謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!51

このエントリーをはてなブックマークに追加
1神奈川県民
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。
年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

女王卑弥呼とはいったい誰だったのか?また邪馬台国はどこにあったのか?
古代日本建国の謎も含めて議論しましょう。

規制時 ttp://www1.atchs.jp/most/
前スレ ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1287354561/
2日本@名無史さん:2010/11/19(金) 21:38:26
年已に長大。已にというのは、共立された時を基準とした話。
多くの者がその基本的な読み方を間違えている。
3メ(寝る前):2010/11/19(金) 21:50:43
鷲崎さん〜私への反論でめっちゃ書き込んでる。
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=79&summary=on

よっぽど悔しかったのかな?w
ローガンのほうはというと、めっちゃオトモダチが集まってるね。
うらやましいかぎりだwwww
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=29&summary=on
4メ(寝る前):2010/11/19(金) 21:55:50
あそこで話題となってる
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種

これは女王国の千餘里離れたところに”国”があるってことで、
人種は倭と同類ということ。
そして、ここが境界線へとなっていることがわかる。
5メ(寝る前):2010/11/19(金) 22:08:42
あと話が変わるが、江戸時代寛政年間(1789〜1800年)に書かれた
『考古日録』というのがあるんだけど、親魏倭王の印の拓本がありますよね。
まあ、これは研究家が自ら作ったのか知りませんけどw

まあ、興味ある人は調べてごらんよ
6メ(寝る前):2010/11/19(金) 22:13:39
卑弥呼の墓の候補地である箸墓古墳は全長約280メートルですか。
でも、前方後円墳の円部の直径は焼く150メートルですね。

卑弥呼の墓ですが、畿内説で箸墓古墳以外のところを考えて類人っています?
また、九州説の人はどこを卑弥呼の墓とするんでしょうね?

私はそろそろ寝る時間なので、誰か寝た書き込んで下さい。
ローガンさん後よろしく〜!
7唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/19(金) 22:45:31
>>899
>四道将軍は後代(2〜3世代後)導入された可能性

2世紀末、纒向遺跡に各地の土器。
纒向は、崇神から3代である。
3世紀前半の建物を壊し、盛り土をして整地、3世紀後半の建物。

これを書紀と整合性をとれば、崇神6年民の離農は新羅193年 倭人の渡来であり、
各地の土器は4道将軍派遣の異族多帰。
そして、垂仁の珠城宮を壊し、景行の日代宮。
最後に箸墓が作られ、纒向遺跡は、衰退に向かう。

8サガミハラハラ:2010/11/19(金) 23:23:38
>>6 九州説の卑弥呼の墓ですか?
佐賀県小城市小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)ですよ。
大きさピッタシです。弥生時代の大量の土器、(埋納した痕跡あり)や鉄刀が出土しています。
もちろん邪馬台国都の直近です。
9日本@名無史さん:2010/11/20(土) 03:52:12
祖先神の上の兄弟であり、その意味では「天照・月読スサノウ」三神の前任者
でもある底筒・中筒・上筒の神であるが、これは河内住吉の神である事もある
が、もう一回古事記で出現する。その場所は神功の新羅征伐んも時だ。仲哀
死後、身ごもった神功が「この国は、お腹の子が統べる国だ」と託宣する。
「こは天照大神の御心、また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ」と言う
表現が古事記にて見出されるが、この構造がいかにも特徴的だ。

つまり「この命令は天照大神からのものだよ」だけで本来は済む話なのだが、
何故かしら、ここではアマテラスの、また、筒三神(略称御免)の命令」と
していると言うレトリックなのだ。
これは普通に考えて、元(の帝紀・旧辞で)は、天照か筒三神の、「どちら
かだけだった」と考える方が自然のような気もする。つまり、どちらかが後
から加筆された可能性だ。
10日本@名無史さん:2010/11/20(土) 04:09:34
つまり元は「筒三神の命令だ」だけであったのだが、それでは、古事記的には
謎だ。なぜなら、その頃にはもう大王氏族の最高神は、「天照」に他ならない
からである。「何故、天照でなく筒三神なのか?」は、当時当然争点になった
だろう。しかし、交渉神話とは言えそこを天照に置き換えたら、筒三神を祖先
神とする氏族が怒り出すのは自明。
そこで、古事記編者は、「天照が、・・・」と前置で付け加える他無かった。
こう考える方が自然だ。
11日本@名無史さん:2010/11/20(土) 04:15:36
これで、神功の「河内との関連」も提起された。
河内・摂津にて、伝承や神話体系や氏族と見事に「毘売システム」のキーワード
がリンクするのである。これは偶然の一致だろうか?
河内の青玉を継ぐ者は誰か?豊玉・活玉を継ぐ者が誰か?
いてもおかしくない人が、なぜか、記紀にはいないような気すらしてくる。
12日本@名無史さん:2010/11/20(土) 04:23:08
古事記の編集は勿論天武天皇の命令にて始まる。その頃にはもう既に、遣隋使
・遣唐使は既に開始されている。つまり、前古事記編集までに、当然当時の
「国史研究者」も「魏志倭人伝」の存在とその表記に触れた可能性は充分
ある。
「これからちゃんとした国の歴史書をまとめなおそう」とするなら、むしろ
積極的に「魏志倭人伝」を調べに行くくらいの鼻息にもなるはずだ。
だからこそ「ヒミコの空白」を、そのままにしての古事記編集執筆開始は、
逆に不自然極まりないのである。だが、その不自然を古事記は平然と犯して
いる。これは、「その矛盾以上に」何かをしなければならない「必要性」が
あったと考える方が自然だ。
13日本@名無史さん:2010/11/20(土) 04:32:49
今日は、筒三神を先祖神とするグループが、神功皇后時代前後には存在した
可能性について述べてみました。リンクする内容としては以下である。

筒三神→河内の祖先神→河内?→河内の青玉→玉?→豊玉(活玉)伝説

筒三神と河内と玉を結ぶ何かが「スッポリ」と欠落している。そんな印象を
感じずにはいられない。それがもし、蘇我氏であり、モモソ毘売であるとする
なら、それは十二分にありうるのである。
もし、魏志倭人伝のベースが全くの作り話ではなく、晋の人に卑弥呼と認識
された女性が実在すると仮定するならば、その人はこれらの欠落要素に当たる
人物と考える推考も生じてくる。
14日本@名無史さん:2010/11/20(土) 05:54:54
>>912
そうですね。実際記紀では「正義かどうか?」の優位性はそれほど高くないと
思われます。もちろん無くはないけど「正義」より優先する「方法論」がある
と考えた方がいいでしょう。もし、正義がある程度優先されるなら、記紀には
「だまし討ち」が多すぎ。それに「正義」概念は、もっと後の時代ですしね。
「最も高位のモラル」があればだまし討ちにしてもあまり問題無い。そういう
最高位のモラルが、記紀に描かれている本分と考えれます。

>>920
なるほど「〜〜こ」という名前ですね。確かに当時の豪族のお名前の中では、
異質で特徴的かもしれませんね。ふむ。
ちなみに、妹子の子孫の毛人・毛野は、音読みだとどのように読む(読むと
思われる)のでしょうか?参考の為におうかがいできれば。ただ、魏志倭人伝
の時代と馬子の時代は少し離れすぎているような気もしますが。
15日本@名無史さん:2010/11/20(土) 06:51:39
>>14続き
あ、だぶってしまった。失礼しました。

ところでハニヤスヒコであるが、これはイザナギ・イザナミの神話において、
「糞」の神である。そして、先の三神「天照・月読・スサノウ」よりも早く、
そして筒三神よりも早く生まれている。つまりどう見ても「先住神」であり、
その意味では、ハニヤスヒコが、乱を起こしても問題無い話にも成る。つまり
「糞の神」にされたのが、実際のハニヤスヒコの乱〜古事記編纂時期、と考え
ると、この時系列はまったく自然なのである。
しかし、「後代概念」であれば、「ハニヤスヒコ=糞の神」が、何故に、天照
よりも、筒三神よりも先になるのか?この謎を紐解くヒントは、オオタタネコ
の由来となる神の大物主かもしれない。ところが、この大物主神、古事記の
上巻(神武以前の神話の巻)には全く登場しない神様なのである。
大和神話にまったく登場しない神様が、三輪山伝説では、物凄く受用な神様
なのである。これはすごく違和感。
16日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:12:45
>>14
正義の概念がいつできたかなどということとは関係ないでしょう。
いつの時代だって、人間は不正義を憎む気持ちをもっている。
記紀に「だまし討ち」が多すぎるというのは、それをした側に正当性
がないことを示唆しているということです。
17日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:30:44
>>16
正当性の論議なんかは、全くしとらんのだが???ヒミコがだれか?邪馬台国
はどこか?を探す際に、少なくとも当時は「なかったかもしれない概念」を
ベースに、お探しする事はあまり意味を感じませんが?
俺が言ってるのは、あくまでも記紀は「正義なんぞ」を重要な価値基準には
していないって言っているダケなんだがな。。。
18日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:36:50
>記紀は「正義なんぞ」を重要な価値基準にはしていない
そんなことはありません。いつの時代だって正義は大切なことです。
「重要な価値基準にはしていない」というのは、あなたの単なる思い込みか苦し紛れの
言い訳にすぎないでしょう。
19日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:52:47
>>18
じゃあ、言い分が相対する二つの意見がある状況で、どっちも理がある場合は
どっちを正義とするの?毎回毎回殺し合いしているワケでもないんだが。
「これを正義とす」という価値判断基準が無いと、どっちが正義かなんて決め
れないでしょう?その意味で「まだ当時は正義の概念が無い」って言っている
の。正邪のハッキリした区分もあいまいだし、義・不義の違いも「義」の概念
の後に発生する、現実的裁定という話になりますからね。
でそう言う「これは正義ケースですよ」「これは正義に反するケースですよ」
という明確な区分は、儒学思想あたりの物ですから、日本では武士の時代前後
以降の物なのは明白。
そんな価値判断を記紀に求めてもしょうがない。勿論、記紀が価値判断が混沌
とか、全く無いとは言っていません。ただ、その価値判断に「正義」を用いて
いないと言ってるだけ。当時のモラルの「善良な部分」が、ソックリソノママ
今の時代の正義にあたるワケがありません。
20日本@名無史さん:2010/11/20(土) 08:37:43
これはまた実の無いない観念論を延々と
21日本@名無史さん:2010/11/20(土) 09:25:26
>最高位のモラルが、記紀に描かれている本分と考えれます。
これは何を言っているのかな?

22日本@名無史さん:2010/11/20(土) 11:03:35
百済ねえ議論でも、年寄りにしたら大事な暇つぶしの時間なんだ
好きなようにやらせろよ。
先のない年寄りに、何を言ったところで
聞く耳なんて持ちゃしない
23日本@名無史さん:2010/11/20(土) 13:03:13
ただ、フトクニみたいな頑固ジジイが妄想を延々垂れ流してるのは・・・

いまの学界の動向や支配的な説に背を向け、戦後史学を感情的に全否定して、
皇国史観なみの記紀絶対主義と自己流の珍奇な紀年論による独善的「珍説」を
開陳してるのは、「年寄りの暇つぶし」にしても、なんだかなあ・・・
24日本@名無史さん:2010/11/20(土) 13:31:50
おまんこ
25日本@名無史さん:2010/11/20(土) 15:27:11
誰が何を言おうとも、レスに年寄りが絡めば、必ずレスの内容が
とりとめのない話で必ず埋まる。
年寄りは余生は短いが、退屈な時間は山ほどあるから、とりとめのない
話じゃないと、まずいのよ。レス見てればわかるだろ?奈良盆地が昔、湖底だったとか
結局はどうでもいい板違いな話を、延々とご開陳めすという状況だ
26日本@名無史さん:2010/11/20(土) 15:32:35
中には、なにをトチ狂ったか知らないが
左党を舐めたとかかじったとか

もろに思想を全面に押し出してくる馬鹿者までいる。
27唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/20(土) 18:21:34
>筒三神を先祖神とするグループ

景行が九州で最初に挨拶したのが、夏磯媛(カンカシヒメ)
仲哀の九州の宮は、橿日宮(カシイ)
この宮で仲哀に神託を下した神は、住吉か。
28日本@名無史さん:2010/11/20(土) 18:22:44
対馬の巫女
29メ(早寝早起):2010/11/20(土) 21:34:48
>>8 サガミハラハラさん
>九州説の卑弥呼の墓ですか? 佐賀県小城市小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)ですよ。
>大きさピッタシです。弥生時代の大量の土器、(埋納した痕跡あり)や鉄刀が出土しています。

弥生時代の大量の土器?どの型の土器なのでしょうか?
鉄刀?どのような?まじで?
30日本@名無史さん:2010/11/20(土) 21:53:00
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=82&summary=on

あらため vs 鷲崎

太国   vs doontakuka

ローガン vs 元祖A   

ニナッテルネ?まぁ雑魚は、太国&ローガンに任せるwww
31日本@名無史さん:2010/11/20(土) 22:48:04
>>27
おおむねその想定でも違和感は覚えない。俺個人は、神功ころまでの「宣託」
の中心地こそ古代倭人分布域の重心(の一つ)「女王国」ではないかと。
で、これがヒミコの時代は東北九州で、神功の時代は淡路(瀬戸内海の中心)
あたりに推移してきていると考える。
その原因は、「女王国」の一軍閥の古代大和王権が「強くなりすぎて」来た
からだとすれば自然。従って、祟神〜垂仁頃の「かつての女王国の影響範囲」
は、東北九州〜北四国〜淡路〜河内と想定すると、記紀の矛盾は少ない。淡路
は瀬戸内海の「重心」にも鳴り得る地理環境なので。そして、その近畿の分署
(大使館)が葛城と、こうなる。
ただ、勿論神功の頃は、もう下克上が済んでいる(ハニヤスヒコの乱〜沙本
の乱:つまりこの長期間を「倭国大乱と仮定」)ので、「毘売」を通しての
「女王国」が倭人の第一等国に戻るのは、もう不可能な状態ではあったし、
その必要も少ない。だから「融合」した。その融合する動機こそ、朝鮮征伐。
32唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/20(土) 23:14:12
魏書 正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
晋書 正始元年春正月, 東倭重譯納貢,

△鏡に 景初3年と正始元年が記録される。
この鏡が畿内を中心に配布される。
伊都国を傘下とする女王国では無い。
正始元年の倭王は、畿内でなければ、△鏡と齟齬を生じる。
33日本@名無史さん:2010/11/20(土) 23:16:24
さてここで、神功皇后の祖先を辿ってみよう。
神功皇后(皇后着任以前の名前:息長帯比売)は、息長宿禰と葛城の高額比売
との子。
そして、この息長宿禰は、カコメイカヅチ王と丹波の遠津臣の娘の高材(タカ
キ)比売との子。
このカコメイカヅチ王は、大筒木眞若王と姪である丹波の阿治佐波(アジ
サハ)毘売との子。
この大筒木眞若王は丹波ヒコタタスミチノウシノ王とその叔母のヲケツ比売
との子
この丹波ヒコタタスミチノウシノ王は開化天皇と淡海の「御上の祝(ミカミ
のハフリ)がもち拝く」天の御影の神の娘の息長水依比売との子。更に彼は
日本書紀にて四道将軍の一人(丹波担当)とされている丹波道主命に同一
と考えられる。つまり、四道将軍丹波方面部隊将軍に行き着く。
34日本@名無史さん:2010/11/20(土) 23:46:23
先述の神功皇后のご先祖様で、いくつか気になるポイントがある。
@葛城との由縁
A遠津氏(遠津臣)
Bアジサハ毘売
C丹波ヒコタタスミチノウシノ王

上記Aは単なるこじつけの音併せだが、アジサハはアワジを思わせる音感の
お名前である。あと、この女性も「毘売である」ことにも着目しておきたい。
@の遠津氏であるが、古事記の近隣表記には、祟神天皇の奥さんの一人に
遠津年魚目目微(トホツアユメマクハシ)比売がいて、間に一男一女を
もうけている。(内訳:トヨキイリヒコ命、トヨスキイリ日売)
また、遠津氏は大国主の子孫なのである。
Bは日本書紀では四道将軍に比定されるかと思う。

つまり、上記からその「氏族の傾向」を察するに、おそらくモモソ姫(勢力)
が途中脱落したら、変りに急成長する可能性の高い氏族でもある。また、
四道将軍(俺個人は、同代における将軍位の実在には否定的だが)の一角と
して大毘古=祟神グループにとっては、「ありがたい同盟者」であった可能性
が高く、その後代けして低い扱いはできないだろう(現に、子孫の神功は、
真実はともあれ、記紀上は皇后にまでなる)という事。また、こじつけでは
あるが、阿治佐波(アジサハ)毘売の頃に、遠津氏が「淡路島統治権を入手
した」と架空すると遠津氏の「瀬戸内海覇権の掌握」のタイミングも自然だ。
また、葛城との由縁もあるので、神功が「本来なら毘売を名乗る資格」がある
可能性も決して低くは無い。
35日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:03:58
>>32
>正始元年の倭王は、畿内でなければ、△鏡と齟齬を生じる。
何で?

36日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:07:57
つまり、上記と簡単にまとめると。神功皇后は。

出雲=葛城(毘売近畿支店)=瀬戸内海利権=丹波(四道)将軍&新羅由縁
(天の日矛の子孫でもある)

となり、もし仮に「毘売ネットワーク」が先代に実在し、それがハニヤスヒコ
の乱から沙本の乱にかけて「ズタズタになった」としたら、それに成り代わる
事が可能な位置にいる「毘売システムの補助機能」的な存在でもあるのだ。
しかも「四道将軍」(俺個人は後代命名だと思うが)の一氏と呼ばれてくる事
からも、当時における軍事実権の1/4程度を掌握している氏族でもある。
37日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:16:52
卑弥呼=比売大神説を批判して、別のサイトに投稿したレスをここに書き込むね。
ネタに使って頂戴。

宇佐神宮の亀山「石棺について」
酒井冨蔵氏著、「八幡様のお告げ」206ページより引用しますが、

石棺
前宮司故宮成公勲氏談によると、似の御殿下に石棺がある。
稚屋命(宇佐系図にある)の古墳であると伝えているという。
伝説にこの石が現れる時は国が輿り、衰える時は土中に入るという。

託宣集、国の巻、第四巻(一巻、八五頁)
御秤石。北大門内。衛士屋前。
「此石自地半出。彼精与天相連ナル。大菩薩御秤也。
御垂迹宮柱之時。自然湧出。同桁計生立耳宮将与則斬入也。桁木成木在御山矣。と。

亀山は前方後円墳と見て、これが卑弥呼の墓とい説も生まれている。果たして前方後円墳か否か、昭和の復輿御造営の際にさえ、丘陵の形状に相当変化のあった現状では、その形状から今直ちに断定し難いがと。
第三殿の下付近に石棺の埋葬されていることは確実のようであると。
(入江英親著 宇佐八幡の祭と民族)

とあるとおり、
酒井冨蔵氏の本では石棺=稚屋命という。
38日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:19:26
宇佐神宮の亀山「石棺について」
「宇佐氏」の末裔(本人いわく先代旧事本紀にある「高魂尊」から数えて百二十五代目)で、宇佐公康氏という方が居ますね。
この宇佐公康氏の「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」から引用します。

宇佐家伝承 古伝が語る古代史 205ページです。

御量石を発掘調査した時に、銅矛の破片が出土した事実をもってしても、二之御殿は宇佐稚屋命実は宇佐都臣命の墳墓の真上に建てられていることは間違いない。

とあり、ここでも石棺=稚屋命(宇佐都臣命)とありますね。
又、氏は以下の文も述べています。

ところが、さいきん、邪馬台国の研究が盛んになるにつれて、この墳墓を女王ヒミコの墳墓であるとしたり、はなはなしきは、神功皇后の陵墓に見立てる学者があるが、これはすべて主観的偏見による推理憶測にすぎず、曲学阿世の徒の詭弁である。

とあるとおり、
亀山の墳墓は、ヒミコの墓説を否定してますよね。
宇佐氏からも見捨てられてる始末です。

私は宇佐神宮の石棺を生で観たわけではありませんが、
以上の記事をみる限りでは、石棺=稚屋命の可能性が高いのではなかろうか?と思ってるんです。
よって、宇佐神宮亀山は卑弥呼の墓というのは極めて低いのではなかろうか?
39日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:21:45
「宇佐神宮史」というのは、宇佐神宮庁が発行してる。
編纂 中野 幡能氏によるもの。
その宇佐神宮の正式な発行である宇佐神宮史 巻一「神代」五ページです。

宇佐神宮史 巻一「八幡宮本紀」
第二殿は比賣大神、是は天照大神の生ます所、
田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の三女神の御事なり、
此三女神をすべ號て、道主貴と云よし、日本紀神代巻にしるせり、

又、

しかるに雑書の説に、比賣御神を海神の女、神武天皇の御母玉依姫と稱す、
欲説にも又是にしたがひ、玉依姫湍津姫とす、これ無稽の妄説なり

とあり、中野 幡能氏編纂、宇佐神宮の正式な書では、
ハッキリと第二殿、比賣大神とは、
田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の三女神とあり、
その他のは妄説だとあります。
40日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:26:26
41日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:30:36
さて話が少し脱線しそうなので、ここでヒミコ没後の邪馬台国の最大脅威な
った「南の勢力」に関して近畿説のためにこの一考を架空として提案してみよ
う。この南の勢力こそ「大毘古グループ」ではなかったのか?という架空だ。

九州説ではクマソと考える思考になりがちだが、実は当時の大和王権も充分な
中央集権でもないし、対立の為の妥協を繰り返している権力段階に過ぎない。
また「木の国=紀伊の国」は出雲との縁故も多い(出雲の八十神:ヤソガミ)
「女王国」がもし近畿の奈良界隈であるならば、「まさか南の木の国が反乱」
するなどは、全くの想定外で、当然南に「一大卒」を置かなくても自然。
(キノ国=クナ国)
また、神武東征もこの「木の国」の「木」を求めている動機もある。(船建造
の為の良質の木材を求めての東征?)
そして木の国と大毘古とを結びつける何かしらの関係を匂わせる記紀表記も
気になる。根拠はまだ薄いが、この場合、邪馬台国を脅かす南の勢力こそ、
「大毘古グループ」と架空する事も可能だ。

そして、東北九州女王国VS南のクマソの話と、葛城女王国VS木の国大毘古
グループの話が、神功以降の口承神話のなかで、「融合」して行くとも考え
られる。(面白い事に、奈良盆地界隈と九州中央部には、共有地名が多い。
これは、後代の「融合推進意図」を感じずにはいられない)
42日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:47:28
「紀伊」は元々京都市南区にあった地名ですよ。
魏史倭人伝に登場する「支惟国」はこちらでしょうね。

のちに住民が和歌山に移住したため、そちらも紀伊国になった。
43日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:57:17
つまり、神功皇后の頃に、朝鮮進軍のための「全ての要素」が揃うのである。

@動機:神功皇后のご先祖様の所領だったから再建しようと進軍しても当然
A資材:木の国(大毘古グループ)との完全融合済み
B技術:丹波遠津氏・葛城氏・ワニ氏=航海技術が完全融合済み
C権力:ハニヤスヒコの乱→沙本の乱→ヤマトタケル征伐戦争→初期中央集権
D権威:毘売システムの崩壊→残存するものを神功皇后が日売システムへ転換
E神話:出雲神話と九州神話の大和神話への吸収が完了している

条件が揃いすぎている。大和だけなら、「朝鮮半島が自分の物」という欲求は
ほとんどないが、これに出雲や九州の領土欲求を加味すると、その内部には
「朝鮮半島も当然自分達の物」という視点も生じて来る。
だから、大和の代表の仲哀天皇は、対馬海峡渡航を躊躇し、出雲・九州に残る
毘売システムの補助末裔の神功皇后は、対馬海峡渡航を強行するというのも、
ある種自然な成り行き(結果や後代評の是非は別として)とも言える。
44日本@名無史さん:2010/11/21(日) 01:03:42
長レスさん・・・記紀がベースってかんじだね。

他の人は、
メ・・・倭人伝がベース
ローガン・・・考古学がベース
河童虫・・・倭人伝がベース
縦目仮面・・・考古学がベース
太国・・・記紀がベース
唐松山・・・記紀・ほつまがベース
縄文人・・・考古学がベース

君と相性が合うのは太国、唐松山氏かな?w
45日本@名無史さん:2010/11/21(日) 01:06:05
>>42
木の国と紀伊の国の名前由来はどっちが古いか?という事ですね。俺個人は、
古事記の表記する「木の国」の方が古いと想定しています。なにせ、出雲神話
の八十神逸話にすら登場する地名ですから。(つまり、大和神話にも出雲神話
にも登場する地名って意味ね)移住による地名を重視されると言うご視点の
ようですが、その移住自体がいつ頃なのですか?それによる話だと思います。
46レス長たらしビコ:2010/11/21(日) 01:10:27
>>44
そのご理解で当方としては問題ありません(他の方は存じませんが)記紀でも
古事記の方をよりベースとしています。但し、古事記と言えどもトリックが皆無
と言うほどは盲信はしていませんが。
47レス長たらしビ毘古:2010/11/21(日) 01:14:18
おかげさまで賛否のレスも増えて来たようですので、とりあえず名前を表記しておくことにしましょう。毎回>>番号とさせるのもご足労かけてしまいますし。
48レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 01:17:37
>>44
さあ、相性は存じません。ただ、記紀を読んでて、これはおかしいな、これは
つながりそうだな、と言うのを、繰り返しているだけですし、俺は。そう言う
部分が、共有できるケースや案件については、場合によってはその時は会話が
成り立つのかもしれません。
49日本@名無史さん:2010/11/21(日) 01:49:14
>>45
神武天皇が紀氏に紀伊国造を命じた、ということですから
その頃ではないでしょうか?
南区の東寺は、真言宗の寺だったりもしますね。
50レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 02:26:32
>>49
神武天皇による「国造」の任命は、多少インフレ気味なので、俺個人は先述の
ように「地方氏族の国造任命の確立」は後代要素が強いと想定しています。
(先述より、開化〜祟神以降の可能性重視)
先述の理由を再度:古事記における「国造」表記の登場における偏り。
(スイゼイ天皇〜孝霊天皇までの間の天皇からの派生の「国造」氏族は古事記
上は皆無)開化天皇の直前の天皇の孝元天皇の時の表記に、木の国造の祖の
ウヅヒコ(武内宿禰の叔父)としての登場が、神武以来の国造表記としては
初登場。
51レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 02:35:07
つまり、神武天皇血脈由来の「国造」は、後代(開化〜祟神以降)に、指定任命
した可能性ね。その時代に、血が繋がってて、当時の天皇家に恭順である氏族
の関係性を補償する為に、多量に「国造」を発行し、それを地方恭順氏族に
「貴方の所は神武の頃からの国造ですね」と後代位置付けた可能性。

なぜそれが必要だったかと言うと、「木の国国造」より古い家柄の天皇家の
血脈子孫も取り込む必要が、その頃の大和王権にあったと見ると自然。木の国
グループの大毘古の政権なのだから、その頃は。
52日本@名無史さん:2010/11/21(日) 02:42:29
ああ、そうでした。
神武はいつごろの人かという定義ができていませんものね。

神武という絶対的な王がいたなら「卑弥呼を共立」などしないですから
神武(のモデル)が即位したのは卑弥呼より後ですよ。
53レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 02:52:15
>>52
神武大王の実在自体は俺は否定しませんがその偉業や託宣の範囲から考えて、
「後代に神武天皇に集約した要素」は大きめだと想定しています。つまり

・神話まで持っていけない要素→神武さんに一任
・神武以降は確実だが詳細不明要素→神武さんまで持っていけば面目が立つ

このような解釈が、記紀前の口承日本史(祟神以降)にはあった可能性。
これなら、例えスイゼイ以降孝霊以前に「派生した氏族」であっても、結局
「神武の子孫」という点は補償されるので、大きな問題は無くなる。
つまり、「よくわからんけど、神話まではもっていけないけど、本人主張も
傍証記録も、彼らが天皇家由来なのはある程度間違いない」という氏族を
全て「神武大王派生」としちゃった作業が、祟神〜記紀の間にある可能性。
54日本@名無史さん:2010/11/21(日) 03:06:20
そんなに長く書かれなくても、
神武天皇は都合よく脚色された半ば架空の存在、という共通認識はあるのでは

ただよく言われる、
神武≒祟神(ミマキイリヒコ)ではないんです。
神武≒垂仁(イクメイリヒコ)です。
宮崎県に、生目古墳という大規模な古墳群があります。
神武(垂仁)は、本当に日向から来たんですよ。
55レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 03:16:56
>神武(のモデル)が即位したのは卑弥呼より後ですよ。

俺個人は、その想定はとっていません。それだと前後矛盾が大きくなりすぎる
からです。あくまでも、ヒミコの時代には近畿を中心とするある程度の勢力が
あると考える方が自然だからです。(女王国との上下関係は先述の如しです)
但し、女王国神話を組み込む作業において、神武さんが多少前後にずらされた
可能性までは否定しませんが。
託宣を受け、東征し、国(その範囲はここでは未定)平(ことむ)けし、と言
う「神武が受けたと言われる託宣」と「その成就」は、前提前段階として
大和王権にとって「必要不可欠要素」なのは、これは動かしにくいです。
ただし、その託宣の成就が必ずしも神武存命一代でなされたかどうかは、甚だ
疑問で、むしろ「神武以降数代にわたる逸話」の「いいとこどり」をした
「再構築ストーリ」が後に「神武のストーリー」として集約されたと考える
方が自然です。記紀以上に難航し、時にはエウカシから暗殺される危機をも
辛くも回避し、時に激戦・苦戦にむしろ妥協して(記紀表記ではこれを避
ける)、神武以降の数代後に(やっとこさ)国(近畿)を平けた、と解釈する
方が自然に思えます。
56レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 03:20:20
>>54
記紀における「繰り返し法」的レトリックは、俺も共感できます。
わざと「似たような話」を「わざわざ繰り返している」感は、記紀の端々に
見受けられますね。大筋でもそれを使っていないとは断言し切れませんね。
57縦目仮面:2010/11/21(日) 03:22:41
しかし、すごい量の書き込みでスレがそうとう重そうだ。w

>>55
記紀に書いてあることはみな史実で、人物はすべて実在と考えてるんですか?
それとも仮定として、ということですか?
58レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 03:29:57
>>57
単に、基本はムゲには疑わないという姿勢です。できれば可能な限り記紀の
登場人物は「実在」であってほしいですが、実在すら疑わざるを得ない矛盾
は無視しません。
逆を言えば、「実在が傍証できない」人物に関しては、記紀編集時の都合に
よる架空であると言う可能性も大いに発生してきます。
逆に「都合架空された」なら「都合架空しなければならない理由」があるはず
で、そこまで外堀を埋めないで「実在していない」とは断定しずらいと思う。
という立場。
59日本@名無史さん:2010/11/21(日) 03:40:29
そりゃ理由はありますよね。

神武東征の年代を繰り上げたのは、記紀編集時の政権を、
脈々と続く万世一系のものとして正当化するためでしょう。

イクメイリヒコの前にミマキイリヒコが挿入されたのは、
ミマキ勢に箔をつけるため。
巳百支国←これミマキ国です。
60レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 03:42:52
>>57
例えば「ボチャンという音が聞こえました」「湖に波紋がありました」という
前提データがあり、筆者が「これは神話によると、石が投げ込まれた」という
表記だった場合、実際はそうでなくても、「ボチャンという音」と「湖に発生
した波紋」があるわけで、そうなると、その先に「何かが湖に落ちた可能性」
は高くなります。(火の無い所にうわさは立たない)

神話要素は「後代解釈要素」で人皇要素は「血脈を辿る一つの目安」になり
ます。なぜなら、「誰々の親は誰々、子は誰々」の戸籍的表記は、あまり
大きく偽ったら、他の様々な「血脈関係性」に矛盾を生み出すからです。
それに、まだ忠孝概念が無いとしても、当時の「氏姓制度」は「血脈記録を
大きく改ざんする」という事は、よっぽどの事がないと出来ないとも思うから
です。だから、実在を疑うにしても、「疑うに足る証拠」が必要だと思う。
61日本@名無史さん:2010/11/21(日) 03:45:53
>「疑うに足る証拠」が必要

タイムマシーン開発までお待ちになってはいかがですか。
62縦目仮面:2010/11/21(日) 03:47:46
>>60
そうですか・・・ありがとうございます。それにしても、すごい書き込みで驚いてるん
ですが、この内容というのは以前から考えられていたものですか?

あと、考古学なんかはやらないんですか?もし、記紀の内容と考古学的な知見に
齟齬があったりした場合はどうされるんですか? 質問ばかりですみませんね。
興味深いもので。
63レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 03:54:31
>>59
> 神武東征の年代を繰り上げたのは、記紀編集時の政権を、脈々と続く万世
一系のものとして正当化するためでしょう。

その仮設からのアプローチもアプローチとしては理解できます。但し俺個人は
スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアンあたりは「兄弟相続制」
で継承された可能性も並存的に存在し続けるとかんがえる思考です。
つまり記紀では「親子と表記されている関係性」のいくつか(下手をすれば
多く)は「実は兄弟」という可能性です。
これは、わかっててやったら後代子孫的には不遜なので、まさかそれはやれ
ないと思われますが、その時代はまだ口承伝聞の時代でもありますし、記紀
編集時代前後の「ずっと後の世代」にとって、かならずしも「その頃の人達」
が「研究しきれなかった」可能性は高いです。
つまり、わからないので、「後代解釈で兄弟相続を長子相続としてしまった」
可能性です。これなら悪気も意図も無くても充分に起こり得る研究現象かと。
64レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 04:02:10
>>62
考古学的アプローチと齟齬が発生する可能性は充分にあります。別のツールに
よるアプローチですからね。考古学の新発見により、記紀の個所の信憑性の
低下もありうるし、逆に今までの矛盾の解消もありうると思います。
おれが敢えて「架空」と言っている場所・個所は、あくまでも「記紀上の
整合性から考えると、そう考えるのも一つ自然」と言う、あくまでも提案
なので、それを完全否定する考古学上の発見があれば、その発見の信憑性を
疑いつつ、自分の架空を名誉ある撤退的修正を加えて行くしかありませんね。
明らかに間違いだとわかった時点以降、それに拘る気もありませんし。
ただ、考古学上の発見も、時々ゴットハンドや売名的捏造や時の政治力等も
ありうるかと思いますので、考古学で50%ほど正しいとされている事に殊更に
振り回される気もないです。無視はしませんけど。
65縦目仮面:2010/11/21(日) 04:13:47
>>64
そうですか。いや、記紀と考古学はなかなか相性がいいんですけどね。ところで、
欠史8代を含め、初期の天皇の寿命は異様に長いですよね。これはどうお考え
ですか? 太国という人は、倍暦が用いられていたと考えているようですが。
66レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 04:16:18
>>62>>64続き)
>以前から考えられていたものですか?
邪馬台国に関しては全くのシロウトですし門外漢です。ただ、日本史・世界史
は好きなのでいろんな時代のいろんな歴史現象を自分なりに考えてみるのが
好きになってしまっただけです。
邪馬台国の謎は、自分で勝手に構築しているものも少なからずあったので、
とりあえずそれをこの場をお借りして披瀝してみました。自分で構築している
だけだと、我田引水になりがちなので、そう言った要素で明らかなこっちの
間違いはご指摘いただければ今後の材料にもまたなって行くかと思われます。
67縦目仮面:2010/11/21(日) 04:18:33
>>64
すみません。もう一つ質問です(まとめればよかった)。 記紀の内容が基本的に
史実であるとして、文字のない時代の事跡はどうやって記録されていたとお考え
ですか? また、干支で記されている日付を正確なものと考えられますか?本邦
では暦の発達は遅れていたと考えられるのですが、例えば3世紀の邪馬台国の
時代にも暦があったと思われますか?
68レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 04:23:22
>>65
寿命問題は、以下四つの要素で並立思考中です。
@長寿の薬の存在
A当時実は兄弟相続制だったのを、記紀編者は長子相続制と解釈(研究限界)
B立太子・即位・崩御・モガリの数え方法が記紀編者も江戸以降の研究者も
発見できなかった。(モガリ年数勘定の伝承が無くなった)
C出雲神話・九州神話・その他地方神話を組み込む際の組替えレトリックに
引きずられた。(後代水増し)

卑怯な言い方で申し訳無いが。
69縦目仮面:2010/11/21(日) 04:35:16
>>68
ははあ、倍暦ではないということですね。それはなによりです。ww さらに質問
です。記紀の内容は外国からの影響をどれほど受けているとお考えですか?
例えば、イザナギ・イザナミの冥界行は、ギリシア神話のオルフェウスの話と
多くの共通点がありますが、これは偶然の一致と考えられますか?時代的に
はギリシア神話の方が下手をすると(記紀編纂時と比較して)10世紀近くも古い
わけですが。また、中国文献やアジア系の神話の影響はどう考えておられますか?

寿命は、例えば旧約聖書の初期の登場人物も長いですよね。これは失楽園により
エターナルであった寿命が徐々に短くなっていくと解釈されることもあるようですが。
70レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 04:36:26
>>67
そろそろこちらも時間がアレなので詳しくはまた数日後回答を予定して
います。とりあえず、今回はシンプルな回答にて失礼。

>文字のない時代の事跡はどうやって記録されていた
口承伝聞機能を、俺個人は、「記録による書類」よりも信憑している場合も
あります。例えば、三つ子の魂百までもと言います。おじいちゃんの代から
「きちっとこのように」伝聞されている物を、子供の代や孫の代に「勝手に
替え歌にしてしまう」と言うのも、「伝記」として考えれば不自然です。その
意味では、立証をしずらいけど無視も出来ないと考えます。
>例えば3世紀の邪馬台国の時代にも暦
邪馬台国が農耕的文化体系だとしたら、前暦的な概念はあったかもしれません
ね。ただ、それも魏志倭人伝からだけだと確定はできません(稲作表記無し)
また、俺の先述の架空からしても、大王軍閥に乗っ取られる女王国と言う解釈
ですので、たとえ、邪馬台暦があっても、それはきれいに吸収されている
可能性が高いと思います。こう言う所は「先史時代」的で、むつかしい所では
ありますね。それこそ、記紀解釈からの突破口はほぼ少ないと思われます。
考古学的アプローチで、いつかそっちの突破口が開くとより面白くなって来る
かもね。残念ながら現状では邪馬台暦の突破口を俺個人は見出していません。
71レス長たらし毘古:2010/11/21(日) 04:42:12
>>69
神話比較論的なアプローチも嫌いではありません。但しその場合は民俗学的に
「オリジナルを探す」作業と言う話にもなってきますので、完全オリジナル等
はどこにも無いわけで、一要素が似ていると言う点だけでは、オリジナルと
評するのは難しいでしょう。
俺個人は、まったく別の見地で「三つの要素」が重なれば、
オリジナル⇔デフォルメコピーの関係性を初めて言えると考えます。
72縦目仮面:2010/11/21(日) 04:50:10
>>70
なるほど、語り部による相伝ということですか。また、干支は太陰暦でしょうから、
天文計算によらずとも月齢の観測で記録できないこともないでしょう(あったとは
思ってはいませんが)。ざっくりとした太陽暦は弥生後期にはあった可能性がある
かもしれません。生物季節などを利用して二至二分がおおよそわかればいいわけ
ですからね。

あと、神武天皇の治世をを前7世紀頃とすれば、即位の地である橿原には、橿原
遺跡というものがあります。縄文晩期の、土器などは強く東北地方の影響を受けた
ものです。樫の大木の根がいくつも出土したという話もあります。

回答ありがとうございました。
73縦目仮面:2010/11/21(日) 05:13:03
日本の神話では月神(ツクヨミ)はほとんど活躍してはいませんよね。あと星辰の神話
も見られない。占星術のようなものの発達もない。これは暦の発達が遅れた影響がある
のではないかと考えています。書紀によれば、百済から暦博士を勧請したのは6世紀の
話です。

あとは、中国の盤古神話では巨人盤古の左目から太陽、右目から月が生まれます。これ
もイザナギの左目から生まれたアマテラス、右目から生まれたツクヨミとよく付合していま
す。ただし、一般的に太陽神は男神、月神は女神とされることが多いのですが、アマテラス
はスサノオの姉で女性の神性です。

・・・これは遣唐使が「三国志」を持ち帰った際、卑弥呼と邪馬台国の存在を知り、急遽地方
神であったアマテラスの格を高め、卑弥呼になぞらえたという説もあるのですが、俺的には
眉唾という気がします。
74日本@名無史さん:2010/11/21(日) 13:48:53
スサノウとは、スサノウという
歴史的事象。
カムヤマトイワレビコとば、カムヤマトイワレビコという歴史的事象。

固有名詞ではない。
75唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/21(日) 17:53:19
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年  ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た法がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。
氣長足姬尊立為皇后.開化天皇兒-彥坐皇子命兒-山代大筒城真若王兒-迦爾米雷王兒-息長宿禰女-氣長足姬命是
76日本@名無史さん:2010/11/21(日) 22:48:49
あ、そりゃ↑ そりゃ↑ そりゃ↑ そりゃ↑

神功皇后説、 熊襲の女酋説、 甕依姫説 、倭姫命説、
倭迹迹日百襲媛命説、 宇那比姫説、 天照大神説、 ヒメ大神説

君ら卑弥呼は誰と考えてるの?
77日本@名無史さん:2010/11/21(日) 23:02:07
>語り部による相伝

縦目君は、本をよく読んでるね。
これをきいてピンとくる人は、日本史板に何人いるんだろうね?
まあ、河童君は来ないのは当たっり前だろうけどw

そういえば太国氏〜みないね。
別のサイトで虫のお弟子さん(ドンタク)にボコスカ言われてたようだけどwww
78日本@名無史さん:2010/11/22(月) 03:24:23
>>4
かつ、間には海がある と。
79日本@名無史さん:2010/11/22(月) 03:25:17
>>6
「塚」としては残っていない、に一票。
80日本@名無史さん:2010/11/22(月) 06:14:46
箸墓をみて円部だけの大きさを言う人はいないだろう。
81日本@名無史さん:2010/11/22(月) 08:08:09
ということは、径百余歩は、円墳の径かその他の形(前方後円墳、前方後方墳など)
の全長かのいずれかだろう。径という言葉は、必ずしも円に限ったものではない。
82日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:57:59

墓の規模を言うのであれば周濠も含めて表現される。
箸墓は径200歩余と言う事になる。
大きすぎるね。

そもそも三世紀の墓ではないし、畿内説は成り立たない。
畿内説は関西の学者が予算獲得のために捏造したものだから、議論する価値がない。
旧石器ねつ造を推進した文科省の捏造支持グループが
畿内説に沢山予算付けるから成り立っている一面が有る事を知るべきだ。
83日本@名無史さん:2010/11/22(月) 14:00:11
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;)ナ、ナンダッテー!!
九州にある数々の遺跡も捏造だったなんてwwwwwww
84日本@名無史さん:2010/11/22(月) 14:22:00

箸墓周濠から鐙が見つかっているからね。
鐙は3世紀末に中国南部で発明されたが、普及するのは5世紀になってからだ。
少し早目に来たとしても三世紀末に発明された鐙が三世紀中葉の墓から出てくる事は有り得ない。
安本の4世紀後半と言うのは説得力が有る。

箸墓の年代を3世紀中葉とした歴博の年代測定は捏造だ。
彼らは旧石器捏造にも関与した。
http://inoues.net/study/rekihaku.html
85日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:28:56
>>84
>箸墓周濠から鐙が見つかっているからね。

閉じられた石室内から見つかったら、そういう論理でいいでしょう。
でも周濠はオープンな空間ですよね、後代のものも入ってきます。
もし古墳の周濠やお城の堀からコカコーラの缶が見つかったら
あなたは築造年代をどう推定します?


>安本の4世紀後半と言うのは説得力が有る。

箸墓古墳からは円筒埴輪の元となった特殊器台が出てますよ。
それでも安本氏やあなたは4世紀後半を主張するのですか?
86ローガン:2010/11/22(月) 15:42:07
>>84
> 箸墓周濠から鐙が見つかっているからね。鐙は3世紀末に中国南部で発明されたが、普及するのは5世紀になってからだ。

へえ。知らなんだ。詳しく教えて貰えますか?

> 少し早目に来たとしても三世紀末に発明された鐙が三世紀中葉の墓から出てくる事は有り得ない。

その鐙って、墓のどこにあったと云うの?

> 安本の4世紀後半と言うのは説得力が有る。

何故?

> 箸墓の年代を3世紀中葉とした歴博の年代測定は捏造だ。

直接言いにいけば。
87日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:00:23
鐙の発祥は中国南部じゃないだろう
騎馬遊牧民はたぶん北方じゃないかい?
88ローガン:2010/11/22(月) 16:18:04
>>87

どうでしょうねえ。 前漢中期頃の雲南省李家山から出た貯貝器の蓋に、鐙の表現がある騎馬人物像が描かれているようですが。
ソースは菅谷氏の「鐙の起源」だったと記憶。
89日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:33:20
雲南の滇王国は支配者が北方系の可能性が高い。
爨の烏蛮・白蛮は、北方系のロロ(Lolo)人成分の構成比率が高く
ロロに加えて栗粟というエスニックグループが添加されている。
南詔・大理も、やはりロロ人の政権。大理はダイ族が参画しているが王はロロ系の白族。

南に位置しているといっても、住民は北方系というわけなので
目からウロコを落として直視すると、何かが見えてくるよ。
90日本@名無史さん:2010/11/22(月) 17:41:44
楚や秦の時代に雲南はおろか広西や貴州にも
北方からの植民が行われているから
三世紀末だと南方起源と言い切るには無理があるな
91日本@名無史さん:2010/11/22(月) 18:17:05
積山洋(大阪の部落史委員会委員・考古担当)
http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_44_2.htm
から一部引用。(全文を参照してくれ)

―ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大量渡来前史の意義

 右にみたように、牛馬は大量渡来に先立って、一定の前史的渡来をみていたことが明らかである。それはどう意義づけられるのだろうか。

 馬に関しては、古墳時代前期前半に渡来の第一波、中期前半に第二波があったかにみえる。現状ではいずれも小規模であり、またその間の経緯は不明である。
第二波の渡来は、その直後からの大量渡来につながるものと理解するのが自然であるが、第一波の渡来はどう考えるべきだろうか。

 近年、次第に明らかになってきたことは、古墳時代中期の渡来系文物の大量流入に先立って、やや小規模ながらも、弥生終末期から古墳時代前期にも朝鮮半島系渡来文化の流入、
つまり渡来人の足跡が認められることである[大阪府立弥生文化博物館二〇〇四『大和王権と渡来人-三・四世紀の倭人社会-』(特別展図録)]。
それは同時期の北部九州への朝鮮半島系文化の流入と軌を一にしたもので、亀井遺跡に近接する大阪市平野区加美遺跡・八尾市久宝寺遺跡などで出土する韓式系陶質土器・軟質土器や、
箸墓古墳を含む纏向遺跡で出土する韓式系土器、金属器生産の遺物(鉄滓・ふいご羽口)などにみられる。このような古墳時代前期の渡来人たちが、馬を連れてきたのであろう。

 こうして馬は、まだかなり珍しかったにせよ、次第に倭人社会で知られた存在となりつつあったことと思われる。
それが、四世紀末か五世紀初頭になって大量渡来した直接の理由に、「広開土王碑」にみる倭王による朝鮮半島への出兵、高句麗の騎馬軍団との遭遇と敗走という経緯があげられるであろう
92唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 18:54:05
>四世紀末か五世紀初頭になって大量渡来した直接の理由に、
>「広開土王碑」にみる倭王による朝鮮半島への出兵、

広開土王碑には、400年前後に倭が大敗したことが書かれている。
つまり、巨大古墳を造るための、人員や牛馬は、それ以前でなければ成らない。

323年 神功49年 半島占拠、北方系住民の大量渡来
326年 七支刀
331年 広開土王碑の辛卯年 この時倭と百済は楽浪を領土とする。

372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
413年 義熈九年 高句驪王[王連]を以って、樂浪公と爲す。
93唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 19:05:47
>第一波の渡来はどう考えるべきだろうか。

第一波の渡来は、卑弥呼の時代の朝貢で手に入れる。
280〜90年代の東夷の朝貢時にも多少は入るが、本格的に入るのは
308年石碌の乱以後、323年半島占拠が、牛馬を使える北方の民の大量渡来のはじまり。
94日本@名無史さん:2010/11/22(月) 19:09:34
>>92
>331年 広開土王碑の辛卯年

おいおい、391年だろ。
そんな異説があるのか?
95日本@名無史さん:2010/11/22(月) 19:30:43
>>93
>第一波の渡来は、卑弥呼の時代の朝貢で手に入れる。

うん、こっちは賛成、つか可能性ありだな。
卑弥呼〜台与のときに魏使が何度も行き来してるし
難升米や都市牛利だったっけ、こっちからも半島や洛陽まで行ってるしな。
「倭にも馬がいれば便利なのに」
と思うはずだよ。
96日本@名無史さん:2010/11/22(月) 19:33:09

トヨタン・・・・・・・・・・
 
97日本@名無史さん:2010/11/22(月) 19:45:06
径百余歩と記録されているのは、
径を記録すれば足ると考えられていたということ。
つまり円墳である。方墳ですらない。

前方後円墳なら、経だけでは伝えられないので
別の表現にならなければならない。
98唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 19:49:55
>おいおい、391年だろ。

372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。

372年に楽浪を領土とする百済を倭が、属国とする。 こんな事は不可能である。

つまり書紀の記事は、この数字では否定されるが、331年であれば書紀の記事を肯定出来る。
99唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 19:56:31
広開土王碑の辛卯年 391年にすると、書紀の記事のみが否定されるだけでなく
広開土王碑」の記事まで否定して始めて成り立つ説に過ぎない。
ついでに
372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
413年 義熈九年 高句驪王[王連]を以って、樂浪公と爲す。

この記事も否定されている。

つまり全ての文献が否定された上で成り立っている。

100唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 21:07:33
あづないの罪=273年の日食。ここが目安となり神功紀は記される。
274年 渡海 晋が幽州を分け平州を置く。渡海が要請であれば、冊封国としては、王の死より
優先された渡海である。
275年 神功元年 磐余稚桜宮(桜井茶臼山の時代)
323年 神功49年 この頃東晋が、洛陽奪回を断念する。東北方面は空白と成る。
この空白域を倭は、百済を引き込み、占拠する。
その楽浪へ高句麗は攻め込むが、反対に母容氏(前燕)に潰される。(前燕が滅びるまで高句麗は
静か)。
326年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午。1日狂い。 百済本紀の数字には狂いがある。
331年 空白の楽浪を百済と倭が占拠し、百済の領土とする。(高句麗が歯ぎしりして悔しがる出来事)

この数字であれば、突出した軍事力も要せず、半島を占拠できる。

101日本@名無史さん:2010/11/22(月) 22:41:27
>>65 そうですか。いや、記紀と考古学はなかなか相性がいいんですけどね。ところで、 > 欠史8代を含め、初期の天皇の寿命は異様に長いですよね。これはどうお考えですか

この問題は解決済みですよ。 古墳の考古年代との整合性もとれてます。

http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html
102唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 23:02:51
>たとえば公称140歳の垂仁は実年齢61歳で死亡、
同じく110歳の応神は実年齢43歳で死亡などと読み解くことができます。 

死亡が40才程度のこの時代、61歳迄生きたら、孫、ひ孫がいても不思議でないが
現実は、景行が子作り時代に入った時分に死亡。

同じく応神は、磐余稚桜宮(桜井茶臼山の時代)から、誉田御廟山までが、110年と説明されている。
現実には、274年生まれで312年死亡、313年から87年間が仁徳。

書紀の応神は、仁徳31年立イザホワケ(344年)で即位したのが応神である。
つまり仁徳32年以降と応神紀は、重なる。
これ以降の記事に応神の子共(八田皇女)を仁徳が欲する。(この時代の女子は、13〜16程度が適齢期)
妃とした八田皇女も別人である。

八田は、武内宿禰の子孫でもある。
103日本@名無史さん:2010/11/22(月) 23:16:49
すいません
帯方郡から女王國まで12,000里と東夷伝には書かれていますが
残り1,500里では出雲くらいまでしか行けませんよね?

畿内説の方々はこのあたりをどのように解釈されてるんでしょうか?
104日本@名無史さん:2010/11/22(月) 23:20:20
また
女王國の東の海を渡って1000里にも倭種の國があり、その先には侏儒国、裸国、K齒国があったとありますが
これら東の海、侏儒国、裸国、K齒国はどこに比定していますか?
105唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 23:25:37
『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍
領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》

 これによると、咸安二年[372]に東晋から百済へ册封使が派遣されています。
東晋から倭国へ册封使がへ派遣されたであろうと考えます。
仁徳天皇紀には次の記事があります。仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。

370年前燕が滅ぶと高句麗は息を吹き返す。
新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず、ウジノワキイラッコへの嫁ぎ?
   新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退、応神かイザホワケ?か
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。初期は仁徳であるが後期は名前の入れ替え。
364年 新羅、倭兵が大挙して侵入。仁徳五三年(乙丑三六五)新羅へ派兵。
372年 百済へ東晋の册封使、仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神天皇二八年 371年 高麗王遣使朝貢。

1,2年の齟齬はある。


106日本@名無史さん:2010/11/22(月) 23:49:59
>>105
完全に狂ってる。
107日本@名無史さん:2010/11/23(火) 00:22:37
>>193  ローガン さんへ
もしかして心で泣いてるのかい?
そして、その言葉を発した方が議論でいう『負け』に当たります。
ここのサイトはそこそこ人気あるようですし、
ヤフーや他のサイトの連中も観てんだよ。
2ch代表で来てるんだから、あまり恥をかかせないでおくれw

笑ろうたwwwwwwwwwwwwwww 君、恥をかかせないでぉw
やっぱり〜ローガンさんより、河童さん、縦目さんかな・・・・
108唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 00:37:10
>応神は実年齢43歳で死亡などと読み解くことができます。

神功紀から、応神紀には、百済王朝が記載されている。
応神を43才で説明すると、神功紀の部分が不足する。
神功紀には、渡海から半島占拠、そこから百済王朝の記載である。

現実の応神は40才程度で死亡したとしても、応神紀に宛がわれた時代は、
344年から384年の出来事である。
つまり現実に生まれた274年から誉田御廟山までが110年となるのである。

新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず、ウジノワキイラッコへの嫁ぎ?
新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退、応神かイザホワケ?か

344年には、百済はそこそこの大国として存在する。
つまり渡海がここでは、遅すぎる。
だから、書紀の神功紀は、間違いとされる。
七支刀369年 この数字の元、半島の占拠も同様に否定されている。
広開土王碑391年も否定したいが、何処かで渡海し、百済、新羅を属国とせねば成らないから
消極的に支持されるだけ。
これでは、巨大古墳を造れないから、巨大古墳を5世紀に持って行き
公開土王の南下を消極的に否定する。
しかし
413年 東晋 東晉安帝義熙9年 高句麗と倭共に 朝貢。
この王を仁徳とする向きもあるが、
この時の百済王映は、高句麗国の中に存在する。
百済国を存続させるため、高句麗国から独立した存在として読まれる。齟齬を隠す。

これまでの数字は全てこの様に少しずつ、認識を違えて説明されている。
この数字では、卑弥呼は存在出来ない。
109日本@名無史さん:2010/11/23(火) 00:51:35
>>107
ローガンさんは鷲崎さんとこの>>192になんて書いてたの?
削除されてるからよくわかんないや
110ローガン:2010/11/23(火) 01:04:54
>>107
> もしかして心で泣いてるのかい?
> そして、その言葉を発した方が議論でいう『負け』に当たります。

勝った、負けたなんてどうでも良いけど。ただ幼稚な人と礼儀知らずの集まりなんでね。

> ここのサイトはそこそこ人気あるようですし、ヤフーや他のサイトの連中も観てんだよ。

それが何か?

