【復活】それでも邪馬台国は九州にあった【不滅】

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952伊作:2011/03/03(木) 22:44:18.40
>制海権……上記に同じ。海にも穴がある。其処をつけ狙って密貿易もできる。

わはは。そんなバカがいたところで、
行きはよいよいで・わざと見逃して。帰りに船ごと積み荷をごっそり戴く。
人間のほうは生口だ。濡れ手でアワ。誰だて考えることだよ。
953伊作:2011/03/03(木) 22:53:17.10
945 伊都国王卑弥呼
>司馬懿は1日50kmくらい行軍したようだが。

4000里を休息20日を含む100日で踏破。
ただし、主に、戦車・馬車を伴う大軍が通交可能な道路を、討伐へ急ぐ行軍である。
もう一点。ここでいう4000里は魏書の登場人物の「口頭表現」だから、
端数を端折っている可能性がある。

もっと厳密に計算したければ、『後漢書』郡国誌の地理情報がある。
洛陽から遼東まで3600里。

さて。以上の前提条件を考慮した上で、「1日何里?」とやらねば。
さらにただし。
倭人伝の魏の使節の陸行行程は、獣道のような臨時の陸路ルートだったかも。
954日本@名無史さん:2011/03/03(木) 22:53:28.00
>>933
なるほど。
まあ、魏は本気で軍を送ってやる事まではしないだろう。
金は出さずに保証をあたえる、大手銀行の裏書つき手形とおなじだな。
まさに王道。
955筑紫の民:2011/03/03(木) 22:53:37.28
伊作先生
>>950 
 の発言は、>>943横板に水様に対してのものです。
「たとえ制海権があったとしても其処は穴だらけであり
連絡可能」ということです。

ところで、伊作先生の「大和の揺籃邪馬台国」と「民族の指紋」
感動しました。

2回読みましたが、

倭人が何処から来てどの様に成長して倭国になったのか

倭国がシナ大陸とどの様に付き合っていったのか

邪馬台国(倭国)が現代同様外交と内務に揺らいでいた事

そしてシナ大陸の歴史書の歴史

2回読んだ程度では十分理解できてませんので、
3回目読んできます。

伊作先生ありがとう。

956伊作:2011/03/03(木) 22:57:00.65
955  筑紫の民
>ありがとう。
興味をもっていただいたことに感謝します。
957伊作:2011/03/03(木) 23:02:44.48
メダカの学校ならぬメダカの抵抗。

幼稚な会話を楽しんでいたメダカの群の中に、
肉食のブラックバスを放り込んだ時の体だったな。

わらわら
958日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:03:59.52
>>937曰く

>スポーツでもケンカでも、相手の力量はやった当人が一番よく分かる。
1〜2度やって力量が分からん奴はバカだ。


ネットだから好きなこと言えるな。
こういう奴に限って、言ってる事と実生活の乖離が甚だしい。
よくネットで犯罪予告し、警察のやっかいになってる奴も、掲示板での内容と逮捕後の動機のギャップが
滑稽なくらいに乖離している。

お前も教科書通りの単純な奴。

お前はコモノすらなれない干物だよ。
959日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:06:06.55
年の功では伊作の勝ちだが、
人間の徳、学問への姿勢において横板の勝ちだな。

伊作も強気一辺倒では、人生折れちゃうぞ。
おまい見たいなタイプはよく自殺する。
960筑紫の民:2011/03/03(木) 23:08:25.54
1日50kmの行軍って厳しいよね。一般軍隊では2〜3日はできても1カ月以上はまず無理
ましてや古代の街道が未発達の倭国において、尾根(山伏が歩いた山々)
河川、浜辺など、そんなに速度を発揮できない。
個人に荷物だって、前にも書いたけど
個人用糧食1食500g×5(3食及び予備含む。)=2.5kg
水5l(1日4l+予備1l)5kg
衣類(平服と正装)5kg
武器(剣2kg×2)4kg
鍋・食器・その他生活必需品そしてお宝物
背中の荷物は個人あたり30kgは超すと見積もられる。
961日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:11:45.85
940:伊作 :2011/03/03(木) 21:31:40.23
934

>ごめんなさい。
といって逃げるようなら、たった一人で切り込んでこない。            

最強の馬鹿だな!!

