1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:26:13
>>1 乙です!
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対海国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
3 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:28:27
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)
じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)
ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
纏向は桜井市の予算で掘ってるだろう。地元自治体が地域振興もかねて学術調査を
するののどこが悪いんだ。
〜〜〜壱┓〜〜〜〜〜〜┏━━━┓y52ydgvBDGHx 7.0
3000戸┗岐 奴国へ ┏┛:20000┃
>>1乙
〜〜〜〜├→──→┐┃∵∵∵∵┗┓〜〜〜┏━┓∵非親女王
有明海へ│┏┓┏┓□金印∵∵┏[┻┓〜┏┛ ┗┓
┏━┓↓┃┗┫┗━┛∵奴←╂烏奴┗━┛ ┃
周┃∵┗末盧T┗━━━┓再掲┃ └支惟←巴利━┛〜〜東
旋┗┓ 4000 \ V1000∵∵┃ ↑┗┓〜〜〜渡
五〜┃∵∵放 \伊→不弥∵\┃ ┌邪馬→躬臣┗━┓〜海
千〜┗━┓射1000都┏★┛∵▼┃鬼奴←────┐ ┗┓千
里〜┏┓┃説∵┏▼\U∵┏▼┻┓┌鬼───→為吾 ┃里
〜┃┃┃∵┏W▼┃奴┏┛▼阿蘇└┐ ┃⇒⇒
〜┃旁国∵┗┓■┗┳┛∵∵┏┛華奴 ┏┛
伊 ┗┓┏━┓┃■X┗┓狗奴×★蘇奴───┐ ┏┛以北20国:
│奴┐┃┃┏┛┃■〜〜┃∵┏┛蘇奴──→呼邑┏┛(女王傘下故)
│↓北┗┛┗━┛■┏━┻━┛対蘇┘ ★┃戸数道里も得ら
↓狗↑ 〜〜┏━◆Y■■ 姐奴┘ ┃れるが(数が多
投→邪 〜〜┃∵■〜┃■ └───不呼 ┏┛い為)省略し国順
┃┏■┏┛■■ ↑ ┏━┛ のみを記載。
.左回り順で記載.┛■┃ ★■ 弥奴 →好古都┓
┏▼┛ 人■ ↑ ★┃ 伊都:南九州が半島
T東南:500里┏┛▼ 吉■ 都支←─《伊邪》 との往来の際に利用
U東南:100里┃投馬 ■■★ 已百支┘┃ する小国。一大率が
V東行:100里┃:50000 ■ ↑ ┏┛ 奴国をけん制。飛地。
W水行20日 ┗┓ ┏━┓▼ 斯馬┏┛
X水行10日 ┃ ┃┏┛▼:70000↑┃奴(筑紫):斜陽。
Y陸行:1月 ┃ ┏┛┃邪馬台 ●Z┃多勢に無勢。狗奴
Z以北20国┏━┛ ┃〜┗┓ ★┏穀璧┃と女王の対立は
[女王境界┗┓ ┗┓〜┃ ┗┓┗┛表向きには不干渉。
\其の南 ┗━━┓┃〜┃ ┏┛ 独自航路を持つ。
〜〜┗┛┏┛ ┏┛
★ 花弁状住居=屋室有、┃┏━┛旧奴gr:福岡熊本 馬gr:南九州
父母兄弟寝所異にす。 ┗┛会稽/(建安郡)東冶間の東
史学に私利私欲を混ぜないで欲しいです
しかも国営放送でエゴ垂れ流しですか
7 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:48:41
>>4 国から補助金と言う名で国民全部の税金が使われているぞ。
大問題だね。
8 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:50:13
>>7 九州は税金で吉野ヶ里復元保存を決めたんだね。
そんな無駄金使うなよ。
9 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:57:26
年に1〜2回吉野ケ里行くけど、だいたい無料の日に行くなあ。
採算取れてるんだろうか?
子供抱えて、あの丘陵地帯はいい運動になる。
10 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:58:28
九州で無駄な穴を掘るなら桜井市に発掘予算をまわしたらいいのに。
11 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:58:42
日本書紀スレ、漫才になってきたwww
>>1乙
>>9 あそこは高見やぐらや内郭の大型建物から見晴らしは良いね。
四方を山に囲まれた盆地の中央の隆起したあたりに陣取っているから、
周囲が良く見える。
建物全部に登るといい運動になるね。
13 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:15:27
奈良は飛鳥時代の宮跡なども発掘されても建物の復元がされてないのにね。
吉野ヶ里よりよっぽど学術的に重要だと思うけど。
観光誘致目的で九州は「卑弥呼の国」を印象付けようと必死だからなあ。
吉野ヶ里は、卑弥呼の国と同一の文化圏だろ。奈良は全然別な文化圏。
16 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:31:45
>>3 そら、大和に初期大和王権が置かれていたのは紛れもない事実で、
いつから、どのようにこの王権が発達したのかを知る上で、
本拠地における発掘は極めて重要な意味を持つ。
現時点で都が置かれた事実もなく邪馬台国の可能性も低く
地方王しかいなかった九州なんかと一緒にされても・・
17 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:36:31
巻向の直後に河内宮に移ったっていう計算になんのかね
古代史においては超重要なはずなのに、大阪のスルーっぷりも意味わからんな
18 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:36:44
>>15 吉野ヶ里は王族の埋葬方法が丘に穴を掘って棺を埋める
甕棺墓らしいね。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓は円墳とあり、
明らかに邪馬台国と文化が違う。
いったいどこが文化圏なんだw
20 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:39:20
>>17 大阪もやってるよ。
例えば、現在、保存されている難波宮跡は、
孝徳天皇の前期難波宮、聖武天皇の後期難波宮が同じ場所に作られていて、
どうやら5世紀の仁徳天皇の難波高津宮もここにあったとされるらしい。
何しろ、大阪市内の高層ビルが建ち並ぶ地帯で、
北側はこれまた重要な史跡である大阪城になっており、
なかなか周辺を発掘させてもらえないらしいが。
21 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:40:06
>>19 王の墓ではないと断定した理由は?
吉野ヶ里の王の墓はどこにあるの?
22 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:42:15
23 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:47:51
>>22 へえ〜、邪馬台国近江説なんてのがあったんだ。
24 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:49:52
>>22のwikiには狗奴国の墓って書いてるけどねw
滋賀が狗奴国なら、それより「北」にあるはずの邪馬台国はどこなんだっていうw
25 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:54:37
>>22 径百余歩の塚を築いたことは間違いない。
少なくとも吉野ヶ里の甕棺墓ではない。
26 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:55:50
>>24 あの時代は北も南もないでしょ。
もっと後の時代でも日本列島は九州から南に延びている地図を描いた人もいたわけだし。
ちなみに魏志倭人伝の通りに行くと邪馬台国は海の中w
27 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:57:50
>>26 >九州から南に延びている地図
そりゃそれこそ魏志倭人伝の記述を元に書いたらそうなったんでしょ
中国人理系弱いから
28 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:05:40
「神郷亀塚古墳」
後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。夫妻が同葬されるのは、この時代の埋葬形式としては珍しく、・・・
卑弥呼と先に亡くなった夫。辻褄あう話だよね
29 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:08:53
>>28 卑弥呼は未婚、夫なしだよ。
魏志倭人伝にもそうあるじゃん。
30 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:12:18
>>29 結婚したことがないとは書いてないし?
しかも所詮伝聞だし。
31 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:16:50
>>30 伝聞であっても卑弥呼が死後夫とともに同葬されたのならば
魏志にそう書かれるはず。
しかし、魏志には卑弥呼が死ぬと卑弥呼のために塚が築かれ
奴隷が殺されたとあり他の誰かと同葬された形跡は全くなし。
残念ながら神郷亀塚古墳は卑弥呼の墓ではなく、近江豪族の墓だろう。
32 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:17:54
「伝聞」の意味分かってんのかい
>>21 吉野ヶ里が、クニのほんの一部であるとしか思えないな。
呉の侵略を防止するための特殊都市だと思うが。
34 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:19:46
>>32 そっちこそ分かってる?
卑弥呼に長年連れ添った夫があり
夫と同葬された形跡を魏志から読み取れるのかよw
35 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:22:08
>>34 だーから伝聞だったら
先に旦那が死んで先に埋まってましたとか、そんなスキマ情報抜け落ちるでしょ
>>34 吉野ヶ里に王墓があった、とお前が断定した根拠を言えよ。
37 :
36:2011/01/28(金) 22:23:39
アホの押し問答w
39 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:26:20
>>35 無理だな・・・これ以上相手してもw
卑弥呼のために塚を作ったというのがどうやったら
もともとあった塚に卑弥呼を埋めましたという
とんでも解釈になるんだw
それを言い出したら卑弥呼は実は女装した男だったとか
(そんなスキマ情報わかんないもんね♪)
なんでもありそうだ
40 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:27:32
>>36 吉野ヶ里の王は死んだらどこに埋められたの?
吉野ヶ里に王はいなかった(邪馬台国でもなかった)という解釈?
>>40 吉野ヶ里という国家は存在しないから吉野ヶ里に王などいない。だから埋めようがない。
吉野ヶ里にいたのは、呉の侵略を防いでた部隊だろう。
42 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:30:41
>>39 なんか勝利宣言してはるw
というか基本的に魏志倭人伝には中国人フィルターがかかってるから
女が権力握るなんて、エロが占い・まじないの類しかないアル的な
そーいう発想で書かれてる可能性大だと思うよ
みんなで相談して決めた長のあとをその妻が継ぐとか、そういう発想ないでしょ
あの纏足国には
>>40 吉野ヶ里が単独国家で、王墓があったとお前が断定した根拠は?
44 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:35:10
あ、無理だなって、勝てないってことだったのかな
むしろ敗北宣言か。
まあ、またこのスレも畿内説と九州説のマッチポンプで流れて行くんだろうね
45 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:35:44
>>42 中国でも夫が死んだ後に幼いわが子の代わりに権力をふるった
王妃はいたんだから卑弥呼がその類ならそう書くでしょ
卑弥呼に子はいなかったんだし
邪馬台国は世襲王家でなかったから卑弥呼が死んだら
国が荒れた
46 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:37:07
>>44 相手にできないほどの馬鹿だって意味だよw
どこまで馬鹿な頭してんだw
魏志倭人伝をさかさま読みしてるんだからなあ。
まあ、主婦の暇つぶし的な文章だ。
47 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:41:35
>>44 勝利宣言によほど腹がたったんだろうなあ。
自分自身が言い返せなくなってるしw
まあ、君みたいな文献が読めない人は
反論ができないからしようがないだろうね。
48 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:45:08
邪馬台国近江説なんて唱えているのは
2ちゃんねるでも一人だけだよ
49 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:51:11
50 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:52:42
>>46 「さかさま読み」って何の事を指してるのでしょうか?
51 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:55:37
「神郷亀塚古墳」
後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。夫妻が同葬されるのは、この時代の埋葬形式としては珍しく、・・・
卑弥呼と世話係の弟。
これでも別にかまわないけど。
いずれにしても、女性の側もそれなりのステイタスを持ってなければ、
2人並べて埋葬というのはないだろうね
52 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:02:54
神郷亀塚古墳・・・この古墳は最古級の前方後方墳とされる。土器から見て卑弥呼以前の
可能性があるだろう。3世紀前半ではないか。
東海を狗奴国とする見方をとれば、これは東海の影響を強く受けた狗奴国の王墓かもしれない。
もしこの2基の木槨墓に埋葬された男女が夫婦であったとすれば、渡来人系の可能性が高い。
当時の倭国には夫妻を共に埋葬する風習は見られないからだ。一方、兄弟あるいは巫女王と
世俗的男王であるのかもしれない。その場合渡来人系の可能性はやや薄まる。
言っている意味がわかるかな。
54 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:08:31
>一方、兄弟あるいは巫女王と
>世俗的男王であるのかもしれない。
だから
>>51で同意なんじゃんw
世俗的男王ってのはイミフですけどねwwwwww
詳しくご説明くだっさいまっせー
55 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:12:33
>>52 姉弟同葬なんて例がないからな。
例をあげてからにしろ。
すぐにレスが返ってこなければ異論がないとか本当の馬鹿。
無視されていることに気づけ。
56 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:14:30
例がないからなんだというんだろう
卑弥呼のような存在は他に例があるの?
>>54 上に書いたとおり当時の倭国には夫妻を同じ待遇で埋葬する風習はない。それでも夫妻
であった場合は渡来人の可能性が極めて高いと言うこと。この木槨墓も倭国には見られない
形式のものだ。
世俗的男王・・・ヒメ・ヒコ制で検索してみればいい。シャーマンの女王が農作や戦闘の指揮を
受け持つことは考えにくい。そのような俗事の指揮をとるのが世俗的男王。
58 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:15:55
卑弥呼自体が異例の存在ならば、
埋葬形態も異例な形で、なんのフシギがありますか?
59 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:23:33
>>57 あのねえ、、農作の指揮って、、、、正気で言ってんの?
稲作民が勝手にやるでしょ?
魏史倭人伝を読む限りでも、外交を担っていたのは伊都国だしね。
おそらく「奴国」は自衛隊的な役割だったろうと思うよ、端にあるようだから。
それぞれの業務はそれぞれの国の長が取り仕切ることで、
卑弥呼ってのは長達のまとめ役だったわけでしょ。
別に王を置くとかいう発想分からんw
神郷亀塚古墳・・・この古墳は倉庫の前方後円墳と考えられていたが、きれいな
方形の周濠が発掘され最古の前方後方墳であることが明らかになった。倭人伝の
記述からは卑弥呼の墓が方形とは考えにくい。さらに、年代も卑弥呼以前と思われる。
近江はこの当時、東海と共通の文化圏であったのだろう。あるいは年代を考えれば、
前方後方墳は近江から東海に広まった可能性もある。いずれ倭国の伝統からは外れた
異文化的な興味深い墳墓ではある。
61 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:29:59
吉野ヶ里の北墳丘墓は方形だが角が丸くなっていて円とみても良さそう。
>>59 >稲作民が勝手にやるでしょ?
アホか?当時は集団農耕であり、新田地の開発は首長層の役割であったと考えられる。
さらに、農耕儀礼跡などから豊作、凶作などをシャーマンが占っていたとも想像できる。
食料生産を指揮して集落を食わせていくことはリーダーの必須の条件だろう。
むちゃくちゃな知識で語られてもどうしようもない。
63 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:31:21
戦闘の指揮を王が執るなんて
小競り合い程度でも死んじゃったらクニがひっくり返る
危なっかしくてしかたない
64 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:31:32
>>60 卑弥呼の時代以降、
狗奴国併合などを経て前方後円墳にシフトするわけでしょ?
「伝統から外れた」って言ってもねえ。
倭人伝のどの記述から卑弥呼の墓が円形だと思ってんの?
「径」百歩だっけ、それだけ?
65 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:31:38
滋賀はそれほど大きな集落は出てないから邪馬台国説は無理だな
卑弥呼と同時代といわれる下之郷でも吉野ヶ里や奈良の唐古に及ばない
マキムクはまだ発掘してる最中だから規模は測定されてないが
66 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:33:06
>>62 滋賀県ってさ、台風もあんまり直撃しないし、水不足もそんなにないよ
67 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:34:48
今日本の最大の米蔵は北陸(新潟の辺り)
滋賀は琵琶湖が邪魔してそれほど穀物は取れないよ
>>64 それは纏向石塚などの年代をどう考えるかによる。前方後方墳が前方後円墳に先行して
いたとは断定はできない。その可能性はけっこうあるだろうがね。
69 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:35:49
70 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:36:20
そら邪馬台国にでかい琵琶湖があったら
魏の人が書かないわけないしさあ
まあこの近江説の人は文献無視だから
別にいいんだろうけどw
文献にないことを言うと
「中国人を信用してんの?
文献なんか全部ウソ!」だもんね。
71 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:37:05
>>69 滋賀県のコメの取れ高を史料としてあげなよ。
小学生でもできるからさw
近江説さんw
72 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:39:39
>>70 魏志倭人伝に「水行」って書いてるよね。
これ、長江とか黄河を利用して移動するときに使うらしいわ、
海を渡るときは「渡海」って書いてあったでしょ。
「水行」は、海じゃないわけ。
河または湖なの。
魏志倭人伝正しかったねよかったね。
73 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:41:48
74 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:44:43
>>72 魏志倭人伝は日本海を渡るときも水行だよ。
渡海ってどこにも書いてないから
海を渡らなかったんだね。
ご苦労さん。
76 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:52:03
從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國
七千里 始度一海千里 至對海【馬】國 其大官曰狗 副曰奴母離 所居絶方可四百里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
又南渡一海千里名曰瀚海 至一大國 官亦曰狗 副曰奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千里 至末廬國 有四千戸M山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沒取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸
従郡至倭循海岸水行
始度一海千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
又渡一海千餘里至末盧國
>>73 出土品が車輪石、朝顔形埴輪とかだろう。とすれば古くみても4世紀中葉じゃないか。
>>76 うーむ、29秒遅れたか。
それにしても、そちらさまもコメントなしで?
80 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:55:51
>>77 そう、海なら海と、いちいち書いてるでしょー
>>80 流求國、居海島之中、當建安郡東。水行五日而至。(隋書東夷伝)
82 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:59:55
>>78 年齢からして卑弥呼でないのは確か。
近くの古墳から三角縁神獣鏡が出ているが、この古墳からは出てない。
83 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:01:07
84 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:06:47
>>1乙
で、前スレ944にヨコからだが…
>1.古墳時代の開始時期が遡上したこと
>と
>2.箸墓古墳自身の相対年代が古くなったこと
>とは、とりあえず分けて考えた方がよいと思います。
まあ古墳時代の始まりなんていうのは何処で線引きするかって話で
全体が動かないでもできる話だからなw
でも「年輪年代法も年代遡上を目論む悪のキナイセツの陰謀」なんて事をほざいている連中にすれば
古墳時代の始まりはあくまで定型化された大型古墳の出現、即ち箸墓の出現をもってすると言う事なんだろう。
で、本音を言えば「庄内」なんてのはその時間の長さ云々以前に存在自体を認めたくない。
それでも流石に抹殺できないから布留を4世紀のできるだけ遅く、可能な限り5世紀に近づける。
そうすれば庄内が多少長く取られてもヤマト王権の発生はどうあがいても4世紀以降で
3世紀の邪馬台国が引っ越してきてその祖になったと言うシナリオも万々歳と言う寸法w
もう幼稚な魂胆がミエミエで 前スレ944 のようなマジレスは無駄だと思うがwwww
85 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:08:06
反論できずに話をそらす人達来ました
またいつもの邪馬台国論争ごっこが続きます
86 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:09:04
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)
じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)
ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
あの火山灰の中じゃ生活できないだろうな古代人も
88 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:12:30
>>80 水行十日、陸行一月
これが琵琶湖を渡った話?
まあ、滋賀の遺跡まで水行十日はないだろw
89 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:13:52
>南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸
これも湖か川を渡った話だったらすごいなw
90 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:14:42
91 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:16:15
>>90 水行に川か湖という意味はないってことだよ。
どんだけ魏から邪馬台国までに水行してると思ってるんだw
92 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:17:04
海岸水行韓國
海を水行してるしな
93 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:18:02
倭人伝読めば、岸に沿って進むのを水行、そうでないのを渡海といっていると
思えるな。
神郷亀塚古墳は土器破砕片が数百点も出土しているから、この祭祀が共通する丹後など
とのかかわりが深かったのだろう。北部九州から日本海ルートで丹後あたりに上陸して近江
まで荷揚げするルートはあった可能性が高い。ただし、それをもって邪馬台国との関連は
説けないだろう。
95 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:19:05
>>91 あーはいはい、海を水行すると書いてない場合、そこは海ではない。
これでオーケーですか。
>>2で↓この辺はかなりぴたっと合うから。「短里」ね。
□現在の道程(Googleマップ調べ)
敦賀駅
| 約30km(山道)
高月駅
| 約10km
長浜市国友町
| 約10km
米原市伊吹庁舎
□魏志倭人伝 ルート
末盧国
| 500里(草木盛んに茂り、行くに前人を見ず)
伊都国
| 100里
奴国
| 100里
不弥国
96 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:21:18
>>95 邪馬台国のルートは北九州経由ですが?
妄想で敦賀ルートにするなよw
>>83 逆に海以外での「水行」の用例があれば教えてください。
見つからなかった。
唯吳時扶南王范旃遣親人蘇物使其國,從扶南發投拘利口,
循海大灣中正西北入曆灣邊數國,可一年余到天竺江口,
逆水行七千里乃至焉。(梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷 中天竺國)
これも海。
>>95 > 海を水行すると書いてない場合、そこは海ではない。
> これでオーケーですか。
証明しないとオーケーではない。
海以外で「水行」している用例を出してください。
101 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:26:04
>>98 対馬國=長崎県対馬
都合の悪いところは省くのをやめたら?
102 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:27:56
103 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:28:12
104 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:30:00
>>72 >「水行」って長江とか黄河を利用して移動するときに使うらしいわ
へえ?
用例は?
105 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:32:16
106 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:34:42
滋賀県民、逃亡したかな?
107 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:35:34
>>104 さあ?伝聞ですから、反例があれば探してください。
「一大国」は「一支国」のおそらく誤植だよね。
フシギなのは、なんでこの二つは字が(意味的に)合ってるの?ってこと。
「対海国」なんて、読みは「ツイカイ」とかになるのにね。
この字の当て方は、他の国と異質です。
後から書き直した疑いがある。
それに、一支国は「島」だとは書かれてないんです。
108 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:40:16
これは人様のレスをお借りしてますよ
>対馬経由で朝鮮半島にわたるルートは、距離こそ短いけれど、
>潮流が速く、また天気が急変しやすいので小型の船舶では非常に危険なのです。
>現在は、気象レーダーや気象衛星の情報により台風や低気圧の接近をいち早く知ることができるけれど、
>卑弥呼の時代よりずっと下った遣唐使・遣隋使でさえ、よく遭難しました。
>そこへ行くと日本海ルートは、風向きが安定しているので、春から夏場にかけて東風に乗って大陸に渡り、
>冬になって西高東低の気圧配置が強まる前に西風に乗って帰国するという風まかせの航海が可能だったのです。
>渤海との交流は、この風を使って行っていたし、このルートで魏に使いを送ることも可能だったはずです。
つまり、帯方郡からの使者は、渤海あたり(満洲)から出航したのだろう、と。
109 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:42:12
それを、半島の西から出航するルートに書き換えた。
なぜかって?
その方が魏にとって都合いいからアル。
>>107 > 反例があれば探してください。
海を水行する例なら出しているが?
> さあ?伝聞ですから
ということは、
> 海を水行すると書いてない場合、そこは海ではない。
は、ただの推測ですか。
水行は海ということでオーケーかな?
>>110 なにを言うてんのかな、
「海」という字なしに海の水行を表してる文書探しなはれ
112 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:45:45
>>107 水行が海には使われないというあなたの主張は
証明できないという敗北宣言ですね。
先ほどから海を水行した例をいくつも出してくれている人がいるのに
あなたは全部無視している。
「さあ?」ととぼけるなんてあなたのやっていることは
書き込んでくれている人に対して大変失礼です。
>後から書き直した疑いがある。
魏志倭人伝が書き直されたという根拠をあげてください。
自分に都合が悪いからそうしたいだけなら
はっきりそう言うべきです。
>>111 > 探しなはれ
なんでそんなことせなあかん?
> 海を水行すると書いてない場合、そこは海ではない。
は、ただの推測だろ。
114 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:50:06
>>112 はいはいすでに訂正いたしましてございますように
×水行が海には使われない
○水行が海に使われる場合、「海」という字を伴う
ケチつけようとがんばってくださってる方には、
ご苦労様です。以外の言葉が見つかりません申し訳ありませんでございます。
で、
ヤマト国は魏に「朝貢」なんてしてない。
ヤマト国が交流してたのは公孫氏。
そういうこと。
>>114 「水行」が海以外に使われた例が出ていないな。
水行は海ということでオーケーだな。
116 :
近江説:2011/01/29(土) 00:56:05
南至投馬國水行二十日(魏志倭人伝)
118 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:58:08
>>115 つか、水行が海限定なら、
河や湖のばあい、なんて書くのん?
119 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:58:52
120 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:00:04
121 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:03:58
>>120 >>2のとおり、ぴたっと合っちゃうからね。
しかも、「海」って書いてへんし。
>>118 > 河や湖のばあい、なんて書くのん?
普通に考えて「水行」と言えば水の上を行くことでしょう。
河や湖の場合も当然使うでしょう。そして海でも使われている。
問題なのは
> 海を水行すると書いてない場合、そこは海ではない。
という推測です。
南至投馬國水行二十日
が海ではない、とは言えないということです。
>>119 > いや、「海」って書いてへんし
それ、ただの推測やし
124 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:06:43
>>122 はあ。わかったわかった和解しよう譲るわ。
湖ではないとも言えへんよね
>>121 > ぴたっと合っちゃうからね。
> しかも、「海」って書いてへんし
ただの思い込みやし。
なんも証明できへんし。
なんだ このレベルの低さww
128 :
近江説:2011/01/29(土) 01:17:33
>>126 > 書いてないもんは書いてないで
書いてないから海やないて言えへんでしょ?
> 2と魏志倭人伝の訳、見比べてみ?
魏志倭人伝の訳に合わせてあんたが創っただけやん。
フェニックス@日向厨かて同じこと言いよるわ。
130 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:19:57
>>118 >>126 倭国伝が載っているのと同じ「魏志」に
長江を行き来することについて「渡江」と書いているよ。
つまり、川であれば「江」の文字を使うなど、区別がある。
川も湖も「渡」で十分じゃないの?
「水行」は海でしかほぼ使われない。
ここのスレはいつから初心者用になったんだい?w
132 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:23:29
>>126 まあ、水行が琵琶湖を渡ったと解釈している研究者は皆無だな。
初心者らしいデタラメだ。
133 :
うん。:2011/01/29(土) 01:26:09
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)
じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)
ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
134 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:28:44
近江説のおばちゃんのスレ荒らしは酷いなw
135 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:31:06
>>130 いや「江」はイコール長江でしょ
渡?いやいきなり渡りましたって言われても何を渡ってんって話でしょ
渡湖?え〜〜
渡川?え〜〜それ向こう岸に渡るんちゃうん
水行は海かもしれないし川かもしれないし湖かもしれない。
オーケーですかー
136 :
近江説:2011/01/29(土) 01:32:09
137 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:32:36
>>130でほぼ決まりみたいだな。
近江おばちゃんの反論なし。
138 :
近江説:2011/01/29(土) 01:33:48
>>137 長江以外の
河 や 湖 の ば あ い 、 な ん て 書 く の ん ?
139 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:37:26
>>135 あれえ?
長江を渡るときは「水行」というと力説してた人が
自説覆しですかwww
では、川や湖を「水行」としている史料をあげましょう。
無理だったんじゃなかったっけ?
オーケーですかあ?
初心者の「近江おばちゃん」
140 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:49:15
そもそも目的地に行くために何日もかけて
川を上り下りして湖を渡るなんて中国大陸ではほとんどない
もし魏の使者が邪馬台国に行くのに湖を何日も渡らせられたなら
特筆するべきことで必ず湖を船で渡ったと書くだろう
何も書かずに水行ならば川や湖の可能性は低い
水行は海に用例があるからだ
141 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:49:31
>長江を渡るときは「水行」というと力説してた人が
>自説覆しですかwww
は?
じゃー黄河のときはどうですかー頑張って調べてくださいねー
なんの初心者ですかー捏造工作の初心者ですかぁー
近江のおばちゃんなのは合ってますけどー?
142 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 07:38:24
>>140 何日も、は嘘だと思いますよ?
それは領土を広く見せ、国力を大きく見せるためのウソです。
そして、「海」の字を伴わない「水行」が、
海に適用されている事例はどれだけありますか?
少なくとも、魏志倭人伝中、
前半ではしつこいほどいちいち海を渡る、と記されているにも関わらず
水行20日、水行10日の箇所では「海」の字は見当たりません。
143 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 08:39:16
>>142 あなたの脳ミソはmonKIだからバナナを食べたら良い。
144 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 08:51:56
本当のことを言ったために中国人から敵視されたようですねw
「水行」とは「陸行」に対する言葉。
要するに「船に乗って移動する」こと。
それが海の場合もあれば、川の場合もある。
146 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 10:23:49
湖の場合もある。
147 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 10:48:57
148 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 15:30:26
>>142 だから、岸に沿って船で進む場合を水行、そうでない場合を渡海と呼んでいる
と言っているだろう。
だから、帯方郡から狗邪韓国までは水行。狗邪韓国から対馬国まで、対馬国から
一支国まで、一支国から末盧国までは渡海。
九州の東にある国に行く場合も渡海。
ということは、邪馬台国までの水行は岸に沿って進んだと考えられる。
陸行30日もかかる陸地は九州にはない。
150 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:41:02
畿内にも存在しない。
151 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:52:10
広島辺りから奈良ならゆっくり行けば1月はかかりそう
152 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:54:02
広島〜奈良って距離的には奈良〜小田原と同じだしね
153 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:00:32
投馬国と邪馬台国の記述は付け足しただけで帯方郡から別ルートだろうよ。
投馬国=出雲で、そこから水行十日陸行一月で大和入りでなんの問題もなし。
陸行一月も大和まで直進したと考えるからおかしくなり、
諸国に立ち寄りながら大和入りした結果だろう。
154 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:08:18
女王国まで万二千余里も卑弥呼の勢力圏が及んだ九州の国までのことでクリアーできる。
155 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:04:30
>>151 九州もあちこち迂回すれば一月掛からんでも無い。
おれは邪馬台国スレのリーダーじゃないんですけどw
まあ、よかろう。
みんなおれに興味有るのか知らないけど
仕切って欲しいなら早く言えってはなしw
157 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:06:16
陸行一月は韓国内を徒歩した分も含むんだよ。
メ は人ムカデ
"自信"があるなら、日本@名無史さんから固定ハンドルに変えることを許そう。
"自信"の無いやつは、日本@名無史さんで我慢してなされw
160 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:22:22
卑弥呼は九州で、イヨは巻向。これで解決。
しかしメはあっちでもこっちでも嫌われてるなあ。
162 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:33:40
卑弥呼の時代よりだいぶ前に倭にきた使者から聞いた情報を元に書いたものに付け加えて、
卑弥呼の時代の邪馬台国のことを書いてるからこんがらがるだけでしょ
163 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:41:30
九州島 東西方向 五月行
南北方向三月行
突込みどころは満載だが、
何か別の体系の距離の指標らしい。
メは「東倭重譯納貢」を、「中国に銅鐸を納めた」と解するほどのアホだったからな・・・。
166 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:15:48
邪馬台国までの里程・日程の話は、最初でどちらかがふるい落とされてしまう
から、どちらも譲るわけにはいかないところだろうな。
さらに、九州説同士でも争うことになるから、ごちゃごちゃになってしまう。
個人的には、投馬国は有明海沿岸。邪馬台国はさらに南の内陸部と考えて
いるのだが。
167 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:26:50
どちらかって。
どちらも完全に落伍してますやん
>>164 >彼はスレを廻すことによって2chから報酬を得ている「プロ固定」だよ。
>ホントかどうか知らないが。
ジョーカーって呼ばれてる人とそのトモダチがそれだって聞いた
まあ メがおれたちのボスて事には異論はない
170 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:01:43
>BOSS
既に空き缶とか?wwwwwww
171 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:15:56
畿内説でないと、困ることは何ですか?
九州説でないと、困ることは何ですか?
172 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:33:15
まあ多少マジレスすると…
邪馬台国が九州にあっても今の史学考古学は何ら困らないだろう
「なんだじゃあ魏が冊封した邪馬台国と言うのはヤマトと別にあったんですね、ふ−ん」
で済む話。
3世紀に初期ヤマト王権・首長連合体が誕生していた話は大筋では何ら変わらない。
(庄内すら4世紀に押し込めるなんてお話は実際のところ与太話レベルだからw)
むしろ初期ヤマト王権と九州の関係性を考えるに
かなり有力な材料が出てきたとして歓迎すべきw
が畿内説(と言うか現在の定説)では非常に不味い事になる連中がいるw
「邪馬台国東遷説」は、そもそも邪馬台国が畿内にあったら東遷もクソもないわけでwwwwwwwwww
「九州王朝説」はそのお話の始まりは九州邪馬台国で初っ端からコケていたんじゃ話にならないwwwwwwww
173 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:05:44
そうかい?
ちょっとまじレスすると、魏が卑弥呼を倭国王すなわち日本の王(天皇)として
高句麗征討を依頼したり、熊襲征討を支援したりしたわけで、そうなると、当時の
倭国(日本)を支配していたのは九州にいた卑弥呼では記紀上困るわけで、
何故かというと教科書を書き換えないといけないわけで、そして好き放題やってきた
考古学者が困るわけで、困る人が大勢いるので、できればむしかえしてほしくないわけで
だから、NHKにキャンペーン依頼してどうにかこうにかマキムクアタックでしのいで、
今の考古学者達が生きてる間だけでも九州説を封じ込めたらいいわけで……
174 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:09:26
九州説では困る学者が大勢いるから畿内説は声がでかい。
九州説は、真実を探求したいだけだから声が小さい。
175 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:11:51
天皇陛下を中心とした日本はすばらしい。今後も平和であり続けてほしい。
しかし、古代史の真実を突き詰めることとは関係なし。
九州説は、真実を探求する説です。
九州説ってもう終わりじゃん
177 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:12:45
畿内説は、始まってもいない。
178 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:16:40
日本人はどこから来たか?神話ばかり信じていては日本人(自分)の
本質を見抜けない。
アジア人の中でどのような地位にいたのか?日本のすばらしさは
古代史から連綿と受け継がれているはず。記紀の奥に隠されている
真実を明らかにしたいと思わない?
179 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:17:01
近江説始まったな
180 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:19:25
>>173 >何故かというと教科書を書き換えないといけないわけで
は?
それは戦前の教科書の事かな?爺さんw
181 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:41:53
182 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 02:08:18
今サッカーアジアカップ出てる李なんかは元から日本人っぽいよね
183 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 02:16:19
その李、ゴール決めたwww
184 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 02:37:11
百済とは一体なんだったのか
ヤマトとは一体なんだったのか
185 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 09:07:11
大和は東征軍のつくった物流センター
186 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 10:46:27
真実などわかるわけないんだし、時間の無駄だ。
何で李は日本代表チームに居るの?
188 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 11:34:36
なぜ、サントスやラモスや闘莉王は良くて、日本生まれ日本育ちの在日4世の李だけを問題にするの?
189 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 11:44:10
しかしながら、たとえば、蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」
とあるように、この時代でさえ、渡来人は韓人という蔑称で呼ばれていたことがわかる。
しかし、その後、中臣鎌足は藤原性を賜姓され、その子孫は平安時代には日本を牛耳ることになる。
191 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 12:43:20
ここはあくまで邪馬台国スレだからな。
古代史全般四方山話やりたかったら他でやれ。
192 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:03:45
渡来人は韓人という蔑称で呼ばれていたことがわかる。
しかし、その後、中臣鎌足は藤原性を賜姓され、
その子孫は平安時代には日本を牛耳ることになる。
だめじゃん!!藤原氏アウトじゃん!!
193 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:05:40
194 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:07:56
195 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 15:33:21
>>172 そのヤマト政権というか、各地の首長連合というのが怪しいわけで。
そんなものが有り得ると考えるのがおとぎ話のような話。
戦国時代に九州から東北の武将が集まって、会議を開き、首都をここに決めて
王をこの人にしようと決めた、なんて話をしたら、アホかと言われてしまう。
畿内説を前提にしたら、そういうおとぎ話でしか歴史が語れないというわけで
畿内説自体がおとぎ話のようなものということなんだろう。
畿内説では、伊都国に一大率を置いて諸国を検察する、あるいは朝鮮半島を
経由して大陸と交流する勢力が、崇神天皇の時代においても、四道将軍を
派遣して周りを固めるというような矛盾が多々あるわけだら、そういう
おとぎ話にならざるを得ないことはわかるが。
>>195 > 各地の首長連合というのが怪しいわけで。
首長連合という根拠のひとつは「魏志」倭人伝の
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
という記述にあるわけで、
同じく倭人伝の一大率をもってこれを矛盾というのなら、
その解釈を示さなければならないのとちがうか?
