まあ、信長なんだろうけどさ
家康 恐怖レベル
LV1 じっと我慢する
LV2 ガタガタと震える
LV3 わざとらしく切腹するぞとわめいて、部下をチラ見する
LV4 ウンコ漏らす
3 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 11:27:24.35
>>1 誰がどう考えたって信玄に決まってるだろう?
他に今川義元、豊臣秀吉、石田三成、真田昌幸とか。
関ヶ原だって「石田三成じゃ家康に勝てるはずない。格違い」とか思うのは結果論で、
実際には西軍が勝手も全然おかしくなかったはず。
信長には別に臣従もしてないし、敵対もしてないし。
どう考えたって、「最も恐れた男」ではあり得ないだろ。
家康が最も恐れた男は誰か?
→最も恐れた男は信玄で、異論の余地なし。
で、このスレは終了かな
鯛のテンプラを勧める奴
織田信長への態度 無視され、ひどい仕事まわされ、見捨てられてもじっと我慢 信長死去まで属国扱いを受け入れた。
武田信玄への態度 圧倒的兵力で攻められても恭順せず抗戦した。敗北してもなびかずに、織田との同盟を守り続けた。
7 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 23:06:15.46
今川義元
ちとうがった見方をする。堺などの商船財界人。
信長とは衝突もあったが現実路線をとり和睦、秀吉とは、航海技術の発展期と
重なり、蜜月といわれる関係をもった。
だが家康とは距離をおき続けた、という。ゆえに大阪の陣では、家康は市中略奪
を許す。徳川幕府とこれらが正常化するのは、紀伊国屋の登場からだった、とき
く。それまでに徳川がうった西国弱体化政策は、枚挙にいとまが無い。
9 :
日本@名無史さん:2011/03/14(月) 18:24:20.24
家康が一番恐れていたのは、本多忠勝、あるいは大久保忠教あたりの家臣だろう。
信長亡き後、秀吉がやったようなことを、
秀吉亡き後、自分がやったようなことを、
こいつらは自分が死んだあとにやってのけるかもしれないと、戦々恐々としていたと思うね。
だからこそ、たった2年で息子を将軍に据えたのだ。
蓋を開けてみてびっくりさせられたのは真田幸村かな?
11 :
日本@名無史さん:2011/03/14(月) 23:42:00.57
>>9 それを言うなら、島津と毛利だろう。
こいつらは幕府創立当初からの仮想敵で、
実際に300年後にこいつらに滅ぼされたわけだし。
司馬遼太郎若しくはコーエー
家康が島津をむっちゃ警戒してたのは事実。
仮想敵ってのもその通りだが、
スレタイの内容からすると、
>>4でFAだな
武田か織田か、どちらにつくべきか?
そして最後は天下人。選択を誤って武田についていたら?
織田に滅ぼされていたかも。
むしろ織田を滅ぼしていただろ
フェーズによって違うな。
少年期は、今川が一番の脅威
戦国大名時代の脅威は、武田信玄、織田の順、それらが滅んだ後は、豊臣秀吉
天下統一期は、外様大名
外様大名をある程度押さえ込んだ後は、自分の有力家臣が一番の脅威
外様は遠国、家臣団には高禄を与えないことで何とか乗り切ろうとした。
家康は、死ぬまで脅威を内外に抱えた人生を送ったと見るべきだろう。
17 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 15:16:05.20
築山殿だろう。
18 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 15:45:17.61
>築山殿だろう。
それで最後まで信長についていこうとしたのか。
19 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 17:46:41.87
築山殿は女だろ(笑
伊賀越え中の山賊やら海賊やら。
21 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 13:10:34.09
豊臣秀吉。
徳川家康が唯一臣従した男。
人質に出されていた今川義元のもとでも、つらい先陣ばかりさせられた織田信長のもとでも、
家康は同盟者という立場を貫き、形の上では臣従しなかった。
しかし、豊臣秀吉に対しては臣下の礼をとり、家臣となった。
明治時代以降、徳川家を臣従させた豊臣秀吉は忠臣であるとされて
徳川家の壊した秀吉を祀る豊国神社があちこちで再建され、
悪臣徳川家康を祀る東照宮においては
家康を唯一臣従させた豊臣秀吉の像を同時に祀るという事態が起こっている。
晩年、孫たちに戦国時代の話をせがまれた家康は
信玄の話ならば、嬉々として話したが(完全に古き良き思い出化 舐められてるぞ)
信長の話をせがまれた時は、暗い顔をして押し黙るだけであった(死後何年立とうが、どれだけ年食おうが、天下統一しようが、決して消えないトラウマが植え付けられている)
23 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 16:56:46.88
>>21 明治新政府の後付けの徳川の権威失墜策を根拠に当時を語ってどうすんだよ。
24 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 17:36:53.11
>>23 おいおい、前半は無視かよw
家康が生きていた当時、豊臣秀吉以外に家康を家臣にした人物がいるのかよ?
25 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 18:23:34.24
密かに松平元康、信長が命じたから殺したというのは、江戸期に捏造された話
つうか生涯で最も家康を恐れさせたのは、ひょっとしたらまだ家康が竹千代だった
頃、二心を抱き今川ではなく織田家に差し出した御家来衆だったりして、幼少期
のトラウマってのは時として人生を左右するものだしな。
26 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 18:42:50.52
>>24 信長には正妻と嫡子の処刑を命じられるほど圧迫を受けたたが、
秀吉にはこれでもかと懐柔策を取られ、国を挙げての朝鮮出兵まで
拒否してのけた。
形ばかりの主従関係など、比較には何の意味もない。
27 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 18:54:34.82
>>26 近年の研究では築山殿と信康を殺害したのは徳川家当主
家康の意思だったといわれている。
信長の命令よって正室と嫡男を殺害したというのは江戸幕府成立後、
江戸末期に書かれた書物にしか登場せず、一次史料にはどれにも載っていない。
江戸幕府創建者である家康は神とされていた時代のもの。
家康は信長が死に、織田家が没落し、織田が徳川家の監視下で暮らす小大名となった後も、
信長の娘である信康の正室五徳に仕送りを続けた。
信長の命による実子殺害ならばその原因になったともされる(信長への密告者だとされる)
五徳にこれほどの温情をみせるとは考え難く、
五徳が武田氏で見られたような徳川家内の嫡男粛清の犠牲になったからだといわれる。
28 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 18:59:34.39
>>26 徳川家康は豊臣秀吉の後北条攻めにおいて率先して困難な先陣を勤め、
このとき兵も疲弊していた。
秀吉は他の小田原攻めに参加した大名についても朝鮮出兵を免除しており、
家康一人が自分の都合で秀吉の命令を突っぱねて行かなかったわけではない。
家康が自分の都合で朝鮮出兵に行かなかったのならば朝鮮出兵参加兵士が
東軍に味方することもなかっただろうし、どのみちその話は嘘だよ。
29 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 19:49:40.18
>秀吉は他の小田原攻めに参加した大名についても朝鮮出兵を免除しており、
何言ってんだ??
信雄は改易、蒲生は出陣準備中に死亡、黒田や宇喜多や小早川や細川など主な武将は渡海だ。
お前、この後のレスもその調子で法螺吹くつもりか?
30 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 22:11:05.15
>家康が自分の都合で朝鮮出兵に行かなかったのならば朝鮮出兵参加兵士が
>東軍に味方することもなかっただろうし
東軍諸将は石田三成が嫌いだったからその敵に回ったわけだろ。おかしなことを言う奴だ。
31 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 09:58:49.07
>>29 徳川家康は秀吉の居る名護屋城まで出兵しており、
朝鮮出兵を断って関東でのほほんとしてたわけじゃないんだが?
秀吉からその場で渡兵を命じられれば拒絶できるはずもなく、
秀吉からの命令を待っていたというのが正しい。
だいたい、九州にいる秀吉のいるおひざ元まではるばる大軍を率いてきていて、
朝鮮出兵を家康が拒んだとか言っている頭がおかしい。
32 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 10:09:37.52
「常山紀談」に家康が渡兵を拒否した話として、
「箱根を誰に守らせるのか」といい、全軍を朝鮮に差し向けるのではなく、
万が一国内で反乱が起こった場合に備えて家康が
徳川軍を日本に残すよう言った話があるとしている。
これは江戸時代中期に成立したもので、実際
秀吉の命で九州着陣中の家康が言ったかは定かではない。
北条への先陣や朝鮮出兵の名護屋城守護を家康は拒むことができなかった。
家康が秀吉の命令を自由に拒めるのであれば、わざわざ大軍を出して
遠くから来ないだろう。
いずれにせよ、家康は秀吉に大して形ばかりの主従関係で
秀吉の命令を堂々と無視できたという
>>26 は誤りだろう。
33 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 10:36:40.58
いつもいつも無理難題を吹っかけてくる大口顧客(信長)と、人事権を持っているものの
こっちの立場は十分配慮してくれる上司(秀吉)。
どっちが恐い?
34 :
日本@名無史さん:2011/03/18(金) 06:55:35.85
>>33 なんで同盟者が「顧客」なの?
全然比喩になってないじゃん。
35 :
日本@名無史さん:2011/03/18(金) 07:31:23.03
支配被支配の関係にはなくても、指図には逆らえない関係。
社会経験があれば分かる。
社会経験ある人なら、そんなアホな譬喩はしないよ。
同盟というのは、少なくとも形式上は対等な関係であって、
そもそもが甲乙の関係にある取引関係に例えるのは、まるで不適切。
>>22 そりゃあんな基地外好きな奴なんていないだろ
信長を好意的に評価してる奴なんてほとんどいないもんな 無様よのぉ
信長に関しては、信康の件もあってろくな思い出はないだろうな
信玄に関しては、家康が自分を美化するために持ち上げすぎだろう
三方が原で負けたのは俺が弱かったんじゃなくて、信玄が最強レベルに強すぎたってなw
家康は秀吉や信長に比べれば、ろくすっぽ合戦もせずに天下とっちまった、計略の人だからなあw
39 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 08:13:00.63
何この1で結論でてるスレw
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 09:01:35.35
直江兼続じゃないの?
国営放送様が大々的に報道してたぜ
41 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 10:21:08.84
>>38 最近の研究では信康は家康の意志で殺したらしいけどね
武田でも信玄が実の息子に謀反される事件が起こっており
家康も精鋭の息子の謀反に怯えていたらしい
信康は信長の娘婿であったために信長の許可はとったらしいが
江戸時代中期になってから幕府開祖東照宮様の息子殺しの罪を購うため
信長の命で殺したということにしたらしい
>>39 はぁ?
「4で結論でてる」のまちがいだろう?
43 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 10:36:12.82
今川義元がスルーされまくってるなww
44 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 23:48:45.05
各都府県ごとに「家康が最も恐れた男」の候補者を選出し
トーナメントで競わせて白黒を決めるべきだな
とりあえず我が近江代表は石田ミッチーで
45 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 07:45:30.71
候補
今川義元
織田信長
顕如
武田信玄
豊臣秀吉
前田利家
真田昌幸
伊達政宗
46 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 14:28:28.23
北海道代表 松前崇廣
沖縄代表 安室尚士巴
一向宗にキリシタン
家康たんは俺のデカマラがちょっと怖いみたい
俺が素っ裸で仁王立ちになると、むちむちのヒップをぷるぷると震わせながら四つん這いで逃げるんだ
逃げたお仕置きとしてヒップを叩いて強引に抱きよせてやるんだけどね
羞恥と怯えの入り交じった顔をじっと見つめながら、「絶対優しくするから。大好きだよ」って言うと、ふくよかなほっぺを綻ばせて「信じておるぞ」と頷いてくれる家康たんマジ可愛い
49 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 15:14:26.63
織田信長
50 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 23:16:38.94
これからダスキン!
51 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 21:15:03.03
「ヤッター義元が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター信玄が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター信長が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター秀吉が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター利家が死んだよ!ラッキー!」
「ヤッター清正が死んだよ!ラッキー!」
何という強運
家康が最も恐れたのは家康自身だな
52 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 23:55:41.48
>>51 義元はともかく、その他の人については
本当に「ただのラッキー」だったのかどうかわからない、というところが
家康の不気味なところでもある。
53 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 08:13:45.56
54 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 10:18:26.80
>>52 家康はその辺の戦国武将の中では一番若かった
だから長生きさえすれば天下を取れると言うことで精進したんじゃなかったか
家康が信長や秀吉が死んだのと同じ年で死んでたら間違いなく天下は取れなかった
孫の夫である若い豊臣秀頼をようやく殺したのは70過ぎてからだし
55 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 23:07:35.23
>>51 あとは大久保長安と大久保忠世が死ねば、松平は安泰・・・
56 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 00:05:54.48
>>54 長生きしなかったら天下を取れなかったってのは確かだが
「長生きさえすれば天下を取れる」ってことはないだろう。
57 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 02:20:53.75
真田幸村に対し、瞬間的に過去最高値の12000オソレパスカル
58 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 10:53:58.80
>>56 晩年はそれだけだったような気がするが
「秀頼を殺すまでは死ねない」
実際秀頼を殺したらその翌年に死んでいるから
鯛のてんぷらを最も恐れるべきだったな。
60 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 03:29:30.36
>>56 晩年って既に「天下を取った」後だろ。
いずれにせよ、
「長生きさえすれば天下を取れる」なんてことはない。
一代の夢で散った信長や秀吉を見ていた家康は思った。
(天下を取るのは意外に簡単だな。問題はそれを維持する体制をどう作るかだ)と。
62 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 08:55:37.16
>>60 家康は秀吉が死ぬのを待っての関ヶ原なんだから
信長や秀吉存命中に天下を取ったわけじゃなし
62はなんの話してる?
60が言ってるのは、関が原時点で家康の年齢は秀吉の寿命に届いてないのに、長生きすれば云々は変だってことだろ
寿命の長さと死亡時期の比較をごっちゃにしてないか。
64 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 18:47:54.08
↑くどい
65 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:45:03.40
>>63 関ヶ原の前に死ねば終わりだったわけだがw
66 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:47:54.48
関ヶ原の後でも大坂の役前に家康が死ねば秀頼の天下だったよね?
秀頼は関ヶ原後もずっと家康の跡取り秀忠より官位が上だった
秀頼の義姉(淀殿の猶子)の豊臣完子は関ヶ原の後でも
摂家へ正室として嫁入りできるくらい豊臣家にはまだ威玄があったし、
完子の摂家嫁入りは秀頼の関白就任のための布石だったんだろうし。
官位の頂点の天皇の天下にはならないよね
68 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 02:31:18.01
> 関ヶ原の後でも大坂の役前に家康が死ねば秀頼の天下だったよね?
それはない。
69 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 02:33:30.70
関ヶ原の後、大坂の役以前に既に
徳川家が諸侯を移封する権限を持っていたからね。
既に天下は徳川家のものだったことは明らか。
>>51 それじゃ神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世じゃねーか
a
ho
ka
i
a
あ
77 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:00:21.31
家康が恐怖のあまり失禁(脱糞)したというのは、
倒幕した明治政府による捏造です。
狸親父の肥満体もまた同様。
(節制による長寿の家康は健康体)
前政権の江戸幕府を貶めるために
故意に歴史を歪めて国民へ教育しました。
その誤った知識は、明治以降から平成に至る現在まで続いています。
>>77 太ってても血圧と血糖値が低ければ長生きできるぞ
適度な運動してれば血糖値は下がるし
食生活と睡眠時間に気をつければ血圧は下がる
中年以降の肥満は代謝の低下が原因だからあからさまな不摂生の結果である
若年肥満とはわけが違う
79 :
おちんちんぺろりんチョ ◆penisu8KA6 :2011/08/12(金) 15:11:04.85
俺は家康に恐れられたと思う
80 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:12:06.58
最も恐れたのは天ぷら職人
まあ、後世の歴史家はそれなりに恐れただろうな
82 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 13:23:36.68
>>66 豊臣完子が摂家に嫁いだというが
あれは江の娘で、徳川家にとっても姻戚だろ。
家康の跡取り秀忠の嫁が生んだ娘なんだから。
山県昌景でいいじゃん
家臣団で。
普通にいって時代によって違う。年代順に家康が恐れた男の名前は、
今川義元、織田信長、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、でしょう。
家康は大阪の陣を無理やりにでも起こしたかった。秀頼に関白になられたら
困るから。
>>85 秀頼の若さを怖れたのだと思う。将器じゃなくて。
最後の敵にだけは人間誰も勝てない。だから公平でもあるけど。
>>57 幸村が恐れられたのは実際に襲撃された数時間の、さらに危なかった数十分のみだろうな
嘘か本当か、大阪に入ったのは息子の方と聞いて安心したって逸話があるくらいだし
(そんだけ昌幸を恐れていたなら生死くらい把握してただろうから眉唾だが)
実戦での実績のある親父(言わずもがな)や兄貴(上州方面で北条軍を翻弄)と比べて
幸村は実績ゼロだったし
88 :
井戸魔神F ◆Tny1JrNujM :2011/09/10(土) 08:58:41.78
カトリック
家康ってバランスとれてるね。信頼の武将だな。信長の気の使い方も
相当だったと思う。安土城での接待は信長自身が給仕したそうじゃないか。
おれは三成ヲタだが、家康は凄いと同意する。このおっさんが一番おそれた武将か。
ま、一番じゃないが、苦手意識あったんじゃないかと思われるのは、蒲生氏郷
じゃないの?一番じゃないだろうけど。一番は分からんのだよ。家康は何時も危険な
警戒すべき事象を丹念に怠りなく恐れる優等生だっただろうからね。
家康が討ち死にしかけるほど危険になったの
信玄・幸村・三河一揆の時だけなんで
この3つでいいよ
91 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 06:43:16.67
海産物を狙った武将だと
甲斐とかだろ
>>86 別に同じだろw
自分の息子もボンクラなのに将器がどうとかどうでもいいよ
93 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 23:11:43.09
>>77 しかし1609年駿府城で家康の謁見を受けた
南蛮人ドン・ロドリゴは『日本見聞録』の中で
「家康は中背で肥満し、愉快げな容貌で・・」と書いてるんだけどな
94 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 01:08:12.90
家康は120Kgオーバーだったんだよな
だから、タヌキと呼ばれたんだよな
514 :名無し曰く、:2011/09/03(土) 20:23:42.59 ID:TtVgytfA
>>513 薄田隼人は軍事16、木村重成も軍事17。
この二人も華々しい散り際のみで評価されてるよね。
そうそう、秀頼は士気低くてゲンナリ。
幸村が「秀頼公自ら出陣すれば士気も上がり・・・」みたいな
進言をしたはずだけどこれじゃ...orz
515 :名無し曰く、:2011/09/03(土) 21:00:14.16 ID:mGXbPM//
ちがうちがう出陣しなかったからあの士気設定なんだろう
仮に出陣してたら戦果にもよるけど70-80はあっただろうな
一説には太りすぎて馬がつぶれて出陣できなかったという説もあるけど
190cm160kgの超巨漢だったらしいからな
96 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:26:44.68
秀吉は謀臣・黒田如水を恐れていたと小説に書いてあったので
同様に家康は本多正信を一番恐れていたに一票w
>>82 完子の九条家嫁入りは摂家である豊臣家が決めたことで
徳川家が決めて嫁がせたんじゃないよ
当時の史料にも完子の嫁入り支度は淀殿が行ったとあって
徳川家が関与した形跡はない
98 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 21:24:16.34
秀頼の存在に一票
99 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 22:29:25.51
徳川家康は秀頼に孫娘の千姫を娶せ、
久かた振りに再会した時に、ひ弱で世間知らずの青二才に育っていると思っていたところ、
さに非ず。聡明で偉丈夫なのが後々の禍根、脅威となると判断して
豊臣家墜滅を決心(早め)させたともいわれます
この時に前田藩の三代藩主の如くプライドを覆い隠してバカ殿、情弱を決め込んでいたら豊臣家は(逼塞しつつも)存続したかも
100 :
キツネのレックス:2011/09/18(日) 01:35:48.23
山内一豊だろ
101 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 03:38:17.40
1信長
2信玄
3昌幸家、島津家
今川や武田じゃなく信長選んだし、あの人には刃向かえないだろ。三方原のうんこで信玄にもかなり萎縮、晩年は真田ファミリーを警戒していたんじゃない、あと島津家も関わりたくなさそうな感じだね
102 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 17:22:19.60
>>101 かなり正確
家康公は信長以外だと信玄にコンプを抱いていた。
信長公は信玄を甲府の山猿とバカにしていたが織田は上杉謙信を
恐れていたので贈り物が謙信と信玄では相当違う。信玄は過大評価されすぎ
後に徳川家康が天下人と成ったので信玄に、徳川は直接、
謙信と交えていないので謙信の強さ知らないみたい。
後の上杉景勝は本能寺の変が無ければ潰されていただろう。
歴史では戦国最強は上杉謙信のようだ。
徳川は織田の舎弟親戚関係だったので島津は織田信長に恭順していたので
家康公は島津の強さは聞いている。
因みに本能寺(日蓮法華経)によく宿泊していたのは薩摩からの鉄砲のルート。
103 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 18:14:20.04
前田利家も相当警戒されてたな。
強いって意味じゃなくて声望という意味で秀吉の死後、唯一徳川を潰す戦力を糾合できた存在。
104 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 22:02:38.31
>>102 包囲網しかれ美濃に攻めこまれ岐阜でブルってたアホ長がどうしたって?
