「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓

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1日本@名無史さん
 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。

 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。

http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html

上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
2日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:32:38.98
3日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:28:30.25
別にこの記事の時代に、もう日本の国号使って居ても、別段驚かないけどね。

小野妹子が隋に持っていった、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のいわゆる聖徳太子の国書が607年で、隋からの答礼使裴世清に持たせた返書「東天皇敬白西皇帝」がその2年後だし。

東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。
4日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:00:57.37
君は何を言っとるのかね。
同時代の記録として出てきたことに意味があるわけ。


>「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」

これのどこに「日本」と書いてあるのかね。

>東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。

倭人が日本と言い出したのは7〜8世紀のはずであるが、
君は、倭の人々は古代から自分たちの国のことを日本と呼んでいたというのかね。
5日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:14:16.38
日本語の理解出来ない奴だねぇ。もう少し頭使ってちゃんと読めよ
6日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:23:08.26
7日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:32:08.68
また意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックでわずか15年の間に大急ぎで改名したんだろうな。
8日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:36:27.79
全文をみないで思いつきかきこだが・・・・
「日本餘●(●は へんに焦) 拠扶桑以逋誅」の日本って「国号」というより
もっとくだけた異民族の俗称が入りそうな文脈なんだが。

白村江の戦いの後、あわてて国号をたてて、その直後に旧敵国側の人間が
日本の立場を尊重して日本の新国号を御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。

ひょっとすると「日本」というのが当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?
で、倭国政府は大陸や半島での「日本」とい「倭」の俗称を何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?
9日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:44:48.38
日本餘噍拠扶桑以逋誅

この墓碑の全文、または全面写真てないかね?
簡体字でもいいんだけど。
10日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:49:21.21
「天皇」に関しては天寿国周長があるから、この時期に使われていてもそんなに驚かないんだけど
「日本」というのは意外だったな。
11日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:56:04.55
>>8
墓の主が百済の人間だからこっそりと日本に義理立てした可能性も無くはない。
墓誌は埋めてしまうから役人の目に触れる危険も無いだろう。
12荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 19:56:40.53
日本餘噍拠扶桑以逋誅
日本は餘噍、扶桑に拠し、以って誅を逋れる。

日本は生き残り、扶桑(大海の中)に拠し、以って誅を逃れる。
この10文字だけで読めば、こんなところかな。
13日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:01:55.40
>>11
ああ。旧百済の人間として、百済を援助してくれた倭が海の向こうで「日本」とか名乗って健在なのを内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。

どのみち朝日の記事だけじゃ何もわからないや。
14日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:04:43.45
ひょっとすると日本に亡命した百済貴族が、唐に帰服したこの墓主に対して縁故を辿って
天武政府の依頼を受けて、「今度"日本"という新国号にしました。この新しい名前で唐との外交関係を改善できないか
瀬踏みしてくれませんか?」とか働きかけていたのかも。

いかん。もう小説の世界だなあ(w。
15日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:24:53.98
「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読む。

「日本国の残余兵は、国内の東方に逃亡した」という意味。
扶桑(ふそう)とは日本の東域(正確には関東方面)のこと。
16日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:27:59.70
>>15
そうかい。知ったふりの、いいいい加減説・断言氏。

●扶桑(ちゃんと調べてみたよ)
原義は、東海の日の出るところにあるという巨大な神木。
転じて、東方海上にある島国。扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。
17日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:47:00.74
>>16
調べたら何でも分かると思っちゃいかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ不安定な言葉だからな。
18日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:05:33.67
>>17
日本人がいう扶桑じゃないぜ。

日本国内純正仕様解釈ではなく、
「7世紀の中国人」が扶桑といったら何の意味があるかの問題だ。
この文章では、「大海の中の島」という意味で使われているのは明白だ。
わるあがきをするな。

それにしてもどうだっていいことで衒学をするもんだな。
なーにが、「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読むだ。
俺の翻訳のほうがよっぽど分かりやすいだろが。しゃらくさい
19日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:09:04.55
>>15
噍は「噛む」という意味のやうですが。
20ちっ!:2011/10/23(日) 22:32:37.45
>>19
漢字というものは複数の意味をもつ。
文意・文脈から、どの意味を採用するかが解読というものだ。
漢字のもつ別の意味を提示したからと、それがどうした。
そこまでやるならば、
きみが提示した意味で解読した文章を提示してみ。

議論のイロハから教えなくちゃならんのかい?
21日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:45:25.05
>>20
>漢字というものは複数の意味をもつ。

噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあればありがたい。
「この文はこういう意味だろうから、
この漢字にはこういう意味もあるはずだ」なんて思い込みはナシで。
22日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:53:13.15
扶桑=日本、の意味となったのは、平安・鎌倉時代以降だろうな
23日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:54:09.17
伊作が絡むと、どこでも品が落ちる
24日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:45:31.09
「日下(くさか)」とは関係ないの?
25日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:43:56.15
いつから「倭」の国が「和」の国になったの?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1313686331/
26日本@名無史さん:2011/10/24(月) 02:19:27.63
>>10
天皇号の方が先に成立しているでしょう。
近頃はまた、そう言われているのでは?
結局、昔から言われているとおりだったのでしょう。
27日本@名無史さん:2011/10/24(月) 02:21:10.86
>>24
それは枕詞に由来すると考えられている。
28日本@名無史さん:2011/10/24(月) 06:19:05.73
>>21
>噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあれば………

「敗残兵」などという意味があるとは書いていない。「生き残った」だ。
「余噍」をどう解釈するか。
ほかに解釈の仕方があればそれを出すのが意見交換、討論というものだ。
29日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:07:50.98
日本ぐらいは使っててもおかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ

おまいらも「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、あれは「むこう岸」という意味だ
つまり「ひノもとノくに」とは半島倭人からすると、日本海を見ながら「むこう側の本国」=『ひの本の国』だということ
和語の音に当てる漢字を倭→和と改めたように、「ヒに日をあてた」ってわけだよ















さっき思いついたんだけど、一瞬でもナットクしそうになった方は挙手を願いますw
30日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:35:19.12
>>29
ノシ