四道将軍については
逆にそれがおとぎ話でないという根拠を出せという話。
197 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:17:51
弥生時代にも織田信長や豊臣秀吉のような武将がいて各地を平らげて勢力を拡大していったとしてもおかしくないだろう。
交通手段は、船か馬、そのあたりは、明治時代までまったく変わっていないのだから。
198 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:19:48
>>149 「陸行30日もかかる陸地は九州にはない。」
古代の道は、現代みたいに整備されていない。
国から国への移動は、川沿いにあるいは山の稜線上沿いに
方向を維持しながら重い荷物を持って時速1km以下で旅するのだ。
199 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:27:39
>>196 その倭人伝の記述は、「その国、元また男子を以って王と為す。住すること
7,80年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年…」となるわけで、卑弥呼の前に
元々男子の王がいたことを示している。
そう考えると、倭国の乱というのは、跡継ぎをめぐる争いということになる。
豪族の連合というのは、卑弥呼以前に王を想定できない畿内説の苦肉の策。
四道将軍は、一応、日本書紀に書かれているが、豪族の連合なんてどこにも
書かれていない。
200 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:28:59
那の津〜大宰府〜甘木〜日田あたりは人々が多く住んでおり
国も発達していたので海道みたいなものはあっただろう。
しかし、日田以東は、山が険しいので川沿いにあるいは稜線沿いに
それこそ時速1km以下で旅したであろう。1日10時間10km歩いたとして
30日300km、十分に九州圏内に邪馬台国はある。
201 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:42:25
>>195 大和王権もそんなもんだったはず。
葛城とか、大伴とか、蘇我とか、物部とか、領民当地を行う各地の酋長が
大王を束ねていた。
天皇が領民を統治し、豪族が天皇に出仕して天皇から給料をもらう貴族になる、
つまり公地公民になったのはだいぶ後の時代だ(天智・天武頃)。
弥生時代〜飛鳥時代初期頃は、各地に自治を行う王(きみ)がいて、
それらの集合体の上に大王(おおきみ)がいた。
ちなみに、日本書紀では5世紀の雄略朝の頃においても
豪族の大伴氏が自分の部下から「あがきみ(私のお仕えする王)」と
呼ばれている記述がある。
202 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 17:40:15
>>195 > 各地の首長連合というのが怪しいわけで。
210年頃 伽耶(任那)建国 5年ほどしてから、任那の鉄が大和に入る。
大和は”鉄の分与権”を以て各地を傘下とする。
>>201 >弥生時代〜飛鳥時代初期頃は、各地に自治を行う王(きみ)がいて、
239年より魏の関与がある。
それが、景行からの”魏の手法屯倉”の導入。
屯倉手法とは、各地に配属された”その地の王”は、その地方を武力等で参加とし
大和の大王に仕える。
203 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 18:09:20
桃太郎だって単なるおとぎ話ではない
鬼が島は半島から見た日本だ
桃太郎伝説の岡山と愛知で、方言が類似する
>>199 > 卑弥呼以前に王を想定できない畿内説
想定してますが?
「相攻伐」した諸勢力が「共立」したのだから「王」はその諸勢力の王。
倭国はそれら諸勢力の連合であり、卑弥呼以前の王も同様。
> 豪族の連合なんてどこにも書かれていない。
史実を反映していなければ、書かれていないからといってなんの矛盾がある?
205 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 18:37:11
卑弥呼以前に行路を想定できない畿内説
206 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 18:54:36
末盧国までは問題がない。末盧国で上陸して東南五百里、伊都国の比定が問題
なんだよ。怡土に比定するのが通説となっているが、それでは方角も距離も合
わない。倭人伝どおりに唐津から東南に約40キロ、佐賀市付近に比定すべきだ。
そうすれば、南水行もできる。
207 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 18:55:31
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対海国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
208 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 19:08:32
>>195 >戦国時代に九州から東北の武将が集まって、会議を開き、首都をここに決めて
>王をこの人にしようと決めた、なんて話をしたら、アホかと言われてしまう。
出雲に神々が集まって会議した、なんて神話は、もちろん信じないよな?
209 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 19:19:13
ありもしない、「ゆるやかな諸国連合」を持ち出さないと成立しない畿内説。
嘘もほどほどにして、あきらめましょう。
211 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:48:56
「ゆるやかな諸国連合」を比定するのは難しくないか?
212 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:06:34
>>211[ゆるやかな諸国連合]
……大和を中心に話し合いで解決できる国際連合……
古代に話通じたんですか?大和と近隣諸国は何語を話していたんですか、記紀以前に……
纒向の発掘がもう少し進めば
考古学的にはもう畿内説で確定ってことでいいんじゃないかと思う。
もちろんそれでも九州説を唱えるアマチュアの人達はいるだろうけど
少なくとも教科書の内容は畿内説中心の内容(3世紀にヤマト王権
が誕生)に変わらざるを得ないと思う。
214 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:11:24
>>210 九州説なら「ゆるたかな諸国連合」を持ち出さなくても解決できるの?
三十国擁立説は嘘で、邪馬台国が対馬列島から九州全土まで統一した
一つの王国だったとでも?
215 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:14:50
>>214 ああ、
解決できるぜ、強烈な倭国集権九州王朝で外国に立ち向かったのさ。
216 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:15:52
>>212 は?だから邪馬台国は渡来人がどっかで盗んだ鉄で
弥生人をボコって作ったに違いないって?w
ここは日本ですよ。
「それぞれが作ったモノ」が、各国をつないだのでしょう。
そうでなきゃ鎖国してた方が幸せです。
言葉は少なくてもできることです。
これをあげるので、あれをください。
それだけのことです。
217 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:16:40
巨大前方後円墳をつくる中央集権の超大国
これが畿内説の追い求める邪馬台国像なのです。
>>217 追い求めるも何も、実際に3世紀に築造された
巨大前方後円墳が奈良にあるんだから仕方が無いだろ。
>>217 それは九州人の追い求めるカタキ役としての大和朝廷像なのです。
「箸墓古墳」
出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である
3世紀半ばすぎ、か
221 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:21:58
>>216 鎖国って、
いつの時代の何人がやった話ですか?
今の国境は古代に通じないし言葉は多種、
現在の国際連合まで何百年かかったか……
日本の下民らしい平和ボケですか、いいですね。
222 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:22:14
巨大前方後円墳は、東征した九州勢力が造ったものだろう。
白痴スレと化しているな。
224 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:24:46
>>215 それをいうなら畿内も強大な大和王権でしょうよw
公地公民になったのは白鳳時代ごろからだからね。
それまでは各地の酋長が直接領民支配をしていた。
各地の酋長が擁立していたのが「邪馬台国」ね。
九州が一つの国になっていたなら
魏志倭人伝が邪馬台国の支配国をいちいち挙げる
必要もないじゃん。
225 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:25:23
古糞は、何の役にも立ってない。
あんなバカでかい物造るくらいなら、唐に対峙できる軍隊造れ。
古代の馬鹿政治家ども。
226 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:27:23
>>221 日本のDNAの多様さを理解してる?
極東の島国とは思えないほどバリエーションに富んでる
227 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:29:36
>>225 古墳は領民に自分がいかに偉大な王かを知らせるためだろ
中国やエジプトの古代王たちだって馬鹿でかい墓を作ってるじゃん
唐はもともと人口が多いうえに周辺多民族まで従えていた
群雄割拠していた古代日本にそれは無理
228 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:31:49
>>227 そう、だから巨大古墳は「天孫」こと公孫氏が日本にやってきてからのもの
卑弥呼の時代よりは後。
229 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:34:28
>>226 説明してください。
抽象すぎて意味がよくわかりません。
DNAがどうしたのさ。どの国も犯罪起こす国民いるだろう。
どんなに戦争をしている国にも、国民を思って死力を尽くし
国力を食べねる人もいるだろう。
古代だって同じということですよ。
畿内説では、現代の日本人の良いとこだけ利用して説明して
ごまかしているだけ。
その古代において、九州の倭国は、国の存亡をかけて死闘を繰り返していた。
>>229 略奪しなきゃ食っていけなかったってことー?
231 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:38:06
>>229です。
国民いるだろう。→国民もいるだろう。(道徳の浸透性の不十分を言っています。)
国力を食べねる→国民を束ねる
>>231 あなたはよく日本語を勉強されていますね。
233 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:45:14
はい、そうあるよ。畿内説が大好きあるよ。
234 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:51:57
>>228 >「天孫」こと公孫氏
ばかじゃないの?
235 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:58:07
公孫氏が「滅んだ」とされてるのが238年
卑弥呼が魏にへつらって来たとされてるのが239年
その後の「空白の4世紀」、
巨大古墳が作られ、都は大阪に移された。
一方で日本神話には、
天孫一族が日向に上陸し、数世代を経て河内に到着する物語が語られている
卑弥呼が共立されたのは2世紀末なんだが。
237 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:02:20
>>236 公孫氏が滅ぶまでは魏とは交渉できなかったらしいけど?
公孫氏と交渉していたから画文鏡が来たんだろ。
239 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:07:20
うん。公孫氏と通じていた。
では魏とは?
これは中国側の文献にそう書いてあるだけ。
240 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:08:12
>>235 記紀はそこのところがしっかりしていて、天孫(日本書紀では皇孫)降臨のとき
瓊瓊杵尊は「道を切り開いて」日向にやってきている。舟を使ったとは全く
書かれていない。
ところが、同じく天神の子である饒速日命が大和にやってきたときは「天磐船」
に乗ってやってきている。
241 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:09:33
>>240 >そこのところがしっかりしていて
ばっかじゃないの?
242 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:29:42
公孫氏がヤマト国と通じていたなら、
遼東半島で「滅ぶ」前に、日本への「亡命」を考えたのでは?
そして日本神話では
日向にいた天孫一族は「東に、青い山に囲まれた国がある」とあらかじめ知っていた
243 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:30:09
袁紹の勢力圏が遼東半島までのびていた。公孫氏も臣下になっていた。
244 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:20:44
■支局長からの手紙:里の社 /香川
毎日新聞 2011年1月24日 地方版
http://mainichi.jp/area/kagawa/letter/news/20110124ddlk37070281000c.html 結構交通量がある県道沿いに鳥居があるのに、境内に入ると静かでした。大きな杉が近くにある本殿は古い木造で、落ち着いた雰囲気です。周りには山があり、川があり、もちろん田畑が広がっています。まさに「里」の社、という感じです−−。
車を走らせて、東かがわ市の水主(みずし)神社にお参りしてきました。
仏像ならぬ神像を持つ神社を紹介した「日本の神様」(畑中章宏さん著、理論社)という本に、この神社が紹介されていたのです。一般の拝観はできないとのことですが、8体もの重要文化財の神像があるといいます。
実は本を買ったのは何カ月も前で、地元の神社が載っていることも知りませんでした。たまたま1月に本を読み、神社のことを知ったのも“ご縁”と思い、出かけました。
境内にある由緒によると、祭神は「倭迹々日百襲姫命」。姫は7歳で奈良の宮を出て、8歳でこの地に入り、成人までここで過ごして、農業や水路などの「水徳自在の神」とたたえられた、とあります。
また県が境内に立てた説明板(86年)には「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています」と。
倭迹々日百襲姫命は、奈良・三輪山の伝説にも登場する神話上の人物ですが、宮内庁が、その墓としているのが箸墓古墳(奈良県桜井市)。
箸墓と言えば、周辺の纒向遺跡が邪馬台国の有力な候補地とされ、箸墓そのものを卑弥呼の墓とする説もあります。
神社について、支局にある「新版香川県の歴史散歩」(96年)には「当初は水神を祀ったものと考えられ、それに……百襲姫命の伝承が付加されたものと思われる」と書かれています。
その通りだろうと思いますが、邪馬台国女王になる前の若き卑弥呼が、讃岐の里にいた、なんて想像の翼を大きく広げると、ちょっと楽しくなりますね。
讃岐一宮の田村神社(高松市)の祭神にも倭迹々日百襲姫命が入っているといい、姫と讃岐が縁が深いことは確かなようです。
初詣の時期も過ぎた、静かな里の神社で、はるかな歴史に思いをはせた、小さな小さな旅でした。【高松支局長・姫野聡】
245 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:36:16
近代の神社=お参りしやすい街道沿いに奉られています。
中世の神社=災害・疫病が起こったところに奉られています。
古代の神社=どの様な所に奉られているか知っていますか?
神様は、仏さまと一緒に天孫降臨し、神仏ともに奉られました。
246 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:42:19
■弥生の出雲、渡来人が住んでた? 発掘調査シンポ
朝日新聞 2011年1月24日
http://mytown.asahi.com/areanews/shimane/OSK201101230073.html 最新の発掘調査の成果を基に古代出雲の謎を探る企画「掘った!わかった!弥生時代の出雲!」(県埋蔵文化財調査センター主催)が22日、出雲市大津町の出雲弥生の森博物館であった。
講演とシンポジウムを通じて、朝鮮半島や中国大陸、北部九州との交流によって繁栄したことがより鮮明になった。
福岡大の武末純一教授は「弥生時代の日本海交流」と題した基調講演で、弥生時代の大規模集落跡の山持(ざんもち)遺跡(出雲市西林木町)から朝鮮北部製の楽浪土器が出土したことについて、
「倭(わ)国のクニの成立に先進地中国の影響があった。中国漢代の楽浪郡から渡来系の集団が出雲に来た証し」
との仮説を展開した。
シンポジウム「弥生時代の出雲と朝鮮半島の文化交流を考える」では、川原和人・埋文センター所長が
「出雲では他地域の土器が数多く出土する。鉄、漆、玉、水銀などの産業を示す遺跡もある。楽浪の人々が住んでいた可能性も出てきた。日本海交流が繁栄をもたらしたのではないか」
と問題提起。金武重・韓国中部考古学研究所長も
「出雲に楽浪人が居住した可能性が高い」
との考えを示した。
また武末教授は、荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣について
「九州では(鋳造に)石の鋳型を用い、近畿では石型から土型に変化する。楽浪は土型だ。荒神谷が石か土かが焦点になる」
と今後の調査、研究への期待を語った。(岡田和彦)
・シンポジウムでは、弥生時代の出雲について議論がされた=出雲市大津町
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101230071.jpg ・楽浪土器。紀元前1世紀から紀元1世紀ごろ、朝鮮半島北部の楽浪郡で作られたとされる
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101230070.jpg
247 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:45:39
古代の神社はどの様な所にあったかは、
宿題です。おやすみなさい。
248 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:06:11
>>195 >そのヤマト政権というか、各地の首長連合というのが怪しいわけで。
馬鹿にでもサルにでも分るように噛んで砕いて説明してやっても
学習しようとしない馬鹿、考えようとしない阿呆には無駄だと言うのが
この板ではいやと言うほど思い知らされるwwwwwwww
>195もまさか昨日今日この板に来た人間でもあるまい。
その答えは過去に散々している。
過去ログ拾ってきて自分で考えてみろ。
(まあ過去ログなんか参照しなくても一から考えても理解できる話だが)
仮に首長連合と言うのがお前の言うように「おとぎ話」なら…
じゃあリアルの学者で
「ゆるやかな首長連合なんかありえない」
と言っている奴がいるか?
少なくとも俺の知る限りいない。
無論九州説を唱えているような学者を含めてだw
(ついでにこれは賭けても良いが
世界中の古代史に関係する学者を集めてきても
日本に「ゆるやかな首長連合」と言う” 段 階 ”があった…と言う話に
「それはナンセンス」なんて言う奴もいないだろうwwww)
何故現実はお前の考えと真逆か自分の脳味噌で考えてみろ。
まあゴミクズレベル九州説お得意の インボーロン に逃げ込むなら救いようが無いがwwwwwwww
249 :
248:2011/01/31(月) 00:12:41
何故この板のゴミクズレベル九州説は「首長連合」にこれほど拒絶反応を示すのか?
…を考えてみたんだがw
恐らく「かつての邪馬台国論争が成り立っていた前提をひっくり返された」
と言うことなんではないだろうか?wwww
そうかつての論争と言うのは言わば 畿内ヤマトvs九州 でフラッグの取り合いみたいな物で
その土俵自体を否定されたら、もはや勝ち負け以前の問題wwwww
あとは現在の畿内説と言うか考古学者らが言っている事だから反対してやれ。
…と言う馬鹿丸出しの脊髄反射wwwwwwwww
250 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:17:15
>>248 その「ゆるやかな連合」がどこから出てきたかという話だな。
畿内説が唐古・鍵遺跡を邪馬台国に比定していたのはそんなに古い話じゃない。
でも、掘っても掘っても何も出てこない。だから破綻した。
纏向もいずれそうなる運命だろうが…。
その後に出てきたのが「ゆるやかな連合」ということなんだろう。
倭人伝から都合の良いのを都合よく引用したわけだ。
各地の土器が見つかるというのを根拠にしているらしいが、これは唐古・鍵の
時にも言われてきたこと。まあ、畿内説とはそんなもんだ。
251 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:24:39
>>250 怨み節東遷厨
要するにお前にとって「緩やかな首長連合」は
五寸釘を打ち込む藁人濠に書き込むお題の一つなんだなwwwww
まあそう言うインボーロンに逃げ込んで
自分を慰めているうちはビョーキは治らないぞw
で、結局「首長連合なんてありえない」と言っている学者の名を教えてもらうことはできないのか?
それとも 悪のキナイセツ が(九州説の学者に対してすら)言論を封じているのか?wwww
252 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:27:11
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)
じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)
ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
253 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:34:39
>>249 おまえは何様のつもりだ?学者先生がそう言ってるのなら、お前が出しゃばること
でもない。
ゆるやかなんて所詮他人の意見や見識なんだろ?少しリキ入りすぎゃしねえか?
他人の意見の受け売りで、あんまりでかい顔して語ってんじゃねえよ。><
254 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:34:54
そもそも外部の人間に会わず鬼道なんていう得体の知れない事をやっている
フシギ系オバチャンを共立すると言う時点で「緩やかな(脆弱な)連合体」もいいところだがw
「すなお読み」を売りにする九州説は、まさかこれを否定するんじゃないだろう?w
じゃあ九州にはそれを認めて現在の常識になっている首長連合を否定する根拠は?
先ず単純に考えてその範囲・広さか?
そこら辺の能書き…ゴホゴホ…考察も聴いた記憶が無いw
あるのは脊髄反射で噛み付いてくる否定のみでwww
m(-_-m)? ウラメシヤー
m(-_-m)〜 ウラメシヤー
257 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:40:08
>>253 >他人の意見の受け売りで
だから散々
「所詮自分の言っている事は一般に言われている常識レベルの受け売りだ」
つってんだろうがwwwwwww
そもそも歴史を語るにオリジナリティを競うのか?w
まあゴミクズレベル九州説は如何に面白おかしいお話を作れるか競っているみたいだがwwwwww
>学者先生がそう言ってるのなら、お前が出しゃばることでもない。
「首長連合」は学者先生がおっしゃっている事でそれに異を唱える先生がいないのなら
ゴミクズレベル九州説は「首長連合なんてありえない」なんて出しゃばることでもない…でおkだなwwwwwww
ありもしない「ゆるやかな首長連合」をあったことにしないと、畿内説が成り立たないのは、
畿内説が詐欺だから、なんて橿原で大声出したら殺される、というのが日本の常識です。
なんか日本語不自由な人が来てる?
261 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:54:10
>>259 スゲーな 悪のキナイセツ wwww
まあ日本国内が無理なら外国の学者に垂れ込んで批判してもらったらどうだ?
262 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:57:03
263 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:09:17
■纒向遺跡:大量出土の動植物の骨や種 土分析4カ月、貴重な成果−−桜井 /奈良
毎日新聞 2011年1月22日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110122ddlk29040514000c.html ◇職員の作業実る−−市教委
桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の動植物の骨や種。市教委が大型建物跡(3世紀前半)近くの穴「土坑」から持ち帰った土に混じっていたものだ。
この土を昨年9月から4カ月かけて詳細に調べ上げたことが、王の支配地域の広さを示す貴重な成果につながった。【高島博之】
猛暑が続いた昨年8月。市教委の橋本輝彦係長らは、土坑の下から絶え間なく湧き出す地下水をポンプでくみ出しながら、小さなシャベルで丁寧に土をすくい上げ、遺物が混じってないか確認して土のうに詰める作業を続けていた。
昨年9月、土坑から祭祀(さいし)に使ったとみられる大量のモモの種が見つかり、橋本さんは他にも供物があるかもしれないと考えた。
土のうは約400袋に上り、職員8人がふるいを使って泥を選別したところ、大量の動物の骨や植物の種子が見つかった。
橋本さんは「纒向遺跡の中心的な場所で行われた祭祀の様相が具体的に描けるようになった。思った以上の成果だ」と喜んだ。
詳細な分析には、金原正明・奈良教育大教授(考古学)と宮路淳子・奈良女子大准教授(同)が当たった。
見つかった骨の約8割が魚で、そのうち約7割は海の魚。宮路准教授は「県内では弥生時代の唐古・鍵遺跡(田原本町)や縄文時代の橿原遺跡(橿原市)でも海の魚の骨は見つかっているが、今回の多さには驚いた」と話す。
また、加工された木材ではヒノキが最も多く、金原教授は「ヒノキは加工が難しく、鉄器が普及していない弥生時代は利用されていない。纒向では鉄器を利用できる状況にあったのでは」と指摘する。
264 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:09:55
まあゴミクズレベル九州説脳内の 悪のキナイセツ の脅威は
菊のタブーも、鶴のタブーも、菱のタブーも凌駕しそうな勢いだがwwwwwww
265 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:16:23
■木材は敷居と垂木 - 高級材のヒノキ/纒向遺跡
奈良新聞 2011年1月25日
http://www.nara-np.co.jp/20110125094815.html 邪馬台国の有力候補地とされる桜井市辻の纒向(まきむく)遺跡でモモの種などと一緒に見つかった3世紀中ごろの木材が、建物の敷居や垂木(たるき)であることが、市教育委員会などの調査で分かった。
王宮中枢部にあった建物の一部とみられ、当時では珍しいヒノキが使われていた。一帯の特殊性がさらに強まったと言えそうだ。
板は長さ約70センチ、幅約20センチ。神戸大学大学院の黒田龍二准教授(日本建築史)が用途を検討し、敷居と結論づけた。柱の形に合わせて丸く加工され、扉の両側に付ける板「方立(ほうだて)」を留めたとみられる2本の溝があった。
敷居から推定でぎる扉の幅は約30センチと小さく、倉庫の可能性があるという。先端がヘビの頭のように加工された棒状の木製品は軒の垂木と判断した。
出土した穴の北側では3世紀前半の大型建物跡が見つかっており、大きさの異なる4棟が軸線をそろえて東西に並ぶ。
黒田准教授は「4棟のいずれかだった可能性が高く、非常に興味深い」と話している。
材質を分析した金原正明・奈良教育大学教授(環境考古学)によると、当時の纒向遺跡周辺は照葉樹林で、ヒノキは手に入りにくい高級材だった。加工も難しく、「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」と言う。
同遺跡では、古墳の周濠(しゅうごう)などでもヒノキ製の木製品が出土。市教委の橋本輝彦・文化財係長は「弥生時代に比べてち密な建造物を造る技術が纒向遺跡の時期に確立したのではないか」と話している。
記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】
・扉の敷居と分かった木材
http://www.nara-np.co.jp/photo/ec00df89294d6c680048e38b3d3d0962.jpg ・垂木とみられる棒状の木製品=昨年9月、桜井市辻の纒向遺跡
http://www.nara-np.co.jp/photo/d685647752b8a23e2873550dd3582d40.jpg
>>264 幽霊の 正体見たり 枯れススキ
ってね
267 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:50:31
>>257 耳を澄ましてみろ。いろいろ聞こえてくるぞ。ため息混じりに「いい加減に
しろ、畿内説」という言葉が。
268 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:54:05
269 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 02:36:54
270 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 06:39:21
おはよう。
マキムク遺跡が大好きな皆様、また木端が出てきて大騒ぎで幸せですね。
残飯捨て場の桃の種も増えましたか?
>>材質を分析した金原正明・奈良教育大学教授(環境考古学)によると、
当時の纒向遺跡周辺は照葉樹林で、ヒノキは手に入りにくい高級材だった。
加工も難しく、「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」
なんてさ、樹木切るのに金属以外の何があるのですか?
言い回しがくどいといいか、気合い入りすぎというか…
環濠も、柵も、武器も、宝物も出土していないマキムクに
しがみつくしかないのか
271 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 06:50:00
年輪年代法で調べるべきだね。
出雲は韓国東岸の迎日湾というところから船を出ると海流によって自然に
たどり着く場所。
迎日湾とは新羅の首都があった慶州の近く
>>270 >樹木切るのに金属以外の何があるのですか?
まだ顔を洗ってま目が覚めてませんね。
縄文時代の木造建築物はどうなるんですか?
273 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 14:28:12
クリの木とヒノキでは硬さが違う。
274 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 15:58:19
>>270 だからあ〜
マキムクなんてまだ数%しか掘られていないのに、
なぜ九州説の連中はマキムクからは環濠も柵も絶対出てこないと言い切るのか。
まあ、畿内でも1世紀頃から鉄の鋳造は始まっていた
(淡路島や京都で鋳造場及び鉄片が出土)
から、発見されるのは時間の問題だろうね。
九州にしか鉄はなかったとかまだ嘘言ってるの?
275 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 16:22:53
>>274 普通は出てきてから、邪馬台国云々と言うものだけどね。
276 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 16:27:11
>>275 九州説の連中も邪馬台国らしき遺構は何一つ見つかってないのに
「掘れば出てくる」と言ってる奴ばっかり。
君は九州のどの遺構が邪馬台国だと断定しているの?
まずは遺構が出てきてから言うべきだよね。
277 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 16:34:48
畿内でも環濠集落は現実に発掘されている。
奈良盆地の弥生時代の大規模環濠集落、
唐古・鍵遺跡の存在を知らないの?
まあ、邪馬台国としてはマキムクのほうが期待されているだけで、
現実問題として奈良盆地から環濠集落は出てきているのに、
九州説の人って大和には環濠集落がないとか嘘いってるわけ?
278 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 16:56:32
>>274 >マキムクなんてまだ数%しか掘られていないのに、
100%掘られているだろう
>>274 >マキムクなんてまだ数%しか掘られていないのに、
100%掘られているだろう
>>275 >まずは遺構が出てきてから言うべきだよね。
邪馬台国の遺構とはいったいどんな遺構なんだね。
281 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:00:40
>>248、
>>249、
>>251、
>>254 相変わらず頑迷だねこの人は。
「ゆるやかな首長連合」説を唱えている学者が居るから、そしてそれに異を唱える学者が見当たらないからと言っても。
その説が正しいとは限らないだろう。ある時期にほとんどの学者が認めた説がのちに間違いだったと分かった例は山ほど
ある。
そもそも「ゆるやかな首長連合」などというのは2世紀から3世紀にかけての東アジアの情勢とは隔絶した体制であって
列島が鎖国状態でない限りそぐわないものだろう。中国大陸では後漢末期からの戦乱が続いており、朝鮮半島も安定して
いなかった。異常気象による食糧危機も発生していた。そのような状況下で日本列島に逃れてくる人間もかなり居ただろう。
つまり、当時において倭国が「ゆるやかな首長連合」体制で有り得るわけがないのである。交流のある大陸や半島が弱肉強食
の世界であるのに列島が平和ボケ体制であろう筈がない。
282 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:05:04
畿内から環濠や大規模集落跡が出てきたところで邪馬台国があったことには
ならんよ。
283 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:09:32
唐古・鍵遺跡の環濠って、用水路のこと?
284 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:58:26
>>281 >つまり、当時において倭国が「ゆるやかな首長連合」体制で有り得るわけがないのである。交流のある大陸や半島が弱肉強食
>の世界であるのに列島が平和ボケ体制であろう筈がない。
説得力無いなあ。
285 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:04:09
スサノオさんが覇権主義ギンギンで来た時はうっちゃってるしさ
286 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/31(月) 18:09:07
>畿内でも1世紀頃から鉄の鋳造は始まっていた
http://inoues.net/korea/korea_fukusendo.html 古代史の上では、日本で鉄製武器を使った勢力が最初の統一国家を建設したと考えられ
ているが、しかしこのような鉄製品が日本で生産され始めた5世紀を前後して、金官伽耶
の王達の墓が金海から消えてしまう点が指摘されている。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
崇神は纒向遺跡の初期を飾る。2世紀末から3世紀初めの王であり、任那建国をする。
任那から鉄が供給され続ける間に、国内製鉄は始まらない。
まともな人間なら安本先生の論説きいたら自然に九州説に入れるだろう
マキムクの宮なんてのは崇神、垂仁、景行の時代で邪馬台国より時代は下る
いい加減マキムクが3世紀のものだからこれが邪馬台国だなんてこじつけるのはよせ
神功皇后が卑弥呼だというのも無理 三韓征伐なんかした人が親魏倭王の金印
などもらうわけがない
288 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:35:39
289 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:36:55
>>282 九州から環濠や大規模集落跡が出てきたところで邪馬台国があったことには
ならんよ。
290 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:39:09
纒向遺跡は卑弥呼の墓か?と言われる箸墓古墳に近く、
纒向の女王が眠っている可能性も高いことから
邪馬台国の重要な比定地の一つになっている。
それに比べ、吉野ヶ里では堀の外から地面に埋めた
甕棺墓が発掘されるばかりで古墳の存在が知られない。
つまり、圧倒的に不利なわけだ。
291 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:54:35
>>288 発掘されているのは100%だろ
数%の発掘なんてありえない。古墳の発掘ならば
古墳の全体像が見た目でわかるから発掘状況が全体の数%であることがわかるが、土の中に埋もれ
今後何が出てくるかわからないものに、数%だなんて
292 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:56:42
>>281 中国は四千年前から王朝があった。
しかし、日本はせいぜい4世紀ぐらいだ。
どんなに隣国が切羽詰まっていても
だからって日本に強大な王が現れるとは限らないよ。
中国だって、まだ強大な王の存在しない周辺国を飲み込んで
現在の規模になった。
まだ日本列島に住む人が「日本人」であり
日本列島は「日本国」であるという概念がないんだから
平和ボケとか別な次元だよ。
沖縄なんか日本統治下に正式には行ったのは明治時代だしね。
そういう意味では今ある日本国土が定まったのは明治時代。
293 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:01:21
魏志倭人伝
「卑弥呼以って死し、大いに冢を作るに、径百余歩」
1歩が約80cmとして80m程度の塚か……
ハシハカ卑弥呼の塚超えているな。
294 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:12:08
>>292 そうだよ、当時は倭国だったのだから。
国土的感覚からすれば九州と本州の一部それと
朝鮮半島の南端ぐらいが国土さ。
倭国は朝鮮半島に領土をもっていたのだから
大陸の戦争に引き込まれていたんだよ。
295 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:13:47
>>291 はい、纒向は九州と違って、遺跡の上に民家が建っているんです。
強制移住させて強制発掘するなんてこと、日本国ではできないんです。
ですから、遺跡が確実に埋まっているという証拠を集めて許可を取り、
休眠田畑や学校建設予定地などを掘らせてもらうしかないんです。
奈良や京都は遺跡が埋まっていても発掘されていないところがたくさんありますよ。
なんたって、今でも多くの人が住んで生活しているから。
九州とは違います。
296 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:18:21
297 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:20:35
>>295 遺蹟の上に民家がたっていること確認したの?
298 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:21:56
家の垣根じゃないのですよ。
環壕と一体となった防護柵を言っているのですよ。
299 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:33:24
日本の王朝が中国に朝貢したのなら記紀に書かれるはずなんだよ
その記述がないかぎり邪馬台国は神武東遷以前の史実だと考える
やはり神話の地である九州に日本の中心はあり、ここと中国は交易したのであろう
そういや以前、神武は5世紀後半の人物で
倭王武は神武だと河童さんが言ってた事を思い出した。
301 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:07:17
新井白石ははじめ畿内説をとっていたが最終的に九州説をとったようだな
本居宣長くらい日本の皇室に詳しい人が九州説とってるからこれも一大権威
本居宣長は国学の立場から、日本の中国への朝貢の事実を認めたくなくてあえて
九州説をとった。政治的な思惑によるところが大きい。九州の女酋とか差別意識が
ありありとうかがえる。
古代から江戸時代までの千数百年間はずっと邪馬台国=畿内で通っていた。
江戸時代に邪馬台国は九州にあったという珍説が突然出てきて
邪馬台国論争が始まったわけだったが
結局九州説の証拠はいまだに何も出てきていない。
考古学の立場からは益々畿内説が優勢になりつつある。
九州説の人々はまずそういった大きな流れを理解するべきだろう。
304 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:54:57
つい最近、その纒向遺跡を訪れたのですが、巻向の無人駅から踏切を渡ったところにちょっとした広場があり、それが発掘後だと気づきました。
発掘後はすっかり埋め戻され、芝が植えられており、「ゴミを捨てるな」と無骨な看板があるだけで、遺跡の説明文などは一切ありませんでした。
巻向遺跡の周りには民家が建っているのだけれど、最近建てた低所得者向けの賃貸住宅といった様相で、法隆寺周辺のような大きな旧家は見当たりませんでした。
邪馬台国が纒向だったとしても、その地の住民は殆ど残っておらず、どこか別の場所に強制的に移住させられたのかもしれません。
それが出雲の国譲りであり、纒向の住民こそ大彦(登美彦)や安日彦(安倍氏)の集団だったのではないかと私は考えています。
神武(ニニギ)の集団が畿内に入るまで、大彦、もしくは大物主の勢力は四国(香川)か淡路島を経て、三輪山から伊勢斎宮まで広く支配していたのだと思います。
305 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:59:18
畿内からは木の面や桃の種がみつかりました。九州からは、金印や玉璧がみつかり
ました。さあ、邪馬台国はどっちにあったのでしょう?
>>303 今までどんなマチガイ説があったかなんて知る必要ありませんやんww
307 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:25:11
畿内説という奇説がまかり通っているおかしな昨今である
アマテラスや大国主が何世紀の人物か調べれば邪馬台国がいつごろか見当
つきそうなもんだが
308 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:26:38
>>305 奴国=邪馬台国だとでも思っているのかね?
九州説の奴らは無茶いうからなあ。
309 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:30:20
>>299 大和王権は邪馬台国の後の王権だと考える人もいるからねえ。
九州説は何が何でも畿内説ならば
大和王権=邪馬台国以外は認められず、
それが違うのならば邪馬台国九州説を認めろと無茶を言う。
なぜ九州なのかね?
その理由を一言も述べないまま、
「日本書紀との相違が少しでもあれば、絶対に邪馬台国が畿内にあってはならない。
日本書紀に記述がないことは、すべて九州のことにしなければならないのである。
理由はない。そういうことにしたいからだ。」
と頑張るわけだ。
310 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:32:40
>>305 えっ?
いつ「親魏倭王」の金印が出てきたの?
九州説の人って、1世紀から3世紀まで
日本の国土は何の進歩もなかったと思ってるの?
311 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:36:00
逆に邪馬台国が九州にあったのならば、
「筑紫風土記」に形跡が描かれて当然だ。
中国に遣使を行ったほどの大帝国が畿内王権に滅ぼされたのだからね。
しかし、その形跡は全くない。
文献的にも遺構的にも圧倒的に九州は不利だ。
今でも素人以外で九州説なんて真面目に支持している学者がいたかね?
312 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 21:45:10
ガンの形跡がないと言っても、体表には兆候がなくても、体内に発見
出来ずにガンがある可能性があるから精密検査が必要だ。
体表にガンの兆候が見られないから、ガンの心配はないですじゃぁ〜、
これはヤブ遺捨だな。
地表上にはいくらでも建造物等存在し、おまけに火山噴火、盗掘、火災、
いくらでも遺跡を滅する因たるものが多数ある。形跡がないから駄目だ
というのは早計もの。
313 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:45:51
>>311 >今でも素人以外で九州説なんて真面目に支持している学者がいたかね?
う〜ん、思いつかないなあ。
314 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:49:42
>>311 文献的に畿内説有利なんて聞いたこともない。
文献的に圧倒的に不利だから、考古学的には畿内説と昔から言ってきたわけで。
考古学なんて、何でもありだからな。
桃の種も魚の骨も、考え方次第で何にでも化ける。
315 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 21:59:06
>>314 文献的に畿内が不利?
そんな珍説を出したのはどの研究者か、名前を出してください。
文献的に九州が不利なのは一目瞭然。
5世紀には関東から雄略の名前を描いたとされる刀が出土しているのに
九州からは大事な文字の出土が全くない。
中国王に手紙を書いたくらいなのだから、当時の倭国王並びに
そのブレーンたちの識字率、学識の高さはかなりのものだ。
しかし、文字史料は圧倒的に畿内にばかりあって九州にはない。
文明の差は歴然としている。
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 22:03:54
それは朝廷が天下をとったから、いくらでもブツがあるわけだ。
九州王朝は早めに滅んでいるから、そんなものは軽くは残ってないよ。
今でも天皇がいるくらいだからね。
年号がうんとあるんだから、九州王朝は存在したと認めて考察したほう
がいい。
317 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:08:13
>>301 そうそう。
本居宣長は天皇の祖先が中国に朝貢するなんてありえないとして
卑弥呼を野蛮な女酋長にしたくて九州説を取ったんだった。
九州説の人ってそんな感じなんだろうね。
天皇の祖先が卑弥呼の従兄妹とか弟だったなんて絶対ヤダ、
だから九州説ーって感じ?
