しているだけ。

どうせこんな与太話はリアルじゃ通用しない。

幼稚極まりない我田引水牽強付会ゴミクズレベル九州説の典型だ下らない。
158唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/23(水) 23:57:00.81
太国は他説を否定する前に
太国倍年で得た数字で歴史を語る必要がある。
しかし、太国「352年ころでは年代が津波の上の船の如く大揺れであり、
そんなものはアテにはならない。」
アテにならず説明できない数字を選び、主張するのは、太国自身である。
ここがアテにならないのであれば、−660年の神武元年などさらにアテにならないことは明白である。
つまりここがアテにならないのであれば、崇神時代が正しい可能性は無い。
だから、考古学の主張する”2世紀末”を崇神に配したい。桜井茶臼山を崇神に配したい。
二兎を追うもの一兎を得ず。
太国倍年の事を言っている。
159157:2011/11/24(木) 00:04:39.05
まあこのdeshabarとか他のゴミクズレベル九州説の願望としてはできればここから先
北中部九州にから次々に集落の跡が出てきて欲しいところなんだろうがw

「伸びしろ」として考えるならまだ南九州の方が多いんじゃないかとも思うw

結局ここのゴミクズレベル九州説の弥生時代のイメージと言うのは大昔の
九州には鉄器が豊富で吉野ヶ里のような大型拠点集落が数多くあり九州以東を圧倒していた
…というようなものなんだろう。
(案外古い世代なら一般的にはそれが常識かもしれないがw)

が実際には環濠集落なら全国に何百とあり人口分布もとてもそんな西高東低というようなものでもない。
…と言うのが今の認識。

ここが先ず認識のズレなんだろうな。


160日本@名無史さん:2011/11/24(木) 00:11:41.19
鉄器が軍事的にも農業生産においても非常に有効なのは
歴史的に証明されている常識であって、論争の対象にすらならないな。

まあ、詐欺畿内説なら、今この場で俺の前で証明しろ、って騒ぐだろうけどね。
世界広しといえどもそんなペテンは、詐欺の畿内説にしか通用しないぞ。
161唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 00:14:12.35
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)

高島氏がこの建物を”5世紀”と表現した事実は、そこまで纒向を下げないと
九州邪馬臺國が存在できないということである。
162日本@名無史さん:2011/11/24(木) 00:17:11.54
何故か卑弥呼スレで
無敵鉄器軍団再建を夢見てるのか
無敵九州鉄器軍団のインパクトは産業革命を超えるとか行ってた馬鹿も居たな
163日本@名無史さん:2011/11/24(木) 01:12:11.48
いや、卑弥呼の前後は戦乱が続いたんだよ。
木器でなぐり合うような、畿内の戦いじゃそんな世界はあり得ないんだよ。
164太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 11:22:25.99
>太国倍年では、せ・つ・め・い・きょ・ひ かあ〜?
精神錯乱してくやしく眠らないで頑張ったか〜?ww

宿主は他説を否定する前に宿主空年で得た数字で歴史を語る必要がある。
アテにならず説明できない数字を選び、主張するのは、宿主自身である。
しかしここがアテにならないのでも、−660年の神武元年などは逆にアテになることは明白である。
つまりここがアテになるのであれば、崇神時代が正しい可能性は有る。
何故か。ここは半島文献の年代とは直接ならない。せいぜい任那が崇神
垂仁のころだまでだ。その年代がいついつかの具体的説明は紀に乏しい。
それはそうだろう、日本書紀は「半島書紀」ではない。

だから、考古学の△鏡”239年”を崇神に配せる。桜井茶臼山じゃあ崇神かそうでないか
は判定できない。それが現今の考古である。
二兎を追うもの一兎を得ず。 宿主の事を言っている。
165日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:41:54.54
畿内説とは下記のことを何の疑問もなく受け入れることができる人が唱える説である。

1. ここのボンクラ畿内説の主張:戦闘に鉄器は役に立たない。石や棍棒で十分

2. 石や棍棒での戦闘の痕跡は現在に残るか:残らない。

3. 寺澤の説:西日本(九州は除く)に戦闘の痕跡が見られないから倭国大乱では戦闘らしきものはなかった。


166日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:49:51.84
畿内説を信仰する人たちは、デタラメに踊らされるオツムの弱い人たちである。
世間ではこれを「B層」と呼ぶ。
167日本@名無史さん:2011/11/24(木) 12:05:39.97
ヒッタイトは鉄を持って勢力を拡大させた。
だから、鉄は青銅よりも有利だ。

しかしながら、ヒッタイトはエジプトに打ち負かすことはできなかった。
そのうち、ヒッタイトは謎の民族に滅ぼされる。

つまり、鉄を持つということは、相対的には有利だが
絶対的に有利ではない。
ヒッタイトは鉄を持っても、エジプトを倒すところまではいかなかった。
168日本@名無史さん:2011/11/24(木) 12:38:33.37
>>160
>鉄器が軍事的にも農業生産においても非常に有効なのは
>歴史的に証明されている常識であって、論争の対象にすらならないな。

これが、かなりの思い込みだろう?

鉄製だろうが、木製だろうが、青銅製だろうが、
前近代の農業は、人力で行われるのに違いない。
19世紀の産業革命以後に起こったような大規模な生産性の向上は
古代においては起こっていない。

鉄製の農具は長持ちするが、それだけに過ぎない。
木製農具は長持ちしないが、ダメになれば、また新しいものに変えればよいだけ。
鉄製の農具を作るのは費用が掛かるが、木製農具を作るのには費用が掛からない。
鉄製農具は木製の農具よりも開墾が少しだけ楽かもしれんが
それでも、人力で行うのには違いはない。
169日本@名無史さん:2011/11/24(木) 14:49:52.34
>>168

この人はバカに違いない。以前にも似たようなことを書き込んでいたが、そして反論されていたが、その
議論を消化できていない。
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 16:38:21.57
>任那が崇神垂仁のころだまでだ。その年代がいついつかの具体的説明は紀に乏しい。

崇神天皇六五年(戊子前三三)七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。
垂仁天皇二年(壬辰前二八)是歳。任那人蘇那曷叱智請之。欲歸于國。

崇神世に任那建国があり、ソナカシチは、崇神56年から垂仁2年までは大和に留まる。
であれば、垂仁の珠城宮建造に携わったと仮定できる。
3世紀前半の大型建物(珠城宮)に古韓尺が使われている。この事実から、これ以前に任那建国を想定すれば、
210年の金官伽耶建国が候補に挙がる。
この数字が正しいかどうかの検証が、後漢193年冷夏=新羅192年4月大雪、193年倭人大餓。←崇神5,6年とすれば
考古学:2世紀末に各地の土器が纒向に持ち込まれる←崇神11年異俗多帰。

ホケノ山(225〜250年) 東海、瀬戸内の壺=異俗多帰の後。木槨、楽浪鏡、大量の鉄器=任那建国後
穴あき壺(庄内式)は埴輪←垂仁末。

書記の記述時空は、考古学の時空と合致する。

考古学の数字を否定しても、考古学の順番まで狂わせることはできない。
△鏡=桜井茶臼山←ここを崇神世で説明したのであれば、ここまでの纒向は誰が開発したか?
また、垂仁、景行をどう説明する?
桜井茶臼山以後に”異俗多帰”の説明は?
異俗多帰は四道将軍派遣の結果である。その中で”異俗多帰”の説明をしなければならない。

その前に、太国倍年から日本書紀の数字を得る方法を提示する必要がある。
社寺伝承を正しいとする太国倍年であれば、それに西暦を振る必要があるがまだ出来ないのか?
171唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 16:55:25.06
>19世紀の産業革命以後に起こったような大規模な生産性の向上は古代においては起こっていない。

巨大古墳に大量の鉄器副葬は事実である。
鉄器導入により可能になるのであって、これが木器のみで可能か?
誰が考えても”鉄”は必要である。
であるならば、最初の大型墳墓である”石塚”を地山から掘り出すのに木器だけでは不十分である。
環濠は、居住者すべての生命維持装置であるから、労働力をいくらでもつぎ込めるが
個人の墳墓ではこうはゆかない。

ホケノ山に大量の鉄器副葬がある事実は、これ以前に大和に鉄が流入している。
ホケノ山より少し前の”石塚”築造に鉄が使われたと思われる。
ホケノ山を垂仁墓と考えれば、これ以前に任那建国と朝貢により、鉄が大和に流入するルートが出来上がる。
172日本@名無史さん:2011/11/24(木) 16:59:30.97
>>169
はあ?何を言っているんだか。。。
173レス長たらし毘古:2011/11/24(木) 17:01:55.91
えー。鉄の云々に関して話題になっているようですが。ここでも感想のみ。
(しかし、最近はレスが進むのが早いですね。イイコトデス。うんうん)
単純に「鉄の埋蔵量」で考えて見ればどうだろうか?そうすると、北九州・
出雲・近畿大和の三極構造しかありえないような気もして来るのだが。。。

銅・鉄・木材・人口。この四つの素材の構成こそが、マクロで同時代を読み
解く鍵になるのかもしれない。(そうでないかもしれない)
ちなみに、この頃は「貝塚文化」の終了時代にも重なって来ますので、この
四要素に、更に貝がらや玉(石)なども加えてみると、前大和時代のマクロ
な経済事情が見えて来るかもしれません。(そうでないかもしれません)

(注)私個人は、「卑弥呼と呼ばれた女性がいたかもしれない時期」を、貝塚
文化の終了後で古墳文化の開始(黎明)期と想定しております。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 19:10:05.29
>崇神天皇六五年(戊子前三三)七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。
>垂仁天皇二年(壬辰前二八)是歳。任那人蘇那曷叱智請之。欲歸于國。
これは ↑ 何の文献だ〜? よほど自信がないらしい。オマエ、マナーも0か?
>崇神世に任那建国があり、   ソナカシチは、崇神56年から垂仁2年までは大和に留まる。
そんな↑ことは承知してるぜ。ww

これでどうして210年になるのか? 具体的説明など出来まい。
オマエのいつもの抽象的説明修飾言葉で信用など全然無い。ww

>この数字が正しいかどうかの検証が、
 後漢193年冷夏=新羅192年4月大雪、193年倭人大餓。←崇神5,6年とすれば
検証などえらそうなことを言うなら、千人もの空腹農民が渡海など出来
ないのが自明だろうがね・・・。ww 第三者がこれを検証すれば不可能から
成立しないと回答するぜ。それともUFOにでも乗船したか?ww

その前に、宿主空年から日本書紀の数字を得る方法を提示する必要がある。古代史の
厄物 秀魔を正しいとする宿主空年であれば、成務4年間の残り年に西暦を振る必要
があるがまだ出来ないのか?
175唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 20:10:47.59
>これでどうして210年になるのか? 具体的説明など出来まい。

現在の考古学は、正しい年代を示している。
弥生前半の大型建物(珠城宮)古韓尺の使用と建築技術は任那朝貢を表す。
ホケノ山古墳(225〜250年)穴あき壺(庄内式)は初期の埴輪である。埴輪は垂仁末から
弥生中期の大型建物 土盛りと整地、土盛りをすれば土地は乾く(ヒ)整地=代(シロ)日代宮。
景初3年、伊支馬=イクメ=垂仁 田道間守の派遣。←この場合垂仁90年の翌年は景行元年でなくてはならない。

つまり、任那建国は3世紀前半になければ、珠城宮を作れない。
新羅209年、金官伽耶は541年時点で建国330年(211年?)
新羅192年=後漢193年、1年の齟齬はあるが、この出来事を崇神5年とする。
考古学:2世紀末=崇神11年異俗多帰。

書記の記事、主張は正しいと判断できる。

崇神=卑弥呼と時代を合わせても、
太国239年=崇神6年と同5年の災害を確認できない。倭人伝にも記されていない。
魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。←否定するためには、建国の文献を出す必要がある。
△鏡が卑弥呼の鏡でない証拠として、時代の違いがある。
△鏡すべてを国産として、魏と交渉のない崇神が何時元画像を入手したか?
176唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 20:38:34.27
崇神=卑弥呼と時代を合わせたら、任那建国もなく
369年七支刀=神功52年で、半島占拠は否定されている。

これでは、書記は正しいと主張できない。
時代の狂いは確かである。だから、こんな文献史学を無視して考古学は時代を50年遡上させる。
考古学と文献史学は表裏一体である。であるならば、文献史学を50年遡上させて、書記の記事を正しいとできるか?
書記がー660年までの太陰暦であるから、正しい編年も太陰暦でなければならない、と考えれば
19年(1章)単位の空白年を差し込んでも太陰暦の基本から外れない。
古代人は月の満ち欠けから日にちを得る。ごく当たり前のことである。

太国の主張する暦法を太国自身が再現できない。←このような再現できない数字を1年と認識する手法が無い。

177太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 22:41:45.54
現在の考古学は、正しい年代を示しているとは必ずしも言えない。
以下は「猿の惑星 創世記」さながらの滑稽論であ〜る。bububububu・・・
           ↓
>景初3年、伊支馬=イクメ=垂仁

臣下 伊支馬は天皇には絶対なれないのが皇道の掟である。それに違背
するオマエは朝敵となる。これは道鏡の事件でも明快に天皇になれず、
オマエの論が猿の惑星からのデンパを受信してるのではないかと、疑惑
が持たれている。ww
猿(臣下相当)は人間(天皇相当)にはなれない。なれないものを人間
と同等あるいはそれ以上だと書き換えるオマエの等号は猿の惑星上である。
天皇とはそんなに安っぽくはな〜い。

崇神=卑弥呼と時代を合わせても、
太国239年=崇神6年と同5年の災害を確認できる。
倭人伝にも記されていないのは、朝廷から九州が外国だからである。
であるから、九州たる外国の卑弥呼が倭人伝とは逆の記紀にも記されて
いない。当然だな。スイスイと畿内と九州を徒歩のくせに新幹線や航空機
の飛行の如く行き来するデタラメがオマエの○ンマ論だ。ww
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 22:45:29.39
崇神=卑弥呼と時代を合わせたら、任那建国もないとは言えない。
なぜなら半島文献は120年もユリカゴの如くゆれたままであり、210年が
真だという保障は雲霧と消える。むしろ軽く合うと言うほうがおかしい訳
である。
179太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 22:49:32.38
書記がー660年までの太陰暦であるから、正しい編年も太陰暦でなければならないと考え
るのは神皇紀から妥当ではない。19年(1章)単位の空白年を差し込ん
でも成務世の表↓から外れる。空年使用の形跡は無い。19×3年不成立。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
180太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 22:57:53.21
宿主の主張する暦法を宿主自身が再現できない。←このような↑再現できない数字を空年と認識する手法が無い。

朝敵 宿主空年はすでに論破されている。
181唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/24(木) 23:18:46.42
>現在の考古学は、正しい年代を示しているとは必ずしも言えない。
それならば、自分で考古学の数字を書き換える必要がある。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁99年]
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行68年]
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
182太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 23:29:07.56
>現在の考古学は、正しい年代を示しているとは必ずしも言えない。

それならば、オマエが考古学の数字を書き換える必要がある。

記紀転覆を企てるオマエの危険薬物 秀魔電に皇祖皇宗は激怒しておる。
183太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 23:34:34.88
新羅192年・後漢193年冷夏凶作 ≠[崇神5年]

なおアマテラスは超ミス・ユニバース級の美女であり、危険厄物秀魔電の
言う男ではない。真の姿はマリー・アントワネットのような洋装をして
おられる。瓜実顔気味で。額上部正面に八咫鏡のある冠をかぶって
いる柳腰の美女である。ココデで鏡が極めて重大であることが確認される。

すなわち239年は鏡作神社の社伝の崇神6年9月3日の鏡改良の鋳造の
ころに近接する。崇神6年にはアマテラスの鏡の祭祀の行事が倭笠縫で
行われた年でもあり、239年がこの年のころだということが確認出来る。
景行元年が239年では、鏡のかような重大行事は無く、景行元年がインチキ
であることの確認が取れておる。宿主空年はすでに破折論破されている。

大中臣の下命により、記紀転覆を企てる危険厄物たる秀魔電を徹底牽制
する。ここは地球上であり、猿の惑星上ではない。
184日本@名無史さん:2011/11/25(金) 01:03:23.49
・老眼 文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
・唐松 文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー 文献知識△ 考古知識○ ディベート力◎ 人間性△  WWW度★★★
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  2ch常駐力★★★
185日本@名無史さん:2011/11/25(金) 01:11:35.49
>>184
サイキバ君スゲーwwwww
186日本@名無史さん:2011/11/25(金) 01:17:53.41
>>184
縦目かな?相変わらずこう言うの上手いなwwwww
187日本@名無史さん:2011/11/25(金) 01:55:42.20
>>184
詐欺の畿内説は全員×だろw
188日本@名無史さん:2011/11/25(金) 01:57:46.38
>>184
×が多いヤツは、184にとって手強い敵だってことがバレバレ。
189日本@名無史さん:2011/11/25(金) 02:11:55.53
>>128
> 倭国乱が起ったとすれば鉄簇が多く出土する九州に於いてであったろう

「倭国乱」は鉄鏃限定だったというのかな? それは非常識というもの。
石鏃などを含めると鏃は西日本に広く出土する。
“倭国乱が起こったとすれば”、九州を含めた西日本全般においてだろう。
190日本@名無史さん:2011/11/25(金) 02:18:36.01
鉄簇が多い地域のほうが、戦乱があった場所の可能性が高いだろう
191日本@名無史さん:2011/11/25(金) 02:56:06.59
>>188
サイキバ君最強説か、確かに最狂…いや最強かもしれないなw
192日本@名無史さん:2011/11/25(金) 03:00:40.00
>>191
もちろん最強。
詐欺畿内説バレ=サイキバだからねw
193日本@名無史さん:2011/11/25(金) 03:57:53.67
なんでも、こうも
九州説って必死なんだよw
194日本@名無史さん:2011/11/25(金) 08:11:50.45
>>189

ド民、ドツボ、サイキバ。
そりゃ、このオール×三人組は、誰にとっても「手強い」だろw
195日本@名無史さん:2011/11/25(金) 08:43:06.71
久しいぶりに見たら
未だに「サイキバ」を叫ぶ気違いが
張り付いている。
気色悪る〜
196旧帝大歴史学徒:2011/11/25(金) 08:58:38.27
昨日の僕のゼミでのプレゼン、
景初4年三角縁神獣鏡からわかる邪馬台国の所在地 は
大成功でした。一夜漬けでレジュメ2枚作って適当に発表したんですが
ABCの3段階評価でA評価貰いました。教授からもよく調べたと
誉められました。ゼミの友人もなかなか面白かったと言ってました。
これで邪馬台国はひとまず終了です。

ところでここの素人研究者のみなさんはどうやって研究されてるんでしょう?
考古学はその仕事に就いてないと無理だから、素人だと文献史学からの
アプローチになると思いますが、歴史学科出てないなら
古文書解読するトレーニング受けてないでしょうし、また有用な資料を
入手するのもコネもない、大学で働いてもないなら困難を極めるでしょう。
197日本@名無史さん:2011/11/25(金) 09:50:14.74
>>196
どういう内容だったんだ?
198日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:08:23.61
>>196あのね、評価Aだといっても、それは着眼点とか思考面とか努力とか教育的にみての評価であって、その結論が正しいかどうかの評価ではないんですよ。
教育とは人を育てることが目的ですから、一生懸命にやったことをほめているのですよ。
199旧帝大歴史学徒:2011/11/25(金) 10:33:44.85
>>197
だいたい以前ここに書いて、みなさんに叩かれたことを
レジュメにまとめただけですwまあ多少詳細に書いたので
努力したと認められただけかもしれませんがね。
僕を遊び人だと思ってた同じゼミ生も案外真面目なんだねと
言ってましたw
200日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:55:35.71
1年からゼミがあるんだ
201旧帝大歴史学徒:2011/11/25(金) 11:00:30.90
はい。あります。単位数も4と結構でかいので
一応真面目に出席してます。一人一回は前に出て
テーマ決めてプレゼンするんですが、僕の出番は終わってほっとしてます。
202日本@名無史さん:2011/11/25(金) 11:23:36.13
一年だと、内容より、プレゼンそのものの姿勢が評価の対象だろうな。
てにおは、と、論旨につじつまが合っている事が重要。

きちんと喋れない、
テーマと内容が違う。
結論に至る論理がめちゃくちゃ、

なんてのが結構いる。
203日本@名無史さん:2011/11/25(金) 12:10:31.52
1年生は一般教養だけだろ。
高齢に免じてゼミの自主聴講を許されてるんないのか?
204旧帝大歴史学徒:2011/11/25(金) 12:17:35.38
一般教養だけじゃなく専門科目もやってますし
ゼミでのプレゼンもやりますよ。
そんなこともわからないとかまさか高卒が邪馬台国の研究など
してるんじゃないですよね?w
まあ邪馬台国に深入りする時点で低能だからありえなくはないかw
だいたい一般人の素人じゃ古文書購読できる教育受けてないし、
資料も入手できないし、研究などできないしやるだけ無駄じゃないですかw
205日本@名無史さん:2011/11/25(金) 14:13:45.62
>>204
ふ〜ん、偏差値の低い大学じゃ、一年からゼミがあるんだ。
206太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/25(金) 14:59:40.60
>>186
縦目氏ではないな。それがしのコテハンを毀損するのはジョーカーと宿主
と年寄り19歳だけだ。ここに19歳のナマイキ野郎がないから、19歳とか
言ってる奴が書いたんだな。
207ローガン:2011/11/25(金) 15:24:53.73
>>196:旧帝大歴史学徒
>昨日の僕のゼミでのプレゼン、

いい評価が貰えて良かったですな。ただ…

>景初4年三角縁神獣鏡からわかる邪馬台国の所在地 

貴方がもし、三角縁神獣鏡国産説の根拠の一つに「大陸で出土しない」を考えているなら、広峰15号鏡を、三角縁神獣鏡にカウントしない方が良い。
定義を広げると、「大陸で出土しない」と言えなくなる。
208レス長たらし毘古:2011/11/25(金) 16:53:00.76
いやー最近は感想だけで申し訳無い。(中途半端に固まってない私的モチーフ
が過大なもので。。。そのうち、テーマ毎にまたまとめますが。。。)

閑話休題。なぜ古事記神話には、太陽と月と闇(黄泉)があるのに、「星」は
無いのか?なぜ蘇えれる筈のイザナギはスサノウに幽閉(或は殺害)されて
以降古事記神話に再登場していないのか?さて、ここらへんが、前古事記神話
やタケミナカタとかが消されてしまった理由ではなかろうか?−と模索中。

ま、ヒントはそこらへんにしといてですが、そろそろ「前古事記推移段階」を
ご披露できればと思っております。そして、この中から邪馬台国と呼ばれた
国(地域)や卑弥呼と呼ばれた女性を狭めて行ければと考えております。

ちなみに、当方は王朝交代説はとっておりませんが、権威権力の転換までは
古事記内でも「充分に有り得る筈」と言う解釈立場をとっております。拝。
209日本@名無史さん:2011/11/25(金) 17:03:14.72
倭国大乱は文献的には、王位継承戦争だよ、同族王朝内の。
中国の価値観だと、王を共立するってのは
王位継承争いがこじれて、家臣たちが話し合って決める場合だから。

普通は、先代王の意思で次期王に王位を譲る。
あるいは、新しい王統に取って代わられて、易姓革命がおこる、
この場合、そこで新しい国家が建国されたことになる。

魏志倭人伝の記述だと、卑弥呼が所属していた王朝は
卑弥呼よりもずっと前に、男王によって建国され、数十年続き、
そこで家督相続争いが起こって、家臣たちが話し合いで
女王卑弥呼を共立したとなる。
(日本の歴史で例えるのなら、足利幕府の場合
6代将軍を家臣たちのくじ引きで決めたようなもの。
この時、先代の将軍の足利義持が次期将軍を決めなかったために、そうなった。)
210日本@名無史さん:2011/11/25(金) 17:06:49.09
>>208
古事記では王朝の交代を隠していない。
それは、出雲国譲りのところ。
今の天皇家は、出雲国譲りによって天下を統一し、
今に続くというスタンス。
211レス長たらし毘古:2011/11/25(金) 17:20:06.62
>>210
鋭いご指摘とも言えます。隠していないとするならば、そこは事前権威権力
構造を「緩やかに隠した」と言う構図になります。

【つまり元々(1〜2世紀において)】
出雲:これが大ボスで出雲における王統が継続していた
大和:これが属国(あるいはライバル国)で大和における藩王統が継続

【これが古事記の時代までに以下の解釈に変転する】
出雲:そもそも当時大ボスではない。伝承される当時王統は藩王統に過ぎない
大和:当時大ボスになりつつあり、その過程を「現伝古事記解釈」の如く解釈
(この解釈変転の過程でまだ藩王統であった時代の王位継承を王統へ格上げ)

この可能性は残余するワケざんす。
212レス長たらし毘古:2011/11/25(金) 17:38:56.42
さて、以上は「隠していない場合」のみに限定させて頂きましたが、そこは
もう私家本の立場歴史本ですからね、古事記は。「隠している部分」も少な
からずあると考えるのが自然でしょう。

とすると、「どこが隠す必要があり」「どこが隠す必要がなかったか」の差異
が肝要になって参ります。
当方は最低でもこの「権威権力の変転」は3〜4回以上行われた可能性が有ると
想定しています。(ここはあくまでも古事記からの邪推ですが)
但し出雲王統は九州王統や近畿王統のように「組み込む事」が難しかった。
従って、古事記ような「九州から近畿へ東征して来た王統のストーリー」と
なってしまった可能性も残余して来るのです。
例えば、東征においてその経過地点である、瀬戸内海域の描写は殆ど皆無
です。九州での旅順や近畿での旅順の、執拗なまでの詳細の報告に比べ、この
瀬戸内海域における(陸路であれ海路であれ)旅順の報告の軽薄さは異常で、
ただただ「その海の航路を良く知っている」「ベテラン怪人(海人)塩土翁」
に舳先を全てを一任しているだけの旅順報告なのです、古事記では。
古事記編集に至るまでの、国史編纂王統サイドの「どの時点か」に、この
「不都合な真実」を「隠す必要が生じている」と考えるのが自然かも。
(神武の頃にはもう出雲の国譲りはとっくに終っている時系列になるので、
普通に考えれば「旅程を隠す必要性」は全く無いと思われるんデスケドねぇ)

これは一例に過ぎませんでしたが、こーゆーの、諸所あるんダヨネ。。。
213日本@名無史さん:2011/11/25(金) 19:01:35.58
>>196 旧帝大
自分の場合は全くのド素人。
学会誌機関紙の類も購読していない。
精々そこら辺の本屋で売ってる本を数冊読んだだけの知識。

だから「古代史・邪馬台国を”研究”しています」…なんて言ったことは無いw

がゴミクズレベル九州説さんには研究家を自称するやつは多く
その研究活動の一環として2ちゃんねるのこの板に書き込む事も含まれるらしいがw
あと悪のキナイセツの詐欺欺瞞を暴く為にここで戦っていると言う研究家も多いwwwwww

舐めてたらエライ目遭うぞ?(病気がうつる的な意味でw)

ところで卒論はやっぱ邪馬台国をネタにするつもりかな?
214日本@名無史さん:2011/11/25(金) 19:07:52.83
>>213
餌を与えるな!って書いてあるだろうが!
このカス死ねボケ!
215日本@名無史さん:2011/11/25(金) 19:46:16.84
>>211
もっと詳しく言うのなら

古事記では王朝交代の歴史を隠していない。
それは、出雲国譲りのところ。そこで王朝交代が起こった。

だからこそ、天皇家は前王朝の出雲から
天下を平和裏に引き継いだことを自身の正統性にしていたので
出雲の神様も大切にするんだよ。

でも、問題はそこ。
もし、出雲国譲りによって王朝が交代したのなら、その時点でヤマト王権の
初代天皇が誕生していたことになるだろう?
でも、その辺の記述が曖昧だ。日本書紀では、ここは神話ということにされている。

出雲国譲りの時点での天皇家の先祖はニニギ命だが、
彼は出雲国譲りの直後に九州高千穂に飛ばされてしまう。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命で、後に日向から大和へ東征して
後世、神武天皇とされる人物である。
216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 19:54:11.36
私の主張と百済本紀の誤差は 46年である。この数字と同じ誤差を主張する韓国人がいる。
それがラジオ氏であるが、彼は、新羅・高句麗の年代を引き下げて、百済本紀に合わせるのが
正しいというが、そうであろうか?
まず、百済本紀を正しいとする韓国考古学には、未知の4世紀遺構が存在する。
新羅土器には編年がある(未知の部分は無い)。
つまり新羅の歴史を百済の歴史と合わせるとどこかで“46年分の記事を捨てなければならないが
合わせても百済の“未知の4世紀遺構”はそのまま存在してしまう。
百済の歴史を46年遡上させれば、“未知の4世紀遺構”が無くなり、高句麗軍の駐留する時代
が“空白”となる。つまりソウルの積石塚は、肖古王の墳墓でなく、駐留高句麗軍の墳墓となる。

275年 神功元年
338年 神功皇后摂政六四年 百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
384年 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)百済本紀。
384−338=46年差。

直訳 [218] 婆娑尼師今記 32년, AD157년 Name:radio  2010/01/05(火)
*新羅王の伝記パー四尼師今33年、AD112年.
三十三年冬十月王薨葬蛇陵園内33年(112)冬10月に王が死んで斜稜院中に葬式を執り行った。
*AD158年- AD112年= 46年偏差. パー四33年で一致する。
217日本@名無史さん:2011/11/25(金) 19:59:13.67
あのさあ、王朝交代って、いくつかあったでしょ。

1:出雲→対馬+壱岐
2:竺紫(対馬+壱岐が九州に上陸した勢力)→九州の各地
3:九州→畿内
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 20:00:59.35
さらに重要なことは、私の主張する神功49年は323年(癸羊)と同年とできる文献がある。

千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。休礼太后生長?子勿?…

半島占拠が可能な時空は、この323年 この地方が政治的空白になったこの時期だけである。
219日本@名無史さん:2011/11/25(金) 20:02:27.79
>>209
王位継承がこじれて共立される場合は、その事情や経緯、前王と継承者との関係などが明記されている。
しかし卑弥呼は出身については不明で「一女子」と書かれている。
むしろ他の事例と違い、血縁関係にないことが示唆されている。

中国以外の周辺国では前王と血縁無関係にない人物が「共立」される記述もある。
卑弥呼の場合もこれと同例だろう。
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 20:08:46.66
では何故ラジオ氏はこの癸未年を383年としたいか?
それは、七支刀=369年でさえ“半島占拠”は否定されている。この数字が遅ければそれだけ
“倭は百済の属国”で説明しやすいからである。
221日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:05:16.59
>>219
魏志倭人伝は中国人が書いたから、中国人の価値観で書かれている。
中国人は、わざわざ、
卑弥呼の国は、ずっと前に男王によって建国されたと記述している。
もし、卑弥呼が、前の王と無関係ならば、卑弥呼の時点で新しい国が出来たと解釈され、
魏志倭人伝のような記述にはならない。

しかしながら、ここが、天皇家の最大の秘密なんだがw
要するに、卑弥呼と、それよりも前に存在した王の関係において
非常に微妙な関係にあったということだな。
まったく無関係ではないが、かといって、これを同じ王統だと言えるのか?と。
その解釈をめぐって争いが起こり、それが王位継承争い、倭国大乱となったと。
222日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:11:39.77
>>217
王朝交代は、
出雲→大和で起こった。
出雲は、おもに日本海沿岸を中心とした連合王権
大和は、中部地方まで広がった内陸型の中央集権王権。
223日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:13:23.74
>>220
唐松山さんよ、そのラジオさんの主張している史書は
完全に偽書扱いだよw
あの半島の学会ですら、そういう扱い。
224日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:14:53.62
>>220
唐松山さんよ、そのラジオさんの主張している史書は
完全に偽書扱いだよw
あの半島の学会ですら、そういう扱い。
225日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:23:50.79
>>221
出雲が畿内大和に対して、国を譲ったことなど、一度もない。
226日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:30:53.78
>>221
倭人は三十国に分かれていた。

高句麗も五つの部族から成り立っている。
もと涓奴部を王と為していたが、微弱になり、今は桂婁部がこれに代わった。

しかし高句麗は高句麗のままだった。
2272個裸巣・刑事 :2011/11/25(金) 21:39:22.52
>>209
>卑弥呼よりもずっと前に、男王によって建国され、数十年続き、
>そこで家督相続争いが起こって、家臣たちが話し合いで女王卑弥呼を共立したとなる。
YES。
誰もが納得する有資格者が立つ場合や、自力で王になった場合は「立つ」。
有力者が擁立した場合は「王と為す」
実力者たちの合議で王を立てる場合が「共立」。いずれもよくある話。

>>219
>卑弥呼は出身については不明で「一女子」と書かれている。
>むしろ他の事例と違い、血縁関係にないことが示唆されている。
YES。卑弥呼も臺與もリリーフ投手だ。

>>221
>卑弥呼が、前の王と無関係ならば、卑弥呼の時点で新しい国が出来たと解釈され、
>魏志倭人伝のような記述にはならない。
卑弥呼も臺與もリリーフ投手だよ。

晋以降の大陸の動乱の時期には倭国の歴史も見えない。
その長いトンネルを抜けたら、中国名を名乗る男王(五王)たちの時代だ。
邪馬台国問題が未解決のままでは、倭国王統の脈絡の真相へは進めない。
邪馬台国を引っぱり合った状態で、地に足のつかない空論だけが飛び交う。
228日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:40:56.15
>>226
倭人の国は30国に分かれていたと言っても、それは今でいう州みたいなもん。
それぞれが独立していたわけではない。
卑弥呼は邪馬台国に在住していたが
卑弥呼は倭の女王であって、邪馬台国の女王ではない。
そのことを注意しよう。

また、倭にあった行政区間の数は、およそ110か国あった。
これは倭の五王の上奏文でも明らかで、旧事本紀でもそのようにある。
また、漢書などでも、倭には100余か国あったとある。

卑弥呼の支配していた国は約30か国。
それ以外にも倭人の国があったことを考えると
卑弥呼は、中心部の邪馬台国(大和国)を抑えてはいるが
また、支配しきれてない国々は多くあったことが想像できる。

卑弥呼の正体は、モモソ媛命。
229唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 21:41:32.28
>>224
倭を百済の属国とするためには当然の主張である。

では、日本書紀はウソの記述で成りったているのか?
韓国夢村土城の”未知の4世紀遺構”は何を意味するか?

倭が百済の属国であった場合、なぜ大山陵のごとき巨大古墳が築けるのか?
最後に、公開土王碑は、正しい。
413年高句麗の朝貢で百済王映は、高句麗国に含まれる。
日本書紀に記述された百済王家は、倭に臣従する百済王家である、であるならば
390年以後に登場することは無い。
この時代があるから、日本書紀は正しい年代に直せない。
230日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:50:43.68
>>227
卑弥呼は前の王とは、一応、親族関係ではあったが
それは、父と娘というような近い関係ではない。
せいぜい、遠い親戚くらい。
まったく、赤の他人ではないが、近い親戚でもない。

では詳しく説明すると、卑弥呼の王権を作った人物は
卑弥呼が生存した時代よりも100年以上も前にいたであろう男王。
この王の通称を天照国照彦といい、諱を火明(ほあかり)といった。
天照国照彦とは、天津と国津の両方の支配者という意味であり
文字通り、出雲国譲りをして、天下統一した人物だった。

つまり、この天照国照彦こそが、ヤマト王権の初代天皇とされるべき人物であった。
実はもともと、ヤマト王権は、男の太陽神アマテルを皇祖神として祭っていた
という説があるが、この男の太陽神の正体が、天照国照彦。

卑弥呼は、この天照国照彦の弟のニニギ命の男系子孫であり、
一時期、九州南部の地方官の地位にあった王族であった。
卑弥呼の正式な名前は、ヤマトトトヒモモソ媛命という。
231筑紫の民:2011/11/25(金) 21:51:45.74
お・れ・は・サイキバ、波・・・

しかも並と波を間違えとるし・・・
232唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 21:51:59.55
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳 [326年神功49年]
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。
399年(406?)ON46大仙古墳

考古学は、纏向5類までの編年しかできていない。
つまり大仙古墳を5世紀半ばとする限り編年は出来ない。
公開土王碑を誇大表記と言うが、407年に金官伽耶の東半分を失った事実は残る。
405年 履中天皇6年の兄王捜索の記事は404年の帯方界での敗戦、行方不明者捜索
の記事であり、この兄王とは、履中天皇自身かもしれない。
233230続き:2011/11/25(金) 21:58:33.14
つまり、天照国照彦を初代天皇とした場合、
その弟のニニギ命の男系子孫である神武皇統、卑弥呼の正統性は微妙。
まったく赤の他人ではないが、万世一系の子孫ともいえない。
天照国照彦を初代天皇にした場合、万世一系でつながっているいえるのは、
天照国照彦の息子の男系子孫たち。

もし、天照国照彦やニニギ命の父親である天忍穂耳命の代に
出雲国譲りが達成され、
天忍穂耳命が初代倭王、つまり初代天皇とされたのであったら
神武皇統である卑弥呼の正統性に疑問符はつかない。
しかしながら、古事記にもあるように、残念ながら、天忍穂耳命の代では
出雲国譲りは達成できなかった。
234日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:06:08.38
>>230

× この天照国照彦こそが、ヤマト王権の初代天皇とされるべき人物であった。
× この天照国照彦とは別の、九州都落ち軍人=神武が、ヤマト王権の初代天皇とされるべき人物であった。
235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 22:06:26.29
『晉安帝義熈九年[413]、遣長史高翼、奉表、獻赭白馬。
以[王連]、爲使持節・都督營州諸軍事・征東將軍・高句驪王・樂浪公。
高祖踐[阿−可+乍]、詔曰「使持節・都督營州諸軍事・征東將軍・高
句驪王・樂浪公[王連]、使持節・督百濟諸軍事・鎭東將軍・百濟王映、
並執義海外、遠修貢職。惟新告始、宜荷國休。[王連]可征東大將軍、
映可鎭東大將軍。持節・都督・王・公、如故。」』(宋書高句麗伝)

高句麗伝に百濟王映が含まれる事実は、何を意味するか?
236233続き:2011/11/25(金) 22:09:17.67
そして、その出雲国譲り、つまり、出雲が大和に降伏し
ヤマト王権による天下統一した事件だが
その辺の真相が、播磨国風土記にも記載されている。

つまり、出雲国譲りは、出雲大国主が母系継承でヤマトに天下を譲った事件でもある。

くわしくいうと、出雲の大国主の王女の天道日女命は、
ヤマトの天照国照彦(天火明命)の妃になっており
大国主命は娘婿の天照国照彦(天火明命)に国譲りした事件でもある。

おそらく、その時の条件が、娘の天道日女命の生んだ子供に、
倭王の地位を与えることを条件にしたのではと思う。

その天照国照彦と天道日女命の間にできた子供が、天香語山命であり、
彼は、父方がヤマト、母方が出雲という、ヤマトと出雲の統一の象徴であった。
この天香語山命が、ヤマト王権の二代目の倭王になったと思われる。

その場合、天照国照彦の弟のニニギ命の男系子孫である
神武皇統、卑弥呼の正統性は、大きく揺らぐ。
237日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:10:44.86
プロが来たねえ
238日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:11:01.58
ニニギは九州の人物だし、出雲から国譲りを受けたのも九州人脈。
そのころの畿内大和は超田舎。
239日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:27:48.68
>>238
出雲国譲りを受けたのは大和。
というか、厳密にいうと、葛城にあった王権。
葛城の高天山の麓に発祥した王権であった。
高天の原というね。

出雲国譲りのち、高天原から、やや北にあった平地に首都をおく。
この首都の地域を高尾張といい、後に葛城に改称する。
また、この地域に限らず、その辺いったいも、後に葛城地方と
いわれるようになった。

この畿内王権と出雲王権の間で戦闘もあり
その緩衝地帯である播磨国に、出雲国譲りの痕跡がある。
播磨国風土記にも記載されている。
240唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 22:41:16.98
訂正
×公開土王
○広開土王
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/25(金) 22:53:26.46
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

この記事を377年とするには、[不遵朝廷之令] 背くべき朝廷が存在しない。
316年 西晋滅亡。帯方、楽浪に残った晋の政治機構に従わない。
仁徳天皇四年(丙子三一六)課役の停止=兵の引き上げ。

この時代に大量の鉄が古墳に副葬された事実は残る。
そして、大山陵あたりまでは続く。
242サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 08:11:41.58
そんな神話を歴史と結び付ける作業は歴史学の領域ではないので
神話板かオカルト板でやってくださいw
頭悪い素人が歴史学なんていう学問領域に首突っ込まないでください。
243日本@名無史さん:2011/11/26(土) 10:52:49.00
>>242
敗北宣言かw?
244唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 11:30:00.28
>>239
>出雲国譲りを受けたのは大和。

国譲りは、2回あり最初は九州のいっかくに居住を認められた。
2度目が大切で 崇神6年秋 先の凶作で崇神に身を寄せていた大物主は
大王の座を崇神に譲位、出雲で余生を送ることとなる。
その証拠が、初子タタネコを崇神に仕えさせる。
出雲に移動したた大物主は振根と名を変えて、九州と連携していたが、行き違いから殺される。
これが3世紀初めで、ここで前原王墓も終了する。
245サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 11:41:32.62
そんな妄想話ばかりして気持ち悪いw
記紀と無理やり整合させようとしなくてもよいでしょ。
そんなの歴史学の領域じゃないと言ってるでしょ。
246唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 12:05:32.18
>記紀と無理やり整合させようとしなくてもよいでしょ。

記紀がねつ造の書であれば、整合させる必要はない。
記紀の主張が正しく歴史を語っていれば、整合させなくては歴史にならない。
そして、考古学と文献史学は表裏一体である。
崇神世=卑弥呼で纒向を説明できた輩はいない。
崇神世=卑弥呼で歴史を考えるなら、記紀はねつ造の書となる。
崇神世=考古学の主張する2世紀末からであれば、記紀は正しい書となる可能性がある。
247サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 12:11:30.49
貴方もまずしっかりした大学通い直して、
歴史学の博士号取ってから研究してくださいw

そしたら2世紀3世紀のことを文献史学からアプローチすることなど
いかに馬鹿馬鹿しいかがわかります。
しっかりした教育機関でトレーニング受けてないからそういう素人じみた
行為に走るのです。
248日本@名無史さん:2011/11/26(土) 14:11:03.72
>しっかりした大学

名古屋大学は、ぜんぜんしっかりしていないからなw
249日本@名無史さん:2011/11/26(土) 17:35:17.43
このスレですか?