105 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 12:09:09.07
>>103 前田利家は豊臣秀吉の親友で家康と共に秀頼保護を頼まれ
実際に家康が秀吉死後すぐに有力大名に養女を嫁がせまくって義父として
干渉し始めると文句を言っている
しかし、秀吉時代にも家康の所領の石高は利家の3倍近くあり
前田家が戦って勝てる相手ではなかった
そのため前田利長は家康が前田征討に乗り出すとあっさり降伏して
人質を出し、服従の誓書を提出している
106 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 12:15:38.95
>>101 1位 豊臣秀吉=ただ一人家康を家来にした男
2位 今川義元=家康19歳までは生かすも殺すもこの人次第
3位 武田信玄=とにかく怖い隣人だった
織田信長には家康は臣従しておらず「援軍遅れたら武田に寝返るぞ!」
と言っているようにある意味裏切ることも可能な相手だった
家康を家来にした男は豊臣秀吉だけ
そして19歳までの主君だった今川義元も怒らせればいつでも人質の家康は
殺される運命にあった
>>20の言うとおり。
家康が最も恐れていたのは、伊賀の山中の、名もなき山賊だろ。
神君一番の危機は、このときだったのだから。
信長。
嫡男と正室を死なせた。
大河で家康役の西田敏行が秀吉が死んで、フンドシさらけ出して、泣いて、怖いものなくなったってさ、喜んでたけど、やはり、最後は秀吉だったんじゃないかな
団結して、謀反できるほど家臣団、仲良くないしな
ちなみに仲間由紀恵の大河な
天皇じゃないだろうか。特定の帝個人ではなく、その地位を。
なので、公家諸法度を作ったのだと思う。
家臣じゃない?
祖父と父親が家臣に殺されているんだし。
敵は身近にいるわけではないけど家臣は身近に存在しているから余計に。
よく家康と家臣の心温まる逸話があるけど、実の所は家康は心底では
猜疑心を常に持っていたけどそれを表面には出さないようにしていたような
気がする。
とりあえず家康はちょっと戦況が不利になるとすぐ腹切るとか
突撃して死ぬとか言い出す癖があったから
それを「恐れさせた」という理由には出来ない
新規の家臣は殿が動揺してると焦りまくるが、昔からの家臣は
また殿の駄々が始まったと苦笑するだけだったらしいw
武田も秀吉も一端は家康は戦うことを選んだ。
勝機を見たとまでは言わないが、降るより戦うほうが利が大きいと判断されている。
その点、信長には最後まで同盟を守った。
武田と織田に挟まれては織田を選び、織田の戦力の多くを継いだ秀吉とは戦う事もできた家康が
織田とは対等の関係を築こうとすらしていない。
やはり桶狭間の恩というか衝撃が大きかったのだろうか
114 :
:2011/09/28(水) 04:12:50.91
怖いものだらけだったんかも。
三成は手のひらで転がせたけど。
115 :
日本@名無史さん:2011/09/28(水) 09:56:39.27
>>108 信長の命で家康が嫡男を殺したというのは江戸時代末期の徳川方文書にしかないよ
江戸時代には家康は東照大権現という神様だったので家康の息子殺しの罪を
信長になすりつけた可能性がある
また、江戸時代の史料にも築山殿殺害については信長の命ではなく
家康家臣が(家康の意向をくみ取り)勝手にやったこととされている
よって築山殿殺害にはどのみち信長は絡んでいない
信長の親族で家康が天下人になった後で一番厚遇したのが、その手の文書では
父親に信康のことを誣告したことになってる五徳姫だからなw
小早川秀秋が有力だな
118 :
名無的発言者:2011/10/28(金) 17:01:53.36
いや、豊臣秀吉に擁立されて天皇になれた後陽成天皇だろう。
119 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 17:12:24.70
浅井長政だろ
120 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 18:44:49.07
信玄でいいじゃん。ウンコ漏らしたくらいだし。
土曜の朝っぱらからまじに考えたんだけどー、島津と毛利の連携じゃなくね?
連携さえされなきゃそれほどでもなくね?って思ってたんじゃね?
俺って頭よくね?
122 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 23:15:31.11
結果的に毛利と島津に崩壊されたもんな
>>121 「男」って氏じゃなくて、一人の人間のことを指すんだが
そんなこともわからないのか?
124 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 23:49:08.34
もっとも強烈な恐怖心を抱いたのは誰か?って言えば、
マジで殺されかけた武田信玄に決まってるがな。
しかしそのような一時的恐怖に惑わされず
家康は信玄と戦い続け、信長都の同盟を守った
最も恐れたのは信玄かもしれないが、
最も畏れたのは信長であろう
ところで家康は天下取った後も
どうして江戸なんてど田舎にとどまったのだろうか
やっぱ西の連中が怖かったのか
>>126 当時の「近畿一極集中」がひどかったからだ、という人口学者の説があるよ。
1600年当時、日本の全人口の30%以上が近畿地方在住で、15%以上が京都大坂堺周辺に居住。
これは、驚くべきことに、ほぼ今の首都圏一極集中と同じレベルで、
当時は石油や天然ガスを使うわけではないから、比叡山も東山も六甲山も生駒山も禿山だった。
実際、家康は、幕府所在地を、「伏見」と「江戸」の二択で悩んでいたという説がある。
(まだ大坂には秀頼がいるから、上方の候補地は伏見になる)
結局、「一極集中の弊害打破としての首都移転」の発想で、江戸にしたわけだが、
どうも江戸は、最後まで家康の趣味に合わなかったらしく、
彼は、何かと上方や駿府に滞在し続け、江戸には寄りつかなかった。
真に「江戸政権」が出来たのは、家光以降。
当時の人間に、そこまで近代的な思考ができるかな?
まあ室町は早々に弱体化したから、京都って選択肢も危ないと言えば危ないな
いいことあるさ。
130 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 03:41:20.63
ムラマサの鍛冶職人らしいな
131 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 15:24:38.09
何か今横山光輝の家康読んでるんだけど信康って殺されて当然な奴じゃねーか
影武者家康じゃ、スゲー善人に美化されてんな
坊さん殺したりとか侍女殺したりとかこれ史実でしょ?領民殺したりとか
ありえねーだろこれ、これが頭首に成ったら武田どころじゃ無くあっという間に滅びるわ
どっちも創作だろアホw
マジレスすると
伊賀越えのときの名もなき落ち武者狩りの奴らだろう
若い頃は今田義元、青年期は武田信玄、晩年は豊臣秀頼
豊臣家を滅ぼしたところで、やっと安堵
136 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:31:14.87
家康が最も恐れた女は誰なのか?
137 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:42:09.83
・淀殿
・北政所
・築山殿
・朝日姫
家康は結構女に苦しめられた
138 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:44:55.76
全国の東照宮にはすべて豊臣秀吉が祀られている
東照宮といえばもともとは東照大権現、すなわち徳川家康を祀って江戸時代に造られた社なのだが
明治時代に徳川家康を唯一臣従させた男として明治新政府によって豊臣秀吉が合祀され
徳川家の反乱を神界からも押さえるという処置がとられた
家康がそんなに織田や武田を怖がっていたのならばそっちを祀っただろうに
139 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 16:56:00.85
家康どころかその子孫の意志すら反映されてない祭祀状態を根拠にするとか、ちょっとどうよ。
140 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 17:16:09.14
そら、子孫に聞いたら徳川家にとっては
何よりも江戸幕府を終わらせた明治新政府が一番怖かったでしょうよ
危うく一門切腹を命じられるところだったんだから
141 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 17:27:45.56
子供じみてるなあ。新政府を理屈抜きに殺す蛮族か何かのように捉えてるのか?
142 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:31:37.70
織田信長やら武田信玄は蛮族だけど、って?
143 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:33:14.84
明治新政府の強硬論者西郷隆盛あたりを
聖天子のように言うのもなあ。
徳川慶喜の切腹を求めてたじゃん。
徳川方の江戸城詰め旗本・譜代たちも新政府が江戸城を攻めるならば
朝廷から徳川に嫁いだ和宮を人質として殺すと新政府を脅してるし。
144 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:15:42.89
>>142 江戸末期に戦国時代の感覚で殺しまくれば蛮族。京あたりのろくに統率の取れないDQNどもと同じ。
>>143 >徳川慶喜の切腹を求めてたじゃん。
当主一人と一門では全く状況が違うんだけど。
>朝廷から徳川に嫁いだ和宮を人質として殺すと新政府を脅してるし。
島津のジャイ子じゃないのか。なんでかな。
そりゃ徳川幕府に関ヶ原大獄二度征伐と食らわされてる長州と
日本人の中に入れていいのか疑問がある薩摩が主力なんだから
怖くないわけがない
まあ家康もあの毛利輝元の子孫が逆襲してくるとまでは予想してなかったろうな
146 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 16:21:34.36
>>144 勝海舟が西郷隆盛にあてた手紙の中で「(江戸城に総攻撃をかけた場合)
和宮様の尊位は保ちがたい」すなわち、暴徒と化した江戸城詰めの武士たちによって
江戸城内の和宮が殺害されると指摘しているよ。
>江戸末期に戦国時代の感覚で殺しまくれば蛮族
幕末に人殺しまくってた新撰組とか勤王党とかは蛮族なわけか。
戊辰戦争で戦った官軍、会津軍、全部蛮族の人殺し集団か。
まあ、官軍のトップは明治天皇なんだがな。
武士も公家も殺人に加担しまくってたし。
147 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 19:01:34.86
治安維持目的と戦争なら殺しても理由が付くが、政治的事情を考慮せずに
味方に不利になるような殺し方をすれば蛮族。
欧米列強環視の下で敗軍の将皆殺しとか、明らかに蛮族レベル。
非白人時点で既に蛮族扱いなのはあり得るが
敗北者徳川を殺しまくるから蛮族扱いという理由にはならないだろ
ムハンマドアリーとかオスマン帝国とか清とか李氏朝鮮とかの粛清で
欧米が引いたと言う話もないしな
149 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:03:48.34
>>147 戦国時代でもむやみな殺人ばかりが行われたわけじゃないんだがな。
明治新政府が負将に寛大だったのは、欧米という仮想敵国を前に
日本人をむやみに殺すべきではないと思ったからだろ。
しかし、治安維持のために徳川家に切腹を申し付けることなどいくらでもできる。
150 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:22:22.60
>戦国時代でもむやみな殺人ばかりが行われたわけじゃないんだがな。
戦国一律で語ってる時点でアウト。権力者個別で語れ。
>日本人をむやみに殺すべきではないと思ったからだろ。
なんでそう思ったか深く考えたことがないだろ。
>しかし、治安維持のために徳川家に切腹を申し付けることなどいくらでもできる。
そこまで行ってたら慶喜が譲歩するかよ。
151 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:38:26.68
>>150 徳川慶喜が大政奉還、辞官納地をしたのは
そうしなければ殺される恐れがあったからだろ。
そんなことしなくても明治新政府は蛮族ではないので、
絶対に徳川家の人を殺さない確約があったけど、
理由もなく朝廷に政権を返上しました、とか本気で思ってんのか?
152 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:40:40.48
>>150 徳川家は武家なんだが。
自分から戊辰戦争起こしておいて部下を見捨て逃げ惑う将軍。
意味不明。
153 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 20:34:25.47
フランス人だってロシア人だって、
革命のときに王侯貴族を殺しまくってるだろ・・・
それくらいで蛮族扱いとか、ありえない。
当時の欧米は話が分かる奴が自分達には関係ない
内政で粛清しようがオールOKですよ。
ってか今でもサウジアラビアやクウェート、ブルネイとかは
西側基準の人権無視でも西側は何も言わないし
155 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 22:52:17.03
>>146 勝らしいはったりだね。
篤姫の命もかな。
目前に迫る死を恐怖させたのは
三河一向一揆
武田信玄
伊賀の野伏り
真田幸村
自分がどう処分されるか攻めらるかと一定期間潜在的な恐怖でありつづけたのは
今川義元
織田信長
武田信玄
豊臣秀吉
総合的には信玄でいいんじゃないかな
>>145 正確に言うと輝元じゃなくて秀元の子孫だけどな
イエズス会だね。
>>156 金ヶ崎城撤退(浅井・朝倉挟み撃ち)が抜けている
160 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 16:59:31.14
161 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:37:45.57
162 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 23:50:56.68
家康が恐れたのは
信長>>>信玄>>今川義元>>秀吉
基本的にはこれらが全部死ぬまで天下構想など微塵もない。
歳も近く元同僚ともいえる秀吉のみ、ちょっと抵抗してみた。
秀吉死後は特に恐れるという存在はいなかったが最終的に天皇家という存在にぶちあたった。
徳川が何代続くかはわからんが、やがては天皇家に政権を返上することになると予見していたろう。
なにかのドラマで見たが慶喜の夢枕に家康の霊が出てきて「15代かぁ、よう続いたのう」というのがあった。
実際、家康にすればそこまで続けば満足だったかもと思った。
163 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 08:56:15.15
>>162 家康は禁中並公家諸法度を制定して朝廷に公布し、
(一応将軍秀忠の名で出したが、家康が崇伝に命じて起草させたもの)
天皇と公家の政治関与を一切否定、将軍が天皇を支配する体制を確立させたのに
天皇に政権返上なんて考えてるわけないだろ。
164 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 09:36:15.11
>>162 そうそう信長の命令で妻子を殺しちゃうほど信長を恐れていたよね
本当信長は残虐やで〜
165 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 09:57:55.15
信長厨必死すぎw
じゃあ信長は恐れられていないってことでいいな?
別に誰も恐れてないんじゃねえの
家康さんがもっとも恐れたのは自分(の寿命)と言ってみる
家康って信長に忍従していたイメージあるけど
信玄と殺りあったり、信長死んだ途端秀吉と殺りあったり、臣従しても上手いこと付き合ったり
結構三河者で野心家だよな 信長だって家康には結構気を使ってたんじゃないか
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171 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 20:37:53.55
>>169 そりゃそうだろなにせ信長より強い秀吉を野戦で撃破してるんだから
172 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 09:56:50.31
>>171 家康って他の戦地へ秀吉が赴いているときの奇襲攻撃で一部の城を落としただけで
あとは膠着状態じゃなかったっけ
日本軍だって真珠湾奇襲攻撃の時にはアメリカ本土に被害を与えてるんだよ
173 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 10:37:55.87
まぁ秀吉は家康を恐れてたんじゃないかって説はあるよな
174 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 14:34:45.95
秀吉亡き後、当然秀吉の三成らは突出する家康の力を削ぐ方策を練ったと思う。
家康も豊臣政権内での力のバランス次第では討伐される危険もあることは承知していたはず。
家康側からすれば、天下を取る以外に徳川家を存続させる術がなかったと思う。
子供のころ怖かった今川義元じゃね?
信長秀吉信玄は大人になってからだし。
176 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 17:39:28.68
>>173 恐れてたなら秀吉が生前に殺してただろ
家康に秀頼を殺されることが生前からわかってたら
朝鮮出兵なんてやってる場合じゃないし
177 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 00:47:53.23
秀吉サイドから家康を見て怖くて取り潰せない存在なんだったら、
秀康を重用して、家康の250万石を、
秀康100万石と秀忠150万石に分割するようなことが、
できなかったんだろうか?と思う。
家康を隠居させて、
微妙な仲の2人を互角に戦えるぐらいの規模に分けとけば、
豊臣ももっと安泰だった気がするんだが。
178 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 07:08:40.85
村正
179 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 07:33:44.75
>>177 秀吉は家康に「これからは義兄上に甲冑を着せるようなことはいたしません
(私が盾となって出陣します)」と言われて信用しちゃったんだろうなあ。
少なくとも信用してなければ五大老筆頭という筆頭家老の地位に家康を付けんだろう。
秀吉は家康の天下取りの野望を見抜いていたが
徳川は強大で強すぎたために秀吉の手におえず滅ぼせなかったと書く人がいるが
天下統一した時の秀吉の全兵力を持って徳川家を叩けば豊臣が勝ってたと思う。
180 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 07:48:12.24
実力のある人間に冷や飯を食わせると、不満がある人間を糾合して秀吉存命中に
政権転覆が起こったことだろう。政治外交は軍事よりも力があるからな。
秀吉が大した落ち度のない家康を潰そうとすれば、家康以上に落ち度のある
子飼いを除く全大名が敵に回る。
181 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 07:59:58.62
>>180 長久手で仮にも秀吉に一度は弓を引いたというのは犯罪だろう。
和睦条件として徳川へ嫁いだ秀吉の妹朝日姫とも不和で、
朝日姫は1年半ほどで秀吉のもとへ逃げ帰り聚楽第で没した。
どうやったら家康が最大の忠臣になるのか分からん。
182 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:43:01.12
家康は秀吉による下克上の最中に、家康は盟友の息子である信雄に加担した。大義があるのは
家康信雄コンビの側だ。アホの信雄が勝手に和睦して講和せざるを得なくなっただけ。
主従関係は江戸期の馬鹿みたいな原理主義でなく、御恩と奉公の関係で成立する。
家康が秀吉によって加増されようが、軽格から大名にまで成り上がった秀吉自身が織田家に
大した御恩を感じていない以上、諸大名が秀吉からの御恩を有り難がるいわれはない。
そういう時代なんだよ。
戦国期の主従関係は、徳川の家中のようなガチガチの譜代なら磐石、秀吉のような一代限りなら
ほんの義理程度の関係だ。
183 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:51:06.18
>>182 北条は秀吉に滅ぼされたのに、家康は滅ぼされなかった。
秀吉が信用していた以外にどんな理由がある?
家康が秀吉を凌ぐ絶対権力者だったのならば
国替えなんて応じる必要なかっただろうに
184 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:54:10.64
勢力が圧倒的でなければ相手は潰せない。秀吉の政治外交的基盤は家康のそれと
かなりオーバーラップしている以上、島津や北条を潰したようにはいかない。
185 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:55:53.66
秀吉の死後に池田その他が家康になびいていったことなどは明確にその状況を表している。
186 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:58:05.54
同時代人の価値観では、秀吉は信長の事業を引き継いだだけ。
豊臣に統治能力がなくなれば、信長の唯一の盟友にして最大勢力の家康が跡を継ぐのは当然。
秀吉もそのような脆弱な基盤に立っていたから、家康に破格の優遇をして懐柔せざるを得なかった。
187 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 09:37:06.53
徳川幕府が安定政権となったのは、徳川に代わる勢力がなくなったため。
大大名が手を組んで乱世に戻すことはできたが、彼らは既に既得権益層になっていて、
自分たちの基盤をあえて崩して現状以上の利益が得られる可能性は低くなっていた。
188 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 11:21:36.38
>>186 三成が嫌いな大名が家康についただけだったんじゃ?
