>>>誇りを持て、邪馬台国九州説

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1日本@名無史さん
自然科学がどうした、自然科学よ去れ!
考古学会がどうした、世間が何だ。
己の創造力、歴史構想力を信じよ。

死ぬな、九州説、吾が個性を貫け。誇りを持って引篭もれ!
根拠なき畿内説をここで蹴散らそうじゃないか、同士を募る。
九州説高揚サロンへようこそ!

2日本@名無史さん:2010/11/30(火) 07:18:30
根拠なき畿内説は、いずれ誰からも相手にされなくなる。
これでいいのか。
3日本@名無史さん:2010/11/30(火) 08:10:27
九州説は不滅だよ。なぜなら、それが真実だからだ。
畿内説が誰からも相手にされなくなるかどうかは分からんな。
狂信者はどこにでもいるもんだ。
4日本@名無史さん:2010/11/30(火) 10:46:29
畿内説を抹殺する。
5日本@名無史さん:2010/11/30(火) 11:03:51
>己の創造力、歴史構想力を信じよ。
ちょwww
6日本@名無史さん:2010/11/30(火) 11:47:28
考古学で都がどこにあったかなどということは分かるわけがない。
文献史学を抜きにしては、邪馬台国の場所を特定することは不可能だ。
7日本@名無史さん:2010/11/30(火) 11:49:51
いいか、よーく聞け、
俺は断言する、砂上の楼閣畿内説は近いうちに崩壊する。
今とは全く逆で、九州説が当たり前の時代になる。
いや、今でも、そのような兆しが現れている。
8日本@名無史さん:2010/11/30(火) 11:58:06
そんなに力むことではない。伊都国がどこか? 倭人伝が書いているとおりに
考えれば解決することだ。
末盧国から東北の怡土ではないってことだね。
9日本@名無史さん:2010/11/30(火) 12:01:04
世を惑わしている自然科学を撲滅させなければなりません。
既に、安本美典先生は立ち上がっています。
みなさんも続いて下さい。お願いします。
悪魔の荒波に立ち向かって行きましょう。日本の歴史を守りましょう!
10日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:17:04
九州しか有り得ない
南南に進むのに・・・
大和はどう見たって、東なんだからな
11日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:32:13
邪馬台国の都は九州の高祖山。
投間国は出雲だよ。
これで決まり。
12日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:53:13
>末盧国から東北の怡土ではないってことだね。

あのね、伊都国は怡土っていうのが常識なの。
変な路線に行くなよ。
せっかく、九州説が認められているんだから、逆行して九州説を貶めないように。頼むね
13日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:56:18
九州だ、機内だ、ガタガタ言わなくていいんだよ。
倭人伝を素直に読めばいい。そこが邪馬台国だ。
14日本@名無史さん:2010/11/30(火) 15:19:24
国民よ、立ち上がれ。
15日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:12:47
>伊都国は怡土っていうのが常識なの。
怡土なんぞへ行ったら、その先がないよ。畿内説と同様トンデモを続けなければ
ならんことになる。
16日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:33:56
お前、確かか?
甘ちゃんですね。
17日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:35:27
>>13
昔「陳寿を信じ通す」っていったひとがいたよね。
18日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:38:32
怡土しかないだろうよ。
君のいう伊都国はどこだい?
一大率があった所だよ、それなりの遺跡があるのかい?
辺鄙な所に行くと、邪馬台国は九州にならないよ。
19日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:42:59
>>15
そんなことを言っているから、誰にも支持されないんだよ。楽浪の土器が集中しているんだから怡土は、半島との関係が密なんだよ。
交流が盛んだから、使者往来のポイントと考えるのが普通。違うというんなら、それをひっくり返せるくらいの根拠は出さないとね。
いつまでも、南だから では、誰にも相手にされないんだよ。
20日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:45:11
おい、そこのふたーり、
仲間割れしている時ではない。今が大事な時だ。
一時だけ分かり合って共通の敵、畿内説を蹴散らそうじゃないか。
細部に拘るよりも全体像だ。
先ずは伊都国なんかどうでもいいだろう、先ずは九州説だ。
21日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:47:48
末盧国は唐津だろう。そこから東南五百里、そのとおりに進めば佐賀あたりだ。
倭人伝どおりに進めば佐賀ってことだよ。
怡土では方角、距離が合わない。南水行もできない。何で末盧国でそこから陸行
したのかその理由も分からない。
怡土は王墓があるというが、それらの墓はけして邪馬台国時代のものではない。
古い墓にすぎん。それにその副葬品なんてものは、朝鮮半島と取引していた国々
にしてみれば珍しいものではない。大したものではないな。
22日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:51:10
怡土でないというのなら、
もう一寸だけ言わせてくれ。
伊都国の根拠となる証拠を出せ!
考古学的にも世を納得させるものではなりませんよ。
出せないだろう、九州説の恥晒しめが……。

全うな九州説を語ろうぜ!な。
23日本@名無史さん:2010/11/30(火) 17:40:53
>昔「陳寿を信じ通す」っていったひとがいたよね。
陳寿は神様、宗教化している?
中には、陳寿を愛している、人もいるよ。


24日本@名無史さん:2010/11/30(火) 17:52:06
伊都国に戻りますが、
私は、未発達の当時としては、東北と東南は許容誤差かと思います。
それほどに方角に拘る所でしょうか??
怡土が妥当だと思います。
25日本@名無史さん:2010/11/30(火) 20:09:32
東北と東南は90度違うよね
東と南と同じぐらい違う
自分の説に都合悪ければ、何でも誤記や書き間違いにすることは、
それなりにちゃんとした根拠がないとダメでしょ
26日本@名無史さん:2010/11/30(火) 20:22:41
それは君だろう!
早く伊都国の根拠となる証拠を示して下さい。
考古学的に九州論者を納得させるものでなければ駄目ですよ。
27日本@名無史さん:2010/11/30(火) 21:00:08
佐賀方面移動説なのでどうでもいいが
東松浦から伊都はほぼ真東。

途中海が入り込んでいるので、
しばらくは東南方向に移動する。

個人的には、宇美国からの水行が説明できないので
佐賀説を押す。
28日本@名無史さん:2010/11/30(火) 21:43:59
怡土は昔、伊蘇だったんだよね。
多分、磯の事だ。
伊蘇から怡土に変わった時期が問題。
半島からイソタケルが来た時期はいつなのだろう?
未だその時は伊蘇だったわけだ。
磯は伊勢に変化して紀伊半島に移った。
伊勢・志摩と磯・志摩(島)だな。

三世紀はまだ「いそ」だったんじゃないか?
29日本@名無史さん:2010/11/30(火) 22:29:20
>>26
伊都国の根拠となる証拠は、どこにもないよ。佐賀にも怡土にもない。
だが、佐賀が伊都国であっておかしい証拠もまったくない。
となれば、文献的に末盧国から東南五百里がどこかを考えるべきだ。
佐賀ならば、ぴったりだろ。

一方、伊都国=怡土というのはおかしいね。北九州に上陸した後、目的地で
ある邪馬台国は南に間違いがない。なのに何で東北に向かうんだ?
少しでも目的地に近づくのが当然、となれば、やはり佐賀だね。
30日本@名無史さん:2010/12/01(水) 01:40:34
最新の考古学的成果といわゆる魏志倭人伝の記述を冷静に見比べたとき、
「魏志倭人伝ってのは相当にいい加減なこと書いてあるんだなあ」
ということだけは、はっきりとわかる。

そして、具体的証拠もなしに「ここの記述はおそらく間違い」という論の展開だけは、
文献史学では決してしてはいけない。大人のすることではない。
31日本@名無史さん:2010/12/01(水) 07:09:49
>>30
どこがいいかげんなのかな? その理由も書いてね。
32日本@名無史さん:2010/12/01(水) 07:59:31
世間は納得しないよ、
伊都国=佐賀を考古学で説明できなければね。
倭人伝を裏付ける王墓がなければね。
九州説自体が成立しなくなるんだよ。
結果的にスレの趣旨に反してるんだよ。
君が矛盾してる事に早く気が付く事だ。
33日本@名無史さん:2010/12/01(水) 09:14:33
魏志倭人伝当時(3世紀中頃)の邪馬台国は確かに九州(それも南の方)にあったが、
その後3世紀の末頃か(?)、邪馬台国一族は近畿に東征したんだよ
それが大和朝廷になった
そう考えれば、記紀の記述と照らし合わせて、何もかもすべてうまく説明がつく
34日本@名無史さん:2010/12/01(水) 10:37:51
墓にこだわるなんぞ愚の骨頂だ。倭人の国は三十カ国あった。それらの国々が
それぞれ数百年の歴史を有しているとすれば、王の墓は数千基あるはずだ。
ところが今、王の墓とか言われるのはほんの数基、あとはどこに消えたか分か
らない。そんな墓にこだわってどうする?
35日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:39:14
伊都国には王がいたんだから王墓がある筈だろう。
倭人伝は間違っていない。
それが筋というものだ。
必然的に伊都国=佐賀は却下。
魏志倭人伝を素直に読もうよ。
36日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:43:51
モンゴルのように鳥葬していたので墓はありません
37日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:44:41
>魏志倭人伝当時(3世紀中頃)の邪馬台国は確かに九州(それも南の方)にあったが、

邪馬台国は九州だがそれはない。
陸行一月は韓国内陸行です。
素直になろう。
変な方向に行くのなら、それは九州説ではない。

38日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:54:55
>陸行一月は韓国内陸行です。
一番素直じゃないな。
39日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:56:25
>>35
三十国全部に王はいたんだよ。
40日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:00:28
おまんら、もう、仲間割れしてるのか?
笑いものだな。
決め手に欠ける九州説。
41日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:36:12
墓はあっても、大きさとか規模はそれぞれ違っていただろう
もう1800年近くたっているんだから、消失していても全然不自然ではない
42日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:48:34
呉ノ太伯の末裔というのが
文献史学の守り通したい価値観だぜ
43日本@名無史さん:2010/12/01(水) 14:26:28
で、とどのつまり、邪馬台国は九州の何処なのよ?
誰のいう事を聞けばいいのよ?
44日本@名無史さん:2010/12/01(水) 14:36:46
天孫降臨の神話の古里、南九州の霧島近辺です
45日本@名無史さん:2010/12/01(水) 14:39:58
邪馬台国の場所はわからないが伊都国が佐賀なんていうのはトンデモ。ただ倭人伝と地図を見比べて印をつけただけ。
なんの根拠もないしこういうのは論説とは言えないよ。
46日本@名無史さん:2010/12/01(水) 15:13:56
伊都国が佐賀となれば、邪馬台国の場所もわかってくるよ。伊都国から放射式
で水行二十日で投馬国、伊都国から水行十日陸行一月で邪馬台国だ。

>倭人伝と地図を見比べて印をつけただけ。
倭人伝と地図を見比べて伊都国に相当するところが後の肥前国府と一致してるね。
何ということもない怡土よりは一大率の役所が置かれたところにふさわしいな。
47日本@名無史さん:2010/12/02(木) 00:18:04
放射式(笑)
48日本@名無史さん:2010/12/02(木) 07:10:52
あれ、放射式すら理解できないの?(笑)
49日本@名無史さん:2010/12/02(木) 08:43:54
はい、理解出来ません。
50日本@名無史さん:2010/12/02(木) 10:53:18
普通に読めば南九州まで行くのが道理。
放射式なんぞ詐欺師のやる事。
51日本@名無史さん:2010/12/02(木) 11:30:11
>>49
もっと勉強しようね。まず、放射式の説明を良く読むことだ。

>>50
放射式で南九州まで行くんですよ。北九州で止まるのはごまかしです。
52日本@名無史さん:2010/12/02(木) 11:40:12
>>50
> 普通に読めば南九州まで行くのが道理。
> 放射式なんぞ詐欺師のやる事。


禿しく同意! それに博多を奴国にしないと人口が収まらない。
53日本@名無史さん:2010/12/02(木) 11:56:49

伊都国が前原なら、唐津なんかに上陸せずに、直接前原に行くだろう。
唐津に上陸したと言う事は、南に伊都国も邪馬台国があったということだ。

こんな初歩的な推理が出来ない奴は歴史を語る資格がない。
54日本@名無史さん:2010/12/02(木) 12:51:50
九州説は九州説でも救いようのない馬鹿もいる。
どうして伊都国を佐賀にしたがるかなぁ・・・。
だから、畿内説に付け込まれるんだよ。嘆かわしい・・・。
55日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:22:53
伊都国はマツロから「東南」に500里も離れていた
それまで、壱岐や対馬の各距離が1000余里だったことを考えると
かなり内陸部にあったと考えられる
糸島や前原は海岸沿いなので、どう考えても伊都国ではない
56日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:35:43
秀吉の朝鮮出兵で、渡航の拠点にしたのが東松浦の名護屋城
鎌倉以降、大陸への玄関口とされた唐津
また、倭寇の拠点の一つになった平戸

常識的には、博多湾や糸島半島から出航すればいいと思うが、
あえて松浦から出ていくというのは、海流や他の関係で、
西側からのほうが行きやすかったんだと思うよ。

57日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:53:57
九州から壱岐、朝鮮に行くのに、唐津や東松浦から出港するのはわかる
しかし、ここで勘違いしてはいけないことがある
それは魏の使者にとっては、「九州に上陸する」ことが目的ではないことだ
あくまでも「邪馬台国に行く」ことが最終目的なのである
ならば、邪馬台国に到着するのに、どこに上陸するのが最も便利がいいのか、ということになる
たとえば、ソウルへ船で行くのに、プサンに上陸してそこから徒歩で行くよりも、
船で直接仁川まで行く方がはるかに便利なのである。
魏の使者が、単純に東松浦半島が近いからと言って、そこに上陸するとは限らない
58日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:39:51
>>54
君はどこが伊都国だと思ってるの? そこを伊都国とする理由は何?
59日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:42:51
>伊都国が前原なら、唐津なんかに上陸せずに、直接前原に行くだろう。
唐津に上陸したと言う事は、南に伊都国も邪馬台国があったということだ。
こんな初歩的な推理が出来ない奴は歴史を語る資格がない。

なーんだ、推理だったの・・・。
憶測を話すなよ。
事実だけを語ってくれ。

60日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:45:11
>君はどこが伊都国だと思ってるの? そこを伊都国とする理由は何?

前原だよ。
倭人伝に書かれていた王、の墓がある。

61日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:45:31
伊都国が前原なら、唐津なんかに上陸せずに、直接前原に行くだろうというのは、合理的な推理だな。
合理的な推理と根拠のない憶測とを一緒にしてはいけないよ。
62日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:48:03
だからー、推理を語るなよ。
63日本@名無史さん:2010/12/02(木) 16:50:00
>>60
倭人伝に書かれていた王の墓と認定する理由は何かな?
まず、時代がちがうだろ。それに、王の墓だとしても、別の国の墓かも知れないぜ。
64日本@名無史さん:2010/12/02(木) 17:05:16
>>62
馬鹿か、伊都国がどこか、邪馬台国がどこか、全て推理だよ。
それ以外に何がある? 事実だと思うのも推理の結果にすぎん。
65日本@名無史さん:2010/12/02(木) 17:09:05
>>46
>倭人伝と地図を見比べて伊都国に相当するところが後の肥前国府と一致してるね。

「日向厨」か「九州王朝大好き」か
何れにせよいつものデタラメ理論だな。

このロジックが是とされるなら後の大和朝廷のあった畿内が邪馬台国と言う理屈も成り立つって話で
「肥前国府」を置いたのは何処の誰なんだ?って話だなw

畿内説否定するにおいては数十年の年代を問題にするのに
自説となると時系列も無茶苦茶、何でもありなのがこの板のゴミクズレベル九州説www

せめてもって来るのなら大陸半島との交易窓口の大宰府ぐらいをもってこいって話w



66日本@名無史さん:2010/12/02(木) 17:18:55
>>1
>自然科学がどうした、自然科学よ去れ!

この「自然科学」と言うのは年輪年代やC14といった理化学的年代測定をさしていると思うが…

そもそもそんなモノがなくても年代観の修正はもはや避けられない状態であったわけで

この板は「理化学的年代測定」を批判すれば畿内説をどうにかできると思っている馬鹿が多いことよw

ある意味マスコミに踊らされている情弱の見本のような連中w

てめえらが必死にすがり付いているかつての年代観が
実はK大のKやSと言っ御大の畿内説を前提とした説によって成り立っていたと言う事すら分っていない馬鹿ばかりw

イチャモンつけるのに必死で
「じゃあ旧説は何によって成り立っていたのか?」
なんて考えもしないアホ丸出しwwwww

まあこのスレが果たして九州説の人間によった立てられたのか
畿内説の人間が九州説をおちょくる為に立てたのかは良く分らないトコロではあるがwwwwwwww
67日本@名無史さん:2010/12/02(木) 17:51:51
>馬鹿か、伊都国がどこか、邪馬台国がどこか、全て推理だよ。
それ以外に何がある? 事実だと思うのも推理の結果にすぎん。

君は推理で邪馬台国を語っていたのか?
そんなもん、人に認められるわけねーだろ。
68日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:00:24
ちょうど良かった、畿内説よ、砕いてやる。
おい、伊都国=佐賀の馬鹿、ひとまず、伊都国の位置議論は中止だ。
スレの趣旨にそって、一緒に畿内説を蹴散らそう。

自然科学がどうした、自然科学よ去れ!
考古学会がどうした、世間が何だ。
そんなもん糞の役にも立たない。
考古学で九州説は切れない。
あくまでも魏志倭人伝の記述のみで判定される。
南を東に読み替えてどうする??

69ローガン:2010/12/02(木) 18:27:23
>>68横失礼。
> 南を東に読み替えてどうする??

方角に拘るなら
「おい、伊都国=佐賀の馬鹿、ひとまず、伊都国の位置議論は中止だ。」
馬鹿扱いはまずいかと…
70日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:46:45
だから、東南と東北は許容範囲だ。同じ東側、西側の反対である事に変わりがない。
前原で、方角の問題はない。古代だよ。厳密になってどうする?
71ローガン:2010/12/02(木) 19:04:02
>>70
> だから、東南と東北は許容範囲だ。

??東南と東北って90度違うように思うけど…
「南を東に読み替え」は駄目で、東南を東北に読み替えるのは何故良いの?

>古代だよ。厳密になってどうする?

まあ、同意。
72日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:07:24
>この「自然科学」と言うのは年輪年代やC14といった理化学的年代測定をさしていると思うが…
>そもそもそんなモノがなくても年代観の修正はもはや避けられない状態であったわけで

そもそもが中国では漢鏡6期までしか認めていないのに、畿内説の学者が漢鏡7期と言うのを
捏造して晋の時代に作られた画文帯神獣鏡を7期にした。
ホケノ山の画文帯神獣鏡がこれだ。
中国の学者によると呉が晋に滅ぼされると、呉で鏡作りをしていた職人が呉から四散して、
各地で鏡を作り始めた。
だからホケノ山の鏡は280年以降に作られた鏡だ。
呉の職人は楽浪にも渡って鏡を作っただろう。
楽浪鏡といわれる。
楽浪で作られた鏡の踏み返しが阿波の古墳から見つかっている。
萩原1号墳というな。
この古墳は奈良の古墳より古い。
ホケノ山は4世紀に入っての古墳である事は間違いない。

九州では弥生末期に盛んにイ方製鏡が作られる。
これは中国が三国に分かれて争っていた時代に鏡が
入手できなくなったためと思われる。
卑弥呼の遣使に対して魏の明帝が「好物をやろう」と言って
銅鏡百枚をくれたのも、倭人が漢からの鏡が欲しがっていたという
事情を察していたからだ。

中国の編年では漢鏡6期の時代は鏡の生産は極端に減っていたという。
ところが中国の学者によれば日本の捏造グループの編年では漢鏡7期とする
晋の時代には鏡作りは復活して盛んに作られたという。

畿内説の学者は外国の考古学を無視して箸墓を卑弥呼の墓にするために
血道をあけているとしか言いようが無い。
73日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:17:34
>??東南と東北って90度違うように思うけど…
「南を東に読み替え」は駄目で、東南を東北に読み替えるのは何故良いの?

だったら、佐賀に王墓の跡があるの?伊都国にはしっかりと王がいたんよ。
言っとくけど、人に認められる遺跡でなければ駄目だよ。
佐賀が伊都国にならない事が分かるだろう。

74日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:27:33
>>72
>中国の学者によると呉が晋に滅ぼされると、呉で鏡作りをしていた職人が呉から四散して、
>各地で鏡を作り始めた。

その学者と言うのは誰なんだ?結構有名どころで中国の一般的な認識もそうなのかな?

まあここのゴミクズレベル九州説が好んで取り上げる王にしても
華南出土の「黄初」の紀年鏡は言わば呉が魏に臣従していた時期に造られた物としていたと思うがwwww

そもそも大陸で2世紀には登場していた神獣鏡のデザイン意匠が3世紀のまるまる百年間
日本に伝わらなかったなんてお話が中国で定説になっているかのようなお話は聞いた事が無いwww

ゴミクズレベル九州説がてめえの”” 特殊事情 ””から
なんとか神獣鏡の日本での登場を4世紀以降にしたいと言う事でトンデモを繰り返しているだけの話だろうwwww

まあ>>72のロジックと言うのは
呉が滅亡するまで神獣鏡のデザインは魏の領域や半島に伝わらなかったと言う理屈だなw


75日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:34:05
>>74
>その学者と言うのは誰なんだ?
王仲殊氏がそういう説を言っているだけで
中国でも諸説いろいろあるみたいだね

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!51
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290169246/134-172
76日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:36:59
この板のゴミクズレベル九州説の皆さんへ

じゃあ少し質問の形を変えてみようwwww

70年代80年代に九州の考古学(九大あたり?)で弥生後期の始まりを3世紀におくような年代観を持った
編年モデルと言うのがあったのかな?
それは九州の考古学で一般的に認知されていたものなのか?

あったと言うのなら教えて欲しいのだが・・・

77日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:39:02
吉野ヶ里が伊都国だ!!
78日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:41:55
なんか邪馬台国スレや纏向スレで旗色が悪くなると
別の古墳時代スレを立てては
思い通りにならなくなり放棄しているの繰り返しに見える
79ローガン:2010/12/02(木) 19:42:12
>>73
>だったら、佐賀に王墓の跡があるの?

ないよ。

>佐賀が伊都国にならない事が分かるだろう。

うん、わかる。
方角があてにならない事も よく判る。
80日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:42:40
>>75
>中国でも諸説いろいろあるみたいだね

誤魔化すな。 逃げるな。

諸説あると言うのならその中で有力な説の2.3でも挙げて見せてくれ。

呉が滅亡するまで呉地以外では神獣鏡が作られたことが無いというのがまるで定説のように言っておきながら
具体的な学説を挙げる事が出来ない。

まったくいつものゴミクズレベル九州説の サギ ペテン なのかな?wwwww


81:2010/12/02(木) 19:45:01
ま〜た ジョーカが飛ばしてるねww

最近本を読んでるのか知らんが、張り切りスギだって〜キミ、キミw

82日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:46:00
>>80
蜀で作られておるだろう
涼州や広漢の銅鏡があるではないか
83:2010/12/02(木) 19:48:15
シュウシフニカキコミシユオウトオモッタラ
ローガン、ジョーカーがここに降りたので
おれまでこっちきてしまったやんw
84日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:48:43
ローガンはどっちの味方なんだよ?前原派なの?
俺も訳が分かんなくなってきたよ、おい?何がいいたいの?
伊都国=佐賀は×、という事だよね。
85日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:52:06
>>82
蜀で見つかっているのなら呉以外でも作られていたって事で

>>72
>中国の学者によると呉が晋に滅ぼされると、呉で鏡作りをしていた職人が呉から四散して、
>各地で鏡を作り始めた。

と言う脳内シナリオはそこでアウトだなwwww

もうこんな与太話はこの板とか某「邪馬台国の○」でしかお目にかかれないようなお話w

まあそれも>>1にあるような九州説による「誇りあるヒキコモリ」なのかもしれないがwwwwwwwww
86日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:55:56
ここのスレのフレーズ
カッコイイと思わないか。
87:2010/12/02(木) 19:56:22
ひさびさにヤフー掲示板に書き込んでやったら
全然、レスが返ってこねえ・・・

それはそうとテーマは神獣鏡かな?
あと伊都国はどこだ?かな・・・

さて、やりましょう、私も参加させていただきます えーこらw
88日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:02:47
蝙蝠鈕座内行花文鏡、位至三公鏡
双頭竜鳳文鏡、方格規矩鳥文鏡
方格規矩鏡、鳳鏡、獣首鏡
三角縁盤竜鏡を除く竜鳳鏡
飛禽鏡、円圏鳥文鏡

卑弥呼の時代に該当する中国鏡が、これらしいけど
福岡で出るけど、佐賀では出てこないとか、
その反対とか、それぞれに傾向が違うね。
89:2010/12/02(木) 20:03:22
>>68
>ちょうど良かった、畿内説よ、砕いてやる。

畿内説論者は〜おれとローガン・ジョーカの3人だが
まずは彼等二人の兵隊が相手してやるw

よし、ジョーカ行けぇぇぇwww
90日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:03:57
この神獣鏡のお話にしろ伊都国=佐賀大和のお話にしろ、いや、九州説全体が
かのスレで過去数え切れないぐらい繰り返されてきたお話だが

現在は勿論、将来まともな学説として取り上げられることがあるのだろうか?ってレベルのお話だなwwwww

いやその”芽が無い”事を本人が十分知っているからこそ
ここで強弁してその憂さを晴らしているんだろうか?wwwww


91日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:08:48
電話が鳴ろうが構わない、ママレモンの香りに誤魔化されるな!
そんな事に構うな。
ローガンよ、メよ、一緒に畿内説を蹴散らそう!
誇り高き論客よ、明日は君らの時代だ、
栄光は手の届く所にある。
ゴミクズ扱いをする畿内教悪魔を一掃せよ。
92日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:10:00
方格規矩鏡は伊都でどっさり
位至三公鏡は佐賀と福岡、あと結構広範囲に少量
蝙蝠鈕座内行花文鏡は福岡が多い。
93:2010/12/02(木) 20:11:24
天照一族ゎ♪(九州) 大国主一族(本州)を

北へぇーーーーーーー また北へぇーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、また北へぇーーーーーーーーーーーーーーー(><) と追いやってしまいました!
これが『蝦夷』の!!。(⌒ε⌒)

94日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:15:15
>>88
それも「邪馬台国の怪」に出ているようなネタだが…

確か岡崎敬だったか70年代に発表された編年表で大雑把に言えば

格規矩四神鏡が1世紀
内行花文鏡が2世紀
3世紀は既に弥生イ方製鏡の時代・・・だったと思うが。

まあこの辺、九州の考古学に詳しい人がいたら補足お願いしたいのだが・・・

もっともこの板のゴミクズレベル九州説にはそんな事は微塵も期待できないのは分っているがw


95:2010/12/02(木) 20:16:28
>ローガンよ、メよ、一緒に畿内説を蹴散らそう!
>誇り高き論客よ、明日は君らの時代だ、

ローガンどうする? おれとローガンは『誇り高き論客』だってよw
良いこと言うじゃんw 俺らゎ〜ある程度評価されてるってことだねw
それに比べて〜ジョーカーは馬鹿だってよw
96:2010/12/02(木) 20:18:15
>>94
おい、バカw 無視すんなよ〜ジョーカーw
おれとローガンは『誇り高き論客』だってよw
97日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:18:29
ジョーカよ、お前は包囲されている!
98日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:20:40
>>95 改めドツボ=メ

まあ馬鹿でもアホでもお前と一緒にされなければおんの字だなw

精々、老眼翁とタッグ組んで九州説を蹴散らしてくれwww

99日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:22:33
伊都の平原でも倣製鏡出てきてるけど(あのでっかいヤツ)
三角縁と同じように、倣製鏡を作れるようになってからは
中国鏡100枚がそんなに価値有るものなのか疑問なんだよね。
100日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:25:21
邪馬台国は南九州しか有り得ないんだから、あの地域でそれにふさわしい遺跡を
発見することに精力を注げばいいんだよ
101日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:29:31
ところで、畿内説では、魏からもらった百枚の鏡は
三角縁神獣鏡のままでよいのか?
今は別の説なのか?
102日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:30:09
おまんら畿内論者に色目使っているのかよ?
どういう神経してるんだ?
103:2010/12/02(木) 20:31:05
うーん ジョーカって若いの?年寄りなの?

たぶん中年おやじだろうと思ってるんだけど実際どうなんだろうね?
クソ若そうな面も、古ぼけた面も・・・両方あるからよくわからんわ
104:2010/12/02(木) 20:33:45
んんんんん 北へぇーーーーー 北へぇーーー
またまた北へぇーー

大国主一族ゎ 北へぇえええええええええええええええええええーーー(⌒ε⌒)

105日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:35:12
メ=改めドツボ

しかしここまで相変わらず「合いの手」いれるだけで
何ら具体的な内容が無いな・・・

つうかお前古代史ネタで馴れ合いをしたいだけなんじゃないのか?

で自分が立てたスレで自分がスレヌシとして中心にいるようなサロンを形成したいという
オバちゃん的発想で・・・

もしそうなら元の巣に戻ってお友達の河童に相手してもらいなさいw
106日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:38:36
>>100
>邪馬台国は南九州しか有り得ないんだから、あの地域でそれにふさわしい遺跡を
>発見することに精力を注げばいいんだよ

考古学に頼るのは九州説としては邪道らしいのだがwwwww
107日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:39:46
>>101

九州北部から中国鏡がいろいろでるんで、
そのなかのどれかが、卑弥呼の100枚で、
個人的には三角縁は国内量産の鏡と思っているんだけどね。
108ローガン:2010/12/02(木) 20:59:38
>>84
>伊都国=佐賀は×、という事だよね。

勿論。しかし、前原だとする九州説で、方角云々を言い出すと自己矛盾になりますよ。
109:2010/12/02(木) 21:11:25
>>105
>つうかお前古代史ネタで馴れ合いをしたいだけなんじゃないのか?

なに〜終止符スレを荒らしてばかりいた「君が」、優等生みたいな発言してんだよww
チャラチャラおかしな話でwww

ジョーカー←こいつ荒らしだったんだぜ〜ALL

>>84
>ローガンはどっちの味方なんだよ?前原派なの?
>俺も訳が分かんなくなってきたよ、おい?何がいいたいの?

彼は余所のサイトでボコボコにされて、「牙」を抜けれてる状態なんですよ。
(元祖A氏だっけ?)彼の為、そっとしてやって下さいw
110日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:58:30
三角縁神獣鏡が日本製と言うのは今や常識だろう。

意匠は中国人、おそらく楽浪が高句麗によって滅ぼされた時に日本に逃げてきた。

楽浪からは画文帯神獣鏡と、三角縁獣帯鏡が出土している。

この二つが日本に来て合体したのが三角縁神獣鏡だ。
111日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:59:42
邪馬台国終止符スレが留守の間に
もぐらが出てきているぞ(藁
112日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:25:57
>勿論。しかし、前原だとする九州説で、方角云々を言い出すと自己矛盾になりますよ。

大体にして方角だって、距離だって古代なのだし、正確じゃないんだから。
だから、倭人伝にある径百余歩だって、正確なわけねーだろう。というか、何できりのいい百なんだよ。
デカイ墓、云々をいってる畿内説なんか、信用なるもんかよ。
もしかしたら、その墓は径30余歩ぐらいだったかもしれないんだぜ。
倭人伝の記述が本当かどうかわからないのに、箸墓とか、その他の畿内にある古墳とかが畿内説の根拠になるのかよ。
いや、極論いうと、日本の情報じゃなかったかもしれねーだろうよ。
中国からすれば女王がいるのが珍しいだけで、邪馬台国なんぞ畿内でも九州でもどっちでも良かったんでねーの

113日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:29:34
魏には、九州からも朝貢されてたし、大和からも朝貢されてたかもしれねーよ。
114日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:33:08
伊都国前原説も邪馬台国畿内説も方角を無視しなければ成立しないトンデモだってことだ。
中国人が方角も分からんなんてことがあるか。方角は間違えようがないんだよ。

前原の王の墓? 倭国の乱で滅ぼされた国の墓かもしれんじゃないか。宋でないと言い切
れる理由があったらあげてみな。墓何ぞ、何の証拠にもならん。
115日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:52:33
書記に記載ある、
九州に目立った女性首長が、
なぜか、大和にいるって事にされたんかもしれねー。
外国で書かれた事なんだし。

だって、やまとととびももそびめ、って天皇じゃないだろう。
単なる巫女だろう、王としての権限があったのかよ?
116日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:05:16
邪馬台と百曾毘売というのは、その名前からして南九州だよな。
117日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:13:39
>>103
中国の文献の旧唐書だと、そんな感じみたいですね。
魏じゃなくて唐の時代ですが。
118日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:16:42
>>117 アンカーミス

>>113
中国の文献の旧唐書だと、そんな感じみたいですね。
魏じゃなくて唐の時代ですが。
119日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:20:06
唐の時代の漢文モドキなんか正確に読めんだろwww 

文起八代之衰
ttp://zhidao.baidu.com/question/24941309
唐宋古文運動
ttp://baike.baidu.com/view/1240.html?wtp=tt

索虜宜しく陰山の麓に踵を反し群羊を牧すべし。
華夏、いずくんぞ汝曹の穢臭に堪ふるを得んや。

わはははーはー!
120日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:41:33
松浦も結構広いが、松浦の起点どこにする?

1.東松浦半島の先端
2.唐津湾内
3.伊万里湾内
4.他候補があればどうぞ
121日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:43:02
倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中国通。

日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。〜其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。

倭国と日本国は別の国だな。倭国は九州、日本国は本州だ。
122日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:46:47
倭国は中国と通じていた。しかし、日本国にはその記載はない。
123日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:18:42
中国で出土が確認されている鏡は
やはり北部九州のほうが圧倒的な出土量である。
124ローガン:2010/12/03(金) 00:20:53
>>112
>大体にして方角だって、距離だって古代なのだし、正確じゃないんだから。

まあ、そういう事ですな。先ずは全てを疑ってかかってみる。

>デカイ墓、云々をいってる畿内説なんか、信用なるもんかよ。

それはご自由に。

> もしかしたら、その墓は径30余歩ぐらいだったかもしれないんだぜ。

とはいえ、それも根拠無いでしょう。

> 倭人伝の記述が本当かどうかわからないのに、箸墓とか、その他の畿内にある古墳とかが畿内説の根拠になるのかよ。

まあ、学説を当たってみてね。

> いや、極論いうと、日本の情報じゃなかったかもしれねーだろうよ。
> 中国からすれば女王がいるのが珍しいだけで、邪馬台国なんぞ畿内でも九州でもどっちでも良かったんでねーの


そら、どっちでも良かったでしょうね。
125日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:38:41
>先ずは全てを疑ってかかってみる。
伊都国=怡土説を疑ってみることだ。

126日本@名無史さん:2010/12/03(金) 07:55:15
邪馬台国が九州にあるとすると、方角距離すべて、それなりに説明がつく
しかし、大和では、方角の説明が「絶対に」不可能である
127日本@名無史さん:2010/12/03(金) 08:27:50
距離の説明は公式にはつかないよ。
都合よく私的解釈しないように。
短里は公に認知されていない「解釈」ですよ。
128日本@名無史さん:2010/12/03(金) 08:46:37
ちゃんとつくよ
素直に読んだらな
129日本@名無史さん:2010/12/03(金) 09:16:32
私的に解釈が付いたって意味ないよ。
130日本@名無史さん:2010/12/03(金) 09:19:47
>邪馬台国が九州にあるとすると、方角距離すべて、それなりに説明がつく

1歩=6尺が間違っている、
つまり倭人伝が間違っている、
という事がか?
131日本@名無史さん:2010/12/03(金) 09:45:12
公定里が使われたという根拠もないが。
132日本@名無史さん:2010/12/03(金) 09:45:36
倭人伝は君らが考えてるような「公里」で書いているわけではないよ。
君たちの「公里」は、君たちの頭でつくりだしただけで、けして「公」の
ものではない。
133日本@名無史さん:2010/12/03(金) 09:50:13
公定里を使用するなら、邪馬台国はパプアニューギニアになっちまうからな。
畿内説論者の言うように90度曲げて、ベーリング海峡でもいいが。
134日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:09:59
>君たちの「公里」は、君たちの頭でつくりだしただけで、けして「公」の
ものではない。

お前、馬鹿か。
ちゃんと調べてからものいえよ。
それと「公の史書」だから「公定里」なんだよ。


135日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:11:47
>公定里を使用するなら、邪馬台国はパプアニューギニアになっちまうからな。

だから、倭人伝の記述は疑ってかかるべきなんだよ。
136日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:15:48
畿内説を蹴散らす前に、
伊都国=佐賀を始末する。
137日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:31:23
正直言って、前原伊都の遺跡群は捨てがたい。
しかし佐賀の遺跡も多い。

奴国に行くなら、松浦に到着して、海岸沿いを航行して
博多湾か糸島半島に入るのが理にかなっているだろう。
当時は糸島半島の202号線沿いは海らしいので
博多湾に入る良い水路になっていたはずだ。

しかし、ここから陸路を通り、伊万里湾から武雄、
または唐津から小城を通るルートだと、
ちょうど有明海に出る辺りで水行の文字が出現するので、
大体あっている。

特に伊万里湾、武雄方面ルートは、丹の取れる嬉野の近くを通る。
当時丹が採掘されていたかは定かではないが、8世紀に丹生神社が
建立されているところを見ると、少なくともそれ以前から
採取はされていたと思われる。
138日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:39:31
>公定里を使用するなら、邪馬台国はパプアニューギニアになっちまうからな。

先ずは、君のいう「公定里」って何だ?
説明してくれ。
139日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:49:44
いわゆる公里で、当時は435mだったらしい。
それ以上のことは、ローガン氏が詳しいのでそちらで聞いてくれ。

自分は否定派だ。
140日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:57:37
>いわゆる公里で、当時は435mだったらしい。

そうだろう。
忠実にその公里で図ると、倭人伝は間違ってる、信用を置けない、という事になる。
141日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:06:24
間違っている部分がある可能性は否定しないが、
信頼度0%なら、邪馬台国そのものが存在しないということになっちまう。
信頼度100%なら、とっくの昔に決着が付いているだろう。

また、都合のいいところをつまみ食いすれば、
日本中どこでも良いということになる。
いや、世界中どこでも良い、かな。

だから、間違っているなら間違っているで、
それなりの根拠を出さなければなにも決まらない。

142日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:18:12
間違っているものは間違っている。
方位と距離は当てにならない、
それを抜きで、倭人伝に書かれている「邪馬台国」を探す事になる。
143日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:22:10
>>134
調べてから言ってるよ。公のものだというならば、資料を出してみな。
東夷の地に適用されるものをね。
144日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:25:37
現代においても、中国の里と日本の里はちがう。アメリカの里もちがう。
東夷の地の里を一里435メートルだと思い込むのは愚の骨頂だ。
145日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:29:14
距離と方向を完全無視するとなると
風俗から推測することになるな。

貫頭衣を着て、冬でも生野菜を食べ、
海に潜って魚をとり、刺青があると、。
あと絹と丹か。

なんかパプアニューギニアでいいような気がしてきた。
案外合ってるのかもしれんな。
146日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:31:18
公のもの云々は139で解決しています。普通はそうなのです。もっと詳しく知りたいなら自分で調べるべきです。
へそ曲がり、常識はずれは貴方なのだから、貴方の方が資料を出さなければならないのです。
147日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:36:17
私は調べていると言ってるだろ。公であることを示す法規は発見されていない。
つまり、1里が435と決められていた証拠はない。
148日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:36:36
パプアニューギニア説か……。
これは強力な説かも知れない、脚光を浴びるかも知れない。
語られてきた九州や畿内に拘っていたって、陳腐な当地では無視され続けるだけだからね。
149日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:48:15
とりあえず、大体の位置がわかる
帯方郡、狗邪韓国、対馬、壱岐、松浦
までの位置と記載の里程を合わせると
一里7〜80メートルで概ね合ってくる。

また、周代にはこの里程が使われていたそうである。
150日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:51:59
>また、周代にはこの里程が使われていたそうである。

嘘はどろぼうの始まり。


151日本@名無史さん:2010/12/03(金) 11:55:29
>>150
周髀算経の話ぐらい調べてから書かないと恥かしいよ。
152日本@名無史さん:2010/12/03(金) 12:33:40
原文出せよ。そんな記載なんかないよ。
153日本@名無史さん:2010/12/03(金) 12:42:38
とにかく、た゛
フミ国から南の方に、投馬国、さらに南に邪馬台国だ。
これは否定しようがない
これでは、絶対に大和に至らない
それだけは100パー、完全に間違いない
154日本@名無史さん:2010/12/03(金) 12:46:24
そして、フミ国から投馬国まで水行20日、
さらに邪馬台国まで、水行10日、陸行1月
どう考えても、九州の南だろ
155日本@名無史さん:2010/12/03(金) 12:49:06
倭人伝に水行、陸行の速度は書いてない。そこの考え方次第では、いくらでも
九州の中に収まるよ。
156日本@名無史さん:2010/12/03(金) 13:02:04
それに倭人伝が伊都国から先を放射式に書いていることを理解しないとな。
157日本@名無史さん:2010/12/03(金) 13:28:16
郡から12000余里離れても絶対に畿内につかないし、九州も外れる。
158日本@名無史さん:2010/12/03(金) 14:18:03
伊都国から1500里。熊本ぐらいだろうな。
159日本@名無史さん:2010/12/03(金) 14:34:34
短里公里どちらを採るにせよ
このあたりまでは、里程ネタの基礎知識だな。
160日本@名無史さん:2010/12/03(金) 14:40:22
>>136
>畿内説を蹴散らす前に、
>伊都国=佐賀を始末する。
威勢がよかったが、理論には弱いようだな。

161日本@名無史さん:2010/12/03(金) 14:53:19
>それに倭人伝が伊都国から先を放射式に書いていることを理解しないとな。

何でだよ。
お前、そんなに偉いのか?
誰が 放射式に書いていると決めたんだよ?
162日本@名無史さん:2010/12/03(金) 14:59:24
放射式に書いてると仮定して、
投馬国は何処になるの?
そこって女王国以北になるの?
163ローガン:2010/12/03(金) 15:11:34
>>139
私が「公定里」と云うのは、公里と言った場合には誤解する人が居るかもしれない。
と考えたからです。
164日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:27:36
>放射式に書いてると仮定して、
投馬国は何処になるの?
そこって女王国以北になるの?

