2ゲット!
スレ立てありがとうございます!
3 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:41:50.62
藤原鎌足 乙
大海人皇子は何してたの?
5 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 17:46:08.48
軍事的才能がある天武ならば、強大な唐と戦うのを回避するために百済を見殺しにしたと思う。
徳川幕府が明王朝を見殺しにしたように。
天武の思想は「政治の要は軍事なり」だからのう
7 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 07:26:57.97
900 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/08/18(木) 06:21:17.83
壬申の乱。最初から明確に天武サイドについた有力氏族は大伴氏だけだっけ?
↑
これはどうなの?
>>7 大伴氏に対比し得るような有力氏族となると…紀氏くらいかな?
10 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 12:10:55.84
>>8 明の宗主国になれる。
徳川氏が明皇帝に禅譲を迫ることも夢ではない。
11 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 14:06:46.30
>>9 紀氏は最初から天武サイドだっけ?
関ヶ原の真田みたいに天武サイドと弘文サイドに分裂したのではなかったか?
12 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 14:08:44.66
まあ軍事的才能がある天武が渡海して総指揮を取っていれば、たとえ負けたにしてもボロ負けは回避できたような気がする。
>>11 大友側には紀大人がいたはずだが、乱後も処罰されず、没後正三位を贈られていたりするので、大海人に内応していたのかもしれない
まあ、明確に大海人側と言えないのは確かだけど
天智が病の床に伏し枕元に大海人皇子を呼び寄せた時に、天智に策略が有ることを大海人皇子に忠告した「蘇我安麻呂」
「壬申の乱」の犬上川のほとりに両軍が対峙し、いよいよ決戦というタイミングで近江朝の総大将である山部王を殺し近江朝の数万の軍を一瞬で瓦解させた副将の2人「蘇我臣果安」と「巨勢臣比等」
天智系近江朝側の中枢にすら味方された、大海人皇子陣営
蘇我臣果安は突然の謀叛で、大友皇子陣営の敗北を決定ずけたあと、全ての責任を取る様に自らの命を断つ
これは自らの野心で日和見したというよりも、謀叛人の謗りを自ら引き受けてでも実行しなければならなかった、一族のまたは国全体を憂いた苦渋の選択だったといえなくないだろうか
国難の危機から救い、国の命運を動かす為に、自らの命をなげうってでも実行した任務
滅私の魂を持った、後の世のサムライ精神の様で哀しくて切なくて泣けるではないか
まあこれは現代人的観点から見た、こちらの都合よく勝手に美化された観点かもしれないが
15 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 19:41:41.94
山部王は軍事的能力がわからないうちに死んじゃってるからね。
でもたとえ生きていても天武にはかなわなかったような気がする。
外圧の脅威と緊張感が高まった時に、国が二分して大乱(変革、内戦紛争)が起きるって、幕末→明治維新と同じだな
最悪の状況である外国の侵略に一番備えなきゃいけないから、国が疲弊されすぎる泥沼化の長期内戦継続は避けなきゃいけなかった
山部王は残念ながら殺されたけど、お陰で国力疲弊されずに済んだ
山部王からしたら、謀叛はあまりに理不尽だったろうが
山部王のご冥福をお祈りします
山部王はどういう血統か分かってないんだっけ?
おそらく舒明天皇の孫。蚊屋皇子の子。天智・天武天皇の甥。
大友皇子派について最後まで従って戦った数少ない兵士の中に、百済系遺民がたくさん居たみたいだな
ある意味で「唐vs新羅」の日本国内での代理戦争の様相を呈したのが「天智系の大友皇子vs大海人皇子」
それに新羅と犬猿の、そして天智に援助された旧百済遺民がついて、
唐・旧百済がついた大友派という面白い捻れ現象が起きてるよな
大海人皇子側には、新羅のバックアップがさほどされてた気もしないけど、多少はあったかもね
今の最近の日本にも、例えば巨大メディアや広告や音楽業界なんかで「過剰気味な韓流押し」の流れや、
そういった業界で最近目覚ましく躍進する在日系人脈や企業の経済力や発言力の日本国内での高まりの問題とか、
不思議と「白村江の戦い」の時代と似た事象がいくらか重なったりして見えてくるものがあって面白い
事実、百済遺族のノウハウも日本国内文化に影響を与えた訳だし
6,7世紀もK-POPじゃないけど、あっちの楽器や音楽も日本に盛んに入ってたろう
聖徳太子も百済と中国の言葉をかなり理解してたという説もあるよね
歴史上唯一の臣下による「天皇弑逆者」の東漢直駒も、百済の言葉を貴族子女なんかに教えてた家庭教師だろ?
>>17 そうか
おそらく明確な自分の選択やら意思や考えとかじゃなくて、自然な流れにそのまま乗ってたら大友派の総大将として担がれて、殺されたんだろうな
>>19 百済の支配層の扶余族は、今の半島住民とは遺伝的に殆どつながりないよ。百済の支配階級と同族と
言われる高句麗については、吉林省集安の高句麗の古墳から出た遺骨の分析が中国で進められているけど、
頭蓋骨からの復顔像とかは現在の朝鮮族とは容貌が異なるし、ましては半島住民とはさらに似てないという
結果が出ている。
今の半島住民は新羅人の子孫だろ。
22 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 21:44:18.68
日本は通販番組ばっかりで、しかもドラマはつまらん(特に台本が奇をてらいすぎてつまらん)
韓国ドラマに押しまくられるのは仕方ない状況。
23 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 22:16:55.14
当時に自らの意思や必要にかられて、そして祖国を失ったりして亡命の如く仕方なしに泣く泣く日本にやって来た旧百済遺民やら帰化人って、扶余系ばっかり(扶余系がほとんど)って事になるの?
でも一般庶民も朝鮮三国志時代の戦乱には、いろいろ多大な影響や被害を受けている訳でしょ
貴族みたいな支配者階級の上辺だけで、戦出来る訳もないだろうし
24 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 22:31:46.65
熊津遷都後は、かなり韓系が支配層にはいったらしい。
百済王族もかなり韓化していった可能性はある。
>>23 乗船人員の限られた撤退する日本の軍船に載せられるのは、基本支配層のみでしょ。
百済の支配階級は、扶余系と楽浪漢族だから、日本に亡命してきたのはこういった層が中心。
そもそも、亡命者の姓も国姓の余と有力貴族の解、鬼室、億礼、木素、沙宅といった伝統的
扶余系貴族。
>>26 へぇ〜なるほどそうなのか!
つまり大海人皇子が吉野脱出→東国入り
「続日本紀」に記された東国勢や尾張国造の尾張宿禰大隅らの援助だけでなく、新羅系勢力の援助ももしかしたら…という事か
面白いね
あの付近で言うと近江(滋賀)や信濃(長野)には、多くの百済系遺民に与えられた土地(百済系コミュニティー)が有ったんだよな
三重にもだったかな
滋賀三重県境あたりっていうと、だいぶ後の世にかもだけど甲賀と伊賀の忍びの里とかあるでしょ
何かしら遠因や関係があって繋がってるかも?なんてファンタジーを信じたくなってくるな
天智天皇と天武天皇の反目の最大の理由が、額田王の取り合い三角関係のこじれが原因…とかまるで少女漫画ストーリーみたいなスケールのあまりに小さな話で結論付けるのは一番詰まらんよな
もちろんそれもいくつかある反目する理由の一因になってる可能性はあるし、額田王は本当に素晴らしい女性で才能あって魅力的な人だったんだろうけど
額田王は実質は、相互人質交換で預けられた1人とした方が納得する
天智と天武は「相互人質交換」でお互い安全保障の補完をした上で「相互縛り監視プレイ」状態だったよね
「壬申の乱」で制裁を受けたりした「相手方の人質」は居なかったろうか?
29 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 15:08:01.90
百済王の王(コニキシ)って韓系の言葉だよね?
ついでに言うと、河内国のウノの讃良地域も、新羅系渡来人の勢力が強い。
天武は新羅に対抗して耽羅の独立を支援すれば俺得
33 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 20:24:05.75
後期には、国名も首都名も王姓も「扶余」にしてるが、
多分中国北周の再鮮卑化政策みたいなもんだと想像する。
>>25 ちょっと待った。
百済王族の扶余氏や、「大姓八族」と呼ばれる八つの家門の有力百済貴族の中で、
扶余系またはわいばく系の可能性がかなり高いと見られてるのは、扶余氏、解氏、真氏くらいだな。
475年の、高句麗の長寿王の侵攻による漢城(現・ソウル市松坡区にあった百済第一首都)陥落以前からの有力家門ってことだ。
たとえば大姓八族のうちの一つである沙氏(=沙宅)とかは、
泗沘(「しひ」。現・忠清南道扶余郡扶余邑にあった、538年からの百済第三首都)周辺の有力者一門だったと見られてるし。
この頃には、韓系の有力者も百済政界に多かっただろうというのは、
>>24の人の見解にもあるとおり。
付け加えると、これも大姓八族のうちの一つである白氏は、
熊津(現・忠清南道公州市にあった、475年の漢城陥落後の百済第二首都)周辺の有力者一門だったと見られてる。
ちょっときつい言い方に見えるかもしれないが、
なぜか百済人関係のスレでは、
「扶余系や倭系、場合によっては漢系までの存在をえらく強調するのに、韓系をすっぽり取り落とす見解」を書く人がときどきいるな。
なんでなのかは知らないが・・・・・・。
※「しひ」の漢字がもしも画面に反映されない場合のために、注釈。
「し」は「さんずいに四 [シ四]」。
「ひ」は「さんずいに比 [シ比]」。
>>33 百済が国名を「南扶余」と名乗ったのは、泗沘遷都と同じ538年だったようだね。
(ただ、一般的に通用する国名としては、あまり定着しなかったらしい。これ以降は各種文献にも事実上出てこないし)
ちなみにこの538年は、日本に本格的に仏教が伝来した初めての年とも言われてる年だから、
百済が内政でも外交でも非常に積極的な政策に出た時期と考えられるだろうね。
百済王族の姓は538年以前からもずっと「扶余」と名乗ってるようなので、これに関しては後期に限らないみたいだ。
百済第三首都になった地域の百済時代の地名は、ずっと「泗沘(しひ)」で、
ここの地名自体が「扶余」になったのは、百済滅亡よりもずっと後のことだよ。
>>36 「於羅瑕(おらか)」というのが、どうやら扶余系言語で「王」をあらわす言葉みたいだね。
日本書紀には、これに相当する言葉で「おりこけ」って言葉が出てくるようだ。
「こにきし」というのは、
現代韓国語の固有語で「大きな」を意味する「クン」と同根の古語と、
中国で三国時代ごろに書かれた文献に現れる、韓系の「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
組み合わさった言葉ではないかという説がある。
>>34 日本に亡命した百済貴族で鬼室は賜姓王族だから、扶余系で間違いないだろ。
>>38 鬼室氏一門に関しては、
百済王族の系統である可能性もかなり強いから、扶余系である可能性も充分ある。
ただ、百済滅亡後に日本に亡命してきた人々、なかでも有力家門が、みな扶余系ばかりだったかというと、
上の記述にもあるとおり、扶余系ばかりではなく韓系が相当に多かったのは、ほぼ間違いないだろう。
たとえば沙宅氏一門は、韓系である可能性が非常に高い家門だし。
40 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 22:33:40.60
後期百済が韓系等もかなり高い身分(貴族?)に、取り上げられる環境になったのは理解しました
だが扶余系と韓系(というか扶余以外の民族)の婚姻などは、扶余系からしたらもってのほかの事だったのですか?
韓系からしたら婚姻出来るなら扶余系としたかったですか?
逆に韓系側も扶余と婚姻するのは嫌だったですか?
つまり異種婚姻や混血を認めるのか、純血主義かです
>>37 一部訂正
中国で三国時代ごろに書かれた文献に現れる、韓系の「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
↓
中国三国時代ごろに相当する時代の韓系部族地域について、
これを記述した晋代の文献に現れる、韓系言語で「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
>>40 結論から言うと、扶余系同士とだけしか婚姻しなかったという証拠は無いです。
特に晩期百済ともなると、ほぼ確実に他民族との婚姻は行われていたでしょう。
百済の武王(百済最後の王である義慈王の実父)の時代に建立された、
弥勒寺という寺院の址が、全羅北道益山市にあるのですが、
数年前にここで発掘調査が行われた際、
「百済王后佐平沙宅積徳女(=百済王の后である佐平(=百済の閣僚)沙宅積徳のむすめ」
という銘が書かれた遺物が発見されてます。
上にもあるように、沙宅一門は韓系だった可能性が高い家門なので、
百済王族が「我こそは扶余系である」と名乗っているからと言って、
同族としか婚姻しなかったというようなことは、特に泗沘時代にはほぼ確実に無かったと見ていいでしょう。
43 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 23:35:46.00
>>40 > 後期百済が韓系等もかなり高い身分(貴族?)に、取り上げられる環境になったのは理解しました
尾張出身の前田家が加賀入りした時に、現地の有力豪族の長(ちょう)氏を家老にして
現地人懐柔策をとったようなもんだろうね。
>>34 白氏 → 苩氏(「はく」の字は、くさかんむりに白)
45 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 00:00:31.08
凄い基本的な事を聞きますが、扶余は騎馬民族出身で百済時代に於いても、そういうルーツの騎馬民族らしい文化を色濃く保持してたと推測出来ますが
韓民族は元々は騎馬民族系ですか農耕民族系ですか?
百済より高句麗の方が、騎馬民族らしさやそういった文化をより保持し保ち続けたですか?
新羅は民族的・文化的にはどうなんですか?
>>45 >韓民族は元々は騎馬民族系ですか農耕民族系ですか?
中国の朝鮮族ネットにはエベンキ語と朝鮮語の基礎単語と習俗の類似性の言及がある。
これは朝鮮族が自らそう認めている。因にエベンキ族は狩猟民族だが、馬は持ってなかった。
一応狩猟民族なので弓矢は得意な民族。
日本のジャポニカ米はDNA鑑定で長江流域から来たことが明白なので、古代韓族は狩猟民族だった可能性もある。
>
>百済より高句麗の方が、騎馬民族らしさやそういった文化をより保持し保ち続けたですか?
高句麗は突厥や契丹と交流あったからね。
>>39 億礼も王族から別れた貴族で代々佐平・達卒を出した氏族のはず。
百済系の末裔といわれている高野新笠(桓武天皇生母)を調べてて気づいたけど
「壬申の乱」で突然の謀叛で殺された総大将の山部王
平安京を築いた桓武天皇も同じ名前の「山部王(山部親王)」
殺された親戚の名前をなぞる様に名付けるなんてよっほど何かあるのかな
それか深く考えすぎ?
>>49 親王の諱は壬生部か乳母の姓が付く。
桓武の諱は乳母の姓だという説が有力。
関係ないだろうね。
でもまあそうやって小説的にいろいろ妄想するのは楽しいよな。
51 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:15:55.89
そうやって考えると「壬申の乱」で殺された山部王は、やはり天武系よりも天智・大友系に近しく親密な生まれの可能性が高いな
天智の曾孫の乳母も務める、信頼の置ける天智系に近しい家柄なんだろうから
家柄なんだから ×
家柄で同じように育成されたんだから ○
>>34 百済の場合、姓氏は地名由来が多いから、どこどこの土地の有力者といっても、それは征服後に領地として与えられたとも考えられるから、そく韓族と決めるのも早計だと思うよ。
有力氏族の過半数が韓族系というのは、韓国の説だよね。一方中国の説では、有力氏族は扶余族か楽浪漢族で一部に日本系がいたというもの。中国の説は東北工程の関係で新羅以外は、現在の南北朝鮮と関係ないという基本スタンスだから割り引く必要はあるけど。
その代わり、文献研究と考古学的調査は、何でも自国に結びつける韓国よりはしっかりやっている。
だから、欧米のアジア史研究者も中国説支持が多い。
>>45 騎馬民族・狩猟民族っていう定義づけそのものが、
実際上の社会運営の上で農耕社会化していくうちにさほどの意味を持たなくなることはあり得ます。
ただ、扶余系を称する高句麗の始祖伝説の上で、
伝説上の初代王の名「朱蒙(または趨牟、都慕)」が「弓を弾くもの」という意味の言葉だったという言い伝えがあるあたり、
狩猟民族としての扶余系の出自をより強く象徴しているともいえるでしょう。
いっぽう、韓系部族は、扶余系部族よりもずっと早くから南下して農耕社会化していたものと考えられます。
より広い意味で言うと、
トルコ語(とその近縁のトルコ系中央アジア諸言語)、モンゴル語、満州語(や興安嶺・東シベリア周辺の狩猟民族言語の多く)、韓国語、日本語のどれもが、
文法的には膠着語(格助詞で単語と単語をくっ付けて構文する言語)のアルタイ語族系統と見られていて、
古代の中央アジア方面に起源を持つ言語集団であったと見られます。
>>47 興安嶺や東シベリア周辺の狩猟民族は、別にエヴェンキ族に限らないでしょう。
遊牧文化の民族の代表格のように語られるモンゴル族だって、
もともとは中央シベリア高原あたりから南下した狩猟民族だったのではと見る説も有力ですし。
それにしても、最近、ネット掲示板上でエヴェンキ族ばかりが、
(それもなぜか韓国史関連のスレばかりで)いつもクローズアップされるのはどういうことなのやら。
(しかも、エヴェンキ族も含む多様な中央アジア狩猟民族の生活文化や言語系統について、
きちんと学術的に考察してるとはとても言いがたいような文脈や表現で)
それに、ジャポニカ米の話と、韓族が狩猟民族だった可能性の話とは、どういう文脈でつなげてるんですか。
その文だけだと、あなたの論点は全然わかりません。
>>53 楽浪郡が現在の忠清道や全羅道あたりまでを直接統治下に置いていたという証拠は無いですよ。
韓系部族の言語的痕跡とかも、文献にかなりの程度残ってるんですし。
それらを全く等閑視するのは、あまりに極論だと思うんですが。
>>54 > それにしても、最近、ネット掲示板上でエヴェンキ族ばかりが、
> (それもなぜか韓国史関連のスレばかりで)いつもクローズアップされるのはどういうことなのやら。
> (しかも、エヴェンキ族も含む多様な中央アジア狩猟民族の生活文化や言語系統について、
> きちんと学術的に考察してるとはとても言いがたいような文脈や表現で)
エベンキ族ト韓国朝鮮人との関連性につては、中国の朝鮮族によるネットメディアの朝鮮族ネットの
中国の各小数民族の説明に、習俗と言語と遺伝子の類似性から、朝鮮族との関連の深い民族と
いう説明が発端。別に、嫌韓の人や右翼系の人の造作ではないよ。文句なら中国の研究者に言ってくれ。
ただ、中国は自国の朝鮮族とエベンキ族のDNA調査を行った上で主張しているから欧米でも支持され
るってことだよ。
57 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 22:49:38.15
農耕地帯に移住した少数の遊牧民が
多数派の農耕民の文化に染まっていくのは
よくありそう。
>>56 欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
その点がよくわからない。
それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
少なくとも、言語面の研究で、
韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
>>54 > それに、ジャポニカ米の話と、韓族が狩猟民族だった可能性の話とは、どういう文脈でつなげてるんですか。
> その文だけだと、あなたの論点は全然わかりません。
陸稲も含めて米のプラントオパールの出土は朝鮮半島では紀元前2000年が最古である一方で、日本での陸稲の
プラントオパールは紀元前6000年前のものが岡山県から出土している。今の日本の水稲の直接的祖先のジャポニカ
種の水稲は、日本では炭素14による鑑定で2800〜3000年前まで遡れる。
だから、少なくても朝鮮半島のほうが農耕化が遅れていて、原アルタイ系民族の終了民族的な性質が濃厚だったの
ではないっかてこと。
>>57 そういう例って、たとえば、
モンゴル帝国時代に農耕地域の統治のために配属されたモンゴル族の子孫が、
モンゴル帝国滅亡後も現地に残留して事実上完全に農耕生活に移りつつ、
祭祀やおまじないの習慣の中に、モンゴル族としての習慣の痕跡を留めてるってこととかがあるみたいですね。
>>58 >
>>56 > 欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
> その点がよくわからない。
積極的にDNA鑑定を取り入れているところが「科学的」との支持を受けている。
これも、中国のメディアでの発表だから、バイアス掛かっているというなら、中国政府に言ってくれ。
ただ、韓国よりも科学的に証拠固めすると言う姿勢は一貫しているところが評価されてるんでしょ。
>
> それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
> いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
> その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
>
中国の研究者に言ってくれ。これ別段、俺個人の説じゃないんだからさ。
> 少なくとも、言語面の研究で、
> 韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
> 別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
だから、中国の研究者に言ってくれ。あるいは、バイアスが入っているというなら中国政府にに言ってくれ。
>>60 ロシアのタタール族やポーランドのリプカ人は、元々はジュチ・ウルスのテュルク化したモンゴル族だが、
かなり農耕もしている。ポーランドのリプカ人に至っては、造園業とかまでやっていたりする。
>>58 > それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
> いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
> その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
中国東亜研究中心の発表内容について紹介すると、
・エベンキ族の遺伝因子と華北の漢族、満州族、内蒙古のモンゴル族、朝鮮族との比較で朝鮮族との近似性が
一番高かった。
・現在の標準的な朝鮮族とエベンキ族を比べても容貌の近似性が高い(細くて吊り上がった目、頬骨の骨格的
特徴も近い。
>
> 少なくとも、言語面の研究で、
> 韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
> 別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
・満州語はトゥングース系言語だが、基本的に開音節の単語が多く、例外的な閉音節の単語は外来語。
中国語でも普通話を中心とする北方漢語は入声が殆ど消滅して単語の殆どは開音節。一方、エベンキ語は
閉音節の固有後の単語が多い。朝鮮語も同様に固有語でも閉音節の単語が多い。
・漢語と満州語とモンゴル語のいずれにも受動態(受身)表現があるが、エベンキ語と朝鮮語には受動態(受身)表現
がないことが共通している。
だから、中国東亜研究中心もバイアス掛かっているのかもしれないが、それなりに研究成果を根拠としている。
>>58 > 欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
> その点がよくわからない。
今東京大学社会科学研究所の教授を務めている元カリフォルニア大学助教授のグレゴリー・ノーブル博士。
「朝鮮半島の歴史が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に
根拠がないわけではない」
65 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 00:55:46.14
韓国人や北朝鮮人でなく中国朝鮮族か。
66 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 08:06:51.26
>>57 遊牧より農耕のほうが生活しやすいからね。
>>63 「目つきや頬骨の近似性がどうの」なんて大真面目に語ってる時点で、
眉唾も甚だしいな。
君、いっぺんソウルなり釜山なり街中を散歩してみればいい。
はっきり言って顔立ちなんて千差万別。
君自身が韓国語で話しかけられるぞ、きっと。
てか、なんかスレの本題から外れ過ぎてるな、ここんとこ。
誰か三国史記なり日本書紀なりから晩期百済史の話振ってくれないか、扇動無しで冷静に。
【1次的】「白村江の戦い」の日本・唐・新羅・百済・高句麗の情勢など
【2次的】「白村江の戦い」の前後関係、関連事項、663年から±30年くらいの事象
【3次的】「白村江の戦い」からやや離れるが何かしら繋がりのあると思われる事象、663年から±100年くらいの事象、国家の成り立ち、隨など異なる時代の王朝事情など、豪族や民族のルーツなど
あくまで叩き台の案ですが、極力3次的ネタより2次、1次をより考える様にいたしょう
しかし長いリーチに立って考えるのも古代史では大事なので、例外はもちろんありです
>>67 だから、文句なら中国文化部と中国東亜洲研究中心に言えよ。何度脚気場理解するんだよ。
日本語わからないのか?
70 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:11:59.43
もしかして新笠の先祖はこの時代に来た百済人なのではとか想像もできるな。
72 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:51:05.11
自己訂正
九州の高天ヶ原 ×
「神々の国」高天ヶ原→九州の高千穂 ○
あと天から「天磐船(あまのいわふね・空飛ぶ船のイメージか!?)」に乗って日本の地上にやって来たんだっけ
>>68 「1次」と「2次」を横断するような論題、たとえば「済・羅・麗・唐・倭・突厥(・渤海)の同盟関係の変遷」あたりは、
かなり興味深そうだね。
それぞれの国内情勢の推移も、相当に外交路線に影響してくるし。
>>69 バイアスがかなり強そうだと自分でも思えるほどの話なら、
尚更そんな話を丸写しにしたりしないで、
自分なりに、客観的・現実的に、よく考えてから書くようにしようよ。
「反論は原典の論者に言ってくれ」だけ言っていると、「ではなぜそんな話を引用したのか?」と問われるよ。
>>70 高野新笠の始祖伝説が武寧王代と結び付けられたのは、
時代としては武王代・義慈王代よりも相当に遡及するけど、
何ごとか事情がありそうな気も。
熊津時代百済は、晩期百済と並ぶくらいの激動期だったし。
あとたとえば、大内家の始祖伝説は、武王(義慈王の父)代に関わってるんだよね。
内政も外交も激動期で、人の動きが激しかった時代には違いなさそうだし。
これにしても、そういう時代に始祖伝説が結び付けられるのは、何らかの訳があっても不思議ではないかも。
唐が滅ぼした国や地域とか、領土の変遷とか事件や年号経過とか一目で分かったら見やすいのにな
あと唐の戦争や一般の科学力(科学兵器)、ハイテク兵器の水準とか
分かりにくかったら前後時代から推測したり
右翼タカ派的な意味合いじゃないけど、
欽明天皇の遺言みたいな「半島の領地奪回」の悲願を、聖徳太子も為し得なかった
中大兄皇子(天智天皇)も為し得なかった
秀吉は本来は「唐入り」が目的だけど、最終的に為し得なかった
ロシアや欧米列強の侵略の脅威があったとはいえ、朝鮮併合で遂に悲願を成し遂げた形だったんだな
>>64の出典て、日本語版wikipediaの「高句麗」の項目の、
中韓間の帰属争いの説明から持ってきたコピペだな。
或る民族同士の近縁関係の分析だとかとは、まったく関係無い談話だ。
全然関係ないことで勝手に談話をコピペにされた助教授さんが、気の毒だ。
>>64のレスを載せた者は、もうこれ以上書いちゃ駄目だな。
>>75 でも、結局最終的に、
ジャパニーズ対コリアンの、
民族間不和をわざわざ拡大させた格好になって、
外交的な面でも、その後の歴史的展開でも、
結果的にはマイナスのほうが遥かに大きかったな。
もっと穏健な付き合い方って無かったものかね。
過去の歴史は取り戻せないにしても、未来への教訓だな。
まあ、スレ趣旨から大ずれしそうな話なので、さらに深入りして書くのはやめとく。
大海人皇子の槍さばきって見てみたいなぁ
「藤氏家伝」に中大兄皇子と大海人皇子が激しく意見対立した時に、感情的になった大海人皇子が槍を床に突き立てて、それを見た中大兄皇子が大海人皇子を殺そうとしたけど中臣鎌足が2人の仲をいさめたという武勇伝というか美談が載ってるらしいね
藤原家の一族史書「藤氏家伝」しか載ってないけどねw
鎌足に都合が良すぎるけど、見てみたい場面ではある
傍に槍があるのも変な話だけど
内大臣などの要職で中大兄皇子(天智天皇)を全面的に支える一方で、有力皇族の大海人皇子(天武天皇)の元にも2人も実の娘を妃として送り出している中臣(藤原)鎌足
抜かりないな。全くハンパねえ
神代は別にして、藤原1200年の朝堂を守り生き抜いた闇の支配者一族の始祖だけはある
81 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 04:00:32.52
>>80 関ヶ原の真田家もそうだが「どっちが勝ってもOK」ということだよな。
もっとも、鎌足の娘が天武夫人となったのは、
本人や但馬内親王・新田部親王の想定される生年から、
鎌足死後(さらには壬申の乱以降)の可能性も高いけどね。
古人大兄皇子「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」
韓人が蘇我入鹿を殺した 私は心が深く痛む
84 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 12:45:08.33
>>82 そうなんだ
でもそうなると、余計に2人の娘が嫁いだ事が解せないな
鎌足がいくらやり手でも死後までは手腕を行使(娘を有力者に嫁がせる)出来ない訳だし
藤原一族内に鎌足死後すぐの頃にまだ他にやり手な人間がいたか、
鎌足の生前から内々であらかじめ結婚が決まってた→予定通り結婚なら納得するけど
鎌足の娘、大原大刀自(藤原五百重娘)は
天武天皇妃として新田部皇子を生み、天武天皇没後に異母兄の藤原不比等と婚姻し藤原麻呂を生む
刀自(とじ)という名前がよく散見されるが、何かしら意味などあったのですか?
中臣鎌足は息子の藤原不比等が、まだ小学生くらいの年令の時に没しているな
だから不比等が鎌足に英才教育を施されたと見るには限度がある
あっても数年だろう
>>84 >やり手な人間
というか、鎌足の嫡妻・鏡姫王の存在があると思う。
額田王が大海人皇子→中大兄皇子と変遷
鏡姫王が中大兄皇子→藤原鎌足と変遷
額田王が鏡王の娘で、鏡姫王も名前から鏡王と関連を推測されており、額田王と鏡姫王は姉妹とも同一人物とも言われる説も一部ある
もしも2人が同一人物なら大海人皇子→中大兄皇子→藤原鎌足と変遷したという事か!?
彼女本人の意思と関係なくなら、これほど勝手な話はない
そうだとしたら一番悪いのはやっぱ中大兄皇子だな
おそらく額田王を大海人皇子から(半強制的に無理やり?)召し出させ、参謀のかわいい鎌足に鏡姫王を下賜し与えてんだから…
>>88 もう少し補足説明を、分かりやすくお願いします
天智(中大兄)と天武(大海人)が兄弟じゃなかったというのはいまや常識だな
そういう説がいろいろあるってだけだろ
まだ確定されるだけの証拠は見つかってないってのが現状だろう
じゃあ誰なんだ?皇族以外か?
大海人皇子がおかしいってか?
あれだけ自分の意にそぐわない可能性があると判断した(?)有力者や有力皇族を、数々粛清する事に見事成功してきた中大兄皇子が、
大海人皇子だけはどうして粛清や暗殺や謀叛の濡れ衣によって、葬れなかったんだろう?
大田皇女、鵜野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女の自らの四人娘全員を大海人皇子の元だけに嫁がせねばならなかった理由はなんだろう?
しかしこの時代の家系図を自作でまとめとして書こうとしたら、とんでもないややこしくて難解な目に合う
95 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 04:42:38.17
>>94 > 大海人皇子だけはどうして粛清や暗殺や謀叛の濡れ衣によって、葬れなかったんだろう?
唐が攻めてきた場合のことを考えると、軍事的才能がある皇族を粛清するのはまずい。
いざという時に困る。
>>94 天智皇女も鎌足娘同様、大江・新田部は壬申の乱後に天武の妃となった可能性あり。
大田・菟野との縁組も、中大兄の策というより、皇次子を慮った母・斉明の発意という考え方も出来得る。
天智天皇の長女の大田皇女が、天武の天皇即位以降までずっと長生きしてたら、きっと天智天皇の次女の鵜野讃良皇女(持統女帝)が天武の皇后になってない
大田皇女は人物像は早くに没したのもあってよく分からないけど、苛烈な性格な妹の持統よりは穏和な性格の可能性が相対的に高いだろう
自分が生んだ皇子以外の有力皇子を計略で葬ってきた持統は、天武系統の命脈を摘んで天智系統に引き戻した張本人
藤原不比等を引き揚げた事といい、粛清といい、父の天智天皇と生き写しだ
よく一般的に言われているように「持統は天武の政策と理念を引き継いだ」とは到底思えず、むしろ天智の政策と理念に逆戻りさせた「静かなる革命に成功した」としか思えない
>>67 DNA鑑定の補足で要望の近似性について言及しているのに、DNA鑑定のほうは
スルーかよ。とんだ文系朝鮮脳だな。
顔なんて現代の朝鮮半島人は整形で変えまくっているが、DNAは変えられない。
>>76 都合が悪いことは引用するなとは、思考停止だな。
韓国人は自分に不利な見解に耳を傾けるべきだな。
自民党代議士に対して金浦空港で糞尿ぶちまけて殺してやるといってた
キチガイ韓国人と同じレベルというか、在日韓国人なんだろ。
「乙巳の変」は三韓の儀にこと寄せて、入鹿を斬ったとされてるが
本番か?リハーサル?
百済・新羅・高句麗の特使が居並ぶ中で本当にそんな暗殺クーデターみたいな事が起こったなら、異常事態で騒然として動揺するしいくら日本が上の立場(?)の儀礼式典でも外交問題化するよな
リハーサルだったら分かる
「三韓の儀」の偽情報(実はやらないで名目だけ)でさすがに天皇以下、高級皇族や大臣ら多数は集結出来ないだろうし
漢皇子=大海人皇子=古人大兄皇子
まあそこまでいかなくても、何か不思議な繋がりが感じられる
内臣と内大臣では、内大臣が偉いの?
何故吉野だったの?
いきなり東国行きは不穏だから、カモフラージュ?
出家らしいけど、吉野の寺は当時から有名だったの?
天武って道教・陰陽思想や中国の学問にも係わりが深い、役行者など修験道との係わりもある、神道や仏教とも係わりある
当時の最先端科学的な学術や信仰に通じていた
106 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 21:00:45.07
>>105 天武は信仰心(特に神道)が篤かった人らしい。
107 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 23:33:17.72
吉野山の祭神は偉大な皇祖神。
言わば皇室の宗廟。
また、伊勢の伊雑宮、滝原宮―淡路島の先山の太陽神が居並ぶ「太陽の道」の中心。
カゴメ神霊結界の中心地の一つ。(神霊的パワースポット)
斉明天皇←仮宮作るためにどっかの境内の木を切り倒したらそこの神様に呪い殺された
天武天皇←草薙の剣に呪い殺された
呪われやすい体質だったのかしら
>>106 信仰心が篤いというか、天皇の神格化をやった人だね
>>108 天皇は祟り、また祟られる一番の存在じゃないですか
やだ面白そう
下世話だけど伝奇的なロマンがあるな
『怨霊になった天皇』みたいな著書が、明治天皇の女系玄孫(四代下の子孫)で、旧皇族の竹田宮の末裔・竹田恒泰氏に書かれるというのが衝撃的であり意味深い
天皇の歴史のタブーとして伏せてそっとしておきたいもう1つの闇の部分の顔を、天皇末裔の側から語られるんだからね
天皇即位後の天武には、半島の覇権(主に旧高句麗領と旧百済領)を巡って遂に真っ向対立した唐と新羅の双方から援軍要請があったと思われる
天武の選択は半島情勢には不介入姿勢を堅持し、
唐と交流を断ち、日本に対し丁重な拝礼姿勢を示す新羅と交流を持つものであった
結果、ハッキリと敵を作らず立場を悪くする事もなく、戦費や人員を失う事も無く無難でかなり良い選択だったようにも思える
仮に新羅に援軍して半島南端部を割譲されたとしても、後の世に戦乱の種を抱えたかもしれず、またその分だけ国内整備も遅れただろう
また参戦せずに、極力秘密裡に物資援助等する方法もあったかもしれない
皆さんどうお考えですか?
