というわけで、最初だし派手なのがいいなと思うので太平記三大DQNこと、
三大婆娑羅の一角の有名な逸話から
とにかく色々あって、後醍醐天皇から離反した足利尊氏が湊川の戦いで勝利し、
後醍醐天皇の代わりに光明天皇が即位、北朝が成立した
尊氏に従い、共に後醍醐帝から離反した佐々木道誉は、その功績から
幕府の中枢で重んじられ、栄耀栄華を極める身となったが、
プライドが高く、教養もあって、頭がいいこの男は、
様々な事件を起こす「ばさら」の典型でもあった
彼のばさらを象徴する事件として語られるのがこの事件である
暦応3年、道誉の一族の若党達が、小鷹狩の帰りに妙法院の庭紅葉の枝を気に入り、
折って盗んだ
丁度その時、妙法院の門主は、御簾の中から庭のもみじの風情を楽しんでいたのであるが
突然の闖入者とその暴挙に驚き、坊官に命じてそれを注意させた
注意されたジャイアニズム全開のばさら共は、簡単にキレた
「じゃあもっとデカイ枝を貰ってやるぜ、ヒャッハー!」
そう言って、庭の大きな枝を折るばさら共
やめてー!とオロオロする門主を放ってはおけぬと、妙法院に滞在していた
屈強な山法師達が、この闖入者達を実力行使で追い出しにかかった
これには闖入者達もたまらず
「チクショー!オジ様に言いつけてやるんだからなー!これで終わると思うなよー!」
と、退場していった。これでめでたしめでたしといきたいが、ここからが問題なのである
自家の若党が侮辱を受けて帰った道誉は激怒した
え、これお前のうちのやつが悪くないか?とか言っていてはいけない
そんな理屈はこの時代通用しない。舐められたらおしまいなのである
道誉は、すぐさま三百余騎を率いて妙法院を焼き討ちした
風の強い日でもあり、火はあっという間に燃え広がり全焼してしまった
門主は命辛辛逃げられたが、その弟子の若宮は、道誉の息子秀綱に、
板敷の下に追われ、その上を叩きつけられるという屈辱的な振る舞いを受けた
流石にこの暴挙は、多くの人の不興を買ったが、相手は幕府の中枢の人物であり
苦情を受けた朝廷も手をこまねいて、なんら対処ができない
ついに怒った妙法院の衆徒が、神輿を皇居に担ぎ込んで抗議しようという話になるにいたり
ようやく朝廷も、道誉を罰すっることに踏み切ったのである
でも、幕府が言うことを聞いてくれない
朝廷としてはこんな危険人物は出羽とか陸奥とか、
そういう遠いところに流してしまいたかったのだが、幕府は道誉の味方だから同意しない
結局、道誉はその一族ともども、上総の国に流されることになった
だが、おとなしく流されたりはしなかった
道誉が流人として都を発つその行列は、さながら狂乱のパレードのようであり
見物人たちはその豪華さと派手派手しさに目を見張った
見送りの若党二百余騎は、猿皮の衣装を身に纏い、手にウグイスの籠を持って付き従い
郎党は綺羅びやかな遊女を侍らせ、行く先々で盛大な酒宴を催しながら、
ピクニック気分で東下りと洒落込む風情であったのだ
お前流人じゃないのか、と突っ込むことが出来る人間は、もはやいない
華々しく都を発った道誉は、わずか数年のバカンスの後、再び幕政に復帰するのであった
そんな室町の悪(ワル)の話。
猿皮は比叡山の守護神、山王権現のお使いが猿だから皮肉として身にまとったっつーのが印象的
ついに立ったか。
期待してるよ!
スレ立て乙です!
>>1スレ立て乙
ところでこのスレは鎌倉・室町の武将の逸話だけ?
この時代辺りの公卿の逸話があっても面白いと思うんだが
>>7 公卿・皇族・僧侶・一般庶民の逸話もありです
そうなると結構膨大じゃないかな
>>1乙
やっぱ南北朝期のバサラ大名はやることが一々派手だな
3大って、GODAIGO、師直、道誉?
>>10 高師直・佐々木道誉・土岐頼遠じゃね?
GODIEGOはもう別格みたいな
流人だと思ったら風流人だったでござる
どっかで言われてたけど
後醍醐とブッシュジュニアって似てるよねw
「太平」の名のもとに際限なく泥沼の戦争を繰り返すゴダイゴと
「フリーダム」のために他国に軍事介入してふたつの国家を滅ぼしたブッシュw
>>8了解です
それではここで正中の変の後話でも
「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」1/2
日野資朝は後醍醐天皇の側近にして初期の倒幕計画の中心人物だった。
ところが資朝らの計画した倒幕計画は挙兵間近の所で土岐左近蔵人頼員が妻へ倒幕計画を話してしまい、幕府へことが露見してしまった。
幕府は六波羅探題に兵を集めこの倒幕計画に参加する手筈だった武将を次々と打ち果たした。
これが正中の変である。
さて、これに焦ったのは後醍醐天皇とその側近達である。すぐさま倒幕計画に加担した公卿を集め会議が行われた。
議題は誰が天皇の代わりに責任を取り、罰を受けるか。
しかし結論はなかなかでない。誰も自分が、とは言えなかったし、お前が責任とれ、とも言えなかった。
「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」2/2
そんな時、この会議に参加していた後醍醐天皇の実質的な皇后である阿波廉子が動く。
「…資朝殿はどうお考えですか?」
この瞬間資朝は廉子の言いたいことの全てを悟った。なるほど、彼女は私に責任を取れとおっしゃっているのだろう、と。
資朝が覚悟を決めるまでにそんなに時間はかからなかった。
「この計画に参加した多治見四郎次郎・土岐伯耆十郎頼貞は私が仲間に引き入れたものでございます。
全ての責任は私がとりましょう。お上はまったく与り知らぬことにして私一人が罪を被ればいいのです。
その結果例え死罪になろうと本望でございます…」
そのあと、この資朝を哀れに思ったのか日野俊基も責任をとる、と帝に申し上げ受理された。
結局この二人が乱の首謀者として幕府に召し取られた。
幕府は最初、俊基は証拠不十分のため無罪・資朝は死罪一等のところを減じて佐渡への流罪とした。
しかしその6年後の1330年、再び後醍醐天皇が倒幕を企てるにあたり、俊基、資朝両名は幕府に死罪を命じられ、
俊基は鎌倉で、資朝は流罪先の佐渡で切られた。
この時、父の死に際を見ようと資朝の子供が京から佐渡まで行き、結局最期まで逢えずに終わる話もあるが、それはまた別の機会に。
すいません、後醍醐天皇の元弘の変が発覚したのは1331年でしたね
そして資朝が切られたのは1332年でした
ど う し て こ う な っ た…
ちょっと樹海までいってきますorz
まあ、首謀格っていえば、この二人は確かにそうなんだが、何か後味悪いよなあ
個人的には日野家は、資朝以外は後に北朝方についてるっていうのが面白いと思う
19 :
1/2:2010/10/10(日) 14:31:07
貞和5年(1349)6月のこと。
京は四条河原において、四条大橋建設の資金を得るための勧進田楽が行われた。
これには足利尊氏、二条良基、梶井宮尊院法親王など、当時の今日の貴顕も多く臨席、
また河原には100間(約180メートル)を超える長大な桟敷が作られ、大勢の群衆が集まりそこから見物した。
さて、この日の田楽の模様を太平記の記事より見てみよう
『両方の楽屋より中門口(田楽のオープニング曲)の鼓を鳴らし、音取(調子をあわせて)笛を吹き立てれば、
匂い薫蘭を催し、粧い紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を着して、東の楽屋より練出たれば(中略)
一のササラは本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚かす。』
当時の一流の名人が集まっての田楽は大いに盛り上がった。そのクライマックス、、
八、九歳ほどの猿の面をつけた童子がアクロバットな芸を見せた
『御幣を差上げて、赤地の金襴の打掛に虎皮の連貫を踏み開き、小拍子に懸けて、紅縁の反り橋を斜めに
踏み出たりけるが高欄に飛び上がり、左へ回り右へ曲り、跳ね返りては上がる』
この時である。熱狂の極みに達した観客たちは、桟敷で一斉に立ち上がり口々にわめき叫んだ
「ああ面白い!もう耐えられない!興奮のあまり死んでしまいそうだ、誰か助けて!」
20 :
2/2:2010/10/10(日) 14:32:00
これとほぼ同時であったという
桟敷が人々が一斉に立ち上がったため、その重圧によって将棋倒しに倒壊したのだ。
この将棋倒しに数えきれないほどの人々が巻き込まれ、押しつぶされた。
更にこの混乱の中、他人から刀などを奪おうとする者、それを見つけて斬りつける者、
争いに巻き込まれ刀傷を受け血まみれになる者、茶の湯を浴びて大やけどをする者、
それまでの田楽歓楽の情景からは一変、四条河原には、地獄絵図が現出した。
この事故、死者だけでも100名を超える大惨事となった。
この後間もなく、河原にこのような狂歌が立ったという
『田楽の 将棋倒しの桟敷には 王ばかりこそ登らざりけれ』
(桟敷の将棋(倒し)の現場には王(天皇)がおられなかった)
また、人々は「世の中がこのように田楽に熱狂するのは、何かよからぬことが起こる前触れではないか」
と囁きあったが、はからずもこの直後に。足利直義と高師直の対立が表面化、新たな騒乱、観応の擾乱が
起こる。
有名な四条河原勧進田楽、桟敷倒壊事件についてのお話。
>>20 ひでえ…
行き過ぎたロックバンドのライブかよ
平安(中期)も入ればよかったのですが。
>大体院政期から応仁の乱くらいまでの逸話を語りましょう
ひとまず。
『小侍従が懺悔物語の事』
後白河院の御所で、公卿と女房数名が侍り、雑談に興じていた時のこと。
「各々、忘れがたい秘密の思い出というものがないか。あれば、懺悔も兼ね
てこの場にて開陳するがよかろう」という、仰せがあった。
そこで、院御自身から順に語られた後、小侍従という古女房の番となった。
彼女は往年は色恋で鳴らした人物であり、さぞやその手の話も多かろうと周
囲が注目する中、「おほく候ふよ」と言い、中でもとりわけ忘れがたい思い
出があるので、未練として悪道に堕ちるよりは話しておこうと言うには、
『ずいぶんと昔。ある所より車でお迎え頂いた時には、以前より恋焦がれて
いた方からのお申し出ということで、胸は高鳴り、月かげや風の冷たさとい
うものも、より一層感じられ、千々に心が乱れておりましたところ、落ち着
かぬままでも車は近づいて参りますもので、そのまま乱れた心を抱えて乗り
込み、あちらへ参りました。
さて先方へ行き着きまして、車寄せから入りますと、御簾の中から薫物のよ
き香りと共に、慕わしいあのお方が出て来られて、「なんと遅いこと」と仰っ
て、私を抱きとめ、共に一夜を過ごしたので御座います。
その後、鳥が鳴き、鐘が鳴ると共に家に帰らねばならなかった時の心といっ
たら、とんと上の空で。
うっかりしてあの方の衣を(事後に身につけた際に)着て帰ってしまったので
すが、それをとる使いが参った際には、「また別れるのか」と、一層物悲しく
思われたことで御座いました。』
流石は色好みの小侍従。周囲は感嘆したが、それで済まされないのが後白河院。
「うむ。真に耐え難かったであろうな。で、その相手は誰じゃ。」
小侍従も、はいそうですかと答えはしない。
「いえ、どうかご勘弁下さいませ。申し上げかねます。」
しかし、院も執拗にお訊ねになった。
「そこまで言わぬことには、懺悔になるまいが。」
そこで小侍従、微笑みながら言った。
「それでは、申し上げましょう。憶えておいででは御座いませんか。院が位
に就いておられました、その年のその月、あの方をお使いに、私を召されま
したこと、よもやご否定はなさいますまい。誤りが御座いましたか。」
そう言い終わると同時に、一同大爆笑。
院は居た堪れなくなって、お一人で奥へ逃げ込んでしまわれたそうな。
エロバナw
…これはいい話?悪い話?
後白河院のバツが悪い話だなw
覚えてなかったのか?
覚えきれないほどの相手と(ry
なんてうらやましい
この時代、数百人とHする人なんて当たり前だからな
そりゃ憶えてないよw
「日本史 ちょっといい話・悪い話」にした方が良かったのでは?
>>28 昔そんなの立ったけどとりとめがなくてすぐ廃れた
そりゃ範囲広すぎ。
奈良時代や平安時代の逸話は特に知りたくないのでこの方がいいです。
後白河法皇の子・以仁王は、源三位頼政とともに平家打倒の兵を挙げ、
諸国の源氏に令旨を送り、蜂起を促した
平治の乱以降20年余りの歳月を流人として伊豆で過ごした源頼朝も、これに応え兵を挙げた
挙兵に際し、頼朝は東国各地の豪族の動向を伺い、大庭景義、三浦義明、千葉常胤、上総広常等の
同心を確約したが、一度は滅亡したも同然の近江源氏の流人の青二才を侮る者も多く
大庭景親、伊藤祐親、志田義広など、多くの者がこれに応えず、平家方に付いたのだった
特に、頼朝の乳母兄弟でもあった山内経俊は
「頼朝が平家を討つなど、富士と背を比べ、鼠が猫を狩るようなもの」
と嘲笑する有様であった。
実際アクシデントが続き、算段も取れないまま挙兵した頼朝たちは
あまりパッとしない戦いの末に石橋山合戦で平家方に大敗する
山内経俊も、この合戦の最中に頼朝の姿を見つけ弓を射た
その弓は頼朝の鎧に突き刺さるが、命を奪うことは無く、頼朝は逃げおせた
大きな犠牲を払いながらも、悪運に恵まれ房総へ逃れた頼朝は
千葉氏、上総氏の援助を得て再挙、軍団を整えて武蔵へ進軍し、鎌倉に入った
そして平惟盛率いる討伐軍を富士川の戦いで破ったのである
こうなると、石橋山で頼朝に弓を引いた者たちは立つ瀬が無くなる
降伏した大庭景親は斬られ、伊藤祐親も自害する中、山内経俊も斬られることになった
この決定を聞いて慌てた経俊の母(頼朝の乳母)は、頼朝に助命を願いに参上した
頼朝は乳母の訴えに対して何も言わずに、石橋山で自身が着用した鎧を見せた
鎧の袖の、矢の巻口の上には、経俊の名がきっちり入った矢が見事に突き刺さっていた
乳母は言葉を失い、何も言わず退散した
ところが頼朝は、結局この経俊の命を助けてやるのである
しかも「役立たず」と罵りながら、何だかんだと官職につけ重用してゆくのだ
頼朝のツンデレぶりが伺える話であるが、いいか悪いかはわからなかったすまん
『鳥羽僧正、絵の描き様問答の事』
鳥羽僧正という人は、比類なき絵の名手であったが、その下にも絵描きの好
きな法師がいて、あまりに練習を重ねたものだから、最近は僧正にも劣らな
いほどの絵描きになっていた。
これには僧正もねたましくなり、どうにかして失点を見つけ出してやろうと
思っていたところ、法師が手元に置いていた自信作の中に、喧嘩の図があっ
て、相手に突き刺した刀の切っ先が、拳ごと背中へ出ているのを見つけた。
これはいい失点と思った僧正、早速法師に向けてこのことをあげつらう。
「お前さん、もう絵を描かぬ方がよかろう。人を突いたからといって、拳ま
で背中に出るなんてことが、あるものか。ありもしないことだ。
こんな心ばせなら、絵を描くべきではない。」
すると法師も反論する。
「そのことですが、これは絵の故実というやつでして。」
僧正、相手が言い終わる前に文句を言う。
「自分で決めた故実か。片腹痛いわ。」
だが、法師も動じない。
「私一人のものでは御座いません。昔の名人の描いた性交の図などを見てみ
ますと、性器の寸法は、とても実在するものの大きさでは御座いません。
なんで、現実にあんなものが存在する筈が御座いましょう。
ありのままを描いたら、興ざめであるからこそ、ああしたのです。
絵そらごととは、絵だけが表現しうるもの故に言われている言葉です。
事実と異なる描写は、貴方様の絵にも数多見受けられますが。」
この様に臆することなく言い放ったものだから、僧正も正論だと感じ、黙っ
てしまったという。
前半だけなら悪い話、オチがついたのでいい話(多分)。
『福原大相国禅門のわかがみの事』
平清盛という人は、若い頃実に立派な評判をとった人であった。
折悪しく、苦々しいことをしでかした者がいても、戯れであろうと思ってと
がめず、お愛想でつまらないことを言われても、笑ってやった。
どんな誤りをし、物をぶちまけ、呆れる真似をする者がいても、今更言って
も詮無いことであるとして、声を荒げる様なことはなかった。
冬の寒い頃には、傍に控えている者たちを己の衣で覆ってやり、朝早く目が
覚めた時には、まだ寝ている者たちを起こさずにおき、好きなだけ寝させて
おいてやった。
召使の末端に位置している様な者であっても、身内がやって来た目の前では、
欠かせない人材である様に扱われたので、そんな姿を身内に見せることが出
来た者たちは、おおいに面目をほどこし、心から喜んだ。
こういう情け深い人であったから、多くの者達が心服したのである。
ここでは若い頃の話とされており、晩年はそうではなかったのかという話に
なりそうですが、当時の因果応報の理から言うと、善因が善果に、悪因が悪
果になる筈なので、晩年まで「いい人」であったことにしてしまうと、熱病や
一門滅亡の原因がつかめないので、あえて若い頃としたものでしょう。
この話が本当なら、基本的な性格は変わらなかったのでは。
寝ている家来を起こさずにおくという話は、伊達政宗や徳川家治にもあります。
あんまり一気に書かれても読めないので小出しにしてくれた方が・・・
『上達部案内を頼む事』
天福(1233〜1234)の頃、ある上達部が、嵯峨の辺りに家を建てようと思い、
出歩いた末に、大覚寺の池の辺りで破子を開いていた。
するとそこに、杖にすがった老僧が一人で歩いて来たので、これ幸いと周囲
のことを訊ねてみると、これが驚くほど詳しい。
喜んだ上達部は酒を勧めてみるが(当時の僧侶は慣習で飲んでおり、俗人も
当然のこととしていた)、珍しく断酒していると言って飲まない。
それならばと破子を勧めてみると、斎(午前中しか食事をしない僧の掟)と
言って受け取らない。
全くもって、今時珍しい清僧であった。
そこで上達部、「それでは、後で必ず参れ。馴染みになって、嵯峨の案内を
頼もうではないか。」と言い、家と名を訊ねた。
すると老僧、「この辺の人は、左府の入道と申しております。」と言う。
それを聞いた上達部は肝をつぶし、破子も食べずに逃げ出した。
この老僧、前左大臣藤原隆忠(当時71〜72歳)の出家した姿であり、当時は
大覚寺と号していた人物であった。
>>37乙
しかし
>>32の逸話の山内経俊はきっとそれ以降ずっと陰でなんか言われ続けたんだろうなー
まぁ、自業自得だがw
>昔の名人の描いた性交の図
見てみたい
ひぎぃとか書かれてたりしてw
41 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:05:25
スレ立て乙
とりあえず有名どころから
執権の母・松下禅尼
相模守北条時頼の母、松下禅尼はあるとき時頼を自宅に招いた。
そのおり、禅尼は自ら障子の破れを切り貼りし、修理していた。
これを見た兄の安達義景が、
「自分で直すことないんじゃない?器用な男がいるからそいつに任せようよ」
と言ったところ、禅尼は
J('ー`)し「その者だって私より上手ではないでしょう?」
と返して張り替えを続けた。
そこで義景は
「替えるなら全体を取り換えてしまえば、楽だし見栄えもいいのでは?」
と重ねて申しあげると、禅尼は
J('ー`)し「いずれそうするつもりですが、今日はわざとこうしているのです。
物は壊れたところを修理して使うものだと、若い人に教えようと思っています。」
と答えた。
この松下禅尼の教育を受けた息子が、幕政の安定と執権権力の強化に奔走した
北条経時・時頼の兄弟である。
>>38 でもこいつこの後平家滅亡の時とかに、
義経と同じように頼朝に無断で官職を得てマジ切れされたりして
それでも何か許されて
梶原の排斥にも参加したりなんかして
実朝の時代になった1225年に89歳で死んでるんだぜw
母方や乳母の縁者には甘かったと言われるけど、もっとうまく立ち回っていたら足利義兼や結城朝光みたいに子孫が繁栄できたんだろうね
>>44 政宗みたいに一族の繁栄の礎築いたわけじゃないしな
頼朝が乳母の山内尼には甘かったというだけだと思われる
なるほど。本人に能力や愛嬌があったわけじゃなく、
頼朝が本人自体は好きでもないけど乳母に恨まれるのが嫌で
仕方なく多めに見てやってただけって事か。
比企尼の縁者
安達盛長・・・頼朝の側近、子孫は北条と組んだりして繁栄(後に滅亡)
河越重頼・・・義経の義父になったり厚遇されたけど、それが仇になって殺される。ただし所領なんかは河越尼(比企尼の娘)経由で子孫へ
平賀義信・・・御門葉(頼朝の一門扱い)の一人、息子は北条時政に将軍候補として担ぎ上げられそうになった平賀朝雅
比企能員・・・頼家の乳母を出したり、娘が頼家の側室になったりして栄える(直後に滅亡)
寒川尼の縁者
結城朝光・・・頼朝の側近、結城氏の先祖として北関東で栄える
と、他の乳母の娘婿や養子や息子なんかの繁栄ぶりに比べたら、命があるだけありがたいと思えというくらいの差があるかも
48 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 12:50:16
隠岐を脱出した後醍醐天皇は兵庫の福厳寺に到着します。
そのとき頭痛を発し、近隣の薬仙寺の井戸水を飲むことで頭痛は治まりました。
そして薬仙寺は後醍醐天皇より、医王山の山号をいただきます。
ここで気になるのは、福厳寺の井戸水では無しに、他所から水を持って来させたことです。
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
49 :
三浦の犬:2010/10/11(月) 13:34:57
1213年、鎌倉幕府にて政所別当を務めた重鎮、和田義盛が
北條氏との政争の末、追い詰められて乱を起こす
世に言う和田の乱である
義盛は和田一族のみならず、横山党や波多野氏や、
三浦氏の筆頭格で、従兄弟で友人でもあった
三浦義村の同心を得、挙兵するが
義村が土壇場で華麗に寝返り、北條義時に通じ、やがて敗れた
そんな経緯があっての話なので、これはそれより後の話であろう
ある年の正月、
年賀の挨拶のために、多くの御家人達が将軍の御所を訪れていた
そんな中、三浦義村は早くから詰所に入り、上座に座っていた
ところが後からやってきた下総の千葉胤綱が、
堂々と多くの人間を無視すると、義村より上座に座りこんだのである
千葉胤綱はかなり若く、この出来事の時十代後半から二十代前半ほどだった
年齢からいっても官職からいっても明らかな非礼を受け
義村は怒って
「下総の犬は己の居場所も知らぬか」
と言い捨てた
だが言われた胤綱は平然とした顔で
「三浦の犬は友を食いますな」
と返した
和田の乱での義村の行為を皮肉ったのだ
『古今著聞集』にはこの後のことは書かれていないが
騒動になったという話が伝わっていないので
何とかその場は収まったのであろう
>>32の山内経俊もそうだったが、
一般的イメージからしたら驚くくらい頼朝は、周囲から舐められていた。
平家滅亡直後の元暦二年、討伐に派遣さていた24人の御家人が、
頼朝に無断で任官を受けたのは、そういう空気の現れだったと言っていい
この24人に経俊もバッチリ名を連ねており
「官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな」
(意訳:官位が欲しくて欲しくてたまんないみたいですけど、
お前にそれだけの能があるかよ、官位カワイソー無駄じゃん)
という頼朝の生々しい罵声が残されている。
この時の頼朝はそうとうにキレていたらし、
同じく勝手に任官を受けた渋谷重助には
「度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、
召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。
能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。」
(意訳:今まで平家についたり木曽についたりウロウロしてたのを
結構使えるから黙って許してやっていたが、もう許せねえ
精々首っ玉斬られねえように、鍛冶屋に相談して金の首巻きでも作っとくんだな)
と、まるでヤクザのような文句を送り、
律儀に24人全員に「このフワフワ面!」「臆病声!」と罵声を連ねた締めには
「この外と雖も、永く城外の思いを停止せしむべきか」
(意訳:お前らもう都の外に出られると思うなよ?)
