白村江の戦い3

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43!ninja:2013/09/14(土) 15:34:44.41
いったん保守
44日本@名無史さん:2013/10/09(水) 18:47:04.59
桃太郎伝説の崇神天皇軍編成の四道将軍、七代、孝霊天皇皇子の吉備津彦と丹波道主王命・・八代、孝元天皇皇子ので、大彦命と武渟川別命親子の子孫が安倍氏。
阿倍歌麿の子孫、白村江で敗北した阿倍比羅夫の末代
奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の子が52代、嵯峨天皇皇子の源融筋の嵯峨源氏、渡辺氏の家へ婿入りし松浦氏の平家水軍にして清盛側近の松浦安倍高俊の松浦党。
陸奥・・武蔵安倍氏の家康家臣団の老中、安倍正勝
因みに安倍氏宗家は阿倍歌麿の兄、阿倍火麿・・竹取物語の阿倍御主人・・安倍清明の末代、倉橋氏と土御門氏
元寇・倭寇で松浦党が、阿倍比羅夫の敵打ちを果たす・・。
45日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:00:54.83
大彦命の弟の開化天皇が9代天皇で、10代、崇神天皇は開化天皇の子。
初代神武天皇からの紛れもない血筋。
46日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:09:23.26
明治天皇の外祖母は、中山愛子そまの旧姓は、松浦で松浦愛子さま・・
秋篠宮妃殿下の希子さまの男系祖父を辿ると、曾々お爺さんが川嶋家へ婿入りした松浦平吉さんです。
47日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:16:10.53
清和源氏筋の井上氏は、倉橋氏の分家。
那須与一の藤原氏の武藤氏・・少弐氏の少弐水軍は、武渟川別命で安倍氏と枝分かれした那須国造氏流。
48日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:24:12.59
>>44
因みに、嵯峨天皇皇子の源融筋の嵯峨源氏は、初代源氏長者で源融は光源氏モデル。
源融・・お伽草子の源綱の子孫が渡辺氏や松浦氏。
49日本@名無史さん:2013/10/27(日) 20:30:07.76
全然関係ないレスは何なんだ?
50日本@名無史さん:2013/11/14(木) 06:18:48.55
そろそろ保守
51日本@名無史さん:2013/12/21(土) 16:54:34.09
歳末保守
52日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:29:12.03
質問なんですが、なぜ、そしてどのように白村江の戦いで「大敗」したんでしょうか?
whyとhowについて書いてある本がほとんどないんですが、史料もないんんでしょうか?
53日本@名無史さん:2014/01/14(火) 18:18:28.22
賀正
54日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:21:00.60
why…唐が相手でパナマ対アメリカみたいな兵力比だったから

how…百済倭連合軍が半島南西を獲り切れないまま唐の大軍勢の機能しない東側山間部を北上し
現在のソウル辺りから西岸に出て仁川の辺りで水軍と落ち合い半島南西部の穀倉地帯を封鎖して取り返そうとした

驚くべき事に20世紀の朝鮮戦争に於いてマッカーサーが指揮した反攻作戦と殆ど同じ戦略

朝鮮戦争では米軍の艦舟艇の足が充分に長く数でも上回っていたが
白村江の海戦では百済倭の水軍の艦舟艇は対馬や釜山からの航海で既にバルチック艦隊状態であり数でも絶望的に負けていたので百済倭連合軍は唐新羅枢軸軍に大敗した
55日本@名無史さん:2014/01/14(火) 22:27:43.10
え?
復興軍の本拠地(周留城)が攻囲されてたからその救援だろ?

落とされるともう敗北は確実なので、焦って突撃した所を良いようにやられてしまったと。
あと隻数では倭水軍のほうが多かった筈だが
56日本@名無史さん:2014/01/15(水) 05:58:23.82
>>55

> あと隻数では倭水軍のほうが多かった筈だが


唐には大きな船があったと思われる。

高い位置から火矢を撃ちこめば有利。
57日本@名無史さん:2014/01/15(水) 10:14:09.63
射手が高い位置にあるってことは、大型船が、
脆弱な船腹を敵に晒しているということでもある。

そこに、火矢を撃ち込めばやがて火がつく。

そういう戦術を思いつかなかったかもしれないが
58日本@名無史さん:2014/01/15(水) 10:18:34.74
動力船になってからの話だが、
全く乾舷を晒さない半潜水船のようなトンデモ船が、
時たま出てくる。