> 2ch代表で来てるんだから、あまり恥をかかせないでおくれw

幼稚な人と礼儀知らずの集まりの板だと気付いたので、そう書いた事が何故、お前が恥書いた事になるの?

111日本@名無史さん:2010/11/23(火) 01:12:11
>>110
ハイハイ 泣いてないで彼らなんて蹴散らせば済む事だろw
みっともないなw
112縦目仮面:2010/11/23(火) 01:19:25
あんなものにかかわってもしょうがないでしょうに。あれは地域興しのプロであって
史実を追求する気なんかさらさらないでしょ。詭弁を生業とする小安本といったところ。
113神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/23(火) 01:31:54
>>103
魏の骨尺の寸法は23・8cm×6尺=1歩142・8cm。1歩1・428m×60歩=1町85・68m。
1町85・68m×4町=条坊制の1里342・72m。1里0・34272km×1500里=514・08km。
1500里約514kmですから邪馬台国まで行けるでしょう。条里制の里でしたら約771kmになるから余裕ですね。
114神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/23(火) 01:35:47
>>104
侏儒国は沖縄です。裸国・黒歯国は台湾ですね。
115ローガン:2010/11/23(火) 01:38:39
>>111

いや、此方が何度も同じ主張をしているのに、読みもせず 幼稚な反論ばかり繰り返す。その反論の根拠を問うと決して言わない。
催促するとやっと答えたが「倭人伝の根拠は倭人伝」だと平気で云う。史料批判とか、知っているの?と尋ねても返事出来ない。
返事が出来ないので、又初めの幼稚な反論を繰り返す。アホらしいので、止めるといったら 別人が「教えてください。」
と、云うものだから、うかうかと長レス書いたんだけどね。すると、今度は黙ってしまった。
幼稚な人と礼儀知らずな人が集う板だとわかった。 あ〜後味が悪い。あんな所は初めて。
116日本@名無史さん:2010/11/23(火) 01:43:41
>>115
いや 第三者の私が眺めてても
ローガンの方が返答になってなかったよw
117ローガン:2010/11/23(火) 01:44:09
>>112
> あんなものにかかわってもしょうがないでしょうに。

ホント。気分が悪い。寝よ。
118ローガン:2010/11/23(火) 01:51:29
>>116
> いや 第三者の私が眺めてても ローガンの方が返答になってなかったよw

なんで?どこが?
『この段落の性格を考えれば、正解な情報に基づいたもので無い事は明らか。使者が踏査によりもたらしたなどと、考える必要はありません。
仮に、伊勢湾だと主張しても良いが、「段落の性格」を考えれば、それとてたいして意味の無い事なので、こだわらない以上、積極的に言及しないだけです。では、長くなるので端折って書きます。
東夷伝序文には、公孫氏の存在により東夷の事は何もわからなかった。しかし淵を斬り、位宮を追ってようやく東夷の事がわかるようになったとあります。
そして末尾の評。「使譯時通記述隨事豈常也哉」(使訳、通じる時、事にしたがいて記述する。豈、常ならんや) と。
これらから言える事は、「軍を出した所はその情報に基づいた記載をする事が出来る。がしかし軍を出していない所の情報源とは、訳を伴った使者が通じた際の物に限られる。よって、列記しておくが、情報の真偽は定かでは無い。」 であろうと思います。
軍も派遣していない、まして最も遠い倭国の情報。そのソースの信憑性に編者自身が疑問を持っている訳です。
そんな倭人条の中の「異人譚」と思しき段落にある記述の場所特定に、果たしてどれほどの意味があるでしょうか?』
なんだけどね。
119日本@名無史さん:2010/11/23(火) 01:55:39
>>118
ローガンさんよく頑張ったよ どんまい、どんまい
誰だって負ける時はある。
君は考古学をよく本で調べてて詳しいんだけど・・・議論に長けてない部分がアル。

河童とかメのほうが上手いと思わないかい?w
あとは他の人に任せて、ゆっくり休みな。
120レス長たらし毘古:2010/11/23(火) 02:00:02
>>76
>神功皇后説、 熊襲の女酋説、 甕依姫説 、倭姫命説、
>倭迹迹日百襲媛命説、 宇那比姫説、 天照大神説、 ヒメ大神説

俺個人は、別に他人に共感や理解を要請する気は全く無いが以下のように想定
している。
・モモソ姫=開化天皇=同時代の倭人分布域の女性有力者=卑弥呼
・倭姫=イヨ(トヨ)時代以降の近畿の女性有力者(祭祀専門職になりつつ)
・天照大神=殷(勢力)の末裔。流浪の末、西九州に定住した氏族の祖先神。
・ヒメ大神=北九州・南朝鮮・西山陽の有力氏族(豊玉伝説の祖)
俺的には、こんな感じが一番シックリ来る。
天照天孫族と豊玉族の遭遇で「毘売システムが生じた」とすれば、その筋も
通るし、倭姫&倭建命のストーリーも「毘売システムが組み込まれて行った」
とすれば、その筋も通る。
殷前後の中国神話と前大和時代の神権体制も、ある程度これで整合性が取れて
来るように思う。
121日本@名無史さん:2010/11/23(火) 05:31:51
ローガンが泣かされた相手に喧嘩売ってきてやった〜☆
さて、もう一度寝よっと(すっきり)
12284:2010/11/23(火) 09:46:28
>>85
当時の朝日新聞の発表
「奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では
世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝
鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」読売新聞12/1
「輪鐙は、長さ16・3センチ、幅2・7―10センチ、厚さ1・6センチのカシ材で、後円部南東側の周濠跡の底近くから出
土した。足を入れる輪の部分が欠けていたが、大阪府四条畷(しじょうなわて)市の蔀屋(しとみや)北遺跡で出土した
木製輪鐙(5世紀後半)に類似していたことから、輪鐙と判断された。」
「二十−三十年にわたってたい積して固く締まった層から四世紀初めの大量の土器とともに出土しており、上の土層か
ら沈み込んだとは考えられないという。 」

つまり、後世に紛れ込んだとは考えられないわけ。箸墓築造後2〜30年以内に入ったものと言う事。
12384:2010/11/23(火) 10:24:54
>>86

考古学の常識では
中国南部の4世紀初めの晋の墓から出た陶ように片側だけが付いた鐙らしい物があった。
これが鐙の最初とされている。
片足だけだから馬に乗る事が苦手な文官あたりが何とか馬に乗る時、よじ登るために使ったもの
だと推測されている。
三世紀末には発明されていたと推測されているが、
馬もいなかった日本に三世紀末に発明された物が直ちに来る事はあり得ないだろう。

鐙が普及するためには、両足用の鐙になってからだろう。
両足用鐙ではっきり年代の判るのは5世紀初めの北燕の墓から出土した鐙だ。
この頃には普及していたと考えられている。

なお漢の時代に中国南部のテン国の貯貝器の飾りに足に付けた紐のようなものが見え、
これを鐙のルーツとする意見もあるが、よく見ると裸足で親指にひっかけるようなもので、
こんなものを中国人がまねをする筈がない。
しかも鐙は鞍に付ける物で、硬質鞍の発明まで本当の鐙はなかったと考えられている。
124日本@名無史さん:2010/11/23(火) 10:35:32
鐙じゃない可能性もあるしね
125ローガン:2010/11/23(火) 10:36:00
>>121
君なら話が合うかもしれないね。私には無理。話したくない。
2ちゃんなら、良い勉強になるレスが付くかも。私の主張は
『では次に「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」についてです。
私は一括して異人譚と捉えています。まず中華の東夷観と云うものを私はよく考えます。
そもそもの東夷とは、山東省安徽省辺り。それが版図拡大により、遼寧省辺りになり、三国志ではご承知の通りとなります。
東夷とはいいつつも、儒教においては東方崇拝の聖地なのです。それがまるで逃げ水のように、版図の先へ先へと移動しています。
誤解を恐れず云うと「聖地とは、踏査したその先にある所。その先には又、国があって そのまた先にもあって…そこに伝説の異形の民が暮らしているんだ」というのが東夷観だと思う。
翻って倭人伝、使者は天子の詔を携え倭都まで来た。しかしそこは東夷の終着点ではなかった。
この先、海を渡れば又、国が有り その先にも又、国が有る。というのがこの段落の意図だと捉えています。
この「段落」とは言うまでもなく、卑弥呼の記事と景初朝貢の間の記述の事。
そこに書かれた「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」とは、あくまでこの段落の一部。
中華としては、「踏査した。しかしそこが東夷の終着点ではなかった。まだ先があるぞ。」を表現したものの一部であると云う解釈です。
よって、そこだけ切り取って事実を伝えていると考えるのは詭弁であろう。』
というものです。
126ローガン:2010/11/23(火) 10:47:23
>>123
永寧二年紀年銘磚共伴の陶器でしょう。つまりどんなに遅くとも、302年には陶器製造の職人が騎馬像を作る際に、鐙を表現するくらいにまで一般化していたという事。
127日本@名無史さん:2010/11/23(火) 10:53:34
ばかばかしいのう。纏向に馬はいたんだよ。渡来人、おそらく魏使が連れてきた
ものだ。これこそが纏向の先進性を示す証左。ここここ。
128日本@名無史さん:2010/11/23(火) 11:03:03
纏向は纏向だ。ヤマトではない。古事記にも纏向とある。ヤマトとは
書いていない。
つまり、纏向は邪馬台ではないってこと。だから魏使も来ていない。
129ローガン:2010/11/23(火) 11:16:16
>>122
>つまり、後世に紛れ込んだとは考えられないわけ。箸墓築造後2〜30年以内に入ったものと言う事。

箸墓には纏向川からの導水路有り。落葉等の固くしまった堆積層20〜30年は内濠が機能を失ってから。
130日本@名無史さん:2010/11/23(火) 11:44:21
纏向を馬に乗って闊歩する大人層か。まさに倭国の首都、邪馬台国にふさわしい。
131日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:21:22
馬が走るためには道路の整備と交通ルールが必要なんですよ。
向こうから走ってきた馬と正面衝突したら困りますからね。
馬がすれちがえるだけの道の幅を確保できない場合、待合所があったり、
陸上交通を仕切っていたのが、猿田彦の一族なのです。
馬駅というのが各地に作られ、旅人が泊まる宿を仕切る。
浅草弾左衛門は猿田彦の子孫なのです。
132日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:27:08
>>129

>箸墓には纏向川からの導水路

それは、どこの遺構のことでしょうか?

件の輪鐙については、桜井市埋文の見解でも「4C初頭」、内側周濠墓の掘削も「3C末」なんだけどね。
箸墓=卑弥呼の墓説のロマンには不利な遺物であることは間違いないでしょう。
133日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:28:43
>>132

×内側周濠墓
○周濠の内側
134日本@名無史さん:2010/11/23(火) 14:51:29

年代詐称は箸墓の鐙だけではなく、中国鏡の編年でも行われている。
中国では神獣鏡は呉でのみ作られていた。
漢末になると中国国内では鏡の需要は減って極端に少なくなる。
三国時代でも同じだ。
国が乱れて鏡を作っている余裕などなかったのだろう。
日本でも中国鏡が輸入出来なくなって困る事態が起きていたのではないか?
だから日本でもイ方製鏡が作られるようになる。
中国で鏡作りが復活するのは晋が三国を統一した後だ。
呉が滅ぶと呉の職人が各地に分散して洛陽でも楽浪でも神獣鏡が作られるようになる。
これは中国の考古学者の意見だ。

ところが畿内説の学者は楽浪鏡を漢鏡としている。
ここに中国考古学と日本の年代差が生じているが、この話は議論になっていない。

中国の鏡編年に従えば、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は晋の統一後楽浪で作られた鏡なのだ。
だから、ホケノ山は280年を遡る事は有り得ない。
ホケノ山の鏡は楽浪が高句麗によって滅ぼされた後に来たのだろう。
するとホケノ山は4世紀前半より早くはならない。
ホケノ山が4世紀中葉であれば、箸墓は4世紀後半と言う、安本説が正しい事になる。
135ローガン:2010/11/23(火) 14:54:15
>>132
> それは、どこの遺構のことでしょうか?

なかったら外濠に水を入れらんないでしょう。

> 件の輪鐙については、桜井市埋文の見解でも「4C初頭」、内側周濠墓の掘削も「3C末」なんだけどね。

周濠最下層と渡り堤内から出た新しい土器が布留0。鐙は布留1共伴。周濠掘削は墳丘形成用の土と考えるのが、妥当。
なら、墳丘築造は布留0投棄以前。又、周濠の落葉層の由来が墳丘だとすると、完成後の二次林形成と云うタイムラグを考える必要があり、鐙が築造時の物だとは考えられない。

> 箸墓=卑弥呼の墓説のロマンには不利な遺物であることは間違いないでしょう。

別に、有利にも不利にもならないものです。と云うより、布留1の段階で纏向では既に、鐙が存在したという事が重要でしょう。
136ローガン:2010/11/23(火) 15:22:20
>>134
>中国では神獣鏡は呉でのみ作られていた。

では、例えば…元興元年105環状乳神獣鏡「広漢西蜀造作尚方明鏡」
延喜二年159環状乳神獣鏡「広漢西蜀造作明鏡」
が「呉で作られた」事を論証してみて。
137日本@名無史さん:2010/11/23(火) 15:30:18
呉に依頼して作ってもらっていたんでは?
138135:2010/11/23(火) 15:40:57
>>136
中国の学者の意見を紹介しただけだからね。
13984:2010/11/23(火) 18:13:28

4世紀には鐙が一般的でなかった事は高句麗古墳壁画でも判る。
安岳3号墳は年代がはっきりしていて騎馬軍団の絵が描いてある。
そこには鐙はない。
高句麗古墳の壁画に鐙の表現が出てくるのは5世紀初めだ。
5世紀初めの高句麗古墳には、鐙ありと無しの壁画が混在しているから、
騎馬国家である高句麗でさえ、4世紀にはまだ鐙が無かったと推測出来る。
4世紀末には高句麗でも普及を始めた程度ではないか。
4世紀には百済に攻め込まれて国王が殺されるようにたいして強くなかった
高句麗が、広開土王が就任した頃から急に強くなったのは鐙を手に入れた
からではないかな。

つまり、4世紀には未だ鐙は普及はしていなかった。
だから、箸墓が3世紀の墓である可能性は全くないのだ。

いつまで馬鹿な議論をしているのか理解に苦しむ。
140唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 18:34:15
>広開土王が就任した頃から急に強くなったのは鐙を手に入れた
からではないかな。

鎧があれば、倭軍を伽耶まで追い詰められる。無理だな
騎馬が有れば、倭軍を伽耶まで追い詰められる。此方が正解だろう。
141日本@名無史さん:2010/11/23(火) 18:37:50
>>136
横レス。益州広漢は四川省の徳陽地級市なのでかなり内陸。
広漢に北方騎馬民族である白馬人の記述が出てくるので
呉とは全く無関係。
142唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 19:15:48
時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。意廆 拘留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。太興初318,三國伐廆,

慕容皝字元真,廆第三子也。太寧末326年,拜平北將軍,進封朝鮮公。廆卒,嗣位,以平北將軍行平州刺史,督攝部內。
咸康(335年-342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,又使翰及子垂為前鋒,…句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,

342年の時点で、句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,
百済も高句麗も騎馬軍を持っていない。
370年に前燕が滅びる。この後高句麗は騎馬軍を手に入れる。
この騎馬軍により、百済、倭国は敗退する。
5世紀の古墳に馬具が副葬される。

鐙が有っても直接騎馬軍には繋がらない。騎馬軍を操る戦術までをも手に入れなければならない。
143日本@名無史さん:2010/11/23(火) 19:20:05
もう夜か
唐松大国アワーだw
144唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 19:24:19
342年時点で百済は存在する。そして
372年時点で百済は楽浪太守である。
391年にこの百済を属国とするには、遅すぎる。
しかも百済と倭国の間に戦争の記録は無い。
145唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 19:27:35
>箸墓が3世紀の墓である可能性は全くないのだ。

この思考は公開土王碑の事実を否定して成り立つ。
146日本@名無史さん:2010/11/23(火) 20:05:35
NHKで、高句麗広開土王の碑文に書いてある倭は
百済の傭兵として半島で戦ったのではないか
と言っていた。
日本にはその頃ろくな武器も騎馬軍も無かったから。
鉄を入手するために日本から半島に供給できるものは
労働力以外にない。

海を渡って外国を支配する事も当時の技術では不可能。
海があるから半島と違って日本は中国にも一度も支配
された事がない。
147日本@名無史さん:2010/11/23(火) 20:23:20
 太国は木をきる ヘイヘイホー ヘイヘイホー

 こだまは かえるよ ヘイヘイホー ヘイヘイホー

 唐松山ははたを織る トントントン トントントン

 気だてのいい娘だよ トントントン トントントン

 太国 太国 もう日が暮れる

 太国 太国 唐松山が呼んでいる ホーホー ホーホー
148日本@名無史さん:2010/11/23(火) 20:45:02
>>135

> なかったら外濠に水を入れらんないでしょう。

いや、導水路と言っても二か所から注排水ができる(周濠が流水位状態になる)ならともかく、
川と繋がっていても単純に水位維持だけが行われているだけじゃ「堆積」は進むでしょう。
その点を確認したかったんですよ。
流水機能が無ければ、堆積は築造時から進みます。
貴方の書き込みからは(言外に)、箸墓での祭祀活動が途絶え、修陵が行われなくなってから堆積が始まると言いたいように感じる。


149ローガン:2010/11/23(火) 20:54:14
>>139
>騎馬国家である高句麗でさえ、4世紀にはまだ鐙が無かったと推測出来る。

なんかおかしくない?これ貴方のレスなんだけど…
>123:84 2010/11/23(火) 10:24:54 AA86
>考古学の常識では 中国南部の4世紀初めの晋の墓から出た陶ように片側だけが付いた鐙らしい物があった。
>これが鐙の最初とされている。片足だけだから馬に乗る事が苦手な文官あたりが何とか馬に乗る時、よじ登るために使ったものだと推測されている。

馬に乗る事が苦手な人の為とか… 元々、騎馬国家なら いらんやん。
150ローガン:2010/11/23(火) 20:55:54
>>141
>呉とは全く無関係。

だから、呉の領域以外でも神獣鏡を作っている訳です。
151ローガン:2010/11/23(火) 21:08:41
>>148
>いや、導水路と言っても二か所から注排水ができる(周濠が流水位状態になる)ならともかく、

確か、桜井の橋本氏が書いた、築造時の平面図が南西へ抜ける排水路を描いていたと記憶。(あ、これは外濠の事ね。)
人工の墳丘と外濠の間に、大量の落葉樹は想定し難いのでは? 後で来ます。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 21:36:01
>高句麗広開土王の碑文に書いてある倭は百済の傭兵として半島で戦ったのではないか
と言っていた。

こんな状態の倭では、百済、新羅を属国と出来ない。
しかし公開土王碑には、百済新羅を属国とした、と書かれる。
この事実は、倭王武の上表文に書かれ、
継体による、領土分与へとつながる。

百済、新羅から朝貢があったから、巨大古墳は造れた。
人の流れは、弱国から強国へ流れる。大量の渡来人が無くては、巨大古墳も文化の発展ももっと遅れる。

つまりこれまでの数字では、歴史を語れない。5,60年遡上せねば整合性が得られない。
153日本@名無史さん:2010/11/23(火) 21:53:04
生口とは傭兵のことだったのだろうか?
154日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:40:43
箸墓で見つかった鐙ですが

>鐙の軍事利用として確定されている最古の例は、紀元前3世紀パルティアによる弓騎兵である。
>中国では4世紀頃から遺物が確認されるが、朝鮮半島や日本で使用されたのは5世紀。

とあるね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%99
155日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:53:37
>しかし公開土王碑には、百済新羅を属国とした、と書かれる。

どこにもそんな事書いてねえよ。
新羅を臣民としたのは高句麗だ。
臣民とは大王に仕える民の事であり、倭寇の手下の事ではない。
その後の半島の実態を見ろ。
新羅は高句麗の支配する所となった。
広開土王碑文には読めない字が多数ある。
そこを都合のよいように読んでは駄目だ。

倭王武の上表文は晋書からのパクリであり、
実態を表したものではない。
156日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:57:54
>>155
歴史捏造の薄汚い朝鮮人がいる。気持ち悪〜い。
157日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:13:01
>考古学の常識では
>中国南部の4世紀初めの晋の墓から出た陶ように片側だけが付いた鐙らしい物があった。
>これが鐙の最初とされている。

箸墓を卑弥呼の墓とする人にとっては
この「鐙」が問題だね。
誰か有効な反論を持ってる人いないのかな。
158日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:15:33
>ばかばかしいのう。纏向に馬はいたんだよ。渡来人、おそらく魏使が連れてきた
>ものだ。これこそが纏向の先進性を示す証左。ここここ。

中国でも晋代の墓からが初めて。
ここのところどのように説明するんでしょうか。
159日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:32:40
>中国の鏡編年に従えば、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は晋の統一後楽浪で作られた鏡なのだ。
>だから、ホケノ山は280年を遡る事は有り得ない。

しかし、ホケノを三世紀前半あるいは、二世紀末とか考えてる人は多かろう。
そして公孫氏と呉国とは一時組んでいた。
この組んでいた時期に公孫氏が何らかの形で技術を習得し
魏が公孫氏を滅ぼした時に公孫氏の技術者に鏡を造らせえたのも考えられる。
そうすると晋の統一後ではなく、魏代ということもありえるのではなかろうか。
160日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:36:12
>周濠最下層と渡り堤内から出た新しい土器が布留0。鐙は布留1共伴。

あ そうなの?
誰かこれについて載ってるURLを出して頂戴。
161日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:38:42
実は日野富子って事は無いよね?でも、やりかねないんですよね。
大陸側の日本についての記録って可なりいい加減でしょ?
162唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 23:52:13
>臣民とは大王に仕える民の事であり、倭寇の手下の事ではない。

だから、倭寇では説明出来ない。
倭王の臣民として、百済、新羅が存在した時代が有った。
その時代は、323年神功49年から、400年前後の高句麗の南下までである。
この時代に巨大古墳は造られる。その土地は百舌鳥(モズ=百残)と呼ばれ、渡来人の多く住む土地である。

ホケノ山は、239年築造で、田道間守の殉葬がある。
この数字は、崇神五,六年を、新羅192,3年とすることで得られる。
163日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:53:23
>139
>4世紀には鐙が一般的でなかった事は高句麗古墳壁画でも判る。
>安岳3号墳は年代がはっきりしていて騎馬軍団の絵が描いてある。
>そこには鐙はない。
>高句麗古墳の壁画に鐙の表現が出てくるのは5世紀初めだ。
>5世紀初めの高句麗古墳には、鐙ありと無しの壁画が混在しているから、
>騎馬国家である高句麗でさえ、4世紀にはまだ鐙が無かったと推測出来る。
>4世紀末には高句麗でも普及を始めた程度ではないか。
>4世紀には百済に攻め込まれて国王が殺されるようにたいして強くなかった
>高句麗が、広開土王が就任した頃から急に強くなったのは鐙を手に入れたからではないかな。
>つまり、4世紀には未だ鐙は普及はしていなかった。 だから、箸墓が3世紀の墓である可能性は全くない。
>いつまで馬鹿な議論をしているのか理解に苦しむ。

なるほどねぇ・・・箸墓=卑弥呼の墓とする人にとっては「鐙」はあまりにも痛すぎる。
おれじゃ、これについて反論できねーな。
誰か代わりに頼む。
164唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 00:03:11
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると

316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 再度渡海 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
331年 辛卯年 ここも再度渡海。
340年代には百済は大国として存在する。

この数字で広開土王碑を読めば、齟齬は無い。
165日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:07:51
壁画のある高句麗古墳の年代を遡上させればいいんだよ。
それが4世紀初めならば、何の問題もない。
166日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:09:29
>136
>では、例えば…元興元年105環状乳神獣鏡「広漢西蜀造作尚方明鏡」
>延喜二年159環状乳神獣鏡「広漢西蜀造作明鏡」 が「呉で作られた」事を論証してみて。

皆な詳しいね(笑)
中国で出土された神獣鏡やそれに類似した鏡で、
呉の地域以外から出土したものってあったけ?
上のレスは晋代に関しての話なんだろうけど・・・
167ローガン:2010/11/24(水) 00:09:56
>>157
そう、その発明が302年を下らないと云う事。
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 00:13:44
391年とすると 鄭説は結局、(B)記事を
而倭以二辛卯年一来[二高句麗一],渡レ海レ破[倭],百残聯二侵新羅一[太王]以為,臣民・・・
と読んだことになる。

朴時亨の説(1966)4)もこれを受けたもので、「以為」を「おもえらく」と読まずに「以為臣
民の意味を「[百済は]これ「つまり[新羅]を自分の臣民とした」ととる等とする。

朴は日本の過去の通説の第一の誤りとして、碑文の文意に合わないことをあげている。すなわち、
もし「日本人の言うように来るの字までかかる主語とすれば、倭は朝鮮に一旦来て、また海を渡っ
たとなるから、これはすなわち自分の国に帰っていったとしかなりようがない」のではないかとい
う。第二の誤りとして、新羅と百済は元来ともに高句麗の属民であり、もし倭が渡ってきて二国を
撃破し、臣民にしたとすれば、当然侵略者倭を討たねばならない。また仮に譲って広開土王が侵略
者に手をふれず、被侵略者のみを討ったとすれば、百済・新羅を討たねばならない、しかし碑文で
は百済のみを討っている。これは百済が高句麗の意志に反して、倭を引き入れ、新羅を圧迫したた
めである。さらに第三の誤りとして、厳然たる歴史的事実に合致しない、すなわちいかなる時代の
歴史でも、倭が百済や新羅を臣民にした事実はない、ただ百済が新羅を圧迫するために、しばしば
自国の附庸国倭を操縦し、新羅は、この海賊を撃退するためにしばしば戦わねばならなかったとい
う事実があるのである、とした。

記述をかなり曲げて読まねばならない。

>騎馬国家である高句麗でさえ、4世紀にはまだ鐙が無かったと推測出来る。
340年頃の高句麗は、歩行軍の国家である。しかも前燕に頭があがらない。
169チトお勉強だなw(>_<)w:2010/11/24(水) 00:16:08
うーん「鐙」に関して、まったく反論できません><
たしか高島もこれについて畿内説を攻撃してたね・・・

ローガンさん的には、どのように反論してるのでしょうか。
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 00:21:20
年輪降水量

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

つまり崇神は2世紀末から、纒向遺跡のはじまりと同期する。
171日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:28:24
>>166
铜镜
ttp://baike.baidu.com/view/113434.htm
三国两晋南北朝に関する記述あり

三角缘神兽镜
ttp://baike.baidu.com/view/971886.html
三国志期と日本製造について、結論は出ていないが言及

大陸側の情報には、呉の地域以外があるようだ
ttp://www.cangdian.com/doc/zhishi/html/050818131048.html
ttp://www.cang4.com/newsInf.asp?id=MzE5OA==&menu=%CD%AD%C6%F7%CA%D5%B2%D8%D6%AA%CA%B6
172チトお勉強だねw(>_<)w:2010/11/24(水) 00:30:04
△神獣鏡ですが、
中国考古学で銅鏡研究の重鎮、王仲殊氏は、
『呉の工人が日本に渡来して、作ったものである』と結論付けたんだよね。
どうも、△神獣鏡の謎は魏の燕王 公孫氏がかぎを握ってるのかな?
公孫氏と呉との関係。
公孫氏と魏との関係。 どうもここらへんが臭う?
173神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/24(水) 00:41:36
後漢末の英雄である袁紹は200年(建安5年)の官渡の戦いまで黄河以北の華北地方を治めていました。
記録がないだけで、もしかして日本向けの鏡や剣を作っていたかもしれません。
また歴史群像2010・12月号に袁紹の騎兵部隊が鐙を使用している画像が載っています。
174日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:50:33
>>173
お まじで?巫女さんやるじゃんw
で、その画像はどこで観れますか?
175ローガン:2010/11/24(水) 00:53:29
「子敬孤持鞍下馬相迎足以顕卿未…」呉志魯粛伝
「子敬どの、私が馬の鞍を支えてあなたを馬から下ろしたなら、あなたの功を十分に顕彰したことになるであろうか」(ちくま本7 p,79)
馬から下りる際、鞍(軟質鞍?)を支える必要があるのは、体重の移動により、鞍がズレて下馬に支障があるのを防ぐ為。
鞍がズレる原因は鐙に体重がかかるから。その鞍を支えると云う行為が孫権が部下を労う、顕彰すると喩えると云う事は、
武将の乗馬の際、下僕が鞍を支えるのが当時の常態であったと云う事。
176日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:00:09
>>175
鞍と鐙とは違うのでは?w
177日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:02:30
メ は馬鹿だね。
178ローガン:2010/11/24(水) 01:03:05
>>176
よく読めば判る。
179神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/24(水) 01:06:57
>>174
ドラマ「三国志」で検索したら驚愕の画像が見れるよ。ついでにビックリ仰天の動画も見れるよ。
180日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:11:44
>>97
いや、「さしわたし」の意味なら、形状は基本的に関係ないでしょ。
181日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:15:13
>>177-178
はー?その文章だけでどうわかるのか不明だゎ
182日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:18:18
ああ、鞍があれば、必然的に鐙も必要だろってこと?
それなら分かるわ。
183日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:19:59
>ドラマ「三国志」で検索したら驚愕の画像が見れるよ。ついでにビックリ仰天の動画も見れるよ。

私達は歴史の真実を追ってるというか
貴方のそれは後代の造り物でしょ?
184日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:28:56
>鐙に体重がかかるから。

よく読めばあるね。
ただ、出土例は無いだけという事で、実際には三国時代にはあったと。

たとえば九州のどこの遺跡だったか忘れたが(佐賀のどこか)
縄文時代の貝塚から馬の骨が出土してたね。
あと虎もおったらしいよ。
185日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:34:28
倭人伝には、「其地無牛馬虎豹羊鵲」とある。
しかし、現実には「牛」「馬」「虎」の骨が出土されてる(遺跡は覚えてない)。
「豹羊鵲」はおれは聞いたことないな〜誰かある?

まあ、文献と出土例が一致してない場合があるということ。
さて寝ようかな・・zzz
186日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:37:29
羊はカモシカでもヤギでもいいのでは?
フェルトや毛糸目当てにカモシカを捕まえて刈ってたから。
187レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 01:38:17
>>128
>纏向は纏向だ。ヤマトではない。古事記にも纏向とある。ヤマトとは書いて
いない。
気になってみたので、別の角度で古事記を読み直してみた。初代天皇の送り
名である。(カッコ)は歴代天皇着任順。
・イトク天皇(4):大倭(オオヤマト)の称号あり。
・孝安天皇(6):同上・孝霊天皇(7):同上・孝元天皇(8):同上
・開化天皇(9):若倭(ワカヤマト)の称号あり。
・清寧天皇(22):大倭の称号あり。
188日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:41:25
「牛」「馬」「虎」の骨が出土した遺跡ってどこだっけ?
誰か宜しく
189日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:46:17
>>179
神無月巫女さん この中で彼氏(パートナー)に選ぶとしたら誰選ぶ?
190神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/24(水) 01:51:54
>>183
つまり、中国人は歴史を捏造するウソツキで時代考証が間違ってる。と言いたいわけですね。
じゃあ、ウソツキ中国人の魏志倭人伝も三角縁神獣鏡の日本製造説も間違ってると言うことです。
191日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:55:34
               }{  }{
    ∧  ∧      い  い
   / ヽ‐‐ ヽ   __  Y  Y  __
  彡      ヽ  \`'イ‐‐ イ'´/
  彡   ●  ●    l      ヽ     なんだなんだ? 何か用か?
  彡  (      l   /  ●  ●  
 彡   ヽ     |   /   (     l  
 彡    ヽ    l  /    ヽ    l
 / `     ( o o)\ `    ( ▼)\
/ __    /´> _)_      /´>  )
(___|_(   /(___ヒ(      /<,ヽ/
 |       /    |       /  ´
 |  /\ \   .|  /\ \
 | /    )  ).  .| /    )  )
  ヒl    (  \   ヒl    (  \
       \二)        \工)
192神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/24(水) 02:01:04
>>189
エ〜〜〜〜〜ッ!父と子と聖霊の御名によって汝の罪を赦そう。アーメン。
193レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 02:09:16
>>187続き
あと、天皇の宮(当時の皇居)も古事記から拾ってみた。
・インゼイ天皇(2):葛城高岡宮
・安寧天皇(3):(北葛城郡)カタシオの浮穴宮
・イトク天皇(4):軽の境岡宮(高市郡)
・孝昭天皇(5):葛城ワキガミ宮
・孝安天皇(6):葛城の室の秋津島宮
・孝霊天皇(7):(磯城郡)黒田のイホドの宮
・孝元天皇(8):軽の境原宮(高市郡)
・開化天皇(9):春日の伊邪河(イザカハの)宮(奈良春日)
・祟神天皇(10):(磯城郡)師木の水垣宮
・垂仁天皇(11):(磯城郡)師木の玉垣宮
・景行天皇(12):(磯城郡)纏向の日代宮
・成務天皇(13):滋賀(大津市)淡海志賀の高穴穂(タカアナホの)宮
・仲哀天皇(14):(下関市)穴門の豊浦宮、また筑紫の(福岡市香椎)
カシヒの宮(皇后神功の神託所もここ)
・応神天皇(15):(高市郡)軽島の明の宮
・仁徳天皇(16):(大阪)難波の高津宮

開化以前が葛城ベースで、開化以後が磯城(纏向含む)ベースで、遷宮されて
いる点が、とても気になる所です。
仮に、葛城ベースの拠点を、ヤマトとした場合、磯城ベース(纏向含む)は
ヤマトで無い可能性が、ご主張の内容とも取れるますが、この理解でよろしい
でしょうか?
194レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 02:29:02
>>161
私の想定では、日野富子さんは、最後の毘売システム復活を目指した人なの
ではなかろうかと架空。(立証する気はありませんが;^^A)
>>168
おもえらく むかしはものを おもわざりけり と言った感じでしょうか?
あ、単なる語呂合わせのパロディーですのでレスは不要です。
>>172
公孫サンあたりが、対馬海峡を渡って、エイヤーと。。。うーん、公孫一族
が古代日本史に絡んでいると、少しダイナミックさが出て来ますね。その方面
も架空の考慮に入れておきます。俺個人は秦氏とか蘇我氏蘇州由来説とかも
興味があります。
邪馬台国鬼道は殷(商)の道教ではないかと架空しています。(それが周〜
春秋・中華戦国時代に、西日本(倭人分布域)に伝播したあたりと)そうだと
架空すると、魏晋の外交が、邪馬台国に一目置かざるを得なかったと言う筋も
それなりの説得力が生じてきます。
195レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 02:37:14
>>188
出土場所にもよるよね。タシカニ。
俺個人の架空では、殷周のように占易の為に,それらの「獣骨」が必要になる
筈なので、いたらいたで、いなかったらいなかったで、どちらにしても「貴重
な資料」と言えて来るかと思います。
後代逸話では、亀の甲羅や魚の骨と言われ、所謂近代方法論ではあまりに
「蛮族野卑的」な扱いを受けていますが、当時は当時なりに「最先端の」技術
だったワケですから、その「鬼道」が指す物の具体的な姿の模索は、学究的に
は、もっとあって然るべきだと思いますがね。
196レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 02:40:23
>>191
丁度いいところにいらっしゃいました。当時のあなた達について、2〜3お伺い
したい点が。。。当時、西日本にいたんですか?
197914:2010/11/24(水) 02:42:30
>>194
YES!
公孫サンが天孫さんですよ
198日本@名無史さん:2010/11/24(水) 02:45:03
当時の公孫は慕容かも?!
199日本@名無史さん:2010/11/24(水) 02:49:47
   公孫の皮をかぶった燕王鮮卑慕容部の図
                    /`ヽ      ,.-、
                       /   `、  ,/  | 
              ,,. ‐'',つ ,/      'L/    |
             ,. ‐'"'ヽ,"  / _,,........,,_  ´  _,,......,,_ |
          /   (゙,. ) / <, |:::::| ,>  <, |:::::| ,|  ← 公孫
           /. ヽ-r''",ノ /  `二二,,,,,,,,,,__ ''''''''''' |
         r,!   -r''" ノr‐'"´:::/‐|:/  `、::ヒ、‐-、 |
        /`--‐'''/   ソ:::::/i::∠.,,レ    ゙、|,,ヽ::i、:`:|
         /、_,,..-{   i:::::i'.,r''/::::ヽ     'r'"ヾ':|,ヽ:::i
         /    i゙    ,'::::i i. i:::::::::l    l:::::::::|. i !:::ヽ  ← 慕容
        ,'     |   ,':::::! '. '○:ノ     '○:ノ ノi:::::::ム
      i     l    !:::::i                   |::::::::|
        !     i' 〉  ,'::::::::、        _      l:::::::::|
      i_      '' \i::::::::| lヽ、     l   l     ./::::::::::!
      ヽ`         |:::::::i:┴i:::`''- 、_ `'''"  ,. -'":::::::::::::::|
       !_,.. --ァ |  `、:::|  ''T'r'"´l ``""´!:::::::::::::;i:::::::::|
        ヽ:::::/  |   `、|    '、  ヽ   {ヽ、:::ノリ|:::::::::!
200914:2010/11/24(水) 02:50:37
>>198
公孫氏は漢人ですよ。
「漢民族」ではない、本来の漢の支配層だった民族です。
なぜ鮮卑族を推すのですか?
201レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 02:52:58
>>197
公孫一族が倭人分布域に対して「野心を持っていた」事が説明できれば、その
筋も浮上して来るかもです。あと、天皇家もモンゴロイドですから、モンゴ
ロイド方面でも立証できれば、かなり説得力が浮上して来るかもね。
でも、公孫氏って、そもそもモンゴロイドなん?あと、傍証には、公孫氏特有
の行事とかで、古代天孫と共通する神事行事があるとかは、どうだろう?
そこら辺がもし一致するなら、考えてみてもいいかも。着想としては面白い。
202日本@名無史さん:2010/11/24(水) 03:01:20
>>200
鐙の年代から4世紀の話にしてしまうとそうなる。
慕容が公孫を詐称してるというのもあり得ると思った。
203レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 03:04:17
公孫をそのまま詐称すると本家からクレームが来るので、そこで一字変えて
「天孫」?(それはアリウルかも、ふむ)
204日本@名無史さん:2010/11/24(水) 03:09:04
魏志が書かれた年代は、3世紀の世紀末じゃないかと思うんだ。290年頃説が有力でしょ
もう華夏と鮮卑の力関係が逆転しちゃっているんじゃないかと。。。
205レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 03:12:45
>>193
あ、誤字みつけたので訂正してお詫び。
インゼイ天皇(2)=× → スイゼイ天皇(2)=○
戦前生まれさんがいた時代とかは、ここらのツッコミとかバンバン来てたな。
206914:2010/11/24(水) 03:21:26
>>204
そうですね。
ですから、「魏史倭人伝」は鮮卑に都合よいよう、アレンジされている
・・・可能性が、とても高い。
207914:2010/11/24(水) 03:26:08
つまり、
邪馬台国の真実は「魏史倭人伝」に書いてあるほど、
鮮卑=魏にとっていいものではなかった。

要するに何が言いたいかというと
卑弥呼は公孫氏としか通じていなかった、
魏が「朝貢」を受けたというのは、魏のアレンジだろうと。
208日本@名無史さん:2010/11/24(水) 03:31:22
>>207
リアルタイム曹氏の魏は、鮮卑の官員が多くいない。
むしろ匈奴のほうが多く、晋(山西)/冀(河北)へ入植させ、主として武官での起用が多かった。
209914:2010/11/24(水) 03:45:54
しかし歴史を書き換え操作するとしたら鮮卑でしょう。
そう思われませんか?
210レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 05:04:43
さて、天孫=公孫説は、補強する話が今宵は出て来ないようなのでとりあえず
現状保留とするとして。先述した「卑弥呼鬼道=殷周由来」の可能性を補強。
殷の王の湯(トウ?)は、太陽の陽という考えもできるそうで(陳舜臣氏に
よると)その意味で、「太陽を祖とする殷の神権体制」と言う可能性も発生
して来るワケです。勿論「太陽信仰」そのものは卑弥呼の代よりずっと後の
記紀編集時代までの間と、その発祥可能性は幅広いのが現状ですが。(現に
魏志倭人伝には、ヒミコが「日(太陽)と関連する逸話」が全くありません)
あくまでも、倭人分布域における「太陽信仰と大和王権との融合」は、纏向の
日代宮に宮を置いた景行時代直前くらいと考えるのが妥当ではありましょう。
また、陳氏は同署でも述べていますが、殷(商)の湯が夏を攻める時に、反対
派を説得する言葉として、次のように述べています。
「有夏、罪多し、天、命じて之を極せしむ」と。
「天命討伐」という概念がここで生じているワケで、これが古代大和伝説(神
話部分にも人皇部分にも)に現れている。共通要素を感じざるを得ない。
さてそう考えてみると古事記の冒頭部分の「天地開けし時」の「三柱」も中国
古代神話の三皇(伏犠・女カ・神農)を匂わせる物があります。
俺個人は「ベースの無い話」は記事も空想物語も発生させないと考える方なの
で、この「前代的神話体系」を大和神話もある程度仮借した可能性はあるとも
類推できます。
つまり、これは重要な事だと思うのですが果たしてこの太陽信仰、ヒミコ(が
倭人分布域の人だとして)から古事記の時代までの間の「どこ?」で発生(も
しくは取り込まれた)のか?
大和王権においては、先述の「天皇の宮」の命名と天皇の名前から、「日」の
字が頻発する「開化〜景行」の間の時代に想定すると自然なような気もする。
つまり、葛城グループが「天命信仰」であり、磯城グループが「太陽信仰」と
想定すると、シックリ来るのです。(あくまでも感想ですが)
211レス長たらし毘古:2010/11/24(水) 05:25:52
先述の思考をあえて、極端にシンプルに申しますと。

ヒミコ時代(ヒミコ近隣の統治理論)=天命信仰=魏志倭人伝には鬼道と評

大和王権(神武〜孝元)=天命信仰=神武東征やその後の大和拡大を補説

大和王権(開化〜景行)=太陽信仰=上記の統治理論の変更と刷新

この上記ヒミコ時代と大和(神武〜孝行)時代は、当然重なる可能性は高い。
開化が仮に女性で、外国にヒミコと呼ばれる女性が、モモソ姫で、モモソ姫が
一時、開化天皇として着任していたら、このエポックメイキング(画期)は
充分ありうる話になって来る。
但し、モモソ姫の逸話は最小限に表記され(理由は先述)る。日本書紀で、
「夜明けを待って櫛箱をあける」という部分に、最小限の「太陽信仰」が残存
するのである。それ以外の太陽信仰逸話は、全て天照大神に融合させられる
のである。これで、天孫先祖に対する不遜も、モモソ姫卑下に対する不遜も
相殺されるという構造なのである。
212日本@名無史さん:2010/11/24(水) 10:32:40
「纏向は王権の礎の地か」の方で
纏向祭祀を行った種族と、古墳を築いた種族は別物である可能性が高い事が判って来てる。
古墳を作った連中は後から来て、纏向祭祀を催していた種族を追い出すか、支配したかじゃないか?
これが神武東征神話になっているのでは?
纏向祭祀が3世紀から行われていて、4世紀後半に別の種族(天孫族)が来て箸墓を作った。
ありそうな話だと思うが。
213日本@名無史さん:2010/11/24(水) 10:44:36
>纏向祭祀を行った種族と、古墳を築いた種族は別物
根拠を手短にお願いもうす
214唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 13:22:04
>ヒミコ時代(ヒミコ近隣の統治理論)=天命信仰=魏志倭人伝には鬼道と評
→卑弥呼は伊都国を傘下に置く、北九州。
>大和王権(神武〜孝元)=天命信仰=神武東征やその後の大和拡大を補説
→神武は、弥生中期を後期に変えた時代である。大和拡大は、崇神世に大凶作が襲い、各地の居住区が放棄された時代に
四道将軍を派遣して、ハツクニシラスと呼ばれる。この崇神末に任那を手に入れ、鉄の供給元と成る。
弥生後期が終末期に入る。
大和王権(開化〜景行)=太陽信仰=上記の統治理論の変更と刷新
統治理論の変更は、景行による魏の屯倉導入。

>纏向祭祀を行った種族と、古墳を築いた種族は別物である可能性が高い事が判って来てる。
古墳の築造は鉄器流入後である、この時代は、四道将軍派遣の結果として、東海西部から、四国、吉備、出雲まで
纒向の統率下に入り、垂仁から鉄の供給を受ける。
垂仁末 田道間守を常世(魏)に派遣。

纒向遺跡の大型建物は、
3世紀初め(纒向の珠城)に宮が築かれ、盛り土を整地(乾いた土地を代す)3世紀中葉の宮が築かれる。
215日本@名無史さん:2010/11/24(水) 13:48:51
>>209
『魏志』は書誌的には西暦290年でも、正史ではない。
もともと鮮卑が台頭してきた290年時点の記述ならば
後の6世紀あたりに北朝が書き換えても方向性は違わないので、
簡単に虚構を見抜けない。

同様に南朝の史書に倭王讃のことが書いてあるのも
疑義をあげておくのもいいかもしれぬ。
216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 18:35:22
伽耶(任那)の建国は209年である。

新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
西魏文帝大統7年 :辛酉 西元541年2月11日
伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で滅亡する、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
西暦210年は崇神世になる。
ホ34130 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます 
モロいわふとき ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
崇神58年8月 御幸して 気比大神に 詣でます 諸祝うとき…
ホ34187 キミトミと はかればいわく クニフクの マゴシホノリツ これよしぞ カフべのミ
コブ マツノキミ セイヒタケヰタ ヤソチカラ いさみはげしく ミコトのり シホノリヒコを
ミマナオシ ゆきとくにむく ミチツカサ かえればよしと カハネたまひき

崇神 188年〜216年
192年(193年?)崇神5年 冷夏 凶作 餓死
193年 崇神6年 民の逃散 各地の遺跡が衰退する(民が居住地を放棄する)。
四道将軍 騒動未止を目的とし、各地に派遣される、結果は畿内安穏。
各地の土器が纒向遺跡に集まる。
209年 崇神58年 任那建国。

考古学は2世紀末の年代を正しく認識している。
つまり 箸墓がモモソ姫と重なることは無い。
217日本@名無史さん:2010/11/24(水) 19:12:40
>>213
>根拠を手短にお願いもうす
285 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:45:42
纏向には住居跡がない。
巨大建築物が見つかったと言って大騒ぎしたが、住居跡ではない。
一方で祭祀に使われたらしいものが大量に発掘されている。

その祭りが行われなくなると、大規模古墳が築造されるようになる。
303 :日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:41:38
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.html
「 弥生時代、三輪地域には芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡など、色んな集落遺跡が存在していました。
逆に、北の纏向遺跡や南の初瀬地域には、僅かに弥生後期になって遺物散布地が見られるといった
状況であり、弥生当時は、三輪地域に集落が多く集まっていたという傾向が見られました。
 それが、弥生時代から古墳時代に移りかわる庄内式の時期になると、事態は急変します。
三輪地域の集落遺跡群はこの時期になって突然終焉を迎え、それより上の地層から集落の痕跡は途絶えます。
一方、北の纏向地域では「纏向遺跡」としてまとめられる集落・墳墓群から構成される大型遺跡が突如出現し、
どうやら、この遺跡が当時、奈良盆地における最大の勢力として栄えたようです。
この遺跡を邪馬台国や、ヤマト政権の前段階に比定する学者もいるほどです。」
305 :日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:06:48
>>301
時系列で言うと、纏向建造時に先駆けて造られたと見られる大溝底辺には
唐古・鍵に多く見られる鳥型木器が、単なる廃棄とするにはあまりにも大量に敷き詰められるかのように出土している。

これを旧来の宗教の破棄とみるか、逆に深い信仰心と見るかは各論あるが
布留0式が出現する層からは、鳥型木器は今のところ出土しない。
布留0式と並列する祭祀具は、代表的なのが円筒埴輪。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 19:54:25
>三輪地域の集落遺跡群はこの時期になって突然終焉を迎え、それより上の地層から集落の痕跡は途絶えます。

これが、崇神6年の民の離散。
居住地を捨てた民は、元の居住地より新しい居住地を選んだ。
この年の秋、大物主、伊勢が、崇神の元へ身を寄せ、その後譲位する。
四道将軍派遣の結果、東は東海西部から、西は四国、吉備、出雲までが崇神の元に纏まる。

垂仁元年には任那から朝貢があり、出雲も一旦滅ぶ。つまりここで、祭祀に変化が出る。
鉄を得た垂仁は、鉄の分与をもってこれらの国をより強固に支配することが出来る様になる。
古墳に吉備の影響があっても、吉備は垂仁の属国である、四国も同じ。
全てをまとめるためには、全てから少しずつ、その影響を取り入れる。
景行の屯倉導入は、全ての属国に影響を与える。
垂仁時代と景行時代では、これだけの違いが出る。
219日本@名無史さん:2010/11/24(水) 20:00:36
東大寺山古墳の銘文大刀
「中平□□年、五月丙午、造作文刀、百練清剛、上応星宿、下避不祥」

中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。
よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる

これ、どういう意味だろ?
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 20:38:57
東漢靈帝光和6年:癸亥 西元183年 冷夏凶作、この辺りから乱れ始める。
184年から189年が中平年間である。
188年 崇神元年。←私の主張。

冷夏凶作を避ける願文か、崇神世の安穏を願う願文か。任那建国は、さらに後である。

冷夏凶作を避ける願文とするのが妥当なところであろうか。
でもこの程度の答えでは、及第点はもらえない。

221日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:32:05
>>217
ありがとうございます。
三輪地域が衰退するころ、纏向遺跡が築かれた。という感じですか。
しかし纏向もほどなくして過去のものとなった。
う〜ん、出来た時期、人が去った時期、実際に住居が解体された時期
そんなに明確に分かるものでしょうか・・・

三輪・・・ナガスネヒコ一族の居住地
纏向・・・葦原中国(オオクニヌシ一派)との合併後の都
ということで説明がつくのではと思いますが
この場合、纏向地域開発が先ということになりますね
222メ(寝る前):2010/11/24(水) 22:40:39
>217のホームページ先(三輪山周辺の祭祀遺跡変遷)をざっと開いたら以下の事が書かれてた。

>@信仰・・・「聖なるもの(と人々がみなしたもの)」を、何らかの形で特別視すること。
>A祭祀遺跡・・・考古資料として、目に見える形で残る「信仰」の痕跡。
>B磐座(いわくら)・・・俗にいう「神」が、一時的に降臨して宿るといわれる岩石。
>C山岳祭祀遺跡・・・「山岳を祀るための祭祀遺跡」。従って、山岳を信仰する場所は山中だけでなく、山を仰ぎ見れる平野部でも構わないので、山岳祭祀遺跡は「山岳にある祭祀遺跡」という意味ではないのです。

三輪山周辺の祭祀遺跡って何処のことを言ってるん?
あのあたり磐座とかあったけ?三輪山にはないよね?
223日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:47:16
>>222
山中にあるだろ。有名だよアホ。
224日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:51:30
>>222
>あのあたり磐座とかあったけ?三輪山にはないよね?

www
お〜い、みんな来いよ〜
またドツボが大恥をさらしてるぞ〜ww
225日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:53:24
またドツボ(=改め=メ)か
226メ(寝る前):2010/11/24(水) 22:54:14
>纏向には住居跡がない。

土器には祭祀用と日常用があり、巻向で見つかってるものは全て祭祀用とは決まっとらんでしょ。
縄文の馬高式じゃないんだからw
それに竪穴式や高床式住居痕が見つかってないからといって
人が居なかったとする考えはけしからんよね(ALL)。

>巨大建築物が見つかったと言って大騒ぎしたが、住居跡ではない。
>一方で祭祀に使われたらしいものが大量に発掘されている。

祭祀に使われたらしいものは巻向にかぎらず全国のが〜そうでしょ。
227メ(寝る前):2010/11/24(水) 22:57:15
>>223
だからどこのだよ?

祭祀遺跡・磐座(いわくら)っていうのは全国各地にある。
わたしも宇佐・安心院の祭祀遺跡・磐座はみにいったことがあるぐらいだよ。
私が聞いてるのは三輪山周辺を聞いてるんだね。
URLぐらい貼りつけろよ。
228日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:59:28
>>211はちょっと分かりづらいですね

・葦原中国吸収合併
・纏向が築かれる(オオクニヌシ勢の新技術も導入)
・神武東征、三輪のナガスネヒコ去る
・都移転、纏向→?