これまでに掲示板に複数で遣ってきた例でもあげてみろ。バカ
962伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 23:14:38.63
>>953
『三国志魏書』の韓伝に「後倭韓遂屬帶方」とあるように
公孫氏と倭は親密な関係にあり
公孫氏が魏に滅ぼされると同時に使者を派遣している。
倭王の都から帯方郡までの道路を含めた交通手段が整備されていないと
情報を得たり、使者を瞬時に派遣することは難しい。
臨時の陸路ルートはないでしょう。
963伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 23:21:20.76
>>960
海路に比べて、陸路はたいへんなんだよね。特に荷物があると。
なるべくなら海路で行きたいと考える。
日本は殆どの所が海岸から1〜2日で着けるのに
何で魏使は陸行1月もしたのか?
可笑しいね。
964日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:25:07.01
海路で行くよりも陸路の方がずっと簡単だからだろうな。
965日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:27:30.69
一日50キロも歩いたら、俺なら次の日動けそうにないな。

そうか、50キロ歩いて、一日休み、50キロ歩いて、一日休みなら
平均25キロくらいになるな。

966日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:31:04.78
西海道(九州)は海の道、山陽道は陸の道
 
967伊作:2011/03/03(木) 23:31:27.49
●メダカの古代史への興味をそぐ。

卑弥呼と臺與はあくまでもリリーフ投手にすぎない。
卑弥呼が倭国王家(帥升系)の血脈にあった可能性は薄い。
私は、卑弥呼は信頼の渡来人子女だった可能性を考えている。
論拠は、彼女の鬼道(天師道もしくは太平道)といわれた初期道教だ。
中国大陸で初期道教が盛んになるのは190年頃で、卑弥呼が女王になったのも190 年頃だろう。
彼女はこの時点で鬼道をマスターしていたわけだ。
鬼道(初期道教)とは、中国の無数の賢哲が極めた森羅万象の哲学ともいえる黄老学(道学)か基礎になっている。
これを習得するには高度な中国語素養と広範囲の知識を必要とする。
ということは、生粋の土着倭人には伝授も習得も不可能だ。
時間的なタイミングからみても、彼女は大陸でマスターしてやってきたと考えるのが妥当だろう。
縄文時代後期から弥生時代にかけて、最も渡来が多かったのは長江河口からの直接渡来だ。
私は、縄文人も弥生人も長江流域の「文身をする・お歯黒をする・文字をもたない」民族だったとみている。
彼らは、長江文明の担い手であり、楚呉越の領民を構成した南蛮・荊蛮・南越と呼ばれた民族だ。

つづく。
968伊作:2011/03/03(木) 23:32:35.69
お歯黒は実は庶民の習俗ではなく、皇族や貴族が江戸時代までしていた習俗だ。
(聖徳太子もお歯黒をしていたとか)。
お歯黒は古墳時代の埴輪と人骨から発見されているが、弥生時代に存在した証拠はまだ発見されていない。

後漢末は一大宗教変革の時代でもある。
大地の神に豊穣の祈りをした銅鐸の時代から、鏡と剣を二種の神宝とする信仰改革へ移行して、
古墳時代をもたらしたのは新しい渡来人勢力だった可能性もある。
私の検証では、▼縄文後期の土器・土偶、▼弥生時代の銅鐸・銅鏡、▼古墳時代の埴輪・装飾古墳から、
現代にいたるまで、長江流域の諸民族が神と崇めた存在を表した幾何学文様が連綿と息づいている。
つまり、長江流域から時代を隔てて継続的に渡来してきた多民族がつくったのが倭国ではないかと思う。

そう考えれば、似てはいるが少しずつ文化の異なる民族が混在したこともうなづける。
熊襲・隼人・土蜘蛛・熊鷹といわれた社会部族が、長江流域諸民族の縮図だったのではないかとさえ思う。
969伊作:2011/03/03(木) 23:34:38.29
さて。
リリーフ投手たる卑弥呼と臺與の時代を経て「空白の世紀」が続くのだが、
そのトンネルを抜けてみたら、倭国は中国名を名乗る五王(男王)たちの時代になる。
この見えない時代は推測に頼らざる得ないが、私流に推察すると、
古墳時代をもたらしたのは「お歯黒」をする民族だったのではないかと思う。