名古屋大学程度の大学に入って
喜んでいる学生がいると聞いて
やって来ました。
250レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 17:40:17.79
>>217
>あのさあ、王朝交代って、いくつかあったでしょ。
1:出雲→対馬+壱岐
2:竺紫(対馬+壱岐が九州に上陸した勢力)→九州の各地
3:九州→畿内

えーと、部分的に自架空と重なるので、古事記ベースの当方からのヒントを
更に拡大してみます。
【IF@:タカミムスビ王統があったとしたら】
【IFA:オモイカネ王統(藩王統)があったとしたら】
【IFB:スサノウ王統(大国主王統=イザナギ継承)があったとしたら】
【IFC:宇佐王統(藩王統)が卑弥呼と大和健と神功を結んでいたら】

この四つのIFの分だけ、即ち最低でも四回は権威権力は移行した可能性が
残余し得ます。@は神話の基本構造と重篤に関わりますし、Aは氏族構成と
重篤に関わりますし、Bは神武数百年の実績に重篤に関わりますし、Cは
卑弥呼当時の権威権力構造と重篤に関わります。

この四つのIFはあくまで自架空ですが、古事記の矛盾を素直に指摘した場合
にのみ発生する可能性残余です。この可能性を無視しない場合、@〜Cに
おける、天照の天孫の一系継続は権力上は必ずしも担保されない可能性も
発生します。(注:但し権威は別。権威は古事記ベースでは、その一系継続を
覆す根拠は見出せません)

この、権力の分断をもって「王朝交代」と定義する広義のとらえかたもできる
とは思いますが、そもそも血脈が必ずしも王統の一系継続を担保しなければ
ならないとしたのは、古事記以後の時代であると言う可能性も多いに残余
しますので、ここではそこまで考える必要は全く感じません。
(従って当方は「王朝交代」とは定義しない、と言う理屈になります。拝)
251レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 18:05:44.66
>>215
>出雲国譲りの時点での天皇家の先祖はニニギ命だが、彼は出雲国譲りの直後
に九州高千穂に飛ばされてしまう。このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命で、
後に日向から大和へ東征して後世、神武天皇とされる人物である。

仰る内容の大枠は理解した上でですが、古事記を素直に読む場合、
@九州を出発し後に近畿に居を構えた初期の大和王統

A姉ちゃん天照に追い出されたスサノウの流浪の果ての安住の地出雲王統
とにおいて、
「相互交渉物語が(古事記上)全く無い」時期が、ニニギ〜神武〜崇神の
間と、数百年も長きに渡って存在します。(但し政略結婚等の可能性は
多々残余)普通に考えて、「それほど長い間、互いに互いの記述が無い」と
言うのは、これは【A】完全支配・完全被支配の関係か、【B】相互に交渉
少なき相互独立国の関係か、のどちらかと考えた方が自然でしょう。

さて、古事記はこの【A】を採用しているワケですが、果たしてそれはどう
かな?と言う疑問が残ります。つまり【B】の可能性残余ね。
ニニギ〜神武〜崇神の時代、つまり「出雲の国譲り以降崇神の時代までの間」
が【B】状態であった可能性残余は、古事記上は諸所に散見されると見ます。
(具体例は長くてヤヤコシクなりそうなので、過去ログ参照。ここでは割愛)

敢えて貴殿の根拠に近しい所で、仮題を申し上げると、古事記における神武の
活躍中やそれ前後にも、「出雲の影」がそこここに散見されるように幻視
されます。つまり、その時代は、近畿王統と出雲王統がそれぞれ独自独立に
存在していてもおかしくはない可能性が浮き上がって来るワケです。
つまり、出雲の国譲りは無かったか、もしくは、古事記に描写されている様な
徹底した掃討作戦では無かった可能性が、残余的に浮き上がって来ます。

そう、「途中まで」は、「出雲の王統の残滓は存在した」可能性です。これが
崇神を飛び越え、ヤマトタケルの時代まで継続します。しかし、その後、絶えるか、前古事記以前の国史において抹消されます。(但し個人の感想です)
252日本@名無史さん:2011/11/26(土) 18:08:57.11
次の仮説は成立するか。
サガミファン、サガミ待ち=旧帝大歴史学徒=19歳名大生=縦目仮面
253唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 18:13:17.70
縦目仮面 さんは除外
彼の主張とは食い違いがある
254レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 18:14:59.88
>>222
>出雲は、おもに日本海沿岸を中心とした連合王権
>大和は、中部地方まで広がった内陸型の中央集権王権。

程度共感できます。出雲は沿岸を基本要素とした「広域連合」の可能性は高い
と見ます。なぜなら、もしそうなら、出雲(国譲り以前)の影響関係国が、
韓半島〜九州〜中国地方〜近畿〜北陸〜信越と、言うばく大な広範囲である
事も説明がつきやすくなって来るからです。大和の「内陸型の中央集権王権」
と言う方は、まだ当時では「途上段階」と当方は想定していますが、結果的に
そう成って行く点は全く否定しません。

そして、敢えて三段跳びをするなら、もし前出雲の「広域連合体盟主」の性格
が強いとするならば、「卑弥呼が共立された理由」も、「結果的に大和が
連合体盟主の座を乗っ取った理由」も、どちらもスムーズに繋がって来る
気はします。
255日本@名無史さん:2011/11/26(土) 18:20:33.14
19歳名大生と縦目仮面が一緒に見えるならどうかしている。

縦目は年齢は若いが言ってる事が爺臭いwwwwww
256レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 18:21:29.60
>>225
>出雲が畿内大和に対して、国を譲ったことなど、一度もない。

その可能性も残りますね。古事記ベースだと立場論から抜け出す事は出来ない
ので検証は一書からのみでは無理ですが、近畿&出雲の関係性の複雑矛盾残余
構造から鑑みて、「複数立場論」がしばらく並立的に数百年残余した可能性
を感じます。
つまり、ある一派は「国譲りしたもんねー!」と主張し、別の一派は
「いや、そんな事は一切無い!」と主張し、その立場並立が長いこと続いた
可能性ね。
当時(国譲り時点での)どちらかが、(あるいはどちらもが)二面外交を
してしまったのかもしれませんねぇ。。。
257唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 18:30:02.15
神武東征時
ホ30033 ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

コシネのクニ=北陸・サホコ=出雲。
258日本@名無史さん:2011/11/26(土) 18:36:35.33
>>252

縦目以外は、正解。
259唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 18:39:25.31
崇神7年
ホ33078 ワレはこれ ヲヲモノヌシの カミなるが キミなうれひそ たせざるは わがココロあり
わがハツコ ヲヲタタネコに まつらさば ひとしくなれて トツクニも まさにまつらふ
ハヅキナカ トハヤがチハラ メクハシメ ヲヲミナクチと イセオウミ ミタリミカトに
つげもふす ユメにカミあり タタネコを ヲヲモノヌシの イハヒヌシ

イセオウミ=近江伊勢遺跡の主人
ヲヲモノヌシは初子タタネコを崇神に仕えさせる=譲位。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/26(土) 18:58:53.93
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と
コチラを口撃していた男が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

荒唐無稽で滑稽盲象ww
    ↓
唐松山の「五重在位論」
261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 19:02:58.93
274年 渡海。 これ以後の倭軍の活躍を書紀は空白とする。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
仁徳4年 課役の停止
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
西晋が滅び、その地を時の平州刺史、東夷校尉崔が狙う。
その崔は、319年に高句麗へ出奔する。半島が政治的空白地帯となる。
323年 癸未 神功49年3月 再度渡海 半島の占拠、再編成。百済建国。
千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
331年 辛卯年(広開土王碑) 楽浪方面へ領土を広げる。
343年 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
262レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 19:03:50.23
タタネコ・・・タタネコ・・・大(太氏?)タタネコ。。。うーん。

やはり大は単なる尊称でなく、元は「氏族名」ではニャカロウカ?
(個人感想デス)
オオヤマトクニアレ比売(モモちゃんの母にして淡路島の女ボス)も、尊称と
しての「オオ」ではなく、氏族名としての「オオ(ヤマト)」だったのかも
しれない。。。(又々個人感想、拝謝)

【ここからは自架空妄想です】
昔は「大氏(太氏)」がいた。始祖はクニアレヒメ前後。本来拠点は淡路島。
そしてそれは、太古イザナギがスサノウによって封印された土地でもある。
従って、前出雲王権も(渋々)淡路島に、イザナギを封印する社を建てた。
時は移ろい、国譲り(的何か)を画期に、前出雲と大和との主従関係が反転
する。当然、どっちも「イザナギは先祖」だから、祀ろわなければならず、
大和が今度は淡路を祀ろう担当を担った。(平和的か政略的か戦闘的かは
ここでは不問)そして、その大任を、クニアレ比売のおとーちゃんが担う。

これがそもそもの名目上の「大(太)氏」の始まり。しかし、モモソちゃんの
代に彼女の死(及びその後に続く倭国大乱(当方は沙保毘古の乱がこれに
含まれると想定))によって、淡路は空白地となり、イザナギを祀るお祭りが
暫く「中断」する。これが崇神大王以降によって、復活させられる。その時に
その責任者に抜擢されたのが、オオタタネコ。(注:あるいは抜擢者は崇神
でなく、被抜擢者はオオタタネコでもないが、後々「そう言う事にした」説
も当方は先述済み。モモちゃんとタネちゃんの実際の血縁関係の有無は不問)
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/26(土) 19:10:52.47
×ヲヲモノヌシは初子タタネコを崇神に仕えさせる=譲位×。
264レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 19:11:23.61
そして更に飛躍すると。

この「淡路の大ボス」の立場はつまりは「瀬戸内海の制海権」をも意味する。
つまり、九州・出雲・大和の三極構造を媒介する地勢としての瀬戸内海利権。

瀬戸内海利権を牛耳るモモちゃんは「共立」される可能性は低からず、そして
その瀬戸内海利権の西端が東北九州(or東九州)と、こうなる。
つまり俺的には、邪馬台国は、日田・宇佐・日向高千穂の九州トライアングル
の界隈、とこうなる。(モモちゃんだけど九州説がこうして浮き上がり。。)
265唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 19:14:07.59
ホ35043 よりてハリマの イテサムラ アハチシシアワ まゝにをれ ヒホコもふさぐ
すむトコロ ゆるしたまはゞ めぐりみん

播磨・淡路島・阿波 はヒボコと鉄。
266太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/26(土) 19:19:52.62
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と
コチラを口撃していた男が〜

〜〜またもや偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

成務年代に西暦をふれぬ宿主空年はすでに論破済み。
267レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 19:59:26.89
【更に妄想が続きます、拝謝】
前出雲王権は日本海沿岸広域連合の盟主たらんとする。だが、スサノウの時代
に既に、九州(天照のお膝元)上陸に失敗し、会盟が成立しているので、九州
へは版図を伸ばせない。
従って、広域連合の兵庫平野淡路島を経由して紀伊地方に進出し、対大和の
関係を優位にしようと尽力する。上越にも広域連合の盟友を拡大していく。

そんな最中に、後代「国譲り」と称される、九州との大決戦が起こり、総じて
これに破れる(但し、地方勢力は残余し、これがしばらくは九州王権に対し
ゲリラ抗戦を継続)
しばらくし代も流れ、九州の継承権が希薄な一人の皇子が、前出雲余剰勢力
や瀬戸内海利権と結託して、ゲリラの本拠地「近畿」に本格的制圧を開始
する(したがってあの東征ルートとなる)(総じて是を後代「神武の東征」
と称する)ゲリラを討伐した近畿王権は、その後暫く、九州や出雲と近からず
遠からず、服従しつつ独立した「地元勢力」として拡大を続ける。
その途中で、「盟主決定戦争」が九州と近畿の間で起こり(これが古事記で
言う、神武前後の近畿・九州戦争)それに打ち勝った近畿側が、「とりあえず
名目上は三極の盟主」となる。これが神武前後時代。こうして倭人分布域広域
連合は名目上完成した。
268レス長たらし毘古:2011/11/26(土) 20:01:15.07
【更に妄想が続きますA、拝謝】
だが、近畿による実質支配と中央集権化は、暫く実現しない。その状態で、
魏の探検隊&外交官が九州に上陸。困った九州勢力は、広域連合を頼む。
そこで近畿主導で「卑弥呼なる女性」が共立される。(当方はこれをモモ
ちゃんと現時点では想定)二面外交で切り抜けるも、この二面外交が、広域
連合において大問題になり、姫の死後(もしくは暗殺?)倭国大乱が勃発。

そしてその倭国大乱の最終勝者となったのが、近畿の最強陸軍を有する崇神
&大毘古、とかつての出雲海軍のなれのはて因幡海軍のタニワミチノウシ。
ここで、最強陸軍と最強海軍が最強連合を発足する。それまでの大氏の瀬戸内
海利権は、権威は大氏へ、実権はここで神功皇后の祖先へと移管させられる。
さて、最強陸軍・最強海軍を供えた近畿勢力は、複数のヤマトタケル将軍
(大和建役職名説は先述済み)を各地に派遣しその中央集権を確立して行く。
陸軍閥の大活躍がとりあえずの国内安定を築いた後、今度は海軍閥(神功&
武内宿禰)が韓半島制圧を主導して行く。
269サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 20:02:02.86
それももうファンタジーの世界の話であって
歴史学でもなんでもないw

ほんと素人が歴史研究など無理だというのがよくわかる。
270日本@名無史さん:2011/11/26(土) 20:16:17.55
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革
ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け
世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
271日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:07:41.76
名古屋大学生が2chやって来て
暴走して荒らしまくってるやつがいるね
誰か通報しろw
272唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 22:13:23.86
>暴走して荒らしまくってるやつがいるね
大いに歓迎。
これに耐えられないような説では、ごみ箱も敬遠する程度のものということ。
273日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:15:52.05
唐松山は、太国氏以外、誰からも相手にされていないが・・・
274日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:17:12.18
唐松山は あらゆる恥辱に 耐えて行く
275唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 22:19:25.16
一番相手にされたくないのが、”倭は百済の属国”となる年代を強要する
太国である。
276日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:20:00.27
>>272
おい、てめぇー自身の質を下げるような発言は控えろ。唐松山が庇うほど質の高い奴じゃない。
277:2011/11/26(土) 22:23:13.40
・老眼 文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
・唐松 文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー 文献知識△ 考古知識○ ディベート力◎ 人間性△  WWW度★★★
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  2ch常駐力★★★

おれ、いまだにサイキバってどいつのことを言ってるのか知らんしwww
278唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/26(土) 22:28:10.16
>あらゆる恥辱に 耐えて行く

大したものは無いな、なぜならば
書記の編年+考古学の編年+文献とこの3点をそろえて主張しているのは私程度だろう。
この3点をそろえれば、文献の読み方まで変わる。
大倭という意味の通じない組織?が市を見回る? ←こんな読み方は書き換えますよ。
279:2011/11/26(土) 22:29:25.42
↑これは俺が出したんじゃなく>>184さんが出したもので・・・・
老眼の評価が1番みたいだね(No.1おめでとw)。
レス長たらし毘古氏とサガミ氏は忘れられてるみたいでw 
280太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/26(土) 22:36:58.85
この空年をそろえられなければ↓文献の読み方まで変わる。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
281太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/26(土) 22:49:14.68
ジョーカーの人間性が△とはとてもじゃないが、言えないだろう。w
ここの評価が甘い。
282日本@名無史さん:2011/11/26(土) 23:01:27.65
どう考えても最悪
283日本@名無史さん:2011/11/26(土) 23:04:32.74
>>277
ちょ、何それ?偏った評価は頂けないぞ
284日本@名無史さん:2011/11/27(日) 00:03:09.73
>>277

馬鹿、それは負け犬畿内説が、泣きながら捏造したデタラメ評価だぞ。
285日本@名無史さん:2011/11/27(日) 01:57:49.06
>>277
ジョーカーだかサイキックバカだか知らんが
最悪板に隔離誘導しても問題ないくらいの●層関西人だぞw
286日本@名無史さん:2011/11/27(日) 02:38:34.07
>>277
・ジョーカー(通称:サイキックバカ) 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性:× ●層関西人並み www度120%
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 昆虫並み 粘着力100%
287日本@名無史さん:2011/11/27(日) 03:05:07.82
サイキバをサイキックバカの略にしょうと必死だねえ
288日本@名無史さん:2011/11/27(日) 08:54:10.27
詐欺畿内説バレ=サイキバ
289日本@名無史さん:2011/11/27(日) 12:32:18.99
>>140 筑紫次郎=九州王朝大好き
とりあえずレスはサンクス

が、否定的であっても肯定的であっても、もう少し突っ込んだ意見を拝聴したかったなwww
まあ「効率の上昇」と言っても様々なコストを考慮せねばならずそれを”込み”で効率の上昇が見込まれても
絶対数を掛け合わせなければどれ程の効果があったも分からないわけで…

で、2世紀における畿内への鉄の流入と言うのは19歳旧帝大の言う3世紀の鉄の増加を踏まえてのことかな?wwwww
その件に関しては鉄はヤマトにとってプライオリティのトップじゃなかったので
それを最初に求める必要はなかった…と答えておこう(ただこれに関しては畿内説でも意見は分かれるだろうが)

まあ朝貢した3世紀ではなく卑弥呼共立の2世紀におけるヤマトの立ち居地というのは
確かに畿内説に突きつけられた問題ではあるなwww

が、それは実は九州説でも玄界灘周辺地域以外を比定地にするなら同じ。
大陸半島との交易の主体がその地域から他に移ったなんて考えている学者はまずいないだろう。
いるとしたら邪馬台国に絡んでだろうがそれは倭人伝に出てくる「邪馬台国」の所在位置を訊かれて
外交の主体窓口が玄界灘から他の地域に移ったと答えそ、の根拠を倭人伝に求める
・・・と言う何のことはない「循環論法」だ。

単に畿内説だけに突きつけられた問題ではないことを言わせてもらうw
290日本@名無史さん:2011/11/27(日) 12:35:09.23
>>289は誤爆だスマン
291日本@名無史さん:2011/11/27(日) 13:33:19.69
新しく更新されましたw

・老眼 文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
・唐松 文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー(通称:サイキックバカ) 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性:× ●層関西人並み www度120%
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 昆虫並み 粘着力100%
292日本@名無史さん:2011/11/27(日) 13:54:33.16
>>283
みんなで作る評価だから書き換え自由です。

太国さんじゃないが、俺も誰かの脚を引っ張るとしたら
老眼さんのディベート力◎は過剰評価と思う。
逆に考古専門にしてる人に△をあげてもいいぐらい。
293日本@名無史さん:2011/11/27(日) 13:57:28.31
>>292
これは、追い込まれて逃げ場を失った畿内説が
泣きながら作ったデタラメだから、追随するな。
294太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/27(日) 14:23:14.57
19歳老爺
その表を作ったのはオマエだろう?
ジョーカーにアマいではないか。所詮オマエが表を作ったと認められる。
295日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:00:01.29
更に新しくなりました!

・老眼 文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
・唐松 文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー(通称:サイキックバカ) 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性:× ●層関西人並み www度120%
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 昆虫並み 粘着力100%
・長たら 文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性× 年齢査証+50歳
296日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:15:07.33
>>295
遺作の「ディベート力○」は無い。マイナスでも良いくらいだ。
根拠になりもしないものをいくら並べても意味が無いことを理解していない。

他の縄文人や王朝のそれを計るならそもそも東遷説や王朝説という与太ネタじゃなくて
ある程度まともな論戦になるようなネタで計るしか無いだろうが

どうやっても「負け」が見えているネタでやっている以上プラスの評価になることはない。
297日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:19:21.06
>>295
土壺の文献知識と考古知識はその中での相対評価としては△ぐらいにしてもいいと思うが
あいつの場合知識が増えてもそれを活かす能が無いのが悲しいところ。
ある意味才能とさえ言えるw
298日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:27:24.62
隠れたレギュラー、「恨み節東遷厨」を評価しておこうかな?w

恨み節東遷厨 文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★

…こいつの特徴は全てが「畿内説・考古学会が憎い!」に特化されていると言うことw
(そもそも九州に特定の比定地をもうけていない)

尚、アンチ畿内説に特化していると言うのはサイキバも同じ傾向
(恐らくこいつも他の九州説と論争することは殆ど無いのではないか?)
299日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:32:59.79
更に新しくなりました!

・老眼 文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
・唐松 文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー(通称:サイキックバカ) 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性:× ●層関西人並み www度120%
・サイキバ 文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 昆虫並み 粘着力100%
・長たら 文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨 文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★
300日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:35:05.63
どれも、涙目の「九州説憎し」評価じゃないか。バカバカしい。
301日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:39:46.99
そもそも「ディベート」というならお互いサイドチェンジして…と言うこともある思うが
ゴミクズレベル九州説にそれができるのか?w

畿内説なら多分できる、と言うか以前にも「畿内説が考える九州説」のスレがあったが・・・

ここのゴミクズレベル九州説が駄目なところは
自説の不利なところを認めていない、認められない、認めたくないと言う真情的なものに固執しているところ。
302日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:42:17.59
ジョーカーの考古知識は○を与えてもいいと思う
名古屋のディベート力△は過剰評価
303日本@名無史さん:2011/11/27(日) 15:56:28.50
>>300
お前は九州説の誰の評価を上げてほしいのか言え
まあ、畿内説の老眼 文献知識◎はいきすぎかもしれん・・・
304日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:00:30.61
>>303
取り上げた項目自体がおかしいだろ。
305日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:00:54.85
尚俺やったら老眼の「関西弁能力★★★」は「河内のおっさん度★★★」やなw
その文体から受けるイメージとは裏腹に結構、気ぃ短いと思うわwww

文献・考古と両刀イケる口なのは間違いないだろうが
その分自身に課したハードルも結構高いw

「三角縁神獣鏡舶載」「箸墓=卑弥呼の墓」
行程記事の解釈も瀬戸内ルートで陸行一月を消化する為に結構(畿内より)手前から徒歩…というものだった(今は違うのかな?)

恐らく九州説が描く畿内説論者像に最も近いと思うw

そう言う意味では「畿内説クラシック度★★★」とか?wwwwww


306日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:05:57.85
陸行一月をちゃんと解釈しようとすれば
大阪湾まで水行合計30日でそっから一ヶ月で東海
などという説があって不思議じゃないんだが
307日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:10:24.89
犬国の人間性○ってのも、?だな。
二倍暦を否定されると、態度が豹変するよ。
308日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:12:07.46
古神道の秘儀で卑弥呼サマの顔が拝めるとか言っている奴に人間性も何も…
309日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:19:09.79
┏━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━
┃      ┃文献知識┃考古知識┃ディベート力┃人間性┃特記事項
┣━━━╋━━━━╋━━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━━━━━
┃ローガン┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃関西弁能力  ★★★
┃太国  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃オカルト度     ★★★
┃唐松山┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃ホツマ力     ★★★
┃伊作  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃所得金額    ★★★
┃奴民  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃ホークス度、  ★★★
┃土壺  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃KY 度       ★★★
┃縄文  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃スルー力  .  ★★★
┃王朝  ┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃人生の経験値★★★
┃ジョ-カ-.┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃●層関西人並み www度120%
┃サイキハ゛┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃昆虫並み 粘着力100%
┃長タラ .┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃長たらし度 .  ★★★
┃名古屋┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃年齢査証+50歳
┃東遷厨┃   ○   ┃   ○   ┃    ○    ┃  ×  ┃怨念度      ★★★
┗━━━┻━━━━┻━━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━━━━━
310日本@名無史さん:2011/11/27(日) 16:20:39.75
>>309
結局「人間性」は全員アカンちゅうことやねwwww
311唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/27(日) 16:57:56.45
>犬国の人間性○ってのも、?だな。

彼の主張はだ。
>861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
>929己丑  375乙亥  神功崩御

352年神功渡海
369年七支刀
375年神功崩御 たぶんこんな年代観であるが、歴史を語らない。
369年七支刀で半島占拠は無い。であるならば、
343年には前燕から百済と記録された国が存在する。352年神功渡海も否定される。
残された歴史は”倭は百済の属国”しか選択肢が無い。
この思考を太国は支持し、他説を否定する、しかし太国の口から「”倭は百済の属国”」の言葉は発せられないが
これを発表してしまえば、反発されるだけであろうから、この事実を隠して
太国倍年を強要するだけである。
だろ太国よ?

312太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/27(日) 17:23:45.11
コチラの主張してないことを書きこむな。><
隠しただと〜?pp 相変わらずのひどい妄想だな。ww
早く精神病院へ駆けつけろ。↓これでどこに19×3年の空年があるのか?
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
313日本@名無史さん:2011/11/27(日) 20:48:13.29
更に新しくなりました!

・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー【畿内連合説】 文献知識× 考古知識○ ディベート力△ 人間性:× ●層関西人並み www度120%
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 昆虫並み 粘着力100%
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★
※各評価項目の説明
・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
・ディベート力・・議論の組立て方、主導権の把握力など
・人間性・・・・・・議論においての冷静さ、客観性など
314唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/27(日) 22:21:18.88
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
百済の歴史を百済本紀で見ると、4世紀に未知の遺構が存在する。
369年=七支刀=神功52年では、半島占拠・領土分与は否定されている。
つまりこの年代を支持する限り、「倭は百済の属国」となりやすい。
神功渡海が太国倍年:861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
では、完全に「倭は百済の属国」としかならない。
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
850庚午  342壬寅  成務崩御

こうなると、成務時代に百済から仏教を入れ、神功渡海は、百済に朝貢。
倭は百済の属国となる。


315aratame(寝る前):2011/11/27(日) 22:37:27.65
↑お〜進んでるね〜☆
てか邪馬台国論争する上で、第三者からみた評価ってこんなかんじなん?

実際にやってる連中が一番よく知ってるもんで
俺的に議論で言い負かそうとするとすれば、
ジョ、縄、遺、王あたりはチトやっかいというか大変と思う(手強いかな)。

ロー、馬シカの評価が高いのはいいとして、
名古屋に関しては、考古学生徒か何か知らんが・・・丸っきり始めたばかりという感じするし
そこに書いてある彼以外の連中は、彼の何十倍も本を読んできてる人らばかりで、評価を付けて貰うに値するか疑問w
316太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/27(日) 22:38:37.55
>こうなると、成務時代に百済から仏教を入れ

これは非公式仏伝だ。何回も言わせるな。
しかも成務当時は畿内からすれば九州は外国だ。ただ景行九州行幸(垂仁
九州行幸は無い)にて九州への土地勘が朝廷にできたことからの九州への
拠点造りが成務時に行われたのだ。
だから成務の何年かを九州の一部で把握使用したのは当然である。
317唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/27(日) 22:56:38.49
>これは非公式仏伝だ。何回も言わせるな。

だから、百済人が持ち込んでもいいんだろ?
そして、神功もわけのわからない太国倍年を使用していた。
この状態で半島を占拠できるわけがない。
任那なしで畿内の鉄を説明しようとしたら、どうやってあれほどの鉄を輸入できたか?
こうなれば、百済人が倭を重臣させるため、とも説明できる。
278年には東夷9国そろいぶみ。
垂仁はまだ田道間守の派遣前。←畿内に記録のないのは九州王朝が太国のしゅちょうであるから、
ここは、九州王朝に譲りましょ。
そして、布留式が九州に←景行として、九州王朝は併合させられる。
これは、百済と景行がタッグを組んだとしよう。
で、成務時代に仏教が九州に入る。←百済が持ち込む。
342年には、百済は記録されるほどの勢力である。
352年神功渡海、百済への臣従。

太国の示す数字ではこの程度の歴史としか説明できない。
だから、太国自身が歴史を語る必要がある。
318太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/27(日) 23:02:37.18
宿主の示す空年では57年もの程度の年代では説明できない
だから、宿主自身が空年を語る必要がある。
 ↓ これでどこに19×3年の空年があるのか? ニヤニヤ・・・・・
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
319aratame(寝る前):2011/11/27(日) 23:07:39.02
大体、「三十国」の内、對馬國=対馬、一大國=壱岐で
末盧國は、菜畑や桜馬場遺跡のある唐津付近で、伊都國は、三雲、平原遺跡のある糸島周辺で、
奴國は、板付、金隈、スグ岡本遺跡のある博多周辺だろう。
(佐賀ルートていうのはありゃー無いねw)
不彌國に関しては立岩遺跡のある現在の飯塚市周辺だろうね。

三十国をこれらの遺跡の間隔で埋めていくとすれば九州内では少し収まりきれないのではなかろうか?
高島氏なんかが言ってるように無理に押し込もうとすれば入ることは入るんだろうが、
自然的に考えるとすれば二十国あたりが良いところだとおもう。
320太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/27(日) 23:16:47.86
平成3年、佐賀県大和町の東山田一本遺跡から

 南インドの象形文字

が発見された。調査に来たインドの考古学者 ポンナムバラム・ラグパティ
博士が発見。

甕棺の側面び熊手状の文字が描かれてあった。これは紀元前3世紀ころまで
南インドの土器にあったのと同じ文字だというのだ。

佐賀県は清賀上人のあの寺あたりだからな。

景行として、九州王朝は併合させられない。併合の記述はどこにも無い。
ことごとくオマエの 「医科詐魔」 の創作。
321aratame(寝る前):2011/11/27(日) 23:21:11.57
【計其道里 當在會稽東冶之東】

邪馬台国までの)その道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。

当時の中国側からみた日本列島だが、縦長というか、現在で言う東と西に長く伸びてるのではなく
北と南に縦長のように日本列島は伸びていたという知識感があったんだろうとおもう。
そこで「混一疆理歴代国都之図」だが、こういう感じの日本列島を当時の中国人は
思い描いてたんだろうと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3

あと風俗・ 習慣記事の方に

倭の人々の身だしなみや服装は乱れておらず、男子は皆、かぶり物をせずに、髪を分けて、木製の紐で長くなった髪を縛っている。
その衣服は横に広く、ただ双方を束ねて結んでるだけで、縫ってはいない。

婦人は髮を結ばず、分けて自然のまま垂らしたり、曲げて窪ませたりしている。
衣服は単衣のようで、その中央に穴をあけて、頭からかぶり着用している。

とあるんですが、ここらへんをみると邪馬台国外国説というのは無いですよねw
322唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/27(日) 23:22:43.87
>これでどこに19年×3(章)の空年があるのか? ニヤニヤ・・・・・

だから、その文献は「倭は百済の属国」を証明するために太国が用意したんだろ?
七支刀=369年では半島占拠。領土分与は無い。←これは日韓の双方が認めている。
369−51=318年 ←西晋滅亡直後、ここでの渡海なら、まだ百済は小勢力の存在である。
書記に書かれていない文献を強要してもダメだ。
352年神功渡海であれば、百済に臣従するしかあるまい。
323aratame(寝る前):2011/11/27(日) 23:24:58.78
男子は皆、かぶり物をせずに、髪を分けて、木製の紐で長くなった髪を縛っている。

に関してですが、これはハチマキていう人も居ると思う。
みなさんてきにはどうなん?俺は〜どうでしょうね。
ハチマキと決めてかからずに「木製の紐で」ていう事どまりでいいと思う。

たまには魏志倭人伝の邪馬台国位置論のみではなく、
「風俗・ 習慣」記事について議論するのもいいかもしれません。
324aratame(寝る前):2011/11/27(日) 23:35:11.04
【木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳 朱崖同】

木製でできた弓を中央より下を持ち、竹矢の先は鉄や、動物の骨でできた矢鏃を使用している。

などもみても分かる通り、木弓は和弓(わきゅう)と呼ばれてるように
鳥取 県の青谷上寺地遺跡から出土した絵にもあるが、
それ以外にも各地で、中央より下を持つ習慣は昔から有ったようですね。
当然、邪馬台国外国説は無いw
325aratame(寝る前):2011/11/27(日) 23:50:28.85
【其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢污不食肉不近婦人如喪人名之為持衰】

その行き来する、海を渡り中国に詣でる際は、常に一人の使人を同乗させ航海する。
その使人というのは髪を手入れせず、しらみ、虱の子も取り除ず、衣服も垢で汚れ、肉を食せず、亡命者のようで、名を持衰という。


【若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹】

航海に成功すると、その褒美として生口や金銭や物を与えるが、
病気になったり、海が荒れ災害にみまわれる場合は、慎まないからという理由で、その場で持衰を殺す。

この「持衰」に関してですが、日本書紀の巻九の神功皇后外征にも同じような事柄があったと思うが
邪馬台国外国説をとる人は、風俗・ 習慣記事をみてないんでしょうかね。

倭人伝の風俗記事〜いかがでしょうか。
326日本@名無史さん:2011/11/28(月) 00:11:59.83
>>313
バカ2名はかんな感じでどーぞ。

・ジョーカー【畿内連合説】 文献知識× 考古知識△ ディベート力△ 人間性:× www度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★
327aratame(寝る前):2011/11/28(月) 00:22:30.55
上の方で鉄器、鉄器言ってるが〜漢鏡と画文帯&三角縁神獣鏡の出土分布図をみてほしい。

漢鏡に関しては、二世紀前半までは九州が圧倒してるが、それ以降〜
二世紀後半からの出土分布図をみると畿内が圧倒してることがわかる。

画文帯&三角縁神獣鏡のP分布図に関しては今、私が説明するまでもなく、
みなさんもご存じだろう・・・・
328日本@名無史さん:2011/11/28(月) 00:39:35.88
どこかにソースありますか?
確認したいので。
329日本@名無史さん:2011/11/28(月) 00:42:28.09
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku290.htm

ここにもある程度はあるけど、
安本先生のところだからなあ。

できれば中立な所で。
330aratame(寝る前):2011/11/28(月) 00:43:40.22
>>328
図書館または、お金を出して本を買って確認して下さい

ねるWWWWWWWW
331日本@名無史さん:2011/11/28(月) 01:27:37.82

民主は反日で論外
自民は谷垣のようなエセ保守が居る限り衰退
332日本@名無史さん:2011/11/28(月) 08:42:53.01
サイキバは存在するのか?
サイキバは>>326の創り出した幻じゃないのか。
サイキバは>>326が気に入らない意見を述べた相手に浴びせる罵倒用語に過ぎない
サイキバとは>>326自身のことだな。
333太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 10:40:20.08
だから、その吸収は「九州は朝廷の属国」を証明するために宿主が用意したんだろ?

しかもオマエの創作でな。ww プハハハh・・・

つまりオマエが秀魔電の誇大インチキ・カリスマ化とおのれが松本某の上に
アグラをかきたいために恣意的欲望操作によりデッチ上げたオマエのおつむが
のぼせてることからの不正な企てであって、そんなものにはコチラろスレ民は
騙されない。ww 記紀の転覆を企ててるオマエのこの秀魔電からの創作を
しっかりとコチラは防備する。

景行時に畿内が九州王朝を吸収しななどとは完全なるイカサマである。

九州年号の多出は記紀成立直前に滅亡した九州王朝の存在を確実に示して
いる。景行は吸収などしておらず、さらに景行は崇神のお助け年代であ〜る。
334日本@名無史さん:2011/11/28(月) 11:37:06.00
>>313
・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー【アンチ九州】 文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× www度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★

※各評価項目の説明
・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
・ディベート力・・議論の組立て方、主導権の把握力など
・人間性・・・・・・議論においての冷静さ、客観性など
335日本@名無史さん:2011/11/28(月) 12:43:45.10
>>332

サイキバ君は、現実に存在するでしょw

ただ、特定個人を指し示す場合だけではなく、
「悪の秘密結社畿内派」とかの見えない敵と闘ってるつもりヒトのことを
一般的にそう呼ぶことがあるね。
でも、それは、キミが思っているような理由からじゃないよ。
説明しても、多分キミには理解できないと思うので、詳しくは言わないけど、
まあ、バカにしてることだけは間違いないが。
336日本@名無史さん:2011/11/28(月) 12:59:33.22
>>334 追加
河童【九州説トンデモ】文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○ 株知識★★★
337サガミファン、サガミ待ち:2011/11/28(月) 13:02:30.94
57年奴国が朝貢してますし、その100年後に奴国の3.5倍の人口の
巨大国家が突然九州に現れるとは思えません。
奴国が大陸との交易権を握り繁栄し、後漢の混乱でその力が衰え始めたので
戦になったと考えるべきです。
338日本@名無史さん:2011/11/28(月) 13:15:38.65
>>338
奴国が中国に朝貢した記録など一切ないが?
339日本@名無史さん:2011/11/28(月) 13:24:45.00
>>337
100年後は「突然」とは言わんよなw
340日本@名無史さん:2011/11/28(月) 13:31:48.21
>>337
代表国が最大規模とは限らないでしょ。
国連の議長国が、人口数で選ばれることは無い。
341日本@名無史さん:2011/11/28(月) 14:11:05.40
人口がどうだとか鉄がどうだとか言ったところで意味ないよ。
どうとでも考えられる話だ。
要は、倭人伝の行程どおりに進んだらどこになるのか。それが1番の話だな。
342日本@名無史さん:2011/11/28(月) 14:36:03.57
> 要は、倭人伝の行程どおりに進んだらどこになるのか。それが1番の話だな。

そのとおり。
343日本@名無史さん:2011/11/28(月) 15:03:01.96
魏志倭人伝を書いてあるとおりに読まなければ話にならないが
あの本にはやはり分かりにくいところがある。とくに「南到投馬国……」。
この個所で文の流れが変っているので、ここをどう読むかが一番問題だと思う。
344日本@名無史さん:2011/11/28(月) 16:46:49.37
>倭人伝の行程どおりに進んだらどこになるのか

東シナ海にドボンですが?
345日本@名無史さん:2011/11/28(月) 16:51:54.12
>>343
>「南到投馬国……」。この個所で文の流れが変っているので、ここをどう読むかが一番問題だと思う。
里数がはっきりしなかったから、日数で表示しただけだろ。
北九州から水行20日で投馬国に到達したんだよ。

346日本@名無史さん:2011/11/28(月) 17:05:27.25
サツマか
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 17:56:00.54
>>299 >更に新しくなりました!
>・犬国 文献知識△ 考古知識× ディベート力× 人間性○  オカルト度★★★
どんこい >>230 太国の発言
>この前から毎回言ってるが、半島文献は120年等の年代差で真の年代を
特定するのは今の文献の量では到底不可能に近い。...
>つまり百済とかは眼中に無いぜ。運よくなにかあれば別だがな。

太国は考古学の数字を理由なく否定する=考古知識×
そして、文献も使用しない≠文献知識△
それから、太国倍年の使用を強要する。≠人間性△
年代は金木算木で割り出す=オカルト度★★★←少なくないか?
348日本@名無史さん:2011/11/28(月) 18:02:41.13
>オカルト度★★★←少なくないか?

ごもっとも…
349唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 18:15:41.72
>>337 :サガミファン、
>後漢の混乱でその力が衰え始めたので戦になったと考えるべきです。

後漢はなぜ混乱したか?↑の言い方では、奴國(倭奴國)と後漢が表裏一体とも取れる。
そうである(後漢と表裏一体)ならば、そこから話を始める必要がある。

後漢の混乱が 183年厳寒により、麦の不作≒黄巾党
193年6月寒風冬のごとし。194年蝗害←大乱の最中

弥生後期後半 青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす、唐古・鍵遺跡の放棄など。
この弥生後期後半は後漢193年である。
新羅192年4月大雪、193年倭人大餓。

崇神5,6年はこの時である。その証明が崇神11年異俗多帰=考古:2世紀末纒向に各地の土器が持ち込まれる。
350太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 18:40:02.21
宿主は成務年間60年分の数字を理由なく否定する=暦年知識×××
そして、マヤ2倍暦文献も使用しない=文献知識×××
それから、宿主空年の使用を強要する。=人間性×××
年代は五重在位インチキ空年で割り出す=妄想度★★★・・・★★→∞
351太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 19:25:24.75
この弥生後期後半は後漢193年である。
新羅192年4月大雪、193年倭人大餓。

崇神5,6年はこの時でない。その妄想が崇神11年異俗多帰=考古:2世紀末纒向に各地の土器が持ち込まれるとか。
352唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 19:34:47.16
>成務年間60年分の数字を理由なく否定する
書記の編年に必要のない記事であるから使用を否定する。
書記の記事が正しいと出来るためには、書記の主張である”正朔”を支持せねばならない。
”正朔”を支持しつつ、成務治世60年が19年となる読み方は存在しない。だから拒否する。

太国のオカルト度はアガッタ。

353唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 19:37:16.05
>マヤ2倍暦文献も使用しない=文献知識×××
太国倍年のどこにマヤ2倍暦を使用しているのか聞きたいね。

太国のオカルト度は、またアガッタ。
354日本@名無史さん:2011/11/28(月) 19:37:50.55
>>313>>334>>336
評価を下げすぎ・・・・ここからスタートしませんか?

・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識◎ ディベート力△ 人間性△  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識◎ 考古知識△ ディベート力△ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識○ 考古知識△ ディベート力△ 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力◎ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識◎ 考古知識△ ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー【アンチ九州】 文献知識× 考古知識○ ディベート力△ 人間性× www度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★
・河童【九州説トンデモ】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 株知識★★★
355唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 19:44:41.22
>宿主空年の使用を強要する。=人間性×××
???意味不明??
垂仁天皇 217年〜239年 4章 纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁。ホケノ山古墳は垂仁末。

これは、私の主張であるが、垂仁治世99年から空白年4章(19年*4=76年)を差し引いても”正朔”に変化はない。

太国の人間度は、サガッタ
356日本@名無史さん:2011/11/28(月) 19:53:26.66
偽書埋没度や粘着度は、唐松山がトップだと思う。
357唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 20:27:08.97
>>365
>偽書埋没度←君の洗脳度は?
七支刀=369年が刷り込まれていたら、かなり重症。
358日本@名無史さん:2011/11/28(月) 20:31:22.16
>>334 承認おねがいします

・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性△  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識◎ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識○ 考古知識△ ディベート力△ 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識◎ 考古知識△ ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー【アンチ九州】 文献知識× 考古知識○ ディベート力○ 人間性× www度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★
・河童【九州説トンデモ】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 株知識★★★

※各評価項目の説明
・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
・ディベート力・・議論の組立て方、主導権の把握力など
・人間性・・・・・・議論においての冷静さ、客観性など
359日本@名無史さん:2011/11/28(月) 21:00:47.77
>>358
縄文の考古知識◎とディベート力◎はない。

考古知識◎は老眼と同等で恨み節に勝る評価ありあえない。

ディベート力◎も無敵鉄器軍団や盆地湖ネタの詰の甘さを見ればそんな評価にはならない。
360日本@名無史さん:2011/11/28(月) 21:04:12.22
>>358
遺作の考古知識△もない。

楯築は前方後円墳、纏向の土器は全て外で作られ持ち込まれたもの纏向に生産能力は無いetc…マイナスでいい。

361唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 21:07:15.34
>>351
>崇神5,6年はこの時でない。

では、崇神5年 疫病(えやみ=凶作)餓死、食人
崇神6年 逃散
はどこに存在するか?
文献は?
考古学は?
3点が合致して歴史となる。
362日本@名無史さん:2011/11/28(月) 21:32:25.89
誰もサガミの評価を出さないな。
後は、どくだみ、筑紫次郎・・・もか?
363日本@名無史さん:2011/11/28(月) 21:35:53.96
>※各評価項目の説明
>・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見

…と記紀に対する知見も求めるなら
「日本書紀なんか信用していないから読んでいない」と平気で嘯く伊作が文献知識◎と言うのもありえんな 
364唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 21:38:05.04
太国倍年での世継ぎ出産時の年齢

211辛卯  崇神誕生  35才  崇神は35才で垂仁を生む
246丙寅  垂仁誕生  19才  垂仁は19才で景行を生む
265乙酉  景行誕生  33才  景行は33才で日本武尊を生む
298戊午  日本武尊誕生 16才 日本武尊は16才で仲哀を生む
314甲戊  日本武尊没 (仲哀誕生とする)
352壬子  仲哀崩御 應神誕生 38才 仲哀は38才で応神を生む
371辛未  仁徳誕生 19才 応神は19才で仁徳を生む

崇神の出産時年齢が高いのは、開化時代が長すぎるから
景行の出産時年齢が高いのは、垂仁時代が長すぎるから
仲哀の出産時年齢が高いのは、成務時代が長すぎるから

だから、寺社伝承は使わない。
365日本@名無史さん:2011/11/28(月) 21:41:26.80
>>334 承認おねがいします

・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識◎ ディベート力○ 人間性△  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識○ 考古知識△ ディベート力△ 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識◎ 考古知識△ ディベート力× 人間性◎  人生の経験値★★★
・ジョーカー【アンチ九州】 文献知識× 考古知識○ ディベート力○ 人間性× www度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★
・河童【九州説トンデモ】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 株知識★★★

※各評価項目の説明
・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
・ディベート力・・議論の組立て方、主導権の把握力など
・人間性・・・・・・議論においての冷静さ、客観性など
366メ(ねる):2011/11/28(月) 21:44:40.45
ある?ない?WWW

・土壺 【何となく畿内】文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性◎  高感度★★★
367メ(ねる):2011/11/28(月) 21:53:23.82
>>338
>奴国が中国に朝貢した記録など一切ないが?