秀吉が死んだ途端、「秀頼を殺して家康様について行こう!」
と諸大名が言ったわけじゃないでしょ。
秀頼がトップ、家康ナンバー2を維持したかっただけ。
豊臣恩顧大名の機嫌を取るために関ヶ原後
家康は征夷大将軍就任を叩かれないために孫娘の千姫まで嫁がせてるじゃん
189 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 14:20:48.55
信長
三河家臣団
191 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:02:26.31
>>188 関ヶ原は家康にとっていくつもあった選択肢の一つに過ぎない。三成と子飼いの対立が
最も家康にとって利用しやすかっただけ。
もちろん、家康が天下を豊臣から奪ったのは結果的にそうなっただけで、家康は
徳川家が最も力を持てる選択肢を選び続けただけ。別に豊臣政権下の執権のような
立場であっても、それが最善の選択肢であれば無理に政権簒奪には動かなかっただろう。
192 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:24:01.68
>>191 だから、186は間違いじゃん。
秀吉が死んだ途端、「次は家康さまの世ですね」
と諸大名が秀頼から離反したわけじゃない。
193 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 20:29:13.69
>>186は「豊臣に統治能力がなくなれば」というのが話の前提。
家康が豊臣の統治機構のもとにあるか、独自の統治機構を作る方向にシフトするかは状況次第。
どちらにしろ、家康は最大の重鎮であることに変わりない。
秀吉亡き後、政治の実権は家康が握った。
もちろん秀頼の名で政治を行うわけだから独裁ではないが。
権力を手にした家康はその権力を他人に渡すわけにはいけない。
渡せば過去の権力者である自分が討伐される側になる可能性があるから。
家康が三成ら反家康派を軍事で抹殺したのは生き残るための必然だと思う。
195 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 00:14:08.79
>>156 これも追加したらいいかも
死ぬ直前に恐れた
島津義久
196 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 10:31:52.00
家康が同盟の相手を今川から織田に乗り換えたのが日本史のルビコンだったかな。
それにしても
織田=徳川同盟では家康は信長のポチだったようなイメージがあるな。
ほどんど家臣扱いみたいな感じだ。
そのへんのところはどうだったか
ちょうどいい本が出たのでいま読んでる最中だ。
197 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 10:43:19.40
>>193 >豊臣に統治能力がなくなれば
秀吉が死んだとき跡取りの秀頼はわずか7歳で政治を執ることができない
そのために秀吉は家康に秀頼が成人するまでの一時的な政治代行を頼んだ
しかし家康は秀吉の遺言に従わずお家乗っ取りを図っただけだろ
秀吉がしんだとき秀頼が成人していれば
秀吉は家康に政治代行を頼むこともなく家康の政権乗っ取りはなかったはずだ
198 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 10:50:21.17
>>197 >秀吉がしんだとき秀頼が成人していれば
その場合には統治能力があるという話になる。
秀頼が淀のいいなりの暗君で、政権崩壊に進んだ可能性も高いけど。
199 :
通:2012/01/19(木) 10:59:05.23
家康を脱糞させた武田信玄
200 :
通:2012/01/19(木) 10:59:56.21
秀頼か秀忠
201 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 11:03:09.68
小早川秀秋
202 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 16:11:25.40
>>198 しかし家康が大阪の役前に死んでいれば
徳川政権は潰れてたとも言われているわけで
所詮はifの話
それから淀が政治関与した確実な記録があるのは大坂の役の少し前から
秀吉の死後すぐに淀殿の独裁体制になったわけじゃない
203 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 16:59:11.71
>>202 >所詮はifの話
豊臣政権が続いた可能性を延々と語る君がこの言葉を持ち出すのはちょっとどうか。
>それから淀が政治関与した確実な記録があるのは大坂の役の少し前から
>秀吉の死後すぐに淀殿の独裁体制になったわけじゃない
それまでは豊臣政権を家康が仕切ってたんだから当然だ。
204 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 18:26:40.25
>>203 ifの話を語り続けるのであれば、
秀吉が死んだとき豊臣家に成人男子があれば統治が続いただろうよ
関ヶ原だって、秀頼君は幼少のため中立、
家康VS三成だったから家康が有利だっただけで
成人した秀頼VS家康ならば、秀頼が圧倒的に有利だ。
205 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 18:35:32.05
>ifの話を語り続けるのであれば、
>秀吉が死んだとき豊臣家に成人男子があれば統治が続いただろうよ
自己満足でいいなら、いくらでも自説に都合のいいifを想定してればいいと思うよ。
議論は成立しなくなるけど。
秀吉が亡くなるまでは明らかに受動的な行動パターンだったと思います。
誰かを恐れていると言うより、自分の力が及ばないので、
強者に従順に従うという至極真っ当な選択をしていたと思います。
ところが権力を手中にした瞬間、急に積極的になり、
前田や上杉などライバルを次々に屈服すべく行動します。
家康と秀吉は似ていて、老獪だとか善悪だとかという人物評を超えて、
政治力学を読み行動することに長けた人物だったと思います。
207 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 07:06:13.57
>>205 おたくも自語りをやめることだな。
お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
豊臣政権が崩壊したかどうかについて議論するなと言ったり
しろと言ったり、無茶苦茶だな。
208 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 07:37:07.91
>>207 こっちは
>>186で、「豊臣に統治能力がなくなれば、信長の唯一の盟友にして最大勢力の家康が
跡を継ぐのは当然。」と書いた。史実そのものを分析する話だ。
こっちは可能な限り史実をベースにしているのに、君は「家康が政権を簒奪しかなった可能性」というifを
模索するためにどんどん史実とかけ離れたifを設定していった挙句、それに付き合ったこっちが
そのifを持ち出したかのように批判するなら、あとは自己満足でやってればいい。
>お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
たとえば、「秀吉が死んだ段階で秀頼が成人していた」というifは
>>197で君が持ち出したものだろうに。
自分で自分のヘマを批判して相手に押し付けていることを本気で自覚できないのかね。
209 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 07:43:02.71
>お前が勝手に秀頼成人でも豊臣政権は崩壊したと妄想しているだけだし。
ifの話なのに、何故か君の中ではさしたる根拠もなく結論が100%決まっているようだ。
思い込みの激しい子だね。
210 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:45:00.52
>>208 豊臣政権が滅んだら皆家康が跡を継ぐのは当然だと思っていた、
どこが「間違いない史実」なんだw
お前なあ。
日本史板なのだから史実だというのならばまずはその根拠となる史料を引用しろ。
お前の話が妄想だというのが分かる?
お前がいかに自己満足な人間かが分かるかい?
211 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:45:54.07
>>210 思い込みの激しさはお前のほう。
ifと史実の区別ができない。
212 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:47:08.16
>>208 史料にないことを推測することがifなんだよ。
お前は史料もないことをを語りながら「俺の言っていることは史実」だという。
どうしようもない馬鹿すぎて話にならん。
213 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:58:25.51
>>211さんが代わりに指摘してくれてるから、私はこの子供にレスするのをやめておこう。
社会経験がなく政治闘争の実感が湧かない子供には政治など語れない。
小説やゲームの設定をそのまま鵜呑みにして思い込みを語るから厄介だ。
214 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 09:22:01.76
>>213 子供はお前ねw
史料は結局出せないわけね
215 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 09:22:31.34
>>213 史料を出せない=負けを認めたわけだね。
お前の説は史実などではなく妄想。
216 :
211:2012/01/20(金) 09:23:37.07
>>213 209へのレスの間違い。
どう考えてもお前の説がおかしい。
210は正しいだろ。
どっちの言ってることもifだ。
217 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 09:24:20.43
双方ifの話をしているのに208みたいな馬鹿がいるんだなあ。
日本史板なんだから馬鹿爺は引退しろよ
218 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 09:42:03.78
よく吠える子供だなあ。
219 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 09:46:15.98
>史料にないことを推測することがifなんだよ。
史料にないことを史実に則って推測するのは仮説。歴史研究の手段。
「秀吉が死んだ段階で秀頼が成人だったら」などと史実と異なる状況設定をするのはif。フィクション小説や子供の妄想。
メジャーな人のスレは
どうしても痛いのが沸いてくる
221 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 10:27:44.23
>>219 お前の説がフィクション小説や子供の妄想。
史料にないことを史実に則って推測などしていない。
秀吉の死後即、「家康政権を」とのぞんだ史料はないだろ?
どこか「俺のは正しい史実によるものだ」になるんだ
222 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 10:28:16.44
>>218 良く吠える爺だな
話し相手いないんだな
223 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 10:48:40.86
教育すべきことは書いてやったから、その上で馬鹿な子供が理解できなくても、
またあのアホ嬢ちゃんかと呆れるしかない。
馬鹿な子だ。
224 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 11:01:14.90
>どこか「俺のは正しい史実によるものだ」になるんだ
実際に家康が征夷大将軍となって政権を奪ってるんだから、周囲が望まなかったわけがない。
将軍は自ら名乗ってなれるものではなく朝廷が与えるものだし、武家のコンセンサスもなく
武力を持たない朝廷が勝手なことをすることなどできないからな。
225 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 11:02:46.23
>>219 仮説とifの区別はそれでいいとして、
その上で君のは仮説でもifでもなくね?
史料に則ってもないし、史料に反してもない。
226 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 11:17:14.02
>>223 定期的に話し相手のいない馬鹿が現れるな。
爺じゃなくてお前、10代不登校児だろ。
>>224 信長が内大臣になったのは周囲が望んだからとか?
家康が関ヶ原勝利の恩賞をくれと朝廷を脅したからだろw
馬鹿者。
子供も爺も両方消えてもらえないだろうか
228 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 16:50:27.26
>>225 馬鹿な子供のif話に反論するのに、無理に仮説ばかりを持ち出す必要はないじゃん。
229 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 16:55:41.26
>>226 >爺じゃなくてお前、10代不登校児だろ。
自己紹介乙。
>家康が関ヶ原勝利の恩賞をくれと朝廷を脅したからだろw
とことん政治が理解できない阿呆な子供だな。
>>227 そうだね。新たに教育してやることもないから、私は消えるよ。
アホな子供が騒ぐかもしれないけど、そこまでは責任持たないよ。
230 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:17:33.98
>>228 >>229 しつこい引きこもりニート、引き際悪いなあ。
政治も経済もしらない知ったかのいつかの淀アンチ家康大好きホモヲタだよな?
225に反論できず。
自分で史料読解一つもできないことをさらけ出しただけ。
負け犬ニート、二度と来るなよw
231 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:23:14.42
子供は早く消えてね。
232 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:24:26.24
>>196 自分もルビコンだったと思います。
当たり前ですが戦国時代は勝ち馬に乗ることが何より重要で、
家康は織田という勝ち馬に乗り、豊臣政権に好条件で参加できました。
黒田、藤堂らが家康を担いだのも勝ち馬に乗るためでしょうし。
ただ徳川政権は親藩譜代に守られ、力比べの時代を終わらせてしまいましたが。
>>233 織徳同盟は、織田にもメリットが大きかったろう。
背後を気にせずに、西上できたのは、徳川を味方につけたから。
今川ー徳川連合に背後を脅かされていたら、ああはいかなかった。
そういや桶狭間って大勝利だけど
領土的には三河を家康にやって、今川の旧領は武田と家康が切り取ったから
尾張より三河の家康のほうが広いじゃん 信長は美濃に行けるって以外に利益ないじゃん
あれで美濃落とせなかったらいいとこなしじゃん
家康が臣従の意を表したから信長も応じて見せただけで
そうでなければ家康を滅ぼしてただろ
信長にとって家康は自分の家臣よりも危険な戦地へ向かわせる
手駒にすぎない
>>236 もちろん対等だとは思いませんが、
信長と家康の間に個人的な信頼関係がなければ
あれほど長期に成立しえなかった同盟だと思います。
>>235 そこが信長の凄い所で、当初から美濃だけを目指していたと思います。
美濃を取れば天下を望める。東は家康に任せておく。
選択と集中ですね。
だよなぁ 普通なら総大将ぶっ殺したら
そのまま今川領をぶんどりに行くだろうに
さっさと他人にやって北に行こうってんだから
斎藤龍興が死に今なら美濃を取れると確信したから
駿河なんかどうでもよかったんだろ
龍興()
1560年時点で尾張内の一地方領主でしかない信長に、今川領に攻め込む実力なんかないよ。
義元を殺しただけで、今川家を滅ぼしたわけじゃないし。
その後に今川家が弱体化するのは結果としてわかったことで、桶狭間直後では未知数なんだから。
下手に攻め込んでも、尾張国内の対抗勢力に背後突かれるのが確実。
まして、仮に今川領に攻め込むことはできても、継続支配できるかはまったくの別問題なわけで。
三河に有効勢力見つけて後援し、今川領内の混乱を尾張に波及させず、同時に今川家に対する防波堤と尾張統一の足場固めにもする。
当時の信長の実力を考えれば、戦後処理の外交として見事すぎるほどでしょう。
>>235 義元を討ち取ったといっても桶狭間の合戦は尾張領内で起きた防衛戦だし
今川の領地をとるには三河侵攻からはじめて駿河までいく体力がなかったんじゃないかなあ
美濃を制圧するのにも何年間かかけてるし
あと、みんな京に登りたいのに北陸、関東東、海東の有力大名が小競り合いで領地から動けないのは凄い馬鹿げた状況に見えただろうし
信長と家康の強固な同盟関係っていうのは織田にとっては望むべくもない状況だったのだろう
243 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 20:20:37.95
豊臣秀次
昨日テレビで名君だったと知った。
秀次が秀吉を後継してたら末代まで豊臣に臣従するところだった。
245 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 21:03:39.87
近江八幡城主時代の評価は高いんだよな
有りえないが秀次事件が徳川の陰謀だったら凄いなw
秀次の代になったら権力を失う人=三成らの陰謀かな
豊臣政権下の派閥
文治派(三成、行長ら対朝鮮・明和平派)
武断派(清正、正則ら北政所に近い武将たち)
隠れ徳川派(藤堂、黒田、伊達ら)
ってとこなんだろうか
249 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 12:15:00.79
結局のところ、
豊臣政権は秀吉を盟主とする全国の有力大名の連立政権だろう
豊臣家の派閥としてはよく言われるのは、近江衆と美濃衆だよね
徳川家は豊臣政権の一派閥と言うよりも、
豊臣政権の成立に貢献している「連立政党」の有力党って感じかな
ほかに尾張衆として前田家、そして毛利なども政権を支える与党の一
>>249 確かに成立条件とすればその通りだと思うのですが、
朝鮮征伐、秀次事件を経て対立が先鋭化して行ったのではないでしょうか。
ついては関ヶ原へと繋がるように。
251 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 14:18:59.92
>>249 それをいいだしたら室町幕府は足利将軍を盟主とする全国守護大名連立政権、
江戸幕府は徳川将軍を盟主とする全国大名連立政権だけどね
秀頼が幼くなければ豊臣政権に五大老制度を作ったかどうかも怪しい
家康に対抗する勢力として三成らは毛利を担いだが器量がなかった。
やはり家康しかないというのが東軍を形成したということでしょうか。
>>235-242 信長から見ると、東にはあんまり旨味が無かったんだよ。
慶長度(16世紀末)の検地の数字を見ると、
尾張国≒伊勢国≒美濃国≒「三河国+遠江国」(≒50万石台中盤)
つまり、三河と遠江を足し合わせて、やっと狭い尾張一国と同じ生産力を確保できるレベルに達する。
信長としては、東から変な奴が来る事態が無くなることが重要で、
あとは美濃伊勢近江と、生産力の高い美味しい土地へ突き進むことになる。東はどうでもいい。
他方、三河の弱小大名だった家康から見れば、三河と遠江を押さえることは、これはなかなか美味しい。
これで、尾張以西における国持大名と対等に渡り合える50万石台の生産力を確保出来る。
実際には武田が中部山岳方面から、場合によっては北条が関東方面から切り崩してくるから、
実効支配30万石台の可能性もあるわけだが、それでも悪くない。
昔コンプティークで東へまっしぐらに攻め込む信長の小説があったなぁ。
あの小説での家康はどうなってたんだか・・・
>>253 家康的には三河湾から信州に続く塩の道の完全確保ができるだけでも大きいからな
信長家臣の中には家康との同盟に反対するものは大勢いたと思うよ
松平や今川との抗争で親兄弟を亡くした者も大勢いたわけだから・・・
義元亡き今、積年の恨みを晴らせってね
信長個人の野心や損得勘定でそういった奴等を引っ張っていくわけだから、
その当時からリーダーシップは並外れていたんだろ
257 :
日本@名無史さん:2012/01/27(金) 10:46:37.37
リーダーシップというか、
まあ、問答無用の独裁だよな
逆らったら死あるのみだもんなw
>>256 まぁ最終的には岐阜城を攻め落として織田家を滅ぼしたんだから心情的な部分だけに限らず
反対するのも分からんではないかもね
戦国時代だから同盟といってもあくまでも利害の一致で一時的に結びつこうってだけだし
>>257 織田家と言えど戦国時代に独裁はないと言われてます
一応家臣団による合議制だろうな
最終意思決定するのは信長だろうが
家来に意見を言わせないということはまずない
>>256 臣従ではなく同盟っていう形は織田家の本意ではないかもしれないけど
三河との国境線の安定っていうのは信秀の代からの路線踏襲じゃないかな
重臣達はそれほど反対しなかったと思う
信秀時代後期は道三と結んでいました。
信秀の時代には松平って今川の配下だったよな
家康は今川の人質だった
264 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:36:29.03
米の生産高、貿易量、地理的条件、資源の産出量だけを比べてコンピューターでシミュレーションしたら誰が天下を取るんだろ?毛利あたりか?まぁ馬鹿な意見なのはわかってるから、批判しないでね。
265 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 08:31:02.23
そんな条件なら、毛利はそもそも勢力を拡大できんだろ。
結局秀吉の晩年の失策の余波を悪く受けたのが石田で
利用したのが家康なんだよな
267 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 02:19:23.21
信玄は結局同盟相手にせず戦った事と家康自信尊敬の念を抱いていた為一番
ない。
やはり信玄を敵に回してまで同盟を守った信長以外無い。
あと真田は当然論外。
服部半蔵やろ普通に考えて
信長が本能寺で殺されなかったら家康はどうなってたの?
明智は四国から外されたけどいずれ九州まで転戦しただろうし、秀吉もそんな感じでしょ。
滝川も関東の最前線に飛ばされてる。
家康は領国から動かされることはないにしても、今度は北条攻めの最前線に立つわけよね。
それが終わったら?国替えとか命ぜられないんだろうか
>>267 まあ、仮に信長より信玄のほうが強ければ家康は信長との同盟を保護にして
間違いなく信玄に同盟と庇護をもとめただろうからな
家康も信玄が都まで勝ち上って天下を執るとはさらさら見通してなかったんだろ
信玄が死ぬ間際に立った時点でも信長最強だった
272 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 18:13:37.77
いや、家康を慕う三河武士団の頑迷さを考えれば、
殺すことはまずあり得ないし、蟄居させる意味が第一分からない
家康との力関係は遙かに信長が強いわけだが、
あくまで軍事同盟の相手だし、織田軍団の高級幕僚に編入することも難しい
そうなると、「お市」の存在が際立ってくる
市を家康に嫁がせ、浅井長政的に織田「王家」の門閥的存在として
組み込む可能性は考えられたのではないか?
家康は信康切腹の際に正室築山殿を自らの命で殺害、
徳姫も織田家に返され織田家との婚姻関係は途切れたにもかかわらず
信長から新たな徳川との婚姻を言い出されることは二度となかった
信長のお家騒動を起こした家康に対する待遇もかなり落ちたものになっている
この期に及んで信長が新たな婚姻関係を求めることはなかっただろう
正室不在の家康に織田家の息女を娶らせることは可能であったにもかかわらず
そうしていないことからも明らかだ
>>272 信長は家康を信用していなかったからこそ家臣団に入れなかったともいえる
家臣でもないのに家康の扱いは家臣より酷く(死ぬ可能性の高い先陣ばかり)
とてもじゃないが義弟浅井長政に対するような厚遇は与えてないぞ
上杉謙信
異論は認めry
>>267>>270 家康が中部山岳の武田ではなく、濃尾の織田との同盟を死守し続けたのは、
地政学的な問題が大きいんじゃないかなあ?
「静岡県は東西交通の要衝である」という、世間一般の常識を一度疑いながら、日本地図を眺めると、
「東部伊豆を除く静岡県&愛知県東半分(三河国)」は、
南の太平洋(フィリピン海)に突き出た、半島状の地形になっていることが分かる。
名古屋市と富士市を結ぶラインから、南側に突き出ている地形なんだ。
この「浜松半島(仮称)」こそ、関東転封までずっと、家康の根拠地だった。
そして、この浜松半島に対して、中部山岳の武田がいわば「大陸勢力」として、強い圧迫を加える。
武田に本当に負けたら、脱糞するどころでは済まされない。家臣団まるごと、遠州灘の鮫の餌になってしまう。
これでは、武田にどんなに張り合っても、対等な関係は結べない。常に、李氏朝鮮のような絶望的な属国になる。
ところが、織田は浜松半島の西側に勢力を持っていて、地政学的な従属関係にならないから、
曲がりなりにも対等な関係を結ぶことが出来る。しかも、「西側に同盟国」を持てば、
家康は浜松半島からの脱出路を確保して、浜松半島を東西から塞がれることを免れることが出来る。
信玄上洛企図から、長篠の戦いにかけての武田の動きは、結局、武田の「浜松半島封鎖戦」の一環だった。
浜松半島で、家康の防衛網の一番鎖の弱い東三河に、信玄も勝頼も執着したのは、
ここを塞げば地政学的に徳川は、豊橋と静岡を塞がれ、完全にオワコンになるから。
>>276 武田信玄が都へ攻め上って天下に大号令をかけるとなれば話は別。
信玄は晩年、甲斐を出、都を目指した。
しかし、家康はこのときですら信長との同盟を死守した。
つまり、信玄は都へ登ることができないと見越してたってこと。
>>277 いやいや、何も変わらないよ。
武田が、京都どころか豊橋に抜ければ、その時点で、戦国武将としての徳川家康の命運は尽きる。
故地の西三河を分断されることより、自動的に「浜松半島の先端部に監禁された状態」になることが致命的。
武田の、それも隷属的な下級家臣になるしか道は無くなる。
家康には、「信長を頼り、何がなんでも武田に渥美湾を見せない」という以外の選択肢は、
実は全く無かったんだよ。
選んだんじゃない。これしか選択肢が無かったんだ。地政学というのはこの帰結の説明として持ち出した。
しかも、東三河というのは、地勢的にも中央構造線の凹部で、山岳勢力としては「出やすい」ところ。
ずっと草刈り場だったから、地元勢は西三河とは別世界で、
いくら豊橋を預かる酒井が締め上げても、本来は、徳川に対する忠誠心は無い。
長篠のあの鳥居伝令磔伝説は、西三河的な徳川への絶対忠誠ではないからね。
279 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:39:51.17
>>278 家康が信長に武田への内通を疑われたというのは嘘だったのかw
武田が三河へ攻め込まなかったのだって地理的な優位性がなかったからだろ
つまり信長も信玄も家康を従属させるのは簡単だが三河に興味がなかった
>>279 信長から見れば、内通を疑うのも普通のこと。
つまり、地政学的に構造的に追い詰められてしまう「半島勢力」は、それがゆえに、
「既に大陸勢に取り込まれてんじゃね?」と、傍からは常に思われてしまう。
N速の連中が、中韓関係ネタが出るたびに、韓国政府がどんな態度を取ろうが(←ここ重要)
「宗主国中国に支配して貰え」だの「ニダー、叩頭礼の時間アルヨ」と揶揄したりするのと同じ感覚。
信康事件は、俺は通説通り、誤解からの悲劇とみてよいと思う。
あと、三河国は、西半分と東半分で、
地理的な位置づけも、地元国人の文化的体質も全然違うので、ざっくり括るのは危険。
西三河は、徳川家臣団以外にはどうでもいいところだったんだろうけど、
武田から見れば、今の豊橋を抜いて海に出ることは、隠れた重要課題として、信玄と勝頼に共有されていたように見える。
そう考えないと、信玄最晩年の奇妙な動き(静岡県二俣まで出ておきながら、なぜか死んだのは愛知県内野田城)や、
勝頼の、高天神とはちょっと違う長篠への執着はみえてこない。
>>280 てか信玄としては海ゲットして
あとは信長を適度にいじめられればおkだったんじゃないか?
