岡京か? ↓ 乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。
戦死したお兄さんももっと讃えてあげなよ。
4 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 11:11:26.66
うむ
東征と言いながら、畿内に入るまで戦闘がない件
言ってることはむちゃくちゃだし、行動は卑怯だし、戦弱いし、 とうてい架空の人物とは思えんな、こいつ>神武天皇
ヤマトタケルも似たり寄ったり だまし討ちの卑怯な勝ち方ばっかで最後は発狂して死亡 一方清廉でいじめられっこなのに最後は勝つオオクニヌシって素敵
8 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 16:59:02.82
9 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 17:22:51.91
卑怯でもなんでもない まつろわぬ輩を討つにはどんな手段を用いても良い だからむしろ誇らしげに書いてある
道徳観の違いだろ
11 :
日本@名無史さん :2011/11/13(日) 07:22:35.53
事前に偵察やって、手薄なところを攻めれば良かったのではないだろうか?
儒教が入る前は、人質とか賄賂も正当な交渉手段だったんだよ
13 :
日本@名無史さん :2011/11/13(日) 20:41:29.73
進軍ルートが間違っていたような気もするが…
14 :
日本@名無史さん :2011/11/14(月) 10:15:04.44
うむー
>>5 しかも、畿内に入って、河内から上陸したのだから
そこでナガスネヒコの軍と戦闘になって大敗、兄のイツセ命が戦死。
命からがら、和歌山から少数の兵だけで上陸
しかしながら、なぜか、ナガスネヒコを打ち取り
ナガスネヒコが祀り上げていたニギハヤヒが降伏。
軍事的に、ありえないストーリー。
ちなみに、畿内に進軍するにあたって 親戚筋がすでに畿内のあちこちに住んでいて 進軍の案内をしてくれた。
神武が戦った敵はニギハヤヒだ。ニギハヤヒはナガスネヒコの父の婿になってたわけだね。
ニギハヤヒの別名は、天火明櫛玉命、略して櫛玉命ともいう。 櫛玉とは、形見という意味でもある。 天火明櫛玉命とは、天火明の形見の皇子って意味。 天火明命とは、天皇家の祖先のニニギの兄とされている。
19 :
日本@名無史さん :2011/11/14(月) 11:53:58.26
>>15 奇襲攻撃とか夜襲なら少数の兵でも勝てないこともない。
て言うかニギハヤヒがナガスネ裏切ってぶっ殺して神武に恭順でしょ?
>>19 ナガスネヒコ一人討っても、神武の勝利にはならんでしょう?
神武の軍は少数だけになったのに。
ナガスネヒコの別の親族が大勢整えるだけになると思う。
神武が畿内に入るのあたって、案内したのが ずっと前から畿内に住んでいた親族たち。 かれらは、いずれも天火明命の子孫。 神武の曽祖父のニニギの兄が、天火明命。 ちなみに、物部氏の祖先のニギハヤヒとは この天火明命の形見だと自称していた人物か? 形見?ご落胤?
>>18 「先代旧事本紀」にはそう書かれているが、「新撰姓氏録」では別系だ。
ニギハヤヒがなぜ神武に帰順したのかが謎だ。ニギハヤヒ政権の 正当性は申し分ないはずだ。
25 :
日本@名無史さん :2011/11/14(月) 20:25:26.07
>>21 > ナガスネヒコ一人討っても、神武の勝利にはならんでしょう?
桶狭間では今川義元をポアした織田信長の勝利だったが。
ニギハヤヒがナガスネヒコの御輿から神武の提灯持ちに乗り換えた理由はなんだろう?
27 :
日本@名無史さん :2011/11/14(月) 21:00:39.55
北九州市に一宮神社という神武天皇が一年間滞在したという謂れのある 神社があるよ。遺跡として当時の神を祭る祭壇みたいなのがある。
29 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 12:55:36.78
神武と崇神の事績が似通っていることについては?
30 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 14:34:25.38
最初から兵力不足のまま東征したみたいだな。
31 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 14:48:07.92
河内に上陸するまで戦闘がなかったわけは?
>>31 敵対勢力がいなかった。
「道を貸してくれ」といわれれば断る理由がなかった。
つまり外交能力はあったのではないか?
>>31 兵庫に入ったくらいから、現地に住んでいた親戚筋の豪族が
先導してくれた。
また、和歌山に入ってからも、これまた現地に住んでいた親戚筋が先導してくれている。
これらのことから、なぜ、河内に入るまで
敵がいなかったのに、おのずと分かるだろう?
35 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 16:13:34.46
東征出発までの神武一族は南九州の土豪にすぎない。
36 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 20:37:29.83
神武=日向御子=大田田根子
37 :
日本@名無史さん :2011/11/15(火) 20:44:44.27
日向の御子だろ 勝手に日の神子にすな
神武=徐福 終了
>>35 違うだろう?
神武は南九州の領主の一族だか
その親戚筋は、同時に畿内で多くが領主をしていた。
神武東征ってのは、事実上、里帰りみたいなもん。
で、この場合、神武の一族の中では
南九州にいた神武一家が分家筋で
その宗家にあたり一族が、ずっと前から畿内にいたことになる。
んで、神武が南九州にいたとき 畿内には倭王が存在しており、 その倭王と神武一家は、何代か前でつながっている同族筋になる。 しかしながら、その後、その倭王の地位を奪うものが 畿内でクーデーターを起こしたので、 それを鎮圧するために、 倭王の分家筋だった神武一家が、援軍として遠征することになる。 それが、神武東征。 だからこそ、東征の途中、まったく戦闘がなかった。
43 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 13:29:46.59
>>40 畿内と南九州が親戚同士ならもっと早く南九州は大和王権に取り込まれてたろ
南九州は奈良時代頃でも「隼人」と呼ばれて異民族扱いで冷遇されてたのに
古墳時代における奈良と宮崎の共通性は近年よく指摘される。 南九州内の争いをそのまま畿内に持ち込んだとも解釈できる。
実際は南九州で起こったことを畿内でおこったことに捏造したってわけですか?
宮崎と鹿児島は対立していた。 その関係性をもったまま、宮崎の神武という少数の集団が奈良に移り住んだということ。
47 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 13:58:13.45
奈良県内の弥生時代の遺跡から九州地方の遺物が出てないからな 畿内一円や北陸山陰の特徴を持つ土器の出土はあって 交流があったことがうかがい知れるのに 宮崎から大量に支配階級が移住してきたなら 当然地元から使い慣れたものを大量に機内に持ち込んだだろうに それがないのだから支持されてない
土器は庶民がつくるもの。土器の移動は庶民の移動だろう。 記紀にあるのはリーダーが宮崎出身だったということだけ。 神武は吉備に数年留まり、兵を募ったそうだが、 実働部隊が吉備の人間なら、端から見れば(考古学的に見れば)吉備に攻め込まれた ようにも見えるだろうし、吉備の慣習・風俗が多く持ち込まれて当然だろう。 侵略者の目的はあくまで自らによる支配であって、故郷の土器を持ち込むことではないのだから。
49 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 14:25:40.24
>>48 吉備との間では話がついていた平和進駐でしょ。
婚姻関係なども結ばれていたと思われる。
50 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 14:28:12.92
>>48 大王はその家族は私物を全部宮崎に置いて
素っ裸、日用品なしで畿内へ行ったのか?
そんなわけがない。
自分の私物やら珍宝やら全部持っていくだろ。
侵攻の十年近くは、基本現地調達だろう。 今、残っているかどうかは別にして、宝物があれば持って行っただろうね。
52 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 14:57:28.82
当時宮崎と畿内では別国へ行ったように風土も言葉も食べ物も違っている 日本人が海外に行っても日本食を忘れられないように 宮崎生まれ宮崎育ちの大王が全くの異文化で現地調達したなんてありえんよ しかもなぜ畿内へ移住しなくちゃいけなかったかの理由づけもまったくなし 温暖な宮崎で育った大王が奈良へ行ったら寒くてやってられんだろう
その通り、移住ではないと思う。 人間の支配欲の理由付けに関しては難しいな。
54 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 15:41:39.68
東征の動機として、阿蘇が噴火して九州の食糧生産が悪化したのではないかとか 中国の帯方郡設置を警戒して「奥地」に引っ込んだとの説を読んだことがある。
55 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 15:53:52.51
東へ引っ越した理由。
列島の統一経営には、列島の中心部へ出る必要があった。
また九州は、年に数度は台風という招かれざる客が訪問する土地柄である。
台風、河川の氾濫、水害も、当事者にとっては笑えない切実な問題である。
左巻き台風の風水害被害が少ない東高西低の盆地への移転も、
大きな政治課題であり政治選択の一つだったろう。
だが私は、遷都の最大の理由は戦略的判断によるものとみている。
この時代、中国勢力はすでに数百人規模の兵士を積むだけの海洋船舶技術を手にしており、
海を渡って侵攻される恐れが現実的になっていた。
3世紀に魏の使節が乗ってきた大型楼船を見た時点で、
倭国側はそのことを明確に認識したはずである。
魏を廃して成った晋政府は、倭国にはさほど興味を示さなかったとみえて、
266年の倭国の朝貢に対してどう対処したかには『晋書』も触れていない。
むろん、親晋倭王と認証した雰囲気もない。
晋の武帝・司馬炎は帝位についたあとは色ごとに熱中して政治を顧みず、
武帝のあとを受けた恵帝は暗愚で外戚(皇后側勢力)の思うまま。
そうしたことが引き金となって、290年代に入ると
晋の有力王たちによる「八王の乱」が勃発して国内は騒然となる。
これが、やがては五胡十六国入り乱れての騒乱の時代へ突入する。
その倭国としてみれば、五胡十六国の争乱状態では
いつ何どきに中国勢力が侵攻してくるかは分からない。
そうした外来勢力に対する防衛構想上、玄関口の九州から離れたほうがより安全であると判断して、関門海峡と瀬戸内海に幾重もの防衛体制を敷いた奥の大和へ引越したものと考えている。
詳しくはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/eb8b39094e7ad68a405964246fac1878
56 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 16:01:41.06
神武側の武器は畿内側よりも良かったと思うが、でも苦戦しているね。
57 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 16:04:49.31
東遷は1日にしてならず。 3世紀末には関東にも前方後方(円)墳が登場する。 といことは、そうした墓制と信仰的精神性をもった勢力が、 3世紀半ばには進出を果たし、安定収穫と安定勢力を実現していた理屈になる。 山一つ隔てた向こう側が毛人の国では安心して王都建設もできまい。 (湿地帯だった奈良盆地の開拓も併せて)関東の奥地に毛人を駆逐したあと開拓屯田させ、 奈良盆地でおむむろに王都建設が始まる。 東遷とひと口にいうが、 根回し・地ならし・進出の下準備から開墾・開拓まで、 3世紀半ばから遷都が終わるまで200年がかりの大事業だ。 とてもとても、一代や二代でなし遂げられることじゃない。
58 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 16:27:22.32
>>56 相手の力量も不明で、どんな道具を所持しているのかも分からないのに、
街中で行きずりの喧嘩を売るのは愚か者のすることだよ。
神武の東征談は、命の取り合いとは無縁の文人の机上空論だからして、
詳しい調査もせず、戦力比較も分析もせず、いきなり敵地に殴り込んだことになっている。
こんなことをするバカがいるはずがなかろう。
九州からの遷都があったとしても、一人の人間の業績として象徴的に描かれた物語と、
現実問題として、
武力支配時代に他勢力の領土を略奪して遷都する場合はどうだったのかと、
明確に区別して語るほうがいい。
59 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 16:52:37.64
じゃあ100年くらいかけて北九州時代、吉備時代、畿内時代と進出していったのですかねえ
60 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 17:07:11.61
>>58 そうなのだが、苦戦しているところからみても
事前の偵察が不充分だったと思うね。
当時は戦士はいても忍者みたいなのが少なかったのではないだろうか。
61 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 17:09:58.07
>>57 3世紀半ばから200年もかけて畿内に進出してたら完了が5世紀半ばだよ
倭の五王って九州王なわけかい?
河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったの?
62 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 17:18:56.36
騎馬民族ならぬ九州民族征服説かw
63 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 22:01:27.48
>>61 >倭の五王って九州王なわけかい?
考えるべき優先順位からいえば、な・ことはどうだっていい。
東遷が完了するのは4世紀・5世紀の境目あたり。
九州の支配管理を任された「○○の君」を名乗る皇別豪族たちが、
民族的信仰を図案化した装飾を古墳に施す時代が一つの節目だろう。
この文意は奥が深いぞ。
倭人は「黥面・文身・お歯黒・無文字文化民族」だ。
これがまさに、長江流域の非漢民族の文化だ。
彼らの民族的信仰神(蛇神)を図案化したのが、
渦巻き文様であり、蛇のウロコを模した三角文様なのだ。
お歯黒は皇族・貴族がやっていた習俗だ。厳然たる事実だ。
倭の五王が九州の王か畿内の王かなど、二の次だ。
64 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 22:08:24.61
>>61 >河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったの?
五王たちの時代は山川を跋渉しての諸国平定旅のど真ん中だろう。
物理的にも、各王ごとに勢力拠点を移しながらの平定旅よ。
「土をひらき畿をはるかにした」のが武の代か。
河内や大和に巨大な古墳を築いた強大な王は誰だったのか。
てめえのどたまで考えることだな。
神武東征から時代が下って景行天皇は自ら九州に遠征して熊襲を討伐 九州平定後6年間日向国に宮を置いた後都(畿内)に戻った…日本書紀によると 奈良と宮崎の共通性ってこの時期でしょ? 熊襲との戦いで亡くなった朝廷関係者のうち高位の者が戦死したりもあったろうし 10年と経たないうちにまた叛いてヤマトタケルの話になるんだが… 神武東征とは全然時期が違うけど
66 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 22:58:35.00
>>62 >騎馬民族ならぬ九州民族征服説かw
日本列島の場合、人・もの・文化は西から東へだ。
しかも当初は入り口ほど濃厚で遠くなるにつれて希薄になる。
人・もの・文化の伝播も遠いほど遅れる。
縄文後期の土器・土偶から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳・現代のしめ縄に至るまで、
長江流域の非漢民族の信仰神(蛇神)が連綿と息づいている。
(出雲や三輪山の祭神は蛇じゃなかったか?)
少しずつ異なる文化をもってはいても、民族の信仰神は同じということだ。
各時代ごとに、漢族に圧迫されて移動を繰り返した民族がいた。
争いを好まず・漢族との同化を拒んだ民族の選択肢は二つ。
さらなる辺境へ移動するか、海へ乗りだすか。
海へ乗り出した多民族がつくったのが倭国だ。みな同じ民族だ。
>九州民族征服説かw
何にもならんヤジはその程度にしとけ。
67 :
日本@名無史さん :2011/11/16(水) 23:11:12.83
>>65 熊襲か〜。
熊襲は福岡と大分と佐賀に多かった。
土蜘蛛となるとほぼ全国にいた。葛城なんかもそうだ。
大和朝廷の統一初期段階においてその権力が隈なくいきわたっていなかった時代に、
大和朝廷の統治を受けていなかったり
大和朝廷に恭順しなかった辺境の少数部族が土蜘蛛と呼ばれたようだ。
彼らは主に、河川の上流部、山岳部、島嶼部の洞穴で生活していたといわれる。
稲や埴輪に関する知識を持っている者もおり、言語的にも朝廷側と極端な相違があった様子もなく、
民族的にも朝廷側の人間との大きな相違はなかったようである。
基本的には朝廷側と同じ民族でありながら、個々に少しずつ異なる生活習慣をもっており、
かつ熊襲・隼人といった特定呼称で呼ぶほどの大勢力ではなかったのだろう。
熊襲・隼人・土蜘蛛・熊鷹………。
まさに、現代の長江流域の少数民族のような少数多民族現象があったのだろう。
68 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 01:43:27.12
佐賀には熊襲はいないと思うが
69 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 02:00:03.40
熊襲の勢力範囲はたぶん鹿児島県全域と隣接する熊本県南部と宮崎県のうち南西の都城盆地あたり
70 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 07:56:09.81
71 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 08:11:19.99
熊襲の領域と隈のつく地名分布を混同した。 熊襲と熊本は何の関係もないことを認識してもらうためにも提示する。 ●隈のつく地名 @福岡県糸島半島/赤隈、松隈、丸隈山 ・福岡県福岡市/道隈、七隈、干隈、田隈、月隈、金隈、雑餉隈、西隈、丸隈 ・福岡県甘木市と夜須町周辺/隈、篠隈、乙隈、横隈、小隈、山隈、今隈 A大分県日田市/月ノ隈、星隈、三隈 ・大分県玖珠町/大隈 B佐賀県大和町と神埼町周辺/中津隈、西隈、鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈、松隈、鳥の隈 ごらん通り、福岡県、大分県、佐賀県に隈のつく地名が目につく。 21世紀の現代までこれほどに残っているのだから、古くはもっと多かったものと思われる。 ところが、クマ(隈)の本場の熊本市周辺には、菊池の隈府(わいふ)と城南町の隈庄(くまのしょう)。 福岡県、大分県、佐賀県の場合は、すべて「◯◯隈」で、隈があとにつく地名ばかり。 熊本県にあるのは、どちらも「隈◯◯」で隈が頭につく。 隈府のほうは古くは久々知(のちに鞠智と書いた)に隈部(くまべ)があったことに由来する。 その後、室町時代に守護在住の地として隈府(くまふ)と呼ばれ、これが隈府(わいふ)になる。 そこから、南北朝時代には隈本と呼ばれたが、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた 隈部の由来となったクマは、「奥まったところ」という意味である。 これに共通するのが久々知である。これには「山麓から平地へ出る口」という意味がある。 奥まったところに「何か」があって、そこから出入りする口というわけである。 福岡県、大分県、佐賀県の九州北部に◯◯隈のつく地名が多いのは、 古くは、クマのつく勢力の支配領域が北部九州域まで及んでいたことを示唆する。
72 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 09:43:17.37
名無しをやめてHNを作成した。以下は、私の切なる思いである。 『日本書紀』を書いたのは滅亡百済から亡命してきた帰化漢人たちである。 その彼らは『三国志』倭人伝にも目を通しているのだが、 どうやら弥生の歴史の中心を日向(宮崎県)にあったと解釈したらしく、神話の中心を日向の地から始めている。 だが、私は『日本書紀』を書いた漢人たちが『三国志』倭人伝を正確に読んだとはみていない。 その理由が、神話の始まりを豊葦原瑞穂国あるいは葦原中国としていることである。 というのも、九州島東側は山脈の傾斜が海側まで迫って平地が少なく、 ひえ、そば、さつまいもなどの畑作が多かった。つまり、豊葦原というほどの稲作湿原はない。 そもそも『日本書紀』は、高千穂、瑞穂の国、倉稲魂、天忍穂耳、天穂日、稲田など稲と穂がつく神々と、 天狭田、長田、田心姫、狭長田、奇稲田姫などなど、田と稲作に関連した名の神々で溢れている。 神話を創作した漢人たちは、開墾と灌漑がなった本格水田耕作の時代を神代として書いているのである。 日本列島において、本格的かつ組織的な水田耕作が最も早く行なわれたのが、 九州北部有明海側の佐賀平野〜筑後平野〜熊本平野であることは考古事実にみるまでもない。 しかるに、水田耕作が少なかったはずの日向を葦原中国としたのは大きな矛盾である。 願わくば、『日本書紀』の創作を鵜呑みにした付和雷同から脱皮してもらいたい。
73 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 09:44:02.76
もう一つ。 西都市に大古墳群があるからこの地に大国があったとする生き方がある。 だが、山脈の傾斜地が海側まで迫って耕地が少ない九州島東側のこの地に、 2〜300年間にわたって単独であれだけの古墳群を築く勢力があったと思われない。 「高をくくる」ということわざが示すように、その土地の石高(米の生産量)が国力や兵力の物差しになる。 ところが、耕作地の少ない九州東側の西都エリアに、日本最大級ともいわれる大古墳群が存在する。 立地状況的にも時代的にみても、これがこの地の一豪族によって、 2〜300年間にわたって継続的に造営し続けられた可能性はゼロに近い。 西都原は古くは斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていた。 斎殿原といえば、まさに「大斎事の土地」という意味である。 ということから、ここにある古墳群は倭国の公的墓域の一つだったと見るべきである。 私のこの見解が正しければ、朝鮮半島に出兵したことのある武将の墓があって、 朝鮮半島で入手した遺物が副葬されている場合もあるだろう。 また、朝鮮半島で戦死した武将の墓が造られている場合は、 そこに遺体はなく副葬品だけの場合があるかも知れない。 宮崎県側で最も豊かで人口密度が高かったのは、 都城を中心とした大淀川沿いの諸県郡から、鹿児島県の肝属郡(志布志湾一帯)である。 そもそも、日田盆地・人吉盆地・都城盆地などの大河川上流部の盆地は一等地で、 よほどの例外でもなければ支配層の親近血族に与えられたものである。 ここ諸県郡に古くから有力な豪族がいただろうことは否めない。 願わくば、現実から遊離した「日向偏重史観」から脱皮してもらいたい。
74 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 09:49:38.17
さつまいもw
75 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 09:57:13.16
日向三代は零落豪族だったんだからなんの問題もない
76 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 11:03:22.86
DNA鑑定で他民族征服説は否定されたんじゃなかったか? 従来別人種とされていた日本列島に住む縄文人→古墳時代人まで ほとんどDNAに差がないことがわかり 縄文人がそのまま弥生人や古墳時代人になったことが分かった また、畿内と九州人にもDNAに決定的な違いがある 九州に住む日本人は畿内に住む日本人よりも朝鮮人とのほうが DNA的に近いことが分かっている
77 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 12:11:51.87
>>76 >他民族征服説は否定されたんじゃなかったか?
他民族による征服などない。
縄文人・弥生人・古墳時代人。ほとんどは長江河口からやってきた民族だ。
DNAに差がないということなら「当然」の話だ。
>九州に住む日本人は畿内に住む日本人よりも朝鮮人とのほうが
>DNA的に近いことが分かっている
前言と相反するが。理路は大丈夫か?
で・いつからそうなったのか、そのDNA識別資料は説明はしてるのか。
「起源」の話に「現代の標準値」資料を持ち込んでるんじゃあるまいな。
そのへんの理路は大丈夫か?
民族とは言語・宗教などの文化で識別するものだ。
DNAで識別すべきものじゃない。
神武自体は天孫族の傍系で単なる尖兵だろ。 山陰や吉備の勢力をバックに畿内に侵攻したはいいが純軍事的には上手く行かず、搦手を使って何とか制覇。 でも、その死後は結局現地勢力に乗っ取られて終わる。
79 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 12:27:39.70
>>77 長江河口とかw
何万年前の話してるんだよw
日本列島に初めて人類が住み始めた旧石器時代の話か
そして弥生時代の九州人が朝鮮人と近いDNA関係にあることは
証明できている
>民族とは言語・宗教などの文化で識別するものだ
これは同意しかねる
DNAでは同じ日本民族だが言語・宗教が江戸時代まで全く別物だった琉球人は
異民族ということになるし
言語や宗教が同じならアメリカに住む黒人と白人は同民族という理論になる
九州人はDNAで朝鮮に近くても同じ言葉・宗教の日本人として扱ってくれといいたいんだろうが
民族と国家は本来全く別物
国家が同じでも民族が違う国はいくらでもある
80 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 12:42:56.10
日向偏重の気は無いけど偏重せざるをえないっていうかw 大きさこそ畿内の最大級の古墳とは比べるべくもないけど数なら九州どころか日本最大級だよ。 西都原だけでなくてあのへんの平野部の台地上に他にもたくさんあります。 そのへんに転がってるってかんじじゃないかとw 神武が実在するかもわからないし神武的な何か…故地的なものはあったんでないかなあと思ってます。 作り話にしても根も葉もないとこから作ろうとはしないだろうし。
古墳時代にさつまいもは無い…
82 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 14:04:43.92
>>79 >長江河口とかw 何万年前の話してるんだよw
「話の筋を取り違えて切り返す」というバカのパターンだ。
縄文後期の土器・土偶から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳の装飾にいたるまで、
連綿と民族的信仰が続いている。
証拠を確認してたければほれ。
(この手のタマはたぶん見ないだろうし、見ても承服はせんだろうが)
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/ >弥生時代の九州人が朝鮮人と近いDNA関係にあることは証明できている
その検体は熊本や鹿児島の九州人か?。
そんな結論を出すようじゃ半端限られた九州の一部だろうな。
>DNAでは同じ日本民族だが言語・宗教が江戸時代まで全く別物だった琉球人は異民族
琉球人が民俗学的に日本民族と同じだとは・はつみみだ。
>言語や宗教が同じならアメリカに住む黒人と白人は同民族という理論になる
ただの言葉尻だ。こういう手合いがどこにも必ずいるなー。
人種が違うだろ。もともとは宗教も言語も違うだろ。
もう少し深く考えれば分かるはずなのだが、相当に頭悪いな。
お前とも民族議論など意味はない。
83 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 14:10:48.71
>>81 現代も「ひえつき節」なんて民謡がある土地柄の説明だが。
誰か「古墳時代の産物の話だと」でも限定したのか?
そんな投稿して何が面白いんだ?
観客のタメになるような実のある投稿をしたらどうだ?
84 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 14:56:05.24
稲作から環濠集落、高床式住居、支石墓、カメ棺、舟型木棺、高塚式墳墓(土とん墓)、銅鐸と、 すべて長江流域の文化だということが判明している。 そして人骨が弥生人の源流を証言する。DNAによる民族識別ならば、以下のような確かなものならば信頼できる。 渡来系弥生人の人骨と、長江下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、 DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、中日共同調査団の調査で分かった。 記者会見した日本側の山口敏団長らによると、 弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8〜同5世紀)から前漢時代にかけての江蘇省の人骨と、 渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に共通点が多かった。 日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があったが、 江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。 江蘇省の人骨36体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の3体でDNAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致した。 中国側の南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が極めて似ていることが分かり、 弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えられた。(1999年3月23日中日共同調査団発表) 長江河口から日本列島に渡来して縄文人と倭人を構成したとみられる民族を大別すれば、 黄帝との戦いに敗れて黄河流域から駆逐された三苗族や、 殷人による生け贄狩りから逃れて南下した古代羌族(北方系民族)など、長江流域の複数の多民族と、 百越と呼ばれた南方系多民族と、さらに南方の海洋民族に分けられる。 遥か数千年前の中国大陸で、北方のDNAと居住習慣を持った民族が、何波かに分かれて南方に移動して定着した。 そうして千年単位の時間を経たあとで、長江河口部から継続的に列島にやってきた。 これが安っぽいDNA識別にかかると(どの時代のどの地点を民族の標準値とするのかは不明だが)、 「倭人のDNAは北方系が多い」となり、地理的に近い「朝鮮半島を経て直線的に渡来した」となる。 だが丸木船の時代から、朝鮮半島からよりも長江河口からの渡来のほうが簡単だった。 表記した数々の事実がそのことを証言している。
ひえつきって焼畑とかやってた山間部の民謡でしょ そこでは山林を焼いてそこに稗とか蕎麦とか撒いて収奪農法的にやってたけど 稲作とか古墳の話はほとんど平野部の話で地域が違うね 日向の平地は広くはないけど九州では筑紫平野に次ぐくらいの広さはある まとまれば勢力としては筑紫平野の方がかなり大きくなるはずだけど
86 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 15:12:41.67
>>82 君の説は支離滅裂だ。
・琉球人と日本人は民族が違う
ほう?
誰の説?
弥生時代の九州人が畿内人より朝鮮人に近いことは
複数の論文から明らか。
せめてググってから書き込めよ。
それから長江河口を言い出したのはお前だ。
旧石器時代には日本人が住んでいたのに
縄文人とすり替えるお前はホンモノの馬鹿だ。
87 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 15:23:22.44
初期の稲作は広大な平野はむしろ不利だったと思うな。 平野の広さと生産量が比例するようになるのは灌漑技術が整った後の話だろ。 平野部のうち山に近い傾斜が大きめの部分が中心 奈良だって諸勢力は山麓部に位置してたぜ。
神武東征の話に 縄文だとか弥生とかいう話を持ってくるのは ピントがずれている。 例えば、徳川家康が豊臣政権を倒した話に 縄文とか弥生って話はしないのと一緒。
ヤマト王権のスタートは、イワレ彦(神武)からではない。 ヤマト王権の初代倭王は、天照国照彦。 彼が、出雲国譲りをして、天下を統一した。 この天照国照彦には、ニニギという弟がいた。 出雲国譲りのあと、天照国照彦は、全国に地方官を設置したが 九州南部の統治には、弟のニニギを派遣した。 イワレ彦(神武)は、このニニギの曾孫にあたる。
92 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 17:52:06.53
>>85 >ひえつきって焼畑とかやってた山間部の民謡でしょ
それが宮崎県の地勢の特徴をよくあらわしている。象徴的に例示しただけだ。
あくまでも有明海側の土地と比較して貧弱ということだ。しつこく食いつくな。
>稲作とか古墳の話はほとんど平野部の話で地域が違うね
多少は稲作のできる土地はあるさ。棚田もあるだろうし谷戸だってある。
>日向の平地は広くはないけど九州では筑紫平野に次ぐくらいの広さはある
ただの抗弁・詭弁で、絶対数比較の話の前には意味がない。
93 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 17:56:10.68
>>86 >琉球人と日本人は民族が違う ほう? 誰の説?
琉球人と日本人は同じ民族てか。ほう? 俺は初耳だ。
で・学術的コンセンサスはできているのか?
>弥生時代の九州人が畿内人より朝鮮人に近いことは複数の論文から明らか。
そこまでいうなら、せめて資料か論拠ぐらいは添えて書き込めや。
>それから長江河口を言い出したのはお前だ。
そうだが?
>旧石器時代には日本人が住んでいたのに
旧石器時代に日本人か。べんきょうしなおせ。
>縄文人とすり替えるお前はホンモノの馬鹿だ。
縄文時代から連綿と続く江南からの渡来人の「明確な痕跡」を述べた。
で・「倭人の祖先は朝鮮半島から来たんじゃない」とゆってるわけだ。
勝手に意味を誤解して、それに基づいて吠えてるようだが。お角違いというものだ。
はじめから反意だけが先走って、相手の論旨を理解しようという意思がみえん。
さほど実りがあるとは思えんし、罵倒合戦が予見されるから、お前とはやめとこう。
94 :
ブラッと筆人 :2011/11/17(木) 17:58:40.05
>>88 >神武東征の話に
「神武東征の話」というからには、あくまでも創作が前提だろうな。
それだけに絞ってやるのならそれでいい。
中国文献に登場する事象や名称を混同するならば、
神話を度外視して現実論としての対話にしなければならん。
俺は後者を採るから、民族のスタートからはじめたのだ。
別に縄文時代の話が主ではない。縄文時代から続くという話だ。
足下が不透明な幽霊話ばかりでは誰も納得しまい。
その足下の話で、すでに意見が分かれているていたらくだ。
『日本書紀』には、本場中国の天子に対して「日出る処の天子が日没する処の天子に」と、
対等な口上を述べるようになる隋以前(漢・魏・晋・宋代)の歴史がない。
つまり、中国天子に臣とへりくだって朝貢外交を展開していた時代を消して、
中国王朝に対して一人前の発言をするようになった時代から書いている。
紀元前後から400年〜500年間の漢・魏・晋・宋代の体験の記憶を抹消して、
この期間の歴史を作り変えているのだ。(漢・魏・晋・宋代の歴史を消して、
その時代の事象を神話時代に組み込んだと思われる歴史を信用するわけにはいかない)。
なぜならば、編纂者たちは、史実との整合性をまったく考慮してはいない。
というよりも、史実を消して創り変えるのが彼らの仕事だったからである。
その過程を推察すれば、本物を含む幾つかの土器をたたき割って、それらの破片を拾い集めてつなぎ合わせ、
ありもしなかった異様な形の土器に復元するような作業をしているはずである。
そこに史実が紛れ込んでいたとしても、それは脈絡を寸断された断片でしかない。
創作された「神武東征の話」に史実を重ねてゴロ合わせ・絵合わせをするならば、
ただの空論ドンキホーテになるだけだ。
神武天皇が一年間滞在していたとされる岡田ノ宮(北九州市黒崎)は 元来地方豪族、熊族が祖先神を崇めるために造営した社だったらしい。 熊族が熊襲関係だとすると神武天皇と熊襲との間に同盟関係が 結ばれたのだろうか
>>91 出雲の大国主。
天照国照彦は、大国主の王女の天道日女を妃にしていた。
出雲国譲りとは、出雲の大国主が、娘婿の天照国照彦に
国譲りした事件。
播磨国風土記にもそうある。
その後、天照国照彦はヤマト王権の初代倭王になり、
二代目の倭王には、自分の息子の天香語山命が即位した。
この天香語山命の生母が、天道日女。
つまり、天香語山命は、出雲の大国主の外孫になる。
天香語山命は、父方がヤマト、母方が出雲の王族だった。
ヤマトと出雲の合一の象徴だった。
ちなみに、現在の天皇家は、天照国照彦の弟のニニギの後胤。
このニニギの曾孫が、イワレ彦(神武)
97 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 07:49:45.40
>>95 たしか記紀によると、高千穂時代の皇室と熊襲の間に婚姻関係があったはず。
上杉と後北条が一時和睦したように、関係がまあまあ良好だった時期もあったのではないか?