新井白石は邪馬台を「ヤマト」と読み、
読みが同じ大和か山門だと言っていた。
まあ、純粋な九州説の人じゃないからな。
新井も本居も国学者であって歴史学者じゃねえしw
318 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:12:27
邪馬台って当て字に蔑みが込められてるのは、分かると思うけど
後の時代の中国で、「野馬台の詩」って漢詩があって、日本にも伝わってる
「邪」は「や」の当て字と言うよりも
「野」の意図的な誤植じゃないか
319 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:12:32
>>316 九州が文明国なら古墳からでも遺物からでも文字はいくらでも出るだろう。
しかし、それがないのは文盲が王族にも多かった証だろう。
畿内古墳からの出土が多い三角縁神獣鏡は明らかに日本製のものが混じっていて
日本で中国の年号を理解し、刻んだ上で鋳造したことが分かっており、
畿内では3世紀頃には王族、重臣や同盟国家の間では
かなり文字が普及していたことが分かる。
文献的、文明的に九州が不利なことは十分わかってもらえたと思う。
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 22:15:59
倭人伝には女王国とある。記紀には相当年代に男王しかいない。
つまり当時畿内は女王国はではなく、男王国(男王の天皇国)しか
なかったということだな。
筑紫風土記といったって、これは畿内の文献の範疇。載ってなくて当たり
前。文字は年号であるということだな。
321 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 22:20:59
卑弥呼当時、大陸は魏蜀呉の天下三分の3極支配にあり、日本も当時
一国ではなく畿内と九州との二本立ての2極支配だったと観るべきだ。
半島だって一国ではなく分立してたんだろうが。日本だけ一国だったと
いう考えは捨てたほうがいい。すなわち卑弥呼は九州の女王であり、
畿内は男王国、九州は女王国だったという〜2極支配であったのだ。。
322 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:52:05
文献学の立場で畿内説を唱える学者いるかね?
畿内説の学者は皆考古学者だろ?
九州説では安本とか古田とか皆、文献から九州説を唱えている。
323 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:59:06
>>315 知識が偏っているな。
稲荷山の鉄剣のことを言いながら、江田船山古墳の鉄剣は無視とは。
324 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:59:48
大宰府の発掘調査は深さ制限があって、1m35cm以上深く掘っては
いけないと言われているそうだ。1m35cm以上掘ったら
倭国の物が出てきそうだかららしい。
卑弥呼時代の木簡やら超お宝物見つからないように掘って畿内説に
貢献しているらしい。九州人のくせに度胸が無い。
その指示をしているのは、九○歴○資○○で、所詮文科省の指導だろう。
真実の古代を隠し通せると思ってるのかね。
325 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:02:49
>>322 文献史学の場合は「近畿説」
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対海国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
326 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:05:08
なんでわざわざ琵琶湖水行するの?
古代なら船チャーターするより湖岸を歩くほうが早くね?
327 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:08:04
328 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:08:09
>>325 君の説はメンタルチェックといって、文字にしてはいけない
恥ずかしい思考過程なのです。
329 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:09:12
>>328 おや、何か不都合なことでもございましたか?
330 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:09:56
>>327 古代に船チャーターするなら4〜5日滞在を覚悟してください。
331 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:10:54
>>324 はい、残念な電波君がまた来ましたね。
残念ながら、日本の考古学関係の論文では
実に9割の学者が畿内説を取っています。
残る1割がテレビにも出ていた
九州の田舎の短大の教授などでしたかね。
考古学的には畿内が圧倒的に有利なのですよ。
畿内説を取る人はほぼ大和で一致していますが
九州説は皆がばらばらで取り留めもないことを言っています。
>>322 さて、文献史学が考古学より優先するかという話ですが。
考古学の前提として文献を取り入れるということは有りますが、
日本には7世紀に成立した記紀に頼っている状態であり、
記紀に400年前のことが正確に書かれるかと言われると極めて難しいわけですね。
逆に文献史学で邪馬台国は九州だという論文を書いている学者がいますか?
日本古代史会における文献史学の権威、
山尾教授や水野教授は文献史学野立場を取りながら畿内説です。
真面目に答えているのですから、逃げないでくださいねw
332 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:11:12
333 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:13:39
>>331 ここは電波扱いして逃げよう
まで読んだ
334 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:14:59
九州説が、間違ってることは、このスレの歴史を見るだけでもわかる。
過去に多くの九州説のコテハンがいたが、ことごとく畿内説に論破され消えていった。
のこったのは太国くらいか。
いいかね?
過去には、数え切れないほどの、九州説のコテハンがいた。
彼らはどこへ消えた?
自らの間違いに気づき、スレを去っていったんだよ。
九州説が正しければ、九州説コテハン連中のレスだけで、スレは埋まってることだろう。
335 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:16:38
>>334 >九州説が正しければ、九州説コテハン連中のレスだけで、スレは埋まってることだろう。
そんなことない、バカな電波ほど良く喋る。
336 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:17:30
>>333 こちらが学者の名前まで上げて説明しているのに、
ここの九州説の人ときたら全く持って太刀打ちできずに逃げるわけですね。
悔しかったら、論文を上げてください。
できないんでしょうね、九州説の人の無知さが分かります。
337 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:18:03
九州説が去ったのは、近江説が出たころだね。
彼らは内心認めてるんだよ。
以前ここで暴れてるのは畿内説なんでしょ?
338 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:18:17
考古学の学者のレベル自体がしょうもない。
世の中についていけない落ちこぼれどもの集まりで
畿内説でどうにかまとめたい文科省から御給金もらって
野良作業の監督やっているだけ。
お前ら金使って真実隠すな。
339 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:19:30
そら9割の論文が畿内説を指示してたら
九州説は逃げるしかないわw
考古学、文献史学ともに畿内が優位ですか。
九州説の人が九州優位だと大口叩いたにもかかわらず。
九州説、残念な人だったんだ。
340 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:21:33
>>338 さて、そんな君はどれほどの人なんでしょう?
どこの大学で考古学を学び、どの発掘現場に携わった人ですか?
九州から物が出てこないのは考古学者が悪いからだ、
考古学者さえよければ九州から出てくるんだなんて馬鹿なこと言ってないで、
自分で掘ったらどうですか?
無駄な九州説証明のために。
341 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:23:39
畿内説はお宝見せてください。
玉壁
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
金印
これを越えなければどんなに大勢で声を荒げても
無駄ですよ。
掘って、探して、見つけておいで。
342 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:25:16
>>341 どれも邪馬台国と一切関係ないものですが?
九州説の人って論文が読めないから
とんちんかんなことばっかりいってるね。
343 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:25:24
>>334 あきれただけ。
畿内説を追い詰めると、酒場の乱闘状態になるし、誹謗中傷、人格攻撃が
果てしなく続く。根拠に基づいた論争など出来なくなる。
344 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:26:14
大宰府とこれを守る羅城。これも超えないと
畿内説は不十分
>>334 >過去には、数え切れないほどの、九州説のコテハンがいた。
彼らはどこへ消えた?
自らの間違いに気づき、スレを去っていったんだよ。
それはちょっと違うのでは。
ここ2年ほど2chでは大規模な規制を行っており、携帯ユーザーなどは
一年の内のほんの数日しか書き込めない日が続いていると言う事情がある。
しかもこの規制は携帯に限った事じゃなく、その規制はPCにも及んでいる
346 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:28:09
>>341 どれも北九州の酋長、奴国王の所持品であって、
邪馬台国の所持品ではないですねえ。
奴国王=邪馬台国という観点なんですね。
苦しい展開ですね。
347 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:30:02
>>343 それは九州説。
まともな人は正々堂々と論文を発表している。
そして論文の読めない幼稚な初心者が九州説を唱える。
で、研究者の名前はまだ?
考古学的にも文献史学的にも九州が優位だと大ウソ書いたのは
大きな間違いだったことが発覚して九州説はしぼんじゃったか。
348 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:30:50
>>344 畿内ヤマト王権が築いたものでしょ。
なんでも架空の九州王朝の手柄にするな。
349 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:30:57
>>342 玉壁→金銀錯嵌珠龍文鉄鏡→金印、これが倭王の系譜と読めないか?
少なくとも桃種と木端より1兆倍理解できる説ですよ。
九州説論者が減ったと言う事は。九州説論者はいたって一般的な人種が多かったという証明になるんじゃないかな
そもそも古代史を趣味にしている連中に対する一般の視線は実に冷たいもので
変態的な眼差しでそれを見ている。
面と向かってはいわないけれど
暗い、変態、異常者などなど、決して良いようには見てくれないのが古代史愛好者に対する世間の見方だ。
351 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:33:52
>>349 北九州の酋長奴国王の系譜ですね。分かります。
しかし、邪馬台国の女王卑弥呼の持ち物ではありません。
文献史学てきにも考古学的にもそうですね。
なんたって金印は「奴国王」の名前入りですからw
これを邪馬台国の証拠にする人など誰もいませんよ。
352 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:34:32
>>347 研究者がどうのこうのよりも、自分で調べてみたら?
魏志倭人伝の記述を突き詰めていくと、畿内説は最後には倭人伝の記述は
あてにならないなどと言い出すわけだが。
353 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:34:52
>>348 君は、大宰府に来たことないな。
水城の防御方向は、大和の首都と正反対なんだよ。
畿内が作るのであれば、筑紫の立花山を核心に
防御するはず。
記紀は当てにできない。
354 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:39:24
>>348反論せよ。
もし、大和が真面目に唐と戦争する気であれば、
まずは、関門海峡だろう?何かした形跡はあるか?
355 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:41:21
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:19:30
そら9割の論文が畿内説を指示してたら
九州説は逃げるしかないわw
考古学、文献史学ともに畿内が優位ですか。
九州説の人が九州優位だと大口叩いたにもかかわらず。
九州説、残念な人だったんだ。
確かにw
356 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:43:31
>>348よ。
もし、7世紀ころ、倭国の首都が太宰府であれば
水城や大野城を作る理由もわかる。
つまり、
玉壁→金銀錯嵌珠龍文鉄鏡→金印→邪馬壱国→倭五王→倭京
→白村江の戦い
これすべて、倭国(九州)の話なのだよ。
357 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:45:07
>>348よ。反論は無いのか……
おやすみ。
九州王より
358 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:46:35
水城と神籠石山城群は基本的に太宰府を囲むように構築されているからね。
8世紀以降に畿内勢力が押さえた後も、
そこに「太宰府」が置かれたわけで、
軍事的にも政治的にも都合が良かったのだろう。
359 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:51:08
>>352 九州説でも同様だ。
倭人伝を突き詰めていくと邪馬台国は海の中w
そもそも九州に三十の国が乱立していたなど
戸数を考えても常識では考えられない。
九州にそれほどの人口がいたはずがないからね。
となると、畿内しかないだろう。
倭人伝の記述からね。
360 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:53:31
>>331、
>>339 現在までに発見されている遺跡、遺物で全てを判断できると思っているのならそれは学者とは言えない。本物の考古学者は邪馬台国が九州に
あったか、あるいは畿内にあったかということについて未だ判断を下せない筈だ。纒向はまだ数%しか発掘されていないというのが公式見解
とされるのであれば、全国には未発掘の遺跡が山とあるだろう。全てが発掘調査可能とは限らず、既に破壊されたものもあるだろうから、今の
段階で結論を下すのは間違っている。
「9割の学者が畿内説を取っている」ということは、畿内説には馬鹿な考古学者が多いということだろう。
361 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:54:46
>>357 磐井の石像を破壊したのは畿内王なのに
何を寝ぼけたことをw
しかも7世紀まで九州王朝があったことにしたいならば、
法隆寺、四天王寺、飛鳥寺、すべて九州にあったことにしなければならない。
5世紀以降、畿内であれほどの高い文化が起こり、
反対に九州の文化があまりに低いのはなぜかね?
まず、法隆寺、四天王寺、飛鳥寺がなぜ九州にないのかを説明してもらう必要があるな。
362 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:55:34
水城はなんどか工事をやり直したことが確認されており、
水城の下から古い時代の古水城の跡が発掘されている。
そこに使われている木の樋は、当時70年代にC14で
5世紀中旬と判定された。その後補正されて6世紀となっているが
それでも、7世紀という定説より前のものである。
そもそも水城は白村江の後というのが定説だったからね。
363 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:57:30
>>281 >相変わらず頑迷だねこの人は。
まあ俺だけじゃないからなw
はっきり言って「ゆるやかな首長連合なんかありえない」なんて言っているのは
少なくとも俺はこの板のゴミクズレベル九州説以外に知らないwww
毎回毎回同じ事をサルにでも分かるように噛んで砕いて説明してやる義理もないし
どうやったってゴミクズレベル九州説は「そんなものは認められない」と繰り返すだけだろうから
今更過去の説明を繰り返す気も無いが
まあもしゴミクズレベル九州説の言い分が正しけりゃ
そんな常識で考えても分る事が今の日本じゃまかり通っていると言うお話だがw
日本の学者(のみならず一般人も含めて)が全員トチ狂っているなら
外国の学者にでも批判してもらったらどうだ?
「Oh!ニホンジン ナニ カンガエテマスカ?
ユルヤカナシュチョウレンゴウ?ソンナモノ アルワケガナイデス!」
(※あくまでイメージですw)
とかwww
まあこの邪馬台国論争以前のこのレベル(中学生ぐらいかな?)で否定しなけりゃやっていけない
ゴミクズレベル九州説も大変だなw
364 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:57:40
>>360 結論を出している学者など誰ひとりいないが?
論文などそうだろう。
自分はこの説を取ると言っている学者は9割いるというだけだ。
学者を馬鹿にするほどの研究を何一つ行っていない素人君。
九州説を取る学者が多いとインチキを言う九州説の坊やがいたから
こんな話になったんだよ。
「僕は何も知らない素人だ。学者のいうことは全く理解していない。
でも九州説を支援したい」
なら、どうでもいい話だったんだがね。
365 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:57:45
>>331 >逆に文献史学で邪馬台国は九州だという論文を書いている学者がいますか?
古田は純粋に文献史学で九州だと言っているだろ。
「邪馬台国はなかった」で衝撃を与えた。
畿内説も九州説も一瞬虚を突かれて、邪馬台国と言う文字は使わなくなった。
その後反論されているが。
今でも邪馬壹国と言っている香具師もいるぞ。
366 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:00:23
>>364 >自分はこの説を取ると言っている学者は9割いるというだけだ。
それがおぬしのようなシロウトに影響を与えて間違った歴史観を持たせるのだ。ボウヤ。
367 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:04:17
古い寺の話なら、太宰府観世音寺と法隆寺ネタかな。
観世音寺に日本最古の鐘があるんだよね。
そこに掘りこまれている文字には、北九州の地名が入っているらしい。
368 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:04:42
全く畿内説は不思議だ。
中国との交流があったと言う証拠は皆無の畿内に、
どうして邪馬台国があったと言うのか解らん。
纏向からはビタ銭一つ出てこない。
369 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:05:40
>>365 古田はほとんどの研究が在野だからな。
関東にも大王がいるといったり
裸国、黒歯国はエクアドルだといったり
まあ、突き詰めて言えば
東アジアでは統一国家が長らくなかったという考えの人だ。
それが九州説に優位なのかは知らんが。
場末の掲示板、便所の落書きと言われる2chに投稿し
世間で変態、暗いと位置付けられたこの古代史の世界で
勝った負けたと騒いでる。
371 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:06:56
>>366 おっ、素人君。
嘘つき九州説ご満悦だねえ。
じゃあねw
372 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:06:58
>>364 >「僕は何も知らない素人だ。学者のいうことは全く理解していない。
>でも九州説を支援したい」
>なら、どうでもいい話だったんだがね。
「僕は何も知らない素人だ。だから学者のいうことだけ信じる。自分の頭では考えない。
でも畿内説を支持したい。
なら、どうでもいい話だがね。
373 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:08:58
>>372 九州説の奴の馬鹿さが分かるな。
お前らだって古田説の丸のみだろう?
自分の頭で一切考えていないのがよくわかるね。
374 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:10:11
>>372 九州説が学者は九州説が多いというデタラメを言ったことが
原因なんだからそういわれるのは仕方がないよ。
今後はそういうデタラメは言わないことだ。
375 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:10:35
伊都国の奥の雷山千如寺が由緒によると、成務天皇48年だそうである。
2世紀はいくらなんでも早過ぎるような気はするが、いちおうそう書いてあるらしい。
376 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:10:49
そうだ!ちゃんと自分の目で地図を見て考えよう!
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対海国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
377 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:10:58
>>331 榎一雄や井上光貞が九州説をとっていることを知らないのかな?
378 :
372:2011/02/01(火) 00:12:25
>>373 儂は古田説を丸呑みしてはいないのだがのう。しかし、こんな憶測で書き込みをするおぬしもアホだの〜。
>>331 ×残念ながら、日本の考古学関係の論文では
実に9割の学者が畿内説を取っています。
○残念ながら、日本の考古学関係の論文では
実に9割の学者が畿内説でないと就職にありつけません。
380 :
363:2011/02/01(火) 00:17:28
まあ蛇足の蛇足、当たり前の話だが…w
何も無かったところにいきなり強力な中央集権的国家が出現するなんて事は無い。
中国で言えば始皇帝が統一するまで黄河文明といわれるものが出現して
一体どれくらいかかっているのか?と言うお話で
(しかも始皇帝によってしかれた郡県制も秦滅亡後なし崩しになり
それを立て直したのが漢の武帝と言ったところか…)
で、その統一王朝が出てくるまで諸勢力が互いに不倶戴天の敵
「向こうが死ぬかこっちが死ぬか」で最後の一人になるまで戦いを繰り返した
…と言うのが ゴミクズレベル九州説史観 だろうか?wwwwwwwwww
んな高校野球のトーナメントじゃないんだからwww
「天下とり」に進む前に、そりゃどうやって生き延びるかサバイバルの為に
離合集散、合従連衡…知恵を絞るってお話w
まあゴミクズレベル九州説の脳内首長連合と言うのは
ある日全国の首長が一箇所に集い、円卓会議で
「これからはみんな仲良くしていきましょうね」
と申し合わせたお花畑なんだろうがwwww
381 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:18:56
おまえらみんな、えーがんちょ
382 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:19:49
ヤマト国建国のベースとなった思想は「三方よし」ですよ
383 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:20:42
>>377 井上光貞は20年ぐらい前に没している。
戦前の教育を受けただけあってかなり日本神話(神武の辺り)を信じている。
結果、天皇の祖先の一族が卑弥呼であっては辻褄が合わんということで
卑弥呼を熊襲の女酋長にした。
そういう意味では本居に似ている。
榎一雄は邪馬台国東征説を取る。
この説では4世紀に畿内には大きな王権はなかったことが条件になり、
現在畿内で次々発見される遺跡と辻褄が合わなくなっている。
384 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:22:19
そう、中国の権威が畿内大和を立てたのです!
385 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:22:31
>>379 馬鹿かw
古田は在野で九州説を唱えて教授になった。
学者が九州説を唱えてくれないなら今度は学者攻撃か。
で、君は学者以上の何を知っているんだい?
九州説坊やは全く困る。
386 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:27:45
中華思想万歳!
畿内説万歳!
387 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:28:11
>>383 辻褄が合わないなら引き返すべきだよねー
学者先生やると、それできないからますます真実から遠ざかる寸法
388 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:29:35
畿内説は左翼思想だった!!!!!!!!!
389 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:31:20
>>281 >2世紀から3世紀にかけての東アジアの情勢とは
考えてみればこれ九州説にとってこその台詞でw
九州説の中には九州以東特に畿内ヤマトなんかは大陸半島に起きている事なんかにまるで無頓着で
その情勢変化に敏感に対応していたのは九州のみ…なんて構図になるのか?w
まあこの板のゴミクズレベル九州説にすればそもそも3世紀のヤマトなんか
人もまばらの原野だから無問題なんだろうがw
東アジアと言うレベルで考えれば益々九州のみで考えることが馬鹿馬鹿しいお話になるw
390 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:32:25
日本列島は中華帝国の属領なのです!!!!!!!!
391 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:43:26
まあ現在の九州説の惨憺たる状態は
無論元々一過性のブームが過ぎちゃったからだろうがw
そのブームが廃れたのは
ユニークなセンセーショナルな説を引っさげて登場してくれるキャラがいなくなった(ネタ芸人の枯渇w)
…と言うのが大きいんだろうなw
まあ安本や古田はかつての邪馬台国ブームが生み出した2大スターと言ったところか?w
ちなみにその二人の論争、現在の九州説の担い手の一人、関さんは何処かで「プロレス」に例えていましたがwwwwwwwww
392 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:43:44
>>383 東征説というのは、近畿の銅鐸勢力を九州勢力が征服したと言う説だぜ。
4世紀に畿内に大きな王権はなかったことが条件になるかな?
393 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:45:29
394 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 01:40:17
395 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 06:25:24
おはよう。今日の筑紫は暖かいよ。
396 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 11:04:32
ところで畿内説の学者は纏向が邪馬台国の王都と言うんだろ?
住居跡のない王都ってあるか?
頭がおかしい連中ばかりだな。
あの大型建物とやらで卑弥呼が一人で住んで鬼術をやっていたんだ?
普通に考えれば纏向は単なる祭祀場だ。卑弥呼の都は何処か別の所にあると考えなければならない。
纏向いくら掘ったって卑弥呼の都である証拠は出てこない。
こんな自明の事も判らずに纏向を170回も掘り続けている低脳学者共が畿内説なのだよ。
畿内説=左翼
398 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 12:10:33
昼休みだよ。筑紫は晴れているよ。
399 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 16:09:41
>>396 纏向は有力地の一つだろ。
纏向が邪馬台国でなかったならば邪馬台国は大和ではないということはない。
しかも、一回の調査地はほんの小さな区域だ。
九州だって同じ調査法で掘られているんだよ。
しかし、九州に至っては邪馬台国らしき遺構すらないじゃないか。
まあ、君自身が170回以内に九州内で邪馬台国を掘り当てることだね。
その前に畿内で何らかの発見がありそうだが。
400 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 16:43:40
>>399 >邪馬台国らしき遺構すらないじゃないか。
浅はかだなあ。九州は各地に住居密集地があるじゃないか。当然、その長すなわち
王がいたんだよ。その遺跡のうえに人が住むなどして見つかっていないだけだ。
畿内、特に大和は住居密集地があまりみつかっていない。致命的だね。
401 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 17:46:41
住居密集地とか、定義をあいまいにして煙に巻いてごまかすつもりですね。
では、九州の住居密集地を挙げてもらいましょうか。
畿内との比較はそれからだ。
402 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 18:39:28
>>396 実際のところ吉野ヶ里が邪馬台国なんて殆どの学者が思っていないだろうがw
「邪馬台国に関係ないから発掘を止めろ」なんてアホなことは言わないwww
邪馬台国でアタマイッパイイッパイ。
畿内が憎い、ヤマトが憎い、纏向が憎い キーッ!
自分を置き去りにしていったあの人=考古学 が憎い…の怨み節w
で、ゴミクズレベル九州説的には纏向をどうしたいんだ?w
「散々掘り返しましたが邪馬台国に繋がるものは見つかりませんでした
なので纏向の発掘調査はお終いにします」
とでも言って欲しいのか?クズがwwwwww
403 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:12:24
>>400 住居跡は大和のほうが大規模だろ。
ちなみに纏向遺跡は弥生時代初期で1キロ四方、
弥生時代後期で東西2キロ、南北1.5キロと考えられている遺跡で、
内部からは随分以前から住居跡、土器、埴輪などが発掘されている。
今回見つかったのが王宮跡というだけで
纏向からは王宮以外何も見つかっていないというのは九州説お得意の無知か。
纏向で見つかっている住居跡は平地式住居といい、
この時代に一般的な土を掘り下げた竪穴式住居ではなく、
はるかに進んだ床がついた住宅。
文化の高さがうかがわれる。
404 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:53:02
九州 弥生時代 住居跡
でググれ。
住居跡などどこにでもある。
いちいち数えて、労力を無駄にしたくない。
うちの家の敷地からも出てくる始末だ
405 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:59:44
>>404 まあ、大和には住居跡がないとか言っているとんちんかんな
君の言うことにはどうも信憑性がないよね・・・
君もまず、嘘書く前に「大和 弥生時代 住居跡 」
ぐらいググろうよ。
で、君が邪馬台国に比定している住宅跡はどこ?
まさか、「俺の家が卑弥呼の王宮なのである。
しかし、俺様が住んでいるから掘らせてやらないだけだ」とか言わないでね?
君の家の敷地から出てきた弥生時代の遺物、史跡指定第何号地なのか、
邪馬台国と何の関係があるのか、詳しく。
406 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:06:09
407 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:14:56
>>406 ふむ、やはり巻向には竪穴式住居はないというのは
定説になりそうだな。
高床式の住居の可能性はあるが、
まだ、穴が確認されただけで、
住居であるかどうかはわからないと言えそうだ
408 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:38:45
409 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:47:01
wikipedia 竪穴式住居
歴史 [編集]
日本の竪穴住居は、伏屋式と壁立式とがあり、後期旧石器時代から造られ始めたと考えられており、
縄文時代には盛んに造られ、のちの弥生時代に伝わり、伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の
大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。
そして、日本の農家や民家のもととなっていった。竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、
さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた。特に近畿地方では
平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる。
410 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:49:50
マキムクって、ずいぶん先進地帯だったんだねえ。
平安時代を先取りしてたのか。
411 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:53:47
平安とは言わんが、奈良時代あたりの遺跡と弥生の遺跡がかぶってんじゃないか?
あのへん、遺跡多いだろ。
412 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:01:40
このあたり藤原京の近所ですよね。
さすがに、専門の先生がごっちゃにする可能性は
低いと思うけど。
王宮も宮殿もない纒向を
「ここぞ邪馬台国」と言い続けるには、
三角縁神獣鏡詐欺や
箸墓詐欺で
嘘をつき続けることが肝要だ。
414 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:04:39
>>389 >
>>281 >>2世紀から3世紀にかけての東アジアの情勢とは
>考えてみればこれ九州説にとってこその台詞でw
>九州説の中には九州以東特に畿内ヤマトなんかは大陸半島に起きている事なんかにまるで無頓着で
>その情勢変化に敏感に対応していたのは九州のみ…なんて構図になるのか?w
これが
>>281に対するキミの反応かね。どこを見ているんかね。キミの言うようなことはどこにも書かれていないだろ。もう一度読み直して考え給え。
ゴミクズの中のカスみたいな畿内説者はこれだから始末におえん。
>>281の要点は「大陸や半島が弱肉強食の戦乱期にあるとき、それらの地と交流のあった倭国がゆるやかな首長連合体制などという平和ボケ体制で有り
得る筈はない」ということだ。
大陸や半島からの渡来人(難民)も多かっただろうし、先ずそれを受け入れた九州地域は食糧不足や政治不安が生じ(倭国乱も王の後継者争いとともに
これらのことが背景にあったかも知れない)、九州から東の方に移住するものも多かっただろう。そのうち奈良に入った一団が神武東征として記憶され
たんじゃなかろうかね。
415 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:07:06
>>413 孤独な戦いだなあ。
リアルで友達いるの?
416 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:14:04
孤独な闘いなのは
>>408 だな。
本来なら他の畿内説がフォローに入ってもいいはずだが、
あまりに独特なので、フォローもつかない。
さて、太国&唐松コンビがあっちで喧嘩してるようなので
私はこっちに避難してましょうかねw
2世紀から3世紀にかけての東アジアの情勢?
こっちはこっちでジョーカーと誰かがやりあってるのかな?
418 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:34:39
ただいま。九州王だよ。
なんだかいっぱい話していますね。
でも大丈夫。畿内説の皆様には新しい未来を、
九州説の皆様には真実を、
お届けします。
419 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:50:39
>>416 孤独な戦いはおまえだろうw
纒向から住居跡が出土していないとか
嘘をつかないと九州説は成り立たないからな。
お前が信じる文明国九州は
実は後進国で平安時代まで竪穴式だったから仕方ないよな。
>>396 >ところで畿内説の学者は纏向が邪馬台国の王都と言うんだろ?
>住居跡のない王都ってあるか? 頭がおかしい連中ばかりだな。
たまにぁ〜どんコイ坊主と遊んでやるか〜
横ですが・・・古代住居に関しましては、全国各地で見つかる遺跡をみてごらん。
住居が見つかってない例なんてザラにあるはず。マキムクだけが特別に見つからないわけではない。
>あの大型建物とやらで卑弥呼が一人で住んで鬼術をやっていたんだ?
>普通に考えれば纏向は単なる祭祀場だ。卑弥呼の都は何処か別の所にあると考えなければならない。
>纏向いくら掘ったって卑弥呼の都である証拠は出てこない。
>こんな自明の事も判らずに纏向を170回も掘り続けている低脳学者共が畿内説なのだよ。
現在でも高級住宅地やリゾート、貧しい地域やそうでない地域があるとおり、
古代の弥生から古墳時代にかけても同じで、それらの地域によって格差があったのだろう。
そして「大型建物」の発見があったのならば、そこは「祭祀場」であり、
祭祀場があるということは低級な地域ではなく、高級な地域だという事ぐらい知ってるよね?
まずは、それら古代史の「基本」から学んでから投稿しては如何だろうか?
「纏向は単なる祭祀場」なんて周りの失笑かってるのぐらい気付こうよ!てはなしw
421 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:52:23
九州説は邪馬台国比定地をまた一度も口にせずに逃げましたね。
なんで逃げるの〜って敗北宣言だね。
九州に邪馬台国なんかなかったから仕方ないけど。
423 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 22:17:04
纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは
祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキ
の矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に
人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
ってことは、纒向って、集団墓地なわけか。民衆の住居も王宮もないわけだ。
>>414 > 大陸や半島が弱肉強食の戦乱期にあるとき、
> それらの地と交流のあった倭国がゆるやかな首長連合体制などという平和ボケ体制で有り得る筈はない
そうかなあ。「魏志」東夷伝を読む限りでは、他地域も「連合」だったと言っていいんでないの?
國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。
邑落有豪民、名下戸皆為奴僕。諸加別主四出、道大者主數千家、小者數百家。
(中略)
尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻余。位居死、諸加共立麻余。(扶余)
其國有王、其官有相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人、尊卑各有等級。
(中略)
本有五族、有涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本涓奴部為王、稍微弱、今桂婁部代之。(高句麗)
大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸。辰王治月支國。(馬韓)
弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王。(弁辰)
マキムクに生活の跡がないとか魏志倭人条との接点がないとか
好き勝手なことを言っている者どもがいますが、それがどうしたというのですか?
畿内説を成立させ考古学会のメンツを守るためには何でもアリなのですよ
何があってもマキムクは邪馬台国の遺構であると主張しなければなりませんし
箸墓は卑弥呼の墓でなければなりません、畿内説の立場としては
どんな手を使ってもこのふたつは絶対に死守しますよ、ええ最後の砦ですからね
>>426 そうだよなあ。今ある事実だけで判断してはいけない!
何が将来生じるかは、誰にも分からない。
三角縁神獣鏡も将来中国で1万面出土して中国で鋳型が出るかも知れない。
日本でだけ600面出土して、中国や朝鮮で1面も出ていないというのは今だけかも知れない。
ゆえに舶載説は将来を見据えた場合に最も適切と言わざるを得ない。
マキムクで住居跡がほとんど出ないとか、些細なことに拘っているゴミクズ九州説は
まだ2%しか発掘していないことを知らないだけ。将来、史上最大の都市遺構が出土する
可能性は十分にあるし、出るに決まっている。「王都マキムク」とはよく言ったものだ。
九州説というのは、弥生の鏡の99%が九州で出土しているとか、弥生の王墓が九州で多数
出土して、畿内では1つも出土していないいないという表面的なことしか見ていない。
将来の出土で状況が逆転するかもしれないし、逆転するに決まっている。
弥生の中心が九州にあって、古墳時代の中心がヤマトにあるなんて、神武東征を裏付ける
事実は軍国主義であって、正統なマルクス主義史観は認めない。
従って、将来の出土で否定されるべきものであって、否定されるに決まっている。
428 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 01:24:12
>>427 そうそう。
畿内説は最新の考古学に基づいているんだよね。
最新の考古学は、今の出土より先のこれから出土する物まで見据えている。
それが想定考古学という新しい分野なんだよね。
これから出土するはずものを見据えていかないと、「なぜ畿内説か?」ということが
理解できない。
三角縁神獣鏡の鋳型は、近い将来中国で出土するはずだし、マキムクで巨大な
都市遺構が出土する日も近い。
それが理解できないと、畿内説の正しさは理解できないよね。
429 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 01:48:46
かつてマスコミが作り上げた邪馬台国ブームに踊らされ
喜んで登った吉野ヶ里の楼閣w
やがて梯子を外されて気がつけば時代に取り残され
それでもまたマスコミのともすればセンセーショナルな報道にヒステリー起こして噛み付いている…
何処までもマスコミに踊らされる情弱老人のなれの果てがゴミクス九州説wwww
>弥生の中心が九州にあって、古墳時代の中心がヤマトにあるなんて、神武東征を裏付ける
>事実は軍国主義であって、正統なマルクス主義史観は認めない。
いつまで60年安保闘争引きずっているんだ爺さんw
430 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:01:43
ところで…
>>427 >九州説というのは、弥生の鏡の99%が九州で出土しているとか、
一体これの根拠は?
今まで何度も何度も何度も聞いたがゴミクズレベル九州説からそれが提示された事が無いw
確かに漢鏡3期当たりに限れば九州の占有率が90%ぐらいには届くかもしれないが…
一体どんな編年なんだ?
ソースは『ムー』とか?w
やっぱりゴミクズレベル九州説お得意の捏造なのかな?w
431 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:15:57
>>427 >三角縁神獣鏡も将来中国で1万面出土して中国で鋳型が出るかも知れない。
しかしこれほど「馬鹿の一つ覚え」って台詞が似合うのも珍しいなw
実際には「1万面」どころか「1面」でも出れば状況は大きく変わるw
何故か?
洛陽周辺での魏代の鏡なんて殆ど(皆無?)出土していないからw
これでゴミクズレベル九州説の推す「方格規矩四神鏡」だの「内行花文鏡」だのが
何十何百枚と出ていれば神獣鏡が1枚2枚出ても問題ないだろうが。
この「 500対0 サギ 」を見破れるかどうかが
ゴミクズレベル九州説によるサギに引っかかるか否かの最初の関門かな?w
この人は安本の関係者じゃねの?
433 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:40:49
434 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:56:07
435 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 06:42:04
おはよう。
436 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 07:18:22
唐古・鍵から庄内式土器はどの程度でているの?
纏向との連続性をいうからには、それが重要なはずだね。
437 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 08:55:57
纏向に平地式住居とか高床式住居とかがあったと言う馬鹿がいるが、人が住んでいれば竈は必須なんだよ。
平地でも高床でも食物を生で食っていたわけではないから人が生活していれば竈が必ずある。
纏向から竈跡が見つかっているか?無いだろ。
ほんとに畿内説の奴らは痴呆症としか言いようがない。
438 :
水銀厨:2011/02/02(水) 10:39:49
祭祀の場である纏向に大量の住居跡なんか出たら
私は困ってしまいますけどね。
鍵・唐古や河内南部等周辺にあればいいだけです。
結論 纒向は墓場でした。邪馬台国じゃありませんでした。
440 :
水銀厨:2011/02/02(水) 12:17:30
75000戸を誇るヤマタイ国が纒向な訳ないですね。
ヤマタイ国の祭祀場だった可能性があるだけですよ。
初期道教思想である鬼道を用い、
女王になってからあまり人に姿を見せないのだから、
当然所在場所は過剰な人口集積地とは考え難いはずです。
441 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 12:25:24
>>430 そうだよな。
鏡が出土した遺跡や墳墓の時期で区別すると、弥生後期までの鏡の99%が
九州から出土しているかもしれないが、出土した鏡の型式で分類して、古墳から出土
したものを弥生時代からの伝世鏡と考えれば、10対1くらいにはなるんだよな。
だから、「弥生の畿内で鏡が出ていない」というのは、古墳時代に伝世したものを
除外するゴミクズの暴論でしかないな。
442 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 12:29:41
>>431 全く同意、そのとおり。
中国で1面出土すれば、それは100面のうち偶然後世に残った1面ということになる。
100面あったということになれば、それは1万面あってもおかしくない。
すると三角縁は中国製であったことが確定する。
1面あるかないかという紙一重の判断については、あったとして考えるのは当然のこと。
ゴミクズ九州説など、軍国主義である。
443 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 13:16:39
祭祀の場に残飯捨て場デスカ。
どんな高貴な場所でもゴミ箱はあるよ。
445 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 15:33:51
>>427 将来、出るかもしれないでは話にならない。
まだ発掘途中の遺跡はたくさんあるし、存在さえ知られていないものもある。
出ていない限り、全ての場所の可能性は同じ。
出ていない纏向を特別扱いすることは出来ない。特別扱いするのは畿内説が
先入観の塊であることを示している。
このことからも、考古学がいかに当てにならないかがわかる。
たとえ日本中を掘りつくしても、桃の種や魚の骨の解釈が考古学者の
先入観で変わってしまうように、どんな解釈でも出来てしまう。
解釈でどうにでもなるから畿内説が成り立つ。つまり、考古学的には
畿内説ではなくて、考古学だから畿内説も成り立つわけだ。
446 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 16:16:12
まさに危ナイ説でやんすね。
447 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 16:16:34
>>445 九州説に至っては邪馬台国らしき遺構すらないのに
「将来、出るかもしれない」の妄想値だけで話してるでしょ。
将来、出るかもしれないでは畿内説など絶対駄目だというのならば、
九州からはすでに確実な邪馬台国の遺構が出土しているの?