こんな成り行きかと。
奈良盆地ばかり掘り返しているように見えますが
大阪はどうなんでしょうか。
宮跡と思われる遺跡はないんでしょうかね。
229日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:05:01
あとね、当時の「都」は、役所兼倉庫だと思いますねー
桃は税として納められたんじゃないでしょうか。
祭祀?なにそれおいしいですか?
230日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:07:33
>>227ドアホのメ

くだんのホームページをすみずみまで読め
リンクがあるところもちゃんとクリックして開いて読め
寝るのはそれからだ
あんな親切で有益なホームページなのに全くもって何をやってんだか…
231メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:08:15
バカだな・・・おれが丸っきり考古学を知らんと思ってやがるw
何処までもおめでたい奴等だw

まあ、たしかに、あまり得意ではない(とくに銅鏡w)のは事実かも。
232日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:10:41
今夜はもうレスするなよww
恥の上塗りになるだけだぞwwww
233日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:11:01
真実を霧に隠すような情報は要りません

取捨選択しましょう。
234日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:12:15
私は考古学は全く詳しくありません。

大阪には、宮跡と思われる遺跡は確認されていないのですか?
235日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:18:13
法円坂遺跡
236メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:19:43
>樋口氏は、古文献に「三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3ヶ所に神の宿る座があり、
>それぞれ大物主神・大己貴神・少彦名神の依代である」(註6)と記載されていることから、
>実際、自らの調査により山中の磐座分布図を完成し、その岩石分布に偏りが見られることから、その偏りをグループとみなして、
>それぞれ奥津磐座・中津磐座・辺津磐座へと区分しました。
>・奥津磐座(おきつ)・・・山頂周辺 → 未発掘・遺物未出土のため創始時期不明。
>・中津磐座(なかつ)・・・中腹周辺 → 未発掘・遺物未出土のため創始時期不明。
>・辺津磐座(へつ)・・・山麓(山辺)

三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座があり・・・
これって大物主・大巳貴命・事代主の順がどうたらて議論してたあれか。

ところで実際に撮影された磐座ってあるのかな?
たしか禁足地(入ってはならない場所)とされてたんじゃかったかな。
237日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:21:06
メがまたドツボをかましたと聞いて飛んできました。

なるほど・・・・・これはひどい。ww
238メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:23:17
>>232
いや、いや おれは奈良に住んでるわけじゃないので(遠い)
奈良のことなんて、詳しくは知るわけがない。
大体、学問板なんだから恥もくそもない
お前等の考え方「知らない=恥ずかしい」が間違ってるんじゃない?
239メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:24:58
三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座、知ってたぐらいで
威張るなよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
240日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:27:09
ドツボの開き直り…かww
241日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:31:17
ドツボは最低のコテだから悪い夢を見て寝ればよい。
242メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:33:13
んで、三輪山の祭祀遺跡ってやつがこれか?

>B山ノ神祭祀遺跡(1918年調査)
>三輪山麓の、いわゆる辺津磐座群の1つと目される磐座で、1918年、地元人による畑の開墾時に土中から発見され、
>その後調査されました。多数の組み石から構成され、一番大振りの岩石の下から多量の祭祀遺物が出土して、
>古墳時代中期頃の祭祀遺跡であることが明らかになりました。
>その出土遺物の性格の違いによって、さらに祭祀の変遷を2期に細別できます。
>・4c後〜5c前、小形素文鏡・碧玉製勾玉・剣形鉄製品のセット(玉・剣・鏡そのもの)。
>・5c後〜5c末、双孔円板・勾玉・剣の滑石製模造品のセット(玉・剣・鏡の小型模造品)。

>C奥垣内祭祀遺跡(1965年調査)
>巨石の群れからなる磐座遺跡。1965年、一帯に温泉施設を建てるため工事していたら、
>巨石群の近くから古墳時代中期〜後期の祭祀遺物が発見されました。
>特に、巨石に据えられるように置かれていた須恵器の大甕は、その大甕の中から5c後〜6c初の須恵器群が出土しました。

一昨年、三輪神社へ出かけた時は、ここまで詳しく見れなかったな。
三輪神社と、箸墓、大和神社、石上神宮、 桜井市立埋蔵文化財センターを
速いテンポでまわったし、時間にゆとりが無かった。
243日本@名無史さん:2010/11/24(水) 23:34:59
>>235
ありがとうございます。

法円坂遺跡(wiki)

>1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。
>そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いと
>みられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、
>火災の跡であることが明らかになった。

ん〜、遺構のうえに最築した可能性もなきにしもあらず、ですね
244横槍:2010/11/24(水) 23:44:20
今回発掘された秋津遺跡の大型建物群跡は、孝安天皇のものだとすれば

4世紀が葛城王朝の時代だと考えていた俺の見解と完全に一致するな
245メ(寝る前):2010/11/24(水) 23:58:39
>大阪には、宮跡と思われる遺跡は確認されていないのですか?

あ、おれに言ってるのかな?
実は大阪は行ったことありませんゎ(*´[]`)

若い時(二十歳ぐらいかな)に仕事で大阪ビジネスパークに行ったぐらい。
若い女の子グループに逆ナンされて結構楽しかった覚えがある。
京橋ホテルだったかな・・・あそこに泊まったんだけど、その頃は遺跡とか
古代史自体に興味なかったので、天皇陵がどうのって話ではないんです。
つーことで女遊びのほうが興味ありましたけどねwww
246メ(寝る前):2010/11/25(木) 00:13:04
今度の正月あたり、大阪・奈良に出掛けましょうかね。
遺跡巡り、神社巡りは結構好きで、九州のほうはあちこち行ってるんですけどね。
たとえば神武伝承地、宇佐・安心院や福岡周辺。
あと、ヤマトタケル伝承地(三重、愛知)にも行きましたね。
大阪・奈良も行きたいんだけどなかなか時間が無い。
247ローガン:2010/11/25(木) 00:17:38
法円坂なあ〜 昔はあそこで阪神高速道路が途切れ、いったん中央大通りに降りてから、
高井田から又上がったねえ。
248日本@名無史さん:2010/11/25(木) 00:22:53
ドツボの女遊びスレになっちまった…
249メ(寝る前):2010/11/25(木) 00:25:57
あ、モテナイ連中にはおれの楽しい思い出は余計だったかな?w
気を利かせれなくてごめんねw

どーも最近、鬱憤晴らしにここを使ってる気がするw
さて、十分ストレス解消でけたので、もう寝ましょうかねwww
河童君の悪口も面白いんだけど、如何にも持てなさそうな考古学バカ(土器がどうのw)
相手にするのも美味しいよねw 
250メ(寝る前):2010/11/25(木) 00:50:23
今おれが開いてる本によると
魏志倭人伝には二種類の筆法によって編纂されてるらしいよ?w
列島は、天照一族の支配スル「日の国」、大国主一族が支配スル「火の国」に
二分されてたらしいぞw
邪馬台国(三十国体制)は「倭国」らしくって、「大倭」とは区分されてるってよ。
251メ(寝る前):2010/11/25(木) 01:00:24
わ〜「皆倭種」も載ってるね 意味解釈は「毛だらけ」だってよw
ローガン氏も〜鷲崎サイトで「毛だらけだ!!!!!!!」って言ってやればよかったのにwww

うけるね〜www おれ一人で笑ってるんだもん
さて、さて もう寝ようかな アハハ(^0^)
252日本@名無史さん:2010/11/25(木) 01:02:31
さっさと寝ろ
もう起きなくていいから
253日本@名無史さん:2010/11/25(木) 01:03:52
草の生やしすぎ
なんか頭おかしい人なのかな?
254メ(こりゃ寝れんわ):2010/11/25(木) 01:14:44
あははははは(^0^)
皆倭種は「毛だらけだ!!!!!!!」ってよwwwwwwwwww

笑いすぎて、マジで寝れなくなったじゃんw
255神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/11/25(木) 01:44:22
頭がハゲのくせに「毛だらけだ!!!!!!」って、笑撃!大爆笑!
256レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 01:51:56
>>228
俺個人の筋とは少し違うご理解のようですが、ま、こちらも確定論拠でも無い
のでその理解でもこちらとしては問題ありません。一応俺の筋としては以下。
・ 大和王権(神武〜孝元)=天命信仰=葛城ベース←東征神話(神武子孫)
・ 大和王権(開化〜景行)=太陽信仰=磯城ベース←木の国(大毘古GP)
つまり、開化時代前後に、画期的な変革があり、その変革の大きさは、外国の
歴史書「魏志倭人伝」にも、無視できない(但し正鵠を射ているかどうかは
別)爪あとを残した。それが「邪馬台国の魏晋理解」と、こう言う筋です。

だが一方貴殿の言われる事も理解は可能です。(納得はまだ保留しますが)
当時の近畿事情として、「出雲=大国主」グループも、これも無視の出来ない
勢力ではありますからね。古事記によると、先代神武以前の事とは言え近畿
からしてみれば、神武以前に「国譲り」があり、その後該当時代前後に
「権威の最終委譲(表記上明確な所では後代のヤマトタケル)」が成され、
つまり、該当時代においては、まだまだ近畿から見ての出雲は「場合によって
は一目置かざるを得ない」関係では有ります。纏向は出雲関与の勢力がメイン
であったと架空すれば、貴殿の筋も理解はできますし、その方向でもそのうち
掘り深めるか外堀を埋めるかしなければならない問題でもあります。
大阪も宮が時々置かれていますね。そちらの現在の研究が少ないという感想も
共感できます。(ま、全部掘れとまでは言いませんが;^^A)
257日本@名無史さん:2010/11/25(木) 01:56:24
メ はね、気の毒な人なんですよ。社会的弱者だから暖かい目で見てやらないと。
258レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 02:05:15
>大和王権(開化〜景行)=太陽信仰=上記の統治理論の変更と刷新統治理論
の変更は、景行による魏の屯倉導入。

なるほど、屯倉システムの導入ですね。理解可能。太陽信仰上で屯倉システム
を活用するという筋もありうるかと。俺個人は、屯倉システム=国造システム
くらいの理解しか無かったので、この時期以降の太陽信仰のあり方が、また
一つ見えてきたような気がします。この三つが揃えば、明確に「弥生時代は
終った」と言い得るかもしれませんね。
[太陽信仰による定義づけ]:農業→収穫→徴税→再農業 の三角リサイクルが
統治理論として可能になります。(矢印の根拠を説明するのが太陽信仰)
259メ(代理):2010/11/25(木) 02:07:47
(▼▼メ) うるせー
260レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 02:31:45
>>242
>んで、三輪山の祭祀遺跡ってやつがこれか?
(中略割愛)
>>・4c後〜5c前、小形素文鏡・碧玉製勾玉・剣形鉄製品のセット(玉・剣・鏡そのもの)。
>>・5c後〜5c末、双孔円板・勾玉・剣の滑石製模造品のセット(玉・剣・鏡の小型模造品)。

三輪山伝説後代挿入と考えれば、違和感は無い。イズモノフルネ伝承や、
イズモタケルの敗北以降、出雲の神宝を近畿大和王権が接収(略奪含む)した
とすれば、当然その神宝を「保管して祀る」場所が必要になるワケで、出雲の
神宝(のみならず他の天照神話体系の兄弟国の神宝含む)を後代、オオタタ
ネコ逸話が必要になった記紀までの間の時期に三輪山に祀ったと言う架空を
証左して来るかもしれません。
天照神話体系の兄弟国からの横領品ならば、玉・剣・鏡が三セットなのは全く
違和感を感じません。

あ、あと>>258>>214に対するレスね。アンカー付け忘れてゴメン。
261レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 03:16:19
さて、あえて争点にした、出雲・木(紀伊)の国・近畿との関係を、古事記で
確認してみた。
大国主の先述の木の国訪問前後の話である。該当時代は、ヒミコ時代の100年〜
数百年前(広くてゴメン)と現時点では想定する。
大国主の本妻は、出雲の国の須勢理(スセリ)毘売で、スセリ毘売の父は木の
国の有力者(神)の大屋毘古神である。大国主が兄の八十(ヤソ)神と対決
する際に、助けと加護を頼み、根の国(出雲?)の(にいると言う)父の
スサノウの命の助けが受けれるように助言したのがこの大屋毘古命。つまり、
出雲の一子の大国主にとっては、大屋毘古神は、同盟者であり、妻の父だ。
スセリ毘売は、その後「出雲にいる」話となるが、それは婚姻後であるし、
大国主による出雲王権が、近畿に侵攻(あるいは政治的影響力拡大)の時期と
見れるので、その事自体に大きな違和感は見られない。

俺個人が最も大きく違和感を感じるのは、別の妻の沼河比売との逸話の方だ。
262レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 03:27:39
この沼河比売であるが、和名抄では、「越後国頚城郡沼川郷」由来としている
が、そこは違和感が大きい。当時の出雲は、やっと「近畿に本格的に」乗り込
んで行った時期であるので、その時にすでに「越後と出雲は同盟関係を
結べる」までにあるというのは、少し飛躍が大きい。もし仮にそうだとして
も、それならそれで、出雲と越後との「前段階的逸話」が、記紀もしくは出雲
風土記に散逸でも残存しているべきだが、ざっと調べた所そのような物は見当
たらない。(俺が見逃しているだけかもしれないが)
案の定、手元の解釈本によると、沼河比売の関係地名として、高志国・八島国
の比定はぼかされている。記紀編者は出雲神話解釈には、かなり矛盾を残存
した苦心の跡が見られる気がする。こうなってくるとこの部分の「歴史書とし
ての価値」まで疑える可能性が増してくる。そこで、次の架空なのだが。
263レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 03:54:27
あ、すまん、その架空に行く前に、もう一つ「何故違和感を感じるかの矛盾
要素」を挙げておこう。
大国主は、スセリ毘売と結婚の後、沼河比売に求婚を申し込み、記紀によると
その求婚は成就し、結果スセリ毘売はヤキモチを焼き(ま、これは当然だが)
その後の歌のヤリトリで、ヤキモチは程度解消し、「大国とスセリ」の仲直り
メデタシメデタシとなるのである。この筋自体に違和感が全く無いが、これに
違和感が無ければ無い程、「あれ?沼河比売は?」という違和感が発生して
来る。え?当時重婚OKだから、全く違和感が無い?
重婚OKなら、逆になぜスセリは記紀に残るほどの嫉妬心を露わにするのだ
ろうか?また、後代の記録者達(記紀も含め)も、わざわざ残すのだろうか?
そのときのヤリトリ恋愛歌を残したいと言うのも一理はある。しかし、それ
だけでは弱い気がする。むしろ「残さなければ後に違和感が残る関係性矛盾」
を生じる危険性を回避しようと考えたほうが、比較的自然だ。
では、何を「矛盾無く」しようとしたのか?
ここからが架空だが、大和王朝二代スイゼイ天皇は、亦の名を「神沼河耳命」
である。神・耳・命の字が、装飾品だとしたら、「沼河」が浮かび上がる。
よって、ここに、同一の可能性、あるいは、沼河比売とスイゼイ天皇とが
母子(か、もしくはそれに近い近親類者)である可能性が生じてくる。
大国主⇒スイゼイ天皇の関係性がもし浮上するなら、更に記紀の次の構造も
違和感が無くなる。つまり、
・大国:出雲(国元)の妻スセリ。越後?(ひょっとして大和?)の妻沼河。
・神武:日向(国元)の妻アヒラ。大和三輪イスケヨリ。
どちらも、国元本妻と出征先後妻との間に、少なからぬ葛藤がある。そして、
その片方は、表記上歌で円満に大団円、もう一方は子供同士が相続争い。この
構図が、とても陰陽二極的で、いかにも出来すぎだ。
これを対比と考えるか、一者の両面と考えるかで、真実はマハンタイになる。
264レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 04:27:37
さて、スセリ毘売の嫉妬の対象とまで考えられる大国の沼河比売への求婚だが
そこまでクローズアップした割に大国と沼河比売の子孫の表記が全く無い。こ
れは非常に大きい矛盾で仮に記紀どおりとしても次の可能性が生じてしう。
@沼河比売と婚姻は実は成就してない。(「婚姻成就」を記紀代までに加筆)
A河沼比売と婚姻成就したが、子供ができなかった。
B河沼比売と婚姻成就して子も何人かいるが、後代それを隠した(或は取込)
先述の架空をベースにスイゼイが沼河の子(等)で、大国の本妻後妻の逸話
を、神武の本妻後妻の逸話に、あてはめてなぞらえたと仮説すると、上記Bの
可能性が他に比べ頭一つ浮上して来る。

もしこの不遜な架空ベースを敢えて提言するならば、古代天皇ファンには非常
に申し訳無いがスイゼイ〜孝安(孝霊)までの葛城ベース王朝は「大国主の子
孫でもある」という可能性が発生してくる。国譲りの根拠にもなるし「天命」
以上に補完する「血脈正統性要素」ともなりうる。但しこれが記紀編集時代
までの長い時代のどこかで「時の権力者」により「不都合な真実」とされる。

こう考える筋が生じる。勿論だからと言って「その結果の以降の大王」に大王
としての正統性が少し欠けるか?と言えば、そんな話でもない事は自明だが。
逆に、この「大国主の子孫かもしれない?」可能性と完全に決別するための、
オオタタネコ逸話だったのかもしれない。
265日本@名無史さん:2010/11/25(木) 06:26:58
テキトー言ってるな・・・
266レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 08:12:47
複雑すぎて、混乱されている方がいらっしゃるようなので、あえてシンプル
にしてみます。まず、時代区分を以下のように規定する。

[Aの時代]:神話時代〜孝安時代:葛城に宮を置く時代(出雲の属国)
[Bの時代]:孝霊時代〜垂仁時代:磯城に宮を置く時代(女王国と立場反転)
[Cの時代]:景行時代〜応神時代:王宮がダイナミックに変る時代

Aの時代の天孫伝承は、以下。
⇒神七代→天照&スサ→出雲大国→スイゼイ天皇→Aの時代の今上天皇
で、これがBの時代になり、モモソ姫逸話や三輪山伝説や大毘古GP台頭を
経て、磯城GPの先祖神ニニギ〜神武を挿入する。
⇒神七代→天照&スサ(大国残存)→ニニギ神武神話→Bの時代の今上天皇
で、さらにCの時代になり、大毘古改革の行き過ぎ反動で三輪山伝説や豊玉
伝説を挿入せざるを得なくなった。ニ乱(倭乱)も総括しなければならない。
⇒神七代→天照&スサ(大国)→ニニギ(豊玉)神武→Cの時代の今上天皇

上記のような変遷を経、その時毎の権力者によって整合性・一貫性は保たれて
たが、これが五王時代→継体時代に散逸断片化した。これを帝記・旧辞→蘇我
がまとめた国史で収集し、再度再構築してみたが、結果は散々(少なくとも
天武はそう思った)だったので、天武時代に集大成しなおす必要が高まった。
その際に蘇我関連を大幅削除した。(蘇我・葛城・ワニの逸話の軽量化)

たしかにテキトーではあるが、筋としては通らなくも無い。
267レス長たらし毘古:2010/11/25(木) 08:18:30
以上、今回の長々は、ここまで。次回こそは邪馬台国の鬼道に迫りたい。
結局、ヒミコ時代前後の「出雲」が魏志倭人伝にも比定すべきものが今一定
まらないし、記紀は記紀でそれ前代か編者のトリックも多そうなので、どっち
からのアプローチも確定まで行き着けないんよね。残念。で、突破口の考古学
に期待しちゃうワケだ。難しいもんだ。
そう考えると記紀上の、出雲の念入りな葬りと、出雲大社のでかさと、蘇我氏
も同様に念入に葬られている点が、またしても浮き上がって来る。俺個人の
感想としては、記紀の矛盾を考えるにつけ、蘇我が蘇えってくるという構図に
なっているという妄想から、どうも抜け出せない。その点は申し訳無い。
天武チームと持統チームって、物凄く意図的で有能だなぁ。
268日本@名無史さん:2010/11/25(木) 17:07:07
磐座と言うのは支石墓の変化したやつなのだ。
南朝鮮には紀元前6世紀から3世紀位前までに作られた膨大な数の支石墓がある。
南朝鮮で支石墓が作られなくなった頃、日本に磐座が流行するようになる。
何らかの関係があると見るべきだろう。
269日本@名無史さん:2010/11/25(木) 21:08:31
4世紀最大級の施設群跡見つかる 奈良・秋津遺跡

 奈良県御所市の秋津遺跡(古墳時代前期)で、4世紀前半の遺構としては最大級の施設群跡が見つかり、
県立橿原考古学研究所が24日、発表した。珍しい構造の塀に9件囲まれた区画が前回調査を含めて
多数見つかり、内部には整然と並ぶ大型建物跡も確認された。

4世紀は中国の文献から日本関連の記事が消えるため「謎の世紀」と呼ばれる。
同研究所は「歴史の空白期を考える上で重要な発見。初期大和王権が造営に直接関与した祭祀空間を
9件備える施設か、後に周辺地域を本拠とした葛城氏につながる大豪族の居館だった可能性がある」としている。

塀は幅約20センチの溝を挟む一対の柱が約2・5メートル間隔で続く構造で、溝には細いくいをずらっと
打ち込んだ跡が並んでいた。見つかった区画のうち最大のものは、今回の調査で南北50メートル、
東西48メートル以上に及ぶことが判明した。この区画内には複数の大型建物跡が見つかり、
うち3棟は一直線に並んでいたとみられる。
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news4/article.php?topicsid=9800&pack=CN&storyid=385983&seriesflag=&series=
270唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/25(木) 21:28:06
>大国主は、沼河比売に求婚を申し込み、その求婚は成就し、

ここまで来たら、次は簡単だろ。
大国主と沼河比売の間に出来た娘(イスキヨリヒメは間違いとして)??媛を
神武に嫁がせる。
ホ31025 クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに めせはキサキに とかめられ 
ユリヒメとなり トノイせず キサキはらみて あくるナツ カンヤヰミミノ ミコをうむ

イスキヨリヒメは、手研耳の子(天押男)を産み、天押男の孫娘が孝昭の妃となり、孝安を生む。
271日本@名無史さん:2010/11/25(木) 21:41:03
大国主は、ぶ男だったのだ。
大物主も皮被りだったというし、
古代史の英雄ときたら・・プッ
272唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/25(木) 22:23:33
神功皇后 275年〜344年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場は少し後。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
  応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。名前の入れ替えがある。
   新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず、ウジノワキイラッコへの嫁ぎ?
   新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退、応神かイザホワケ?か
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。初期は仁徳であるが後期は名前の入れ替え。

仁徳に該当する時代は、313年〜344年
秋津遺跡は、この時代か?
仲哀の死で、渡海派と残留組の内乱。これを収めて即位したのは誰か?

273日本@名無史さん:2010/11/25(木) 23:27:01
ヨヨイノ ヨイ!    ___  ドンドン!
     П∧_∧.ミ __ ヽ:::..ヽ
     ∩(# ・∀・) //  i::::::: |Σ
ドドンガ ヾ冫● ⌒lつ  l:::::::::|  
  ドン! (__.八 _._ノ._ノ タカタッカ
       )_)_) 凵凵 凵
274レス長たらし毘古:2010/11/26(金) 01:46:07
>ここまで来たら、次は簡単だろ。
>大国主と沼河比売の間に出来た娘(イスキヨリヒメは間違いとして)??媛を
>神武に嫁がせる。

こちらも記紀固定解釈派に遠慮して暗にほのめかしている所なので、その理解
もわかります。問題は、なぜ「そんな簡単な事」が、俺のように架空三段論法
にして、論を再構築しないと浮かんでこないか?という構造そのもので、それ
が、先述のとおり、[Bの時代]:孝霊時代〜垂仁時代(磯城に宮を置く時代)
の口承史を伝承した権力グループが「隠そう」とした思惑なのです。
つまり、その時期、何があったか?そう、結論は先に書いていますが、大和と
出雲の立場逆転と大和と女王国の立場逆転なのです。

俺個人は、この大国からの大和も、神武からの大和も、どちらもあったと想定
しています。そして、どちらも対立したが、どちらも和解して共存した。
(その経緯が、大国系伝承ではタギシミミ命仇討ち、神武系伝承ではニギハヤ
ヒとの和解となる。「タギシミミは討たれたのでは?」となるが、タギシミミ
を討ち取る際に、沼河の兄の八井耳は「躊躇」している。つまり、
「兄」の躊躇⇔「兄:出雲⇔弟:大和」の関係になぞらえ、反転する事で、
実際は「ニギハヤヒのように許された」とも見れるのである)出雲の大国の方
から見れば、命は助かったが、近畿争奪戦では負けたのだから、「討ち取ら
れた」にも等しい。なので、それが自分でなく、「神武の亜種の如き人物」
が「自分に乗り移り」敗北し「討ち取られた」なら、大きな不満も矛盾も生じ
ないのである。
このように神武系も大国系もどちらも納得の行く、それぞれの「家内神話」を
保有したままの「近畿連合政権」が、当初の大和の実像と俺は架空する。
275レス長たらし毘古:2010/11/26(金) 02:13:37
さて、いよいよ女王国の実像であるが、従って、先述の仮定から、それを記紀
から読み取る際に、 [Aの時代]:神話時代〜孝安時代:葛城に宮を置く時代
(出雲の属国)から解釈するのが最も適していると思う。ヒミコはAの時代
ではなくBの時代の人間だが、実政や実生の状況が、Aの時代の方が近いと
想定できるからだ。 (理由は先述の毘売システムより)これだと、何故
「ヒミコには太陽信仰が無いか?」が違和感が無くなる。
「天照の石屋戸の話はどうなるんだ?」という反論が出るかもしれない。俺
自身そう思う。しかし、再度>>266を参照してほしい。
ヒミコの現役世代は、大和神話は、まだ「大国系」なのである。つまりそれ系だと「石屋戸伝説」は、無くてもストーリーとしては全く差し支えないのだ。
[大国系]天照VSスサノウ→両者のウケイ→スサノウが出雲で八俣オロチ討伐
[神武系]天照VSスサノウ→両者のウケイ→石屋戸→葦原中国&ニニギ
つまり、Aの時代は、太陽信仰が「まだ無く」ても、全く損傷無く成立する。
そう、むしろヒミコの方法論は「天命信仰」の方と推定できる。
(逆に、ゆえに、これがあるために、女王国は後代大毘古に乗っ取られる
のだが)
逆に天照が「スサノウ、出雲に行け」とか「ニニギ、葦原中国を何とかせい」
と言うのも天命信仰から考えれば、ごく自然なのだ。そう言う「宣託」が出た
ら、天照もスサノウもニニギも、天命信仰なら「そうするしかない」からだ。
276レス長たらし毘古:2010/11/26(金) 02:25:21
>>271
>大国主は、ぶ男だったのだ。大物主も皮被りだったというし、古代史の英雄
ときたら・・プッ

お気持ちは察します。むしろ「なぜぶ男か?」「なぜ皮被りか?」の意図こそ
が、その「対象者」が結果として「最終勝利者とはならなかった」事の証左
とも考えられます。ことに、記紀のように、少なくとも3回前後は「塗り替え
られた」可能性の高い伝承記録の場合はなおさらです。
その意味では、ハニヤスヒコなんて、さんざんですよ(TT)クソの神様です
からねぇ。元は何の神だったかは存じませんが、あまりといえばあまりの。。
277日本@名無史さん:2010/11/26(金) 04:47:30
おはよ〜
「長たらし」って、こんなのにマジレスして「メ」んへるっぽいかも
278日本@名無史さん:2010/11/26(金) 05:33:21
畿内説は年代的に成り立たない事がはっきりしたから、
畿内以外の何処に邪馬台国があったかを議論すべきだな。
博多近辺か?
吉野ヶ里か?
日田近辺か?
宇佐か?
四国か?
279日本@名無史さん:2010/11/26(金) 07:06:36
邪馬台国近江説◇論争に終止符!
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/
280日本@名無史さん:2010/11/26(金) 09:55:03
>>278
伊都国から水行十日陸行一月のところにあったというからには、博多や吉野ヶ里では
ないな。南九州を外してはいかんぜよ。
281日本@名無史さん:2010/11/26(金) 10:08:02
>伊都国から水行十日陸行一月のところにあったというからには、博多や吉野ヶ里では
ないな。南九州を外してはいかんぜよ。

水行十日陸行一月は帯方郡から邪馬台国までの全行程と言う話もある。

ま、熊本とか宮崎も候補に入れて議論しようか。
282日本@名無史さん:2010/11/26(金) 10:54:12
博多は「好古都国」だろう。
283日本@名無史さん:2010/11/26(金) 11:00:52
>水行十日陸行一月は帯方郡から邪馬台国までの全行程と言う話もある。
こじつければいいってものではない。まともな学者でそんな読み方をする人は
いないだろう。
郡からの日数を示すときに、あなたは倭人伝のような表現をするかな?私なら
ば伊都国又は不弥国からの方角距離を示した上、郡より邪馬台国に至る・・・
と書くよ。


284日本@名無史さん:2010/11/26(金) 12:31:30
一万二千里を短里で言うと920km位。
帯方郡を最近の通説、沙里院からの距離を測ると何処に相当するかだ。
直線距離なら東では明石とか、南では鹿児島位までかな。
多少の紆余曲折を考えなければならないから、もうちょっと短くなる。
285日本@名無史さん:2010/11/26(金) 12:42:53
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
始始度一海、千餘里至對馬國。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、
又渡一海、千餘里至末盧國、
東南陸行五百里、到伊都國、
東南至奴國百里。
東行至不彌國百里。
          (南至投馬國水行二十日)
南至邪馬壹國、女王之所都。
水行十日、陸行一月。

投馬國を除けば全行程でも問題が無い。
魏略には投馬國はないから後で間違えて付け加えられた
としても良いのではないか?
286日本@名無史さん:2010/11/26(金) 13:16:23
だめだね。郡からの場合、郡からだということが明記されているだろ。
自郡至女王国万二千余里。
南至邪馬壹國は、東南至奴國と同じ書き方だ。奴国の記述も郡からかな?
287日本@名無史さん:2010/11/26(金) 15:00:45
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至邪馬壹國

伊都国からでは?
288日本@名無史さん:2010/11/26(金) 15:05:32
>>286氏に賛成。
水行十日陸行一月を郡からの旅程と言い出したのは古田武彦だが
あまりにもトリッキーな解釈。
古田には何かヒネクレたところがある。
289日本@名無史さん:2010/11/26(金) 18:03:49
いずれにしろ、伊都国から残り1500里足らずだ。
一里76.6mとして115q所に有る。
問題は伊都国が何処かだ。
290唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/26(金) 21:37:53
>>274
わけの解らない妄想のために
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm
ホツマは、君の先を読んで書かれている。
291日本@名無史さん:2010/11/26(金) 22:01:53
お、唐さんが
レス長たらし毘古氏へ喧嘩売ったぞ〜〜

皆な、注目、注目!!
292日本@名無史さん:2010/11/26(金) 22:03:13
>>289
1500里のところにあるのは女王国だ。邪馬台国ではないよ。
293日本@名無史さん:2010/11/26(金) 22:35:43
関裕二が正解出してるだろ
294日本@名無史さん:2010/11/26(金) 22:44:40
関裕二って畿内説? どんな説か概要を説明してくれんかな。
295日本@名無史さん:2010/11/26(金) 22:57:17
関裕二はエッセイリストだから、特定の宗派には属しません.
より広い読者層を末永く確保するためには、面倒な問題には首を突っ込まない。
賢い売文屋だと思いますよ。
296日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:21:20
エッセイリスト(笑)
297日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:25:04
関裕二って奴本出しすぎだろ
ゴーストじゃね
298日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:41:57
念のためと本棚をみたら関裕二のも1冊あったよ。しかし、パラパラと
見てみると、何の考えもない奴みたいだな。だめだろ、この男は。
299日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:44:28
なんでだよ?真実とは思って書いてないだろうし、年収はおまいよりずっと上だろ。
300日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:47:50
このスレ関裕二本人臭くね?
301日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:51:14
>真実とは思って書いてないだろうし
真面目に考えて書いていないから、読む価値がないんだよ。
302日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:51:15
女王国って何?
何処に有るの?

邪馬台国と書くより短く表現するため、女王国と書いたと思うが。
303日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:57:01
コンビニや駅の売店で本を買う層をねらってきっちり計算して書いてるんだろ。
もうけたもの勝ち。
304日本@名無史さん:2010/11/26(金) 23:57:37
短く表現するって言っても、たかが一文字だろうが。
その一文字のために、不正確な表現をするか?

伊都国から女王国まで千五百里。それが水行十日陸行一月では、話が合わんだろうが。
となれば、これは女王国と邪馬台国は別の概念だと気づかなければいかんよ。
倭人伝の後ろの方に、女王の境界云々という言葉がでてくる。それをみれば、女王国と
いうのは、邪馬台国とその傘下の国々を合わせた概念だということが分かるはずだ。
305日本@名無史さん:2010/11/27(土) 00:26:21
>伊都国から女王国まで千五百里。それが水行十日陸行一月では、話が合わんだろうが。

だから帯方郡からの総日数。
306日本@名無史さん:2010/11/27(土) 00:39:29
そもそも、日本で海岸に上陸した後、一月も歩かなくてはならないような場所が有るか?

郡から船で日本まで来たんだろう?
日本には馬も車も無い。
陸上を徒歩で歩いて物資を運ぶのは困難だ。
日本に上陸してから一月も徒歩で行ったなどと考えるのは愚の骨頂だ。
つまり、陸行の大半は朝鮮半島で消化したと考えるべきだ。
307日本@名無史さん:2010/11/27(土) 00:44:15
>陸上を徒歩で歩いて物資を運ぶのは困難だ。
だから、上陸してから一月かかるんだよ。
朝鮮半島で陸行したなんてのは愚の骨頂だ。陸行の必要は全然ない。
船で倭国まで来れるのに、何で陸行するんだ?
308レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 05:31:44
>>277
>「長たらし」って、こんなのにマジレスして「メ」んへるっぽいかも
その判定は自分ではできないと思うので、読む人が個々勝手に判断すればいい
だけの事でしょう。こっちとしては感想も判断も持ちえませんねぇ。
>>290
>ホツマは、君の先を読んで書かれている。
取り合えず拝見します。長そうなので、回答はじっくり読んでからを予定。
ツール(元資料)がおなじなので、似たような思考の前人は当然いるかと。
>>291
>お、唐さんが レス長たらし毘古氏へ喧嘩売ったぞ〜〜
あ、これが喧嘩だとしたら、スマン。先述のとおり、まずはじっくり読まん
と、喧嘩も何も。そのうち、必要なら論争も必定かもしれませんが。まだ、
しばらくはその時期でもありません。俺は現状では「他の議論や記紀の矛盾」
にしか興味無い、言わば門外漢の外野からの野次ですので、相手が誰でアレ、
他人様の「再構築した」ある程度の結晶そのものに全否定のケチをつける気は
全くありません。
309日本@名無史さん:2010/11/27(土) 06:51:56
>>305
総日数という読み方はありえない。そんなところに戻ってはいけない。
女王国と邪馬台国が別だというのは、表現が異なるのだからいわば当然のこと。
何の無理もない考え方だ。
310日本@名無史さん:2010/11/27(土) 15:07:20
>>307
時間かかっても安全ルートって事でないかな
海はやっぱり危険だし
個人的には公孫氏排除したあと自分達が支配者とわからせるため?
なんて妄想してみた
311メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 18:01:00
春〜ょ来い♪w 早〜く来い〜♪w 

古事記(712年)・日本書紀(720年)もいいが〜奈良時代以前というか、
古事記以前の「帝紀(天武天皇10年 681年)」、「旧辞(帝紀と同じく天武天皇代)」、

それから〜「日本旧記(雄略天皇21年(477年)」、「天皇記(推古天皇28年 620年)」、「国記(推古天皇28年620年)」、
「臣連伴造国造百八十部并公民等本記(聖徳太子と蘇我馬子が編纂)」、「上宮記(7世紀頃に成立)」、
「高麗沙門道顯日本世記(斉明天皇6年 (660年)」、「伊吉連博徳書(斉明天皇5年(659年)」

なんかも議論されていいんじゃねぇ?
312日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:04:35
あ、三輪山の有名な磐座を知らないアホコテだ。
313メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 18:06:44
>>312
4年ぐらい前に三輪山の磐座についてここで議論したよね?
もう、かなり前なので忘れてしまってたわ・・・

ていうか、それ知って他ぐらいでいばるなって〜恥ずかしいw
314日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:07:15
>>312
その人にレスするのは止めなよ
315メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 18:24:24
大阪府立弥生博物館に「卑弥呼の食事」ていうのが展示されてると思うんですが、
これを観に行った人はおる?

当時の弥生時代末には、家畜用の豚が飼育されてたと考えられ、この食事の中にそれを
取り入れ、主食であるコメにこの豚の煮物、そして、マダイの塩焼き、ヤマイモ、タケノコ、
ハマグリ、イイダコ、ワカメの汁にアワビの焼き物なんかが添えられてるよね。

http://plaza.rakuten.co.jp/amadiary/diary/200508150000/
316メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 18:49:15
三輪山の話が出てきたが、
三輪山といえば、日本書紀の倭迹迹日百襲媛命、大物主神との不思議な物語。

倭迹迹日百襲媛命は卑彌呼と考える人は多い。
この卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命説を日本で初めに唱えたとされるのが、明治時代の笠井信也氏という人物。
彼は、箸墓の規模はもちろん、近畿で見つかる多数の銅鏡によって、この説をいち早く唱えたとされてるみたいですね。

銅鏡に関しては、中国史の魏志倭人伝に「銅鏡百枚」と記述されており、
日本列島で発見される銅鏡についても弥生〜古墳時代につながる、いわば
邪馬台国の時代の出土の「三角縁神獣鏡」が日本一の出土数を誇ってるし、
文献(記録的証拠)と考古(物理的証拠)の両面の一致からみても
邪馬台国の場所は近畿で間違いないだろね。

九州説さんの反論が楽しみです。
317日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:50:39
おまえら、いったいいつまで同じ話題ループしながら、不毛な議論してんだ?
318日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:51:07
>>314
長たらし毘古が相手するからw
 唐松 - 太国
 メ - 長たらし
今宵は2本立てでございます。
319日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:52:36
>>316
卑弥呼は「植津金時祟日媛命」だよ。
320日本@名無史さん:2010/11/27(土) 18:56:07
>>318
ふむ。メ もこのようなモンスターを相手にしてこそ成長があるというもの。
321メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 19:05:58
>>318
>>320
まったく〜お前等に言われたくないよwwwwwwwwwwwwwww
スレまわす知識もないくせに〜よく言えるなw
みんな、君等、能なし名無しに言われたくないと思ってるよw(お前らよりマシ)

悔しかったらコテより〜知ってるぞ!ていうとこみせてみ(採点してやるからw)。
ほら、どうした?
322日本@名無史さん:2010/11/27(土) 19:26:34
重訳納貢 
323メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 20:08:23
時代区分について、ハッキリさせておこうか。
どこからが弥生時代の始まりで、何処からが弥生時代の終わり、
そして古墳時代の始まりはいつごろなのか?
又、邪馬台国時代とは何処のことを言うのか?などなど

弥生時代の始まりに関しては、もともと石器時代、古墳時代という分け方をしてたのですが、
明治初め(明治17年)の帝国大学裏からみつかる弥生式土器の第一号として、
向ヶ丘弥生町という地名から「弥生」という名をもってきて、新しい時代区分として用いられた。

邪馬台国時代というのは、倭国の女王卑弥呼の共立されたのが二世紀後半で、
卑弥呼の死とされるのが西暦248年頃。
この間をいわゆる「邪馬台国時代」として扱っている。

古墳時代の始まりはいつごろなのか?ですが、
これは各諸説があり、現在では三世紀初め、又は三世紀半葉、
或いは四世紀から古墳時代とするという考えなどがあります。
この四世紀からというのは結構古い考えで、最近の年輪年代法によって、
前者の三世紀初め、又は三世紀半葉というのが有力。
まあ、学者の間では、卑弥呼の死をもって古墳時代の始まりとする考えが根強くあるみたいですね。
324日本@名無史さん:2010/11/27(土) 20:12:43
重訳納貢
325メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 20:26:23
石塚、勝山、ホケノで見つかった木棺などの木材を年輪年代法で測定した結果、
これらの木材が伐採されたのは、西暦200年前後といわれてる。
という事で、これらの古墳は三世紀初めの築造だろうと考えられてる。

年輪年代法というのは、精度が高く、アメリカなんかでも頻繁に使われてるらしいね。
ただし、アメリカのはコロンブスがアメリカ本土に上陸する以前(比較的新しい)の時代が対象とされており、
年輪年代法を批判する人は、ここらへんを突っ込んでるのかな?
326日本@名無史さん:2010/11/27(土) 20:29:16
重訳納貢
327日本@名無史さん:2010/11/27(土) 20:30:17
>>325
改めさん、倭人伝の身分制度について話してくださいよ。
328メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 20:31:59
上のほうで、卑弥呼の「鬼道」について語る事を言ってますが、
この「鬼道」をテーマに話しましょうか。

私は、これからスポーツしに行くので、また後ほど・・・
329日本@名無史さん:2010/11/27(土) 20:38:22
重訳納貢
330メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 20:40:28
>>327
>改めさん、倭人伝の身分制度について話してくださいよ。

倭人伝の記述でいうと卑弥呼さんの「倭王」、
伊都国・狗奴國などの「王」、難升米等の「大夫」、對馬の「大官」
各諸国には「官」、「副官」、風俗記事でいう「大人」、「下戸」や
記録記事の「生口」や「奴婢」があります。

まあ、今は忙しいので後で書き込みます。
331唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/27(土) 21:23:05
秋津遺跡
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0124.htm

4世紀前半は、大陸、半島と通好を重ねた時代である。
神功渡海よりそこそこの時代を経ている。

つまりこれまでのように、この辺に景行を置くことは出来ない。
文献史学も、考古学と同じく50年遡上せねば、書紀と同期出来ない。
332レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 22:33:19
>>290>>308続き)
ザックリ読んで見て、このHPの方の解釈も、枝葉では所々強引な音あてや
敢えて不遜の三段論法もあるもの(ま、それは俺も人の事は言えませんが)
の、諸所共感できる人物配置も見当たりました。興味深い物を推薦頂き感謝
です。このHPの方は理系脳のようで、合理解釈を優先と言う所が、不遜では
ありますが俺のツールの片方とも一緒なので、アプローチ方法論としては共感
できる所も多かったです。大筋としては理解可能です。記紀の同種の矛盾に
似たような疑問を抱かれている先人がいたんですね。
>>311
古事記(712年)・日本書紀(720年)もいいが〜奈良時代以前というか、古事
記以前の「帝紀(天武天皇10年 681年)」、「旧辞(帝紀と同じく天武天皇
代)」、それから〜「日本旧記(雄略天皇21年(477年)」、「天皇記(推古
天皇28年 620年)」、「国記(推古天皇28年620年)」、「臣連伴造国造
百八十部并公民等本記(聖徳太子と蘇我馬子が編纂)」、「上宮記(7世紀頃に
成立)」、「高麗沙門道顯日本世記(斉明天皇6年 (660年)」、「伊吉連
博徳書(斉明天皇5年(659年)」

全く同感です。ただ、俺が学業に携わっていた15年前は、まだそこらへんの
資料は資料としては記紀より数段低い扱いだったので、取り合えず俺は記紀
ベースにしています。最新の研究では、そこらへんの資料の完全性や証拠能力
も向上して来ているんでしょう。

上記どちらも、記紀の空白部分・矛盾部分を追求すると、当然至る場所の一つ
かと思われます。ましてや、「邪馬台国が古代日本に存在する」と仮定したら
当然避けて通れない場所でもありましょう。
記紀の存在を信じても、その記録の全てを盲信するのとは、これは全く別個の
問題ではあります。但し、日本人である以上、そのアプローチのメスは不必要
なまでに不遜であるべきでもないと解釈しています。難しい物です。
333レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 22:42:25
>>328
>上のほうで、卑弥呼の「鬼道」について語る事を言ってますが、この
「鬼道」をテーマに話しましょうか。

同感です。そちらは、俺もまだ、ここでお披露目できるレベルでの再構築には
至っておりませんので、もう少し調べてから追々お披露目できればと思って
おります。ただ、俺のつまらない妄想に興味を抱かれている奇特な方がいら
っしゃったら、「現時点では古代道教・古式神道辺り」が怪しいと睨んでいる
とだけ申しておきましょう。
334レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 22:59:23
>>316
> 銅鏡に関しては、中国史の魏志倭人伝に「銅鏡百枚」と記述されており、
>日本列島で発見される銅鏡についても弥生〜古墳時代につながる、いわば
>邪馬台国の時代の出土の「三角縁神獣鏡」が日本一の出土数を誇ってるし、
>文献(記録的証拠)と考古(物理的証拠)の両面の一致からみても
>邪馬台国の場所は近畿で間違いないだろね。

俺は九州説でも、亜種の「宇佐近隣説〜九州東北部辺り」の方なので、対象と
入るかどうかは疑問ですが、敢えて申しますと、「同時代の出土」に関しては
既に、ヒミコ当時の3世紀における奈良界隈の出土品は、西日本のみならず、
東北までの広範囲からの特産品なども出土している現状ですので、そのレベル
且つその範囲でも、人や物の交流交易は既にあったと思われます。その意味
では、「戦利品・収奪品として近畿に持ち帰った」物が「近畿にて発見」と
言うケースも少なくは無いかと思われますので、それだけを伝家の宝刀のよう
に申されるのも、少し違うような気もします。
架空で申し上げるなら、九州の「鏡を箱ごと」「近畿の勢力」が戦利収奪とか
箱買いしたとかという可能性も皆無とは言い切れません。何らかの方法で、
入手した「鏡の権威」を利用して、その後大和王権が急成長をした、という
架空もまた構築できるわけで。先述のように、ヤマトモモソ毘売=ヤマトで
あっても、邪馬台国の女王国は「瀬戸内海のどこか」でも、充分可能です。
(勿論、近畿でも可能ですが、同様同程度に九州東北部でも可能)
335メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 23:03:06
>>331
>文献史学も、考古学と同じく50年遡上せねば、書紀と同期出来ない。

太国氏のいうとおりで、
神武即位の年を西暦元年、祟神天皇没年を258年と考えたらいけないんでしょうか。
このあたりで〜結構つながる思うんですが・・・唐さんてきNGなのかな。

たとえば、神功皇后といえば三韓征伐。
百済記と照らし合わせて、この三韓征伐の時期を考えると四世紀末となると聞きます。

神功皇后ですが〜画像をみつけたのでどうぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jingu.jpg
336レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 23:15:22
>>323
> 古墳時代の始まりはいつごろなのか?〜(中略割愛)〜この四世紀からと
>いうのは結構古い考えで、最近の年輪年代法によって、前者の三世紀初め、
>又は三世紀半葉というのが有力。

最近の研究では、古墳時代の始まりがヒミコ没年(AD248)とモロ被りすると
いう話ですね。理解可能。ただし、ヒミコ時代が古墳時代の始まりだと
しても、そうなると、古墳全盛期には、あったとしてもヒミコの墓は、所謂
「旧式墳墓」と言う話にもなって来そうです。後代、場合や老朽化によって
は、廃棄もしくは増改築なども有り得るかもしれません。
コフィーちゃんファンの俺個人は、円墳+方墳=前方後円墳あたりを想定。
337メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 23:19:42
>>332
>俺が学業に携わっていた15年前

ん、レス長たらし毘古さんは古代史歴15年?!長いですな〜

>>333
>ここでお披露目できるレベルでの再構築には至っておりませんので

「鬼道」ですが、ならば、私が先手行きましょうか。
魏志倭人伝には卑弥呼の事が記載されており「事鬼道」「能惑衆」とあり、

鬼道につかえ、能く衆を惑わす(岩葉文庫:魏志倭人伝現代語訳) 

という意味。
これを我、日本の文献の日本書紀で探したら、日本書紀[祟神の条]で倭迹迹日百襲媛命が神託をしていますね
この神託を少し批判した言い方で、衆を惑わす と言ったのではなかろうか。
又縦目君も言っていたが、道教とかかわりがあるとする考えも根強い。
彼が言ってるだけではなくて、私もいろんな本を読んで〜よく聞く言葉ですゎ。
338メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 23:31:41
>>334
三角縁神獣鏡について専門的に調べたわけではないんですが(鏡と言えばローガン氏かな?)

三角縁神獣鏡は近畿を中心に各諸国に広がってると聞いてます。
たとえば同笵鏡という同じ鋳型から鋳造された鏡が近畿のモノと地方とで見つかってますよね。
この同笵鏡には古い、小さな傷が付いてるものがあり、その傷跡からどっちが早い段階で造られたモノか、
どっちが最近に造られたものか分かるんです。
ここからみても、地方から近畿へとは言えなかったはずです。
そして近畿の椿井大塚山古墳、黒塚古墳から大量の神獣鏡が出土しており、
自然的に考えたら〜集めたというよりも分配している・・・とする方が当り前なのではないだろうか?
339日本@名無史さん:2010/11/27(土) 23:32:48
山形に、讃岐富士発見(冨神山402m)
讃岐富士421mと比べても遜色ない勇姿でした。

http://pds.exblog.jp/pds/1/200701/12/00/e0108900_10581134.jpg

340メちゃん〜(>_<):2010/11/27(土) 23:41:36
>>336
>後代、場合や老朽化によっては、廃棄もしくは増改築なども有り得るかもしれません。

ほう、それは面白い発言ですね。
鉄道や、都市計画の一端として工事が為されたのは明治に入ってからです。
鉄道とかのナイ、明治以前にそのような工事やら、古墳の増改築を行った例はありますか?
ないでしょうね。
しいいていえば、仁賢・顕宗天皇による雄略天皇稜墓ぐらいではなかろうか。
341レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 23:42:07
>>337
レスありがたいのですが、俺はそろそろなので、そろそろですが。
道教面で申しますと、中国の秦漢時代は儒教の時代ですが、当時敢えて中国
皇帝が儒教を統治理論として選択したという事は、在野では「儒教以外」も
根強かった事の証左とも言えましょう。ではその「儒教以外」とは何か?
これは老荘思想や、初期道教(これらはやがて仏教の通り道にもなる。この点
も、「道教→仏教」と「日本の古代の鬼道→仏教」と類似の思想流転とも類推
できます。)であり、つまり、「儒教社会創出」の以前の空間が、「日本を
含む東夷の倭人分布域」に「儒教以前社会」があっても、おかしくはないの
です。と、こう言う類推です。
また、古式神道に関してですが、日本の各地の、現在では既に神仏習合に
よってカナリ歪められた日本神社ではありますが、それでも、神社や祭り等
の「一見解り難い物」の中に、ヨクヨク調べたら、或は、解釈方法を変えて
見たら、意外に「シックリ来る」物も少なくありません。シックリ来ると言う
事は、少なくとも「それなりに一貫性・整合性」がある可能性も高いと言う
事でもあります。実は、今は分散してそれぞで独自進化しているので矛盾して
いるだけで、本来元々は、かなりシッカリした、「全日本的な一貫性」が
あった可能性も架空としては再構築される余地はあるワケなんです。

七福神とか、神社や古い家では、物凄く自然なまでに「日本の神様」なんで
すが、近代合理論解釈だと「外来の神様」だそうです。この解釈が、そもそも
不思議ですし、面白いですよね。江戸時代〜明治時代の人は、「どこかで
日本に入った」って考える知識人が多く、結果として、現代人もこの考えの
人も多いですが。でも、架空として、ヒョッコリ考えてみてほしい。
「逆に元来大昔、日本の神様(&東アジア共通)の神様)では?」とは、
どうして誰も考えないのでしょうか?そこが残念でなりません。
遣隋使・遣唐使で「入って来た」ばかり考えがちですが、どの時代でもどの国
でも「一方的に入って来るだけ」とは必ずしも限らないとも思うんですよね。
342レス長たらし毘古:2010/11/27(土) 23:45:59
>>340
お墓の、「強制された不名誉な改築」や「強制された酷い改築」や「撤去命令
されて廃棄させられた」ケース等は、積極的に記録に残るとは考えにくいです。
当時の、お墓をお参りしている人としては「シブシブ」になるわけですからね、
そう言う場合。
343日本@名無史さん:2010/11/28(日) 00:00:02
仏教伝来以降、我が国への道教の流入は極力抑えられていた節がありますが
どうでしょう。防波堤の一つとなったのが陰陽道かな?
344メちゃん〜(>_<):2010/11/28(日) 00:04:50
卑弥呼の「鬼道」についてもう少し考える必要があると思います。

たとえば、史記の封禅書に「鬼道」とありますね。
これは北極神の祭りに関してですから、北極神といえば道教ですよね。
これは道教についてでしょうね。

他には、魏志の張魯伝にも「鬼道」とありますね。
あと人々の病を直すのにこの「鬼道」を「用いたという話もありますね。

まあ、今日はもう遅いので、私もここまでにしますが・・・・
あとはみなさんでも議論して下さいよ。 寝る・・・・zzz
345日本@名無史さん:2010/11/28(日) 00:05:50
>>341
SHAMAN
http://www.youtube.com/watch?v=u5lnZZcgIQk
日本でこれの体系を保持しているのは神楽がアリマス
年代的には6世紀以降ではなく2300年ぐらい前の匈奴関連の記述に出ている
346日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:17:06
>>343
もともと仏教と道教は習合しているから見えないだけ。
位牌に線香あげたりの形も入っているし、漢訳経典やラマ教系の経典を
使ってしまうと、タオイズム的解釈が入ってしまう。
蔵伝仏教でもゲルク派の教本を使わないと、空の理論が
老荘思想に解釈されていて、本来の龍樹が説いた即非の論理ではない。

陰陽道は、泰山府君という道教の重要な神を中心に置いているので
道教そのものだといってよい。
347日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:22:23
>>346
うん、それは密教系もそうだし、いろいろ入ってるよ。陰陽道は、暦や天文、易などその当時の
先端科学的なものとして取り入れられたのだろう。ただ、道観の築造をはじめとして、やはり公的
には拒否されていると思われる。
348日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:33:22
べつに拒否してないでしょ。
天台宗みたいな宗派がいっぱい持ち込んで
道教の神を祭ったお堂を作っている。
だいたい、法華経阿弥陀経理趣経はインドに原典がなく
法華経阿弥陀経にいたっては東アジア世界での創作だ。

阿弥陀経には救済思想が濃厚にあり、遊牧民がイラン世界から持ち込んだ。
仏教自体が、インド論理学が抜き取られて、老荘思想で再構築されたうえに
景教やゾロアスター教の思想まで注入されている。
教義としては、南梁の頃の仏教から大きく逸脱して、北魏の間に注入された
老荘思想が濃すぎるのが日本の仏教だ。
349日本@名無史さん:2010/11/28(日) 06:35:23
宗教学と経済学は歴史学徒にとって鬼門だからな
理解するにはそれぞれの思考法にどっふり浸かってみる必要がある。
神学の論理構造や複式での財の循環を把握することは
方法論が歴史学が違うからね。
350日本@名無史さん:2010/11/28(日) 11:53:32
>宗教学と経済学は歴史学徒にとって鬼門だからな

本来はこれを抜きにして邪馬台国や
倭人伝の解釈なんて無理なのにね。

351日本@名無史さん:2010/11/28(日) 15:33:22
>>349-350

日本の歴史学が(大学では文学に所属するように)文献学として存在して来たからでしょうね。
自然科学て言えば「理論科学」では無く「実験、実証科学」的な研究分野です。
文献学とは別系統と言える出自の考古学も日本では「実証学」的存在でしょう。
社会学、政治学、経済学、宗教学と関係するのは「歴史哲学」と言う分野の人たちですか。
津田左右吉、丸山眞男、大塚久雄とかが、その手の仕事をされていると思います。
352日本@名無史さん:2010/11/28(日) 19:03:08
>>351
君は何学なん?

