語ろう
2 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 18:34:57.87
で、結局、文永の役の戦闘の勝敗は?どうだったんだ?
3 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 19:11:55.78
『元史』に描かれた文永の役
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬
「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
元史卷一百五十二 列傳第三十九 劉通
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
他にある?
4 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 13:55:38.80
軍板だとどういう作戦立ててたら勝てたかって話になって
結局どういう作戦立てても無理ゲーって結論になったなw
5 :
日本@名無史さん:2011/11/13(日) 16:11:36.49
鎌倉武士団武勇伝
6 :
日本@名無史さん:2011/11/13(日) 20:39:21.63
戦って之を敗る
7 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 13:35:11.10
「征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
漢文が苦手でよくわからないのだが、
これも「これを破る」なの?そもそも、日本軍が十万と捏造してまで
「これを破る」と強調してるのか。おかしくない?「之に敗れる」なら
十万と誇張する必要性は理解できるんだが。
8 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 15:49:02.82
9 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 16:06:49.88
「戰敗」って熟語じゃないの?
「戰敗」をウィクショナリー日本語版ググったら
1.戦争に負ける(まける)
2.戦勝する
二つ意味があるみたいだけど。
10 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:44:27.43
11 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:53:16.60
ウィクショナリーには中国語の「戦敗」もあることはある。
战败
中国語
動詞
战败 (繁): 戰敗 (zhànbài)
(1)(自動詞)戦争に負(ま)ける。
(2)(他動詞)打ち負かす、戦勝する。
「之」という目的語がついたら他動詞だから(2)ね。
12 :
征夷大将軍:2011/11/14(月) 18:01:34.48
>>11 嗯,1:战斗失败=战败
2:打败,击败=战败
繁琐的支那语
,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
/ 、゙ヽ、 ‐-'´ ヽ‐- / / ヽ
,/´ .., ヽ,,l_)' zェェェァ' ;rfァt ヽ ,ト/ / ヽ おれもごめんなw
/ ヽ,r' ,l′ _,,, . __,, ,l゙.-〈__r,'、 ヽ_ ココおかしいんだろ?・・・ってなこと書いてw
_.l ヽ」 ,l .イてソ` l イにj`,/ ゙‐ヽ、_,, /l
,l l| −'´ll ,l rソi" ヽ じ'' f゙l .,//゙l //\
l`l| l|ヽ v'⌒ヽ .,ノ j/ |l // }
l \ l| ,l l_U> r‐--‐ァ ,l |,l // l
/ '\ l|`l ゝ_,´ ゙ヽ__r′ .,.' ___l ヽ // |
,l '\ l| .lヽ__lL..,,, __ ,, _イ___./ | ∨/ ,}
| ヽl | ,| .ヽ \ //ヽ ,| ,l
| l ,l ヽ \// l \ /
ヽ | \. ヽ/ l ヽ /j
\ / ヽ ヽ | l /
゙l\.. / ヽ ヽj | , /
13 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 19:10:28.49
漢文てややこしいな。漢字一文字ついただけで、意味が正反対にもとれるのな
14 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 09:20:12.79
>>8 糞ワロタw
まあ、本当に勝ってたんなら夜中に慌てて撤退なんて無様な真似しないわなw
15 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:38:02.89
勝ったかどうかは議論していない。
元史には「十万の敵軍と遭遇してこれを敗った」と書いてある、
と言っただけだ。
ちなみに弘安の役に当たる記述には「敗之」という言葉はない
16 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:43:29.07
そもそも文永の時の武士側は5000
この5000という数字を郎党なんかを含めない一騎として考えても
精々20000〜30000ってとこやん。
なんで向こうは十万だなんてパチこいたんだろ?
なんにも戦果がなかったからじゃね?日本の有力な武将を打ち取ったわけでもないし
有力拠点を占領できたわけでもない。なのに、1万3千もの死者を出した。
これはどこかで戦果を捏造して報告しないとフビライに処刑されるレベルでしょ。
18 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:36:48.76
フビライって歴代のモンゴルのハーンの中じゃ一番寛容な人物じゃなかった?嫁さんも慈悲深かったらしいし
19 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:58:27.35
政治的手腕は歴代最高かと
軍事的手腕は二流だが…
20 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 13:03:35.95
>>18 豊臣秀吉も戦国三傑の中では一番寛容だと言われ
嫁さんの北政所も賢妻だと言われていたが朝鮮出兵したしな
21 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 13:09:51.16
唐入りはなんかもうみんな好き勝手大陸で暴れてgdgdだったからな。
22 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 17:26:52.75
23 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 18:39:36.89
>>16 なんで十万にこだわる?
敗った敵は大軍だったと言えば評価が上がるのは人情。
どこにもあることだ。
「之に敗れた」なんて勝手な読み方をしなければそれでよいのだよ。
24 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 18:44:18.51
攻撃三倍の法則
上陸五倍の法則
攻城十倍の法則
よっぽど思い切って、先鋒の死者の山を盾にするくらいに、
一気に戦力を投入しないと、上陸戦の攻撃側は不利になる。
日本軍は幕府の御家人で職業軍人だけど、元軍も全て職業軍人なのか?
元の兵制ってどうなってんだろう。
常備軍みたいのがあったのか?それとも農民を徴兵したのか?
といっても、志賀島を占領していた元軍は主に海からの日本軍の攻撃で志賀島を放棄したけどな。
なぜか、この時は〜の法則は通じなかったわけだ。
27 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 20:42:35.31
>>23 まあ状況から見て、どっちにしてもパチこいてるね。
直後のあの緊迫した状況での撤退は何なのと。
28 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:33:49.51
>>25 戦いの経験なら元軍のほうが豊富かと(陸上戦限定)
当時のほとんどの武士に戦いの経験はない
承久の変以降では鎌倉以外はだいたい平和だ
29 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:08:48.37
まあ、三浦合戦とか二月騒動とかあったし
地方で小競り合いもあったけど室町期に比べれば安定はしてたな
元朝秘史を読むと蒙古軍の主力は騎馬軍団だが
竹崎季長の絵では元の騎馬兵はほとんど活躍していない。
主力の騎馬軍団は来なかったのか?
31 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:09:12.16
>>27 >直後のあの緊迫した状況での撤退は何なのと。
その前に、当夜の海上撤退は本当にあり得たのか?
軍事専門家は物理的に不可能と言っている、という話もあるが。
『高麗史』で戦闘後、蒙漢軍の司令官の忽敦と高麗軍の司令官金方慶が同じ場所にいたんだから
竹崎季長が戦っていたのはどう考えても、蒙漢・高麗両軍だろ。
同じ戦場にいて、高麗軍とだけ戦うなどあり得ない。
蒙古襲来についての日本側の史料には元軍の毒矢・鉄砲・集団戦法
についての記述はあるが元軍最強の騎馬軍団についての記述は皆無。
たぶん騎馬軍団は来なかったんだろう。
それが日本の勝因の一つだと思う。
37 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 19:02:22.38
おかーさーん、ゲーム脳のバカが湧いてるよー
欧州やイスラム側の史料にも蒙古騎馬軍の猛攻についての記述がある。
日本だけないと言うのは、やはり日本には元の騎馬軍団は上陸しなかったのだろう。
39 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 20:15:00.90
馬は歩兵で橋頭堡つくってから上陸させるつもりだんじゃないか?
そもそも、上陸して一日で蒙古軍が敗退して、戦闘の内容に関する史料すら
数点しかないのに何を言ってるんだか。
41 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:41:33.49
つーか、騎馬があるかないかで本気がどうだとか全盛期がどうとかいう自体頭悪すぎ。
最強の蒙古騎兵だったら攻め落とせたとか現実の軍隊はゲームのユニットじゃねえんだよw
上陸して橋頭堡築いて拠点攻略してって流れになると
騎馬の編成が少なくなるのは当たり前だし、当時の元軍は
色んなシチュエーションの戦い経験する内に、騎馬だけに頼らないよう進化してたんだよ。
42 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:57:59.98
独協大学教授 新井孝重著 蒙古襲来(吉川弘文館)
文永合戦 怖気づく武士たち
全体として戦況を見ると、日本の武士が押されっぱなしであった。
武士たちはすっかり怖じおののき戦う気力をうしなった。
武士が戦いに耐えかねて、博多・箱崎をうちすてて、逃走した・・・。
>>41 >騎馬だけに頼らないよう進化してたんだよ。
どう進化したんだか具体的に史料出して説明してよ
>>42 このアホ教授は一体何を読んでこんな結論に至ったんだ?
>>43 むしろ、地形の起伏に富み守りが堅い都市が多かった
華南をいくら精強だからと騎馬のみで攻略できたとする考えが理解できない。
45 :
キツネのレックス:2011/11/17(木) 00:37:15.78
そもそもなんでモンゴルがそんなに強かったのか誰か知ってる?
46 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 03:11:32.78
そのぐらい自分で調べろよ。
47 :
キツネのレックス:2011/11/17(木) 04:08:32.54
>>46 お前は日本史しかできないタイプだろ
世界史はやらなくていいレベルの大学だな
>>45 それは諸説あって、まだよく分からないらしい。
>>45 中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた点と
遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
征服した地域の軍隊の運用もすごくうまいよね。
純粋なモンゴル人の軍勢だけではあそこまで、膨張できなかったと思う。
51 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:23:48.22
大帝国を築いた勢力のほぼ全てに共通してるな>被征服民を上手く軍隊に取り込む
52 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 15:03:26.07
でも,モンゴルってたんなる寄生虫でしょ
中国とロシアを完全に支配したとか寄生虫のくせにあり得ない
53 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 18:03:03.86
>>35 :
>『高麗史』で戦闘後、蒙漢軍の司令官の忽敦と高麗軍の司令官金方慶が同じ場所にいたんだから
竹崎季長が戦っていたのはどう考えても、蒙漢・高麗両軍だろ。
軍議は日本軍の抵抗がなくなってから後のこと。
二方面の軍が合流して 箱崎あたりで軍議をやってるということは考えないのか?
よくわからんのは、元の副将が負傷する記述はこの軍議の後にきてるんだよな。
もしかして、向こうにとって文永の役は壱岐や対馬の戦闘がメインで
福岡で撃退されたのは些細なこととして捉えてるのかな?
>>53 じゃあ、二正面作戦を実施したという史料は?
二正面作戦を実施したという史料がなくて、日が暮れて陣に退き返したら
蒙古・高麗軍が揃っていたとなると共に戦っていたとしか考えられんだろ。
56 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 19:58:35.85
>>54 それは撤退・乗船の話だろ。
撤退が決まって、副将は負傷していたから先に乗船したと言っているだけでは?
いま手元に原文がないが、たしかそうなっていたはずだ。
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、殺す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に、「千里の県軍、其の鋒当たる
べからず」とあり。我が師少なしと雖も、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。
疲乏の兵策して、日ごと増すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。」
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃殺千余級、捨船三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」
58 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 20:09:56.62
>>55 絵詞に出て来る、竹崎季長が戦った場所の地名は全て博多・箱崎より西だろ?
博多・箱崎に別の戦線があって、日本軍の本隊が戦っていたのなら、二正面になる。
しかし確かに、博多・箱崎に元軍(蒙古軍に限らず)が上陸したという史料は私も知らない。
だれか知っていたら教えてくれ。
箱崎の浜に元軍の司令部みたいなものがあって、がらくたが沢山残っていたという記述は
八幡の蒙古記にある。しかしそれも西部戦線との時系列はわからない。
まあ西部戦線に高麗軍、博多に蒙古軍というのは「定説」ではあるね。
そういう意味の「資料」ならたくさんある。
>>42 こういうあたかも見てきたような記述があるから「戦争の日本史」は信用ならないんだよ
どうせ戦争の日本史あたりだろこれ
>>42 「戦争の日本史 蒙古襲来」は内容があまりにも酷すぎて絶句するレベル
「当時は日本という国も日本人という呼称も無い!」とか言って
「列島住民」なんて呼称を無理やり使ってるところは著者が変質者としか思えないし
「蒙古軍がフランキ砲を使った」と書いてあるような江戸時代の文献を
無批判に引用してまで「蒙古軍圧勝」を主張してる。マジキチだわ
>>57 これどこまでが壱岐での戦闘で、どこからが本土での戦闘なのかよくわからん。
>>58 kwsk
>>58 流れとしては
九州上陸後、二面作戦の双方で元軍圧勝
↓
その夜、博多箱崎で軍議。
↓
威力偵察としての効果があったと判断して博多と箱崎を焼いて撤退。
負傷していた劉復了を先に船に返す
という見方が一番正しいみたいだね
あと一番詳しく書いてる八幡蒙古記ではやっぱり名乗り上げて一騎打ちしてるみたいね。
64 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 21:48:50.64
>>61 大友の逃亡や
>>57の辟易して走るから考えると
怖じ気づいて逃亡したという表現は正しいと思うよ
>>64 大友が逃亡しようがしまいが著者が資料批判もできない馬鹿で、
その本を鵜呑みにしてるお前は大馬鹿だということに変わりは無いけどなw
まあ、大友の逃亡についても宗教書である八幡愚童訓にしか記述が無いわけだがw
以前どっかの元寇スレで関東評定伝の
文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北
をひいて24日に大宰府で決戦があり、それに敗北した、もしくは勝ちきれなかったために
元軍は撤退した。という説が出たがこれは個人的に面白かった。
高麗史金方慶伝では
日本軍を散々に打ち破った描写の後に、何故かいきなり撤退の話を始めるのに違和感があったが
大宰府攻略の失敗をあえて書いていないと考えれば一応の納得がいく。
67 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:16:36.01
その八幡蒙古記が一番詳しいんだけどね。
神様が出てきて云々だけで出鱈目とするにはあまりに乱暴
もちろん真実だって少なからず含まれてるだろうが、
詳しく書いてあるから正しいってのも乱暴だろ
69 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:31:31.10
>>49 >中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
>行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた点と
>遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
>殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
妄想↓
>中世という時代にハーンを中心に兵の隅々まで命令系統が
>行き渡るようにした近代レベルの軍事組織を確立してた
現実↓
>官軍相整わず
妄想↓
>兵の隅々まで命令系統が行き渡るようにした近代レベルの軍事組織
現実の近代軍↓
>ルーデンドルフは、第20軍団(ショルツ)の不甲斐なさに落胆し、
>フランソワに怒りをたぎらせ、(※フランソワは独断専行しまくりだった)
>またベロウとマッケンゼンはどこにいるかもわからず
>全く満足できない状態だった、と後で述懐している。
70 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:35:10.44
>>49 >遊牧民という性格上、長期遠征の際に補給に悩まされる事が
>殆どなかった=迅速な軍事行動が可能だった点じゃね?
何で遊牧民だと補給に悩まされないの?
馬は人間の10倍食うって知ってる?
馬の飼い葉の補給はいつでもどこでも誰でも苦労してるけど?
71 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:39:50.80
そもそも遊牧民族が覇権を握るのはモンゴルが初めてではない。
既にアッティラが5世紀に大帝国を築いている。
アッティラとモンゴルの共通点は
>>50-51が言うように、
被征服民を取り込んで巨大化したってところ。
>>49は何一つ現実を反映してないね。
72 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:40:22.09
>>66 てことは元は大宰府までは進軍してきたってこと?
史料によって色々と食い違いがあって実際のとこがわからんな。
少なくとも、武士側が元軍に橋頭堡を築かせずに撤退を
決意させる程度の打撃を与えたのは確実だとは思うけど。
流石に威力偵察だとかただの脅しだからとかいう線は無いと思うなあ。
73 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:46:05.28
>>68 その少なからず含まれてる真実に武士側の敗北が含まれてる。
だって
>>57での惨敗ぶりと見事に一致するじゃん。
だから信憑性は高いよ
74 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:47:35.68
>>74 何故脅しじゃないと断言できる?
文永の役から一年後に降伏を促す使者を出してるのが何よりの証拠。
>>73 お前バカじゃね?蒙古襲来を八幡の神威を示す逸話として扱ってるような宗教書が
武士の奮戦についてあまり書こうとしないであろうことは目に見えてるだろ
なんせ、神々が蒙古を撃滅して日本を救ったことにしないといけないんだからw
あと「高麗史」を持ち出すならむしろ八幡愚童訓の内容とは見事に一致しないことになるわけだが
何故なら華々しい戦果が書かれた後すぐに撤退を議論する場面になってるからな
元軍が本当に一方的に日本軍を撃滅したなら、なんで忽敦は戦闘継続を断念してるんだ?
なんで主戦派の金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出すまでに進退窮まる状態になってるんだ?
お前みたいなのを行間の読めない奴と言うんだよw
76 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:00:04.64
>>72 少なくとも十人、百人、千人、一万人を単位とした組織があって、
それぞれに長がいたことは確かだろ?
それに対して日本軍は家単位の集団の寄り集まりに過ぎなかった。
たった5人の集団を率いる竹崎末長が総大将から直接命令を受けている
のでもわかる。
>>74 おいおい、威力偵察と威しは違うだろ。話をすり変えるなよw
>>75 連戦連勝でも日に日に進軍先で当たる兵が増えてたらマズいなとは感じるだろ。
79 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:16:17.76
>>79 文永の役威力偵察説から武力恫喝説に鞍替えということでおk?
総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
財相 安住淳 人権擁護法案推進派 人権擁護法案→日本人は冤罪で刑務所行きの可能性大
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
国家戦略相 古川元久 パチンコ協会政治アドバイザー
82 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:36:43.52
>>82 は?なんで俺が認めるって話になってるんだ?読解力なさすぎだろ
まあ威力偵察と脅しを混同してるような奴に何言っても無駄かw
佐藤鉄太郎教授によると、武士が書いた古文書で確認できるの戦闘場所は
「鳥飼潟」での戦闘だけ。
「八幡ノ蒙古記」に博多で戦闘があったような記述があっても、戦闘した武士・元側
当事者が博多で戦闘したと書いてないんだから、常識で考えれば、元軍が二方向侵攻した
というのは信憑性に欠ける。
で、鳥飼潟での戦闘の勝敗はというと、日本側が元軍を蹴散らしている。
福田兼重申状
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」
ちなみに、『蒙古襲来絵詞』に描かれているのも、鳥飼潟方面の戦闘で、元軍が撤退したという記述があり
一致している。つまり、鳥飼潟方面で、元軍が敗退したというのは疑いようもない事実。
建治2年1月日大宰府下文案(薩藩旧記前編巻五国分寺文書)
蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、
或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉。
>>74 「高麗紀事」耽羅至元九年十一月十五日条によると
文永の役以前に中書省が元皇帝に日本侵攻の計画を上奏しており、
それは二、三万の兵力をもって日本に上陸し、太宰府に向かうというものだった
実際に元軍は三万前後の兵力で今津、百道原、箱崎といった大宰府に通じる交通の要所を狙って上陸しているし、
文永の役において元軍が大宰府の攻略を戦略目標としていたと考えるのが自然だろう
でも、周知の通り元軍は日本軍の抵抗を受けて大宰府にたどり着くことができなかった
「高麗史」に書かれた緊迫した軍議の状況や、「元史」に書かれた「しこうして官軍整わず。また矢尽きる」
という撤退理由は、元軍が24日夜の時点でまだ戦略目標を達成していなかったということを裏付けていると思う
つまり文永の役は威力偵察でも脅しでもなんでもなく、大宰府に到達できずに一日で退却した元軍の敗北
87 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:35:48.83
これを貼れと言われた気がした。
「朕、 宋 と 日 本 と を 討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)
88 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:40:48.29
>>64 「大友の逃亡」というと大友頼泰が個人として逃亡したような感じだが、
それは八幡ノ蒙古記の次の狂歌のことでは?
大ともは 子どもうち連れ 落ち行きて 方々にこそ 寄り休みけれ
これは武士全体が引き揚げたことを大友頼泰に代表させて歌ったのだと思う。
「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、殺す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。」
この記述だと、壱岐の戦闘のことを言っているように思える。
問題は、『高麗史』金方慶伝の「船を三郎浦に捨て」の「三郎浦」とはどこか?という疑問。
壱岐で平景隆が籠城した城が「庄ノ三郎城」というのだが、この「三郎」と関係があるのか?
他にも壱岐には「三郎神社」という神社もあり、この壱岐の「三郎」と「三郎浦」とは関係があるのか?
もしくは、博多に「三郎丸」という地名があるが、関係があるのか?
もし、「三郎浦」が福岡ではなく壱岐のことを言っているのであれば、『高麗史』と『元史』は壱岐を主戦場と認識していた可
能性が一気に高くなる。
ただし、三浦周行氏著の『鎌倉時代史』によると「三郎浦の三郎は早良にして、同郡沿岸即ち百道原の沿海地区ならんといふ」
としている。根拠は不明だが、三浦氏によると、「三郎浦」とは博多湾岸の「早良」らしい。
『高麗史』表でも、文永の役の戦闘場所を「壱岐」だけしか記述していない。つまりは、元側にとって、壱岐が文永の役の
主戦場だったという認識なのではないか。
『高麗史』巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
『元史』でも、文永の役の戦果を島を占領したことしか書いていない。
『元史』洪茶丘の記述に「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
つまりは、「元史」日本伝の「その国に入り、之を敗る」とは島の占領のことを言って、勝利宣言しているのでは?
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
そして、「敗った」のすぐ後の記述が「官軍整わず、また矢がつきたので撤退した」とある。
「官軍整わず、また矢がつきたので撤退した」の部分が博多湾から上陸したものの、日本軍が意外と多く強大だったため
苦戦し「官軍整わず」撤退したのではないか。
91 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:50:05.01
>>57 >復亨中流矢、先登船、遂引兵還、
復亨中流矢はこの時点で矢にあたったのではなくて、次の「先」の理由を
説明している。つまり「負傷していたので先に乗船した」ということ。
「遂」は劉復亨も負傷したのでとうとう引き揚げに決した、と読みたくなるが、
「遂」は単にあることがらが完了したたことを意味することが多い。
ここでは(他の将兵も乗船して)引き揚げが完了した、と言っているだけ。
92 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 12:42:06.75
「蠻」は蛮賊の「蛮」のことだから、「対馬、壱岐などの蛮(賊)の島を抜く」ってこと
トンクス。
だとしたら、本当に九州まで至っていたら
もっと本土についても言及してるはずだよな。
してないって事はやっぱり向こうにとっては壱岐と対馬の戦闘がメインだったんかな?
×九州に至っていたら
○九州で十分な戦果があったら
96 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:09:24.06
>>90 >入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰
而は順接にも逆接にもなる。
ここは逆接で、「しかるに」だろう。
だから「官軍不整」と「矢尽」が「帰」の理由説明というわけ。
その国に入りて之を敗る。しかるに官軍整わず、また矢尽く。ただ四境を
虜掠して帰る。
その国(日本)に侵入して之を破ったのだが、(残念ながら)我が軍の
体制が整わず、それに矢も尽きてしまった。(仕方なく)そのあたりで
捕虜を捕らえ、略奪しただけで帰って来た。
97 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 11:10:52.33
>>57 「至一岐島、倭陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、
茶丘與之亨卞、 撃殺千余級、捨船三郎浦、分道而進、所殺過當、
倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、 抜一?矢、励声大喝、
倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、」
この文章は「 撃殺千余級」で切れていて、その前が壱岐、その後が本土の
戦いだと思う。「捨船」が本土上陸を意味していると思う。
戦闘場面は「列伝」中の異なる人に関して数カ所あって、それぞれに字数が
異なるが、その用いられた漢字は全て金方慶伝にあり、それ以外の漢字はない。
ということは、これらの文章がいずれも金方慶伝を異なる程度に省略して
用いているということだ。
そうであれば、金方慶伝だっておおもとの文章から省略されて収められて
いる可能性がある。私は「撃殺千余級」と「捨船」の間に省略があると
見る。そして「分道而進」とは蒙古軍と高麗軍の二正面作戦のことだと
思う。
「捨船三郎浦、分道而進、所殺過當、
倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、 抜一?矢、励声大喝、
倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻」
でも、これを本土の戦いだとすると、疑問点が幾つか出てくる。
@戦闘内容と軍議の切迫感が噛みあっていない
A当時の武士の発給した史料で確認される戦闘は、博多から西方面の「麁原・百道・赤坂方面」だけ。
つまり、一方面での戦闘の記録しか武士は残していない。元軍が二正面作戦を実施したのなら、なぜ武士はもう一方の
戦闘を記録していないのか。
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述しているとすれば、重要な本土での戦闘場面を省略し理解しがたい文章にするだろうか。
C「捨船三郎浦」の前の文章が、「倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う」と割と詳細に描かれているのに、次の文章の「(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し」の部分を壱岐の占領と
理解するのは強引では?応戦し、船を捨て道を分って追撃したとする方が、前文の割と詳細な記述と繋がっているように思う。
むしろ、「忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。」と軍議の間の本土での戦闘の記述が省略されているんじゃないかと
思うんだが…。
【訂正】
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述しているとすれば、重要な本土での戦闘場面を省略し理解しがたい文章にするだろうか。
↓
B高麗史のその他の文永の役の記述の戦闘場所が「対馬・壱岐」しか記述されていない。金方慶伝を基に記述されているにしても
金方慶伝が「倭兵大敗」を本土の戦闘として力点を置いて記述したいとすれば、その力点としたい戦闘場面を描写する以前の重要な動向を省略して
壱岐の戦闘とまるで繋がっているような理解しがたい文章にするだろうか。
100 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 17:55:15.51
>>99 金方慶伝は比較的字数が多いから、それでもまともな方だ。
それ以外の列伝の省略(短縮)の仕方はまったく乱暴。
戦いの経過などにあまり興味の無い編者がいいかげんに編集したとしか思えない。
そうであれば金方慶伝だって、原資料からどんな改変が行われたか、わかったものではない。
どんな解釈をするにしても、金方慶伝がつながりの悪い文章であることに変わりはない。
それはそれとして、次の文章:
「忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。 諸軍、与に戦え」と。
暮に及びて、乃ち解く。」
に対する私の解釈は定説とは違う。
「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。」というのは、定説のように日本軍を
讃えたのではなく、蒙古軍と較べて高麗軍の戦いぶりを誉めたのではないか?
わざわざ「蒙人」と言っていることと、自分を高めたい高麗史の立場からはその方が妥当。
そして次は「諸軍ともに戦い、暮れに及びてすなわち解く」だ。
これは蒙古軍、高麗軍が協力して戦い、夕方に緩解したという一般的な戦闘経過だと思う。
101 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 18:25:55.04
で、結局九州での戦闘は双方が勝利宣言してるから実際はわからないと。
まあ戦略的な視点で見れば武士側の勝利だろうけど。
102 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:09:29.83
まあ、俺の妄想を書かせてくれ。俺が思う文永の役。
仮に金方慶伝の記述が九州の戦闘であるとしよう。
それを当時の日本側の史料と強引に繋ぎ合せてみる。
高麗史の「道を分ちて、進み、殺す所は過当なり」とは元軍が松浦党や原田一族の武士らを蹴散らしたながら進軍したことで
「倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。」
とは、『蒙古襲来絵詞』の赤坂の戦いのこと。『高麗史』では戦果ばかり書かれているが元軍も損害が大きく、いったん
防御のしやすい麁原山に後退し、軍勢を立て直すことにした。この元軍の後退を『蒙古襲来絵詞』では「菊池武房に凶徒、赤坂の陣を駆け落とされ」
と記されているように日本側も勝利と受け取った。
元軍は麁原に陣取って軍勢を整えようとしていたところに、赤坂の戦勝を聞きつけた竹崎季長ら日本軍が軍勢を引き連れ追撃にやってきた。
麁原に陣取った元軍は応戦し、両軍膠着状態。しかし、戦線は膠着したものの日本軍には次から次に増援が参戦。これが『蒙古襲来絵詞』の
「肥前の国御家人白石六郎通泰、後陣より大勢にてか駆けしに」や『高麗史』の「日ごと増すの衆に敵するは」の部分に該当。
で、日本軍が増えるにつれ、鳥飼潟の戦闘で元軍はしだいに苦戦し、左副元帥の劉復亨が負傷するという事態に到る。
これが『高麗史』の「復亨、流矢に中る。」に該当。そして、日が暮れたのを契機に一旦麁原の陣に元軍が撤収。
これが『高麗史』の「暮に及びて、乃ち解く。」に該当。
しかし、日本軍も損害が多く、また日が暮れていたため、元軍が撤収したのを機に撤収。一応、元軍を麁原山に撤退させたことで日本側は
鳥飼潟の戦闘を「勝利」と受け取った。これが『福田兼重申状』の「令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」と
『蒙古襲来絵詞』の「蒙古の戦退き退そきて、麁原に上かる」に該当。
で、この戦闘で苦戦した元軍は麁原山で例の軍議。被害の多かった元軍は、翌日の戦闘を避けたいがため強行撤退を開始。暴風雨に遭遇し海の藻屑に。
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、 ブ−タン国王陛下の演説 をyoutubeで検索してください
737年前の11月20日ごろ。こんな大風の晩に元軍は撤退を開始したのだな。
105 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 09:19:32.65
>>102 劉復亨が負傷したのは赤坂じゃなかったか?
それと、八幡ノ蒙古記で、シカ島付近に座礁した元の軍船を見に行く途中で
海岸の元軍の陣跡を通り過ぎる描写がある。
箱崎海岸にも元軍はいたのでないか?
>>105 戦闘に参加した武士達が残した史料から読み取れる戦場は博多より西だけなので
「八幡ノ蒙古記」などの第三者の記述は考慮しせずに、文永の役を妄想してみた。
少弐家の史料によると、劉復亨が負傷したのは「百路原」となってる。
『少弐系譜』 「景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将」
弘安と文永を勘違いしているが、少弐家では「百路原」つまりは麁原一帯での戦闘で打ち取ったと認識していた。
107 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 20:37:38.45
>>106 弘安の役と勘違いしたのなら射殺現場の百路原も勘違いの可能性があるね。
百路原は海岸だから弘安の役と合う。
108 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 09:15:31.61
さらに言えば、石築地は各地の御家人に工事が割り当てられ、その守備も同じ
割り当てを引き継いだ。
その割り当ての記録は残っているが、不思議なことに百路原だけが不明だ。
ひょっとしたらこれは少弐が直接受け持ったのではないか?
少弐は範を示すためか、玉砕確実の壱岐の守備に一族を出すほどだから、
上陸の可能性が高い百路原を直接担当したかもしれない。
それで、ご先祖様が蒙古の大将を射殺したという言い伝えが、弘安の役
でのできごとと誤伝されるとともに百路原と結びついた・・・
弘安の役で射殺した大将が劉以外の人物だったことも考え得るが、
「大将」とみられたことからして、文永の役での出来事と見たほうが素直ではないかな?
110 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:16:20.45
>>109 >弘安の役で射殺した大将が劉以外の人物だったことも考え得る
私もそれを考えた。弘安の役だって知られていないできごとが沢山あったはずだから。
>「大将」とみられたことからして、文永の役での出来事と見たほうが素直ではないかな?
文章をよく読んでくれれば、それが私の考え方だということがわかるはず。
111 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:19:12.54
ただ、私が言っているのは、文永を弘安と間違える不確かさを考えれば、場所を百路原と
決めつけることもできない、ということだ。
決めつけることはできないけど、書下が麁原での戦闘だけしかないということは
文永の役で一番の激戦地は麁原一帯だったんだろう。だから、可能性としては百路原で
負傷した可能性は高いよね。
113 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 21:02:44.28
また、物的証拠として元軍の碇石がある。
複数の碇石が箱崎にあるが、これは他所から持って来たのでなく、
その近傍の海で見つかった物だ。
このあたりに停泊した元軍の船が、出航するときに捨てたものだろう。
祖原〜百路原から直接撤退したのではない証拠だ。
114 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 22:29:35.89
>>112 しかし結果的に水城に撤退したことは間違いないのだから、撤退の過程での
戦闘はあったはずだ。なぜなら撤退中の軍は攻める方にとっては魅力的だから。
劉が殿(しんがり)軍を追撃中に射られたという説をあながち否定できない。
115 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 10:33:57.52
八幡ノ蒙古記の、劉が射られる場面を載せておこう。
「爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、
ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」 あか鎧に、あし毛なる馬にのり、
十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その 時、景資か
旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、 八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究
竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下 知して、逸物の上馬にのせ、
一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、 はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、
つきそひたる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の
方へ引きかへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、
おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云う
ものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か
大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、
皆人かんしける」
116 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 10:57:23.84
改めて読んでみると、描写がぜんぜん劇的でない。
追ってくる元軍は騎兵だけでなく、歩兵を伴っている。騎兵14、5騎と
歩兵7、80人、なるほどこんな編成だったのかと思わせる。
歩騎混合だから追撃する速度は歩兵の駆け足が限界だ。
だから追われるほうもある程度の時間的余裕がある。景資が射手を選んだり、
良い馬を与えたりしているのも時間的余裕を感じさせる。
またすでに言ったように、射たのは景資じしんではなく、部下の射手
である。
作り話を書くならこんな地味な話でなく、もっとドラマチックに書く
だろう。現に今日の歴史書でさえ、景資個人が馬対馬で追われて、苦し
まぎれに馬上から見返りに射た、と書いているものが多い。
また、神の加護を讃えて武士の弱さを強調するのなら、わざわざ武士の
手柄を書くこともなかろう。これはやはり武士の勲功談であって、神の
加護は鳩などにことよせた付けたりだと見る方が自然だ。
またその場所は難を逃れた景資が水城へ引き返したと言っているのだから
明らかに赤坂を過ぎて大宰府街道に入っている。
このようないかにもリアリティに富む同時代(15年後)文献を信じずに
明らかに誤りを含む(文永→弘安)一片の家伝を信じるのは合理的でない
と思うね
117 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 11:15:57.35
付け加えれば、劉が100人足らずの軍勢で日本軍のしんがりを追いかけた
目的はなにか。明らかに退却軍の殲滅や、まして大宰府の占領ではない。
恐らく、景資が劉の大将らしい姿を認めて射手の的とさせたように、
劉もまた景資の派手ないでたちを高位の武士と見て、これを生け捕りに
してじぶんの手柄にしたかったのだろう。
その意味では大将対大将の戦いではあった。
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、ブータン国王の演説 でyoutube検索してください
「爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、
ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」 あか鎧に、あし毛なる馬にのり、
十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その 時、景資か
旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、 八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究
竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下 知して、逸物の上馬にのせ、
一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、 はなつ矢、
一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、
つきそひたる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の
方へ引きかへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、
おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云う
ものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か
大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、
皆人かんしける」
リアリティに富むかどうかは別として、少弐景資の傍にいたわけでもない圖書允定秀がなぜ
こんな軍記物語のような精密な描写が書けるんだ?「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」なんて
現場にいても、記憶が鮮明には残らないだろうことを圖書允定秀はどうして知っているんだ?
どうも史実を伝えようとする姿勢ではなく史実に準拠しつつ物語のような脚色をつけたして話を
面白くしようとし、読者を惹きつけようという著者の思惑があるように思えるが。
これを丸々信じ込むのも『太平記』を丸々信じ込むようなものでこっちも合理的でないと思うがね。
120 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 15:46:10.21
それは「坂の上の雲」をリアリティ豊かに書いた司馬遼太郎が日露戦争の
現場にいなかったからその内容は全く信用できないというのと同じだな。
まして「坂の上の雲」は60年後に書かれたがこちらは15年だ。
現場にいた人が生きているといないとの違いがある。
なお、「丸々」という言葉は余計だね。
少なくとも鳩の話は信じない。どんな資料にも批判の余地はある。
ただ、少なくとも大筋で信用しているということだ。
大筋とは劉が撤退軍の追撃中に、大宰府街道で射られたということだ。
121 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 18:04:23.84
>>119 >少弐景資の傍にいたわけでもない圖書允定秀がなぜこんな軍記物語のような精密な描写が書けるんだ?
現場にいた、と見る人もいるね。観戦武官ならぬ観戦神官だったかもしれない。
>十四五騎うちつれ、徒人七八十人」なんて現場にいても、記憶が鮮明には残らないだろう
それは記憶に残るさ。恐らく景資の廻りにいた人数も小勢、そこへ追って来る敵の数はじぶんの
生死に関係している。必死になって数えただろう。
>どうも史実を伝えようとする姿勢ではなく史実に準拠しつつ物語のような脚色をつけたして話を
面白くしようとし、読者を惹きつけようという著者の思惑があるように思えるが。
という割には話はさっぱり面白くない。むしろ景資が自ら射た、などと言って話を面白くして
いるのは現代の歴史書だ。
あ、それと少弐の家伝ね。
そうかぁ圖書允定秀って文永の役の戦場を総体的に見ていた超人だったんだね。
道理であちらこちら細かい描写があるわけだ。
123 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:46:25.40
>>122 いや、総体的には見ていない。
竹崎が活躍した午前中の麁原一帯の戦いは「船にかかりしほどはよくふるまいたれど」
という形で一言触れているだけだ。
124 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:50:09.74
その根性とプロパガンダを兼ねて一躍出世した竹崎季長の子孫はいつくらいまで記録に残ってるんだ
圖書允定秀は自分自身で菊池しか生き残らなかったという赤坂の合戦を
なぜか詳細に描いている。菊池しか見てないはずなのに
お前はどこで見てたんだって話。で、実際に菊池に合った竹崎は
逆に大勝した菊池の軍勢がに出くわしている。
「こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかり
を二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけち
らし、上になり下になり、勝負をけつし、
家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝ
したりけん、菊池はかりは、うちもらされて、
死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、
御方の陣に入しこそ、いさましけれ」
126 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 07:40:08.81
つまり、赤坂でコテンパンに撃破された武士達が逃走中に
破れかぶれで放った矢がたまたま元の武将に当たったと。
で、当の武士達はそんなんでアホみたいに勝利宣言してたと。
なんか唐入りで李舜臣が戦死した時の流れに似てるね。
破れかぶれで撃ったらたまたま大将に当たって命拾いって辺りが
>>126 「蒙古襲来絵詞」には元軍が菊池勢に撃破されて二手に分かれて敗走していったと書いてあるわけだが
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
その後、竹崎季長が敗走した元軍を追撃しに行ってる
「八幡愚童訓」の記述にしたって菊池勢に多数の死者が出たことは読み取れるけど、
勝敗については曖昧で武士達が「コテンパンに撃破された」などと主張できるものではない
>>126 あとスレチになるが李舜臣が流れ弾に当たって戦死したなんてのは俗説だからな
実際には朝鮮水軍旗艦に向けた一斉射撃で射殺されてるわけだし
あとこのときの大将は李舜臣ではなく明水軍の陳璘な
それと李舜臣が死んだ後も指揮権は配下の者に委ねられて戦闘は継続されてる
129 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:11:10.08
八幡ノ蒙古記で、竹崎に関する記述を順に追って見よう。
(1)肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、 天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりし
ほとは、よくふるまひたれと、
(2)此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、
(3)小貳入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎
左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、 更により合て、さんゝゝに
戦ふ、此外、名ある 者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて 攻しかとも、
物のかすともせす、蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入
たりけれ
(4)(全体について)しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、
逃したくをこそ、かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、
多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、
たえにけれ、
130 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 12:11:54.31
(1)の、船にかかりしほど(上陸地点に近いところでという意味か)は良く
振る舞った、というのが竹崎の初戦である。してみれば、この部分のみが絵詞
の記述に相当する。
(2)では竹崎、白石は尻込みしている。「此所にいたりて」の此所とはどこか。
原文では前との続きが悪いが、その次に例の菊池の赤坂での惨戦があるところ
から、赤坂と見られる。絵詞での菊池の戦いは(1)の前に起こっているから、
ここでの菊池の戦いは菊池による第2回赤坂合戦である。つまり、一度は赤坂から
撃退された元軍がふたたび赤坂に押し戻している。
(3)では竹崎、白石などが他の武士たちと共に奮戦しているが、この記述に続いて
(4)の撤退の話がはじまるから、これは赤坂における日本軍の最後の努力で
あろう。
このように見て来ると、絵詞と八幡ノ蒙古記は、あまり重なっておらず、前者は
主に初期の戦い、後者は主に後期の戦いを描写していることがわかる。
>>130 「絵詞」では追撃した竹崎季長が取り囲まれて窮地に陥ったが、
来援した白石通泰の軍勢によって元軍が撃破され、麁原山に敗走している
「絵詞」の他、当時の古文書で確認できる戦闘はこの鳥飼潟の戦いまで
なので「八幡愚童訓」にあるそれ以降の一方的な武士劣勢の記述は
「愚童訓」の創作と考える方が自然じゃないだろうか
武士達が怖気づいて水城まで退こうと話し合ったとか、博多が焼き払われたとかいう話が
「愚童訓」以外の文献に一切見られないことがそれを裏付けていると思う
「蒙古撃退は八幡の神威のおかげ」というスタンスを取る同書からすれば
白装束の神兵が出現する前に元軍が撃退されては都合が悪かったんだろう
132 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 13:26:52.95
>>131 >「絵詞」の他、当時の古文書で確認できる戦闘はこの鳥飼潟の戦いまで
「絵詞以外の当時の古文書」って何?
>>132 「福田兼重申状」
・・・右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、
各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原
「大友頼泰勘状写 都甲文書」
・・・蒙古人合戦の事、筑前国鳥飼濱陣に於いて、忠節を致し給わしめ候の次第、
すでに関東に注進し候いをはんぬ。仍って執達件の如し
134 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 16:14:37.88
>>133 それは例えて言えば、今から800年後に太平洋戦争のことを調べた人が、たまたまシンガポール
攻略作戦で二人の将校にそれぞれ与えられた感状を見つけて、「他に感状は発見されていない
から戦闘はシンガポールだけだった。太平洋戦争は日本の勝ちだった」と言っているようなものだな。
135 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 19:46:27.72
八幡の蒙古記はノンフィクションだと考えて見てもいいな。
15年前の事件のノンフィクションだ。
今日、15年前の事件のノンフィクションを書くとすると、例えば地下鉄サリン事件がある。
これを書く場合、細かいところでは自分の考え方を入れて書いてもいいだろう。例えば
あれは弟子たちが勝手にやったことで、麻原は関知しなかったと書いて、その証明を試みても
避難はされないだろう。
しかし大筋を変えることはできない。例えば地下鉄サリン事件は幻だった、サリンで死んだ人は
いなかったと書くことはできない。事件に係った人は今でも大勢いて、事件を記憶しているからだ。
八幡の蒙古記も同じだ。細かいところには異同があっても、大筋を変えることはできない。
例えば武士達が本当に水城に引き揚げたのならば、それを否定して赤坂や博多に居残ったと書く
ことはできない。武士達に取り残されて無防備の町で心細い思いをした人たちは15年後にも
大勢いるからだ。
逆に、本当に武士達が逃げずに全員居残っていたのなら、水城に引き揚げたと書くことはできない。
そんなことを書いたら名誉をつぶされた武士達から何をされるか、わかったものではない。相手は
刀を持っているのだ。
こういう風に考えてみるのも役に立つのではないかな?
136 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 19:49:27.20
137 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 21:00:05.66
>>134 太平洋戦争中に感状ってあったのか?まあそれはともかく
鳥飼潟の戦いの後にも大規模な戦闘があったなら何らかの記録が残ると思う
例えその戦闘で元軍が優勢だったとしても、結果として元軍は撤退しているわけだから
隠蔽する必要も感じられないし、「○○で撃退した」「蒙古を破った」とか書きそうなもんだが
武士の一方的な敗退が八幡愚童訓にしか書かれていない以上、鵜呑みにするのは危険だと思う
一騎打ちだの毒矢だの博多炎上だのも八幡愚童訓にしか見られない与太話だし
140 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 22:22:09.10
赤坂の戦いで「菊池はかりは、うちもらされて」と菊池だけが生き残ったと言ってるくせに
なぜか詳細に現場の様子を書いてるような軍記物語を盲信するのは無理がある。
この『八幡ノ蒙古記』の著者が史書として後世に伝えようという姿勢がないことは
「風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し、
硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼に
さへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさり 」
と龍が元軍を襲ったという記述や
「白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢
さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏
し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原
の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり」
など神意を加えて筥崎宮の功績を誇ろうとする記述から明らか。
多分に妄想で書かれた部分があることを認めざるをえない。
そもそも、15年もたっており、現場を見ていたわけでもない男が
劉複亨を「蒙 古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、
ひけは臍邊まて、おひさかりたるかあか鎧に、あし毛なる馬にのり」
など異様に細かく描写して話を盛り上げようとする姿勢も見受けられ、真に受けるのは
論外。
このような軍記物語を実際に証明しようとするなら、その当時にそれを実証する史料がなければ
それはつまりなかったということに他ならない。
141 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 22:26:35.89
訂正
劉複亨→劉復亨
142 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 22:28:54.35
というかね、現場の武士達の報告書や回顧録は信用できなーい。
でも15年後にどっかの宗教家が書いたプロパガンダ本は大いに信用できるよ。
ってなんかムチャクチャじゃね?
喩えるなら、ギ史は信用できないけど三国志演義は信用できるよって言うようなもんだろ。
あと上で出てた坂の上の雲は史実性の面で言えば出鱈目だぞw
乃木の遺族がマジ切れしてたしw
仮に八幡ノ蒙古記に書かれているような、日本側にとっての大規模な負け戦があったとしたら
何故「蒙古襲来絵詞」に全く記述が無いのかということが最大の謎になるな
その後の弘安の役の巻で、元軍の志賀島上陸や、鎮西御家人の水軍出動の場面まで描かせている季長が
自身が参加した戦いを描かせなかったとは普通に考えるとありえない
確かに。で、その蒙古軍を誰が撃退したのかというと筥崎八幡神の使いの白装束
の集団になってるしね。
日本軍がボロ負けしているところに「我が筥崎宮」が蒙古軍を撃退した!