98 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 08:05:52.66
熊本の大津ら山を越えれば高千穂だ。 (高千穂から山超えで熊本平野に出る) 熊襲の渠帥討伐に女装して近づくということは、 「顔見知りの間柄」だったってこと。根は同族だから。 そもそも、滅ぼした敗者の名を勝者が頂戴するなんてあり得まい。 (熊襲の末裔を自認する男)
神武一族はサツマイモが常食だった。で、白いご飯を三度食う生活がしたくて 遠征に乗り出したわけだ。
いやいや新萌岳の噴火で牛さん豚さん鶏さんにマンゴーが駄目になっちゃったから出稼ぎに出てきたんだろう
101 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 09:35:42.38
>
>>96 出雲の大国主が本当は原始日本の国主であったというのはおもしろいね
それでこそ「大国主」という尊称や「国譲り」という事象にふさわしい
102 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 10:03:07.76
国譲りというか改易とか島流しにでもあって出雲一国に押し込められたイメージなんだがw
103 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 10:21:58.50
>>98 > 熊襲の渠帥討伐に女装して近づくということは、
> 「顔見知りの間柄」だったってこと。
この話が史実だったとして、実際は女装などしていかったんだろな。
顔見知りなので油断していたというのが真相だろう。
104 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 11:04:11.43
>>103 「この話が史実だったとして」、の続きをやろうか。国譲りに関する空想さ。
神武が天の鳥舟で「とみ」の地に着いたときは、
天の磐舟でやってきたというニギハヤヒがいた。
二人とも海人の高性能船舶でやってきたわけだ。
ニギハヤヒと神武は同じ神の子であるということを確認して、
ニギハヤヒは国譲りにも似た無血開城をしている。
つまり。
ニギハヤヒの父祖に「とみ」の地の先遣開拓を命じた人物が、
一族の本家筋たる神武の父祖というのだろう。両者は同族だ。
出雲の国譲りも同様で、九州から赴いた先遣開拓部隊が築いた国だろう。
これが本州で絶大な威光を放った時代もあったが、
本家筋が本州(畿内)に引っ越してきたことで、その支配権と権力を委譲した。
本家筋と戦うなんてとんでもないことだったのだろう。
こんな空想はいかがかね。
105 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 11:15:25.00
つづき。 ニギハヤヒは物部の祖先ということになっている。 物部は、「もの(武器・戦闘)」にかかわる軍事専門豪族だ。 「寸鉄を帯ず」が鉄則の宮中にあって、武器を所持して王族の身辺警護をする者は、 最も信頼のおける親近血族で構成した親衛隊だ。(古今東西いずこも同じ)。 これはいわゆる軍人とは違って皇別の軍事貴族。(臣籍降下した平家・源氏がそう) つまり武器を所持して、「もの」に関する職についた専門集団が物部である。 天皇家から離れて軍事専門豪族となったのが物部だろう。 その祖がニギハヤヒという。 これは、神武とニギハヤヒが親近血族だったとの推察の保証になる。
106 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 11:29:04.58
保証になる。→→補証になる。
107 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 12:04:08.32
それでは最後に、神話と現実論の合体空想談をひとつ。 唐戸・鍵遺跡は弥生時代中期に周辺の3つの集落を統合して大環濠集落の形をとり、 楼閣や大型建造物が登場する。弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが再開発され、 異なる土器を使用する3ブロックが並立する集落に膨れ上がる。 弥生時代後期には大環濠はなくなり、集落の規模は縮小へ向かう。 奈良盆地の平地部分は古代においては湖か湿地帯だったともいわれている。 事実、幾つもの川が大和川となって合流するあたりの広大な平地は、 まるでエアポケットのように縄文時代と弥生時代の遺跡がない。 また、奈良県では近畿各県に比べて銅鐸の出土数が少ないのだが、 このことは、開拓の手が入るまでは大和盆地中央以南が未開地だったことを物語る。 奈良盆地の極めて特徴的な現象として、灌漑用と思われるため池が無数に点在する。 その多くは人為的に掘ったものではなく、天然の池か沼を意図的に残したものと思われる。 こうしたことからも、奈良盆地の中央部から南西にまたがる平地は、 古代において開拓されたことを物語っている。 唐戸・鍵遺跡が初瀬川沿いにあって、当時の湖か湿地帯の際(初瀬川河口)に位置する。 遺跡全体を通してみれば、ほぼ全国から人が集まっていたようである。 こちらは生活必需品のほかに農工具が出土していることから、 奈良盆地中央部の開拓と開墾を担った開拓集落だったものと思われる。 見逃してならないのは、奈良盆地が湿地帯だった弥生時代中期に、 全国から開拓労働者を集める権力が奈良盆地とは別の所に存在したという事実である。 かくして開拓が終了した弥生終末期、奈良盆地では古墳時代を迎えることになる。 唐戸・鍵遺跡とは性格の異なる祭祀遺跡としての纏向遺跡はこの前後の時期に登場する。 「とみ」といえば三輪山、唐戸・鍵や纏向を含むといっても良いエリアである。 もしやニギハヤヒ勢力は、唐戸・鍵のような先遣開拓集落だったのかも知れない・と思う次第。
108 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 12:36:17.30
>>104 同族か、本家分家の関係だったかは別として、婚姻を通じての縁戚関係ではあったと思うね。
まったくの他人ではなかったでしょう。
まあ織田と武田もいちおう親戚ではあったのだが。
109 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 12:39:05.66
古代の市場(常設ではなく定期市)としては JR桜井駅の近くにウミツバキ市?だかウミザクロ市とかいうのがあったらしいが。
110 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 12:42:02.16
ニギハヤヒは、 天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命っていうんだよ。 略して、櫛玉命ともいう。 櫛玉とは、形見という意味。 つまり、天照国照彦(火明命)の形見(遺児?)であるニギハヤヒ命という意味。 新撰姓氏録では、火明命とニギハヤヒは別神とされている。 火明命とは、尾張氏・海部氏などの祖先であり、天照国照彦その人と言われている。 つまり、ニニギの子孫である天皇家と同族で天孫。つまり、ヤマトの親藩の貴族。 一方、ニギハヤヒ命は、物部氏の祖先であり、天神(天孫ではない)とされ、 天皇家と同じヤマトの出身だが、同族ではなく、ヤマトの譜代の貴族とされた。
112 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 12:48:42.89
>>109 あれは「つばいち」と読むんじゃなかったかなー。
>>108 >同族か、本家分家の関係だったかは別として、
隼人は王都の内外防衛から王族の身辺警護までやっていた。
親近血族でなければ、寝室の警護まではさせられまい。
征服した民族や部族にやらせたのでは寝首をかかれる。
隼人も倭国王家の同族だよ。これが意味するところは深いよ。
熊襲と隼人の歴史抜きでは九州ひいては倭国の歴史は語れないんだよ。実は
>婚姻を通じての縁戚関係ではあったと思うね。
どうだろか。織田と武田など、
政略による婚姻の場合、姻戚関係なんて意識は薄かったんじゃないか。
113 :
ブラッと筆人 :2011/11/18(金) 13:02:41.02
>>111 武力支配時代の支配層は、要職や周囲を同族で固めたものだ。
それは、安全保証目的と独占意識のなせるところだろう。
『日本書紀』をみると近親結婚の連続だ。
現実はそこまでひどくはなかったにしろ、
支配する者と仕える者は同族と思ったほうがいい。
継体天皇の即位に不服で謀反興した磐井だって、
「筑紫の君」を名乗る皇別豪族だった。
彼はかつて伴(ともがら)として天皇に仕えていたのだし。
だからこそ、同族の骨肉の跡目争いなども激しいわけで。
>>113 一般的に
天神とは、ヤマト王家の譜代で
なかでも、天孫が、ヤマト王家の親藩とされている。
物部氏は、自分たちのことをニギハヤヒの子孫とし
これは、火明命と同一で、われらは天孫と主張していたが
そのことを、皇室や尾張氏などは認めてなかったらしい。
皇室らは、物部氏のニギハヤヒを火明命を別神として
天孫ではなく、天神としていた。
その辺の対立が、神武東征伝承にあらわされていると見たほうが良い。
物部氏の祖先のニギハヤヒは、自らを天照国照彦の形見である主張して
クーデターを起こしたので、
天照国照彦の正統な子孫である尾張氏の先祖たちによって鎮圧された。
その時に九州から援軍として駆けつけたのが、
天照国照彦の弟のニニギの子孫であるイワレ彦(神武)
>>112 隼人というグループにもいろいろあるが、
隼人をまとめていた連中は
その昔、畿内から移民してきた連中だろうね。
それが、ニニギの天孫降臨。
神武皇統も隼人の氏上も、ニニギの男系子孫。
118 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 15:58:51.55
物部氏末裔の穂積氏はいまでも神主かなにかで残っているんだっけ? 古代豪族の紀氏の当主も神主やっっているらしいが。
天の磐船の話も結局はニギハヤヒがいろんな宝を携えて西からやってきて 土着のナガスネヒコを帰順させたという構成になってる。 神武東征にしても、この話にしても、大陸系の弥生系住民が土着の縄文系住民とあるいは融和し、 あるいは争いながらも東、つまり本州に進出していったという歴史を物語として伝えているん じゃないかな。 特に天の磐船が稲作を伝えたという話は興味深い。
>>119 そんな話にはなってはいない。
ニギハヤヒは、葛城の高天の生まれで
そこから河内に移り住み
のちに、妻の兄であるナガスネヒコに祀り上げられて
クーデターを起こしたんだろう?
弥生とか縄文とか、そういう大きな話ではない。
122 :
ブラっと :2011/11/19(土) 18:24:08.34
119 >天の磐船の話も結局はニギハヤヒがいろんな宝を携えて西からやってきて >土着のナガスネヒコを帰順させたという構成になってる。 >特に天の磐船が稲作を伝えたという話は興味深い。 天の磐船が稲作を伝えたという話。 出典とともに、簡単に教えてもらいたい。よろしく。 >ニギハヤヒは葛城の高天の生まれで 葛城といえば名族の故地だが、土蜘蛛の巣窟でもあった。 この関係はいかに。 >弥生とか縄文とか、そういう大きな話ではない。 神話はそれ以前からの時代を前提としてるんじゃないか。 もしも、神話と現実の整合を語るならば、それはなかろう。
123 :
ブラっと :2011/11/19(土) 18:25:54.16
アンカー間違い
>>121 >ニギハヤヒは葛城の高天の生まれで
葛城といえば名族の故地だが、土蜘蛛の巣窟でもあった。
この関係はいかに。
>弥生とか縄文とか、そういう大きな話ではない。
神話はそれ以前からの時代を前提としてるんじゃないか。
もしも、神話と現実の整合を語るならば、それはなかろう。
124 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 18:48:55.59
葛城は土着の有力者だったんだろうね。
>>121 >>122 どちらの話も
>>117 の石切神社、磐船神社の由緒のところに書いてありますよ。
ちなみに石切神社は軍事の物部にふさわしく、正式には石切「剣箭」神社。
そこから腫物を刃物で切り取るという連想で、今では腫物(でんぼ)の神様として
全国的にも有名。
境内にいつ行ってもたくさんの人がお百度をふんでるよ。
そう 葛城は土着有力者であり外から入ってきた大王家とは根は対立していた…と思われる
何を言っているんだか。。。 葛城って、高天の原があるところだろう? ヤマト王権の発祥の地だよ。 三輪山の麓にできたヤマト王権の前段階が 葛城にあったわけだkら。
卑弥呼がヤマトトトヒモモソ媛命ならば、 出雲国譲りがあったのは、紀元前1世紀から紀元後1世紀のかけてのどこか。 これだと、神武東征が、紀元後1世紀中ごろだと思う。 倭国大乱が欠史八代の中ごろの時期で、紀元後2世紀中ごろ。 この倭国大乱の時期に、葛城(前ヤマト)王権は、葛城とヤマトに分裂した。 そう、欠史八代の時期に、葛城王権は、葛城とヤマトに分裂した。
129 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 22:58:52.93
>>118 ウチの近くの古い神社の神主は、何十代も続く三輪さんち。
東海地区には三輪姓の古い社家が幾つか残ってますね。
豊臣秀次の父親は、愛知県江南市の宮後八幡の三輪家の出。
これが反日マスコミの編集による矮小化 176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed 【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています 「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット 「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット 心情的に分かち合ってきました。」 「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし 以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット 「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」 「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範 であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット 「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、 不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、 ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット 「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に 日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット 他にもカットシーンがたくさんあるので、 ブ−タン国王陛下の演説 をyoutubeで検索してください
神武景気
132 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 06:39:07.91
>>126 > 葛城は土着有力者であり外から入ってきた大王家とは根は対立していた…と思われる
対立とも言えず、まあ連立政権を組んでいたと思えばいいのかな。
133 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 06:40:06.46
>>128 > 卑弥呼がヤマトトトヒモモソ媛命ならば、
これは疑問
葛城の王家とヤマトの王家は、元は兄弟から分かれた家系。 どちらも発祥の地は、葛城の高天山の麓の出身。 葛城の旧名は、高尾張。 この高尾張王権が、出雲を併合し、天下統一をした。 この高尾張王権の分派が、ヤマト王権。 高尾張王権成立当初は、ヤマト王権の先祖は九州南部の知事になったが、 高尾張本国で、王家のご落胤を名乗るものによるクーデターがあったので 本家を助けるべく日向から援軍として駆けつけたのが、ワカミケヌ。 その後、その時の功績を認められて、 高尾張(やがて、葛城に改称)王権の執政を任されていたが、 本家の高尾張(葛城)王家を凌駕するようになり、 自らが真の倭王になろうと反旗を翻す。 そこで、高天山の麓にある葛城王権に対抗して、 三輪山の麓にヤマト王権を創始する。
この葛城王権とヤマト王権の争いを 中国の文献では倭国大乱とし、 記紀では、欠史八代の中ごろにあたる。
神武一行30数人は鉄の原産地を求めて各地に派遣されていた隼人の調査隊の1つ。 河内に上陸して内陸に進もうとしたが、在地勢力から激しい攻撃を受けて手痛い敗北を喫し、傷を負った神武一行は播磨に向かう。 播磨では在地の首長に受け入れられて、そこで神武を含む一行は静かな余生を過ごしそのまま播磨で人生を終える。 播磨で受け入れられた訳は神武一行が製鉄の知識を有していたから。 神武は播磨在地首長一族の女と結婚してこの地で子孫が続く。 再度の大和東征はそれから数世代も後のこと。 記紀では神武1人の業績として書いているが実際は数世代に渡る事跡。
>>122 >>弥生とか縄文とか、そういう大きな話ではない。
>神話はそれ以前からの時代を前提としてるんじゃないか。
その表現気になるねえ。
俺は日本の歴史はスンダランド以来の王朝の歴史を伝えてると思ってる
いくらなんでも話とびすぎ。せめてどこそこの言い伝えとか神社の由緒とか そのレベルでいいからとっかかりがないと、ただの妄想だろう。
卑弥呼の死の直前の狗奴国の乱って どうみても、モモソ媛命の死の直前にあった武埴安彦命の乱でしょう? だとしたら、神武東征って、西暦1世紀中ごろから後半くらいの事件だよ。 では、出雲国譲りで、紀元前1世紀から紀元後1世紀くらい。
140 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 00:45:07.08
天火明命、長髄彦、櫛玉饒速日命らの方が先に倭にいたんだろ!? 神武より
ニギハヤヒとほあかりは同一の可能性も。
142 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 02:41:40.16
神武東征は台与以降の話だろ。 箸墓が神武陵です。 吉備の祭器が出ています。←神武は東征の途中で吉備に8年いました。
・狗奴国 → く(か、くゎ)の国=熊襲 ・漢委奴国王 → (漢の)倭の国王
144 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 03:52:30.32
>>142 > 吉備の祭器が出ています。←神武は東征の途中で吉備に8年いました。
岡京だなw
>>142 神武東征は、箸墓古墳以前の話だよ。
卑弥呼擁立のきっかけになった倭国大乱が
欠史八代の中頃だと思うよ。
>>143 狗奴国は、コノ国と読む。
魏志倭人伝が書かれた西暦280年前後は
完全に中古音の時代だよ。
例外は、奴国だな。
これは西暦57年の上古音の時代に、
中国側に知られて漢字名がつけられたために
中古音の時代になっても、そのまま、慣習として残るケースがある。
奴国というのは、倭国の中で大陸との玄関口として有名になったから
漢字の音韻が変化しても、前時代につけられた名前が慣習として残るケースがある。
>>141 ニギハヤヒとホアカリは別人物だと思う。
少なくとも、天皇家や尾張氏はそういう解釈していたみたいだし。
ちなみに、ニギハヤヒの別名は、櫛玉命。
櫛玉とは、形見という意味だな。
ホアカリの形見の皇子という意味でしょう?
ニギハヤヒは、義理の兄のナガスネヒコに唆されて、
ホアカリの御落胤を主張して、クーデターを起こしたんだけど
ホアカリの嫡流の子孫や、ホアカリの弟のニニギの子孫であるワカミケヌ(神武)
によって鎮圧されてしまったんだろう?
149 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 23:19:50.56
神武より饒速日命の方が先に東征なんだよ。
神武の長男が尾張氏、 神武の次男が天皇家。 神武とは宇留命のこと。 宇留一行は大和で敗れた後、瀬戸内海伝いに播磨にやってきてそこで客分として農業をしながら静かに余生を送る。 この時、播磨の豪族の1つである明石の首長から、明石族の奉る赤石大神のご神体であるメノウで出来た9個の赤石の内の8個と、宇留の所持していた宝剣とを親交の証として交換する。 このメノウの赤石を磨いて勾玉にしたものが、後の天皇家の三種の神器(実は一種の神器)である八尺瓊勾玉である。 そして宇留から貰い受けた宝剣はのちの天叢雲剣(尾張氏の至宝)になるのかもしれない。
>>150 違うだろう?
天忍穂耳命の長男の天火明命が尾張氏の先祖。
天火明命は天照国照彦と呼ばれ、
出雲国譲りさせた初代の男王アマテルとして長らく崇拝された。
天忍穂耳命の次男のニニギ命が天皇家の先祖。
出雲国譲りの直後、九州高千穂に派遣される。
ワカミケヌ命(神武)は、このニニギ命の曾孫。
天火明命の櫛玉(形見)を名乗ったのがニギハヤヒで、これが物部氏の先祖・
物部氏は長い間、自分は天火明命の子孫だと自称していたが
天皇家や尾張氏は認めなかったらしい。
>>151 新撰姓氏録では、尾張氏は天孫、物部の系統は天神に整理されてるので
別の神とされてるんでしょうね。
とはいえ、ニギハヤヒが神武東征より前に天磐船で天下った話は日本書紀にもみえます。
勢力を拡大していくごとに様々な部族をその神話ごと飲み込んでいったんでしょうが、問題は
その最終的な勝者であるヤマト王権が、なぜわざわざ九州に天下って大和までたどりついた
という神話を持つに至ったのかですね。
153 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 02:31:54.42
邪馬台国の王は諸国に代官を派遣していた。 台与の命令で南九州に派遣されたのがニニギ=神武の祖先ということだな。 その後313年に帯方郡が高句麗に滅ぼされたので後ろ盾を失った台与の勢力が衰える。 そして多数の漢人が日本に亡命。 高句麗が日本に責めてくるかもしれないと漢人が言った。 北部九州も危ないので台与は遷都先を探す命令を家来にくだす。その一人が奈良に派遣されたニギハヤヒ。 しかし、ニギハヤヒはナガスネヒコに懐柔されてしまった。 そしてその噂を聞いた日向の神武が東征! という事ですよ。 もうこの頃は台与あるいはその後継ぎの威力は完全に衰えて、王位は事実上の空位だった。 だから、日向三代+在日向@神武の時代は王(らしき者)がいないのだ。 そして、強力な吉備を傘下に収めた神武が奈良を征服した結果、倭国最大の豪族になったのである。 突如として奈良に出現する前方後円墳は、神武の下に身を寄せていた漢人の設計ですね。
伊都尾羽張という播磨の鉄製武器生産集団の統率者 これが尾張氏のルーツ。 尾張氏が辿ったルートは播磨→河内→尾張。 鳥磐楠船(天鳥船)神とは元々は播磨勢力の1つ明石(赤石)が崇めていた巨大な楠の御神木のこと。 ウヂノワキイラツコ(実は即位して宇治大王)と仁徳大王との間で、大王位継承をめぐって起きた戦争で、播磨明石は宇治大王側に味方したので、戦後報復としてその御神木を切り倒されてしまったもの。 のちには船に作り替えられて、同じ播磨勢力の1つである伊和(上述した宇治・仁徳戦争では仁徳側につく)などによって、瀬戸内海経由で製鉄品を大阪湾に運ぶために使われた。 ここに物部氏が絡んでくる。 尚、物部氏とは1つの氏族のことではない。 播磨諸族、久米、大和など製鉄に絡むいくつかの勢力の総称(当時の財閥、グループ、シンジケート、或いはコングロマリットだと思えばいい)。 鉄原産地探索→採掘→製鉄→物流 これらがワンセットになったシステムのこと。 これを「物部連」と呼んだ。 当然、鉄製武器製造集団である尾張氏(伊都之尾羽張)もこの物部連に大きく関係してくる。
1つ大事な事を付け加えるのを忘れていました。 鉄原産地探索→採掘→製鉄→物流→そして祭祀 これら一連の流れに携わる総体的システムのことを「物部連」と呼称していました。
忘れてはいけないのが、高天の原の高天とは 現在の御所市高天周辺の地域。 このあたりの領主は、高天彦と言われていた。 延喜式の名神大社である高天彦神社がここにある。 皇室や尾張氏や物部氏の祖先の発祥地はここ。 この高天の南には高鴨という地域があり、ここは 天神系の賀茂氏の発祥地がある。 また、高天の北の開けた地域を高尾張といい、 出雲国譲りをした直後、畿内王権の首都がおかれた地域だ。
>>153 もう、いいよ。そんな、時系列無茶苦茶な話は。
トヨは、豊鋤入姫のことで、
崇神天皇の王女だ。
卑弥呼やトヨの数代前の先祖が、ニニギや神武。
158 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 06:02:52.71
磐余には当時は大きな池があったらしいな。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 98 からのコピペですけど当時を推定するに延喜式の格すらアテにはできないのでしょうね 地形も気候も違えば当たり前か… 690 日本@名無史さん New! 2011/11/23(水) 10:50:34.47 西暦200年の地域別推定人口(鬼頭宏, 1996年) 畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津) 30,200 畿内周辺(近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨、丹波) 70,300 東海(伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃) 54,400 山陰(丹後、但馬、因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見) 17,700 山陽(美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門) 48,900 四国(阿波、讃岐、伊予、土佐) 30,100 北九州(筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊前、豊後) 40,500 南九州(肥後、日向、大隅、薩摩) 64,600 全国合計(蝦夷・琉球を除く) 594,900
ニギハヤヒはナガスネヒコに懐柔されたのではない。神武への反抗の責任を ナガスネヒコになすりつけたのだ。
>>159 それは、1996年の考古学の知識をもとにした推計な。
その時代は、紀元前3世紀に農耕が始まった説が定説になっていた時代。
それをもとに算出した数字。
でも、最近の考古学なのでは、すくなくとも4000年以上前から
陸稲などの農耕が始まっていたとか
水稲が始まったのも3000年前くらいだが、
室町時代までは陸稲がメインで、陸稲による生産量と
水稲による生産量に開きはないとか、新しい考えが出てきている。
だとしたら、当然、推定人口にも大きな違いがでてきている。
実際に、魏志倭人伝に登場する倭国の人口は
これまでの考古学の常識よりも人口多そうだしな。
162 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 12:48:50.22
長髄彦は土着で天火明命族かなぁ
長髄彦って土蜘蛛じゃないの 足長そうだし
164 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 20:04:52.71
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■ [道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス 空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率 ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革 ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け 世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
166 :
日本@名無史さん :2011/11/27(日) 02:25:45.47
マキムク遺跡は5世紀だろうね。 ゴッドハンド畿内派は卑弥呼時代だ!と言い張るけどw
>>162 天火明族が大和の在地首長である長脛彦の婿に入った。
それと日本は古代になればなるほど母系社会。
婿は外から入ってきて生まれた男子は母系氏族の中で育てられ次代の首長になるというシステム。
168 :
日本@名無史さん :2011/11/27(日) 07:19:17.28
長髄彦(尾張氏系)の妹と饒速日命(物部氏)が血縁関係を 結んだんだろう。
尾張氏と物部氏が同族。 長脛彦は大和の土着勢力の首長。 いわば原ヤマト勢力。
隼人の一部が播磨に婿入りして出来た原型氏族があり、その子孫が尾張氏、物部氏、そして天皇家。 鍵は播磨、そして久米。 但し、物部氏はより多くの氏族から成る混成氏族であるが。 「連合氏族」物部氏を構成している氏族の中に尾張氏(の一部)も入っているという感じ。他には久米氏、鴨氏等の一部も物部の構成員の中に入っている。 ちなみに中臣・藤原氏というのは実は守屋大連が滅んで以降、雌伏の時を過ごしていた物部主流筋が再登場してきた姿である。
天火明命とニギハヤヒは別神とされているんだけどな、新撰姓氏録では。 天皇家や尾張氏は天孫(ヤマト王朝の親藩)、 物部氏を天神(ヤマト王朝の譜代)とされた。 天皇家も尾張氏も、物部氏を同族とは扱ってなかった。 ただし、物部氏は、天火明命とニギハヤヒを同神とし、 自分たちを、天皇家や尾張氏と同じ天孫として自称していた。 でだ、ニギハヤヒの長い名称を詳しく見ると 天火明櫛玉ニギハヤヒ命というそうだ。 この櫛玉ってのは、奇霊のことで、形見という意味だそうだ。 つまり、天火明命の形見がニギハヤヒだそうだ。 つまり、神武東征の時、 ニギハヤヒは自分のことを天火明命の形見(遺児、ご落胤)と 主張してクーデターを起こしたのではないだろうか? おそらく、嫁さんの兄であるナガスネヒコにそそのかされたんだろう・
>>167 それ、戦後の一部の歴史観に毒されているわな。
新撰姓氏録をみても、入り婿が入った場合
それは、別系統の氏族として、ちゃんと分けて記載されている。
例えば、有名な葛城氏は
本来は、父方でみるとタカミムスビの後胤で、大伴氏と同族だった。
しかし、途中、この葛城氏に、孝元天皇の後胤である武内スクネの後胤が
入り婿として入るんだよ。
そしたら、その一家は、他の葛城氏とわけて、新しい皇別の葛城氏として
記載されているわけだ。
だから、葛城氏には、天神系の葛城県主の系譜と
皇別の葛城氏の二系統があった。
これと似たようなケースは、賀茂氏、忌部氏でもある。
系図は8世紀以降に成立したもの。 はっきり言えば系図も記紀も、律令制度とならんで中国様を意識して作りあげたもの。 中国は男系じゃないと相手にしないから。 だから中国に「うちの国もこんな立派な律令制社会&男系系譜が出来ましたよ」と示すために無理して作りあげた。 でも実際は(両方とも)矛盾だらけ。 系譜を男系で表すということをするようになってからも、相変わらず日本では母体制(或いは双系制)が続いてゆく。 日本が実際上の意味でも男系化するのはやっと院政期に入ってから。 院政期というのは「家」制度が確立し、家業(軍事、明経道、明法道、陰陽道、紀伝道、etc)が固定化された時代、 つまり、「氏族(母系)」から「家族(父系)」に移り変わった時代。
>>173 もう、洗脳されているやつって、哀れだな。。。
違うだろう?日本だろうが、どこだろうが、
父系重視だよ、むかしから。
ただし、日本の場合、家制度が確立されてから、
父系以外での継承も重視された。
家制度によって、母系的な継承もひろまった。
おまえの言っていることは、逆だ。
>>173 系図に関しては8世紀に成立されたものってのは
一昔によく言われた説だなw
でも、それから、次から次へと、考古学上の遺物とかが発見され
確か、西暦5世紀の遺物で
欠史八代に関する時代の人物名の遺物も発掘されたよな。
176 :
日本@名無史さん :2011/11/28(月) 11:31:31.74
>>169 高尾張氏と物部氏は最初は別族。神武東征前には
血縁関係を結んでいた様だ。
177 :
ブラっと筆人 :2011/11/28(月) 22:18:58.43
●「尾張」にもその先がある。 九州には「原」のつく地名が多く残っている。原一字では「ハル」と読むのだが、 これはもともと「人の手が入った土地」を意味する。 語源は「墾(は)る」で、新しく土地をきり拓いて田畑・道路・居住地などにしたという意味である。 おそらくは縄文言語だろうが、南西諸島や奄美列島でもやはり「ハル」といえば田畑をさすという。 文字通り開墾するという意味だから、「◯◯原」という地名は 開墾・治水が行なわれ田畑から居住地・墓地にいたるまでつけられている。 これが、西都原(斎殿原=さいとのはる)のほかに、前後につく文字との関係から、 前原(まえばる)・平原(ひらばる)・米原(よなばる)といった具合に濁るわけである。 (この訛って濁った「◯◯バル」をとりあげて、韓国語の「バル」「ボル」に直結して、 韓国語と日本語の言語の共通性をいう生き方も見かけるが、甚だしい見当違いである)。 ●『播磨風土記』では同じく開く意味をもつ開闢(かいびゃく)の闢の文字を使って「闢(は)り」と書き、 「針間」から「播磨」になったと伝えている。 ●四国に今治という地名がある。当初は「いまはり」「いまはる」など呼ばれていたそうで、 13〜14世紀頃の文物に今針・今治の文字が見られる。今治にもまた新しい開拓地という意味があり、 開拓・治水がなされたという意味で「今墾」とも表記されているという。 ●名古屋市を中心とした愛知県の西地域を、かつては尾張といった。 この地名は、伊勢湾から濃尾平野を支配した豪族の尾張氏に由来する。 尾張は古くは「尾治」と表記されていたという。 やはり開墾・治水の意味を持つ「はり」が使われていたわけである。 『倭人伝』に登場する巴利国が「はる」「はり」に由来か関連するのは明白だろうから、 極めて象徴的な開墾と治水がなされた国だったと思われる。 くり返す。九州には原のつく地名が数多く残っている。 3世紀の「巴利」が九州にあったことは否定できないだろうから、 今治、尾治(尾張)、針間(播磨)のルーツが九州にある可能性も一考すべきだろう。 播磨・尾張・偏重・思考には、少し刺激的すぎたか。
>>177 ハルとバルには大きな違いがありますよ。単なる濁った濁らない問題じゃ無くてハルが畑と同義語化してるのはおっしゃる通り。
>>176 血縁関係も結んだろうが。。。
物部氏の祖先のニギハヤヒを
尾張氏の祖先の火明命と同人物という意見があるが、
これは、ニギハヤヒの正式名称が
天照国照彦天火明 櫛玉 ニギハヤヒ命だから、
両者を同一人物とみる人が増えたようだ。
しかしながら、この両者を結びつける櫛玉という名称が問題なのであって、
これは、櫛玉=奇霊と同じであり、形見という意味なんだよ。
だから、ニギハヤヒのことを略して、櫛玉命と呼ぶ地域もある。
つまり、形見の王子って意味だ。
よって、神武東征で登場するニギハヤヒの経緯だが おそらく、ニギハヤヒは、自分は天火明命の形見(遺児?ご落胤?)と名乗って クーデターをおこした貴族じゃないだろうか? それを裏で画策したのが、ニギハヤヒの妻の兄だったナガスネヒコ。 当然、クーデーターを起こされた側は、天火明命の正統な子孫たち。 つまり、尾張氏、海部氏、津守氏などの先祖たちだ。 彼らが当時の畿内王権の正統な王室やその傍系王族だった。 この内戦において、畿内王権の正統な王家であった尾張氏の先祖たちは、 さらに分家筋にあたる九州で知事をやっていたワカミケヌ(神武)などにも 援軍を要請したのは、なんとなしにわかる。 ワカミケヌは、ニニギの曾孫。 ニニギは畿内王権の初代倭王の天火明命の弟にあたり、九州高千穂へ派遣されていた貴族だった。 実際に、ワカミケヌの畿内戦争の案内をしたのは、天火明命の子孫たちだ。 ヤマトスクネにしても、高倉下にしても、天火明命の後胤たちだ。
天照国照って言うとなんかサルタヒコ大神連想するわ
>>181 天照国照彦とは、天と国の両方の支配者って意味だろう?
文字通り、出雲国譲りをして、天つ神と国つ神の両方の王になったつー意味だ。
播磨国風土記でも、天火明命は、義理の父親(妃の父親)の大国主命から
国譲りされたような記述が出てくる。
また、もともとヤマト王権では、女神アマテラスではなく、男神アマテルを
ヤマトの始祖として崇拝していたという説があるが
この根拠になる神社が、天照御魂神社だ。この神社の主宰神が天火明命だ。
男神アマテルとは、天照国照彦のことであり、天火明命のこと。
この天火明命にはニニギ命という弟がおり、出雲国譲りの直後、
九州高千穂に降臨することになる。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命、つまり、のちのイワレ彦(神武天皇)だ。
>>181 猿田彦命を祀っていたのも元はやはり播磨明石の勢力で、
伊勢津比古、伊勢津比売の後裔である「伊勢族」という海人族。
彼らは潜水に巧みで真珠貝等の採取に優れていた他、海流を読むのも非常に上手な部族だった。
宇治大王と仁徳大王との間で繰り広げられた大王位争奪戦争で彼ら伊勢族は宇治大王方に味方したため、戦後になって身の危険を感じた彼らは紀州灘を迂回して伊勢(三重県)に逃げたり、また一部は阿波等に落ち延びたりした。
のちに允恭大王の御代になって、外貨獲得のための真珠貝が必要になったため、彼ら散り散りになった伊勢族が再び大王の命によって探し出される。
伊勢等に逃げた者達はそのまま隠れ通したが、唯一阿波に落ちた一族だけが名乗り出る。
阿波の伊勢族は大王のために懸命になって海に潜り、真珠貝を採取するのだが、余りにもはやりすぎて一族の多くの者が比良夫貝等に手を挟まれて命を落としてしまう。
そのあたりのことが神話の猿田彦の話に投影されて描かれている。
鳴門の「あま塚」はそんな阿波・伊勢族の霊を鎮魂するために允恭大王の命で建てられたもの。
高天原ってコウアマゲンが正しいんじゃないのかなあ わざわざ天は訓で阿麻と読めって書いてあるんだから高と原は音読みでしょ?
>>184 高天の原(たかまのはら)が正しい。
要するに、高天(たかま)という地域があって
その平原というような意味だ。
現在でも、この地名があり、奈良県御所市高天だ。
ここには、延喜式の名神大社である高天彦神社としてある。
高天彦とは、高天の支配者つー意味で、
このあたり一帯を治めていた官職が、高天彦だったんだろう?
似たように、イワレの領主には、イワレ彦
吉備の領主には、吉備津彦
ナガスネの領主には、ナガスネ彦
とあるわけで。
で、この高天に居を構えた豪族が、出雲国譲りをさせて
天下を統一したんだろうな。
それが、天照国照彦こと、天火明命なんだろう。
そして、その直後、彼は弟のニニギ命を、九州高千穂へ派遣する。いわゆる天孫降臨だな。
このニニギ命の曾孫が、ワカミケヌ命。のちのイワレ彦、神武天皇だ。
高天原=高天+原 高天という地域があって、そこの原野くらいの意味だろう? 高天は、「taka」+「ama」で、「takama」と読む。
いや読み方の話ですよ 古事記は細かく音で読め訓で読めって注釈付いてるのになんでそういう読みするのかなあって
平松サイド vs 橋下サイド 民主党 大阪市民 自民党 ν速民 共産党 財界 関西電力 連合 自治労 日教組 公務員 毎日新聞 MBS 解同 極左 大阪の敵が濃縮されてわかりやすくなったな
189 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 12:12:01.37
>>185 > ここには、延喜式の名神大社である高天彦神社としてある。
ただ、この神社が王家や豪族から格別の信仰を集めていた形跡もないと思う。
>>189 延喜式の式内社で名神大社だというのが、
朝廷から重要視されてきたのを物語っているだろう?
また、このあたり周辺は、名門の古代豪族の総社が多くある。
高鴨神社なんてそう。
鴨氏のルーツは播磨鴨国。 播磨鴨の祭神は鴨大神(=大山祇神)。
>>187 そら文字のない世界で初めて文字に言葉を置き換えたらそうなるでしょ
>>191 賀茂氏には複数の系統があった模様。
そんなわけで、系図が混乱しているかもね。
賀茂氏には複数の系譜があって、それぞれ名前は同じカモ氏だから、 お互いゴチャゴチャになっているんだな。 天神系(ヤマト王権譜代)にも地祇系(ヤマト王権外様)にも 賀茂氏があって、また、地祇系の中でも複数系統あったりする。
賀茂氏には複数系統あるけど 大きく分けたら、天神系の賀茂建角身命の後胤と 地祇系の三輪氏族である大田田根子の子の大鴨積命の後胤の二系統ある。 確か、三輪氏族系の賀茂氏は、母系経由で天神系の賀茂氏の一族から 家督を受け継ぐことによって誕生した氏族で、 両者は関係が深い。 どちらも、その発祥地は、葛城の高鴨で、葛城の高天の南にある地域。 天神系の葛城氏のほうが歴史が古く、この高鴨より発祥したが、その宗家は 後に山城国の葛野に拠点を移した。 京都上鴨社、下鴨社は有名で、諸蕃系の秦氏とも関係を深めた。 一方、三輪氏族系の賀茂氏は、三輪氏族の者で高鴨付近に移住したものがおり、 そこで天神系の賀茂氏の娘と婚姻、母系経由で賀茂氏を名乗るようになった。 この一族は、陰陽道の名家として有名になり、 また、後の徳川家康も、この陰陽道系の賀茂氏の後胤と思われる。
>>195 さすがに徳川家康まで系譜がつながるかは疑問。
剣神社神官出身の織田信長のほうがまだまし。
197 :
日本@名無史さん :2011/12/13(火) 15:17:52.35
朝鮮半島の人だろ神武って
198 :
日本@名無史さん :2011/12/13(火) 19:34:25.60
>>197 朝鮮半島南東部に進出していた倭人が、倭国に逆上陸した可能性もある。
199 :
日本@名無史さん :2011/12/14(水) 13:42:16.89
狩猟民族である日本に元々いた人が農耕民族に勝てるなんてのは絶対にあり得ない事じゃん 大和って朝鮮人そのものか、可能性は低いけど朝鮮人と先住民の融合したもののどっちかでしょ 普通に日本人って朝鮮人に似てる人ばっかじゃん、元々日本にいた縄文系のが少ないでしょ
>>199 面は薄く成るのは自然の摂理w
中国観てみろや万里の長城犯されもはや形質はほぼ全域万里の北の人種化しとる。
201 :
日本@名無史さん :2011/12/16(金) 12:32:39.78
>>196 織田信長は忌部氏のほうだろう?
