【歴史】百済滅亡後の渡来難民が古代「倭国」を「日本」に変えた★2[11/21]

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1ニライカナイφ ★
◆日本が百済難民救出作戦の理由

写真:明仁天皇.2010年に王宮(皇居)で取った写真
http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372331_STD.jpg

今から10年前の2001年12月18日. この日、第125代明仁天皇の発言が韓国・日本両国で
大きい反響を呼び起こした。
(第50代)桓武天皇の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だと<中日本期>に
記録されている。

記者会見から出た、この発言は、日本王室と韓国の血縁的縁を天皇自ら公式に
認めたことだったという点で重大な意義を持つ。
事実、古代日本が韓国の影響を受けたとのことは天皇があえて強調しなくても
極めて当然のことだ。
ただ王室の血統だけでなく経済・政治・文化・社会各方面で韓国・日本間の
相互作用があったであろうし、そのようなの中で百済の方の作用が相対的に
はるかに優勢だった。
この点は日本の著名な歴史学者によっても認められた。
考古学者の江上波夫は古代日本の開始が韓民族の手でなされたという
破格的な主張を出した。
彼は著書の<騎馬民族国家>で、満州および韓半島の騎馬民族が韓半島南部を経由して
日本列島を征服した事実が古代日本の墓資料らを通じて立証されたと明らかにした。

■日本という国号の祈願、韓国とどんな関係?
古代日本が事実上韓国人らの'思い通り'経営されたことを立証する興味深い事実がまた、
一つある。それは「日本」という国号の祈願だ。
この国号の採択過程を観察すれば、古代日本の成立および発展過程で韓国人がどんな
役割を遂行したのか理解することができる。

日本の本来の国名は倭国だ。
「倭国」が「日本」に変わった時点は興味深く百済滅亡直後であった。
<三国史記> '新羅王の伝記'文武王方に国号変更の歴史的瞬間が記録されている。

(文武王10年)12月、倭国が国号を日本に変えた。
「日が昇る所に近いので、このように名前を付ける」で自分で言った。
(倭国更号日本.自言、近日所出以為名)」。
類似の説明が唐の歴史書物の<旧唐書> 「東夷列伝」日本編にも出てくる。
「日本国というのは倭国の別種の一つで、国が太陽側にあるので日本と呼ぶことに
なったのである(日本国者、倭国之別種也.以其国在日辺、故以日本為名)」。

国号が変更された時点の文武王10年12月は陽暦では671年1月17日から2月14日の間だ。
この措置が日本の律令に反映されたのは701年だ。
律令に反映される前にも新しい国号がすでに広く使われたという点は、
678年に中国西安で死亡した百済人イェ氏の墓誌銘に日本国号が登場するという事実でも
確認される。
この墓地は2010年に西安近郊で発見され、これについては去る10月23日付<朝日新聞>を
通じて世に知らされた。

写真:日本、滋賀県東尾優美市にある百済史寺。日本語ではヒャクシジラと呼ぶ。
日本列島の中間ぐらいにある。天台宗系列の査察で、606年聖徳太子が建立した。
百済の寺院を真似したとして百済寺と呼んだ。
http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372332_STD.jpg

オーマイニュース(韓国語) 2011年11月21日11:37
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001658791

■前スレ(1が立った日時:2011/11/21(月) 21:45:41.14)
★1:http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1321879541/

>>2以降へ続きます。
2ニライカナイφ ★:2011/11/22(火) 00:26:00.90 ID:???
>>1の続きです。

■倭国が671年に国号を変えた理由は?
倭国が671年に国号を変えた理由は何だろうか?
それが百済の滅亡と深い関連があるという点は、
その直前まで倭国で行なわれたことを通じて把握することができる。
明仁天皇も認めたように、倭国の王室は経済・政治・文化・社会的にだけでなく
血統的にも百済と緊密な関連を持った。
4世紀時の応神天皇と5世紀時の仁徳天皇が百済人の子孫という点は広く知られた話だ。

また親百済派を打倒した政変の大化の改新により645〜649年にチンシルラパが
しばらく政権を取ったことはあるが、倭国は基本的に親百済の国であった。
移動がある時は行かなければならないとして伽那とも親しかったが、
伽那がなくなった後では百済と特に親しかったのだ。
百済−倭国同盟は韓米同盟以上に強固な同盟だった。

百済−倭国の強固な同盟は、660年に義慈王が白旗を揚げることによって
百済が門を閉めた後にも冷めなかった。
日本支配層内ではどうにか百済を生き返らせてみようとする雰囲気が熱く燃え上がった。
いわゆる百済復興運動の熱気が火のように燃え上がったのだ。
例えば、<日本書紀>27巻によれば、当時の倭国統治者の天智天皇は
天智1年1月27日(662年2月20日)百済復興運動の主役の福神に軍需物資を支援し、
天智2年8月27日(663年10月4日)には綿江で羅唐連合軍に対抗して闘争した。

倭国人の同盟精神は百済の流民たちの温かく熱烈な歓迎でもって表出された。
彼らは百済の王族たちを優遇しただけでなく一般百済人たちを日本列島に呼び入れた。
<日本書紀>クォン27巻によれば、白村江の戦いで敗北すると、すぐに倭国指導層は
「百済という名前は今日で切れた。(先祖の)墓がある所にどのようにして帰る方法が
あるだろうか!」と嘆きながら百済内の親戚を救出するための方法を軍当局と緊急に
協議した。
その結果、天智2年9月24日(663年10月30日)には日本水軍が百済難民救出作戦のために
全羅道(チョルラド)海岸に上陸した。