ま、放射式なんぞ、倭人伝の行程を持ち出せば簡単に破綻させられるよ。
あり得ないパズルは完成できないのだからね。どこかで無理が生じる。
165日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:37:21
>>162
投馬国は薩摩川内となるね。邪馬台国よりはいくらか北かな。

だが、投馬国が女王国以北になる必要はないんだよ。女王国以北はその戸数道里が
略載できるとあるが、女王国以北でないところは全部略載できないというわけでは
ない。略載できないのは旁国のみ。大国である投馬国は略載できるんだ。
166日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:46:52
邪馬台国と敵対していたとされるクナ国は戸数道里が略載されていないよ。
167日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:50:21
つーか、略載出来ないクナ国は何処?
女王国より南になるの?
168日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:52:35
南東行って南行って、女王国以北って、
あるところから、国が一列に並んでるような書き方だな。
169日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:59:38
そのとおり、狗奴国は戸数道里がない旁国の一つにすぎないんだよ。で、女王国よりも南にある。
それで何の問題もないだろ。
170日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:03:08
でクナ国は何処なんだよ?
171日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:06:08
大隅半島かな。
172日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:13:56
それだと旁国21カ国の場所がなくなるんじゃないの?
173日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:18:28
つーか、鹿児島に12万戸以上あり得ねー。
三韓でさえ併せて14〜15万戸だぜ。
失格。
174日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:19:13
熊本、大分から南、あちこちに旁国があったんだろう。別に、邪馬台国や投馬国よりも
南に偏っていたわけではない。
175日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:26:09
>>173
誰が鹿児島だけだと言った? 邪馬台国は宮崎だ。鹿児島、宮崎で足りなければ
熊本、大分の一部を入れていい。
176日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:26:27
狗奴国はこれから推定すると良い。
http://www.geocities.jp/taru638/img022.gif
弥生時代中期以前は福岡県が鉄器で全国を圧倒している。
漢の時代から半島や楽浪郡と交流を独占していたのだろう。
ところが弥生時代後期になると熊本県が鉄器の量で福岡県と肩を並べるようになる。
福岡県にあった倭国に主流と対抗する勢力になって来たわけだ。
邪馬台国連合と(福岡県)と対抗した狗奴国(熊本県)という構図が見えてくるだろう。
鹿児島は鉄器が少ないから対抗勢力としては弱い。
通説通り狗奴国は熊本で良い。
大分は邪馬台国連合の一部だろう。
177日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:33:54
>誰が鹿児島だけだと言った? 邪馬台国は宮崎だ。鹿児島、宮崎で足りなければ
熊本、大分の一部を入れていい。

それでも鹿児島、宮崎、熊本、大分の一部だけで、12万戸近くはあり得ない。
資料を調べてみたら分かる。


178日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:41:26
>熊本、大分から南、あちこちに旁国があったんだろう。別に、邪馬台国や投馬国よりも
南に偏っていたわけではない。

倭人伝には、南の邪馬台国へ着いてからは、「次ぎに」何々国有り、「次ぎに」何々国有り、と順番に21カ国が書いてあるじゃないか。
そして最後に女王国の境界があって、クナ国があるんだよ。

179日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:48:22
「次ぎに」は順路の順番とは限らない。
大きい順かもしれないし、朝献順かもしれない。
180日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:50:12
>熊本、大分から南、あちこちに旁国があったんだろう。別に、邪馬台国や投馬国よりも
南に偏っていたわけではない。

大体にして女王国以北にある国は、戸数・道里が略載されているんだぞ、おい。
181日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:56:41
その他の旁国は遠絶にして、と書いてあるじゃないか。
女王国より遠いのだろうよ。
182日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:58:21
アクセス規制に引っかかったじゃないか。
183日本@名無史さん:2010/12/03(金) 19:17:14
>>176

そのご紹介の図、寺沢が鉄器総覧を一部修正したもの、ネットのあっちこっちにもあり
この板の特に畿内説の連中なら嫌と言うほど見飽きているだろうがwww

チョット見れば直ぐに分る事だが
確かに九州の鉄の量は他地域を圧倒しているんだが
それでも古墳時代にかけてその量は減少している。

逆に大和以東は急増している(と言っても絶対量では九州には遠く及ばないが)

その図だと古墳時代は3世紀初めから中頃となっていて
当然ゴミクズレベル九州説にはそんな年代観は受け入れられないだろうがw
何れにせよ減少傾向にあるのは間違いない。

鉄のみならず漢鏡にしてもそう。
年代をいくら弄っても減少している事には間違いない。

九州がその先進性として挙げる鏡や鉄が何れも減少していて
「じゃあ九州の邪馬台国は何の為に朝貢したんだ?」と言う疑問は誰でも持つwww

九州説がもはや過去の遺物なのは
何もピンポイントで邪馬台国そのものの遺跡が出ていないとか言う話ではなくて
弥生末期から古墳時代にかけて邪馬台国があったような形跡が全く無いからと言うのが大きいw

九州説の連中が弥生時代の舶載品の豊富さを語れば語るほど
その衰退に「一時の歯止め」すらかかってないのは何故だ?と言う疑問が増すだけ。

まあこんなお話は今更も今更だが
まだトンデモ九州説に溺れる前のなんとか引き返せる人間がいたら少し考えて欲しいと言うホトケゴコロwwwwwwwwww

184日本@名無史さん:2010/12/03(金) 19:26:44
>>180
女王国の始まりは万二千里だ。そこから南ならば、邪馬台国より北でも「女王国
以北」ではない。邪馬台国=女王国ではない。邪馬台国と旁国21国を合わせた
ものが女王国だ。
185日本@名無史さん:2010/12/03(金) 19:38:07
>>176
福岡を邪馬台国連合とし、熊本を狗奴国として、対立を想定しても、鹿児島や宮崎の
説明ができないな。熊本以南は女王国なんだよ。ということは、熊本は女王国の工業
地帯というべきところだ。邪馬台国と投馬国が熊本を支配下に入れて北九州と戦った
それが倭国の乱だろう。
186日本@名無史さん:2010/12/03(金) 19:53:04
クナ国は鹿児島あたりだろ
福岡、大分、宮崎、熊本あたりが邪馬台国を中心とした女王国一帯
そして、邪馬台国は宮崎あたりかな
「女王国の東、海を渡ること千余里」とあるから、そう解釈するのが自然
187あげ:2010/12/03(金) 19:57:51
ベテラン用の『終止符スレ』に負けるなあああ
188日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:04:42
「女王国=邪馬台国プラス旁国21国」
「女王国より以北=投馬国以前に記述のあったすべての国」
189:2010/12/03(金) 20:07:29
河童さんがアップしてるのがうけるよねw
http://www1.atchs.jp/most/
190:2010/12/03(金) 20:10:40
こいつはくわしいね
http://hpcgi3.nifty.com/washizaki/bbs/wforum.cgi?no=647&reno=629&oya=532&mode=msgview&page=0

ローガンさん〜もう一度いってきて下さいよw
191日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:12:17
>>187
ベテラン用?そんな区分があったのか?www

てかこのスレのカラーがイマイチ分らないのだが…

>>1を額面どおりに読めば九州説専用スレ、があまりにも釣り臭がきつくて
実際は九州説おちょくりスレのような気もするしw

192日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:13:41
正直、初心者スレって感じはするね。
そろそろ、基本は抑えたところかな。
193:2010/12/03(金) 20:16:31
>>191
おめーぇは『初心者用』がよくお似合いだぜwww

そんなことも知らないで書き込んでたのかょw
194日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:17:29
てか、邪馬台国は九州しか有り得ないのだから、
これ以外の大和とか議論しても無駄なんだよ
そんなこともわからず、大和だなんて、ホント可哀想と言うかバカと言おうか。
まぁ、大和にも邪馬台国と同じような国があったのは確かだろうけど、
それは魏志倭人伝に記載のある「邪馬台国」では絶対にない
195:2010/12/03(金) 20:20:03
>>194
だから〜おれと『ジョーカー』と『ローガン』の3人が畿内説で、
相手してやるってンのにぃw(兵隊のジョーカー行けw)

きみの九州説とやらをここでお披露目してみたら?
196日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:24:34
県単位で考えるんじゃなくて
平野面積で考えると、九州各地の力関係が見えてくると思うよ。

当時海だったところもあるから、そこは考慮しなければならないけど。
弥生は米作の文化なんだから。

ぐぐるまっぷとかぐぐるあーすとか、今便利だし。
197日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:25:54
>>195 改めドツボ

パシリ三下のドツボはさっさとパンでも買って来い。
ダッシュな。

>きみの九州説とやらをここでお披露目してみたら?

と言うかそもそもお前の畿内説説なんてものが良く分らないのだがw

様々に考証を重ねて箸墓を卑弥呼の墓とするのなら兎も角
いきなり畿内説の根拠に「箸墓が卑弥呼の墓だから」ってなんじゃそりゃ?って話だがw






198日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:31:00
オレは畿内説なんぞ、ハナっから相手にする気はない
そんなキチガイの妄想相手に議論するのは無駄なんだよ
199日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:37:17
九州の平野面積を以前大雑把に計測したことがある
正確とは言えないが、福岡、佐賀、熊本で九州全体の70%程度になる。

他の地域の勢力は相対的には小さいと言えるだろう。

いわゆる大国はこの中のどれかの可能性が高い。
200日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:54:43
地図の緑色部分をみると確かにそうかもな。しかし、盆地も考えないとな。
宮崎平野+都城盆地+小林盆地は結構な広さだよ。
201日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:58:58
>だから〜おれと『ジョーカー』と『ローガン』の3人が畿内説で、
相手してやるってンのにぃw(兵隊のジョーカー行けw)
きみの九州説とやらをここでお披露目してみたら?


そもそも、女王が大和という所に居る、と思ってしまったのが中国人の間違え。
大和に居たのは天皇。
実際は九州に中国人の思っていた女性首長が居た。
中国人は、自分達の想定する邪馬台国が九州の南方にあると思っていた。
九州の方が近いからどっちかというと、邪馬台国は九州。
「径百余歩」もきりのいい数字で実際は大きさが不明。
倭人伝の数字をそのまま信用してはならない。
中国人からすれば、邪馬台国なんぞ、大和、九州、どっちでもいいやん。



202:2010/12/03(金) 21:25:16
>>201
お、勇気あるね。
まったく〜『ジョーカー』と『ローガン』が頼りないので、
畿内説は、私一人で、終止符スレの縄文人氏も含めて答えてやろう。

>女王が大和という所に居る、と思ってしまったのが中国人の間違え。
>大和に居たのは天皇。
・後漢書「邪馬臺國」というのは「ヤマト」の音を漢字表記したもの。
ヤマトというのは、古代、奈良で日本建国を成した天皇家を中心とする大和朝廷を指したもの。
したがって、「女王国」と「天皇」は切り離すべきではない。

>実際は九州に中国人の思っていた女性首長が居た。
・ヒミコのことでしょうか?いいえ、彼女は近畿です。

>中国人は、自分達の想定する邪馬台国が九州の南方にあると思っていた。
・朝鮮半島で見つかった「混一疆理歴代国都之図」をみるとそうですよね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoMap.jpg

>九州の方が近いからどっちかというと、邪馬台国は九州。
・では、奈良時代に地方行政機関として、なぜ奈良朝は九州に大宰府を置いたんです?
倭人伝にも是と同じような一大率という機関を北部九州においてる。

>「径百余歩」もきりのいい数字で実際は大きさが不明。
・これは貴方がしらないだヶ。

>倭人伝の数字をそのまま信用してはならない。
>中国人からすれば、邪馬台国なんぞ、大和、九州、どっちでもいいやん。
・あんたはローガンみたいなやっちゃなw
203日本@名無史さん:2010/12/03(金) 21:42:36
>朝鮮半島で見つかった「混一疆理歴代国都之図」
えっ、朝鮮半島でも見つかってるの?
204日本@名無史さん:2010/12/03(金) 21:52:19
>・後漢書「邪馬臺國」というのは「ヤマト」の音を漢字表記したもの。
ヤマトというのは、古代、奈良で日本建国を成した天皇家を中心とする大和朝廷を指したもの。
したがって、「女王国」と「天皇」は切り離すべきではない。

納得いかんなー、
例えば、明史日本伝だったかで、得る覚えだが、間違っているかも知れないけど、
秀吉が薩摩出身とかって書いてなかったか?だけど薩摩と秀吉は切り離して考えるべきだろう。
中国人の方が混乱しているのだから。 女王だってどこかの女王が旅行した時に、インパクトに残っていたから珍しくて自慢気に記載されただけで、
天皇とは区別されるべきじゃないの?
つーか、2代続けて、女王が即位したっていうのは本当に大和の情報だったのかな?
九州の情報が、大和の情報に付け加えられたんじゃないのかな?
205日本@名無史さん:2010/12/03(金) 21:53:51
訂正
女王だって中国人が旅行した時に、インパクトに残っていたから珍しくて自慢気に記載されただけで、
206日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:02:03
>>九州の方が近いからどっちかというと、邪馬台国は九州。
>・では、奈良時代に地方行政機関として、なぜ奈良朝は九州に大宰府を置いたんです?
倭人伝にも是と同じような一大率という機関を北部九州においてる。

確かに、大和の出先機関だったのかもしれません。それは分かる。
それとは別に、中国人の思い描いていた邪馬台国の場所は、行程・距離からして九州から外れた南にあるけど、どちらかというと大和よりも九州に近いから九州と区分したという事ですね。

207:2010/12/03(金) 22:03:02
>>204
倭人伝の「倭」ですが、
これは、古事記・日本書紀や他の文献でも、「倭」という字は、初期天皇家の人物名称にも使われる。
「倭」というのは、「日本」の古の呼び方であり(これもよく調べてほしいんですが)、
これは揺るがないですね。
女王が即位に関しては、各文献をよく読まれることをお薦めします。
208日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:15:53
倭は大和の事をいっているのは分かる。

そーだとして、2代続けての女王即位だが、
書記を見るに、
大和朝廷に関しては、3世紀半ばは祟神天皇よりも1代くらい前だと個人的に思うけど(昨今の箸墓調査の結果もあるし)、
これは、欠史八代の頃だと思うけど……、ま、他地方の事も調べ見るか……。
209:2010/12/03(金) 22:17:15
>>208
勉強、頑張って下さい。
210日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:20:42
旧唐書をみれば、倭国と日本とは別だね。
倭と大倭を混同してはいけない。大倭は倭人伝に「国々市あり、・・・大倭
をしてこれを監せしむ」とあるように、実力を行使できる連中だ。
つまり、大倭というのは、倭国の軍隊だな。ということは、軍の駐屯地が大
倭と呼ばれたということだろう。大倭→大和はそうゆう所だよ。
211日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:25:46
>>210
そこの「部分的」ではなく「全て」書き込んで下さいよ。

舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本  
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
 或云 日本舊小國 併倭國之地

日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm

改名ですよ。
212日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:26:15
スレ主である俺は、九州説は九州説でも
その辺の糞九州説とは違うから。といってもメ教授からは馬鹿九州説と同類扱いされるんだろうけど……。

それでも魏志倭人伝には大和の情報が半分以上ある事は俺も認めているよ。
方位・距離だって間違っていると思っている。
メ教授、ご苦労さん。正直、楽しかった。
ジョーカーもローガン先生もたまに遊ぼうよ。
213:2010/12/03(金) 22:26:28
失礼〜>>211は私です
214日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:28:34
大(Da)はチベット系遊牧民の姓だといってみるテスト。

大氏倭朝というのの略が大倭である。
渤海も大氏の王朝。
215日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:40:42
>倭と大倭を混同してはいけない。

大げさに考えてねーか?
単に高橋家と大高橋家と似たニュアンスでないの。
216日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:55:43
メ さーん、続きも書きこんでくださいよう。

 倭國は古の倭奴國なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、
山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中國と通ず。
 其の國、居るに城郭無く、木を以って柵と爲し、草を以って屋と爲す。四面の小島、
五十餘國。皆、(こ)れに附屬す。

 其の王、姓は阿毎氏。一大率を置き、諸國を検察す。皆、之を畏附す。官を設けるに
十二等有り。其の訴訟する者は匍匐して前(すす)む。地に女多く、男少し。頗(すこぶ)る
 
省略

日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。
故に中國、焉れを疑う。
 また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、
東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。

217神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/03(金) 23:07:25
「ゴミを持て!邪馬台国九州説!!」あなたの奥さんより。
218日本@名無史さん:2010/12/03(金) 23:10:47
はーい、明日ゴミを出します。
219日本@名無史さん:2010/12/03(金) 23:16:20
畿内説って基本的に嘘つきなんだな
老眼もこの手口を時々使う
220ローガン:2010/12/03(金) 23:50:22
>>190
> こいつはくわしいね

詳しく無いやん。詳しいのは緑青さんと云う方でしょう。「倭人伝の根拠は倭人伝」君は粘着しているだけやん。

> ローガンさん〜もう一度いってきて下さいよw

あんな幼稚かつ礼儀知らずな所は、ご勘弁。
221ローガン:2010/12/04(土) 00:00:36
>>219
> 畿内説って基本的に嘘つきなんだな 老眼もこの手口を時々使う

なんや、俺の事か?どんな手口や ゆうてみい。(笑)
222日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:20:24
九州説は筋が通ってるみたいですね。それに対して畿内説はひどいなあ。
荒らしみたいなのばっかり・・・
223日本@名無史さん:2010/12/04(土) 08:05:13
メ さん、続きを読んで黙っちゃったみたいだね。
224日本@名無史さん:2010/12/04(土) 08:18:18
メ教授も忙しいのだよ。
225日本@名無史さん:2010/12/04(土) 08:41:41
「混一疆理歴代国都之図」・・・
これは、邪馬台国には全然関係ない話だから、二度とこのスレでは名前出さないこと!!

226日本@名無史さん:2010/12/04(土) 08:48:23
「混一疆理歴代国都之図」の写本は、龍谷大学と本光寺の二つあるが、
本光寺所蔵のものは、日本列島は通常の位置に書かれてある
227日本@名無史さん:2010/12/04(土) 08:51:44
愚かなヤツめ
228鹿島神流:2010/12/04(土) 08:54:07
いや、いいなあ。やっと九州説同士での本格的な論戦が始まったのか。やはり、
最初の論点は「伊都国」の位置比定ということになったようだけど、これは重要な
分岐点ではあるよね。
同じ九州説でも、倭人伝、特に行程記事にどれだけ比重を置くかというスタンスの
問題もあるだろうし、はた目には興味深いところ。

文献を重視するなら、末盧國から東南500里の伊都國は糸島ではないだろうし、
佐賀方面ということになる。また、考古学的成果を重視すれば、王墓の存在が認め
られる糸島が伊都国ということになる。
あとはそれぞれの古地名とか、糸島が伊都国なら使節がなぜ船で廻らず陸行するのか、
とか、郡使の常駐に佐賀では不便だ、といった問題もあるし。

ところで、倭人伝の >丗有王皆統属女王國 の部分で、「王」とあるのは中国に認め
られた(冊封された)王という意味なんだよね?


229鹿島神流:2010/12/04(土) 09:06:15
3世紀当時の倭国には、少なくとも30の国があって、それぞれに首長がいたのは
確かだと思うけど、「伊都国王」の存在というのは中国が正式に認めたものなんだ
ろうか?ということ。

あとは、倭人伝の行程記事というのは、魏使の通行した順路をそのまま記載して
いるものなのか?それとも様々な資料からの情報を統合した、河童さんのいう、
いわゆる文章地図のようなものなのか?ということ。これについても見解は分かれ
るんじゃないかな。
230日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:11:09
239まで魏との通交はなかったんだから、冊封された王がいるわけはない。
単に国家の主権者としての王という意味だろうな。
231日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:17:17
行程記事はいろいろな資料を統合したものではなく、魏使が自らの体験をもとに書いたものだろう。
伊都国から先を放射式に書いているが、それは実際には伊都国→奴国→不弥国→伊都国といった動き
をしたのを放射式に整理したものだと思うよ。
232鹿島神流:2010/12/04(土) 10:25:02
>>230
なるほど、しかし後漢からの冊封を認めているというのはどうですか。一大国など
他の国には官名しか記されていないのは何か不自然ではありませんか?

>>231
>行程記事はいろいろな資料を統合したものではなく、魏使が自らの体験をもとに書いたものだろう。

こう書くのは簡単ですが、どのような根拠からそう思うのですか。
233鹿島神流:2010/12/04(土) 10:37:55
「王」という言葉の漢語としての概念は、元々天命を受けて天下を治める者
という意味でしょう。それが、戦国時代頃から諸侯が王号を僭称するようになり、
そこで、天命を受けた者という意味で「皇帝」が用いられるようになった。このよう
な経緯から、中国には蕃夷の国の自称の王など認めたくないという指向があった
のではないでしょうか。
234日本@名無史さん:2010/12/04(土) 11:06:57
>>232
魏使が倭王を訪ねてその記録を残す以上、始まりから終わりまで一貫した記述
を残しているはずだ。行程の一部のみを書き、また、他の使者が途中から一部
のみを書くなどということはまず考えられない。
一貫した記述がある以上、それをそのまま史書に取り込んだ方が間違いがない。
幾つかの資料を切り貼りすれば、その切り貼りが正しいのか、つなぎ方がまち
がっているのではないかという問題が生じるからね。
だから、梯儁、張政がそれぞれ報告書を出しているにせよ、行程記事はそのどち
らかを(おそらくは梯儁)採用して、切り貼りなどはしていないと考える。
235鹿島神流:2010/12/04(土) 11:19:02
>>234
>魏使が倭王を訪ねてその記録を残す以上

この魏使の報告書なるものが、九州説の一部では非常に重視されているようですが、
それがもしあったとして、どのような内容であったかは不明です。陳寿、あるいは魏略の
編者がそれを手にしたかどうかもわかりません。また、資料として引用されているのなら、
(魏帝詔書のyぷに)もっと一貫した記述法もあったと思います。さらに、倭国に郡使が常駐
していたのなら、その報告を記したところで正確さの度合いは変わらないと考えられます。

>おそらくは梯儁 というのも根拠がわかりにくいですね。張政の遣使のほうが、倭人伝
編纂の時代に近いでしょうが、対狗奴国戦争の帰趨が記されていないという批判がある
からでしょうか? いずれにしても仮定の上に仮定を積み重ねた論としか言えないでしょう。
236鹿島神流:2010/12/04(土) 11:20:15
× 魏帝詔書のyぷに  ○魏帝詔書のように
237日本@名無史さん:2010/12/04(土) 11:26:37
>倭国に郡使が常駐
倭国に常駐していたわけではない。往来に際し留まったというだけの話だ。

>梯儁 というのも根拠がわかりにくい
最初の使者が行程を記す。これが当たり前だ。張政は行程は梯儁にまかせ省略した
報告書を書いているだろうってこと。
238ローガン:2010/12/04(土) 15:10:50
>>234
>一貫した記述がある以上、それをそのまま史書に取り込んだ方が間違いがない。
> 幾つかの資料を切り貼りすれば、その切り貼りが正しいのか、つなぎ方がまち
> がっているのではないかという問題が生じるからね。

だから、評曰に「使譯時通,記述隨事,豈常也哉!」 と述べてますよ。不正確な情報の混在を編者は認めている。
「真偽はさておき、手持ちの情報を書き並べておきます。」と断り書きをしている訳です。
239鹿島神流:2010/12/04(土) 15:34:53
まあ客観的に見て、魏使の情報があり、それを参照して倭人伝が書かれたのかどうか
など絶対に結論の出ない問題の類であり、いつまでやっても水掛け論にしかならない。
新資料発見の望みは奇跡だろう。とすれば、その仮定を大前提として論を進めていくの
は極めて危ういことになる。トランプの城のようなものだね。
240日本@名無史さん:2010/12/04(土) 16:39:02
魏志倭人伝による邪馬台国論を続けても九州と機内の平行線。
それよりも国指定となっている遺跡、古墳を宮内庁等と無関係な
第三者的期間による調査を行い、その調査等から割り出していくしかない。

最近の機内での遺跡の発掘調査なども畿内説に有利な発表で信憑性が薄い。
出雲、西都原、薩摩、大隅などの神話、伝承、遺跡、古墳を調査すれば
自ずから答えは出ると思うが、そうなると困るから封印されているとも
思われる。
241日本@名無史さん:2010/12/04(土) 16:57:43
そうはいうけど、遺跡を「3世紀中頃に存在し、魏志倭人伝に記載されている邪馬台国」
だってことを、どうやって特定するんだ?
242鹿島神流:2010/12/04(土) 17:15:32
遺跡や候補地の計画的な調査自体が難しいでしょうね。この世情にあって、予算が
つくとはとうてい思えない。それでなくても市街地の広範囲な調査など不可能に近い。
また、発掘調査できたとしても、決定的な遺物でも出ない限り年代論は紛糾するで
しょうし。

・・・決定的な遺物とは何だろう?金印が単体で出たとしても、移動論(よそから運ばれた)
は必ず出るだろうし、魏帝詔書や封泥とかかなあ。しかしおそらく木簡である詔書は残って
ない可能性が高いし。張政が卑弥呼の棺に何か彫り込んでいるとか・・・これも夢物語だな。
243日本@名無史さん:2010/12/04(土) 21:19:34

古墳時代は4世紀中ごろ始まりだ。
庄内式土器と伽耶新羅陶質土器が一緒に出ているからね。
新羅とか伽耶が興ったのは4世紀半ばころ。
庄内式土器が出土した勝山、石塚古墳は新羅や伽耶が興った4世紀半ばが妥当だ。
箸墓が卑弥呼の墓なんてバカな事を言うやつは狂っているとしか言いようがない。

箸墓を4世紀後半とするなら、古すぎると言われている吉野ヶ里や、福岡の遺跡群は
3世紀中葉以降も栄えていた事になる。

畿内説の学者たちは文献で九州に太刀打ちできないものだから、年代を誤魔化して
4世紀後半の遺跡を百年以上古くして、考古では畿内が有利と言いだしたのだ。

考古学上も文献上も九州の方が圧倒的に有利である事を覆す事は不可能だろう。
244うましか:2010/12/04(土) 21:46:54
>>243


「伽耶新羅陶質土器」って、どこの出土品のことだろうか。
ちゃんと具体例を出してくれれば善いのに。

確かに陶質土器は、三韓時代の半島や倭でも弥生終末(庄内)期の壱岐、対馬、糸島地区で出土することはある。
ただ、それがどこで造られたものかは、わからない。
出来の良いものは楽浪製、見栄えの悪いものは三韓へ移住してきた楽浪系民が在地で造ったものでは無いか、とか言われている。
>>243はの「伽耶新羅陶質土器」ってのは、こう言うやつのことを言ってるんだろうが、それが4世紀に造られたって言う根拠はあるのかな?
245鹿島神流:2010/12/04(土) 22:38:58
ここは、九州説を説くスレです。畿内説および畿内説批判は御法度ですよ。

>>243
あなたの「伊都国」についての見解を書いたらどうです。このスレでは畿内説はなしで
進めましょう。否定ではなく自説を書いてほしい。
246日本@名無史さん:2010/12/05(日) 05:06:32
>>238
>評曰に「使譯時通,記述隨事,豈常也哉!」 と述べてますよ。不正確な情報の混在を編者
>は認めている。「真偽はさておき、手持ちの情報を書き並べておきます。」と断り書きを
>している訳です。
奇妙な解釈だな。誰がそのんな解釈をしているんだ?

247日本@名無史さん:2010/12/05(日) 08:31:11
>>245
九州説を説く上で、なぜ畿内は有り得ないのかを説く必然性は当然出てくるよ
別にかまわんじゃないか
248鹿島神流:2010/12/05(日) 08:46:05
このスレでは、畿内説ははじめから虚妄として片づけられています。むろんどうしても
やりたいのならしかたがないのですが、それでは他スレと変わらなくなってしまいます。

「伊都国」はどこでしょう。「一大率」とはどのようなものでしょう。また「平原遺跡」の被葬者
とは?書くことはいくらでもあります。
249日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:01:46
>>232
>なるほど、しかし後漢からの冊封を認めているというのはどうですか。一大国など
>他の国には官名しか記されていないのは何か不自然ではありませんか?
これはどうゆう意味?

250鹿島神流:2010/12/05(日) 09:16:14
>>249
本来は倭人伝の各クニにはそれぞれのオウがいたのではないかということです。ところが、
王の存在が明記されているのは伊都国と女王国と狗奴国で、他の国々は長官、副官等の
官名しか記されていない。そこで、これらのクニの首長は中国からは王としては認められて
いないのではないかという意味です。
251日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:50:49
>>250
後漢書が「国、皆王を称し・・」とあるように国々に王がいたことはまちがいありませんね。
王の存在が明記されているのが伊都国と女王国と狗奴国というのは、読み方に問題があるかと
思います(そう読む人が多いことはじじつですが)。
世有王、皆統属女王国。これを伊都国だけではなく、国々に共通する事項、すなわち各国に皆
王がいてそれが女王国に統属していたと読むのが正しいかと。
榎の「邪馬台国」にその読み方が可能だと指摘されていますね。
252日本@名無史さん:2010/12/05(日) 10:18:03
>>244
>確かに陶質土器は、三韓時代の半島や倭でも弥生終末(庄内)期の壱岐、対馬、糸島地区で出土することはある。

君の言っているのは瓦質土器の事ではないか?
私の言うのは古式新羅伽耶陶質土器と言うやつだ。
半島では楽浪郡が滅んだ後、伽耶や新羅が興る。
この時に半島南部で作られるようになったのが古式新羅伽耶陶質土器だ。
始めは新羅と伽耶地区で土器に区別がつかないほど良く似ていたので
古式新羅伽耶陶質土器と名付けられた。
楽浪が滅んだ事で中国の技術が流出して作られるようになったと推測
されている。
これが大阪で庄内式土器と一緒に出ている。
ところが日本の土器編年では古式新羅伽耶陶質土器は楽浪が滅びる前の
3世紀後半初めに作られていた事になっているんだ。

韓国ではこんな土器編年は通用しない。
253鹿島神流:2010/12/05(日) 10:54:31
>>252
なるほど、大阪市の加美遺跡の1号方形周溝墓から出たもののことかな。これは実物を
確認してないから何ともいえないけど、瓦質土器の短頸壺のことを指しているんではない
かと思う。それだったら庄内式と併存してもおかしくはない。高温焼成の陶質土器であった
という資料があれば紹介してください。
・・・この3世紀中期頃には大阪まで韓人が交易に来ていたというようなことを白井克也氏が
書いていますね。

>>251
その読み方はなかなか厳しいのではないですか。中国としては、卑弥呼を倭国王として冊封
したため、その影響力下にある国々の首長については王号を用いて紹介したくなかっただけ
ではないかと思うんですけどね。


254鹿島神流:2010/12/05(日) 11:09:37
・・・九州邪馬台国をやりましょう。一大率がもし糸島にいたとすれば、北部九州を
行政的・軍事的に統括する任務と考えられ、邪馬台国は北部九州から距離的に
遠い場所と考えることができる。さらに、佐賀方面にいたとすればかなりの広範囲を
統括する力を持ち、邪馬台国は九州の深い地域ということになるでしょうか。
255日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:41:59
魏志倭人伝での「女王国」ていうのは、
もしかしたら、魏代に出来た情報じゃないんじゃないかな……。
なんらかの先例の史書に倣って、仕方なく記載した情報だった可能性もある。

いずれ、3世紀半ばの天皇は男性です。
卑弥呼即位なんていう情報も書記にはない。卑弥呼という名前もない。

ただし、日本での1、2世紀の情報だったら、「女王国」というのは
九州の情報だったのかも知れない。

畿内説は、3世紀半ば当時に卑弥呼がいた事が正しい、という前提で語られていると思いますが、
史料をそのまま信じるのはどうか・・・、と思います。
なにしろ、方角にせよ、距離にせよ、正確ではありません。
疑ってかかるべきです。
古い時代の九州の情報だった可能性も充分にあります。
256日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:48:21
魏志倭人伝は、九州と大和の情報とがごっちゃ混ぜになってしまった。
といっている私は、厳密にいえば、
邪馬台国九州説というよりも、邪馬台国九州、邪馬台国畿内、両方説
なのかもしれない。
明史日本伝をみると、その可能性が高いように思う。

ま、女王国が九州の情報だったと思うから、私はやっぱり邪馬台国九州説かな。
257鹿島神流:2010/12/05(日) 12:16:20
なるほど。確かに記紀では推古帝以前の女性天皇の記録はありませんね。畿内説では
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼説も有力ではありますが、あくまでも崇神帝を支えるシャーマン
として登場します。

もし百襲媛命が卑弥呼であり、魏から倭王の冊封を受けているのであれば、記紀にそのことが
記載されていないことは大きな疑問であると言えるでしょう。記憶が失われているのか、あるいは
何らかの作為があるのか。ちなみに、書紀編者は卑弥呼を神功皇后に擬しています。

九州邪馬台国と、纏向のプレ・ヤマト王権併存説というのも根強い支持があります。倭人伝には
九州邪馬台国の情報とともに、遠地にあるヤマト王権の情報も混在しているという説もは古くから
ありますね。
258鹿島神流:2010/12/05(日) 12:33:29
最近では、原秀三郎氏がシンポジウムにおいて文献史学の立場から併存説を
主張しています。

>「大和王権の創立者崇神天皇は、248年に没したとされる邪馬台国の女王ヒミコと
  同じ時代に生き、その治世が女王ヒミコと重なることが明らか。」
  「三世紀の日本には北九州に邪馬台国のヒミコの統治する女王国があり、一方、
  女王国の東、海を渡る一千余里の地には、大和を中心に大和王権が存在した。」

http://news.livedoor.com/article/detail/4675909/

ただし、従来からの九州説では九州邪馬台国の畿内への東征(遷)を説くものも支持
を集めています。
259鹿島神流:2010/12/05(日) 12:39:48
あとは九州王朝説ですが、これは東遷説とは相容れないものと考えます。
両者の間での議論がなかなか活発化しないのは残念なところです。
260日本@名無史さん:2010/12/05(日) 12:53:14
まー、私の場合は、いわゆる時空を超えた並存説ですがね。
1,2世紀の九州女王国と3世紀半ばの大和が、魏志倭人伝に混在する説ですか……。
3世紀半ばは、九州は既に大和王権の影響下にあると思います。

最新考古学・土器編年を否定しない九州説
魏志倭人伝は方角・距離を始め、所々で間違っているという九州説かな。
261鹿島神流:2010/12/05(日) 13:21:40
>>260
なるほど。・・・この板の九州説諸氏には畿内説派の年代遡上を認めないという方が
多く、また資料として倭人伝の記載内容をできるだけ尊重しようという姿勢の強固な
方が多いようです。

記紀に対するスタンスはどうですか?3世紀台を崇神天皇の治世と考えていますか?
262日本@名無史さん:2010/12/05(日) 13:53:06
>>258
チミは縦目仮面の後継者かね?

世の中にはサンスーと呼ばれる高度な思考方法があることを知らんらしい。
1たす1は2 とか 3ひく5は16 とか、私なんかは頭がよかったのでこんなことは小学校で習ったぞ。

>248年に没したとされる邪馬台国の女王ヒミコ

ヒミコが死んで → 男王が立ち → 国中が服せず → 争いになり → 臺與が立ち → 国中が収まり → 墳墓を築造した

これだけの出来事を足しあわせると少なくとも十年以上は掛かるはずだという計算は簡単にできると思うが。チミとか原秀三郎とかいうポンスケはそんな簡単なことも考えられんのかねえ。 ヒミコは現実にはずっと以前に死んでいたのだよ。
263鹿島神流:2010/12/05(日) 14:07:57
>>262
おっしゃってる意味がまったく理解できません。これは九州邪馬台国での話ですか?
私はこのスレにいることでもわかるように当然九州説ですが・・・。

もちろん、

>ヒミコが死んで → 男王が立ち → 国中が服せず → 争いになり → 臺與が立ち →
国中が収まり → 墳墓を築造した

この過程には確かに長い歳月がかかったでしょうが、畿内にあるヤマト政権とかかわりの
ない九州内での出来事であれば別に何か問題があるとは思われません。
あと、卑弥呼の墳墓を台与の治世に築造した、と倭人伝が読めるものでしょうか?

>卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺
  千餘人復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定


264日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:21:09
>>263
>この過程には確かに長い歳月がかかったでしょうが、畿内にあるヤマト政権とかかわり
>のない九州内での出来事であれば別に何か問題があるとは思われません。

倭人伝 あるいはその元になった文書がいつ成立したと考えているのかな?248年に死んだのでは短すぎてとても間に合わない期間だぞ。これは九州とか畿内とかいう問題には関係ない。
265日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:27:28
>>262
>ヒミコが死んで → 男王が立ち → 国中が服せず → 争いになり → 臺與が立ち →>国中が収まり → 墳墓を築造した

いよたんは偉いなあ!
266鹿島神流:2010/12/05(日) 14:30:02
>>264
ははあ、卑弥呼没年が通説とは違うということをおっしゃりたいのですか。当方には特に
別に反対する理由はありません。まわりくどい言い方をせず自説を披露されればいい。

ちなみに、私はこのスレの前身で紹介したように、渡来人および半島の倭(伽耶諸国)が
主導して、九州邪馬台国を畿内に東遷させたとする説を唱える者です。
267日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:38:21
>>263
>あと、卑弥呼の墳墓を台与の治世に築造した、と倭人伝が読めるものでしょうか?

>>卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺
>  千餘人復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定

うーん。
書いてある順番通りに歴史が進んだ、っていうのなら、まあ読めないわな。
しかしそうすると、卑弥呼墓は男王が立つ以前に、つまり倭王が空位のときにすでに出来上がってた、ってことになるわな。
じゃあ誰が墓造りのリーダーシップを取ったんだ?って疑問が出てくるぞ。
268日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:39:05

イヨタン・・・・・・・・・・
 
269日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:47:01
>>267
台与がリーダーシップを発揮して前女王の墓を築造したんだろう。
同じ女王だからね。

史書は必ず出来ごとの順番通りに記述するわけじゃない。
都合上やむをえずあと先になる場合だってある。
270鹿島神流:2010/12/05(日) 15:28:55
>>267
なるほど。しかし、卑弥呼は倭王とはなったものの内国的には傀儡的な地位
だったとする考え方もあります。

>有男弟佐治國自爲王以來少有見者

倭人伝にあるように、王となって以来見る者少なしであれば、その託宣を伝える
者のほうが世俗的な権力を持っていたと考えることもできます。いずれ卑弥呼の
周囲にはこの男弟や難升米ら有力者がいたので、それらの人々が差配して墳墓
を築いたと考えることもできそうです。

卑弥呼の治世は、世俗的な面に関してはこの男弟を含む有力者の合議により決定
されていたのかもしれません。卑弥呼の後の男王の擁立は、実はこの聖俗二面政治
体制からの脱却を目指したものかもしれない。しかし機はそこまで熟してはおらず、反
乱が起きた。そこで、やはりシャーマンの血筋を持つ台与を擁立せざるを得なかった、
というストーリーはどうですかね。
271日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:02:17

トヨタン・・・・・・・・・・
 
272日本@名無史さん:2010/12/05(日) 17:02:12
邪馬台国は北部九州で間違いないと思うが南九州も大陸からの渡来人により
強大な国家が造られていた。それが神話とも重なっている。これの解明も必要。
273日本@名無史さん:2010/12/05(日) 17:24:42
>南九州も大陸からの渡来人により
強大な国家が造られていた。それが神話とも重なっている。これの解明も必要。

それは5世紀の話だろ。
274ローガン:2010/12/05(日) 17:41:47
>>246
>奇妙な解釈だな。誰がそのんな解釈をしているんだ?