まあそのあたりがアレですよ。
焦ったのが結核の進行の為、と。
そりゃ信玄にあと20年寿命があれば楽勝だったんだろうけどね。
浜松半島とやらを仮定して、それを隣の大陸の事情に当てはめるなら、徳川は武田に従属するのが自然のはず。
西で別勢力(織田)と繋がってれば大丈夫とか、別な方角で別勢力と陸で繋がってる時点で、それは半島じゃない。
豊橋を落とされての封鎖状況は半島と言う地形となんの関係もない。ついでに言えば、家康の根拠地を西三河にするだけで回避可能。
>278で言う以上に優先する問題と有利な条件があるからこそ、家康は浜松に居続けた。
正直他にもつっこみどころありすぎ。
「半島は云々」の結論が先にありきで、都合良く史実を当てはめて解釈してるだけにしか読めなかった。
あと地政学は一つの要素でしかない。それだけで全てが決まるわけではない。
申し訳ないが、このレベルで地政学云々はしないほうがいいと思う。かなり勘違いされてます。
284 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 12:21:57.74
>>282 信玄は無理でそ
「あの江戸幕府初代将軍徳川家康を蹴散らした」
ということで英雄扱いされてるだけ
285 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 16:44:36.29
信玄の従来の戦略からしても真剣に天下を取ろうとしていたとは思えないな
美濃や遠江を切り取る都合の良い口実ぐらいにしか考えてなかっただろう>信長包囲網
>>283 地政学なんて、道具立てが大きすぎましたかねw
俺は、そんなに突っ込まれるような説をぶち上げているわけじゃないよ。
ごくごく平凡な、通説的な見解を、地勢・地理的な観点から、説明し直しただけ。
要するに、武田が滅びるまで、家康は「地理的に逼塞した状況」に置かれていて、
史実(織田と不均衡な同盟を結びながら、武田の猛攻を必死で耐える)以外の他の選択肢は、
事実上何も無かったに等しかったのだ、ということ。
「家康は、地理的に逼塞状態におかれていた」
これが俺の言いたい話。これに尽きる。
これは何に対する反論かというと、
>>276の最初に戻る。「静岡県は東西交通の要衝であるという常識から離れて」
ここなんだよ。
三河・遠州・富士川以西の駿河というのは、実は、「南に凸状になったどんづまり」なんだ。
「東海道の要衝を押さえる神君家康公は、偉大なる慧眼を以て、山岳から出られない武田の命運を見限り、
将来性溢れる織田信長公との同盟を主体的に選択した」
というのが、誤りだろうということ。
あと細かな話、家康がgkbrだったことも、勝頼がおそらく豊橋まで抜くつもりで長篠攻めをやったことも、
まあ常識的な話だと俺は思うけどね。
だから上杉だと
信長もパニクった軍神
>>286 いや十分突っ込みどころありすぎです。
「静岡県は東西交通の要衝」では無いのなら、他のどこが要衝だったの?
これ、戦国期どころか、他の時代全部見直す必要が出るほどの新説だってことに気がついてます?
まさか、武田と徳川が争った時期だけ要衝じゃなかったとか、変なこと言いだしませんよね?
要衝じゃない土地で武田は徳川と10年以上もなんで戦い続けたの?もっと重要な土地攻めた方がよくない?
京を目指すのが目的だったとしたら、それこそ要衝でもない土地は放置でいいでしょ。
しかも史実では結局徳川を滅ぼせなかったわけで、これじゃ武田が愚かすぎますよ。
家康が浜松に居たのは誰からの指図でもなく、家康自身の判断です。
安全だけ考えるなら西の岡崎にいれば済む話でしょ。少なくとも豊橋落とされて孤立する危険は無いのだから。
>286が言うような、要衝の土地でもなく、簡単に逼塞させられる危険のある遠州に、家康自らが乗り込んで守り続けた理由は何?
gkbrしてたと言う家康と、浜松に居続けた家康。この両者に整合性が無さすぎます。
豊橋を抜くもなにも、史実では抜かれてないわけで、一度として逼塞した状況になどなってないでしょう。織田との通交が途絶えた史実ありましたっけ?
他にも多すぎて書ききれません。
とりあえず、武田家を擁護したい人なんだろうなぁと思ったけど、あなたの説だと武田家は余計に報われてません。
徳川と織田との同盟は地理的な問題以上に、政治や経済面、家康と信長当人同士の関係などで推し量るべきです。
神君とか慧眼とか、それこそ関係ない。
追記しておくと、遠州・三州の地形条件で重要なのは、それが南端にあるとかではありません。
山岳部が海に近く、平地部が東西に細長い帯になっていることです。豊橋を落とされる危険性は、それだけで説明できます。
他にも重要な地理的用件はいくらでもあり、半島とか要衝とかの思考は、正直無用だと思います。
これ、そろそろスレチだよな・・・失礼しました
>>288 桶狭間後の家康の東進の理由については、既に論じられていたから省略したんだけど。
この理由は簡単で、当時の武将にとっては、支配領域は原則として大きい方がいいから。
「半島の一部より、半島の全部のほうがマシ」これは当たり前。
「ボクは半島勢になるのが怖いから、半島の一部に小さくなってます」なんて国は歴史上一つも無い。
つうか、今川亜盆後の権力空白に対しては、家康は全力で埋められるだけ埋める以外の選択肢は無い。
放って置いたら、それこそ遠州全部を武田が押えてしまう。
そして、目出度く三河+遠州の領主となった家康は、遠州支配のため、本拠地も東進させざるを得ない。
西三河では西過ぎる。東三河は、地勢的に致命的な難がある。遠州しか無い。
ただ、それは、どんづまりの奥へ奥へ入り込むことになるから、危険性も伴う。
実際、家康は第一候補が磐田だったが、逡巡して浜松に「引っ込んだ」
磐田では水が出なかったとされているが、奥に突っ込みすぎる前進守備に危険性を感じたという説もある。
「浜松半島」って、異常な感覚だと思うだろ?
みんな、東海道新幹線は東京大阪間を「まっすぐ走っている」ように、脳内補正で騙されているんだよ。
よーく地図をみてみ?東海道新幹線は、逆S字型に大きく迂回蛇行している。
関ヶ原の迂回は、冬場に雪で酷い目にあうことがあるので、多くの人が気付いているが、
浜松付近を頂点に、南側に大きく迂回蛇行していることは、
「中央リニア」構想が現実化するまで、ほとんどの人が気付かなかった。
蛇行しているということは、そこが凸部になっているということ。
そして、海岸沿いをなぞらなければならないということは、「半島としての条件が厳しい」ということ。
続き。静岡が、日本の地形の中でもちょっと特異な場所で、
「国土軸上の単純な回廊」ではないということは、分かってもらえませんかね。
細長い日本列島で、ここだけ「分厚く」、かつ「脊梁山脈と国土軸線がほぼ垂直に交わっている」ので、
ここだけは単純に軸線の考え方では語れない要素を持っている。
そして、日本海側は、「回廊が狭隘」なだけで済んでいる(親不知)が、
太平洋側は、中部山岳が、「山塊まるごと凸状に南へせり出している」形になっている。
(別に、プレートテクトニクスの話をするつもりはないので、そこは突っ込まないで欲しいw)
そして、まさにそこに、家康の本拠地があった。
かなり地理的制約が強くかかる、しかも特異にかかるところで、それが武田との関係に深く響いている。
ということで、
>>1の結論としては、
「徳川家康が一番恐ろしかったのは、甲信の覇者であった甲斐武田氏であった。
しかし、人間武田信玄が恐ろしかったのかどうかは分からない。これは、地理的な問題が生み出す勢力の地政学的不均衡だから。」
というのが俺の考え方になる。だから、武田を実は馬鹿にしてね?というのは、ある意味で正しいw
山地と平地というものがあるんだか。。。
>>289 つまり・・・
武田は駿遠三という半島先端の要衝でもない土地を得るために10年以上攻め続けたあげく、
gkbrしてた徳川家を滅ぼすことも降伏させることもできず、最後は自分が滅ぼされたと。
一方の徳川は、遠州という半島先端の要衝でもない土地を必死で守るために、家康自ら浜松に乗り込んだら逼塞させられて
gkbrしていたら、武田が先に滅んでくれたと。
スレ趣旨に沿って語るなら、恐れるほうも恐れられた方もお粗末の一言だな。そりゃ信長が強くなるわけだ。
こんなお粗末な武将が「誰を最も恐れてたのか?」とか、スレ立てて語る価値あるのかな?
半島云々は、スレ趣旨ともそれるし、いい加減突っ込むの疲れたんだけど、一つだけ。
「わかってもらえませんかね」と言うなら、中部日本の太平洋から日本海の間で、東西交通の要衝だった場所と道路を教えてください
たぶんそれがわかれば一発で理解できますから。
具体的には、駿河吉原から尾張鳴海までの区間の東海道を上回る交通量と輸送量と人口と経済力のある土地と道路がどこなのか、教えてください。
よろしくお願いします。
>>279 あれは信長の外部圧力説ではなく、
岡崎家臣団−信康と浜松家臣団−家康の対立で説明する説が出てるでしょ。
武田家が三河を分断してしまえば家康は降伏せざるを得なくなるのは確か。
長篠も、信長は後詰が間に合わず落ちてしまえば引き上げたんじゃないかと藤本正行は言ってるね。
信長も本願寺戦争があったとはいえ、相当、家康を窮地に追い込んでるな…
家康が天下取りを意識したのはいつ頃なのだろうな
信長がブイブイ言わせていた頃は、天下統一後の徳川の立ち位置を確保するのが目標だったのかな
北条や武田の領地をしきりに切り取っていったのは、どういう展望故だったのやら
秀吉に喧嘩売ってころにはすでに、わし天下とったるわ!って野望があったのだろうか
やっぱ、秀吉が幼児を残して、問題を山積みにして死にそうな頃からじゃない?
小牧・長久手の頃はどうかな?
正直あの時家康が勝っても彼が天下統一出来たかはわからないと思う。
確か対武田で功績を立てやすい岡崎派に対して後方なだけでもあれなのに評価されずらくて不満を持ってた浜松派が信康や奥さんを煽ったりしたんだっけ?
あと五徳が父親に信康関連で言いがかりの手紙かなんかもあった気がする
>>282 確かに今川・北条・上杉に囲まれて本領を発揮できなくて今川勢瓦解でようやく南侵出来たけど
信玄が小大名以外で勝って進行できたのって三河が初めてじゃね?
>>295 信長や秀吉と違って天下統一のプランがそもそもなさそうだね
案外、三河の一大名だった頃から野心満々だったかもな。
あの武田に喧嘩売りまくってた位だから。
でも、信長に悟られるとやばいから隠していた。史書でも忍従を強調しすぎてるきらいがあるし。
やっぱ本能寺の主犯なんじゃね?
>>296 浜松衆は家康直属
岡崎衆は信康付き
逆だ逆w
>言いがかりの手紙
そんなもんないよ
だから今は信康排除は家康の意志による物という説が強くなってる
信長>秀吉>光成>秀頼
じゃね?
@このまま行けば信長に殺されるのは分かってたはず
だからと言ってどうしようもできない 自分の息子を斬るほどの恐怖
A晩年の自分が据えた一門の関白すら大粛正する
独裁キチガイっぷりには本気で恐怖してただろ
Bあのタイミングで予想していたか否か
いずれにせよ分の悪い賭けをすることになる
C後の処遇的な意味で恐怖
合戦の瞬間最大風速は信玄。
後に武田贔屓してることからも分かる。
秀吉じゃない?
信長→普通に怖い人
信玄・信繁・勝永→殺されかけた
三成・光秀→関ヶ原や伊賀越えとか苦労させられた
秀吉→やだ・・・もしかして基地外?こわい・・・・
・秀次抹殺
・ついでに駒姫とか虐殺
・朝鮮出兵→無茶な要求をして再戦
etc
303 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:23:18.74
そりゃ苦汁をなめさせられた真田真之。存命中に大坂の陣が起きてりゃ、九度山で練った作戦が採用され、第二の楠木正成以上になってただろう。
304 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 00:27:12.79
三方ヶ原の戦いの時の武田信玄だろ これで鉄板!
よく生きて帰れたわなあ
305 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:14:22.06
武田信玄は偶発的な災難だよね
家康も追わなければ攻められなかったのに
信長に後で怒られるのが怖くて追いかけたら蹴散らされた
301さんが言うように本能寺の変で信長が死ななければ
家康は信長に討たれていたと思う
明智光秀が信長の命で家康を討つと言って軍を本能寺に向かわせたことでも明らか
伊賀越えも創作入ってるし家康は明智縁者を悪いようにはしてないしね
織田信秀だろ。
殺されて当然の立場で抵抗する力も無かったわけで。
>>303 過大評価もいいところ。むしろ真田のせいで牢人諸将間と譜代家臣の対立が激化し、大阪は自滅に突っ走った
家康が恐れたのは信長、信玄、秀吉。この3人以外になし
308 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 06:30:25.85
孕石元泰
>>308 たかだか主家の家臣の分際では属国とはいえ三河最大の国人領主にできることは嫌がらせ程度でしょ。
311 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 13:25:19.57
家康は案外恐れたのは国内より
スペイン国王フェリベ2世とか外国勢力じゃないの?
急激にカトリック禁止、スペイン船来航禁止したし。
海外の日本人町を通じてコステロ、ピサロの中南米虐殺侵略情報を
得ていたのではないか?
312 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 07:18:14.08
当時の日本に
マゼラン船団が日本に到達しなかった事は
幸運だった。
313 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 19:19:35.03
家康は長生きしただけ。
314 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:02:15.33
そりゃ信長だろ
命令とはいえ嫡男と正室の命を奪うって
あれはどうみても娘の婿を殺すのに舅に確認取っただけ。
家康が殺す気満々。だから信長も承認するしかなかった。
嫁と長男本当に憎かったんだろうな。
家康は家族への情は妙に薄いよ。
養子にやった秀康苛めたり、秀忠も駒でしかなかった。
逆に信長は家族に甘かったりする。イメージとは逆に。
弟殺したのも、二度も反逆した奴殺さないのは示しがつかないし、
反逆されたのも弟甘やかしたからだし、弟の子はマジに可愛がった。
子供も大事にして武将として物にしようとしてた。
316 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:56:10.15
今川義元でしょう。家康が人質の時には、いつ殺されてもおかしくなかったから。
317 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:14:32.76
天ぷら職人
318 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:37:58.41
忘れられがちだけど今川義元だろ
殺されるなら、織田信秀。
義元にとっては、家康は、戦をして人質交換してまで手にいれた大事な人質(三河衆統率に必要)。殺したら元も子もない。
320 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 06:13:57.23
今川義元にとって家康は三河を支配下に置くキーパーソンなんだから、そうそう殺すわけがないじゃん。
321 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 06:36:56.94
家康にとって駿河時代は良い思い出。
だから、駿河の地を隠居に選んだくらい。
今川義元は、自分の姪を家康の正室にして、
今川一門の準じるぐらいの扱いしているし。
三河の国は20万石以上あって、今川の駿河遠江50万石と大差がない。
その三河に18松平と言って強力な基盤を構築していた松平宗家の若当主が
家康なんだから、義元は家康を大切にするわな。
家康も晩年、今川氏真の世話もして、
その子孫は高家にしているし。
322 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:47:57.51
>松平宗家の若当主が 家康
家康の家と松平郷の松平家とはそれぞれどう呼ばれる関係なんだ?
323 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:14:52.24
家康 恐怖レベル
LV1 じっと我慢する →豊臣秀吉
LV2 ガタガタと震える →織田信長
LV3 わざとらしく切腹するぞとわめいて、部下をチラ見する →真田幸村、明智光秀
LV4 ウンコ漏らす →武田信玄
324 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:43:59.23
>>315 あれは江戸時代で言うところの御家騒動みたいなもので、
家臣団の信康排除の総意に信長が裁定出して、家康が抵抗できなくなったものだと思うが。
家康の意思にしては信康切腹までの段取りが悪いし、家臣が信康を逃がすこともできたのに
誰一人そういう行動には出なかったし、信長の意思にしてはあの政治状況で同盟国の嫡男を排除するのは危険すぎる。
様々な状況証拠から、家臣が信長に訴えて信長が信康の始末を家康に命じたと考えられる。
この状況なら家康が信康断罪を拒否すれば信長の機嫌を損ねるだけでなく家臣団が離れていき、
家康が自滅することになるので、家康には殆ど選択肢がなかった。
史書では大概「信長が全部悪い」ことになってるが江戸時代に成立した史書に「信康排除は家臣の総意」
なんてことが書いてあったら、その子孫の譜代大名達がマズいことになるからねw
家康って実は家臣たちの傀儡なんじゃね?
327 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:45:43.06
>>325 つうか、戦国時代は家康に限らず大名は絶対君主ではない。
宿老以下有力家臣の扱いを間違えると、知行地の城に立て籠られて内乱になるし、
それをネタにして隣国の大名がちょっかい出してくるからね。
戦国時代後期から江戸時代にかけて知行制から蔵米制に移行していくんだけど、
そのメリットは教科書的な「軍事力を一カ所に集中できる」ことよりも、
むしろ「誅殺がやりやすくなって家中の統制が容易」な方が大きいと思う。
>>325 随分と優秀な家臣だな。主君を操って天下取りか。
329 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:47:37.69
>家康って実は家臣たちの傀儡なんじゃね?