5世紀以降の熊本を中心とした装飾古墳は、
長江流域の諸民族が神と崇めた存在を現した幾何学文様で満たされている。
これは、お歯黒をする倭国中枢人が大和に引っ越したあと、
特定の者が力をつけすぎないように九州を細かく分断して支配管理していた、
皇別氏族(天皇家から分かれた○○の君)の文化なのだ。

それでも、磐井のように力をつけすぎる者があらわれる。
一説によると磐井の墓も装飾古墳らしい。
天皇家から分かれた○○の君の墓が装飾古墳という現実をメダカしょくんはどうみるか。


生身の人間が生きた歴史にロマンなどはない。
歴史の真相というものは、やわい美的願望など簡単に粉砕する。
970日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:36:32.81
一度船に乗ったら、できるだけ船で行けるところまでは船で行くだろう。

水行20日の投馬国は海沿いにあったんだろう。
そして、一夜の宿の後、又船に乗って邪馬台国へ向かう。
水行10日陸行一月。

多分、この水行10日陸行一月の部分に邪馬台国と投馬国の
国境線があっただろう。別の国はない。

水行10日陸行一月は、自分の一月千里という相当の短距離説ですら
100キロ以上となる。一日40キロという超高速でも3日、
一日20キロの通常ペースでも5日かかることになる。
ゆっくり調査しながらなら10日以上かかったかもしれない。

その間に別の国があれば、必ず記載されただろうから。


971日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:42:14.49
史書の行程記事は連続式のほかに放射式で書かれたものも多数あった。
史家は、連続式か放射式かを読み分けることが必要だったわけだ。
その徴表からすれば、倭人伝は放射式で書かれている。それを無視していて
は倭人伝は読めないよ。
972伊作:2011/03/03(木) 23:43:42.06
961             
>最強の馬鹿だな!!
やさて見せたことは「最強の強者」だな。
ここにきた当初に最強の九州説と豪語してるが。現実にそうだろ

>これまでに掲示板に複数で遣ってきた例でもあげてみろ。バカ

誰しも一人で参加するが、いわず語らずで徒党を組むだろう。
俺は孤軍奮闘。手あたり次第に蹴散らしてやった。
はじめから、そうなることは想定の上でだ。わからんか?

あい変わらず文字づら追いのバカ解釈で、
俺だけが一人で参加してるとゆったと解釈してる。
ま・その程度の能しかないんだろうが。

見ての通り、多勢を相手に蹴散してやったろ。
973日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:49:00.87
同時代の文献で、明らかに放射式とわかる記録と
順次式の記録、それらと倭人伝を照合すれば、
順次式か放射式がわかるのかな?

素人目にはほとんど違いがないように見えるので、
分かりやすい照合できる文献があれば教えてください。
974伊作:2011/03/03(木) 23:51:05.25
じゃメダカしょくん。
格違い・場違いの天才は失礼するよ。
ちみたちだけで、好き勝手な妄想と空想を語りあてたまえ。

「こいつ頭いいな」と思う人はいなかったが、
古代史研究空間の底辺の実態を見せてもらった。

ありがとね。
975日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:57:50.63
>>967
>卑弥呼は信頼の渡来人子女だった

この意見には全面的に賛成ですね
というより邪馬台国自体が江南からの渡来人による後発の新興国家ではなかったでしょうか
彼らは鬼道、水軍、すすんだ鉱山技術などを背景に倭に割拠していた豊かな国々を
次から次へと自国の配下におさめていったのではないでしょうか
しかしその栄光の日々は長くは続かなかったもののように思われます
976日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:16:17.53
>>973
倭人伝の伊都国以降は放射式だとする榎とそれに反対する学者のいずれもが、
次の例は放射式だと認めているそうだ。

漢書大宛国の記事
 大宛国王治貴山城。去長安万二千五百五十里。・・東至都護治所四千三十一里。北至康居卑闐城千五百一十里。西南至大月氏六百九十里。北与康居、南与大月氏接。
977日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:26:09.37
>>976の続き
山尾「魏志倭人伝」は次の例をあげている。