考古学専門かな?
353日本@名無史さん:2010/11/28(日) 19:11:49
>我が国への道教の流入は極力抑えられていた節がありますが
 ↑
こういうレスは逆にイデオロギー的な歪を感じるね。

明治期の西洋文明の受容も思想からどっぷり浸かり
西洋の先達(tutor)から教えてもらい、ある程度体得して
座学のテキストを編纂できるようになるまで
取捨選択は全くしていなかった。選別をするようになったのは昭和初期以降。

6〜8世紀頃の日本も、理解してもいないものを、選択ゲートで選別していたわけでなく
シルクロード付近の遊牧民のように、まずはマネしてみてという柔軟性があったと思う。
選別をするようになったのは11世紀になってから。
354唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 19:18:07
>日本の歴史学が文献学として存在して来たからでしょうね。

卑弥呼が崇神時代と言われ続けたが、未だに正解を得ていない。
この間に考古学は文献史学の数字から50年遡上した。

4世紀前半、秋津遺跡。建物は、埴輪で整合性がとれる。
家屋文鏡の建物より後の時代と思われる。

史学の数字と考古学の数字、どちらが正しいか?
355日本@名無史さん:2010/11/28(日) 19:23:47
考古学が史学の数字におんぶしてんだろ。
356唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 20:33:16
少し前の時代は、崇神=卑弥呼で考古学と文献は同期していた。
つまり、纒向遺跡は3世紀中葉からであったが、
今の考古学は、纒向遺跡を2世紀後半からとする。
しかし未だに卑弥呼=モモソ姫=箸墓が大手を振っている。

箸墓と卑弥呼は近い(考古学の数字)昔は箸墓=3世紀末。だから卑弥呼と同期しなかった
現在箸墓=卑弥呼=3世紀中葉←現在の考古学。
しかしモモソ姫は遡上していない。
357唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 20:46:09
すこし違ったかな?
これまでの文献史学は百済本記に同期させるべく苦心してきた
七支刀369年東晉廢帝太和4年。この数字では書紀の肖古王とも百済本記の
肖古王とも同期していない。
同期しない以上神功の渡海も説明出来ない。だから、神功の渡海は否定的意見が多数を占める。
そして、新羅本紀は無視され続けている。
処が、考古学が50年遡上したことにより、新羅本紀と同期させることが出来る様になったが、
文献史学は、昔ながらの数字に拘り、新羅本紀を無視し続ける。
358日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:07:35
神功の渡海は否定的意見が多数←学術的にではないでしょ

それ以前に半タブー視して奇妙なほど触れないw
韓国の学者もそうw
359日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:15:47
文学部史学科ではなく、理学部史学科にしたらいいんじゃないだろうか?
360唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 21:23:23
>神功の渡海は否定的意見が多数←学術的にではないでしょ

七支刀が369年なら、私でも渡海を否定する。しかし
神功元年の「あづないの罪」が273年の日食であれば、(計算では神功元年は275年)
神功49年は、323年 東晋が洛陽奪回を断念した時期であり、東北方面が空白地帯と成る
神功51年 泰■四年■月十六日丙午=東晉明帝太寧4年5月16日で1日の違い
331年 好太王碑 辛卯年 高句麗は前燕に負け、領土を得られない。

>韓国の学者もそうw
数字の合う新羅本紀より、倭国を育てた立場に立てる、50年遅れた百済本記の数字を信じる。
半島の前方後円墳は無視され続ける。

秋津遺跡は、323年半島占拠の時代である。
361唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 21:28:55
磐余稚桜宮は、磐余茶臼山、の時代と重なる。
メスリ山古墳に副葬された大量の鉄槍は、徒軍の主力武器である。
362レス長たらし毘古:2010/11/29(月) 06:58:36
>>345
そこらへんですね。「非儒教的文化圏(中華思想的にはこれを前儒教的と言い
出しそうですが)」が中華地域北辺を「取り囲むよう」に存在している事から
鑑みて、それを単に「中華地域の儒教に対抗するため」に「後日に新しいもの
を」創出したと考えるより、「既に前提としてあった」統一文化が、「結果
断絶しながら残存した」と考える方が自然なような気もします。
>>346
古代〜中世日本人にとって、「道教からの入り口→仏教」の方が、悉く、
「解釈しやすい」という点が大きい要素としてあったかと感じます。と言う
事は、むしろ当時倭人の「前提素養」としては、(大陸ほど充分かどうかは
不明ですが)「道教的世界観」による「倭人分布域」における、宗教価値観・
生活価値観の「ある程度の共有性」が、仏教・儒教があろうとなかろうと
「存在した」と架空した方が自然に感じるのです。(あくまで個人的感想です
が)
つまり、あえてシンプルに言うと。記紀の江戸〜明治〜昭和解釈においては、
日本人分布域においては、当然のように「仏教以前はてんでバラバラな宗教
価値観・生活価値観だった」と言う風に想定されている現代日本人がほとんど
ですが、「仏教以前に、何かを共有する統一場な宗教価値観・生活価値観が
あった」可能性は、記紀のせいとおかげでほとんど語られる事はありません。
そこだけが残念です。
ゆえに、文献学・考古学のプロになればなるほど、「古墳様式の普遍」のみを
もって「統一日本の完成」という固定概念におちいってしまうのですが、勿論
「経済学的中央集権」のみを定規にした場合は、ほとんどそうかもしれません
が、「鬼道」を分析する上でで大事なのは、そう言った唯物論的な発想や思考
のみより、むしろ、唯識論的な発想や思考、もしくは格式・形式比較論、もし
くは、考古学上の法則外出土等で、傍証のジグゾーパズルを組み立てる方が
より近づけるのではないかと架空します。
363レス長たらし毘古:2010/11/29(月) 07:39:02
>>347-348(但し、現時点ではどちらにも荷担せず)
例えば、この板で先日来最近話題になっている「鏡」ですが、例えば「日本
独自の鏡」の文字の配列は、中国の鏡に比べて、漢詩的な韻を踏んでる・踏ん
でないという点を注目されている方がいらっしゃいましたが、それが「踏んで
ないから当時中国未然のイイカゲンな物」と取るか、「いや、当時は中古様式
にはなってしまったが、前様式としての一貫性はある配列だだったかも?」と
取るかによっても、見方がだいぶ変って来ると思う。
日本語と中国語は、少なくとも「古事記に記された前後の時代」は、基本文法
からして「違う」のだから、例え「真似る」にしても、どうしても「日本風」
になってしまうと思うのですよ。「前提も言語文法も違う」のですから。
少なくとも、「漢詩的な韻をふむ」ためには、文字数制限が限定された上での
文化形式なのですから、それでやると、「日本語(当時で言うと倭人語?)
は、あきらかに文字数過大」ですので、そっくりそのままは韻を踏めなくても
ある種当然と言えば当然なんですね、独自文化があるならばなおさらです。
これを、俺個人は「既に日本にも当時から独自一貫の文化体系があった」と
架空して楽しんでいるワケですが。空論200%ってワケでも無いんです。
364レス長たらし毘古:2010/11/29(月) 07:50:11
「記紀以前・仏教以前」に「魏志倭人伝の曰く鬼道」と呼ばれる「世界価値観
」があったと想定すると、むしろ、「記紀の神話時代表記」が、ある程度の
「合理的なストーリー」を発生させもするワケで。その合理的なストーリーが
発生するならば、そこには統一場的宗教価値観・生活価値観(慣習)・ひいて
は統治理論まですらが「あった可能性」という蜃気楼が浮かんでくるのです。
俺が記紀の神話要素の「あくまでもストーリー面だけ」を度々、分解したり
再構築したりをしてみているのは、あくまでもこの「あった可能性」の片鱗
を見てみたいからなんです。
脱線しましたが、結論だけ申しますと、現時点では、「ヒミコ鬼道要素」は
開化〜垂仁時代頃に、天照に融合した(その際、女性化もした:だからも
あっての@開化=女性説であり、A毘売時代の存在)可能性を想定してます。
その象徴的な表記が、「天の岩屋戸の逸話」と想定しています。但し、同時代
には、天照は「有無を言わせるほどの最高神」ではなかったとも思います。
(最高神であれば、先述の神功皇后の筒三神「&天照」等の、所謂「天照」を
後代並立挿入した可能性のアル記紀上の数箇所が、違和感大きいので)
出雲はスサノウ主神話体系・北九州は豊玉神話体系・近畿は中央九州(自己
申告による)あたりから移住してきた天照〜ニニギ神話体系・瀬戸内海東部に
残存する河内筒三神体系・紀伊は出雲の植民地の大国主神話体系、これらの
並立的分布における、ワン・ノブ・ゼムであった可能性が高いと考えます。
そう言えば、古事記によると、伊勢神宮は三輪山伝説より後の時代配置に
なっていたかと記憶していますが、ここら辺も関係あるような感じもします。
365レス長たらし毘古:2010/11/29(月) 08:11:23
>>353
道教後代流入説を主軸にすると、更に後代の平安時代に陰陽道が中流層で流行
する珍現象が充分説明しきれない感もします。むしろ前提として「最近珍重さ
れている仏教・儒教・漢学もあるけど、やっぱ日本古来(=道教日本土着版)
の方が懐かしくてシックリ来るからイイネ」という大衆嗜好があった上での
「反動」と考えたほうが、平安の陰陽道ブームが自然にすら思えて来ます。
あえてシンプルに言うと下図。

[支配者層]日本古来の神道体系→仏教流入推進→天皇教=鎮護仏教による国教
[被支配者層]日本古来の神道体系→仏教反動・非天皇教はどうする?→懐古的

上記と架空すると、日本古来の神道体系=何を懐古?=それが陰陽道ブーム?
とも想定できるのです。なぜなら、儒教なら中華風が強くなりますし、支配者
じゃないから鎮護仏教としての天皇教(平安前期)にも、支配者層ほどの見返
りも期待できないので忠誠心信心もそこまでは持てません。となると、被支配
者層としては、@儒教でも仏教でも異端とされている物、かA儒教より仏教よ
り古くて懐かしいもの、のどちらかに向う心境が自然な気もします。
366レス長たらし毘古:2010/11/29(月) 08:29:37
上記を踏まえた上で、三種の神器に関して架空を遊ぶ。

[刀]九州(女王国) [玉]九州(女王国) [鏡]九州(女王国)
↓スサノウVS天照
[刀]出雲 [玉]九州(女王国) [鏡]九州(女王国)
↓ニニギ等の「近畿争奪プログラム」by女王国
[刀]出雲 [玉]九州(女王国) [鏡]近畿大和の植民地争奪戦に使われる
↓植民地争奪戦の最終勝者が、結果的にニニギ系(&大国系)
[刀][玉][鏡]が、ヒミコ時代〜神功時代の間に、近畿大和がコレクション完了

こんな感じが、三種の神器的にもシックリ来るのは俺だけだろうか?
367日本@名無史さん:2010/11/29(月) 18:49:33
レス長たらし毘古さんて
ハンドルネーム「縄文人」氏とは別人?
似てるんだけど、違う気もする。
実際のところどうなの?
368日本@名無史さん:2010/11/29(月) 19:10:24
文献調査している領域がオーバーラップしている人っているね。
ホツマツタエは一人しかいないけど. . .
369メちゃん〜(>_<):2010/11/29(月) 20:36:54
今、この間、購入した○○が出版した本を読んでるんだけど・・・
なになに・・・ 

>【掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬】
>壹拜・・・掖邪狗等が何故、「一回拝む」のか?
>壹拜の「壹」は”国名”だ。
>「印綬」は”紙切れ”で銀印假綬とはランクが下がる

河童君、おめーの師匠アホだろ?wwwwwwwwwwwwwww
370日本@名無史さん:2010/11/29(月) 20:39:59
ドツボ=メがアホ
371日本@名無史さん:2010/11/29(月) 20:47:16
やはり、邪馬台国は中米ユカタン半島にあったマヤ文明のことだと思われます。
4世紀はマヤ文明の絶頂期にあたり、太平洋を渡り故国「魏」に朝貢していたのだと思われます。
マヤ文明の暦は、高度の天文の知識があるからこそ作られたわけですし、
マヤ文明と関係の深いアステカの「太陽の石」は三角縁神獣鏡を彷彿されます。
3000里という距離も誇張ではなかったのです。

http://www.jp-spiritual.com/maya1.files/taiyo_calender1.jpg
372メちゃん〜(>_<):2010/11/29(月) 21:26:10
邪馬台国畿内説の「文献史学」者

この学問を専門とする先生方で有名なのが、平野 邦雄、榎 一雄とかか。
で、少し調べたんですが、邪馬台国畿内説の文献史学専門としている先生では、
山尾 幸久、直木 孝次郎がいますね。皆知ってた?

山尾 幸久
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E5%B9%B8%E4%B9%85

直木 孝次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E
373メちゃん〜(>_<):2010/11/29(月) 21:27:02
知ってた?
倭国の実力者難升米と思われる
倭国の使者「梁職貢図」に描かれてる。

左図が冠をつけ、中国風の礼服をまとった百済の使者である。
右図が倭国の使者だが履物をはかず跣のままであるのは魏氏の倭人の記述を示すようで興味深い。

http://kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_8&uid=12461&fid=1...
374メちゃん〜(>_<):2010/11/29(月) 21:28:29
貫頭衣とは
ttp://www.weddii.com/kant.html

世界最古級の地図、混一疆理歴代国都之図
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoMap.jpg [画像をインライン表示]

弥生時代の祭祀で使用された「卜占」
ttp://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka3/b127.htm

歴史画家、安田靫彦の「九州の卑弥呼」「畿内の卑弥呼」(1968)
ttp://d.hatena.ne.jp/shiga-kinbi/20100925/1285371002
375メちゃん〜(>_<):2010/11/29(月) 21:33:52
銅鏡のレプリカを購入したい人は・・・

レプリカ専門店
ttp://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/index.html
文化財複製品・復元模造品・模型 文物工作商店レプリカ
ttp://www.shop-online.jp/bunbutu/index.php?PHPSESSID=4ceef1492ed61a6cf4646ddc9b353624

さてさて、もう遅いので寝ましょうかね…
376日本@名無史さん:2010/11/29(月) 21:44:16
子飼いの弟子をスカイプで呼び出すのですね。わかります。
377日本@名無史さん:2010/11/29(月) 22:10:19
俺的には 
TARO・ローガン・どくだみ? の邪馬台国位置論に期待してる
378日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:14:28
プラム♪ プラム♪ プラム♪

http://mimizun.com/log/2ch/history/1142344411/
379日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:57:56
プラムは不要。
380日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:29:31
>>362
>中華地域北辺を「取り囲むよう」に存在している
跳神ならば、青海, 西蔵, 四川, 雲南, ミャンマーの西南へ伝播している。
北辺のシャーマニズムにアニミズムが結合して
霊の憑依の仕方が北辺とは違うらしいが、跳神がシャーマニズムであることは変わらない。

>>365
陰陽道が流行?
法然や親鸞がそのころの庶民の信仰をどう書いているか調べればいいよ。
381日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:34:58
>山尾 幸久、直木 孝次郎がいますね。皆知ってた?
山尾は放射説、直木は短里を事実上認めているね。皆知ってた?
382日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:43:44
>>381
へぇ よくご存知ですね。
おりゃ山尾・直木信者じゃないので知らんかったw


383日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:58:05
だろうね。畿内説論者は本を読まないから。
384日本@名無史さん:2010/11/30(火) 01:30:53
鬼ってのは支那では、死んだ人間のことなんだけどね

漢字のなりたち的にも籠に入った人間で、埋葬された人間の姿を現してるし、
仏教の餓鬼も、原義でのインドの意味は、死んだ人間の幽霊のようなものが想定されていて
それを意訳したものと思われるんだよね

そこからして、鬼道て、恐山信仰みたいな形態のもんじゃないの?
あるいは支那人にはそうのように見えたということじゃないの?

385日本@名無史さん:2010/11/30(火) 01:43:22
そんなに急いで解釈する必要もねーし
一ヶ月ぐらい黙って考えればいい。

だいたい儒教も、唐以前の解釈の復元について
学者によってブレがあるんだから。
386レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 07:29:50
>>367
縄文人さんという方がどういう方かすら、あまりよく知りません。俺、ニヶ月
前に来ただけですし。こちらも、誰も言わない突拍子な話だけをしているワケ
でも無いので、多少パーツによっては誰かと被る場合もありうるかと思い
ます。
>>368
> 文献調査している領域がオーバーラップしている人っているね。
限られた文献からのアプローチの場合、ある程度読み進めれば、解釈論の違い
だけになってきますからね。その傾向はあると思います。だから、場合に
よっては「新しい(と思われる)資料」に関して、どうしてもアレルギーが
生じてしまいますね。それゆえ、矛盾の大きさによっては「その資料は全く
信憑性が無い」とするのに過剰に躍起にならざるをえません。
俺個人は、そういったどこぞの学閥権威にも属していないので、割とフリー
ランスで発言したり変説したりできますが、お立場によってはそうも行かない
場合もあるかと察しますので、ほとんどの説を頭から否定する事はあまり興味
ありません。ただ、よっぽどおかしいなと思ったら、所々指摘してみるダケ。
>>371
マヤ文明そのものと考えるのは、少し違和感を覚えますが、マヤ文明との共通
要素的なアニミズムは、諸所感じますね。マヤと言えば、当時としては優れた
歴法や優れた測量術なども挙げられますし、太陽信仰等のあり方も少し違和感
を覚えます。また、占星術・太陰暦・太陽暦等、天文観測的アプローチ形態も
これも双方では少し違和感を感じます。それらの点は邪馬台国に共通項は
あまりお見受けされません。そこら辺はどのようにお考えか。
>3000里という距離も誇張ではなかったのです。
中国春秋戦国時代の資料によると、燕国から辺境に至るまでが2000里と言う話
でもあります。短里説・長里説等、多少幅はありましょうが、3000里で、はる
ばる中南米まで至るのも、ジョン万次郎の件もあるので不可能とまでは思い
ませんが少し難しいと個人的には思います。それに行くはいいけど帰ってこれ
なさそうな気も。。。アステカの太陽の石って、何となく日本人の感性として
見ても、確かに違和感は無いですね。但し、邪馬台国の時代に、まだアステカ
は無かったような記憶。。。
387レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 07:45:08
>>374
> 弥生時代の祭祀で使用された「卜占」
ttp://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka3/b127.htm
まさしく、そこらへんが「鬼道」的には争点です。今その方面で古代中国史を
学習中。
>>380
>霊の憑依の仕方が北辺とは違うらしいが、跳神がシャーマニズムであること
>は変わらない。
西王母も老荘も儒教視点から見れば「鬼道」なので、もし、それと明らかに違
うものなら敢えて「鬼道」とは呼ばないと思うんですよね、魏志倭人伝を記述
したのは、中華のエリート官僚さんなんだから。「鬼道」と明らかに違う物を
「鬼道」と分析解釈してもしちがったら自身の首に関わると思いますし。
> 法然や親鸞がそのころの庶民の信仰をどう書いているか調べればいいよ。
俺は頭が悪いのでもっと具体的に言ってくれないとご指摘の争点が今一わから
ない。一般人と支配者層との対立概念で考えれば法然・親鸞もわかりますが、
その両者必ずしも当代の知識人界で充分評価支持されていたとも言い切れませ
ん。勿論護国仏教に納得行かない一部はそちらにも向ったでしょう。同様の意
味合いでその時陰陽道をとった連中も多くいたという点が提起した内容です。
つまり護国仏教がカバーし切れない要素が「何であったか?」に関して、具体
的に何がどうというのを争点では無く、その要素が「反動」である可能性を
論じているのに、しかも当時の支配者層知識人に必ずしも全面的には支持評価
されていない法然親鸞を持ち出すのは、些か時代的に早計かと思われます。
法然親鸞が「一般的」になるのは、まだまだその後の早くても鎌倉・室町時代
と想定していますが?つまり、平安中期においてすらまだ「一新興宗教に過ぎ
ない」という定義想定ですがこれで大きな齟齬がありますか?
>>384
>そこからして、鬼道て、恐山信仰みたいな形態のもんじゃないの?
ええ、ですからその「恐山信仰みたいなもん」が何故日本各地に沢山あるか?
と言う話なんです。一応、中世中華人も「鬼道」はある程度定義しています
ので、その意味では「何でもかんでも鬼道」というよりかは、「このような物
は鬼道」という言い方になるはずです。但し漢代・三国時代においては、まだ
その限りにまで至っていたかどうか?は確かに疑問ですが。
388レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 08:17:22
>>384(387続き)
言いたかった事は、「怪しい(中華からは理解不能)な宗教」を全て「鬼道」
と言った可能性よりも、「当時中華でもこれは鬼道(に近い?)」という物を
指して魏志倭人伝の筆者は「鬼道」と言っている可能性があると言う事です。
なぜなら「鬼道」と当時言ったら、西王母や老荘思想や道教とも深く絡む
「政治用語」「学術用語」でもあるからです。場合によっては当時の「政治
問題」や「学閥の教義論」までに、簡単に充分に発展する要素がある用語
です。現に前代の秦の始皇帝は焚書坑儒を行い、漢はその反動で「儒教要素」
を国学レベルにまで引き上げました。その意味で、魏志倭人伝が書かれた三国
時代には「鬼道的要素」の解釈は、ある程度「狭義」で「具体的に指定する
要素」を既に持っている言葉ではありましょう。場合によっては儒教が「否定
している要素」ですらあるかもしれません。魏志倭人伝が書かれている時代の
「鬼道」という言葉は、必ずしも「〜〜以外の何となくここらへんの物」と
言う漠然とした概念ではなかった可能性が高いです。
で、そのような既に概念がある程度固まった「鬼道」と言う言葉で邪馬台国の
女王の「宗教権威的方法論」を敢えて説明しているという点が重要です。
例えて簡単に言うと、今の現代日本で「あの国は軍事政権だから」と、某国を
説明する為にその言葉を用いたらその「軍事政権」と言うのはいかなる物か?
という話。日本もかつては経験した話でもあるしわざわざそう定義するなら、
それなりの確信や覚悟や疑いない物があると考えて見るべきでしょう。間違っ
て「軍事政権」でもない物を「軍事政権」と評価説明したら、いろんな所で
矛盾が生じてきます。「鬼道」は、そのくらいの意義深く、ある程度狭義に
しか解釈できない言葉と考えるべきだと思うのです。
389日本@名無史さん:2010/11/30(火) 09:27:02
そうですね、「鬼道」の使われ方を考察すると素人目にもそのように感じます。
陳寿の著作スタイルから考えると、一度説明したものは再び詳述しないと思われます。
それならば、他の書、伝で説明を加えたものに定義に近しいものを見出せるかもしれません。
もしくは、そうではなくシャーマニズム系宗教の言い換えがたまたま卑弥呼と五斗米道に使われたのか・・・。
390日本@名無史さん:2010/11/30(火) 10:49:12
>>387
すげー曖昧な知識で書いてる感ありありなんだけど・・・。
せめてウィキぐらい参考に見てこいよ

鎮護国家としてとりいれられた仏教だけど
平安京遷都でかなり政治の世界から遠ざかった。
さらに、伝教、弘法の両師によって既存の法脈によらない新たな勢力ができて
南都北嶺と仏教権威が相対化された。
で、未完成だった天台宗が、逆に思想的に発展することになり
民衆に広まった鎌倉新仏教の開祖たちを生む土壌をつくった。
その鎌倉の立宗ラッシュの鏑矢となったのが法然。

ちょっと話がかわるが、浄土教の流行はさらにさかのぼれる。
恵心僧都のころまで。彼の著作、往生要集は地獄絵図で有名。
中国に渡り、向こうの仏教界にも思想的な影響を与えた。
当時世界的に共通しているが、日本でも世の中が乱れ、
それにあいまって末法思想がはやり、貴族たちは寺院を建立し臨終の往生を願った。
一方、民衆にも広まりを見せていた。空也が踊念仏で
功徳をつまくとも、必死に念仏をとなえれば救われると説いた。
そういう流れの中に法然がでた。

九条兼実も信心篤かったが、お金も修行のヒマもない民衆も救われる教えということで
草庵に貴賤をとわず多くの人が集まった。
そこに旧仏教勢力が危機感を感じ、問答がおこり、
ついには、朝廷を動かし、、民衆をまどわすとのことで、念仏禁止令があり
法然は配流となったわけだ。
391日本@名無史さん:2010/11/30(火) 11:22:12
>>387
霊山信仰は古代までさかのぼれるよ
人の魂が山に集まってくるから、そこで先祖の霊と交信できるという理屈が成り立つんだろ?

高野山や四国の例を見てもわかるように、霊山信仰はのきなみ仏教とりいれてるしw
土着宗教だけど、新しいものをわりと節操なくとりいれてるね
最近だとムーにでてくるようなお話が土着宗教に入るんだろうなw
言葉と同じで、系統分類より比較分類したほうがいい分野なんじゃないかねえ
結局、クレオールといったほうがよいものなんだから


そうや、老荘思想、道教思想とからんでくる話だが
仙人、俗人という漢字からして、向こうにも霊山信仰はありそうだね、向こうだと泰山あたりかね
五山の認定は唐代に入ってだろうから、三国時代は知らんけどね
山に住む人は不可思議で知恵に富んでいると見て
山あいの谷に住む人は世間一般の知識しかもたないと見る。
どうしてそういう意味になったのか根拠は不明だけど、
谷に住む農耕民がどうやって生計立ててるか不明な山暮らしする人に憧れちゃったということなのかね
幽という字も、山間に立ち上ってる晴れない霧の様子を表してるし
神秘的な雰囲気を醸し出してるよね

あと、三国時代に、二字熟語のようなタームづくりはされてないよ
二字や四字に言いたいことをまとめるのは向こうの人の美意識で熟語じゃないし
392日本@名無史さん:2010/11/30(火) 12:11:59
また、九州説の変わった糞スレが立ってるなー。
393日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:02:42
あれっ、邪馬台国は九州で決まったでしょ
もう大和説論者は絶滅危惧種じゃないの?
394日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:05:27
九州?ねーよw
395日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:07:13
どうやらそのような流れのようですね。
九州スレが増えるのはごく普通の流れでしょう。
396日本@名無史さん:2010/11/30(火) 14:11:10
>>392
アスペルガーっぽいスレ主だぬ
397日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:37:35
"誇りを持て、邪馬台国九州説"
。・゚・(ノ∀`)・゚・。 イタいスレダナー
398縦目仮面:2010/11/30(火) 18:50:01
レス長たらし毘古さんのレスは読もうと思ってtryはするんだけど、やっぱり
途中で挫折してしまう。もう少しまとめてくれたら・・・。
399日本@名無史さん:2010/11/30(火) 19:21:36

年輪年代法は100年狂っている事は法隆寺の五重塔の年代を590年前後とした事で明らかになっている。
炭素年代法は弥生時代開始をBC1000年とした事で間違いがはっきりしている。
そして奈良文研と歴博は共同捏造グループなのだ。
光谷も春成も同じ人間から研究をするように指示されて研究を始めた。
春成は同じ畿内説の学者からも支持されていない。
http://blogs.yahoo.co.jp/yhojo_6261/1810784.html

年輪年代や炭素年代は無視して、中国や朝鮮の遺物との平行関係を重視して年代を決めなければならない。
畿内説の年代観は100年以上狂っている。

古墳時代の開始は4世紀半ばだ。
従って、箸墓が卑弥呼の墓である可能性は全くない。
400日本@名無史さん:2010/11/30(火) 19:29:33
2〜30年前までは箸墓が4世紀半ばの墓と言うのは通説だったんだがね。

中国の文献が箸墓を見て後円部だけの大きさを書く筈がない。
周濠も含めた200歩余りと書く筈だ。
ところが畿内説の馬鹿学者どもは文献的に不利なものだから、考古で逆転しようと
(考古でも鉄器の多さではるかに九州に劣る事を隠蔽するために)年代捏造を始めた。

哀れだね。畿内説。
401日本@名無史さん:2010/11/30(火) 20:04:15
日本書紀に「箸墓はモモソの墓」と書いてある以上、
箸墓はどうみても、卑弥呼の墓じゃないだろ。

箸墓から「親魏倭王」の印でも出土したら、
はじめてそう主張できるだろうが(つまり、モモソ=卑弥呼と)。
402日本@名無史さん:2010/11/30(火) 20:04:51
と愚痴っていたってしゃーないだろう。
2〜30年前までは、って噛み締めてどうする? イタイ光景だね。
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/30(火) 20:23:23
伽耶(任那)の建国は209年である。

541年 伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で新羅に降る、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
西暦210年は崇神世になる。

崇神 188年〜216年
新羅192年(後漢193年?)崇神5年 冷夏 凶作 餓死
193年 崇神6年 民の離散。弥生後期後半、各地の遺跡が衰退する(民が居住地を放棄する)。
四道将軍 騒動未止を目的とし、各地に派遣される、結果は異族多帰。畿内安穏。
=2世紀末、各地の土器が纒向遺跡に集まる。
209年 崇神58年 任那建国。

文献史学は崇神を2世紀末となかなか認めないが、考古学は2世紀末の年代を正しく認識している。
文献と考古学を合致させる数字は他にないだろう。
つまり 現箸墓(250年頃)がモモソ姫と重なることは無い。

年輪年代が100年狂っているなら、崇神を100年後の時代で合わせられなければ成らない。
404日本@名無史さん:2010/11/30(火) 20:36:54
誂うという言葉がありますね。
その言葉は、加羅買う。
平野の殆ど無い、港もない荒地。あんなモノ買うやつはどこにもおらんとじゃきに。
405レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 21:35:15
>>390
で、その法然・親鸞のどこが邪馬台国と関係があるのか?そちらからの提起は
全くなし。卑弥呼の鬼道といつ絡んで来るのか、待ってた方がいいのか?それ
とも放置した方がいいのか?
先述どおり、鎮護仏教以外の受け皿の一つに浄土宗も挙げれる点はこっちも
全く否定していないが、それ以上の、鎮護仏教や中華知識の流入によって抑制
された在来の日本人特有の「それ以前の宗教的要素」の反動として法然・親鸞
と言う点は、全く説明されていないようだが?
自分が好きなジャンルの教義論争をしたいだけなら、相手する気ないよ。
邪馬台国と結びつかない話で教義論争するほどはヒマじゃないし。こっち。
>>391
メジャーなのは山岳信仰などとの関連ですね。農耕と中央集権によって、所謂
野と原との民族は、結果的に天皇教・仏教カルチャーを導入されていきます
が、海と山の民族はそれに対して、やや放置され、結果として「在来宗教性」
が各地に残存したとも考えられますね。山は狩猟・海は漁猟と、所謂農本的な
天皇教や殺生忌避の鎮護仏教体系からは特に改めて規定する必要が無かった
とも言えましょう。なので、残存して残った物があるとしたら、それは天武
〜聖武の頃の鎮護仏教以前の日本人の宗教的要素を昔のままの(に近い)形
で伝えている部分もある程度あるかと思います。
魏志倭人伝の晋(魏)は、鬼道と呼ばれた五斗米道と何十年も対立し、やっと
こさ吸収して支配下においた経緯があります。なら、女王国の女王の用いる
鬼道と言う言葉に関しても、五斗米道と何らかの関連要素があると考えた方
がいいでしょう。五斗米道の鬼道をやっと恭順させた直後なんですから。
つまり、魏志倭人伝の筆者にとって「また五斗米道みたいなもの(=鬼道)が
今度は東の倭人の地域に現れた」となるわけです。これは当時の晋の役人に
とっては「鬼道か鬼道でないか?」は、カナリ正確でないと首にかかわるで
しょうね。
406レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 21:49:21
>>398
つらいようなら、トライしてくれなくても構いません。ほとんどは「傍証の
ためのツールと架空」ですから。
結論だけ言うと、これも繰り返しになるが、「邪馬台国は九州北東部。卑弥呼
はモモソ毘売(=開化天皇)」ってだけの話ですから。ただ、確定的では読む
人も俺も面白く無いだろうし、傍証を示さないと単なる不遜と取られる誤解を
避けたいので、ここでは「邪馬台国は瀬戸内海のどこか。卑弥呼はモモソ毘売
時代の誰か」と幅広くアプローチしてみているだけですし。
>>400
むかーしは円墳だったんですよ。で、方墳部分を前方後円墳の全盛期に継ぎ
足した(これは近畿説の場合)。九州説の場合は、沙本の乱以降、古墳全盛
時代前半に東北九州(そこでは円墳)から巻向(その時に前方後円墳)に移築
した。
407レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 22:12:38
さて今回は、国粋派から毛嫌いされている殷・周・春秋戦国の人物と古事記の
人物との比較を開始したいと思う。
まず、殷と周の歴代皇帝(始皇帝が出現するまでは王と呼ぶべきか)のお名前
から。
[殷]
太乙(湯)→太丁→外丙→中壬→太甲→沃丁→太庚→小甲→雍己→太戊
→中丁→外壬→河亶甲→祖乙→祖辛→沃甲→祖丁→南庚→陽甲→盤庚→小辛
→小乙→武丁→祖己→祖庚→祖甲→廩辛→庚丁→武乙→太丁→帝乙
→帝辛(紂)
[周]
(文王)→ 武王→成王→康王→昭王→穆王→共王→懿王→孝王→夷王→脂、
→(共和)→宣王→幽王→平王→桓王→荘王→釐王→恵王→襄王→頃王→匡王
→定王→簡王→霊王→景王→悼王→敬王→元王→貞定王→哀王→思王→考王
→威烈王→安王→烈王→顕王→慎靚王→赧王→(昭文君)

さて、まず漠然と比較して頂くだけでも、ある事実に気が付くだろう。そう、
それは、「周の王の名前」は「天皇の名前でもよく使われている漢字」で、
かつ「古事記でもよく使われている漢字」ばかりなのだ。ところが、殷の漢字
は、天皇の名前にも、古事記にも、あまり(と言うか俺が調べた限りでは
ほとんど)使われていない。
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/30(火) 22:16:44
>(考古でも鉄器の多さではるかに九州に劣る事を隠蔽するために)年代捏造を始めた。

箸墓の巨大さは、鉄器が無くては造れない。
であるならば、任那以後であり、大王の墓と考えるなら、景行による九州そして関東までを
領地とした年代になる。
任那が210年であれば、景行の死亡は260年頃である。
この頃、壹與の時代
大倭は伊都国に一大率を置き、諸国を検察する。これで熊襲も簡単には背けない。
409レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 22:31:22
あと、上記に付随して、他に「祟」と「蘇」の字も探してみた。(偏った探し
方である事は先に言っておきます)

崇:周の有力武将の家系に「崇」姓の人あり。(封神縁起でなじみのあの人)
蘇:燕国の中興の祖の昭王の軍師に「蘇秦・蘇代」の兄弟がいる。(「代」の
字が何かに似ている。そう「我」に似ている。。。)

神仙にでもたぶらかされたかのような、この奇妙な一致は何だろう。。。?
と言う所で、今宵はみまかろうと思います。あとは、うつろに生返事します。
(ああ、桃が食べたい。。。)
410日本@名無史さん:2010/11/30(火) 22:36:25
>>405
別に首なんてとばないだろ
地理からしていいかげんなんだから
皇帝にさえ、不老不死の薬があるとすすめて、水銀化合物を食わせる人たちが
ものごとの詳細を吟味する能力があるとは思えないなぁ
鬼道が文字通りの意味なら、そこらへんの霊感商法となんらかわりない宗教だろうが。
それ以上に深い意味があるとは思えんな
霊を格付けして道教という形まで体系化されてる時代じゃないし、
きわめて漠然としたもんだろ
五と米道、太平道も同じだって

五と米道の教祖の子孫、今台湾にいるよな
411日本@名無史さん:2010/11/30(火) 22:40:31
>>399

その春成批判をやっているリンク先のブログ主は、北条芳隆だね。
しかし、北条は他方で、こう主張しているんだよ。
読んでみなさい。

---------------------------------------------------------------------------

 時間と空間および歴史の所有をめぐる両極性
   −沖縄・大和・北海道の対比から−

               東海大学文学部歴史学科考古学専攻 北條芳隆
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/arch/pdf/jikukan-ryokyoku.pdf
(以下引用。9ページ)

5.「大和」原景観の誕生

前方後円(方)墳の空間配置

 西暦3世紀の後半に巨大前方後円墳は誕生する。舞台は奈良盆地の東南部である。そのときここで何が誕生したかといえば、前方後円(方)墳を活用した独特な空間配置であった。
図10に模式的な俯瞰図として示したのでご覧頂きたい。右下に大きく示したのが最古の巨大前方後円墳である箸墓古墳であり、『魏志倭人伝』[石原訳1951]に記載された卑弥呼の墓ではないかと指摘される。……
412レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 22:52:50
>>391
あ、先ほどいい忘れていたので、これに対する返答だけ。
> あと、三国時代に、二字熟語のようなタームづくりはされてないよ 二字や
>四字に言いたいことをまとめるのは向こうの人の美意識で熟語じゃないし

それはその通り。二字熟語の中華での概念、日本での概念は、両方とももっと
あとの時代になるという認識は了解済み。ですので、別の人に対してですが
おなじく「387」にて
>但し漢代・三国時代においては、まだその限りにまで至っていたかどうか?
>は確かに疑問ですが。
と付記しておきました。「確定的に二字熟語の概念が魏志倭人伝時代の中華
地域にあった」とは思ってはいないよと他の人に対してですが一応表明して
おきました。
二字熟語概念が充分に確立していない前提なら「鬼道」という単語時代の
教義性は確かに薄まる事は認めます。それを狭義な言葉と判じるには、あく
までも魏志倭人伝(或は同時代同地域書物)での「鬼道」の使われ方との比較
検証が必要ではありましょう。
413日本@名無史さん:2010/11/30(火) 22:56:12
明帝は倭の水銀飲んで死んだのか?w
238の6月に倭の使いが半島にきて(その後都に来た?)
238の12月に体調不良、方士の薬飲むが「治らん」と切り殺す
239の1月そうそうにぽっくり。
414レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 23:02:13
>>410
>別に首なんてとばないだろ
ま、確かにそこら辺は、部下自身のモラルや、君主の寛容さ(あるいは間抜け
さと言うべきか)にもよるだろう。ただ、一応「上司への報告書」と考えた
場合「例えいい加減な報告」だとしても、「後で矛盾がばれても言い訳できる
体裁」くらいはまとめるでしょう。
同じ体制の王朝が、チョット前にさんざん悩まされて、やっとこさ恭順させた
「五斗米反乱軍」と「同じ(似たような)アヤカシの術を使うやつら」が、
海を渡ったすぐの「倭人分布域にいますよ」と言う報告書なんですから、どこ
まで「権威に準じて正確に報告しなければならない筈」かは、組織人を一回
でも経験した人ならご理解いただけると思うが。。。
415日本@名無史さん:2010/11/30(火) 23:04:34
そういう安易な類推はよくないと思うが。。。
416唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/30(火) 23:07:19
>>411
なかなか良いことが書いて有る。
>半農半漁民の社会は積極的に文字記録を残さないとみるべきであろう。その意味において水稲農耕民は、
歴史を所有する民としても宿命づけられたといえるのではあるまいか。

倭人伝に記載された倭人は、半農半漁の松浦方面の風俗であり、文字を持たないが、畿内大和は農業国であり
文字を持つ。

>農耕民は特有の時間の観念を生み出した。それは量産される死者の埋葬を反復的に累積させる営みの過程で
生じたものと考えられる。

書紀の時空が長すぎても、太陰暦で表記されて居る以上尊重せねばならない。
417唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/30(火) 23:12:12
この事から、
農業国の鬼道とは、先祖の祀りである。
そして、景初3年、正始元年銘は、畿内の朝貢の年である。
418日本@名無史さん:2010/11/30(火) 23:14:41
唐松山、かっちょええ。
419日本@名無史さん:2010/11/30(火) 23:15:32
>>418
そう、見事なレスですな。
420レス長たらし毘古:2010/11/30(火) 23:19:08
ムニャムニャ、夢の中。

燕の蘇代(かその子孫)→出雲大国神話
周の末裔(もしくは亜流・もしくは詐称)→大和ニニギ神話
邪馬台国→豊玉伝説そのもの(但し記紀で大幅改竄される前の姿)→天照神話

ムニャ。。ガバッ!(ノ;T(エ)T)ノ ク、クマソが攻めて来るクマー!!
421日本@名無史さん:2010/11/30(火) 23:35:31
>>411
北「條」だったぞ
で、読んでいくとこんなことが書いてあったぞ。終わりの方

>たとえば西暦3世紀の後半に倭王権が直面することになった喫緊の課題は、
>魏王朝の構築してきた歴史とどう向き合うかであった。この時点において高
>度に抽象化された時間表示装置をそのまま受け入れることは、王権としての
>政治人格の放棄に直結する。そのため相当強引に政治「始祖」を創出するこ
>とで当面の危機をしのいだのであろう。その強引さは『魏志倭人伝』の女王
>卑弥呼の埋葬記事に端的にあらわれている。そこには「殉葬者奴婢百余人」
>と明記されているからである。多大な犠牲を強いて政治「始祖」を誕生させ
>る前方後円墳祭祀が考案され、以後一定期間累積的に反復させたとみるべき
>であろう。
422日本@名無史さん:2010/12/01(水) 00:40:42
お前らの中学の時ってどうだった?

市販問題集を無断でコピー「著作権違反」山梨−昭和町立押原中学校

http://www.youtube.com/watch?v=xy-zXpI0M30

普通 逮捕じゃね?
423日本@名無史さん:2010/12/01(水) 00:48:42
浄土思想はゾロアスター教由来で、もっと古くはミトラの救済思想。
中原にそれを持ち込んだのは4世紀の鳩摩羅什。
おそらく阿弥陀経は西域亀茲国の創作経典で
流行地は敦煌や涼州までだったが4世紀に東アジアへ入ってきた。

ところがステップ気候のモンゴル高原を経て4世紀新羅に浄土思想は先着していた。・・・とも考えられる。
4世紀の出雲と新羅には文化の共通性が見られるため、何らかの交易が行われていたであろう。
出雲神楽にゾロアスター教由来の救済思想が、ありはしないだろうか?

文化の伝播は、中原の洛陽を経由しない北辺や西辺のルートがある。
鬼道に関しては、そのような北辺ルートによって伝わった文化である可能性も探ってみるべきだ。
424日本@名無史さん:2010/12/01(水) 04:34:03
>>399
>古墳時代の開始は4世紀半ばだ。

これは理由を書いてくれませんか。
あなたは何を根拠に、古墳時代の開始を「4世紀半ば」と決めることができたのですか?
425レス長たらし毘古:2010/12/01(水) 07:32:45
>>417
中国の古代の伝説の夏王朝において、三皇のうちの神農さんがいらっしゃい
ます。これは歴史的には神話上の人物として実在性は薄いと言われています
が、仮にこれが中華〜山東〜安寧あたりに実在、もしくは神農伝説の生じる
ような人物・歴史現象があった場合、その地域は朝鮮半島〜出雲北九州を
挟んで、近畿(及び東日本)と対峙する位置関係になるのです。なのに、神農
さんは結構日本にも昔からなじみの神様だったりする。ここらへんが面白い。
>>423
浄土思想は門外漢なので、気になった点だけ指摘する。4世紀では卑弥呼の時代
から100年も後なので少し遅いのでは?あと、出雲と半島との関係性は、何も
ゾロアスターを持ち出すまでも無く、古事記の少名毘古の逸話で問題無く描写
されています。そして、その少名毘古こそ、蘇我(=蘇代、もしくは蘇代の
子孫)の可能性、こちらはそう言う筋です。
浄土思想が早くて4世紀には日本に到達しえたという可能性は理解できますが、
だとしても「卑弥呼」の時代に倭人分布域(の少なくとも支配者層)で一般的
だった神権慣習だった物(魏志倭人伝によると、これが鬼道)よりずっと後に
日本に入り、しかも一般流行は親鸞を待ってからと言う話でもあります。卵を
温めてて10年経ってからヒヨコが産まれて来たような、時系列的に少し離れ
すぎなような気もします。
426レス長たらし毘古:2010/12/01(水) 07:56:10
(大国主・_・)「渡来した神様、あなたのお名前は?」
(蘇代系・_・)「蘇(ソ)なのじゃ」
(大国主・_・)「ソ、それは(名前としては)あまりに短い(少名っ!)」
(大国主=_=)『ふむ、何か可哀想な経緯な神様に違いない』←優しい!
「よし、ここ(出雲)でのお名前をあげましょう。『THE少名毘古』はどう
ですか?カッコイイ名前でしょ?まあ、長居してって下さいよ」
(蘇代系・_・)「わーい、ありがとう。んじゃ、いてやるよ♪」
↓ 時 ↓ は ↓ 流 ↓ れ ↓
(蘇我系・_・)「あれ?ひょっとして、今なら太子と組んで天下取れね?」
427日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:15:02
>>423
浄土経典は初期大乗だよw
紀元一世紀年代には存在が確かめられている
たしかに仏教が支那に流入したのは後漢末、西北インドを支配したクシャン朝を通して
西域からだが、初期においては浄土思想は主流ではない。
もっぱら、観音信仰が民衆に広く受け入れられている。
また当時の大乗においての二大潮流は、部派仏教の系譜をもつ瑜伽行派と、般若経典類を依拠とする中観派で、
東アジアでの浄土思想の興隆は、曇鸞までまたなければならない
日本においても聖徳太子が解釈した三経典は、法華経、勝蔓経、維摩経で浄土思想の痕跡は見られない。
428日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:42:49
>>425
夏王朝に三皇はいないだろ
三皇五帝時代のあとに、夏王朝がはじまるんだから

なんらかの言い伝えは残ってるんだろうが
これは、在来民族の歴史だろうよ
伏羲、ジョカは蛇の神で、縄で文字を伝え、かつて中原にすみ
長江へおいやられていった人々で、弥生系民族の先祖の一つには当たるんじゃね?

これ書いた司馬遷は紀元前2世紀の人間でどこまで古層を伝えているのか知らんが
弥生系民族の日本への移動は、紀元前1000年から紀元前後まで連続的につづく

日本語がタミル語に近いとする説もあるくらいだし、チベット人との血の近さも指摘されている。
北方民族の黄河文明の南下と、南方系の分散が
支那世界観の広がりの歴史だろ
429日本@名無史さん:2010/12/01(水) 11:55:39
チベット人は南シベリアから来た北方牧畜民族であって古層ではなく侵入者だぞ!?
430日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:02:47
こいつチベット出す時点で「騎馬民族征服説」だわ>>428
431日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:37:04
へー

モンゴロイドは、寒冷地に順応した人種だから
シベリアで生まれた人種ではあるだろうね
でも、チベット人の遺伝子には、東漸してきたD系統が含まれているのは事実だよ

おまえの知識のなさにあきれた
432日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:40:58
その北方系って日本にどれぐらいいるん?
433日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:43:54
>>432
チュルク、モンゴルもD4が過半数
日本もD4が最大党派
ウズベク、ウイグルはF2なので全く別系統
434日本@名無史さん:2010/12/01(水) 13:22:33
D4? いちおY染色体のお話なのですが…
435日本@名無史さん:2010/12/01(水) 13:38:01
ヤマトもイズモもエミシも北方騎馬民族征服王朝でヨロ
436日本@名無史さん:2010/12/01(水) 13:52:22
話もとにもどすけど、鋼の錬金術師ってアニメけっこう裏とってるよな

錬金術、錬丹術など、不老不死を研究する思想ってかなり古い
賢者の石が赤いってのも丹てところからも東西に共通した知識だったってことがわかる
禅宗とりいれて、のちに内丹術へ、日本に入って丹田といった武術へも影響あたえる。
437日本@名無史さん:2010/12/01(水) 15:57:40
江南弥生論者が、異質な北方騎馬民族征服説をませまぜしてるので
晒しageしたくなったぜ
438日本@名無史さん:2010/12/01(水) 17:10:15

低能在日発見
439唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/01(水) 19:17:44
>>421
思考の始まりは、しっかり考えて記述されるが、間違いの思考と整合性を得ようと
最後はグズグズになる。
その良い例かも知れない。
@ >相当強引に政治「始祖」を創出することで当面の危機をしのいだのであろう。
A >卑弥呼の埋葬記事に端的にあらわれている。そこには「殉葬者奴婢百余人」
B >多大な犠牲を強いて政治「始祖」を誕生させ る前方後円墳祭祀が考案され、

@ 神武元年が西暦42年であれば、弥生中期を後期に変えた圧力があった。
ここで、自分の思考「その意味において水稲農耕民は、 歴史を所有する民としても
宿命づけられたといえるのではあるまいか。」と齟齬を生じて居る。
A 「殉葬者奴婢百余人」これは、魏書の記事であり、倭人は拘わっていない。
北九州の墳墓でも殉葬者十名程度であり、半島の東夷の風俗の可能性が有る。
また正始元年に大和を訪れた魏使は、ホケノ山を見た可能性が大きい。
しかし九州の女王は過去の人物と成った248年?には、卑弥呼の墳墓を見ていない
可能性が有る。墳墓の記事は想像であろう。
B 古墳は240年時点でホケノ山まで築かれており、前方後円墳の考案とは関係無い。

箸墓をモモソ姫の時代として、モモソ姫を否定して卑弥呼の墓とする。
モモソ姫と同時代なら、崇神五,六年の記事を考古学で証明すれば良いが、まだ誰も
証明していない。つまりこの様な出来事は247年頃には起きていない。
そして、伽耶(任那)の建国もこの後に設定しなければ、書紀と齟齬を生じる。

書紀の記事を否定する前に、可とする年代を考えるのが正当な方法である。
440日本@名無史さん:2010/12/01(水) 19:57:16
>>427
ステップルートなら浄土経典や阿弥陀経でなく
景教や原始キリスト教の形で、弁韓,辰韓,伽耶に伝わり
神降ろしの儀式であってもよいであろう。
441唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/01(水) 20:02:56
>その北方系って日本にどれぐらいいるん?

今の日本人の血液のためには、古墳時代に二十万人の北方系渡来人が必要である。
とか言われています。
この為には、七支刀269年では遅すぎる。つまり269年には百済は大国として存在する。
人の流れは、弱国から強国へ流れる。←こういう事ですから、400年前後の高句麗南下以前に
大量の渡来民を設定しないと、古墳中期の文化の発展も説明出来ない。

323年 神功49年であれば、中国東北方面は空白地帯であり、住民は安全な倭国を目指す。
442日本@名無史さん:2010/12/01(水) 23:16:40
>今の日本人の血液のためには、古墳時代に二十万人の北方系渡来人が必要である。
とか言われています。

縄文時代には十万程度だった人口が、弥生時代に全国で60万人になった。
4〜500年で6倍は自然増加だけでは無理。
弥生時代の人口が60万人から奈良時代には800万人位に増加した。
これも400年程度で10倍以上に増えている事になる。
古墳時代の渡来人は100万人を超えていなければおかしいだろう。
平安時代から江戸末期までは800万が4000万。
1000年かけて5倍だから自然増としては妥当だ。
443日本@名無史さん:2010/12/01(水) 23:23:39
渡来人は笛を吹き、太鼓を叩いてやってきた。プガプガドンドン、プガドンドン。
渡来人は美麗に飾り立てた馬に乗ってやってきた。ハイシドウド、ハイドウド。
そして背の低い扁平面の土人を北へ北へと追いやった。
耳垢じめじめ土人を追いやった。はあ、追いやったとさ〜〜〜。

渡来人は旗を持ち、金銀緞子でやってきた。ユララユララ、ユラユラトフルエ。
渡来人は槌を持ち、梯子を持ってやってきた。スットコストトコ、ホーイホイ。
444唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/01(水) 23:44:55
>渡来人は100万人を超えていなければおかしいだろう。

これだけの人数になると、何時、何処の民が、何故渡来したか?
私の脳みその大きさでは追いつかない。

古墳が各地で造られる様に成った時代は、240年景行以後であろう
古墳=鉄器の導入、が全国に普及する。ここまでは国内での人口増加。
河内で巨大古墳が造られる=牛馬が使われるようになる。北方系渡来人の流入である。
もしここで百万人も流入したら、日本語自体が、外来語で覆われる。

445日本@名無史さん:2010/12/02(木) 01:28:59
百万ってのはさすがに無理があるとおれも思うけど、
>日本語自体が、外来語で覆われる
ってのは、それ以前の「日本語」がほとんど残っていない以上、
現状に見合った結果なんじゃないの?
446日本@名無史さん:2010/12/02(木) 12:21:02
「メ」「レス長たらし毘古」はともにスランプ突入(笑
447日本@名無史さん:2010/12/02(木) 12:32:35
日本語は高句麗語にそっくりだと言うし、高句麗語は満州や蒙古と同じだったんじゃないか。
この言語の相似は何時の時代に始まったのか?