天武天皇の奇門遁甲(占術)
中臣鎌足の六滔三経
蘇我入鹿を殺した、孝徳天皇を憤死に追い込んだ男が、大海人皇子1人を殺せないのはどうにも解せない
117 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 05:16:16.87
>>116 唐が攻めてくる可能性がまったくなくなったわけではないので
軍事的才能がある大海人皇子を消すわけにはいかなかったと思うね。
>>116 中大兄と大海人が存命中殺したいほど仲が悪かった、ってのも単なる先入観かもよ。
119 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 10:25:34.32
秀吉も家康を殺さなかったな。
>>117 「白村江の戦い」の時の大海人皇子は朝鮮海峡を渡っていないし、「壬申の乱」が事実上の初陣だったんじゃないの?
「壬申の乱」より先に崩御した天智天皇が、何をもって大海人皇子に軍事的才能があると認めたのか疑問
皇子の中では、他より壮健で聡明な弟くらいは思ってただろうが
面倒な身内に頼るより、軍事の専門家の臣下で、従順で有力な配下の者の方にさせる方がいろいろ都合良くない?
大海人皇子が戦で功績挙げても天智的には喜ばしくない(むしろ脅威になる)訳だし
>>102 私は別人だと思うね。
古人大兄皇子については、一応笠臣志太留の功田の記事が「続日本紀」にあるし、
漢皇子については、これは全く私の独善的仮定でしかないが、天武〜持統朝に登場する
舎人王・伊勢王などは、もしかしたら漢皇子の子供なのではないか、と考えている。
「乙巳の変(大化の改新)」の時の蘇我入鹿は、どこをどの様にされて斬殺されたのか分かってるの?
絵巻物とかでは立ったまま首を両断されて飛ばされてる絵があったり、入鹿の首がここまで飛んだ「首塚」があったり
でも生きて立ったまま首両断したり、何百メートルも首が飛ぶなんてファンタジー(というか脚色)入ってるとしか言い様がない
首は取られたとしても、せいぜい死後に斬り取ったとかでしょ
実行犯が中大兄皇子(天智天皇)ってのも、普通で考えてちょっと考えられない
結局何人が刺した(斬った、射た)んだろう?
あと死後の遺体はどう扱われたんだっけ?
123 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 01:16:47.86
蘇我蝦夷はなぜ自害したのか
抵抗するだけ抵抗する手もあったのではないか
「民の為を思い」という名目で全く抵抗せず一族郎党滅亡した辺り、山背大兄王の最期に似ているのに、この扱いの違い
124 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 10:24:33.85
125 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 15:47:39.25
日和見の寝返りはかなりあったみたいだな
蘇我配下の渡来系の東漢氏は、最後まで蝦夷らに従った数少ない忠臣だったんじゃなかったか
一蓮托生なとこもあったかもだが
126 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 15:55:36.57
>>122 入鹿は立ったまま首が飛ばされた描写がある一方で、
ズタズタに斬られ血まみれになりながら、最後の力を振り絞って皇極女帝に直接疑問を投げ掛けるシーンも有るんだよな
明らかに矛盾してる
状況をまとめると、身体を斬られたり刺された後に絶命直前に皇極女帝に語りかけ、死後に首を刈られた可能性があるって感じかな
127 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 23:50:35.27
国会開催中に起こった猟奇事件!
( ̄∀ ̄)
入鹿誅殺が起こった「三韓の儀」は高句麗、百済、新羅の使節が朝廷(大和政権)に御機嫌をうかがう様な儀礼?みたいだから、今で言えば国際的な懇親会や国際的なサミットだろう
詳しい人、解説頼む!m(__)m
ところで殺された時の蘇我入鹿は役職なに?
いまで言ったら総理大臣くらい?
官房長官くらい?
130 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 09:14:47.34
大統領兼教皇くらいはあるだろ
蘇我氏の影響力や実行力は当時で臣下イチの中央豪族だったと思うけど、実際の役職自体はさほどでもなかったの?
>>132 当時の政体には役職らしき役職はなかった。
役職というのは「氏」について回るもの。
オオオミ、オオムラジ、マエツキミなど一応あったが、
それとて氏姓制度を前提にしたもの。
天武天皇は偉大な政治家か否か?
本当に近江大津京の大友皇子側(天智系側)から動いて、否応なしに仕方無く迎え撃ったのか、大海人皇子の一方的なるクーデターなのか
政治・政策面はどうなんだろうか?
天智や中臣鎌足は、どちらかというと独裁で悪徳政治家…というか国家を存亡の危機に陥れ、戦費・防衛費・遷都に掛かる建築費など国費を無駄に大浪費した駄目政治家よりだろう
蘇我氏(馬子、蝦夷、入鹿ら)は、正史にやや不利な情報ばかりが残っているから、冷静な判断が難しいだろう
135 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 16:33:43.74
>>134 天武は軍事的才能はあったが、政治家としては凡庸な感じがする。
はくそんこう?しろすきのえ?はくすきのえ?
37歳だけど学生時代は はくそんこう と はくすきのえ で習ったな
関祐二って面白いけど、どの本読んでも結論はみんな同じなんだよな
でもこの時代に興味を持つ取っ掛かりの入り口としては良いかもしれないけど、入り口ほど大事にしないと変な歴史観付くよな
139 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:50:57.26
なぜ倭国は630年より遣唐使を派遣して交流を持っていたのに
663年に白村江において唐・新羅連合軍とはいえ唐と戦争をしたのでしょうか?
どなたかご教授ください。。
>>139 親唐の畿内王権が、嫌唐の九州王権に命令されて、戦争に加担させられたが、
畿内王権は逃げ腰で半島に渡り、必死に戦闘を回避していた模様。
>>140 ありがとうございます!よく分かりました。
>>140 もうそういうのはいいから
>>141 あんまり何でも簡単に信用しない方がいいよ
少しずつでも自分でも調べてみて
天武の年齢が日本書記に記載されない謎
天武の年齢をうっかり記載漏れするのはちょっと有り得ない
何か意図があっただろう
井沢元彦の小説では蘇我入鹿を討ち取るのが、大海人皇子(天武天皇)なんだよね
槍の使い手だからね
沈没した元寇船発見だってな
いいよなあの時代は…
>>143 続日本紀の持統や文武もうっかりですかね?
147 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 04:10:43.92
唐入りの失敗のあとに、すぐにではないが鎖国したこととハクスキノエの敗戦の後の状況は似ている
148 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 09:48:59.19
645年乙巳の変の蘇我氏打倒や、豪族連合体制から天皇中心の律令体制の国作りってのは、
明治維新の徳川幕府打倒や幕藩体制の解体、皇政復古などに明治時代中頃くらいに例えられたらしいな
149 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 10:07:06.95
とんでもない激動でドラマチックな凄い時代なのに、注目無さすぎ過少評価されすぎな時代
これほど面白い時代はない
んなことはない
古代史の中で最重要ポイントの一つとして教えてるだろ
>>150 あくまで「古代史の中の」という注釈付きな感じでな
原初的な日本国家の始まりとなった事件だから、明治維新より重要だろ。
壬申の乱もセットで大事。
153 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 09:01:51.38
壬申の乱。弘文側の対応はどこがまずかったのか?
>>28 額田王は原因じゃなくて結果だろう。
優秀な兄弟同士のライバル意識のねたに利用されただけだ。
>>135 天武が始めた政策が日本の行政システムを完成させたけど
嫁の持統の入れ知恵だった可能性もあるからな
天武の短歌は酷いよな。文才はなかったんじゃないかな。
天文台作ったりしてるからSFマニアの俺には親近感の湧く天皇ではあるけど。
案外持統こそが真の日本の母なのかも知れん
持統は天武と仲睦まじい夫婦という事になってるけど、「天武の皇后」より「天智の娘」の色合いが強いよね
この時代をカードゲーム化して遊びたい
ドリラ○ドよりよっぽどいいよ
シミュレーションゲームやRPGにしてほしい
弟が、兄の娘4人を、嫁にもらうシミュレーションゲーム?
これは危険な臭い。
実はむかしあったみたいだけど白村江の戦いはボードケームにはならないよな
どうやったって唐が強すぎるもの
唐だって半島の三国のどれかか、日本が唐の同盟軍として出陣しないと単独では半島には攻めないからね
結局半島情勢が乱れたタイミングで、満を持して唐が参戦するんだから
でも、唐軍の合従連衡策がうまくいかない場合や
則天武后が唐軍に「東はサッサと引き上げて、西のチベットと戦えゴルア」
と強制されてグダグダになることも加味すれば、戦局は千変万化。
>>160 > 実はむかしあったみたいだけど
「壬申の乱」はアド・テクノス社でシミュレーションゲーム化された。
ここは「家康最大の敗北」とかも出している。
>>161 いわゆる「チャンス・カード」だな。
「遠征軍が伝染病に罹患で戦闘力が3低下」とかだな。
・半島も日本も極力悪いガードは引かないで、唐にばかり引いてもらう(運に恵まれる)
・貧乏人同士の喧嘩は止める
・残念だが中国の西域方面には犠牲になってもらう(勝利に犠牲は付きものw)・可能ならば西域を含めた形で早い段階で「対唐大同盟」の締結(最悪でも中立)・唐軍船を拿捕して研究し海軍力や海戦力向上
・唐と戦うというリスクが相当高い決断をしたのに、戦後唐に最も擦りよる天智は早めに排除(天智の能力は所詮国内限定レベルの独裁・恐怖政治家、百害)
165 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:26:46.70
国力差・戦力差考えたら一定時間まで国が滅ぼされずに残ったら勝ちだな
唐の直接的侵攻から防いだ=快挙
唐から領土奪う=大快挙
166 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 16:22:30.91
>>165 > 唐から領土奪う=大快挙
これは無理。
167 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 16:24:50.42
>>164 >西域を含めた形で早い段階で「対唐大同盟」の締結
当時の交通事情では連絡することすら難事。
・唐軍船を拿捕して
これも至難。拿捕しても日本の造船能力ではああいう大船は作れない。
168 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 16:27:05.48
チャンス・カード ↓
唐の皇帝が重病になって戦争どころではなくなる
唐の中心部で反乱が発生して対外戦争どころではなくなる
織田信長とのチャネリングに成功して、助言をもらえる
天智と天武と周辺有力豪族の婚姻関係を一覧にしたい
2人はそれぞれの子供同士も婚姻してたりするから、それも含めて
誰かまとめて〜w
複雑だから分かりやすい相関図やら一覧表にするのが手間だしなかなかの至難
170 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 17:08:40.65
>>144 井沢元彦の小説では蘇我入鹿を討ち取るのが、大海人皇子(天武天皇)なんだよね
そっちの方が納得。詳しく教えて。
蘇我氏は、神武天皇や武内宿禰の後裔、インドから来た釈迦族、
もともとは鎌足(百済)と同じ民族なので、
入鹿を殺したのは新羅系じゃ?
>>164 >唐と戦うというリスクが相当高い決断をしたのに、戦後唐に最も擦りよる天智は早めに排除
同意しかねる
173 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 20:33:54.07
>>171 ありがとう!
>天智は悪役側扱い
あらら。井沢さんは天武側の人なのかな。
とりあえず『逆説の日本史(2)』を読んでみます。
>>170 >>144も
>>171も俺だけど
個人的には大海人皇子(天武)へは、壬申の乱なんかで蘇我系…というか武内宿禰子孫の系統が随分味方(場合によっては大友皇子側を裏切ったり、
こっそり危機を告げてくれたり)してるので、乙巳の変で入鹿暗殺が大海人皇子の犯行ってのは矛盾する気がするな
むしろ入鹿暗殺に反対や、入鹿とも交流あったかもと思えるくらい
あと「元々の祖国を一にする同族だから、(仲良くて、仲良いハズで)お互い争ってなかったんじゃないか」って推論はどうかな?
そんなのは古今東西の歴史を鑑みれば、状況次第なんだと思うよ
もちろん歴史的に因縁がこじれてる宿敵視してる隣国や隣あった民族ってのは、往々にして嫌悪の根は強いけど
あと中央アジアのトルキスタン系とかユダヤとかインド釈迦族とか言われたらトンデモと思われても仕方ないよ
何に書いてるの?
175 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 21:39:31.44
>>174 >武内宿禰子孫の系統が随分味方してるので、
なるほど紀氏とかが助けてるのか。考え直してみる。
>何に書いてるの?
どこにも書いてないと思うけど、あとトンデモで申し訳ないけど
私は日本の王朝交替とは、ダビデ男系を守り救世主を待つ人達と、
それを畏れるヒッタイト(秦氏)やエドム(出雲・物部)との争いだと思う。
日ユ同祖論は神道系やY染色体D系統ばかり重視し、仏教とO系統と百済は無視してる。
O系統はR系統に近く、R系統はインド北西部やキルギス、隠れユダヤの多いスペインやバスクにも多い。
坂本龍馬は武内宿禰(紀氏)の子孫、長州藩は天穂日命を初代とする毛利家、吉田松陰の先祖は多々良氏(百済の琳聖太子の後裔)。
八百万はヤホバ、百済はモーセ、毛利家はモリヤに見えてしょうがない(笑)
『日本書紀』の巻24の皇極紀から巻27の天智紀の部分は、唐人が書いたんだよね。
176 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 22:26:41.18
>>174 >何に書いてるの?
イサクの民=スキタイ(サカ)族=釈迦族という説は以下のサイトでいくつか記事を読んだ。
(British-Israelismをやってる人)
http://britam ニニギがインドの釈迦族ではないかと思う理由は、
高天原が、Tyag-Mahal (犠牲を捧げる神殿)というサンスクリット語ではないかと思うから。
イスラエルの聖地モリヤ山が、インドのMoriyaという地名やマウリヤ王朝や、諏訪の守屋山と関係していると思う。
Shakyaとサクヤ姫とヤコブの妻ラケルの話とか。
ヘブライ語やインドで川や町を意味する(ナガ、ナハ)の付く日本の地名と紀氏の関係とか。トカラとか。
「サカ」と武内宿禰の子孫の坂本臣や蘇我氏などの発音が似てる事。塞の神と武内宿禰。
さあ、オカルティックな様相を呈してまいりました。
178 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 23:00:37.71
ではなぜ皇室はそこまで万世一系や男系にこだわるのか。
ダビデの血筋を(王家として?)残すという神との約束があるから?
これが、イスラエルのアミシャブが日本に惹かれる理由でしょう。
この「神」が真実かどうかは別にして、イスラエルという人種がこれにこだわってるのは事実。
ナチスがやった事も、日本に大勢の反ユダヤ工作員(ユダヤ陰謀論者)がいるのも、事実。
そして彼等は天皇を嫌う。
もう夜も遅いですし、そろそろ巣に帰られてはいかがでしょう。
オカ板の皆さんもきっと心配してますよ。
180 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 23:28:56.49
でもみんな秦氏が好きだから仲間に入れてもらえねーだよ
181 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 23:32:12.05
これなんてどう? 武内宿禰=ブナイ・ヤドヤ=ユダの子孫
結構トンデモなハズの、九州王朝説や騎馬民族征服説やら井沢元彦さんや関裕二さんが、よっほど真っ当な正論に見えてくるw
183 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 15:26:27.74
たま出版の関係者?
自分でもトンデモと自覚してるから、尚更タチが悪いな
見方の独自性あってもいいけど、限度があるよ
竜に乗って空を飛ぶ怪人物
山から山へ移動するなど秘術を持つ修験道の草分けの役行者
邸宅に落雷して暫くして没する鎌足
藤原四家の4人全員の命を祟って奪ったと囁かれる長屋王の怨霊
ファンタジージャパンだな
187 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 16:13:56.43
>>182 多少真っ当に見える分、もし雇われるとしたらトンデモより怖いでしょ
188 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 16:15:00.32
×もし雇われるとしたら
○もし雇われているとしたら
>>186 役行者は天武朝では天武に気に入られてたのに、死後は朝敵みたいな扱いになって流罪になった
朝鮮で大陸勢力と戦ったあと関ヶ原で戦うってのがなんかシンクロしてて面白いな。
192 :
日本@名無史さん:2011/11/06(日) 18:39:14.67
>>175 >>坂本龍馬は武内宿禰(紀氏)の子孫、長州藩は天穂日命を初代とする毛利家、吉田松陰の先祖は多々良氏(百済の琳聖太子の後裔)
西郷隆盛の祖父は、紀氏系である「石清水八幡宮 尚清」の後裔 平瀬家から西郷家に養子に入っている。
>>192 もういいです
幕末板かオカルト板で頼む
孝徳天皇時代に起きた、蘇我倉山田石川麻呂の最期と、蘇我入鹿によって討たれたとされる山背大兄王の最期って似すぎてない?
山背大兄王って日本書記には、聖徳太子(厩戸皇子)の息子とは書かれてないみたいだね
匂わせてはいるみたいだけど
蘇我倉山田石川麻呂の最期を元ネタに、山背大兄王の最期を創作したって事はないのかな?
一千年後、戦乱や天変地異でこの頃の資料がうやむやになっちゃってたとして、
その頃に生きているであろう君の数十代後の子孫が、こう言ってるところを思い浮かべてしまったよ。
「長屋王の最期を元ネタに、山背大兄王の最期を創作したって事はないのかな?」
>>37 遅レスだけど。
韓流時代劇に嵌まり「朱蒙」や現在BSで放映中の「近肖古王」を見てからTSUTAYAで続編すべてを見ました。
>「於羅瑕(おらか)」というのが、どうやら扶余系言語で「王」をあらわす言葉みたいだね。
字幕ですが、王のことをハングルでオラカと聞こえてます。
近肖古王は百済の王で347年に即位してる実在です。日本に七枝刀を授けてます。
韓流時代劇が歴史的に正確か不明ですが、少なくとも日本より資料は多いでしょう。
日本の古代史を解明するには韓国側と日本側を一体で考えないとダメでしょうね。
なにしろ神話になった日本書紀と古事記だけではわかりませんよ。
1600-1700年前に住んでいた
民族的に関連のない人達の歴史に力を入れないのでは
>>196 七支刀は授けたんじゃないよ
同盟の証 贈り物
三國史記は成立が12世紀 日本の平安時代だよ
しかも、日本書紀を参照した可能性がある
また、日本書紀同様、初期の王統は実在性に乏しい
それに例によって牽強附会・我田引水…付き合うだけ時間の無駄
現代韓国の正統性を補強するために歴史をやってる
動機が不純だよ
199 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 02:10:00.86
ここでいう話じゃないけど
英語でいう歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)は、元を辿ればヒストリアイだかいう言葉から派生した同じ先祖を持つ仲間みたいな物
古今東西を問わず歴史ってものは、民族・国家・王朝の存在意義と正統性を補完する為に出来た様な物
内容を脚色または創作されて先祖自慢する為にある様なものだ
特定国家や民族の歴史観や歴史偽装があまりに酷いってのは確かにあろうが、程度問題で実際はどこにでも多かれ少なかれある事でもある
利用され改変される定めにある、悲しい学問ではあるが偽装された裏の真意やら真相を紐解く事も出来なくはないし、巧妙にカモフラージュされて分かる人には分かる様に残されているケースもあろう
日本(古代)史は、現代に生きる我々とも完全に関係が無縁という訳でもないから、感情論や民族的・国家的誇りというのと別次元で真摯に受けとめたいと思うし思想・信条の最終的結論ありきの美化史観も自虐史観も大きな障壁だな
狼少年みたいな偽装嘘史観で固められた国家は、全てに於いて全く信用されない罰を受ける日が必ずくるだろう
長年培った信用だけはお金では買えない
物部と蘇我は同じ先祖なの?別系統?
蘇我は武内宿禰で良いよね?
201 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 17:04:53.65
>>198 基本的に歴史ってそんなもの
そこから読み解かないとね
>>201 俺もその認識だな
ただ2か3かよくわからんのが多すぎる
武内宿禰の子孫でーすってのがどうも捏造っぽいのもいる気がするし
縄文系が2と混血して2を名乗ってるが実質1ってのもある気がする
中臣とか鹿島出身だとしたらそういうなんちゃって弥生の縄文なのかと妄想する
204 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 05:16:06.08
偽書である『先代旧事本紀』によって、
>>200のように、ニギハヤヒ(物部)は天孫族という誤解があるという事?
【先代旧事本紀】Wikiより
序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、
平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って
偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、徳川光圀や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた。
本書の成立は、実際には大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前と推定されている。
本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。
また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。
【ニギハヤイ】Wikiより
『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である
天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。
『新撰姓氏録』では、ニギハヤヒは天神(高天原出身、皇統ではない)、
天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。
【天火明命(アメノホアカリ)】Wikiより
尾張氏、海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図にも始祖としてその名が記されている。
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。
天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、子の天香山命の時に定住し、
真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
尾張氏は中部地方に勢力を持っていた氏族であり、物部氏と深い関係を持っていたことから、
尾張氏が祀る天火明命が天照大神(伊勢神宮)の子とされたと考えられている。
また住吉三神を祀り住吉大社を創建した田蓑宿禰は尾張氏の一族であり、
その子孫が住吉大社の歴代宮司家としての津守氏である。
205 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 06:03:20.23
祟りを鎮める為に祀るという事もあるから分からない。
【尾張大隅】Wikiより
『日本書紀』が壬申の乱を記す中に尾張大隅の名は現れない。大隅の功績は、『続日本紀』天平宝字元年(757年)12月9日条にある。
それによれば、大海人皇子(天武天皇)が吉野宮を脱して関東(この場合鈴鹿関の東)に行ったとき、尾治大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けたという。
↓こういう人は飛鳥っていってるけど物部側?
飛鳥昭雄 (著) 『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』
武内宿禰は大日本帝国時代の皇国史観では大忠臣だけど
仲哀天皇弑逆、応神天皇の実の父なんて事になったら忠臣でもなんでもないよな
また文脈からそうとも解釈出来る訳で
DNA検査がない時代の、男系血統の危うさここに極まれり
207 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 11:40:39.60
10代崇神天皇ぐらいから14代仲哀天皇まで、神武王朝がのっとられてた可能性は?
作家の関裕二は、初代・神武=10代・崇神=15代・応神説
まあこれは言い過ぎにせよ2代〜9代まで欠史八代は一種の数のかさまし(?)で「ハツクニシラス」繋がり
あと「神」繋がり
神・崇・徳の名を持つ天皇って不幸だったり、祟ってたり祟られてたり、呪詛やら一種の恐ろしい超能力・神通力・人ならざる力みたいな物があったとされて怖れられたり丁重に祀られてるみたいだね
天皇以外でも神功皇后、聖徳太子とか
崇神と崇徳はダブルだからね
崇徳上皇は日本史上で最大最凶の大怨霊とされてる
50代・桓武天皇の同母弟の早良親王が謀反の罪を着せられ淡路に島流しされ、10日あまり抗議の断食をし怒りのうちに憤死
没後、桓武天皇の身内が次々と怪死を遂げ、以降も凶事が続き早良親王の怨霊が信じられ、後に早良親王は「崇道天皇」が追号される
210 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 20:32:26.14
崇神天皇は別に怨みはなかったと思われる。
211 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 21:30:26.87
怨みはなかったけど、見事に祟られたよ
疫病が蔓延したり死人が溢れて、祟りと出た
大田多根子絡みの逸話
だから
>>208には先回りして
>祟ったり祟られたり
としっかり書いたよ〜ん
斉明女帝も天武天皇も同じ様に祟られたんだけど神・崇・徳の号はないけどね
でも不思議な繋がりはどこかで感じる
天皇とは「祟り、祟られる存在」
それも強烈に
大和の国は祟られても、崇神本人は祟られてないと言うかも知れないけど、俺の考えではそこは分けて考えないな
天皇(崇神)の徳や善性の有無=国の命運に反映という広義の信仰
ふつうに「崇重神祇」から来てると思われ。
214 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:34:32.38
>>211 > 疫病が蔓延したり死人が溢れて
でも崇神本人が病臥したり病死したわけではないからなあ。
215 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:44:02.32
徳仁親王←現在の皇太子
懿徳天皇・仁徳天皇
別に徳が付いたって祟ってない天皇多いよね
>>214 だから
>>212に先回りして書いてるってw
それに古事記だと崇神の枕元に大物主神が立つ
それに俺は神武と崇神はイコール論者
神武は最初の長髄彦との純粋な軍事的衝突なら跳ね返されて敗れ、紀伊半島を南方面に迂回している
東征などと言われて神武だから武力で征伐したみたいな印象だが、呪術力とニギハヤヒの助勢(長髄彦側からの離反)のお陰
聖徳太子も物部守屋戦の軍事的不利状況を、圧倒的な呪術力・神通力やら寺社建立の誓いの願掛けで逆転勝利しているという記述
太子は子孫が完全に滅亡し絶たれた悲劇的人物でもあるし、妃との心中説や他殺説もある
別に「徳仁天皇」になる訳じゃないからw
死後に号が選ばれて呼ばれる訳だから
はばかりながら今上天皇は平成天皇と、いずれ呼ばれる事になるだろうけど
応神天皇死後に兄の大山守命を殺し(一応皇位簒奪を企んだという名目記述)、弟で応神天皇の皇太子だった菟道稚郎子が謎多い自殺をした結果、即位した仁徳天皇か
幼くして聡明であり善政を敷いたというが、応神は弟の方を皇太子指名してるんだよな
兄と、皇太子の弟の死ってちょっとアレだよな
善政敷く人が大山古墳みたいな世界最大級の陵墓造らすって、民達にはさぞかし日々の負担大だったろう
219 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:53:53.43
>>216 > 聖徳太子も物部守屋戦の軍事的不利状況を、圧倒的な呪術力・神通力やら寺社建立の誓いの願掛けで逆転勝利
この戦闘は、小早川みたいなのを寝返らせた政略の勝利だったと思うね。
220 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:54:53.61
>>218 大仙古墳は雄略の墓説もあるようだが。雄略ならやりかねない。
221 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:58:03.47
>>219 物部合戦の時には圧倒的に蘇我氏方についた皇族のほうが多く
有力だったっぽいが
蘇我馬子の妻は物部守屋の妹だったが夫について
兄に情報を漏らさなかったという点においてもね
222 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 13:01:13.49
>>220 しかし雄略の都「伯瀬」は奈良県桜井市の「初瀬」を指す説が有力じゃなかったか
比較的平穏だった仁徳天皇の治世とは異なり雄略天皇の代には畿内豪族の粛清、
朝鮮出兵と軍事行動続きだったこともあり
巨大な陵墓造りに大量の人員を割く余裕があったとも思えないが
大仙古墳を雄略の墓なんて言ってる人はもういないよ。
5世紀前期(およそ第U四半期)に築造されたことはほぼ確実。
太子や蘇我陣営も呪術なら、物部守屋陣営も「稲城」の防御系呪術で待ち構える
まるで剣と呪術(呪い)の和製ファンタジー大戦の様相を呈していて面白い
稲城なんて物理的にはなんの障害にもならないハズの稲束の柵とかだからね
それが出されたら蘇我陣営はいきなり真っ青になって手出し出来ずに足止めされている
物部こそは呪術やら祭祀やら太古神道の大家
最近物部ファンが増えてるな
俺もだが
226 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 06:47:29.88
関裕二とか宮崎駿とか、物部工作員?
天理教も物部?
うちの近所に虎珀神社あるわ
228 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 09:08:07.28
物部氏はネット工作もしていたのかw
229 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 09:09:07.80
名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:645/11/16(水) 04:00:54.98
蘇我太郎が死んでから初めての冬がきたなあ
>>225-226 稲城とか守屋の話書いたの俺だが、物部ブーム的な流れってあるの?
関祐二さんは確かに
蘇我・物部・天武系アゲ
藤原・天智系サゲ傾向だけど
231 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 10:29:56.91
物部ブーム的な流れはないでしょ。
ネット右翼も廃仏毀釈は叫んでいない。
232 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 10:59:59.28
関裕二は、藤原をサゲるために、仕方なく蘇我をアゲてる気がする
233 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:01:18.46
72 :日本@名無史さん:02/08/22 22:28
天理市といえば、物部の石上神宮なわけですが、
なぜか天理教の広大な敷地で石上神宮が隠されてしまっています。
天理教と物部にはなにか関係があるのですか?
どうして天理教は石上神宮の目の前を本殿にしているのですか?
338 :日本@名無史さん:02/09/19 13:49
天理教は、石上神宮の関連の祈祷師の助手(?寄代?)をつとめた中山みきが創始したそうだよ。
234 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:14:37.76
天理教本部のある場所に昔三島神社という神社があった
中山みきが信仰したらしい
中山みきの時代には大きな建物がなかったが
息子たちが世襲するうちに三島神社を移転させ大きな建物を建ててしまった
石上神宮の祈祷師の助手というのは事実ではない
俺は天理教の知識ないからアレだけど、天理教の話題をこのスレで言わなきゃならない事なの?
本当に繋がりや関連あるの?
宗教なんて古来からの神聖な場所のそばやら、重要建造物やらのそばに、さも関係あるかの如くに権威付け・権威あやかりの一環で宗教施設建てたがるってだけでしょ
また俺んちの近所の話だけど、遺跡や古墳や寺社の跡にキリスト教関連施設が建てられてるんだよな〜w
呪術的に見れば聖地の乗っ取りはスゴイ意味がある…いい加減スレチだけど
237 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 17:46:31.69
石上神宮って単なる大和王権の武器庫があったところだろ
物部氏の本拠地って現在の東大阪市だよね
四天王寺(大阪市天王寺区)は物部合戦の後
厩戸皇子が物部氏から奪った土地に物部氏の奴婢を使って
建てた寺だと書いてある
238 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 19:55:34.02
大本教なんかも、綾部物部郷発祥だから、物部系という事かな。
そこから派生したスピ系や心霊協会はどうなんだろう。
<天理教本部と三島神社の関係は、どうなっているのか>
http://8512.teacup.com/naka1/bbs/87 --私は、教組が行いたかったことは、かつて日本が神世と呼ばれていた時代の本当の日本神道、
古神道の復活であると察する。その縄文神道、日本神道の源流の流れを汲む氏族、
忘れられた部族、物部一族であるのだ。
239 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 20:26:59.12
東大阪市・八尾市はウチのすぐ隣、
神武が長髄彦の軍に敗れた、生駒山の麓の日下部(くさか)とかも近く
石上神社や石切神社や鏡神社とかいう意味ありげな場所とかも近い
一度回っていろいろ調べたいけど、ネットにいいガイド案内資料ないかな?
>>223 >大仙古墳を雄略の墓なんて言ってる人はもういないよ。
いたわw 同志社の森浩一御大。
今日の読売新聞に近著のことが紹介されてた。
なんでも、50年前は仁徳陵を被葬者に疑義が無い古墳だと考えていたらしいが、
ボストン美術館蔵の鏡や環頭太刀の所見から5世紀後半以降の築造で、允恭か雄略の陵だろうと。
まあこの見方はずっと前からあったんだけども、間が悪いのは、
ボストンの伝仁徳陵出土品が仁徳陵(大仙陵)のものじゃなかったって、ニュースになったばっかだもんなあ。
242 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 02:35:15.13
243 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:34:52.59
大仙古墳=允恭の墓という可能性はあるのだろうか?
244 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:39:19.26
日本書紀によれば允恭の代にそれまでの河内から大和に移ったらしいからね
都に来た人に大きな陵墓を見せて権力を誇示するのが目的だから
都から遠いところに陵墓を造る意味がないけど
白村は中国語のpakと百済語のsukiがまじってる言葉のようですが
白は「白い」の意味ですか?もしくは白という人の領地の意味でしょうか
中国史には高句麗、百済語は中国語まじりの言葉を話すとされてますから
pak sukiで白い村を表した可能性もあるのでしょうか
sukiは百済系の苗字村主(すぐり)などから百済語と確実なのでしょうが
一昔前、韓国人は百済を自慢して百済の末裔だと自称してたが
最近、全く聞かなくなった。
ネットで白村江の戦いを知ったからか?
なんでも、向こうのネットの内部では
あいつら韓でもなく高麗を最近名乗り始めてるそうだし。
朝鮮は「高麗」がKOREAの語源だよね
中国の「支那」がCHINAの語源みたいな
国際的にはそっちが通ってる訳だし深い思想的意図ってあるの?
関係ないかもだけど日本も「扶桑」とか「蓬莱島」に一部でみたてられたりとかあるよね
他に何かある?
倭国、大和とかは旧国名に近いのかな
「日本」だってニホン、ニッポン、ヒノモトと読めるしね
249 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:32:32.83
蘇我入鹿らの血筋が実は本流ではなかった可能性ある?
物部守屋は、物部の本流じゃなかった説(物部ニ大本流説も)あるけどな
入鹿や蝦夷が蘇我の本流や本家や宗家じゃなかったとしても、こと国内の政治力や朝廷内では蘇我氏の中では一番力があったんじゃないかな
馬子も
251 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 03:03:55.07
なるほど。その継体王朝の血筋が本流(天孫)ではないって可能性は?
252 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 05:42:38.20
分かってるだけでも、という事でしょう↓
128 :日本@名無史さん[sage]:03/12/08 01:17
入鹿の血ってほとんど物部!
稲目━━┳馬子
女子━━┛ ┣━━蝦夷(1/2※)
尾輿━━┳女子 ┃
女子━━┛ ┣━入鹿(3/4※)
尾輿━━┳石上贄古┃
如波流姫┛ ┣━━鎌媛
尾輿━━┳布都媛
阿佐姫━┛
http://unkar.org/r/history/1051920599
253 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:19:42.75
254 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:36:14.69
255 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:47:13.59
ところで、この時代
海を越えて2万の兵力を送れる国って、どれくらいのレベル?