井上秀雄氏の解釈をヒントに、東夷伝序文と併せて考えた私見。
275唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/05(日) 18:16:06
>有男弟佐治國自爲王以來少有見者
>卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺 千餘人復立卑彌
呼宗女壹与年十三爲王國中遂定

景初3年の朝貢の時点では、倭国の王は、女王卑弥呼である。しかし女王には魏使も合うことが
敵わない為、『南に行けば邪馬台国』が晋書により正始元年『東倭』と変更された大和の王を倭王と
し、連絡を取り合う。
その中で247年頃黄旛を下賜する約束がなされる。戦いは始まっている。
248年に魏使が訪れたときには、卑弥呼は死んでいる。合うことも敵わなかった卑弥呼の墓は、
推測記事である。戦いの中女王に代わり男王が立てられるが、男王も戦いの最中に死亡する。
戦いは、大和の倭王の元で続けられ、1段落した段階で、倭王により壹與が次期女王として送り
込まれる。この時点で『東倭』は『大倭』と呼ばれる。
大倭は、女王の支配国である伊都国に1大率を置き、九州諸国を検察する。

黄旛は、△鏡と共に黒塚古墳に副葬される。
276日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:18:48
>記紀に対するスタンスはどうですか?3世紀台を崇神天皇の治世と考えていますか?


書記では祟神天皇の治世はAD250年くらいですが、実際は3世紀半ばは祟神天皇より1、2代くらい前だと思います。
祟神天皇の墓って4世紀初頭くらいで、意外と新しいのではなかったですか?

250年築造ともいわれる箸墓のやまとととびももそびめは祟神天皇の姑でしょう。
箸墓が倭人伝に紛れてしまった径100余歩の墓だったのかもしれませんが、私としては、ま、どっちでもいいです。
ただし、「径100余歩」は、実は、3倍されていたかもしれませんし。本当の数字はわかりません。
倭人伝の数字・方位は疑ってかかるべきかと。
3世紀後半には、九州にも前方後円墳があったわけで、それらの誇張表現だった可能性だってあります。


277日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:20:53
魏志倭人伝はかなり解体されている。
実情とは違っている。
と思います。
278日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:31:33
オワタ完全オワタ
279日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:36:41
        /|       ト、
       / |, -‐ ,へ ‐- .| l
       | `ー/ 九ヽ ̄  |
      rL__/\/ ヽ_--ヘ      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      /. / \| / \ |      |まだだ!
      |_r‐― ._ヽ/_. -― i、ト、    |まだ終わりはせんよ!!
      / |  く二>∧ く二> |\ゝ   ノへ.________________
    /:::::L._r-‐ '´ l>`ー-r;」::::::::\__
   /::::::::.从   r_=ニ}  ハ}:::::::::::::::::::::./
  く:::::::::::::::::: `ト、    ̄  / |::::::::::::::::::::/
   \::::::::::::::.」__`-―‐ ' - r、:::::::::::/
    \::::::::::| ( 三」|L三})L__ィ''´
       ̄_」______} { -―''--=――'}

280日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:39:12
  .-、  _
  ヽ、メ、〉      r〜〜ー-、__      ________________
  ∠イ\)      ムヘ._     ノ      |
   ⊥_      ┣=レヘ、_ 了     | え−−い、纏向のニュースはいいっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐  ム  _..-┴へ   <
  | |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒',    ヽ.   | 九州説を映せっ! 九州説の戦い振りをっ!!
  (三  |`iー、  | ト、_ソ   }     ヽ   |
  | |`'ー、_ `'ー-‐'    .イ      `、   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | |   `ー、    ∠.-ヽ      ',
__l___l____ l`lー‐'´____l.       |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  .|      |
               ||  |__.. -‐イ
               ||   |    ノ/


281鹿島神流:2010/12/05(日) 18:48:51
>>276
なるほど。倭人伝の卑弥呼の墓の記述は、畿内で始まった前方後円墳祭祀の
情報が紛れ込んでいる可能性があるということですね。実際に九州にあるのは
もっと小さいものであるかもしれない、と。
九州邪馬台国ー畿内プレ・ヤマト王権併存説だと、対立軸がなくなって解釈の
自由度が増す気がしますね。(私は東遷説ですが)

纏向の発掘調査の度に、マスコミに邪馬台国の名前が出るのを苦々しく思ってる
九州説の人は多いでしょう。
282日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:49:15
一皮剥けた新生九州説は、今後畿内説の前に立ち塞がる事になろう。
283日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:49:36

■邪馬台国の最有力候補?纒向遺跡

毎日新聞 2009年11月10日
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/makimuku/
284日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:51:33
>>283

え〜い、汚らわしい! 貼るなッ!
285日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:56:04

■邪馬台国の宮殿か、纒向遺跡 (動画あり)

共同通信 2009年11月10日
邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半としては国内最大の建物の跡が見つかりました。
286日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:56:43
>対立軸がなくなって

対立軸の一つは、おそらく
魏志倭人伝の「径100余歩」の数字を絶対的に信じていいのか、悪いのか、どっちでもいいのか、となるように思います。
箸墓と同等の数字なので、畿内説は譲れない方が多いと思いますがね。
287日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:56:54
288日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:04:48
スルーしようぜ。

誇りを持て!、邪馬台国九州説!!
289鹿島神流:2010/12/05(日) 19:06:21
やはり、「新・九州説」は倭人伝の記事の信憑性を疑ってかかることから
始めるのがよいかもしれません。

実際問題として、上記リンクの纏向の掘立柱建物は当時国内的には大きな
ものですが、それでもさすがに倭人伝の、 >以婢千人自侍
千人の婢が居住できるものではないと思われます。そのようなものがさすがに
九州にもあるとは考えにくいでしょうね。
290日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:31:40
まず人口問題から疑ってかかろう。
倭人伝で倭の人口(九州全域)は十五万戸(75万人)位になる。
九州だけでなく、東の方に有る倭種の国を入れたら日本の人口はその3陪位無ければおかしい。
ところが考古学上は日本全国で70万人くらいしかいなかったとされている。
つまり、人口は大げさに書かれていると考えるべきだ。
墓の大きさも径百余歩は間違いなく大げさだ。
殉葬100人も大げさだ。
帯方郡からの距離も大げさに書かれていただろう。

魏志倭人伝は邪馬台国を大げさに書かなくてはならない事情があったと考えなければならない。
291日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:35:45
いいぞ、290
魏志倭人伝は間違っている、
がこれからの無敵の九州説だ。
292鹿島神流:2010/12/05(日) 19:46:37
>>290
ほう、それは当時の中国事情によるものですか?
松本清張説では、七万戸などの数字は、中華思想の陰陽五行説に基づく奇数
中心の記述が用いられたとされたりしていますが。

私見としては、まだ倭国は文字が普及せず、数概念についてもどこまで発達してい
たかきわめて不確かであり、クニの人口について首長が把握できてはいなかったと
考えます。また、当時は集団農耕であり、各戸から収税するようなこともなかったと
思っています。
293日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:54:45
畿内説は九州に十五万戸は無理だ、といっているけど。
そもそも邪馬台国の七万戸だって、大げさな都合のいい数字であり、
根拠にならない。
恐らく実数ではないし、人口なんぞ把握出来なかった、と思います。
「七万戸」をもって九州説を否定できないでしょうな。
294日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:56:51
方位は間違っている、はいいが、
戸数は間違っている、とは言わない畿内説。
295鹿島神流:2010/12/05(日) 20:11:02
渡来人は別として「万」などという単位の数字を一般的な倭人が概念化できて
いたかどうかは疑問です。おそらくこの数字には中国側の作為が含まれている
のでしょう。魏使が人口調査をした、という説も見た記憶がありますが、はっきりし
た目的を持つ魏使がそのような手間のかかることをするとは思えません。また、
したところで正確な把握は不可能でしょう。

魚豢の著した魏略は260年代頃の成立と考えますが、伊都国について >戸万余
の記述があるだけですね。


296日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:19:46
伊都国の戸数は倭人伝では千余戸です。
中国人はわかっていなかったと見るべきでしょう。
つまり、戸数はあてずっぽでいいかげんなんです。

九州での実際の実数は遺跡等から推し量るしかないでしょうな。
297鹿島神流:2010/12/05(日) 20:20:58
ああ、そういえば九州邪馬台国の候補地の一つである、弥生時代後期から古墳時代前期
の集落遺跡である方保田東原遺跡(熊本県)で、刺突文のある土器が発掘され、弥生人の
数概念について話題になったことがありました。

http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/895.html



     
298日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:08:38
>>294
魏志倭人伝の方位は絶対正しい、間違える筈がない、と言いながらも、
倭人伝の戸数は絶対に間違っている、と言い出す九州説。
299日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:17:30
>>298

お前はすっこんでろ!
300日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:25:35
つうか畿内説どころか九州説でも七万戸なんて数字真に受けている奴阿蘭陀朗?w

まあ北部九州だけで軽く百万とか言うこの板のゴミクズレベル九州説は別にしてもwwwwww
301鹿島神流:2010/12/05(日) 21:51:33
まず、倭人伝の数字においては距離的につじつまの合わない部分があります。
現在の韓国ソウルから南の距離数が実数と合いません。また、朝鮮半島自体が
巨大な面積として描かれています。さらに定説のとおりに、記載される距離と邪馬
台国までの所要日数を加算すると倭国は非常に大きな国として描かれていること
になります。

これを解決する手段として短里説があります。これは魏晋朝全体が1里=70mほど
の里程を用いていたとする説で、古田氏の主張が有名です。その他、地域的な短里
説・・・東夷伝の記述のみ短里で書かれている、というものもあります。この板の九州説
諸氏にはこの説が多いかもしれません。

また一説として、晋代に書かれた倭人伝は、司馬懿の公孫氏討伐と東夷である倭人の
朝貢の功績を大きく見せるためにわざと誇張をしている、というものです。この説に立て
ば、倭国の人口が実際より大きく書かれていることの説明もできそうです。

むろん単に資料の不備による、と考えることもできます。また、魏使が倭国踏査の際に
実測したと主張する方もおります。



302日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:01:01
大和で七万余戸も無理だろう。
303日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:03:33
コピー&ペーストこと、
河童(東征説)さん! 反論して下さい
304日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:08:01
>>301
帯方郡はソウルじゃないよ。
沙里院と言う平壌から南へ100qほど下ったところだ。

305日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:09:53
河童は来なくていい。
わけがわかんねー言意学とやらを語られると
せっかくの議論が停滞する。
謎の言葉を発する宇宙人はいらねー。
九州説がアホーに見られるだけだ。
306日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:17:13
つーか、その河童の師匠にとっても、
肝心の戸数議論は、邪馬台国議論として全く無意味なそうな。
307鹿島神流:2010/12/05(日) 22:17:29
>>304
ああ、唐土城のことですか。ソウルと書いたのはわかりやすくするためで、楽浪郡域
を過ぎて、実際の距離とは合わなくなってきているというほどの意味です。

で、九州説において短里説を採用するかどうかは一つの大きな分岐点と考えます。
私は採用してはいませんが、このあたりのことを語ってくださる方がいればありがたい
ですが。



308日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:24:07
鹿島神流氏とやら、日本の武術の流派らしいな。ヾ(*`Д´*)ノ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E6%B5%81

おーし 
コピー&ペーストこと、河童(東征説)さんが相手だ! 。・:*:・゚☆.。・:*:・゚`

゜+.・*。+.゜+。・☆ ゜+.・*。+.゜+。・☆゜+.・*。+.゜+。・☆
309日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:25:37
公定里、短里、どっちだっていいが、
距離はどうせ大幅に間違っているんだから、
公定里を採用したって構わないです。

短里を造ると、いかにも苦し紛れな九州説と見られると思うので、
新九州説(いつのまにか出来た)の立場としては、短里と絶縁した方がいいのでは・・・と思いますね。
310鹿島神流:2010/12/05(日) 22:33:05
>>309
>短里を造ると、いかにも苦し紛れな九州説と見られると思うので、

実はそのとおりで、古田氏一派のやりかたのせいもあるのかもしれませんが、
短里は学会ではなかなか受け入れられる状況にはありません。分岐点と書いた
のは、トンデモ扱いされてしまう分かれ目というような意味もあります。ただし、
真実はわかりません。
311日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:34:34
河童♪  河童♪  河童♪  河童♪

河童♪(剣道三級) VS 鹿島神流(日本の武術)
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/most/5/375-375
312日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:41:12
行程と同様、戸数だって疑う理由はないよ。
313鹿島神流:2010/12/05(日) 22:41:21
河童さんは三級ではなくて三段だと思ったけど。w
314日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:46:09
倭人伝の里は、誰が考えたっていわゆる長里とちがうことは明白。それをごまかした
議論をすべきではない。
315日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:47:15
日本全体で、
縄文時代の人口が10万弱から30万弱
弥生時代が60万から100万人

狩猟採集生活の縄文時代(一部農耕もしていることは明らかになったが)
と米作農耕生活の弥生時代。
3倍から5倍程度に人口維持能力が上がっている。

非常に荒っぽい計算だが、
この生産性増加分が平地での稲作によるものだとすれば、
縄文ピークの30万人から弥生ピークの100万人を引けば70万人
平地で70万人を養えるだけの生産性が増加したことになる。

平野における人口の偏りはかなり大きい。
そもそも日本では平野面積が全体の15%しかないそうなので、
平均的人口密度と比べて、人口密度は10倍以上、
おそらく20倍近く違うはずである。

それを踏まえて、広域の平野を持つ国がどのくらいの人口を持つか
推論できるだろう。

316日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:48:45
>>307
さすがに詳しいね。
風納土城には漢人の住んだ気配がないからね。
漢江の北の方の開城位までなら漢人が住んでいた遺跡がある。
それにソウルからではワザワザ船で海にでて遠回りして珍島の方を迂回する意味が判らない。
沙里院からなら南に下がると海州という良港があって古代から栄えていた。
ここから船出したのだろう。

距離なら沙里院から金海まで直線距離で460qくらいだ。
珍島経由だと700qくらいか。
一里60mから100mくらいの間ではないかな。
317日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:54:15
>狩猟採集生活の縄文時代(一部農耕もしていることは明らかになったが)
と米作農耕生活の弥生時代。
3倍から5倍程度に人口維持能力が上がっている。 <

弥生時代の稲作なんて微々たるもの。
食べていたのは米より雑穀類が多い。
稲作を始めて人口維持能力が上がったのではなく、人口が増えたから水田や畑作が多くなったのだ。
小学校時代のへんちくりんな教育で洗脳された奴が多いね。
318日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:57:24
弥生時代に貝塚が無くなったとか誤解している人もいるなー。
汽水域に近いところでは貝塚が根強く続く。
319鹿島神流:2010/12/05(日) 23:04:45
>>311
河童さんは長期アク禁ですか・・・。プラム時代のレスを読めば「記里鼓車」とかやってて
すごく面白い。

http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/stamp/kirikosha.htm

>>316
短里があったとして、東夷伝の領域のみ用いられている意味は何ですか。それとも三国志
はオール短里なんですか?

>>317
確かに水稲耕作面積を想定して人口を推測するのは難しいかもしれません。倭人伝には
こんな記述もあります。
>有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴

食料品の交易についてはどう考えていますか?
320日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:08:54
倭人伝が伝える戸数については、韓国の戸数と比べてみたらいいだろう。
馬韓は総じて十余万戸、辰韓、弁辰は総じて四、五万戸。韓国全部で十五万戸
ぐらいなんだから、九州にその程度の戸数があるのはごく当たり前だ。
321日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:23:09
数値自体にあまり信憑性があるわけではないが、
縄文時代全体ではにほとんど人口が増えていない。
気候が原因なのか、ピークの30万人前後から、
10万人程度に落ち込んだという説もある。
つまり土地の生産力の限界で、すでに上限一杯に達していたのである。


>>317
>食べていたのは米より雑穀類が多い。

これについては、それでかまわない。要は平地の農耕によって
生産性があがったということで、米でもよいし、別のものでもよい。

>>318
>弥生時代に貝塚が無くなったとか誤解している人もいるなー。

縄文時代の生産力に 「プラス」して人口が30万から100万に増加するのである。
もともとの30万人分の生産力は当然貴重な食料として供していただろう。

>>319

非常にマクロな話なので、交易できるものは交易して、
全体としてのカロリーが、30万から100万になったという話です。
そして、供給できる側の力関係は非常に強くなっていくでしょう。


322日本@名無史さん:2010/12/06(月) 07:26:20
九州だけで15万戸なんぞ、絶対に無理です。
魏志倭人伝を信じるスタンスに戻ると、王暮のある伊都国の位置で矛盾してしまうんだす。
(いっとくが、河童のように自分の頭で編み出した屁理屈妄想文法は抜きだ)

もはや、、倭人伝の数字・方角は疑ってかかる、の方向に行かなくては畿内説と対峙できません。
新九州説の時代なんです。
323鹿島神流:2010/12/06(月) 07:55:25
>>321
>そして、供給できる側の力関係は非常に強くなっていくでしょう。

そうですね。私はこれまで、交易といえば首長層の威信財や鉄などを思い浮かべる
ことが多かったんですが、最近は食料の流通の重要性について考えるようになりま
した。

>>322
人口については上で東夷伝韓伝との比較の話がありましたが、辰韓、弁辰の総人口が、

>弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。

倭人伝よりは細かく数字をあげてますが、このあたりはどうですか。
・・・九州島で15万戸が無理だとすれば、九州以外の地域に範囲を広げるか、倭人伝の
数値を誤りと見るかしかないわけですが。
324日本@名無史さん:2010/12/06(月) 09:40:14
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶
不可得詳」
わからないことはわからないと、ちゃんと書いてある

戸数についてだが、絶対的な信用は出来ないとしても、
デタラメに書いたものでは決してないだろう
調べられる範囲で、ある程度の把握はしていたと思われる
325日本@名無史さん:2010/12/06(月) 09:44:46
追加
クナ国の戸数は記載されていない
邪馬台国と敵対関係だったので、調査不可能だったことが連想される
326日本@名無史さん:2010/12/06(月) 09:49:10
>>322
>九州だけで15万戸なんぞ、絶対に無理です。
どうしてですか? 九州はどのくらいと考えているんですか?


327日本@名無史さん:2010/12/06(月) 10:43:53
>>274
井上氏の解釈というのを聞かせてくれないか?
328日本@名無史さん:2010/12/06(月) 11:38:14
まず人口問題から疑ってかかろう。
倭人伝で倭の人口(九州全域)は十五万戸(75万人)位になる。
九州だけでなく、東の方に有る倭種の国を入れたら日本の人口はその3陪位無ければおかしい。
ところが考古学上は日本全国で70万人くらいしかいなかったとされている。
つまり、人口は大げさに書かれていると考えるべきだ。
墓の大きさも径百余歩は間違いなく大げさだ。
殉葬100人も大げさだ。
帯方郡からの距離も大げさに書かれていただろう。

魏志倭人伝は邪馬台国を大げさに書かなくてはならない事情があったと考えなければならない。

329日本@名無史さん:2010/12/06(月) 11:59:39
>>328
韓国はおよそ15万戸と書かれている。それと対比すれば、九州はその広さからして15万戸は
何ら不自然ではない。日本が極端に人口密度が低かったとは考えられない。
考古学上の日本全国で70万人(誰が言ってるのか知らんが)という方を疑うべきだろう。

330日本@名無史さん:2010/12/06(月) 12:19:46
>>292
倭を非常に遠い所に有る大国として描かなければならなかった中国側の事情

卑弥呼の使いは公孫氏との戦争中に遣使をした。
司馬仲達はこれを東夷の大国と紹介して洛陽の明帝のもとに送った。
仲達は曹爽との権力闘争を有利にするためにも、自分が多くの反対を押し切って
公孫氏を征伐した効果が東夷の大国邪馬台国の遣使となって表れたとしたい。
このような思惑があったと考えられる。
魏の明帝はこれを信じ大いに喜んで東夷のちっぽけな国に金印を与えた。
吹けば飛ぶような小国に金印を与えてしまったと言う事は失態になる。
だから倭や邪馬台国は金印にふさわしい大国でなければならなかった。

魏の明帝にとっても嘘をついた晋の始祖司馬仲達にとっても
邪馬台国は大国であり、はるかに遠い国でなければならなかった。
331日本@名無史さん:2010/12/06(月) 12:32:23
郡から万二千里とした国がなんで会稽東冶の東なんだい?
万二千里が長里だったら赤道付近のはずだよ。倭や邪馬台国を大国に見
せかけたというならば、会稽東冶と書くのは嘘を自白したようなもんだ。
332日本@名無史さん:2010/12/06(月) 12:48:37
>>328
15万戸=75万人にしているのばどうして??
333日本@名無史さん:2010/12/06(月) 12:56:46
一戸五人は由緒正しい算出方法です
334日本@名無史さん:2010/12/06(月) 13:04:49
一戸あたり5名が正しいかどうかはわからないが
そういう計算が今のところ多い。

元々は、一戸あたり兵一人を出せる単位であるというのを
どこかで読んだが、出典は不明だ。
335日本@名無史さん:2010/12/06(月) 13:05:27
なぜ1戸、5人何だね?
336鹿島神流:2010/12/06(月) 13:24:30
>>331
会稽東冶とあるのは、呉の東南方向に魏王朝の同盟国があれば、呉を挟撃できるように
孫権に錯覚させることができるから、という説は昔からあります。この説は、私はとりませんが。
ただ、倭人伝の風俗記事は南方的な印象はありますねX。

>>329
この人口推計は、歴史人口学の鬼頭宏氏が民族学の小山修三氏に依頼して作成したもの
で、内閣府の統計にもそのまま用いられたりしています。計算は各地域の遺跡数や住居数
を元にした考古学的方法で行われています。小川氏は後に、弥生末人口60万程度を100
万超に訂正する発言をしています。


http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html
http://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/anthro2000/koyama.pdf
337日本@名無史さん:2010/12/06(月) 13:26:42
>>336
記事が書かれた時はもう晋の時代だ。
338鹿島神流:2010/12/06(月) 13:34:16
古代の人口推計はきわめて難しく(特に渡来人の数)、それほど信頼度は高くないでしょう。
算出の方法としては @地理学的方法 A考古学的方法 B人口学的方法 があるといわれます。
@は、地域面積とその単位人口からの推計 Aは、地域ごとの遺跡数や住居数からの推計
Bは、比較的信頼度の高い定点(例えば奈良時代6〜7百万人)から増加率等を考慮して求める
ものです。

>>337
そうです。まあ、いろいろ理屈はつけられるようですが、私はこの説は採りません。
339鹿島神流:2010/12/06(月) 13:58:16
・・・この1戸が5人というのはよくいわれます。中国的には戸=門=1世帯なんでしょうが、
では、竪穴式住居一つが1戸なのかというと・・・??

倭人伝の記述を信じれば、>其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦  大人は4・5人の妻を
持つ大世帯になってしまいます。
340日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:14:43
この手の人口統計は、根拠が弱いため大体の傾向をつかむ程度にしか使えません、
2倍程度の違いは許容範囲。
一桁、10倍は違わないだろう、ってなものです。

で、新事実が見つかって10倍違ったりなんて、よくあること。

100万人は正しいが120万人は間違いだ。なんて議論は意味が無い。
100万と500万、どっちに近いか、ぐらいでしょうか。議論になるオーダーは。
341日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:37:21
遼東と呉の距離は一万里とされているし、中原からの距離と地方の距離は別の単位で書かれていたのではないか。
陳寿は敢えて違う距離単位を使ったのだろう。
342鹿島神流:2010/12/06(月) 14:47:33
>>341
>陳寿は敢えて違う距離単位を使ったのだろう。

そのことが倭人伝の読者にわかるものですか? また、違う単位を用いる理由は
何でしょうか?
343ローガン:2010/12/06(月) 15:15:33
>>327
> 井上氏の解釈というのを聞かせてくれないか?

『一番遠い倭人のことについては、いろいろな情報があるため「事にしたがいて記述す。あに常ならんや」と、遠い所のことだから情報はまちまちなので、勝手にこちらで整理するわけにいかない。
少なくとも編者のほうで考えて、不正確な記事がたくさん混入しているので、あまり信用できず、整理できないので、入った情報は並べておきましょう。というやり方で整理をしている。
それを、現在の研究者の多くは、陳寿という人が東方に関心をもち、非常によく調べたうえで書かれたものだから、信頼しなければいけないんだと、一言一句、極端なことをいえばすべて、信用しなくてはいけないということになった。
そういう立場をとるのは、陳寿の編纂方針からいうと無理というか、間違っているというのが、最初に申し上げておきたいことです。
邪馬台国論もあまり厳密な意味で議論するのは無理だと思います。
考古学の成果をできるだけ尊重しながら、それが文献のなかのある部分と重なるかどうかということのほうが、現段階でいえば重要ではないかと思います。』
(シンポジウム日韓古代史の謎p76)
344鹿島神流:2010/12/06(月) 15:27:53
もし地域的な短里というものが使われていたとして、中国本土と東夷で1里の長さが
違うことを陳寿が知っていたら、統一しようとすると思うんですけどねえ。これがまず
不可解。陳寿は原資料の数字をそのまま引き写しているということになるのかな。

>>340
数値の信頼度が低いのはそうだと思うんですが、いくらなんでも500万まではいか
ないと思います。上のリンクの推計値だと、鎌倉幕府成立の頃が684万、このあたり
の数字は比較的信頼度はあるでしょう。800年頃で551万・・・400年間で、約140
万人ほど増加しています。医療技術の急速な進歩など、大きく増加率に影響を与える
要素は時代的に考えにくいので、この増加率を300年頃まで逆算していけば、そこまで
大きな誤差があるとも思えない。
345日本@名無史さん:2010/12/06(月) 15:39:12
>それを、現在の研究者の多くは、陳寿という人が東方に関心をもち、非常によく調べたうえで書かれたものだから、信頼しなければいけないんだと、一言一句、極端なことをいえばすべて、信用しなくてはいけないということになった。

狂信的な読者に、陳寿も迷惑してるんじゃないかな・・・
淡々と読み流してくれればいいだけなのにね。
346鹿島神流:2010/12/06(月) 15:55:05
>>345
www 個人的に倭人伝の信じがたい記述 best3

@>又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
   ・・・裸國、黒歯國までは何とか解釈可能としても、侏儒國はさすがに伝説ではないかな。
   南洋諸島説、ネグリト説、コロボックル説とか、ないわけではないけど。

A>以婢千人自侍
   上でも書きましたが、女だけ千人も集まって暮らしているような場所がこの時代に・・・。
   「後宮三千人」の中国人からすれば不思議はないのかもしれないけど。w

B>其人壽考或百年或八九十年
   100歳、80・90歳が普通というのも人類学的な事実と合わない。太国さんの倍暦の元
   ネタがこれだとしたら、なかなか罪深い記述。w
347日本@名無史さん:2010/12/06(月) 15:55:22
>そのことが倭人伝の読者にわかるものですか? また、違う単位を用いる理由は
何でしょうか?

知る人ぞ知るで良いのでは?
違う単位を使ったのは距離を長く見せるため。
一万二千里と言うと洛陽から大月氏国までの距離記載の一万一千余里より長くなる。
実際の距離は洛陽から大月氏国までの距離の方が洛陽から倭国までの距離より4倍くらい長い。
敢えて短い単位を使って距離を長く見せようとした。
判る人にだけ判ればよかったのではないか。
348日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:01:11
8世紀の記録で800万とか1100万なんて、信頼しにくい記述があると思えば、
13世紀で500万弱なんて記述もあります。

いくつかの数値から大体の傾向をつかみ、参考にするのは良いのですが
その数値が、あくまでも推測値であり、推測値を中心にして
どのくらいの誤差範囲があるかを考慮しておく必要があると思います。

500万でプラマイ100万の程度は余裕で誤差が混じっていると考えるのが妥当です。
200万の誤差があっても驚きません。
実際に研究者による推定でも、それぞれの研究者間でその程度の誤差は出ていますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

それ以前の人口100万人以前では、大まかな傾向以外、あまり意味はないでしょう。
349鹿島神流:2010/12/06(月) 16:09:20
>>347
なるほど。陳寿があえて意図的にやっていると。

あと倭人伝に関しては、よく話題になる >徇葬者奴婢百餘人 についても
考古学的には難しいところです。九州の墳墓には徇葬跡が確認されるもの
があると主張する方もいますが・・・。

>>348
>それ以前の人口100万人以前では、大まかな傾向以外、あまり意味はないでしょう。

これは認めますが、弥生末500万はないだろうということです。
350日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:10:00
>知る人ぞ知るで良いのでは?

そんな無責任な書き方で公の書に記すわけがなかろう。
誰にもわかる公の単位・共通語を使うだろう。
混乱を招いてどうする?
役人も馬鹿でないんだから。
351日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:13:43
この時代の平均寿命は40くらいかな。
352日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:18:18
>>349
>これは認めますが、弥生末500万はないだろうということです。

500万はわざと極論として上げましたので、自分でもそんなに多いとは思っていませんが
直感的には、100万に近いオーダーと考えておられるということですね。



353ローガン:2010/12/06(月) 16:24:35
>>347
>敢えて短い単位を使って距離を長く見せようとした。
> 判る人にだけ判ればよかったのではないか。

文帝紀延康元年十月「同律度量承土行大赦天下」
度は漢と同じくせよなので、陳寿が詔に反した記述をしたと??
354日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:27:49
>>350
>そんな無責任な書き方で公の書に記すわけがなかろう。
誰にもわかる公の単位・共通語を使うだろう。
混乱を招いてどうする?

それでは実際の距離と記事で大きな違いが出てくるのを何とも説明できまい。
355鹿島神流:2010/12/06(月) 16:34:29
>>352
個人的には、弥生末100〜200万程度かな、と思います。長くなりますが小川氏の推計方法
を載せておきます。

> 1. 遺跡数
時代別、地域別に遺跡数の分布を調べる。基礎資料として文化財保護委員会が昭和40年にまとめた
   『全国遺跡地図』(全47巻)が利用された。人口推計の対象とされたのは草創期と晩期を除く縄文早期
   〜後期の5期と、弥生、土師器の各時代である。地域は北海道・沖縄を除く、本土の九地域である(東北
   ・関東・北陸・中部・東海・近畿・中国・四国・九州)。
 
  2. 基礎人口
推計の基礎になる人口を土師器文化期(3〜12世紀)の中ほどにあたる8世紀に求める。選ばれたのは、
   澤田吾一が出挙稲をもとに推計した奈良時代の左右両京を除く良民人口(全国で約540万人)である。

   3. 集落規模
詳しい数量的データの得られる東京および関東地方の遺跡から各時代の集落規模(人口)を推定し、土師
   器文化期を1として比例定数を決定する。縄文早期は土師器時代の20分の1、縄文前期〜後期は7分の1、
   弥生時代は3分の1とされた。

4. 8世紀の集落人口
関東地方の土師器時代の集落あたりの人口を八世紀人口に対応させて計算する。
(943,000人÷5,549=170人)

5. 関東地方の人口
例えば関東地方の縄文中期人口は次のようにして求められる。

土師器時代の集落あたり人口(4)×比例定数(3)×縄文中期遺跡数(1)=
            170人  ×  1/7  ×  3,977  =  96,600人

6. 時代別、地域別人口
上のようにして得た関東地方の人口を基準にして、各地方と関東地方の遺跡数の比率から、時代別・地域別
   人口を計算する。
356日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:35:33
>>353
原点がわからないので、うかつに乗れないな。
その文の前後を読んだら、
全く逆の意味が書いてあったりしないだろうな?WWW
357日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:50:19
>>344
朝鮮半島は、漢が前108年から楽浪郡を置き支配してきたところだ。中国としては、
数百年に及ぶ支配の歴史を通じて、魏時代には朝鮮半島のことは十分に分かっていた
はずだよ。軍を派遣して公孫氏と戦った場所でもある。
その半島について、虚偽の数字を書いて朝鮮半島を大きくみせるなどということがで
きるはずはない。東夷には東夷の里があった。それはいちいち注釈をつけなくても当
時の知識人の間では容易に理解することができることだった。そう考えた方が合理的
だろう。
358日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:54:01
>>そんな無責任な書き方で公の書に記すわけがなかろう。
誰にもわかる公の単位・共通語を使うだろう。
混乱を招いてどうする?
>それでは実際の距離と記事で大きな違いが出てくるのを何とも説明できまい。

だから、情報不足だったんだよ。
簡単な事やん。


359日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:57:12
君が、陳寿が絶対に間違わない、と思ってるから何とも説明できなくなるんだよ。
人間誰しも間違うし、失敗するよ。
360日本@名無史さん:2010/12/06(月) 17:07:26
陳寿は晋の家来であって、魏の家来ではないのだが?
361日本@名無史さん:2010/12/06(月) 18:07:09
なるほど、
ローガン先生、
かっこ良すぎ。
362アク禁:2010/12/06(月) 18:24:35
>>244>>253 ヨコからですが
>古式新羅伽耶陶質土器

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835208&tid=a332a6dab8rbxc0ba4h53gol1b2c0b&sid=1835208&mid=12284
出処はこのへんなんじゃないかな?

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835208&tid=a332a6dab8rbxc0ba4h53gol1b2c0b&sid=1835208&mid=12404
からメッセージをさかのぼっていけば・・・
363日本@名無史さん:2010/12/06(月) 19:25:32
いわゆる大国として、奴国、投馬国、邪馬台国、狗那国?などがありますが
どのエリアを比定しますかね。

大雑把に10万〜30万程度の国が4つほどあるわけです。
奴国は福岡平野と決めてしまうと、後三つ。
それなりの面積を当てはめると、

筑後平野は、今福岡県と佐賀県に筑後川で分かれているように、
二つの国を当てる考えもありますし、まとめて一つかもしれません。

熊本平野は土地勘がないのですが、まとめて一つで良いのか。

後、筑豊もなかなか大きいですね。筑豊と遠賀川流域の
遠賀郡から北九州まで繋がってきますから、かなりの面積です。
宇佐神宮と宗像大社も関わってきますね。こちらは、
瀬戸内海文化圏との窓口でもあります。
364ローガン:2010/12/06(月) 20:13:27
>>356
>その文の前後を読んだら、
> 全く逆の意味が書いてあったりしないだろうな?WWW

はいどうぞ。
献帝伝曰…遂制詔三公:「上古之始有君也,必崇恩化以美風俗,然百姓順教而刑辟?焉.今朕承帝王之緒,其以延康元年為?初元年,議改正朔,易服色,殊徽号,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不当得赦,皆赦除之.」
365鹿島神流:2010/12/06(月) 20:29:55
>>362
これは・・・白井克也氏のHPからの引用だね。しかし、この白井氏自体が加美遺跡の三韓土器
(瓦質土器)の短頸壺と書いてるんだけど・・・。ちょっと資料不足でわからない。ただし、これは
古墳初期(3世紀代)に韓人が大阪まで来ているという畿内説にやや有利と捉えられかねない
ものなのでオミットしたほうがいいような。w 下のリンクは有用だよ。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html

366鹿島神流:2010/12/06(月) 20:48:41
>>363
これがなかなか難しい。ww この板の九州説諸氏は、糸島=伊都国を認めないで、
佐賀方面と考える人(縄文人や日向東遷厨?)もいる。だから、

>東南陸行五百里到伊都國 >東南至奴國百里

で、奴國の位置はさらに、佐賀方面の東南になる。(日向厨は最終的に南九州のも
ってくのだから当然か) 奴国=福岡平野とはすんなりいかないで、本来はここも
伊都国の位置比定に続いて議論になってよいところなんだな。
367日本@名無史さん:2010/12/06(月) 21:12:37
>>365

そう言えば楽浪土器が畿内から見つからないのは
畿内では楽浪と交流が無かった証拠で、
九州に有利になる。

日本で見つかる楽浪土器は半島で見つかる楽浪土器より
吟味して作られており、それ自体が商品価値の高い物で
あったようである。
畿内に邪馬台国があり、主導権を持っていたのなら
畿内から楽浪土器が見つからないのは不自然である。

368日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:04:42
>>366
>奴國の位置はさらに、佐賀方面の東南になる。
南九州説の場合、北九州は奴国、伊都国、不弥国、末盧国の4か国で埋め尽くす
んだよ。だから、奴国は筑後川の南側から玄界灘までつながっていたと考える。
筑紫=奴国だね。玄界灘沿岸の墓は奴国の墓でかまわない。魏使が訪ねたとき、そ
の奴国の王が佐賀の南東にいたというだけの話だ。
369鹿島神流:2010/12/06(月) 22:28:21
>>368
ふうん、なるほどねえ。とすれば南九州が北九州を強権支配か。・・・たしか上の小川案でも
南九州の方が人口が多かったはず。・・・弥生時代、北九州4.1万、南九州6.5万だね。
しかしこれは、他の九州説は異論があるだろう。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html
370日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:46:10
南九州には熊本が入っていますね。
熊本の弥生遺跡は多いでしょう。
それに宮崎の遺跡群もありますし。

遺跡の出土量からの算出ではそう出てもおかしくはありません。

ただ、個人的には熊本と鹿児島、宮崎がそう強いつながりがあるとは
思っていませんので、熊本は北部に入れたいですね。
371鹿島神流:2010/12/06(月) 22:55:56
>>370
>ただ、個人的には熊本と鹿児島、宮崎がそう強いつながりがあるとは
思っていませんので

当方は関東在住なので、正直九州の地理はうといです。この手の話は地形
がからんでくると思うので、おおざっぱに説明していただけたらありがたい。
372日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:33:41
>>370 >>371
九州は、山地で分断されている状況から、北九州、熊本、宮崎・鹿児島と三つに分かれるだろう。
したがって、南の宮崎・鹿児島と北九州が戦うときには、熊本がいずれの勢力下に入ったかと
いうことが大きなポイントになる。それで、熊本の免田式土器が鹿児島・宮崎からもでていると
ころをみると、熊本は南九州側についたのではと考えられる。そうであれば、南九州は鉄を手に
入れて北九州と戦う実力をもつことができたということになる。
女王国というのは、その熊本、宮崎、鹿児島が合わさった大勢力のことだろう。
ならば、万二千里から女王国が始まるというのが肯ける。
373日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:48:32
熊本南部、大分、宮崎、鹿児島は、九州山地の中の盆地に
小都市が収まっているという感じですね。
今でも陸の孤島いってもそう間違いではありません。
大軍を派遣するのはかなり困難な地形です。

広大な平地を背景にして成立した熊本が、
宮崎鹿児島の各小都市を掌握したというのは
あり得るかもしれませんね。

そうすると、南関あたりで、
福岡佐賀連合と熊本鹿児島宮崎連合の衝突か(笑)

なんせ「南関」ですから。
374鹿島神流:2010/12/07(火) 00:05:29
・・・大きな文化の流れはもちろん北から南なんだろうけどね。例えば花弁状住居が、
佐賀「西寒水四本柳遺跡」(中期前半)ー熊本「幅・津留遺跡」(中期後半)−南九州(後期)
と伝わってるような。しかし時間はかかってるなあ。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/20091030-OYS1T00341.htm

九州在住の人以外は大変かもしれないけど、地形・地勢から語るのは面白いかも。
375日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:25:44
>>373
逆じゃないかな? 宮崎・鹿児島は山地に強かったのでは。古代の戦いは攻める方に
有利で、守る方に不利だろう。山中を移動し、夜間襲撃して火をかける、守る方はた
まったものではない。そんなゲリラ戦のような戦いを想定している。
376日本@名無史さん:2010/12/07(火) 01:37:31
>>368
>だから、奴国は筑後川の南側から玄界灘までつながっていたと考える。筑紫=奴国だね。
>玄界灘沿岸の墓は奴国の墓でかまわない。
>魏使が訪ねたとき、その奴国の王が佐賀の南東にいたというだけの話だ。