營州東百八十里至燕郡城 又經汝羅守捉 渡遼水至安東都護府五百 里 府 故漢襄平城也
東南至平壤城八百里 西南至都里海口六百里 西至建安城三百里 故中郭縣也 南至鴨淥
江北泊汋城七百里 故安平縣也

東南至平壤城八百里以下は、安東都護府を起点とした放射式説明だそうだ。
978伊作:2011/03/04(金) 00:27:07.54
975
卑弥呼は新来(ていせい)の渡来人子女だった
>この意見には全面的に賛成ですね
私説の論拠はしっかりしているから、そう考えざる得ないですね。

>邪馬台国自体が江南からの渡来人による後発の新興国家ではなかったでしょうか 。
火焔土器・遮光器土偶、銅鐸・銅鏡、埴輪・装飾古墳、
これらをつくったのはみな長江流域の文字をもたない民族です。
やってきた時期は新旧あれど、同じ民族です。
銅鐸、環濠集落、横穴古墳、高塚古墳、銅鏡と、
みな長江流域に源流が確認されています。

>彼らは鬼道、水軍、すすんだ鉱山技術などを背景に倭に割拠していた豊かな国々を
次から次へと自国の配下におさめていったのではないでしょうか
もとをただせば同じ民族ですからね。
小競り合いはあったにしても、「次から次へと自国の配下に」
といった激しい確執はなかったかも知れません。

いずれにしても、こういうことを私が発表したからには、
アマチュア古代史ファンの半数はシラけるでしょう。
「卑弥呼夢ものがたり」をたたき壊すのが狙いでもありますが。
そうした雑音・雑念を駆逐したあと、本当の古代史研究がはじまるのです。
979sss:2011/03/04(金) 00:32:51.29
>>933
景初三年の卑弥呼の遣使は、軍事支援の可能性も捨てきれないと思う。
魏の皇帝の詔書の最後にこんな文がある。

「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」

与えたものを悉く国中の人に示せ、国家が汝を哀れんでいることを知らしめす
べきである。ゆえに鄭重に好物を賜るなり。

卑弥呼が、魏との関係を他の国に対する牽制の意味で使っていたようにも
受け取れる。また、それを求めていたように思える。
980日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:34:35.95
>>976の続き
山尾は、「方位・地名・距離」を「放射式書法」としながら、その書法だけでは
絶対的ではなく、「又」などの経歴することを示す詞や新たな起点を示す地名が
なく放射式書法が連続する場合は放射式に読むべきだ、と主張している。
そして、倭人伝の伊都国以降には、経歴することを示す詞や新たな起点を示す地
名がないから放射式だと結論づけている。
981伊作:2011/03/04(金) 00:43:22.38
979  sss
>魏の皇帝の詔書の最後にこんな文がある。
「説明しろ」「論拠がない」「書いてない」とほざくぼんくらだけかと思ったら、
いちいち説明しなくても分かる人がいたらしいね。
982伊作:2011/03/04(金) 00:53:49.12
961             
>最強の馬鹿だな!!
俺は一人で「切り込んできた」と書いたが、その通りだったろ。
てめえなどとはちがってる所だな。

で・最初に俺が切り込んだ「ドンと来い」をみてみろ。閑古鳥だ。
「卑弥呼の王都に卑弥呼の墓はつくらない」という歴史的事実。
これで纏向邪馬台国説、箸墓卑弥呼墓説が飛んだ。
魏の尚方では絶対につくるはずのない呉式神獣鏡に魏の年号が刻まれている不条理。
これで、三角縁神獣鏡が国産であることが決定的になった。
「武力支配時代の関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」
を提起した俺の「列島支配一元論」で、畿内説の基盤が崩壊したし、
「ゆるやかな連合」などという願望論もふっ飛んだ。

畿内説の輩も表面づらではやいのやいのいうが、
内心は強烈な論拠をていじされてシラけてきていることは事実だ。
俺のいう「あとは時間が解決する」だ。

「九州説はゴミクズ」といわれて何もできなかった所へ、
俺が切り込んでバンカーバスターを落としてやったのだ。
てめえなどにはマネのできないことをやってのけたのだ。

さて。ゴミクズメダカしょくん。しょくん相手も飽きた。
俺とマジな会話をしたい者は俺がつくった掲示板を再開するからこい。
http://8242.teacup.com/isaq/bbs