まあ、この忌部氏も複数系統ある。
>>197 >>198 そんなことない。
>>199 今時、そんな発想する人はいない。
縄文と弥生で見るのから、卒業しよう。
202 :
日本@名無史さん :2011/12/16(金) 14:42:14.38
>>201 織田信長の系譜も確かなものはないよ。
織田剣神社は平安時代にはあったことが記録に残るから、
この頃には神官の家系があったであろうことが推測できるが。
忌部氏が皆親戚関係にあるわけでなし、織田家は越前の土豪だろう。
203 :
日本@名無史さん :2011/12/16(金) 17:38:48.30
須佐之男命の出雲系は朝鮮半島〜遼東辺りが出自。 イザナギ、イザナミを始め天照大神ことヒミコの日向王朝(南九州王朝)=天神系は中国南東部の呉国(周王朝と同族の姫姓)がルーツ。 ・・・日本の中古の使節などが携えた国書やパスポート?には我が皇室は姫姓である云々 太古より近代にいたるまで中国大陸(海流に乗って)や朝鮮半島からの流入してくるのはある意味デフォ。 特に大陸や半島が騒がしくなる都度に逐われた人々、流民、亡命王族や貴族が行き場(生き場)を求めて日本に流入。 特に秦氏の大量流入(数万人〜の国規模)は史書に明らかなところ。 (当時の日本列島の推定全人口が300万人ともいわれる) 須佐之男命(布都斯)も亡命王族(布都)の御子とか。 須佐之男命や五十猛命を新羅大神と奉る由縁か?(新羅は当時有りませんが、地理的な意味での新羅)
204 :
日本@名無史さん :2011/12/16(金) 20:37:21.78
天文三年(1534年)五月二十八日 尾張国、勝幡城にて生を受ける織田信長。
205 :
日本@名無史さん :2011/12/17(土) 15:04:05.66
>>203 もう、トンデモ史観、真っ盛りだなw
文献にも書いてないトンデモだらけだろう?
>>202 織田家の系譜は正確には残ってないけど
忌部氏の後胤だというのは、ほぼ確かだよ。
しかも、忌部氏の中でも嫡流にあたるタカミムスビ系の忌部氏の系譜だったはず。
忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族。
徳島の後藤田家も、この系譜。
206 :
日本@名無史さん :2011/12/17(土) 15:24:56.44
タカミムスビ系ってのは、大伴氏などを輩出した系譜で ヤマト王権の譜代豪族の本流みたいな一族。 足利幕府で例えるのなら、上杉家 徳川幕府で例えるのなら、水野家 みたいなもんだよ。 忌部氏の本流もその系譜で、織田家の家系は由緒ある一族。 中臣氏、藤原氏の系譜であるツハヤムスビ系は、 ヤマト王権の譜代豪族の家系の中では、かなり脇役の系譜。
207 :
日本@名無史さん :2011/12/17(土) 15:35:35.49
忌部氏乙!
忌部氏はユダヤ10氏族の末裔で剣残にはアークが眠ってます。 定説です。 みのもんたが言ってました。
神武は朝鮮人
神武天皇はアトランティス人の末裔です 歳くってますが1年を2回年で数えてたので実年齢は記紀の半分です 応神、仁徳天皇まで2倍年ですが、この辺が年の数え方が混ざって変になっています
朝鮮系がルーツであることは間違いない 狩猟民族が農耕民族に勝った例など一つもないし、どう考えてもあり得ない
中国で起こった農耕が日本に伝わった なら半島を通して九州に、そして東征 日本人が農業を発明したわけないし
何で一々寒い半島を通らないといかんのだよw 特に農耕はある程度の知恵の蓄積も必要だ。
214 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 03:50:34.80
稲作は日本→半島が考古学的事実だよ。
215 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 18:50:17.75
もう、力が失せるなw トンデモ史観万歳だな、ここ。
まあ朝鮮の歴史教科書は 世界が認めるファンタジーだし 我慢して付き合いな
217 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 19:00:42.18
高天の原というぐらいだから 高天(たかま)という地名があった。 そこの領主は、高天彦といった。 吉備の領主は、吉備津彦。 イワレの領主は、イワレ彦。 ナガスネの領主は、ナガスネ彦。 そういったようにだ。 そして、その代々の高天彦を祭った神社が、 現在の御所市高天にある高天彦神社だ。 ここが、その高天の原と言われる地域だ。 ここの神社の伝承によると、出雲国譲りの後 この高天の地域から、九州の高千穂に、ニニギ命が降臨したとある。 そして、その曾孫のワカミケヌ命(神武)の時に 再び、近畿へ帰還したとある。
稲作は九州に伝わったのは間違いないでしょ で九州の農耕民族が狩猟採集民族を倒して行ったのが東征だろ?
219 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 19:55:42.86
温帯ジャポニカだっけ、日本の稲は? あれは確か朝鮮の水田遺跡からは遺伝子が発見されてなくて中国江南地方からは多く発見されているのだそうだ。 だから、日本の稲作は旧来通りの朝鮮半島からの渡来によるものではなく、 中国大陸南部から直接渡ってきたという近年の説は十分説得力があるものなんだそうだ。
確かに九州の水田が始まったのが一番速い、紀元前10世紀頃 でも紀元前6世紀には畿内に水田が沢山有ったし 東北では青森の砂田遺跡から今から約2300年前のものが発見されている 神武東征が紀元前660年だとするとヤマトが水田を広めたというのは有り得るかもしれんが 紀元後ならもう水田稲作民同士の戦いだねえ
221 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 20:47:47.02
>>220 それに付け足すのなら、日本って室町時代までは陸稲がメイン。
水稲もやっていたけど、作業が楽な陸稲のほうがメインだった。
そういう風に考えてみると、4000年くらい前には始まっていた
縄文時代の農業を室町時代までメインだったということになる。
222 :
日本@名無史さん :2011/12/20(火) 20:57:38.89
いずれにせよ、日本で陸稲が始まったのは遅くとも4000年以上前 水稲が始まったのも、遅くとも3000年以上前 しかも、その水稲も一部の普及にとどまり 500年前の室町時代までは陸稲がメインだった。 箸墓古墳の被葬者であるモモソ媛命が卑弥呼だとすると 神武東征なるものは、西暦1世紀中ごろのことであり、 出雲国譲りでも西暦前1世紀から、西暦1世紀にかけてのことになる。 縄文とか弥生という話は無視して、神武東征を語ったほうが良い。 神武東征が起こった時には、 日本では農業が始まって1000年以上の時間が経過していたわけだから。
223 :
日本@名無史さん :2011/12/21(水) 02:56:00.64
アマテラス=卑弥呼・台与で神武は4世紀だな。 箸墓もマキムクも4世紀以降だよ。 近畿の考古学者はゴッドハンドばかりで困るよ。w
おいおい 魏志倭人伝で卑弥呼は3世紀だと書いてあるのに・・・
225 :
日本@名無史さん :2011/12/21(水) 17:18:02.40
西暦3世紀の 卑弥呼(媛命)は、モモソ媛命。 狗奴(コノ)国王の卑弥弓呼(彦命)は、 許乃国(コノ国)の領主だった武埴安彦命。 よって、イワレ彦(神武天皇)は、西暦後1世紀中ごろの人物。 ちなみに、西暦57年の奴国や 西暦107世紀の面土国の帥升の件は 当時の倭国の中の地方政権の対外外交の出来事にすぎず、 別に畿内に倭国の中央王権があったが、全国への統制力を消失していたと思われる。
226 :
日本@名無史さん :2011/12/21(水) 18:52:41.73
西暦107年の倭の面土国(メタ国)の帥升は、 米多国(メタ国)の王だった人物。 旧事本紀には、現在の吉野ケ里遺跡あたりには 筑紫の米多国(メタ国)があったと記載されている。 おそらく、この当時、畿内にあった倭の中央政権の統制力が弱体化していて 各地の豪族が勝手に動く時代だったんだと思われる。 後の戦国時代や南北朝時代に近い状態。
227 :
226 :2011/12/21(水) 18:54:54.93
ついにで、西暦107年といえば、 欠史八代の前期の時代で、この時代は 畿内王権の統制力が著しく落ちていた時代。
崇神まではヤマトは倭王の名乗れなかった 落ちてたというより元々無かった 崇神が出雲を倒してやっと倭王を自称できた
229 :
日本@名無史さん :2011/12/21(水) 20:08:06.77
>>228 三巻イリ彦(崇神)は出雲を倒して倭王を名乗ったのではない。
ヤマト王権の前身が、後の葛城にあった高尾張王権。
この高尾張の西南の高天山(金剛山)の山麓を高天の原と言い
この高尾張王権が地方王権だった時代の本拠地だった。
高尾張王権が出雲を倒して倭王になった以後
この倭王の地位にあった王家というのが、熱田社の尾張氏の先祖たちだった。
この王権を建国したのが、天火明命。
この天火明命には、ニニギ命という弟がおり、
出雲国譲りの直後、兄の天火明命の命令で、九州高千穂の統治を任される。
このニニギ命の後胤が、現在の天皇家。
よって、現在の天皇家の先祖たちは、
三巻イリ彦(崇神)の時代までは、正当な倭王の地位についていない。
ニニギ命の子孫で初めて倭王の地位についたのは、モモソ媛命であり、
このモモソ媛命の弟の孫が、三巻イリ彦(崇神)である。
230 :
日本@名無史さん :2011/12/22(木) 01:43:15.49
231 :
日本@名無史さん :2011/12/31(土) 05:53:17.41
大晦日あげ
232 :
日本@名無史さん :2012/01/07(土) 20:33:08.00
男大王彦尊
233 :
忍法帖【Lv=13,xxxPT】 :2012/01/22(日) 14:00:25.79
保守
234 :
日本@名無史さん :2012/01/22(日) 22:35:20.99
ヤマトの王権と卑弥呼を結びつける根拠は薄弱。 学者まで巻き込んでデンパ合戦。
精神を病んだ九州説君のおかげを持ちましてスレ終了
236 :
日本@名無史さん :2012/01/29(日) 08:24:04.68
東京の放射能汚染がひどくなったら高千穂に遷都する手もあるぞ。
霧島高千穂か臼杵高千穂か
238 :
日本@名無史さん :2012/01/29(日) 12:11:33.64
日本の首府/首都は法令、手続き上からは有名無実ながらも未だに京都。(憲法上も法令でも首都条項が欠落) 嘘か誠か、明治天皇が,『ちょっと吾妻(江戸)へ行ってくる云々。』として 京都からお出掛けに成られてからはお留守ですがw 東京は言わば入籍(手続き)はしていないけどなし崩し的に事実上の夫婦(首都)みたいな・・・? 壮麗な京都迎賓館はそのまんま皇居宮殿に転用可能。
239 :
日本@名無史さん :2012/01/29(日) 14:10:22.91
古代の日向(ひむか)は今の宮崎県、鹿児島県(大隅、薩摩)で、神武東征が宮崎県からというのは誤り。 大隅の宮浦、志布志湾の波見、これらが神武東征の出発点で途中日向の美々津に寄った。大隅にはそれを表す 神武の父母の吾平山陵、唐仁古墳群の大塚古墳や横瀬古墳、王子遺跡など様々な遺跡が出土している。
240 :
日本@名無史さん :2012/01/29(日) 14:16:58.29
日本書記で、ニニギノミコトが高千穂の峰に降り立った後にコノハナサクヤヒメと出会うのは 阿多の御崎で、これは薩摩半島南端の野間岬であろう(坊ノ津の隣)。古来、大陸から渡来人が 渡ってきたことを表しているのであり、平地がなく住む場所でなかったため佐多岬を回って 大隅へ渡り住み着いたもので、それが熊襲(後の隼人)となった。西都原は分家。
八巻正治音頭 あの時 あの駅 あのプール ホイ 日本一の リリカルシティ 友に笑われ 身内を磨く サテ やさぐれた歌が 聞こえてくる街 ハンハンハハハン 喫茶店の数では 勝ち目が無い ハンハンハハハン 投げやり地蔵に 願いを込めて 八巻正治音頭でララライライ 八巻正治音頭でヒュールリラ 八巻正治音頭でララライライ 八巻正治音頭でヒュールリラ
元々畿の王家の有力者が失脚して九州に落ちてたのが天孫降臨で 政権復帰して王位継承したのが東征とか
>>1 「ほのぼの語る」ってどういうことだよ?
過激な説はいうなってこと? 他人の説を否定するなってこと?
244 :
日本@名無史さん :2012/02/17(金) 07:49:54.84
何にでも食って掛かる、そんな時代が私にもありましたw
神武天皇のY染色体万歳!
246 :
日本@名無史さん :2012/03/15(木) 12:53:18.22
保守
>>9 >まつろわぬ輩を討つにはどんな手段を用いても良い・・・・・・・
イワレヒコの宇陀侵攻戦といい、記のヤマトタケルの熊襲討伐戦といい、記紀が
上梓された8世紀代の価値観では、騙し討ちは何ら後ろめたい行為ではなかったの
だろうね。
248 :
日本@名無史さん :2012/03/22(木) 09:47:37.00
伊弉諾尊(淡路島神)の御神慮を宥め鎮めるために明石海峡(赤石)の海底から勅命で「大きな真珠」を採ってきて死んだのも阿波の某。 その墳墓と言われるのが淡路島北端の岩屋の石の寝屋古墳。(伊弉諾神宮の鬼門に位置) 赤石(明石)は播磨国の東端の要衝。 凡そ「赤色、朱色、緋色」はあの世(幽冥界)を意味する印。 何やら同じにほいが漂います。
249 :
日本@名無史さん :2012/03/22(木) 10:07:29.58
一説/一伝に。 ホアカリ(天火明命/天照国照彦天火明尊/天照御魂大神)=ホホデミ尊=ニニギ尊=神武天皇。 また、 記紀では時代とシュチュエーション、立場を変えてはいますが神武天皇と崇神天皇は同時代の人たちでお互いに存亡を賭けた熾烈な攻防戦を展開。 攻め上がっていく側の記述が神武記。 それに防戦し徹底抗戦した側の記述が崇神記。 出演者のそれぞれのキャラが攻守を変えて同じ 二つを並べて読み合わせをすると面白い事実が見えてくる藤原不比等のカラクリ?
時系列で並べてみると @出雲国譲り Aニニギが高千穂へ天孫降臨 B日向三代 Cイワレ彦の東征(神武東征) D欠史八代 Eモモソ媛命と三巻入彦(崇神)の体制 という順番。 で、ヤマト朝廷の始まりはどこか?という話だが それは、神武東征か?崇神か?という意見もいうのが多いが 違うだろうよw どうみても、ヤマト朝廷の始まりは、出雲国譲りからだ。 ここで、ヤマト朝廷の前身となる全国規模の王権が誕生している。 では、その時のヤマト朝廷の倭王は、誰なのか? 天皇家の先祖のニニギなのか?となるかというと違うだろうw ニニギは、出雲国譲りの直後、九州高千穂に飛ばされたわけだから。
では、その時に、出雲国譲りを主導して ヤマト朝廷の最初の倭王になったのは、天照国照彦。 諱を火明(ホアカリ)と呼ぶ。 天皇家の先祖のニニギの兄とされている人物だ。
>>195 紀伊灘ゴトビキ岩に上陸した神武勢の大和盆地侵攻の道案内をしたとされる
八咫烏こと賀茂建角身命の属する加茂族も天孫族の一派だったのですね?
256 :
最強日本 :2012/04/08(日) 11:32:44.70
私は韓國をやぶれたい
日本語でどーぞ
>>251 出雲の国譲りは、高天原の勢力による出雲征服だから
画期と言うわけではない。
やはり、節目になるのは天孫降臨か神武東征。
神武は高天原勢力(南九州)から分岐した一派だよ。 その神武本人は大和には進出出来ていない。紀伊半島で在地首長(長脛彦)勢力に破れたあと、鴨氏(これも日本在来系氏族)の本領播磨に迎え入れられてそこで客人として暮らしている。 そして鴨氏と融合した神武の子孫崇神の代になって改めて大和を攻め取った。 だから二人の「ハツクニシラススメラミコト」がいる。 その辺りを神話では神武1人の業績としてしまっているから神武と崇神で整合性が取れなくなって齟齬をきたしてしまうのだ。
出雲国譲り後はハヤトが権力を持っていたようだね 記紀ではハヤトは兄でありヤマトを虐めていた これはハヤトが権力者だった証拠 山幸彦からヤマトが上に立ってる 日向と筑紫は消えた王朝なので やはり大和朝廷の始まりは神武からだろう
畿内をかすめ取ったのが神武で 畿内以外に攻め込んだのが崇神だと思っていたよ 特に崇神は出雲を侵掠して西日本の権力者として頭角を現した人だと思ってた
実質、神武は豪族のようなもんで 天皇を名乗れるのは崇神からだろう ただ大和朝廷の起源というと、やはり神武になる だから神武天皇というのは有りだ
神武天皇の役割は重要だからなあ。とにかく、大和はここから始まる。 神武天皇はいなかったと言う人もいるが、もしそうなら、古代史は 現代の誰かが頭の中で創造しなくてはならなくなってしまう。
>>261 ソースと言われてもこまるんだけどね。
紀記や風土記その他の文献や関係する神社縁起や民間伝承などに触れた上で、
「こう推論すれば、今のところ一番矛盾が無く(或いは矛盾が少なく)考えられる」
といった風にアプローチしてる。
266 :
日本@名無史さん :2012/04/08(日) 20:39:09.29
風の谷のナウシカのエンディングだな!!
神武率いる天孫族が出雲東部から畿内まで先住統治していた出雲神族を討ったようだね。 この天孫というのは濃尾天孫でなく日向天孫。 天孫族は祟りを恐れ、出雲の神々を丁重に盛大に祀った。 怨念の古代史…
播磨国風土記見たらわかるけど 出雲国譲りって、母系継承による易姓革命だよ。 じゃ、どう易姓革命があったのかというと 出雲の大国主命が、葛城(高尾張)の火明命に国譲りした事件。 火明命の正妃が、天道日女命で、 彼女は、大国主命の王女だった。 うんじゃ、天皇家の先祖はというと、火明命の弟のニニギ命のほう。 ニニギ命は、出雲国譲りの直後、葛城の高天地方から 九州高千穂に飛ばされることになる。
高天原は、現在の奈良県御所市高天の周辺。 高千穂は、現在の宮崎県高千穂地方周辺。
おまえら、勘違いしているけど ヤマト朝廷の実質的な創設は、出雲国譲りから。 神武東征からではない. 出雲国譲りは、神武東征よりも前の出来事。 天皇家の先祖は、出雲国譲りの後、 高天原(近畿の葛城地方)から九州高千穂へ飛ばされた意味を考えよう。
飛ばされた奴を朝廷とか それは言えんだろw
272 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 08:07:33.36
神武=最初に松平に住み始めた奴 崇神=徳川家康 みたいなもんだと思う。
273 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 09:37:34.79
瀬戸内から畿内まで出雲神族・出雲臣族が先住していたところへ侵攻してきたのが天孫族
神話って面白いよね。 出雲神話は日向神話より話の数が豊富。
ヤマト王家を、徳川家に例えるのなら 天忍穂耳命=徳川家康 天火明命=徳川秀忠 ニニギ命=徳川頼宣 ワカミケヌ命(イワレヒコ=神武)=徳川吉宗 徳川幕府の初代将軍は、徳川家康からだったが、 ヤマト朝廷の初代倭王は、天忍穂耳命からではなく、天火明命からだった。
>>273 天孫とは、元は、葛城地方の高天地区あたりの発祥の豪族。
このあたりには、高鴨とか、
ヤマト朝廷で天神(ヤマト朝廷の親藩、譜代の豪族たち)とされた
豪族の発祥地が集結している。
ヤマト朝廷の中枢部にいた豪族たちは、
この高天、高鴨、高尾張(葛城)周辺の地主から発展した。
一方、出雲王権のほうは、ヤマト王権が勢力を拡大するよりも前の
日本海沿岸部を中心に広範囲に勢力を拡大させていた。
277 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 19:37:25.62
278 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 19:46:38.93
いやホント良い例え。 他には、 神武:初めて鎌倉に住み着いた源氏 崇神:頼朝 神武:初めて下野に住み着いた源姓足利氏 崇神:足利尊氏 みたいな感じ。
279 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 20:46:35.32
天火明命の末裔が天孫族。
天孫とは、天忍穂耳命、天穂日命らの兄妹の子孫たちのことをいう。
たとえとしては
>>275 が正しい。
天孫系と天神系は区別されている 国津神と天津神の区別が有り、天津神は天孫系と天神系に分かれる ニニギの系統が天孫だろう 天穂日命こそニニギ以前に芦原中津国を統一してた神 この系統が天神、なんとなく格上w
282 :
日本@名無史さん :2012/04/10(火) 23:52:10.44
記紀神話は、高天原から始まり、天孫降臨で日向に移る。日向に舞台が移ると もう高天原は登場しない。神武東征で大和に移ると、もう日向も登場しない。 やはり、主役はこういう経路で歴史を歩んできたものと言える。
>>281 天穂日命の家系も一応、天孫な。
天神=天津神だけど、
その中でも、さらに分けて、天孫、皇別に分けられる。
分かりいうと、
国つ神(地祇と同義語)
地祇=ヤマト王朝から見たら外様の豪族
天つ神(もともとは、天神と同義語だったが、さらに三つにわけて分類された)
天神=ヤマト王朝の譜代の豪族
天孫=ヤマト王朝の王家の流れをくむ豪族
皇別=ヤマト王朝の王家の流れをくむ豪族のうち、神武以降に分派した豪族
徳川幕府に例えると
地祇=外様大名
天神=譜代大名
天孫=親藩大名
皇別=徳川吉宗以降に分かれた大名
284 :
日本@名無史さん :2012/04/11(水) 07:04:53.87
>>283 >地祇=外様大名
>天神=譜代大名
>天孫=親藩大名
>皇別=徳川吉宗以降に分かれた大名
上二つはいいけど
天孫=十八松平
皇別=親藩大名
でいいんじゃないの?
>>284 たぶん、その部分が味噌なんじゃないの?
おそらく、記紀が編纂された時代だと
オオアマ命(天武)の男系の先祖である
イワレヒコ(神武)が初代天皇とされたから
天孫=十八松平
皇別=親藩大名
の解釈で正しいと思う。
しかしながら、それ以前は、ヤマト王朝では
イワレヒコは初代天皇とはされてなかった。
初代天皇...というか、初代の天津神の倭王とされていたのは
天照国照ヒコ。諱を火明(ほあかり)という。つまり、天火明命のこと。
この人物が、出雲国譲りを実現させ、
初代の天津神の倭王になった可能性が高い。
286 :
日本@名無史さん :2012/04/11(水) 10:09:48.73
国津神と天津神では民族そのものが違うっぽいし、 皇別とかもどこまで本当か疑わしい。
>>287 ニギハヤヒの男系子孫である物部氏は、天神扱いであり、天孫ではない。
それが、ヤマト朝廷の公式見解だった。
しかしながら、物部氏はニギハヤヒを天火明命と同一視し、
自身を天孫としていた。
でも、ヤマト朝廷は、ニギハヤヒと火明命を別神とし、
物部氏を天孫とは認めなかった。
本当のところはどうだったのか? ちなみに、ニギハヤヒの正式名称は 天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命という。 こういう名称だったから、物部氏は、ニギハヤヒ=天火明命という説が生まれ 自身を天孫と自称するに至った。 じゃ、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命という名称を細かく分析してみよう。 天照国照彦+天火明+櫛玉+ニギハヤヒ命 というふうになる。 天照国照彦とは、天火明命の通称であり 天照国照彦である天火明というふうになる。 その次に、櫛玉という名称が来て 天照国照彦天火明と、ニギハヤヒをつなげている。 この櫛玉とは、奇魂と同義語であり、形見という意味であり。 つまり、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命とは、 天照国照彦である天火明の形見にあたるニギハヤヒ命ということになる。 ようするに、ニギハヤヒ命というのは、自分は天火明命の御落胤だと主張しているわけだ。 そう主張することによって、義兄のナガスネヒコと共謀してクーデターを起こしたんだけど、 天村雲命、高倉下命や、ワカミケヌ命(神武)によって鎮圧されたんだろう? 天村雲命、高倉下命らは、天火明命の正嫡の子孫であり ワカミケヌ命は、天火明命の弟であるニニギ命の子孫である。
290 :
日本@名無史さん :2012/04/11(水) 14:05:00.22
>>288 饒速日命について日本書紀に書かれているのは、天磐船に乗って大和に
やってきたこと、神武天皇と同じく天神の子であると言うことだけ。
つまり高天原からやってきたことは間違いないが、その先祖については書かれていない。
書かれていなければ、好きなように解釈しようと言うわけで、古事記に瓊瓊杵尊の
兄と書かれている天火明命を先祖にしてしまったのだろう。
ただし、天火明命は日本書紀には出てこない。
日本書紀では、日向で生まれた彦火火出見尊(神武天皇の祖父)の兄が火明命となっている。
>>290 そのヤマトについてだが
ヤマトとは、現在では日本全体を意味するが
もともとは、奈良県全域をさし、
それ以前は、桜井市周辺である三輪山の山麓をさしていた。
ニギハヤヒは、高天原から河内に降臨し、今度はヤマトにやってきた。
高天原とは、現在の奈良県御所市高天周辺のことで
そこから河内に移り住み、今度はヤマトにやってきた。
どうも“オリジナル神武”は饒速日命のような気がする。 隼人から分かれた先遣隊の部隊長が神武=饒速日命。 播磨の地で鴨氏に庇護され数代のち世代に至って大和を「征服」。 実際は大和で在地首長一族に婿入りして出来た子が世継ぎとなったが、隼人本国からきた“本隊長”に「禅譲」したってところ。 神話では天皇家(隼人)“本隊”の始祖を、オリジナル神武にまて繋げてしまっているが。
293 :
日本@名無史さん :2012/04/12(木) 12:24:50.34
天火明命は天照大神の孫と言う説明もあるが?この件については? まぁ、天照とは天照国照彦天火明命の事とは思うが。
火明命は饒速日命の兄弟だろうね。 たぶん兄。
295 :
日本@名無史さん :2012/04/12(木) 14:20:17.26
高天原については、どんなところかを窺わせるような記述はあまりないが、 日向については、明らかに海に関係がある。海神(わたつみ)、海幸彦、 潮満玉、わに(サメ)、タイなど海に関係あるものがたくさん出てくる。 海のない奈良で作った話とはとても思えない。
高天原は蓬莱山の事
高天原は、天皇家の母体となった氏族や家々の故地と、 それら氏族の祖霊の坐す世界、つまり天界などを併せた総称だと思う。
298 :
日本@名無史さん :2012/04/13(金) 15:55:36.48
神武天皇は日向で津波に襲われたから、津波の心配が全くない奈良盆地に 移住したのだ。
>>295 高天原とは、普通に高天の原ということ。
高天とは、現在の奈良県御所市高天のあたりのこと。
このあたりには、高天、高鴨、高尾張という地域があり
ヤマト朝廷発祥の地である。
高天のあたりの領主のことを高天彦といい、
このあたりには、延喜式の式内社にあたる高天彦神社が残っている。
(イワレの領主にはイワレヒコ、吉備の領主には吉備津彦
ナガスネの領主にはナガスネヒコという。)
天皇家の先祖のニニギは、このあたりの出身。
高天王権が出雲王権を倒したあと、
高天王権は、王家の一族のニニギに九州南部の統治を任せた。
これを後世、天孫降臨という。
その後、ニニギの一族は三代にわたって日向の統治を任され
ニニギの曾孫のワカミケヌ(イワレヒコ=神武)の時に
再び、畿内に帰還した。
一方、宗家たる高天王権のほうは、その後、やや北の低地の高尾張に首都をうつし、
ここを、倭の首都とした。
この高尾張は、のちに、葛城と呼ばれる地域である。
301 :
日本@名無史さん :2012/04/14(土) 11:53:49.58
天皇家は、隼人(南九州)、久米(北九州)、針間鴨(播磨)などから成る“総称”だよ。 隼人分遣隊の長 → 隼人分遣隊の長と播磨鴨の融合 → 播磨鴨と融合した隼人分遣隊と久米との融合 → ↑が播磨全体の長となり更に大和に“進攻”(実際は大和首長への婿入り)し、大和首長に → 隼人本国からの大和入りによる“禅譲” 最初の方の隼人分遣隊の長については、のちに物部が自らの始祖として主張するが、物部自体がその名が示す通り融合合従氏族である。 また、神話ではそれら物部らを含めて天皇家の系譜に一本化してしまっている。 実際には最初に述べたように姻戚の繰り返しによりほぼ同一氏族化してしまっている。 更に母系継承が絡むので複雑ではあるが。
物部が始祖と主張する饒速日命は=隼人分遣隊長=カムヤマトイワレヒコ(神話)=宇留命。 播磨の宇留神社(宇留春日神社)や播磨一宮伊和大神に関係がある。 なお、宇留「春日」とあるが、春日といえばのちの藤原氏の氏神、元は大(おおの)氏や春日氏の氏神である。 そしてその大氏、春日氏両氏は和邇氏族である。 その和邇氏氏祖ナニワネコタケフルクマは久米氏族である。 宇留命(饒速日命、カムヤマトイワレヒコ)を物部氏が祖神として位置付けていることから、 のちの鎌足流中臣・藤原氏は物部惣領・守屋大連一族の末裔が、物部構成部族の1つ天児屋根(金屋児)系中臣氏に匿われて世を忍んでいたものが、復活リニューアルしてきた姿である。 当然、物部-藤原氏と関係が深い尾張氏も、その元の故地は播磨である。 古事記に伊都之尾羽張、天之尾羽張などと記されているのがそれであろう。
大和はそれら天皇氏族や物部氏族いずれの故地でもない。 大和首長長脛彦に宇留の子孫が婿入りして以来の歴史であろう。 大和に残る天皇関係氏族地名や物部尾張氏関係地名などは押並べてて、大和入り後に築いた拠点。 例えて言うならば、 のちの江戸時代に、江戸に全国の大名が江戸屋敷を置いたものが地名化して残っているようなものだろう。
しつこいが、ヤマトは もともとは三輪山の麓の桜井市のあたりをそういった。 やがて、現在の奈良県を全域をそういうようになり そして、日本全域をそういうようになった。 高天原とは、高天の原野という意味で 高天という地域は、今でも地名で残っている。 神話を読めばわかるけど、高天とヤマトと木の国は至近距離にある。 出雲は少し離れているが、ヤマト、高天、木の国が近くで集まっている。 ヤマトは桜井市、高天は御所市、木の国は和歌山県北部 天孫降臨とは、皇祖ニニギが 高天(御所市)から高千穂(宮崎)へ地方官として派遣されたお話。
現在の市街地は平城京に遷都してから作られた たしかに元は何も無い原野だ ニニギもアマテラスが原野に住んでたのかwww 誰もいないから原野なんだぞ 高天町なら他にもあるな 〒630-8241 奈良県奈良市高天町 〒857-0802 長崎県佐世保市高天町 〒859-0303 長崎県諫早市高天町
307 :
日本@名無史さん :2012/04/15(日) 11:30:19.08
てか >高天は御所市 それって江戸時代まで唱えられてた旧説じゃないの? >神話を読めばわかるけど、 >神話 ってどの >神話 ? 紀?記? そしてそれらから 何がどう具体的に >わかる の? また >天孫降臨とは、皇祖ニニギが >高天(御所市)から高千穂(宮崎)へ地方官として派遣されたお話 そうなの? つまり、畿内から九州に政権が移動したってこと?
地方官がわからないのかゴミクズ
つまり大和朝廷緯線に 日本を統一していた王権が有ったという事かw しかもそれは出雲王権ではない いつの時代だろーな
神話に従えば大和朝廷以前に山陰・瀬戸内海沿岸・畿内・北陸まで王権なのか知らんが出雲の勢力だった。 神武によってそれが覆えされて大和朝廷となった。
それだと高天原は出雲で 国譲りと大きく矛盾
312 :
日本@名無史さん :2012/04/16(月) 14:54:55.71
神話通り読んだって分からないから幾通りもの推論がなされてきたわけ。 でも自分も出雲とは思ってないけどね。 でも大和でもない。 南九州、北九州、播磨の混合したものが大和と出雲にそれぞれ乗り込んできたものだと考えてるけどね。
313 :
日本@名無史さん :2012/04/16(月) 17:50:38.64
神代に大八洲(全国)を支配してた先祖が なぜかニニギから神武天皇の時代まで6百年以上も 日向の高千穂に引きこもって弱小政権となる道を選び、 その間に蝦夷やら土蜘蛛やらが日本列島の大部分を支配してしまった 神武天皇がようやく日本列島を平定するため、天孫は600年以上ぶりに 高千穂を離れたという変な話ですね
314 :
sss :2012/04/16(月) 21:04:57.16
記紀によると、出雲は高天原に征服されたところ。 それを出雲の国譲りと言う。葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定ともいう。 天照大神と高皇産霊尊から出雲に派遣された建御雷男神は、大国主神に向かって、 「お前の子の事代主神と建御名方神は天津神の御子の命令に背かないことを 約束した。お前はどうする」 大国主神は、「私も二人の息子と同じで、違えることはありません。 この葦原中国は命令のままに献上いたしましょう。」と言った。
建御名方神は諏訪まで逃げてるから 出雲王権はかなりデカい しかしニニギは九州に降臨し更に移動して王国を作った 何故だろうか 九州は戦線基地だったと言える つまり、ニニギは、中国大陸も支配しする大帝国を作ったと考えられる それが崩壊し、神武は仕方なく東へ向かった じゃあ高天原とはどこか、それは東にあった。 鳥海山とか筑波山とか怪しいぞw
>>307 旧説じゃなくて、それが本来の正しい認識だけど
江戸時代に本居宣長みたいなカルト的な国学思想の民間学者が
いろんな変な説をぶちまけた。
時代が経過するごとに、過去の記録が失われて
高天の原が、葛城地方の高天のことだというのは、実感としてわかなくなる。
>>306 高天原という地名は、日本各地にもあるけど
その殆どが後世に後付されたもの
じゃ、昔から文献上、古いのが残っているのは
奈良県御所市の高天。
>>312 ヤマトの意味合いも時代によって異なるんだよ。
たとえば、岡山県の岡山は、岡山市周辺の狭い地名だけど
今では、旧・吉備国の大半が岡山県として、岡山と言われるだろう?