ふむ。
では改めて貴殿に尋ねるが、それならば遺跡豊富な前原(現糸島市)の地域はいったい何国なのか?
377日本@名無史さん:2010/12/07(火) 01:57:36
>>376
奴国や伊都国をかなり広い国だったと考える。したがって、前原は奴国あるいは
伊都国の一部ということでいいんだ。九州は小国が統合されて三十国程度になっ
ていた。必然的に、一つの国はかなり広く考えなければ辻褄が合わない。
佐賀のあたりに王がいたとしても、その領土が玄界灘沿岸に達していて不自然で
はないってことだ。
378376:2010/12/07(火) 02:36:08
>>377
>したがって、前原は奴国あるいは伊都国の一部ということでいいんだ。

深夜の御回答には感謝する。
だが、前原は奴国/伊都国のどちらであるか──何故これを明示しないのか?
379日本@名無史さん:2010/12/07(火) 07:13:18
>>378
奴国かと思うが、伊都国又は不弥国の可能性も否定はできないからだよ。
380鹿島神流:2010/12/07(火) 07:41:02
・・・しかし倭人伝のクニというのは一郡程度(あるいはそれ以下)の大きさであると
解釈されることが多いのですが、この想定では現在の県規模になって定説とは異なり
ます。そのあたりのことを説明していただければ。
381日本@名無史さん:2010/12/07(火) 08:11:25
それは、北九州説をとった場合のことでしょう。南九州説は、倭の地を
九州全体とみます。そして、それを30国、合計15万戸〜20万戸と
みるわけです。大国は伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国。ほかは小国で
す。大国はかなりの広さを有していたからこそ、戸数も多いということ
です。郡や村を考えていたのでは、九州全体で30では到底すみません。
382日本@名無史さん:2010/12/07(火) 08:12:55
奴国は大国だからね。
前原から博多湾、有明海側までの領域があったかもしれない。
前原は奴国の墓域であって、国そのものではない可能性がある。
なにしろ奴国は漢の光武帝から金印を授けられた国だ。
383日本@名無史さん:2010/12/07(火) 11:24:52
30ヶ国とは楽浪郡に朝献していたクニの事で、朝献しなかった国の事は考えなくてもいい。
384日本@名無史さん:2010/12/07(火) 11:56:13
>>382
>前原は奴国の墓域

縄文人ですか?
385日本@名無史さん:2010/12/07(火) 13:39:35
行程がずっと九州近辺の話してるのにいきなり邪馬台国で奈良に飛ぶってのは訳分からんよね
直接行ってないってことでしょ?
386日本@名無史さん:2010/12/07(火) 14:09:13
ここでは奈良には飛んでないよ。
387鹿島神流:2010/12/07(火) 14:33:23
そうですね。このスレでは畿内説はないもの(あるいは大和=狗奴説などは可)として
話を進めましょう。もちろん東遷はOKでしょう。

例えば吉野ヶ里遺跡に見るように、当時の集落規模は何万戸レベルのものではありま
せん。吉野ヶ里歴史公園のHPでは、集落の人口を外環壕の内部におよそ1,200人、
吉野ヶ里を中心とするクニ全体で5,400人くらいと紹介しています。

邪馬台国の七万戸という数字を真とするならば、その大きなクニがどのようにして成り
立っていたのかを明らかにする必要がありそうです。ただあった、というだけではいつ
までも九州説は現実的なものにはならないのではないでしょうか。

388日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:37:03
戸数の問題に限れば、九州でも大和でも同じ
389日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:46:01
>>387
一つの集落がせいぜい数百戸というのはそのとおりでしょう。1か所に数千戸も
集まったのでは、食料・水の獲得、汚水、汚物の処理ができません。
ですから、五万戸の国、七万戸の国というのは、それだけ横の広がり、すなわち
領土が広いということです。領土内に集落が数百あれば、何万戸という戸数も可
能です。
390鹿島神流:2010/12/07(火) 16:06:24
>>389
ですから、その横の繋がりがあったという根拠と、多くの基点集落を統治するための
システムについての説明が必要です。これまでの九州説は、これらの実証をなし得な
かったと考えます。いつまでたっても大雑把な概念のみ先行し、誰しもを納得さしめる
ものとはなっていません。それでは現状は変わらないでしょう。
391日本@名無史さん:2010/12/07(火) 16:27:29
横のつながりがあったという根拠は、倭人伝が国々の大きさを示しているという
ことが一番でしょう。考古学的資料では、国の大きさは分かりません。文化的な
共通性とかをあげてみてもしょせん傍証にすぎず、決定的なものにはなりえません。
統治システムとかいっても、それは妄想、作文にすぎないでしょう。
信長が全国制覇を目指したときに、討ち滅ぼした相手や威光をおそれ従ってきた
相手がいたでしょう。いろいろです。何時の時代でも、それと同様に、領土を広げて
いったでしょう。それを資料がない状態で、あれこれ言ってみたところで、それは
実証とは言えません。
392鹿島神流:2010/12/07(火) 16:44:46
いや、倭人伝の根拠は倭人伝である、という論法はもう通用しないでしょう。それで、
九州説はこのような掲示板あるいは個人のHPでしか通用しないような現状に陥って
いるのです。
393日本@名無史さん:2010/12/07(火) 16:57:31
うーむ、統治システムの根拠ってのは、どんなもんが出れば
根拠になるんでしょうかね。

そういえば、7万戸の邪馬台国というのは
7万戸の中に30カ国あるのか、
7万戸はひとつの国で、5万戸や2万戸に加えて
複数の国で30カ国なのか。狗那国は入っていないでしょうけど。

数万戸クラスだと、30カ国は相当広域になりますね。
394鹿島神流:2010/12/07(火) 17:03:56
倭人伝に七万戸とあるから、邪馬台国は大きな国だ。倭人伝からは邪馬台国は
九州島内としか読めない。倭人伝にある七万戸を養うにはこの程度の面積が必要
だ。だから邪馬台国はここからここまでの範囲に違いない。

・・・このような論法はこれまでに数多く見られました。そして、そこまでです。実証が
ないために学会でも世間においても認証を得られないのです。このスレはそこから
九州説が脱却するためのものなのです。
395日本@名無史さん:2010/12/07(火) 17:04:46
倭人伝の根拠が倭人伝であると言っているわけではない。倭人伝に書いてあることが不
自然でなければ、倭人伝を無視する必要はない、倭人伝を信用して考えればいいというだ
けのことだ。今まで、七万戸は信用できないとかいうのは、やたら狭い範囲に七万戸が密
集しているような状態を想像して言っている、それは考え方がまちがっているよ、それに
気づけば、七万戸も何の不思議もないといっているだけだ。
396鹿島神流:2010/12/07(火) 17:11:04
>>393
七万戸というのは30国の総計人口ではなく、邪馬台国一国の人口を指してるのでは
ないでしょうか。

>どんなもんが出れば根拠になるんでしょうかね。

シャーマンである卑弥呼が統治者であるからには、邪馬台国内では共通した祭祀形態
が認められるのではないでしょうか。あとは、邪馬台国内における中心地への物資の集
積、中心地から辺地への共通した物品の分与、などが考えられます。
397鹿島神流:2010/12/07(火) 17:26:14
畿内説はこれについて、共通した祭祀は前方後円墳。物資の集積は纏向の外来土器等、
物品の分与は三角鏡、あるいは各地における畿内系の土器の出土と説明します。

むろんこれらはすべて虚妄なのですが(あるいは邪馬台国とはかかわりのない、プレ・ヤマト
王権の事績)、九州説においても、卑弥呼の鏡の種類、卑弥呼の鬼道の実態、都地と統治
形態、そして卑弥呼の墓、これらを実証的に明らかにしていく必要があるのです。

398鹿島神流:2010/12/07(火) 17:32:13
そしてその前段階として、九州説内での議論を活発化して、候補地を一つに
絞っていく必要があります。
399ローガン:2010/12/07(火) 18:31:05
>>394
このレスは、素晴らしい。
400日本@名無史さん:2010/12/07(火) 18:50:25
鏡の分与という視点なら、平原遺跡で方格規矩鏡が数十枚出てて、
他、佐賀など十ヶ所位から一枚ずつ出てる。

これは何らかの手段で入手した鏡を、近隣の国に一枚ずつ配り
王が死んだ時に、残りをまとめて埋葬したように見える。
鏡配布機関のような状況ですね。

墳墓の形状に関しては、あまり統一されてるようには見えませんねえ。
平原は方形周溝墓ですから。

大型内行花文鏡は国産ということなので、自作も始まっていたのでしょうけど
ほかは倣製鏡ではないようなので、国産に価値を認めなかったか、
交易で入手するのに困らなかったのでしょうか。


401鹿島神流:2010/12/07(火) 18:58:31
>>399
ありがとうございます。「倭人伝をそれぞれ素直に読んだ結果がバラバラの比定地か」
と、wwwジョーカーから揶揄される現状をなんとかしたいものです。

>>400
卑弥呼の鏡を後漢鏡と考えますか。安本氏などは「位至三公鏡」を候補としてあげて
いますね。ただし、この出土は福岡・佐賀が中心ですが。
402日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:09:17
九州説は生まれ変わるのです。
403日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:13:28
世間に納得させる九州説へ
建て直しだ!
404日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:15:01
正体は縦目か
405日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:17:24
>>401
>卑弥呼の鏡を後漢鏡と考えますか。

いえ、平原自体は卑弥呼の関係とは考えていません。
鏡配布機関のモデルとしてあげただけです。

他に、一箇所から多数出て、ほかからは少量しか出ない
ような鏡があれば、配布機関の存在が考えられます。
全部配ってしまって、自分のところはなくなってしまうことも
有りかもしれませんが。

位至三公鏡も可能性はありますね。結構大阪府とかから
出ていたと思うので、瀬戸内海文化圏まで範囲が広がってしまいますが。
でも、これ、奈良から出ていないらしいんだよなあ。
406鹿島神流:2010/12/07(火) 19:44:18
「位至三公鏡」を卑弥呼の鏡とすると、不思議なのは、宮廷の重職である三公
(魏代だと 司徒、司空、太尉か)に位が至るというような意味を持つものを、外臣
の王に与えたりするのだろうか、ということですね。ただまあ、中国人のやることは
けっこう不可解ですからねえ。

あとは、安本氏の唱える10種の魏晋鏡が卑弥呼の鏡であるとするなら、出土状況
から、福岡・佐賀以外には邪馬台国の可能性がなくなってしまう気がします。安本氏
自体は甘木・朝倉説であり、好都合なんでしょうが。
407日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:49:47
ローガンさん 

縦目から追い越されたんじゃない?



408日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:55:59
ε=ε=ε=ε=ε=(o゜―゜)oブーン!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・┏(>_< )┛ =з =з =з┏(>_< )┛ 
409日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:02:38
ん?鹿島神流さんは縦目じゃないの?
つか(もんた風) 結構くわしいよな
410ローガン:2010/12/07(火) 20:18:29
>>407
> ローガンさん 
> 縦目から追い越されたんじゃない?

私など、彼に比べたら、まだまだ。
つか、日本語でok
411日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:21:22
鏡配布機関としては、はじめは中国から入手したものを配布するとしても
やがて国内で生産できるようになれば、そちらに移行するのは明白です。
もっとも、だんだんありがたみも無くなって、扱いもぞんざいになってきますが。

国内で生産するとなると、鋳型が手がかりとなりますし、鏡配布機関と当然関係は深いでしょう。

あまり知らないのですが、春日から鋳型が出ていますね。吉野ケ里にもあるそうです。
あと、唐古鍵遺跡からも。

ちょっと調べてみましたが、春日と吉野ケ里の鋳型がなんの鏡なのかわかりませんでした。
412日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:26:08
>>410
あなたの言うとおりで、この人(鹿島神流)詳しいね。
それに縦目とは別人で、更に詳しい感じするゎんw
413鹿島神流:2010/12/07(火) 20:26:40
>>411
吉野ヶ里はこれでしょう。ややしょぼい感も。

http://www.gisiwajinden.com/newpage6.html
414日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:33:04
ローガンの言うとおりだゎんw

415日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:40:31
>>413
佐賀惣座遺跡からも出ているのですか。
結構あちこちから出ていますねえ。

たしかにちょっとしょぼい感が有ります。
劣化コピーでしょうか(笑)

平原の大型内行花文鏡は、倣製鏡ながら
オリジナルより大きく、日本人の好きな魔改造を
彷彿とさせるのですがねえ。

複数の場所で、鋳造されているということは
鏡配布によって、近隣の国を支配しようという
発想はなさそうですね。

中央集権国家にするつもりはなさげな感じがします。
416日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:40:38
九州説、鹿島神流さん

畿内説側の 改め、ローガン、ジョーカーの3人の内、
ジョーカーが相手してやろうw(パシリ、ジョーカー行けぇぇw)

あ、改めとローガンはパスでwww
417日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:42:20
>縦目とは別人で

まあプロレスラーの武藤敬司が顔にペイント施せば
別人のグレート・ムタってノリだなwwwwwwwwww
418日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:42:56
卑弥呼の時代は、邪馬台国は南九州にあった
そして、それから30年か40年後に大和に移住した
こう考えれば、考古学、文献、どちらでもすべてにちゃんと説明がつく
419日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:46:59
共立して、卑弥呼でまとまる、といった表現ですから
各国独立して、それぞれマイペースだったんでしょう。
ただ、互いに殺し殺されだと、被害も大きいので、
卑弥呼の名のもとで、休戦協定が結ばれた程度で。

卑弥呼の名のもとで、集権国家が成立したわけではなさそうです。
420日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:53:16
弥生時代の北部九州は、
九州説論者がみんなバラバラなように、
恐ろしいほど統一感がありませんね。

のちの中央集権国家でイメージするような
統治はされていない気がします。
421鹿島神流:2010/12/07(火) 20:58:32
>>417
こう言っては語弊もありますが、縦目氏は剣道のスポーツ推薦入学ですね。

上のリンクで面白いのは、小型?製鏡が永初元年(107年)の帥升朝貢の影響下に
制作されたものではないかと推測していることです。また、韓国慶尚南道でも同時期
の小型?製鏡が出土しており、帥升「等」には韓国南部の首長も加わっていたとも
とれることです。これはうがちすぎの解釈かもしれませんが、生口160人のすべてが
海を渡ったのではない可能性を示唆していると考えることもできるでしょうか。
422日本@名無史さん:2010/12/07(火) 21:13:00
縦目がパワーアップしてグレート縦目だぁ?

やつは来年3月までだったね・・・たしか
このまま、「卒業」させてたまるかってw
423鹿島神流:2010/12/07(火) 21:15:54
>>418
南九州は出土品での不利は免れ得ないと思いますが、ぜひ詳しく語ってください。
424日本@名無史さん:2010/12/07(火) 21:22:33
>>423
鏡などは、すべて移住するときに一緒に持ち去ったのだから、
出土品が少ないのは不自然ではない
425日本@名無史さん:2010/12/07(火) 21:22:55
>>421
帥升一行には半島の倭人も加わっていたということか。
倭国からの大船団ではなく、生口は半島調達かもしれない
というわけだな。この時節柄アブない解釈ではあるが。
426鹿島神流:2010/12/07(火) 21:47:52
>>425
いや、あくまでそのHP主の意図を憶測しているだけで、違うかもしれません。

>>424
南九州東征は、記紀を中心に見れば王道でしょう。神武については時期の説明はやや
難しいかもしれませんが・・・。ぜひどうぞ。
427日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:36:37
>>343
紹介感謝。しかし、井上先生、奇妙な解釈をしたものだ。

「あに常ならんや」はご承知のとおり反語表現。直訳すれば、どうして常のとおりでよいか、
よい訳はない、と訳すべきところだろう。井上氏は「常」を正しいと似た意味にとったのだ
ろうが、それでは、東夷伝を「正しいわけはない」と強調していることとなりおかしい。

筑摩書房の三国志和訳によると、当該部分は、「歴史の記述は、それぞれの時代に起こった
事を記録していくものであって、扱わねばならぬ対象が常に定まっているものではない」
(だから従来の史書が取り上げた両越や西きょうの伝をはぶいて烏丸・鮮卑・東夷の伝をた
てたのである)と訳している。それが正解だと思うね。
428日本@名無史さん:2010/12/08(水) 00:12:19
>>396
祭祀形態、物資の集積状況か。いくらか参考にはなるかも知れんが、あまりはっきりした
話にはなりそうにないね。畿内説論者がそうゆう主張をするが、だめなのと同じだ。
429鹿島神流:2010/12/08(水) 00:17:12
>>428
しかし、そうすると決定的な証拠が出るまで現状は変わりませんよ。
430日本@名無史さん:2010/12/08(水) 00:25:28
それは畿内説的国家観を求めているのと一緒。

そういう同じものがある可能性があるかどうかから考えたほうがいい。

九州説的国家観が合っても良い。
431鹿島神流:2010/12/08(水) 00:39:31
HPや掲示板で、宇佐、山門、西都原、甘木、小城甘木 w ・・・それぞれが自説を主張し合い、
畿内説批判を展開する。特にHPなど、こった作りで、微に入り細にわたって記述されている
ものが多い。中には地域興しを目的としたものもある。

悪い趣味ではないし、本人が楽しければいいようなものですが、しかしこのままでは九州説は
ひとくくりのものとしてしか見られないでしょう。妙な遠慮は捨てて、もともっと九州説どうしで
議論すべきと思いますね。そしてここは、そのためのスレです。・・・・祭祀形態や物資の集積
状況というのは一つの例であって、水掛け論をさけ、人を納得させるためにはやはり目に見え
る根拠が必要です。
432まあ予想通りの展開www :2010/12/08(水) 00:42:07
>>430
自分達が不利になるから、あれもいや、これもいや…じゃあ埒が明かんぞw

433ローガン:2010/12/08(水) 00:43:03
>>427
> 紹介感謝。しかし、井上先生、奇妙な解釈をしたものだ。

私もはじめ、あれっと思いました(笑)。

> 「あに常ならんや」はご承知のとおり反語表現。直訳すれば、どうして常のとおりでよいか、
> よい訳はない、と訳すべきところだろう。井上氏は「常」を正しいと似た意味にとったのだ
> ろうが、それでは、東夷伝を「正しいわけはない」と強調していることとなりおかしい。

その部分、後段に注が付いているのでコピーします。
『〔この魏の時代には〕東夷のことも〔記録される〕ようになった。
〔これら東夷の諸国からは〕通訳を伴った使者がやってくるようになった。
〔そこで、それらの使者の〕話に随って〔東夷伝〕を記述した。どうして〔これらの記事が東夷諸族の〕一般的な〔事情を伝える〕ものといえようか。(東アジア民族史T平凡社)』(コピー終わり)
という解釈です。

> 筑摩書房の三国志和訳によると、当該部分は、「歴史の記述は、それぞれの時代に起こった
> 事を記録していくものであって、扱わねばならぬ対象が常に定まっているものではない」
> (だから従来の史書が取り上げた両越や西きょうの伝をはぶいて烏丸・鮮卑・東夷の伝をた
> てたのである)と訳している。それが正解だと思うね。

どうでしょう?烏丸鮮卑伝序文、東夷伝序文にそれぞれ、伝をたてた理由は記述済みなんだけど…
はじめは奇異な感じがしたけど、今はその解釈が正解だと考えます。
434日本@名無史さん:2010/12/08(水) 01:31:20
予想通りの展開………まあそうでしょうね。
過去に何度か繰り返されてきた展開です。

そして、アプローチは違えど、
なぜ不思議といつも同じような展開になるか、考えてほしいものですね。
435日本@名無史さん:2010/12/08(水) 08:12:16
倭人伝に出てくるそれぞれのクニの位置だが、大まかな境界は変わらないとしても、
それぞれの中心部はせいぜい10年か20年で移転していたと想像する。
ある一定の場所に、何千人かそれ以上、万単位の人間がずっと暮らし続けるのは、
当時の衛生面を考えると、不可能に近いだろう


436日本@名無史さん:2010/12/08(水) 08:13:42
>>434
> なぜ不思議といつも同じような展開になるか、考えてほしいものですね。

それを考える頭があったら九州説なんぞ相手にせんじゃろ
437日本@名無史さん:2010/12/08(水) 08:19:23
>>426
卑弥呼=天照大御神だろう
これは日食の時期と天岩戸神話の繋がりである
3世紀後半はニニギ、海幸山幸、400年前後が神武東遷の時期だと考える
4世紀前半が崇神、四道将軍、ヤマトタケル、
4世紀後半が神功皇后、応神だろう
438日本@名無史さん:2010/12/08(水) 08:26:58
400年前後って、あと1年で5世紀だよ。
439日本@名無史さん:2010/12/08(水) 08:55:53
>>438
書き間違った
400年じゃなくて、「300年前後」です
年数は多少の幅はあるでしょう
440日本@名無史さん:2010/12/08(水) 16:12:08
>>429
南九州に広大な領土をもつ国があったということが認められないというのかな?
今までも、南九州は熊襲の国とかいって大きな国が存在することは認めていた
だろ。北九州説は狭い範囲に30国(投馬国を南にもっていく説もあるが)を
押し込めようとするから郡ぐらいとか村ぐらいとか言ってきたのであって、祭祀
形態とか物資供給の観点から大国の存在を否定してきたわけではない。
441鹿島神流:2010/12/08(水) 19:17:41
>>440
>熊襲の国 これは、民族的な区別を言ってるのではないかと思うけど。大和朝廷
から見て、熊襲という異人が住んでいる地域ということ。熊襲自体はたくさんの部族に
分かれていたでしょう。だから、大きな国があったということを単に熊襲という言葉だけ
では説明できないと思いますね。

>>437
247年、248年の日食は、九州以外でも見えたでしょう。しかも皆既にはならなかった。
とすればそれほど珍しいことでもない。南九州には天岩戸伝承があるけど、他地域に
もある。そもそも高天原ー天上界の出来事ですね。

あとは、300年頃を神武天皇として、4世紀前半が崇神とすれば、欠史八代の存在を
認めない立場ということになりますね。

http://astro.ysc.go.jp/HIMIKO/index.html



442日本@名無史さん:2010/12/08(水) 19:35:08
>>441
でも、神武は人間なんだから、神武が九州にいたのなら、
その祖先も九州にいたと考えるのは自然でしょう

欠史八代の扱いはそれほど重要なこととは考えていません
ただ、全くの創作ではなく、すべて父子ではなくとも、
何人かは兄弟や叔父甥も付け加えられたのではないでしょうか
443鹿島神流:2010/12/08(水) 19:47:18
>>442
>その祖先も九州にいたと考えるのは自然でしょう

祖先といっても日向三代まででしょう。邇邇藝命が筑紫の日向の高千穂の
久士布流多に高天原から降臨したはず。

このリンクを読んでみることをお薦めします。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040626.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040703.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040717.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040710.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040724.htm
444日本@名無史さん:2010/12/08(水) 19:54:29
>>443
神話の中身は概略知っています
ですから、人間の祖先が天から降りてきたわけではないでしょう、ということです

445鹿島神流:2010/12/08(水) 20:17:11
>>444
よく意味がわからないえど、神武は人間を治めるために遣わされた神の子孫という
ことでしょう。

あと、天孫降臨説話については、本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の
都合で九州南部に説話自体が移植されたとする説があります。古田氏は、福岡県の
日向峠を伝説の舞台としていますね。

私見をいえば、高天原がどこかとか、天孫降臨の地はどこかなどのことはとうてい答え
の出る問題ではなく、何かを説明するための根拠にはなりにくいと考えます。
446日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:24:42
南九州勢力の熊襲ですが、
鹿児島だと隼人ですね。

あのあたりには、盆地が点在していますから、
それぞれに勢力があって、熊襲、隼人への合従過程に
あったのではないでしょうか。

それとも、熊本が狗那国、熊襲
鹿児島宮崎が日向、隼人
でしょうか。
447日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:31:20
>欠史八代の扱いはそれほど重要なこととは考えていません
ただ、全くの創作ではなく、すべて父子ではなくとも、
何人かは兄弟や叔父甥も付け加えられたのではないでしょうか

日本書紀を信用しない、というのもどうか?と思います。
嘘の系図をあれだけ詳しく書くでしょうか?
父子継承は記録の通りあったと見るべきでしょう・
貴方の年代観の方が失敗しているのです。
記録をもっと信用しましょう。
神武天皇の紀元前660年即位も嘘とはいえない、と思います。
日本書記否定派と話してもしようがないけど・・・。
日本書紀肯定派より。


448日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:31:34
福岡の日向峠はヒナタ
宮崎の日向はヒムカ
ですね。

神武絡みなら途中の宇佐に寄っていますから
宮崎の日向の可能性が高くなります。
瀬戸内海視点で見れば、北東の端の畿内と
南西の端の日向ですね。

直線距離なら、北部九州のほうが近いのでしょうけど
九州山地がありますので、船が使えれば
瀬戸内海文化圏のほうが近い関係にあると思います。

後、自分は442、444氏ではありません。
449日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:41:42
神話の中身は概略知っています
>ですから、人間の祖先が天から降りてきたわけではないでしょう、ということです

天から降りた、という事にならなければ神話にならないと思います。
神代の事だから神話でしょう。
人代の時からが人間でしょう。

ま、一般的には、現人神というのですが。
天皇が神の子孫だからこそ、古代日本は纏まっていたのですよ。諸豪族も仕方なくも納得するのですよ。
争いも減るのです。
天皇がただの人間じゃ、政治的にまずいのです。だから、天から降りた神にされたんです。



450:2010/12/08(水) 20:43:12
ここの話題は「日向」かな?
丁度良かった〜鷲崎サイトに以下の投稿があったのでハッキリさせたいところだった。

>日向宮の場所を教えて下さい 2010/11/21 08:15 >>68
> あらためさんの久し振りの迫力ある文章を拝見。下記を教えていただければ有り難い。
>こちらは単なる素人の考古学フアンです。
>並都於筑紫日向宮」・・・
>筑紫の日向宮とありました。とても興味をひく内容ですがご教示下さい。
>場所は福岡市の高祖山連峰のクシフルのふもと付近にある日向地域のことを指しているのでしょうか。
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=79
451日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:45:54
神話の舞台としては、
南九州の日向の山間部の方が相応しいでしょう。
わざわざ、北部九州にもっていかずとも・・
452日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:52:55
実家が高祖山のふもとだ。w
しかし、あのへんに日向宮と呼べるものはないですねえ。
そりゃ、ほこらみたいなのは無数にありますが。

ある程度の規模の古そうな神社なら、
高祖神社か、飯盛神社かな。

飯盛神社は吉武高木遺跡の近所ですね。
高祖神社は、まあ平原とか曽根遺跡群とか
453日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:53:01
書記をどう読んでも、南九州の日向でしょう。

大体にして、神武天皇は日向を出発して九州と四国の間の海峡を渡ったと書いてるやん。
ウガヤフキアエズの墓だって吾平山上にあると書いてるやん。
なにゆえ、記録に反する北部九州が出てくるのか??わからん。
454鹿島神流:2010/12/08(水) 20:55:29
景行紀に、熊襲を「衆類甚だ多し。是を熊襲の八十梟帥と謂ふ」とありますが、これは多くの
部族に分かれていたという意味でしょう。

古墳時代のことになりますが考古学的にはこんな感じで、前方後円墳のあるところが、早く
にヤマト王権と結んだ地域。

http://uproda.2ch-library.com/321386i5v/lib321386.bmp
455:2010/12/08(水) 20:56:36
>書記をどう読んでも、南九州の日向でしょう。

でも、縦目君は日向を「福岡県の日向峠を伝説の舞台」地と考えてるみたいだよ?
縦目君、反論して下さい!w
456鹿島神流:2010/12/08(水) 20:59:41
>>447
>神武天皇の紀元前660年即位も嘘とはいえない、と思います。

私はこの派ですね。橿原には橿原遺跡という縄文晩期の遺跡があって、東北地方
の影響の強い土器が出ています。いずれ、弥生時代に入って、水稲耕作の伝播と
ともに、この人たちが北に追いやられたなどの文化の切り替わりがあったと考えます。
神武東征伝説というのは、あるいはそれらのことを指しているのかもしれません。
457:2010/12/08(水) 21:03:54
>あとは、300年頃を神武天皇として、4世紀前半が崇神とすれば、欠史八代の存在を
>認めない立場ということになりますね。

>>神武天皇の紀元前660年即位も嘘とはいえない、と思います。
>私はこの派ですね。

あら、貴方はどっち派なんでしょうね?
行ってることが矛盾してませんか?
458鹿島神流:2010/12/08(水) 21:08:31
>>455
縦目先輩ではありません。別に福岡とは考えていません、というか神話を史実として
扱ってもしょうがないという立場ですね。

ただし、天孫降臨伝説は伽耶神話の亀旨(クジボン)峰への天の卵の降臨の説話との
類似はつとに指摘されていますね。この神話が伝わったとして、それは北九州のほうが
早かったとは思いますけどね。
459日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:11:27
まぁ、神武天皇から前の王の系図が残されていなかった、だから神武天皇が東征した事になっているのかもしれません。
しかし、文字はなかったけど年数だけは記録できていた、だから祖先の移住を始めた記念すべき年を数え直すと紀元前660年になってしまったのか?

天皇が西から来た、という伝承があったのか?
九州の天孫降臨神話に無理に繫げたのか?

いずれ、これは、安本さんのいうような邪馬台国東遷とは全く関係ない、話だと思います。
真相はわからん。
460鹿島神流:2010/12/08(水) 21:30:43
>>459
前述の橿原遺跡は、前7〜6世紀頃のものといわれてます。戦前の調査なので
はっきりとはしませんが、樫の木の大樹根がいくつも掘り出されたという話もあります。
前7世紀頃の記憶が伝わって記紀に書かれたとは思えませんが、縄文系の人々から
弥生系へ切り替わっていったことの記憶というのは、考えられなくもないかと。

http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/kashihara.html

この橿原遺跡で興味深いのは橿原式土偶といって、消化器官(腸など)を表現した土偶
が出てることで、これは縄文晩期の人々が解剖学的知識を持っていたということができま
す。あるいは人肉食の可能性も・・・。そういえば、綏靖天皇が1日に七人の人を喰ったとい
う伝承もありますね。・・・いや冗談です。
461日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:31:00
日向国風土記逸文
薩摩国風土記逸文

に天孫降臨神話らしき事書いてるけど、
さて、古事記編纂時よりも古い伝承だったのか?
古事記編纂後に出来た伝承だったのか?

もちろん、仏教用語が目立つ薩摩国風土記逸文
は古事記編纂時よりも新しい記録だと思うけど。
鎌倉時代の頃か・・・。

462鹿島神流:2010/12/08(水) 22:04:11
ただまあ、南九州東遷説の人が言う、天照大神=卑弥呼+台与というのは、
なかなか魅力的な仮説ではある。

天岩戸に隠れる以前が卑弥呼であり、出てきたのが台与。そこに男性の
後見者である、高木神がからむ。いかにも史実と付合するような印象を与え
るのは確か。ただ、天照大神と伊勢神宮についてもいろいろと調べたけど、
確実な資料が少なくて、遡るのが難しいんだよね。
463鹿島神流:2010/12/08(水) 22:28:38
神話学は素人もいいところなんだけど、記紀以前のアマテラスというのは難しい。
アマテラスが朝廷で祀られるのは奈良時代までなかったようだし、「延喜式」の祝詞
にもほとんど登場しない。天武・持統帝の頃に伊勢神宮の祭祀の活発化が図られて
いる。

それに対し、タカムスビ(=高木神、神の依ります神体木・神籬の神格化?)は大嘗祭
の斎場に祀られる八神殿の主神であり、農耕神としてアマテラスよりも原初の神であり
元々の皇祖神であった、という説があって、これもなかなか説得力がありますね。
464日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:55:03
吉武高木遺跡の近所の飯盛神社
そこに祀られている玉依姫って
フキアエズの奥さんで、神武天皇の母親って
書いてあるね。
465日本@名無史さん:2010/12/09(木) 00:35:16
今日のゴッドハンドスレはここですか
466日本@名無史さん:2010/12/09(木) 10:03:45
>>441
熊襲の国こそ狗奴国だという説があるのをご存じなかったですか。

で、あなたは九州に何カ国あったと考えているのですか?
467日本@名無史さん:2010/12/09(木) 11:18:37
>天照大神=卑弥呼+台与

書記では神功皇后が倭の女王って話になってなかった?
どこから、天照大神=卑弥呼+台与が出てくるのか?
日向が北部九州にしたり、欠史八代の親子継承を否定してみたり、
どうも九州説は、文献を捻じ曲げる解釈の傾向なんだよな。
これだったら、まだ、畿内説の方が文献に忠実だよ。
468日本@名無史さん:2010/12/09(木) 11:21:14

トヨタン・・・・・・・・・・
 
469日本@名無史さん:2010/12/09(木) 12:43:11
どこをどうやって解釈すれば、神功皇后と卑弥呼が一緒になるのか、
さっぱりわかりません
470日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:00:43
>>467
北九州説が無理な解釈をしているんだね。
471日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:03:43
広開土王碑により、391年に大和は朝鮮に侵攻した
それが神功皇后の三韓征伐である
従って、神功皇后は4世紀後半の人物である
472日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:37:40
と言ってみたところで、391年に大和が朝鮮に侵攻したとか、それが神功皇后
だという証拠はまったくない。
473日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:47:54
北部九州の神社で神功皇后を祀っている神社が結構あるが、
ほんとにそういう人物がいて、由緒があるのか、
記紀を根拠に新たに合祀されたのかよくわからん。

佐賀の與止日女神社の與止日女は神功の妹さん
香椎宮は旦那の仲哀
宇美八幡宮は子供生んだところ。

いろいろとストーリーになってる。出来すぎのような気は
しなくもないが。
474日本@名無史さん:2010/12/09(木) 14:13:04
倭王武の上表文「渡平海北九十五國」
日本書紀の神功皇后の三韓征伐
広開土王碑
これらによって、4世紀に大和政権が朝鮮を支配下に置いていたことは
絶対的な史実である
ただし、これらの史実は邪馬台国、卑弥呼とは直接関係がない
475日本@名無史さん:2010/12/09(木) 14:27:10
>>474
甘いねえ。倭王武は、言うまでもなく倭国の王だ。
旧唐書によれば、倭国と日本国は別の国。倭国は九州であり、日本国は
本州にあった国。大和政権と倭国王とは無関係。
476太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 14:30:14
当時の日本は大陸が鼎の三分支配の3極であったように畿内と九州との
二本立て〜2極支配が大勢であったもので、これをよく考えて日本古代史を
研究すべきだろう。3極とは魏、蜀、呉のこと。
477鹿島神流:2010/12/09(木) 14:46:18
>>476
太国さんが倍暦について考えるようになったきっかけは何ですか?

>>466
知ってますが、南九州はまとまりなく小集団乱立の状態にあったと考えます。
478日本@名無史さん:2010/12/09(木) 14:48:13
倭の五王も遣宋使やってたはずなんだけど
記紀には記録ないよね
479日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:55:39
>どこをどうやって解釈すれば、神功皇后と卑弥呼が一緒になるのか、
さっぱりわかりません

誰が卑弥呼といった?卑弥呼の名は書記にはないよ。
日本書紀の記事を正確に引用しただけだよ。だって事実だろ。
480太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 18:00:02
>>477
>きっかけ・・・
古神道のウラゴト(卜事)に熟達して来た数年前、これに関わる紀の記述
での古代天皇の超長寿を深く考えるようになったことから、こんな長くは
現実を考えて生存できないだろうと思ったもので、どうしてなのかを色々
と思い巡らす中から、当時2倍年暦をやってたんではないのかと調べ始め
たことからですね。

合理的考察を重視したとき、唐松山の言うマシ、多大の空白年は紀での該当
記述箇所が見当たらず、これは成立しないとさらなる確信から、ますます
倍年暦法の合理的妥当性を信じるようになったものです。世界の古今の暦法
を調べるに、古代南バニロニアでの2倍年暦とか現今ではバリ島の1.7倍暦
のウク暦など各種倍暦が存在しています。
481鹿島神流:2010/12/09(木) 18:03:50
>>480
ふうむ。しかし、ずっと倍暦で記されているわけではないでしょう。どの天皇まで
ですか?
482太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 18:05:38
そのとおりです。宣化の代が境ですね。率直に言えば佛伝の所です。
483太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 18:08:35
>>480 訂正
× 南バニロニア
○ 南バビロニア

>>481
佛教伝来で、大陸の暦法が日本でメインとなったと観ています。
484鹿島神流:2010/12/09(木) 18:11:25
>>483
それは、記紀の原資料が倍暦で記されていて、記紀編者はそれを知らない、
ということですか。それとも知っていながらあえて統一していないということ
ですか。
485太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 18:19:40
>>484
恐らく直接編纂に従事した連中は、倍暦のことを知らなかったと観て
います。神功39年に卑弥呼の記事を挿入してることが、未知だったと
思えるということです。このため大陸と日本との年代差が120年とか出来て
しまい、年代の断層があるため、〜たとえば欠史八代の史実が殆ど欠けて
いるのは、大陸と畿内との年代差の調整がどうしても出来ず、掲載を保留
したんだろうと考えられます。

夕食なので後刻に・・・。
486日本@名無史さん:2010/12/09(木) 18:39:39
>>480

× 古神道のウラゴト(卜事)に熟達して来た数年前、

○ 古神道のタワゴト(卜学)に熟達して来た数年前、

487鹿島神流:2010/12/09(木) 18:51:58
>>485
なるほど、ありがとうございました。
488日本@名無史さん:2010/12/09(木) 18:57:32
>>458 鹿島神流
>縦目先輩ではありません。

縦目の荒廃か…

剣道の古流派をハンドルにするし
考え方も似ているし縦目の別ハンだと思ったがw

いっそ二代目縦目仮面を襲名してはどうか?w
その方が縦目も草葉の陰で喜ぶだろうwwww

まあ考え方が似ているのは当たり前でそれは何もリアルで面識がある、付き合いがあるからと言うだけではなくて
一種の『収斂進化』で行くつくところは同じになるというお話w

ここの畿内説の人間とて最初は九州説からスタートしたなんて普通にいるだろうしwww

「祭祀形態」「埋葬文化」の共通性「青銅祭器・威信財」の分与・分有…等々のお話は
要するに考古資料を如何に扱うかと言う事だがこの時点でここの九州説の連中は拒絶反応を起こすのが常w

恐らく連中にとっての魅力の一つ際限が無いような自由度が阻害されるからだろうwwww

荒廃君が一体この板の過去のやり取りを何処まで認知していて話を進めているのかは知らないが

…もう既視感 2万%と言うかwwwwwwwwwwwwwww
489日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:00:15
派閥(スクール)があると思われてもしかたあるめい
490ローガン:2010/12/09(木) 19:08:05
>>488
>ここの畿内説の人間とて最初は九州説からスタートしたなんて普通にいるだろうしwww

私は、九州王朝説でした。
491鹿島神流:2010/12/09(木) 19:08:33
>>488
中国専攻ではないので、縦目を名乗ってもしょうがないです。それに私は九州説です。
前に、これと似たスレで「半島の倭主導東遷説」を書きましたが、そのときも縦目氏と思
われました。

>自由度が阻害される

これは不思議ですね。真実を知りたいという欲求はないんでしょうか。いくら頭の中で
面白おかしいお話を組み立てても、明らかに相反する考古学的な事実があればそれ
までではないですか。
492日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:21:03
>>490 老眼翁
>私は、九州王朝説でした。

ええええええっ!
いや九州説だったというのは記憶にあったが、九州王朝説だったとは!

良く更生できたなwwwwwwwwwwww


>>491 鹿島神流
>それに私は九州説です。

こりゃ失礼。

まともなと言うかリアルでも通用しそうな九州説と言うのは
ここじゃあ超がつくぐらい希少価値だからなw

まあ頑張ってくれwwwwww
493鹿島神流:2010/12/09(木) 19:26:23
>>489
派閥・・・私へのレスでしょうか。私の大学の先生たちは、歴博年代観には懐疑的です。
494日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:47:06
>>475
旧唐書を持ち出すのなら、自分に都合のいい部分だけを書き出さないこと!