田舎武者ぞろいなのにか。
実は家康にとって今川に人質に出されたのは幸運だったかもな。
爺さんも親父も暗殺されてるんだから、幼年の領主が三河にいたら殺される可能性は非常に高い。
現実には今川に保護されて擁立されたってのが真相だろ。
当時の駿府は、文化水準が高かったのも幸いした。
雪斎からかは別にしても、禅僧から学問、兵法の手解きも受けた。
家康の学問好きは駿府で基礎が作られた。
332 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:55:41.31
>>1 そんなことより凄いタイミングでスレ立てしたのなww
311の夕方に徳川家康とか…
戦国板の家康スレの有名コテハン(たぶん仙台在住)は、津波で,,,,
仙台藩百姓ってコテだよね
かわいそうに
家康が最も恐れた男 真田幸村だか信繁
といっても、結局首取ってないなら意味ないじゃん
うんこ漏らしたのは山県昌景のせい
ってことや山県昌景
>>325 傀儡は言い過ぎだか、君主ではなく盟主に近かったのは確か
家康が真の専制君主となったのは関東移封が契機だよ
三河武士達は専業農民になるか伝来の土地を離れて家康について行くかの二者択一を迫られた
豊臣政権は九州征伐時の混乱の今日喰うから大名の移封時に「武士」が元の土地に残る事を争いの元
と厳禁したからね
地縁を失い、あらたに家康から土地を与えられた彼らは全員が忠勝・康政らの旗本と同じ立場になった
>>329 それこそが良くも悪くも後世創作イメージ
今日喰うってなんだよw
教訓な
ちなみにそれまでは旗本として腹心ではあるが石高か低かった徳川四天王のうち三人が
一躍家中トップ3の大名並みの封土を与えられ
旗本からいわば方面部隊長へと栄転ししたのもこの時のどさくさ
なんか三方原の敗北を持って
家康は信玄を異常に恐れた
ってイメージがあるが
家康は若い頃からずっと武田とは喧嘩腰だったろ
西を織田に任せて東に活路を求めてた
織田が武田と仲良くしたいから、我慢してたようにすら見える
家康は三方原で敗北から大いに学び、反省したが
その後も武田とは敵対を続けている
342 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:38:10.74
幸村と書くとにわかと言われる
343 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 12:13:16.23
344 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 23:28:15.38
今川義元でしょう
普通に武田信玄では素人臭いのか
家康は、武田勝頼と互角、ないしやや押され気味のレベル
当然、信玄は怖い
しかし
その信玄と信長が戦った場合、最終的に信長が勝つと判断してた
だから、信長を裏切れない
こき使われても、必死で信長について行く
それが、若き日の家康の姿
結論。家康が最も怖れたのは、信長
347 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 21:20:36.80
今川義元に決まってんだろ
348 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 14:23:50.68
ぶっちゃけ、家康の度胸はすごいと思う
戦国時代を生き抜いただけのことはある
以下、家康が戦った相手
織田信長
北条氏康
武田信玄
浅井長政
朝倉義景
豊臣秀吉
上杉景勝
毛利輝元
真田幸村
並みの大名ならば、上記の全部と戦いは避けたいところ
349 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:33:44.24
自分の影武者。
家康は今川に人質となっていた時、ペニスを切り落とされている。戦国
時代の人質は、男はペニスを切り落とされ、女は犯されて子供を生まさ
れるのが普通だった。家康も同じ。築山殿の生んだ信康も実際は今川義
元の子だった。
それでも家を保つために影武者をたくさん備え、一人ずつ女をあてがっ
て生まれた子はすべて自分の子とした。家康が側室を大勢持ち、子が多
かったのはこの理由による。家康は毎夜毎夜、影武者が女を抱き子を孕
ますのを憎悪を持って見ていたのだ。
350 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:08:26.08
>>348 織田信長相手は負け戦だし(桶狭間で今川義元軍として参加して敗北、もう少しで切腹するところだった)
武田信玄にも敗れてる
浅井長政 、朝倉義景、北条氏康は、織田信長や豊臣秀吉を総大将とする軍に武将として参加しただけ
徳川家康が総大将の勝ち戦は関ヶ原が初めてなんだから
351 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:16:16.75
実は親族が一番信用できなかったとかw
三河一向一揆鎮圧までは暗殺や追放の恐怖はあったんじゃないの?
352 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 21:31:20.01
>>348 家康に気骨を持って戦おうしたのは真田幸村ぐらいだろ
ところで何で少なからず雑魚男まで入れてるんだ?
家康は西国の大名、とくに毛利と島津を恐れ、死後も日光から西国の方角に睨みをきかせうんぬん・・・
という話しは、なんか根拠があるんでしょうか?
家康が生きていた時代は、毛利はともかく島津が大軍で攻めてくるなど地理的に無理と思われていたと思いますが。
徳川が薩摩まで行けなかったように。
354 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 18:32:15.77
睨みを効かせなきゃならないのは朝廷のことです
355 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:15:41.48
>>353 家康が臨終する間際、自分の頭を西に向けろって
側近に命じた話を専門雑誌が何かで読んだ事あるよ
356 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 23:00:51.64
それはよく聞くけど、伝説レベルの話しではないかな
天下への野心は無さそうな島津は放置でいいだろうし、
毛利のことも、恐れるどころか、可哀想なんで減封で済ましてあげたとも言えるし
>>348 真田幸村より毛利勝長のほうが手こずらせただろ、あほ
そもそも、1武将を信長秀吉と並べてるのがおかしい
お前幸村好きなだけだろw
358 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 23:19:41.90
一筋縄でいかない複雑な日本の歴史や
方学が大衆に重要な意味を持つ日本地理学など
複層構造物のような体系になってる日本は
謎が多ければ多いほど合理的に解きがいがあるしね
360 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 07:32:41.65
今川義元
361 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 09:18:10.19
>>360 桶狭間があまりにも呆気なさ過ぎて馬鹿殿扱いの今川義元だが
あれはあれで三国同盟成立させたり徳川家康を人質にし幼主の岡崎を統治したり
武田信玄の姉を正室に迎え武田家からも一目置かれてた人物
家康は19歳までこの人を主君として仕えてたぞ
まあでも、武田や秀吉に喧嘩売る度胸はすごいよな
三成などと対比され、後半の横綱相撲巧者みたいに語られるけど
長いものに巻かれた連中とは格が違う
>>362 家康はずっと長いものに巻かれてただろ
武田に喧嘩売ったというが織田信長の後ろ盾あってこそで(何かあれば信長が助けてくれる)
単独で喧嘩売ったことは一度もない
小牧長久手も織田信雄という神輿を得たから秀吉に盾ついただけだ(何かあれば信雄が責任とってくれる)
秀吉に媚びて秀頼後見人の座を勝ち得てからはやりたい放題だったというだけ
小牧長久手で、織田信雄を神輿に担いだけど、信雄は、単独講和して責任なんか取らなかった。
その後の、秀吉との駆け引きで、自分を高く売り込むのに成功したのはさすが。
天下人秀吉が、家康を臣従させるために母と妹を人質に出してる。他の大名でここまでされたのはいない。
>>364 旗印が信雄だった以上、信雄を生かして、家康を殺すという選択肢は秀吉になかったはず。
秀吉はどうも家康をえらく好いていた、そのために妹を与え嫡子に養女を与え
何度も姻戚関係を結び前田利家を差し置いて筆頭大老とした。
家康は秀吉をけして好きになれなかったようだが(世話になったのに墓を破壊するくらいに)。
まあ、家康は血統好きだからね。
>>364 家康と朝日姫の婚姻は人質とは違うw
関ヶ原後の徳川家は千姫を人質として豊臣家に差し出したことになるぞ?
なかも家康上洛時の命の担保にすぎず、家康が生きて領国に帰ったときには
秀吉に返還している。
367 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 15:26:23.91
借金まみれの自転車操業の町工場で生まれた家康
借金の肩に人質として連れてこられたとこが、借金取り今川義元の家
何年もの間、誘拐状態となるが、借金取りが逮捕され、ようやく人質から開放された家康
町工場の若社長に就任するが、隣町の織田信長という新進の会社と提携する
その新進の会社は大きく飛躍する、そしていつしか子会社扱いにされてしまう
隣の家にヤクザが住んでいた。その名は武田信玄
あまり関わりたくなかったけど、やたらちょっかいされる
そのヤクザが仲間を引き連れ殴りこんで来た。しかし玄関先でヤクザがポックリと死んだ
その後信長社長から色々と無理難題を押し付けられるようになる、新たな苦渋となるが信長社長が部下に殺され一安心
社長を引き継いだ秀吉から社員になれ!と脅かされる。色々あったけど重役待遇で社員になる
秀吉社長が死に、その子供が後継ぎとなるも社内は混沌、秘書の石田三成との社内バトルが勃発
苦戦もしたが副社長と秘書の戦い、難なく勝利して実質的に社長の座に座る
気がかりだった元社長の一人息子が成人した。これを倒さねば自分の子供達に社長を継続できない
最後の戦いが始った。前回の社内バトルでリストラされた真田幸村達のふんばりで苦戦
幸村の自爆テロ攻撃もあったが、最後の戦いを終えた
病床に臥せり長かった自分の人生を振り返り、最も恐かったのは誰か?と考えてみた
いつ殺されてもおかしくなかった借金取りやヤクザ、築き上げたものを壊そうとしてきた輩
しかしやっぱり恐かったのは、あいつだよな。。。と名前を出す瞬間、彼は息を引き取った
368 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 10:29:52.81
今川義元だろ
その気になればいつでも殺せたんだから
家康は、今川家の三川統治のキーだから、殺すわけがない。
わざわざ織田家の城を攻めて、信長の兄を捕虜にして、捕虜交換で家康を手中にして駿河に連れてきた(雪斎の作戦)。
元手もかかってるんだ。殺したら元も子もない。
信長は「三河の王」を殺すメリットがあったのか
371 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 09:13:25.24
まあ、人質は生きていてこそ価値がある。
義元在世中は、家康の人質としての価値が存続していたということ。
家康が成長してきたら、配下の武将として使えそうだったので、姪を与えて一門扱いにして懐柔しようとした。
信長だろ。駿河、遠 江、三河と功績にして少ない領地で
反乱しなかったからな。それでも80万石ぐらいはあった
んだろ。から謀反は簡単なはずだが。
>>369 人質ほときにに価値を置きすぎだ。
家康を今川が殺したらどうなる?
三河国人が大挙して今川を攻めてきて義元の息の根を止めるか?
そんな力ないだろう、ないから当主が人質になってたんだ。
逆に人質に取られた幼主の代わりに今川が三河国人を養ってたのに。
せいぜい武田に雇ってくれと志願するくらい?
>>374 家康が殺されたら一応三河を押さえてる国人領主宗家が断絶する。
松平一族による大乱戦が始まるわな。
桜井家みたいに家康が生きてるのに反乱を起こす家があるんだぜ。
中には尾張と手を組んで三河統一を狙う家なんかもあるだろ。
一族以外の国人領主の去就も分からん。
属国の安定を考えるなら若年の人質を殺す意味は全くない。
>>375 今川家が三河を併合してしまえばよい。
桜井家とやらは今川家をつぶせるほどの大勢力なの?
今川に従い人質を出していた松平家に更に臣従するような土豪なんでしょ?
377 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 16:13:57.90
強引に併呑しようとすると織田についちゃうやからが出て泥沼が深くなるから
織田を叩く準備ができないうちは柔らかくいかんと
>>376 それをすると宗家に近い一族は再興を期して織田を頼るだろうな。
東三河は織田家に侵食されてたんだから岡崎が織田に味方すると
三河のほとんどは織田家支配になるだろ。
織田・三河連合を敵に回すと武田・北条との関係が難しくなるな。
379 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:15:28.92
>>378 さあね。
今川についたか織田についたかなんて五分五分なんでは?
信長は暴君と言われていたから今川についたかも。
この時代は、国人領主の勢力を侮れないからね。
鉢植えでサラリーマン化した武士とはわけが違う。
他国を従えるのは、結局、国人を掌握すること。武力で押すだけではダメだな。
381 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 22:10:41.43
>>380 家康の親父も祖父も家臣の謀反で殺されている。
松平家が三河国人の心身を完全に掌握し
三河人が松平家に絶対服従を誓っていたなどとんでもないw
最終的に家康が天下をとったことから
三河武士の忠誠心最強みたいに言われているだけ。
>>378 東三河というより、田原の戸田氏が握る、渥美半島と、三河湾奥部の制海権。
東三河は、なぜか統一支配がされないところで、
「海の戸田」「川の牧野」「山の菅沼」の、ミニ地政学的な三分状態が、戦国期を通して続いている。
戸田が寝返ったこと自体は、尾張の織田から見れば大金星だが、駿河の今川から見れば、案外微妙。
東三河に関しては、山岳の菅沼が、徐々に武田に吸い取られていくのが、
松平からみても、織田から見ても、今川からみても、かなり痛いことだった。
長篠合戦に至る経緯は、大きく見ればここに関わる。
やはり恐れていたのは薩摩などの地方勢力では・
横槍スマソ
384 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:39:43.32
事情はどうあれ若年の家康にとって今川義元は相当恐ろしかったんじゃないかな
385 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 07:57:49.17
>海の戸田
そういえば渥美半島の田原藩は貧乏だったようだけど、あいつら廻船で儲けようという発想はなかったのか?
港が作れなかったのか?
386 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 10:14:02.69
水がないから無理
387 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 14:28:38.09
所領は海に面しているし、渥美半島にも廻船業を営むものはいたよ。
>>372 つーかそもそも家康の親父の広康自体が
清康の横死後まだ幼かったので三河が混乱して
逃避行してたのを義元が後ろ盾になって三河に戻してやった
家康は親の代からの今川与党なんだよ
389 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 16:33:58.19
家康の父は広忠
家康が完全に三河を掌握したのは西郷の局(秀忠生母)を側室にした時からだと思うんだがどう?西郷の局は名家の出自で三河では見逃せない影響力があったとか
390 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 16:55:29.82
信長の命令で息子と嫁を殺した。
これがすべてだろ。
正室と長男は天下とっても粗末な墓のまま改葬すらせず
一方、信長に密告ったはずの嫁は信長死後も終生化粧料を給付する厚遇
これで信長の命令だと言われてもw
>>389 西郷家に大した力はないよ
もともと今川家に仕えていたんだが今川義元の敗戦で混乱し、
あわてて織田信長と同盟を結んで今川家から独立した徳川家康に服属、
出戻り未亡人だった西郷局を側室に献上した
豊臣秀吉よな。
家康から見れば、完璧に屈服させられ、
かつて日本の歴史ではあり得なかった大権力・支配秩序の完成形を作り上げる過程とその具体像を
眼の前で見せつけられたわけで。
で、そういう歴史的な事実を、後に自身が天下を奪った後に塗りつぶし、捏造してまでもみ消すことになった。
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし
395 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 21:28:27.90
そりゃあ三方ヶ原の武田信玄だろ
糞漏らして逃げ帰ってきたんだからな
396 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 23:06:14.74
戦いを挑むことすらできず人質に甘んじざるを得なかった今川義元
397 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 23:31:18.09
義元生存なら家康の独り立ちはなかったかもね。桶狭間という大事件が起きたからこそ独立できた
家康が敵わないと思ったのは、
義元、信長、信玄、勝頼、秀吉、真田昌幸、高台院、島津などかな。
手ごわそうな相手とはガチでぶつからず、適当にいなす。
家康のこういった強かさこそが天下人になれた要因だろう。
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし
秀吉は家康はおろか織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に7.5倍の兵力で短期決戦挑んで1万人ぶち殺された上に
高木や吉村・木造など1000貫そこそこの雑魚領主に撃退され会戦当初から寝返りだらけで
徳政連発・崩壊状態の信雄領国を1年一杯&135000の大軍使って尾張半国すら切り取れなかった。
◎秀吉失態集
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
家康は信長より遥かに戦上手だろ
姉川の戦いで徳川は大軍朝倉に圧勝
織田は寡兵の浅井に苦戦
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
406 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 10:15:42.30
政治が絡めば秀吉は強いけど、ガチでぶつかれば弱い。毛利や島津がこけたのは
膨張中の織豊の勢いで、在地勢力が乗り換えまくった結果だろう。
大陸に近くて利害が読める西国に対して、東国は後先考えずに突っ走る土地だから、
北条は大コケするまで抵抗して、そこまでアホとは思ってなかった秀吉はてこずった。
結局はちゃんと屠ったけどな。
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
414 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 18:40:48.26
まあ同じ土俵の上にすら立たせてもらえなかった今川義元だろうな
別にゆっくりでいいからと秀吉に言われていたのに、
秀忠の上洛(小田原攻めに当たっての人質)を急いだ家康
秀吉、凄ぇ〜
元々10倍以上国力差があり木曽小笠原石川水野真田が離反して軍事機密露見した上に天正大地震と天正11年からの徳政連発で
めちゃめちゃになった徳川に対して侵攻計画進めまくっていざとなったらビビリまくって信雄・顕如に取り成しやってもらって
母と妹人質に出したのが秀吉
ヘタレにもほどがある。直接対決で家康はおろか信雄相手に1万人ぶち殺された上に
戸木浜田松ノ木神戸蟹江河波東駒野二重堀と各城郭で蹴散らされまくって寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を7.5倍の兵力で
尾張半国すら切り取れないヘタレっぷりだから当たり前だが
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
信玄と信長はまだしも他の連中恐れたとかないわ
アンチ徳川は馬鹿堀の糞歪曲史観に毒されすぎじゃねぇの
419 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 02:03:52.54
>>418 信玄や信長もおそれていたとは思うが義元ほどではないだろ
人質にされてたんだぞ
小牧・長久手の家康勝利こそ捏造。岩崎砦を抑えられ、全体像からみて秀吉快勝!
義元を「恐れる」ってのはちょっと違くね?
敵じゃなくて主君だよ?
信長みたいに、大人しく臣従しても用済みになったらポイ捨てされそうな可能性があるならわかるけど
そんなもの情勢次第で待遇は変わる。
義元の姪を娶ってるから間違いはないと思うが…
>>420 無知すぎてワロタwwwww
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
秀吉は、意外に謙虚なところがあったようだよな。
小牧・長久手合戦も総体ではきちんと勝利しているのに「ワシの負けや〜orz」と項垂れたり、
人質長丸上洛についても「いいよいいよ、幼少だし遠路大変だから」なんて猶予してあげたり。
家康の方が怖気づいて、下手に出ていたわな。
こういうことも、山本・堀らの研究会の成果として感謝したいね。
あ、それから、関ヶ原合戦も毛利・石田らが完全に政府与党として優位に進めていたわけで、
最後の最後でいろいろねじれて反乱軍の大逆転勝利なわけよね。
これら、全部、徳川史観が誤って伝え、国民教育をしてきた。酷過ぎるわな。
>>小牧・長久手合戦も総体ではきちんと勝利しているのに
小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。
織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。
松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折
夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却
弱いにも程があると思う
後家康に出したおぎ丸が人質だったなんて事実はない(佐々成政あて書状で秀康は人質として扱っていないと信雄が言ってるし
ただ和睦条件だっただけで、その証拠に翌年は秀吉家康とも対戦に向けて軍備整えまくっている)
秀吉は織田家で最も無能な織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に7.5倍の兵力で挑みかかって1万人ぶち殺された上に
木造・高木・吉村など千貫そこそこの雑魚領主に敗北した。
堀の糞本は史料ほとんどなしで妄言だけで書き連ねている糞本だからな
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>433 >>430が言っているのは、小田原攻め直前の妻子在京令に関わる長丸(のち秀忠)の話
あれは、確かに、清華成大名豊臣家康の方が相当気を遣っている。
山本・堀・矢部・曽根氏らの研究により相当面白い事になってるで。
家康が豊臣姓とかほとんど一時しか名乗ってないのに本名で清華成大名とか
馬鹿堀の影響受けすぎててワロタw
>>432 信雄が秀吉に勝っていたならなぜ秀吉の臣下になるの?
秀吉は中国にも四国にも出兵していて東海にばかり兵を集中させられなかったために
秀吉一人を狙って奇襲攻撃をかけた信雄=家康は一時的に優位にたった
戦が長引けば負けることは分かっていたからこそなるだけ奇襲攻撃の段階で
優位な条件で和睦したんだろ
>>秀吉は中国にも四国にも出兵していて東海にばかり兵を集中させられなかったために
お前は余りに無知だからスレにこなくていいよ
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山から
おびき出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日
にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である
京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、駿河と相模の境の
長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の
水野忠重等信雄の兵。したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も
遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
>>信雄が秀吉に勝っていたならなぜ秀吉の臣下になるの?
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる。
完全に秀吉の苅田の応酬やらにビビッて信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。また浜田・桑名・長島・東駒野など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。さらに信雄方は敗戦直前期に長久保城も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。秀吉方はどうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本・八重羽・富田など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
何せ長久手合戦後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後。すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に
至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ。わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから 戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上
戦上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな.秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢は
ずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>453 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後。すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのに。軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、
本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
457 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:50:09.68
長文連投馬鹿
458 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 23:49:56.52
フェリペ2世とウィレム1世
459 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 00:35:16.42
この長文連投には狂気を感じる
小牧・長久手合戦後から、急速に秀吉が出世(任官していく)。
天正12年10月には、四位・大将に推任の動き(秀吉が謙譲の精神を発揮して五位・少将に)。
これぞ、まさしく総体でみれば、秀吉の勝利というのが公的な認識であった証左
全く逆もありうるんだが。
小牧・長久手の戦いで家康と信雄を武力制圧できなかったから
朝廷の権威を背負うことで天下支配を正当化しようとした。
急激な官位上昇はそのため。
462 :
日本@名無史さん:2013/03/13(水) 23:28:48.17
頼朝を関東に流したら北条と組まれて幕府作られた
尊氏が鎌倉に行ったら京都に攻めこまれて九州で再起されて幕府作られた
家康を江戸に遠ざけたら、関ヶ原で勝たれて幕府作られた
猟官運動していないからね。
(天正14年の関白は、近衛家に運動していったけれど)
正御町が秀吉の力を正当に評価しての任官でしょう。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです。長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって
武力平定諦めたため各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊。豊臣滅亡で完全に負け犬
>>463 はい?? 小牧長久手の戦いは8.5倍もの圧倒的兵力差がありながら短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと。長久保奪われ神戸も奪われ浜田も奪回され蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却。秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に
苅田や放火の応酬を行って示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に朝廷への急速な接近をしていくのは
近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる。近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造
秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会、池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」、立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになる。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚,秀吉⇒誠仁親王 銀50枚、秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十、⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊、⇒和仁親王 太刀、⇒若御方 料紙
と献品しまくりまた寺社衆への所領安堵もしまくっている。長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
>>466 そら江戸時代に作られた漫談は家康ヲタの長文連投馬鹿に
都合のいいことばかりが書き連ねられているからなあ
で、長文連投馬鹿は小牧・長久手の戦いは家康の勝ちで
家康はそのまま秀吉を攻め滅ぼし天下を取れていたとでもいうのか?