と、書き残されていたりする
実際には、少なくとも経俊は生きて都の外に出られたわけだが
金の首巻きを用意するよう言われた渋谷重助がどうなったのかは、残っていない
一人ひとりの欠点をよ〜く憶えてるな頼朝はw
それが大将の一番の心得なのかもね
頼朝が粛清に走る気持ちが少しわかった気がする
南北朝の争乱が始まる直前に花園上皇が皇太子(後の光厳天皇)に心得として書き残した書
があるが、その中身を纏めるとこんなもの。
・お前が天皇となってから、大規模な戦乱が起こるだろう。
・しかし、その戦乱に対して、後醍醐のように武力で立ち向かうのではなく、
100年後のために色々な屈辱に耐えて、ひたすら「真の学問」に励め。
自分の後継者に対して、「これからの将来は悲惨だが、ひたすら耐えろ」なんて書く辺り、
本気で状況を悲観していたんだなと思いますけど、現実は花園上皇の予言どおりにことが進む訳で。
かえすがえすも後醍醐天皇って、京都政界にとっても鎌倉にとってもトラブルメーカーだったんだな。
>>53 しかし天皇家は今もやってることがそうかわらんね。
>>53 というか鎌倉末期にもう無視できないほど社会矛盾が広がってたのは間違いなく、
幕府も朝廷も有効な手を打てなかったのも間違いない。
後醍醐以前にすでにトラブルは全国で勃発していた。
後醍醐はその社会矛盾の問題性の認識も対策も持っていた。
これはあの時代、後醍醐だけだったと言っていい。
ただ、いろいろな条件によりその実行が不可能だった。
で、その実行不可能な現実を認識して無かったんだよな
ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる、な感じなんじゃないかな>後醍醐
とにかくやらなきゃ駄目なんだ的な。
まあ後醍醐がやらなくても誰かが乱を起こしただろう。
王莽みたいな人だったでしょう。>後醍醐
現実を理念に合せちゃいけません。
百姓一揆は自分の生存権が犯されるからギリギリで立ち上がったものだが、
ゴダイゴは・・・
まあやりたいことやったから、いい人生だよね。
でも子孫が....。
院政期ってことは、ここ八幡太郎義家や、将門公はスレチになっちゃうのか
有名な話だけど、太平記より
暦応元年(1338)の頃のことだそうだ。
この年の5月には北畠顕家、閏7月には新田義貞が討死し、翌年8月には後醍醐帝崩御。
南朝の勢力甚だしく衰え南北朝の戦乱の終結も遠くない、人々がそう思っていた頃である。
ある雨の日、一人の禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしていた。
すると、六本杉の上の方からなにやらヒソヒソとした声が聞こえる。
何事かと見ると、木の梢に人々が集い密談をしていた。
その中心は護良親王、彼を囲むように後醍醐帝の外戚、峰僧正春雅、南都の知教上人、
浄土寺の忠円僧正ら、みな、南北朝の動乱の中で死んだ人々である。
彼らが苦悶の表情で集合し、密謀を行っていたのだ
この謀議の中で、護良親王は足利直義の子として生まれ出ること、峰僧正は夢窓疎石の同門である
妙吉となって直義の政道の補佐をすること、知教は上杉重能・畠山直宗に乗り移り高師直・師泰兄弟を
亡き者とすること、逆に忠円は高師直・師泰兄弟の心に入れ替わって上杉・畠山を滅ぼすこと、
「これによって尊氏・直義兄弟の仲は裂かれ天下大乱となり我等は怨念を晴らすことが出来るであろう!」
この怪異があっておよそ10年後の貞和4年(1348)、足利直義と高師直の対立より始まり、
南北朝の動乱をさらに長引かせ、かつ複雑化させた『観応の擾乱』が起こる。
『観応の擾乱』を予告したとされる、太平記の記述である。
観応の擾乱前には、様々な怪異があったとの記録が残されてるよね
当時の世間の不安感や、オカルティックな空気がよくわかる
大塔宮はなぁ、足利をぶっつぶしたがったのはわかったけど性急すぎた感がある
勝手に親父の名前つかって兵を集めるとかさすがにないわ
>>66 問題大有り。
後醍醐の治世の根幹が「綸旨万能主義」なんだから、それに代わる様な
代物なんて後醍醐が認めることが出来ないもの。
だからこそ倒幕の功労者にも拘らず、護良を比叡山に返そうとした訳。
>>62 えええ義家がスレチとか厳しいな…
戦国のほうも家光とか普通に扱われてるし、その辺は幅持たせればいいんじゃないか…
>>62 院政期なら、義家は問題ないでしょう。主に白河院の時代に活躍した人物ですし。
頼光や頼信は無理ですが。
70 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 22:12:23
正成の話、籠城戦とかないですか?
敵兵に向かって糞尿をかけたとかそんなの
『知足院殿鷹狩の事』
かつては弓矢を用い、馬に乗って大型獣を対象に狩猟をしていた公家も、10
世紀以降は軍事貴族や非軍事貴族でありながら武を弄んだ一部の公家を除き、
狩と言えば専ら鷹狩を行う様になっていた。
これは久安6年(1150)8月20日、藤原忠実が語った話である。
「最近は、小鷹狩(秋に小鳥を捕える鷹狩)が盛んであるな。
我も幼少の頃はおおいに楽しんだもので、中でも13〜14歳(約50年前)
の頃には、熱中しておったものだ。
ここから下った絵林という所で飛ばしたこともあったが、その時は鳶が二羽
飛び上がって来てな。
互い違いに鷹が飛んで、そのまま迷って下りて来て、我の笠の上に乗った事
があって、哀れに思ったことよ。
その後の事よ、『宇治大納言物語』(※)を女房が読んでいるのを聞いたのは。
『今は昔。鷹狩を好んでいた男がいて、ある時自身が雉となり、妻子と共に
北山の小屋に宿っていたのに気づいた。
そのまま野辺に出て餌をついばんでいた所、人が来て鷹犬を放ち、自分たち
を捕えようとする。
天にあっては鷹の爪を免れえず、地にあっては犬の顎から逃れられず。
なんとか自分と残った一羽の子が叢に逃げおおせたと思った時、鷹に襲われ
て、夢から覚めた。
男は飼っていた鷹犬を放つと、そのまま出家した、と語り伝えている。』
この話を聞いた翌日の朝、鷹を全て空に放ったよ。その後はやっておらん。」
※『宇治大納言物語』……
>>33の鳥羽僧正覚猷の父、源隆国編纂とされる説話集。
『今昔物語集』との関連が予想されているが、中世に散逸して詳細は不明。
これより遡ること12日前の8月9日、忠実は「弓馬」のことを語っており、頼通
は歩射が得意であったのに、近代はそうではないと愚痴の様に述べています。
道長が歩射・乗馬を共に好んだことは有名ですが、彼らを先蹤としていた忠実
も、若い頃は血気盛んだったのかもしれません。
>>62 純友と将門はちょっとなぁ…
でも八幡太郎義家は良いんじゃないかな?
鎌倉時代の始まりが1185(今はこれでいいんだよね?)からなんて教科書に縛られる必要はないでしょ
少なくとも公家にかわって武家が権力を掌握する時代からこのスレでおkってことにしない?
>>73だが具体的には平忠盛あたりが落としどころだと思ってる
西暦でいうなら1100年代から
ちょっと広い?
中世的な匂いが感じられればそれでいい
76 :
1です:2010/10/12(火) 23:24:56
院政期と書いたのは、個人的にその始まりを後三年の役と捉え
ゆるーい範囲で前九年も扱えるようにすればいいかと思って書いたのですが
ちょっと広すぎますかね?
戦国時代板の方がやや広めに、応仁の乱から天草の乱まで取っているので
これくらいかなと思っているのですが
後三条院からでよくありませんか。
更にゆるくとれば、11世紀後半以降ということで。
78 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:34:54
まあネタが説話集からじゃあ
時代幅を広く取りたくもなるわなw
今昔みたいな説話集だと逸話によっては全く違う年代だったりするから難しいよね
でもまぁ、前九年からで良いんじゃないかな?
後三条は院政への良い橋渡し役だったのは確かだけど院政を始めたかと問われれば?な訳だし
十二年合戦で思い出しましたので、今宵の〆に。
『後藤内軍物語の事』
白河院の御代。天喜5年11月の合戦において、源頼義に付き従った六騎の中に
いた藤原則明、通称後藤内は既に老齢であったが、院の御召に従い、往年の
合戦を物語る大役を仰せ付かっていた。
そこでまず言うには、
「故頼義朝臣の鎮守府をたちて、秋田城へつき侍りし時、薄雪降り侍りしに、
軍のをのこども」
とここまで言った時、院よりお言葉があった。
「うむ、もう宜しい。幽玄なる情景が浮かんで参った。もう、これ以上は不要。」
そうして、衣を下賜されたということである。
>>70 正成が尻剥き出しにして糞しようとしたんだって。
ところが、ぢで正成の方が悲鳴をあげて引っ込んで、鎌倉方の失笑を買ったそうだ。
>>80が結構綺麗な話だったのに
>>81で台無しだよw
しかし今も昔も合戦話が人気だということは分かったが
まさか情景だけで衣をくれるとは思わなかっただろうなw
手術のできない昔
進行した痔の治療法は存在しない。
生き地獄だっただろうな
84 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 00:28:57
説話は安易。
ネタが引きやすいのは分かるが・・・
>>82 俺、ご老体が長い長い思い出話のエンジンかけたのを察して
辟易したから「もうイイよ、もうイイよ、ご苦労さんありがとう」
したのかと思っちゃったw
>>71 仏教に傾倒した公家の心情がわかるいい話しですね。
手塚仏陀にも似た話があったような・・・
痔は苦しいな
自然治癒とかも当時では長引きそうだし
>>87 ウンコした時痛みを感じるレベルになると自然治癒は不可能。
切るしかない。
戦前の徴兵検査でも痔だと不合格になるほど怖ろしい病気。
江戸時代の大名では死因になった方もいるとか。
痔で入院したことあるけど、悪化するとピクリとも動けなくなるよ。
気が狂っておかしくなっても不思議じゃない。
またまたご冗談を
…え、マジで?
富士川の戦いに勝利し、佐竹討伐も終え、
ようやく鎌倉も一心地ついた治承5年6月19日
頼朝が三浦半島に行き納涼することになり、
三浦一族は一族を上げてこの歓待をすることになった
この納涼には頼朝以外にも上総の豪族で、
東国平定に大功のあった上総常広等も参上した
ところが、やがて頼朝が到着すると、
その場にいた者達はみな砂の上で平伏したが
広常だけは馬からすら下りずに礼をした
これに気付いた三浦一族の一人佐原義連は、さっそくこれを注意したが
広常は構わず
「わしは三代源氏に仕えておるが、公私共にこのような礼を取ったとこはない」
と言った
事実が、頼朝の武運の端を開いたのは広常の参戦であり
彼の協力が無ければ、今は無かったのは確かである
そういった理由から、広常の振る舞いを誰も窘めることができなかった
何となく暗雲が立ち込めているわけだが、
ひとまずそこは揉め事が避けられ、一行は会場となる故・三浦義明の邸宅に向かった
義明の嫡子で、三浦の現当主三浦義澄は、贅を尽くして頼朝達を持て成し
酒も入って、中々いいムードになってきた
そんなムードの中、三浦一族の一人で、早くから頼朝に馳せ参じた者でもある
岡崎義実が、頼朝にその着用している水干を所望した
義実は、石橋山合戦で頼朝の死地を開くため討死した真田与一の父でもあり
本人も頼朝の為に熱い忠義を傾けてきた男でもあったから
頼朝はこれを許し、自分の水干を脱いで渡した
義実は受け取るや、喜んでこれを着用してみせた
これが広常のカンに障った
「そのような美しい服は、この広常こそが着用するに相応しいところ
義実のような老いぼれが賞され、頂くのは思いもよらぬ」
この言いように義実も怒り
「広常にいくら功があると言っても、ワシの最初の忠義にいくら比べられるというのだ
比べられるとものでもあるまい」
と言い返した
忽ち場は騒然となり、二人の口論は加熱
「表へ出ろぉ!」「上等じゃコラァ!」と乱闘が始まりそうになったが
きっかけを作ってしまった頼朝は、窘め治める術を持たず
何も言わないまま黙ってその状況を見つめていた
と、ここに到着時に広常を窘めた佐原義連が走ってやってきた
義連はまず身内の義実を叱る
「この催しに義澄がどれだけ励んでいるか知っているでしょう
誰もぶち壊しになることなんか望んでいません
いい年して何をやってるんですか」
それから広常に物申した
「あなたの文句も、今話すことではない
申し上げたいことがあるならば、後日にして頂きたい」
とにかく、今この場で揉めるな!
そう言って、義連はその場をきちんと治めてみせ
頼朝もこの顛末に満足した
これから数年後、上総広常は頼朝の命で謀殺される
岡崎義実は幕府の片隅で忠勤を詰むが
うまい世渡りなどは出来ず、晩年は困窮し、
息子の菩提を弔うために北條政子に援助を頼み、老齢で死んだ
後にその子孫は和田の乱において和田方で戦い
岡崎氏は滅んでいる
所行無常よのう・・・
頼朝の死因は痔。
乗馬中、つい患部をマトモに刺激してしまい、悶絶して落馬。打ち所が悪くてそのまま逝ってしまった。
余りにも恥ずかしい死にざまに、吾妻鏡にも記載が憚られた。
【訂正】
>>71の(約50年前)は、(約60年前)の間違い。
【補足】
>>80の天喜5年は、1057年。
【余談】
>>80に見える源頼義の七騎落ち(後世毛利元就の七騎落ちなどコピーがいく
つも誕生する)で、頼義に付き従ったのは、源義家、藤原景道、清原貞廉、
藤原範季、大宅光任、藤原則明の6名。
彼らについて、後代の史料は次の様に述べている。
藤原景道→「源頼義朝臣、貞任等を攻むる時、七騎武者の随一なり」
大宅光任→「源頼義朝臣、奥州十二年合戦の時、七騎武者の第一なり」
今でいう、本家と元祖。
【更に余談】
光任の「第一」云云の記事は、同家の系図にある言葉。
一方、景道(藤原利仁の曾孫)が「随一」という記事が書かれたのは……
建久3年(1192)当時、頼朝の庶子(後の貞暁)が生まれたため、複数の有力者
が乳母の世話を頼まれたのだが、御台所(後の政子)の勘気を恐れる彼らは、
軒並み断りを入れて来た。
そこで出産に関わった景道の子孫景遠の息子、景国が担当になったのである
が、祖先が「随一」の武者と注記されたのは、この時であった。
その後果たして勘気を蒙るのであるが、御台所から逃げる武士に、御台所に
立ち向かって「先祖が勇者であった」と紹介された武士とは一体……。
【後鳥羽院放猪の事】
後鳥羽院は騎射・歩射・乗馬に堪能で、相撲や水練もお好みであり、大力を
発揮された方で、刀もお好きであった。
そんな武の面で知られる方であったが、歌人としてもまた一流。
当時随一の歌人であった藤原定家とも、当初は良好な関係であったが、何し
ろ双方ともに我が強かったものだから、やがて犬猿の仲に。
ついには承久の乱の時に定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」と述べ、隠岐へ流罪
とされた院が定家は冷たいと愚痴をこぼされることになるのであるが、それ
よりずっと前、建仁2年(1202)当時から、両者の仲は冷えていた。
この年の夏は旱続きであったが、定家は次の様に述べている。
「雨は降らない。その上、近日は強盗が人を害している。先日も院の女房が
鳥羽路に於いて被害に遭ったそうであるが、対策はとられない。
院がおやりになることと言ったら、ただ「遊覧」に尽きる。
近日はしきりに神泉苑に行幸なさり、猪狩を楽しんでおられるとか。
しかしこの猪、神泉苑中を掘り返しては、蛇を食べているのである。
今こんなことになり、神竜(神泉苑に棲み、密教僧や陰陽師の祈雨の対象
とされていた善如竜王)の心は、如何なものであろうか。
世間の者たちは、(竜の眷属である蛇が食べられたせいで)旱になったと
言っているのだが。」
この猪、後鳥羽院が狩猟用に神泉苑に放たれたもの。
神泉苑には鹿が飼われており、律令時代には地方から献じられた瑞鹿が放た
れたこともありましたが、猪はまず出なかった筈です。
定家はこれ以外にも、近年は公家が弓矢を用いて大型獣を狩猟対象としてい
ることを苦々しく述べていますが、後鳥羽院への意識もあったのでは。
ちなみに、この「旱の原因は後鳥羽院」と暗に書いた四日後には雨が降り、
五日後には一日中止まない大雨となっています。
単なる逸話紹介スレになってる希ガス
>>99 基本そうじゃね?
何を期待してるんだお前は
逸話貼るだけじゃなくてさ、逸話について雑談を楽しむのが逸話スレの趣旨だよ。
書いてもらえるのはありがたいが書き過ぎは感心しないな・・・
>>100 いい話とか悪い話とかを期待してたんだが…
無用の一言でスレの過疎化フラグが立ちました
それ本スレで言ってこいよ
まあ何か流れが説話臭いのは否めないがな
沙石集、古事談、十訓抄などなど新潮古典集成、岩波大系及び新大系に含まれてるような書物が出所の逸話には
もう飽きがきてます
あと吾妻鏡もベタベタですし
もう少しマイナーな書物からの逸話をお願いします
つまらん奴がつまらんことを言い出してスレ終了
お前もなと言われるので、はいそうですと言っておくよ。
>>104 説話が多い理由は、単純に引っ張ってくるのが楽だからでしょw
戦国板の方針から言って小説とかでなけりゃ、何から引っ張って来てもいいとは思う
ていうか文句言うなら自分が探して来るってのが鉄則だぜ
もっと気楽にやろうよ
まだ始まったばっかなんだし
ほんじゃあ朝倉宗賢の悪い話。
南北朝時代、斯波高経の配下の武将に朝倉宗賢というのがいた。
名前から分かるように、後の戦国大名朝倉家の祖にあたる男なのだが、
自分の居城の近くであり、越前でも大荘園である河口荘を侵略する事にした
ことが、この話の発端となる。
この河口荘。越前最大の港湾都市三国湊の後背地に位置する1100町あまりの大荘園であり、
経済的にも軍事的・政治的にも重要な所領であり、彼がほしがるのも無理はなかったのだが、
この大荘園の所有者は興福寺であり、当然の事ながら興福寺から幕府に対して「あいつなんとかしろ」
と抗議される事になる。
しかしながら、朝倉宗賢は斯波にとっては重要な戦力であり、そのためもあって訴訟は遅々として進まず
業を煮やした興福寺側は、最終手段である春日社の神木を奉じて入京し、朝廷と幕府に宗教的権威をもって
圧力をかけるに至る。
流石の斯波高経もこの一手にはどうしようもなく、せめてもの妥協案として、宗賢に河口荘の権益を一定度放棄させる
代償として、河内国鵜殿関を春日社造営料所に指定し、その管理を宗賢にさせることで、鵜殿関から挙がる利権を宗賢
に与えたのだが、宗賢は鵜殿関からの税を一切興福寺に払わない姿勢を示し、問題は長期化。
そしてこの事態に、佐々木道誉を初めとする反高経派の面々は、高経の失政を批判し、遂には高経の失脚並びに病死に
追い込む事に成功する。
なお、主人の失脚の原因となった宗賢は、主君高経が失脚すると、主君をあっさりと見捨てて道誉側につき、恩賞として、
越前国内に所在する所領を7ヵ所も将軍から拝領するわ、河口荘と鵜殿関の押領を続けるなどやりたい放題の限りを尽くしている。
そんな朝倉宗賢の悪いお話。
>>108 探すもなにも説話のたぐい開くと
そんなのばかりだしなw
敷き写しして意味あるか?意味あると思ってる方もいるようだがな
>>109 山野さんのように出典を明確して頂きたいのですが。
>>110 ここは投下される逸話は、逸話なら何でも受け入れるスレだが
そのクオリティーは投下人次第で様々になるもんだ
投下人殺すようなことするなら自分でいい逸話落とした方がいいぜ
レスやコメントが付くか付かないか、反響があるかないか
それで十分だと思う
わざわざ排斥する必要は無いよ
そのうち流れが出来るだろ
まだ模索中だし
朝倉もそうだけど、斯波氏の下にいたのは結構そうそうたるもんだよな
時々斯波氏の勢力が衰えなかったら、戦国時代どうなってたかと思うよw
>>112 細かな注つきの十訓抄開いて逸話を敷き写しして
ちょこちょこ注もパクって敷き写しってかw
そないなことは益なしと思うとりますんで
遠慮しときますわw
マイナーな書物からの敷き写しなら歓迎なんだがなw
そこそこの本読みなら誰でも知ってるような逸話を出されてもなァw
>>114 別に114まで十訓抄で探す必要はないんだよ?
群書類従とかから探して来ればいいじゃない
地元の伝承だっていいし、114の面白い逸話投下待ってますよ
>>116 それを期待してるのは俺やねんw
大系・新大系や集成あがりの逸話はいらんのやw
それ以外のものなら群書類聚からでも史籍集覧からでも史料大成からでもなんでもかまわんのや
(大系新大系集成にあるもののぞく)
くれぐれも出典明記で頼むわwよろぴく☆
やっぱりそろそろ読者様が湧いたか
スルーしろよ、どう考えてもアレだろ
120 :
117:2010/10/13(水) 23:18:45
山野はん
よろぴく☆頼みますわ☆
期待しとるさかい
>>117 出典明記厨は一番嫌われる人種だな。
この手のスレを過疎にしたくて言っているとしか思えない。
出典を知りたきゃ自分で調べろ。それが勉強だ。
楽して教えてもらえると思うな。
クレクレ厨が湧いたと聞いてきました
123 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 23:24:39
>>121の出典は
Webと井沢、司馬、学研歴史群像w
124 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 23:28:17
>>121 本人がはなから出典知らんようやから
土台無理な話やろw
>>121 こういうのも湧くさ
あんまり触るな、嬉しがって騒ぐから
前九年役の時のこと
八幡太郎義家は剛臆の席を定め、その日の戦における剛臆を調査し、
剛あるものは剛の席につかせ、臆した者は臆の席に置き、その剛臆によって
饗応を分けた。
剛の席での食事が3度に及ぶと、よく家職を守り武義の勤め正しければこそと、
これに褒美を与えて賞し、
臆の席につくのは3度までは許したが、3度を越えて臆の席に着いた者には
家職を忘れ俸禄を盗み、主恩を忘れたものでありその罪は深い、と
これを罰した。
その故に人々大いに武義第一と励んだ、とのことである。
八幡太郎義家の剛臆の席、と言うお話。
おお、漫画日本の歴史でよんだ逸話だw
罰ってどういう罰なんだ?
ぶたれたりするのか、こういうのは
羞恥プレイなんだけどドMには効果なさそう
ID出ないから荒らしがやりたい放題
前九年なら、頼義だと思うのですが。
義家が剛臆の席を設けた話は、『奥州後三年記』にありますね。
しかし、こちらでは三度までは許した云云は無いので、
>>126氏のものとは、
どうも出典が異なるらしい。以下後日譚。
【末割四郎討死の事】
鏑矢の音に耳をふさいで臆の席に置かれた将は五人あったが、その中の一人
が、末割四郎惟弘であった。
彼は臆の席に置かれたことを恥じ、直後の合戦で酒飯をたらふく口にすると
真っ先に飛び出したのだが、鏑矢に首を射られ、討死する。
喉からは、口に入れたばかりであった飯がこぼれだした。
周囲の者は慙愧したが、義家は悲しみながらも言った。
「生半可な者が、一時的に励もうとして先に出ると、必ず死ぬことはこの様
である。
食らった物は、腹の中に入らず、喉に留まっておった。
やはり、臆病な者であったわ。」
臆病だと交感神経が昂ぶるから
飯を噛んだり飲み込んだり消化したりできないんだな〜
喉に飯が詰まった状態で走るのはメチャ苦しそうだw
義家と言えば・・奥州安倍氏と奥州藤原北家の話だね。
「おのれ見返してやる!」→出撃
って完全に死亡フラグだよね・・・
郷里の銘菓の紹介文より。
時は南北朝の争乱の最中、南朝の長慶天皇は、現在の岩手・青森県境付近にやってきていた。
南朝方の武将の中にも北朝に下るものが少なくないこの頃、はるばるこんなところまで流れ着いてしまったのだ。
身の回りのものも十分でない中、当然食事にも事欠く。
困っていたところ、家臣の赤松何某という者がそば粉と胡麻を練り、兜に塗りつけて焼いて差し出し、
一同はそれを食べて空腹を凌いだという。
他にも諸説あるらしいですが、地元で一番有名なのがこの説。
今はそば粉ではなく小麦粉を使うのが主流になっている、南部煎餅の始まりの話。
>>132 『明月記』に出て来るのは、治承の時です。ただ、後年本人が加筆した可能性あり。
承久の乱の折にも、この言葉を使用しています。
その治承の頃に、面白い話を書いているので、ものの序に引用しておきます。
「夜になり、明月が輝いていた。都は閑散として、車馬の音も聞かれぬ。
逍遥して六条院の辺りに出ていたところ、夜も半ばになって、天空に光物
が出現した。
大きさは鞠ぐらいで、色は燃えているかの様であり、躍るかの様に移動し
て未申から丑寅へ移動すると、瞬時に破裂した様は、あたかも炉が砕けたか
の様であった。
そして、そのまま空中に火を散らして消えてしまった。
もしや、大流星であろうか。驚きかつ怪しんだ。大夫忠信の青侍たちと共
に、目撃したことである。」
『明月記』には、日食の予想や、超新星爆発らしき現象の記述もありますね。
この話、今ならUFO騒ぎになりそうです。
>>137 なかなか聞かないお話です。
既に紹介されたどのお話も面白いですが、聞く機会が稀という点で、楽しめました。
ありがとうございます。
>>138 明月記の超新星爆発の部分の話が原文→現代語訳→英語訳されて試験に出たことが昔あったなw
定家はホント当時では鬼才だったんだろうね
和歌の上手いし日記も高く評価されてるし…
大河ドラマを一覧チャートにしてみた・・。
大河ドラマ「聖徳太子」
敏達天皇 3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
大河ドラマ「大化改新」
孝徳天皇 2年春正月甲子朔(西暦645年)
古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
695年(持統天皇9年)-775年(宝亀6年) 吉備真備
映画「竹取物語」かぐや姫伝説
安倍御主人(みうし)は、文武天皇のもとで、右大臣をつとめます(在職大宝元年3.21〜大宝3年閏4月1日)。
アニメ「源氏物語千年紀」光源氏の時代
・嵯峨天皇-源融
源融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の12男。官位は侍従、右衛門督。大納言などを歴任し、従一位左大臣にいたる。別名河原左大臣。死後正一位を追贈された。
・仁明天皇-源光
源光 (公卿) (みなもと の ひかる) - 承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日)) 源光 (僧侶) (げんこう) なお、『源氏物語』の主人公光源氏の姓名は「源光」ではない。
大河ドラマ「風と雲と虹と」
平将門 - 平安時代中期の武将。生年不詳、西暦903年、916年とする説がある。没年940年。
大河ドラマ「平家物語」
映画「陰陽師」「陰陽師U」
安倍 晴明(あべ の せいめい、延喜21年1月11日(921年2月21日) - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)
アニメ「お伽草子」羅生門の安倍清明
源頼光の四天王、源綱、源貞光、卜部、金太郎らの土蜘蛛の勾玉奪還、酒天童子退治がある。
大河ドラマ「炎立つ」藤原と安倍忠頼から安倍貞任らと、対する、清和源氏との戦い。
安倍忠頼 878年「元慶の乱」に活躍。
永承の頃(1046年-1052年)安倍頼時(頼良)
安倍貞任。永承6年(1051年)
安倍宗任 (あべ の むねとう、長元5年(1032年) - 嘉承3年2月4日(1108年3月18日))鳥海三郎とも呼ばれる。安倍貞任の弟。
大河ドラマ「義経」
源義経(牛若丸)は、平治元年(1159年)源義朝と常盤との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第三子として誕生。
死没文治5年閏4月30日(1189年6月15日)享年31
大河ドラマ「北条時宗」
大河ドラマ「太平記」
足利尊氏 嘉元3年7月27日(1305年)から延文3年4月30日/正平13年(1358年6月7日)
大河ドラマ「花の乱」
大河ドラマ「風林火山」
大河ドラマ「織田信長」
大河ドラマ「豊臣秀吉」
大河ドラマ「毛利元就」
大河ドラマ「徳川家康」
大河ドラマ「徳川三代」
大河ドラマ「八代将軍 徳川吉宗」
大河ドラマ「徳川慶喜」
歴史年表順にしてみました。
>>134 江戸時代に好きな蕎麦を食べてから処刑されることを許された人間がいたの
ですが、首が切られた後に血と共に蕎麦がぶちまけられたもので、目撃者は
しばらく蕎麦が食べられなかったそうです。
この場合も、同じことですね。多分、末割と同じ話は何例もあったのでは。
>>140 それはまた、面白い試験ですね。
>奇才
お説ごもっとも。
荷風や魯山人などと同じで、面白いが会いたくない人種ですが。
>>143 ほうほう
>荷風や魯山人などと同じで、面白いが会いたくない人種ですが。
もしや藤原定家の悪い話でもお持ちかな?
