1 :
914:
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
2 :
914:2010/11/19(金) 10:32:57
3 :
914:2010/11/19(金) 10:40:53
4 :
914:2010/11/19(金) 10:41:49
5 :
914:2010/11/19(金) 10:43:45
大和(やまと)には、群山(むらやま)あれど、とりよろふ、
天(あめ)の香具山(かぐやま)、登り立ち、
国見(くにみ)をすれば、国原(くにはら)は、煙(けぶり)立ち立つ、
海原(うなはら)は、鴎(かまめ)立ち立つ、
うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は
万葉集に収められた舒明天皇の「国見の歌」ですが、
2度出てくる“やまと”は、「山常」「八間跡」と書き分けられています。
そしてこの“やまと”が単純に現在の大和=奈良、“香具山”が現在の香具山なら
香具山から「海原」が見えるというのはおかしいのです。
湖南アルプスの岩山からは、琵琶湖が近くに見えます。
また、信楽の高原地帯は現在、陶器の産地です。
「煙立ち立つ」・・・、舒明天皇が歌を詠んだ当時から、
信楽は陶器の生産地だったのではないでしょうか?
6 :
914:2010/11/19(金) 10:52:20
7 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 11:19:55
レス100以内で過疎る。に
1000000000000000000点。
8 :
914:2010/11/19(金) 11:31:01
868 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:24:24
蘇我氏と共に、記紀から消された物。
・蘇我氏(の善政) ・蘇我氏の先祖神 ・邪馬台国 ・ヒミコ ・トヨ
・毘売ネットワークシステム ・豊玉伝説 ・ハニヤスヒコ天皇
・葛城勢力が最も活躍した時のモモソ姫の執政 ・開化天皇の女性表記
・クロコダイル(ワニ船)シャーク ・倭国大乱 ・クマソの先祖神
869 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:26:48
そして、ジックリ記紀を読み解けば。。。蘇我氏が蘇えると。。。
こういうレトリックなのだ。うーん、記紀ミステリー。
信じるか信じないかは、貴方次第♪
9 :
914:2010/11/19(金) 11:32:35
↑の言うように、
日本書紀・古事記のアヤを解くには「蘇我氏」は大きなカギです。
蘇我馬子。変な名前です。しかし日本史には似た名前が登場しますね。
「小野妹子」。小野氏の本拠地は滋賀県大津市です。
〜『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。
日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を
携えた使者は小野妹子とされる。〜wikiより引用
小野妹子の子が毛人。孫が毛野。
なんだか蘇我馬子−蝦夷−入鹿とかぶってませんか?
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この文書を中国に突きつけた外交官こそが、蘇我馬子だったのではないでしょうか?
ならば、その一族を退けようとした人達は、一体何が目的だったでしょう?
宗教上の争い?本当にそうでしょうか?
それまで何も言わなかったくせに畿内説でまとまり始めてからかすめ取りに掛かるのは近江承認の典型だな。
近江泥棒伊勢乞食
11 :
914:2010/11/19(金) 11:34:58
うまこ、いもこ。
似たような名前が、魏史倭人伝にも登場します。
「伊都国」の副官、泄謨觚(せもこ?) 柄渠觚(へごこ?)。
ここは帯方郡からの使者が留まる所と記されており、
住人の名前や表記も他の国とは違うニュアンスがあります。
>>901の地図の「伊都国」、旧伊香郡高月町(現在は長浜市)は
全国有数の古墳群と、国宝も含む仏像を持つ町です。
グーグルマップで地形か航空写真を見ていただくと分かりやすいですが
「関所」「入国管理局」を置くのに適した場所だと言えます。
そして、(私は実際に聞いたことはありませんが)
高月の方言は、湖北方言の中でもさらに異なるとされています。
(湖北方言自体も特殊な関西弁です)
12 :
914:2010/11/19(金) 11:35:55
蘇我氏、小野氏、そして魏志倭人伝の伊都国
これらは同じ一族だったのではないか、と。
そしてさらに、日本神話の登場人物。
アマテラス、スサノオ、ツクヨミ。
この「スサノオ」ですが、この名前は出雲神話と共通です。
しかし同一人物とは思えないフシがある・・・そもそも場所が離れてます。
「スサノオ」は出雲神話から名前を借りただけではないでしょうか?
ならば、その下に消された名前があるはずです。
日本書紀・古事記の編集者が、隠さなければならなかった名前。
それは、蘇我氏=小野氏=伊都国の、始祖のものだったのでしょう。
その名前は?
さらに奈良時代以降冷遇されていった氏族の名前をさがすと、
めぼしい名前があります。忌部(いんべ)氏。
日本神話の「フトダマ(アメノフトダマノミコト・天太玉命)」が先祖です。
アマテラス、フトダマ、ツクヨミ。
これが本来の高天原の三神ではないか・・・と思います
13 :
914:2010/11/19(金) 11:37:35
「フトダマ」は、古事記では「布刀玉命」と書かれています。
神話に詳しい方なら、連想するアイテムがあるのではないでしょうか?
布都御魂(ふつみたま)。
神武東征の折、助太刀に差し出された刀です。
なぜ「布都御魂」を持つ一派は、突然西から来た神武天皇に加勢したのか・・・
彼らは元々「神武天皇」と同じ言葉を話す民族だったのではないでしょうか。
そして、帯方郡への窓口だった伊都国人で、外交官であった蘇我氏・小野氏でもあり、
「古語拾遺」を漢文で記した忌部氏であるなら・・・?
帯方郡。中国か韓国の一部のように言われてますが、満洲ですね。
彼らはそこから来たのではないでしょうか。
高天原の「スサノオ」=フトダマ、蘇我氏、そして神武天皇は
満洲人だったのではないか。・・・そう仮定すると、辻褄が合うことがたくさんあります
(中国人でも韓国人でもない、ということは強調しなくてはなりませんが)
14 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 13:06:08
庄内式土器と伽耶新羅陶質土器(4世紀中葉)の土器が一緒に出ているの
だから、庄内式土器の時代が4世紀中葉であった事は間違いない。
従って、それより後の布留式土器は4世紀後半以降と言うのが妥当。
箸墓からは馬具の鐙が出ているから5世紀でも不思議はない。
日本の考古学はお粗末じゃのう。
15 :
914:2010/11/19(金) 13:50:45
924 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:17:11
>>920 なるほど「〜〜こ」という名前ですね。確かに当時の豪族のお名前の中では、
異質で特徴的かもしれませんね。ふむ。
ちなみに、妹子の子孫の毛人・毛野は、音読みだとどのように読む(読むと
思われる)のでしょうか?参考の為におうかがいできれば。ただ、魏志倭人伝
の時代と馬子の時代は少し離れすぎているような気もしますが。
あと、出雲神話体系及び出雲解体にも結びつくようなアプローチでもあります
ね。非常に興味深いです。以前、アマテラスとタカミムスビの関係で、興味
深い関係性、すりかえをも思わせるような架空を聞いた事があるます。もし
そうなるとスサノウ・アマテラス・タカミムスビの関係性なども再構築する
架空なども架空としては想起されて来るかもしれません。(テーマから離れ
すぎるかと心配しますので、浅学の俺的にはこの程度までしか言えませんが)
925 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:27:07
>>923 古事記では布都の刀、日本書紀ではフツノミタマですね。アマテラスが
タケミカヅチに神武への加勢を命じた時に「私が行かなくても変りに」と
して神武に送ってやった、あの伝説のえくすかりぱぁですな。
ちなみに、タケミカヅチは、今回の争点に(俺的には)かなり謎を握っている
神様の一人と見ています。(先述参照)
16 :
914:2010/11/19(金) 13:52:35
926 :914:2010/11/19(金) 06:47:22
>>924 毛人・毛野の読み方は分かりませんが、北関東の古い国に「毛野国」がありますね。
「蝦夷」もまた東国の人々ですから、なにか関係があるのではと思います。
高天原の「スサノオ」=フトダマが元満洲人なら、
アマテラスとツクヨミ、そしてタカミムスビ(オモイカネ?)は
どこから来たのか。と、考えてみます。
ツクヨミは、そのまま「月読み」の意味でしょう。
月の満ち欠けを観察してどうするのか?
稲作の種まき〜収穫の計画を立てる。つまり稲作をする人々、
いわゆる弥生人だろうと思います。
>>901の地図の中でも「投馬国」にあたる野洲川下流は、
弥生遺跡が多く見つかります(銅鐸も)。現在も田んぼが多いです。
ちなみに野洲の子供はこんな子ばっかりです。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Pazt_7nnMDg
17 :
914:2010/11/19(金) 13:53:42
927 :914:2010/11/19(金) 07:08:35
>>925 「タケミカヅチ」
〜別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。〜
やはりフトダマ一族と北関東は関係が大きそうですね。
私は関東方面には全く土地勘がないのですが
源氏の関東武士というのは北関東からも出ていますよね?