256 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/20(日) 19:22:28.82
>>247 >中国の「支那」がCHINAの語源みたいな
CHINAの語源は「秦」です。
「支那」の語源も「秦」で、明治以降の日本でシナを蔑んで作られた名称です。
>関係ないかもだけど日本も「扶桑」とか「蓬莱島」に一部でみたてられたりとかあるよね
「扶桑國」は5世紀の「播磨國」のことです。
継体の血統の怪しさってのはよく繰り返し語られる事だけど、
俺の個人的には仮に全くアカの他人が偽称するなら継体の血統の正統性が疑問視されるような「天皇五代の孫(天皇の五代後の子孫)」という微妙な遠い血縁にはしない感じもする
まあでもDNA検査もない時代な訳だし、もっと言えば「産んだオンナ親しか確実には血縁証明困難(父系血縁継承の絶対的証明は困難)」な訳ですよ
神功皇后みたいに仲哀天皇死後の十月十日を遥かに過ぎて、産まれてくる応神天皇とか不穏な継承はいくらでもある訳ですよ
継体はその「胡散臭い可能性の十分あると思われても仕方ない」応神天皇の五世孫を名乗ってる訳で、偽称するならもっと正統感のある天皇の五世孫でも良かった訳ですよ
その辺が不思議で面白い部分でもあるんですが、「事実は小説(通説、歴史伝承)より奇なり」な部分も多いんじゃないですか
>>256 「扶桑国」なんて俺言ってないし、
扶桑も蓬莱島も時の中国皇帝なんかに報告として中国の東方海上にある島と証言された、本当に見たかどうか怪しい半ば幻の島、想像上の島、理念上の島だからな
その後に扶桑はアメリカ西海岸やメキシコに比定されたこともある
だが扶桑は大日本帝国海軍が駆逐艦名にしたほどの日本の別名という共通認識は日本に昔の今も確実に一定数ある
扶桑社、三菱扶桑、扶桑工業…これらは確実に裏の真の意味的には「日本」別名の意味で言ってるの!
平安時代にかかれた歴史書「扶桑略記」ってのもあるけど
意味として =播磨略記なの?
260 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 20:59:59.65
>>257 >神功皇后みたいに仲哀天皇死後の十月十日を遥かに過ぎて、産まれてくる応神天皇とか不穏な継承はいくらでもある訳ですよ
崇神王朝から、神武側が奪い返してるという事では?
>継体はその「胡散臭い可能性の十分あると思われても仕方ない」応神天皇の五世孫を名乗ってる訳で、偽称するならもっと正統感のある天皇の五世孫でも良かった訳ですよ
応神より前は別の王朝の血筋なので、使えないのでは?
261 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:13:37.75
>応神より前は別の王朝の血筋なので、使えないのでは?
間違えた。実際には応神より前の血筋だったって事でしょうね。偽称というより。
だからぎりぎり応神を使ったと。
262 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:29:54.08
>>257 平将門も「天皇五代の孫(天皇の五代後の子孫)」ではなかったか?
263 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/20(日) 21:32:56.78
>>259 平安時代なので、扶桑略記=播磨略記ではない。
扶桑=播磨は5世紀末の日本についての7世紀初頭のシナ人(姚思廉)の認識です。
「大和」だって大和国(=今の奈良県あたり)の意味で使われる事もあれば、
当時のヤマト王権(ヤマト朝廷)の支配下地域全体=当時の日本全域の意味で使われる事もあるんだから、1つの使われ方だけを限定してこの用法が正しいみたいに言われても
時代によっても意味は違ったり拡大したりするし
この辺が誤解を生んだりする部分なんだろうけど
倭と倭国と倭人の微妙に違ってくる使われ方の用法の解釈とかね
>>263 >扶桑=播磨は5世紀末の日本についての7世紀初頭のシナ人(姚思廉)の認識です。
根拠は?
266 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/20(日) 23:24:28.06
267 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 23:35:18.01
どこにも播磨に否定できるような記述はないが?
269 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/21(月) 00:22:17.00
>>267 @「扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東」
A扶桑の木(青桐)についての記述内容
B「名國王爲乙祁」
C「其地無鐵有銅不貴金銀」
D「其俗舊無佛法 宋大明二年 罽賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法 經像 教令出家 風俗遂改」
270 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 02:30:10.42
それらの記述のどこらへんが播磨を指し示しているというんだ?
>>261 なるほどね
やっと言いたい事の意味が分かったよ
いろいろ想像巡らすと面白く興味深い発想浮かびそうだよね
>>262 俗に「新皇」を名乗ったと言われている平将門公は「桓武天皇五世の孫」だね
同母弟の追い込んで憤死させた早良皇太子(死後に「崇道天皇」と追号される)に祟られたと確信し死ぬまで恐怖に苦しめられ祟られた天皇、平安の新時代の扉を開いた帝、桓武天皇の
五世孫の平将門が東日本イチの史上最凶の怨霊というね
明文化された継嗣令が慶雲3年(706年)に正式に決められ「天皇の五世孫までが皇親とする」とあるみたい
おそらく継体天皇の「応神天皇五世孫」伝承なんかも参考に皇位継承の前例重視主義的に決められたのだろう
継体天皇以降の天皇五世孫までに当たる天皇子孫の貴人の人達も、平将門公もいずれも
「もしかしたら高位の継承権を持つ皇親が次々絶えてしまえば、もしかしたら末席の自分が皇位になんて事も…」
「まかり間違えは満更自分だって皇位に就けない訳じゃない」とか少しは妄想もよぎってると思うね
源頼朝や足利尊氏は、いったい清和天皇の何世孫なんだろう?
平清盛は御落胤説もあるから難しいな
方士の徐福が秦の始皇帝に述べて取りに行こうとした「蓬莱島など三神仙にある不老不死の妙薬」とは、実は「朝鮮半島の朝鮮人参の事である」とかいかにも韓国人が言いそう
脈絡もなく韓国を誹謗するような話をふるのはどうかと思うが、
始皇帝の頃には既に朝鮮は陸続きである事が認識されているので、それは少々無理がある。
敬体って新羅の王子と言う説もありますね。
ツヌガアリヒトと言うらしい。敦賀の語源らしい。
昔の琵琶湖は飛鳥まで伸びていたと言う説もあり、
韓半島から若狭湾で上陸、琵琶湖を船で移動して飛鳥に入ったらしい。
暴論ですかね。
278 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 12:43:00.45
>>274 > 平清盛は御落胤説もあるから難しいな
この人はガチで白河天皇の子でしょ。
279 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 12:44:44.22
>>277 > 敬体って新羅の王子と言う説もありますね。
桓武の母が百済系だったのと同様に
継体の母または祖母が新羅系との説もあることはある。
280 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 17:48:51.22
新羅人のツヌガアラヒト(ツヌガアリヒト)って、敦賀の語源とも言われているけど、
「角がある人」=鬼=新羅人
(編纂に多く参加した百済系帰化人側の目線で反新羅的に編まれた記・紀記述)みたいなのがあるという話も有るよね
281 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 18:43:35.84
282 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/21(月) 19:15:26.23
>>270 >>@「扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東」
>>A扶桑の木(青桐)についての記述内容
>>B「名國王爲乙祁」
>>C「其地無鐵有銅不貴金銀」
>>D「其俗舊無佛法 宋大明二年 罽賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法 經像 教令出家 風俗遂改」
>それらの記述のどこらへんが播磨を指し示しているというんだ?
上記五項目のどれについてもわかりませんか?
どれも解らないのなら、五項目全部を説明すると本を書くが如くに膨大になるので省略します。
簡単なBについては、下のヒントから自分で考えてください。
「乙祁」は「億計(仁賢天皇)」又は「弘計(顕宗天皇)」のことです。
283 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:17:03.44
>>280 > 「角がある人」=鬼=新羅人
新羅の王族や貴族がかぶる冠にツノみたいな突起物がついていたとの説もある。
284 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:18:01.30
不比等は天智天皇の子
286 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:53:53.08
>>284 清盛が白河法皇の落胤って「平家物語」が初出だと思うんだが
平家物語が史実を描いているなら清盛の母は祇園女御で確定ということになる
しかし祇園女御は平忠盛の妻になった形跡がないことが明らかなんだが
287 :
X:2011/11/22(火) 01:11:15.70
作家・関裕二氏の説では蘇我vs物部の崇仏戦争は、実は天皇中心の本格的な国家建設
律令制度導入を狙って、多くの豪族らの反対が予想され長年アンタッチャブルだった懸案の土地制度改革に遂に手を付けた「改革断行派」の蘇我と、
日本全国に土地を持ち巨万の既得権益の喪失に不安・不満を覚え反対した物部守屋らを首謀者とした「抵抗勢力」との争いを、
蘇我を讃えたくない日本書記編纂責任者らが物事をすり替え矮小化して、
物部神道保守vs蘇我仏教導入の宗教的争いと巧みにすり替え誤魔化したと述べているが
有識者の諸兄はいかがお考えか?
事実はともあれ、なかなか斬新な切り口でユニークであり従来の崇仏戦争の説明よりも、なるほどと妙に納得出来る部分もあると思う
なにより面白い
まあ面白い事に流されたら、得てして事実を見失う物なんだけど、議論くらいしてもいいと思う
結局、いつもそうやって説明せずに妄想を垂れ流すだけだよな
>>九州王朝大好き
289 :
X:2011/11/22(火) 01:53:50.18
証拠を何も提示してないし、垂れ流し書き込みは確かに正直に認めるが、
俺の事言ってるなら俺は九州王朝派でも、釈迦族派でも、日ユ同祖論派でも、秦氏好きでもない
関さん好きと言われたら否定出来ないw
290 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 03:21:13.85
関さんの言う日本書記編纂責任者は誰ですか?
>>290 持統女帝やその奥にいる真のブレイン、総合統括プロデューサーとして藤原不比等の意を汲んだ人々だろうな
関さんは従来の天武天皇の意思や指示が大きいという記・紀の成立・編纂過程をある程度否定している
天武の意思入ってる事の全否定はしてないと思うけど、不比等の意思の方が入ってるという意見かな
>>283 辰韓人が頭を偏頭にしてたから角あったんじゃに?
293 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 23:46:32.08
294 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 00:14:27.83
倭国よりは日本国のほうがかっこいいと思う。
なんとなく「ワ」だけじゃ締まらんからな
296 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 07:02:07.58
サッカーの応援で 「 倭 チャチャチャ 」 では締まらないよな。
近所(東京)にある4世紀の古墳の再現を見てきたけど、韓流時代劇「近肖古王」に出てくるものとそっくり。
衣類はドラマの形そのまんまでしたね。渡来系の人々が各地に散って荘園を作っていたのでしょう。
298 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/23(水) 12:12:06.50
>>270 >>@「扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東」
>>A扶桑の木(青桐)についての記述内容
>>B「名國王爲乙祁」
>>C「其地無鐵有銅不貴金銀」
>>D「其俗舊無佛法 宋大明二年 罽賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法 經像 教令出家 風俗遂改」
>それらの記述のどこらへんが播磨を指し示しているというんだ?
Bに続いて2番目はCについてのヒントを与えよう。
*鉄鉱山も砂鉄がとれるところもない。
*しかしどの河川でも砂金がとれた。
*豊富な銅を採掘できた銅鉱山跡は残っており、
*そこでは金銀も豊富であった。
鉄器はヒッタイトから始まる。
砂鉄はインドのアユーディア、ここにヒッタイトが来た形跡を感じる。
釜山周辺は砂鉄が豊富だった可能性が高い。
朝鮮の神話では、インドから妃を迎えたことが書かれている。
ここがつまり任那で、金官伽耶。
砂鉄を加工、てっていにして交易をしていたのでしょう。
それまでは銅ですからね、倭は古代ヒッタイトの末裔かもしれないね。
>>298 >其地無鐵有銅不貴金銀
を
>*鉄鉱山も砂鉄がとれるところもない。
>*しかしどの河川でも砂金がとれた。
>*豊富な銅を採掘できた銅鉱山跡は残っており、
>*そこでは金銀も豊富であった。
などと訳している時点でビョーキだな
叔父の孝徳天皇と甥っ子の中大兄皇子は、最初は仲良かった→しだいに対立した説もあるし、元々対立してた説もあるなあ
302 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/24(木) 19:14:37.08
>>270 >>@「扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東」
>>A扶桑の木(青桐)についての記述内容
>>B「名國王爲乙祁」
>>C「其地無鐵有銅不貴金銀」
>>D「其俗舊無佛法 宋大明二年 罽賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法 經像 教令出家 風俗遂改」
>それらの記述のどこらへんが播磨を指し示しているというんだ?
BCに続いて3番目4番目はD@についてのヒントを与えよう。
*宋の5人の僧が458年に扶桑國に仏教を伝えた
*扶桑國は仏教の国となり、499年には留学僧慧深が南齋に派遣されていた。
*留学僧慧深が云うには、南京(建康)の東1400km(2万里)に扶桑國がある。
南京の東1400kmは播磨國付近(近畿)になる。
>>302 分かったから、もういい加減にしてくれませんか
スレチだし、誰も望んでないし、何度も何度も繰り返し書いて気を引く様なめんどくさい書き方だし、主張内容自体もアレだし
それに相応しい板でお願いします
孝徳天皇が入鹿斬殺の主謀説ってどうなの?
305 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 16:53:12.58
秦氏と物部って同族?
306 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 17:14:24.64
>>305 違うと思うね。婚姻などを通じてつながりはあったかもしれないが。
物部は日本古来の勢力
308 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 18:15:42.56
309 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 08:19:36.26
蘇我馬子とその妻(物部守屋の妹)が、守屋の財産相続した関係で、
蘇我氏である宗我部と物部が共存していたという事かな。
では蘇我氏と秦氏の関係は? 信濃の宗賀氏は秦氏みたいだが。
蘇我氏は百済系?新羅系? 秦氏はどっち? 武内宿禰は?
310 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 10:18:44.38
馬子までは蘇我本家だけど、蝦夷と入鹿は物部側の気分なのか、
もしくは母が兄を殺された復讐で浮気してできた子で、
長宗我部は入鹿の弟の物部大臣の血筋とか。
物部と秦氏が同族なら、長宗我部が秦の始皇帝の末裔を自称するのも分かる。
長宗我部は、馬子の子である倉麻呂の子である赤兄の子孫である安芸氏(本物の蘇我氏?)を滅ぼしている。
蘇我と物部は同族であり、出雲系です。
中大兄らによる策略により、両者主力は滅亡に追い込まれた。
312 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 11:27:35.25
中大兄らは、蘇我入鹿が100%(両親とも)物部の血だとわかっていたから殺した。
それ以前の蘇我氏は、そうではないでしょう。
313 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 11:30:08.33
境部魔理勢や蘇我石川麻呂も、ちゃんと天孫系でしょう。
314 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 11:33:12.20
紀氏が壬申の乱で天武側を助けたとあるが、
入鹿が物部とは知らなかったでしょう。それを天武が利用した。
で、物部守屋は物部本家筋か、違うのかどっち?
本家じゃないという説があるの?
>>312 ×それ以前の蘇我氏は
○馬子までの蘇我氏は
物部守屋が本家(氏の長者、一族の主家の長)という記述じたい別にないんだろ!?
みんな「多分そうなんだろう」という思い込み、希望的(?)観測というか
そもそも、何故に仏教を取り入れたのか。
祭祀を取り仕切っていた物部に対向するためというのは動機として軽すぎるし、
正当血筋(出雲系)から天皇を・・・というのも仏教の動機としてはあり得ん。
守屋の時代でそれまでの神道のありかたが悪い意味で大きく変わったのかも知れない。
だが、政治担当の蘇我は直接に口を挟むことはできない・・・だから・・・・ということなのかな?
物部が祭祀始めたのは、継体天皇から?
>>319 「仏教の導入」が意味することは、
現代の感覚だとつかみにくいかもしれないが、
当時の人々にとっては、最先端の学問・技術のかたまりがどんどん導入されることだった、
という意味を忘れちゃいけないだろうな。
論理学・数学・医学・建築学・語学・地理学・金属工学・その他もろもろ含めてね。
当時、「お寺が一軒建つ」というのは、
今で言うなら、「総合大学が一つ設立され、現代建築の象徴が建つ」ような存在感だっただろう。
僧侶は知識と対外情報の強力なネットワークを持ってたし。
日本書紀とか三国史記とか読んでみても、
僧侶が内政や外交で強力な顧問になってた例は多いし(たとえば、厩戸皇子のブレインの一人は高句麗僧の慧慈だったし)、
甚だしくは、僧侶が間者の役に名乗りを挙げた例まである(蓋鹵王代の百済に、長寿王代の高句麗から対外工作目的で送り込まれた、道琳とか)。
たとえば、聖明王代の百済から欽明天皇代の大和に本格的に仏教がもたらされたというのは、
百済と大和の同盟の裏付けとして極めて強力な見返りでもあったということだろう。
蘇我は、そういう対外開放の積極推進路線を志向したってことなんじゃないかな。
いっぽう物部は、伝統的な対内安定路線のほうをより強く志向していた、ということじゃないかと。
土佐国 物部村(現高知県香美市)の呪術に、
蠱毒(中国の殷時代から伝わる生物系呪術)が残ってるって本当?
殷では人身御供もしてたんでしょ?
>>321 なるほど・・・・
政治的な意味でということなのかも知れませんね。
ただ、それにしては全国展開する方向であるので財をかけ過ぎていると思われます。
ある意味でカモフラージュの目的があったのかも知れません。
神道的色合い(民族の出自)を隠すという・・・。
大陸と交流する関係でそうせざるを得ないような情報を得たのかも。
本当かどうかは知りませんが、
彼(聖徳太子)は数々の予言的なものを残しているようであることからも、
その筋の深い思考ができる人物であった可能性がありますね。
324 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 19:44:36.77
>>319 現世利益を期待していたことも大きいと思うね。
325 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 19:46:01.95
>>323 > 彼(聖徳太子)は数々の予言的なものを残しているようであることからも、
> その筋の深い思考ができる人物であった可能性がありますね。
聖徳太子は精神世界に関心が強かったのかもしれない。
初期の関裕二氏が「蘇我入鹿暗殺とは、実は聖徳太子暗殺である」と言ってた
今は微妙に意見を変えてるかもだが
聖徳太子と蘇我入鹿(蝦夷)とは表裏一体で、便宜上の必要から善性と悪性を分断しただけで同一人物だと
もっと言えば皇極(斉明)の第一子の漢皇子(=大海人皇子=天武天皇)は、厩戸皇子(聖徳太子)の子だと
これが事実なら確かに面白いんだけどな
面白いってのは麻薬だな
危険だ
327 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 10:40:57.89
>>326 歴史は勝者に都合のいいように書き換えられるものだからなぁ。
実際、蘇我入鹿=聖徳太子が殺された後で、なんで形成不利な百済をわざわざ
日本から全力応援して、ボロ負けしたのか?これが一番の謎とされている
だから、中大兄皇子ってのは実は百済系の王族で、百済応援の反対派である
殺害した
そんで、この白村江の敗戦で、単に百済だけが滅亡しただけではなくて、
実際は「時の政権(百済系)である大和王朝も滅亡した」っていう説も
あるよね
それ倒した大海人皇子ってのは、実は大陸系の人間だけど、それじゃ
困るから代々日本を統べるところの王朝であることにしたのが記紀っていう捏造歴史書
328 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 11:39:58.41
>>321 蘇我稲目や蘇我馬子は寺を建てる以前にも
百済から送られた仏像を自宅に置き、拝んでいたからな。
崇仏派皇族の厩戸皇子も物部守屋を討ち取ることができれば
寺を建てますと仏像に戦勝祈願をしている。
たとえ寺を建てなくても仏像に祈るという宗教の教えを守っていたということだ。
蘇我氏らはただ文明を導入したいためだけの理由から仏教を取り入れようと思ったわけではないだろう。
仏教が宗教である以上、その理念に共感していたということだ。
だから、蘇我氏がもともと仏教を崇拝する渡来系だったんじゃないかといわれる由縁だけどね。
329 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 12:27:44.48
基本的には、文化や宗教や言語ってのは、渡来人が親切丁寧に伝えてくれるようなもんでは
なくて、ヨソからやってきた民族が侵略して、支配層になった結果入ってくるものだと
思うんだよな
漢字が中国から伝えられ、日本人が漢字使うようになったってのはまさにトンデモ説で、
漢字使う民族が支配層として入ってきたって考えるほうが普通かと
同様に、仏教伝えられたっていうより、仏教を崇拝する民族が日本に侵略して来たって
考えるほうが普通かと
安土桃山時代の南蛮文化、明治維新後の文明開化も同様に考えろってか
331 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 22:10:58.70
>>327 百済を応援した理由なんて簡単だろ
当時百済は日本の属国だったからだよ
属国を見捨てて敵対してる国を応援する馬鹿がいるか
ちがうよ、中国と日本の真ん中に、百済という中継国がいたからだ。
天孫族ってどっから来たんですか?
天孫族は、西日本の日本海岸や島々にいた連中じゃない?
一部は瀬戸内にいたかもしれないけど。
天孫族は、どこから天下ったのか?というのは重要な問題ですね。
もちろんそれは高天が原からです。
では、高天が原とはどこかといえば、高千穂の峰だと考えます。
「天下る」の意味は「都から下り来る」の意味だろう。
高天原=都である壱岐対馬を起点として、下り来るということだ。
日本人のY染色体は、大きくDとOに分かれるけど、
Dが縄文人で、Oは朝鮮半島からだとしたら、天孫族はどっち?
338 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 17:55:45.55
339 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 18:02:10.52
340 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 15:19:00.81
>>339 符合する部分あるし面白いけど、結局は九州王朝説みたいな感じか!?
なんで古代史系はこうとんでも説の珍パレードになるのかねえ
342 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:03:53.77
それをトンデモ説と思い込むってのが、頭が悪い証拠
記紀なんて、誰がどう考えても、政権奪取した天武天皇派が自らの都合のいいように
歴史を改鋳しまくっているなんてのは当たり前
それを盲目に信仰するのは、もはや宗教っていうか、ただのアホ
343 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:07:22.86
>>340 後に「倭寇」って海賊が中国大陸沿岸地域をたびたび脅かすので、日本に
対して取り締まってくれと要望されたってのがあるが
「倭寇」はなぜか朝鮮半島やら中国沿岸にも拠点を持っていた
これを、「倭寇」が中国や朝鮮と提携していたと考えるのか、それとも、
もともとこの海の沿岸地域は同じ民族が支配していた、と考えるのか?
さらに後の鄭成功親子は、なぜ、長崎の平戸や福建省に拠点があったのか?
344 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:17:16.55
>>342 都合良く歴史を改鋳しようとしてるのはお前。
倭=日本で、同じ「ヤマト」。
663年頃の国の根幹に関わる話を、
700年頃の記紀編纂期にそんなガラリと改鋳できると本気で信じてるのか。
そっちこそ信仰以外の何物でもないよ。
345 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:21:44.56
政権が変わったのに、改鋳しないわけ?
前の政権は正当でしたから本当のことを書くとでも?
信仰っていうか、タダのバカだね
まるで、今の政治家やマスコミが本当のことを書くと信じるのと一緒だわ
346 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:24:03.97
倭ってのは、チビ、小さいって意味
日本ってのは、日の下、太陽の下って意味だろ?
大和ってのも、これまた違う
それを後から都合良く一つにまとめただけと考えるのが普通であって、
同じ「ヤマト」だ!って、あんたアホっていうか、歴史語らないほうがいいよ
バカなんだから
いや、旧唐書の記載を誤解している貴方がバカ
348 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:33:26.95
今の政治家やマスコミも本当のことを書かないことはあるだろう。
記紀も本当のことを書かないことはあるだろう。
しかし、
>>339に書かれてることは本当だ、なわけも無かろう。
「改鋳」といっても、度合いの問題だと言ってるわけ。
国の根幹(詳細ではなく)にかかわる話なんてそうそう書き換えられるもんではない。
1963年の自民党政権を、民主党政権に改鋳できるか?
349 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:38:13.62
いや、あのさ、
>>348さん、あなた、自分でよーく、その比喩が適当なものかどうか、
100回文章読んで考えてから書いたほうがいいよ アホ丸出しだから
記紀ってのは、違う政権の手柄まで根こそぎ全部自分達の先祖がやりました、
だから、ずっと我々だけが王家なのですよろしくね、っていうプロパガンダみたいなもん
350 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:41:18.58
>>346 倭は悪字で日本は良字ってこと?
しかしね、君の言う新生「日本」の人たちって、
相変わらず「倭」の字も使い続けてるんだぜ。
351 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:41:51.93
つまり、白村江の敗戦もそうだし、
元寇で疲弊した時もそうだし、
第二次世界大戦の敗戦もそうだけど、
結局は、時の政権ってのは、戦争に負けるか、国力消耗してしまうと
当然ながら、誰かに政権奪われてしまうってのは当たり前の話
で、その後で政権取ったヤツが、前の政権最悪!俺たちが正義!って言い始める
のは当たり前
352 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:46:31.28
>>349 そうでも無いだろ。
天皇支配の前には出雲の国譲りだの、ニギハヤヒの統治だの、
もともと記紀は「ずっと我々だけが王家」的な万世一系で貫かれているわけではないよ。
基本的には、自分の王家の歴史を記載している。
吾妻鏡が摂関政治や院政、徳川実紀が室町幕府や織豊政治を基本書かないのとおんなじ。
353 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:48:06.52
なんで、白村江の敗戦で前政権に変わって新政権になった天武天皇側が、
過去の政権やら王の全否定をしなかったかというと、代々日本は我々が
治めてきた、っていう建前があるし、もう一つ、これが大きいらしいのだが、
どうも「天皇」「すめらみこと」というものは、天武ではなくて、
滅びた(吸収された)側の倭国側のほうの伝統っていうか、神職みたいなもん
だった、って説を聞いたことがある。まあ、真偽のほどは置いとくが、
そうであるならば、天武側が過去の別政権を全否定しなかったのは分かる
354 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:48:57.77
>>351 で、元寇と第二次大戦敗戦に際しては、
どのように
>>339のような改鋳が行われましたかねえ。
皇帝の王統に横から割り込んできて、皇位継承権もないのに自ら皇帝となった武則天。
703年に粟田真人が武則天に謁見し、皇位継承権のない元明天皇の即位を非常に喜び、
武則天は大和朝廷の「倭国=日本国」という嘘を、丸ごと呑んだ。
しかし皇帝の史官たちは、のちに武周革命を否定し、「倭国=日本国」も否定し、
日本国が倭国を併合したのが真実であることを前提に、別な国として旧唐書を書いた。
旧唐書の記述はマズいと判断した日本側は、宋朝になって日本の「然がを派遣、
朱子学に則り「倭国=日本国」を上手に説明したため、新唐書からは「倭国=日本国」
に改定されて今日に至っている。
356 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:52:53.37
357 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:55:56.38
>>354 いや、君は死ぬほど頭悪いから、議論に加わらないほうがいいと思うよ
358 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:58:16.67
>>357 いや是非とも加わりたい。
教えてくれ、どのように改鋳された?
359 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:02:06.27
>>358 君バカだなぁ
1500年前に、焚書のごとく、他の歴史書は抹殺して、記紀でっち上げた
新政権の時のでっちあげと、
現代やら、100年も経っていない第二次世界大戦の時とは、証拠となる
文献やら資料の数が違い過ぎるから、当然過去のほうが捏造し放題に決まってる
だろ?
ただ、程度の差はあっても、今でも誰でも自分にとって都合のいいことしか
言わないってのは、当たり前の話
それを、1500年前と同程度の歴史捏造の証拠を出せと迫るのは、あなたが
バカだから。ただ、それでも、今でも、アメリカなどは無茶苦茶やって
自分は正しいって言ってるだろ?一緒だよ
360 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:08:12.12
>>359 では間をとって元寇の時は如何ですか。
あと、飛鳥における7世紀前期〜末まで連続性のある遺跡、
石神遺跡とか飛鳥宮跡とか終末期古墳のあり方から、
どのようにあなたの言うようなダイナミックな改変を想定されますかね。
361 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:16:46.46
ごめん、あなたはアホ過ぎて話にならないから、これで最後にするわ
歴史書とされるものは、時の政権にとって都合のいいように改鋳され、
そしてそれと違う事実を指摘した歴史書は、抹殺されるか、偽書とさ
れる。都合が悪いから
で、そこで何で「遺跡」の考古学的な発見の話の改鋳にすり替わるのか?
その論理の飛躍はどこから来るのか?
つまり、あなたがアホだから。話にならない。まあ、バカにバカって言っても
バカだから死ぬまでわからないだろうから、死ね
362 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:19:31.40
つまり、オマエがバカだと指摘されたのが悔しくてたまらないが、
まともに反論できないので、必死で別のものを持ってきて、議論
をすり替えて相手を否定したくて必死なわけだ
自分の意見に間違いがあり、そして、他の見方もあるだろう、と
考えるのが普通の能力の持ち主であって、そんなのはあり得ない!
などと必死で自分の覚えたこと(自分で発見したことでもないくせに)
にしがみつく。それを日本語でバカ、という。日本語知ってるか?
363 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:30:08.63
>>361 だから、文献では心もとないなら、考古的な観点からはどうですか? って言ってんでしょーにw
364 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:42:46.08
相手にするだけ無駄。
ふつうは、文献(批判)と考古学の成果から史実を読み説いていくもんなんだが、
一部の歴史好事家は、文献を創作捏造されたものと「超批判」した上に、
自分の妄想で史実を創り上げちゃうもんだから。で、タチの悪いことに自分ではそのことに気づいていない。
365 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:42:53.43
>>355 倭国と日本国は、まったくの異民族ではなくて、どうも、元々は同系統ではあるが、
日本へ渡来するまでのルートが違う、という説が本当であれば、日本国が倭国を
吸収するのは、まったくの異質ではないがゆえに、それほど難しくなかったのかも知れない
記紀では遠回しに、神話的表現で、スサノオとアマテラスは姉弟で、弟は乱暴で(つまり
前政権側の一族)と書いてあるのは、そのことを指摘しているのかも知れない。
で、妄想を前提にしてさらに妄想を積み上げるとw
367 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 21:22:26.99
>>346 >倭ってのは、チビ、小さいって意味
九州と半島南部沿岸に住んでいる倭人達が、
シナ本土や半島中部北部の人々より小柄だったので、
「倭」が、チビ、小さいって意味になった。
倭寇がシナ沿岸部を荒らしたので、「倭」が荒々しいの意味にもなり、
溶解するとき爆発しやすい金属である鉛のことを「倭金」とも言った。
368 :
襾:2011/12/12(月) 00:36:14.33
独自年号、天皇号、国際舞台での正式な国号の変更、国史編纂、土地・人事制度改革など国力強化へ向けた律令整備
この時代に国家が一定程度再生・再整備されたのは間違いないだろう
ただ天武が中国で言うところの「易姓革命(=王統・王族とは別の姓の人間による前政権打倒・政権奪取)」に成功したとまで判断するのは違うと思う
上手く工作したつもりでも、天武や関係者の死後に内幕をバラす奴・全否定して糾弾する奴は必ず出ると思う
毛沢東やスターリンだって死後に厳重に秘められてた真実の内幕が明かにされて糾弾・総括された
血統の正統性・優位性までは分からないが、天智の生前から皇族か大豪族かかなりの国家的・皇統的・政治力的に有力者で各方面からも多くの支持を得ていたあったのは間違いない
なんか今となっては答えが簡単にor永遠に出ない問題に対して断定的に決め付けで言われちゃうと
逆に胡散臭い人だな、凝り固まってる偏執的だな、信用出来ないなと身構えて思ってしまうな
筋の通った補足説明とか無しに、大筋から認められてない話されてもな
「…という意見もある」「こういう考え方も出来る…かもしれない」「…と言えなくもない」「こう解釈出来ないこともない」くらいだと興味深かったり斬新な切り口だと好感持てるけど
371 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 01:16:14.91
魏史倭人伝か何か中国資料に倭人の特徴って何か出てたんだっけ?
入れ墨、礼儀正しい、おとなしい・穏和、(小さい?)…とかだっけ?
入れ墨とか言われるとクマソとか長崎五島列島とか隼人とか毛人とか蝦夷が多少よぎるな
あんまりそういった知識ないんだけどあくまでイメージで
中国や半島やそれら周辺は、入れ墨文化やら抜歯文化とかってどうなの?
入れ墨って暖かい気候の海の民系に多い文化!?
結局、証拠が無いから、推測もできなくて、妄想になってるレス多いな
まあ、学者も同じだけど
ただゲーム脳みたいなスレはやめようね
373 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 07:46:37.58
白村江で歴史的大敗を喫したのだから、その影響が日本の王権支配にまで及び、
責任とらされる形で王権交代(傍流の王家が取って代わった)があった、
と推測するのは、かなり理にかなっていると思う
しかし、そこでなぜわざわざ倭国→日本国の連続性を記紀において謳わなければ
ならなかったのだろうか?そこが謎
374 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 12:08:46.17
>>373 白村江の戦いでも、唐・新羅連合軍は一切日本上陸してないじゃん。
元寇のように日本上陸でも政権が変わらなかったのに内政に関与できないよ。
政権を変わらせるなら戦後のマッカーサーのように日本に上陸して
圧倒的な軍事力を背景に完全に統帥権を握り徹底的にやらないと。
白村江の戦いののち、
唐軍は友軍だったはずの新羅軍に追われて半島から撤退する始末だったし、
高宗(則天武后)からは、高句麗さえやっつければ唐軍はさっさと極東から撤収し、
唐西域を激しく侵略しているチベット軍と戦いなさい、と催促されていた。
唐軍(+倭と百済の捕虜)ら2千人が対馬に来た時も、唐軍は
「征服軍として列島制圧に来た」のでは決してありませんよ、というスタンスだった。
どちらかというと、負傷兵の治療や物資補給、唐の傀儡としての薩夜麻王位復権
などを、手加減しながら指図&お願いしに来たという感じだ。
376 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 17:14:22.85
多数の兵士やらを半島に連れて行って死なせているわけだから、
死んだ兵士やら豪族やらの親戚から突き上げくらうと思うのだが>倭国
377 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 17:19:10.39
>>376 主君のために戦に行って死んでくるのが家臣の務めだろう?
戦国時代なんて戦ばっかりやってたわけだが、
「うちの父親が戦で死んだ、主君は責任とって別の奴に代われ」
とか家臣の家族が言うわけないじゃん。
>>375 >唐の傀儡としての薩夜麻王位復権
寝言は寝てからお願いします
>>378 薩夜麻は唐軍で8年間捕虜となり、封禅の儀式まで出させてもらっているから、
唐軍は薩夜麻を傀儡王として列島に君臨させようとして、帰還させたとしか
考えようがない。
>>379 >薩夜麻は唐軍で8年間捕虜となり、封禅の儀式まで出させてもらっているから、
↑
全く因果関係が不明
↓
>唐軍は薩夜麻を傀儡王として列島に君臨させようとして、帰還させたとしか
>考えようがない。
>>380 唐軍は、敵の将=薩夜麻をなんで大事にしてるわけ?
薩夜麻を捕まえて、なんで中国最大の皇帝即位式=封禅に参加させたわけ?