ちなみに自分が一番面白いけど会いたくない人物一位は一休さんだったり
これ以上はスレチだから言わないけど
一番面白いけど会いたくない人物って俺はいったい何を書いてるんだ…orz
お詫びに逸話を一つ
「狐、島津の吉祥獣になる」
島津氏の吉祥獣が狐なのは有名な話
「狐の嫁入り」と称される天気雨は鹿児島では吉兆として扱われ、鹿児島には多くの稲荷神社が存在している
慶長の役での四川の戦いでは狐の導きにより勝利したという言い伝えがあるほど
(ちなみに義久から義弘・忠恒宛ての、朝鮮役を労う手紙に「狐が出てくるような霊験は毎度の事ですが」っていう記述があったりするw)
では何故狐が島津の吉祥獣なのだろうか?
そこには島津家初代、島津忠久の出生に深く関係していた
島津家初代、島津忠久は比企能員の妹の丹後局が源頼朝との間に出来た子であるといわれている
この丹後局の妊娠に源頼朝の正妻であった北条政子は激怒
丹後局は妊娠したお腹のまま鎌倉を追われ僅かな付き従う者と共に西国へと落ち伸びなければならなくなった
その道中、摂津国の住吉大社についたころ、夜になって宿を探すが、妊娠した婦人を泊めてくれる家なんてそうそうあるものではない
今夜は野宿か…、そう諦めていた時
丹後局「う、生まれるっ!」
従者の人達「な、なんだってぇー!」
なんと丹後局、ここで産気づいてしまった
あたりは真っ暗、しかもその内に大雨まで降ってきた
仕方なく住吉大社の社殿の瑞垣の中に入り、その辺の石の上にうずくまる丹後局
これでは生まれてくる子供を取りだすところか丹後の局の命も危うい
絶体絶命、とその時だった
突然、あたりが光に包まれる
従者「こんな時に狐火がっ! これでもう大丈夫だ!」
こうして狐火の加護のおかげか丹後局は無事に男の子を生み、それが島津家の祖、忠久となるのであった…
ちなみに雨が島津家で吉兆とされているのは忠久が生まれて時もまだ雨が降っていたからだそうで
出典は「山田聖栄自記」
山田聖栄とは島津家に五代に渡り仕え、また室町幕府第六代将軍、足利義教の弟大覚寺義昭を将軍の指図により殺害した人である
ツッコミどころ
・まず書かれた年代が忠久が死んだだいぶあと
・なんでいきなり狐が出てきたかわからない
・てか住吉神社の神様に感謝しろよ…
江戸時代に新井白石が諸大名の由来について書いた藩翰譜があるけど
それを書くにあたり各大名家から出自の資料を取り寄せた
「うちの初代は頼朝公の落胤です(キリッ)」って言われたときどんな反応だったか気になる
他の大名家も多少の捏造はあったにせよ、源氏の棟梁の子孫っていうのは流石にやり過ぎ
な気もする。
尚寧王「途中で王朝が何度か交代したけど、うちの初代は源為朝の落胤です(キリッ)」
秋田「うちは長脛彦の子孫です(キリッ
秀吉の天皇ご落胤説よりは信じられる位のレベルの作り話
諏訪氏「うちは建御名方神の子孫です(キリッ」
・・・ありかも
池田だったけか?
「ウチは今、作らせていますから(キリッ)」
池田「うちのご先祖は・・・林羅山に作ってもらってるところです(ニヤソ」
脇坂安治「「北南それとも知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」
鎌倉・室町から離れちゃったか
高山「うちの先祖はアダムです(キリッ)」
秋月「うちは後漢霊帝の子孫、つまり後漢光武帝とか尭帝の子孫でもあります(キリッ)」
鎌倉にある源頼朝の墓って江戸時代に島津重豪が島津の家紋とか入れて
勝手に造ったもんなんだよなw
島津忠久の墓も近くにちゃっかり造ってるし
まあ毛利も隣に先祖?の大江広元と毛利季光の墓を造っちゃってるけどw
頼朝公が築き、大江広元が確固たるものとした武家政権たる幕府を、
自称頼朝公の子孫の島津と、自称大江広元の子孫の毛利が潰した、と
毛利はガチじゃなかっけ?
>>158 毛利は自称じゃなくてガチガチのガチだぞ?
毛利も先祖が平城天皇になったり、天の穂日になったりと幕府に系図を提出するたびに変わるんだから
胡散臭い
徳川配下の酒井も北条(きたじょう)も大江広元の子孫だね。
しかも北条は通字が広だし
血統的な繋がりがあるかないかを別にすれば毛利が大江広元の子孫って事で問題ないでしょ
そもそも大江広元自体詐称してまで子孫を名乗る程優れた人とも思えんし
昔は今より評価が高かったかもしれんが
大友氏初代の能直も頼朝の御落胤説を言われているが、実際はアッーだった模様。
「無双の御寵仁」by「吾妻鏡」
>>165 何でも衆道と結びつけるなよ。ちょっと親しければ熱愛扱いのワイドショー脳じゃないんだから。
>>144 悪いというか、強情な話ならありますね。今、まとめたものが手元に無いのですが。
もっとも、強情ならでは大業もならなかったのかもしれません。
>鹿児島には多くの稲荷神社が存在している
稲荷と狐が結びつくのは、南北朝時代頃からの様ですから、それ以降の信仰か。
>雨が島津家で吉兆とされているのは
江戸時代前期の狩野派の絵師、木村探元が雨の描かれた旗を描いていますね。
>>147 大名としては残りませんでしたが。
長宗我部「うちのご先祖は始皇帝です」
大内「百済王です(李朝との交易以降に言い出したらしい)」
ついで
羽田元首相「うちの先祖は秦氏で、先祖は始皇帝です」
>>162 それは毛利ではなく、それより前、院政期の大江氏に原因があります。
多分大江匡房が言い出したことだと思いますが、彼より前の系図では先祖は
土師氏で菅原氏と同祖としていました。
土師氏の祖は、天穂日命(江戸時代七福神に入れた例あり)です。
ところが、菅原氏が栄えていた時代には、格上の菅原氏と同祖であることを
誇っていたのが、匡房の時代になって両氏の力関係が逆転すると、大江氏の
先祖は土師氏ではなく、平城天皇の子の阿保親王と言い出している。
そして、菅原氏は出世せず、大江氏は出世すべき血筋と主張しました。
毛利氏の系図が一定しなかったのは、その為でしょう。
毛利が大江氏であることは、疑うことはないだろうと思います。
もっとも、血統的には広元が藤原氏、ないしは中原氏であった可能性がある
のですが。
毛利は周辺が、源範頼の子孫だの土肥実平の子孫が居るしね
>>169 土肥…って、あー小早川か
頼朝の旗揚げの時から従ってたのになんとも不運な一族だ
江戸時代に入っても根っこの部分にぶれが有ると言う事は
キチンとした家伝が有るのではなく調べて系図を書いたと言うこと
周囲の家も毛利本家に調子を合わせただけかも
>>169 吉田の資料館へ行くと地図が表示されていますが、元就が生涯に関わった
児玉・熊谷・武田・小早川・吉川と、どれも「相模周辺地図」があれば間に
合うくらい、先祖が密集していますね。
小早川は、景平が信濃の名族平賀氏出身だと言いますが。
平賀氏は『太平記』にも登場しており、少年時代にこれを愛読していた平賀
源内も、その子孫と伝えているというのは、この板なら今更か。
174 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:51:48
>>173 京都周辺地図があれば
彼らのもっと昔の先祖が集中してますよw
確かにそうともいえる
ここでそこそこ有名な逸話を投稿して流れを変えてみる
「『日野資朝なんて大っきらい!!』」 1/2
>>15で忠臣、そして貧乏くじをひかされた人物として紹介された日野資朝
しかしそんな彼を公然とバッシングする書物が残ってる
その書物とは…皆さんご存知『徒然草』
このスレにいる大抵の方はご存知かと思うが、作者の吉田兼好は大の後醍醐天皇嫌いであった
だから当然、その後醍醐天皇の一番の側近を良い風に書くはずがない
「『日野資朝なんて大っきらい!!』」 2/2
兼好<ねぇ、ねぇ、聞いた?! あの日野資朝って奴の話?
この前西大寺の静然上人が参内なさった時、その上人を見た西園寺内大臣が
西園寺<いやー、静然上人は実に尊いお姿だなぁヽ(=´▽`=)ノ
兼好<って、仰ったらしいんだけど、それを横で聞いてた日野資朝なんて行ったと思う?!
資朝<ただ歳とってるだけだろwwwwo(^▽^)oキャハハハ
兼好<ホントに信じられないよね! しかも翌日歳をとってもうヨボヨボな老犬を内大臣の家まで連れて行って
資朝<ほらこの犬、とても徳が高い姿をしてるでしょう?wwwこの犬あなたにあげますからwwwwプププッ (*^m^)o==3
兼好<だって! もうホントDQNとしか言えないよね?!
でも資朝って他にもあるんだよ! 為兼大納言入道が六波羅に召し取られた時も彼が連行される様子をみて
資朝<羨ましいなぁ…この世に生まれたからにはあんな風にならなくては面白くないなぁ…( VェV)ジッ
兼好<もうホント後醍醐天皇の側近って変な奴らばっかり! きっと後醍醐天皇と同じような奴らが集まってるんだろうね!
しかも民に全然優しくない! この前なんか東寺で雨宿りしていた浮浪人が皆で集まって暖をとっていたのを見て
資朝<キモイお…(;´Д`A ```
兼好<って言った後家に帰って自分が集めている植木を全部捨てちゃったんだって!
なんでも植木の形がさっき見た浮浪者達を彷彿とさせるからだとか!
もう為政者としてというか人間としてもダメなやつだよ!
※ちょっと大げさに書いたところもありますが大体これでニュアンス的には合ってるはず
太平記の資朝と徒然草の資朝、ど う し て こ う 違 う の か
吉田兼好「人間、みっともない姿は晒したくないから40前に死にたいものだ」
兼好嫌いな人間ばっかだしなw
嫌いな人ばっかりだから世を捨てるんだよw
兼好を並び替えて、嫌子と名乗ろう(儒家っぽいけど)
>>177 そこでいう浮浪者=片輪であった様ですね。
奇形にした樹木や異常な岩を愛でるのは、奇形の人間を愛好するのとどう違うのか。
そういう問いかけをなした上で、思い切ってそれまでの財産を捨てたと考えれば、
一種の賞賛がなされていると受け止めたのですが。
評言が、「さもありぬべき事なり」ですし。
「為政者としてというか人間としてもダメなやつ」と言う批判は、本文に無い。
なお、この話の肝は、植木もまた片輪であったという点です。
単に浮浪者としたのでは、『王子と乞食』の乞食が差別用語だというので、
『王子と子供』に題名を変更したというぐらい、意味が通じなくなります。
これを「当時の貴族階級の障害者に対する差別意識」の例と言った人もいますが、
どうでしょう。
一般的な視点からの差別ではなく、資朝個人の目と気づきを述べたお話。
>生まれたからにはあんな風にならなくては面白くないなぁ
「罪なくして配所の月」を見たいとは、よく言われたこと。
単に名所で月を見るのではなく、理不尽な世の中に身を置くという悲劇性も
好まれた様ですが、この場合も為兼の境遇(無辜)を意識して言ったものだ
と、思ったのですが。
ただ、それを実際に見ながら口に出せるのは、やはり常人ではない。
とはいえ、この場合の常人ではないというのは、そう悪い意味ではないかと。
老い犬にせよ、為兼連行にせよ、東寺と違って評言はありませんが、特に否定
も肯定もされず、興味深い一例として挙げられていると感じました。
嫌いだから書いたという見方には、逆にそういう受け取り方もあるのかと、び
っくりしたぐらいです。
山野無双
違う方向からの見方もあると面白さが際立つな。
俺も
>>176-177みたいに考えてたから成程と思った。
吉田兼好は、北条時頼とか北条庶流や足利泰氏なんかを褒めまくってたような
昔はこんなに良かったみたいな感じで
すみません、一寸差し出がましすぎました。
>違う方向からの見方もあると面白さが際立つな。
でどうかご勘弁を。
>>185 時頼の味噌の話は、好きですね。
既出の松下禅尼の話も、好きですが。
>>186 全体的に
>>15の対比として書きたかったのですが、見直してみるとそれが行き過ぎてしまっていますね
とりあえず嫌いではなかったのかも 反省です
あと、かたは者を浮浪者と訳したのは特に何かの考えがあってやった訳ではありません
浅慮でした
ただ徒然草の原文の文章を見る限り資朝を異様な人物として記述しようとしているのは確かなことではないでしょうか
上人の段でいえば西大寺の静然上人を『誠に徳たけたる有様』と書いているのに対し
犬を『浅ましく老いさらぼひて、毛はげたる』と描写し、それを内大臣に持っていくところに何やらあまり良くないものを感じます
為兼の段は
>>182で指摘された通りそれを実際に見ながら口に出せる資朝の異質感を
最後の段は締めの『さもありぬべき事なり』を含めて不気味です
この『さもありぬべき事なり』は植木の愛好を辞めたことだけなのか、
それともかたは者を見て植木が気持ち悪いということに気付いた、というまで含めた全体的なことを指しているのかによって解釈が異なるのでしょうね
この徒然草は兼好が誰か人に見せるために、一説では邦良親王に宮廷の作法などを残すために書いたといわれています
その書物にわざわざ資朝の異様な面を書いたということは資朝は兼好にとっての『面白いが会いたくない人種』だったのでは?
北条重時の遺訓
家来は公平に扱え。
宴会のとき、料理を多く取るな。
扇は安いものにしろ。
しかし鎌倉武士の宴会料理って
少しも美味そうに思えないんだがw
うちの近所はかまくらみちが多い、
風情があっていい
鎌倉街道って誰がいつ作ったんだろ?
うちの近所の伝鎌倉道の近くに殺人遺体が遺棄されてて、ただでさえ夜真っ暗なのにますます
通りにくくなった・・・
当時の街道のほとんどが自然発生的に出来てる
はやりすたりもあるらしく、
すこし前まではやってたルートが何年か後には理由も無く人通りがなくなるとかもあった模様
自然発生ってw
幅6m、両側に土手がある鎌倉街道が自然発生するのかよw
上中下
もとまとのかまくらみちは、この三ルート。
うちは、上中が通る横浜戸塚
>>194 それはあんたんちのとこの鎌倉街道でしょ
万里の長城みたいに、一部は立派で、末端はなんかすごい粗雑なんじゃないの?
198 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:07:24
兼好法師>仁和寺の坊主って、馬鹿ばっかし、そういっているようにしか思えないんですが。
石清水八幡宮に参るつもりが麓で引き返したヤシとか、宴会で調子に乗って鼎をかぶったら、
取れなくなって、死にそうな目に遭ったヤシに、可愛い稚児を誘ってピクニックに洒落込ん
だつもりが手配ミスで大喧嘩したり、笑うっきゃ無いような話ばかりなのも事実。
何か、いじめられたんでしようかね。
199 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 03:48:40
仁和寺の坊主「幼女、幼女 (;´Д`)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ ノ \ア ノ \ア / \ ア / \ ア 」
>>199 残念、稚児は男の子だ。10歳から15歳くらいの。
ハァハァしたり、ぱふぱふさせたり、は想像通りなんだけど。
地名由来物、「夕顔瀬橋」
現在の岩手県盛岡市中心部を流れる北上川には、
「夕顔瀬橋」という名の橋が架かっている。
前九年の役も大詰め、厨川柵に追い詰められた安倍貞任は、源氏の軍勢を押しとどめるべく、
瓜に目鼻を描いた頭に藁人形の胴体をつけて甲冑を着せ、河原に並べて兵士に見せかけた。
…が、流れが想定以上に速くてうまく瓜を並べられなかったのか、
はたまた源氏の皆さんはそんな事一切気にしなかったのか、
結局渡河を阻止することはできず、奥州安倍氏は滅亡してしまった。
成功しなかったハリボテ作戦の悪い話。
まあ源氏含め、頼朝配下の連中はそんなもん気にしないだろうなあ
恩賞出るなら濁流にも突っ込んで首取りに行くやつらだし
>>202 某宇治川なんかがいい例かな。坂東武者を京の平家が恐れる理由の
片一方がそれだろね。
坂東武者はいい意味でも悪い意味でも気性が荒いやつばっかだからなぁ
血族同士でガチな殺しあいとか日常茶飯事だし
観応3年・正平7年(1352)のこと
5月の足利方による南朝方・男山攻略にて大いに戦功を現した山名師義は
幕府に対して恩賞を求めるため、政所執事・佐々木道誉にその取次ぎを願い出た。
ところが道誉、
師義が面会を求めるたびに
「今日は連歌の会席がありますので出来申さぬ。又後日」
「只今は茶会の最中でござる。また今度」
と、師義に一向に会おうとはしなかった。
この道誉の態度に師義はついに激怒、郷国である伯耆に帰ると父時氏と語らい
幕府に対して謀叛。先ず佐々木道誉の守護国出雲の守護代吉田秀仲を追放し出雲を接収、
更に国人たちを味方につけ、またたくまに出雲、伯耆、隠岐、因幡の4カ国を手中にした。
そして文和2年・正平8年(1353)6月には南朝方となって京に進軍。この南朝軍は
四条隆俊を将として楠木正儀、吉良満貞、石塔頼房等も加わり足利義詮率いる
足利幕府軍を撃破。
義詮は後光厳天皇を奉じて坂本から美濃垂井に逃走。この時近江堅田にいた
道誉の長男三郎秀綱も討死した。
佐々木道誉の嫌がらせ、高くつく。と言うお話。
もし、「嫌がらせ道」とか「嫌がらせ検定」なんてあったら、不合格確実なレヴェル。
そんな程度のヤシしか政所執事を任せられなかった幕府の人材不足、ってことか?
賄賂が足りなかったんじゃないの?
しかし、そんなことで反乱して、しかも成功しちゃうんだなw
どんだけ脆弱なんだ室町幕府の基盤はw
これ、観応の擾乱で直義方についた師義が
幕府への復帰の斡旋を道誉に頼んだ話でもあるんだよね。
冷たく断られても仕方ない一面もある。
だとしても、面子の潰し方が下手なんじゃないかとも思う。
旨く潰せば後腐れ無くて済むと思うけどね。
>>204 昔、平家物語を読んだ時は坂東武者ってなんて強いんだと憧れたけど
性格がアレすぎて平家ドン引きしてたんだな
最近は坂東人より河内人の方が残虐さは強調される傾向にあるな。
河内源氏なんてどれだけ悪く言われてるかw
しかし鎌倉時代の社会は、庶民にとってはリアルにヒャッハーが日本を席巻した暗黒時代だ。
地頭なんて時代劇の悪代官が未だ可愛くなるような悪逆ばかり。
つか中世の武士は頭にマッハで血が上るから困る
恩賞が足りないとか待遇が悪いとかならともかく、恥をかかされただけで去就を決める奴がゴロゴロいるからな
光秀や秀吉の我慢強さを見習えと・・・
男衾三郎絵巻とか読んだことないけど
武士の館に近付いた庶民は問答無用でブチ殺されたってマジなのかなw
三浦為次「矢を引き抜こうとして顔を踏んだら殺されかけました」
ある時足利直義が、尊氏・直義兄弟の禅の師である夢窓疎石にこんな事を相談した
「私の政治を批評するものの中には、私があまりに善良であることを追求するために、
かえってそれが政道の害になり世の中が治まらないのだ、などという人も居ます。
この批評には耳をかたむけるべき部分があるでしょうか?」
これに夢窓疎石は答える
「善良…?
あなたは一体、何を勘違いされているのですか?
元弘以来のあなたが行ってきた罪業と、同じ時期に行った善行を比べてみなさい。
一体どちらが多いと思いますか!?
つい最近も御敵であるとして、あなたが滅ぼした人間がどれほど出ましたか!?
滅ぼされた者の跡に残る妻子眷属の想いは、一体どこに向かうと考えるのか!?
敵だけではありません!味方であってもあなたが合戦を行ない死んだ人々は
皆あなたの材業となるのです!
今もなお、あなたの口から目出度いこととして聞こえてくるのは、敵が多く滅んだ、
つまり、また罪業を重ねたということではありませんか!」
夢窓疎石はこのように、直義に対しても歯に衣を着せず直言した。
しかし直義も、あるいはそれ故にか、夢窓疎石への深い帰依は終生変わらなかったという。
夢窓疎石、足利直義を叱る。と言うお話。
>>213 中華の文士なら憤死だな。
素直(?)に暴力に走るのが中世日本の文化だな。赤穂浪士もこの系譜だな。
>>217 中国でも漢代あたりだと侮辱されたら切れて襲撃とかよくあるぜ。
蒙求にも載ってる雲台二十八将の祭遵とか有名。
>>218 たしかに史記は任侠世界に片足突っ込んでる感じだしな
「地頭が百姓をいじめる」とかいう表現を見ると、
暴力が社会を支配してる感じがありありと伝わってきて、なんつーかドキドキするんだよな。
孟嘗君「背が低いとか俺の事disった奴は皆殺しだぜ」
清少納言「原作料請求来ますた」
藤原行成「俺に言うなよ」
『男衾三郎絵詞』
「馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。
此の門外通らん乞食・修行者めらは用ある者ぞ、蟇目・鏑にて駆け立て駆け立て追物射にせよ」
『今昔物語集』巻14第10
「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。
夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」
『今昔物語集』巻19第14
「(讃岐国多度郡の源大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。
日夜朝暮に山野に行て鹿・鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。
亦、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」
マジでキチガイじみてるからやめろ
戦国時代はやっぱ秩序回復期で倫理道徳の形成期だよな…
鎌倉時代は何と言っても鎌倉党だやな
男衾三郎絵詞って日本史の教科書に笠懸の写真が載ってるよね
近頃は物騒になったなあ
>>222 >>夏は河に行て魚を捕り
>>河海に臨て魚を捕る
ん?
言わんとするところはわかるが、肉食になれてる現代人にはピンとこない描写だな。
現代人は食べることこそあれど自分で捕ったりはそれほど
>>230 そうじゃない。
殺生を恐れていることがポイント。
>>209 山名と佐々木は犬猿の仲なんだよ。
出雲源氏の嫡流である塩冶高貞を師義の親父の山名時氏にぶっ殺され
一時、出雲守護を山名に奪われたことで、同じ佐々木である道誉が
マジギレして出雲守護を取り返したという経緯があってな。
おまけに時氏は、中国で細川と領有争いしているという背景もある。
>>203 平家自体出生ルーツは、武蔵坂東武者だからね。
将門時代は・・清盛時代から京・・関西
>>211 河内源氏のルーツって総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
>>234の修正再レス
河内源氏の総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・河内源氏のルーツって嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
>>233 清盛時代から京ってw
日本史勉強したほうがいいよw
>>205 佐々木導誉が政所執事やってたことってあったっけ?
ふむ
細川清氏といえば、足利将軍2代、足利義詮の執事として幕府を主導した大物である。
そんな清氏があるとき将軍義詮を、七百番の歌合に招こうとした。
この七百番というもの、七は縁起の良い数字であり、将軍義詮を寿ぐ、という意味合いの強い
歌合であったのだろう。
…が、これを聞いて黙っていられない男がいた。佐々木道誉である。
道誉は当時、清氏と関係を悪くしていた。
「清氏の奴め、そんな見え透いた歌合で将軍の心に取り入るか、そうはさせぬわ!」
道誉は清氏に先立って将軍義詮を招いた。しかもその内容は
七所を飾って七番菜(の料理)を整え、七百種の掛け物を積んで七十服の茶を用意した、
茶寄合の席であった。
清氏が企画した七の寿ぎを、これでもかと規模で圧倒したのである。
これを聞いた氏清は大いに憤り、道誉との対立は激化。ついには道誉の告発による
細川氏清の追放、氏清の南朝への降伏、氏清軍らによる南朝による京都攻略にまで至る。
佐々木道誉による、幕府執事細川氏清への嫌がらせについてのお話。
>>93‐94
さて、その岡崎義実の息子である佐奈田義忠であるが、源頼朝の旗揚げの際には父ともども馳せ参じた。そして、石橋山の戦いにおいては、俣野景久と
取っ組み合いを演じることになり見事組み伏せたが、義忠の刀は血糊がこびり付いてなかなか抜けない。そこへ長尾定景がやってきたため逆に討ち取ら
れてしまう結果となった。
その後、頼朝が鎌倉へ入ると、定景は出頭してきた。そこで頼朝は彼を義忠の父、義実に預けた。普通ならここで、定景の首をはね義忠の無念を晴らす
ところであろうが、覚悟を決めた定景が毎日、経を唱えているをの聞いているうちに、息子を殺された恨みも消えたのか、頼朝へは「定景を討つことは、
かえって、義忠の成仏の妨げになります。ゆえに定景を許したいと思います」と報告した。
なお、この長尾定景という者は後年、源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物であり、かの上杉謙信の先祖でもある。もしも義実が、定景を殺していたら
後世の歴史は大きく変わっていたかもしれない
>>240 佐々木道誉、こんどの嫌がらせは、どーよ?