というストーリーを創りたかったんだと思うよ。
145 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:09:37.01
>>142 >現場の武士達の報告書や回顧録は信用できなーい。
絵詞を信用できないと誰が言ったのか。
絵詞に文永の役の全てが書いてあるわけではないと言っているのだよ。
文永の役については、季長以下3騎負傷、白石の救援で助かる、
白石の攻撃で元軍は祖原山に上る(恐らく海岸まで伸びていた戦線を
山の陣地に縮小した)。
ここまでだ。
まさか、これが文永の役の全てだと言うのではあるまいね。
起こったことが明らかな元軍の撤退が書かれていない以上、上記のような
個人的、局部的、一時的な局面から元軍撤退までの膨大な状況が省かれて
ことは明らかではないか。
>>145 仮に八幡ノ蒙古記の記述を信じるとしたら、鳥飼潟の戦いの後に起こったという戦いは少弐や白石、
そして竹崎末長本人も参加した大規模な最終決戦だったことになるよな
でも「絵詞」では鳥飼潟の戦いの後すぐに安達泰盛への直談判の場面に移っている
自身が参加し、相当の死傷者を出したであろう激戦をガン無視するなんて「絵詞」の性格上ありえないだろ
結局はその負け戦自体、一騎打ちや毒矢や博多炎上と同じで八幡ノ蒙古記にしか見当たらない与太話なんだよ
147 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 13:43:45.95
>>146 なるほど、あくまで祖原山周辺の戦いだけだったと言いたいわけだな。
では聞くが、箱崎宮が焼かれたことは歴史的事実だが、箱崎宮はどんな
状況で焼かれたの?
それとも自然の火事?
箱崎宮は当時訴訟を抱えていたらしく、
1274年だけじゃなく1265年と1280年にも不審火で焼失してる
混乱に乗じた日本人による放火とも考えられるわけで
箱崎宮付近で戦闘があったことの証明にはならないと思う
149 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 17:57:47.06
思うんだけど、その碇石を文永のと断定してる根拠って何?
文永の役のだという根拠があれば、誰も箱崎宮近くに元の軍船が来たことは
否定しないと思うよ。
151 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 19:52:11.83
>>150 >その碇石を文永のと断定してる根拠って何?
と言うより、弘安の役で元の軍船が博多の岸に近寄れたのか?
それも近寄っただけでなく停泊して。
碇石が海底にあるということはいったん停泊して、出るときに巻き上げる余裕が無くて碇の綱を
切って出て行ったと言うことだが。
俺は別に否定しようとして聞いてるわけじゃないよ。
明確な根拠が気になるだけ。
弘安の役に博多湾岸に元の軍船が現われたのは事実でしょ。
>と言うより、弘安の役で元の軍船が博多の岸に近寄れたのか?
それも近寄っただけでなく停泊して。
弘安の役に防塁への攻撃中も碇石を下ろしているはずだよね。
文永の役でも碇石を必要とする大型船で博多の岸に近寄れたわけではないよね。
文永の役での元の軍船の構成は大型船の千料舟と中型の拔都魯輕疾舟・
と小型の汲水小舟だから、普通は岸に押し寄せるなら汲水小舟を利用するはずだよね。
岸にあるということは流された可能性もあるし、弘安の役のでもある可能性があるんじゃない?
153 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 20:30:37.67
>>152 >弘安の役に博多湾岸に元の軍船が現われたのは事実でしょ。
まあ博多湾沖とは言えるだろうね。志賀島に上陸したからね。
しかし中央埠頭とわざわざ断っているということは埠頭のすぐそばだろう。湾のいちばん奥だ。
弘安の役でそんなところに停泊したら、それこそ武士団が怖かったのでないか?
>弘安の役に防塁への攻撃中も碇石を下ろしているはずだよね。
防塁は砂浜に沿って築かれたのだ。遠浅だから大型船は近寄れない。上陸用舟艇たるバトルの出番だ。
>文永の役でも碇石を必要とする大型船で博多の岸に近寄れたわけではないよね。
博多の岸に近寄った証拠が碇石だ。当時でも港だから大型船が近寄れるのだ。
>普通は岸に押し寄せるなら汲水小舟を利用するはずだよね。
小舟はほんの連絡用だろう。上陸用舟艇はバトルだろう。馬も載せるのだからね。
しかしあの大きな碇石は上陸用舟艇には似合わないね。
>流された可能性もあるし、弘安の役のでもある可能性があるんじゃない?
志賀島から6本そろって流されて来たのか? あの重い石が? 津波でもあったのか?
そうまでして弘安の役にしなければならない理由は何?
>>153 文永の役のころの碇石があるなら、間違いなく箱崎の浜から上陸したんだろう。
ついでに
>志賀島から6本そろって流されて来たのか? あの重い石が? 津波でもあったのか?
これは碇石が流されたという意味ではなく、船体が流され重い碇石だけがそこに残ったという意味
でいったんだが。なぜなら、文永の役の当時、元軍の軍船が志賀島で座礁しているという事実があったから。
しかし、箱崎からの戦闘記録が全くないのはどういうことだろう?
撤退する時に、放火するために上陸してさっさと引き上げたとか?
しかし、座礁船にしろ、碇石の切断にしろ、元軍は何を焦ってたんだろうか。
>>149 鳥飼潟の戦いが終わった後、「八幡ノ蒙古記」に書かれているような
大規模な戦闘があったとは考えづらいと言っているんだよ。記録が皆無なんだから
その後の元軍の退却路など知ったことではない
というか
>>149は話題を逸らしてばかりいないで、いい加減こっちの質問にも答えてくれよ。
「八幡ノ蒙古記」に書かれた最終決戦には竹崎季長も参加してるんだろ?
だったらなんで「蒙古襲来絵詞」に記述が無いんだよ
157 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 23:55:24.52
いつぞやの威力偵察君が生まれ変わったのさ
158 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:01:04.18
>>155 >鳥飼潟の戦いが終わった後、「八幡ノ蒙古記」に書かれているような
>大規模な戦闘があったとは考えづらいと言っているんだよ。記録が皆無なんだから
なるほど、記録がなければ事実もない、という考え方か。
しかし考えて見よう。竹崎季長は誠実な人柄と見えて、厳密に自分が見たこと、
自分が参加したことしか書いてない。だから自分が負傷して脱落したところで
記録が終わるのだ。
これは、竹崎がその後の戦闘(「船にかかりしほど」以後)にも加わったと
書いてある八幡ノ蒙古記とは確かに矛盾する。これは八幡ノ蒙古記の信憑性を
疑わせる部分だ。
しかしそれはあるにせよ、竹崎の負傷した時点で戦闘が終わったというのは納得
できない。その理由を述べよう。
(1)竹崎の戦闘は本部に出頭した後、赤坂に出向いてすぐに起こったのであるから、
この日の早い時間帯、恐らく午前中と思われる。するとこの日の残りの時間、日本軍は
何もしなかったのか?
(2)(1)が成立するには祖原山に陣取った元軍が、日本軍の目の前で撤退を開始する
必要がある。そうするとそれは日本軍に取って草刈り場だ。功名が欲しいだけが
モチベーションである日本軍が、なぜこの草刈り場を手をこまぬいて眺めていたのか?
159 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:01:25.44
(3)太平洋戦争に参加した元日本軍の人が言っていたが、二万の軍隊を上陸させる
には日単位の時間がかかるそうだ。まして手漕ぎの船しかない当時のことだ。
竹崎が戦った時間帯には、まだ元軍の上陸は完了していなかったと考えられる。
つまり、菊池、竹崎が戦ったのは先遣隊であって、本隊は別の場所で上陸中だったと
考えられる。
そうであれば、鳥飼潟の戦闘が一段落(この段階でも祖原山に居座っている)した
後に、元軍が増強された可能性がある。このことを考えなくていいのか?
(4)碇石で見たように、元軍が博多港にも上陸したことには物的証拠がある。
したがって、この方面でも戦闘があったはずだ。博多方面で戦闘がなかったとすれば
日本軍がすでに無抵抗であった可能性がある。いずれにしても元軍の早期撤退と矛盾する。
以上だ。よろしくね。
160 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:34:02.25
>>158 訂正:
>竹崎の負傷した時点で戦闘が終わった
というのは誤解を招くな。白石の突撃と、それによる敵の後退はその後に起こったから。
しかしそれも、竹崎は証人になるつもりで負傷の身で見つめていただろうから、
いずれにしても竹崎が見た範囲だ。
155ではないが、答えてあげよう。
>しかし考えて見よう。竹崎季長は誠実な人柄と見えて、厳密に自分が見たこと、
自分が参加したことしか書いてない。だから自分が負傷して脱落したところで
記録が終わるのだ。しかしそれはあるにせよ、竹崎の負傷した時点で戦闘が終わったというのは納得
できない。
君は妄想する前に史料を読んでみよう。蒙古襲来絵詞が祖原での戦闘で終わることは、何も
竹崎季長だけでなく、福田兼重の申状でも祖原で敗退した蒙古軍が撤退するところで
終わっているのだよ。納得できない以前に、現場にいた武士たちは西方の戦闘を鳥飼潟での
戦闘で完結したと認識しているという事実を認識しておく必要がある。
>(1)竹崎の戦闘は本部に出頭した後、赤坂に出向いてすぐに起こったのであるから、
この日の早い時間帯、恐らく午前中と思われる。するとこの日の残りの時間、日本軍は
何もしなかったのか?
まず、前提がおかしいのだよ。午前中に終わったと結論付けている根拠が意味不明。
西方での戦闘は鳥飼潟で勝利したものの、潰走させるまでには至らなかった。
だから、その後も祖原山には蒙古軍が陣取っていた。
>(2)(1)が成立するには祖原山に陣取った元軍が、日本軍の目の前で撤退を開始する
必要がある。そうするとそれは日本軍に取って草刈り場だ。功名が欲しいだけが
モチベーションである日本軍が、なぜこの草刈り場を手をこまぬいて眺めていたのか?
『高麗史』によると日が暮れ、戦闘を解したことがわかる。武士と言えども、人間なのだから
暗視ができるはずもなく、鳥飼潟の戦闘で蒙古軍を破ったものの祖原山に立て籠もった蒙古軍を
攻め切ることを断念し、日本軍も戦闘を解したと見る方が自然。
蒙古軍が座礁船を放置してまで強行撤退したのは、この日本軍が戦闘を解した隙に
撤退を終えたかったからだろう。
>(3)太平洋戦争に参加した元日本軍の人が言っていたが、二万の軍隊を上陸させる
には日単位の時間がかかるそうだ。まして手漕ぎの船しかない当時のことだ。
竹崎が戦った時間帯には、まだ元軍の上陸は完了していなかったと考えられる。
つまり、菊池、竹崎が戦ったのは先遣隊であって、本隊は別の場所で上陸中だったと
考えられる。
そうであれば、鳥飼潟の戦闘が一段落(この段階でも祖原山に居座っている)した
後に、元軍が増強された可能性がある。このことを考えなくていいのか?
まず、史料を読もう。『高麗史』によると、上陸箇所は「三郎浦」一か所となっている。
それから道を分かって進んだのだよ。つまり、戦闘記録が残っている「百道原周辺」がその
上陸場所だと考えられる。
もし、主力が別にあって上陸し戦闘を開始したなら、なんらかの史料があるはずだが存在しない。
戦闘記録によると、鳥飼潟で蒙古軍は敗走した。つまり、博多から上陸した主力が
存在したなら、合流できなかったということに他ならない。
であるのに、『高麗史』には忽敦と茶丘、金方慶が軍議に参加している。ということは
祖原が蒙古軍の主力だったということに他ならない。
それと、蒙古軍が何時何分に上陸を開始したかも不明な状況で、全軍上陸ができていなかった
という根拠が不明。『高麗史』によると忽敦と茶丘、金方慶が上陸しており、兵は疲れ果て、
このまま戦っては大軍の日本軍の捕虜になりかねないと判断して撤退した。
つまり、そう判断した背景には、蒙古軍が思うように戦闘を進めていなかったということに
他ならない。そもそも、博多を占領して日本軍を潰走させたなら、このような判断も強行撤退も
成り立たない。
>4)碇石で見たように、元軍が博多港にも上陸したことには物的証拠がある。
したがって、この方面でも戦闘があったはずだ。博多方面で戦闘がなかったとすれば
日本軍がすでに無抵抗であった可能性がある。いずれにしても元軍の早期撤退と矛盾する。
戦闘記録がないということは戦闘がなかった。おそらく、『元史』の「而官軍不整」とは
百道原方面の戦闘を意味し、「惟虜掠四境而帰」とは撤退するときに箱崎辺りから上陸して
放火・略奪をして戦果の埋め合わせをしようとしたのだろう。
しかし、碇石を切り離して逃走せざるをえなかったという状況から判断して、これすら思うように
いかなかったと推定される。
以上だよ。よろくしね。
164 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 13:48:40.44
>>163 >戦闘記録がないということは戦闘がなかった
ぜんぜん答になっていないが、これが出発点であることは改めてよくわかった。
それにしても、800年も経ているのに、残っている記録が全てではないと何故
考えないのか、それが不思議だ。
それに、公的な「戦闘記録」はだいたいにおいて恩賞に関係しているが、負け戦の局面
では恩賞もへったくれにもないから「戦闘記録」は残らないではないか。
>「惟虜掠四境而帰」とは撤退するときに箱崎辺りから上陸して
放火・略奪をして戦果の埋め合わせをしようとしたのだろう。
なるほど博多方面では日本軍は無抵抗だった、ということは一致したね。
>それにしても、800年も経ているのに、残っている記録が全てではないと何故
考えないのか、それが不思議だ。
そもそも、百道原のような何にもないところでも戦闘記録が残っているのに
当時の都会で寺社仏閣が多くある博多で、誰も蒙古軍が博多に上陸したと記して
いないことを不思議と感じないのか、それが不思議だ。
それと、なぜ史料にないことを君はあったと言えるのかね。
現場を見てきたのなら、その理屈は成り立つが、状況判断と史料から判断するしか
現代ではできないのだよ。史料からわかることは上記の事実だけ。
訂正
>蒙古軍が博多に上陸したと記していないこと
蒙古軍が博多の町に進出したと記していないこと
>それに、公的な「戦闘記録」はだいたいにおいて恩賞に関係しているが、負け戦の局面
>では恩賞もへったくれにもないから「戦闘記録」は残らないではないか。
いや、八幡ノ蒙古記の戦闘の記述が全部本当だったと仮定しても
結局元軍は大宰府も博多も落とせずに大急ぎで撤退してるわけだから
武士側は「ヤバかったけどなんとか撃退した!」と認識するはずだろ
当然戦功の申し立てがあるだろうし、恩賞も出るだろうし、記録にも残ると思うんだが
それが無いということはそんな戦闘はじめから無かったとしか思えないじゃん
大体、戦いの規模から考えても記録が全く残らないとか無理ありすぎだろ
168 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 15:50:47.49
>>167 >史料からわかることは上記の事実だけ。
それはいい。立派な姿勢だ。
しかし逆に「その他の事実はなかった」ということもできない。
例えばそこから出て「水城への撤収はなかった」と断言することはできない。
正確には「史料」からは、水城への撤収があったともなかったとも言えないのだ。
そうすると水城への撤収は、それがあったとする八幡ノ蒙古記の批判、プラス
状況証拠で判断するしかない。
撤収が無かったと、「史料」を元にして主張することはできないのだ。
169 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 15:54:15.70
>>168 何がいいたいのか、意味不明だが『八幡ノ蒙古記』のような状況が各種資料と状況判断から
「起こり得なかった」ということを、散々上記で書いてるんなんだが。
「その他の事実はなかった」ではなく「『八幡ノ蒙古記』のような戦闘事実は起こり得ない」
というのが正解。これは散々、上記で書いた。
『八幡ノ蒙古記』を盲信するのは勝手だが、それを証明できる説得力あるレスが君からは
微塵もみられない。結局、意味のわからないレスばかりしている。
171 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 17:32:33.12
>>170 >「『八幡ノ蒙古記』のような戦闘事実は起こり得ない」
そのように断定する理由は恐らく、「鳥飼潟以外の戦闘は無かった、戦闘は鳥飼潟で終わった」と
判断するからだろう。
しかしそれがまただめなのだ。
鳥飼潟の戦闘までしか史料が無い、ということは決してそれ以外の戦闘がなかったことの証明には
なり得ないのだ。
なぜなら史料が無くても戦闘はあったかも知れないし、またそれ以外の戦闘の史料が散逸したかも
知れないからだ。
172 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 18:30:14.52
なんか段々悪魔の証明みたいな話になってきたなw
173 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 19:59:15.57
当たり前だと思ってるのは誰かさんだけだな
175 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 20:58:41.68
当たり前のことがわからないのでは仕方がないので置いといて・・・
九大教授の服部英雄と言う人が書いた「文永十一年・冬の嵐」という資料がある。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17117/13/p1-36.pdf これを読んで、「太宰府撤収・なかった説」が意外と流行っていることがわかった。
ウィキペディアの「元寇」もこのひとが書いたのでないか?
内容の論議はまた置いといて、例の大友頼泰史料について末尾註のなかで次のように
言っている。
「都甲文書・文永十一年十二月七日大友頼泰覆勘状写(「鎌倉遺文」15巻11771)も「鳥飼浜陣」
について記している。異例に早い軍忠・安堵だが、写である。守護大友頼泰がこのような内容を
「イ乃執達如件」と奉書形式でだすのは不自然で、後世のものであろう。」
要するに偽物だと言ってるのかな?
176 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:24:54.27
大友頼泰は外にも多数奉書形式の文書出してるぉ
177 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:46:29.41
>>175 文永十一年十二月七日が「異例に早い」???
文永11年の翌年の建治1年10月29日に肥前の山代氏に文永役の恩賞が出てるやん。
竹崎季長が120名分の戦功の注進に漏れたのを怒って鎌倉へ行ったのは建治1年6月
だからその前に鎌倉へ戦功の注進があったんだろ。
文永11年12月なんて全然早くないじゃん。
178 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 21:56:44.36
>85 :日本@名無史さん:2011/11/18(金) 09:53:48.63
>建治2年1月日大宰府下文案(薩藩旧記前編巻五国分寺文書)
>蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、
>或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉。
朝廷では文永の役で神風が吹いたという認識があるみたいね。
179 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:08:30.62
『八幡ノ蒙古記』の信者が、『八幡ノ蒙古記』から話題を逸らそうと必死だな。
散々に馬鹿にされて、関係ない話に持っていこうというのが丸見え。
181 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:20:24.65
>>179 正文でも頼泰の出した奉書残ってるじゃん。
というか守護が奉書出すのが変とか古文書知らんと違う?
守護が奉書出した例はいくらでもあるよ。
鎌倉遺文見てごらん。
182 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 23:02:48.82
鎌倉年代記 文永11年10月24日 太宰少貳入道覺恵代藤馬允、於太宰府合戦。異賊敗北。
帝王編年記 文永11年11月6日 飛脚到来。是去月20日蒙古与武士合戦。賊船一艘留之。於鹿島留抑之。其外皆以追反云々。
鎌倉年代記は「異賊敗北」。帝王編年記は「追反」。
日本が敗北したとは書いてない。両方とも史料としては上質な史料。
一代要記は「文永十一年十月二十日始合戦、宰府軍等背北(敗北)了」w
一代要記のこの部分は後宇多天皇在位中(蒙古襲来の時在位)に書かれたから一番正確かと思われ。
皆さんご苦労様でした。w
184 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 10:00:47.28
>>181 >守護が奉書出すのが変とか古文書知らんと違う?
守護が奉書出した例はいくらでもあるよ。
守護が奉書出すのは当たり前。
日本語わかる?
服部教授は問題の奉書の「内容」が奉書という「形式」にふさわしくないと言ってる
のだよ。
ただし俺は専門家じゃないからどのようにふさわしくないのかは知らん。
服部教授に聞いてくれ。
185 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 10:06:10.72
>>181 >正文でも頼泰の出した奉書残ってるじゃん。
服部教授は問題の奉書が「写」だと言ってるのだから、他にいくら正文の頼泰奉書が
残っていようと関係ない。
問題の奉書の正文もあると君が言っているのならソース希望。
186 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 10:27:36.86
187 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 11:02:15.20
>>161 >福田兼重の申状でも祖原で敗退した蒙古軍が撤退するところで
終わっているのだよ。納得できない以前に、現場にいた武士たちは西方の戦闘を鳥飼潟での
戦闘で完結したと認識しているという事実を認識しておく必要がある。
ではその申し状を見よう。
福田兼重申状 「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」
なるほど文章は元軍が退却するところで「終わって」いるが、これでその日の
戦闘が「完結」したとはどこにも書いてないではないか。
局部的戦闘における一個人の働きを記録しただけだろう。
>鳥飼潟の戦闘で蒙古軍を破ったものの祖原山に立て籠もった蒙古軍を
攻め切ることを断念し、日本軍も戦闘を解したと見る方が自然。
蒙古軍が座礁船を放置してまで強行撤退したのは、この日本軍が戦闘を解した隙に
撤退を終えたかったからだろう。
日本軍は赤坂山に、元軍は祖原山に立て籠もっただけでその日の戦闘は終わった
のか? 日本軍も日本軍、元軍も元軍だな。
で、その日の夕方にまぎれて蒙古軍が気づかれずに撤退したと。だが、赤坂山と
祖原山は眼と鼻の先だ。いくら暗夜だろうと、船を使い、馬も積み込む撤退じゃ
音がする。赤坂山の日本軍に気づかれないということはあり得ない。
そこで草刈り場の話になる。武士は夜戦をしないわけではないのだ。
188 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 11:02:43.02
>まず、史料を読もう。『高麗史』によると、上陸箇所は「三郎浦」一か所となっている。
それから道を分かって進んだのだよ。
高麗史は高麗軍の記録であることを忘れてはいけない。「三郎潟」が百道原である
ことは証明されていないが、それは別として「三郎潟」は高麗軍の上陸地点だ。
「捨船三郎潟分道而進」は「我々高麗軍は三郎潟に上陸して蒙古軍とは別のルートを
進んだ」ということかもしれない。
二万の大軍だから上陸地点は複数あったほうが効率的だし、高麗軍が先遣隊をやらされ
ているなら、蒙古軍はそれより後方(西方)で安全に上陸した方が利口だ。
>つまり、博多から上陸した主力が存在したなら、合流できなかったということに他ならない。
であるのに、『高麗史』には忽敦と茶丘、金方慶が軍議に参加している。ということは
祖原が蒙古軍の主力だったということに他ならない。
博多からは上陸しなかったというのは賛成だ。少なくとも敵前上陸はしなかった。
上陸したとすれば日本軍が抵抗を止めた後だ。
だから、軍議をどこでやったのかは別として、高麗軍と蒙古軍が合流したのは
西部戦線だということにおいて、君に賛成する。
そして高麗軍は先遣隊だった。先遣隊だから決定的な勝利は必要でない。
日本軍の牽制と時間稼ぎ、それに祖原山の陣地を確保したのだから高麗軍は
立派に先遣隊の役目を果たした。
そしてその後に蒙古軍本隊が合流して、クドゥンが「蒙人は戦い馴れているが、
これ以上の戦いぶりはない」と高麗軍の働きを褒めた。その後は「諸軍ともに戦い、
暮れに及びてすなわち解く」つまり蒙古軍と高麗軍が夕方までいっしょに戦ったのだ。
>>184 折紙なのに「文永十一年」とあるのが形式的におかしいとか・・・。
写なら良くある話しじゃん。
内容はまったく不自然じゃないよん。
もしかして覆勘状と勘違いしとるんかな。
190 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 13:57:10.97
>>175 >異例に早い軍忠・安堵だが
はあ?なんでこの奉書が軍忠とか安堵なの?
大友頼泰が都甲惟親の軍忠を関東へ送付したと連絡しただけやんか。
この奉書は軍忠状でも安堵状じゃない。そもそも対外国戦で安堵とかありえへんだろが。w
大丈夫かよ、この「専門家」は。。。w
参考にその文書の全文を載せておくぉ。↓
大友頼泰奉書写 豊前都甲文書(折紙)
蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼浜陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、
文永十一年十二月七日 頼泰
都甲左衛門五郎殿
>>187 >なるほど文章は元軍が退却するところで「終わって」いるが、これでその日の
戦闘が「完結」したとはどこにも書いてないではないか。
局部的戦闘における一個人の働きを記録しただけだろう。
>そしてその後に蒙古軍本隊が合流して、クドゥンが「蒙人は戦い馴れているが、
これ以上の戦いぶりはない」と高麗軍の働きを褒めた。その後は「諸軍ともに戦い、
暮れに及びてすなわち解く」つまり蒙古軍と高麗軍が夕方までいっしょに戦ったのだ。
何度も言っているが、福田兼重申状からわかる蒙古軍が敗走したという事実から
君の妄想の「その後に蒙古軍が再進出した」ということを示せばいいだけの話なんだよ。
そして、今わかるのは「蒙古軍が敗走した」という事実だけ。
そして、君の主張する再度東進した蒙古軍が博多に進出したとした場合、
蒙古軍が「その日に慌てて撤退した」事実と当時の都会で寺社仏閣が並ぶ博多で
「誰も進出してきた蒙古軍に関する記述を残していない」事実と辻褄が合わないのだよ。
「対馬を一週間も蹂躙した」蒙古軍が日本軍を蹴散らして博多へ再進出したなら
「博多を一日すら維持せず撤退した」というのはおかしいよねって話。
>で、その日の夕方にまぎれて蒙古軍が気づかれずに撤退したと。だが、赤坂山と
祖原山は眼と鼻の先だ。いくら暗夜だろうと、船を使い、馬も積み込む撤退じゃ
音がする。赤坂山の日本軍に気づかれないということはあり得ない。
そこで草刈り場の話になる。武士は夜戦をしないわけではないのだ。
まず、戦力差を認識しよう。総大将の少弐景資の軍勢で五百騎。その他大友ら守護クラスの
軍勢も同程度と考えた場合、日本軍は一万を超えていなかった可能性すらある。
蒙古襲来絵詞に描かれている激戦地に登場する軍勢も百騎クラスしか登場していない。
そのような軍勢で四万の敵軍を阻止し、増援を待つのが少弐氏の戦略目標であったろう。
例えば、慶長の役の第二次蔚山城の戦いでは3倍近い明軍の軍勢を撃退した加藤清正であったが
彼は圧倒的戦力差を認識し、追撃はしなかったという事例もある。
また、蒙古軍の動きを撤退かどうか見極めるのも非常に難しい。なぜなら、彼らがまっすぐ高麗
へ帰還する保障はどこにもないからだ。日本軍は守備側として当然の警戒と配慮を怠らなかった。
守備側の目的は「敵を殲滅する」ことではなく、「敵の攻勢を退ける」ことにあるのだから。
193 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 17:22:10.49
>>191 >当時の都会で寺社仏閣が並ぶ博多で「誰も進出してきた蒙古軍に関する記述を残していない」
6本の碇石という物証がある。これは強いね。いかなる文書にも勝る。
後で言うつもりだったが、博多に来た元船は撤退の為に西部海岸沖から回送されただけかも知れない。
しかしそうであったにせよ、博多という陸上を制圧しなければ横付けも乗り込みもできないのだ。
>蒙古軍が「その日に慌てて撤退した」事実
はて、それを言っているのは「八幡の蒙古記」および類書だけなのだが、そこだけは信じるのか?
もちろん、高麗史もそのように取れる書き方をしているが、省略されている可能性があるし、日付は
入っていない。そして合浦に帰着したのは27日なのだ。
194 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 17:22:33.38
>「博多を一日すら維持せず撤退した」というのはおかしいよねって話。
それを言うなら、先遣隊が小競り合いしただけで百路原沖から撤退するほうがなおおかしい。
それに、これも後で言うつもりだったが、私は24日の太宰府合戦を信じるのだ。つまり、元軍は
数日間、博多周辺に滞在したと考える。
>そのような軍勢で四万の敵軍を阻止し、増援を待つのが少弐氏の戦略目標であったろう。
それならなおのこと、赤坂で持ちこたえられなかっただろう。赤坂は当時、迎賓館があるぐらい
の、たった35mの山で、たいした防御力はない。
>日本軍は守備側として当然の警戒と配慮を怠らなかった。
で、苦労して砂浜から撤退する元軍をじっと赤坂山から眺めていたと。それなら記録に残りそうなものだな。
しかし百路原からの元軍撤退の記録はない。
博多からの撤退なら問題はあっても八幡の蒙古記と、碇石の物証がある。
>そして、今わかるのは「蒙古軍が敗走した」という事実だけ。
いかに「記録だけ」に忠実であろうとしても、見て来たように、合理的なすじがきを考えようと
すれば「百路原からの撤退」という記録に無い想像を加えなければならない。同じことなのだ。
195 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 18:05:53.65
水掛け論だよ
>6本の碇石という物証がある。これは強いね。いかなる文書にも勝る。
後で言うつもりだったが、博多に来た元船は撤退の為に西部海岸沖から回送されただけかも知れない。
しかしそうであったにせよ、博多という陸上を制圧しなければ横付けも乗り込みもできないのだ。
碇石が存在するが、当時の都会で寺社仏閣が多数存在する博多に蒙古軍が進出したという
「記録がない」ということは君の言う「博多に来た元船は撤退の為に西部海岸沖から回送されただけかも知れない。」
としか考えられない。
それと横付けも乗り込みもまともにできていないから「碇石を切断」という事態に至ったということやね。
博多が蒙古軍に制圧されていたなら、蒙古軍は碇石を切断し急ぐ必要性はないはずだ。
>はて、それを言っているのは「八幡の蒙古記」および類書だけなのだが、そこだけは信じるのか?
もちろん、高麗史もそのように取れる書き方をしているが、省略されている可能性があるし、日付は
入っていない。そして合浦に帰着したのは27日なのだ。
はて?上陸初日で撤退して急いで撤退していない軍なんてあるのか。まさか、24日に大宰府で合戦があって
3日後に「合浦」に帰着したなんてバカなことは考えてないよね?
>それを言うなら、先遣隊が小競り合いしただけで百路原沖から撤退するほうがなおおかしい。
それに、これも後で言うつもりだったが、私は24日の太宰府合戦を信じるのだ。つまり、元軍は
数日間、博多周辺に滞在したと考える。
まず、先遣隊という根拠が意味不明。「蒙人雖習戦、何以加此」を合流と曲解しているが、どこに忽敦が
後からやってきたと書いているんだ?普通に読めば、「三郎浦」から道を分かって進んだ蒙古軍が共に協力して
戦ったとしか読めないが。どこに「先遣隊」だの「主力軍」だの書いてるんだか。
24日に大宰府で合戦があって3日後に「合浦」に帰着したなんてバカなことは考えてないよね?
>いかに「記録だけ」に忠実であろうとしても、見て来たように、合理的なすじがきを考えようと
すれば「百路原からの撤退」という記録に無い想像を加えなければならない。同じことなのだ。
蒙古軍が鳥飼潟から百路原方面に、撤退した後、戦闘記録から消えたなら百道原以外からどこから撤退できる
のか、教えてくれないか。
正直分からないな。
服部さんの言い分を信ずれば元高麗軍数万が1日で上陸するのは不可能になるが、
逆に言えば上陸した兵だけで日本軍の前線の一部と交戦し、被害甚大だったから撤退が早かったとも言える。
かと言って1日で撤退を決断実行するほどの損害を被るほどの戦闘というのがちょっと想像つかないんだなあ。
かりに日没で兵を引き揚げさせたとしても、そのころには軍議を開き、夜半に出航なら、
上陸初日のかなり早い段階(新暦11月末だから昼過ぎくらい)には、
元軍は日本軍の攻勢の前に劣勢を否めなくなっていた計算になるが、すると上陸後のスケジュールがかなり忙しくなるな。
無事に撤退できるのか?
軍板のほうですこし話題に上がってたが、壱岐の戦いでの損耗が激しくて、九州上陸時には最初から撤退まで見越した計画変更があったのではないかという見方がある。
威力偵察厨ではないが、九州上陸時に抵抗が激しければ撤退も止むなしという考えがあったのではないだろうか。
もちろん最初は大宰府を制圧するつもりだっただろうけど、何といっても蒙古軍も戦のプロだ。壱岐対馬みたいな小島で損耗していれば、先の予想はついていただろう。
九州上陸でそれが的中したので、事後の不利を悟って引き上げたといったところではないか。
200 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 20:11:34.11
>>196 >君の言う「博多に来た元船は撤退の為に西部海岸沖から回送されただけかも知れない。」としか考えられない。
だからそれでもいいと言っているのだよ。私の基本的な考え方は「元軍は砂浜に上陸して港から帰った」
ということだ。砂浜は小舟を乗り上げさせて人馬を上げるのに都合がいいから古今東西、上陸戦の舞台。
帰りは港を制圧して船を横付けすれば乗船は早い。実に合理的な作戦だ。
>博多が蒙古軍に制圧されていたなら、蒙古軍は碇石を切断し急ぐ必要性はないはずだ。
必ずしもそうは言えない。いかに制圧していても陸上の人員は乗り込むにつれてどんどん減る。それに日本軍が
たった20kmのところにいるのはわかっている。馬で来るのは1時間だ。
それに碇が底にからんで上げられない事故もあるだろう。碇は単なる石の棒でなく、石と木材の構造物なのだ。
(木材が腐って石の棒だけが残った)
>まさか、24日に大宰府で合戦があって3日後に「合浦」に帰着したなんてバカなことは考えてないよね?
まさにそのバカなことを考えているよ。元軍は半道の対馬まで2日で来た。計算上は4日行程だ。しかし帰りは
荷が軽いし、「吹き戻した」と言われる風に乗っているから船足が早かったろう。
24日合戦、同日軍議、24日夜または25日朝乗船、27日帰着で計算は合う。
201 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 20:12:00.16
>まず、先遣隊という根拠が意味不明。
高麗軍という植民地軍を先遣隊に使って元軍を温存しようとするのは当然だと思うが?
>蒙古軍が鳥飼潟から百路原方面に、撤退した後、戦闘記録から消えたなら百道原以外からどこから撤退できる
のか、教えてくれないか。
博多。証拠は碇石。
>戦闘記録から消えたなら
そこにまた、「記録が無ければ事実もない」という前提が入っている。その前提は記録の無い博多港の碇石で
吹っ飛ぶ。
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■
[道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス
空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率
ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革
ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け
世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
203 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 20:32:46.33
>>200 >だからそれでもいいと言っているのだよ。私の基本的な考え方は「元軍は砂浜に上陸して港から帰った」
ということだ。砂浜は小舟を乗り上げさせて人馬を上げるのに都合がいいから古今東西、上陸戦の舞台。
帰りは港を制圧して船を横付けすれば乗船は早い。実に合理的な作戦だ。
また、君は同じことを言っている。必然的にこちらも同じことを繰り返すしかなくなるよ。
君の主張するように蒙古軍が当時の都会で寺社仏閣が多数存在する博多に進出したという
「記録がない」ということは、蒙古軍は博多に進出していなかったのだよ。
君が納得しても、当時の状況と君の主張には相当なズレがある。
君は文永の役を合理的に解釈しようとして@戦闘記録はないが、蒙古軍は再進出したはず
Aだから、博多に蒙古軍が進出した記録はないが、博多にも進出したはずと判断した。
つまり、はずの上にはず、妄想の上に妄想を重ねて迷走しているだけなのだよ。
>必ずしもそうは言えない。いかに制圧していても陸上の人員は乗り込むにつれてどんどん減る。それに日本軍が
たった20kmのところにいるのはわかっている。馬で来るのは1時間だ。
それに碇が底にからんで上げられない事故もあるだろう。碇は単なる石の棒でなく、石と木材の構造物なのだ。
(木材が腐って石の棒だけが残った)
事故でかたずけるのは良くない。そんなことで碇石が6本も出ていたら、戦争のたびに碇石だらけになるよ。
蒙古軍が日本軍のことを恐れて、碇石を切り離して撤退したというのは同意するよ。
>まさにそのバカなことを考えているよ。元軍は半道の対馬まで2日で来た。計算上は4日行程だ。しかし帰りは
荷が軽いし、「吹き戻した」と言われる風に乗っているから船足が早かったろう。
24日合戦、同日軍議、24日夜または25日朝乗船、27日帰着で計算は合う。
また、おかしなことを言う。対馬から合浦までの約50kmで「二日」も掛っているいるのに、大宰府で敗退した蒙古軍がどうして
「3日」後に合浦に付けるんだ。ちなみに対馬から壱岐までは約70kmで、壱岐から博多まで約70kmだから合浦から対馬の
3倍近い距離だ。
どう考えても「3日」で帰着するのは不可能。「荷が軽い」とか「吹き戻した」なんてぐらいでは到底あり得ないことだ。
よって、君の主張は合理的でない。ほとんど「妄想」でしかないということがわかる。
206 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:24:20.62
>>199 軍板ではいずれにしろ元軍の戦略的完全敗北、但し早めに不利を悟って
被害が拡大する前に撤退を決めた元軍の賢明な判断は評価に値するって結論になってたな。
207 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:37:54.41
>>204 >当時の都会で寺社仏閣が多数存在する博多に進出したという「記録がない」
ということは、蒙古軍は博多に進出していなかったのだよ。
どうしてわかってもらえないのかな。
埠頭のそばで碇石が出るといういことは船を横付けしたということ。
船を横付けしたということは博多の陸上にも元軍がいたということ。
そのことは逆に「記録が無くて事実がある場合もある」という証明になって
いる。それだけのことなのだが。
>対馬から合浦までの約50kmで「二日」も掛っているいるのに、大宰府で敗退した蒙古軍がどうして
「3日」後に合浦に付けるんだ。ちなみに対馬から壱岐までは約70kmで、壱岐から博多まで約70kmだから合浦から対馬の
3倍近い距離だ。
いまグーグルアースで測って見た。合浦から対馬南部の中心地まで直線距離で125km、
そこから博多までは121kmだった。対馬は私が言ったように半道なのだ。
だから計算上は4日行程。
だけど前に言ったように食糧・武器を消費し、機材を捨てているから荷は軽い。
また壱岐など島に寄る必要もないからまっすぐ行ける。
そして例の風だ。動力船じゃないから速度は常に一定ではなく自然条件で
ずいぶん違う。3日は可能だろ。
>>206 それいつ頃のスレ?今年じゃないよね。軍板の過去ログの議論見てみたい
209 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 23:23:11.30
>>196 >君の言う「博多に来た元船は撤退の為に西部海岸沖から回送されただけかも知れない。」としか考えられない。
ひょっとしたらここに行き違い(誤解)があるかも知れないと気づいた。
ひょっとしたら君は私の上記文章の意味を:
「博多に来た元船は博多の港を覗いてみただけで、何もせずそのまま帰った」という意味に
受け取ったかもしれないね。
私の言う意味はそうではない。
少なくともすこし前まで、元軍の主力は博多港に上陸した、という考えかたが
主流だった。
私はそこに疑問を持ったのだ。私の上記文章の意味は:
「博多に来て(その一部が)碇石を残した元船は、元軍主力を敵前上陸させた
ものではなく、元軍が博多を制圧した後に撤退する元軍を載せる目的で、西部海岸
沖から博多へ回送されたものであろう」
という意味なのだ。「かもしれない」とは書いているが、私は博多上陸には
批判的だから、むしろこの博多回送のほうに重点がある。
元軍の作戦は:
西部海岸に上陸して陸路東進し、赤坂を突破すれば博多の日本軍は孤立するから
労せずして博多を制圧できる。その後は撤退するときは博多の港を使ってできる。
と言う作戦だったろうと考えるわけ。だから船の博多回送は作戦の中に含まれて
いる。
またこう考えることによって博多敵前上陸の形跡がないにもかかわらず船が来た
跡はある、という問題を合理的に説明できるわけだ。
>>207 >いまグーグルアースで測って見た。合浦から対馬南部の中心地まで直線距離で125km、
そこから博多までは121kmだった。対馬は私が言ったように半道なのだ。
だから計算上は4日行程。
おかしな人だな。なぜ、対馬「南端」なんだ。朝鮮から対馬に攻め込むなら当然北端からだから
合浦から対馬まで70kmだ(50kmは間違い訂正)。つまり70km=2日だ。
当時の航海術で直線距離で計ってどうする。
直進できないから対馬、壱岐を確保しながら蒙古軍は日本を目指した。
そして、現実は対馬から合浦までの距離「2日」かかったという事実がある。
撤退するときも同様。博多から60km(訂正)=約1〜2日かけて壱岐を経由して対馬へ(約50km=約1〜2日)。
さらに対馬から合浦70kmを二日。さらに島伝いでの距離も含めると、「3日」なんてことはあり得ない。
蒸気船でもないのに、直線距離などで無理矢理距離を縮めること自体、合理的ではない。
>博多の陸上にも元軍がいたということ。
そのことは逆に「記録が無くて事実がある場合もある」という証明になって
いる。それだけのことなのだが。
誰も箱崎浜から蒙古軍が上陸したことは否定していない。当時の都会で寺社仏閣が多数あった博多で
誰も蒙古軍が博多に進出した記述をしていないこと、博多での戦闘記録がないこと、蒙古軍が碇石を
切断して逃走したことから、撤退するときに箱崎から一部の蒙古軍が上陸して略奪・放火して戦果を
埋め合わせようとしたということは否定しない。なぜなら、『元史』に戦闘が終わった後、「惟虜掠四境而帰」
と戦果の埋め合わせを伺わせる記述があるからだ。
訂正
日本を目指した。→九州を目指した
すまん。勘違い。蒙古軍が上陸したとされる「小茂田浜」から合浦は110kmだな。訂正。
4日では帰着できるみたいだな。
合浦〜小茂田浜=約110km
小茂田浜〜壱岐=約70km
壱岐〜博多=約70kmだな。
直線距離での数字なので、実際はもっと距離があるかもしれん
214 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 10:45:52.77
>>210 >撤退するときに箱崎から一部の蒙古軍が上陸して略奪・放火して戦果を
埋め合わせようとしたということは否定しない。なぜなら、『元史』に戦闘が終わった後、「惟虜掠四境而帰」
と戦果の埋め合わせを伺わせる記述があるからだ。
箱崎浜からの元軍の上陸と略奪・放火を君が認めていることはわかった。
その場合重要なのは、戦いのこの段階で元軍がそれを好き勝手にやれたからには
日本軍が無抵抗だったということだ。
つまり絵詞でこのあたりに「ひしめいていた」という日本軍は、この段階では
どこかに消えていた。
水城まで行ったか、このあたりの山中に潜んだがはさておき、箱崎からは撤収した
わけだ。恐らく、赤坂が突破された段階で孤立を恐れた箱崎・博多の日本軍は
自主的に撤退しただろう。
また、赤坂が突破されて上記のような事態になれば箱崎・博多に張り付いて
いても意味がないから、逐次赤坂戦線に投入されたということもあり得る。
215 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 10:46:13.26
ただし、碇石については、博多の話を箱崎にすり替えてもらっては困る。
碇石が見つかったのは博多港中央埠頭ふきんとされている。中央埠頭はむかしの
博多港があったところだ。
中央埠頭は縦長の長方形に突き出ているが、むかしの博多港はほぼこの範囲で、
だいたい「毛」の字の形をなして突き出た半島だった。
前にも書いたが、この港の周辺で碇石がみつかったということは、港周辺の
陸上にも元軍がいたということだ。陸上にもいて安全が確保されるのでなければ
悠然と碇をおろすわけにはいかないし、だいたい陸揚げなり積み込みなどする
のでなければ横付けする意味がない。
箱崎で元軍が自由行動できたのなら博多にだけは日本軍がいたというのは考え難い。
だから博多で戦闘がなかったというのは私も認める。というか私が言っていることの
一部だ。「東武戦線はなかった」というのが私の言いたいことだ。
日本軍がひしめいている段階では元軍は来なかったし、元軍が到達した段階では
日本軍はすでにいなかった。だから戦闘もなかった。「東部戦線はなかった」と
いうのはそのような意味だ。
記録がないと言っても、記録がないのは博多に限ったことではない。文永の役
ぜんたいについて、ほんとうに記録が少ないのだ。800年のなせるわざだ。
216 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 13:04:58.41
北九州の地図を見ながらやり取りを聞いてるが、どこがどの戦場なんだ
元寇の全貌が分かる学術書みたいなのはないの?軍事史学のBNでもいいけど
博多大宰府の古戦場の地名にまったく土地勘が働かないんだが…
>>214 >箱崎浜からの元軍の上陸と略奪・放火を君が認めていることはわかった。
その場合重要なのは、戦いのこの段階で元軍がそれを好き勝手にやれたからには
日本軍が無抵抗だったということだ。
また、前提がおかしいよ君は。箱崎周辺に上陸したが、箱崎宮周辺しか放火・略奪の形跡がない。
そして碇石を切り離して、急いで逃走した。これらの現場状況から、箱崎周辺に日本軍が駆けつけて
急ぎ撤退したと考えるべきだろうね。君のいう日本軍が無抵抗なら、箱崎宮周辺だけでなく、
博多の町を丸焼けにして、碇石を切断せず余裕をもって撤退してもよかったはずだ。
>前にも書いたが、この港の周辺で碇石がみつかったということは、港周辺の
陸上にも元軍がいたということだ。陸上にもいて安全が確保されるのでなければ
悠然と碇をおろすわけにはいかないし、
中央埠頭は博多港の東奥だ。ここで碇石が発見されたことと、箱崎周辺しか被害が確認されないということは
港周辺に蒙古軍がいなかったということだ。被害場所と中央埠頭に蒙古軍がいた形跡に矛盾はない。
中央埠頭と箱崎宮は目と鼻の先だからだ。
そして、悠然と撤退できていない状況や、『元史』の「惟虜掠四境而帰」などの記述から蒙古軍は軍事作戦を
目的としていたのではなく、単なる放火・略奪目的でこの付近に上陸したということがわかるわけだ。
>記録がないと言っても、記録がないのは博多に限ったことではない。文永の役
ぜんたいについて、ほんとうに記録が少ないのだ。800年のなせるわざだ。
前にも言ったが、当時誰も住んでおらず何にもなかった百道原の戦闘記録が残っているのに、当時の都会で
寺社仏閣が並ぶ博多で、誰も記録せず、伝承すらないということは博多に蒙古軍が進出していなかったという
ことを裏付けるのに十分な根拠だ。
それと、君の言うとおり、博多を余裕をもって蒙古軍が占領したなら、なぜ撤退したと考えているのか。
そしてその原因を、での大宰府の合戦せいだと考えているなら以下のことをどう考えているか。
合浦から小茂田浜まで約110km=2日かかっているのに、24日に大宰府があって還りの航路約250kmを「3日」で帰着した
と本気で考えているのか。単純に「荷が軽くなった」などの理由では到底覆せる距離ではない。
まして、どこで暴風雨にあったのかは不明だが、帰還中に暴風雨に遭遇した蒙古軍が、行きのようにスムーズに
まっすぐ帰還できたはずがない。むしろ、還りの方が困難が多かったちうことが予想される。
そして、蒙古軍が撤退途中に再上陸したことがわかる資料に『勘仲記』がある。
『勘仲記』文永十一月六日条
「或人云、去比、凶賊船数万艘、浮海上、而俄逆風吹来、吹帰本国、少々船、又馳上陸上、
仍大鞆式部大夫郎従等、凶賊五十余人、令虜掠之、皆搦置、彼輩等召具之、可令参洛云」
『勘仲記』によると、撤退していた蒙古軍の一部が再上陸したが、大友頼泰の軍勢に襲われて
捕虜50余人が生け捕られたとある。
つまり、『勘仲記』のいう再上陸は箱崎周辺の上陸とみられ、大友の軍勢に襲われて混乱した
蒙古軍の一部が碇石を切断して逃走した。中央埠頭にしか碇石が見られないことと、箱崎周辺しか
被害が確認できないこと、史料の『勘仲記』からも蒙古軍が略奪・放火目的で再上陸したということは
疑う余地がないということだ。
訂正
24日に大宰府があって→大宰府で合戦があって
訂正
捕虜50余人が生け捕られたとある→蒙古兵50余人が生け捕られたとある
なんか食い下がるたびにほとんど一方的に論破される
>>214が可哀想になってきた
しかしこのやり取りとり勉強になるな
二〜人〜のため〜♪ス〜レはあるの〜♪
225 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:47:50.44
私の考えるすじがきはすべて言ったから、今回はケチツケだけにする。
>>218 >これらの現場状況から、箱崎周辺に日本軍が駆けつけて
(蒙古軍は)急ぎ撤退したと考えるべきだろうね。
箱崎に上陸して乱暴狼藉中の蒙古兵を、かけつけた日本軍が博多の海に追い落としたと
いうことだね。
このような目覚ましい戦闘にはさぞかし記録があるのだろうね。恩賞にもなりそうだし。
君がいつも言う、「記録がなければ事実もない」ということは、裏返せば
「事実があれば必ず記録がある」ということだからね。
>中央埠頭は博多港の東奥だ。ここで碇石が発見されたことと、箱崎周辺しか被害が確認されないということは
港周辺に蒙古軍がいなかったということだ。被害場所と中央埠頭に蒙古軍がいた形跡に矛盾はない。
中央埠頭と箱崎宮は目と鼻の先だからだ。
言っていることが全くわからないが、蒙古軍は中央埠頭/箱崎には居たが博多港には
いなかったと言いたいらしい。
だが、前にも言ったように、中央埠頭が昔の博多港の跡なのだ。
たしかに中央埠頭から箱崎宮までは約2キロしか離れていないが、むかしの街は小さい
から、それでも別の街だったのだ。
蒙古軍が箱崎にはいたが博多にはいなかったなんて、そんな細かいことは言えない。
226 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:48:14.03
>24日に大宰府があって還りの航路約250kmを「3日」で帰着したと本気で考えて
いるのか。
ごめん、私の見た史料が間違っていた。高麗史玄宗世家を見たら帰着日は一月
ちがいの11月27日だった。だから帰着日は24日の大宰府合戦を制約しない。
24日大宰府合戦を否定したいなら別の理由を考えてくれ。
>つまり、『勘仲記』のいう再上陸は箱崎周辺の上陸とみられ、大友の軍勢に襲われて混乱した
蒙古軍の一部が碇石を切断して逃走した。
考えすぎだ。陸上に馳せ上ったのは蒙古兵ではなくて船だ。そして「又」は「再び」の
意味でなくて、「〜一方、」という意味だ。
「数万隻の蒙古船は突然の逆風に吹かれて本国に帰った、一方で少数の船が座礁して
(乗っていた)蒙古兵50余人を捕虜にした」ということ。
八幡ノ蒙古記にある、志賀島ふきんに座礁した蒙古船一隻の兵200人余を捕らえて
切った、という記事に相当すると見られる。
227 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 22:50:43.81
横レスだが、24日だと帰投する日数に難が生じるが、
例えば戦闘が一両日にわたって行われ、元軍は20日中に劣勢に陥ったが日本軍も追撃せず、
翌21日か22日の早い段階で撤退を決したという中間説は可能じゃないの?