源氏の発祥は河内です。
神武の軍勢が居を構えたのも、おそらく河内(葦原中国)だったでしょう。
古墳時代には、河内に都が置かれました。
天皇家の分家だなんて通説がありますが、源氏とは、神武の一族なのだと思います。
18 :
914:2010/11/19(金) 13:55:54
928 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 07:29:56
>>927 古事記によると、イザナギ(イザナミとの別離後)に、天照・月読・スサノウ
の三神を生む直前に産んだ三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノ
オ)は摂津住吉の三神になっています。
また後代の神武の近畿での進軍ルートは難波→河内→紀伊の国となっています
なにかしらの因縁を感じますね。
また、摂津・河内と言えば、後代の天皇も度々遷都先として選ぶ土地柄でも
あります。
19 :
914:2010/11/19(金) 14:12:40
と、いうところで。
>三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオ)
そしてですね、その住吉大社付近に「加賀屋(かがや)」という地名があります。
「狗奴国」、邪馬台国と対立していた国ですが、
これは「かが」国なのだろうと思います。鼻濁音気味のな“な”に近い“が”。
この三神を氏神とするのは、邪馬台国の頃から大阪に住んでいた人達だと思います。
この「狗奴国」を南から制圧してからその兵をもって邪馬台国を降伏させる。
・・・それが、帯方郡出発時の、神武(の祖父?)御一行様の計画だったと思うのです。
だから、日向という南の果てに上陸している。
魏史倭人伝に書かれたルートを鵜呑みにして南へ南へ進むと、そうなりますね。
しかし、神武軍が日向から狗奴国=葦原中国=大阪に到着するまでの数十年の間に
出雲から来た勢力が入り、高天原の邪馬台国連合傘下になり、状況が変わりました。
大阪はすでに、“天孫”族(フトダマ)が治めるところとなっていた。
そのため、アマテラス系のナガスネヒコがいる大和に直接攻め入るべく、
和歌山側に回ったのだと思います。
20 :
914:2010/11/19(金) 14:50:10
21 :
914:2010/11/19(金) 18:58:47
満洲付近から佐渡島経由の航海が、当時の船で可能だったのか?
という疑問がおありかと思いますが(私もそこは自信がなかった)
他のスレでいただいたレスがこちらです。御の字。
--------
対馬経由で朝鮮半島にわたるルートは、距離こそ短いけれど、
潮流が速く、また天気が急変しやすいので小型の船舶では非常に危険なのです。
現在は、気象レーダーや気象衛星の情報により台風や低気圧の接近をいち早く知ることができるけれど、
卑弥呼の時代よりずっと下った遣唐使も遣隋使でさえ、よく遭難しました。
そこへ行くと日本海ルートは、風向きが安定しているので、春から夏場にかけて東風に乗って大陸に渡り、
冬になって西高東低の気圧配置が強まる前に西風に乗って帰国するという風まかせの航海が可能だったのです。
渤海との交流は、この風を使って行っていたし、このルートで魏に使いを送ることも可能だったはずです。
22 :
914:2010/11/19(金) 19:08:54
魏史倭人伝の伊都国に関する記述、
帯方郡の使者が往来する時、常にここにとどまる。
とあります。これは、単に数日寝泊りするだけではなく、
風向きが変わるまでの間、滞在するということだったのでしょう。
そしておそらく帯方郡の使者は
のちの渤海とほぼ同じ場所から出航したのだと思います。
半島付け根、東岸まで領土だったなら、そうするのが自然です。
23 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/19(金) 20:33:40
>>14 その数字では、神功の渡海が説明出来ない。
神功元年のあづないの罪は273年の日食である。
323年 神功49年 東晋が洛陽奪回を断念し、東北方面は空白地帯と成る。
その隙を突き倭は、半島を占拠する。
磐余稚桜宮(桜井茶臼山古墳)から、110年後に誉田御廟山古墳が作られる。
24 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 20:40:45
25 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/19(金) 23:05:36
近江伊勢遺跡の衰退は、唐古、鍵遺跡や丹後大風呂遺跡の衰退と期を一にする。
今考古学は、この時代を弥生後期後半とする。
残念ではあるが、2世紀末の出来事。
崇神6年、民の離散である。
6年で説明出来るのは、大物主や伊勢が崇神に身を寄せる。
つまり大王の座を崇神に譲り、出雲に引っ込んだ大物主は「振根」を名乗る。
フリネが生きていれば、九州が乱れることも無かった可能性が有る。
26 :
914:2010/11/20(土) 00:34:04
伊勢遺跡は2世紀末まで!2世紀末までだから!みたいに言われても。
つまりその頃までは近江に国の中心があったという事でしょう?
伊勢遺跡の場所やあり方は、高天原にふさわしい。
そのあと「都」がどこへ動かされたかも、神話がヒントになるでしょう。
27 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 09:23:08
〜 〜 〜 〜 ,ヘ明石市/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ .‖明石海峡大橋 ┃ /
‖ ┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 天保山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ,淡路市 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | 友\ 末盧国・・・明石市
/ > ヶ \ 伊都国・・・淡路市岩屋
/ / 島 \ 奴国 ・・・淡路市久留麻
\ | 水 不弥国・・・淡路市釜口
∨ 道 投馬国・・・洲本市
邪馬台国 ★ 邪馬台国・・・和歌山市
28 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/20(土) 18:57:37
>その頃までは近江に国の中心があったという事でしょう?
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
西暦42年 神武東征元年
大物主は近江に入植し、そこで国を治める。
神武が大物主の子共を世継ぎとする程、影響力は強い。
つまり、書紀では、神武が大王の如く見えるが、大王は大物主であった。
193年 新羅、倭人が飢餓のため渡来。
この時、近江伊勢遺跡も衰退する。
ホ33078 ワレはこれ ヲヲモノヌシの カミなるが キミなうれひそ たせざるは わがココロあり
わがハツコ ヲヲタタネコに まつらさば ひとしくなれて トツクニも まさにまつらふ
ハヅキナカ トハヤがチハラ メクハシメ ヲヲミナクチと イセオウミ ミタリミカトに
つげもふす ユメにカミあり タタネコを ヲヲモノヌシの イハヒヌシ
ここに記載された「イセオウミ」こそ 近江伊勢遺跡だろう。
29 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 19:03:31
〜 〜 〜 〜 ,ヘ明石市/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ カスミガウラ∠ノ / イバラキ
/ヘ~ .‖明石海峡大橋 ┃ /
‖ ┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ トウキョウ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 天保山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ,淡路市 ヽヘ ★不弥国 ┃ / チバ、タテヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナガワ、ヨコハマ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|カナガワ、ヨコスカ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | 友\ 末盧国・・・明石市
/ > ヶ \ 伊都国・・・淡路市岩屋
/ / 島 \ 奴国 ・・・淡路市久留麻
\ | 水 不弥国・・・淡路市釜口
∨ 道 投馬国・・・洲本市
邪馬台国 ★ 邪馬台国・・・和歌山市
30 :
914:2010/11/20(土) 19:15:02
オオモノヌシ=物部氏というのは、
日本書紀・古事記に後からあちこちにねじこまれていますね。
オオモノヌシという名前自体が、露骨にオオクニヌシの真似です。
31 :
914:2010/11/20(土) 19:36:17
物部氏は、蘇我氏との宗教絡みの政治抗争に敗れて表舞台から姿を消した
・・・と、いう事になっていたりするようですが
ならばなぜ、日本書紀・古事記でむやみに持ち上げられているのか。
クーデターを起こした天武が、物部系だったからです。
彼らは吉備と尾張に住んでいました。
出雲神話のおまけで登場するのはそのためでしょう。
壬申の乱の際は、東の尾張から加勢がありました。
そして彼らが実権を握っている間に、「伊勢神宮」は東海へ移されました。
まあざっくり言いますと、簒奪です。
32 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 23:25:15
家伝から、物部の血筋から入鹿が出て嬉しいとか書いてなかった?
孝徳帝が遷都したのは蘇我の土地だったり、理解不能
伊勢神宮が巻向の真東に位置するのは、政庁が巻向付近こにあった垂仁の頃に遷されたからです
東海に根を張っていたのはむしろ尾張氏でしょう
伊勢神宮に祭られていた天叢雲剣が倭建の遠征に際して差し出され、最終的に熱田神宮に祭られる事になった逸話は、
東方の支援を尾張氏が担っていた事の現われでしょう
34 :
914:2010/11/21(日) 00:58:59
スサノオは、ヤマタノオロチを倒すことによって
「天叢雲剣」を手に入れました。
三重県松阪市付近に「櫛田川」が流れています。
ヤマタノオロチの侵略に悩まされていた、クシナダヒメとは
ここの女性なのではないか・・・
だとすれば、ヤマタノオロチは尾張勢です。
天叢雲剣が熱田神宮に祀られているのも、正しいという事になります。
天孫降臨のクシフル峰とか、「クシ」は別の意味がありそう
ヤマタノオロチも、邪馬台国とか三輪山(巳輪=蛇)に関係があるのかも
36 :
914:2010/11/21(日) 01:19:38
魏史倭人伝の「躬臣(くし)国」。これは松阪市辺りなのでしょう。
関連がありそうなのが
葦原中国の偵察に使わされた「雉の鳴女(なきめ)」。
帯方郡への使者は「難升米(なしめ?)」です。
同じ人物ではないでしょうか?