243 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:57:58
道誉…
義仲の祐筆
木曾義仲の祐筆をつとめた、覚明という正体不明の怪僧がいる。
伝承によれば義仲の後見である中三権守兼遠の甥である。
兼遠の兄が保元平治の乱で活躍した海野幸親であり、その子の小太郎幸長が覚明の前身だという。
幸長は都に上り文章寮の学生となり、進士蔵人道広と名乗った。文章博士まで至ったという。
のち剃髪して最乗房信救と称して興福寺勧学院に身を置き、反平家を呼び掛ける以仁王の令旨に対する返書の中で、清盛を「平家の糟糠、武家の塵芥」と痛烈に批判している。世にいう「南都返牒」である。
これがたたって平家ににらまれ、なんと顔に漆を塗って面相を変え、新宮行家とともに逃亡。
次いで義仲の祐筆、大夫房覚明として姿を現す。「大夫」房と称する辺り、五位の身であったことを自負していたのかもしれない。
義仲の下ではおそらく参謀役を務めていたのだろう、上洛の軍中に在って叡山を味方につけるのに一役買っている(山門牒状)。
ところが、入洛した木曾軍からいつの間にか姿を消しており、義仲と何かあったのではないかと疑わせる。文も弁もたち、プライドも高かったであろう覚明の性格が、義仲と相容れなかったのではないか。
それからしばらくして、今度は信救得業と称して箱根山に現れる。得業とは学生の身分の一つであり、ここでも己の学識や身分に拘りが出ているようである。
箱根では頼朝の縁者の法要などに加わっているが、どうやら義仲の配下であったことがばれたらしい。曽我兄弟の敵討ちに関与していたとの説もあるので、頼朝にとって目障りな存在だったのだろう。
天下の鎌倉殿に睨まれたらおしまいである。ところがこの男、まだ生き続ける。
円通院浄寛と称して畿内に戻り、今度はあの法然房源空に帰依。次いで法然の弟子である親鸞が越後へ追われるとこれに同行し、浄土真宗の僧・西仏として北陸づたいに故郷信濃へと帰ってくるのである。
当時の海野氏の当主は左衛門入道幸氏。西仏にとって甥に当たる人物であった。
おそらくこの幸氏の庇護もあったのだろう。西仏はこの地に庵を結び、やがてその庵が東国における真宗の拠点、白鳥山康楽寺となるのである。
嘘のような話だが、康楽寺の縁起には「木曾註記大夫房覚明円通院浄寛西仏房」という長い長い名前が残されているという。
>>240 清氏が途中から氏清になってるよw
で、その導誉の告発ってのが
導誉「義詮さま! 大変です! 清氏がこんなん書いてました!」
義詮「どれどれ見せてみよ。」
導誉が入手した清氏の願文には、あろうことか
「義詮がお亡くなりになって、基氏が降参して、
天下が俺様(清氏)のものになりますように」と書いてあった。
義詮「おのれ清氏! 許さん!」
かくて権勢を誇った清氏も、
将軍の追討を受ける身となり都を落ちていきましたとさ。
というお話。
246 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 00:36:55
だれか日野資名の逸話教えてくれ
247 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 05:49:37
北畠親子の話を〜!!
この頃の坊さんっておかしいのが多いよな。
常陸坊海尊ってまだ生きてるんだっけ?
249 :
144:2010/10/27(水) 20:50:14
>>248 常陸坊海尊は生き延びて不死になったという伝説がありますね。
昔々、光栄が出してた「伊忍道〜打倒信長〜」というゲームに敵キャラとして出てきて、大層びびったことを思い出しますた。
覚明には他にも逸話・伝承がたくさんありますが、
また折を見て。
とりあえずスレの燃料の足しにでもなれば幸いです。
250 :
244:2010/10/27(水) 20:51:33
251 :
244:2010/10/27(水) 20:52:43
その岡崎義実の逸話。
>>241にあるように息子である佐奈田義忠は、討ち死にしてしまった。
しかも、幼い息子を残して。
そんな幼い孫の行く末を案じた岡崎義実は、孫かわいさにとんでもない行動に出る。
その孫の母方の祖父・波多野義景が京に行っている間にその所領を横領したのである。
当然、母方の祖父・波多野義景は怒り訴訟になった。
岡崎義実の言い分は、こうだ。
「ワシが死んだ後、うちの孫に相続させてくれるかどうか心配なので、先にもらっただけです。
どうせ孫が相続するんだからかまわんでしょう」
当然、認められるわもなく岡崎義実の敗訴に終わった。
>>236 いや、今、その辺を勉強してる所だから確かめたかっただけなのでW
てっことは、桓武時代から京で、坂東は、武家平氏の所領だっただけ?
伊勢平氏とかで調べなされ
岡崎義実は本当に癖の強いオッサンだよなw
どの逸話もどことなく素朴で何か憎めなくて俺は好き
坂東武者らしいよな
義経が頼朝に初めて会いに来たとき疑って追い返しかけたのもこの人だっけ
さっきの訴訟の後も政子に掛け合って孫の所領安堵してもらってたのに
結局滅んじゃうってのが侘しいが
平塚の岡崎城の人か
すごい地元
おお…
戦国と違って書ける人が限られてるから
その人たちの動向次第でスレが止まってしまうのは弱点か…
応永13年12月、国母である後小松天皇生母、三条巌子が危篤に陥った。
26日、見舞いに駆けつけた太政大臣足利義満はその容態が重篤であることを知り、
その後の段取りをつけ始める。
「国母様の死後、誰を新たな国母にするべきか。崇賢門院(勘解由小路仲仔)様に
お願いする方法もあるが、主上の祖母であられるのでいささか問題だ…。」
義満は言外に、自分の妻である日野康子を国母準ずる地位に立たせたい。
そう匂わせたのだ。
翌27日
義満は関白、一条経嗣と会見し、誰を国母にすべきか尋ねた。
経嗣は言う
「南御所(日野康子)様が准三宮宣下の儀を執り行えば、国母に準ずることに
何の支障もありません。」
これを聞いて義満、大変うれしそうな顔をした。
この日巌子は亡くなり、日野康子に准三宮の宣下が行われ、彼女が国母に準ずる事が
決められた。
一条経嗣はその日の日記にこう書いた。
『私もこんな阿諛追従をするようになってしまった。悲しいことだ。』
悲しいな…
しっかし、義満は公家っポイ。平氏もあっという間に公家っぽくなったし、
京都に本拠地を置くとこうなっちゃうものなのかな。
出だしから終わりまでボロボロだった室町幕府で唯一強権を握った将軍
同時に、これほど印象の悪い将軍も鎌倉以降では見当たらない
室町将軍の全盛期は義満の孫の、悪将軍こと六代義教だろ。
くじ引きで選ばれてるところで既に幕府の権威はかなり低下してる
じいさんの真似して有力大名の力を削ごうとしたら反対に殺されて終了
>>265 籤は神威であり、義教は神威で選ばれたとしてむしろより強い強権を持つことが出来た。
足利尊氏にしても義満にしても、代わりに泥をかぶる腹心の家臣・重臣いたけど
義教にははなくて、自分で直接やった。
出家した時点で、そんな家臣や重臣を持つ機会を失ったといえるんじゃないか。
そんな義教のこぼれ話。
最初は、「義信」と名乗るつもりだったが、それでは「世を忍ぶ」に
つながって縁起が悪いといって、「義教」になったという。
鎌倉時代くらいなら神威の影響力って貴族・武士・寺社問わずすごくあったと思うが
足利義教の時代まで下るとどうだろうかw
>>268 戦国時代すら戦の駆け引きに迷ったときはくじを引いたぞ。
神威とか信じてるなら殺そうとは思わないだろw
神威といえば、この義教の時代くらいから裁判において鉄火起請が流行り始め、
江戸初期くらいまで続くな。
神威的なものの影響は強かったと考えるべきだろう。
>>272 似てるねえ。
義教の時代まで下れば
「クジ引きが神威?バカじゃねーのw」って感じる人が少なからずいたんじゃないのか?
もちろん江戸時代ですら大半の人は神仏の罰を信じてたわけだが。
程度問題。
>>272 いかん、殴られていろんなところから流血してるように見える…
バサラ大名あたりは、神仏をバカにしながら出家したり、信じてるんだか信じてないんだか複雑な感じ
くじ引き自体の権威よりも、人手の入ったインチキじゃないかと思ってたのも居ただろうし。鎌倉公方とか
>>275 幕府の狙いは
>>266だろうけど
幕府の権力が低下しているからこそ籤という手段になったわけだからね。
足利幕府は創成期ですでに権力争いやらかしてる始末だからなぁ
むしろあれだけボロボロな出発で十何代も続いたのが不思議だ
他に日本をまとめる権力が存在しなかったからな。
朝廷は完全に幕府の二号さんだったし。
何だかんだで権力兼権威がないと、大名も寺社も庶民も困ったということではないか。
そういう社会構造だから公方が必要とされたと。
信長でさえ、積極的に幕府を潰そうとはしてないよね。
一旦追放した足利義昭を帰洛させようとしたり。
他の時代だと、その名目的権威みたいな役回りは天皇・朝廷が担ってるよね。
この時代だけ変な三重構造になっている感が
義満の代で南朝という創設以来の敵がなくなって
対南朝のための北朝のまとめ役という役割が終わってしまったからじゃないか>変な三重構造
>>281 三重構造といえば、
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権
が元祖でしょう。
もしもその執権が側近たちに政治を投げ出そうものなら
四重構造になるわけですが、
そういう時代もあったのですかね?
朝廷系の鎌倉将軍って権威としての実態はどれぐらいあったの?
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権 →得宗 →内管領と理解していた
江戸時代も朝廷→征夷大将軍→老中→側用人
>>287 それはちょっと違うような・・・
老中を通さずに将軍が自ら権力を施行するためにつくられたのが側用人制度だろう。
(by 大石慎三郎)
>>287 朝廷→将軍→得宗≧執権→内管領としたほうがいいかな。
鎌倉末期になると執権ですら形骸化し、「得宗家」という一つの家が支配するようになる。
その得宗家の執事が内管領。
おおまかな時代の流れで言うなら
頼朝〜頼家〜実朝〜政子の時代
朝廷→征夷大将軍(尼御代)→(執権&大江広元)
泰時〜時頼の時代
朝廷→征夷大将軍→執権&評定衆
貞時以降の時代
>>289 というのが通説と言ったところか
現在ではほとんど見向きもされない曽我兄弟であるが、その異父姉らしき人物は二宮朝忠と結婚している。かの二宮尊徳の先祖である、という話は特に聞かない。
さて、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討たんと富士へ向かう途中に、ばったりとこの義兄に出くわした
曽我十郎(兄)「義兄上に今回の目的を打ち明けたら、仲間になってくれるだろうか?」
曽我五郎(弟)「義兄なんて血縁もない他人だし、俺たちのような落ちぶれた人間の仲間に加わらないだろう。挨拶だけにしておこう」
そこで二人が軽く挨拶したところ
朝忠「どこへいくのだ?」
十郎「鎌倉殿の巻狩りを見て、末代までの語り草にしようと思いまして」
朝忠「やめておけ。そんな馬や恰好で行ったら恥をかくだけだぞ。俺もろくなものを揃えられなかったんで、風邪と言うことにして行かないことにしたよ
お前たちも俺のところへ来て、遊んで行け」
十郎「でも、せっかくだから行ってきます。帰りにはよりますから、御馳走してください」
これがこの義兄との今生の別れとなり当然、曽我兄弟の異父姉とも再会することはなかった。夫から、異父弟たちが帰りによると言っていたことを聞いたかどうかは
わからないが、事件の後で母とともに弟たちの死に泣き伏した。この姉は、後に曽我兄弟を弔うために寺を建立したという。
現在も二宮町にある知足寺であり、曽我兄弟と二宮夫妻のものと伝わる墓が並んでいる。
元はといえば祐経の叔父かなんかが元凶じゃなかったっけ
祐経だけ悪者のように扱われて可哀想だよね。
曾我兄弟の仇討ちって真の目的は頼朝暗殺とか言うよね
北条による暗殺未遂事件
俣野氏誰か語って!
そのへんは推測しか出来ないよなあ
範頼は関わってただろうけど
wikipediaの記述だと
>>祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。
>>押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
祐経カワイソス
ネトラレっすか
曾我兄弟の仇討ち、なんで昔はすっごい人気あったんだろう?
そして何故現代ではここまでマイナーになってしまったのか・・・
大庭・岡崎による頼朝と北条の排除とも言われている。
この事件の後、なぜか大庭景義と岡崎義実の二人が出家し、源範頼は
粛清されてしまう。
祐経の叔父からの因縁を見るにつれて
どうにもスカっとした仇討ちものにはならないよね。
領地押領、嫁略奪までされて、あの時代殺そうと思わないほうがおかしい。
明治期の文学者がテーマにしようとも思わなかったので廃れたんだろう。
>>299 端的に言えば工藤兄弟のはごく私的な仇討であり、近代に入ってから仇討が禁止され、
その心情が徐々に理解されなくなったことが大きいのだろうな。
一方で忠臣蔵は主君や公、組織に対する「忠誠心」の話であり、
これは近代国家においても賞賛された徳目であって、容易に受け入れられたということがあるのだろう。
いったんは祐経に諭されているのに仇討ちを諦めなかったというのが
イカにもDQN臭いし。
もともとは嫡流だったはずの伊東祐親の父が早死にしたため、祖父が後妻の連れ子であった工藤祐継に本領を与えたことを不満に思ってた祐親が、工藤から
奪い返したことを考えたら、祐親も一方的に悪人にされるのは不本意だろうし。殺された河津祐泰(曾我兄弟の父)は、どう考えてもとばっちりだが
あれ、とばっちりなの?
親子共々って感じじゃないの?
307 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 16:54:40
地元の行田市駒方 真言宗 遍照院の話
仁安元年(1166年)の春の事
平泉の城主である鎮府将軍 藤原秀衡は目の病に罹り少しも見えなくなってしまった。
色々な薬を試してみたが全く効果が無かった。
この事を聞いた南部の城主 盛岡信濃守は同国の三戸崎美濃次郎、出羽の城主 山形帯刀と相謀り、
盲目になった秀衡を幸とし、この虚に乗じて一戦交え、秀衡を亡き者にし奥州を手に取ろう
と軍勢を催したのである。
これを聞いた高館次郎は急いで秀衡に注進する。
秀衡は直ちに息子三人に命じて衣川の関に防戦を命じた。
一方、秀衡は守り本尊である信夫郷の薬師如来に心眼を立て、17日間の断食を成し、
心を込めて祈っていた。
すると、満願の日、目の病が治ったのである。
この事に秀衡の喜びは譬えるものなく勇みに勇んで衣川の関に至り、
南部の大敵を追い散らし大勝を得たのである。
そして、この天恵に秀衡は御禮として御堂を建立を思い立っていた。
続き
時に仁安二年4月8日
丁度その日、秀衡は暁の御夢に如来からお告げを聞いた。
それは辰巳の方角に当たって、鎌倉街道の郷に有縁の地があるからその地へ祀れとの事であった。
すぐさま薬師如来を御輿に乗せ奉り秀衡が寵愛する牛に引かせ、
家臣の栗原五郎秀時に命じて御供させた。
旅の日を重ねて8月8日、忍の郷(現・行田市)の遍照院に着いた。
不思議なことに御輿を引いてきた牛が突然ぽっくり死んでしまったのだ。
またその夜、お供の栗原五郎と住職の圓慶は夢で
「この地こそ有縁の地である」というお告げを聞き、またその夢が両人とも同じである事に驚いた。
定めて御心に叶う場所に違いないと薬師の尊像をこの寺に安置し、
死んだ牛は南隅に埋め、印として若松を植えた。(秀衡松)
栗原五郎は国に帰りこの話を秀衡に言上した。
秀衡は大いに喜び本堂、庫裏、鎮棲、仁王門、大塔、山門と建て連ねたのであった。
時代が進んで謙信が攻めて来たときに寺院は燃やされるが尊像は無事。
そして徳川から二十五石を賜り寛政5年に再建、現在に至る。
秀衡が持ってきた行基作とある木造薬師如来坐像は今もご健在
また、秀衡松と言われている若松も臨済宗大蔵寺(すぐ隣)でご健在
けどこの話を裏付ける明確な資料は無いんだけどね
それと下げるの忘れてすまん
>>267 >最初は、「義信」
ちゃうちゃう。「義宣」(読みはヨシノブ)
>と名乗るつもりだったが、
ちゃうちゃう。実際に名乗ったのだよ。その後「義教」に改名。
余談だが彼の玄孫義昭は還俗後「義秋」と名乗ったが、
やはり縁起が宜しくないとかいう理由で改名。
秋の次は冬、っていう斜陽イメージ(?)が忌まれたのだろうか。
ちなみに「義秋」さんからへんきを賜ったと思しき三淵秋豪は
非業の最期を遂げている。
小早川秀秋・・・
まあ関係ないけどなw
>>307 盛岡って江戸時代に入ってから成立した地名だと思ってたから、
「盛岡氏」というのがいたということにびっくりした。ありがとう。
大小を問わず、お寺や神社にある解説って
思わぬローカル情報を知ることができて面白いよね。
>>313 福岡市や広島市は、黒田や福島が名付けた城下町
317 :
1/2:2010/11/10(水) 15:52:22
この話こっちの方がいいな、と思ったので転載
590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 03:32:13 ID:/HHeI23s
上杉禅秀の乱、始末記
応永二十三年(1416)、
先の関東管領、上杉禅秀による、鎌倉公方足利持氏襲撃により始まった、上杉禅秀の乱。
この関東での騒乱は、京にも大きな動揺を与えた。この乱に対し、禅秀討伐の方針が決まると、
将軍義持の弟、義嗣が逐電。高尾の神護寺にて出家するという事件が起こった。
一旦は帰宅を許されるも、その後義嗣は仁和寺に拘束。
将軍義持は近習、富樫満成らにこの事件の捜査を命じた。
捜査はいきなり大きな壁にぶつかる。管領の細川満元や畠山満家ら、有力大名による妨害が
行われたのだ。「今は禅秀の討伐が大切なのだ。こんな事件の究明は無益だ。」
しかし満成はひるまない。捜査を続けるうち、ついに、義嗣の近習から、
義嗣に対し細川満元、斯波義教、赤松義則らが「与力」している、という証言を引き出した。
前将軍足利義満に愛され、一時は義持に変わり将軍を継ぐとまで噂された、義嗣。
彼は前々からその「野心」を噂されていた。
その義嗣と、義持に敵対心を露にしていた足利持氏との繋がり。
逆に義持と上杉禅秀との繋がり。
義持派と反義持派の間で揺れる有力諸侯たち。
関東の乱に連動した、義嗣を中心とした京での陰謀…
事件は、その裏にある複雑な様相を除かせはじめていた。
応永二十五年(1418)正月、義持はついに、義嗣を殺害させる。
この事件はこれで幕引きされた、誰もがそう思った。
だが、富樫満成の追求はとまらない。
6月、義嗣の陰謀に加わったものとして、畠山満家の弟、満則、山名時熙、土岐康政らの
名前が上がった。大規模な疑獄の全容が、暴かれようとしていた。
幕府は、強烈な緊張化に置かれた…、
ここで、この事件は急展開を迎える。
11月、将軍義持の下に、富樫満成こそがこの事件の黒幕である。そう言う直訴があった。
これに、義持は満成の逮捕を命じる。富樫満成は失脚したのだ。
満成は高野山に逃れるが、義持の命を受けた畠山満家の手のものに殺される。
こうして、この巨大な疑獄事件は幕を閉じた。
おそらく義持と畠山満家との間に、「手打ち」があったのだろう。幕府の動揺も、これにて治まった。
富樫満成は幕政の安定のための、生贄にされたのだ。
「知りすぎた男」の、悲劇の物語。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1024.html
>>313 盛岡市の盛岡は江戸時代初期につけられた地名。それ以前は不来方。
デタラメ寺伝なんて信じるな。
>>318 それ通説ね。
反対意見も紹介しよう。
義嗣は禅秀に共闘を持ちかけたらしいが、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もないので応じなかった。
しかし幕閣の面々は、義持が禅秀を支援したら
義持不支持→義嗣擁立というシナリオも考えていたらしい。
それを察知した義持は持氏支持の旗幟を明らかにし、
義嗣擁立は不発に終わった、という説もあるね。
>>320 あまりにも複雑で当時の関東と京都の通信事情でそんな事が可能だとは到底思えないが
>>313 行田史譚(1958)から引用で元は忍名所図会だが
筆者も疑っているから信用しない方が良い。
一様、新編武蔵風土記稿では合戦の部分は省かれており
当の遍照院も同じように合戦の部分を省いて紹介している。(風土記稿の方を引用?)
323 :
320:2010/11/11(木) 20:25:51
ごめんごめん。うろ覚えでいい加減なこと書いちゃった。
「関東謀叛彼亜相所為」という『看聞御記』の記述以来、
「彼亜相」(義嗣)と禅秀が通じていたと見るのが通説だけど、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もない。
義嗣は寧ろ持氏との共闘を模索していた。
と指摘されたのが山家浩樹氏。
>>323 仮説のための仮説としか言い用がないな。時代性を無視しているとしか見えない。
325 :
320:2010/11/11(木) 20:31:48
因みに『中古日本治乱記』には
義嗣は持氏に期待したのに、
あっさり禅秀に敗れたので「だめだこりゃ」(超現代語訳)ってことで
次には九州勢を利用しようと構想したとある。
まぁ、信頼性の程はあれなんだが。。
富樫満成って義持の側室に手を出したのがバレて消されたんじゃなかったっけ?w
それも俗説か
>>464 以前、八王子城から北高尾縦走して終点を高尾山にしたが、
大きめのザックとトレッキングポールが浮いてて恥ずかしかった・・・
それ以来、高尾山口を出発地点にすることにした。
うむ。327の恥ずかしさ、嫌というほど伝わってくるぞ。
>>261 公家っぽいと言われても、アレが正装なんだし。
平氏(平家)は初めから公家。
殿上人になったのは、忠盛が最初じゃなかった?
江戸時代、河内と大和の境にある金剛山のあたりに、『南北(なぎ)の明神』と号する社があった。
その社の主神は楠木正成であり、左右には孫氏、呉氏が祀られていた。
これはかつて楠木正成が常に
「我が天下に武功を立る事は孫呉のおかげである」
と言っていたことから、このような形で社が作られたのだという。
楠木正成を祀った南北明神についてのお話。
333 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 14:12:26
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
やがて七里ヶ浜にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、
起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。
大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。
?
これ戦国板にも貼ってあったが....。
つまりどういうことなんだ
新田貞方が関東の旧南朝方勢力に決起を促すも露見して、千葉兼胤に捉えられてからの顛末。
貞方は親戚筋の千葉兼胤に助命を願い、兼胤も一応は鎌倉公方の足利満兼に一応は取り成してみるも鎌倉公方の意向は処刑。
結局、祖父・新田義貞ゆかりの七里ガ浜で斬首されることとなったのだけど、
「千葉兼胤は親戚のはずなのに、どうして俺を助けてくれないんだ。」
と醜態をさらしたので、首切り役の幡谷刑部少輔は押さえつけて首を掻き切った。
太っていた貞方の首を取られた遺体には、(おそらく最期の醜態への侮蔑として)砂が蹴りかけられており、雨で周辺に血が流れて目も当てられない様子であった。
新田貞方斬首のグロい光景の描写ですね。
>一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
>我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」
現代の政治家答弁にも通じる、何と言う見苦しい言い訳w
ってか言い訳にすらなってないw
>「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
「こんなバカ、生かしても意味ねーからぶっ殺しちまえ」という意味か。
酷過ぎだが、千葉介に同意w
>>339 文脈的にたぶん逆の意味。
>千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、
千葉介(兼胤)は「あれほど出来の悪いやつ、助けてやってもどうってことない(から殺さなくていいんじゃね?)。」と申し上げたけれど、
>鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、
鎌倉公方は「あいつは朝敵の極みだぞ、早く斬ってしまえ。」とおっしゃったので、
>千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
千葉介はこれ以上は無理と判断して立たれた。
となる。
助命しようとする理由も酷いけどねw
助ける気あんまりないけど、親戚筋だから形だけでも助命のお願いしとかないと体裁悪いからしてみました、って印象を受けた。
千葉氏は敵である新田義貞の娘を正妻としていたんだな
342 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 15:40:19
これあの人の最後の改造版だ
平宗盛?
344 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 21:45:05
だって下総千葉氏は元南朝方だもん。
北朝は九州千葉氏
貞胤は金沢氏の婿だったのに逃げてきた金沢一族を虐殺してる。
かっては上総一族の生き残りも始末したし
新田も捕虜にした娘を犯したのかもしれない
345 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 22:32:40
この時代、王朝文学がちょっぴり復活したから好き。
ふむ
千葉氏の北斗信仰、、独特?
妙見信仰=北斗信仰だから特に珍しくはないかと
349 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 10:48:39
_,---、__
/´´ ヽ ヽ `ヽ
_ィィ--イ`Y _/ ___| | `i
_//二`ヽ \ノ 〉、\___r'__|__|_ ,!、 かまくらケーキ!
_//─ヽ ,| | `ヽ イ=、__ ,",,_、= ヽ ノ|
|_==, ___,ィ´ ,,| (、 || ´゚` } {' ゚` |. ..| おいしいでござる。
/ `Y |___/ 人 |`ヾ===||_r--" ̄ヽ--'|==ィ オススメでござる。
../-イ /ヘ、 / ヽ\ ノ、 ,,||,E l'___||__}l::ll .|| |
..| .l/ `ヽ" , ` \ `ゝヽ___,|l"\'' ̄|| ̄}}ィ/__ィ
..|/ ヽ `ヽ \ `""/"ノ `----''´.ヽ みんな、買ってね!