なんか1日の戦闘での撤退というのも腑に落ちないんだが…
229 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 10:28:10.15
>>228 >横レスだが、24日だと帰投する日数に難が生じるが、
>226で書いたように、24日合戦でも難は生じない。
帰着日は10月27日じゃなくて11月27日だった。一ヶ月以上かかっている。
これはこれでどんな風に帰ったの?という疑問があるが、ともかく
10月24日合戦を制約しない。
>翌21日か22日の早い段階で撤退を決したという中間説は可能じゃないの?
大宰府合戦の記録を否定すればもちろん中間説も可能だ。
>なんか1日の戦闘での撤退というのも腑に落ちないんだが…
それが最大の問題だ。夜間に2万の軍隊を乗船させるだけでも大変なのに
それを1日の内に上陸戦、陸上進撃、野戦、都市の略奪を行った軍隊に
やらせるというのだから、元軍は超人のような感じだ。
>箱崎に上陸して乱暴狼藉中の蒙古兵を、かけつけた日本軍が博多の海に追い落としたと
いうことだね。
このような目覚ましい戦闘にはさぞかし記録があるのだろうね。恩賞にもなりそうだし。
日本軍が駆けつけたからと言って、戦闘があったという保証はないのだが。
ただ、現在わかることが中央埠頭付近にしか蒙古軍がいた形跡がなく、その目と鼻の先の箱崎しか被害が
確認できず、蒙古軍は日本軍が駆けつけてくるのを恐れてか、碇石を切り離して逃走したという事実だけ。
つまり、日本軍が駆けつける前に戦闘を避けて慌てて逃げ出した可能性も十分あるわけだ。
>私の考えるすじがきはすべて言ったから、今回はケチツケだけにする。
24日大宰府合戦を否定したいなら別の理由を考えてくれ。
私は矛盾点は指摘するが否定する必要性はない。大宰府で合戦があったという妄想が正しいと思うので
あれば、ケチツケばかりせず矛盾点を解明して君が証明すればいいだけなんだよ。
例えば、『勘仲記』でたった50人ほど生捕ったという情報が京都まで伝わっていたことがわかるのに
大宰府で大合戦があったことを誰も触れていないというのはどういうことか。
まして、それほどの合戦があれば、書下の数は「百道原」方面の戦闘より遥かに現存しているはずだが
存在しない。書下だけでなく、細かなことを記載している『勘仲記』で全く触れていないということは
あり得ないはずだ。
>たしかに中央埠頭から箱崎宮までは約2キロしか離れていないが、むかしの街は小さい
から、それでも別の街だったのだ。
蒙古軍が箱崎にはいたが博多にはいなかったなんて、そんな細かいことは言えない。
被害場所が箱崎周辺しか記録にないのと、上陸した形跡が目と鼻の先の中央埠頭にしか
存在していない状況と、当時の都会で寺社仏閣が存在する博多で誰も蒙古軍が進出したという記録がない
ということは蒙古軍が博多にいなかったと、明確に言えるに十分な根拠だよ。
>八幡ノ蒙古記にある、志賀島ふきんに座礁した蒙古船一隻の兵200人余を捕らえて
切った、という記事に相当すると見られる。
『八幡ノ蒙古記』では「残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり」
と志賀島に座礁した船の蒙古兵は皆殺しにしたと書いているが、『勘仲記』では捕虜は京都に連行
されている。
また『勘仲記』では220人ではなく50余人で、なおかつ『八幡ノ蒙古記』では「蒙古船一艘」に対して、
『勘仲記』では「少々の船」とあり、志賀島とは明記されていない。
同じ出来事だという根拠が意味不明。
まあ、でも「少々船、又馳上陸上」の記述は、確かに少々の船がまた馳せ上がるという意味やね。
勘違いすまん。
>>229 >それが最大の問題だ。夜間に2万の軍隊を乗船させるだけでも大変なのに
それを1日の内に上陸戦、陸上進撃、野戦、都市の略奪を行った軍隊に
やらせるというのだから、元軍は超人のような感じだ。
どうだろうなぁ。文禄の役で小西行長率いる一番隊二万は、4月13日に釜山に上陸を開始し、
その日の内に釜山城を落として、さらにその先にある東莱城が望める場所に陣を敷いているからぁ。
細かいところ悪いが一番隊の人数は正確には一万八千七百人だぞ
あと上に挙がってる元軍の兵力二万っていうのはちょっと少なすぎじゃないか?
戦闘員だけでも優に三万人は超えていたはず
小西行長の釜山攻めの場合、朝鮮官軍がろくに迎撃態勢を取ってなかったでしょ。
日本は下手すれば10年以上前の長時政権の段階から西国の防備強化を命じている
モンケの遠征と連動してるんだと思うけど
235 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 16:32:25.82
>>230 >つまり、日本軍が駆けつける前に戦闘を避けて慌てて逃げ出した可能性も十分あるわけだ。
なるほど、日本軍は来たけど戦闘に至らなかったから記録にも残らなかったと。
都合がいいことだな。
>現在わかることが中央埠頭付近にしか蒙古軍がいた形跡がなく、その目と鼻の先の箱崎しか被害が
確認できず、
相変わらずわからないことを言うから地理を確認して置こう。博多の古地図がある。
18世紀に描かれた想像図だがないよりましだ。
これを見ると博多の港は住吉神社と箱崎神宮の間にある。東西の位置で言うなら
現在の中央埠頭の位置だ。
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kochizu/hakata/hakataohkozu.html 中央埠頭ふきんに蒙古軍がいたと言うなら博多港にいたことになる。そして、
君が中央埠頭と箱崎神宮を一つの区域と見ているように、古地図で見ても博多港
と箱崎神宮は近い。
ただし海岸線*は現在より後退していて、箱崎神宮の門前を通っており、博多港は
その線から掘り込まれていた。(私が突き出た半島として見たのはもっと古い姿
かもしれない)だから中央埠頭ふきんで発見された碇は船を横付けしたものでなく、
埠頭から海側に離れて停泊したものだった。
*現在の昭和通りがほぼむかしの海岸線と見られる。
236 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 16:33:06.70
もともと、埠頭に横付けするならもやい綱でいいのだから碇は使わないのだった。
それにしても日本軍の姿か幻を見ただけで逃亡する蒙古兵が、日本軍が頑張っていたと
いう博多港のすぐ沖に、悠々と碇を下ろすのは変だな。
碇綱を切るのは夜中のあわただしい出港を思えばあり得ることだが。
>、『勘仲記』では捕虜は京都に連行されている。
よく読んでくれ。「参洛せしむべしと云う」で、未来の、しかも伝聞だ。
事実、京都に連行された蒙古兵はいなかったのでないか。
数万艘などと不正確なところもある伝聞で、このくらいの一致なら同じ出来事と
見るべきだろう。まあどちらでもいいがね。
>>232 私のすじがきの骨子は「元軍は西からしか来なかった。最後の段階で無防備の
博多を制圧し、帰りはここから帰った」というところにある。
これだけのことを1日でやるのは無理だと思うから24日大宰府合戦の記録に共感
しているだけで、1日でできたというならそれでもいいいのだ。
元軍が素晴らしく良く訓練された軍隊だったということを認めるだけの話だ。
>>235 >なるほど、日本軍は来たけど戦闘に至らなかったから記録にも残らなかったと。
>都合がいいことだな。
いや、鳥飼潟以降の戦闘記録が皆無にも関わらず
大規模な戦闘があったと言い張るお前の方がどうかしてるから
都合のいい妄想ばかりしてないで現実を見ようぜ
戦闘記録が無い以上、鳥飼潟以後に戦闘は無かったか、あったとしても
取るに足らない小競り合いだったとしか考えられないじゃん
あんまり知られてないけど、元寇の時は東北の水軍衆が駆けつけて壱岐島を奪回したりしてる
んでしばらくして元軍が引き上げた後、緒戦で高麗軍が殺戮を行った壱岐島の住民で島に帰りたくない人々を、
この水軍衆が保護して東北に連れ帰ってる
津軽や秋田にはこの時の移住者の子孫がいる
というか対馬と壱岐は何度も朝鮮に襲われて難民が発生し、その度に惨劇の島に戻りたくない人が日本各地に移住した
日本海側は遠く離れた土地でも似た伝承を語り継いでるのは、こういう歴史があったからかも
239 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 23:28:44.04
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派
VS
橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
様子見:公明
>>238 安東氏の十三湊の水軍衆?
こりゃまた随分スケールの大きい話になってきたな
西国の水軍衆じゃなくて何で奥羽の水軍なんだ
241 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 14:44:57.68
十三湊の船団が幕命で動員されてるなら、
北陸道もかなり北のほうまで警備令出てるんじゃないかな。
若狭くらいまでは確認できるようだが
元朝の海軍技术低下
243 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 15:47:45.17
博多の古地図を見ても、現在との対比がよくわからない。そこで地名を手がかりに
現在と対比して見よう。
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kochizu/hakata/hakataohkozu.html 古地図を見ると、博多港は海側の護岸された横長矩形の島と、水路を挟んでその南の
陸地にあるもうひとつの岸壁とからなる。海側の島を「沖の浜」と言い、南の岸壁を
「博多浜」と言った。
さて古地図を見ると沖の浜の西北角ふきんに「沖浜恵比須」の文字がある。これに
相当する「沖の浜恵比寿神社」が、現在の博多で石堂川(御笠川)沿いに昭和通り
から二つ目のブロックにある。このあたりが沖の浜の北限だったのだ。
またウィキペディアによると、沖の浜の南の水路は現在の地下鉄中州川端駅ふきんに
あったという。このあたりを南限とし、東西は二つの川で仕切られる範囲、これが
むかしの沖の浜のだいたいの範囲だった。現在の中央埠頭の南に当たる。
古地図で沖の浜の西に東西に走る防波堤風の浜があり、その南に船溜まりを形成して
いる。この防波堤風の浜に「長浜」と書いてあるが、これは現在の中央卸売市場
ふきんの地名である。
244 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 15:48:12.02
長浜の西北の沖にもうひとつの防波堤風の浜があり、その突端の山に「荒津山」と
書いてある。この防波堤の南に、「草香江」と書かれた入り江が大きく陸地に入り
込んでいる。先ほどの荒津山は、現在の西公園ふきんに荒津の地名がある。西公園は
現在でも山で、グーグルアースで見ると緑色の三角形に見える。
現在の地図で西公園すなわち荒津からまっすぐ南に行くと、「大濠公園」の沼に行き
当たるが、これはむかし赤坂山の西にあった自然の沼である。その東の福岡城址が
赤坂山である。
赤坂山の北はすぐに先ほどの草香江の入り江に接するはずである。赤坂で攻防が
あったと聞いて現在の地図を見ると、内陸の赤坂でなにをごちゃごちゃやってたの?
という気になるが、実は赤坂は海岸を見下ろす丘だったのだ。
こう見て来ると、赤坂山は西から博多に向かって海沿いに進む敵に対して、博多の
最後の防衛線をなしていたことがわかるのである。
245 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 15:52:01.80
>>243 訂正:
さて古地図を見ると沖の浜の西北角ふきんに「沖浜恵比須」の文字がある。
↓
さて古地図を見ると沖の浜の東北角ふきんに「沖浜恵比須」の文字がある。
246 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:12:38.84
>>243 訂正:
石堂川(御笠川)沿いに昭和通りから二つ目のブロックにある。
↓
石堂川(御笠川)沿いに昭和通りから北へ二つ目のブロックにある。
碇石を根拠にここまで頑張るんだから、凄い情熱だな。
もっとも、あの碇石が二回の元寇で、
どのような経緯でもって、あの場所に沈んだのか不明だから、
所詮、仮定に仮定を積み重ねた論に過ぎないのが悲しいな。
つか弘安の役の惨状を思えば、博多湾内にはいくつも碇石が沈んでそうだな。
それでも日本史板のほうが軍板のスレより議論の内容自体はなんぼかマシだ。
あっちは本当にレベル低くなった。ききかじりの武具の話くらいしかできない
249 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 14:37:41.76
現在は元軍百道原撤退説ともいうべき妙な説が流行っているようだが、すこし前まで
はどの本も元軍二正面上陸説であった。高麗軍がまず百道原などに上陸し、蒙古軍が
すこし遅れて博多/箱崎に上陸したというのである。
私が唱えているのはそのどれでもない。繰り返しになるが、次のような説である。即ち
「元軍は博多の西からしか来なかった。そして戦闘の最後の段階で無防備の博多/箱崎
を制圧し、還るときはここから還った」というものである。
この考え方に至った理由は、元軍が博多に敵前上陸した形跡が見当たらないことである。
二正面上陸説の一半をなす博多敵前上陸がなんらかの史料に基づくのならばそれを知り
たいところであるが、そうでなくて碇石などの遺物に基づくのであれば、私はそれを
上陸の証拠でなくて撤退の証拠と捉えるわけである。
私の説を一正面説と呼ぶならば、蒙古襲来絵詞、および八幡ノ蒙古記は一正面説と矛盾
しない。あるいはこれを補強する。そのことをこれから説明しようと思う。
250 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 15:11:36.11
まず蒙古襲来絵詞。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_01.html 竹崎季長勢が箱崎から博多(沖の浜)に移動するところである。箱崎神宮の鳥居の
前を通っているから絵には海が入っている。
この時はどんな時間かと言うと、竹崎はすでに「赤坂が危ないから急いで赤坂に陣を
構える」という話を聞いている。つまり西部戦線の元軍(高麗軍?)が上陸を終え、
祖原山を取り、赤坂山に迫っている時点である。つまり戦闘が始まってからある程度の
時間が経過している。
それなのに海に元船の姿は描いてない。波打ち際だけだと言うかもしれないが、もし
竹崎が船を見ていたら、必ず遠景の海に船を書かせたであろう。なによりも一行の
様子に、海に向かっての緊張感がない。海は平和だったのだ。
もしすこし遅れたにせよ蒙古軍が博多に敵前上陸したのであれば、この時点では
すでに船が博多沖に集結していなければならないであろう。博多敵前上陸はなかった
のだ。
251 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 15:15:11.49
>>250 もし鳥居が見えなければ画面表示をすこし縮小して見てください。
壱岐で組織的抵抗があったというのは、せいぜい弘安の役じゃないの?
島民のゲリラ戦があったとしても文永当時の対馬・壱岐の代官で元軍に痛手を与えるとは考えにくいんだが…
253 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 16:02:03.53
次に八幡ノ蒙古記。
戦闘の描写も一正面説と矛盾しないが、これについては割愛して、博多が無防備になっ
時間帯があったことを書いているいるので、これについて説明する。その部分を引用す
れば次の通りである。読みやすくするため濁点をつけ、表記を現代風にしている。
「あまたの軍勢、一日の戦に耐えかねて、博多、筥崎を打ち棄てて落ち入りければ、
末は如何になり行くものかと、あやしの賤山がつまで、泣きまどい、悲しまざるぞなか
りける。<中略>
筥崎宮の留主をはじめとして、僧俗、社官、固め居たりしかども、頼む所の軍兵の、皆
落ちぬる上は、かくてもいかが有るべき、たとい身は遁れなんとも、神體を捨ておき
奉り、今忽ち異賊等に穢させ奉らん事こそ、かしこくも悲しけれ、命あらん限り、いつ
までも御供して、いつき奉らんとて、 泣く泣く宮にいつ、あまり火急の事なれば、
御輿にも、乗せたてまつらざるこそ、恐ろしく、かたじけなけれ、御供には留主左衛門尉
定重、平左衛門尉景親、同景康、圖書允定秀以下の社官ども、少々参りてけり。
産宮へとて、急ぎし処に、彼の宮にも早や落ちはてて一人もなく、扉をかたく閉じて、
入れ奉るべきようもあらざれは、せんすべなくて、上山の極楽寺にぞ入れたてまつる。
おりふし降る雨に涙落ちそいて、いとど袂ぞ濡らしける。逃げ来しあとをかえり見れば、
在々所々、猛火おびただしく燃え上がりけり、これまさしく賊のしわざと見る、恐ろしさ
言わんもおろかなり、良き折りにしも率てたてまつり来しと、 皆人々嘆きの中にも喜び
合えり。」
この文章に見るかぎり、博多・箱崎から日本軍がいなくなり、かつ元軍はまだ到着して
いない真空状態、すなわち無防備都市状態があったことは否定できない。
<続く>
254 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 17:45:06.42
>>253 訂正:
考えて見たら「率てたてまつり来し」じゃなくて「出でたてまつり来し」だろうね。
429 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 00:21:40.77 ID:YgDNlsAL
韓国は「日本が正しい歴史観を持つ→反日日教組の教える嘘歴史がばれる」
「日本人が韓国の正体を知る」「日本人が民族の自覚に目覚める」という
三つのことを異常に恐れています。
韓国人は「ビビリ」なので、戦後自分達がやったこと(日本人を殺害、強姦等)の仕返しをされるのではないかと
怯えていた時期があったようです。
韓国を知っている人は、日本が韓国に関わることは日本にとって
全くプラスにならないとすぐに分かる筈です。
逆に言うと、韓国は日本人が徹底的に不合理かつ無知でいてもらわなければ
ならなかったわけです。
そしてそのための撹乱工作を代行していたのが日本のマスコミでした。
琉球王国やジャワも元軍に襲われたがそれぞれ撃退している
遊牧民族は海を渡ると著しく戦闘能力が低下するようだ
257 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 18:55:35.57
要するに武士をボコった後、博多と箱崎を制圧して悠々と引き上げたと。
その間逃走した武士たちは後方で震え上がっていたとこういうことだね
戦闘の経過はともかく、それは極論すぎる。
ジャワは元軍と結んだあと反旗を翻したのが撤退の原因。
日本武士の勇戦敢闘じたいは世界でもマムルーク朝と並んでトップクラスだよ
259 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 19:39:13.24
>>257 いや、「震え上がっていた」じゃなくて「切歯扼腕していた」と言ってくれ。
それから「逃走」じゃなくて「戦略的後退」だ。
元軍は海上渡航能力も高いだろ
わざわざ済洲島に馬の牧場作ってそこから輸送したりしてるし
海上遠征先では負けてるけど
琉球侵攻はそもそも有ったかどうかも疑わしいし、
規模からして征服が目的だったとも思えない
元史あたりには「使者を送った」としか書いていないんじゃなかったっけ
>>257 箱崎宮の火災は元軍の手によるものなのか確証はないし、
博多が制圧されたなんて記録もないよ
>>261 いや元史には6000の大軍で瑠求と呼ばれる国に侵攻する計画を立てて当時の琉球王国に武力侵攻したとあるよ
『元史』巻211・列傳第97・外夷3瑠求「世祖至元二十八年九月、海船副萬?楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。」
264 :
日本@名無史さん:2011/12/02(金) 10:29:29.11
>>253の続き
筥崎宮の留主一行はご神体を奉じて、まず「産宮」へ避難したが、産宮は無人で
門が固く閉じられていたので入れなかった。産宮とはなにか。
調べたところ、これは現在の宇美八幡宮のことである。箱崎の東やや北、約10kmの
宇美町にある。神功皇后が応神天皇をここで出産した伝説に基づいている(神功、
応神は箱崎神宮の主神である)。恐らく地名の「宇美」も「産み」から来たもの
だろう。宇美八幡宮にはご神体避難の伝説が伝わっている。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%87%E7%BE%8E%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE 産宮に入れなかった一行は次に「極楽寺」に行って、ようやくご神体を避難させる
ことができた。極楽寺は産宮からさらに東に約3km、障子岳の中腹にある。当時は
「上山」と呼んだのであろう。極楽寺はなくなって「箱崎八幡宮」になっている。
箱の字違いである。この神社にもご神体避難伝説が伝わっている。
http://hukuokajiin.seesaa.net/article/145667149.html 八幡ノ蒙古記にあるご神体避難の話にはリアリティが感じられる。現在の事物に
伝説があるからと言って話が本当である証拠にはならないが、それにしてもこの
話には体験者の臭いがある。恐らく著者本人が一行の中にいたか、または一行の
中にいた人物にインタビューしたのであろう。
このような話がためにする作り話だとするなら一体なんのためだろうか。武士が
だらしないからこんなことになったと言いたいのはわかるが、神様の権威を落として
までして神様が情けなくほっつき歩く話を作り上げることはなかろう。
やはり八幡の蒙古記に含まれる真実と、それにかこつけた霊験談とは分けて考える
べきであろう。
>>263 その「瑠求」って琉球なのか台湾なのかで議論が続いてるらしいよ
266 :
日本@名無史さん:2011/12/02(金) 11:48:41.27
>>263 琉球側にはそんな記録は一切無い。
そもそもその船団は目的地に到達したかも疑わしい。
行ったふりしてUターンしたんじゃね?
267 :
日本@名無史さん:2011/12/02(金) 16:08:03.31
>>259 物は言いようじゃな。
結局打ち破られて敗走した事実には変わりはないね。
敗走というなら大宰府も落とせずに一日で撤退した元軍の方だろ
戦略目標は何一つ達成できてないだろうし
>>266 英祖という王が率いた軍が元軍を撃退したという記録はあるよ
>>265 台湾側にはそういう記録あるの?
琉球や台湾はとりあえず兵を出してみた程度じゃないかな。樺太と同じ
日本侵攻は完全に対南宋戦の一環として行われたけど
6000の軍がとりあえず兵を出してみた程度かどうかだな
日本侵攻は…元内の宋兵の在庫処分の目的も兼ねてたと思う
やたらと多いし、征服できたら移住させて元内の社会不安要素を排除するつもりだったんじゃないだろうか
南洋の小国に6000の大軍で挑んで何も収穫できずに撤退するとか
もしかして元って弱かったんじゃね?
兵六千って当時としては少なくはないだろうけど大軍ではないだろ
しかし琉球侵攻に関しては真偽も不明、目的も不明
時代は違うけど薩摩藩が三千人で制圧したような小国に元軍が打ち負かされるとは考えづらいし
侵攻があったとしても征服とは別の目的だったんじゃないの?
>>274 薩摩藩が琉球王国を制圧したのは元寇から数百年後だから 比較するのは間違いだろ
目的は九州を壱岐・対馬ルートとは違う別ルートから襲うための補給基地確保の為だったんじゃねーの?
276 :
日本@名無史さん:2011/12/02(金) 22:16:03.96
次に火災について考えて見る。
私は八幡ノ蒙古記で、神官たちが逃げて来た後を振り返って火災の煙が恐ろしく見えた
と書いてあるのを最初読んだとき、なんとなく筥崎神宮の裏山(そんなものはないが)
から振り返って神宮が燃えているのを見た、という間違えた印象を持っていた。
しかし今読んで見ると神官たちは箱崎から13km離れた障子岳(上山)の中腹にある
極楽寺から振り返ったのである。その火事は「在在所所」に、つまりあちらこちらに
燃えていた。その火事が博多とも箱崎とも言っていない。
13kmの彼方から眺めたのでは、あちらこちらの煙が果たして博多なのか箱崎なのか、
判別はできなかったであろう。この記事から「箱崎は焼けたが博多は焼けなかった」
と結論することはできない。
同様に、筥崎神宮が焼けたとはどこにも書いてない。後のほうで白装束三十人が出て
来る時も、「筥崎宮より出て」とは書いてあるが、炎上中の筥崎宮から出て来たとは
書いてない。
文永の役で筥崎宮が焼けたと書いてある資料は多いが、そのソースとなると分から
ない。その後の何度かの内戦で焼けたのは史料があるようだが、文永の役で焼けたと
いう史料があるのかどうか、なんとも言えない。知っている人がいたら教えて欲しい。
思い出したが、「博多に迷いし落人ども」を「箱崎から(燃えていない)博多に避難
した人たち」と取る考え方もあったが、これも「博多に住んでいて逃げ惑った人たち」
と取るかどうかは水掛け論だし、だいたい箱崎と同じ海岸線で2km南にある博多に行って
避難になるのかという問題がある。避難は神官たちと同じように東方約10kmの山地に
向かって行われたのでないかと思う。
277 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 10:48:30.73
追補:
1)筥崎宮焼失の史料があるか、ということではネットで唯一見当たるのは
敵国降伏の「御宸筆」にまつわる言い伝えである。「御宸筆」は37枚あり、いちばん
古いのは921年、創建時に醍醐天皇が書いたものである。以後多くの天皇が奉納した
が、そのなかの1枚が文永の役で焼失後の再建時に後白河法皇が奉納したものである
と伝えられる。つまり社伝としては焼失が伝えられている。
http://www.hakozakigu.or.jp/history.php なお楼門に掲げられる敵国降伏の扁額がそれだという向きがあるがこれは誤りで、
小早川隆景が書いて奉納したものである。
2)神官たちが13km離れた極楽寺から振り返ったのは、考えて見れば暗夜だった。
彼らが避難のため出発したのがすでに夕刻であるから、それから約3時間かけて
歩いたと考えればすでに暗夜である。はるか彼方の暗闇に浮かび上がる炎を見た
のだ。箱崎か博多かは、なおさらわからない。
文永の役ってこんな謎だらけだったのか
知らなかった
279 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 18:02:15.12
各史料の食い違いによる解釈の違いが分かれやすいことよ。
ただ、一般に言われる「一騎打ちを挑んだ武士達が一方的にやられた」
ってのは大きな間違いであることは確実だけどね。
281 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:02:21.19
訂正は無い。
さて、八幡の蒙古記のご神体避難話から出発して、戦闘経過を推測して見る。
八幡の蒙古記によればこの日の遅い時間に博多・箱崎の日本軍は撤退して、真空地帯ないし無防備都市が
現出した。博多・箱崎の日本軍はなぜ撤退したのか。恐らくその前に赤坂の日本軍が撤退したからであろう。
絵詞によれば武士達の集合場所は博多の沖の浜であった。沖の浜から赤坂までは2.5kmぐらいしか
離れておらず、その間の連絡は緊密であったと考えられる。話がそれるが、竹崎季長は末吉神社を過ぎた
ところで引き揚げて来る菊池勢に会っているが、末吉神社は博多の西の出口と言っていい場所である。
菊池勢は一合戦終えたあと、わざわざ博多まで戻って一息入れたのだ。
話を戻せば、博多に残っていた日本軍は、赤坂の日本軍が撤退した後に自分たちが孤立して、元軍に
包囲殲滅されることになってはかなわないから、自分たちも撤退したのだ。
博多・箱崎から日本軍が撤退しても、元軍が入って来るまではある程度の時間差があった。
これは八幡の蒙古記の記述からわかる。日本軍がいなくなった後、神官達が今後の方針を迷い、避難を
決断し、準備して出発し、いちおう安全な距離に逃げるまでは恐らく1時間はかかったであろう。その
間元軍は入って来なかった。
なぜ元軍は撤退する日本軍に膚接して街に入らなかったか。恐らく無駄な流血を避けたのだ。
日本軍が撤退することは赤坂山から見下ろせばわかる。撤退中の日本軍を攻撃すれば損害を与える
ことは容易だが、元軍もまた只では済まない。そして武士達が厄介な相手であることは身にしみて
わかった後である。
元軍は日本軍が完全に撤退するのを待っていたのだ。そして日本軍が一人もいなくなったのを確認して
博多・箱崎の街に入り、略奪した。
<続く>
元軍により略奪ってどんくらいだったんだ?
対馬・壱岐では相当略奪したらしいが他の所ではどうだったの
283 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:52:55.18
>>243 訂正:
沖の浜恵比寿神社 → 沖浜恵比須神社
昔と字は変わってなかった。失礼しました。
284 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:06:14.41
>>282 八幡の蒙古記によれば箱崎、博多は徹底的にやられたみたいだね。
少なくとも八幡の蒙古記によって日本軍の撤退を認めるならば、掠奪がなかったということはあり
得ない。
元史に「ただ四境を虜掠して帰る」とあるように、都市の掠奪による脅しもまた戦争の一部であり、
外交の一部だから。
それと、博多の港も自動的に制圧しただろう。なぜなら上陸軍が撤退するにしても、居座って補給を
受けるにしても、港は役に立つからだ。
只でくれると言うものを有り難く戴かなかったとしたら、そのほうがおかしい。
285 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:21:04.20
さて、ここまで考察して来たことは、取りも直さず博多敵前上陸の否定になっている。
もし博多に上陸したとするなら、必然的に箱崎の浜にも上陸しただろう。なぜなら博多は岸壁だから
必ずしも敵前上陸に適しないが、箱崎は浜辺だから適している。むしろ主力は箱崎に上陸しただろう。
すると、筥崎神宮は浜辺に建っているのだから忽ちにして第一線だ。
神官たちの避難は戦闘の阿鼻叫喚のなかで行われたか、あるいはそうなることを見越して、もっと
早い時間に行われただろう。しかし現実はそうではなく、元軍も日本軍もいない真空状態のもとで、
夕刻に行われた。これは取りも直さず博多敵前上陸がなかったことを物語っている。
学者達はなぜこのことに気づかなかったのか、それが不思議だ。
286 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 18:50:49.23
>>269 >英祖という王が率いた軍が元軍を撃退したという記録はあるよ
そんな記録はどこにも無いよ。
1291年に元軍が「琉球」を征服したという記録がある。
→其の時代は英祖の時代
→英祖が元軍を撃退した
という風に現代の学者が勝手に話しを作ってるだけ。
根拠は一切ない。
287 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 18:59:10.08
琉球史学者も日本史学者の一部。
とんでもない嘘つきだから絶対信じちゃダメだよ。
琉球側の記録には一度目の元軍侵攻も二度目の元軍侵攻の際に捕らえた捕虜130人の記録もないし
普通に台湾の話だろう
289 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 19:23:54.65
台湾にもそんな話はないんだよね。
多分「あるかどうか分からん小国まで
危険を冒して出かけるのもまじだりーし、
その辺で適当に人をさらって手土産にすればよくね?」
ってカンジで途中でUターンしたんじゃないかな?
少なくとも征服された国、集団が一切いないのは確かな話。
台湾はそもそもそのころどんなだったんだ?
文字文化あったのか?
291 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 19:30:58.38
まあ元寇とは比較できない曖昧な話なのは確か。
全然参考にならない。
ついでに言っとくと、
最近琉球征伐で那覇港で戦いがあったなんて話があるけど、
アレ嘘だから。
中国あての報告書で「負けたけど頑張りました!」なんて話にしてるだけ。
琉球側一次史料「喜安日記」正史「球陽」ははっきり
那覇港で和平交渉してる様子を伝えてる。
琉球は一貫して薩摩相手に戦わずに土下座してる。
別に平和主義だったからではなく、
やっても勝てないから。当たり前の話。
まあ琉球史学者は日本史学者と同じで信用ならないって事ですわ。
スレ違いスマソ
292 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 19:33:52.45
>>290 さあ?知らんけど6000人も押しかけてきたんなら
口承で何か伝わっててもいいはず。しかしそれが一切無いんだから。
仮に150人の出所が台湾だとしても、
少数の分遣隊で人攫いして
「これで格好ついたわ」ってことで済ませたんじゃないかな。
>>291 スレ違いの話をだらだらと続けて申し訳ないが
琉球での戦闘を記した『旧記雑録後編』巻64「維新公御文抜書」(『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』
によると「雑兵一、二百人ほとも戦死仕侯由」と記されているが
200人死ぬ戦闘は一応あったんじゃね?
鹿児島県の史料が信用ならないって言われたらそれまでだけどな
294 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 02:06:13.91
>>293 その後「戦死はわずかなる事と存知候」って続くけどね。
義弘が「少なかったわ」って言うから少ない数字なんでしょう。
3000中100と200とでは大違いだし、極めていい加減な数字である事は確か。
それに今日では戦死と戦病死とは明確に区別されるけど、
義弘が二つを区別している証拠はどこにもない。
近代以前においては、兵士は敵に殺されるよりも多い数が病気によって死ぬ。
295 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 02:15:35.72
琉球側一次史料「喜安日記」(これはネット上で読めるから読んだらいい)
薩摩側一次史料「琉球渡海日々記」
樺山の文箱から出てきた「樺山権左衛門久高譜中」
正史「球陽」(これもネット上で読める)
あらゆる史料で大規模な戦いの記録は一切ない。
特に本島の首里・那覇近辺では戦いどころか
3000人の琉球兵さえも目撃した奴はいない。
那覇港の戦いはまず、史料上存在しない。
しかも存在した場合、那覇港に配置するのは、
薩摩軍を全く偵察してないってことで、アホのやる事。
296 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 02:22:56.35
つか琉球征伐については双方に一次史料があって
経過は詳しく分かる。分かろうと思えばちゃんと分かる。
喜安なんて王国の中枢にいて交渉の経過や尚寧王の反応とかも
克明に伝えてるからね。
それなのに一次史料を無視して、
信頼のおけない史料にしか記載されてない事件を
無理やり当てはめるのは、
それは真実を追究する以外の何らかの意図があってやってる事でしょう。
元軍を一方的にボコボコにするという
「蒙古襲来絵詞」の記述がこれまでほとんど無視されてきたのと似てる。
>>295 那覇港の戦いじゃない 俺が言っているのは北部での戦い
薩摩軍が最初に上陸したのは北部の運天港
北部を統括していた山北監守・向克 (今帰仁按司朝容)が死亡しているから戦死したと見て間違いない
雑兵一、二百人ほとも戦死仕侯由と記録がある事から北部で何らかの戦いがあったのは間違いない
298 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 03:09:15.49
>>297 死亡記事は家譜にあるんだけど、
家譜が名誉の戦死を書き漏らすわけないじゃん?
「戦死したと見て間違いない」ってのは何の根拠も無い、
あなたや学者連中の思い込みだよ。
ちなみに「琉球渡海日々記」には今帰仁城に行った記事があるけど、
「無人だった」とはっきり書かれてる。
もちろん戦いなど起こっていない。
「歴代宝案」には浦添親方が1000人を率いて戦って捕虜になった記事があるけど、
一次史料「喜安日記」には浦添親方は講和使節団の一員として
今帰仁に向かい、人質として留められたことが
これまた経緯を含めてはっきり記されてる。
「歴代宝案」は先に述べたように、明への報告書で
真実性はほとんど無い。
北部の戦いなんて那覇港の戦い以上にありえないんだよ。
はっきり否定できる。
299 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 03:17:15.86
失敬。「歴代宝案」で北部で戦った事にされ、
実際には講和の使節だったのは名護親方ね。
喜安は今帰仁での交渉にも参加してその場にいたから、
議論の余地はない。
北部の戦いなんて真っ赤なウソです。
300 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 03:31:14.62
「琉球渡海日々記」の該当部分
「(3月)27日太郎左衛門殿(副将平田増宗)、
半右衛門殿(伊集院何とか。著者のボス)御両所ときじんと申所を
御一らんのため、五枚帆にて御出候、ときじんの城あけのき候、
巳之刻程に俄かに打ちまわり候て、方々放火共候」
301 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 03:43:57.80
まあ日本史学の方針は
・史料は無視
・妄想はたくましく
琉球史も本土史もどこもかしこもコレで一致してるってことですわ。
向克(今帰仁按司朝容)が死亡している
↓
戦死した
小学生かよwww戦いが起こってないんだから
もし不慮の死なら自殺したんでしょ。
じゃあ琉球出兵で戦闘があったのって実際には徳之島くらいなのか・・・
一次資料よりも後代の歴代宝案を尊重するあたりは
武士達が残した書状や絵詞を信用せずに後代の宗教書を妄信するのと似てるな
朝鮮役もそうだが、対外戦争になるとなんでこういう恣意的な解釈がまかり通るんだろうな
303 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 11:29:35.14
>>302 「ウリの嫌いな武士がこんなに強いわけないニダ」
304 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 13:10:02.03
>>302 その通り。
一応、武将クラスが一名本島で討ち取られてるけど、
これは、首里城明け渡しの際に、
浦添親方の息子3名とその仲間が首里城を脱走
→慌てて追いかけてきた薩摩勢を待ち伏せして
戦果を上げるも自分らも死亡
という経緯で大きな衝突の結果ではない。
一定規模の集団が衝突したのは徳之島だけ。
それにしても小規模だけどね。
「肝付文書」によれば、薩摩側兵力は湾屋で8艘、秋徳で2、3艘。
徳之島側死者は湾屋で50人、秋徳で20〜30人
305 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 13:14:39.85
>>302 ただ、歴代宝案も同時代史料なのは確かなんだよ。
しかし歴代宝案が示すのは史実ではなく、
「中国に真実を伝える気は毛頭なかった」という事実。
「がんばったので征服されることなく、
奄美割譲だけで済みました」というウソをついたわけ。
名護親方が1000人率いて戦ったという下りなんて明らかなウソなんだけど、
不思議なことに学者連中は、そこはウソだが、
那覇港で3000人戦ったのは事実だ、と見なしている。
あっちはウソだが、こっちは真実。
有り得んだろ?裏づけもないのに。
しかも喜安日記とか渡海日々記には日時も詳しく書かれているんだけど、
その中に那覇港3000人を無理やり押し込んでるもんだから、
物理的に有りえない現象を描く羽目になってる。
「薩摩3000と琉球軍3000が、那覇と首里の間で問題なくすれ違えた」
また、「薩摩軍は敵軍3000が首里城に入るのを黙ってみていた」
薩摩軍はどんなマヌケなんだよ。
306 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 13:19:44.54
あと、学者連中が常用してる「那覇市史」所収の「喜安日記」は
東恩納っていう昔の学者の所蔵本を元にしてるんだけど、
日時に間違いがある。一箇所日付が前後してるし、
時間の間違いも、本島の地理に照らせば
異常に時間がかかりすぎていてすぐ分かる。
琉球大学に所蔵されてる伊波本は正しく書かれてるんだけど、
不思議な事に日時の間違いに気づいてる奴が誰もいないんだよね。
琉球大学出身の学者も平気で東恩納本使ってる。
伊波本は原本の画像をネットで誰でも見られるんだけど、
学者は「那覇市史」の方が好きみたいだね。
時間の間違いにも気づかないし。
気づいてるとしたら、照合するのが面倒なのかな(笑
まあホント、低レベルですよ。日本史学者は。
このスレはとても勉強になりますので今後ともよろしくお願いします。
スレ違いスマン。ではでは。
307 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 13:29:20.69
308 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 00:06:21.15
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
NHK放送センター、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
福岡県史、ネットで見れないかな。
310 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 21:49:02.34
311 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 20:14:16.22
東アジア人民の抵抗が日本を救ったんだね。
まあ日本人という東アジア人民が元軍に勝利して撃退したわけだからな
日本軍は蒙古の集団戦と鉄炮に葉が立たなかったが、強制労働で急造させた船は脆く侵略軍に強制動員された高麗や江南の兵は
戦意がなく逃亡が相次ぎ統制がとれず結局、暴風雨のささいな被害を口実に内輪もめで引き上げてしまった。
鎌倉武士の勇戦などは嘘っぱち。
モンゴル帝国はその戦意のない多民族混成軍でユーラシア大陸を席巻してるわけだが
そんなことも知らずに大口叩く
>>314は無知というか、バカだな
>>暴風雨のささいな被害を口実に内輪もめで引き上げてしまった。
は?暴風雨は元軍の撤退途中の出来事なんだが
もうちょっとお勉強してから出直して来いよ、小僧w
ユーラシアの草原オアシス地帯を席巻した蒙古軍は本来の蒙古人から成る遊牧騎馬部隊だった。
だから無敵だった。農業地帯の住民を強制動員して日本を攻めようとしたが被征服民の
レジスタンスに妨げられて挫折した。これが真相。鎌倉武士の一騎打ち戦法では
蒙古軍の集団戦術と鉄炮には歯が立たなかった。
例えば南宋攻めではモンゴル人の数はごくわずかで、契丹人、女真人、漢人が大量に動員されてるし
ルーシ侵攻ではモンゴル人の数を上回る四万人以上のテュルク兵を動員、
ヨーロッパ遠征でもキプチャク人ら多数のトルコ系騎馬民族を兵力に加えてる
そもそも人口自体かなり少ないのに、純粋なモンゴル人だけで世界制覇なんて到底不可能なんだよ
>>317が言うような「本来の蒙古人から成る遊牧騎馬部隊」が活躍してたのなんて
せいぜいモンゴル周辺の国々に侵攻してた時代くらいなもんだろ
何よりナヤン・カダアンの乱では元朝は漢人・高麗人を多く含む
歩兵主体の混成軍でモンゴル王族の反乱を平定してるわけだが
モンゴル騎兵主体じゃないから日本遠征に失敗したなんて言い訳にもならんわなw
契丹、女真。キプチャク、み〜んな騎馬民族だからね。男子は全員が騎兵なんだよ。
農耕民族の日本人が太刀打ちできる相手じゃなかったんだよ。
武士達が一方的にやられて台風に助けられたって言ってるのに
なぜ、逆に元国まで攻め込もうと考えたのか
鎌倉武士団達から見た元軍は弱すぎなのか
>>319 その農耕民族の軍隊でモンゴルの騎兵軍団を撃破した
ナヤン・カダアンの乱は無視ですかw
大体、日本に騎兵軍団投入しても普通に負けるだろ
地形的に考えて
元の鉄炮と集団戦術VS日本は弓矢と一騎打ち
戦う前から日本の完敗は明らか。東アジア人民の闘争が
日本をすくった。鎌倉武士が奮戦したからでも皇大神宮のお陰でもない。
いいかげんに皇国史観を卒業して隣国と共有できる歴史観を持とうよ。
| 釣れますか? ,
\ ,/ヽ
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,/ ヽ
∧_∧ ∧∧ ,/ ヽ
( ´∀`) (゚Д゚,,),/ ヽ
( ) (| つ@ ヽ
| | | ___ 〜| | ヽ
(__)_) |――|. ∪∪ ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ヽ
/⌒\/⌒\/⌒\/⌒\|彡~゚ ゜~ ~。゜ ~ ~ ~ ~~ ~ ~~ ~ ~~ ~~ ~~
⌒\/⌒\/⌒\/⌒\/⌒\彡 〜 〜〜 〜〜 〜〜 〜 〜
324 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:54:01.58
一騎打ちは置いといて一騎駈けがあったことは他ならぬ竹崎季長じしんが述べているな。
彼は「馬が射られなければ死ぬはずの身であった」と言っているのでないか?