薩夜麻を8年間もなんで捕まえたまま生かしておいたわけ?
さっさと殺しちゃえばいいでしょ。
382 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 00:25:23.30
薩夜麻が九州勢力における、征夷大将軍に相当するのか、
天皇に相当するのか、分化しておらず、一体なのか、
興味があるがよくわからない。
383 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 00:32:45.00
異民族に慈愛を施すのも皇帝の徳のひとつ
最低でも「筑紫の君」なんだから、唐軍にとっては重要人物。
列島側の捕虜で薩夜麻以上の地位の者はいない。
低い身分なら、封禅の儀に参列させない。
異民族に慈愛を施すのも皇帝の徳のひとつなら、
高句麗や倭に戦争をしかけたりしない。
386 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 01:00:26.52
それは皇帝の徳を受け入れなかったという論理
皇帝の徳を慕えば慈愛が施される
それは皇帝の徳とかなんとかじゃなくて、単なる戦争。
敵の将の首を斬り、皇帝に送るのが普通。
なぜ封禅の儀に参列させ、九州に送り届けたのか。
そしてそのころ、筑紫都督府が出来たのか。
それは唐の傀儡政権を列島に据えるためだろう。
388 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 01:29:09.22
封禅の儀に異民族の代表を参列させることは
皇帝の徳を天下に示すものと考えられていたんだよ
それから筑紫都督府は大宰府の異称だよ
古田の主張なんて世間では全く受け入れられていないんだから
早くこっちの世界に戻ってきた方がよいよ
古田はそんなこと言ってないよ。
390 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 07:09:16.93
>>377 当時は各地に豪族がいて、それぞれその地域で権力を持っていた。
つまり、絶対的な君主がいて、その傘下に服従する家来がいたわけではない。
ということは、大敗北したのなら、各地の豪族は筑紫君を見限り、
別の王につくことになる。それが、九州王朝から大和王朝への変遷だと考えれば
納得いく
391 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 09:01:37.88
>>390 おいおいw
白村江の戦いって、大和王権の斉明天皇の命令で出兵したんじゃなくて
筑紫君という地方豪族が私兵を使って個人的に出兵したのかよw
斉明天皇自ら、中大兄皇子と大海人皇子も引き連れて
筑紫まで兵を率いて出兵してるのにw
392 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 10:06:26.29
白村江時代は、太宰府が、自他ともに認める
九州の中心地だろう。
大宰府を掌握する筑紫君が周囲の豪族に号令をかけても
おかしくないと考える。
筑紫君が筑紫の豪族で、更にこれらの豪族を束ねる
天皇のような存在がいたのかもしれないが、
実働部隊の白村江総司令官は筑紫君だったのだろう。
筑紫君自体が天皇的な存在だったのかもしれないが、
それはわからないので保留。
393 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 10:16:19.47
>>392 磐井の乱で筑紫君が大和王権に完全敗北した後も筑紫君が九州王として
大和から独立した九州全土の軍事を完全掌握していたというほうが無理。
しかも日本の外交をやっていたのは大和王権であって、筑紫君に外交権はない。
遣隋使は筑紫君がやったとか言ってる人?
394 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 10:26:13.70
筑紫君の上位がいたかもしれないが、
白村江に関しては、大宰府が前線司令部だろう。
もし、畿内王権が全体を支配していたとすれば、
実質は大宰府が全権委任され、事前、事後に連絡をとるという形式でしか、
軍事的運用はできない。
筑紫君が捕らえられて、日本軍が瓦解した以上、
かなりの権限を委任されていた人物と考えて良い。
薩夜麻が帰還したとき、畿内王権側は歓迎もねぎらいもしていない。
むしろ、薩夜麻を蔑視していたのはなぜか。
396 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 14:40:32.72
397 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 15:14:24.15
>>396 法隆寺は発掘調査により飛鳥時代の若草伽藍跡が発掘されてるから
その説は不可能
法隆寺が建てられた年から考えて、法隆寺に使われている木の年代が古すぎるので、
移築されたとしか考えようがない。
そもそも白鳳時代の「白鳳」は九州王朝の元号であって、畿内の天皇が公布した元号ではない。
399 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:19:48.52
>>398 ん?
現在の法隆寺が建てられた時は天武・持統朝だろう。
さらに地下からこれに先行する寺の遺構(推古朝のもの)も発掘されている。
天武・持統朝といえば、すでに畿内では藤原京が成立しとうというとき。
で、九州から藤原京の遺構は発掘されてるの?
400 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:37:29.73
ん、太宰府の条坊制都市のことかな?
時代的には藤原京に近かったはずだけど。
401 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:46:23.82
法隆寺は、2004年に年輪で年代調べた結果、五重塔心柱の伐採年が594年って
わかってから、法隆寺についての謎がさらに深まった
それについてだけど、
http://abandjc-press.com/ の「法隆寺移築説の原点である観世音寺・考」では、源氏物語の文章も
絡めて論が展開されており面白いよ
402 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:56:17.74
>>397 その説の可能性はほぼ無くなった
670年の焼失以前である、594年に伐採された部材があることが年輪測定で判明したが、
焼失後に建てるのであれば、なぜ、同じ処に建てようとはせずに、
別の地を整地して立て直したのか?方位までずらして?
この謎について、その説では説明がつかない
403 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 18:06:48.71
7世紀終末期の藤原京の条坊制都市がもいつ完成したのかはわからんし、
大宰府も条坊制遺構は考古学的には8世紀初頭からと言われてて、
正確な条坊制都市の年代はわからんが、太宰府のほうが古いと言いはる人も結構いる。
都市は建設にそれなりの時間がかかるから、
同時に建設されていたのかもしれないが、同一政権で、
同時に同じ所に同じようなものをつくるものかどうか、疑問
404 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 18:56:38.43
九州説って馬鹿だな。
飛鳥寺も四天王寺も九州から移築されたといい出すのか。
で、大宰府の法隆寺跡地はどこ?
どっか遺構が出てきたの?
405 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:00:17.06
>>400 大宰府の坊条制は今のところ「机上の空論」。
発掘調査により、7世紀頃と思われる建物跡や、
8世紀とみられる中央大路(都城制でいう朱雀大路)は確認できたが、
これまでに横に入る道路が発掘されていない。
大宰府に坊条制があったとみられるのは平安時代の10世紀に入ってから。
藤原京よりも時代も遅く、いずれも小規模なものだ。
406 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:03:57.08
太宰府の条坊制があったと思われる第二期は
8世紀から10世紀ね。
それ以降の第三期になると、更に整備されていくようだけど。
407 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:06:52.62
8世紀以降では、さすがに大和朝廷の支配下であるのは確実だけど、
大宰府をなぜそんな形で整備させるのかわからない。
外交の窓口として、整える必要があったんだろうかね。
409 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:14:06.45
移築説自体は話半分でしか信用しとらんが、
太宰府観世音寺くらいは頭に入れておくべきだろう。
太宰府跡から観世音寺って歩いても結構近いね。
411 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 22:19:44.30
観世音寺は太宰府条坊制都市の中に
当時からあったらしいからねえ。
観世音寺の世の字が中国皇帝の諱とかぶるので、
使用禁止となり、観世音菩薩が観音菩薩になったとか。
その中国皇帝以前の創建かもしれないね。
観世音寺境内は、やたら広いのに、建物が偏在しているのが変。
仏像類が「持ち運べないほど巨大」なものだけ残っているのも奇妙。
413 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 07:09:35.53
福岡とか遺跡が出まくるらしいのだが、全部知らん顔して埋め立てて
ビルとか建てまくってるらしいからな
414 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 08:24:39.64
ビルは知らんが、普通の住宅は、遺跡が出たら記録に乗せて、
余り遺跡を破壊しないように、杭打ちの数や本数が制限されて、
建設される。
お陰で、木杭では本数が足りなくて鉄杭に設計変更させられた。
発掘は後世に持ち越しだね。
415 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 08:31:01.82
スレとは関係ない話だが、例えば現場を掘ってて白骨化した死体が出てきたとしよう
すると
「ああ、これは犬の骨だ!!」
とか言ってさっさと片付けて工事続行する、、、という話を聞いたこともある
(都内)
416 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/14(水) 10:42:45.18
>>405 >8世紀とみられる中央大路(都城制でいう朱雀大路)は確認できたが、
畿内論前提での「8世紀とみられる」妄想思い込みを確認できてなにになる。
>大宰府に坊条制があったとみられるのは平安時代の10世紀に入ってから。
「10世紀に坊条制があったとみられる」も畿内論前提の妄想思い込み。
417 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 11:03:42.82
>>416 ん?
7世紀の藤原京より前に大宰府に坊条制が敷かれていたという論文出てたっけ?
それを言ってる学者の名前と発掘調査結果をリンクで貼ってくれる?
418 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 12:20:23.83
大宰府は8世紀から10世紀と見られる政庁二期で、
条坊制の痕跡があったということ。
藤原京は7世紀終末期だが、建設がいつ始まり、いつ終わったかは不明。
なので前後関係の議論は余り深入りしない。
なにか良い資料があれば教えて欲しい。
419 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 13:52:57.39
「白村江の戦い」を、比較対象としてあえて豊臣秀吉の「朝鮮出兵(唐入り)」に当てはめると
秀吉=天智、秀頼=大友皇子、家康=天武
死の間際の床で忠誠を誓わせたりもダブる
420 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 13:58:54.38
>>418 大宰府では10世紀の政庁でしか坊条制は発掘されてないはず。
おたくが妄想というからには8世紀にあったという論文を出してほしいと言っているんだが?
421 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 14:09:46.91
一連の白村江の戦い辺りの半島覇権争奪戦に於いて
大局で見たら唐は敗者だよな
百済・日本・唐の順で損害大きいし、目的達してない
唯一の勝者・新羅の手管のお陰で結果的に日本も守られた
422 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/14(水) 14:34:55.00
>>417 >7世紀の藤原京より前に大宰府に坊条制が敷かれていた
大宰府が倭京となったのは618年。
この時には最初の条坊制が、完成していなくとも一部はできていたと考えるべき。
618年には7世紀末の藤原京は未だ存在していない。
>>418 >大宰府は8世紀から10世紀と見られる政庁二期で、条坊制の痕跡があったということ。
「8世紀から10世紀と見られる政庁二期」の根拠は何?
根拠はない。それは妄想的推測に過ぎない。
618年に久留米から大宰府に遷京があった。by聖徳太子伝歴、隋書、九州年号
424 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 14:52:21.07
以下が現状での通説といって良かろう。もちろん別の解釈を比定するものではない。
wikipediaより
政庁地区の発掘調査は1943年(昭和18年)に行われたものを嚆矢とする。
調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。
各遺構面の概要は下記のとおりである。
第1期 : 7世紀後半 - 8世紀初頭。大宰府政庁創建期(掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。)
第2期 : 8世紀初頭 - 10世紀中葉。朝堂院形式創建期(礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6メートル、
南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル)
第3期 : 10世紀中葉 - 12世紀。朝堂院形式整備拡充期(礎石建ち瓦葺き建物)
条坊制
福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって
条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。
政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。
政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、
政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。
これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が
整備されていたのではない可能性もある。
政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。
この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は11世紀後半から12
世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。
425 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 14:56:07.00
間違い
もちろん別の解釈を比定するものではない。
↓
もちろん別の解釈を「否定」するものではない。
426 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 15:09:43.72
太宰府にせよ、藤原京にせよ、条坊都市というのはかなり大規模な都市計画であり、
数年で完成するようなものではない。
先にできた部分もあれば手付かずな部分もあろう。
その中で、前後関係を論争するのは、かなり明確な痕跡がなければ難しく、
またすぐに水掛け論になると思われる。
そのため、新たな論拠がない場合は、深入りするつもりはない。
427 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/14(水) 15:10:12.70
>>423 8世紀の太宰府(大宰府)は、九州を軍事的政治的に支配した中心地ですから、
上記の様な遺跡が出ても当然です。
428 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 15:15:09.20
太宰府といえば、万一唐軍が攻めてきた場合、水城はどれだけ役立ったのか?
429 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/14(水) 16:06:28.36
>>428 水城は唐軍に対してだけではなく隋軍をも想定して作られたものだ。
水城は、大宰府の北側だけでなく、筑紫平野側にもあるから、
南北どちらから攻め込まれても、大宰府が陥落するまでの時間稼ぎができる。
大宰府は、南北双方向から同時に攻め込まれても、
筑豊飯塚方面に脱出できる位置にある。
618年の久留米から大宰府への遷京は、
隋の有明海方面からの攻撃も想定して計画されたものと思われる。
607年の遣隋使(九州倭国が派遣)のあと、
610年に隋が琉球を攻略して、民間人を含む1万7千人を捕虜にしてるね。
本土九州でもその対策をとらないわけにないかないよね。
431 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 19:54:42.74
>>卑弥呼の都は久留米
いつものことだが結論を連呼するのではなく
立論の根拠を明示しなければ
ただの妄想だぞ
>>>>卑弥呼の都は久留米
君の話は一貫してるから、一挙手一投足、根拠並べなくとも問題ないぞ。
話しが一貫している点と
根拠が必要だという点は
全く次元が違うと思うが
434 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 22:53:02.85
キチガイに物申しても、火に油を注ぐだけというか無駄というか
435 :
433:2011/12/14(水) 22:57:44.79
文科系の学問は、数学や物理じゃないんだから、
仮説全体で真偽を確かめていく作業が必要になるよね。
句読点のたびに根拠根拠と連呼するのは、
文科系の学問を良く知らない人だ。
437 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/15(木) 00:17:49.05
>>430 隋軍の琉球國攻略よりも、隋軍の屋久島への度重なる攻略が倭京遷京防衛計画を促したと考えられる。
>仮説全体で真偽を確かめていく作業が必要になるよね
なんてことはない
逐一根拠を明示しなければ
それこそ九州王朝説のように推測の上に推測を重ねていくだけになる
根拠が丁寧に明示されていれば全体の検証は必要なくなる
あんたこそ人文科学系の学問を分かってないんじゃないの?
バーカ、数学じゃないんだよ。
句読点ごとの、一言一句の根拠などないんだよ。
少ない仮設で多くのことを、立体的合理的に説明できる説が
最も真実に近いんだよ。
それ間違いだから
人文科学は仮説を積み上げて確からしさを高めていく学問だ
その仮説ひとつひとつに確からしさが保証されていなければ
できあがった仮説体系の確からしさはどんどん低減していく
だからこそ一つの仮説を提示するごとに根拠が必要なんだよ
一言一句につきいちいち根拠を述べるというのは、邪魔なだけ。
仮説を堂々と一気呵成に仮説の全体像を述べるべき。
数学や物理学のように、一行ずつ証明していくなど、
文科系学問では笑止千万。
442 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 00:53:08.48
人文科学の論文を読んだことがないんですねw
九州説は素人なのは自明であったけど
高等教育を受けていない事が上書きされたな
444 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 10:20:36.58
お前ら、妄想と推論と証明の定義を勉強しなおせ。
数学と人文科学の区別が出来ない人は
いつも証明証明と叫んで芽が出ない。
446 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/15(木) 12:08:27.99
>>431 >いつものことだが結論を連呼するのではなく
>立論の根拠を明示しなければ
>ただの妄想だぞ
一貫した流れのなかで立論しているので、
立論の根拠は過去に明示済みです。
その都度立論の根拠を明示していると、
その都度参照用の本を発行しなければなりません。
>>438 >逐一根拠を明示しなければ
>それこそ九州王朝説のように推測の上に推測を重ねていくだけになる
>根拠が丁寧に明示されていれば全体の検証は必要なくなる
九州王朝説は一連の流れの中で、その都度根拠を丁寧に明示して論理展開されています。
>>438は過去の論拠を個人的に知らないだけです。
過去の論拠を周知している邪馬臺國畿内論者は、ただただひたすら沈黙を保っています。
文系と理系の区別がつかない「証明連呼」馬鹿は、
「学問・理系」に行ってください。
448 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 15:12:40.18
考古学自体は理系寄りだが、
本格的に理系、(理学部あたりが適当か?)
で揉まれるとどうなるか興味があるな。
449 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 17:06:51.41
隋軍の琉球國攻略というのはたしかに記録にあるが、なんだか台湾っぽい描写になっているな。
琉球ではなく、間違って台湾を攻めたってことはないのかな?
>>447 君が日本史学や考古学の学術論文を読んだことがないことは良くわかったから
これ以上は恥をさらす必要はないと思うよ
>>450 算数がすべてだと思っている馬鹿は、理系に行ってください。
文系理系以前の問題として
学問にむいてないぞwww
一行一行、証明しろ、根拠を出せなんてのは、
全く学問をやったことにない馬鹿のたわごとだな。
454 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 22:23:32.18
曝しage
455 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 22:23:53.20
つまらんのう
456 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 23:08:09.34
白村江の敗戦によって漁夫の利を得た天武天皇が、これまでの歴史を抹殺して
記紀を捏造したのであれば、記紀を裏読みすれば、真実に近づくと思うがなぁ
457 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 23:27:39.21
記・紀編纂が天武天皇の発願というのは本当に真実だろうか?
また発願が真実としても、記・紀成立は天武崩御後であり、天武の意向よりも天武の政策を継承したとは言い難い持統天皇や藤原氏(不比等など)の意向の方がより汲み上げられているとは言えないだろうか
皇位継承権のない元明天皇が、九州系人脈を断って畿内王権を簒奪した。
九州系天武の系譜は、元明即位をもって終了した。
459 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 06:28:45.97
460 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 06:48:17.82
白村江の敗戦の影響についても、そして、邪馬台国がどこにあったのかも、
実際にはとっくにわかってはいるのだが、日本の国体上、それを公にするわけに
はいかないので、うやむやのままにされているだけ
と思うんだが、どうだろうか?
んなこたあない
462 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/16(金) 11:40:31.21
>>460 白村江の敗戦の影響についても、邪馬台国がどこにあったのかも、
そして、九州王朝がどの様にあったのかも、
実際にはとっくにわかってはいるのだが、
日本の国体上、それを公にするわけにはいかないので、
うやむやのままにされているだけである。
現状では、日本国憲法第一条にも影響を与える大問題となるからね。
アマチュアに不毛の論議を任せるのが適切な対処である。
プロが関わるわけにはいかないね。
463 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 14:35:14.61
変な人が来てるな
464 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 15:03:44.73
唐軍には兄の扶余隆がかつがれて、倭軍には弟の扶余豊がかつがれていた。
せつないよな。
466 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 20:16:07.30
>>465 関ヶ原の真田家みたいな戦略だったんだろうが、不発に終わったな
468 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 00:39:46.46
法隆寺は長野の元善光寺をモデルに建てられた、
百済最後の王である義慈王の子孫の本多(本田)善光が、
難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、
今の飯野市に善光寺を建立したんだ。
聖徳太子も百済王と血のつながりのある渡来人の子孫。
違うよ。
観世音寺を移築して法隆寺にしたの。
>>465 扶餘豊璋を自陣営の象徴として担いでいたのは、
倭国ではなくて、鬼室福信がその中心だっただろうね。
百済復興運動の実質的総指揮者は鬼室福信だったと言っていいだろうし。
まあいずれにせよ、骨肉の争いの渦中に置かれた王族の人々の心中たるや、いかばかりか。
後に福信を豊璋が斬ることになったのは、
ひょっとしたら、政治的事情から半強制的に兄弟間が引き裂かれてしまったことへのわだかまりといった要素も影響したんだろうか・・・?
ところで、最近このスレって、
白村江の戦いやそれに関連する外交関係よりも、
もっぱら大和朝廷の内部事情、
それも、その時代よりも相当前だったり相当後だったりの話に特化されてるみたいで、
本来のテーマからかなりずれてきてる感じがするような。
>建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。
>使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。
質問
倭奴国(那の津あたり)は九州だよね
極南界ってことは中国側に地理を知られないように工夫してた?
倭=倭奴国を根拠に九州王朝説があるけど
その後漢書においても奴国は倭を支配してるとはされてないし
中国史がおかしいのですか
倭奴は日本の蔑称として使われつづけたけど
元ネタの後漢書には倭の南端の一地域と書かれてるわけでしょ
中国の勘違いで倭奴国となったの?
473 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/17(土) 17:49:33.98
>>471-472 >中国の勘違いで倭奴国となったの?
中国の勘違いしていない。
勘違いしているのはアンタ。
「南與倭接」 韓は南に倭と接す。
つまり半島南部に倭があると書いている。
倭があるのは、半島南岸から海をわったって九州北岸までの大海中。
だから倭奴國は倭の南の端(極南界)、即ち九州北岸にある。
ここで、倭=倭國で同じ意味と考えてよい。理由省略
倭人居住地は、半島の南半分と日本列島。
国家としての「倭国」は日本列島側にあった。
475 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 19:35:55.41
宗像三女神を祀っている島々が、実は倭国の中心っていうか、政務を司っていたってのはどう?
>>473 極南界って一番南って意味じゃないの?
邪馬台国は倭の南の方にあると書かれている(実際は東
奴国は倭人伝に再度一番最後に登場する
つまりそこでも一番南端とされている?
中国側が地理をごまかされるのは琉球においてもやられてるよね
477 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 09:12:10.32
>>476 >極南界って一番南って意味じゃないの?
その通り。
対馬海峡の南北両岸を含む地域が倭であるから、
九州北岸にある狗奴國は、倭の一番南の位置になる。
>中国側が地理をごまかされるのは琉球においてもやられてるよね
ごまかしはない。
隋書によると、琉球は建安郡の東に水行5日の海島とある。
建安郡(福洲)の東水行5日(350km)は、台湾を通り過ごして沖縄に到達する。
[水行1日≒1000里≒70km]
魏志倭人伝:水行10日=7000餘里+1000餘里+1000餘里+1000餘里
478 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:04:49.97
昔の交通路は海と川なんだから、陸で見るのではなく、海と川で領土を考える
ほうが早い
日本だって、鉄道ができるまでは運搬は海路が基本
479 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 12:40:38.07
古墳時代の東国造営は、大小河川沿いに進められてきたし、
さきたま古墳群にしろ多摩古墳群にしろ、川から仰ぎ見ることのできる高台に古墳群が作られている。
白村江の戦いで数万の兵士を送った毛野氏はこういった東国の沿岸から河川交通を支配する海人系の氏族だろう。
481 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 15:38:02.58
482 :
卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 16:58:29.92
>>480 >馬鹿はだまってろ
私は、馬鹿ちゃいまんねん、阿呆でんねん。
日本がやられ役すぎるけど、レッドクリフ(三國志3部作)みたいなタッチで日・中・韓の豪華映画スター揃い踏みで映画作るって手もある
でもその演出過多なイメージから入ると、実際の歴史との解離が問題だわな
あと日・中・韓の誰も白村江の戦いなんて興味無さすぎてアレだけどな
日本が負ける内容と聞いたら、意外な大ヒットする国もあるかも
日本は朝廷の超大物や皇族はあんまり海を渡ってないから、渡辺謙とかキャスティングしてもあんまり生かせないな
>>483 というか、いつの日にか、もしもほんとにそういう企画がでてきたとしても・・・
ドラマの肝心かなめの韓国でも、どの国の視点で描くかで、すったもんだしそうな気がするな。
韓国では、11月までMBCが「階伯」を放送してた。(白村江の戦いよりは少し前の時代になるけど)
百済の視点から、百済晩期を描いてた格好だね。
一般的に流布してる、「百済末代の義慈王が暗君だったから百済が傾いた」って説に、
疑問を呈するという視点でもあったらしい。
一方、もう間もなく、KBSが「太宗武烈王」を放送するそうだ。
こっちは、同じ頃の時代でも、もちろんそのタイトルのとおり太宗武烈王こと金春秋が主人公なので、
新羅の視点からってことになるだろう。
まあ何にしても、いつか、もしもそういう映画が作られるなら、観てみたいな。
日本の中心キャラクターは・・・前線指揮官を中心に描くなら、朴市田来津か、阿倍比羅夫あたりかね。
百済の中心キャラクターは・・・鬼室福信がいちばんドラマティックか。
新羅の中心キャラクターは・・・金ユ信かな、やっぱり。 (ユ信の「ユ」の漢字が反映されるカテ、あまり無いんだよね・・・)
唐の中心キャラクターは・・・・・劉仁軌だろうかね、この人物の主戦論で唐軍が戦況をひっくり返した面もあるから。
485 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 23:59:28.04
司馬遼太郎先生に「坂の上の雲」のような壮大な嘘を描いてもらっていれば、
来年の年末には見れたのに・・・・惜しかったな。
486 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 00:20:53.15
あんまり誰も小説化してない話題小節になってないってのは、新人作家には狙い目な題材な気もするんだが
日本人はなんだかんだ言って愛国心あるから
負けた戦いの話が少ないのはしかたない
488 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 06:46:15.76
そんなのは愛国心とは言わない
自分が無能なのを棚にあげて、国家が優れていることに自分を勝手に重ねあわせて
自分で喜んでいるに過ぎない
まるで韓国人並に狂った感覚だよ
489 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 13:20:06.53
白村江の戦いはそんなに大した話題じゃないよな
中大兄皇子は敗戦の責任追及のために斉明女帝没後もすぐに即位できなかった説がある一方、
即位後の天智天皇はかなりの名君扱いだし
白村江の戦いに焦点を絞らずに天智天皇主演か
皇極・斉明天皇主演でやったほうが面白いかな
蘇我宗家が滅んだ乙巳の変のほうがよっぽど日本人には面白い
490 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 14:27:20.97
現在も韓国大統領来日、少女像問題、金正日総書記死去と我が国と半島との外交や半島情勢も波乱含みだな
中東問題よりこじれてないからいいほうじゃね
一部の心無い独裁者がいなくなれば解決
492 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 22:17:33.96
203高地でロシはと交戦しているし、
白村江の戦いではとうとの戦い。
日本は朝鮮と戦ったことはないのです。
493 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 22:19:20.10
蘇我(そが)一族が、サカ族(釈迦族)であり、仏教を日本に持ってきたとすれば、
何で蘇我が滅ぼされても仏教は残ったのだろうか?
百済が滅ぼされて、日本に大量亡命して来た者たちが崇拝しただけにしては
寺院のその後の広がりがあまりに大規模過ぎる
494 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 22:57:13.38
蘇我(物部)無きあと「独裁者の藤原氏」に対する反藤原のシンボル・秘密アジト・駆け込み寺として仏教や修験道ネットワークが存在したんじゃないか?
藤原−藤原(中臣)神道/←天皇→/寺社・修験道−蘇我・物部(物部神道)
まあ時代により天皇や寺社は藤原側に引き寄せられたり紆余曲折あるだろうが
495 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 23:06:18.50
北朝鮮労働党←金正日(その時代の総書記)→北朝鮮軍閥
今でいうこういう主導権争いに近いかも
金正日も敢えて2大派閥潮流を温存し、自己保身の為にも競争心与える為にもわざと2大勢力を適度に均衡させたというか
496 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 06:48:02.82
金正日とか、しょせん傀儡でしかないと思うよ
ハザール系ユダヤ人国家(旧ソ連)の傀儡国家が北朝鮮。
ソ連内で生粋のロシア人にユダヤ人が失脚させられて、
北朝鮮の上層部は米国ハザール系ロックフェラーや統一教会が支援。
国に全体としては中国が支援した。
米国ハザール系ロックフェラーや統一教会は、
中露日韓が和合せず、敵対してくれた方が儲かるので、
上層部に対して
「テポドンをぶっ放して近隣諸国を脅せ」
「イスラエルに応援させるから核兵器を作って危険視されよ」
と指示しているので、中露はこれを抑え込もうと必死だ。
>>497 完全には失脚してないんじゃね
エリツィンの奥さんがユダヤ人じゃなかったっけ
たしかにエリツィンは、ハザール系ユダヤ人の操り人形だった。
生粋のロシア人ゴルバチョフは、ユダヤ人に政権を奪取された。
今はまたユダヤ人が抑え込まれて、ロシア系政権になっている。
米国ユダヤ人がこれを倒そうとCIAを使って、
「市民運動風味」の反政府運動(ユダヤ化運動)を捏造している。
500 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 21:08:47.95
で、白村江の戦いだが…
要するに、白村江の戦いは、朝鮮海峡を渡り切った時には既に多くの船や兵士を失っていて、戦いどころではなかったということではないだろうか?
毛野氏は海人とはいえ、当時は既に小型船での中小河川や沿岸交通が主流だし、朝鮮半島までたどり着くたのはごくわずかだったと思われます。
倭人は列島⇔半島間を自由に行き来していたので、
半島に渡る困難はなかったはず。
逃げ場のない場所で、風上から船に火をつけられたのが致命傷。
初歩的なミスだったのではないか?
503 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 22:39:20.72
>>502それは宗像とかそのへんの海人だろう?
毛野氏の兵士の主力は関東や東海出身だからなぁ。
>>503 毛野氏の兵士に船を漕がせる間抜けはいないよ。
半島と九州を行き来している倭人にやらせるさ。
505 :
襾:2011/12/21(水) 17:39:57.37
詳しい人に聞きたいんだけど
弥生時代後期くらいには鉄材確保の意味からも朝鮮半島南部の土地は日本から重視されたみたいだけど
天智・天武時代でも日本の鉄の供給には依然として半島頼みだったの?
天智・天武時代のころには、(半島の鉄も依然として重要ながら)
中国地方の砂鉄製鉄法が確立されたようだね。
507 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 19:22:53.07
ヤマトタケルの遠征したルート=鉄鉱石の産出する地域
って説をふと思い出した
508 :
襾:2011/12/22(木) 01:53:19.83
いわゆる古代史に当てはまる奈良時代くらいまでで
得た鉄で武器・農機具や台所用品
あと富国強兵や生活水準(や文化水準)を向上させ、そういった鉄器や鉄加工技術を持たざる(限られた、少ない)民達と差をつけ勝者となっていく為には何が重要だったの?
やはり武器と農機具の違いが圧倒的な持たざる者との格差を分けた訳?
優先順位的に言えば貴重な鉄はだいたいどういった物に主に使われたのかなと思って
農機具で鉄とか一般に普及したのはもっとずっと後の時代だっけ?
やっぱり鉄鉱石とかから鉄を生み出す技術や鉄を加工するような進んだ技術は、当然半島や大陸由来のハイテク技術なんだよね?
鉄の歴史はヒッタイト民族がルーツ。砂鉄から生成していた。
インドのガンジス川流域は砂鉄が多く、そこから、釜山の金海金に技術が流れたことも考えられる。
金海金は釜山の川から少し上流で栄えた。おそらく砂鉄が採れたのでしょう。島根も同様かもしれませんね。
その鍵は韓国の神話。金姓の族譜の最初にインドから花嫁を迎えたとある。
それと熊信仰、キムとクマは語源が同じ。近、今、もね。
熊野、熊本、地名を調べると、たくさんでてくるよ。
姓も多い。興味あれば調べてください。この研究者は少ないはず。
510 :
509:2011/12/22(木) 08:17:46.34
付け加えると、砂鉄を生成して、鉄梃を作り、売っていたと思う。
鉄梃を加工すれば、刀など道具をを作れる訳です。
511 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 08:52:44.84
そうなんだよね
韓国の姓になぜキム(金)が多いのか?
日本でも地名に金とか、また神の名前に金が使われている場合があるけど、
なんで金なの?
つまり、鉄やら銅やら金やらの、鉱石を発掘し、それを精製する技術を
もった民族が中国やら朝鮮を経て、日本まで到達したってことだよね
512 :
509:2011/12/22(木) 09:59:27.45
>>511 そのことを語る人は少ないので嬉しい。
たぶん銅文化が先で、鉄を作る種族が流入したと考えている。
鉄の刀と銅の刀では圧倒的に鉄が勝ち、日本を瞬く間に支配したのでしょう。
それと馬ですね。
姓とか地名は文字がない時代に音が先で、後に入ってきた漢字を当てたはず。
金・今・近など読みは同じですね。
任那が日本の支配下か、任那が日本を支配したか、解明は難しいと思う。
ただ、鉄を支配した種族が同時期、島根と釜山にいたと考えても良いのでは。
日本にいた大本の民族(縄文族)は石の文化であり、石を使って祭祀を行なっていた
らしいし、また石に書かれた神代文字も知られている
これを、銅を使って武器を作る民族や鉄を使って武器を作る民族がやって来て、
またたく間に日本を支配下においてしまった。これが、記紀によって大きく捏造は
サれている部分はあるが、日本神話のベースになっている
で、その渡来して来た(というより、中国やら朝鮮半島の戦乱に破れて亡命して来た)
征服王朝の中でも、倭国というのは、船を自在に操る民族によって設立された国家で、
領土というよりも、むしろ対馬海峡(朝鮮海峡)支配していたのではないか?
それが白村江敗戦で大きく衰退した
面白いのが、済州島に伝わる神話なのだが、東から3人の姫が船でやってきて、
石から生まれた3人の島の男の王とそれぞれ結婚した、となっている。
この3人の姫は、おそらく宗像三女神ではないかと思うのだが、済州島の東
ということは、これはまさに当時の倭国の支配する地域そのもの
司馬遼太郎の「街道をゆく 砂鉄のみち」を読んだ人はこのスレにもかなりいるかもしれないね。
古代の大陸の製鉄技術が出雲や吉備に渡って発展してきた歴史を描いてる。
燃料用の木材が豊富だったことが、日本の鉄器文化発展での非常に大きな要因だったことや、
そうした鉄器文化発展が、その後の日本人とその社会に与えた影響を考察してある。
鉄のルーツはヒッタイトからというのは周知のことです。
彼らは航海術にもたけていた。ヒッタイトは今のトルコあたりだが、その後は謎。
私は、インドのガンジス川周辺にもいたと思ってるから、
その後南から北上し、今の釜山・出雲で製鉄を初め、鉄梃にして交易していたと考えている。
何故かトルコ語・日本語・朝鮮語は主語と述語、動詞の語順が同じ、偶然か?