レスを考えながら読んで損したw
31日本@名無史さん:2011/10/26(水) 22:43:22.41
>>5
そんなに悔しかったのかね。
32日本@名無史さん:2011/10/31(月) 20:37:16.09
国内向けに使われていたのかな?
中国向けには倭国でさ
33日本@名無史さん:2011/11/05(土) 23:28:13.04
>>32
ちがう
中国向けに「倭」だったのを中国向けに「日本」に変更したってこと。
国内ではヤマトのままでかわりない。
34日本@名無史さん:2011/11/09(水) 20:36:39.42
墓碑の全面写真見たけど、
扶桑の「扶」の部分は欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは読めんぞ。
35日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:34:41.49
670年が近江令、日本建国の年だと思う。
36日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:04:31.23
>>35
たかが法律だろ
なんで日本がなかった
ことになるんだよ
37日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:15:20.20
禰軍は665年、唐の使者として倭国に来た。
日本書紀にしっかり出ている。
38日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:55:19.09
新羅の記録では、倭が日本になったのは670年。
禰軍は672年まで新羅にいた。
39日本@名無史さん:2011/11/17(木) 07:24:17.11
倭→日本改名は674年3月と見る。
40日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:07:48.25
天武天皇3(674)年3月、対馬で銀が採れたが、これは「倭国で初めて」のことだと日本書紀は記している。
この「倭国」は狭義の「倭国」=奈良県でなく、明らかに対馬を含む広義の「倭国」=「大倭国」であるので
この時はまだ「日本国」でなく「倭国」だったが、
この事件を契機に「倭国」は「日本国」に変わったのではないか。
根拠は三つ。
@天武天皇4(675)年1月に奈良県を「倭」でなく「大倭」と記した記事が現れる。
狭義の「倭国」=奈良県を「大倭」と記した例は宣化天皇以前に数例しかない。
これは広義の「倭国」の国名変更を暗示している。
A天武天皇3年は、前後の年に比べて極端に記事が少ない。
「日本」を神代に遡らせるため、国名変更の記事を省略したか。
B天武天皇4年は祝賀ムードが高まり、新羅の王子忠元や耽羅(済州島)の王姑如が日本に来ている。
ここで両国に国名変更を伝えたのだろう。
41日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:24:49.44
ていうか、倭も日本もやまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には新しい表記法が増えたということ。
まあ確かに奈良時代以降、対外的にも日本全国としての国名を「日本」としている節はあるけど、
一方で称徳天皇の詔や万葉集など、奈良県のやまとのことを「日本」と表記している例もある。
42日本@名無史さん:2011/11/19(土) 13:18:07.65
701年に対馬で金が採れた(実は嘘だったらしいが)とき
途絶えていた元号を復活させて「大宝」と改元。
その後元号は途絶えることなく「平成」に至る。
674年の銀も、全ての神々に捧げ全ての官吏に配るという大騒ぎなのに
改元記事が無い。
国号変更したなら、黄金のジパング=ジャパン=ジッポン=日本の出発点か。
43日本@名無史さん:2011/11/19(土) 17:19:16.03
「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」

でも今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒「伽耶諸国(かやしょこく)」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」

に成っている件について…。
これも朝鮮人どもの影響だろうか…??
44日本@名無史さん:2011/11/19(土) 18:42:51.33
前の読みの方がコリア語に近いのにねw
45日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:16:02.87
まぁ百済をどうやってもくだらとは読まないのは確かだから別に良いけどね。
百済観音とかもひゃくさいかんのんと読む人が増えて話が通じないとかなりそうだな。
46日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:37:40.95
新羅→シルラ
百済→ペクチェ
高句麗→コグリョ
任那→イムナ

コリア語だとこうだったっけ?
47日本@名無史さん:2011/11/20(日) 03:21:23.29
倭から日本ってのは、白村江の敗戦のあとに
王朝交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ
48日本@名無史さん:2011/11/20(日) 08:46:06.33
コリア語は新羅語がもと
日本語は高句麗語に近いらしい
49日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:10:04.40
「新羅」は「シラギ」、「百済」は「クダラ」、「任那」は「ミマナ」なのに、
なぜ「高句麗」は「コマ」じゃなくて「コウクリ」なの?
50日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:23:26.97
慣用かな?
ただ、たしか日本書紀とか六国史に「高句麗」は出て来ないよ。
「高麗」と表記し「コマ」と訓んでるはず。
51日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:30:45.51
>>50
山梨には巨摩(こま)っていう地域があるんだけど、高麗からの渡来人が住んでいたから「こま」って読むんだよ
って中学で習った。
52日本@名無史さん:2011/11/20(日) 14:15:02.91
>>43
任那の件はともかく(これはかなりクロ)白村江は
向こうの息がかかっているのならそっち読みすると思われ
53日本@名無史さん:2011/11/23(水) 00:26:11.98
【歴史】百済滅亡後の渡来難民が古代「倭国」を「日本」に変えた★2[11/21]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1321889143/1-4
54日本@名無史さん:2011/11/23(水) 08:50:32.57
天武は673年、耽羅の使者に革命宣言してる。
55日本@名無史さん:2011/11/23(水) 09:05:32.54
耽羅からの渡来人の坂上田村麻呂を多賀城に遣わし、蝦夷を討ったのだろう?
56日本@名無史さん:2011/11/23(水) 13:09:14.47
済州島は今は韓国だが
意外に日本と縁が深い。
57日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:00:04.28
>>43
「しらぎ」とか「くだら」ってのは、あくまでも
倭国側での読み方で
当時、彼らが何というふうに
自分たちの国名を読んでいたのか、分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。
58日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:03:55.33
>>48
日本語は倭語だよ、普通に。
高句麗語ってのは、高句麗の王族が扶余だったから
扶余語だろうね、おそらく。
だとしたら、高句麗語ってのは、女真語の祖語に近いと思われ。
59日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:07:14.15
>>55
坂上田村麻呂は、東漢氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。
60日本@名無史さん:2011/12/02(金) 11:29:31.42
田村麻呂は東北をいじめた日本国の将軍。
61日本@名無史さん:2011/12/02(金) 11:34:26.31
>>43
それ本当なのか?
百済を、くだらと読まなくなってるわけか。
教師は在日韓国系が多いから
むかしはくだらを誇ってたのに
自分達は滅ぼした側だと気づいたら、とたんにくだらを消しにかかる。
屑野郎。
62日本@名無史さん:2011/12/02(金) 11:36:24.77
>教師は在日韓国系が多いから

ソースきぼん
63日本@名無史さん:2011/12/02(金) 14:10:02.29
>>57
「シルラ」「ペクチャ」が正しい。それが一番近い。
64日本@名無史さん:2011/12/02(金) 15:52:10.00
>>63
それって今現在の韓国語読みだろ。

日本が何を持って「くだら」「しらぎ」という
仮名を振っていたかがよく分からんが。
音読みとも韓国語読みとも違うんだよね。
65日本@名無史さん:2011/12/02(金) 19:04:25.09
「失われた言語」とかって解釈すると胸熱
66日本@名無史さん:2011/12/03(土) 02:56:15.67
>>62
思想と思考があちらの人って意味じゃ?
67日本@名無史さん:2011/12/03(土) 05:52:28.92
「しらぎ」「くだら」と読むよりも「シルラ」「ペクチャ」と読むほうが原音に近い。
「日本」は「イルボン」が歴史的には正しい。
68日本@名無史さん:2011/12/03(土) 05:59:11.73
>>61
さすがに邪推。それだとしらぎ→しんらの説明がつかんぜよ。

>>64
百済語かも?
69日本@名無史さん:2011/12/03(土) 06:04:35.03
百済語なら韓国語だから「ペクチャ」に近い発音だったはずだ。「くだら」ではありえない。
とにかく韓国の人が嫌う読みはやめよう。
70日本@名無史さん:2011/12/03(土) 16:02:26.71
ウィキペディア
高句麗語