家康ヲタの夢は壮大だな。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので講和について同心した。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回。ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけ。ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。 そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな。織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ。謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利。前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田・戦い当初から尾張では毛利、
伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで
和議がなっただけ。11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、
信雄より種種懇望があったので講和について同心した。ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中。戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけ。ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ
秀吉は織田家で最も無能な織田信雄より遥かに戦下手。
信雄相手に8.5倍の兵力で挑みかかって1万人ぶち殺された上に
木造・高木・吉村など千貫そこそこの雑魚領主に敗北した。
城攻めの名人だの墨俣一夜城だの農民出身だの中国大返しだの太閤記の糞講談が世にまかり通ってるからな
474 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 18:20:27.96
またまたアンチ秀吉・家康厨の基地外コピペ連投
5連投して規制に引っ掛かり2時間後にまた自己レス
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
480 :
日本@名無史さん:2013/03/15(金) 22:32:07.28
家康がどう思っていたかなんて、どうでもいいだろ。
実力があって何らかの理由で発揮できなかった人物を議論すべき。
秀吉が関白になる随分前、
つまり天正11・12年頃から、秀吉の代弁者として前田玄以が活躍していた。
よく知られる正親町の譲位問題も含め、
玄以が菊亭や勧修寺・三条西・中山ら主要公家たちと会合を重ね、その中で指示を出していた。
それはまさに、秀吉の力を物語るわけだが、
その記録(日記類)を、徳川政権はわざと捨てたり、除いて写しを取らせたり。
ま、酷過ぎるわ。
>>464 秀吉の朝廷への接近は、小牧・長久手の合戦前からやで。
正確に言うと、朝廷の方が早くから秀吉を次期武家の最高権力者と見定め、
接近(公家衆の秀吉居所への参集や天皇使節の派遣)を図っている。
山崎合戦1か月後&賤ヶ岳合戦1か月後の秀吉上洛時(後者は信長1周忌)の見舞い、
両合戦後には当然正親町帝からの戦勝祝賀使節(勧修寺・吉田)派遣があるし、
上洛見舞いの使節も初見は天正11年11月(万里小路)やし。
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記
>>464>>465と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
>>それはまさに、秀吉の力を物語るわけだが、
>>その記録(日記類)を、徳川政権はわざと捨てたり、除いて写しを取らせたり。
>>ま、酷過ぎるわ。
アンチ徳川の馬鹿堀を盲信した妄想乙
485 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:20:46.36
相変わらずアホ堀信者馬鹿が暴れまわってるな
486 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:21:20.27
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
487 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:23:33.68
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
488 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:25:18.34
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
489 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:27:16.31
秀長でしょ、恐れたのは。
一揆の件でも恩があるし。
九州系の大名は秀長派だし。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力相手に母と妹さしだす雑魚ってそうそういないよな
名古屋城の、大天守‐小天守の連結構造、それらに隣接(大阪寄りの北西)する御深井丸の、
過剰とも思える臨戦態勢と、度重なる設計変更。
そして、本丸は「住まうところじゃない」との発言。
実は家康は、屁っ放り腰の臆病者だよな。
ホンマに豊臣勢力が怖かったんやなw
あの慶長15年前後の頃は、豊臣も、もうどうしようもなかったのだがw
492 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 01:03:30.70
家康は秀長が長生きしてたら何も出来なかったよ。
尾張派だって秀長につくし、秀秋・秀家・毛利・九州の大名・チョウソカベ
だって秀長系。こんなの相手にして勝てる相手なんかいないだろ。
493 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 01:09:13.62
とりあえず福島正則は違うな
確実に違う
494 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 01:11:20.75
え!誰か言ってみろや!秀長の勢力に対抗できそうなやつを!いねーだろうが!
秀吉は自分より早く死ぬが秀長はまだ若いからっていう理由で秀吉より秀長を
恐れるのが普通だろうが。
これで秀次も生きててみろや。伊達も付くだろう。最上もつくだろ。細川だって
借金してんだからつくだろ。ええ?秀長なんだよ、一番恐れられてるのは!
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
結構、ここの議論は楽しいな。今後ともよろしく。
ただ、コピペはもちろん、固有名詞等をたくさん使った長文は厳禁にしよう。
読みにくいし、議論の焦点が定まらなく。では、今日はこれでお休み。
家康にとっちゃまだ秀吉より氏直や三成のが手ごわい相手だったな
氏直は天正壬午で諏訪高島・乙骨の陣とかあわや負けるかというとこだったし
三成も18万兵集めてやばいことになってたけど
秀吉は135000も集めながらわずか16000程度の雑魚信雄に勝手に蹴散らされてたし
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
一番家康が恐れたのは信玄と勝頼だろ
信玄相手に蹴散らされまくり勝頼にも連戦連敗で滅亡寸前においこまれたし
長篠後ですらかなり苦戦してたし
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ
城攻めの名人だの墨俣一夜城だの農民出身だの中国大返しだの太閤記の糞講談が世にまかり通ってるからな
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
503 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 12:05:27.95
今川義元でしょ
義元が生きてる間はずっと臣従
桶狭間で死んだ途端に手のひらを返すように織田と同盟し反旗を翻す
504 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 18:55:32.54
信玄はこう考えていた。
「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九)
505 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 15:17:08.69
その武田信玄も恐れていたのが今川義元
506 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:22:07.32
一番怖いのはお母さん。
507 :
金吾秀秋:2013/03/18(月) 05:39:18.70
|ω・`)チラッ
|ω・`)漏れ様だろ
|彡サッ
どう考えても小早川秀秋
509 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 00:07:07.14
終生頭が上がらなかった今川義元だろうな
信長は建前上は対等の同盟者だし
マジびびった思うは
ビビリスト家康
512 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 10:35:07.36
結局、豊臣秀吉に臣従して三河から関東に飛ばされた上で豊臣政権五大老の一人になっているから、家康が恐れたのは秀吉しかいない
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
519 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:14:40.56
家康厨が日本史板のあちこちで暴れてるんだが
>>514 自分に都合のいい史料だけ持ちだすなよ。
家康は秀吉や秀頼に対する従属の血判書を何回も提出している。
秀吉が好意で家康からの人質を養子としたり、
家康が秀吉の大坂城に挨拶に行く間のみ限定で母を預けたことを持ちだして
「家康は秀吉に従軍していない」とは馬鹿げている。
あと、朝日姫は家康の人質ではなく正室。正室は権力の強い側が弱い側に押し付ける。
家康は娘を自分の家臣に与えているが、家康は家臣に従属したのか?
関ヶ原後、徳川家は豊臣家に千姫を嫁がせたが、これは徳川が豊臣に従属した証だと思ってる馬鹿なのか。
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
>>家康が秀吉の大坂城に挨拶に行く間のみ限定で母を預けた
ソースを頼む。母は初めから返還される予定で家康の元にいったのか?
>>朝日姫は家康の人質ではなく正室。正室は権力の強い側が弱い側に押し付ける
それこそ後ろ付けの論法じゃん。
秀吉厨からみて秀康を秀吉の行為で養子にしたとかのと同じ論法で朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも取れる。
>>関ヶ原後、徳川家は豊臣家に千姫を嫁がせた
これは秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけって話じゃん
521 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:32:00.04
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか
>>524-525のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録はほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
衆道趣味がハードすぎる信長をもっとも怖れていただろう
529 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 15:29:45.39
>>520 >母は初めから返還される予定で家康の元にいったのか?
その通り。大政所は「見舞い」に行っただけ。
大政所は家康の人質になったと書いてある一次史料を求む。
>朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも
朝日姫が家康の人質に行ったという一次史料を求む。
あと、朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきているんだが。
>秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけ
秀吉が生前、秀頼と千姫の婚姻の約束をしていたという一次史料はどこにもない。
家康が秀吉の死後、後付で太閤の遺言として千姫を押し付けただけ。
秀吉生前の一次史料の提示を願う。
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
>>朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきてる
一次資料は?
531 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 17:57:29.36
>>530 こっちも早く、早くw
>朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも
朝日姫が家康の人質に行ったという一次史料を求む。
あと、朝日姫は一年半ほどで母大政所の看病を理由に兄秀吉の聚楽第に戻ってきているんだが。
>秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけ
秀吉が生前、秀頼と千姫の婚姻の約束をしていたという一次史料はどこにもない。
家康が秀吉の死後、後付で太閤の遺言として千姫を押し付けただけ。
秀吉生前の一次史料の提示を願う。
533 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:26:43.00
>>532 朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
534 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:27:33.49
>>532 文盲はそっちw
529の下2つに答えなさい。
できないなら、日本史板のコピペ訂正しなおしね。
535 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:50:09.78
>>530 あらら、都合が悪いところ削っちゃって…家康の上洛の文字の部分
一次史料は正確に引用しましょう。
捏造してもばれないという脳みそが狂ってるw
「秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候(「家忠日記」天正14年10月17日」
ほらほら。大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったんです。
初めからすぐに戻す予定。
>>520の答えね。
>>535 それのどこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所はずっと岡崎にいるんだろうがボケw
537 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:34:21.96
>>536 「御上洛候人質ニ」
君、戦国板で暴れて嫌われて追い出された有名人(アンチ秀吉の朝鮮人)だけど、
向こうでも意図的に史料抜いたりしてたんだってね。
538 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:35:18.15
>>536 朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板・戦国板・ゲーム板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
>>537 秀吉御母大政所家康様 御上洛候人質ニ 明日十八日ニ 岡崎迄御越候間、
夜通御迎ニ 越候へ之由本田作左衛門尉より申来候、夜通岡へこし候
お前は馬鹿だな。上記の文では上洛時限定の人質なんてどこにも解釈できねーよクズw
つーか大政所は10/26に家康と秀吉が大阪に対面した後
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
というように三河にいるのが基本なのに家康上洛限定なわけねーだろボケ
541 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:05:05.23
>>536>>540 もの凄い文盲だなあ。いや、酷過ぎる。
まともな通説の類も読んだことがないらしい。
果たして歴史を語って理解できる脳味噌があるのかためらうw
都合の悪いことは黙って史料を抜き、それを指摘されると
「解釈できない(=お前の頭では理解できない)」と嘘つくのがお前の特技だからな。
だから史料読解が専門の戦国板を追い出されたんだ。
天正16年6月23日に大政所は京の聚楽第にいる。
家康が正室の朝日姫とともに上洛して、義母の大政所を見舞ったんだよ。
これ以降、家康が三河に戻った記事はあるが、一緒に聚楽第に来たはずの
朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
朝日姫は天正18年正月14日聚楽第で没し、京都の東福寺南明院に葬られており、
これ以降家康のところへ戻ることなく聚楽第で没したとみられている。
>>530の質問の答えだね。
>>541 お前の妄想には全く興味がないのでそれが書いてる史料と原文と日付を書いてくれ。
どうせ太閤記だろ。
544 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:34:20.88
>>542 「家忠日記」。
史料が解読できない馬鹿は引っ込んでろ。
545 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:35:21.05
>>542 朝日姫が家康の人質だったという一次史料と、
千姫と秀頼の婚姻が秀吉の命令だったという一次史料は出せない。
おたくの嘘・捏造ということでいいですね。
日本史板・戦国板・ゲーム板・三戦板・歴史難民板に張り付けているコピペ全文を訂正してきてください。
>>544 ハイハイ捏造乙
家忠日記にそんな事書いてねーよクズw
>>朝日姫は三河に戻った史料がまったくない。
9/9家忠日記 朝日姫がお迎えににしの野迄こし候
会下へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>546 そうか、史料が読めないもんなあ。
>>547 朝日姫なんて書いてないだろ。
なぜ嘘を書くw
あと天正18年に大政所はまだ三河で人質になっていたという
一次史料も提示しようw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>549-
>>550 それのどこにも大政所が三河でまだ家康の人質になっていると
書いてない。
顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
どこに大政所が家康に預けられるのは家康が秀吉に臣従するために
上洛する時のみ限定だったなんて書いてあるんだよアホ
曲解ばっかしてねーでまともに史料だしてみろよクズw
秀吉厨の脳味噌の腐りっぷりは神レベル
個人的には今川義元のことは恐れてたよりも尊敬してたんじゃないかなと思う
556 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:18:29.75
>>553 はい、屑はお前ね。
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」
家忠日記、多聞日記、ともに家康の上洛のために大政所が三河へ来たと
明記されてある。
557 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:24:10.84
>>553 家康は天正14年10月27日、家康は大坂城で秀吉に臣従し、めでたく秀吉の家臣になりましたので、
「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。
大政所を送って行ったのは井伊政直ですね。
お前の目は節穴ですか?
558 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:34:50.78
>
>>549 「家忠日記」天正16年6月22日条で、大政所の病気の報告が届いているが、
大政所の居る場所は「大坂」であるとはっきり書いてある。
「大坂大政所様御煩」←なぜこれが読めない?
そして、同じく「家忠日記」天正16年7月2日条で、
今度は大政所の病の報告が京都から来ている。
いずれも天正16年の大政所の居場所は秀吉の大坂城、もしくは秀吉の聚楽第であって、
大政所が三河にいるはずもない。
(だいたい天正14年11月12日に大政所は帰っている。大政所が三河にいたのは天正14年10月半ば〜11月半ばの1ヶ月足らず)。
お前が繰り返し引用している「家忠日記」天正16年6月23日条の家康が岡崎へ来たという記事だが、
そもそも大政所のことが一言も出てきておらず、家康がまだ大政所を人質として岡崎に幽閉しており
大政所の病気見舞いのために来たというのはただのお前の曲解。
史料読解が全然できてない。
お前のコピペは全部書き直しだな。
>>「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二(「家忠日記」天正14年10月17日)」
>>「近日二関白殿母儀大政所へ参川へ人質二御越トテ、宰相殿大坂ヨリヨヒニ来ト云々
>>御譲位付家康上洛申勧付(「多聞院日記」天正14年10月8日)」
これのどこにも家康の上洛のために大政所が三河へ来たなんてかかれてねーよクズ
「上洛のための」とか「上洛時限定の」とか書かれてもない情報つけたしてんじゃねーよハゲw
>>「家忠日記」天正14年11月12日条で、家康は最初の約束通り、大政所を秀吉のもとへ帰しています。
原文読んでないのが丸分かりでワロタwwwww
家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候
と書いてて大政所が大阪から三河まで帰ったといってるだけなんだがw
最初の約束ってなんだよアホwどこにそんな事書かれてんだよバーカ
家忠日記6/22殿様大阪大政所様御煩以外ニ
というくだりは家康が大政所の病気を見かねて大阪から三河に行ったって意味だろ。
なぜなら6/23条で殿様迎ニ岡崎へこし候、大ひら迄にて御目にかかり候、ふかうそ帰候などと
大政所と三河の大ひらで会見して深溝に家康は帰ってる。
つうか大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
大阪や京にいたわけねーだろw
561 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:03:32.55
>>559 お前が史料読めねえから馬鹿にも分かるように書いてやっただけなのに
あいかわらず我流の曲解で押し切る馬鹿w
「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日)
はい、どうやって訳しますか?
ふかうすの主語は大政所じゃないだろ。
どこまで馬鹿なんだ。
562 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:06:56.95
>>560 天正16年6月22日条の現代語訳が滅茶苦茶。
大坂にいるのが家康なわけないだろ。
前後の家康の動向を読んでいないのが丸わかり。
「大阪」なんて原文にはどこにも書いて無くて「大坂」だし。
繰り返し貼ってある天正16年6月23日条から大政所という言葉を抜き出せ。
一言も大政所のことに触れてないじゃないかw
563 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:08:01.00
>>560 あと、天正16年7月2日に大政所の病気の知らせが
なぜ京都から来ているかについても説明しろ。
564 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:08:54.33
>>560 で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
565 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:14:28.21
>>559 「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
現代訳してご覧。
お前がそんなこと書いてないと曲解連投のために嘘ついてるのか
本当に馬鹿なのか見極めてあげる。
566 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:37:34.62
>>559 家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
↑
また嘘つくwどこまで原文読んでないんだ。
あの条で大政所について書いてあるのは
「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
それ以降の文章は別の人物の動向。
「大政所御帰候」の現代語訳待ってるからな。
最も恐れたのは秀吉だろう
何しでかすか分からない暴君が一番怖い
568 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:48:42.28
人質にとってた今川義元じゃないの
アンチ秀吉のキチガイ在日完全論破されててワロタw
570 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 07:02:02.02
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
大政所がその前のくだりで多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
って書いてあるしどこにも三河へ行ったのが秀吉へ謁見する時の限定条件なんて書いてねーよクズ
天正14年11/12家忠日記 大政所御帰候、ふかうそ帰候、井野兵部少諭送ニ被参候
→大政所が帰った。深溝へ帰った。井伊直政が送りに参じた。
>>ふかうすの主語は大政所じゃない
主語が変化する時はちゃんと書かれてる。書かれてないとそれが誰の行動だかわからないからな。次の文では井伊直政がちゃんと書かれてるし
井伊が送りに参じたと書いてるようにこの12日の文章全体が大政所の行動としてかかれており、家忠の行動とは全く関係ない(この日記を見ると日記の
文中で、一日・一文の区切りの中急に主語が変わったりする時はちゃんと明確に書かれてる)
前述のように大政所は「人質」なのだから、大政所が帰る先は三河か遠州かどちらか。人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
家康と一緒に岡崎まで行った後ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候 という風に岡崎に帰っただけだろ。
571 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 07:11:01.36
>>「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
>>↑ また嘘つくwどこまで原文読んでない
どこが嘘なんだよタコw主語の転換がされてねーから大政所の事に決まってんだろアホw
主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。現に次に井伊が明記されて大政所の事が書かれててちゃんと文の中心が
大政所の事だとアホでもわかるだろ
>>「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
文中で主語が変化する時はちゃんと書かれてるわアホ10/7条とか9/26条とか読んでみろよアホ
572 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:46:47.99
>>570 秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
ほうほう、あっさり我流の自論を訂正。
アホは余計だな。
間違えていたのはお前で、お前がアホだったんだから。
正しい読解を教えて頂き、ありがとうございました、も言えんのか。
戦国板のどうしようもない有名な大馬鹿基地外だからな。
と思えば、
>>571 >家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
やっぱり大馬鹿だったかw
史料読解が一切出来ないことが裏付けられたな。
お前の出入りしているスレすべてに張り付けて見世物にしてやるから安心しろ。
573 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:53:30.80
アホはお前じゃねーかw
史料に書かれてもねー事を勝手に取り繕ってウジかカビの生えたような頭だなw
574 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:54:36.05
>>570 >>571 >主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。
↑
家忠日記を読んだことがありません、と明言したな、タコ。
家忠は自分の行動に対しては主語をつけない。
当たり前だ。自分の日記、忘備録だからな。
「ふかうす」は家忠の家があったところだ。
それをお前は、勝手に主語を補って、大政所がふかうすに帰った、
家康がふかうすに帰った、と嘘を書く。
「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
当たり前だ、家忠の日記なのだから。
いったい、ふかうすの家忠の自宅で何人が同居してたと思ってるんだ?
家康の城がふかうすにあったとか、大政所がふかうすに住んでいたとか、
どうしようもない馬鹿だ。
で、天正14年6月23日条から大政所という言葉は見つかったのか。
家忠が家康と大ひらで会っただけなのに、大政所が家康に大ひらで会ったと日付をまたいでの主語変換。
家忠の行動を大政所の行動と勘違いする重症の馬鹿。
そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
お前の脳内滅茶苦茶読解によれば大政所は家忠の自宅がある「ふかうす」に住んでるんだろ。
やっぱり大馬鹿だったかw
史料読解が一切出来ないことが裏付けられたな。
お前の出入りしているスレすべてに張り付けて見世物にしてやるから安心しろ。
575 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:56:42.80
>>573 安心しろ。
お前が日記の日付の下に書かれてある干支は「時刻」だ、
と言ったことを含め、
お前のホームグラウンドである戦国板と日本史板に
お前の史料読解の間違いを全部晒してあげるから。
576 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 08:57:59.96
>>570 >>571 で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだな?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
577 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:12:30.52
>>家忠は自分の行動に対しては主語をつけない
確かにその通りだが一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
なぜならそんな書き方をしたら読み手からして誰のことかわからなくなるから。そしてこの文の場合次に来てるのが
井伊直正が大政所を送に参じた、というようにあくまで大政所が文の中心になっていて、家忠に主語が切り替わっていないのがわかる。
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
確かに出てくるが、この場合は、直前に大政所、と出てきてるので、大政所の事だろ。後ろの文でも大政所が話題の中心になってるしな。
578 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:17:45.96
>>天正14年6月23日条から大政所という言葉
見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん。
それで翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
>>そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
いや元々そこに住んでたってだけだろw
現に、天正14年11/12条でその近くのふかうすに帰ってるじゃんw
579 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:29:10.74
>>577 >一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
家忠は自分のことは主語を入れて書かない。
勘違いが酷いが、日記は他人が読むことを前提に、わかりやすく書いたものではない。
ちなみに、天正14年11月12条では、
「大政所御帰候」
「ふかうす帰候」
「井伊兵部少輔送二被参候」
がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
それぞれ、
「大政所はお帰りになった」
「(家忠は)ふかうすに帰った」
「井伊兵部少輔は送って行った」
と書いてあるだけ。
一文の中に大政所とふかうすは一緒に入っていない。
580 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:32:59.02
>>578 >見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん
家忠日記から前日の主語が翌日の主語になった例を挙げてごらん。
もともと主語を書かない家忠の例以外で。
>翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
だから、大ひらで家康に会ったのは家忠。
大政所と家康があったなんてどこにも書いてない。
581 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 09:44:54.50
>>571 「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」
秀吉御母大政所が、家康様がご上洛なさる人質に
なぜこれが読めない?