ウラルアルタイ語族と言われシルクロード経由と考えていたけど、
もしかしたら、海洋ルートかもしれませんね。
517 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 13:48:59.65
アイアン・ロードか
518 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 17:00:49.33
鉄の技術だけが伝わったのではなくて、鉄製の武器を使って侵略しながら東征して来た
軍事技術の上回る文明の民族に、弱い技術の文明の民族では太刀打ちできない
そして、侵略が終わると、次は同じレベルの軍事技術を持った者同士の戦いとなる
519 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 00:55:53.90
昔のシビライゼーションって文明進化SLGゲーム思い出す
>>511 朝鮮人が中国風の名前に変えたのは、新羅統一以降。
満州人や扶余、女真、倭人などが混在した半島に、
朝鮮民族などという民族は無かったのを、
単一民族のように整理する作業を行った。
そのとき朝鮮人の各部族に、家系図(族譜)を作らせ、
「金」姓を選んだものが多かったということだと思う。
なぜ金が多かったのか、理由は知らない。
金は満州の愛新覚羅性の中国字
同じく多い李も満州に多い性
李成圭も満州系
>>521 新羅による統一が成立した当時、たしかに多様な民族の混住は実際あっただろうけど、
韓系であるところの新羅系は、確かにいたんじゃないのかな。
現代韓国語は、新羅語の流れだと見られてるし。
で、新羅が天下取ったので、新羅系の言語や文化がその後の主流になっていった、ってことかと思うけど。
あと、女真が独自の集団として表に出てくるのは、もっと後の時代だろう。
もともとは扶余やまっかつの影響下にあったんじゃないかな。
525 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 18:53:58.22
『一個人』の「天皇と皇室」特集
日本の歴史を変えた10人の賢帝に、天智と天武が
526 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 20:06:12.05
スゴいねこのスレ
朝鮮半島古代史は、韓国などより日本が数倍詳しいんじゃないかな?
527 :
襾:2012/01/05(木) 19:20:29.92
朝鮮三国時代は相手国(や唐、日本)の情報を知る必要性から、いわゆる忍者やスパイのような諜報技術や能力やノウハウが飛躍的に向上し、日本にもノウハウが流入したが
新羅が朝鮮統一するとその必要性も下がり一気に衰えた
これ本当?
日本に於ける初期の忍びの始まりの時代みたいな
役行者の様な漂泊の民である修験者が野を越え山を越えての独自の情報ネットワークを構築して為政者達の政治にも影響を与えたりしていくのも、忍びのノウハウと修験者や古神道なども影響しあった可能性もあるかも知れない
高野山や吉野や私度僧らと、天皇の不思議な結び付きや縁とかも興味深い
聖徳太子も百済の工作員だし、
日本はまんまと百済の支配下に治まったわけです。
529 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:05:35.83
くだらない
530 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 02:17:38.31
百済無い
532 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 03:49:54.80
白村江の戦で敗れ、故郷百済が滅び、百済王豊章も帰国をあきらめ東北征伐に乗り出すのです。
それでもって、東北から金が取れたと称し、隠し財産として蓄えてあった金を奈良の大仏建立のために拠出します。
これは、祖国百済の難民を東北に移住させるための礼金といったものでしょう。
百済ない。帰ることのできない故郷を思ってめそめそするな。もう百済ないことはやめて、前を向いて進もう。
それが「くだらない」の語源となる悲しい物語です。
534 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 15:41:46.22
>>533 民明書房「隠された東アジア古代史〜天武天皇はプロ野球選手になりたかった」より。
と書かないと。
535 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 16:55:16.05
536 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 16:58:01.26
白村江の戦いにはどうして「○○の役」って名前がないんだろう?
当時の倭国は百済を完全統治していた。
残念ながら百済は白村江の戦い以降滅亡し、その民は流れ流れて倭国へと逃げてきました。
その後、関東から東北へかけて農地開墾や荒れ地の整備など、主に肉体労働を行う事になります。
この頃、倭国への同化が始まり、やがてある者は倭国を祖国とし、生活の基盤を築いていきました。
そんな中、ある者が故国を思いくよくよしたり、めそめそする百済人に対して発した一言が、今も日本語の中に残りました。
『倭国に百済内蔵、めそめそするな』→『百済ないぞう、めそめそするな』→『くだらないぞう』
くよくよしたり、めそめそする事は時間の無駄であり『くだらないぞう』と。
やがて我々の世に『くだら』の面影は残るわけです。
『くだらないぞう』
〜民明書房刊『僕らのくだらことば』より〜
539 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:50:18.91
540 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:54:28.84
>>538 下らない物。 京から地方に下る事もできないつまらない物。
同じ百済ことばに「しらを切る」という表現があります。
ずるがしこい百済人は、何か事件があると新羅人のせいにして、口封じのために切ってしまうこともあったそうです。
裁判制度やDNA鑑定まで証拠になる現代では考えられないことですね。
>>542 百済ことばで、全く同義語として使われるものもあります。
『こまぎり』
なにか有れば新羅のせいにして『しらを切り』、あるいは高麗のせいにして『こま切り』する。
さすが、百済ですね。
〜民明書房刊『僕らのくだらことば』より〜
当時の百済僧は学も有り、尊敬に値する僧侶が大半を占めていました。
しかし、白村江以降、倭国へと逃げ延びた百済僧の中には、亡国となった百済のショックからか堕落するものも現れてきました。
大和の人々はそんな百済僧を侮蔑の眼差しで見つめる事になりました。
こんな事するのは百済僧…
やっぱりあれは百済僧…
百済僧、相手にするな…
そして訛りが加わり、いつの間にかつまらないものという意味が付加されていきました。
くだらそう→くだらんそう→くだらんぞう
大和に同化した百済の高僧から見れば、堕落した百済僧を見下された悲しいことばの響きですね。
日本各地に小さな古墳がたくさんあります。
近肖古王時代のものが多いね。
当時の服装や道具などを再現してる所も多く、
韓流時代劇にでてくるものとまったく同じなのは驚くばかりです。
おそらく百済から大量の移民が流入、各地に入って荘園を作り、豪族となっていたのでしょう。
>>545のように、歪曲し捏造し起源詐称をするのが、ペクチョンの特徴であります。
さて、白村江の戦い以降、見向きもされなくなった百済人ですが、彼らの視点から白村江を侮蔑した言葉が、いまでも残っているそうです。
彼らは音読みしかできず、訛化してしまったんですね。
はくそんこう→はくそぅんこう→はくそ・うんこ
嘗糞民族らしいよね
547 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 06:14:49.47
民明書房の工作員が多いスレですな。
>>546 近所に古墳があって資料室などがあれば見学してごらん。
4世紀には漢字も入ってる。
特に面白いのは服装の再現だよ。
あのとんがり帽子すら再現されてる。
それと楽器類の再現、それらも百済のものと同じだよ。
近肖古王のドラマでは次男が百済の王を後継、長男は倭の姫と一緒になって倭に行ったことになってる。
時代考証は何に基づいてるか不明だけど、あり得る話しだ。
そう言う関係なら、倭と百済が親密になってた理由がわかる。兄弟の親戚なんだから。
>>548 チョンドラ信者乙
そら、あいつら日本に残る飛鳥時代のものを真似てドラマ作ってんだもん。
いくらでも真似できますやん。
それより、百済も新羅も人質差し出してた事はスルーですか?
そうですか?
>>549 ドラマの話しは二の次でいいよ。
それより4世紀の古墳の中身は重要だよ。
服装は百済のままだ。
一度でも訪ねて観察したことがあるの?
まあ、近所にあれば調べに行ってみな。
俺は今から散歩がてらまた見に行くよ。
漢字がすでにあったはず。
当時の遺骨とか発掘されてるんでしょ?
DNA鑑定すれば血の繋がりなんてすぐに分かるでしょうに・・・。
つか服装同じだから同じ朝鮮人だってのは強引すぎw
>>551 DNA鑑定は抵抗勢力があってさせないんじゃない?
宮内庁が管理してる古墳すら発掘させないからね。
そこらの小さな古墳は見れるけど、DNA鑑定は無理かも。
韓国の慶州にある天馬塚の古墳を見学したけど、発掘品は高松塚とほとんど差がなかったな。
頭で考えるより行動していろいろ見るのがお薦め。
553 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 13:48:52.24
>>552 任那があったからな。
もともと挑戦半島南部は倭国の直轄地だろ。
そこの古墳から出土する遺品が、高松塚の装飾品に似てても仕方ない。
どちらの被葬者も倭国出身なんだから。
554 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 14:06:20.99
百済の連中は今の朝鮮民族である新羅の連中に屠殺されたんじゃないのか?
設楽氏は百済系なんだっけ?
556 :
誇らしいニダ:2012/01/10(火) 21:00:09.42
∞「演歌始祖の古賀政男は韓国人」、日本の協会理事長が証言=韓国
韓国テレビのドキュメンタリー番組で、昭和時期の代表的な作曲家である故・古賀政男氏が韓国人
だと紹介されており、話題を集めている。韓国メディアが10日、伝えた。
3日に放送された新年特集ドキュメンタリー番組『韓国人の音楽 トロット(韓国大衆楽曲)』では、
トロットの歴史や同国歌謡史への影響などについて紹介した。
番組では、日本艶歌歌謡協会の理事長を務める高樹一郎氏が登場し「演歌は韓国メロディから生じ
たもので、演歌とトロットは酷似している。演歌始祖の古賀政男先生は事実上韓国人であり、歌で敗戦
後絶望していた日本人に夢と希望を持たせた」との見方を示したという。
韓国大衆音楽評論家のバク・ソンソ氏は「これが事実ならば、韓国と日本の大衆歌謡史は書き換え
る」として、関連調査と研究を早急に進めるべきと指摘している。
一方、ネット上の掲示板などでも同話題が取り上げられ、「古賀政男が韓国人」ということから、「演
歌の韓国起源説」に共感する意見が多く寄せられた。「歌唱法や音階をみると、韓国民謡に似ている」
などと書き込まれた。(編集担当:永井武)
ソース:サーチナ 2012/01/10(火) 19:18
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0110&f=national_0110_272.shtml
>>556 いまさら知ったの?
昔から有名な事実。
演歌の旋律は、朝鮮の古代音楽から繋がってる。
日本では売ってないけど、伽耶琴などのCDを聞いてください。
哀愁がたまらないから。
全国200万の斉藤氏、斉とは「いわい」。
藤原氏について斉藤を名の長けれど、祖国百済のことを忘れたことは一時もありませんでした。
オウム信者をかくまった女もそうだし、義理堅い人が多いようです。
559 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:40:54.87
>>557 百済ない、お前の願望を書くなよ
で、お前は祖国の兵役に就いたのか?
560 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:46:42.38
>>558 ところで、なんで済州島の連中は人間扱いされなかったんだ?
561 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:48:29.44
>>558 辛スゴは昔の百済の地域を馬鹿にしてたみたいだが、百済の連中は辛スゴみたいなパンチョッパリの棄民をどう思ってるのか?
562 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 01:41:45.71
中国籍の男性が8日、韓国の日本大使館に火炎瓶を投げ込んだ事件で、韓国警察による取調べの際に男性は、
曾祖父が以前に抗日活動を行っており、拷問されて死んだと話しているという。9日付で環球網が伝えた。
報道によれば、逮捕された38歳の中国籍の男性容疑者は、自分の曾祖父が以前抗日運動に参加しており、
その後ソウルの西大門刑務所に拘留され、そこで拷問を受けて死んだと話している。容疑者は以前は祖母が従軍慰安婦だったと主張していた。
警察の発表によれば、容疑者は2011年12月26日に韓国入国後、木浦を経由して祖母が以前暮らしていたという大邱を見た後、
12月31日にソウルに到着したという。
ソウル警察は、容疑者が3日に西大門刑務所を見学したことを明らかにした。その際、容疑者は曾祖父が拷問される情景を思い浮かべ、
恨みの気持ちがさらに強くなり、日本大使館に火炎瓶を投げ込むことを決心したという。火炎瓶の作り方はインターネットで学び、
6日にガソリンを購入、7日には焼酎の瓶を準備し、8日の早朝4時ごろに火炎瓶を作ったと述べている。
警察によれば、容疑者は取り調べに対し、靖国神社への放火の過程についても非常に詳細に供述しているが、今のところ容疑者本人の供述以外に、
証拠は見つかっていない。警察は引き続き取り調べを行う予定だ。(編集担当:及川源十郎)
サーチナ 【社会ニュース】 2012/01/10(火) 09:17
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0110&f=national_0110_030.shtml
563 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 02:55:29.13
564 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 09:58:51.52
>>560 済州島は、文化的にも民族的にも、朝鮮半島より日本に近いらしい。そして、
どうも過去の歴史において政治犯などが島流しにあう場所でもあったとか。
それで、半島の人間からは長らく差別されていたとか。
565 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 10:05:16.93
566 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 10:12:04.41
使者は、
「私は東海の碧浪国の使者です。私共の国王には三人の娘がいますが、その婿が
見つからず歎息しておられるうちに、三神人が湧き出て国を建てようとなさるのを見て、
三人の姫をその方々のところに連れて行きなさいと命じました。婚礼を挙げ大業をお果たしください」
567 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 10:18:48.66
と告げると、白馬に乗って天に昇っていき、三神人は婚姻池という池で沐浴した後、
三人の乙女を娶って暮すようになりました。この時から豊かな日が尽きることがなく、
そうして遂に人間世界の耽羅国が誕生したのです。
>>564 チャングムのドラマにも出てきて、チャングムが島流しなってた。
本当なんだね。
569 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 18:08:43.36
在日の間でも半島のどこの出自かで喧嘩になる(コリアン世界の旅)
特に済州島が出自だと差別される
何せ最終島だからな
だいたい、李朝時代でさえ何かあったら逃げてきたんだろ。
へっぴり腰民族の最後の砦、最終島。
流刑島でもあり、最終逃走地でもある済州島。
そんなペクチョンどもの貴重な逃走島・最終島、今でも同じペクチョンが侮辱してる差別文化って、やっぱり斜め上なんですね。
〜眠明書房刊『トンスル旅情・済州島は最終島』より〜
571 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 19:53:31.52
白村江関係で言えば、白村江後に耽羅が朝貢してきたくらいか。
済州島は、その神話からして、倭国との関連が深いと推測されているが、
もう一つそれを象徴するものとして、トルハルバン(石じいさん)と言われる
石像がある
これは、イースター島のモアイと、日本のお地蔵様との間みたいな石仏。
日本において、道祖神と地蔵信仰がくっついて石仏があちこちにあるが、
それに近いものではないか?
また、日本におけるお地蔵様は、実は倭国の王がモデルになっている
説を唱えている人もいるが、もしそうだとしたら、その影響が済州島にも
及んでいたことになる。宗像三女神だけなくてね
573 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 10:17:29.73
済州島出身のババアが「自分は○○年に日本に強制連行されてきた」と言ってたが、ババアの息子が「その時代に強制徴用はなかった」と冷静にツッコミを入れてた。そしたらババアが逆ギレ
今でもその映像がYouTubeにあると思う
韓国人ってのは、はっきり言えば、精神薄弱なので、大人になっても自分を
コントロールし、感情を抑制する能力が身についていない人があまりにも多い
韓国は、いい加減、日本に嫉妬する恥ずかしい真似はやめて、自分達の
国がなぜこれほど日本の援助を引き出しながらもダメなままなのか、
分析し、それを是正していくべきだよ
また、日本人は、韓国人というのは子供なのだから、まともに相手にする
のをやめるべきだ。これ以上、甘やかせるのは、彼らにとっても宜しく無いし、
こちらにとってもメリットはない。
575 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 04:55:06.64
スレチ
大阪と朝鮮は酷似している。なぜなら住民が一緒やからや。
古代朝鮮半島の歴史は夢があるよな
中華に続きもっとも先進的な地域だったし
578 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 14:33:25.70
古代朝鮮といえば
帯方郡のそのまた南はどうなっていたんだっけ?
579 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 14:52:52.03
中国の戦乱を逃れて、台湾や沖縄経由で日本に渡ってきたり、
古代朝鮮経由で日本に渡ってきたりしたからこそ
日本人のDNAは、1/3が韓国、1/3が中国、残り1/3が現日本人
ってことなんじゃないかな
特に白村江の敗戦で、古代朝鮮に残っていた人間が
かなり日本へと完全移住したのでは?
580 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 15:33:37.68
元々日本と朝鮮半島南部は同じ倭人の国だった。
ところが、白村江の戦で日本は敗れ、倭人の多くは日本に渡ってきて大伴氏や毛野氏、葛城氏の支配下に入った。
そして日本は国内を固めて国力の増強に励んだ。
一方、朝鮮半島は、唐に一時支配され、高句麗族や後にジンギスカンの侵入を受け、
そのたびに多くの移民が入ってきて、日本とは民族構成や文化も大きく変わってきた。
あれから1200年、日本と朝鮮は交流が減り別の国になってしまったのです。
後の「倭寇」が、九州北部だけでなく、朝鮮半島、中国をも拠点としていたのは、
おそらく、この倭国の末裔なんでしょうね
王直とかが中国人とされているけど、そうではなくて、倭人だったのでしょう。
中国に拠点があったというだけで、中国人とされているだけではないかと。
また、さらに後の鄭成功親子。鄭成功は父が中国人、母が日本人となって
いますが、そうではなく、中国生まれの倭人の父と、日本生まれの倭人の母
の間に生まれたってことかと。
彼らは、陸というより、むしろ海を支配していたのであり、東シナ海〜対馬海峡、
瀬戸内海あたりまで支配していたのではないでしょうか
今ドラマでやっている、平家、そして平清盛が、海を支配しておりましたが、
その関連性もぜひ知りたいところです
>>581 昔からアイアム ザパニーズしてたんだな。
朝鮮塵は本当に最低だな。
>>582 倭人というのは、今はほとんどが日本人だと思いますよ
また、日本が朝鮮半島を併合し、朝鮮人は日本人としたのに対し、
満州は別の国とした、つまり併合しなかった理由はなぜか?
なぜ、朝鮮は同じ国にしたのに、満州は別の国にしたのか?
これは、もともと朝鮮半島は自分達がいたところだったから
ではないかと
585 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 18:01:25.45
>>581 >後の「倭寇」が、九州北部だけでなく、朝鮮半島、中国をも拠点としていたのは、
>おそらく、この倭国の末裔なんでしょうね
そのように考えます。
九州王朝倭国が8世紀に大和王朝に滅ぼされるまでの、倭人の居住地域。
@九州島西北部とその周辺諸島。
A半島南岸と西岸南部とその多島海地域及び済州島。
B浙江省沿岸と舟山群島
倭人は滅んで漢民族と日本民族に吸収された
587 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 18:05:30.31
倭人はO2bか?
588 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 18:48:17.60
>>587 >倭人はO2bか?
山東省方面、高句麗、夫餘方面からの流入もあるから、
O2bは薄まっているが存在する。
倭人は小柄だったから、
九州の小柄な人だけをしらべれば、O2bの比率は上がると思われる。
589 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:15:50.97
日本の満州併合による国際世論の大反対や、外圧を一時的にかわす意図ではなかったと!?
ふと思いだした
中国人と一緒に、歌舞伎町にある北京という名前の
なぜかハングル文字でも料理名が書いてある店でラーメン食ってたのだが、
ここは韓国から渡ってきた華僑らしい
で、韓国にいる華僑ってのがとある地域に大量に住んでいるのだが、
そのほとんどが山東省出身らしい。今の山東省よりも、その在韓華僑がしゃべる
言葉のほうが、昔の山東語に近いんだそうな
今の山東省は、北京語が混じってるからね。ま、これは倭国でなく山東の話なんだけどさ
それで思ったのは、山東省からやってきた中国人は在韓華僑となっているのに、
浙江省とかからも韓国に行っていてもよさそうなものだが、
あんまり行ってないのはなんでだろう?と
浙江省の中国人は実は倭人だったとするのなら、
その倭人は在韓倭人とはならずに完全に同化したのか、
それとも、日本へと移動してきたのか?
まあ、白村江の時代とはかなり違うけどさ
592 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 00:28:04.17
>>591 >それで思ったのは、山東省からやってきた中国人は在韓華僑となっているのに、
>浙江省とかからも韓国に行っていてもよさそうなものだが、
>あんまり行ってないのはなんでだろう?と
浙江省から韓地へ、倭人は対馬黒潮に乗って沢山渡っている。
魏志韓伝に、韓は南に倭と接すとある。「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」
即ち、半島南部には倭人が住んでいたと言うことだ。
>>592 任那日本府の件についても、そろそろ見直す機会なんだろうな。
倭国が半島南部を制圧していたのは間違いないだろうからね。
594 :
592:2012/01/15(日) 01:59:22.09
>>593 >任那日本府の件についても、そろそろ見直す機会なんだろうな。
ところで、任那日本府はどこにあったと思う?
結論だけ云うと、それは、半島西南部全羅南道海岸部、
装飾前方後円墳が見つかったところだ。
今ここでの解説は省略する。
595 :
592:2012/01/15(日) 02:33:23.39
もう一言
白村江の戦い前に、薩野馬が率いる軍船団が終結したところが任那日本府だ。
白村江戦には失敗したが、白村江戦の目的は、
任那日本府の倭人の救出と任那日本府の確保存続。
596 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 04:47:47.69
日韓合同古代史委員会だかなんだかで、イムナイルボンは否定されたよ
済州島、つまり耽羅(たんら)の王、坂上田村麻呂は征夷大将軍として蝦夷征伐に赴きます。
大河ドラマ「平清盛」を見ている人はわかるように、平氏は傭兵として王に雇われた渡来人集団だったのです。
当時も今も済州島や朝鮮半島南部は日本の属国として安価な労働力の供給基地という役割を担っています。
598 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 11:25:36.72
>>597 俺達朝鮮人は妄想野郎が多い…まで読んだ
599 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 11:35:19.43
半島人「済州民は人間ではない。糞豚だ」
半島人「全羅道の連中は嘘つきで短気」
600 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 14:46:46.15
>>596 >日韓合同古代史委員会だかなんだかで、イムナイルボンは否定されたよ
日韓合同古代史委員会は韓國主導の政治的茶番イベント。
>>592 そういうことになるよね
韓国に、在韓華僑が山東省のヤツしかいないってのは不自然
済州島なんて、まさに倭人の島。
つまり、日本は、戦前、済州の人間をチョンと言って差別し、
そして、戦後はその済州の人間らが、米国に武器を与えられ、
日本を好き放題していいぞってことで、駅前の土地とか全部
不法占拠したりしたが、実はこれって、倭人同士の内輪もめでした
ってだけ
戦前の最終島なんて、大陸系との混血と罪人ばかりだろ。
>>601は最終島に行ってリサーチやり直しなw
603 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:06:50.00
継体天皇の時代に大伴金村が百済に譲渡した任那4県任那(上多利、下多利、娑陀、牟婁)(多利には口篇がつく)に住んでいた倭人の多くは日本に移住している。
うち牟婁は、紀伊半島に今でも牟婁郡という地名が残っている。愛知県豊橋市にも牟呂町という地名が残る。
春秋左氏傳に、經四年、春王の二月、 呂人 《草冠に呂= きよひと 》 、杞を伐ち、 牟婁 《 ぼうろう 》 を取る。
とあり、牟婁は元々、山東半島にあった国名なのです。
>>603 なるほど
つまり、そういった戦争で敗れた民が、最終的に
日本に流れ着いたってことになるのですね
605 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 18:09:03.28
在日は半島で虐げられて日本に逃げて来た連中ばかりだからな。
だから意地でも帰ろうとしない
606 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 21:03:20.22
戦国オールスターズに一番抵抗したのは全羅道って因縁だなあ。ウルルン島も倭人が住んでたと思う。
607 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 10:32:27.67
さいきん時代が違い過ぎる話や、飛躍し過ぎる話ばかりだな
おんなじ人が何回も書いてるのか?
参考として時代違ってもいいけど、白村江の戦いとかあの時代の議論する気全くない「話の脱線の更に脱線」みたいな話題はちょっと控えて下さい
608 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 11:15:43.90
日本としては外交で白村江の戦いを回避することはできなかったんだろうか?
609 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 11:32:20.05
日本に助けを求めてきた百済を見殺しにすれば
武力対立はなかったんじゃね?
ジョンウンが南進して韓国を併合したら日本にとって竹島問題どころじゃなくなるが
611 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 13:51:01.86
612 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 18:02:35.59
>>607 そんなに仕切りたければオマエのブログにでもそう書いとけよ。
ここを読んでる限り、白村江の戦いは九州王朝の倭国が敗北したという説と関連して
みんな書いているわけだから、それを理解dけいないアホなオマエが不要なの。
613 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 20:09:38.30
在日や秀吉の話は関係ないだろ
倭国という北九州及び朝鮮半島南部連合王国があったとしたら、
秀吉は、倭国の領土を取り戻そうとしたのだったりして
古代の九州南朝鮮で活躍していた倭人は日本人とは違うからな
韓国人のほうに近い
616 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 11:44:16.96
>>614 秀吉の最初の狙いは中国・明への征服が目的だった(唐入り)
朝鮮は明まで日本の侵攻軍が通る事を承認してくれれば(傍観してくれれば)建前上はすぐ侵攻するつもりはなかった
朝鮮は明の側について、日本と対立する決断をしたので半島が戦場になった
(唐入り→朝鮮出兵)
九州王朝w
618 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 17:23:47.41
九州王朝とか日ユ同祖論は東京スポーツと同様になぜか気になる。
中国の高度な文化が、海を渡って日本に伝わったのだから、
普通に考えて、九州がもっとも栄えて、王朝もそこにあるのは
自然だと思うけどな
その後は京都・奈良に都が移動した(もしくは、九州王朝が滅び、
近畿にあった王朝が支配西日本支配するようになった)としても、
瀬戸内海ってのが、海路の要だったわけでしょ?
結局、中国や朝鮮半島に近い側が栄えてたってことじゃん
620 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 20:36:25.77
>>615 韓国人は新羅人だろ?あとはエベンキとモンゴル
大陸との距離やそこに通じる海路が重要であったとしても
結局九州は列島ナンバー1から転げ落ちているのだが…
平清盛が広島(呉)で音戸の瀬戸を船が通れるようにしたり、
神戸港を整備したとかっていうことは、もともと、それまでは
あんまり瀬戸内の奥のほうまでは中国からの大型船が
入って行かなかったってことなので、やっぱ九州に王朝が
あったというほうがしっくりくるけどなぁ
今、道後温泉(愛媛県松山市)の資料読んでて、昔、聖徳太子が
ここの湯に入ったとかあるけど、やっぱ、九州に王朝があって、
広島や愛媛のほうにも進出していて、船でここまで来たっていう
ほうが、なんでまた京都や奈良あたりから松山まで来るのかって
考えるよりもしっくりくるけど
その王朝も朝鮮人の祖先だしな
624 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 01:45:20.10
朝鮮は属国の歴史だからな
大型船は伊勢まで近づき上陸、飛鳥に向かうルートも考えられる。
御輿が海を練り歩くのは、貴賓を船から陸の館にお連れする風習からと思われる。
その館がいずれ神社となる。
627 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 08:43:23.74
民明書房の本にもそう書いてあったな。
629 :
626:2012/01/18(水) 09:03:10.47
ついでに「ワッショイ」はハングルの「ワッセヨ」と同じと言う。
「ワッセヨ」は「来ました」という意味です。
つまり御輿を担いでワッショイ、ワッショイと言うかけ声は、来ました、来ましたと言う意味です。
貴賓が大型船で近づき、たくさんのお土産を持って来たのです。
地元民はありがたくて、来たよ、来たよと言って担いで館にお連れしたんです。
昔の港は接岸できないから、浅瀬から海水に濡れないように御輿が作られた。
有名な神社が海沿いに多いのはこれが真相です。
630 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 09:05:37.29
民明書房「古代日本の迎賓館はメソポタミアにあった」ですな。
631 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 11:11:59.16
>>629 韓国で「ワッセヨ」という言葉が成立するのは16世紀。
日本のわっしょいのほうが成立が古い。
>>631 そうなんですか。
逆にわっしょいがワッセヨになった可能性もありますね。
いずれにせよ意味合いは似てるかと思います。
633 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 12:50:40.32
エベンキ語のアリラン(歓迎)と韓国を代表する民謡のアリランは似てるどころか、ズバリそのもの
634 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 13:31:12.77
>>629 ほら吹き野郎
捏造するのは顔面だけにしておけカス
>>634 少し謙虚にね。
過ちは認めてるから。
そんなに大問題ではないよ。
>>633 面白いですね、ツングースが朝鮮族の源流と言う説もあります。
日本の源流は朝鮮にあるっていうデマ流す奴いるよね
638 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:26:55.88
>>637 たま出版の本には「日本の源流はプレアデス星団だ」と書いてあるぞ。
失われたムー大陸の子孫が日本人。
このことは一流科学情報誌のムーに書いてあった。
ムーの編集部は木村拓哉や福山雅治をムー民(ムーの愛読者)認定していた
まあ、日本は元々朝鮮の属国だったんだろ
朝鮮が倭の属国だっただけだな。
その後の朝鮮は中国大陸の覇者に蹂躙されて、ほんの百年前まで支那の属国だったんだけどな。
642 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:03:38.02
>>640 チョンの言うことは常にソース無し脳無し
どうでもいいような貶しあいするだけなら
どっかほかのカテでやってくれ
白村江の戦いの頃の
日本史とも百済史とも新羅史とも唐史とも
まるっきり関係ないことばっかりの
一行レスの応酬じゃないか
ここは喧嘩スレじゃないんだぞ
>>643 一見関係無いけど、周辺の話題が核心に向かうと思うけどね。
>>644 でも誰もそういう方向へ議論を向けないし。
ひたすら喧嘩してるだけなら、ほかのカテでやってくれたほうがいい。
日本書紀なり三国史記なり旧唐書なり新唐書なり、
あるいは現代の研究書なり、
そういう話題に触れる人がここ最近このスレで全然いないしさ・・・。
三国志紀でいえば確かAD57年に、倭の軍隊が新羅を侵した記録があるけど半島の倭なんだろうか?
>>646 というよりも、倭国ってのは、陸を支配していたというより、
対馬海峡や瀬戸内海や東シナ海あたりを支配していたってことじゃね?
だから、やたら瀬戸内海とか九州に、海のそばに鳥居があったり、
海岸に鳥居があったりするけど(宮島のあの巨大鳥居以外にもたくさんある)、
それって、海の神に対するものだよね?
648 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 01:07:59.48
あれ?海彦山彦伝説で、天皇家の祖先は山彦だったのでは?
山幸彦が海神の娘と結婚した。
生まれたのがウガヤフキアエズ。
ウガヤフキアエズがさらに海神の次女と結婚。
生まれたのが神武。
ウガヤ?
伽耶だよ。
>>608 歴史の影響が大きかったんじゃないかなあとおもう
高句麗は漢を犯す民族として書かれてるし百済は高句麗と同じ民族
馬韓時代は高句麗の要請でリャオトンに派兵したのも書かれてる
新羅は秦の亡命者がいる漢に馴染み深いようなかんじに書かれている
652 :
忍法帖【Lv=13,xxxPT】 :2012/01/22(日) 14:05:25.19
唐のサイバー部隊に倭のサーバーがやられた。
ペクチョンコウの戦いに敗れましたか?
654 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:52:49.79
唐の水軍は強かったが、唐のハッカーも強かった。
655 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:58:23.49
またサイバーか
ペクチョンコウの戦い・第2ラウンド?
658 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 19:50:03.29
またも唐のサイバー部隊に倭のサーバーがやられた。
659 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 19:53:25.77
白村江の戦いの時代は
古事記じゃ扱ってないじゃん。
てか、古事記はどっちかっていうと、新羅と付き合いが多そうな印象の話が目立つ。
これが日本書紀となると、百済とがっちり組んだ感じでアンチ新羅っぽい筆致に切り替わるが。
661 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 01:15:26.88
今、NHK教育でちょうど白村江やってるね
唐の巨大戦艦かw
663 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 05:51:22.36
日本側も阿部比羅夫か天武が全部隊を指揮していればそこそこ戦えたのではないか?
>>663 いや、上のほうのレスでもすでに議論されてるけど、
百済復興軍の実質的指揮官だった鬼室福信が扶余豊璋に処刑された時点で、
戦略の組み立ても指揮命令系統も、駄目になってた。
もっと言えば、百済復興戦の緒戦段階で押し気味だった百済復興軍が、
早期講和をみずから蹴っていたのも大きい。
戦が長引くにつれ、形勢が逆転していった。
はっきり言えば、
日本が本格参戦したのは戦況が復興百済軍側に不利になった頃であって、
そもそも日本には勝機が薄かった。
665 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 22:41:13.06
神宮天皇の朝鮮征伐
白村江の戦い
秀吉の朝鮮出兵
伊藤博文の朝鮮支配
大陸支配への野望は周期的に出てくる。
それは血によるものだろう。
666 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:29:46.95
〉神宮天皇
〉伊藤博文の朝鮮支配
www
もうちょっと日本の歴史を勉強してから書き込んでね
667 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 11:15:58.94
>>660 古事記は神代から推古天皇の代まで終わっている
そもそも白村江の戦いの時代を扱っていない
>>660 おお。そうなのか。
ちゃんと読まなきゃな・・・
670 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 06:33:49.99
保守
671 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 22:17:10.41
672 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:54:54.93
蘇我入鹿殺害→白村江→壬申の乱あたりはNHKでドラマ化ぢようと思えばできるだろうが
政治的にまずいのか?
特に壬申の乱。
673 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 20:28:22.10
壬申の乱は大海人皇子による、天皇弑逆の可能性があるもんな
674 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 21:17:56.03
NHKも意外と遠慮深いんだな
>>674 専門家の間で意見が分かれてたり、物議を醸し波紋を呼ぶ可能性のある物や事柄をある程度断定的に表現する事から、一定の距離を置いているんだろう
脅迫じみた投書とか、イデオロギー的な圧力とか掛けられても困るし
676 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 22:25:20.85
日本書紀は大友皇子の天皇即位を記述していないが、
明治政府の公式見解としては大友皇子は天皇即位していたとして、大友皇子に天皇号を送って歴代天皇に数えていたんじゃなかった?
詳しい人、その辺の明治時代の大友皇子の即位認識の解説頼む
というよりネトウヨがNHKを目の敵にしてるのが問題では?
何かにつけいちゃもんをつけてくるからね王家問題のように
「NHKは在日に支配されている!」とかわめきだしてデモとか中傷ビラとかまき散らかすだろうね
678 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 01:59:01.03
ネトウヨがっていうか、右翼も左翼も自分の意に完全に反する捉え方で放送していたら何かと文句言うでしょ
「天皇」「弑逆(天皇殺し)疑惑」「日本が真っ二つ」「日本書記的な史観の是非」「三韓や唐との関係性との因果関係の謎」「大海人皇子の出自の謎」
なんて現代でも延々続いてるような問題の地雷が多すぎるというか
679 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 06:34:08.34
>>674 大河ドラマ「太平記」の時には、主要な俳優に高額生命保険かけたとの噂があった。
680 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 06:40:30.09
天武は死の床にあった天智天皇に
「皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子を太政大臣にすればよろしい。
私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」
と言ったそうだが、倭姫皇后が即位した形跡がまったくない理由がよくわからん。
また、壬申の乱後の倭姫皇后の消息もわからん。
681 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 18:50:09.99
>>679 太平記は題材が思いきったと思ったが、後醍醐天皇の描き方とか平板だった
駄目天皇とはさすがに表現出来ないらしい
682 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 12:30:48.57
>>681 足利尊氏が終生敬愛したことは事実なんだろうからそれでいいんじゃないのか
腐った北条得宗家→エース後醍醐天皇に傾倒、鎌倉幕府をぶち壊し後醍醐天皇の諱に倣って名前まで変える(高氏→尊氏)→
新田義貞との抗争から後醍醐天皇と袂を分かつが、終生敬愛
後醍醐天皇が吉野で死んだとき、尊氏が冥福を祈って天龍寺を作ったのは有名な話
天龍寺の建築費を出すために明へ天龍寺船まで派遣した
683 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 12:54:41.17
684 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:04:17.03
天智系人脈と天武系人脈が交互に天皇即位し、組閣もバランスを取るような取り決めがあったか、南北朝みたいに併立してたか(ある意味国内に国が2つ)
結局百済の上流階級の民族は、今のどの民族に近いの
どんな顔?