ヤマトも同じだ。
幕末では、ヤマトは奈良県全域を指す意味があった。
あるいは、日本全土をヤマトともいった。
しかし、律令体制以前では、ヤマトは、奈良県東部をさし
奈良県西部は、葛城といった。
そして、それよりも前は、ヤマトとは、三輪山の麓の狭い地域を指す地名であり
そこは現在の桜井市纏向遺跡周辺の地名でもあった。
神話の時代のヤマトとは、三輪山の麓の纏向遺跡(桜井市・天理市)あたりの意味で、
葛城市、御所市のあたりは、高天とか高尾張とか高鴨という地域があった。
神話の時代の高天原とは、現在の奈良県御所市高天周辺のこと。
皇祖ニニギ命は出雲国譲りの直後、高天原(御所市高天)から
九州高千穂に地方官として派遣される。
つまり、天皇家の先祖は、出雲国譲りを実現させた初期の近畿王権では
完全に傍流の貴族・王族で、
辺境の九州に地方官として飛ばされていたわけである。
当然、出雲国譲り直後、皇祖ニニギ命よりも格上の人物が近畿王権にはいて
それが、ニニギ命の兄とされる天照国照彦(天火明命)のことだった。
もともと、ヤマト朝廷は
女神アマテラスではなく、男の太陽神のアマテルを始祖として
祭っていたという説があるけど
このアマテルこそ、天照国照彦(天火明命)のことだ。
318 :
日本@名無史さん :2012/04/17(火) 08:15:47.79
土蜘蛛の原産地の葛城山が天皇家の発祥地なわけがないじゃんww
>>318 土蜘蛛に原産地もくそもないわw
土蜘蛛という記述は、日本各地、いたるところにある。
ちなみに、高天原で有名な御所市高天地方にも土蜘蛛伝説も一緒にある。
普通に現在の奈良盆地をみれば グーグルアースで良く地形を見たら 御所市高天あたりから徐々に三輪山のほうに首都を 移動させていた流れが読める。
ワカミケヌ命こと、神武天皇が 河内湾で上陸戦争を戦っているときに 自分の出自は天津神なのに、天津に向かって戦争するのは 縁起がよろしくないとか言ったんだよな。 河内湾に上陸しようとしたら、その河内平野の奥には 金剛山(高天山)が存在し、高天の原が存在する。
322 :
日本@名無史さん :2012/04/17(火) 08:58:56.34
>>319 いたるところに有ろうが葛城もレッキとしたその中の1つってことだろうがww
しかも数ある土蜘蛛原産地の中で最も濃密な土地ww
文献記載原理主義者のクセに都合の悪いところは無視なんだなww
ちなみに、出雲国譲り戦争とは、 近畿王権と出雲王権の戦争で、出雲が近畿に降伏した戦争。 両者の戦いの伝承はいたるところにあり 中でも両者にとって緩衝地帯にあたる播磨国に、その痕跡が残る。 そこに、出雲国譲りがなんだったのか、秘密が隠されている。 出雲王の大国主命には、天道日女命という王女がおり 彼女は、近畿の高天の王の天火明命に嫁いでいた。 やがて、近畿の王の天火明命が勢力を拡大させ、出雲は降伏するしかなかった。 そこで、出雲国譲りの条件として、大国主はいろいろ出した。 その中に、娘の天道日女命と天火明命の間に産まれた外孫にあたる天香語山命に 近畿王権の二代目を継がせ、その子孫が継承していく条件を付けた。 このことは、近畿王権と出雲王権の合一を表した。 よって、近畿王権は、その後も、出雲の神様を大切にするのである。 天火明命は出雲国譲りを実現させ、倭国全土の覇王になった。 天津と国津の全てを統治したということで、彼は天照国照彦と呼ばれた。 しかしながら、ここで、問題がある。 現在の天皇家の先祖は、ニニギ命といい、この天火明命の弟にあたるのだ。 出雲国譲りの約束では、倭王の地位は、天香語山命の後胤に継承されなければ いけないのだ。
九州に赴任していたニギギ命の孫の神武が東征後に王位に就いた その後、大物主娘ののヒメタタライスズヒメを皇后としその子が綏靖天皇になった 結局出雲系の血は入った
>>325 大物主≠大国主だよ、いちおう。
大物主の娘というのは、三輪山に仕える巫女ぐらいの意味じゃないの?
むしろ、大物主=大国主みたいな説が生まれてたのは、
ニニギの子孫である天皇家の出雲国譲りに対する気まずさがあると思う。
ああ、それと、自分は、ワカミケヌ命(神武)は、まだ
近畿王権の正統な倭王についてないと思う。
神武皇統が正当な倭王の地位を奪おうとしたのは、
カエシネ命(孝昭天皇)からだと思う。
彼の妃は、天忍男命(天火明命の後胤)の娘で
その間に産まれたら子供に母系経由で継承させようとしたと思う。
たしか天孫降臨の時、女も居たよな そいつらの子孫はどうなってんだろ 女系天孫なんて居たんだろうか?
328 :
日本@名無史さん :2012/04/17(火) 19:49:11.91
>>327 アメノウズメの子孫なら猿女君がそれだな。
女系天孫ならアマテラスの天孫ニニギがズバリじゃないか!
ニニギって男だろw だから天皇も男系じゃないの?
稗田阿礼が猿女君の出でアメノウズメの子孫で 猿女君は代々巫女が中心で神事をやってたんだな 阿礼も女という説が有るね 確かにこれは女系天孫だ 猿女君の拠点が伊勢らしいから、神武東征で伊勢が協力したのも当然か ニニギの子孫とアメノウズメの子孫が協力した訳だ でもニギハヤヒの子孫は反抗と
331 :
日本@名無史さん :2012/04/17(火) 21:17:45.51
>>-331 意味が分からない ニニギはアマテラスの孫で父親がアマテラスの子 男から男でニニギは男系になると思うが アマテラスは女だが単性生殖で男しか生んでいない つまりアマテラスは女系でも男系でもない
333 :
日本@名無史さん :2012/04/18(水) 00:42:12.26
>>327 が「天孫降臨における女系天孫」て神話を元にした話を振ってるからだろ。
その流れでいえば氏祖はアマテラスになるわな。
記紀によれば、神武は鮫から生まれた鮫太郎。 記紀に何らかの歴史的事実が反映されているとすれば神武の出自は奈良盆地ではない。 奈良盆地出自であれば、朝鮮と同様熊腹だの狼腹だのになっている。
335 :
日本@名無史さん :2012/04/18(水) 00:42:50.50
九州からヤマトに攻めた天皇は2人いてる! @神武 N応神 応神はお腹のなかだったかな!?
336 :
日本@名無史さん :2012/04/18(水) 01:59:45.61
>>334 鮫はワニですよ。
ワニとはもちろん和邇氏のこと。
そしてその和邇氏とは実は久米氏のことですよ。
久米氏の足跡は紀記では薄められています。
記紀で猿田彦が無駄に目立ってると思ったら 稗田阿礼のご先祖だったかw なっとく
>>335 神武も応神も九州から攻めたというけど
その戦争での本体は、近畿や中部にあったんだけどな。
足利尊氏が九州から攻めたといっても、
その本体は東国や近畿にもあったのと同じ。
>>329 ヤマト朝廷の本当の始まりは、出雲国譲りから。
これは、神武東征の前に起こっている。
よって、神武東征の時には、ヤマト朝廷(というか、前ヤマト朝廷)は
とっくの昔に起こっていた。
そして、その出雲国譲りの時の天皇家の先祖にあたるのがニニギ。
しかしながら、大国主命が降伏した相手はニニギだったのかどうか?
ニニギは出雲国譲りの直後、九州高千穂に飛ばされているわけだから。
播磨国風土記によると、大国主命が降伏した相手は
ニニギではなく、ニニギの兄の火明命とある。
しかも、火明命は、大国主命の娘婿でもあり
大国主命と火明命の関係は義理の親子の関係であった。
340 :
日本@名無史さん :2012/04/18(水) 12:37:29.95
だから鍵は播磨なんですよ。 このスレでも別スレでも度々述べてきましたけど。 兄イツセを失うなど這う這うの体で紀伊半島から回避してきた“神武”一行30余人は海路瀬戸内海から播磨に上陸し、播磨の首長に庇護されそこで余生を過ごします。 この一行は隼人の分岐隊で鉄資源を求めて各地を調査していた僅か30人ばかりの調査隊。 戦闘部隊ではありません。 なので当然大和の現住民勢力と戦ったり報復したりする力は有していません。 そして隼人は南方製鉄民だったのです。 また播磨が「神武」一行を匿った理由もそこにあります。 当時、播磨は隣の吉備勢力による圧迫に苦しんでいました。 吉備は北方渡来人勢力から成るやはり製鉄技術を擁する地でした。 播磨勢力は「神武」一行が製鉄技術を有するのを見て、自分たちが吉備の圧迫から勢力を回復する一筋の光明を彼らに見い出します。 それはもう何世代にも渡る戦いの話になるんですけどね。 そして、「神武」とは宇留命=饒速日命のことです。 のちに大和で隼人本国隊に政権を禅譲した後、隼人分岐隊であった神武も直系先祖として天皇家の系譜につなげられました。 また、神武=宇留命=饒速日命には、のちの崇神(以降)の行った事跡が後付けで幾つかちりばめられています。
>>340 何故、そういう面倒くさい考えになるのか
理解に苦しむ
おまえにも言えることだが
自分で文献にも記載されていないファンタジーを作りすぎ。
何々に照らし合わせたと、何々を取り込んだとか そういうことを言う奴の多いことw
自分の考えでは、とかそういう限りでは何をどう言ってもいいと思うよ。 いろんな人がいろんな考えを主張したり他の人の考えを見たりする板だろうし。
ファンタジーがある人ってステキ(キラキラ)
>>337 稗田阿礼は、猿女氏の出というのが通説だがね。
アメウズメとサルタヒコは夫婦になったんでしょ
その子孫はずっと女が優位で 巫女が中心となり神事をしていたようだ これは女系天孫だな
アマテラス以降明らかに男系だが 伊邪那岐♂=天照♀→天忍穂耳♂→天日高日子♂→ホオリ♂→鵜草葺不合♂→神武♂
イザナギで男系切れてるでしょ そういえば日本の最高神はアマテラスでいいの?イザナギイザナミはあんなにエピソードいっぱいあるのに最高神じゃないのかよ
350 :
日本@名無史さん :2012/04/19(木) 22:29:23.44
高木神のがもっと偉いにきまるよ
>>349 だからアマテラスとスサノオの子は単性生殖だって
そこから始まったと考えるべき
イザナギも単性生殖でアマテラスが誕生した
まあ古代日本が太陽信仰だからアマテラスが最高神な訳で
月信仰ならツキヨミが最高神だったかも
海神信仰ならスサノオだね
あとシザナギ・イザナミが最高神でないのは穢れが関係してるかもな
352 :
日本@名無史さん :2012/04/19(木) 22:36:17.96
天照は伊邪那岐の目から生まれた 伊邪那岐=天照 男系は途切れていない 天照最高神論は天孫系崇拝の産物
常識的に考えると、天照が女で、天忍穂耳の母なら、伊邪那岐のY染色体は継がれていない。 けれど、現代の常識を覆せば継がれてる可能性はある。 …伊邪那岐と天照の間に生まれた子が天忍穂耳なら。
354 :
日本@名無史さん :2012/04/19(木) 22:56:13.52
「単性生殖」なんて現代概念持ち出すのもどうかねえ。 誓約(ウケヒ)をどう解釈するかだが、あれはメタファで単性生殖ではないだろう。
>>352 残念w
アマテラスの子は、持ち物から生まれたw
遺伝子 無い
>>349 アマテラスが最高神になったのは明治期に神道事務局祭神論争ってのがあって、それに伊勢派が勝利したから
>>355 物が人になるわけはないんだが
でもそうするといろいろ考えるよな
嫌な気分になる方の想像はしない方がいいよな
伊邪那美こわすぎる
ギリシャ神話でソックリな話あったよな
>>349 イザナギ・イザナミは、天地創造の主とも言える別格の神様だから。
まあ、想像上の神様と言ったらいいのか…。
全てのものの産みの親だから、当然、皇室もその中に含まれる。
そこに行くと、天照大神は、皇室の直接の先祖といえるわけで、そこが
イザナギ・イザナミとは異なるところ。
まあ日本の神話の特徴は 神が徐々に人になってるところ かなり無理が有るが天地創造した神の子孫が今の人間 すごいだろ
362 :
sss :2012/04/20(金) 16:23:26.94
まあ、イザナギ・イザナミが最初に産んだのは、日本の国土だから。 日本書紀には、次に海を生んだ、次に川を生んだ、次に山を生んだとある。 次に、木の精を生み、次に草の精を生んだ、というのもある。 で、一書曰くとして、次に天下を治めるべき優れた子を生もうということで 大日霊尊・オオヒルメノミコト(天照大神)を生んだというのもある。 左手で白銅鏡を取り上げたときに生まれたのが大日霊尊、右手で 白銅鏡を取り上げたときに生まれたのが月読尊、首を回して後を見たときに 生まれたのが、素戔鳴尊となっている。 イザナギが黄泉の国から帰って、筑紫の日向の橘の檍原で禊払いしたときに 左目を洗ったときに生まれたのが天照大神、右目を洗ったときに生まれたのが 月読尊、鼻を洗ったときに生まれたのが須佐之男命が生まれたというのが 一般的であるが。
神武東征の話のスレだけど、 記紀の原文をまともに読んだことない奴が多数だろう? そのくせして、やたら語ろうとするから トンデモ説が横行するんだ。
いや 元々がトンデモだから 無理矢理現実に当てはめる方がトンデモ そして神武天皇は騎馬民族で...とか言い始める
>>360 > まあ、想像上の神様と言ったらいいのか…。
いや世の中の神話体系のほとんどでは最高神は想像上の神様だろ
366 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 02:14:51.33
つまり、イザナギ・イザナミは想像上の神様だが、では天照大神はどうか、 ということかな。さらに、ニニギノミコトはどうか。神武天皇はどうか。
アマテラス以後は人間っぽさが増すのでいくらかは事実の割合もあるんじゃないの? 先祖の誰がどういうことをしたっていう伝承がどれだけ残っていたかってことなんだろうけど イザナギ・イザナミは人間じゃないでしょw
古事記の神は実在だと思うが 神代は人間じゃなくて何かの象徴だろう スサノオが追放した辺りから人間ぽくなる
369 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 23:51:55.64
>>368 神代の国譲り物語は、欠史八代の間(特に「孝」の字を持つ四代)
に起こったクーデターを正当化する為に書かれたものな。
>>369 >神代の国譲り物語は、欠史八代の間(特に「孝」の字を持つ四代)
>に起こったクーデターを正当化する為に書かれたものな。
その理論が分かりません。
そういうこと言う学者とかいるけど、まじで
理論が無茶苦茶なんだよ。
欠史八代にクーデターがおこったとして
なぜ、それを正当化するために、国譲り神話作る必要があるのか?
歴史を解明できないので、無理にそういってみましたみたいな説なんだよな。
372 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 22:23:24.61
学者じゃないよ。 妄想しまくりのアホが書いたトンデモ本。 それを真に受けているバカがそこらじゅうのスレでご活躍している。
373 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 22:40:21.78
記紀とか魏志倭人伝とかの歴史書を読まずに、誰かの書いた本を読む。 本に書いてあるから間違いないと信じて、いろんなところで自信満々で 論じる。強弁する。というわけだろうな。
ちまたで売られている歴史読み物は トンデモ系が多いからな。 もし、本当に歴史を研究したいのなら 最低、記紀、風土記、延喜式などの日本文献や 魏書、後漢書などの中国文献を 原文で解釈しないとダメだけど 戦後の古代史の学者って、アマチュアだけではなく、いわゆるプロの学者でも 考古学者主体なので、まともに記紀などの原文を読んでないのが多数なんだよなw
原文読んでもスクナビコナとか解釈分かれるだろ 素直に読むならあれは宇宙人(グレイ)だし
「解釈が分かれる」からといって妄想を垂れ流していいわけではない。
わからないことはわからない。
解釈がわかれるなら「オッカムの剃刀」が基本だ。
馬の蹄の音を聞いたら「馬がいる」と考えるべき。どんな馬かは姿を確認するまで「わからない」。
蹄の音だけで「シマウマだ」とか「伝説のユニコーンが実在した」とか「死んだはずのハイセイコーが生きていた」とか解釈してはいかん。
その原則にお構いなしなのが、
>>369 、又はコイツのネタ本の著者だ。
このスレの話題からいくと、 卑弥呼が、纏向遺跡の箸墓古墳の被葬者であるモモソ媛命ならば、 神武東征は紀元1世紀中盤から後半ぐらいの出来事になる、系図の代数から見て。 で、それよりも前の出雲国譲りで、 紀元前1世紀から紀元1世紀にかけてだろうね。
海の向こうに豊かな土地があるからって 大軍載せて瀬戸内海横断して上陸 いやー九州人ぱねぇな
379 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 08:56:15.15
>>376 考古学が口を出すようになったのが悪い。
まあ、口を出すのはごく一部だろうが。
考古学は、よく言えば解釈の学問。悪く言えば、想像するもの。
例えば、天空の城とか言われるマチュピチュがどうして作られたかについても
実に様々な説がある。
日本でも、めぼしい発掘があると考古学者の見解が出るが、その解釈は
だいたい十人十色。一人ひとり異なるのが常。
邪馬台国について統一的な見解が出るのがそもそも作為的と言える。
380 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 16:08:53.03
>>301 橿原神宮に行ったことあるが、たしかにパワースポットだと感じた。
古代の祭祀場には最適だったと思う。
橿原神宮って創建は明治23年だぞ。 宮崎神宮も明治になるまで中央からは相手にされていないローカル神社。
382 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 18:51:50.96
創建された日付に関係なく、あのへんはパワースポットだと感じた。
残念なことに、池田犬作先生が日蓮の生まれ変わりであることはあまり知られていない。 それについてこんなエピソードがある。 昭和52年に池田先生が千葉の清澄寺(日蓮が幼少の頃に修学した寺)を訪れた際、 千年杉に向かい木肌を撫でながら、「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟いた。 ちなみに、この千年杉の樹齢は250年であった。
384 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 23:02:47.41
>>381 橿原神宮の下には、神武天皇の橿原宮が眠っているらしい。
>>374 古事記のほうは原文は文法めちゃくちゃで読めない箇所が多い。
意味不明の単語もたくさんあるし。
あれじゃ解釈なんてどうとでもなるよ。
>>383 その杉も700年前の杉の生まれ変わりであることはあまり知られていない。
387 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 11:53:27.43
>>384 橿原神宮からそれほど遠くないところにはあったと思う。
地元の人間は橿原神宮なんてあまり行かないけどね
389 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 18:51:51.85
>>384 掘ってみたらいいんじゃね?
神武天皇の遺構とやらが出てくるのかどうか・・・
実在が疑問視されてるから誰も未だに掘ってないけどね
皇紀2600年記念事業の際に掘ってるよ。 そして出たのが縄文晩期の橿原遺跡
391 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 19:20:31.06
>>390 埋葬人骨なども発見されたが身分の上下
(特定の人だけ豪華な副葬品があるとか塚があるとか)
は確認されなかったんだよね
392 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 00:26:32.76
日本書紀には、畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真ん中である。 ここに都を造るべきである。ということで、都の建設に着手された、と 書かれている。 もし、橿原宮の跡が出てきたら、日本書紀の記述が正しいことになる。 神武東征も。
あと、記紀の解釈が大混乱している原因は 記紀が編纂された後に、無理に漢風諡号をつけてしまっているところ。 後世の人たちは、あの歴代の天皇を、あの呼び名でイメージしてしまうから 大変なことになっている。 神武天皇は神武天皇ではない。 かれは、イワレヒコ・ワカミケヌ命だよ。
天皇の名前は後世の人が業績に合った物を付けたんだ。 死後は別の名前をつけるのは仏教的な発想だろう 神武 崇神 仲哀 神功 仁徳 な? 業績が雰囲気で分かるだろ? それに名前が変わるのは珍しく無いから混乱の原因にはならないと思うぞ
395 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 11:21:19.83
>>393 記紀の解釈が大混乱している理由は、大混乱させている人がいると
いうことだろう。
396 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 12:37:00.03
>>394 > 死後は別の名前をつけるのは仏教的な発想だろう
仏教以外でもあるはずだが。
漢風諡号の出典って、だいたい四書五経か正史じゃないの
>>394 もっと単刀直入にいうと、その歴代の天皇たちが、
本当に天皇(倭王)だったかどうかわからないこと。
神武東征の当時は倭王は出雲じゃ無いかな 日本中の神様が出雲に集まるって神話が有るし 大和朝廷は出雲を気にし過ぎだし
>>399 もう、あほばっか。
記紀をちゃんと読め
神武の3代前の時代のニニギの時代に
出雲国譲りがおこって、出雲はヤマトに服従しているんだよ。
記紀の記述は実際にはわりと最近に生じた大和朝廷の覇権を 当時の伝説上の人物よりさらに前に遡及させている、ってことだろ。 権力の正統性を主張するためにありがちなやり方ではある。 根拠がちと漠然としているが。
402 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 20:29:04.93
>>399 理由がわからないのは
何かと海あり大きな川ありと好条件の大阪じゃなく
盆地で何かと物流・人流条件の悪すぎの橿原市に
神武さんはどういう理由で本拠地に定めたんだろうね?
「観るに、夫れ畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治むべし」
404 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 21:21:45.16
>>400 それは違うな。出雲は高天原に屈した。
そのあとで、天照大神は天孫・瓊瓊杵尊を
高天原から日向に天下らせた。
瓊瓊杵尊のひ孫の神武天皇が東征して
橿原で即位した。
405 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 22:16:15.98
>>401 そういう部分が大きいですね。
直近のレスの中では一番的を射たレスです。
>>402 当時の大阪は、塩湖に浸かった湿地帯で人が住めたもんじゃないだろ。
人が住めるようになったのは、大水利事業のおかげ。その残土があの大古墳群だ。
つーか、低地の海べたに人が集まり住むようになったのは、文明が相当進歩してからだぞ。
外敵に襲われるってんでやむなく人が住み着いた初期のベネチアも疫病で何度も壊滅しかかっている。
407 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 23:18:31.91
>>406 当時の梅田一体のことだけ言ってんじゃね
大阪平野全域の視野じゃなくて
>>400 あれを三代前と読んじゃダメだろ
日本書紀だと「天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になる」と書いてある
古事記もすごい長い時間が経ったと感じさせて「巻」が変わる
ちゃんと読もうなw
海沿いの低地は常時塩分を含んだ湿地 盆地の低地は季節により沼かカラカラか いずれにせよ耕作には不向きでしょ
塩分なんやらたんたらは力不足w
412 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 02:39:59.77
きっと何か出ると決め付ける纏向。絶対、何も出ないと決め付ける橿原。
>>404 >出雲は高天原に屈した。
>そのあとで、天照大神は天孫・瓊瓊杵尊を
>高天原から日向に天下らせた。
>瓊瓊杵尊のひ孫の神武天皇が東征して
>橿原で即位した。
この高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺の地域のこと。
出雲国譲り戦争があった時代、近畿王権の首都があったのが
その奈良県御所市高天周辺の地域で
この地域は、大和盆地の東南部の高台にあり、軍事的に防衛しやすい地域である。
この近畿王権の王は、火明命という人物であり、
出雲国譲りして天津と国津の全ての支配者になったので、天照国照彦と呼ばれた。
実は、もともと、天照大神と祭られていたのは、女神アマテラスではなく、
男神アマテルであり、その正体が、この天照国照彦火明命のことだという説がある。
女神アマテラスは瓊瓊杵尊の父方の祖母にあたるが
男神アマテルは瓊瓊杵尊の兄にあたる。
近畿王権は出雲王権を服従させたあと(出雲国譲り)
近畿王権の王の天照大神(実は天照国照彦のこと。瓊瓊杵尊の兄。)は
王家の一族の瓊瓊杵尊を日向の地方官として派遣する。
この瓊瓊杵尊の曾孫が若御毛沼尊であり、後世に神武天皇と呼ばれる人物である。
神代はタイムスケールが違うから ニニギは天照の孫で、天照がイザナギの子 だからといって 地球誕生が神武の7代前の出来事の訳が無い ぐるぐるかき回して雫になるってのは 惑星(雫)誕生の様子の説明だろう 天孫は空を飛んで来て九州に降り立ったんだよ 誰が読んでもそう書いてある つまり、天孫=未知の文明人 ばかげてるって? 記紀と一致する神代の出雲高層神殿の伝承が有るじゃないか
自己満足レベル?
レベルゴミ 記紀は妄想だ レベル0 記紀は史実だ、でも天孫は捏造だ レベル1 天孫も真実だ
神武が東征した理由は何だろうか きわざわざ九州から流浪の旅に出た理由 九州が住みにくいから脱出したんだよね 個人レベルではなく一族揃って脱出となれば これはもう強大な的に追い出されたと考えるのが普通 東征ではなく集団逃亡、集団亡命だろ 記録された行程からも行くあてなくフラフラしてるのがわかる ワンピース並だよね
>>417 兵站や補給考えたら、何年もかけて東征するのが、理解できんわw
絶対に無理。
考えられるのは、兄のイツセ命が、地方官を歴任していた可能性だな。
それにつき従っていた。
ニニギ命の後胤の中では、神武一族は傍系で、日向の地方官つけなかったはず。
だから、博多や吉備などの地方か歴任し、その途中でニギハヤヒの反乱があった。
饒速日が反乱を起こし、それを平定したなら 饒速日→物部は残ってないんじゃないかな そもそも征服者が被征服者を慮って自らの栄光を偽ったり隠したりする必要があるのだろうか
大国主から友好的に国を譲ってもらった 兄貴分のハヤトを助けたのでヤマトが上になった 兄が死んだので神武が跡を継いで東征を成功させた ニギハヤヒが望んで配下になった 出雲は自分から神宝を差し出した 記紀は正当性を主張する言い訳が多い ハヤトや物部の協力無くして大和朝廷は無かった これらを武力で従わせたのでは無いということが歴史上大事 神武天皇やその先祖が、圧倒的な軍事力を持っていなかった事の現れでもある
ハヤトとヤマトの関係は胡散臭いもんが在るのは確かだがな今更どうでも良いい。詰んでる。
有効的→隼人 敵対的→熊襲 じやないのかね
423 :
sss :2012/04/30(月) 18:03:55.24
明治時代になって、どうして都が京都から東京に変わったか。 大久保利通はどうも天皇を公家から遠ざけたかったらしい。 そこで、天皇を大阪に移そうとした。 しかし、前島密が首都を東京に移すことを進言した。 理由は、東北地方には会津など明治政府に従わない勢力が多く、 そこを押さえるためには、東京のほうが便利だと思ったかららしい。 もちろん、東京は徳川幕府のお膝元であり、さまざまなインフラが整って いたということもある。
>>421 山幸彦が海幸彦にいかに虐められたか
記紀には切々と書いてある
けっこう重要な気がする
>>422 ハヤトもクマソも大して差が無い気がするよね
ヤマトも差が無くて、九州で三者が混在してる感じ
>>424 女々しいんだよね。ヤマトのハヤト討伐も威勢が感じられないしその後の処遇も
>>417 古代とはいえ、かなり正確に日本列島を視野に
かつ現実的に列島全体を治める目的で橿原市に
神武天皇は相応の考えでを行動を起こした点に注目したい
>>417 なんかまっすぐ行かずに、途中でバイトやってたなw
定住するところを探してたんだろうけど。
428 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 09:06:47.81
>>417 > 神武が東征した理由は何だろうか
わざわざ九州から流浪の旅に出た理由
強大な漢王朝が帯方郡を設置。こりゃいずれ九州にも漢がやってくると判断して東へ逃げたという説もあるし、
冷害か噴火で九州の農業生産が一時的に低下してから、という説もある。
始皇帝が中華統一したんで 噂を聞いて 筑紫城の帝もその気になったんでないか
神武(に相当する人物)が朝鮮半島南端居住の倭族だったからだろう。 中華帝国の遼東・南満州・朝鮮北部地域への拡大により、当該地域の民族は朝鮮半島を南下。 ところてん式に追い出されたのが神武の一族。
記紀には朝鮮半島はほとんど出てこないからなあ 神功皇后でやっと出てくる 祖国を追われたのに、それの抜きにして神話が出来るとは思えない イスラエルなんか3000年前の祖国を返せと言ってるぐらい 出雲と新羅の関係が強そうだけど 新羅も百済も、倭を兄貴と尊敬していたようだしなあ
記紀の裏主人公スサノオは朝鮮半島出自じゃないか。
433 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 23:05:35.46
>>430 それはいつの話?
三国志韓伝には、朝鮮半島の様子が、「国邑、主帥ありといえども、邑落は
雜居し、よく制御することは出来ない」と書かれている。
日本は卑弥呼時代で、30カ国連合のような形が出来ていたが、朝鮮半島は
まさに部族社会のようなもの。その部族社会から日本に神武天皇がやって
来るなんてのはありえない。
そう朝鮮半島は統制も緩い雑居地、部族社会みたいなもの。 南西部に倭人も住んでいた。 明治初期の樺太みたいなもの。
>>432 はあ?
それが出て来るのは日本書紀のみで古事記には無い。
それも高天原から新羅に寄ったけど、あまりに不毛な地なのでさっさと日本に来たwww
と書いてある
どこをどう読むとそんな解釈になるのか????
日本海に勢力を持ったのが出雲系の勢力で 九州西部から東シナ海に勢力を持ったのがヤマト・ハヤト勢力だと思う 極東版「海の民」だな
>>435 頭が腐ってんのか?
>高天原から新羅に寄ったけど、あまりに不毛な地なのでさっさと日本に来た
まぎれもなく朝鮮半島出自だと書いているだろうが。
それとも、スサノオの出自は華北かモンゴルだとでも言いたいのか?
>>437 スサノオの出身は高天原ですぞ
朝鮮半島が高天原なんて超キチガイの戯言www
爆笑もんwwww
根拠を述べてみよ
朝鮮半島にアマテラス信仰なんて皆無 苗族だと微妙に一致する女カがいる
>>438 >スサノオの出身は高天原
だから高天原というのはどこにあるんだよ? 頭がとけた野郎だ。
>>439 >朝鮮半島にアマテラス信仰なんて皆無
間違ってるね。正しくは、今の朝鮮民族にはアマテラス信仰なんて皆無、だ。
スサノオは倭人の伝説に出てくる人物であって、今の朝鮮民族とは関係がない。
441 :
日本@名無史さん :2012/05/02(水) 01:19:54.25
>>432 スサノオノミコトは、高天原を追放されて出雲に行くわけだが、日本書紀に一書曰く
として、新羅のソシモリに降りたが、こんなとこには住みたくないと土で船を作り、
東に船出して出雲に渡ったとある。
新羅が出てくるから、スサノオノミコトは朝鮮半島の出身だという人もいるが、
そうでないのは明らか。
また、この記述からも、高天原はなんとなく九州のような感じがするなあ。
>>440 高天原ってのは概念が変化してるからね
スサノオの場合は良く分からない
朝鮮半島でないのは絶対確かだがw
まあ天孫の出発地としてなら、高天原は南米だと思う
蓬莱山も南米のアンデス山地を指す
あとキリスト教以前の信仰は世界中でほぼ同じだぞ
太陽と豊穣の女神に、荒々しい海の男神がいる
記紀だけだと神話は解けない
まあ記紀の歴史的価値は エジプトのロゼッタストーンを遥かに凌ぐ わかんねーだろうなあ ちゃんと読めよな
444 :
日本@名無史さん :2012/05/02(水) 14:56:09.56
出雲の国譲りって、九州の勢力に服従したって話しだろ?
いや、そのまま読めば 九州に行ったのは出雲を倒してから それ以前は高天原から派遣 高天原から遠征して来た建御雷と天鳥船が出雲を屈服させて 九州の高千穂に天孫ニニギが降り立ち、九州の近くにデカい神殿を建造したとある そして出雲にも高層神殿を作ったようだ で日本書紀の神武東征の決断 「天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、 塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思う」 に繋がる まあこの辺が日本の起源でもあるし日本史最大の謎でもある
446 :
日本@名無史さん :2012/05/02(水) 18:30:33.15
そういう読み方もあるんだ。 でも天照とか九州で生まれてそうだけど。 伊奘諾も黄泉の国から筑紫に逃げ帰ってる。
447 :
日本@名無史さん :2012/05/02(水) 18:35:40.32
這々の体で逃げ帰ってるから、伊奘諾のころ出雲にこっぴどくやられてたりして
ギリシャ神話の神様が実は皆エジプト人でしたみたいな話かね。
449 :
日本@名無史さん :2012/05/03(木) 14:23:22.95
>>446 イザナギが禊払いしたところは、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原となっている。
ここで天照大神も生まれたわけで、一応は日向らしいが…。
筑紫の日向な
九州=筑紫
九州=筑紫=筑紫島
453 :
日本@名無史さん :2012/05/03(木) 19:34:44.47
454 :
日本@名無史さん :2012/05/03(木) 22:39:51.39
神武天皇=彦尊だろう。
455 :
日本@名無史さん :2012/05/03(木) 23:10:47.77
>>413 >この高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺の地域のこと。
「古事記」や「日本書紀」は、偽書ですんで。
場所は、東日本側の某山の山頂が高天原になります。
ちなみに、24代国王(天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇)まで血縁関係が無いので要注意。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書 国王を選別する儀式があり、儀式の優越にて次期国王を決めていたので血の繋がりが無いのです。
南ユダ王国(大室山ピラミッド)に「しきたり」が、今現在でも残っています。
大室山は、徒歩での登山禁止。必ずペアリフトを使うことになっています。
正式竹内文書に書いてあったよーな 気がした。
何度、行ったら分かるんだw? 日本神話に出てくる高天の原とは、現在の御所市高天周辺。 このあたりの地名には、ヤマト朝廷の初期の豪族の姓になった地名が 今でも多く残っている。 ヤマト朝廷の勢力拡大過程見ても、このあたりから、本拠地が発祥したのは 誰にもわかる。
よって、神武東征ってのは、見方に寄れば、 日向から本籍地への里帰りともいえる。
神武が日向からヤマトへ東征したから、 高天の原は、近畿だと思えない人が多いんだと思う。 実際、神武は九州生まれだけど、曽祖父のニニギは 御所市高天周辺にあった高天の原の生まれ。 わざわざ、神武が大阪湾上陸作戦しているときに 自分たちは高天の原の出自なのに 高天の原に向かって戦うのはオカシイとかいっているのにw 大阪湾から上陸したら、大阪平野が広がり、その後ろに 葛城地方、高天の原地方があるのに。
>>458 俺は元は此処の出だから無駄に戦うのは辞めようw詭弁の可能性だって在る。
ニニギの前に天若日子が派遣されて暗殺されてるんだが 葬式は美濃の国で行われた 建御雷神は大国主に合うために出雲に行った つまり出雲から美濃までは大国主の領地だよ 建御雷神に負けたタケミナカタは諏訪まで逃げているから 大国主の領地は少なくとも出雲から諏訪まで達している そんな中に高天原があるとは考えにくい あったら大国主の国より遥かに小国だ。とっくに出雲に滅ぼされてるだろw
461 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 12:35:28.98
天火明命(天照国照彦天火明尊/天照御魂大神)=天火火出見命=神倭磐余彦火火出見尊(神武天皇)
462 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 13:00:09.06
天若日子ってのは、業績が脚色されているものの、なんとなく実在した人のような雰囲気があるよなあ。
463 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 13:43:23.80
高天原が出雲もより東にあった可能性は低いんじゃない? 敵が東側の国なら、建御雷神に負けた建御名方神は諏訪に逃げないだろ。 敵中突破して敵国の背後に回るかな?
464 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 13:48:00.55
高天原の天照大神と高木の神が葦原の中国を平定するために最初に派遣したのが アメノホヒノミコト。ところが三年たっても帰ってこない。 そのために次に派遣されたのがアメノワカヒコ。ところが、これも大国主の 娘と結婚して懐柔されてしまう。 アメノワカヒコには、雉とか矢とかあるいはもがりとか妙に多くの エピソードが残っている。もがりの小屋を蹴飛ばしたら、美濃まで飛んで行ったと いうのも書かれているが、美濃が出てくるのはこれだけ。
出雲 高志 丹波 美嚢 諏訪 vs 高天 吉備 阿波 筑紫 日向
アメノホヒもニニギの前に派遣されて帰ってこなかったんだが 古事記には、アメノホヒは出雲や武蔵の國造の先祖と書いてある アマテラスとスサノオの生んだ子より >アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造 >ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造 >イジムの國の造・津島の縣の直・遠江の國の造たちの祖先です。 帰ってこなかったアメノホヒはしっかり定着していたw あと大国主は三輪山に国づくりに協力した神を祭っている これにより畿内も大国主が支配していた事が伺える 大国主のアシハラは大国で、高天原の国は更に大国っぽい 神武の筑紫はかなり小国だな、話題が狭い地域のみ
468 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 14:32:53.04
三輪明神は神武到着以前から地元民の信仰を集めていた蛇神だと思うね。
469 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 20:58:50.67
天照は筑紫の神で大国主が出雲、大物主は大和かな
470 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 21:20:27.73
大物主神は出雲系。 出雲の国譲りの祟りだから、大物主を祀った。
471 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 22:22:12.53
現在の交通事情からすればピンとこないけれども、 宮崎と熊本は元々一つの支配権であった可能性は高い。 つまり、同じ「ひのくに」であり 国見岳を中心に、日に向かう方が「ひむか」日が沈む方が「ひご」。 同じく、熊襲と隼人も同じ鹿児島県だろう。 『肥前国風土記』では、熊襲はどうも一つの単語ではないらしく、 一部別々に書かれている。 つまり「熊」はクマ、大隅半島の事で、ソは薩摩半島。 つまり両半島をひっくるめて熊襲と言っているだけで、 隼人は後の管理体制にはいってから延喜式で彼らを総称しつつ改名したもののような印象があるね。 というのも、隼人は後の時代には2種あり、近畿にも九州にも頭領が居たようだ。 要するに隼人という名称は厳密には部族の事ではなく、 近衛兵団の総称であり、その出身がクマソ国に多かった、という事なのかもしれん。
472 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 22:24:05.18
誤爆。 でもそんな離れてないか
473 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 22:29:14.49
我流解説面白いネ
474 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 22:36:40.48
天照は筑紫の神で大国主が出雲、大物主は大和かな
475 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 23:15:52.90
天火明命(天照国照彦天火明尊/天照御魂大神)=天火火出見命=神倭磐余彦火火出見尊(神武天皇)
476 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 01:59:14.42
弥生時代では筑紫>出雲>>>大和 ここから考えると記紀に見える国譲りや神武東征も現実味を帯びてくる 記紀が縄文時代の話しとは思えない
477 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 02:04:36.34
行動力・創造性が筑紫北部はないからね 今も昔も支店経済に頼ってるのが痛いな
478 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 02:15:55.29
>477 なにいってんだろうね。 かわいそうね。 スレタイ読み直そうよ。
大物主はホント分からん なぜ大和に居座っているんだ? 恐ろしい子w
480 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 08:59:19.64
神武が東征を始めた頃、安芸や吉備の勢力とは敵対してなかったとすると、瀬戸内地方が銅鐸を捨てた後ということだな。 国譲りの頃から銅鐸祭祀は東へと追いやられ、神武東征によって叩き割られて捨てられた。
481 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 12:38:53.66
邪馬台国が出雲を降して、その後吉備を懐柔し大和の原住民を攻めたんだよ。 原住民と言っても、支配者層は高天原から先進技術を携えてやって来たニギハヤヒらだけどね。 纒向はどっちかな?