神武紀には「母をオモというのは方言だ」と書いてある。
母屋と書いて「おもや」というのはこの時代の名残だろう。
韓国語では母を「オモニ」というね。
今は双方の言語はかなり違って見えるが、昔はもっと見ていたのではないかな。
日本では早くから仮名文字が使われて古い言葉が保存されているが、朝鮮では16世紀まで漢字の文化だったから古い言葉は殆ど保存されていない。
助詞の使い方は今でも日本語と韓国で殆ど差がない。
448日本@名無史さん:2010/12/02(木) 12:39:42
オレは耳で聞く満州語が日本語の山陽地方語と似ていることは認める。
ただ音声が似ているだけで、それ以上でもないしそれ以下でもない。
449唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/02(木) 12:48:35
4世紀に北方系が大量に渡来する(倭国が強国の時代)
5世紀初め 高句麗が南下し、倭国は強国では無くなる。
弱国として残るのは、百済だ。
百済人は、北の高句麗に分散したのが、今の半島の住民になる。
倭国にも流入したが、5世紀以降は、人数が少ない。

つまり倭国の渡海、半島占拠がなければ、大量の渡来人を説明出来ないし、
時代は早いほど大量に渡来できるが、魏書の時代まではさかのぼれない。
450唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/02(木) 13:02:03
ハハ(母)を「おかん」と呼ぶ、これはカンキュウケンの母(カン)である。
単語としては、かなり流入している事は確かである。
しかし日本語の本質までは変化していない、と思う。
451日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:45:10
母をモとよむのは、ボからの訛りで音読み

母屋はモヤともよむ、オは定冠詞、あるいは丁寧語

母をハハ(カカ)とよむのが訓読みです
452日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:15:35
>母をモとよむのは、ボからの訛りで音読み

じゃあ、日本でも朝鮮でも同じだったのだろう。
違うと言う証拠もないし。
453日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:20:16
高句麗語では母を「也派」と書き、「やは」と言っていた可能性がある。
満州方言で、「父」を「ティティ」というから、「チチ」も「ハハ」もあちらの言語が来た可能性は高い。
454日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:26:48
>>448
満州語じゃなくて韓国語じゃない?
名古屋弁、岡山弁と韓国語。
455日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:53:12
韓国の標準語は抑揚がなくパッチムが多くあり
抑揚がありパッチムが少ない満州語とは相当違う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A0
456日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:56:14
>>454 北朝鮮の放送アナウンサーは日常語ではないんだよw
457日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:06:14
韓国の「ヨボセヨぉ〜〜」とかの抑揚というか
語尾のうねりが名古屋弁っぽい気がする
458日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:11:21
小浜弁なんぞ語尾のイントネーションは朝鮮語とそっくりだ。
「○○で〜ぃ」と言う奴。
459日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:11:42
古満語(こまんご)に抑揚があったかは不明である
460日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:13:35
>韓国の標準語は抑揚がなくパッチムが多くあり

標準語より方言の方に古い言語が残っている可能性が高い。
461日本@名無史さん:2010/12/02(木) 19:21:39
パッチムの多さに関しては、モンゴル語ウランバートル標準語と韓国ソウルマルを
比較すると、両方とも多いネという感触を持つであろう。
462日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:15:22
日本は4世紀後半に一度、半島のほとんどを完全制圧してるからね。
その時に倭の言葉が半島に残ったんだろう。
463日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:05:07
わしも寒いときはズボンの下にパッチを履くがな。
464日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:42:34
>日本は4世紀後半に一度、半島のほとんどを完全制圧してるからね。

広開土王碑文が完全に正しい事を書いていると思ったらあほ。
当時の日本には馬も武器もろくすっぽない。
丸裸状態で半島に行って半島を制圧したなんてあり円。
傭兵として半島に渡ったのだと言うのが最近の見方だ。
倭人傭兵は百済の先兵となって戦ったから目立った。
何しろ、顔に入れ墨をしていたからね。
倭人は7世紀まで入墨していたようだ。
465日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:51:08
>>428
>夏王朝に三皇はいないだろ
>三皇五帝時代のあとに、夏王朝がはじまるんだから
用心のためにはその発言も理解できますが、夏王朝は国際標準としては伝説の
域を出ないので、まだ度外視しています。夏王朝実在?伝説?論を交えると
それこそ取り留めなくなると思うので。少なくともこの板で実在論争をする気
もないし。
> 長江へおいやられていった人々で、弥生系民族の先祖の一つには当たる
んじゃね?
俺は別に弥生人が流入か否かまでは言及していない。あまり大した問題では
無いと思うからだ。争点は、「当時の倭人の生活慣習・宗教慣習」と、当時
時代の氏族のうちのいくつかは大陸からの流入である可能性だけです。邪馬
台国論争の際に、特にマクロな民族流入説はあまりイミガナイと見ています。
民族流入で言うならば、それは数万年前の氷河期の海面上昇時代に既にある
程度完了している話と見ています。勿論「文化流入」はその限りではないが。
466日本@名無史さん:2010/12/02(木) 21:55:50
魏志にも男子無大小皆黥面文身とあり、
各古墳で出土してる埴輪にも刺青がある。

是は夏王朝時の英雄を真似したようだが、
以来、ファッションの一つとして行われてたらしいね。
467日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:04:46
三角縁神獣鏡のT期〜Y期まで年代差が生じる。
卑弥呼の鏡を考えるとして
どれをもってくるかだな。
468レス長たらし毘古:2010/12/02(木) 22:05:37
>>427
>ステップルート
ま、この話題を出した段階でこっち方面の話も沸いて来るとは思いましたが、
案の定、俺の不在時に、そっち方面の、しかも民族論になってしまったようで
俺は専門外なのでちと残念です。
民族論としての騎馬民族説は眉唾ですが、25年前くらいの教科書では、普通に
そう言う歴史教育内容だったので、今もその見解の日本人は多いのは否め
ません。俺個人は、民族論よりも、文化論としてのステップロード経由流入
はありうるとは思っています。(あくまでもワンノブゼムとしてですが)
古事記ベースだと、当時の日本人(倭人含む)の生活慣習は、海幸・山幸に
代表される、漁猟・狩猟と、新しく入って来た稲作文化の混在と想定して
います。
あくまでも文化論の流入として、燕や北狄や匈奴等等の、中華北方領域の文化
が流入している前提での倭人分布域という想定は、充分可能とは思います。
文化や複数氏族の流入は大いにあり得るのでその可能性だけを考えています。
(その意味で、蘇我氏蘇代由来説を言ったまでです)
469日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:15:16
あほだね。

畿内の古墳時代の埴輪は身分の低い者として入れ墨の表現をしている。
畿内の貴族は入れ墨をしていると言う事はない。
それに刑罰として入れ墨をしたとも書いてあるから、刑罰を受けた物は貴族の身分から降格させられたと言う事を表している。
倭人伝には身分の上下に関わらず皆入れ墨をしていると書いてある。
古墳時代にやって来た渡来人の影響で身分の高い者は入れ墨を止めたのだろう。

ところが九州は7世紀でも倭人としてのアイデンティティを失っていなかったようだ。
男女とも多くが顔面入墨をしていたと書いてある。
470レス長たらし毘古:2010/12/02(木) 22:19:47
>>446
あ、スランプって言うより忙しいだけ。板は見ているので、忙しくなければ書き
込むよ。
>>465(追加補足)
名前を入れ忘れていたが、>>465は俺です。
>>462
朝鮮半島言葉の「日本語との類似性」は、俺もその可能性の方が高いと想定し
ています。4世紀後半と、19世紀後半と、二度にわたり、「ほぼ日本化」した
経緯がありますからね。その時に「流出した」という想定の方が自然でしょ
う。勿論、それ以外の可能性も朝鮮民族に配慮して完全否定はしませんが。
>>464
倭人は単なる傭兵という観点は理解できるが、しかしながら、傭兵がある程度
の領域や国家を「完全制覇」する歴史現象は、世界史では結構ざらにある。
百済のために新羅と戦ったとしても、その百済と優位条約を結んでいるなら、
今のアメリカが韓国の為に何処かの国と戦うのと事態はあまり変わらない。
アメリカ文化に日本以上に毒されていないかい?今の韓国。
471日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:29:43
472唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/02(木) 23:05:18
>4世紀後半と、19世紀後半と、二度にわたり、「ほぼ日本化」した経緯がありますからね。

4世紀には、倭国の領土となったが、治めたのは百済人である。
日本語の普及は無いだろう。

主屋(オモヤ)を母屋と書くのは、奈良、平安時代の文人が百済から来て、漢字を決めたせいでは無いか?
473日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:39:00
日本の方がアメリカに毒されている。
韓国ではBSE問題で、韓国政府がアメリカ産牛肉の輸入解禁しようとしたら
国民が大規模な反対デモをして、韓国政府も輸入再開を断念した。
日本ではデモなんか起きていないし、政府はアメリカに押し切られて輸入再開
をしてしまった。
日本はアメリカの言いなりだが韓国は違う。

中国の体当たり船長の釈放だって仙石が勝手にやった事ではない。
アメリカが釈放しろと言ったからその通りにしただけだ。
その証拠にアメリカは船長の釈放を大人の対応だとして評価している。
日本の迂余共が菅政権の弱腰を批判しているが勘違いもいいところだ。
あれはアメリカの支持のもと行われた事だ。

物事はよく見なければ判断できない。
君たちもよく考える事だ。
474日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:39:10
古代の刺青ってどんなの?
475唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/02(木) 23:41:11
>広開土王碑文が完全に正しい事を書いていると思ったらあほ。

広開土王碑文は正しい。読み方を間違えているだけだ。
その最たるものが、辛卯年を391年とする読み方だ。
だから、当時の日本には馬も武器もろくすっぽない。丸裸状態で半島に行って半島を制圧した
なんてありエン。となる。

書紀の記事を信用する限り、辛卯年は331年でしか説明出来ない。
275年 神功元年 273年の日食は「あづないの罪」として元年に差し込み。
323年 神功49年 半島占拠。百済立国。
326年 神功51年 七支刀
331年 辛卯年である。
晉書卷一百九
  載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より
咸康(342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗 …
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,
342年には、高句麗も百済も 徒軍である。
高句麗は前燕滅亡後(370年後)騎馬軍を得たと思われる。

391年に倭軍が渡海して百済、新羅を下すことは不可能である。
この数字で書紀の記事を肯定する読み方は無い。
だが、辛卯年が331年であれば、書紀の記事は肯定出来る。
476日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:41:57
>>473
弱腰って言葉使う奴はいつの時代も勘違い。
証拠にって・・・証拠弱すぎ。
どんだけ自分賢いんだよびっくりするわw
477日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:03:10
百済は倭の属国
前方後円墳がたくさんあるからなwwwwwやりぃwwwww
478日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:07:20
>>477
気軽に行ってこいよ
479レス長たらし毘古:2010/12/03(金) 00:15:49
>>473
まあ、日本・韓国、どっちがアメリカに毒されているか比べは、あまり意味は
無い。なぜなら「どちらも」毒されている状況だから。
問題は、「傭兵がいる」状態でも、ある程度「傭兵が制覇している」という
状況は起こり得るという説明には、日本でも韓国でも、どちらも同じだと言う
事。つまり、日本で大量に英語外来語や英語そのものが、例えば流行歌の歌詞
などにも頻繁に登場する戦後なのだが、「そういう影響」は、当時の朝鮮半島
でも「日本から流入した言葉」と言う現象が起こり得ると言う事。
それをもって「完全制覇」と呼ぶかどうかは、単なる語義論争でしかない。

文化の流入は、少数の民族が侵入して支配構造に参入するだけでも、充分に
起こり得る。「渡来人」は朝鮮→日本でも起こりうるし、日本→朝鮮でも
起こりうると考えた方が自然だ。
480レス長たらし毘古:2010/12/03(金) 00:34:18
>>475
広開土王碑時代=神功皇后時代という想定は、俺としてもあまり違和感が
無い。還暦(=60年)単位で干支がずれて誤解釈されていると言う可能性は
少なく無いと思う。
逆に、神功皇后以外に、記紀上で「広開土王碑文」くらいまで攻め上った
人間がいるとしたら、その後は允恭天皇の時代の新羅の国主の日本への貢納。
又、記紀の記載範囲以降、記紀の編集がされるまでの間だと、舒命天皇〜天武
天皇の頃の対朝鮮戦争くらいしか無い。だが、それらだと明らかに時代が合わ
ない。
481日本@名無史さん:2010/12/03(金) 02:44:36
>>461
つまりそこが根の国か
482縄文人 ◆FOQ9C4h6OA :2010/12/03(金) 16:06:57
畿内説の諸君は相変わらずない袖を振って踏ん張っておるようだが、歴史の解釈でものをいうのはやはり洞察力だ。
その点、多くの学問に通暁した広範な基礎知識の上に神のごとき明察が加われば、古代史など読み解くのに造作も
ない。

纏向の様相が東夷伝にある高句麗の東明祭に似ているとの見解が他スレであったが、まさにしかり、纏向の初期祭祀
は、収穫を感謝するためのものである可能性が強かろう。おそらくは各地の収穫物を運搬して纏向の神に捧げ、さらに
清められたそれを食することによって、次年度の豊作が約されるなどの役割・機能を持っていたのであろうな。それもこ
れも神武による古大和湖排水の評判によるものだ。
483日本@名無史さん:2010/12/03(金) 16:13:13
縄文人キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
484縄文人 ◆FOQ9C4h6OA :2010/12/03(金) 16:18:40
これも他スレでのことだが、私は弥生古奈良湖の存在と、神武軍団による排水の様子を、まさに眼前に見るように、
完膚なきまでに証明してみせた。唐古遺跡の水没が、古奈良湖の湖面上昇によるものであるという私の説に対して、
畿内説の諸氏は有効な反論をなしえなかった。
485唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 17:21:32
>>484
>神武軍団による排水の様子を、
年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

唐古、鍵遺跡の水没は、西暦20年代。
神武元年 西暦42年
崇神5年 新羅192年(後漢193年)冷夏、凶作
垂仁元年 西暦217年 纒向遺跡で初期の大型建物。鉄の大量流入が始まる。

神武は鉄をほとんど持っていない。だから“水抜き”と関係無い。
486日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:44:16
>垂仁元年 西暦217年 纒向遺跡で初期の大型建物。鉄の大量流入が始まる。

箸墓から鐙が出た事で、纏向は4世紀である事は確定している。

http://www.geocities.jp/taru638/img022.gif
から類推して畿内に邪馬台国があったとはとても考えられん。
古墳時代に入っても九州の鉄に比べて畿内の鉄は少なすぎる。
奈良県はみじめなくらいお粗末。

西暦217年ではなく、317年が良い所だろう。
ホケノ山の画文帯神獣鏡は楽浪郡で290年頃に作られたものだが、
楽浪郡が高句麗によって滅ぼされた時に流民となった東漢氏によって齎された。
楽浪郡は312年に滅んだからね。
487唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 19:12:24
>、纏向は4世紀である事は確定している。

残念ではあるが、纒向を2世紀末からとすれば、文献はそろえられる。
4世紀で纒向の文献をそろえられれば、検討しますよ。

神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり

孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為「屯倉」導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
仲哀天皇 266年〜274年  273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜   ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
佐紀楯列までの70年間。

274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場は少し後。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。

歴史はまだ続きますよ。


488縄文人不安倶楽部:2010/12/03(金) 19:39:57
               . -―- .      やったッ!! さすが縄文人!!
             /       ヽ
          //         ',      おれたちにできない理屈を
            | { _____  |        平然と言ってのけるッ!
        (⌒ヽ7´        ``ヒニ¨ヽ
        ヽ、..二二二二二二二. -r‐''′     そこにシビれる!
        /´ 〉'">、、,,.ィ二¨' {.  ヽ     _ _      あこがれるゥ!
         `r、| ゙._(9,)Y´_(9_l′ )  (  , -'′ `¨¨´ ̄`ヽ、
         {(,| `'''7、,. 、 ⌒  |/ニY {               \
           ヾ|   ^'^ ′-、 ,ノr')リ  ,ゝ、ー`――-'- ∠,_  ノ
           |   「匸匸匚| '"|ィ'( (,ノ,r'゙へ. ̄ ̄,二ニ、゙}了
    , ヘー‐- 、 l  | /^''⌒|  | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
  -‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ  !‐}__,..ノ  || /-‐ヽ|   -イ,__,.>‐  ハ }
 ''"//ヽー、  ノヽ∧ `ー一'´ / |′ 丿!  , -===- 、  }くー- ..._
  //^\  ヾ-、 :| ハ   ̄ / ノ |.  { {ハ.  V'二'二ソ  ノ| |    `ヽ
,ノ   ヽ,_ ヽノヽ_)ノ:l 'ーー<.  /  |.  ヽヽヽ._ `二¨´ /ノ ノ
/    <^_,.イ `r‐'゙ :::ヽ  \ `丶、  |、   \\'ー--‐''"//
\___,/|  !  ::::::l、  \  \| \   \ヽ   / ノ
489日本@名無史さん:2010/12/03(金) 19:52:18
文献はずいぶん後になって書かれたものだし、見本には記録する文字も紙も石も無かったのだから
書いてある事が正しいという前提で考えるのはどうかな。
60年とか120年とかずれていると言う話も全く当てにならないだろう。
わしは結婚記念日すら忘れている。
自分の事でない何百年も前の祖先が何時生まれ、死んだかなんて覚えていない。
古事記や日本書紀に書かれている年代が合っているなんてバカの考える事だ。
490あげ:2010/12/03(金) 19:58:33
初心者用スレの『誇りを持て、邪馬台国九州説」に負けるなよw
491日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:26:42
煽るなwww
マイペースでやらせろよ。
492縄文人 ◆FOQ9C4h6OA :2010/12/03(金) 20:43:27
ところで、どなたかが書いてあるようだが、纏向は4世紀の遺跡であることはもはや共通認識といってよいことだろう。
鐙の存在はその象徴といえるものだが、すべての考古学的事実が同じ方向を指すベクトルとして働いておる。そもそも
この遺跡は、3世紀半ばの神武による排水以降でなくては理論上成立し得ないものだ。築いたのは外来勢力であろう。
神武の後を追って版図を広げようとした九州邪馬台国の女王、台与の事績として記録されるべきことだ。
493:2010/12/03(金) 20:50:14
鐙の存在
494:2010/12/03(金) 20:51:44
失敗〜!もう一度、

「鐙の存在」だってよ 畿内説さん反論して下さい!!w

495唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 20:55:05
>文献はずいぶん後になって書かれたものだし、

まず、日本書紀が編纂され、
新羅本紀や、百済本記が編纂された。
つまり、日本書紀を編纂するための、文献は日本に有った。そこに当時の百済記などを
正しい位置や推定の位置に差し込んだものが、日本書紀になる。
日本書紀は、太陰暦で書かれ、「正朔」の文字のある書物である。であるならば、正しい
年代が、太陰暦で読めなくてはならない。
太陰暦は19年を1章とする数字の積み重ねであるから、各天皇紀から、空白年1章×n回
を差し引けば、正しい年代を示す太陰暦となる。

これが、私の主張であり、その数字を主張している。
その主張する数字が考古学と合致する事実は、真実と出来る。

百済本記は日本書紀を参考に書かれた部分がある。
それは、肖古王の即位年と崩御年の正月の朔が合致することで証明される。
この百済本記を西暦では日本書紀と合致しない事実がある、つまり百済記を差し込んだ
日本書紀は、百済本記と整合性を得られない。この事実を「日本書紀が悪い」としてきたのが
これまでの文献史学である。
わたしの数字が新羅本紀と同期する事実は、新羅本紀が正しく、百済本記に狂いが在る事を
表す。そして日本書紀は正しい太陰暦に変換出来る。

箸墓は、261年景行の崩御を以て造られる。
496唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 21:06:59
箸墓が4世紀と主張するならば、それを妥当とする歴史の読み方が無ければならない。
昭和の時代までは、百済本記が正しいとして、日本の年代は決められていた。
つまりその時点では、文献史学と考古学は同じ数字であった。
しかしここに来て考古学の数字が50年遡上した。
この事実は、文献史学も50年遡上せねば合致しないことを表す。
文献は、50年遡上したところにある。
ついて来れない文献として、高句麗の南下を欠く百済本記がある。
497日本@名無史さん:2010/12/03(金) 21:16:57
遡上がまちがっているんだろ
498:2010/12/03(金) 21:41:15
>>492
>纏向は4世紀の遺跡であることはもはや共通認識といってよいことだろう。
>鐙の存在はその象徴といえるものだが、すべての考古学的事実が同じ方向を指すベクトルとして働いておる。

これまでの考古学では、「古墳」や「土器」の『形状』から比較し、各古墳の年代をきめていたというのはご存じだろう。
しかし、「絶対年代」というのではなく、あくまでも比較によるものであって、あまりあてにできない。
しかし、最近では、この絶対年代という新しい年輪年代法という測定方法を行っており、
この年輪年代法というのは精度が高いと聞いてます。
そして、巻向のホケノ山古墳や勝山古墳出土の木製品を測定し、
そこから箸墓の築造年代は260年頃、あるいは280年頃という結果がでてますよね。
したがって、この「鐙」に関しても、この時期(三世紀後半)からというみかたでよいと思います。

>3世紀半ばの神武による排水以降でなくては理論上成立し得ないものだ。築いたのは外来勢力であろう。
>神武の後を追って版図を広げようとした九州邪馬台国の女王、台与の事績として記録されるべきことだ。

3世紀半ばの神武というのは理解できない・・・
神武天皇は紀元前の人物で・・・日本書紀とか開いたことあるでしょう・・・
そして、「九州邪馬台国の女王、台与」?
卑弥呼にしても台与にしても、「邪馬台国の女王」とは言ったらいけないんです。
「倭国の女王」の台与が正しい。
499:2010/12/03(金) 21:53:24
北へーー 北へぇえーーーーー 大国主一族ゎ♪ 北へぇー

福岡県行橋駅のホームに♪
1キロメートルに及ぶ卑弥呼の宮殿があったんだってさー。

まったく〜マンガですよねwww

500唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 21:57:18
卑弥呼=崇神時代という主張は、50年間違っている。

まず大和に鉄が流入するのは、垂仁からであり、任那建国は、
541年 伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で新羅に降る、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
西暦210年は崇神世になる。
纒向で3世紀前半の建物は、垂仁の珠城宮、その跡に土盛りをしてならす(ひ=乾く、しろ=均す、代す)
景行は240年即位。

書紀の記事は正しい。この数字を違えるから、書紀も広開土王碑も正しく無いと成る。
七支刀 369年でさえ 16日丙午は間違いとする。
全てが間違いとして、箸墓4世紀は成り立つ。

では、正しい文献が存在するのか?と問うても正しい文献は存在しない。
七支刀も百済本記の近肖古王の近くである。以上の主張は出来ていない。
その百済本記の数字さえ、韓国考古学が確認出来ない数字である。

つまり、主張出来ない文献(百済本記)で主張するのが、箸墓=4世紀である。



501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 22:00:17
私が百済本記を編年に使わないわけ。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年を神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差(閏1ヶ月)で癸未朔が成立

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。
502:2010/12/03(金) 22:15:17
>>500-501
百済本記は、日本書紀の神功皇后条でも引用されている。
この百済本記の年代感は有る程度信用できるのではなかろうか?
そこから〜神功皇后が活躍したのを四世紀後半とし、卑弥呼が活躍した時期は
二世紀末〜三世紀中葉なので、約150年ですか・・・
ここからみると一世代を三十年・・・
ということは、約五世代前ですよね?
神功皇后の五世代前と言えば・・・・・・祟神ですか?ほら〜一致するじゃないですかw
503唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 22:25:10
>神功皇后が活躍したのを四世紀後半とし、

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると

316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 再度渡海 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
331年 辛卯年(広開土王碑) 楽浪方面へ領土を広げる。
340年代には百済は大国として存在する。

日本武尊の子、ワカタケルは255年頃誕生する。
もし長生きをして60才位まで生きたとしたら、314年頃に死亡する。

上記の書き込みから、神功元年は275年が濃厚となる。そして神功39年太歳は313年になる。

仁徳紀を分析すると、313年即位、343年仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
ここが仁徳崩御の場所である。この数字は、275年神功元年より治世69年間、313年神功崩御
この数字は偶然では無い。
344年応神元年とする、すると343年仁徳32年、この二人は
370年仁徳五十八年冬十月 呉國 高麗國 並朝貢
371年応神二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢 非常によく似ている。
つまり歴史の時空で言えば313〜343年仁徳、344〜384年応神と、順番が逆転する。
504日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:28:03
 小 九  |'´::::>‐''´::::::::::::`゙ヽ、`゙ヽ、r',. -''´:::::〈  九 え
 学 州 //::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ/..:..:::::::::::::〈  州  |
 生 説 |..:..:..:..:..:.:::::::::::::::::::::::..:..:/:::..:..:..:..:.::::::::::| ...説 マ
 ま が |::::::..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:./::::::::::::::::::..:..:..:..〈   ?!.. ジ
 で 許  〉::::l|::::|:::::::::::::l|:::l|:::::/::::::::::::://::::::::::::::/
 だ さ |::::|」l::十::::::::::/リト|:、|:|:::::::::::/l‐!::::::::〃/L
 よ れ ヽ::|l:!⊥!ヽ::::〃| ,⊥L!|:::::::::リ=ミ|::lレ'´〃 /ヽ__r┬‐、/
 ね る /::|| lL! ヾ/  ! 「し!{|::ハ| 「_!    /i::(_, ヽヾ::::::::
 │ のr'::|::| 、 l;;;!    _l:;;;;レ |:::l:|、L::!.     _L;;;ノ__, j|;::::::::
レ'⌒は |:::::|::|  ̄        ̄ j|::::|:|           リ::/:::
人__人_j_:::::|{:'、  〈     ノー'^ー^ ゝ〈          //:::/
 ハ キ /ハ:::ヽ  ヽ ̄`l  |   キ ハ _ヽ ̄`l    u 〃:://
 ハ ャ |/  !ヾ:::ヽ/Y'Yl 〈    モ |:::::| | ヽ.__j     //〃
 ハ ハ ヽ >ヽ::ヾ! | .| | '´|   │  〉/ ,':ヽ/),. -r' ´   /
 ハ ハ //: : :ヽ∨ | .| | /|    |  |' レ' /リ__:::∧_____/
 ハ ハ 〉|: : : : ', 、   V ,'!   イ  ヽ -'‐'´,.ィ´:/厂ヽ
      ||.|: : : : : |     /〈     /  `ー─‐v' |::::∧ //:
      ヽ!: : : : : :|    /::|/⌒ヽ /´  ~l ̄/: : | |::::| ∨ /: :
505唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 22:32:07
数字を主張するだけなら、太国倍年でも数字の主張は出来る。

しかしその数字で書紀の記事に書かれたことが事実と読めなくては成らない。
ここを「事実でない」とすれば、何でもありになってしまう。
506:2010/12/03(金) 22:34:58
>>503
奈良県の石上神宮の御神体と言えば数々あるのですが、
そこには七支刀があり、この刀には、61文字が刻まれてる銘文(以下参照)があり、

表「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」
裏「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」  ですか?

この刀が半島から献上(下賜)されたのは、上で述べた神功皇后の時代が有力であり、
そこから、これらの日本書紀・百済本記とで比較すると、神功皇后の活躍年代は、
『四世紀後半』とされてますよね? ご存知ですか?

507唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 22:40:16
>神功皇后が活躍したのを四世紀後半とし、

この数字で百済本記を正しいとするなら、
倭が百済を属国とした年がなければならないが、百済本記にそんな年は無い。
しかしその後の歴史から百済が属国であったことは明白である。

百済を属国とした年を主張出来ますか?
508:2010/12/03(金) 22:48:33
>百済を属国とした年を主張出来ますか?

ん〜〜正確には、何年何でしょうね?ちと計算してみないと〜すぐには出て来ませんが・・・
日本書紀の記事から百濟記の年代を信用し、そこから計算しては如何でしょう。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/09/fr.htm
509唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 22:54:43
百済は、323年 神功49年の領土分与から属国ですよ。
その証拠に七支刀と書紀に書かれている。
つまり書紀の記事を信用していない。
新羅本紀
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
337 百済へ使者を送る
344 倭国が花嫁を求めたが辞退
345 倭王が国書を送り国交断絶
346 倭軍が金城を攻撃
364 倭兵が大挙して侵入

百済本記を正しいとした場合、新羅本紀は無視されている。
つまり百済本記と新羅本紀では、数字が合わない。ここで百済本記が正しいとできる主張が無い。
ただやみくもに百済本記を信じているだけ。
新羅本紀と今の考古学の数字は同期出来る。
同期出来る新羅本紀を無視すべきでは無い。
510日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:58:21
百済ない
新羅ない
加羅買う
日本語になって残っていますね。
511:2010/12/03(金) 23:04:43
>>509
新羅本紀ですか?
新羅本紀は日本書紀の「神功皇后条」の何処に載ってるんです?
載ってないので比較しようがないでしょうw

日本書紀の神功皇后条には「百濟記」、「魏志」から引用されてますよね?
ですからここから比較・検証することができる。
新羅本紀は別でしょう。
512縦目仮面:2010/12/03(金) 23:15:37
>>511
地味な話題ですねえ。何か楽しいの内ですかね?
513唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 23:17:51
載っていなくとも、同じ時が流れている。
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。
372年 百済国王は東晋の使者が来て楽浪太守となる。
380年 応神天皇三七年二月戊午朔。渡高麗國欲逹于呉。由是得通呉。
384年 応神天皇四一年二月是月。阿知使主等自呉至筑紫。

1,2年の齟齬はあるが同期するものと思われる。
514:2010/12/03(金) 23:22:10
日本書紀神功条の
五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彦詣之 則獻『七枝刀』一口・七子鏡一面 
ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/09/fr.htm

たしか〜『七枝刀』が石上神宮の御神体「七支刀」にあたり、
七支刀の銘文「泰和四年」を西暦になおすと369年ですよね?
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 23:23:34
後は、日本書紀 考察スレに
「継体は、応神五世孫」まで、考察していますから、読んでみて下さい。

516:2010/12/03(金) 23:27:29
うーん 地味すぎたかなw

じゃあ話を戻して〜w 「鐙」でもw 木製の「仮面」でもいいですしwww
517唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 23:31:15
改めさんへ
正解は此方です。
http://www.city.azumino.nagano.jp/camera/index.html
518唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/03(金) 23:36:27
>七支刀の銘文「泰和四年」を西暦になおすと369年ですよね?

正解は、七支刀と神功
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、1日の狂い。
273年 日食(あづないの罪)、神功元年(275年)に注入 
326年 神功52年 七支刀 

519縦目仮面:2010/12/03(金) 23:41:20
>>516
何かもっと誰もが参加できるような・・・卑弥呼の容貌とか、朝貢時の年齢とかどうです?
あと、生口、持衰とか。

>>517
中国版のWikiを見ると、新羅本紀の記事を採用して、173年に倭国女王が使者を派遣した
ことになってますね。で、これを元に本文では倭王としての在位が七十数年とか書いてますが
これはどうですか?俺はこの手のことは苦手なもので・・・。

http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
520:2010/12/03(金) 23:43:30
七支刀 の泰和四年は「326年」ですか。
なるほど〜唐さんには、かないませんな〜w

私は記紀の年代に関してはパスなので、あとは太国のおっさんにタッチする。
あ、でも彼は、規制で来れないかもしれませんけどww
521縦目仮面:2010/12/03(金) 23:48:42
>>520
メ さんは卑弥呼の祭祀はどういうものだと思いますか?太陽信仰ですか?それとも
卜占のようなものですか? 前方後円墳にはどういう意味があると考えますか?
522:2010/12/03(金) 23:49:05
>>519
>何かもっと誰もが参加できるような・・・卑弥呼の容貌とか、朝貢時の年齢とかどうです?
>あと、生口、持衰とか。

じゃ〜あとのネタフリは任せますw
ソロソロ寝る時間なので私はこの辺で・・・・zzz

523日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:06:01
ローガンさん 倭種について語って下さいよ
余所のサイトの奴にボッコ、ボッコにされた
ローガンの『倭種』が聞きたいなぁぁぁw
524UMAギョーカイ業務連絡:2010/12/04(土) 00:11:38
>縦目仮面

この間ネッシーの目撃が久々にされたらしいが
あれの真偽の程はどうなん?w

あれって動画あるのか?
525縦目仮面:2010/12/04(土) 00:27:48
あらま、みんなどっかいっちゃった。嫌われてるなあ。ww 久々にコテで書いてるのに。
ここは初心者スレだそうなんで、メ さんも もっととっつきやすい話題にすればいいのに。

>>524
スレ違いで気が引けるけど、この記事かな?色が白いのが不思議な感じ。
動画はないと思うけど、下のリンクは面白い。もはや動画は素人がCG使える時代に
なったんで。

http://rocketnews24.com/?p=58991
http://www.youtube.com/watch?v=mSOvS4-bgl0&eurl
526日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:41:31
ネッシー、UFO、九州説(笑)
527ローガン:2010/12/04(土) 00:47:02
>>523
> ローガンさん 倭種について語って下さいよ

明日でよければいいですよ。いくらでも。
> 余所のサイトの奴にボッコ、ボッコにされた ローガンの『倭種』が聞きたいなぁぁぁw

余所のサイトで都合3度、私見を書いたんだけどね。君も読んだはずだと思うんですが。
528縦目仮面:2010/12/04(土) 00:51:05
・・・まあしかし、オカルトというのは国民性をはかる一つの尺度にはなるけどね。
アメリカだとUFOの話題が多くて、幽霊は少ない。これはキリスト教のせいも
あるだろうけど。

日本だと最近UFOはあまりはやらないな。睡眠麻痺・・・いわゆる金縛りでも、
日本は霊が胸の上に乗っかって・・・といったのが多いけど、アメリカでは宇宙人
に掠われて・・・になってしまう。

>>527
ローガン老師がやられたということはないと思いますよ。あの掲示板の人たちは
アンフェアですね。相撲とボクシングをルールをごっちゃにしてやってる感じ。
529日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:51:47
郡から邪馬台国まで万二千里だ。
残り千四百里!

帶方
 ↓
狗邪韓国
 ↓
對馬国
 ↓
一大国
 ↓
末盧国 → 伊都国 →奴国 →不彌国
                ↓
               投馬国
                ↓
               邪馬壹国
530日本@名無史さん:2010/12/04(土) 01:12:28
>ここは初心者スレだそうなんで、もっととっつきやすい話題にすればいいのに。

奴国(中)とか?

天照一族 と 大国主一族の 二大国家 とか?

卑弥呼の墓は オオヒルメノムチミコトの 平原遺跡 とか?

”印綬”の 意味解釈は 紙切れ とか?

”壹拜”の 意味解釈は 国名 だとか?

”至”の意味解釈は 限定された範囲 とか?
531縦目仮面:2010/12/04(土) 01:25:55
>>530
>奴国(中)

この意味がわからん。w いや、俺が2chに来てもう3年目になるんだが、邪馬台国関連
スレも、もっと人がいて賑わってた。ほんとに初心者の中学生みたいなレスも多かった
けどね。
532日本@名無史さん:2010/12/04(土) 01:31:49
>>529
郡から邪馬台国までなんて言うのはまちがいだよ。
533日本@名無史さん:2010/12/04(土) 07:39:28
ヒミコとトヨは伊勢神宮のことじゃん。
古代謎とき本読んだことあるよw
534日本@名無史さん:2010/12/04(土) 07:43:22
>奴国(中)とか?

なんじゃい?(中)って?

>卑弥呼の墓は オオヒルメノムチミコトの 平原遺跡 とか?

唐突すぎ。

>”印綬”の 意味解釈は 紙切れ とか?

細部の拘ってもあまり意味がない。

>”壹拜”の 意味解釈は 国名 だとか?

結論のみをそのまま信じていいのか?宗教じゃないし。

>”至”の意味解釈は 限定された範囲 とか?

普通に読んだら?誰も、わざわざ面倒に読み変えないよ。
負担に感じる文法を強いてどうするんだよ?一般人を疲れさせてはいけない。
文章は簡便に成り立っているんだよ。シンプルイズベスト
535ローガン:2010/12/04(土) 09:29:46
>>523

> ローガンさん 倭種について語って下さいよ

おっと上に書いてたわ。
118:ローガン 2010/11/23(火) 01:51:29 AA
この段落の性格を考えれば、正解な情報に基づいたもので無い事は明らか。使者が踏査によりもたらしたなどと、考える必要はありません。
仮に、伊勢湾だと主張しても良いが、「段落の性格」を考えれば、それとてたいして意味の無い事なので、こだわらない以上、積極的に言及しないだけです。では、長くなるので端折って書きます。
東夷伝序文には、公孫氏の存在により東夷の事は何もわからなかった。しかし淵を斬り、位宮を追ってようやく東夷の事がわかるようになったとあります。
そして末尾の評。「使譯時通記述隨事豈常也哉」(使訳、通じる時、事にしたがいて記述する。豈、常ならんや) と。
これらから言える事は、「軍を出した所はその情報に基づいた記載をする事が出来る。がしかし軍を出していない所の情報源とは、訳を伴った使者が通じた際の物に限られる。よって、列記しておくが、情報の真偽は定かでは無い。」 であろうと思います。
軍も派遣していない、まして最も遠い倭国の情報。そのソースの信憑性に編者自身が疑問を持っている訳です。
そんな倭人条の中の「異人譚」と思しき段落にある記述の場所特定に、果たしてどれほどの意味があるでしょうか?
536ローガン:2010/12/04(土) 09:33:24
もう一つ
では次に「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」についてです。
私は一括して異人譚と捉えています。まず中華の東夷観と云うものを私はよく考えます。
そもそもの東夷とは、山東省安徽省辺り。それが版図拡大により、遼寧省辺りになり、三国志ではご承知の通りとなります。
東夷とはいいつつも、儒教においては東方崇拝の聖地なのです。それがまるで逃げ水のように、版図の先へ先へと移動しています。
誤解を恐れず云うと「聖地とは、踏査したその先にある所。その先には又、国があって そのまた先にもあって…そこに伝説の異形の民が暮らしているんだ」というのが東夷観だと思う。
翻って倭人伝、使者は天子の詔を携え倭都まで来た。しかしそこは東夷の終着点ではなかった。
この先、海を渡れば又、国が有り その先にも又、国が有る。というのがこの段落の意図だと捉えています。
この「段落」とは言うまでもなく、卑弥呼の記事と景初朝貢の間の記述の事。
そこに書かれた「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」とは、あくまでこの段落の一部。
中華としては、「踏査した。しかしそこが東夷の終着点ではなかった。まだ先があるぞ。」を表現したものの一部であると云う解釈です。
よって、そこだけ切り取って事実を伝えていると考えるのは詭弁であろう。
537ローガン:2010/12/04(土) 09:35:56
上記が私の主張です。縦ちゃんはどう考えますか?
538日本@名無史さん:2010/12/04(土) 09:46:33
>>529
残り1400里と言うのはどうかな。
倭人伝には「里」に「余」が五つついている。
一万二千「余」里
七千「余」里
千「余」里 × 3
この中で一万二千余里の方は七千余里の方で消化出来るが、
千「余」里×3は残される。
この「余」をどの位の見積もるかで残りの里は変わるだろう。
千余里の方の「余」は2〜300里位と考えられ、
残りの距離は1000里には満たないと思った方が良い。
残り600里以内ではないかな。
539縦目仮面:2010/12/04(土) 09:55:42
>>537
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種

これについては何か元になった資料があるのかもしれませんが、信憑性が高いとも
いえないと思います。結局、倭人伝を一度信じる、と言ってしまえば細部まで信じなくて
はならなくなってくる、ということではないですかね。
黒歯国などは「山海経」など前代の書の記事を踏襲するために入れてあるだけ、という気も。
540日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:25:06
畿内説でも中国史書の記述をそのまま信じる馬鹿がいると思う。
百余国、卑弥呼にせよ、径百余歩の墓にせよ、裸国と黒歯国(本当に倭の事?)あまりにもアバウトすぎる。
もしかしたら、これらは創造のたまものかも知れないし、東南アジアの話かも知れない。根拠にするのもどうか?と思うが・・

中国人からは日本が宇宙人扱いされていた。UFOレベルの話だ。

賢明な九州説は、もはや、魏志倭人伝を全く信用しない時代に突入する。
541日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:27:03
巻第五(崇神天皇)
「船は天下(あめのした)の要用なり 今 海の辺(わたのほとり)の民(おほみたから) 船無きによりて甚に歩運(みちはこび)に苦しむ 其れ諸国に令(のりごと)して 船舶(ふね)を造らしめよ」とのたまう P296 
冬十月に 始めて船舶(ふね)を造る

巻第十(応神天皇)
軽野という船
冬十月に 伊豆の国に科(ふれおほ)せて 船を造らしむ 長さ十丈 船既に成りぬ 試みに海に浮く すなわち 軽く浮かびて疾く行くこと駆けるが如し その船を名づけて枯野という

とあるように、崇神の時代には、船はなかった。従って、魏に使いを送った邪馬台国は畿内にあったとは考えられない。
翻って、この伊豆にはすでに船を作る技術があり、応仁の時代になって伊豆を支配下に収めたことで、大型の船が作れるようになったことがわかる。
そうすると、邪馬台国は伊豆半島の伊東にあり、伊都国とは伊東国だったという疑念を抱かざるをえない。
伊東に行くならハトヤ♪邪馬台国は関東にあったのだ!
542日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:30:27
>黒歯国などは「山海経」など前代の書の記事を踏襲するために入れてあるだけ、という気も。

小人国と言うのもあるね。
543日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:34:16
畿内の古墳からお歯黒をした人骨が出ている。

黒歯国は大和だよ。
544日本@名無史さん:2010/12/04(土) 11:15:14
しかし、齒黒国といえば伊豆だろうね。
545日本@名無史さん:2010/12/04(土) 11:28:54
卑弥呼がいたのはズバリ神津島だ。
黒曜石に関する利権を独占することで絶大な権力を握っていた。
今で言うところのドバイの石油王みたいなものだ。
546日本@名無史さん:2010/12/04(土) 12:09:07
鉄器文化を持ったヒッタイト人の末裔によって黒曜石文化は壊滅状態に陥った。
しかし、伊豆から神津島、八丈島、小笠原からマリアナ諸島を得てパプア入ギニアにつながる航路を持っていたので
船の技術は当時世界一だったのだ。
547ローガン:2010/12/04(土) 14:28:10
>>539
>結局、倭人伝を一度信じる、と言ってしまえば細部まで信じなくてはならなくなってくる、ということではないですかね。

そうですな。そしてそれは明らかに間違った考え方。

> 黒歯国などは「山海経」など前代の書の記事を踏襲するために入れてあるだけ、という気も。

漸く、東夷の果ての倭までやってきたものの、伝説の黒歯国は見つからなかった。 まだまだ先にも国があるぞ と述べたかったのでしょう。
548日本@名無史さん:2010/12/04(土) 14:38:34
実は伊豆半島から伊豆七島、小笠原、マリアナ諸島、ニューギニアは陸続きだった。
ところがそのルートは太平洋プレートに引き釣りこまれて、一夜にして(これは大げさだが)マリアな海峡の底に沈んでしまった。
幻の大陸、スンダランドの王スメラビトこそ、日本の天皇。
549日本@名無史さん:2010/12/04(土) 15:03:32
想定している年代が古墳時代と違うのだが
550日本@名無史さん:2010/12/04(土) 15:06:47
邪馬台国の謎は時空を飛び越えなくては解決できないということでしょう。
551日本@名無史さん:2010/12/04(土) 15:10:44
なるほど。故 美濃もん太氏もそうでした。
552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 16:56:47
>>519
>173年に倭国女王が使者を派遣した

173年 姫大神、それを追いかけ渡来するツノガアラシト。
209年 新羅 伽耶に援軍。この数字は、541年に伽耶の王子が新羅に身を寄せるまでの330年と
同じです。よって、ここが任那建国となる。世継ぎを19年程度で見れば、神功から応神につながる。

つまり文献を考古学の数字と同期させることが出来る。
纒向遺跡は、2世紀末に崇神が即位してからの遺跡であり、景行崩御261年を以て衰退に向かう。

>邪馬台国の謎は時空を飛び越えなくては解決できないということでしょう。
文献が考古学の示す50年遡上するだけで、解決する。

553唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 17:43:27
書紀と百済本記が重なることは無い。
神功皇后摂政五十二年 七支刀=369年 七支刀としても
神功皇后摂政五五年 百濟肖古王薨。≒375年 近仇首王即位

まあ近い数字ではあるが重なることは無い。
そして神功49年の半島占拠は否定される。
広開土王碑 辛卯年=391年とし、その後の倭国を説明するためにのみ、碑文は否定されている。

つまり百済本記を正しいとする限り、正解を得ることは出来ない。
七支刀を236年とすれば、神功49年(323年)も広開土王碑文(331年)も正しいとする文献の読
み方がある。
百済本記の数字を韓国考古学が確認出来ない事実は、百済本記に齟齬のあることを表す。
554日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:18:30
日本書紀も百済本紀も新羅本紀も、問題の部分はそうとうに時間が経ってから書かれたものだ。
だから正確である筈がない。

ただし百済本紀は日本書紀が参照にしているから、百済本紀は割合と正確かもしれん。
日本書紀は「百済本紀によれば」と言う注釈を所々に入れている。
百済本紀の原本は失われてしまっていて、現在残っているのは11世紀になって書き直されたもの
だが、どの程度原本を踏襲しているのかは不明だ。
555唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 19:38:22
>日本書紀も百済本紀も新羅本紀も、問題の部分はそうとうに時間が経ってから書かれたものだ。
だから正確である筈がない。

とはいえ、考古学の年代と書紀の記事の整合性がとれるのは、百済本記より
百済本記である。

新羅 192年 4月大雪
同 193年 倭人飢餓の為渡来

後漢193年 冷夏。ここで1年の齟齬以上の間違いは無い。
ここに 崇神五,六年を重ねると、弥生後期後半唐古、鍵を初めとする各地の遺跡が放棄される、
民の離散である。この直後に四道将軍が派遣され、異族多帰。となる、考古学は2世紀末 纒向遺跡
に各地の土器が集まる。

書紀に記載された崇神紀と重なる。そして伽耶の建国は、新羅209年伽耶に援軍、である。
ここが任那建国であれば、崇神世の出来事と重なる。

考古学の数字と新羅本紀の記事が重なり、日本書紀の記事も重ねることが出来る。

もし崇神世=箸墓=250年±10年に合わせれば、纒向遺跡が3代と重ならない。
重ならない数字を正とし、重なる数字を偽として成り立つ歴史は無い。
556唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 19:48:28
考古学はさらに云う。
纒向遺跡の大型建物は、3世紀前半の建物跡に、土盛りをし整地して3世紀中期の建物が築かれる。
3世紀前半が垂仁であり、中期に景行の日代の宮。
土盛りをし整地=日代 と書紀の表現も住所も整合する。
557日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:50:38
アラタメはヤフーにおるね
558日本@名無史さん:2010/12/04(土) 21:31:40
>>475
>広開土王碑文は正しい。読み方を間違えているだけだ。
その最たるものが、辛卯年を391年とする読み方だ。
だから、当時の日本には馬も武器もろくすっぽない。丸裸状態で半島に行って半島を制圧した
なんてありエン。となる。

何時ならあったと言うのだ?
日本に馬が現れるのは400年以降だ。

頭、狂ってないか?

400年以降なら、高句麗によって半島から追い出された倭人兵が
馬や武器を持って逃げて来たかもしれん。
日本に有るのはその程度のものだ。
伽耶に居て製鉄の技術を持って来たのは倭人か伽耶人か不明だが、
この逃亡兵が馬と武器を半島から持って来たのだろう。
こいつらは主に畿内に逃げ込んだのさ。
そして畿内で製鉄が自前で出来るようになって
大和は九州を凌駕する鉄を手に入れられるようになった。
古墳時代も中期に入ってからだな。

神功皇后の半島征服譚は、実は命からがら半島から逃げてきた話なのだ。
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 22:12:39
>何時ならあったと言うのだ?