これはもし馬が矢に当たらず元気だったら一騎で敵中に突っ込み、敵兵に取り巻かれて
殺されていた、という意味だろう。
日本だけがモンゴルに勝ったなどという夜郎自大史観は近隣諸国の理解を得られないし、
負けたとされるモンゴルも不快に思うだろう。
近隣諸国の理解って必要なのか?
勝ちたいなら、帝国を維持できなくてもいいから、全国力・全兵力でかかってくりゃよかったんだよ
自演御苦労
328 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 20:20:47.26
モンゴルに勝ったのは日本だけではないがな。
329 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 01:17:42.83
文永の役で壱岐対馬以外、博多や松浦で元軍による組織的な住民虐殺があったという記録はあるのでしょうか?
330 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 12:42:32.73
意見と言うか妄想だろ。
上陸してわずかな日本軍と戦闘に及んだ途端、元軍の副司令官劉復亨が負傷して
総司令官忽敦が「このまま戦っても、大敵(日本軍)の捕虜になるだけだ」と捨て台詞を
残して遁走。誰が見ても、勝因は鎌倉武士の奮闘によるもの。
332 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:10:04.10
朝廷軍が蝦夷討伐をした時も似たような事が起こったぞ
基本的に日本の地形では中国やモンゴルのように巨大な兵力を文官が指揮して包囲攻撃するのに向いてないからな
兵を展開する場所がないし移動中に縦長になった状態でゲリラ戦法を使われて司令官を襲撃されたら撃破される
開けた所で包囲戦術と言うけど、上陸後の戦いは基本的に開けた土地での野戦でしょ
(24日大宰府決戦説なら要塞戦も考えられるけど)
軍板の元寇スレの前スレでは元軍の騎乗率が低かったというレスが出てたけど
「騎乗率が低くても騎馬戦闘員の絶対数では、総勢数千の日本軍前線よりはるかに多かった」と言う反論が出て終了。
>>329 八幡愚童訓の一部バージョンでは11月16日〜17日の平戸鷹島攻撃、住民拉致を記してるよ。
「蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢」と佐志一族の戦死者を記してるけど、
これは平戸方面での戦闘なんだろうね。
335 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 09:17:57.22
そだね
東アジアの人民闘争が日本を救った。これがガチ。
東アジアの人民闘争=内乱の負け組九州四国の在地系のプロレタリアート武士団が
ブルジョワ帝国たる蒙古とプチブル高麗を粉砕した闘争 かな?
普通に海が守った
海越えで戦争とか超面倒
340 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:26:05.37
>>334 ありがとうございます。
八幡愚童訓ですね。一度あたってみます。
>>339 文永の役では普通に海を渡って、陸で日本軍に敗退して撤退しているわけだが。
そもそも、日本側から大陸に攻め入った文禄・慶長の役では秀吉が死去するまで
7年間も大陸に居座っていたわけだが。それも、これは秀吉の死去という突発的な
出来事による撤退であり、明・朝鮮軍は全く日本軍を追い出せる状況にはなかった。
日本軍を撃退したのは朝鮮人民の闘争の成果。史実の歪曲は良くない。
343 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 11:16:50.85
結局メインで戦った九州の御家人(非鎌倉系)はほとんど恩賞貰ってない
>>342 文禄・慶長の役では終始日本と明の間で講和交渉が続いていて
朝鮮なんて蚊帳の外だったわけだが
中国の正史「明史」にも「我が国と属国(朝鮮)に勝算は無かったが、
関白(秀吉)の死によって戦争は終わった」とある
(自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息)
部分的に切り取ってそこの経営に入ることもできず完全撤収となるのが海の強さ
部分的に切り取ることすらできなかったのが元軍w
うーん、切り取りかけたけど、押し返されたというべきか。
なんにせよ、上陸戦は難しい。
間違ってはいけないのが元軍は上陸戦を行ってはいない。
文永の役でも上陸が完了してから日本軍に敗退してるし
弘安の役では志賀島を占領した元軍が海の中道、つまり陸で日本軍に敗退して
海に逃れた。むしろ、上陸戦を行ったのは日本軍。壱岐や鷹島に籠る元軍を攻撃した際
上陸戦が展開されてる。
日本軍を美化するつもりはさらさらないけど、
元軍は陸で日本軍に大敗したとしか形容できない。
渡海侵攻が難しいというけど、陸続きなら今度は高麗遠征案が実行に移された可能性すらある
少なくとも九州御家人は敵の敗退に乗じて簡単に追撃し敵地で略奪できるんだから
つまり海があったから防御が成功したと信じてる人間は、
日本軍が陸続きに反撃する可能性を全く無視してるわけだ。
軍事力で言ったら20数万の武士団を抱える日本は当時世界有数、
元の北東正面を突破しうる巨大な軍事的脅威だよ
鎌倉幕府には全武士団を統括指揮する力は無い
御家人の中からでさえ元寇の役後不満噴出してるのに
相変わらず教科書には「やあやあ我こそは」で元の集団戦術に完敗とか載ってるの?
上陸戦で元軍に橋頭堡を固められる前に、
同数に近い手勢を投入できたのが勝因だな。
バラバラかもしれんが鎌倉武士の質も悪くないしな。
>>351 統率力なら充分ある。恩賞問題は鎌倉幕府にさほど影響はない
第一、弘安の役後に霜月騒動岩戸合戦があり、鎮西探題設置があり、
九州御家人に対する幕府の支配は強化されている
恩賞問題の因果関係なんてはっきりしてない。
>>353 同数どころか。文永の役では敵軍4万、日本軍前線は増援が到着して1万行かない程度
元軍は救援に駆け付けた日本軍相手にすら1日で撤退を決め、橋頭堡を築けなかったというのが実態
ましてや日本軍本隊との決戦では到底勝ち目がない
日本軍は水際で纏まった兵力がなかったから、元軍を上陸させて迎撃してるんだよ
文永の役では水際作戦を取ったわけじゃない
>>352 戦法の違いに触れてる教科書でも、すぐに集団戦法に適応したと書いてある。
356 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 23:53:01.43
>>333 中国の戦争って、穀物の生産しやすい平地の開けた場所に作った要塞都市を包囲して戦うのが主流なんで
日本の山城を攻める訓練は受けてないんだよ
数千から数万の蝦夷討伐軍が数百の蝦夷のゲリラ部隊に壊滅させられたのと一緒
だから山城攻防戦以前の段階で負けてるんだっつの
あと官軍が寡兵の蝦夷に敗れた巣伏の戦いでは、
官軍の一部が蝦夷軍に釣り出された所を伏兵に包囲され叩かれてるんだよ
日本軍は文字通り正面衝突しかも増援がおいおい駆けつけてくる状況で元軍を撃破してる
その種の策略は何も用いてない、蝦夷的な釣り出し戦法を用いたのはむしろ元軍のほう
渡海作戦だと大量の馬は運べないからな
騎馬兵一人当たり3,4頭の替え馬がないと
ユーラシアを席巻した無敵のモンゴル騎馬戦術は使えない
上陸阻止をしなかったのは一騎打ちだ戦うためだよ。そしてボロ負け。元軍は偵察戦で、橋頭堡を築くまでもなく
一気に攻め滅ぼせると見極めたから船に引き上げて戦勝気分に浮かれていたところに暴風雨が来て浸水したので
引き上げた。
元軍無能すぎるな
>>356 4分の3が山地である朝鮮半島を征服しているのでその言い訳は使えません。
>>359 元軍は歩兵化している上、その歩兵戦術で伝統的蒙古騎兵軍を撃破しているので
その言い訳は使えません。
>>359 替え馬を使うほど筑紫平野に侵入したわけじゃないでしょ?
水際に少数の兵しかいなくて、簡単に上陸できて、
平野の入り口で大損害こうむって敗退してるんだから
364 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:47:00.08
替え馬がないと思い切った作戦行動が取れない。
モンゴルが圧倒的な馬馬馬の機動力で勝ってたのって膨張していく初期段階だけじゃねーの
思い切って突っ込んで日本武士団の強弓の餌食になる。
と言うか思い切る前の段階で負けてんだけどね。
替え馬が必要な場面なんてなかったでしょ。あっ、一目散に逃げる時に使うかw
369 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 12:09:48.80
時宗の豪胆さは、日本史の白眉
370 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 18:01:38.30
>>368 要は深入りしないってことだよ。替え馬がないハンデが文永の早期撤退に結びついた。
深入りする前に撤退したのはどう説明します?w
上陸して半日の戦闘で撤退してんだぜ。騎馬数は日本軍よりはるかに多かったのは間違いない
それと何度も言うけど、陸続きなら当然、敗軍は日本軍が追撃してくるからな。
玄界灘があったおかげで日本は高麗遠征を止めてるじゃないか。
条件はお互い様なのに、なに言ってんだ。
ほんと矛盾してるよね。
替え馬がなくて深入り出来ないことがあらかじめ分かってるなら、なぜ攻めてきたのかと。
分かってないから大宰府落とせば何とかなるわくらいの感覚で攻めてきたんだろうに
他が弱かったんで、この程度で勝てると見積もってたのかな?
375 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 20:48:35.24
途中からだが一か月も陸上に拠点を作れない時点で日本征服は難しい。
日本刀による切込みの戦闘力は結構あったようだ。
弓の射程も和弓がうえだったようだ。
376 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 20:52:22.31
>>371 >騎馬数は日本軍よりはるかに多かったのは間違いない
それはどうかと思うな。むしろ日本軍が戦闘員オール騎乗。
元軍は歩兵主体で指揮官クラスのみ騎乗。
>>354 >文永の役では敵軍4万、日本軍前線は増援が到着して1万行かない程度
4万は漕ぎ手などを含めた総数。戦闘員は2万ないし2万5千。
高麗史を読んでね
377 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:09:29.92
秀吉の頃の日本の人口は3000万人位、朝鮮半島は300万人位だったらしい。
戦国時代を経験した日本の鉄砲の数は世界一。軍装、戦闘能力も世界最強。
宣教師の報告もそう書かれていたらしい。
明の創世記の馬鹿皇帝も元でさえ勝たなかったので、と日本侵攻をあきらめたらしい。
明にとっては秀吉軍と戦いはかなりの負担で、消滅時期を早めることになったそうだ。
378 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:55:06.46
ばらばらで元軍を攻めたら、各個撃破されるので単独攻撃を禁じても、
夜陰に乗じて首を刈ってくる連中がなかなか抑えられなかったとか。
380 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:14:38.92
秀吉の軍勢は一気に半島深く進攻し城を築き、その後明軍と戦闘したが、
モンゴル指揮下の高麗と旧南宋の連合軍は、日本にまともに上陸して展開できなかった。
>>376 >『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶
>「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女真軍、女真後期、乃發船
よって、まず戦闘員2万と言うのが分からない。高麗史の記述だけなら蒙漢軍25000、高麗軍8000、
3万が前提になっていないと変だな。なぜ2万と言う数字を出したのか、その根拠を。
ちなみに日本も治承寿永内乱や奥州合戦では大量の杣工や輸卒的な兵が動員され、飛躍的に軍兵の数が増えている。
戦国期で騎乗率はほぼ1割。この時期は多く見ても3割程度と思ってるんだが、こう主張する人もいるからいちおう従っておく
>上陸した元軍は副将劉の率いる部隊ですら85-95名中騎乗15騎(乗馬率15-18%)。
>一方の武士団は、竹崎は5名全員騎乗(100%)、井芹氏は7名中騎乗2騎(29%)、中村氏は10名中騎乗3騎(30%)。
>平均して4割ほどの乗馬率だぞ。
>絵詞でも日本軍は騎馬武者の率が非常に高く、元軍は歩兵が主体だ。
>騎馬武者を主力とする当時の日本軍は意外に乗馬率が高いのが実状だろう。
ここでオール騎乗は竹崎隊だけだったことに留意されたい。
彼の主張する蒙古軍の最大15〜18%、日本軍40%と言う騎乗率を前提にしても、
元軍は20000×15%=3000 ※高麗史の記述を信じて33000×10%としても3300
日本軍は実際に交戦した兵数は、5000〜7000程度(途中増援も含む)×40%=2000〜2800
日本軍2000騎は、少弐景資500騎、白石・菊池100騎と言う数から妥当か、それ以上と思われる
どんなに史料を元軍に好意的に読んでも、日本軍の騎乗者絶対数は蒙漢・高麗軍より多かったとは思われない。
そのくらいの兵力差が現実にある。
それとね。元軍は強くなる過程で歩兵化してるの。
それで南宋も含めた他国は征服できたが、日本軍は全勝なんだよ。
例えば日本軍が騎乗者数で元軍を上回っていたとすると、長駆追撃する能力はあったことになるよね?
それを阻んだものはなんですかと。海でしょ?海がなかったら元軍は海の藻屑でなく、日本に敗走の過程で多大な犠牲者を出し、
かつ高麗南部は追撃する日本軍に蹂躙されていた可能性がかなり高いんだけど。
海があったから元軍は文永の役でとりあえず日本軍の追撃は振り切れたんだよ?
劣勢の日本軍が元軍を撃破した要因を、騎馬数の優劣に直結させる必要はない。
日本弓は速射性には劣るものの、(有効)射程ではおそらく、殺傷力では確実に上回る。
さらに日本の鎧の防御力は蒙古の比ではない。
日本武士は、そのがちがちに固められた鎧兜の隙間を打ち抜く技術を鍛錬してきた
世界でも有数の弓射騎兵のプロ集団。それが2000もいたら、元軍が1万2万上陸しても大打撃食らうのが当たり前。
ちょうど平家物語の教経のように、元軍は日本軍が有効射程内から放つ強弓の前に次々と重傷者・犠牲者を出し、
ダメージをこうむって敗退したと考えれば充分辻褄が合う。
鎌倉時代の和弓がよくわかる本やサイトってある?
是非読んでみたいな。
近年出版された『蒙古襲来』関連の本でさえ、モンゴル弓は和弓の射程二倍なんて
馬鹿なことが書いてるぐらいだからなぁ。
二倍もあれば上陸した途端、矢が尽きるほど激しい矢戦になったり、副司令官劉復亨が
射倒されるなんてあるわけないって考えたらわかるもんだと思うんだけどなぁ。
弘安の役だって、二倍もあれば元寇防塁なんて気にせず、二倍の距離から元寇防塁の向こう側の
日本軍を矢で圧倒することもできたでしょうに。
386 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 18:25:59.07
>>381 >3万が前提になっていないと変だな。なぜ2万と言う数字を出したのか、その根拠を。
ともかく4万ではないよね?
で、蒙古軍は大量の非戦闘員、つまり戦場人夫を含んでいる。それを除いた純粋の戦闘要員を
ある資料は2万5千、ある資料は2万と見ている。
>ここでオール騎乗は竹崎隊だけだったことに留意されたい。
竹崎勢だって絵詞を見れば徒歩従者が少なくとも二人いる。
私が「オール騎乗」と言ったのは、当時の概念として馬に乗って矢を射る武士のみが戦闘員である、
という意味だ。徒歩の従者は戦闘補助者ではあるが、戦闘員ではない。
念のためだが、絵詞の戦闘場面で旗を持って竹崎について走っているのは従者ではない。
馬を射られた旗持ちの武士だ。
387 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:31:45.18
>>385 著者名見ないで読んでたけど打物騎兵とかの用語で近藤先生だと気づいた。
>>382 陸続きで追撃するとモンゴル得意の大規模偽装撤退で呼び込んで叩くパターンにはまりそうだ
自分は日本軍を美化する気はさらさらないことを断ったうえで、
>>386 「ある資料」を挙げてよ。実数2万と言う推定はどなたの推定で、どこから出てきてるの?
高麗史を見ろとあなたは言うけど、高麗史では蒙漢軍合計33000、水夫6000なんだけど。
もし荷駄方や杣工的な存在を除いていわゆる騎兵・歩兵だけカウントすると、日本軍もその種の兵員を大規模に動員する時代に入ってるから、
文永の戦闘員の実数は相当絞られてくると思われるよ。九州で1万以上と言う数はそれを疑わせるに充分
そして蒙漢軍33000なら、騎乗率を15%と見ても騎兵5000。日本軍を優に上回る。
>竹崎勢だって絵詞を見れば徒歩従者が少なくとも二人いる。
>私が「オール騎乗」と言ったのは、当時の概念として馬に乗って矢を射る武士のみが戦闘員である、
>という意味だ。徒歩の従者は戦闘補助者ではあるが、戦闘員ではない。
詭弁以外の何物でもない。
「当時の概念」で戦闘員から戦闘補助者を除外するなら、日本軍の実数はさらに少なくなる。
そして、寡兵の日本軍が元軍を撃破したメカニズムは、
武器や専門性・職業性、指揮命令系統の優劣で容易に説明できる。
日本の武士が一騎当千であったわけでも、犠牲が少なかったわけでもない。
日本軍は上陸段階では先手を打たれたものの、その後増援が駆けつけたことで
組織的対応が可能になり、混戦となった段階で破壊力に優る弓を駆使して元軍を次々に射すくめていった。
ちょうど平家物語の教経の強弓に、義経軍が大パニックに陥ったような光景が想像できる。
元軍は予想外の損害を被って戦闘を停止せざるを得なくなり、撤退に至った。
391 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:28:16.48
392 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:36:12.15
>>389 >「当時の概念」で戦闘員から戦闘補助者を除外するなら、日本軍の実数はさらに少なくなる。
その通りだ。絵詞で、突撃する竹崎勢や白石勢を見てごらん。徒歩兵は一人もいない。
>>391 それをベースにしても蒙漢軍の戦闘員は25000、交戦兵力は20000。
日本軍の兵力の倍である上に、ほぼ上陸を完了していたことを裏付けてるようにしか思えない。
さらに「騎乗でない者は戦闘員ではない」と言う「当時の概念」を採用するなら、日本軍は5000。
つまり日本軍は4倍の相手を撃破したことになるね。
日本軍の当日の交戦兵力1万と言っても、おいおい増援が駆けつけてくるような状態だから、
緒戦の段階で損耗した部隊も相当いる。(そもそも本当に戦闘した実数で1万いたかどうか甚だ疑問なんだが)
>>392 何を言わんとしてるのかさっぱり分からない。
元軍は渡海上陸を試みなくてはならず不利だった。→しかし日本軍との激戦は上陸後に起きている
馬が少なかった。もしくは替え馬が少なかった。
→日本軍の人的劣位(特に緒戦における)により容易に克服できる
さらにそもそも蒙古軍は対宋戦の段階では歩兵化してる。
敵地に踏み込む以上、相手の特性を封じるのは当たり前のこと。
異種格闘技戦で1ラウンドKOで負けた奴が「ホームなら勝てる」「レスリングなら勝てる」と言ってるようなもの。
元軍が人的にも、組織的にも、戦略的にも日本軍に完敗した事実は覆せないでしょ。
大宰府24日決戦説くらいは面白い思考実験として許せたが、さすがにここで屁理屈をこねるのは詭弁以外の何物でもない。
文禄慶長の日本軍は戦国だからたぶん騎乗率は1割くらいで、元軍とちょっと似てたわけだが
釜山であっさり撃退されてたら「海が〜」なんて言い訳を言った?
現実は言い訳どころか、小西行長は恐らく現地人の案内を予め準備してピョンヤンまで急進撃してる。
日元戦争の元軍は、敵情視察とその対策を怠った大軍が、精強なプロの軍事集団に敗れる典型例でしょ。
日本は全然小国なんかではなく、元軍の遠征軍を上陸もさせないほどの軍事大国だった証明。
日本軍の完勝と言う事実をなぜ受け入れられないのかなあ。
鎌倉時代という武家政権だから、
戦闘態勢が整っていたわけで、
平安時代だったらどうなっていたことやら。
攻め込んだのが鎌倉時代の日本だから、
元軍は負けはしても全滅を免れたわけで、
平成日本だったらどうなっていたことやら。
不審船団として海上保安庁の巡視船に一部拿捕され大部分は追い散らされる
なんじゃこりゃ?
400 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 10:39:12.73
上陸戦というのは、上陸して拠点を築くまでが上陸戦でして、
上陸しても砂浜にぼーっと立ってるだけでは、やられる一方なのであります。
敵が近づけない状況を作れないと、橋頭堡を築いたとはいえないのであります。
401 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 20:08:28.92
>>393 蒙古軍の騎乗率15%はいいところだろうね。
絵詞の文永の役の蒙古軍を合計すると歩兵42人(加筆よ疑われる3人を除く)、騎馬兵8人。
騎乗率16%になる。
蒙古軍の馬の数は2万人の 15%で3000頭。よく運んで来たものだ。
日本軍はあなたの推計で5000人としてオール騎乗で5000頭。
私は日本軍はそんなにないなかったと思うから、結局、馬の数はほぼ拮抗していた。
>つまり日本軍は4倍の相手を撃破したことになるね。
4倍はその通りとしても撃破してはいない。いいところ引き分けだ。
引き分けでも善戦とは言える。
402 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 20:11:36.34
訂正:
加筆よ疑われる→加筆と疑われる
そんなにないなかった→そんなにはいなかった
拠点も築けず、副司令官が負傷し、座礁した味方も置き去りにしてまで夜逃げして、引き分けってどんなんだよw
休戦講和でも結んで撤退したっけ?w
404 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 21:41:21.34
周恩来の話や明の資料からすると、
日本が撃退した、というのが中国側の評価のようだが。
>>401 >一方の武士団は、竹崎は5名全員騎乗(100%)、井芹氏は7名中騎乗2騎(29%)、中村氏は10名中騎乗3騎(30%)。
竹崎を入れても騎馬武者の占める割合は4割、竹崎を除くと3割程度。
陸自の元寇に言う交戦兵力1万、うち騎乗の者5300だと53%となるが、これは明らかに多い。
この「交戦兵力」のうち実際どこまでが戦闘に参加したのか。即日撤退の場合、
1万人が戦場に一時に戦場に投入されたということは、
赤坂から鳥飼に至る戦闘過程から考えにくい。各御家人部隊の逐次参戦に近い形になったと思われる。
(さらに上陸時に原田党や松浦党ら最前線兵力が恐らく四散している)
鳥飼潟の戦いの中盤以降に急増したのではないか。竹崎が救出されたのも増援部隊が続々と到着したため。
一方で、元軍は上陸段階では日本軍が圧倒的寡兵であり、かなりスムーズに兵力を陸揚げできたと思われる。
つまり交戦兵力は陸自の史料の数字を10月20日を通してキープできていたのではないか。
ある一定の時刻を抜き出して元軍と日本軍の騎馬武者数を比べた場合、
一連の戦闘の終盤近くまでは日本軍が、騎馬武者数ですら劣勢の状態と見ざるを得ないよ。
その結果、あなたの言うように「撃破」殲滅まで至らず、相互に多大な損害を与えあって撤退したことになる。
日本軍が1万人の兵(うち5000は騎兵)を戦場に常時投入できていたら、おそらく日本軍はもっと簡単に勝てていた。
かりに戦術的に引き分けと見た場合でも、元軍を1日で戦闘継続不可能な状態に追い込んだのは、
明らかに戦略的には日本軍の勝利だろうね。
>>388 偽装撤退戦術は恐らく日本軍には使えない。
ワールシュタットの欧州諸侯軍と、鎌倉幕府が恩賞の認定権限を掌握する日本軍では、
軍司令官の命令の徹底度が違う。
前に出てる巣伏の戦いが蝦夷軍に釣りだされて分断痛撃された例に当たるが、
この時は官軍は桓武天皇から強く督戦されていたという特殊事情がある。
逆に海があったからこそ、元軍は必死に持ちこたえられたかもしれんね。
もし、陸続きなら退路がひらけている元軍は潰走していたかもしれない。
背後が海だったから逃げ道のない元軍は必死に持ちこたえ、潰走を免れた。
409 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:21:48.62
>>405 >1万人が戦場に一時に戦場に投入されたということは、 赤坂から鳥飼に至る戦闘過程から考えにくい。
各御家人部隊の逐次参戦に近い形になったと思われる。
それは全くその通り。私は単に両軍の馬の総数を考えて見ただけだ。
それと、なぜ逐次参戦になるかというと、それは日本軍の戦い方が基本的にパフォーマンス・コンクール
だったからだ。
パフォーマンス・コンクールは戦闘する集団と、それを観戦する集団(証人でもある)とがあって
成り立つ。
だから1万人が統一的に駆け引きするという事はあり得ない。
410 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 21:47:14.73
またパフォーマンス・コンクールであればこそ、戦闘集団の大きさは限られる。
大勢であっては誰の手柄かわからないからだ。
偽装後退戦術は、文永の役で使われる可能性あるかね?
南宋攻略の過程で蒙古軍は攻城戦に適した軍隊に変わっていってるでしょ。
騎兵の戦法である偽装後退をこの段階で実施するほど元軍には余裕がなかったはず。
歩兵が8割を占める編成だとしたらなおさらのこと。騎兵に取り残された歩兵が日本軍の弓の餌食になり、
大パニックを起こして軍が崩壊してしまう。
>>408 それはないのでは。船に乗り移れば簡単に洋上に逃げられるのだから
現に即日撤退にほぼ成功してる
>>409 いや、御家人たちの逐次参戦はパフォーマンスコンクールでは説明できないよ。
鳥飼潟の終盤では明らかに主力が総動員されてるもの。
それに名乗りを上げた人物を判別できる位置に証人はいなければならないのだから、
当然、戦闘者を目視できる距離に布陣していることになる。つまり証人もそのエリア一帯での戦闘参加者なんだよ
パフォーマンスコンクールは戦場から離れた所で眺める行為を意味するわけじゃないでしょ
上陸地点の読みを外された日本軍が、元軍に偶然、近い位置に布陣してた菊池から反撃に成功し、
その後にそれに主力が追いついて鳥飼潟で激戦になったと考えるほかない。
×上陸地点の読みを外された
○迎撃主戦場の読みを外された
大陸の軍制を取り入れた朝廷軍が蝦夷の騎射戦術に苦渋を飲まされた結果誕生した武士の戦術が
数百年後にオリジナルの大陸の軍隊を打ち破るなんてロマンやん?
415 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:34:29.21
>>412 >当然、戦闘者を目視できる距離に布陣していることになる。
私が言っているのもその意味だ。
>つまり証人もそのエリア一帯での戦闘参加者なんだよ
それはその通り。ただし戦闘参加者ではあっても、その時点での戦闘者ではない。
観戦者であり証人だ。しかし次の時点では戦闘者になるかも知れない。
そういう意味での「逐次投入」であり、パフォーマンスコンクールだ。
>その後にそれに主力が追いついて鳥飼潟で激戦になったと考えるほかない。
追いついたというより、菊池に関して言えば他の集団と「交替」した。
なぜなら菊池は一戦した後、武士の集合場所である沖の浜の入り口で竹崎と会っている。
つまり、わざわざ集合場所まで戻って一息入れた。
遠くから目視して確認なんでまだるっこしいことをする必要ないだろう。
戦闘者同士で確認しあえばいいだけ。
軍忠状などを見てもその場にいる他家の武士(つれ合候衆)に手柄の確認をしてもらってるだけだが。
『野口豊前守戦功覚書写』
・一、あまかいと申所之東ニ而、小山衆と鑓御座候ニ、我等馬にて乗わけ申候、つれ合候衆飯塚六兵へ・高徳主計存申候事
・一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬を入乗くつし申候、つれ合候衆山内大炊亮・
塚原ぬいの助そんし申候事、
つまり証人は自ら戦ってる。戦ってる人間相互が証人となる。
だからこの種の証言の約束を戦場でとっさに行うシーンが出てくる。
確か関ヶ原の東軍の黒田と細川だか、福島だったかな?どちらかが俺の戦功の証人となってくれと頼んで
「今そんなことしてる余裕はない」と言われたという逸話があるはず
>>417 黒田長政が激戦真っ只中の細川忠興の陣に駆けつけ、
戦功の証人になるよう求めた逸話だな
忠興自身は宇喜多隊との交戦で忙しく長政の働きを見ていなかったが、
小姓は長政が自ら馬を駆って敵兵多数を蹴散らすところを見ていたので
忠興も納得して家康に報告してあげたそうな
419 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 17:53:26.08
>>416~
>>418 戦国時代のことを持ち出されてもなー
戦国時代ともなれば軍全体の統一的な駆け引きで戦うようになる、
つまり真の意味の集団戦法に変わっているのだから、戦列内で確認し合うしかなかっただろうよ。
竹崎の場合、突っ込もうとしたら部下が「証人を用意してから突っ込むべきではないですか?」
と注意したんじゃなかったっけ。
そこで竹崎が「構わん、突っ込め」と。
これは先駆けの功を取りたいがためにやむをえず例外的な形になったということを
強調しているのでないか?
420 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 18:58:18.95
>>419 残念だが君の主観やうろ覚えの記憶ではまったく説得力がない。
鎌倉時代の戦功確認に関する史料か論文を引いて説明してくれ。
421 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 19:52:13.41
>>420 遠慮してうろ覚えのように書いたのだ。
違っていると思うなら蒙古襲来絵詞を見ればよい。簡単なことだ。
422 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:07:27.12
>>421 遠慮しなくていいからちゃんと書いてよ。
423 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:14:53.47
>>421 竹崎と白石が現場で互いに証人となることを約束している点で
戦国時代の例と何も変わらんな。
424 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:34:45.06
>>422 「すゑなか(季長)はせむ
かふをとうけんた(藤源太)すけみつ(資光)申す御かた(味方)はつゝき候らん
御まち候てせう人をたてゝ御かせん候へと申を
きうせん(弓箭)のみちさきをもてしやうとすたゝかけよ
と
てをめいてかく」
季長駈せ向かうを藤源太資光申す、御方は続き候らわん、御待ち候て証人を立てて御合戦候えと申すを、
弓箭の道先を以て賞とす、ただ駆けよとおめいて駆く。
>>423 >竹崎と白石が現場で互いに証人となることを約束している点で
戦国時代の例と何も変わらんな。
はて、そんな文章があったかな。次のURLに詞書があるから指摘してくれ。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/history/mouko_1.html
425 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:49:32.27
>>424 まさかそれが論拠なわけ?
証人が戦闘に参加せず目視に徹するなんてどこにも書いてないんだが…。
426 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:05:07.18
>>419 >つまり真の意味の集団戦法に変わっているのだから、戦列内で確認し合うしかなかっただろうよ。
つまり戦列内で確認できるわけだから戦闘する集団と観戦する集団に分かれなくても
パフォーマンスコンクールは出来てしまいますねww
427 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:05:55.74
>>427 それは
>>423に聞いてくれ。
で、証人と戦闘者同士が交互に戦うなんてバカなことの論拠が
>>424しか無くて
しかもそれが説得力が無いことバレちゃったので逃げ回るつもりかなww
429 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:32:52.67
>>428 竹崎と白石との約束の記述は絵詞に無いが、実際に互いに証人にはなっている。
ところで、竹崎が突っ込んで負傷した時点で白石はまだ戦闘参加していない。
参加していないからこそ竹崎の先駆けを後ろから目撃した。
また、白石が突っ込んで竹崎を救った時点で竹崎はすでに戦っていない。
戦っていないからこそ白石が敵を撃退するのを後ろから目撃して証人になることが出来た。
観戦者=証人と戦闘者が交互に戦っているではないか。
また竹崎勢と白石勢は戦力の逐次投入ではないか。
430 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:42:44.45
>>429 おじさんは
>>409でさも観戦者と戦闘者が分かれる構造が
常態的であったことのように書いてるんだけど忘れちゃった?
白石は戦功を焦って先駆けした竹崎を結果的に救って互いに証人となっただけなんだけど?
409 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:21:48.62
>>405 >1万人が戦場に一時に戦場に投入されたということは、 赤坂から鳥飼に至る戦闘過程から考えにくい。
各御家人部隊の逐次参戦に近い形になったと思われる。
それは全くその通り。私は単に両軍の馬の総数を考えて見ただけだ。
それと、なぜ逐次参戦になるかというと、それは日本軍の戦い方が基本的にパフォーマンス・コンクール
だったからだ。
パフォーマンス・コンクールは戦闘する集団と、それを観戦する集団(証人でもある)とがあって
成り立つ。
だから1万人が統一的に駆け引きするという事はあり得ない。
>>424 >一とうにかけてをものいにいるへきよし申さるゝにつきてけん
>しちのやくそくをたかへし
本来は武士達は「一とうにかけて」戦うことになっていたのに
竹崎はそれに先んじて手柄を立てようとしただけだな。
「一同で駆けて追物射るべき由申さるるに就きて、「言質の約束を違へじ」とて各々控えし」
コンクールおじさんの説ではこのように戦闘者集団が一同に駆けて追物射を行っている間、
近くで証人に徹する観戦者集団がいたってわけなんだな。
433 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:57:22.91
>>420-
>白石は戦功を焦って先駆けした竹崎を結果的に救って互いに証人となっただけなんだけど?
では何故、白石と竹崎ははじめからいっしょに戦わないのかな?
親戚同士だというのに?
それと、竹崎の部下が証人と言っているのは竹崎が兜を交換した江田秀家である可能性が
高いが、「証人を立てて」合戦候へと言うのは「江田勢といっしょに戦いましょう」と
解釈するわけ?
おじさんの、戦国時代の常識からはそうなるのかも知れないが、日本語としてはちょっと
おかしいね。
>>419 戦国時代も、参戦した武将=領主が独自行動を取ることは珍しくないよ。
長篠の戦でも穴山隊・信廉隊ら親類衆はさっさと逃げちゃってる。マシになったとは言え領主連合軍だからね
蒙古襲来絵詞は勲功を祖先に伝えるために作られたのだから日本軍奮戦の証拠にはならない。
>>436 > 勲功を祖先に伝えるために
二重に呆けてるギャグなのか!?
438 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 12:42:37.09
>>434 日本軍逐次投入説を主張する奴が一人で言ってるだけじゃね?
全く説得力ないけどさw
平良将が戦場で余計な人間を巻き込まないために大将2人で勝負しようじゃないか
と提案して一騎打ちになり、兵が眺めてたとかいう話(ただしこれは私戦。それも逸話レベル)はあるが、
証人が、対象者が戦闘してる最中にわざわざ戦闘を止めて見てたなんてあり得ない。
どこでそんなバカな理解が出て来るんだか。
蒙古襲来絵詞で日本軍奮戦の証拠にならないなら、元軍が慌てて撤退したという状況判断と
元軍軍議の内容や副司令官が戦闘に及んだ途端、負傷してる事実からも日本軍奮戦の証拠は浮かび上がるよね。
442 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 23:58:25.74
でも元軍もたいへんだね。
ほとんどの兵が船に乗ったことも無いし、
船酔いのまま日本軍を迎えたんじゃ実力も
発揮できないし、
日本軍はもっとたいへんだよ。
なにしろ、大陸を席巻した精強な軍隊を
数分の一の兵力で向かい撃たねばならなかったからね。
勝ったけど。
444 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 00:46:44.91
いやいや、鎌倉武士に負けるくらいだから
よっぽど船酔いがひどかったんだろう(笑)
というか日本侵攻に当たった忻都や金方慶、洪茶丘らとその配下は
三別抄の乱で珍島や済州島への渡海作戦を経験してる連中なんだが
船酔い云々言ってる奴は頭悪過ぎだろw
446 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 19:48:38.96
日本軍は5000騎がいっせいに戦ったという戦国おじさんは次の質問にまだ答えていないな。
1)白石は、何故はじめから竹崎といっしょに突撃しなかったのか?
ちなみに絵詞は白石が「後陣から」救援に来たと言っているが、後陣とは広辞苑によれば
本陣の後ろに備えた陣のことだ。
2)白石の部下が言った、「証人を立てて合戦そうらえ」と言うのは「証人と一緒に先駆け
しましょう」という意味か?
ついでにもう一つ質問:
3)菊池勢は赤坂の元軍を追い落とした後、博多の沖ノ浜まで戻って一息入れているが、
この事実についてどう思う?
447 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:28:12.42
結局観戦と戦闘を交代交代に行うことが常態であるという証拠は出てこなかったなww
>>446 >白石の部下が言った、「証人を立てて合戦そうらえ」と言うのは「証人と一緒に先駆けしましょう」という意味か?
何あわててんだお前www
白石の部下wwwwww
449 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:17:38.42
>>445 お前って馬鹿だろ(笑)
>三別抄の乱で珍島や済州島への渡海作戦を経験してる連中なんだが
文永の役や弘安の役に参戦した兵は全員参加してるわけねえだろ。
ただでさえ日本海の荒波は船酔いしやすいのに少しくらい船戦を経験
したくらいじゃ船酔いは避けられない。
朝鮮近海に渡海経験があり、中でも酔い耐性のある人間から、さらに遠海への酔い耐性ありそうな奴を選抜して全軍を構成したんだよ
きっと
451 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:38:59.73
>>450 >さらに遠海への酔い耐性ありそうな奴を選抜して全軍を構成したんだよ
そんな連中じゃ、陸に上がった河童状態で鎌倉武士にすら勝てないな。
>>449 誰も全員参加したなんて言ってねえよ
マジで頭沸いてんのか?
大体船酔いのせいで負けたとか、言い訳にもならんわなw
上に出てるように異種格闘技戦で1ラウンドKOで負けた奴が
「ホームなら勝てる」「レスリングなら勝てる」とか言ってるようなもんだろ
454 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:58:40.73
>>452 また、お得意の話のすり替えか(笑)
>というか日本侵攻に当たった忻都や金方慶、洪茶丘らとその配下は
だいたいお前ら鎌倉武士に幻想抱きすぎ(笑)
現在ではポニーに分類される小型の和種馬で重さ30〜40`の大鎧
(あくまでも武士同士の争いに対応したに過ぎない隙間の多い鎧)
や太刀や大弓などをもった武士がモンゴル騎兵の機動力について
いけると思っているのか(所詮、流鏑馬や犬追物は狩装束を着て行う
スポーツに過ぎないのに)
モンゴルもポニーだけどね
隙間だらけの鎧に機動性のない馬で勝ったんだから、鎌倉武士の強さは幻想じゃなくて本物
…って、遠回しに言いたかっただけかよ
面倒臭いヤツだな
モンゴル馬も日本の馬も同じようなもんなんだがね
>>454 いや、「忻都や金方慶、洪茶丘とその配下」が
三別抄の乱で渡海作戦を経験してるのは事実じゃん。知らなかったの?
>>現在ではポニーに分類される小型の和種馬
日本在来馬はモンゴルや中国と同じ蒙古馬系に分類されてるんだが
まさか、モンゴル騎兵が現在のサラブレッドみたいなデカい馬に乗ってたとでも思ってるの?
そっちこそ幻想抱きすぎだろw
騎射戦に特化した大鎧が隙間だらけとか
日本の鎧について知らなすぎ
威力の強力な和弓に耐えられるよう開発された大鎧を着た武者相手に
威力の弱い蒙古兵の短弓では、蒙古軍は分が悪すぎないか?
すぐに矢が尽きたり、劉複亨が負傷したのも日本軍と矢戦で分が悪かったから
としか思えない。
>>460 > 威力の強力な和弓
この認識が根本的になかった人たちが戦後の歴史教科書作っちゃったのがすべての原因なんだろ?
462 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 17:36:31.92
>>466 おっと訂正:
白石の部下が言った → 竹崎の部下が言った
463 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 17:58:57.80
>>447 >結局観戦と戦闘を交代交代に行うことが常態であるという証拠は出てこなかったな
誰も交替交替に観戦と戦闘を行う等と言っていない。
戦闘の任意の時点において実際に戦闘しているのは全軍のほんの一部であるということだ。
そうであれば必然的に、戦闘者と観戦者が生じる。
その戦闘者は一つの集団が終われば次の集団が突っ込む、その意味では交替交替だ。
現に菊池勢が離脱して一息入れているときに白石勢が突っ込んでいるではないか。
そしてこの様相は八幡の蒙古記の戦闘描写とも一致する。
そしてその他大勢である観戦者は証人に「なり得る」。
証人は約束した証人もいれば、竹崎に対する白石のようにことの成り行きでなる者もある。
もちろん戦国おじさんの言うように混戦の中での証人もいただろうが、元寇戦に限定して言えば
なにも無理して混戦の中で目撃する必要は無かった。
464 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 16:07:49.69
>>453 実際にはアリスターに凹られたK1勢状態なのになw>元軍
465 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 16:56:31.38
466 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 21:49:50.02
新聞購読を止めて、月3000〜4000円、年間36000〜48000円の節約
その上誤った主張、記事で世論、政治を迷走させ国民生活を奈落に落とす新聞の世論工作の影響力が減って一石二鳥
これはもう新聞購読を止めるしかない
>>463 当たり前でしょ。それは戦闘一般に言えることでしょ。
ランボーだって起きてる時間すべて銃撃ちまくってないよ
そんな極論を言い出して何を言いたいのさ。
パフォーマンスコンクールなんて慣習に日本武士団が絡め取られていたとすれば、
日本軍は最終盤に至っても恐らく2000騎程度の軍勢しか参戦していないことになるよ
ますます日本軍の勇猛さを証明することになる
いくら論拠に困ったからって、アキレスと亀みたいな言葉の遊びを持ちこまないでほしい。
まだ騎馬の比率を論じてるほうが実証的で有益だ
468 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 17:34:25.86
>>467 >当たり前でしょ。それは戦闘一般に言えることでしょ。
当たり前ではない。元寇戦について特に言えることだ。
なぜそうなのかはまた改めて。
>そんな極論を言い出して何を言いたいのさ。
極論でも言葉の遊びでもない。八幡の蒙古記と蒙古襲来絵詞、この二つの文献に書いてあることを
言っているだけだ。
>日本軍は最終盤に至っても恐らく2000騎程度の軍勢しか参戦していないことになるよ
2000騎どころか、任意の時点で実際に戦闘しているのは100~200騎だったろう。
菊池勢は100騎ほどと、絵詞に書いてあるし、白石勢は絵詞では「大勢」と書いてあるが、
これも約100騎とする資料が多い。
>ますます日本軍の勇猛さを証明することになる
このような戦闘の仕方でともかくも元軍を食い止めたのは、武士の勇猛さ以外の
なにものでもない。
>誰も交替交替に観戦と戦闘を行う等と言っていない。
>戦闘の任意の時点において実際に戦闘しているのは全軍のほんの一部であるということだ。
>そうであれば必然的に、戦闘者と観戦者が生じる。
>その戦闘者は一つの集団が終われば次の集団が突っ込む、その意味では交替交替だ。
>現に菊池勢が離脱して一息入れているときに白石勢が突っ込んでいるではないか。
>そしてこの様相は八幡の蒙古記の戦闘描写とも一致する。
つまり証人となるために戦闘を離脱する必要はなく、
単に部隊の休息のために戦線を偶然離脱してた部隊が証人になってると主張してるわけだ。
それを戦闘者どうしが偶然に、相互に証人になってると言うんだよ。
こんな戦闘の構造が「元寇戦において特に言えること」であるという根拠を簡潔にでも記してほしいが、
それは、国内の戦闘においてはより統制のとれた組織的な戦力投入が出来ていたということだよね?