482 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 19:08:46.58
逆じゃない?大和攻略が先でしょ。 でないと、わざわざ厳しい太平洋側を通る必要は無い。 瀬戸内海を出雲に握られてたから、数年かけて四国に植民し、徐々に紀伊を攻略。 四国の太平洋側と、宮崎、紀伊の地名がにてるのはそのせいでしょう。 そもそもが、東征は出雲を九州と近畿で挟撃する戦略構想ではじめられたものだと思うし。
483 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 19:21:17.06
日本の、異常なまでの血統意識から察するに、神武が天皇の起点であったとは思えない。 それ以前からこの国を支配していた血統があったはず。 神武は九州の豪族にすぎず、たぶんその旧支配者の娘をもらって、 その息子を血統に組み入れてもらったんだろう。 それ以前からも、九州と近畿は大きな意味では同じ文化圏に属してる。 恐らく、大本は中国からの渡来人が天皇の祖ではないか。 しかし、埋葬法などを見ても出雲は明らかに異質で、2世紀頃に北朝鮮あたりからから入り込んだ完全な異民族。 日本海側を制圧し、中部、関東にまで入り込んだこの勢力を駆逐するために、九州は動いたのだと思う。 大本の血統が消滅しかかっていたからだね。 血統は、この国の、優位後継権の、唯一の正統だったからだよ。
神武天皇の畿内での嫁が どうみても出雲系だと思うのだが
485 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 19:54:57.94
神武東征が騎馬民族的印象を受けるのも、この背景で読み解けば解り易い。 天皇の大本の血筋は、同族王であったとともに中国に封じられた将軍、封権領主でもあったのだろう。 極めて象徴的なものであったかも知れないが、金印などがその関係性を示唆している。 出雲が伸張し、近畿にいた同族王は尾張と兵庫で挟撃されていた。 恐らく、殷周時代から連綿と続く中国王朝そのものの「正統」が衰退し その権威をよりどころにしてた同族王の権威がほぼ失われたためではないか。 そこで九州に遠征を要請するが、記紀などでも彼らもしばらくは傍観していたような印象がある。 時機の到来は馬という新兵器の導入、そして突厥系の傭兵の渡来だとおもう。 彼らは本来、朝鮮半島でずっと中国遠征軍と戦闘を繰り返していた。 しかしやがて晋が倒れ、中原の内乱のため半島での戦争が一段落すると解雇された。 その戦闘集団が百済を経由して移入され、遠征軍中核となったのだろう。
486 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 20:26:14.82
だから抽象的な騎馬民族って今の何処の国の人?
487 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 20:43:32.23
だから突厥だって言ってる。
488 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 20:46:44.93
日本がアルタイ語族に属する事や トルコ系とつながりのある中東や東ヨーロッパのケルトと 文化的な共通項がある事は無関係ではないだろう。
489 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 21:24:26.55
>>484 神武は120歳以上という年齢から察するに、明らかに複数の王を総称したもの。
普通に考えれば3代の血族。
欠史とされていないのは、まあ、初代に対する敬意であるとしか言いようが無い。
そもそも、神武の奥さんは誰であるのかというのは、記紀で違う。
古事記は、明らかに数代に渡って編纂されたもので、記述の信憑性は低い。
紀は文字が表す通り、できる限り正統にそった解釈で組まれた対外的な外交文書だ。
記述が真実ではなくとも、少なくとも当時の日本の公式見解。
それによれば神武の奥さんは姫蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)で
たたらという言葉から明らかなように製鉄に関連する人間だ。
突厥はタタール人の事。アジアの製鉄民族であり、たたらの語源だ。
神武天皇自体は日本人であったかもしれないが、姫蹈鞴五十鈴媛はタタール人部族長の娘だろう。
490 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 21:35:21.74
やがて近畿に移住した初代王の後の数代で 近畿の正統王家や出雲と政略結婚を繰り返し支配構造を確立したのだろう。
491 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 21:49:11.66
宮崎にはすずという地名が各地に残る。 延岡の五十鈴川もそうだが、県の中央に位置する尾鈴山もそうだ。 すず、は鉄の事。ここで製鉄が行われていたのは間違いないだろう。 近隣の墳墓は西都原を含め、宮内庁によって調査が阻止されている。 この墳墓のなかに、その証拠が必ずあるはずだ。
492 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 22:14:50.02
宮崎と熊本は、当時ひとつの「ひのくに」で「たけひわけ」を中心に東側をひむか、にしをひご、とよむ。 この「たけひわけ」の「たけ」は何かというと国見岳のことなのは前述したが ひは「日」であったのか「火」であったのかは正直、解らない。 普通に考えれば日であろうとおもう。 正午に太陽が国見岳の真上に来る事をさして「ひわけ」と言ったのだという事は自然きわまりない。 しかし、あえてここは「火」タタール人の拝火教の影響をも考察したい。 ゾロアスターを信仰してたヒッタイト系民族とタタールは極めて近縁で、人によっては同じものであるとする。 その彼らは、ユダヤ源流であるオリエントの影響を深く受けていた。 ユダヤと日本が近縁であるとされる説は、あながちファンタジーではないように思う。
493 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 23:32:29.81
中古、我が国の皇室は対外的(主に中華帝国)には皇室の祖先神の伊弉諾尊と伊弉冉尊が周王朝の呉国太伯の末裔であり姫姓であると公式(国書並びに遣使や渡航者が所持するパスポート)に標榜。
>>489 昔は春と秋で歳取ってたんだよ
それが中国合わせて正月に歳を取る様になった
120=60歳な
神武東征は全部年を半分にする、するとあ〜ら不思議、謎が解ける
これが記紀の正しい読み方
495 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 05:27:24.31
>>482 > 瀬戸内海を出雲に握られてたから
瀬戸内海を抑えていたのは吉備勢力だと思うが。
496 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 05:50:39.96
>>494 記はそれでいいかもしれんが、紀は中国に見せるための文書だぞ。
そんな事したらアホ丸出し、国としてメンツを失うわ。
竹内文書とかウヱツフミ厨はそういうことをすぐ言うが・・・・。
>>493 もいってるが、神武以前の天皇家は中国と深いつながりがあったはず。
少なくとも初代は渡来人だろう。
太伯は秦伯とも書くので、秦氏とのつながりも示唆している。
中国側に残る倭の外交使節の図を見ても、倭は近隣国で最も中華化が進んでいる。
民間はともかく、トップの方は相当早い時期から中国化していた。
神武以前の年代があわないのは、数あわせにすぎない。
邪馬台国は3世紀に既に中原を支配していた。呉音では邪馬台国はヤマトとよむ。
大和と邪馬台国は同じく国の事だろう。
しかし、神武天皇東征はそれよりずっと後の事だ。
紀の筆記で読み取れるが、熊襲が大和の配下にはいったのは記述年代とほぼ同時代。
これでは王権に明らかなる断絶期間が生まれてしまう。
そのために引き延ばしたり、架空の天皇を置いたのだろう。
497 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 07:35:48.11
>482 太平洋側とおったの? そんな記述あったかな?
498 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 07:50:39.70
どっちにしろ挟撃は失敗だね 諏訪まで逃げられてる
499 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 08:46:06.06
>>497 記紀にはルートの記述は無いが、地名配置の酷似具合からして
数年、あるいは数十年かけて国のシステム自体を太平洋岸沿いに北上させたと推察される。
いわゆる皇国史観では瀬戸内海を通るルートを想定してるが、現実的ではない。
一つはリスクが大きすぎる。後方を遮断されれば一巻の終わり。
そして、瀬戸内海では確実に海戦が待っている。
都農神社の伝承では、都農近隣の若者を集めて船を造り乗り込ませた、とあるのだが
要するに船はけっこう即席の移動手段という事しか考えていなかった可能性が高い。
海軍がいたわけではなく、騎馬系が中核だとすれば、なおさらだろう。
現在でもそうだが、海軍というのは簡単に育たない。長い訓練が必要で、
練達の瀬戸内海の船達者達には海賊相手でも太刀打ちできなかっただろう。
ましてや、出雲系は日本海全域に覇を唱えた海洋立国。
出雲が伸張した原動力であるツングース系海洋貿易タイプは、海に慣れていただろう。
門司を越えて後方から攻められれば万事休す。
それを避けて太平洋を通ったと考えている。
宇佐にしばらく滞在したのは、その情報集めと、四国〜大分間の海峡を封鎖するためではないか。
ここで食い止めれば、後方から要撃される恐れは無い。
500 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 08:46:26.51
もう一つは、戦力の増強だ。 瀬戸内海貿易は古くから行われていて、人口も多かっただろう。 しかし、それは戦争が起こり易い事を意味していて、やぶ蛇になりかねない。 一方で太平洋岸は人口が少なく、東征戦力と在地戦力が隔絶しているので兵の徴募が易い。 もう一つは兵站だ。 この当時の感覚として、現地調達や後方輸送は無視していいレベルだったろう。 兵の食い扶持は自分で賄うが基本だったはずだ。 なぜなら、後方にも現地にも余剰食などほとんどない。 戦乱は普通、気候の悪化で起こる。東征は寒冷期だったであろう事は想定して当然だ。 であるならば、寒冷な瀬戸内海よりも、黒潮の影響で一年中温暖な土佐を目指すのが理にかなう。 ちなみに、九州基地である「うさ」は近沙、「とさ」は遠沙だろう。 つまり、近くの浜、遠くの浜、という意味ではないか。 もちろんそれは出発点である日向市の美々津(御津)を基準点にしている。
501 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 08:51:56.78
>>493 >姫姓である
現代の中国で姫姓の人はあまりいないような気がするのだが…。
>>496 日本書紀が中国に見せる正史で
古事記はその下書き
その証拠として日本書紀では年の扱いにかなり苦労して書き直している
あと春分と秋分の日と重視するのは、古代エジプト、マヤ、インカにもある
太陽信仰の古い民族にはよく見られる風習
さすがに神武東征を騎馬で行ったとか さすがにそれは無いw 記紀に船で行ったと書いてるし 魏志倭人伝では、はっきり「馬は居ない」と書いてある あと「春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている。」とも
504 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 09:49:46.94
>>502 日本が太陽信仰になったのは比較的新しいかもしれんよ。 俺は白村江の戦い以後だと見ている。 少なくとも2世紀までは月信仰だった可能性が高い。 例えば15夜の風習は中国には無いだろ? 太陽神は三輪山を中心とするもので、やや、時代が新しい。 一方で、アマテラスが果たして本当に太陽神であったか、というと疑問だ。 普通、糸の神は世界的に弓と月の神だ。 それは恐らく、満ち欠けが弦によって弓を引き絞るのに似ているからだろう。 言うまでもなく、アマテラスは伊勢の機織り神子が元になっている。 伊勢には神体不明の月殿があり、本来はここにアマテラスがいたのでは、ともされている。
馬と鉄という当時の最先端技術を持っていてしかも戦争に長けている集団なら、 乗っ取りかますんでないの? ある時期以降の大和朝廷は、タタールの傀儡政権ってこと?
506 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 09:53:22.29
>>503 騎馬は船に乗せればいい。
陸地を行く必要は無い。
魏志倭人伝は3世紀、東征は恐らくずっと後。最古でも4世紀。
507 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 10:16:53.96
アマテラスが月神である傍証の根拠は幾つかある。 一つは月は死と再生(生殖)の神で、日本においても同じだ。 しかし、アマテラスは太陽神であるにもかかわらず、一度、スサノオに機織部をおかされ死ぬ。 これははっきりと「隠れた」と書かれている。 で、おそらくはセックスと産道を象徴している神事によって再び復活するわけだが、 論理的に考えて、これはおかしい。明らかに月信仰との習合の跡がみえる。 だから、日本では月神の役が無くなって衰退したのではないか。 伊勢の機織り神子は、一年に一度、海からやってくる大神に身を任せ、伊勢の斎を産む。 その日、自身と大神を着飾るために機を織っているのだという。 これは棚機の神話と酷似していて、恐らく原型は中国にあるのだろう。 言うまでもなく、再生の神話で、月信仰の産物だ。 あま、あめ、は本来、 アマテラスの語源は、天を照らす満月の事であった可能性は十分にあるよ。
ツキヨミを忘れてもらっちゃ困るw
509 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 10:24:39.72
初心者で申し訳ないんですが、 出雲の大国主が国譲りした相手は天津神系てことで、ニニギが日向に降臨したのはその後ですよね? その後、ニニギノミコト→ホオリノミコト→ウガヤフキアエズノミコト→神武で東征 高天原は畿内で、ニニギノミコトは日向の国造みたいな感じで派遣されたんではないでしょうか? ニニギノミコトから在地勢力化して代が下ったイワレヒコノミコト=神武が先祖の派遣元の畿内高天原に東征した、という話なんでしょうか?
>>509 個人的にだいたい合ってると思う
ただ畿内に大国主が祀った大物主がある
大国主はほぼ日本全土を支配していたようだ
高天原は大国主の国を圧倒できるぐらいの大国なので、日本の数倍ないと話しがおかしくなる
だから高天原は国外だろう、畿内に支部が有った可能性は有るが
朝鮮半島は弱小なので論外
古代中国南部かアメリカ大陸の大国だろう
ただそれが気象変動なので弱体化して無力化したんだろうね
神武以降は高天原との関係が断ち切られている、高天原は消滅していたと考えられる
中国に取って日本の先は海なので占領する魅力が無い、しかしアメリカに取って
日本を占領するとその先にユーラシア大陸が有るので非常に魅力だ
総合すると南米文明が高天原になる
天孫=天津=アマゾンwww
511 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 11:01:25.35
アメリカとかちょっと意味がわからないのですが…ご教示ありがとうございます。 大国主が元はほぼ日本全土を支配していたとしても少しずつ天津神の高天原に侵食されて国譲りをせざるをえなくなった 天孫降臨から東征まではその後の高天原の組織内の話かと思ってました。 もっとよく読んでみます。ありがとう。
512 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 11:13:28.20
>>509 大体そんな感じでいいんじゃないかな?
で、畿内に戻ると既にニギハヤヒが君臨していた。
この神は恐らく出雲系で、畿内がしばらくの間出雲勢力の手に落ちていた、
つまり皇統が断絶していたことを示唆している。
神武以後9代の天皇が創作されたのは、恐らくこの断絶時代を埋めるための苦肉の策だろう。
513 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 11:55:43.37
えええ? よく考えて二重に衝撃受けました。 とてもためになりました。
514 :
常識的的史観の人 :2012/05/06(日) 12:14:59.73
>>512 ニギハヤヒは天の磐船でやってきた。神武は天の鳥船でやってきた。
二人とも似たような名と機能の特殊船でやってきた。神武は九州から。
二人が同じ神の子だということを確認したあとで・無血開城の国譲り。
「ニギハヤヒの祖先」に畿内の先遣開拓を命じたのが、
「神武の祖先」というストーリーじゃないのか。
>この神は恐らく出雲系で、
出雲と畿内に派遣され開拓集団が、その地で力をつけたのだろう。
少なくともニギハヤヒは「出雲系」ではない。
出雲も畿内も「九州系」というのが、推移としては正しいんじゃないのか?
515 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 12:15:02.00
516 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 12:23:33.61
まあ、わざと絶えるのを待ってたんだと思うけどね・・・・ もしくは絶えたという情報を手に入れたから、東征をはじめたか。 正統が残ってたら命削って働いたのに最終的には自分の物にならんからね。 記紀がこの部分の削除をしなかったのはつまり、 正統後継者はもう俺しかいなかったんすよ、というアピールのためだろう。
517 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 12:39:07.81
>>514 たしかに、同族っぽい空気はある。しかし、明らかに皇統ではない、という空気もある。
ここで飛躍してもいいかな。
俺自身もまだ纏まっていないんだけど、
実はタタールは上下2種のルートを通って日本にはいった可能性がある。
つまり、奥州鍛冶といわれる、日本刀の起源を作ったとされる方の部族だね。
これは岩手から入り南下したと考えられる。
長髄彦、つまり手足が長い、なんていかにもな感じはするんだけどね。
もしそうなら、大きな意味では神武と同族であったかもしれん。
518 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 12:41:06.81
天火明命(天照国照彦天火明尊/天照御魂大神)=天火火出見命=神倭磐余彦火火出見尊(神武天皇) 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
高天原というのは要はネバーランドだろ。 だから、強いてその場所を挙げるなら、記紀のそれぞれの登場人物の出身地の近辺ということになる。
520 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 12:59:08.43
高天原は任那日本府からそう遠くない場所にあったのではないかという説があるが。
>>520 そんな小国から使者が来たら
は?何言ってんだオマエ
と大国主は蹴飛ばして追い返すだろう
100の国を従えていた大国主が屈服したんだから、高天原はそれ以上の超大国である
たとえるなら大和朝廷が戦わずして服従したようなもの
アマテラスは超大国の主
高天原は地理的に候補地は限定される
関東から九州に掛けて大国主の勢力下なので、それより遥かに広い国でないと成り立たない
今の出雲は、国を譲った大国主が少しだけ残してもらった領土だ
出雲VS天孫では無い、日本列島VS天孫だった
522 :
常識的的史観の人 :2012/05/06(日) 14:37:26.15
>>518 >天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
このスレッドで以前書いたことがある。
アマテラス登場以前、すなわち記紀成立以前の太陽神は男性で、
この太陽神こそがニギハヤヒだった。
ニギハヤヒは、記紀では物部の祖先などとなっているが、
九州では男性太陽神だった時の名残りの神社が厳然と残っている。
「アマテラス・クニテラス」だ。
女性神の「アマテラス」よりも遥かに大きな神だったことになる。
>>521 >日本列島VS天孫だった
九州対大和、出雲対大和などと、
何かと勢力に線引きして対立させたがるが、実は日本列島の支配勢力は同族さ。
たとえていえば「同族経営国家」で、
国策歴史書が書き残した確執逸話のほとんどは「内輪の確執」なのよ。
筑紫の磐井とて皇別豪族で、継体とは遠縁の関係にあったのさ。
523 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 14:44:46.33
高天原は狭義では近畿の事だが、広義では日本全土、八州の事だろう。 八百万というのは、そのそれぞれの土地の長達の事で、 中国の戦国期の封建領主がそうであったように、皇家はその合議の座長にすぎなかったのではないかな。 纒向遺跡の出土品などを見ても、 初期の頃は縄文系もある程度服していたか、あるいはちゃんと外交関係はあったようだ。
524 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 15:13:27.92
>>523 > 中国の戦国期の封建領主がそうであったように、皇家はその合議の座長にすぎなかったのではないかな。
大王の持つ政治的権力は概して強くなかったとおもわれるが
宗教的権力(祭祀権)がどうだったか。
上古の日本では「祭祀権」の問題が大きかったのではないか。
525 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 15:16:59.38
現在でも、アイヌは各部族で言葉が違う。 恐らく元は全体で数百の言語に分かれていた。 恐らく、それがこの国の古代の常体で、世界中の人種の吹きだまりだったのだろう。 大和言葉は本来は非常に単純化された言語だ。 例えばはし、が端、橋、箸と多様な意味に分化されていったが、これは元は「は(はじまり)す(すむ[届く〕)」だ。 繋がることをあらわす形容詞で、名詞ではなかった。 極単純に言ってしまえば、何を見ても「あ」とか「う」とか、互いに指差しながらあれ、それで話していったのと同レベル。 これは大和言葉が数百の民族の共用語として作られた事を意味する。 征服民族の言語だから浸透したのではなく、利便性が優先されたにすぎない。
アフォかw 中国大陸どうすんだよ。雑種大陸。
527 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 15:28:54.12
>>524 図らずも、
>>525 が序段になった。
民族が違うのだから、宗教も非常に多種多様ではなかっただろうか?
上でも書いたが、白村江以降にアマテラスが太陽信仰の性格が強くなったのでは、と考えてる。
それは当然、国難が間近に迫っていたからで、実際には攻め込まれなかったにしろ、
その段に及んで初めて、宗教の統一の機運と必要性を感じさせたのではないか。
ただ、血統に対する信仰は非常に強い物があったと思う。
中国においてすら、秦王が皇帝になるときには周王の禅譲という形をとった。
現代の感覚では類例のない特殊な感覚が存在したのかもしれんね。
528 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 15:36:55.30
>>526 雑多ではあるが、中国はまた、日本とは事情が違う。
Y遺伝子とミトコンドリアDNAを見比べてみると解り易い。
日本のYは非常に多種多様で、分布がばらけているのに対し
中国のYはかなり偏っている。
しかし、ミトコンドリアの方は比較的、中国と日本は同じ傾向を示す。
これは、中国の男が凄惨な殺戮につぐ殺戮を受け続け、
極一部の血統しか生き残っていない事を示す。
当然の事ながら、言語は自然に限られていっただろう。
>>528 一党独裁国家が真実の分子生物学データ出すかよ祭りはこれからだ。
530 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 08:58:22.88
九州の天津神系vs出雲の国津神系 九州と言っても中国西部くらいまでは同勢力 勿論、近畿や越は出雲の支配下 国譲りの際に出雲は天孫族に降ったが、高天原から遠く田舎だった近畿に赴いたニギハヤヒは、そこで独自の勢力を築く しかし近畿の国力が富んできたので、筑紫の高木の神らの命により神武が東征を行う
531 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 09:12:33.20
苦戦する神武に高木の神は援軍を送ろうとするが、建御雷神は武器だけで十分と言う 建御雷神配下の製鉄集団が淡路を武器製造拠点とし、神武へ武器を補給する 神武東征が終わり古墳時代になると淡路の拠点は解体撤去された
532 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 09:33:27.43
>>531 当時は日本製の武器や防具より
朝鮮製のほうが戦闘力は高かったと思う。
533 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 09:37:49.74
謎の人物ニギハヤヒ
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai09.html 九州から東征してきた神武が、大和平定の最後に戦ったのがこのニギハヤヒでした。
饒速日(ニギハヤヒ)という人物は、天の磐船で天から降り、河内や大和のあたりを支配していたらしい。
饒速日(ニギハヤヒ)がニニギならば、神武天皇は悪党となる。
天の磐船は、天浮船(あまのうきふね)は理解できるだろう。
高天原は、漢字の意味で追って行くと、高く天にどどく原っぱのような場所となる。
が近畿地方にそのような場所が見受けられず、現在示されている場所は後付けとなる。
日本史が歴史改ざん及び侵略を受けていたと考えるのなら、源氏連合が中国や朝鮮半島へ攻撃した行為
は了解できるし、歴史的に許される範囲だ。
「原」は、はらっぱじゃないよw
535 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 09:44:01.60
>>532 長江流域から黒潮に乗って九州を目指した海人(倭人と同族)中で、
ごく稀に五島列島をすり抜けて朝鮮半島南部にたどり着いて定着したのがいた。
彼らは倭人と同じであり、
古くから半島と九州を往来した文物はこうした倭人が運んだものだ。
日本製だの朝鮮製だのとは、
文化と知識と技術が隔絶されていたという前提の言説だな。
朝鮮半島南部と九州に共通する支石墓とて、
いまでは中国南部が発祥ということでコンセンサスを得ているんだぜ。
536 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 09:53:31.43
>>534 >「原」は、はらっぱじゃないよw
九州では原の一字を「はる」と読む。これが、くっつく文字の前後関係で「ばる」と濁る。
平原(ひらばる)、米原(よなばる)など。さらに変化して「はら」「わら」となる。
「はる」の語源は「墾(は)る」で開発・開墾など人の手が入った土地を意味する。
したがって、田畑・住居地・墓地など人の手が入った土地につけられる。
当然、その土地の支配者が住んだ土地にも原がつくはずだ。
南西諸島でも「はら」が濁って「ばる」というが、主に田畑をいうらしい。
蛇足ながら、佐賀県北部には吉野ケ里など「里」のつく地名が複数あるが、
これは区画整理された土地のことらしい。
「はる」が縄文以来の言葉とすれば、里は弥生に生まれた言葉か?
いじょ。なかなか明確に説明する人がいないので・あえて紹介しておく。
俺のシマでは「ハル」と「バル」の使い分けが在るんですよ。両者別物です。
538 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:01:32.51
>>530 神武の東征は4世から5世紀だろう。
淡路の製鉄はもっと前から行われてるよ。
神話ではじめにできた島が淡路って言うぐらいに
政治的にも重要な位置にあった冶金工場だかね。
神武が淡路を重用したは当然だとしても
それはもっぱら神獣鏡の複製工場としてだろう。
卑弥呼が下賜された鏡は、もう神武の頃には残っていなかったと考えられる。
現存する神獣鏡のほとんどは
東晋の政変時に日本に亡命した官僚にくっついて来た鏡職人の手による国産品だろう。
400超の出土品の中で銘が3名しか無く、後代に行く程粗悪になる。
これは職人の数に比してあまりにも生産数が多く、効率化のために品質が維持でき無かったためだ。
卑弥呼に下賜された鏡の存在は豪族の中で非常に重要な意味を持っていたのだろう。
それを卑弥呼の「子孫」と称する神武にもらった畿内豪族は感涙してひれ伏したろう。
だから後生大事自分の墓にしまい込んだのだろうな。
日本書紀で神武は「兵は要らず。鏡は強し」と言っているがまさにそれだったわけだ。
もちろん、紀は中国に見せるための文書だから、
元はあなたの権威ですよ、という社交辞令というか、おべっかが含まれているわけだが。
539 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:11:34.65
濃尾平野にも降臨したよなぁ、嫡流・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
540 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 10:16:10.83
>>537 >俺のシマでは
何というシマだ?
>「ハル」と「バル」の使い分けが在るんですよ。
どう使い分けてるんだ?
>両者別物です。
神社一つとっても、祭神・祭祀作法・祭りの形態・参拝流儀など、
「てきとー過ぎる」といえるほどにまちまちだ。
所変わればなんとやら。みながみな原則に沿ってるとは限らん。
何の論理性もない例外的事例でもって原則を否定する気か・ぼんくら。
この2ちゃんでは、その手のバカに、いかに手を焼いてきたことか。
541 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:31:27.30
>538 私は神武の東征を3世紀末から4世紀初頭と考えたので 確かに淡路の製鉄はもっと前からあっただろうし、人も住んでいたのだろうが、生活臭のない工業団地的な製鉄跡は短期間のもの 武器を作ってたのは確かだが、鏡が作られた形跡はなさそう
542 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 10:37:22.17
>>538 >淡路の製鉄はもっと前から行われてるよ。
こは「製鉄」ではなく鍛冶工房だろ。製鉄と鉄鍛冶の違いも分からんらしい。
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないというぞ。
それから。弥生の鉄鍛冶のメッカは熊本県だということが、
学術的にも確かなこととしてコンセンサスを得ている。なーにが「粟寺」の製鉄だ・ボケ。
>神話ではじめにできた島が淡路って言うぐらいに
最初に出てきたから重要だとは限らない。何の論理も無い言説だ。
>政治的にも重要な位置にあった冶金工場だかね。
鉱石から鉱物を取り出して精錬するのが冶金だ。言葉の使い方から勉強し直せ。
>それはもっぱら神獣鏡の複製工場としてだろう。
鉄工場で青銅鏡を複製するとは・どゆことだ。
>だから後生大事自分の墓にしまい込んだのだろうな。
青銅鏡を死者に副葬するのは宗教的精神性によるものだ。
無知が・無知のまま・無知丸出しの憶測と想像で・偉そーに。
543 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 10:44:44.01
>>541 >確かに淡路の製鉄はもっと前からあっただろうし、
>生活臭のない工業団地的な製鉄跡は
おいおい・の・おい。
しっかりしてくれよ。言説にまどわされてお前まで。
んーなことよりも。
鉄鍛冶の原料となる鉄を、どこから・どうやって供給したのか。
これを考えることのほうが重要だ。
さらに、淡路島の高い所に武装護衛つきの鍛冶工房を置いた勢力はどこ?
てな具合へ思考連鎖を広げるのだ。
鉄は当時の重要な統制品だろうし、鍛冶技術とて国家管理の下にあったはずだ。
544 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:52:12.13
それじゃ淡路のくだりはなかったことに
545 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 11:06:14.35
うざいのがまたきた
546 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 11:10:56.56
>>542 もっと普通の会話ができんのかねレス古事記。
547 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 11:13:26.68
ほのぼのいこうね
出雲、諏訪、鹿島 全部砂鉄の重要な産地だよ スサノオも草薙の剣を献上してるし起源は古そうだ あと久慈も砂鉄の産地だが大きい神社は無さそう 出雲伝統の野ダタラは、河原に炉を組むから炉の跡なんか残らないよ。 川が増水すると消えるし ふいごの変わりに季節風を利用する エコだな〜 おれは、神武東征は紀元前1〜2世紀派w 神武の新しい嫁は、タタラ姫だー
549 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 16:49:21.40
紀元前か〜 大和にはまだ鉄器も武器もない時代じゃない そんなに苦戦するかな 石器なんかはあっただろうけど
550 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 16:56:13.77
551 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 17:06:06.95
大和に鏡が出るのはどんなに早くても3世紀 記紀の内容と矛盾しそう
552 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 17:07:57.53
鉄器VS石器! ロギア系に覇気なしで挑むようなものだなw
553 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 17:47:53.23
>>552 それでも神武軍が苦戦したのは
地の利がなかった(土地勘がなかった)
兵力が少なかった
弓矢の性能は、敵軍と同じでアドバンテージがなかった(中国製の連弩などは持っていなかったと思う)
554 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 18:49:09.42
何はともあれ、高天原から瓊々杵尊が日向に赴任して3代後に大和を攻めた。 天照大神から5代後って事はざっと見積もって100年後。 卑弥呼が天照大神なら4世紀初頭なんだけど。
555 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 19:06:32.24
>>554 > 天照大神から5代後って事はざっと見積もって100年後。
いや、当時は15歳で親になる例とかが珍しくなかったはず。
556 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 19:19:30.30
「ふつうー」の常識的な話をしたが、
それは抜きで「言い方」に文句をつけるか。井戸端のババア。
>>547 >ほのぼのいこうね
ほのぼの・し過ぎるのも・ナンだわ・なー。
557 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 19:21:34.80
書き込みの前半が欠落したので再掲。
>>546 俺の指摘は・いちいち・ごもっともだろ。刺激的だろ。
ワイルドだ・ろろろろろろろー。
製鉄と冶金と鍛冶の違い。
弥生時代に製鉄はされていない。
弥生の鉄鍛冶のメッカは熊本県。
青銅鏡を死者に副葬するのは宗教的精神性による。
普通の常識的な話をしたが、
それは抜きで「言い方」に文句をつけるか。井戸端ババア。
558 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 19:29:23.29
559 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 19:49:04.71
>>557 野ダタラという伝統技術が有るんだからな
見つからない事が無い証明にはならない
>>548 を良く読めよ
561 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 22:40:43.49
いまでも、日本刀の需要に応じるために 安来のたたら製鉄がわずかながら行われているわけだが、 製鉄に必要な1200度以上で、各種ガスの条件を満たすのは難しいよ。 野たたらってのがどんなものか知らんが、 普通のたたらの簡易版って扱いなら、 普通のたたらに比べて、かなり巨大な炉にしないと、 鉄が溶けるところまで辿りつけないかもね。
その野たたらでつくったとされる早期の鉄器の出土品てどれになるのかね。
563 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 06:11:15.99
野たたらってのはな 風当たりの強い小高い丘の斜面や崖の上とかに くぼみを掘って 砂鉄と木炭を入れ、 竹製の管で送風して溶解還元し鉄を炉底に集める。 現在でもこれで行われてる。 もうしっかりとした設備が無いからな。 ちなみに炉のくぼみは「ほと」といって、迦具土神と関連がある。 イザナミのホトを焼いて殺したのが迦具土神だから 日本の製鉄は相当早かった可能性を示唆している。
564 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 08:14:46.89
天の鳥船とは鳥の羽のような帆を持った船? しかし帆船っていつ頃からあるんだろうか
565 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 09:17:50.54
>>564 人類がいつ帆船を発明したかは良く分かっていない。
エジプトのナイル渓谷の遺跡には、帆をもった舟らしき壁画が残されている。
この壁画は約8000年前に描かれたと推定されている。
古代地中海の帆船は1本のマストに四角帆が船の前後方向に対し斜めに張られたものであったが、
紀元元年前後のエジプトでは、2本のマストを持つ帆船も現れだした。
(ウィキ)
神武天皇は実在の人物じゃないし神武東征は史実じゃない。終了
皇国史観粉砕!!
568 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 11:22:55.48
>>566 それじゃ記紀は全く信じない?
応神も雄略も推古もいないんだね?
まさか百襲はいたとか言わないよね?
569 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 11:39:30.74
本当の船じゃないね。 出雲風土記の国造の祖、建比良鳥命の別名だと考えていい。 ちゃんと根拠はあるが説明長くなるんで気になったらググってくれ。 天夷鳥命・武三熊大人も皆同一神であって、要するに鳥トーテムの神だね。 基本的には巨石信仰と同じタイプだから、かなり古い時代の神と見ていい。 鳥トーテムは基本的に北方系の製鉄系民族のもの。 水先案内人という意味もあって、紀ではヒルコの名前でもあるから、 この辺りはオリエントで一般化されている「英雄の祖は川に流されて拾われた捨て子」の亜種だろうね。 上の方でちょっと触れていたが、ニニギハヤと神武は同じタタール系統である、というのは この辺りの考察もあって書いたんだけど。
570 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 11:42:51.62
ニニギハヤってなんだw ニギハヤヒ。
571 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 13:44:36.35
神武天皇はいなかったんじゃないかと思うときもある。 日本建国を古く見せるために、8人の架空の天皇をつくった。 そして崇神の業績を2人に分けて記した。 あり得ない事ではない。
8人はともかく初代は何らかの言い伝えとしてはあったんじゃないか。 当時の大和の土地なり人々なり全てがそのような話は聞いたことが無い、な中で全くの作り話というのも無理があるように思う。
575 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 15:43:02.93
576 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 17:38:21.69
記紀は年代を古くしようとし過ぎた。 武内宿禰なんてバケモノみたいになってる。 神武が3〜4世紀で応神は5世紀頃。
578 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 21:14:57.69
よりによって歴博w
579 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 21:20:53.28
日本に鉄器が入ってきたのは中国よりも先だったというやつだな。
580 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 22:20:05.98
歴博はねぇ… 覆すも何も…
>>576 神武は1世紀くらいの人物だと思う。
3世紀の人物は、崇神やモモソ媛命
>>554 神武はヤマトを攻めてない。
というか、地名なんて絶えず変わっていて
高天の原のある場所とは、河内湾から上陸して真正面に見える山の上。
>>577 くさいと言ってるだけだろ
科学的測定を受け入れられない老人の戯言だよ
ちなみに日本最古の青銅刀は4000年前だよ、輸入品だけど
>>578 弥生期が遡っているのは事実だな
あとな 三内丸山には前方後円墳が有る
何でもかんでも起源を遡らせるのが良いとか、どこぞやの連中と心性が変わらんぞ。
は?