中国史料の記述によれば、扶余・東沃沮・ワイ・百済(支配層)の各言語とは同系とされ、
中国東北部から朝鮮半島北部にかけて夫余系諸語ともいうべき言語グループを形成していたらしい。
この言語グループは沿海州のユウ婁とは、「容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。
また、朝鮮半島南部に広がっていた韓系諸語(馬韓・弁韓・辰韓ら古三韓の言語。
後の百済の被支配層の言語や、朝鮮語の直系の祖語にあたる新羅語もこのグループに属する)
とも言語的な異同が著しかったようである。
再構された高句麗語語彙と周辺言語との比較の結果、高句麗語は中期朝鮮語よりも上代日本語との方が、
類似語が見出される割合が大きいという研究もある。
また日本語は、高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。
71日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:15:30.86
>>69
百済語の「クンナラ」から来てると言われてる。ネーデルランドがオランダになったのに似ている。
72日本@名無史さん:2011/12/04(日) 09:20:26.14
>>71
百済は現地では「ペクチャ」に近い発音だったはずだ。
73日本@名無史さん:2011/12/04(日) 09:40:19.89
百済は貴族と庶民は別の言語だったらしいが?
74日本@名無史さん:2011/12/04(日) 09:44:30.33
>>73
それでも韓国語にはちがいない。
75日本@名無史さん:2011/12/04(日) 09:49:08.69
百済の王は高句麗と同じく満州の夫余系。
76日本@名無史さん:2011/12/04(日) 11:32:28.52
>>72
「くだら」は新羅、安羅、加羅とかと同じ流れで「くだ」羅だったんだろうな。
「百済」は、(言い方は変だが)百済の自呼称だろ。
77日本@名無史さん:2011/12/04(日) 14:20:27.47
>>72
韓国語で「クンナラ」が「大きい国」の意味で、百済人が自分の国をそう呼んでいたのを、国名と勘違いした日本人が
「くだら」を百済の読みとした。という説だから現地での「百済」の発音とは関係ない。
オランダも本当はネーデルランドなのに日本人の勘違いでオランダになった。
78日本@名無史さん:2011/12/04(日) 14:41:58.57
今の韓国語は新羅語がもとだから、注意しないと。
79日本@名無史さん:2011/12/04(日) 14:51:11.53
隋書によると、百済の初代王は仇台という。
仇台の国でクダラかもよ?
80日本@名無史さん:2011/12/04(日) 16:03:50.20
斉の国からの渡来人である全国100万人の斉藤さん、お元気ですか?
斉の国は、山東半島から朝鮮半島、沿海州から日本列島の日本海側にかけて、百あまりの小国が分立し、
交易を通じ緩やかな同盟関係を維持しながら半農半漁で生計を立てていたのだろう。
その総称が百済と呼ばれ、その都、百斉の奈良、「ひゃくなら」、「くなら」、「くだら」となったと思われます。

九州の磐井も百済、海洋民族である斉(いわい)の一国であり、新羅の斉人と結託、畿内勢力と対立したため、
毛野氏によって討たれたのだろう。それが磐井の乱と呼ばれています。
81本田:2011/12/05(月) 00:14:20.30
木屋の資料館3.2C
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya32_c.htm
「三国史記〜新羅本紀」文武王10(670)年、倭国、あらためて日本と号する。自ら言う。日出る処に近い、以て名とする。

以後(統一新羅は)、倭を「日本」と表記した。
82本田:2011/12/05(月) 00:51:11.39
【勇猛】悪源太義平U【果敢】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292521488/
>220 :日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:03:51
> >>214
>
> その言諸夏また秦、韓に参ずの遺俗に云う
>
> 晋の時、高句麗すでに遼東を略有し、百済また遼西に拠有し、晋二郡を平らす。
> 今柳城・北平の間なり。
> 晋より以後、諸国を呑併し、馬韓の故地を拠有す。
> その国東西に四百里、南北に九百里、南を新羅と接し、北を高句麗と千余里を拒す。
> 晋より蕃爵を代受し、自ら百済郡を置く。
> 百済、即ち後漢末の扶余王尉、仇台の後、後に魏の時、百済王、上表して云わく
> 「臣、高麗と扶余を先ず出づ。初めて百家海を済し、因みて百済と号す。」
>
>
> その言語は諸夏、また秦や韓にかかわっていた遺流民の言っていたものである。
>
> 晋のときに高句麗は遼東を領有し、百済は遼西を領有していたが、晋はこの二郡を平らげた。
> 今柳城・北平の間の領域である。
> 晋より後、百済は、諸国を併呑し、馬韓の故地を領有した。
> その国は、東西に400里、南北に900里に及び、南を新羅と接し、北は高句麗とおよそ1000里の間隔があった。
>
> 晋から外国を領有するものという位を代わり受け、みずから百済郡を名のった。
> 百済は、後漢末の扶余王尉、仇台の末裔で、魏のとき、百済王は上表してこのように言った。
> 「私たちは、高句麗とともに扶余から出て、初めてたくさんの部族のものと海をわたった。
> だから、名付けて百済と号している」
>
> むずい・・
83本田:2011/12/05(月) 07:00:45.66
藤原氏
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/ka-c8-fujiwara.htm
藤原氏は中臣鎌足が賜姓してからの一族と云われます。
初代が藤原鎌足です。

ところが、中臣氏はその後も別系で存続しているのです。

思うに、中臣氏と藤原氏は別系ではないかと考えられます。
鎌足は、中臣氏に一旦入り婿し、その後、賜姓して分派したと。
と云うのも、中臣氏は、元来男覡として祭祀を司る一族ですが、
藤原氏にはその様な例が見られません。

韓半島南部の伝承で、藤原氏は、百済朴氏の出自であると云うものがあります。
おそらくこれが、藤原氏の出自を正しく伝えていると考えられます。
百済滅亡前後に渡来した一族だと思われます。

賜姓については、一般に、公的文書への署名には用いますが、通称では用いないことが多いのです。
賜姓後の藤原氏は中臣姓を一切を用いていないことが、上記推察の裏付けにもなります。
無論、百済は唐に反抗し、滅んでいますから、朴姓を用いるはずもありません。
おそらく、百済王族に近い一族であったため、その後日本においても王権に近い位置を
占めているのだと、考えられます。
84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 10:58:40.07
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラコク、金官伽耶、任那)は存在する。

邪馬台国と楽浪郡
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm

210年 崇神世
任那より朝貢 3世紀前半の大型建物
垂仁による田道間守派遣
ホケノ山古墳 (225〜250年)楽浪鏡、鉄器は任那以後
穴あき壺(庄内3式)は初期の埴輪=垂仁末。
(225〜250年)に垂仁と田道間守を探せば、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁

垂仁末を239年とすると、纒向は2世紀末に崇神からはじまる。
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 11:10:49.77
旧編年
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。

千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。
323年 神功49年 半島占拠と領土分与。
86唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 11:19:12.23
404年 十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界...倭寇潰敗斬殺無數
履中天皇六年(乙巳四〇五)二月 悲哉。吾兄王何處去耶。
この“兄王”とは、履中かもしれない。
407年 十七年丁未ヘ遣歩騎五萬...合戦斬殺湯盡所稚鎧一萬餘領...
伽耶の東半分を失う。
413(義熙9倭王讃、使いを立てて東晋入貢(『晋書』『太平御覧』)
(『晋書』帝紀第十 安帝)●義熙九年〔413〕高句麗 倭國及西南夷銅頭大師並獻方物
宋書卷九十七/列傳第五十七
東夷高句驪國、今治漢之遼東郡。高句驪王高l、晉安帝義熙九年、遣長史高翼、奉表獻赭白馬。以l、爲使持節、
都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公。高祖踐阼、詔曰「使持節都督營州諸軍事征東將軍高句驪王樂浪
公l、使持節督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王映,並執義海外,遠修貢職。惟新告始、宜荷國休、l可征東大將軍、
映可鎮東大將軍。持節都督王公、如故。」
百済は高句麗に含まれる。(百済・新羅は高句麗の属国)