「日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、」
495日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:55:36
「東は毛人を征すること、五十五国。
西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

追加
倭王武が、九州だけの倭国王だとすると、上表文にある「東の毛人、西の衆夷」
の記述が説明できない
素直に読み、かつ合理的に考えれば、倭王武は大和朝廷である
496日本@名無史さん:2010/12/09(木) 20:01:49
>>479

>日本書紀の記事を正確に引用しただけだよ。だって事実だろ。

はて、どこに日本書紀の記事を正確に引用しているのやら??
さっぱりわかりません
497ローガン:2010/12/09(木) 20:48:55
>>492
>良く更生できたなwwwwwwwwwwww

学生時代ですよ。麻疹にかかったようなものだから。 あれは、インチキだと気がついた。
498鹿島神流:2010/12/09(木) 21:14:46
旧唐書に関しては、現王朝が白村江で唐と戦った王朝と同じ系譜なのか、違うのかを
日本側がごまかそうとしてるんだと思いますけどね。それでああいった記述になった。

>其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
(その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国これを疑う。)

これが、ごまかそうとしている姿 w うがったことを言えば、日本書紀で壬申の乱の「虎に
翼を着けて放てり」などの記述も、中国の王朝交代に真似て、国家主体が変わったように
見せかけているのかもしれない。ちなみに、この「虎翼」の語は「韓非子」「後漢書」などに
出てくる。
499太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 22:01:09
>>495
具体性がない説明だな。
500日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:17:07
>>495
>倭王武が、九州だけの倭国王だとすると、上表文にある「東の毛人、西の衆夷」
>の記述が説明できない
東の毛人は本州のこと、西の衆夷は九州の西、すなわち熊本、佐賀、長崎などの
ことだろう。
渡りて海北が朝鮮。朝鮮の南にあるのは九州島だ。
501鹿島神流:2010/12/09(木) 23:20:56
>>500
ははあ九州王朝ですか。ここは九州説スレなんで、どんどんやってください。

502日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:21:47
>>495
旧唐書は倭国を書いてあるブロックと
日本国を書いてあるブロックがあるんだから
日本国ブロックを引用すれば、そりゃ日本国側の記述だろ。

明らかに記述が違うので、倭国と日本国が別なのがよくわかる。

改め氏より
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm
503日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:33:42
>>501
九州王朝説というのは、北九州に王朝があったというんだろ?
しかし、それなら南を征服したことも書いてないとね。上表文には
南のことはない。王朝が南にあったからだよ。
504日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:37:25
>>494
その部分が九州=倭国という考え方に何か都合が悪いとでも?
505太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 00:11:09
古神道の卜事(ウラゴト)の一端→天津神算木(天津金木)とは、真の年代
を教える古代人からの贈り物たる天下の宝器なり。
天津神算木とは三輪(半径r=3)の円の球化の体積=表面積の数式をいう。
大祓祝詞に曰く
 大中臣 天津金木を本打ち切り、末打ち断ちて

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき乗)

これを分断し

 3≠113.097335

右辺から  1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)  を得る。
3倍年暦にちなみ、右辺の数列を3分すれば 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年の示唆で除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引数 335年

-97+335=238年 だが、西暦0年を無とする為、右辺は1年マイナスとなる。
ゆえに真の年代

 238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

が得られた。ウラゴト(卜事)はタワゴトに非ず。
506鹿島神流:2010/12/10(金) 00:40:56
>>505
太国さんは大石凝翁と何か関係がありますか?あるいは誓火によって片腕を失った
太玉太観と?
507日本@名無史さん:2010/12/10(金) 08:41:24
>>500
つまり、九州に本拠を置いていた倭王武は、大和政権を支配下に置いていた倭国の支配者ってことか?
508日本@名無史さん:2010/12/10(金) 08:54:42
それにしても、天皇陵の発掘調査を認めない宮内庁の考えには、本当に腹が立つ
どれだけ時代遅れなのか!!
「墓誌が出ない限り、指定を改める気はない」だと??
ふざけるな!!
そんな屁理屈を言うなら、墓誌が出ていないにもかかわらず、勝手に天皇陵に指定するな!!と言いたい2x@:.u、
あいつらのせいで、どれだけ古代史の解明が遅れているのか、何もわかっていない
大体、誰の墓かもわからないのに、勝手に決めつけていること自体が、真の被葬者に失礼だとは
思わないのか!!
あれは国民の共有財産である
宮内庁は断固、非難されるべきである

509日本@名無史さん:2010/12/10(金) 09:43:10
>>507
そうゆうこと。隋書だって、筑紫の東は倭の付庸国だって書いているだろ。
510太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 09:57:38
>>506
とりわけ、ご両人には有関係ではないです。大石凝翁のもう片方の極
たる小笠原孝次氏とは生前1回お話にうかがったことはあります。
511日本@名無史さん:2010/12/10(金) 09:58:43
>>509
ふーん、7世紀の初めの聖徳太子の時代にねぇ??
つまり、その頃にも強大な九州王朝があって、飛鳥の蘇我馬子や聖徳太子を
支配していたって言うの???
512日本@名無史さん:2010/12/10(金) 10:16:19
でなければ、旧唐書のような倭国と日本国を対比させる書き方はできない
だろう。隋使が訪ねた倭王は男だったろ?
513日本@名無史さん:2010/12/10(金) 10:50:50
大和朝廷が自他共に稼動し始めるのは7世紀後半からだからな。
それ以前の遣隋使については、中国側と日本書紀との間で色々と矛盾がある。
日本書紀で大唐国と間違えた箇所もある。

どうも、書記編纂の際に資料がうまく入手できなかったようだ。
514日本@名無史さん:2010/12/10(金) 11:42:29
太国はうざい!
現巻向周辺発掘状況からして、
箸墓築造年代はもはや否定できないだろうに。

これで、君のインチキ倍暦は終わり。
515日本@名無史さん:2010/12/10(金) 11:58:03
>>513
朝廷で百年、二百年前の資料が入手できないなんてことはないだろう。
いろいろ、間違えたふりをしたってことじゃないかな。
516日本@名無史さん:2010/12/10(金) 12:58:42
「西は衆夷を服すること六十六国。」
倭王武が、九州だけの倭国王だとすると、
66もの国がそれより西のどこに存在していたんだろうねぇ??




517日本@名無史さん:2010/12/10(金) 13:21:16
倭国が九州とすれば、旧百余国から三十国になったということは七十国が征服されて
消えたということだろう。邪馬台国が東ならば、その消えた国々は西にあったと考え
ていいんじゃないかな。
518太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 13:58:12
>>514
どう否定出来ないのか??
具体性がまるでない。w
519日本@名無史さん:2010/12/10(金) 15:02:28
屁理屈をこねる奴が大杉
真面目に論じるのがバカらしくなってきた
520日本@名無史さん:2010/12/10(金) 15:43:08
>どう否定出来ないのか??

箸墓築造は3世紀半ばで決まりさ。測定値から割り出し短たんだからしょうがないだろう。
4世紀に持って行こうとしても無駄。
九州説は縄文人と一緒に心中しなさい。
521ローガン:2010/12/10(金) 16:31:51
異伝を幾つも記述した上で、『故中國疑焉』などとする旧唐書の、都合の良さそうな部分のみ切り取って論じるても駄目。
その点、通典は明快。「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」 倭=日本。
522ローガン:2010/12/10(金) 16:35:47
>>520
太国さんは、歴博の出した年代に賛同しているようですよ。
なんか、倍暦と合うらしくて…
523鹿島神流:2010/12/10(金) 16:44:15
歴博のC14は、あんなピンポイントで何かが言えるとは思えないけどねえ。
誤差20年あるだけでぜんぜん違ってくる。

ところで九州説ないでも、東遷と九州王朝ではまったく異なる立場だと思う
けど、この二つで議論が活発化するということもないですねえ。
524日本@名無史さん:2010/12/10(金) 16:56:12
8世紀後半に書かれた通典が明快な結論を出していて間違いないなら、10世紀前半に
書かれた旧唐書があれこれ異説を書くわけはないね。
通典の結論がおおざっぱでだめだから、旧唐書は苦労して説明したのだろう。
とにかく、旧唐書において、倭国として説明されているのが九州で、日本国として説明
されているのが本州の話であることは明白だ。
525日本@名無史さん:2010/12/10(金) 17:03:43
>>524の続き
旧唐書があれこれ異説を書いているのは、九州にあった倭国と本州に現れた日本国が
同じものなのか(倭国が東遷したものか)、それとも全く別の国なのか、がはっきり
しないからだ。倭国が大和にあったかどうかを迷ったわけではない。
526日本@名無史さん:2010/12/10(金) 17:34:09
倭國は古の倭奴國なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、
山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中國と通ず。
 其の國、居るに城郭無く、木を以って柵と爲し、草を以って屋と爲す。四面の小島、
五十餘國。皆、(こ)れに附屬す。

日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。
故に中國、焉れを疑う。
 また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、
東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。
527日本@名無史さん:2010/12/10(金) 18:02:41
>太国さんは、歴博の出した年代に賛同しているようですよ。
なんか、倍暦と合うらしくて…

??
太国は九州説じゃーなかったのか。
なんで歴博のお味方してるんだよ?

528日本@名無史さん:2010/12/10(金) 18:09:25
だって、普通、おかしいだろう…
九州説が、歴博の出した見解を、逆に自分の論説の根拠にするなんぞ?
529太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 18:09:59
>>520
だからどうしたというんだい? こちらもどうってことないよ。
530日本@名無史さん:2010/12/10(金) 18:28:03
どうって事ない、っていわれても…
俺も困るだろう。
あしからず。
531日本@名無史さん:2010/12/10(金) 19:55:11
日本のことについて、8世紀に出来た日本書紀よりも、
10世紀に出来た旧唐書を信じるなんてアホ過ぎ
532日本@名無史さん:2010/12/10(金) 20:01:22
都合の悪いものは見えませーん。
533唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 20:06:28
>箸墓築造は3世紀半ばで決まりさ。
しかしここに崇神を持ってくると、任那建国が無くなる。
纒向遺跡を3代で説明するためには、崇神、垂仁、景行のうち、景行=箸墓となる。
箸墓は箸陵の誤り。
崇神は、209年伽耶建国=任那建国へ。

>「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」 倭=日本。
魏書に書かれた倭王は、後の日本(大和)にいる。

>日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
魏書倭王、大倭は伊都国(女王国傘下)に1大率を置く。
日本(大和)は舊(もと)小國にして倭國(北九州女王国)の地を併せたりと。
九州倭国は女王を立てて存続したが、壹與か神功の時代に大和に併呑される。
534鹿島神流:2010/12/10(金) 20:22:18
うーん、考古学的には、>伽耶建国 つまり狗邪韓国が金官伽耶に移行した
のは、3世紀半ばから末頃と思うんですけどね。この頃の彼の地では大きな
変化があって、木棺墓が木槨墓に変わり、首長層と一般民の墓制に変化が
出てくる。・・・おそらくこれはスムーズな移行ではない。

この金官伽耶は現在の金海市付近であり、陶質土器や鉄ていが多数出土
しています。おそらくこの時代は半島南部における大きな変革期であり、戦乱
があったものと推測しています。
535唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 20:33:39
伽耶(任那)の建国は209年である。

541年 伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で新羅に降る、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る

狗邪韓国は、其の(倭の)北岸である。
魏が半島を管理している時代に、任那は造れない。だから文献証拠も無い。
536日本@名無史さん:2010/12/10(金) 20:35:55
>>531
では、3世紀のことは3世紀の史書を信用しましょう。
537日本@名無史さん:2010/12/10(金) 20:37:21
>>536
だから、オレは魏志倭人伝を信用してるがな

538鹿島神流:2010/12/10(金) 20:42:04
>魏が半島を管理している時代に、任那は造れない。

うーん、これは確かにそうなんですが、公孫氏滅亡によって半島の勢力
状況はかなり変化しています。つま半島南部の混乱期は長かったのでは
ないかと。

金官伽耶でいえば、。金海大成洞遺跡は狗邪韓国の大型都市ですが、
共同墓域に隣接して環濠集落があったのが、木槨墓の登場する時期には
丘陵全体が共同墓地となり、集落は鳳凰台と呼ばれるかなり高い丘陵に
移行しています。これが3世紀半ば以降ということですね。

で、古墳時代に入り、この伽耶諸国がヤマト王権に鉄器を供給することに
なります。
539唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 20:43:51
鉄を持たない纒向遺跡と、少し前の九州説者は揶揄していたが、
書紀に依れば、鉄の流入は垂仁からと成る。この鉄の配分権を得た大和は諸国を
この配分権で崇神世より強力に傘下としてまとめて行く。

狗邪韓国まで来た魏使は、九州倭国と大和の情報を得、両者が朝貢するよう求める。
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?男王の斎王?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
540日本@名無史さん:2010/12/10(金) 20:54:11
>>537
ならば、倭国は九州で決まりですね。
541日本@名無史さん:2010/12/10(金) 20:56:20
>>540
3世紀の中頃だったらの話だけどな
542唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 21:16:09
>公孫氏滅亡によって半島の勢力状況はかなり変化しています。

公孫氏滅亡により、魏使は、238年中に狗邪韓国か伊都まで来ている。
だから、垂仁は正月(239年)に田道間守を指名した。
240年田道間守と共に魏使は大和を訪れる。そこでホケノ山を見た。
この年の内に大和は洛陽を詣でる。晋書には「東倭」と書かれる。
543鹿島神流:2010/12/10(金) 21:30:39
>>542
魏使は海路で来たと思いますね。(狗邪韓国には立ち寄ったかも)金官伽耶の
成立は3世紀半ば以降。考古学的にははっきりした事例ですよ。
544太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 21:39:21
大王の 臣下(家来)伊支馬≠天皇(臣下よりえらい)イクメイリヒコイサチ

これを等号だと言うのはまるで映画の「猿の惑星」同然の空想話であり、
猿(臣下=大王、天皇の家来)が人間(臣下よりえらい大王、天皇)の上
にいて人間が猿より下等だとか言ってるようなものであり、失笑説だと
観て大笑いすればよい。bbbbb wwwww
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 22:01:09
>金官伽耶の成立は3世紀半ば以降。

文献がなければ何処にでももって行ける。そう言う思考か?

二つの文献が210年を指し示す以上尊重しなければならない。
210年は、考古学が云う、2世紀末纒向遺跡に各地の土器が搬入される。
この出来事は、四道将軍による、異俗多帰の結果であり、任那建国は崇神後期になる。

金官伽耶の成立は3世紀半ば以降。←文献を探して下さい。
546唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 22:08:59
年輪降水量。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪 崇神五,六年はここになる。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。

新羅本紀と後漢書の間には1年の齟齬が有る。
しかしそれ以上の年代齟齬は無いだろう。であるならば、伽耶の建国は209年で違和感は無い。
547鹿島神流:2010/12/10(金) 22:16:38
>>545
文献ではありません。考古学的に、と書いています。集落そのものが移動し、墓制
も木棺から木槨へと変化しています。副葬品も違ってくる。年代的にも確かです。

公孫氏滅亡後の半島が混乱に陥ったのは、帯方太守弓遵の戦死の状況を見てもわか
るとおりで、その後も魏は経営に苦心しています。この半島の混乱が、倭国の物品の
移入ルートに大きな影響を与えているのです。

西新町遺跡から出土する三韓土器は、むろん西新式平行ですが、全羅南道、慶尚
南道西部のものが多い。これが、古墳時代の初期に伽耶からの文物の移入に切り
替わる。
548唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 22:36:05
>墓制も木棺から木槨へと変化しています。

ホケノ山古墳の半島式墳墓は、田道間守の殉葬である。240年の出来事
これを崇神時代とすると、誰であるか不明となる。

考古学は文献と整合性を得る事で真となる。

崇神を箸墓=250年前後とした場合、纒向遺跡への最初の入植者が解らない。
そして、箸墓を頂点に衰退に向かう。そうすると垂仁、景行の居場所が無い。

つまり考古学は、崇神を箸墓の時代としない。
考古学が違うという時代に合わせるのは何故ですか?
549唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 22:43:35
まあ思考そのものは解りますよ。
卑弥呼=崇神時代とすれば、
大倭(大和)が伊都国に一大率を置くことは出来ない。←これにつきる。
こうすれば、自由に九州邪馬台国を考える事が出来る。
しかし万人に受け入れられる事は無い。
550鹿島神流:2010/12/10(金) 22:49:07
>>548
何と言えばいいか・・・、考古学的には崇神天皇という人が実在したかどうか
はわからない。むろん何か崇神帝の存在を示す出土(墓誌とか、ま、ありえ
ない)があれば別ですが。

考古学はかつて、文献史学の崇神没年318説に引きずられた苦い経験があり、
このために古墳時代開始4世紀からという一つの呪縛を背負ってしまった。
そこで今では、記紀とは別の次元で論を組み立てているのですが、記紀との付合
を感じさせる発掘成果はないわけではありません。
551太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 23:21:15
192、3年は崇神5,6年にはなりえない。

この年いまだ船舶の製造はなされておらず、農民千人がもやしの状態で
しかも漁師でもないから操船技術もなく、また飢饉でカラ手状態だから
渡海不可能事である。それは1〜3人だとかなら日本海の荒波を渡っての
命がけでの渡海は可能であるが、千人もの多勢なんぞ到底出来ない。

船舶が始めて製造されたのは崇神5,6年後の10年余経過した年代であり、
崇神5,6年には船舶のアリバイが無い。これでは本日の殺人事件無罪判決の
如く、192,3年=崇神5,6年 説は崩れる。つまりインチキだという事だ。ww
552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 23:32:47
>記紀との付合を感じさせる発掘成果はないわけではありません。

纒向遺跡の大型建物
3世紀初期の建物を壊し、盛り土をして整地後、3世紀中葉の建物が建てられる。
場所は、珠城と出来る場所である。
「盛り土をして整地」盛り土をすれば土地は乾く(ひ)整地(しろ)日代の宮である。

崇神を考古学と書紀に合わせると
崇神5年 疫病と民の死。 翌年民の離散。
民の離散を説明出来るのは、凶作である、弥生後期後半 各地の居住区が放棄される。
これを新羅193年とすれば、冷夏凶作で餓死、翌春民の逃散である。
崇神10年 騒動未止を目的とし、四道将軍が各地に派遣される。結果は、異俗多帰、畿内安穏で終わる。2世紀末纒向遺跡に各地の土器。
209年 伽耶建国=任那建国
崇神188年〜216年、1年の齟齬のある太陰暦で読める。
太陰暦は19年の積み重ねと捉えれば、19×n回の空白を差し引いても太陰暦で有る。
崇神は庶母の出であり、旧朝廷からイヤガラセの数字を与えられた為ではないか?
垂仁217年〜239年、76年の引き延ばし。
239年は景初3年であるから、正しければ、この時の名前が魏書に載る。
553日本@名無史さん:2010/12/11(土) 00:12:32
…しかし倭の五王だの旧唐書だのが出てきて
唐松と太国のわめきあいが始まって

まあいつもの邪馬台国スレだなw
554日本@名無史さん:2010/12/11(土) 08:19:22
旧唐書は重要だよ。

倭國は古の倭奴國なり。〜新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中國と通ず。
其の國、〜四面の小島、五十餘國。皆、これに附屬す。

日本國は倭國の別種なり。其の國、日辺にあるを以って、故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。
 故に中國、焉れを疑う。
また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、
東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。

倭国の方は、その大きさや、島国であることが明確に認識されていること、毛人がお
らず、島全体が支配下にあること倭国が九州であることは明白。

一方、日本国の方は島であることすら分かっていない。やたら大きく、毛人の領域が
どうなっているのかは分からない。これが本州のことであることも明白。

あれこれ書いているのは、その二つの国がどうゆう関係なのかを検討しているわけだ。
「倭國〜改めて日本と爲すと。」というのは、倭国が大和に都を遷して国名を日本国と
改めたにすぎないのではという考え方だね。「東西五月行、南北三月行。」の地と「東
西南北各數千里」の地が同じだと言っているわけではない。
555唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 16:26:20
>倭国が大和に都を遷して国名を日本国と改めたにすぎないのではという考え方だね。

魏書に、大倭は伊都国に1大率を置く。←この様に書かれているから、これをその文にはめ込む。

日本(大和)は舊(もと)小國にして倭國(女王国=奴国)の地を併せたりと。
556日本@名無史さん:2010/12/11(土) 19:36:42
>大倭は伊都国に1大率を置く。←この様に書かれているから
どこにも書いてないよ。
557日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:20:03
唐松は漢文(倭人伝)の読み方を知らんのだよ。
558唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 20:41:33
>>556
>>557
文字の読み方以前に歴史の読み方も知らんな。

まず、こねは、250年過ぎの出来事だ。そして天皇は景行の時代である。
この時代を崇神と考える輩が多いが、この時代に崇神を持ってきても、任那建国は無い。
任那が無ければ、鉄もない。こんな時代では、「大倭は伊都国に1大率を置く。」と読む事は出来ないし
古墳自体を築くことも出来ない。つまりこの辺から古墳時代に入る、と云うことは、畿内に鉄が流入している。
しかも大和が強くなってくると云うことは、鉄は大和に入り、そこから分与されると云うことだ。


559ローガン:2010/12/11(土) 20:42:24
>>554
> 旧唐書は重要だよ。

まだ、言ってるの(笑)。

>倭国の方は、その大きさや、島国であることが明確に認識されていること、

けど、横長やし。

>毛人がおらず、島全体が支配下にあること倭国が九州であることは明白。
> 一方、日本国の方は島であることすら分かっていない。やたら大きく、毛人の領域がどうなっているのかは分からない。これが本州のことであることも明白。

蝦夷連れて行ったん倭国の使者やし。
560日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:19:54
畿内説を中心とする連中が南九州よりも年代を早くしていること、
南九州を遅くしていること、これが混乱の原因。
561日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:55:25
古墳時代以降は山陰で製鉄が始まる。
出雲を押さえたため、大和朝廷も鉄を入手できるようになった。

これが出雲大国主やスサノオの神話。
562日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:58:02
>>559
>けど、横長やし。
どこにもそんなことは書いてないな。

>蝦夷連れて行ったん倭国の使者やし。
これも書いてないな。

全ては思い込みだ。
563日本@名無史さん:2010/12/12(日) 07:54:42
大和朝廷というのが思い込みだろう。大和の勢力が朝鮮半島や中国と交渉を
もつのは7世紀末以降だ。それまでは影も形もない。
564日本@名無史さん:2010/12/12(日) 09:43:54

大和は6世紀、韓(漢)国の東に有る扶桑国として認識されていた。
565ローガン:2010/12/12(日) 09:51:44
>>562
>>けど、横長やし。
> どこにもそんなことは書いてないな。

「其國境東西五月行南北三月行各至於海」(北史)
「其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下」(隋書)
「東西五月行南北三月行」(旧唐書)
「東西五月行南北三月行」(新唐書)

> >蝦夷連れて行ったん倭国の使者やし。
> これも書いてないな。

「蝦夷。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。隨倭國使至入朝。」(唐會要)

> 全ては思い込みだ。

いや、史料の実態。
566日本@名無史さん:2010/12/12(日) 10:54:15
>>565
距離は書いてないな。横長と読んだのは、かってな推測だ。
九州で東西といったらどこからどこまでだ?
宮崎から長崎ならば、唐津から薩摩半島南端までより日数はかかるよ。

唐會要? 10世紀の資料では、そこに書いてある倭国使の実態が
問題だな。
567日本@名無史さん:2010/12/12(日) 11:29:57
九州の縦方向300km程度=3月 1月=100km
九州の横方向250km程度=5月 1月=50km

つまり 一月の距離は、50km〜100kmという
大体のオーダーが計算できる。
568日本@名無史さん:2010/12/12(日) 11:35:02
間をとって、短里千里=一月ではないかな?
569ローガン:2010/12/12(日) 13:27:09
>>566
>距離は書いてないな。横長と読んだのは、かってな推測だ。

史書って、誰に読ませるものか、考えてね(笑)

> 宮崎から長崎ならば、唐津から薩摩半島南端までより日数はかかるよ。

もっと具体的にどうぞ。そして史料がその起点終点を表しているという根拠もね。

> 唐會要?

知らなかった?

> 10世紀の資料では、そこに書いてある倭国使の実態が 問題だな。

なるほど。十世紀の史料では、顯慶四年みたいな昔の実態の把握が難しい、との主張と承知。
それでいい?
570日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:17:49
>>569
あなたは、東西五月行南北三月行をどこからどこまでと思っているのかな?
そして史料がその起点終点を表しているという根拠もね。

唐會要は正直忘れていたよ。8世紀以降も倭国と日本国が並存していたようにも
読めるが、それはないと思う。訳がわからん資料だなと思って重視しなかった。
倭国の実態が問題といったのは、8世紀以降の資料では倭国と日本国との区別を
どれだけ意識して書いているかが問題だ、混同している資料は余り役に立たない
という趣旨。

571神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/12(日) 23:29:24
「大唐六典」によると1日の行程は
「凡そ陸行の程、馬は日に七十里、歩および驢は五十里、車は三十里」と書いてあります。
本当に邪馬台国九州説の人は馬鹿ですね。明太子を食べて脳細胞を破壊されたのでしょう。
572日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:18:58
倭国に馬や驢がいたと思っているのか。馬鹿ですね。奈良漬けを食べて脳細胞を
破壊されたのでしょう。

573日本@名無史さん:2010/12/13(月) 15:40:05
馬鹿はお前だろ
箸墓古墳の周壕から木製輪鐙が出土していることも知らんのか
魏志倭人伝のことしか知らんようだな、無知丸出しww
574ローガン:2010/12/13(月) 15:54:37
>>570
>唐會要は正直忘れていたよ。

正直で宜しい。

>8世紀以降も倭国と日本国が並存していたようにも読めるが、それはないと思う。

そう。8世紀以降にかぎらず並立なんてない。
いいかい、旧唐書倭国の文は多く隋書をおそっている。その隋書は後漢書をテキストにしている部分が多い。
その後漢書は「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」と記述している。
しかしそれを引いた隋書は「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」とした。
後漢書にある安帝時朝貢者は「倭国」であり「倭奴国」ではない。隋書が誤引用したと捉えるのが穏当だろう。
何か原因があるかもしれないが、事情を知る手だてが無い以上、考える必要も無い。
ただ結果として、二書間においては、後漢代の朝貢者が倭国であり、又倭奴国でもあるという事になる。
それを踏まえた旧唐書は、「倭国とは昔の倭奴国の事である。」とした。
旧唐書が書かれた頃、中華は五代十国。いかにハチャメチャな時代であれど、東方の島国の事を日本と呼ぶ位は、知っていただろう。
その日本と、(漢代、金印の)倭奴国とは別種であるとした見解は、別におかしくない。
そして、当然ながら同時に並立していたなどと云うような、変な解釈の余地もない。
575日本@名無史さん:2010/12/13(月) 16:52:47
隋書の「東西五月行南北三月行」
一月行≒80km
東西の境界長が「五月行」、即ち南北の境界間の距離が400km
南北のにある境界長が「五月行」、即ち東西の境界間の距離が240km

北は対馬から南は薩摩大隅まで
西は五島から東は豊後水道まで

根拠は隋書百濟伝
百濟と済州島間は「海行三月」、実際は「250km」
済州島の大きさは「南北千里東西数百里」、実際は「東西70km南北50km」
576日本@名無史さん:2010/12/13(月) 17:02:20
おお、なんだか 陸行一月のオーダーが出たっぽいな。
577日本@名無史さん:2010/12/13(月) 17:06:44
水行一月も陸行と同じ80キロ程度でいいのかな?

そうすると、水行十日は、24キロ程度?
578日本@名無史さん:2010/12/13(月) 17:51:05
>>577
>水行一月も陸行と同じ80キロ程度でいいのかな?

海行の「一月行」は隋代の長さ単位
「水行」は魏代の長さ単位
時代が異なるから「水行一月」は約80kmと言えない。

別の観点から「水行一日」は20〜30km前後と思うが?
「水行十日」は200〜300kmか?
579神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/13(月) 18:00:23
弘文館の日本史年表に諸国の朝貢に要する行程日数が書かれています。
これによれば大宰府から京都までの行程日数は30日です。
本当に邪馬台国九州説の人は大馬鹿者ですね。脳ミソをイカ娘に侵略されたのでしょう。
580日本@名無史さん:2010/12/13(月) 18:18:16
>>579
>大宰府から京都までの行程日数は30日です。

それじゃ魏志倭人伝の陸行と同じ位の速度になるね。
京城釜山間と博多久留米間で行程日数は30日。
581鹿島神流:2010/12/13(月) 18:36:04
ここは九州説のスレです。九州説どうし研鑽しあうのは大歓ですが、
畿内説の立場からの批判は遠慮していただけたらありがたいです。
582ローガン:2010/12/13(月) 18:52:38
>>581
了解しました。ここへ書くのは、止めにします。
583鹿島神流:2010/12/13(月) 18:58:05
>>582
ありがとうございます。ただ、九州説どうしの研鑽もなかなか進まないです。
まだ、伊都国の比定地も決まらない。距離問題に関しては、地域的な短里
を主張される方がやはり多いようですね。
584日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:45:42
伊都國の比定地

伊都國は佐賀平野背振山麓佐賀市大和町、その城郭は惣座遺跡(肥前國庁跡)。

末盧國は唐津、その港は中原遺跡。
唐津の東南五百里(35km)は、佐賀平野佐賀市大和町の伊都國。
伊都國は嘉瀬川が佐賀平野に流れ出た扇状地。
その城郭惣座遺跡は吉野ヶ里とよく似た構造の平地城郭。

東百里の不彌國城郭は吉野ヶ里、其の領域は背振山麓。
東南百里の奴國城郭は佐賀城、その領域は背振山麓を除く佐賀平野。
585鹿島神流:2010/12/13(月) 21:49:06
なるほど。ここで、九州王朝説、宇佐説などから反論があればいいのですが。
586日本@名無史さん:2010/12/13(月) 23:31:00
伊都国が佐賀だということは疑問の余地がないだろう。方角、距離ともぴったりだ。
末盧国で上陸した理由も、玄界灘沿岸から有明海沿岸に移動するためということで
極めて合理的だ。何で前原説にしがみつく奴がいるのか、気が知れないな。
587日本@名無史さん:2010/12/13(月) 23:41:17
伊都国は糸島郡でしょ
588日本@名無史さん:2010/12/13(月) 23:43:27
>>586
地名の点と、遺跡・遺物の点
589日本@名無史さん:2010/12/14(火) 00:19:53
>>588
「伊都」は、「倭都(イト)」の転じたもの。
「伊都」は、もと倭の都の意味。
後漢代には倭の都が佐賀市大和町にあった時期があったのだ。
それは倭奴國を滅ぼした倭王帥升(倭面土國)王統の都だ。
「世有王」とは倭王帥升王統のことだ。

伊都國の城郭である惣座遺跡からは銀のネックレス等が出土している。
佐賀市大和町は弥生遺物の宝庫。
系統的発掘が可能であれば、惣座遺跡に続く遺跡が続出するであろう。
惣座遺跡でさえ国道バイパス工事で遺跡のほんの一部が見つかっただけ。
惣座遺跡の大部分は、肥前国庁址や付近の民家の地下に埋もれているものと考えられる。
590日本@名無史さん:2010/12/14(火) 00:41:56
惣座遺跡の東側に集落がある。地図を見ていただければすぐわかるとおもう。
ここではいくらでも弥生遺跡が残っている。久池井在住の当方の地所でも住居跡が出たし
隣近所からも出ているということを聞いている。惣座と肥前政庁跡は少し離れているので
もしあるとすれば、惣座が弥生で、肥前政庁が奈良時代だろうか。
このあたりは旧春日村だが、国分寺跡などもあり当時からそれなりの集落だったと思われる。
ちなみに中心部の地名は尼寺(ニイジ)である。国分尼寺であろう。

当時よりは人口密度は増しているだろうが、集落は余り変わっていないとおもわれる。

この集落の東側に銚子塚古墳(前方後円墳)があるが、
これはかなり後世の話だろう。

佐賀市大和町久池井住人より現地から発信。
591日本@名無史さん:2010/12/14(火) 02:21:16
で佐賀市大和町にイトの地名があるの?
592日本@名無史さん:2010/12/14(火) 02:38:36
>>589
>惣座遺跡からは銀のネックレス

ん? こりゃ真っ赤な嘘だろよwww
593日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:25:30
惣座遺跡出土遺物

所在地 佐賀市大財3丁目11番21号 佐賀市教育委員会
指定年月日 平成2年3月30日
惣座遺跡は弥生時代の集落と墓地からなる遺跡です。剣・矛を刻んだ石製鋳型は掘立柱建物跡の柱穴から、
ガラス小玉と銀製指輪は土壙墓から出土しました。石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2cm、
残存幅4.2cm、表裏両面に銅剣型、側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれています。これから鋳
造された製品は剣・矛とも細形形式で、特に矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来は朝鮮半島からの
舶載品と考えられていた型で、青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにしました。銀製
指輪は、土壙墓の頭位側から3個重なって出土しました。いずれも径2cm前後で、針金状の薄板を曲げて
作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いています。ガラス製小玉は総数6810個と多量で、一連にす
ると9mを超える見事なブルーの連珠となります。
594日本@名無史さん:2010/12/14(火) 08:33:13
国は離合集散しているんだよ
しかも、国の中心地は、10年、20年単位で集団移動している可能性は十分ある
たとえばだが、伊都国が佐賀から前原あたりの間を移住していたと考えても、
それほど不自然ではないよ
だから、元々、特定なんか出来ないんだよね
ずっと同じところに居続けていると考えることの方が不自然なんだから
595日本@名無史さん:2010/12/14(火) 08:38:02
>>581>>583
>畿内説の立場からの批判は遠慮して

史料・資料の歪曲は「九州説の立場から」はOKということなのか?

>九州説どうしの研鑽

それとも、自浄能力ぐらいあるから黙って見ていろ、と言うのかな?
596日本@名無史さん:2010/12/14(火) 09:51:45
>>594
国王の館があちこちにあった可能性もあるな。
597日本@名無史さん:2010/12/14(火) 10:08:03
寝言は寝てから言えw
598日本@名無史さん:2010/12/14(火) 10:44:37
>>596
その通り
飛鳥から奈良時代でも、宮都は頻繁に移動している
むしろ、そう考える方が自然だよ
国の中心地がずっと一か所固定など、何千何万もの人間が住む環境衛生面を考えたら、
ほとんど不可能だよ
599日本@名無史さん:2010/12/14(火) 11:57:26
だいたい、副葬品に鏡が多数あったからと言ったところで、どれだけの価値が
あったのか分かったものではない。玄界灘沿岸の連中は、朝鮮半島から仕入れ
て商売をしていたんだろう。それが何枚副葬されていたからといって、連中に
とっては葬式の花輪程度のものかも知れんな。
600日本@名無史さん:2010/12/14(火) 14:13:44
>>592
>>惣座遺跡からは銀のネックレス
>ん? こりゃ真っ赤な嘘だろよwww

書き間違いました。
銀の指輪とガラス玉のネックレス
>>593が正確です。
601日本@名無史さん:2010/12/14(火) 14:56:49
>>594
>>596
>>598
同意

倭王帥升の出身地は吉野ヶ里(倭面土國[イメト])と思われる。
吉野ヶ里の近辺には、目達原(メタバル)や米多(メタ)の地名がある。
筑志米多國(チクシメタ)があった時期もある。

帥升が都を置いたのは前原ではなく博多湾沿岸のどこかであろう。
倭國の乱になって帥升の王統は福岡平野から佐賀平野に都を戻したのであろう。

佐賀平野に戻った帥升の王統は、狭くて水利の悪い吉野ヶ里から
(吉野ヶ里は筑後川下流域と佐賀平野を繋ぐ地峡地域。吉野ヶ里のすぐ南は有明海)、
水利が良く広い農地がある嘉瀬川扇状地に都を移したのだ。
倭面土國(伊都國)の都は佐賀市大和町久池井近辺を点々と移動していたと思われる。
最も大きい中心地的な都が久池井の惣座遺跡と思われる。
602鹿島神流:2010/12/14(火) 17:22:24
>>595
これまでこの2ch日本史板の邪馬台国論で、決定的に欠けていたのが九州説同士の
論戦です。それもこれも、世間の邪馬台国論争同様に、まずはじめに九州説対畿内説
の図式があり、九州説は結束して畿内説に対抗する必要があったからです。

しかし考えてみれば、例えば自分の邪馬台国比定地が山門説ならば、畿内説も九州
宇佐説も同様に異論であることには変わりなく、結局は論破しなくてはならない相手な
のです。

これは、マスコミの偏向した纏向報道の影響もあるでしょう。われわれ九州説は、畿内説
憎しとばかりの排斥のみに気がはやり、九州説内部での研鑽を見失ってしまったのです。

wwwの言う「倭人伝を素直に読んだらバラバラの比定地か」という揶揄は残念ながら正論
と考えます。このスレはひととき、所詮虚妄である畿内説のことは忘れ、九州説内で思考を
深め合う場となれればと考えます。
603鹿島神流:2010/12/14(火) 17:27:17
>>595
>史料・資料の歪曲は「九州説の立場から」はOKということなのか?

とんでもありません。歴史の真実を追究する立場から、歪曲や捏造は許される
ものではありません。また錯誤などについても、これは畿内説・九州説に関わらず
指摘していただけたら、と考えます。
604日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:26:57
伊都が佐賀平野ということはないだろうな。常駐する郡使の気持ちを考えれば
少しでも半島に近いところに拠点を置くだろうよ。
第一佐賀平野では半島系の遺物が少なすぎる。無理に絞り出したところで
前原周辺とは歴然とした差があるな。倭人伝の「皆臨津捜露傅送文書」の
部分からも、半島からの利便性を重視しているのは間違いない。

>目達原(メタバル)や米多(メタ)の地名がある。筑志米多國(チクシメタ)があった時期もある。

こんな地名がどこまで遡れるのか、こじつけに近い話しだな。書紀に見られる伊覩県とは
信憑性の違いがある。
605日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:54:47
九州説隔離スレとしてはいいんじゃないか?

まあがんばれ。>鹿島神流

先に予想しておくが、九州説がひとつにまとまるなんてことは不可能。
なぜなら、九州説の何説だろうが、証拠がともなわないからだ。
九州のここが邪馬台国と意見を詰めても、他の九州説から反論が出るのは必至。

あとは、「邪馬台国は***だと信じてる」っていう宗教になるだけ。

畿内説を虚妄というなら、ぜひとも、九州説を証明して見せて欲しいものだな。

絶対無理だけどね。





606日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:55:14
>>604
同意だな。なんだかんだ理屈をつけようと根拠は倭人伝の東南の2字にすぎないだろう。
あとは皆どこでも当てはまるようなものばかりだ。
607日本@名無史さん:2010/12/14(火) 21:05:59
九州説だが、九州の比定地がまとまるのは難しいと思う。
なんといっても、最後の決め手がない。
だから、ある程度の範囲ならどこでも可能性がある。

他の方の論も聞いて、自分の九州説を修正補強するだけさ。
608日本@名無史さん:2010/12/14(火) 21:11:22
>>607
しかし、ある程度の範囲まで絞り込むことはできるだろう。
少なくとも、九州島を西回りするのか東回りするのか程度は。
この二つはまったく違うぞ。それとも水行は河川航行か?
609日本@名無史さん:2010/12/14(火) 21:56:58
南九州あないだろう。宇佐もないな。
610日本@名無史さん:2010/12/14(火) 22:14:26
>九州島を西回りするのか東回りするのか程度は。
まず、玄界灘から西回り、あるいは東回りがあるかと考えてみよう。
そのいずれかならば、なぜ倭人伝は西か東かを書かなかったんだ? それは行程を示す
うえで極めて重要な事項だ。乍南乍東と書いている倭人伝が西か東かを書かないはずは
ない。それに、北九州を離れるときに、西に回ろうが東に回ろうが、いずれも難所だ。
そんな海を行くよりも、東ならば陸行して周防灘へ、西ならば陸行して有明海だよ。
そう考えを進めれば、必然的に伊都国=佐賀となる。
611辛子明太子:2010/12/14(火) 22:22:29
>>605>>606
邪馬台国について倭人伝の記事から分かることは大略の位置だ。方角は±22.5度の幅のある8方位で示されているし、距離も百里
単位で丸められている。したがって、比定地に幅が出て来るのは仕方が無い。だが、南を東と読替えない限り九州の外に出ること
はない。畿内説などはまともな頭脳の持ち主には有り得ないのである。

考古学資料は大事であるが、現在までに発見された遺跡、遺物が全てではないということを忘れてはならない。未発見のまま埋も
れているものもあるであろうし、既に失われたものもあるだろう。現時点での考古学的知見だけで結論を出せるものではないのだ。
「考古学的証拠を出せ」と馬鹿の一つ覚えで迫る者がいるが、それはそう言えるだけの物を持っている者だけに許されることだと
知らねばならない。
612日本@名無史さん:2010/12/14(火) 22:26:46
縄文人だ・・。イヤーッ!!
613日本@名無史さん:2010/12/14(火) 22:49:14
>倭人伝の「皆臨津捜露傅送文書」の部分からも、
>半島からの利便性を重視しているのは間違いない。

其の通り。
その「津」は末盧國にある。
末盧國に「官」がいないのは女王國の直轄地だからだ。
末盧國の「官」に代わる執行官が「一大率」である。
女王國の成立以前では、末盧國は伊都國(倭都)の直轄地でもあったのだ。
614唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 23:00:06
末盧國(呼子)は伊都國の物品も扱うが、西方有明海方面(狗奴国)へも鉄を流した。
615辛子明太子:2010/12/14(火) 23:12:19
>>613
同意。

末盧国の津は半島への玄関口であるが、有明海から入りこんでいた入り江(現在の嘉瀬川)に投馬国や邪馬台国などへの水行の出発点
となる津が設けられていたであろう。なお、投馬国は筑後川流域以南から大牟田辺りまでの筑後平野部であろう。ここなら戸数5万餘
と記述された大国が存在可能である。
616日本@名無史さん:2010/12/14(火) 23:45:57
さすがは縄文人さんだ。
617日本@名無史さん:2010/12/14(火) 23:51:37
対馬国 → 一支国 は、地図を見ると真南じゃなく、どちらかと言えば東南だね。
だから倭人伝には方角の狂いがある、と見ていいんじゃないかな。そのうえ、

末盧国/松浦 → 伊都国/怡土 → 奴国/那(ノ津)
マツロ  マツラ   イト    イト    ナ   ナ

と、九州島に入っての最初の3か国の地名が、玄界灘沿いにこの順番であまりにも見事に対応するからね。
伊都国を佐賀平野方面に持ってくるのは、果たしてどうかな。

考古の分野でも、怡土(糸島市)、那ノ津(福岡市)の遺跡は、抜群だよね。
618日本@名無史さん:2010/12/15(水) 01:49:04
>最初の3か国の地名が、玄界灘沿いにこの順番であまりにも見事に対応するからね。
では、次の不弥国はどこになるの? 博多湾に沈んでいるとか?