4000年前の青銅刀も 山内丸山の前方後円墳も 実際に発掘されてるもんだぞ そんなことも知らないのかwwww ばか丸出しだのう
588 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 09:52:56.93
神武東征を信じないって人は記紀を全く信じないのだろうか。 それとも都合のいいとこだけ信じるのだろうか。
589 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 11:10:22.75
記紀を全部は信用できない 年代的に出鱈目だから だからこそ色々な解釈が生まれる
590 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 11:53:38.60
年代については古代の日本に年代に関する記録がなかったのだろう。 わずかな記録と伝承からいろいろ探ってみたが、なかなかうまくいかない。 おそらく、3世紀か4世紀からの記憶があったが、隣の中国では紀元前2000年くらい からの夏王朝の記録からある。つじつまあわせに苦労したんだろう。 しかし、創作を加えて年代を延ばそうとするなら、いくらでも方法はある。 疑われないようにうまく作り話を挿入することも可能。なのに、日本書紀は 歴代天皇の在位期間や年齢を延ばすことで年代を引き伸ばしている。 これは、物語の筋そのものは史実ではないかと考える根拠になる。
記紀には神武東征という記述はない。 あるのは、日向のワカミケヌ命が東征したとあるだけ。 記紀の原文には神武天皇という名前の人物は存在せず ワカミケヌ命が東征した後、イワレ彦と名乗ったとある。 この人物が、現在の天皇家の先祖らしい。 そして、彼のことを後世、神武天皇という漢風諡号で呼ぶことになる。
592 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 15:50:17.09
はっきり言ってしまえば記紀なんてさ、 書いてた連中だってもうよくわかんね状態だっただろうな。 皇統の正当性を作りつつ、その当時の勢力図に配慮して・・・とか、気が狂いそうな作業だったろう。 絶対、変なじじいとかが「ワシもちょこっとだけ登場できんのかの〜モブでええからw」 とか言ってきたりしたと思う。 細部の検証はしても意味ないだろう。
593 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 16:19:58.63
畿内説は、倭人伝に書かれている卑弥呼の銅鏡百枚はこれだ、と言ったり、 倭人伝に書かれている卑弥呼の墓はこれだ、と言ったりするわけだが。 そのくせ、倭人伝は信用できないと言ったりする。 記紀も同じ。これがなかったらどうにもならない。 ちゃっかり崇神天皇や倭迹迹日百襲姫なんかを拝借しながら、 記紀なんて信用できるか、なんて言ったりする。
古事記は正しい歴史書だ 男と女に拘ってるがこれは原子の+−を意味してる +−が反対に回りぶつかって物質が生まれたのだ
>>592 配慮は、さほどされてないと思うぞw
だって、記紀にある豪族の系図って
記紀が制作された豪族間の力関係を全くあらわしてないから。
初期の皇室の姻戚関係などをみても
記紀が偏差された8世紀の豪族の勢力関係なんて完全に無視だから。
あういう複雑な婚姻関係を一から創作する意味なんてあるのか?
と思う。
何もないところから創作するのなら、もっとすっきりした系図をつくるよw
>>593 おまえの言っている意味が分からないw
魏志倭人伝と記紀は整合性取れるよw
そして、卑弥呼の正体は、ヤマトトトヒモモソ媛命。
いきなり、整合性のないことをwww
598 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 07:52:21.59
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛 説ってのは昔からあるんだが 近年は 卑弥呼=アマテラス説のほうが勢いあるみたいだが。
599 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 10:10:50.24
百襲姫は王と呼ぶにはふさわしくないからねえ。 現代で言えば、伊勢神宮祭主を勤める天皇陛下の姉の池田厚子さんみたいな 存在かな。
600 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 12:25:43.26
ただ、池田厚子さんは81歳と高齢のため、天皇陛下の長女、黒田清子さんが 臨時の祭主になったらしい。5月7日。
601 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 14:04:41.62
>>599 倭迹迹日百襲媛命は景行天皇を補佐し、
災害が続いたり合戦が起こったりすれば神がかりをして天皇に意見している。
(天皇も媛の意見に従っている)
現在の伊勢神宮祭主は神がかりしないし、政治に口出しもしないからな。
景行じゃなくて崇神だろ
603 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 15:05:55.56
あの時代でも崇神天皇以外に王と呼べる人物はいないってことだな。
崇神天皇という名前は、後世の人間がつけた名前だな。 実在していたら、三巻入彦イニエ命。 三巻入彦が通称、イニエが諱。 祭祀の長が、百襲媛命で、政治の長が、イニエ命(崇神天皇)
>>598 アマテラスは、もともとは男だった説が有力だろう?
アマテルだったという説で
ニニギの祖母ではなく、ニニギの兄だったという説。
よって、卑弥呼がアマテラスのわけがない。
606 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:06:05.51
すべて本家本元のパクリや 卑弥呼 = アマテラス 卑弥呼の弟 = スサノオ 倭 = 大倭
607 :
美麗島の名無桑 :2012/05/10(木) 23:11:29.22
http://stat.ameba.jp/user_images/20110430/20/thefuegotiger/06/ae/g/o0530044111197156497.gif また研究チームは被験者たちの知能を調べるために、2つの知能テストを彼らに受けてもらいました。1つめは、知識や技術を取得する能力
「結晶性知能(crystallized intelligence)」を測定するための語彙テスト。そして2つめは、新しい局面に適応する能力「流動性知能(fluid intelligence)」を測定するための論理テスト。
そしてこれらのテストの結果、結晶性知能の40パーセント、流動性知能の51パーセントが遺伝子に由来していることが分かりました。
この結果を受けて、遺伝統計学のヴィスチャー教授は「これは遺伝的要因と環境的要因の両方が、
ほぼ同じくらいの割合で、人の知能に影響を与えていることを示しています」と話しており、科学者たちは人の知能の真実にまた一歩近づいたようです。
人間の知能の約半分が、遺伝子から来ていることを明らかにした今回の調査結果
608 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:12:53.80
卑弥呼は「日神子」か「火御子」であって、恐らく尊称だろうな。 天皇とかと同じ。人の名前じゃない。 壱与も同じく「委世」「移世」で後継者のことだろう。 アマテラスは何十人もいた歴代のヒミコの誰かにすぎないと思う。 たぶん、男がなる場合もあったはずだよ。
609 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:28:22.21
どうしても天照大神を男にしたいらしいな。 なんか根拠でもあるのか? 女という根拠はけっこうあるんだが。
610 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 07:55:17.96
ヒミコやアマテラスが1人だけだったのか? それともコロンビアローズや若乃花・貴乃花・二子山親方みたいに複数いたのか?
611 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 07:56:39.85
>>604 > 崇神天皇という名前は、後世の人間がつけた名前だな。
この人はおそらく実在していたと思うし、
実際に、祭祀に力を注いだんだと思うね。
出雲の神を怒らせた奴だな 出雲を攻めて神主や巫女を殺しまくり、神殿を全て焼き払うぐらいはしてそう
613 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 11:23:25.82
>>609 どうしても倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼にしないといけない人がいるからね。
天照大神は男にしておかないと。
文献のつまみ食いってやつだね。
都合のいいところだけ抜き出す考古学じゃ1番やっちゃいけないこと。
614 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 11:52:59.11
>>610 東遷説的には天照大神は二人。卑弥呼と台与。
卑弥呼と台与の時代は合わせると100年位にはなるだろう。
何らかの伝説が残っていても不思議じゃない。
615 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 13:15:39.88
>>614 台与は萬幡豊秋津師比売命という線はない?
616 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 13:49:09.33
>>615 ちょっと違うと思うな。台与は女王だからトップの地位にある。
ちょっと語弊があるかもしれないが、天皇のような存在。
萬幡豊秋津師比売命の場合は、やはり皇后的な地位だろう。夫のほうが
主になるというか。
ワカミケ「ノ」だよ。
618 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 19:39:49.16
萬幡豊秋津師比売命は伊勢神宮では天照大神と同等の位置で 祀られているんですよね。
619 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 19:50:49.15
天之忍穂耳って存在感薄いよね。
草壁皇子のポジションだから
621 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 21:26:53.08
>>619 天照大神が葦原中国はわが子の治める国であると言っていたにもかかわらず、
降りてきたのは孫だった。天忍穂耳命はいなくてもかまわない存在。
この存在が何を意味するのやら。
天照が元は男だったというのは、全国の神社伝承を調べていたら 女神の天照よりも前に男神の天照のほうが祭られていて 男神の天照のほうが元祖神だったという伝承が いたるところに残っているからだろう? 纏向遺跡のど真ん中の神社も、天照御魂神社とかあるし。 これは、男神の天照を祭る神社。
>>613 卑弥呼=媛命(ひめみこ)=ヤマトトトヒ百襲媛命
ならば、
台与=トヨ=豊鋤入姫命
難升米=梨迹臣(なしとみ)命=孝元〜崇神時代の中臣氏の先祖
狗奴国(コノ国)=許乃国(コノ国)
の男王の卑弥弓呼=彦命(ひこみこ)=武埴安彦命
の副官の拘右智卑狗=河内彦(こうちひこ)=武埴安彦命の外戚
>>618 :日本@名無史さん:2012/05/11(金) 19:39:49.16
>萬幡豊秋津師比売命は伊勢神宮では天照大神と同等の位置で
>祀られているんですよね。
その質問にお答えしましょう。
これこそ、天照は、女神ではなく、男神だったという説に関係してくる。
もっと詳しくいうと、
天照の正体は、ニニギの祖母ではなく、ニニギの兄だったということ。
ニニギの祖母が天照だったら、ニニギの母にあたる萬幡豊秋津師比売命が
天照と同等に祭られるのは不自然だ。
姑と嫁が同等というのは無理がある。たいがい、姑のほうが上になる。
しかし、ニニギの兄が天照だったら、
ニニギの母にあたる萬幡豊秋津師比売命が
天照と同等に祭られるのは、まだ許容範囲だ。
なぜなら、天照の母親が萬幡豊秋津師比売命ということになる
ヤマトの当主の天照と、その生母である萬幡豊秋津師比売命が同等というのは
十分、許容範囲だからだ。
ぜんぜん許容範囲じゃないな ニニギとその兄を生んだのは誰だよ、その親は?
626 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 00:42:15.32
>>625 ニニギとその兄を産んだのは、
萬幡豊秋津師比売命。つまり、二人のお母さん。
萬幡豊秋津師比売命の旦那が、忍穂耳命。つまり、二人のお父さん。
普通、姑と嫁ならば、姑のほうが上位に来るだろう?日本社会では。
でも、息子と母親ならば、同等か、息子のほうが上位に来る。
息子は、その家の世継ぎで当主になれるが、母親はあくまでも外戚の一族。
ただし、母親は当主を産んだということで、リスペクトされ
その家の当主と同等のように称えられることもある。
>>626 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 00:42:15.32
>
>>624 >天照大神は皇祖のはずだが。
そう。天照大神は皇祖のはず。というか、ヤマト朝廷の始祖のはず。
しかしながら、現在の天皇家の祖先かというと、微妙に違った。
詳しく言うと、もともとヤマトの始祖として祭られていた天照は、
ニニギの祖母ではなく、ニニギの兄が正体であった。
女神アマテラスではなく、男神アマテルだ。
正式名称は、天照国照彦・火明命。
天照国照彦は通称で、天津と国津の両方の統治者という意味で
文字どおり、出雲国譲りによって、天下を平定した人物である。
火明(ほあかり)というのは諱で、本名だ。
つまり、天皇家の父方の先祖ではなく、
天皇家の父方の先祖のニニギの兄にあたる人物だった。
その人物を、長い間、ヤマト朝廷の始祖として祭っていた。
記紀を編纂するときに、このことが天皇家にとってまずかった。
大海人命(天武天皇)はニニギの男系の先祖であって、
ヤマトの本来の始祖の天照(火明)の男系子孫ではない。
天照(火明)の男系子孫で嫡流にあたるのは、熱田社の尾張氏だった。
だから、天照をニニギの兄ではなく、ニニギの祖母として祭る必要に迫られた。
それで、記紀編纂当時、大海人命と尾張大隅の間で喧嘩が起こる。
たとえば、三種の神器の天叢雲剣の所持を巡っても争いが起こる。
本来、本物の天叢雲剣は、尾張氏の歴代当主が保持し
天皇家の当主は、そのレプリカを保持するだけであった。
しかし、中大兄命(天智)は難癖つけて、それを尾張氏から取り上げ
次の弟の大海人命(天武)の代になっても、返そうとしなくて、けんかになっている。
629 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 01:48:58.57
>>728 じゃあ、皇祖で邇邇芸命の祖母に当たるのは誰?
神武は兄貴の五瀬命について行っただけのヘタレ。
>>629 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 01:48:58.57
>
>>728 >じゃあ、皇祖で邇邇芸命の祖母に当たるのは誰?
大ヒルメとかいう祖母ちゃんな。
ニニギ命や火明命のお祖母ちゃんにあたり、忍穂目命のお母さんにあたる。
名前のごとく、固有名詞というよりは
一般名詞的な名前で、古事記を編纂する時点では、ほぼ無名の人物。
おそらく、天皇家の先祖で、歴史上、初めて有名になったのは
忍穂耳命からで、彼は高天の領主だった高木守(高木神)の娘婿になることで
勢力を拡大する切欠になったのであろう?
この人物を女神アマテラスとしてまつることにしたのが
古事記を編纂した大海人命(天武天皇)。
でも、古事記を編纂した大海人命(天武天皇)の直前までは
ヤマトの始祖として祭られていたのは、男神アマテルで
ニニギ命の兄にあたる、天照国照彦(火明命)のことだった。
632 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 02:44:04.99
何言ってんだ 大日孁貴神は天照大神だろ めちゃくちゃだぞ
>>632 大ヒルメを天照大神として祭るようになったのは
天武天皇からということでしょう?
634 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 08:11:05.18
だってほぼ想像じゃん
635 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 09:16:02.71
推古の甥 平 將尚 剴王 Leo 藹靄黯 Napl
出雲国譲りの主役が、皇祖ニニギではなくて ニニギの兄の火明命(天照国照彦=男神アマテル)だってのは、 播磨国風土記にも記載されているんだよな。 出雲の大国主命が、義理の息子(娘婿)の火明命と播磨国で戦争して、 結局、火明命に降参するん話。 このへんは記紀には書かれてないしな。
女神ちゃんだったからまだ許したけど 男神が弟暴れたからって天の岩戸で引きこもってたのかよ 何とかしろ。お前兄だろ。 あと保食神殺したからってだけでツクヨミと絶交するな。気をしっかり持て。
引きこもりじゃなくて無理矢理押し込められたのかもよ
まあ男神だとストリップ見たくて出て来たとか理由つけるが
・・・情けなさ過ぎる
>>630 運が良いってことは大事な事
兄が生きてたら歴史から消えてた人だし
子孫が頑張ったから有名になった人
暴れ回られて糞尿を撒き散らせれたり死体を投げ込まれたり… 嫌がらせされたから岩戸にヒキコモリとか、たしかに男神なら情けないね けどスサノオだって伊邪那美ママに会いたいよぉ(´;ω;`)っていつまでも泣いて伊邪那岐パパに激怒されて追放とか 結構情けないとこも見せてるよね
641 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 11:50:50.23
イザナギだって情けなくないですか? 嫁への愛(キリッ って感じで黄泉国に会いに行ったのかもしれないけど、 見ないでねと言われてるのに見る浮気性にも通じるような気の軽さだし。 腐った死体状態の嫁の姿を見て一目散に逃げ出すヘタレっぷり。 激怒したイザナミから追いかけられて岩で道を塞いで復讐を誓われると、 買い言葉でお前にはこうしてやる!って離縁するイザナギ。 穢れたとか言って禊をしたりして…うわべだけの夫婦だったの?って
天照大神ってのは、ふたりいて 記紀の出雲国譲りより前に登場する天照大神ってのは神話的なんだが それ以降は、天照大神(天照大上?天照大守?)ってのは、 実際の人物がそう名乗っていたんじゃね? とにかく、近畿王権のトップは、彼らが信じる天照を名乗っていた。 記紀神話でも、大きく分けて、二つに分かれ それは子孫の残し方に違いがある。 天忍穂耳命以降は、普通の人間の性交によって子孫が残るが それ以前は、誓約で剣で玉が出てきたらとか 一人なので子孫が出来たみたいな話。 とにかく、天忍穂耳命ら兄弟は、誓約によって出てきたらしいので、 実質的に、天忍穂耳命らからが真実の歴史で それ以前は、遠い神話の話じゃないの? 実際に、記紀では、天忍穂耳命は女神の天照の子供になっているが 別の伝承とかでは、天忍穂耳命が最初で、それ以前はなかったことになっていたり あるいは、天忍穂耳命のずっと前の先祖に女神天照がいたことになっており、 天忍穂耳命と女神天照の直接的な関係を事実上、否定している。
643 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 12:13:02.69
誓約の表現って結構性的なんだよね 日本の神話はやらしい
644 :
期待!! :2012/05/12(土) 12:26:36.61
>>642 全くそのとおりで実在性が増すのは天忍穂耳命からだな
天照以前は実在の懐疑度が上がる
アマテラスは神話の存在だが ずっと時代が下がって高天原の王がアマテラスを名乗っていた事も考えられる 二人というか時代がかなり違う
647 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 13:38:08.08
648 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 13:56:14.91
神武東征を語る際、その年代の考証も一つのポイントとなる。 記紀では神武以前の世代から神宝として鏡の描写がある。 しかし、畿内に於いて鏡が現れるのはどんなに早く見積もっても3世紀以降。 つまり神武の東征が真実であるならば、それは3世紀以降ということである。 これに関連して天照大神の年代を考察すれば、神武よりも5代前、つまり80年から100年程前となり、その年代は2世紀頃であると言える。
649 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 14:05:04.74
天照大神のところには鏡が良く出てくる。 天照大神が天岩戸に隠れたときには、榊を立てて枝に八咫鏡をつるしたとか。 鏡作部の遠祖に鏡を作らせたとか。 残念ながら銅鐸は出てこない。
>>641 なんかそれは世界中にある「見るなのタブー」のエピソードの一つで、
男性がそういう目に合っているのを一杯見るからあんまり不自然じゃないな
>>648 紀元前から、鏡は畿内から出てくるよ。
全部、中国製の鏡だが。
当時、倭国では、中国製の鏡が取引されていた。
丹波の籠神社にある伝承鏡は、 紀元前1世紀の前漢時代の中国製の鏡で 伝承鏡としては、これが日本最古だが 土の下から発掘されるものとしては、この鏡は普通にたくさん発掘される。
婚姻関係でみたら面白いけど 皇室の事実上の最初の先祖である天忍穂耳命は 妃が高木神(高木守?タカミムスビ)の娘。 この高木の領主である高木守の男系子孫には大伴氏や葛城県主家がある。 つまり、これを中世の徳川家にたとえるのなら 天忍穂耳命の男系子孫たち、つまり、天皇家らを徳川家に例えるのなら 大伴氏らは、水野家ら譜代大名みたいなもん。
654 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 15:47:48.39
655 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 15:57:04.59
>>652 九州からはいっぱい出るね。
ニギハヤヒが九州から来たって事が裏づけられる。
656 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 16:34:42.20
>>651 畿内の弥生遺跡からは鏡が出ない
そこで困ったエセ考古学者が伝世鏡なんて言い出した
勿論後で恥かいた
657 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 17:15:29.62
籠神社の後漢鏡は文献との整合性を見る重要な考古学的遺物であろう 北部九州から出土する後漢鏡が神宝として伝承された それだけ貴重なものだったのだろう 或いは魏の皇帝から正統な王として下賜された鏡なのかもしれない
ニギハヤヒは高天の原から河内へ降臨したんだろう? 高天の原は、御所市高天周辺の地域のことで ここから河内に降臨したんだろう?
なんで、九州に拘るやついるんだ? よく読めよw記紀を。 たしかに、神武は九州南部から東征したかもしれないが 神武の曽祖父のニニギは、近畿から九州南部へ降臨した。 よって、神武ってのは、九州南部生まれだけど 彼の曽祖父の出身地が、現在の御所市高天周辺の地域で 近畿地方が、本籍地だった。
その通り! たしかに神武は九州生まれで九州から東征したんだろう。 そして天孫降臨を命じた高天原はおそらく畿内奈良のどこかだ。 しかし神武が東征するころには高天原はどこかへ行ってしまった・・・ ニギハヤヒは・・
ニギハヤヒは畿内に降臨した もちろん高天原からw
高天原もニギハヤヒも出雲の勢力ではないかと思ったりする
663 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 21:33:16.75
だからあ。 記紀の神代の舞台は、高天原と出雲と日向だろう。 で、神武東征によって舞台は日向から大和に移る。 高天原がどこかは馬鹿でもわかるはず。 [わからない人のためにヒント] 出雲や日向が多くの紙面を割いて語られているのに、 その間にある北部、西部の九州はまったく出てこない。 高天原と出雲の関係については出雲の国譲りがあり、 高天原と日向の関係については天孫降臨がある。
664 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 21:35:43.49
途中で宇佐によったけど、 いわゆる北部九州はあまり関係はなさそうだな。
神武はイワレヒコなんだから最初から大和の人だよ。 東征は史実ではない
出雲攻略には船を使っている。 当時の船には関門海峡を抜ける能力はない。 だから、その出発点は、北部九州・山口、もしくは朝鮮半島南端だということがわかる。
667 :
日本@名無史さん :2012/05/12(土) 22:53:26.97
干満で流れる方向が変わるから、 近い適当な場所で待って、時間見計らって出港すればいいんじゃね?
>>666 縄文人は八丈島まで渡っているが
つか関門海峡なんて流れを読めば勝手に運んでくれる
舟下りよりかなり楽だとおもうが
669 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 00:38:22.67
高天原は北部九州だろうな。 記紀を読むとすぐに出てくる記述で、ヒルコを産んだ時にイザナギは父親のような存在に相談してる。 この父に当たる存在が畿内だろう。 畿内の銅鐸文化は、その銅の組成からしても中国北部から直接もたらされたものだ。 この勢力は恐らく周王朝の封建制度と植民制度が密接に関連する。 畿内勢力の渡来時機は非常に古く紀元前500年頃ではないか。 周代の大陸民族は鉄を卑しい金属ととらえ、有用である事が解っているのも関わらず 頑として青銅に拘った。なんとなく、銅鐸時代の畿内と雰囲気がかぶるね。 秦が南下し、鉄器が銅器を完全に駆逐し始めた時代と九州の鉄使用時機が同じなのは偶然じゃない。 北部九州勢力は祖は畿内勢力と同じだろうが、大陸北部から黄海沿岸〜半島南部に移動して来た製鉄民と婚姻関係がすすみ、 やがて別文化と言っていいほど畿内と開きが出てしまったんだろう。
670 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 00:40:00.31
>中国北部から直接もたらされたものだ 訂正。南部。
671 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 06:49:45.50
>>659 考古学的事象を受け入れられない奴
又は無知なだけなのか
672 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 07:42:07.07
673 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 08:48:59.46
>>665 磐余を制圧してからイワレヒコを名乗った。
または先住民の本拠地を制圧して、そこに自分の名をつけた
(スターリングラードの変形)
674 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 09:06:42.21
奈良の磐余の地名はいわゆる神武天皇(磐余彦、狭野命)に因んだ命名。 神倭磐余毘子天火火出見尊。 神武天皇は「ホホデミノミコト」に在らせられます。 古社古伝ではホホデミノミコトは又の御名を彦火明尊。天火明命で在らせられ、 叉の御神名をば「天照国照彦天火明尊」と建て奉ります。 又の御名をば「天照御魂大神」。各地の名神大社の〇〇坐天照神社、天照神社、天祖神社の御祭神。 (崇神天皇が皇居から追い出した天照大神♂(伊勢主神)。同じく追い出した倭大国魂大神は櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)?若しくは反対?) 上賀茂神社の御祭神、別雷神と異名同神、 神武天皇の上陸地は伊勢、志摩。(志摩は大志を磨くの意?) ・・・伊雑宮あたり。宮川を遡上して滝原宮辺りに駐屯、吉野山周辺で行宮を営んだ後に北上していよいよ奈良盆地へ侵攻?。。 これだと正に神話に云うように東から差し上る陽気漲る朝日を背に受けての進軍。 吉野からは北上。南中する昼日を背に受けての進軍。 伊雑宮、滝原宮、吉野山は東西ほぼ同一緯度に位置します。
>>661 ニギハヤヒは、畿内に降臨したのではなく、河内に降臨した。
高天の原から、河内に降臨したのだ。
高天の原とは、御所市高天周辺の地域。
だが、このあたりには、高天のほかに、高鴨、高木、高尾張などの
初期のヤマト朝廷の豪族の本籍地が密集している。
この少し北方には、大和盆地から河内平野へ流れる大きな河川があり、
それは、大阪湾に繋がっていた。
その川沿いに、ニギハヤヒの天岩船にいる降臨伝承の地がある。
676 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 11:53:09.04
>>675 > ニギハヤヒは、畿内に降臨したのではなく、河内に降臨した。
当時の地形や船の性能から考えて、上陸したのはやはり河内だったと思うね。
ただ当時の河内は湿地帯だから、そこから農業生産が見込める畿内に進出しなければどうにもならなかったと思う。
677 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 11:56:42.98
ニギハヤヒは長髄彦が崇めてた神(恐らく国主)であって、降臨した記述は無い。 そもそも、鳥船とはニギハヤヒの別名であって、本当の船じゃないよ。
>>671 考古学的手法自体が、殆ど不完全なものだw
たとえば、もし、中世に日本に文献がなかったら
愛知県出身の徳川家康が、京都の天皇によって、
東京で征夷大将軍に任命されたことなど、
考古学的な物的資料では、とてもじゃないけど、想像がつかない。
また、鎌倉時代、町の規模では、京都と博多が二大都市だったから
考古学的にいうと、この時代に九州王朝と畿内王朝が並立していたと判断していても
全く不思議じゃないんだけど、この時代は文献が豊富だから
遥かに辺境の地の鎌倉の権力が軍事的に日本全土を支配していたという
考古学的には想像が難しいことが起こっていた。
だいたい、今の考古学者で神武東遷を否定するものが圧倒的に多い。
今の考古学者は、政治権力としては、近畿の権力が日本全土を支配したほうが自然であり
九州にあった政治権力が畿内へ東へ遷都する意味がないと居ている。
そこで、記紀を詳しく読むと分かるのだが、神武東征の前も後も
日本の中心は畿内にあり、神武の生まれ里の日向は辺境に過ぎず
また、神武が畿内で受け入れられた理由は、彼の出自が
畿内に前から住んでいた豪族たちと同じ出自だったことがわかる。
つまり、江戸時代にたとえると、和歌山の徳川吉宗が
江戸で征夷大将軍として向か入れられたのに似ている。
679 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 12:08:26.50
>>677 ナガスネヒコは、通称で、名前のごとく
ナガスネという地の領主だな。
イワレヒコ=イワレの領主
吉備津彦=吉備の領主
681 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 12:12:01.29
神武天皇は大和周辺ではまったく受け入れられていない。 孔舎衛坂で長髄彦と戦って以降、戦いの連続。まさに武力で制したという感じ。
>>669 考古学的な物的資料で判断すると間違った方向に行くよ。
戦国時代に南欧の物品が出てきたら
戦国時代に南欧人が日本を征服したとかと歴史解釈するぐらい
おかしな方向にいきやすい。
たとえば、現在の日本の物品って、その多くが海外から資源を買ったものだろう?
日本の至る所にある工業製品を調べたら、日本国外のものだらけになる。
>>681 しかも、軍事的に見て、神武東征は
神武側の負け戦で勝てる要素など殆どない。
にも、かかわらず、ナガスネヒコは負けた。
この戦争の主戦場は別のところにあったのでは?と思う。
神武軍は、日向から駆け付けた援軍に過ぎない。
684 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 12:17:50.56
考古学は本当に何でもありの解釈が可能。
685 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 12:28:09.34
畿内教w
686 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 13:01:08.00
>>674 神武天皇は「ホホデミノミコト」に在らせられます。
古社古伝ではホホデミノミコトは又の御名を彦火明尊。天火明命で在らせられ、
叉の御神名をば「天照国照彦天火明尊」。
の上陸地は伊勢湾北部沿岸部じゃないの?
687 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 13:03:49.00
一々同じ事を繰り返すなw
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書 21代 伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇(イザナギ)
22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(アマテラス)
23代 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇(アメノオシホミミ)
24代 天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(ニニギ)
第24代まで血縁関係が存在しない。
国王を選別する儀式があり、儀式で勝ち抜いた者が次の国王の資格を得る。
また、縄文人=シュメール系ユダヤ人 は、船でエジプトまで遠征していた強者。
片道約10ヶ月。
688 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 13:27:50.84
>>683 関が原と同様に「寝返り」があったんだろうね。
軍事作戦ではなく、政略で勝った。
689 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 14:23:20.10
変にこねくり回して考えずに、正直に読んだ方が良さそう。 高天原からニニギが日向に行って、ニギハヤヒが畿内に行く。 その後神武が東征する。 ナガスネヒコは強かったが、結局神武が畿内を降す。 以上神武東征終わり。
690 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 14:41:03.03
高天原から日向に邇邇芸命、出雲に天穂日命、大和に饒速日命が赴く つまり高天原は九州南部、山陰、近畿以外
691 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 15:06:09.07
>>687 縄文人=シュメール系ユダヤ人だとか、頭がくらくらするw
もう、頭がおかしいのかとw
>>690 高天原は、御所市高天。
出雲と高天の戦争が播磨国であったのにな、播磨国風土記によると。
記紀では、日本海側での激突しか記載されてないが、
播磨国風土記でも、播磨での激突が記載されている。
おそらく、こちらが高天軍と出雲軍の本体の戦い。
播磨と言えば、歴史的に、近畿地方と中国地方の緩衝地帯。
播磨国風土記や旧事本紀などによると
高天の王は火明命で、高天の先代の王だった忍穂耳命の嫡子であり、
また、弟にはニニギ命がいた。このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命(神武天皇)
この火明命の妃には、天道日女命がいて、彼女は出雲の大国主の皇女だった。
つまり、大国主と火明命の義理の親子の関係だった。
戦国時代に例えるのなら、斎藤道三と織田信長の関係に似ている。
戦国時代、斎藤道三は、娘婿の織田信長に 自分の領国を継承することを遺言に残した。 同じように、出雲の大国主も、娘婿の火明命に 自分の領国を継承することにした。これを出雲国譲りという。
694 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 15:22:38.06
>>692 そんな記述見たことないけど
ソースはある?
695 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 17:06:52.63
>>692 先に高天原を決めちゃうからおかしくなるんだよ。
記紀から読み取れることは、最初の舞台は筑紫及び黄泉の国、次に筑紫と出雲。
その後に高天原から南九州、出雲、大和に天孫降臨があって、神武東征へと続く。
国譲りの際に建御名方神は建御雷神に攻められ東へ東へと逃げて、諏訪でもう逃げられないと観念して降伏した。
神武が大和を攻めたときも、天照大神や高木神は高天原で援軍の話し合いをしてる。
神武は日向、宇佐、岡田宮、安芸、吉備を通り大和へと攻めた。
高天原には寄ってないみたいだけど、それら以外の地域といえばそんなに候補地はなさそうだよ。
出てこないのは東北ぐらいだな 昔から東北の方角は畏れられていたからな
697 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:07:26.22
出雲より西側だって
高天原=邪馬台国=大和 明快だな
699 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:17:40.89
出た畿内教w
伊邪那美が1000殺すうちに伊邪那岐は1500作るんじゃなかったのかw 伊邪那岐が衰えてるのか
701 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 22:23:35.27
>>692 高天原が奈良県だって 馬鹿馬鹿しい冗談だwww
高天原=エルサレム=アララトス山=富士山
ちなみに 高天原にピラミッド(日来神宮)があるが 奈良県にピラミッドにあるのか?
お薬出しておきますね 次の方どうぞ〜
始皇帝には蓬莱山が実在するという考えていた 中国皇帝の知識は偉大だったはずだ つまり、蓬莱山=高天原だ 徐福は遠すぎてたどり着けなかった よって、蓬莱山=南米アンデス、南米=高天原
704 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 00:10:32.96
付ける薬がない。
高天原は、現在の奈良県じゃない。 現在の奈良県御所市高天周辺の限定された地域。 また、ヤマトも、律令体制以後は、現在の奈良県全域をそういったが、 それ以前は、桜井市周辺の限定された地域をそういった。
>>694 播磨国風土記とか、旧事本紀、海部氏系図とか。
>>695 そんなふうに読み取れないよw
高天の原とは、もじどおり、高天というところの平原の地域。
このあたりの領主は、高天彦といった。
このあたりには、今でも、式内社の名神大社にあたる
高天彦神社が存在している。
なんでだよ。邪馬台国も狗奴国も日本書紀にでてこないだろ 日本書紀編纂当初では500年も前の文字のない歴史なんて忘れ去られてしまったんだよ
708 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 08:30:22.87
>>705 じゃ何故? 天海=明智光秀 は、東日本側へ来たんだ。
>>707 耶馬臺國はヤマト国だろ
臺与がイヨかトヨか揉めてるぐらいだしヤマト国と呼ぶ説は強い
狗奴国はクマソの国でないかな
敵対国も国名書いてないから無いとは言い切れない
710 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 09:41:20.71
マジで天海って明智光秀なの?
711 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 10:06:16.57
>>703 > 始皇帝には蓬莱山が実在するという考えていた
蓬莱山=富士山
という説もあるし、台湾の新高山ではないかという説もある。
712 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 10:10:27.69
天海さんはおいといて
>>706 地名以外に高天原が御所市高天だと思う理由っていうか根拠は何があるの?
高天原に関連するようなものってある?