允恭天皇三年(甲寅四一四)正月 遺使求良醫於新羅。新羅は高句麗の属国である(仁徳までの扱いではない)
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月 有内亂。
87日本@名無史さん:2011/12/05(月) 12:22:32.96
>>76
それなら中国史書馬韓伝にくだらに近い国名があるべきじゃない?
新羅も斯羅国かなんかあったわけだろ
88日本@名無史さん:2011/12/05(月) 12:43:45.16
中国史書は正式な名称を記録しない
日本初期では新羅人の名前は日本人や百済人と同じく長ったらしい名前だが中国史書ではほぼ切られている
歴代天皇も漢字一字を当てられるのみだったりする
卑弥呼にしても日本語に類するのは「ひめのみこと」だし
中国史書を名称などであてにしてはならない
89日本@名無史さん:2011/12/05(月) 14:04:50.81
日本書紀には長ったらしい名前が載っていたとしても
当時の日本人も日常生活でその名前を使ってなかっただろう。
たとえば隋書では天皇の名を「姓はアメ、名はタリシヒコ」
すなわち「アメタリシヒコ」という長ったらしい正式名を載せる一方で、
「号はオホキミ」と普段は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたことを載せる。
たとえ後付けの正式名称が長かったとしても、日常読みが「ひみこ」だった可能性は十分にある。
ちなみに日本の皇族女性の飛鳥時代頃の呼び名は一字違いの「ひめみこ」だった。
90唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/12/05(月) 18:16:28.75
新羅は韓に属す、また倭に属す。
魏・晋時代新羅は辰韓に属す。
323年 神功49年 新羅は倭に属す。
この時百済軍は存在する。百済は新羅と対峙していた記録があるから境を接していた
百済軍とは辰韓の軍として機能していたと思われるが、323年時点で倭の要請を受け入れる
所から見れば大した勢力ではない。
91日本@名無史さん:2011/12/05(月) 21:51:44.28
下野国に移住した新羅からの渡来人は幸せです。本国の新羅人は全滅してしまったからな。
日本書記の「持統元年(687年)3月15日「投下の新羅人14名を以って、下毛野国に居らしめ、田を賜い、稟を受け、生業に安ぜしむ。」
という記述と那須国造碑の記述は符合し、多くの新羅人が捕虜として下野国に安置されたことは間違いありません。
92日本@名無史さん:2011/12/11(日) 09:43:12.56
>>43,>>44
昔,シナ人は日本列島の人間をワジン,ワコクといい,倭人,倭国と表記した。
日本側は自らをヤマトと称し,シナ人が表記した「倭」に「ヤマト」と訓みをつけた。
美称をつけて「大倭(オホヤマト)」としたが,いつの間にか「大和(ヤマト)」となった。


同様な事情が半島にもあったのだろう。それなのに新羅をシラギからシンラへ読み替える
なんて,大和魂(ヤマトタマシイ)をダイワコンと読みなおすような愚であろう。



93日本@名無史さん:2011/12/11(日) 15:36:29.21
新羅はもともと斯羅かなんかで地名だ
94日本@名無史さん:2011/12/11(日) 15:40:01.24
ヤマトも畿内の地名だよね
地名が国名になるのは結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか
95日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:11:47.09
>>94
「ヤマト」が国号になったことはないんじゃないか。
6世紀以前には中国から「倭国」と一方的に呼ばれていたものが
6世紀前後に日本側から「日本」という国号を中国に伝えている。
日本で初めてできた国号が日本。
それ以前にはまだ畿内を中心とする小国連合であって
一つの国という概念が国内にあったかどうかは分からない。
96日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:22:35.11
倭も日本も国内での訓みはやまと。
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。
あすか→飛鳥・明日香
なら→那羅・平城
はつせ→泊瀬・長谷
しき→志貴・磯城
うじ→宇治・菟道
なにわ→難波・浪速
やまと→倭・日本
97日本@名無史さん:2011/12/11(日) 20:57:58.63
倭は種族名だが、日本は王朝の名前。
全く違う、本来は。
98日本@名無史さん:2011/12/11(日) 21:41:23.67
いやほんとね、教科書とかテレビの歴史番組とかで、
「中央集権国家を確立し、倭国から日本国に国名を改めた云々」
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。
実際はほんと漢字での書き方が増えただけの話で、
倭国・日本国どっちとも国内的には「やまとのくに」だったんだと思うんだよね。
奈良時代以降「やまとねこ」表記には倭根子も日本根子も使われるし、
万葉集でも「日本」は「やまと」と読まれ、大方奈良県のことを指すわけだから、
「国号を『わ』から『にほん』に改めた」云々てのは、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。
99日本@名無史さん:2011/12/11(日) 21:47:27.10
気がついたら日本=にほんになってたってことか。
100日本@名無史さん:2011/12/11(日) 22:06:50.99
大陸(漢風)文化の影響かな。
平城京の「ならのみやこ」、平安京の「たいらのみやこ」も
「へいじょうきょう」「へいあんきょう」になっちゃったしな。
101日本@名無史さん:2011/12/11(日) 22:49:38.08
都が大和から山城国に移ったら、ヤマトはまずいよね。
102日本@名無史さん:2011/12/12(月) 20:58:27.53
日本の名付け親は勘違い革命家の天武。
実質的な建国者は天智。
103日本@名無史さん:2011/12/12(月) 21:43:54.60
>>101
厳密に言うと実例はある。
すなわち天平12年(740)に山背国相楽郡(京都府木津川市)の恭仁宮に遷都したが、
翌年この宮の称号として「大養徳恭仁大宮」が勅されている。
(「大養徳」とは天平9年(737)から19年(747)まで「大倭」に代わって用いられた表記法である)
なお、天平16年(744)安積親王の薨去に際して詠まれた大伴家持の歌にも、「大日本久邇乃京」とある。
104日本@名無史さん:2011/12/15(木) 23:23:29.29
ヤマトとヤマシロって、対の名前なのかな・・?
105日本@名無史さん:2011/12/16(金) 03:43:30.80
>>97
いや。倭は地名、転じて王朝の名だよw
「倭人」は倭王に属する人(領民)の意味。
「倭種」といって始めて種族の名になる。
106日本@名無史さん:2011/12/16(金) 06:05:38.25
倭国、倭王より倭人が古いはず。
107日本@名無史さん:2011/12/16(金) 06:18:28.80
逆に、日本人は日本国よりずっと新しい。日本の倭人という言い方もあった。
108日本@名無史さん:2011/12/16(金) 23:07:48.40
種族名は一人称やその複数形とか、「人、民」を表す言葉になりやすいらしいから
我(わ)=倭なんじゃないかな
109日本@名無史さん:2011/12/17(土) 14:16:23.72
江戸時代に武家には下男がいて奴と呼ばれていた。
多分、武士が関東に進出した時に土蜘蛛をとっ捕まえて下男にしたのだろう。
倭人は奴隷として朝鮮半島から連れて来られたのだろう。
それが戦乱や社会の混乱に乗じて逃げ出したのだろう。
大阪はそんな街だ。
110日本@名無史さん:2011/12/17(土) 23:56:01.82
奴さんと土蜘蛛では時代が違いすぎるんだが、時代観とか無いんだろうなぁ。
111日本@名無史さん:2011/12/18(日) 11:35:52.93
>>110
半島叩きたいだけの馬鹿はスルー推奨。
112日本@名無史さん:2011/12/18(日) 11:50:49.71
>>111
むしろ歴史的事実を無視しまくってるお前と>>109
日本を叩きたいだけの気違い在チョンに見える。
113日本@名無史さん:2011/12/26(月) 06:17:55.50
書紀の百済史では、日本は継体天皇から。
114日本@名無史さん:2011/12/26(月) 21:28:31.17
天皇家の正当男系は明治天皇からではないのか?
薩摩藩が擁立した大室某が初代。
115日本@名無史さん:2011/12/26(月) 23:01:55.72
宇田天皇こと源定省からは別の王朝
116日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:04:46.04
自国の歴史や由来も他国の文献や文字を通じてしか解明できないなんて・・
情けない
117日本@名無史さん:2012/01/03(火) 02:05:43.32
>>67
世界でもっとも下品で、気色の悪い発音だな
118日本@名無史さん:2012/01/03(火) 05:51:32.05
>>29
その頃の話が、佐用姫伝説=七夕伝説
119日本@名無史さん:2012/01/03(火) 06:00:38.28
>>59
三国志の劉備元徳と兄弟筋の出身。
120日本@名無史さん:2012/01/03(火) 06:15:41.64
>>83
藤原氏は、古代から支配者には成ろうとせず、天皇崇拝で今日に到ってる一族だよね。
後の源氏平氏は、出自が天皇家なので、家督争いで戦国時代にまで到ってる。
121 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2012/01/09(月) 20:54:18.96
なんやそれ
122日本@名無史さん:2012/01/11(水) 23:32:00.29
日本は、昔は「じつぽん」と発音していたのは秘密だ
123日本@名無史さん:2012/01/12(木) 05:53:47.94
>>122
「ニッポン」のほうが古いでしょ。
124日本@名無史さん:2012/01/12(木) 06:51:20.91
イルボンだよ
125日本@名無史さん:2012/02/10(金) 15:45:57.51
>>43
マジ?
126日本@名無史さん:2012/02/15(水) 05:46:50.04
>>71
百済の読みが「クンナラ」からきてるなんてのは完全なる電波。
127日本@名無史さん:2012/02/15(水) 10:28:34.21
「クンナラ」説を信じてるわけじゃないですが
。じゃあなんでそんな奇妙奇天烈摩訶不思議な読み方をするんですか?
高句麗はまあ普通にわかるし、新羅もまだ当て字と言えなくもないような、
けど、あの字で「クダラ」は正常な神経してたら読めません。
それとも、読み方の理由はわからないけど、とにかく何らかの根拠で、
「クンナラ」説が間違いだと言うことだけはわかってるってことですか?
教えて偉い人。
128日本@名無史さん:2012/02/15(水) 10:58:18.84
それで「くだらない」の語源は、百済のものじゃない=舶来品じゃない
=粗悪品って言う、日本人の舶来信仰で良いの?
下りものじゃない説でも、よそのものをありがたがる品性は同じだけど。
129日本@名無史さん:2012/02/15(水) 18:32:29.44
畿内のものじゃないから下らないと呼ぶんだよ、勉強になったね。
130日本@名無史さん:2012/02/16(木) 18:34:22.71
>>127
「クンが大きいという意味だからクンナラ=大国の意味」だっていうんだけど
クンが大の意味だってのは古代語じゃなくて「現代韓国語」。
クンナラ説がありえないのはこれでわかるでしょ?