>考古の分野でも、怡土(糸島市)、那ノ津(福岡市)の遺跡は、抜群だよね。
抜群ねえ。仮にそうとしても、3世紀から何百年か前の遺跡だな。
邪馬台国時代、すなわち3世紀にはどうして遺跡がないのかな?

619日本@名無史さん:2010/12/15(水) 12:08:44
音合わせに頼りすぎるのもどうかな?

末盧国(マツロ)/松浦(マツラ)・・・同意

伊都国(イト)/倭都(イト)・・・擬似音異字、以前は倭の都であったが今は倭の都でないので文字変更。

倭奴国[委奴国](イドorイト)/倭都or怡土(イト)・・・中原地方の古シナ語では「奴」を「ナ」と読める例がない。
620日本@名無史さん:2010/12/15(水) 12:18:54
旧怡土郡の遺跡は3世紀より古い。

旧怡土郡の遺跡は2世紀初頭(倭奴国時代)以前のもの。
621日本@名無史さん:2010/12/15(水) 13:06:10
3世紀や4世紀の遺跡もある
622鹿島神流:2010/12/15(水) 14:27:03
三雲・井原遺跡群の番上地区では、88平方メートルという狭い土器だまりから、
灰色で泥質が特徴的な楽浪系の鉢や筒杯、器台約30点が出土している。

武末純一・福岡大教授
>「楽浪系土器が特定個所で集中的に出土するのは国内でほかに例がなく、
  しかも番上地区では、弥生中期後半〜後期にかけて継続している。」
「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたこ
とを示すもの。」

「三韓系土器が多く出土する奴国が朝鮮半島か らの鉄資源入手と鉄器・
鉄素材生産で栄えたとすれば、楽浪系土器が出土する伊都国は楽浪郡
を介した前漢との外交、交易を独占することで栄えた。
いわば伊都国は前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州
の国々の連合体の上に君臨したといえる.。」

こんな意見もあるね。
623日本@名無史さん:2010/12/15(水) 14:46:23
・・といえる。  ・・と言えなくもない。  ・・と言っても誰もちがうとは
言えまい。
624日本@名無史さん:2010/12/15(水) 20:11:39
九州説同士での論戦か……。
先ずは、韓国内陸行をどう考えますか?
鹿島神流さん、
九州説の立場からしても全然違うでしょう。

それと、錯覚かも知れないが、畿内説と鹿島神流が同じ狢に見える時もある。
鹿島神流さんがリアリストだからかもしれない……。 
625日本@名無史さん:2010/12/15(水) 20:32:26
リアリスト九州説が幅を利かせるのは良い事なのでは。
過去より今までは、私見派九州説が幅を利かせていたからね。
河童、縄文人、・・等々。脳内妄想はごめんだね。
626唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 20:53:52
>すなわち3世紀にはどうして遺跡がないのかな?

倭国(倭の奴国)が大乱で疲弊した時代であり、
大倭(大和)が伊都に1大率を置いた時代になる。
627辛子明太子:2010/12/15(水) 21:41:18
>いわば伊都国は前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州 の国々の連合体の上に君臨したといえる.。

これは一つの推測であって、確たる証拠は無い。学者の言うことでもこんなレベルだ。
伊都国は中国の史書としては倭人伝に初めて登場する。前漢や後漢において伊都国との交流を示す
記述は皆無である。

糸島市(旧前原市)の遺跡のうち三雲、井原鑓溝のそれらは光武帝から金印(漢委奴国王)を授与
された奴国のものであろう。奴国の王が後漢から印綬を受けたのは57年であるが、それだけの実力
を持っていたということは前漢の時代から国力を養っていたということであろう。

すなわち、西暦紀元前後において奴国は倭の(少なくとも北部九州の)覇権国の地位を獲得して
いたと考えられる。そのような奴国を差し置いて漢との交易を独占できる国がある筈がない。

628鹿島神流:2010/12/15(水) 21:41:49
>>624
韓国内陸行ですか・・あまり深く考えたことがなかったのですが、倭人伝どおり
海岸に従って水行、だろうという程度ですね。
629日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:44:59
>倭人伝どおり
海岸に従って水行

いや違う、陸行1月の話だよ。
630鹿島神流:2010/12/15(水) 21:55:28
??「水行十日陸行一月」を帯方郡からの行程とは見ていませんが。おそらく陸行
1月はそんなに長い距離ではないでしょう。
631日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:56:14
それにしても不思議だ。畿内説は論外として、
素直に読めば、場所は一つになる筈だろう。
どうして、南九州に行かないんだろう。
何故、北部九州で停滞してしまうんだろうか。

魏志倭人伝を素直に読まなければ意味がないだろうに。
自己矛盾だろう。
それだったら、方角の間違いを認めている畿内説の方がまだまし。
632日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:00:03
北部九州だけで陸行一月は無理だ。
韓国の距離が入っている。
としか思えない。
633鹿島神流:2010/12/15(水) 22:04:47
>>631
南九州なら、「水行十日陸行一月」の要件を満たしやすいことは確かですね。

>>632
古田説ですか。しかし、倭人伝はそのようには読めないという方も多いですが。
634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 22:05:42
>北部九州で停滞してしまうんだろうか。

女王国の南に女王に対抗する勢力が無くてはならない。
それが狗奴国。
635日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:10:32
陸行一月を解決できなければ、九州説は北から南と、いつまでたってもバラバラのように思う。
そろそろ、決め手を出しては……。一つに絞ろう。
636鹿島神流:2010/12/15(水) 22:23:06
うーん。

「水行十日陸行一月」 @これは帯方郡からの距離 A水行すれば十日、陸行すれば一月
B陸行一月は一日の誤り C伊都国その他からの放射説、 といろいろあるのは確か。また、
陸行一月で進む距離についても様々な考え方があるようです。
637日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:28:00
どうして決め手に欠けるんだろうか?
638日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:33:13
>南九州なら、「水行十日陸行一月」の要件を満たしやすいことは確かですね。

つーか、これが一番、魏志倭人伝に忠実なんだけど・・・。
決めても何も、九州説はこれしかないでしょう。魏志倭人伝に従うとなれば。
他は×
639日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:36:17
一番確実な、距離と方向の記述は解釈が複数ある。
また、距離も方向もある程度の幅があり、先へ行くほど
探索空間が大きくなる。

もともと小国が寄り集まった構成なので、遺跡も各地にある。
そのため、遺跡の有無では決められない。
640日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:39:58
韓国陸行を考えないならばね。
いや、韓国陸行を考えないならば、邪馬台国は九州から外れて海に落ちるさ。
それだったら、方角間違える畿内説の方がましだな。

韓国陸行しかないだろう。

641辛子明太子:2010/12/15(水) 23:00:50
(不彌国から)投馬国への水行二十日も、(投馬国から)邪馬台国への水行十日陸行一月も距離を表すものではないだろう。
郡から女王国(邪馬台国)まで一万二千餘里、そのうち不彌国までで一万七百餘里であるから残りは千三百里だ。

僅か千三百里を行くのに水行で合計一月と陸行で一月をかけている。これは魏使(梯儁)の旅程が基になって書かれたもので
あろう。梯儁は魏の皇帝の詔書、印綬、下賜品を携えて倭国の有力豪族達に魏の威光を見せつけるべく巡行して卑弥呼の待つ
宮殿に向かったであろう。このような魏使の行動は景初二年の朝献に対する詔書に「・・悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、
故鄭重賜汝好物也」と記されていることとも対応する。急いで通り抜けてはいけない旅なのである。
642日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:01:28
南九州説ならば、九州から外れるなんてことはないよ。
伊都国=佐賀。これが方角・距離ともに倭人伝どおりだ。そして、伊都国が佐賀となれば、
そこから水行できるのだから、奴国や不弥国に行く必要はない。ということは、放射説が
正しいに決まっているということだよ。
佐賀から水行二十日で投馬国。佐賀から水行十日陸行一月で邪馬台国。投馬国は薩摩川内、
邪馬台国は都城盆地あたりで決まりだろう。これなら、陸行一月は直線で約百キロ、山道
だから二百キロぐらいにはなるし、山道だから一月かかるというのも当然だ。
643日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:09:07
>>641
>郡から女王国(邪馬台国)まで一万二千餘里
女王国=邪馬台国ではないよ。倭人伝は断りもなく国名を書きかえたりはしない。
伊都国から邪馬台国までの行程が水行十日陸行一月とあることは明白。僅か千五百里
にそんな日数がかかるというは不自然。となれば、女王国と邪馬台国は別の概念だと
割り切って考えを進めるべきだ。
644鹿島神流:2010/12/15(水) 23:26:33
>>641
>そのうち不彌国までで一万七百餘里であるから残りは千三百里だ。

辛子明太子さんは連続説ですか。倭人伝の行程記事は地誌の一部であり、実際に魏使が
かけた日数ではなく、だれが行ってもそのくらいで着くめやすを表しているという説もありますが。
また、これは倭人からの伝聞情報であるという説も。

>>643
では、女王国はどこで、邪馬台国はどこですか?
645日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:37:59
>>631

不思議でもなんでもない。

「素直か素直じゃないか」なんて所詮主観。
解釈がバラバラになるような読み方をして結果がバラバラになるのは当たり前.
646日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:43:43
>>644
倭人伝は伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国を書き、万二千余里で女王国に至ると書いている。
その万二千余里よりも北にあるのは、伊都国、奴国、不弥国だ。
投馬国、邪馬台国は、とうてい伊都国から千五百里の範囲内ではない。
それに、女王国以北は一大率が検察する国々だ。伊都国に役所をおく一大率がそこから水行
二十日も離れている投馬国を検察するわけがない。もちろん、邪馬台国も検察する訳がない。
投馬国や邪馬台国は、女王国に至った後に出てくる国々だ。もちろん旁国二十一国も同様だ。
投馬国、邪馬台国、そして旁国、これらの集合体が女王国の正体だよ。
万二千里のラインは熊本に入ったあたりだろう。そこから南が女王国。そして、その女王国
のリーダーたる邪馬台国の中心は都城盆地あたりだろう。
647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:11:47
>邪馬台国はどこですか?

邪馬台国は、晋書により方向が訂正される。
それが東倭である。
女王国が伊都国を傘下に置くことに変わりはない。
648日本@名無史さん:2010/12/16(木) 01:39:45
帯方郡から投馬國までは「水行20日」
帯方郡から邪馬壹國までは「水行10日陸行1月(30日)」
帯方郡から女王國までが「12000餘里」

文の構造
 従・・・・・介詞、前の文(今使譯所通三十國)と後の文(郡至倭)を繋ぐ品詞、ここでの意味「従って」
 郡 至 倭・・・・・郡=郡人
(郡)至 投馬國 水行二十日・・・・・郡=郡水軍
(郡)至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・・郡=郡陸軍


女王國=奴國+不彌國+投馬國+邪馬壹國

上記の理由
郡から伊都國まで11900餘里
郡から奴國まで12000餘里(伊都國で行程が枝分かれ)
郡から不彌國まで12000餘里(伊都國で行程が枝分かれ)
不彌國から投馬國まで0里、投馬國は不彌國に南接しているので
不彌國から邪馬壹國まで0里、邪馬壹國は不彌國に南接しているので
649日本@名無史さん:2010/12/16(木) 07:40:37
どうにでもなる解釈を根拠にしても、納得させるのは無理かと……。
ここでお分かりのように解釈なんぞ人それぞれだからね。
九州説が決定打に欠ける理由はその辺にあるのでは。
650鹿島神流:2010/12/16(木) 08:11:29
これこれ、そういってはいけません。せっかく皆さんが自説を披露してくださって
るんですから。畿内説批判を考えず自分の九州説を語る機会はこれまで、ほと
んどなかったんですよ。

まあ、何故か辛子明太子になってる縄文人さんをはじめ、ほとんどの方は陸行
一月は距離に換算すると長いものではなかった、という説のようですね。
651日本@名無史さん:2010/12/16(木) 10:37:39
列島で東西に5月だよ。
九州だけで陸行1月水行1月かかれば九州をはみ出すだろう。
この道理がわからなければ、畿内説には絶対に勝てない。
九州説は韓国陸行を考えなければ駄目な状況に追い込まれているんだよ。
水行も郡からだよ。
652日本@名無史さん:2010/12/16(木) 10:44:23
投馬国、邪馬台国への距離がそれまでの「里」ではなく水行陸行の「日数」で
記載されているのは、山道や川を蛇行して何日もかかっているからだと考える
つまり、フミ国までの如く、ほぼ直線に近く平坦な道で進める道程とは全然異なっていたからだろう

では、なぜ日数が掛かっているのか?
考えられる理由として、
道が整備されていなくて、進行が遅れたこと、
荷物がたくさんあったこと、
邪馬台国の道案内が、魏の使者に対し、あえて、不便な道を案内したことが考えられる
国家の最重要軍事機密である「道」を、大陸の超大国に知られることが、どれほど危険なことかは、
論じるまでもないだろう
653日本@名無史さん:2010/12/16(木) 10:54:08
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」
この記載は邪馬台国を含む女王国であって、邪馬台国ではない
東と南の方角もそうだが、畿内説では、この解釈を絶対にクリアー出来ない
畿内の東に「渡る海」などないのだから・・・
654日本@名無史さん:2010/12/16(木) 11:11:49
655日本@名無史さん:2010/12/16(木) 11:27:19
ついでに伊豆諸島を伝ってはるか南まで
朱儒国黒歯国も難なくクリアー

どう考えても近畿だね!
コドモの夢を壊してゴメンね!
656日本@名無史さん:2010/12/16(木) 11:56:17
>邪馬台国の道案内が、魏の使者に対し、あえて、不便な道を案内したことが考えられる
国家の最重要軍事機密である「道」を、大陸の超大国に知られることが、どれほど危険なことかは、
論じるまでもないだろう

なんだか、九州説がミステリー小説の方向に行ってるなぁ・・・。
これ以上は想像に流れないようにしてくれないか。考えればきりがないよ。

657日本@名無史さん:2010/12/16(木) 12:10:10
箸墓が4世紀後半で決定なのだから畿内説については論じる必要はないのだよ。
邪馬台国の時代、畿内はとんでもないど田舎だ。
わけのわからん銅鐸なんか祭祀に使って、鉄は殆んどない。

問題は九州の何処に有ったかだ。
先進の博多湾沿いか、はたまた、筑後川沿いか。
あるいは熊本か、大分か。
倭人伝の記載では宮崎か、鹿児島も可能性があるが
弥生時代の宮崎、鹿児島は畿内並みの田舎だったようだ。
658日本@名無史さん:2010/12/16(木) 12:12:16
「まぼろしの邪馬台国」では島原説だけど。
659日本@名無史さん:2010/12/16(木) 12:21:55
一月の距離が80キロ程度だとすると
伊都から南でも、宇美から南でも
熊本あたりにたどり着きそうな気がするな。
660日本@名無史さん:2010/12/16(木) 12:29:08
80キロもないよ。熊本まで行かない。
水行も陸行も何か理由があったんだよ、それだけ掛かる理由が、たぶん。
そこを推測して行く事が重要なんじゃないかな。
遺跡の集中する先進の博多湾沿いを無視したら駄目、駄目。
熊本はない。
661日本@名無史さん:2010/12/16(木) 12:50:43
九州説が候補地がバラバラで纏まらない、決め手に欠ける、と誰かいっていたけど、
反論していいかな。

九州には候補地が多い。逆にそれだけ可能性が高い、という事になるんじゃないのかな。
言い方を帰ると、九州は候補地に恵まれている。となる。

畿内説は候補地が一つだけ。それは可能性が少ないから、そうなるんじゃないのかな。

そもそも可能性が高い九州に候補地が集中するのは当たり前だろう。
九州説は候補地の数で畿内説を圧倒しているわけだから、今まで通り一致団結して間違っている畿内説を叩いて行くべきだろう。
662日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:02:28
>>654
東の倭種の国も南の狗奴国もみんな同じ方向ってことだね。
663日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:02:41
という事だが、畿内説諸氏に反論はあるのかな。
664日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:27:48
案の定、伊勢湾を持ち出してきたバカがいるな
九州では「南」は東の間違いと言っている癖に、
都合のいい時は、東は東のままなんだな
畿内説は、ひねくれ者とバカの集まりだな
665日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:41:15
ばらばらで候補地が多いというのは、
まさに30カ国共立を表していると言ってよいだろう。

どこか飛び抜けて力の差があり、
そこが卑弥呼を擁立し、他の国が従うなら
普通に30カ国の王として記述されるはずだ。
共立などとはかく必要がない。
666日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:46:48
畿内説叩きはしなくていいよ、他スレと同じなっちゃうから。
それより九州の諸説同士で討論したほうがいい、このスレではね。
667日本@名無史さん:2010/12/16(木) 13:53:21
九州説は候補地が多いのは分かるが、
郡からの水行ではない九州説は論外だな。
日数で破綻しているのだから。
668鹿島神流:2010/12/16(木) 14:01:20
今は九州説内の議論をしているから、畿内説の論客があまり押しかけてこない状況にあると
思いますね。これが畿内説批判を始めれば、wwwを筆頭に乱入が始まり、他スレと変わらなく
なるのはそのとおりでしょう。畿内説との論戦をやりたいのであれば、「ドンと来い」「終止符」の
両スレでいつでもできます。

畿内説は近江説も最近浮上してきましたが、行程論については「日本海航路」「瀬戸内航路」
の問題を抱えています。また、瀬戸内航路をとったとして、大阪湾から陸行一月の問題もあり
ます。湾から纏向までは直線距離で40kmくらいでしょうか。河川も利用できたでしょう。
669日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:26:54
>>667
ぜんぜん問題ないよ。郡からの日数なんて読み方はそれこそトンデモだ。
670日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:36:38
>>666
そうそう、ボロが出まくるからね

とにかく議論してるフリする事が大切。
671日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:45:19
>>668
>畿内説は近江説も最近浮上してきましたが、行程論については「日本海航路」「瀬戸内航路」
>の問題を抱えています。
kwsk
672日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:48:55
>対馬経由で朝鮮半島にわたるルートは、距離こそ短いけれど、
>潮流が速く、また天気が急変しやすいので小型の船舶では非常に危険なのです。
>現在は、気象レーダーや気象衛星の情報により台風や低気圧の接近をいち早く知ることができるけれど、
>卑弥呼の時代よりずっと下った遣唐使も遣隋使でさえ、よく遭難しました。

>そこへ行くと日本海ルートは、風向きが安定しているので、春から夏場にかけて東風に乗って大陸に渡り、
>冬になって西高東低の気圧配置が強まる前に西風に乗って帰国するという風まかせの航海が可能だったのです。
>渤海との交流は、この風を使って行っていたし、このルートで魏に使いを送ることも可能だったはずです。

佐渡沖の方が問題ないらしいですよ?
673鹿島神流:2010/12/16(木) 14:52:23
・・・詳しくはないのですが、水行十日陸行一月を帯方郡からの総日数とする説は
古田氏、それから奥野正男氏などですね。違いは、古田氏は韓国内の陸行を認め、
奥野氏は認めない、というあたり。最後に総日数を記する文献の例としては、

>「三国志魏書」明帝紀第三の景初二年条に引用の「晋紀」や「魏名臣奏」に、遼東の
  公孫淵を討つための軍議で、洛陽から遼東までの里数を、「四千余里」とし、これを
 行くのに必要な日数を「百日」としている。また「後漢書南蛮伝」に、荊州から日南
  までを「九千余里なり。三百日にして到る。」と書く例がある。

(奥野正男「邪馬台国は古代大和を征服した」より)

674日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:54:53
水行十日陸行一月なんて、どう考えてもハッタリでしょう。
675日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:59:01
>水行十日陸行一月なんて、どう考えてもハッタリでしょう。

魏志倭人伝を無視し始めるは嘘つきの始まり。
676鹿島神流:2010/12/16(木) 14:59:57
>>671

スレチなので・・・。
http://www.sunrise-pub.co.jp/isbn978-4-88325-164-3/
http://www.geocities.jp/yamataidiary/
http://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise1top.htm

>>672
おそらく速さでいえば、海流を利用できる日本海航路のほうが瀬戸内航路より速い
のではないかという気がします。ただし、倭人伝に上陸地点のことが詳しく記されて
いないのは不自然とする意見もあります。また、考古学的には当時の倭船の帆の
存在は確定していません。大陸の船にはありました。
・・・これもスレチなのでこのへんで。
677日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:03:23
九州内水行・陸行では、どう考えても九州から外れる。海に落ちる。
地図で計ってみろよ。
だから郡からの水行だよ。

嘘つきは畿内説への始まり!
678日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:06:15
>>675
無視してませんよ。疑っているだけです。

>>676
そう。
対海、一大(一支)、この字の合い方もおかしいのです。
他の当て字に習うなら、都斯馬、伊支などと書きそうな所です。

まるでここだけ、後世に正解の字を上書きしたかのようです。
679日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:07:08
やはり、一月=千里(短里)=70〜90kmの可能性が高そうだな。
680鹿島神流:2010/12/16(木) 15:24:54
>>678
>後世に正解の字を上書きしたかのようです。

対海、一支、伊都、末盧など漢語的表現にある国は、当時大陸からの日常的な往来
があり、よく知られていた国々ととることもできます。当時は国境線などもなく、半島
南部にも倭人が住んでいたと疑われる記述もあります。また、末盧国と弁辰?売廬国
との関連を指摘するむきもあります。

特に冒頭の4国は漢代から大陸との親交があり、固有名詞として定着していた可能性
があります。それ以外の新興国、倭人からの伝聞の国は、狗奴(クナ)などの音借的な
表現になっているのかもしれません。
681日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:26:37
>>677
一日の進行距離をどの程度にみるかはどこにも書いてない。そこの考え方次第だ。
伊都国から水行二十日で薩摩川内、そこが投馬国だ。
となると、伊都国から水行十日で川内までの半分ぐらいである八代、そこで上陸し
陸行一月で都城あたりだ。八代から都城までは直線で百キロ、実際の道は百七十キ
ロから二百キロになるだろう。しかも山道だ。となれば、それを陸行一月というの
はごく自然な数字だと思うよ。
682日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:31:31
>>681
そんなゴチャゴチャ言い訳しなくても要するに、
対海、一支は後から中国人が書き換えたんですよ。
末盧は「松」でしょう。こちらは音からの当て字ですね。
683鹿島神流:2010/12/16(木) 15:44:23
>>682
むろんわれわれが現在目にする三国志は、書かれた当時のものとは大きく異なって
います。新疆の吐魯蕃にて出土した晋写本などを見れば、用字はかなり違います。これ
は漢文用法の変遷との関連が大きいでしょう。しかし、固有名詞を書き換えているかどうか
はわかりません。
684日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:49:30
>>683
もし、元の行路が沿海州から出発したものだったとしたら、
魏の人間には半島経由に書き換える動機があるのです。
後世にも沿海州は魏の力が及ばない地域でした。

半島経由でなければ
邪馬台国は魏の属国だったという設定にできませんから。
685鹿島神流:2010/12/16(木) 15:53:40
>>684
ははあ、倭人伝大幅改竄説ですか。いろいろな方がいるようですね。
686日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:55:33
>>685
あなたは、古代の中国人が信用できる人々だとお考えですか?
687鹿島神流:2010/12/16(木) 16:03:01
>>686
しかし、たかが東夷の国が魏に帰属していたかどうかがそれほど大きな問題に
なるのでしょうか。上で少し書きましたが、司馬懿の公孫氏討伐の功を大きく
顕彰するため、倭地を実際よりも遠絶に、さらに大国に見せかけているという説は
あります。

よくわからないのですが、倭人伝の行程が実際とは違うという根拠があるのですか?
688日本@名無史さん:2010/12/16(木) 16:04:30
>>687
「日本は中国の属国だった」
という印象操作ほど、中国人にとってメリットのあることがありますか?
689鹿島神流:2010/12/16(木) 16:14:49
>>688
現代の政治的にということでしたらその方面の議論はしません。
690日本@名無史さん:2010/12/16(木) 16:16:46
魏という国は、現代中国人と同じ民族が支配していたと言われます。
691日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:03:26
>よくわからないのですが、倭人伝の行程が実際とは違うという根拠があるのですか?

それが常識だと思っていました。
邪馬台国論争の概略、
畿内説の立場からすれば、方角が間違っている。
九州説の立場からすれば、日数が間違っている。
と学校で教わりました。
もちろん、一般論であり、真実かどうかはわかりません。
692鹿島神流:2010/12/16(木) 18:23:41
>>691
>畿内説の立場からすれば、方角が間違っている。
  九州説の立場からすれば、日数が間違っている。

これはそうですね。明治時代の白鳥ー内藤論争の頃から言われています。しかし、
原文を恣意的に改変するのはフェアではないとする考え方もあり、その考え方の
もとにいろいろな解釈が生まれました。

畿内説では、逆転日本列島論・・・当時の中国人は、倭国を九州島を北に南へ延びる
形に認識していた、というもの。

http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=2501546
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg

九州説では、一日の進行距離を短くとる説。中国人の謝銘仁氏によれば、「水行十日
陸行一月」は

>地勢によって水行したり陸行したりを繰り返した結果であって、十日や一月は、
  天候や休息、占いによる日程調整などを含めた数字だ。

としています。
693日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:35:40
近江説ならば、末盧国〜不弥国間が距離・方角までぴたりと合いますよ。
しかも不弥国は古代豪族・息長氏の本拠地にあたります。
・半島を経由しなかった
・水行10日・20日、陸行1月という値はハッタリ
という以外は、近江説ルートで何も問題ないんです。
>>668で問題を抱えてるとか言ってますけど。
694日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:38:29
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/
ちゃんと地図見てもらえば、もう疑いようもなくココだと分かりますよ。
「陸行」でどこまで行くかは不確定ではありますが。
695日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:39:36
道に迷った時、地図と実際の方角とがわからなくなって、誰かに道を聞く事が良くありますけど、
果たして所要日数を間違えたり、忘れたりしますかね?
696日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:41:19
お前の家に連れて行けと言われて、
ゴメン、うちすっごく遠いんだ。ってウソついちゃう事はありますね。
うちすごく広いんだぜ!って見栄張ったりね。
697鹿島神流:2010/12/16(木) 18:49:08
>>693
ああ、近江説が問題を抱えていると読めますね。そうではなく、畿内説がということ
です。瀬戸内航路説であれば、最近の畿内説は纏向遺跡を聖域として、大阪湾まで
の大和川水系を邪馬台国と考えるむきもあるようです。

しかし、日本海航路説をとれば若狭湾あたりに上陸したとして、そこが邪馬台国の範囲
であるとは考えにくく、上陸地点の記述が倭人伝にないのは不自然である、とするような
ことです。ただしこれは近江説なら問題にはならないでしょう。

ただし、ここは九州説スレですので、近江説の展開は他スレでお願いします。
698日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:54:26
そう「読める」じゃないでしょう?
鹿島シナ流さん。
699日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:56:51
687 :鹿島神流:2010/12/16(木) 16:03:01
>>686
しかし、たかが東夷の国が魏に帰属していたかどうかがそれほど大きな問題に
なるのでしょうか。

>たかが東夷の国
>たかが東夷の国
>たかが東夷の国
>たかが東夷の国
>たかが東夷の国

これ、日本のことですか??
どういう神経してらっしゃるのでしょうか?
700鹿島神流:2010/12/16(木) 19:01:18
>>699
むろん、これは当時の中国の立場から見たものです。いずれこの手の議論はしません。
701日本@名無史さん:2010/12/16(木) 19:11:05
今の中国は最悪なのがバレちゃったけど、
当時の中国様はありがたかったというイメージは死守したいんですね(笑)
でも違いますね、それすらウソだったんです。

議論するべきじゃないでしょうか、中国がいつからウソつきなのか?
邪馬台国の真相をつきとめるためには必要なことでしょう?

なぜ議論しないのでしょうね鹿島シナ流さん。
702日本@名無史さん:2010/12/16(木) 20:27:05
魏志倭人伝の行程の記述は信用する根拠が無いな。

なぜ信用できない記述を根拠に、九州と決め付けられるのかわからん。

そこが九州説の問題。
703日本@名無史さん:2010/12/16(木) 20:52:49
で、邪馬台国は存在しないのかね?
704日本@名無史さん:2010/12/16(木) 21:53:31
解釈を根拠にしても、弱いだろう。
なぜなら、魏志倭人伝が真実かどうかわからんからね。
とにかく倭人伝を信じる、は宗教と見られる。
705日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:04:12
列島内の遺跡、古墳から3世紀半ばの日本の状況を語る方が前向きでは。
だからといって勘違いしないで欲しい。別に畿内説の方をもっているのではない。
俺は説得力ある九州説の構築を望んでいるからいっているのだ。
方角・日数云々ではいつまでたっても循環論法で前に進まない。
706日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:29:17
もし邪馬台国の所在地候補を
1.北部九州
2.南九州
3.畿内
とおおまかに分けるなら
考古学の面で最も弱いのは
2.南九州だと思うが。
707日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:35:39
>>702
倭人伝を疑うべき理由が何もないから信用できると判断するのさ。
信用できないとする理由は、まず誤読から出発しているね。

>>706
南九州のどうゆうところが弱いと思っているのかな?
708日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:51:32
>>707
南九州には、遺跡も無い、鏡も無い、銅矛文化もなかった九州の僻地。

南九州に邪馬台国があったという論が許されるなら、
畿内でも四国でも出雲でも近江でもどこでも邪馬台国があったと主張できる。
709日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:07:32
<其山有丹>
九州南部は水銀鉱床群があるらしいですね。
大分から霧島にかけての地域に。
四国と近畿にもあるが…
710日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:09:01
北九州や畿内には銅剣・銅矛や銅鐸があったということかな? しかし、それが
邪魔なんだよ。北九州は刀剣・銅矛や大きな銅鏡を作る技術があった。何で魏に
鏡が欲しいなんて言う必要があるんだ?銅鏡百枚は銅鏡をいくらでも手に入れる
ことができたにしてはおかしな話なんだよ。畿内もそうだ。畿内は銅鏡こそ少な
かったが、銅鐸の歴史がある。銅鏡を作ることぐらい難しいはずはない。
邪馬台国は銅の文化を経ていないところなのではないか? そう考えてみろ。鏃
は骨と鉄だ。銅の鏃がでてこない。銅がないところ、それが倭人伝の示す邪馬台
国像であることに気づかない奴は資料の読み方を知らん奴ということになる。

711日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:14:22
>>710
卑弥呼は30国から共立されたそうだが、
南九州の鉄も銅もない貧乏な田舎巫女をどうして共立しようと思ったのかね?


712日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:18:35
>709
ついでに佐賀嬉野からも水銀丹出ますよ。
丹生神社も8世紀初頭までは間違い無く遡れます。

松浦佐賀ルートの沿線になります。
713日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:40:18
>>711
少ないながらも鉄はあったようだな。それが、投馬国と力を合わせ、熊本を傘下に
収めて豊富な鉄を手に入れ、北九州と戦える実力をもった。そして、倭国の乱で北
九州を打ち倒したんだよ。
714鹿島神流:2010/12/17(金) 00:52:01
>>713 で、その後東遷が始まると。w

南九州はたしかに遺物の面では厳しい。やはり邪馬台国論は東遷とセットになって
しまうのかな。考古学的には、発生期に近いとされる古い前方後円墳があること。
しかし宮崎の土器編年はまだ不確かだろう。

ただ、これを根拠とすると、全国的な邪馬台国連合ー前方後円墳体制を認めてしまう
ことになるため、年代をどこに置くのか難しい気がする。
715日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:54:31
>>710

なんか無理やり気味の、というか、苦しそうな論理だな。w

>>711の言う通り女王は倭の大半のクニグニの上に立つ存在だった。
北部九州の諸国も押さえていた。
それは一大率の記述を見てもわかる。諸国は一大率を畏れている。

ならば南九州が邪馬台国で、もしそこに倭女王がいたとしたら、彼女は
当時の北部九州における銅鏡等の宝器的文物ぐらいは、たやすく求め得たのではないか?
716日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:03:03
へ理屈をこねれば、なんとでも言えるわな。
鹿島神流は、どう議論を進めたいと思ってるのかね?


717鹿島神流:2010/12/17(金) 01:23:22
南九州東遷厨さんの論は前々から読んでるんですが、倭国乱において南部九州
邪馬台国が北部九州を支配下に置き、さらに畿内に東遷するというものだったと思
ったんですが、さすがに無理があるのではという気がします。

むしろ邪馬台国とのかかわりが薄いからこそ、早くに畿内勢力と結ぶことができた
のかもしれません。

議論の方向としては、東征(遷)の有無、および畿内を含む本州勢力との関係という
のはどうでしょう。
718日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:28:33
>>716
ぐちゃぐちゃと分かったような分からんような理屈をまぶして、
議論を停滞させたいと思っているんですよ
719日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:31:04
>>717
東征(遷)があったと思ってるのか?

まずそこをハッキリさせようや。
720日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:36:03
日田説というのはどうなんですか?
721鹿島神流:2010/12/17(金) 01:38:19
>>719
私は上で書いたように、東遷説です。半島の後に伽耶と呼ばれるようになった
勢力が主導して、九州邪馬台国を大和の地に東遷させたと考えています。
722日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:43:30
当時は伽耶は何と呼ばれてたと考えてるの?w
723鹿島神流:2010/12/17(金) 01:57:27
>>722
狗邪韓国が金官伽耶になったと考えます。その時期は3世紀中葉以降。しかもこれ
はスムーズな移行ではありません。

弁韓の狗邪韓国の時代の墓制は木棺墓でしたが、金官伽耶の時代になると木槨墓
に変わります。また、庶民と支配者層の墓がともに平地の同じ区画にあったものが、
支配者層の墓の場所が丘陵部に変わるという墓域の分離が起こります。

金海大成洞遺跡は狗邪韓国の中心的環濠集落で、隣接して共同墓域がありました。
しかし、木槨墓の時代には遺跡全体が墓地となり、環濠集落は少し離れた鳳凰台と
いうかなりの高地に移っています。つまり何らかの異変が起きたと考えられます。

加耶文化における特徴的な遺物は陶質土器と鉄ていですが、古墳時代初期には
ヤマト王権に鉄を供給し始めます。

724日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:58:31
なんで韓国が主導すんの?何様?
725日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:00:38
>>721
>九州邪馬台国を大和の地に東遷させたと考えています。

考古学上の証拠は全く無い。
九州説を唱える考古学者も全面否定してる。

文献からは、景行〜神功が九州を平定している。
その後も九州の反乱は繰り返してる。
九州から東遷してきたなら、どうして大和と九州は敵対を続けてるのかね?
726日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:11:19
愛知にカヤツ神社ってのがあるね
727鹿島神流:2010/12/17(金) 02:11:20
>>725
武力東征ではありません。これは、伊都国の衰退(人口的に衰退してるわけではない)
画文鏡の北部九州を経由しての畿内への移動、庄内式の北部九州への流入、西新町
遺跡の貿易拠点化、これらの弥生終末から古墳前期にかけて起こった出来事が、倭国
内だけの力関係で起きたものとはとうてい考えにくいからです。

鉄を含む交易権を握った、半島の倭、と呼ばれた勢力の介在があったと考えています。

景行天皇の事績はどこまで事実かはわかりませんが、九州邪馬台国は大国ではなく、
東遷後、残りの九州地域を従えていく必要があったのかもしれません。
728日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:14:05
なあ
「交易権」ってなんなの?

あんた屁理屈権を握ってれば何かいいことあるの?
729鹿島神流:2010/12/17(金) 02:22:40
>>728
まず、狗邪韓国は北部九州と言語を共有する同一文化圏であった可能性が
あります。(言語面は残りがたく、これに根拠はありません)さらに、半島の鉄
を倭国に持ち込むためには、半島勢力の協力が不可欠と考えます。つまり、
半島南部には、伊都国なみの規模の倭と利害を共有するクニがあったと考え
ます。どのみち当時国境線はありません。

その勢力が大陸からの文物の移入を、北部九州から、ヤマト王権へと切り替え
たのです。これにはおそらく公孫氏の滅亡の影響があったのでしょう。




730日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:23:40
末盧国→唐津市呼子
伊都国→福岡市西区周船寺
奴国→福岡市中央区草香江
不弥国→福岡市東区多の津(宇美?)
731日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:26:51
>>729
>半島南部には、伊都国なみの規模の倭と利害を共有するクニがあったと考え
>ます。
その倭ってのはヤマト国ではないだろ

なんで公孫氏が滅亡したら韓国人が九州人を近畿に攻め込ませるの
732鹿島神流:2010/12/17(金) 02:32:33
>>731
だから、攻め込まないんですよ。京都から東京へ首都が移ったようなもの
です。
733日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:35:22
なんで公孫氏が滅亡したら韓国人が九州人を近畿でいばらせるの
734鹿島神流:2010/12/17(金) 02:41:05
>>733
・・・当時の韓国南部は、任那で知られているとおり倭の一部だったと思います。
ヤマト王権の故地といってもよい。
公孫氏との関係はとうてい一言では説明しきれないので、おいおい出していきます。

それより他の方の東征(遷)に着いての考えをお聞きしたいですね。
735日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:43:17
まあ新たなマーケット拡大のために畿内に支店を新設。
やがてその支店のウェイトが上がって行って、本店機能をそっちに移すに至る。
…と言うお話であれば一応の筋は通るんだろうか?w

しかし証明手段、せめてそれを伺わせる材料がなければ
単なる「たられば」の積み重ね。

ある事象・事件び背後にそれを画策しシナリオを書いた「黒幕X」がいたなんて構図は
陰謀論と基本的には同じで九州王朝説とも同じw

黒幕X=半島の倭人=九州王朝=ローゼンクロイツとかフリーメーソンとかイルミナティとか(以下略 wwwwwwwwwww

736日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:01:33
うわなんか来たwww
しかも妙に好意的wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
737日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:03:54
鹿島シナ流と草の生えたシナメガネの夢のコラボwwwww
738日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:10:51
基本的構図は陰謀論のそれと変わらない…としているわけだが
それでも好意的って…

3行以上はキャパをオーバー?
739日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:11:06
鹿島神流は、友好的に九州から畿内に首都が移転したと考えてるようだが。

それならそれで、九州の卑弥呼を共立した30国に、畿内のクニも含まれてるんだろうね?

つまり、邪馬台国の勢力範囲は九州から近畿までということでいいね?