275年神功元年、273年の日食(あづないの罪)を目標とする。
275年は、崇神6年を193年とし、途中垂仁末が239年である。
この数字は書紀の各天皇紀に19年×n回の空白年を差し込んでいる、と見るとその数字を
差し引いても太陰暦で読める数字になる。
274年渡海、仲哀の死にも拘わらず渡海する理由が必要になる。
それは、倭国が冊封国として渡海するよう要請された為である。
308年石碌の乱、倭国は、東夷軍の中にいる。最初に冊封された東夷であるから、東夷軍の長である。
323年には、東晋は洛陽奪回を断念する。東北方面は空白地帯となり、そこを百済軍を引き込み占領する。
326年 七支刀
331年 広開土王碑の辛卯年。

323年が北方系渡来人を考えるキーポイントとなる。
巨大古墳は、この渡来人と牛馬を使うことで出来上がる。
つまり400年前後の高句麗の南下以後に作り始める事は無い。

>この逃亡兵が馬と武器を半島から持って来たのだろう。
この人数では、古墳中期以後を説明出来ない。
古墳前紀、家屋文鏡で代表される建物。
古墳中期 埴輪で代表される建物。この建物は、先の秋津遺跡に有った可能性が高い。
560唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 22:20:59
秋津遺跡
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0124.htm

方形区画施設の復元図と囲形埴輪との時代誤差は少ない。
秋津遺跡は、神功=磐余稚桜宮の次の時代の遺跡である。
神功=磐余稚桜宮(桜井茶臼山古墳)から110年後が誉田御廟山である。
561唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 22:42:23
神功=磐余稚桜宮(桜井茶臼山古墳)から110年後が誉田御廟山である。
仁徳は神功39年太歳を元年とする。313〜399年が振られている。
そして仁徳天皇が本人であれば、三十一年立大兄イザホワケ(344年)までである。
ここで即位したのは、応神天皇となる。
562日本@名無史さん:2010/12/05(日) 02:04:05
ねた投下

>九州説の根拠『松野連家系図』
>特に、呉王夫差の後裔を自称する松野連家である姫氏(紀氏)が、火の国山門に上陸後、
>熊襲とも呼ばれながら、高良大社付近を拠点にして、倭の代表として中国へ貢献し、
>卑弥呼とされる人物や倭の五王を輩出していた系図がある事が直接的根拠。

これについて、知ってる人いましたら書き込みよろしくです。
563日本@名無史さん:2010/12/05(日) 02:06:06
九州説の根拠『松野連家系図』

これははじめて耳にする。
この系図とやら、みてみたいよね。
どうなってるんだろう?古田氏の九州王朝説がなんたら・・・
564日本@名無史さん:2010/12/05(日) 02:11:58
これ、九州王朝の偽系図ですよ。倭の五王が九州にいたとかいうやつ。
565日本@名無史さん:2010/12/05(日) 10:56:34
しかし、倭王武は雄略天皇でない事は確かだ。
何しろ、507年に梁から征東將軍に任ぜられているからね。
雄略はこの頃既に死んでいる。
566日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:00:27
各史書の各記事に信憑性は?、そんな考察も必要だよ
567日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:07:49
自説にとって都合の悪い所は信憑性がないって。
笑えるな。
568日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:27:42
雄略の生没年や即位年はどうやって決めるの?
569日本@名無史さん:2010/12/05(日) 15:10:52
オカルト雑誌のムーで邪馬台国と大和朝廷の話を取り上げていたけど
ほとんどは似非超能力者の妄想で見る価値なかったんだけど
夏の城と冬の城として取り上げられていた遺跡の建物配置が載っていて
そこは興味深かった。

当時も2世紀にも山城があったのかと
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/05(日) 15:33:45
書紀と百済本記が重なることは無い。
神功皇后摂政五十二年 百済は恭順の意を示す。七支刀=326年か369年
神功皇后摂政五五年 百濟肖古王薨。≒375年 近仇首王即位
まあ近い数字ではあるが重なることは無い。

神功52年から百済は属国である。であるならば、340年代に存在する百済と整合性がとれなければ
ならない。326年であれば、ここが百済建国であり、百済(モザン)をクダラと呼ぶきっかけも考
えられる。しかし七支刀が369年では、前燕があり、北部の治世は安定している。
書紀:『臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其■七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。』
分与された土地の西方に河があり、その源流に谷那鉄山がある、その鉄を取り、七支刀を造る。
谷那鉄山は平壌方面であり、鋳造用の石炭(コークス)も無ければ造れない。
石炭(コークス)は北方に産出する、北方が安定していれば、占拠することが出来ない土地である。
北方に百済が存在していたのであれば、半島南部を占拠するために倭に従う必要は無い。
この事からも、七支刀が369年では遅すぎる。しかも“16日丙午”の無い年である。
326年であれば“3月16日丙午”が存在する。

そして366年 神功49年の半島占拠は否定される。
広開土王碑 辛卯年=391年とし、その後の倭国を説明するためにのみ、碑文は容認されている。

つまり百済本記を正しいとする限り、正解を得ることは出来ない。
七支刀を326年とすれば、神功49年(323年)も広開土王碑文(331年)も正しいとする文献の読
み方が出来る。
百済本記の数字を韓国考古学が確認出来ない事実は、百済本記に齟齬のあることを表す。
ソウル石村洞の積み石塚は、高句麗が占拠した時代の遺物である、この時代を百済本記は欠く。
571日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:31:07

日本書紀はほぼ出鱈目だ。
外国の文献からパクった話を適当に嵌めこんででっちあげている。
日本書紀を参考にする時は、「一書によれば」とか「百済本紀によれば」
と書いてある部分は多分真実なのだろうが、当て嵌められた時期は出鱈目
な事が多い。
だから、日本書紀から年代を推測する事は不可能だ。
572日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:52:55
>>563
尾池誠の「埋もれた古代氏族系図 新見の倭王系図の紹介」で発表され、
その後宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」で一部が発表されています。
基本的には国会図書館蔵の「諸系譜」版と静嘉堂文庫蔵の「百家系図稿」版があり、
双方で若干記述の違いがあります。
内容的には、江戸時代の国学で示された倭の五王が熊襲酋長の僭称であるという記述にそっていて、
呉王夫差からはじまり、卑弥呼、倭の五王を経て安土・桃山時代の武将松野主馬までかかれています。

・・・よくわからないが九州王朝一派以外にはかなりマイナーなもので、古田史学の会でも東日流の一件
から慎重に取り扱われている。人物名が漢籍そのままに出てくるあたりが嘘くさい。おおかた、江戸国学
の隆盛期に、本邦の中国への朝貢の事実を嫌った国学者が、熊襲の僭称説を広めるために偽作した
ものではないかと思う・・・。
573唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/05(日) 19:08:22
>日本書紀から年代を推測する事は不可能だ。

考古学が纒向遺跡を2世紀後半から、とするならば、
書紀の纒向3代も同期させなければ、同じ時代にならない。
であるならば、
考古学と書紀を同期させればよい。

崇神5年 疫病、民の死
崇神6年 民の離散   この2年間の出来事は、離散から、凶作(餓えの病)と推定できる。
考古学は、弥生後期後半に各地で遺跡(居住区)が放棄された、とする。
であるならば、ここを、新羅192,3年と同期出来る。後漢書に依れば冷夏は193年であるから1年の齟齬はある。
192年=崇神5年。193年=崇神6年。
次が任那建国だ。
新羅 209年伽耶に援軍。伽耶は、541年に建国330年で新羅に身を寄せる。
任那建国は、209年である。
魏書に景初3年の朝貢記事がある、人物として、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁  この様な名前があがる。
つまり、倭乱は、景行の時代であり、箸墓築造をもって、纒向遺跡は衰退に向かう。
神功元年のあづないの罪は、273年の日食である。

この数字は、書紀の太陰暦から19年×n回の空白年を差し引くことで得られる。
書紀の数字は後付けでは説明出来ない。

574日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:15:19
新羅と伽耶の建国は4世紀半ばと決まっているんだがね。
575日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:26:32
七支刀が重要。七支刀は百済王である近肖古王(在位346〜375)が倭に送った
ものであり、古事記には応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと論語などの
書物を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者
として日本に遣わした、とされている。
百済の書物では369年に倭に七支刀を送ったとされている。百済は近肖古王の時代に
漢字が伝わり記録できるようになったので百済の書物の方が信憑性が高い。
つまり、近肖古王の時代は、大和は応神天皇であり、半島へ勢力をのばす影響力
があり、400年頃には国内で仁徳天皇陵などの巨大古墳を建造する権力があった。
その、応神天皇は九州出身である。これが神武の東遷?
576唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/05(日) 19:27:41
>>571 さんは、
崇神時代=箸墓=卑弥呼で時代を考えていないか?
この数字が歴史と合うことは無いから、書紀をデタラメとしたいのだろうが
書紀の記事が何処を指すかを数字に直せなければ、全てがウソとなる。

書紀は、神功、応神を 磐余稚桜宮(桜井茶臼山)から110年後が誉田御廟山と表記している。
この二人を実際に生きたであろう年齢にしたら、正しい歴史が見えなくなるだけ。
ついでに仁徳は、神功39年太歳を元年とし、87年の実際の時空が宛がわれている。
だからこの数字を歪めても正解は得られない。
577日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:27:30
>>575
>七支刀が重要。七支刀は百済王である近肖古王(在位346〜375)が倭に送った
ものであり、

大和の王は候王(百済に従属する諸侯という意味)なわけね。ww
泰□四年十一月十六日の解釈には色々とある。
「□」の部分ははっきりしないから。
東晋の太和と読む解釈は無理だろう。

金石文で、特にこのような細い所に刻むのに「太」を「泰」のように画数の多い字で書く事は普通ではない。
「泰」を「太」と書く事があってもその逆はない。

そこで『和』とされた部分は『始』と読み、『泰始4年』と読めば、この刀が作られたのは468年である。
倭の五王の済のころだな。
この頃であれば百済に前方後円墳が造られていて、倭人が活躍していただろう。
百済は倭から派遣された武将(百済の前方後円墳に葬られた)に感謝の意を表してこの刀を作って与えた。

畿内王権は百済が滅んだ時に逃亡して来た倭人か百済人が持ち込んで献上したものにいい加減な解釈を与えて石上神社に奉納したのだろう。
578レス長たらし毘古:2010/12/06(月) 02:15:34
最近古事記を読んでて思った事。
@月読神(ツクヨミカミ)と筒三神(ツツミカミ)って音が似てない?
AスサノウのGETした草薙の太刀(クサナギノタチ)ってどうなったの?
B出雲の神宝イズモノフルネってどうなったの?
C神功皇后が新羅攻略の証に門に杖をぶっ刺した時、なぜ天照でなく筒三神を
奉ったの?
D神功皇后の帰路に「筑紫国の伊斗邑」と「筑紫の末羅縣の玉島里」という
地名が気になる。
579日本@名無史さん:2010/12/06(月) 15:22:32
筒男は新羅の始祖「次次雄」から来たもの。
580ローガン:2010/12/06(月) 15:58:15
>>577
>金石文で、特にこのような細い所に刻むのに「太」を「泰」のように画数の多い字で書く事は普通ではない。
> 「泰」を「太」と書く事があってもその逆はない。

全くない訳ではなさそう…
南京磚墓 紀年磚 「泰元九年三月任興作」 というのがあるそうです。
太元九年は384年
581日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:22:22
磚と刀は違うよ。
レンガに彫るのと鉄に彫るのでは難しさが違う。
582日本@名無史さん:2010/12/06(月) 16:35:24
それから「聖音」と言う言葉は仏教の影響を受けた言葉だと言う。
すると百済に仏教が伝わったのは384年の事だから、369年では時代が合わなくなる。
仏教が伝わった後に作られたと考えるべきだな。

583ローガン:2010/12/06(月) 19:39:46
>>582
いろいろ、解釈があるかもしれないけど、泰の次にイが見えたんだから、「禾」と考えるのが順当。
584あらため:2010/12/06(月) 20:33:05
>>583
いいやん、いいやん、いいやん のローガンさん

九州説限定スレの鹿島神流氏とやら〜なかなか詳しいと思いません?
彼、こっち来ればいいのにね。
585日本@名無史さん:2010/12/06(月) 20:35:07

必見!食卓のお肉ができるまで
http://www.youtube.com/watch?v=rLGGmy1tsec
586あらため:2010/12/06(月) 20:41:45
>>531
>>奴国(中)
>この意味がわからん。w

いや、私も分かりませんw 河童さんに答えて答えて貰いましょうよw

>>535-537のローガン氏の「倭種」について、誰かレスしようよ

>>552
>173年 姫大神

唐さんはいつからヒミコ=姫大神になったんでしょうねw
587あらため:2010/12/06(月) 20:53:33
>>572
>尾池誠の「埋もれた古代氏族系図 新見の倭王系図の紹介」で発表され、
>その後宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」で一部が発表されています。
>基本的には国会図書館蔵の「諸系譜」版と静嘉堂文庫蔵の「百家系図稿」版があり、
>双方で若干記述の違いがあります。
>内容的には、江戸時代の国学で示された倭の五王が熊襲酋長の僭称であるという記述にそっていて、
>呉王夫差からはじまり、卑弥呼、倭の五王を経て安土・桃山時代の武将松野主馬までかかれています。
>・・・よくわからないが九州王朝一派以外にはかなりマイナーなもので、古田史学の会でも東日流の一件
>から慎重に取り扱われている。人物名が漢籍そのままに出てくるあたりが嘘くさい。おおかた、江戸国学
>の隆盛期に、本邦の中国への朝貢の事実を嫌った国学者が、熊襲の僭称説を広めるために偽作したものではないかと思う・・・。

『松野連家系図』 ですが、私達はみることは出来ないんでしょうかね?
588あらため:2010/12/06(月) 20:56:59
おっ あったあった!
http://www.furutasigaku.jp/cgi-bin/msearch.cgi?query=%1B%24B%3E%3ELnO%22%21%217O%3F%5E%1B%28B

ヤフーの九州説ザラコク氏が、私への返事で貼りつけてくれてたようです。
589日本@名無史さん:2010/12/07(火) 08:06:41
>>583

「イ」と「く」は近いと思うが。
590唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 12:20:43
>唐さんはいつからヒミコ=姫大神になったんでしょうねw

209年が伽耶(任那)の建国である。
この数字からツノガアラシトの渡来は、173年になる。ここから世継ぎを推定すると。
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年  ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国
216年 崇神崩御 任那の朝貢
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。清日子が長男ではないか?
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守(都市牛利 タシウリ)の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。

纒向遺跡を崇神からとすれば、書紀の記事と整合性がとれる。
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 12:45:43
>泰の次にイが見えたんだから、「禾」と考えるのが順当。

とはいえ、七支刀が領土分与のお礼としてもたらされるのであるから、369年では
遅すぎる、16日丙午の無い年である。
書紀と百済本記は、整合性がとれない。
とれない理由を書紀に押しつけるが、領土分与を正しいとすれば、326年であれば領土
分与はありうる。326年には、16日丙午が存在する。

百済本記の数字を韓国考古学は追認出来ていない。何故か?
新羅土器、伽耶土器共に編年がある、しかし百済土器には編年が無い。
私はこの理由として、百済本記は、高句麗に占拠された時空を欠くと思う。
413年の、倭、高句麗の朝貢時、百済王映は、高句麗国に含まれている。
書紀は413年を允恭2年とする、翌年の新羅の医者の話には、仁徳までの新羅に対する
不遜な態度は見られない。百済、新羅が高句麗の属国であることを認めた上での出来事であろう。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 13:51:22
古代人が、未来の我々に真の年代の算出を教えた計測の宝器たる算木。
これが天津神算木(天津金木)なり。天津金木とは三輪(半径r=3)の
円からのその球化の 体積=表面積 の数式をいい、天津神算木というのだ。
天津金木とは

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ -----------------@
 4πr**2=113.09733552923・・・ -----------------A

@Aから

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 (見かけの年代)

大祓祝詞に曰く
 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置きたらはして

千座(千位)は千の位たる整数第4位

 3≠0113.097335 ------------------------------------@’

 2≠0113.097335 ------------------------------------A’

右辺を逆読みしたとき、二数 533 790 から

 790−533=257年

A’から不等号をまたいだ2,0の結合数の20を引くと

 257−20=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

を得る。@’の場合は・・・? また後で・・・。
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 13:57:49
>>592 続き 前述のとおり

 790−533=257年

だが、ここからA’の左辺2を足すと

 257+2=259年=崇神没年

@’の右辺3を足せば

 257+3=260年=垂仁即位元年

と、各々の真の年代(実年代)得るのだ。
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 14:36:33
>259年=崇神没年

この数字を纒向遺跡に当てはめると纒向の衰退時期になる。
だから考古学の数字を否定する。
では、他の文献と整合するか?
崇神6年に民が離散した。この記事は新羅193年と同期出来るが、(後漢193年は冷夏、凶作)
ここを考古学は、唐古、鍵遺跡他 各地で遺跡(居住区)が放棄された弥生後期後半、と表現する。
そして2世紀末に纒向遺跡に各地の土器が集まる。これを書紀から拾い出せば、四道将軍派遣後の異族多帰である。
239年辺りからの魏書では確認出来ない。

595日本@名無史さん:2010/12/07(火) 14:41:33
>>594
四道将軍派遣を2世紀とするのは、通説に比べてあまりに早くはないですか?
四道将軍派遣の成果が各地の前方後円墳築造であるならば、3世紀半ば以降
と見るのが妥当な線では?
596日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:40:23
>>593,594
通りすがりの素人ですが、質問です。
唐松山さんと太国さんの総論とはどんなものですか?
過去スレから眺めてるんですが、各論や細部で議論されてるようで、
お二人がどんな総論をお持ちなのかよくわかりませんでした。
例えば、

・幾内説か九州説か
・東征があったのか否か、またはそれはいつ頃か
・大和王朝と九州王朝は別ものか……など

について簡単に持論を教えて頂ければと思います。
597日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:49:25
二人とも記紀の年代を云々している時点で畿内説だろ。
自叙伝は嘘をつく。
記紀の記事から得る物は少ない。
598ローガン:2010/12/07(火) 16:10:18
>>589
>「イ」と「く」は近いと思うが。

女ヘンの字が出てこないので比較出来ませんが、 裏面にある「倭」の女と表面二文字目の「イ」は明らかに違う。
599ローガン:2010/12/07(火) 16:26:31
>>591
>とはいえ、七支刀が領土分与のお礼としてもたらされるのであるから、369年では
> 遅すぎる、16日丙午の無い年である。

とはいえ、史料の実態を無視していては、いくら論じても共感は得られない。
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 17:21:30
>>594
崇神6年≠193年

右辺の年代にまだ船舶が製造されてないから、到底もやしのように干上が
った農民大量千人がカラ手で渡海など出来ない。完全な妄想のデタラメだ。

船舶が始めて製造されたのは、10年余後の紀の崇神17年。これでは唐松山の
論は不整合のインチキである。ww

紀の崇神6年=238年=景初2年=崇神2年(倍暦)

である。この年、倭笠縫に天照大御神とその象徴たる日像鏡を祭祀したもの
であり、これが1次鏡に他ならない。2次鏡は同床共殿廃止からの模擬鏡
であり、さらにその翌年の

 景初3年=崇神3年(倍暦)=239年

に1次鏡にならっての3次鏡の多数製造がなされたのであり、これが畿内
からうんと出土する景初3年鏡なのである。唐松山の言う銅鐸なんぞ、朝廷
には無用の物であって、重要なのは三種の神器の筆頭の『鏡』であるのだ。

崇神6年ころの農民飢饉によりこれ以上困窮が続くのを嘆いた崇神天皇が
日神と鏡を祭祀して神頼みしたものであり、これで倭笠縫にアマテラスと
鏡を祭祀したのである。

天津神算木から 崇神没年=259年 を得た。このことは那珂博士、
橋本増吉、菅政友及び.静岡大学名誉教授 原秀三郎先生の主張たる258年説
が、1年違いでほぼ正しかったことが分かる。つまり唐松山の言う215年説が
デタラメであったことが確認出来たのであ〜る。
601唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 17:22:30
>四道将軍派遣の成果が各地の前方後円墳築造であるならば、

四道将軍派遣の成果は異俗多帰であり、前方後円墳築造では無い。
前方後円墳築造は、任那建国により鉄が畿内に流入する。その結果です。

だから任那建国を西暦で推定せねばならないが
半島は239年以降、魏が管理している、倭を複数回尋ねた事からも妥当な思考である。
その魏が伽耶カラ国を其の(倭の)北岸と表記している。
その中で任那建国は出来ない。
伽耶の建国は、任那に拘わらず209年である。伽耶の存在を無視して任那建国は出来ない。

>史料の実態を無視していては、いくら論じても共感は得られない。
百済本記と新羅本紀には、約50年の開きがある。この事実を無視して百済本記の数字に合わせていたのが
2,30年前の文献史学と考古学である。
考古学が50年遡上した意味は、文献も50年遡上せねば整合性が得られない事を意味する。

602太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 17:33:28
>>592>>593) 続き
天津金木から、@’の場合は20でなく30を引くことになる。すなわち

 790−533=257年   から

 257−30=227年=卑弥呼即位元年

であるようだ。

この年は魏の 太和元年=227年 になり、年号は大和(日本)の名から採用
したもようだと観る。「・」を入れて年、年号を 太和元年 としたのは、
元年の『元』が『壹』を示唆することも兼ねているようだ。
よっぽど女王国と魏との仲が良かったのだろう。「魏」の号も『委』の倭
と鬼道の『鬼』から成っているからだ。
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 17:40:08
>>596
九州説が正解ですよ。記紀の卑弥呼と壱与の即位した記事が、相当年代に
全然見当たらない。このことは彼女らの国が畿内にあったとは到底言え
ないです。

神武東征ですか? ならばB.C.7年ころですね。

別物ですよ。九州王朝があったんだから、唐松山の言う景行が日本統一
したなどとは真っ赤なインチキですな。
604唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 17:52:03
316年 晋滅亡
 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月。
317丁丑年。元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻
而不聴宣失之言 遣使責之
 この時 伽耶と倭は相通じている 朝廷の命令を聞かない これを以て倭王の女を妻とする。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年。
323癸未年。七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗
休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚
3月 また扶余の流民30戸が来降した、扶余は倭と相通じている。(倭は)年年その民を受け入れ都や村に散置した。
千熊長彦は、良く弁舌がたつ、民(扶余)と相通じ、(彼らは)その言葉を聞き入れた。故に国人(楽浪、帯方の民)
はその多くが倭に従う、或いは百済、または高句麗に帰属する。

この癸未年を60年繰り下げたら、楽浪方面は安定しているから、民が自由に帰属を決めることは出来ない。
そして323年が大量の北方民の渡来時期であり、この後河内に巨大古墳が築かれる。
書紀は、神功磐余稚桜宮(桜井茶臼山)から110年後が誉田御廟山としている。神功から応神にかけ百済王
朝が書かれているからこの数字は短く出来ない。
4世紀前半の遺跡として、秋津遺跡が存在する。
605596:2010/12/07(火) 18:20:00
>>603
有り難うございます。
私も、この板の各スレを読んだ雑感ですが、
卑弥呼のいた九州王朝と幾内とは、別物のような気がしてます。
606レス長たらし毘古:2010/12/07(火) 21:18:40
>>579
>筒男は新羅の始祖「次次雄」から来たもの。
情報ありがとうございます。そっち方面も調べてみます。
>>590->>593
唐松山さんは崇神崩御以降の同代の誰かが卑弥呼と想定。太国さんは崇神即位
前後の同代の誰かが卑弥呼と想定。こんな感じの解釈でOK?

アプローチは違うが、俺個人は、ヤマトモモソ毘売が開化天皇として即位し、
幼帝タケハニヤスを擁立している状態が卑弥呼であると想定している。そして
その時の「女王国」が、九州東北部〜山陽〜四国北部〜淡路〜摂津河内を海洋
運行にて支配していた状態と想定している。この時に、淡路は「交通の要衝」
となるので、出雲と紀伊を連結するこの淡路島は、大和・北九州・出雲の三者
にとって「重要拠点」にもなる。
タケハニヤスが、有力皇子(後の聖徳太子時代の摂政に相当)として畿内で
大和〜出雲〜東国に睨みを効かす。
そしてヤマトモモソ毘売が九州東北部の「女王国(=首都)」にて、魏晋の
諜報部員に「卑弥呼」と認知される。
そして紀伊の大毘古がクーデターを起こしタケハニヤスを畿内から討ち払う。
黒歯国は、中国語発音では「ヘイシークォ」つまり、ヘイ!四国(シークォ)
もしくは兵士国(ヘイシコク)。いずれにせよ、四国か畿内がこれに当たる。
つまり、当時ではまだ、大和権力そのものの本体は、「黒歯国」と魏志倭人伝
には認知されているにすぎないかもしれない。

一応この想定だと、今のところ俺は太国さんの方が近いな。祟神天皇即位の
為の前提条件としてタケハニヤスの乱=卑弥呼の死→祟神・大毘古の畿内簒奪
と言う時系列で想定してるから。タケハニヤスの乱は、記紀では開化〜祟神
の間の出来事。そして、魏志倭人伝の言う所の「倭国大いに乱れる」この畿内
を討伐すべく、九州北東部から派遣されたのが、タケハニヤス。ヤマトモモソ
&タケハニヤス体制が一番安泰な時に、魏志倭人伝の資料元になった「話」が
中華東北部楽浪郡にもたらされる。
タケハニヤスVSクニブク(大毘古グループ)が久須婆(クスバ:北河内)
で激突するのも、当然の地理環境と成る。
607レス長たらし毘古:2010/12/07(火) 21:29:16
>>603
上記想定だと、卑弥呼の即位=開化天皇の即位、壱与の即位=沙本毘古(沙本
毘売)の乱、と規定し得る。卑弥呼の即位に国内世論に反対勢力はほぼ無く、
壱与の即位は、後の記紀では「乱」と規定し、魏志倭人伝では「壱与が立った
ので収まった」となる。これは政治見解の違いから来る資料齟齬。
勿論、信じるか信じないかは、聞く人次第だが。
608日本@名無史さん:2010/12/07(火) 21:36:23

イヨタン・・・・・・・・・・
 
609レス長たらし毘古:2010/12/07(火) 21:44:13
>>608
あ、イヨタンで思い出した。俺はトヨタン説ね。
壱与(俺はトヨと読む)自体は、沙本同時代のトヨスキイリ日売と想定。
だから、実質の壱与の即位はトヨスキイリ日売の「伊勢神宮入り」が相当する
と想定している。勿論、イヨタン説もまだ完全否定はしていませんが。(イヨ
タンの場合は水穂五百依比売:ミズホノイホヨリヒメあたりを想定)
610日本@名無史さん:2010/12/07(火) 21:49:43

トヨタン・・・・・・・・・・
 
611太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 21:50:53
卑弥呼は開化天皇の代に、九州で女王国の女王となったということですね。
しかし開化は男性、卑弥呼は女性ですから、当然別人ですな。後漢が滅亡
した直後、卑弥呼は即位したということでして、このことは大陸各書の中
で晋書の記述がおおむね正解だったということなんですよ。

卑弥呼は崇神即位の10年前に即位し、在位はほぼ20年間で、百襲媛は卑弥呼
より7年ばかり前に死んでいます。卑弥呼と百襲媛も、これは別人です。

半島文献の173年の卑弥乎の記事は、干支の60数だけズレているということ
になりましょうか・・・?

 173+60=233年=卑弥呼即位7年
612メ(畿内説):2010/12/07(火) 22:00:17
>>603
>九州説が正解ですよ。

ほう、おっさんの邪馬台国九州説とやら久々に聞きたいねぇ。

>記紀の卑弥呼と壱与の即位した記事が、相当年代に
>全然見当たらない。

第十五代天皇「神功」にしても即位した記事が見当たりません。
神功皇后は後代(日本食編纂時)に「摂政」という形にされてます。
二人の女王こそが、この「摂政」という言葉が当てはまる。
そして、「天皇」としては数えられなかったダケ。

>神武東征ですか? ならばB.C.7年ころですね。

これは〜私もですが、おっさんに近い年代を考えてる。

>別物ですよ。九州王朝があったんだから、唐松山の言う景行が日本統一
>したなどとは真っ赤なインチキですな。

ほう、その九州王朝説とやらを披露して下さいよ(笑)
613メ(畿内説):2010/12/07(火) 22:02:23
【訂正】

日本食編纂時・・・×
古事記・日本書紀編纂時・・・○
614唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 22:04:31
>卑弥呼の即位=開化天皇の即位、

任那建国は、崇神時代である。
卑弥呼の時代には、半島は魏が管理している。
魏の管理する半島に国を建てることは不可能であろう、何故ならば、倭国は魏から黄旛と下賜
される立場である。晋も引き続き倭国を認めているから、やはり建国は出来ない。

615メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:08:08
よーし ヒマ潰しに・・・おっさんとでも邪馬台国論争しようかなw

アラタメ畿内説 VS 太国九州説  
負けた方が、縦目君の踏み台(卒業検定)になるって条件でw
616太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:08:19
神功は卑弥呼の相当年代ではありませんから、卑弥呼の真の年代の
論からは外れる時代ですよ。紀の編者らは真の年代とはかけ離れ
た干支の倍数たる120年あたりを錯誤して、神功の代に卑弥呼の記事
を組み入れたということです。だから神功は外すべきでsね。
617日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:11:08
>>612
>>記紀の卑弥呼と壱与の即位した記事が、相当年代に全然見当たらない。

豊鍬入姫命の伊勢神宮を遷し祀るためのドタバタの部分が怪しい。
記紀の記事は事実が、長い年月の間にゆがめられてるんよ。
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:14:34
>>616 訂正
× 外すべきでsね
○ 外すべきですね

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

改め殿も近い年代を考えてるということで、おおいにけっこうですな。

貴殿は崇神の代ころを卑弥呼の年代と考えてるということで、こうなり
ますと、神功の代は卑弥呼の相当年代ではないと貴殿は気がついて然りの
はずですが・・・?
619メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:15:47
>>616
まずは、ベターなネタから・・・

「水行十日」「陸行一月」
これは邪馬台国までの月日なんですが、これらの数を考えると
到底、九州はおろか、太平洋のど真ん中で〜
九州内ではとても収まらない。
このへん、太国のおっさんはどのように説明してるのでしょうか。
620日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:17:06
邪馬台国はどこですか?って本によると
621メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:21:54
>>618
神功は卑弥呼の活躍した時期よりも150年程、後のことでしょうね。
そうすると四世紀後半でしょうか。

神功の話をしたのは、「即位した記事がない」という貴方の発言に対して
神功天皇も即位した記事がないではないか?と説明したんです。
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:23:29
>>619
神武は九州から畿内へ行くのに数年かかってるじゃないですか。
遣使ら一行はエイトマンのようなスーパー・ロボットではありません。

疲弊、病気、危険を察知しての逆戻りからの道変更、台風、盗賊から
の回避、観光のための停泊等、そのくらいの日数月数は妥当で
しょう。

錆びないスーパー・ロボットならば、ストレートにジャワ、タイ等へ
海中をつき進んで、もっと早くに到達出来ましょう。エイトマン
なら軽く出来えましょう。
623太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:26:26
>>621
4世紀半ばころから同後半ですね。
624日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:31:02
>>622
太国さんは魏使をどの程度の規模と想定してるんですか。
私は少なくとも梯儁は、数百人規模で来て、魏の皇軍規定に
従って迅速に行動したと考えています。魏帝詔書と印綬の仮拝は
重要任務だし、彼は軍人(尉官)ですから。
625唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/07(火) 22:31:46
>神功は卑弥呼の活躍した時期よりも150年程、後のことでしょうね。

こんなにのんびりしていたら、渡海の時期を失う。
魏、晋が半島を管理している時代に任那は建国できない。
626太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:33:59
>>624
そこまでは何ともですが・・・?
627メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:35:01
>>622
以前、本で読んだことがあるんですが、
奈良時代の九州太宰府から近畿までを「一月」という記事が何処かにあり(続日本書紀?)、
そこからみると「水行十日」「陸行一月」というのも九州内ではなく、
「近畿周辺」、又は「近畿よりも遠く」と考える方が普通ではなかろうか?
もしかして、「陸行一月」は「陸行一日」の間違えと言わないでしょうねw
628日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:36:39
今夜は、久々に唐松太国ショーをやっているw
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:38:08
>>627
そういう箇所は実録でしょうから、どのくらいかかったかははっきりして
いたでしょう。いずれにしろ神武が九州から畿内到達の年月を参考にすべ
きで、陸行一月は妥当の範囲内と考えますよ。
630日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:49:44
太国の妄想なんて聞くに及ばず。
631メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:50:45

>>629
「水行十日」「陸行一月」というのはなんなんです?行程記事ですよね?
この行程記事というのは、都までの『道のり』を言ってます。
見聞きしたことではなく、遣使が実際に歩いた日数と言いますか・・・。
そして、よそのサイトでも説明しましたけど、この遣使は都まで行ってますよね。

正治元年、八年の遣使にしても勅使ですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BD%BF

「勅使」というのは、皇帝の代理として倭王に伝達するわけですから、
そんな〜1年も2年もかかるわけないじゃないですか。
632メ(明日休み):2010/12/07(火) 22:54:20
あれ・・・おっさんの「ゆっくり陸行」説 ジ・エンドかな?

旅行・観光しながら都へ行ったなんてあり得るわけない。
633太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 22:57:24
>>631
行程記事でよろしいでしょうが、例示的に列挙した状況で時間がかかって
いるということです。神武の件は参考だということですから、それを即一行
の行程と同等にする意味を言うものではありません。1〜2年かかったと
は言ってませんが・・・。
634日本@名無史さん:2010/12/07(火) 22:59:53
そうですね。まして明帝は重篤な病にあったわけですから。
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:00:39
>>632
今はうるさくなったから現今日本の状況ではだんだん出来なくなったで
しょうが、公務の旅の建前のついでにこっそり旅で観光など過去にやって
た事例はうんとあるはずでしょうがね。
636太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:02:18
観光でなくとも、遅延の事由となる障害は例示したとおりけっこうあり
ますよ。
637メ(明日休み):2010/12/07(火) 23:02:26
>>633
なんで神武の件は参考にするんです?

私は、神武のことは日本建国の出来事として敬い、「神武東遷」という言葉を使ってる。
しかし、実際は「神武東征」ですよね?
「東征」というのは、周辺諸国を征伐し、征服しながら東へと進む事です。
従って、神武の件に関しては「行程記事」とはいえない。
638レス長たらし毘古:2010/12/07(火) 23:04:08
>611
>卑弥呼は開化天皇の代に、九州で女王国の女王となったということですね。
しかし開化は男性、卑弥呼は女性ですから、当然別人ですな。

「毘売」が「大王」より当時は上位という架空です。その上で「近畿におけ
る最高権力者」であった期間が、後代記紀では「開化大王」の期間。
そして、後世の「天皇→上皇」のようにモモソは「大王→毘売」となり、九州
東北部に御戻りになられます。その時、タケハニヤス王が大王として近畿を
担当します。これが後代記紀にて「祟神大王」の時代に吸収されます。タケハ
ニヤス大王は単なる「反乱者」とされ、その祖神は「糞の神」にされます。

> 卑弥呼は崇神即位の10年前に即位し、在位はほぼ20年間で、百襲媛は卑弥呼
より7年ばかり前に死んでいます。卑弥呼と百襲媛も、これは別人です。

この7年の差異こそが、タケハニヤスの乱の完全鎮圧に5〜7年かかった事を
表しているかもしれない。クーデターグループ(祟神&大毘古)の政権に
なって、まさか「我々がモモソ様を殺しました」とは口が裂けても言えない。
なら、「乱が終って調べてみたら(蛇)伝説的に、お亡くなりになっていた」
とするしか無いでしょう。つまり、国内的・実質上の没年が「モモソの没年」
で、対外的・公式上の没年が「ヒミコの没年=トヨの宮入り」と、こうなる。

こうして、モモソ毘売の治世は、前半を開化、後半を祟神時代途中までに、
分割された。この架空です。祟神即位の時点は、実質はタケハニヤスの即位
であり、記紀にて「祟神即位〜タケハニヤスの乱」の期間は、実質は消された
タケハニヤス大王の時代と架空すれば、ご指摘の二つの矛盾ポイントも解釈
可能。
もちろん、「女王を男王とした」のは、あくまでも記紀編集の時代までに輸入
されてある程度国内認知もされた後の「男尊女卑」概念に寄る物も大きい。
当時はまだ、男王と女王の区別は無く、勿論貴賎や上下も無かったのだ。推古
天皇以前も「女帝」は、ひょっとしたらまだまだいるかもしれない。
639メ(明日休み):2010/12/07(火) 23:05:58
>>635-363
倭人伝をよく読んで下さいよ
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a003-02.html

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩

其八年 太守王頎到官 倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡相攻撃 遣塞曹史張政等因齎詔書黄幢拝仮難米檄告喩之
640太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:07:17
改めどの
黒部峡谷の奥地には、200m進むのにプロの登山家でも5日もかかる場所が
あるということですよ。今の九州ではそんな所はまぁないのでしょうが、
人間はロボットでないから疲労はするし、思ったよりけっこう時間は
かかると観たほうが正解ですよ。

スーパー・ロボットなら、単純走行で、海中をくぐってまっしぐらに
九州の南の海上をつき進めるでしょうがね。w
641メ(明日休み):2010/12/07(火) 23:11:33
はい〜スーパー・ロボット とか[非現実」な話が出て来たよ〜

そろそろ第三者さんに判定して貰いましょうよ?w
縦目君の踏み台(卒業検定)は、おっさんだろうけど・・・w
642第三者:2010/12/07(火) 23:15:07
>>641
>第三者さんに判定して貰いましょうよ?w

判定

 改めドツボも太国もどっちもゴミ。

643太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:17:20
記紀の卑弥呼相当の年代あたりに卑弥呼、壱与の即位の記事なないという
ことは、冷静、素直に屈曲せずに考察すると、畿内に卑弥呼らの女王国は
存在しないと〜こう判断するのが安全、妥当な考察ですな。
644日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:18:39
南至はこの際無視します?
645太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:22:41
>>643 訂正
× 記事なない
○ 記事がない

当時は畿内朝廷の男王国と九州の卑弥呼の女王国が存在しており、そのころ
の古代日本は2極支配の情勢にあったということですね。

大陸は呉蜀魏の3極鼎支配であったごとく、日本は1極支配ではなかったと
いうことですよ。半島でさえ分裂してたでしょうしね・・・。
646メ(明日休み):2010/12/07(火) 23:24:41
>>643
わたしとおっさんは、卑弥呼を祟神時代ということで一致している。
その祟神時代の偉大な巫女として日本書紀に記載されてますよね。

即位は〜神功も即位記事がないし、
偉大な巫女、初代斎王「トヨスキ」や第二代「ヤマトヒメ」の名がある。
647太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/07(火) 23:32:23
神功は正規には天皇ではないしょう。摂政ですよ。古史古伝には天皇で
ないのに神功を格上げして天皇と同格にしてるのがありますが。古史古伝は
いささか誇張のやり過ぎ記事があるんです。
よって摂政ということは女王ではないですね。

崇神の代前後に、女天皇の即位記事はありません。このことは卑弥呼の国が
畿内ではないということを物語るものです。

zzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
648メ(明日休み):2010/12/07(火) 23:32:24
倭王「武」の記事が宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國にあります。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/soujo/frame/soujo_frame.htm

この倭王「武」に関しては、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘、
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘の「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王として、

天皇家の雄略天皇[大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)]で決着がついてます。
この時代に既に、ヤマトは九州から関東ま支配し、中国の皇帝へ上表をしてる。

いわqば、二極性ならぬ一極性といいますか。
649レス長たらし毘古:2010/12/07(火) 23:35:51
>>611>>638続き)
つまり、簡単に言うと以下のとおり。

[実質上・国内的]
開化即位=モモソが近畿の最高権力者となる(も兼ねる)
祟神即位=ハニヤスヒコ王が近畿の最高権力者となる(モモソは九州に戻る)
ハニヤスヒコの乱=祟神&大毘古によるクーデター
モモソ没=モモソは自然死もしくはクーデター勢力による暗殺

[記紀解釈]
開化即位=開化(男王)即位
祟神即位=実際はハニヤスヒコ即位の時期を、「祟神が即位」に置き換えた。
実質の祟神即位は、クーデターが終り、ある程度国内鎮圧が澄んだ後。
→それが終ってからの三輪山での酒宴。つまり、実即位=三輪山酒宴。
ハニヤスヒコの乱=ヒミコ(モモソ)の死をもって開始されたクーデター。
→祟神&大毘古グループが最終勝者。三輪山酒宴はその祝勝会。
モモソ没=勿論暗殺とは言えないが、自然死ともできない。よって伝説的怪死

[魏志倭人伝]
開化即位=ヒミコ即位
祟神即位=何それ?ヒミコさん、まだ健在でしょ?黒歯国方面軍事司令官着任
ですか?(一地方長官の人事ゆえ、表記の必要性を感じなかった)
ハニヤスヒコの乱=ヒミコ(=モモソ)没して、倭国乱れる。(この間7年弱)
ヒミコ没=モモソ没から大分経ち、後継トヨが決まってやっと知らされる。
(勿論死んで大分経ったとは知らされない。死んだのでトヨになったとだけ)
650日本@名無史さん:2010/12/08(水) 00:08:01

トヨタン・・・・・・・・・・
 
651レス長たらし毘古:2010/12/08(水) 00:14:26
>>645
>当時は畿内朝廷の男王国と九州の卑弥呼の女王国が存在しており、そのころ
の古代日本は2極支配の情勢にあったということですね。

その想定を直接否定する気は無いが、俺はむしろ「三極」と想定してます。
根拠◎中国古代の三皇神話(ニ男一女)
根拠@記紀の天照・スサノウ・月読の三神構造(これもニ男一女)
根拠A瀬戸内海三極構造:北九州・出雲・近畿(トヨタマ伝説のみ女性的)
根拠B三種の神器

上記根拠より以下の類推解釈です。だからこそ三種の神器が権威権力の象徴。
A天照=北九州の神(トヨタマ神話群)=象徴は玉
Bスサノウ=出雲の神(大国主神話群)=象徴は刀
C月読=前大和の神(ニギハヤヒ神話群)=象徴は鏡

そして、天照・スサノウ・月読は、当時は多分「それぞれのご当地神話」では
上下関係が入れ替わってて、その事も「争乱の元」だったのかもしれません。
652メ(明日休み):2010/12/08(水) 00:34:49
縦目君はパワーアップし「グレート縦目」とか言われてるようなのでw
今度、2ch代表として、鷲崎サイトに連れて行こうかなw
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle

鷲崎さんといえば「邪馬台国の位置と日本国家の起源 [単行本] 」の著者で
東京大学を卒業されてる。
彼は、古代史の無知な書き込みを好まないような雰囲気があるが、
縦目なら大丈夫だろう(ローガンは相手されてなかったけどねww)。

邪馬台国の位置と日本国家の起源
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4404024053/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books
653まあ予想通りの展開www:2010/12/08(水) 00:40:36
>>430
自分達が不利になるから、あれもいや、これもいや…じゃあ埒が明かんぞw

654縦目仮面:2010/12/08(水) 00:50:39
>>652
いやいや、メ さんの他掲示板での活躍はいつも目にしてますが、俺は遠慮しておきます。w
あと「松野連家系図」はかかわらないほうがいいですよ。どうにもならないものです。
655日本@名無史さん:2010/12/08(水) 01:20:47
アマテラスとスサノオは、同一神で表裏一体。
平和と同盟の象徴をアマテラスと呼び、戦争と敵対の象徴をスサノオと呼んだに過ぎない。
政務を司る長が公(おおやけ)、つまり朝廷。
兵部を司る長が物部(もののべ)、率いられる兵はモノノケ(=もののふ、武士)。
両者が共立して頂く統合者が、皇尊(スメラミコト)。
だから、御統の玉(みすまるのたま、玉を綴った和の象徴)と草薙の剣(粛清の象徴)を神器として持つ。
656日本@名無史さん:2010/12/08(水) 09:42:29
神武、崇神、応神 同一人物説と言うのがあるけど・・・
657:2010/12/08(水) 17:03:45
終止符スレ後半は「考古学」をテーマに書き込もうか。

まずは、人気の箸墓から〜
この箸墓は最古級前方後円墳として、全長280メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで
全国でも第11位の巨大さを誇っている。
1968年と1998年の宮内庁による立ち入り調査で後円部墳頂平坦(真ん中ではナイ?)と
前方部墳頂平坦最高所付近から、特殊器台片・特殊器台埴輪片・特殊壺片・二重口縁壺形埴輪などの
遺物が確認されている。
658:2010/12/08(水) 17:20:59
箸墓とか、柳本行燈山古墳(現祟神天皇陵)、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)などは
宮内庁により管轄されており、一般の人が立ち入ることは禁止されてる。
この各天皇陵や皇族関係の他は明治に入ってから厳しくなり、それ以前はあまかったはず。
たとえば、以前、本を読んだ(森浩一の本だったかな?)内容によると、
幼少の頃、箸墓の頂上部が草道になっており、一般の人も普通に通ってたりしたとかあったと聞いてる。

ということは、宮内庁の管理が厳しくなる以前に、この箸墓からの遺物等がもしかしてあるかもしれない。
でもそういう情報ってあまり聞きませんけどね・・・・どうなんだろうね。
659:2010/12/08(水) 17:35:38
皆倭種は『北海道』らしいよw
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=29&summary=on

虫のお弟子さんは「無視」するにかぎるw
こっちまで馬鹿が移るではないかw
まあ、ヒマなんで彼の師匠の本(私の邪馬台国本)から引用してみようか。

>「始度」は直訳すると「繰り返される最初」。

だってよ コレ何処かで聞いたことあるな・・・w

>「大倭」は「倭」よりも”広い倭”地域を表す。
>当時の「大倭」の域は「本州」と「北海道」。
>「大倭=ヤマタホ」でアル。

こっちまで馬鹿が移りそうだぜwww
660中卒ヒッキー:2010/12/08(水) 19:07:12
お久しぶりです。女王国=九州、邪馬台国=畿内 に分けるというのは数年前に自分もこのスレで話題に上げましたが、
結局整合性を重視するあまり倭人伝を曲解してるだけという結論に達したはずですが。
女王国=邪馬台国 の自然な解釈でよく、作者がよくわかってなかっただけでしょう。
普通に畿内説で決着済みだと思いますが。
661日本@名無史さん:2010/12/08(水) 19:13:51
>>660
倭人伝の記述から、
どうやって女王国=九州、邪馬台国=畿内とに分けるのでしょうか?

このスレを読んでるみなさん分かり易く説明して下さい。
662日本@名無史さん:2010/12/08(水) 20:58:15
大陸に使節を派遣したというだけで、その時代の日本で勢力を誇っていたとは言えない
そんな根拠で勢力を測るならば、対馬や琉球は常に大国であるし、
南北朝動乱期には、九州探題が日本を制していたということになる
無け無しの蓄財を叩いて、博打的な行動に出るのは、
日本に限らず歴史に足跡を残しやすい行動様式であるため
貢物の規模も根拠にはできない
なので邪馬台国は大国という認識を改めなければならない

萬世一系などという世迷言のために、
中国史に出てくる邪馬台国と
大和朝廷をリンクさせざるを得なくしている政治的な配慮で
古墳時代の史跡調査を超法規的に制限している宮内庁を仕分けすればいい
663日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:00:50
宇佐神宮には応神天皇が祀られている。この応神が神武東遷の鍵を握っている
かも。
つまり、ナガスネヒコ=邪馬台国(マキムク)。これを、制圧したのが北九州
勢力の応神。応神の時期に秦氏が百済から120県もの人を率いて渡来したという。
664日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:10:27
>>662
>古墳時代の史跡調査を超法規的に制限している宮内庁を仕分けすればいい

そうするとかえって調査費がかかることになるが。
665日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:10:48
蘇我氏=渡来系、物部氏=出雲
物部氏は武器などを管理する氏族
666日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:18:27
>>「大倭」は「倭」よりも”広い倭”地域を表す。
>>当時の「大倭」の域は「本州」と「北海道」。
>>「大倭=ヤマタホ」でアル。
>こっちまで馬鹿が移りそうだぜwww

あはは、
天然記念物、連れて来いよ。
667日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:04:45
やまとは国のまほろば、盆地のことだ
あえて日本語を当てれば、山戸
他国の威嚇からも台風や洪水の心配もなく、小動物や木の実、山桃や柿などの果実の豊富な花咲き誇る桃源郷
青垣 山ごもれる やまとしうるわし

邪馬台国は、畿内でなかったとしても、盆地にあったことは、まず間違いありません
668日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:26:48
>>661
九州説を信じてる人の顔を立てただけで、
九州説が存在しなければ、別ける必要はないんだよ。

文献をどう読んでも、邪馬台国は畿内しかありえなわけだし。
669太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/08(水) 22:36:55
記紀には卑弥呼と壱与が、その相当年代あたりに即位した記事はない。
このことは畿内に卑弥呼の国がなかったと観るのが冷静に屈曲解釈をせずに
観じれば妥当だということとなる。

また紀の編者らが卑弥呼らの即位を隠したというならば、神功39年の記事も
抹消するはずだがこれが載っている。ということは、紀の編者らが卑弥呼と
その出来事を隠匿したという主張は出来ないと言えるのだ。

となれば、卑弥呼の女王国は畿内でない九州に所在したと観るのが正解なの
である。
670日本@名無史さん:2010/12/09(木) 00:23:00
>>270
>>274

沼河比売の子が神武の妻になったというのは、
ホツマだけに書かれてることなのかね?

671レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 01:11:12
>>670
俺個人はホツマに出会う前に、古事記だけからその架空を設定した。古事記を
調べてみると、次の二点があり、少々ひっかかる。
@沼河比売が大国主との「結婚」のエピソードはストーリー立てで豪華に表記
されているのだが、「沼河比売と大国主」の子孫の表記は一切無い。
Aそれ以降の「沼河比売」を類推させる表記を探した所それらしき物は無かっ
たが、スイゼイ天皇の皇子としての名前が「神沼河耳命」と判明。古事記では
スイゼイ天皇は、神武天皇とヒメタタライスケヨリ比売との間の三男とされ
ている。本来なら長男か次男が継ぐべきストーリー展開になってもおかしく
ないのだがそれを「三男が継いで当然然るべき」と言わんばかりのストーリー
展開で古事記では表記されている。

上記@Aと、それに「消された本来の出雲神話」をも加味した場合、沼河比売
の子孫が神沼河耳命(=スイゼイ天皇の事)の推定も一つ生じる可能性を言及
したまで。

※古事記では、神武の妃のヒメタタライスケヨリ比売を、神武の死後、神武の
母違いの兄のタギシミミノ命が娶り、神武とイスケヨリ(長名につき略称)
の息子の三兄弟を殺そうとしたので、それを察知して、三兄弟がタギシミミ命
を討とうとするが、兄二人は手足が震えて討てず、三男の神沼河耳命が代わっ
て討った、というストーリー展開になっている。ちなみに、このタギシミミノ
命の「出生」に関する表記も、古事記には一切無し。タギシミミノ命の反逆の
項目で登場するなり「(神武の)庶兄のタギシミミノ命」となっているのみ。
疑いを可能にするほどの、ストーリーの不自然さがそこにはある。
672日本@名無史さん:2010/12/09(木) 01:20:08
ニューフェイスのレス長たらし毘古にちょっと構ってやるか。

はっきりいって君の論には見るべきものが無い。
本人が「架空」と言ってるように、あまりに文献解釈が独善的で思い込みが強すぎる。
ひところ騒がせた縄文人も似たようなものだが、考古学を学ぼうという姿勢があるだけ、縄文人のほうがマシとも言える。

>>651
>根拠B三種の神器

三種の神器って、恥ずかしくもなくよく言えるね?
だいたい、三種の神器が、剣、鏡、玉と定まったのは8世紀以後だよ。
日本書紀本文ですら、三種の神器なんて登場しない。
一書に書かれているが、本文に書かれて無いということは「そういう事が書いてある書もある」という意味で、
日本書紀が完成した8世紀の大和朝廷内ですらまだ、「三種の神器」を天皇の神宝にしようなんて概念は無かった。
持統天皇の即位でも、剣と鏡が奉られただけで玉なんて出てこない。
君の好きそうな物部氏の伝では「十種の神器」じゃなかったか?

そういうふうに、聞きかじりの知識をつないで、はい、謎が解けましたよって遊んでるレベルなんだよな。
関裕二とかと一緒。
でも、安本よりはマシだよ。
安本は文献に詳しい癖にわざと嘘をついてミスリードを誘い、素人を騙して本を売ってるからな。
君は無知ってだけだから、罪が無い。
ただ、もうちょっと、勉強の仕方を変えたほうがいいね。
せめて、縄文人くらいには、考古学の知識をつけたほうがいいね。



673日本@名無史さん:2010/12/09(木) 01:30:19
>>971

>を討とうとするが、兄二人は手足が震えて討てず、三男の神沼河耳命が代わっ
>て討った、というストーリー展開になっている。ちなみに、このタギシミミノ

君は、日本書紀すら全部読んで無いだろうから知らないのは無理もないけど、
そのエピソードは、中大兄皇子の蘇我氏暗殺の話を引用して創作したものだよ。
ストーリーが不自然というのは当たりだけど、8世紀の役人が創作したところからくる不自然さであって
君の考えるような出雲がなんちゃらなんていう史実なんて無いから。

674レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 01:37:42
>>671
実は、この一件のみならず、他にも「母偽り」の可能性も残存する筋がある。
俺個人は、上記の「スイゼイ天皇」以外にも「天武天皇」も同じ「母偽り」の
トリックを記紀では行なっている(故意か過失かは不問)可能性があると見て
いる。(天武に関しては板違いになるので、ここでは割愛)
逆に、開化天皇では「父偽り」を行い、本来孝霊天皇の娘のモモソ毘売が、
孝元天皇の子の開化として「表記を甥にあたる親等に移されている」可能性も
架空しておく。

不遜である事は承知で上記架空を俺は掲げるが、しかしながら、これは単なる
不遜ではなく、古事記の表記のみでは「そうとしか考えられない」或は「そう
ともとれるような」書き方であると言う点、つまり「それ相当疑わしさが生じ
る」点は、必要があればその都度俺も説明する労を厭うつもりは無い。
また、この一見不遜に思えるこの架空だが、俺は何も「父母同時偽り」は、
古事記の編集とは言えそこまでは「不可能である」とも見ている事も先に述べ
ておこう。「父母同時偽り」は、後代偽証だとしても、イロイロ矛盾が大きく
なりすぎるので、まず、不可能だろう。つまり「さすがにそれはありえない」
と言う見解だ。ヤミクモに不遜がしたくて疑っているワケでは無い。
675日本@名無史さん:2010/12/09(木) 01:44:32
>>674

ようするに、疑わしいから、疑ってかかって、
「きっと本当は、こういうふうだったに違いない」と、思い込んでるんだよね。

でも、そういうのは、チラシの裏に書こうや。

せめて、2、3個、具体性のある論拠を示せるようになってから他人にお披露目したらどうよ?

676レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 01:52:30
>>673
中大兄ストーリーを仮借している可能性は全面否定はしないが、しかし、タギ
シミミ命討伐ストーリーが「ゼロサム」で、「全く無かった物」を古事記の
一節に加えたとも考えにくい。
加えて言うなら、日本書紀は、更に古事記等の「それまでの資料」を元に、
しかも「簡易版・日本語風」にした物であるから、「更に編集されてておかし
くない」代物である可能性もある。
8世紀の人間の不自然さだけでなく、5世紀から8世紀にかけて「何度も」時の権
力者によって再編集を繰り返した後の姿が日本書紀と捉えるべきでしょうな。

ゼロサムでないなら「実際の元の姿は何であったのか?」を推定する為には、
記紀の盲信からは一旦離脱しなければならない。なぜなら、「その定規自体」
を検証する作業なのだから。
重要なのは、「何故、7世紀の編者が、あの事件(神沼河耳命のタギシミミノ命
討伐)を、中大兄の蘇我討伐になぞらえたか?」である。なぞらえなければ
ならない「必要性」が有るからと見る方が自然だ。
つまり神沼河耳命は中大兄に「なぞらえなければならない」のである。何の為
に?そう、その「何の為」の可能性の一つが先述の「母偽り」かもしれない。
677レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 02:03:44
>>675
>ようするに、疑わしいから、疑ってかかって、
疑わしいだけの部分は「疑わしい」の表記に留めているが?そして、そこから
の類推は全て「架空としては成り立つ」と記入しているが?何か問題あります
か?

困るのは、記紀を記紀方法論だけで読んでも、全く「卑弥呼」も「邪馬台国」
も「浮かんでこない」という具体的な事実なんですが?
記紀方法論だけなら、卑弥呼の女王国は、「日本に存在しない話」になり、
それこそ、この板の存在理由の有無になりましょう。

君自身が、「邪馬台国はどこにある」という提示無しに、他人にだけ「それは
思い込んでいるだけだよね」は、ちと手抜きすぎる批判なような気もするが?
少なくとも俺は、邪馬台国が「九州東北部にあった」として「その論拠」を
古事記ベースに想定しているんだから。
678日本@名無史さん:2010/12/09(木) 02:12:23
>>676
>ならない「必要性」が有るからと見る方が自然だ。

いわんとすることはわかるが、
8世紀の人間がどんな「必要性」を感じてたかなんて、わからんよ。
わかるというなら、まず根拠を示す、探す努力をしないと。
その努力をするまえから、他人にお披露目して何の意味があるの?
ここは君個人の日記帳じゃないんだから、自分のブログでやれば?

あと、俺は記紀の妄信なんて全くしてないから。
天照大神だって、8世紀の創作だってことは常識だし。
安本なんて、常識を無視して天照大神=卑弥呼だなんて言っちゃってて、頭だいじょうぶ?とか思うけど、
素人は簡単に騙せるんだよな。
679レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 02:14:12
簡単に言えば、記紀を尊重して、それを最も優れた資料とするのも、これも
日本人としてはある種当然な感情ではあるが、問題は、記紀を定規とするだけ
で「邪馬台国を見つける事ができるか?」と言う点なんです。
記紀を定規として見つからない以上、魏志倭人伝の部分を疑うか、記紀の部分
を疑うかによってしか、「実像には迫れない」と言う点ですよ。
実像に迫れなければ、当然、いつまでたっても「邪馬台国」には到達できない
でしょうな。
勿論、記紀や魏志倭人伝の一部を疑う事によって、運良く邪馬台国が見つかっ
たとしても、別に、記紀や魏志倭人伝の存在と資料価値は、全く変る事もあり
得ません。一体何が問題だか理解不能だ。
680日本@名無史さん:2010/12/09(木) 02:20:19
>>679

仮に、記紀の伝承がおおむね史実だとしても、
邪馬台国は畿内ということは疑いようが無いですが?

邪馬台国の時代の、弥生時代の終わり、出雲神話が全盛の頃でしょうな、
出雲の神(オオナムチ)、スサノオは、日本中を飛び回ってるではないですか?
君の言うとおり越にも行くし、紀伊にも行く。
スサノオは朝鮮にもいく。

ならば、邪馬台国は九州の内部だけの話、なんてことにはならんでしょ?


681日本@名無史さん:2010/12/09(木) 02:28:32
安本なんとかって人は、東遷説とか持ち出して、
本州の国津神の世界に、九州の天照大神=卑弥呼の側の神武を送り込んで大和王権を作ったとか言ってますが、

天照大神が8世紀の創作という学会の常識に、全く反論することなしに、
天照大神=卑弥呼とかぶちあげてるんですから、こんな卑怯な話はないですな。
682レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 02:29:51
>>678
うーん。どうも指摘のホコサキがどれもずれておられる。俺は、まだ「出雲」
の大和王権開始時における完全関与を確定してはいない方の人なのだが。先述
(>>671)どおり、
> 俺個人はホツマに出会う前に、古事記だけからその架空を設定した。
と、「架空」止まりにしておいている人の方なんだが。
「架空」で設定しておいて、何か大きな矛盾があれば、どこかで破綻する筈
でっしゃろ。だが、(君にとっては)残念ながら、今のところこっちにはまだ
大きな論理破綻は無い。君もヤミクモ批判だけでなく、具体的に適確に俺の
架空の論理矛盾を指摘したまえ。そうすれば、嫌でも俺は「ぐぅ」と言わざる
を得なくなるでしょう。

まあ、ブログ代わり・日記代わりにしている面も無きにしも非ずなので、
その指摘だけは考慮しておくよ。架空日記がお嫌いでしたら、論理矛盾を
指摘して頂ければOK。指摘が適確で、批判が的を得ていたら、喜んで
黙りますよ。
683日本@名無史さん:2010/12/09(木) 02:33:17
>A天照=北九州の神(トヨタマ神話群)=象徴は玉

だいたい、トヨタマ姫ってのは、海神の娘であって、正体はワニ(鮫)とか言われてるのに、
どうして太陽神と結びつくのか?