>>128-129
「くだらない」の語源だけど、
「上方(かみがた)から下ってこない」の意味だというのは俗説だよ。
大昔から有名だけど、江戸時代からある語源俗解の一つ。
「百済にない」説は現代人の与太話。たぶん金達寿あたりが出どころじゃないかな
131日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:48:53.34
「ク」はあるいは「ヒャク」なり「ハク」の頭が脱落したのかもしれないけど、
後半はなんなんだ。「済」をどうやっても読みようがない気がする。
132日本@名無史さん:2012/02/17(金) 23:10:55.63
>>131
「済」の字の上古音は[tsan]、現代人なら「ツァン」と読むけど
古代の日本語には「つぁ・つぃ・つぅ・つぇ・つぉ」という発音はない。
だから「つぁ」は当時の音韻で「た」に訛った。
語尾の[-n]だが、[n]音が[l]音に転訛する例は日本にも朝鮮にも多い。
当時の日本語に子音だけの発音はなく、母音が付加される法則。
この場合母音[a]が付加されたとすれば全体で「くたら」になるだろ。

ちなみにこれは俺の説じゃなくて白鳥庫吉の説な。
133日本@名無史さん:2012/02/18(土) 05:37:04.97
読み間違えによる誤解か白鳥説がまちがってるか
何にしても「済」の字の上古音は[tsan]ではなくて
諸説推定されてるけど、最初の母音はiかyで語尾はiや無声音
百がピヤク、済がツィィ・ツェイ・ツィタだから、音読みからクタラになる要素無い。
134日本@名無史さん:2012/02/20(月) 09:42:34.23
少し話は変わるけど、
音韻変化からこういう変化はあり得ないとかって議論を時々見るけど、
そんなに信用できるものなんだろうか?
機械的なコピーみたいなものの変化・劣化ならそうかもしれないけど、
人間は間違えるものだし、さらに故意によるもの、曲解もあり得る。
ずっと母語として使用されているものなら確率的な補正もあるんだろうが、
外来語とかは誤解や誤用でとんでもない変化があることもあるのでは?
しかも一回とは限らない、そうなると復元は困難なんだろうな?
135日本@名無史さん:2012/02/20(月) 18:41:42.31
変化するのは本来の音が誤用されてもあまり気にならないからで
使用する集団の話す言葉の特性に依存するんでしょ
だから変化に規則性が出てくる、ってことじゃないの?言語学習ってないから知らんけど
136132:2012/02/21(火) 00:25:03.13
>>133
漢字の上古音は確かに難しい問題がある。
白鳥庫吉の説はその後、定説になったかというとそうでもないし。

高句麗(または高麗)の文字表記から「こま」という読みは説明できないよね、
同じように百済という文字表記から「くだら」という読みが説明できないとしても
俺はそりゃそうかもと思うよ。
137日本@名無史さん:2012/02/21(火) 00:36:21.73
百済はもと伯済と書いて上古音[pak-tser]。
(上古音の推定音価には諸説があるが大雑把には大差ない)
日本人の耳には百済の漢字音は「はせ」に近かったろう。
白鳥庫吉の頃はまだ日本語「サ行」が
古くは[ts-]音だったという説が有力になる前だった。


138日本@名無史さん:2012/02/21(火) 00:39:35.20
白檀と白狼(どっちも地名)の間の地に建国したから
白檀白狼→白檀狼(くだら)

もしくはもともと「くだら」という地名があって
白檀も白狼もその当て字
139日本@名無史さん:2012/02/21(火) 05:41:59.42
>>137
その上古音の推定形は古いって
140日本@名無史さん:2012/02/22(水) 01:01:25.39
>>138
>その上古音の推定形は古いって

うん。知ってるよ。じゃ最新の推定形あげてみてよw
白鳥庫吉の説がゆらぐほど違いが大きいのかな?