おそらく、クシ国はヤマタノオロチ退治以降
スサノオ(フトダマ)の子孫が治めることになったはず。
ですから「難升米」もまた、漢字を解する伊都国の系譜なのだと思います。
葦原中国って帯方郡のことかも
38 :
914:2010/11/21(日) 01:56:29
葦原中国=大阪です。
難波潟 みじかき葦の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや
難波江の 葦のかりねの ひとよゆえ
みをつくしてや 恋わたるべき
和歌にも詠まれるように、葦は大阪を象徴する植物でした。
39 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/21(日) 17:26:05
>葦原中国=大阪です。
難波、河内の中心が入り江や、潟湖では、主張出来ない。
40 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 21:56:40
>いまアマキミの クラヒなる
神武のこと
>イセオウミ
トハヤの娘のチハラメクハシ姫
オオミナクチ
イセオウミ
の三人
日本書紀(祟神)
倭迹速神浅茅原目妙姫
大水口宿禰
伊勢麻積君
の三人
41 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 21:58:46
伊勢麻積君 ≒錦織
近江に関係することは間違いない。
42 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 22:07:25
伊勢麻積君
崇神による四道将軍派遣、この結果として、東海西部以西を領土とする。
垂仁時代に倭媛が伊勢へ遷宮する。
崇神時代にイセオウミと書かれている、この時代ではまだ伊勢は領土の外であろう
であるならば、崇神六年までは近江に「イセ」氏が居た可能性は高い。
43 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/22(月) 22:31:22
毛野=群馬
麻績=長野の南
錦織=松本付近
手力男=長野
手力男の親、思兼=伊那
伊勢津彦は、思兼の元?で蟄居。
神武崩御により、懿徳が世継ぎとされるが、それをかたくなに拒む手研耳。
手研耳に組する者、伊勢、諏訪。
手研耳は破れ、建御名方は、諏訪へ幽閉?伊勢津彦は、思兼の元で蟄居。
それを監視する思兼親子。
孝昭時代には、蟄居は解かれる。
長野から群馬にかけて、近江系が配置された、古墳時代。
書紀に書かれない口伝の歴史、どうまとめようか?
44 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 23:29:23
なぜ無理やり近畿にしたがるの?
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/23(火) 23:40:37
それは、
240年 正始元年春正月, 東倭重譯納貢,
「南に行けば邪馬台国」が東の倭と方向が変更され、倭王がいるからです。
そして
黒塚には、△鏡、黄旛が副葬される。
しかし
伊都国は女王の傘下の国であり、壹與の時代には、大倭が伊都国に1大率を置き
国々ににらみをきかす。
46 :
914:2010/11/24(水) 00:58:16
安曇族というのは全国各地に散らばっているそうです。
安曇野だけでなく、渥見半島、安曇川などなど。
「三遠式土器」や「高地性集落」はかれらの残したもの
ではないかと思うのですが、そういう研究はないんでしょうかね?
「住吉」もこの人達に関わる名称だとか・・・
大阪、狗奴国とは元は安曇族の国だったのでは。
英語版wikiでは
It is believed that the Azumi language was an Austronesian language of the Malayan branch.
マレー語近縁のオーストラロイド言語を話していた、とされてます。
47 :
914:2010/11/24(水) 01:13:35
日本に弥生人が渡来したとされる頃、
長江流域で建国し、滅んだ国が二つあります。
呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)
中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)
百越に属する民族を主体に建設されたといわれる。
うん。
この人達、日本に来てますね。そう思いませんか?
越は東南アジア寄りの地域です。
越人が「安曇族」になったのではないでしょうか。
48 :
914:2010/11/24(水) 01:33:06
この「越」は、中国最古の王朝「華夏」の末裔を自称していた。
加賀、各務ヶ原・・・「かが」のつく地名もまた、各地に見られます。
そして、魏史倭人伝の「狗奴国」。
web検索すると、アズミは海洋民族だという記述もありますが
関連する地名から想像するに、
彼らは漁師というより、船大工・木工職人だったのだと思います。
日本が誇る木造建築技術は、この南から来たグループがもたらした。
・・・「半島から伝わった」よりも、ずっと説得力があります。
49 :
914:2010/11/24(水) 01:43:22
あっまちがい
>>46 ×三遠式土器
○三遠式銅鐸
50 :
914:2010/11/24(水) 23:42:49
他スレからメモ。
三輪地域が衰退するころ、纏向の大型建築物が築かれた。
しかし纏向もほどなくして過去のものとなった。
三輪・・・ナガスネヒコ一族の居住地
纏向・・・葦原中国(オオクニヌシ一派)との合併後の都
・葦原中国吸収合併
・纏向が築かれる(オオクニヌシ勢の新技術も導入)
・神武東征、三輪のナガスネヒコ去る
・都移転、纏向→?
こんな成り行きかと。
51 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/26(金) 20:24:35
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。
209年 任那建国
垂仁天皇 217年〜239年
景行天皇 240年〜261年
成務天皇 262年〜265年 3章
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。名前の入れ替えがある。
仁徳天皇 313年〜399年
纒向遺跡は崇神から景行迄。箸墓築造を以て衰退する。
成務、仲哀は、近江であるが、治世期間が短い。近江は仮宮であろう。
仲哀は、陵池で白鳥を飼う。この時代であれば、箸墓であろう。
神功、応神は、磐余に宮を築く。
仁徳が秋津遺跡の可能性がある。
52 :
914:2010/11/27(土) 09:22:48
>成務、仲哀は、近江である
そうなんですか?しかし欠史八代と同じく架空説が強いですね。
成務天皇(wiki)
〜都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。
比叡山のふもと、「坂本」の近くです。
10kmちょい北に、「小野」「和邇」の地名が今も残ります。
この都が架空のものだったとしても、
ここに住む人達が、何か重要な役割を担っていた事は間違いないでしょうね。
テンテル、スサノオに次ぐ第三の神としてツクヨミがあるように
畿内説、九州説に次ぐ第三勢力の近江説のスレ主は、「ツクヨミ」のHNを名乗るに相応しい
54 :
914:2010/11/27(土) 10:05:35
>>53 ネーミングありがとうございます、
ですが私のご先祖はたぶんツクヨミ神ではないです。
アマテラスでもスサノオ/フトダマでもないです。
タカミムスビとか、そっちの系譜。
後頭部が出っ張った縄文アタマなのでね(^^
55 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 10:53:39
新モンゴロイド
------
|● ●
| ..
| O マンチュリア民族
----------
|● ●
| ..
| O モンゴル民族
旧モンゴロイド
------
|
|● ●
| O クメール民族
-----------
|
|● ●
| O 縄文人
-----------
| |
/ \ / \
\ o / エラ呼吸
------------
57 :
914:2010/11/27(土) 11:03:24
58 :
914:2010/11/27(土) 11:14:54
ですので、
やっぱりこの両家と聖徳太子の繋がりが非常に気になる所です。
蘇我馬子(うまこ) 小野妹子(いもこ)
| |
蘇我蝦夷(えみし) 小野毛人(えみし)
| |
蘇我入鹿(いるか) 小野毛野(けぬ)
かぶりすぎですやん。
ただ、記紀に書かれた年代はややズレるようですが。
59 :
914:2010/11/27(土) 11:35:24
60 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/28(日) 22:49:18
>欠史八代と同じく架空説が強いですね。
書紀は太陰暦で書かれている。太陰暦は19年を1章とする積み重ねで出来ている。
であるならば、19年単位で各天皇紀から空白年1章×n回の空白を抜いても太陰暦のままである。
居たかいないか解らない天皇でも太陰暦の一郭を占める限りその時代を抜くことは出来ない。
そして文献と整合性の得られる数字が正しい日本の歴史と成る。
歴史を合わせられるのは、新羅本紀であり、
百済本記が合わせられない文献であることは今の議論を見れば明らかである。
61 :
似たようなこと言ってる人いた:2010/11/30(火) 09:45:37
685 火鉢(東京都)[]投稿日:2010/11/26 23:54:03 ID:Rmvfu1E40
中国と日本のダイナミズムを理解してもらうために、改めてあげておこう。
【安東大将軍倭王、その帝の「南朝」とは】
周-秦-漢-晋-南朝 という漢民族の歴史は、 南朝−滅亡
という形で、7世紀に終了する。最後の漢民族の戸籍はわずか500万人。
どこに滅ぼされたか?秦の始皇帝以来、万里の長城を築いてまで、外部民族として扱った
鮮卑など北方民族によって、滅ぼされた。
で、史上初の万里の長城以北を領域までの大皇帝、隋帝が生まれた。
しかしながら、隋は、今でこそ中国の歴史の一部であるが、7世紀の時点では
明確に、漢文化外の勢力。 この隋帝に対して、対抗できる国はあったのか?