トンデモだからすぐ消えるが。
59日本@名無史さん:2014/01/15(水) 18:52:27.42
兵力は圧倒的な大差とはいえないし
作戦しだいで勝算立たなくはない戦いだよ

日本書紀にはなぜか
倭軍の大将軍(総司令官)の名前が隠されてるが
情況からして相応しいのは大海人皇子だろうね
奈良時代の皇室の始祖的な天皇だからこの人の大失敗とは書けないだろう
この人は遁甲の術とかの占いや迷信にこだわったから
それでアホな戦術を立て恥ずかしい大敗したんじゃないの?
60日本@名無史さん:2014/01/16(木) 13:14:27.00
>>59
新羅の背後に控えている唐に勝てるはずがないでしょ
61日本@名無史さん:2014/01/16(木) 19:13:36.24
唐も新羅を本気で支援する気が有った訳ではなくて、高句麗征服に利用して最終的には自国領に組み込むつもりだったからなあ
高句麗を挟撃するために、手始めに同盟を組んでた百済を滅ぼした(と言うかこの時点ではむしろ高句麗と百済によって新羅の方が滅ぼされかねない状況だったが)訳だけど、
実際に高句麗を滅ぼした後は西域の吐蕃との戦いで朝鮮半島どころではなくなって手を引いている。

白村江の戦いに至る経緯も復興軍の中でかなりごたごたがあって決戦を挑まないといけなくなった訳で、
やりようによっては百済の存続の芽も無かったわけではない。
62日本@名無史さん:2014/01/16(木) 20:03:04.39
倭軍が大ポカやらかしたんじゃないのかと
63日本@名無史さん:2014/01/16(木) 22:07:26.79
>>57 最大射程が異なっている点を絶対的に重視すべき

火矢は本当に飛ばないよ

そもそも戦闘開始前に水撒いて船体濡らすし
64日本@名無史さん:2014/01/16(木) 22:17:35.42
倭船は漕ぎ手と戦闘員が同一なので隻数が多くても集団戦を挑んで唐の戦艦と戦力量的にドッコイなので隻数より物量で比較するべき
65日本@名無史さん:2014/01/16(木) 22:22:58.99
風向きが帆船に取って不都合なら手漕ぎ船が有利だが基本的に陣形展開から戦闘終了まで長く時間を費やせば費やす程大型船に有利
66日本@名無史さん:2014/01/16(木) 22:32:49.30
やっぱり、士気が低かったのかね?
半島における倭の勢力もほとんどなくなり、百済も風前の灯火と言うか、滅亡待ったなし。
相手は大国の唐と、そのバックアップを得た新羅。
いくらなんでものめり込み過ぎだろと思ってしまう。
乙巳の変、孝徳帝の憤死、斉明天皇の重詐…。激動すぎ。
67日本@名無史さん:2014/01/17(金) 00:03:47.00
天智天皇が百済の支援を受けてクーデターを起こして即位した天皇なので親衛隊が百済軍だった

領土回復遠征には天皇の命令だったので皆従ったが勝ちが続かないと中枢部隊に割り込んでいた百済人以外はやっぱり他人事だっただろうw

朝鮮戦争の時は米軍の陸上部隊は西側の穀倉地帯側を北上してた様な気がしてきた
68日本@名無史さん:2014/01/17(金) 00:05:37.37
天智天皇親政=百済日本乗っ取り政策
69日本@名無史さん:2014/01/17(金) 00:16:44.46
中臣鎌足って百済人なの?

あと乙巳の変の首謀者って軽皇子(孝徳天皇)なんじゃ…
70日本@名無史さん:2014/01/17(金) 00:45:28.14
蘇我氏が母国より大きな島国の最高実力者になってすっかり日本が第一だ日本人!になってしまって百済救済に不熱心だったので百済が朝廷工作の為に送り込んだ間者とする説は古くからあります

他に中大兄皇子中臣鎌足とも頭の中は中宮を意味していて二人とも蘇我氏の傍流であり中大兄皇子は神武Y1染色体の持ち主では無かったとする説もあります

何れにせよ蘇我氏の主流すら敵に回してのクーデター政権なので天智天武とも親衛隊は百済軍でした
71日本@名無史さん:2014/01/17(金) 06:50:39.62
>>63