>上古音の推定音価には諸説があるが大雑把には大差ない
141日本@名無史さん:2012/02/22(水) 03:28:49.77
>>140
P?ak-Tsi??←表示できない
Peak-Tsyei←表示できる
P?ak-Tsit?←表示できない
ピャク、チィィ、チェイどれもヒャクサイの方がまだ近い
142日本@名無史さん:2012/02/22(水) 06:39:51.93
旧唐書倭国伝
日本国は倭国の別種なり。
其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
或は曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。
或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。

新唐書倭国伝
日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。
其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫上に居す。
彦瀲の子、神武立つ。更えて天皇を以て号と為す。徙りて大和州に治す。次に綏靖。
143日本@名無史さん:2012/02/25(土) 00:12:26.02
>>141
>Tsi??、Tsyei、Tsit?
>チィィ、チェイどれもサイの方がまだ近い

それ>>137の[-tser]「-せ」と大差ないじゃん。
144日本@名無史さん:2012/02/26(日) 21:14:46.26
在日必死
145日本@名無史さん:2012/02/28(火) 03:34:02.91
>>144
どのレスが在日なんだよw おまえ分かって書いてるのか?
146日本@名無史さん:2012/02/28(火) 21:27:39.22
在日日本人乙
147日本@名無史さん:2012/03/27(火) 03:00:05.26
↑だからアンカーつけろっての
148日本@名無史さん:2012/05/31(木) 11:34:56.54
日吉山(ひえいざん)の坂本、大津で建国されたような気がするな
日本
149日本@名無史さん:2012/05/31(木) 11:48:46.99
>>104
ヤマシロは山背が元々の表記
山の裏側みたいな意味
150日本@名無史さん:2012/06/03(日) 17:25:56.90
日本で扶桑が生えてるのは九州だな
まさか…
151日本@名無史さん:2012/06/08(金) 17:22:36.69
【韓国】 「日本」という国号は本来、百済の地を称する言葉だった〜百済人の墓誌銘に刻まれた最古の「日本」★2[06/06]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1339072800/l50
152日本@名無史さん:2012/06/09(土) 13:31:39.38
百越(ひゃくえつ)とは、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。
百済(ひゃくさい)とは、古代中国大陸の中部、主に山東半島から北から現在の沿海州にいたる広大な地域に住んでいた、海洋系斉諸族の総称。
153日本@名無史さん:2012/06/20(水) 14:23:58.78
どうしてシナはうそしかつけないんだろうな。


シナの過去の繁栄というのはあやまりで存在していません。
そして一瞬だけ漢代100年のみ栄えたが、下手な政治、うちゲバ、そして周辺に協力な勢力ができると負けました。
そして常にモンゴルないし秦の属国です。

そして唐の時代たった50〜100年のみ栄えようとしましたが、事実上すぐ渤海の属国になり、
弱い半島ですら支配できず。

1個の戦いで買ったが、軍費で社会は疲弊して、また周辺に覇を唱えることができませんでした。

そして以後すぐ唐は崩壊して属国です。
そういう恥ずかしい歴史を隠すため、うそ証拠と懇意すりかえを行い、子供のようなうそをつきます。
そして、以後1000年モンゴルの属国で、
14世紀に、下賎、卑民、野蛮な盗賊あがりの明を 覇 日本が承諾してくださったため なんとか主権を暫時取り返しますが
簡単にモンゴルに破れ、日本を挑発して、制裁されます。

そして簡単に清属国に陥り、簡単に外国属国になり、容易にまた日本さんに戦争をけしかけ、
そして征伐くだされ、、そしておろかな盗賊、国民、共産を打ち手、日本さんは短期で一気に中原の覇を握り、
下賎な賎民 シナ豚に、善性をおこないましたが、日本さんは撤退します。
このとき、おろかな、共産、国民、馬賊の豚は、日本産の遺子を無差別虐殺しました。

そして日本産の主権を少しはなれ独裁ができ、国際孤立、干渉地帯となり、シナは実質、事実上
米、ソにおろかしくも戦争を売り、いつでもつぶせる孤立国として存在しています。

とこういえ
154日本@名無史さん:2012/06/20(水) 14:31:13.67
外交で逆算しようか。

上海条約 インド、米、日本で封じ込め
不正なタンピング、荒廃、未開で国際社会の不評を買う。
ベトナムに戦争をしかけ、アメの準敵国になる。
国境紛争で、国際社会から孤立。以後ロシアがいつでもていのいい宣戦をできる。干渉中立、米ソ対立地低のいい干渉せんっそう地に昇格
虐殺
日本虐殺開始、以後視なの日本入植文明は崩壊し、社会が崩壊する。
大東亜戦争で、実質総勢50万で 短期に、全都を陥落し、中原の覇になる。

清がくそふざけた拡大戦線してまける。
清が欧ロ属国
清が、それ以前にアセアン、日本の経済属国になる。
清は経済属国
明が愚かしくも挑発して制裁
下賎明が 覇日本が独立国にする。
下賎明は元属国
元は日本に制裁される。艦隊全滅
宋は完全に、金属国になる。
唐が渤海の属国になる。
唐は半島で瞬間1回かつ。
隋は高句麗にまける。属国崩壊
シナは500年西方騎馬民族と戦う。
シナは秦属国となる。
おろかなシナごみは内ゲバ、秦が制裁する。
以上



155日本@名無史さん:2012/06/20(水) 18:53:11.70
チョンは自国でウリナラファンタジーを開陳してればいいと思うよww
156日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:36:23.53
半島は完全に常に属国だな
157日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:37:23.55
★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図
武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]
純陀太子  在日1世 (日本に人質に)
斯我君    在日2世
法師君    在日3世
雄蘇利紀君 在日4世
和史宇奈羅 在日5世 (和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝   在日6世
和史浄足   在日7世
和史武助   在日8世
和史乙継   在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]

・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。
彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。
逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。
ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。
また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。
さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。
そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。


★一方、高麗王家の末期の7代の后は、7人ともモンゴル王家の王女でした。
■7世代に渡り、モンゴル人との結婚を強制された高麗王の血統。
交配3代目 モンゴル人含有率 87.5%
交配5代目 モンゴル人含有率 96.875%
交配7代目 モンゴル人含有率 99.22875%
・・・高麗王は正真正銘モンゴル人なのです!
※血だけではなく、名前(イジリブカ、ブダシリ等)、服、髪型(弁髪)・・・全てがモンゴル風でした。

★さらに李氏朝鮮建国の李成桂の父親は、李urusu-ubaという名前の満州人でした。
158日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:11:40.15
天武3年説で決まりか…
159日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:52:22.78
>>158
670年代は遣唐使行っていない
当然、国号変更はその前に伝えている
天智天皇の近江朝の時だ
160日本@名無史さん:2013/12/16(月) 19:07:38.65
【人類】欧州の狩猟採集民と農耕民、2000年にわたって共存か
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1381588164/42,82,84,86-96,98-100,118,127,128,129,131,184,185,188
http://unkar.org/r/scienceplus/1381588164/42,82,84,86-96,98-100,118,127,128,129,131,184,185,188
84 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 13:23:15.56 ID:9gnKO6EO
・「旧唐書」倭国日本伝

「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
あるいはいう、倭国自らその名雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
あるいはいう。日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。」

いや、むしろ
日本(ニホン、ニッポン)の「ホン、ポン」=アイヌ語の「小さい」
であるように思える。


> アイヌ語の「poro」(大きい、という意味)に当て字をしたものです。
> 札幌(サッポロ)は、もともとは「サッポロペッ」と呼ばれる地名で、
> 「sat」(乾いた)「poro」(大きい)「pet」(川)に由来すると考えられています。

> ちなみに「小さい」は「pon」で、漢字になると「本」になることが多いようです。
> 十勝地方にある「本別」という町の名は、この「pon」+前述の「pet」だと考えられています。
161160:2013/12/16(月) 19:08:51.42
101 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 14:57:23.95 ID:Kv2giQO4
>>98-100
日本だけ地理と国号を一緒に使ったってだけの話でしょ
そもそも日本という国家がどこにあったと考えてるのよ?
吉備氏の乱、磐井の乱、武蔵国造の乱を平定して
北九州から関東までを支配している大和朝廷を倒せる勢力が
どこに存在したと考えてるの?
そして、その勢力が大和朝廷を征服したという考古学的な証拠はあるの?