実は、この史上最強の皇帝、隋に対して、倭王が出した手紙があれだ、
「 西の天子さん元気?俺は東の天子だよ」 完全に対等宣言。
同じ中国と思えば、大将軍位の倭王がなぜ、隋帝に天子宣言?と思うが
これは不思議でもなんでもない、 封国されてた漢豪族の子孫、安東大将軍の倭王にとっては、
本国の南朝が滅ぼされたのなら、「我こそ本流の天子だ。」 と思ったわけである。
白村江の戦い だって、
何故、倭王が百済を助けに600艘も船を出すんだ?って話、
百済王も倭王も漢(南朝)文化の同じ大将軍国。
隋唐は鮮卑族の北方民族、実はこの時点で漢化も行われていない蛮族勢力。
隋唐からすれば、陳を滅ぼし残る漢文化勢力は、百済と倭しかこのアジアに残っていないんだな。
そして、百済が滅んで百済王も倭王のところに逃げ、
そして、 倭は、「日本」と改名する。
というわけで、日本こそが、周-秦-漢-晋-南朝ー日本 というのが、漢民族の正当な流れなのである。
倭王武の子孫は、その後、坂之上の田村麻呂の活躍などで
全国に源氏武士勢力を広げ数千万の子孫を作り日本人の現在となる
62 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/30(火) 20:44:55
>白村江の戦い だって、何故、倭王が百済を助けに600艘も船を出すんだ?って話、
倭王が百済を助けに… この思考自体が間違っている。
323年神功49年 倭は百済軍を引き込み半島を占拠する。
ここが百済建国の初めである。つまり百済国自体を倭国が造ったのだ、だから親としては
不肖な息子であろうと、困ったら助ける。
これが親である倭国の対応である。
63 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 12:17:12
64 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 13:04:09
昼休み終了(^^)/~~
65 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/01(水) 23:13:25
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚
ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 再度渡海 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
331年 辛卯年(広開土王碑) 楽浪方面へ領土を広げる。
340年代には百済は大国として存在する。
千熊長彦は、武蔵の人と説明されているが、
武蔵国造は、毛野国の流れ、毛野国は、長野方面から。
千曲川は、長野を流れる。
近江に入植した渡来人は、伊那から長野、群馬へと流れる。
この時期の長野の土器は、伊勢を源流とする。
oomaera ahomarudasi
itibunokijutu rongai
もう少しべんきょうしましょうね。
67 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:07:24
大前さん達はあほ丸出しです
具体的には指摘できませんが一部が論外です
もう少しべんきょうしましょうね。
68 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:46:56
具体的に指摘すればいいのに
ヒント:DNA
日本人(沖縄、アイヌ、マタギ含む)ほぼ同じ、
フィリピン等、南方系:明らかに異なる
朝鮮系ともまったく異なる
科学的な調査に基づく事実くらい把握しておけ、馬鹿どもが。
日本人はどっから来たの論議の前に、
日本人のDNAは大陸と地続きで無くなった数万年前の時点で(ry
そして、渡来人が渡ってきて氷河時代からの住人は壊滅したんです。
71 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:38:56
72 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:42:50
縄文人は大陸と地続きで無くなってから渡ってきたのである
Y染色体は出土する人骨から採取できないので
邪馬台国にはあまり意味をなさない。
74 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 02:00:21
弥生人の人骨から、
北欧フィンランドに住むサーミ人と同じミトコンドリアDNAが検出される
76 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 02:15:19
Saami 多数派
U5 : R→U→U5
V : R→HV→V
日本
F : R→R9→F
B4 : R→B→B4
B5 : R→B→B5
Saami 少数派
CZ : M8→CZ
日本
CZ : M8→CZ
>>75 「も前ら」って誰?日本人?
手前さまはどなたですか?
あっ、CZは九州古墳の棺中から検出されるD4と近縁な系統だ・・・
Bは棺の外から出土する系統。
D4が支配者でBやFが被支配者
弥生遺跡出土の人骨から、北欧サーミ人と共通のmtDNA。
Y−DNAにおいて、サーミ人と日本人に共に見られるのはN系統。
Y−DNAも十分、古代史を探るカギになり得ます。
80 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 02:42:02
弥生遺跡出土の人骨よりも
古墳時代に増えてくるmtDNAのD4が問題じゃね?
中国の青海省4世紀人骨がD4
匈奴の匈人4世紀人骨がD4
>>79 「殉葬百人」の生き埋め要員のR系ですか?
それともCZですか?
どちらのmtDNAかはっきりさせてください
邪馬台国論争の役にはたちませんなw
83 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 02:59:13
>>81 生き埋め要員?そんな分類に意味がありますか?
北欧フィンランドと日本で、同じ遺伝子が存在する。
その理由を探りたくはありませんか?
・・・でもさほど考えるまでもありませんよね、
彼らは「匈奴(フンヌ)」「フン族」だと思います。
84 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 03:04:43
そして、魏志倭人伝の邪馬台国の国々には、
“奴”という字がやたら使われてますね
85 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 03:07:14
(´ー`)y─┛~~ 焦らず
>>76あたりを手がかりに
フィンランドのことを調べてから論じるといいんじゃないの?
今夜に決着つけなくても、邪馬台国は逃げていかない。
86 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 03:24:42
>>74 これは酷いな。
秋田犬は西洋の犬と同じ遺伝子を持っているから縄文犬の系統、縄文犬の系統だから人も〜と言ってるが、
秋田犬は、幕末から明治期にかけて西洋犬と交配して作り出された犬種だから
西洋犬と同じ遺伝子を持ってるのは当たり前のこと。
こんなの犬好きなら常識に近いことなのに。
88 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 07:28:01
>>87 弥生遺跡から出土した人骨から検出されるDNAの話をしてる。
犬の話ではないし、現代における遺伝子分布の話でもない。
幕末から明治期にかけて西洋人と交配して作りだしたと?
89 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 09:10:47
>>84 「な」が日本に多いように半島には「ら」が多い。
「な」と「ら」は同系統の言葉じゃないかな。
「n」と「r」は転換しやすいし。
本来「稲荷」は「いなに」と言う発音の筈だが、「いなり」と発音される。
90 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:10:16
□現在の道程(Googleマップ調べ)
敦賀駅
| 約30km(山道)
高月駅
| 約10km
長浜市国友町
| 約10km
米原市伊吹庁舎
□魏志倭人伝 ルート
末盧国
| 500里(草木盛んに茂り、行くに前人を見ず)
伊都国
| 100里
奴国
| 100里
不弥国
この“1里”は75〜90mという説がある(短里)
91 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:14:30
持統天皇の別名が「高天原広野」である。
そして、彼女は近江大津宮を築いた天智の娘である。
ちなみに天高原、ではなく「高天原」である事もポイント。
高い所にあるアマハラ。アマとは海のことも指す
持統天皇の出身地の、高い所にある海。
つまり、高天原とは近江である。
92 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:38:14
93 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 12:03:03
伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の十二世(とをまりふたつぎ)の孫、
天日別命(あめのひわけのみこと)の平治(ことむ)けし所なり。天日別命は、~倭磐餘彦の天皇(~武天皇)、彼の西の宮よ
り此の東の州(くに)を征ちたまひし時、天皇に隨ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金(こがね)の烏の導きの隨(ま
にま)に中州(なかつくに)に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ、
且(また)、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平(ことむ)けよ」とのりたまひて、
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓… この言葉は
神武が九州で聞いた言葉でもある。
94 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/11(土) 12:19:44
ホ29007 アニミヤの ヰツセはタガノ オキミなり ミオヤアマキミ ツクシたす ソトセおさめて
ヒたるとき アマキミのニを タケヒトに さつけアビラノ カミとなる キミミヤサキに
タネコらと マツリとるゆえ しつかなり カクヤマのトミ ナガスネが まゝにふるえば
さわがしく ハラノオキミは カテとゝむ かれにナガスネ フネとゝむ ヲヲモノヌシが うたんとす
ホ29041 ノリくだせ ホツマヂ ひろむアマモイワフネ
ホ29043 シホツチノ オキナすゝめて ニギハヤか いかんぞゆきて むけさらん モロミコもげに
いやちこト さきにオシテの こたえつら キミすみやかに ミユキなせ アススキミヱの
カンナミカ アミコみづから モロひきて ミフネのいたる ハヤスヒド
こうして、大物主は近江、神武は大和、天たねこは河内にと、入植して行く。
この状態は、崇神まで変わらない。
95 :
914:2010/12/11(土) 18:35:26
「ホ」って、ホツマツタエですか。
ちゃんと訳して、重要な所を抜粋してもらわないとわっかんないです。
これまた、どこまで信憑性があるものか・・・近世の偽書ではないにしても
ある地点で話が変わった可能性はいくらでもあるわけですから。
3行目「香具山の登美ナガスネ」
ナガスネヒコは香具山に住んでいたんだろうか?