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〉ヽ、| ヽ `ヽ ヽ | | ',
/ . | |\ Y ノ ノ ノ } .|
/ ',. |xx >、__> - ィ ノ / /
/ ヘ. |x/ ./ ヽ--イ >''´.イ
|ヽ、_ Y . // ``───''""´´///
伊豆で、源頼朝が平家打倒の兵を挙げたころ、遠く西国伊予で、
河野通清・通信父子が呼応するかのごとく、反平家の兵を挙げた。
が、なにしろ、瀬戸内一帯は親平家の豪族ばかりである。
たちまち、平家方の奴可入道西寂に居城を攻められ、河野通清は討ち死。
その時、城にいなかった、通信は母の実家(備後沼田)に逃れ、復讐の機をうかがう。
西寂が波方(沼田の対岸)に来たことを聞いた通信は漁民に変装し、西寂の宴に侵入、
酔っていた西寂を捕らえ、父通清の墓前に引き立てる。
父の墓前にて復讐を果たそうとしたのだが、なにしろ、西寂は酔っている、
トイレが近い。
我慢ならんとばかり、通清の墓に小便を。
父の墓前で、といらん演出をしたばかりに、父の墓に小便をかかえられたという、
河野通信のバツの悪い話。
そんな逸話が21世紀の世まで残ってるなんて…
当時はよっぽど馬鹿にされたんだろうな
この後で、鋸を使って西寂の首を切ったという話もあるようだが本当なら、それが原因で怒り心頭だったのかもな
>河野通信
つう…しん…
その読み方も間違いじゃないよね
まあもしかしたら、銀行とか鉄道とかそんな感じの名前の人もいたかもね
浜村通信がまっさきに思い浮かんでしまった
保守
何だか最近勢いなくなっちゃったね
初期の逸話を読むのが追いつかないほどの活気はどこ行った?
山野氏カムバックプリーズ!
ものぐさ太郎
規制にひっかかっているとか
>>147 直火はだめだってw
>>150 子供って好きだよねw
うちの子も、子のつれてくる友達もみんなおいしいってってるわw
ひどい誤爆だw
いいママだなぁw
楠木正行が安倍川沿いで足利軍と戦った時の事
足利軍一万は安倍川沿いに楠木軍を求めて連日、行軍していた
その日は朝からみぞれが降り、強い風も出てきて、足利軍の足並みは乱れがちとなった。
敵はどこから攻めてくるかわからない。先をいく兵士たちはぬかるむ川沿いを用心深く進むが、後続は多少の気楽さもあり急かしながら進んでいた。
足利軍の将である山名時氏や細川顕氏らは
「隊列を乱すな!敵はどこから攻めてくるかわからんのだ」
と兵を叱咤するが効果がない。と思った時だった。川向こうの林に人が動くのが見えた
「敵だ!」
隊列の中央の誰かが言ったとき、先をいく一隊は足元ばかりを見て行軍していた為に大混乱となった
そこに正行率いる楠木軍精鋭一千が川の上手から斬り込んだからたまらない
その地に暗い足利軍は、算を乱して逃げ場を求め、川の下手の渡辺橋を渡り始めた
すると突然、橋桁が崩れた。楠木軍が崩れるように仕掛けをしておいたのだ
川の中に落ちていった鎧武者たちは武具を付けていて泳ぐことも出来ない。中には川底に沈む者もいた。足利軍の大敗北である。
これを見て楠木軍は手をうって喜び、足利軍の不様ぶりを囃し立てた
暫くしてその様子を眺めていた正行が馬を飛ばして渡辺橋まできた。そして家臣に言った。
「味方が溺れかかっているぞ。みなで力を合わせて救うのだ!」
楠木軍の兵たちは怪訝な顔をして正行を見た、その顔には
(川で溺れているのは敵の兵たちではありませんか)
と書いてあった。実際、そう口にする者もいた。これに正行は言った。
「我々に刃向かわない者が、どうして敵なのだ」
「者ども早く救え」
正行の強い言葉にハッとなっあ楠木軍は、腕を伸ばし木を差し出して溺れかける足利軍の兵を次々と助けた。
助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
これはちょっといい話なのか悪い話なのか?判断に迷うなw
ヨーロッパっぽい話だな。
出典は何? 読んでみたい。
>助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
ねーよw
ふー、
あけおめい
ことよろう
動かないなぁ
いまはもう動かない阿蘇惟直
北条義時の色恋話
北条義時、そう!鎌倉幕府2代目執権にて超冷徹な官僚としても有名だった男である。
が、彼があるとき大変なことになっていた・・・・・・・
義時「ハァ〜・・・・・・・」
同僚「?どうされました?」
義時「あ・・・いや、何でもござらぬ。はぁ〜」
おかしい、仕事に手が着いていないのである。
で、そのころ鎌倉殿の女中陣はと言うと、超美人で有名な姫の前が・・・
姫の前「義時様から・・・・『恋文』が、この前は歌でしたが・・・」
女中仲間「それで、お返事は?」
姫の前「断りの返事を書きました。迷惑なのです!」
どうも義時さん、この頃ストーカー化していたらしいのです。
しかも・・・・・
義時「あぁ・・・姫の前殿のがちらついて・・・仕事ができん!」
恋患いの方向で・・・・
義時の色恋話その2
さて、義時がこの調子では同僚を通じて話が行くべき所に行ったのか?それとも
もしかしたら女中の皆さんの方向から、別の意味で行ってはいけないところ、つまり
天下最凶のお姉さまのところを経由してお姉さまの亭主の所に行ったか?
鎌倉殿「義時が恋患い?仕方ないなぁ、義時を呼んでこい!」
こうして、鎌倉殿のところにでてきた義時は面前に起請文がおかれ、
鎌倉殿「この
『姫の前の嫁にした暁には絶対に離婚しません』と言う起請文
にサインしろ、そうすれば俺が結婚の口を利いてやる。
相手は比企一族の娘だから北条家的にも悪くはないだろう。」
義時「サインします!喜んでサインします!」
こうして、『離婚しません』と誓った上で結婚することが出来た義時君であった。
こんな、当時の常識では考えられないある意味恥ずかしい『義時の恋患い』を
キッチリ記録に遺す吾妻鏡も大概だが・・・・・・・
しかし!
比企の乱のときに、義時君、姫の前と離婚したらしいんですよ。
所詮紙っぺらですか、起請文なんて。
かわいいw
けどストーカーって言葉が普及したのここ15年くらいか?
それまでは愛の形として認められてたのかな。
甲斐源氏の有力者、安田義資。
幕府に仕える女官に恋をした。
それで恋文を出したんだが、それを見つけた梶原景時。
「今は鎌倉殿の母上の法事時期。こんな時期にこんなものを出すとは、風紀を乱した。けしからん」と
安田義資は死罪。
そして
>>375>>376の事件が起こる。
それを聞いておさまらないのは、父親の安田義定。
「うちの息子は、死罪なのに、なぜ義時はいいんじゃ!納得いかん(以下 略 」と
こぼした。
それを聞いた梶原景時。
「安田義定に謀反の疑いあり」と告発。
たちまち幕府の大軍が安田義定の屋敷を取り囲み、安田義定は自刃。
リストラ候補者は、くしゃみひとつでも理由になるという教訓
ちなみに安田義定の甥の一条忠頼は、「態度がデカイ・生意気」というだけの理由で
粛清されている。
>>377 どうも義時さん、恋文をたくさん出したようです。
しかも、吾妻鏡には恋患いが原因で仕事が手に付かなかったと記録されているようです。
いくら正直な吾妻鏡担当の記録係が揃っていたとは言え、何もそこまで書かなくても、
もう少し考えてやれよと思うのですが・・・・
>>376 姫の前は朝時、重時の母親なんだよね。で、義時と離縁後に
京都の公家の妻になっていたはず
>>378 甲斐源氏の場合、大きな勢力を持ちながら頼朝の家人という意識が希薄だったみたいだし、
そういうあたりが頼朝に警戒されたみたいだね。
鎌倉式懲罰とは
懲罰、武士でコレを喰らえば切腹、出家、隠居、押し込め、領地没収、叱責などがある。
そんな鎌倉のある日、平家も滅亡した直後のことである。壇ノ浦の戦いを含めた戦後処理で
忙しい頃のことである。
夜須さんと言う御家人が幕府ににやって来て言うことには、
夜須「壇ノ浦での私の戦果に関する恩賞が何もありません。どうなりましたか?」
どうも夜須さんの戦功に関する音沙汰が無かったようである。鎌倉殿はそれを聞き、
壇ノ浦の戦いに出した梶原景時に聞いてみた。
景時「夜須?そんな御家人知りません。いませんでしたよ。」
夜須「ウソつけゴルァ!」
どうも景時さん「シラネ」と報告してしまったので、夜須さんと裁判になりまして、
最終的に「夜須さんは壇ノ浦の戦いに参加して手柄を立てた」と言うことが証明された。
こうなると景時さんに「懲罰発生」となる。とうとう正式な懲罰が決定した。
頼朝「梶原景時くん、罰として鎌倉中の道を作り、街を整備しなさい。」
こうして罰として道路工事を命じられた梶原景時さんは、若宮大路を始めとする
今に続く鎌倉市の道路を建設するハメになったとさ。何故わかるか?それは、
吾妻鏡にしっかり記録されているからだ!
というわけで、鎌倉市の道路整備関係者と土建屋は梶原景時さんに感謝するように。
これ罰なのか?
全部景時の私財を投入してやれってのなら結構大変な罰だけど
一介の御家人が鎌倉の道路を建設するほどの財力持ってたらそれもそれで問題になりそうだが
しかし景時ってやけに頼朝から重用されたよね
畠山重忠とか小山朝光とかにもこんなことしてた
そりゃ、頼朝が死んだあと殺されるわ
北条高時。
鎌倉幕府執権にして実力者。そして最後の得宗家当主である。
そして、田楽、闘犬が好きだった男である
ある時その高時が酒を飲んで踊り始めた。
ところが踊り始めるとどこからか田楽法師がたくさんでてきて
歌い始めた。
「天王寺の や 妖霊星を見ばや」
謡の内容といい、田楽法師達といい、不思議なこともある物だと家臣が覗くと
そこには、嘴の生えた者、獣の化けた者が高時を中心にして田楽を踊っているではないか。
驚いて踏み込んでみたところそれらの物の怪は、すでに姿を消し、あとには動物の足跡と
酔ってその時の記憶がない高時がいたという。
後に家臣が学者に聞いてみたところ、天王寺には聖徳太子の書いた予言書があり、
天下大乱が起きるとき「妖霊星」が現れると言う答えが返ってきた。
後醍醐天皇の討幕運動直前のことである。
未来記は面白いよな〜
>>382 やっぱ、石橋山で、飯田家義とともに、頼朝をこつそり救ったという、、
>>382 当然私財を投じてだよ。
ただ種明かしをすれば、景時は地元鎌倉の有力者だから、遠くから家来や労働者を
連れてくるよりは大変じゃなかった。
>>386 鎌倉党です。
上杉謙信を生んだのも鎌倉党。
鎌倉幕府は、鎌倉党、三浦党の
中に、伊豆の似非平氏が乗っ取りにきたのです。
>>386 もっといえば、村長さんの寄り合い所帯の鎌倉幕府の中で
行政というものと和歌漢籍などの教養を理解出来るのが
景時と阿野全成しかいなかったという悲しい現実がある。
全成は前職の三井寺のお坊さんとしても出世していたらしいし。
幕末ものより吾妻鏡のほうが、よっぽど現代人の教訓になりそうだ。
>>388 地味な弟だけど、戦場に出すよりも有効な使い道がある貴重な身内だったんだな>全成
鎌倉時代のこと
その当時の鎌倉執権より青砥左衛門(あの落とした銭を大金を使って探しだした逸話で
有名な御家人である)に、
「夢に、『左衛門の忠誠に対し加増すべき!』との神示があった故、加増申し渡す」
との命があったが、左衛門はこれを即座に断った。
これには加増を伝えに来た使者
「いかなる理由があっても、加増褒賞あるべき事を断るというのは愚昧かつ非礼ではないか!」
と、批判したが、左衛門答えて
「武辺、その他手柄があった上での加増であればありがたい事である、だが夢のお告げをもって
加増を給わることがあれば、今後仮に『青砥左衛門の頚を刎ねるべし』と夢のお告げがあれば、
頚を刎ねられねばならぬ。」
と、遂にこの加増を受けなかったという。
この逸話、どっかで聞いた事があるような....。
>>391 三善や二階堂(藤原南家)や伊賀(秀郷流)もそうですね。
二階堂は『吾妻鏡』でも武士ではなく、文士として寓された例がある。
室町から微妙に外れるので、このついでに書いておきますか。
天正10年6月2日の早朝のことである。
その日、本能寺に桂川の鮎を届けに来た者がいたが、そのついでに妙なこと
を伝えてきた。
明智日向守が、丹波から兵を引き連れてきたが、道すがら京へ向かう者は切
り殺しているというのである。
近習もこの話を聞いて不審がったが、前夜信長は囲碁と将棋を楽しんで夜半
まで起きており、起こすことがためらわれたので、夜が明けたら何事か分か
るであろうということで、済ませてしまった。
翌朝訪れた運命は、言うまでもない。
>>394 天正の話なら戦国ちょっと悪い話の方に投下していいと思います
ふむ
江戸中期ころのこと。
医師が同僚を引き連れ薬草取に出たとき、新田大明神という新田義興の墓のある場所(今の
大田区矢口町の新田神社)で、召し連れていた小僧が草を取ったが、その時同伴の者たちが
それを止めさせるような事もしなかった。
宿舎に帰ると、その小僧が突然奇怪なことを言い出した
『我が住む所の草を取れることに憎さよ!』
このように罵り叫ぶ。一同大いに驚き、その場所でとった草をすべて元の場所に戻すと、
小僧はすぐに元に戻った。
英雄の怒気は凝然(留まって動かないこと)するというから、後世このように神異を
起こすこともあるのだろうと、当時の評判であった(耳袋)
珍しい(?)新田義興の神異譚
>>397 新田義興の怨霊噺は、江戸時代には非常にメジャー。
近松門左衛門の心霊矢切の渡しなんかで庶民はみんな知っていた。
源頼朝の富士大巻狩の時、彼の嫡子頼家は12歳にして初めて鹿を射た。
これに頼朝は大いに喜び、梶原景高(景時次男)を使いとして御台所、北条政子に
その事を伝えた。
これを聞いた政子は、しかし少しも喜ばず
「武家の嫡男が狩場において鹿や鳥を得るなどというのは、そのように緊急に報告するほどの
珍しいことではないでしょう?」
これに使者は面目を失って退出した、という。
八幡太郎義家の教えに、「武家の五つの道」というものがあった。
一には、究途(道を極めること)を知る
二には、卑賤をわきまえよ
三には、道理を先立てよ
四には、国土を知れ
五には、掟を違えず
以上五つを武家の守るべき道である、としていたと言う。
>>398 曾我物語と同じく、太平記の後半エピソードって現代では忘れ去られてるわな
母の愛とは?
源平の合戦が終わったとは言え、鎌倉の権力基盤がまだ固まりきれていないとき、
源義経と源行家がつるんで頼朝に対して反旗を翻した。
もちろん失敗したので、今度は京都に北条時政が乗り込んで、関係者の尋問を始めた。
当然義経の母親の常磐御前は尋問の筆頭である。当然呼び出されたのだが、
何と常磐御前、息子をかばうどころか義経の事について
素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
それでも生きながらえたのは、婚家の一条家のおかげか?
それとも、北条時政の娘婿2号機(1号機は頼朝)にして
鎌倉幕府の官僚になっていた息子の阿野全成(今若丸)のおかげか?
まさか北条時政が娘婿2号機のために尋問に手心を加えたんじゃ無かろうな?
403 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:08:44
>>394 山野さん
戦国時代板に兄弟スレがあるので、
そちらもよろしくです
>>399 東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
もっとも、『吾妻鏡』では政子が肯定的に描写されている様ですので、少な
くとも当時の編纂者は、そのまま美談として受け止めたらしい。
>>402 >素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
「母并妹等」を拘束して所在を問うたところ、石倉だと判明しただけという
記事が『玉葉』にありますが、これだけだと母が喋ったのかも分かりません
し、『吾妻鏡』での記事も、至って簡略なものです。
これだけで
>この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
以下はあんまりな気が。私の見落としのせいかもしれませんが。
>>403 何しろ、既出か否かの確認がなかなか大変なものですから。
しかし、DQN四天王の島津の歌(いつはりもがな)の解釈は、あれでいい
のでしょうか。
>東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
>舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
意義を理解できなかったとすれば、この件の三ヵ月後に盛大に祝われた政子の甥の扱いが謎になる件
北条泰時・経時は鹿を獲物とする矢口祭を行なっており、北条氏にとっても狩猟は重要な政治文化だった。
ところが、室町期には鳥を獲物とする矢開の故実が流布し、室町殿も雀を獲物として矢開を行なっている。
そうした鳥の故実は室町期に形成されたのではなく、北条得宗家において創始されていたと考えられ、
近世の故実書が引用する徳治二年(1307)の矢開の日記によれば、得宗家で雀の矢開が行なわれていた。
武家首長の矢開は中世に一貫してみられたが、その獲物は十三世紀後半以降、鹿から鳥へと変化していたのである。
武家首長の公家化という面だけでなく、武家文化の変容についても考えてみることが重要であろう。
この研究成果の一部は、2005年11月、「武家の狩猟と矢開の変化」と題して、史学会(東京大学)第103回大会日本史部会(中世)において発表されている。
そうするのがよいですよね。
407 :
403:2011/02/07(月) 22:02:09
>>404 まとめブログに言って武将名と逸話に関する語句でサイト内検索すればOK
それでも既に出た逸話なら謝れば良いですw
えびなむかしばなしより
鎌倉時代の初め、現在の神奈川県海老名市上今泉にある秋葉山中に
白雲という老人が、世を避け、人目を忍んで暮らしていた。
白雲は中国から帰化した人で毎年春秋の二期、大山丹沢の山波がくっきりと澄む天地晴明の日を選んで
胡服に着替え、故国の空に向かって一心に読経するのを行事としていた。
また、仲秋名月の夜には、わざわざ天壇を築き、同族の者たちの参加に老人は胸をはずませる。
いよいよその刻限になると五十人、時には百人もの人たちがどこからともなく風のように集まって来て、
かの天壇にひざまづき狂気のように読経をする。
そしてその果ては遠い故国をしのんでか、一同声を立てて泣き叫ぶのであった。
その声は辺りの森に陰にこもって空恐ろしくせい惨な雰囲気をかもし出すのであった。
やがてそれが静まったかと思うとこの人たちの群は霧のようにかき消えてしまうのだった。
正治二年(1200)のこと、かねてから白雲たちのこの行動を快く思っていなかったこの地の地頭は、
一族と村人を率いて白雲の草庵を急襲し彼を殺害してしまった。
そればかりでなく、白雲が守っていた墳墓を掘り返し、埋蔵されていた宝鏡、宝剣、神玉を取り出し私物化してしまったのである。
この宝鏡については「神鏡、景初年中(237〜239)と伝ふ」(鷹倉社寺考)とあるから、
中国は魏の時代に製作されたものに違いあるまい。ひょっとするとかの有名な三角縁神獣鏡であったかも知れない。
この暴挙はたちまち幕府の知るところとなった。
国王の墓をあばき、その縁に当たる者を斬殺した罪は軽くないと、地頭とその一族は捕らえられて
鎌倉の刑場の露と消えた。
なお、これに加担した里人もことごとく滅ぼされる羽目となった。
この後、村人たちはその怨霊の報いを恐れて秋葉山中に足を踏み入れる者は一人もなかったという。
さらに後年これらの諸霊を慰めるため石の祠一つを建て、近くの寺の常泉院持ちとしたというが、
それらしいものは今日見当たらない。
村人が幕府を恐れる理由はわかったが怨霊関係ねえ
この時代はそういうのにまだぎりぎりリアリティがある
宋どころか金も滅んでないのになんで東国に大陸人が?
なんか風魔の小太郎っぽいな
413 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:41:20
神奈川県海老名市というと地頭は海老名氏だな
わかりやすいな
wiki読んでみるとあの辺の出身ってだけで海老名市あたりの地頭に任命されたって事はないみたいだが
416 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 17:54:44
鎌倉遺文16037 関東下知状案 東寺百合文書ミ
可令早源季直領知相模国下海老名郷内在家、并播磨国矢野庄
例名内浦分地頭職〈四至堺名字分限載譲状〉事、
右、任親父海老名四郎左衛門尉季景法師〈法名仏然、〉 文永元年八月
廿一日・今年九月廿一日譲状等、可令領掌之状、依仰下知如件、
弘安九年十一月廿三日
相模守平朝臣在判
陸奥守平朝臣在判
ふむ
えびなさんスレ?
420 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:27:26
421 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 00:12:44
折角なので赤穂郡誌の海老名さんネタ。
頼朝の富士の裾野での狩りに従った海老名弾正。
その幾日目かの夜、弾正の夢に白狐が現れ、「明日の狩りではどうか私を射ないでほしい。
もし射るようなことがあれば、その時はお前を祟ってやるぞ!!」と告げた。
弾正は夢の中で「分かった」とうなずいたのだった。
そして翌日、やっぱり現れた白狐。毛並みも形も弾正の夢の通り。
頼朝は、この獲物に喜んだが、誰もそれを射ようとはしないではないか。
「あれを射るのだ!弾正!」
頼朝の命だが、昨夜の夢のこともあって、弾正は矢を放つのを躊躇していた。
その様子に激怒した頼朝!
「狐より先に、弾正を射殺してしまえ!!」と周囲の者達を恫喝し始めた。
こうなっては仕方ない・・・。
弾正は一矢で白狐を射殺。
頼朝は笑顔を浮かべ、「よくやった!褒美を取らせる!
備前のコジマか、那波(なば)のオオシマか、お前の望む方を与えよう。」
「小島と大島・・・。そりゃもちろん小島より大きい大島の方がいいだろ!」
そう考えて弾正は大島の方を望んだ。
こうして海老名氏は、広大で肥沃な備前の児島ではなく、
播磨国矢野荘(相生市)の湾奥に浮かぶちっぽけな島・大島を領することになったのである。
なんだそのじわじわくる話w
凄い微妙だが結構痛い呪いw
というかその選択ミスは狐のせいなのか?w
「ミノオワリ」を思い出した。頼朝なりのジョークなのか。
つうか狐のほうも下っ端じゃなく頼朝の夢に出ろよって思うけどなw
427 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:48:54
>>400 義家公の家訓とは珍しい。
出典を教えてください
428 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:12:56.97
>>421 それは幕府を嫌っている人間が作った伝説だろう
仮にそうだったとして何が狙いだったんだ。その幕府を嫌っている人間は。
430 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 14:07:55.80
西国の百姓たちは、鎌倉時代に地頭になった鎌倉御家人の
荒々しい強権支配に苦しんでいたからね。
その恨みがこういう伝説を生んだんだよ。
後世の人の、こんな小さな島に何でわざわざ関東から?
という思いが、話を膨らませたんじゃないかな。
ちなみに、赤松円心が狩りを行った際に海老名氏が狐を退治し、
その祝いとして大島城を賜ったという話もあるそうです。
その赤松円心にも、これまたぶっ飛んだ民話が伝わっているんですな。
上郡町に河野原(こうのはら)という地区がある。
赤松地区に隣接し、最寄り駅は智頭急行「河野原円心」駅。
駅の近くには、赤松円心や、則祐らの木像が納められた「宝林寺」が建つ、そんな場所に伝わる民話。
今は昔、5月の穏やかな陽気の中、千種川に張り出した岩の上に腰掛け、
釣り糸を垂れながら、コックリコックリと船を漕いでいる男がいた。
稀代の謀将赤松円心、その人である。
しばらくまどろんでいた円心は、足の指に違和感を感じて目を覚ました。
小さな蛇が近付き、足の親指を舐めていたのだ。
円心は気にも留めずに釣りを再開したのだが、蛇は見る間に大きくなり、足の指全部を咥えてしまった。
さすがは円心、動じるどころか、「奇怪な事だ」とその様子を見ていると、蛇はさらに大きくなって、
今度は踵まで飲み込んでしまった。
さすがは円心、これでも動ぜずに様子を見ていたのだが、蛇はますます大きくなって、
脛、そして股までも飲み込んでしまった。
さすがの円心も、こうなってはもう許せない。
「ごーわく(業沸く)のぉ〜〜!!」とばかり、腰の刀を抜いて大蛇の頭に斬り付けると
大蛇は血を吹いて、左へグルグルと廻りながら水底に沈んでいった。
この時から、この渕だけ左渦が巻いて流れるようになり、
「左渦の腰掛岩の所には決して入るな」と言われるようになったという。
う〜ん、どこから突っ込んでいいのやら・・・。
凄いのか凄くないのかよくわからん蛇だ。
434 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 15:06:53.24
>>431 海老名氏って矢野庄の地頭で、大島とかいう小さな島の地頭ではないでしょ?