もっとも、ハンドルネームつくる度胸があればのことだがな。わらわら
983日本@名無史さん:2011/03/04(金) 01:27:37.60
記念カキコ

377 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2011/01/28(金) 23:52:59 0
>>372
近代前の人だってそんなこた分かってるから、
宣長などは古典文学の中の情緒的無常感を
日本の本質と見なしたわけで。

378 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2011/01/29(土) 00:04:01 0
こういう宣長の態度は本質論的日本主義と
明晰さや客観性の妥協点みたいなもんかね。
984sss:2011/03/04(金) 02:47:06.14
>>981
卑弥呼がどうして帯方郡(魏)に使者を送ったか。
帯方郡が魏の手に落ちたというのはあまり理由にならないと思う。
卑弥呼の側の必要性ではないから。

一つには、公孫氏を滅ぼした司馬懿の残酷さを恐れたというのがある。
成人男子を皆殺しにして、首を晒すというのは確かに怖いところがある。

しかし、その後の状況を見ると、狗奴国との争いの中で、魏の後ろ盾を
求めたというのが大きいと思う。
景初三年の朝貢で、詔書・金印をもらい、魏との関係が出来たにもかかわらず
狗奴国はひるむ様子がない。

そこで、卑弥呼は正始四年にまた使者を派遣する。倭人伝には、朝貢したと
いう程度の記録しかないが、六年に黄幢(魏の軍旗)が帯方郡に到着して
いるところを見ると、四年の朝貢のときに黄幢を求めたのか、あるいは
軍事援助を求めたということも考えられる。
援助の代わりが黄幢ということということも考えられるわけなので。

そして、八年になると、今度は、卑弥呼はまた使者を派遣し、狗奴国と互いに
攻撃し合っている状態にあることを説明する。これを受けて張政がやってきて
仲裁することになる。

卑弥呼が朝貢した最も重要な目的が狗奴国対策だったというのも十分に
可能性のあることだと思う。
985日本@名無史さん:2011/03/04(金) 08:35:55.17
>>936

伊作チャン
横板くんに苛められたときにやり返す殺し文句が見つかってよかったね と言ってやりたいんだけど・・・

「立てた板」に対して「寝かせた板」とするのは どうかな?
「寝かせる」には「パン生地を寝かせる」など必ずしも横にすることを意味しない用法がある。「木材を寝かせる」と言えば放置して乾燥させるなど
seasoningの意味で使われることがほとんどである。寝板より「横に架けた板」ということで横板の方がいいんじゃないかな。

まあ、どうでもいいことだが。伊作チャンが鬼の首でもとったかのようにハシャイデいるのを見て ふと思ったこと。
986日本@名無史さん:2011/03/04(金) 11:41:18.43
>>985
なるほどね。それじゃあ、これから伊作へのレスに「寝板だもんね」とやってやろうかな

と思ったが、それじゃコドモの喧嘩で伊作なみになってしまうから やめたっと。
987伊作:2011/03/04(金) 12:20:30.37
984 名前:sss
>六年に黄幢(魏の軍旗)が帯方郡に到着して
これは難升米の手に渡っています。
文章は「郡に付す」ではなく、難升米に假授したと書いています。

>そして、八年になると、
また黄幢がもたらされます。
倭人伝は(主なゆりとりの抜き書きで)いちいち細かく書いてないだけで、
このほかにもやりとりがあったと思いますよ。

以下は論拠はありますが説明抜きで結論だけ。
後漢代以降、軍隊の発動権は皇帝直轄になっていますから、
皇帝じきじきの詔(命令もしくは許可)を受けてもたらされた黄幢とは、
援軍兵団の代名詞として、恩着せがましくせずに表現しているものと思います。

黄幢は軍隊が掲げる(旗竿につける)旗とは異なる、(旗竿に吊る)のぼりです。
黄幢は側近の皇帝の親衛隊が掲げるものです。
軍旗にはその軍旗の格と規模に応じた兵団が付属します。
黄幢は禁軍の精鋭が付随した「錦ののぼり」でしょう。