香具山は本来どの山のことか、これまた悩ましい所です。
>>5のように「国見」をした場所は湖南アルプス付近に思えますが
持統天皇「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」
この歌のように、織物を川水で晒し、干すという作業をするのは
むしろ野洲川沿いにある三上山の方がふさわしいのではないか・・・
でも、大和三山の残り、畝傍と耳成だけど
魏志倭人伝では(野洲市付近とおもわれる)投馬国の副官が
「弥弥那利」となってる。ミミナリ。これは関係あるでしょう。
しかしそれ言ったら香具山は「カグヅチ」と関係ありそうなわけで。
正直、整理つきかねますね。
96 :
914:2010/12/11(土) 19:15:36
ホツマツタエで意外な活躍をしているのが、
「ヒルコ/ワカヒメ」です。
記紀では、イザナギイザナミの、不具のため捨てられた最初の子(ヒルコ)とか
アマテラスの妹で、スサノオの乱暴により死亡(ワカヒメ)とかいうチョイ役ですが
ホツマツタエでは、「アチヒコ/オモイカネ」の妻となっているようです。
ご存知「オモイカネ」は、アマテラスよりも実際の政治の決定を行っていた神です。
ちなみに、このヒルコ、川に捨てられたのは記紀と同じですが
ホツマでは「カナサキ夫妻」に拾われてスクスク育ったということです。
さて。カナサキ。アチヒコ。
滋賀県湖東地方には、神崎(かんざき)郡、愛知(えち)郡という地名がありました。
彼らが住む場所だったのか!?・・・かなりマユツバな説ではあります。
しかし、この神崎郡だった場所(現・東近江市)に、「神郷亀塚古墳」があります。
最古級、3世紀前半の古墳であるとされる。前方後方墳。
並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。だそうです。
夫婦で埋葬。これは非常にマレな形態だそうな。
オモイカネの、そして卑弥呼の墓・・・、
まんざら、マユツバでもない気がしませんか?しませんか。そうですか。
97 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/11(土) 22:48:58
>>94 ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が、偽書と
いわれる書物を持ち出した〜ww
98 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 22:56:21
投馬(於投馬)=出雲
邪馬台国=奈良県 橿原
斯馬国=三重県 志摩
己百支国=滋賀県 伊吹
伊邪国=愛知県 犬山?
都支国=岐阜県 土岐
彌奴国=岐阜県 美濃
好古都国=中山道・河渡宿(岐阜市)
不呼国=福島関?
姐奴国=信濃
對蘇国=木曽?
蘇奴国=諏訪?
呼邑国=小諸?
華奴蘇奴国=金沢宿?
鬼国=甲斐?
爲吾国=伊香保?
巴利国=榛名山?
烏奴国=新潟県 魚沼?
狗奴国=毛野
99 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/12(日) 20:15:49
カクヤマのトミ ナガスネが
この“カクヤマ”は、九州である。
書紀:田道間守至自常世國。則賚物也非時香菓八竿八縵焉。
ホツマ:ホ37203 タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ カクのキヨサホ
カグヨサホ もちきたるマに。このカクの木4棹、カグ4棹
カクは、果物の木。当時の倭でなら、栗、クルミ そこへ新しい実のなる木を持ち込む。
カグ(香具)は、果草であり、新しい種籾の持ち込み。
香具山は、焼き畑山となる。
100 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/12(日) 22:23:41
>>99 ほ〜ら偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と口撃していた男が〜
〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
101 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 22:37:49
102 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/13(月) 22:57:54
>>101 どの辺の醤油がほしいの?手前みそ?
信越線(名古屋〜長野)の姨捨の手前に麻績がある。
今は、松本市であるが、松本市の北に四賀村があった、そこに錦織(今はニシキベと発音)
この錦織は、古代の錦織では無いが、東山道のこの辺に錦織は存在した。
そして、麻績の祭りでは、半島東夷の風習(老若男女の無礼講、解る?)が行われていた。
103 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 22:44:09
後半
104 :
日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:43:04
>手研耳に組する者、伊勢、諏訪
>孝昭時代には、蟄居は解かれる。
この辺
105 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 23:02:44
ここは、最も推定の激しい場所であるが、
伊勢津彦=出雲健子命、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。
建御名方も大物主系である。
場所は
神武に対抗した勢力か、手研耳に与した勢力かどちらかになる。
神武に対抗した勢力として、最後は日本武尊に従った関東平野東端の筑波がある。
これに比べ、伊勢津彦、建御名方は、恭順が早い。そして見張りとして、タジカラオ親子が付く。
孝昭の妃は、手研耳とイスキヨリヒメの間の子天押男の孫姫である。
であれば、孝昭の時代には許されていなければならない。
そして孝霊時代には、諏訪は、大和を訪れる。
土産は、笹の実であり、武田、諸角は、甲州山梨の名字である。
この辺からの勘案です。
長野中野市から銅矛が出土した事実もある。
106 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 23:10:11
続き
時代としては、神武元年=西暦42年
孝昭元年=西暦94年
孝霊元年=西暦146年
ホツマによれば、諏訪の訪問を受けて、孝霊は富士山に登る。
この時点で三島は、大和に属す。
107 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 23:16:32
神武元年≠西暦42年
108 :
914:2010/12/17(金) 22:27:58
109 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:03:58
:::::l l:::.... l ヘ
:::::| l::::... l. lヽ+ 人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
:::::| ヘ:::::.. l | | < すごい郷土愛を感じる。他県にはない何か強い郷土愛を。 >
:::::ヘ ヽ::::::: / j| | < 外来魚・・・なんだろう減ってきてる確実に、着実に、琵琶湖から。 >
:::::::ヽ \:::, -┬┬、/. / | | < イオングループはやめよう、とにかく平和堂で買ってやろうじゃん。 >
:::::::::::\ 7 ヽ ヽ_∨ | | < 湖の周りには沢山の仲間がいる。決して一人じゃない。 >
:::::::::::::::ヽ l . \ /`ゝ | | < 信じよう。そしてともに戦おう。 >
:::::::::::::::::/ゝ' _.. '-'o ' :: o'::ヽ| | < 京都人の中傷や邪魔は入るだろうけど、絶対に流されるなよ。 >
:::::::::::::::::j−'´ |:::: = _人 ~::l |〉... YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY
::::::::::::::/ ̄ ̄l:::::: " ::::ノ| |::::.....
::::::::::::/ ̄ ̄~|:::::::.. _..::::ィ/二7::::::....
:::::::::::ゝ──'>ー<二○'´i:::::盲:::::::::.....
110 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 22:32:09
「ひるたに」の「ひる」は「ひるぜん」の「ひる」
大物主との関係か?
入間も「昼間」とか「比留間」って姓の人が異様に多いんだよ
考古的には半島系の須恵器が出る
ハングルで「日」をイルと読むし、なんか関係あるのかな
112 :
914:2011/01/01(土) 02:49:15
須恵器が作られたのって5世紀以降だそうですから
埼玉?のいるまを理由に「ひる」=半島と結びつけるのは難しいんでは。
愛知川上流の「ひるたに」はまさに後に木地師の里となった場所であり
やや下流には、大型竪穴式住居が発見された、相谷熊原遺跡があります。
いかにも縄文集落なんですよね
天照大神の別名に「オオイルメノムチ」と言うのがある
太陽神って感じだし、「昼間」と関係ありそうなんだがな
114 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 05:09:12
オオヒルメムチ。
大日孁貴。と書くらしい
なんでそういう読みになるんだろう
とにかく、無理矢理韓国起源に引っ張ろうとしないで下さい
「日」をヒルと読むのも特異だろ?
「大日?貴」を普通に読めば、オオヒメキだろ。
「@」が欠落してイルがヒルになったのかも知れないし
「i」が欠落したら「ル」だろうがバカか
愛どころか脳みそも欠落した民族め
117 :
職人さんが線揃えてくれはった:2011/01/10(月) 18:23:30
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
118 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 16:00:05
119 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:25:11
こうやって行けるそうです。
>>21 >対馬経由で朝鮮半島にわたるルートは、距離こそ短いけれど、
>潮流が速く、また天気が急変しやすいので小型の船舶では非常に危険なのです。
>現在は、気象レーダーや気象衛星の情報により台風や低気圧の接近をいち早く知ることができるけれど、
>卑弥呼の時代よりずっと下った遣唐使も遣隋使でさえ、よく遭難しました。
>そこへ行くと日本海ルートは、風向きが安定しているので、春から夏場にかけて東風に乗って大陸に渡り、
>冬になって西高東低の気圧配置が強まる前に西風に乗って帰国するという風まかせの航海が可能だったのです。
>渤海との交流は、この風を使って行っていたし、このルートで魏に使いを送ることも可能だったはずです。
しかし、これは半島は経由しない。
ここが話のキモですね。
卑弥呼とやり取りしたのは本当に「魏」の使者だったのか。
120 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:37:37
121 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:13:33
だから、古代の日本の国の礎を築いた人達は
騙すことだけを考えている醜い連中に、嫌がらせされ続けた。
そういうこと。
あげ
>>121 つまりそれが素直で実直な東日本と、
浅ましく裏表のある西日本の関係なのですね。
>>119 ♪アーリラン アーリラン アーラーリーヨ〜
♪アーリラン コーゲーロ ノーモガンダ〜
何も知らない魏の使者は倭人伝に書いてあるルートを来たかも知れない。
でも伝統的に、倭から帯方郡に行くときは西海岸沿いではない。
日本海をわたり慶州付近に上陸して太白山脈のはしを峠越えしてお上りしたんだよ。
125 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 14:15:01
あげ
126 :
日本@名無史さん:2011/03/20(日) 02:21:32.86
このひび割れの蕎麦に立たされてる人何かやらかしたの?
バツゲーム?
128 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:46:56.13
129 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 21:45:32.24
>>126 「魏史倭人伝」に奴国は2度登場するよ
ぐぐって読んで
なんで、こんなバカみたいな歴史書に書いてある地図と位置関係を無理矢理合わせようとかするのか?
ねーよ。こんな国々。
131 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 11:29:05.15
こんなバカみたいな歴史書 に 書いてある地図 と 位置関係 を
無理矢理合わせよう とか するのか?