>>434 大島は居城ですね。
今は陸繋島になって、寺が建ってます。
海老名氏は赤松氏に従って白旗城篭城戦に参加してるけど、その際に大島城は落城。
戦国期には、大島城とわずか数段の田畑を龍野赤松氏に安堵してもらうまでに落ちぶれ、
江戸期には庄屋になってる。
437 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:23:48.98
>>421 頼朝を悪く言っているところが興味深い。
諏訪神社下社の大祝・金刺盛澄は木曾義仲と縁が深かった為、頼朝に捕らえられ、
死刑を待つ身として梶原景時に預けられていた。
盛澄の武士としての才覚を惜しんだ景時は、頼朝や諸将の前で流鏑馬を披露する
機会をあたえた。
「八つ的を射てみよ」
頼朝の命で引き出された荒馬を、盛澄は試し乗りをすることなく乗りこなし、
次々と的を射抜いていく。頼朝の要望に応え、何度も繰り返すうちに、ついには
用意されていたすべての的を射抜いてしまった。
「割れた的を射てみよ」
二つに割れ、小さくなった的も盛澄は正確に射抜いていく。これを見た諸将は
感嘆の声を上げ、盛澄を賞賛した。
「的の串を射てみよ」
頼朝のさらなる命にも盛澄は動ずること無く、すべての的の串を射抜く。
しかも矢は串の上五寸を均等に貫いていた。
諏訪大明神の御神威に感服した頼朝は、盛澄を助命し、帰国を許された盛澄は
景時の厚意に感謝し馬場に梶原塚を建てたという。
439 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:54:02.39
似たような話が吾妻鏡にあるぉ
今も昔もムチャ振りには即応できなきゃいけないんだなあ
波多野か河村で、同じ話があるね
大庭景義が、かくまっていた甥っ子をそれで助け、なおかつ所領も取り戻してやったという話だな。
弟は助けられなかったが、この人もなかなか強かだな。
>>443を訂正。
大庭景義が、かくまっていた甥っ子は、松田(波多野)有常だった。
>>444 大庭景久がウチの実家付近に住んでた
横浜戸塚区俣野
回覧板まわしてたような表現に和んだ
447 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 13:36:15.11
>>394 まとめサイトにも出ていないようなので、
その逸話を戦国時代板に転載してもいいですか?
>>388 三井寺(園城寺)は弟の円成
全成は醍醐寺
449 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:52:31.89
地元の大内氏中興の祖大内弘世が京都に初めて行った時のこと。
「在京のあいだ、数万貫の銭貨、新渡の唐物等、美を尽くした奉行、
頭人、評定衆、傾城、田楽、猿楽、遁世者までこれを引き与えけるあいだ、
この人に増る御用人もあらじと、未だ見えたることもなき先に、誉めぬ人こそなかりけれ。
世上の毀誉は善悪にあらず、人間の用捨は貧福に在りとは、今の時をや申すべき。」
なんか後半部分でバカにされてないかい?
それともし需要があるようなら(ヤ○ザな)弘世と(ジャ○ア○)義弘の逸話を投下します。
オオウチキター
451 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 08:17:56.13
おっと打ち間違えた、「美を尽くした」ではなく「美を尽くして」だ
ちなみにこのとき正平19年(1354年)大内氏はまだ周防長門を治めているだけであり
莫大な利益をもたらした勘合貿易も朝鮮との貿易もやっていない。
さらに上京直前には南朝連合軍に惨敗を喫したばかり
そん中わざわざ京都まで行き大金をばらまくパフォーマンスを行ってる。
金の出所と南朝との戦の経緯はまた後程
ソースは?
453 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 00:51:17.46
「」の中の文章は太平記です。
他は大内氏研究の御薗生翁甫氏著「大内氏史研究」より
454 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 02:39:54.96
安宅の関で、義経一行と知りつつも見逃してやった富樫泰家は男の中の男だよな。
黒澤明の古い映画「虎の尾を踏む男達」を観て感動したよ。
455 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 23:23:43.69
そのとき義経を捕まえてしまったら、奥州藤原氏を攻める口実が・・・
あれは藤原氏が義経殺して「悪いのは全部こいつだから」って責任全部押し付けようとしてたからなぁ。
初めて聞いた
責任というか義経追討を妥協そてもらおうとは考えていただろうな>藤原氏
まあ勧進帳は作り話で、最初から義経を泳がせて奥州藤原氏もろとも
潰すつもりだった、というのが実情だろうな。頼朝のことだし。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 19:06:21.28
>>459 よくそう言われてるけど、頼朝がわざと逃すように各地の武士に命じた史料は何もないからw
田舎御家人がそんな頼朝の真意を知らないで義経を見つけ出して討取ったらどうすんだww
まあ秀衡死後に奥州が半分自滅してくれたのは結果論で、
義経逃亡時には、義経が秀衡の元に転がり込むのは頼朝には悪夢以外の何者でもなかったろう
462 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 21:19:41.19
院宣をもらった義経が西国武士団の統合に成功し、
奥州藤原氏と気脈を通じて、東西から頼朝を挟撃する・・・
というのが頼朝にとって最悪のシナリオだったと思うが。
このあたりの時代は、少し変わるだけでその後の歴史がひっくりかえってしまうぐらいだからifの妄想しがいがあるな
464 :
454:2011/04/02(土) 00:47:44.88
勧進帳には、実は続きがあって、
富樫泰家は、義経一行を逃した責任を問われて、加賀国守護を罷免されたので
出家して、平泉にいる義経に行った。
その後、加賀国に戻って、余生を全うした。没年齢はわからないが長寿だったそうだ。
白紙の紙を読み上げた弁慶も素晴らしいが、義経一行と知りつつも逃した富樫
男ぶりに感動しました。
465 :
454:2011/04/02(土) 00:51:33.84
あ、3行目タイプミスしました。
【誤】出家して、平泉にいる義経に行った。
【正】出家して、平泉にいる義経に会いに行って、実際に会った。
>>462 西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに無理だろ
鎌倉武士団が西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに平家を滅亡出来た件
>>466 そう思う。
九州に行けなかった時点で終わっている。
一応、豊後大神氏の棟梁緒方惟義は迎える用意をしていた。
岡城はそのために築かれたという。
だが、義経がこないとわかると、あっさりすっとぼけた。
ちなみに緒方惟義はもともと平重盛の家人だったので、九州に落ちてきた平家は
重盛の息子・清経を遣わして助力を要請した。
だが、すでに重盛が死んで久しいことと仲の悪い宇佐神社が平家についていたともあり、
緒方惟義は助力を拒否、清経を追い返した。
悲観した清経は豊前沖で入水した。
おお…
この時代の九州の話は面白いな
最悪の悪夢は関東武士団の離反だろう
当時の頼朝支配体制が盤石だったとはとてもとても
大友や島津や武藤を九州に送り込んだのも(実際には京都でとどまって代理人を送ったにせよ)、コネが無いから新たに構築しようって腹だったんだろうし
う〜ん島津さんもそこに入れちゃうのw
473 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 15:22:45.52
>>470 支配体制とは微妙な勢力均衡の上に成り立つもので
盤石な支配体制など古今東西ひとつも存在しない。
474 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 17:48:40.32
泰時は本当は頼朝の子だった
徳川家康が、新田義重の子孫という方が、まだリアリティあるね
>>369 ついでに言えば緒方惟義は、源範頼に軍船80隻を提供していたが、
おなじ大神氏系でも戸次氏は平家の軍に加わっていたりするんだよ。
平家追討という大義名分をえた緒方惟義は、積年の恨みを晴らすため宇佐神宮を焼き討ちした。
多数の宝物や古文書を奪ったという。(このとき奪った宝剣は、子孫の佐伯氏から伊勢神宮に奉納された)
しかし、頼朝から義経に加担していた(
>>468)という疑いをかけられ、宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
つみをとわれた。
しかし、功多きことを考慮しても死一等を減じて関東下野に流罪。
とはいえ、それなりに自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
すまん訂正
しかし、頼朝から義経に加担していた(
>>468)という疑いと宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
罪を問われた。
しかし、功多きことを考慮して死一等を減じて関東上野に流罪。
とはいえ、それなりの自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
478 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 17:25:06.44
平家物語や源平盛衰記ってどのくらい信用できるの?
>>478 民明書房刊行書籍より、やや信頼がおける程度には。
480 :
日本@名無史さん:2011/04/14(木) 00:33:04.58
平家物語なくして平家政権を語れるの?
>>478 琵琶法師さんを信用できないとでも言うのかい?
まだ当事者の子供の世代がいるころから伝わってるんだから、あまりに露骨に変なコト言ってると
文句言われたと思うんだがな。
483 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 05:46:10.98
頼家はキンタマを握り込まれて力が出なくなった隙に殺されてしまったのか、
握り潰されてしまったのか、もぎ取られてしまったのか、どれなのか気になる。
484 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 08:18:13.68
一応絞殺でしょ
485 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 20:34:30.40
頼家は馬鹿だったの?
それとも有能過ぎて殺されたの?
バカとは言わんが、複雑な御家人同士のバランスを捌くほどの能力はなかったということだな。
父頼朝の将軍独裁制をそのまま継承しようとして家臣の反発に会ったという説もある。
頼朝時代からの流れの中で見ないといけない。
頼家の個人的な素質を重視し過ぎるのはいかがなものかと。
488 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 08:10:52.18
>>484 「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、
頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
慈円の伝聞だと刺殺だそうだけど。一応、慈円は摂関家の子で天台座主で
関白太政大臣の後見を務め、幕府とも繋がりがあった有力者。
そんな有力な高位聖職者の耳にふぐりを取りなどして〜なんて項目が入った
伝聞を確証なく吹き込む奴がいたとはあんまり・・・。
そんだけ御所近辺では嫌われていたってことではあるまいか?>頼家
今回の管総理もあることないこと産経あたりに書かれてるし
それと同じ構造と予想
490 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 11:51:13.44
>>489 逆。御所方というより慈円の立場、摂関家や叡山等が
北条家を嫌っていたか、もしくは中立だったって構造。
北条方の吾妻鏡こそが頼家のことを悪し様に書いてるし、
吾妻鏡ではただ頼家死去の報告があったと書かれてるだけ。
御所方が頼家を嫌っていれば当然の報いみたいな文句が
加わるはずだし、北条が暗殺したなんて書くかも怪しい。
頼朝家は協力的な存在で、御所方の権益を担保してくれる。
だから慈円は頼朝を褒めていた。
吾妻鏡記載の比企能員の変の前日に、なぜか頼家病死を
告げる使者が京都を訪れたと皇族や摂関家の他の成員の
記録に記載されてるし、胡散臭いのはどう見ても北条家側。
491 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 13:40:33.94
>>488 「頸に緒をつけ」
訳文が間違ってるよ。
引用にある通り、首に緒(紐)をつけ、だから、首に絞めた紐を引いた絞殺。
逆に刺し殺すとはどこにも書いてない。
492 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 13:45:52.55
>>489 鎌倉幕府北条氏は朝廷に源頼家が「病死した」と嘘の報告して、弟の源実朝を征夷大将軍に任命させた。
しかし、実はこの時頼家はまだ死んでおらず、修善寺に幽閉中だった。
その後、頼家は北条氏の手によって暗殺、都にはだいぶ後になってから知れ渡った。
朝廷の後鳥羽天皇やら慈円やらは当然、北条氏が嘘の報告をしたことを激怒。
北条氏がやった残虐な頼家殺害方法をわざわざ記したのは、それだけ慈円が北条氏に怒っていたということ。
493 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 13:54:26.81
494 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 18:55:42.62
当然首は鎌倉に送ったんだろ?
頼家を確かに殺しましたよという証拠に。
で、頼家の首は鎌倉のどこに埋めてあるの?
頼家の首を斬り取り鎌倉に送って首実験したという記録はない。
頼家殺害は鎌倉幕府将軍実朝の許可を得たものではなくあくまでも暗殺で、
首を斬り取られていないのでは?
ちなみに源頼家の墓は母の北条政子が頼家のために修善寺に建立した指月殿にある。
496 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 21:36:14.84
既出で有名かもしれんが鎌倉時代のちょっといい話
楠木正儀(正成の三男)と細川清氏率いる南朝の軍勢が京にまで進撃してきたとき、
佐々木道誉の部下はどうせ略奪の的になるのなら
敵に一片のなぐさみも残すまいと佐々木邸に火をかけようとしたが
佐々木道誉は「都随一の自分の邸は総大将の宿舎になるに決まっている」と一喝して止めさせ
邸内に豪華な食事と飾りつけを施したうえで
よろしく接待するよう厳命した二名の遁世者を残し、邸を去った。
邸に踏み込んだ楠木正儀は掠奪や放火にはやる部下をとめさせ
道誉のはからいに感服しつつ自分の宿舎とした。
その後北朝側が盛り返して京を奪回してきたとき、
正儀は佐々木邸に前にも勝る豪華な食事と接待のための者二名を残し、
さらに蔵には名刀と秘蔵の甲冑まで置いた上で京から撤退した。
京の人々は「正儀は道誉の古狸にまんまと刀と甲冑を盗られてしまったな」と
噂したという。
497 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 21:37:58.20
>>496 スマン訂正、鎌倉じゃなくて室町だったな
これは良い話だ。
敵将の性格を知り尽くした道誉の策略の勝利だな
俺はこういう話が読みたいんだよ
つ「修善寺物語」
つ「曽我物語」
後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
504 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:09:47.50
つまらん
承久の乱がらみで逸話は何かありませんか?
元暦年間のことだそうだ。
平氏亡びんとするとき、平氏の公達の一人に妾として寵愛された女が、子を抱え
近江国津田というところに落ち延びた。
この時の津田郷の長は、彼女を見るとその美しさにたちまち心奪われ、自らの家に置き、
それまでの妻を追いだしてこの女を新たに正妻とした。
長は女を深く愛し、二人の間には多くの子が出来た。
さて、その頃越前織田庄の神主は毎年、天下御祈祷の巻数を捧げるため上京しており、
その途中、いつもかの津田郷の長の家に宿泊した。
この神主が、長の家に子どもが沢山いるのを見て
「私は子を持っていないんだ、哀れと思って一人養子にいただけないだろうか?
養い育て私の跡を継がせ、老後を安らかにしたいのだよ。」
これに長は「お安いことです」と、唯一自分と血の繋がらない、女がここに来たとき連れていた
少年を神主に与えた。
神主は大喜びでその子を連れて越前帰国し、自分の跡を継がせた。
後に室町時代になって、この子の子孫から越前・尾張・遠江を領した斯波氏に使える者が出、
彼らは「織田」を名乗った。後に信長を排出する織田氏である。
信長記より、織田家発症の逸話である。
>>506 >信長記より、織田家発症の逸話である。
織田家は病気かよw
織田が平氏なので征夷大将軍になれなかったって話はこの辺がでどころか。
策士佐々木
宇治川の戦いのことである。義経軍に属していた佐々木高綱は梶原景季からこう言われた。
景季「何で俺がもらえなかった生食をあんたが乗っている!」←磨墨にこの人は乗っている。
高綱「アンタがもらえなかったと聞いたから盗んだ。」
景季「あ・・・・そうなんだ。納得」
戦いが始まり先陣争いとなったが、景季のほうがかなりリードしているというのを見て一言。
高綱「おーい!梶原殿!鞍の帯が揺るんでいるぞ!」
景季「なに!どこ?どこどこ?」
高綱「じゃーねーw」→先陣頂き
佐々木道誉のご先祖様もなかなかの策士ですなぁw
>>507 出処もなにも、信長さんとこは正式な名乗りはちゃんと平氏でやってる。
朝廷関係では平信長。
>>505うろ覚えだが承久の乱がらみで一つ。
承久の乱が起き、鎌倉から兵を発することとなった。
北陸道、中山道、東海道の三軍に分け進発したのだが、東海道の大将
北条泰時が戻ってきて父義時に聞いた。
泰時「省みるにこの戦、瀬田川で交戦するものと予想されます。ついては、
錦の御旗を立てて、上皇様が直接おいでになられた場合は如何にすればよいでしょうか?」
義時「うむ、よくぞ聞いた。儂もそれを気にしていたところである。
もし上皇様が戦場におわしたならば、・・・・」
義時「旗をたたみ、弓の蔓を切り、兜を脱いで跪き降伏せよ。」
以上。絶対嘘にしか見えない問答でした。どう考えても義時がこんな事言うわけがない。
>>508 それには続きがある。
景季「おーい!佐々木殿!おまえの鞍の帯も揺るんでいるぞ!」
高綱「あっそう。じゃーねーw」→先陣頂き
高綱の馬も、実は頼朝からもらったんだけど、景季から恨まれないようにするために、盗んだことにしたという前振りもあるけど
主君から、馬を盗むのは良いのか。二人と
月マガでやってる漫画で
「私も盗めばよかったあーっ!」
って叫んでたのが笑ったw
>>510 もし院が「出てくれば」そうしたと思うよ
出てきやしない、とは考えていたかもしれないけど
かなり義時としても追い詰められた状況だったはずだ
承久記なんかでも武田や小笠原があからさまに不穏なこと
(どっちにせよ勝った方につけばいい的なこと)
言ってたりするけど
この時点ではどっちに転んでもいいと思っている御家人は意外といたしね
三浦為継と鎌倉景政の話が余りに有名とかwikipediaに書いてるのですが、そこまでなのかしら。
「あまりに有名」で検索してみると
大して有名じゃない逸話を紹介するときに使われる表現みたいに見える
では、あまりに有名なドジっ子天皇の話。
承久の乱から十年ほど経った貞永元年、後堀河帝の譲位により、
第1皇子、秀仁(四条天皇)がわずか2歳で即位した。
それからさらに10年後、仁治3年のある日のこと。
この四条天皇、天皇でありながらなかなかの悪ガキだったらしく、
父上皇の死後も悪さばかりしていた。
この日も近習や女房どもをすっ転ばせてやろうと、御所の廊下に滑石をまき、
物陰に隠れてワクワクしながら様子をうかがっていた。
しばらく後、隠れた帝を捜しに、いつものように女房達が御所内を回り始めた。
そして彼女たちは例の廊下を通ったのだが、誰一人として転ばない。
「あれれー?おっかしーぞ? 量が少なかったのかな?」
女房達が見えなくなると、四条天皇はひょこひょこと廊下にのぼり…
お約束通り、自らの仕掛けたトラップに引っかかってしまった。
見事に頭を打ち付けた帝。
打ち所が悪かったのか、なんとそのまま崩御されてしまったのだ。享年12。
当然子はなく、守貞系の血脈は彼で途絶えてしまった。
後鳥羽やら慈円の呪いだとか言われてたりもするけど、
今でいうバナナの皮レベルの悪戯で死んじゃった天皇がいるって知って
なんか皇室を身近に感じたよ。
この天皇に子供がいたら南北朝の争いもなかったかもしれないんだな
慈圓に呪われるようなことしたんだっけ?
12歳にしては幼稚な悪戯だな。天皇になりながら童貞で死んだのか。
昔の天皇より今の庶民のが幸福だな。
慈円は後鳥羽の挙兵には反対してたけど、後鳥羽の孫の仲恭天皇は縁戚だから
仲恭まで廃位されて皇統が守貞系に移ったことを恨んでたとか。うろ覚えだけど。
一族の影響力が衰えること恐れたか、或いは17歳で不遇の死を遂げた仲恭を哀れんだのかも。
その辺が動機なんじゃない?
ていうか現代の庶民には30過ぎて童貞の奴もいるんだぞ畜生め
鵯越の逆落としの時のこと。
義経「ものども!鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿が越えられる崖を馬が越えられぬ事などあり得ぬ!
我に続け!」
こうして、一騎又一騎と崖を降りる板東武者であったが、ただ一人はちがった。
畠山重忠「日頃、戦や騎馬で乗っているこの馬をこんな崖で怪我をさせ、大事に後れをとってはならない。
歩いておりよう。」
こうして彼は馬の腹帯を結び変えて鎧と結びつけ、ずり落ちないようにし
近くの木の枝を折り杖にして、馬の足をばたつかせないように結わえ付け、
馬を背負って降りていったという。
ちなみにこの人、「力持ち」としてその名を関東で知らぬ者はいなかったとか。
嫌いじゃないぜ。そういう空気読めないけど凄い奴
藤原忠通の息子の信円が、一乗院の門跡であった時のことだ。
信円が八月十五夜の美しい月を、中門で眺めていると、力仕
事や雑務に当たる法師達が
「おい、お前ら、今晩のような美しい月の夜、慈円様はどの
ような歌をお詠みになるだろうな」
と、弟の慈円について、言い合っているのが聞こえた。
これを聞いた信円は、ショックを受けた。居ても立っても
いられず、早速慈円に手紙を書いた。
「恐れながら、私の考えを残さず述べさせて頂きます。天台
座主として三千の僧徒の頂点に立つあなたともあろう人間が、
日々仏教を学び修行に励むのならともかく、毎日のように和
歌ふけっているのは、どういうことなんですか!こんなこと
が許されるわけがない。誠に遺憾です。私の寺の法師共まで
もが、昨日の月を見てあなたのことを噂しているのですよ?
世間ではどういう風に言われていることやら。しばらくの間、
歌は自重しなさい」
摂関家の子弟として、兄として、弟がまるで遊びほおけてい
るように見られるのが、信円には非常に恥ずかしかったらし
い。こうして細かい忠告を書き上げ送ったのだった。
ほどなくして、慈円から返事が届いた。
「兄上のご忠告、嬉しく拝見しました」と書かれたその書状
には、しれっと一首の歌が添えられていた。
皆人に一のくせはあるぞとよ これをば許せ敷島の道
(誰にだって一つくらい執心する習慣くらいあるものなんで
すから、和歌の道くらい許してよね)
信円は「どうしようもねえな、こいつ」と言って、それから
は注意するのをやめたそうだ。
526 :
1:2011/06/18(土) 21:49:06.43
レスの数が500を超えたので、
そろそろまとめのことを考えてみようかと思っているのですが、どうでしょうか。
お願いします。
まとめがあると書く方も気合が入りますゆえ
528 :
1:2011/06/18(土) 22:59:09.56
とりあえず、方法やツールについては検討中なのですが、
異存がないようでしたら、まとめを作らせて頂きたいと思っています
何か要望や意見などありましたら、少しよろしくお願いします
529 :
日本@名無史さん:2011/06/23(木) 23:55:04.44
楽しみにしています。
色々と大変でしょうが、よろしくお願いします。
530 :
1:2011/06/26(日) 22:23:11.14
531 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 22:42:52.77
ありがとうございます。
できればコメント欄があった方がいいと思いますが難しいですかね。
私にはブログはよくわかりませんが
532 :
1:2011/06/26(日) 22:51:00.14
>>531 記事の左下端にあるCMをクリックするとコメント欄が出ます。
ちょっとわかりづらかったかもしれません……
すみません
おお、待望のまとめブログが!
GJ!
赤松氏に最盛期をもたらした義則の話というのは貴重かも。
その頃、都に化け物が出没し、住人は上下を問わず非常に難儀させられていた。
それは実際には人間であったが、まさに化け物の如く都中を馬で走り回っては
何もかもを手当たり次第に切り回るのだ。
しかも手に追えない強さであったから、誰も討ち取ること叶わなかった。
髪を長く乱し、まるで巨大な子供であるかのような姿をしたこの怪人を、
都人は「大わっぱ」と称して、恐れおののいていたのだった。
この有様を見かねた時の帝は、「大わっぱを従えることのできた者は、
天下にまたとない忠義の者である」と宣旨を発せられたが、
それでもこの怪人を容易に従えることは叶わない。
そこに、一人の漢が立ち上がる。
赤松三尺入道殿。
背の低さを京童にそう渾名されている赤松上総介義則、その人である。
「大わっぱ・・・。是非とも狙ってみたいものだ!」
彼は舎弟をも連れず、ただ一騎で都のここかしこを駆け巡った。
すると天の引き合わせであろうか、御菩薩池(深泥池)の辺りで大わっぱと遭遇。
そして戦いが始まった。
激しく切り結び、馬上で渡り合う二人。
大わっぱの振るった太刀の切っ先が、義則をかすめる!