740鹿島神流:2010/12/17(金) 03:15:29
>>739
そうですね。九州島内で交易が完結している状況ではないでしょう。
741日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:57:11
>>740

ならば、卑弥呼を共立し、九州とも交易していた畿内は、3世紀でも鉄を入手でき、
箸墓築造も3世紀ということで問題ないのではないのかね?

貴殿も箸墓が卑弥呼の墓などとは考えていないだろう。
九州の邪馬台国と畿内の大和王権が並立していても問題なかろう。
そして、九州の邪馬台国は滅び、畿内の大和王権が勢力を広げたとも考えられうる。
なのに、なにゆえ、東遷したと考える必要があるのかね?
742鹿島神流:2010/12/17(金) 05:00:33
>>741
最大の理由は、前方後円墳の急速な各地への伝播です。これはヤマト王権
と交易があった場所に築造されたというだけでは考えにくいものがあります。
纏向への遷都、そして卑弥呼の倭王への冊封、そして、このことが契機となっ
て各地から伺候した首長層に、前方後円墳の分与があったと考えます。

743日本@名無史さん:2010/12/17(金) 07:55:34
神武天皇で東遷させなければ、日本書紀での各天皇の事績と辻褄があわなくなるよ。
あと、書記で記されている事細やかな系図はデタラメではないと思うよ。
744日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:24:33
かなりいじってあると思うよ。欠史八代はちろん架空。
ミマキイリヒコではなくイクメイリヒコから実在。
宮崎県生目古墳群に「イクメ」の地名があるね・・・
キュウシュウセツの人達って、どうして生目古墳群に食いつかないんだろうね?
745日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:36:51
てか、大和朝廷の祖先(つまり、邪馬台国ね)は九州から来たって日本書紀に書いてある
もし、そうじゃなかったら、何故、自分らの先祖が九州から来たなんて嘘書く必要があるのか、
ちゃんと説明してちょうだい。
746日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:40:10
九州って漠然とした範囲じゃなくて

はっきり「日向」って書いてあんじゃん
そんでそこに嘘みたいにでかい古墳がわんさかある。

どうしてそれをスルーしてんの九州説??
747日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:46:32
日向から畿内まで、つまり豊後水道から瀬戸内海が
初期の前方後円墳の範囲だろ。

山陰や九州北西部の統一感の無いことといったら。
748日本@名無史さん:2010/12/17(金) 09:57:43
生目古墳群は?

どうして畿内説みたいにマキムクマキムク言わないの??
749日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:13:22
日向の古墳は5世紀
宮崎は弥生時代にはど田舎。
750日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:27:36
どうして嘘つくの?

http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
これらの古墳は、3世紀末か、4世紀前半に作られはじめ、7世紀まで築造されたと推定され、古墳時代前期において、九州最大の古墳群です。
100mを超える古墳時代前期(3世紀後半4世紀末)の前方後円墳3基(1号墳、3号墳、22号墳)を含み、古墳時代前期では九州最大の首長墓群である。
751日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:27:43
>>749
>日向の古墳は5世紀 宮崎は弥生時代にはど田舎。
と言って、20年くらい前までは日向を無視してきたが、その後日向の古墳が
3世紀にさかのぼりそうだと分かってきたので、今は日向を見直さざるを得な
くなってるんだよ。古本屋で買ってきた本しか読まないと恥をかくよ。


752日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:38:30
じゃあそれこそヘン。
どうして九州説はもっとお祭り騒ぎしないの?????
753日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:59:44
>てか、大和朝廷の祖先(つまり、邪馬台国ね)は九州から来たって日本書紀に書いてある
もし、そうじゃなかったら、何故、自分らの先祖が九州から来たなんて嘘書く必要があるのか、
ちゃんと説明してちょうだい。

だからそれでいいじゃん。
そして紀元前660年の話だろう。
754韓国は陸行:2010/12/17(金) 11:01:34
http://www.fjsen.com/fjxy/qsgc/qsgc2.htm
に、古来、中国から日本へ行く時は韓半島は必ず陸路を通ったと書いてある。

韓国は陸行した。これが正解。
755日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:03:36
>>753
神武東征、紀元前660年とかマジ信じてる?
頭だいじょうぶ?
756日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:15:51
信じるも何も書記の天皇在位年数をそのまま足し算したらそうなるじゃん。
俺は己の私見を排除して史料事実を忠実に語っているのだよ。
神武東征時を3世紀半ばすぎに改竄しようたって無理だ。

そして、歴史事実は?というと、
1代の在位で凡そ20年位だ。
20で子息をもうけたとしてね。
実際に計算してみよう。
757日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:21:08
>>745
この人の言うとおりで、
神武天皇が九州から来たなんて嘘書く必要はあまりなさそうだけど
ずーっと昔から今の天皇家が続いてるんだぜ!って嘘つく必要は、あるのよね
当時の新興勢力にとってはね。
758日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:26:52
>ずーっと昔から今の天皇家が続いてるんだぜ!って嘘つく必要は、あるのよね
当時の新興勢力にとってはね

また、書紀は嘘ついてるか……。
嘘は畿内説の始まり!
759日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:30:27
いや、嘘ついてるのは藤原と物部。
760日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:32:39
ま、だから嘘は畿内説の始まり、で正解だね
761日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:34:33
そんなのもうわかんないよ。
改竄を証明できないよ。
怪しげな考えは無力なんだから、とっとと別な確かな根拠に方向転換した方がいいよ。
762日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:36:29
は?なにそれうける
まるっきり犯罪者の開き直りだね(笑)
火サスに出てくるよねそういう人(笑)
763日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:41:45
世の中、証拠がなければ、犯罪を証明できないんだよ。
証拠、証拠。
推測だけでは無力。
764日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:43:27
つーか人権問題だろう!
証拠もなしに嘘つき呼ばわりされたら。
名誉毀損だ。
765日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:45:01
なにこの必死のぱっち
766唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 13:47:02
書紀の太陰暦は、伸長されている。
神武元年から仲哀元年までは、19年×n回の空白年が差し込まれている。
しかし神功から応神、及び仁徳朝にかけては、空白年は無い。
神功元年の”あづないの罪”は、273年の日食である。
しかし神功元年を273年としては、証拠をそろえられない。ここは275年に373年の日食を差し込む。
この後ろに仁徳を繋いだのでは、やはり証拠をそろえられない。ここは
神功39年太歳を仁徳元年とすると証拠はそろえられる。

証拠を並べる限り、神功、応神、仁徳の年齢は考えられない。

>嘘ついてるのは藤原と物部。
としても、この三代をウソにしなければ、藤原と物部にまずいことが起きるわけでもない。
767日本@名無史さん:2010/12/17(金) 13:52:53
まず言えるのは、
藤原・物部にとって共通の目の上のたんこぶと言えば蘇我氏です。
「蘇我氏」の活躍は隠さなければならなかったでしょうね。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 14:18:05
書紀の記事の証拠物件として、百済本記が使われる。
しかし、書紀の主張と百済本記は、一致しない。にもかかわらず
百済本記を正しいとする。

ところが、百済本記と新羅本紀も一致しない。
この事実は、新羅土器には編年がある、しかし百済土器には編年が無い。
つまり百済本記は正しいと証明されていない。
正しく無い物を正しいとして、書紀の記事は否定されている。
のの齟齬を”嘘ついてるのは藤原と物部。”と主張されても、彼らも困るだけで
真実に迫れない。

この時代を正しいと出来る物は、七支刀であり、設定は326年になる。
百済本記にあわせて(現実には合っていない)369年とするから、書紀は全て間違いとなる。

任那建国は209年であり、鉄のない纒向は崇神の時代であり、鉄の無い時代に箸墓は築けない。
鉄のない崇神の時代であれば、九州は自由に考えられる。しかし
鉄を得た、景行時代の終わりに箸墓は築かれる。
その時、九州はどうであったか?
769日本@名無史さん:2010/12/17(金) 14:19:28
隠されてないじゃん。
770日本@名無史さん:2010/12/17(金) 14:22:48
藤原・物部には、嘘をつく動機と、それが可能な状況があったわけです。
記紀に不整合な点があるなら、彼らを疑うのは当然のことです。

それを何故しないのか?
>>575-565のように、ファビョる人がいるのは何故か???
771日本@名無史さん:2010/12/17(金) 14:34:42
あ、リンクミス >>757-765ね。
772日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:04:13
神武東征は、日本書紀では紀元前。

崇神以前の代数を20年としても、1〜2世紀頃だろ。
4世紀にもってくるのは、それこそ歴史の改竄。

欠史八代を都合よく捏造とかいうなら、神武東征も信じるなアホども。
773日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:07:48
意味わからん
神武東征が捏造だとしたら、捏造する理由は何だ
774太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 15:24:02
>>766
あづないの罪というのは犯罪であって、犯罪は日食ではない。

また紀の神功元年前年の天空暗黒の記述は 日を経て とあることから日食
にはならない。日食はたかが1〜2時間程度の犯罪ではなく天文現象で
あって、日を経てである数日間もの長くに日食は起こらない。

あづないの罪が日食だというのは、古今の蛮族なら言い出す迷信であると
言え、こういう罪だとかを言う奴の脳内は蛮族とかカルト集団に洗脳され
た脳内構造であり、紀の神功元年前年の記述は断じて日食にはならない。
775日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:50:44
>藤原・物部には、嘘をつく動機と、それが可能な状況があったわけです。
記紀に不整合な点があるなら、彼らを疑うのは当然のことです。

だから、捜査の途中なんだろう。
白黒はっきりさせてから結論を出せよ、アホ。

776日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:54:11
>意味わからん
神武東征が捏造だとしたら、捏造する理由は何だ

誰も捏造なんていってない。欠史八代を都合よく捏造とかいうなら神武東征も信じるなアホども。といってるんだよ。


777日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:56:48
藤原・物部に、いったい、何が捏造された? といってるの。
欠史八代の事?
778日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:58:32
欠史八代は実在しました。
嘘ではありません。
日本書紀は古代を忠実に再現しています。
779日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:14:28
まずねー
・神武東征以前に葦原中国を治めていたニギハヤヒが物部の始祖
これはおそらく「蘇我氏」ね。
推古天皇に葛城の地は昔自分達の物だったから返せって言ってるでしょ

でねー
・天照大神+大国主 → 天照国照彦
・イクメイリヒコ → ミマキイリヒコ
・オオクニヌシ → オオモノヌシ
パクリネームのオンパレードですわー
780日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:21:12
>>773

 塚口さん(※) はさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想されたものとみる。
つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、自らを正当化しようとしたというのだ。

 日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸する。
この草香こそは5世紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だった。

 「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。
神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応している」

 ヤマト政権の初代天皇が大和を攻め滅ぼして即位するという不自然な伝説の背景には、河内王朝の成立事情が絡んでいたことになる。


※塚口さん = 塚口義信・堺女子短大学長(日本古代史)

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040703.htm
781779:2010/12/17(金) 16:23:55
まっ、断定はできないわけだが(だから2ちゃんなぞで書きなぐってるわけで)
そういう工作が入ってると思えば、いろいろ腑に落ちることがあるよ

「箸」がバカにされるように登場することとかね。
物部氏はもともと箸を使わない民族だったのだろうね
782日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:30:40
邪馬台国は南九州!!
銅剣や銅矛、鏡などは、畿内に移住した時に持って行ったんだから、ないのは当然だ
引っ越しする時に、貴重品を全部捨てて行く馬鹿はおらんだろ

もちろん、ここで言ってる南九州邪馬台国とは、魏志倭人伝に記載されている3世紀半ばのことね
783日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:32:56
塚口説は知ってたけど、無理やりのこじつけだな
全然説得力無いわ
784日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:47:25
神武=河内王朝

ここはビンゴだよ塚口さん
785日本@名無史さん:2010/12/17(金) 16:55:04
まあ応神の系統を正当化するために神武が創出され、権力中枢にいる豪族のために欠史八代があるというのが大方の見方だからな。
故意に創りだしたのではなくとも、ヲホトの一族にあった伝承を持ってきたとしてもいい。

>>781
たぶん箸墓のマムコ箸のことを差しているのだろうけど、あれは食事用のお箸のことじゃないから
そこは無関係だと思うよ。
あそこでの箸は、糞ベラのことだから。
786日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:01:42
あとヤマタノオロチエピソードで、
取ってつけたように箸が流れてきたりね〜
787日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:14:53
銅剣や銅矛に着目すれば、北九州が突出しているが、邪馬台国と銅剣、銅矛が
結びつくという証拠はまったくない。
しかも、北九州は倭人伝によれば、女王国から派遣された一大率に厳しく検察
されていた地域だ。倭国の乱の実質的敗者であることは明白。3世紀以降北九
州が衰退していったこともそれを裏付けている。
では、北九州を打倒した勢力はどこか? 畿内にその気配がないことは寺沢ら
が明言しているところだ。弥生後期までの近畿のシンボルともいうべき銅鐸は
北九州にはまったく関係していない。九州に勢力をのばした形跡すらない。
北九州が敗れた相手、それはもっとも近い九州南部しかありえない。
倭人伝の万二千里という数字を合理的に解釈すれば、熊本以南は女王国であっ
たことが分かる。その女王国は、どこからも侵略された気配はない。
日向を中心として、3世紀後半には九州随一の古墳等の遺跡を遺し、古墳時代
を通じて繁栄を続けている。
九州でもっとも繁栄したところ、それが邪馬台国の所在地であることは明らかと
言えよう。
788日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:38:10
>>745
>何故、自分らの先祖が九州から来たなんて嘘書く必要があるのか、
>ちゃんと説明してちょうだい。

まあこの問いかけはリアルでも言う学者作家はいるみたいだが
(井沢が同じような事を何処かで書いていた記憶があるw)

答えは簡単

 その方が あ り が た み があるから wwwwwww

いわゆる始祖神話において
その昔ご先祖さんが遠くの地より苦労してやって来た
…なんてお話は別に珍しいものでもない。

(インカじゃあご先祖さんはチチカカ湖に舞い降りてきて
 アンコールワット築いたクメール人は消防署の方…じゃなくてwヒマラヤの方からやってきた
 と言う伝承があったと思うが)

ついでに言うと九州から畿内と言う行程なら
途中各地の始祖をその神話に組み込めるメリットがある。
(例えば宇佐に出てくる天種子命が中臣氏の祖先とか)

逆に言えばその神話を伝える王朝の都のど真ん中に
始祖が降臨したなんてタイプの神話が思い浮かばない。

そっちの方が一般的と言うのなら有名どころの2・3でいいから教えてくれ
以後参考にするから。

789日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:45:38
>>780
まあ内乱、簒奪劇のお話は別にしても

日向が畿内王家の始祖神話にあれだけのウェイト(日向三代)を持つにいたる時期となると
やはり5世紀ごろと言うのは妥当だと思うwww

790日本@名無史さん:2010/12/17(金) 18:39:52
>>788

あ ほ か wwwwwwwwwwwww
791日本@名無史さん:2010/12/17(金) 19:25:27
邪馬台国=マキムク。卑弥呼はアマテラス。投馬国は出雲。

邪馬台国は「会稽東冶の東」にあるとされるので、会稽郡東冶県の東に方位を
持ってくるために、「南」と方角を修正して書かれた。会稽は現在の紹興のあたり。
日本では奄美大島付近。東冶は現在の福州。東には尖閣諸島が…。
つまり、当時の中国は倭を沖縄付近にあると考えていた。

また、距離に関してはほぼ4分の1に縮めるとぴったり合う。わざと距離を膨張して
書かれた。
792日本@名無史さん:2010/12/17(金) 19:31:25
>>789

当然だな。
日向三代神話は、もともと南九州の神話だろ。
それを大和朝廷が盗んだわけで、神武東征はつなぎで創作されたもの。

南九州の人は、もっと日向神話を大事にしたらどうよ?
神武東征なんて中央の豪族か捏造した話を有難がる必要ないだろ。
793日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:05:01
九州の人が誇りにすべきことは、
天皇の祖先が九州から来たとか、邪馬台国が九州にあったとか、
そんな次元でしかないのか?

どれも、3世紀以後の歴史じゃないか。

日向三代や、隼人の神話などは、もっと古代からのものだろ。
どうして大和の神話としてあげちゃうわけ?
九州の神話として取り戻そうとは思わんのかね?
794日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:05:12
マキムクからは「魏」という文字の書かれた遺物が出土している。
なぜ、3世紀の古墳から「魏」の文字、しかも卑弥呼が魏に使いを送った年号
が書かれた遺物がマキムクに存在するのであろう?
年号というのはその年に刻まれるのであって、後世に昔の年号を刻んだり複製
するのは考え辛いのでは?
795日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:18:47
>>794
へーそれどんなの?
796日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:20:27
>>788
なぜ、九州なんだね?
そんな説明なら、朝鮮でも、東北でもどこでもいいことになるよ
それに、神武東征は人間のお話であって、神話ではないよ
まあ、所詮は何の根拠もないただの思い込みか・・・
797日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:29:27
>>794
「纏向遺跡 魏」でぐぐっても出てこないorz
798日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:04:35
纏向ではなく天理市の黒塚古墳だった。そして、黒塚古墳からは紀年鏡は出て
ないのかな?
799日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:07:47
>>798
ん?「景初」のことか
「魏」って書いてあるわけじゃないじゃん
なーんだ
800日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:17:21
>>796
九州が選択された理由のひとつが
既に出ている河内朝における政治事情というのも考えられるなw

理由があったとて
それが全くの史実に基いているからと言う根拠は何もない単なる妄想・願望だけの産物。

どうしても史実と言うのなら高天原でも日向三代の都でも見つけて来い
話はそこからだ。


>神武東征は人間のお話であって、神話ではないよ

金鵄やヤタガラスと言った霊鳥の助けを受けるモチーフや
初代天皇として即位する神武は第四子だが末子相続と言う風習もモンゴルに見られる等々
神武東征とてまだまだ神話。

無論その前の日向神話なんて東遷説の連中ですら史実として扱わないwwwwwww

少し頭を冷やして考えれば始祖降臨の地を遠方に置くこと自体
なんら不思議な事でもないと言うのは直ぐに分る。

801日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:21:36
>>800
こんなん見つかりましたけど。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/

頭冷やしてから読んでね。
あと、メガネは日本製のを使ってね。
シナ製の色メガネで読むなよwwwwwwwww
802日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:31:31
803日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:38:05
>>801 メガネ君

で、生目がどうしたって?
何が言いたいんだ?言いたい事ははっきり言えいなさいボク(ひょっとして日本語の不自由さからして朴かもしれんがw)

大概こっちも馬鹿の言わんとしていることを斟酌してやっているが限界があるぞゴミクズw

まさかそのリンク先に書いてあるようなことが初見だろうとでも思っているのか?


…で、前から気になっているんだがお前やたら「メガネ」に固執しているよな?
もとネタは何だ?

よくアサヒのAAでメガネかけている奴があるが
あのイメージの延長上か?

804日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:41:34
南へ水行20日+10日、陸行1月
これ、まともな地理感覚持ってる日本人ならおかしいと思うわな。
絶対大袈裟言ってる。

でも、これを伝聞でしか知らない大陸の人間ならどうだろうね。
しかも、更に南にある国との戦いに、援軍を要請されている。

日本列島の、南側から回り込む・・・
そういう計画で航海したなら、上陸するのはどこだろう。
どこだろう。
ねえどこかな。
答え言っていい??
805日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:41:50
こいつは近江厨だろ。人種差別のクソ野郎だ。
806日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:43:23
>>803
ダメだろ。トヨタン・・・の前に書き込めば。
807日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:44:41
>>805
あらやだ。北陸を差別しながら、鯖江産メガネをかけてるのは貴方じゃない
808日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:54:38
※「邪馬台国 鯖江 メガネ」で検索すると、メガネ君のズッコケレスが読めるかも

※邪馬台国鯖江説とかいうトンデモも引っかかるかもしれないが、スルーしましょ
809唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 21:54:43
ヤタガラス。八タは、伸長。カラスは職業で山師か鋳造に拘わる人
>生目がどうしたって? 。生目古墳群は、景行が持ち込んだ。
黒塚古墳には、黄旛が副葬される。

それでも、女王は九州にいる。
なぜならば、畿内大和に乱は無い。
810日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:21:40
えええっ?

>>801のメガネネタって鯖江説と絡んでいるのか???

俺、覚えが全くないぞwwwwwwwwwwww
811日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:26:42
神武東征は朱蒙伝説とモチーフが細部まで共通している。
実際に有った事とは違うのではないか。
812日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:45:14
>>810
鯖江説は関係ないって言うてるやんこの文盲シナメガネ
813日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:46:05
>>811
はいはい共通点をサクっと列挙しようね
814唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 22:46:08
神武東征は、弥生中期と後期を別ける位置である。
つまり1世紀中葉の出来事。この辺りは色々あるぞ。
まず
唐古、鍵遺跡出も、中期の環濠は埋められ、後期の環濠が掘られる。
出雲では、中期の銅鐸が埋められ、後期の銅鐸による祀り。
もしこの時銅剣も埋められたのであれば、
ホ09124 サホコクニ かえてイツモの クニはこれ
出雲と呼ばれるのはこれ以降か?


815日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:53:47
日向は神武天皇のルーツかもしれないが、
邪馬台国とは特に関係はない。

日向という地形では北部九州とは、山を超えて
極少数の交易はされていたかもしれないが
政治的、軍事的な関係は皆無である。

それより、瀬戸内海方面の関係のほうが大きい。
816日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:57:15
吉備説キター
817日本@名無史さん:2010/12/17(金) 23:00:20
>>812 メガネ厨

で、なんで俺が「シナ」で「メガネ」なんだ?w

あと生目とかこの板の人間ならおなかイッパイな今更なネタで何が言いたかったんだカスw

肝心の邪馬台国・古代史ネタではまともに意見すら言えず
やっていることは脳内ウヨサヨ・イデオロギー闘争の延長上の自慰行為。

まあこういうタイプもこの板のゴミクズレベル九州説には少なからずいるんだがwwwwwwww
818太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 23:00:53
>>814
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が、
偽書といわれる書物を持ち出した〜〜
819唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 23:06:48
九州の鉄は、呼子の東へ流れれば奴国へ、西に流れれば狗奴国へ、

後は鏃で決着をつける。

その頃大和は任那建国(209年)で、吉備も尾張も大和へなびく。
820太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 23:20:30
警告の連続投稿5回とかで書きこみが出来ない。

唐松山
オマエも42年を説明しなさい。早くしろい。

ここでも規制かな?

ジョーカー
オマエのは規制のため反論は後日だな。
821唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 23:43:30
>オマエも42年を説明しなさい。
とは、太国が西暦元年を説明出来た後。でよいだろう。
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜83年
懿徳天皇 84年〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。
後漢書では、193年が冷夏、凶作の年。

太国は、ツノガアラシトの来邦から任那建国を数字に直せない。
任那建国はインチキ記事とするのか?
記事がインチキであれば、世継ぎもインチキとなる。
822日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:48:28
>>817
肝心の邪馬台国・古代史ネタではまともに意見すら言えず
やっていることは脳内ウヨサヨ・イデオロギー闘争の延長上の自慰行為。

そっくりそのままブーメランでお返しするわ
腐れシナ産メガネ野郎wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
823日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:53:04
「倭」という字は旁を見ると本来「イ」(「ゐ」かもしれないが)という発音だったんだな。
824日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:54:49
>>822
まあまだ日本語になれてないからオウム返ししかできないのか
脳味噌が限界なのかしれんがw

でメガネ厨よ結局その「メガネ」の元ネタって何なんだよ?
(俺はメガネはしていない)
アサヒのAA(例えばこんな↓)じゃないのか?www


                ち
            そ  ょ
            の  っ
            書  と
         朝  き  待
         日  込  て
         か  み
         も  は

     ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (@∀@;) < ヤバい バレてる…
   _| ̄ ̄||_)_ \_________
 /旦|――||// /|
 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |
 |_____|三|/

825日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:59:29
ちなみに九州説って朝日新聞とは結構、蜜月の時代があったと思うがw

古田の「邪馬台国はなかった」も最初、アサヒから出てたっけ?www

826日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:05:29
反日新聞である朝日にとって、九州説は都合が良い訳か。
827日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:08:32
しかし、古田の性格は朝日をしてもまったく手に負えないものだった。w
828日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:08:53
>>824
そのAA知らん
脳内ウヨサヨ・イデオロギー闘争いい加減にしてくれる?

そんでまた九州説相手にシャドーボクシング?
あなたの敵は「近江厨」じゃなかったんですか?
829日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:45:26
>>828
勘違いするなアホ。
邪馬台国論争にウヨサヨ論争を持ち込むのは大抵がゴミクズレベル九州説。

いや持ち込むというよりウヨサヨ論争そのものが目的なんだろうwwww

このメガネ厨にしても比定地を九州のどこに置くのか?
九州だったら何処でもいいのか?
いやそもそも九州説なのか?

大体、邪馬台国論争で右だ左だ言い出したら切りがない。

邪馬台国論争の立役者松本清張(無論、九州説)のプロフィールをググって見ろ
これでもかと言うぐらい真っ赤っかwwwwwwww

が、更に遡れば本居の偽僭説は皇国史観の産物と言うのは誰もが知るところ。

九州説だろうが畿内説だろうが右的解釈左的解釈なんぼでもできるって話だなw






830日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:51:37
>>829
だからどうでもいいよドアホ。
そういう決め付けで相手を攻撃するてめえ様はどっちなんですか?

「いつでも自分がセンター」というあの思想ですか?
831日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:52:51
>>822 メガネ厨

いや、ホンマ、何で俺が「シナ」で「メガネ」なんだ?

憎いシナチクを自分をボロボロにした相手に重ねているとか?www
ゲームかリアルでメガネ野郎に怨みつらみがあるとか?www

恥ずかしくて言えないのかもしれないがw

こっちとしても、元ネタが分らないまま言われるのは結構気持ち悪いw



832日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:57:53
>本居の偽僭説は皇国史観の産物

そう。で、江戸の国学者が、日本が中国に朝貢してるのは許せないってんで、九州襲国の王
が倭の五王にあたるという偽系図を作った。右ここに極まれりというとこなんだが、この系図
を今証拠として取り上げてるのが、古田系九州王朝。皮肉だねえ。
833日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:59:54
>>830
黙れゴミ。

そもそも文句はウヨサヨ論争(らしきもの)を持ち込んだメガネ厨に言えやクズw

シナでメガネと言えばこう言う↓イメージしか思い浮かばないのだが?w


 ∧_∧    ビビビビ
/ 支\  。))))))))     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( `ハ´)./          (-@∀@)< 中国は道徳国家。文革は相当成功している。南京大虐殺、東アジア共同体!
(  つ二/0           (φ朝 )  \_________



それとも「シナ」「メガネ」が邪馬台国論争に関係のある事柄なのか?w
関係があると言うのならレクチャーしてみろwww
834日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:00:28
447 :日本@名無史さん[sage]:2010/06/04(金) 12:52:35
>>445
なんだ、そういう単純な話かwww
日本海交易ルートを語ってくれるのかと思ってたよ。

で、すまんが俺は確かに眼鏡をかけてるんだけど
ALOOKやZOFFといった量販店で買ってるので、福井県の地域振興には協力してないのよwwwすまんね。


458 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 13:27:52
豆知識。
鯖江市 - Wikipedia
メガネフレームの国内シェアは96%で世界シェアでも約20%を鯖江市が占めている。
835日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:02:06
>>833
あんたしかウヨサヨ言ってねーよ
836日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:06:07
>>832
しかし古田らがその昔相手取ったようなガチガチの
大和中心主義とでも言うような学説はもはや昔の事で

振り上げた拳を下ろす場所がなくなったって所なんだろうか?wwwwwwwww
837日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:17:42
ちなみに参考までにだが「鯖江説」と言うのも実際過去にあったらしいw

武智鉄二(映画監督)『古代出雲帝国の謎』 祥伝社 1975 で
なんでも邪馬台国は北方騎馬民族によって建てられた国としていたらしいwwww

しかし70〜80年代、邪馬台国ブーム時って本当、畑違いだろうが
発想が奇想天外だろうが「邪馬台国」の文字をタイトルに入れたら
そこそこ本が売れたんだろうか?

フリーダムって感じはするwwwwww

838日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:21:00
839日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:23:40
要するに、
連中が嫌がらせし続けてきた人達が日本の礎を築いたってことがバレると困るので、
くっだらない「論争」してるフリして話そらしてるだけ。
だから九州説がなくなると困る。茶番のキャストが揃わなくなるからね。
畿内説も九州説も、正体は同じつーこと
840日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:31:28
>>838
こっちの画像でヨロw
http://movie.goo.ne.jp/special/avp2/wallpaper.html

「人類はもう逃げられない」を「板住人〜」でwww
841日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:04:02
>>834
ああそれかw
すまんがそれ俺だわwwww
ジョーカー氏とは無関係、草生やすだけで同一人物だと思うとか、君は2chには向かないようだねwww

それについては鯖江が世界シュアを占めるってのを知らなかったんでなw
まあ教えてくれて有難うとは言ってておくが・・・。
半年も前の話を今更(しかも邪馬台国九州説とは何ら関係ない)粘着するってのは
あんたどこか狂ってるって自覚ない?

まあ日向説を持ってくるためには嘘でも平気でつく日向厨だから、どこか病んでいるとは思っていたが・・・。
いや人格批判じゃなく、説そのものが破綻しているのは誰の目にも明白なんでね。

というと君は「どこが破綻しているか具体的に・・・云々」と、お決まりの脊髄反射なんだろうけど
そこは散々指摘したよねwww

また過去スレすべてうpしてやろうかw
前に君の嘘を指摘したときのようにwwwwwwwww
842日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:14:08
ちなみに国士気取りの日向厨の大好きな日向説ってのは
東遷を3世紀あたりに持ってくるってので、皇紀を正面から批判しているわけよ。
で、シナチョン大嫌いとか言いながら、魏の史書には間違いひとつありませんと諸手を挙げての大マンセーwwww

さらに大嫌いなはずの畿内説のお偉い学者さんのリップサービス(石野のコトね)に狂喜乱舞し
中国の学者が「私は放射説です」といえば(実際には言ってないのだけど・・・これも日向厨のウソ)これまた大翼賛w

まあ君は畿内説相手にする前に、博多説や佐賀説や宇佐説とまず戦えw
ボクシングで言えばランキング外なんだから、先に上位と戦ってからチャンピオンに挑戦せよ。
843日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:22:36
>>842
博多説や佐賀説は、畿内説と同じ、妄想のかたまりだ。
伊都国は佐賀。文句があったら言ってみな。
844日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:24:27
まーた日向厨とか架空の人物ボコってチャンプ気取りですよwwwwwww
845日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:27:42
>>841
そうですかシナメガネさん。
つか、「ジョーカー氏」とかオタ仲間くさい呼び方やめなよきっしょい
「ババ死」でいいね。
シナメガネとババ死、これからも混同すると思いますけど、ごめんなさいね。
846日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:46:20
>>842
石野のリップサービスか?覚えているところをみると、よほどショックだったんだろうな。
しかし、3世紀に日向が最強の国になっていたということは、串間からでた玉璧や日向の
おびただしい古墳から否定しようにも否定できないもんなあ。リップサービスって言って
ごまかすわけにはいかんだろう。
小山も九州では日向に最高の人口密集地があったとしていたじゃないか?首都・強国に人
が集まる。これは自然の理というやつかな。
847日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:48:57
なんか日向の人が必死すぐる
848日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:50:48
邪馬台国と神武と両方欲しいって欲張りだよな。
神武だけじゃ満足できないのか?
849日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:50:51
日向の人ってどこにいるの?見えない。
集団でトリップしてるの?
850日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:51:40
要するに、
連中が嫌がらせし続けてきた人達が日本の礎を築いたってことがバレると困るので、
くっだらない「論争」してるフリして話そらしてるだけ。
だから九州説がなくなると困る。茶番のキャストが揃わなくなるからね。
畿内説も九州説も、正体は同じつーこと

そして日向の人を作り出して茶番なう
851日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:27:43
卑弥呼は朝鮮人だと言えばいいのに。
852日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:40:29
そんなこと言ってあげないよ?
853日本@名無史さん:2010/12/18(土) 05:40:55
吉野ヶ里遺跡を含む北九州北西部は、朝鮮系土器が多く出土し、
朝鮮から多くの入植者が来ていたことによりクニができた。
卑弥呼も朝鮮人の血を引くシャーマンだったし、
天皇の祖のニニギも朝鮮から渡来した。
天孫降臨神話は、朝鮮神話の影響である。

854日本@名無史さん:2010/12/18(土) 10:02:43
で、結論として、神武東征は、邪馬台国東遷の歴史的史実を反映している・・・
その結論に、満場一致で決定と言うことですね。
はい、了解!!。
まあ、常識的に考えて、先進文化の大陸に近い九州を差し置いて、近畿が強大になることなんぞ、
有り得ないわけですから、至極、真っ当な結論ですね
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 10:50:55
>>821
そんな年表なんか説明の無い「無説明年表」だ。説明したふりをするなよ。ww

そんなことなら、コチラも軽くやれる。年表だけでは説明ではなく、単なるコウダ
〜〜との結論だけに過ぎない。そんなことにはゴマ化されないね。空白年など、
紀のどこにもその気配が全く無〜い。60年空白な状況はどこにも無〜〜い。
これでは全然ダメだ。

こちら鷲崎さんの旧スレで50回以上に渡り、具体的解説済み。読みたけりゃぁ、
検出させるんだな。表だけ出しても説明にはならない。
856日本@名無史さん:2010/12/18(土) 11:00:17
誤:
神武東征は、邪馬台国東遷の歴史的史実を反映している・・・
その結論に、満場一致で決定と言うことですね。

正:
神武東進は、北部九州勢力の一部東侵の歴史的史実を反映している・・・

北部九州勢力の一部とは倭國乱時の敗者側、難民集団、海洋漁労民

彼等は、先ず九州東北岸を彷徨し、次いで、広島、岡山と東進したが現地勢力に定住は許されなかった。

徳島では体よく追い払われたが、弱小河内勢力に対しては武力侵入を図るが敗走する。

和歌山で体制を建て直し奈良盆地へ南部から侵入。現地勢力をだまし討ちにしその地に居座る。

一連の東進侵略話は複数の伝説を繋ぎ合わせたものであろう。

北部九州の敗残者集団とは帥升との戦いに敗れた倭奴國側の集団と思う。

金印も再度戻ってくる時の為に、志賀島に隠し置いたものであろう。
857日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:26:01
>で、結論として、神武東征は、邪馬台国東遷の歴史的史実を反映している・・・
その結論に、満場一致で決定と言うことですね。
はい、了解!!。


だったら、書紀でいう欠史八代の系図も認めろよ。
はい、了解!!。

858日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:33:07
だーから生目古墳について考察を深めたまえよー
859日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:55:13
神武天皇東遷は紀元前660年だろうが。アホー。
860日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:59:27
鋼鉄ジーグがいるだけ恵まれてるだろお前らはw
東北には何もない…
861日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:05:54
生目古墳は神武紀に出てこないだろう。
関係ない話を持ち出すな。
862日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:14:50
日向とは今の宮崎県だけでなく宮崎から薩摩、大隅までの範囲。今の宮崎県で考えるから
日向神話がおかしくなる。日向から分かれた大隅の国の鹿児島神宮(今の霧島市隼人)、
大隅の岩川、都城山之口、日南市にある弥五郎三兄弟、鹿屋市の王子遺跡、吾平山陵、
志布志海岸沿いの唐仁古墳、横瀬古墳、神領古墳、これらは何を物語っているのか?

邪馬台国は別にして大陸からの渡来人を思わせる古墳、遺跡、出土品、それが全て学会
から否定されているが、なぜ、国指定にして調査をさせないのか?

大隅から宮崎までの広大な地に散在する生目古墳も含めた古墳、遺跡群。
大隅の鹿児島湾内の福山、大隅の唐仁古墳近くにある神武東征碑、宮崎県
日向の美々津にある神武東征碑、この奥地には西都原古墳もある。

この薩摩半島から大隅、宮崎、大分宇佐への流れ、これらを徹底的に調査すれば
邪馬台国は別にして日本人又は天皇家のルーツ等が解明されるのではないだろうか?