唐の大船は、高い位置からハイジャンプ魔球みたいに矢を撃ちこんでくるからな。
72日本@名無史さん:2014/01/17(金) 06:51:25.40
>>64

> 倭船は漕ぎ手と戦闘員が同一なので

これはしんどいな。これではかなわんな。
73日本@名無史さん:2014/01/17(金) 08:44:39.66
聖徳太子の時代から壬申の乱までは、やっぱり1セットの流れで見ないと、
白村江だけを点で考えてみてもわからないんだな。

それにしても天智天皇って、相当ヤバいことをしでかしているな。
超大物の蘇我入鹿暗殺の実行犯、孝徳帝への事実上のクーデター、大敗による亡国の危機。
74日本@名無史さん:2014/01/17(金) 19:50:24.60
>>73
蘇我入鹿暗殺の実行犯は孝徳という説もあるでしょ
中大兄皇子が実行犯ならその直後の孝徳即位は無理があると思う

それに孝徳帝の難波宮置き去りは何も中大兄皇子一人の行動ではない
孝徳の姉である皇極太上天皇や妻である間人皇女まで孝徳を見放している
入鹿暗殺が孝徳帝によるクーデターでそれによって
ゲリラ的に即位したのだったら辻褄もあうだろう
75日本@名無史さん:2014/01/18(土) 07:52:26.69
蘇我氏は推古帝期に重用されてのし上がった当時は新参も好い所の百済系渡来人である筈なのに
大化改新で討たれた主流派の重鎮の名は蝦夷や入鹿とされている

蝦夷はポリネシア系と雲南系とこれらの混血であるアイヌであり
入鹿の鹿は蝦夷の後から入った新羅のシンボルであるから
これらは最早討たれた百済系渡来人の本名では無く改新に至る経緯を記したキャラクター名である
一方討った中大兄皇子と中臣鎌足は両者とも名前の頭に中が付いている

これもキャラクター名だとすると中は中宮(中殿)を指している可能性が非常に高くそうであれば中大兄皇子もまた戦後の感覚で言う皇族では無く蘇我氏であり氏内での傍流或いは不満分子である

つまり大化改新は蝦夷を打ち払い入鹿を寛容に受け入れた原日本人なる架空の民族(※)による渡来人をの撃退及び王政復古では無く

 (※ 現在では古新羅も弥生人の一である旨判明しており蝦夷または蝦夷と入鹿の混血乃至入鹿こそが「原日本人」に相当するとされる)

日本人化して百済の救済に熱心で無くなった蘇我氏主流派を退ける為の百済王室に依る陰謀策でありそれに呼応した傍流百済系渡来人によるクーデターだったのである

強引な改新後は天皇の親衛隊は次第に百済軍が構成する様になり
百済滅亡時に東国に入植した百済王子が大和朝廷(←ちょっと不正確だがイメージ出しの為)に置いて行った百済軍も加わって
壬申の乱の際には大海人皇子側も大友皇子側も手勢のかなりの部分を旧百済軍が占めていた
76日本@名無史さん:2014/01/18(土) 14:37:06.03
百済勢力をバックに勢力を拡大して、白村江の戦いで大敗した中大兄皇子陣営。
半島に固執せず、冊封から独立路線重視の外交と改革を行った聖徳太子&蘇我氏。その路線の孝徳。

外交を背景にした、大和朝廷内のパワーバランスの乱れと言うことか。その結果が、古代最大最後の内乱と言える壬申の乱。
77日本@名無史さん:2014/01/18(土) 17:43:36.36
推古天皇8年(西暦600年)と推古10年(602年)、推古11年(603年)に新羅征討が計画され、600年には実際に出兵している訳だが。
78日本@名無史さん:2014/01/18(土) 20:32:11.60
白村江の戦いの原因となった百済王子豊璋の来日と保護は
蘇我蝦夷が大臣として政権を執っていた頃(舒明〜皇極朝)だよね
79日本@名無史さん:2014/01/24(金) 23:08:11.70
>>56
「唐には大船があり、倭軍は小舟しかなかった」みたいなことを言う人が結構いるけど、
史料の描写だと、特に船がどうこう、と言う事は書いてないんだよな。