義則は眉の下に傷を受けながらも見事にこの怪人を切り伏せ、
凱旋を果たすのであった。
義則はこの恩賞として、因幡の智頭(ちず)、但馬の朝来(あさご)、摂津の中島を得るのだが、
その御教書を押し戴いた時、大わっぱに受けた傷の血が書面を染めたのであった。
この血の付いた御教書も、そのものズバリ「大わっぱ」と名付けられた怪人退治の太刀も
赤松家の重宝として大切に伝えられていった。
しかし、これらの重宝は戦国時代、赤松義祐の時に失われる。
義祐とその子則房の和睦が成立し、義祐が三木城から本拠・置塩城に引き上げる際に
別所重宗に預けたところ、何と不慮の失火により、重宗の館ごと焼失してしまったのである。
「御家滅亡の凶相とみえたり」
義祐に仕えた得平定阿は、「赤松記」にこう書き残している。
おお!三尺入道!赤松三代はめちゃくちゃカッコイイよなあ
個人的には四職の中で一番好きだ
後で弾けるけど、そこもまた
538 :
1:2011/06/28(火) 22:52:04.82
まとめに過去ログを全て収容しました
編集は毎週土曜にするつもりなので
>>534の逸話などはその時収容します
面白い逸話をありがとうございます
横須賀市文化財「一騎塚」(いっきづか)
和田合戦の時、義盛に加勢しようとこの地の武次郎義国(たけじろうよしくに)が、ただ一騎で鎌倉に馳せ参じて戦い、討ち死にした。
後、里人が哀れんで塚を築いて霊を弔ったという。
この時期の鎌倉って、くしゃみしただけで死にそうだよな
摂津国の多田と言う土地にの近くの村に役所があった。
ある時、人足が二人通りかかると関守が彼らを咎めた。
これに、先を歩いていた男が
「私はただの夫(ぶ)(人足)でございます」
と言うと関守
「忠信なれば、屋島の戦を語れ」
これに人足
「それはつぎの夫(継信)にお尋ね下さい」
そんな中世の笑い話
(醒睡笑)
平清盛が高野山の根本大塔を再興して参拝の時、自分の丈夫な歯を1本自ら抜き取って、
奥の院(大師廟)に納め、次の歌を詠まれた
『高野山 おろす嵐のこわくとも このはは残せのちの世のため』
(醒睡笑)
たしか金森長近の兄弟が、板倉重宗に言われて本にしたんだっけ>醒睡笑
『斯波高経の失脚』
貞治五年八月、斯波高経とその子息、時の管領斯波義将は失脚し、
自領越前に閉塞した。
貞治元年、若干十三歳の義将が管領に就任し、父・高経がその補佐
として幕府官制のトップに立ってからわずか五年のことである。
当然と言うか何と言うか、この事件の黒幕は佐々木道誉であった。
高経の三男氏頼を娘婿とするなど、当初高経と道誉の関係は悪くは
無かった。
しかし細川清氏失脚後、高経が道誉娘婿の三男ではなく、四男義将
を管領にしたのがきっかけに、両者の関係は急速に悪化していたの
である。
管領職に就いて以降、高経は急激に武家を締め付け始めた。税金を
引き上げだだけではなく、規則や約束の厳密化に励んでいたわけだ
が、御所工事が遅れたことを理由に赤松則祐の所領を召し上げる
など、峻厳な裁定が多くの武家の恨みを買い、貞治二年には既に、
道誉と高経の間に武力衝突があるのではないかという風聞が都を騒
がす程となっていた。
それでも数年は目立った衝突も無かったが、ある出来事をきっかけ
についにゴングが鳴ってしまう。
かねてより工事は続けられていたものの、遅々として進まないでい
た京都五條の橋を、斯波家が僅か数日で渡してみせた。
それだけであれば何も問題は無かったのであるが、元々の工事責任
者は道誉であった。それを激励するためと言い斯波家が完成して見
せたのは、要は
「棟別(公共事業の税金)集めても、いつまでたっても橋がか
からないでは、みなが迷惑しますから、私達がチャッチャと橋をか
けてしまいました^^ 仕事が遅いのは困りますねえ、佐々木は何を
やっていたんですか? 遊んでいるにしても時間がかかりすぎます
よね?」
という嫌味である。
面子を潰された道誉は、当然怒り、速やかに彼らしい報復に出た。
高経が取り仕切る将軍御所の花見の宴の日に、自分が企画した豪華
絢爛な花見の日程をぶつけたのだ。
京都中の連歌師・白拍子などのパフォーマーと家臣を引き連れ、
大野原の勝持寺を舞台に「花木の周りを石で囲み花瓶に見立て、
生きた桜を立花として演出し、その間に膨大な量の香をたきし
める」という前代未聞の宴は大評判となり、高経の催した花見は、
世間からすっかり忘れられた。
激しく面子を傷付けられた高経は、今度は明確に道誉を攻撃する。
税金の滞納を理由に道誉の守護職と所領を取り上げる強硬措置に出た。
この措置を受けて道誉は高経を良く思わない武士達を糾合し、将軍
義詮に高経・義将親子が謀反の疑いありとして、管領職解任を要請
した。高経は義詮に自分の正しさを訴えたが、義詮は目に涙を浮か
べ、高経を宥めながらも、道誉等の訴えを受け入れ、高経を更迭、
そして討伐軍を起こしたのだった。
京を追われた高経は越前に下り、子の義将と共に篭城して抵抗した
が、翌年七月失意の中で病死した。
程なくして道誉の推挙により、新たな管領細川頼之が誕生する。
この頼之が、父の死後恩赦を受けて幕府に復帰した義将と、後に
政敵として凄まじい政争を繰り広げるのだが、その頃には道誉は既に
居ない。
佐々木道誉は高経の死から六年後、息子に後事を託し、近江で眠り
についている。
コミュ力が法律に勝つ、そんな話。
549 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 21:30:18.03
規則を守るか空気を読むか、難しい問題だな
550 :
日本@名無史さん:2011/07/07(木) 22:04:26.09
歌が上手い奴がモテるなんて嘘だという話を一つ。
京極為兼は不細工だった。
そんな為兼が、内裏でとある女房をナンパした。
手を取って「今夜会ってくれないかな?」と言う為兼に、
女房は、
「ちょwwwお前の顔でかよwwww」
(御主のかほにてや)
と言い放った。
しかし、流石は為兼。
言われるやいなや
「さればこそよるとは契れ葛城の神も我が身も同じ心に」
(醜い顔だからこそ、その醜さを恥じて夜しか動かなかったという
葛城山の神のように、私も夜に会おうと言うのです)
と歌を返した。
流石は歌の名手である。
しかし為兼のナンパが成功したかどうかは、残っていない。
>(御主のかほにてや)
なんという古風にて残酷な響き…^q^
古典の授業でこの逸話をすれば生徒にウケルな
(ノД`)シクシク
553 :
日本@名無史さん:2011/07/09(土) 00:42:20.50
ただしイケメンに限るっていつからある概念なんだ……
いい話でも悪い話でもないけれど一つ
南北朝の頃、大友氏初代能直から数えて九代目にあたる親世の話
大友親世は並びなき仁義の名将であった。
そんな彼が三歳の頃、父大友氏時にこんなことを言った。
「成人したときには、高祖という名前を付けてほしい」
それを聞いた氏時は、
「それは漢の帝王の名前じゃないか」
と言って笑った。
しかし、親世は黙って左の股を差し出した。
その雪のような肌には漢の高祖(劉邦)と同じように72個の黒子があり、
人々は親世を高祖の再来だと噂しあった。
その後北朝方として今川了俊らと共に南朝勢力と戦い九州平定に一役かった親世は、
出家した際に、高祖をひっくり返して祖高と号したのである。
(大友記)
72個ってなんかの病気なんじゃないか?
病気だとしても、それで皇帝になれるんならかかりたいな
これ全身に七十二個じゃなくて、一部に七十二個あるんだろ?
癌とかじゃないのか
仁義…なあ…大友にそういう印象が無いな
蓮コラ状態じゃねえか
>>557 そうはいっても、漢の高祖・劉邦は若い頃からそれを売りにしてたわけで。
別に健康に害があるようなもんじゃないだろう。
>>550 そういうことも記録されてしまうんだなw
出典元を読んでみたいw
>>561 出典「正徹物語」
ちなみにこの話の出所は為兼の弟子の今川了俊だと言われてる
「いついかなる時も歌心を忘れない師匠カッケー!」
って意味で残した逸話、らしい
が、微妙だよなw
565 :
554:2011/07/16(土) 15:02:34.85
足利義教は赤松満祐に暗殺された。
義教の首をはねた安積行秀は、その首を槍の穂先に掲げ、
満祐は長年の本懐を遂げたような面持ちであった。
義教の葬儀の数日前、相国寺の季瓊真蘂は奪われた義教の首を
取り返す為に死を賭して播磨へと向った。
彼は赤松出身の者として首を奪われた責任を果たそうとしたのだ。
しかし、細川持之はすでに満祐の使者を二度殺している。
敵方の真蘂は満祐に殺されてもおかしくはなかった。
まさに命がけの行動だったのである。
ところが、満祐は快く義教の首を返還してくれた。
満祐は真蘂の誠実さに感じ入ったのである。
そして後日、等持院で義教の葬儀が執り行われたのであった。
>>566 満祐好きだけど、ますます惚れ込みそうだわ…
赤松性具入道か
岩清水八幡の願文の話は投下されてない?
ないなら、投下したいのだが……
570 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 14:47:12.11
いいよ、いいよー
携帯からだから、ちと読みにくいかも。
観応の擾乱で幕府を二分してあらそった尊氏直義兄弟だが、実際は仲はそれほど悪くはなかった。それを証明する文書が岩清水八幡宮に所蔵されている。
九州からの再起に成功し、京を奪還した尊氏は、岩清水八幡宮に願文を一通捧げた。それには、こう記されている。
『私はこの世で最高の名誉を得ました。今後は世の平穏を祈るため、出家するつもりです。つきましては、私の今後の幸福を全て弟の直義に与えてください』
観応の擾乱で権門の保護者として蜂起した直義と争う十数年前のことである。
短くてすまん。
四條畷合戦後に急激に成長した師直党を排除しようとして失敗。
生真面目で権門を保護して大規模愡領家での合議こそが正しい幕府の姿だと信じてた直義は師直党排斥のために挙兵したってのが観応の擾乱。
このあたり直義が性急過ぎた面もあるからなあ
直義の方が正しかったとか、師直や尊氏が正しかったとか、どちらとも思えない
両者に非があって理がある中で
尊氏が直義と対立する道を選んだわけだけはよくわかるよ
そして尊氏が勝ってしまったんだから、仕方ないよな
蓮如が親鸞のエピソードを語った話。
「親鸞上人が船酔いになられたことがあった。その時、聖人は
『歩いてゆける道のあるところは舟に乗るべきではないな』と仰せられた。
聖人はキノコの毒にあたられたこともあった。
その時は『キノコは食うべきではないな』と仰せられた。
高田の顕知はそれらを聞いてからは一生、舟に乗らずキノコも食べなかったそうだ。
そのように顕知は聖人がなにげなく言ったことを深く信じていたというのに
お前は私が心から願って教えることを中途半端に聞いて信じてくれぬのか(嘆息)」
すまん誤字だ・・・
×顕知 ○顕智
>>573 あくまで史実エピソードじゃなく創作でだが、直義が「泰時時代への回帰」を目指して、尊氏が「そんなものが今の時代に通用するわけがない」
みたいなキャラになってたのは、その辺りを広げたイメージか
そういえば、伝源頼朝像は足利直義で、伝平重盛像が足利尊氏だという話があったが。
これって確定したの?
>>578 ほぼ。今はそっちが定説化してる。NHKの高校講座日本史でもそう解説してた。
サンクス。
けっこう直義はイケメンだったんだな。
その直義を烏帽子親に持つらしい東国武将・河越直重。
彼は延文四年十月、南朝と戦うため他の東国武将らと上洛した。
太平記によればこの上洛は大変なみものであったようで、
特に直重は30頭の馬を紫、紅、黄緑に水色、はては豹柄に
染め上げて練り歩いたという。
某婆娑羅が闊歩する京の住民も驚いた事だろう。
しかしこの話には続きがある。
十一月九日、直重の宿に群盗が乱入したのである。
被害は馬、財物、刀剣類が多数というものだった。
余りに目立つと狙われる。
そんな(都の治安が)悪い話。
夜は真っ暗な時代だもんなあ
夜中に押し入られたら明かりもすぐにはつけられないし
大勢に襲われたらオワリだよな
でもそんな派手な馬盗んでも速攻で見つかりそうだけどw
馬の柄がスマートフォンケースっぽいセンスだな……
昔から豹とかの柄好きな人いるんだ
日蓮のネタ投下するわ。有名な奴。
日蓮がアッチコッチで田宗派を攻撃する辻説法をやったものだから、
とうとう鎌倉幕府は怒り狂い、日蓮を逮捕した。
幕府役人「いい加減にしなさい!アンタの辻説法で苦情がたくさん来てるんだ!」
日蓮「やめない。まず幕府が法華経に帰依しなさい!そうすれば外国から攻(以下略)」
役人「龍ノ口で打ち首だ!」
こうして龍ノ口処刑場で打ち首となったその時、にわかに空がかき曇り、
雷が落ち、日蓮のクビを切ろうとした刀が三つに割れたという。
コレにより日蓮は打ち首から島流しに変わった。・・・・のだが、
当然の事ながら雷が落ちた首切り役人は生きているので作り話だと言うことがわかる。
ちなみにこの話を熱心な創価学会員(すなわちキチガイ)に話を振ると嬉々とした顔をして
延々といらないことまで説明してくれるのでウザイ事極まりないのである。
×田宗派
○他宗派
まとめにのせるときに、修正をお願いします。
あれ、日蓮って死罪じゃなくて流罪だったと思うけど。
まあ、中世だと流罪=市民権剥奪だから、大概そのままリンチされて殺されるんだけどさ。
実質死罪相当の流罪を受けて、本当に流罪で済んだんだから、ぶっちゃけすげー運がいい。
その理解不能な幸運を説明するために、怪異現象が後で追加されたんだと思うぜ。
587 :
日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:05:02.11
>>584 立正校正会の後輩がいるんだけど、そいつも嬉々として語ってたぞ。
新しい人が入る度にファミレスに連れて行って洗脳しようとするんだ。
T県。
南北朝の動乱の頃のことである。
京に、とある下級役人の一家があった。それなりに裕福な家であったという。
だが戦乱に巻き込まれ家も財産も失い、夫婦は9歳の男の子、7歳の女の子の二人を連れて都を落ちて行った。
10日ほども後、彼らは丹波国、思出河のほとりにたどり着いた。
ここまで道に落ちていた栗や柿を食べて何とか命をつないでいたが、妻子は疲れ果て、草原に倒れ伏した。
夫はこれを見かね、近隣の家から物乞いをして、何かしらの食べ物を手に入れようと考えた。
そしてある家を訊ねると中から侍姿の男達が出て来て、この夫を取り囲んだ
「このあたりは皆で用心をしている最中だというのに、お前のような胡乱な奴が物乞いをして歩いているとは!
さては貴様、夜討ち・野党の偵察に来たか、それとも宮方(南朝方)の廻文を持って廻っている者に違いない!拷問して白状させよ!」
夫は両手足を縛り上げられ、上下に揺すぶられ責めさいなまれた。
妻子は、夫の返って来るのを今か今かと待っていたが、いつまでたっても戻らないため、彼の身の上を
大変に心配していた。その時道行く人の、こんな会話が耳に入った
「かわいそうに。京の公卿の家に仕えているような40歳ばかりの人が、物乞いをしていたのを捕らえられ、上に下に
拷問をうけている。今はもう死んでしまっただろう。」
妻はこれを聞いて激しく嘆いた。そして
「あなたに遅れて死ねば、冥土の旅路を迷ってしまうでしょう。暫く待っていてください。」
妻は二人の子と共に、思出河の淵に身を投げた。
夫は疑いが晴れ解放され、近くの家で木の実などを求めて帰ってきた。が、荷物は残っているというのに
妻子の姿が見えない。これはどうしたことかと狂ったようにあたりを探す。と、
用水の取り入れ口のところに、変わり果てた妻と子の姿を見つけた。三人は手に手をとった姿で流れかかっていた。
夫は絶望し、彼女たち三人を抱き上げると、それと共に同じく川の淵に飛び込み、一緒に死んだ。
太平記にある、名も伝わらぬ一家の悲劇である。
夏の心霊怪奇シリーズ
福原への遷都以来、怪奇現象があいついだという。
ある夜のことだが平清盛の寝室に、柱と柱の間が埋まってしまうほどの
巨大な顔が現れて清盛の顔を覗き込んだ。
しかし、清盛が少しも騒がずにキッと睨みつけるとスーッと消えてしまった。
また、ある晩のことだが、福原の御所には大木などないはずなのに
大木が倒れる音がして二、三千人ほどの笑い声がこだました。
人々は「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!!」と噂しあった。
そこで昼五十人、夜百人の警備体制を敷き、魔除の矢も射させたが、
天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
そしてある朝、起床した清盛が中庭を覗くと、どうしたことか
庭は無数のしゃれこうべで充満しているではないか。
しゃれこうべは動き回ってからからと音をたてている。
「おい! 誰かいないのか!」と清盛が呼んでも誰も来ない。
そうこうしているうちに、しゃれこうべはひとつの塊になって四、五十メートルもの
大きさに膨れ上がった。その中の大きなしゃれこうべに無数の大きな目玉が
現れて清盛を睨みつける。
清盛は落ち着いた様子で一歩も引かずに睨み返していた。
すると、あれ程恐ろしく大きかった怪物は跡形もなく消えてなくなってしまった。
590 :
589:2011/07/27(水) 00:14:32.38
>>589 >天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
どっと笑ったのは天狗ね
そりゃそうだろう、ドリフコントにあるおばちゃん笑いがしたら、逆に怖いけど
592 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 22:05:01.56
りゃうスレ挙げ
足利義教は些細なことでも気に入らなければ過酷に罰した。
ある時、1人の武将が義教に銘木の梅を献上した。
ところが、運搬の途中で梅の中枝が折れてしまった。
激怒した義教は運搬した植木師3人を投獄し、献上した武将の家臣
5人を指名手配した。家臣のうち3人は姿をくらまし、2人は自殺した。
また義教が伊勢参宮の旅に出た時、旅の最中に料理が振舞われた。
その時、義教は「不味い!」と頭にきて料理人として同行していた
近習を京に追い返した。近習は義教が帰京すると、恐々としながら出仕した。
案の定、近習は捕らえられ斬首された。
そして2年後、同じ理由で別の料理人が処刑された。
信長は割と作られたり誇張されたりしている残虐エピソードも多いけど
万人恐怖さんはガチだからな。鎌倉府滅ぼしたとこまではともかくそれ以降は
やりすぎ
座主時代になにか鬱憤がたまっていたのかな?
というか実質幕府を衰退させた元凶だよな。万人恐怖
義持の代は関東の上杉禅秀の乱が一部飛び火して若干政争があった事と
北畠一族の教科書に載らないような小規模な反乱があったくらいで幕政全体としては
平和で将軍を長とする有力守護達による合議制という政体が完成してたのに
義教がそれらをぶっ壊した挙句自分は勝手に暗殺された。
義政の代になるともう手の施しようがなかったわけで
ボンクラでも義量が長生きしたら日本史は全く違った結末を迎えてたような
気がする。
平忠盛は鳥羽上皇に寺を献上したことで一地方官から殿上人となった。
しかし、当然やっかみはあるもので殿上人たちは妬みから忠盛を暗殺しようとした。
ところが忠盛がわざと腰の短刀を見せつけ、武装した部下を引き連れているのを見ると
怖気づいて暗殺を諦めた。
暗殺に失敗した殿上人はやり方を変えて、忠盛の斜視をからかうなどのいじめを始めた。
そして、作法をわきまえていないから忠盛の地位を剥奪するべきだと上皇に訴えた。
しかし、忠盛は部下の行動は主人を思ってのことだ、短刀は銀箔をはった木刀だと
説明したため、かえって上皇は武士の鑑だ、と忠盛を誉めた。
>>597 義政が、多少現実逃避気味でも、祖父の義満時代に回帰できるように頑張ってたって話もあるしね。義教は手本にできないやり方だったんだろうね
義教さんが出てきてるのでそれに関するエピソードをば
独裁者と呼ばれる義教だが、実は義教がそうなったのには一つのエピソードが関連している。
永享3年、関東の鎌倉府との京都扶持衆(上杉禅宗の乱で領地を失った武士達。京都のほうで保護していた)の取り扱いで対立関係が悪化。全面戦争を危惧した鎌倉府穏健派から、二階堂が使者として派遣されたときである。
「罰状(起請文の一種。このときは京都扶持衆ならびに親京都派大名への攻撃停止を誓う内容)を提出させるかどうか」という内容について衆議(大名衆議。宿老会議とも)にかけるよう指示したときである。
満済(義持、義教の政治諮問をしていた僧侶。『満済准后日記』という一級史料を残す)が管領斯波義淳を通して意見を集めると、集まった意見は「使者に謁見すべし」というものだった。
この内容(本筋は罰状提出の有無)に不信を持った満済は義淳に問い合わせた。すると後日こんな返事が返ってきた。
「この罰状提出についてはおかしいと思っています。とりあえず、大名には使者に会うかどうかだけ尋ねました」こんな返事が返ってきた。
これに驚いたのは満済である。潔癖症気味な上に曲がったこと(自分視点で)が大嫌いな義教にこんな返事を持っていけるはずがない。
「私が聞きたいのは、こんな事ではありません。今回の件で重要なのは罰状提出の有無です」再度使者を出した。だが、義淳は再度の衆議を行わなかった。
途方にくれた満済は義淳の意見と他の大名の意見を別にして義教に提出することにした。こうでもしないと、満済が叱られてしまう。
提出された二枚の意見書の内容はこうだった。
諸大名「罰状提出要求はもっともなことです。戦もしかたがありません」
義淳「罰状を出すかどうかは使者にあってから決めてください」
この意見書を見て、義教の決心は固まった。かつて、山門への出兵で諸大名の合意を得られなかったため苦い思いをした義教にとって、大名の合意はありがたかった。
「よし、罰状を提出しろと二階堂に伝えろ」
そう、義淳に命令したのだ。だが、伝わらなかった。義淳が伝えなかったのだ。
伝えろ。いやだ、伝えない。この押し問答が少し続いたとき、とうとう義教がキレた。それも、社交場であるはずの歌会で。
「あいつ普通じゃねぇぞ(尋常ニ在ラザルカ)」と吐き捨てたと『満済准后日記』に残っている
結局、この罰状提出については鎌倉方に通達され、鎌倉府対室町幕府の全面戦争に突入するのだが、今回は置いておく。
実は、このあと義教の時代の衆議に変化が発生する。
今までの「管領の管轄下で取りまとめた意見を上申する」形でなく「少数(というか実質二人)の大名に個人的に諮問する」形へと変化したのだ
その二人というのは武闘派で義教と意見があった山名時照と最終意見を義教にゆだねて、アドバイスに勤める畠山満家である。
この二人の意見は義教も重視していたらしく、他の大名の意見は「難儀」なのにこの二人の意見は諮問するよう満済に命令している記録が残っている。
ちなみに、この罰状事件のあと斯波義淳は重要諮問には一切呼ばれなくなっている。その上、義満の前例というだけで管領を辞めさせてもらえなかった。(行事を執り行った後、即辞めさせられた)
独裁者にも独裁に走るきっかけがあったよという話。
こりゃひどい。将軍、実質的に無視されてるも同然じゃん
しかし満済さん、捏造はあかんよ
斯波家ってこういう人多いよな
>>604 携帯から失礼。満済は捏造はしていないです。最初罰状を要求するかどうかの是非を聞いたのに、議題を改変したのを送られて困った。
で、義淳に自分の意見とは別に大名の意見を集めて提出させるように言ったようです。これで、一応衆議は開催されたんですが、結果は文章の通りで……
>>605 義淳は義教とことごとく意見が合わなかったようです。義教の決定が気に入らないということで、裁判業務を放棄したりしてますし。
連投失礼。文章が分かりづらくてすみません。
満済が提出したのは義淳以外の大名の意見を書き連ねたもののようです。義淳の意見とは別の紙に箇条書きして、提出しました。
衆議常連の大名に個別に使者を出して意見書を集めたようです。
これに合わせて義淳にも意見書を提出させました。
>>606 いやいや高経も義詮に諫言が多くて嫌われてたらしいし
義将も反義満で義持に色々入れ知恵していたらしい。
結局なまじ分家筆頭なばかりに本家に対して妙な敵対心というか対抗心があり過ぎるんだよな。
「嘉吉の乱・備前口の戦い(1)」
赤松満祐が将軍義教を弑逆してから2ヶ月余り、ようやく幕府軍と赤松軍との戦闘が開始された。
山名教清率いる5千余りは、大物浦(尼崎市)から播磨灘を漕ぎ渡って備前牛窓に上陸、
赤松教久、小寺、上原、薬師寺、永良ら3700騎が籠もる三石城に攻め寄せた。
8月23日、幕府軍はさしたる抵抗も受けぬまま一の木戸、二の木戸を突破するが、
三の木戸に責めかからんとしたその時、城内の太鼓が突如打ち鳴らされ、
赤松軍の中から選抜された弓の名手200人余りが雨あられの如く矢を射掛けてきた。
深入りしすぎた幕府軍は防御の術も無く、射返そうにも矢を射尽し、補給を断たれ、
散々に破れて備前福岡へ引き退いのだった。
翌日、幕府軍は大河・吉井川に二重三重に乱杭を打ち、陣幕を張って赤松軍を待ち受けていた。
案の定、赤松軍の夜襲があり、激しい戦いが繰り広げられたが、やがて我先にと退きはじめ、
「卑怯やど!六波羅勢!今日も逃げる気ぃか!おびんたれ(臆病)やのぉ〜!」
などと罵られる声にも何も言い返さず、ただ、陣幕の中からのみ弦音高く射返すのみの幕府軍であった。
赤松軍はこの陣の外面に並んで、夜明けから日が傾くまでひたすら矢を射続けていたのだが
敵が一人も立ち向かってこないので、これは何かの策略に違いないと勘ぐり、
揃って三石城に引き上げていった。
実はこの陣幕の中には藁束が山のように積み上げられていたのだ。
幕府軍の将兵は藁束にビッシリと刺さった赤松軍の矢を回収すると
「昨日は奴らに出し抜かれ、矢種を絶やしてしまったが、今日は思い通りに敵をおびき寄せ、
数万の矢を取り返してやったぞ!」と大喜びしたのである。
(赤松盛衰記)
「嘉吉の乱・備前口の戦い(2)」
8月25日は幕府軍の方が攻め寄せた。
その軍の中から連銭葦毛の駒に赤銅の鞍・鐙、紺糸威の鎧兜の武者が進み出て、盾を叩き、大音声を張り上げた。
「敵陣の輩、よぉく聞け!清和天皇9代の後胤、河内国に隠れなき和田野大五郎敏輝とは我のことなり!
赤松党に名を得たる薬師寺左馬助こそ、国中に類なき強兵と伝え聞く。いざ、力量の雌雄を決せん!」
「聞き及びし和田野大五郎とは汝のことか!五畿内を震え上がらすその力、聞き知っておるぞ!
いざ、互いに目ざましき勝負をしようぞ!」と応ずる卯の花威の鎧兜、月毛の駒に銀覆輪の鞍鐙の赤松方の武者、
薬師寺左馬助である。
薬師寺は8尺の柄の付いた80斤の大斧、和田野は1丈あまりの八角の鉄棒を軽々と振り上げ、振り回し、
双方打ち込み、受け流す凄まじい戦いが始まった。
その仁王が荒ぶるがごとき勢いに、馬は怒って馳せ散らすので、
互いに馬から飛び降りて、斧と鉄棒を入れ違えながら戦い続けたが決着が付かなかった。
やがて両人は左右に分かれる。
「いかに薬師寺殿!汝と我とは同等の力量と見える。
もし我が汝を討ち取れば赤松方の片腕を抜くようなもの、汝が我を討てば幕府方の片腕を抜くようなもの。
両人のうちどちらかが生き残れば一方の大きな悩みとなろう。
敢えて両人ともここで刺し違え、冥土の旅に行くべきだと思うが、どうだろうか?」
この和田野の言葉に薬師寺は微笑を浮かべ、
「我も望むところである。汝のような勇猛の士を敵陣に置く時は、味方の憂悩限りなし。汝の言うとおり、共に死のうぞ。
しかしながら、その前に、敵味方の軍兵に暇乞いの力技を見せようではないか!」
と、大斧を引っさげて敵陣に割って入り、散々に投げ打ったから、幕府軍の武者どもは首を割られるもの、
脚や腕を切られるもの、片時の間に40〜50人が打ち倒され死に果てた。
一方の和田野も、薬師寺に負けじと赤松方に割って入り、鉄棒を縦横無尽に振り回したので、敵う相手は一人も無く、
眉間・腰骨をことごとく打ち折られ、こちらも40〜50人が即死した。
この勇者達の働きには敵も味方も感動し、畏怖を生じない者はなかった。
そして散々暴れまわった両人は、一息入れるようなことも無く、すばやく両手を広げてむんずと組み、
互いの腰刀で刺し違えると、同じ枕に死したのである。
この二人の有様に「共に惜しむべき豪勇であったのに」と称嘆せぬ者は一人もいなかった。
(赤松盛衰記)
え。これっていい話?