魏史を「バカみたいな歴史書」とする根拠を詳しく
132 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 11:33:11.31
ちなみに魏史には地図は書いてません
近江の国の住人だが
こんな説は始めて聞いたわ
test
135 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/11(土) 14:46:47.27
来年7月、京都で大出雲展をやるそうな。東京は10月からか。
ヒマなときに見に行こうか。
136 :
日本@名無史さん:2011/06/23(木) 00:58:35.62
137 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/23(木) 14:10:42.75
スマン、10月のほうは、来年の10月という意味です。
物部な人々がさらに卑弥呼をレイプしようとしておるよ
どげんかせんといかん
139 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 09:59:14.13
邪馬台国近江説の論争に終止符!
近江説もこれでオワコンか
141 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 18:35:31.03
どこまで恥知らずだ守山
少なくとも九州よりは可能性はあるな
143 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 06:33:13.52
邪馬台国を隠したムラの連中が
卑弥呼の旗かかげて町興し
どんな冗談?
144 :
日本@名無史さん:2011/07/26(火) 21:24:32.54
145 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/26(火) 21:31:08.10
>>144 より
・ 吉備国出身の伊支馬=垂仁(すいにん)天皇がヤマトをほぼ平定して磯城の王となる。
・伊支馬が倭の王として後漢にタジマモリを派遣。
・伊支馬が死亡し、弥馬升=孝昭(こうしょう)天皇が二代目の王となる。
後漢に王位を認められていたら、魏が追認する。
しかし、239年時点で“倭王”は女王卑弥呼である。
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ (ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが)
146 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/26(火) 21:56:52.52
ホ34130 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます
モロいわふとき ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり コトバきゝゑず
ハラのトミ ソロリヨシタケ よくしれば これにとはしむ そのこたえ
ワレはカラクニ ミのミコ ツノガアラシト
ホ34185 トミねがわくは ニむけの オシをこふのみ
キミトミと はかればいわく ニフクの マゴシホノリツ れよしぞ
ホ34192 ミコトのり シホノリヒコを ミマナオシ ゆきとくにむく ミチツカサ
かえればよしと カハネたまひき
崇神58年
ツノガアラシトの訪問を受け、国葺の孫シホノリヒコを代表とする軍を
ツノガアラシトに授ける。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
国葺は、ワニ臣の祖先である。
147 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/26(火) 22:08:24.37
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜
〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
臣下 伊支馬≠垂仁天皇
わが神州では、臣下は天皇には絶対なれない。これが神州の掟である。
よって等号とするのは出鱈目であり、こういうこと(等号)を毎回言う
奴は、インチキを垂れる古代史論の朝敵である。
148 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/26(火) 22:13:00.88
150 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 04:57:34.58
151 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 01:34:47.69
関西で「ハゲ」が侮蔑語である理由を
しみじみ感じる今日このごろ
関西人のハゲは、ねちねちとヘリクツ捏ねる性質がセットなのね
そりゃ嫁も来ませんて
152 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:40:00.65
物部は日本の国を作ってきた人たちを迫害し
日本を壊してきた側の人間だと、まだ理解できないんだろうか
よくもまあいけしゃあしゃあと町興しだのと
恥を知れ
153 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:03:11.73
それこそ、滋賀県が
マスコミからネガティブなイメージを流される理由がここにあるのに
害虫の町の人間が、上から目線で語る滑稽さ
スレチでごめん
滋賀っていわれが分からない程古いお寺が多いんだよね
琵琶湖湖底に水中遺跡 地震で集落ごと水没か
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1315838608/ http://sankei.jp.msn.com/life/news/110912/art11091221570002-n1.htm 琵琶湖底に水没集落の墓地か 430点の石群発見
大地震で集落が水没したとの伝承が残る滋賀県長浜市沖の琵琶湖底から、供養塔や石仏の一部など
石群約430点が見つかり、中井均・滋賀県立大准教授(中世考古学)が指導する同大の学生グループが
12日、発表した。中井准教授は、16世紀後半の地震で集落が地盤ごと地滑りして水没したとみている。
調査したのは、中井准教授が指導する県立大の学生グループ「琵琶湖水中考古学研究会」。
「西浜村」という集落が湖底に沈んだとの伝承があり、素潜りで調査した。長浜市祇園町沖約100メートルの湖底
(水深約1メートル)で、東西38メートル、南北26メートルにわたって分布する石群を見つけた。
供養塔などに使われる五輪塔の一部や、石仏の上半身部分など、墓地に使われたとみられる石があり、
材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭につくられたと推定される。
文献で天正13(1586)年に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、
時期が一致した。
中井准教授は「水没集落を考察するうえで貴重な史料。科学的な調査を進めれば、地震被害のメカニズムの
解明にも役立つのでは」と話している。
倭人伝を歩く(1)/森浩一氏が語る「卑弥呼は死を迫られた」
誌名: 週刊朝日 [2011年9月23日号]
ページ: 58
発売日: 2011年9月13日 カ
テゴリ: 社会
キーワード: 森浩一・同志社大名誉教授 足立倫行(インタビュー)
キーワード2: 中国 史書「三国志」 魏志倭人伝 邪馬台国 朝鮮戦争 卑弥呼 まき向遺跡 狗奴国
記事の扱い: 特集記事など3頁以上
森は九州から畿内への邪馬台国東遷論だが、
魏志倭人伝の執筆者は、邪馬台国には実際には来ていない、
来たのはせいぜい伊都国あたり、北部九州までで、
後の記録は各種記録を元にした事務的な記述にすぎないとしている。
倭人伝を読みなおす (ちくま新書) [新書]
森 浩一 (著) 出版社: 筑摩書房 (2010/8/6)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/448006558X
閑話休題
東夷伝序文の「日出ずる処に近し」をめぐって、一汗かいたことがあります。
第4章 四〜七世紀の盲点
十一 歴代の倭都は「謎」ではない ーー『翰苑』をめぐって
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/kanen41.html わたしが『「邪馬台国」はなかった』で展開した“東夷伝序文中の「日出づる処近くに住む異面の人」とは、
倭人だ”という説に対して批判して下さった方があったのです(留目とどめ和美さん)。
その方が目をつけられたのは、同じ東夷伝中の、東沃沮(よくそ)末尾にある記事なのです。
「王[斤頁](おうき 魏人)、別に遣わして宮(きゆう 人名。高句麗王)を追討し、其の東界を尽す。
其の耆老(きろう)に問う。『海東に復(また)人有りや不(いな)や』と。
(一)耆老(きろう)言う。『国人嘗(かつ)て船乗りて魚を捕う。風に遭い、吹かるること数十日。東に一島を得(う)。
上に人有り。言語、相暁(あいさと)らず。其の俗、常に七月を以て童女取りて海に沈む』と。
(二)又言う。『一国有り。亦海中に在り。純(ただ)女にして男無し』
(三)又説くに『一布衣を得(う)。海中より浮び出で、其の身、中国人の衣の如し。其の両袖(そで)、長さ三丈』と。
(四)又『一破船を得。波に随いて出(い)でて海岸の辺に在り。一人有り。項(うなじ)中、復(また)、面有り。
生きて之を得(う)。与(とも)に語、相通ぜず。食わずして死す』と。
其の域、皆、沃沮(よくそ)の東の大海の中に在り」
第二章 邪馬一国から九州王朝へ
II王仲殊論文への批判
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/ousank22.html 古田「あったね。『三国志』東夷伝の中の東沃沮伝 ーー倭人伝のすぐ前の方ーー に、
『王[斤頁](おうき人名、魏の母丘倹かんきゅうけんの部将)、別に遣わして追いて宮(高句麗王)を討ち、
尽く其の東界を尽くす。其の耆老(きろう)に問う。「海東に復(また)人有りや不(いな)や」と』
とある。