突っ込む気にもなれないというか、スレのレベルが下がりすぎというか。

北九州の本来の神は、淀姫(トヨタマヒメ)で間違いないでしょう。
それを天照大神とか卑弥呼とかにすりかえるのは、冒涜じゃないですか?
684レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 02:42:15
>>680
ご指摘の主旨は理解できます。
俺個人は、「邪馬台国」が、「非大和」ではあるが「大和に吸収されつつある
過程」と想定していますから。つまり、大和と全く無縁の「国」でも無く、
当時は大和その物でも無い、と言う想定です。

・宗主国=邪馬台国女王国 & 属国の一つ=大和王権

・宗主国大和王権 & 宗主国の権威を保障する一属国=北九州

上記の「過渡期」における北九州(俺個人はこれを九州東北部と想定)という
考えですので、従来の九州説とも、ちと毛色が違います。逆に、上記の想定
だからこそ、「記紀にもチラホラ邪馬台国の影・卑弥呼の影がある筈」と言う
アプローチをしているんです。
685レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 02:52:07
>>683
うん。それはその通り。「知ってて」やったら、冒涜になりかねない。だが、
そこの解釈は、「大昔、物部の排除と共に蘇我が消してしまって」いて、
「既に記紀編集当時」には「(編者には)トヨタマの項目がどうも良く解らな
かった」と解釈すれば、想像上はツジツマが合います。

つまり、故意に冒涜したのではなく、解らなかったので結果冒涜を犯してしま
っていた。俺個人はそう想定しています。あくまでも類推ですが。
解らなかったトヨタマ部分と、天照のあいまいな部分を、そこで編者が意図的
に「混同してもおかしくない」表記方法で、取り敢えず表記した。と、この
ように解釈しています。
686日本@名無史さん:2010/12/09(木) 02:53:17
>>684

なぜ、宗主国が九州から大和に移ったのか、明確に説明できますか?

「宗主国が九州から大和に移った」と言うだけなら簡単ですよ。
必要とされるのは、なぜ移ったのか、その理由、必然性、証拠、です。
君の論には何も無いでしょ。

687レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 03:04:49
>>685続き
この「あいまいさ」は、トヨタマ&天照でも行なわれていますが、他にも例え
ば先述の神功皇后における筒三進&天照でも行なっています。
神功皇后が、(本来なら天照が出て来ておかしくない個所で)筒三神並びに
天照に神託を伺うと表記したり、筒三神に新羅征伐の戦勝を奉ったと表記した
りしています。これは古事記より前の国書では神功皇后は「実は筒三神だけ」
に祈って戦勝を奉じたのではないか?と思わせる雰囲気です。
この「あいまいさ」は、編者が意図して行なった可能性が高いと思います。
あいまいにして「天照に融合(混同)させたかった」と考えると、架空の
筋としては一応の一貫性はあります。
688レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 03:28:18
>>686
ん?必然性なんて、記紀の根幹にどデカデカとあるでしょう?「神武東征が
紛れも無く、彼の如く会った」とした「お家の始祖神話」があるんですよ?
当時の大和王権の「偉大な始祖様」が、どこからどこを通って近畿に来たか
を、口承神話で子々孫々に「語り継いでいる」んですよ?
記紀がいくら編集が効くとは言え、基本構造まで手を加え変えてしまったと
考えるのも、それはそれでどうかと。例え後代の多少の意図的編集があったと
しても、当時の大和王権にとって「ご先祖神武様が来た」と言われる九州の
東北部は、権威上は畏れ多い場所では無いんでしょうかね?
畏れているからこその神武表記だとしたら、逆にそれは「当時のその頃」は
「(大和王権は九州東北部に)まだ頭が上がらなかった」とする架空も筋と
してま矛盾は無いでしょう。但し「それがいつなのか?」は記紀からだけでは
(一方資料なので)明確にはできよう筈もありませんが。(で、別書も必要)
689日本@名無史さん:2010/12/09(木) 03:44:41
>>688

神武東征が書いてあるから、「宗主国が九州から大和に移った」と説くのは循環論法です。

リンゴがなぜ赤いのか?を説明するのに、「赤リンゴだから」と説いてるのと同じ。

言ってる意味わかりますか?
690日本@名無史さん:2010/12/09(木) 03:50:35
早い話が、レス長たらし毘古くんも結局のところ、東遷説なんだな?

ちょっとがっかりだ。
691レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 03:53:51
>>689
循環論法というご指摘も理解はできますが、逆に当時の大和が「九州東北部
畏れるに足ら無し」くらいに権威権力共に凌駕していたなら、「九州東北部を
先祖神武様が通って来ました」とご丁寧に書く(伝える)必要も無い訳です。
ニニギ出現・神武出現の場所が、別に淡路でも、熊野古道でも良くなります。
別に(むしろ)無くてもいいんです。でも九州東北部にあるんです。
この「ある」と言う事が、単なる循環論法では無い事の証拠では?
692日本@名無史さん:2010/12/09(木) 03:55:12
>>685

君の言ってることがさっぱりわからんな。
冒涜ってのは、君に対して言ったんだよ。

記紀の中で、編纂者が「天照大神とトヨタマヒメを混同してる」と、君は言いたいのか?
そんな事実がどこにあるんだね?

天照大神とトヨタマヒメは明確に区別されてるだろ。


693日本@名無史さん:2010/12/09(木) 03:59:05
>>691

まず、
1、神武東征は紀元前660年という設定。
どうして、邪馬台国時代に重ねようとするのか?

2、神武は、九州東北部に行ってはいるが、そこは、3世紀の九州では僻地にすぎない。
3世紀の九州で繁栄していたのは、遠賀川から西側であって、東側ではない。
仮に、神武東征が3世紀でも、当時のイト国やナ国には、神武は立ち寄っていないのだよ。
東遷説が矛盾だらけだってことに、始めに気づくべきだね。

694レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 04:01:48
>>690
うむ、ガッカリさせて悪いが神武(かどうかはともかく)東征的な何かと言う
根幹そのものは編者と言えどもずらしたり変えたりはしていない(出来ない)
だろうとする想定です。
「近畿地方をどうにかせぇ」と言う「天照(らしき誰か)」の「宣託」により
「神武(か誰か、或は数人数代)」が「いつの頃か」西から東にやってきた。
この漠然ではあるが記紀の根幹ストーリーそのものは疑ってはいない。
(俺も盲目だなw)
695日本@名無史さん:2010/12/09(木) 04:04:59
>>694

だからね、神武東征が、邪馬台国の時代だという証拠を示したまえよ。
神話では紀元前の話だろ?
どうして都合よく、邪馬台国の時代になるんだよ?

君の論では、畿内にもクニがあったと認めてるわけだろ?
そのクニは、紀元前に、神武東征によって作られた、で何も問題ないだろ?

696レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 04:36:59
>>693
>1、神武東征は紀元前660年という設定。
俺は日本書紀の知識が足りないらしいが、貴殿も古事記を少しは読んでみると
良い。記では神武東征(及び全ての神武の行事・崩御)の「年代表記」は皆無
です。紀元前660年は、あくまでも日本書紀以降の見解。
>2、神武は、九州東北部に行ってはいるが、そこは、3世紀の九州では僻地
にすぎない。
2世代70年もあれば木造文化の時代は、繁華街でも僻地になり得ます。
>3世紀の九州で繁栄していたのは、遠賀川から西側であって、東側では
ない。
その点は情報再確認ありがとうございます。但し神権体制が必ずしも「城下町
のような繁華街をお膝元にする必要があるかどうか?」 にも寄る。経済重心と
政権(神権)重心が、別に置かれる歴史現象は珍しく無いかと。
>東遷説が矛盾だらけだってことに、始めに気づくべきだね。
うむ、そこは否定しない。実際記紀の東遷表記は矛盾要素も多い。実質の東遷
の規模とストーリーは、必ずしも記紀どおりではないと想定している。但し、
数百人の小規模精鋭が、近畿の「ナガスネヒコ王権」を討ち取り乗っ取り、
ニギハヤヒを体良く組み込み迎え入れ従えさせる事は可能かと。
逆に小規模精鋭の軍事集団(の乗っ取った政権)だからこそ、その後数世代後
には日本No.1の勢力になれたと言うのも、これも流れとしては矛盾は無い。
但し神武(いたとしたらだが)の頃には、まだ天照(それが誰かは保留)の
「属国」であると言う見方も可能。
>当時のイト国やナ国には、神武は立ち寄っていない
大和始祖の見解では「イト国」「ナ国」も「神武の親の母国の一部」だから殊
更にあえて表記する必要も無いかと。つまり海外旅行してアメリカに辿り着い
た場合「私は日本から来ました。成田空港から飛んで来ました」だけの説明に
なるのが妥当でしょう。「家は静岡県ですが、神奈川県東京都千葉県を通って
成田から飛行機で飛んできました」と言うクドクド説明は必ずしも必要ないか
もしれない。「同じ日本」ですから要所以外は説明は飛ばす可能性は大です。
697レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 04:54:12
>>659
どうも先ほどから誰かとカンチガイされているようで、逐一指摘部分が不明
なのだが。。。
>だからね、神武東征が、邪馬台国の時代だという証拠を示したまえよ。
そんな事は一言も言ってないのだが。むしろ魏志倭人伝の曰く「卑弥呼の
時代」には、大和王権は「属国として近畿に存在」していると言う筋なのだが
こっち。
> そのクニは、紀元前に、神武東征によって作られた、で何も問題ないだろ?
「紀元前かどうか?」は兎も角として、卑弥呼の時代には、大和王権の基盤は
既に存在している(但しその頃は属国としてだが)と言う前提だが?但し、
「属国であった事」は、記紀は「そんなの認めていない」と言う表記になって
いるが。全く問題無いよ。貴殿の言うとおり。
むしろ、神武の頃の時期は、兄弟相続で、8世代200年前後くらいと想定して
いるので、いたとすれば神武天皇は、短くて西暦ゼロ年、また、長子相続だと
したら長くて紀元前数百年頃と言う想定になります。
698日本@名無史さん:2010/12/09(木) 04:57:33


神武東征の後で、、「宗主国が九州から大和に移った」という理由を説明してもらおうか?
699レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 05:36:02
>>698
> 神武東征の後で、、「宗主国が九州から大和に移った」という理由
似た歴史現象が近代日本史にもありますね。明治政府は、何も天皇をわざわざ
東京の江戸城に連れて来なくてもいいんですが連れて来る執政の方を選んだ。
大和王権が出雲より偉そうにするためには、トヨタマの権威(或は天照の権威
)を近畿に持って来る必要性が生じたんでしょう。天照やトヨタマの権威が、
「出雲にも効く」と言う前提があるので、当然そういう執政選択肢もありま
しょう。その途中過程が、イズモノフルネの逸話であり、大和タケルと熊襲
タケルの決闘・出雲タケルの決闘の逸話と考えれば、筋は通ります。
出雲に「神宝イズモノフルネを供出しろ」と言える為には、国譲りが完了して
いなければならず、かつ、その国譲りは記紀では天照に対しての物ですから、
「天照の託宣」が無ければありえません。つまり、イズモノフルネ逸話の頃
には大和王権が「天照の託宣」を直接得れる環境でなければならないのです。
それを「宗主国」と定義するかの語義論は置いておくとしても、少なくとも、
イズモフルネ当時(日本書紀では祟神時代)に「出雲に指図できる」環境で
なければならないのです。
なら、それまでに「天照の出雲指図権」を「大和が完全掌握した」段階が無け
ればおかしいとなります。宗主国はどこか?は景行の頃は明らかですね
700レス長たらし毘古:2010/12/09(木) 05:53:57
>>692
うーん。冒涜と言われたら、記紀神宝論者からして見れば確かに冒涜要素は
あるね。そこは否定しないよ。ただ、冒涜要素を全て禁忌・遠慮して記紀を
120%正しいとしたら、その場合、記紀からは永遠に邪馬台国は見つからない。
ま、それでもいいのだったら、それはそれでこっちは構わないが。
宗教上の理由から、一切の外科手術を拒否するのも、そんな事より命が大事
なので、できるだけ腕のいい外科医に切ってもらうのと、どっちがいいか?
なんてのはそれこそ個人の選択の自由だし。俺は感想以上の物は持たないよ。
701日本@名無史さん:2010/12/09(木) 07:09:18
記紀を根拠として史実を語るのは難しい。神武東征にしても、書かれているから実際に
あったことだ、とはいかないだろう。これを史実とするためには相当の裏付けが必要。
具体的には、南九州から大和へのある集団の移動の痕跡を見つけ出さなくてはならない。

大和に、それまでなかった何らかの習俗が唐突に発生し、それは南九州で以前から確認
されていたものだ、というようなことがいくつか積み重なって初めて実証的な論になるのだと
思う。これがなければ、いつまでたっても歴史愛好家の中だけでのお話ということになる。

よくこの板では、銅鐸祭祀の終焉が神武東征の影響によるという論がくり返されるが、廃棄
の状況は様々だし、地域による時間差もある。これは祭祀習俗の切り替わりということで十分
説明がつくし、仮に外部からの影響があったとしてもそれが南九州からのものであったと見な
せる根拠はない。

702日本@名無史さん:2010/12/09(木) 13:58:52
>>699
>明治政府は、何も天皇をわざわざ東京の江戸城に連れて来なくてもいいんですが連れて来る執政の方を選んだ。

江戸時代から政治の中心は江戸ですが?
卑弥呼が九州にいたとしても、政治の中心は畿内と認めるのですか?

>天照やトヨタマの権威が、「出雲にも効く」と言う前提があるので、
3世紀の畿内に、「天照やトヨタマの権威が利いた」という根拠はありません。

>イズモノフルネの逸話であり、大和タケルと熊襲 タケルの決闘・出雲タケルの決闘の逸話と
君の論では、古墳時代の話のはずです。邪馬台国とはまったく時代が違う。

>その国譲りは記紀では天照に対しての物ですから、 「天照の託宣」が無ければありえません。
天照大神は、8世紀の創作です。まず、3世紀に天照大神信仰があったことを論証してください。

>>700
ごたくをならべる前に、3世紀の九州で、天照大神信仰があったことを証明しなさい。
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 14:06:04
皇紀1147年(487年)に[日神の宣託あり]との記事が日本書紀にあるから、
8世紀の創作とは言い難い。同年は倍暦逆算から、実年代は501年である。
704日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:10:44
>>701
生目古墳群じゃダメなのかい?
705日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:27:04
>>704
ダメだと思う。生目と他地域との繋がりがない・・・というか、他地域と繋がりがない
からこそ、ヤマト王権と早くに結んで優位を築こうとしたんだろう。ヤマト王権はそう
とう遅い時期まで、南九州中央部には入っていけない。

あと、ヤマトで政変があったと考えられる河内王朝、応仁天皇の頃、生目から西都原
にヤマトとの関係先が移動する。これは同時期の吉備や関東でもみられる。
706日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:38:44
>ヤマト王権はそうとう遅い時期まで、南九州中央部には入っていけない。
では、いつ入っていったというのかな?

707日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:47:20
708日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:48:02
○7世紀末
709日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:49:51
では、景行天皇が南九州の中央部を抜けたというのは嘘だと?
710日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:52:52
>>709
記紀の記述はわからない。
711日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:57:48
八岐大蛇の話を史実だと思う人はいないだろう。とうてい現実とは考えにくいからだ。
例えばこれを製鉄の隠喩とみる人もいるだろうし、なぜそれが書かれたかの背景を
読み取ろうとする。

しかし、これは実際にありえないから嘘、これはありえそうな話だから史実、としてよい
わけではない。
712日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:59:46
記紀の記述を「わからない」として、何をもって「ヤマト王権は入っていけない」と
したのかな?
713日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:23:06
>>712
墓制やその副葬品、その他考古学的な知見。あとは記紀以降の文献資料を
総合して。あなたとはスタンスが違うからいくら話してもムダだと思うが。
714日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:34:04
神社の由緒をみると、
景行さんは、4〜5世紀くらいに筑後から熊本を
うろついてる感じだな
神功さんは佐賀から筑前
仲哀さんは北九州

成務さんの事跡がないのが気にかかる。
715日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:41:39
>墓制やその副葬品、その他考古学的な知見。
別に南九州にヤマト側の地域と反ヤマト側の地域があったようには
見えないけどな。
716日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:52:09
>>703

「日神」であって天照大神とは書かれてないよな。

それに、神の宣託の記事は、日神だけじゃない。
大物主やら住吉三神もある。
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 18:03:56
日神は古代日本朝廷ではアマテラスのことですよ。屈曲の考えを捨てて
まともに考察するのが、妄想に至る失敗を防げます。

他の神の託宣はいまのところ本筋から話がそれてますが・・・?
718日本@名無史さん:2010/12/09(木) 18:45:59
そもそも、古代の大和朝廷は日神など祭っていませんでした。

祭ってたという証拠がどこにありますか?
日本書紀の記述だってそのまま読めば、崇神天皇は天照大神を伊勢に追い出してるでしょ。
719日本@名無史さん:2010/12/09(木) 18:47:59
それに、太国は九州王朝説なんだから、
大和朝廷が天照大神を祭っていなかったというほうが、よほど持論に有利になるのでないですかな?
720日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:11:28
なんかまたデムパスレになってる
721日本@名無史さん:2010/12/09(木) 21:41:57
仁徳天皇陵とされている大仙陵こそ卑弥呼の墓ではないだろうか?
卑弥呼は河内の女王だとすれば、船を持っていたとしても不思議ではない。
722日本@名無史さん:2010/12/09(木) 21:49:43
畑作による生産力が初期国家の国力の源泉なので、
周辺よりも大きな平野に位置しているのは、誰も異論はないよね?
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 21:53:11
文証はあるでしょうが。紀の崇神6年「天照大神を・・倭笠縫に祭り・・・」
とある。
何処に8世紀の創作の証拠があるんだ?
724太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 21:57:16
追い出したというより倭笠縫に招いたほうが正解だよ。当時飢饉があり困窮
していたんだから、皇祖の御威霊を追い出すわけがなかろう。ww

しっかりしてくれよ。追い出せば、バチが当たり、さらなる飢饉の増幅に
なるのを朝廷は恐れるのは当たり前だ。現代人と違い、連中は迷信、縁起
かつぎはうるさいはずだ。
725日本@名無史さん:2010/12/09(木) 21:58:56
崇神以後は、天照大神を祭った記録はな〜〜〜んにもないのよね。
726太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/09(木) 22:10:13
なかろうと、一つあれば十分だ。祭ったということだ。8世紀の創作だと
いう記録を二つ以上出してみろ。
727日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:23:06
スレチ承知ですが悪しからず…


ただいまニュー速+板で↓激論中!

【文化】中大兄皇子の娘「大田皇女」の墓か…牽牛子塚古墳の近く・奈良県明日香村
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291891666/
728唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/09(木) 22:34:34
その >>727 より
>どこぞの隣国の反日学生たちと同レベルかよ

韓国の主張は正しい。
七支刀を369年とすれば、倭が半島占拠や百済を属国とした記録は皆無である。
任那建国の記録もない。
つまり書紀の記事は、そのほとんどが歴史的出来事では無くなる。

729日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:39:30
730日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:49:15
>>729
それ題名が
“朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう”
ということで
あくまで仮定の上に立った一つの説のようですが
731日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:56:54
>>730
そりゃなんだって仮定だわな

しかしこれは非常に黒に近いと思うな
天武政権時に物部氏の祖先が天照国照アリガタイ神に設定されてたり
記紀は藤原・物部に有利な書き換えがなされてるフシがありあり
732日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:58:28
>>728
七支刀は、宮崎市定説の「泰始四年・468年」作でいいんじゃないすか。
733唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/09(木) 23:39:41
>七支刀は、宮崎市定説の「泰始四年・468年」作でいいんじゃないすか。

百済は340年代には、そこそこの国になっている。
その百済を引き込んで半島占拠としなければ、書紀と整合性がとれない。
韓国の識者であれば、七支刀369年であれば、倭に百済が属すことは無いと判断している。

私もこの数字であれば、韓国識者の考えを支持する。
しかし書紀は百済(モザ)をクダラと読む。百済が存在する269年では、クダラと読む謂われが解らない。
七支刀323年であれば、百済建国の場所と成る。
任那建国は、伽耶建国であり209年になる。
崇神=卑弥呼の時代とすると、半島は魏が管理する土地である。ここに任那建国を持ってこれる読み方が存在するか?
存在しない。つまり崇神が任那建国はあり得ない。韓国識者の言い分は正しいとせねばならない。

どうする?
734日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:44:06
日本は元 小国で倭を併せたんだろ?
ところが古来から中国と交渉のあった倭国は九州に有ったのだから、
自分の歴史を古く見せたい日本国としては九州から東征したと言う
物語を創作せざるを得なかった。
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 00:00:09
>九州から東征したと言う

これは、神武であり、弥生中期を後期に変えた場所である。

>日本は元 小国で倭を併せたんだろ?
これは、魏書の倭王、大倭が伊都国に1大率を置いた時の言い分だ。
日本(大和)は元 小国で倭(北九州女王国)を併せたんだ。

だから、崇神を卑弥呼の時代に設定したんでは、任那建国も架空の出来事になり
鉄の分与権を得た垂仁から各国を傘下とする事も出来ない。
736日本@名無史さん:2010/12/10(金) 00:00:53
でもしっかり中国にはバレてますねw
旧唐書
737唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 00:15:15
中国は頭が良く、半島の言い分より、史書を優先する。
そこでだ
任那建国は、伽耶建国の209年とすれば、
纒向遺跡は、崇神、垂仁、景行で収まる。
しかし 崇神=箸墓=250年前後とした場合、誰が纒向遺跡に最初に入植し
箸墓以降纒向は衰退に向かう。←この説明を誰もしない。
2世紀末纒向遺跡に各地の土器を四道将軍の異俗多帰とすれば、任那建国も
半島占拠も事実とする事が出来る。
738太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 09:54:56
オマエは42年の説明をしてな〜い。そんなことが言えるなら、オマエから
見本を示して具体的説明をしてからにしろ!
739唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 17:45:54
>1、神武東征は紀元前660年という設定。
欠史八代を全て親子による相続とした場合、1代20年として、20×8=160年。
崇神が2世紀末であれば、とりあえず西暦200年として 200−160=西暦40年が得られる。

>成務さんの事跡がないのが気にかかる。
成務治世61年−19年×3=4年が実際の治世であれば、事蹟は少ない。

>>738
崇神による任那建国を説明出来ない数字には間違いがある。
740唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 18:16:28
>「近畿地方をどうにかせぇ」と言う「天照(らしき誰か)」の「宣託」により

「風土記逸文」伊勢より
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ、

可能なのは、長髓が何故『逆ふる黨(ともがら)』なのか?である。
741日本@名無史さん:2010/12/10(金) 19:02:45
742レス長たらし毘古:2010/12/10(金) 19:18:52
>>702
>ごたくをならべる前に、3世紀の九州で、天照大神信仰があったことを証明
しなさい。

こう言う短絡思考な手合いは何を出しても「ごたく」と言うのだろう。誰と
誤解されての焦点ボケの指摘かは存じませんが九州で天照信仰があった等とは
一度も確定していないしこっち。言いがかりも甚だしい。だが誤解を抱かれる
書き方をしたこちらにも些か言われるべき点があるのも理解はできる。
俺の主張は、君の言い方を借りれば、寧ろ3世紀の九州は、(今は記紀によって
ねじまげられた)トヨタマ信仰があった、という点だ。その上で、元の最高神
の要素は、天照と豊玉に分離した。そしてその名残が「玉」として、九州東北
部に残存した。その意味での「三種の神器の玉」が九州の象徴になった、と
言う内容だ。(参照:古事記の豊玉の物語において、「玉」が重要な要素)
つまり、簡単に言うと、以下の図。

・九州最高神のA要素→豊玉伝説の一部(海神・トヨタマ)→出雲権威を保障
・九州最高神のB要素→天照(スサノウ系出雲との決別後)→大和権威を保障

上記要素Aが記紀編集前か或は編集時に「大幅削除」された可能性(先述)。
別に俺も誰も記紀のどこも、天照と豊玉を同一視しとらんがな。九州で「玉」
出雲で「刀」が重要アイテムである事は記紀にも残存している話なワケだわ。
この要素の分離がだいぶ後代の記紀編集頃なら、その場合は同一である可能性
もあろうが、俺は別にそんな事は言っていない。第一もし当時同一であるなら
大和は出雲に「神宝イズモノフルネよこせ」とは言いたくても言えない筈なの
だ。寧ろ分離は記紀の自己申告する「豊玉逸話」の頃、つまり海幸山幸〜ウガ
ヤフキアエズ命(神武の父)と想定する方が妥当。原始神話体系から、まず
出雲神話が独立し、その次に大和神話が独立する順になるので、記紀上も時系
列的にも、全く違和感が無い。もし仮に同一であったとしても、それこそ
「神話期」の後半の話なので、歴史書としての記紀以前の話になるのでそれ
こそ意味の無い詮索だ。そこまでファンタジーにする気もこっちにも無いし。
743日本@名無史さん:2010/12/10(金) 19:27:24
うわ、長たらし。
744日本@名無史さん:2010/12/10(金) 19:31:29
豊玉さんは福岡、
玉垂さんは筑後かな。

玉が何を表しているんだろうね。
745レス長たらし毘古:2010/12/10(金) 19:43:45
うむ、長たらし。そこはすまん。しかし確定言いしていない所での指摘でかつ
的外れが過ぎるので、ついつい長くなってしまった。場には反省。
ただ確かに俺もぼかしている所ではある。これは確かにご指摘どおりまだ根拠
は薄いからだ。だが大和の権威を保障する物があるのなら、出雲の権威を保障
する物もあった可能性は少なからずある。
俺は、それを「記紀の天照と豊玉は実は卑弥呼の時代は一緒だった」とまでは
断言していない。むしろ、大和は勝手に「天照サイコー!」とし、出雲は勝手
に「(トヨタマ系)海神(ワタツミノ神)かその辺りサイコー」としている
神話体系を、それぞれ別個に崇拝している状況で、大和が出雲に対し優位に
立つためにそれらのお互いの権威保障神話体系を、お互いに「いやそっちの
それは違う」として批難しあっている時期と想定している。
746レス長たらし毘古:2010/12/10(金) 20:12:57
>>744
>玉が何を表しているんだろうね。

気になったので古事記を調べてみた。すると、いきなり面白い違和感に遭遇。
石屋戸の件でタカミムスビの神は、閉じこもった天照を出すために、玉祖命に
「ヤサカノマガタマノイホツノミスマルの玉」を作らせるのだが、何故かその
同じ玉は、古事記では「石屋戸の事件以前にスサノウとの決別の大合戦」の時
に重要アイテムとして使用されているのだ。
「石屋戸の件」と「スサノウとの決別」は、必ずしも古事記通りの順番では無
い(古事記ではスサノウと決別→石屋戸の順)かもしれない。
747レス長たらし毘古:2010/12/10(金) 20:41:18
>>746
勝手な違和感を持ったが、書かれてはいないがこれは正装アイテムなら天照が
「ヤサカノマガタマノイホツノミスマルの玉」を持って、石屋戸に閉じ篭って
しまったとも考えられる。この場合は古事記通りの順番でも全く問題無いが、
この場合は「複数ある」或は「神なら複数作れる」アイテムと言う話になる。

話は下るが、ニニギの天孫降臨の際であるが、いよいよ争点の三種の神器が
一緒に降臨する。古事記ではニニギが携行したのが「ヤサカノマガタマ」
「カガミ」「クサナギノツルギ」となっている。
石屋戸の話が示す通り、鏡と勾玉(それぞれ単独か或は一緒でないと駄目か)
は、「萬の妖(わざわい)悉に発(おこ)りき」を鎮める為に必要なアイテム
らしい。その時、ヤサカノマガタマにて占いをも行なう。占いにも必要な
アイテムと考えるのが妥当だろう。
748太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/10(金) 22:50:39
>>714 由緒 社伝 唐松山の言う成務の代が4年しかないというのは出鱈目

成務5年 金神社 物部臣賀夫良命が同地に赴任(岐阜市)
成務5年 安積国造神社 比止禰命、安積国造に赴任(福島県)
成務5年 姉崎神社 上海上国造らが天児屋根命、塞三柱神を合祀(上総)
成務6年 熊野神社 同年 創建(千葉県)
成務9年 林神社 社を建てて少童海神を祀る(明石市)
成務11年 生石神社 現山形県に当社の分社を造る(兵庫県)
成務12年 静原神社 同年 3月 鎮座(京都府)
成務14年 伊和神社 大神から託宣あり(兵庫県)
成務14年 与位神社 同年 2/11 鎮座(兵庫県)
成務19年 可美真手神社 同年 3/9 創建(神戸市)
成務21年 鐸比古鐸比売神社 同年 創建(大阪府)
成務28年 伊曽乃神社 武国凝別命が天照大神を祀る(愛媛県)
成務38年 加富神社 火宮明神を奉斎(四日市市)
成務45年 宝秀寺 同年 1/14 の年入りの大伴之古墳 石碑 (神奈川県)
成務48年 千如寺大悲王院 僧 清賀上人が開創(福岡県、佐賀県の境)
749唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/10(金) 23:35:53
仲哀天皇元年(壬申一九二)十一月乙酉朔◆冬十一月乙酉朔。詔群臣曰。朕未逮于弱冠。

仲哀即位時 仲哀は若干という年齢である。
750日本@名無史さん:2010/12/11(土) 00:49:44
>レス長たらし毘古

天照大神は、8世紀の創作だというのが学会の常識だって書いてるのに、
なんでスサノオとの誓約とか岩戸とかを語ってるわけ?
それ、全部8世紀の創作で、渡来人とかの役人が書いたストーリーだから。
3世紀とは全く関係ないんだよ。

どうして、現実を見ようとしないの?


751日本@名無史さん:2010/12/11(土) 00:51:48
>学会の常識
>学会の常識
>学会の常識

どちらの学会様で?
752日本@名無史さん:2010/12/11(土) 01:29:06

どこの大学でも、古代史の教授に聞いてみれば?

天照大神は、3世紀から祭られてたかどうか。

753日本@名無史さん:2010/12/11(土) 01:32:22
>>752
伊勢神宮がアマテラスの本拠地ってのがウソなのは知ってる
754日本@名無史さん:2010/12/11(土) 02:46:26
>>753

残念ながら、伊勢神宮がアマテラスの本拠地というのは正しい。
これも学会の通説。
755日本@名無史さん:2010/12/11(土) 02:51:12
>>753

と言うか

「伊勢神宮がアマテラスの本拠地ってのがウソ」と言う根拠は何だ?

嘘と言うのなら何処が本拠地なんだ?

どうせこれも何の根拠も出さずピンポンダッシュでトンズラの予感だがwww
756日本@名無史さん:2010/12/11(土) 02:55:02
というかそもそも創作=つくり話=ウソ
じゃないの?
8世紀にアマテラスのモデルとなる人物が居たわけ?
何をもって「正しい」なの?www
757日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:00:18
これは、8世紀の記紀編纂時に創作されたという意味だろ。
758日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:02:13
>>753 は ピンポンダッシュのサイキバか?

759日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:04:32
アマテラスは九州王朝の祖霊か。www
760日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:05:39
>>757
>伊勢神宮がアマテラスの本拠地というのは正しい。
これは何。正しいも何も創作だろ?
761日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:10:34
伊勢神宮より前にアマテラスが存在していてはいけない理由でもあるんですか?
学会では?

ある時点以前に物語・伝承が存在しなかったことを証明するなんて不可能なのに
なーんで「学会の人」はそんな事言うのか不思議。
というかまともな学者なら言わないな。まともな学者がどれだけいるか知らんが
762日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:13:52
いやいや、真にまともではない古田という人が一人いるだけなんだよ。・・・合掌。
763日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:16:19
伊勢神宮を作って、伊勢の大神を祭りはじめたのは天武天皇です。
それ以前は、”天照大神”なんて神はいませんでした。

で、「天皇のご先祖様は、天で一番偉い神にしよう」って決めて、
”高天原”の”天照大神”というカミを作ったわけね。
”高天原”も、このとき創作された。

そのころ、伊勢には伊勢大神という、太陽神がいて、ちょうどいいから、
この太陽神を”天照大神”ってことにして、天皇家の皇祖神にしたわけ。
伊勢大神の宮司だった渡会氏は、「えらいこっちゃ」ってなって文句いったんだけど、
天皇の命令は絶対だから従うしかなかった。
それでも、天皇からの奉幣とかあるから「ま、いっか」ってなったの。
764日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:18:33
「ちょうどいいから」ってwww

都合いい脳みそしてんなお前
765日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:22:42
その調子だと、
アマテラスは8世紀の創作だけど
天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命は神代から存在しただぎゃ
とか言っちゃいそうだねwww
766日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:24:52
>>761
学会の話は知らないが

「伊勢神宮がアマテラスの本拠地ってのがウソ」」

と言うのなら延喜式神名にでも天照(アマテラス・アマテル)の名のつく神を祀る神社で
伊勢より古いと思われるようなものを挙げるのが筋。

イチャモンつけて何の根拠も出さないピンポンダッシュはゴミクズレベル九州説の常套手段だなwwwwww

まあ少し”大雑把”な話になるがアマテラスの神話の源流は東南アジアとか南方系で
大して天孫降臨神話は北東アジア系と言うのは常識。

恐らく前者の方がよりプリミティブでありそれが西日本より
東日本に色濃く残っていたと言うのは自然な話wwwwwwwwwwwww
767日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:25:20
天皇の本当の皇祖神は、”高御産霊尊”ね。

でも、高御産霊尊なんてマイナーで誰も知らない地味な神だから、
天照大神に置き換えて、そっちを天皇の祖ということにしたの。

そのへんの作為が記紀にちゃんと残ってるでしょ。
最初に偉そうに登場する神が高御産霊尊で、天照大神は後から登場する。

天照大神も、そうやって8世紀に創作された神だから、
庶民は誰も知りませんでした。
だから、庶民の間では、伊勢神宮も天照大神も、ずっと知らない世界の話だったんだよ。

江戸時代から、財政難になった伊勢神宮がアピールを開始して、”伊勢講”をつくって、
全国的な伊勢信仰を作りあげました。

768日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:32:27
>>766
大雑把な常識ぶんまわすなよ
「よくある類のエピソード」ってだけだろ

東南アジアと北東アジアのどっちが原始的かなんてイミフ
どうでもいい
プリミチブとかいう言葉使えば賢く見えると思ってんの?

バカか


>>767
高木神は縄文系の「氏神」じゃないか
アマテラスが担がれたのには訳がある、というか普通に天皇の祖先なんだろ
769日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:34:20
うーん、・・・考古学的には、伊勢神宮周辺が重視されて後期古墳が急増
するのは、6世紀以降のことだな。これは、大和朝廷の影響力がやっと
このあたりまで及んだということだろう。

で、記紀でも6世紀には、歴代の天皇が皇女を斎宮として派遣した記事が
出てくる。大和朝廷から重要な神として認められたということだが、これは、
地元の神を尊重することが支配に有効だと考えたからだろう。
しかし、この時代でもまだアマテラスの名は出てこないようだ。
770日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:34:33
アマテラスをどこかから誘拐してきた「天武」はどういう出自なんだろうね。
まずここをはっきりさせた方がいいんじゃね
771日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:38:54
>>768
>アマテラスが担がれたのには訳がある、というか普通に天皇の祖先なんだろ

君がそう思うのは、
天武天皇の作戦が大成功ってことだね。

ちなみに、天照大神は、性別は無かった、むしろ男神だったんだけど、
持統天皇即位にあわせて、女神ってことにしたわけ。
つーか、学会の常識なんだってば。
772日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:42:40
>つーか、学会の常識なんだってば。
100回言ったって無理だからw
ちょっとは考えろwww

で、天武は何がしたかったんだ?

正当な皇位継承者なら、どうして
いきなり壮大なストーリーを創作したり
都から離れた場所に神宮建てさせたりする必要があったんだ?

というか天武が天智の弟だなんて信じてるやつ今時いないよな?
773日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:44:02
>>768
まあ馬鹿が「よくある類のエピソード」だけで何で片付けるのはいいが
じゃあきちんと伊勢に先行する天照神の存在を具体的に挙げろカスが。

言っている事は

「伊勢の天照より古い神がいたに違いない
 けどその具体的な根拠は示せません」

と言う与太話アホがwwwwwwww

ったくイメージだけで中身の無いのがゴミクズレベル九州説。
774日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:45:53
>>772

学会では、天武が天智の弟で問題ないみたいだよ。

でも、天武が宗教から何から作り変えてるわけだから、本当はどうだかわからんよね。
775日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:46:21
>>773
カスだのアホだの言ってりゃ相手より上だと思ってんのかゴミクズ

日本から去れ
776日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:50:38
>天皇の本当の皇祖神は、”高御産霊尊”ね。

まあその手の論争は昔からあるが
皇室のプライベートに属する話だから結論は出ないだろうwww

ちなみに大嘗祭での「真床襲衾」は布にくるまれて降臨したニニギを模したものであり
この北東アジア系の神話を重視する皇室は源流がそっちにあるのでは?

…なんて話も昔からあるw


777日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:52:10
誰が誰だかよくわからんな。いずれ大和朝廷の祭祀は極めて農耕儀礼色
の強いもので、太陽信仰ではないだろう。おそらく、垂仁紀の倭姫命のエピ
ソードは後世に挿入されたものではないかな。

原初の伊勢大神の性別ははっきりしていないと思う。アマテラスと女性神と
しての性格がはっきりしたのは持統天皇以後ではないかと思う。

>天武が天智の弟だなんて信じてるやつ今時いないよな?

これはそんなことはないだろう。トンデモ本が横行しすぎているからね。
778日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:53:55
>>775

カスでアホのゴミクズよw
お前は何が言いたいんだ?

天照が九州起源と言いたいのならさっさと反論の根拠を出せwwww
779日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:56:34
>>774
どこの学会のなんていう教授がおっしゃられておいでですか。
具体的な根拠を示していただけますか。
具体的な根拠がなければ与太話アホだそうですよ。

>>778
なんでそんな架空の九州説を作り上げて叩くなんて
マッチポンプなことやってんだ?

なにがしたいんだゴミクズ
780日本@名無史さん:2010/12/11(土) 03:58:50
天武が何者で、どういう意図を以って伊勢神宮を作らせたか
それを考える方が有意義じゃないか?


脳みその中の架空の九州説と戯れていたいでちゅか?wwwww
781日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:01:05
>>779

君のほうこそ、どこの大学でもいいから歴史関係の教授に聞いてみれば?

782日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:01:39
>>779
で、何が言いたいんだこのゴミクズレベル九州説君は?w
今のお話は

「天照の本拠地は伊勢じゃない」

と言うお話から始まっている。
じゃあ伊勢じゃないなら何処だと言うお話だが?

お前は伊勢以外の候補地を具体的に挙げる事が出来るのか?

「ゴミクズレベル九州説」と言われて脊髄反射しちゃったのか?w

783日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:02:27
まさか、天武が百済系とか新羅系とか、そういう与太話を信じてるやつはいないよな?wwww

784日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:03:20
>>782

>お前は伊勢以外の候補地を具体的に挙げる事が出来るのか?

つまり、アマテラスは8世紀に創作されたのではなく、
元は他の場所にいたと、あなたは考えている。

そういうことですね?
785日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:05:01
>>783
韓国っぽい書き込みで天武バンザイみたいなのがあったよwww

百済新羅だけが韓国じゃないよな。
当時はミマナっつーとこと繋がりがあったような?
786日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:06:48
>>784
伊勢より前の「原・天照」とでも言うべきものがなければそうなる。

記紀描くところの元伊勢もイマイチとってつけたような話だしw

それを考慮しても少なくとも九州と言うのは無いwwwwwwww
787日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:07:20
・・・いずれ天武天皇が中国的な風水というか遁甲などに強い興味を持った
人物であることは間違いなかったようで、式盤を用いて占いをした、というよう
な記事も出てくる。このあたりから渡来人説が流布されたりもしているようだ。

えーと、即位してすぐの頃に伊勢、大倭、住吉、紀伊の四カ所の大神に幣を
奉じたりしているな。しかし、この頃も重要な神の一つではあったろうが、皇祖
神としての性格付けはされていないだろう。やはり持統紀以降のことだな。

天武帝は、神道だけではなく仏教においても重要な改革をいくつもなしているし、
精神面からの統合と支配を考えた画期的な改革者だったとは言えるだろう。
788日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:09:06
>>786
つーか九州なんてハナからないだろ
一体何と戦ってるんだ?

>>787
という創作がなされているな。創作力は大したもんだなw
まあ本人が作ったんじゃないだろうけど
789日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:18:41
で、結局

「伊勢神宮がアマテラスの本拠地ってのがウソ」

なんてほざいた馬鹿はトンズラしちゃって
対立軸も無い脊髄反射しちゃったゴミクズレベル九州説馬鹿が乱入してきて
グダグダと言ういつものパターンだなwww

とりあえず伊勢の天照に先行しうる神を具体的に挙げられる奴はイナイと言うことでいいな?w





790日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:20:46
>>788
創作というか、記紀編纂にあたりプロジェクトがあったのは確かだろうな。壬申の乱
においても、天武帝が戦中に神武帝の墓に捧げ物をしたりという逸話があって、これ
は皇祖との関係性の強調だろうし、このようなことは記紀の中にいくつも散見される。

ただし、天武帝の治世において女性の太陽神を強調する意図は不明であり、女性で
ある持統天皇の後に性格付けがなされたのであれば納得できる気がする。
791日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:24:43
ちなみに

>>768
>高木神は縄文系の「氏神」じゃないか 高木神は縄文系の「氏神」じゃないか

こんな話ははじめて聞いたw

「よくある類のエピソード」以上の根拠があるのだろうから

是非披露してもらいたいものだがwwwww
792日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:25:23
>>789
>対立軸も無い脊髄反射しちゃったゴミクズレベル九州説馬鹿が乱入してきて

九州説が大好きなのは分かったから九州説スレで暴れてこいよwwwww
793日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:29:18
はい。天照大神が8世紀の創作という決定的証拠。

出雲国造神賀詞
ttp://www.remus.dti.ne.jp/~n-makoto/izushinto/shingashi1.html

↑出雲国造が代替わりごとに天皇に奏上した祝詞だけど、
ここには、イザナギ、イザナミ、タカミムスビ、オオナムチ、大物主なんてのが出てくるけど、
天照大神なんて出てきませんね。

神話では、出雲国造の祖のアメノホヒは、天照大神の子孫なんだけどね。
天照大神は、朝廷だけで作った創作で、地方の国造は知らなかったんだよ。
794日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:29:51
>>791
イザナギイザナミを祀ってる多賀大社の近くで縄文遺跡が出たりしてる
諸々の神は「氏神」というくらいで出身地や血筋を現している

だとしたら、縄文系じゃないにしろ、高木神は何がしかの
「天皇家ではない」血筋の氏神だろう

で、思いついたのが「縄文系」なだけ
795日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:31:19
あと 天照=持統 説だが…

アッサムのカシ族(だったか?ウロだが)に岩屋に篭った美女を
あの手この手でおびき寄せる話があり

これを日本神話の岩戸隠れのヴァリアントと考える学者もいて
こうなると太陽神が女神であると言う事についても
特に歴史上の人物の反映である必要すらなくなるwww

まあ興味のある人間は記憶の隅にでもとどめておいてくれw

796日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:31:56
>>793
出雲の祝詞に出てこないから「創作」ってw

>出雲国造の祖のアメノホヒは、天照大神の子孫
この箇所が創作だとは思うだろ普通wwwww
797日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:35:10
>>795
>天照=持統 説
そんなやつおらんやろ。
随分マボロシに侵されてますなあ。一体どういう病理なんだ?

まっ、持統天皇の別名は「高天原広野」だけどね
798日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:35:32
誰が誰だかやっぱりわからんな。九州王朝説では、九州にあった倭国の前身が
邪馬台国で、その女王である卑弥呼が後代にアマテラスとして神格化されたという
話があったんじゃないか(実はよく知らないんで違うかもしれない)そのあたりの話が
ごっちゃになってる気がする。

>高木神は縄文系の「氏神」

これは大柱を立てるという縄文系の祭祀のことか、あるいは山中のご神木のことか?
まあ、神の依り代としての樹木信仰が受け継がれて、高木神の性格を形成する一つの
要素となったという話ならわからないでもないが・・・。
799日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:35:53
>>796

いずれにせよ、創作だから、同じことだよ。wwwwwwwwwwwww

800日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:38:04
>>797
お前みたいな馬鹿に言っていないから反応しなくてよろしいw
801日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:38:39
>>798
縄文人はかなりでかい家を建ててたらしいし
そもそも木が多い所に住んだ形跡があるだろ
802日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:40:41
>>793

祝詞には、「高天」って出てくるけど「高天原」は出てこない。
高天原も創作だって証拠なんだよね。

ちなみに、「高天」は、葛城にあるよ。
803日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:41:23
>>797
そうかな。これはむろん根拠のあることではないし、史実として考えるのは
難しいことだが、こちらは原初の伊勢大神は性別不詳だったと考えている。
それが、アマテラスになって女性神としての性格が強調されているのは何らか
の意図はあったと感じているんだ。
804日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:42:50
>>798
地面に直立する祭祀に使われた棒状のもの…と言えばストーンサークルの方が近い気がするw

そうなるとむしろ縄文の方が太陽信仰に近いと見ても不自然では無いと思うがwwww
805日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:44:15
>>802
出てこないことが証拠
って、あんたは小学生か


>>804
持統天皇の別名が「高天原広野」であることについてどう思うよ

がんばって屁理屈考えてみて!wwww

806日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:48:06
>>805

結局、持統天皇の頃になって、「高天原」という造語が生まれたってことだな。
それ以前に、日本書紀の本文には「高天原」が出てこないってのも、有名な話でwwwww

807日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:49:20
>>804
ストーン・サークルは太陽信仰もあっただろうが、石棒にみるような生殖信仰
の要素もあったのではないか。古代ローマのメイ・ポール信仰のような。

http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/0663438c217b9f55685d298f493a0167

808日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:49:42
>>803
原初の天照が男神であったと思わせる材料については
俺も色々聞き知るところではあるが…

「太陽神が女神と言うのは世界的に見ても稀」

…と言うことで歴史上の人物にモデルを探すと言う流れには少し”待った”をかけたいところwwww

まあこれも先の皇祖神が果たして天照なのか?と言う問題と同じに結論は出ないと思うがwwwwww
809日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:50:10
どこが「結局」なのかよく分からん

模範解答は「持統天皇は高天原出身だから」ですな
810日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:51:26
>>809

高天原ってどこよ?
811日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:51:33
日本のストーン・サークルの類ってそんなに古くない。
陸稲が入ってきてから後にできている。
2500〜3000年前ぐらい。
812日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:52:21
>>810
つまり持統天皇の出身地が高天原ではないかと考えられるわけだ
813日本@名無史さん:2010/12/11(土) 04:54:50
だんだん石棒が巨大化して後の巨石文化になるのです。
814日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:00:17
ストーン・サークルは確か長野県で確認されたのは前期と言われてるよな。
あと東北のは中期後半から後期頃だったと思う。サークル自体は確かに
日の出や周囲の山などとの位置的な関係性が指摘されてるはず。
・・・えーと、大湯のは日本のピラミッドといわれる黒又山との関連で話題に
なったはずだ。まあ、まゆつば半分だろうが。
815日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:00:48
>>812
おいおい>>810に対する質問の答えになってないぞアホ。

俺もその持統の出身地の高天原と言うのが何処なのか?を聞きたいなw

ひょっとして九州王朝説の与太話の一つなのか?w


816日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:03:07
>>815
持統天皇は高天原出身である と仮定するならば
持統天皇の出身地が高天原である。

さて、どこだろう。みんなで考えよう
817日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:03:24
高天原は、青海省の唐古拉(タングラ)山だといってみるテスト
818日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:10:49
持統天皇は、母方が蘇我氏系よな。これは高天原=葛城厨なのか???
819日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:14:28
>>816
与太話で1枚しかカードがなく
突っ込まれたら直ぐに底が見えてお終い。

ひょっとしてサイキバ君か?w

まあ何れにせよ馬鹿丸出しだがwww
820日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:26:07
あとは、これは与太話なんだが、垂仁紀では倭姫命が、天照大神を祀る場所を
探してあちこちをうろついた逸話があるんだが、・・・天智天皇の皇后も倭姫王と
言うんだよな。無個性なありがちな名前なんだけど、一節には天智天皇崩御後に
倭姫王の即位または称制があったともいわれる。これは天武側からは消したい
記憶だろうが・・・いや、だから何だというわけではないよ。w
821日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:29:22
まあ脊髄反射して引っ掻き回すだけの馬鹿が出てきてグダグダになったが…

伊勢の天照が8世紀頃の創作だと言う話は
元々の太陽神(それがどう言う名で呼ばれていたか分らないが)は伊勢にいて

その神の性格(女神であるとか皇祖神であるとか)については
8世紀にかなり改竄された疑いが強い

…と言うことで良いかな?

822日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:33:26
そう。だから上で出てきた安本氏などの、アマテラス=卑弥呼(+台与)説の根拠自体が
きわめてあやふやであるのは確かだと思う。
823日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:37:35
サイキバ学派
824日本@名無史さん:2010/12/11(土) 05:47:30
確か神名帳には伊勢の天照以外に「アマテル」の名を冠した神は
殆ど畿内・畿内周辺地域で九州には殆どなかったんじゃなかったかな?

…と思って適当に今ググったら対馬にはあるらしいがw

825日本@名無史さん:2010/12/11(土) 09:38:56
>>819
くだらんゴミネタ散らかしてないで、真相解明に繋がる事を考えようよ。


持統天皇は高天原出身である と仮定するならば
持統天皇の出身地が高天原である。

さて、どこだろう!
826日本@名無史さん:2010/12/11(土) 10:46:32
>>825

お前の目の前に珍しい果物があって

その果物 は 外国原産 であると仮定するなら
その果物 の 原産地は 外国である 

さてその原産地は何処でしょうか?


…いったいこの馬鹿はこれで
何の抗弁をしたつもりなんだろうか?

リアルキチガイ?





827日本@名無史さん:2010/12/11(土) 10:48:21
何故バカな例えで話をそらす必要があったのだろう?
ただの病気だろうか。


ちなみに天高原、ではなく「高天原」である事もポイント。
高い所にあるアマハラ。アマとは海のことも指す

持統天皇の出身地の、高い所にある海。
そして、彼女は近江大津宮を築いた天智の娘である。

答えは見えている。
828日本@名無史さん:2010/12/11(土) 10:52:21
そう言えば九州王朝説なるトンデモに天武が九州皇統の最後と言うお話があったが
それに繋がるような電波なのだろうか?

下らない謎賭けは良いから
その高天原が何処か根拠を添えてさっさと言えや。

凡そリアルじゃ相手にされないような与太話の癖に
勿体つけるのはこの板のゴミクズレベル九州説の常だな。
829日本@名無史さん:2010/12/11(土) 10:53:33
ちなみに天高原、ではなく「高天原」である事もポイント。
高い所にあるアマハラ。アマとは海のことも指す

持統天皇の出身地の、高い所にある海。
そして、彼女は近江大津宮を築いた天智の娘である。


何故分からない?
分かりたくないから?
830太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/11(土) 11:04:12
当時の古代日本は大陸が魏、呉、蜀の鼎の3分支配の3極の情勢であっ
た如くと同様、畿内、九州の2分たる2極の二本立ての局面におかれて
いたもので、九州のほうは九州王朝、王権の支配であったということだ。
畿内1極というのはトンデモなのである。
831日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:04:18
>>829
ひっぱるなあ…

別にそのまま答えを言わずに消えても良いぞ。
無理に引きとめはしないからw




832日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:06:38
>>830
>>829についてはどう思われます?
833日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:07:57
>>829
その通り。
高いところにある海、つまり火山湖のことだ。
開聞岳の麓の池田湖こそ高天原だったのだ!
これで邪馬台国が九州南部にあったことがはっきりした。
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/11(土) 11:09:31
>>832
最上段は正解の考え方でしょうね。アマは海の意味もありますが、この
場合はこれの意味ではないでしょう。
835日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:13:07
>>834
「天の高原」ではなく「高天原」であるのには理由があるはずです。
836太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/11(土) 11:14:00
>>835
そうですね。
837日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:18:24
結局、記紀の何処にも高天原が九州にあったなんて書いてあるわけでもなく

天照信仰、太陽信仰が九州で盛んであったなんて形跡も無い。

これに三種の神器なんて重ねるのは

サギの上にサギを重ねるようなものw

838日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:30:07
高天原とは、内陸の海、つまり琵琶湖のことだ。
日本最大の湖琵琶湖こそ邪馬台国にふさわしい。
伊勢遺跡こそ、邪馬台国の国会議事堂だったことは間違いない。
839日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:47:20
近江厨だったか…

邪馬台国近江説◇論争に終止符!
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/91

てめえのスレと同じ事をここで言っているんだな。

散々引っ張って「高天原」の漢字三文字のオレサマ解釈だけのお話。

馬鹿馬鹿しい。
840日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:53:11
>>839
はい出ました〜
草の生えたゴミクズのレッテル貼り&個人叩き。

でも同じ考えの人が少なくとも二人いるみたいですが?