118 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 14:36:43.81 ID:IVkdfzKM

>>101
乙巳の変で覇権を握った天智天皇の地盤じゃないか?

「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1319330023/


127 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 19:03:47.27 ID:hO9ZX/Jp
まほろば=美・幌別<ミホロペッ>=美しい?大きい川のある場所
日本→日・本別<ニポロペッ>〜な小さい川のある場所?

128 名前:修正[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 19:04:43.61 ID:hO9ZX/Jp
日本→日・本別<ニポンペッ>〜な小さい川のある場所?
162日本@名無史さん:2013/12/26(木) 00:33:19.38
>>159
いや、伝えてないだろ
163日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:02:49.24
2014/1/30付
(入門講座)日本古代史への旅(4)天皇号はいつから使われたか 文献・出土史料で諸説 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66052750Z20C14A1BE0P00/
 わが国で、いつごろから「天皇」という称号が使われたかについては確かな答えがない。
私見では舒明朝
 天武天皇(在位673〜686年)の時代には天皇号があったと見るのが有力だが、使われ始めた時期については、
文献史料によるか出土史料なども考慮に入れるかで見解は分かれる。推古天皇(同593〜628年)にまで
さかのぼるとする説もあるが、私は舒明天皇(同629〜641年)に始まったのではないかと考えている。
 …
164日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:26:16.53
>>163
「舒明天皇に始まった」というその具体的な根拠がわからないから
なんとも反応のしようがないねぇ〜
最近の通説通り天武天皇で何も問題ないような気がするが…
165日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:48:43.29
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしいよ。
166日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:58:20.09
倭国ってどこ?
167日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:58:15.54
ここだよ。
168日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:45:26.71
どこだよ?
169日本@名無史さん:2014/04/30(水) 00:42:15.75
>>165
おまえの電波説などどうでもいい。

>>166-168
おちぶれたとはいえ仮にも学問板なんだから
白痴がむりして混ざらなくてもいいんだぜ
170日本@名無史さん:2014/04/30(水) 17:08:54.94
ワクワクの国だよ
171日本@名無史さん:2014/05/24(土) 11:33:19.17
>>1の話題、この板でもあんまり盛り上がってないけど、信憑性はどの程度なの?
172日本@名無史さん:2014/06/11(水) 04:25:21.45
当時半島で使われていたのは書き文字は漢字だろ。
ならば漢字(中国語)で考えるのが妥当だろう。
半島は発音と書き文字が違って当然だったことを考えると読み方を腑に落ちんといっても
せん無きことだ。
173日本@名無史さん:2014/06/11(水) 05:08:22.80
半島では蚕室は地名
174日本@名無史さん:2014/06/11(水) 05:14:25.48
>>171 資料は本物だが解析者が新参フーゾクで谷間に埋まる程度
175日本@名無史さん:2014/06/11(水) 07:45:15.71
白村江会戦の後に唐軍が北九州に進駐しています

百済系天皇天智と百済人側近藤鎌足は
奈良盆地の諸豪族に可能な限り情報を与えない為に難波京で唐の使節を押し留めて折衝に当たるが
やがて無条件降伏に近い状況である旨を諸豪族に知られてしまい権威が失墜したので近江京に引き籠もる事になります

その後に本国の騒擾に応じて唐軍が北九州から撤退すると唐推薦の大友皇子を殺害・皇統から抹消する壬申の乱ですから
それまで恨流百済系政権が唐に降伏状態であったのは間違い有りません

扶桑の表記は単に山中の僻地の意であり
地名国名説は日韓何れもの国粋主義者のプライドと願望を利用する少数派支配主義者に依る捏造です
176日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:13:52.87
天智近江京遷都も実は廃皇流刑であったのを後に天武と不比等とが改竄した可能性もあります

  秋の田の刈穂の庵の苫を編らみ
    我が衣手は露に濡れつつ

冬田の歌で無い辺りに恨流を感じる御製ですね

以上
177日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:37:27.39
追記 この後百済JAPANは紆余曲折を経て実質的には応仁の乱まで名実共にには織田信長の足利義昭をの廃職と殿上への出仕まで続く事になります

178日本@名無史さん:2014/06/11(水) 11:06:29.62
安倍比羅夫の墓?
安曇比羅夫の墓?
179日本@名無史さん:2014/06/11(水) 13:46:33.65
>>175-176
おまえの電波説などどうでもいい。邪魔。

>>178
ちゃんと元記事よめ。
180日本@名無史さん:2014/06/11(水) 14:06:33.64
>>159
三国史記の記事は唐書を誤読したものだよ。
天智朝はまだ日本に改名してない。倭から日本への改名は天武。
181日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:03:43.14
養老令では国号については触れてないの?
182日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:09:28.84
>>179 天武帝が法律に明記したのは確かだけど律令(国内向け刑法行政法)でいちいち国号に触れるなんて不自然だと思わないw?
183日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:23:53.66
推古天皇の伝承が書かれてるのは物部氏の拠点、美濃なのに北九州とか不思議だね
184日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:27:35.33
美濃から越に勢力を伸ばしたのが物部系のウマシマジなんでしょ?
185日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:37:26.26
180
その唐書ってのがどうもよく分からねえな
後年、太宰府に勢力持ってたのは大弐氏、少弐氏だろ
征夷大将軍関連でいろんな人の名前がでてくるが
186179:2014/06/13(金) 21:07:16.04
>>182
なんで俺にきいてんのか意味不明だが一応答えると、
律令で国号にわざわざ条文立ててるってのは確かに不自然だしありえない。
それは律令だからではなく、そもそも漢字文化圏の習慣や形式としておかしい。
そこまでわかっていながらお前はなぜ
「天武が法律に明記したのは確か」っていってるの?
なんていう法律に明記したんだ?w
187180:2014/06/13(金) 21:11:29.25
>>185
唐書の何がわからないのよ? 何もわかりいくい話などないけどね
少弐だのなんだの全然ちがう時代の話して、
それで何を喩えているつもりなのかさっぱりわからん
188日本@名無史さん:2014/06/20(金) 10:30:02.78
NHK炭鉱ビデオ金銭ミルクGALコンチネンタル中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題