>>460 その発想は基本的に正しい。
川合さんや高橋さん、あと俗流で鈴木某みたいなのが悪いのかも知れないが、
日本の馬は北欧騎兵や蒙古騎兵に比べて決して体格的に劣らない。
しかも去勢してない猛獣。宇治川合戦のイケズキの逸話が示すように馬自体が恐るべき凶器
ポニーサイズだからと言ってる人間は基本的に軍馬が分かってない
471 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 18:28:28.89
>>469 >単に部隊の休息のために戦線を偶然離脱してた部隊が証人になってると主張してるわけだ。
それもあるがそればかりではない。
観戦している武士には、じぶんの出番(じぶんがいちばん目立つことができる局面)が来た、と
じぶんで判断するまで自陣で観戦している者がいるだろうし、
本当に証人を請け負って、目撃する相手の戦いぶりを見ている者もいるだろう。
なお、菊池勢は初期の戦いの後、完全に戦線を離脱して1キロ離れた沖浜まで戻ったから、
相互証人の例ではない。少数の武士が交替交替に戦った例として挙げたのだ。
>それは、国内の戦闘においてはより統制のとれた組織的な戦力投入が出来ていたということだよね?
その通りだ。例えば源平合戦と元寇戦を考えて見ても、武士のモチベーションに違いがあるだろう。
(基本的には同じだということは例えば生田の戦いの河原兄弟の例でもわかるが、モチベーションが
違う)
472 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 22:26:52.67
>>471 ちょっと注釈
「基本的に同じだがモチベーションが違う」というのは表現がまずかった。
源平合戦と元寇戦を較べたとき、武士のモチベーションの中で功名が第一に来るのは同じだが
モチベーションのそれ以外の部分が違うだろう、と言いたかった。
コンクールさんはだんだんとんでもないことを言い出すようになっちゃったな。
鎮西の在地系御家人の失地回復戦なのに何でモチベが落ちるんだよ
幕府は時頼の時代にも異賊対策のための布告を発して戦い方まで規定してるのに、
幕府が怠戦とみなされたら恩賞にもろに影響が出て来る。
対蒙古戦用に各御家人の進退を厳しく戒めて組織的戦闘を可能にしたということはあっても、
その逆は絶対にあり得ないわ
ほんとに妄想と言葉遊びでしかないね
「なぜ元寇について特にいえること」なのかの説明はいつになるの?
威力偵察でもパフォーマンスコンクールでも異説を唱えるのは自由だけど、
だいたい常識的なとこが分かったら、スレを自己主張の場に使わないでもらいたいな
>>446 日本軍が5000騎揃って戦ったなんて誰も主張してない。
それどころか逐次参戦であり、単に証人を作る方法について戦闘参加者でも充分に証人足り得ると言ってるのに、
無理やり主張を捏造して戦うのは楽しい?
476 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 17:41:53.89
>>473 >鎮西の在地系御家人の失地回復戦なのに何でモチベが落ちるんだよ
私がモチベーションが「落ちる」と、どこで言ったか指摘して欲しい。
>>475 >逐次参戦であり、単に証人を作る方法について戦闘参加者でも充分に証人足り得る
この文章については全く異を唱えるところはないね。
逐次参戦も認めてくれて有難う。
証人は戦闘参加者「だけ」ではないことも認めてくれれば言うことはない。
477 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 20:32:13.50
河原兄弟の話は平家物語に載っている。
生田の戦いの前夜、河原兄弟の兄が弟に言う。「わが一族は家来が少ないから自分で功名を
立てるしかない。自分は明日の朝先駆けして討ち死にしようと思う。お前は生き残って証人に
なってくれ」
*このことから、証人は親族でも良かったことがわかる。また戦闘に加わるのでなく後方から
視認する場合があったことがわかる。
弟は兄の申し出を断り、兄といっしょに先駆けすることになる。兄は従者を呼んで後のことを
託する。翌日早朝、兄弟は馬に乗らず、徒歩で逆茂木のなかに入り、名乗りを上げるが
平家軍から相手にされない。それでも構わず矢戦を挑み、遂に兄弟とも射殺されてしまう。
従者はそれを見届けて「河原おん兄弟、ただいま討ち死に仕りたるぞや〜」と呼ばわる。
*恐らく従者は身分上、証人になれなかったので、目撃した源氏の武士全員に向かって、
「証人になって下さいよ〜」と呼びかけたのであろう。
この場合も証人になるべき人たちは戦闘に参加せず後方から視認した人たちである。
478 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 22:58:14.84
あいかわらず鎌倉武士を過大評価しているな(笑)
たとえば武士の長さ200センチの和弓を自慢しているけど
騎馬武者たちが馬上から射撃するのには取り扱いが悪い。
同時代のイギリス軍は150センチ程のロングボウを歩兵に
集団運用させているのと比べると、騎馬武者の場合は集団運用
をしてないから敵軍に対する攻撃力が弱い。
徒歩での射撃も、騎射も可能な(上下アンバランスな)構造だから取り扱いに関しては問題ないんじゃね?
それに取り扱いに難があれば鎌倉時代から戦国時代に掛けて形が変化・洗練されるはずだけど変わってないのもその照明になると思う。
イギリス軍を持ち出してるけど、弓は日本も含めて世界中でも基本集団運用
騎射の有無はイギリス軍は騎乗指揮官が騎射を可能とするだけの技量が無いか、習慣が無いんじゃね?
480 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 00:14:01.58
>>479 騎兵と步兵の中世史武具の下剋上―。
古代より続いた弓射騎兵から、南北朝期の打物
(刀剣類)騎兵の登場を経て、戦国期の歩兵主体のいくさへ。
合戦の大転換はなぜ起こったか。
『平家物語』『太平記』や絵画史料から、中世合戦の真実に迫る。
全く問題ないよ。あんたら笠懸も見たことないのか?
あの長大な弓を馬上に持ち込むために改良を凝らしたのに
コンクールさんてある意味すごいと思う。
最初は日本軍に対して元軍が数的に優位ではなく、ゆえに負けても無理がないと強調していたはずなのに、
いつの間にかパフォーマンスコンクールの慣習によって戦場にたった数百騎しか出ていなかった日本軍が、
その数倍から10倍の元軍を撃破した完璧超人であるから負けても無理はない
と、まったくあべこべの主張を力説しているw
議論相手のほうが「いや日本軍はそんな呂布みたいなやつらばっかりじゃねえよ」と戸惑ってる状態
自分でも何を言ってるか分かってないんじゃないの?
パ「日本軍は5000騎もの騎馬武者を擁しており、元軍は不利だったんだよ」
逐「いや戦闘経過を見たらその5000騎の一斉投入と会戦ではなく、御家人ごとの逐次参戦で、主力が結集したのは終盤だから」
パ「それは当然だ。日本軍はパフォーマンスコンクールの慣習で証人を作らないといけないから逐次参戦に決まってる」→ここら辺からおかしくなる
逐「戦闘参加者でも証人なんて充分なれるよ」
パ「いいや違う。証人は証人」
逐「それだと日本軍の実働数はさらに少なくなり、元軍を終始一貫、寡兵で撃破したことになっちゃうけど?」
パ「その通りだ。日本軍はわずか数百騎で元軍を撃破した世界最強の猛者だったんだよ」
逐「・・・あんた最初と言ってることが180度逆になってるやん」
パ「逐次参戦を認めてくれてありがとう。俺の大勝利」
こんな流れです
484 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 13:16:56.97
485 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 17:03:41.73
>>484 やっぱ甲冑フル装備で和弓を射るっていうスタイルが鎌倉以降は時代遅れになったんだろうな。
大河の「清盛」のOPで大鎧を着て弓を引くシーンがあるけど、鎧や吹き返しが邪魔で全然引き絞れていないもの。
弾力性に乏しい初期の和弓なら引き代が少なくてそれでも良かったんだろうけど
弓の改良により弾力性が増してくるに従って、軽装の歩兵に弓を射させた方が威力も射程も上回るようになったんだろう。
487 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 18:33:15.18
じぶんに都合がいいように話の流れをでっちあげているが、
戦国おじさんが最初から逐次参戦を唱えているのではないことは、次の文章に現れている。
>>467 >日本軍は最終盤に至っても恐らく2000騎程度の軍勢しか参戦していないことになるよ
戦国おじさんは、私が、任意の時点で実際に戦った武士の数は少なかった、と言ったので
私がどのくらいの数を言っているのかわからないままに、自分がはじめ言っていた5000騎を
2000騎に値切って見たのが、戦国おじさんの上の文章だ。
2000騎の参戦なんてあり得ない。
それは終盤に至っても同じだ。私は「八幡ノ蒙古記」を信用しているが、八幡ノ蒙古記が述べている
戦闘描写は主として終盤戦のことだと思う(なぜなら初期の戦いは「船にかかりしほど」という
言葉で簡単に飛ばしているからだ)。
その終盤戦の描写も一族ごとの逐次参戦だ。そして遂に誰も突っ込む者がいなくなって菊池が、
ええい、誰も行かないのか、じゃあ仕方ない、おれが行くぞー、という感じで100騎ほどで
突撃して大損害を蒙っている。
この菊池の突撃を、蒙古襲来絵詞に描かれた菊池の戦闘(首二つ取って引き揚げるところ)と
同一視する学者が多いが、理解に苦しむ。
もしそうなら竹崎の先駆けはその後のことになり、先駆けではなくなってしまう。
八幡ノ蒙古記に描かれる菊池の突撃は、菊池の第二次(または第三次)の突撃なのだ。
488 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 20:04:32.81
八幡ノ蒙古記って宗教家のおっさんが書いた龍が元軍に襲い掛かったとか書いてるトンデモ本だろ?
菊池の突撃が第二次、第三次(笑)の突撃なら、戦闘に参加した竹崎本人が蒙古襲来絵詞の中で鳥飼でさきがけを
行って負傷した以外は分捕りも郎党の討ち死にも無かったと述べてるのに、487のいう八幡の蒙古記の中の菊池の
第二次、第三次の突撃(笑)の後、竹崎らが散々に戦ったとあるのはどう説明するんだよ(笑)
本人の証言より、宗教家の妄想を信じるなんてアホかとw
489 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 20:52:51.61
>>488 確かにそれはある。
しかしそれを言うなら、竹崎が「船にかかりしほどはよく働けど」ここに至っては尻込みした
ように書いてあるのをどうするか。
菊池の突撃が竹崎の働きの後になってしまうではないか。
やはり竹崎の先駆けの前の菊池の突撃と、蒙古記の戦闘場面の菊池の突撃は別なのだ。
490 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 21:27:58.46
>>474 >「なぜ元寇について特にいえること」なのかの説明はいつになるの?
これがそのままになっていたね。
これは、その後で言った「モチベーション」と関連している。
源平合戦と元寇戦とを較べてみるならば、武士のモチベーションとして「功名」が第一に
来ることは同じだ。
しかし前者の場合は合戦の勝敗の重要性が後者とは違った。源氏も平家も、合戦の勝敗が
覇権に直結した。だから武士達には覇権、ひいては自分たちの身分を失うかどうかの危機感
があった。それが全軍を通じてあったから「連帯的危機感」と言ってもいい。
しかし元寇戦の場合、目の前の合戦に勝とうが負けようが、それで鎌倉幕府がひっくり返るとは
武士達は考えていなかっただろう。つまり連帯的危機感などはなかった。
そうであれば、「功名」のモチベーションはより肥大化し、純化する。
このような場合、1000騎単位で統一的に駆け引きするようなことは起こりにくい。
なぜならそれでうまく行ったとしても、誰の手柄かわかり難いからだ。
だれの手柄かわかり易くするためには、どうしてもじぶんの一族だけで突っ込みたくなるだろう。
だから戦闘が5騎、50騎、100騎などの小集団で行われるのだ。
またこのような場合、証人となる人はなにも無理して戦闘に加わる必要はない。
後方から悠々と見届ければよい。
元寇戦について特に言えることだ、と言ったのは上記のような意味だ。
491 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 21:36:10.93
>>489 だからさぁ、宗教心を煽る目的で八幡神の化身が元軍を追っ払ったとかかれているだけで信用度が低いのに
実録である蒙古襲来絵詞と矛盾点がある時点で八幡の蒙古記の信用度は無いに等しいトンデモ本なんだってw
船にかかりしほどはよく働けどなんて場面が戦闘に参加した本人の実録の蒙古襲来絵詞にないんだから
この部分も、この宗教家のおっさんの妄想だということだよ(笑)
そもそも、短期間で終了した戦闘を、戦闘場面を目撃してたわけでもなく宗教心を煽るのが
目的の歴史家でもなんでもないおっさんが正確に記録して後世に残そうなんて思考は起こらない
ことだけは想像がつくw
内容から想像がつくのは面白おかしく、もっともらしく八幡神の威徳を顕彰しようとする著者の姿勢だけw
492 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 22:03:09.14
いやいや、なんと言っても15年だか30年後の「同時代資料」だということはもっと重視してよい。
このくらいの時間差だったら目撃者はまだ生きていて記憶も新しいから嘘は書けない。
太平洋戦争の戦記物だって、30年後の昭和50年代はまだまだ生々しかった。
八幡の蒙古記は流行り廃りがあって、今は揺り戻し的にトンデモ視されているが、一時の流行に過ぎない。
一方で蒙古軍モモチ原撤退説など珍妙な説が流行ってもてはやされているが、
こんなのより八幡の蒙古記から推定される戦闘経過の方がよほど整合性、合理性がある。
蒙古襲来絵詞とは、描写している時点が違うのだからなにも矛盾はない。
竹崎が他の武士とともに散々に戦ったというのも、竹崎の手の者が戦ったと考えれば良い。
白装束の話等は超自然だが、それで全体を否定するほどのものではない。時代を考えれば
このぐらいはあって当然だ。
なによりも、それは「誰も見ていない」場所でのできごとだ。だから作り事も書ける。
「全員が見ている」戦闘場面とはわけが違う。
493 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 22:41:05.24
>>492 なんだ?この著者は、新聞記者か何かかよw
ちなみに八幡ノ蒙古記は戦記物じゃなくて「宗教書」だから(笑)
へー、圧倒的武力で武士を蹴散らした後、『理由もなく』撤退した戦闘経過が
あんたの脳みそでは整合性、合理性がとれてるんだなw
それとも、八幡神の化身が元軍を追っ払ったというのが整合性、合理性がとれてるのか?(笑)
あんたさ、『蒙古襲来絵詞』、ちゃんと読んだか?竹崎の郎党は一人も討ち死にしてないんだよ(笑)
八幡の蒙古記では竹崎らが散々に戦ったが元軍に破られたとある。まさか、破られた大敗した竹崎郎党の中で
一人も死人が出なかったなんて有り得るわけねえよなぁ(笑)
ほうほう、この宗教家のおっさんは、宗教心を煽る書物を書くために戦場で戦った武士たちに取材をしに行ったのか(笑)
ここ、初めて来たが驚くな。日本マンセー脳もここまでくれば超賤人と何も変わらん。
そもそも、何故彼らが出兵して来たか、その動機を探る事が最も重要。
正直、文永の方は解らない。恐らく、日本の金銀であるとか、
南宋攻略と通商のための海路開発が主因だったと予想されるが、確たる事は誰にも解らない。
しかし弘安のほうは明らかだ。
彼らの主力、というかほとんどは旧南宋の兵士だった。
至元16年に南宋朝は滅亡し、そこに巨大な軍隊だけが残った。
弘安の役は、その敗残兵のゴミ捨て場として企画されただけだろう。
南宋は内地から遠く、兵として中央アジアに送り込むには叛乱や費用など様々なリスクを伴う。
彼らは職業軍人であり奴隷としても使いにくく、
解放しても手に職も行き土地も無く、盗賊やレジスタンツになるのは明らかだったからな。
日本では粗野な印象を勝手にもっているが、モンゴル人は綿密な計画と慎重な戦運びが持ち味だった。
その彼らが、何故文永で艦隊が沈んだか調査せぬ訳が無い。
その理由が解っているにも関わらず、同じ時期に出兵して来たという事は、
つまり、始めから全滅させるつもりだったのだろう。
少なくとも、遠征が成功すればそのままずっと戦わせ続け、本国に生きて返す気はなかったのだろう。
兵士たちは当然、口には出さずともその空気を感じ取っていただろう。
士気は無く、総攻撃を仕掛ける訳でもなくただ、転々と居場所を変え、台風を待つ。
元にとっては、この敗戦がなんら政権に打撃を与えた訳でもなく、ほとんど記録さえもないのは
そうした事情による物だよ。
釣りなのかガチなのか迷う長文だな
今まで多くのトンデモ説が流されたがここまでいくと正直引く
トンデモ?
昔から普通に言われてる事だろが。
引くのはこっちだわ。愛宕松男とか読んだことないのか。
中国は王朝がかわるたびに兵士の大虐殺をくり返す国。
いつでもどの時代でもやってる。
ましてや、潜在的敵対関係にあったとは言え、領土にほとんどを同族国家が制し、
もはや兵士は百害あって一利無し。
兵はタダで手に入っても船はタダじゃないんだよ?
旧南宋は併合されたとは言え、モンゴル人の支配力が及ぶのは揚子江まで。
それ以外は実質的に半独立国、属国としての態をとった。
それらの地ではダルガチが居たとはいえ、権力を持っていたのは南宋時代の大商人や土豪たち。
浪人は自然にそれらと結びつき、一大勢力となって幾度も征伐隊が組まれた。
また、闇塩のシンジケートが非常に強い力をもっていたので、
それを解体する目的もあったのではないかと指摘する向きもある。
というのも、塩税は歴代王朝の最大の財源だったが、元王朝ではそのシステムに精通した人物が無く塩税が激減した。
その理由は江南地域の闇塩船で、その船を武力徴収したもののこれまた船の運用に有徳、
破壊沈没させる為に日本に送り込んだのでは、という。
これらの推測を伺わせる記述は、清初の黄宗義の明夷待訪録、王夫之の黄書にも載っている。
ちなみに、闇塩のシンジケートを塩梟という。
それらの頭目から成り上がったものは、漢の高祖もそうであったといわれるが
史実として確実な人物に朱温がいる。言うまでもなく五代、梁の太祖だ。
唐の実質的破壊者である王仙之、黄巣もそうだ。
唐も宗もその財政の50%以上を塩税に頼っていた。
唐が長く続く戦乱にももちこたえられたのは偏にこの恩恵だったが
塩産地である淮東を福建を楊行蜜や銭鏐が落とすと10年も保たずに漬滅した。
中国にとって、この「塩問題」はいつの時代も国家の最大の課題なのだ。
大きな声では言えんが、仕事場で周りの目を気にしながら打っている。
誤字脱字、読みにくさはご容赦願いたい。
文永・弘安も元側は真面目に戦ってなかった、わざと負けましたという説がありながら
自軍の指揮官をきっちり処罰しているんだけど
この武官らを粛清するのもその計画の一つだったの?
502 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 17:37:51.61
>>501 きっちり処罰された指揮官の名前を教えて!
一騎打ちしか知らない日本軍は元の集団戦術と鉄炮の前にボロ負け
>>494 お前馬鹿か?基本的な知識すらねえくせに書き込んでんじゃねえよ。
弘安の役で大敗した元軍の多くの将校たちは
クビライの怒りを受けて、阿塔海を除いて一時期解任されてる。
劉国傑のとりなしで復位したが、こういった行動をとったということは
クビライ自身が弘安の役を失敗と認識していたということ。
他にもある。イェスダルという将校は、部下の将兵を全員無傷で帰還させたことで
恩賞すらもらってる。棄民が目的なら、イェスダルは罰せられたはずなんだけどなw
それと江南軍の内訳が旧南宋兵が主力と記された資料は存在しねえよ。
『元史』に江南軍の副司令官、李庭が弘安の役の二年前に率いた一万の軍勢の内訳は
「蒙古軍二千、益都軍二千、諸路軍一千、新附軍五千、合万人」
とある。
また、江南軍のナンギャダイ率いる軍も南宋に捕虜となっていたモンゴル人・ウイグル人の
部隊を編成して参加している。また、弘安の役に際して、江南軍の司令官范文虎はクビライに
漢人の軍を万人要請して、クビライはこれを許可した。つまり、江南軍には相当な数の漢人も
含まれており、貴重な戦力である漢人をクビライが江南軍に加えていることだけでも棄民がただの
妄想でしかないということがわかる。
それと、旧南宋兵が多く含まれていたとしても、クビライは南宋滅亡後に旧南宋兵の選抜を
おこなっており、役に立ちそうにない南宋兵は解雇しており、編成された旧南宋兵は精鋭だった。
よって、旧南宋人は士気が低くて云々はただの妄想でしかないということw
それと、文永は11月で、弘安は6月なw
同じ時期とか言ってる時点でコイツの知識はたかが知れてるってもんだw
で、当時フビライが棄民してこいと命じた記録はあるの?
506 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 18:56:07.33
>>486 大鎧って馬上で弓を引くための構造なんだけど。
アホには無駄な飾りに見える部分にもちゃんと意味があるんだよ。
ていうか大河ドラマがソースかよ。
それもよりによって太刀を捨てて宋剣だなんて
ゴミを使い始めるアホが登場するようなのがw
噴飯モノのトンデモ説をぶち上げてしまった棄民厨が
>>504を見てどういう言い訳をするのか興味あるなw
508 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 21:07:47.57
>>491 >船にかかりしほどはよく働けどなんて場面が戦闘に参加した本人の実録の蒙古襲来絵詞にないん
だから この部分も、この宗教家のおっさんの妄想だということだよ
「船にかかりしほど」は私もとまどった。
しかしこれは海戦をやったという意味ではなく、上陸阻止戦をやった、という意味ではないか
と考えついた。つまり「船」とは上陸用舟艇のことなのだ。
つまり蒙古記の作者は初期の戦闘、つまり鳥飼潟の戦いのことはあまり知らないので、
これを「船にかかりしほど」という言葉でひっくるめて省略し、終盤の、赤坂山を
取られて以後の戦いに集中して書いている、と考えるわけ。
だから最終局面の、武士の意地をかけた総出の戦いと、水城への撤退、少弐のしんがり戦
などにつながって行くわけだ。
知らないことについては省略する、という書き方がかえって信憑性を高めている。
逆に言えば、作者は終盤戦についてはみずから見たか、あるいは「観戦神官」として
立ち会った人から聞き取ったのであろう。
八幡神は源氏、武士、ひいては鎌倉幕府の守護神だから、「観戦神官」がいてもおかしくない。
なお八幡神は皇室の祖神かつ守護神でもある。
>>508 八幡の蒙古記が大好きなのはわかったからw
おいおい、あんたは蒙古襲来絵詞と八幡の蒙古記に矛盾点はないとか断言していた
はずだが竹崎らがさんざんに戦って敗退したという終盤戦が存在
したなら、なぜ、竹崎の郎党に死人が出ていないのか、という矛盾点をどう
説明するつもりだwというか、八幡ノ蒙古記のような大敗があったなら、名のある
武将が一人でも死んでてもおかしくないけどないw逆に、元軍は副司令官が負傷してるし。
ちなみに、この宗教家のおっさんは赤坂の戦闘を菊池ばかりは打ち漏らされたが、死人の中より這い出た
と言ってる。そんなことは菊池本人しかわからないはずだがみてきたように書く。
一見詳しく書かれているから信憑性が高いように見えるが、上のように武士との実録との矛盾点はあるわ、
八幡の蒙古記で活躍した武士は必ずと言っていいほど、八幡神に結び付けて八幡神の神徳を強調するわ、
八幡神に敵対する蒙古勢は人食いで恐ろしい奴と捏造し、恐怖観念を読者に植え付けようとしているわw
こういった姿勢からもわかるように、武士が破れに破れ、そこでラストはスーパーマンのように(笑)
八幡神が追っ払ったというストーリーを創る必要性が認められるわけだ。そこには事実を探求しようと
いう姿勢がないことはすぐに察しがつく
ようするに、実録との矛盾点があることから裏をとっていたわけではなく、八幡神を持ち上げ、顕彰できればいい
という著者の思考に基づいて書かれたのが八幡の蒙古記。
そもそも、どっかの宗教家が書いた本で戦闘経過を探ろうとすること自体、アホらしいけどw
510 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:12:39.03
>>506 >大鎧って馬上で弓を引くための構造なんだけど。
なんでネトウヨっ話を摩り替えるんだろ。
俺が言いたいのは
馬上において個々人が弓を射るより
地上において集団で弓を射るほうが効果がある。
(比較対象イギリス弓歩兵)
また馬上においても大鎧で長弓を射るより
皮鎧で短弓をいる方が有利だ
(比較モンゴル騎兵)
511 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:54:20.91
○○○→×
○○○→×
○○○→×
○○○→×
の形に持っていけばお前の言うとおりになるだろうが
騎馬武者隊はその陣形を突き崩すために組織された部隊なんで強弱関係が全く逆だ
×
×××
↓↓↓
○○○→
○○○→
○○○→
○○○→
512 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:58:31.23
×
×××
↓↓↓
△○○→
△○○→
△○○→
△○○→
しかも中国式軍隊の場合、兵と指揮官の機能が完全に分離されているので
△の指揮官を打ち取れば○の兵は命令する人間を失い無力化する
一粒で3つおいしいわけ
>>510 そんなもん時と場合による
大体、騎戦主体の鎌倉時代と徒歩戦主体の南北朝時代以降の戦術を比べるなんて無意味だろ
514 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 00:13:51.93
>>513 あの時代の騎馬戦ってのは警察署長の運動会や就職活動みたいなもんだよ
彼らの本当の仕事は、数に勝る荘園内の奴隷の反乱を防ぐこと
素の状態で歩兵に対して強いんだよ
515 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 00:17:25.60
今でいうと機動隊みたいなもんだな
大量の暴徒が発生した場合の戦術のために組織されて訓練されてる
機動隊車両(馬)を駆り、弓(放水車、銃)を放ち、剣(警棒)と盾を持ち
築城(通路封鎖)を駆使して鎮圧する
短弓は直射で和弓は曲射
短弓の矢は軽く、和弓の矢は重い
どちらも複合弓。
どちらも騎乗からの射撃
そうなると、軽い矢による水平射撃よりも重い矢で山なり射撃の方が射程距離も威力もでかい。
騎馬の機動力+弓の射程が効果絶大なのはモンゴル軍が証明している。
短弓よりも射程の長い和弓なら、歩兵短弓よりも騎馬和弓の方が、射程、機動力共に有利。
んで、防具だけど、それぞれの威力に対応可能な装備だと思われる。
長距離を騎馬で駆けるモンゴル軍の皮鎧は軽装。
大鎧は威力の高い和弓に対応可能だけど、皮鎧では防ぎきれない可能性が高い。
逆に短弓の射撃は至近距離じゃなければそれほど脅威では無い可能性がある。
威力、射程、防御力で騎兵戦力も日本側の方が有利。
モンゴル側が優れてるのは、騎馬の圧倒的な数と行軍速度じゃないかね?(元寇でどれだけ騎馬が居たかしらんが)
え?そんな運動会や就職活動で元軍を破ったの?
武士凄すぎだろw
>>454 サラ厨か
西南方面の体高110cm前後の小型馬でも50キロくらい余裕だから
流鏑馬と犬追物を同列に扱ってる時点で馬鹿丸出しだな
519 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 00:44:11.56
>>517 武士同士の争いは運動会みたいなもんだよ
当時の記録も美化されてるんじゃなくて、割と本当にやってたりする
偏差値左衛門「われこそは東大卒のエリート偏差値左衛門!」
脳筋の助「われこそは柔道日本一の脳筋の助!」
偏差値左衛門「は、ふん、は!なかなかやるな!今日のところはこれくらいにしてやろう。明日は農作業があるから、来週の日曜まで待て」
脳筋の助「待て、来週はうちの田んぼの刈り取りだ」
こんな感じでスローライフしてるだけなんだが
ひとたび奴隷が暴徒化したり、富豪や商人や宗教家が海賊活動を行ったりすると
鬼畜になって「皆殺しだぜ!ひゃっはー」って感じで
騎馬の機動力を生かした戦術を使って殲滅を行うんだよ
一向宗が焼き払われたけど、あれは織田が異常なんじゃなくて、あれが本当の武士の仕事
>>510 むしろ当時の日本は歩兵の集団矢戦が主流なんだけど・・・
九州の戦法は分からんが当時の戦法の一つで
かい盾という大きい盾を一列に並ばせその隙間や上で矢を射ながら少しずつ前進し近接戦に持ち込むというのがある
こうした盾を用いる戦を楯突軍(たてつきいくさ)といい、矢を射懸けあう戦を矢軍(やいくさ)
矢が集中して飛び交うことを矢衾という
春日権現霊験記にもこういう描写がある
521 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 01:19:00.18
騎馬武者隊がどう戦っていたかどうかは色々説があるが
歩兵隊の指揮官が動かない椅子に座り、指示が無いと動かない歩兵と一緒にいるとしたら
騎馬武者隊の指揮官は動く馬に乗っていて、ある程度支持が無くても動く、寝食をともにしている従者と一緒ってわけで
どちらが強いかは理解できるだろ
522 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 01:56:14.14
>>516 弓の威力の話をしてるんじゃねえよ
どちらがより効果的の話だよ。
モンゴル騎兵は元寇以降も存在し
続け、大陸で勢威を張っていたけど
鎌倉武士に代表される弓騎兵は
南北朝時代には早くも変質している。
それはつまり実用的な戦闘スタイル
では無かったからだろう。
武士糞しょぼいな
それに負けた元はゴミ
ヨーロッパでは一切通用しない
もう一つ、重要な事がある。
それは元朝の成立時における支配構造の変化だ。
本来、フビライはハンであり、ハーンではなかった。
つまり、モンゴル全体から観ると極東軍司令官、軍官僚にすぎなかった。
そのため、旗下の将軍たちには半ば同僚に等しい有力者もいたり、
少なくとも千戸長、百戸長たちもフビライと同じ草原の本国直参という強烈なプライドをもっていた。
しかし、フビライが南宋を降し実質的にもハーンとなり、中央政庁が華北に移動した為に状況が変わった。
千戸長たちは領主であるとともに官僚でもあったが、それは本国の官僚であって元の官僚ではない。
元は新しい制度のも、内政にむいた新官僚組織を組んでいき、無骨な本国将軍たちは客員扱いで蚊帳の外におかれた。
そのため彼らは、華北において官僚としての性格を全く失い、ただの門閥貴族に成り下がっていった。
しかし、元朝が中国的な帝政を敷く上で、そういう無官の有力貴族は叛乱の火種でしかない。
それはモンゴル人だけでなく旧南宋、金の在地有力者たちにも当てはまる。
恐らく、弘安の役を率いていた上級指揮官はそれらの居場所を失った将軍たちだったのだろう。
態のいい厄介払いだ。
当然、戦功をたてさせる訳にはいかないから相当な嫌がらせを受けたのではないか。
帰ってくるな、と思うのは当然だと思うが。
>>522 お前は何もわかってない
南北朝時代以降になると千早城の戦いに代表されるように戦闘の主流は山城をめぐる攻防戦となり、
騎兵は役に立たなくなったってだけだ。室町時代ともなると戦闘の大部分は攻城戦になる
そういう時代背景を無視して、異なる時代の戦術を単純比較するなんてバカ丸出しだろ
戦国時代に戦術が激変したから、それ以前の戦術は一切実用的じゃないとか言うようなもん
527 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 11:58:56.79
>>509 >竹崎らがさんざんに戦って敗退したという終盤戦が存在 したなら、なぜ、竹崎の郎党に
死人が出ていない
さんざんに戦ったら必ず死人が出ると決まったものでもあるまい。
>そんなことは菊池本人しかわからないはずだがみてきたように書く。
なんで菊池本人しかわからない? 上で戦国おじさんと議論したように逐次突入だから、
常に戦闘者より多い観戦者がいたのだ。「観戦神官」は置いといても。
>そこには事実を探求しようと いう姿勢がないことはすぐに察しがつく
作者の姿勢がどうであろうと、少なくとも部分的には真実が含まれる。
同時代資料は極めて少ないのだから、そこから真実を汲み取らなければもったいない。
>そもそも、どっかの宗教家が書いた本で戦闘経過を探ろうとすること自体、アホらしい
八幡ノ蒙古記が「宗教書」だから信用しない、というのは現代の「政教分離」とやらに毒された考え方だ。
528 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 11:59:23.22
さて、八幡ノ蒙古記を全否定することはできないという理由を書こう。
高麗史を読むと元軍は本隊が上陸した当日の夕方に撤退したように読み取れる。
しかしこれを裏付ける日本側資料はたった一つ、八幡ノ蒙古記しかない。
(「即退散」などはあるが当日とは断定できない)
また幕府の記録(名前を忘れたが)に24日太宰府合戦がある。
これは元軍の当日撤退とは相反する記録である。
しかしこれが事実であるならば、日本軍は博多・箱崎から水城・太宰府に撤退していなくては
ならない。その撤退を裏付ける資料もまたたった一つ、八幡ノ蒙古記だけなのだ。
つまり、当日撤退か、24日太宰府合戦か、いずれを取るにせよ、それは八幡ノ蒙古記に準拠
していることになるのだ。
八幡ノ蒙古記を全否定しても、都合のいいところは利用していることを忘れてはならない。
529 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 14:21:40.66
いやちょっとこの24日決戦説は、提唱者本人の議論のマナーに疑問符がついたので、
到底信用できなくなっちゃったんだよね。
ご本人が提出した陸自の元寇史料でも元軍の上陸はほぼ完了していたと見ざるを得ないし
さらに幕府の記録(名前忘れたが)なんて書く神経が信じられない、ただ異説を唱えてスレ荒らしたいだけじゃないかと
全否定はできない≠都合のいいところはつまみ食い ではないのは明らかなのに
>>494は恐らく元寇研究の動向を全く知らず、20年前の教科書レベルの延長線上で勝手な妄想を述べてるだけ。
>>527-528 それは一般論に過ぎないよね。
少なくとも全面敗北したはずの八幡蒙古記と、絵詞の整合性の説明になっていない
>散々に戦ったから…
少なくとも激戦のすえに日本軍が総崩れ全面撤退に追い込まれたなら、
竹崎党に犠牲者が出ていないのは極めて不思議な現象だな。
532 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 18:11:22.67
>>529 >いやちょっとこの24日決戦説は、提唱者本人の議論のマナーに疑問符がついたので、
到底信用できなくなっちゃったんだよね。
史料の話なのに、「提唱」とか「マナー」とか、なんのことか?
>さらに幕府の記録(名前忘れたが)なんて書く神経が信じられない、ただ異説を唱えてスレ荒らしたいだけじゃないかと
史料の名前を忘れたが確認するのがめんどくさかっただけ。
「関東評定伝」(関東評定衆伝?)だ。次の一文があると言う。
「十月二十四日太宰府にて合戦、異賊敗北」
次の論文もこれを取り上げている。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17117/13/p1-36.pdf この論文の著者も最近流行りの蒙古軍百道原撤退説だ。
この説を唱えながら箱崎炎上などと整合させようとすると、いかに珍妙な戦闘経過になるか、
読んでみるといいよ。論文の最後の方にまとめてある。
533 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 18:35:55.16
534 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 18:40:34.78
>>520 素人な質問だが地域が関係してるとかは?
例えば畿内や瀬戸内だと昔からそういう歩兵中心だけど
平野が多く馬が丈夫だった関東や東北は騎馬中心だったとか。
535 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 19:10:52.59
で、憶測じゃない棄民説の確かなソースまだー?
>>527 こりゃあ、驚いた!(笑)
竹崎主従はさんざんに戦って大敗したが、死人はおろか分捕りすらなかったとは(笑)
いったいどういう状況でそうなるんだ?(笑)
まさに珍説中の珍説だな(笑)
それに鳥飼潟で負傷したはずの竹崎主従が、八幡の蒙古記にいう終盤戦というのがあった
としてさんざんに戦ったというのも不自然だし、蒙古襲来絵詞で一切触れられていないしなw
これだけでも、八幡の蒙古記が裏をとって書かれた書物ではないことがわかる。
また、おかしなこと言ってやがるw
八幡の蒙古記には菊池ばかりは打ち漏らされたと書かれており、例え観戦者がいたとしても
菊池勢を殲滅した蒙古軍のテリトリーとなった赤坂にのん気に留まっている余裕なんてないだろw
まさか、蒙古軍は観戦者には優しい人道主義に富んだ軍隊だったのか?(笑)
お前さー、妄想多すぎねえか?竹崎は死人も敵兵も討ち取っていないが散々に戦って破れた「はず」
、武士の実録との矛盾点はあるが八幡の蒙古記は裏をちゃんととっていた「はず」、菊池だけは生き残った
戦場に観戦者がいた「はず」(笑)
はずはず、言い出したらどんな論だってまかり通るっての(笑)
それと当日に撤退したことを裏付けるのに、八幡の蒙古記なんていらねえよw
蒙古襲来絵詞でも一日の戦闘場面しかない。他にも福田兼重申状など武士の書状
でも20日以外の戦闘は確認できないことと、高麗史でその日に撤退したことに矛盾点はない。
よって、蒙古襲来絵詞でも武士の書状でも裏付けることは可能というわけだ。
なんだ?あんたさー、24日大宰府決戦説なんて珍説信じてるの?(笑)
八幡の蒙古記と相反するんだけどいいの?(笑)
つまみ食いはどっちだwww
>>522 >
>>516 > 弓の威力の話をしてるんじゃねえよ
> どちらがより効果的の話だよ。
だから射程も威力も勝る和弓の方が効果的だろ?
射程が勝っていれば先制攻撃が可能
騎乗してれば短弓の射程距離から離脱が可能。
威力なんてあればいいに決まってる。
短弓が効果的だったのならなんで町のひとつも制圧できないんだよ
短弓が効果的なら日本は元寇後に回収した短弓を取り入れ、和弓は廃れているはず。
538 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 01:15:42.59
多分
>>522は向こうの短弓のが連射が利くのと、馬上の取り回しが有利なのと、大量運用云々を言いたいんだと思う。
でも、実際には一つ目に関しては武士側が射程距離の違い生かして一方的に
アウトレンジする事で解消しちゃったし、二つ目は訓練で差を埋めちゃったし
三つ目はそもそも日本でも普通に弓兵の大量動員は少なくとも源平の頃からやってたからねえ。
539 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 01:33:34.68
540 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 03:09:57.14
>>537-538 ネトウヨってホントに読解力ないね。
効率的かどうかの話だよ。いくら威力があろうが射程があろうが
無駄に着飾って個人単位でちんたら弓矢撃ってた武士が
効率的に編成された機動力ある軍隊に勝てるわけ無いっての。
>>539 ここのネトウヨより世界史板住人のが遥かに勉強してるな
世界の最先進地域を瞬く間に蹂躙した無敵のモンゴル軍が日本に負けるはずがない。
常識を持て。
>>541 ケンカと同じ、勝てる筈の相手に、相性が悪く負けるパターン
いじめっ子が負けて、何故か、逆に、イジメらてるパターン
今の日本とアジアの関係が、その繰り返しじゃん
>>540 で、実際にはその無駄に着飾って個人単位でちんたら弓矢撃ってた武士が
効率的に編成された機動力ある軍隊を撃破してるわけですが
中国の歴代王朝軍だって兵法も知らない蛮族にたびたび負けてるし、
戦争はそんなに単純なものじゃないんだよ
あと無駄に着飾るとか、お前大鎧についても全然知識ないだろ
吹返や絵革、鳩尾板・栴檀板などのパーツが単なる装飾品だとでも思ってるのか?
546 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 16:42:21.67
>>536 >竹崎主従はさんざんに戦って大敗したが、死人はおろか分捕りすらなかったとは(笑)
いったいどういう状況でそうなるんだ?
それこそ死人が出た「はずだ」という「はずだ論」ではないか。
>鳥飼潟で負傷したはずの竹崎主従が、八幡の蒙古記にいう終盤戦というのがあった
としてさんざんに戦ったというのも不自然
前にも書いたが「竹崎勢」と考えればよかろう。下っ端の名前までいちいち書かないだろう。
>例え観戦者がいたとしても菊池勢を殲滅した蒙古軍のテリトリーとなった赤坂にのん気に留まっている余裕なんてないだろ
すでに山頂を占領している元軍と、赤坂山の東麓に展開する日本軍とがにらみ合っている
状況を考えればよかろう。突っ込むやつは両軍陣地の中間地帯に突っ込んでは殲滅されたり
戻って来たりしている。観戦者は展開した日本軍の中にいる。
>蒙古襲来絵詞でも一日の戦闘場面しかない。他にも福田兼重申状など武士の書状
でも20日以外の戦闘は確認できない
「しかない」というのは受動的消極的な証拠で「しかない」。
はっきりと「翌朝にはいなかった」と当日の撤退を記述している、能動的積極的な証拠は
八幡ノ蒙古記のみ。
>24日大宰府決戦説なんて珍説信じてるの
幕府の記録がある以上無視するわけにはいかないが、私は半信半疑だ。
「半信」の理由は2万の大軍を一夜で乗船させることが果たして可能なのか?ということ。
「半疑」の理由は他に裏付けがないこと。
しかし「冬の嵐」もそうであるように最近はこれを取り上げる論文が多いので紹介した。
>>504 意味解らない。何の反論にもなっていない。
>弘安の役で大敗した元軍の多くの将校たちは
>クビライの怒りを受けて、阿塔海を除いて一時期解任されてる。
それこそがフビライの思う壷だろう。有力武将の権勢をそぎ、官僚文官を登用する絶好の機会。
フビライは本来、大の中国びいきでその制度に多大な関心を払っていたが、慣習上、
時代の逆行としか言いようの無い氏族制、世襲制の官僚組織を作らざるを得なかった。
その為には、何よりも武将たちの経歴にケチを付けておく必要があった。
>イェスダルという将校は、部下の将兵を全員無傷で帰還させたことで
>恩賞すらもらってる。棄民が目的なら、イェスダルは罰せられたはずなんだけどなw
寡聞にして知らない。ソースが欲しいね。
そもそもその船に「誰が乗っていたか」で全く事情は変わるだろう。
>『元史』に江南軍の副司令官、李庭が弘安の役の二年前に率いた一万の軍勢の内訳は
「蒙古軍二千、益都軍二千、諸路軍一千、新附軍五千、合万人」
そんな別の戦だろう。それと同じ部隊を率いていたという確証など何も無い。
そもそもが船と陸戦じゃ兵站の運用が全く違うから部隊構成が同じな訳が無いだろう。
その程度の基礎知識も無く何を言っているのかさっぱり意味不明だ。
漢人や色目人が南人とは別格の扱いを受けていた事は説明の必要は無いだろうが。
>つまり、江南軍には相当な数の漢人も 含まれており、
当たり前だ。
モンゴル人や色目人は少数で、誰かが南人の叛乱に備えて監督軍を率いねばならない。
それは漢人以外にあり得ない。馬鹿?
>それと、旧南宋兵が多く含まれていたとしても、クビライは南宋滅亡後に旧南宋兵の選抜を
>おこなっており、役に立ちそうにない南宋兵は解雇しており、
その「役に立ちそうな」選別基準は何?君は見てたの?
どの役に立つか、誰を残すか、はその判断基準でまるっきりかわるんだよ?
君、社会経験ある?
>それと、文永は11月で、弘安は6月なw
>同じ時期とか言ってる時点でコイツの知識はたかが知れてるってもんだw
同じ時期、と言ったののは俺のミス。
しかし、大意は同じだよ。君は台風シーズンを知らんのか?
11月は台風は太平洋側に抜ける。
7〜8月の対風はもろに東シナ海を通る。そこを狙っていれ込んだんだよ。
弘安では台風の事をまったく知らないなんて事はありえない。
もし本当に成功を期していたのなら、まず、遠征は冬にするだろう。
春には種をまかねばならないからな。
6月という稲作に一番悪い時期に屯田兵を積んで出航する事自体、棄民の証だ。
文末の(笑)とか、
社会経験が云々とか、
不要な装飾だよね
ただそれだけで見るに価しないレスになっちゃう
551 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 21:20:42.24
552 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 21:44:06.54
>>550 別に君が"(笑)"の人だとは言ってないよ
"社会経験が…"の人なのはわかった
品性が疑われるレスの応酬は不毛だって事
すべて君宛ての攻撃ってわけじゃないからカッカしなさんな
553 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:42:49.32
そもそも「棄民」とか「棄民政策」って、一度海外に移住した人民を
何らかの理由で見捨てる事を指してるわけだからそもそも言葉の使い方自体間違えてね?
しかもこの棄民説とやらが生まれたのは弘安の役は
台風関係なく日本側が明らかに押しまくってたのが
バレて以降(敢えてこういう表現をしてみるw)なんだよねw
554 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:45:43.37
っと、移民云々は関係無かったか。
まあどっちにしろ軍事作戦で使われる言葉ではないな
555 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:56:06.63
質問なんだが、その棄民目的の侵攻って歴史上には他にどんな例があんの?