根拠もありますしねえ。
頭から厨呼ばわりオレサマ解釈呼ばわりする、あんたは一体何様ですか?
イカサマですか?
841うましか:2010/12/11(土) 12:53:06
「アマ」って海そのものを示すコトバじゃないですよね。
「海女」「海士」「「海人」「白水郎」・・・・ようするに漁労従事者のこと。
海に関係するコトバではあるけれど「海」の意で使われることは無いと思いますよ。
842日本@名無史さん:2010/12/11(土) 13:08:06
北部九州と南部九州を一括りにしないで、
別の国と考えれば良い。

北部九州からみれば
日向なんて、険しすぎて、遠すぎて別世界

日向は瀬戸内海文化圏、宇佐も多分そう。

筑豊北九州が両者の間を取り持つ。
時代が下れば、日田もかな。
843日本@名無史さん:2010/12/11(土) 13:21:36
うーん、どんなにアカデミックにやろうとしても、どこかでトンデモに墜ちて
しまうのは2chの限界か?w

「海=アマ」は単独で使用する場合は少ないんじゃないか。海ー と接頭語
的に用いられる場合がほとんど。「海浜=アマハタ」のような感じで。
最初に 「天=アマ=開間(開けた空間)」の語があって、それが「海」にも転
じたのではないかと思う。

>日向は瀬戸内海文化圏、宇佐も多分そう。

これはそうでしょうね。早くに前方後円墳が入ってるとこは四国西部との
関係かな。
844日本@名無史さん:2010/12/11(土) 13:41:05
上の方で玉ネタが出てたけど、
玉って宝石の意味はもちろんだけど
美しいとか、王の意味もあるよね。

美しいという意味があるから、女性神に玉をつけるのは、
非常に妥当なんだが、王の意味もかぶらせてないかなあ。
845日本@名無史さん:2010/12/11(土) 15:05:47
何をもってアカデミックとするのかしらないけれど、なんだか偉そうな人がいますね。感じ悪いです。
846日本@名無史さん:2010/12/11(土) 16:20:56
>>824
>…と思って適当に今ググったら対馬にはあるらしいがw

対馬にアマテル神社がある。

これは、アマテラスがもともと「アマテル」と読まれたことの根拠ではある。

で、アマテラスは朝鮮から来たというトンデモ話につながるわけだが、
対馬にアマテルが日神として祭られたのは、顯宗天皇の古墳時代な。




847日本@名無史さん:2010/12/11(土) 16:32:51
延喜式にも、九州で天照大神を祭ってる神社は無かったんじゃないかな?

848日本@名無史さん:2010/12/11(土) 16:39:02
>>843
「アマハラ」と接頭語的に用いられてるよねって話じゃないのか?
何を言ってるんだ?
849日本@名無史さん:2010/12/11(土) 16:45:47
九州では天照大神を祭ってるのは少しはあったと思うが
北部九州では、あまり見た覚えがないな。
850日本@名無史さん:2010/12/11(土) 16:56:55
北部九州は、応神がよく祭られてる。
これは、応神が九州を統治したときに始まった信仰だから、
それ以前の北部九州は、別のカミを祭ってたはずなんだね。

おそらく、日本神話とは全く関係ない神話があったはずなんだが、
九州の人は郷土愛があるなら調べるべきだと思うが。
淀姫なんかは、応神以前の信仰だと思うし。
851日本@名無史さん:2010/12/11(土) 17:08:06
佐賀の與止日女かな?

ちょこちょこ調べてるんだが、
でっかい神社はあとから有力者が勧請して立てたりしてるんで
古い神社を探すには、なかなか手間がいる。

ぶっちゃけ佐嘉神社や太宰府天満宮は、弥生、古墳時代には
関係がない。
852唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 17:12:45
応神は渡海の象徴として神功と共に祀られるのであって
「応神が九州を統治した」などという事実は無いだろう。
天照大神を祭るのは、壹與までだろう。

応神は渡海の年に生まれ、誉田御廟山に葬られる。
この間の時空は110年間である。誉田御廟山で応神は語られるが、渡海で語られることは無い。
つまりこの時空は110年間であるが、それを信じないために、または、信じられないために後半を応神として語るだけだ。
853日本@名無史さん:2010/12/11(土) 17:12:50
佐嘉神社のちかくの与賀神社はちょっと面白い。
854日本@名無史さん:2010/12/11(土) 17:17:45
ある程度まとまった遺跡があるところは
当時集落があると考えられる。

そのため、それなりに由緒の古い神社がある。

糸島、曽根三雲遺跡群の近所の高祖神社や細石神社
吉野ケ里の近所の櫛田神社
肥前政庁後の與止日女神社

大宰府政庁にもあっても良いと思われるが
歴史的には太宰府天満宮ではない。
855唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 17:30:57
小倉には、伊勢御師のお屋敷があった。
856日本@名無史さん:2010/12/11(土) 19:14:34
中国三国志の時代、日本も九州、畿内、東北の地域に独立王朝があって、特に覇権を争ってはいなかったが、それぞれの国の威信をかけて文化の高さを誇示するため魏や蜀に朝貢していた。
二国鼎立と言っている人は認識不足ですよ。
857日本@名無史さん:2010/12/11(土) 19:18:18
>>856
>二国鼎立

恥ずかしい奴だなw

858足三本:2010/12/11(土) 19:20:46
だな。
859日本@名無史さん:2010/12/11(土) 19:23:00
蜀ってモンゴル高原から行くんか?
胡族の慕容・拓跋と蜀はコネが強そうだわな。
860日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:18:43
>>857
鼎の軽重が問われるってことだ
861日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:26:49
>>860
鼎の軽重が問われるのは大人物と見られている者だとか責任ある地位に就いている者の場合だろ。
862日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:53:36
>>857は、>>830の太国の発言を念頭に書いているようだが、太国は二本立てと言い換えている。さすがだな。
863日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:02:06
二国鼎立でも二本立てでも、3世紀に九州の優位性が崩れたことは認めるわけだね?
864日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:11:37
>>860
慌てて「鼎」の文字を調べてその故事のネタを仕入れて
とりあえず誤魔化す為に使ったんですね、わかります。

そう言うものは使うタイミングとか考えないと単にすべるだけだぞw

865日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:52:01
古代史はちゃんと相手をしてくれるからいいなぁ。
戦国ぐらいになると、史料的根拠のない話はするな、みたいに
相手もしてくれない。
866日本@名無史さん:2010/12/11(土) 22:00:56
謎の4世紀の資料があったら教えてくれ。
867日本@名無史さん:2010/12/11(土) 22:43:55
好太王碑文
868日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:07:27
>>854
神社という宗教施設は、古代においても普遍的に存在していたのかね?
つまり、どこでも神道をやっていたと?
869日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:11:52
>>850
>>応神が九州を統治したときに始まった信仰だから
時の統治者を信仰するという風習があったのかね?
えらく人気のあった支配者なんだな(笑)
870太国 ◆vCQUh5MDZw :2010/12/11(土) 23:12:54
>>856
どこに東北が大陸の国々と交流していた論拠があるのか?
この具体性がほしいところだ。

ただコチラは当時の日本が1極でないことを強調しているんであり、3極も
あるならあるで構わんことだ。

3極支配もあった状況はある。倭の五王は九州王権と観たが、九州に当時
別物の九州王朝があったと観ている。これと畿内とで3極的になるわけだ。
871日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:13:25
むしろ勝手にばらばらの神を信仰していたのが
のちに神道という形に整理されたのでは?
872日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:15:06
神社の創建というのは記紀成立後が多い。しかもその頃には仏教が流入して
神仏習合の色合いが強くなっている。社伝は近世のものも多く、自分たちの
歴史を由緒古く、貴人とのつながりを入れて脚色して書いているからあてに
はならない。記紀以前の信仰の様子というのはほとんどわからない。
873日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:17:31
>>870
>どこに東北が大陸の国々と交流していた論拠があるのか?


そこで、東日流外三郡誌ですよ。
874太国 ◆vCQUh5MDZw :2010/12/11(土) 23:21:39
>>873
その書では困惑するな?? あと〜竹内文献もだ。
やはりこういうんでは、卑弥呼のころは2極としたほうが無難。

ただ他の古史古伝の一部は有用な点がままある。
875日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:25:04
創健定かにあらず、神代にいたる。
なんて記録されている神社もある。

そうでなくても、創健以前に神社の前身があった可能性もある。

また、今のような神社の形式になる前は、
軍事施設ではないかと考えたこともあったが、

多分文化的にはそうそう変わるものではない。

今のような形式のまま、時の権力者に
拠点や滞在場所として利用されたのだろうと思う。
876日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:29:07
古墳時代の祭祀形態は、記紀の記述と発掘された埴輪や石製模造品、木製祭祀具など
から推測することができるが、地方派遣された大和の官人が行っていたものはある程度の
共通性があっただろう。
877日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:29:18
ある支配者が死後神として崇拝され、神社なりにて信仰され続けるとすれば
その支配者の後継者がそうなる様にしない事にはそうならない
例えば、徳川家康の霊を東照宮に祭り、その後も子孫累代にわたって参詣もしくは使者を遣わすなどして崇敬を続けたからこそ、東照宮は残っているのだ
だが、延喜式神名帳などに載っている神社は、特に皇祖に関わりのある神に限られない
支配者たる朝廷が、特に念入りに維持してきたのは伊勢神宮だけだ
その他の神社は、その神を崇敬する地元民(豪族)が維持してきたのだ
878太国 ◆vCQUh5MDZw :2010/12/11(土) 23:29:34
誤りの伝承もあろう。しかしそれは一部だな。>>748
879日本@名無史さん:2010/12/12(日) 00:51:34
神功皇后は実在の人物ですか?
880日本@名無史さん:2010/12/12(日) 01:35:58
実在かと問われると、実在したとはいいがたい。
中国の歴史書にも、朝鮮の歴史書にも、「女王」は卑弥呼・台与しか記載が無い。
朝鮮征伐に成功した倭の女王がいたら、外国の歴史書にも残るだろう。
881日本@名無史さん:2010/12/12(日) 01:37:07
応神天皇は北九州生まれ。だから北九州では応神が祀られている。そして。畿内に
入る際に畿内の勢力と戦って入っている。神武東遷と全く同じことをしている。
つまり、神武の東遷は応神をモデルにしたものらしい。

では、その母である神功皇后は?なぜ、妊娠の身で北九州へ行って朝鮮半島へ
攻めるようなことができるのか?疑問な点も多い。

応神の時代に秦氏が日本に渡来する。そして、宇佐神宮の八幡の神は応神天皇
のこと。しかし、八幡の神は秦氏とも関係が深い。ということは、実は応神天皇
は実は百済などの朝鮮半島から渡来した氏族の出なのでは?という説も。
これを隠すために、神功皇后をしたてて、以前のマキムクにあった邪馬台国
との連続性を示し正当な政権であることを偽ったのでは?
882日本@名無史さん:2010/12/12(日) 02:35:22
百済から来た応神は、日本の前方後円墳の宗教に傾倒して河内に巨大古墳を作ったんですね。
わかります。
883日本@名無史さん:2010/12/12(日) 02:50:31
www 応神天皇のモデルとされる人物は実在だろう。神功皇后は、その母としては
実在だろうが、懐妊した状態での三韓征伐などの事績は信じがたい。九州での逸話
や伝承地が多く、畿内でのそれが少ないのも不自然だ。
884日本@名無史さん:2010/12/12(日) 03:52:09
>畿内でのそれが少ないのも不自然だ

自分が知らないだけだろ。
885日本@名無史さん:2010/12/12(日) 05:18:01
民間の伝承に関しては九州のほうがずっと多く残ってるのは確かだろう。

河内王朝の出現により、日向吉備あるいは関東などでも地域の首長権の
移動のようなことが起きている。具体的には前方後円墳が築かれる地域の
移動が見られる。各地に大きな影響を与えていることから、当時の政治情
勢が劇的に変化したと見られている。

九州では、日向の諸県君牛諸井の娘、髪長媛が仁徳帝の后となり、日向の
最大古墳は4世紀までは生目に営まれていたのが、5世紀には西都原に変
わる。男狭穂塚、女狭穂塚の被葬者はこの牛諸井と髪長媛ではないかとす
る説があり、有力だと考えられる。これは、女狭穂塚が応神天皇の后、仲津
媛の墳墓と伝えられる仲津山古墳の5分の3の相似形であることが根拠とな
っている。
886日本@名無史さん:2010/12/12(日) 08:46:04
そうね。日向というと、長い間ヤマトと敵対していた地域と思い込んでいる人が多いが、
そんなことはない。日向はヤマトの故地として描かれている。南九州最大の豪族諸方の
君は天皇の外戚ということになっている。ヤマトと敵対していたはずはない。
考古学的にも、ヤマトの古墳の始まりと同じ頃から日向の古墳が始まっている。日向が
早いかも知れない。初期古墳と言われる柄鏡式古墳はヤマトよりも日向の方がはるかに
数が多いぐらいだ。それにヤマト特有の地下式墳などから、ヤマトと共通する副葬物が
多数出土している。
887日本@名無史さん:2010/12/12(日) 09:45:20

大和は梁書に出てくる扶桑国の事で、倭国ではない。

888日本@名無史さん:2010/12/12(日) 13:26:56
>>886
しかし、記紀では髪長媛の輿入れのとき諸県君一族は角のついた鹿の皮を着て海を渡
ってきた異形の一族として描かれている。習俗には大きな違いがあったようだ。

>日向が早いかも知れない

これはさらっと書いているようだが、前方後円墳日向発生説かな。w これを証明するの
は大変だよ。柄鏡式は古い形式だがたいがいは4世紀代だね。
http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjlist.cgi?mode=%8C%60%8E%AE&title1=%95%BF%8B%BE%8E%AE%82%CC%8C%C3%95%AD&choice1=%95%BF%8B%BE%8E%AE&area0=%91S%8D%91&choice0=%8D%D7%95%AA&item2=63&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=
889日本@名無史さん:2010/12/12(日) 13:49:20
発生期の古墳は、寺沢氏が分類する纏向型でよいだろう。これは、纒向石塚古墳や
纒向矢塚古墳、千葉県の神門古墳群中の神門4号墳・5号墳、福岡県の津古生掛
古墳など。この分類には異論もあるが、メスリ山や西都原13号などの柄鏡式が、
これらより時代の下るものであることは間違いない。

>初期ヤマト政権の中枢たる纒向遺跡との政治的、祭祀的関係のもとに成立した
これが寺沢氏の見解。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E5%9E%8B%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

畿内説の立場からは、纏向にいた倭国女王卑弥呼の魏からの倭王への冊封が、
これらの早期前方後円墳を各地に広める一つの契機になったと考える。
890唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 17:42:37
発生期の古墳
発生期の古墳は、任那建国後鉄の流入をもって可能となる。
伽耶(任那)建国209年
216年 崇神末年

だから、あの巨大な箸墓は崇神時代には造れない。

倭国(奴国、博多)の古墳は伊都国より少し遅れる。
古墳の造られるのは、九州倭国が、大和に併合されてから。

大和による併合は、274年の渡海の後になる。
274年の渡海には武力は要らない、晋の招集命令による渡海であり、仲哀の死より優先される。
891日本@名無史さん:2010/12/12(日) 18:37:01
>唐松山

ホツマでは、天照大神は、いつどこで祭られはじめたことになってるのかね?

892唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 18:53:20
旧事本記によると、孝昭が三輪に大物主を祀る。
同様に、大物主は、天照大神とトヨケを祀っていたらしい。(イセという)
それが、193年前年の凶作のあおりで、大物主と伊勢が崇神に身を寄せる。
それまでは、天皇家は、宮(居住区)内で天照大神を祀っていた。

これ以降、宮(居住区)と宮(神の社)は、分離した。
893日本@名無史さん:2010/12/12(日) 19:59:01
ホツマには書いてないのかよ。
894日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:09:52
>>893
アマテラスが男神であることはホツマ伝の最大の特徴の一つ。うろ覚え
だが、たしか12人の后がいたと伝え、また卵から生まれたという卵生
神話になってたはず。まともに読んだことはないので、違うかもしれない
けど、・・・唐松山さんどうですか?w
895日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:46:31
ホツマには、天照大神は男だって書いてあるのか。

それなら、唐松山は、まず男神という前提で話をしないとな。
学会の通説とも一致するし。
まさか、そこだけホツマは信じないで女神だとか言わないよな?
896唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 21:03:03
書紀:神功皇后摂政六十二年。新羅不朝。…天皇大怒。
神功時代でさえ、天皇はいる。

大神が男で問題は無い。

つまり書紀は、卑弥呼の為に神功皇后で覆い隠した時代がある。
神功62年は、仁徳24年でもある。
897日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:12:40
俺が結論出してやるよ 馬鹿馬鹿しい

神武東遷とか勝手に造語を使うな。東遷ではなく神武東征な。
出発地は吉武高木遺跡。 三種の神器もあるし神武が建てたと記紀に残る巨大な宮殿跡もある。
後背には日向の高千穂にぴったりの飯盛山がそびえたち、かささのみかさをまじきとおる室見川がまっすぐに博多湾にそそぐ。
もちろん日向峠があり吉武高木遺跡一帯が日向とよばれてたのは容易に想像はつく。
古事記の記述に全く異論のできない場所だな。
東征もぴったりだ。
しかしなんだ、これだけの証拠があるのに畿内にしたがる宮内庁や歴史の学会はもう無理があるだろ。

よって邪馬台国も博多湾一帯が中心地だったことも容易に想像はつくな。
魏志倭人伝も博多一帯のことを詳しく伝えてるし、
畿内とかいうやつはまじでただの頑固者だろ、
はっきりいって馬鹿すぎるw どうあがいたって畿内は九州の後発だよ
898日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:35:51
>>897

三種の神器と言うのならその時代の前後の出土例は?
あと地域的な広がりは?

” 副葬品体系 ”としてあると言うのなら
単に出土品の中にその三つがありました…なんてお話じゃあ埒が明かない。

で、その三種の神器を畿内に持ち込んだという話だろうがその証拠は?

畿内での出土例と九州の例で如何にその継続性を証明するのか?

そもそも例えば鏡なら畿内に持ち込まれた最初の鏡とはどの様な鏡なんだ?

でいつから副葬品から王権継承のシンボルとしになったんだ?

…等々ツッコミどころが満載すぎるw

ついで「記紀の記述」で言うと「三種の神器」が出なければおかしい場面で
鏡と剣の二種だけしか出ないなんて場面もあるw
三種の神器なんていう奴は大抵「記紀大好きっ子」なんだろうが
そんな事も見落としていると言うオチwww


899日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:37:43
どっちにしろ畿内はないわな(笑)
900唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 21:37:57
九州に於ける神武の妻は、アビラ媛だ、
その間に手研耳が生まれる。
アビラとくれば、吉武高木遺跡は、まず候補に挙がる。

弥生中期後半は、人口も増えてきて、各地に入植した、その地方の一つに神武は居た。
901日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:41:54
>>897
博多の日向が本家というわけね?

すると、南九州の日向三代の伝承地は全部完全否定するんだよね?

当然のことながら。
902898:2010/12/12(日) 21:45:16
およそ「三種の神器」なんてのは九州説によるサギ・ペテンといって良い最有力候補だろうw

三種の神器と言うのは…

南北朝時代に皇統の正当性の証明に使われ
源平の戦いでは哀れ幼き安徳天皇は宝剣と共に海中に没し
戦後も高度成長期には家電製品が「三種の神器」と言われたり

…で日本人の記憶に強烈に刷り込まれているw

故に「三種の神器」と大上段に構えられたら
それでなんとなく東遷説を証明するネタのように思ってしまう。

まあ「勘違い商法」的サギの類だなwww


903日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:47:14
ふーん、吉武高木遺跡ねえ。ということは神武は渡来人系の可能性ありということか?
記紀の日向が福岡ということだな。しかし、これは日向東遷厨が黙っちゃいないだろう。ww
904日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:49:45
邪馬台国は畿内だし神武東征もあった。つまり邪馬台国が神武勢力に
侵略され神武勢力はそのまま大和を名乗り卑弥呼などを神話上の
人物(アマテラス)に仕立て上げたのだ。
905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 21:54:13
>これは日向東遷厨が黙っちゃいないだろう。ww
その為に、その地方の一つに神武は居た。 と煙幕をはる。

文章上神武がミヤザキにいた、と云っても 今の宮崎とは限らない
魏書に書かれた地名のほとんどがよく解らないのだから、さらに200年前の
地名のみ今に伝わる、とも限らん。
906日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:55:42
>>904
すまないですが、意味がわからない。神武東征はいつの話なんですか?
907日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:56:54
邪馬台国はマキムクだよ。実際にマキムクからは3世紀に中国との交流があった遺物が
出てきてるし。
北九州はヒナモリがあった場所。当時はすでに僻地だったんだよ。
908日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:57:51
>>901
あのさ、宮崎が日向になったのは確か景行天皇の時だから神武東征のだいぶ後な。

畿内派も学会もだが素直に文献を読んでみろ。
こんなにも違和感無く全てがぴったりあてはまる博多という地があるのに、
天皇がもしかしたら韓国からとか、畿内にしたいとかで無理な解釈ばかりしてるのが畿内説だったり学会の見解だろ。

はっきりいって全てに無理がありすぎるんだよ畿内は。
聖徳太子も法隆寺の宝も全てに整合性がないのが畿内派の説。

文献を素直に解釈すればおのずと答えはもう出てんだよ。
それを立証するものも博多一帯からは沢山でてる。
宮内庁や学会に変なプライドがなければもう既に結論は出てる問題だ。

後発にすぎん畿内とかを無理に正論にしようとして畿内派は馬鹿じゃね〜のって感じだなw
909日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:58:44
南九州には、神武だけじゃなくて、
ニニギやヒコホホデミやウガヤフキアエズの日向三代の伝承地が多いが、
それらを全部否定するんだな?
という話だが。

910唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 22:01:49
ホ26160 マツリコト コヤネモノヌシ ともにたせ ミヤうちのタは ミホヒメと カメにのりゆく
カゴシマや ソオタカチホの ヒにいなむ アサはアサマの ヒにむかふ ヒむかふクニと ホツマクニ

例えばここに、カゴシマと出てくるが、現在の鹿児島では無い。何処か?
洞海湾の島である。

911日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:03:39
>>906
四世紀だろう。卑弥呼の邪馬台国が大和王朝となったと考えるから
いろいろ矛盾がでるのだ。卑弥呼の邪馬台国は神武政権に滅ぼされたと
考えれば全てが自然に繋がるのだ。
912898:2010/12/12(日) 22:04:45
副葬品体系として「三種の神器」なるネタを見た場合

例えば柳田がまとめた伊都国の王墓の出土品一覧を見れば

後期終末の平原なら一応その三種は揃っているようだが
(それでもその三種の組み合わせを特に意識した、例えば3点セットを特別に副葬していたなんて話は聞いたことが無いが)

後期前半の井原鑓溝には玉が無く
後期初頭の平原五号には刀剣、玉が無く
中期後半の三雲小路二号には刀剣が無い

…等々結構まばらで「三種の神器」なるものが、その組み合わせが特別視されてきたと言うような状況は伺えない。

もし九州で「三種の神器」の系譜を見る事ができるものがあれば教えてくれ。
913898:2010/12/12(日) 22:08:12
>>908
些か長文だが
法隆寺の移築ネタ?
(九州王朝説の本場)福岡平野説プッシュ
そして結論としての陰謀論…

サイキバ君かな?www
914日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:15:13
吉武高木遺跡と畿内の遺跡になんら連続性が無い以上、
>>908は無視していいレベル

915日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:16:39
>>909
畿内も全部後付けだろw
百人一首の「三笠の山にいでし月かも」の奈良の三笠山も全部後付け。
山と月の関係が合わないらしいなw

三笠の山は太宰府の御笠がある大城山に出た月を当時の先端地域の太宰府の役人が
詠んだ唄を大和が九州を平定した後に無理矢理畿内にこじつけてるからな。

畿内はほんとに無理がありすぎるんだよw
関西人が畿内畿内といいたい気持ちは分かるが、当時畿内は後進の後発地域だよw

その証拠に大和が九州平定後の769年に太宰府を訪れた大和の役人が畿内に報告した時の文献
「この府、人・物いんぱんにして天下一の都会なり」と報告した。

これが、何を意味してるか分かるか?
769年といえば大和が九州平定後もうだいぶたっている。
それでもまだまだ中央である畿内は九州北部よりだいぶ劣っているということだ。

畿内はもうあきらめろw
916日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:18:18
>>911
ふーん。これはこの板でも初めての説ではないか。邪馬台国が大和で、それが神武勢力に
4世紀頃に滅ぼされたと。しかし、吉武遺跡群は中期後半かせいぜい後期初頭くらいまでだし、
4世紀にはヤマト王権の勢力圏だったのは明らかだな。
917太国 ◆vCQUh5MDZw :2010/12/12(日) 22:21:15
>>910
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が〜

〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
918唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 22:25:58
>卑弥呼の邪馬台国は神武政権に滅ぼされたと考えれば全てが自然に繋がるのだ。

日本は元小国、倭国を併せる。

日本(邪馬台国)と倭国(九州女王国)に別けないと併呑できない。
この併呑したのが、大倭が伊都国に1大率を置いた255年頃であり、
日本武尊の熊襲征伐と重なる時代である。

この時代を崇神としたのでは、任那建国が出来ない、これが出来なければ
垂仁以後の”鉄の流入”も無くなる。鉄が無くては箸墓が造れない。
そして、書紀の記事に事実は無い。となる。
919日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:27:18
>>904
神武東征は畿内であれほど栄華を誇っていた銅鐸文化の消滅と一致するだろうな。
要するに子どもの遊びのような無意味な銅鐸文化消滅させたのが三種の神器をはじめとして
高度な文化を持つ神武一族。

またこの東征は銅鐸文化をの消滅だけでなく、天皇のシンボル三種の神器の始まり、
また卑弥呼の死期とも一致するんだよなこれが。

文献を素直に解釈すれば日本の祖は福岡だということは簡単に理解できるよ。

畿内派は無理な理論をギャーギャーいうだけの馬鹿ってこったw
920898:2010/12/12(日) 22:32:05
>>908
>後発にすぎん畿内とかを無理に正論にしようとして畿内派は馬鹿じゃね〜のって感じだなw

まあここら辺がこの板のゴミクズレベル九州説の限界と言うか
馬鹿丸出し部分だなwwwwww

畿内vs九州 でオツムイッパイイッパイw

が、現実にはそんな「先進性の西高東低モデルw」なんか大昔の話。
まあ吉野ヶ里ブームの頃まではそう言うものも通用したんだろうが…

例えば人口でいえば九州より畿内より東海や関東が多かった事を示すデータもある。
(ついでに言えば畿内より畿内周辺が人口が多かったりする)

もはやニ地域並べての自慢ゴッコや大きさ比べの如き事は
幼稚なお遊びにしか過ぎないw おめでてーなとwww

ちなみに>>908のいう「畿内派」なんて造語wは
もはや邪馬台国畿内説ではなくて九州王朝説を認めないようなアカデミズム全般を指すので
初見の人は注意をwwwwwwww
921日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:34:00
・・・例えば中期末頃で比べると吉武遺跡群は伊都国の三雲南小路遺跡などと比較して
しょぼいのは明らかで、遺物を見ると三雲南小路などが前漢の影響が強いのに対して、
吉武は半島系。出土した多紐細文鏡は半島起源のものだ。

しかも古墳時代初期には、伊都国に変わって貿易の中心部となり前方後円墳も築かれ
始める。ヤマト王権の九州進出の北の拠点といってよい。ここから
922唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 22:35:30
>神武東征は畿内であれほど栄華を誇っていた銅鐸文化の消滅と一致するだろうな。

弥生中期(1世紀半ば)の銅鐸は埋められ、弥生後期の銅鐸が造られる。
この銅鐸の無くなるのが、2世紀末 後期後半であり、纒向遺跡の始まり辺りになる。
923日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:35:42
>>921
続き(書き込み失敗した)

ここから4世紀に神武東征に出発したなど、どう考えてもありえないこと。
924日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:36:32
>>920
内容が全くないぞ 畿内派w
反論できなくてとうとう悪口しか言えなくなったかw

これが畿内派の現実。
畿内説は無理な作り話でしか成立しないトンデモ説だからな。

素直になれよ 作り話しかできない畿内説君w
925898:2010/12/12(日) 22:40:33
>>921
前方後円墳九州起源説を持ってくればクリアできるんじゃねwwwwwwwwwwwwww

実を言うと九州王朝説で
久里双水古墳が紀元”前”7世紀と言う説があるw
なんでも14Cの測定結果とかw
926日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:42:22
だいたい マキムクマキムク とか前方後円墳だとか巨大とかなんでそれで 
卑弥呼 になるんですか??って話なんだよ。

ほんと畿内説ってのは元からトンデモ説だからな。

魏志倭人伝読んでるの??って基本中の基本の話なんだよ 畿内説はww
927唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 22:46:20
前方後円墳は、畿内に鉄の流入をもって造られ始める。
その頃の九州は、鉄鏃で代表される時代。

これが何を意味するか?
928日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:47:16
>>919
銅鐸と三種の神器による東征説というのはあまりにも古い学説で、今では文献学者でも相手に
するものはいない。まだまだ考古学で状況が明らかにされていなかった頃のものだ。
だいたい銅鐸祭祀の終焉は地域によって時間差があるし、廃棄の状況も様々だ。

何よりも、3・4世紀の時代にあって、九州から武力遠征して銅鐸祭祀を行っていた広大な面積
を武力制圧など、不可能なことははっきりしている。非現実的といってよい。

九州王朝説はロマンあふれるものだが、壮大な想像力のあまり、細部を構築する力に欠けている。
弥生末から古墳初期というのは、中国の三国時代でもないし、日本の戦国時代でもない。戦争の
痕跡はあちこちに見られるが、武器は地元産のもので、遠距離間の戦闘があったことを示す例は
ない。

九州王朝説はある種の宗教のようなものだから、せいぜい騙されて金を搾り取られないようにする
とだ。
929898:2010/12/12(日) 22:47:22
>>924
コラコラ、サイキバ君

イチャモン付ける前に
じゃあ手前が九州で「三種の神器」が副葬品体系である事を証明しうるだけの
資料を出してみろって話だがw

馬鹿が「吉武高木遺跡に三種の神器があるZe! ヤッホー!」で飛びついただけなんだろうが
そんな単発ネタで「三種の神器」なんてネタに飛びつくのは馬鹿丸出し。

まあ、まともな考古学者なら一般人の興味を喚起する以外では言わないネタだろうよwwwwwwww
930日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:55:36
>>929
あの吉武遺跡群の一部は中期の前方後円墳の墳丘下から発掘されたものだ。神武の子孫が
自分たちの故地に対して、そんなことを許すと思ってるのかねえ。しかもその古墳は同時期の
畿内の大型古墳に比較してごく小さいものだ。知識がないとしかいいようがない。(嘆息)
931日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:01:12
>>927
それでも卑弥呼の墓とは無関係なことぐらいすぐ分かるだろう。

因みに俺は白村江の戦いの敗北後に日本という国名が初めて世界に登場した670年頃
九州で大和の影響かなにかがおこり大化元年695年に卑弥呼の頃から続く本家の天皇家
が福岡時代本家の支配下にいた神武一族が建てた大和朝廷(分家)に滅ぼされ完全に大和朝廷
が確立されたと考える。

畿内は田舎だし暇だから畿内の豪族が規模の大きい墓ぐらいせっせせっせと作ってたと容易に想像つくしな。
まあ俺の説が一番文献にはしっくりくるはずだよ。

嘘つきやペテン師ほど必死に無意味な議論をするからな。
畿内説ってのはペテン師や必死な嘘つきの集まりだよ(笑)
932日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:06:56
規模が大きいから畿内だってwww

余りにも馬鹿すぎるwww

基本がなってないんだよ畿内派はww

まず魏志倭人伝から読み直せ 大馬鹿者がw
933日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:10:48
>>932
もっと勉強しろ。馬鹿にされないためには勉強しかないのだ。ww
934唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 23:12:15
>卑弥呼の墓とは無関係なことぐらいすぐ分かるだろう。

卑弥呼は、乱の国に立てられ、伊都国を傘下に置く。
女王国が九州にあることは明白。
しかし九州に邪馬台国が存在しないし、自分から乱を平定出来なかったんだな。
そこで景行に頼んだが、女王、男王と相次いで死亡してしまった。
これで九州倭国は立つ瀬が無くなる。
最終的には、大和(大倭)が伊都国に1大率を置き、壹與(五百野姫)を送り込む。
熊襲が背いたとき日本武尊の登場、あとは、一大率を畏れる程度で、神功渡海を迎える。
この時出迎える勢力が九州に存在するのは、当然と云えば当然である。
935日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:12:56
天皇は万世一系とかいってるがほんとは695年に本家の血は途絶えてる。

が、しかし世界中を見てもあれだけの系譜が残るのは天皇家ぐらいしかないだろうな。
936898:2010/12/12(日) 23:15:59
>>921
>出土した多紐細文鏡は半島起源のものだ。

そう言えば奈良の名柄遺跡からも多紐細文鏡は出ているが
サイキバのアホは年代的にどうするんだろうか?

神武が畿内に最初に持ち込んだ鏡を多紐細文鏡としたら
銅鐸と一緒に出てる件はどうするんだろう?

他の東遷説狂信者(恐らく怨み節さんだったと思うが)は
そこは銅鐸の伝世でクリアしていたような記憶があるがwwwwwwww

937唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 23:25:21
>天皇は万世一系とかいってるが…

その前に、4世紀初期より数回立て替えられた、秋津遺跡をクリアーせねばならない、
この時代は我が主張の仁徳(313年〜399年)と重なる。
938日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:26:19
695年?? 何を言ってるのだ?これは「日本国号}制定の話か? www ま、よくはわからんが、
白村江の敗戦以来、唐の侵略を怖れた大和朝廷が、国防体制・政治体制の変革を進める中
での一つの施策だろう。これは天智から天武、持統帝に代わっても続けられた。で、702年、
文武天皇によって遣唐使が再開され、唐との国交を回復した。それだけのことな。
939日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:32:10
>>936
ま、サイキバの言うことで、天孫降臨神話が半島起源だとしたら、正しいのは
宮崎ではなく、福岡の日向であることくらいかな、と思ってる。

940日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:36:51
南九州には、神武だけじゃなくて、
ニニギやヒコホホデミやウガヤフキアエズの日向三代の伝承地が多いが、
それらを全部否定するんだな?

と聞いているのに、スルーか。やれやれ。



941日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:40:18
>>940
後付だろ
942日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:43:59
なんか、急に盛り上がってきたな
943日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:44:56
>>941

神武東征が、後付で無いという根拠は?


はい。
944日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:48:00
>>943
神武東征が、後付であるという根拠は?
945日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:49:43
(嘆息)言ってもせんないことなんだが、九州王朝こそすべて後付けなんだな。あの会の
中にあって、逸年号とか、九州王朝の証拠らしきものを文献などからムリクリ見つけて
くれば、仲間内で手柄として認められる。

何というか、自分たちで架空のブロックの城を組み上げているようなもので、はた目には
痛々しいことこの上ない。教祖様はご高齢だし、もしお隠れになったときはどうなるのか
ねえ。このような組織が中心を失って結束を保つのは難しい。マス大山が亡くなった後の
極真空手のようなことにならなければいいが、それでなくともメンバー自体、空手よりはる
かに平均年齢が高いわけだし。
946日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:52:18
神武一族は卑弥呼(本家天皇)の下にいた豪族であり神武は福岡にいた、
卑弥呼の死後倭国大乱がおこり神武はこの時天孫降臨の記述にもぴったりの吉武高木遺跡より
より新天地を求め、福岡の三種の神器も含む高度な文化をひっさげ吉武高木より東征を開始する。
その時に畿内が使ってた銅鐸文化を消滅させ福岡で使ってた文化を畿内に持ち込む。

本家はご存知のとうり歴史の表舞台で倭国として中国や韓国との交流や戦争をつづける。
倭国(本家)が表舞台で活躍してたころも神武が作った分家の大和も力をつける。

本家倭国が663年白村江の戦いで惨敗。670年に世界の表舞台に始めて「日本」という国号登場。
倭国の惨敗で実質九州の実権を握ったのは大和だろう。
実権は握ったが本家として九州の王一族は残る。しかし大化元年695年九州の本家の王が暗殺等で滅亡。
このことを大化の改新として九州平定後に大和が編纂した日本書紀に残す。
日本書紀は大和が都合よく編纂したことで年号等が事実とは一致しないことが余りにも有名。

大和が九州を平定し倭国が表舞台でやってきたことを自分達がさもやってきたように都合よく日本書紀を編纂する。
法隆寺の宝物も倭国が行ってきた外交で獲たものであり日本書紀等には不記載。
神御石といわれる北部九州には普通にある山城も日本書紀大和が編纂したことで不記載w
法隆寺の宝物も太宰府は空っぽだが福岡沖にある神の島と呼ばれる沖ノ島には法隆寺の宝物よりすごい国宝級の宝物がたくさん。
太宰府から大和が持ち帰ったのは明白。

他にもキリが無いほど畿内派のずさんさと福岡こそ日本の祖だなといえる物はたくさんある。
聖徳太子、百人一首、魏志倭人伝、中韓に残る文献、遺跡、埋葬品その他多数。
普通に考えて九州だろ。そして俺の説が一番文献に時代背景にも見事にあてはまりしっくりくるんだよな。

畿内説となえるやつとか普通に馬鹿だろww
769年の畿内の役人が太宰府を訪れて
「この府、人・物いんぱんにして天下一の都会なり」と報告する等
畿内説となえるやつも程ほどにしろ アホが
947唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 23:58:37
神話時代にはまだ年代が振れない。だから、ニニギやヒコホホデミやウガヤフキアエズは、
歴史に加えられない。それにひき換え、神武には、年代を振ることが出来る。
欠史八代、簡単に親子相続として、1代20年×八代=160年。
書紀の太陰暦分析では、神武元年は西暦42年であり、弥生中期と後期を別ける位置である。

崇神が188年を元年とした場合です。

948898:2010/12/12(日) 23:58:39
>>945
まあ「邪馬台国東遷説」は奠都説にシフトすると思うが
九州王朝説は殆どフェイドアウトするんじゃないのかな?
(ギョーカイに詳しい人の情報求むwww)

恐らくその根底に流れていた「アンチ大和中心主義」みたいなものも
「緩やかな首長連合」が主流になって拳を振り下ろすべき敵がいなくなったと言うかwww

まあサイキバ君には精進してもらって極真のフィリオになってもらうとw

キャッチフレースは勿論『一撃(ピンポンダッシュ)』でwwwwwww
949日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:59:20
>>946
お前の頭がずさんなんだろう。
950日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:05:00
>>943
何を言ってもムダだよ。九州王朝は、記紀はすべて捏造で、九州倭国の歴史を
大和のものとして取り込んで記述し、九州王朝関連の文献は,日本成立後、徹底
的に焚書されたとしているんだから。ww

学校できちんとした歴史を習わずに、変な本やホームページに出会ってしまうと
こんなことになるんだろうねえ。
951唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 00:14:26
>学校できちんとした歴史を習わずに

ぎゃくだろう。
学校が正しい歴史を教えないから、みんなが集まってきて、歴史談義に花が咲く。
あだ花ばかりなのが気になる。
952日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:14:28
結局畿内派は>>946に内容で勝負できないかw

所詮トンデモ説は畿内だから俺に対抗できるのも愚痴程度のショボイものばかりw

もういい加減にあきらめな 畿内説w
953日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:20:01
>>952
>結局畿内派は>>946に内容で勝負できないかw

いや、ぜんぜん?

954898:2010/12/13(月) 00:28:24
>>940
>ニニギやヒコホホデミやウガヤフキアエズの日向三代の伝承地が多いが

で、どのような理由でノミネートされるのかな?

日向三代の神話に合致するような何かを見つけられるのかな?

天照の岩戸隠れを史実の反映だと言い奴は多く
又神武東征を史実と言う奴も多い。

が時系列的にその間の日向三代の神話となると
そのような声もほぼ無くなる。

そりゃそうだw

 「産屋を覗いたら嫁の正体はワニだった」みたいな異種婚譚
 釣り針捜索型神話として知られる海彦山彦における海vs陸の戦い…等々

比較神話学のネタの宝庫のようなお話は流石にキツイのだろうwww

もしそれを(海外に類似を求められるような)神話とすれば
高天原から神武への連続性が担保できなくなるって話www

高天原=邪馬台国は見つかりません
日向三代の都は見つかりません
神武の足跡もスタートの九州、ゴールの大和でも見つかりません

ナイナイ尽くしのナイ筑紫wwwwwwww
955太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/13(月) 00:31:16
>>947
オマエは42年の説明をしたことが、いまだかつてただの一度もな〜い。
これでは餌をつけない釣り同然であり、大魚(納得者)は全くかからない。

合理的具体性とその根拠を明示解説して、ほほう〜これは本当かも知れな
いと、始めて第三者が想うようになるのだ。オマエのはこの説明が全然
出来な〜い。

これでは何回書きこもうと、賢人は誰も信じやしな〜い。ww
956日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:33:19
まだ古代史は救いがあるな。エロゲーとかに行かないことを祈るのみ。www
957898:2010/12/13(月) 00:49:45
「高天原」について少し気づいたことがある。
(サイキバ叩きの怪我の功名だなw)

古事記にしても日本書紀にしても初めてその語が出てくるのは天地開闢のシーンで
(日本書紀なら一書(第四))何れも『天御中主尊』が出てくる場面、間違ってたら指摘ヨロ)

天御中主尊が後付の可能性大と言う話は知っている奴は知っているだろうが
そう考えたら「高天原」が「天御中主尊」とセットで後付された…と考えれば筋書きとしては分かりやすいと思うwwwwwww

ってこの程度の話は既に誰かによって言われている?w
958日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:15:14
>>957
高天原や、天御中主尊が後付で創作されたというのも、学会では確定。

セットかどうかはともかく、同じ時期8世紀前後に作られたのは間違いない。
959日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:20:33
で、伊勢国風土記なんかには、天御中主尊の十二世孫の天日別命が平定したとある。
天日別命は、神武に付き従ってきたらしいから、ようするに、神武東征もひっくるめて、創作ってことなんよ。

夢を壊してごめんね。
960日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:23:52
で、天日別命の子孫が、伊勢神宮の渡会氏なんだけど〜。
伊勢国風土記には、「天照大神」なんて、一言も出てこないという。

伊勢国の人からみても、「天照大神って誰なん?」って感じだったんですよ。

961日本@名無史さん:2010/12/13(月) 02:33:47
例えば、仁徳天皇の時代(400年前後)の土木工事の記述はちゃんと現代にも形になって残って
いるんだよね。
難波の堀江の開削は大阪城北にある大川のこと。

また、紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
とあるから、もうこの時期には漢字で記録することができたんだよ。

つまり、大和政権の伝承に関しては応神あたりからは漢字の記録を元にして伝承されてた
とみてもよいのでは。

だいたい、九州説って朝鮮半島が近いという理由だけで、反天皇的思想の人たち
のイデオロギー的な情熱で成り立ってきたと言ってもよいもので、論理的では
ないんだよね。
962日本@名無史さん:2010/12/13(月) 03:26:39
でも、木簡とか出ないしなあ。
963日本@名無史さん:2010/12/13(月) 10:59:44
そう。文字資料というのは、大陸伝来のものを除くと非常に出土が少ないんだよね。
実際は渡来人がいて、文字を用いる層も早くからいたとは思うんだけど。あとは、数
というのも、考古学的には難しい。例えばひもを結んだものや、板に刻み目をつけた
ようなものの出土もほとんどない。

古事記の記事には、和邇吉師が応神帝の頃に千字文と論語を伝えたとされるけど、
これは周興嗣の千字文が成立する前の話で、一つの矛盾としてとらえられている。
千字文というのはこれだけではないのかもしれないけど。

文字というものが、いつ頃からどのように、どのくらい用いられていたのかを考えて
みるのも面白いかもしれない。
964日本@名無史さん:2010/12/13(月) 13:17:10
>>961
その難波堀江については後世語られないんだよね
難波長柄豊崎宮の造営でも出てこない
だいたい摂津国府がどこに置かれていたのかも解ってない
965日本@名無史さん:2010/12/13(月) 19:15:31
age
966日本@名無史さん:2010/12/13(月) 19:19:37
>>957
ちなみに、現在は滋賀県野洲市に編入されているが
野洲川河口付近は「中主町」(ちゅうず町)だったんやで
967唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 20:27:04
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、
傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

傳送文書に間違いが無い。とは、手紙を出したらその返事が返ってくるから
間違いが無いと確認出来る。
つまり、この時代から文書のやりとりは有る。ただし倭人が漢字を使える、とは少し違うが
神功の渡海、総司令官仲哀の死より、渡海が優先される。
これは、大和の意思による渡海では無く、呼び出しに応じたもので有ろう。
晋の呼び出しは、文書で行われる。

968ローガン:2010/12/13(月) 20:58:31
>>915
>三笠の山は太宰府の御笠がある大城山に出た月を当時の先端地域の太宰府の役人が
> 詠んだ唄を大和が九州を平定した後に無理矢理畿内にこじつけてるからな。

春日なる御蓋山…
福岡の春日、地名の由来は春日神社。奈良春日大社からの勧請は神護景雲二年(768)。
仲麻呂没は770年。福岡のその地が、春日と呼ばれる事を仲麻呂は知らない。
969唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 21:19:28
埼玉 稲荷山鉄剣銘を、普通雄略で説明するが、もし日本武尊の子ワカタケルであれば、
辛亥年は、351年がまず候補に挙がる。
応神は渡海の年(274年)に生まれたことになっている。そして、菟道稚郎子が若くして亡くなり、その後を仁徳が継ぐ、と
仁徳紀での設定である。しかし
応神紀では、百済建国後 応神16年(359年)王仁來之。菟道稚郎子が文字を習い、応神天皇28年に高句麗の使者
を叱責する。
応神紀の菟道稚郎子と仁徳紀の菟道稚郎子は違う人物である。これは、置いといて、
高句麗の使者は何時訪れたか?
応神28年は371年になる。前燕が滅び、高句麗が自由になった直後の来邦である。

稲荷山鉄剣銘は、359年王仁の来邦と時代を共にする。
そして371年には、そこそこ漢字が読める人が存在する。

であれば、秋津遺跡から文字が出土する可能性がある。
970日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:39:19
群馬には東国でも多く古墳があるけどなんで?誰の墓なんでしょうか?
まったく不明なんでしょうか。
971日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:40:22
稲荷山鉄剣の辛亥が351年・・・ありえないですよ。干支二まわりは違うでしょう。
972唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 21:46:37
>ありえないですよ。

大彦から七代で繋ぐと、300年頃の誕生である。
だから雄略に繋ぐため、七代プラスアルファーで説明されるのが、この鉄剣銘である。
973日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:48:55
大彦が実在してるとでも思ってるのか……。

アホばっかりだな。
974日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:53:49
>>972
スレチなので詳しくは書きませんが、稲荷山の埋葬部からの出土品は5世紀代のものですよ。
975唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 21:54:22
169年 大彦誕生
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年  ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た法がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。

天日矛の来邦と大彦の誕生を並べた、この数字で七代目を数えてくれ
大彦の孫磐鹿六雁は、魏書の伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁である。
976日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:57:49
架空の登場人物を並べても、何も得るものはないよ。

暗闇で迷路にはまってどうどうめぐりしてるだけ。
で、一生を終わるんだ。
977日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:59:45
>>970

群馬は昔、クルマと呼ばれ昔朝鮮からの多くの渡来人が住んでいたので
「呉人(くれびと)の住む土地」という言葉がなまったという説がある。
978唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 22:14:07
中平刀で解るように、剣類は伝世する。

群馬への渡来人入植は、323年千熊長彦、半島占拠の時代に大量渡来があった為である。
この時代を下げると、大量渡来が説明出来ない。
979日本@名無史さん:2010/12/13(月) 22:22:59
やれやれ。
980唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 22:25:43
>架空の登場人物を並べても、何も得るものはないよ。

応神のように整合性が得られない場合は、その旨書き込んで居る。
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/13(月) 22:32:11
ニセ物の編年に騙されないよう〜古代人が未来へ託した古神道の天下の
宝器 → 天津神算木(天津金木)
天津神算木とは三輪山に示唆された半径r=3(三輪)の円の球化の
体積=表面積 の数式をいう。すなわち

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき)

右辺に 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 (見かけの年代) がある。

大祓祝詞 に曰く 「大中臣 天津金木 を本打ち切り末打ち断ちて・・・」

 3≠113.097335 ←ここは右辺末尾に0を付加→ 3≠113.0973350

整数桁、月日数113を年代とみなせば、0付けの不等式から末数の年代350年
との差は

 350−113 = 237年 = 崇神即位元年(実年代)= 景初元年

を算出し、真の年代が求まった。
これから239年鏡=景初3年鏡の年代が3倍年暦換算で、紀の崇神6年の翌年
だと確認されたこととなる。その前段階の鏡が紀の崇神6年の倭笠縫に祭祀
したアマテラスの鏡だとなって、年代が完全に整合した。

このことから、倍暦換算にて 崇神没年=259年 が求まり、記の同没年
干支戊寅年が258年であり、258年説を主張した静岡大学 原名誉教授、菅政友
、橋本増吉、那珂博士らの主張がほぼ正解であったことが判明したのだ。
982日本@名無史さん:2010/12/13(月) 22:35:38
高天原は高崎だ。
高崎の倉賀野には利根川の最上流の河岸があり、東山道を繋ぐ交通の要衝として古代から栄えていた。
関東は良質の絹を産し、東山道は、さながら日本版シルクロードといった賑わいだったのだ。
それを支配していたのが毛野氏。
その一派である近江毛野氏は、6万人の兵を任那へ送るほどの兵力を維持し、
大和政権を佐冶するという表現がふさわしいものだった。

だんだん分かってきましたね。
983日本@名無史さん:2010/12/14(火) 01:55:40
言っても無駄かもしれんけど、年代を無理してなるべく古いほうに持っていこうとするのは止めたほうが良いと思うが?
984日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:20:08
天皇家は鬼

日田の地域をおさえたものが
周辺諸国との戦いに優位に進めれる
985日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:25:50
次スレ


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!52
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/

986日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:28:15
箸墓周濠出土の輪鐙だってよ

ハイ、じゃんじゃんレスしましょうね
987日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:32:51
>惣座遺跡出土遺物
>所在地 佐賀市大財3丁目11番21号 佐賀市教育委員会
>指定年月日 平成2年3月30日
>惣座遺跡は弥生時代の集落と墓地からなる遺跡です。剣・矛を刻んだ石製鋳型は掘立柱建物跡の柱穴から、
>ガラス小玉と銀製指輪は土壙墓から出土しました。石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2cm、
>残存幅4.2cm、表裏両面に銅剣型、側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれています。これから鋳
>造された製品は剣・矛とも細形形式で、特に矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来は朝鮮半島からの
>舶載品と考えられていた型で、青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにしました。銀製
>指輪は、土壙墓の頭位側から3個重なって出土しました。いずれも径2cm前後で、針金状の薄板を曲げて
>作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いています。ガラス製小玉は総数6810個と多量で、一連にす
>ると9mを超える見事なブルーの連珠となります。


佐賀周辺では「ガラス玉」がよく出土されてる。
「銀製指輪」この指輪の出土は珍しく、貴重な発見といわれてるはず。
たしか他の遺跡からも、銀製品以外の指輪とおもわれるもの(イヤリングの可能性あり)
も出土してたはずだ。
988日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:37:55
「玉」と「剣」セット
「玉」と「鏡」セット というのは九州各地の遺跡だね。

三種の神器は九州から〜ていうのが想像できるかも。
989日本@名無史さん:2010/12/14(火) 13:37:52
寺沢は、畿内の初期古墳に見られる祭祀形態は吉備に、吉備の祭祀形態は出雲に
出雲の祭祀形態は北九州に原型が認められるといったことを指摘していた。
つまり、畿内の古墳は、畿内で発生したのではなく、元をたどれば北九州につ
ながっていくということだ。
990太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/14(火) 13:55:07
>>983
どういう点が無理なのか? それがしに対してならば〜具体性がない書きこみなの、
で、どんな所がそうだというのか分からんですが・・・?

唐松山に対してですかな?
991日本@名無史さん:2010/12/14(火) 14:35:36

「玉」の中の「勾玉」について、ウィキペディアから引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E7%8E%89

(引用開始)
----------------------------------------------
…その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。
太極図(陰陽太極図は、確認できる限りでは明代から)を模しているという説は、時代的にも不整合な俗説である。

現在では縄文時代極初期の?状耳飾りが原型であると考えられており、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。
朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。
縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。

弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。
1993年(平成5年)に東京都板橋区四葉遺跡の弥生末期の方形周濠墓から長さ7.4センチメートルのヒスイの勾玉が出土している。…
----------------------------------------------
(引用終わり)

こうしてみると、畿内古墳時代初期の「玉」副葬は、列島での長い長いそれまでの伝統(縄文時代から!)に基づくものではないだろうか。
とくにこの時期(弥生時代終末〜古墳時代初頭)に、九州からの伝播(東遷)を考える理由はなさそうである。
992日本@名無史さん:2010/12/14(火) 18:58:01
残り8


次スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!52
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/
993日本@名無史さん:2010/12/14(火) 18:58:59
残り7


次スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!52
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/
994日本@名無史さん:2010/12/14(火) 18:59:54
残り6


次スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!52
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/
995唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 19:17:01
>年代を無理してなるべく古いほうに持っていこうとするのは止めたほうが良いと思うが?

纒向遺跡は2世紀末から、3世紀中葉に箸墓を築いて衰退する。
書紀では、崇神、垂仁、景行が纒向である。
任那(伽耶)建国は209年である。

何処にも無理は無い、むしろ 崇神=卑弥呼時代に無理がある。
240年頃から半島は魏が管理する、この時代に任那建国は無い←あるなら反論宜しく。
任那が無くては、垂仁以降 鉄の分与権を得た大和、も無い。
古墳築造は、鉄器があって始めて造られる。
弥生時代の方墳で鉄剣はまれである。
ホケノ山古墳以後鉄剣の副葬は常識となる。ホケノ山が240年頃であれば、それ以前から
鉄の流入は始まる。209年は丁度良い。
996日本@名無史さん:2010/12/14(火) 19:45:46
仮説の上に仮説を置いて語られても、説得力ゼロだな。
997唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 19:58:15
考古学の云う数字が纒向遺跡は2世紀末からであり
最初の大王の墓が箸墓だ。3世紀半ば。

まずこの考古学の数字は信じるか?信じないか?
998日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:38:22
箸墓は4世紀だろ。
999唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 20:49:36
>箸墓は4世紀だろ。

何が根拠で4世紀となるのか?
1000日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:52:20
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。