これってナンセンスな問いなのかな?
686 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 20:04:14.71
>>685 漢城時代以来の王族(扶余氏)と古参の豪族(階氏や真氏)が、扶余系またはわいばく系と見られてて、
南部の(沙宅氏など新興の豪族を含む)先住部族が、韓系だったと見られてる。
・・・とは言っても、実行支配領域と首都が次第に南下していくにつれ、
扶余系と韓系の混住や婚姻は、大幅に進んでいただろう。
顔とかは、はっきりした事はわからないにしても、
まあ普通に考えてみんなモンゴロイドでしょ。
ていうか、「国や民族や言語の歴史」と「人種」ってのは、
そもそも本来リンクするものではないよ。
689 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 17:59:16.75
沙宅氏 ← 名前がかっこいい
>>689 沙宅氏は、百済後期に佐平(=閣僚)も輩出してる家門ですよ。
この家門の出身で、后になった人もいます。
沙宅氏が地盤としていた地域は、
百済の三番目の首都になった泗沘の周辺だろうと見られてます。
691 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 19:43:14.81
沙宅氏は古代日本で言うと葛城氏みたいなもんなんでしょうね。
692 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 14:03:06.59
百済(ぺくちぇ)、新羅(しんら)、高句麗(こぐりょ)
694 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 00:51:41.23
唐軍 7,000人
唐船舶 170余隻
新羅軍 5,000人
倭国軍 42,000人
倭国船舶 800余隻
百済軍 5,000人
この戦力で戦って負けたのは残念、無念。
695 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 13:21:45.72
シヒ遷都後には一時的に扶余の服や言葉に戻してたりしてな。
696 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 18:01:27.33
>>694 造船能力から考えて船の大きさが違うはず。
日本軍の火矢はなかなか届かず、唐軍の火矢は届いたはず。
697 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 18:03:37.78
>>694 あと、唐の将軍は海戦慣れしていたんだと思うね。
日本は阿倍比羅夫にしても、大規模な水軍とは交戦した経験がないからね。
天智=百済
天武=新羅を含む反百済か?
699 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 03:02:36.82
任那と百済の関係ってどうなの?
日本も絡んで、任那領を百済に交渉で割譲したりしてるよね
新羅にも圧迫され割譲だか侵略・占領されて任那領がじょじょに縮小されていく流れ
新羅に侵略で取られるくらいなら、まだ中の良い百済に譲歩して領土割譲して関係強化して後ろ楯にしたほうが後々有利みたいな事かな?
700 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:57:55.34
>>699 > 新羅に侵略で取られるくらいなら、まだ中の良い百済に譲歩して領土割譲して
関係強化して後ろ楯にしたほうが後々有利みたいな事かな?
まあそんなところじゃないの?
ちょっと待った。
任那というのは、新羅や百済の(中期以降の)場合とは違って、
その全てが一元化された政治的実体だったってわけじゃない。
基本的には、小規模な都市国家群の連盟だったと見られてる。
歴史上、この地域が戦略的に重視された理由の一つは、
このあたり、すなわち洛東江流域が製鉄の非常に盛んな地域だったことが大きい。
鉄材が経済的にも軍事的にも極めて重要な戦略物資だったからだ。
また、洛東江それ自体にも、農業用水資源・交通路・軍事的障壁などとして、
極めて大きな戦略的意味があった。
で、それら都市国家群のうち、最も有力だった国の一つが、
たとえばいわゆる金官加羅といわれるところだな。
金官加羅をはじめとする任那の都市国家の多くは、後に新羅に併合されることになったわけだが、
新羅の武将で宰相にもなった金ゆ信は、金官加羅王族の直系子孫だ。
金ゆ信の「ゆ」の字って、
変換しても反映されないサーバーが多いみたいだけど
ここはどうかな。
試してみようか・・・。
金庾新
さて、出るかどうか・・・。
703 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 18:50:59.48
>>701 > 基本的には、小規模な都市国家群の連盟だったと見られてる。
同意する
あ、「庾」の字、ここでは反映されるんだな。
・・・って、うわ、前レスで「信」の字、変換まちがえてた。
金庾信
だね。
706 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 09:51:17.62
任那が幾つかの小国家による緩やかな集合体として連合国家だったのはほぼ間違いないのだろう
それぞれの利害関係や環境や歴史経緯などで比較的に新羅寄り、百済寄り、日本(倭国)寄り、(中国寄り)などの小国家や有力貴族・豪族が居たのだろうと思う
半属国の様な場合や、従属的同盟の様な対等でない同盟や外交関係の場合もあっただろう
こんな認識でおかしくないですか?
707 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 12:14:39.51
やはり、鉄だろう。
この時代まで、出雲と日本海沿岸連合は大和の潜在敵国であって、
むしろ朝鮮半島南岸の方が大和にとってよほど身近だったはず。
一時期、日本海側は砂鉄ではなく鉄鉱石から鉄をとっていた。
これは明らかに、製鉄技術が違う=鉄の受給ルートが違う事を示す。
任那からの船載鉄は恐らく直接淡路島に運ばれ、武具その他に加工されていたのだろう。
それは大和政権が日本を支配するための生命線であり、
ここを断たれると鉄の受給を出雲に依存せざるを得なくなる。
708 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 12:29:58.75
>>707の続き
この観点から見た場合、この直後に大きな政治的大転換が行われている。
天照大神が男性神ではなくなり、出雲神話と融合したのはこの時機であると考えられるからだ。
そもそも、天照大神は伊勢の機織り巫女が原型であり、糸の神だ。
世界的に糸(織物)の神は女性の月の神であり、太陽神ではない。(太陽神は世界的にほぼ男)
記紀でも天照大神はスサノオの狼藉で『隠れ』、つまり死に、その後セックスを擬した描写の後、ふたたび生まれる。
これは本来死と再生という月神の役目。月読みという神がいるにも関わらず、こうしたことが起こったのは
出雲神話との融合において、アマテラスを太陽の女神に置き換える際生まれた矛盾であったのだろう。
これらの事から読み取れるのは、大和が非常に高い危機意識を持って出雲に接し、
相当な譲歩を行った事を示す。
それは、鉄という国家の戦略物資を依存せざるを得なくなった代償であったのだろう。
>>707-708 でも、その見解だと、
瀬戸内海周辺を押さえていたはずの吉備の存在はどうなのか?ってことになるよ。
歌を詠むとき、吉備の枕詞は「まかねふく」であるほどに、吉備は製鉄が盛んだったんだし。
710 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 00:53:00.19
>>709 鉄製武器の製造技術に関しては
朝鮮半島南部 >> 吉備
だったでしょ。
711 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 22:28:47.17
長期的にみてどう転んでも勝ちが約束されてる様な、極地の小競り合いや紛争みたいなレベルの戦いなのに対蝦夷との戦いで変に自信がある日本って、
本物の戦(対外戦争)を舐めてるというか大唐帝国・新羅を舐めてるというか、一番くだらないというか
大袈裟な言い方したら当時の「世界」の1/3は「大唐亜共栄圏」の影響下だと思う
まあ細かい戦術以前に、真っ向から戦う決断した戦略自体がどうしようもないだろうが
時間的な余裕や経験値が無いにせよ戦術ももうちょっと慎重さとか、同じ敗けにせよ「もっと良い敗け方」とか無かったものだろうか?
712 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 22:35:11.77
半島西側で抵抗戦してる百済残党軍って、日本が無策でなにがなんでも突っ込んで急いで救援に行かなきゃならないほど時間的に余裕がなく危機的状況寸前だったって事なの?
他に理由が?
城(砦)に籠って兵糧攻め状態とかにされてたとか?
>半島西側で抵抗戦してる百済残党軍って、日本が無策でなにがなんでも突っ込んで急いで救援に行かなきゃならないほど時間的に余裕がなく危機的状況寸前だったって事なの?
まあ、日本軍の認識としてはそうだろう。実際は余豊璋既にが逃亡しちゃってたりもしたが。
714 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 07:28:56.72
>>711 > まあ細かい戦術以前に、真っ向から戦う決断した戦略自体がどうしようもないだろうが
黄金期の巨人軍も、日米野球ではボロ負けしていたからな。
>>713 時系列で言うと、
扶余豊璋が場当たり的な拠点移動の繰り返しで戦略を乱したのは、
日本軍参戦よりも後だけどね。
それよりも実際、日本軍参戦時点は、
唐・新羅連合軍側が戦況を逆転させてたり、
百済復興軍内部の角逐が激しくなってたりしてたという時期だった。
そこまでの情報を、参戦直前の日本側がどれだけ掴んでたかは、かなりあやしい。
外交の状況や実際の戦況を時系列で観ると、
日本側の認識は、
「百済復興軍が危機的だから参戦する」というよりは、
「百済復興軍が優勢だから参戦する」というものだったように見えるなあ。
716 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 03:56:49.27
>>715 > 日本側の認識は、
> 「百済復興軍が危機的だから参戦する」というよりは、
> 「百済復興軍が優勢だから参戦する」というものだったように見えるなあ。
同意する。
ちなみに第二次対戦も「ドイツが優勢だから参戦する」的な感じだった。
717 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 06:16:14.87
>>715さんの意見にはなるほどと思う部分は多いが
「有利だから参戦した(勝ち馬に乗った)」に関しては俺は否定的意見だな
660年に一度百済は滅んで唐に多くの旧領を奪われている訳だし、百済復興軍てのは幾らかの防衛拠点は得て抵抗・抗戦してたけど、実態は百済旧臣の残党ゲリラ・テロ・反抗勢力くらいのささやかな抵抗の狼煙をどうにか掲げて守ってる程度というか
661年には斉明天皇は九州の前線で崩御して、仕切り直しにも手間を食ったりもあった
日本は嫌々ながらも唐の拡大路線の脅威がすぐ半島南部まで及ぶ(国境を接する)事態を避ける為に手を打たざるをえなかったというかさ
苦渋の選択だけど、無策のまま手をこまねいていて最悪の事態になるのを避けたかったというか
大国ロシア南下や拡大の脅威から、呑み込まれる可能性が大いにあった朝鮮半島を併合という形で組み込んで強化し半島に「きょうとうほ」を築かざるをえなかった日本と似てる構図というか
誰だかイギリス首相が嫌戦ムード漂うイギリス国内の感情を鑑みて「反戦マニュフェスト」で当選して
ナチスドイツが侵略拡大政策取ったのに最初のマニュフェスト守ったお陰でナチスに対して干渉せずにしたお陰で、
強大化して手がつけられなくなったナチスをいよいよ叩かざるをえない段になって、後から高すぎる代償を払う羽目になったみたいな
(最初に黄色信号の時点でちゃんと対処してれば、結果的に大火事にならずに済んだ)
唐からしてみれば、660年に百済を完全に滅亡させて旧百済領を併呑して自国の物にした
また百済旧臣など抵抗勢力はいるが、あくまで「逆賊」「反乱」「内戦」であり対外戦争ではない(百済という国はもう存在しない)
唐vs百済の対外戦争ではなく、唐vs逆賊反乱軍の国内問題である
そこに日本がしゃしゃり出てきて何事か
関係ない奴が内政干渉するな
「チベットやウイグルや台湾問題は、中国国内問題なんだから外国人は内政干渉すな!」
てのと同じ(似た)論理w
>>715 ああ、余豊璋の行動についてはちょっと微妙な所があるが
日本参戦時じゃなくて、白村江直前の話ね(無策で突っ込まないといけないような状況に関して)
>>717 いったん国を潰された百済の遺臣たちが各地でレジスタンスを始めたのは、
百済が滅んで間もなくのことだった。
唐と新羅の連合軍は、基本的に、総指揮権を唐が持ち、兵站を基本的に新羅が担うという役割だった。
だから、百済復興軍側の戦略は、
「新羅から連合軍への兵站線上に当たる要衝地を取り、
連合軍の司令官らが拠点を置いた百済首都の泗沘を孤立化させ、最終的に連合軍司令部を駆逐する」
といったものだった。
実際、兵站の遮断や泗沘の包囲などはかなりの効果を上げていて、唐軍内部にも早期講和を模索する動きが見られていた。
ところが、自軍の攻勢に酔った百済復興軍側は、早期講和に否定的だった。
国をまるごと潰されたことへの強烈な反感がその基底にあったのは言うまでも無いだろうが、
講和の協議を申し入れてきた連合軍側の使者を、
百済復興軍の有力司令官の一人であった僧兵の道琛が「対等の交渉者ではない」として追い返すなど、
百済復興軍側は押しの一手に固執していた面があった。
一方、連合軍側首脳部でも、講和の動きが見えるのを強い調子で牽制した主戦論者がいた。
唐軍の劉仁軌がその代表格だった。
そして反転攻勢に出た連合軍側は、熊津などを中心とする要衝を奪還していき、
これによって百済復興軍側の戦略は次第に崩されていった。
>>717 戦況は
>>720のように展開していったわけだが、
日本側が参戦を決断したのは、「百済滅亡と、その直後の復興軍蜂起の報せ」を受けてのもので、
その後の戦況の推移で戦略に変化が加えられていったというような様子は、あまり見られない。
加えて、朝廷が筑紫に司令部を置くために瀬戸内海経由で移動したときも、
必要最小限の人員で迅速に移動するというよりは、
大規模な船団を組んでゆっくりと、しかも途中で伊予の道後温泉に当たる温泉地に立ち寄ったりするなど、
危機感が有るのか無いのかよく分からない動きを見せたりしていた。
筑紫での斉明天皇の崩御で時間的ロスが生じたことを考慮に入れるにせよ、
日本側の実質的な総司令官は初めからずっと中大兄皇子だったわけで、
当時の日本の戦略全体が、実際の戦況に緻密かつ迅速に対応するものだったかどうかというのは、かなり疑問符が付く。
717さんはチェンバレン内閣の融和策失敗の例を挙げているけれども、
では、日本側が660年の百済滅亡時点よりも前に、
唐と新羅の対百済挟撃を阻むための何らか具体的な対外政策を大規模に実行していたかというと、
そういうことも事実上見受けられず、
当時の大和朝廷の日本統治の実情がどのようなものであったかということとも考え合わせれば、
全体として最初から最後まで、日本側の対応は後手後手のものになるほか無かったというのが、
実際のところだったのだろう。
(少々スレ違い議論ながら、歴史的事例の件でひとつ付け加えると、
日露戦争後の講和で、いったん極東ロシアの南下は阻まれていたので、
日露戦争そのものが日韓併合の直接原因になったと観るのは、やや難がある。
日韓併合の政策が強行されたのは、日露戦争よりもかなり後のことで、
ポーツマス条約締結による日本側利益が少なすぎると感じた日本国内世論の強硬化や、
伊藤博文亡き後の、寺内正毅ら対韓政策最強硬派の台頭が大きく影響してた。)
722 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 16:43:29.87
>>721 > 必要最小限の人員で迅速に移動するというよりは、
> 大規模な船団を組んでゆっくりと、しかも途中で伊予の道後温泉に当たる温泉地に立ち寄ったりするなど、
斉明天皇は急死したのではなく、やはりその前から体調が悪いので温泉に立ち寄ったんだと思うね。
>>719 扶余豊璋の百済帰国以前から、
実質的な百済復興軍総司令官は鬼室福信だったけれども、
その鬼室福信が扶余豊璋と対立して斬られた後には、
(日本軍の加勢を含め)復興軍をしっかりと纏められる司令官は、事実上いなくなってたね。
鬼室福信自身も、既に道琛を斬っていたほどだったし。
日本書紀で「我ら、先を争わば」と語られてるのは、
まさにそういう、戦略面でも戦術面でも既に復興軍内の纏まりがつかなくなってたことを暗示する、
やや修辞的・比喩的な表現だろう。
>>724 イデオロギーとかの史観を抜きにして考えて、そんなに偏ったおかしい意見とは思わないな
合理的で辻褄が合うと思える部分が多いと思う
俺はどっちかと言うと右翼っつうか、愛国主義な人間なんだけど
自分の中で考える半島由来(半島に強く影響を受けた)の日本建国の経緯と、愛国主義ってのは矛盾していないと考えるっていうか別問題として切り離して考えてる
それが一番合理的と考える
>>725 まあ、倭王朝の本貫の地が任那(加羅)であると考え、
中国・高句麗・百済・加羅・新羅・日本の地政学的な関係を考えれば、
白村江参戦を初め、古代倭王朝が何故半島にこだわり続けたか、すんなり理解できるということです。
>自分の中で考える半島由来(半島に強く影響を受けた)の日本建国の経緯と、愛国主義ってのは矛盾していないと考えるっていうか別問題として切り離して考えてる
まさにその通り。実は私も右翼です。
この本の最終章「おわりに」の中に「天皇制は日本国家最大の安全保障装置」という項があり、
「国家や民族の歴史を語ることは何時の時代にも政治的リスクを負うもの。
韓国の歴史学者の皆さんは、「国民」として国の安全の為に、学問的信念を曲げても
「高句麗は朝鮮の王朝である」「渤海も朝鮮の王朝である」「楽浪郡・帯方郡は朝鮮半島ではなく満州にあったのだ」などと強弁せねばならず気の毒です。
しかし、日本人・日本国民である筆者が、学問的信念を曲げず、国を危うくすることなく
「『記紀万葉』を書いたのは朝鮮帰化人である」「倭王朝は朝鮮半島からの渡来王朝である」
「日本列島住民=日本民族=日本国民は『記紀』が捏造したフィクションである」
と能天気なことを言っていられるのも、天皇陛下のご臨在あらばこそ。
筆者は「日本人」として生まれた幸運を喜び、我々国民に安全と、筆者に学問の自由を与えて下さる天皇陛下と日本王朝の恩寵に感謝し、
その万歳を祈念するものであります。」(p.320)
とちゃんと書いてあります。
よろしかったら、是非拙著をお買い求め頂き、ご高評お願いします。
応神天皇の以前から倭人が半島南部で活動していたという魏志の内容は無視?
半島への過剰な拘りと言うがそもそも半島南部もまた倭人の活動圏かつ
故地の一つであり、金・鉄を産出する重要な拠点なわけでしょう
天皇家を「渡来政権」とする論拠には弱いのでは?
個人的には倭人の定義自体を見直すべきだと思っているのですが
>>727 >応神天皇の以前から倭人が半島南部で活動していたという魏志の内容は無視?
無視してませんよ。
北九州連合体国家(邪馬台国?)や、それを構成する小国家群は倭王朝成立以前から
半島南部、特に鉄を産出する加羅とは交易などを通じて深い関わりがあった。
そして、4世紀の半ば頃、北九州連合体国家内に盟主の座を巡って内紛があり、
反主流派が加羅の王を引き込んで当時の盟主国を倒し、その座に加羅の王がついた、ということであり
それを示唆するのが『記紀』の天孫降臨神話だ、と言っているのです。
「倭人」の定義ですが、半島・中国からみれば、日本列島に住んでいる人間は皆「倭人」でしょう。
ただ、半島から渡り日本列島に定住した人間、及びその子孫が自らを「倭人」と規定しているかどうかは別の問題です。
朝鮮語を母語とする渡来一世達の自己規定は「加羅人」あるいは「朝鮮人」でしょうが、
朝鮮語・日本語共に母語として話せる二世達は微妙、
日本語しか話せず、半島に行ったこともない三世以降の世代となると、
自己規定としても「倭人」じゃないでしょうか?
とりあえず、私の本を読んでみてください。
アマゾンで調べたら1890円でCD付きか・・
興味あるし買ってみようか迷うんだが一つ質問
万葉集を中国語話者と朝鮮語話者に読ませCDに録音したとあるが
それぞれどういう形で読ませたの?
現代朝鮮人の若者は漢字は読めないでしょう?
発音をハングルに直して読ませたのか原文を朝鮮語に訳してから読ませたのか
730 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 15:01:21.22
当時の朝鮮半島は倭国よりも先進国だったんだな
横からスマソ
この漢韓辞典て中国語⇔韓国語の辞典ってことですか?
韓国語て言ったって、今の半島の人と当時の人と違うだろ。
ハングル仮名をふっちゃえば日本語みたいに聞こえるだろ。
日本語と程遠い中国人にも日本語の発音に近い漢字かなをふれば同じように聞こえるんじゃないの。
漢字を読めない半島人に読ませても意味無いんじゃ無いの。
>>732、733
「漢韓辞典」というのは「漢和辞典」の韓国語版です。
個々の漢字の発音・意味・用例などが載っている辞典です。
>漢字を読めない半島人に読ませても意味無いんじゃ無いの。
韓国人が漢字を読めなくなったのは学校で漢字を教えなくなった戦後のことで、
日本に併合される以前は公文書は全て漢文体で書かれ、知識人は良く漢字を知っていました。
また、1443年にハングルが発明されて以降は、
ハングルで漢詩を読むための漢字の発音を表記した「韻書」や、
漢字の意味を記した「漢韓辞典」が作られており、
現代の漢字音もそれに基づくものです。
また、現在の多くの韓国人は漢字が読めませんが、韓国人は日常的に多数の漢語を使っています。
例えば「警察」は「キョンチャル」と言いますが、殆どの人はこの「キョンチャル」を漢字でどう書くかを知らないだけです。
それは、日本の幼児達が「けいさつ」という言葉は知っていても、それを漢字でどう書くかを知らないのと同じです。
韓国人がこれらの漢語を漢字でどう書くか知りたければ、
「国語辞典」を引けばいいだけのことです。
>韓国語て言ったって、今の半島の人と当時の人と違うだろ。
違うかどうかは、この本をCDまで含めて全部読んでいただければわかります。
日本語も韓国語(朝鮮語)も、少なくとも音韻体系に関しては、
奈良時代から1300年間殆ど変化していない、
ということをこの本で証明しているのです。
なるほど
韓国人は万葉集を、例え現代韓国語の音に直しても意味はわからないが
その音は日本人から聞くと日本語にごく近いように聞こえる
なので万葉集は渡来百済人が日本語の音を自分が聞いたように「百済式」漢文に
はめ込んで書いたと考えるのが自然、という趣旨でいいのでしょうか?
>>735 >韓国人は万葉集を、例え現代韓国語の音に直しても意味はわからないが
その音は日本人から聞くと日本語にごく近いように聞こえる
そのとおりです。
ただ、このデモビデオの中でも述べている通り、
この万葉集の発音実験は予備知識の無い人にもわかる一種の「余興」であって、
私の「記紀万葉朝鮮帰化人記述説」の最大根拠ではありません。
「記紀万葉を書いたのは日本人ではない」という命題は、
『記紀万葉』の借音仮名日本語表記から発見された「上代特殊仮名遣い」に関するデータに基づき、
歴史学・考古学・朝鮮語学などの知識は全く必要とせず、音声学(phonetics)だけで証明できるのです。
従って、本書の最重要部分は、このことを音声学的実験で証明している第6章です。
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html ただ、何故これが『記紀万葉』を書いたのが言語的外国人(百済人)だったことの証明になるのかは、
第3章、第4章で述べている国語学分野に於ける「上代特殊仮名遣い」に関する予備知識と、
第5章で述べている音声学に於ける「条件異音」(conditional allophone)という現象に関する正確な理解を必要とします。
歴史学者・考古学者はもとより一般の歴史ファンは、
「上代特殊仮名遣い」とか「条件異音(conditional allophone)」とかは知らないのが普通ですから、
本書や↑のHPでは全くの素人でも理解できるように書いてある(つもり)です。
737 :
襾:2012/06/27(水) 02:27:27.65
■先祖から連なる悲願であるルーツ本貫地の半島へのこだわりが捨てられない「半島倭国原理主義」天智天皇
■半島の本貫地への非現実的奪回ロマンと過度な回帰思想は捨て、今や列島こそが新たな本貫地と成り変わった、列島こそが安住の地で母なる大地と考える「新時代新天地列島日本主義」天武天皇
その戦いの総決算かもしれない
個人的でロマン主義的・回帰思想的な半島介入政策に振り回されたくない朝廷配下の土着縄文系と関わりが深い豪族は、半島干渉より内政問題の充実を図ろうとする現実路線の天武天皇を指示しただろうと思う
伝統的倭国主義vs新たなる日本主義のイデオロギー戦争の一面も有ったんだと思う
738 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 02:37:27.52
その戦いの総決算だったかもしれない ×
訂正→壬申の乱は、その戦いの総決算だったのかもしれない
しかし日本という国は純日本回帰的な「国風文化」と、渡来した異文化に強く影響を受けた「舶来文化」が交互に花開く国だよな
おたがい相互に反発・揺り戻し・揺り返しが起きている
交じりあったりもしている
外国から神すらも取り込んでいく柔軟性
739 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 08:28:34.97
740 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:00:38.52
名前:蘇我入鹿 ← わろた
741 :
蘇我入鹿:2012/06/28(木) 01:16:03.93
韓人に暗殺された林太郎天皇です。
後に山背大兄、蘇我入鹿暗殺事件に捏造されました。
法隆寺救世観音に鎮魂されました。
742 :
蘇我入鹿:2012/06/28(木) 07:13:14.82
□□□天皇御世乙巳年六月十一日、
近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)、
林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)
子孫等皆之を滅ぼす
743 :
襾:2012/07/01(日) 03:10:01.85
まず半島の南端部の任那が本貫地として、昔から交流があって勝手知ったる海峡を渡ってまず列島の北九州に「天下り」「降臨」して、最終的に倭国や大和王権や日本建国へと繋がったと仮定します
乙巳の変での蘇我入鹿暗殺の後に、古人大兄皇子が「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。悲しい」と述べたと日本書記に記されている
質問1:「韓人」とは半島全域に居る民族・国民の事という解釈で間違いないでしょうか?それとも任那(伽耶、伽羅)の民は含まない?
質問2:仮に自身の先祖のルーツが半島にあると強くアイデンティティにあるとすると暗殺者に対して「韓人」という言い方はどうなんでしょうか
自分は既に「倭人」「日本人」アイデンティティが強くなっており、ここで発言している「韓人」は自分達の先祖より遥かに後に(比較的最近)日本やって来た渡来人で、
帰化や日本文化へ順応は果たしてない、或いはいまだ正式な本籍は半島にある様な人なのかどうなのか?
質問3:古人大兄皇子の父は舒明天皇で、母は蘇我法提郎女で蘇我氏の娘だが
蘇我は高句麗の出という説と蝦夷系という説があるが、仮に父方も母方も両方半島ルーツな人間が暗殺者を指してぼかして「韓人」と呼ぶというのはどういう面持ちなんだろうか?
質問4:日本書記の記述者は何故「韓人が鞍作臣を殺した…」の記述を日本書記の中に残したのか
都合の悪い事実は改変し擬装・捏造・正当化・正統化する為に書かれたのと食い違う様な謎と違和感ときっかけやいろんな気付きのヒントを与える記述(?)だと思えるが
744 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 08:33:37.43
入鹿暗殺韓人は近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)でOK?
蘇我入鹿(いるか)
斑鳩(いかるが) 何かにてませんか?
>>743 倭王朝は加羅からの渡来王朝といっても、渡来してきたのは300年代半ばであり、
それから300年も経った648年の大化改新(乙巳の変)の時点では、
大王家や渡来の際からついてきた譜代の家臣と思われるである大伴氏や物部氏などには、
自らが「韓人」「加羅人」などという意識はすでに無かったでしょう。
また、400年代の倭王朝創業期に活躍した吉備氏・葛城氏などは、
倭王朝の畿内東遷・全国平定の際に協力・臣従した在来の外様豪族だと思われ、
彼らには最初から「韓人」「加羅人」などという意識はなかったでしょう。
雄略朝以降の倭王朝安定期に入っても半島からの人材輸入は続き、
その多くは倭と同盟関係にあり最も文明が発達した百済からの人々だったでしょうが、
新羅や高句麗からやってきて土着した人々もいたでしょう。
もちろん加羅からきた人もいたでしょうが、中央集権化の進んだ百済・新羅・高句麗とは違って、
加羅は依然として小豪族連合体のままであり、個々の豪族は倭に対して優れた人材・多くの人材を出せる余裕は無かったでしょう。
そうして、倭王朝が安定期に入って以降に半島から渡来してきた人々の中にも豪族として力を持つ者が現れ、その代表格が蘇我氏。
乙巳の変の頃には、大王家だけでなく、大豪族達もそれぞれのルートを使って半島から人材を招聘していたはずで、
「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。悲しい」というのは大王家側が招聘した韓人が蘇我入鹿暗殺に深く関わっていたということではないでしょうか?
さらに深く穿鑿すると、大王家側は親百済であったのに対し、蘇我氏は何らかの理由で新羅と内通しており、
入鹿暗殺には百済から来た「韓人」を通じて百済の意向が働いた、ということかも知れません。
さらに穿鑿すると、645年から新羅は唐と同盟して高句麗を挟撃しており、
高句麗が滅びると次に矛先が向かってくるに決まっている百済は、直接唐とは事を構えたくないものの、
もし倭が参戦して新羅の背後を衝いてくれるなら、高句麗側に付いて新羅を攻撃するつもりで、倭に参戦を働きかけていたが、
それを内部で阻んでいたのが蘇我氏だった、と考えればすんなり理解できます。
ただ、この間の史料は『日本書紀』しかないので、具体的な史実はそれ以上のことは解りません。
749 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 07:57:48.25
入鹿(林太郎天皇?)暗殺は近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)とありますが?
□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)、林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)
子孫等皆之を滅ぼす
古人大兄皇子が「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。悲しい」
つまり
韓人(帰化人の近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事))が林太郎天皇(入鹿)を暗殺したと
ほのめかしてるのではないでしょうか?
750 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:15:52.07
>>724 全てにおいて同意というわけではないが大筋で同意。
任那日本府や神功皇后の三韓征伐などあまりにも無理がある記述についてこれで説明することができ納得できる。
ちなみに私は福岡在住で香椎宮の近くに住み先祖が宗像大社にご奉仕した関係で興味を持ちいろいろ調べたり考えたりして、この結論に至った。
多分香椎宮、宗像大社、宮地嶽神社その他を自ら訪れ目にすると、考えが変わるところがあると思う。
それらが全て玄界灘とその向こうの地を見ていることがわかるはずで、香椎宮については何かはわからないが間違いなく何かが起こったとの実感を得ることができる。
>>748 その@
妄想ですかね(^^)
倭が663年の白村江に駆り出される経緯はこの645年からの唐・新羅連合の高句麗攻撃に始まるのです。
その100年ほど前の551年に百済は新羅に西海岸の京畿道・忠清道を攻め取られ、
562年に倭も新羅に任那(加羅)を攻め取られており、
百済にとっては京畿道・忠清道奪還は悲願、倭にとって任那(加羅)回復は悲願。
645年からの唐・新羅連合による挟撃によって高句麗が滅ぼされてしまうと、
唐・新羅連合の次なる矛先は百済に向かってくるのは必定であり、百済にとって安全保障上の大ピンチ。
一方に於いて、新羅は551年に奪った京畿道から高句麗に攻め込んでいるわけであり、
百済にしてみれば、新羅が高句麗を攻めあぐねている間にその背後を衝けば、
悲願の京畿道・忠清道を奪還するチャンスでもあります。
しかし、百済が事実上高句麗側に付いて新羅を攻撃することは
超大国の唐を敵にまわすことになる。
百済が、唐を敵にまわすことを覚悟の上で新羅を攻撃するならば、
京畿道・忠清道の奪還だけでなく、一気に新羅そのものの殲滅を図らねばならないが、
それは百済単独では無理であり、高句麗と同盟しても、高句麗は北方で唐との戦いが続いている以上、
新羅戦線に大兵力を集中する余裕はなく、
同盟国であり大兵力を持つ倭が南から新羅本貫の慶尚道を衝いてくれることが不可欠。
>>748 そのA
こういう状況に於いて、私が百済王だったら、倭に使いを送り
「新羅は今、高句麗攻撃の為に京畿道に兵力を集中し、
本貫の慶尚道は手薄となっており、お宅(倭)にとっても悲願の加羅回復の絶好のチャンス。
お宅が南から新羅(慶尚道)に攻め込んでくれるなら、我が百済も高句麗と手を組んで、
京畿道方面の新羅軍を撃滅し、その後忠清道から慶尚道に攻め込んで一気に新羅を滅ぼし、
その跡地を山分けしようではありませんか」
と誘いをかけます。
逆に、私が新羅王だったら、倭が加羅を奪った新羅に深い恨みを抱いていることは解っており、
高句麗攻撃と百済に背後を衝かれることに備え、京畿道方面に兵力を集中していることは、
倭の侵攻を誘発する危険きわまりない行為だということは解っている。
しかし、倭王朝内部の親新羅派からの情報によれば、倭王朝では蘇我入鹿が大王以上の権力を持っており、
倭王朝は蘇我氏の意向を無視しては何も決められない。
そして、大王家は親百済で加羅回復を悲願としてるが、新興豪族である蘇我氏は加羅に対して特別な思い入れはないという。
ということであれば、新羅王である私は、密かに蘇我氏と接触して賄賂を送り、倭の参戦に反対するようにし向けます。
実際、591年に崇峻天皇は博多に2万の兵を集め、任那回復の為の大軍事行動を計画しましたが、
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されてしまったため、この計画は沙汰やみになっています。
うがった見方をすれば、蘇我氏はこのころから既に新羅と内通していたと考える事も出来るでしょう?
一方、私が百済王で、そのような倭王朝内部の権力構造を知っており、倭の参戦の障害が蘇我氏だと解っていれば
大王家に対し「どうです? この際目の上のたんこぶの蘇我入鹿を暗殺してしまいませんか? 何だったら力を貸しますよ」
とそそのかします。
>>748 そのB
このような状況下で、あなたが百済王、新羅王だったら倭に対しどのような政治工作をしますか?