たぶん、そんなこと言ってるのゎ君だけWWW

それと昨晩の風俗・ 習慣記事について誰もコメントが無いんですが
一人か二人ぐらいは風俗記事に着いて書き込んでてほしかったですな。
368メ(ねる):2011/11/28(月) 22:00:22.75
各論者の評価ですが、コレ結構流行ってるよねW
私もみてると上ったり、下がったりして面白いというかWW

一体、誰が始めたのでしょうねぇ(私じゃないよWWW)

369唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 22:05:28.88
伊作さんは、高島教授の
”3世紀の建物”は”5世紀”を支持していたが。
370日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:13:20.80
>>367

いいや、全漢籍のどこにも記載がない。誰が言おうと無いものは無い。
371唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 22:14:44.43
・土壺 【何となく畿内】文献知識◎ 考古知識◎ ディベート力◎ 人間性◎  高感度★★★

トラックの馬力をレーシングカーのエンジンで得るというか
逆なのか 部品としてみれば素晴らしいのだが、組方が悪いというか
まあなんですな、クラッシクカーは乗るより見ているだけのほうがいいというか...
372メ(ねる):2011/11/28(月) 22:14:48.24
>>369
ああ、高島氏は「巻向の大型建物は四世紀に入って立てられたもの」と
言ってますよね。
5世紀というのは何かの間違いではと思う。
373メ(ねる):2011/11/28(月) 22:17:56.38
>>370
それは君が勉強不足なだけW
君以外は皆知ってると思うぞWWW
374唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 22:19:30.46
>>372 かもね

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

倭奴國=奴國なら文献はあるだろう。
375日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:19:34.78
>>373

無いから出せないんだろ。
376メ(ねる):2011/11/28(月) 22:22:35.51
>>375
ほら、ほら、唐さんがだしてくれたじゃん(即効)
おれの言った通りだべ?WWW
377日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:23:54.99
倭奴國の解釈次第だな
378太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:27:30.02
>太国倍年での世継ぎ出産時の年齢←野郎の天皇が子を生むとさpupupu・・・


211辛卯  崇神誕生  35才  崇神は35才で垂仁を生まない
246丙寅  垂仁誕生  19才  垂仁は19才で景行を生まない
265乙酉  景行誕生  33才  景行は33才で日本武尊を生まない
298戊午  日本武尊誕生 16才 日本武尊は16才で仲哀を生まない
314甲戊  日本武尊没 (仲哀誕生としない)
352壬子  仲哀崩御 應神誕生 38才 仲哀は38才で応神を生まない
371辛未  仁徳誕生 19才 応神は19才で仁徳を生まない

崇神の出産時年齢が高いのは、開化時代が長すぎるから←×
景行の出産時年齢が高いのは、垂仁時代が長すぎるから←×
仲哀の出産時年齢が高いのは、成務時代が長すぎるから←×

なぜか?同時期の天皇は女ではないから、子を生ますことが出来ない。

つまりこれを生むと言ってる野郎は、精神病院に行かねばならない。ww

出産でないので寺社伝承は使う。
379日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:31:37.20
>>376
奴国なんかどこにも見当たらないな。
380日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:32:45.51
>>365
・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力○ 人間性×  関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性△  オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○  ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性×  所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×  ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性×  KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性×  スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力× 人間性○  人生の経験値★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 年齢査証+50歳
・恨み節東遷厨【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性×  怨念度★★★

※各評価項目の説明
・文献知識・・・・漢籍、記紀等への知見
・考古知識・・・・考古手法への理解度、最新データの知見
・ディベート力・・議論の組立て方、主導権の把握力など
・人間性・・・・・・議論においての冷静さ、客観性など

【スルー推奨☆】
・ジョーカー【アンチ九州】 文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性● www度★★★ ※自演注意!
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性:× 粘着力★★★

●誘導先:http://toki.2ch.net/tubo/
381太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:34:35.91
>>成務年間60年分の数字を理由なく否定する
書記の編年に必要のある記事であるから使用を肯定する。
なぜか? 神社の神官方の残した伝承は秀魔電のどこの馬の骨か分からん
野郎の記事と同視出来ない。ww
書記の記事が正しいと出来るためには、書記の主張である”正朔”を支持しても無駄である。
何故か? 途中日数の断絶が永い間にうんとある。だからその方法はト○マの業。bububu・・・

”正朔”と関係しても、成務治世60年が19年となる読み方は存在しない。だから空年は大嘘。

コチラのオカルト度はサガッタ。オマエのデ○○度はスカイ・ツリーの上。
382唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 22:36:26.04
訂正 下記の如く訂正させていただきます。
太国倍年での世継ぎ製産時の年齢

211辛卯  崇神誕生  35才  崇神は35才で垂仁を生産補助
246丙寅  垂仁誕生  19才  垂仁は19才で景行を生産補助
265乙酉  景行誕生  33才  景行は33才で日本武尊を生産補助
298戊午  日本武尊誕生 16才 日本武尊は16才で仲哀を生産補助
314甲戊  日本武尊没 (仲哀誕生とする)
352壬子  仲哀崩御 應神誕生 38才 仲哀は38才で応神を生産補助
371辛未  仁徳誕生 19才 応神は19才で仁徳を生産補助

崇神が垂仁誕生時に年齢が高いのは、開化時代が長すぎるから
景行が日本武尊誕生時に年齢が高いのは、垂仁時代が長すぎるから
仲哀が応神誕生時に年齢が高いのは、成務時代が長すぎるから

だから、寺社伝承は使わない。
383太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:38:45.58
成務治世60年が19年 ↓ となる読み方は存在しない。だから空年は大嘘。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
384メ(ねる):2011/11/28(月) 22:45:02.93
>>377 >倭奴國の解釈次第だな
>>379 >奴国なんかどこにも見当たらないな。

いろんな本を読んで御覧。
倭奴國は「倭の奴國」と読むべきで、倭人伝の奴国と別に考えてるのは君らだけと思う。
385太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:47:42.91
>>383には

 国造、祭祀、建造の由緒伝承縁起等が多数在る。

例えば須佐家の国造に下命された伝承等々、国造の伝承等が多く残って
いる。このことは極めて信憑性が高い。
かたや秀魔電は自信が無かったんだろう。まともな文で書き置けばよい
ものを、五七の歌式でお茶を濁している。さらにアマテラスが女性なるもの
を、男だと大きなデタラメ妄想を書き残している。これは秀魔電が記紀の
原書でないことを物語る。原書ならば記紀は日神を男と書くに違いない。

つまり秀魔電はインチキの溜り場であ〜る。ww
386唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/28(月) 22:48:18.46
太国倍年で書記・文献・考古学を合致させる事は出来ない。
太国倍年で歴史を語れば本人から叱責される。だから使いようが無い。

崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。唐古・鍵、近江伊勢遺跡などの衰退、変化。7年 大物主の国譲りとタタネコ=庄内式の始まり。
209年 新羅本紀 加羅に援軍、三国遺事。=任那建国。 ホツマ58年
垂仁天皇 217年〜239年 4章 纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁。ホケノ山古墳は垂仁末。
女王卑弥呼は倭奴國王位継承、邪馬臺國(大和)倭王位授与。(晋書正始元年東倭重譚納具。)
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙・牛馬の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州)の北部に(自ら)一大率を使い監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含む。
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、冊封体制下、半島で1大卒の行為。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

文献・考古学を合致させた太国の反論は無い。
387太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:50:14.61
>生産補助

pupupu・・・

天皇は産業助成物か〜?wwwww

精神病院特等席 お待ちかね!
388太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:52:28.91
大中臣の下命

古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これこそ本物だ.

崇神即位年≠188年




389太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 22:55:01.01
宿主空年のどこに空年を使用しているのか聞きたいね。

宿主のカルト度は、またまたアガッタ。
390メ(ねる):2011/11/28(月) 22:58:50.82
みんな〜評価付けられてるので頑張れよ〜〜〜WWW

>>380
老眼 ディベート力○ は少し疑問。
鷲崎サイトで泣かされて帰ってるのをみた人は多いWWW
あれをみるかぎり、議論・論争に長けてるとは思えんW
逆に、ドンコイで議論の中心(主導権)になって話してるジョーカーの評価を上げるべきと思う。
391日本@名無史さん:2011/11/28(月) 23:01:48.87
ジョーカーはプロだから当然
392太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 23:10:01.32
伊支馬=イクメ=垂仁←猿の惑星 創世記さながらのデタラメww

臣下 伊支馬(猿相当)は天皇(人間相当)には絶対なれない。
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/28(月) 23:17:49.57
・唐松【クルクル変更説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性×  ホツマ力ルト★★★
394日本@名無史さん:2011/11/29(火) 00:51:46.55
・相模 【肥前小城説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性×  自費出版度★★★
・毒濁 【畿内自生説】文献知識◎ 考古知識× ディベート力△ 人間性×  じじ臭さ度★★★
・筑紫 【筑後山門説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力○ 人間性△  生真面目度★★★
395日本@名無史さん:2011/11/29(火) 02:54:48.98
396有帯(アルベルト)・雑毛浪人 :2011/11/29(火) 10:35:13.01
固定ハンドル参加者の評価だと。
他人のことをとやかく言いたがる井戸端野次馬らしい現象だぜ。

「文献知識、考古知識、ディベート力、人間性……」。
評価基準はこれだけか。軽い奴ららしく表層的でいいや。

@こういう場で何よりも大切なのは、誠実度・正直度だ。
(小細工・まやかし・論拠ねつ造に頼る奴は、これらが必ず怪しくなる)。
A次に、論理性、思考深度、検証視野、検証能力、判断力、説明能力、著述能力、説得力。
これを一つにまとめて「総合力」としてもいいぞ。
(おかしな論を吹く奴は、必ず言い訳がましいご都合詭弁や口実論を使う)。
B念のために分類しておくべきなのが、論旨の方向性(とんでも度・オタク度)。
(これらは評価の対象外。引き合いに出すまでもない)。

観察してると、こういう作業に率先して口出しするのは、
「公正・公平・不偏・中庸」さを発揚できない輩ばかり。
とくに、白黒不確実な考古資料あるいは「情報操作された考古所見」に、
懐疑論・否定論をいう者を「考古知識の有無」で処断するのは、
情報操作された考古所見に依拠する輩のやることで、こういう作業に口出しする資格はない。

表記した項目立てでやり直してみ。
397日本@名無史さん:2011/11/29(火) 11:04:13.43
知識の有無、ディベート力、人間性を別の言葉に言い換えてるだけで、
何か特別のことを言ったつもりになっちまう奴がいる 。
表層的で薄いと言うのは、正しくこういう奴のことだ。
398サガミファン、サガミ待ち:2011/11/29(火) 11:12:36.00
当然当時は小氷河期にあたり、稲作の不作で食糧難だったでしょうし
それが大乱の一因な面もあるでしょうね。
399有帯(アルベルト)・雑毛浪人 :2011/11/29(火) 12:29:55.63
>>397
腰抜けのてめえは名無しで評価の蚊帳の外か。
評価したがってるのは名無しのふぬけ野郎ばかりじゃないか。笑うぜ
だいいち・てめ。他人を評価するほどのタマか。

俺が評価してやるからハンドルつくってやってみろ。カス
400deshabari :2011/11/29(火) 12:31:22.25
皆さんお久しぶりです。弁当を食べながらここを覗いてみたところです。また直ぐに出かけます。

>>398:サガミファン、サガミ待ち
>当然当時は小氷河期にあたり

小氷河期などと言ってはいかん。だいたいその意味も知らないだろう。3世紀前後の海岸線は現在より
内陸部にある。氷河期の反対の間氷期のまっただ中にあった。

異常気象による一時的な寒冷化は有り得る。大陸や半島では北方から南方への人々の避難が起ったらしい。
列島でもその影響を受けた可能性はある。しかし、列島における事態(異常気象や作物の不作や飢饉など)
について判断できる材料は文献にも遺跡考古学資料にも(今のところでは)見出されていない。
401日本@名無史さん:2011/11/29(火) 13:11:29.75
>>399

俺が名無しだろうが、何だろうが、お前の言質が、長たらしいだけの、トイレットペーパー並みであることに違いはないだろう。
402日本@名無史さん:2011/11/29(火) 14:57:48.09
卑弥呼が死んだのは皆既日食が原因らしいけど、
昔の日本大陸は2つに分かれていて
角度も違っていたらしいけど、
昔の日本大陸と皆既日食を誰か説明できる人はいませんか?
403日本@名無史さん:2011/11/29(火) 15:04:11.45
>>401
トイレットペーパーは生活必需品だぞ?
謝れ!きちんと人の為に役に立っているトイレットペーパーさんに謝れ!
404日本@名無史さん:2011/11/29(火) 15:22:44.84
なんで皆既日食でしぬんですか?
405日本@名無史さん:2011/11/29(火) 17:11:50.07
>>402
>昔の日本大陸は2つに分かれていて

それは何時の時代の話でやんすか?10億年前?
406有帯(アルベルト)・雑毛浪人 :2011/11/29(火) 17:18:51.82
>>401
さて、どうか。お前の総合力を試してやるから、
一行ヤジではなく、俺に議論をしかけてこい。
観客と俺がお前だと特定できるよう臨時のハンドルをつくってだ。

できないくせに大口炊くな。
長文を書くのも一つの能力だ。継続的思考力の証明でもある。
くやしかったらやってみせろ。

といって、やって見せたヤジ野郎はただの一人もいない。
407日本@名無史さん:2011/11/29(火) 17:37:12.37
>>396 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作

●誠実度・正直度 
●「総合力」=論理性、思考深度、検証視野、検証能力、判断力、説明能力、著述能力、説得力

お前に不足しているものだな。

●とんでも度・オタク度

この点は 森村伊作 がこの板のゴミクズレベル九州説の中でもトップクラスと言うのは認めざるをえない。

大和朝廷の祖たる偉大なる九州王朝邪馬台国が熊本にあってその系譜の末端に
熊襲の子孫を自称し国士気取りの自分がいると言う超オタク発想。
普通ここまで来るとオタク通り越してビョーキだなw

>懐疑論・否定論をいう者を「考古知識の有無」で処断するのは、
>情報操作された考古所見に依拠する輩のやることで、こういう作業に口出しする資格はない。

要するに知ったかぶりで大恥かいた過去を帳消しにして欲しいわけやね、正直にゆうたらどうや?w
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/29(火) 18:00:49.81
>>400
>列島でもその影響を受けた可能性はある。しかし、列島における事態(異常気象や作物の不作や飢饉など)
について判断できる材料は文献にも遺跡考古学資料にも(今のところでは)見出されていない。


http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

この年輪年代降水量を見ると、後漢183〜193年と同期して降水量が少ない。
新羅192年4月大雪、193年倭人大餓
後漢書 志15
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:
「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,
又殺無罪,其寒必暴殺。』」
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
193年 「刑罰慘也」は食人をあらわす
やよい後期後半 青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。
崇神5年疫病、疫病とは、“えやみ”であり凶作である
五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
12年 是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。

崇神5年 飢えに病み、餓死 (この裏に食人がある)
崇神6年 逃散
その時のことを12年に 寒暑矢序(當溫而寒)。百姓蒙災(凶作、餓死、食人、逃散)と説明している。

唐古・鍵遺跡が放棄されるのは、この時であり、人々が戻らなかった事実は、ここ(環濠内)
で食人が行われたことをあらわす。
モモソ姫の葬儀とは、この時命を落とした人々の追悼の儀でもある。
409日本@名無史さん:2011/11/29(火) 18:05:38.05
>>407
⤴ こいつの評価ポイントには、
「分裂度」「狂気度」を加える必要がある。
410ローガン:2011/11/29(火) 20:25:29.44
>>407
>見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作

そんな事無いと思う。別格氏は詳しいですよ。 勿論、支持する説が違うので賛同出来ない事は多いけど…
411唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/29(火) 20:44:02.23
>>402
>昔の日本大陸と皆既日食を誰か説明できる人はいませんか?

神功元年の”あづないの罪”は273年に北陸で見られた皆既日食であるが、
これは、神功の帰途ではなく、出発直後と思われる。
412ローガン:2011/11/29(火) 20:45:38.86
>>390:メ
>老眼 ディベート力○ は少し疑問。鷲崎サイトで泣かされて帰ってるのをみた人は多いWWW


あ〜懐かしいなあ。「狗奴国を伊勢にすると、東の海が説明出来ない」の連呼の人ね。
いくら説明しても理解してもらえないので泣きながら帰ってきましたよ。(笑)
413日本@名無史さん:2011/11/29(火) 21:33:43.10

邪馬台国はヤマトだけど、狗奴国は伊勢じゃないな。
414サガミファン、サガミ待ち:2011/11/29(火) 21:38:36.87
医学や薬学に比べて古代史、かつ邪馬台国とか研究分野としてレベル低すぎるw
まあ素人でも参入できてしまうくらいだしなw
415日本@名無史さん:2011/11/29(火) 21:39:21.31
>>413
ゴロ合わせ邪馬台国論は、明治時代までにしてくれ。
416サガミファン、サガミ待ち:2011/11/29(火) 22:13:26.31
東の海が説明できないってのも我々の地理認識で考え過ぎだから
正答を見誤る。3世紀の古代中国人は女王国の東に海があったと
思っていた、それだけの話。現にそういう地図があったはず。
417日本@名無史さん:2011/11/29(火) 22:23:38.63
それ以前に普通の地図もあったがな。
418露帯(ロベルト) 伐女:2011/11/29(火) 22:29:01.20
>>410
>そんな事無いと思う。別格氏は詳しいですよ。
畿内説者のファンがいる九州説者は俺ぐらいのものだろう。

>勿論、支持する説が違うので賛同出来ない事は多いけど…
それでいいのだ。

>>412
>あ〜懐かしいなあ。
「水行なら10日、陸行なら1月」と言い張ってたし。俺も途中で引き上げた。
419太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/29(火) 22:36:11.86
神功元年の”あづないの罪”は273年に北陸で見られた皆既日食でない。

日食は数日間継続しない。従ってこれが日食だと強行することは、強行
する人物が猿の惑星からのデンパをpipipi・・・と受信していると観て、
ご苦労〜その通りであるww 。猿の惑星ならば、そういう日食が数日間も
続くことがありうるだろう。www

日食が数日間も継続する地域はこの地球上に存在しない。せいぜい
7分間余りである。
420太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/29(火) 22:38:18.12
せいぜい皆既での真っ暗は7分間強のはずであろう。
421サガミファン、サガミ待ち:2011/11/29(火) 22:39:26.60
卑奴母離という対馬や奴国に置かれている官職は
おそらく夷守のことであり、大和朝廷の辺境守備隊のことであり、
奴国があった福岡県をはじめ、宮崎、岐阜、新潟などにその地名が
残っているので、邪馬台国の勢力範囲を九州限定だと
とらえるのは無理があります。
422日本@名無史さん:2011/11/29(火) 22:47:37.05
まあ、夷守=卑奴母離の実証からだな。
423deshabari :2011/11/29(火) 23:01:59.77
>>421 :サガミファン、サガミ待ち
>おそらく夷守のことであり、大和朝廷の辺境守備隊のことであり、

貴殿はまだ懲りずに書き込んでいるのか。
倭人伝に書かれた倭国の時代に大和朝廷が存在したのか?貴殿の言うところの大和朝廷は各地に辺境守備隊を置く
というのだから相当な中央集権国家体制をとっていたことになるが、3世紀半ばにそんな権力が大和に存在したか?
424日本@名無史さん:2011/11/29(火) 23:10:56.98
ヤマタイ国はアトランティスだって教授が言ってましたよ
国立大学の教授だからあなたがた素人とは違うでしょ
ぼくも国立大学の学生だからあなたがた無学歴の素人とは違うでしょ
正解はアトランティスに決まってますよ
文献なんか読むから迷うんですよ
だれかぼくにヨダレカケ買ってくださいよ
どうしてヨダレカケ買ってくれないんですか
425メ(ねる):2011/11/29(火) 23:24:23.33
今日はこっちで書き込んでた〜★ では、Good night zzz

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1320145694/
426日本@名無史さん:2011/11/29(火) 23:28:23.69
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派

VS

橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
 様子見:公明
427日本@名無史さん:2011/11/29(火) 23:37:57.64
>>421

>大和朝廷の辺境守備隊のことであり、

大和朝廷が出来たのは、早く見積もっても8世紀初頭。
記紀を編纂した連中は、三国志を読んだうえで、
自分たちに都合の良い内容を書いたのであって、
「卑奴母離→夷守」は、むしろパクリ記事であった可能性がある。
もちろん「邪馬台国→ヤマト」も同様。
428サガミファン、サガミ待ち:2011/11/30(水) 09:04:50.49
卑奴母離=夷守 の可能性が高いことを認めるのなら
邪馬台国と大和朝廷は無関係ではないということでよろしいか?
つまり九州説なら東遷を実証できなければ成立しないw
429唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 10:33:49.52
>神功元年の”あづないの罪”は273年に北陸で見られた皆既日食でない。

その通りであるとするには、その出来事を別の事象として説明できなければならないが
事象として説明できる読み方を選択していない以上、太国の主張は妄想である。

>卑奴母離=夷守 の可能性が高いことを認めるのなら

景行の九州遠征がこの時代にあたる。
430唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 10:38:32.83
景行紀の卑奴母離は、モロアガタの直前である。
このモロアガタとは、現在の玄海町諸津であり、ここを東方の山の上から見下ろし
弟卑奴母離を派遣する。
431唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 10:50:50.38
>3世紀半ばにそんな権力が大和に存在したか?

景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
女王卑弥呼は、倭奴國王位継承 卑奴母離は倭奴國の官。
景行(240〜261年)九州遠征。最初に筑紫の夏磯媛(カンカシヒメ)にあいさつ。

432日本@名無史さん:2011/11/30(水) 10:55:19.41
その証拠もなく記紀にあてはめるのもそろそろやめときなよww
433唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 11:05:43.65
>>432
日本書紀の記述を考古学と整合させる。これが正しい歴史の読み方である。

旧編年
崇神=卑弥呼(240年)は七支刀=369年から逆算された。(約130年)
新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀である。七支刀=326年。

旧編年は、“七支刀=369年”で百済本紀につながる。百済本紀を考古学に使うと“未知の4世紀遺構が
存在する。七支刀以後の書記の記事時空の“だぶつき”が大きすぎる。
新編年は、“七支刀=326年”は奈勿大聖神帝紀7年(癸未年),の3年後。文献的には弱いが、
新羅本紀192年=後漢193年=崇神5年と、その他の文献とも整合させることが出来る。

旧編年と新考古学の数字を合致させてから主張すれば?
まず纒向遺跡の説明から できるのか?

または、旧編年と旧考古学を文献で補足する。(崇神≒240年となる文献が必要である)
まだだれも補足する文献を主張していない。←100年以上無視されている。


434太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/30(水) 11:13:20.67
伊支馬=イクメ=垂仁←まさに猿の惑星さながらのデタラメ

大王の部下(官)伊支馬は官の上位 垂仁大王(天皇)には道鏡の如く絶対
なれない身分であ〜る。所詮猿は人間になれない。
等号はひどい妄想。ww
435旧帝大歴史学徒:2011/11/30(水) 11:16:39.44
いい加減にしてください。
伊支馬=垂仁 とか素人じみたごろ合わせなど時間の無駄です。

その前に貴方がたもいい加減邪馬台国などという不毛なものからは
手を引いてもっと有益なことしなさい。いい歳してその程度の分別もないんですか?
436唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 11:44:29.88
>>435 名前:旧帝大歴史学徒

歴史学落第は必至である。

>>434
崇神=景初3年銘。→後に繋がらない→△鏡の副葬=桜井茶臼山からである。
百済本紀を考古学に使うと“未知の4世紀遺構が存在する。七支刀以後の書記の記事時空の“だぶつき”が大きすぎる。
だから神功・応神を3倍年としてこの時空を短くするが、百済王家の説明が出来ない。
だから太国自身も、この時代を歴史として説明できない。”半島の事はわからない”と匙を投げる。
匙を投げた”歴史”を正しいと主張するのは無理がある。

437唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 11:48:16.63
>>435 学徒(イタズラに生きる)=生徒

学徒の本分は、学びに生きること。
他人の主張を自分の主張とする=生徒。
自分で何を考えた??

438旧帝大歴史学徒:2011/11/30(水) 11:58:00.72
あほらしいw気違いじみてる。
そのような作業は無駄だから専門家もノータッチなことを
理解できてない。典型的な素人オタだねww
439唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 12:02:10.05
>>438
自分のアホを他人になすりつける。
だから
>そのような作業は無駄だから専門家もノータッチなことを理解できてない。
このような発言としてあらわれる。

もう一度聞く、学徒の本分とはなんぞや?
440日本@名無史さん:2011/11/30(水) 12:53:35.57
・水銀厨【畿内連合説】文献知識× 考古知識○ ディベート力× 人間性○ 水銀汚染度★★★
・人豚 【畿内連合説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力△ 人間性△ 普通度★★★
・老教授【畿内連合説】文献知識△ 考古知識★★★ ディベート力○ 人間性◎ AV知識★★★
441日本@名無史さん:2011/11/30(水) 13:17:41.41
>>428
邪馬台国と大和朝廷は無関係ではないということでよろしいか?
両者の時代が450年ぐらい離れてるし、非常に遠い関係があるだけだよ。
442日本@名無史さん:2011/11/30(水) 14:15:45.90
東遷はないと思うな。
長年建設してきた自国を捨てて、何も無い土地に移動するのは不自然。
自国はそのままで、、他国に下っ端を開拓団として派遣するのは、ありえる。

もちろんその開拓団が、いつの間にか本国よりも発展していることもあり得る。
443日本@名無史さん:2011/11/30(水) 15:18:27.31
畿内には宗主国の副都があったか、
首長国連邦の有力国の都があった、
というだけだと思う。

西日本を中央集権化したような国家が
九州から畿内へ東遷したのでもなく、
畿内で自生してきたわけでもない。
ゆるやか連合が徐々に中央集権化してきたという
脳内国家統合論もウソ。

首長国連邦の中で、宗主国権争いをしていて
九州と畿内がいつも宗主権を奪っていた状況下で
初期は九州が、末期は畿内が優勢となっただけだ。
444日本@名無史さん:2011/11/30(水) 18:59:48.34
>>443
>ゆるやか連合が徐々に中央集権化してきたという
>脳内国家統合論もウソ。

もう敵は「邪馬台国畿内説」だけじゃなくて
既に中学生の教科書レベルから書き換えを要求しなければならないような話だなw

脳内にある 偉大なる九州王朝 を拝み倒して余生を送れ爺さんw

445日本@名無史さん:2011/11/30(水) 19:31:13.90
>>444
おい、九州王朝って何年から何年のことを指して言ってるんだよ。
もしかしてお前、卑弥呼の大和朝廷なんて脳内妄想を
垂れ流している馬鹿じゃないだろうな?
446日本@名無史さん:2011/11/30(水) 19:46:14.73
・世捨人【比定地不明】文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性△ わけわかめ度★★★
・夢幻如【非九州・非畿内説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性△ 注目度★★★
・縦目 【比定地不明】文献知識× 考古知識◎ ディベート力△ 人間性× 創作能力★★★
・近江厨【近江信楽説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性○ AA製作能力★★★
・四国厨【四国徳島説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力× 人間性× 阿波踊能力×
447日本@名無史さん:2011/11/30(水) 19:55:17.09
>>445
>おい、九州王朝って何年から何年のことを指して言ってるんだよ。

それはこっちの質問だゴミカス。

>首長国連邦の中で、宗主国権争いをしていて
>九州と畿内がいつも宗主権を奪っていた状況下で

一体その「主国権争い」っていつまで続いていたんだ?

448日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:03:56.19
>>447

馬鹿言え、お前が九州王朝などという妄想を言い出したんだろが?
九州王朝説のなんたるかを説明しろ。

>一体その「主国権争い」っていつまで続いていたんだ?
誰にもわかる形としては、7世紀まではゴタゴタしたな。
実は11世紀になっても引き摺っていたらしい。
449日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:14:23.57
>>448
畿内相手に宗主権を奪っていた九州の勢力が九州王朝でなくて何なんだ?ゴミクズ。

7世紀までゴタゴタ?
ゴタゴタなんてのはは中央集権化途中と言うことで説明が付く

じゃあ3世紀4世紀5世紀…7世紀までその畿内と張り合っていた九州王朝は何処にあったんだ?

もう中学生の歴史教科書の内容から変わるわあほらしい。

もうこの板の九州説ってこんな九州王朝説とか東遷説とかのキチガイが殆どだよな





450日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:19:34.92
| ┏━━━┓   従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃    慰安プウは朝日新聞に請求しよう
| ┃三三婦┃
| ┃○○大┃
| ┃○○募┃
| ┃○圓集┃
| ┃圓以  ┃
| ┃迄上  ┃_
\┃可   ┃ \
  ┗━━━┛  \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
http://img04.ti-da.net/usr/wishcomestrue/t02200190_0220019010786142693.jpg
451日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:26:17.68
>>449

じゃあ、お前は畿内王朝説かい?
452日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:31:30.21
>>451
ああ別にそれで構わんぞ九州王朝説のゴミクズ。

さっさと九州王朝を歴史教科書に載せるようにリアルで行動でも起こしたらどうだ?

「作る会」でもあほらしくて相手にしないだろうがw
453日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:36:19.18
>>452

おい、畿内王朝説の基地外よ、お前の馬鹿説を披露してみろよ。
嘲笑してやるからなw
454唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 20:37:46.43
>伊支馬=垂仁 とか素人じみたごろ合わせなど時間の無駄です。

旧編年 考古学と史学は一心同体であった。
崇神=卑弥呼(240年)は七支刀=369年から逆算された。(約130年)
新編年 考古学は史学を見捨てた。
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀である。七支刀=326年。

新考古学の数字を旧史学の数字で説明することは不可能である。
新考古学の数字に史学は合わせ、新史学とならねば歴史を説明できない。
考古学が“纒向”を2世紀末からというのであれば、そこに崇神を配せれば良い。

崇神天皇 188年〜216年 2章(開化と同じ暦であり39年程度の空白年の差し込み)
192年 新羅192年、後漢193年=崇神5年凶作
198年? 崇神11年異属多帰=各地の土器が持ち込まれる。
210年ころ 新羅209年、三国遺事=任那建国。
垂仁天皇 217年〜239年 4章分の空白年の差し込み
3世紀初期の大型建物 古韓尺の使用=任那より朝貢後の建物。
ホケノ山古墳(225〜250年)
東海・瀬戸内の壺=異俗多帰より後。
木槨・楽浪鏡・大量の鉄器=任那朝貢より後。
穴あき壺(庄内式)は初期の埴輪=垂仁末から。
239年景初3年 都市牛利=タシウリ・伊支馬=イクメ
盛り土(乾く・ヒ)と整地(代) 3世紀半ばの建物(日代宮)

ごろ合わせであると主張するならば、“崇神=卑弥呼”であると出来る文献を
この半分でも出して否定してもらいたい。
最大の無駄は、百済本紀に合わせただけの編年で議論した100年。
455日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:39:58.68
>>453
じゃあ中学生の教科書でも見て笑っとけやカスw

一体何処の国の教科書で勉強したのかは知らないがwww
456日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:43:01.80
>>455

お前は鶴橋の学校で勉強したのかい?
将軍様が大喜びだなw
457日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:46:17.69
>>456
将軍サマというのは偉大なる九州王朝の将軍サマか?クズw

九州王朝説とか東遷説ってウリナラ起説に良く似ているwwww

458日本@名無史さん:2011/11/30(水) 21:30:05.42
>>457

なんだ、猛烈に反撃してきたってことは、朝鮮総連の方ですか。
またまた将軍様が大喜びしますよw
459日本@名無史さん:2011/11/30(水) 21:32:57.78
畿内鶴橋王朝説はもういらんから、恥晒す前に帰れよ。
460日本@名無史さん:2011/11/30(水) 21:51:07.02

 ゴミクズレベル九州説 = 九州版ウリナラ起源説 w



461太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/30(水) 21:56:33.53
>伊支馬=垂仁 とか素人じみたごろ合わせなど時間の無駄です。
そのとおり、等号はデタラメだ。つまり別人。
臣下 官(猿の身分)は所詮大王 天皇(人間側の身分)には絶対なれない。
つまりこれを結びつける論は猿の惑星とかでない限りありえないわけで、
多分奴は猿の惑星からの強力な大デンパをpipipi・・・・・と受信して
るんだと思わねばならない。w 古代史論の素人の言いやすいインチキ。
462唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/30(水) 22:09:08.35
崇神=景初3年銘。
旧編年 考古学と史学は一心同体であった。
崇神=卑弥呼(240年)は七支刀=369年から逆算された。(約130年)
新編年 考古学は史学を見捨てた。

△鏡は、275年稚桜宮(桜井茶臼山)以後である。纏向は2世紀末から。
そして、崇神=卑弥呼と同期できる文献はない。

463日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:09:34.37
畿内説詐欺がバレると、すぐにキレて>>460みたいにファビョるんだなぁ〜w
464太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/30(水) 22:10:31.56
真の年代は紀の崇神10年に書かれている【三輪山】
の説話であり、天津神算木(天津金木)が三輪(半径
r=3の円)により後押しされる真の年代を測る天下の宝器である。
天津神算木とは三輪の球化の 体積=表面積 の数式をいう。すなわち

 4πr**3/3=113.0973355292・・・(**はベキ)

右辺から

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位☆
副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
助値 A.D.130年 ミマキイリヒコ 立太子
死値 B.C.130年 景行天皇 崩御★

このことは、重視するのは☆崇神の年代であり、これ
が主値たるメインそのものである。景行の代は死値で
あって、崇神をお助けする★ひき立て役年代だという
ことが把握されるのだ。
ニセ編年を祓う目的の 大祓祝詞 に曰く
 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

  3≠113.097335=113.◎97B350

右辺○数字はB◎(ミワ)であり、これに挟まれて
崇神即位の見かけの年代の B.C.97年 が右辺中央に
ある。そして真の崇神即位年代はその左右の数列から

 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

を得る。上が真であり、それ以外の編年はデタラメで
ある。崇神即位元年は237年だったのだ。
465太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/30(水) 22:22:13.49
鏡作神社
中座の祭神として祀る天照国照彦火明命は神より試鋳で作った神鏡であるそうだという。
社伝には 崇神天皇6年9月30日 内侍所(ないしどころ) の神鏡をこの地で鋳造
したときに試鋳として作った像鏡を天照国照彦火明命と称して奉祀しているのだという。

崇神天皇6年9月3日に鏡の改良鋳造をしたということだ。さらに
同年、倭笠縫に飢饉での神の怒りを鎮めるために、アマテラスとその象徴
たる 日像鏡 を祭祀した。二重に鏡の関係記事が崇神天皇6年に集まっている。

つまり500枚鏡の銘文の239年が崇神天皇6年に近接するのだ。これが真なので
ある。つまり鏡作神社社伝と紀の倭笠縫記事という 崇神=卑弥呼 と同期
できる文献はある。

466日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:31:57.47
>>463
いやいや中学生の教科書レベルの話は既に畿内説でもなんでもないw

ゴミクズレベル九州説の脳内の「悪のキナイセツ」は既に日本中を洗脳しているってストーリーなのかい?w
467日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:47:25.53
おい、ジョーカー。お前、相手にされてないって、自覚ある?
468太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/30(水) 23:13:55.56
>>465 訂正
× 崇神天皇6年9月30日
○ 崇神天皇6年9月3日
469特定面子は、これで全部かな?:2011/11/30(水) 23:35:18.57
・老眼 【畿内自生説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力○ 人間性× 関西弁能力★★★
・犬国 【九州王朝説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性△ オカルト度★★★
・唐松 【畿内自生説】文献知識△ 考古知識○ ディベート力× 人間性○ ホツマ力★★★
・遺作 【九州東遷説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性× 所得金額★★★
・奴民 【何となく九州】文献知識× 考古知識× ディベート力× 人間性×ホークス度★★★
・土壺 【何となく畿内】文献知識△ 考古知識△ ディベート力× 人間性× KY度★★★
・縄文 【九州東遷説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性× スルー力★★★
・王朝 【九州王朝説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力× 人間性○ 人生の経験値★★★
・長たら【畿内連合説】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 長たらし度★★★
・名古屋【畿内連合説】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性×年齢査証+50歳
・恨み節【九州東遷説】文献知識○ 考古知識○ ディベート力△ 人間性× 怨念度★★★
・河童【九州説トンデモ】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性○ 株知識★★★
・相模 【肥前小城説】文献知識○ 考古知識× ディベート力× 人間性× 自費出版度★★★
・毒濁 【畿内自生説】文献知識◎ 考古知識× ディベート力△ 人間性× じじ臭さ度★★★
・筑紫 【筑後山門説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力○ 人間性△ 生真面目度★★★
・水銀厨【畿内連合説】文献知識× 考古知識○ ディベート力× 人間性○ 水銀汚染度★★★
・人豚 【畿内連合説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力△ 人間性△ 普通度★★★
・老教授【畿内連合説】文献知識△ 考古知識★★★ ディベート力○ 人間性◎ AV知識★★★
・世捨人【比定地不明】文献知識○ 考古知識× ディベート力○ 人間性△ わけわかめ度★★★
・夢幻如【非九州非畿内】文献知識○ 考古知識× ディベート力△ 人間性△ 注目度★★★
・縦目 【比定地不明】文献知識× 考古知識◎ ディベート力△ 人間性× 創作能力★★★
・近江厨【近江信楽説】文献知識△ 考古知識△ ディベート力○ 人間性○ AA製作能力★★★
・四国厨【四国徳島説】文献知識○ 考古知識△ ディベート力× 人間性× 阿波踊能力×
470日本@名無史さん:2011/12/01(木) 00:02:25.90
>>469
> これで全部かな

元祖砂鬼四荼羅のフェニックス@日向厨を混ぜてやって下さい。
471日本@名無史さん:2011/12/01(木) 00:12:02.00
SSSのことだな
472日本@名無史さん:2011/12/01(木) 01:06:28.66
            ,.r.:::;;;;:ュ、
         fイ´__  __ヾ
           {:六;;;;:ハ:;;;:カ   
         (_  ' _^_ヽリ    なんだ AKBって整形した反日朝鮮人だったのかァ
          ,人 l⌒l、      ブームの捏造手法が寒流と同じだけはあるな
        / \,ゝヽr' \    
       /      |:|   ヽ
        l   l   /´堰@ l  !
        |___l  ノ ,イ   !__,}
473日本@名無史さん:2011/12/01(木) 02:24:01.40
>>471
> SSSのことだな

違うだろ。放射説の日向厨のことだよ。

しかし、ここまで誰の眼中にもなかったとは・・・
まあ、sssとかゆうのも、そういえばいたな。
474日本@名無史さん:2011/12/01(木) 02:33:47.85
日向厨とsssって区別しにくい。
sssは比定地としては日向+熊本だっけ?
475日本@名無史さん:2011/12/01(木) 04:34:33.51
アマテラス=卑弥呼と台与の合神。
邪馬台国が東遷したのではなく、神武東征が史実です。
箸墓かホケノが神武の墓ですよ。
476日本@名無史さん:2011/12/01(木) 05:24:24.22
【隔離推奨の毒電波】※次スレからテンプレに入れること。

・ジョーカー【アンチ九州】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性● 自演バレバレ度★★★
・サイキバ【アンチ畿内】文献知識× 考古知識△ ディベート力× 人間性× 祭器場度★★★

●誘導先:http://toki.2ch.net/tubo/
477日本@名無史さん:2011/12/01(木) 08:12:37.84
なんで、サイキバの
考古知識が△?www
478日本@名無史さん:2011/12/01(木) 08:49:20.28
ジョーカーの考古学知識はサイキバと同レベル(プ
479旧帝大歴史学徒:2011/12/01(木) 10:26:09.26
>>475
まあそれはないでしょう。垂仁期に、天照大神は
大和から伊勢神宮に祀られるようになったので、
垂仁と同時代の人物であろう卑弥呼と天照は同一人物ではありません。
480日本@名無史さん:2011/12/01(木) 14:14:41.09
天照のモデルは卑弥呼もしくは台与で間違いない。
481日本@名無史さん:2011/12/01(木) 14:16:21.74
天照は、ニニギの祖母だから紀元前だぞ。
3世紀の卑弥呼とは時代が違う。
482太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 14:17:35.40
>>481
ほほ正解。
483日本@名無史さん:2011/12/01(木) 16:27:43.05
天照は、もともとは男だったんだろう?
女神よりも男神の天照のほうが元祖だとか。
でも、男神天照の正体は、天照国照彦。
ニニギの祖母ではなく、ニニギの兄だ。

このニニギの兄のことを、ヤマト王朝の始祖アマテルとして
長い間、崇拝してきた。
でも、古事記を偏差するときに、オオアマ命(天武天皇)が
ニニギの兄のアマテルではなく、ニニギの祖母を女神アマテラスとして
新たにまつりなおした。
実は、オオアマ命(天武天皇)は、そのころ、
熱田社の尾張大隅と対立していた。
この尾張大隅こそ、天照国照彦の嫡流の子孫。
484日本@名無史さん:2011/12/01(木) 16:36:47.99
天照は対馬の女王で紀元前の人。畿内と天照は全く無縁。
天照は、畿内に行ったこともないし、おそらく知らなかっただろう。

天照婆の孫がニニギ。ニニギが壱岐か対馬から九州に上陸して、
略奪国家を樹立した。この子孫の(王様ではない)一人が神武であり、
畿内に侵略して、小さな領主となった。

天照と畿内の関係と言ったら、そのぐらいしかない。
485日本@名無史さん:2011/12/01(木) 16:47:57.45
>>484
天照とは、天照国照彦のことで葛城の高天の豪族。
出雲国譲りをして、天下を統一する。

ちなみに、播磨国風土記によると
播磨で畿内王権と出雲王権が戦闘があった伝承がある。
畿内の王の天照国照彦は妻が出雲の大国主の娘であり
畿内王権と出雲王権は婚姻関係を結んでいたが、両者は対立しあい
最終的には、出雲の大国主は、娘婿の天照に降伏したとある。

播磨は昔から畿内と中国地方の緩衝地帯。
戦国時代も、毛利家と織田家がここでぶつかった。
486太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 17:03:40.94
>>483
男ではないです。天照を使用した別の神名がありますが、照夫さんは
男でしょうが照子さんは女でしょうがね。
487日本@名無史さん:2011/12/01(木) 17:22:48.37
>>485
天照国照彦は、地方ローカルな人物で、日本史上では小者。
対馬の天照は、西日本を統合していた出雲から宗主権を奪った大物。
宗主権を奪われたのちの出雲国と播磨国が争っても、
ローカルネタにしかなりません。
488日本@名無史さん:2011/12/01(木) 17:52:31.61
429 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 00:21:40.77 ID:YgDNlsAL
韓国は「日本が正しい歴史観を持つ→反日日教組の教える嘘歴史がばれる」
「日本人が韓国の正体を知る」「日本人が民族の自覚に目覚める」という
三つのことを異常に恐れています。
韓国人は「ビビリ」なので、戦後自分達がやったこと(日本人を殺害、強姦等)の仕返しをされるのではないかと
怯えていた時期があったようです。
韓国を知っている人は、日本が韓国に関わることは日本にとって
全くプラスにならないとすぐに分かる筈です。
逆に言うと、韓国は日本人が徹底的に不合理かつ無知でいてもらわなければ
ならなかったわけです。
そしてそのための撹乱工作を代行していたのが日本のマスコミでした。
489別格の論客:2011/12/01(木) 18:03:54.41
●天照大神(太陽神)は男性神
『記紀』が編纂される100年ほど前の600年、
隋を訪れた倭国の使者に文帝が役人に命じて倭国の風俗を問わせた。使者が答えていわく。
「倭王は天を兄とし日を弟としている。天がまだ明けないとき出かけて政を聴き………」。
使者の返答内容をみると、ここでいう風俗とは「政に関するお国ぶり」
「国体としての信仰様式」の意味のようである。
つまり、天神(北斗の星か)と日神(太陽神)の関係を述べているのだが、
ここでは天神の「弟」に位置づけているから、太陽神は明らかに男性神である。
つまり、『記紀』が編纂される前は太陽神は男性だったわけである。

●男性太陽神は饒速日命
その男性太陽神が実は、『古事記』では天火明命、
『日本書紀』では火明命、あるいは天照国照彦火明命、
『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として登場し、
一般に饒速日命として知られる人物である。
饒速日命は高千穂に降臨した瓊々杵尊の兄で、
瓊々杵尊よりも先に天磐舟に乗って奈良県の鳥見の地に降り立っている。
この地に神武が天鳥舟でやってくるのだが、
二人とも特別な舟で九州からやってきたことが分かる。
ここで神武は饒速日命の神宝をみて、互いが同じ天神の子であることを確認する。
このあと、饒速日命は国譲りにも似た無血開城の形で鳥見の地を神武に渡す。
つづくし。
490別格の論客:2011/12/01(木) 18:04:23.67
●女性太陽神は『記紀』の創作
『記紀』編纂以前の創建とされる「天照」のつく古い神社の祭神をみてみよう。
祭神はみな天照御魂神すなわち天火明命(天照国照彦火明命)である。
つまり饒速日命は、記紀が書かれるまでは天照御魂大神として祀られてきたのである。
@奈良県桜井市・天照御魂神社=祭神・天照国照彦火明命
A奈良県磯城郡・天照御魂神社=祭神・天照国照日子火明命
B京都市右京区・天照御魂神社=祭神・火明命
C大阪市茨木市・御魂神社=祭神・天照国照天彦火明大神
D兵庫県龍野市・天照神社=祭神・天照国照彦火明命
E福岡県久留米市・伊勢天照御祖神社=祭神・天照国照彦天火明命
F福岡県鞍手市。天照神社=祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
G対馬下県郡・阿麻氏留神社=祭神・天照魂命
※同様の祭神を祀るのが京都府宮津市の元伊勢籠神社である。
祭神は彦火明命(天火明命)、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命。 
(『古代史の真相を糺す』http://www.syamashita.net/history/)

福岡県久留米市の伊勢天照御祖(いせあまてるみおや)神社、
京都府宮津市の元伊勢籠(もといせこもり)神社に祀られている天照国照彦天火明命こそが、
伊勢神宮の本来の天照大神なのかも知れない。

日中の古文献のいうところと各地に残る神社の由来を勘案すると、
饒速日命は天皇家の祖神よりも古い伝承の太陽神で、
『記紀』成立以前の男性太陽神・天照御魂神だったと思われる。
女神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本書紀編纂の時点で創出されたものだろう。
491太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 19:00:59.94
アマテラスは超ミス・ユニバース級の柳腰の美女ですね。
瓜実顔の感じでやせた方で、頭に正面が八咫鏡がある冠をかぶっています。

正装はフランスのマリー・アントワネットの着るようなドレスを着飾って
おります。

男神というのは、秀魔電にもあるそうですが、これはデタラメでして、
編集当時の男という妄想の増幅が彼らを信じさせ、男だと思いこむように
なったものですが、これは当時にすでにそういう妄想が根を張ってたと
いうことです。
492唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/01(木) 19:17:35.25
ミ03062 そのミナを ウホヒルギまた アマテラス オヲンカミとぞ たゝえます
ホ04143 ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ ギはキネぞ
かれウヒルギの ミコトなり キネはメヲトの オのキミぞ
天照太神者。=ウオヒルキ=大日孁貴≠オオヒルメムチ

『日本書紀』巻一第四段一書第一◆一書曰。
伊弉諾尊=吾身陽元→男=日子
伊弉冊尊=汝身之陰元→女=月子
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。
493太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 19:25:27.84
もうオマエが言い出した偽書といわれる書物は日本史板からしまいこめ。

金星なんか英米、ギリシャ等では女だとなっているが、それはそれで
いいが、これが中国だと男となる。

李長庚(太白金星)は男神だ。
であるから、神々の性別の場合は他国が男だから日本も男だとは必ずしも
ならない。日本の日神は女神であ〜る。秀魔電はデタラメ。
494太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 19:27:36.09
ビーナス(金星)が女で通ってても、上述のとおり中国では男である。
495日本@名無史さん:2011/12/01(木) 19:45:33.94
>>489

>●天照大神(太陽神)は男性神
政体が変わってしまった九州上陸前の対馬時代の話だから、
九州上陸後の政体をいくら持ち出してもダメ。
米国の大統領制を調べ上げて、英国に女王などいないと論じてもダメ。

>●女性太陽神は『記紀』の創作
畿内王権は、紀元前の対馬の女王について、ほとんど伝承されていないから、
おぼろげに描いているだけで、女王を男王に改竄する意図などさらさらない。
496唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/01(木) 19:47:48.70
>もうオマエが言い出した偽書といわれる書物は日本史板からしまいこめ。

伊 勢 遺 跡  最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1〜2世紀)です。

ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
崇神7年に 初子タタネコを崇神に仕えさせる。

神武 42年〜。 崇神 188年〜 。

近江伊勢遺跡は、神武元年から〜崇神7年ころが、最も栄えた。考古学と同じ数字が得られる。
ホツマが無ければ、近江伊勢遺跡もわからないだろう。
497日本@名無史さん:2011/12/01(木) 19:50:58.92
>>495

対馬に日神を祭ったのは5世紀だろ。

498唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/01(木) 20:09:22.84
>>493

天照太神者。=ウオヒルキ=大日孁貴≠オオヒルメムチ

理のある論で天照大神を女性神と証明するんじゃなかったかな?
簡単だろ。
オオヒルメムチ に大日孁貴の漢字をあてがえれば成立するんだから、
ウオヒルキに大日孁貴と漢字を振るより正しければ成立する。
499太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 20:23:26.39
真の年代は紀の崇神10年に書かれている【三輪山】
の説話であり、天津神算木(天津金木)が三輪(半径 r=3の円)により
後押しされる真の年代を測る天下の宝器である。
天津神算木とは三輪の球化の 体積=表面積 の数式をいう。すなわち

 4πr**3/3=113.0973355292・・・(**はベキ)

右辺から

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位☆
副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
助値 A.D.130年 ミマキイリヒコ 立太子
死値 B.C.130年 景行天皇 崩御★

このことは、重視するのは☆崇神の年代であり、これ が主値たるメイン
そのものである。景行の代は死値であって、崇神をお助けする★ひき立て役
年代だということが把握される。ww
大中臣の下命
ニセ編年たる188年を祓う下命文の 大祓祝詞 に曰く
大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

  3≠113.097335=113.◎97B350

右辺○数字はB◎(ミワ)であり、これに挟まれて
崇神即位の見かけの年代の B.C.97年 が右辺中央に
ある。そして真の崇神即位年代はその左右の数列から

 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

を得る。上が真であり、それ以外の編年はデタラメで
ある。崇神即位元年は237年だ。
500日本@名無史さん:2011/12/01(木) 20:25:20.63
>>495
高天の原とは、葛城の高天の開墾地という意味。
天照国照彦は、葛城の高天の豪族。
彼が出雲を倒し、天下を統一した。
その後、高天の北にある高尾張に首都を移転し
ここが初期の畿内王権の首都になる。
ちなみに、この高尾張は後に、葛城と改称する。
501日本@名無史さん:2011/12/01(木) 20:26:47.27
>>495
高天の土地に、やたら対馬と北九州をあてるやつが多いが
例えば、対馬に天照を祭るようになったのって、かなり後世のことだよ。
502日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:23:33.89
>>497
祭った時代の話じゃないよ。
女王天照が出雲国から宗主権を奪った時代がいつかだ。
503日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:24:08.85
>>500
高天原は壱岐でしょう。
畿内とは一切無縁。
504日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:25:19.98
>>501
祭ったのが21世紀であっても22世紀であっても
全然関係ないでしょう。
505日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:36:48.01
>>502
そんな事実はねえよ。

506日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:39:19.90
九州では、「原」をハルと発音してるのに、
「タカマガハラ」が九州発祥なわけないだろ。

なんでも九州発祥とか、いいかげんにしろよな。
朝鮮人みたいで見苦しいんだよ。
507日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:52:05.98
>>506
元々は「たかまがはる」だったでしょう。
九州の地名「ちくし」が、畿内に行くと「つくし」に読み替えられてしまうのは知ってる?
508旧帝大歴史学徒:2011/12/01(木) 21:54:34.56
天照は初期は男神だろうね。女神になったのは
卑弥呼の時代よりずっと後のことだろう。
初期は皇女の伊勢斉王が斉宮に上がると、最初の重要な儀式の場に、
御枕2個が用意されていて、天照と斉王の結婚を意味したらしいし、
天照が女神じゃおかしいから。
509日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:56:01.12
>>508
お前が男だと断定しても、だれもついてこないから心配するな。
510日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:04:18.06
>>507

九州の神社の祝詞では、「タカマガハル」と発音してるのかね?