奈良で出土する古墳等は最終的に権力が奈良へ集中してからのものと思うが。
その奈良を中心に考えるよりもルーツから先に考えるべき。奈良中心に考えると
今の九州(特に北部九州)との平行線で神学論争と化してしまう。
863日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:34:01
>>857
欠史八代は認めてるよ
ただし、全部が父子と言うのは無理だけどね
なかには、兄弟もあっただろう
全部父子にしてしまったのは、年数を古くに遡らせるための操作だ
つまり、人物自体は創作ではなく実在だが、
系譜と年数については手が加えられているということ、
これですべて合理的に説明できる

864日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:38:56
>ただし、全部が父子と言うのは無理だけどね
なかには、兄弟もあっただろう
全部父子にしてしまったのは、年数を古くに遡らせるための操作だ
つまり、人物自体は創作ではなく実在だが、
系譜と年数については手が加えられているということ、


また、文献は嘘だ、が始まったか?
何度もいわせるな、嘘つきは畿内説の始まり。
865日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:43:27
それだけ苦しいのだよ。
866日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:43:36
人間はウソをつくし、当然、ウソを書くこともある
そして、ウソを書くには、それなりの動機がある
動機を説明したうえで、編集者のウソを暴くことは、これまた、歴史学に必要な知恵である
867唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 16:47:28
>系譜と年数については手が加えられているということ、

では、書紀に記載された記事のどれだけを、西暦何年の出来事と出来るか?
崇神を箸墓にあわせても、その一点でしかあわせられない。
しかも任那以前の崇神に鉄は無い。
鉄が無くては箸墓は造れない。

この一点でさえ、齟齬を生じて居る。
868日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:52:58
文献は素直に読もうよ!
869日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:53:45
素直に読むことには賛成である
だがそれは、盲信することとは違うぞ
870日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:57:42
何をいっているんだ。
君は神武天皇東征を信じているだろう?
871日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:02:56
文献に書かれている内容は裁判における証言のようなものと考えればいいかも。
嘘をついてるかもしれないし、思い違い、見間違いがあるかもしれない。だから、
反対尋問によって、それらのことを明らかにしていくことは必要だね。

>人間にはあるがままの事実(客観)を書くことは不可能であり、その社会的立場
  やものの見方(主観)からしか表現できないからである。また、自己正当化のた
  めに不都合な点を省略したり、あえて虚偽を記す場合もある。(Wikiより)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99
872日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:04:54
魏志倭人伝もそうなのか?
盲信してはいけないのか?
873日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:09:31
871の仰る通りです。
魏志倭人伝を盲信してはいけません。
文献に書かれている内容は裁判における証言のようなもので嘘をついてるかもしれない。
思い違い、見間違いがあるかもしれない。方位が間違う事も、日数が間違う事もあるのです。
871の仰る通り、反対尋問によって、それらのことを明らかにしていくことは必要だね。

874日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:10:48
神武東征を信じているのは確かだが、それは紀元前7世紀のことではない
あくまでも、3世紀後半だ
邪馬台国が東遷して、大和朝廷の基礎となった
邪馬臺(やまと)が大和(やまと)となったのだ!!
これ以上蓋然性が高く確かな仮説は、他にはない
875日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:18:20
陳寿は西晋の官人であり、過去に蜀漢に仕えていたという経歴もある。そしてその
立場のもとに三国志を書いた、ということ。

さらに、当時の文献は儒教の価値観に照らして、というフィルターがかかっている。
例えば人物評で、「○○は生涯清貧を貫き、その死後に何の蓄えもなく家族が困っ
た。」というようなもの。これらのことを勘案して読んでいく必要がある。
876日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:18:55
そーなの?
あーあ、太国に喧嘩売っちゃったね。
877鹿島神流:2010/12/18(土) 17:31:42
コテつけるのを忘れてました。

太国さんは九州王朝説か。かつて古田武彦氏は「私は陳寿を信じる」という意味のことを
述べたが、言葉自体が一人歩きして、「倭人伝は絶対に正しい」とする見解にすりかわって
しまっている場合があるようだ。

しかし、氏は「失われた九州王朝」冒頭でこのように述べている。

>わたしの用法では、「信じる」とは「妄信する」の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向い、
  その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を
  行わない。―これが、「陳寿を信じる」わたしの立場だった。

つまり氏は、三国志は妄信すべきではなく、科学的検証を加えながら読むべきだ、と言っている
のである。
878日本@名無史さん:2010/12/18(土) 17:41:43
いや、神武天皇東征が3世紀後半、
という事が、太国と相容れないという事だよ。

それにしても、ここのスレでは、
同じ人間が、信じる、といったり、信じると盲信は違う、といったりで態度がよーわかんねーよ。
都合によって、信念がころころ変わっている。どーもなぁ……。
それだったら、全く信じない、とかの方が態度が分かり易い。
879日本@名無史さん:2010/12/18(土) 18:29:49
態度の問題じゃねーじゃん。
神武が東征したとして、それはいつのことか、
そーいう事をすっきりはっきりさせりゃいいだけじゃん。
盲信してる態度にしてくれないと叩けないから困るの?w
880日本@名無史さん:2010/12/18(土) 18:43:44
神武天皇東征が3世紀後半なら、欠史八代を疑うことになり、
神武東征も疑わないと辻褄があいませんな。

自説に都合よく文献を信じる信じないなんてやってても説得力ないだよボケ。

881日本@名無史さん:2010/12/18(土) 18:47:10
時代は捏造加工されてると考えた方が辻褄合うじゃん。

神武が東征しようとしなかろうと、
縄文時代から天皇家は続いておりまする〜とか信じられる方がアタマおかしい。

小学生なの?
882日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:41:18
時代は捏造加工されてるとしても、欠史八代を捏造とさえ言わなければ、
神武東征は1〜2世紀のはずだが?
883日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:50:57
なんで欠史八代限定よ
884鹿島神流:2010/12/18(土) 20:54:36
ああ、そいうえば神武東征のルートが、高地性集落に対応しているという話はありますね。
これだと1〜2世紀頃、帥升の後、卑弥呼共立の前あたりになるかな。

http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/5-6miya-kouti.htm
885日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:56:19
鹿島神流は、東遷説を捨てる気あんのかよ。
886日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:58:09
>縄文時代から天皇家は続いておりまする〜とか信じられる方がアタマおかしい。

どっかから代々続いてるだろうよ、人間だから。
天皇家が3世紀にいきなり宙に沸き起こったわけでないんだから。

887日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:01:08
というか、
日本人は一万年以上前から存在してるっつーの。
縄文時代に天皇家の祖先が存在して何が可笑しい?
888日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:10:12
神武東侵は紀元前7世紀のことではない、2世紀だ。

倭奴國の難民が東進して、神武9代となったのだ

崇神を生み出した勢力は、九州東岸の勢力が神武以前から時間をかけ瀬戸内と太平洋側を東進し、

阿波でその力を育み、その後和泉河内の銅鐸勢力を支配し、
(神武の河内湾から紀ノ川までの敗走を支援したのは和泉阿波の勢力)

そして3世紀になってやっと大和川沿いに大和に入ったのだ。

これ以上蓋然性が高く確かな仮説は、他にはない
889日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:11:12
>>884
ああ、そういれば、高地性集落は
神武東征っつーか安曇族が広がったルートとも対応してますよね
890唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 23:21:57
神武東征は1世紀中葉である。
八代を単純に親子相続とすれば、20年×八代=160年
ここが崇神になる。崇神を数字に直すと。

崇神5年民の疫病←書紀編纂時頃都で疱瘡(疫病)が流行り、藤原兄弟が死ぬ。
民の疫病とは、凶作による民の飢餓(餓えの病)と餓死、を”民の疫病と書き換えた。
だから、崇神6年、民の離散となる。離散を説明出来るのは、飢饉による逃散である。
同10年 4道将軍派遣は、異俗多帰
崇神末までに任那建国。

これだけの出来事を説明出来る場所が崇神治世である。
新羅192,3年飢餓のため倭人の渡来。
弥生後期後半、各地の居住遺跡が放棄される。←民の離散。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。←異俗多帰
209年 伽耶(任那)建国。

崇神は、この時代の人間である。
神武元年は、西暦42年。弥生X期の始まり。
891太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 23:47:37
古代人から真の年代を教えてくれる天下の宝器→天津神算木(天津金木)
天津神算木とは、三輪山の山名の半軽r=3の円(三輪)の球化の
体積=表面積 をいう。

天津金木(表面積のとき)

 4πr**2=113.0973355292325・・・ -----------------------(1)

を本打ち切り末打ち断ちて、ジョーカー数 350 は還元により 355 となる。

 2≠113.0973355

左右辺の本末を接続(みなす環状数列)すれば、見かけの年代

 1/1 B.C.255年 国牽尊(クニクルノミコト:孝元天皇)立太子

を得る。(1)の右辺の数列は92(クニ)を注視して(○数字)、@の右辺

 (1)の右辺=113.0973355AH2325・・・ ---------------------(2)

三数列5AHの次の三数列は 232 だが、後者の三数列を廃しHA即ちAH側
へ数字移動【牽引】すれば 232 は AH2 と代わり、前者の三数列と
重複二数で 5AH AH2 を構成する。ここで(○は見やすく除去し)

 529−292=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

の真の年代を得るのだ。
892日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:32:28
>>871
3世紀の陳寿に反対尋問とは具体的にどうゆうことを言うのでしょう?
893日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:02:37
>>841
えええ?結局ワケのワカラン事を言ってたメガネ厨の勘違いだったのか?
もう謝罪と倍賞請求してもいいよな?w

確かに語尾に「www」と付けただけで脊髄反射的に同一人物と認識というのは馬鹿に相応しい所業ではあるがwwwww

恐らくこの板の多くのゴミクズレベル九州説は畿内説の違いなんか分らない。
この板の事だけじゃなくてリアルでも。
その違いを見わけるほどに理解していない。馬鹿だからできないwww

だから「箸墓は卑弥呼の墓」とか非常に分りやすいキャッチコピー的なものにしか噛み付けないwwww
894日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:07:08
>>889
それはどうだろう?
確かに瀬戸内の推移だけを見ていれば相関性を感じないこともないが
高地性集落はその後も越後から松前あたりまで続くし(これは4世紀に入っても、瀬戸内から100年かけて北進する)
また太平洋側でもやはり高地性は(今のところ)点在して発見されている。
このあたりになると安曇伝承とは全くかけ離れる。

つまり安曇も含む、各地の首長が必然的に採った防御体制(もしくは連絡体制?)というか
文化面での東進という当たり前の捉え方でいいんじゃないカナ。
895日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:09:05
どうして倭人って名付けたんだろう

委に人偏…従順な人々だったんかな
896日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:10:07
>>854
>まあ、常識的に考えて、先進文化の大陸に近い九州を差し置いて、近畿が強大になることなんぞ、
>有り得ないわけですから、至極、真っ当な結論ですね

これがこの板の殆ど九州説の基本スタンスと言うか”最初にありき”の結論だなwwwwwwww

「鹿島神流」とか考古資料を用いてリアルでも通用するような九州説を構築しようとしても
それが如何にリアリティがあろうとも

『九州が畿内の後塵を拝するような説は真っ平御免、我慢できない』

…と言う子供じみたものが本音www

その恥辱にまみれるなら名誉ある孤独

>>1
>吾が個性を貫け。誇りを持って引篭もれ!

…を選択するっちゅう話やねwwwwww
897日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:15:54
>>893
まあ一例を上げれば、貴方は狗那国を南九州の可能性が高いと推察し
俺は三遠じゃないかと考える位、貴方と俺の考えはかなり違うわけだよね。
同じマキムク畿内説、つまり緩やかな連合説にしても。

ところがこの違いイコール、3世紀から6世紀までの列島の姿の様相の推察がお互いまるっきり異なるというのが
どうやら混同している人には全く区別がつかないらしいw

まあ取り敢えず、九州説チャンピオンを決めるというか
現実問題として博多説や日向説また宇佐説などで議論を深め合うことこそ重要だと思うのだが
彼らは内紛と捉えてしまうのか、そういうことはできるだけ避けて、憎き畿内説を叩くのに必死なんだな。
まあこのあたりが九州人のルサンチマンの限界なんだろう。
898鹿島神流:2010/12/19(日) 01:17:35
うーん、けっきょく九州説は、画文の分布状況や、庄内土器の移入、前方後円墳の
伝播を説明しきるか、あるいはそれはヤマトのことで九州邪馬台国とは関係ないと
つっぱねるか、どちらかでないと苦しいと思ってる。どれも九州土器との平行関係から
時代が新しいもの、とsyることは難しい。
899日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:30:51
中途半端な九州説は、畿内説と同様で倭人伝をまちがってるとみなすから苦しく
なるんだろう。倭人伝どおりに進んで南九州と考えれば、あとは自ずから説明が
ついていくわけで、難しいことは何もない。
900日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:34:32
むしろ九州説にしても倭人伝のどこかしら間違いがあるというのが、主流だと思うが。
倭人伝原理主義のほうがごくごく少数の異端だね。
901日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:36:53
倭人伝どおり進むと宮崎だと言う人もいれば沖縄だという人もいるよ?
902日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:39:45
原理主義というより、俺の解釈が正しくて他は全て間違っているという、根拠なき独善性といった方がいいかも。
だって倭人伝記述に間違いがあると考えたら
大好きな暗号解読ごっこが成立しなくなるものw

だから文献史学の言う、倭人伝だけで邪馬台国の位置は判明しないというごく当たり前の結論も認めないし
考古学が言う、九州に倭人伝に相当する遺跡は皆無であるとの結論もまた認められない。

宝くじを買わずして当たりを願うようなものだw
903日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:47:32
>>901
沖縄に陸行一月のところはないよ。だから、沖縄説は倭人伝どおりとは言えない。
904日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:48:46
以下過去に何度も言っている事だがw

>>899
まあそれはそれで一つのスタンス。

と言うより考古資料の併用により時に落とし穴に陥るような危険を犯さないと言う点でも
むしろある意味”王道”なのかもしれんがwwwww

ただしその場合、地図に「×印」をつけるどころか九州の南半分を大きく丸で囲って
「この中の何処か」で話が終わってそこから先進まないわけでw

905日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:57:00
>考古学が言う、九州に倭人伝に相当する遺跡は皆無であるとの結論
そんなことを言う考古学者がいるのかな?(笑)
906日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:00:49
>九州の南半分を大きく丸で囲って「この中の何処か」で話が終わってそこ
>から先進まない
それはまた、ずいぶんと推理力のない話で・・・ 倭人伝の書き方をみれば、
邪馬台国がどこか、かなりしぼれると思うがね。
907日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:59:12
903 ひょっとして台湾ならあるいは・・・
908日本@名無史さん:2010/12/19(日) 03:05:46
沖縄から台湾行くと帰ってこれなくなるから・・・
帰りは追い波なので、11世紀ぐらいにならんと沈没することが目に見えてて無理。
909日本@名無史さん:2010/12/19(日) 03:09:25
>>906
推理w

まあ掲示板だからハッタリかますのも
その推理とやらを書き込むのも自由だが
平野だの盆地だのと言うレベルでそれこそ「必然」と言うレベルで絞れるのなら
そもそも論争自体存在しなかっただろうし

俺自身お願いまでしてそのご高説を聞きたいとも思わない。
つうか日向厨の言いそうなことは大体予想はついてておなかイッパイだな('A`)

>>903
3歩 進んで 2.99歩 下がればあるいは・・・


910日本@名無史さん:2010/12/19(日) 04:09:57
>日向厨の言いそうなこと

生目とか活目とかイクメとかのことか。wwwwwww

911日本@名無史さん:2010/12/19(日) 06:45:01
wwwwwwwwは無知無能

イキメ
912日本@名無史さん:2010/12/19(日) 08:34:10
>>909
必然を理解できない輩が多いから論争になるんだろうね。
例えば、簡単に船で行けるところをわざわざ陸行はしない。
安全なコースがあるのに、危険なコースを行くことはない。
早く行けるコースがあるのに遠回りはしない。
そういった、当たり前のことを積み重ねて推理すべきなのだが、それらをまったく
考えず、自らの思い込みにとらわれる人が多いんだ。
913:2010/12/19(日) 09:05:37
ワケワカメw
914日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:19:43
>うーん、けっきょく九州説は、画文の分布状況や、庄内土器の移入、前方後円墳の
伝播を説明しきるか、あるいはそれはヤマトのことで九州邪馬台国とは関係ないと
つっぱねるか、どちらかでないと苦しいと思ってる。どれも九州土器との平行関係から
時代が新しいもの、とsyることは難しい。

「新・九州説」の出番です。思い切って巻向考古学を認めましょうよ。
九州説が生き残る為には、もはや、旧来の九州説は葬らなければならないのです。
でなければ、九州説の立場が惨めになっていくばかりです。私は憂いています。

915日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:32:27
九州説がこの先生き残るには
916日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:34:00
別に畿内説論者に憂いてもらう必要はないよ。畿内説の行く末を憂いた方が
いいだろう。
917日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:37:03
指宿枕崎坊津説とか志布志串間説とかぶちあげるか?
秦か前漢時代の玉璧が出ているからね。
日向じゃなくて大隅になっちゃうけどさ。
918日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:46:08
長安から玉璧が送られてくる必然性がないが
4世紀頃の渡来人が持ち出したのなら理屈があう。
そこを何とか紀元前150年頃に繰り上げできれば・・・
919日本@名無史さん:2010/12/19(日) 09:52:14
魏志倭人伝の言うところの邪馬台国への道程だが、
これは魏の使いの道程と同じと即断はできない
と言うか、おそらく同じではないだろう

倭人伝の記述は、邪馬台国の位置だけではなく、九州に散在する他の周辺諸国の
位置関係を概略記録に留めておくことが主眼であったということだろう

仮にだが、もしも今の宮崎付近に邪馬台国があったとしたら、
わざわざ北九州に上陸などしなくても、そのまま船で宮崎の東海岸まで
行く方がはるかに都合がいいのである
この理屈は邪馬台国の位置をどこに考えても、通用する理屈である

わざわざ多数の荷物を抱えて、風雨の日もあったであろう中、
悪路を進行するより、船で邪馬台国へ最も近い上陸地点まで航行する方が
はるかに理に叶っている
920日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:31:35
・・・串間の玉璧は、出土状況および出土地も不明です。出土地とされる日向王之山古墳
とはいずこ?でしょう。

>これまで、中国では戦国時代〜漢代の穀文璧が相当出土している。しかし、日向王之山のその
穀文璧と同様な文様を持つ璧がまだ見つかっていない。そして、33.3pの直径は近現代の一尺を
連想させるし、何の傷も残っていない完璧さも本当に出土品であったかと疑わせる。(李国棟)

このような疑念もあり、極めて慎重に取り扱うべきものです。
921唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 11:03:13
>船で邪馬台国へ最も近い上陸地点まで航行する方がはるかに理に叶っている

自分で船を仕立てれば、そういう思考も成り立つが、現実には魏使は道を知らない。
倭人の船に乗船させて貰い、その倭人の行く先まで乗せて貰う。
その船が着いたところがマツラである。今の伊万里市方面
ここから、魏使は、獣道の如き道を、東北に歩き、着いたところが伊都国である。
922日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:34:32
本州説でも、日本海側なら可能性はあるよ。
923日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:39:05
>>うーん、けっきょく九州説は、画文の分布状況や、庄内土器の移入、前方後円墳の
伝播を説明しきるか、あるいはそれはヤマトのことで九州邪馬台国とは関係ないと
つっぱねるか、どちらかでないと苦しいと思ってる。どれも九州土器との平行関係から
時代が新しいもの、とsyることは難しい。

>「新・九州説」の出番です。思い切って巻向考古学を認めましょうよ。
九州説が生き残る為には、もはや、旧来の九州説は葬らなければならないのです。
でなければ、九州説の立場が惨めになっていくばかりです。私は憂いています。

「今だからこそ九州説を救え!!」


924日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:46:39
ウーン、まず巻向の1〜3期の土器の分布から、伊都国(邪馬台国連合)と巻向(邪馬台国?
の密接な関係を示せるのようになってからだね。
925唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 12:11:43
地名考
足羽川、松浦川と茶色で表わした川は、律令時代の郡名と同一名で、同種が20 万分の1
地勢図に92 例ものる事実(国名と同名は6 例)は、川の名を郡名に採った史実を残している。
松浦川が、肥前国松浦郡と同名であるのは重視すべきで、唐津市に比定されることの多い、
『魏志』倭人伝の「末盧国」の起源地名が伊万里市にある、弥生時代中期以前の歴史を現
代に留めている。

景行天皇十八年三月 天皇將向京以巡狩筑紫國。始到夷守。諸縣君泉媛。依獻大御食而其族會之。
仲哀天皇九年三月丙申。轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。
この
諸縣は、現在の玄海町諸津。
田油津媛は、田平町。である。

熊襲は、呼子から西回りを支配し、狗奴国へ鉄を供給する。
それにより、狗奴国は、奴国に従う必要がなくなる。
926日本@名無史さん:2010/12/19(日) 12:22:00
このスレは書き込みペースが速い……。
あっという間に900代半ばに突入だよ。
ここのスレはパート2が必要なのか? 否か?
927日本@名無史さん:2010/12/19(日) 12:42:07
>>920
一部だけを引用して反対の結論を主張するというのはどうかな?

彼は、その疑念を念頭において検討を加え、串間出土の璧を本物だと結論づけているね。
928日本@名無史さん:2010/12/19(日) 13:10:10
>このスレは書き込みペースが速い……。
>あっという間に900代半ばに突入だよ。

『なぜか自然に早い!』ではなく
タテメに誘導されてる事ぐらい早く気付けッテw 
お前等とろい奴ちゃな〜
929日本@名無史さん:2010/12/19(日) 19:45:58
>>921
魏の使者は、邪馬台国への道案内を、倭人の案内だけに任せていたかどうかは疑問
魏は、それまでにも、邪馬台国並びに九州諸国と交易していただろうし、
魏の人間で、それまで誰も邪馬台国へ行ったことがないなどとは考えにくい
使者は当然、最も便利なルートを出発前に学習して、郡を出発したと考える方が
当事者としては自然な考えだと思う
魏の商人なども邪馬台国への道程は知っていたはず

魏の使者が実際にどの道筋を通ったかはともかく、
魏志倭人伝記載の道程が、使者の道筋そのものとの考えにはやはり疑問である
930日本@名無史さん:2010/12/19(日) 20:00:19
魏の使者は邪馬台国の女王に会うこと自体が目的なのだから、
一大卒のいる伊都国はともかく、それ以外の対馬、壱岐、マツロ、奴国、フミ、投馬などの
倭人伝記載の国々に、いちいち立ち寄る理由はない
また、使者は、現実にクナ国、旁国には行っていないはずであるにもかかわらず、
倭人伝には記載されているのである。
使者の道筋と、魏志倭人伝の道程は必ずしも同じであるとは考えられない
931唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 22:13:30
>邪馬台国並びに九州諸国と交易していただろうし、
その時半島南部に任那国が存在していたら?

>魏の使者は邪馬台国の女王に会うこと自体が目的なのだから、

思考自体が完全に間違っている。
魏が半島を治めるまでは、公孫淵の下に属すのが半島、倭国である。
この地を接収するにあたり、238年に派遣された魏使が、半島諸国を経て
倭国に渡る。
つまり魏使には、邪馬台国の存在さえ知らなかった。伽耶(任那)まで来た
使者は、大和(邪馬台国)の情報を得、倭国(奴国)を目指して、渡海する。
対馬、壱岐。次がマツラ国である。
魏使は、マツラから東北の伊都国までは旅をした。
マツラから東南では、記述と祖語を来す。
魏使は、マツラにとどまり、その地方の博物誌を倭国の風習として記載する。
この博物誌をまとめる時間は何故必要であったか?
思案するに、魏使の来邦を知った、奴国王(男王)は、乱の為疲弊し、倭王を名乗れない。
倭王を名乗れば諸王の反発を買う。そこでとった方策として、女王共立である。
中略
魏使は、男王の面会を受け、魏(洛陽)に朝貢するよう求める。その時大和の王の同行も
求める。
これにより、女王(難升米)と大和(都市牛利)などを含む朝貢団が編成された。
932日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:21:37
難升米は「ナジーム」、都市牛利は「トソゴル」 どちらもペルシャ人だ。
933唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 22:49:12
魏は、東夷を隷属させた。
その隷属までの成功例の一つとして、倭人伝は存在する。
この部分を勝手に解釈して、倭国は東夷と別。とするから 歴史が見えない。
晋に隷属する東夷の一国でしかない。
つまり、晋書に東夷と書かれていれば、その中に倭国は存在する。
934唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 22:58:17
>どちらもペルシャ人だ。

であるならば、任那建国をペルシャ人とする文献等をそろえてから
出直して下さい。

ヒント、 ツノガアラシト これは、兜を被った状態である。
兜であれば、この時点で兜が存在することを誰も否定出来ない。
幸いにも、田道間守はツノガアラシトの末裔である。
935日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:09:23
238年は、倭の女王が魏に使者を出した年だ。したがって、このとき已に女王は共立されていた。
魏の使者が倭国に来たのは240年、倭王に拝仮しとあるから、使者は倭王にあっている。
末盧国にいたのでは倭王に会えない。倭人伝を無視して妄想しても無駄だろう。
936日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:35:03
>>934
「ネタにマジレス」という言葉を知ってるか?

>>935
こっちは一応マジレス
倭人伝の記述に対して、違う立場からの比較文献がない以上(記紀は論外)
無視するというよりは、そこに信を置けないという立場で接するのが最も理性的かつ論理的だろう。
だからといって何でもありの妄想はいただけないが
倭人伝疑うべからずというのもまた、根拠なき強弁でしかない。

だからアマチュアも含め多くの研究者や好事家は、倭人伝を以下に解釈するかという徒労からはとっくの昔に卒業した。

937日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:36:07
『梁書』の東夷条には光和年間(178年 - 184年)に倭国大乱があったと記されて
いるから、卑弥呼の共立はこの後だね。
そして、『後漢書』東夷伝には107年に倭王師升が後漢へ使者を送ったとあるから
107年から倭国大乱までは男王がいた訳でその当時の倭の王都はどこだったん
だろうね?
ちなみに、倭国大乱と出雲の荒神遺跡は関係あると思う。
938日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:43:34
>>936
そうゆう論理だと唯一無二の資料は常に無価値になるな。
それを突き詰めると、全ての資料は無価値になる。
939日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:44:27
>>934

ツノガアラシトが、「角が有る人」という意味だと思ってんの?

ホツマだけじゃくて、他の文献も読みなよ。新選姓氏録とか。
940日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:52:53
>>938
唯一無二の史料そのものが珍しいんだよ
平安後期になると複数の立場からの史料(木簡など)も存在するし
江戸中期以降ともなると、史料が多すぎて混乱するなどのある意味贅沢な状況になる

古代史の常識は、史書に頼るべからずだぜ
考古資料だけでも解明は難しいがな
941日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:56:51
記紀を無視・・・天皇の謚号をも使わないとなると、純考古学以外の論文も
レポートも書けなくなるな。
942日本@名無史さん:2010/12/20(月) 00:17:59
>>941
なんで?
文献史学の論文にしても、まず「現在、仁徳天皇の事象とされる・・・」などと前置きして書くのが普通だろ。
武烈の悪行が借り物でなく事実だとか断じているあほな論文など、見たことないぞ。
しかも中国史書の借り物だとの根拠は、論文(出典)引用の注釈を必ず付ける。

要するに君は、「ボクの妄想が書けないじゃないか!」ってだけのもんだ。
943日本@名無史さん:2010/12/20(月) 00:19:06
>>940
論理というものが分かってないようだな。その点を論じても無理だろう。

倭人伝は検証不可能と思っているようだが、けしてそうではない。
魏略、後漢書、その他の中国史書などもある。それらと比較検討することが
可能だ。また、倭人伝と日本の地形とを対比検討することでその信用性を確
かめることもできる。倭人伝を信用できると言ってるのは、そういった種々
の検討を踏まえてのことなんだよ。

944鹿島神流:2010/12/20(月) 00:24:49
>>942
「仁徳」も「武烈」も使うなと言ってるわけじゃないのか?まるほど、完全なバカではないということか。
むろん武烈は実在ではないだろ。
945日本@名無史さん:2010/12/20(月) 00:29:37
>>943
初心者を騙すような丸分かりの嘘はやめようや。
魏略逸文に距離・方角は書いてあるのか?
後漢書や宋書・梁書などの後の時代の史書にに、魏志の里程距離が全く引用されていない時点で
「その時代でさえ、魏志の里程記事には相当な疑問があった」と捉えるのが常套だろう。

検討などしたことないくせに、何を世迷い言をw
946日本@名無史さん:2010/12/20(月) 01:15:23
君の読んだ魏略逸文には、距離も方角もないのかね。不思議な話だ。
後漢書や宋書・梁書などに、魏志の里程距離が全く引用されていないのは
魏志を読めばいいことだからだろう。それが間違っているというなら、その
点を指摘して正しい記述をしたはずだ。そう考えるのが常識だよ。
947日本@名無史さん:2010/12/20(月) 01:32:30
そういえば、梁書には里程距離があったね。姚思廉は少し改めたつもりだった
んだろう。
948日本@名無史さん:2010/12/20(月) 09:51:28
>>931
さっぱり意味がわからんな
魏の使者は、倭の女王が使者を魏の天子に遣わし、その答礼として答謝したものである

>つまり魏使には、邪馬台国の存在さえ知らなかった
この一文だけで滅茶苦茶な論だということがアリアリとわかる
949日本@名無史さん:2010/12/20(月) 10:08:06
まず冒頭に「今使早譯所通三十國 」
さらに
王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、
皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
このように、魏と倭国とは、ある程度の交流、交易を行っているのである
950唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/20(月) 20:41:05
晉書卷一 帝紀第一 より
正始元年春正月,[七]正始元年 「正始」上各本皆有「魏」字。
周家祿晉書校勘記以下簡周校:「『魏』字衍文,蓋前有『魏國既建』,
『魏文帝即位』,黃初以下皆蒙上為文。」今據刪。東倭重譯納貢,

正始元年 東倭重譯納貢,
239年の朝貢の翌年東倭は、また朝貢する。
この東倭の王を魏書は、倭王と表現する。女王では無い。
つまり、南に行けば邪馬台国が東の倭と書かれる。そこに倭王が存在する。

△鏡の景初3年、正始元年は、ここに由来する。


951日本@名無史さん:2010/12/21(火) 09:38:14
三角縁神獣鏡に関して、日本製か中国製かという議論があるが、
何故、日本の学者はこうも頭が固くて柔軟性がないのか、ほとほと呆れる
あれは謎でも何でもない
素直に解釈すれば、自ずと結論は明らかである

卑弥呼が魏から受けとった鏡100枚は、間違いなく三角縁神獣鏡である
その100枚には、魏の年号が鋳られていた
言っておくが、だからと言って、邪馬台国が畿内にあったなどとするのは早計である
卑弥呼から後の時代、邪馬台国がその勢力範囲を畿内に進出させたのち、(いわゆる邪馬台国東遷)
中国から鏡の製法を習得して、三角縁神獣鏡を日本国内で大量生産を開始したのである
そもそも魏の年号を記銘した鏡を、わざわざ日本で作るハズがない
つまり、記年銘三角縁神獣鏡のみが中国製で、それ以外は日本製なのである

何でも二者択一でしか物事を考えない癖は、直ちに改めるべきであろう


952日本@名無史さん:2010/12/21(火) 09:51:56
そう簡単にはいかんよ。銅鏡は、型をつくるのが大変なんだ。だから、手にいれた
銅鏡をつかって型をとるということはいくらでもあり得る。紀年鏡をもとに型をと
れば、できたものも紀年鏡だ。
953日本@名無史さん:2010/12/21(火) 09:59:05
それでは、日本から出土した鏡はすべて中国製とでも言うのか?
その大変な鏡の製作を、苦労して日本で習得したのだよ
954太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/21(火) 10:13:32
小沢氏 例の事件の説明を国会でしない
  ↑
  ↓
唐松山 表の42年の説明を2ちゃんでしない
955日本@名無史さん:2010/12/21(火) 10:55:38
>>953
紀年の有無によって中国製か日本製かを区別することはできないということだよ。
956日本@名無史さん:2010/12/21(火) 12:29:29
物理的に製作が可能かどうかの問題ではない
日本で鏡を作ったのなら、なぜわざわざそこに魏の年号を記銘する必要があるのか?
そういうこと
957日本@名無史さん:2010/12/21(火) 12:33:29
踏み返したから
958日本@名無史さん:2010/12/21(火) 12:42:06
ん?
踏み返しなら、元になった大陸産鏡があったことになるぞ
959日本@名無史さん:2010/12/21(火) 12:59:56
言いたいことはわかったよ
すると、卑弥呼が受け取った銅鏡100枚を基に、日本でさらに作った可能性があると言う
解釈でいいのかな?
それなら、記年銘鏡には中国製と日本製の両方ともあるということになるのだろう
ただ、フミ返しで作ったにしては、記年銘鏡の出土枚数が、そうでないものに比べると圧倒的に少ないけどね
960日本@名無史さん:2010/12/21(火) 16:33:22
卑弥呼が受け取った銅鏡をもとに作ったのか、それとは別の銅鏡を基に作ったのか
そこも問題だな。中国の銅鏡であっても、全部に紀年が入っているわけではない。
紀年の入らない中国銅鏡もある。逆に、我が国で中国銅鏡をまねて紀年をいれたこと
も考えられる。
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/21(火) 16:49:58
>魏の年号を記銘する必要があるのか?

東倭は、274年晋の要請により軍を渡海させる。つまり冊封国の軍隊と認められる。
その元が景初3年、正始元年の朝貢にある。
ただし紀年鏡は、その前に造られた可能性が大きい。
箸墓は最初の大王墓である(考古学)。この直後の黒塚には黄旛、△鏡が副葬される。
であるならば、大倭は女王国の傘下の伊都国に1大率を置き、諸国を検察する。と読める。
962日本@名無史さん:2010/12/21(火) 16:56:43
>魏の年号を記銘する必要があるのか?
ブランド名は、偽物にもいれるだろ。
963日本@名無史さん:2010/12/21(火) 19:59:09
>>962
却下
964神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/21(火) 20:21:04
ホコリを掃え!邪馬台国九州説!!家の掃除をしなさい。
965日本@名無史さん:2010/12/21(火) 23:10:05
倭人伝と銅鏡の紀年とどちらが信用できるのかな?
966日本@名無史さん:2010/12/22(水) 06:20:39
>>965
どっちもどっちだが、倭人伝の紀年でわざと嘘を書く必要性はないわな。
間違えたり誤写の可能性は考えねばならないだろうが
少なくとも紀年鏡にしても、後世の作でもその紀年に特別な意味があったからこそ記載するわけで
そういう意味では、紀年に関しては倭人伝を疑う必然性はない。

問題は風俗記事や里程記事が、リアルタイムもしくは実地のものかという点だ。
これに関しては文献学・考古学両者の観点から相当な疑義が提出されている。
967日本@名無史さん:2010/12/22(水) 09:20:14
どちらも信用出来ると思う
紀年鏡については、景初4年銘の鏡があるが、もし後世に作るのなら
その年号のものを作るのはおかしいのではないかな

968日本@名無史さん:2010/12/22(水) 10:12:12
>文献学・考古学両者の観点から相当な疑義が提出されている。
自分が想定した邪馬台国の位置からみて都合が悪いってだけの話だろ。
合理的な理由があって疑義を出しているわけではない。


969日本@名無史さん:2010/12/22(水) 10:41:03
>>966
疑義って、たとえば具体的には何?
970唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 22:43:07
[PDF]
5. 弥生 ・ 古墳時代における鉄器文化
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - クイック ビュー
野島永 著 - 関連記事
弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明. 定する意見も出ざるをえない状況ともいえよう
(春成 2003)。 近年では鉄器の出現を中期以降とみなす意見(春成 2006)もあるが、前期末葉から中期前.
葉とされる鉄器は、京都府扇谷遺跡(田中 ...

上記のPDFから、古墳時代初期の大和が鉄の供給元である
私は任那建国を209年とするが、皆さんは何年としますか?
971日本@名無史さん:2010/12/23(木) 02:42:56
>>969

例えば地理的記述の「其地無牛馬虎豹羊鵲」
この中で「牛」は、弥生中期の遺跡から骨が出土したりします。
稲作伝来に伴い家畜である牛も少数ながら渡ってきていたのでしょう。
最古の出土例は東京の伊皿子遺跡のものだそうです。
972日本@名無史さん:2010/12/23(木) 03:02:34
>>971との繋がりで言えば、猪または豚についての記述がないというのも不自然だね。
北部九州では弥生中期からすでに猪を改良した豚が存在していたのが、各遺跡から判明している。
これは半島も同じでや大陸も同じで、品種改良の知識がもう当時から浸透していたということ。
なのに豚についての記述がないというのは、よく見ていなかったのかあるいは誤写脱字のたぐいか。

それと3世紀当時にも九州には馬がいたことが判明している。
現在、都井岬にいる種のルーツに当たるもので、それは佐賀の櫻井遺跡などからも骨が出土している。
つまりこの記事の元ネタを書いた人物が見落としたのかもしれないし
陳寿が「倭国に豚や馬が居るわけ無いだろ、てへっ」と削除したのかもしれないし、後世の削除や誤記かもしれない。
いずれにせよ、文献史学と考古学の両面から疑義が提出されているという事実は正しい。
973日本@名無史さん:2010/12/23(木) 03:07:54
すまん櫻井ではなく桜馬場だった
974日本@名無史さん:2010/12/23(木) 08:06:51
>「牛」は、弥生中期の遺跡から骨が出土したりします。
使者がみた範囲ではいなかったというだけのことだと思うがね。
それに、ごく少数の牛がいたとしても、倭人が朝鮮渡来だと説明したなら、倭
国に牛有りとはしない。動物園にライオンがいたからといって日本にライオン
有りとはいわないだろ。

>猪または豚についての記述がないというのも不自然だね。
普通にいたからで、いることが珍しいことではなかったからだろう。
高句麗に牛の記述はないが、当然いたからだと解釈されてるよ。
975日本@名無史さん:2010/12/23(木) 10:30:07
「有る」→実際にいた
「無い」→実際にはいたが、見つけられなかった
    or実際にいなかった
「記述なし」→いたかどうかはわからない
文献だけから判断するなら、以上のどれかだろう

少なくとも、動物の有無の記述について、ウソを書く動機があるとは思えない
倭人伝の記述に疑義を差し挟む余地は十分あると思うが、
我々が勝手な思い込みで解釈していることも戒めねばならない
976日本@名無史さん:2010/12/23(木) 12:37:16
ただ動植物についてもそうだが、倭人伝の元資料が正確だったか
あるいは陳寿が思い込みで編集し直したかなどの可能性は、常に考慮せねばならない。
なにしろ対比史料が存在しないのだから。

アフリカにはライオンが居るという漠然とした知識によって
エジプトや南アフリカにもライオンが生息していると勘違いする人が実際にいるように。
さらに言えば完全な思い込みで、虎がいると間違える人もいるように。
977日本@名無史さん:2010/12/23(木) 12:42:51
>>974

> それに、ごく少数の牛がいたとしても、倭人が朝鮮渡来だと説明したなら、倭
> 国に牛有りとはしない。動物園にライオンがいたからといって日本にライオン
> 有りとはいわないだろ。

家畜牛の渡来は、何世代も前の紀元前の話だし、観賞用では無く、使役用。
動物園のライオンなんて例に出すのはどうかと思いますよ。

> 使者がみた範囲ではいなかったというだけのことだと思うがね。

貴方の言う「使者」がどう言う位置づけのものなのかわかりませんが、
倭人伝の記述内容の大半は、「観察結果」では無く「伝聞」です。
「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」と有るように景初年間に知り得た知見だけでは無いのです。
倭人伝は「正始遣使の見聞録」みたいな「固定観念」に捉われ過ぎですね。
978日本@名無史さん:2010/12/23(木) 16:09:35
>>977
「伝聞」と言うのは、「誰が」「誰から」伝聞した、という意味なのかな?
そして、なぜ、大半が「観察結果」ではなく「伝聞」だと思うのか?
まさか、「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」その一文だけで、そう思っているわけでもないんだろ?

魏の使者はリアルに現地に赴き、帰国後その報告もしただろうから、
それを基に、陳寿が記述したと考えることが、そんなに不自然なことか?
もちろん、倭人伝の記載が、全部が全部、その報告に基づいているという意味ではないよ
979日本@名無史さん:2010/12/23(木) 16:21:59
森浩一が既に卓見を発表しているではないか

東夷伝倭人条を検討して、考古学的裏付けを見つけられるのは北九州、福岡周辺だけだと。
980日本@名無史さん:2010/12/23(木) 16:58:01
>>978

倭人伝1985文字中、>>977の他にも次の部分は明かに実見では無く伝聞。
また、冒頭節、詔勅の引用部や外交史にかかる記述も見聞とは言わないので、「実見」の可能性を問える部分は文字数にして800に達しない。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、
次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。

若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。

王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
981日本@名無史さん:2010/12/23(木) 17:29:15
>>980
そういうことならわかったよ
ただ、それなら「其地無牛馬虎豹羊鵲」は観察結果ということになるのかな
使者は現実に倭国に来たんだから、もし少数でも牛馬を見ていたら、そんな記録を残すハズがないのだからな。
もちろん、報告が結果として正しいかどうかは別問題だよ
982日本@名無史さん:2010/12/23(木) 18:56:01
旁国の戸数道里は、使者が倭国の連中に聞いてもまったく分からない事柄だろうか?
そんなことはないだろうね。それなのに、それは分からないとして、一方で、邪馬台
国までの戸数道里は書いている。これは、戸数道里を書いた国々には、使者が自ら赴
いたということを示すものだろう。
983日本@名無史さん:2010/12/23(木) 19:00:45
>家畜牛の渡来は、何世代も前の紀元前の話だし、
ほほう。考古学的にそれは間違いないのかな? 骨はいつのものがどこから
でているの?
984日本@名無史さん:2010/12/23(木) 22:34:22
紀元前じゃないが弥生時代の五島牛が歯が出土してるみたいだ。
985日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:48:14
986日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:57:12
たしか岡山の上東遺跡で、弥生後期の層から馬の歯が出ていたと記憶する
987日本@名無史さん:2010/12/24(金) 00:19:39
>>985

ドツボが偽計してるぞw
988日本@名無史さん:2010/12/24(金) 00:32:31
てすと
989日本@名無史さん:2010/12/24(金) 01:16:21
テスト
990日本@名無史さん:2010/12/24(金) 01:21:38
991日本@名無史さん:2010/12/24(金) 01:21:53
992日本@名無史さん:2010/12/24(金) 01:22:05
うめ
993日本@名無史さん:2010/12/24(金) 08:17:21
牛馬の骨は福岡や近畿から多く出ているんだよ。ということは、使者は福岡や
近畿で倭国の実情を確かめたのではないということだ。
994日本@名無史さん:2010/12/24(金) 09:02:39
それなら、「其地無牛馬虎豹羊鵲」は伝聞か?
もしそうだとすると、なぜ、そんなウソを伝える必要があるの?
それに、牛馬以外は実際にいなかったんだろ
995日本@名無史さん:2010/12/24(金) 09:44:19
対狗奴国と戦いが危機的になために、駐留することになったわけだから現地の実情はかなり詳しくなっている筈。
巻向のように、のんびり大きな墳墓を作っていられるようなところではない。
そもそも鏡をやたら欲しがるのは九州勢力だろうし。
996日本@名無史さん:2010/12/24(金) 09:59:36
伊都国のところで、「郡使往來常所駐」とある
魏の使者だけが倭国、邪馬台国の見聞者ではない
郡の役人、商人なども、九州に頻繁に来ていたであろう
その比重はともかく、伝聞のみで、倭人伝の記述が構成されているとは到底考えられない
997日本@名無史さん:2010/12/24(金) 10:30:56
ところで、その牛馬の遺骨だが、本当に卑弥呼の時代、あるいはそれ以前だと確定しているのかね?
それも疑ってみる必要があるのではないかな?
998日本@名無史さん:2010/12/24(金) 10:34:45
>>994
伝聞ではないよ。使者が行った先には牛馬がいなかったということ。
つまり、使者は近畿や福岡に行ったわけではないということだ。

>>996
郡使というのは、魏の使者のことだよ。魏の使者が実際には郡の役人から
選ばれて倭国へ派遣されたから郡使ともいう。

>伝聞のみで、倭人伝の記述が構成されているとは到底考えられない
当然だろ。多くは使者の体験をもとに書かれている。伝聞は伝聞と分かる
書き方がなされているよ。



999日本@名無史さん:2010/12/24(金) 10:50:23
郡使とは、魏使のみならず、漢時代の漢の郡使も入ります。
1000日本@名無史さん:2010/12/24(金) 11:11:40
馬鹿だな
世の中には伝聞と位置付けしなければならない
奴が沢山いるんだ。大人の事情って奴でな。
掲示板にはそんな事情を抱えた奴が出入りし、ごね回すのさ。
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