NHK炭鉱ビデオ金銭ミルクGALコンチネンタル中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題

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189日本@名無史さん:2014/06/22(日) 08:23:23.30
>>142
昔も今も中国のいうことにゃ〜である。
190日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:34:01.42
任那→上羅
百済→下羅
191日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:58:21.29
「扶桑に拠って」
という表現が、扶桑は日本の本領ではないという前提の上になりたっているように見える
そして、そうだとすれば日本が倭を征服したという旧唐書にある説が当てはまる
192日本@名無史さん:2014/09/14(日) 21:36:53.78
誰かここに移住しようよ
煽りや喧嘩がローカルルールで禁止されてるからまったりできるよ
自治もないから新参が叩かれることがまったくないよ
誰でも気楽に書き込みたいことを書き込めるよ
かなり過疎だけどこれから盛り上げていくからみんなで楽しもうよ

トークハウスDICE
http://saikoro6.com/main/
193日本@名無史さん:2014/09/16(火) 10:47:15.39
開皇二十年の600年以前にはもう日本国あっただろ
中国と通師してなかっただけで
女王国から東に水行1000里で岸につく狗奴国
名前が雅ではないので改名した
狗奴国が西から東なのか
東から西なのか解らないが
日国から日本国に変わっただろう事は想像付く
194日本@名無史さん:2014/09/17(水) 03:43:28.25
>>193
まったく何の証拠もない妄想だけで作ったおまえの珍説などどうでもいい
195日本@名無史さん:2014/09/17(水) 15:42:27.39
>>190
日本と扶桑が別扱いになってるのはわかるが
墓誌だと唐に叩かれた日本が扶桑に引っ込んでるんだから扶桑が東で日本が西。
唐書は「日辺にあるをもって日本と称す」だから日本は倭国よりさらに東にある
ように書かれている。
墓誌の日本と唐書の日本は別物だろう。位置関係を図解すると

A案)west←「日本」←「扶桑(=?)倭国」→「日本」→east

B案)west←倭国(墓誌の日本)←→扶桑(唐書の日本)→east

扶桑と倭国の位置関係は諸説あるがこの場合たぶん同一国で
A案が正しいだろう。B案は論理上は構想できるがたぶんハズレ
196日本@名無史さん:2014/09/17(水) 18:35:53.12
任那日本府の実在が証明されたのか!
197日本@名無史さん:2014/09/18(木) 18:17:09.07
>>196
証明されたも糞も「無い無い」いってるの朝鮮人だけだろ
実在を前提に実態の詳細について意見が割れてるんであって
198日本@名無史さん:2014/09/29(月) 02:42:33.17
「日本餘焦、拠扶桑、以逋誅」の解読だけど
もし「白村江で敗れた倭国が半島から撤退して列島内に引っ込んでる」って意味なら
日本は国名(政治勢力の名)で扶桑が地名(日本列島をさす)ことになるね
199日本@名無史さん:2014/09/29(月) 03:11:35.39
>>195
梁書の地理観による限り、扶桑と倭国を比べると
倭国が西側で扶桑が東側にこないとおかしい。
B案も保留しとく価値がある
200日本@名無史さん:2014/09/29(月) 03:43:06.93
>>198
扶桑は白村江で失った「任那」地域の意味と思われ。
白村江の戦いの後に、日本人の捕虜の返還の交渉が繰り返されて、任那地域で
その交渉が行われていたと考えられる。

日本は捕虜を返してもらう代わりに、各種の品々を持って行ったことが記録に残っている。
捕虜1人ごとに交換するものが決められていたようで、数値が細かく出ている。
「以逋誅」は、日本軍の捕虜を解放してもらったことを意味すると思われ。

「餘焦」は日本に逃げ込んだ亡命百済人を意味すると思われ。
扶余はちょっと特殊で、高麗系の文化が半島の先端にポツンと存在していた。
日本が扶余(百済人)を引き取って、扶桑(任那地域)で交渉をして、捕虜返還の交渉を
していたという意味だろう。

もともと百済は半島に拠点を気付くために、漢王朝が外様の高麗人を連れて行って、
そこに据えたという経緯から、百済が滅んだ時に王族は半島から追い出されたんだろう。
201日本@名無史さん:2014/09/29(月) 04:35:08.94
白村江の会戦の後には唐は北九州に進駐して関門海峡を封鎖し京に行政官を送り弘文天皇を傀儡として即位させてまでいるのに何で扶桑=日本列島に籠もって戦えるんだ阿呆

扶桑は単に朝鮮半島の山間部を指しているに過ぎない

日本の残党の日本はヤマトを乗っ取って実権を握っていた百済系渡来人グループを指しており故にヤマトを百済乃至唐と同等の体裁を持った文明国とは認めない旨の蔑称として文中用いられただけ
202日本@名無史さん:2014/09/29(月) 04:52:41.95
>>43辺り 百済(ペクチェ)は半島南侵の際に序盤にクダ羅(クダラ)の実権を握ると対南にはクダラを名乗り続け対北にはペクチェを名乗り続けて外交に際して硬軟を使い分けていた

新羅(シルラ)は日本に逃れて来た亡命百済人が酒を呑んでは「シルラギヨ〜シルラギヨ〜(新羅鬼め〜新羅鬼の奴等め〜)」と管を巻いていたので日本語のみにてシラギになった
203日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:05:50.79
>>78 古新羅の方が日本人に近いんだがw

新羅は高句麗百済南侵以前の環日本海小国家群の内としての古きから存在しており人種的には北方系だった様子だがその当時は政治的文化的には出雲の仲間だった

韓国人は大国スケールの国から話を始めようとしたがる余りなのか李氏朝鮮の呪いなのか国祖を高句麗百済に求めようとしがちだが同時に大陸の諸部族との差異の源を新羅千年王国に求めようとしているので頭の中がグチャグチャになっている
204日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:36:32.92
日本余=日本(ヤマト)の余客である百済王族

扶桑=東日本の未開地

と読む事もできるがいずれにせよ扶桑は単に山間部を指す比喩の一般名詞で地名では無い
205日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:45:16.52
百済は白村江の会戦より以前に半島に於いては国が滅亡しており唐から見れば百済王族は白村江の会戦時点で既に日本の余客と見做されていたと見る事もできるが
日本余はやはり半島に於ける百済ヤマト連合重来軍の残党と見るのが妥当では無いか
206日本@名無史さん:2014/09/29(月) 10:25:27.04
那(ナ)=南方系稲作倭人
羅(ラ)=北方系狩猟倭人(背は高かったが便宜的に)

だったんじゃないかなー
207日本@名無史さん:2014/09/29(月) 10:33:40.57
ラナよりナラの方が好戦的でより強い飛蝗意思を保っていた場留守!(C)LIVED
208日本@名無史さん
倭国が正式に日本に改名したのはいつかという問題をとりあえず脇にどけといて
正式な改名以前に、倭国の雅称・別名として
「日本」だの「扶桑」だのいったことはありうると思うんだよね
でも最初から使い分けがあったわけではなくて、もとは漠然と倭国をさしてたろう
墓誌の文面では明らかに使い分けてるがこれも漢文修飾上の便宜的な使い分け。
素で書くと「倭国が倭国に引っ込んでる」ってへんな文になるから。
国家名と地名を別々に表わすために雅称を便宜的に借用してるわけだよ
だからこの部分は「日本餘焦、拠扶桑、以逋誅」と書こうが
「扶桑餘焦、拠日本、以逋誅」と書こうがどっちでも同じ意味。