■日本、百済難民に多くのことを認めた
百済の難民を受け入れる過程で倭国の人々は多くのことを譲歩した。
彼らは文句なしにそのようにした。
彼らは新しい家族たちが暮らす根拠地を用意してくれた。
例えば、天智4年2月(665年2月20日〜3月21日)には百済難民4百人余りに
定着地を提供しており、天智5年10月(666年11月2日〜12月1日)には難民2千人余りに
家の跡地を支援した。
これだけではなかった。倭国人は官職も与えてくれた。
一例として、国号改正直後の天智10年1月(671年2月15日〜3月15日)には
約70人の百済人らに官職を与えている。
軍事学に造詣が深い百済人らを最も優待しており、医学・儒教・陰陽学に専門性のある
百済人たちをその次に優遇した。
このような百済人受け入れ作業は非常に体系的な準備作業の結果として行なわれた。
その緊迫した渦中にも倭国政府は流民受け入れのための制度的・政治的な準備を
同時に進行したのである。

例えば、天智3年2月(664年3月3日〜4月1日)には従来の16官等制を26官等制に
拡大改編した。百済人たちに官職を渡すために、そのようにしたのだ。
この措置は支配層および一般民と関連した制度改革と共に行なわれた。
上記の天智10年1月のような人事措置はこういう制度の改変をもとに出てきたのだ。

この他にも、倭国では様々な形態の国家的改造作業が展開された。
例えば、天智9年1月14日(670年2月9日)には調整内での礼法を整備すると同時に、
貴族と賎民の間の礼法、高齢者と若者の間の礼法を整備した。
社会全体的に新しい機運が火のように起きたのだ。

>>3以降へ続きます。
3<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/11/22(火) 00:26:07.85 ID:oT0lYXaF
擬古武装親衛隊中尉 ◆WSS4/2DkyM

この人って雑談しかしてないよね
4ニライカナイφ ★:2011/11/22(火) 00:26:25.08 ID:???
>>2の続きです。

上記のように百済が滅亡して日本の国号が採択された時期に倭国の中では国家的に
重大な変化が相次いで発生した。
新しい家族を受け入れて新しい制度を採択するなどの変化が連続して現れた。
国家全体が新しく生まれ変わる時期だったのだ。

写真:MBCドラマ「ギエベク」
http://ojsfile.ohmynews.com/STD_IMG_FILE/2011/1121/IE001372333_STD.jpg

■倭国という国号、だいぶやぼったくて...
このような変化像を観察しますと、私たちは671年に日本国号が誕生した脈絡を
簡単に理解することができる。
先進文明を持った百済難民が倭国に大挙流入して彼らが国政に参加することにより
従来の国号は百済人と倭国人を一つに統合できないようにしたのだ。
換言すれば、百済難民の大挙流入が倭国の社会体制を圧迫する要因として作用し、
その結果として新しい国号が誕生したと見ることができる。
先住民と渡来人が参加して新国家を建設する過程で日本という国号が創案されたものと
判断することができる。

実際には、倭国という国号は漢字文化圏の中ではだいぶやぼったい方だ。
<旧唐書>「'東夷列伝」日本編では、国号改正当時、日本列島の中でも既存の国号を
嫌悪する動きがあったと紹介した。
これは倭国という国号をやぼったく思う外部勢力が日本列島に大挙流入し
彼らの発言権が国家経営に大きい影響を与えたことを傍証するものである。

日本という国号は百済人と倭国人の共同作品だが、それを採用する過程で
百済人の立場がより強く反映されただろうと推論する根拠がある。
上で紹介したように、<三国史記>では「日が昇る所と近いので」日本という国号を採択した
とし、<旧唐書>では「太陽側にあるといって」日本という国号を採用したとしている。
倭国人の目には自分の国が「日が昇る所」だと感知することはできない。
倭国を「日が昇る所」と話すことができる人々は倭国の西側に暮らした人々でなければ
ならない。
したがって日本という国号の中には倭国に対する百済流民たちの観点と哲学が溶けている
と見ることができる。
これは国号を変更する過程で百済人たちの影響がはるかに強かったことを示す。
また、これは新国家の建設過程で百済人たちの影響力が非常に強大だったことを
意味するものである。

日本国号の誕生過程でも知ることが出来るように、百済流民たちは彼らの観点と
哲学に立って日本列島を新しく切り開いていった。
彼らの祖国の百済はたとえ滅亡したとしても、非常に滅亡したのではなかったのだ。

「街道とても枝はアンノラシドンそのような約束があったところでしょう」(原文翻訳のまま)
(キム・ソウォルの犬早瀬)という詩句のように、日本列島で「百済2」を切り開いた流民たちの
努力のおかげで、百済という国は「街道とても行きはしなかった国」になった。

私たちはよく「高句麗が滅びて渤海が誕生した」と話す。
もう私たちはこのように話せる。
「高句麗が滅びて渤海が誕生し、百済が滅びて日本が誕生した」と。
黄山ヶ原の戦いは百済の敗北で確定する直前。
百済が白旗を揚げて降参を宣言する直前。
ギェベク将軍の目に写った、また、義慈王の目に映った百済の山川は
決して百済の最期の姿ではなかった。
なぜなら、「また他の百済」の山川が彼らの死後に新天地日本列島でパッと開かれるものだからだ。

※以上です。