つづく。
988伊作:2011/03/04(金) 12:22:43.11
つづき。

軍旗だけが来ても女王国側の戦力増強にも何にもなりません。
この親衛隊を指揮をできるのは、禄高300石の塞曹掾史ではなく、
2000石の親衛隊高官である中郎将です。
この程度のことは、当時の中国人にとっては常識だからいちいち書いてないのです。

魏が倭国の使者に中郎将の官位を与えたのは、
「いざ援軍派遣」という時を想定した事前措置だったと思います。
大夫も皇帝への接見資格があります(だから倭人の使者は大夫を自称した)が、
わざわざ親衛隊高官の率善中郎将を与えたのには、そういう配慮があったものと思います。

ここでちょろちょろする愚かなど素人たちは、
いちいち図式的な説明をするものだという思い込みんでいますが。
笑いぐさです。
当時の中国の知識層を意識して書かれた歴史書を読むのに、
当時の中国の知識層のレベルに近づく努力をしなくてどうしますか。
漢文の歴史書を読むに必要な中国の歴史を知らなさすぎます。
極めてバカげたことですが、必要な下地がない状態で勝手な妄想解釈をしているのです。

それで、己の無知により無理解に起因するものを、
理解できないことを提示されると「論拠がない」「書いてない」という愚かしさ。
989伊作:2011/03/04(金) 12:35:00.02
どうだ、無知蒙昧のタコども。

タコには思いもつかない、独自の新説・新解釈をずいぶん提示したが、
「舌をまきました」と、正直にいう良識は一人もいないのかな。
990横板に水:2011/03/04(金) 14:06:39.84
筑紫の民さん
伊作さんの書かれたものには素晴らしいものがいくつもあります。僕もそのような業績は評価されるべきだと思います。しかし、倭人伝の行程のところには
伊作さんとは信じられないような不可解な点があります。それで僕が若輩未熟の身を顧みずそれらの点について疑問を提示してお答えを頂こうと試みている
ところです。伊作さんを全否定しているものではありませんので、ご理解下さい。

>>949
>>根拠が書いてないからです。
>構造的に論じているが、断片的にしか見てないのだ。
>横板だもの。

構造的に論じているというのは、言わば積み木を何段も積み上げて塔を作るように各論を積み重ねて論じているということでしょうか?
991横板に水:2011/03/04(金) 15:05:52.53
>>984 sssさん
sssさんの言われることもいくつか考えられる可能性のうちの一つだろうと思います。他にも考えられることがあります。
漢時代の朝貢外交では文化や技術を得る事や交易も倭にとって重要な目的だったと思います。卑弥呼の場合もそのような目的が
あったのではないでしょうか。

東夷伝の韓のところに
景初中、明帝密遣帶方太守劉kin[偏日旁斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。其俗好衣saku[偏巾旁責]、下戸詣郡朝謁、皆假衣saku[偏巾旁責]、自服印綬衣saku[偏巾旁責]千有餘人。
部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
とあります。

卑弥呼が難升米らを遣わしてから数年後に韓が郡に叛いて、その鎮圧にあたった太守弓遵が戦死します。これに関して倭人伝の以下の記事は関係ないでしょうか?
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu[扁犬旁付]、短弓矢
献上物に短弓矢が含まれています。景初2年の献上物には無かった武器です。これは韓の反乱鎮圧に使ってもらうためではないでしょうか?

そして、其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授 ですから、これは魏が難升米を韓の鎮圧戦に参戦させたものと考えられませんか?