発音してないなら、君の考えは間違ってるな。
511サガミハラハラ:2011/12/01(木) 22:06:33.43
高天原とか天照大神とかは、中国の神仙思想が渡来してからそうよばれるようになったようですよ。
天照大神の本の名はオオヒルメであったのですが、書紀の編纂の時一つだけ書き直し損ねて残ってしまったのです
高天原は全てかきなおされていたので。元の名はわかりません。
512日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:09:13.58
>>511
株で大損したおじいちゃん、その話のソースは?
513日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:12:33.83
>>512

高天原とか天照大神が7世紀の創作なのは、まあ常識だな。
514唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/01(木) 22:16:54.68
ミ03061 ヒノカミをうむ  そのミナを ウホヒルギまた  アマテラス オヲンカミとぞ  たゝえます
ホ03075 ワカヒルメ ソサクニにうむ ソサノオは つねにをたけび なきいさち

ウホヒルギと ワカヒルメは共に伊弉諾尊の子供である。
このワカヒルメがオオヒルメムチとなり、ウオヒルキの位置に読みとして振られる?
515太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 22:27:56.38
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が〜
〜またまた偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

記紀の転覆を狙う魔書 秀魔電 から記紀を完全に防備せねばならない。

アマテラスは女神であり、男神だという秀魔電の主張はデタラメそのもの
である。

アマテラスはそんじょそこいらにいない超ミス・ユニバース級の美女神で
あり、頭部に日像鏡が正面にある冠をつけた細めの華奢な神々しい超美人
であって、野郎の神ではな〜い。宿主の主張は朝廷の怒りを買うインチキ
そのものであ〜る。
516日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:27:56.74
>>510
弥生時代だったらね。
517旧帝大歴史学徒:2011/12/01(木) 22:45:58.53
ひれ伏しなさい犬国さん!
あんたもただの頭のおかしいおじいちゃん臭いし、
若く優秀な僕の言うことちゃんと聞きなさい。
518日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:48:04.81
>>517

気が触れたか?
519日本@名無史さん:2011/12/01(木) 22:55:33.41
>>517
お前は栄で名城大学のオネーサンをナンパでもしていなさい。
520ローガン:2011/12/01(木) 23:13:22.79
>>517:旧帝大歴史学徒
>ひれ伏しなさい犬国さん!あんたもただの頭のおかしいおじいちゃん臭いし、若く優秀な僕の言うことちゃんと聞きなさい。

出ていけ!カス。「ゴミクズ」とはお前の事だ。
521日本@名無史さん:2011/12/01(木) 23:17:04.50
当時も韓流ブームだった
522太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 23:20:21.42
オマエは旧帝というより級低か〜?><
523神奈川県民:2011/12/01(木) 23:24:12.11
ローガンさん怒ったら怖い・・・><

>>517 旧帝大歴史学徒君 

ここをよめ!
http://info.2ch.net/before.html

頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。
頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。


頭のおかしな人の判定基準

・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。

・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。

・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげてください。
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 23:24:56.18
級低犬礫死学徒か〜?w
525日本@名無史さん:2011/12/02(金) 00:19:59.90
「フジパシフィック音楽出版」は、韓国アーティスト1236曲の楽曲保有している事がわかります
公共の電波が、特定の企業に利益を生むように垂れ流されていたのです。

売れれば、売れるほど、「フジパシフィック音楽出版」が儲かる。しいては、「蛆テレビの隠れた大株主=姦国」が潤い、反日工作の資金となる。
韓流ファンの方は、一放送局であるフジテレビの仕掛けに見事に引っ掛かってしまいましたね。
メディアミックスを巧妙に仕掛けられたので仕方ないかも知れません。 真実を見極める目で、この現状をうかがって見てください
526狗奴国は名古屋:2011/12/02(金) 11:11:28.13
栄のプリンセス通りでたまにナンパしてお持ち帰りしちゃってますよ。
名城なんてブスばっかだし相手にしません。
527唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/02(金) 15:36:25.51
>>526
名古屋は下記のとおり
廻間式に限っていえば、I式からIII式まで似たような年代幅に収まり、ほとんど分解能を持ち得ない。

君の主張とよく似ているとは思わないか?
528日本@名無史さん:2011/12/02(金) 19:07:21.30
>>490
そのことは、天照家の当代の耀姫(あかるひめ)様が、はっきり指摘してる。
この日女神様(天皇と同じ生き神扱い)は、
太陽神、天照神(あまてるかみ)に神憑りできる実技をお持ちの方だ。

高句麗国の神宮の斎王制度を、今日まで世襲してきた社家の当代宗主で、
太陽神天日槍(天照系の祖神、スサノオと同一神か?)に神憑りする神事を、今も伝承しておられる。
一般の素人が、太陽神は女神だと、異論を唱えたところで、本物の古神道の伝承者の前では意味をなさない。

男装(天冠、男神の御神服、に剣を佩いた姿)で、巫女舞をして神憑りすると、
男性の声音と立ち居振る舞いになる。
なぜ、女性の巫女が、天照神に神憑りする神事を担当するのか、
ツイッターやメタバースのカフェで、御専門の心理学や脳科学方面の考察を交えて、詳細に解説なさっておられる。
529日本@名無史さん:2011/12/02(金) 19:10:15.84
決定的なのは、耀姫様の2011年11月26日のツイッターの内容だろう。
http://twilog.org/AkaTamaYoriHime/date-111126

兵庫県にある、広田(廣田)神社の天照大神荒魂が、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
となっていることに、言及なさっておられる。

以下引用する。
>最初の 撞(つき)は、霊が憑くこと.つまり斎女(依り憑きの巫女)と同じ意味です。
>賢木は 神事に使う榊のことです。厳之御魂は 男性の魂を指す言葉で、
>つまりこの巫女は 男神に神憑りしていたという意味です。
>天疎は天津神の祖ってことですが、すこし表現がオカシイですね。ここがポイントです。

>記紀神話にある 皇祖神 天照大神(女神)の諡ならば、はっきり天祖と書けばいいところなのに
>そうなっていないということは? 天照大神(女神)は 本当の皇祖神ではない
>というメッセージと見て間違いないでしょう。最後の 向津媛がお名前で、
>日向の日女を表す抽象的な敬称になっています。

物部が奉斎する天照国の神々の名は、日向の巫女神によって乗っ取られた、情報が見て取れるらしい。

記紀神話は、唐の侵略を外交的に回避するために書かれた偽書だから、信頼できない点が多いことも、
端的に御指摘なさっておられる。
530日本@名無史さん:2011/12/02(金) 19:22:45.95
意味が拾えない人がいると混乱を招くだろうから、補足すると、

卑弥呼の鬼道は、高句麗国の道教を指すとする説がある。
したがって、高句麗国の神宮の弟姫(乙姫)様が、卑弥呼の鬼道のルーツであり、
血が繋がっているかどうかは、横に置くとして、
耀姫様が伝承している高句麗系の古神道は、卑弥呼の宗教的な御先祖様ということになる。

赤留姫などの古い表記を用いず、耀姫と現代風の漢字表記を名乗っておられるが、
11の神社を管理なさっておられる、社家の方だ。
531唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/02(金) 19:52:08.23
>太陽神天日槍(天照系の祖神、スサノオと同一神か?)に神憑りする神事を、今も伝承しておられる。

天日槍の来朝を数字に直せば、
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 天日槍の来邦 山陰に鉄
開化天皇 184年〜187年 3章+1年 1、2年の異常? 開化崇神は同じ暦?
崇神天皇 188年〜216年 2章−1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=三国遺事541年で建国330年=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。

世継ぎ20年程度で田道間守につながる。
スサノオ=午頭天王 
天日槍系の居住は、播磨、阿波、淡路島など←特殊器台が波及しない地域。
532日本@名無史さん:2011/12/02(金) 21:25:02.87
>>531

>スサノオ=午頭天王 

無視してもいいんだけど、信じちゃうバカがいるかもしれないから一応。

「アホか。」
533日本@名無史さん:2011/12/02(金) 21:34:51.08
ハイ。
534太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/02(金) 22:13:28.51
真の年代は紀の崇神10年に書かれる【三輪山】 の説話であり、天津神算木
(天津金木)が三輪(半径 r=3の円)により示される真の年代を測る
天下の宝器である。天津神算木とは三輪の球化 体積=表面積 の数式をいう。

 4πr**3/3=113.0973355292・・・(**はベキ)

右辺から

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位☆
副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
助値 A.D.130年 ミマキイリヒコ 立太子
死値 B.C.130年 景行天皇 崩御★

このことは、重視するのは☆崇神の年代であり、これ が主値たるメイン
そのものである。景行の代は死値であって、崇神をお助けする★ひき立て役
年代だということが把握される。ww
大中臣の下命
ニセ編年たる188年を祓う下命文の 大祓祝詞 に曰く
大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

  3≠113.097335=113.◎97B350

右辺○数字はB◎(ミワ)であり、これに挟まれて崇神即位の見かけの年代
の B.C.97年 が右辺中央にある。真の崇神即位年代はその左右の数列から


 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年


を得る。上が真であり、それ以外の編年はデタラメで
ある。崇神即位元年は237年だ。
535唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/02(金) 22:19:02.58
牛頭天王とは? 祇園社などの祭神。もと祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身ともいう。
疫病神で、のちには素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合されて尊崇された。
536太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/02(金) 22:34:37.21
宿主よ

オマエ、はやく精神病院で診てもらえ。
オマエの論はひどいなんてものじゃない。それ以上にいかれているぞ。
537唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/02(金) 22:38:13.04
太国よ、オマエの論はひどいなんてものじゃない。それ以上にいかれているぞ。
>重視するのは☆崇神の年代であり、
考古学で証明してから言えば?
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末  ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺 
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
538日本@名無史さん:2011/12/02(金) 22:38:27.79
いま、美甘子さん観てる。

この子面白いね
http://www.youtube.com/watch?v=OHGQjMLwQIs
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/02(金) 22:46:52.93
いかれてる奴に限って、オマエのように反論するのが精神病者の言い草
なんだよ。>>535氏もオマエに呆れてオマエに忠告してるだろうが・・・。
これで成務が4年間だ↓という噴飯論を頑張る奴が診てもらえという事。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/02(金) 23:08:10.22
崇神天皇元年(甲申前九七)=西暦237年であれば、
成務天皇元年(辛未一三一)は、237+97+131≒465年
成務48年(465+48=513年)ここで 否公認の仏教が伝わる。
この太国説を認めているんだが、どうも本人は満足していないみたいだな。
そんな時は、太国自身が太国倍年に数字を入れて、成務48年は西暦○○年と主張すれば?
なにしろ、太国倍年の日数を知る人は、皆無である。であるならば、ここは太国自身が
率先して主張しなければならない。
太国3倍年は、書記3年分の日数を1年とする=太国3倍1年≒1095日。
我々にはこれ以外の数字を得る手立てがない太国3倍年。
541太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/02(金) 23:26:44.89
そんなことは以前書きこんだろうが。ww
それより>>539のどこが57年分の空年があるのか?ww
無いのは表を見れば自明だぜ。

成務48年だと〜。この年は仲哀が立太子した年だ。だから佛伝がどうの
こうの言っても、立太子年は不動であ〜る。オマエに編年では1回も
各天皇の立太子年を入れることが出来ない。これはおかしいということよ。

また言わせるのか〜? 成務48年を〜。オマエのは41年の説明なんか1回
も具体的に出来ないんだろうがねぇ。ww これでは誰も信じないぜ。

成務48年は338年

ところで
>〜オマエの論はひどいなんてものじゃない。それ以上にいかれているぞ。
とオウム返しに言うのが精神病患者の疑惑ある者のやることだそうだ。ww
>>535氏もオマエの脳内がおかしいと観て忠告してるんだよ。
オマエは男が出産してると言っていたがppp〜もう精神病院ではやく
ひどいオマエの脳内を観てもらわぬと取り返しつかないぞ。><
542太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/02(金) 23:31:45.96
3倍年は某時代 書記3年分の日数を1年とする=3倍年暦1年≠1095日。
543日本@名無史さん:2011/12/03(土) 00:42:54.92
脱原発デモの正体
ttp://blog-imgs-37-origin.fc2.com/h/o/r/horo346/panflash00045313.jpg
2011.9.11在特会に抗議しようとした在日脱原発デモ参加者逮捕の瞬間
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15581020
544旧帝大歴史学徒:2011/12/03(土) 08:37:18.00
翰苑についてはここの人らはどう評価してるわけ?

「『邪ななめに伊都いとに届とどき、傍ら斯馬しまに連つならる』
  広志に曰(いわ)く『(1)倭国。(2)東南陸行、五百里にして伊都国
に到る。(3)又南、邪馬嘉国に至る。
(4)百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。
(5)次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国 。
(6)安(=案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。
革を以(もっ)て衣と為(な)す』(7)蓋(けだ)し、伊耶国なり」


これを普通に読むと女王国のすぐ斜め上に伊都国があり、女王国との
距離はほぼゼロに等しいと読めてしまうんだがw
545日本@名無史さん:2011/12/03(土) 08:48:42.37
「翰苑」は邪馬台国時代からはずっと後代に成立したもので
曰文で書かた類書であり、新資料を採用して記述されていると考えられる部分はないだろう
むしろ著者の張楚金が原典を誤読している可能性がある
546旧帝大歴史学徒:2011/12/03(土) 09:06:23.40
>>545
やっぱその程度のものだよなw
九州説とかおそらくこのへんを根拠にしてると思うんだが、
少し無理があるよな。
547日本@名無史さん:2011/12/03(土) 09:54:04.26
>>532
無知な人間ほど他人の言葉を軽視して、無作法に罵るものだが、
認識レベルが、極めて低いレベルでスレッドが進行すると支障があるから、書いておこう。

仏教系の神である牛頭天王を、スサノオに置き換えるように、
明治政府が強制したことを、蛮行だと短絡的に考えているのだと思うが、その背景にはさまざまな伝承がある。

天日槍は新羅の王子で、日本に新たな製鉄技術をもたらしたと言われている。
兵主神(八千矛神 大国主神)と同一神で、遼東半島の牛角を持つ蚩尤とも繋がっている。

物部は日本古来からの勢力という認識が一部にあるようだが、
武器の製造技術を日本に持ち込んだ、渡来集団から派生したと考えるのが妥当だろう。

渡来時期や頭角を現して注目された時期がやや異なるだけで、
秦氏と物部は近い関係にあった可能性がうかがえる。スサノオと天日槍の共通性は多い。

日本書紀では、天から追放されたスサノオが、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降りたとある。
ソシモリとは、朝鮮語や高句麗語で牛頭を意味する。
スサノオは牛頭の神という認識があったことが見て取れる。
548日本@名無史さん:2011/12/03(土) 09:54:45.33
牛頭天王は、奈良時代以前に輸入された痕跡を持つ、仏教系の神だ。
聖徳太子のブレーンを務めた秦氏の影響が見られる。

秦氏の居留地と、天日槍を祭る神社など、信仰の分布が一致することから、
天日槍を奉斎していた集団は、秦氏と指摘されている。

天日槍は兵主神と同一神で、遼東半島の蚩尤と繋がっているが、都怒我阿羅斯等(角がある人)の別名を持つことから、
二本角とコーランのなかで呼ばれているペルシャ地域の英雄にルーツがあることも指摘されている。
アレクサンダー大王が、二本角の鉄兜を用いていた伝承があり、
古代イスラエルでは、二本角と呼ばれる救世主の英雄物語が存在したことも分かっている。

その二本角の伝説がインドの牛頭天王や蚩尤という牛頭神や天日槍と習合して日本に伝わっている可能性が高い。
天日槍の説話に牛が登場するし、秦氏の入植地の秦野市では、
唐子さんは牛を飼い醍醐を作ったと伝承されるなど、これら一連の繋がりを示すものは、数多く残っている。

天日槍を奉斎していた秦氏は、聖徳太子と協力して仏教を輸入するときに、
神道系の天日槍を、仏教系の牛頭天王に置き換えて祀るようになり、
日本での牛頭天王信仰が成立して普及していったものと思われる。
549日本@名無史さん:2011/12/03(土) 09:57:45.03
さらに兵主神を詳細に観察すると、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に祀られる八神の一柱と見出せる。
八神は、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、
月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。

兵主は蚩尤と呼ばれ、ふいごの技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者とされる。
出雲のたたら製鉄へと繋がる要素を、牛の角を持つ兵主神も備えている。
武器を生産する技術を担っていた物部氏との繋がりが見えてくる。
天日槍(八千矛神)の子孫は神功皇后とされ、
大陸の遊牧民族の八旗の軍制を日本に持ち込んだ、八幡の神(応神天皇)と繋がっている。

スサノオが詠んだ日本最初の和歌に、八雲や八重垣の言葉が多用されているだけでなく、
八千矛は、スサノオの子大国主神の別称の一つとされており、
物部が奉斎する出雲系の天照国饒速日の系列と、この点で完全に繋がっている。
物部出雲天照系の神々は、天日槍信仰の影響を受けて派生している可能性があるだけでなく、
遊牧民族の八旗の軍制を日本に持ち込んで、八幡神社を形成していく流れに関わっていることが見て取れる。

したがって、牛頭天王をスサノオと同一視して祭っても、何ら問題はないし、
神道と仏教は明確に分けるべきで、混同は許さん、というのが、明治政府の役人の言い分だ。

明治の優秀な政府の高官の決定を罵る前に、まともに歴史を勉強すべきだろう。
550日本@名無史さん:2011/12/03(土) 14:07:44.96
>武器の製造技術を日本に持ち込んだ、渡来集団から派生したと考えるのが妥当だろう。

根拠なしで渡来集団とか言うのはやめなさい。

「物部氏の武器」が何かについての、考察も無いくせに。
渡来系とは笑わせる。



551日本@名無史さん:2011/12/03(土) 14:17:26.76
物部氏を、渡来系の武器製造技術者と呼ぶなら、以下の点で答えを用意すべきだ。

1、物部氏が恒常的に使用していた武器とは何か?

2、その武器は日本古来の伝統的な武器ではなく、輸入された。

3、物部氏以外の他の氏族は、その武器造りに深く関与していなかった。

>>547-549は、1〜3のどれにも答えを用意していないだろう。

552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 15:30:36.53
>2、その武器は日本古来の伝統的な武器ではなく、輸入された。

日本古来の伝統的な武器とは、弓矢が主要な武器であり、240年代に鉄鏃として出土する。
238年には存在した狗邪韓国(金官伽耶)の倭人が供給したと思われる。
274年神功渡海 この渡海は晋の冊封体制に組み込まれたことを意味し、240年代に背いた”韓”の兵士の代わりに
半島で1大卒の行為を行う。黒塚古墳はこの時の軍の装備である。
308年 永嘉の乱 当然倭軍もこの乱に対処する メスリ山の”槍”はこのころの軍装備。
316年 西晋滅びる 倭軍の引き上げ
323年 神功49年 半島は政治的空白となっている。 軍を派遣して半島を占拠する。
326年 七支刀
553日本@名無史さん:2011/12/03(土) 15:38:49.03
>>551
新撰姓氏録にもあるように、渡来系氏族ってのは
諸蕃というカテゴリに分けられている。
天穂日命の男系子孫たちも、このカテゴリに分類されている。
また、天穂日命が渡来したのは、欠史八代の時代の終盤くらい。

一方、物部氏は、天神というカテゴリなので
畿内王権の譜代の豪族というカテゴリ。
物部氏の先祖のニギハヤヒは、ワカミケヌ命(神武天皇)がいた時代の人で
ニギハヤヒは、天火明命の形見だと称してクーデターを起こして
高倉下命やワカミケヌ命らに鎮圧された人物。

その辺のことを理解しよう。
554日本@名無史さん:2011/12/03(土) 15:57:01.74
>>553

>ニギハヤヒは、天火明命の形見だと称してクーデターを起こして

そういうのは、小説でやれ。


555日本@名無史さん:2011/12/03(土) 16:34:07.32
>>554
いちおう、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命というんだよ。
この「天火明」「ニギハヤヒ」の間にある「櫛玉」というのは
「櫛玉」=「奇霊」からきており、形見という意味。
よって、ニギハヤヒのことを略して、櫛玉命として各地に祭られていたりする。
形見の王子つー意味なんだよ。
556日本@名無史さん:2011/12/03(土) 17:10:00.86
>>555
>「櫛玉」=「奇霊」からきており、形見という意味。

  違 う ね 。


「櫛玉」は、玉作の祖神「櫛明玉神」と同じ系統の略語で
この場合は、宝玉を意味する尊称にすぎない。
557唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 18:08:59.64
ホ27053 ハラミヤの クニテルをつぎ アマテラス ニギハヤヒキミ モにいりて シラニワムラの ミカハなす
558日本@名無史さん:2011/12/03(土) 18:10:00.53
>>556
>「櫛玉」は、玉作の祖神「櫛明玉神」と同じ系統の略語で

それは違うね。略語ではない。
櫛玉=くしたま=奇霊からきている。
櫛玉命とは、形見という意味からきている。
559日本@名無史さん:2011/12/03(土) 18:13:25.05
>>556
櫛明玉=くしあかるたま
櫛玉=くしたま=奇霊=形見

両者は全然違う.
以上。
560太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 18:15:25.58
>>557
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜、とコチラを口撃していた男
が〜
 〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

なお毒書ホツマとはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を挿入して書いた朝廷から観ての落第文書であり、重々各々方はこの妄想
にやられぬよう用心する必要がある。
561日本@名無史さん:2011/12/03(土) 18:32:45.04
>>559

>櫛玉=くしたま=奇霊=形見


その用例を示唆する文献を一つでも提示してみなさい。

なければ、ただのゴロ合わせ。議論の余地無し。
562唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 18:55:02.22
ホ27268      コトシロが ミシマにいたり
ホ27269      ハラにゆき またミシマより
ホ27270      イヨにゆく ついにちなみて
ホ27271      ミゾクイの タマクシヒメも
ホ27272      はらむゆえ ワニのりアワえ
ホ27273      かえるうち うむコのイミナ
ホ27274      ワニヒコは クシミカタマぞ
563太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 19:09:00.52
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜、とコチラを口撃していた男
が〜
 〜またもや偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

なお厄物〜秀魔電とはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を挿入して書いた朝廷から観ての落第文書であり、重々各々方はこの妄想
にやられぬよう〜危険性と用心する必要を知るべきである。
564日本@名無史さん:2011/12/03(土) 19:10:18.92
みんな、卑弥呼の話をしろよ。
565唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 20:32:25.70
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

東倭とは、倭奴国に対する言い回しであり、統一倭国を大倭と表記する魏書。
南に至邪馬臺國,即倭王所都。は、東に書換えねばならない。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。

卑弥呼が奥九州の遠絶の地に共立された事実は無い。
566日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:38:10.11
世捨人 VS 九州王朝大好き

夢幻如 ◆ VS 別格の論客

WWW VS deshabar

太国 VS  唐松山              今夜は豪華4本立て


567日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:45:15.03
>翰苑についてはここの人らはどう評価してるわけ?

どう評価してるん? 文献派のみなさん答えて下さい!!
568日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:49:56.02
>豊かな社会に鉄器が多くあるということと
>鉄器が社会を豊かにするということは違う。

どう違うん?考古学はのみなさん答えて下さい!!

ええじゃないか♪ ええじゃないか♪ ええじゃないか♪ ええじゃないか♪(踊)
569唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 20:50:33.80
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。

考古学を信じないと歴年無主の時空が無くなる=卑弥呼協立が成立しない。
そして、すぐに大和の九州進出と、渡海へと続く。
景行の九州遠征をここに置くと、渡海は晋の冊封体制への参加であり、時空は短い。
晋の冊封体制参加が遅れると、半島占拠が無くなる。
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 20:55:59.11
九州に派遣された軍隊は、大和に帰って箸陵を築く。
半島に派遣された軍隊は、帰国後河内に巨大古墳を築く。
400年前後の高句麗の南下、倭軍敗退。 古墳が小さくなる。
571日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:58:06.50
>>569
ほら〜唐サンも
夢幻如さんみたいに別格に向かって行けよw

夢幻如さんは自分より格上の人に向かっていく勇気は認めるんだけど
全然話になってないのが笑えるw
572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 21:10:59.07
>翰苑についてはここの人らはどう評価してるわけ?

間違った文献から間違った結果を得る。
この時代には、倭人伝は誤って伝えられている。
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王(男王)の部下 斗は書紀
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁 書記伊聲者掖邪狗イセのイワカ

書記に記載された人名の方が整合させやすい。
573唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 21:17:00.22
>別格に向かって行けよw

伊作さんの考え方はわかっている、それに対し彼も私の主張はわかっている。
つまり、どちらもがけん制し合っている状態である。

投馬国 宮崎氏はこれを二つの港と読んだ。
玄界灘を向く洞海湾、ここから陸を南に歩くと瀬戸内の海が広がる。
大和までは1ケ月程度の距離である。
574日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:21:54.04
話しても無駄な相手と話しても無駄だしな。

暇つぶしにしかならん。
575唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 21:25:48.16
投馬国は、早鞆の瀬戸の鞆。

伊作さんは旧編年で持論を展開している。だから
崇神世任那建国=209年新羅、加羅に援軍。三国遺事 541年時点で建国330年を認めない。

このまま議論しても得るものは無い。
576日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:31:09.12
翰苑 倭國
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kannenn/framepage2.htm

山に憑き海を負い 馬臺に鎭し以って都を建つ 後漢書に曰く。 
倭は韓の東南大海の中に在り。 山島に依り居を爲す。 凡そ百餘國。 
武帝の朝鮮を滅してより、使譯の漢に通ずる者卅餘國。 國は皆王を稱す。 

その大倭王は邪馬臺に治す。 樂浪郡徼はその國を去ること万二千里。 その地は大較(おおむね)會稽の東に在り。
珠崖・儋耳と相い近し。 魏志に曰く。 倭人は帯方東南に在り。 倭地を參問するに絶えて海中洲島の山に在り。  
或いは絶え或いは連なり、周旋五千餘里可(ばか)り。 四面は倶(とも)に海に抵(あた)る。 營州より東南、新羅を經てその國に至る。
軄を分かち官を命じ 女王に統べて部を列す 

魏略に曰く。 帯方より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、 韓國を歴て拘耶韓國に到る。 
七千餘里にして始めて一海を度る。 千餘里にして對馬國に至る。 
その大官を卑拘と曰い、副を卑奴と曰う。 良田無く、南北に市糴す。 南に海を度り一支國に至る。 
官を置くは對馬に同じ。 地の方は三百里。 また海を度ること千餘里。 末盧國に至る。 
人、善く魚を捕らえ、能く水に浮沒してこれを取る。 東南五百里。 伊都國に至る。 
戸は万餘。 官を置き爾支と曰う。 副を洩渓觚・柄渠觚と曰う。 その國王は皆女王に属す。 

卑弥娥(ひみが)は惑翻して群情に叶う 臺與は幼齒にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う 後漢書に曰く。 
安帝の永初元年、倭面上國王師升の至ること有り。 桓・靈の間、倭國大いに乱れ、更に相攻伐して歴年主無し。 
一女子有り。 名を卑弥呼と曰う。 死して更に男王を立てしも國中服さず。 更に相誅煞(ちゅうさつ)す。 
また卑弥呼の宗女臺與年十三なるを立てて王と爲し、國中遂に定まる。 
その國の官に伊支馬有り。 次を弥馬升と曰い、次を弥馬獲と曰い、次を奴佳鞮と曰う。 
577日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:32:05.88
文身鯨面 猶太伯の苗と稱す 魏略に曰く。 女王の南にまた狗奴國有り。 男子を以って王と爲す。 
その官を拘古智卑狗と曰う。 女王に属さず。 帯方より女王國に至ること万二千餘里。 その俗は男子は皆鯨面文身す。 
その舊語を聞くに自ら太伯の後と謂う。 昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し以って蛟龍の害を避く。 

今、倭人また文身し、以って水害を厭わす。 阿輩雞弥(あはけみ) 自ら天兒の稱を表す 宋死弟(←この3文字意味不明。衍か?)
宋書に曰く。 永初中、倭國に王有り。 讃と曰う。 元嘉中に至り、讃死し弟の珎立つ。 
自ら使持節都督安東大將軍倭國王を稱す。 順帝の時、使を遣わし上表して云う、『昔、祢より東に毛人五十五國を征し、
西に衆夷六十六國を服し、渡りて海北九十五國を平らぐ』と。 

今案ずるに、その王の姓は阿毎。 國号を阿輩雞弥と爲す。 華言の天兒なり。 父子、王を相傅す。 
宮女六七百人有り。 王の長子を和(←または「利」か)哥弥多弗利と号(なづ)く。 
華言の太子なり。 禮義に因(より)て袟(ちつ)を標(あらわ)す 即ち智信を以って官を命ず 括地志に曰く。 
倭國はその官に十二等有り。 一を麻卑兜吉寐(まひときみ)と曰う。 
華言の大徳なり。 二を小徳と曰い、三を大仁と曰い、四を小仁と曰い、五を大義と曰い、六を小義と曰い、
七を大礼と曰い、八を小礼と曰い、九を大智と曰い、十を小智と曰い、十一を大信と曰い、
十二を小信と曰う。 邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる 廣志に曰く。 

倭國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。 また南に邪馬臺國に至る。 
女王國より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。 
次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。 
案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。 布帛無く、革を以って衣と爲す。 
盖(けだ)し伊耶國なり。 中元の際 紫綬の榮あり 漢書地理志に曰く。
夫餘・樂浪の海中に倭人有り。 分かれて百餘國を爲す。 歳時を以って獻見す。 
578日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:32:08.49
>>575
卑弥呼&邪馬台国は、崇神や三国遺事と関係がない。
579日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:33:00.05
後漢書に曰く。 光武の中元二年、倭國奉貢朝賀し使人自ら大夫と稱す。 光武、賜うに印綬を以ってす。 
安帝の永初元年、倭王師升等、生口百六十人を獻ず。 景初の辰 文錦の獻を恭ず 
魏志に曰く。 景初三年 倭の女王、大夫難升未利等を遣わし、男生口四人・女生口六人・斑布二疋二丈を獻ず。 
詔して以って親魏倭王と爲し、金印紫綬を假す。 正始四年、倭王また大夫伊聲耆振邪拘等八人を遣わし生口を上獻す。
580日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:38:05.06
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 21:47:08.32
>卑弥呼&邪馬台国は、崇神や三国遺事と関係がない。

それを証明できるのが編年である。

>その大倭王は邪馬臺に治す。

大倭とは、統一倭国の呼び名であり、その初めは倭人伝の大倭である。
582日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:57:31.21
私が伊作氏と議論してもいいが、今から用事があるというか。

で、彼、熊本説らしいが、実は彼の説をよく知らんというかw
「熊本説」「倭人伝は正しい」「万二千里を重視」してるらしい・・・
まあ、彼のレスをみる限り、いろいろ詳しいのは確かだね。
583唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 21:58:19.61
魏志に曰く。 景初三年 倭の女王、大夫難升未利等を遣わし、男生口四人・女生口六人・斑布二疋二丈を獻ず。 

詔して以って親魏倭王と爲し、金印紫綬を假す。

女王、女王国が以後も登場する以上、書き換えが存在する。
倭王位授与は正始元年 邪馬臺國である。
晋書正始元年東倭重譚納具。 ←この書につなげるには、
女王卑弥呼は倭奴國王位継承=景初3年女王を魏は認めている。
カテイ等は邪馬臺國を訪れ、倭王位を受けることを上奏。王はその年のうちに洛陽を訪れ倭王位授与。
584日本@名無史さん:2011/12/03(土) 22:07:46.84
>>581
全然別な国に、全く別な同時代人がいただけであって、単なる別人。
義経とジンギスカンも別人。
585天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/03(土) 22:11:41.94
ドンこい99が終了したので申し訳ありませんがこちらでやらせて貰います。

985 :日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:04:10.48
>>973 deshabariな縄文人

言っていることが(反論として)良く分からないな。
俺が言っているのはもっぱらその範囲なのだが?
じゃあ仮に 上部黒色炭質粘土層の 2000〜7000(yBP) と言う数字がもっと新しい年代にまで下るとして、だからどうしたんだ?
?〜7000(yBP)に滞水域で粘土が堆積した地層が
調査した全域に広がっていて広大な湖を想定せざるを得ないのか?と聞いている。
一体これの何処をどう見たら弥生時代の盆地を覆った湖が見えてくるんだ?
資料の地図にどうやったら湖岸線を描けるんだ?
お前が言うところの「 かがくてき 」な見方をすれば直ぐにそれが伺えるらしいが
そんなことにすら本職の学者らは気が付いていないんだよな?w
(以下略)

1.範囲を調べるにはコアリング調査の箇所数が少なすぎるのですが、少なくとも天理市朝和地域は縄文時代後期から弥生時代にかけて
 湖沼状態であったと西田氏らは認めている。
2.調査された地域は龍王山の麓に近く、大和川の上流域に位置する。つまり、奈良盆地における特別な低地、湿地地帯ではない。
 そのような地域で上記1の調査結果が得られたということは他の地域を調査すれば似たような結果が得られる可能性が高いと考えられ
 るということです。
3.湖岸線を描く目的で調査されている訳ではないので不可能です。湖岸線を描くには盆地全域に亘っての膨大なコアリング調査が必要です。
4.本職の学者の中には気付いている人も居ると思いますよ。ただし、調査しなければ全貌を明らかにすることが出来ませんから何も言えない
 筈です。学術論文とするにはデータが必要です。調査して欲しいのですが、十分な調査をするには数十億円の研究費を要するでしょうから
 手を出せないのかも知れません。


586日本@名無史さん:2011/12/03(土) 22:16:58.49
>974 :夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2011/12/03(土) 19:28:15.88
>やれるだけやってみるか。

彼の玉砕覚悟の決意が分かるレスだねえw
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 22:24:13.44
卑弥呼が奥九州の遠絶の地に共立された事実は有る。
588太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 22:32:50.55
>女王卑弥呼を隠し、倭に臣従する百済王家を無視し、
>百済の属国倭となることを画策する太国。

こんなことを主張していない。無視ではなく有視である。しかし〜
百済は半島史、コチラは日本史である。
つまり百済はオマエのような煩頭人が画策してるだけのこと。

紀の編者もコチラも卑弥呼を隠す筋合いはな〜い。

臣下伊支馬を隠し、猿に臣従する地球人間を無視し、
猿類の属酷となることを画策する宿主。
589太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 22:36:38.09
>それを証明できるのが編年である。

それを証明出来てないのが↓あの空年である。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
590唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 22:44:34.04
紀の編者もコチラも卑弥呼を隠す筋合いはな〜い。
同じく、倭に臣従する百済王家も記載されている。
差し込みには”百済記云う”と書かれている以上無視することは出来ない。
差し込み記事でない百済王家を無視する蓋然性は全くない。

隠さねば困る事情が太国にある。なんだ?
太国倍年と整合しないからだろ?
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 22:49:35.71
>>589 名前:太国
>それを証明できるのが編年である。

そちらに西暦を振って正しいと主張すればいいだろうに、いまだに西暦を振れない
事実は?

>紀の編者もコチラも卑弥呼を隠す筋合いはな〜い。
南九州の遠絶の地に隠したのではないか?
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 22:51:22.58
>無視することは出来ない。
無視しないで正確の編年がオマエは出来ない。ww

なにもコチラは隠す必要はない。編者も隠していな〜い。
オマエの妄想がそのひどい脳内で蠢いているから、そんなト○マな
盲象をしでかすのだ。

隠さねば困る事情が宿主にある。なんだ?
宿主空年と整合しないからだろ? →>>589
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 22:53:41.43
そちらに空年を振って正しいと主張すればいいだろうに、いまだに空年を振れない
事実は? ↓ 57年分の空年を振れないオマエ!
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御

594別格の論客:2011/12/03(土) 23:01:04.47
>>573 :唐松山
>どちらもがけん制し合っている状態である。
かんべんしてくれ。ついていけないほどぶっ飛んでるので敬遠してる。
きみと太国大神とのやりとりは、ひたすら視覚的に邪魔だし辟易している。
これが本音だ。

>>575
>伊作さんは旧編年で持論を展開している。
なんだその旧編年とは。
俺は創作歴史書と現実の「年代絵合わせカルタ」などやったことはないぞ。
595別格の論客:2011/12/03(土) 23:03:07.71
>>582 :日本@名無史
>私が伊作氏と議論してもいいが、
小細工なし・不正なし・論拠ねつ造なし。
掛け合いテクニック無用・論理で勝負。
ハンドルつくってくること。
異常の条件をショゥチで・おいで。
汚い手を使ったらその時点で勝負ありだ。

>熊本説らしいが、実は彼の説をよく知らんというかw
予備知識として俺のサイトに目を通してくると話は早い。
議論の前提がほとんどできていない奴ばかりだが、これがが網羅してある。
596唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/03(土) 23:04:05.15
>>593
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)

この成務3章に含まれる。つまり編年に仕えない文献である。
だから太国も西暦を振れないんだろ?
まあ、西暦を振ってから主張するんだな、太国倍年は神功につまづいてその先は
わからない。としかなっていない状態である。
597太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 23:04:45.15
稀代のデ○○を把握して下さい。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 23:09:35.70
仲哀年代は成務年代ではな〜い。
よもやそれに含ませても、仲哀はたかが9年しかない。ppp

これでは57年分もの空年には程遠く、説明出来たことにはならない。
どうだ〜? 困ったか〜参ったか?
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 23:11:26.21
まあ、西暦41年を振ってから主張するんだな、宿主空年は成務につまづいてその先は
わからない。としかなっていない状態である。
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/03(土) 23:23:27.32
601日本@名無史さん:2011/12/03(土) 23:33:22.91
>>585 deshabariな縄文人

今度は最後までキャラ崩すなよw

>天理市朝和地域は縄文時代後期から弥生時代にかけて湖沼状態であったと西田氏らは認めている。

全面がその時代を通して湖沼状態などとは言っていない。
厳密に言えば

>朝和地域は完新世を通じて粘土の堆積で代表されるような
>低エネルギー堆積が” 支 配 的 な ”沼沢地であったことがはっきりと分かる。

…だ。何より、図8-1〜3において水域を示す斜線は限定的なエリアにかけられている。
ここが湖の一部とでもいうべき場所なら全てが水域に表示されるだろう。
(もっとも沼地と湖の間に自然堤防が形成されているという地形と言うのもあるのかもしれないがそれは別のお話)

>そのような地域で上記1の調査結果が得られたということは
>他の地域を調査すれば似たような結果が得られる可能性が高いと考えられるということです。

一箇所で沼地の跡があったから盆地全体がそうだと言うのは支離滅裂、少し頭を冷やせ馬鹿者。

>湖岸線を描く目的で調査されている訳ではないので不可能です。

湖全体のラインを描けなどとは言っていないぞ。
ここが湖の一部とい言うことが証明されてないと言う話だ。

>本職の学者の中には気付いている人も居ると思いますよ。

テレパシー能力は結構だ。
非科学的・非論理的、ムーレベルの似非科学ごっこ。

602別格の論客:2011/12/03(土) 23:36:20.30
天才が敬いて遠ざけるタレントイレブン。
@唐松山
A太国
B久留米
C分裂的思考散漫支離滅裂言動機内説害宣伝全キチ
D筑紫痔漏
Eサガミハラハラ
Fあらため
G世捨人
H名古屋大学
I夢幻如
J井戸端ヤジ郎名無しご一行
603日本@名無史さん:2011/12/03(土) 23:46:06.09
>>602 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 

頼りは老眼翁だけかw

ところで例の高島が講演で纏向の建物を5世紀のものだと言った…というお話は
お前のブログに悪のキナイセツの陰謀を世に知らしめるべく出してあるのかい?wwwwww


604日本@名無史さん:2011/12/03(土) 23:46:49.26
ホケノ山の件も忘れないでください(笑)
605日本@名無史さん:2011/12/03(土) 23:51:09.30
>>585
>調査された地域は龍王山の麓に近く、大和川の上流域に位置する。つまり、奈良盆地における特別な低地、湿地地帯ではない。
>そのような地域で上記1の調査結果が得られたということは他の地域を調査すれば似たような結果が得られる可能性が高いと考えられ
>るということです。

別に高原であっても湿地はあるんですが?w
606天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/03(土) 23:59:17.17
>>601
>>585 deshabariな縄文人
私はdeshabariな縄文人 ではありません。現代人であります。

>…だ。何より、図8-1〜3において水域を示す斜線は限定的なエリアにかけられている。
>ここが湖の一部とでもいうべき場所なら全てが水域に表示されるだろう。
既に説明しましたが、あの図は不正確です。再検討されるべきものです。

>湖全体のラインを描けなどとは言っていないぞ。
>ここが湖の一部とい言うことが証明されてないと言う話だ。
湖岸線を描けるか?という問いに答えたものです。湖の一部の可能性が高いと考えられると言っているのです。
証明となれば他の地域も含めて詳細な調査が必要だと言ったのですよ。

>テレパシー能力は結構だ。
テレパシー とは関係ありません。あのようなデータがあれば本物の学者であれば気付くだろうという私の感想
を述べたものです。

>非科学的・非論理的、ムーレベルの似非科学ごっこ。
そのようなことを論評できる能力があなたにあるとはとても思えません。


607日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:03:36.58
っていうことは、畿内に巨大権力が勃興するなんて、無理じゃん。
608日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:05:11.50
>>606 deshabariな縄文人
>湖の一部の可能性が高いと考えられると言っているのです。

その根拠がないわけだ。

この沼地の直ぐそばに縮退した湖があるとでも言うのかな?
そんなものはお前の妄想でしかない。

無論そんなものはありませんでしたなんていう悪魔の証明を俺がやる義務はない。
立証の責務はお前が負え。

一体これの何処が科学的で理論的なのか?