出ていないのならば九州説のほうがむしろ苦しいよね。
448 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 16:27:04
色んな逸話や出土品、遺跡等をまとめたら、
普通は巻向が一番相応しい候補地なのは明白だろ。
一部の九州説の連中のように、否定材料を
必死で探してるだけじゃダメだね。
449 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 17:28:02
そんなんじゃさすがに稚拙すぎて、誰も釣れないとおもうよ。
450 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 17:53:37
>「将来、出るかもしれない」
べつにこの言い方に目くじら立てるほどのことでもなかろう。
「…かもしれない」だから、「出る」と断定しているわけではないし。
むしろ問題は、「現在まで出ていないから将来も絶対に出ない」という論法だろう。
あほくさ
452 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 18:06:54
>>432 似て異なる「ナニカ」だろううなwwwwww
無論ベース部分はかなり安本説に近いんだろうが
更に基地外電波流し込んでいる漢字w
この俺が「怨み節東遷厨」とよんでいる奴で長く良く分らなかったのは
「じゃあ九州説として比定地を何処にするのか?」
と言うことで
本人にも何度か聞いてみたんだが答えは返ってこなかった。
(安本説なら甘木でも良さそうなはずだがそんな話も一度も出なかったしw)
で、前スレの流れで言うと恐らくコイツの一押しは吉野ヶ里っぽいwww
と言っても恐らくどうしても吉野ヶ里と言うことではなくて
「邪馬台国は吉野ヶ里である」
と言うお話が”巷間”通用していた、かつての吉野ヶ里ブーム、邪馬台国ブームにおける九州説が
もっとも輝いていた80年代当たりに時間を戻せ!( ♪ 元のハタチにしておくれ〜 っとw )
…と言うのが本音だろうw
九州説と言うよりアンチ畿内説w
無論この場合の「畿内説」と言うのは現在の考古学会全体を指してしまうわけだがw(この辺はサイキバと同じw)
更に言えば歴史古代史自体に興味があるのかどうかも怪しい。
「マルクス主義史観」だの「軍国主義」だのと言うタームを好んで使うのもこいつの芸風で
脳内イデオロギー闘争(60年代安保闘争?)のはけ口に邪馬台国をネタにしている感すらある。
まあこれもこの板のゴミクズレベル九州説によく見られる現象だがwwwwwwwww
九州説なんて既にネタにもならんよ。
454 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 19:59:19
453:日本@名無史さん :2011/02/02(水) 18:15:23 [sage]
九州説なんて既にネタにもならんよ。
矛盾。
ネタにもならないと言いながら、ネタにしてる。
455 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:08:14
一連の九州説への批判は
畿内説連中からも支持はされていないようだな。
九州説からは無視され、畿内説からは支持されてない。
456 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:14:51
文献で九州、考古で畿内と言われてきたが、考古でも畿内は駄目と言う事が明らかになって来たな。
まだ見つからないけど、将来出てくるかもしれない、なんて夢みたいなことを言っている。
もはや宗教のレベルに到達しているな。
膨大な予算使って168回も同じ所を掘り続けている。
科学技術の事業仕分けする前に纏向発掘の予算を仕分けろ。
457 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:15:30
比定地をいつまでたっても書けない粘着九州説君は
畿内説の人はおろか他の九州説の人からも無視されているみたいだね。
九州説のコテハンの人たちもあまりの無知さに
書き込みに来てもらえず。
畿内説批判をしてみるも無知をさらけ出すだけで
全く議論にならず皆をあきれさせている。
458 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:17:26
>>456 九州でどれだけ無駄な発掘がされているかをまず調べてから
大口叩くようにw
さて。
まだ見つからないけど、将来出てくるかもしれない、
なんて夢みたいなことを言っているのは九州説じゃなかったっけ?
君の比定地はどこ?
はっきり言ってごらんよ。
「吉野ヶ里」だろ?
459 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:31:04
そもそも、イメージされているモデルが違うからねえ。
畿内説は、大型前方後円墳を発掘できる、国の半分を支配下に置く超広域中央集権国家
九州説は、せいぜい30m程度の古墳を作る、九州内の地域集落の集まり。
九州説に対して比定地を要求するのは、集権国家を想定しているからでる言葉で、
実際には、地域集落の集合体ならば、その痕跡なんていくらでも出てくるので、比定地と言われても
意味が通じない。卑弥呼がまた、集落とは別の神社みたいなところにいるとすれば、
またその候補地もいくらでもあるので、決めようともしないし、決められるとも思っていない。
大型古墳を築造できるほどの、軍事動員能力を持つ超広域中央集権国家なら、
卑弥呼を30ヶ国で共立する必要もないし、また卑弥呼が死んだからといって、
戦乱にもどることはない。
460 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:32:46
間違い
大型前方後円墳を発掘できる ー> 大型前方後円墳を築造できる
461 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:37:00
462 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:44:07
>>459 九州説が比定地を言って攻撃を受けるのを
防御しているようにしか見えないなあ。
例えば、「魏志倭人伝」にこういう記述がある。
女王国(邪馬台国)には七万戸がある、と。
さらに卑弥呼が死んだときには生口(奴隷)千人を殺したといい、
邪馬台国壱与に至っては邪馬台国から二十人の使者を派遣し、
生口(奴隷)三十人を魏の皇帝に献上するなど大規模だ。
はたして九州説がいうような、極めて小規模な地域集落で、
七万戸などという表現になるのか?
惜しげもなく奴隷を殺害したり皇帝に献上したりできるのか?
これが九州説の矛盾点だろう。
>>457 >畿内説の人はおろか他の九州説の人からも無視されているみたいだね。
君は無視してないみたいだね
464 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:45:17
465 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:51:10
>>462 >九州説が比定地を言って攻撃を受けるのを
>防御しているようにしか見えないなあ。
そう見えるのもわからなくはないんだが、九州説側の人間としても
実際問題わからんのよ。
伊都、佐賀、板付、久留米、筑後、熊本、吉野ヶ里もそうかな
それぞれでそれなりの規模の遺跡があるし、またそれぞれが
分化してなくて、それぞれが独立できるように鉄器加工痕や
土器の製造場所もばらばらにある。ひとつの広域国家なら、
土器専門とか鉄器専門、銅器専門になってもよさそうなんだが、
出来の良し悪しはあっても、あちこちで出るから分かれていると考えざるをえない。
互いに協力し、頼り合っていれば倭国騒乱なんて起きないもんだよ。
自分が困るから。
466 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:56:35
>>465 後半に関しては?
九州説の主張する極めて小規模な地域集落のことを
魏志倭人伝が書いているとは思えないが?
467 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:56:37
>>465 続き
昔から7万戸は九州説の悩みの種だね。筑後広域とか
熊本広域とかいう説があるが、どうとればいいかわからない。
というか、誰もが納得出来る区域分けが出来れば、論争は終わっているだろう。
魏の皇帝への貢物の話だが、卑弥呼の時代は非常に貧相だね。
それが台与の時代になってから豪華になる。
ここで集権国家の意識が始まると思っているのだが。
468 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 21:04:16
騒乱なんてだれだって困るし、止めたいと思っているだろう。
その結論が宗教的連合である卑弥呼擁立だ。
しかし、それは卑弥呼の死と共に失敗に終わる。
その後台与で一時的には騒乱を収めるが、卑弥呼ほどの
カリスマは望めなかっただろう。
いずれ、また騒乱が始まるのは眼に見えている。
そうして台与の時代に、カリスマを必要としない
広域安定化策が始まる。
これが中国あたりを参考にした中央集権国家こ始まりではないだろうか。
469 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 21:07:18
>>467 むしろ、魏志倭人伝に描かれる邪馬台国の様子が
畿内だとしか思えないのだが。
九州に七万戸の集落が3世紀に存在したのかと言えばね。
卑弥呼の遣使=(一度目)生口8人と布二匹
(二度目)綿緜衣帛布、
丹木拊短弓矢、絹織物、綿、白衣
壱与の遣使=生口三十人、貢白珠五千孔、大狗珠二枚、
異文雜綿二十匹
壱与の遣使になると途端に豪華になるということもない。
逆に卑弥呼の一度目の遣使がお伺いしてもいいかと尋ねて出かけているので
様子見程度に少なくしていたのかと。
卑弥呼の二度目の遣使の際の贈り物が壱与に比べそれほど貧相だとはおもわないが。
ちなみに、魏の使者が邪馬台国を訪れ、邪馬台国のことを記載したのは、
卑弥呼の時代。
470 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:20:07
>白珠五千孔
これが真珠五千個だとしたら相当なものだと思うぞ。
ミキモトパールが養殖に成功していない時代だからな。
自然真珠ならありえないと言う数だろう。
実際ありえない、なにか別のものだという可能性を自分なら取る。
それなら、まあ、卑弥呼の時代と代わり映えしないと言えなくもない。
471 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:28:24
>白珠
普通に白っぽい珊瑚かなんかで作った勾玉のことじゃないのか。
勾玉自体は縄文時代から日本にあるらしい。
真珠は中国でも11世紀になるまで養殖できなかったから
当時の倭国がそんなに入手できなかっただろう。
472 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:41:11
卑弥呼が魏に使者を送ったのは西暦239年(景初3年)。
明帝はこのとき亡くなったばかりで、新しい魏の皇帝は7才ほどの曹芳だった。
こんな子供ではどうすることも出来ないわけで、実権を握っていたのは曹爽。
この曹爽が、卑弥呼と魏の関係上重要な役割を果たす。
ところがこの曹爽は、西暦249年(正始10年)に司馬懿のクーデターに遭って
失脚し、殺されてしまう。おりしも卑弥呼が亡くなった時期に近い。
張政が日本にやってきたのは正始8年かもっとあと。ということになると、
台与の使者が洛陽に詣でたときに出迎えたのは司馬懿の可能性がある。
司馬懿といえば公孫氏を滅ぼした張本人で、これが卑弥呼が帯方郡に
使者を派遣した理由の一つと考えられる。
このあたりが魏と台与の関係上重要なところかもしれない。
473 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:52:44
卑弥呼の初めの遣使は戦中遣使だからね。
魏の勝利を見越してお粗末でもいいから取り敢えず遣使をしたと言う事だろう。
魏としては予想もしていない戦中遣使に驚き大いに喜んだ。
だから大盤振る舞いをしたのだろう。
474 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:53:12
>>470 佐賀県の惣座遺跡から6810個のガラス製小玉が出ているが、数からいくと
これに近かったんじゃなかろうか。
惣座遺跡といえば、肥前国の国庁が置かれていたところ。このあたりが
伊都国だった可能性もある。
475 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:00:29
卑弥呼の最初の遣使は景初2年だ。
476 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:03:03
>>473 いや、卑弥呼は帯方郡が魏の手に落ちたことを知って、使者を派遣したと思う。
>>475 魏志を引用したと思われる日本書紀には景初三年と書かれている。
公孫氏が滅んだのが、景初二年であることからしてもそちらの方が妥当。
477 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:14:35
吉野ヶ里は鉄加工、銅の鋳型、装飾品加工、土器製造とワンセット揃ってるし、
山門郡周辺でも鉄加工、銅加工、土器製造は出てる。
伊都も銅鏡の鋳型と土器製造、装飾品加工はある。
佐賀の総座遺跡も銅の鋳型と土器、装飾品は出ている。
ぶっちゃけ、全部独立国家のマイペース。
統一なにそれ?おいしいの?の国家群。
478 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:29:23
>>477 倭人伝にも、たくさんの国のことが書かれているわけなんだが。
邪馬台国も合わせて30カ国。それぞれ独立しているから国なんだろう。
479 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:43:16
広域国家が統一されていれば、出来の良いところから入手することもできるとおもうのだが、
北部九州国家群、こいつら、統一する気が全くねえ。
はじめは宗教的カリスマでもなければ、一緒になろうとか思ってねえよ、どうみても。
480 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:17:36
>>477、
>>479 統一とはどういうことだ?統一されたら一つの国になってしまうだろが。倭国が30の国から成っているということは
統一されていないということだ。それぞれある程度の独自性は持っている。だが、卑弥呼(邪馬台国)を盟主として
従属しているのだ。
481 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 06:39:39
おはよう、筑紫は今日も快晴だよ。
482 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 08:28:15
>>476 卑弥呼は毎年公孫氏のもとに遣使していたのだよ。
景初2年も例年通りの挨拶程度の遣使だった。
だからお粗末な献上品しか持って行かなかったのだ。
帯方郡が既に魏の支配する所となっていたのを知らずに難升米達が帯方郡を訪れた。
帯方郡を支配していた将軍からこれを聞いた司馬懿はこれを利用して自分の手柄にしようと考えたのだ。
公孫氏討伐は魏の政権内で反対論が強かったのだが、司馬懿が反対を押し切って強引に実行した。
大軍を率いての公孫氏討伐だから勝つのは当たり前で、大して手柄にはならない。
勝った事による目に見えた効果が欲しい。
そこへ卑弥呼が戦中の遣使をして来たものだから、これを利用して自分の手柄に花を添えようとした。
公孫氏に対する遣使だったのを魏に対する遣使と偽って洛陽に送った。
これが実態だ。
邪馬台国やその他の周辺国が異常な大国とされたのも司馬懿の思惑があった。
ライバル曹真が大月氏国からの遣使を呼びこんで大手柄とされていたからだ。
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai28-Gisiwajinden.html にわしの説のヒントになった事が書いてある。
これは景初3年の事としているが、色々考えると2年の方が妥当だ。
483 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 09:46:03
>>474 白珠については勾玉だろう。なぜなら、「孔」と書かれてある。
孔はうがつ、穴をあける意味で、つまり、珠の中央に穴が開けられ、
紐か何かに通して五千孔の珠が献上されたことが分かるからだ。
弥生時代の遺跡から発掘される孔をうがった珠といえば勾玉しかない。
484 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 09:47:53
>>477 畿内からも環濠集落や銅鐸、
鉄製品鋳造施設は出ているからね。
どれも九州にしかないものではないよ。
逆に魏志倭人伝の戸数の多さや、
奴隷の数の多さから言えば
とても九州の地域集落のことではないよ。
それだけの人間の頭数がいないからね。
485 :
早沙羅魏:2011/02/03(木) 09:56:30
おやおや、司馬イさんて、そんな姑息な手をつかわなければならないほど、実力のない方だったのですか。
486 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:03:23
>鋳造施設
えっ!!ち、鋳造……だと?
それは高度だ。
487 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:11:12
wikipedia より
弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、
刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を
作り出す鍛造技法があることがわかっている (ごく一部の例について、
鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためには
きわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような
技術が存在したかどうかは疑問視されている)。
ということなので、鋳造が行われていることがはっきりしているのなら
大発見なのだ。
488 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:16:25
もし、それが九州で行われていたのなら、圧倒的な優位だが、
俺でも製鉄と鋳造をやっていたとか軽々しくは言えないな。
根拠なくそんな事言ったら、叩きどころを自ら作ることになっちまうから。
>>483 >弥生時代の遺跡から発掘される孔をうがった珠といえば勾玉しかない。
ウソですよねww
490 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:56:23
九州説の奴がたくさん鉄製品が出てくるところが
すなわち邪馬台国だと言ってるみたいだが、
実は、鉄がたくさん出る所って、
一位は福岡県だが、二位は佐賀でも大分でもなくて
それらを大きく抜いて福井県なんだよね。
鉄製品から見れば、福岡県の次の候補地は福井県になるわけだ?
福岡も福井も朝鮮半島からの渡来人移民が多かったというだけで、
別段弥生時代の日本の中心地であったわけではないんだよね。
魏志倭人伝の記述にも鉄に関する記述は一切ない。
何を必死に鉄、鉄言っているのか。
491 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 10:59:44
ただし、鉄の出ないところに、他地域の征服は出来ませ〜ん
492 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:11:09
>>491 畿内にあれほど大規模な集落跡が出てくるのに?
逆に九州が他の地域を征服していた痕跡はまったくないのに?
福岡県内でも、朝鮮半島からの移民など、
技術を持ったごく少数の人たちが加工に当たり、
それを農具や矢じりの先として使用していただけだろ。
戦に使う実践的な用途としてはほとんど
鉄製品を利用していない。
493 :
早沙羅魏:2011/02/03(木) 11:15:01
矢じりは戦いに使う実践的なものでしょ。
494 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:21:01
九州が他の地域を征服していた痕跡はないね。
その大量の鉄は、同じ九州北部の別の勢力に向けられていた。
地図を見ればわかるが、弥生人は米というか農の民。
九州北部は福岡平野、筑紫平野、佐賀平野、熊本平野、筑豊とかなり大きい平野がある。
その平野の外に出ても、あとは小さい平野しかなく、大軍を率いて奪取しても、
大した利益は望めない。早い話が、無駄。
追い出された小勢力が、その隙間をついて奪取することはあるだろう。
495 :
ポキール:2011/02/03(木) 11:34:03
他の地を征服することは出来なくても、乗っ取るとこは
鉄なんてなくても十分可能っね。
その代で支配するのじゃなくて、何代も時間をかければいいわけで、女を送り込んで子をもうけさせ
徐々にその影響力を増せば、大きな軍事力なんて必要ないっよ。
496 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:37:47
>>493 矢じりの先ならば鉄よりも日本古来の矢じりに使われた石加工品のほうが
固く、殺傷能力は高い。
矢じりの先を石から鉄に代えたら命中率が上がるということもない。
弥生時代の鉄製品は戦闘用ではなくむしろ生活用品だ。
斧や鍬、狩猟用の動物向け矢じりには使われたが明らかな戦闘用とは言えない。
人を殺戮するための刀剣はこの時代にはまだ登場していない。
497 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:42:25
ある程度勢力がでかくなると、黙っていても周辺勢力は、
支配ではない条件で、その傘下に入ろうとする。
中心国も、直接利害関係がなければ、傘下に入れるのは
拒まない。
早い話、中国に朝貢するのも、そんなもんだろ。
ちょこっと顔を立てる程度に貢物を持っていけばいいだけだ。
早い話、日本に朝貢させるのも簡単だな。
ちょいちょいっと史書を書き換えればいいwww
499 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 14:43:59
>>487 畿内説の人は鉄器の普及や発達を遅らせたがる傾向があるが、九州では
製鉄の際に出る鉄滓が見つかっている遺跡がけっこうたくさんある。
例えば、下前原遺跡、諏訪原遺跡、方保田東原遺跡、小糸山遺跡 尻遺跡、
二子塚遺跡、西弥護免遺跡、狩尾遺跡 と熊本県でもこれだけ精錬鍛冶が
行われていたとみられる遺跡が見つかっている。
弥生時代から製鉄が行われていたのはまず間違いない。
淡路島の垣内遺跡の鉄器工房は鉄の加工をするだけであり、これらの遺跡
とは全く質が違うので、同列に扱うべきではないと思う。
wikipediaは誰でも書き込めるものだが、古代史の関係では明らかに畿内説
寄りの書き込みが多い。そこのところを意識して読むべきだと思う。
500 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 14:53:46
>>490 鉄製品といってもいろいろあって何の数かで違うだろうが、鉄器全体で
見れば出土数の最も多いのは圧倒的に熊本県。
福岡県で発掘している人も熊本の鉄器を膨大と表現していた。
501 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 15:38:22
郡から一万里で末盧国、一万二千里で女王国が始まる。ということは、熊本は女王国
の一部だ。女王国の工場地帯、武器製造工場があったということだろう。
そこから東征軍に武器を送っていたんだろう。
九州には、伊都国、奴国を始めとして邪馬台国連合に属するクニが存在し、諏訪原遺跡、方保田東原遺跡、西弥護免遺跡など邪馬台国〜狗奴国の争乱をうかがわせる遺跡がある。
関西説が依る鏡は国外産とするとしても楽浪系に属するもので、無理に楽浪系の工人を魏に連れ込んで倭のために特鋳させると空想しなくとも、
公孫氏の滅亡にともなって、半島と邪馬台国連合をさけて、関西に流入して大きな勢力になったと考えれば済むことだ。
503 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 16:43:32
>半島と邪馬台国連合をさけて
邪馬台国連合を頼って流入してきたんだよ。邪馬台国連合は、その公孫氏勢力を使って
東征したんだろう。
倭国は鉄器が豊富とは書かれてないのにねw
505 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 17:02:30
だが、兵士も鉄の武器をもっていたことは書かれている。
506 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 17:15:41
>>505 えっ?
魏志倭人伝にどこに邪馬台国の兵士は鉄の武器を持ってる
と書いてるの?
邪馬台国の兵士が持つ武器も、魏への献上品も、
せいぜい木製のものじゃなかった?
507 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 17:32:05
508 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 18:27:52
>>459 >そもそも、イメージされているモデルが違うからねえ。
問題なのは規模の大小ではなくて
例え九州の一部に限定されたものであっても
弥生末期、連合体のようなものが形成された痕跡が無いという事だな。
ここが今日の九州説の最大の欠点と言うか
それがあれば畿内説と五分にはもっていけるだろうし
(何も列島規模の連合体である必然性はないのだから)
比定地も
「ここが卑弥呼のいた都だ」 とピンポイントで示す事ができなくても
大体のエリア範囲は絞れるはず。
ある時期から九州以東、吉備や出雲に、それまでの墳丘墓には見られない規模の墳墓が登場し
埋葬文化墓上祭祀を共有して首長同士のつながりと言うか、地域の連合体のようなものが発生する。
そして前方後円墳は更に広域に出現し、土師器はそれまでにない斉一性をもって登場する。
が、九州独自には何故かそう言った動きが見られない。
テーブルの上に出すカードが無いのだから「規模の大小」や「年代」の問題でもない。
…とここまでがまともな九州説相手のお話w
「古代において緩やかな連合体なんてあるわけ無いだろう!」
とかほざいているゴミクズにしたら
九州の大部分をガチガチの武力支配した一大帝国を想定しているんだろうから
一体そんなもの九州の何処にあったんだよ('A`)…と言う笑い話wwwwwwwww
たたら製鉄は砂鉄を使う
九州では行われてないよ
九州の鉄は大陸渡りの軟鉄
たたらで得られるケラは鋼
鋼の武器は漢にはあったが半島には無い
だから九州にも無い
別に武器は鉄だけでなくても良いだろ、戦いの跡さえあれば。
その間に、関西へ行った連中は未開地を征服し、大きな墓を作らせるようになったわけだ。
511 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 18:56:53
当時の炉の温度では、純鉄1400℃を溶かすのが難しいから、
炭素を多く含ませて、共晶点の1200℃程度で溶けるようにする。
だからできたものは炭素鋼で硬くて脆い。石みたいのもの。
そのなかでも玉鋼は比較的炭素の含有量が少なく、鍛えることによって
さらに炭素が抜け、脆い鉄から、しなやかな鋼になる。
炭素をほとんど含まない鉄ならば、軟鉄になる。
しかしそれには、一度作った鉄に空気を吹き込んだりして炭素を燃やし、
徹底的に炭素を抜かなければならない。
今では高炉で作った鉄を転炉で脱炭処理して軟鉄を作っている。
技術的には軟鉄のほうが高度なんだな。
512 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 19:02:26
3世紀に日本で製鉄が行われていた確証はないが、
5世紀から6世紀には山陰出雲で製鉄が行われている。
そのほぼ同時期に、糸島の元岡遺跡では、製鉄遺跡が発見されている。
これは、山の稜面の傾きを利用した、原始的な高炉である。
近所の今宿遺跡では鉄器加工遺跡があって、鉄滓が確認されている。
513 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 19:09:55
ただいま、今日の筑紫はあたたかかったよ。
ところで、畿内には、倭国大乱や、邪馬台国が戦った形跡あるの?
鞠智城・おつぼ山神籠石・帯隈山神籠石・基肆城・女山神籠石・高良山神籠石・
雷山神籠石・鹿毛馬神籠石・御所ヶ谷神籠石・杷木神籠石・大野城・宮地岳古代山城
九州にあるこれら古代山城を畿内説の皆様は何と説明しますか。
「ごみくずレベル山城」なんて品のない回答はしないでね。
戦った形跡の有無と、邪馬台国はどこかという議論
はあまり関係ないと思う。
そもそも数十の国々が共立した女王の王都で激しい戦争があったら
そっちの方が不自然だな。
515 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:22:55
>>513 熊襲・土蜘蛛の山城を列挙されてもねぇ・・・・・あれ?築造された時代がバラバラですよ。
>>513 年代がバラバラすぎ。
瀬戸内海を主とする高地性集落が倭国大乱の跡でしょう。
517 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:36:02
神籠石系の山城は築造時期不明のものが多いはずだが
時期わかるのか?
それらのソースがあったら示してくれるとありがたいのだが。
518 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:38:16
>>514 古代においては、戦いの無い場王国の方が不自然です。
だって古代は、天皇以下皆甲冑を身にまとって戦場を駆け巡っていた。
519 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:39:47
誤り 戦いの無い場王国→戦いの無い女王国
520 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:44:05
>>515 熊襲=邪馬台国が戦っていた相手=狗奴国
521 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:47:56
>>496 鉄でできる矢を、わざわざ手間のかかる石削りで作るのか?時代逆走発言
522 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:51:37
523 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:57:21
>>522 戦うために、矢はいくついるの?
石削っていては日が暮れるよ。
鉄は、大量生産できるでしょ。
それと、人のこと「ばか」という発言は議論の土俵に上がれないね。
524 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:04:30
戦いは、攻撃と防御が基本ですね。
防御はやはり築城ですね。
高地性集落は、防御というより「非難」あるいは「低地にすむところが無かった」
とも考えられますね。
神籠石は、明らかに古代の街道が通じていたと見積もられる場所に存在し、防御を
目的とした城と考えられます。
525 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:08:39
>>503 公孫氏は男子は皆殺しになったんだが、女だけが日本に来たと言うのかな?
公孫氏は魏に対して籠城戦で対抗しようとした。
しかし魏軍は城を取り囲み、人っ子一人逃げ出す隙を無くして投降して来た兵士も一人残らず殺した。
楽浪、帯方も先廻りして占領していたから、城の外に居ても逃げだせたのはごく僅かだろう。
神籠石系の山城で囲われた中に、何があったかが重要だろうね。
丹国での例のように、護らずにはいられなかったものが重要だろう。
527 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:37:53
鉄器の量が福井県が2番だとか言っていたやつがいたが、あれはインチキだな。
二番目は熊本だ。
三番目は大分か長野。5番目に鳥取と奈良か。福井なんか番外。
古墳時代初期の話だがね。
弥生時代なら少し多いけど、長崎も多くなるし、岡山、鳥取、兵庫、広島の方が福井より多い。
福井は10番目にも入らない。
福井が増えるのは5世紀以降だな。継体天皇が中央に出てくる前に急増した。
>>525 別に、公孫氏の勢力下にあった男子が、皆殺しになったという話しは聞かない。
529 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:49:23
>>526 戦いにおいては、攻撃→防御→攻撃→防御……これの繰り返しを行って、
相手の大事な所を奪取するものです。
だから、神籠石(防御陣地)の位置やその防御線の後方を見積もれば、
何に対して攻撃(防御)したか見えてくるものです。
九州にある神籠石は記紀で隠している古代史を語っているのです。
530 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:53:48
531 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 21:54:01
邪馬台国は、戦っていたのです。
だから、戦いの跡が最も多い(激戦が見積もられる地域)が、
邪馬台国の可能性が高いということです。
卑弥呼は大乱の後、各国で擁立されたんだけどね。
だから本当の激戦はその前後ですよ。
邪馬台国のようなクニにとっては、狗奴国との戦いは大変だったことでしょう。
534 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 22:09:26
>>532 卑弥呼も戦っていたんだよ、熊襲相手にね。
魏は熊襲の平定そして高句麗征討の期待をもって
「親魏倭王」の金印を賜ったのだよ。
卑弥呼が治めた国々は静かになったけどそうでない国とは
猛烈な戦いが続いていたと考えられますね。
535 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 22:12:02
今日は、筑紫は穏やかな晴天でした。
あすも、邪馬台国を探しに行きます。
おやすみなさい。
>>534 即位前は「大乱」だからな。
即位後も争いは当然あっただろうが意味が違う。
卑弥呼の所在地=戦場ではないでしょ。
大体殆ど見かけた者がいないような場所だからな。
537 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 22:40:28
晋書より
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,
而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,
有護東夷校尉,居襄平。咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、
樂浪等郡國五置平州。統縣二十六,戶一萬八千一百。
東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
そしてこの時代に任那建国は無い。
文王(俶)生於東夷。公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患,是日亦以非罪誅俶。
文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
538 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 23:10:32
神々は黒潮に乗り九州へ、玄界灘から九州へたどりつき混血し日本人へと生まれ変わった。
その途中に邪馬台国があり卑弥呼がいた。
伊都国も奴国も旧郡の1、2郡程度の領域におさまるわけですから
30国程度の国々も邪馬台国も投馬国もその程度の領域だったのでしょう
吉野ヶ里など邪馬台連合の1国(おそらく弥奴国)にすぎないのではないですか?
540 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:30:59
>>539 >30国程度の国々も邪馬台国も投馬国もその程度の領域だったのでしょう
考察が荒っぽいと思われ。
伊都国1000余戸、奴国2万余戸、投馬国5万戸余り、邪馬台国7万余戸。
魏志倭人伝に記されているこうした各国の戸数もあわせて考察すべきと思われ。
>>531 「なーなーうっとこの邪馬台国に入りーさ」
「ぶぶづけでもどうどす」
こんな調子で冷戦が続いていたらしい
542 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:54:07
>>540 大和朝廷のお膝元である大和があの程度の大きさだから、当時の国がそんなに
大きいとは考えにくい。
また、後の大和でも7万戸あったとは考えられず、邪馬台国の7万戸も誇張と
考えるのが普通。
544 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 01:04:02
ちょっと引っかかっているのが、
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸
計14万戸、一戸4名として計算すると56万人
これは九州説の九州内か、畿内説の西日本全体かという議論はあるが、
当時の日本の人口の概算は60万人
西日本だけで埋まっちゃうんだよな。
東日本まで入れたら100万人は余裕で超えそうなんだが。
概算人口が違うのか、一戸4名が違うのか、よくわからない。
>>542 奴国2万余戸は誇張か?
伊都国千余戸は誇張か?
距離も人口も、大月氏国並みだね。
547 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 01:14:27
事実かどうかは別として、
一反一人検討だと、筑紫平野5万戸20万人の4倍程度の面積はある
同じく熊本平野7万戸28万人の4倍程度の面積はある。
ただし、現在の地図の場合である。当時の面積は測れないから。
だからキャパシティだけは保証するが、それ以上のことはしらん。
548 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 06:15:05
おはよう。今日の筑紫は快晴で最高気温は14度です。
549 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 09:36:13
>>523 >鉄は、大量生産できるでしょ。
できません。
鉄を溶かすことができなければ、石器より加工は困難です。
自分で試してみたら?
550 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 10:06:19
弥生時代最大と言われる吉野ヶ里環濠遺跡の人口は千人程度と言われる。
距離記載についても一里の単位は大体五倍で書かれているように見える。
奴国があったと言われる福岡だって弥生時代に10万人住んでいたと考える事は無理だ。
現在でも2万人程度の壱岐に、1万5千人が弥生時代に住んでいたとも考えられない。
つまり、倭人伝の人口や距離は5倍くらいで書かれていると考えればいいのだよ。
551 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 10:54:13
>>549 >鉄を溶かすことができなければ、石器より加工は困難です。
溶かさなくても熱を加えて叩いて加工する事が出来る。
石を削るより簡単だよ。
石の方が簡単な場合は砂岩とか石灰石、凝灰岩みたいな石だけだ。
とても武器にはならない。
552 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:59:47
倭人伝によれば、記載されている戸数の合計は約十五万戸、旁国を含めてもせいぜい
二十万戸だろう。それを九州全土の戸数と考えればいいのさ。国をやたら小さく考え
るからつじつまが合わなくなるんだ。
553 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 12:13:51
>>551 サヌカイトも知らんバカはひっこんでろ。
554 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 14:24:41
555 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 14:38:56
概算人口が違うのか、魏志倭人伝の解釈が違うのか?
7万戸=7万人とかだと、九州説でも畿内説でも
それほど無理なく収まるんだが、そう解釈して良い根拠は持ち合わせていない。
556 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 17:34:50
557 :
(´ー`)y─┛~~ ◆YK/jqQHtcg :2011/02/04(金) 18:02:17
ユダヤ人とその結社フリーメイソンリーによる経済支配に風穴を開け、
現在の様に複数の人種が経済競争できるまでに「欧州を正常化」させることに成功した。
その点において全ての泥を被る覚悟を持って遣り遂げたのであり、ヒトラー本人ゎ現在の扱ぃにも納得付くであろぅ。
第2次世界大戦以前のユダヤ人による悪行および、今も暗躍しているフリーメイソンリー(エシュロン含む)につぃて、
アメリカ建国の父の9割が、天皇が服従した占領軍司令官マッカーサーが、
フリーメイソンリー構成員であると言ぅ「事実」を日本義務教育で扱わず、
すなわち「隠蔽し続けている状況」でゎ、国家と民族と言ぅ定義を正常に判断できる成人ゎ育まれなぃ。
【フリーメーソン】ユダヤの陰謀【イルミナティ】9
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/occult/1294391749/ 戦時の自国領に、特定民族の「秘密結社すなわち敵国に本拠を置ぃて居る情報網」が蔓延っておれば、
適切なる対処をするのゎ指導者として当然のことであり、それを国民が望んだからこそ
ヒトラーゎ民主政治の選挙によって正当な指導者に成れたのであり、看板に偽りなし。
目標の大半ゎ成し遂げたと言っても過言でゎなぃ。 見事であったと言ってやるべきだ。
根本的なシステムに欠陥の有る、「共産主義」などに身を売ったスターリンが生き延びたのこそ残念。
俺がヒトラーの立場なら、イギリスを占領するまでゎソ連と開戦ゎしなぃ。 その辺、なぜそうしたのか疑問に思ぅ。
「天皇狩り」提唱者ゎ、2018年までに衆議院選挙で出馬して国号を「大和(語源:ヤマタイ)」に戻すんで宜しくw(クス
現天皇を敗戦責任で斬首刑に処し、大統領制/州制/核武装に移行し、帰化しなぃ在日朝鮮人ゎ「奴隷」にする。
米英を3度に亘り焼き払う核保有量で北方領土を奪還し、尖閣油田と竹島を保全し、衛星軌道を軍事的に掌握する。
天皇制廃止・共和制樹立 1
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1284922956/289n- 「はやぶさ」カプセル投下技術はまじやばい
http://p2.chbox.jp/read.php?host=yuzuru.2ch.net&bbs=war&key=1276447598&ls=78-108n
558 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:06:57
>>551 >溶かさなくても熱を加えて叩いて加工する事が出来る。
>石を削るより簡単だよ。
恐らく鋳造じゃなくて鍛造の事を言っていると思うが
そもそも…
>鉄は、大量生産できるでしょ
と言うのは鋳造の事を言っているんじゃないのか?
一回で複数個を造る事ができる。
(分らない奴はガキの頃一度は作ったであろうプラモデルで
ランナー(枝)に複数の部品が鈴なりに付いている様を思い浮かべるべしwwww)
それに鍛造にしても加工の為には大量の樹木が必要で
それを伐採してくる労力から考えれば石製のものより簡単なんていえないと思うが?
559 :
558:2011/02/04(金) 18:23:19
学者によりその収穫量の見積もりにはかなり幅があるんだろうが
古代に米だけで腹一杯食えたとも思えない。
貴重な食料原としてドングリや栗と言った堅果類は必須だったろうが
鉄の加工のために集落の近くの山々の落葉広葉樹を伐採しまくって
その貴重な食料源を破壊してしまった…なんて一種の環境破壊も古代にあったんじゃないだろうか?
(また自然の広葉落葉樹は豊かな下生えを育てそこに山菜やきのこ類、あるいは動物を育てる)
少なくともいくら鉄原料があったとて際限なく鉄器加工できると言うものでもあるまい。
後に化石燃料が登場するまでは…
こう言ったトータルな見方をすれば、この板の九州説みたいに
「鉄が豊富だから先進地域、故に九州が邪馬台国」
みたいなアホ丸出しの発想は無いwwwwwww
事実、鉄の量が集落の規模や数を押し上げた…なんて事を示すデータも無いし
九州に比べればはるかに鉄貧乏wと言える畿内ヤマトに王権は興った。
あとwikiだが下記の項目は何かの参考にでも…
wiki『里山』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E5%B1%B1
560 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:57:41
石製のものでも、黒曜石なんかは相当高価だっただろうが
それに比べても、まだ鉄のほうがコストがかかりそうだな。
鉄の利点は比重の重さ、硬さ、鋭さ…からくる貫通力かな。
石の場合は相当重くても、主原料の二酸化シリコンの比重から、
そう大きい重さにはならない。
ただ、上に出ていたサヌカイトのような自然石原料では、
数を確保することが可能になる。
また、この時代の戦が数優位なのか、質優位なのかは
そうとう検討する必要がある。
相手が特に装備などを持っていないなら、数が多い石製が優位。
相手が鎧などを付けるようになると、鉄の利点が生きてくる。
561 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:59:10
打製石斧は、ジネンジョ掘りの道具。
弥生の鉄は、後半の日本海側でさえ、鋳造鉄斧の再利用品が半分を占める。
562 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:01:59
この前、大阪市立博物館でやってる特別展、
日本の考古学30年を見に行ってきたんだが、
そこに纒向の展示もあったんだ。
纒向から出てくる土器は15〜30%が他の地域のもの。
これは他の地方には例がないことで、
日本列島の広い地域と関連性があったことを物語る。
この土器は東は関東、北は北陸、南は東海、
そして西は出雲や北九州のものもあるんだそうだ。
ちなみに、発掘された遺物の展示もあり、
レプリカだが、弥生時代の盾の一部も展示してあった。
木製の盾だが、魏志倭人伝にも邪馬台国の武器として登場し、
邪馬台国卑弥呼が魏に朝貢した際の目録に入っていたから
たしかに最有力と言われるだけのことは有るんだと思った。
鉄製鏃は再利用がきくんだろう。実験では黒曜石製の鏃のほうが木製鎧に対する
貫通力が高い。
骨鏃に糞尿などを腐敗させた液を塗り、傷つくと感染症をおこすような使用法も考えられ
るが検証された例はない。倭人伝には鉄鏃、骨鏃ともに出てくる。
564 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 21:21:57
ただいま。今日の筑紫はとてもよい天気でした。
が、花粉が飛んでいました。
565 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 21:29:27
九州説の奴らはそれしか強みがないから鉄鉄言っているが
九州でも弥生時代の鉄器と言えば斧やのみの土木用、林業用がほとんどだろ。
武器としてはほとんど出土していない。
再利用したから出てこないだけだとか言っているが、
それこそ戦乱になれば武器を放置して逃げる者あり、
武器が刺さって死に絶えるものありで、
合戦に鉄の武器が使われればほとんどが回収できないのは当たり前。
改修可能な土木用具がどんどん捨てられるのに
矢や刀に使われて戦地に散乱するのがほとんどの武器が
全く見つからないのは妥当でないだろう。
しかも、九州には大規模な王族はいなかった。
つまり、どの酋長も他の国を支配するほどの力はなかったということだ。
566 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:29:35
うん、鉄については
出土数からは、九州が多いが、
戦に使われたかは疑問、ということデスネ。
567 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:16:33
纏向が三世紀だと未だ思っている?