ググっても元寇の棄民説以外出てこないんだけど。
>それこそがフビライの思う壷だろう。有力武将の権勢をそぎ、官僚文官を登用する絶好の機会。
フビライは本来、大の中国びいきでその制度に多大な関心を払っていたが、慣習上、
時代の逆行としか言いようの無い氏族制、世襲制の官僚組織を作らざるを得なかった。
その為には、何よりも武将たちの経歴にケチを付けておく必要があった。
本当にアホらしいな、こいつは。阿塔海を除き多くの将校が解任された後にフビライが真っ先に行ったのは
「有力武将の権勢をそぎ、官僚文官を登用する絶好の機会」なんていう君の脳内妄想ではなく、
阿塔海に再び日本侵攻の指令を発することだった。このことからも、「有力武将の権勢をそぎ、官僚文官を
登用する絶好の機会」なんてフビライが微塵も考えていなかったことがわかる(『元史』相威伝「帝震怒,复命行省左丞相阿塔海征之」)
>寡聞にして知らない。ソースが欲しいね。
そもそもその船に「誰が乗っていたか」で全く事情は変わるだろう。
『元史』也速兒伝「領江淮戰艦數百艘,東征日本,全軍而還。有旨,特賜養老一百戶,衣服、弓矢、鞍轡有加。」
そして、イェスダルだけではない。江南軍の指揮官の張禧という将校も部下を無事に引き返させたことで
フビライから罪をとわれていないんだよ(笑)(『元史』張禧伝「至京师,文虎等皆获罪,禧独免」
無事に帰還させた武将は誰も罰せられなかった。それどころか、イェスダルに至っては恩賞すらもらっている。
このことや相威伝のフビライの対応からみて、棄民説は有り得ない事がわかる。
557 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 07:52:11.21
棄民なんて常識で考えればないよな。
大帝国を築き異民族軍隊の統制になれているはずモンゴル帝国がこんな短絡思考かつ
国力に大きな負担となる外征で抹殺しようなんて考えるはずが無い。
558 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 08:22:21.31
どうでもいいが世界史板のモンゴル帝国スレ荒らすなよネトウヨ
>>555 少なくとも俺は、各王朝で兵士の虐殺はいつの時代も行われていた、と言ったが
棄民政策としての外征が毎回行われたとは言っていない。
ただ、類例として常に行われたのは被征服民が強制された長城の建設と植民だ。
当然、そこは匈奴の地であり、これも一種の棄民と見ていい。
>相威伝のフビライの対応からみて、棄民説は有り得ない事がわかる。
ソースは感謝。
しかし、繰り返すが、「誰を無事で帰したから」恩賞を受けたかで全く話は変わる。
>>557 何の常識だ?それは、「君の感覚で導きだした無知な常識」だろう?
サラセンやタングートなど初期からの随伴者は国益の為にモンゴルに恭順したにすぎない。
征服地では少しでも謀反があると容赦なく街全体が全滅させられた。
旧南宋は土地も広く、また地形的に騎馬の進軍が難しくモンゴルの支配が行き届いていないため
大規模叛乱が行われた場合鎮圧ができない。前にも言ったが、旧南宋地域は半ば属国。
「>国力に大きな負担となる外征」これを強いて旧南宋を疲弊させる事が目的だったと何故気づかない?
征服民の兵をこき使って外征し、へとへとにして軍事的空白地帯を作り統治するのは世界共通の方法だ。
なんだ結局脳内ソース準拠か
561 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 10:34:43.85
威力偵察、元軍の士気は低い云々、棄民説を唱えてる奴のサイトを
色々見てた回ってたら殆どが杉山の本がソースで糞ワロタw
とりあえずこの杉山とかいう奴は一時期流行った「日本に騎馬隊はいなかった」説を
唱えてた鈴木と同類のトンデモアホ物書きって認識で良いんかな?
563 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 11:25:51.59
杉山先生は京大の教授でモンゴル帝国史の第一人者だよ。
日本人でこの人以上に13世紀のユーラシア史に詳しい人は居ないんだから
威力偵察も棄民も今では歴史分野の学会では国内どころか海外でも定説なんだよ。
幾つか論文漁ってみろよ。まあネトウヨニートに論文なんざ読めないだろうが。
大学すら行ってない無知なネトウヨニートはスレ荒らすんなら出ていけよ。
>>561 今は出先だから無理だな。
だが、いったいどの部分のソースがいるのか理解に苦しむ。
長城の建設に大量の農民や元兵士が徭役で動員された事などわざわざソース付きで教えないと解らない事なのか?
国力に負担を強いる出兵も、征服地の兵士虐殺も歴代王朝の中国は常にやっている。
古くは戦国末期、秦の各国に対する大虐殺に始まり、項羽の暴虐や漢や唐の熾烈な徭役は多くの書物に記録されている。
旧南宋末期、ジュルチン騎兵が高宗を海上に逸し、その後揚子江黄天蕩で退路を断たれて全滅しかけた。
その時の教訓でモンゴルは揚子江の海賊を懐柔し軍に組み入れ、杭州湾を封じてから首都の攻略を行った。
それは、即ちモンゴルが江南特有の地形や戦い方に、独自では対処法が無い事を意味する。
結局、大ダルガチ、ダルガチ管下の部局制を州県制に発展させたが、モンゴル人や色目人がすべて重要なポストを占めた。
これはつまり、軍政・民政・財政・督察の膨大な業務をわずかな少数人数でこなしていたという事。
その支配力は自ずから限界があり、黄河の氾濫という天災がきっかけで元は滅ぶ。
これも、この程度の事にソースなど要らんだろう。
だからそれがどうして棄民の証拠になるの?
566 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 11:58:46.15
>>564 こんだけ言っても
>>565みたいな理解力のない池沼ネトウヨしかいないみたいだよこのスレは
>>563 それはとっくに解決済み。だいたい威力偵察も棄民も定説になんてなってない
このスレでもとっくに解決済み。と言うか言い出しただけでその人の能力じたいを疑わしめるような類の愚論
168 名無しさん 2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。
31 :名無し三等兵 :2012/01/06(金) 16:19:12.76 ID:???
本当に文永の役が威力偵察で、しかもそれが大成功に終わったのなら
なんで「元史」が「軍の編成が乱れ、矢も尽きた」なんて言い訳じみた撤退理由を書いているのか不可解だし
金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出して主戦論を唱え、
それに対して忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と諌めて戦闘継続を断念するという
「高麗史」の記述もまったく意味不明なものになってしまう
こうした元・高麗側の記録を見る限り、元軍は戦略目標を達成できないまま撤退した、
つまり普通に日本軍に負けて帰ったとしか思えないじゃん
威力偵察を定説なんて、中高用教科書レベルでも採用してない。
注釈でそういう説もあるくらいに書いてる教科書がある程度
フビライの置かれていた特殊な環境も考慮しなければならない。
本来、捕虜は戦奴として大陸中をつれ回されたが、
フビライは中国方面軍担当という程度の身分でクーデターにより大ハーンを名乗った。
本国のアリクブケは即座に反応し高い緊張状態が生まれ、その後もカイドゥや、
チャガタイ一族との内紛に明け暮れる。
そこで、各地の捕虜部隊の交換と言う部隊再編成がされなくなった。
兵士は自ウルス内で「処理」せねばならない状況になった。
つまりフビライの最大の関心は常に中央平原を向いて、
その戦地では騎馬民族である漢人や一部高麗人でないと何の役にも立たない。
後顧の憂いである南宋の巨大な歩兵の廃棄処理は
フビライにとって危急の対応が必要な死活問題だった。
570 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 12:25:07.05
つまりフビライが第二次遠征の失敗の話を聞いて、すぐさま第三次遠征の計画練り始めたのは
「よっしゃあ、この調子でどんどん南宋の戦力削るぜ!」ってノリノリだったからなわけ?
で、それ以前に反乱起こりまくってそっちに旧南宋の戦力つぎ込んだから
日本を攻める必要が無くなったってわけ?
それと「ネトウヨ」とか罵倒語を使って印象操作もしくは思い込みをぶちまけてる人間は、
即刻その思い込みを改めるべき。日本軍をマンセーなんて誰もしていない
日本軍の健闘により元軍が継戦不可能に陥ったという説はべつに右翼が唱えてる説でも何でもない。
普通に戦前からあった説だが、すべて神威であるみたいな狂信者にむしろ虐待されてきた説。
それに輪をかけたのが戦後で、神威を「自然の猛威」に置き換えてゲリラ戦で勝ったような馬鹿げた思い込みが検証なく流布した
文永の役の時期に台風が来るわけがないという指摘すらまともに取り上げられなかったありさま
戦中期は稲村ケ崎の干潮は神威であるとかアホみたいな論文がまかり通って、実証研究は虐待されてる
>>569 似たような状況として、江戸幕府も成立初期に大量の牢人問題を抱えている。
しかしながら江戸幕府はまさに渡りに船だった日本乞師を断っている。
戦争終結後の兵士のリストラ問題が棄民に直結するわけでも何でもない。
さらに簡単に「棄民」と言うが、
兵士を大量に抹殺するのが目的で自爆的遠征軍を組んだとしたら、応募する人間なんぞ誰もいない。
徴用の過程もしくは船中の流言などで反乱が起き、逆に流賊化して深刻な社会的脅威となる
賞罰を行っているのは、棄民なんかではなかった証拠。
威力偵察も棄民も、理屈だけ合わせて現実を見ないことはなはだしい
威力偵察や棄民なんて奇想天外な説を主張するのは、蒙古・元にとっても極めて失礼な主張。
相手がマトモな頭の持ち主じゃないと言ってるようなものだ
南宋って元々は傭兵みたいなシステムがメインだったって聞いたんだが
>>574 確か寡兵制だったよね。
さっさと解散させて労役にでも回した方が効率が良いと思うのは素人の考えかな?
どっちかと言うと棄民がメインというより
次なる目標の日本を攻める上でちょうど良い適材がいたって感じがするな。
目的地の事考えたら下手にモンゴル系メインで編成するよりよっぽど効率が良いなと。
576 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 13:13:12.48
>>572 後半についてはちょっと異議あり。
流石に「棄民が目的」とは兵士や将軍達には伝えないでしょ。
そういうのはフビライと重臣だけが把握するもんで
将軍達に対しては普通に「前回失敗に終わった日本を再び攻める」って伝えたんじゃね?
尤もここで棄民説唱えてる人の主張が正しいんなら歴史上に行われた対外遠征の多くが
「棄民」や「国内勢力統一後の無駄な兵力の削減が目的」
になっちゃうよねw例えば秀吉の唐入りとかw
577 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 13:41:37.84
棄民が目的ならどっかでそれに気付いた連中が
反乱起こすんじゃね?って話でしょ。
逃げ場が無い船の上なら尚更の事ね。
578 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 13:58:30.77
素人の意見だが
蒙古大襲来見る限り、棄民にしては元軍側の装備が整いすぎている
丸裸同然ならまだしも、武器武具、軍馬、軍船、食料それにおける軍費を全て無駄にするなど考えられない
また自国の軍需産業を発達する目的でもそれらを保管ではなく海に捨てるのも考えられない
それとソースになるか分からんけど
浙江大学教授の王勇氏著「中国史の中の日本像」によると、
弘安の役で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなったとのこと
実際に元はこの遠征後に急増する倭寇の襲撃に対処できていない
これらを踏まえて棄民にしては色々と疑問点が多過ぎる
そこで俺はある仮説を建てた・・・
古代中国・日本では自然災害を鎮めるため生贄を行なったという
またその生贄は豪華なもので武器や武具、食料、貴重品を捧げたのこと・・・
この頃のモンゴルは文化発達度が低く、自然信仰でもあった・・・
そして文永の役の暴風雨による失敗・・・
つまり、弘安の役は台風を鎮めるために遠征を装った神聖な生贄儀式 だ っ た ん だ よ!!!!
>>578 装備品は武器よりも農具の方が多かったという話もある。
581 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 14:53:44.10
そもそも棄民説唱える人って杉山を始め元寇は棄民目的だから本気で侵攻したわけじゃない!
元にとっては勝っても負けてもどっちでもいいさして重要じゃないむしろ負けた方がいい戦いだった!
むしろ旧南宋の勢力を削る事に成功した元と、元寇が鎌倉幕府滅亡の遠因となった日本を比べれば元寇は元の戦略的勝利!
本来のモンゴル帝国の実力ならジャップなんて瞬殺なんだぞ!
って主張が言葉の節々から見え隠れするんだよね。
「次なる戦略目標地である日本に攻め込む上で、ちょうどその頃持て余してた旧南宋の残兵を利用した」って主張だけならまだ同意できるんだがね。
582 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 14:59:53.40
>>580 農具が見つかった≠農具の方が多かった。
そもそも元寇が鎌倉幕府滅亡の遠因になったわけじゃない
鎮西探題設置ならまだ分かるが。もっと因果関係の強いファクターがほかにたくさんある
つーか元寇から鎌倉幕府滅亡まで50年以上のタイムラグがあるからなあw
585 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 16:39:37.40
IDが出ない板なのでネトウヨニートが一日中自演してるスレ
>>581 そんな主張はしたつもりは無いが・・・
少なくとも文永の役は、天佑で武勇であれなんであれ、元の側の思惑をくじいた事は確かだしな。
俺はただ、子供のように無邪気に「最強のモンゴル軍撃退した俺たち最強じゃね?」とホルホルする連中が
隣の厚顔無恥な民族とだぶって見えて気持ち悪いし恥ずかしいんで、たしなめただけだ。
少なくともこのスレでそんなホルホルしてる奴はいないな。
そもそも暴風雨が戦闘に一切絡んでない文永の役で「天佑」も糞もないな
589 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 18:23:44.34
秀吉の唐入りも諸大名の軍事力削減が真の目的だったんだよ!
まあ、明や鮮人があまりに雑魚すぎて大して効果無かったけど。
東アジアの人民闘争が日本を救った。
弘安の出兵理由ではないかというもう一つの話をしよう。
元は世界で初めて完全紙幣経済を成功させた国だ。
中統砂(本当は金へんに少ないと書く。俺のパソには入ってない)という紙幣を発行していたが
ヨーロッパには無い概念だったのでマルコポーロは大変驚いて東方見聞録のあちこちに書いている。
至元13年、南宋併合の際には7000万貫という巨額の発行がなされ、その後もどんどん発行し続けた。
普通ならインフレで紙くずに戻るところ。そこにはちょっとしたからくりがあったのだがひとまず置く。
至元中期になってこの紙幣は金銀との兌換が禁止される。
それは大体22年頃の話で、即ち弘安の役が収束した後の事だ。
つまり、解り易く言うと、
弘安の役は旧南宋に元の紙幣を浸透させる為の公共事業に似た金銀の吸い上げ、
隠し財産の強制没収の隠れ蓑として行われたのではないか。
紙幣は言うまでもなくほとんどタダ同然で作れる。それがすべて金銀にかわって政府に納められる。
これ以上のぬれ手に粟は無いだろう。
ひとまず置いておいた、インフレ防止のからくりも関係がある。
実は、この紙幣は金銀ではなく、塩税を裏付けにしたものだ。
塩は消費材だ。そして、塩は必ずこの紙幣でないと買えない事になっていた。
年間5億貫もの塩の売り上げが、インフレを防ぎ、この紙幣を流通させていた。
そこで、問題になったのが江南の塩梟たちだ。
彼らが勢力をもてば持つほど、税収は下がり、魔法の紙である紙幣の価値が下がる。
彼らは海賊であり、船乗りだった。
彼らに職をあたえ、歩兵とともに出征させ、沈めよう。
そう考えた人間がいても何ら不思議は無い。
もちろん、ソースなど無い。
しかし、状況から考えれば十分にありえる話であろうかと思う。
ソースは無いけど可能性としては有り得るって話なら
普通に日本を侵略しようとしたけど失敗しちゃいましたって線を上回る説得力がないとな。
棄民の目的地としてわざわざ日本を選んだ理由は?
単に棄民するのがメインの目的なら別にチャンパでもインドネシアでも
パガンでもインドでもどこでも構わないわけだよね?
この兌換禁止は中統砂を暴落させた。
つまり、政府は膨大な軍需物資をすべて紙幣で買い、その流通圧力で人民の金銀を紙幣に換えさせる。
それは塩税の専売法が最後の換金所、蒐集所として機能する。
そして十分に紙幣が行き渡り、民間に金銀が消えたのを見計らって兌換禁止。
もう二度と民間に金銀が流れる事が無く、経済活動は政府の管理下におかれ、
有力武将や在地権力者も、私兵を養うどころか政府の紙幣が無ければご飯一つ食べられない。
統治法として、きわめて理にかなってる。
そして、この後、中統砂の代わりに5倍の価値を持つ至元砂を発行し、インフレを防いだ。
ただ同然の万札で本来5万円の中統砂を5千円で買い戻し、さらに儲けた。
ユダヤ顔負けの凄まじい商人であると思う。
>>594 1253年、1257年、1288年、1297年にそれぞれ
雲南、安何国(ヴェトナム北部)、チャンパー(同北部)ビルマ、と遠征している。
あっちの事情はよくわからんが、やはり上手くはいっていない。
1293年のインドネシア攻略も、ジャワ島に屯田兵を置いたが最終的には失敗している。
それが棄民なのかどうかは俺には正直解らない。
俺が状況的に棄民に間違いないと思えるのは弘安だけ。
うん、だからわざわざ日本を選んだ理由は何?
いっぱい説明したけどまだ足りない?
599 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 20:35:29.90
>>586 上でネトウヨネトウヨって罵倒しながら散々
「こんな効率悪い装備と戦い方の武士なんかが海外の軍隊とマトモにやりあって勝てるわけない」
って主張してたやん。でもってケチョンケチョンにやられたから
今度は棄民説で「フビライは日本なんてどうでも良かった」って流れに持っていきたいんでしょ?
>>595 中統砂の5倍の価値の至元砂で5万円の中統砂を買い戻したら5千じゃなくて1万じゃね
>>599 棄民は俺だけどネトウヨは俺じゃないぞ。
なんだ、世界最強のモンゴルはわざと負けたのか
歴ゲーで無能な部下を強国に攻め込ませて討ち死にさせたりするよな
逃げ帰ってきたらリセットするけど
>>586 むしろ元軍が威力偵察(日本に対応の時間を与えるようなもの)や棄民などと言う
馬鹿げたことをやったために救われたと主張するほうがよっぽどお隣的だな。
>>596 なぜわざわざ日本に棄民?しかも状況的に間違いないとは?
〜ではないか。〜も考えられる。〜とも思える。よって棄民
よくこれで卒論が通ったものだは
最初から国内の経済や政治上の不安要素削減の為に対外遠征を行う必要性があり
表面上の戦略目標として説得力があるほどの国力と魅力を持ち
かつ万が一失敗しても海を隔ててるから報復の心配があまりない(現実には後に倭寇が発生するが)
という条件を併せ持ってる日本をちょうど良い遠征先として選んだ
って言えば「そういう見方も出来るかもね」って頷く人もいるだろうに
みんながみんなとは言わないが棄民説唱える人は
「あんなん棄民だよ。勝ったところで自慢にすらならない。」
「偉大なモンゴルがジャップみたいな田舎相手に本気出すわけないじゃん」
「元自体にダメージは全く無いし厄介払い出来たから大局的に見れば元の勝利」
みたいな論調の人ばっかりから反発食らうんじゃないの?
その棄民説に沿えば史実ではフビライの目論見通り(?)
旧南宋軍はほぼ壊滅した(ついでに東路軍も)からいいけど
もし仮にさっさと引き上げてきたり、船の中でクーデター起こしたりして
或いは反乱軍になって帰ってきたらどうするつもりだったんだろう?
609 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 07:19:09.93
ネトウヨが見事に完全論破されたな
610 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 07:36:55.64
>>586 つ
>>494 「負けても痛くも痒くもない。むしろ予定通り。」
って主張が見て取れるよね。
しかも「総攻撃かけるわけでもなく」ってわざと海の上を漂ってたかのような言い方してるが
「しなかった」んじゃなくて「できなかった」という戦況をまるで無視して
「ジャップ相手に元が本気になるわけない」みたいな言い方してるよね。
確かに政治的、経済的に外征の必要性があった背景はあることは俺もわかる。
だがそこから「体の良い厄介払い。日本はフビライの掌で踊らされた」みたいな主張するからツッコミ食らうんだよ。
611 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 07:55:54.23
いや、実際日本を攻めたのは他の遠征と明らかに目的が違うんだよ。
他国の場合はその土地を征服する事自体が目標だが
元寇の場合はわざと困難な侵攻作戦立てて、邪魔な兵士と将軍(失敗させて後で詰るため)を
厄介払いし、さらには経済的な背景もある。棄民目的なのは明らかだろう。
モンゴル帝国は旧日本軍と違って何も考えずに無謀な作戦立てたりしないんだよ。
台風が来ることだってちゃんと計算に入れた上での侵攻だ。
実際元はこれで政治的、経済的問題を全て解決した。
一方日本は得たものは何一つなくむしろ経済基盤も政治基盤も脆弱になり
徳政令、ひいては鎌倉幕府滅亡に繋がった。真の勝者がどちらかは歴然だろう。
日本側から見ればまさに未曽有の国難であったが元側から見ると
単なる体の良い厄介払いだからフビライにとってもさほど重要な戦いではない。
兵力の規模の割にはモンゴル帝国史として元寇は侵攻の背景ばかりに触れられて
実際の戦闘経緯についてはほんのちょっとしか扱わないのも
大陸側の一次史料ではあまり詳細に記述してないのもその程度の大したことない戦いだったわけ。
規模のデカさにごまかされがちだが、言ってみりゃ
歴代のモンゴルの侵攻作戦の中では最も重要度の低い戦いの一つ。
鎌倉武士如きをマムルークやベトナムと一緒にしちゃ失礼だ。
所詮は僻地の土民に自勢力のお荷物掃除させただけなんだから。
武士マンセー厨はもっと世界史から多角的視点で歴史見なきゃダメよ。
612 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 08:04:12.55
で、結局論理的に棄民説に反論出来た人は誰もいなかったよね。
613 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 09:16:52.23
体の良い厄介払いして貴重な海軍ほぼ失って海防が疎かになってちゃ世話ねえよなw
元軍の弱さも納得できるな
>>611 >>いや、実際日本を攻めたのは他の遠征と明らかに目的が違うんだよ。
>>他国の場合はその土地を征服する事自体が目標だが
>>元寇の場合はわざと困難な侵攻作戦立てて、邪魔な兵士と将軍(失敗させて後で詰るため)を
>>厄介払いし、さらには経済的な背景もある。
それは失敗したから言えることだろ。ジャワ遠征とかだって十分に困難な作戦だぞ
>>実際元はこれで政治的、経済的問題を全て解決した。
政治的、経済的問題を全て解決したのに、元はなんで第三次遠征の計画を練ってるんだ?
>>一方日本は得たものは何一つなくむしろ経済基盤も政治基盤も脆弱になり
>>徳政令、ひいては鎌倉幕府滅亡に繋がった。真の勝者がどちらかは歴然だろう。
バカか?鎌倉幕府が元寇から50年後に滅亡した出来事なんて戦争の勝敗には全く関係ないだろ
>>鎌倉武士如きをマムルークやベトナムと一緒にしちゃ失礼だ。
で、棄民説なんてものは結局こういうバイアスかかった思想から生まれてるんだよなw
鎌倉武士ごときがモンゴルに勝つなんてありえないし許せない、だから本気の侵攻じゃなかったはずだ、
文永の役は威力偵察に違いない、弘安の役は棄民政策に違いない!ってなw
大体、棄民説などというものの根拠は一次資料からは全く確認できず、
20年も前の杉山の本くらいにしか見当たらぬ珍説に過ぎない
弘安の役が棄民だったとしたら、文永の役は何だったの?とか、東路軍の存在は何のためなの?とか、
江南軍に含まれるかなりの数の漢軍・モンゴル人・ウイグル人も捨石だったの?とか、
敗戦の罪で多数の指揮官が解任されたり処刑されたのはどうしてなの?とか、
なんで戦後すぐに第三次遠征の計画が持ち上がったの?とか、たちまち疑問だらけになってしまうわなw
616 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 11:05:01.64
それについては殆ど上のレスで答えてあるんだけど文盲なの?
>>616 ん?
もちろん、ソースなど無い。
しかし、状況から考えれば十分にありえる話であろうかと思う(`・ω・´)キリッ
みたいな推測に推測を重ねた妄想くらいしか見当たらないが
618 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 11:24:14.07
棄民目的を果たした筈のフビライが最晩年まで日本遠征に拘ったのはなんでなんだろうねー(棒
なんかアレだな。棄民くんは何でもかんでもステマ認定する嫌儲と同じ匂いがするな。
結論ありきで状況や背景を「こういう目的だったに違いない!」
って何でもかんでも短絡的に結びつけるあたりが特に。
>>611って、○○先生の教科書にはそう書いてあるからそうなんだと大真面目に主張するタイプの人だなw
>>611が推論のマナーとして明らかによくない所
>元寇の場合はわざと
>邪魔な兵士と将軍(失敗させて後で詰るため)を厄介払いし…ここまで主観混入
>さらには経済的な背景もある。…どの国どの時代にもある一般論を特殊事情として取り上げる
>棄民目的なのは明らかだろう。…主観に基づく断定
>モンゴル帝国は旧日本軍と違って何も考えずに無謀な作戦立てたりしないんだよ。…無根拠な主観。
>台風が来ることだってちゃんと計算に入れた上での侵攻だ。…主観。
>実際元はこれで政治的、経済的問題を全て解決した。…根拠の呈示されない断定
>一方日本は得たものは何一つなくむしろ経済基盤も政治基盤も脆弱になり …認識不足、主観
>徳政令、ひいては鎌倉幕府滅亡に繋がった。真の勝者がどちらかは歴然だろう。…第1パラグラフと同様、主観の積み重ねに基づく無根拠な断定
>兵力の規模の割にはモンゴル帝国史として元寇は侵攻の背景ばかりに触れられて
>実際の戦闘経緯についてはほんのちょっとしか扱わないのも
>大陸側の一次史料ではあまり詳細に記述してないのもその程度の大したことない戦いだったわけ。…日本が本土上陸すら文永の数時間しか許さないという圧勝劇をすり替えて記述
>歴代のモンゴルの侵攻作戦の中では最も重要度の低い戦いの一つ。…無根拠な断定
>鎌倉武士如きをマムルークやベトナムと一緒にしちゃ失礼だ。…無根拠な比較
>武士マンセー厨はもっと世界史から多角的視点で歴史見なきゃダメよ。…一般論によるごまかし
こんな文章書いてたら日本史板どころか仕事でも通用しない
>>611は結局
「モンゴル帝国は強くて偉大だから間違った判断などするはずがない
→よって日本攻略失敗も計算のうち→と言うことは日本を攻略する意図すらなかった
→と言うことは差し向けた兵は最初から日本に捨てる予定の棄民だった」
と言ってるだけ。何のことはない、まさに宗教の世界。
鎌倉武士の奮戦だの皇大神宮の加護などは嘘っぱち。
弘安の役が在庫処分本番とすれば文永の役の位置づけはどうなんの?
625 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 18:39:17.50
根拠もなく元寇を棄民と断定するなら、他の歴史上の戦争だって妄想すれば棄民説にもっていける。
治承・寿永の乱→源頼朝は本来、関東に勢力を張れれば満足だったが、平氏に不満を抱く有力武士たちの力を
損なうために平氏打倒をはかって、有力武士の力の削減を目論んだ!
秀吉の四国出兵→秀吉は四国侵攻の勝敗なんてどうでも良かったが、膨張しすぎた兵力を削減するために
四国へ出兵した!
秀吉の朝鮮出兵→秀吉は大陸侵攻の勝敗なんてどうでも良かったが、膨張しすぎた兵力を削減するために
大陸へ出兵した!
太平洋戦争→膨張した軍事力のやり場に困った日本はアメリカと戦争して解消するために戦争を開始した!
根拠がいらなければ、どんな戦争も棄民説っぽいのにもっていける
626 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 18:42:43.26
>>623 鎌倉武士の奮戦→これは本当
皇大神宮の加護→これはウソ
皇大神宮じゃなくて宇佐神宮じゃね
628 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 19:18:30.23
>>625 うん、白村江の戦いも余剰兵力を削減するためだったんだよな!
兵士を捨てて逃げた他の将らはみな罰せられたが兵士を回収した張禧は罰せられなかった
棄民とは真逆だね
棄民するってのはフビライだけが把握してた極秘事項で
表面上は失敗した責任取らせる形で邪魔な将軍を排除する事に成功したって言いたいんだよきっとw
ソースなんてあるわけない。こんなの絶対おかしいよ。
棄民と言うことは、日本の強さからあの程度の軍を送ったところで勝ち目は全くないとわかってたわけだな
632 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:05:16.50
気になるんだけど、棄民説を唱えてる人は大元朝が自身の海上戦力をほとんどを失って
まで棄民する価値あったと本気で思ってるの?
船はタダじゃないんだよ?
弘安の役後、ただちにフビライは軍船数千艘の建造を命じている。
棄民が目的にしては、金のかかることを繰り返してる感がある。
それに、造船を担わされた地域では、盗賊が続発するなど
治安を極度に悪化させてる。
棄民→海軍力の回復に努める→盗賊跋扈
って明らかに不自然すぎる。目的を達成したにしては、焦っている感じもするし。
それに棄民が目的なら、船を使わない地域でもよかったはずだしね。
フビライは馬鹿で無能だったんだな
>>630 ブサヨにとっては棄民説は「最後に残った道しるべ」ってか?w
635 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 23:40:16.87
中国でたった10万人ぐらい、わざわざ棄民するわけない。
636 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 00:19:11.36
>>632 わかった!明快にわかっちゃった!
元は陸軍国家で、海上戦力の充実には関心がなかった
で、中国沿海や朝鮮半島の人間を"棄民?"するために造船させたんだよ
日本侵攻は名と実を一致させるための方便
クビちゃん、やるじゃん
がその後日本侵攻に失敗して壊滅した海上戦力を再建し東南アジアへ出撃またも敗北する
638 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 00:51:43.63
>>636 フビライによるアジアの海洋ネットワーク構想とは一体何だったのか
>>639 そうだっけ?元寇の神風の話は八幡愚童訓から来てるんだと思ったが
641 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 00:40:08.70
陸戦主体でほとんどの兵が船に乗ったことも無い。
日本海の荒波に揉まれて上陸後も船酔いがひどく戦闘どころじゃない。
そこへ鎌倉武士が襲い掛かったんじゃ勝てるわかないね(笑)
対馬で休めよ
対馬、壱岐での抵抗が大きかったかも知れないな。
644 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 10:59:35.02
おかしいな。
平 日 の 昼 間 に 「今仕事で忙しいから詳しく言えないけど」とか言いながらレスしてた棄民くんが
休 日 に 入 っ て か ら 全くレスしてないのは何故なんだぜ?
やっぱ
>>599や
>>610は図星だったのかな?ん?
645 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 11:44:12.21
元軍は鉦(かね)や太鼓の合図で全体が動く集団戦法で戦いました.
また日本の弓の射程距離(しゃていきょり=矢などの武器が飛んで
いくはんい)が100メートルたらずなのに対して,元軍の弓は
200メートルの射程距離がありました.しかもこの矢には毒が
ぬってあったようです.さらに「鉄砲」(てっはう)という「手榴弾」
(しゅりゅうだん=手で投げる爆弾)まで持っていました.日本の武士は
「やあやあ我こそは・・」と名乗りを上げているうちに弓が射られ,鉄砲
が炸裂(さくれつ=ばくはつ)してやられてしまいました.また戦功の証
(あかし=しょうこ)として敵の首を切り取っている間に討たれた武士も
数多くいたようです.博多の町は逃げまどう市民で混乱し,多くの人が捕
らえられたり殺されました.夜になると町のあちこちから火の手が上がっ
ているのが見えたと記録にあります.戦いは一方的に元軍が優勢でした.
国内での戦争経験しかない日本の武士の戦い方は,世界の戦争とは異な
っていたのです.日本では必ずと言ってってよいほど行うセレモニー
の鏑矢(かぶらや=音を立てて飛ぶ矢)をうちはなったら,その音の
面白さに元軍の兵がどっと笑ったと記録されています.
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/#gen1
646 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 11:49:50.96
弘安の役が前回とちがうところは.海岸線に防塁が築かれていたこと.
そして関東からも御家人が到着していたことなどです.日本の武士は
夜になると敵船に乗りこんで火をつけたり,敵兵の首を取るなどゲリラ
戦を行ったと伝えられています.竹崎季長もすね当てをかぶと代わりに,
小舟に乗り込んで元の船に攻め込んだと記録にあります.※ゲリラ戦=
小グループがそれぞれ敵に攻撃すること
14万の元軍に対する日本軍は全部で6万5千人くらいと言われています.
主力の江南軍と東路軍が合流するのは6月の末になってからで,この間日本
の武士は勇敢に元軍と戦ったと伝えられています.合流した元軍は6月27日
に肥前(ひぜん=今の長崎県・佐賀県)の鷹島(たかしま)に集結しいよいよ
上陸を開始しようと準備を進めました・・・・・
そこに再び奇跡が起きました.
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/kouan.html
元の集団戦術と鉄炮に日本軍は歯が立たなかった。歴史修正主義は良くない。
近隣諸国と共有できる歴史観でなければ日本は孤立する。
648 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 12:41:38.24
元寇って誤解されてるよね。
武士が頑張ったのは否定しないけど
文永の役では終始元軍に押されっぱなしだったし。
(その為、突如撤退した元軍の行動が議論になっている。)
また、弘安の役では海岸線の防塁を築いて元軍の上陸を防ぎ
つつ、善戦しているのは認めるけど。
元軍の内、東路軍4万を相手に日本軍は6万5千人程で防塁
を盾として戦っているだけだ。
文永の役
百道浜に上陸するも、赤坂の戦いで元軍敗走。
続く鳥飼潟の戦いでも敗北して本陣に撤退。
その後撤退を強行しようとして暴風雨にあって被害を出しつつ帰還。
弘安の役
東路軍、防塁により博多湾岸からの上陸を断念
東路軍、志賀島に上陸、占領
日本側の夜襲を受ける。
陸と海から日本軍に攻められて敗北、東路軍は壱岐島へ後退。
江南軍平戸島に上陸
日本軍は壱岐の東路軍に対して総攻撃
東路軍は壱岐島放棄し、平戸島へ移動
東路軍は江南軍と合流し、九州本土への上陸を計ったが迎撃される
元軍主力は鷹島へ移動
台風襲来。元軍の軍船は多くが沈没、損壊するなどして大損害
鷹島に兵卒10余万を見捨てて逃亡。
日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。
日本軍は、この厨子海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃。
日本軍は鷹島への総攻撃を開始。
10余万の元軍は壊滅し、日本軍は2、3万の元の兵士を捕虜とした
普通に日本側の勝利じゃん
防塁も避けてるし
「日本は土地が広く人も多い。日本に上陸した場合、彼の兵(日本兵)は四方より集まり、我が軍(元軍)は孤立無援になる」
ってあるから日本側も集団戦がメイン。
650 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 15:06:25.84
>>645-646 Fラン私大文系のバカ教授じゃこんなもんか。
>>648 突っ込む気すら起こらないが、とりあえず6万5千という数字はどっから湧いたんだよ
>>648 元軍にとって、少々押したぐらいじゃ全然駄目だろ
元軍がどこに来るか分からない以上、日本軍は要所を守りながら増援を受けて反撃するだろう
程度のことは元軍指揮官は当然見通している
日本の野戦軍を軽く撃破して水城前面に展開するぐらいじゃないと良い展望は開けないだろう
まさに、小敵之堅、大敵之擒也
652 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 16:03:17.05
>>651 しかも実際の戦闘はどう元軍に対して贔屓目に見ても
「武士側が水城に引き返す程度の被害は与えましたが、自分達もそれを追撃出来ないほどの被害を受けました」
って結果だからね。
>>648 突如撤退ではない。百地原での激戦で劉復享までが重傷を負うという甚大な被害を被り、
夜が迫って船に引き上げている。そして軍議を開いて夜半のうちに撤退するという慌てぶりだ。
兵数では倍以上でありながら、日本軍の追撃をいかに恐れていたかはっきりしている。
上陸戦ならいざ知らず、わずか数千の日本軍に3万の蒙漢高麗軍が数刻の戦闘でこうなってるんだよ
まさに地下人が世界最強帝国の侵攻を一蹴した東アジア人民闘争の勝利だろw
この事実が認められないのは、もはや左翼ですらないだろう。モンゴルに無様に負けた欧州ナイト厨あたりじゃないの?
左翼の実態はずいぶん前からただの反日だろ
655 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 18:46:10.60
そういや文永、弘安の役の日本側の兵力ってどんだけなの?
元軍は文永のときは、蒙漢=女真人はじめとする華北人などが二万六千と高麗人が八千
弘安は文永とほぼ同じ編成の東路軍四万と江南軍十万(詳しい内訳は不明だが南宋人が多数)
てな具合に詳しい兵数が伝わってるが日本側は不明なんだよな。
Wikipediaだと文永は高麗史や八幡蒙古記をソースに10万とか
弘安では江戸時代の記録ソースに25万とかされてるけど
参戦してた主な武将とか見てると日本側はそこまで大軍だったとは思えないんだよな。
特に文永のときはね。実際はどんくらい居たんだろうか?
それから元が撤退中も東から続々と援軍が来てたってソース何かあった?
あと八幡蒙古記では大友頼安が逃走して、庶民から嘲りの狂歌を詠まれた
ってされてるけど、蒙古記以外では全くそんな記述がないのと
以降の大友の経歴(弘安でも重要なポジションにつき、頼康以降大友氏は九州に定着)を見てもちょっと信じがたい。
656 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 19:26:36.72
たしかに古文書では功績を称された武士は九州の武士がほとんどだし
どう見積もっても弘安の役25万とかないな。関東の武士も参加してるのは事実だけど、どれほどの
兵力だったかは不明。
日本軍勢兵力は多く見積もっても数万が限界でしょ。
文永なんて、もろ九州の武士しか参戦していないし、『蒙古襲来絵詞』では日本軍の大将・少弐景資
で五百余騎だとあるし、1万もいったかどうかも疑わしい。
ただ、元寇は資料が少ないから推測の域を出ないけどね。
日本軍は陸自の元寇史では5000騎だそうだが、総兵力で1万行かないんじゃないかな。
百道原の段階でようやくその程度行ったかどうか。
弘安の役に関しては日本側は完全に異国警護体制を整えてるが、それでも前線にいたのは2〜3万かな。
長門に数千とか、六波羅に万を超える単位で詰めてたとかそのレベルだろう。
20万前後は当時、幕府から何らかの形で関与を命ぜられた御家人を総計した数字だろうな、
もちろんそれが戦闘参加兵力とイコールではない。単に戸締り用心や兵糧差出協力かも知れないし
はっきり言って蒙漢軍は日本のように高度な専門技術を持つ軍人領主の組織化に成功した大国から見たら敵にならない。
658 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 22:04:20.58
元寇に参加した東国武士というと武蔵熊谷氏とか思い浮かぶが
あとはどんな面々がいるんだろうか?
それ自体偵察の文永の役で軽く蹴散らして日本軍の弱さ確認して
弘安の役で棄民したのか
フビライは小学生くらいの知能だな
大友、安達も実質的にはそうでは
661 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 00:30:41.94
よく,蒙古襲来というと圧倒的なモンゴル軍と貧弱な日本軍という印象
が行き渡っているけれど,戦力は拮抗していた.緒戦は,東路軍2万
5000人と九州守備隊6万5000人で始まり,東路軍が江南軍と
合流した後は,総兵力でモンゴル軍14万2000人,日本軍12万
5000人だが,戦闘能力としてはモンゴル軍に漕ぎ手が多いことを
考えれば,最後まで日本軍が数の上でもまさっていた。
交戦兵力の比較では、モンゴル軍が6万人、日本軍が12万人だから、
人数の上では「日本軍が圧倒的な戦力」だった。もちろん事前に
日本軍がモンゴル軍の兵力を正確に把握することができなかったので、
「ものすごい数のモンゴル軍が襲ってくる」という報告が来たのも当然
である。
http://takedanet.com/2007/04/post_3d87.html
蒙古襲来における誤解
×高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗し最終的に講話→王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ。
×元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如→使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い。
×三別抄見捨てた鎌倉幕府は(ry→幕府に支援求めてきたときは既に死に体だったし、しかもこいつら裏で元に媚びへつらってた。
×武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコに→当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
×神風のおかげ→神風は撤退途中に吹いた。
×和弓はモンゴル弓に大きく劣る→性能面ではほぼ互角。
×殆どが高麗人→主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
×元軍率いた武将は無能→高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
×二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民→他地域では用済みの住民や兵は、基本的に
直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
×モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった→モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。ベルセルクのクシャーンと一緒。
×台風のおかげで二度目も助かった→台風来る前に勝負はついていた。
×高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ→高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後。
文永の出兵理由は解らないが、幾つかの推測はできる。
一つは南宋攻略の為の準備だ。
文永の出兵前には既に元は南宋侵攻を決定していたが
上記にもある通り、騎兵が江南地方では役に立たない事を知っていた。
そこで高麗の歩兵を海上輸送できる大量の船を作った。
しかし、船での戦闘に不慣れな元はその訓練と対馬海流の調査が必要だっただろう。
いわば「対南宋戦シュミレーション」として行われたのではないか。
また、黄金の国ジパングというのはただの風聞ではなく、大陸の上級層の共有認識だったという。
「唐書」にも奥州の黄金と対馬の白金には詳しく触れている。
また、日本はこれといった産業が無かった為に、輸入品の決済はすべて金銀で賄っていた。
既に銅銭による貨幣経済が発達していた大陸から見ればうなるほど黄金がある豊かな国として映っていたようだ。
その対馬は既に陥落させいよいよ黄金の国で最も栄えているという港町、博多までやって来て
その町並みを見たときの彼らの失望は想像に難くない。
「まあ、噂なんてそんなもんだろ」と今風には思わないだろう。
命をかけて海を越えて来たのだから。
既に大陸の高度な文物に触れている彼らにとって、日本は取るに足らないど田舎であり
少なくとも命をかけて攻略する価値のある国には映らなかったのではないか。
彼らが「次の日には消えていた」理由は、案外この程度の単純な理由かもしれない。
>>661 武田邦彦ってこの人日本中世史なりユーラシア史なり専門なの?違うでしょ
京に兵が6万も入ったら兵糧だけで自壊する。
ほかにも鎮西見るからに怪しげな数字が並んでんだけど…
>>663 どっちなんだよ。日本はエルドラドなのか、それとも取るに足らない田舎なのか。
エルドラドなら命をかけて攻略する価値があるだろうし、田舎ならないだろう。
同じ文章の中でこんな矛盾したこと書いてどうするのさ。
対馬、壱岐での抵抗が予想以上に激しくて、博多上陸の段階では戦争の先行きに疑念を持ってた
と言う説のほうがまだ信憑性があるわw
>>665 俺の文が悪いのかこいつの頭が悪いのか・・・・第三者の意見が欲しくなるな。
日本が実際に黄金の国だった訳が無い。当たり前の事だろう。
大陸の先進文物と引き換えにできるほどの商品が何も無い日本は
貿易の決済がすべて金であった為に、日本は金が豊富であるという誤解が大陸で生まれていたといってる。
博多の粗末な藁葺きの街を見て大陸人は夢から醒めて、火を放って失望して帰っていったといってるんだよ。
これは、妄想ではなく、多少なりとも裏付けのある事だ。
マルコポーロの「日本は屋根を金で葺く」という記述は、本当に支配層に信じられていた。
少なくとも、元の財務官僚であったサラセン人は信じていたようだ。
東方見聞録には彼らサラセン人の事が詳しい。
反面、南宋人や高麗人の事はほとんど触れられていない。
これは、マルコポーロが属する社会、
つまり元の支配層が中国人を徹底的に差別していた為に起こっていた交流と情報の断絶を示唆している。
元は情報を非常に重んじた反面、その源泉が風聞であった事もよく知られている。
ローマに多く残る教皇宛の書簡で事実誤認の箇所が多い。
ローマ法王を「ヨーロッパ王」と勘違いしてる点などその最たるものだ。
日本に対しても、文永以前はそれほど多くの情報はもっていなかったのだろう。
じゃあなんでまた攻めて来たんだよw
つまり使者が斬られず日本の黄金しょぼかった
報告があれば元寇は対馬だけが蹂躙されて終了だったんだな
669 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 08:22:30.58
なんだ、棄民くんは今度は文永の方から切り込んできたのか。
つか元史に撤退の経緯のやり取りがハッキリ書かれてるのに
謎の撤退も糞もねえよw
670 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 08:33:58.55
当時の日本はそろそろ貨幣経済が一般にも浸透し始めるかな〜って辺りだが
少なくとも人口と農業の生産力で言えば、意外と大国だったみたいだぞ。
当時の鎌倉の人口は世界の都市の中で第五位かそれくらいだったそうだし。
671 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 08:43:05.90
>>668 そもそも文永の時は五回とも使者は斬られずに生きて戻ってるし
太宰府で足止め食らった=少なくともその周辺は見てきてるはずだから
元側はこの時点で当時の博多周辺がどんな状景かわかってるはずなんだよね。
しかも当時は大陸の商人も頻繁に博多に訪れてたわけだから
そこから情報収集することも可能だし。
だから「黄金の噂を聞いて攻めたらド田舎でガッカリでござるの巻」なんて事態にはならないよ。
>>666は遠回しに元はまともに情報収集すら出来ない無能国家と言ってるようなもんだよ。
>>661 その人、自分で
>北条実政が鎮西軍4万人を率い,博多の防備にあたった.一方,北条宗盛は2万5000人を以て中国地方を固めた.