「日本船師初至者與大唐船師合戰 日本不利而退大唐堅陣而守。己酉 日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰 我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒 進打大唐堅陣之軍 大唐便自左右夾船繞戰。(日本書紀)」
「遇倭人白江口 四戰皆克 焚其舟四百艘(百済本紀)」
「倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船 新羅驍騎 爲漢前鋒 先破岸陣 周留失膽 遂即降下(新羅本紀)」

途中唐が派遣した水軍が7000人(旧唐書百済伝・百済本紀)で白村江の唐水軍が170隻(日本書紀)。
唐側の史料だと千隻とか炎上400隻とか景気のいい事を書いてあるが、倭の第一波が170隻。(ウィキには兵数1万余とあるが根拠不明)
後年の藤原仲麻呂が計画した新羅征討計画だと軍船394隻、兵士4万700人。
となっており、そこまで船の規模に差があるようには思えない。
80日本@名無史さん:2014/01/25(土) 07:00:45.29
>>79

> 後年の藤原仲麻呂が計画した新羅征討計画だと軍船394隻、兵士4万700人。

スレ違いだが、もしこれが実行されていたら結果はどうなっていたんだろう?
仮に局地戦で勝っても、兵站が続かずに結局は負けたような気がするんだが。
81日本@名無史さん:2014/01/25(土) 07:55:27.13
>>77 蘇我氏の手引きで百済に対して集団的自衛権を発動した

当時は技術革新の波の谷間で百済は八方手を尽くしても自力で軍事的劣勢を挽回する手段を入手出来なかったので蘇我氏を通じてヤマトを誘った

国土が百済より広大で手勢の数で勝るヤマトはそれは強かっただろう

高句麗から見ると自軍を悩ませる主力は今や倭になり憎き百済は倭の朝貢国に成り下がったと見えただろう
82日本@名無史さん:2014/01/25(土) 13:18:58.04
>>80
この時唐は安史の乱で大いに混乱しており、また日本は渤海と新羅を挟撃する計画を立てていた模様。
三国史記や好太王碑文によると首都金城は何度も倭軍に攻略・攻撃されたことがある(この時は高句麗の支援があった。)ので、
当時より国力は伸長しているとはいえ、孤立無援の状態で渤海と日本に挟撃されては勝算が無いだろう。
83日本@名無史さん:2014/02/04(火) 20:07:44.48
年代は663年でいいのか?
旧唐書や三国史記百済では662年になってるぞ。
84日本@名無史さん:2014/02/06(木) 08:50:54.53
日本書紀は詳しく書いてるが年代は怪しい。
旧唐書のほうが信頼できる。
85日本@名無史さん:2014/05/26(月) 08:08:02.63
百済救済だけなら行かないな。斉明天皇が出兵するようなことはない。
旧本拠地死守作戦なら行く。
任那加羅=天照の地なら行く。
86日本@名無史さん:2014/06/16(月) 12:59:51.64
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。

今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。

7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。


墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。

文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。

墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。

ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html
87日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:46:21.89
「百済」を「くだら」と読んで、「新羅」を「しらぎ」と読む(習った)。
これはおそらく日本語であろう。(もしかしたら古代の朝鮮語かもしれない。)

で、「白村江」を「はくすきのえ」と読む(習った)んだが、これは日本語だろうか?
白→「はく」これは音読。 村江→「すきのえ」これは訓読み?
88日本@名無史さん:2014/08/03(日) 05:22:48.94
唐書では倭軍というか兵は助っ人的存在で
百済の軍勢が本体という記述らしいが
89日本@名無史さん:2014/08/03(日) 20:30:04.23
そりゃあ百済復興運動だからな
百済残党が救援を求めて来たので援兵を出したんだし
90日本@名無史さん:2014/11/06(木) 21:41:30.96
>>88
「らしいが」じゃねぇよw なぜ自分で読んで確かめない
91日本@名無史さん:2014/11/08(土) 20:40:12.65
ペルマガンって白村江ですよね。
92日本@名無史さん
【避難所や難民キャンプのお知らせ】

2ch総合避難所 
http://www.2nn.jp/refuge/

まとめwiki待合場所
(スレ難民になったり、スレ立したりしたら利用してください)
http://www47.atwiki.jp/matowiki/pages/57.html