馬鹿も休み休み言え。

いや休み休みハンドル変えて繰り返さなくていいから晋どけwwwww
609天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 00:07:33.37
>>605
>別に高原であっても湿地はあるんですが?w

それはそうですよ。私が言っているのは天理市朝和地域が他の地域から(例えば堤防のようなもので)隔離された
閉ざされた領域ではないということです。
610天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 00:13:57.59
>>608
>>湖の一部の可能性が高いと考えられると言っているのです。
>その根拠がないわけだ。

根拠は述べていますよ。あなたは頭が悪いし、奈良湖の存在を認めたくないから理解できないのです。
611日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:21:30.28
>>610 縄文人

俺が頭悪いのは良いからリアルで他の人にも理解してもらおうぜ?w

世紀の大発見だあ(棒読み

612天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 00:24:24.03
>>608
書くのを忘れてた。

>無論そんなものはありませんでしたなんていう悪魔の証明を俺がやる義務はない。
>立証の責務はお前が負え。

科学者として証明するには奈良盆地全域に亘って詳細な調査が必要だと言った筈です。
悪魔の証明という言葉が好きなようですが、「盆地湖は無かった」を証明するには奈良盆地全域に亘って詳細な調査
をすればよいのです。悪魔の証明でもなんでもありません。
613日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:29:57.06
まあぶっちゃけ
この天草・南蛮柿餅 四郎の恋とかいう(一体幾つ目のステハンか知らんがw)奴の言うことが本当なら

この調査に当たった人間はちょっと表土を除いた地層から地形を再現したら
何処もかしこも帯水域、それが(盆地中央標高の低いところに向かって)何処まで続いているかも分からない…
まあ予算も時間も限界があるからそれで打ち切り

…ということになるんだろうか?w

が、無論現実は別に河川の後背湿地で説明に困ることはない。
何処にもそんな弥生時代の巨大湖なんて与太を考える必要もない。

アホが勇んで
「これこそ盆地湖の証!」
とはしゃいでいるだけwww

614日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:38:20.69
>>612 deshabariな縄文人
>「盆地湖は無かった」を証明するには奈良盆地全域に亘って詳細な調査をすればよいのです。悪魔の証明でもなんでもありません。

その必要は件の調査で帯水域が調査範囲を超えて何処までも続いていて
ひょっとして巨大な湖の一部と言う可能性が出てきた…と言ったときだろう?w

誰かが「いやこの沼地の、外直ぐそばに巨大な湖があったに違いない!」

と言ったからそれを否定するために調査せにゃならんのか?wwww
常識の範囲で考えろ阿呆。

何にせよ件の資料では調査地域内でクローズドしている沼地で終了している。

それで終わり。

弥生時代盆地を覆った巨大湖を証明したければお前がやれ。





615天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 00:39:56.48
>>613
ははは。本日の議論楽しんで頂けましたか?ではこれにて失礼します。
また明日おばかな書き込みをお願いします。私は孤独でおばかなご老人の相手をしてあげることも大事だと
思っております。遠慮なく鬱憤をぶちまけて下さい。
616日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:40:52.10
しかし縄文人もこのネタに固執するなあ
よほど以前なぶられたのが悔しいのだろう
617ローガン:2011/12/04(日) 00:44:47.01
ドン来い990:筑紫の民
>堂ノ後古墳関連
>下記内容を土質や地層など理化学的正面(土器編年など考古学ではなく)から否定できる根拠はありますか?
>天理大歴史研究会の学生十数人が今年(2005年)1〜2月、遺跡のレーダー探査に詳しい同大文学部の置田雅昭教授(考古学)の指導で調べた。
>データを詳しく解析したところ、土質の違う部分が見つかったことなどから、堂ノ後の周濠(しゅうごう)の一部が埋められたり墳丘が崩されたりした後でホケノ山の周濠が造成されたと結論づけた。

君はどうやらCTスキャン並みの精度を想像しているじゃないか?
さておき、この件から我々が読み取るべき事は…
レーダー探査により、南側トレンチがビンゴ! という事。つまり発掘調査に先立つ、地中情報提供には有効な手段である事に対する再確認。

君は「否定出来る根拠」と言うが、方法論としては否定などする必要はない。もとよりデータからの可能性の推論として発表されたもの。
ところが、南側つまり前方部の調査から、ホケノ山より後世である事は確定。ゆえ、当初の「可能性の推論」は不成立。
で、君が一番知りたい箇所は、畑ゆえ未調査。 調査出来れば何故、「ホケノ山の周濠の方が下にある」と思しき情報をレーダーが提供したのか?
が、わかり今後のレーダー活用に有効なんだけどね。
618日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:44:47.22
>>616
と言うか縄文人は土木関係の仕事をしていると言う説があったが
案外その線でこのネタには自分の専門分野として何かかける物があるんじゃないかな?w

まあ盆地湖と言えば縄文人、縄文人といえば盆地湖だからなw

最大の売りと言うか、看板メニューと言うか
いくらチャーハンや餃子が美味くてもラーメンの不味いラーメン屋は格好が付かないわけでwwwwwwww


619日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:59:56.33
>>603
>頼りは老眼翁だけかw

「強敵」と書いて「とも」と読むみたいな?w
620日本@名無史さん:2011/12/04(日) 01:38:03.24
>>602
奴民はw
621日本@名無史さん:2011/12/04(日) 02:15:44.88
622ひとぶた:2011/12/04(日) 03:30:59.88
>>621

この資料から想定される湿地帯は、弥生遺跡の集中地帯とは被らないので、妥当な調査結果だと思いますけどね。
623日本@名無史さん:2011/12/04(日) 03:34:44.48
かつて湿地帯だった軟弱地盤の場所など全国どこにでもあるよ
624ひとぶた:2011/12/04(日) 03:50:51.33
>>623

そうなんですよねw
盆地に湿地帯が在ったって、それ以外の地域は弥生時代を通じて遺跡だらけなんだから、何が問題なのかと?
625日本@名無史さん:2011/12/04(日) 03:51:33.54
奈良は肥沃な湿地帯だったので、農耕で富を蓄え、王権が生まれて邪馬台国になったというわけか。
みなさんの議論でよくわかりました。

626日本@名無史さん:2011/12/04(日) 03:55:37.82
こんな湿地帯では、入植地として発達したとしか考えられないな。
627日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:04:21.02
問題は「弥生時代を通じて盆地に大きな湖があった」と主張する馬鹿がいることだろ
>>621のデータではそんな堆積層は認められないようだがなw
628日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:10:22.31
つまり、2世紀までに、吉備、東海、山陰、丹波からの入植者が奈良の肥沃な土地を求めて集まり、
奈良に邪馬台国が登場したということですね。

たいへん、よくわかりました。
629日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:13:24.04
>>628

ゴメン九州は呼んでなかったわw
630ひとぶた:2011/12/04(日) 04:14:12.14
>>625-628

岡山総社平野の地理的概況
http://www.city.soja.okayama.jp/mpsdata/web/1765/06_1.pdf

上の資料は、同じ沖積平野である岡山県総社平野の例ですが、
縄文晩期に始まる気候寒冷化・海退化で、博多湾、大阪湾(「河内湖」)、伊勢湾などでも同様の陸地形成手順が起こっています。
奈良に限らない話ですね。
631日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:16:23.63
縄文人はかつて盆地湖の話をジョーカーにクソミソにやられたから恨んでいるんだろう
632日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:46:21.54
事実の探求ではなく自身のメンツの方が大事だと思っているのなら
学問的な内容に口を出すべきではないな
633日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:48:44.94
>>631
と言うか論争するとか批判するとかはるか以前の問題。

もちろん「そんなものありませんでした」と言う証明ができるわけじゃなし。

遺跡だっていざとなったら地盤沈下で標高が変わってる。
湖の大きさも何度か収縮拡大を繰り返している。

…もう何でもありだw

要するに「抗弁できたら俺の勝ち」みたいなディベートゴッコ。

ネット上に転がっているpdf資料で素人が容易に辿り付ける答えに
とうの学者らがたどり着けず
自分達こそが真実にたどり着いているとか
某研究所が必死に隠蔽しているとか

…本気で思ってるんだろうか?

もうビョーキの世界だなw
634日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:51:16.28
>>619

老眼は、ときたまオベンチャラ(内心では馬鹿にしきってるがw)を言ってくれるからだろ。
635日本@名無史さん:2011/12/04(日) 04:52:23.50
>>634
独特の毒というかwww
636旧帝大歴史学徒:2011/12/04(日) 08:49:56.87
三角縁神獣鏡が近畿一円に分布してるかぎり九州説は非常に苦しいw
「尚方」の銘が入ったのは何枚あるのか知らないが、明らかに国産鏡もあるから
椿井大塚山古墳の被葬者が製作したんだろうが、その被葬者は何者だ?
637ボクは小学一年生:2011/12/04(日) 08:58:47.54
>>636

だいがくせいのおにいちゃん。
ボクは、これからパパといっしょにさー
いごきょうしつにいくんだよ。

おにいちゃんはさー
きょうはどこにいくの?
638:2011/12/04(日) 09:13:30.33
所詮、もっと明確な証拠が出てこない限りわかりっこないんだから。
ヨタ話を楽しむレベルでいいんじゃねえの?
何でお互いの人格攻撃までしなきゃいけないんだかわからない。
ばかみたい。
639旧帝大歴史学徒:2011/12/04(日) 09:20:53.87
その前にアカポスの研究者でないどころか、一流大で歴史学の学位ももってないような
素人の中の素人が、邪馬台国の勉強などしてる意味がまったくわかんねーよww
文献史学の見地から、素人風情が新しい有力な説打ち出せるなら
学者がとっくに邪馬台国問題など解決させてるし、もはや考古学上の新しい発見以外は
進展しないのは明白。邪馬台国に関わりたいなら、橿原考古学研究所や奈良県の
教育委員会の埋文にでも就職して巻向の発掘調査に携わるくらいしかないよ。
そんなこともわからんほど馬鹿とはね。素人なら歴史じゃなく、
工学系の分野で発明とかで勝負したほうがいいと何度も言ってるのに・・
そんなおつむもないから、素人でもかろうじて参入できる暗記メインの勉強で
資料の少ない古代史分野にはまってしまうのかなw
640:2011/12/04(日) 09:53:29.85
>639
そうそう。
それよっか、どうせなら絶世の美人女優を主人公にした「邪馬台国物語」でも
作ってほしいな。虚構、ファンタジーでいいから。
641縦目じゃないけどやってみようか:2011/12/04(日) 11:10:31.47
当たり前のことだが、ヒミコは男性に興味がない、わけではない。
と、いうよりも興味を示す素振りさえ、他人には見せられぬものの、健康な大人の女性として、十分な肉体と精神の持ち主である。
ただ、女王に祭り上げられた以上、性欲を満たす手段は与えられていないのだ。

牢獄のような宮室に閉じ込められ、話すことのできる男と言えば、給仕係の少年タテメか、たまに訪ねてくる弟のイニヱだけ。
ヒミコにはビアニズムの気は無く、婢の女たちのように互いに女芯を弄りあって諫めることはない。
しかし、床に就けば、自然と指先は生温かいクレパスへ伸び、日中の公務の疲れを癒すように静に指を動かすくらいである。

タテメには、何度か誘いを掛けたが、まだ幼く、また、女主人への畏怖からか、そのペニスは、つくしのようにしなやかなままである。
ヒミコが、女王になる前、まだ幼かったイニヱを捉まえて、悪戯をしたこともあるが、弟のモノはもう少し大きく堅く張っていたよう思う。

ある日、そのイニヱが、久しぶりに訪ねてきた。
「女王様、御機嫌麗わしかられ、何よりでございます、今日は、女王様の好きなヤマモモの実を土産にお持ちしました」
「わらわの御機嫌など麗わしゅうないわ、今日は、何の用で参られたか、また、雨乞いでもさせるつもりか、それとも・・・」
「いえいえ、今日は、とても重大な用件でございます、実は、クナの王より使いが参りまして、昨年の戦でのこと、互いに許し、
 好しみを結ぼう、とのことでございます」
「ほう、それは好いでは無いか、先の戦は、我らが負け戦、それを無しに好しみとは・・・・」
「・・・それが、一つ条件がございまして・・・その・・・ヒミココ王が、姉上にお会いしたいと言うわけで・・・」
「ヒミココどのが、わらわに・・・ウム、お会いするのに異存は無いが・・・」
「ハァ、それが、お会いして、姉上がよろしければ、そのまま娶って連れて帰ると!」
「・・・・そのヒミココ王と言うのは、どのような風情に男か。まあ、会って見るか・・・」
「姉上!」
・・・以下、好評なら続く
642日本@名無史さん:2011/12/04(日) 11:25:50.83
>>641
低能は低能専用スレに逝け。
643日本@名無史さん:2011/12/04(日) 11:28:46.32
>>642 だったら、ここで良いじゃないかw
644日本@名無史さん:2011/12/04(日) 11:43:52.46
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派

VS

橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
 様子見:公明
645日本@名無史さん:2011/12/04(日) 11:58:09.45
>>637
△鏡のあとに、熊本を中心とした装飾古墳が岩手県まで広がっているから、
君の説だと「邪馬台国熊本西遷説」になるけど、それでいいの?
646サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 12:07:24.82
同范鏡の分与元が椿井大塚山だからねえ。
3世紀末の被葬者らしいし、中国からきた職人達に
リアルタイムで作らせたで間違いなさそうだけど、
なんのために各地に分与したのかと考えれば
分与した豪族も中国の権威ってのを理解してたんだから、
倭国を九州限定ととらえる九州説ではもう苦しいw
647メ(外出先):2011/12/04(日) 12:26:18.09
名大君は一流大、一流大、うるさいよw

君は名古屋大学で歴史学を専攻してる学生かな?
それと〜素人連中が邪馬台国に関心を持ってやってるのは
君みたいに「勉強」するためじゃなく、たんなる興味でやってるんであって、
君がそうだからといって、他人も同じとはかぎらない。

そして私も君と同じ畿内説だが、九州説ていうのは、
君が考えてるような「浅い」というか「単純」なものではなく
倭人伝のほうには、"女王国"は九州だ と明記されてるんであって
文献史学の平野邦雄氏の本でも読むことをお薦めする。
又、考古学専門にしてる学者でも、邪馬台国は小さな連合国家の首長で九州内に・・・
ていってる人もいると思うぞ。
648メ(外出先):2011/12/04(日) 12:36:02.93
名大君

「至」と「到」については『よく調べたな』て褒めてやりたいが、
倭人伝ていうのは誤字もあるし、里数・戸数に関しては大雑把なのは確かだけど、
基本的には倭人伝は、かなり「詳しく」、「細かく」書かれてるんであって
「至」と「到」にしても、微妙な言い回しで書かれてることがわかる。
陳寿さんの筆法ともいうべきか・・・・
649メ(外出先):2011/12/04(日) 12:48:13.66
伊作君

>天才が敬いて遠ざけるタレントイレブン。

君がイノシシみたいな語りなので
逆に遠ざけられてるんじゃね?ww
650メ(外出先):2011/12/04(日) 12:55:21.16
よし、遺作くんは私が相手してやろう(世捨人じゃ役不足)。
ま、確かにこの人は他の人よりも知識があるのは違いないが、大した事ない。
邪馬台国は九州熊本を当ててるみたいですが、それは倭人伝の一方的な解釈であり、
全体を把握してないからそうなるんである。
私はこれからチト用事があるんで、おぬしの九州熊本説っていうのをここに書き込んでくださいな。
651日本@名無史さん:2011/12/04(日) 15:26:34.71
>>650 ┣¨壺
>邪馬台国は九州熊本を当ててるみたいですが、それは倭人伝の一方的な解釈であり

つうかお前が九州説やってた時熊本あたりを比定地にしてなかったか?w



652日本@名無史さん:2011/12/04(日) 15:32:02.63
なんだ。伊作とやらはドツボと同レベルだったのか。

はっはっは。
653天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 16:00:05.27
畿内説のおばか老人グループの皆様お待たせしました。
少しは骨のあるレスがあるかと期待していたのですが、相変わらずの感情論(鬱憤ばらし)だけですね。
しかし、せっかく無い智慧を絞って書き込んでくれているので、いくつかに応対しましょう。

>>613
>が、無論現実は別に河川の後背湿地で説明に困ることはない。
ほうほうほう。あなたはそれで説明できると仰るのですね。やって頂きましょうか?
河川の後背湿地はどのようにして形成されたのですか?その後背湿地は河川より標高が低いのですか?
黒色炭質粘土層ー砂層ー黒色炭質粘土層ー砂層ー黒色炭質粘土層ー砂層ー表土という土層構造はどうして出来たのですか?

>>627
>>621のデータではそんな堆積層は認められないようだがなw
調査場所の問題があります。盆地湖存在時に陸地であった場所からは当然黒色炭質粘土層はでません。また、湖消失後に河川と
なった場所では黒色炭質粘土層は削られて消失しています。いずれにしても621の調査では不十分で結論らしきことは癒えませんね。

>>633
>遺跡だっていざとなったら地盤沈下で標高が変わってる。
>湖の大きさも何度か収縮拡大を繰り返している。
>…もう何でもありだw
>要するに「抗弁できたら俺の勝ち」みたいなディベートゴッコ。

地下水のくみ上げで地盤が沈下したという話を聞いたことはありませんか?土地が硬い大きな岩盤の上に乗っていて土層も薄いところでは
そのような地盤沈下は起り難いのですが、奈良盆地中央部は場所によっては数十mの厚さの沖積土から成っています。

特に泥炭層では著しいのですが水分変化による体積の変化がおこります。水分が抜けると収縮します。
また、奈良盆地中央部は地震などによる液状化の危険が高い土層構造になっています。地震などの震動により地中が液状化しますと、標高の
高い部分が重みのため沈下し、標高の低い部分が逆に隆起したりします。
したがって、奈良盆地の遺跡の現在の標高が弥生時代のそれと変わらないということはむしろ考え難いことなのです。

以上のようなことは常識ですから、私が自説の都合に合わせるために言っていることではありません。
私にとっては「デイベートに勝つ」ことなど眼中にありません。
654日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:25:02.04
>>653

日曜日にレスしてる暇があったら、論文でも書いて、季刊邪馬台国に送ればいいじゃない。

きっと、大々的に特集してくれるよ。

655日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:45:17.18
「地質学雑誌」に送ればいいな
656日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:50:42.91
>>653 deshabariな縄文人(そろそろしびれ切らしてキャラ変えてくるかな?w)
>したがって、奈良盆地の遺跡の現在の標高が弥生時代のそれと変わらないということはむしろ考え難いことなのです。

「考えがたい」は良いからだったら、筋道としてそれ(特定のポイントの地盤沈下)を別途証明しろと言う話だ。

「可能性がある」をもって証明責務の免罪符にしていたら理論も何もない。

何か俺が間違ったことを言っているかな?要するに…

 「抗弁できたら俺の勝ち」みたいなディベートゴッコだアホらしい。



657日本@名無史さん:2011/12/04(日) 17:10:45.81
標高を語るなら、弥生時代の平均海水面の推移から語るべきだが、
縄文人にその知能はあるかな?
658唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 17:16:02.65
>>636 史学生へ
>椿井大塚山古墳の被葬者が製作したんだろうが、その被葬者は何者だ?

被葬者の名前の前に、椿井大塚山古墳の歴史的位置さえ表記できない現在の史学。
それが、現在の史学の実態だ。

椿井大塚山古墳は、秋津遺跡と連動している。
そこでだ、史学は“秋津遺跡をどの位置に置いている?
その前に、纒向5類の歴史的位置が分かっているのかな?
659レス長たらし毘古:2011/12/04(日) 17:34:17.64
えーと、当時(まで)の奈良盆地がどうだったか?に関しての私見ですが。
当方は葦の密生する沼地湖(湖沼地帯)であり、そこが「湖から陸地になる
過渡期」であった可能性を感じます。
すると、東征勢力(少数)が地元勢力(多数だが連合体)にパワーバランス的
に潜り込んでいったと言う古事記の基本構図が成り立つからです。
(但しこれを一人の神武の一代による物とは想定していません(神武複数))

スイゼイ〜開化までの時代は従って「干拓」にその国力を割かざるを得ず、
従って古事記には目立った記述がなく、気がつけば内外の多数の勢力(出雲・
九州・関東を含む)の混在地となっていた。と言う構図で想定しています。
そしてその時の干拓技術は、後に「巨大古墳作り」へと転用されて行きます。
「土を盛る土木作業」は、実用を終えて、葬式利用・式典利用へと天下って
行ったのです。(と想定)

瀬戸内海中で最高峰のお嬢様である、モモソさんは、その祖父〜親の代に
瀬戸内海勢力での最高版図を拡大し、西は九州東北部まで進出します。そして
対魏外交上「名目上のTOP」へと祭り上げられます。(と想定)
660日本@名無史さん:2011/12/04(日) 17:42:23.00
>天草・南蛮柿餅 四郎の恋

…ところでお前は
「上部黒色炭質粘土層が削られている可能性があり年代ももっと新しい時代まで下る」
云々言っているところから察するに

(まあ実際はその場合でもその「沼地」が今の想定より後代まであったというだけの話に過ぎないわけだが)

その盆地湖が紀元後まであった可能性まで視野に入れていると思うが

恐らく地質学的な時間感覚で言えばそれこそ「このあいだ」までその盆地湖があったわけだろうが
どうして消失したか?何かアイデアと言うか妄想ストーリーは持っているのかな?

お前は知らないと思うが(←勿論、棒読み)昔 ゴミクズレベル九州説 の代表格みたいなコテに縄文人というのがいて
九州から無敵鉄器軍団がヤマトにやってきて巨大プロジェクトで陸地化したという壮大な与太話をしていたんだが…

もっと壮大なお話を持っていたりするのかな?w
661唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 17:50:06.55
ホケノ山古墳は茅原である。
古墳築造時はスガワラと呼ばれていた可能性が高い。
チガヤ・スゲカヤ=ススキ。焼き畑の2次植生。
アシ原には遠い。
662レス長たらし毘古:2011/12/04(日) 17:58:55.38
【古墳防塁兼用仮説】
さて、古墳とは何であったか?これに関する明快な回答は残念ながら少ない。
しかし、浅学でセンスと斜め読みだけで勝負の当方は、こう考える。
「確かに墓でもあるかもしれないが、防塁でもあるんじゃないかい?」と。
平野部やなだらかな丘陵部においては、そこを境に両勢力が接する場合、そこ
には「争い」が絶えない。だがしかし、そんな場所に「神様(或は昔のお偉い
さん)が埋まっている小山」があれば、どうだろうか?
そう、そうすると、そこに「国連軍」を置く名目にもなるし、両勢力を同時
監視できる守護代にも成り得る。また、小山は他より「比較的高い位置」に
なるので、防衛効果は高くなり、比較的少数で防衛可能である。

つまり、地元勢力を監視しそれらのパワーバランスを保ち、何かの有事の際の
防衛拠点にも出来るのである。築城の土木技術と干拓の土木技術は江戸時代
において併用性があるが、なぜこの時代にそれが無かったと言えようか?
そう、奈良湖沼盆地の干拓事業が完了し、その余剰労働力は「巨大古墳増産」
へと向っていくのである。国司(言い換えるならこれが今の国連軍か?)が
置かれて行くのも丁度この頃なのであーる。
663日本@名無史さん:2011/12/04(日) 18:05:59.53
防塁ねえ しかしできたての古墳は草も木もない石貼りだぞ
周壕は溜池として使えるかも
664レス長たらし毘古:2011/12/04(日) 18:09:18.55
「自然」のみで考えた場合。あんなに大きい「琵琶湖」があるのに、
「奈良湖」が無いのが少々奇妙だ。標高的問題も希少だし、降水雨量河川水量
等考えても、あってもおかしくはないこの「奈良湖」

だが、湖沼地帯で陸・沼・陸・沼であったならば、普通に郷村の防衛長が
「埋め立てた方が早いんでね?」と考えたとしてもおかしくない。特に稲作
文化の最初の興隆期でもある。山林を切り開く労力と比べても、浅い湿地帯の
埋め立ての労力はそれほどの大差も無いのである。

近畿の土豪勢力が成長するに従い、浅い沼はどんどん「国内」となるワケで
あり、国境としては有用な「沼」も、国内交通から考えると「邪魔」に感じて
来る可能性は低くないと思われるのだ。
665レス長たらし毘古:2011/12/04(日) 18:11:50.64
>>663
鋭い指摘ありがとうございます。初期の万里の長城は「馬で飛び越せない程度」
の高さしかなかったと言われています。(対騎馬民族対策ですからそれで充分)
防衛上は身長差程度の段差で、理論上はその機能を持ち得ます。
666日本@名無史さん:2011/12/04(日) 18:16:07.91
古墳なんかすぐ迂回できるだろ
騎馬ならなおさら
それはそうと古墳の向きや被葬者の頭部の向きについての
研究もあるけどこれといった成果は上がってないな
667レス長たらし毘古:2011/12/04(日) 18:22:36.35
>>666
>古墳なんかすぐ迂回できるだろ

全く同感。だからこそ国連軍としての役割しか無いので、地元勢力にとっても
全く脅威には成らないし、そこに神(先祖)がいるので畏敬の対象にもなる。
取り囲まれない限りは機能を発揮するので、「二つ以上の複数地元勢力」の
境界防衛拠点としては、むしろ「うってつけ」なのであーる。
668日本@名無史さん:2011/12/04(日) 19:21:32.19
最近ジョーカーは、天草・南蛮柿餅 四郎氏の恋の前でタジタジだなあ〜。
レス長たらし毘古氏が天草・南蛮柿餅 四郎氏と、まともな会話をしているのを見ると、
罵倒や蔑視発言に終始するジョーカーの役目など、百害あって一利なしだなぁ〜。
669日本@名無史さん:2011/12/04(日) 19:25:10.53
自演乙
670天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 20:35:15.13
>>656
あ、お元気でしたか。なによりです。寒くなりましたからお気をつけ下さい。年寄りは一寸した風邪でも大事にいたりますから。

>「考えがたい」は良いからだったら、筋道としてそれ(特定のポイントの地盤沈下)を別途証明しろと言う話だ。
私は奈良盆地中央部についての一般論として説明をしたのですが、そこの地層が粘土層を含む分厚い沖積土層からなっており、
したがって、地下水位低下で地盤沈下を起こす、また、地震などで液状化する危険が高いということの根拠となる資料として下
記を(とりあえず)挙げておきます。でたらめを言っているのではないということを示すためです。
http://www.pref.nara.jp/secure/26146/s_01_02.pdf
なお、「弥生遺跡のある特定の場所についてどれほどの地盤沈下があった」ということおよびその証拠を示すのは非常に困難です。なにしろ弥
生時代の標高(当時の海抜高さではなく現在の標高基準でのもの)あるいはなにか基準となる山の高さとの比較などの記録が存在しませんので。

>「抗弁できたら俺の勝ち」みたいなディベートゴッコだアホらしい。
あらら。あなたはディベートで私に負けたと思っているのですね。私はディベートで勝つ、負けるに関心はありません。
671天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 20:45:38.46
>>660
>お前は知らないと思うが(←勿論、棒読み)昔 ゴミクズレベル九州説 の代表格みたいなコテに縄文人というのがいて
>九州から無敵鉄器軍団がヤマトにやってきて巨大プロジェクトで陸地化したという壮大な与太話をしていたんだが…

そうなんですか。それで私のことを縄文人と呼んでいたのですね。しかしその人は面白い方だったのですね。
無敵鉄器軍団かどうかは分かりませんが、私も九州辺りから鉄器と技術を持った人達が来て奈良盆地の干拓事業をやった可能性
はあるのではないかと思います。レス長たらし毘古さんも似たような見解を述べておられますね。面白いですね。
672日本@名無史さん:2011/12/04(日) 21:03:15.43
>>670 deshabari縄文人
>なお、「弥生遺跡のある特定の場所についてどれほどの地盤沈下があった」ということおよびその証拠を示すのは非常に困難です。なにしろ弥
>生時代の標高(当時の海抜高さではなく現在の標高基準でのもの)あるいはなにか基準となる山の高さとの比較などの記録が存在しませんので。

じゃあ、どの道
「そもそも地盤沈下があったのか?」
「あったとしてどれくらいなのか?」
も検証不可能だな。

だったら縄文・弥生遺跡があったならそこは陸地だったと言う極々常識的な判断をするしかない。
なんにせよお前の言っていることは現状「たら・れば」を重ねた上での証明不可の机上の空論。

普通こう言うのは「科学的」とは言わないんじゃないか?(苦笑

>あらら。あなたはディベートで私に負けたと思っているのですね。私はディベートで勝つ、負けるに関心はありません。

さあねえ、少なくとも負けているなんて実感はないなあ。

確か競技ディベートじゃあ勝敗は第三者が決めるんじゃなかったか?
そりゃそうだ、お互い負けを認めなければ勝敗なんて永遠につかないw

まあこの2ちゃんなら ゴミクズレベル九州説 の支持でお前が勝つというのもあるんじゃないか?

ただリアルじゃあただの与太話だろうがw 無論それは「俺が勝った」と言うことでもないんだがw
単に馬鹿が馬鹿な事を言ってただけと言う話でw

「自分はディベートゴッコには興味がない」と言うなら尚の事現実を直視した方がいいぞ阿呆w
673日本@名無史さん:2011/12/04(日) 21:33:40.13
>>671 deshabari縄文人
>私も九州辺りから鉄器と技術を持った人達が来て奈良盆地の干拓事業をやった可能性はあるのではないかと思います。

((( なるほど、まだその線は捨ててないのか…というかここが肝なんだろうなあ(苦笑 )))

で、邪馬台国スレという本来の趣旨で聞くがその鉄器を駆使した九州のゼネコンつうのは邪馬台国なのかな?所謂、邪馬台国東遷説?w

九州からそう言ったそう言った集団がやってきたと言う資料は何かあるのかな?

例えば・・・
鉄器を挙げているのを見ればその壮大な土木事業に九州から鉄器加工技術を持ち込んだと想定しているが
そのような九州からの技術の伝播、それに伴い鉄器の急速な普及を想定しうるような資料とか…
そもそも問題の3世紀
ヤマトはまだその壮大な灌漑工事の途中でとても邪馬台国なんかが出現するような状態ではなかったとかのお話なのかな?(嗚呼既視感 w)

とりあえずこの与太話が邪馬台国のお話にどう絡んでくるのか?聞いてなかったなw

つうか普通この板にやってきた人間がいきなり奈良盆地湖ネタを御開陳と言うのも大概にアレだがwwwwwwwwww





674天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 21:40:12.23
>>672
>だったら縄文・弥生遺跡があったならそこは陸地だったと言う極々常識的な判断をするしかない。
そのとおりですよ。私は縄文・弥生遺跡があるところまでも湖沼だったとは言っていませんからね。
ただし、盆地中央部の(現在の)標高の低いところに縄文遺跡があったかのごとき流言がありますが、明確に縄文時代と分かる住居跡などの
遺跡ではなく石器の類が出土した程度では縄文遺跡とは言えませんね。

>なんにせよお前の言っていることは現状「たら・れば」を重ねた上での証明不可の机上の空論。
それはあなたの認識が間違っていますね。私は単なる「たら・れば」の論を述べたのではありません。

「粘土層や泥炭層を含む分厚い沖積土層地盤では地下水位の低下により地盤沈下が起る」
「奈良盆地中央部の地盤は粘土層や泥炭層を含む分厚い沖積土層からなる」
「したがって、奈良盆地中央部では地下水位低下による地盤沈下が起こり得る」

と学問的にも常識的で妥当なことを述べているのです。

「粘土層や泥炭層を含む分厚い沖積土層地盤では地下水位の低下により地盤沈下が起るならば」
「奈良盆地中央部の地盤は粘土層や泥炭層を含む分厚い沖積土層からなるならば」
「奈良盆地中央部では地下水位低下による地盤沈下が起こり得る」

と言っているのではないのです。両者の違いを分かっていただけますか?
675サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 21:46:03.82
今日△鏡の本買って読んでたら、卑弥呼への下賜品の中に
△鏡含まれてるわこれww

陳氏の作ったもので、銅出徐州 師出洛陽
の銘が入ってて、最古式の型のやつが下賜品だし、
240年当時の日本に呉からきた鏡職人などいやしないわ。
倣製鏡が出てくるのは、もう少し先の時代で、
卑弥呼の時代はまだ舶載鏡の時代だわ。
676サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 21:56:04.64
>>658
椿井大塚山が同范鏡の分与元の一つだけど、
巻向の卑弥呼から大量にもらっただけだったわw

貴方も自説を主張したいなら論文でも書いて雑誌に投稿すればいい。
秀でた物なら採用され雑誌に載るはずだから。
677唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 21:56:34.78
>卑弥呼への下賜品の中に△鏡含まれてるわこれww

何年いや何十年前の本だ?
纏向3類(前) 庄内3式期末  ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺 
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
678日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:02:37.86
>>675

巴形銅器が作れる技能があれば、△鏡も作れるって。
九州から職人を呼べば国内生産可能。銅は輸入。
679日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:08:37.39
>>674 縄文人

あのなあ「起こり得る」は「たられば」だろうが阿呆。
その起こり得たことが実際に起こったことを証明するのが科学的なんじゃないのか?

>標高の低いところに縄文遺跡があったかのごとき流言がありますが

「流言」ねえ。
先ず自説(この場合盆地湖)ありき。
それに反するものは資料として認めない徹底的にイチャモンをつける

…いつものパターンだなw

最近で言えば 
鉄器の多寡=国力 故に現在の遺跡の出土そこからの人口の推定等は事実を正しく反映していないとしてこれを排除。

こう言うのが典型的なディベートゴッコだと思うぞw






680日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:15:19.89
まあ、畿内は入植地だったってことだけは言えそうだな。
681サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 22:21:21.74
いや、魏鏡説を否定するほうが苦しいね。
オール国産説を強弁するほうがもう弱いわ。
682日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:25:09.40
>>681
中国で△鏡が1枚も出ていないから、説得力ゼロなんだよ。
683サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 22:30:57.56
>>682
それがどうやら△鏡と同じ模様で、同じ工房で作られたであろう
鏡は中国から出土されてるらしく、神獣鏡認定されてないだけらしい。
まだ本読んでる途中だからまとめきれてないが。
684日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:31:28.08
>>683

△鏡の話してるんだが?
685日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:33:15.23
神獣鏡なら中国製のが中国で出土するでしょ。
686天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/04(日) 22:35:18.93
>>679
>あのなあ「起こり得る」は「たられば」だろうが阿呆。
>その起こり得たことが実際に起こったことを証明するのが科学的なんじゃないのか?

違いますね。あなたには「科学的」な思考力がないようですね。
分厚い沖積土層の地盤沈下や隆起という変化は起こり得るというのは科学的、学術的に知られていることです。
「起れば」ではありません。

弥生遺跡の場所がどれだけ沈降したかは弥生時代のデータがないから言えないのです。そこの土層の厚さが40m
であれば地下水位が20m低下すれば3mほどの地盤沈下があるだろうと言うのは推測ですが、実際にそれが起った
ということを証明することは出来ないのです。証明できることと出来ないことをちゃんと区別しなければいけませ
ん。あなたのように「証明出来ないことを求める」のは科学的ではありません。そんなことを言っていたら古代史
は一行も書けないでしょう。合理的な根拠を基に推定する以外にないことの方が多いでしょう。

今日はこれにて失礼します。


687サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 22:35:59.46
画文帯神獣鏡を手本にして卑弥呼のために特注した鏡だし、
新しい創意工夫を施すために、いろんな形式のやつ試したらしいから。
688太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 22:37:06.67
紀無い節での大陸への特鋳というのは考えにくい。

なぜなら、特鋳を頼むなら、鏡作神社とその社伝からの日本での鏡改良
が出来たんだから、畿内にいた鏡作に頼めばいいことだ。鏡の大陸年号
から鏡作に大陸人がいたんだから、日本にいるこれらの大陸人に鏡を
造らせればいいことだ。だからいよいよ紀無い節は崖っぷちだ。
689サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 22:38:17.77
>>684-5
いや、それが△鏡は中国から出土しないってのも
どうやら間違いらしいんだわ。
690日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:39:19.50
画文帯神獣鏡 - 日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、
日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本からは約60面出土している。
畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の
銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である。


平縁神獣鏡 - 呉で製作された。揚子江流域の江南地方には、環状乳神獣鏡、
重列式神獣鏡、対置式神獣鏡、同向式神獣鏡、求心式神獣鏡などの類がある。
桜井茶臼山古墳から破片。斜縁は、半三角縁とも呼ばれる。
691日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:43:33.87
>>686 縄文人
>今日はこれにて失礼します。

「ほなな〜」はもう使わへんの?w
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 22:49:29.10
>>689

景初3年銘の△鏡は、大和朝廷の鏡であり、3世紀後半〜4世紀初めにつくられたことは
間違いない。間違いは君のその過程にある。
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 22:54:16.35
239年鏡は239年ころ造られたのが大半だな。例の500枚鏡だがね。

ウィンドウズ95が製造発売されてそれを多数のユーザーが使用したのが、
当然1995年ころだ。その50年後の2045年にウィンドウズ95をユーザーが
多人数使用していたと言う野郎はイカサマのデタラメだ。ww
694ひとぶた:2011/12/04(日) 22:55:05.37
>>674

> >だったら縄文・弥生遺跡があったならそこは陸地だったと言う極々常識的な判断をするしかない。
> そのとおりですよ。私は縄文・弥生遺跡があるところまでも湖沼だったとは言っていませんからね。

「遺跡があるところ」を認めちゃったら、現実に盆地最低部の河合から田原本までの地域には、
弥生遺跡は殆ど無いわけだし、弥生時代の奈良盆地への知見は、従来のものと全く変わりは無いじゃないですか。
「奈良湖」存在の有無は、自生説にも外部勢力主導説にも、どちらにも有利にならないと言うことですよ。
695日本@名無史さん:2011/12/04(日) 23:02:40.70
>>687

その発言、根拠のない100%トンデモ発言だぞ。

>画文帯神獣鏡を手本にして卑弥呼のために特注した鏡だし、
>新しい創意工夫を施すために、いろんな形式のやつ試したらしいから。
696日本@名無史さん:2011/12/04(日) 23:05:44.57
ああ、思い出したwwwwww

以前、縄文人とか言う奴とのやり取りで…

「じゃあその大規模な灌漑工事で湖面を下げ農地や居住地を得て
 巨大古墳築造に向かう為の国力を得たと言うなら
 その標高○m以下の(4世紀以後)新たに出現した田畑や居住跡を示す資料は?」

…と聞いたら返事がなかったなw

697唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 23:06:31.85
>239年鏡は239年ころ造られたのが大半だな。

そして、画像は、呉付近に留まり、洛陽には達していない。
同向式画紋帯神獣鏡・VL鏡など限られた種類の鏡は楽浪、公孫氏に分与されるが、
楽浪鏡が畿内に入るのは、任那建国後の任那からである。
この鏡では”景初3年銘鏡”はまだ作れない=画像が輸入されていない。
魏と呉は戦争状態であるから、魏に呉鏡は輸入されない。
698日本@名無史さん:2011/12/04(日) 23:11:09.11
そもそも魏が、敵対国(呉)の宗教図案を鋳込んだ鏡を
卑弥呼に送るわけがないだろう。
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 23:12:56.69
10円硬貨の 平成20年 と硬貨の表面にあれば、もう平成20年ころ製造
されたいうことになるんだぜ。平成20年は2008年だから、2008年ころ製造
発行されたわけで、2008年の50年後の2058年に製造発行されたんでは
ないんだよ。くらまし論で誤魔化そうとしても駄目だぜ。
700唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 23:14:47.90
>239年鏡は239年ころ造られたのが大半だな。

大和からの朝貢は田道間守より先行させることは出来ない。
崇神にとって、”景初3年”は、赤の他人である。
”景初3年”を他人と知らずに鋳こむことはできる。この場合それ相応に後世となる。
701太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 23:16:14.31
239年鏡(景初3年鏡)は当然239年ころ製造されて配ったものであり、
239年の50年後の289年ころ製造されたものではない。
702日本@名無史さん:2011/12/04(日) 23:21:56.20
>>天草・南蛮柿餅 四郎の恋
現在知られている地盤沈下は地下水をくみ上げたためだろう?
奈良盆地で地下水位が下がったという根拠はあるのかね?

溜まっていた湖水の消失=地中の水分の消失=地盤沈下などと簡単に考えているのかもしれないが
盆地湖が消滅したところで奈良盆地の地下水脈自体は失われたわけではないはずだが?

ついでにいうと
それまで軟弱な地盤を押さえていた”湖水そのものの重さ”の影響を考えたことはあるのかね?