いずれにせよ、648年の頃は、百済から戦況を告げ、同盟強化と参戦を促す使者が盛んに大王家を訪れていたことは間違いなく、
その様な状況下で蘇我入鹿暗殺が起これば、事実かどうかは別として
「大王家に出入りしている韓人(百済人)達がそそのかして蘇我入鹿を暗殺させた」
と解釈する者が現れても不思議ではないと思いますが、いかがでしょう?
蘇我は百済と仲が良かったんじゃなかったの?
自分が当時にいたらどう考え、どう行動するか
なんてのは歴史学を研究する上では
わざわざバイアスをかけているに過ぎず
全く意味がないことだよ
重要なのは、
当時の人々がどう考え、どう行動したのかを
史料事実をもって示すことなのさ
>>755 >重要なのは、
>当時の人々がどう考え、どう行動したのかを
>史料事実をもって示すことなのさ
そのとおり。「歴史学」というものはそういうもの。
故に、史料が限定され、新しい史料が出てくる可能性もない古代史の謎は
「歴史学」では永遠に解けないということです。
だから私は、史料がなければ何にも言えない「歴史学」があほらしくなって
社会学・言語学に転向したのです。(^^)
http://amzn.to/nzA2GW
だったら自分の書き込みが妄想と呼ばれるってこともわかるんじゃねーの?
時間の経過における変化を重視しない切り口では歴史は明らかにできないよ
>>757 「歴史学者」にとっては妄想かもしれませんが、
社会学者にとっては妄想ではなく一つの「仮説」です。
>>747 >>726 そして私は、こういう「仮説」を建てれば、現存する史料とも矛盾せず、すんなり説明できる、と言っているだけで
それが「絶対正しい」などとは言っていません。
>>750 香椎宮の祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇だそうですから、
大いに関係ありそうですね。(^^)
福岡・北九州との関連で言語学的に面白いのは、
韓国人日本語学習者が話す日本語のアクセントやイントネーションは、
「無アクセント地帯」と言われる北九州の方言とよく似ていることです。
(これはいまのところ主観的な判断ですが、同じ感想をもらす日本人は多い)
韓国語は基本的に無アクセントで抑揚の少ない言語であり、
彼らが日本語を話すと同じように抑揚の少ない発音になるからですが、
もしかすると、古代に北九州に多数住んでいた半島人の話す抑揚の少ない日本語が、
逆に日本人に乗り移って定着したのが北九州のアクセントの起源かもしれません。
興味があったら研究してみてください。
761 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 01:48:12.51
日本はほんの140年前まで、約700年間もサムライが君臨する国家だったんだなぁ
そしてそれと時代が重複するけど1300年間も藤原氏が朝廷に事実上君臨する国家だった…
それだけ澱の様に幾重にも幾重にも積み重なった長い長い歴史、50年や100年が経ったって簡単には浄化不可能だと思う
>>761 浄化って言うと悪いものを綺麗にするような言い方でまるで侍や藤原氏が
悪いもののように聞こえるんだがそういうつもりで言ってるの?
俺は侍や藤原氏が君臨してた時代の方がよっぽど健全で理想的だったと思うよ。
日本はそういう時代に戻るべきだとさえ思う。
763 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 04:52:15.14
「欧州最古 アルタミラ洞窟壁画 4万年以上前と判明も 須(すめら)も判明」
oo77986455645 .wordpress.com/about/
「まず尖閣諸島について皆さんに知っておいて頂きたい / 国生み神話で有名な淡路島と天の橋立のラインと文化で守り管轄しているからこそ日本の領土であると言えるのです」
764 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 09:19:48.54
>>762 武士の世がそんなに悪いとは思わないが
藤原氏が最も謳歌した全盛時代が平安時代の藤原道長の時代辺り
国家財政も天皇家も貴族たちも庶民も極度に窮しており、都の治安すらも乱れに乱れ
都の朱雀大路の南端にある玄関口である羅城門(羅生門)は朽ち果て再建される事もなく、身寄りのない遺体が勝手に放置される有り様(現代で言えば成田空港や東京駅みたいな都の玄関口ですらそんな荒んだ状態)
そんな時代に荘園だとか自分たち一族だけが国から収奪出来る様に法を作り替え、利用し法の穴を潜り抜け国と天皇家を食い物にして、ほぼ同時代に宇治の平等院鳳凰堂みたいな優雅な別荘・宝物庫みたいな寺院を建てたりやりたい放題
こんなのが国にとって良い時代なんて俺は思えない
そんなこんなが1300年続くんだよ
それも「国と天子にあだをなし無法の限りを尽くす蘇我入鹿を誅す」と言った鎌足の一族がだよ
恥を知れよって感じだよ
765 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 21:44:48.16
律令制度を整えて、国民から広く税金(租庸調)を取ろうとするようになったのが間違い。
消費税率の引上げは、藤原氏の発想の焼きうつしだ。
あの頃と、全く変わっていない。
実は、日本は、秦人である藤原氏の世の中から全く進歩していないのだ。
それに逆らうまつろわぬ小沢氏は葬られていいのか?
766 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:55:38.73
>>764 武士の世になったら庶民が豊かになったとは聞いたことがないな。
室町時代も土一揆に徳政一揆、江戸時代も百姓一揆は大量発生していたが
為政者が庶民のことを考え、庶民のための政治をしたことなど一度もなかったはず。
武士の世になっても結局自分たちだけ(源氏一門だけ、足利一門だけ、徳川一門だけ)
豊かになればそれでよかったんだよ。
あと、平安京に関して言えば、日本の国土に比して規模がでかすぎた。
唐の長安をならって作ったものだったが、日本の規模ではとても維持できない。
平安時代を通じて右京にはほとんど人も住まず、
貴族の邸宅は内裏周辺の左京一条〜三条周辺でほとんど事足りていた。
九条の羅城門あたりがさびれていても朝政に影響もない。
あの規模の都を維持する必要がなかったから維持しなかっただけ。
767 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 03:13:25.64
関係ないが、平城京の出っ張りである「北辺坊」が妙に気になるのだが。
768 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:19:53.64
>>766 信長の領土は、実行力を持ちすぎて誰も触れなかった武装寺社(宗教)勢力や楽市楽座とか関所とか旧来の明らかに万民の障害になる既得権益を解体して、
やたらと不当に収奪・規制されてた庶民の生活は楽になったんじゃないか
楽市楽座みたいにカルテルを解体して自由市場経済・機会均等化を振興させたなんて経済政策まで進んでやって凄いよ
戦後獲得した領地の農民や町人からの金品糧食の略奪や強姦も半ば黙認が常識だったのを、禁じて厳しく取り締まったりして平和になってた治安も良くなったから信長の到来を心待ちにしてたなんて話もある
確か平安時代の木曾義仲辺りは、平家を都から敗走させてせっかくの念願の入京したのに軍の統制が出来てなくて略奪やったりして都の人々から嫌がられたんじゃなかったかな
信長は必要悪なオワコン解体屋のピースメーカーだったと思う
平穏・穏便・緩やかな変化を好む日本でのそういう異能の改革者の常として多くの守旧派からの反動・反感を受ける形もあって志半ばで倒れる訳だけど
織田家の世が何百年も続けば、結局は既得権者になってたかも知れないけど、信長は自分の為でもあり万民の為にもなる面倒臭い手間の掛かる事を目を背けずやったと思うよ
独裁者でも結果的に政治が良くなる独裁者なら認めざるをえん
あんまり続くとスレチはなはだしいからアレだけど
769 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 03:44:01.83
天皇や民衆という存在がいて武士がやった事と藤原氏がやった事、大して違いはねえよな
それなのに武士は許せるけど藤原氏は許せないのは個人的なイメージや偏見の問題じゃないのか?
770 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:44:08.53
>>768 律令制度下では農民に対しての負荷は決められていたが
商工業者に対する納税なんて決められていたか?
まだ日本の商工業があまり発達していなかったせいもあるだろうが
市で売買する商工業者に納税されていた記録がないんだが
座を組ませて座に商売権を与える代わりに商工業者から徴税するようになったのは
室町時代からだと思うが
771 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 11:32:45.37
>>768 座を設けたて徴税したり関所で金をとったりというのは
武家政権である室町幕府の政策であって
朝廷の政策ではありません
772 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 12:13:57.16
>>770 商工業者に納税の義務があった云々なんて一言も言ってません
そういう主旨で話してません
>>771 座や関所の上がりを朝廷が受けていた云々も一言も言ってません
それに戦国時代の関所は寺社勢力、豪族、大名などいろんな権力者が各自治領内で勝手に好き勝手無数に作って、人々の自由な移動や流通や経済活動の妨げになっていた面がある
(物が行き渡らない、国が潤わない、経済が活性化しない、動脈硬化で新陳代謝や活性化しない次第に根腐れする社会)
座は今でいうなら独占禁止法違反みたいなもので、儲けの上がりのおこぼれが貰える権力者と座のメンバーだけが独占的にあらゆる商業活動の主導権を握って、
権力者や座のメンバーじゃない消費者や商業活動に新規参入したい者に初めから不利益な商業構造(民主主義的自由経済・自由競争社会しゃない、既得権や経済力や権力を元々持ってる者だけが儲かる形骸化した保守的な爺臭い仕組み
773 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 12:53:56.06
>>772 >>768は武士の世になったら庶民の生活は楽になったわけではないという
766のレスにつける内容としては不適切だな
武士の世の中になってから始まった重税を同じ武士である信長が
一部廃止したというだけの内容だろ?
公家の支配よりも武家支配のほうが庶民の生活が楽になったという
ソースを出せよ
774 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 14:32:25.90
貴族(藤原)の世、武士の世で全部ひとくくりってなんなの?
貴族の世でも、武士の世でも時代的に比較的善政がなされて好転した時代もあれば、飢饉などの人為的以外の要員もあったり失政があったりで上手くいかなかった時代もあると思うけど
武士の世になって世の中が良くなった試しはないっていうような事をいうから、武士の時代の中でも信長の時代はどうなの?って言っただけなんだけど
話が完全にすれ違ってるよ
ああそういう事言ってたのね
今理解した
天智天皇(当時はまだ中大兄皇子)みたいに臣下や皇族を直接その手で殺めた(と言われている)天皇経験者って他に居ますか?
777 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:31:07.06
何これ
14 名前:名無しさん :2012/07/23(月)23:19:18 ID:qPRUzOFGR
吸血 カラクニダケ「献血運動推進全国大会」血を「消費税」
http://oo77986455645. wordpress.com/about2/
778 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 02:33:13.42
779 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 04:10:08.89
さすがに時代が下がりすぎるが、江戸時代の収穫量は飛躍的に増大している。
検地や集権体制の精度があがったからという部分をさっ引いても顕著。
太平の世になって計画的な開墾が可能になった事、
大規模治水事業が可能になった事、
都市の人口が増加し人糞リサイクルのシステムが構築された事による。
当然ながら農民の暮らしも楽になったし、貨幣である米の供給が安定したために経済も安定して町人が増えた。
これはパックス徳川時代の恩恵と言える。
780 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 07:22:22.39
江戸時代は日本の人口3000万くらいだったな
それが今では1億人増えて1億3000万まで増えてしまった。
本来、日本の人口は江戸時代くらいがいいのかもしれん。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)→神武東征>>瀬戸内海>>大和
....................隼人(鹿児島)
日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系「天皇」の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
782 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 14:02:25.48
天智系の「倭」旧勢力vs天武系の「日本」新勢力
実在を遠の昔に失っていて既に現実的でないのにいつまでも捨てきれない半島ルーツの本貫地への回帰・奪還の残滓を持ち続ける勢力と
現実的でない半島に対する干渉や資源・財産・人命の持ち出し、こだわりや未練を完全に断ち切り、新天地の平和の楽園である列島で新たにゼロから出発し新たな母なる土地として新時代を築いて運営していこうという勢力、
未練派・ロマン派vs刷新変革派・現実派の戦いなのかなと
半島魂保守派vs新天地列島・新故郷改革派
現在の在日朝鮮・韓国人の三世・四世(五世)でも日本に帰化する/しない(先祖からの半島アイデンティティ堅持とか、日本嫌いとかetc)でいろんな価値観や利害も絡んで判断が分かれてる
そういうのと当時の心境は状況は違うかも知れないけど、似通った部分・比較出来る部分も何かしらあると思うな
単純に渡来と在地という図式では決められなさそう
渡来といっても何度も波があり、
応神天皇あたりで王家が定着した後はむしろ
渡来系=身分低い、みたいな図式ができたんじゃないか?
784 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 09:13:30.44
半島系・大陸系日本人&旧来日本人(縄文人系・蝦夷系)連合vs在日の半島人・大陸人
血統・民族や渡来時期の問題もあるが、自分のアイデンティティをどう位置づけてるかの方が問題というか
差別意識やイデオロギー闘争というか
785 :
播磨の冠者:2012/08/12(日) 01:08:55.05
663年「白村江(はくすきのえ)の戦い」は百済・倭国連合を
唐・新羅連合が打ち負かします。
それまでの倭国は蘇我氏の王朝で、元々ベトナムやインドシナを起源
とする民族です。
この前後の日本史は書き換えられたという説があります。
この戦いの後に唐・新羅の進駐軍があったのではないか。
藤原鎌足は百済人で、唐に登用されて藤原氏が軍政司令官として干渉
します。藤原の藤は唐と読めます。
百済の王族は捕虜収容所に入れられ、民は東国に移住させられます。
唐が百済人を使って倭国を支配していたものを、新羅が奪い取って
国名まで改名してしまいます。新羅はボルネオ語でシラヒース
(日の出)で、日本となります。
その後、唐と新羅が対立して新羅が滅亡すると、新羅追悼の命令が出て、
日本国内でも百済系の桓武や藤原勢力が新羅や蘇我の残党と争うのが
「アテルイの乱」です。
「白村江(はくすきのえ)の戦い」の前と後とでは、日本は大きく
変わっています。倭人・百済と新羅人は別ものですが、蘇我氏→百済人
→新羅人→百済人と権力者が変化して、外国勢力が権力が握っていく
過程を全て秘匿して日本史の最初の部分は大きく改竄されています。
(参照 「歴史と現代」昭和56年10月25日発行)
読んだ感触では、倭人はインドネシア部族の1つで、早い時期に日本に
流入しますが、朝鮮南部にも定着してこれが百済になります。倭人と
百済人には共通するものがあります。
聖徳太子さえ、「隋書」の倭国伝に無い事から鎌倉時代の創作だと
言われ、歴代の日本王朝は、百済系・蘇我氏(天の王朝)・倭の五王
を組み合わせて創作されたのが「日本書紀」だと言われて納得出来る
ものがあります。
786 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 20:38:27.56
>>784 縄文系で確実なのは
クズ、蝦夷、諏訪の洩矢氏、隼人くらいか?
787 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 10:49:53.75
羅唐戦争
羅唐戦争(らとうせんそう)は、670年から676年に行われた新羅と唐の戦争である
新羅と唐は、羅唐同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。しかし、唐は、百済の地に熊津都督府を、高句麗の地には安東都護府を設け、さらに新羅も鶏林大都督府として、新羅の文武王自身も鶏林州大都督とし、朝鮮半島全体を支配しようとした。
このため新羅と唐は対立するようになった。文武王は、高句麗遺民の高句麗復興運動を支援した。670年3月、高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃し、羅唐戦争が始まった。また、新羅は高句麗の安勝を高句麗王にした。
新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して、百済地域を占領した。671年10月、百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の水軍に敗れた。
一方672年7月、唐軍と靺鞨軍が平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。高句麗復興軍と新羅軍は、672年12月に白氷山で唐軍に敗れた。673年には瓠瀘河でも唐軍に敗れ、高句麗復興運動は衰えた。新羅は674年に安勝を百済地域に設けた報徳国の王とした。
674年1月、唐の高宗は文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問)を新羅王に冊封した。文武王は、675年2月に謝罪使を派遣し、元の状態に戻った。
675年9月に新羅軍は、泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城)でも李謹行の軍を破った。さらに、676年11月、新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦で薛仁貴の水軍を破り、羅唐戦争は新羅の勝利に終わった。唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、
朝鮮半島から撤退した。この結果、新羅が朝鮮半島の三国統一をした。新羅は、羅唐戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた[3]。
モンゴル帝国の遠征の時も元の軍隊に便乗してエベンキ族が侵入しているし、
どさくさにまぎれて村ごと占領し、唐や言が撤退した後も居座り続ける。
その手口でいつの間にか朝鮮半島を支配するようになった。
いやらしいやつらだ。
789 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:37:04.30
白村江の戦いって要するに英仏の百年戦争と同じ様なもんだよな?
形式的には中華王朝からの独立戦争だろ?
790 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:25:30.23
白村江の戦いがああいう形で完全にピリオドが下ろされたお陰?で、
境界線が南東北辺りで長らく停滞してた東北経営だとか蝦夷征伐や東北領地の北上侵攻が加速したんだと思う
本来は外国まで外征する勢力って大前提として国内の敵対勢力を打倒し国内完全統一・完全掌握してからってのがセオリーだし常識
秀吉しかり、チンギス・ハンしかり
それを思うと白村江の戦いでピリオドが打たれるまでの半島へのこだわりや干渉は異常
母なる大地の奪還(=理屈ではなくて広義の信仰的理由)の為と言われたらまあ意図は納得出来る
791 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 04:31:29.08
元々倭人の民族地だからね
内宮家があったり
親戚みたいな百済王家があったり
白村江で百済王家は日本に亡命し
以後古代朝鮮人は日本に移動、半島とは縁が切れたでOK?
792 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 12:30:20.18
793 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:26:24.55
考えたら奈良時代くらいから国風文化→異国に影響受けた文化→の繰り返しだよな
遠心力と求心力の揺り戻し運動というか
国産純化→舶来→国産純化→ の繰り返し
794 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:32:24.53
桶谷繁雄著『金属と人間の歴史』によると
おおよそ一回のタタラ製鉄で得られる鋼2トンの為に
→砂鉄24トン、木炭28トンが必要
その木炭28トンを作るために必要な薪は100トン
作られる鋼の量の50倍の木材が失われて(森林伐採されて)鉄は作られる
795 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:36:24.76
そこまでの膨大な資源と労力を対価として消費してでも得るに値する鉄の有利性・有効性
796 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 13:57:44.39
倭と中華王朝による半島の取り合いで百年戦争で言うところのジョン欠地王に当たる人物ってどの天皇なんだろ?
天智天皇その人だろ
798 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 15:22:11.85
雄略天皇
799 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 22:05:50.75
1300年以上前に半島の祖国に帰られなくなったってのは
今だったら「母なる地球に帰られなくなった(地球は乗っ取られた)」くらいの感覚かもしれん
800 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 23:20:08.12
>>797 天智天皇は半島情勢に干渉してもしなくても、百済滅亡の大筋の流れは結局変えられなかったと思うから、そこは敢えて天智を弁護したい
(基本的に天智天皇のほとんどの政策に対して否定派側なんだけど)
半島情勢に干渉する判断したのが、結果的に日本にとって&東アジアの勢力バランスにとって良かったのか悪かったのか
昔は干渉すべきでなかったと思ったが、今は大敗北を喫してもなお、唐・新羅の大連合に多少なりとも抵抗する意思を示し貴重な手痛い経験を得たという意味で対抗して良かったと見ている
が、まだ自分の中で最終的な結論は出てない問題である
801 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 14:03:22.58
>>800 > 昔は干渉すべきでなかったと思ったが、今は大敗北を喫してもなお、唐・新羅の大連合に多少なりとも抵抗する意思を示し貴重な手痛い経験を得たという意味で対抗して良かったと見ている
> が、まだ自分の中で最終的な結論は出てない問題である
家康は三方ヶ原で惨敗したから、のちに天下を取れた。
802 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 17:21:18.78
確かに家康は三方ヶ原で人生でも指折りのピンチであり、人生最大級に多くの教訓を得たし、戦の恐さも肌を持って知った
長生きだったのもあって最終的には「戦国の巨星」武田信玄の人間力・政治家力を越えたと思うけど、
領国運営基板を失う程には壊滅的に潰されずに済んで生き残ったから、教訓を糧に出来た訳だよね
(信玄の余命僅かで、家康を徹底的に叩くより先を急いでたのも幸運に働いたかもしれない)
白村江の戦いも結果論的に日本本土まで戦火が及ばなかったから、僅かながらも教訓を得たとかも言えるけど
一歩間違えたら列島の西半分くらい数百年単位で占領・植民地化されるとか、大和王権とそれに連なる豪族の多くが滅亡とかあり得たと思うから危険な選択だったと思うんだ
だから家康の三方ヶ原の教訓も、白村江の戦いの教訓も滅亡せずに辛くも勢力温存できたという「結果論」のお陰だよね
手酷く敗れたけど、壊滅は免れたお陰で教訓にも出来た
だから開戦決断の賛否は難しい
803 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 18:51:36.45
今、尖閣諸島の問題で中国国内は騒然としているけれど、日本本土に攻めてくる気配はない。
自己主張は強いけれど、やることは子供じみている。
白村江の戦のころから、中華のやることは全く進歩していない。アホか?
日中問題、日韓問題のこじれたタイムリーな時にだけ顔出すやつ要らねえわ〜
805 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 02:30:07.44
日韓併合と秀吉の事を今もグダグダ言ってくるなら、神功皇后にも謝罪と賠償を求めればいいのに。
なぜ眉唾の従軍慰安婦はコロっと信じるのに倭による半島侵略の明らかな証拠である広開土王碑を素直に認められないんだ。
806 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 16:11:20.91
白村江の敗戦に慌てふためいて瀬戸内海の防衛線を構築・・・
神功皇后の瀬戸内海での神社配置とダブルのはなんで?
807 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 19:54:51.27
>>802 > 一歩間違えたら列島の西半分くらい数百年単位で占領・植民地化されるとか、
大和王権とそれに連なる豪族の多くが滅亡とかあり得たと思うから危険な選択だったと思うんだ
万一、唐が攻めてきても逃げやすい場所ということで大津を首都にしたんだろうが、
大津から逃げ出すような事態になれば、唐への内通者も出ただろうから勝てなかったと思う。
808 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 00:23:47.19
>>806 宮が建てられて一定期間留まった要所や拠点や中継地点や泊(港、湊)のそば等だったからだろう
防衛学上、地形学上(占いや宗教も?)などで都合が良くて便利で強固で価値のある場所が選ばれて、神功皇后や応神天皇とか位の高い人達が立ち寄った
支持者・後援者・案内人が土地勘があったり支配下に置いていた勝手知ったる拠点だったかも知れないし
いわれが有るから、神社も建てられてたりされやすかったんじゃないかな
もちろんなんの関係もいわれも縁もない場所にも建てられたろうが、
神として奉るなら、いわれは大事にしたんじゃないか
809 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 00:39:40.77
議題!
もし唐(及び新羅)軍が日本列島に大挙上陸して唐軍側優勢のまま徐々に侵略されつつ戦いが泥沼の長期化の様相を呈してたら、
逃げるように東日本へ大移動した大和王権側の残党勢力も
A.背に腹は変えられないって事で東国や奥州の蝦夷(毛人)達にも対唐参戦の援助協力を仰いだ(もしくは戦力として蝦夷を上手く騙してでも利用しようとした)だろうか?
B.それとも全く逆で自分達より文化度が低く劣っていて野蛮人と思ってて偏見や差別心を持ってる蝦夷に弱みみせたり同舟するくらいなら、
蝦夷よりは感覚的に近しい存在(?)の唐人や新羅人に許しを乞うたり低頭する(配下になる)方がマシと考えるだろうか?
810 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 05:10:52.56
そんな状態の大和朝廷だったらすぐにばらばらになって、東の日本(ひのもと)と西の倭に大まかに分かれて西は中華勢力に朝貢しつつ東は蝦夷と同化しつつ、
豪族がそのまま無数の小国として独立し潰しあい、日本人というアイデンティティーではなく複数の倭系民族になってるだろう。
だが何十万も送った元寇ですらあの様だぞ。
現実的にはそもそも食料供給の豊富な日本列島から半島を攻める事は容易だが、食料生産の乏しい半島からはせいぜい離島を一時的に襲うのが限度。
半島の鶏林大都督府ですら失敗した唐にその先を攻めろとかどんな拷問だ?
811 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 00:14:02.68
唐は何故に百済・高句麗亡き後の新羅との半島をめぐる戦いに終止符をうって、半島から完全撤退し、新羅をゆるす(結果、新羅による朝鮮統一が遂に果たされる)という形で全てを終わらせたんですか?
西域問題や国内に何か問題でも抱えだして、半島制覇どころじゃなくなったから?
新羅の硬軟自在の戦略・外交・調略や、百済・高句麗の残党と裏で手を結んだゲリラ戦なんかが上手くいったから?
812 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:26:49.41
>>809 > もし唐(及び新羅)軍が日本列島に大挙上陸して唐軍側優勢のまま徐々に侵略されつつ
戦いが泥沼の長期化の様相を呈してたら、
戦いは泥沼化しない。唐軍に寝返る小早川みたいなのが続出したと思われる。。
813 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 16:48:21.31
反唐レジスタンス闘争とかあったら、今でももっと国防とか防諜とか、国民の意識も高かったろうし、列島アイデンティティも今より強かったろう
814 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 00:13:25.36
微妙にスレチだったらスイマセン
一般的にみて九州男児が、男は男らしくというような男尊女卑的というか亭主関白みたいな男を(一家の大黒柱を)立てる様な男女関係・家族関係意識が他の地方より強い(?)のは
大陸そして何より半島の儒教・儒学的な影響を地理的に受けやすかったからでしょうか?
またはクマソやハヤトなどの南九州系の人々の風習や文化の影響でしょうか
学問的にその辺はどのようになってるんでしょう?
どんな勇士も嫁には敵わんってネタが一番発達してるのは中国じゃね
816 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 03:27:32.41
>>815 それも含めて、あまりに中国の酷いモラルや自己中心主義とか礼儀とか年長者を敬うや政治腐敗や不忠の心とかに嫌気が差して
どうにか少しでも教育で改善しようとしたのが儒教の理想像じゃないのかな?
817 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 09:26:28.49
なぜ疎まれて辿り着く先は吉野なんだろうか
いろんな裏の理由もある様な気がする
818 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 11:07:32.23
>>817 母皇極天皇の離宮が吉野にあったから
というのが一般的な理由
いちいち普請しなくても住むところがある
819 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 11:08:21.12
>>817 地理的に「追手が来た場合に逃げやすい」という理由もあると思う。
820 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 11:54:02.31
>>819 「追手が来る」というのは日本書紀の天武寄りの記述
実際には伊勢の豪族の協力で天武は吉野から近江まで攻め上っている
伊勢の豪族の働きに感嘆した天武は息女を
伊勢斎宮として伊勢に置くことを決めた
821 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 21:54:05.61
大友皇子の母親は伊賀采女宅子娘で、おそらく伊賀に地盤がある有力豪族とかじゃないのか?
伊勢→近江や尾張方面に抜けていく大海人皇子勢を、近隣の伊賀にテリトリーを持つ有力豪族が
敵方ともいえる大海人皇子勢の不審な動きに大して何も出来ず(敏感に察知することが出来ず?)素通りさせてる謎
あるいは大友皇子の母親が伊賀采女宅子娘って記述自体が、
大友皇子は高貴な生まれではない→皇位継承の正統性が低い→天武継承の正統性・正当性の強調とする為に意図的に低く偽装されたか
822 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 22:28:46.90
大海人皇子は吉野から伊賀国の中心部を通って北北東の方向へ向かい、近江・伊賀・伊勢の三国の境の辺りを通って東の伊勢へと抜けているな
伊賀をぶったぎる様に通過しているから、地元の伊賀豪族が大海人皇子たちの通過に気付かないってことはないだろう
最悪でも近江朝側に早馬で異常事態の報告の急報を知らせるとか、何か手は打てたハズだ
823 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 04:38:26.11
>>822 > 最悪でも近江朝側に早馬で異常事態の報告の急報を知らせるとか、何か手は打てたハズだ
それはいえる。
824 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 20:29:48.44
825 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:13:34.47
采女(うねめ)って、なあに?
巫女とか宿禰みたいなの?
白村江での日本軍は何故唐新羅の戦力を調査しなかったのか?
太平洋戦争の対アメリカ戦にも通じる情報白痴。
まあ新羅も唐に勝って朝貢が許されるのだから厳しい状況だ。
支那と陸続きか、海で隔ているのとの違い。
827 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:40:22.24
>>826 何も唐新羅に勝とうというのではなく、
百済の土地から唐新羅軍を追い出せればよかっただけだから。
唐新羅に隣接しても独立を保ってた国もあるだろ?
太平洋戦争のときのように相手国の本土攻撃をしたわけじゃない。
日本人は戦争になると、なぜか精神論ばかり前面に出る傾向がある。
あれこれ策を講じるのは男らしくない。正面から正々堂々と戦い、
精神力で相手に打ち負かすのが日本人の誇りみたいな。
鵯越の逆落としで勝利した源義経も、鉄砲隊で国を統一しようとした織田信長も
真珠湾攻撃で先制攻撃に成功した山本長官も報われることはなかった。
829 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:48:33.58
>>826 唐の戦力の情報収集を(全くorほとんど)してなかったとお考えの様ですが
まともに情報収集してたら勝てた、あるいはもう少しは接戦に持ち込めたとお考えですか?
或いは情報収集してたら手酷い敗北必死なのが分かったのできっと参戦しなかった→とりあえず“白村江の戦い”で敗北する事はなかった とお考えですか?
>>826 小野妹子に持たせた国書から考えると隋は強いけど
だからどうした、という空元気かね。
831 :
826:2012/09/30(日) 21:44:33.97
>>829 ifが多いご質問なので勝利したかもしれない、とも回答できるかもしれませんが、
悪い方で考えた方が妥当でしょう。
唐と新羅が戦争した時唐と組んで新羅を攻めよう、という意図は無かったようで
逆にそれを恐れた新羅が貢物を日本に納め(これが原因で日本は新羅を攻めよう
と考えなかったのでしょう)新羅が唐に勝って唐の朝貢を認めると新羅は日本との
関係を疎かします。怒った日本は新羅討伐出兵を計画します。幸い実現しませんでしたが、
白村江の二の舞を演じた可能性大です。
パワ−ゲ−ムを全く理解していない行動です。
調査も何も、唐新羅軍を排除しないと本拠地(周留城)落ちちゃうんだからもう仕方ないだろ
余豊璋は勝手に逃げ出して来たけどさ
つか唐水軍に先に陣取られたのも大体こいつのせい
833 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 07:47:03.94
唐水軍に先に陣取られたのも痛かった。
敵が待ち受けていたところに突っ込んでいった。これは日本海海戦の逆。
834 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 22:18:34.00
日本には白山以上に、城山と名のつく山が多いことにお気づきだろうか?
西南戦争で敗れ、西郷隆盛が自害したのも城山だ。
城山とは、朝鮮式山城のある山ということだが、白山信仰との結び付きも見逃せない。
白村江にも「白」の字が付く。これは偶然でも何でもないのだ。
835 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 00:59:17.54
天皇家は基本的に無理だろうから、7世紀頃の蘇我氏や藤原氏や物部氏などの遺骨の調査やら難しいだろうがDNA調査して欲しい
836 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 08:50:03.18
>>835 7世紀だったら火葬だろ
火葬すれば遺骨は灰になって残らない
ミイラと違って5世紀頃の石棺に入れただけの遺骨では
溶けてなくなっていることが多いし
837 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 17:34:39.41
聖徳太子が死んだくらいから、天武が死んだ辺りまでの歴史区分だと何時代と呼べば良いの?
古墳時代後期?飛鳥時代?縄文、弥生、古墳、奈良、平安…と日本史で暗記させられた世代(今も?)なんだけど、
古墳でもない気はするし、飛鳥は聖徳太子時代っぽいし奈良はまだ来てないし、ピッタリな名称が思い付かない
838 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 17:53:30.88
白鳳時代ってそのへんじゃなかったっけか?
飛鳥時代でいいんじゃないの
難波宮以外あのへんに王宮があったんだし
>>837 飛鳥に宮が置かれていた崇峻天皇(592年)〜元明天皇による平城京遷都(710年)までが飛鳥時代
飛鳥時代の中でも特に天武・持統天皇の頃を指して白鳳時代と呼ぶ名称があるが
これはもともと文化史の中の「白鳳文化」から来た言葉。
(「白鳳」は「続日本紀」や「二中暦」にみられる年号。「日本書紀」にないため正式な年号ではないとも。
概ね、斉明朝〜天武朝頃を指すとみられています)
天武・持統の頃も飛鳥時代に間違いはない。
842 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:37:00.11
当時の技術で半島南東部から日本列島へ渡ろうとすると海流に流されて山陰地方に辿り着くことになりがちだと思うんだが、
そこから考えて脱解の故郷多婆那国を丹波に比定するのはありだと思う。
という事は新羅は出雲や越国と関係が深く、百済は筑紫・吉備・大和朝廷と関係が深くて、
列島内の勢力争いと半島南部2国の争いは連動してたのかもしれない。
百済は日本を支配していた奈良百済ニダホルホルというのはさすがにトンデモだが、
漢籍にある倭と日本が実は別物だったという話や九州王朝説はそういうのを反映してるんだろう。
もしかしたら列島内の争いが半島に飛び火して三韓中の国々が対立してまとまったのが百済(前方後円墳勢力=大和朝廷の傀儡)と新羅(反大和)なのかもな。
つまり百済に任那四県を割譲した継体天皇は百済人ニダ!
843 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:06:33.04
君の意見で考えると越からきた継体天皇は新羅系にならないか?
でも出雲〜越の日本海側→新羅系寄り
九州→百済系寄りってのは良いと思うよ
844 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:22:18.07
>>843 そうなんだよな
それがネックなんよな。
大和朝廷が親大和である百済に味方して中立地帯の任那を与えるってのは凄く腑に落ちるんだが
親新羅の越にいたどこの馬の骨とも知れぬ継体天皇がライバルの百済に利便を図るのはどうも腑に落ちない。
実は継体天皇は延烏郎のモデルであり、新羅から落ち延びてきた貴人なので、新羅に恨みを持っていたニダという話ならありえるかもなwwww
845 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 07:03:28.26
黒岩重吾さんは「継体の母は新羅の王族または貴族の出身ではないか?」と書いているね。
継体がかぶっていたカンムリが新羅王家っぽいデザインだったとも。
大和朝廷は半島の影響が強い方墳文化圏である出雲と関門海峡を押さえて交易を支配していたはずの筑紫の2大勢力に代わる第三勢力だったんだろうか。
そして実在が確認されている獲加多支鹵大王(雄略天皇)はヤマトタケルのモデルであり、東国へ遠征して畿内政権を一挙に大国にし天皇の神格化の根拠となったのだとすると、
彼が亡き後に後継者争いが起きてそれに勝利したのが継体天皇という事になる。
倭国大乱の理由がどうも本州の南北の交易ルートと関係するように見えてならない。
847 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 02:43:30.92
北九州沿岸〜関門海峡〜瀬戸内〜大阪湾〜大和
日本海側の中国地方〜越までの沿岸
絹の道(シルクロード)ならぬ、鉄の海路ルート
南九州情勢
古墳の伝播や変化の分布、銅矛や銅鐸、勾玉の分布
そういったものは、数百年後にも深く陰を落として影響を及ぼしていたろうね
848 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 02:58:41.58
半島の内宮家(うちつみやけ)ってのは「ここが(本来の)拠点だった場所ですよ」=出発地点・ゼロ地点・本貫って意味に取れる気もするが俺に学が無いせい?