この他,後方では宇都宮貞綱指揮下の日本軍主力6万の兵が,京都から西国方面を守った.
敵が九州以外に上陸した場合のことを考え,中国地方・瀬戸内海地方の守備にも兵力を割く必要があった.
そのために博多方面の軍勢はすこし手薄になっている。
って書いてるじゃん。九州守備隊6万5000人という数字はどこから来てるの?
実際に元軍と戦ったのは鎮西軍4万人くらいじゃないの?
あと最近は東路軍4万は戦闘員のみの人数で、水夫まで含めた総数は5万数千人だとも言われてるよ
673 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 14:35:37.79
>>672 総数が4万で、漕ぎ手を除いた戦闘員は2万5千、そのなかから戦闘補助者(補給係)を除いた
純戦闘員は2万、という見方もある。
674 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 14:59:53.74
九州守備隊6万5000人って確か江戸時代のなんかの書物に書いてた気がする…。
日本外史か北肥戦誌か?だったかな?
どちらにしろ、江戸時代に書かれた根拠なんてない数字だけど…。
東路軍の4万は戦闘員だったと思うよ。再挑戦である弘安の役で文永とほぼ同数あるいはそれ以下の
戦闘員二万五千というは不自然だし、水夫の数は文永の2倍以上に増やされてる。
よって戦闘員も増強されていたとみても不思議ではない。
それに忠烈王がクビライに拝謁した際に、東路軍の蒙古軍を増強して元から3万の軍勢を出すことを
要請しクビライはこれを許可してる。
高麗兵が1万だったのは高麗史でも確認できるから、4万は戦闘員で水夫は1万5千くらいとみて
いいんじゃないかな。
>>666みたいな蒙古帝国観って、実は蒙古を根底から馬鹿にしてるんだけどな。
馬鹿な研究者は蒙古の日本侵攻の結果は「想定の範囲内」だったことを必死に力説するが
威力偵察にせよ、棄民にせよ、黄金の国伝説にせよ蒙古がいかに異常な脳筋国家だったかを力説しているようなもので、
むしろモンゴルに失礼極まりない。荒れる海と日本武士団の奮戦で説明する伝統的見解のほうが相手に敬意を払ってる
676 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 19:02:13.88
第三者の意見が全部「663は馬鹿」で一致してて笑えるw
>その対馬は既に陥落させいよいよ黄金の国で最も栄えているという港町、博多までやって来て
その町並みを見たときの彼らの失望は想像に難くない。
「まあ、噂なんてそんなもんだろ」と今風には思わないだろう。
命をかけて海を越えて来たのだから。
既に大陸の高度な文物に触れている彼らにとって、日本は取るに足らないど田舎であり
少なくとも命をかけて攻略する価値のある国には映らなかったのではないか。
こんなアホな文章書いてたら仕方ないか。どうやら、663は高麗史など元軍が苦戦を強いられ撤退に
追い込まれたことが伺える史料を読まず、妄想ばかり逞しくしているらしい。
そりゃあ、基礎知識が無い分、棄民説なんていうトンデモに飛びつくわけだ。
677 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 19:25:22.63
棄民説の時は数日粘ったようだが、今回は瞬殺だったなw
678 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 19:39:11.11
>>674 >東路軍の4万は戦闘員だったと思うよ。
ごめん、文永の役と間違えた。
679 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 20:06:47.73
このスレで威力偵察説や棄民説が胡散臭い説なのはわかったけど
wikipediaによるとフビライの日本への服属要求が「南宋征服の一環にすぎない」とあるんだけど
どれだけ信憑性あるんだろ?
「なお、モンゴルによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったともされる[61]。モンゴルは海軍を
十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったとされる」wikiより
フビライがそう言ったという資料とかあるの?
「
680 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 10:08:31.77
高麗史には1268年に「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と書かれてるな。
宋を攻略する上で日本を従属させて取り込むつもりだったのか
それとも宋とは関係なく、新たな領土として日本を狙ったのか。
681 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 12:54:05.01
元が高麗忠烈王の進言ということを考えると別段南宋征服が関係あるとは思えん。
何故この板にいて、南宋征伐と元寇が関係ないと思えるのか理解できん。
南宋遠征が既に決定してる後での日本侵攻なんだから、関連してるに決まってるだろう。
むしろ、日本はただの辺境のど田舎なんだから、あくまでも主題は南宋攻略。
高麗王がそそのかしたからとか、アホかとしか。
たかだか、征服地の旧支配者の一言で東アジア全体の戦略が決定するわけねえだろ。
だからネトウヨは日本のアホの巣窟と言われるんだよ。
またネトウヨ厨か
あれだけ袋叩きにされたのに懲りないねえ
684 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 20:18:56.92
高麗忠烈王の進言ってことが都合悪いみたいだなwwww
元寇のきっかけが高麗忠烈王の進言であることは史料に裏打ちされた事実ですよ。
南宋服属の一環とかいう現代の学者の勝手な解釈よりはよほど確実です。
685 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 21:02:29.74
「南宋征服の一環」説も根拠のない怪しい説だけど
忠烈王が発端というのは認識不足だと思う。忠烈王が日本侵攻を急かしたのは
事実だけど、その進言以前にフビライは日本征服の意思表示をしてる。だから
忠烈王は推進者の一人であっても、発端というのは違うんじゃないかな。
686 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 21:22:53.72
どっちかといえば
フビライ番長「あの日本とかいう一年坊主生意気だな。シメてやっか」
舎弟の高麗「アイツ俺が兄貴に挨拶するように言ってもシカトっすよ。思いっきりやっちゃって下さいwwww」
って感じだったんじゃね?
クビライ:「とりあえず日本シメてやっから、焼そばパンとコーヒー牛乳買ってこいや。30秒以内な」
高麗:「えっ?」
688 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 23:19:52.16
クビライと忠烈王の関係がわかりやすいなw
関係ないけど元軍の指揮官の名前覚えやすいな。
語呂合わせて的な意味で。
金方慶→金包茎
忻都(ヒンドゥー)→ヒンドゥー教
范文虎→半分こ
洪茶丘→紅茶丘
阿塔海→阿藤快
フビライと忠烈王をあえて対立関係に置く必要もないだろう。
金方慶伝の記述がどこまで信じられるかはともかく、彼が強硬派に属してたのは間違いないのだし
忠烈王の立場に立って考えれば、彼の立ち位置は明白だと思う。
漢人の金は女真族の国であり、夷蛮そのもの。
儒教的観点から言って当然、彼が思い慕うのは南宋であり、高宗だったはずだ。
また、東アジアの権力者はおしなべて後世の評価、
「いかに自分が儒教的に公正であったか」という名分を第一の行動基準に置こうとする。
そして、最も重要なのは、南宋と高麗軍のその圧倒的な戦力差だろう。
フビライは始めから船団を南宋に向けるつもりで建造したのではないか。
しかし、急造の大船団は水夫の練度もたりないし、何よりもキールの無い平底船だったから
南宋の戦艦とまともにやり合ったらひとたまりも無い。
南宋の水軍の強さは、済州島を経由し南宋と常時取引をする彼らが誰よりも知っていた。
あたら、自国の兵士を黄海の藻くずと変えるよりは、まず、日本を攻め水夫を鍛え腕ならしをし、
あわよくば日本の黄金をごっそり持ち帰って船団建造で疲弊した財政の立て直しを計りたい、
というのが本音だったのではないかな。
そして、平底船は本来が横波に弱く、外海航海に向いてない。
そのため、舟底に大量の重しを入れておく必要がある。
秀吉の朝鮮の役の際、帰路に朝鮮人捕虜を舟底に詰め込んで重しとした話は有名だ。
つまり、元は水軍の訓練および海図作成の為にやって来て(海図の作成は海軍が行うのは万国共通)
消費した糧秣の代わりの「重し」を入れなければ高麗にかえれなかった。
そのため日本の穀倉である佐賀平野を襲う必要があったのではないか。
結局、すぐに沿岸の住人や蓄えを手にする事ができたため、引き返したのかもしれない。
要するに、忠烈王はあらゆる面から、南宋とは戦いたくなかった。
できるだけ引き延ばしするか、中止できるよう手を打った一つの解が
日本遠征だったのではないか。
船戦がいかに過酷であるか、上陸戦がいかに危険であるかを無知な元の将軍に知ってもらい、
嫌気がさすのを期待したのかもしれない。
戦いたくない相手を前にして、まったく関係ない国と戦って
身方諸共に自分達の体力・戦力を削りまくる、自国に対する焦土戦略とな
いやぁ、勉強になるなあ(棒)
ここまでぶっとんだキチガイも珍しいな
>漢人の金は女真族の国であり、夷蛮そのもの。
>儒教的観点から言って当然、彼が思い慕うのは南宋であり、高宗だったはずだ。
何とかなりませんかこの人
儒教的観点も何も、忠烈王はクビライの女婿なんだから・・・
697 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 12:31:07.72
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
>>696 婿だから?
何だ?
まさか婿になったからフビライ大好きですってか?
お花畑すぎるだろ。
政略結婚とか縁戚政策とかちょっとググってみ。
君の知らない世界が見れるから。
>>693 忠烈王の心の中は奴しか解らんが儒教と朝鮮半島の伝統に則って考えれば何も矛盾しない。
まず、自国が疲弊していったい誰が困るのか?という事だ。
言うまでもなく困るのは民であって、王家ではないな。
民衆が疲弊するのは、むしろ王家側から見ればプラスだ。
それだけ、叛乱につながる有力者が減る。
叛乱を行おうとすると、民衆は残された数少ない有力者のもとに集まる。
討伐は無力な朝鮮王朝ではなく勇猛なジェルチン騎兵が行うのだから
集まってくれた方が戦略的にもシンプルで討滅し易くなる。
>>695 なんとかするのは君の方だな。
朝鮮人の儒教狂いという基本事項にすらに疑問をもつようではもはや手遅れかもしれんが。
後代、清帝国が生まれた際、清は元朝の正統後継者であると自称した。
厳密には違うが、大筋では正しい。
そして、その清朝を蛇蝎のように嫌い、
我こそが中華の正統であると言って憚らなかったのが他ならぬ李氏朝鮮だ。
あの〜高麗は金にも朝貢してたんですが…
崇儒廃仏が進んだのは李朝の世宗の時代で、この時期の高麗は小中華思想や事大思想があったわけじゃない
ましてや忠烈王は元の公主を娶って国内の反乱勢力を鎮圧してるんだから、
中原を制している元に「儒教的反感」を抱く理由がない
>>698 政略結婚=意にそわない結婚 なんて発想のがよっぽどお花では?w
>>701 あの〜、朝貢ってのは一種の貿易なんですけど?
貢ぐ方のほうが得をするシステムなんだよ?知ってる?
>>698 政略なんだから、本人の自由意志はないんだよ。
あたりまえ。
元末まで高麗歴代国王は元の宮廷で育ち公主や皇族貴族の娘もらってんだから。
武宗が紅巾の乱の発生で政策転換するまで高麗は元の藩屏。
707 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 02:01:25.69
武士惨敗説も威力偵察説も棄民説も
日本がド田舎で元がやる気無くした説も全部論破されたから
今度は「全ては忠烈王の計画通りだったんだよ!Ω<な、なんだってー!」説ですか。
>>706 商売と思想は別。
考えなくても解る事。
つまり、君は何も考えてないっって事。
>>707 論破?いつされた?
なんか俺が言い返せなくなるような話を誰か出したか?
それはアレか、
勝ったと一方的に叫べばなんか自分が勝った事になるという
あっちの法則か?
なんだ、やっぱり上の方でネトウヨネトウヨ言いながら
珍説ばっか言ってた子が新しい珍説唱えてるだけか。
>>708 宋の南遷以降、既に12世紀前半から金に朝貢してた高麗がなぜ蒙古にだけは拒絶反応を示すの?
ぶっ飛んだ妄想垂れ流してるのはおめーだろ
>>690 元の水軍は長江の上流で建造され下流へ向けて攻めてたんだから
朝鮮で水軍作っても合流できないだろ
712 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 12:56:34.52
例年休みになると、こんなの湧いてくるな
>>708 過去レスをどこからどう見てもことごとく論破されてる件
日本に黄金なくてがっかりの巻に至っては議論にすらなっていないレベル
714 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 16:14:47.78
>>712 08年辺りから春休みと夏休みの風物詩になってるよねw
>>708 忠烈王は普通に親元だけど?
李朝は親元派と親明派の内訌のすえに誕生してるんだから李朝の例を持ってきても意味がない
そんなに昔から出没してるのか>棄民
日本黄金の国説は本人が弘安の役を説明できないと最初から認めてるし
最初から破綻してる
718 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 09:36:09.78
朝鮮戦争に於て中国義勇軍の内、元中国国民党兵がかなりの割合で入っていたと言うが
この手の兵は使い潰しても惜しくないというだけで、棄民では無いだろう
対日本の戦争だけ棄民なんだろw
懲罰大隊の兵だからいくら死んでも惜しくないからって戦闘自体に負けて良いわけじゃない
もし元が旧南宋兵を死んでもいいとか反乱分子として始末したいと思っていたとしても
侵攻に失敗した言い訳にはならない
>>718 そりゃあそうだろ。意味不明すぎる。
アメリカは自国を遥かに超える強大な国で、兵は幾らあっても足りない。
インドとも戦争中で、ロシアとも急速に険悪になっていた。
弘安とは全く状況は違う。
この白痴みたいな書き込みとそれに対する
>>719のやり取り一つ見ても、
こいつらの頭のレベルが知れるよ。俺のレスを全く理解できてない事がよくわかる。
また来たのかw
仕事とやらはもういいのか?w
>>720 もちろん、上手く日本を占領できてたらそれに越した事は無かったと思うよ。
ただ、フビライ達元上層部が求めていたのはあくまでも威力外交による有利な通商であり、土地の支配ではない。
それは他の国々に対する態度を見ていても明らかだ。
日本が金を産する事は彼らの興味を引いたはずだが、さりとてたいした文化をもってる訳でもない蛮族であり、
西アジアやヨーロッパの国々の文物や知識のように、彼らを心底憧れさせ、魅了する事は無かっただろう。
>>722 おかげさまで忙しい。
君ら暇人がうらやましいよ。
725 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 17:02:24.20
じゃあフビライが最晩年まで日本遠征にこだわり続けた理由はなんだよ。
726 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 17:05:25.61
つか、大した文化を持たない蛮族とか書いてる時点で
「日本ごときにマジになるわけない」って結論ありきなんだよな。
そもそも文明の発展の度合いで言えば当時のヨーロッパなんて日本と大差無いぞ。
>>726 大差ない?
当時、確かにヨーロッパはど田舎だが、それでも日本と比べるのはおかしい。
日本と比べるならイングランド辺り。
もともと、ローマ人が中国やその先にエルドラドが存在したと信じたように、
中国文化圏では西の果てに楽園があると信じていた。
そして、彼らが西を神聖視したのは、彼らの出自が関係してる。
モンゴル人はアーリア人を支配したトルコ系騎馬民族と放牧牛の文化圏が混ざってできた、
比較的新しい民族だ。
彼らはその生活スタイルから、西にの方に強い憧れを抱いていた。
太平洋は暖かく、その湿度によって東に行くと森林が増え、牧畜ができない。
だから、この中央平原を制した民族は常に西を目指した。
フビライのように中国の文化に敬意を払った人間は稀だったろう。
確か元は南宋を滅ぼす前から既に二回目の日本遠征の具体的な作戦立ててなかったか?
黄金云々より海上の安定化、海洋貿易構想の確立の方が説得力ないか?
最初の使節は通好目的だったし
蒙古国書
「日本は古来より中国と通交しているが、朕が即位したことを日本は未だ知らないゆえに、使節を送る。
願わくはこれ以降、通交と親睦を深めたい。かつ、聖人は四海をもって家となす。
通交せざるは、あに一家の理ならんや。兵を用いることは誰も好まない」
最初の国書を送ったのとほぼ同時期に高麗に命じた事
「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)
最初から攻める気満々じゃないですかやだー!
当時の日本は金や日本刀以外に
銅、水銀、硫黄、木材、扇、蒔絵製品なんかを主に輸出してたみたいね。
鉱物と工芸品が中心だったんかな?日本刀は宋〜明にかけて主要な輸出品目だったみたいね。
因みに当時の日本の人口は約1000万人前後。
同時代の他地域(無論中国やインドは除くが)と比べると結構多いみたい。
蛮族だったかどうかは知らんが割と生産力のある規模のデカい国だったのね。
>>723 力を見せつけて有利に外交を進めようとしたって
それ勝利条件のハードルが下がっただけで負けちゃったら逆効果なんですけど
>>732 俺も今それ貼ろうと思ってた。意外なのは京都がかなり衰退してた件だな。
源平の合戦前まではコンスタンティンノーブルやカイロや抗州に継ぐ人口だったのに。
まあいずれにせよ「辺境のド田舎」と言うには些か国としての生産力が高すぎるわなw
因みに博多は数万人くらいが住んでたみたいね。
力をみせつけれてないもんな。
本土に上陸して重要拠点の制圧にも失敗し、副司令官が負傷して味方の座礁船を
見捨ててトンズラ。こんなんで、武威を見せ付けられたと元軍が判断したのなら、
忽敦ら司令官は脳がいっちゃってたとしか考えられないよな。
それに力をみせつけるのが目的だったのなら、文永の役のあと鎌倉幕府は逆に大陸に
遠征しようとしてるわけで、逆に舐められた結果しか招いていない。
フビライも文永の役の失敗の後、日本の商人を優遇するなど、明らかに態度を軟化させてる。
力をみせつけるのが、目的なら強行に出るべきところをこの体たらく。
文永の役の後、一時態度を軟化させたフビライであったが、弘安の役の大敗後は、さらにさらに
態度を軟化させていく様は笑える。
736 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 23:34:51.71
力みせつけるどころか橋頭堡確保に失敗して海に叩き返されたり、
旧南宋から兵士と兵器調達して気合入れてきたら何もできないとかな
てか元寇関係って何でこんなに研究進んでないんだ?
文永弘安関係に書かれた論文って佐藤鉄太郎以来見かけないんだが
本当に近年では佐藤鉄太郎くらいだよな。
日本でマトモに元寇について検証した学者って。
軍事史学で元寇特集号が出ただろう。
ああ、また棄民君が来てたのか。
日本人の中央アジア観、朝鮮観、中国観のステロタイプなパターンを実によく体現してる人だな
>>726-727 大差ないどころか、ワールシュタットに鎌倉武士が2万人出現したらあれほどの惨敗は喫してない。
連合軍が大敗したのは諸侯の統制不充分によるところが大きいんだから。
棄民君でも知ってる例を挙げると、ジャンヌ・ダルクが救援に赴いたオルレアンなんて英軍、仏軍数千のレベル。
その後のパテーの戦いでも仏軍2万とか、そんなレベル。
一方で日本はそれに先立つ300年の奥州合戦で奥州藤原氏が阿津賀志山に大塹壕を築き、鎌倉の大手軍と数万で合戦している。
圧倒的に動員規模は日本のほうが大きいよ。
というか普通に日本勝っただろうけどね。
742 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 08:57:08.99
>>740 棄民くんはそういう事を言ってるんじゃないと思う。
よくいるじゃん。
「日本はヨーロッパが堅固な城作ってた時代にボロい木の砦しかなかった」
とか抜かす馬鹿が。そういう手合いだよ棄民くんは。
743 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 11:57:59.14
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【殺された石井こうきの発言から】
オウム、北朝鮮、麻原サブリミナル、左翼政権誕生→阪神大震災、サリン
韓流信奉、韓国、韓流サブリミナル、(反日)左翼政権誕生→東日本大震災、原発事故
似ているね
てかそのものか。 そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→民主党
地震は関係ないだろそれとスレチ
ヨーロッパの城がすべてクラック・デ・シュヴァリエ並だと思っては困るな
747 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 17:48:37.13
威力偵察くん=棄民くんを袋叩きにするスレになってるなww
人口が多ければ大国って・・・・
こんな糞認識をよく書き込めるな。恥ずかしくないのか。
寡が多を制して来たのは歴史の常。
まさに、馬鹿の頭数ががどれだけ居ても何の意味も無い事を図らずもこのスレがよく表してる。
749 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 01:58:42.04
脳内ソースで延々と珍説喚き立てる子よりはマシでしょ。
750 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 02:12:19.05
てか、中世の頃は「一部の例外」を除けば
基本的に人口=生産力=国力じゃないの?
>>748 寡が多を制するパターンの殆どは
多の側の政情不安に寡が付け入ったパターンやん。
国力云々関係ないじゃんw
日本の場合は王権、というか中央権力が非常に強いから人口がそのまま国力に直結する。
これは中世日本だけでなく現代までを通して言える現象だけどね
ていうかごちゃごちゃ言うとらんと
「日本せめてみたけど、ド田舎でやる気無くした。こんなとこ攻める価値無いわ」
って実際に評したソース持ってきたらええやん。
なんもない国土なら別天地発見ってことでそのまま定住するわ
棄民目的で出かけたけど、何もないど田舎だったので、しかたなく台風来るのを待って海の底に沈めて処理しました
それじゃ日本からバカにされてもしかたがない
757 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 11:12:32.69
よく言われてる和弓とモンゴル弓の性能の差ってのは
有効射程と最大射程の違いじゃなくて、双方の張力の差を根拠にしてるんじゃない?
モンゴルの方はカルピニの「張力が166ポンド(75kg)で、有効射程距離は200〜300m」という記述を元にしてるんだと思う。
現在ナーダムで使ってる弓も大体40〜50kgくらいある。
一方の和弓に関しては、現代の弓道で使用してるのが
大体張力20kg前後のものが多くて、部活の顧問やってる人なんかが30kgのを使ってる。
でもって徳川慶喜が同じぐらいの愛用してたから
「昔もそれくらいだったんだろう。」って感じで予測した値なんだわw
でも、個人的には現代でも中には40kg、50kgの和弓を引く人も
実際に割といる(弓道の概念的にはあんま意味が無いがwでも強弓の方が狙い易いみたい)のを思うと
ガキん頃から鍛えてた昔の武士が、甲冑着込んでる相手を倒すのに
精々20〜30kgの弓しか使わなかったってのはちょっと考えにくいんだな。
むしろ50kg以上の弓を引く人がザラにいてもおかしくないと思うんだわ。
ついでに言うと、たまに張力が75kgとか90kgの弓とかレスがあるけど
ぶっちゃけそこまで強いのを人間の力で引くのは相当難しいぞw
まあ三人張りだの五人張りだの言われてる強弓が
張力20〜30sしかなかったらびっくりしちゃうよな
源為朝は伝承によれば七人張りの強弓を使ったらしいけど
どのくらいの張力があったんだろう
759 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 16:22:48.81
弓道やってる人の話だと、50kgぐらいになると角材みたいな感じになるから太さの関係から
もし武士達がそういうのを使ってたとしたら
今の弓道とはまた違う射法をしてたのかもしれないって言ってた。
今の弓道は後ろまで引ききってるけど、強弓ならそこまで引ききる必要は無いかもしれんしね。
http://mgl-f.sakura.ne.jp/archery.mongolia2.html 【ハルハ式射法と日本の射法】
モンゴルの伝統弓術には、ハルハ、ブリャート、ウリャンハイといった各民族特有のものがあります。
その中でも、ハルハ式射法は日本の弓術流派である「日置流」の開祖、日置弾正正次の肖像画に描かれたものに酷似しています。
また、この肖像画の他にも合戦絵巻物などで騎馬武者が弓を引いている場面では、
弓手はベタ押し、馬手は胸前に低く置かれているように描かれているものもあります。
これらを見て、現在とはまったく違う射法であることから、強い違和感と疑問を抱いていた
日本の弓道家も実は多いのではないでしょうか。
しかし、これらは当時の絵師の歪曲や誇張といったものではなく、今も実際にモンゴルに存在する射法だったのです。
とはいえ、日本の弓術の源流がモンゴルのハルハ式であるとするのは早計ですが、
もしかすると、過去何らかの繋がりや影響があったのかも知れません。
761 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 20:10:17.25
日本史におけるモンゴルと言えば元寇のイメージが大きいけど
平安時代になったばかりの頃に、大陸から馬を大量輸入して信濃に放牧した際に
飼育係としてモンゴル人達が複数渡ってきてるんだよね。
信濃追分節がモンゴルの民謡とよく似てるのはこれが原因。
もしかしたら、この時モンゴル流の弓術或いは騎射が日本に伝わったのかも。
無論、騎射を取り入れたのは蝦夷との戦いの影響もデカいが。
しかしまあ、そのモンゴル式の射法を取り入れた武士達が
後に本家の元軍を打ち破るとは歴史の皮肉やねw
762 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 20:53:29.64
大山祇神社にある伝・鎮西八郎為朝 赤漆塗重藤弓などの弓はどのくらいの張力なんだろう?
764 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 21:35:47.55
間違って頬こすったらニキビが全部吹き飛んで血まみれになるくらいは強そう
765 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:47:39.81
それどころか頬の肉削ぎ取られて口裂け女みたいになるんじゃね?w
766 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 21:11:46.96
_______ __
// ̄~`i ゝ `l |
/ / ,______ ,_____ ________ | | ____ TM
| | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>>
\ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~
`、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
ヽヽ___// 日本
______________ __
|街宣車の正体 朝鮮人工作員 .| |検索|←をクリック!!
テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
蒙古国書が友好の書なんて真面目な顔して言ってる歴史学者って相当ヤバいな。
どうやら日本の歴史学者とやらは「政治思想」と「歴史」を分けて考えることが
できないんだなぁと、元寇関連の書籍を読むとすごく感じる。
ああいう論調にしないと本を出せないのかな?
ああいう手合いしか本を出そうとしないのかも
バイアスのせいでモチベあがってる的な
戦後すぐに右派の学会がとり潰されて、軍事学関連の人間が歴史学に携われなかったからじゃないか?
軍事史学会が再建されたのは70年代だし、それまでの半分古文書マニアみたいな研究じゃカバーしきれなかったんだと思う
>>757 軍記ものを読むと、いくら強弓が引けると言っても、
現代の弓の引き方では間隔が開きすぎるんじゃないかと思う場面がある。
それなら日本弓はある程度の速射性が確保できることになるのかな。
>>761 興味深いのでもうちょっと薀蓄があったらどうぞ
>>771 いまやってる大河の清盛のOPで
最後に大鎧を着て弓を引くカットがあるけど
顔の前くらいまでしか引いてないよね。
当時の射法を再現したものなのか
それとも単に役者がヘタクソなだけなのかw
775 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 01:03:24.71
>>753 文永の前の話だけど元の使者として、太宰府に一年滞在した趙良弼が
帰国後日本についてフビライに
「あいつら礼儀作法知らない上に殺し合いばっかやってる蛮族だし
土地は山ばっかりで耕すのは困難だから穀倉地帯としては期待出来ないし
そもそも渡海する上でも物凄い難所だからぶっちゃけ割に合わないっすよ」
みたいなこと言ってたのは元史で書かれてるよ。
今まで棄民くんは何故か一度もソースに出さなかったけどw
逆に言えば、趙良弼が太宰府で情報収集してた事実自体が
文永の役では明らかに太宰府を攻撃目標としていた何よりの証拠だけどねw
776 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 02:07:41.17
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←よく痴漢やヤクで捕まるのはここの工作員
テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
民主党は、朝鮮人だらけ。
野田はどうだろうか。韓国人の集いに出席し、韓国人暴力団から賄賂を貰っている野田は
777 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 02:46:09.90
>>477 すんごい亀レスだけど、それ状況見る限りかなり特殊な事例なんじゃ・・・。
これを以て「一部が突撃し残りは後ろから見てるだけのパフォーマンスコンクールだった」と評するのは暴論じゃね?
てか、平氏方は普通に多数で応戦してるのなw
しかし古代に渡来蒙古人が弓射を教えたという
>>760-761のは興味深いな。
信濃や坂東って、意外と沿海州あたりからの渡来人(遊牧民系)みたいな連中住んでたんじゃないかと言われるしね。
>>777 河原兄弟の場合、そういう非常手段を取ってまで自分たちの軍功を認めさせる必要があった
という証拠にはなるが、一般的な証人を立てる方法の証明にはならない。
>>773 そういう引き方をしないと、兜の吹き返しが邪魔になるのでは?
781 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:19:31.57
>>777 世の中には刀なんて飾りと極論飛ばす人もいますしお寿司。
>>780 歴史群像シリーズで源平の騎射を再現という大鎧着た騎射の検証をやったらしいけど
吹き返しが邪魔で顎までにしか引けないのこと
弾力の少ない丸木弓や伏竹弓の時代にはそれで充分だったのかもしれない
逆に考えると、そんな引き方で、しかも鎧を着た相手に致命傷を与える程の
威力が出たというなら、当時の弓は無茶苦茶に強くないと駄目じゃ?
源平の頃の弓は一種の脅しと言うか、本戦前のセレモニー的要素が濃い。
大盾をもっている従者も主人を守っているから、簡単には矢で死ぬことはなかっただろう。
基本は矢の数によって実兵の数を相手に誇示し、戦を占うのが役目。
それによって相手がびびり、退いてくれればそれに越した事は無い訳でね。
つまり、遠目からの勇壮な景観や射数が重要なのであって、殺傷能力は二の次だった。
一説には、だから大弓はだからあんなに華美で長く、かつ下の方を持つという。
丘陵の多い日本の地形でも、できる限り相手に見せられる為だな。
この地形の問題は、日本の武器の方向性を決定付けている。
まず、野戦は基本的に林や灌木の生い茂った原野などで行うから、
遮蔽物が多く、弓で正確に相手に当てるのは難しい。
射数の遅い弩や、手楯が消滅したのはこのためだろう。必要がなかったという事だ。
槍も一時期消え、薙刀になったのも同じ理由だ。木々が邪魔で、上手く扱えなかったのだろう。
ちなみに、薙刀は基本的に、従者が将を守り、そして相手騎馬を囲み馬を奪い取るための道具でもあり、
攻撃能力はあまり重視されていない。
>>780 また寝言言ってるよこの人。
すごいね。ここまででたらめいえるなんて。
間違えた。寝言言ってるのは>786だ。
まあ、そうだと思った。
君たちは基本的に、武器や戦争というものに過大な期待や幻想を抱きすぎてるようだな。
具体的に何が寝言なのか、語りたまえ。
殺傷能力という点では、刀が進化したのは当然の成り行きだったろう。
林や灌木の多い野戦では最終的に勝負を決めるのは個別の近接戦しかありえないからな。
元寇以後、刀は一躍進化を遂げるが、その進化の方向が軟鉄で包む鎬の技術に特化してる事は重要だ。
鎬という言葉が表すと通り、これは決して攻撃力を増すためのものではなく
斬撃に対する防御能力を高めたという事だ。
鎌倉武士が、強健な大陸人にいかに苦戦したかがこの一事を持ってしてもよくわかる。
このスレの一部のアホのいうよう、「楽勝だった、全然戦闘では負けていなかった」のだとしたら
何故にこのような改良が必要なのか。
元寇対応で刀は薄く脆くなった
元寇対応が終わると厚く頑強に戻った
>>785 先生のお説をまとめると、源平の頃は
弓矢:セレモニーの道具
槍 :当時は消えていた
薙刀:攻撃力は重視されない
となりますが、では敵を攻撃する為の主要武器は太刀だったとお考えなのですか?
793 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 09:52:44.08
>>785-786 和弓があのような形状になったのは材質面での問題だよ。
湿気の多い日本では大陸の遊牧民と違い、動物の骨を弓にするより
木や竹を材料とする方が適していたが、強度と威力の観点から弓を大きくする必要性があった。
日本の弓がデカいのは武士が現れる千年近くも前の弥生時代に既に大陸の書物に書かれてるぞ。
でもって、弓の下から三分の一の部分を持つのは振動を少なくするのと
もうひとつは上下の反発力の差を利用して、飛距離や威力を微調整するため。(結構上級者向けのテクニックだが)
というか、お前が言ってること
いつぞやに韓国の新聞が書いてた記事と全く一緒だわw
>>790 少なくとも平安後期の太刀には既に鎬はありました。残念。
796 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 10:28:00.29
気
あ を
の 付
民 け
元 主 .ろ
朝 党
鮮 .員
人
圖
∧_∧
( ´∀`)
( ○ )
280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?
287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280 橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
09年の選挙では 民主なら誰でもよかった
今度の選挙では 維新なら誰でもよかった
幾らB層でも流石にこうはならないな
>>794 次に、かの御仁は
「日本の弓が非対称なのは、背が低い倭人が対称な長弓を持つと、下端が地面についてしまうため」
と言い出すと予想
槍に関しては確かに平安末期に一度廃れ南北朝時代に再登場するが
それが本当に元寇の影響だというのなら元寇の直後に起こった
霜月騒動や平禅門の乱で槍を使うものがいた記述が無いとおかしいわな。
特に霜月騒動は弘安の役から僅か四年後の出来事で、規模もかなりデカい。
でも、この時の記録には別に誰かが槍を使い始めたなんて記述は無いんだよね。
ちなみに元寇で活躍した少弐もこの時の九州の騒乱で命を落とし、彼と安達泰盛の死は
竹崎李長が出家して、蒙古襲来絵詞を描かせて奉納するキッカケとなった。
>>798 個人的に日本の場合は長柄武器が矛や手鉾→薙刀→槍と時代を追う毎に変わる上で
平安末期〜鎌倉の日本では薙刀が槍の役割を果たしてたってだけだと思うの。
槍の運用の代表格みたいに語られる長槍でスイス人のパイクみたいな
槍襖をやるのはもっと時代が下って応仁の乱の頃からだし。
>>799 だとしたら、矛から薙刀への移行はどんなニーズによる物だったのでしょう?
矛より薙刀が良い何らかの理由があったから矛が廃れたのでしょうし。
律令制では「軍防令私家鼓鉦条」によって
「凡そ私家には鼓鉦、弩、牟(二丈の矛)、矟(一丈二尺の矛)、具装(馬甲)、大角・小角(角笛)及び軍幡(軍団の指揮具)有ること得じ」
と定められ
上記は「賊盗律禁兵条」によって「禁兵器」と規定され、盗んだものには徒一年半〜二年の罰則があり、
擅興律の逸文によれば上記を私有した者に対しても徒一年の罰則が規定されているように
矛や弩の私有は禁止されていた。
いっぽう「軍防令簡閲戎具条」には国司は毎年十月に民間の「戎具」を検閲することとなっており
(戎具とは『義解』によれば「国内の百姓随身する弓箭・刀剣等の類也」)
これらは「賊盗律禁兵条」に「禁兵器」に対する「余兵器」として「是官の兵器と雖も私家に有り合ふ者」
として私有が認められていた。
つまり弓矢や刀剣の私有はOKだけど矛や弩の私有はアウト。
つまり…薙刀は「これは柄が長いだけの刀剣です」と言い張る為の武器?
>>790 鎬の進化について詳しいソースプリーズ。鎬自体は平安時代には既にあったからね。
>>791 「実戦では日本刀みたいな切れ味重視より厚手のものの方が役に立つ」
とか言う一方で「蛤刃で重く分厚かった当時の太刀は元軍との戦いで役に立たなかった」とはこれ如何に?
>>799-800 それまで使われてた手鉾より刀身が長いものを求めた結果薙刀になったっていう説もあるね。
よく日本の太刀が元軍に通用しなかったソースとして語られる相州伝だけどあれは
「例えば、蒙古みたいな軽装な連中相手ならわざわざ蛤刃で
厚くする必要ないよねー。でも薄くしたら強度下がっちゃうから
どうせなら強度を保ったまま薄く鋭くしたいよねー。」って内容だぞw
805 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 12:42:08.12
>>801-802 律令制は平安末期には既に有名無実化してたのでは?
あと、手鉾自体は鎌倉時代まで使ってた人もいるみたいよ。少数派だけど。
大陸鎧は鉄板の裏打ちとか無いの?
後の倭寇に関する記述でも、柳成龍の「懲秘録」でも鎧がばっさり斬られてどうしようもねえ的な話になってるが
>>804 しかも、正宗が活躍したのは14世紀初頭の事。
因みに少なくとも文永〜弘安の間に大きく刀が変化した証拠は無い。
これで日本の太刀が元軍相手に通用しなかったというのなら
弘安の役で武士達が白兵戦で元軍相手に無双しまくった事実に反するな。
>>806 時代がかなり下るが、唐入りの際に
明軍が日本の刀と鉄砲に震え上がった一方で
日本側にも明軍の鎧の堅さに舌を巻いた記述が一部あるから
多分、身分の高い武将なんかはかなり頑丈な鎧着てたんじゃないかな?
まあ中華の軍隊の伝統として、末端の連中は実にお粗末な装備だったようだが。
なるほど
810 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 14:26:37.56
話を蒸し返すようで悪いが結局文永の役で
各史料によって記述が食い違う件はどうなったの?
どうにもならん
今後もどうにかなる予定は無い
812 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 15:36:06.90
蒙古襲来絵詞は当事者の竹崎の視点で絵も記述正確に書かれてる一方で
竹崎が絡んでいない戦闘は描かれていない為これに
書かれてる事のみが元寇の全てと判断していいかは不明。
八幡蒙古記は内外の元寇 史料の中で最も詳細にかかれてるが
むしろただの神官が何故そこまで詳細に書けるのかが疑問。
また、白装束の部隊など信憑性の怪しい部分も数多くある。
更にこれが元寇直後に書かれたというソースは江戸時代の国学者の申告によるもの。
高麗伝は金包茎の活躍ぶりを記述してる一方、話の前後関係がわかりにくく
高麗軍が目覚ましい活躍して勝利したとしてる一方で
かなり切羽詰まった軍議を行うという矛盾した部分もある。
元史は戦闘経過についてはさほど詳しく書いておらず
ただ、その国を破るも官制が整わず矢が尽きたため撤退したとのみ書かれてる。
どの史料も一長一短あるね。
>>785 和弓が下の方を持つのは馬上で扱いやすくするためとか、
威力・飛距離を調整するための工夫とか聞いたことはあるが
単に見栄えを良くするためなどという珍説には初めてお目にかかったわ
お前が話してる内容って結局、全部お前個人の願望だろw
815 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 18:15:04.28
>>814 いや、ちゃんとソースはあるぞ。
三年くらい前の韓国のウリナラ弓マンセー記事で似たような妄言が書いてあったw
816 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 20:38:42.64
>>777 間違えているようだが、河原兄弟の話はパフォーマンスコンクールの根拠ではない。
証人というのは乱戦の中で互いに目撃し合うものであり、被証人が戦っているのを後ろから
手を拱いて眺めているなどというのはあり得ない、トンデモだ、
と言う人がいたから、証人になるべき人たちが確かに手を拱いて眺めている例を示したのだ。
「パフォーマンスコンクール」は蒙古襲来絵詞や八幡ノ蒙古記の戦闘描写に描かれる日本軍の
戦いぶりをひとことで表現したものだ。
私は八幡ノ蒙古記をおおすじで信用しているからね
お前、軍勢が全員同時に戦ってると思ってるのかよ・・・
文化どうこう以前に物理的に不可能だろうが
818 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 23:01:14.50
形態は違うが、後の散兵戦のような効果があったのかしら?
命令を届ける能力の問題じゃないか?
無線機は当然無い。鉦や太鼓で意志を伝える方法もあまり定着してない。
伝令の行き来は時間が掛かるし確実性も欠ける。
こんな状況では、指揮可能なのは「大声出して届く範囲」と割り切るしかないだろう。
開戦前に大雑把な方針を決めたら、あとは各部隊の判断に任せるしかない。
821 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 01:13:04.67
奥州合戦で頼朝が割と細かい指示(お前はあそこの陣攻めろ的な)を出し
一部の部隊は迂回して背後から奇襲かけたり
承久の乱では上皇方の武士達が橋を切り落とし、川の反対側目掛けて
弓矢を一斉射撃したり(結局鎌倉側に強行突破されて負けるが)
宝治合戦では安達が奇襲をかけたりしてるな。
むしろ誰かが突撃してる間、他の兵達が優雅に見守ってるなんて例がレアケースに感じる。
(そんなことしてたら、せっかくの奇襲が何の意味も成さない)
いくら個人の武功を重視してたとはいえ
夜討ち朝駆け騙し討ちが常套手段だった人達が
果たしてそんなにお行儀良く戦ってたのだろうか?
元軍の組織だった集団戦法が当時では異色だった訳で、日本は標準的な武将単位の個別行動だったろう。
封建武士は家ごとの独立行政法人。あくまでも戦果に対する報賞という相互依存なわけだから、
究極的には大将の命令をきくかきかないかは個別の判断になる。
俺らは絶対に戦わない、と決めた部隊を命令一発で動かせるような権力は存在しなかった。
時代は下がるけど、関ヶ原で島津や毛利が動かなかったのを光成がどうする事もできなかったのと同じ。
ヨーロッパもそんな感じだったしな
824 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:08:24.16
>>821 宝治合戦はどちらかというと、三浦に個人的恨みがあった安達が
和議の方向に話が進んでたのを無視して独断で
奇襲をかけたからなし崩し的に始まった感じだお。
別に律儀に個別戦闘をやってたとか、元が勝ってたとは言わないが
当時の合戦は割と現場の武士達が大将の方針関係なく好き勝手にやってた印象があるな。
825 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:08:31.09
武士の腰の引けた戦いぶりに
足軽の戦力化が西日本で進んだらしいがw
鎌倉末期から南北朝時代には弓の発展が凄まじく
足軽弓が主力で武者は騎射ではなく打物武者に変わってゆく
826 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:10:40.74
>>824 北条実政は下し矢で射殺せって命令出してるし実行されてる。
統制取れてるよ軍隊
>>825 >武士の腰の引けた戦いぶりに
>足軽の戦力化が西日本で進んだらしいがw
ここ興味があるな。どういうデータからわかるんだろうか?
828 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:40:16.26
829 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:44:48.54
>>825 足軽が戦場の主役になるのは応仁の乱以降の話なんですけど・・・
830 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:52:28.68
>>826 そういや大河ドラマはムチャクチャだったな。
本来参戦してないはずの宗政や平頼綱が現地に行ってるしw
831 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 11:17:22.80
>>829 西日本の悪党達は歩兵主体だよ?
何時の時代の本読んでるんだ?
雑兵足軽たちの戦い読んでみ
832 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 11:19:37.06
>>831 それ楠木正成とか赤松党の連中だろ
あれは野伏とか山賊を組織化したもので足軽といっていいのか?
>>827 九州の武者たちは戦役に参加してる間に自分の荘をとられる恐ればあるので
参加者が少なかったんだよw
834 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 11:23:12.22
>>831 もしかして歩兵=足軽とか思ってる方ですか?
>>834 歩兵=足軽とはいってないだろw
時代が下ると騎馬足軽とか出てくるんだし。太田道灌だっけ?
足軽とか足しろとかは賤民が多かったんだよw
今の感覚とか室町末期の組織化された足軽とはそりゃ違うよw
836 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 13:16:11.17
>>810 何がどう食い違ってるのかわからんが上陸後の最初の戦闘で
数で大きく劣る敵相手に橋頭堡を築けないほど消耗してる時点で元軍の負けやん。
最近、元寇を含め歴史認識が180度かわって来てるけど、実際はどうだろうね。
「日本に騎馬隊は存在しなかった」とかまさにそれだけどさ。
特に新しい文書が発見された訳でもなく、記述の食い違いを見せる比較文書のどれが正しいのかも判然としないのに。
どうも史学者達の飯のためのステマになってる気がする。
まあ、彼らは食うや食わずの生活だから別にそれでもかまわんけどさ。
838 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 13:25:17.65
ここ十年で割と手軽に一次史料に触れられるようになったから
その分色んな解釈が生まれてるってことなんじゃない?
825 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/03/26(月) 10:08:31.09
武士の腰の引けた戦いぶりに
足軽の戦力化が西日本で進んだらしいがw
鎌倉末期から南北朝時代には弓の発展が凄まじく
足軽弓が主力で武者は騎射ではなく打物武者に変わってゆく
831 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/03/26(月) 11:17:22.80
>>829 西日本の悪党達は歩兵主体だよ?
何時の時代の本読んでるんだ?
雑兵足軽たちの戦い読んでみ
835 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 11:27:18.17
>>834 歩兵=足軽とはいってないだろw
時代が下ると騎馬足軽とか出てくるんだし。太田道灌だっけ?
足軽とか足しろとかは賤民が多かったんだよw
今の感覚とか室町末期の組織化された足軽とはそりゃ違うよw
>>839 近藤氏あたりの本を読んだはいいが、ろくに理解できてない人って感じだなw
知ったばかりのニワカ知識を披露したくて仕方がないんだろうな
このネタは軍事板のほうが詳しいよな。
昔からあそこではこのネタを軍事的にやってる。
あっちにも元軍が騎兵中心とか思ってるようなバカもいるけどねw
342 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2012/03/26(月) 00:14:42.91 ID:???