703太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 23:24:38.06
百襲媛と卑弥呼とは ほぼ同時代の女だったということだ。百襲媛のほうが
卑弥呼より7年ばかり先に死亡している。ほぼ同時代とはいえど、
両女は別人なのだということを思い知わねばならない。
倭乱の終わったころであろうか、ミマキイリヒコが
立太子礼をあげたその翌年、漢滅亡直後に開化天皇は
次代の四道将軍の如き四方巡幸を始めたということだ。
次帝の崇神は先帝開化の行ったことを、四道将軍にも
再び行わせたのだということが分かる。開化の四方
巡幸が不十分で、それ以上に畿内外周等の視察が必要だったからだろう?
景初3年=239年 の前年、農民の飢饉、暴動を憂い、崇神天皇は神頼みで
の倭笠縫に皇祖とその象徴たる鏡を祭祀した。これが1次鏡であり、2次鏡
はその代用の模擬鏡であり、3次鏡が翌 景初3年の多数生産の3次鏡で
あり、この3次鏡が畿内からうんと出るのは、前年に日神と鏡を倭笠縫に
祭祀したことに因むのである。これらの鏡にてその前年の237年が
景初元年となるのだとのウラがとれたことになる。
紀の崇神5,6年の飢饉が、倭笠縫にアマテラス、鏡を祭祀させた事由だと
いうことだ。
704唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 23:29:19.99
弥生終末期・庄内並行期の銅鏡
  墳 丘 墓 名       鏡    名       後漢鏡の編年
  福岡・祇園山古墳      画文帯神獸鏡片
  福岡・津古生掛古墳     方格規矩鳥文鏡      漢鏡7期(ふみ返し)
  福岡・徳永川の上墳墓群   盤竜鏡、画像鏡片     漢鏡7期
             方格規矩鏡片、内行花文鏡
  大分・宇佐赤塚1号墓    斜縁禽文鏡
  香川・鶴尾神社4号墳    方格規矩鏡        漢鏡4期(ふみ返し?)
  徳島・萩原墳墓群      画文帯同向式神獸鏡    漢鏡7期
  愛媛・朝日谷2号墳     斜縁二禽二獣鏡      漢鏡7期
  愛媛・相の谷9号墓     細線獣帯鏡        漢鏡5期
  岡山・宮山墳丘墓      飛禽文鏡         漢鏡7期
  岡山・鋳物師谷1号墳墓   キ竜文鏡         漢鏡4期
  兵庫・西条52号墳     内行花文鏡        漢鏡5期
  兵庫・岩見北山1号墓    内行花文鏡        漢鏡5期
 大阪・加美2号方形周溝墓  内行花文鏡        漢鏡6期          
京都・黒田墳丘墓      双頭竜文鏡
 京都・芝ケ原12号墳    四獣形鏡(国産)     腕輪形銅製品2
 千葉・高部30号墳     斜縁二神二獣鏡
千葉・高部32号墳      四獣鏡        
長野・弘法山古墳     半肉彫獸帯鏡       漢鏡7期 
岐阜・観音山古墳     方格規矩鏡        漢鏡5期       
705太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 23:35:49.22
10円硬貨の 平成20年 と硬貨の表面にあれば、もう平成20年ころ製造
されたいうことになるんだぜ。平成20年は2008年だから、2008年ころ製造
発行されたわけで、2008年の50年前の1958年に製造発行されたんでもない。

239年鏡(景初3年鏡)は当然239年ころ製造されて配ったものであり、
239年の50年前の189年ころ製造されたものでもない。
706唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 23:39:04.18
庄内並行期の銅鏡
徳島・萩原墳墓群 画文帯同向式神獸鏡 漢鏡7期 この鏡の同ハン鏡は楽浪から出土しており
キズまで同一である。←公孫氏の楽浪鏡に分類され、ホケノ山も同類である。

この中に△鏡は存在しない。△鏡は布留1式以降である。
707唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/04(日) 23:44:47.73
>10円硬貨の 平成20年
そりゃそうだ、日銀は日本国政府の関係者。
それに対し太国は、崇神と魏は無関係を主張している。だから他人である。

大和の冊封は景初3年(田道間守)と正始元年(晋書正始元年東倭重譚納具。)
であらわされる。
708日本@名無史さん:2011/12/04(日) 23:47:14.73
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革
ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け
世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
709メ(ねる):2011/12/04(日) 23:59:38.90
>椿井大塚山古墳は、秋津遺跡と連動している。
>そこでだ、史学は“秋津遺跡をどの位置に置いている?
>その前に、纒向5類の歴史的位置が分かっているのかな?

秋津遺跡て曲学の徒氏がHpに書き込んでたあの遺跡のことか・・・
で、秋津遺跡からは、布留1式土器が出土してるんで纒向5類(290年頃)で
この土器をとおして椿井大塚山古墳とつながるって話なのかな???
椿井大塚山古墳ていえば小林行雄の△鏡分布図のイメージが強いが・・・
710メ(ねる):2011/12/05(月) 00:09:16.40
>>651
>つうかお前が九州説やってた時熊本あたりを比定地にしてなかったか?w

里数を約1/6で考えたらそこらへんダネって話だ
そんなことも分からないのか〜おめー
711メ(ねる):2011/12/05(月) 00:16:01.44
704をみてごらん〜ALL
最近の唐サンの考古学的なレスて光ってるね〜こうゆう投稿は歓迎というか
彼とおっさんの年代論は、みんな飽きちゃってる感じだしWW
712唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 00:16:17.65
今の歴史には登場しないが、秋津遺跡は重要な時空に位置する。
たとえば、応神の明宮ともできるし、
仁徳7年(320年程度)に建て替えはあったのか?とか
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧纏向5式  
考古学の編年は椿井大塚山までであり、それより後の数字を示せない。
ここに秋津遺跡がある。
713メ(ねる):2011/12/05(月) 00:19:13.21
ああ、やはり纏向5類という土器編年でいったらつながるて話なのか。
さっきまで秋津遺跡て△鏡でてたっけって探しまくってた〜WWW
714メ(ねる):2011/12/05(月) 00:37:34.75
上の方で「縄文人」、「縄文人」連呼し、うるさい奴がいるがW
居るのは、天草・南蛮柿餅 四郎の恋さんという人で、
縄文人なんてどこにも居ないじゃないか(彼が違うて言ってるのでいいじゃんて話しでW)。

そういえば縄文人ていえば、縄文カイシンで奈良盆地に奈良湖がどうの〜以外にも
伊都国が前原ではなく、佐賀ルートなんてのも言ってた記憶があるが・・・
佐賀ルートていうのは無いだろうねW

なんで佐賀ルート無いかというと・・・
朝鮮半島の釜山市〜対馬〜壱岐〜唐津市〜博多周辺では
その出土品でもある土器で繋がるが(金海式か楽浪土器か忘れたが)
佐賀ルートでは、こういうつながりがないんじゃなかっただろうか。
715メ(ねる):2011/12/05(月) 00:55:30.48
>最近ジョーカーは、天草・南蛮柿餅 四郎氏の恋の前でタジタジだなあ〜。
>レス長たらし毘古氏が天草・南蛮柿餅 四郎氏と、まともな会話をしているのを見ると、
>罵倒や蔑視発言に終始するジョーカーの役目など、百害あって一利なしだなぁ〜。

最近のあいつの様子がオカシイのは確かだなWWWWWWWWWWWWW
私にチャチャ入れる前に、自分はどうなんだって話でW
716メ(ねる):2011/12/05(月) 01:42:13.52
>翰苑についてはここの人らはどう評価してるわけ?
>「『邪ななめに伊都いとに届とどき、傍ら斯馬しまに連つならる』

WWW これは諸説あるんですが・・・

一般的には、
邪屆伊都 傍連斯馬(邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる)だろう。

ここは、伊都と斯馬は連なる意味で書いており、日本書紀の神功皇后四十六年条にも
筑前の人物としての「斯摩」宿禰、律令時代の「志麻群」から現在の「志摩」に通じるものがあり、
斯馬、斯摩、志麻(又は嶋)から志摩へと変わったことが分かる。

又、畿内説の中には、倭人伝の斯馬國を伊勢の「志摩」と考える人も居るみたいですが、
翰苑の記述を考えると、九州説に有利となる材料でしょうねえ。
717日本@名無史さん:2011/12/05(月) 02:22:40.77
ゴロあわせをしてるようじゃ、レベルは同じだ。

718サガミファン、小城説不支持派:2011/12/05(月) 11:13:18.53
△鏡については、いくつか魏鏡の理由があるが、
一度には書ききれない。理由の一つとしてあげられるのが、
太田南古墳群で発見された青竜3年(235年)の方格規矩四神鏡の存在。
鈕孔を長方形につくることや、外区文様の外周に突線を加える手法は
漢鏡や3世紀の呉には見られないにたいして、三角縁神獣鏡には
普遍的に確認できることから、三角縁神獣鏡も魏鏡の可能性が高い。
また銘も同じ「銅出徐州」が入っており、中でも河北省県出土の、
方格規矩四神鏡の、「吾作明鏡甚独奇、保子宜孫富無誓」銘は、
静岡県磐田市松林山古墳の三角縁神獣鏡の銘文と一字一句一致するところか、
独特でくせのある筆跡まで一致することから、方格規矩四神鏡を魏鏡と
考えるなら、三角縁神獣鏡も魏鏡と考えるしかなく、徐州で共に
作られたとみるべきだろう。

まずこれについて反論あったら、書いておいてねw
719唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 12:05:16.40
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラコク、金官伽耶、任那)は存在する。

邪馬台国と楽浪郡
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm

210年 崇神世
任那より朝貢 3世紀前半の大型建物 古韓尺の使用
垂仁による田道間守派遣
ホケノ山古墳 (225〜250年)楽浪鏡、鉄器は任那以後
穴あき壺(庄内3式)は初期の埴輪=垂仁末。
(225〜250年)に垂仁と田道間守を探せば、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁

垂仁末を239年とすると、纒向は2世紀末に崇神からはじまる。
720日本@名無史さん:2011/12/05(月) 12:47:38.59
>>718

銅の産地だけ記載した、製造地は記載していない、ってことは国産鏡そのものじゃないか。
721日本@名無史さん:2011/12/05(月) 15:25:35.29
方格規矩四神鏡が卑弥呼の貰った鏡なんじゃないかね?
もらう年の直前の紀年鏡があるみたいだし。
722日本@名無史さん:2011/12/05(月) 15:33:24.64
>外区文様の外周に突線を加える手法
福永の言う突線というのがどれを指しているのか分かんないんだが、
誰か解説してくれないかな。三角縁の山のことかい?
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 15:53:36.25
>伊支馬=イクメ=垂仁←猿の惑星等のみ通じる論。ppp

この地球上の古代日本では臣下(官)が天皇には絶対になれぬのが掟で、
道鏡の事件からも自明である。等号は掟を無視しており奴の頭が相当いかれ
ていると観て可である。ww

垂仁天皇は九州行幸などもしておらず、等号は成立せず。
724唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 16:29:30.59
方格規矩四神鏡は、時代が長い。
椿井大塚の方格規矩四神鏡は、3世紀末程度の数字しか割り振れない。
それよりも、土器編年の方が正確である。

古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究 佐々木憲一
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

これで見る九州の庄内式土器は、在来の土器と混ざらない=勢力が違う
九州の在来土器は、畿内の影響を受け庄内、布留型に近づく=畿内の下部につく
大倭は伊都国に1大卒を置き、諸国を検察する←これが土器から判る。
725ローガン:2011/12/05(月) 16:30:43.92
>>722
三角縁神獣鏡は外区を鋸歯文(きょしもん)・複線波文(ふくせんはもん)・鋸歯文からなる三帯の文様で飾る原則を持つが、よくみるとそのさらに外側に一条の突線をめぐらしている例のあることがわかる。
三帯構成の外区文様帯のさらに外側に施された突線を外周突線と呼ぶことにしよう。「邪馬台国から大和政権へ」(2001)

鋸歯文入れる時のガイドの線。
726唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 16:48:26.73
大倭は伊都国に1大卒を置き、諸国を検察する
この後 大和は魏の屯倉手法を取り入れ、各地に屯倉を設けその官を派遣する。
大型古墳の周辺の土器は、在地の土器より、畿内に近い。
管理されたかたちで半島の土器、竈がある(半島の人々が管理下で存在する)神功渡海後をあらわす。
727唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:02:26.33
>古代日本では臣下(官)が天皇には絶対になれぬのが掟で、

大和の王が倭王位授与後、王位を子孫に伝える。←中国皇帝の思想を取り込む。
古墳時代中期からの反省も踏まえ、継体あたりでの思考となる。←継体へは禅譲か?

728唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:07:23.31
>古代日本では臣下(官)が天皇には絶対になれぬのが掟で、
古代天皇は、魏・晋の臣下であった。=倭王位授与。が証明している。
729日本@名無史さん:2011/12/05(月) 17:11:30.19
>>728

その用語の使い方は矛盾してるよ。
「倭王」号を使った場合は中国の臣下だが、
「天皇」号を使った場合は中国の臣下ではない。
730日本@名無史さん:2011/12/05(月) 17:17:51.17
>>729
日本国内で天皇が何と呼ばれていようが
日本はずっと中国に朝貢し中国皇帝が与えた「倭王」の称号を受け入れていたんだが
中国から与えられる倭王の称号を返上して「中国の臣下ではない天皇の称号を認めてくれ」
と要求したことは一度もない
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 17:17:57.97
>←中国皇帝の思想を取り込む。
道鏡は伊支馬よりずっと後代だね。つまり道鏡の時代まで掟は続いて
いたということであり、等号は成立にない。
別人と考えるのが賢人である。オマエはどうやら頭がいかれて
いるらしい。ww
継体は臣下でない。皇族だ。

古代天皇は、魏・晋の臣下でない。=倭王位授与されていない。
つまり証明にならない。授与されたとかは記紀に書かれていない。

授与はオマエの脳内の創作そのものであり、脳内の創作は証明には
ならない。

授与とかは漢委奴国王とか卑弥呼とかいう九州の国の王たちであり、
別の国たる畿内天皇が授与された事実は無い。
732太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 17:18:58.22
>>729
稀代のデ○○を把握されたい。
733日本@名無史さん:2011/12/05(月) 17:21:38.66
>>730
中国側に天皇号を自称したら、即座に改称させられるだろ?
中国側に対して、絶対に天皇号など使えないんだよ。

だから、古代天皇が倭王を受号したことなど一度もない。
倭王を受号したのは、「あわきみ」とか「おおきみ」といった王にすぎない。
734唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:22:56.95
景初3年イクメは女王卑弥呼の官と記される。
魏から見れば、倭国の王は、倭奴國王位継承の女王卑弥呼しか存在しない。
魏が倭国を一つの王国とみなせば、女王卑弥呼以外すべてがその下につく。
これは仕方のないことである。
倭奴國王位継承の女王卑弥呼が、北九州の遠絶の地では魏使も会えない。
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:28:39.96
>「天皇」号を使った場合は中国の臣下ではない。

天皇は後世の呼び方であるから、当時ならば、スメラギが正解である。
天皇の称号自体が、中国からの独立を志向した呼び名ととらえれば、君の言い分が正解である。
つまり、太国の主張も通らない。
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 17:31:17.87
>景初3年イクメは女王卑弥呼の官と記される。
これはそのとおりだ。しかし垂仁が卑弥呼に仕えた事実はない。
それもそうだろう。天皇が他国の王、女王に仕えるわけがあるまい。

おまけに卑弥呼は九州の女王であり、畿内とは交易がない。
つまりこのことは垂仁が伊支馬にはならない、倭人伝は九州と若干山口県
あたりと四国西部は含まれる記述かも知れんが、畿内のことを語っては
いない。つまり伊支馬は九州あたりの官であり、畿内の垂仁とは距離が
隔たっており、両者は別人である。おまけに垂仁九州行幸など無いん
だから、伊支馬と垂仁とは別人そのものである。
737唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:38:03.40
晋書正始元年東倭重譚納具。
これは、景初3年の朝貢をうけ、魏からカテイ等が邪馬臺國に派遣され、
倭王位授与の召書を”仮の倭王”に上奏する。”仮の倭王”はそれに応じ(答え)
洛陽に使いを遣わし、倭王位を授与する。それが正始元年であるから
その3年倭王遣使とつながる。しかしこの後も女王・女王国が登場する以上別人・別組織である。
738唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:41:42.29
>天皇が他国の王、女王に仕えるわけがあるまい。 ←天皇の称号は書き換えてくれ
しかし、垂仁が田道間守を副使として同行させたのは事実である。
739唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:47:23.68
>おまけに卑弥呼は九州の女王であり、畿内とは交易がない。

九州倭奴國は神武以前の親の地である。
ホケノ山の楽浪鏡は、九州経由であろう。
庄内式土器の九州上陸は、それを否定している。
740唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 17:56:34.33
九州倭奴國は神武以前の親の地である。 女王卑弥呼は倭奴國王位継承。
先祖を敬うのであれば、畿内大和は、倭奴國王位継承の卑弥呼を敬う。

老いた親を敬うのは、現在の実力以前の問題である。
741天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/05(月) 18:39:47.04
>>702
>溜まっていた湖水の消失=地中の水分の消失=地盤沈下などと簡単に考えているのかもしれないが
>盆地湖が消滅したところで奈良盆地の地下水脈自体は失われたわけではないはずだが?

これまでは「地下水位」と単純な表現をしましたので誤解を受けるところもあったことと思います
広義の地下水は地表面より下にある水の総称ですが、私が言う地下水は狭義のもので、帯水層(地層に水が満たされて飽和している状態の層)の水を指します。なお、
地下水面より浅い場所で土壌間に水が満たされずに不飽和である場合の水は土壌水と呼ばれます。

奈良盆地に降った雨は地中に浸透して行き地下水となります。また山に降った雨も地中に浸透して行き地下水となります。したがって、奈良湖が無い現在の奈良盆地
でも地下水脈は消失することはありません。

私が述べてきたところの地下水位は帯水層水位のことですが、いま奈良盆地に湖が存在するとしてその水位が標高50mであるとしますと、陸地の帯水層水位は湖からの
水の浸透によって50m以上になります。50m以上というのは土壌の毛細管現象による水位の上昇分があるからです。
ここで湖が消失しますと約10mの供給水面が無くなりますから少なくとも約10mの帯水層水位の低下が生じます。

>それまで軟弱な地盤を押さえていた”湖水そのものの重さ”の影響を考えたことはあるのかね?
なにを仰りたいのか分かりかねるのですが、
軟弱な地盤というのは水を通す土層のことだろうと思いますが、湖水の重量はこの透水層にはかかりません。透水層自身は水で満たされていますので水の浮力を受けて
むしろ軽くなります。湖水や軟弱地盤の重さは不透水層にかかります。

上記のことは分かり難いかも知れませんので、次のような実験をされてみて下さい。
ガラス水槽に砂土を入れ、これに砂土を浸すだけの水を加えてかき混ぜ、静置します。そして砂土層の高さを測ります。
次に、静かに水を加えます。そして砂土層の高さを測ります。

上の操作を繰り返して調べれば、水の量が増えても砂土層の高さは変わらないことが分かるはずです。
742唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 19:01:24.91
環濠を掘るのは、農閑期の冬の仕事である。
環濠に水が溜まっていたのでは掘れない。つまり、冬の帯水域は環濠の底より低い。
そして環濠の内側の土地の帯水域もそれ以上のものではない。多ければ環濠に水は抜けると。

より乾いた土地がほしければ土盛りと整地をする。土を盛れば地は乾く=ヒ、ならす=シロ
景行の日代の宮はこのような土地に築かれる。3世紀中葉の大型建物。
743太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 19:11:07.20
>仮の倭王
なんだこりゃ〜? オマエの創作だな。
こんなんでは2ちゃんで通用しな〜い。ppp

天皇の称号を書き換える必要はない。

九州倭奴国が神武以前の親の地であるとか言うが、誰の親の地なのかの
記載がまるでない?? 卑弥呼のことなのか神武のことなのか??
まったく意味不明であ〜る。それ以下を読むと卑弥呼とあるそうな
ところ卑弥呼らしいが、定かでない? 意味不明??

また卑弥呼が倭奴国の王位継承なんぞの証明がない。つまりオマエの
これも創作なわけだ。かようにオマエはいかに創作ばかりやり通して
いるかが痛切に分かる。創作は証明にはならない。オマエの脳内の
デタラメの空想小説そのもの。ww
744日本@名無史さん:2011/12/05(月) 19:29:21.08
卑弥呼は倭奴国人じゃないでしょ。卑弥呼は邪馬壱国人。
倭奴国や邪馬壱国等が集まって首長国連邦を作ったのが倭国。
つまり倭国とは連邦名なわけだが、卑弥呼は邪馬壱国王として
連邦国家=倭国王も兼ねた。
745日本@名無史さん:2011/12/05(月) 19:29:43.47
>>741 天草・南蛮柿餅 四郎の恋

…ふむ、出典はwikiかな?

wiki『地下水』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%B0%B4

>地下水(ちかすい)とは、広義には地表面より下にある水の総称であり、
>狭義では、特に地下水面より深い場所では帯水層と呼ばれる地層に水が満たされて飽和しており、
>このような水だけが「地層水」や「間隙水」「地下水」と呼ばれ、地下水面より浅い場所で土壌間に水が満たされずに不飽和である場合は
>その水は「土壌水」と呼ばれる。このような狭義では、両者を含めた地表面より下にある水全体は「地中水」と呼ばれる。
>広義の地下水に対して、河川や湖沼、ため池といった陸上にある水は「表流水」と呼ばれる。
746日本@名無史さん:2011/12/05(月) 19:30:45.63
>>744は、>>740の唐松山宛てに書きました。
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 19:33:36.59
>>746
稀代のデ○○を把握されたし。
748日本@名無史さん:2011/12/05(月) 19:36:21.19
ホツマツタヘから古代史を見ると、妄想だけが見えてくる。
749メ(ねる):2011/12/05(月) 19:36:36.10
>鈕孔を長方形につくることや、外区文様の外周に突線を加える手法は
>漢鏡や3世紀の呉には見られないにたいして、三角縁神獣鏡には
>普遍的に確認できることから、三角縁神獣鏡も魏鏡の可能性が高い。

これは722さんが言うとおり福永だな
750メ(ねる):2011/12/05(月) 19:43:55.20
ォホ クニ ヌシヌシ 一族ぁ〜〜〜天照一族から侵略だっけ?

きちゃぇーーーーー きちゃぇーーーーーーーーーーーー へと追いやり
これが蝦夷のはじまり、はじまり(日本昔話) 
751唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 20:00:20.14
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
752日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:06:10.08
>>751
読み方が間違ってますよ。

朝貢した者は倭国連邦のうち、そのとき宗主国をやっていた倭奴国名義だった。
連邦国倭国はその後大いに乱れて、連邦国=倭国の首長として卑弥呼を立てた。
753日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:07:00.70
>>741 縄文人
>…(前段部分略)…ここで湖が消失しますと約10mの供給水面が無くなりますから少なくとも約10mの帯水層水位の低下が生じます。

最初のwikiあたりに出て知るような説明部分は分るが…
(そう言えば土壌に染み込んだ水と言うなら河川の場合、伏流水というものもあったな)

その後の湖消失に伴う地盤沈下のお話は何を言っているのか非常に分かりにくい
と言うか何を言っているのか分からないんだが
(これを読んだ俺以外の連中はすんなり分かるのか?)

要するに水深10mの湖が消失した場合、湖底であった地面は10mは地盤沈下起こすと言うことか?

そんな事が地質学や土木関係の分野で一般に認知されているのか?
さも一般法則として認知されているかのような書き方だがそこをはっきりさせてくれ。

※因みにこの”乾燥化に伴う地盤沈下”のお話は縄文人の”時も”聞いた記憶がある、既視感 20000%だw
 まあこれが土木・地質のジャンルで一般に認められているようなものであれば
 別の人間が同じことを言うのは当たり前と言う話だがwwwwwwwwww



754日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:07:51.57
つづき

卑弥呼は邪馬壱国の女王だったから、倭国連邦の宗主国は当然、九州邪馬壱国となった。
755日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:18:59.65
>>741 天草・南蛮柿餅 四郎の恋

それと、いい加減その盆地湖の話と邪馬台国のがどう繋がるのか説明しないのか?

完全に失念しているかもしれないがその「天草・南蛮柿餅 四郎の恋」と言うハンドルではまだないぞ?www

何故、日本史板の邪馬台国スレで盆地湖の話が出てくるのか?
その経緯も 十 分 過 ぎ る ほ ど に 知 っ て い る か ら wこうやってこのネタに参戦できるわけだw違うか?www

ニューカマーを演じるならそこは端折らない方が良いと思うぞw

もし単に純粋に盆地湖のあった可能性だけを語りたいのならスレ違いどころか板違いだ。
地質学でも扱う板に行け馬鹿者。

『地球科学』になるのかな?
http://kamome.2ch.net/earth/
756唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 20:28:16.71
>そのとき宗主国をやっていた倭奴国名義だった。

そのときとは、何時を指すか?
最低でも後漢に朝貢したのはこの倭奴國王である。
倭奴國は、3世紀初めで終了する前原王墓の主とできる=ここから暦年無主。
共立卑弥呼が年長であれば、この前原王墓の主と兄弟も考えられる。
いづれにせよ、旧倭奴國王が共立を認めなければ、倭奴國王位の継承は出来ない。
その倭奴國が筑紫を代表していれば、大和から見れば親の国。
ここをたてて、副使であっておかしくないだろ。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 20:29:06.68
おかしいおかしいメッチャおかしい〜〜ppppp
758太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 20:31:42.54
○ンマな宿主空年はすでに論破されている。
インチキの成務4年間、宿主空年はイカサマ。
57年分の空年使用の ↓ <形跡>は無い。空年の差し込み論はインチキ。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
759日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:34:42.39
>>756

まったく違いますよ。

北史 倭國条には、「倭国の歴史」が書いてるのであって、
「倭奴国」の歴史なんか全然書いてないわけ。
760日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:41:35.59
>>756

倭国連邦の宗主国が、あるとき倭奴国だったと。
その倭奴国が朝貢してきたことがあると。
その後、倭国連邦が乱れて、倭奴国や奴国や邪馬壱国といった
連邦国家群の人々は、邪馬壱国の卑弥呼を共立したと。

倭奴国1国で、どうやって「共立」できるの?
761唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 20:42:04.90
>連邦国倭国はその後大いに乱れて、
連邦国が成立するのは、どんぐりの背比べのごとき諸国では不可能である。
まず、なぜ連邦国家を形成しなければならないのか?
それには、連合して対処する出来事が存在しなければ成立しない。
その、出来事が238年の朝貢要請なのである。
この巨大国家からの要請にこたえるべく、卑弥呼を共立するのであって、
それがなければ、小国家群のままで何の支障もない。
762日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:45:50.77
>>761

はあ?
どんぐりの背比べでも、連邦は成立しますが?
自然発生的な物流もありし、海洋民の水場利用権の問題もある。
遭難時の都市国家間協定もある。
半島から鉄を採ってきているから、なおさらでしょ。
763日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:49:10.75
>>761

倭国は呉国の脅威にさらされていた。
呉国が朝鮮半島にまで軍を送っているぐらい、倭国の周辺にうろついている。
吉野ヶ里遺跡なども、呉国の脅威を意識した場所だったはず。
魏国に近づいて、半島の鉄利権を確保したかったのは当然。
764日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:55:07.87
>>763

呉国にしてみれば、倭人の国は中国本土から都落ちした呉の分国。
当然、倭国は呉の配下に組み入れるべき属国にしか見えない。
呉国が倭国に対して、傲慢不遜な態度だったことは想像に難くない。
765日本@名無史さん:2011/12/05(月) 20:56:06.06
>>764は、>>761宛てです
766唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:00:49.48
自然発生的な物流もありし、海洋民の水場利用権の問題もある。
遭難時の都市国家間協定もある。

国家がかかわらずともどうにでもなる事柄ばかりである。
”遭難時の...”協定が無ければ成立しない出来事か?
江戸末期にロシア船の遭難を助けた時になんとか協定が成立していたか?
水場利用権は金(品物)で解決。物流のある地域全体が連合国家だと?
物流は対峙している国を超えて流通する。だから必要ない。
767日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:02:44.02
>>766

じゃあ、畿内国家も小字程度の小さい村落国家から発展しないね。
768日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:03:38.87
>>766

呉国から襲撃を受けたときに、連合国家の団結が必要。
769唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:05:50.07
274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。

小国家群の東夷は9国にまとめられる、そこに参加するのは小国家の意思も働く。
770唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:15:17.94
>呉国から襲撃を受けたときに、連合国家の団結が必要。
これはありうる。
しかし倭国に当てはめてもしょうがない。

278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
この時点で東夷9種9国がそろう、当然倭国もここに存在する。
771唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:27:17.24
>倭国は呉国の脅威にさらされていた。

公孫氏は東夷を傘下とする。当然倭国にもその影がある。
それがホケノ山古墳の楽浪鏡(公孫氏の鏡)
239年 副使田道間守(都市牛利)官イクメ=垂仁。
240年 カテイは邪馬臺國を訪れ 倭王位拝受を要請する、それをうけて倭王位授与。
晋書正始元年東倭重譚納具。
その3年 倭王遣使
247年? 景行12年九州
253年 同二十年五百野姫=イヨ
255年 日本武尊 熊襲 大倭は伊都国に1大卒を置き諸国を検察する。
諸国はそれをおそれ憚る。
ここまでが倭人伝に書かれる。
772日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:34:57.86
>>771

公孫氏が九州を無視して、宇宙から畿内に降り立つなど、あり得ない。
九州勢力の目に触れず、畿内へ到達するなど有り得ない。
あるとすれば、ホツマツタエなど偽書の空想の中でだけだと思う。
773唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:39:20.19
>>767
>じゃあ、畿内国家も小字程度の小さい村落国家から発展しないね。

崇神の初めまではその程度とみてよい。
後漢193年の大凶作がこの事態を変える。近江伊勢遺跡(大物主)が崇神に身を寄せ
初子タタネコを崇神に仕えさせる。
四道将軍の主目的は、この凶作で種もみまでを食べつくした諸国に種を貸し付けるとともに
大物主から禅譲を受けたことを知らせる。←このへんがゆるフン連合。強権でしめることは無い
210年 伽耶(任那)建国。216年任那から朝貢。この鉄の分与を求めて諸国は大和に頭を下げる。
1度下げた頭はなかなかあげられない。この時代の最大の国家大和である。
その大和も筑紫には頭が上がらない。
774唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:43:01.49
>公孫氏が九州を無視して、宇宙から畿内に降り立つなど、あり得ない。

さわいでも、あがいても、楽浪鏡は東瀬戸内から大和に分布する。
そして九州にはない。
775唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:48:24.94
ホケノ山古墳(225〜250年)東海、瀬戸内の壺は異俗多帰以後
木槨、楽浪鏡、鉄器は任那朝貢後
穴あき壺(庄内式)は初期の埴輪 垂仁末。

任那経由で公孫氏の影がある。
776日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:49:21.69
>>773

日本書記には、敏達十三年(西暦584年)に播磨国の還俗僧恵便が、
初めて大和国に仏教を伝えたとしている通り、大和が非常に小さい国だった。
こんな国の3百年前に卑弥呼がいても、魏に朝貢など不可能だ。
777日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:51:57.21
>>774

畿内で人気だった鏡を、商人が持ち込んだだけでしょ。
別に畿内国が、魏に朝貢した証拠にはならない。
778太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 21:54:26.31
>伊支馬=イクメ=垂仁←猿の惑星等のみ通じる論。ppp

この地球上の古代日本では臣下(官)が天皇には絶対になれぬのが掟で、
道鏡の事件からも自明である。等号は掟を無視しており奴の頭が相当いかれ
ていると観て可である。ww

垂仁天皇は九州行幸などもしておらず、等号は成立せず。

五百野姫=イヨ
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 21:57:17.89
>>778 訂正

× 五百野姫=イヨ

○ 五百野姫≠イヨ
780日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:58:22.00
>>773

鉄器がほとんどない畿内を、鉄輸入の元締め国家のように空想しても、
空想小説にしかなりません。
781唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 21:59:45.00
>畿内で人気だった鏡を、商人が持ち込んだだけでしょ。

その結論が正しいかもしれないが
公孫氏に東夷9種は従うと書かれているから、公孫氏に従う勢力として
3世紀初めの前原王墓で終了する九州王朝は適任か?
それより大和の方が適任だろ?
782日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:00:07.41
>>773

あなたが、破綻ししている無茶な畿内説を空想で作ってしまった原因は、
「畿内説が絶対に正しいという前提で考えよう」としているからです。
783日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:01:32.60
楽浪鏡も含めて、瀬戸内海から畿内は呉鏡の領域っぽいね。
九州は後漢代も含めて魏鏡が多い。
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 22:02:07.39
>>773

オマエが、破綻ししている無茶な秀魔電を空想で作ってしまった原因は、
「秀魔電が絶対に正しいという前提で考えよう」としているからだ。


785日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:03:16.28
>>781

終了?終了したんじゃなくて、倭国が排除に成功しただけでしょ。
南九州には公孫子に忠誠を誓った国がしばらくあった可能性はあるでしょう。
786日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:07:35.97
>>781

倭人はもともと、呉人の系譜文化を持った民族だから、呉国が支配しようと
狙っていた。倭国連合はこれに反発、魏に朝貢して呉国を排除しようとした。
畿内の連中は、呉の鏡が輸入されると、大いにありがたがってこれを買った。
なんら不思議なことは無い。

こんな話が畿内説になるはずもない。
787唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 22:10:06.54
>>780
>、鉄輸入の元締め国家のように空想しても、

その通りである。では崇神世の任那建国は何時か?
旧編年
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

旧編年の示す崇神に任那建国は無い。
晋編年を使えば、新羅209年、三国遺事では541年時点で建国330年
210年伽耶(任那)建国であり
3世紀前半の大型建物(古韓尺使用)
ホケノ山古墳と任那なしで語れないのが巻向年代である。
考古学の主張と書記の記事はここで整合する。

788日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:11:02.38
>>781

吉野ヶ里は、呉国が攻撃してきたときに、徹底抗戦する支度が出来ていたと考えられる。
呉国が滅ぶと、吉野ヶ里が縮小していくのは、倭国が滅亡したのではなく、
対呉国防衛村が不要になったからである。
789サガミファン、小城説不支持派:2011/12/05(月) 22:12:56.75
銅出徐州 師出洛陽

この銘が三角縁神獣鏡に入ってるけど、徐州と洛陽の文字から
魏晋時代だとわかり、師の文字は司馬師の字で晋時代は使われてなかったらしいので
やはり三角縁神獣鏡は魏鏡です。反論として、中国では三角縁神獣鏡は
一枚も出ないじゃないかと言う書き込みが目立つけどこれについては、
鏡の本はマニアックすぎて読んでて頭痛くなるんだけど、
大正時代の古鏡研究の第一人者であった富岡謙蔵氏が最初に分類した三角縁神獣鏡群には、
斜縁二神二獣鏡や画像鏡も含まれており、斜縁二神二獣鏡の斜縁に注目しこれを
梅原末治が平縁神獣鏡に含め、三角縁神獣鏡と峻別したのが今の基準となっている。
山東省騰州市から出土した、斜縁二神二獣鏡は愛知県の犬山市東之宮古墳の三角縁神獣鏡と、
図像表現や構成が酷似し、同じ工房で製作された可能性が極めて高い。
少なくとも三角縁神獣鏡と公認された鏡に極めて酷似する鏡も中国にもある。

調べた結果だいたいこうなったんだけど、やはり卑弥呼がもらった鏡は
魏鏡の三角縁神獣鏡と見るほうが整合性において勝ると思う。
790日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:13:06.57
>>787

部分的に書記と符合してもダメ。
原典批判をしっかりして、大和朝廷の「お手盛り記事」の嘘を暴いたうえで
読んでいかないと誤る.
791唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 22:13:43.59
開化天皇 184年〜187年 3章 1、2年の異常は崇神と同じ暦のため。
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。唐古・鍵、近江伊勢遺跡などの衰退、変化。7年 大物主の国譲りとタタネコ=庄内式の始まり。
209年 新羅本紀 加羅に援軍、三国遺事。=任那建国。 ホツマ58年
垂仁天皇 217年〜239年 4章 纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁。ホケノ山古墳は垂仁末。
女王卑弥呼は倭奴國王位継承、邪馬臺國(大和)倭王位授与。(晋書正始元年東倭重譚納具。)
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙・牛馬の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州)の北部に(自ら)一大率を使い監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含む。
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、冊封体制下、半島で1大卒の行為。
792天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/05(月) 22:14:27.71
>>745
>…ふむ、出典はwikiかな?
地質学、水利工学、土木工学などの分野では教科書的、常識的な事柄ですからwikiにも同じような記述が載せられたのでしょう。

>>753
>要するに水深10mの湖が消失した場合、湖底であった地面は10mは地盤沈下起こすと言うことか?
以前に説明したことを理解して頂いていないようですね。
仰るようなことではありません。

湖の中に島や半島状に突き出た陸地がある場合、その島や半島の地下水位(帯水層水位)は湖面と同等かまたは湖面より若干高く
なります。湖が乾くと島や半島の地下水位は湖の水深に相当する分以上の低下を起こします。もちろんこの水位低下は急速ではな
く徐々に起ります。

帯水層から水が抜けますと上部の地層の重量と自重により圧縮されてその層の厚さが減ります。(水で飽和しているときは上部からの
圧力は水が支えてくれていたのです。)これがいわゆる地下水位の低下による地盤沈下です。
湖底の部分は乾燥による収縮です。


793太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 22:16:09.91
インチキの成務4年間、宿主空年はイカサマ。空年使用の<形跡>は無い。
↓ どこにも57年分もの莫大な空年は無〜〜い。この事は成務より上代の
編年(→崇神即位年=188年)が不信用の総崩れだという事を意味する。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
794日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:16:27.91
>>789

原材料の場所しか書かなかったというのがミソ。
国産だから、かっこ悪くて書かなかったから、原材料の産地だけ書いたわけ。
「USA」と書いたTシャツは、しばしばチャイナ製だから。
原材料の場所しか書かなかったということが、
畿内説を否定する有力な手がかりになるといっていいでしょう。
795サガミファン、小城説不支持派:2011/12/05(月) 22:17:43.68
さらに魏鏡説を裏付ける補強材料として、
三角縁神獣鏡の工人集団についてだけど、
考古学者たちの研究をまとめると、

@三角縁神獣鏡の製作は継続的に行われ、しかも時期幅が確認される。
A複数の工人集団が、互いに関与しながら製作を続けたこと。
B工人集団は、製作期間の後半には統合したり、消滅し、単一流派に近い
倣製三角縁神獣鏡の工人集団へと引き継がれること。
などの点が共通し、あと鏡の紋様の表現にかかわる癖や規格から
工人集団は三系列に分類される。

次に2〜3世紀は舶載鏡の全盛期で、国産の倣製鏡が出てくるのは
4世紀初頭に楽狼郡が滅ぼされることで、朝貢ができなくなり、
舶載鏡が手に入らなくなったため。三角縁神獣鏡に限らず、
初期の倣製鏡が作られるのは4世紀の古墳時代以降となる。
ゆえに前述の工人集団の流れとほぼ一致するんじゃないかと思うし、
中国から鏡職人が大量に日本に移住して三角縁神獣鏡を作った
形跡が考古学上認められないから、倣製の三角縁神獣鏡は、おそらく
朝貢ができなくなった後に、国内の職人達の手で作られたもの。
証拠に銘文の漢字がめちゃくちゃだったりするのも混ざってるらしい。

これについての反論もあったら書いといて。もう鏡の本など読んで疲れたから
寝るわwここのみんなよくこんなマニアックな本何十冊も読んでて
感心もするし、呆れもするわww


796太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 22:18:49.81
>成務天皇 262年〜265年 3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。空白年を含むインチキの成務4年間、宿主空年はイカサマ。空年使用の<形跡>は無い。
↓ どこにも57年分もの莫大な空年は無〜〜い。この事は成務より上代の
  編年(→崇神即位年=188年)が不信用の総崩れだという事を意味する。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
797日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:21:53.52
>>795

わるいけど、畿内の鏡は「魏」じゃなくて「呉」の系譜だよ。
邪馬台国は呉と国交は無いんだよ。
邪馬台国は魏から鏡をもらったんだよ。

君の挙げた話は、畿内説を否定する有力な証拠になるでしょう。
798太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 22:23:12.42
真の年代を確実に知れる天下の素敵な宝器 → 天津神算木

三輪神の神名に隠されたr=3の円の球化の体積、表面積の計算式を
天津神算木という。これは古代人が未来に伝える隠密に真の年代を教えて
くれる天下の宝物である。日本古代史研究に当って当時の年代が不明困惑
しでも、古代人が真の年代を未来に撹乱させる奴が今後多々出現する事
を予期し、残してくれた唐松山のような妖魔のデタラメ編年に騙され
させないための貴重な宝器である。天津神算木とは天津金木ともいい

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ)

がこれである。大祓祝詞の要旨は現実の犯罪に加えて年代撹乱の罪を刑具
(金木)により真への直接強制を行うべき意味である。天津金木を分断
することにより、真の年代蘇生の刑具不要の自由を教示するものである。
                               (続く)
799日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:24:00.34
卑弥呼がもらった魏の鏡に、「呉国特有の意匠」があるわけないでしょ。
畿内説じゃ、呉国に朝貢したことになっちゃうよ。
800太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/05(月) 22:26:02.71
>>798 続き 大祓祝詞に曰く
「大中臣 天津金木 を本打ち切り末う打ち断ちて」 とある。これから

>>798 の天津金木(等式)の両辺を分断すれば

 3≠113.097335

ここで左辺の3は3倍年暦を示唆し、r=3とともに三輪神の神名を示唆
している。右辺は3倍年暦にちなんで三等分すれば 113 097 335
に分けられる。これから

113←崇神天皇即位の月日数 1/13→1月13日
097←崇神天皇即位年(見かけ)→B.C97年
335←崇神天皇即位の実年代を誘致する年数

となるのだ。そこで

 1/13 紀元前97年 崇神天皇 即位

となり、その実年代は

 -97+335=238年

を得る。ここで097の0は紀元0年を示唆しこれを詰めて無とするため除去
するため1年分詰まることから

 238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

を得る。
801メ(風邪で寝込んでる):2011/12/05(月) 22:26:52.19
良き品物を、汝の国中の人々に示すがよい、
tろ有ると思うが、

この「国中の人々に示す」方法ていうのはどうしたかというと
倭王も魏国と同じように諸国の王に鏡を分配したのであって
魏国から倭王、倭王から諸国の王へと魏の鏡は渡ったことが分かる。
畿内で流行ったから買い締めたっていうのはいまいちだよな・・・・
本文をちゃんと読んでほしいものだ・・・
802メ(風邪で寝込んでる):2011/12/05(月) 22:30:13.04
洛陽で作ったて言う鏡は、舶載だろうw
三角縁神獣鏡の全てが舶載とはいっとらん。
鏡にしてもT期、U期、V期て有ると思うんだが、
初期の鏡は、おそらくは卑弥呼の鏡じゃないだろうかと思われる。
803日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:30:33.94
鏡は、太陽光線を反射するものでしょ。
鬼道につかえた卑弥呼等が、太陽光線を人々に反射させて示すのはあたりまえ。

なんで、分配しなけりゃいけないの?
804日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:31:09.98
△鏡は例外なく、国産でしょ。
805日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:33:30.00
△鏡は、意匠が呉鏡の系統。
魏では絶対に作らない意匠で、魏鏡のわけがない。
806メ(寝込んでる):2011/12/05(月) 22:34:45.92
たちゅうさいもん鏡の事を言ってるのかな?

国中の人々に示しなさいって言われてるからだよ
807日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:36:59.14
示すのは、太陽光を反射させて終わりだが?
808サガミファン、小城説不支持派:2011/12/05(月) 22:37:34.67
△鏡が例外なく国産だの呉鏡だのと言ってるやつは
なんなんだw今日僕が書いたことなんもわかってくれてないじゃないかw
だいたい呉鏡に魏の年号入れる馬鹿な職人もいないだろうにww
809日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:38:13.86
呉鏡じゃなくて、国産鏡。
810メ(寝込んでる):2011/12/05(月) 22:39:31.96
>示すのは、太陽光を反射させて終わりだが?

意味分からんwww 君も私と同じく風邪かな?w
811日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:39:51.40
九州は呉と敵対、畿内は呉とも魏とも敵対する理由なし。
畿内は、魏への憧れから魏の年号を入れてカッコつけただけ。
812日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:40:55.24
>>810

鏡がなぜ列島側で珍重されたかわかってる?
実用品だと信じ込んじゃってるの?
813日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:42:06.51
鏡を暗いところで人に見せて、何か効果あるの?
814日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:43:24.30
>>810

鏡を配ったと断定する根拠は何?
815メ(寝込んでる):2011/12/05(月) 22:48:42.24
>鏡がなぜ列島側で珍重されたかわかってる?
>実用品だと信じ込んじゃってるの?

実用品のワケが無いだろwww
祭祀用として、鏡が流行したんだろう
816メ(寝込んでる):2011/12/05(月) 22:50:08.91
>>814
きみ、質問多いね・・・・
配った理由て言うのは、私が上で書いてるだろう。
倭人伝をよんでごらん
817日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:52:16.50
ウチの縁の下の土中から「魏鏡」が出た。
著名遺跡東南の未発掘地域。
調べに来た人は「ここのもホーセーキョウだ」と言って、写真撮って五枚だけ持ち帰った。

大学の助手だという人が、
「魏鏡と親魏倭王印は、まづ出ない。魏鏡は決して配布なんかされてない。
 一箇所に納められてるハズ」と言ってた。
「発掘禁止の御陵の中ですか」って訊いたら、
「そうじゃあ無い。天皇陵だって過去の時代にとおに盗掘され尽くしているだろう。
 盗掘されりゃあ、どこからか一枚ぐらい出て来ても良さそうなもの。
 調べたくとも調べられない、盗掘なんてされない場所が…」
――差し障り有るのでやめとくわ!
818メ(寝込んでる):2011/12/05(月) 23:00:19.11
>>817
倭人伝の記述と椿井大塚山や黒塚などの近畿を中心とする
分布図とで一致しているとは思わないのか。

819日本@名無史さん:2011/12/05(月) 23:03:59.46
>>792 縄文人
>地質学、水利工学、土木工学などの分野では教科書的、常識的な事柄ですからwikiにも同じような記述が載せられたのでしょう。

うむ、それなら話は早い。

お前の言う湖消失による地盤沈下を
土木工学を学ぶ人間が教科書にしているような本で載せている事例・ソースを出してくれ。


で、>>755でも聞いているがお前は結局これで邪馬台国の何が言いたいんだ?