南米湿地帯で甕棺入ってた連中はこっち側とYーDNAが同じでもいいんだが、発表が無い。直接海渡った連中だろ。シベリア周りの南米先住系に混じってる可能性もあるが遺跡だけ残し絶滅した可能性も在る。
715 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 15:28:01.62
>>714 当時の航海技術を考えると、やはりベーリング海峡を渡ったんだと思うね。
魏志倭人伝だと、東南に船で1年で裸国と黒歯国に着くとあるから 弥生時代には既に遠洋航海してたと思うよ 船旅の日にちは確かな情報だろう
717 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 19:14:26.52
718 :
期待!! :2012/05/14(月) 19:16:39.42
ブラジル世界遺産 セラ・ダ・カピバラ国立公園
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/セラ ・ダ・カピバラ国立公園
>この国立公園は世界屈指の考古学遺産を保護するために創設されたもので、
>時には100メートル以上の高さにもなる絶壁に刻まれた、
>古いものでは6万年前にも遡る3万点もの線刻岩絵群が残されている。
>人間の活動が見られる最下層は、35000年前から48000年前という開きを示した。
>異なる集会場跡から入手された7点の試料は、この分析にかけられ、オーストリア国立大学で分析された。
>試料は、48000年を超えることが明らかになり、55000年から60000年を示している。
720 :
日本@名無史さん :2012/05/14(月) 20:31:59.23
>>689 の言うとおり素直に読めばいいこと。
戦後の奇妙きてれつな妄想史観に惑わされずに。
高天が原という神話世界を水平にとってみれば、
ニニギという初代が、が長江方面から多くの部族ーといっても数百人規模だろうがー
を伴って、日向に渡ってきた。(稲作弥生人)
そこで三代暮らしたが、何せ土地は稲作を拡げるほど豊かではない。
そこで「美味しクに」を求めて東征に出た。
指導者の五瀬は河内の戦いの傷がもとで死亡したので、
末のイワレヒコが代わって、
紀伊半島を迂回して裏からヤマトに侵入してクニを建てた。(初代ヤマト王)
そして、小さなヤマトのクニが十代崇神になると日本という国を
統一しようと各地に軍を派遣した(四道将軍)。
それを妄想史観で、神武と崇神を分割して神話にまとめたとか、
つじつまのあわなくなることばからい、ああだ、ここだ、言ってるから、
日本の古代史は専門研究者、素人いかんに関わらず、
妄想史観のオンパレードになる。
神武天皇は記紀を読んでも分かる通り、 ヤマトの分家を畿内に建てたんだよ しかし九州の本家が衰退し、畿内が残り本家の様になった 記紀をそのまま解釈するとこうなる 大和朝廷の初期は、九州と畿内に重要な拠点が有った 九州にもヤマト国がしばらく残っていて、これが耶馬臺國だろう
畿内に行くまでにまず狗奴国を除く九州を統一していた 瀬戸内海沿岸諸国を同盟国or友好国とし畿内を攻めたが撃退されて吉備に引いた 数年軍備を整え再度攻めて上手くいった模様 狗奴国との紛争は大和朝廷にそのまま持ち越され狗奴国を完全に制圧したのは721年になってからである
>>721 逆だよw
近畿が本家で、九州が分家。
近畿の高天の王だった兄の火明命が、出雲を併合し、天下を統一。
その後、弟のニニギ命が、九州南部の地方官として、降臨。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命で、後世、神武天皇と呼ばれる。
江戸時代に例えると、火明命が徳川秀忠、ニニギ命が徳川頼宣ならば、
ワカミケヌ命(神武天皇)は徳川吉宗ともいえる。
ここで、問題なのは、徳川幕府の初代将軍は、
徳川秀忠、徳川頼宣の父親である徳川家康だったので
徳川吉宗も、初代将軍の男系子孫だったから、将軍の正統性があった。
しかし、ヤマト朝廷の場合、天下を統一したのは、火明命からであり、
火明命とニニギ命の父親である忍穂耳命は、
ヤマト朝廷の初代倭王になれなかった。
だとしたら、ニニギ命の男系子孫ではあっても、火明命の男系子孫ではない
神武皇統(現在の天皇家)に正統性はあるのか?ということである。
あと、狗奴国ってのは、許乃国のことであり、 ここの王は、武埴安彦命のことだ。 狗奴国は、山城国風土記に登場する許乃国で 現在の京都府宇治のあたり。
725 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 02:19:29.73
今は覆されてるかもしれんが、 全体的に九州のほうが100年ほど古いそうなんで、 九州本家に畿内分家に一票。 まあ、それ以前に「関係ない」説を推すが。 それでも、大戦争も起こさずに移行しているところを見ると、 親戚筋だったのかもしれんな。 どっちが本家でも、関係がなければ、統一の際に 大騒ぎの記録が残りそうなもんだが、それがないからな。
726 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 03:20:09.03
神武東遷神話は時系列で記されてる国譲り、天孫降臨の延長だと思う こういう話は基本は事実の反映が基だろうが長い間の伝達の間に変形、改竄が自然に加わり 客観的な復元は不可能 書になったのは8世紀初頭だが古く記されてるものほど変形、改竄がある可能性が大きく 論じても無意味に感じる
727 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 05:54:28.63
>>725 婚姻を通じての姻戚関係はあったかもしれないが、
織田は武田と親戚だったが大戦争をしている。
728 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 05:57:28.03
安芸や吉備を仲間にしてたとこをみると、出雲の国譲りの際に瀬戸内が銅鐸を捨て、その後に神武東征が行なわれた可能性が高い。 畿内が銅鐸を捨てたのは、神武東征によるもの。
案外知られていないことだが、 ヤマトにはすでに・・・ 宅配便があった!
730 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 07:34:04.28
狗奴国とは伊勢湾北部沿岸、大河(木曽川)から恵みを得た 高天原・広大な開墾地、今の愛知県一宮市萩原遺跡群を中心とした 濃尾平野一帯である。彦尊
九州の本家は熊襲に滅ぼされたんだよ 援軍の要請があると畿内から何度も遠征した 熊襲が強すぎたんだな 最終的には熊襲は大和朝廷に成敗されたが、結果を見ると畿内移住大成功だった
熊襲は強いよ 大和朝廷になってもものすごく姑息な手をつかわなきゃならないほど強い 長の馬鹿娘をプレゼント攻勢で買収して親父の寝首を掻かせるとか 別説では女装して助平心を出させてブスリとやったり しかもそれで一旦鎮圧したように見えてもすぐ叛かれるという
狗奴国は、許乃国であり、 狗奴国王の卑弥弓呼=許乃国の国主の彦命のことで、 これは、武埴安彦命のこと。 狗奴国の副官を拘右智卑狗といったそうだが これは、河内彦のこと。 武埴安彦命の母方や妃の実家が河内彦であり、 武埴安彦命は、母方の実家の後押しで モモソ媛命や三巻入彦(崇神天皇)に戦いを挑んだ。 これが、魏志倭人伝による、狗奴国王の乱だ。
734 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 13:57:33.75
また、高天の原とは、 高天という土地にあった原野を意味する言葉であり 高天という地名は現在まで続いている。 重要なのは、高天ヶ原、高天原という地名ではなく、 高天という地名で残っていること。 日本全国にある高天ヶ原という地名は、後世、記紀の神話の影響で 高天ヶ原と後付けでされたものが大半で。 本来、高天という地名で正解であり、そこの平原という意味で 高天の原といった。
736 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 15:38:34.87
>>724 山背国というバカにした名が
天皇が引越しする前に付けられた山城国(京都)の旧国名
737 :
日本@名無史さん :2012/05/15(火) 21:34:41.54
>>735 つまり 歴史捏造を受け入れるということでおkやろ
許乃国てのはふもとの国とか近くの国って意味っぽいね
739 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 12:40:10.11
邪馬台国と狗奴国の対立原因は食糧だろ?
740 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 16:25:20.53
応神もこっそり東征してる。
薩摩と長州もこっそり東征してる。 信長はこっそり四道将軍を派遣している。
742 :
日本@名無史さん :2012/05/16(水) 22:19:26.02
邪馬台国と狗奴国の対立は王位継承戦争。 武埴安彦命の乱のこと。
745 :
日本@名無史さん :2012/05/17(木) 17:56:58.60
考えてみれば、記紀の神武東征に銅鐸はまったく登場しない。 神武東征のときに銅鐸があったとすれば、ちょっとくらい書かれていても おかしくない。 なのに書かれていないということは、東征の前になくなって いたのかもしれない。ということは、銅鐸の終焉は神武東征の前に大和に 行ったとされる饒速日命と関係あるのかも。
>>745 その程度のことで断定するなよw
そもそも、銅鐸って名前は、近代人が考え出した
考古学上の便宜上の名前だぜ。
あれを当時の人間が、どのように呼んでいたのか、わかりようがない。
747 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 09:27:21.99
>>746 奈良時代には銅鐸の呼び名はついてるよ。
勿論記紀の編纂者も銅鐸の事は知っていた。
それでも記紀の内容に銅鐸について記されてないのは、日本の国家の成り立ちに関係のない代物だったのだろう。
つまり大和朝廷は銅鐸、及び2世紀までの畿内とは全く無縁である。
その反面、矛や鏡、勾玉や絹など北部九州由来の品々については、神代の頃から記載されている。
神武東征に銅鐸がないのは、制圧した勢力の信仰などに興味がなかっただけで、またそのような物を記す必要などないからである。
>>747 銅鐸という呼び名は明治以降につけられたもの。
江戸時代には田畑からたびたび発見され、形がさなぎに似ているので
「さなぎ」と呼ばれていた。
奈良時代にはなんて呼ばれてたの?
750 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 09:59:34.58
>>748 和銅6年に「銅鐸」。
天智7年に「奇異の宝鐸」。
調べてみて。
751 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:03:20.84
752 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:04:38.50
753 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:10:39.82
>>750 >奇異の宝鐸
これはカッコイイ!
ドラクエのアイテムに最適だ!
754 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:14:00.27
つまり、大和朝廷の誰も知らない、 奇異な出土物だったってことだね。
>>750 要するに、西暦7世紀ごろ、記紀が書かれていた時代には過去の遺物になっていて
銅鐸のことについて知られてなかったんだな。
ただ、それだけのこと。
756 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:30:36.43
>>746 銅鐸と言う名前が書かれているかどうかは問題ではない。
銅鐸らしきものの存在が書かれているかどうかが問題。
757 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:40:04.01
>>755 銅鐸については書かれてなくても勾玉や鏡については嫌と言う程書かれている。
もう一度
>>747 を読み直してみよう。
758 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 10:55:53.93
日本書紀にはいろんなことが書かれている。 たとえば、長髄彦が神武天皇に「同じ天神の子同士でどうして争わなくては ならないのですか」と言うと、「天神の子と言うなら証拠を持って来い」と。 そこで、長髄彦が饒速日命の天羽羽矢と歩靭を差し出すと、神武天皇は、 それを見て「天神の子に間違いない」と自分の天羽羽矢及び歩靭を見せた、 と言うようなことも書かれている。
>>756 日本書紀に大きな鈴、古事記に鐸が出てくるようだ
鈴はさなぎと呼ばれてたという説もあるし
さなぎ鈴てのが諏訪神社にある
760 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 17:16:22.10
後は東征の時期だ。 中国の史書によると266年に使者が来て以降、倭からの遣使はない。 それまでは度々使者を送り、戦の窮状まで訴えていたにも関わらず、ぱったりとやめてしまった。 中国との外交よりも優先される事があったのだろう。 狗奴国との戦さが終り、南九州の隼人を支配下に治めた邪馬台国は国力を増強させ、次の目標を大和においた。 出雲の国譲り以降、中国地方と友好関係を築いてきた高天原勢力は吉備の協力も得て大和を攻めた。
時系列をごっちゃにしてハヤトどうの語るなよw朝鮮人かよ。
762 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 17:33:04.43
邪馬台国=高天原説ね
763 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 17:55:16.24
銅鐸は縄でぶら下げて「風鈴みたいに音を出す」使い方をしたのではないかという説があるね。 もちろん納涼目的ではなく、祭祀目的ね。
764 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 17:56:55.97
765 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 17:59:24.05
766 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 18:32:53.67
建物の四隅に吊るしてたと思う 宝鐸
768 :
日本@名無史さん :2012/05/18(金) 21:17:14.55
吉野ヶ里遺跡には銅鐸がつるしてあった。 舌に紐が付いていて、その紐を揺らして音を鳴らすという具合。
高天の原 つまり、高天は、現在の奈良県御所市高天周辺の地域。 そこから、徐々に王権の中心地は、ヤマト(桜井市周辺)に移っていた。 その途中で、王族の親族で、九州高千穂へ地方官として派遣されたものがいた。 その王族が、ニニギ。現在の天皇家の先祖。
>>757 勾玉や鏡について、記紀が書かれた時点でも、記憶として残るような行事があっただけだろう?
771 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 12:56:14.84
>>770 そのとおり。
記紀では銅鐸については全く触れていない。
高度な技術が必要で、しかもあれほど特異な形をしているにも関わらず、大和朝廷の記憶には残っていない。
大和朝廷が畿内にその勢力を築く頃には、銅鐸はほぼ存在していなかった。
つまり2世紀の畿内と大和朝廷は全く無関係という事である。
逆に弥生時代の九州にみられる鏡や勾玉などは、記紀にも神代から登場し、まさに神宝として受け継がれている。
これらの品々もまた、2世紀の畿内からは殆ど見受けられない。
つまり大和朝廷にはその神代の頃から九州の記憶が残されており、神武東征の時期でさえ畿内はまるで未開の土地のように記されている。
尻尾生えてるし。
772 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 13:39:18.83
地名は故地への憧憬やを示す場合が多いからね。 根拠としてはまったく使えない。 ヨーク→ニュー・ヨーク 銀座→(田舎の)なんたら銀座 (エジプト)テーベ→(ギリシャ)テーベ
774 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 19:04:55.59
>>1 神武東征は史的事実だが、
なぜ3年(あるいは10年とも言われる)もの長きにわたって吉備にいたのか。
なぜ吉備で建国しなかったのか。あるいはできなかったのか。
後のヤマト王権と吉備勢力との確執を考えると、
そこのとことが今一はっきりしない。
775 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 21:47:39.80
前667年10月15日、東征のたびに出発。 宇佐を経て、11月9日、筑紫の国、岡水門に到着。 12月27日、安芸の国、埃宮に到着。 前666年3月6日、吉備の高島宮に到着。 ここで3年を過ごす。 前663年2月21日難波着。6月熊野、8月宇陀。12月 長髄彦を討つ。 前662年3月6日、橿原に都造営。 前661年9月24日、五十鈴媛と結婚。 前660年1月1日、即位。 日本書紀ではこのようになっている。最初の目的地は大和というわけでは なかったのかもしれない。
>>774 神武一行が取るに足らない勢力だったので逗留を許した
または吉備が最終目的地じゃないので儲けのため逗留を許した
ヤマト王権が勢力を増すと吉備王国と利害が対立し争った
777 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 22:53:53.20
>>776 吉備の王の食客だったということだわな
大和攻略の際には軍事供与も受けただろう
778 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 23:13:40.16
>>760 むしろ神武が出奔して以降、女王国は弱体化して滅びたのではなかろうか?
だとすると神武東征は卑弥呼の死後である可能性が高い
779 :
sss :2012/05/19(土) 23:38:54.40
卑弥呼は巫女的な女王。王になってから見たものは少ないというような存在。 恐らく、外敵は特に存在しないというような状態で、仲間内の利害調整に 専念するようなタイプだったのだろう。内輪もめの仲裁役だったわけである。 卑弥呼の在位は70年くらいと考えられるが、国としては非常な停滞期だったと いうことになる。 そのうち、狗奴国が敵として出現し、卑弥呼を揺さぶる。 卑弥呼が死に、男王が立つが国中が不服で結局、卑弥呼を踏襲した台与が王になる。 しかし、その後男王が再び立ち、共に中国の爵命を受ける。これで外向きに力を 発揮できる条件が整うことになる。 ちょうど、天照大神が天岩戸を出ると、高皇産霊尊が登場し、出雲の国譲り、 天孫の日向降臨などを主導したように…。
卑弥呼は暗殺や毒殺を恐れていただけだと思うが 見張り、柵、会えるのは限られた人のみとか よく有りがち 卑弥呼は国をまとめた女王ではない 国が纏まらないから仕方なく決まった女王
781 :
日本@名無史さん :2012/05/19(土) 23:54:42.07
>>779 アマテラスは倭国王帥升(=スサオ)と同時代の女王。卑弥呼ではない。
ニニギから数代で卑弥呼と同時代に神武とすれば計算は合う。
伊勢神宮臨時祭主に黒田清子さん
2012年5月7日 16時41分
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012050790162741.html?ref=rank 三重県伊勢市の伊勢神宮は7日、天皇陛下の長女で元皇族の黒田清子さん(43)が、昭和天皇の四女で神宮祭主の池田厚子さん(81)の補佐役として、臨時神宮祭主に就任したと発表した。就任は4月26日付。
伊勢神宮の鷹司尚武大宮司は就任の理由を「池田さまは高齢につき、支えとして式年遷宮の完遂に至る間、就任していただく」とコメントを発表した。
神宮祭主は、伊勢神宮の祭りを天皇陛下の大御手代(おおみてしろ)(代理)としてつかさどる伊勢神宮固有の役職。天皇陛下が皇族または元皇族から任命される。
祭主(さいしゅ)とは、伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職である。
現在の祭主は池田厚子様で、戦後は皇族出身の女性が就任していれることから斎宮と混同されることもあるが、斎宮は神宮に仕えた未婚の皇族女性のことで南北朝時代に廃絶した。
妹王の伝統は今でも引き継がれていますね。
783 :
satan :2012/05/20(日) 09:27:43.51
世帯のリストが増えていく・・ 楽しい どれだけの女や少女や幼女を 弄べるだろう
784 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 00:55:39.17
>>776 > または吉備が最終目的地じゃないので儲けのため逗留を許した
足利義昭が越前や尾張にいたようなもんかな。
785 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 13:53:45.88
>儲けのため逗留を許した 室町時代の尾張は話にならないレベルの町だし 儲けの目的で逗留するなんて越前なんて有り得ないだろう
786 :
日本@名無史さん :2012/05/21(月) 18:31:35.70
788 :
774 :2012/05/22(火) 20:40:29.72
記紀では美味しクニを求めて東征して、ヤマトに入ったとあるが、 それは後付の理由で、 実際は吉備を狙ったのではないか。 しかし、吉備にはそれぞれに勢力を張っている領主がいて、 そこそこまとまりがあったので、新参者の天孫族(これも後付の権威つけの名称だが) はかろうじて僻地に根を下ろしていたのではないか。 で、吉備攻略を諦めてヤマトへ向かった。 考古学的あるいは様々な歴史的状況からみて、 出雲、吉備がヤマト王権が統一王朝を目指す以前は最大のまとまりのある勢力圏だった。 プレヤマト王権(天孫族)はヤマトの根拠を持ち、 徐々に河内(物部の本拠地だから親戚みたいな地域)や南山背など近隣に 勢力を拡げ、崇神の時に勇躍打って出て、吉備、出雲を攻略した。 しかし、もとも古くからの根強い勢力圏だから、 完全に屈服させるまでには時間がかかった。
789 :
日本@名無史さん :2012/05/22(火) 22:36:57.49
>>788 記紀は皇室の歴史書と言われる。
後の朝廷が、自分たちは九州からやってきたとの文献を残しているのに、
吉備だ出雲だと言うのはちょっとおかしいと思うが…。
出雲や吉備が強かったので 間を飛ばして畿内に向かったと書いてあるようだが もしかするとニギハヤヒが友好的に迎えてくれるという 期待感が有ったのかもしれんな ところが河内で予想外の抵抗にあい兄死亡
791 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 10:10:01.76
出雲は東征の前の段階で国譲りによって高天原に降っている。 恐らく大和や越、吉備なども出雲の勢力下だった。 饒速日命を送っていたこともあり、神武は安芸、吉備と東征していく中、大和も抵抗なく降るだろうと思っていたのだろう。 思わぬ抵抗に合い兄は戦死、自分が天孫族である事を示しても服従する様子はない。 見かねた天照大神や高木神は主力部隊の建御雷神を向かわせようとする。 しかし先進的な武器(鉄器か)で十分と判断し武器を送り、先遣部隊による内応も成功し大和を攻め落とした。
792 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 10:32:54.54
松代
793 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 15:18:14.27
隼人族は東征以前から交易を通じて畿内の情勢を知っていたようだ。 出雲が先に大和を押さえる前に、九州の勢力がここを取れば、出雲を挟み撃ちにする事が出来る。 ニニギ氏族の後継者・神武は、宇佐に出向いて筑紫の女王をこのように説き伏せ、出陣の許可を得たに違いない。
794 :
satan :2012/05/23(水) 15:31:06.30
みなさんは 世帯のデータを 落としてくれる とてもありがたい
795 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 17:43:49.66
>>793 畿内は隼人との交流よりも、出雲との交流の方が早かった。
九州が武器や鏡を祭祀に使用している頃、既に畿内は出雲や瀬戸内東部と共に銅鐸を使用していた。
大国主命の婚姻関係などをみても、出雲の勢力はかなり大きなものであった事が分かる。
或いは国譲り以前は高天原勢力よりも広範囲に力を及ぼしていただろう。
東征の際に吉備からの抵抗が無かったのは、国譲りが行われた後であったからである。
796 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 18:02:06.71
吉備と出雲の関係は「良くも悪くもなかった」時期が長かったという説があるね。 下手に戦争して長期の消耗戦になればどっちも困るということもあるんだろうね。
797 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 18:22:02.29
出雲と吉備、若干の文化の違いがあったかもしれないが、初期の銅鐸から共に祭祀の対象としている。 つまり九州の鏡、武器、勾玉を祭る文化とは異質であるが、吉備も出雲も銅鐸を信仰の道具として使う点では極めて類似性のある文化と言える。 しかし東征後の吉備の地位を考えると、神武東征の際、高天原にかなりの協力をした事が伺える。
798 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 19:41:23.85
「国譲り」というのはその後のヤマト政権側からの バイアスがかかった表現/認識であり、 実際には出雲と筑紫の相互不可侵条約以上のものではなかったであろう。 この間、筑紫は隼人平定のためニニギ氏族を南九州に遣わし(=天孫降臨)、 一方出雲は大和・諏訪等本州内陸に駒を進めて属領を確保したのである。
799 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 19:49:14.40
日向にニニギを遣わしたのは高天原でつまり畿内で、つまり出雲なんでしょ?
800 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 23:10:27.46
>>799 違う。ニニギ氏族の主君は筑紫の女王。
中国と歴年通行して来た倭国とは北九州の事であり、スサノオ(=出雲国王帥升)の代に出雲と紛争状態になったのも筑紫。
大和は神武の東征(と、それ以前からの出雲の進出)において始めて歴史の現場となるのであり、
それ以前の段階には一切関与していない。
出雲と筑紫、いずれかの属領(=植民地)として争われた大和が、
次第に力をつけて継体朝に至りついに旧宗主国の筑紫を支配下に治める。
そういう歴史の流れだ。
801 :
日本@名無史さん :2012/05/23(水) 23:56:44.68
日陰暮らしのひもじい越前の山賊継体大王は 日本の本流歴史には寄ってもないのが正しい
802 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 00:36:28.80
803 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 01:24:10.12
畿内が高天原ではない理由。 イザナギは黄泉の国から畿内ではなく筑紫に逃げ帰った。 天照大神も筑紫で生まれた。 出雲の国譲りの際、船で出雲の西側の稲佐浜に乗り付けた。 建御名方神は建御雷神に追われ東へ東へと逃げている。 畿内を通り過ぎて諏訪で逃げきれないと観念し降伏する。 その後高天原から出雲、大和、そして日向へ天降りしている。 つまり出雲、大和、日向は高天原ではない。 神武東征は日向から宇佐、岡水門、安芸、吉備を通り大和を攻める。 以上の地域も高天原ではない。特に畿内は未開の地のように書かれている。 高天原の描写には畿内の銅鐸のようなものは一切なく、鏡や絹、勾玉や矛など弥生時代では九州に見られるものばかり。
高天原は南米です 天孫は太平洋を越えてやって来たんです アマゾン=天津=アマ孫=天孫
805 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 02:20:16.84
考古学的にも文献的にも畿内が日本の中心となるのは神武東征後の古墳時代からである。 とても畿内が高天原とは言えない。
806 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 12:43:26.00
>>803 古事記によると、
勝ち目がないと見た建御名方神はただちに逃げ出した。そこで建御雷神が
建御名方神を追いかけ、信濃国の諏訪湖に追いつめて殺そうとした。
確かに、建御雷神らは高天原から派遣されたわけだから、劣勢の建御名方神が
逃げるときに敵の本拠地のほうに逃げることはありえないな。
普通は反対方向に逃げる。
記紀はよく読むと微妙に面白いことが書かれている。
807 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 21:12:34.60
神武東征の歴史的時期となると、 倭の大乱の時代に比定するのが相応しいだろう。 「後漢書」の記載する、 桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)というのは、限定的すぎて いささか怪しいが、 2世紀初めくらいから3世紀初めくらいまでとみて、間違いはないだろう。 戦乱の世になって、 日向の一豪族がこの時期に勇躍美味しクニを求めて旅立っていった。 結果としてヤマトに建国することになるが、 そのことが後付の理由として、 ヤマトがイスラエルの民の約束されたカナンの地と同じ意味をになうことになったのだろう。 古代歌謡なんかでも代々の王はこのヤマトの地を愛たことが窺えるから、 ヤマト王権もいつしかヤマトは約束された地だった。 そして、それをさらに日本全体に及ぼして、 日本(倭、ヤマト)は天孫族の約束された地であったと見なすようにようになったのだろう。
808 :
日本@名無史さん :2012/05/24(木) 21:32:44.06
出日向して畿内向かったのは人口爆発が原因であろう。 男王(伊邪那岐)の力が強すぎるよって女王(伊邪那美)を立てて人口漸減を図ろうとしていたが、 それに反発した男系神武はついに日向を出た。 女が嫌いなので畿内の戦いでは女賊といえど容赦せず誅殺していった。
そんな話は書いてないよ 政略的な観点から吾平津姫を正妻から降ろして多多良五十鈴姫を正妻にして 吾平津姫の子の手研耳は父・神武の正妻の多多良五十鈴姫を手篭めにし正妻として さらに多多良五十鈴姫の子たちを根絶やしにしようとして逆に殺される こういう神武晩年と二代目のとこはドロドロしすぎてなんかいやだな・・・
北イスラエル王国エルサレム = 高天原
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=114 「荒地に水を引く」という表現は、旧約聖書において、神の祝福が再び訪れることを意味します。
更にイザヤ書には「城壁の間に水溜めを造り、古い池の水を入れた」という記述だけでなく、
「高い丘の上に水路が造られて水を運ぶ」ことや、「水のない地を流れる水路」、
「不毛の高原に大河を開く」という表現等、山の上に水路を造成して貯水する記述が、
見受けられます。これらに共通するキーポイントは、不毛の山地に水を引くことによって「荒れ野が園」になり、
「花が咲く」聖地となることです。イスラエルの首都エルサレムも元来、水源の乏しい山の上に築かれた街ですが、
ヘゼキヤ王の時代に、城の中心部に向かって水路のトンネルが掘られ、街に水が供給されるようになり、
神の都として栄えました。また、イザヤ書には「東の海の島々」において神を拝するという記述もあることから、
その聖なる山が日本列島のどこかに存在しても不思議ではありません。
皆神山じゃないよw
高天原はアンデス。こっちは科学的w
南米先住民族の人類遺伝学的研究
https://kaken.nii.ac.jp/ja/p/09041195 >高地のアンデス先住民族は日本人と同じ1型を保有していた。
>アンデス先住民族の中には『九州西南部』に分布する日本人と全く同型のものが多く分布するが、
>他全域の先住民族(上記のHTLVの2型を保有)では類似型はほとんど検出されない。
九州南西部とアンデスの先住民にだけ同じ型のウィルスが見られる
なぜ天孫降臨が九州南部だったのか?
それは太平洋を渡って来たからだ。記紀は正しかった。
高天原=アンデス=蓬莱山だろう
インカも太陽信仰だよ、もう滅んだけど
812 :
日本@名無史さん :2012/05/25(金) 23:08:04.19
>>811 逆だっつうの。南米湿地帯で甕棺入った遺跡が見つかってる。これは南から海渡った連中だろ。YーD系見つかっても可笑しく無いがな
813 :
日本@名無史さん :2012/05/25(金) 23:50:55.31
>>813 医学的・科学的データを否定できる文系様だなw
>>812 いやいや
九州南部と南米ってことは、海流からいって南米→九州が妥当
日本→南米だと、東日本や北アメリカに痕跡が無いのが変すぎる
インドタミールから西周り集団か? それも間に痕跡が欲しいな南米を東から西に貫く訳だし更に海に出る壮大過ぎ
817 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 05:39:06.30
818 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 05:41:10.96
A-B-DR 奈良 大阪 島根 岡山 宮崎 韓国 24-52-15. 10.08 8.96. 10.54 9.31 8.94 2.5 33-44-13 5.43 4.59 4.66 3.58 3.43 3.9 24-07-01 3.88 3.75 5.98 4.96 3.87 2.6 24-54-04 2.77 2.83 2.36 2.95 3.68 1.5 02-46-08 2.05 2.19 2.55 2.18 2.17 2.0 26-61-09 1.11 1.70 2.62 2.11 2.26 0.9 11-62-04 1.19 1.36 1.38 1.04 1.04 1.9 24-61-09 1.72 1.53 0.93 1.57 1.67 0.5 24-59-04 0.97 1.09 1.22 1.32 1.16 1.0 11-54-04 1.34 1.02 1.31 0.99 1.13 0.4 Analysis of HLA gene frequencies and HLA haplotype frequencies for bone marrow donors in Japan Moriyama Y, Kato K, Mura T, Juji T. Japanese Red Cross Society
後漢書倭人伝 「女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。 女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。 朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。」 東南に1年航海して着く場所ってどこだ? 何故1年もかけて着く事が分かっていたのだろうか?
821 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 10:43:26.89
古くから交易があったからじゃない? ゴホウラガイなどは紀元前から九州を中心に各地でみられる。 沖縄以南との交流があったことは間違いない。
貝はヤバイ産物基地外中国がなw
>>823 だからそれは多分甕棺入ってた連中に関係するかも南米でYーD系血統集団探すべき。沖縄日本移民除き
825 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 11:14:01.69
>>825 うん、全然付かない
DNAとか言いながらATLとか寄生虫とか無視してるし
可能な限りのデータを集めた上で推論すべき
論文として落第
827 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 12:31:31.62
でもまあ神武東征には関係なさそうだからいいじゃん
828 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 14:44:01.10
>>820 > 朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。」
1年ではなく、1日か一月の誤りではないか?
829 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 17:02:12.95
830 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 19:25:59.80
高天原は出雲より西側で、神武が東征の際に訪れた吉備、安芸、豊前、豊後、日向以外の場所。 勿論東征の最終目的地である大和ではない。 薩摩と大隅は日向の一部であったので、そうなると残るは筑紫、肥前、肥後のいずれか。 または国外に求めなければならない。 しかし高天原には鏡や矛、勾玉、絹があったことから弥生時代の九州北部が最も整合性が得られる。
大阪湾上陸作戦で天津に向かって戦うのは縁起が悪いと言っていた神武。 もちろん神武の出自は天津神。
>>830 神武は筑紫にも立ち寄っているから
高天原は、肥国(肥前、肥後)に絞られる。
それなら高天原には肥後がふさわしい。 南の狗奴国と戦っていた邪馬台国の有力比定地のひとつ。 高千穂・阿蘇を後背地とする肥後熊本の地。
いや、降臨した地に近すぎるだろw だった
降臨した上空が高天原で地上の高天原は熊本にあった 自然災害を防御する王城の地にふさわしい地形だな 火の国肥の国は日の国に通ず
837 :
日本@名無史さん :2012/05/26(土) 21:57:20.93
人吉えびの都城から、東の日向国に降りていけば 天孫降臨説に合わないこともない。 もうひとつ 糸島の伊都国から、日向峠を東に下って行くと 福岡平野の室見川流域。これも合わないこともない。 どっちかわからんので保留。
838 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 03:19:32.41
>>835 巨人やヤクルトが横浜に「遠征」するようなもんだな。
839 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 03:45:16.66
高千穂峡→延岡が天孫降臨ルートか。 熊本平野の美称に「詫摩が原」というのがある。
1300年前の人間でさえ、神代と人代の区別がついているというのに
詫摩が原ってタクマガハラ? 九州で地名の原をハラって呼ぶことは無くはないけど少ないよな
842 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 08:06:11.01
>>832 神武は筑後地方にも行ってないね。
日向も宇佐も高千穂も筑紫だから、筑紫って言葉を使うと面倒くさくなる。
高天原の候補地として熊本もありそうだけど、弥生時代の九州を見ると筑後川流域が中心っぽい。
843 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 09:56:57.85
筑後川は氾濫するから流域には人はあんまり住めなかったはず。
844 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 10:23:01.95
でも筑後川周辺には弥生遺跡が密集してるよ。
845 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 10:36:19.74
熊本市を流れているのは白川だが、あれも氾濫する川だったらしく、 古代は何もない町だった。 熊本市が発展するのは、加藤清正が熊本城を築いてから。 古代の熊本は、菊池川流域と南部の緑川流域が主役だった。 ひょっとしたら、球磨川流域も発展していたのかもしれない。 ちなみに、緑川の河口周辺から真東に進むと、高千穂町を経て延岡に到る。 もう少し南のほうから東に進むと、えびの、小林を経て高千穂峰を右手に 見ながら宮崎に到る。
846 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 10:56:24.16
ナイル、メソポタミア、インダス、黄河、長江、全て氾濫する河の周辺で文明が発展してる。 氾濫のリスクより絶えることのない豊富な水の量と肥沃な土壌を選んだ。
847 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 12:47:01.19
筑後川流域の水域と思われる場所には遺跡がなく、 それより標高が上のところにはびっしり遺跡がある。 いまでも、この境界と思われるところに、 国道や県道が走っていて、道より上と下で、 遺跡の有無や土質、地下水の性質がはっきりと 変わる場所がある。
848 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 14:04:18.44
>>847 いやいや弥生時代の遺跡は筑後川流域にびっしりありますよ。
下流では諸富辺りまで。
勿論標高の高い場所にもありますが。
849 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 14:53:58.73
いわゆる河岸段丘ってやつですね。 古代の道が通っていたはずです。
古代集権国家成立以前に、農耕に不向きなのは海岸や大河沿いの湿地だぞ。 筑後川を大河だと思っているやつも、ナイル川氾濫原に文明が成立したから 筑後川もとか言っているやつも、両方アホウだ。
851 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 18:40:38.65
佐賀や鳥栖の遺跡地図を見ると、 小規模集落が海に向かって伸びてきているのがわかる。 海が引いていくのに従って、海が湿地帯となり、 やがて耕作可能地となっていったのだろう。 その名残なのかどうかは知らないが、 神埼市、旧三田川町などが、山から筑後川や海に伸びた形になっている。
852 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:03:09.37
>>839 間違って高千穂峡だと思ってる大衆が多いけど
霧島連峰の高千穂峰に降り立つニニギノミコト天孫降臨の舞台
高千穂の峰としっかり古事記、日本書紀の文献に物語されてるのは
853 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:09:27.44
高天が原というのは神話の世界、 そこからニニギが日向に降り立ったというからには、 歴史的にはそれ以前にいたところ、 江南の長江流域以外にはないが、 ただ、そこが高天が原というつもりはない。 歴史的な事象を断ち切ったところでなりたつ神話世界だから。
854 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:22:54.42
>>839 歴史的な事象を抽象化したのが神話として甦る
855 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:24:57.22
>>853 歴史的な事象を抽象化したのが神話として甦る
856 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:37:47.41
>>855 マジレスするとここが神話の難しいところ。
確かに一面では
>歴史的な事象を抽象化
するという要素がないことはないが、
神話は伝播し、借用され、盗用されるものでもある。
三種の神器なんて淵源を辿れば、
(確か)スキタイ謹話がギリシアやその他の世界に伝播したもの。
神器という観念があとづけの宗教的なガジェットの一種だから。
神武と吉備はいったいどういう関係だったんですかね 吉備が大和を支配していた勢力に従っていたのなら、いったん吉備に退いた神武の首を ヤマトに差し出すこともありえそうだけどしなかったっていうことから色々考えられそうだけど
858 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:45:58.17
>>856 個人的感想なんかより
理屈抜きの世界だからな
吉備は朝鮮ルートの経路
神武は倭と周系の集合体
859 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:47:37.18
ニニギを天孫降臨させた派遣元の高天原は大和
860 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 21:53:18.91
橿原が大和発祥の本家なんだが 山に囲まれた奈良盆地に文明を造りだす力などある訳がない
861 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 22:33:15.83
>>857 神武天皇は吉備を支配した。ここからかなりの人間を大和に連れて行った。
なので、大和には吉備系の土器が見られる。
>>858 周じゃなくて呉越だろ。しかも逃散した貧乏人だけだから武器も文字も中国文明の技術は何も持っていない。
唯一持っていたのは、米粒だけ。
863 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 22:59:44.75
>>862 貧乏思考は朝鮮が数百倍倍スゴイだろうな
864 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 23:11:35.80
ニニギを天孫降臨させた派遣元の高天原は筑紫。 出航して宇佐、そして筑紫へ向かっている。 宇佐で吉凶を占い、吉と出た。そして筑紫高天原へ向かい東征に向かいますがよろしいでしょうか、 とお伺いを立て許可を受けて東へ向かったと思われる。
865 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 23:16:39.86
>>862 >しかも逃散した貧乏人だけだから武器も文字も中国文明の技術は何も持っていない。
どさくさに紛れて来た朝鮮渡来人のことだろ
弱きに強く強きに媚びる思考をさせるのはおそらく朝鮮渡来人の血であろう 日本人にも遍くわずかに含まれている
867 :
日本@名無史さん :2012/05/27(日) 23:31:47.36
朝鮮渡来人こそ何も持ってないだろ 稲作も半島経由でなく中国から直接もたらされたものでほとんど確定している 技術だって朝鮮にあって中国にないものなんて無い メソポタミアの影響を受けつつ中国渡来系も入り込み日本の文明の元になった 朝鮮はあったものを盗ったり略奪したり簒奪しようとしたりしただけ
かつて天孫降臨を命じた畿内高天原がチョンに乗っ取られたから東征した説。 吉備は神武を積極支援したと思われるし、出雲も少なくとも是認はした。 畿内以外が中立〜支援の形であったのはそれなりの理由があったはず。
春秋の呉越から軍事力を含む統率された集団移住があれば、 紀元前に日本列島の稲作文化圏は漢字文化になっているだろ。 軍事力からして、日本現地のそれとは、今の米機動部隊とソマリア海賊程度の差がある。 魏志倭人伝を見ても、呉越の技術を示す痕跡は影も形もない。 呉越からの人の移動を示唆する唯一の根拠は、寒冷地適応していない水稲だ。
自己防衛以上の軍事力を含んだ国の統率下で移住がされたとは考えられないな。 国や賊からの収奪から逃れられる別天地を求めて日本にやってきて稲作を始めたんではないかな。
自己防衛のためだろうと何だろうと、当時漢民族と対等に戦争してた連中が、 使っていた武器を持ってきたなら、痕跡が残っているはずだろ。 くり返すが、三国志の魏の時代の日本には、春秋呉越の文化を示す痕跡はきれいさっぱり何もない。
NHKのプロフェッショナルという番組で紹介されている、左野という石工、石の目を読む能力があるという。 ピラミッド、モアイ像、高松塚古墳の修復にも携わった。 1日数千回のみを打ち込む底知れぬ腕力。彼こそ、野見の宿禰の子孫だ。 佐野原聖地=神武天皇生誕伝説地だ。
おまえら、何度言ったら分かるのかw 出雲国譲りの経緯を見ても、高天の原は 葛城地方のあたり。 現在の奈良県御所市高天
はいはい。
875 :
日本@名無史さん :2012/05/29(火) 06:31:12.66
神武天皇徳島出発説 徳島は日に向かう地形 太陽に対しても畿内に対しても向かう地形であり日向であり阿波である徳島 九州に向かいそこを勢力範囲にしてから畿内を攻めるシナリオ
神武天皇は架空の天皇。初代は明治天皇。
878 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 07:05:04.96
神武系図男王(狗奴国)は彦御子。
879 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 07:19:20.50
そのとおり。神武は男系で女王などありえんのだ。
880 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 07:40:44.03
天照大神は? 高天原を治めたんだよ。 まあ、男系としては高木神の方だけどね。
途中で苦戦しているが、無理せずにいったん吉備まで撤退すればよかったのではないか?