さすがに海バリアが無ければ併合されてたと思う
元軍が馬を持ち込めなかったから勝てた
まあ、書いてる事自体は正しい。
モンゴル騎兵の恐ろしいところは、馬の輸送能力をフル活用して
国ごと戦場にやってくる事だからな。
博多が大陸と地続きで、そこに元が国ごとやって来たらそりゃ支えきれん。
元軍のモンゴル騎兵が国ごと戦場にやってきた例とは?
845 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 16:52:33.73
>>843 地続きだったらという仮定自体が無意味でしょ。
地続きなら日本の歴史は今以上に大陸の情勢の影響を受けてるはずだから
鎌倉幕府おろか日本に武士という概念自体が成立したかどうかすらわからないだろうし。
地続きの高麗ですら征服に時間がかかってないか?
847 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 16:55:39.57
848 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 18:37:19.52
>>846-847 日本、ベトナム、ジャワ、琉球、樺太、マムルーク、インド、チベット
で敗退し高麗や宋の攻略には30年以上かかってる。
そうやって考えると言われてる程強くないのか?
>>848 細かいところ悪いが琉球侵攻はガセだし
樺太侵攻は征服目的の出兵じゃないぞ。戦闘では勝ってるし
850 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 20:43:06.54
>>821 >むしろ誰かが突撃してる間、他の兵達が優雅に見守ってるなんて例がレアケースに感じる。
>いくら個人の武功を重視してたとはいえ
>夜討ち朝駆け騙し討ちが常套手段だった人達が果たしてそんなにお行儀良く戦ってたのだろうか?
私が「パフォーマンスコンクール」と言ったので、やあやあ我こそはの「個人戦」の話をしている
と勘違いしたのか、あるいは無理にそっちに持って行こうとしているのかも知らんが、
私は始めからそんな話はしていない。
家単位、一族単位のコンクールなのだ。
竹崎は家の手勢が五騎しかいなかったから五騎で突っ込んだ。
白石、菊池は約100騎いたから約100騎で突っ込んだ。
竹崎の部下は証人を立ててから突っ込んでは?と進言したが、これはその証人と
いっしょに突っ込みましょうと言う意味でない。
第一、いっしょに突っ込んだら竹崎勢だけの先駆けの功にはならないではないか。
証人がいればその証人は後方で竹崎勢の働きを眺めているはずだったのだ。
証人は間に合わなかったが、たまたま白石勢が後方から詰めたから白石が証人になり得た。
この場合も白石はじぶんがまだ戦闘に突入していない段階において竹崎の先駆けを目撃して
いるわけだ。
だが、自分は突撃せず証人になってくれるお人好しで、かつ、その証言が
重視されるような都合の良い人物が簡単に見つかる物だろうか?
よそのスレでそのパフォーマンスコンクールなる造語が失笑されたぞw
853 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 21:30:06.00
>>851 絵詞の前の方で竹崎は一人の武士と証人の約束をして兜を交換している。
竹崎の部下が言った証人とはその武士のことだと言う説もあるな。
>>852 あまりにぴったりの造語なので思わず笑ったのだろう。
>>851 そのお人よしがいないとコンクール説は成り立たないんだよねえ
ある一族・・・まあ100騎ぐらいの連中がいるとしよう。
そいつらが突っ込んでる間、他の味方の奴らは全員ただ見てるだけなのか?
それとも軍全体で敵に攻撃するグループと後方待機するグループがいて
互いに証人になった状態でローテーション組んでやってんのか?
後者なら味方の予備部隊を休ませる意味合いもあるから有り得る話だが
前者みたいなのは流石に一騎打ちと同じくらい無理がある話だなあ。
>>854 西洋だとそういうことを専門にやってくれる紋章官という人がいたとか?
日本でも軍目付でしたっけ?がいるような戦いなら何とかなるのかも知れませんが
今回はそんなのいませんよね?
857 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 22:07:02.82
同時に戦う味方が互いに証人になればいいだけの話だからね。
アレだ、
「お前らタイマンだ手ぇ出すんじゃねぇぞ」で、
負けそうになったら「てめえらやっちまえ」的なノリだったんじゃねえ?
860 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 22:30:03.82
そんなノリで数倍の数の相手撃退できちゃうとか
九州武士どんだけ戦闘民族なんだよwサイヤ人かよw
そんな儀式的戦争やってた日本は当然弱くて戦場では負けたけど
何故か幸運にもモンゴルが帰って行って助かったって話じゃないの
そんな楽勝だったのに何もせずに帰るとか
元軍は日本に腕比べにでも来たのかw
真面目な話、文永の役で元の指揮官は何故「帰ろう」と決断したのだろう。
A 矢が尽きた。あるいはその他の物資が尽きたなど戦闘継続に致命的な支障が生じた
B 日本軍に惨敗した。あるいはそれに近い被害を受けて、現在の兵力では作戦続行不能と判断した
C 威力偵察あるいは脅しが目的の攻撃で、任務を達成したから帰った
D 日本に侵略の価値無しと判断した(弘安の役が何故起きたか別途考える必要有り)
864 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 00:28:41.84
>>863 元史の「官制整わず矢尽き」という記述と
高麗伝の「背水の陣の故事に倣い意を決して進もう」
「いや、敵増えてるのにこっちは消耗してるからやめとこう」
っていう軍議の内容から考えてAとBの両方でしょ。
威力偵察ならそもそも何ら有力な情報は得られてないやん?って話だし
恫喝目的なら結果的に見れば大失敗してるわけだし
日本はしょぼかったよ説なら晩年までフビライが日本出兵にこだわり続けた理由の説明にならない。
ただ、Aと考えると元がどの程度の戦闘を想定して遠征準備していたのか?
という問題が出てくる。
対馬、壱岐での戦闘は日本側の抵抗は小規模な物だったようだ。となると
ほんの2〜3回戦っただけで矢が尽きる程度の準備しかしていないのかと。
もしくは矢が尽きたというのは建て前で
既に戦闘続行不可能なほど兵員を消耗していたとか。
では元軍は、文永の役でどのくらいの被害を受けたのか。
取りあえずウィキペディアを当たったら参加将兵およそ6万5千のうち
1万3500が未帰還らしい。このうちどのくらいが日本軍との戦闘で死んだ者で
どのくらいが帰路の嵐で死んだ者かは判らないが、参加将兵の約2割が失われているのは
かなり深刻な損害だろう。この半分前後が戦による死者なら、撤退するのが当然の判断だろう。
どの戦争でも、基本的に戦闘で部隊の2割を失うというのは近代戦になるまでほぼ無い。
死ぬのは餓死や凍死、溺死。
日本は鉄砲の活用によって戦死者が激増したが、
それまでは合戦での戦死は数人、十数人というレベルが基本。
日本の転換点となった一の谷合戦ですら約千人、1割程度で、関ヶ原は5%程度と見られる。
つまり、千人も討ち取れば歴史的な一方的大勝であると見ていい。
しかし、元寇でそれを主張するのはファンタジーがすぎる。
敗走中の追撃の間違いじゃないか?
いや、追撃を受けて死ぬのまでは戦死だ。
それを含めても、合戦で死ぬ確率は相当に低かった。
それは元軍も同じで、遠征で負けていた最大の理由は牧草の枯渇が一番多かったという。
だから、遠征前には一年間、遠征ルートの放牧を厳重に禁じた。
時代も条件も違うが、例えば著しい消耗戦の代名詞ともいえる旅順攻略に置いてすら
損耗のうちの戦死者1万4千だから、総兵力の1割弱。
一割が戦闘で死ぬというのがいかに大きい事かがよくわかる数字だ。
そもそも、たかが6万5千で、増援無し、事前の内応無し、現地の一般住民の支援無しで
人口数百万の国制圧しろってのが最初から無理すぎる
日本側は負けようが無い
874 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 11:23:57.97
>>869 高麗伝や八幡蒙古記はいささか誇張してる面があるけど武士側も結構被害出したっぽい
離島の人間は相当数死んでるからな
結果からというか、将軍たちの勤務評定的な見方をすると
戦果
領土は寸土も得られず。対馬の住民を奴隷として得たくらい?
損害
参加の2割を損耗。使用した船もほぼ壊滅
……丸損だな。
877 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:44:35.33
>>851 >自分は突撃せず証人になってくれるお人好しで、かつ、その証言が
>重視されるような都合の良い人物が簡単に見つかる物だろうか?
>>854 >そのお人よしがいないとコンクール説は成り立たないんだよねえ
自分は突っ込まずに後方で視認して証人になってくれる武士をお人好しだと考えるやつはお人好しだ。
竹崎と証人の約束を交わした武士の思惑を考えて見よう。
そもそも先駆けは死傷率の高い危険な行動だから、誰もが望んでやるものではないだろう。
武士と言えども「命あっての物種」と考える者が大部分だろう。
だから、たまたま物好きがいて先駆けをやるならば、自分は安全な後方にいてその先駆けを視認し、
証人に立ってやることは自分にとって有利なことだ。
なぜならばそうやって先駆けの武士に恩を売れば、次に自分が、もうすこし安全な条件で
働いたときに、今度はその先駆けの武士に証人に立ってもらえる立場になるからだ。
これは割の悪い取引ではなかろう。
ここに述べたことは実際に起こった白石の行動と重なる。
もっとも白石は竹崎と約束を交わしていたのではなく、自発的に行動して、結果的に
同じことになったわけだが。
コンクールさんは先駆けのことだけに限定してるのかな?
6万5千は日本側の予想兵力で元側の兵力は弘安の役の東路軍と同じ4万か5万程度では?
高麗史では兵3万3千+女真軍+水夫6700人
文永の役と弘安の役の東路軍は船の数は900隻余りと同じなのに水夫の数が6700と1万7千と離れている
水夫の数が文永の役一隻当たり7.5人から弘安の役一隻当たり19人に増えたのは文永の役の戦訓?
880 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:55:18.83
>>855 >そいつらが突っ込んでる間、他の味方の奴らは全員ただ見てるだけなのか?
全くその通り。
>後者なら味方の予備部隊を休ませる意味合いもあるから有り得る話だが
そんなローテーションシステムが「あり得る話」だと考えるならば、それは武士厨の幻想だ。
蒙古襲来絵詞と八幡の蒙古記を読むならば、およそ文永の役の日本軍の戦い方に
システマティックなものはない。一言で言えば行き当たりばったりだ。
>前者みたいなのは流石に一騎打ちと同じくらい無理がある話だなあ。
無理があるも何も、二つの文献から受け取れることを言っているだけなのだが。
女真軍は一体何人いたんだろうな
882 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:59:26.53
>>878 竹崎の話からつながっているから分りやすいように先駆けの例で言ったが、
>>878で言ったことは全ての相互証人に当てはまることだと気がつかないか?
883 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 21:01:08.05
884 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 21:05:54.09
>>880 >武士厨
なんだ。あんたも見えない敵と戦ってるクチか。
真面目にレスして損したわ。
>>881 東路軍の総人員が約5万7千文永の役も同じだとすれば1万7千?
そうすると文永の役の元軍の3分の1が女真軍という事になるがそんなにいるわけないか
水夫も3倍に増えてるし弘安の役の船は文永の役で使われたものより大きかったのかもね
>>882 相互証人だと、せっかく手柄たてたのに証人が討ち死にしてたなんて
悲劇が頻発しそう。
>>885 大きかったと考えるべきじゃないだろうか。
というのは、上で出ているように数回戦闘しただけで矢が尽きて?
撤退に至った文永の役に対して、弘安の役では九州到着後は
本国からの補給や略奪どころか、上陸すらままならない状況で
2ヶ月も粘っている。つまりそれだけ多くの物資を持ってきている。
ということは、その物資を運べる大きな船を用いたのでは。
文永の船は半年で500隻も作った上に、平底の朝鮮船。
弘安では南宋の戦艦を使っている。当然積載能力は全く違う。
弘安の役も準備期間は1年ぐらいしかないけど
それに江南軍も急造の船が多かったのに東路軍へ旧南宋軍の船がそんなに多く回されたとも思えないし
890 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 21:52:01.58
というか文永の時は殆ど楯突戦だったんとちゃうの?
891 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 22:20:58.05
>>882 >>880では
>そもそも先駆けは死傷率の高い危険な行動だから、誰もが望んでやるものではないだろう。
と書いて思いっきり先駆け前提のみで語ってるよな。だが味方優位の状況の場合は
死傷率の高い危険な行動だから云々は当てはまらない。
死傷率が高いからやりたがらないってのは、鎌倉武士のフリーダムさを侮ってるかも。
894 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 23:48:01.85
戦死ですら武功としてカウントされたからな。
竹崎みたいに土地をロクに持たず後がない奴なら尚更
討ち死覚悟で先駆けしようと思ったんかもな。
戦死はどこでも評価対象だろ
中川秀政みたいに死に方によっては逆に処分されるんだから
日本はむしろ厳しい方でしょ
896 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:07:00.31
楯突戦ではみんなで撃ち合うのに、馳組では一部隊ずつ突っ込むの?
897 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 02:01:26.81
楯突戦という言葉をよく見るが、もしかして楯突くの語源ってこれなん?
898 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 07:47:08.09
899 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 09:25:13.63
騎馬武者が騎射しながら突撃するのがどのタイミングかだよね。
普通は片方の陣形が崩れたら仕掛けるのが常套手段だが
竹崎さんの場合は味方の到着を待たずに、主従だけで突っ込んでるなw
900 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:16:21.52
最近はネトウヨによる珍説が出回ってるな。
もっとグローバルな史観を持たにゃ。
901 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:22:26.11
威力偵察説や棄民説といった海外に行ったら通用しそうもない珍説は
確かに根絶しないとな。
902 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:43:24.68
で、結局文永の役の戦闘はどっちが勝ったのよ
903 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:56:34.28
>>901 でも元史だと日本遠征に関する記述は殆どない(特に実際の戦闘に関してはほんの数行)から
やっぱりフビライにとって、さほど重要な作戦じゃなかったことは確か
元軍が戦略目標である大宰府の奪取を断念し敗退
>>898 中央に出た奴ふつうに射殺されtるじゃん
906 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 17:47:48.29
>>903 そんなに重要じゃない作戦に何故フビライは晩年までこだわったんだ?
907 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 17:58:50.81
>>890 >というか文永の時は殆ど楯突戦だったんとちゃうの?
それは初耳だ。その根拠は何かな?
ひょっとして、蒙古襲来絵詞に、元軍の歩兵と楯突戦で渡り合う徒歩従者達の絵があるとか?
横だけど。
日本は相手の足場と隊列が整っていない上陸時が一番の攻め時だから
船の上からと浜の防風林からの射かけあいが主たる戦いになったのは間違いないと思うよ。
日本軍が博多に退いた後は要塞の攻防になるから、これも矢の応酬だね。
一部で白兵戦もあっただろうけど、
日程的には互いに様子を見てる間に戦闘が終わってるからね。
元軍はどう見ても最初から勝ち目無いな
進軍したらびびって降伏するか少なくとも九州からは逃げ出すと思ってたのかな
910 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 20:34:04.58
>>892 抽象力がないな。
私が「全ての相互証人にあてはまる」と言ったのは:
「証人は人の為ならず、我が身の為なり」
ということが共通するという意味だ。先駆けであろうとなかろうとね。
「証人に立つのはお人好し」と言っていたのでは始まらない。
911 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 20:44:55.43
>>886 >相互証人だと、せっかく手柄たてたのに証人が討ち死にしてたなんて
悲劇が頻発しそう。
確かに、竹崎が手傷の為に死んでしまったら白石は困っただろう。
しかしその場合は、生き残った竹崎勢の中の誰かが代わって証人に立っただろうね。
河原兄弟の兄が、「他の人は家来の手柄を自分の手柄にできるが、我が家は家来がいないから
自分で手柄を立てるしかない」と言っているが、
手柄が一族共通のものならば、証人だってそうだったろう。
言っておくが「相互証人」というのは私の想像ではないよ。
蒙古襲来絵詞の文永の役部分の短い文章の中に「互いに証人に立つ」という言葉が
二回も出て来る。
912 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 20:47:01.65
>証人に立つのはお人好し
話がすり替わってるな。証人に立つのがお人好しなんて誰もそんな話はしてないのに。
自分も手柄を立てるチャンスにも関わらずコンクールの証人として観戦に終始している
不自然な人間のことをお人好しと言ってるだけだろ。軍忠状に見られるように同時に連れ立って戦って
互いの証人になればいいだけなのに。
手柄の証拠って首じゃないの?
914 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:04:29.51
>>908 >日本は相手の足場と隊列が整っていない上陸時が一番の攻め時だから
>船の上からと浜の防風林からの射かけあいが主たる戦いになったのは間違いないと思うよ。
常識的にはそうだけど文永の役の日本軍は大した水際戦闘をやらなかったと思う。
竹崎が箱崎で指示を受けて博多に行ってみると、日本軍の主力は博多の沖浜に集結していて、
一人の大将が遅れて到着するのを待つべきか否かと議論していた。竹崎はしびれを切らして
手勢だけで進発した。
赤坂へ行く途中で、戻って来る菊池勢に会っているから、この時点ですでに赤坂の戦闘は
始まっていた。
>日本軍が博多に退いた後は要塞の攻防になるから、これも矢の応酬だね。
日本軍は博多に退いたのではない。
八幡の蒙古記に「箱崎博多を打ち捨てて」とあるから、自発的に博多「から」撤退したのだ。
915 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:07:25.52
916 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:48:46.40
文永の役の兵力差じゃ水際作戦はむしろ自殺行為だよな。
文永の役の時点では敵の上陸地点はまだ不明(予測はできるが)。
だから水際に兵を貼り付けるより、後方に機動力のある部隊(騎兵)を配置し、
上陸してきた敵を迎撃するのが合理的。
弘安の役の場合、すでに敵の上陸地点が明らかになっているので、そこに陣地(石塁)を
構築し、陣地防御を行うのが合理的。
>>757-759 弓の威力の話だが、モンゴルの矢と日本の矢では日本の矢のほうが重たいから
一概に張力だけでは比べられないぞ
そうなの?
確かに昔の武士達が敵将を仕留める際に使ってたのは相当重い矢だったとは聞くが。
>>
具体的に聞きたいんだけど、当時の日本の矢の重さが何gで
モンゴルの矢が何gか分かってて、日本の矢の方が重いと言ってるの?
921 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 02:45:56.31
>>917 弘安の役でも全然明らかじゃないよ。
実際志賀島に上陸自体は成功してるし
日本側もすぐ予備軍を向かわせてる。
弘安の役の防壁は「上陸可能な箇所を減らす」
っていう効果しかないし、
実際その程度の効果しか日本側も期待してない。
922 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 02:56:19.23
南無八幡大菩薩
923 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 09:42:13.28
>>913 戦国時代だと相手が雑兵の場合は首の代わりに耳とか鼻を削いでたね
924 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 11:09:27.51
パフォーマンスコンクールとは我ながら言い得て妙だと思う。
パフォーマンスを英語の辞書で引くと、上から順に「功績」「能力」「演技」だ。
武士がそのために戦った手柄すなわち功績、それを得る為の武芸すなわち能力、武士達の
もうひとつの動機である自己顕示すなわち演技、
これを一語にして言い表しているのが「パフォーマンス」。
それを互いに競いあったから「コンクール」。
うーん、我ながら言い得て妙。
925 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 14:22:05.40
2ちゃん=自説のパフォーマンスコンクール
2chは匿名だから参戦しない見てるだけ係が居ても戦果の確認できないわけだが
924が気持ち悪い件
結局日本はすさまじく非効率でレベルの低い戦争をやってたってことだな
929 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 22:04:57.26
そんなレベル低い戦争やってた連中相手に数の上で圧倒的有利だったくせに
橋頭堡すら築けずに撤退するしかなかった元って実は相当雑魚なのか?
なんで元軍って味方の座礁船を見捨てて逃亡したん?
それこそ逃亡だからな
撤退ならともかく
932 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 13:01:50.29
>>929 海岸という海岸が弓の射程に入ってるのに上陸しろとか
オマハビーチのレンジャー部隊みたいになるぞw
日本武士は当たり前の力を発揮して当たり前のように勝った。それだけである。
日本が当たり前と考えることが出来ない国のほうが現実にははるかに多いんだと言うことです。
934 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 16:49:54.70
>>932 一回目は元が上陸した上で平原で迎え撃ってるよ。
コンクールくんによるとそこで武士達が散々に打ち負かされたらしい。
935 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 16:55:21.60
936 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 17:59:36.40
>>934 はて、私はパフォーマンスコンクールという言葉で武士の「戦い方」の話をしているのであって、
勝ち負けはまた別問題なのだが。
「散々に打ち負かされた」というのは君の意見なのかな?
あれか、元軍が弱すぎるから武士が互いに力を見せ合うパフォーマンスコンクールと化したわけだな
938 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 18:33:30.65
>>937 はて、私はパフォーマンスコンクールという言葉で武士の「戦い方」の話をしているのであって、
元軍が弱かったかどうかはまた別問題なのだが。
「元軍が弱すぎた」というのは君の意見なのかな?
日本軍は元の集団戦術と鉄炮に弓矢と一騎打ちで立ち向かってボロ負けした。
これが歴史の真実。
940 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 20:04:04.92
文永の役の戦闘過程は史料が少ないから、全貌は掴み難いけど
元軍の軍議の内容といい、味方の座礁船を見捨てて危険な夜間の撤退を強行したこといい、
副司令官が重傷を負っていることといい、橋頭堡を築けなかったことといい、元軍が戦術的に
苦戦し撤退に追い込まれたことだけは確かだな。
日本軍は元の集団戦術と鉄炮に弓矢と一騎打ちで立ち向かって楽勝した。
これが歴史の真実。
943 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 21:55:58.11
>>941 戦術的に苦戦して撤退に追い込まれたのは日本軍も同様。
>>943 元軍が苦戦したのと日本軍が撤退に追い込まれたかどうかは別問題なんだが
945 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 01:00:29.60
そもそも数の上では日本側が圧倒的劣勢だったこと忘れてないか?
>>930 日本の武者に弓矢で何発も打ってハリネズミ見たいな状態にしても
死なないで突撃してくるからビビッて逃げた。
元軍の弓矢が枯れた理由もわかるよな
弓矢を使い果たして尽きたというのは正しいのかな。
高麗史には文永の役で多くの弓矢や甲冑を「棄失し、わずかに回収した」と書いてる。
なんらかの理由で武具を放棄したんじゃないかな。
仮に戦闘で矢を損耗したのなら、矢は使用しても再利用可能だが、元軍はそれを
回収できなかった。おそらく、戦場を制圧することに失敗しているとみていい。
元軍が日本軍を圧するほどの勢いがあれば、矢を回収し、矢が尽きたことを撤退の
口実にしなかったはずだ。
高麗史や節要にも元軍諸軍は一日中ともに戦ったが、日が暮れたから戦闘を解したとある。
この記述だと戦闘の勝敗は決しなかったと思える。
そして、司令官クドゥンの認識は「日本軍を撤退に追い込んだ」のではなく「さらに対峙する
日本軍が増強されている」という認識だった。
そのことは、日本軍を撤退に追い込んでいれば、行わなくても良いはずの強行撤退を元軍が行った
ことでも伺える。近くに日本軍がいればこそ、座礁船を見捨てて夜間の危険な航海に乗り出したのでは
ないかな。
948 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 10:14:58.73
>>947 >なんらかの理由で武具を放棄したんじゃないかな。
高麗軍の副将が溺死するほどの海難だ。物資よりは人命優先。
棄失した兵杖は大部分、海難で水没したと見るべき。
高麗王は「本来はじぶんで準備するべき兵杖ですが、自然災害で致し方ありません。
なにとぞご支給をお願いします」と言っているわけ。
>日本軍を撤退に追い込んでいれば、行わなくても良いはずの強行撤退を元軍が行った
>近くに日本軍がいればこそ、座礁船を見捨てて夜間の危険な航海に乗り出した
日本軍が近くにいれば整然と撤退できるはずがない。
2万の兵を一夜で撤収できたことこそ、逆に日本軍が近くにいなかったことを証明している。
日本軍の奮闘によって、元軍が居座りをあきらめたことは同意するよ。
だからこそ、「どうせ引き揚げるのなら、日本軍がいない今夜がチャンスだ」と判断しただろう。
>>948 >棄失した兵杖は大部分、海難で水没したと見るべき。
確かに1万3千人以上の不帰還者を出したんだから、弓や甲冑はこのときに多くが失なわれた
というのは確かだと思うよ。
ただし、元史にはちゃんと戦闘で矢が尽きたことを記載されている。元軍はその戦闘で
使用した矢を回収することができなかった。高麗史や節要の軍議では対峙する日本軍との
戦闘に危機感を抱いていることが伺うことができる。そして、それらのことから、日
本軍を撤退に追い込んだというのは眉唾ものということ。
>日本軍が近くにいれば整然と撤退できるはずがない。
2万の兵を一夜で撤収できたことこそ、逆に日本軍が近くにいなかったことを証明している。
整然と撤退できていなかったからこそ、日本軍の襲来がない夜間に、座礁船を見捨てて
撤退したんだろう。
日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが敗残兵なら、夜間に
座礁船を見捨ててまで撤退しなくても良かったはずだ。
慶長の役の日本軍でさえ、撤退する際には座礁船の船員を救助して引き上げている。
文永の役の神風はなかったというのが最近の主流だし座礁したのは
不慣れな海域で夜間に出港しようとした事による躁船ミスでは?
951 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 17:54:06.63
>>949 >それらのことから、日 本軍を撤退に追い込んだというのは眉唾もの
「矢が尽きた」だけで水城撤退は無かったと結論するのは無理かと。
元軍の撤退に何かしらん理由をつけるのは元史のお約束、という話もあるし。
>整然と撤退できていなかったからこそ、日本軍の襲来がない夜間に、座礁船を見捨てて
撤退したんだろう。
900隻のうちのたった1隻しか座礁しなかったのだ。
軍事的には大成功と言うべきだろう。
「整然たる撤退」と呼んでなんらおかしくない。
>「矢が尽きた」だけで水城撤退は無かったと結論するのは無理かと。
元軍の撤退に何かしらん理由をつけるのは元史のお約束、という話もあるし。
無理ではない。高麗史や節要にある通り、元軍諸軍は一日中戦ったが、日が暮れたのを機に
戦闘を解した。そして、その後に行われたクドゥンの発言から 「日本軍を撤退に追い込んだ」
のではなく「さらに対峙する日本軍が増強されている」という認識を元軍がもっていたことがわかる。
そして、そのことと元史にある苦戦して軍勢が整わず、矢を回収できなかったという記述は矛盾しない。
>900隻のうちのたった1隻しか
900のうち1隻といえば被害は少なく見えるが、実際は900隻のうち、上陸用のバアトル軽疾舟
や補給その他に利用する汲水小舟を除くと人員の大半が乗り込む大船は300隻だ。
実際、その座礁した船は「大船」であり百人以上も乗船していた。
百人以上も乗船していた大船を見捨ててまで、撤退するというのは「整然たる撤退」
とはいえない。
そして、勘仲記には「少々船が乗り上げた」という伝聞の記載があり、実際に座礁した船が
1隻だったかは不明。
953 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 20:45:16.91
>>952 >「さらに対峙する日本軍が増強されている」
そんなものは、「我々は手持ち兵力の一張羅だが、敵は地元軍だから補充が効く」という
遠征軍の常識的立場を言ったに過ぎない。
>「日本軍を撤退に追い込んだ」のではなく
で、その撤退しなかった日本軍はどこにいて、何をしていたの?
夜通し撤退軍を攻撃していたのなら、それを冒してほぼ完全撤退した元軍はなお凄い。
なにもせず撤退軍を温かく見守っていたのなら元軍にとってはいないのと同じだ。
いずれにしてもあまり説得力は無いね。
ねぐらのある水城まで帰って疲れを休めたというのがよほど納得できる。
>人員の大半が乗り込む大船は300隻だ
それはその通りだが、300隻としてもそのうちの1隻は0.3%だ。
戦争というのは常に損害を見込んで行われるのだから、0.3%という損害はゼロに等しい。
また暗夜に、座礁した船に近づくのは自分もまた座礁する危険がある。
見捨てるのは戦争の非情さだろう。
だいたい、無線も無いのに、座礁したことに気づいたかどうかも怪しい。
繰り返すが、0.3%の損害で2万の兵を水際撤収するのは大成功だ。
954 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 20:49:25.06
>>953 あ、この場合は戦闘員の話ではないから2万人でなく3万5千人だね。
3万5千人のうち100人はやはり約0.3%
蒙古軍の鮮やかな退却はもっと評価されるべき
>>953 そうなると未帰還者1万3500人の多くは戦死したという事か
3〜4万の兵の内1万3千つまり三分の一が戦死したと
時代や戦い方によっても変わるし一概には言えないが軍事の世界ではよく戦死者と負傷者の
発生比は1:3になると言われていている
兵力の三分の一を失いおそらく残った兵の過半も負傷した状態で漢・蒙古・朝鮮・女真の寄せ集めの
軍がはたして整然と秩序を保って行動できるだろうか
世界中で激戦を戦ってきた元も、2度とも遠征軍を送った帰還者の少なさに流石に驚いたんじゃないか?
日本にはどんな化け物がいるんだと。
元も日本も懲りずにお互いに何回も攻め込もうと計画する征服戦闘国家。
>>953 >そんなものは、「我々は手持ち兵力の一張羅だが、敵は地元軍だから補充が効く」という
遠征軍の常識的立場を言ったに過ぎない。
言ってる意味がよくわからないが。戦闘後のクドゥンは一言も「日本軍を撤退に追い込んだが、
今後の増援が見込まれる敵軍と戦うの不利だから撤退しよう」などとは言っていない。
「敵軍が増えている「現状況下」で、戦闘で疲弊した自軍が敵と戦うことは不利だから撤退する」と言っている
のだ。遠征軍の常識的立場から今後を見通して撤退を主張しているわけではなく、現在の戦況を踏まえての発言だ。
>また暗夜に、座礁した船に近づくのは自分もまた座礁する危険がある。
見捨てるのは戦争の非情さだろう。
そういうことだ。見捨てざるを得ないほど、元軍は「夜間の撤退」に拘った。
なぜか?日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが
敗残兵なら、夜間に無理に撤退を強行して座礁船を見捨ててまで撤退しなくても良かったはずだ。
おかけで、撤退途中に暴風雨に遭遇している。戦場から早く離脱したいがために天候を見計らいも
せず撤退を強行した結果だ。史上最低の撤退だよ。
960 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 02:24:17.04
ていうか緒戦で双方ともに被害があったから
日本側→兵力差から考えても野戦は不利だし籠城しようぜ。
元軍→予想以上に消耗したぽ。もうこれ以上進軍は無理ぽ。
って感じでしょ。
元軍は相当の被害出したから水城や太宰府の攻略を断念して撤退
一方の武士達も被害が大きかったから夜間撤退する元軍を襲うチャンスを逃した。
961 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 18:05:56.69
>>959 >「敵軍が増えている「現状況下」で、戦闘で疲弊した自軍が敵と戦うことは不利だから撤退する」と言っているのだ
ソースは高麗史金方慶伝しかないのだよ。金方慶伝になんと書いてあるか。
「策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也」
疲乏之兵を策して日に滋(ま)すの衆に敵するは完計に非ざるなり。
敵軍の数は日に日に増えると言っているのだ。現状ではなく将来の見通しであることは明らか。
まさに君の書いたように
「今後の増援が見込まれる敵軍と戦うの不利だから撤退しよう」
が正解だ。
>日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが 敗残兵なら、
>夜間に無理に撤退を強行して座礁船を見捨ててまで撤退しなくても良かったはずだ
だから、撤退しなかった日本軍はどこにいて何をしていたの?と聞いている。
962 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 18:10:12.29
>>956 >そうなると未帰還者1万3500人の多くは戦死したという事か
未帰還者1万3500人の多くは成功した撤退作戦の後に起こった海難のために溺死したということだ。
963 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 22:05:18.92
>
>>961 なんかアク禁くらった。めんどくさいが携帯から。
そのクドゥンの発言の前に金方慶は何と言ったか?
「我が師少なしと雖も、すでに敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、
わい陰の背水なり。請う、復た戦わん」
と言っている。兵法の「即ち孟明の焚船、わい水の背水なり」は劣勢の軍隊が用いる兵法であって
「敵軍を城に追い込んで用いる」兵法ではない。そしてそのことは作戦失敗、要するに
戦闘で思うように戦果を挙げられなかったことを金方慶自身が認めているのだ。
そして、その失敗を受けて「復た戦わん」と再戦を望んでいるのだ。
少なくとも、それへの回答は「日本軍を撤退に追い込んだが、
今後の増援が見込まれる敵軍と戦うの不利だから撤退しよう」
とはならないことだけは確かだ。
そして、金方慶の「焚船」発言からもわかるように、元軍は上陸地点no
早良方面から前進できていなかったことが伺える。
日本軍を蹴散らして、博多等を占領して水城の攻城を窺う立場であったら
「焚船」などという発想は沸かなかったはずだ。これらからも、元史にあるとおり
「官軍整わず」や「矢が尽きた」から矢を回収できなったという記述とぴったり
合う。戦場の制圧に失敗した。それが元軍の当時の姿だった。
>だから、撤退しなかった日本軍はどこにいて何をしていたの?と聞いている。
少なくとも、元軍と対峙していたことは間違いない。元軍が前進できないでいる状況と
元軍が日本軍の襲来がない夜間に撤退していることからも明らかだ。
日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが 敗残兵なら、
夜間に無理に撤退を強行して座礁船を見捨ててまで撤退する必要性がなかったにも関わらず
元軍はそれを強行した。それも天候を見計らうこともせず、味方の百人以上の兵を見捨てて
逃亡する必要性はなかった。
964 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 17:36:42.16
>>963 >少なくとも、それへの回答は「日本軍を撤退に追い込んだが、今後の増援が見込まれる敵軍と戦うの不利だから撤退しよう」
>とはならないことだけは確かだ。
意味不明だが、「目の前で日本軍どんどん増えてる」を撤回するのなら、それでいいのだよ。
>金方慶の「焚船」発言からもわかるように、元軍は上陸地点の早良方面から前進できていなかったことが伺える。
>日本軍を蹴散らして、博多等を占領して水城の攻城を窺う立場であったら
なるほど、君の考える戦闘経過がわかった。
元軍は博多に到達せず、上陸した赤坂山西方の海岸から乗船して撤退した。
日本軍は水城に撤退せず、博多に居座った。
ということでいいかな?
965 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 19:31:06.26
>
>>964 >意味不明だが、「目の前で日本軍どんどん増えてる」を撤回するのなら、それでいいのだよ。
意味不明なら、もっと明瞭に要点をまとめて答えてあげよう。
日本軍水城撤退説の矛盾点
1.日本軍を撤退に追い込んだはずなら、元軍が軍議で「焚船」など劣勢の軍隊が用いる兵法を用いる案が
提案されているのは矛盾している。
2.焚船発言からわかる通り、元軍は上陸地点から前進できていなかったことが伺える。なぜなら、日本軍を蹴散らして
上陸地点より数キロも前進し、博多等を占領していたなら、はるか後方の自らの軍船を焚船しようという発想は湧かないはずだ。
3.元史にある「官軍整わず」は「焚船」を主張するなど切迫した元軍軍議内容と一致しており、また「矢が尽きた」という記述は
使用した矢を元軍が回収できなかったことを案に示している。戦闘で勝利していれば、戦場の矢を回収できるからだ。この記述も、前進できず上陸地点付近での軍議と思われる金方慶伝
の内容と合致している。
4.実録である『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』など、実際にこの戦いに参加した武士たちは元軍の上陸地点付近の戦闘のみを記述している。
これも、上記にみられる『高麗史』や『元史』の内容と合致している。
5.日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが 敗残兵なら、
夜間に無理に撤退を強行して座礁船を見捨ててまで撤退する必要性がなかったにも関わらず
元軍はそれを強行した。それも天候を見計らうこともせず、味方の百人以上の兵を見捨てて
逃亡する必要性はなかった。
6.博多など数万人もの人口を有する大都市で誰も元軍が博多を占領したとは書いていない。
7.唯一、日本軍が博多を捨てて敗走したとしている『八幡ノ蒙古記』は八幡神の神徳を主張することを
目的に作成されたもので、実際、八幡神が元軍を蹴散らすというストーリーになっている。
また、戦闘経過にも矛盾点があり、竹崎季長が描かせた蒙古襲来絵詞に描かれた竹崎の戦闘経過とは別に
竹崎が『八幡ノ蒙古記』のみに描かれた戦闘に参加していたりする。
966 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 20:01:43.84
俺は元軍の進撃は食い止めた(烏飼潟からは太宰府へ南進した形跡が無い以上明らか)けど
こちらも被害が大きかったから一度水城に引き返して体勢を整えた説を推す。
967 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:09:05.49
>>965 突っ込みどころが多くて面白そうだが、その前に、君は
>>959で、こう書いている。
>戦闘後のクドゥンは一言も「日本軍を撤退に追い込んだが、今後の増援が見込まれる敵軍と戦うの不利だから撤退しよう」
>などとは言っていない。
>「敵軍が増えている「現状況下」で、戦闘で疲弊した自軍が敵と戦うことは不利だから撤退する」
>と言っているのだ。
つまりクドゥンが「日本軍目の前でどんどん増える」と言った、と書いている。
これについて私が金方慶伝の文章を示して、クドゥンが言った「日本軍増える」は将来の見通し
であることを示したところ、
君はその後は「目の前で日本軍どんどん増える」説を言わなくなった。
この説は撤回したのか? まずそれをはっきりしようよ。
こっそり引っ込めるのは議論の仕方としてよくないね。
968 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 00:43:24.04
>>967 それは俺の誤読だと認めるよ。それは勘違いした俺が素直に悪かった。
それと
追加ね。
日本軍水城撤退説の矛盾点
8.なぜ、元軍が日本軍を水城へ追い立て博多を八幡ノ蒙古記の言うように焼き払ったたのなら、復興に関する資料がないのか。
9.なぜ、数万人も住んでいた博多を占領したという史料が八幡ノ蒙古記以外にないのか。
10.なぜ、八幡ノ蒙古記のいうように、元軍が日本軍を破り水城に撤退する日本軍を追撃しながら、名のある武士の戦死者が
一名もないのか。
明快な回答をよろしくね。
969 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 13:53:18.23
>>968 手近な「追加」から。
>8 筥崎宮が再建されたという社伝はあったんじゃないか?
>9 その数万人が今日に残る資料をいっさい残さなかったからだ。
いくつも資料が残っているのに、共通して占領や焼き討ちのことを書いてないというのなら別だが。
>10 八幡ノ蒙古記は元軍が軍として日本軍を追撃したとは言っていない。
劉を含む100人ほどの小部隊がちょっかいをかけただけだ。それも劉がやられて頓挫した。
なぜ元軍は追撃しなかったか。それは両軍が激戦の末に交スイ状態に陥った、すなわち双方が
戦意を失ったからだ。金方慶伝に「暮に及びて即ち解く」とあるのがそれだろう。
その状態にまで持って行った日本軍は立派だ。ただし交スイ状態の結果は日本軍は引き揚げ、
元軍は居残ったから、元軍が博多箱崎を無血占領する結果となった。
いつ上陸して
いつ博多占領して
いつ撤退したのさ
971 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 16:20:37.84
1. 日本軍を撤退に追い込んだはずなら、元軍が軍議で「焚船」など劣勢の軍隊が用いる兵法を
用いる案が提案されているのは矛盾している。
「焚船」は故事来歴を用いて心構えを説いているに過ぎない。本気で船を焼こうというのではない。
2. 上陸地点より数キロも前進し、博多等を占領していたなら、はるか後方の自らの軍船を焚船
しようという発想は湧かないはずだ。
答えは1. に準ずる。蛇足だが船は海上にあって航行できる。博多で焼こうと思ったら回航すれば
よい。
3. 元史にある「官軍整わず」は「焚船」を主張するなど切迫した元軍軍議内容と一致しており
元軍に切迫した、あるいは悲観的な空気があったことは全く否定しない。だから君がそれを
力説しても意味がない。
4. 実録である『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』など、実際にこの戦いに参加した武士たちは
元軍の上陸地点付近の戦闘のみを記述している。
それらは全て、特定の勲功に関連する一局面の戦闘を述べたものだ。その他に戦闘は無かったと
いうことが証明されない以上、それらを二つ三つ集めても戦争の全体経過を知ることはできない。
972 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 16:21:06.89
5. 日本軍が博多湾から15km近くも離れた水城におり、それもそこにいるのが 敗残兵なら、
夜間に無理に撤退を強行して座礁船を見捨ててまで撤退する必要性がなかった
日本軍が水城まで撤退したというのは現在我々が知っていることだ。当時の元軍がそれを知る術は
ない。また新手の軍隊が夜襲して来るかどうかを知る術もない。
他国に上陸して、決定的勝利を得られないまま暗夜に至った遠征軍の心理状態を考えるべき。
6. は重複するので省略
7. 『八幡ノ蒙古記』は八幡神の神徳を主張することを目的に作成されたもので、実際、八幡神が
元軍を蹴散らすというストーリーになっている。
本当にそうならば、八幡神のご神体が見捨てられた箱崎から遠路を避難するという、神様によとって
情けない話をもっとも具体的かつ詳細に述べるのはなぜか。
ついでに言えば筥崎宮は決して武士社会と対立するものではなく、日本軍の司令部が置かれたこと
でもわかるように、体制側の機関である。日蓮宗と混同してはいけない。
973 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 16:24:44.11
訂正
神様によとって → 神様にとって
博多を占領したのに
夜には船にもどっているだと?
>>972 すごい強い敵が攻めてきて、
大ピンチに陥ったけど
神通力で大逆転
神様すげえ って言うありがちなストーリなんだろ
八幡愚童訓(子供でもわかる八幡様ものがたり)
という名前からして内容をおして知るべき
>>969 どうやら「箱崎宮の焼失」を元軍博多占拠説の根拠の一つとしているようだが
根拠としては弱いぞ。当時の箱崎宮は土地の領有をめぐって訴訟を抱えていて
元寇以前にもたびたび火災焼失してる
というか、そもそも「八幡ノ蒙古記」にも箱崎宮が元軍によって焼かれたとは書かれてないし
当時の九州の人口ってどんなもんだ?
日本全体は700万±200万くらいの推定多いみたいだが
978 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 17:47:37.54
>>976 >そもそも「八幡ノ蒙古記」にも箱崎宮が元軍によって焼かれたとは書かれてないし
なるほど、八幡ノ蒙古記を信用するわけか。それならこういうのも信じてもらわなきゃな。
「逃げ来しあとをかえり見れば、 在々所々、猛火おびただしく燃え上がりけり、これまさしく
賊のしわざと見る、恐ろしさ言わんもおろかなり、良き折りにしも率てたてまつり来しと、 皆人々
嘆きの中にも喜び合えり。」
これは博多から十キロ以上東の上山極楽寺から博多方向を振り返っている場面だ。
たしかに筥崎宮が焼かれたとは書いてないが、おびただしい猛火が上がったことは書いている。
979 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 17:52:20.99
>>978 訂正
率てたてまつり来し → 出でたてまつり来し
>>978 いや、箱崎宮が焼失したのは事実だし、誰もそこは否定していない
問題なのは誰が放火したかだろ。コピペだけどとりあえず貼っとく
335 名無しさん (2012/03/31(土) 06:39:46 ID:x8NmMH9ZU.)
筥崎宮に放火した疑いが一番濃厚なのって筥崎宮関係者だよ。
中世史では為政者と揉めた神社仏閣が関係者の放火で焼失ってかなり頻発してるんよ。
燃やしても再建義務があるのは為政者の方だし、宗教関係者からすれば神様仏様を
人質にとってるようなもん。
筥崎宮も当時土地の領有を巡って係争中で、何度も火災焼失をくり返していた。
982 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 17:39:01.19
>>981 困ったね。
八幡ノ蒙古記は筥崎宮が燃えたと言っているのではなくて、逃げて来た博多・箱崎のあたりで
「あちらこちらに」猛火が上がっていた、と言っているのだが。
983 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 18:21:47.87
補足
問題は筥崎宮が焼けたかどうかではなく、博多・箱崎に元軍が入ったかどうかだろ?
八幡ノ蒙古記はあちらこちらに上がる(複数の)猛火を見て、蒙古兵のしわざに違いないと言ってるわけだ。
984 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 08:47:54.11
大陸の兵は訓練もしていない農民を連れてきて戦わせているから弱いんじゃね?
日本の武士団は日ごろから訓練しているし。
985 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 18:39:24.81
>>984 蒙漢軍と言うのは金国から蒙古に寝帰ったプロの戦闘集団だよ
そんな兵に農具持たせたなら、それも無茶な話だな
987 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 22:40:24.51
農具持ってたのは南宋の連中だろ
一回目の戦略的撤退は
熟練した指揮官じゃないとできない
いい判断だったと思うよ
帰り道で台風に遭ったけど
元軍は日本はパフォーマンスコンクールしてるだけでガチの戦争したことない雑魚で
本気で攻められたらすぐ降伏すると思い込んでた