古田「沃沮は、朝鮮半島の東海岸(北半)の国だから、その東とは、日本海、その彼方の島や国となれば、
先ず、日本列島しかない、よね。それに先の『童女を取って海に沈む』に類した伝説も、山陰・北陸には
分布しているようだからね。これは貴重な“三世紀時点における民俗学的採取”というべきだろうね」
A「“女だけで男なし”というのも、“巫女(みこ)の住む男子禁制の聖地”としての国(島)が考えられますよね。
姫島(ひめしま 大分県)や今は女子禁制の島になっている沖(おき)の島(福岡県)も、天照大神(あまてるおおかみ)
の娘たちの島だっていうんだから、案外、昔は男子禁制の島だったかもしれませんね」
古田「たしかに、みな不思議な話だが、いずれも奇妙な真実味(リアリティ)があるよね。不幸な双生児の問題も、
『古事記』に“葦舟(あしぶね)の蛭児(ひるこ)流し”の形で反映されている日本側の習俗とピッタリ相応しているし、ね。
ともあれ、朝鮮半島の『海東』が日本列島になることは自明の理だ。のちに李氏(りし)朝鮮のとき作られた
『海東諸国記かいとうしょこくき』(成宗せいそう二年、一四七一)という本があるけど、これも日本列島のことを
書いた書物だからね。“『海東』は日本を指さない”なんて、とんでもない話だよ」
沃沮(よくそ)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-6-yokuso.htm 王?を別に派遣して宮を追討させ、東界に尽きる。そこの古老に「海東にも人が有りや無きや」を問う。
古老が言うには、かつて船で漁をしていた国人が数十日も風に翻弄され、東に孤島を発見して上陸すると、
人はいたが言葉が通じなかった。そこの風俗では、常用の七月に童女を海に沈めるという。また、海中に一国あり、
女だけで男はいない。また、海中から浮きでた一枚の衣を得る。身頃は中国人の衣のごとく、両袖の長さ三丈。
また、難破船を得る、海岸辺に波に打たれていた。船内に一人あり、襟首のなかに顔があり返事をした。
生きていたが、言葉が通ぜず、食せずして死す。その海域は皆、沃沮の東の大海中にあり。
これは位宮の追討を命じられた王?(きん)が、朝鮮半島の東界の果てまで追撃して、自ら見聞を基に、
後に通称『魏志倭人伝』と呼ばれる『三国志魏書』東夷伝の倭人条が編纂された。従って、
この追撃がなければ倭人伝に接することはできなかったのである。
18年 3月の日記 表紙へ 18年 2月の日記に戻る
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.19.7.3.htm 「女人国」はもともとチュウゴクの記録に現れてくる国ですが、この女人国には二つあります。@東女国とA西女国
と区別されます。まずは、@の東海海中にある女人国(これが女護が島伝説の元となった)からその記録をひも
ときますと、最初の記録とされますのが、後漢書・東夷伝中の
(北沃沮(朝鮮半島北方あたりを指すようである)の)海中有女国、無男人。或伝其国有神井?之輙生子云。
海中に女国あり、男人なし。あるいは伝えて、その国に神井あり、これを?(うかが)うにすなわち子を生じると云う。
その先の海の中に「女国」がある。ここには男のニンゲンはいません。ある伝説に、その国には神聖なる井戸があり、
この井戸を覗き込むと、女たちはこれに感じてコドモを身ごもるのである、という。
ギッチラ波越え卑弥呼の文来(239)る
で有名な、魏志・東夷伝にも、
チュウゴクからの使者が(北沃沮の)老人に、
海東復有人不。
海東にまた人有りやいなや。
この海の向こうにもニンゲンは住んでいるのか。
と問うた記録が載せられてありまして、老人曰く、
「この国のニンゲンがかつて船に乗り、魚を捕らえようとして航海中に、風に吹かれて、数十日流され、東のかたの
一つの島に到達したことがございまする。その島の上には、
有人、言語不相暁、其俗常以七月取童女沈海。
人あり、言語相暁(さと)らず、その俗、常に七月を以て童女を取りて海に沈む。
ニンゲンがおりましたが、言語はお互いに通じなったそうでございます。その国の風俗では、毎年七月になりますと、
オンナの子を捕まえまして、この子を海に沈め(て、海神を祭っ)た、そうでございます。」
老人、これに続けまして、また言う、
有一国亦在海中純女無男。
一国あり、また海中に在りて純女にして男無し。
「もう一国あったそうでございます。これも海の中にあり、女だらけでございまして、男はいないのだそうで
ございまする。」
このころのまでですと、卑弥呼さまが支配する倭の国々の情報がどこかでひね曲がって伝わったのではないか、
という仮説も成り立ちますが、これ以後の記録からも女人国の情報は消えることがありません。
【論説】能登半島沖に漂着した脱北船は、日本海を一直線に渡ってきた…古の海路「日本道」を選んだ脱北者は、渤海国の海民の子孫?[9/28]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1317247453/ 能登半島沖に13日漂着した脱北船は北朝鮮北部の清津(チョンジン)付近から出たという。全長8メートルの
貧弱な木造船に大人6人、子ども3人が乗り、日本海を一直線に渡ってきたことになる。信じられるだろうか。
だが、日本海横断は奈良、平安時代には「日本道」と呼ばれる国際航路だった。中国の歴史書「新唐書」
北狄(ほくてき)列伝に渤海(ぼっかい)国の東京竜原府(中国吉林省琿春(こんしゅん))は「東南、海に面す。
日本道なり」とある。日本道の出発点だった。
渤海国は、新羅に滅ぼされた高句麗の末裔(まつえい)が7世紀、故地の北に建国した。首都、上京竜泉府
(中国黒竜江省寧安)のほか、四つの副都があった。東京竜原府は東の副都で、中朝露3国の国境を流れる
豆満江(とまんこう)の河口から数十キロ上流にある。脱北者が船出した清津の百数十キロ北東だ。
渤海国は727年、初の渤海使船を日本に派遣した。以後、200年間に34回、日本も15回使節を送った。
のちに朝鮮半島沿岸寄りの「新羅道」も使われたが、主に日本道を往来した。(上田雄・孫栄健著
「日本渤海交渉史」六興出版)
渤海使船は、豆満江河口付近の港を利用し、そこから能登半島を目指した。最初の船は目標を大きくそれ、
秋田に漂着した。土地の蝦夷(えみし)に大使以下16人が殺された。生き残った8人が平城京にたどり着き、
翌年日本の送使船に乗って帰国した。
163 :
162:2011/09/30(金) 00:25:28.02
意外なことに、渤海国から日本に来る船は、日本海が一番荒れる秋か冬に集中している。季節風を利用する
ためだ。帰りは逆の季節風が吹く夏だった。
多数の死者を出した海難事故の記録が2件しかないのも意外だ。最大の事故は141人が死んだ第9回渤海使船
だったが、現場は日本海の沖ではなく、北陸の海岸まで来て、接岸しようとした時に強風を受けて転覆したものだ。
この事件で日本は渤海国に「筑紫道」(新羅道−対馬−瀬戸内海)を使うよう申し入れた。しかし次の渤海使船も
「悪天候で流された」と北陸に来た。
当時の朝鮮半島は新羅の勢力下にあった。渤海は歴史的に新羅との関係がよくない。新羅の軍船に出合う恐れ
のある新羅道より日本道のほうが安全だと思ったのだろう。
脱北者は、韓国ドラマを見て韓国に行くつもりだったと供述している。韓国へ行くなら清津から西に進み、
半島沿いの新羅道を南下するほうが安全だ。しかし沿岸には波より怖い北朝鮮警備艇がいる。日本道を選んだ
脱北者は渤海国の海民の子孫だろうか。いまも「日本道は安全」の言い伝えがあるのだろうか。
164 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 04:37:32.68
あげ
近江ってとことん人気ないよな
京都生まれで大和の住人だけど
京都はもちろん、大和とも同程度かそれ以上に古い滋賀は好きだけどな
滋賀と岡山は、金に汚いから好かん
168 :
日本@名無史さん:2011/11/07(月) 23:05:49.40
>>165 近江に行ってみればわかるだろうけれど、
何もないんだよな。らしい雰囲気が何もない。
169 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 10:28:30.77
らしい雰囲気ってなんじゃらほい??
三輪山の山麓の狭井神社辺りの高台から見ると、靄にかすむ大和三山見えて、
大鳥居も見えて・・・という感じです。
湖東の朽ちかけた寺を廻ると
楽しいよ
172 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 23:12:34.40
神社とか鳥居とか寺とか、3世紀からあったのかい?
173 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 23:18:52.59
三輪山と大和三山は紀元前からありました。
174 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 00:57:41.17
山があるから邪馬台国ねえ・・・?
それより「水行」のこと考えれば?
175 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:13:14.94
当時の琵琶湖はカスピ海より大きかったのです。
176 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:17:47.85
近江は狗奴国じゃないのか?
177 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 07:45:52.69
狗奴国は邪馬台国の南じゃないのか?
琵琶湖が本体だからな
地上部分は垢のようなもの
早く湖底遺跡の調査を
179 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 22:08:46.29
ルンバみたいなもんか?
継体天皇は近江の三尾氏に育てられた傍系の天皇だし、その妃も琵琶湖周辺の豪族の娘が主流だったらしいです。
なぜ当時、朝廷で力のあった葛城氏や物部氏の娘ではなく、琵琶湖周辺から妃を貰ったからといえば、
この地域こそ、女王卑弥呼以来の宗女の出身地だからなのです。
ですから、継体の時代に近江出身の有力な中央豪族は皆無で、あくまで母の実家、という位置に甘んじています。
時代は下がって、信長も秀吉も家康も何故、お市や茶々や江など近江の浅井の血を引く娘にこだわったか?
それは、実は、卑弥呼や豊与などの宗女を生む部族だったからではないだろうか?