倭国においては狗奴国とのいさかい程度はあったでしょうが、戦闘状態に入ったのは正始7年以降のことではないでしょうか?其八年、
太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状 とありますから。

992sss:2011/03/04(金) 16:09:36.62
確かに、九州では前漢鏡も出ていて、非常に古くから大陸との交流があった
ことが認められるし、漢書・地理誌にも往来している様子が書かれている。
公孫氏の滅亡により道が開けたので、交流が再開されたというのも可能性の
一つだと思う。

ただ、倭人伝の記述で最も重視しているのは、卑弥呼が狗奴国に対応できなく
なっていること。外国に遣使して、その状況を説明するというけっこう
みっともないことをやっていること。さらに、その調停のために張政の
派遣があること。

やはり、狗奴国の圧力が大きかったと考えるべきで、卑弥呼の遣使の主因が
狗奴国だった可能性も十分にあると思う。

韓の反乱に関して、卑弥呼に参戦の要請をするというのは考えにくいと思う。
属国扱いしている国に軍事的な援助を求めるのは魏の威信にも係わる
ことなので。また、そのような例はないんじゃないかな。

弓遵がいつ頃戦死したのかちょっとわからないけども、八年に王頎が赴任
するまでの太守の不在期間がどういう意味を持つのかも問題かな。

黄幢については、張政が詔書と共に倭国に持ち込んでいるので、やはり
卑弥呼の要請ではなかったかと思う。
993伊作:2011/03/04(金) 16:12:57.12
990  横板に水
>構造的に論じているというのは、言わば積み木を何段も積み上げて塔を作るように
>各論を積み重ねて論じているということでしょうか?
それはただの縦て積みだろう。

「構造的」という言葉の意味を自分でしらべなさい。
自分で調べたものは自分の知識となるはずだ。
悪いが、きみは俺の説明や言葉を理解する容量がないとみた。
しかも、自分で未熟な若輩といいつつ、妙な反感だけが目につく。

自力で、ゼロから空想論を築きたまえ。きみのいう縦て積み方式でな。
994PTA:2011/03/04(金) 17:15:08.77
仮定に基づいて組み立てられた論は想像でしかない。仮定の正しさを論証出来なければ無意味な論となる。
伊作氏の「末盧国からの陸行」論は有明海や博多湾が邪馬台国と対立する狗奴国の勢力圏であったという仮定に基づいている。この仮定が許容できる
ものであるか否かが重要な争点となる。伊作氏の論証は論証の体をなしていない。文献なり、考古学的資料を以て論じてこそ論証と言える。伊作氏の
論にはそれがない。
995日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:19:56.25
>>993
>悪いが、きみは俺の説明や言葉を理解する容量がないとみた。

都合が悪くなったらこの手で逃げる。いつものことだ。自分の無能を他人の所為にする卑怯者のやり口だ。
996日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:28:48.20
>しかも、自分で未熟な若輩といいつつ、妙な反感だけが目につく。

はっはっは〜。ゲスの勘ぐり。振られた女の恨み言か。みっともないことはやめてくれ。「どうだ、無知蒙昧のタコども。」と切った啖呵が泣くぜ。
997日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:35:13.09
>>994
どうも伊作氏は熊本南部を狗奴国としているみたいだよ。
998日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:38:00.49
伊作は自論が完成しているから、ここに来たところで自論を披露して反論があれば
押し戻すだけ。正当な反論に対して返答できなくなってくると、相手を馬鹿呼ばわりの
罵倒だ。自分が正しい前提でしか討論する気のないやつがここに来てもしょうがない
んだがな。
999横板に水:2011/03/04(金) 17:49:59.05
>>992 sssさん
>ただ、倭人伝の記述で最も重視しているのは、卑弥呼が狗奴国に対応できなく
>なっていること。外国に遣使して、その状況を説明するというけっこう
>みっともないことをやっていること。さらに、その調停のために張政の 派遣があること。

仰られていることは正始8年という記述の後に書かれていることですよね。そのことから、それ以前、特に卑弥呼が難升米らを派遣した頃に狗奴国と戦争状態にあったとは
言えないでしょう。それから、
『倭人伝の記述で最も重視しているのは』というのはsssさんが重視しているということでしょうか。僕は卑弥呼の最初の朝貢が最も重視されていると思うのですが。
詔書の内容まで詳しく記述されています。それ以降については卑弥呼からの上表答謝恩詔の内容も、遣塞曹掾史張政等因齎詔書の詔書の内容も書かれていませんで、献上物に
ついて詳しく記されています。
1000伊都国王卑弥呼:2011/03/04(金) 17:59:56.59
伊作さん僕が書いた>>599>>601のような図で説明してくれない。
10011001
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