「人質に」は単独で述語を伴っておらず、どう考えても前の文章にかかる。
さて、これも晒す材料だな。
在日アンチ秀吉が完全崩壊に追い込まれてんな。
超粘着屁理屈と捏造歪曲解釈ばっかりのキチガイだから追放されて欲しいわ。
583 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:32:28.77
>>581 馬鹿だなお前w
家康様が上洛された。その時人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>「人質に」は単独で述語を伴っておらず、どう考えても前の文章にかかる。
人質にの主語は秀吉御母大政所だろうがw
なんで家康様上洛候と人質がくっつくんだよw
家康様が上洛される人質なんて日本語ねーよクズw
つーか他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
584 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:39:59.39
>>では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
>>家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>「大政所御帰候」 「ふかうす帰候」 「井伊兵部少輔送二被参候」 がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
いやいや井伊直正が送ったと書いてるしそれはない。文の前後で大政所の話を中心的に入れてきてるのに
急にその間だけ家忠とかないわ。
>>「大政所はお帰りになった」
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
585 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:42:32.02
>>583 重度の馬鹿だな。
晒してやるから、待ってろ。
586 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:47:22.47
>>家忠日記から前日の主語が翌日の主語になった例
例えば天正16年9/8→9/9とか天正14年6/1→6/2とかか。天正13年12/23→12/26とか。
587 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:47:29.30
>>583 「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」
何々。お前の曲解によれば、秀吉御母大政所と家康様御上洛は別の文章でお互いにかからない。
「秀吉御母大政所。家康様御上洛候。人質二。」と分けて呼んだわけか。
すると、大政所と人質が家康様御上洛候に阻まれて前後がつながらない。
まるで家康が人質になった文章になってしまう。
文章の通りに読めばここは一文で、「秀吉御母大政所が、家康様御上洛なさる人質に」だわな。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
588 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:48:14.37
>>586 どれもお前の曲解。主語を間違えている。
589 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:51:44.69
>>584 天正14年11月12条に「大政所が(大坂に)帰った」ことを否定するために、
それより前の10/17、10/18、11/1の記事を出してどうする?
11/12以降も大政所が三河にいたことを証明するためには、
それ以降の記事で大政所が三河にいた記事を出せよ。
出せねえだろうがw
大政所が家忠のふかうすの邸に預けられていたと信じる馬鹿w
590 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 11:59:00.03
>>584 結局、文章が変わるときに家忠の一人称は出せないんじゃねえかw
「大政所御帰候」と「ふかうす帰候」はつながらない。
大政所がふかうすの家忠邸になぜか帰ったなら「大政所ふかうす御帰候」と書くわな。
大政所がお帰りになる。家忠は(大政所と別れて)ふかうすの自宅に帰った。
井伊政直は(大政所を)送っていった。
日本語として正当。
591 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:00:43.15
>>587 だから仮にお前の言う解釈でも家康さまが上洛される人質に、となったとしても
別にその時限定で返される予定だったなんてどこにも書いてねーよ。
上洛される人質なんだから上洛後も人質って事だろ。上洛と人質が交換条件。つか
他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
592 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:18:36.33
>>591 家康が上洛するに際し大政所が人質になった、とはっきり書いてあるじゃん。
「家康様御上洛候人質二」
どんだけ曲解したら気が済むんだ?
10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
大政所は家康上洛とは無関係に、秀吉から家康に差し出された恒久的な人質だった、
というならそう書いてある記事を記せ。
593 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 12:19:24.42
>>591 で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
>>592 アホかお前。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
595 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 13:04:42.37
>>594 あほかお前w
現実に、家康は、秀吉への臣従が済むと、
天正14年11月12日、まだ家康が三河へ到着する前に
大政所を帰らせてるじゃないかw
天正14年11月12日以降に大政所が三河にいた記事を上げろと言っているのに。
できない、ということでいいな。
>>594 「大政所御煩能候由、京都より申来候」「家忠日記」天正16年7月2日
さて、現代語訳できるかな?
>>594 この馬鹿は天正14年10月以降、大政所は家康の人質となり、ずっとふかうすの家忠邸にいて、
天正16年6月もまだ、大政所は三河の家忠邸にいたと大嘘をついているんだが、
「言経卿記」天正15年9月13日条で、
秀吉が聚楽第に入った際、
大政所が「輿十五丁、乗物六丁、騎馬四人、諸大夫衆赤装束也、太刀ヲハク、先サキヘ長持共敷多有之」
という豪華なお供を引き連れて、秀吉と一緒に聚楽第入りしていること、
「言経卿記」天正15年9月14日条でも、
大政所は、秀吉や北政所と一緒に大坂城に戻っていることをどう解釈するのかな?
>>595 まず大前提として家康は秀吉に臣従なんてしてないしその記述は大政所が三河の深溝か、あるいは遠江に戻ったって事だろ。
下記のように大政所は家康の人質なのは確定。なので、その人質が戻る場所といったら三河か遠州か駿河しかない。
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>「言経卿記」天正15年9月13日条で秀吉が聚楽第に入った際大政所が「輿十五丁、乗物六丁、
>>騎馬四人、諸大夫衆赤装束也、太刀ヲハク、先サキヘ長持共敷多有之」
>>という豪華なお供を引き連れて、秀吉と一緒に聚楽第入りしていること、
>>「言経卿記」天正15年9月14日条で大政所は、秀吉や北政所と一緒に大坂城に戻っている
行事があるから一時家康から了解を取って出されてきただけだろ。
>>「大政所御煩能候由、京都より申来候」
大政所が煩った由なので、京都から誰かが来たって事だろ。
京とか聚楽第なんて日本の中心地だから用事や行事がありゃ誰でも行くだろ。
家康でも何回か行ってんじゃね?
>>598 >家康は秀吉に臣従なんてしてないし
へえ、家康は何しに大坂城まで行ったの?
「御下え儀」(家忠日記 天正14年10月晦日)って書いてあるよね。
>普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列
まだ言ってる。
秀吉御母大政所と家康様御上洛候は別の文章だと無理に主張するなら、
家康が人質になったという意味になる。
で、天正14年11月12日以降に大政所が三河にいた記事はまだ?
>>599 >>601 この時期、大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。
天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
そこで一泊して大坂城に戻ってきている。
勿論、家康は呼ばれていないし、同行もしていない。
人質ってそんなに自由にあちこち行けたんだ?
明らかにこの時期の大政所は人質ではないよね。
天正14年11月12日以降、大政所が秀吉の大坂城や聚楽第にいた記事は散見されるのに、
大政所が三河で家康の人質になっていたという記事が全くない。
>>600 また曲解か。
どうしようもない馬鹿だな。
「大政所御煩能候由、京都より申来候」
大政所の御煩を知らせる使いが京都から来たという記事をまたまた曲解w
早く大政所が天正16年7月2日に三河にいたという記事を出してくることだ。
>>598 大政所が家康上洛の引き換えになったのは天正14年11/12まで。
家康が無事に三河へ帰れる段取りができたため、11/12に大政所は帰されている。
だから、11/12以降も大政所が家康の人質だったという記事を抜き書きしてご覧。
何度言っても、10月の記事しか出してこれないくせに。
で、お前は具体的にいつまで大政所が三河にいたという大嘘ついてるの?
まさか死ぬまで?
>>秀吉御母大政所と家康様御上洛候は別の文章だと無理に
何が無理なんだよ。秀吉の御母大政所と家康様上洛候人質ニでは全く別個の内容なのに
一緒の文なわけねーじゃん。
>>家康が人質になったという意味になる。
それじゃ文脈上おかしいから別の意味なのは確定。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>606 「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」
お前の自論に無理矢理合わせるために曲解しすぎ。
お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
人質になったのは大政所ではない。
理解できんだろうなあ、ふかうすの家忠の邸に大政所や家康が同居していたとか
嘘ばっかり書きちらしているお前の脳味噌では。
こっちが聞いていることはお前の曲解に不都合だから全部無視。
何度も同じコピペを貼らんでもよろしい。
やけくそになって大量に同じコピペを繰り返し貼れば相手が戦意喪失するとでも思ってんのか、馬鹿。
お前が戦国板で繰り返しやってきた馬鹿論法。
天正14年11月12日以降、大政所が三河で家康の人質になっていたという記事は出せません、
大政所はこの日帰されています、とはっきり言えよw
>>606 で、朝日姫が家康の人質だったというお前のコピペの
一次史料は出せないんだね?
お前が来るたびに聞くから、早急に返事しろ。
>>560 >大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
あらら、完全に論破されてるw
実際、大政所は京や大阪にいたもんねえ。
だいたい三河深溝にあるのは家忠の邸なのに。
家康の主城が深溝にあったなんて初耳。
なんていう城だったのかしら?遺構はどこ?
一次史料を出して。
なんでそんなどーでもいいことで延々と言い争ってるんだ
611 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:41:02.96
このスレもイチジシリョウガー君に目をつけられたのかw
612 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:30:26.29
>>611 君の言ってる「信長公記」の人はこのスレに来てないよ。
完全論破された一次史料が読めないアンチ秀吉コピペ厨基地外君。
>>612 完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
>>人質になったのは大政所ではない
他の史料からも人質になったのは大政所であって家康ではないことは確定。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二
が秀吉母大政所が家康様の上洛なさる人質という訳だったとしても
それがこのとき限定的条件とは一言も書いてないって事だろ。
上洛しないから人質を出した。人質やるから上洛しろ。人質と上洛が交換条件。
ただそれだけ。上洛が終わったら人質返せなんて一言も言ってないしそもそもそんな物は他の史料にも書かれてない上に人質とは言わん。
618 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:53:22.62
619 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:54:15.17
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
620 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:54:46.00
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
621 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:55:43.59
人間七七四年 2013/06/28(金) 18:00:41.19 ID:P/qwSpm0
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
622 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:56:25.56
武田信玄
織田信長
辺りじゃないか?
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
628 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:09:23.88
>>613 へえ?
お前のどこが論破されてないの?全部完全に論破されたじゃんw
逃亡してないで少しは質問に答えたら?
おバカな自論繰り広げても誰も読んでないよ?
過去の恥ずかしいおまえの捏造コピペ、読み返せ。
629 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:09:54.22
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
631 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:12:17.97
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは一切訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
632 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:16:24.31
>>630 >家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
>はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
さすがは自分で書いたことすら覚えていられない痴呆症。
お前が
>>560 で
>大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
と自分で書いたんだぞ?
「家康の三河深溝に帰って」
↑
笑、笑、笑。
早く訂正してw
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
634 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:17:03.78
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
635 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:18:15.93
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
638 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:19:35.66
>>630 >家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
>はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
さすがは自分で書いたことすら覚えていられない痴呆症のクズ。
お前が
>>560 で
>大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
と自分で書いたんだぞ?
「家康の三河深溝に帰って」
↑
笑、笑、笑。
早く訂正してw
639 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:20:35.80
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
642 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:21:41.78
>>630 >家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
>はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
さすがは自分で書いたことすら覚えていられない痴呆症のクズ。
お前が
>>560 で
>大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
と自分で書いたんだぞ?
「家康の三河深溝に帰って」
↑
笑、笑、笑。
早く訂正してw
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>645 馬鹿すぎる。
大政所が天正14年11月12日以降、三河にいない記事はまだまだあるんだがw
お前は真面目に史料読まないから教えてあげないがなw
>秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
史料にないことを書くなw
お前に史料は一切提示してやらない。
お前のインチキさ、性格の悪さを思い知ったからな。
どんな史料を提示しても、お前には確実に理解できない。
大政所が三河にいなかった史料はまだまだある。
日本史板の住人は皆知っているから、お前の無知さ、愚かさを笑ってるだけだ。
自力で探せ、馬鹿。
お前の能力では無理だろうがな。
>>635 日記の日付の下に書いてある干支の意味を知らないアンチ秀吉捏造大量コピペ厨の書き込み
438 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 18:29:14.35
日記の場合日付のすぐ下の部分に時刻が書かれるわけで(現に顕如日記とかがそういう構成になってる)
家忠日記の場合6月三日と書かれたすぐ下に丑と書かれてるから丑の刻に家忠が知らせを受け取って書いたんだよ
440 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:23:37.88
日記の十干十二支は時刻とは別だろ常識的に考えて…
442 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:07:35.75
>>440 同意。
>>438は日付を十干十二支で表すことも知らないって…
443 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:21:01.49
日付なんて十二支で現したって仕方ねーじゃん。
既に日付は書かれてるのにそんなもん日記として不要だろ。
444 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:31:19.07
>>443 いいから、馬鹿はこのスレから落ちろ
445 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 20:43:01.32
こんな無知が秀吉黒幕説力説してたんかい
446 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:06:24.18
酉の刻が信長が生害した時刻じゃなくて、家忠が報を受けた時刻なんてどこにも書いてねーよアホ
447 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:04:06.74
>>446 アホはお前だからもういいよ
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
絶対に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
自分の書いたことすら忘れる重度痴呆症。
どれだけ史料を提示してあげても、理解する能力が一切ないので、 骨折り損である。
>>大政所が天正14年11月12日以降、三河にいない記事はまだまだあるんだがw
そんなもんない。お前が捏造してるだけ。仮にあったとしても
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>史料にないこと
史料にない事は「大政所が人質じゃなくなった事」や「大政所が一時的限定的条件のみの人質だった事」
大政所は家康の人質になったという事は史料にあるので、その人質である大政所が京や大阪にいるのは
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけあるいは
秀吉がだましうち的に襲って奪い取っただけ。
>>日記の日付の下に書いてある干支
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
日記の場合日付のすぐ下の部分に時刻が書かれるわけで(現に顕如日記とかがそういう構成になってる)
家忠日記の場合6月三日と書かれたすぐ下に丑と書かれてるから丑の刻に家忠が知らせを受け取って書いたんだよ
日付なんて十二支で現したって仕方ねーじゃん。
既に日付は書かれてるのにそんなもん日記として不要だろ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ
658 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:29:11.77
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
659 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:30:33.04
>>606 「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」
お前の自論に無理矢理合わせるために曲解しすぎ。
お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
人質になったのは大政所ではない。
理解できんだろうなあ、ふかうすの家忠の邸に大政所や家康が同居していたとか
嘘ばっかり書きちらしているお前の脳味噌では。
こっちが聞いていることはお前の曲解に不都合だから全部無視。
何度も同じコピペを貼らんでもよろしい。
やけくそになって大量に同じコピペを繰り返し貼れば相手が戦意喪失するとでも思ってんのか、馬鹿。
お前が戦国板で繰り返しやってきた馬鹿論法。
天正14年11月12日以降、大政所が三河で家康の人質になっていたという記事は出せません、
大政所はこの日帰されています、とはっきり言えよw
660 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:31:26.41
>>560 >大政所は天正14年11/12条で家康の三河深溝に帰ってそこから特に移動してないんだから
>大阪や京にいたわけねーだろw
あらら、完全に論破されてるw
実際、大政所は京や大阪にいたもんねえ。
だいたい三河深溝にあるのは家忠の邸なのに。
家康の主城が深溝にあったなんて初耳。
なんていう城だったのかしら?遺構はどこ?
一次史料を出して。
661 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:32:57.37
>>549>>552 「家忠日記」天正16年6月22日条で、大政所の病気の報告が届いているが、
大政所の居る場所は「大坂」であるとはっきり書いてある。
「大坂大政所様御煩」←なぜこれが読めない?
そして、同じく「家忠日記」天正16年7月2日条で、
今度は大政所の病の報告が京都から来ている。
いずれも天正16年の大政所の居場所は秀吉の大坂城、もしくは秀吉の聚楽第であって、
大政所が三河にいるはずもない。
(だいたい天正14年11月12日に大政所は帰っている。大政所が三河にいたのは天正14年10月半ば〜11月半ばの1ヶ月足らず)。
お前が繰り返し引用している「家忠日記」天正16年6月23日条の家康が岡崎へ来たという記事だが、
そもそも大政所のことが一言も出てきておらず、家康がまだ大政所を人質として岡崎に幽閉しており
大政所の病気見舞いのために来たというのはただのお前の曲解。
史料読解が全然できてない。
お前のコピペは全部書き直しだな。
662 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:35:57.00
>>598 大政所が家康上洛の引き換えになったのは天正14年11/12まで。
家康が無事に三河へ帰れる段取りができたため、11/12に大政所は帰されている。
だから、11/12以降も大政所が家康の人質だったという記事を抜き書きしてご覧。
何度言っても、10月の記事しか出してこれないくせに。
で、お前は具体的にいつまで大政所が三河にいたという大嘘ついてるの?
まさか死ぬまで?
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二
が秀吉母大政所が家康様の上洛なさる人質という訳だったとしても
それがこのとき限定的条件とは一言も書いてないって事だろ。
上洛しないから人質を出した。人質やるから上洛しろ。人質と上洛が交換条件。
ただそれだけ。上洛が終わったら人質返せなんて一言も言ってないしそもそもそんな物は他の史料にも書かれてない上に人質とは言わん。
>>お前の主張通りなら、「秀吉御母大政所」「家康様御上洛候人質二」は別なので、
>>人質になったのは大政所ではない
他の史料からも人質になったのは大政所であって家康ではないことは確定。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
667 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 01:02:29.19
>>570 >>571 >主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。
↑
家忠日記を読んだことがありません、と明言したな、タコ。
家忠は自分の行動に対しては主語をつけない。
当たり前だ。自分の日記、忘備録だからな。
「ふかうす」は家忠の家があったところだ。
それをお前は、勝手に主語を補って、大政所がふかうすに帰った、
家康がふかうすに帰った、と嘘を書く。
「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
当たり前だ、家忠の日記なのだから。
いったい、ふかうすの家忠の自宅で何人が同居してたと思ってるんだ?
家康の城がふかうすにあったとか、大政所がふかうすに住んでいたとか、
どうしようもない馬鹿だ。
で、天正14年6月23日条から大政所という言葉は見つかったのか。
家忠が家康と大ひらで会っただけなのに、大政所が家康に大ひらで会ったと日付をまたいでの主語変換。
家忠の行動を大政所の行動と勘違いする重症の馬鹿。
そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
お前の脳内滅茶苦茶読解によれば大政所は家忠の自宅がある「ふかうす」に住んでるんだろ。
やっぱり大馬鹿だったかw
史料読解が一切出来ないことが裏付けられたな。
お前の出入りしているスレすべてに張り付けて見世物にしてやるから安心しろ。
>>家忠は自分の行動に対しては主語をつけない
確かにその通りだが一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
なぜならそんな書き方をしたら読み手からして誰のことかわからなくなるから。そしてこの文の場合次に来てるのが
井伊直正が大政所を送に参じた、というようにあくまで大政所が文の中心になっていて、家忠に主語が切り替わっていないのがわかる。
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
確かに出てくるが、この場合は、直前に大政所、と出てきてるので、大政所の事だろ。後ろの文でも大政所が話題の中心になってるしな。
>>天正14年6月23日条から大政所という言葉
見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん。
それで翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
>>そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
いや元々そこに住んでたってだけだろw
現に、天正14年11/12条でその近くのふかうすに帰ってるじゃんw
669 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 01:16:58.57
>>666 へえ?大政所はなんで三河国深溝に帰ったの?
そんなところに大政所は住んだことないよ、タコ。
深溝に住んでいたのは家忠だ。
>>663 完全論破されてるのに頭おかしいw
11/12以降大政所が三河にいた史料をさっさと出してこい。
「秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二」
大政所は11/12に秀吉のところへ帰って、大坂城や聚楽第に住み、
大和郡山の秀長のところへ遊びに行き、奈良で春日詣でしたり、
聚楽第から宮中に進物をしたりして楽しく暮らしていたのに、
三河での記事が一つもないっておかしいよねえ?