前スレで纏向は4世紀末だと証明された筈だが。
568 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:29:09
569 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 01:23:07
>>567 >前スレで纏向は4世紀末だと証明された筈だが。
庄内式土器が使われた年代かい?
通説では2世紀後半頃〜3世紀前半頃、だね。
570 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 02:06:06
鉄や土器なんて調べたところで、当時の政局なんて
永久にわかるわけがない。
新日鉄と住金が経営統合したことで、今の政局なんてわかんねえだろう。
571 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 03:09:07
恐らく
>>567 は 例の加耶陶質土器の事を言っているんじゃないのか?w
その出現時期について「楽浪消滅後」と言うのに何の根拠も無い。
まあその目安としてそう言う説もあるって程度。
楽浪消滅直前の土器とその加耶の土器の様式を比較検討した話でもなんでもないのだからw
逆に 陶質土器の祖型たる両耳附壺が西晋代のものという点等から
その登場時期は3世紀後半(280)と言うところになるというお話で
九州における庄内と舶来の陶質土器の登場が同時期となると
やはり庄内もその辺だろうと言う話になるw
まああのネタ拾ってきたのは
「怨み節」だか何処ぞのサイトで「無頭派」とか言われている奴だか知らないが
結局いつものようにゴミクズレベル九州説の自爆芸で終わった話だがwwww
572 :
571:2011/02/05(土) 03:12:17
逆に3世紀既に加耶に陶質土器が登場していたと言うのは
須恵器の登場時期を早めるにも有利な条件ですらあると思うのだが?wwwwww
573 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:00:03
>>567 纏向には縄文時代〜古墳時代頃まで人が住んでいた形跡がある。
纏向遺跡ということでは弥生時代〜古墳時代かな。
逆に九州説の一押し、吉野ヶ里などは
古墳時代の到来とともに遺跡が捨てられたことが分かっている。
その後、吉野ヶ里の敷地内に5世紀には前方後円墳が築かれているから、
畿内王権の配下に入った酋長が引き続き周辺を治めていたんだろうが。
574 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:10:30
おはよう。
今日は土曜だ休日だ、天気も最高だ。
邪馬台国探しに行ってきます。
575 :
571訂正:2011/02/05(土) 11:52:03
スマン。
九州でその陶質時とほぼ同時期に登場したのは庄内じゃなくて布留だったなw
>>547 面積を出すなら、田んぼの面積で考えないと
しかも当時の開墾具合で
数字に弱い九州説丸出し
577 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 17:13:11
まぁあれだ、
神武東征っていうのは、
島津と毛利が手を組んで京都に攻め上がり公家と手を結んで政権奪取したようなもんだな。
江戸まで深追いしたから今となっては風前の灯火だが。
土着の郷士色の強いグループと、神武&熊野グループには一脈通じるところがある。
578 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 17:48:17
そもそも神武なんて架空の人物だし・・・
579 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 18:40:14
>>577 東遷説の一種と言って良いのか、よく出雲と吉備を幕末の長州と薩摩に例えるお話があるが…
その例えで不味いのは、そもそも薩長が京や江戸に上ったのはそこに御門や将軍がいて
日本の政治の中枢だからだったわけで
これを東遷説になぞらえるなら、畿内ヤマトには既に江戸幕府か幕末の朝廷に相当する存在があった
と言うお話になるwwww
そもそもなんで九州から畿内ヤマトまで瀬戸内を横断して来なければならなかったのか?
もうその時点で笑い話の範疇なわけだがw
580 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 18:54:48
東遷と東征は違うということをいいたいわけだが。
つまり、東遷はなかった。
581 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 19:03:50
しかも、郷士=縄文系で渡来系でないが趣旨。
九州南部とか高知とか紀伊半島とかは今でも濃いやつが多い。
卑弥呼は大陸の影響を少なからず受けていた、が。
神武は生粋の土着系。天孫というのは天から降りてきた土着系という意味。
神武隊の引っ越しは、非常に小規模なもの。そもそも神武は国王ですらなかった人間だ。
天武が福岡から遷都したときは、大規模なもの。壬申の乱で畿内を統一、九州から遷都したのは日本史上最大級の事件だ。
583 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:06:02
■特別陳列:埴輪の起源に迫る 原形は吉備の祭祀土器−−5日から橿考研博物館 /奈良
毎日新聞 2011年2月3日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110203ddlk29040547000c.html 埴輪の起源に迫る特別陳列「埴輪のはじまり−大和の特殊器台とその背景」(毎日新聞大阪本社など後援)が2月5日から、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で始まる。
埴輪の原形とされる吉備(岡山県と広島県の一部)の祭祀土器から、埴輪へと発展していく過程を最新の発掘成果を交えて紹介する。3月21日まで。
日本書紀(720年成立)は、埴輪の起源を第11代天皇・垂仁天皇の時代としている。
天皇は皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓を造る際、従来のように人々を埋めて殉死させることをやめ、粘土で人や動物などの形象埴輪を作って並べたとされる。
しかし、各地の発掘調査の成果から、形象埴輪は埴輪の中で最も新しいタイプであることが判明。日本書紀の逸話は創作とみられている。
弥生時代、吉備の集落で祭祀の供え物を入れていた壺とそれを載せる器台が大型化。弥生時代後半(2世紀後半)に墓の上で行われる葬送儀礼の道具になった。
供え物を載せる機能は完全に失われ、「特殊壺」「特殊器台」と呼ばれる。
墓に特殊壺と特殊器台を置く例は、吉備以外で東は滋賀県、西は島根県で確認された。
奈良県内では卑弥呼(248年ごろ没)の墓と説もある箸墓古墳(桜井市、3世紀中ごろ)など古いタイプの古墳で見つかっている。
3世紀後半〜4世紀前半、天理市の大和(おおやまと)古墳群では、特殊器台を簡略化して大量生産できるようにした「円筒埴輪」も並ぶようになった。古墳時代が終わる7世紀まで、さまざまなタイプの埴輪が作られた。
同展では、吉備で出土した壺と器台、葛本弁天塚古墳(橿原市)の特殊器台と特殊壺の実物、宮内庁が管理する箸墓古墳や西殿塚古墳(天理市)から見つかった特殊器台や円筒埴輪の一部を展示。埴輪がどう変化していったかを紹介している。
◇
2月27日、3月13日の午後1時から、橿考研1階講堂で学芸員らによる研究講座が開かれる。月曜休館(3月21日は開館)。入場料は大人400円、高校大学生300円、小中学生200円。【高島博之】
584 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:12:47
景行天皇から、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后と
九州で仕事をしてるけど、
たまには畿内に帰ったんだろうか?
その間、畿内は誰が面倒見てたんだろうか。
585 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:17:33
ヤマトタケルは、景行天皇の息子で、
熊襲退治をしてるわけだが、
景行天皇が畿内にいたときに、
ヤマトタケルは畿内から九州へ旅をしたのか?
それとも九州まで景行天皇と来て、九州のどっかに拠点を作り、
そこからヤマトタケルは熊襲退治に出発したのだろうか?
586 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:18:59
587 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:40:07
588 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/05(土) 22:02:23
>普段は非公開の箸墓古墳(桜井市)や西殿塚古墳(天理市)
から採取された初期の埴輪片など約160点も並んでいる。
箸墓は、埴輪が副葬された墳墓。
纒向遺跡の大型建物と整合性を取れば、3世紀中期の建物の後になる。
纒向に宮を構えたのは、垂仁と景行である。
589 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:06:51
590 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:14:43
神武だの、仲哀だの、神功だの、そんな名前出されると一気にスレが胡散臭くなるよな。
592 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:23:27
まあ、戦後の日本史の学説は胡散臭いのが多いからな。
593 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:52:26
天武がすべてを決着させて、記紀を作成した。
天武は、何を隠さなければならなかったのか?
594 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/05(土) 22:53:55
戦後の日本史の学説は,
百済本紀に数字を合わせている。考古学は50年遡上した。
この事実は、百済本紀に数字を合わせても正しい歴史にならないことを表す。
だから、任那建国、渡海、半島占拠だ否定されるか、消極的事実としか認識されない。
595 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:56:47
隠すものは一切ない。素直に考えて万世一系の天皇家が
畿内に続いていた。九州に何がある。ひっこんでいろ
天武のねらいは、まさに595のようなヤシを量産することだった。
597 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:07:05
畿内説の文献史学って記紀の研究をすることか?wwwwww
598 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:08:06
多分、畿内派の人達は、このスレには少ないか存在しない。
ここでは九州説の人たちが自説や他説を打ち合って、
それに同じ九州説の人たちが畿内説っぽく反論してそれに対する
回答を楽しんでいる。
畿内説は、終わったのだろうか?
>>596 こんな所でグダグダ言ってないで
本書いて出せばいい
きっと売れるぞwwww
畿内も九州もどっちも最低レベルに近いスレ
601 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:27:29
ただいま、本日の邪馬台国探し終了。
直感では、篠栗が邪馬台国であった可能性がある。
神と仏たくさんいるし、太祖宮あるし。
ここに決定でヨカデスカ。
602 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:49:48
>>598 九州に邪馬台国があったという確実な証拠はないが、畿内に邪馬台国がなかったという証拠は山ほどあるからね。
1.箸墓は径100歩と云うにはでかすぎる。
大きな墓と云って、その大きさを後円部だけで表すことはあり得ない。
2.古墳は葺き石を持っているが、倭人の墓は土盛作冢とされ、あたかも石を積んで造られたかのような形を云う事はない。
3.倭人の墓は有棺無槨だが、畿内の古墳にはたいてい槨がある。
4.鉄が他の地域に比べて貧弱。弥生時代には皆無に近い。
5.方角が合わない。
6.距離が合わない。
7.歴博による炭素年代は完全に破たんしている。年輪年代法はデータが全部開示されていないのでインチキくさい。
8.箸墓から出た鐙は箸墓築造が4世紀以降である事を示している。
9.日本の土器編年は韓国より半世紀くらい古くなっている。
10.鏡編年は中国より100年古くなっている。
603 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:57:01
>>601 あなたの直感ではなくスコップとツルハシで穴を掘ってきたらどうですか?ゴミしか出ないけどね。
>>603 あおるのはヤメレ
邪馬台国に関係あろうとなかろうと
そこに何らかの遺跡があれば破壊してしまうことになる
奈良県某市で「ここが卑弥呼の墓だ!」といって発掘して
未発見の古墳を破壊した奴がいるのだよ
605 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 00:03:17
>>601 え〜かんべんしてよ〜穴掘るの疲れるし、なにしろ広いから畿内みたいにマキムク一本とはいかないし、
九州はあっちこっちに神様が降りたもんだから、いっぱい邪馬台国があったんだよ。
かんべんしてよ〜
606 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 00:06:28
>>604 「発掘とは遺跡の破壊である」故・田辺昭三先生。
曲学氏か・・・。その後、秋津遺跡で舞い上がっちゃったけど。
608 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 00:11:10
篠栗に掘るものはないよ、すべて表面に出ている。
あとは、それを見て考古学的にどう表現するかだ。
609 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 00:13:00
あ、もう夜がふける。
僕は年寄りだから寝るよ、おやすみ。
>>606 遺跡の発掘が破壊行為であることは考古学関係者ならば承知している事実
実際、古墳の調査で未盗掘や状態のいい埋葬施設が残っていたら文化庁が待ったをかけてくる
問題は、発掘調査ならば専門家が記録しながら秩序だった破壊を行うのに対し
素人さんが乱掘してしまうとまともな記録が残されず、その後の研究につかえなくなること
要は、専門家の調査ならば破壊の代償として研究材料となりうるが
素人さんの乱掘では出土したモノしか残らないということなんだよ
曲学氏は地形とかを見る目はあるんだよ。変な系図なんかに何でこだわるんだろうねえ。
何を喚こうが九州には邪馬台国なんてモノは存在しないですよ。
>>584 景行は半島からやってきた侵略者でしょう?
朝鮮人も韓国人も嫌いですが「倭人」というのは
対馬海峡をはさんで九州北部と半島南部にいた部族なのではないですか?
天皇家のルーツは半島南部(多羅)であり、これが東進したものでしょう
韓国人は日王はもともと韓国人だなどと言って自慢しますが
韓国人でなく「倭人」ですよ、現在の下賎で野蛮な半島人とは何の関係もありません
現在、誰でも自由に意見を書き込める掲示板がセットになったニュースサイトが欠かせなくなりました。
既存マスメディアによる一方通行の情報に身を委ねていた方々へ。目からうろこが落ちる納得の毎日を約束します。
2NN - 2ちゃんねるニュース速報+ナビゲーター
http://www.2nn.jp/
615 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:55:57
>>590 まあ邪馬台国スレに書き込んでいる奴には
「オレサマ古代史」を語りたいって奴が多いからなw
特に九州王朝説やそれに近いものを考えている奴にとって
九州邪馬台国はその為の入り口なんだろうよwww
かくして邪馬台国スレは古代史一般スレになってしまう。
616 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 02:38:09
畿内説の研究が学問のマトモな手順を
全く無視してるように見えて困るんだが。
君の見る目が無いだけです。
618 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 06:55:00
九州説は、掘るまでもなく文献で説明できる。
近畿説は、掘って見つけて、ゴミでもなんでも屁理屈つけて説明する。だからあやしい。
619 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 08:13:04
九州説は文献でも矛盾するし、候補地すら絞れ無い。
卑弥呼に比定出来る人物もいないので、
ファンタジー小説レベルの妄想を強いられます。
620 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 08:30:32
また〜。
>>619は九州説のくせに九州説煽って楽しんでいるでしょ。
今日も筑紫は天気がいいよ。
高祖神社あたりに邪馬台国探しに行こう。
621 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 08:55:53
考古学は、邪馬台国問題に介入せずに、客観的で公平な資料を提供して
くれるのが一番いいんだけどな。
622 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 09:53:12
邪馬台国九州説は考古学的検証をされると都合が悪いらしい。九州説の戯言がバレてしまう。
623 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:04:42
>九州説は文献でも矛盾するし、
どこが矛盾するのかな? 逃げないでちゃんと答えてね。
624 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 10:11:55
記紀に相当年代、女王国(女天皇国)があった記事はなく、このことは
畿内にそのころ女王(女天皇)卑弥呼はいなかったんだな。この不合理を
祭祀王と世俗王とかのまるで南北朝のような畿内の状勢だったと妄想を
新設するわけだ。
つまり畿内には卑弥呼の女王国はなかったと観るのが相当であり、この
ことは卑弥呼とその国が九州にあったことを物語る。つまり当時の日本は
大陸の天下三分の計の3極たる呉蜀魏に分立してたように畿内と九州との
二本立ての2極支配に分立してたということである。
625 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:11:58
>>616 ただ単に九州説に都合の悪いことになって困ってるだけでしょ?
テレビでもマキムクと一緒に吉野ヶ里もやっていたし、
相対的にマキムクが優位という風に紹介してただけ。
テレビを見てマキムクからは吉野ヶ里を超える大規模建物跡しか出てない、
住居跡が出ていないなんてトンでも説流す九州説がいたのには
びっくりしたけど・・・
626 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:25:43
前原伊都国の千戸は、今宿周船寺〜前原の人口密集地帯が
海で当時人がいないことを考えれば、妥当なところ。
三雲、怡土、高祖あたりの地区だけが、当時の集落なら
そんなもんだろ。
福岡奴国2万戸は東区までの広域なら、ちと多いかと思うが
まあ、妥当。いまでも140万都市だし。農地かんがえると
ちょっときつきつかな。
その面積から考えて、その面積の2,5倍の5万戸も
筑紫平野なら、問題ない。
同面積3.5倍7万戸も熊本平野も問題なし。
ただ、当時実際にその人数が住んでいるかどうかは別の話。
別の話だが、佐賀市大和町の旧大和町史を図書館で見つけて開いてみたら、
明治以降に確認された分だけで、小型大型含めると、墳墓が二千以上はあった模様。
ほとんどはすでに消滅している。それ以前のものを含めると一体いくつあったのやら。
意外と人口密集地帯だったのかもしれない。
627 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:55:20
>>617 モモソ姫がどうこうって、マンガレベル。
ってか電通レベルだぞ?
>>589 彼らは海洋系だから、四国や和歌山の南岸、知多半島などに痕跡を残している
大和政権みたいな農業立国とちがって、領土意識とかが全然違うんだと思うよ
>>626 だから、人一人が食べるには田んぼが何平米、畑作地が何平米、木の実などを採集する林野が何平米必要なのかってことだろ
その数字を出してから論じないと・・・
630 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:53:48
>>625 >住居跡が出ていないなんてトンでも説流す九州説がいたのにはびっくりしたけど
トンデモではないよ。ウィキには次のように書かれている。
纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発
見されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品な
どの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などであ
る。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓
古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
631 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:55:31
>>625 肝心の文献無視して大規模集落が見つかったら
それ邪馬台国ってんなら、北海道に比定したって
良いだろ。
632 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:58:12
歴史を研究する時は、特定のイデオロギーを
前提にしないで、限られた資料からありのまま
の古代の景色を解明する努力がいるんだって
ママに習わなかったんだろう。
633 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 13:10:37
いわゆる歴史「主義」という問題な。
>>630 公私混同、オールインワンで小じんまりとして纏まっている吉野ヶ里と、
官庁街と居住区が別区画になって整然とした趣を見せている巻向
どちらが政治権力として成熟した発想だと思う?
筑後川一帯には「大和」の地名は
幾らでも残ってるのな。昔は「山門」
だったんだろうけど。
地名は、明治政府が畿内から移植したものだが
本居宣長ですら、山門説を出しているが、
明治政府とは、いつから出来たんだ?
皇典講究所が調査し日本書紀を国史とさだめた
お上の「わが遠つ祖は九州から参られたのか?」とのご下問に対し、
九州には大和の元の地名が多く残っております、いちど御幸なされても宜しゅうございましょうと答えた
九州出自なんて皇室にも伝わっていないんだよ
列島出自とするなら、九州にするということなんだろうね。
640 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:22:56
脊髄反射レスしてしまった・・・
大和の地名は色んな所にあるよ
磯城瑞垣宮の「磯城」については、
奈良県磯城郡 大和川上流 鍵唐子遺跡近くに「志貴」の地名
大阪府八尾市志紀 大和川中流
埼玉県志木市 荒川 海岸から25km
島根県邑智郡瑞穂町市木 八戸川 海岸から30km
島根県那賀郡旭町市木 同川5km下流
愛知県岡崎市大平町市木 乙川 海岸から15km
愛知県豊川市為当町市木 音羽川 海岸から2km
三重県明和町志貴 櫛田川 海岸から2km
愛媛県大洲市市木 肱川 海岸から13km
宮崎県串間市市木 市木川 海岸から1km以内
鹿児島県垂水市市木 川崎川 海岸から1km以内
熊本県苓北町(天草)志岐 志岐川 海岸から3km
など、海岸や河川沿いが多い
643 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:42:17
>>634 >官庁街と居住区が別区画になって整然とした趣を見せている巻向
官庁街に古墳を造ったの? それに居住区ってどこにあるの?
>>643 政教一致が古墳時代だと思う、祖先の墓の見える丘で祭りごとを行う
弥生時代は墳墓は別の所に作る、死体を甕に押し込んで石を載せて(甦らないように?)埋葬
死は穢れという思想
祭政一致か
646 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:54:15
末盧国が唐津あたりということは問題ないだろうな。そこから東南五百里、そこが
伊都国だ。五百里は対馬〜一支、一支〜末盧の半分だから35〜40キロ。となれ
ば伊都国は佐賀市付近ということになる。
倭人伝に従えば伊都国は佐賀市付近。これに問題があるかな?
>>642 「山門」だからじゃないの?
「大和」は完全な当て字だし。
648 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:05:09
>学者は畿内説を唱えないと食っていけないから
歴史学会は日本会議が占拠してゐます。
650 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:18:09
玉名市の『中』は『奴国』で
女王の境界の尽きる所かもね
651 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:24:24
地名にこだわって国を探すのはやめた方が良いんじゃないかな。
倭(わ)なんて地名はないよね。
652 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:33:47
>>648 人のいい考古学者の、ウィークポイントに狙いを定めて攻撃して、
自分の正当性を誇示しようってか。
これがサギ的手法って言うんだよ。
騙されるやつが後をたたないのは、いいかげん問題だな。
安本のクズをなんとかできないかな?
653 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:38:13
>>648 今更誰も安本の戯言を相手にしないだけだよ。
てか、まだ信者なんているの?
神話と歴史の区別のつかない大学者先生怖いッス
655 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:38:55
まず、東遷説を主眼に置く安本にとって、卑弥呼=天照大神は絶対譲れないはずだが、
文献史学では、天照大神は7〜8世紀の創作であることが結論として出ている。
安本は、天照大神が律令時代の創作であるという説に反論すべきなのだが、
そういう反論は一切しない。
考古学者に対する執拗な攻撃と同じように、
文献史学に対しても攻撃すべきなのに、しないのはなぜかな?
なぜなら、天照大神の起源について議論をしてしまうと、安本の東遷説がインチキであることがバレてしまうからだ。
656 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 15:41:33
卑弥呼≠天照大御神
右辺は神代の女性。左辺は崇神の代に活躍の女性。
神話の権威を認めて来た時代というものを
客観的に認めることと、神話を史実として
認めることは、全く別の話。
安本の地名の移設論なんてなんの根拠もないしな。
仮にあったとしたら畿内から九州へという
可能性も高いのに一切言及なし。
まぁ安本の論は所詮は無理が有りすぎ。
659 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:46:10
>>648 最近、ホケノ山古墳があまり話題にならないな。
当初、この古墳はいつ頃の古墳と言われたんだったかな。
石野氏談
「40本ほど銅や鉄の鏃が出てきた。この中には、四世紀といわれる前期古墳の
中頃から後半ごろの出土する比較的新しいタイプの銅鏃が含まれていた。
このことから、発掘中からこの古墳は新しいのではないかと言われてきた。」
そうだったかな。なんか古い古墳と発表されていたような気もするが。
「銅鏃一本で年代は決められないが、新しいと思われていた銅鏃が庄内期に
遡る可能性もあると言うことである。」
年代は、どちらを選ぶことも可能ということになるわけか。
神話を基にするなら、国の始まりは畿内の淡路島一択だろ。
高天原は葛城周辺の話だわ。
661 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:49:16
>>655 なにを根拠にして、天照大神が7〜8世紀の創作としているわけ?
662 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:52:56
記紀の書かれた時期ってことだろ。
663 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:54:08
>>660 国産みの順番は関係ないだろう。
大倭豊秋津島(本州)は最後となっているわけだし。
664 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:02:58
ホケノ山の下から五世紀の古墳が見つかったとかなんとか
一時期このあたりのスレでも話題になってたな。
それからの情報がさっぱり入ってこないが。
665 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:06:07
>>663 国産で順番は関係あるだろ。
ルーツが淡路島で、最後に国の形にまとまったのが秋津島(御所)。
二神は二上山、葛城からの視点だよ。
667 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:16:38
倭人伝に従えば伊都国は佐賀市付近。誰もこれに反論はできないのか?
668 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:20:30
>>667 伊都国はもう少し西側でないと、大国である奴国の居場所がなくなってしまう。
669 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:39:52
>>667 反論したところでそれがいったいなんになるんだ?
伊都は佐賀だと既にそう考えているんだろ?
だったらそんな人に何を言っても時間の無駄であり、浪費以外のなにものでもない。だから誰も反論なんてしない。
これこそ合理的な思考。
それとも暇つぶしとし反論して欲しいのか?それよりもなぜ反論を求めるのか書いた方が
スレは盛り上がるし叩き甲斐がある
670 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 17:07:31
>>665 それは、伊勢大神の祭祀あとかもしれないが、
天照大神とは断定できない。
671 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 18:32:56
>>668 奴国の場所はいくらでも広がっているさ。
>>669 反論しようがないってことなら、素直にそれを認めることだ。
>既にそう考えているんだろ?〜何を言っても時間の無駄であり、浪費以外のな
>にものでもない。だから誰も反論なんてしない。
畿内説、九州説にそれぞれいくらでも反論がでてるだろ。
君の理屈ならば、誰も反論しないはずだが、そうはなっていない。
672 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 18:36:28
>>667 >怡土郡(いとのこおり・いとぐん)は筑前国にかつて存在した郡である。
これはちょっと倭人伝とは食い違うだろうか。
673 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 18:45:21
>>672 筑前国に怡土郡があったことはそのとおりだろう。しかし、倭人伝とは
関係のない話だね。「かつて存在した」と言ったところで、3世紀に存
在したということではない。
674 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 18:52:53
畿内大和の地名は6〜7世紀頃からかな?
675 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:02:01
5世紀ですね。
676 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:07:31
じゃ、そういうことで・・・
>>671 >いくらでも反論がでてるだろう。
だったら
>667 :日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:16:38
倭人伝に従えば伊都国は佐賀市付近。誰もこれに反論はできないのか?
というレスは矛盾する。
678 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:11:11
679 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:12:05
安本ってあっちけいの人多いけどやっぱりあっち系?
あっちけいの人は虚言癖があるから気をつけた方がいいと思うけどな。
680 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:19:05
>>646 倭人伝に書かれた方角や距離などの地理的情報が、信頼し得るものとすれば、だね。
で、信頼し得るか否かをどうやって論証するか─、そういう問題も考えてみる必要がある。
「そんな必要はない、無条件に信頼できるはずだ」、というのでは、学問ではなく宗教だね。
681 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:22:50
>>659 >「銅鏃一本で年代は決められないが、新しいと思われていた銅鏃が庄内期に
遡る可能性もあると言うことである。」
畿内説では時代的に新しい遺物がでると遺跡を新しくするのではなく、遺物の方を古くする傾向があるね。
その結果として中国や韓国の考古と合わなくなってしまっている。
682 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:39:01
>>680 三国志は陳寿の死亡後に内容が優れているとして正史に採用されたもの。当時高い
評価を受けたということはそれだけ信頼性は高いということだろう。
それに、後漢書やその後の史書も倭人伝の内容をおおむね追っている。そのことも
信頼性が高かったことを示すというべきだな。
単にし「信用できない」というのが文献批判ではないということを知るべきだ。
683 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:52:02
晋に仕える官吏と言う立場だから晋に都合の悪い事は書かない。
ついでに晋は魏から国を禅譲されたのだから、魏の悪口もあまり書かない。
と言う事はあるよ。
684 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:55:54
>>682 ほほう、
では貴殿の言う文献批判とはどのようなものかね?
魏志倭人伝を無条件で信じるものでないなら、どこを批判すべきかと考えているのかね?
685 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 20:38:43
>>684 他の資料と比較して問題があるかどうかということだね。
例えば、伊都国の戸数は千余戸とあるが、魏略逸文によれば万余だ。どちらが
正しいかを考えてみるべきだろう。また、邪馬壱国とあるのは他の史料によれ
ば邪馬台国だ。これも検討する必要がある。
686 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 20:40:50
>>629 亀レスで申し訳ないが
「一反」の意味分かる?
>>686 >「一反」の意味分かる?
自宅の宅地面積
688 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 20:51:26
>>681 都合良く年代を決めて、それを根拠にしてしまうというわけだろう。
>>679 畿内説は、結局は、そういう個人攻撃とかレッテル貼りになってしまうな。
>「一反」の意味分かる?
妖怪の名字
>>688 >合良く年代を決めて、それを根拠にしてしまうというわけだろう。
>畿内説は、結局は、そういう個人攻撃とかレッテル貼りになってしまうな。
まさに「お前が言うな」だろw
691 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:18:41
卑弥呼は「親魏倭王」の金印を授かっているので「倭王」であり、
当時日本をあるいはそのだいたいを治めていた王であることは
畿内説・九州説どちらも「了解」でよいですか?
692 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:26:20
卑弥呼が「倭王」=「日本の王」は、畿内・九州どちらも「了解」ということで、
魏志倭人伝を見る限り、邪馬壱国は「九州」ですが解釈によっては「近畿」もあります。
しかし、その解釈は「勝手に変更できるもの」です。ここまで認識は統一できますか?
693 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:29:47
九州説の倭国と畿内説の倭国はまったくちがうよ。
九州説は倭国=九州、畿内説は倭国=本州+四国+九州だ。本州のどこまで
を入れるかは論者によって差はあるだろうがね。
694 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:30:21
>>692 について、畿内・九州両説とも了解で統一されたということで話を進めます。
九州説の皆様がどうしても説を曲げることや取り下げることができない理由を教えてください。
695 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:37:55
>>685 邪馬台国の「台」は、トヨ(台与)の「台」と同じ「ト」と読んでるのだから、
当然「ヤマト」と呼ぶべきだということはわかるな?
696 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:42:40
>>693 中国はその後の遣隋使でも遣唐使でも日本列島(北海道を除く)を「倭国」
と呼んでいるのだから魏志倭人伝の倭国も日本列島だろう。
天武朝にはわざわざ「倭国王が自分の国は日本だと言ってきた」
ということも言っている。
日本=倭国。
中国が倭国=九州のみ、と認識していた事実はないよ。
697 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:50:04
>>696 倭人伝の冒頭に、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」とある。
日本列島全部をさしているとすれば、東南というのはちょっとおかしいし、
大海の中というのも、東北地方の北部がどうなっているのかかなりあとに
ならないとわからなかったことを考えればやはりおかしい。
698 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:55:04
>>694 そういう論の進め方は、言葉の定義にこだわる手法なので、
細かい言葉の定義を常日頃から意識していないと、
思わぬ方向に誘導される危険がある。
多分、畿内説九州説両方共が、警戒して乗ってこないんじゃないかな。
国語学、言意学ならともかく、歴史版では若干外道な手法。
先にフローチャートの行き先を晒してみては?
このままでは行き先の見えない迷路に
誘導されているようなものだ。
699 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:56:17
>>697 朝鮮半島から見たら、九州と山口県は陸続きで、九州が単独の島とは認識できない。
700 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:59:56
本州都九州が陸続きと認識していたのなら、
山島とは認識していなかったということになる。
当時、津軽海峡、樺太の間宮海峡は知らない。
だいたい、関東から先は不明
701 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:00:59
>>699 魏の使者は関門海峡の存在を知らなかったというのかな?
となれば、瀬戸内海も知らなかったとなるね。
702 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:03:59
>>698様、了解しました。
結論
九州説が説を曲げられないあるいは取り下げることができない理由が知りたい。
近畿説が説を曲げられないあるいは取り下げることができない理由が知りたい。
その上で、邪馬台国論争の本質を知りたい。
以上であります。
703 :
2浪中:2011/02/06(日) 22:05:20
僕は古代日本の話が大好きで、受験勉強に集中しなければいけない時でも邪馬台国や卑弥呼などの文字が目に入ると夢中になって読み
ふける癖があって、そのため大学受験を2回失敗しました。今回は志望校のレベルを下げて受験したので多分合格できるでしょう。
そういう次第で、暇ができたのでインターネットで検索していたらこのスレッドが目に入ったので参加しました。
三国志の東夷伝に邪馬台国に都を置いた女王卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王に任じられたと書かれています。これは卑弥呼が倭国王と
認められたということでしょう。と言うのも、同じ史書に「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王
名曰卑彌呼」とあるからです。其國とは倭国(あるいは邪馬台国)のことで、これは後漢書に出ている倭国王帥升の国でしょう。
倭国乱は帥升の国の王位継承の争い(に端を発する争乱)という解釈がありますが、その乱は卑弥呼を王に立てることで治まりました。
ところで、この帥升の倭国は同じ後漢書に出て来る倭奴国(例の漢委奴国王印を授けられた国)を継承した(僕はさらに支配圏を拡大
したと思っていますが)国でしょう。
ということは、卑弥呼は後漢時代の倭奴国系統の王族の一員だったと思われますが、いかがでしょう。
704 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:05:40
>>699 「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里 」
ともある。
倭の地の周りをめぐると五千里余。帯方郡から狗邪韓国までの距離が七千里と
なっている事を考えれば、五千里は九州一周が妥当だろうな。
705 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:10:59
>>704 「周旋可五千餘里」は台湾のことで九州のことではありません。
706 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:13:32
台湾を倭の地と言うわけはないな。
>>704 関門を見れば本州と九州を分けて考えるのは
難しいけどな。
むしろ四国の方がふさわしいでしょ。
708 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:18:42
関門を見ていないんだろうね。伊都国が佐賀市付近だったら関門を
見ることはない。
709 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:18:45
>>703 後漢書には、倭国王・帥升と書かれているが、他の書物には「倭面土国王」
とも書かれている。したがって、金印をもらった倭奴国とは違うと思う。
帥升が卑弥呼の何代か前の王とすれば、当然同じ国の王と考えられるわけで、
倭面土国と邪馬台国は同じであると考えなくてはならない。
ワメト国、ヤマト国。ひょっとしたら、同じ音を聞いて、違う漢字に
当てたと考えられなくもないですね。
710 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:20:16
>>704 実際に九州を一回りしたなら、山口県を見なかったことには出来ない。
711 :
2浪中:2011/02/06(日) 22:27:35
倭奴国の倭奴とは匈奴の凶悪な連中という意味あいにたいして大人しい連中という意味合いがあるという説もあるようです。
したがって、倭奴国とは倭国と改称する前の呼び名だったのでしょう。
その倭奴国は金印の出土状況からすれば北部九州に都を置いていたと見るべきでしょう。
その倭奴国王の後を継いだ帥升系男王とそのまた後を継いだ卑弥呼が都を置いたところは北部九州かあるいは帥升以来の支配圏
拡大で九州中部までの領域のどこかではないでしょうか。
712 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:32:41
一回りすることは、周匝という。周旋はめぐって向こうへ行き着くこと、つまり
半周することだ。
713 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:36:06
>>711 そんなヨタ話ばっかりをネットで読んでるから浪人するんだよ。
勉強する気があるなら、畿内説から目を背けるな。
714 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:37:01
>>711 個人的には、帥升の朝貢についていろいろ考えてみたわけだけど、
二つの疑問があった。一つは献上したとされる生口160人。当時の人口から
すれば大変な数で、一つの国でこれだけの人間がいなくなれば、国は機能しなく
なるのではないかと。
だから、これは戦争捕虜ではないかと考えた。それだったら、これだけの
人間を献上しても痛手はない。つまり、帥升はかなり大規模な戦争の勝者では
ないかと考えた。
次に、どうして後漢に朝貢したのか。朝貢しなくてはならない切羽詰った
必要性はないと思った。だから、帥升は金印をもらった倭奴国を滅ぼした
のではないかと考えた。後漢から金印を与えられた倭奴国を滅ぼしたために
後漢にはお詫びの必要があると考えて朝貢した。
そういう結論に至ったわけです。
>>708 それじゃ測れないだろw
関門なんて嫌でも目にするよ。
716 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:45:20
>>714 続きだけど、帥升は倭国王と呼ばれていることからも、このように軍事力で
倭国を統一したのではないかと思う。年代は西暦107年のちょっと前という
ことになる。
つまり、伊都国について代々、王がいる。皆女王国に統属す、とあるのは
帥升の時期からではないかと思う。
お互いに意見を言い合っただけだったけど、あなたの考えを別に否定する
わけではないので、自分の考えを膨らませていくこともありだと思う。
717 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:46:24
>>714 生口160人を1度に輸送するのには超大型船か大輸送船団が必要。生口は奴隷ではなく留学生だと思う。
718 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:47:03
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 22:47:43
720 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:49:12
>>714 当時の中国が奴隷交易をしていたという記述がどこかにあるか調べた?