これは個人的な感想だけれど、あの辺りを散策してわかったことは、やたらと美人が多いということです。
多分、鬼道で時の権力車を骨抜きにする技量があったのでしょう。
182 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 10:35:28.63
イケメンも多いよ。背が高くてしゅっとしてる。
183 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:21:35.87
age
185 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:38:36.50
失敗、age
近江厨=無限尿w
笑止wwwww
187 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:35:35.63
>>183 纏向の前に近畿王権の首都があった場所は
おそらく、葛城地方だと思うよ。
大和盆地をみれば、だいたいが想像がつくが、
王権の統制力が弱い時代は、なるべく安全保障上の有利さから
上流部に首都を置きたがるが、
王権の統制力が強くなり平和になり安定しだすと
下流部の平野部に首都を置きたがるものだ。
大和盆地においては、安全保障上は葛城のほうが利点があるけど
経済性を見たら、纏向のほうが利点がある。
188 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:48:33.11
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺。
高天の領主は、高天彦といわれる。
その神社が、高天彦神社として、御所市高天に残る。
近畿王権は、出雲を倒して、その直後
王家の一族であるニニギを、
この高天から、九州高千穂に地方官として派遣する。
それを後世、天孫降臨と呼ぶ。
189 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 15:05:43.19
葛城地方には、近江を上回るよな遺跡は無い、無いということは無かったということだ。
後漢193年6月寒風冬のごとし、新羅192,3年倭人大餓。
日本海側の遺跡では、青谷上寺地遺跡 大量の分解された人骨は食人をあらわす。
まあ大物主の日本海側は壊滅的被害を受ける。
ここで、近江の政権は終了し、大物主の初子タタネコが崇神に仕える。
そのタタネコの出身地河内の庄内式土器がこの時代の指標となる。
190 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 15:08:31.36
>>189 葛城のもあるわなw
というか、葛城のほうが遺跡も規模も大きい。
近江の遺跡っていっても、あの程度だろう?
んだんだ
193 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:36:54.04
木造建築物は残りにくい。
古墳が残ったのは単なる偶然。
遺跡が残っているから文化が高かったというのは間違い。
鴨田遺跡から東海、北陸、吉備、山陰地方の特色を持つ多数の土器が出て、しかも前漢との交流の痕跡もあるのなら、
東海道・北陸道・山陽道・山陰道を配下に置く勢力、当時の日本の最大勢力の中心・都であったのではないか、という可能性を検討してみるべきです。
さらに、そこに前方後円形の周溝墓があるのなら、前方後円墳とのつながりを考えてみるのは自然なことだと思うんですけど。
旧百余國漢時有朝見者
(金印の時のことであろう、)漢の時代に倭人が朝見してきたが、その時は百余りの国を配下に置いていた
今使謂所通三十国
今回やってきた(卑弥呼からの)使者が謂うには、つながりがある国は三十国になってしまっている
三十国に減ってしまったのは内乱んで連邦が分割されてしまったせいだろう
この百国を支配してた連邦国とはどんな国だったのだろうか?
九州だけでは百国は無理。西日本だけでもむづかしい
東日本まで含んだ、五畿七道に近い範囲だろうか?
そして、その国の中心・都はどこだったのだろうか?
その候補として、この東海道・北陸道・山陽道・山陰道と交易のあった北近江が浮かび上がってくる
誰も興味なさそうだな
考察を進めていくと自分でも想像してなかった意外な結論になって面白かったんだが
ブログででもやるか
まずはブログのやり方から勉強しなくては
ふなずしage
琵琶湖あけ
199 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 05:51:43.31
不弥国=ほみ国=おみ国、臣国 かもだ
息長氏とは沖縄と同じ南方系渡来人だろう。
203 :
j:2012/09/01(土) 14:34:41.75
205 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:44:46.96
と言ったあたりで、近畿説は店じまいするか。
206 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 16:03:53.61
いさざは絶滅したのかな
208 :
207:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
◇解説 朝鮮半島にもないタイプ
琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、
競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。
日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書
「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、
銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。
いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の
違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。
これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた
3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していた
と考えられる。
今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の
弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。
朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、
7?10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども
視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。
銅剣鋳型:国内初「双環」短剣 誰がなぜ、深い謎 大陸式と弥生、融合 文様繊細、祭祀用か
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddn041040013000c.html ◇滋賀・琵琶湖西部、日本海への交通要衝
中国北方に特有の短剣の鋳型が見つかった滋賀県高島市。これまで弥生時代青銅器の空白地域だったが、
福井県の敦賀・若狭湾岸から約30キロの距離にあり日本海ルートで中国大陸や朝鮮半島とつながる交通の要衝
だった。
琵琶湖の周囲では、24個の銅鐸が出土した滋賀県野洲市の大岩山が有名だが、遠く離れた南の対岸にあり、
上御殿遺跡の周辺では青銅器の出土はない。しかし、弥生時代の朝鮮系土器などが多数見つかり、日本海
とつながっていた。
上御殿遺跡のある「三尾里(みおざと)」には、6世紀前半に在位した継体天皇の父、彦(ひこ)主人(うし)王(おう)
が福井県から振媛(ふりひめ)を迎えた「三尾の別業(別荘)」があったとみられている。
約500メートル南にある鴨稲荷山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、石棺内から朝鮮半島の王陵を思わせる
豪華な副葬品が多数出土した。継体天皇を擁立した有力氏族の長を埋葬したとみられている。
663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済(くだら)を支援した日本が唐・新羅の連合軍に敗れた後、都が
飛鳥から琵琶湖西部の大津宮に移った。朝鮮半島北部から中国東北部を支配した高句麗との連携を強めるため
だったとも言われている。新羅に滅ぼされた高句麗の末裔(まつえい)が建国し、朝鮮半島北部から中国東北部、
ロシア沿海地方を支配した渤海(ぼっかい)の使節は8?10世紀、日本海を渡って福井県敦賀市などの客館から
琵琶湖西部を通って平城京、平安京を訪れた。
このようなルートが弥生時代にもあったのか。高島歴史民俗資料館の白井忠雄学芸員は「今まで考えられていた
以上に古い時代から大陸の先進文明を受け入れていたのだろう」と夢を膨らませる。
銅剣鋳型:国内例ないタイプ出土 難波・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddm041040138000c.html
国内に出土例ない銅剣の「鋳型」1組がほぼ完全な形で出土
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130808/wlf13080820160021-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/images/news/130808/wlf13080820160021-p1.jpg 国内で初めて出土した双環柄頭短剣の鋳型滋賀県高島市(大塚聡彦撮影)
弥生中期−古墳時代初め(紀元前4世紀〜紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安(あ)曇(ど)川(がわ)町
の上(かみ)御(ご)殿(てん)遺跡で見つかり、県文化財保護協会が8日発表した。柄(つか)の先に円形の装飾が
並ぶ「双(そう)環(かん)柄(つか)頭(がしら)短(たん)剣(けん)」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布する
オルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、
オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。
青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。
弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒(こう)神(じん)谷(だに)遺跡(島根県
出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的
近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。
同協会は「特異な銅剣の製造技術が琵琶湖岸に入ってきた経緯や、鋳型がどこで造られたのか、解明すべき点
は多い」としている。
琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、
陸と海の交通の要衝だったとみられる。
倭大羅国→邪馬台国な気がする・・。
215 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 12:03:24.38
>>207これは、アメノヒボコ一族の渡来伝説と一致する。
219 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:48:57.98
近江から南九州へ行く場合、伊勢湾から出航するのが早い
鈴鹿在住の猿田彦に道案内、或いは船の手配をしてもらう可能性はある
220 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:54:46.31
因みに香具山(伊香具山)は現在の賤ヶ岳
周囲の高島、坂田は古来より知られた鉄の産地
日本書紀には伊奘諾が淡路に隠居した時、
高天原の片隅にも別宮を設けた記述がある
221 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 10:38:05.29
222 :
【神】:2014/10/01(水) 23:50:10.84
近江からだと季節によっては日本海ルートが便利。
使い分けてない?
223 :
日本@名無史さん:2014/10/02(木) 21:23:16.54
ツマンネ
ジャワ・スマトラ説とか高句麗説とかまでは言わないから
せめて東北とか、もうちょっと頑張れよw
224 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 10:16:40.61
近江は毛野国の西都。近江毛野と分家らしい名の臣もいる。
毛野国はここを拠点に朝鮮半島や満州にも進出していた。
神武は東征したのではなく、東国から西征したのだ。
卑弥呼は毛野の女王、邪馬台国とは毛野国のことだった。
これで邪馬台国問題の謎は解けた。
頭の数スレを読んだだけで、頭の良い人ならすぐ気づくはずだ。
225 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 23:24:46.16
近江から中山道を通って関東の邪馬台国に行くには1月かかったろうな。
226 :
日本@名無史さん:2014/10/12(日) 19:42:10.23
>>183 纏向の前は唐子鍵じゃないかと言われてるね。
唐子・鍵が廃絶し、纏向が出来た。
唐子鍵も、搬入土器が多い。筑前〜吉備〜河内〜近江〜尾張など、幅広い地域から
搬入されている。
近江は、後の息長氏と関係ありそうな。開化の子の彦坐王の妻に息長水依比売
(天之御影神のこ)がいるんだよな。琵琶湖の東岸北部を支配していたのかも。
祭神としている御上神社は野洲川のほとりにある。安川なのか分からんけど。
鍛冶の神様らしいから、製鉄や精銅の技術を持った一族だったのかも。
妻にしてるんだよな。
古代史の謎は「海路」で解ける (PHP新書) 新書
長野 正孝 (著) 出版社: PHP研究所 (2015/1/16)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569823513 内容紹介
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米(なしめ)が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる……。
さらに雄略帝の「瀬戸内海の航路開発」や応神帝の「海運業」、継体帝が拓いた「近畿水回廊」、「大化の改新」の陰に消された「倭京」などの謎を、
港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』の著者、竹村公太郎氏も推薦!
内容(「BOOK」データベースより)
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行なったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる…。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に
長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。