それか「天皇家の直轄領」みたいな意味?
例えばそういう似た言葉の使われ方の傾向や類推とかから分かる事ってないかな
内宮っていわれたらイメージは宮殿、政庁の更に中心部分っついうかミカドのおわす所というかさぁ
849 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 06:30:19.00
>>848 > 半島の内宮家(うちつみやけ)ってのは「ここが(本来の)拠点だった場所ですよ」=
出発地点・ゼロ地点・本貫って意味に取れる気もするが
たしかにそう解釈することも可能。
850 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 13:25:09.19
任那は親九州王朝の百済と親出雲の新羅の間にある緩衝地帯で、だからこそ第三勢力の大和朝廷と親交を結んで自分たちの独立を保とうとしたんだと妄想。
それは中華王朝から見ればどう見ても属国だが、当人たちには属国という意識がなかったんだろう。だから古代史観でモニョってるんだろう。
大化の改新以前の倭国は天皇が主導する中央集権国家ではなく各地の豪族の独立性が強かった訳だから、
倭の五王の中には大和以外の王が混じってたり、三国史記にある倭人は関門海峡を根拠にした九州王朝もとい倭寇の前身みたいなヴァイキング的存在なんじゃないかと思う。
関門海峡の狭さなら通行料として交易品の上前をはねるとか朝飯前だろう。
851 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 14:01:42.84
倭はC3系で連合国家。大和朝廷はO2。人種が違う。
百済は倭の属国。任那は倭の直轄領。新羅は大和朝廷の属国。
白村江の戦いまでの両国の力関係は圧倒的に倭のほうが上。
白村江の戦いで両国の立場が逆転する。
大敗を喫した倭、大和朝廷は実質戦勝国。
これより両国の力関係は逆転した。(大和朝廷>倭)
>>851 遺伝子で決め付ける似非科学はやらない方がいい。
「日本」と書いて「やまと」と読む例があるが、倭の中で大和は瀬戸内海のどん詰まりの更に山一つ超えたところにあって、筑紫・吉備・出雲からはまさに日本(ひのもと)な訳だ。
だから倭人が百済の支配層と共に半島から追い出されて、九州北部が大陸から中華王朝の侵攻の脅威にさらされるようになってはじめて畿内が倭人の決定的な政治的中心となったのかもな。
そうなれば当然日本を「倭国の別種」と読んでも差し支えないだろう。
853 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 15:17:24.62
日本列島で壬申の乱まで、ある種の半島抗争の代理戦争だった=ここまでが真の日本古代史
逆に半島で列島内抗争の代理戦争=白村江の戦い
発想は飛躍してるし大唐帝国も巻き込んでるから複雑化してるけど、多少はこう言える部分はないだろうか?
つまり半島三国志(プラス伽耶・加羅の“四国志”)に、日本国内情勢が密接に絡み
逆に日本国内争いに縄文(や蝦夷)vs弥生以外にも、半島内勢力争いの争乱の炎が飛び火してたというか番外戦が列島でも行われた
854 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 17:21:08.79
伽耶が幾つかの地方都市同士のの緩やかな連合体の域を出られなかったのは、滅亡の一因ではあると思う
時代の要請としてムラからクニへ、そして国家としての大統一へと飛躍出来なかったのは通商(鉄の貿易?)国的な自由さや背後に倭国という保険や裏付けがあったから油断したのか
意思統一、富国強兵的な統一国家化への集約が、周りの国々より300年くらい遅れていた感じ
弱小国・伽耶ってのは抜群の外向バランス力で生存していたのかな
百済・新羅・倭に挟まれ、高句麗や隋も二次的に近くに存在しているという地理的状況
中国と日本の両方から「冊封」みたいにして上手く立ち回ってきた琉球王国みたいな、海の民達の貿易国家みたいなイメージか
855 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 17:38:50.59
>>854 1世紀中葉に狗邪韓国(金官国)(慶尚南道金海市)を中心とした弁韓諸国と呼ばれる政治集団群が出現し、
これら諸集団間の統合が進行して3世紀には前期伽耶連盟が成立したとしている。
(ウィキペディア)
ちなみに金海には「ここから倭王の先祖が船出して、倭国に到着した」との伝承あり。
>>834 部落地域に白山という名の地名、神社が多い
全く関係ないけど北朝鮮の金正日の親父の金日成が、白頭山(ペクトゥサン)で生まれたと公式発表されてるんじゃなかったか
チョンはこの戦いの恩義を忘れてる
859 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 23:37:05.27
今の韓国人は、高句麗・百済・新羅の三国だと新羅に一番肩入れしてるらしいから、どっちかと言うと倭や日本は敵だろうよw
まあどこ推しかは、いま住んでいる(生まれ育った)地域にもよるだろうが
言語は新羅・都は百済・国号は高句麗にして無理にでも単一民族に仕立てあげたが、
唐のポチになって倭人を追い出した三国時代は半島人にとって直視しがたい黒歴史なんだろうな。
だから中国様からの独立を図り日本にすりよった金玉均は千年以上も属国やってきた半島人には憎んでも憎みきれない巨悪だったんだろうな。
>>858 朝鮮はこのとき唐と一緒に戦った新羅こそが朝鮮民族の源流だと思ってるから
日本と組んだ百済などただの非国民だと思ってるだろ
>>861 百済の影響が日本にあるニダっって騒ぐのは大抵本国で迫害されてた全羅道民の子孫の在日だwww
863 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 23:20:52.26
バカボンのパパで有名な「・・のだ」、もちろん「・・ニダ」が長い時を経て変化したもの。
これは南関東、武蔵国の旧高麗郡辺りで今でも使われている。
野田総理やキッコーマン醤油で有名な野田市も高麗と深いかかわりがありそうだ。、
864 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 08:48:50.75
>>863 > バカボンのパパで有名な「・・のだ」、もちろん「・・ニダ」が長い時を経て変化したもの。
↑
これはうそくさい
865 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 21:11:06.39
嘘だというなら証拠を見せろ。
866 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 22:48:01.87
壱岐・対馬も玄関口だけど、半島東部と山陽の間の隠岐島辺りも、太古の半島からの流民が流れ着いたり中継所だったりしたんだろうか?
後鳥羽上皇が島流しにあって隠岐島で無念のうちに崩御したって、皮肉だな
あとは独島(あれ?日本名なんだっけ?)あたりも太古の漂流民や遭難した漁民が流れ着いたりしたかな
独島の日本名は于山国ニダよ。
だって人間が住んでいて国を名乗ってるじゃないか。
島根県の竹島とかいう人間が定住するのが到底不可能な岩な訳がないだろう。
868 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 05:46:11.78
>>866 隠岐の島は海流の関係で、ちょっと違うと思うが。
869 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 10:04:57.19
>>863 主に日本に渡来していた百済系朝鮮人の言葉と
現代朝鮮語は全然違うだろ
870 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:44:57.83
白村江の戦いの時の、唐軍の倭軍船への放火の仕方ってだいたいの事は分かっているんですか?
遠方から火矢を射ったとか?
油とか使ったり何か投げ込んだんですか?
871 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:00:32.15
>>870 > 遠方から火矢を射ったとか?
当然、これはあったはずなんだが、記録されていないのではないだろうか。
872 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:12:58.87
遠距離攻撃用の火薬兵器の登場がちょうど唐代くらいじゃなかったか
今で言えば簡易版のロケット砲や手榴弾にあたるような
873 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 08:44:33.62
唐の将軍は潮の干満や風向きを計算に入れて戦ったが
日本は精神主義で突撃オンリーというのもまずかった。
874 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 16:15:25.06
精神主義の様に言われているが、時間的制約のハンデが自軍(倭・百済側)にあって、一刻も速く急行しなければいけなかったというか、
遅れれば遅れるほど状況悪化が懸念されていてもはや一刻の猶予もなく是非もなく敵陣の真っ只中へ向かうしかなかったのが、結果的に楽観的・精神主義的な特攻のような無策敗戦の様に言われたのじゃないだろうか
つまり慎重に事を進めても、倭軍は傷つかなくても百済残党は陥落したというような
本当に急がなきゃいけない時は選択肢はほとんどなくて、最短距離を正面突破する(つまりもっとも下策)より道はない
875 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:11:18.35
876 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 03:44:10.66
>>875 これだけ立派な壁画があるのに高句麗語を書き言葉として残した形跡がないってどういうことだ?
877 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 08:59:10.70
新羅に追われて日本に亡命したからだろう。
大和朝廷は、日の出処皇子の徳を慕って帰化した高句麗人を厚遇し、全国に安置したんだよ。
878 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:06:11.48
何か基本的な事を勘違いしてね
879 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 10:00:19.28
880 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:54:22.79
>>876 ほほう、高句麗に独自の文字があったとは初耳だね。それは、突厥文字系の
文字なのかね?
当時の高句麗人の用いた書き言葉は漢語だったろうから、後代の紙幅と違い
壁面に明瞭に書くのは容易ではないだろうね。
881 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 23:18:19.55
>>880 お前は何を言ってるんだ。
新羅語には書き言葉として残された形跡があるだろう。
郷札も知らないのかよ。
高句麗語や百済語にはそれがないのは無かったことにされたのか元々無かったのかって事だよ。
883 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 07:53:37.66
>>881 俺も疑問に思う。漢字を万葉仮名のように使って自分たちの言葉を書き残すってことを何故しなかったのか不思議だよ。
音と字をあてはめさえすれば外国語で書くよりよっぽど簡単でいいと思う。
で私の思い付きなんだけど、高句麗支配下の民族なり言語が多岐にわたっていて、音だけでは意味が通じづらく、
結局漢字の意味で漢文で伝えた方が早かったということがあったんじゃなかろうか?
あとは漢字を音だけで使うなんてとんでもないという意識から抜け出せられなかったとか。
884 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 12:24:59.90
>>883 三国史記の高句麗語とされている地名は実は統一の言語体系じゃなくて倭系韓系ツングース系語彙が入り混じったピジン言語的なものに過ぎないのかもな。
高句麗独自の語彙を取り出して扶余系と言ってるが、実は独立した言語体系ではなかったりして。
885 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 14:39:23.70
日本書記の全体の1/8が天武天皇(大海人皇子)の記述なのに、前半生がよく分からない
天皇の中で年齢が唯一書かれていない
日本書紀に年齢が書かれていない天皇は結構いるぞ
天武天皇の父舒明天皇、母皇極(斉明)天皇、いずれも日本書紀には年齢の記載がない
兄天智天皇も父舒明天皇が死んだとき年18とあるのが唯一年齢が書いてある箇所
887 :
稗田朝臣無礼:2012/11/16(金) 10:03:57.55
ここは在日史観のスレか。
デムパばかりだ。
888 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:42:52.65
>>886 何年に生まれたか書かれていなくても、年齢を推考するヒントが掛かれている(●●の時に何歳だった等)のは、年齢書かれているのとほぼ同じでしょ
天武はそれも無い
889 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:54:23.05
>>888 いや、だから、舒明も皇極も日本書紀に年齢の記載なし(何の時何歳だったという記載もなし)
孝徳天皇も日本書紀に記載なし。
天武だけじゃないんだって。
890 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 02:03:57.04
中国の史書だったら皇帝の年齢は非常に重要なんだけどな。
なんで書紀は年齢が曖昧、ていうかそもそもないのか。
中国じゃないから、とか。
でも書紀は中国に見せるためのものじゃんw
「俺らの国はこんなすばらしい歴史があるから、お前ら中国には従わないよ!」と。
出来損ないで脱落だらけの歴史見せたら笑われるわ。
893 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 09:57:44.36
>>890 日本でも戸籍がなかった時代の人は年齢を重視しなかった
過去の最高齢の泉重千代さんも近所の人はもっと若かったという人も
中国は司馬遷が個人的に年齢・年代を重視したせいだと思う
日本は歴史上の有名人でも年齢が同時代史料にはっきり書かれず
後世の人が推測して書いてるだけの人が多数
894 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 22:21:08.45
きんさん、ぎんさんも双子ではなかったし
歳はもっとわかかった
895 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 13:25:10.56
>>894 きんさんぎんさんは明治25年生まれなのでさすがに戸籍がある
泉重千代さんは江戸時代末期の生まれで戸籍がない時代の人
896 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 17:10:55.47
>きんさんぎんさんは明治25年生まれなのでさすがに戸籍がある
子供ができると役所に届けるが、字が書けず面倒なので最初の子と同じ内容を書いて出す
名前だけは違うが誕生日は皆一緒
897 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 17:51:21.94
>>896 戸籍の出生届は生後14日以内に出さなければならない
同じ両親から双子でもないのに
最初の子が生まれて14日以内に次の子が生まれるなんてまずないだろ?
898 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:41:50.32
>>897 明治24年生まれの私の祖母は、秋の農繁期に生まれたので、
出生日は一ヶ月遅れで出生届けが出されたと聞いている。
明治中期の戸籍出生日はいい加減なものである。
899 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:51:17.33
祖母の父親は読み書き算盤もできた地主農家。
叔父の話では、祖母の父親は旧制中学の幾何代数の問題も解けたそうだ。
900 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 20:23:22.64
>>898 一年以上差で出されるのは一般的なの?
896が言うみたいに明治時代中期に別々の年に生まれた姉妹を
同時に生まれた時に双子として届け出るって。
901 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 21:21:05.92
>一年以上差で出されるのは一般的なの?
1年以上遅れるのが一般的かどうかは知らないけれど、
生まれてしばらくしてから届けをだすことは普通にあったこと。
902 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 23:35:10.53
>>899 明治初期にそれなら非常に学の高い人である
そこらへんの水呑み百姓は字が書けなくてもあたりまえ
903 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 23:40:49.81
>>900 きんさん、ぎんさんが出てきたときに、年より若く見え、報道関係者は戸籍がいい加減だろうと噂していた。
昔の出生届けはかなりいいかげんに書いている例は沢山あり、誕生日が長男と同じにしてしまうなど、よくある話だそうだ
そもそも、きんさんとぎんさん、顔が似ていない
904 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 12:44:08.05
>>903 一卵性双生児でなければ(二卵性なら)双子でも大して顔は似ない
普通の姉妹と同じだから
きんさんぎんさんの親族から年違いの姉妹という証言が得られたならともかく
それだけでは双子でないといえないだろう
明治25年生まれならすでに小学校が義務化されている年齢なので
全然年齢年の違う姉妹が双子と称して同学年にいれば
体格や体力の違いは歴然としていただろうに
あえて双子として届け出るメリットも不明
905 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 14:53:17.75
一卵と言われていたなあ
きん、ぎんの上の親族はとっくに死んでる
第一子と同じ誕生日なんてたくさんあって、その第一子は病気で死んでるなんて、よくある話だ
また、子供は毎年のように生まれてきたものだ。子供は労働力だからな。
10人以上産んで、5歳ぐらいまでに4人ぐらい病気で死ぬのが普通な時代だから
906 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 14:56:12.46
>あえて双子として届け出るメリットも不明
まったく違う。戸籍を書くのが面倒か、字を知らなくて(簡単な字は書けたろうが)書けない
そういうことで、第一子の戸籍と同じ通りに書いて出す
おまえなあ、壱、弐、参とか書けるか、げらげら
旧字体を知っているか
907 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 19:41:00.06
908 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 08:10:50.99
909 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 08:19:37.64
ひとつ教えてあげよう
生年月日を届け出るときに、31日なら 参拾壱日 と書くんだぜ
そんなの書けない人はたくさんいた
910 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 15:55:27.34
>>908 俺の言うことだから間違いないと史料も提示せずに吠える
日本のことどころか自分の両親が誰かもしらなさそうな馬鹿が湧いてるなw
明治時代のほとんどすべての人が生年を改竄され、
兄姉や妹弟と双子にされていたという史料を出せ。
それが日本史板って言うもんだ。
日本の識字率は室町時代から常に世界トップクラスですが
912 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:37:25.95
紫式部のような小説を書く女性までいました
913 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:38:58.38
>>910 日本の常識、漢字をよく知らない親が、改竄ではなく第一子の誕生日と同じ字を書いただけ
第一子の時だけは役人が指導してくれたようだ
おまえのじいさんに聞いてみなさいよ
914 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:39:49.57
参月弐拾壱日とかけない人はたくさんいたし
今でもいるよ
915 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 15:12:55.76
>>913=
>>914 で、年齢の違う兄弟が双子にされたという証拠は?
お前のじいさん、ばあさんは勿論双子なんだよね?
昔は7人、8人と大勢兄弟がいたからすべて第一子と同じ誕生日にされたというなら
10歳以上も年齢の違う兄弟が三つ子、五つ子とされなければお前の主張は論理破綻するよ?
三人目になると字が書けるようになったとか、そんなわけないんだからw
916 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 15:16:22.29
きんさん、ぎんさんが出てきたときの、老人達がよく話していた噂
噂はけっこう当るんだなあ
頭でっかちの子供の君には信じられなくてもね
917 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 19:05:10.82
>>916 結局根拠のない噂話しかないんじゃん
何が明治時代の人は漢字が書けないので
第一子と後から生まれた弟妹を同じ生年月日にした、だよw
結局そのせいで双子や三つ子、五つ子にされた例は出せないんじゃん。
とんでもない無知の馬鹿だよw
918 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 09:00:02.16
韓国人・朝鮮人は漢字が書けない。自分の名前も漢字で書けない。
この事実が恥ずかしいので日本人も江戸時代は字が書けないと事実無根言いがかりかけてる。
百姓一揆の連判状なんか漢字名のサインある。農業日誌類も普通の文書だ。
バカ朝鮮人にかまってやるのは時間の無駄。
919 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 18:57:37.90
下層のやつらは、どの国でもどの時代でも
難しい漢字が書けない
920 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 18:58:44.95
おまえら
参月弐拾壱日とかけないだろ
921 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:13:08.05
>>919>>920 また電波がやってきやがったw
お前の爺さんは下層だから書けなかったんだろうよ
で、爺さんは兄や姉と同じ誕生日にされて七つ子なんだ?
だけど明治時代の日本人一般が書ヶなかったと妄想するなよ
922 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 13:54:25.60
かけなかったよ
明治時代は、一般人は小学校まで、それもろくに言ってない
すぐに丁稚奉公
農民なんか、難しい字はよめなかった
私の曽祖父は農民だけど帝大に行っていますが…
明治の初等教育を受けたと言っても末だけど
924 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 15:20:59.93
>>918の農民が記した漢字の他にも大工が漢字で施主がケチだ何だと材に落書きしている。
日本人に本当の意味の下層は存在しない
下層がいるとすればどこかの半島民のことか
半島民は漢字を大幅に簡略化した劣化漢字のハングルは書けるが漢字が書けない人が多い
926 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 16:49:42.32
きんさんぎんさんの実年齢と白村江の戦いに何の関係があるんだよw
朝鮮人の電波はいい加減にしろ
スレタイ読めないのか
927 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 17:55:44.36
漢字文盲の半島人には、何を言っても無駄。
928 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 19:17:47.54
室町時代に、恨み事を漢字混じりの文で落書きした大工、の話ですね。
929 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 14:02:58.29
壬申の乱で近江朝側が勝っていたら
古事記・日本書紀に当たる様な正史にはもっと半島由来あるいは半島が密接に関わった建国神話な話に成っていたかもしれない
931 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 13:58:16.65
>>923 帝大生の数と農民の数を比べてみろよ
特殊な例を出しても意味ない
932 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 13:59:44.86
>>924 大工の棟梁は学がある
難しい漢字を知らない庶民大衆はたくさんいた
今でもたくさんいるだろ、おまえら漢字を知っているか
933 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 14:09:08.83
>>931 >>932 まだいやがるw
きんさん・ぎんさんが生まれた明治25年当時、日本人の小学校進学率は55%程度だ。
ただし、これも男女差があり、女性が30%台なのに対して男は7割近い。
母親が漢字を知らないなら、父親や兄、叔父や伯父、甥が届け出ればよい。
また、第一子だけは役所の人が漢字を教えてくれたから正確に書けたというのも意味不明。
役所の人が教えてくれるなら第二子も第三子も聞けばいいだけのこと。
934 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 17:56:31.20
>>933 >明治25年当時、日本人の小学校進学率は55%程度だ。
だから、その親である江戸時代末期の生まれは、小学校なんかなかっただろ
それに、小学校に行ったぐらいで難しい漢字を書けるわけでない
現代でも、高校出ても漢字を書けない馬鹿はたくさんいる
面倒だから役人もテキトーだった、これ有名なはなし
935 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:38:42.51
>>935 だから、兄や甥の文字も入れたんだが?
明治25年で、親族一同誰一人学校へ行ったことがないものばかりという家はほとんどない。
それに当時は結婚するのも産むのも早い、明治初年生まれでも25歳だ。
役人もテキトーなら難しい漢数字を書く必要なし。
936 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 19:35:31.47
>>140 >親唐の畿内王権が、嫌唐の九州王権に命令されて、戦争に・・・・・・・・・
660年百済滅亡に伴う百済遺臣からの救援要請に応じ出兵を決したばかりか
最高指導者の斉明天皇・中大兄が親征すべく九州博多まで出向いた大和王権が
嫌々出兵だったというのは、どこからそう言えるのかね?
嫌唐の九州王権というのは、何の勢力のことを指しているのかね?
親新羅で大和王権と対立した磐井一党が528年に制圧されたあとは、拮抗する
王権など九州にはないはずだがね。
937 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 21:20:35.80
>>338 >一方日本国は、「倭国の別種」と・・・・・・・・・・
702年の粟田真人率いる遣唐使が、日本という新しい名の国の素性を曖昧に伝えたから、
倭と日本との繋がりを大唐というか則天武后を擁く大周が誤認したのだろう。
曖昧にしたのは、663年白村江戦後の戦後処理の責任問題をうやむやに持っていきた
かったのかな。
938 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:02:28.96
いい加減他所のスレでやれ
明治とか昭和初期の識字率とか関係ない
ここで延々やる話じゃない
お互い意地になるな
940 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 10:40:32.21
琉球の王も前王朝と同じ姓を勝手に名乗って、累系って事で正統継承を中国に届け出たら認可された様な話あるもんな
中国からしたらどうやら琉球で革命が起きたらしい事を薄々知ってても、新王朝が冊封を受け入れて傘下におとなしく入るのなら、異論はないかもしれないし、
941 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 17:11:16.87
>>938 漢字が書けないせいで第一子と同じ誕生日にされ
双子や三つ子、五つ子、七つ子にされた例が
明治時代に大量発生したという史料を出せない時点でお前の負け。
いい加減にしろ、日本語理解できない電波w
942 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 18:25:38.38
例はきんさん、ぎんさん
943 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 00:52:00.53
>>942 そういうのは史料と言わない。
お前、完全な荒らしだろ。
944 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 03:51:27.64
中途半端に頭でっかちが
今と同じような教育を明治初期にしていたと勘違い
大嗤いだよ
945 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 03:52:12.26
きんさん、ぎんさんの戸籍を見ればいいのだが
今は、見れなくなったからなあ、残念だよ
946 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 10:50:28.34
>>944 役人が書けばよかったのに
明治初期に文字が書けない人は
戸籍を作れなかったと勘違いしている馬鹿
947 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 10:51:45.70
>>945 見たこともないのにきんさんぎんさんの
戸籍は改竄されていると勝手に書き込んでたの?
お前本物の基地外じゃん
きんさんぎんさんの親族に訴えられるぞ
948 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 23:48:41.49
在日韓国人は本国朝鮮の最下層民、本国での差別に耐えられず、
戦前は朝鮮系日本人として、戦後は密入国で日本に来た。
戦前来日した朝鮮系日本人の中には優秀な人もいたが敗戦で日本を見限ってさっさと帰った。
残ったのは帰ると差別される最下層民
追加に戦後最下層密入国者。
日本は生活費保護費を支給し支援したが日本人に罵詈雑言。
在日韓国朝鮮人は人で無しだな。
在日が韓国できらわれるのは血筋が最下層だから、朝鮮戦争に従軍しなかったからではない。
儒教の国とは人に順番つける国
最下層民だから半島本国人は相手にしない。
そして日本での言動も非人間的だ
949 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:29:51.09
マスコミは、最初、100歳の双子と言っていた
しかしねえ、どう見ても100歳には見えなくてなあ、きんさんぎんさん
双子にしては顔も似てなくてなあ
しばらくしたら、100歳の双子とは言わなくなった
そういうことだよ
>>949 ぎんさんの子供姉妹最近ちょくちょく出るが、双子姉妹ぎんさんの娘と紹介されとるぞ。
消えろ、この嘘つき朝鮮人が。
ついでに
センター試験問題作成在日工作員に乗っ取られた。試験在日に有利。
在日危険。笑い事ではない。
951 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 02:49:05.87
マスコミの言うことを何でもすぐ信じてしまうのか
かんたんで扱いやすい国民だこと
952 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 14:20:49.44
>>951 じゃあ、君はマスコミ発表以外の
どんな史料に基づいて双子でないと言ってんの?
きんさんぎんさんの戸籍は見たことがなくて、
改竄されていると書きなぐっていたのは
お前の嘘ねつ造だというのは認めたばっかりじゃん
似てないから双子怪しい
100歳に見えないから年齢詐称
マスコミの発言を鵜呑みに云々
自分の狭い視野や認識の中でザ・中2病的な反権力への反抗的正義心というか恨みがましいというか
陰謀論のお陰で不遇を囲ってるとでも思ってる被害妄想的というか
何にでも疑う姿勢は悪くないけど、そこに行き着く理論的な説得力が全くないんですけど
放課後学級会じゃねえぞ
954 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 22:10:54.86
>>963 >自分の狭い視野や認識の中でザ・中2病的な反権力への反抗的正義心というか恨みがましいというか
自分の事を書いて何か楽しいのか、ははは
多くの人が、ありゃ100歳は嘘だなと思った、これだけで十分
そして、昔の戸籍だろ、だったら誕生日はテキトー、これもいろいろ話していた
これで十分
ばかマスコミが勝手に騒いだだけでね
もっとしっかりしなさいよ
955 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 22:12:44.81
>>953 >自分の狭い視野や認識の中でザ・中2病的な反権力への反抗的正義心というか恨みがましいというか
君自身の事を書いて何か楽しいのか、ははは
多くの人が、ありゃ100歳は嘘だなと思った、これだけで十分
そして、昔の戸籍だろ、だったら誕生日はテキトー、これもいろいろ話していた
これで十分
ばかマスコミが勝手に騒いだだけでね
もっとしっかりしなさいよ
君は歴史の研究なんかとてもできないな。史料に書いてあることは都合のいい事だけで、書いていないことを見つけることが歴史の研究だ
>多くの人が、ありゃあ100歳は嘘だと思った
マスコミ不信あるはずなのに、自分と同じ意見や自分の都合のいい意見のマスコミ情報やネット情報はびっくりするくらい簡単に信じるんだな
自分が信じていないものを自分の意見の担保に利用するとはご都合主義甚だしくてこりゃ笑えるな
957 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 15:50:06.48
>>954 >多くの人が、ありゃ100歳は嘘だなと思った
これはどこから得た情報?
ぎんさんは長女の矢野年子さんが現在98歳。
長女は1914年生まれだ。
大体逆算すれば年齢が分かるだろ。
きんさん、ぎんさんが100歳で何の問題もない。
958 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:55:12.64
>>957 こざかしいガキだなあ
当時、みんながそう思っていた、そういう証言がほしいのか、
頭でっかちは寝ていろ
959 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:56:07.94
ちょっと昔の日本なら16歳で出産なんて事もざら
だからお前の言う「みんな」って何だよw
いい加減だったり大袈裟な奴が言う「みんな」って、実際居たとしても大抵ソイツの周りの2人以上だよな
「みんなそう言ってるよ!」=せいぜいがソイツを含めたソイツ周辺2,3人の共通意見や認識
961 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 23:13:06.53
>>946 村内や町内のちょっと偉い人に頼むよな、フツーなー。
962 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 02:57:24.20
963 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 09:29:05.44
>>958>>960 お前の言う証言って、お前が馬鹿にしているマスコミから得たものだろ?
違うというならきんさんぎんさんの親族にお前が直接インタビューして
「あれは双子じゃない」と言っている証言の
画像でもここにアップしてご覧?
できないならお前が妄言。
きんさん、ぎんさんが双子という認識で一般に広まってるものを「双子じゃない」と断固言い張るなら、双子じゃないと万人が納得出来る様な確たる証拠を提示する義務はそっち側にあると思う
逆に双子だという証拠を提示する義務は無い
(被疑者側が犯人じゃない証拠を提示する必要はないのと同じ理由から。検察側は被疑者が犯人と断定するに足る合理的な状況証拠や証言などを提示する必要がある)
似てないと思うとか個人的な偏った印象、勘とか見る人によって意見が分かれる様な妄想じみた不確定な事いうのはもう止めようぜ
何度か書かれていると思うけど、一卵性双生児と二卵性双生児ってのがあるのは本当に理解してる?
これが分からない馬鹿ならもう相手にする価値ないから止めるわw
いいかげんにしろ。
「きんさんぎんさんスレ」とか建ててそっちでやれ。
967 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 08:05:30.80
>>963 某酒場でマスコミ関係者から聞いたんだぜ
マスコミ不信じゃねえのかよw
誌面不信やネット不信や放送不信なのか?
マスコミ人間は誌面やネットや放送では嘘つくけど、酒場語りだと正確で誠実で正直者だと?ww
969 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 09:40:03.68
>>967 じゃあ、その時に会ったマスコミ関係者の名刺をアップして?
まさか、名刺も貰わずにマスコミ関係者だと信じたわけじゃないでしょ
>>966 多分、きんさんぎんさん年齢詐称スレなんて立てたら誰もレスくれないし
名誉棄損で訴えられかねないからこっちでやってるんでしょうよ
あと少しでこのスレ終わるから逆に本来のスレ立てお願いしたいわ
971 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 11:01:07.23
必死すぎる 嗤いがとまらない
ツッコミどころが多すぎる
むしろツッコミどころしかない発言の数々
ネタなんだよな?
こんな馬鹿本当にいるはずないから、わざとピエロ役になって馬鹿見せて楽しませてくれてるとしか
973 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 15:30:56.92
しかし、すぐにレスが来る
なんでだ、ずっと見張っているのか わははは
わははは って、何かドラクエみたいだぬw
なんだ、ただの構ってちゃんか
977 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 19:22:12.73
978 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:55:49.64
百済を「くだら」、新羅を「しらぎ」と日本で読みならわす理由ってよく分からないんだっけ?
新羅は向こうでは「シルラ」みたいな音読なんだろ?(※朝鮮三国時代の音読?現代韓国語での音読?)
「しんら」じゃなくて「しらぎ」になる理由に諸説あるんだっけか
「新羅の奴ら」みたいなJPNじゃなくてJAPみたいな卑下した俗語的な表現って話とかも
「くだら」 も「クンナラ」が訛ったとか説があるよな
979 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:47:19.68
どう読もうといいだろ
白村江をはくそんこうと読む人もいる
980 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 02:24:45.45
>>978 昔のまま読んでほしいね。ここは日本なんだから。
現代チョンの気持ち悪いチョン語で読む必要はないね。
白村江(「はくすき」の「え」)って知らなきゃ読めないけど、
朝鮮語ではパクソンガンって読むのかな?
983 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 13:16:35.01
>昔のまま読んでほしいね。ここは日本なんだから。
昔と言っても、100年か200年ぐらい前ではないのか
歴史学者の岡田英弘は、ハクソンコウ
新羅は、シンラと言っている
日本独自に日本の読み方でって言うなら「しんら」が普通だろう
「しんら」もしくは「シルラ」なものを
「しらぎ」と無理矢理読ませる方が、日本国内で何か半島系有力な勢力からの感情的操作があったとみてもおかしくない
「ひゃくざい」もしくは「ペクチェ」を「くだら」というのもしかり
985 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 14:53:37.99
現代の朝鮮人が昔と同じ発音という保証もない
986 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 16:41:50.79
987 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 18:05:39.50
>>986 いやいや、岡田英弘は中国、朝鮮には冷めた見方をしている
中国の歴史はせいぜい2300年、日本の歴史は白村江の戦い以後
その時点で国という概念が生まれた=歴史の始まりということ
朝鮮半島は中国文化の通り道にすぎないとも言っている
朝鮮が日本に文化を伝えたのではなく、単に通り道なだけ。中国文化を日本に伝えたのは中国人。中国人は周辺国に商売、交易のため出かけていって
そこに居着いてしまうそうだ。中華街の原型みたいなものか
それもあって、日本にも中国系の顔は多い
よく5世紀「須恵器=朝鮮半島」みたいな言い方がされるけど、中国大陸ではどうだったの?
クンナラ→くだら
クンナラ=偉大な国、大きな国
奈良、ナラ=国
990 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 02:19:07.88
偶然だな
>>989 ナラ朝鮮語由来説なんてもう何年も前に否定されてるよ……
994 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 14:15:36.35
梅
995 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 22:04:15.38
ズバリ言おう。
関門海峡を掘削したのは神功皇后だ!
それまで、本州と九州は陸続きだったのだ。
仲哀天皇2年3月、熊襲反乱の方を受け、仲哀天皇と神功皇后が挙兵、
同9月には、穴門(下関)に宮を建て、これを穴門豊浦宮と名付けた。
仲哀天皇と神功皇后が筑紫に行幸するのは仲哀天皇8年。
工事完成までに6年の歳月を要する難工事だったのだ。
このことはなにを意味するかおわかりだろうか?
さかのぼって、邪馬台国への使者を乗せた船は、
九州を一回りしなければ瀬戸内海に入ることができず、
邪馬台国畿内説は完全に否定されることになる。
これで本当の日本の古代史がわかった!
996 :
日本@名無史さん:
>>995 福岡県の行橋とか苅田のあたりを「京都(みやこ)郡」っていうのとか
勝山から香春にぬけるトンネルで「仲哀トンネル」とかってあるのとか、
なんかある気がするよな。