>>717 生口160人の多くは半島調達だと思う。ちょうどこの時代、半島南部と北部九州で似通った
遺物が出ているし、列島から全員を連れて行ったと考える必要はない。当時国境線はない。
722 :
2浪中:2011/02/06(日) 22:55:13
>>714 あ、僕もそれを考えていました。帥升についての後漢書の記事では「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
とあるだけで、帥升が安帝に目通りできたかどうかも分かりませんし、印綬を授けられたとも書かれていません。帥升が詫び
を入れに行ったとすればさもありなんという感じです。
それから、帥升の支配圏拡大を感じさせるのが吉野ヶ里からの首の無い遺骨や傷を負った遺骨の出土です。戦死者を想起させ
ます。鉄簇の出土は福岡や佐賀や熊本に多いそうですが、帥升の武力制圧の跡ではないかと想像しました。
>>718 関門を目にせず九州一周の大きさを計る事は不可能だろ。
724 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:05:23
>>721 生口160人が朝鮮人の奴隷だとすると1000人以上の護衛を付けることになります。
中国の王朝が他国の大軍団の陸路での通行を許可するとは思えません。
>>722 >吉野ヶ里からの首の無い遺骨や傷を負った遺骨の出土です。戦死者を想起させ
ます。
普通、首がなければ刑死。遺骨に傷があったら事故死と考えるのが一般的だと考えるが
戦死というのはかなり特殊な死に方になると思う
726 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:07:31
>>722 はっきりした事はわからないけど、帥升は有明海沿岸地域ではないかと思う。
吉野ケ里の甕棺の様子からというのも妥当な感じ。
727 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:12:57
728 :
2浪中:2011/02/06(日) 23:16:19
>>725 刑死の者を甕棺に納めて丁重に葬るものでしょうか?戦死者だから葬られたのではないでしょうか。
>>728 甕棺に納めたことを丁重とするのは個人的な主観じゃないですか。
それに戦士で首が無いとはどういう事ですか
味方の奴に首を切られて味方の領地に丁重に埋葬されたと言う事
普通、的に首を切られると言う状況は、敗戦色の強い戦であって
その戦死者を丁重に葬ると言う方がよっぽど不思議な光景ですよ
730 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:42:30
矢尻を食らった遺体は、吉野ヶ里だったか福岡だったか。
呉国の兵士と戦って戦死した兵士だろうね。
732 :
2浪中:2011/02/06(日) 23:48:28
>>729 >甕棺に納めたことを丁重とするのは個人的な主観じゃないですか。
甕棺に納めて葬るのが丁重な葬儀でしょう。個人的な主観などではないでしょう。
刑死の者は犯罪者でしょう。犯罪者を甕棺に納めて葬ることはしないでしょう。そのような丁重な葬儀を行う必要がありません。
>普通、的に首を切られると言う状況は、敗戦色の強い戦であって
>その戦死者を丁重に葬ると言う方がよっぽど不思議な光景ですよ
戦闘で首を切り落とされた者が敗軍の兵とは限らないでしょう。味方の兵が戦死したのであれば丁重に葬るのは不思議でもなんでも
ないでしょう。
733 :
2浪中:2011/02/06(日) 23:54:13
>>730 吉野ヶ里出土の甕棺の中に矢を射込まれたままの遺骨があるそうです。
>>732 >甕棺に納めて葬るのが丁重な葬儀でしょう
それは違いますよ
丁重は貴方個人の言葉であって甕棺に丁重という文字でも見えましたか?
違うでしょ
「甕棺に死者を入れて葬った」ただそれだけのことじゃありませんか?
甕棺に入れた埋葬が、敵対的埋葬だというには無理があるな。
やはり十分に好意的な埋葬だろう。
736 :
2浪中:2011/02/07(月) 00:07:52
>>734 僕の書き込みの趣旨を理解して下さい。僕はあなたが首の無い遺骨を刑死した者のように言われたから、刑死者を甕棺に葬る
ような丁重なことはしないと言ったわけです。僕の書き方に誤解を招くようなところがあったのでしょうが、真意はそこにあ
ります。今後はもっと気をつけて書くようにします。今日はこれで失礼します。
737 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 00:41:14
738 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 01:10:58
>>737 なるほど、甕棺の列(一部かな?)は紀元前のもので、墳丘墓は1世紀のはじめ
ということか。墳丘墓には始祖王の甕棺があるということだから、王制が
始まったのは集落が出来てかなり経ってからということなのかな。
高島氏は、吉野ケ里の最盛期を3世紀、つまり卑弥呼時代としていて、やはり
畿内説の年代観とは異なるな。
739 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 01:13:01
>>738 と思って、他のページを見てみたら、対談の日付が平成元年となっていた。
その後、変わっているのかもしれないな。
740 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 01:45:00
畿内説を批判する人って、よく利権利権っていうけど、
高島先生なんてモロ利権じゃないですか。
>畿内説を批判する人って、よく利権利権っていうけど
利権じゃありません。アレは宗教です。
742 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 07:56:38
>>740 そうは思わないな。上の対談でもわかるが、吉野ケ里の時代は卑弥呼時代と
重なるというのが当時の一致した意見だった。
ところが、畿内説の年代遡上で吉野ケ里は前の時代に追いやれた。しかも、
きちんと議論することも説明することもなく、一方的なキャンペーンが
なされた。畿内説のそのような年代観を当たり前のように受け取って、何の
疑問を感じていないものもけっこうたくさんいる。
目立たない高島氏が表に出てくるようになったのはその頃から。
つまり、反対する意見を言うことも必要だと考えたんだろう。
別に畿内説論者が年代を見直した訳じゃないけど。
各地で新たな発見が相次いだのが見直しの主要因だよ。
結果畿内説が浮上しただけの事。
744 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 08:32:39
>>743 >>659を見たかな?
新たな発見とかはあまり関係ない。年代を決めるのは遺物ではなく人間。
>>744 何らかの発見があって人間が判断する、当然の事だよ。
746 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:22:57
その高島先生も東遷説は批判してることを忘れるなよ。
747 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 09:54:44
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶)は存在する。
考古学の50年遡上とは、文献も50年遡上しろ、といっている。
崇神を250年頃に設定しても、任那建国は無い。
748 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 12:23:06
福岡市博多区にある住吉神社(ウィキペディア)
住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を主祭神とし、
天照皇大神・神功皇后を配祀する。
日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされ、
古書には「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。
ただし、現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。
大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。
なぜ、福岡の住吉神社が最も古いのか?記紀が消しきることができなかった古代史の跡
749 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 12:37:16
福岡の住吉に卑弥呼は祀られていた。
仲哀を殺したのもこの住吉である。
この辺の出来事は允恭4年のクガダチにより書き換えられる。
この書き換えの最大の理由は広開土王の南下の責任問題である。
この責任問題を回避するから、広開土王碑の言い分は聞き入れられず
大仙陵が5世紀の遺物と成る。
広開土王碑の言い分が正しければ、大仙陵は5世紀には作られない。
750 :
2浪中:2011/02/07(月) 15:08:16
>>737 ご教示ありがとうございます。高島先生はそのような見解をお持ちですか。ところで、
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 には次のような記事が見られます。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓
(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をし
たり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。
この記事を書いた人の見解では戦死者のものと思われる甕棺の埋葬時期は2世紀後半の倭国乱の頃ということですね。
一方では紀元前1世紀のものという見解があり、他方では2世紀後半のものという見解があるというわけですね。土器などの出土物の年代判定は専門家でも非常に難しく
て見解が一致しないことがあるのですね。ちなみに僕の見解ではあれらの甕棺は2世紀初頭頃の埋葬ですから、高島先生とwikiの著者の見解の年代幅の中に収まります。
まあ、僕のは帥升が支配領域を拡大した征服戦争の想像論(妄想と呼ぶ人もおられるでしょうが)です。なにしろ当時の史料が少ないので、その少ない史料に見える事柄
をつなぎ合わせる(隙間を埋める)作業はどうしても想像(推測)にならざるを得ません。ともあれ、
吉野ヶ里の戦死者と見られる甕棺の出土は弥生時代において死者を出すような争乱(戦乱)が起きていたという証拠であることは確かでしょう。
751 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:07:01
住吉神社はイザナギが黄泉から逃げ帰って、
阿波岐原で禊をしたときに生まれた神様を祭っているんだっけか。
西のイザナギを祭っている高祖山(の裏側)の飯盛神社
東のイザナミを祭っている太祖山の太祖神社
海でみそぎをして生まれた神をまつる住吉神社。
いちおうストーリーにはなってるなあ。
752 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 17:01:04
>>750 >甕棺の埋葬時期は2世紀後半の倭国乱の頃ということですね。
後漢書、志、大寒。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
194年 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
193年の冷夏凶作で滅ぶ
青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。
唐古・鍵遺跡の放棄も同様であろう。
九州に於いても同様な出来事が有れば…
753 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 18:13:49
>>742 >畿内説のそのような年代観を当たり前のように受け取って、何の
>疑問を感じていないものもけっこうたくさんいる。
モロにお前自身のことじゃないか…
自虐的な笑いを誘っているのか?w
そもそもその昔
「古墳時代は4世紀から」 なんて教科書にも書かれていた
その根拠は京大の偉いセンセイの畿内説を前提にした理論だったわけだがwww
ちなみに高島センセイがディペード形式の勉強会で
九州説をやるのが嫌だったのは当時の小林の論文を読んで
「九州説もうダメポ」
と思ってたかららしいwwwwwww
754 :
753:2011/02/07(月) 18:15:28
まあ前スレでこの「怨み節東遷厨」大先生のイチオシが吉野ヶ里と言う事で
こいつの怨念の根源と言うかその出発点が判ったような気がするw
(勿論分ったところで一銭の得にもならないがw)
このての人間は日々進展する学問には向かないと言うより、やっちゃあいけない人間なんだろうw
自分が体験した事に固執してそれを否定できない。
教会で
「世界や人は神が造った」
「太陽もその他の星々も地球を中心に回っている」
と教えられ、一度刷り込まれると、もう更新も上書きもできない。
新しい説には拒絶反応を起こす。もはや生理的現象のレベルなんだろうw
実体験に基づくものだからある意味たちが悪い。
「自分(が味わったあの時代の空気)こそがその証拠」
てなもんでそこから動く事ができない。
自縄自縛アタマの中は今でも80年代の吉野ヶ里ブームの真っ只中
(「吉野ヶ里シンドローム」とか「吉野ヶ里ノスタルジー」と名づけてみようか?w)
もっとも当時でも、そもそも小林・佐原によるあの年代観の適用はあくまでも近畿であって
それを九州吉野ヶ里に適用する事自体がおかしかったはずで…
まあマスコミが演出したブームに乗った奴の自己責任だなwwwwwwwww
755 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 19:23:56
>>754 >「世界や人は神が造った」
「太陽もその他の星々も地球を中心に回っている」
と教えられ、一度刷り込まれると、もう更新も上書きもできない。
新しい説には拒絶反応を起こす。もはや生理的現象のレベルなんだろうw<
畿内説の方がそれにそっくり当てはまるな。
九州説の方はちゃんと根拠があって論じているが、畿内説は根拠が全く無く、
畿内に有ったのだからそれに反する証拠は受けつけない。
箸墓築造の年代を三世紀中葉と決めた上で各種の編年を構築している。
それに合わない韓国の土器編年も勝手に繰り上げて箸墓の年代に合わせようとする。
中国の鏡編年も勝手に繰り上げて中国の学者からも冷笑されている。
もはや畿内説は世界の笑いものでしかない。
756 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:07:19
>>755 で?
韓国で楽浪と加耶の土器を比較して加耶陶質土器の出現が楽浪消滅後と言う研究があるのかな?
日本での神獣鏡の登場を4世紀にもっていける
邪馬台国東遷説信者にとって都合の良いそんな理論が中国にあるのかな?
世界の笑いものって一体誰が笑っているのかな?
具体的に言ってみろ馬鹿者がw
邪馬台国東遷説は世界の笑いものになる前に
殆どの人間が奠都説に鞍替え(要するに九州邪馬台国と畿内ヤマト纏向の並存を認める方向)
邪馬台国が九州の店たたんでヤマトに大移動して大和朝廷の祖となった
…なんてお話は今や安本センセイとその信者ぐらいじゃないのかな?www
757 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:15:58
東遷説教と言うか「卑弥呼=天照」説の馬鹿馬鹿しさ胡散臭さはだ…
そもそも太陽神が岩屋に隠れて世界が真っ暗になり
神々や人があの手この手で外におびき寄せる
…なんてお話は東南アジアにもその類型が見られるなんて事は
凡そ誰でも知っているようなお話。
それでも「卑弥呼=天照」を主張するのなら
一方に岩戸隠れ神話の原型があり、一方に卑弥呼と言う女王の記憶・伝承があり
いつしかその二つが習合、岩戸に隠れた太陽神に卑弥呼の姿が仮託された
…と言う事になるんだろうが
「岩戸隠れ」自体のイベントを歴史的事件が基になっているとしちゃった手前
そう言った神話学からのアプローチも無視しなければならない。
勿論安本センセイがそんな事を知らないはずは無いわけでw
その点も胡散臭いネタの一つw
758 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 20:27:39
>それに合わない韓国の土器編年も勝手に繰り上げて
韓国土器には、編年のある新羅、伽耶土器と
編年の無い百済土器。
夢村洞城の高句麗式積み石塚を近肖古王としても、それ以前の墳墓の説明が出来ない。
纒向遺跡の弥生後期後半唐古・鍵遺跡の放棄は、後漢193年の冷夏。
ここに崇神を当てはめれば、210年任那建国である。
崇神を250年頃に設定しても任那建国が無い、渡海が無い、半島占拠が無い。
この為に、金石文広開土王碑まで否定して成り立つ。
759 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:35:01
>>756 韓国では新羅伽耶陶質土器が出来たのは当然新羅伽耶の時代だな。
伽耶には騎馬民族的集団が3世紀末に現れたとしている。
弁韓時代の墓を破壊してその上に新しい大きな墓を作っているから、
この時に大規模な征服戦争が行われたのではないか、としている。
このような戦争が三世紀中葉にあったのなら、魏志に書かれていない
筈がない。
魏志が成立した後なら伽耶で征服戦争があったとしてもおかしくはない。。
そこで、陶質土器が伽耶に現れたのは早くても三世紀末だろうとしている。
ところが畿内説ではこの陶質土器が現れるのは三世紀第二四半期でなければ
箸墓卑弥呼の墓説は成り立たない。
中国の学者は弁韓から伽耶に変わるのは楽浪が滅んだ後としている。
中国の学者に言わせると韓国の三世紀末でも早すぎると言う事だ。
笑われるだろ?
>>703 > いかがでしょう。
前提となる
「倭国乱は帥升の国の王位継承の争い(に端を発する争乱)という解釈」
が正しいかどうかが問題でしょうね。
762 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:56:58
>>759 で?
>それに合わない韓国の土器編年も勝手に繰り上げて箸墓の年代に合わせようとする。
…と元々土器編年のお話なのだから土器からのアプローチで話せ。
以下 以前出したリンク先(申敬K)から一部抜粋
>陶質土器が登場する時期は、その祖型になる中國北方の両耳附壺が西晋代のものという点や、日本列島の考古遺物との比較によって
>紀元後280年代前後に當たると思います。両耳附壺と象徴される洛東江下流域の陶質土器は中國北方の土器文化の影響によるものですが、
>中國北方製ではなく、加耶在地の陶工によって作られたことに注意しなければなりません。
>すなわち、加耶土器は始めから加耶化して生成されたことです。
まあ「箸墓=卑弥呼の墓説」に固執せずとも
九州にこの加耶陶質土器と布留が同時に出現したと言うのなら
3世紀末には九州では既に布留。庄内が4世紀になる道理が無い。
結局、韓国の研究でも庄内を4世紀にしてしまうなんてトンデモを後押しするようなものは無いってオチwww
加耶の陶質土器とそれ以前の物はきわめてよく似ているんだよ。見ただけでは区別が難しいくらい。
>>750 > この記事を書いた人の見解では戦死者のものと思われる甕棺の埋葬時期は2世紀後半の倭国乱の頃ということですね。
> 一方では紀元前1世紀のものという見解があり、他方では2世紀後半のものという見解があるというわけですね。
それはキミの解釈だろ。
「甕棺の埋葬時期は2世紀後半」
なんて、書いてないぜ。
765 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:29:33
吉野ヶ里遺跡で集団で出てくるような成人用甕棺は弥生時代の北部九州のみに見ら
れる大きな特徴だが、よく誤解されるのはその終焉の時期。
考古学に詳しくないと、「弥生時代の間は甕棺葬がずっと続いた」・・・なんて思いがち。
実際は、弥生時代後期の初頭を過ぎると減少に転じ、後期前半までで成人用甕棺は
急速に衰えてしまう。
卑弥呼や台与が生きた3世紀には、九州ではもう散発的にしか甕棺は使われていなかった。
九州説の安本美典でさえ、甕棺消滅の時期を西暦180年頃と見ている。
766 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:35:56
>>765 補足訂正
>成人用甕棺は弥生時代の北部九州のみに見られる大きな特徴
↓ ↓ ↓
成人用甕棺は日本列島では弥生時代の北部九州のみに見られる大きな特徴
〜〜〜〜〜〜
767 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 21:39:16
日韓交流の陥穽
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuudai 古代では朝鮮は遅れた日本に文字や仏教、学問を教えてきた。また大土木技術をもって日本
各地を開発し、さまざまな優れた美術工芸や文化財を持ってきた。日本文化というのはすべ
て朝鮮から渡来したものだ。あるいは文明先進国であった朝鮮人が野蛮な日本人に教えてや
ったものだ。日本人が尊敬してやまぬ天皇家や古代貴族は、もともとは朝鮮から来たのだ。
朝鮮というのは日本に文化をもたらした大恩人なのだ。
この見方は、書紀を120年差で百済本紀と同期させたときの思考である。
この数字でいまだに議論が続く=間違いがあるから終了しない。
その為に、任那建国、渡海、半島占拠と百済への領土分与は否定される。
考古学が50年遡上したことにより、
210年 伽耶建国=任那建国
274年 渡海 晋に東夷9国として冊封される。
323年 半島占拠、クダラに領土分与、クダラは百済(モザ)建国。が得られる。
書紀の主張は正しい歴史である。
768 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:03:31
>>764 誰も何も書いていないですよ。
畿内説が正とも九州説が正しいとも…
見る限り、九州説の人は「探求」と感じます。
畿内説の人は、「頑固」と感じます。
>>768 > 畿内説が正とも九州説が正しいとも…
アンカーミスですか? 指摘したのは
「戦死者のものと思われる甕棺の埋葬時期は2世紀後半の倭国乱の頃ということ」が
「この記事を書いた人の見解」だというのは
>750の解釈だろう、ということですが。
770 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:31:02
倭人の墓は有棺無槨。
九州の初期前方後円墳の那珂八幡古墳は有棺無槨だった。
対する畿内の古墳は有棺有槨、九州の方が倭人伝の記述にあっている。
出来のいい三角縁神獣鏡も出ているし、三角縁神獣鏡も九州発祥で畿内に伝わったのだろう。
九州の方が古墳時代になっても先進的だったのだ。
畿内が九州を支配していたなんてのは妄想でしかない。
771 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:35:30
>>769 そのとおりです。誤りでした。
九州王の末裔
772 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:39:59
>実際は、弥生時代後期の初頭を過ぎると減少に転じ、後期前半までで成人用甕棺は
急速に衰えてしまう。
卑弥呼や台与が生きた3世紀には、九州ではもう散発的にしか甕棺は使われていなかった。
そうでなければ畿内説が成り立たないから畿内説の学者が勝手に決め付けているだけだ。
九州説の学者は畿内説の年代観は100年狂っていると言っている。
今問われるべきは畿内説の年代観が本当にあっているかどうかだろう。
すでに間違っていると言う証拠がいくつか提出されているが、それに対する有効な反論は出ていない。
773 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:42:11
ただいま。邪馬台国判らなかった。
でもね、伊奘諾尊は黄泉の国(伊都国か?)に、伊奘冉尊を探しに行って、
死ぬ思いにあって、日向峠あるいは海岸沿いに逃げ切ってへとへとになって
小戸で水浴びをしたことまでは判ったよ。
水浴びをした以降は次の機会に探しに行くよ。
おやすみ。
774 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:47:17
>>772 >卑弥呼や台与が生きた3世紀には、九州ではもう散発的にしか甕棺は使われていなかった。
>そうでなければ畿内説が成り立たないから畿内説の学者が勝手に決め付けているだけだ。
安本センセイにしても批判的なわけだがwwwwwww
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo51.htm そのなかで、吉野ヶ里遺跡の発掘の総リーダーでもある高島忠平氏は、記している。
「北部九州弥生時代の埋葬形式は三津式の段階で、甕棺墓が衰退し、土堰墓・石棺墓にとって変るのは地域的に若干の時期差はあっても、一般的に認められる傾向である。」
「二塚山遺跡ではW期(弥生時代中期末)開始前後の時期に墳墓の主流が土壌墓へ移行することを想定した。」
甕棺墓が、吉野ヶ里の地域で、邪馬台国時代の弥生時代後期終末まで存続したことは、ちょっと考えられないのである。
775 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:51:51
阿波岐原は、小戸の地名じゃなくて
泡の騒ぐ原で、海のことなのかもしれないな。
伊都国が黄泉の国だとすると、
高祖山連邦の、東側(福岡側)の飯盛神社が生きているときのイザナミで、
西側(伊都国側)の高祖神社が亡くなってからのイザナミの住居かもしれんな。
いま、考えてちょっとゾクッとした。
実家が高祖山の近所なんだ。
776 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:03:06
777 :
2浪中:2011/02/07(月) 23:31:58
>>760 >前提となる
>「倭国乱は帥升の国の王位継承の争い(に端を発する争乱)という解釈」
>が正しいかどうかが問題でしょうね。
そうですね。乱の原因が何であったかによって物語の筋が変わってくるかも知れませんね。
私は2世紀後半において東アジア一帯を襲った異常気象が食糧不足をもたらしたことが背景にあるのではと想像しています。
中国では農民の不満がたまり183年には黄布の乱が発生し戦国の世に入っています。半島でも北方勢力の南下で混乱状態に入ります。
このような状況の下で大陸や半島から列島に逃れて来た人々も多かったのではないでしょうか。倭国でも食糧が不足気味であったところに
渡来人を受け入れればその手当を巡って混乱が生じるでしょう。この事態を帥升系の男王がうまく処理できずに内乱が発生したのではない
かと想像します。
後漢書には「桓、靈間(146〜189年)、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主」とあり、梁書には「漢霊帝光和中(178〜184年)、倭國亂、
相攻伐歴年」とありますから、これによれば男王は(死亡したか廃されたかして)後継者がおらず、180年前後の数年間に亘って争乱が
続いたのでしょう。そして、乱に疲れ果てた有力者達が話し合い、卑弥呼を王に立てることで争乱が治まったのでしょう。
778 :
2浪中:2011/02/07(月) 23:42:51
>>764 >それはキミの解釈だろ。
>「甕棺の埋葬時期は2世紀後半」
>なんて、書いてないぜ。
そうですよ。「甕棺の埋葬時期は2世紀後半」という言葉では書いてありません。しかし、ちょっと頭を使えば倭国乱は
2世紀後半(たぶんAD180前後)のことだと判断されました。
779 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:49:25
もう少し頭を使えば倭国乱は3世紀前半のことだと判断されるはずだ。
後漢書を良く読むことだな。
780 :
サガミハラハラ:2011/02/08(火) 00:04:57
倭国大乱ですか、157年始まりで卑弥呼即位の183年終了です。
781 :
2浪中:2011/02/08(火) 00:08:57
>>779 >もう少し頭を使えば倭国乱は3世紀前半のことだと判断されるはずだ。
>後漢書を良く読むことだな。
僕は2浪中の身でしかもここでは新参者ですので、レスして下さった人には出来るだけ返事を差し上げたいと思いますが、
こんな冗談にはお付合いしかねます。悪しからず。
782 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:10:35
高祖神社の謎
高祖神社には三柱の神が祀られている。
彦火々出見尊、玉依姫命、息長足比女命、である。
息長足比女命は神功皇后と言われており、
朝鮮討伐の凱旋の折り、本神社を立て直したということで祀られているらしい。
それに加えてもう一柱、女性と思われる神が存在する。
高磯比盗_(たかすひめのかみ)である。
「元慶元年(877年)高磯比盗_(たかすひめのかみ)に従五位下を受給す」
という記録が残っているそうである。が、この神は祀られている三柱の神には入っていない。
どちらかと言えば、高祖神社が高磯比盗_(たかすひめのかみ)そのものであり、
そのなかに、客人として三柱の神が祀られているように見えるのである。
高磯比盗_は近くのさざれ石神社の神という説もあるが、
高祖山のふもとの高祖神社の高磯比盗_である。
この名前で、別の神社の神というのはありえない。
9世紀には名前が伝承として残っていたが、やがて消えて、
いや消してしまったのではないかと考える。
783 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:35:17
>>781 冗談としか取れないようでは落第だね。倭人伝は「年已に長大」と書く。已には
いつの時点を基準とするのか?共立された時は已にだよ。そのことは、文章的に
も当然のことだし、後漢書が「年長不嫁〜於是共立」とすることでも裏づけられ
る。共立された時に長大ならば、それから七、八十年女王を務めたというのは不
自然。ということで、3世紀説が出てくるんだ。
榎一雄など学者の中にも3世紀共立と読む者がいることを知っておかんとね。
784 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:45:37
>>783 倭国の大乱の時期は、どの書物を見ても西暦180年前後と書かれている。
3世紀まで入り込むのはどう考えても無理。
したがって「年すでに長大」は、郡使がやってきた西暦239年以降が基準に
なる。というわけで、卑弥呼は西暦180年前後に王になった。
亡くなったのは西暦248年頃。在位は70年ほど。女王になったのは、
台与と同じ10才位。亡くなったのは、80才位と考えるのが妥当だろう。
>>783 長大を老婆と考えてるのかな。
結婚適齢期を過ぎているという意味だろ。
786 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 02:21:12
三国志魏書劉曄の文
「普之侍人,有諂害之性。身死之後,懼必亂家。汝長大能除之,則吾無恨矣。」
劉普の妻が死ぬとき、幼い二人の兄弟に、
劉普の家来は悪人だからお前が「長大」になったら排除しなさいと遺言している。
このとき兄は9才、弟は7才。そして弟が13才になったとき、遺言を実行して悪人の家来を殺している。
長大は大きくなったらくらいの意味で、老人ではない。
三国志魏書杜襲伝の注に引かれている先賢行状の文
「時和熹ケ后臨朝,外戚恣,安帝長大,猶未歸政。」
「和熹ケ后が臨朝していて、安帝が長大であるのに、まだ政権を返還していなかった」
安帝は13才で即位していて、和熹ケ后が崩御したときは25才。
つまり、13才から25才の間の何れかの年齢を指して「長大」と言っている。
魏書東夷伝高句麗
女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。
婚姻の習俗の説明で、婿は嫁の家に行って、生まれた子が長大になったら婦を連れて家に帰るとある。
其曾祖名宮,生能開目視,其國人惡之,及長大,果凶虐,數寇鈔,國見殘破。
曾祖父の宮は生まれてすぐ目を見開いて、みんな気味悪がった。
長大に及んではたして凶虐であった。
長大は体が大きいとかにも使うが、
総じて血気盛んな状態を指すことが多いのではないかと思う。
よぼよぼの老婆を指して長大とは言わないようだ。
連投失礼
13才から25才の間を長大と言っているのだから、
その辺りで共立されて七、八十年女王を務めたとしても不自然ではない。
榎一雄という人は、時々スレでも名前が出る。
東大の教授だった人ではあるけれど、どうも邪馬台国問題に関しては、
先に結論ありきで、それに合わせるように漢文を恣意的に解釈するところがあるように見受けられる。
他の分野での研究業績は読んだことないので評価はわからないけれど、
邪馬台国問題に関しては、ちょっと眉に唾を付けて見ないといけない人のように思う。
788 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 04:39:19
789 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 07:09:56
>>785 >>786 長大には確かに大人になるという意味もあるが、老人という意味もある。倭人伝の用法
からすれば後者だ。だから、
>>784のように「已に」の基準を使者の訪問時にするとかい
う無理な読み方をする。
「況や年長大せる人、半ばに過ぎぬる人は、余命幾計りなれば学道ゆるくすべきや。」
正法眼蔵随聞記
>>784説と
>>786説とを合わせるとおもしろいな。2世紀後半に共立された卑弥呼は使者
が来たころ、ようやく大人になりました、という奇妙な話になる。(笑)
790 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 09:15:28
>>789 正法眼蔵随聞記は13世紀に日本人が書いたものでしょ。
千年後の日本人が書いた書物は、倭人伝解釈の参考にはあまりならんでしょうね。
>倭人伝の用法からすれば後者だ。
と言い切る根拠は何?
同じ東夷伝のなかで、他の部分の長大は、体が大きいか大人という意味でしかないが、
なぜ倭人伝の条だけ老人という意味に解釈しなければならないの?
さらに三国志の本文ではなく注だけど、
長大を老人という意味で使った例は、魏書呉質伝の注に引く魏略の中にある。
曹丕が「行年已長大〜已成老翁、但未白頭耳。」と言っている。
ところが、この時の曹丕の年齢が30歳であることが、続きの文章からわかる。
つまり、長大=老翁=30歳
三国志の中で、長大を本当のよぼよぼの老人の意味で使った例は無いようなので、
倭人伝の例だけ、そのように解釈しなければならない理由も無いと思うよ。
>
>>784説と
>>786説とを合わせるとおもしろいな。2世紀後半に共立された卑弥呼は使者
>が来たころ、ようやく大人になりました、という奇妙な話になる。(笑)
そうはならんよ。何度か、よく読み直したらいいよ。
791 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 10:51:48
>正法眼蔵随聞記は13世紀に日本人が書いたものでしょ。
道元は中国で学んだ人物だよ。それに、老人という意味があることが分かればいいんだ。
>長大を老人という意味で使った例は、魏書呉質伝の注に引く魏略の中にある。
ならば問題ないね。老人という意味があることは争いがないわけだ。
まさか、老人になりすぎたものは「長大」とは言わん、なんて馬鹿なことは言わないだろうね。
>そうはならんよ。
あなたの読み方ではどうなるの?
792 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 11:30:33
倭国はニ倍歴を使っていた言う話もあるから、倭国乱が180年頃だったかどうかは解らない。
魏使が倭人から60年前に戦争があったと言う話を聞いて「桓、霊間」としたが、実は30年前だったと言う可能性もあるだろう。
793 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 11:35:19
>>791 >道元は中国で学んだ人物だよ。それに、老人という意味があることが分かればいいんだ。
千年もたてば言葉の用法は変化があるよ。しかも、正法眼蔵随聞記は道元ではなくて弟子が書いた。
現代でも、同じ漢字が日本語と中国語で意味が違うことがあるので、正法眼蔵随聞記の用例は、
その時代、日本にその用例があったことの証明であって、3世紀の中国でそう使われたという証明にはならない。
>ならば問題ないね。老人という意味があることは争いがないわけだ。
これは、オレの書き方に語弊があった。
曹丕は「年は已に長大になってしまった。オレも爺さんになったなあ。まだ白髪頭じゃないけどね」と言ってる。
このときの曹丕の年齢が30歳。つまり、長大=30歳。とても老齢とは言えない年齢。
しかし、曹丕は詩文を遣り取りして遊んだ仲間が疫病で次々と死んでいって、
生き残った呉質にそれを嘆く詩的な手紙を書いているわけ。
死んでしまった仲間に比べれば、年を取ったわけだし、
仲間を失った空虚感が老翁といわせたんだね。
だから、これを直接、長大=老齢の意味とは言えない。わかりますか。
>あなたの読み方ではどうなるの?
已とあるでしょ。それと、長大は「大人になる」ではなく「大人である」。
794 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 12:03:44
年已長大の長大には二通りの見方がある。
一つは、この文章の主部となる卑弥呼を人の名前と解釈するか、或いは職称とするか
この解釈によって捉え方が違ってくる。
人の名前と解釈した場合は老齢と解釈していいだろうが、職とした場合はそう単純ではない。
この場合、長は職の期間であり、大はその様と
>>794 >この場合、長は職の期間であり、大はその様と
そう解釈すると、「已」の座りが悪くないか?
在職期間が已に長いというのはわかるが、
已に大って何だ?
それとも已長と大で切れてると考えるのかな。
それには賛成できないが。
796 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 12:28:31
797 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 12:44:25
>>793 長という文字は、もともと大人になるという意味と老人という意味をもっているんだよ。
辞書でも見てみることだな。まあ、3世紀の辞書はないとは思うが。
798 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 12:48:57
卑弥呼という体制が出来、すでにその期間も長きに渡りその存在は衆に広く影響を及ぼす。
799 :
2浪中:2011/02/08(火) 13:41:57
>>783 >冗談としか取れないようでは落第だね。・・・・・・
あ、またレスを頂きましたね。すみません、僕は生計費と学費を稼がねばならないので午前中はアルバイトをしているものですから、夜遅くと午前中は
お相手できないので返事が遅くなりました。
冗談ではなかったのですか?僕はてっきりからかわれていると思ったのです。若年の初心者だと見て(侮って)からかっていると。そんな意地悪な人を
ときどき見かけるものですから。これは失礼いたしました。しかし、「落第」はやめて下さい。今度の大学受験には合格したと自信を持っています(自
己採点では抜群の成績です)が、合否発表前ですから縁起が悪いです。
あの、お言葉を返して申し訳ないですが、倭国乱についてのあなたの見解は”あなたの独善的な解釈”ではないでしょうか?
僕が解せないのは、あなたは「後漢書をよく読むことだな」(
>>779)と仰った方でしょう?後漢書には
「桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁」
と書かれていますが、あなたはこの記事の「年長不嫁」(倭人伝の「年已長大」も援用されていますが)のところだけを取り上げて推論をされていますね。
冒頭の「桓、靈間、倭國大亂」は無視されるのですか?この部分は信用できないのですか?信用できないならばその理由を述べて頂かないといけないと思い
ます。
あ、それから、「年長不嫁」や「年已長大」については
>>786が示して下さったように老人を指すとは限らないと思います。現代風に言えば「卑弥呼は結婚適齢期に達して
いるが独身である」ということではないでしょうか。
800 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 13:57:46
>>790 違う人間の、違う意見だから、別に合わせる必要はないと思うが。
倭人伝の記述は、
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、
有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者
となっている。
ここには、卑弥呼が王になった頃から、かなりあとのことまで書かれている。
つまり、「王になって以来見たものは少ない」というのは女王になってから
相当な時間が経過してからのもの。
「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」というのも女王としての国の治め方と
考えられるので、長年にわたる卑弥呼の政治姿勢と受け取られ、女王に
なった頃ではなく、かなりあとの事と考えられる。
そういう観点からすれば、「よく衆を惑わす」の後に書かれている「年すでに
長大」も後の事、つまり郡使がやってきた頃と考えても不思議ではない。
801 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 14:00:08
長大が邪馬台国の位置と関係ある?
802 :
2浪中:2011/02/08(火) 14:14:11
>>800 なるほど。倭人伝の記事の「年已長大」は仰られるように「郡使がやってきた頃と考えても不思議ではない」ですね。
これだと老人の意味になりますね。
>>783の人は卑弥呼が王に立てられた頃のこととして推論されていますが、やはりそれは
おかしいですね。
803 :
2浪中:2011/02/08(火) 14:19:28
>>801 長大は僕が言い出したことではないですが、少しかかわったので責任の一端があるかも知れません。すみかせん。
長大は邪馬台国の位置とは直接の関係はないでしょうね。
804 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 14:41:53
>>803 邪馬台国の位置だって?
既に文の頭に書いてあるから問題にもならない。
倭人在帯方東南大海之中。
後は倭人と邪馬台国は関係ないとするむきが言い争えばいい。関係ありとする人は無問題
805 :
2浪中:2011/02/08(火) 14:54:45
>>804 今日は3時まで暇だからかなり多く書き込ませて頂いています。804はなんか偉い方の書き込みみたいですね。
>既に文の頭に書いてあるから問題にもならない。
>倭人在帯方東南大海之中。
それで解るんですか?すごいですね。九州説だとか畿内説だとかその他説とかで喧嘩みたいに騒いでいる人達がいますが、無駄な論争
なんですか?
806 :
ローガン:2011/02/08(火) 15:16:11
>>786氏に追加で…
「逮丕繼業、【年已長大】、承操之後、以恩情加之、用能感義。」(呉書諸葛キン伝)
曹丕が曹操の後を継いだ時、年すでに長大。 即位時、文帝は34才。
807 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 15:37:01
>>805 それは中国で書かれた倭人伝とは関係のない話で、日本人が興味本位で
宝探ししているようなもの。
倭人伝に邪馬台国を探せなんて疑問をもたせた記述はない。
当の中華から眺めれば、東京は八王子だ。いや、葛飾だといい争っているに等しく見える。
808 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 15:44:41
それでも日本の歴史として邪馬台国を細かく特定しなければならないのなら
まずは位置ではなく、邪馬台国とはなんぞや?
そこから固めなければならない
なぜなら、肝心の日本の歴史書には邪馬台国など一切登場しないのだから。
変だろ。
日本の歴史書には登場しないものを
一生懸命日本の中を蝨潰しで探しているんだから。
809 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 16:19:16
>それは中国で書かれた倭人伝とは関係のない話で、日本人が興味本位で
>宝探ししているようなもの。
意味がよくわからん書き込みだな。邪馬台国は倭人伝に記述されているのに関係ないとはどういうこっちゃ。
別に宝探しをしているわけじゃないが、興味のあることをやるのは自然なことだろ。おまえに軽蔑されるいわれはないよ。
邪馬台国探しがいやなら来るな!ここは邪馬台国ドンとこいスレだ!!!