882 :
日本@名無史さん :2012/05/30(水) 20:13:53.13
>>881 そこが神武を神武たらしめたところではないか。
吉備あるいは遡って日向に帰ったとしたら英雄にはならない。
幾分神話的な尾ひれがついたとしても、
イワレヒコ英雄伝説というが語り継がれてきたからそこ、
記録として残った。
戦後一時期おかしな連中がやっきになって否定抹殺しようとしたが、
(今でもそういうとんちんかんな生き残りはいる)
どこの国もある建国の英雄の物語も一つ。
もちろん潤色はある。
最たるものが前660年の紀元説ということになる。
実際は倭の大乱時(2〜3世紀初め)。
魏志倭人伝では卑弥呼を建てる事で倭の大乱が治まったと有るんだから 当時すでに大規模な王権が出来ていたと考えられる 多数の小国が争ってる時に新しい王が出ても誰も従わないぞ 不満がつのり各地で反乱が起き 新しい王を立てて治まるってのが良く有るパターン
ていうかさ。この頃の敵対勢力ってその後どうなったの?大和朝廷が 出来るまでに争いがあったなら敵対勢力もかなり大きいよね。 後に大和朝廷に帰属するにしても野党みたいなもので残ると思うんだけど。 蝦夷は残ったけど、他の人らどこいったんだろう?
おまえら、いろいろ自分で推測するのはいいけど 最低、日本書紀や古事記、中国の史書などを原文で ちゃんで読まないとなw おまえら、ほとんど読まずに、勝手に推測しているだろう?
>>883 あの魏志倭人伝の書き方だと
卑弥呼は初代倭王ではなくて、
卑弥呼よりもずっと前に、卑弥呼の先祖、あるいは、その親族によって
全国規模の王権が誕生していたとみるべきなんだよ。
記紀を読めばわかるけど 神武天皇ってのは、記紀の原文にも出てこない。 現在の天皇家の先祖に、日向出身のワカミケヌ命という人物がおり、 彼が畿内に東征、移住後、イワレヒコと名乗ったとある。 記紀が出来て数十年後に、この人物に神武天皇という漢風諡号が贈られた。 記紀を全部読めばわかるのだが 現在の天皇家の王朝は、出雲国譲りの時に誕生している。 それから、数代後に、神武東征があるわけだから、 イワレヒコは、ヤマト朝廷の創始者ではなく 中興の祖ぐらいの人物だということがわかる。
888 :
887 :2012/05/31(木) 09:48:15.18
じゃ、ヤマト朝廷の誕生が出雲国譲りからだとしたら、 その時の天皇家の先祖は何をしていたのかということだが その時の天皇家の先祖はニニギ命といって、 出雲国譲りの直後、九州高千穂に飛ばされる。 要するに、出雲国譲りからヤマト朝廷の誕生した瞬間としたら その時、天皇家の先祖は、ヤマト朝廷側の人間だとしても その本流にはいなかったことになる。
>>887 神武天皇は中の卷から登場する
それ以前は神話と考えるべき
祖父がニニギではない
天孫降臨から179万2470余年経ったと回想してるし
父のヒコホホデミは五百八十年高千穗の宮で暮らしたと書いてる
ニニギは醜女を拒否した事で寿命が与えられたと有るぐらいだ
神武の前の代は人ではない、時代区分として見るべき
ニニギが降臨してニニギ時代(トクガワ時代の様な物)が始まり
弟の山幸彦が勝利してウガヤフキアヘズ時代が続いたと考えられる
890 :
日本@名無史さん :2012/05/31(木) 12:27:37.04
都合のいいところだけ信じるなよw 初期の天皇も100年、200年生きる時点でもはや人間じゃないだろ 記紀が作り話なら天皇家なんて嘘っぱち、ただ九州で栄えてた弥生文化が4世紀頃に畿内の文化を駆逐して大和で繁栄しただけのことw
891 :
日本@名無史さん :2012/05/31(木) 15:45:10.18
下戸遺伝子、というか、酒の飲めない人間の分布と 弥生人と批准される人々の分布はぴたりと一致する。 大陸では北方も南方系も酒豪で、江南を中心に分布する。 つまり、出雲も九州北部も近畿も全部この地域からやってきたほぼ同じ民族。 ただ、日本にやってきた後に気候や大陸の影響などから二つに分裂し 一時的に不和になっていただけ。
日本人は 母方から受け継がれるミトコンドリア遺伝子でみたら 一番近いのが、中国南部人で、 その次に近いのが、中国北部人や朝鮮人らしい。 アイヌはこれよりも遠い。 しかしながら、父方から受け継がれるY染色体で見ると アイヌ人や沖縄人に圧倒的に近く 中国人や朝鮮人は、それよりも大分遠い。
また、近年、考古学上の年代や考え方が大きく変わってきている。 それによると、日本で農耕が始まったのは、 遅くとも6000年前くらいからで、その時代から稲作が始まっていた。 また、水稲農耕が開始されたのも、遅くとも3000年くらい前からで、 この水稲農耕が開始されたあたりから弥生時代と解釈する学者が多い。 よって、神武東征が仮に歴史的事実だとしても、 それは、おそらく2000年くらい前の話なので 神武東征をもって、縄文から弥生への移行という考古学的な解釈は だいぶん、無理になってきている。 なぜなら、神武東征というのは、日本で農耕が始まって既に 数千年時代が経過した頃の出来事なのだ。
母系はアジア種はインドM系からの派生で血統的に大差無い。重要なのはYーD系血統集団かそれ以外かだろ。
895 :
satan :2012/05/31(木) 20:29:18.31
天皇に媚びたい・・ 昔の天皇のスレとか挙げれば もしかしたら 宮内庁がほめてくれるかも・・ おまえら奴隷カ犬みたいな存在 餌が欲しい金が欲しいダカラ目上の人間に媚びる お前ら 天皇の糞でも喜んで食べるだろ
896 :
satan :2012/05/31(木) 20:30:30.08
解かってるけど おまえら プライドないよねw
だれか
>>884 に答えてくれ。大和朝廷に逆らった勢力ってどうなったの?
>>897 反乱はずっと起きてるよ
クマソ、エミシ、鎌倉幕府とか
敵対勢力を全滅させたら損だから普通えらい人だけを罰する
それでほっとくとまた反乱するw
朝廷の歴史は反乱の制圧と内部抗争が千年の歴史になってる
ただ出雲勢力とは殲滅するまで戦ったようだ、出雲のエライ人には
絶対に日本の政治に関わらないという伝説が有る
今でも選挙は全部棄権するそうだ
>>890 神武から仁徳ぐらいまでは、倍年だと思ってる
すると神武の出発も婚期も寿命も全部マトモな数字になる
魏志倭人伝にも春と秋に年を数えると有るしな
>>898 反乱勢力は文字を持たない勢力ばっかりだったのかな?
反対勢力が書いた歴史書とかあれば、日本の古代がはっきりするのに。
と言うか、神武以降の欠史八代ってのは、日本神話のお約束で不特定多数を意味する八なのに (記録に残っていない沢山の代を重ねての意) 無理やり、実数の八に合わせたから、年齢を引き伸ばしたりで、無茶苦茶になったんじゃないの?
>>884 普通に大和民族に吸収されたんじゃ無いの?
大和民族って遺伝子的にも色んな人種が入り組んでるんでしょ?
早めに帰属した方が良いポジションにつけるから、とかあったと思うし
野党ポジションだと、何かしら言いがかりをつけられて潰されそうだし
でる杭は打たれるよ
吸収されたなら生き残ってはいるんだろうな。 どっかの旧家から当時の事を書き記した日記みたいのが発見されれば 面白いのに。
吸収された時点で「俺らは何々の神(命)の末裔だ」とか言ってブイブイ言わせてそうな気もする 江戸時代の武士の家系図みたいな感じで
>>902 日本人は骨髄調べたら、半島人や台湾人に比べて、単一。
>>901 欠史八代という言葉自体、後世の人間が考え出した言葉。
実は、よく記紀を読んでみると、欠史というわけではない。
日本書紀には、二代目天皇の即位の経緯が詳しく記載されているし
7代目、8代目、9代目の子息や兄弟の記述が多く登場する。
>>905 大陸系とか、南方系とか、色々混ざってるんじゃなかった?
実際に単一民族に近いのかな?
敵対勢力=異民族では無いけど
>>907 人種と民族は違うんだよw
というか、この世に純粋な人種なんて存在しない。
人間、誰も、二人の親がおり、その先には4人の祖父母がおり
その先には8人の曽祖父母がいる。
28代さかのぼれば、単純計算1億人の先祖がいる。
こうなると、そりゃ、いろんな先祖がいるだろう?
骨髄調べたら、一番、純潔だったのは、アイスランド人。
この民族は本当に外から隔離されていたので、
遺伝子研究のサンプルになることが多い。
それ以外の民族は、どこでもかしこでも、混じっている。
ちなみに、台湾、日本、韓国だと、
日本が一番、単一的で、その次が韓国、その次が台湾。
神武東征の話を考古学上の 縄文とか弥生に例えるやつが多いんだけど、 たぶん、ほとんど無関係だよ。 最近の考古学だと、縄文時代は陸稲などの稲作が開始されていたり 水稲の開始時期に近い弥生時代の開始時期も、 約3000年前とする意見が出てきた。 仮に神武東征があったとしても、それは、約2000年前のことだから 農耕が開始されて数千年、水稲が開始されたのを弥生時代と解釈しても それから1000年以上経過した時代が神武東征の時期ということになる。
910 :
日本@名無史さん :2012/05/31(木) 23:57:20.58
>>910 古墳時代、弥生時代なんての分岐法も
近代の人間が勝手に区分した便宜上の考古学区分にすぎない。
古墳時代をどう捉えているのか知らないけど
纏向遺跡の古墳群の発生時期で西暦3世紀から見るのなら、
神武天皇ことイワレヒコは、完全に弥生時代後半の人物だよ。
おそらく、西暦1世紀の人物。
912 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 05:29:39.16
>>898 > ただ出雲勢力とは殲滅するまで戦ったようだ、出雲のエライ人には
> 絶対に日本の政治に関わらないという伝説が有る
> 今でも選挙は全部棄権するそうだ
司馬遼太郎が書いていたね。
ただし、その出雲の偉い人(出雲国造家)は中央政府から落下傘的に送り込まれた人の子孫なのだが。
913 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 05:31:37.28
>>898 > ただ出雲勢力とは殲滅するまで戦ったようだ、出雲のエライ人には
> 絶対に日本の政治に関わらないという伝説が有る
> 今でも選挙は全部棄権するそうだ
殲滅ではなく、結局は条件降伏ね。
降伏したら名誉職も生活保障もしてやる的な。
国譲りって言ってもやっぱりその前にそれなりのこともあったのね ぼかしてそれとなく書いてあるのは分かるんだけど
>>912-913 日本書紀では、出雲は崇神天皇の要請で神宝を渡した
それが元で兄は弟を殺し、兄は大和の命を受けた吉備に殺される
そして出雲は祭祀を辞めてしまった.。と書いてある
これは重大な事だ、
祭祀を辞める様な酷い出来事が有ったと推測できる
降伏したら保証されるとかじゃないようだ
天皇は祭祀復活の命令を出し天皇に非が無い様に書いてある
しかし古事記ではヤマトタケルが出雲を騙し討ちにしてるから
日本書紀で非難を避ける記述にした取れる
で、垂仁天皇の時に出雲の神に祟られた崇神の記述が出てくる
「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」
この御子が出雲にお参りして話せる様になったので、天皇は出雲に神宮を作った
崇神天皇の時に出雲は神宝を奪われ兄弟が殺され神殿も破壊され
祭祀が出来なくなり、ほそぼそを復活し垂仁天皇の時に再建されたと読める
なぜ出雲の神が祟ったのかだな
崇神天皇は大物主からも祟られて三輪山に大物主を祀ったが
大国主が祀ってたはずなのでこれも再建かも
>>915 分かり易い話だよw
出雲国譲りの約束をやぶる行為だったから、
崇神天皇(三巻入彦)の倭王就任は。
出雲国譲りとは何だったのか?その真相は風土記にも残っている。
出雲国譲りとは、崇神の12,13代前に起こった出来事。
>>916 「神話」が実は「史実」で「史実」がなぜか「神話」になったってことか。
どんな動機で?
「神代」のことなど編纂者も「史実」かどうかなんて責任持っちゃいねえよ。だから「神代」としたんだ。
918 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 17:48:26.50
>>915 だいたいそういうことだが、
三輪の場合には山そのものがご神体と考えられ、
長らく神社はなかったから、
そもそも「再建」はない。
とにかく、神武と崇神がとにハクツクニのスメラミコトと称された
(字は異なる)ことで、戦後の妄想史観によって、
同一人物を二人に分けたとか奇妙キテレツな説が一時期まかり通ったが、
(なんでそんな複雑なことをする必要があるのか)
神武建国時(ヤマト)から統一国家を目指した崇神にいたるまで、
出雲は依然として隠然たる勢力を持っていたはずだ。
これは後の律令国家になっても、
出雲国造が代替わりごとに祝詞を朝廷に奉ることになっていた
ことと結びつく。
919 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 19:43:36.41
>>917 記紀の編纂者、つまり、現在の天皇家たちは
イワレ彦の東征以前を神話にする必要があり
なおかつ、自分たちの先祖のイワレ彦を
ヤマト朝廷の初代天皇である神武天皇として崇拝する必要があった。
しかしながら、イワレ彦は本当の倭王にはついていないので、
そこんとこ、天皇家にとっては都合が悪い。
よって、それ以降、欠史八代として、詳しく記載できず、
自分たちの先祖で確実に倭王になった三巻入彦を
もう一人の初代倭王である崇神天皇として祭ることにした。
天皇家にとって都合の悪い歴史は、出雲国譲りであり
この時に、初代天皇が誕生していたはずだが
その人物は、現在の天皇家の男系の先祖ではなかった。
では、それは誰なのか?
いやいや 余りに古い伝承なので「神話」になったんだと思う 記紀は、超古い、ちょっと古い、最近に分かれている
921 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 21:00:55.47
古事記とか読むと 九州地方で活躍した神と出雲で活躍した神がいるんだけど。 やっぱ古代は九州VS出雲でバトってたのかな?
922 :
日本@名無史さん :2012/06/01(金) 22:12:04.49
>>919 「倭王」?馬鹿馬鹿しい。3世紀以前に畿内一帯を支配した「王」なんぞ存在しない。いたのは地方豪族だけだ。
「出雲の国譲りで日本統一」だの「神武の先祖が地方官として九州に派遣されたのが天孫降臨である」とか馬鹿か?
そんな広範囲を支配する強大な国家があったという考古学上の証拠がどこにある?
神武から数代は、葛城地方で「おとなしく」していた。だからたいした事跡がなく「欠史八代」になった。
勢力も小さいから陵も小規模なものだった。
崇神天皇が大和を統一。もっとも栄えていた三輪地方を攻略して「大和の王」となりさらに勢力を拡大して吉備、出雲などを服属させて
「畿内国家」といえるまでになった。古墳が、崇神天皇とその周辺の人々のものとされるものから巨大化したのも「クニ」の規模が
崇神天皇から拡大したとする記紀の記述と矛盾しない。。
で、「神代」を史実とする、というより「神代」の記述から際限なく想像を膨らませる連中が主張する、強大な勢力を従えた「倭王」の
実在をうかがわせる「考古学的証拠」はあるのか?1〜2世紀頃の?
>>922 何にも馬鹿馬鹿しくない。
自分が思うに、紀元前1世紀から紀元後1世紀の間にかけて
全国規模の王権が近畿に誕生していたと思う。
その王権は、出雲との決戦に勝ち、事実上の全国規模の王権になったと思う。
>>921 播磨国風土記見れば分かるが、出雲国譲りとは
近畿VS出雲の戦い。
>>922 大国主って名前が全国を感じさせないか?
出雲には日本中の神が集まるって伝承が有るしな
諸国の長=神
>>924 大国主命という漢字名は後世の人間がつけたわけなので。
もし、大国主が実在していたとしても
その時代には漢字で名前を表すことはなかったし。
926 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 09:05:38.52
大和朝廷の歴史は反乱鎮圧の歴史。 熊襲征伐から戊辰戦争まで続きました。
大国主は訓読みだから 古代からおおくにぬしと呼んでいたと思う 漢字伝来後は大黒様と習合したのだろう
反乱と書いてるが、実際は侵攻だよね。支配外の地域より人口増加率が高かった傍証ではある。
何かにと難癖をつけたうえ、謀反の疑いがるとして、征伐して領土を拡大する。 秀吉がよく使った手だ。
大国主は、 もとは意宇主(おうのぬし)、意宇国主(おうくにぬし)から来ているという説もある。 意宇(おう)とは、出雲にある郡の名前で 古代の出雲の中心地だとみられている。 感覚的にいうと、鎌倉時代の鎌倉幕府の最高権力者のことを 鎌倉殿といった感じか。
931 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 11:35:32.35
1辺の長さが3:4:5の比率の三角形を作ると直角三角形になる。 これは、どんな大きさでも相似形になるから、簡単に直角が作れる。 吉野ヶ里遺跡の掘っ立て柱もこの方法で柱の位置を決めたことは確かだ。 こう言った経験則にもとずく原始的な数学の定理が 縄文時代から知られていたことは確実だろう?
>>922 倭面土国王帥升(スサノヲ)が居るじゃん
933 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 23:18:16.46
>>932 「倭面土」は「倭土面」の誤記で、
「イヅモ」と読むのが正しいよな!
934 :
日本@名無史さん :2012/06/02(土) 23:44:36.71
>>922 考古学的根拠って、纏向から桃の種が出れば卑弥呼の祭祀用で、
さばの骨が出れば、卑弥呼への献上品とのたまうあの学問かな?
都合が良過ぎる学問だよな。
「日本文化チャンネル桜」と名乗ってる破落戸テレビ屋がね 「紀元二千六百年」を絶対の信条としてるんですよ www 「書紀を鵜呑みにするのは贔屓の引き倒し」と、 皇国史観の大家・平泉澄ですら二千六百年説を否定していたのに w 巨大古墳が出現するのは1800年前からだから、建国はせいぜいその頃。 事実を見ないのが、あのテレビ局です。 (なお、この点を指摘したら逆上してきますからあの破落戸どもは… お気を付けを)
>>934 違う。読んでわからんか?
「広大な地域に勢力を及ばせていた」ことをうかがわせるものだよ。
古今東西、強大な権力を握った者は、それにふさわしい巨大建造物を造る。
>>935 それこそが、思い込みだけどなw
巨大古墳の出現が、ヤマト朝廷の建国年という科学的根拠などないしw
だいたい、その後の巨大古墳の有無に関係なしに、
現在まで天皇家は続いているわけだから。
ただし、皇紀2600年なんてことは絶対にない。
まあ、2000年くらいだと思うがね。
謎の出雲帝国―怨念の日本原住民氏・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り [単行本]
>>938 出雲はむしろ朝鮮半島から渡来した倭族だろ。
>>940 逆
出雲から半島南部にちょこっと行った
根拠:スサノオは新羅をスルーして出雲に来た
>>935 古墳が出始めたのが勢力拡大した崇神天皇辺りだと思うが
つまり神武はもっと前だろ
神武以降は基礎固めでだらだら時が流れたんだよ、それが欠史八代だろう
よって神武東征は紀元ごろだと思う、2100年ぐらい前
>>941 >根拠:スサノオは新羅をスルーして出雲に来た
頭が溶けてるのか?
新羅から出雲に来たんだろ。こんなとこで暮らしてらんねえ、と。
記紀に新羅からスサノオ一族が持ち込んだとされているのが、ドングリの一種だ。
>>942 よくも、まあ、嘘をつけるなw
スサノオ一族は、高天の出身だから、基本、近畿地方の出身。
その後、出雲に行かされ、その後、新羅に行き、また、出雲に来た。
そういう手順な。
>>942 バカすぎる
どこをどう読むとそんがテキトーな事が言えるのか
記紀を一度も呼んだ事無いだろw
半島に一瞬行ったけどこんなとこ嫌だって帰ってきたんじゃなかった?>スサノオ
>>945 そういうことだ。でも、なぜか、
そういった記述は嘘だとかいって、
歪曲した解釈する奴が出てきたんだよ戦後は、
在野でもアカデミックでも。
>>943 出雲→新羅→出雲なんぞという記述は記紀にはない。
高天原→新羅→出雲、これが記紀の記述だ。
このスレのレスだけでも高天原については、地球全域に及ぶ説がある。
畿内から新羅に行って本土に戻ってくるなら、帰還と表現するはずだがそれもない。
ちなみに、スサノオ新羅出身説は、戦前から有力な説でおれの独自説でも何でもない。
>>944 =無内容なレスしかできない池沼さん
>>947 記紀というが
古事記に新羅は出てこないぞ
日本書紀には出てくるが、高天原から持って来た種を半島には巻かなかったと書いてある
出雲では嫁を貰って宮を建て、日本中に種をまいた
つまり新羅は途中下車、立ち寄っただけで何もしていない
スサノオが新羅出身とか、ニニギが高千穂出身というようなもん
で、ドングリはどこにかいてあったんだい?
950 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 02:53:07.96
スサノオは出雲の大王であり筑紫や新羅を一時制圧した覇者でありました
951 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 02:53:29.10
ほのぼのいこうね
>>948 戦前の右翼がカルトで、実は左翼思想と似たり寄ったりの事例だね。
極右と極左って真逆なようで、一回転して同じようなことを言いだすってのw
>>949 日本書紀の、高天原→新羅→出雲 は認めるんだな。
で、高天原の場所は、そのDQN度を度外視すればそれこそ地球全域に及ぶ説がある。
このどこでも高天原状態を解消する一番簡明な回答は、
高天原=その神さんの出自の隠喩、要は母ちゃんの子宮の中だ、というものだ。
だから、
>スサノオが新羅出身とか、ニニギが高千穂出身というようなもん
まさにこれこそが正解だ。それぞれの神さんは、その「降臨」=出生したところがその出身地になる。
高天の原がどこだったのか?という論争が、 戦前の右翼や戦後の左翼のカルト思想の大きな要因になっている。 似たようなことがキリスト教やイスラム教でもあって 宗派対立になっているけどね。 これも時間の経過によって、過去の記録が失われ 疑問を提起しだすようになって、いっきに思想対立まで行ったのっての。 そのはしりが、江戸時代の国学者の本居宣長。
A-B-DR 奈良 大阪 島根 岡山 宮崎 韓国 24-52-15. 10.08 8.96. 10.54 9.31 8.94 2.5 33-44-13 5.43 4.59 4.66 3.58 3.43 3.9 24-07-01 3.88 3.75 5.98 4.96 3.87 2.6 24-54-04 2.77 2.83 2.36 2.95 3.68 1.5 02-46-08 2.05 2.19 2.55 2.18 2.17 2.0 26-61-09 1.11 1.70 2.62 2.11 2.26 0.9 11-62-04 1.19 1.36 1.38 1.04 1.04 1.9 24-61-09 1.72 1.53 0.93 1.57 1.67 0.5 24-59-04 0.97 1.09 1.22 1.32 1.16 1.0 11-54-04 1.34 1.02 1.31 0.99 1.13 0.4 Analysis of HLA gene frequencies and HLA haplotype frequencies for bone marrow donors in Japan Moriyama Y, Kato K, Mura T, Juji T. Japanese Red Cross Society これ何か見えてきそうで興味深いよ
>>958 高天の原が地球全域に及ぶという考え自体が
おまえの勝手な解釈な。
高天原とは、高天ヶ原とか、高天の原とも読むのだが
この言葉を分析したら分かると思うが
高天という固有名詞があった可能性があり
また、それを助詞の{の}{ヶ}で、原という一般名詞とつなげている。
分かり易く例えると、高天原という言葉は
埼玉原、千葉原、大阪原、ニューヨーク原というようなもん。
じゃ、その高天という地名はどこにあったのかというと
現在の奈良県御所市高天周辺。
ここの領主のことをかつて、高天彦といった。
イワレの領主はイワレヒコ、ナガスネの領主はナガスネヒコ
吉備の領主は吉備津彦というようにな。
のりに播磨の守、武蔵の守みたいなもんだ。
そして、この痕跡が、高天彦神社として残る。
高天原は、現在では、タカマガハラと読むんだけど 昔は、タカマノハラと呼んだ。 助詞の部分が変化しただけなんだな。 ようするに、言語的に見たら分かるのだが、 タカマ+ノ+ハラ タカマ+ガ+ハラ というふうに分けられるわけ。 よって、高天原という名称は、東京の原、大阪の原、ニューヨークの原 という言い回しと同じ。 したがって、日本全国にある高天原という名称は後世に出てきた名称なんだわな。 もし、高天原の場所が古代にあったのなら、そこの正式名称は 高天という地名の場所だった。 この高天という地名が古代から永遠にあるのは、全国でもたったの一つ 現在の奈良県御所市高天。 ここは、かつて、高天村とかいう風に呼ばれていたこともある。 このあたりには、高鴨、高尾張、高木などの似たような名称があり 現在の奈良盆地の高台にあるから、こういう地名が多いんだろう?
>>954 あんたのレスは、日本書紀を書いた人間そのものをカルトと呼んでいるに等しいんだがねw
スサノオ新羅出自説に対する一番の反論は、古事記に同様の記述がないこと。
本居宣長以来、古事記こそ日本の本来の神話系であって、
日本書紀は政治的外交的な意図の下に書かれた、言わば日本最初の偽書だとする見解は
それなりに根強い。
当時の朝鮮半島での大和朝廷の政治的情勢から、むりやりスサノオ新羅降臨説をねじ込んだもので、
そのような伝承などそもそも存在しなかった。これが反対派の見解だ。
>>958 日本書紀が書かれた時代は確かに
朝鮮半島は外藩という意識があったのは事実。
だから、すきあれば、朝鮮半島の支配を狙っていた。
中国へ行ったときにも、新羅は、日本のかつての属国といって
土下座させたりしているし。
本居宣長に関しては全否定しようとは思うけど
高天原に関して、神話上の世界と切り捨てたことに関しては
早まったとは思うけどね。
古事記を大切にするのなら、高天原を切りすててはいけない。
>>957 実際に記紀を書いた大和朝廷の人間が思い浮かべていたのが、
あんたの言うその地だったとしてもまったく不思議はない。だからその地名を使ったというのもおかしくない。
あんたが、おれの説に対する反論にはまったくなってないことを理解できない不自由なオツムの持ち主だ
ということもよくわかったが。
記紀の高天原から降臨したとされるキャラ全員がその地出身だとすると、記紀の記述には
あまりに無理がありすぎるってんで、いろんな説があるんだろ。
おれは、そんな同定にはまったく意味がないと言っているんだよ。高天原=子宮説なんだから。
>>960 >記紀の高天原から降臨したとされるキャラ全員がその地出身だとすると、記紀の記述には
>あまりに無理がありすぎるってんで、いろんな説があるんだろ。
無理過ぎないと思うけどね。
徳川幕府の重臣だって、幕閣にいた重要な譜代大名の多くが
三河国発祥の大名だったわけだし。
ヤマト朝廷の初期の天神系の豪族の多くが
御所市、葛城市あたり発症の豪族が多い。
962 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 05:20:47.68
>>961 > 徳川幕府の重臣だって、幕閣にいた重要な譜代大名の多くが
> 三河国発祥の大名だったわけだし。
まあそうだな。
鹿島神宮の東に高天原が有る ここは住宅地も有るが神宮の飛び地で境内になっている 畿内から遠くはなれた場所に高天原が有り しかも創建が神武元年と言われるる神宮の境内なのか? 日本最古の高天原はここだろう
>>961 出身というからには
生まれた場所か、生活した実績が無いとなー
>>963 高天原ではなく、高天な。
高天原とは、高天+原だから。
高天という地名は、奈良県御所市高天。
ここが、古事記にある高天の原の舞台。
>>964 高鴨神社とかあるしね。
ヤマト朝廷の重要な豪族だった賀茂氏発祥の地でもある。
天神系の賀茂氏はここの発祥で
後に地祇系の三輪氏系の賀茂氏も、ここに所領があった時に
天神系の賀茂氏との婚姻で、賀茂氏を名乗るようになっている。
「高天原」の本来の意味も失われていた始末である状態で、 近世やら現代やらにいたるまでその地名が残されていると推測するのがナンセンス
968 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 12:24:03.89
記紀の編纂者が高天原の位置を隠匿したのではなく、 当時既にわからなくなっていたのだと思う。
969 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 12:43:32.01
高天原というのは、まあ、天竺か天空みたいなもので、普通の人にはいくことのできないインドか宇宙だ。
高天原=ラピュタだから世界中どこへでも行けるんだよ
高天の原。 つまり、高天の原野という意味。 高天という地名は、現在の奈良県御所市高天に残っている。 ここの領主を、高天彦といった。ここには、 延喜式の名神大社である高天彦神社がある。 イワレの領主はイワレヒコ、ナガスネの領主はナガスネヒコ 吉備の領主は吉備津彦といったように、 高天の領主は、高天彦といった。 中世ならば、播磨守、武蔵守、三河守みたいなもんだ。 この御所市高天周辺には、 ヤマト朝廷の初期豪族や日本神話に由来するものが多く存在している。 ヤマト朝廷の王族や貴族たちは、この周辺から出発した。 ここは安全保障上、敵に責められにくい地域でもある。
大和民族全体のルーツ故地と認識為れば良いだろ。朝鮮や満州シベリアなど。
平安時代の文献なんかでも、高天の原とは 葛城の高天のことだと言っているんだけどな。 それが江戸時代になると、それを否定する動きが出てきた。 後世の人間ほど、時間が経過して、過去のことを忘れてしまっていたんだな。 おそらく、平安時代までは記憶が残っていたんだろう?
>>972 ヤマト民族というか、ヤマト朝廷の故地と言えば
普通に葛城地方なんだけどな。
現在の奈良県御所市高天。
そこに、高天という高天原伝承の地域がある。
ここで出来た王権は、後に三輪山の麓のヤマトへ移転した。
ヤマト民族全体の故地なんてものはない。
まあ、普通に、それぞれの地元の地域だよ。
播磨ならば播磨、武蔵ならば武蔵な。
とにかく、記紀すら原文で読んだことないのに 色々語りたがる人間が多い。 だから、見当違いの話をよくするし、 初歩的なことも知らないので、話が通じない。
記紀を読むと誰がどう呼んでも 神武天皇は九州から畿内に移住した訳だが・・・ さすがにこれを否定する人は居ないだろう
天孫ニニギは空を飛んでやって来て高千穂に降臨した だれがどう読んでもそう書いてある これは誰もが認める事実だ これを認めないと記紀を読んでも何も分からない
978 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 17:14:10.96
空から降りてきたというのは、土着の豪族の単なる権威付け
979 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 17:40:18.86
>>977 民明書房「リリエンタールは日本人だった」にそう書いてあったのか?
>>979 記紀にちゃんとそう書いてあるぞ
読んだ事無いのか??
>>978 天神の子孫こそ天皇のこだわり
天津神、国津神を区別してるのは何故だろうね
土着の豪族=国津神
981 :
日本@名無史さん :2012/06/03(日) 18:55:09.11
ミル・マスカラス 乙
>>976 神武天皇というか、ワカミケヌ命は
九州日向から近畿に東征したけど
それ以前、つまり、ワカミケヌ命の曽祖父のニニギ命は
高天原から九州高千穂へ降臨したんだよ。
そして、ワカミケヌ命が河内に上陸した時に
その向かいに曽祖父のニニギ命の出身地である高天原があるといっている。
>>980 天津神と国つ神ってのは
江戸幕府でいうところの
譜代と外様みたいな感じ。
ヤマト朝廷の譜代の貴族は、天津神
外様の貴族は、国つ神。
>>983 ニギハヤヒを忘れてるぞ
神武に抵抗し兄を殺したのはニギハヤヒの一族
しかし九州から勢力伸ばして奈良に都を作るなんて 当時の日本の勢力からすると随分東に都作ったな。 当時は関東東北なんて未開の地でしょ?
縄文時代は九州が過疎地だな
987 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 00:43:32.29
喜界カルデラの大爆発で、九州は縄文時代に一時全滅したらしい。
>>985 そう。無意味だろう?有り得ないことなんだよ。
日本書紀は、正しい漢文書くために、中国人を招聘して
編纂の手伝いをしているんだけど、
中国人は明らかに神武東征を疑っているんだw
実際は、神武東征って、徳川吉宗が和歌山から江戸へ将軍として行くのに近い。
記紀を読めばわかるけど、神武東征の前も後も
近畿が倭国の中心地。
神武は九州の地方官の家系だが、彼らの家系の本籍や本家筋は
近畿にあった。
弥生、縄文って話は、日本神話とほとんど無関係。
990 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 03:18:19.65
>>988 明らかに地元民の抵抗受けて武力で討ち果たしてるのに本家もクソもない
神武東征が侵略戦争だったのは記紀の記述により疑えない事実
九州にニニギが暮らしたという神社があるが 畿内には無い 山幸彦も畿内が舞台とは思えない 神武東征とは、ニニギ系VSニギハヤヒ系であって 神武天皇の勝利
ニギハヤヒの事は記紀にはほとんど載っていない だがニギハヤヒの末裔が今も残っていてこれが物部氏 この伝承によるとニギハヤヒが降臨した場所は鳥海山! もしかすると富士山辺りに降臨した奴も居たかも 関東の天孫は神武天皇やその後の天皇を何度も助けている
993 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 13:19:13.88
歴史捏造している点において、半島民と差してかわりがないなーw
いーや、ニニギもニギハヤヒも事実だよ それはもうすぐ証明されるようだ
995 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 13:45:14.91
>>992 > だがニギハヤヒの末裔が今も残っていてこれが物部氏
石上で神官やっているんだっけ?末裔の人。
>>991 ありますw 奈良県御所市高天にある高天彦神社。
延喜式の式内社で名神大社に指定されている。
ニニギ命が、ここから九州高千穂に降臨したとある。
997 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 16:35:43.97
>>996 こんなもん記紀神話が成立した後で出来たに決まっとるわアホらしい
998 :
日本@名無史さん :2012/06/04(月) 16:41:37.77
次スレを頼む
>>996 高天原が近畿だと不味いことでもあるのか??
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