820日本@名無史さん:2011/12/05(月) 23:10:09.40
とりあえず >>792 天草・南蛮柿餅 四郎の恋 の言うことを図にしてみたw
題して『盆地湖のあるとき〜ないとき〜』w


1)幻の盆地湖がある時                  
                 ______
湖面________ /______ 
   ..           /↑
湖底_______/ ↓地下水


(2)同ない時
                 ______
                / 
   ..           /
湖底_______/ 

地下水_______________ 


つまり(2)の湖消失において(1)で水面から顔を出していた地域は「地下水」として失う部分が大きいと
…これでおk?>縄文人 
821天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/05(月) 23:49:39.62
>>819
盆地湖の議論のきっかけはドン来いスレにおける下記の書き込みからだったですね。

438 : 天草・南蛮柿餅 四郎の恋 [] 2011/11/30(水) 18:17:04.47
>>431
>出ました、ゴミクズレベル九州説の定番「奈良盆地は無人の荒野だった!それどころか湖底だった!」説
>( 縄文人 や 九州王朝大好き らの持ちネタでもある)

弥生時代の奈良湖論争は面白かった。縄文人や九州王朝大好きの科学的な書き込みに対してジョーカーらの
反論が幼稚な感情論であったことが印象に残っている。

私は弥生時代の奈良湖についての畿内説派の皆さんの反論が感情論であったことをこれまでの議論で実証で
きたと思います。なにしろ地質や水文についての知識は無く、科学的方法論にも疎い方々ですから、私が説
明してあげたことを理解できなかったですね。

>お前は結局これで邪馬台国の何が言いたいんだ?
弥生時代の奈良盆地の遺跡は湖沼地帯に浮かぶ島あるいは半島状の陸地に作られていた可能性があるという
ことが一つです。唐古・鍵の環濠が(弥生中期末頃、紀元1世紀頃か)水害で埋没したとされていますが、
これは大和川の亀の瀬辺りの崩落により閉塞が起こり湖の水位が上昇したためと考えられます。

湖沼に浮かぶ島や半島の水際は浅いので水稲栽培に向いているということでいくつかの集落が営まれたので
しょう。しかし、遺跡の数は博多湾岸地帯や佐賀、筑紫、筑後、熊本などの地域に比べて格段に少なく、
出土品には銅器はあるものの鉄器は無く、特定首長墓のようなものもありません。

このような言わば後進地域に3世紀に親と通交できるような勢力が育ったとは考えられない、すなわち、
邪馬台国畿内説は考え難いというのがその二です。
822天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/05(月) 23:58:44.12
訂正
このような言わば後進地域に3世紀に親と通交できるような勢力が育ったとは考えられない
               ↓
このような言わば後進地域に3世紀に魏と通交できるような勢力が育ったとは考えられない
823日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:30:16.96
>>821 縄文人

結局何から何まで以前の縄文人と主張内容は同じか。
(文体の違いを除き内容を見れば)何から何までまるで過去ログ読んでいるようだw

先ずこれはお前の「オレサマオリジナル」なのか?
それとも”教科書”に載っているような内容なのか?はっきりさせいゴミ。

それから「実証できた」とかわけの分からない事を言っているが、何が実証できたんだ?阿呆。

地層を調査したものを出してきたとて、それで弥生時代まで
「その地域に沼地があった」に留まらず調査対象地域全域が帯水地域にあって広大な湖を想定しなければならないようなものを出したわけでもない。






824日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:34:45.17
>>821 縄文人

それからお前のほざいていることは>>820のようなことだとして言うが…

そもそもその湖の形成は元々高低の差があった地域に水が浸入してできたんだよな?
(>これは大和川の亀の瀬辺りの崩落により閉塞が起こり湖の水位が上昇したためと考えられます。)

まさか周辺に水が入ってきたからと言って島や半島状になった部分の標高があがるわけじゃあるまい?

それが今度は水が退いたら相当に陥没するってどういう理屈だ?

この与太話はそこのところのつじつまはどうなるんだ?縄文人w

825日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:37:33.94
>>817
その話、もっと聞かせてくれ。
前に遺跡ツアー行った時、郷土史家の人が似たような説明してたことがあったので。
826日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:47:56.04
>>816

君の脳内理由なんか一切問題じゃなくて、配布したと断定する根拠だよ。
根拠が全然ないでしょ。
827日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:49:07.80
>>821 deshabariな縄文人
>出土品には銅器はあるものの鉄器は無く、特定首長墓のようなものもありません。
>このような言わば後進地域に3世紀に親と通交できるような勢力が育ったとは考えられない、すなわち、
>邪馬台国畿内説は考え難いというのがその二です。

まあここら辺はいくつものハンドル通して変わらない主張だがw
先ず「鉄器」「特定首長墓」は古墳の出現には繋がらない。
そもそもそれらの豊富だった筈の九州には結局出現しなかった。

先進・後進のお前の脳内定義は知らんが少なくとも古墳時代はお前の言う後進地域に起こったことになる。

相変わらず進歩のない奴。

自説にしがみつき固執しちょっとしたテクニカルタームのようなものや数字を並べて
「かがくてき」「りろんてき」とか言っているだけの爺さん。



828日本@名無史さん:2011/12/06(火) 00:52:15.02
後進地域でないと、馬鹿でかい古墳なんか作れないからね。
829日本@名無史さん:2011/12/06(火) 01:23:44.47
せやな
830日本@名無史さん:2011/12/06(火) 01:31:51.01
そもそもこの縄文人理論が本当であれば

現代に入ってからも水が干上がったような湖は幾つもあり
その湖の中にあった小島の標高が著しく下がった

…と言う事例を紹介している書籍なりあると思うが

現実に弥生時代の盆地湖なんて話がないのが
これが与太である何よりの証拠だと思うがw

まあ定説とまでもいかずとも専門家の間でかなり有力な説としてある
…なんて事実でもあるのかな?

831日本@名無史さん:2011/12/06(火) 01:46:02.15
縄文人って盆地湖ネタには執念燃やすなあ
832日本@名無史さん:2011/12/06(火) 01:49:27.46
サイキバと同じでいじめられたことがトラウマになってんだろ
833ひとぶた:2011/12/06(火) 02:01:47.47
>>821

> 湖沼に浮かぶ島や半島の水際は浅いので水稲栽培に向いているということでいくつかの集落が営まれたので
> しょう。しかし、遺跡の数は博多湾岸地帯や佐賀、筑紫、筑後、熊本などの地域に比べて格段に少なく、

奈良湖ネタの目的はこれですよね。
盆地内の居住可能面積を狭くとらえて、遺跡が少なかったろう、と主張されるわけでしょう。
つまり、逆を言えば、遺跡が多ければ、弥生奈良湖説も成立しないことになりますよ。
834日本@名無史さん:2011/12/06(火) 02:12:48.94
>>821 天草・南蛮柿餅 四郎の恋
>私は弥生時代の奈良湖についての畿内説派の皆さんの反論が感情論であったことをこれまでの議論で実証で
>きたと思います。なにしろ地質や水文についての知識は無く、科学的方法論にも疎い方々ですから、私が説
>明してあげたことを理解できなかったですね。

「畿内説派の皆さん」「疎い方々」…つまり一人の相手のみならず
複数の相手、自分に相対している複数の人間に自分の言っていることが理解されていない自覚はあるんだなw

まあそれもリアルで認知されているような説であれば
その「畿内説派の皆さん」が単にワカランチンだったという話になるんだが(苦笑

リアルでは勿論この板ですら理解してもらえないなんて惨めな奴だなw

835日本@名無史さん:2011/12/06(火) 03:21:36.80
>>821
>このような言わば後進地域に3世紀に親と通交できるような勢力が育ったとは考えられない、すなわち、
>邪馬台国畿内説は考え難いというのがその二です。


考え難くて事実だからしょうがないよなあ。

邪馬台国は大和だってこと。
836日本@名無史さん:2011/12/06(火) 03:23:50.59
本来、九州の人間が考えるべきことは、
後進地域だった大和の女王を、筑紫の王達がどうして共立したかなんだけどね。

理由は、それだけ九州が落ちぶれてしまったってことなんだけど、
認めたくない気持ちもわからんでもないよ。

でも、事実は事実として直視してもらわないと。
837日本@名無史さん:2011/12/06(火) 03:40:23.83
>>836
>後進地域だった大和の女王を、筑紫の王達がどうして共立したかなんだけどね。

もう分かりきった上で書いていると思うが
そこで出てくるのが東遷説なわけで…

結局はじめにそのストーリーありきと
838日本@名無史さん:2011/12/06(火) 04:13:52.17
九州の王たちが九州の女王卑弥呼を共立する一方、
畿内では各地から入植者が増えていっただけなんだけどね。
839日本@名無史さん:2011/12/06(火) 04:29:47.63
その九州の女王とやらも、大和の女王に従っただけなんだけどね。
840日本@名無史さん:2011/12/06(火) 04:36:37.36
結局、2世紀にどうして九州が衰退したのか、
どうして、九州の王達が大和の女王を共立することになったのか、
その政治的(経済的)理由を直視しないで、「九州は先進国だ!」とかいう根拠の無い自信過剰から脱却できないために、
現在にいたるまで九州は日本の中心都市になり得なかったわけで。

まず、「九州は落ちぶれた。その理由は何か?」という、歴史の失敗から学ぶという謙虚さが必要なんだよ。

841日本@名無史さん:2011/12/06(火) 05:46:19.24
>>550-551
話を滅茶苦茶に壊す、ミスリードが見られるな。

フイゴの技術の伝来と、日本語で明記してあることが読めないとは見事だ。
難読症と認定されたいのだろうか?

ついでに言えば、蚩尤はフイゴで青銅の武器(つまり、鉄より時代が古い)を作ったことを祭る神だ。
天日矛を文字通りの新羅の王子と読んでいては、遼東半島、山東半島の海人も、蚩尤も見えてこない。
当時の新羅という認識は、朝鮮半島全体か、さらに中国側まで含まれる、
倭人達がいた西の地域を指している可能性もある。

ヒミコの邪馬壹国は、弥生時代の青銅ではなく、
古墳時代へと推移していく途上の、鉄の文化を持っていたのだから、
フイゴの渡来と、精銅や製鉄技術の推移から、邪馬台国の位置を推定する試みは、無意味ではない。

天日矛系の神々を祀る神社が、九州一の銅の産地の麓に位置していることは、偶然ではないだろう。

天日矛(蚩尤)系の、遼東半島、山東半島の海人が運んできた古い時代の製鉄は、
鉄鉱石を原材料にしているから、製鉄跡が渡来初期のものかどうかは簡単に見分けがつく。
その後国内で発達した砂鉄を用いたタタラ(フイゴ)製鉄よりも、品質が悪い。
天日矛が渡来したとされるルートに沿って、これが残っている。
天日矛を祭る地域と秦氏の入植地の分布が一致するのだから、追跡の余地はある。
842日本@名無史さん:2011/12/06(火) 05:51:38.22
>>550-551
武器?

天日矛は矛だ。どうやらとことん、日本語が読めないらしいな。

さらに、輸入した武器うんぬんなどどこにも書いてない。製造技術の伝来と書いてある。
勝手に論点をずらすな。

輸入したというなら、ペルシャの地域から隕鉄製の神剣が輸入されて社家の神庫にある。
奇龍剣と書いてクサナギの剣と読むシロモノだ。

クサナギの剣は、正確にはクシ(奇し)・ナギ(蛇)の剣で、霊力を備えた蛇の剣のことを指す。
クシナギは言いにくいから転訛して、クサナギと言われてきたが、
愚かな後世の神主達が、音から連想して、草を薙いだ剣として、嘘の神話まで創作してしまった。

つまり、神剣を、奇龍剣と伝承している社家のクサナギの剣のほうが、伝承が確かであり、
古代ペルシャから伝わった、まだ製鉄技術がなかった時代に製作された隕鉄製の神剣が、
本物のクサナギの剣の可能性が高い。

八岐大蛇は、神剣に霊力を宿す(神憑りの神事に必要な、脳に磁気刺激を与える効果を持つ)ように
落雷の大電流によって神剣を磁化する技術に由来する。
落雷の多い高い山の磐座に神剣を置いて、数多くの落雷、八岐大蛇を受けることによって神剣を得る。
同じような発想のものとして、霊山の山頂に天逆鉾が設置されている例が現存する。

神剣の正しい呼称、名前の由来、特殊な武器(神器)の製造方法、奇龍剣現物などを
一揃いのものとして、現代まで保有してきた社家が、
出雲天照系の古神道をそのまま伝承する、素戔嗚系大王家嫡流と見做しても問題ないだろう。
日本で最初の神社(初宮)は、素戔嗚が建てて住んだことになっている。
したがって、神話から見れば、本来の大王家(皇室)は、素戔嗚(物部などが奉る)の流れだ。
843日本@名無史さん:2011/12/06(火) 05:54:09.34
秦人は、中国人が、西洋人を指した言葉だから、古代ペルシャから伝わった神剣があっても
驚くには当たらないだろう。

寒冷化によって生じた飢饉の国難を回避するために、
国力に余裕がなかった、遼東半島付近の小国(高句麗)の巫女(アカルヒメ)が、
日本への里帰りの託宣を行って、
それに応じた、天日矛(蚩尤)を奉斎する、海人集団(秦氏)が、
日本へと渡来していても不自然ではない。

弓月の君を名乗った人々と、関連性があると思われる伝承が、幾つかの社家に神事として残っている。
朱蒙も弓月の君も、主力武器は遠戦の弓矢だ。

青銅の武器から鉄の武器に変わった時代の特定や、
武器の生産拠点の移動は、邪馬台国論争に大きな意味を持つ。

>>552
>240年代に鉄鏃
>238年には存在した狗邪韓国(金官伽耶)の倭人が供給したと思われる。
>黒塚古墳はこの時の軍の装備である。

正解。ヒミコの時代に変化が見られるから、神話の伝承と邪馬壹国の位置特定が絡んでくる。
844日本@名無史さん:2011/12/06(火) 05:59:38.08
>>553
孔子の時代から、嫌になったら(政争に敗れたら)東に渡ろう、という意味の言葉が存在する。
仙境とされた日本への渡来は、紀元前からずっと続いてきた。

古代豪族全てが、その出自を明確に出来ない。物部の祖先が渡来系でないとは証明できない。
紀元前の渡来記録や、邪馬壹国があった頃の、渡来記録が
新撰姓氏録に明記され、もしくは反映されていると、保証できなければ、貴殿の理屈は通らない。
不可能な妄言を書くべきではない。ミスリードは迷惑だ。

某社家(天照家)に伝承されている、アカルヒメの里帰りの託宣の時期は不明だが、
託宣の内容は特異で、特定の人々を強く刺激して、東進を促すものだ。

「日が昇る方角に祖先の約束の肥沃な美しい土地がある」
この情報は古代イスラエル人にとって、カナンを意味する。
肥沃な土地は、託宣のなかで「豊葦原」という言葉で表現されている。
「瑞穂の国」を、ミズホラと聞けば、それは古代イスラエルの人々にとって、天国を意味する。

古代イスラエルの難民は、その一部がシルクロードへとのがれて中国に来て、
秦人の一部と認識されて扱われ、万里の長城の建設に携わり、
その苦役を逃れて、朝鮮半島南東部に移動したという伝承もある。
秦が滅亡して、遼東半島・山東半島・夫余・高句麗付近に追いやられた人々もいただろう。
天日矛や都怒我阿羅斯等(角がある人)や蚩尤の二本角は、
古代イスラエルの救世主の英雄伝説とも繋がっていることが、コーランから確認できる。

アカルヒメがおこなった里帰りの託宣を、
古代イスラエルの預言者の言葉と解釈すれば、秦人文化を伝承する、二本角を奉斎する集団は動く。
苦難に直面するたびに、アカルヒメの託宣を思い出せば、
カナン・ミズホラを求めて、何度も繰り返し、渡来してくることになる。

実際に紀元前から現代まで、渡来は続いている。

蛇足だが、ニギハヤヒがクーデターなど、奇伝小説の部類の情報で、お話にならない。
845日本@名無史さん:2011/12/06(火) 06:09:33.43
>>555-561
玉依姫と言って、神道界では、玉は宝珠でもあるが、魂のことも指す。
もちろん、玉依姫は、魂が依り憑く日女、つまり巫女のことだ。

一部の社家では、非公開だが、アカルヒメは赤玉依姫とも伝承されている。
アカルヒメは赤い珠の化生だから、そう呼ばれる。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とは、
天照国の、照らし日子(陽気をまとった男王)で、天火明(天日明かり)の奇し魂(宝玉)を御神体として祭る、
饒速日(賑やかで感動的な太陽の)貴い人(神上がって神様)、という意味だ。

この神様の御神体は、現在の各神社の伝承がどうなっているか知らないが、
本来は、朝日を表す赤い珠だったことになる。
それを扱うのは、日神に仕える巫女集団を神格化した、天日族の明かりの巫女神、アカルヒメだ。

この意味でのアカルヒメは、襲名されて現在も生き神様として残っている。
もちろん、当代の耀姫(あかるひめ)様は、彼女自身でもある、赤い瑪瑙の珠をお持ちだ。
これは、八尺瓊勾玉の原型と言える。
男装(男神の御神服を着用)して、天照日子に神憑りすると、男性の声音と立ち居振る舞いをなさる。

その社家に伝わる天照神(あまてるかみ)の神事を担当するのは巫女神(生き神様)だが、
憑依するのは男神の魂だ。
天照大神を女神と伝承する、後世興った伊勢神道と、出雲系の古神道は、この点が大きく異なる。

アカルヒメ様は月の女神でもある。太陽の巫女をアルテミスと掛け合わせて、
アマテラスと呼ぶようになったという伝承もあり、本来アマテルだった呼称が変化した理由も判然としている。

もちろん、天照神は男神と女神の一対で、昼も夜も天を照らす神と伝承されている。
846日本@名無史さん:2011/12/06(火) 06:10:58.53
当代の耀姫様が、神事の合間に、非公開とされてきた情報を、つぎつぎとツイッターで呟いておられるが、
卑弥呼の鬼道と、秦人の渡来と、古代イスラエルのソロモン王の秘術の関係を、解説してくださっている。

今まで誰も指摘しなかった切り口から、ヒミコの実態に迫る指摘だから、一読の価値はあるだろう。
http://twilog.org/AkaTamaYoriHime
847日本@名無史さん:2011/12/06(火) 07:03:25.96
>>846
>当代の耀姫様が、神事の合間に

オカルト板かメンヘラ板に逝け!
848日本@名無史さん:2011/12/06(火) 09:45:50.89
イスラエルとかシュメールとか
トンデモ説の花盛りだなw
どうなっているんだよ??
849日本@名無史さん:2011/12/06(火) 11:06:33.07
>>840
呉と戦う必要がなくなってきたから、一見衰退したように見えるよね。
江戸時代に入って築城が減ったのと同じように。
850日本@名無史さん:2011/12/06(火) 12:47:05.53
古代の渡来系氏族でもある秦氏と関係あるかな?
851唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/06(火) 16:40:37.97
>天穂日命が渡来したのは、欠史八代の時代の終盤くらい。
169年 大彦誕生
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年 (天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た方がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。

秦氏族数万人の渡来は彼らの自由意思での渡来であり、323年神功49年半島占拠の直後と
思われる。
秦氏の渡来を応神14年(357年)とするが、仁徳14年(326年七支刀)ではないか?
852日本@名無史さん:2011/12/06(火) 17:30:04.57
>名前: 天草・南蛮柿餅 四郎の恋

>>741 でお前が
>ガラス水槽に砂土を入れ、これに砂土を浸すだけの水を加えてかき混ぜ、静置します。そして砂土層の高さを測ります。

…と、シミュレートのような事を言っているので、及ばずながら自分も思考実験みたいなのをやってみたw

 (1)先ず箱庭の中に土砂を使って凹凸のある地形を作る
 (2)そこに水を流し込み水溜りの中に小島ができるようにしておき、暫く放置(→湖形成)
 (3)そこから水を少しずつ抜いていく(→湖の消失)

…で、その場合、水面から頭を出していた部分は著しく陥没する…って話だよな?
一体どういうメカニズムなのか?見当もつかないが説明してもらえるかな?

水に浸かった時点で一度(高さが)上昇でもしなければ、水を抜いて陥没するような現象がどうやっておきるのか?

ひとつ「かがくてき」「りろんてき」に説明願えないだろうか?
(無論考慮されべきファクタが見落とされているのであれば指摘してくれ)

853日本@名無史さん:2011/12/06(火) 17:48:15.16
万年単位での奈良湖の存在は確実なので、

まず水をはって、土砂を流し込む。(奈良湖時代)
土砂が沈殿したら、水中で、凹凸を作る。
水を少し抜いて、凸のところを水面に出す。
だんだん水を抜いて、全部を水面から出す。

でしょうな。

854日本@名無史さん:2011/12/06(火) 17:59:33.67
>>853

ほうほう。

そのあげくに奈良では水不足になったわけですか。
855日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:10:20.49
京都も同じような地質構造のはずだが、
なんで奈良は水不足なの?

地図を見るかぎりでは、細かい河が盆地に広がっていて、
水が湧きそうな地形なのに。

狭隘部が深すぎて、地下水面が低いのかね?
856日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:24:20.82
>>853
そのモデルでも疑問が出るが、とりあえず、この縄文人の話は
上部黒色炭質粘土層をその湖の名残とし
それが2,000〜 4,000yBPなのだから
今日普通に想定されてる太古の湖が縮小した形と言うのは違うだろう。

却下。


857日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:27:41.73
>>855
過去、他所のスレでも出てきた話だが
要するに京都盆地というのは四方から水が地下に流れ込んでいて
イメージとしては水の上に盆がプカプカ浮いているような物らしいw
だから市内でも井戸が現役だとか(まあこの辺は地元の人間が詳しいだろうが)
858日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:27:58.18
奈良は地下水そのものは豊富だが、
金気が強くて、利用しにくいみたいだね。

うちの近所でも、過去に海だったところや、
湿地帯だったところは、井戸水の質が悪い。

山裾の地下水脈で流れているところは水質がよく、
滞留しているとおもわれる低湿地では飲用不可だったりする。
859日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:34:43.56
>>855
京都は平安遷都の頃には低湿地帯で沼地が多く
右京は沼だらけで住めなかったらしい(そのため貴族の邸宅は左京に集中)。

東山の高台にある清水寺の鎮守社だった地主神社は、その昔、
京都盆地が海だった頃に縄文人が海に浮かぶ島に神を祀ったものらしい。
860日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:44:03.34
京都は地下水が豊富というのもあるが、
流れがあって入れ替わるから、水質も良いようですね。
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/06(火) 18:46:31.34
×187年 開化崩御 
862日本@名無史さん:2011/12/06(火) 19:56:17.34
>>859

京都は川が縦横無尽に流れていたから、水が滞留していた奈良とは異なる。
863日本@名無史さん:2011/12/06(火) 20:24:40.80
飲み水みたいな話しになってるが、奈良盆地では、稲作用の水が足りてないわけだが。

それでも低湿地だと言うのかな?

864日本@名無史さん:2011/12/06(火) 20:29:56.16
縄文海進から埋め立ての歴史を経て、今に至って干上がったんだろ。
865日本@名無史さん:2011/12/06(火) 20:38:07.93
人工的に埋め立てたんなら、干上がる前に掘ればいいだけだろ。

866日本@名無史さん:2011/12/06(火) 20:46:09.65
掘ったら埋め立てじゃなくて堀になるだけだろ。
867日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:09:05.00
>>823, >>824 ・・・・

まだやってるよジョーカーら。自分らの負けを認めたくないんだね。ばかだね〜。
824なんかを見ると、「どうだ参ったか」みたいな口ぶりだけど。あれで天草四郎氏をとっちめたつもろだろうが、
たぶんいちころに論破されるだろうよ。しかし、天草氏今日は来ないのかな。
868日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:10:25.73
しかし何れにせよ
「紀元後まで存在していた奈良の巨大盆地湖」
なんてそれこそ
「ネス湖に中生代の首長竜が生き残っている」
と同じムーレベルのお話。

以前何処かでその盆地湖の水面に突き出した三輪山は実はピラミッドだった
…なんて話も聞いた記憶があるw
869唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/06(火) 21:15:44.55
奈良県遺跡地図
http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-16771.htm

さて、どこが湖だったって?

870日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:18:29.06
>>867
で、結局縄文人待ちか、情けない奴www

まあ身も蓋も無い話だが

現実にはそんな弥生時代の盆地湖なんて話は認められていない。

(「認知されている」と言うのなら定説とまでいかなくてもいい。
 専門家の間でかなり有力な説としてあると言うのならそのソースを出してみろ)

あのアホの縄文人が知ったかぶりの抗弁を試みて
仮にそれが一時的に功を奏したところで
結局は その現実 に収斂するしかない。

とりあえず>>852に対する疑問に答えて欲しいところ。
871日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:24:06.35
872:2011/12/06(火) 21:28:39.95
ほら 唐さん言われてるゾ 言い返せ〜W
873日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:34:47.36
>>871

で、どうして奈良盆地は水不足なのかな?
874日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:40:32.99
>>873

21世紀には奈良湖が無いから。
875USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/06(火) 21:44:54.82
三角縁神獣鏡は、一部が卑弥呼時代の中国の青銅鏡と銅の成分が
ほぼ一致することが、微量元素の含有比測定で判明しており、
泉屋博古館所有の三角縁神獣鏡8枚中6枚は3世紀の中国の青銅鏡と
近い測定値を示しており、三角縁神獣鏡の一部は中国産の可能性も
十分ありうる。卑弥呼のために特鋳で作られた可能性も捨てきれない。


よくよく考えたら銅くらい国内からとれるし輸入に頼る必要ないよねw
銅鐸や銅剣もあるし。ならやはりこれも鏡は魏で作られた一つの根拠でいいよね?w
876日本@名無史さん:2011/12/06(火) 21:49:44.72
>>875

元号「和同」の由来、知ってる?
877USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/06(火) 22:11:54.79
卑弥呼が貰った鏡は魏鏡の三角縁神獣鏡だと
昨日説明したけど反論はもうないよね?
製作の中核となったのは陳氏の工房で、画文帯神獣鏡の模倣に始まり、
試行錯誤の末に、三角縁神獣鏡が創作されて、
景初3年の銘が入れられた。これがまず卑弥呼に下賜された銅鏡100枚。
ここから鏡作りも軌道に乗り、大きさや文様構成などの仕様も整って
量産体制に入り、神仙と霊獣の図像の組み換え、四神四獣の原則を脱して、
さまざまな三角縁神獣鏡が作られ、特鋳で作られた三角縁神獣鏡は
まとまって倭に輸出された。景初3年以降も正始四、六、八年と
朝貢記録があるからそのときに渡されたのだろう。
878日本@名無史さん:2011/12/06(火) 22:13:06.34
ザァーッとレス見て初書込みだが、
奈良盆地が湖(みづうみ)になってる古代の絵が、この前一般公開の正倉院にあったよ。

漆で板に線画した物。
舒明天皇が先祖代々お持ちだったものが聖武天皇の倉に残ったそうな。
炭素測定では古墳時代以前の物。

舒明天皇が誰の子孫かは考証的に不明。
多分、渡来人が描いた物だろう、って。

説明は全て、ツアーに同行してた歴史研究家のハナシ。
879USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/06(火) 22:17:23.67
連日にわたりここまで言ったからさすがにもう三角縁神獣鏡は
すべて国産だとか言うやつはいないとは思うけど、
一応予防線張ると、画文帯神獣鏡は中国産だと誰もが認めてるだろうし、
これも三角縁神獣鏡と同じく畿内を中心に分与されてるわけで、
三角縁神獣鏡が倭国に流入する以前の3世紀前半に、巻向王権が
中国から貰った鏡でほぼ間違いない。
204年に公孫氏が帯方郡を創設し、「韓、倭は帯方郡に属す」と
三国志にあるから、倭国は204年から公孫氏が滅亡する238年の間は
公孫氏政権の傘下に入っていたとみて間違いない。
公孫氏政権の朝貢した際にもらった鏡が画文帯神獣鏡だし、公孫氏に
朝貢していたという証拠として、前にも言ったけど、奈良県の東大寺山古墳から
出土した「中平(184〜190年)」の銘入りの大刀の存在。
これは189年に公孫度が遼東大守に任ぜられたときに授与されたものなので、
卑弥呼が朝貢してきた際に贈られたもので、それが巻向政権の勢力圏の中枢から
でるってことは、公孫氏に朝貢したのは九州ではない。
画文帯神獣鏡を分与したのも巻向の卑弥呼。
疲れたからいい加減わかってねw
880日本@名無史さん:2011/12/06(火) 22:22:23.91
>>867

> まだやってるよジョーカーら。自分らの負けを認めたくないんだね。ばかだね〜。
> 824なんかを見ると、「どうだ参ったか」みたいな口ぶりだけど。あれで天草四郎氏をとっちめたつもろだろうが、
> たぶんいちころに論破されるだろうよ。しかし、天草氏今日は来ないのかな。

それは、キミはが「議論(つーか奈良湖氏のツッパリ)」の内容を理解出来ての感想かねw
881USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/06(火) 22:26:23.38
奈良湖とかトンデモ説もいいとこでしょww
てかあんたらにわかることなら学者連中はとっくにわかってることに気づいてww

うちの大学の教授や知り合いの学芸員もかなりのプロだし、賢いよ。
周りの学生ですらここの人らよりは賢いしw九州王朝説とか馬鹿なことは
言わないしねw
882太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/06(火) 22:31:26.32
883日本@名無史さん:2011/12/06(火) 22:41:11.82
「絶対に見てはいけないから真っ暗闇を手探りで作業する――とは証言しているものの、
 一枚とは言ってない、百枚かも知れない。だからこそ、時間が掛かるんではないか」

この推測は無視出来んと思うがな。
884レス長たらし毘古:2011/12/06(火) 23:00:39.76
>>878
>奈良盆地が湖(みづうみ)になってる古代の絵が、この前一般公開の正倉院
にあったよ。

お、その話題がやっとこ出ましたか。情報サンクスです。さて、「この頃に湖
(湖沼)が消えた」と仮に仮定した場合、@なぜ遷都ブームが到来したか?
Aなぜ最終的に京都に遷都されたか?の説明付け筋も割とスムーズに行き
ます。
隣接湖が消えたら、これは充分遷都の必要性になり得ます。逆に隣接湖が消え
なかった京都は、その後かなり長い間「都としての機能」を維持します。

もっとも、「旧豪族勢力の影響」「仏寺勢力の影響」を重要視している学閥
さんたちは、奈良湖(湖沼)の可能性などは、一考だにする必要が無かった
のです。ここが少し落とし穴。(あくまでも想像の話です)

>>873
>で、どうして奈良盆地は水不足なのかな?
横レスで申し訳無いので、あくまでも感想ですが、「今=水不足=湖が無い」
なら「昔=水潤沢=湖沼地帯」と言う可能性は皆無では無いかもしれません。
逆は想像しづらいですが、文化文明の発展と共に、木を払い、野を焼くかも
しれないので、水不足or降水量不足になって行く可能性は少なからずある
かもしれません。自然の事を考えなければ、ある程度の湖(湖沼)が消えて
しまうと言うのは数百年単位では起こり得るかもしれません。
開墾干拓と降水量自然低下がダブルパンチとなったとしたら。。(以下想像)
885天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/06(火) 23:14:26.81
畿内説のボケ老人クラブの皆さんお待たせしました。今日は山梨に出かけておりましてたった今遅い夕食を摂ったところです。
忙しくてかないません。皆さんは夜中4時過ぎまで書き込みをされるのですか。そんな生活なんですか。

盆地湖関係でいろいろ書き込みを頂きましたが、ほとんどは「いやだ!奈良盆地に湖があったなんて信じられな〜い」という
感情論でしたね。まあ、その中では>>824>>852が少しは科学的な内容の書き込みになっておりますので、これらにお答え
しましょう。

>>824
>そもそもその湖の形成は元々高低の差があった地域に水が浸入してできたんだよな?
>(>これは大和川の亀の瀬辺りの崩落により閉塞が起こり湖の水位が上昇したためと考えられます。)

「その湖の形成は元々高低の差があった地域に水が浸入してできた」ものではないのです。縄文時代から奈良盆地中央部は
湖でした。恐らく活断層の活動により亀の瀬辺りに亀裂が生じ、ここから水が流れ出して水位が低下し、唐古・鍵などの遺跡
が存在する島や半島状の陸地が頭を出してきたのです。
なお、「亀の瀬の崩落による閉塞」は湖水水位の上昇(1m前後)により唐古・鍵の環濠が埋まったことの原因として推定した
だけの話です。

>周辺に水が入ってきたからと言って島や半島状になった部分の標高があがるわけじゃあるまい?
前記のような状況ですからこの問いは意味をなさないのですが、仮に初めから水が存在しなかった場合には土層の組成と帯水層を
形成する層の厚さにより違いはありますが、原理的には島や半島の高さは高くなります。

これは水の浮力により帯水層にかかる上からの圧力が小さくなるため膨張が起るからです。ただし、帯水層が砂と石で形成されて
いるとその変化は起りません。炭質や有機物が多く含まれていると圧縮による変形がある程度回復しますので膨張します。
886日本@名無史さん:2011/12/06(火) 23:19:57.49
水でびしょびしょの土地=奈良なら、浅瀬に水田作るための入植地にしかならないよね。
887日本@名無史さん:2011/12/06(火) 23:20:28.79
>>878
今年の秋の正倉院展のことならそんな宝物は出陳されていないぞ
888日本@名無史さん:2011/12/06(火) 23:32:11.03
すげー、全部見て覚えてるの?
889日本@名無史さん:2011/12/06(火) 23:37:45.41
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ     、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 

大韓毎日   、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13

京郷新聞  、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社  〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)

朝鮮日報   、、、  〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1

韓国日報  、、、、  〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1

東亜日報   、、、  〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)

韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
NHK放送センター、  〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
890887:2011/12/06(火) 23:40:01.64
>>888
『展示図録』って知ってるか?
891日本@名無史さん:2011/12/07(水) 00:34:40.59
正倉院展なんて行ったことないよ。
892日本@名無史さん:2011/12/07(水) 02:03:31.75
正倉院展に限らず博物館、美術館で特別展が開催されたら大抵はあるだろ
>『展示図録』
893日本@名無史さん:2011/12/07(水) 05:50:12.31
>>847-848
古文書学者は、社家が伝承する実技を無視してきた。

巫女が神憑りして託宣したけっか決定された、という古い文献の記述に対する、
あなたの理解度はどのぐらいあるのかな?
迷妄なオカルト、という決めつけをすると、理解力は、ほとんど0点になってしまう。

これを、催眠暗示の技法を用いて、伝説上の古の賢者の、優れた思考をシミュレーションする技術、
と、心理学や脳科学の視点から正しく解釈していくなら、
古い記述に対する理解力はまったく違ってくる。

残っている託宣の内容を、より深く理解できるようになる。

遺跡から出てくる祭具を観察して読み取れる情報量も圧倒的に違うのだよ。
したがって、実技を伝承する神道関係者を、発掘現場に入れたほうがいいと思う。

特に、新年が来たことを知る工夫などに関する知識が0の人々が発掘していては、
古代の祭祀跡を分析する能力が低すぎることになる。
894日本@名無史さん:2011/12/07(水) 05:55:36.73
>>847-848
ミスリードするな。

耀姫様が持ち出した、近畿の五芒星の一緯度長→ http://g.co/maps/hj98a は、
ムー帝国の古代遺産のような、伝奇小説の架空の世界の話しではない。
ゴッドハンドのオーパーツではなく、間違いなく現存する確かな証拠物件だ。

明らかに秦氏は、ピラミッドを建設した人々が知っていた、地球の直径の情報を持っていたから、
日本の国土上に、神社を使って描くことが出来た、巨大な護符の図形だ。

耀姫様が指摘しているが、2世紀には地球が太陽に対して何度傾いているか分かる、
天文観測装置が中国でも作られているし、日本の社家にも同じようなカラクリが現存する。
地球のサイズを知っていたり、高度な測量術を持っていても、なんら不自然ではない。

もちろん、誰でもが持っている知識や技術ではないからこそ、
追跡すれば、当時の王族や神官クラスの人々の移動を推理できる。

役行者小角が、鬼を使役したという伝承ズバリの技術が社家に伝わっていて、
これが、ソロモン王の時代に神殿を開発した伝承と同じ技法が使われている可能性がある。
斎宮制度はなくなったが、斎王が男王(天皇)を支える仕事の内容が言及されている。
卑弥呼の時代の巫女の役割や、鬼道の実態解明に迫る貴重な伝承だ。

卑弥呼の生活跡の遺跡とおぼしきものが出てきたとして、どうやって卑弥呼がいたと結論するんだ?
神道の実技を伝承している人々ならば、祭具の配置から古神道を推理して、
その場所に住んでいた巫女の祭祀の形態やレベルまで、詳細に分析できる。

オカルト扱いしていれば、それらの情報は永遠に得られないまま、宙に浮いて歴史の彼方に消え失せる。
自分達が何を主張しているのか、言葉の意味を理解できないまま、ミスリードしているとしか見えない。
895日本@名無史さん:2011/12/07(水) 05:58:17.70
>>847-848
ササン朝ペルシャが滅亡して、ペルシャの王子が中国に亡命したことは、明確な記録が残っている。
中国に今も子孫達の村があることも、確認されている。
妻子が日本に来ていたことを、指摘する学者も現れた。

古代イスラエルの王族が、北王国の滅亡後逃亡して、その文化が日本まで流れてきた痕跡を、
オカルトと断言するなら、
ペルシャの王子一行の中国国内での行動も、オカルトということになるんだな?
秦の始皇帝の兵馬俑付近からペルシャ人の骨が見つかっていることも、
兵馬俑がペルシャの影響を受けた軍団編成になっている事実も、
オカルト・オーパーツ認定するんだな?

何がオカルトで何がそうでないか、見極める目が必要になる。もちろん、素養がないと身につかない。
何もかも混同してオカルトと決めつけていると、
無知丸出しの古文書研究家、と社会認定されることになりかねない。
十分な知識がないなら、余計な口を挟んで、ミスリードの大家になる愚行を回避するのが利口者だ。
896日本@名無史さん:2011/12/07(水) 06:07:11.25
某学園のサーバーにあるメタバースのカフェ プリマベーラに
厳選した有識者が呼ばれて、耀姫様の講演が行われた。
30人ほど考古学や歴史に興味を持つ大学関係者が集まっていたが、
耀姫様の話に、内心興味を持ちつつも、よほどの冒険家以外は、沈黙を守っていた。
なにしろ、古文書学者では、彼女の脳科学や心理学の専門用語が、ほんとど理解できないのだ。
カビが生えた本の内容しか知らない、古文書学者達にとって、馬の耳に念仏状態だと見てとれた。

一緯度長とは何か、どうやって測量して割り出したのか、といったことすら分からない連中だから、
二世紀の天文観測装置の3DCGを見せられても、
内容がほんとうに理解できた学者がいなかった様子には恐れ入った。
二世紀の人々よりも、数学や天文学の知識が下のレベルでは、
ゴッドハンド系のオーパーツなのか、そうでないのか、判断するだけの知的能力がないことになる。

けっきょく、心理学者や脳科学者のほうが、
ヒミコの時代の鬼道や記紀神話成立以前の古神道の実技の内容を、詳しく知っている状況にある。

社家が伝承する実技を、オカルトと言って無視する迷妄な時代は、すでに終わっているが、
カビが生えた古文書学者は、科学知識の増大と学問の進化に、まったくついていけないのが現状だ。

祭祀跡を発見したら、発掘現場に心理学者や脳科学者を入れたほうがいい、
そうでなければ、卑弥呼の神殿跡かどうか、判断できるじんぶつがいない、という話になりかねない。
神道の実技に対する現状の認識レベルで、遺跡を無暗に掘らないことを提案したい。
考古学者は、全員神社に行って、古神道や古代の祭祀について勉強し直したほうがいい。
貴重な遺跡を荒らして、情報を捨てて回るような発掘は、やらないほうがマシと言える。
897日本@名無史さん:2011/12/07(水) 07:14:55.74
>耀姫様

ど こ の キ チ ガ イ  で す か ?

898日本@名無史さん:2011/12/07(水) 08:15:00.94
古神道にとって最も重要な、太陽の力が復活したことを祝う日拝の神事(現代の初日の出を拝む慣習)は、
新年を迎えたことを知らなくては行えない。
その方法は、日本という国名発祥の地 日下から生駒山を仰ぎ見る判定方法の慣習の中に隠されている。

この地域に天日矛を奉斎する秦人が渡来したことは、
寝屋川市の高地性集落の太秦遺跡と古墳群から、ある程度は知ることが出来る。
饒速日が高天原から降り立った伝承地も、この集落に近く、無関係とは思えない。
また、秦氏が奉斎する巫女神の家に、今も古代の太陽信仰の神事が伝承されていることも、不自然ではない。

多くの人が推理するように、卑弥呼が日の巫女だったとすれば、新年を拝まなかったとは思えないわけだが、
さてここで、邪馬台国の都や神殿を探すうえで最も重要な質問をする。
日下から生駒山を仰ぎ見るのと同じ判定方法は、
卑弥呼の神殿遺跡に、どのような形で残っていることが、推測できるか。

この質問に答えられないような、無学な考古学者達は、
今すぐ邪馬台国(邪馬壹国)の卑弥呼の遺跡探しから、手を引いたほうが良い。
なぜならば、発見しても、それが探していたものだと判別できないだけでなく、
貴重な遺跡を荒らして、情報をゴミ箱に捨ててしまい、
永遠に卑弥呼の神殿がどこにあったか、分からなくしてしまう可能性が高いからだ。

古神道の知識を持たない素人は、不用意に邪馬壹国の遺跡を掘るな、と言いたい。
899日本@名無史さん:2011/12/07(水) 08:28:41.34
>>897
反日活動家達が、特定の社家をつけ狙っていることは、関係者なら承知している。

日本の神社仏閣から宝物を盗み出して、国外に売りさばいている窃盗団グループの裏には、
暴力団(半島系武装勢力)がいるとニュースにもなっている。
その連中が、フランス政府からカルト認定されている某学会(中身は仏教系新興宗教と巨大政治団体)
とつるんで、某神社の周囲を嗅ぎ回ったり、神庫から宝物を盗み出そうとしていたことも、分かっている。

韓国に持ち込まれた盗品が、韓国の国宝に指定されているのではないか、
という疑惑も出てきているぐらいだ。

お目当ての、長期孤立文献が、焚書になったと聞いて、憤慨していたらしいが、
李氏朝鮮王室の史料など、この王室を自ら捨てた朝鮮半島の人々が、今になって求めるほうがどうかしている。
そんなに大切なら、なぜ王室を捨てたんだ?

古い時代には、草薙の剣を熱田神宮から盗み出して、
日本国外に持ち去ろうとした半島出身の僧侶の記録もある。

畏れ多くも、応神王朝の母神として神社に奉られている、皇祖神を日本人は罵ったりしない。
日本の神を罵る害虫は、半日活動家とみなすのが妥当だよな?
900日本@名無史さん:2011/12/07(水) 08:33:37.65

 耀姫はキチガイ
 姫はキチガイ
 はキチガイ
 キチガイ
 チガイ
 ガイ
 イ


901日本@名無史さん:2011/12/07(水) 08:46:19.20
昔の人は、いろんな形でヒントを残してくれている。
その一つを耀姫様が示してくださった。例の近畿の五芒星系とも関係してくる、神社の配置図だ。
http://g.co/maps/kkmp8

伊勢神宮の内宮の誤り(宮大工の勘違い)を、大っぴらに指摘したくないからだろう。
この図の解説では、伏せておられるが、重大なことを先の講演会で御指摘なさっておられた。

ところが、考古学者というのは、まともに宮大工の勉強をしていないから、馬の耳に念仏だったようだ。
邪馬台国を探そうとしている学者達と、実際に邪馬台国系列の神殿跡かどうか判断出来る見識を備えた、
神道の専門家の認識レベルに差がありすぎると感じる。

神社ではどうやって新年の日を判断して、お正月の神事を行って来たのか、すら知らないようでは、
太陽信仰の神殿跡かどうか、判断することは不可能だし、
それがヒミコ系列の神道遺跡なのか、それ以外の遺跡なのかすら、
判断できないまま調査を終えてしまうことになる。

残念なことに、耀姫様の弟で宮大工をしている方は、考古学者をゴミ扱いしているから、
直接秘伝を教授頂けない状況にある。
しかし、メタバースのセカンドライフの世界に3DCGで再現された某神社には、
ヒミコ系列の神殿とはっきり分かる証拠があった。もちろん伊勢神宮にないものが、宇佐神宮には残っている。

反日活動家が岡山の鬼城付近にある磐座に刻まれた、同じ意味を持つ文字を、削り落として行ったそうだ。
あいつらは、敵国の文化財を破壊することに熱心だから、下手に情報を公開できない。
耀姫様が情報を一般公開しないのは、彼等が悪さをするからだろう。

すでにこの掲示板でも、ミスリードしたり罵ったりと、さまざまな悪さが始まっているな。
902日本@名無史さん:2011/12/07(水) 08:51:32.01
>>900
アカルヒメならともかく、耀姫は襲名されるものとはいえ、特定の個人が使用する名前に等しいから、
警察に届けて調べさせて名誉棄損に出来るよな?