810 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 16:31:59
>>808 >なぜなら、肝心の日本の歴史書には邪馬台国など一切登場しないのだから。
何をいまさら。
倭人伝に親魏倭王とされた卑弥呼が都を置いた国として邪馬台国が登場する。その邪馬台国は記紀などの日本の史書には
登場しない。何故か?そこに謎があるだろ。記紀を編纂した大和王権は邪馬台国とは無関係だったのか、それとも記紀か
らは抹消すべきものだったのか、などなど議論されてきたところだろが。
811 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 16:36:40
>>799 >「桓、靈間、倭國大亂」は無視されるのですか?
無視しているわけではないが、後漢書は、倭国大乱を桓靈間に限定しているわけではない。
その後も更にある程度続いたとみている。更に相攻伐暦年。そして卑弥呼共立に至る。
つまり、共立の時期は靈帝時代よりもかなり後という見方だ。
812 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 16:52:21
>>810 >記紀を編纂した大和王権は邪馬台国とは無関係だったのか、それとも記紀か
らは抹消すべきものだったのか、などなど議論されてきたところだろが。
銅鐸を破壊し、記紀からは抹消したように、邪馬台国も抹消しなければならなかったんだろうね。
九州に有った倭国も滅ぼして抹消した。
しかしながら、九州に昔から中国と交流のあった倭国と言う国があった事は抹消しきれないから
神武東征とか神功皇后を作り上げて九州から奈良県に何度か移動したと書いたのだろう。
813 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 16:55:57
神功39年の記事は抹消してないが。
>>810 >そこに謎があるだろ
謎なんてない。最初から謎なんてない。しかしそこに謎があった方が面白いから
謎があったとしたかった
かりに歴史書から抹消されたとするならば、今日見られる歴史書は偽造された歴史であって
偽造された歴史書には偽造以外の価値はなくなる。
まあ、価値なんて言うものは人それぞれ違うから価値と行ってしまうと御幣を生じるかな
815 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 17:16:51
太古の歴史をよりミステリアスなものにしたてたいとする
人間のエゴ。
東南大海之中では満足出来ない連中が、謎を創りだしてしまった。ありもしない謎を
816 :
2浪中:2011/02/08(火) 17:42:03
>>811 >後漢書は、倭国大乱を桓靈間に限定しているわけではない。
>その後も更にある程度続いたとみている。更に相攻伐暦年。そして卑弥呼共立に至る。
>つまり、共立の時期は靈帝時代よりもかなり後という見方だ。
ああ、そういうことですか。
「桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。」
の「更相攻伐」を「更に(なおかなりの期間)相攻伐した」と解釈される訳ですね。
ところで、更は古来から動詞として「変える」、「置き換える」、「経験する」などの意味で用いられています。
そこで、「更相攻伐」は大乱の様子を述べたものとして「戦争状態を経た」という解釈は出来ませんか?この場合相攻伐は目的語
(名詞)ですが。勿論、「更」にはfurthermoreという副詞用法もありますが。しかし、その場合は何故後漢書の記述が「桓靈間
倭國大亂」と期間を限定しているのか説明がつきませんね。
817 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:22:56
『倭人伝』の正しい読み方。
●女王誕生の経緯
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。
名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
「倭国も、もともとは男子を王としていた。男王たちが在位して70〜80年が経ち、
国内に争乱が発生して互いに攻伐して長い年を歴た。争乱解決のために実力者たちの協議で、
ある女子を共立して王にした。名を卑弥呼という。彼女は鬼道に堪能で民衆を魅惑していた」。
●魏使来訪時の卑弥呼の周辺状況
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。
唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
「魏の使節が訪問した時には、すでに婚期を過ぎて久しく夫はいなかった。
男弟がいて彼女の政治を補佐していた。卑弥呼を王にして以来、彼女を見る者もいたが少なかった。
侍女1000人を宮城に仕えさせていた。宮城には男子がただ一人いて、
卑弥呼に飲食を供したり言葉を伝えるために、彼女の居処に出入りしていた」。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。
「宮室・楼観・城柵を厳重に設け、武器を所持した者が日夜を通して宮城を守衛していた」。
▼女王に推戴された時点では「一女子」だったものが、魏の使節が訪問した時には、
「年すでに長けて大なるも夫婿なし」。婚期を過ぎて久しかったが、夫はいなかった。
普通なら「長大」は成人といった意味でよかろうが、「夫婿なし」とあるのだから、
婚期をすぎていたと訳すのが文学的翻訳である。
818 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:26:57
●卑弥呼が女王になった時の様子
『後漢書』倭伝の記録の正否議論を抜きにして、薮から棒に引っ張り出してくるのは良くない。
卑弥呼が女王になった時の様子ついては、
同じ歴史的経緯を説明した『三国志』倭人伝と『後漢書』倭伝には決定的な違いがある。
◆『三国志』倭人伝
「その国、本また男子をもって王となす。
とどまるところ7〜80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。
乃ち一女子を共立して王となす。
名を卑弥呼という。
鬼道能く事として衆を惑わす。
年已に長けて大も、夫婿なし」。
……長い紛争に困り果てた有力者たちの協議によって、一人の女子を王として共立した。
その女子の名を卑弥呼という。彼女は鬼道に堪能で、そのことによって民衆を魅了していた。
(そうして、中国の役人が倭の地を訪問したころには)、
卑弥呼は成人して久しかった(高齢だった)が、夫はいなかった。
……卑弥呼が女王になった時点では、彼女は「一女子」だった。
そうした過去形説明と「年已に長大」になっていた現在形説明の間には、
文章によって時間差がみてとれる。否、みてとらなければならない。
◆『後漢書』倭伝
「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、主なくして年を歴る。
一女子あり。名を卑弥呼という。
年の長けて嫁がず。鬼神道能く事とし、妖やしきをもって衆を惑わす。
これを共立して王とてなす」。
……年増で旦那もいない鬼神道をやる30年増を「一女子」というか。
これでは、2世紀末ごろ女王になった卑弥呼は、
その時点で女子どころかその時点で30年増のおばさんになる。
『三国志』倭人伝とは明らかに文節を入れかえている。
これによると、卑弥呼おばあさんは、100歳ぐらいで死亡したことになる。
819 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:28:39
●倭国乱れ
倭人国家が倭国と呼ばれるのは後漢朝に朝献した107年の帥升からである。
「住るところ7〜80年、倭国乱れ相攻伐して年を歴る」とは、
倭国王帥升から7〜80年が経過して、男王がなくなった時点で後継者争いが勃発したものと思われる。
王は不在でも倭国という国家体制と政治的組織構造は存続している。
長い紛争に困り果てた実力者たちが、合議の上で卑弥呼を王として共立したものと判断する。
「乃ち一女子を共立」という用法からも、困り果てた当事者の内面を思わせる。
倭国王というたった一つの座をかけて争った。その間は王がいなかった。当然の理屈である。
したがって、倭国乱れの原因は王位継承者不在がゆえの継承権争いである。
それが文章というものである。
王とは、自ら立つ力や正当性を持つ者は自ら立つ。これが自立である。
自ら立つ力や正当性に乏しい者は周囲が立てる。これが擁立であり「王と為す」と書かれる。
卑弥呼の場合は、擁立候補を立てて対立していた勢力・派閥が合意の上で王に立てた。
そのために「共立」と書かれている。
誰もが納得する後継者いれば、国をあげてたった一つの王座を争う紛争は起きないから、
これは後継争いの内紛とみて良いだろう。
820 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:29:28
「倭国乱れ相攻伐して年を歴る」
この部分がどう文章伝世されたのかを見てみよう。
◆『三国志』倭人伝
「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱相攻伐歴年」
「男王たちが7〜80年在位したあと、倭国が乱れて相攻伐して年を歴た」としている。
倭人国家が「倭国」と呼ばれるのは107年の帥升からである。
そこから7〜80年といえば、177年から187年までの幅がある。
これを中国皇帝の年号にすると霊帝の後半にあたる。
◆『後漢書』倭伝
「桓霊間倭国大乱、更相攻伐 歴年無主」
177年から187年は霊帝の後半にあたり、桓帝の時代は167年で終わっている。
「桓霊の間」はいい加減だし期間がアバウトすぎる。
◆『晋書』倭人伝
「漢末倭人乱攻伐不定」
『三国志』倭人伝を引いて「漢末」に置き換えたらしい。
◆『梁書』諸夷伝
「漢霊帝光和中、倭国乱相攻伐歴年」。
『三国志』倭人伝のいうところを皇帝年号に照らして、霊帝の光和中としたようである。
光和の年号が使われたのは178年から184年までで、まさに倭人伝のいう177年から187年の間に入る。
誤字・脱字・誤読だらけの梁書』諸夷伝にしてはまともに脚色できたほうか。
◆『隋書』倭国伝
「桓霊之間其国大乱、遞相攻伐歴年無主」
ほぼ『後漢書』倭伝の写しになっている。
誤字・誤読・意味違いが目立つ『後漢書』から論拠資料として引用するに臨んでは、
慎重な検証による取捨選択が求められる。
『後漢書』の記録の無批判採用への警鐘はここに詳しい。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/eb55b058aad49582fbc6d6871b073b05
821 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:36:07
大国しゃんへ。
>神功39年の記事は抹消してないが。
一連の記録は後世に書き足したものだよ。
卑弥呼が日本の歴史から消えたわけ。
『日本書紀』の編纂者たちが『三国志』倭人伝に目を通しているのは紛れもない事実なのに、
『日本書紀』には卑弥呼と邪馬台国が登場しない。ということは、間違いなく意図的に抹消されたと考えなければならない。
それでは、抹消された理由は何だったのだろうか。そう考えたとき、思い当たる理由は一つしかない。
「中国天子に臣と称して朝献・朝貢していた時代の歴史を消したかった」。
『日本書紀』には、本場中国の天子に対して「日出る処の天子が日没する処の天子に」と
、対等な口上を述べるようになる隋以前(漢・魏・晋・宋代)の歴史がない。
つまり、中国天子に臣とへりくだって朝貢外交を展開していた時代を消して、
中国王朝に対して一人前の発言をするようになった時代から書いているのである。
しかも、半島のほうは馬韓・辰韓・弁韓がなく、いきなり百済・新羅・任那の朝鮮三国が登場する。
このように、紀元前後から400年〜500年間の漢・魏・晋・宋代の体験の記憶を抹消して、
この期間の歴史を作り変えている。
その過程を推察すれば、本物を含む幾つかの土器をたたき割って、それらの破片を拾い集めてつなぎ合わせ、
ありもしなかった異様な形の土器に復元するような作業をしているはずである。
そこに史実が紛れ込んでいたとしても、それは脈絡を寸断された断片でしかない。
伊作は木を切る ヘイヘイホイー へいへいホー
823 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:38:54
yahooの板がつまらなくなったので遊びにきたが、
まだ、こっちのほうがまともなやりとりをしてるようだよ。
ローガンくん。なんか・文句ある?
唐松くん。よろしくね。
824 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:42:55
質の高い「お話」をしにきたけど、
不真面目な奴がからむようなら、俺は失礼するから。
そんなの・もうたくさんだから。
825 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 18:45:48
>>821 またそれを言い出したのか〜。
そういう奴が今回もいるかと思ったが、やはりいたな。
ではいつごろ、どういうわけで、誰が挿入したのか?
どういうわけとは、その動機だよ。〜そんなことをやれば、紀の本文で
ないからまずいと、除こうとする奴も出るだろう? そのまま放置
するわけもあるまいが?
826 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:56:39
現実から遊離したところで大和と九州で卑弥呼を引っぱり合ってる諸君に
大変重要な問題を提起する。
問題●しょのいち「卑弥呼の鬼道は、いつ・どこから来たのか」。
張魯の天師道が鬼道と呼ばれ始めたのが188頃からで、そこから30年間218年頃まで続いた。
張角の太平道を柱とした黄巾党は180年頃の旗揚げで、20年間200年頃まで続いた。
両者は190年代に中国本土で盛んになっている。
卑弥呼が女王になったのは同じく190年前後である。
その彼女は、女王になる時点ではすでに鬼道を修得していたことになる。
鬼道を修得していたのだから、年齢も13歳や15歳ではなく、すでに成人の年齢に達していたと思われる。
問題は、彼女はいつ・どこで鬼道をマスターしたのかである。
時間的なタイミングからみて、中国で学んで帰国した倭人道士がいて、それを卑弥呼に伝授したとは考えにくい。
それでは卑弥呼は大陸で鬼道をマスターしたのか。こちらの可能性のほうが高い。
となれば、彼女は新来の渡来人の子女という論理に帰結する。
『倭人伝』によると、卑弥呼の王宮にはただ一人男性がいて、
「飲食物を給し、辞を伝えるに卑弥呼の拠居に出入りす」とある。
辞は言語を意味する。卑弥呼はほとんど人前に姿を現さなかったというから、
彼女の言葉を伝えることが必ずしも通訳だとはいえないものがあるが、この男性は通訳だった可能性もある。
その卑弥呼の鬼道については、張魯と同じ鬼道と書かれたことや、鏡と剣を神宝とする様式からみて、
天師道か太平道だったものとみてよさそうである。
卑弥呼が鬼道をマスターした渡来人だったとすれば、漢巴の地で天師道を修得して、
長江をくだってきた可能性も少しは残されている。ただ、鬼道様式の伝播にしろ鬼道を修得した人材の渡来にしろ、
日本列島に至るまでの時間的・距離的スタンスからいえば、
内陸部の漢巴を拠点とした天師道よりは東部で盛んだった太平道の線の可能性が高い。
つづくから。
827 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 18:58:37
問題●しょのに「卑弥呼は中国語に堪能な女性だった」
ここで、よくよくお考えいただきたい。
中国発祥の「森羅万象の哲学」ともいえる黄老学を基礎とする道学を修得するには、
高度な中国語の素養と多岐にわたる知識・見識を必要とする。必然の道理として、
生粋の土着倭人には伝授も修得も不可能である。ということは、卑弥呼はやはり新来の渡来人だったことになる。
倭人と倭国支配層の出自については、抗しようのない確かな証拠がほかにもある。
「●文身とお歯黒をする●文字をもたない●外来系民族」。
天才の姉妹編サイトの『民族の指紋』に詳しいが、これが揺るぎない現実である。
(中国には現在でも50を超える少数民族がいるが、そのほとんどが独自の言語を有し文字をもたなかった。
中国大陸からの渡来人といえば、中国語を話し漢字を持ち込んだはずと考えるのは早計である)。
さて、鬼道をマスターするほどの中国語素養と知識を持った卑弥呼は、どんな民族の出自だったのか。
歴史は生き物であり、現実世界の事象である。
現実から遊離したところで大和と九州で卑弥呼を引っぱり合っていては、空論に終始するしかない。
828 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 19:02:59
大国しゃんへ。
おらのサイトでは理路整然と整理してあるが。ここは文字数制限があるらしくてやりにくい。
とりあえず「さわり」だけね。
以下の3行が問題の『日本書紀』神功皇后紀の記録である。
・39年:魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝献。太守劉夏遣使将送詣京都也。
・40年:魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。
・43年:魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。
この記録は、『日本書紀』の文章構成からみて異質であり、内容的にものちの時代に加筆されたものとみた。
「伊声者・掖耶約」の誤字もあるし、私たちが見ることのできる『魏志』のほうが文章も整っているし、
内容も丁寧で詳しいことは歴然としている。
とくに、39年の「明帝の景初3年」とは、「●明帝の景初3年に●少帝(斎王芳)に使者を派遣した」と、
バカげたことをいわんばかりである。これは、少なくとも歴史記録の書き方ではない。
いじょ
829 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:03:51
どうして太国と論争しようとしたいのか?
数々のコテハンを論破してきた俺でさえ、太国にはサジを投げたというのにwwwwwwwwwww
830 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 19:10:18
伊作さんよ。
欠史八代の記事が(即位、崩御、立后等以外)殆ど書かれていないこと
を、曲学の徒さんが卑弥呼関係の記事を除いたから旨を主張していたと
思ったが、八代の長さを考えれば削除した期間が長すぎないかね?
せいぜい3代くらいを削除すればこと足りるはずだろう?
それが8代もあるんなら、これは卑弥呼の記事の削除から欠史となったん
ではなかろう。別の事由と考えたほうがいいね。
当然その事由は、当時倍暦をやってたことに未知の紀の編者らが
年代の不整合を知りながら整合できず、困っていたわけで、それで書く
のを保留せざるを得なかったということだよ。
831 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 19:14:49
>>828 削除するくらい邪魔なものならば、当然大悪雄略と残酷武烈の記事も
除くだろう? それがしてないということは、卑弥呼の記事だけ除く
必要もあるまい? おまけに皇族の浮気、殺人、襲撃等、記紀には都合の
悪いはずの記事が満載だよ。それをなぜ省かなかったのかね?
>>778 > 倭国乱は2世紀後半(たぶんAD180前後)のことだと判断されました。
それはともかく、指摘したのは
「甕棺の埋葬時期は2世紀後半の倭国乱の頃」が 「この記事を書いた人の見解」だ
というのはあなたの解釈でしょう? ということです。
>>777 > 乱に疲れ果てた有力者達が話し合い、卑弥呼を王に立てることで
「帥升系統の王位」とは別に「王を立てた」のかも知れません。
倭人伝伊都国の部分にある「世有王」をどう考えますか?
それと・・・
すいません。
>>703を再度よく読むと、問題となるのは
あなたの言う「継承」の意味ですね。
>卑弥呼は後漢時代の倭奴国系統の王族の一員だったと思われます
「継承」を限定的な意味に使っているんですね。
834 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 19:33:20
大国しゃんよ。「こと足りる」「削除した期間が長すぎる」とか、どうだっていい。
くりかえすよ。
『日本書紀』には、本場中国の天子に対して「日出る処の天子が日没する処の天子に」と 、
対等な口上を述べるようになる隋以前(漢・魏・晋・宋代)の歴史がない。
つまり、中国天子に臣とへりくだって朝貢外交を展開していた時代を消して、
中国王朝に対して一人前の発言をするようになった時代から書いているのである。
しかも、半島のほうは馬韓・辰韓・弁韓がなく、いきなり百済・新羅・任那の朝鮮三国が登場する。
このように、紀元前後から400年〜500年間の漢・魏・晋・宋代の体験の記憶を抹消して、
この期間の歴史をすべて神話時代のこととして作り変えている。
その過程を推察すれば、本物を含む幾つかの土器をたたき割って、それらの破片を拾い集めてつなぎ合わせ、
ありもしなかった異様な形の土器に復元するような作業をしているはずである。
そこに史実が紛れ込んでいたとしても、それは脈絡を寸断された断片でしかない。
あたしゃ論拠に乏しい推論を極力排除して、正論しかいわないしとだから。
時分が依拠する資料の信憑性を批判されて気持ちいいわけはないと思うが、
歴史を語るなら、そこんとこ冷静な歴眼をもった大人にならんとね。
おっと。警告したことがあるけど。
出された意見に対してではなく、意見を出した人間をどうこういうのは「なし」にしようね。
835 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:36:57
大国は神功皇后が実在と思ってるんだw
神功皇后は持統天皇の投影だよ。
実在ではない。
836 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:45:38
神功皇后が実在しない人物だとしても、
福岡、佐賀に多くの伝承が残っている。
実際出来すぎなくらい伝承があるので、作り物臭いのも事実だが、
いつの時点で、誰が、伝承を広め、神社に祀る設定をし、
ストーリーを書いたのかには興味がある。
同様に、太祖山のイザナギ、高祖山のイザナミ、
イザナギが禊をして生まれてきた神様の住吉神社。
太祖、高祖なんて、典型的な名前がついたもんだが、
神話に基づいた設定で、山の名前を付け、神社を建立、または
由緒を設定したのは誰だろうか。
いちおう、神話は神話でそのまま事実だとは思っていない。
837 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 19:56:07
>数々のコテハンを論破してきた俺でさえ、
名無しばっかりで誰が誰だか分からんから、ニックネームでも造ってほしいね。
それで・俺を論破しにかかってみて。
俺は、一応は自分の論考を公開してるから、その信用を保つためにも自律を要する。
そこを了解した上で、紳士的に議論しようじゃない。
断片知識をひっさげて衒学しにきたんじゃない。膨大なバックボーンをもってきているんだよ。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 20:05:32
ハハッ、投影映画か? 記紀はエンタメの創作、八百長ではないぜ。
津田式妄想に騙されるなよ。
839 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:07:32
はあ?
卑弥呼の鬼道が大陸の仙道そのものだったなんて
そもそも何の根拠があって言ってるんだ?
犬国と同じ基地外電波なのか?
840 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:11:29
卑弥呼の鬼道が、日本オリジナルの謎な宗教じゃなくて、
きちんと中国で学んだ鬼道だというのは、耳を傾ける価値があると思う。
少なくとも否定する材料は、自分は持たないな。
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 20:13:57
伊作さんよ。
相手はコテハンの勇気がないんだろう?
それはいいとして、創作としたのは、あんたの創作さ。w
記紀の編者らの創作ではないよ。あんなにスキャンダル満載の記紀なの
に、そんな卑弥呼とかくらいで隠す必要はないんだよ。
創作して卑弥呼も隠したいなら、卑弥呼が逆賊だから攻撃して勝利を
得たと記述すればいいことではないか? なぜそうなってないんだね?
842 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:14:01
そもそも卑弥呼が殆ど外部の人間に会わなかったと言うのは
幼少時からそう言う環境で育てられたから…と言うのが一般的理解だと思っていたが違うのかな?
最先端の大陸文化を学んだ帰国子女wならヒキコモルのは勿体無い。
その知識を活かし政治に積極的にコミットしそうなものだが…www
843 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:15:33
>>840 かと言って肯定できる材料も無い。
そんなもの前提にされても…と言う話だがwwww
844 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 20:19:33
伊作さんよ。
都合が悪いから隠匿して卑弥呼の記事を削ったとか紀がいろいろ
創作したんだというなら、卑弥呼の国を朝廷が攻撃して卑弥呼を
討ち取ったとして勝利の創作記述をしたほうが、創作なら隠匿より
ももっと朝廷の都合がよくなるではないのかね?
845 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:20:05
魏使や漢籍の編者が、どの程度自国の鬼道を理解していたのかわからないが、
ずいぶんあっさりと、鬼道を使うと言い切ってしまったもんだな。
もちろん中国の鬼道と酷似していれば、そう書くだろう。
鬼道=得体のしれない宗教 みたいな扱いだったのかもしれんが。
いままではそういう発想だよね。
846 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:24:04
つうか・・・
>>826 >鏡と剣を神宝とする様式
・・・って一体何の話なんだ?
どうにもこうにも電波がきつすぎるんだが…
847 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:31:08
与作も遂に2チャンに落ちたか。2チャンなんてと小馬鹿にしてた
2チャンに表れたか。
848 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 20:33:12
ん。
yahooが惨憺たるじょうきょーなので、こっちに質の高いを話をしにきたん。
849 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:36:31
>>837 >名無しばっかりで誰が誰だか分からんから、ニックネームでも造ってほしいね。
>それで・俺を論破しにかかってみて。
貴殿が畿内説なら、同胞なので、卑弥呼の素性がどうであろうと気にしない。
850 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 20:40:20
誰が誰だか分からんから・ここに返答をまとめるから。
>卑弥呼の鬼道が大陸の仙道そのものだったなんて
>そもそも何の根拠があって言ってるんだ?
かんたんだけど・べんきょして。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/212ad78074b77887fe416fe2b1bf305c >魏使や漢籍の編者が、どの程度自国の鬼道を理解していたのかわからないが、
ずいぶんあっさりと、鬼道を使うと言い切ってしまったもんだな。
もちろん中国の鬼道と酷似していれば、そう書くだろう。
正史は体制側の書物で、その体制側の目から、曹操らと中原の覇を競った張魯の天師道を
邪教扱いして、批判的に鬼道と書いたわけで。
その張魯も曹操の軍門にくだったあとは彼に厚遇され、
天師道は次第に世家といわれる名門士家の間に広まり、これが道教へと昇華するわけで。
>そもそも卑弥呼が殆ど外部の人間に会わなかったと言うのは
日本の天皇も、昔は顔写真すら見るみとができなかったわけで。
そう簡単に人目にさらさないのが普通。
卑弥呼がほとんど前に姿を現さなかったということは、
卑弥呼が自らを神格化していたことをうかがわせる。
ここでいう神格とは、巷間に喧伝されるシャーマンや神託巫女とは次元が違って、
畏怖・畏敬の対象となる別格の存在。
王や皇帝というものは、そういうもんでしょう。
851 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 20:42:37
>鏡と剣を神宝とする様式 ・・・って一体何の話なんだ?
道教が鏡と剣と玉(ぎょく)を三種の神宝とする前は、天師道が鏡と剣を二種の神宝としていた。道教が成立する以前の卑弥呼は鏡と剣を二種の神宝としていた。
道教が成立するのは4世紀ごろだから、弥生時代の墳墓から出る勾玉を併せて三種の神宝とするのは歴史錯誤。
これ、天才伊作説よ。明確な論拠あるのこころ。
恥をさらさんように反論せんと。
852 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:51:09
>>850 そのサイト見ると、九州説っぽいな。
ということは、東遷説か。
あるいは、九州の卑弥呼亡き後、大和が九州を凌駕したか。
3行で自説を説明してみてくれる?
新羅は唐を後ろ盾にして朝鮮半島の統一を果たすのですが、
それに歩調を合わせるように日本でも百済系の渡来人に変わって新羅系の渡来人が力をつけ、
大化の改新で百済出身の蘇我氏を倒し、新羅の年号である大和と名付けたのです。
そして壬申の乱を経て、新羅は日本列島を統一しました。
つまり、新羅は、朝鮮半島から日本列島にまたがる大帝国を打ち立てたのでした。
しかし、新羅の力が衰え高句麗が起こると、日本は独立色を強めて行ったのです。
854 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 20:54:34
yes
従来の邪馬台国論をすべて敵に回す九州説。
とくに、伊都国・前原で奴国・博多などと自らが目の仇にする大和説と同じ手口に手を染めながら、
邪馬台国と投馬国を筑肥後山地の北に押し込める北部説のほえが・き・ら・い。
855 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 20:59:07
856 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:13:14
>>854 伊都国を佐賀平野の方に持っていく説の人は、ここではけっこう多い。
こういう自分も不弥国からの水行を有明海と思っているわけで。
857 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:13:46
>>855 >●日本列島における国家の起源は海人王国
> 日本列島の歴史には常に海と船と海人がかかわってきた。安曇、宗像といった海人族の存在はいうまでもなく
国家起源を海人に重きを置いてるわけですね?
参考文献とした一般書籍を教えてもらえますか?話が早いので。
梅原 猛あたりですか?
858 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:15:16
>>850 ヌケ作
>かんたんだけど・べんきょして。
ご紹介のブログお前の言っているような事を詳しく言ったに過ぎないような内容だが
(大陸における道教をつらつら書きなぐっただけ)
これのどこでおべんきょうするのかな?
>>851 タゴ作
>道教が成立する以前の卑弥呼は鏡と剣を二種の神宝としていた。
…だからその根拠を聞いているんだが?
九州の何処ぞにその二つの組み合わせを特に重視し埋葬品にもそれが見られ
そこに卑弥呼のような存在を伺わせるものがある・・・と言うようなもっと具体的な根拠を出せ。
何から何までオレサマ定義。
脳内既成事実。
なるほど古代賢人の予知能力や千里眼といった超能力前提の犬国と波長が合いそうな奴だなwww
859 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:18:09
なんかこの遺作とか言う奴が出てきて話のレベルが下がったような気がする。
「長大の解釈」とか「倭国大乱の時期」とか万年ループネタでもそっちの方がまだましのような気が…
860 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 21:21:24
>梅原 猛あたりですか?
邪馬台国を「論じた」人の本は読みません。主観・野心・都合・立場が混じるから。
客観的に「解説した」学者の本は読みます。これが本当の学説だと思います。
861 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 21:25:01
>…だからその根拠を聞いているんだが?
いきなり暴言野郎にに説明する気などない。無知をさらして勝手にほざいてろ。
>九州の何処ぞにその二つの組み合わせを特に重視し埋葬品にもそれが見られ
あっちいってろ。
>具体的な根拠を出せ。
だして見せるだけの相手と評価し人にだけだす。
食いつく相手なら、ほかをあたれ。
862 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 21:27:35
>「長大の解釈」とか「倭国大乱の時期」とか
あまりにもレベルの低いところでやってるから、たまらん。
と・出てきたわけだ。
きてもらいたくなかったら、もっとましな会話をすることだ。
863 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:28:50
>本物の伊作
ざっとサイトを眺めてみたけど、
”日本神話”を引き合いに出して論じてないだけ、
ちょっとは話しやすい人かと思いました。
このスレも後140で終わるので、次スレでいろいろお話をお伺いできればいいかなと。
ちょっと、100スレで論破する自信は無いから。
864 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 21:31:56
>100スレで論破する自信は無いから。
よかったら、俺のサイトにコメントしなさい。
誠実な人には誠実に対応するし。
必要とあれば、いつでも専用掲示板つくりますよ。
ローガンくんは俺のことを、ある程度は知ってるし。
865 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:34:21
>伊都国を佐賀平野の方に持っていく説の人は、ここではけっこう多い。
その場合の伊都国の性格はどうするかで
郡使の常駐を想定しうるとかなると怡土はガチガチの鉄板w
あと有明を二十日もかけて航行と言うのは頂けないw
嘉瀬川河口あたりから宇土半島まで地図で見たら70kmぐらいだろうか?
比較するのもなんだがw
遠泳の記録としてよく舞台にされるドーバ海峡が約34Kmで
これを人間が20時間ぐらいかけて今じゃ7時間ぐらいで泳いでいるらしいw
いくら潮の流れがきついといっても一体どうやれば二十日もかかるのか?
まあ日数を距離に換算するものじゃなくて悪天候なり何なり
結果として「二十日かかってしまいました」と言う旅行記録とすれば問題ないだろうがwwww
866 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:35:18
>>864 太国とは違って、きちんとサイトなり本なり書いて自説を構築してる人には敬意を持ちますよ。
ただ、一言でいえば、論の飛躍が大きすぎる。
論拠を丁寧に聞いていかないと、論破もできないんで。
867 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:40:04
飛躍というより殆どワープだなwwww
何処をどうしてそうなるのか?間の検証がすっからかん
いきなり結論が出てくる。
868 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:42:11
>>865 伊都国をあのあたりに比定すると矛盾点がどんどん出てくる。
例えば行程。どうして末盧国で船を降りて陸路を取る必要があるのか。
直接、船で行けばいい。それに方向も違う。
また、あんなところに一大率を置いても、諸国を検察なんて出来ない。
佐賀平野の多久とか小城とかあの付近に置けば、そういう矛盾も解消する。
869 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:45:07
でも、九州説、東遷説の人からみたら、安本が撃沈された後、支持されそうな気配はあるのかな?
九州王朝説からは敵視されそうだけど。
870 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:48:18
>>868 >諸国を検察なんて出来ない。
>佐賀平野の多久とか小城とかあの付近に置けば、そういう矛盾も解消する。
逆に言えば玄界灘周辺地域への睨みが効かなくなるなw
まあ伊都国を佐賀平野にもってくるなんてのは邪馬台国論争の範疇超えたお話だからw
そんな古代史全般をひっくり返すような大発見があるのを祈るのみだなwww
871 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:59:25
>>870 古代九州の中心地域は、有明海沿岸だろうと思われる。
最古の鉄器といわれる鉄斧も熊本県玉名市から出ているし、吉野ヶ里遺跡
平塚川添遺跡、方保田東原遺跡などの大集落遺跡も有明海沿岸にある。
弥生後期の鉄器も熊本県が多い。玄界灘沿岸地域よりも重要性は高いと思う。
平野面積も有明海沿岸の方が圧倒的に広い。佐賀平野の西側にあれば、
かなり広い範囲をカバーできる。となると、邪馬台国の位置も自ずから
決ってくるな。
有明海を挟んで、両側から監視する体制を取ればいいわけだから。そもそも
伊都国に一大率を置く必要があったのは、そういう理由だろうし。
872 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:15:42
●論旨分析
>郡使の常駐を想定しうるとかなると怡土はガチガチの鉄板
隋の使節は難波津に逗留した。唐の戦後処理交渉団は筑紫に逗留した。
外来の役人が逗留する所が」必ずしも重要な拠点とかぎったことではない。
勝手な断定による論旨だな。
>あと有明を二十日もかけて航行と言うのは頂けない
倭人伝のいう邪馬台国までの水行20日とは、どこからなのか。
これが決定したわけでもないのに、不弥か伊都からの日程と勝手に断定した上での反論だな。
>いくら潮の流れがきついといっても一体どうやれば二十日もかかるのか?
勝手な断定につないだ意見など何の意味もない。
で・邪馬台国までの水行20日とは、どこからなんだ?
それを俺が論破してやるから・おいで。
873 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:17:35
>一言でいえば、論の飛躍が大きすぎる。
しっかりした論拠に基づいてるよ。邪馬台国論として珍しいほどにね。
抽象的な中傷はいいから、具体的に指摘しておいで。
874 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:18:42
ここも・まとめて返答だ。
>一言でいえば、論の飛躍が大きすぎる。
しっかりした論拠に基づいてるよ。
邪馬台国論として珍しいほどにね。
抽象的な抽象はいいから、具体的に指摘おいで。
>いきなり結論が出てくる。
ちみ。ちみこそ、何一つ具体的なことをいわないで、反意を書き垂れてるだけだろ。
反論にもしっかりした論拠が求められるってことすら、分かってないようだな。
んー?
875 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:19:04
>>872 >で・邪馬台国までの水行20日とは、どこからなんだ?
>それを俺が論破してやるから・おいで。
いいや、その前に魏志倭人伝の記録の正確性がどの程度かを検証してからだろう?
まさか、100パーセント信用できるとは言うまいね?
876 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:23:47
本物の伊作とやらは、墓穴を掘るのが速すぎるんじゃないかw
877 :
2浪中:2011/02/08(火) 22:25:07
こちらは議論が沸騰していますね。いろいろと勉強になります。
ところで、僕の書き込みは邪馬台国は倭奴国、それを継いだ帥升の倭国と密接な関係があり、九州の中部以北にあったのではないか
ということで始めたのですが、2世紀後半の食糧不足の問題とその状況下で流入してくる渡来人の問題が倭国乱の背景にあったので
はないかと述べたところで脇道に逸れてしまいました。
ここで彦火火出見(神日本磐余彦尊)を登場させたいと思います。混乱の中にあって、彦火火出見は自分の兄弟や部下とともに渡来人
を引き連れて九州から瀬戸内、畿内へ向けて出て行きます。神武東征として記紀に記されていますが、僕はその時期は倭国乱の頃で、
目的は渡来人の処理だったのではないかと想像します。
878 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:25:21
>>872 ポン作
>外来の役人が逗留する所が」必ずしも重要な拠点とかぎったことではない。
ああ、それは楽浪土器とか漢鏡とかのお話ね。
で、有明方面佐賀平野で「外来の役人が逗留する所」と言うのがなんかの考古資料をもってあげることが出来るのか?
>で・邪馬台国までの水行20日とは、どこからなんだ?
はあ?有明沿岸の何処からかだろう?
伊都国佐賀平野説を言っている奴に聞け。ドアホ。
879 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:25:28
>>816 後漢書がどのような資料をもとにして書かれたのかが問題なんだよ。倭人伝の他に特別
の資料があったとは考えられない。
となると、范曄が「桓霊の間」を書いたのはどうゆうことか?
倭人伝には、「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱、相攻伐暦年、乃共立一女子
為王」とある。これを、我々は、「男王が七八十年続いた。倭国が乱れて暦年にわたり
戦った。そして卑弥呼を共立した」と読んでいる。これが正しい読みだ。
しかし、范曄は区切り方を間違えた。「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱。相
攻伐暦年、乃共立一女子為王」。このように区切ると、文章の意味は「其の国には男王
がいた。七八十年にわたり倭国は乱れた。そして暦年にわたり相攻伐し卑弥呼を共立し
た。」となる。七八十年は乱の続いた期間と読めるわけだ。
中国で「桓霊の間」と言えば乱世の代名詞、倭国においても中国同様に乱が続いていた
と彼は考えたわけだね。後漢書を良く読んでみな、そう書いてあるだろ?
880 :
ローガン:2011/02/08(火) 22:26:29
おや!伊作ちゃん。「どこぞのちゃんねる」にようこそ。ゆっくりしていってね。
お題は鬼道ですか?
日本書紀ですか?
怡土ですか?
ボチボチやりましょう。 あ、張魯の若作りのオカンが鬼道だと。
>>873 >抽象的な中傷はいいから、具体的に指摘しておいで。
具体的に言ったら言ったでギャーギャー
今のところは具体的に絡む奴がいないから至極平穏のようだが
ここも時間の問題でして
882 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:30:19
>まさか、100パーセント信用できるとは言うまいね?