まあ、お前の頭が一番おかしいがねw
>>668 >一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
家忠は自分のことは主語を入れて書かない。
勘違いが酷いが、日記は他人が読むことを前提に、わかりやすく書いたものではない。
ちなみに、天正14年11月12条では、
「大政所御帰候」
「ふかうす帰候」
「井伊兵部少輔送二被参候」
がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
それぞれ、
「大政所はお帰りになった」
「(家忠は)ふかうすに帰った」
「井伊兵部少輔は送って行った」
と書いてあるだけ。
一文の中に大政所とふかうすは一緒に入っていない。
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
大政所がその前のくだりで多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
って書いてあるしどこにも三河へ行ったのが秀吉へ謁見する時の限定条件なんて書いてねーよクズ
天正14年11/12家忠日記 大政所御帰候、ふかうそ帰候、井野兵部少諭送ニ被参候
→大政所が帰った。深溝へ帰った。井伊直政が送りに参じた。
>>ふかうすの主語は大政所じゃない
主語が変化する時はちゃんと書かれてる。書かれてないとそれが誰の行動だかわからないからな。次の文では井伊直政がちゃんと書かれてるし
井伊が送りに参じたと書いてるようにこの12日の文章全体が大政所の行動としてかかれており、家忠の行動とは全く関係ない(この日記を見ると日記の
文中で、一日・一文の区切りの中急に主語が変わったりする時はちゃんと明確に書かれてる)
前述のように大政所は「人質」なのだから、大政所が帰る先は三河か遠州かどちらか。人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
家康と一緒に岡崎まで行った後ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候 という風に岡崎に帰っただけだろ。
>>「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
>>↑ また嘘つくwどこまで原文読んでない
どこが嘘なんだよタコw主語の転換がされてねーから大政所の事に決まってんだろアホw
主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。現に次に井伊が明記されて大政所の事が書かれててちゃんと文の中心が
大政所の事だとアホでもわかるだろ
>>「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
文中で主語が変化する時はちゃんと書かれてるわアホ10/7条とか9/26条とか読んでみろよアホ
>>では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
>>家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>「大政所御帰候」 「ふかうす帰候」 「井伊兵部少輔送二被参候」 がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
いやいや井伊直正が送ったと書いてるしそれはない。文の前後で大政所の話を中心的に入れてきてるのに
急にその間だけ家忠とかないわ。
>>「大政所はお帰りになった」
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
だから仮にお前の言う解釈でも家康さまが上洛される人質に、となったとしても
別にその時限定で返される予定だったなんてどこにも書いてねーよ。
上洛される人質なんだから上洛後も人質って事だろ。上洛と人質が交換条件。つか
他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、
アホかお前。
家康が上洛するに際し大政所が人質になった(←この上洛するに際しという解釈もあくまで可能性の一つだし
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
まず大前提として家康は秀吉に臣従なんてしてないしその記述は大政所が三河の深溝か、あるいは遠江に戻ったって事だろ。
下記のように大政所は家康の人質なのは確定。なので、その人質が戻る場所といったら三河か遠州か駿河しかない。
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>「言経卿記」天正15年9月13日条で秀吉が聚楽第に入った際大政所が「輿十五丁、乗物六丁、
>>騎馬四人、諸大夫衆赤装束也、太刀ヲハク、先サキヘ長持共敷多有之」
>>という豪華なお供を引き連れて、秀吉と一緒に聚楽第入りしていること、
>>「言経卿記」天正15年9月14日条で大政所は、秀吉や北政所と一緒に大坂城に戻っている
行事があるから一時家康から了解を取って出されてきただけ
>>「大政所御煩能候由、京都より申来候」
大政所が煩った由なので、京都から誰かが来たって事だろ。
678 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 11:31:09.02
明らかに論破されているのに
キチガイ粘着で、相手が嫌気をさして、レスをやめるのを待つのが
アンチ秀吉の織田厨狂人の得意技。
そして必ず論破したと勝利宣言する糞理論w
679 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 18:59:00.26
アンチ秀吉コピペ厨って本当に365日24時間貼りついて
エラー表示が出るまでコピペ貼り続けてるんだなあ。
完全論破されたコピペを何度も貼りつけて恥の上塗り。
何が楽しくて生きてるんだろ?
クソみたいな人生だからこういう嫌がらせで憂さ晴らししてるんだろ
こうはなりたくないね
なにこの無限ループ…
何の話してたんだっけ?
684 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 16:34:35.21
685 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:08:12.00
信雄と家康が土下座したので、 
講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、 
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。 
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。 
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。
 信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、 
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。 
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、 
家康を朝廷に帰服させるべく、 
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、 
11/1に家康がやっと上洛してきて、 
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、 
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。 
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、 
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。 
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、 
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。 
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、 
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです 長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊 豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いているそれを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」 立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」 このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽 天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚 秀吉⇒和仁親王 銀20枚 7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊 ⇒和仁親王 太刀 ⇒若御方 料紙
と献品しまくり寺社衆への所領安堵もしまくっている 長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
>>家康に勝って、資金的にも余裕が出てきたら
勝ってたらわざわざ朝廷工作しまくって高い官位を必死に狙う必要もない。
>>91にあるとおり明らかに天正12年秀吉が信雄に負けまくってた頃から献品やら朝廷工作が続いてる
>>えっお前アホなの?信雄と家康連合軍は結局、秀吉に負けてんじゃん
負けてねーよアホ
長久手では135000の大軍でわずか16000〜7000の織田家で最も無能なアホ信雄相手に短期決戦で大敗して1万人ぶち殺され
その後の攻防も蟹江・前田・下市場・長久保・浜田などは秀吉方陣地から程近くなのに信雄方に奪回され
二重掘・戸木・松ノ木・東駒野・河波などでも秀吉方はガチンコで城攻めしまくってたが、結局陥落できないどころか、負けを重ねてるのが下記史料でわかるし
尾張でも伊勢でも美濃でも会戦当初から信雄領国では寝返りの連続で崩壊状態、家康も天正11年頃から出してた徳政の影響などで夏の対陣の頃には兵の半分を返し総勢8000ほどしかいなかったにも
かかわらず秀吉方は自力では尾張半国すら切り取れず、秋になって本願寺顕如に取り成しを必死に懇願して、信雄領国で苅田や放火など示威行為してたらたまたま信雄がヘタレ和議にのってくれて助かっただけなのが秀吉
(秀吉は和議の時やその直前期にも諦めて大阪に納馬予定だったのが、信雄が和議を申し入れてきたとかいてて、明らかに示威行動と顕如への取り成し懇願が実ってやっとこさ和睦までこぎつけてるのがわかる)
>>勝ってたら佐々とか紀州勢や長宗我部ら同盟軍を見捨てるなんてことしねーだろ
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利 秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
お前相当馬鹿だな。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
694 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 18:24:46.31
>>684 それ、反論してる人は別人
アンチ秀吉コピペ基地外は当然ながら同一人物だけど
695 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 18:38:36.44
>>685 あぁなるほど、秀吉が母を家康の元に送ったのは、
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式と連動していたのか。
どうりで、やたら秀吉が家康の上洛に固執していたはずだ。納得。
いや全く連動していない。秀吉がビビリまくってたからたった一人の肉親を土下座して差し出しただけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利 秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか
>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は
>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
710 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 21:43:05.67
>>695 よっぽど不都合な事実だったようで在日が発狂コピペ爆撃してるなw
711 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 21:47:09.14
基地外一人の専スレじゃないんだよ
スレタイと無関係のコピペばかり貼ってるが
自分で基地外コピペ専用隔離スレ立てろw
712 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 21:58:43.87
もはや家康が最も恐れた男なんて関係ないレスばっかw
713 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 22:54:38.79
なぜか知らんけど
死ぬ前まで加藤嘉明を警戒してたらし>家康
秀吉厨の妄想ばかり垂れ流される糞スレッド
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力相手に母と妹さしだす雑魚ってそうそういないよな
しかも天正13年頃は、上杉や木曽や真田や佐竹などにあてて秀吉は来年春には総決戦で攻め滅ぼすなどと
散々息巻いて、直前期まで出兵の用意を進めておきながら、いざとなったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出してまで決戦避けてる。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。結局ここまでビビリまくってたから、関東の大国に大封を預ける形となり、徳川は勢力だけでなく中央集権にまで成功し、
天下を取ることになる。ほとんどこの時点で豊臣は詰んでたんだよな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
721 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 23:45:54.61
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を一度も出してこれなかったアンチ秀吉基地外が
また捏造コピペ貼ってるw
アカデミックな雰囲気なんぞ踏み倒して素人登場w
以下素人の感想
家康って凄いよね〜
まぁ、生き延びて生き残ったから究極の成功例になったのは仕方ないけどね。
人質になって今川へー → なぜか織田の人質だー →人質同士の交換で今川へ〜
それなりの扱いはされたけど、すり減り部隊? →大高まで行ってこいや? →桶狭間?
独立だ!地盤固めだ!一向宗邪魔! →家臣団真っ二つで大騒ぎ!
信玄と一緒に今川倒すよw →上洛するからついてこい? →越前行くからついてこい?
叡山? →姉川だからついてこい? →信玄来るじゃんw →三方ヶ原ww
ここまでだけでも、もう疲れちゃうね、きっと。
最大レベルで恐れてしまわないといけない相手がたくさんいすぎるから、
最大レベルで恐れることに慣れてしまったに違いないよ、たぶん
723 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:05:27.41
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
724 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:06:30.67
天正12年
12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
天正13年
1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。
2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。
2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。
秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。
2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。
2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。
3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?)
7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、
その代わり、おきい殿と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。
6/19 信雄、大坂より京へ移動する。
8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。
天正14年
1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。
天正15年
8/8 秀吉の推挙にて北畠信雄を正二位に、家康を権中納言正三位にする。
11/19 秀吉の推挙にて権大納言北畠信雄を内大臣に昇進させる。
725 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:08:18.49
天正16年
1/5 秀吉の推認にて従五位下秀忠を正五位下に昇進させる。
天正18年
1/13 駿府より秀忠上洛し聚楽第にて秀吉と会う。
1/21 秀吉、人質だった信雄の娘を養女となして秀忠と婚姻の儀を聚楽第で行い
人質とするはずだった秀忠の駿府帰国を許可する。
7/13 秀吉、北条征伐の褒美として三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増を信雄に与え移封を命じる。
信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が準備した方がいいと言うも、
転封は絶対ないと断言し、秀吉の命を無視し関係を完全にこじらせる。
秀吉が信雄を改易し佐竹預かりの流罪とし、信雄旧臣木造長政らを織田嫡孫家秀信の後見家臣として付ける。
8/4 宇都宮にて信雄、家康を取次として秀吉の許しを願い出、秀吉が怒りを解き和する。
12/29 秀吉の推挙により秀忠を侍従・従四位下に昇進させる。
天正19年
5/2 家康、信雄に会うために和泉堺に行く。
11/1 秀吉の推挙にて秀忠を参議とする。
文禄1年
1/10 秀吉の推挙にて織田秀信が従四位下参議となる。
2/20 織田秀信らが名護屋へ向け出陣。
9/13 秀吉の推挙にて参議従四位下秀忠を権中納言・従三位に昇進させる。
12/10 織田秀信が岐阜鏡島に新町を作り始める。
文祿3年
10/14 利家・信雄らが山城伏見の亭に家康を訪問する。
文祿4年
7/20 信雄ら秀頼に二心無きことを誓う。
726 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:45:50.79
慶長元年
5/11 従三位中納言織田秀信 関白秀次の娘と婚姻。
慶長5年
8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。
8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。
のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。
慶長10年
5/8 秀信、22歳で死去。
慶長19年
9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。
10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。
五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。
元和1年
3/17 信雄が駿府にて家康に会う。
9/10 佐竹伊達最上細川島津とともに信雄も家康に物を贈る。
寛永5年
10/8 信雄が秀忠に茶を献ずる。
寛永7年
4/30 前内大臣正二位信雄が死去。
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
727 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:47:45.95
信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
>>信雄と家康が土下座したので、 講和してやり
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケw
>>717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
729 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:58:37.15
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か
741 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 18:32:09.10
まーたキチガイのアンチ秀吉在日が発狂してんのか。
火病って狂気に満ちていて怖いな。
742 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:01:49.68
アンチ秀吉コピペ基地外ってなんでそんなに家康が大好きで
史料を捏造してまで過大評価してんの?
743 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:29:17.95
秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、
信雄と信孝は超アホで調停不能で、
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後に、
すぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、
たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけで大した武将いないだろ?
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。
744 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:30:18.63
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。
しかし家康は幼君が成長しきる前に、
圧倒的立場を築き上げて、
国内が平和になっていたにも関わらず、
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
>>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
秀吉は信長が広げてきた版図を信長が光秀に殺された隙をついて主殺しを討つ大義名分を利用して
棚ボタ的に火事場ドロしただけ。
元々織田家家臣であり織田家の後継者を秀信に定め、秀吉はあくまで後継という立場をとってるからには
織田家臣として仕えなければ道理に合わないわけだし、そもそも元々重臣達との合議制で織田家運営を行う事に清洲会議で決まったが
秀吉が野望をむき出しにして秀信をなおざりにし、信孝を殺し信雄にいちゃもんつけて攻めこんで和議を結んだと思ったら大した理由もなく
改易し、秀信にもハナクソ程度の領地をやっただけで主筋を絶えさせた張本人なわけ。
本能寺の変も、変の情報が1.5日であの距離を即座に伝わり、また秀吉が内容の正否を審議する事なくすかさず行動を起こしている事から考えて
状況から考えて秀吉が画策した可能性が非常に高いと思われる。
752 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:06:56.93
>>747 だから、朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せってw
天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康とは根本的に違うよね
家康は長久手の時点で天下が執れたとでも?
アンチ秀吉基地外コピペってどこまで馬鹿なんだw
753 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:35:16.98
ぶっちゃけ信雄が転封を受けて、
甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の大領地を統治していれば、
官位官職も家康よりも上だし、
秀吉死後には前田を代表に旧織田系家家臣を従えた
信雄政権が成立していたとは思う。
そういう意味でも信雄は凄まじいアホ糞。
秀吉もそのつもりで信雄に大領を与え、
官位官職を推認奏上しまくって異例の超速昇進させたんだろうし。
>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
だからこそ秀吉は
>>440-447のように総兵力135000をあげて家康と信雄を潰しにかかってるんだけど。
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし
>>長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康
相変わらずお前は馬鹿だな。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
>>752 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>752 秀吉は
>>440-447のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
779 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 14:32:06.25
家康は圧倒的に不利になると願望妄想の架空援軍話をでっち上げて虚勢を張る。 
北条と戦った時は追い込まれた挙句に、 
もうすぐ秀吉や勝家らの援軍が来ると言い出し、 
秀吉と戦った時は切羽詰まり、 
長曾我部相手に北条の援軍が来ると大ウソを吐いた。
780 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 15:04:20.24
秀吉が能に傾倒し、
その演目を作らせる為に軍記を作らせて、
それに沿って能を見せてただけの行為が、
何で史料編纂事業に曲解されてんだよw
いつ全国大名から史料の提出を豊臣政権は求めて歴史編纂事業やってんだ?
全くそんな一次史料は無いし、
当然、それに沿って各大名も豊臣政権に都合が悪い事実を削除した家譜を作り始めてすらいない
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
786 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 17:08:24.02
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も秀吉が勝手に捏造しまくった史料だからな。
明らかに他大名に家記や家譜を提出させた上で、秀吉が自分に都合のいいように編纂しまくった結果、
フロイスの日本史やイエズス会年報なんか秀吉のハッタリ誇大喧伝があたかも事実かのように書かれてるし
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。
秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作が事実かのように歪曲されて作り上げられてるからな。
秀吉のハッタリ誇大喧伝や当時のマスコミを使った捏造歪曲記事の影響力は絶大だったからね。
フロイスの日本史とか南蛮人の史料にまで大きく影響を与える程だったし
徳川時代の家譜や家記なども太閤記や川角太閤記や天正日記の秀吉の捏造記述を下敷きに常識として伝わった物が多々ある。
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城、小牧長久手合戦での敗戦を覆い隠すデッチ上げの池田の献策。
小早川がキレ物だったとか黒田が天才軍師だったとか
そういうハッタリ逸話も秀吉の捏造した軍記を下敷きに徳川時代に伝わった物だし
逆に秀次が無能だとかもそうだよな。
明らかに秀吉が史料を捏造編纂しまくった結果、歪曲された歴史的事実が、後世に常識となって伝わってる。
何せフロイスの長久手合戦関連の記述なんて合ってる記述の方が少ないくらいの捏造っぷりだからな。
豊臣家が史料編纂作業をやってないわけがない。
現に太閤記や明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記など秀吉が編纂しまくった捏造史料を元に好き勝手に描かれてるからな。
フロイスの日本史とか看よう禄もイエズス回年報も秀吉のデッチ上げた捏造ばかり書かれてるし、
明らかに秀吉の歪曲情報とデッチ上げと誇大喧伝を元に史料が編纂されて書かれてる
フロイスの日本史とかも秀吉の歴史改変捏造作業によってほとんどデタラメ情報満載だからね
> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡もない
>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
ここまで来るとメンヘラだな
アンチ秀吉アイラブ家康コピペ基地外は
重度の2ちゃんねる依存症
史料を捏造して秀吉sage家康ageの大量コピペ投下
第三者の意見は完全無視
史料捏造は秀吉の十八番だろ。
太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も秀吉が勝手に捏造しまくった史料だからな。
明らかに他大名に家記や家譜を提出させた上で、秀吉が自分に都合のいいように編纂しまくった結果、
フロイスの日本史やイエズス会年報なんか秀吉のハッタリ誇大喧伝があたかも事実かのように書かれてるし
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。
秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作が事実かのように歪曲されて作り上げられてるからな。
秀吉のハッタリ誇大喧伝や当時のマスコミを使った捏造歪曲記事の影響力は絶大だったからね。
フロイスの日本史とか南蛮人の史料にまで大きく影響を与える程だったし
徳川時代の家譜や家記なども太閤記や川角太閤記や天正日記の秀吉の捏造記述を下敷きに常識として伝わった物が多々ある。
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城、小牧長久手合戦での敗戦を覆い隠すデッチ上げの池田の献策。
小早川がキレ物だったとか黒田が天才軍師だったとか
そういうハッタリ逸話も秀吉の捏造した軍記を下敷きに徳川時代に伝わった物だし
逆に秀次が無能だとかもそうだよな。
明らかに秀吉が史料を捏造編纂しまくった結果、歪曲された歴史的事実が、後世に常識となって伝わってる。
何せフロイスの長久手合戦関連の記述なんて合ってる記述の方が少ないくらいの捏造っぷりだからな。
豊臣家が史料編纂作業をやってないわけがない。
現に太閤記や明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記など秀吉が編纂しまくった捏造史料を元に好き勝手に描かれてるからな。
フロイスの日本史とか看よう禄もイエズス回年報も秀吉のデッチ上げた捏造ばかり書かれてるし、
明らかに秀吉の歪曲情報とデッチ上げと誇大喧伝を元に史料が編纂されて書かれてる
豊臣期の軍記は後世にも多大な影響を及ぼし
江戸期の家記や家譜もこれを下敷きに書いたと思われるネタが一杯載ってるから立派な歴史編纂作業だわな。
フロイスの日本史も秀吉の歴史捏造を真に受けて歪曲された情報ばかり載ってるし
いかに秀吉のハッタリと歴史改変が酷かったか分かる
799 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 13:01:54.20
>>798 で、史料捏造常連のアンチ秀吉アイラブ家康コピペ基地外は、
朝日姫が家康の人質だったという一次史料は見つかったの?
大政所はどこで死んだんだっけ?
800 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 14:34:59.75
高台寺の畳の上
801 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 20:49:54.87
徳川イエズス
802 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 09:34:32.98
お待たせ致しました。
戦国板が誇る極上の単発ID自演基地外織田朝鮮人で御座います。
ゲーム板や大河板や歴史難民板や三戦板などにも現れる妖怪チョンで御座います。
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、 十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
秀吉は死後の体制を合議制にして、特定大名の暴走を牽制できるようにしてるし、
それは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事
一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。
つまり家康には独裁権など付与されてない。
>>秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていた
また秀吉厨が妄想をデッチあげてるな
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな
>>125 >>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は
>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
秀吉の戦果捏造はガチで悪質だからな。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
フロイスの日本史とかも秀吉が史料を改竄しまくったせいで、歪曲された情報がそのままあたかも史実かのように書かれてるからね
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな
>>125 >>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は
>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
この朝鮮人さ、何でもかんでも不都合な事実は、すべてウソだって主張するし
秀吉が調略して切り崩したことも、〜だったから 〜のおかげで地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
とか連呼してて、キチガイ丸出しなんだけどw
>>秀吉が調略して切り崩した
このあたりをソース付きで詳しく頼む。
>>この朝鮮人さ、何でもかんでも不都合な事実は、すべてウソだって主張するし
はあ?嘘ばっか書いてるのお前の方じゃん
お前の嘘を一つ一つ張ってやるよ
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
お前の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書