この場を、匿名掲示板と思っていたら大きな間違いだ。
903USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/07(水) 11:35:54.77
なんとか姫とか意味不明な書き込みばかりで気持ち悪いわww
専門家がもう畿内だと答え出してるんだし素人風情がたてつく意味もわからんし、
痛い奴が多すぎるわww
904日本@名無史さん:2011/12/07(水) 13:16:18.23
>>903

お前の方が気持ち悪いよ 
荒らすならあっち行け しっしっ
905日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:00:14.20
邪馬台国分野では、「専門家」ほどあてにならない件、
研究史を見ればすぐに分かる
906:2011/12/07(水) 14:12:24.67
>>905
ほう、どの研究史でしょうか?

まあ、昔の専門家といわれてた人はかなりおおざっぱというか
名称だけでそれぞれの国を割り出すってやり方の人も居たでしょうし
昔よりも現在のほうがその情報量は多いと思う。
現在はグローバル社会なので、昔の人に比べると現在の
専門家のみならず素人さん達も結構詳しいほうと思うよ。
907日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:52:36.20
邪馬台国の分野では完全に素人に遅れをとっているからね。学者の面子で歴史を歪めるのは勘弁
908レス長たらし毘古:2011/12/07(水) 17:55:48.79
【奈良湖こだわってみた最終章】(今回は全編ファンタジーでお送りします)

時は紀元前、西日本の大親分のイザナギは、湖沼地帯ばかりで使い物に
ならない奈良盆地方面にむけ、ニギハヤヒの先祖を殖民軍団として送り込む。
当時は「物に成らない」と思われていた、奈良盆地湖沼地帯も、ニギハヤヒ
の先祖達によって、ある程度の人員・農業生産量(稲など)を再生産できる
地域に育て上げた。
さて、それを見た西日本の次代の二大勢力(前出雲&前九州)は、それぞれ
「こちらに従え使節団」を近畿に派遣する。古事記で言えば、出雲側は大国
主、九州側はニニギ〜神武がこれに当たる。
神武は古事記が主張する如く戦いによってのみこの地方を征圧したとは考え
にくく、むしろ湖沼散在する土地においては、戦いと妥協を繰り返して、地元
の中枢勢力へと登りつめて行く。(神武数代の自仮説を参照して下さい)
古事記における神武時代の近畿は既にある程度の人口過密地帯へと変遷して
いる。この時代に、湖沼地帯の半分近い範囲は、農作物→稲作地帯と変貌して
いく。(そして水稲の伝来を受け入れ、西日本でいち早く優秀な水稲地帯と
なって行く)
つまり、神武〜開化時代において、「湖沼を干拓すれば干拓するほど」国力が
増大するワケである。こうして奈良湖は完全消滅し、貯水湖(溜め池)が点在
する事によってのみ、そのかつての面影を忍ぶ事は出来なくなって行く。
「稲作先進地帯」の奈良近畿時代は、その後中央日本の有力勢力へと成長して
行く。農業生産量が激増すれば、当然居住人口も増加は可能だからである。

対外的に見れば、神武〜開化の時代は妥協の産物。西方の二大勢力にも二面
外交で従う振りと半自治とを繰り返す。(従って、「後代大和にとって好ま
しくない逸話」は古事記(になる前の日本神話)の中から消えて行った)
余剰生産物はやがて玉石貝殻経済を富裕化させ、やがて銅貨経済を開始する。

奈良湖ファンタジー(ひとまず)完

(大体おおはばには、各部歴史事象とは一致していると思い込んでいますが、
もし致命的に間違っている時代考証があった場合は厳しいご指摘ヨロ♪)
909日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:08:57.78
一般的には常識とされている普遍的なテーマ、例えば
 真実は一つだけ
 怒りは自然な感情
 戦争・テロは無くならない
 死刑には殺人の抑止力がある
 虐められる側にも虐めの原因がある
 自己チューな人間ほど自己愛が強い
などの命題の間違いとその論拠を解説
義務教育では絶対教えない最新合理主義哲学
   感情自己責任論
910日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:17:02.09
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作を行っていた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866
14時以降に何が起きたんだ

>>866
Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社

これが規制されたからじゃねw

−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 2009年3月


911日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:27:49.90
↑ 朝日新聞社員を買収してるのは、中国じゃなくてCIAだってのは世間の常識だよ君!
912:2011/12/07(水) 18:30:40.46
ニックネームを付けるとしたら「優しいデブ(怪獣のが良かった?w)」とも言うべきw
レス長たらし毘古さんが来たねえww (俺口悪いので勘弁ねw)

>>908
日本書紀の方に神武天皇のことカムヤマトイワレヒコが宇佐の地に立ち寄るでしょ?
記紀では、友好的な関係らしく書かれてるようだが、宇佐伝承というのはタラシさんはご存じだろうか?

宇佐伝承によると記紀の友好的なもんじゃなく、イワレヒコ勢とウサツヒコ(宇佐勢)の間には
始め戦争があり、負けた側の宇佐勢が妃でもあるウサツヒメを差し出したらしい事が書かれてるらしい。
宇佐伝承に関して、タラシさん的にはどのように考えてるのでしょうかねぇ・・・
913:2011/12/07(水) 18:45:52.79
>>901
>神社ではどうやって新年の日を判断して、お正月の神事を行って来たのか、すら知らないようでは、
>太陽信仰の神殿跡かどうか、判断することは不可能だし、
>それがヒミコ系列の神道遺跡なのか、それ以外の遺跡なのかすら、
>判断できないまま調査を終えてしまうことになる。

ん?どうやって新年を判断して
「お正月の神事を行って来た」のでしょうか?
おれ〜コレ知らんゎ〜みんな知ってる??ALL
914レス長たらし毘古:2011/12/07(水) 19:14:20.40
>>912
>負けた側の宇佐勢が妃でもあるウサツヒメを差し出したらしい事

山幸の段階で豊玉勢力は山幸の同盟者になっているので、子孫の神武が近隣
地域(北九州)での支配権を主張しそれが元で紛争が起こる可能性はある
かと。(古事記では海幸はシブシブ山幸を承認した体をとっているが、それ
を是とできない勢力が残存し、その有力な一つが宇佐勢力だったのかも
しれません)

結果として政略結婚の末、宇佐の血脈は神武の家系に入り込む訳ですので、
そこで神武←宇佐勢力の恭順、と言う図式になります。
古事記が「友好的」と表記したのは、後々の政治地図から生じた可能性は
高いかと想定しています。その時点での当代において「シブシブ従った」で
あっても、それらの関係子孫にとっては、他氏との優劣上、「友好的だった」
と主張した方が得策だったのかもしれません。(また、その為の書き換えが
前古事記までの日本神話において行なわれます。と想定)

一方逆に、宇佐の勢力を抑えておかないと、(更に言えば瀬戸内海の諸勢力
も抑えておかないと)神武は東北九州から瀬戸内海を渡って、淡路の南和歌山
へと至る「塩土爺ルート」の渡航は難しくなります。つまり、ウサツヒメは
神武(数代仮説の内の最初の方)が瀬戸内海を安全に渡る為の人質でも
あった訳です。

915レス長たらし毘古:2011/12/07(水) 19:16:14.68
>>914、続き

結果(勿論この妄想筋における、ですが)宇佐勢力は、神武〜開化時代に
おいては瀬戸内海利権の独占者(の一つ)と成ります。故に、モモソ様が
淡路=瀬戸内海の後継者となっても、自他共に何の矛盾も無く、モモソが
東北九州において魏から依頼された外交団と面会しても全く問題は無く
なります。
さてさて、ここで古事記ですが、神武とウサツヒメとの間の子供等の表記は
一切ありません。ここをどう見るか一つですが、そこで後代の「ウササゲ」
「モモソサゲ」です。そう。先述したように、この間の時期こそが、「妥協
の産物により場合によっては誰か(特に古事記編集代の皇族)に不都合」な
内容だった可能性です。
従って、この間の「簡素化表記」と並行的に、ウサツヒメの末えいとモモソ
ヒメのご先祖は、古事記表記上「ぼかされ」ます。
また、当時的には「本来人質」であったウサツヒメとの婚姻子状況に関しては
特に前古事記の日本神話において、「詳しく説明する必要が生じなかった」
のも、この簡素化には幸いしました。なぜなら「正妻競争」に関しては
ウサツヒメはけして有利な方ではなかったから、と言う状況も考え併せると
そこの想定も筋としては自然につながります。
916:2011/12/07(水) 19:36:26.68
日本書紀 卷第三 ~武天皇 即位前紀に「天種子命」てでてくるでしょ。
菟狹津媛は天種子命の妻になるんですが、宇佐伝承によると
天種子命の正体は神武天皇そのものでして、負けた側のウサツヒコの妃である
ウサツヒメを抱かせたらしい話があるのです。
私は実際にこの宇佐伝承の話をそのまま信じるのか微妙な立場をとってるわけですが、
このあたり〜長たらしさんはどのように考えてるのでしょうかね。
917:2011/12/07(水) 19:59:03.23
日本書紀の神武天皇東征物語は少し興味がありまして
大分県にある、速吸之門や筑紫の國の宇佐には何度か調査しに行ったことがある。

又、古事記によると、
筑紫は白日別(しらひわけ)とも云い、
豊は豊日別(とよひわけ)とも云い、
肥は建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよくじひねわけ〉で、
熊曽は建日別(たけひわけ)とも云う。

豊後風土記とか持ってるんですが、
景行天皇が九州の熊襲退治に行った際に、菟狹川上に住む耳垂や鼻垂ていうのと
戦ってますよね。
富来隆氏だったか忘れたが・・・耳垂、鼻垂の「垂らし」というのは
ある一定の高貴な人に贈る名称であり、レス長たらし毘古さんの「たらし」もこの一種なのだろうかw
918:2011/12/07(水) 20:04:01.54
太国さんとか、唐さんってコレの事知ってます?

>神社ではどうやって新年の日を判断して、お正月の神事を行って来たのか、すら知らないようでは、
>太陽信仰の神殿跡かどうか、判断することは不可能だし、
>それがヒミコ系列の神道遺跡なのか、それ以外の遺跡なのかすら、
>判断できないまま調査を終えてしまうことになる。

誰か知ってる人いたら書き込みお願いします。
919日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:20:54.29
以前誰かが教えてくれた「下永東方遺跡」これが地図で確認したら標高が大体45m
直ぐ近く北西にある「浄化センター公園」南にある三角点△で42.8m
縄文時代は確実な遺構はないようだ。
(弥生時代の遺構としては石製のナイフ等を挙げても
、どうせ天草縄文人は
 「船の上から湖中に投げ込んだ」とか言いかねないw)

弥生時代に入って溝(107・108 第五次調査)が出ているが層位的に弥生前期との事(そこからの出土に弥生土器、サヌカイト)
もっとも、こんな直ぐ横を大和川(初瀬川)が走っている地域まで
自説の為なら例によって地盤沈下したとでも言うのかもしれないがww

そもそもこの天草縄文人は想定に足るような資料を出していない。

先に出した物はそもそも後背湿地を対象にした物であって湿地の層が出るのは当たり前。
それですら調査した全域が帯水域であった…という結論に至っていない。

その辺は想定してる標高より高いからと言ういいわけが出てくるんだろうがw
(だったらそんなものは最初から出すなとw)

結局やっているのは「亀の瀬の崩落による閉塞」による水位上昇や一部亀裂による低下といった脳内シミュレーションだけ。
勿論「亀の瀬の崩落」とやらの証拠も挙げていない。

こんな定説どころか有力な仮説にさえなっていないであろう与太話を証明したいなら
盆地のかなり広範な地域、測定点で湖底であった層が確認できることを示すのが先ずやるべきことではないか?
>>885によれば一度陸地化した場所も元々湖底だったのだからそれを示す地層があるはず)
まあ資料を揃えるのに骨が折れるかもしれないがそれは自分で選択したハードルだ自己責任でやれとw

この 天草deshabari縄文人 は自説(恐らくと言うか確実に邪馬台国九州説で東遷説)の為にひたすら「たら・れば」だけで強弁しているだけ。
幾ばくかのタームや数字を並べて「りろんてき」だの「かがくてき」だのほざく奴が一番たちが悪い。

それは詐欺師のやり方だ。まああからさまに怪しすぎて騙される馬鹿もいないんだがw
もっともお仲間内のゴミクズレベル九州説や案外自分自身を自己催眠の形で騙しているのかもしれないがwwwwwww
920日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:22:59.34
>>919 訂正

誤)弥生時代の遺構としては石製のナイフ等を挙げても

正)弥生時代の遺物としては石製のナイフ等を挙げても

921唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 20:30:30.07
九州で ホ28436 コトシワニヒコ モモのヤツ イモトヰススは トヲヰツツ

崇神時代 ホ37077 タタネコは シルシさゝげて カモのミヤ あるゝをふして
をもみれば カモとイセとは ミオヤなり

天タネコは、ヰスス姫を娶る。
だから、タタネコはカモ(ワニ)を我が御親と認識している。

>神社ではどうやって新年の日を判断して、
暦の管理は天皇家の仕事であった、その構造を知らねば暦として機能しない
だから19年*n回の空白年を差し込む。
暦は天皇家から各地(宮)に配布され農事暦として機能する。
天皇家のシノギである、種貸しも安泰。
神功渡海となると、連絡のためこの手法は使われなくなる。
一昔前の年寄りが、「うまいものを食ったから寿命が3年延びた」と同様な手法で空白年を差し込む。
神武即位元年
ホ30050 スズサナト サヤヱハツヒの ヲメデタも ツクシのタメシ ウマシマチ トクサさゝげて
アメタネコ カミヨフルコト たてまつる ナナクサミソも トンドホも カミアリカユも をこなわれ
922:2011/12/07(水) 20:33:37.43
>>921
もっと分かり易い説明をお願いしますw

923日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:35:45.33
分かり易くする以前に、唐松山のオカルト論を果てしなく展開されることがとっても公害。
924唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 21:05:13.25
太陰暦は19年7潤6940日の積み重ねである。
中国においても、暦法が変わったと言いながら、450年ころまでは、うるう年の差し込みは
この19年7潤の月は変わっても差し込み年に変更は無い。
19年の積み重ねである。だから、実際の暦と差し込みの空白年さえ押さえていれば暦が狂う心配は無い。
それでも区切りが必要であるから、天皇1代ごとに区切る、これが基本であるが
開化天皇など治世が数年しかないとした場合、実際の経年と差し込み年数がばれてしまう
だから2代で一つの暦として運用する。
ホ31159 うけつぎて カヌガワミミノ アマキミと タカヲカミヤに ハツコヨミ
ホ31296 トキアスス フオヤホサミト キサラヨカ ネアエワカミヤ トシミソム アマツヒツギを
うけつぎて ヲヲヤマトヒコ スキトモノ アメスメラキと たゝえます アメのノリもて をがませて マカリヲコヨミ
あらためて
ハツコヨミとマカリヲコヨミ あらためての違い
初暦と間借りを暦。


925唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 21:22:54.83
旧編年
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
書記に”正朔”の文字はあっても太陰暦に直せない。
崇神世あたりに正しいと出来る文献が無い。

新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。
書記を正しい?太陰暦に変換できた。
書記と考古学・他文献と整合する。

七支刀=369年を正しいと主張しても半島占拠は否定される=書記の主張ではない。
七支刀=326年であれば、半島占拠は正しく、323年の文献も存在する。
926太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 22:19:18.02
大中臣のニセ編年壊滅の下命文のある大祓祝詞の 天津金木(天津神算木)
とは〜古代の真の年代の要所を測る天下の宝器である。
崇神紀の三輪山の説話はこの宝器の所在を未来へ示唆したもので
あり、半径r=3の円(三輪)の球化の 体積=表面積 をいうのだ。
これに違える編年はデタラメである。

天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)

大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 3≠113.097335=113.◎97B350

○数字はミワ(3と0)を示唆し、間にB.C.97年 崇神即位年の数がある。
○数字の両外側の数字 113 350 の差をとるとき


 350−113=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年


の、崇神即位の真の年代を得る。
なお景行はA.D.130年の死値没年数が在り、即位年数ではないことから、
崇神の代のお助け役引き立て役年代だと判明する。
927太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 22:23:08.88
>実際の暦と差し込みの空白年さえ押さえていれば暦が狂う心配は無い。
成務が4年間だというから ↓ 空白年が押さえられてない。ニヤニヤww

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 22:27:49.98
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜

〜またもや偽書といわれる書物を持ち出した〜〜

上表を見れば、一目瞭然に成務の代に19×3=57年の空白年は無い。
929太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 22:33:30.20
>神社ではどうやって新年の日を判断して、
暦の管理は天皇家の仕事であった、その構造を知らねば暦として機能しない
しかし19年*n回の空白年を差し込む位ではその構造は分かるわけが
ない。空白年が無いことは>>927から自明である。

神武のころは太陰暦を太陽暦に変更している。
930919:2011/12/07(水) 22:47:36.89
で、「下永東方遺跡」の報告書に書かれた地層についてメモしておく。
まあやはり細かい所は良く分からないまま、大意のそのまた大づかみにすら届いているか分からないがwwwww

この中である地点(1地点)のサンプルが詳しく書かれているが
層準1〜7まであって、うち層準4の上部からの試料中のテフラを分析。
akの噴出年代を7300年前ぐらいとして層準3を7000年前以降としている。

7000年前以降と言うのは 天草縄文人 が湖底に黒色炭質粘土層が堆積されだしたという年代で
この層準3こそが湖底で堆積された地層の筈だろうが

層準3についての説明で

>層準3は洪水堆積物が流入する氾濫原の堆積環境で形成されたことが推定される。

>本層準の堆積後半には土壌の発達する安定した時期が存在した可能性がある。

…としている。
何れにせよ湖底・水中の環境なんぞ想定していない(当たり前だが)

また報告書の『第Y章 まとめ』で

縄文時代の石器2点を出した黒褐色粘土層がkah火山灰の噴火後(7300年前以降)で年代測定で5120±40BPの年代が得られており
縄文時代前期は土壌化の進行があったことが判明していると述べている。

とてもじゃないが弥生時代中期頃までの盆地湖なんて正気の沙汰じゃない。
ネット上で面白おかしく語られる与太話にしか思えない。

一体それを想定しうるにたる資料はあるのか?(まあ、あったらちゃんとした説として学術の場に出ているんだろうがwww)


931唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 22:51:51.34
>ニヤニヤww 神武のころは太陰暦を太陽暦に変更している。

日数で主張すれば?
成務60年も西暦に直せないんだから、無理なんだろうな。
”朔”の文字を読めるのか?
932メ(スポーツ):2011/12/07(水) 22:54:55.39
ここみて邪馬台国近江説の専門ホームページらしいよ

http://moriyama-himiko.jp/
933太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 23:10:38.22
>>913
新年の日をいかように判断していたかということは、神武より以前に
遡るでしょう。そうなると、神武は太子、幼少のころには九州にいたわけ
ですから、畿内のことは考慮外となるでしょう。そのころの畿内は神武
東征前の先住民族ですから・・・。

そこで九州となれば、神武より以前の神代は伝説としか判明してない時代
ですので、新年の日がいつかは未だ分かっていないのではないかと考え
ますな。言えることは、神話伝説の時代ですから不明瞭ですが、やはり
筑紫(九州)の日向での禊神話出現に出る時置師神が実在人物であるのなら
ば、暦の創始人ということになりえますがね。時量師神ですよ。

月読命の御名には太陰暦の気配が滲み出ていますが、この方は忍者の祖神
ですよ。

天津神算木には古代日本の暦計測の基点日たる崇神即位年月日があるのに
加えて、古代マヤ文明始原日 B.C.3113年 9月7日 があり、古神道では
崇神紀(景行紀に非ず)の三輪山の三輪の説話が崇神の基点日を示唆して
いますよ。すなわち三輪神社に関わりますな。
ミワですが、そのまま3.0の数字(半径3.0の円を示唆)を示し、マヤでは
ミが0(日本ではワ音)を意味する語なんです。
934唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 23:14:59.56
邪馬台国近江説も九州説と同じ穴のムジナであり、
そのために考古学の時空を歪めたいんだろうな。
935太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 23:15:19.89
>成務60年も西暦に直せないんだから、無理なんだろうな。

こんなものは軽くなおせる。倍暦での成務即位年はオマエに教えてある。
そこから3年分を1年としてあてがって行けば。成務年代の実年代が
勢ぞろいだ。こんなのオマエにやらせたいんだよ。ww

出来ないのはオマエのほうの>>927の件だぜ。オマエは空年57年分が
どこなのか、その表から示してみろ。オマエは出来ないんだろ。bubu・・・
936太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 23:17:41.09
ついでにこれの ↓ 日数も主張すれば? 57年の空年はどこ? ニヤニヤ

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
937メ(スポーツ):2011/12/07(水) 23:18:40.58
>>933
いや、いや、遠くに離れてる一般の「人々が」どうやって
1月1日という「正月」の日を知ったのかてことなんだが・・・・
938太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 23:21:04.20
メさんよ
それは分からんだろうね?
具体的の一般人では、まず記紀に編者らが載せないと思いますよ。
939日本@名無史さん:2011/12/07(水) 23:31:03.42
暦、観測、でググッたら、こんなのみつけたけど。

http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body086.html
940唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 23:35:05.73
書紀に書かれた数字を支那の干支と同一とした場合
太陰暦のまま圧縮出来るか?庚辰を中国朔辛卯にして算出。
年号  西暦 加算日数 中国朔
神武元年42年0日辛卯西元42年2月9日
綏靖元年64年8033日甲申8日西元64年2月7日
安寧元年78年13142日癸巳西元78年2月2日
懿徳元年90年己卯 安寧と同じ暦
孝昭元年94年18988日己未9日西元94年2月4日朔
孝安元年120年28467日戊午 戊子 30日早い27日 元120年2月17日朔
孝霊元年146年37976日丁亥12日西元146年1月30日朔
孝元元年165年44916日丁卯14日西元165年1月30日朔
開化元年184年51856日丁未4日西元184年1月31日朔
崇神元年187年52948日己未 開化と同じ暦調整前13日西元189年2月4日朔
垂仁元年217年63904日乙未2日西元217年1月25日朔
景行元年240年72320日辛亥 景初暦と同じ
成務元年262年80352日癸卯5日西元262年2月6日朔
仲哀元年266年81799日庚戌 庚辰 30日早い11日西元266年2月22日朔
神功元年275年85106日 丁巳 戊午 29日早い
神功39年313年98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑  98986日 丁丑 丁丑 399年は閏年3日西元313年2月12日朔
仲哀元年266年(閏11月あり)+133年(19+7)399年仁徳87年も閏11月と思われる。
941レス長たらし毘古:2011/12/07(水) 23:49:15.27
>>916
>日本書紀 卷第三 ~武天皇 即位前紀に「天種子命」てでてくるでしょ。
菟狹津媛は天種子命の妻になるんですが、宇佐伝承によると
天種子命の正体は神武天皇そのものでして、負けた側のウサツヒコの妃である
ウサツヒメを抱かせたらしい話があるのです。

まあ、先述したとおり、記では「ウサツヒメ」の出現方法と子孫の系譜に関し
ては特に記述が無いので、従って以下二通りの可能性のどちらかと推測され
ます。

@ウサツヒメは天孫イベントには関係あるが、天孫血脈には関係無い。
Aウサツヒメは天孫イベントに関係があり、天孫血脈にも関係がある、が、
それを表記したくない事情が前古事記日本神話〜古事記の編纂までにあった。

以前にも述べましたが、私個人は記と紀の食い違いにおいては比較的古事記
重視ですし、古事記で表記が無く日本書紀でわざわざ描かれる内容は、古事記
が削り、書紀が反動復元させた可能性は感じます。その意味においては貴殿の
ご指摘は程度興味深いですね。
現状では当方は、この上記の分岐は放置している状況ですので、そのうち
貴殿の仰る記の天種子命を自分なりに検証した上で回答しようかと思います。
あばうとな回答はしたくないので、ちとそれは宿題にさせて下さい。
942レス長たらし毘古:2011/12/07(水) 23:51:13.26
>>941、続き
※ちなみに、なぜ放置してるかと言うと、宇佐は直説法で卑弥呼と結びつく
可能性を感じるからです。(メインディッシュを後に取って置く方なので)
それだけでして、別に他意は無いです。

あと、当方のハンネに関してのご推察があるようでしたが、一言。
「考えすぎです」。最初ここに登場した際「文章が長い」と言うご指摘があり
ましたので、息長帯日売リスペクトでわかりやすくそこから決めただけですw

★以下、参考までに記におけるウサツヒメの記述を簡略抜粋。
>神武、豊国の宇沙に到られた時、その国人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の
二人、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作りて、大御饗戯りき。

記においては、ウサツヒメは残念な事に、あるいは意外な事に、この部分に
しか登場しません。これが、日本書紀になると、頼まれてもいないのに、
濃厚な描写になり、ここ以外の場所においてすら(つまり東征の途中)にも
名前だけ登場したかと記憶。従って当方としては、宇佐の外堀埋めの時に
まとめてしまおうと今まで放置してたんですね。だって、記にあんだけの
描写しか無い物ですから。。。(宇佐ファンには申し訳無いが)まあ、良い
機会なので、ここらでそろそろ取り組むべきではありますね。(自架空の
他とのつながりもありますし)
943唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/07(水) 23:55:46.77
ホツマねしと=日本みずのとひつじ=半島水羊=中国癸未
323年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,正月 行水羊祭, 水羊(癸未年)祭を行った。

和暦の読み方は、この古墳時代の半島に駐留する時代に採用され、
313年仁徳元年から使用されたとすれば、
神功・応神(275〜384年ホツマ暦)と並行して使われても混合しない。
7世紀に導入されたとするには、読み方がどこから来たかがわからない。
944レス長たらし毘古:2011/12/08(木) 00:00:06.88
と言う訳で、現状では宇佐都比売人質説(?未確認)辺りで、放置中です。
要約すると、記のウサツヒメ表記のみからでは、「わかりかねる」し、
「重篤性も感じられない(記の表記)」となっているからです。但し、紀の
主張を全面無視する気もありません(紀での表記も要素検証できる筈)し、
土着伝承(この場合は宇佐伝承等)と擦り合わせの必要性も感じます。

但し!お嬢様! 謎解きはメインディナーの後で。
945レス長たらし毘古:2011/12/08(木) 00:12:01.16
誤字訂正>>941
>貴殿の仰る記の天種子命・・・誤
→貴殿の仰る紀の天種子命・・・正
訂正してお詫び。
946日本@名無史さん:2011/12/08(木) 10:25:36.36
947太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/08(木) 11:27:51.82
紀の三輪の伝承は正確に通説年代を指示 かつ支持している。
        ↓
大中臣の偽編年撲滅の下命の重要年代計測器〜
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書ホツマに汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
死値 A.D.130年★景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり


 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年


188年はイカサマなり。
948日本@名無史さん:2011/12/08(木) 11:29:38.88
鷲崎弘朋氏の「年輪年代法と炭素14年代法の問題点」
なかなか説得力がありますね

みなさんも観て御覧。

邪馬台国研究大会01 http://www.youtube.com/watch?v=pojnf8VtRTU

邪馬台国研究大会02 http://www.youtube.com/watch?v=CVtf0umX1H8

邪馬台国研究大会03 http://www.youtube.com/watch?v=rxW4mnrSFDw

邪馬台国研究大会04 http://www.youtube.com/watch?v=n73ejDkuGq8
949太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/08(木) 11:29:59.23
>成務元年262年80352日癸卯5日西元262年2月6日朔
>仲哀元年266年81799日庚戌 庚辰 30日早い11日西元266年2月22日朔
 ↓ どこにもそんな57年分もの莫大な空年は無〜〜い。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
950日本@名無史さん:2011/12/08(木) 11:46:13.70
>>819
ジョーカーはまだ諦めていないのか。
弥生時代の遺跡だとして下永東方遺跡なるものを挙げているが、あんなものは弥生人の居住を示すものでは
ない。ただ土器の破片と石器が出たというだけ。

>そもそもこの天草縄文人は想定に足るような資料を出していない。
>先に出した物はそもそも後背湿地を対象にした物であって湿地の層が出るのは当たり前。
>それですら調査した全域が帯水域であった…という結論に至っていない。
天草氏の説明を全く理解できていないからこのようなトンチンカンなことを言う。
「調査した全域が帯水域であった…という結論に至っていない」とはなにを言っているのだ?
951日本@名無史さん:2011/12/08(木) 11:52:43.04
>>930
>7000年前以降と言うのは 天草縄文人 が湖底に黒色炭質粘土層が堆積されだしたという年代で
>この層準3こそが湖底で堆積された地層の筈だろうが
>層準3についての説明で
>>層準3は洪水堆積物が流入する氾濫原の堆積環境で形成されたことが推定される。
>>本層準の堆積後半には土壌の発達する安定した時期が存在した可能性がある。
>…としている。
>何れにせよ湖底・水中の環境なんぞ想定していない(当たり前だが)

その層準3が黒色炭質粘土層であればまさに湖沼底堆積層ではないか。
952日本@名無史さん:2011/12/08(木) 14:55:58.55
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派

VS

橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
 様子見:公明
953日本@名無史さん:2011/12/08(木) 17:27:02.77
>>950-951

まさか 天草縄文人が名無し=別人 を装ってとりあえず反論してみたと言うことはないだろうな?w
(失敗しても切り捨てられる保険のような物w)

>あんなものは弥生人の居住を示すものではない。ただ土器の破片と石器が出たというだけ。

まあそうやって単なる”イチャモン”付けやってくるであろう事は過去の経験からも想定済み。
故に溝(107・108)を挙げておいた。報告書では(自然に形成された)流路とは区別してある。

>「調査した全域が帯水域であった…という結論に至っていない」とはなにを言っているのだ?

日本語の読めないゴミクズ。
例の資料では水域の輪郭を描きだしその大きさや位置の変遷を書いている。 

>その層準3が黒色炭質粘土層であればまさに湖沼底堆積層ではないか。

「氾濫原の堆積環境で形成」で書いてあるのが読めないのか?ゴミクズ。
ちなみにこの層準3、見た目には「灰色〜暗灰色を呈する」との事w

また層準4ならば


>氾濫原ないし後背湿地の堆積環境の比較的安定した領域の水底下で形成された堆積物と推定される。

…とあるから、まあ層準が一つズレて残念でしたと言う話だな♪チャンチャン
954953:2011/12/08(木) 17:47:07.17
まあ天草縄文人にしろこうやって単なる”イチャモン”付けに終始し
「反論できなければオレの勝ち」
…の如き下らないディベートゴッコやってくるのは分かりきっている。

「ディベートゴッコじゃない」と言うのなら能動的主体的に自説を証明する材料を出して来いという話だ。

現在の所出したのは
天理のある地区で湿地があった事を示す資料で
これは元々後背湿地を対象に調査した物だからそう言う地層があって当たり前。
それもエリアの限定された水域を描き出している。

まあ標高からしてここが湖の端にできた湿地と言うことであれば説明がつくだろうが
それは湖があったことに繋がらない。

後は結局、「亀の瀬の崩落による水位上昇をシミュレーションしてみました」と言うだけの話。
なんら証明に結びつきそうな資料も出していない。

で、そのシミュレーションに都合の悪い物に対し
土器等の遺物の年代にイチャモンをつけ、あるいは「そこは地盤沈下した当時はもっと高かった」…etc
とひたすら抗弁を続けるだけ。

まあ現実にそんな弥生時代の盆地湖なんて話は学術的な場には上っていないのだから当たり前だがw

結局「邪馬台国九州説」「九州東遷説」の為にひねり出した与太話。
あるいは自分のキャラを確立する為のネタwww




955953:2011/12/08(木) 18:20:20.65
そうそう

 >>950-951 のレスを読んで元の縄文人の文章に近いな…と感じたのは俺だけだろうか?w


956日本@名無史さん:2011/12/08(木) 18:25:06.96
まあ、3世紀の畿内に巨大権力を思い描いても無茶ってことだ。
957日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:25:00.89
九州にも畿内にも王権がなかったとすると、残りは吉備か出雲か。

958954:2011/12/08(木) 19:34:59.53
これは過去の縄文人にも言ったことだがw

じゃあ仮にその与太話が全部本当だったとしたら

弥生後期に盆地湖から水抜きをするという巨大プロジェクトで
水位が下がったことによって新たに得られた土地に進出して
そこに田畑を作り集落を作り国力を上げやがて巨大古墳築造に至る…というストーリーだろうが

じゃあ現実に考古資料でそのようなストーリーが描き出せるのか?
ある標高(46mあたり?)以下に4世紀以後に急激に集落や田畑の跡が見えるようになるというような…

そもそも纏向からして青垣よりで標高が高いわけでw

959日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:37:15.36
案外、湿地帯を開発できずに、奈良時代直前まで荒地のままだったりしてね。
960日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:46:23.51
畿内に低湿地が多かったから、外部から水田開発の入植が多かったんだと思うよ。
961日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:51:15.03
>>959
その場合ヤマトには巨大古墳を築く地力が元々あったと言う話だなw

962日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:52:01.23
やっぱり、邪馬台国はヤマトでFAか。

963日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:57:26.09
やっぱりヤマトは、後進地帯だな。
基本的に低湿地の空き地だったが、外部から新田開発のため入植者が流入し、
ゴールドラッシュの田舎町や、ダムの建設工事現場みたいに賑わってきたというのが実態。

畿内に、最高権力者が君臨していたわけじゃない。
964日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:17:41.03
邪馬台国ドンと来い♪と
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!と
それでも邪馬台国は九州にあった の違いを誰か教えてくれ
965日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:22:30.55
>>964
一番最初に立てた時のスレ立て人が違う

常駐者はほぼ同じ
966日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:28:19.28
>>965
でも、若干の色の違いはあると思わない?
967唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 20:56:57.43
http://www.hanga-cobo.jp/mizu/mizu03.htm
子供の頃、テレビでこんな光景を見たことがある。お百姓さんたちが、首まで(?)水に浸かりながら、稲を刈り取っていた り、
小舟を水に浮かべて、それに稲を乗せて運んでいたりしている様子だ。それは、どう見ても僕が見て知っている田んぼの風景では
なかった。きちんと塗られ たはずのあぜも判別できない、水路と田んぼの区別さえつかないそれは、どう見ても「湖」そのもの
だった。
968日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:59:19.92
魏志倭人伝に「倭錦」、「異文雑錦」の名が登場する。

これについて各自の意見を聞こう。
969日本@名無史さん:2011/12/08(木) 21:03:17.43
>>968

それは明らかに、当時の福岡県の産物だ。
970日本@名無史さん:2011/12/08(木) 21:43:39.41
「倭錦」、「異文雑錦」のちがいについては?
971日本@名無史さん:2011/12/08(木) 21:50:19.50
「倭錦」の画像でググるとこんなのが出てくるね
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%80%AD%E9%8C%A6

「異文雑錦」でググるとこんなの
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%95%B0%E6%96%87%E9%9B%9C%E9%8C%A6
972唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 21:52:14.11
崇神天皇十二年。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。
このような、一定の制御がきいた状態で沢山つくられるのが「倭錦」であり
各自が勝手に作ったのが「異文雑錦」であり地域色や個人色が出る。
973日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:00:47.82
後漢書の、倭奴國、倭國王帥升、

通典の倭面土國、翰苑の倭面上國王師升についてはどうでしょうか。
974日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:07:23.84
「異文雑錦」は「倭錦」よりも複雑な模様をしてるのでしょうかね
ここのところ、調べたことないので詳しくは分からないのですが。



975天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/08(木) 22:16:31.22
>>953
私の言っていることをちゃんと理解している、あるいは地質に詳しい知識を持っている方が居られるようですね。

>>919
>そもそもこの天草縄文人は想定に足るような資料を出していない。
>先に出した物はそもそも後背湿地を対象にした物であって湿地の層が出るのは当たり前。
>それですら調査した全域が帯水域であった…という結論に至っていない。

旧巻向川の後背湿地とはどういうものかあなたは説明できますか?以前に私は天理市朝和地域の土層構造がどのようにして
形成されたのか説明できますかとお尋ねしましたが、返答できないのですか?
朝和地域がどのようなものであったかについては調査をおこなった西田氏らが下記のように述べています。

「朝和地域は完新世を通じて粘土の体積で代表されるような低エネルギー堆積が支配的な沼沢地であったことがはっきりと分かる。
厚い炭質粘土層は停水域での堆積を示している。」

なお、著者らは地形復元も試みていますが、C14年代測定に用いた黒色炭質粘土層の本来あるべき最上部が流亡せずに残存してい
るかどうかという問題点がありますから、私は「その復元結果は再検討が必要だ」と指摘しました。
ちなみに、件の復元図では5000〜4000BCでの水域は地域の北半分ですが2000BC〜AC0の水域は南に移っています。
まるで低かった北部が高くなり高かった南部が低くなるという地形変化が起きたかのようです。






976日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:16:58.01
倭國王帥升を伊都国の王と考える人と
ヤマトの王と考える人が居ると思う。

翰苑の倭面上國は、後漢書の「師升」の一致がみてるので「上」は「土」の間違いでしょうね。

考古学では、弥生後期は九州が栄えてたので「師升」は伊都のおうとする考えが根強くあると思われる。
977唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 22:19:54.73
〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守■夏遣使將送詣京都也。〉
〈魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。〉

難升米=難斗米=ナトベ?
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=伊聲者掖耶=伊勢のイワカ

文字が書き換えられている可能性がある以上、文献が存在し、そこに出てくる
名前と一致すれば先に進めるが、該当する名前が無ければ、無駄な努力となる。
978USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/08(木) 22:30:45.20
古代史で邪馬台国など素人が参入しやすすぎだからいかんわw
これが高等数学とかなら素人のアホなんて絶対参入不可能だしww
979日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:32:20.80
69歳ボケ名古屋君、悪いけど邪魔しないでね。
980日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:32:59.55
名大君には保護者が必要だなw


丸っきりガキちゅーか、誰か彼の保護者になってやれw
981天草・南蛮柿餅 四郎の恋:2011/12/08(木) 22:35:17.37
>>930
>>層準3は洪水堆積物が流入する氾濫原の堆積環境で形成されたことが推定される。
>>本層準の堆積後半には土壌の発達する安定した時期が存在した可能性がある。

洪水堆積物という用語がおかしいと思いますが(意味するところは分かりますけど)、洪水で運ばれる石や砂や土が
流入するのは普段は水のない平野とは限りません。湖沼にも入ります。「氾濫原の堆積環境で形成されたことが推定
される。」は限定しすぎです。

件の層準3は粘土層だそうですから、これは低エネルギー堆積の産物ですよ。つまり、湖底堆積物です。
「土壌の発達する安定した時期が存在した可能性がある。」とはまた自信の無い表現ですね。
いったい誰ですか、こんないい加減な報告書を書いたのは?


982ドナルドいかりや:2011/12/08(木) 22:37:42.89
>>976
倭人伝のいう筋論では、
卑弥呼が継承したのが帥升から続く男王たちの倭国で、
伊都国の王はこの男王たちの倭国に属していたというんじゃないのかい。

翰苑なんて三流文献だからね。持ち出さないほうがいい。
983日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:39:07.67
もう縄文人は荒らしレベルだから相手しないほうがいんじゃね
984唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 22:47:10.29
>「異文雑錦」は「倭錦」よりも複雑な模様をしてるのでしょうかね

織りが一定でなければ(密であったり、粗かったり)雑錦に分類されてしまうだろうな。
幅も一定でなければ、雑錦に分類されてしまうだろうな。
985唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 22:50:45.08
>978
△鏡で卑弥呼を特定できないことを学んだ、一歩前進ではないか。
986USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/08(木) 22:53:19.46
>985
四道将軍も卑弥呼の時代だろうけど、おそらく架空の出来事だから
またごろ合わせしても無駄だよw

君も前進してねw邪馬台国論争ももうネタも出尽くしてるから不毛なんで
外で遊んだほうがいいよ。カラオケとかして歌ってたほうが充実するよ
987日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:59:05.67
>>682

107年は北部九州が健在な時でしょう。
奴国の須玖遺跡や伊都国の三雲遺跡なんかはどうみてますか?

>>984
雑錦てどんなのなんでしょうね?
988日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:59:49.18
989日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:00:08.00
次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!61
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1323352230/
990唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 23:01:41.62
>卑弥呼が継承したのが帥升から続く男王たちの倭国で、

卑弥呼が継承したのが帥升から続く男王たちの倭奴国で、 倭奴國王位継承。
この男王は、3世紀前半の前原王墓で終了し、卑弥呼が共立される。
238年に、共立卑弥呼が存在していたのであれば、倭人伝のこの部分は不必要な記述となる。
238年に魏使のすすめで共立したのであれば、必要な部分となる。
991日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:08:34.65
>>975 天草縄文人
>件の復元図では5000〜4000BCでの水域は地域の北半分ですが2000BC〜AC0の水域は南に移っています。
>まるで低かった北部が高くなり高かった南部が低くなるという地形変化が起きたかのようです。

苦しい言い訳というか、いや言い訳にもなっていない呻きかw

年代によって帯水域が違ってた…で普通に理解できる話だ阿呆。
つまりお前の引用した部分の続き(その2p48〜49)

>厚い炭質粘土層は停水域での堆積を示している。このようにして完新世の各時期で停水域が広くなつたり、狭くなったり
>していたことを知ることができる。

ったく日本語の読めない馬鹿なのか?それともミスリードを誘っているのか?何れにせよまた堂々巡り。

で、結局、調査したら全域で「つい最近」まで湖底であったろうと推定できるようなデータは出せないのかな?
元よりお前が出してきたそのデータはお前が想定している物より標高が高い。
そんな場所で該当の年代に粘土層の見られない物を指摘しても無駄だろう。

湖の中心部でそれこそ何処を掘っても水中で堆積された粘土層が見られるというものを出せないのか?
定説どころか有力な説にもなっていない物を主張しているのはお前だぞ?

「下永東方遺跡」の位置なら現在の標高、直ぐ横に初瀬川がある地形、と
「最近までずう〜と湖底でした」というデータを出すのに相応しいと思うが?w

そもそもこっちがデータ出してトンデモを主張しているお前がそれを否定するという構図がおかしいわけでw
まあ逆に言えばトンデモの常套手段でもある。
992日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:10:16.88
ホケノ山は五世紀まで続いた祭祀場だったんだよw
993唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/08(木) 23:12:52.90
>四道将軍も卑弥呼の時代だろうけど、

それを証明する文献は皆無である。
四道将軍派遣の結果が同11年異俗多帰であり、考古学に合わせると 2世紀末纒向に各地の土器が持ち込まれる。
ここが崇神11年であるならば、後漢193年・新羅192年が崇神5年の出来事であり、
崇神世に”任那建国”が存在しなければならない。
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
同12年の記事 寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
(高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。)
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神10年 4道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:2世紀末各地の土器。
崇神58年 新羅209年加羅に援軍、三国遺事541年時点で建国330年。

同様な文献を ”四道将軍も卑弥呼の時代” でそろえてから主張すべきである。

994太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/08(木) 23:18:12.69
ここが崇神11年であるならば、後漢193年・新羅192年が崇神5年の出来事でなく、
崇神世に”任那建国”が存在しても、崇神5年の出来事でない。
995太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/08(木) 23:22:02.97
ここが崇神11年であるならば、後漢193年・新羅192年が崇神5年の出来事でありと
するの、それを証明する文献は皆無である。
996日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:23:32.84
>天草・南蛮柿餅 四郎の恋
盆地湖の話を続けるなら「ドン来い」スレで
(元々ドンコイで始まった)

ドンと来い100の517にふっておいたから

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1322928062/517
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/08(木) 23:25:46.20
崇神6年の鏡作の鏡の改良製造から、景初3年近隣に崇神6年が位置
することから、四道将軍の年代は軽く定まる。改良記事は鏡作神社社伝
にあることから、それを証明する文献は皆無でない。
998日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:27:09.35
なるほど、やっぱり邪馬台国はヤマトってことだな。

九州説は必死すぎて見苦しい。
999日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:27:25.38
もう終止符スレは唐太論争専用スレでいいんじゃね?
1000日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:28:01.39
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