史実の記録と把握に、時には命をかけた史官がいた中国の、
よき伝統が息づいていた最後の歴史書だよ。しかも、当時の地理情報は軍事情報だよ。
中国にとっては、伝説にすぎなかった大海の中に住む倭人とその島を発見したことは、
地理学的・民俗学的大発見だ。
しかも、それを目玉とした東夷伝は、前漢朝の西域調査に匹敵する文化事業さ。
そのことを東夷伝がうたっている。
都合勝手に、方角を間違えた・距離を間違えた。
編纂者が操作した・錯誤した・想像で書いたなど。
いうほうの、歴史の現場を度外視した姑息さのほどが少しは自覚できたな。
883 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:31:31
>倭人伝の記録の正確性がどの程度かを検証してからだろう?
そっちで。検証したものを見せてくれ。
884 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:31:49
大体、中国の道教仙道について図書何冊分の書き込みをしようが
それで卑弥呼の鬼道が道教そのものであると言う事が証明されるわけでもなんでもない。
アタマ沸いているのかこいつw
まあこれは解釈でどうにでもなるお話だがw
九州説で卑弥呼を天照と同一視し太陽神の性格を持たせた場合
道教と言うのはチト違和感が出てくるなw
道教なら太”陽”は当然、男(性原理)なのだろうからwwwwwww
>>879 >范曄は区切り方を間違えた
誰かそんな事言った奴でもいるのか? 誰も言ってもいないなら正に1500年来の大発見となるが
886 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:34:08
>はあ?有明沿岸の何処からかだろう?
遠浅干潟の海は沿岸航行ができない。
そんなバカなことゆってるのがいたら、そいつに「どあほ」とゆってやれ。タコ
887 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:35:46
>>882 そんな抽象的な話では、立論としてお粗末すぎますね。
いったい、どのような航行技術があっての二十日なのか?
丸木舟と構造船でも話が違ってきますね。
まずは、航行技術がどのようなものだったか、立論の根拠となる考えを聞かせていただきましょうか。
888 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:38:23
>>884 卑弥呼は、日の御子あるいは火の巫女かも知れないな。
889 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:40:28
>道教なら太”陽”は当然、男(性原理)なのだろうから
いいねー。『日本書紀』ができる100年前に倭国を訪れた中国人の報告による隋書をみてみ。
倭国の風俗(国がら・統治体制)を質問された倭国の使者が、
倭王は「日を兄とし月を弟として」と答えている。
『日本書紀』ができる前の太陽神もまた中国と同じく男だったらしいぞ。
890 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:42:04
>>887 倭人伝に書かれた行程の日数を距離に直す方法は見つかっていない。
帯方郡から狗邪韓国までの日数でも書かれていれば参考になるんだろうが。
891 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:42:12
>具体的に言ったら言ったで
だからゆってみろ。それでお前さんの程度も見識も分かる。
神功皇后は架空の人物ということにしておかないと
畿内説は危ういですからね、必死ですよ
邪馬台国?畿内にあったに決まってますよ
少なくとも学界ではそういうことにしておかないとマズいのですよ
青臭い九州説どもには理解できないでしょうがね
893 :
2浪中:2011/02/08(火) 22:47:51
>>879 >後漢書がどのような資料をもとにして書かれたのかが問題なんだよ。倭人伝の他に特別
>の資料があったとは考えられない。
後漢書は倭人伝より後に書かれたもので、倭人伝を下敷きにして書かれていることはわかります。しかし、倭人伝に無い記事も
あります。「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻
生口百六十人、願請見」がそうです。
ということは、范曄が後漢書を編纂するときに倭人伝以外の資料も見ていると言えるのではないでしょうか?
ところで、あなたは
>>811 を書かれた方でしょうか?もしそうであるなら、811で「共立の時期は靈帝時代よりもかなり後と
いう見方だ。」と述べられたことに対する僕の816の疑問にこの書き込みはお答えになっていませんね。
894 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:48:41
>>890 水行二十日が、10キロなのか、100キロなのかわからんよね。
でも、本物の伊作は知ってるみたいだから、拝聴しておかないと。
895 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:51:42
ただいま。なんかすごいことになっているね。
今日の筑紫は雨が降っていたよ。だから邪馬台国探しはしなかった。
古代の船は、風や潮流に乗らなければ当然艪を使うのでしょうね。
櫓で漕ぐと時速1〜2kmくらいか…1日10時間頑張ったとして10〜20km
20日水行すれば200〜400kmというところですかね。
896 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 22:53:29
どうした。蹴散らさせておしまいかー?
相手の論を論破するには、相手の論拠ほ崩すことだ。
それにはしっかりした論拠がいる。相手の論旨をしっかり理解し・把握することが必要だ。
ここのタコどもは、そのイロハができていない上に、半端認識で偉そな口をきく。
論破などゆってるタコにかぎって、何一つ論拠らしいものを提示できない。
ただ、否定文言をならべるだけだ。
いずこも同じタコの山たい国かー?
897 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:54:37
本物の伊作さん、また墓穴を掘らないでよ?
はりあいがないから。
898 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:56:28
たのしくやろうよ。2ちゃんねるなのだから…
899 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:56:41
卑弥弓呼の弓はどういう意味だと思う?
卑弥呼、卑弥弓呼の言葉から、巫女は考え難いので、卑弥呼は日の御子
で、卑弥弓呼は日の御子の子ではないかな。弓はクと読むので。
卑弥呼の兄弟の子かも、狗奴国王は。
で、日は太陽。天はそらで、太陽をあらわさない。
だから天皇は卑弥呼とは関係ないってことだよね。
900 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:57:59
>>882 >当時の地理情報は軍事情報だよ。
そう決め付ける事も出来ないだろう。
個人的にそう思いたいのはわかるがな。地理情報は単なる地理情報で、そこに別の目的なんてない。
901 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:59:24
>>895 >櫓で漕ぐと時速1〜2kmくらいか…1日10時間頑張ったとして10〜20km
さてさて、対馬から博多まで、何日かかったでしょうか?
本物の伊作さんは、もちろん知ってるよね?
902 :
本物の伊作:2011/02/08(火) 23:01:23
>そう決め付ける事も出来ないだろう。
できるなだよ。確かな根拠がある。
ちみの反論自体が根拠のない推論だろが。
こんな投稿をするようじゃなー。恥
俺は論拠に乏しい推論はいわない。
レベルが低すぎるくせに、態度がデカいから、
論拠を説明する気にもならん。
903 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:02:22
そもそも、その地理情報がそれを基に作戦を立てるような軍事情報だと言うのなら
里数と日数の混在は無いともうなw
それに70才80才あるいは100才の老人がゴロゴロいるとかw
女が嫉妬しないとか訴訟ごとが少ないとか
一種「理想郷(桃源郷)」フィルターがかかっているんだろうwwww
904 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:05:25
水行20日+10日で、大阪まで、直線距離で500キロもあるところを
行けるわけないですよね。実際の距離はその2,3倍にもなるだろうから。
それも毎日10時間もかけてですからね。
よくぞ計測してくださいました。
905 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:05:44
あれだね、対馬〜博多間は季節風利用で帆を張って航行したと思われるので
時速はもう少し速いですね。5km以上か?
今日はもう寝るね、おやすみ。
906 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:06:17
>>902 >俺は論拠に乏しい推論はいわない。
「水行二十日」で目的地がわかるんですよね?
水行二十日って、何キロなんですか?
907 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:07:29
>>893 >倭人伝に無い記事もあります。倭人伝以外の資料も見ていると言える
それはそのとおり。私が言ったのは倭国大乱の記事に関する資料の話。
>816の疑問にこの書き込みはお答えになっていませんね。
疑問の趣旨が良くわからんのだが?
「桓霊の間」と区切ったこと?「桓霊の間」と言えば乱世の代名詞で倭国乱の時期
と重なると思ったから出しただけだろ。七八十年は「桓霊の間」より長いからね。
釜山か木浦から南へ20日といったら、モロタイ島あたりじゃないのか?
909 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/08(火) 23:12:11
>>866 俺はサイトなんかはやったことはないが、本を書いてないとは言った覚え
はないぞ。デタラメ言うな。
>>902 >できるなだよ。確かな根拠がある
根拠があるなら出せばいい。
>ちみの反論自体が根拠のない推論だろが。
根拠も糞も地理情報は地理情報だと言ってる事に根拠を求めるって
頭大丈夫か?
お前さんのそのへんちくりんな脳内では、地理情報は軍事情報というのがノーマルで
地理情報は地理情報とする方が異常に捉えてしまうのか?
頭膿んでないか?
911 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:25:19
「自分はこう思った」ことを、唯一無二の事実だと思い込む典型だなあ。
あのサイト見ればすぐわかるけどさ。
912 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:26:45
昔、西都原古墳群の舟形埴輪を元に、古代船・野生号というのが作られた。
排水量13トン、全長16.5m、漕ぎ手14人。
この舟は実際に対馬海峡を渡り、博多から帯方郡があったとされる仁川港
まで47日で航海した。
ちなみに、釜山から博多までは16日かかった。
ただ、野生号は漕ぎ手だけが乗っているような舟だし、荷物も積んでいない。
船を作る技術も今の方が上だろうという風に考えていくと、古代の舟が
野生号より速いとは考えられない。
両方の舟が1日にどれくらいの時間漕いだのかは不明だが、古代の舟の方が
短く、しかも休み休みということも十分に考えられる。
というわけで、野生号と同じスピードとして一日に15km程度。いろいろな
マイナス要素を加味していくと、一日に10kmあるいは5km程度も考えられる
のではないかと思う。
>俺は論拠に乏しい推論はいわない。
レベルが低すぎるくせに、態度がデカいから、
論拠を説明する気にもならん。
説明する気がないなら書くなよ。消えろよ。
お前馬鹿だろ
根拠に説明なんていらないんだよ。説明しなきゃならないと言うのは
お化粧をしないと人様の前には出せないってこと
そんなのここに書く必要ないから書くな。絶対書くな。書かなくてもいい。
>>911 >「自分はこう思った」ことを、唯一無二の事実だと思い込む典型だなあ。
あのサイト見ればすぐわかるけどさ。
暴れ出すからそれ以上は言わない方がいい。
915 :
伊作ちゃん:2011/02/08(火) 23:30:50
>根拠も糞も地理情報は地理情報だと言ってる事に
それが根拠のない空論なのだよ。
地理情報は軍事情報であり、版図情報であり、年貢の基本となる。
中国文化研究院のサイトを参考に、古代中国の地図学と地理学について簡単に。
▼中国の古代地図学
晋の武帝のとき司空に就任し裴秀(陳寿と同時代の人)は、
「製図六礼」という地理学と地図学の法則を確立した。
すなわち、縮尺比率・方位・距離・高低差がある場合の水平距離・交差道の角度・
曲線区間での直線距離と直線の方位、以上の6つの求め方を確立している。
中でも注目すべきなのは、
曲線区間においては直線距離と直線の方位を求めることである。
▼中国の古代地理学
「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」としている。
さらには、「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等がある」
としている。『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っている。
ほな・リクエストにお応えして・このへんで。
916 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:33:18
卑弥弓呼で思い出したけど、狗奴国の狗古智卑狗はくくちひくと読める。
つまり「ひみくく」と「くくちひく」で、くくの土地の日の子という意味で
卑弥弓呼と狗古智卑狗は同一人物かも。
917 :
2浪中:2011/02/08(火) 23:36:19
>>907 811で「共立の時期は靈帝時代よりもかなり後と いう見方だ。」と述べられたことに対する疑問です。
あなたは「桓霊の間」と言えば乱世の代名詞として出したものにすぎないという見解のようですが、それはちょっと苦しい見方
ではないでしょうか?今日はこれにて失礼します。
>>915 ただただ自分の蘊蓄垂れ流したかっただけね
しかもその垂れ流しがなんの説明にもなってない事に気づかないんだから
お笑い以外のなにものでもない。
>地理情報は軍事情報であり、版図情報であり、年貢の基本となる。
お前さんの思い込みに付き合うほど皆暇じゃないってよ
919 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:49:36
>>912 凄いですね!
釜山から博多までは16日もかかったということは、今よりはるかに条件の悪い
諸を考えると、九州から大阪までは30日はとんでもなく無理。
一日10キロでも30日で300キロ、5キロならばたった150キロですから。
920 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:54:28
>>919 邪馬台国まで、陸行一月かかったことも忘れちゃいかんよ。
921 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:02:00
918の名無しのちみ。
どこかの回し者で、否定することを仕事にしてるのかね。
論拠出せというから、チラと出せば。
>ただただ自分の蘊蓄垂れ流したかっただけね
といって逃げる。
>その垂れ流しがなんの説明にもなってない事に気づかないんだから
出された論拠にぐーの音も出ないが、否定の文言だけは垂れる。
お笑い以外のなにものでもないな。
「地理情報は軍事情報であり、版図情報であり、年貢の基本となる」。
常識だろ。りょうど割譲や城市の引き渡しには地図を渡すしきたりだったんだ。
無知なのはちみのほうだな。その無知に基づく推論で否定するてか。わらわら
>お前さんの思い込みに付き合うほど皆暇じゃないってよ
だれが、何ももたらさない奴に相手をしてくれと頼んだか。
922 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:02:32
>>920 大阪から奈良まで重い荷物、食糧を持って歩いてみたら。百人くらいの一行で。
それに大阪に着く前にたとえば長く見積もって広島の福山だとしても途中で船から降りることはほとんど考えられない。
どうして、自ら苦労するのかと。
923 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:05:32
924 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:05:54
911のこいつが残ってな。
>あのサイト見ればすぐわかるけどさ。
>暴れ出すからそれ以上は言わない方がいい。
俺は相手也なりに対応するしと。
俺がぞんざいに扱う奴は、そちらからそういう態度を模せた奴だけ。
てめえの言動の鏡だと思え。
925 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:06:17
時速5キロ以下の船が、早いところでは海流が時速2キロの
対馬海峡を渡ると、慣れてなければ負けて
とんでもないところに流されてしまうな。
926 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:08:23
>>902 >俺は論拠に乏しい推論はいわない。
「水行二十日」で目的地がわかるんですよね?
水行二十日って、何キロなんですか?
なんで、すっとぼけて逃げてるんですか?
927 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:11:51
>>922 感想ではないですよ。実際に歩けばいいじゃないですか。
今よりはるかに悪い諸の条件を考えて。
福山じゃなければ、倉敷でも姫路でもいいけど、
そこから歩いてみたら。百人だし、大荷物だから走ったりはできません。
もちろん、牛も馬もいませんよ。
928 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:15:17
>>927 なんで「大荷物」て条件を勝手につけてるの?
929 :
ローガン:2011/02/09(水) 00:19:58
>>921伊作ちゃん。横失礼。
>「地理情報は軍事情報であり、版図情報であり、年貢の基本となる」。 常識だろ。
なら、天子規定の「度」で著された情報という事になりますよ。それでいいの?
930 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:20:40
>水行二十日って、何キロなんですか?
あたま・大丈夫かい。
>なんで、すっとぼけて逃げてるんですか?
話にならん質問だがね。自分の質問のレベルが認識できてないね。
931 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:21:11
>>928 荷物は贈り物、ものすごい量の贈り物です。それと食糧はかなりの数。
みちみち獲物を捕って行くなら、もっと時間がかかりそうだし。
贈り物を伊都国に置いたとしても、あるいは、違う一行が計ったとしても、
食糧だけはなくてはならないと思う。
何も持たずに歩いたら、みちみちで食糧探ししなければならないから、
もっと日数がかかるのでは。近くに人家があるとは限らないし。
そもそも近畿はありえないから、話しするのは値しないんだけど。
932 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:24:11
当時、道々で食料と調達したとしたら、
なにと交換したんだろう。
お金は多分無理だよねえ。
933 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:27:17
>天子規定の「度」で著された情報という事になりますよ。それでいいの
少なくとも、東夷伝の韓伝と倭人伝は魏の公式尺度の6倍強で書かれている。
揺るぎない事実だ。
洛陽から遼東まで4000里というのが魏の公式尺度。
韓伝は、韓半島の東西距離を4000余李としている。
以前説明した通り確かな記録だ。
で・帯方郡から12000里といえば、魏の公式尺度ではインドネシアにとどきそうだ。
だが倭人伝編纂担当者は、「会稽・東冶の東」を12000里としている理屈だ。
かわかるか。その程度の尺度で書いてるということだよ。
この会話は以前もやった。・きみの論旨も熟知している。
だが、俺のは事実とれけに基づく正論だ。
934 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:28:14
そういや、済州島や九州の大きさの表現から計算された
一月行=80キロ、はどうなの?
935 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:29:25
●畿内説のウソを暴く景初3年鏡ミステリー
神獣は典型的な呉式鏡のデザインモチーフなのだが、
239年当時には魏朝の敵対国だった呉の特徴をもつ鏡を、
魏の官製工房で製作することは断じてあり得ない。
ところが、魏王朝の工房では造られるはずのない呉式神獣鏡に、
「景初三年」「正始元年」という魏の年号が刻まれている。
しかも、正始元年の年号入り神獣鏡には、一介の鏡職人の素性を刻んである。
これが魏の皇帝が国家間トップ外交の贈答品てか。
魏の尚方でつくるはずのない神獣鏡に魏の年号てか。
とんだ古代史があったもんだ。(伊作の畿内説潰しの新説)。
しょくん。きょうは刺激になったろう。わかったらねろや。
936 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:29:28
獲物を弓で捕ったり、魚をつったりして、自然から調達だと思う。
937 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:32:40
なになに?
百人の一行が、大荷物と食料もって一ヶ月歩いたって?
それを大変だというなら、九州でも畿内でも条件は同じでしょ。
938 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:35:58
>>936 想像するのは自由だけど、
卑弥呼は30国から共立されてるわけで、その外交使節団が通行するわけだから、
近隣のムラムラは大歓迎でしょ。
なんで、食料もっておっちら歩かないといけないと思うんだろうか?不思議だなあ。
939 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:37:30
ああ・ローガンくん。
「地理情報は年貢の基本となる」これかー。
実際の6倍強の面積分の年貢を強制されたんじゃ帯方郡太守も大変だ。
そんな様子もないところをみると、当事者には分かっていたことだと思う。
そもそも、王莽の時代には楽浪郡から辰韓へ捕虜奪還の船を出しているし、
魏も、景初年間には楽浪と帯方二郡の懐柔に船を出している。
ということは正しい版図情報が把握できていた理屈なのだが、
なぜか韓伝と倭人伝は別の尺度で書いている。なぜかは置いて、事実は事実だよ。
940 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:39:55
>>937 条件は違う、距離が。同じ日にちで短い距離ならば、旅は楽。
長い距離ならば旅は苦しい。
近畿は考えられない。そんな旅は人間わざではない。そんなこと常識で考えれば普通ではないですか。
941 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:41:08
>>940 「陸行一月」は、「陸行一月」
歩くんだから、どこでも条件は同じですよ。
942 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 00:45:50
ローガンくんに・ついしん。
実際の6倍強の面積分の年貢を強制なんて。
まさか、伝の末尾の伝に書かれた尺度を、魏の行政尺度に使うという、
誰かのあげ足詭弁めいたことを、大帝国の役人がやるわけもなかったろうしね。
943 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:46:40
>>941 だから、邪馬台国は近畿は考えられないんですよ。無理だから。
実際歩いてみたら、一人ではなくて。大人数で。
食糧持たずに。
944 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:47:43
そういえば、
遣唐使船や遣隋使船は、畿内から出発したのか、
博多や唐津まで陸路で移動して、それから船で出発したのか?
畿内から出発したなら、畿内まで戻るのが常識だろうし
博多や唐津からなら、どうやって船を調達したのかということになる。
945 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:47:53
陸行一月も、今、考えるよりは、相当短い距離だろうな。
一時間に何キロで、一日に何キロという計算をしていたら日本全国どこも
陸行一月が当てはまらない。
畿内説のように、距離合わせのために北陸経由なんて姑息な手段を使わなくては
ならなくなってしまう。
それよりも、いっそのこと、陸行一月を30km位にしたら、みんな万々歳じゃ
ないのかな。
946 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:48:30
舟で1日10キロと計算した人もいるけど、
10キロだったら、どんな悪路でも歩けばもっと距離をかせげるだろうね。
どうして、こうした矛盾に気がつかないんだろう?
947 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:49:58
里の長さが、公定理と短里で6倍違うなら、
それで示された面積は、6^2で36倍違うように思えるのですが。
948 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:50:20
>>943 君が神武東征を否定してくれたことは歓迎するよ。
949 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:54:14
東征したとしても数百人程度が限界でで
数万の大群など、途中の村々から略奪しても足りない。
食料をとられた村は餓死するしかない。
さぞかし、嫌がられうらまれているだろう。
950 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:00:22
>>946 偉い人は、歩くよりも舟に乗っているほうが楽だろう。食料の問題もあるし、
荷物もある。賊に襲われる心配も少ないし、夜も安心して休める。
951 :
ローガン:2011/02/09(水) 01:01:32
>>939 >なぜか韓伝と倭人伝は別の尺度で書いている。なぜかは置いて、事実は事実だよ。
その「なぜか」という部分を、棚上げにしなければならない 「軍事情報」という前提を、再考してみてはいかがでしょう?
では、お休みなさい。
952 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:02:58
953 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:07:25
>>952 実際問題としてそうだろう。郡使も陸路で狗邪韓国まで来れるのに、
やっぱり船で来ている。
954 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:10:14
>>953 朝鮮半島縦断は出来て、日本列島横断は無理ってことですかな?
955 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:16:58
>>930 結局、根拠も言えずに逃げてしまったか。
まあ、予想はしてたがね。
「水行二十日」とか「陸行一月」という情報だけでは、距離を算出することは不可能。
それなのに、どこを出発点にして、どこを終着点に決めるかなんて確定できるわけがない。
議論のための無駄な議論をふっかけようったって、その手には乗らないぜってこと。
>>811>>879 >その後も更にある程度続いたとみている。更に相攻伐暦年。そして卑弥呼共立に至る。
この「更」は、「さらに」じゃなくて「こもごも」「たがいに」じゃないの。
ぱっと検索結果を見渡しただけなので、もうちょっと詳しく見ないといけないけど、
更相+動詞Aの形は、「さらに」じゃなくて「おたがいにAしあう」という意味みたいだね。
だから、別に范曄が誤読したわけじゃなくて、「さらに」が誤読なんだろうと思うよ。
957 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 06:45:23
おはよう。今日の筑紫は少し雨が降ってます。
958 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 07:26:42
>>956 普通は確かにそのように読んでいるよ。だが、それでは桓霊の間大乱があったとしながら
何でまた歴年という期間が出てくるのか、こもごも・相は同じ意味が重なりすぎではない
かといった疑問がでてくる。そして、桓霊の間という期間がどこから導き出されたのだろ
うと考えたときに、倭人伝の区切り方をまちがえたとみればすっきりと理解できるという
ことなのだよ。范曄ともあろう者がそんな馬鹿な間違いをするかと思うかも知れないが倭
人伝から大乱の時期を読み取ろうとしたときに、つい誤った読み方にとらわれたということ
だろう。
959 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:06:39
まとめてほい。
947 >里の長さが、公定理と短里で6倍違うなら、
面積計算はそうなるね。
ことわっておくが、俺のは短里なんてみんじゃない。
確かな論拠にも凸せいた確かな計算だよ。
951ローガン
>「なぜか」という部分を、棚上げにしなければならない
現代人の確かな推測の及ばないこともある。分からんものは分からんのだよ。
>「軍事情報」という前提を、
そのことと、地理情報は軍事情報の受容なファクターであるという事原則的事実とは関係がない。
955 >結局、根拠も言えずに逃げてしまったか。 まあ、予想はしてたがね。
>水行二十日って、何キロなんですか?
こんなバカげた質問する奴が大きな口をきくなよ。中味がなくて偉そに振る舞うだけのタイプか?
次も、きみへの返答をつづけるから。
960 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:07:39
つづきだから。
>「水行二十日」とか「陸行一月」という情報だけでは、距離を算出することは不可能。
いいことを教えてやろう。
海路は距離測定が不可能だ。それをどうやって表記する? 考えてみたこともなかろう。
歴代の中国歴史書が、1日航海・1000里単位で表記している。極端な例でいえば、風待ち・潮待ちで昼に出港して夕方寄港しても1日航海だ。距離は1000里だ中国人らしいところだな。
例外的に、陸路測定で表記可能な河川水行と、目測が可能な程度の海路を百里単位で表記した例があるが、圧倒的大多数は日月単位か千万単位表記だ。釜山・対馬・壱岐・唐津と、明らかに異なる海路距離を一律1000余里としていることでそのことが分かるだろう。
で・帯方郡から唐津までの10000里が水行10日だ。この、現実距離とは無縁の海路距離表記の「10000里」を含む12000里を、まともに距離感算するバカが溢れているが、これが文学とドキュメントの中間に位置する文献の読み方なのだ。
961 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:08:38
>それなのに、どこを出発点にして、どこを終着点に決めるかなんて確定できるわけがない。
倭国へ外交と調査で訪問した使節一行の出発点はどこで、終着点はどこだ?。こんなにごちゃごちゃ説明しなくても、最終目的地までの行程手段・方角・距離・日程は出発地からのものという不動の真理がある。
順次説明で次々に積算的な表記をするのは畿内説と九州北部説のタコだけだ。
つづきだから。
>議論のための無駄な議論をふっかけようったって、
きーたふーなことをいいたがるタイプのようだが、俺はきみに議論をしかけたつもりはないぜ。のぼせるなよ
>水行二十日って、何キロなんですか?
これが、バカげた質問だってことが理解できたかね。わらわら
962 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:16:40
もうお前ひとりで沖縄の海に潜ってろ
963 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:18:22
やまたいこくはエジプトにあった。
ひみこはクレオパトラ。
964 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:29:13
闖入所感。
認識が浅いうえに思考深度の浅い半端者が、イワシかサンマよろしく海面表層を浮遊する図だな。
とくに、古代史に関する見識がないくせに、横ちゃり入れていっちょ前に振る舞う抽象的中傷論者が多いようだ。
その特徴は、何一つ中味のある具体論はいわず、分かったふーなセリフを垂れて、否定と人間非難の文言を連発するだけ。
最後に不動の真理を一つ。
●肝心の倭国王の都する所に至る「行程手段・方角・日程・距離」の4つの要素の中で、
どこかで・どれか一つでも欠ける読み方はすべて間違いである。
●この条件に合致する読み方は、当然ながら一つしかない。
世が世であれば、不特定多数に向かって発言する能も場もなかったろうに。
せっかく・ただで・好きなように発言できる場を与えてもらってるんだから、
よーくべんきよしてから他人に向かって発言するよーに。
965 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:31:29
>>964 伊作という人。
罵りあいが常態化しているヤフー掲示板じゃないんだから、
汚い言葉を書きなぐるのはやめてくれないか。
966 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:32:38
962 >もうお前ひとりで沖縄の海に潜ってろ
いったいどこを見てるんだ。文章の読解力ゼロか。
誰がそんなことをゆってる。
他人の投稿内容すら吟味せず、非難文言を垂れて自己満足か。タコ
967 :
伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:35:49
965 >罵りあいが常態化しているヤフー掲示板じゃないんだから、
>汚い言葉を書きなぐるのはやめてくれないか。
くり返す。俺は相手なりの対応をしている。
誠実な人には誠実に対応している。きみはどうなんだ。
最初に罵倒文言を投げたのは俺じゃない。
ぞんざいに扱われたくなかったら、
よく検索して確認して、俺はバカにした投稿をした奴に先にいえ。
どうにも、認識が半端のまま発言するのが多いな。
968 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:42:49
悪くはないね。中身のない罵り合いよりは
読み応えがある。
969 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:57:21
>「水行二十日」とか「陸行一月」という情報だけでは、距離を算出することは不可能。
不可能ではないが、かなり幅を大きく考えることが必要だろう。
陸行一月といったところで、使者は休みなく連日歩くわけではない。二日歩いて一日休みとか
雨の日は休むとかするのが常態だ。歩くときでも、一日の歩行はせいぜい10キロから15キ
ロだろうな。となれば、一月陸行はせいぜい150から200キロぐらいだろう。
>>916 狗古智卑狗はココチヒコ
あるいは河野氏の祖とも言われる人物、河野越智彦ではないですか?
971 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:00:13
九州島、東西五月行、南北三月行
972 :
伊作ちゃんなのさ:2011/02/09(水) 10:18:44
>一月陸行はせいぜい150から200キロぐらいだろう。
いい話をしてやろう。
司馬懿の4万の軍隊が公孫淵討伐に向かう日程は、
片道4000里を行きに100日・帰りに100日・戦闘に100日で休息が60日だ。
行き帰りと戦闘に均等に休息日を割り振ると、100日に対して20日が休息費。
休息を入れた100日で計算するか、実行日数80日で計算するかは任せるとして、
1日に何里歩くことになるか。
注●『三国志』のいう洛陽から遼東までの4000里は登場人物たちの口頭文言だから、
端数を端折っている可能性あり。
『後漢書』郡国志の地理情報によると洛陽から遼東まで3600里。
後漢代の尺は、魏代の尺よりは1センチばかり短い。
注●司馬懿の行軍は、戦車・馬車が通交可能な大陸の道を、討伐戦いに急ぐ行程である。
前人未踏の「臨時の山道」を歩いた魏使とはシチュエーションが異なる。
いじょ。
空想推論ではなく、事実に即したことをいうには、こういう計算をするといいよ。
973 :
伊作ちゃんなのさ:2011/02/09(水) 10:29:50
>九州島、東西五月行、南北三月行
まーだこういう珍釈をのたまう人がいるんだね。
3世紀末には関東にも前方後方(円)が登場しはじめるんだよ。
ということは、この時点はですでに毛人の駆逐をすませ、
安定収穫を得ていた論理に帰結する。
隋書の記録は7世紀初頭の事象だから、どう考えても東西の版図は関東以西だよ。
974 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:34:18
たしか、以前の議論でこんなのもあったよ。
>根拠は隋書百濟伝
>百濟と済州島間は「海行三月」、実際は「250km」
>済州島の大きさは「南北千里東西数百里」、実際は「東西70km南北50km」
975 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:52:43
>空想推論ではなく、事実に即したことをいうには、こういう計算をするといいよ。
軍を動かすときと使者が他国を訪問するときとはまったく事情が異なる。
事実に即したことを言うためには、使者の訪問の例を探して言え。
976 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:54:38
一個師団の陸軍が展開した状態で、
方向転換するのに一日かかるって言うけどねえ。
977 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:55:29
隋書の記録九州のそれも北部の記述だよ。南は有明海。だから東西が長い。
唐書には、奈良の北と東は山でそれ以東は毛人の国とありますから。
東西南北海にかこまれてない。
倭国統一した初めはまだ近畿までの進出だったんですよ。
それ以前からも東に行っていただろうけど、まだ奈良王朝の統一する
範囲じゃなかったんですよ。古い倭国の勢力が東に逃げたことも考えられる。
978 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 10:55:57
>隋書の記録は7世紀初頭の事象だから、どう考えても東西の版図は関東以西だよ。
関東以西で、南北三月行ってどこからどこまでだ?
979 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:04:05
九州島も済州島も、東西と南北が逆なのが変だな。
そのうち、色々解釈されるんだろうけど
980 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:12:55
畿内で東西と南北を計測すると、
東西は関東から下関まで?
南北はどこまでかな?
縦横比がでたらめなことになりそう。
981 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:26:33
もともと、公定里千里(435km)を一月とする表記法があり、
短里千里(80km)も一月と表現したのかもしれない。
根拠は全くないのだが。
982 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:40:43
其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗。
其南、海行三月有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多獐鹿、附庸於百濟。百濟自西行三日、至貊國千餘里云。
百済国と耽牟羅國(済州島と解釈されている)がほとんど同じ大きさで、百済って小さい
わりには同じくらいの大きさの国を
附庸しているんだね。それに南に新羅がある。
これは再考の必要ありますよ。通説を。
983 :
伊作ちゃんなのさ:2011/02/09(水) 11:42:47
まとめてほい。
>軍を動かすときと使者が他国を訪問するときとはまったく事情が異なる。
何の計算根拠も出さず「ぐらいだろう「なんて、いい加減なことをいうからだ。
だから。わざわざ状況の違いを注釈しといたろ。
>事実に即したことを言うためには、使者の訪問の例を探して言え。
「だろう」といい加減な数値ではなく、きみがそうすれば良かったわけだ。わかるよな
>隋書の記録九州のそれも北部の記述だよ。
そんなことをいうのは九州王朝説信奉者しかいないと思うけど。
1000スレッドになったら俺も終わりにするから。
984 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:49:20
>>979 それは九州と済州島と特定するから記述と合わない。
985 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:55:23
縦横比が5:3だから、畿内に持って行っても合わんよね。
九州と済州島だと縦横逆にすれば合うのだが、うーむ。
ほかの漢籍の東西南北がからむ地名表記だとどうなってるんだか
986 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:58:16
舟で1日かかる海路を1000里と表記することは知ってたか。
朝鮮半島から、対馬まで1日、壱岐まで1日、九州上陸まで1日ってことが書いてある。 ここまでは常識だろう。
で、
>帯方郡から唐津までの10000里が水行10日だ。
魏志倭人伝には、 ”郡より、海岸に循って水行し、狗邪韓國に至る七千余里。”=7日という計算になる。
狗邪韓國から末盧國まで3000里=3日。
郡から九州上陸まで、海路(水行)が10000里=10日で、となる。
よって”水行十日、陸行一月”とは、
郡から九州上陸まで、”水行十日”であり、九州上陸から”陸行一月”で邪馬台国となる、
と、文献を解釈しているわけだ。
一方で、邪馬台国まで12000里ともある。 2000里は、”陸行一月”の部分。
つまり、1日で歩く距離は、約66里となる。
>>972 4000里を80日と計算するなら、1日で歩く距離は、約50里となる。
つまり、大陸での里数の計算と、倭国内の里数の計算は誤差の範囲であり、
短里とか長里とかの議論は成立する余地が無い。
ここで、1里を500メートルとし、1日で歩いた距離を60里とすれば、1日で30キロ歩いたことになる。
これは、距離が長いようだが、古代人の足では不可能な数字ではない。
つまり、九州北岸から、南へ30日歩いた距離=900キロ地点が邪馬台国となる。
ということで、よろしいかな? 皆様。
987 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:59:09
九州は、東西、南北を直線ではかるのではなく、実際にどこから出発して
どこまでの行程かを考えると理解できるよ。
南北は単純だが、東西はかなり遠回りのコースが想定できる。
988 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:59:57
九州北部と特定すれば、合います。東西南北が海。
南は有明海。倭国は有明海沿岸へも領土のうちだったから、そう書いたのでは。
989 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:08:53
ちなみに、九州から奈良まで、東に行くなら900キロ。
さて?
どうお考えになりますか?
991 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:12:34
つまりですね、畿内説でいえば、
九州から畿内、大和に行くまで、
実は、瀬戸内海も日本海も船をつかわず、
歩いて向かったということがわかるわけです。
舟で行くはずだ、というのは、先入観でしかない、ということですね?
ローガンさん、どう思います?
992 :
伊作:2011/02/09(水) 12:13:59
だんだん、いい話になってきたね。
>4000里を80日と計算するなら、1日で歩く距離は、約50里となる。
踏破距離は休息日も含む通算日数だろうね。
しかも、後漢書郡国誌の数値のほうが実数に近いはず。
3600里を100日ならば、1日36里。しかも戦車・馬車・大軍が通れるような道だ。
>九州北岸から、南へ30日歩いた距離=900キロ地点が邪馬台国となる。
司馬軍は5勤1休のペース。(おや、ここでは魏使は休みなしの計算?)
あくまでも司馬軍を基準にすれば36里×30日
●倭人伝の陸路距離数値は魏の公式尺度の6倍として、出た数値の6分の1が実際距離
●おまけとして。卑弥呼の墓の100歩も時差懿には6分の1に換算しなければならない。
いろいろと都合の悪いことばかりゆって・すまんねー。これが事実だから。わらわら
993 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:16:14
>>992 >●倭人伝の陸路距離数値は魏の公式尺度の6倍として、出た数値の6分の1が実際距離
>●おまけとして。卑弥呼の墓の100歩も時差懿には6分の1に換算しなければならない。
根拠は何ですか?
994 :
伊作:2011/02/09(水) 12:16:46
そろそろおしまい。
自分は何の根拠も提示せず・てきとーな推測をのべるくせに、
他人にはすぐに根拠を出せというのばかり。
他人が根拠を提示して説明しても目を背けて理解もせず、
妄想だ・空論だと否定文言を並べてこきおろすのばかり。
結局のところ、説を述べるのに、「まやかし」なしで根拠を提示して
展開してみせたのは俺だけ。
ちょん。
995 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:18:27
キチガイが湧いてるから梅
996 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:19:13
>>992 >あくまでも司馬軍を基準にすれば36里×30日
約540キロ。
これを勝手に「6分の1が実際距離」というなら、根拠を示してもらわないとね。
997 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:19:55
>>994 あなたの出した根拠について、丁寧に分析したじゃないの?
なんで逃げるの?
998 :
伊作:2011/02/09(水) 12:21:45
ていせい。こっちのほうが正しいかな。
陸路の2000里を6分の1にして、これを30日で割った数値が、
魏使が1日にあるいた平均距離になる。
>根拠は何ですか?
ここでは、すぐにこういう質問になるね。すでにあらまし説明したはずだが。
説を述べるのに、「まやかし」なしで根拠を提示して 展開してみせたのは俺だけ。
999 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:23:24
結論を、勝手に作り変えてるのは貴方でしょ?
1000 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:23:49
約束通りもう来るな
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。