なんでともに死んじゃうのwww
ますらおボーイズ・ラブぶっとびすぎwww
なんつうか、現代的な感覚では計り知れない逸話だなw
室町幕府成立直後、武士の間で八朔の節会にあわせて贈り物をすることが流行していた。
当然ながら武士達の間では将軍である尊氏と弟で執政の直義の両名に贈り物をするという流れになる。だが、節会が終了しても二人の手元には贈り物は無かった。
というのも、直義はこれは賄賂に当たるとして受け取りを拒否し差出人の名前を控えるだけ。尊氏も受け取りはするものの、別の誰かが贈り物を届けると自分の受け取ったものを気前よく与えたためであった。
律儀で几帳面な直義と鷹揚で武士にわけ隔てなく接する尊氏の、それぞれの性格をよく示した話。
へぇ、この時代でも賄賂に神経質になるんだ
将軍の弟で執政なら賄賂なんてバンバンもらっちゃえですぅ状態だと思うけど
それとも単に直義の性格的なものなのかな
あ、名前欄に尊氏と直義の性格ってあるねw
武士たるもの、物で心は動かんぞというきまじめタイプだったのかな
直義の潔癖はガチ
酒や豪華な食事もアウト
音楽や踊りに浮かれるのもアウト
綺麗な女の子にうつつを抜かすのもアウト
一つ一つ言っていることは立派なんだが窮屈だよな
乱世向きじゃ無いね。道誉や師直に人気が出るわけだ。
直義さん、嫌いじゃないんだが汚い所が目立つんだよな
護良親王刺したりとか高兄弟の始末とか。もうちょいきれいにやれんのかと
院に矢を射かけて斬首された土岐頼遠だったが、武門の間では貴賤を問わずこの話題で持ちきりだった。
『土岐のような功あるものでさえ、院とやらに矢を射かけて死を賜った。院に行き逢うてさえ下馬せねば
ならぬなら、将軍に行き逢うたら土下座して這いつくばって歩き回るのだろうか?』と言う者もいて、
院と将軍の上下関係が錯倒しているところに、社会秩序の崩壊を見て取れるのである。
ある日、武士の一団が洛外で、40歳くらいの貧乏公家の乗る牛車に出くわした。
『すわ、あれは正しく院とか申す怪物ぞ。土岐のようなものでさえ無様な死を食らうのだ。
者ども、下馬し道を譲るのだ』と主人が促す。同じように武士の姿を見た公家も狼藉を怖れ、
車を停めて道に這いつくばって武士に道を譲る。あまりにも動揺したため烏帽子が転げ落ち、
随分とみっともない姿だったそうな。
土岐の狼藉と斬首は公武の末端にまで膾炙していたと言う話。
序列が
将軍>>>土岐の兄貴>>>俺等
な世界に突如「院」とかいうのが現れて、
俺等の兄貴を殺っちまった!
ってノリなのか……
もののけ姫の天朝様の書き付け思い出すな
正成・顕家・義貞すでに亡く、ついには後醍醐帝も崩御し、北朝の勢いが盛んであった頃のことである。
嵯峨から都へ帰る途中の禅僧が、夕立に逢い、困って仁和寺の六本杉の下で雨宿りを始めた
ところが雨は一向に止む気配が無く、日も暮れてしまったため、お堂の側で夜を明かすことにした
本堂の縁に座りながら、禅僧が静かに読経し時間を過ごすと
やがて月が美しい夜空の彼方、愛宕山や比叡山の方の虚空から、輿に乗った者たちが、六本杉の上に降り立ち集い始めた
それぞれの席が定まると、いつしか虚空に張られていた幕が吹き上がり、中に座っているものの姿が見える
そこにいたのは、後醍醐帝の外戚の僧春雅や、奈良の智教上人、浄土寺の忠円僧正など、
後醍醐帝の側近であった者たちであった
皆、顔はそのままだが、目が光り、嘴があったり、羽が生えていたり、すっかり天狗になってしまっている
「しまった、天狗の世界に迷い込んでしまったのか」
と肝を冷やしていると、また空から車が降りて来る
乗っていたのは鎌倉で足利直義に殺害されたはずの、護良親王であった
しばらくすると天狗達は銀の銚子に金の杯を持って、酒を飲みはじめた
護良親王が最初に杯をとり、左右に会釈してから三度飲むと、続いて順々に杯を回しのみする。
しかし楽しそうな様子ではなく、しばらくすると天狗達は苦しそうに悶え始め、頭から黒煙を出して気絶し、死んでしまった
「これが天狗道の苦患というやつか、熱く溶けた鉄を日に三度飲ませられるというが……」
しかし禅僧が奮えていると、二刻ほどして天狗達はまた生き返った
生き返った僧上春雅が、苦しげに息をしながら
「さて、この世の中を、どうやって騒がせてやろうか」
と言った
それに末座の忠円僧正が進み出て
「それはたやすいこと。あの足利直義は、他人の妻を犯さないという戒めを保ち、
俗人で自分ほど禁戒を守っている者はいないと思い上がっている
そこにつけ込んで、我等が大塔宮が直義めが妻の腹に入って、男児としてお生まれになられるのです
更にあの夢窓国師に従う僧侶の中に、妙吉というものがいる
奴は己の学問修業の未熟を自覚せず、己ほど学問のある人間はいないとやはり思い上がっている
春雅僧正はその心に入り込み、政治に関わり邪法をお広めあれ
私自身は足利家の執事の高兄弟の心に取り付き、上杉と畠山を討って、尊氏直義兄弟の仲を裂きましょう
さすれば再びの大合戦。
しばらくは見物というものです」
その言葉に天狗共は熱狂し、「素晴らしい計画」と騒いでいたが、やがて幻のように消えてしまったという
さて直義の妻は、この後懐妊して実際男児を産んだ
しかしこの男児は病気にかかり、わずか三歳でこの世を去った
そして直義は尊氏の庶子を養子とし育て始める
高一族は権勢を誇り驕り始め、その処遇をめぐり、尊氏と直義は激しい対立を繰り広げる
天狗達が予言したごとく、大きな戦が再び始まるのであった。
せっかく生まれ変わったのに3歳で死んだのかw
運の悪い話?w
光厳上皇の第2皇子である弥仁親王は、兄である崇光天皇が若年で即位したことで、行く行くは出家する身であった。
ある時、人相見が親王の相を見て『何と尊貴なお顔でいらっしゃる。やがて至尊の位にお即きになるだろう』と占った。
その後足利家の内紛により南朝の天皇のみが正統とされ、崇光も退位し、人相見の言葉は忘れ去られていた。
ところが暫くして南軍が都に踏み込み、光厳、光厳、崇光の三上皇を拉致したのでたまらない。北朝は急いで弥仁を連れ戻し、
三種の神器も無いまま天皇に立てた。これが後光厳である。出家準備のため洛中の寺にいて無事だったのだ。時に齢15。
ところがこの天皇は在位中に南軍が度々都に押し寄せ、その都度近江や、遠く美濃まで蒙塵している。
人々は流石の人相見も天皇になってからのことは分からないのだと噂したそうな。
>>626 光厳、光厳、崇光の三上皇 ×
光厳、光明、崇光の三上皇 ○
しかし北朝の天皇の名はすざまじい。
正統王家の人間による王家再興を意味する
『光』の字をここまで用いるとは。
例:後漢の光武帝
光孝天皇(小松の帝)
後小松天皇など
>>627 でも後円融天皇だけ元ネタを知らないんだよね。
平安時代に冷泉流と円融流で両統迭立してた時に、
結局円融流で一本化されたことにちなんでるのかな。
しかし尊氏も相当な奴だよな。正平一統なんて北朝に対する裏切り行為じゃん
敵方の親玉の後醍醐の菩提寺立てるとかも意味がわからん
楠木正儀たちが上皇たちを連れ去ったあと、取り返しもせずに勝手に新しい奴立てるし
尊氏の政治的な動きってアクロバティックすぎてついついけん
>>629 だから兄が弟に勝ったんだろうな。
政治は、恥知らずになれなかったものが、結局負けるゲームだから。
>>629 >楠木正儀たちが上皇たちを連れ去ったあと、取り返しもせずに勝手に新しい奴立てるし
それこそ木像で良いんじゃね扱いで
兵庫県たつの市揖西町(いっさいちょう)中垣内では、奇祭として知られる「さいれん坊主」が行われている。
さいれん坊主は「祭礼坊主」がなまったものと言われ、長い竹竿の先に細長い提灯を付けたものに灯を入れ
悲しげな鉦や太鼓の音色に合わせて大勢の参加者が輪になって、境内をくるくると回り続けるという祭りである。
城山城(木山城)の南口に位置する井関三神社と恩徳寺で、数百年にわたって行われているこの奇祭は、
表向きは雨乞いの祭りと称しつつ、内実は表立っては弔うことが許されなかった者たち、
即ち、嘉吉の乱で命を散らせた赤松満祐以下の将兵の供養を目的として行われてきたものであるという。
この「さいれん坊主」は今年もまた、8月13〜14日の2日間にわたり、地元の人々の手によって
賑やかに執り行われた。
最近大河ドラマの太平記を見たが、足利直冬って結局どうなったの?
いくえ不明
635 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:16:38.63
尊氏・義詮に敗れた後は、あっさり山名大内に見限られてなんか不憫だよな
636 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 15:54:58.47
赤松満祐に擁立されてたやつは、マジで直冬の孫なの?
『建内記』に「直冬子孫」、『東寺執行日記』に「兵衛助殿御孫」とある。
638 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 23:48:48.48
>>629 自分が殺したやつを弔う寺とか作ってるのは、120%恨まれてるよなー、って自覚がある時の
怨霊対策だよ、中近世までの日本じゃ。
毛利家が大内家の祭祀を続けていた例とか。
亡くなる直前に直義に官位おくってるのも
なんとなくそういう行動に見えて
太平記の毒殺疑惑に信憑性を感じてしまう
そう考えると、足利義満が急死したのちに
『鹿苑寺太上法皇』の称号を贈って来た朝廷も怪しいな。
義満と直義じゃ状況違うからなあ
>>639 尊氏が豆腐メンタルってのは、結構言われてるよね
七国峠の供養松
相模の土屋と吉沢そして生沢の土地を治めていた土屋三郎宗遠という武士があった。
宗遠には子がなかったので、姉の桂が嫁いだ、隣接した岡崎の在、岡崎四郎義実に頼み、義実の次男、
次郎義清を養子に貰い受け跡継ぎとした。
ところがそこから、宗遠の実子の弥次郎忠光と三郎宗光が生まれてしまった。
しかし養子の次郎義清とこの兄弟の関係はよく、特に弥次郎忠光とは実の兄弟以上の仲の良さで、
よく近くの七国峠で語り合っていたという。
さて、治承4年(1180)8月23日、源頼朝挙兵。世にいう石橋山合戦が起こる。
土屋三郎宗遠は成長した息子たちと共には頼朝に味方し参戦。しかしご存知のように、この挙兵は惨めな惨敗と成る。
頼朝の軍は崩壊し、土屋一族にも危機が迫る。
が、この時弥次郎忠光が一人敵に突進。父と兄を救うため奮戦し、最期は矢に当たり討ち死にした。
その後、頼朝は勢力を盛り返し、ついに平氏を滅ぼり鎌倉幕府を成立させる。
西国を転戦していた義清は、土屋に帰ってから鬱々と過ごしていた。そして毎日のように、忠光との想い出のある
七国峠に行っては、彼の討ち死にした石橋山のほうを見て涙を流していたという。
養父の宗遠もこれを見て心を痛め、想い出の多い土屋から鎌倉へと移住した。
数年後、義清は鎌倉に置いて大学助に出世したが、建暦3年(1213)5月、「和田の乱」に参戦し、流れ矢にあたり
戦死した。
土屋宗遠は息子たちの死に悄然とし、再び土屋へ帰りそこで隠棲をした。
そして息子や戦死した家来たちの霊を弔うため、思い出多い七国峠に松の木を植え、後世の人が自分のような悲しい思いをしないように、と祈った。
やがてこの松は大木に成長し、「七国の供養松」と呼ばれ、村人たちや通行する人びとに親しまれ、
峠を越える人は、かならずここで休息したのだという。
今はもうない。
「七国の供養松」という逸話である。
えぇ話や
三郎宗光は?
>>627 光厳、光明等の北朝天皇の「光」は後漢光武帝や光仁、光孝といった諸天皇の
「光」とは意味あいがまったく違うでしょう?もともとが諡号じゃないし、両統迭立
下で「正系」を主張していた家が、傍系の出自を意味する「光」の諡号を選ぶこと
はあり得ない。
それでは連続する『光』の字に込められた意図は何だったろうね。
光厳-光明-崇光-後光厳-後円融-後小松-称光と続く。
某系のさらに某系の後花園には光がない。
光が某系というのは俗説。
要するに偽物だということなんじゃないの?光の字すら憚られるほどの。
後花園が偽物だと考えると、後南朝の抵抗が継続した理由も説明がつく。
後花園天皇は、実家である伏見宮の立場からは「わが家こそが嫡流である
崇光院の直系であり、後光厳流こそが傍系」ということになっているし、
後小松院の方の立場では自分の猶子、「後光厳流」の皇子として継承した
ことになっている。
(実際、実父である後崇光院を「父」として扱わないようにという遺言を残して
いる。)どちらの立場でも「光」の諡号を贈ることはあり得ない。
そもそも、その種の意味を込めた諡号は、順徳あたりまでで、その後は江戸
時代の光格天皇まで贈られていないはず。
北朝の光厳院、光明院というのは寺院の名前から来た追号のはずです。
康治二年(1143年)8月5日の夜のことである
藤原頼長のもとに来客があった
頼長の客と言ってもそっちの話ではなく、共に学究に励む学者仲間の来客であった
その男は、自身の境遇に絶望して慟哭し、頼長も共に涙を流した
頼長は気を晴らすため、彼に笙を吹かせ、その音色でお互いの心を慰めた
帰り際に男は言った
「私はこの通り不運な男で、ろくな地位も職もありません
もし私が世をはかなみ、出家したのならば
世間は私の才能が優れているばかりに、天がそれを滅ぼしたと思い
学問を敬遠するようになるでしょう
そうならないためにも、どうかあなたは学問もやめないで下さい」
頼長は涙を流し「決して忘れない」と答えた
男は翌年出家し、信西と称した。
どんな人なのかと思ってwikipeったら出家後がかなりの黒幕っぷりでワロタ
学問の才ってより相当の切れ者じゃん、純情エピソード似合わんw
でも自分で「私の才能が優れているばかりに」と言うあたりはさすがだ
うわあああ、この2人仲良かったんだ。
頼長死後その墓をあばかせたのが信西だろ?
仲良かったの?
藤原通憲、幼時に高階家に婿入りしたため高階通憲とも。出家して信西と号す。
この男が出家に至った理由は、自己の能力に自負があるも、家格の面でそれが宮廷で生かせないから。
つまり自己顕示欲が極端に強く、頼長と同質の人間であると言える。この種の人間が
同一の舞台に立てば、並立できずに潰し合うことは容易に想像できる。頼長が通憲の
出家時に寛大に接したのも、自己のその優越する立場あってのことに過ぎない。つまりは憐憫である。
マサカド復活age
康治二年(1143年)って忠通にようやく男子(基実)が生まれた年だから、
自分の摂関家の後継者としての前途に不安を感じていたはず。
そういう時期なら、不遇の通憲(信西)と共感が生まれてもおかしくないと思う。
…一瞬だけ、だったかもしれないけどね。
応永年間のことだという
信濃国善光寺念仏堂には48人の時宗の僧がいたが、彼らは戒律を破ったということで追放され、
善光寺は新たに鎌倉の極楽寺から律宗の僧を招いた。
ところが、である。その時から念仏堂の井戸に白蛇が現れ、律宗の僧たちを悩ませた。
そしてある夜、僧たちの夢に一人の老僧が現れた。
彼はいう
「自分は清い流れではなく、濁った水に棲みたいのだ。」
律僧らは問う
「私たちがここにいることは、如来の本意に背くのですか!?」
「そうだ」
ここで僧たちの目が覚めた。
この不思議な出来事により、追放された時宗の僧たちは再び、善光寺念仏堂に戻ることができた、
ということである
(善光寺縁起)
>>659 それで追放された僧が戻してもらえたのがいいね。
戻って来ても戒律を破ったのだろうか?
「破ってくれ」と言われて戻る方も変な気分あね。
>>660 何かの罠だと思うよな>「破ってくれ」と言われて
「赤松円心の旗印」
倒幕の兵を挙げ、一人奮戦して天下に義勇を轟かせていた赤松円心は、ある時、苦戦に陥った。
日に7戦するも配下は次々と敗走し、馬は倒れ、ついには主従7騎を残すのみ。
これでは雲霞の如く押し寄せる六波羅勢に勝つことなど出来ようはずもない。
追い詰められた円心は、三男・則祐と一緒に自害することを覚悟した。
覚悟を決めはしたものの、やはり諦め切れなかったか、南に見える男山八幡宮に合掌すると
「この戦いでもし勝利を得られたならば、一寺を建立して百僧を置き、その神助に報いる所存です。」
と請願を行った。
そして、お告げが下された。
「北条の旗印は鱗型。つまり水である。赤松の旗印は左巴。これも水である。水と水との戦いに勝敗は無い。
ゆえに、その紋に水を総べる大竜を書き加えたならば、勝利は間違い無いであろう!」
これを聞いた円心は、早速左三つ巴の紋の上に大竜を書き加えて出陣、遂に大勝利を得ることができた。
その後、天下に龍興り虎疲れ、建武4年、足利尊氏が入洛を果たしたのも円心親子の力によるものである。
そもそも龍というのは寺の塔に書くべきもの。お告げはまさしく理に叶ったものだったのだ。
こうして円心は佐用荘苔縄に法雲寺を創建し、高僧・雪村友梅を開山住持に迎えたのであった。
(雪村大和尚道行記)
赤松氏の家紋・左三つ巴は時計回りの渦巻きのもの。
上郡町宝林寺(円心館)には円心の生前に還暦を記念して作られ、
江戸時代に彩色された円心の寿像(木像)があるけど、
この像の袈裟の部分にも家紋が描かれてます。
しかし、肩の部分に反時計回りのもの(右三つ巴)が混じっており、
現地で聞いた話だと、これが原因で国の文化財の指定を見送られたんだそうな。
でも現在、ネットなんかで赤松氏の家紋として紹介されているものは、
反時計回りのものが大部分を占めてるような・・・。
建武3年(1336)2月11日、足利尊氏は摂津豊島河原合戦で新田義貞・北畠顕家の連合軍に敗北し、足利軍全体も危機に陥った。その日の深夜、赤松円心は尊氏の御前に参上し申し上げる
「今回、例え敵を打ち破り都に攻め上ったとしても、味方は疲弊しその戦果を維持するのは難しいでしょう。しばらく御陣を西国にお移しになって、軍勢に休息を与え、馬を休ませ弓箭干戈の用意をした上で、再び
上洛なさるべきです。
およそ合戦においては旗こそ大切です。官軍は錦の御旗を先頭に立てていますが、味方にはこれに対抗する旗が無いので朝敵のように見られます。
ところで持明院殿(後伏見院)は天子の正当でおわしますから、先代(北条氏)の滅亡後の状況について、その御叡慮が心良いはずがありません。急いで院宣を戴き、我らも錦の御旗を先頭に立てるべきなのです!
去年の合戦で我々は利を失いましたが、あれは大将軍の星(金星)が西にあった為です。そのため関東から御発向の合戦の際には味方に利が無かったのです。
今度西国から攻め上がれば、我々の軍勢は洛中の大将軍の星の方に向かうことになるので、御本意を達することが出来るでしょう。
先ず、四国には細川が下向するとよいでしょう。中国の摂津播磨は、この円心が守ります。鎮西は太宰筑後入道妙恵(少弐貞経)の子の三郎(頼尚)と将監の二人が、今ここに供奉しています。
その上妙恵は以前将軍(尊氏)から御教書を賜っていますし、きっと忠誠を尽くすでしょう。
大友左近将監(貞載)は去年7月、京で結城親光によって討たれ、家督の千代松丸は幼少のため、一族家人数百人が当陣に伺候しています。
将軍が中国四国九州の軍勢を従え、時日をおかずに御帰洛できることは疑いありません。まずは、摩耶城の麓までお越しください。」
円心はこれを再三にわたって申し上げたため、尊氏はついに夜中、瀬川の陣を退き、十二日卯の刻(午前6時頃)に兵庫に入った。 しかし下御所(足利直義)は一旦それに従い退いたが、再び戻って摩耶の麓に陣して、
何とかして都に攻め入って命を捨てようとしている様子であった。しかし尊氏が説得したため、兵庫に帰った。
同日、酉の刻(午後6時頃)から、誰が始めるともなく船に乗り始めた。非常にあわただしい様子であったという。
以上『梅松論』より、尊氏の九州下向決断の模様である
>>664 徹底的に尊氏を新田が追いかけていればね。このやり取りが本当にあったかはともかく。
西国で再建を図る事例は平家にあるので、それに従えば徹底的に叩くべきだった。
平家は天子を擁していても負けた。新田の凡将ぶりが目に見えるし、
顕家との連合軍である点、天も尊氏の味方と見える。これが楠木なら違う結果になったろう。
>>665 南朝方もダメージが大きかったのだし、
北畠は奥州にすぐに帰った。
楠木某とかいう何処の馬の骨だかわからん者に誰が従う?
守護としての役目もマトモに務められないような香具師に。
正和年間(1312〜16)の事である
東寺領・丹波国大山荘(現・兵庫県篠山市)では、東寺から排斥された寺僧厳増が現地の代官と組み
荘園内に乱入し、追部、狼藉、苅田、刈畑、討入、奪取といった悪党行動を行った。
さらには荘内の西田井村百姓がこのに従い東寺への年貢の支払いを止めるなどの行動に出、大山荘は
まさに分裂状態となった。
この時である
荘内の一井谷の住人であり、沙汰人(荘園領民の指導部)である藤原家安は、自らの計略により
他所より軍勢と兵糧を集め、厳増に対し私戦を行った。
この家康の行動により厳増の勢力は鎮圧され、大山荘から悪党行為は根絶された。
藤原家安は大山荘を救ったのである。
家安はこの働きに対して、東寺よりの「御恩」を求めた。
ところが
「御恩」どころか、東寺は家安より沙汰人の資格を剥奪。さらに東寺への忠節を重ねて契約させた。
厳増を打ち破った家安の実力と武力を恐れたのだ。
丹波国大山荘・厳増騒動の顛末である
(東寺百合文書)
武士が台頭するまでは僧侶が公家と並ぶ権力だったんだなあ
公家がひょいひょい出家しちゃうのは看板ちょっと替える程度のもんなんだろな
僧侶が政治的権力持ってたのは奈良から江戸時代までかな?
だとしたら現代の葬式坊主の状態のほうが短いわけか
>>668 江戸時代で権力があった僧って崇伝や天海くらいまでじゃないかな。
実質的には軍事的、経済的な裏付けがあった戦国までだと思う。
>>669 江戸時代は個人的に権力者に取り入って力持った道鏡タイプはいたけど
あくまで権力者の寵があってこそで自身が力持っていたわけじゃないからね
江戸時代は寺社奉行の統制下で政治組織の末端に組み込まれちゃってたからね。
勝手に新しいことを始められない状態。
だからこそ、明治の廃仏毀釈につながっちゃったわけだが。
刀伊の入寇での藤原隆家や後三年の役での源義家と同じパターンかよ...。
>>672 藤原隆家はすでに高位高官に達していて、特別な賞を受ける立場には
ないし、良くも悪くも処遇は変わっていないと思うけどね。
源義家に関しては、純粋に自家の勢力を伸ばすための私戦だった上、
陸奥守としての所定の納入分を納めなかったために相応の処分をされ
ただけという話だったと思うが。
>>672 藤原隆家はすでに高位高官に達していて、特別な賞を受ける立場には
ないし、良くも悪くも処遇は変わっていないと思うけどね。
源義家に関しては、純粋に自家の勢力を伸ばすための私戦だった上、
陸奥守としての所定の納入分を納めなかったために相応の処分をされ
ただけという話だったと思うが。
そこから左遷されてたんじゃなかったか隆家は
少なくとも功績に対して何もしなくていい理由にはならないでしょ
>>675 左遷などされていないでしょ?普通に任期が終わって帰京しただけのはず。
すでに正二位中納言まで上がっているし、過去にあれだけの問題を起こして
いる以上、昇進ということにはならんでしょう。
672の件に通じるのは、現地の武士を賞するようにという権帥の上申への議定
の話だと思うけど、こちらは最終的には賞することで決していますね。
相模国淵野辺村に、足利直義の家臣である淵辺義博という武士がいた。
中先代の乱の際、鎌倉に幽閉されていた護良親王を暗殺したことでも歴史に名を残した武士である。
時に、淵野辺村の境川沿いに、龍池という広い池があった。
ここにはいつごろか巨大な龍が棲みつき人や家畜を襲い、村人たちは恐ろしさに逃散する有様であった。
時の幕府はこの龍を退治する勇者を募集、ここに名乗りでたのが淵辺義博であった。
彼は得意の強弓を携え池の畔に立って龍を待った。
にわかに雷鳴轟き、風雨巻き上がり池が二つに避けた!と思うとそこから立ち上がる巨大な柱、
それは見る間に龍となり巨大な口を真っ赤に開き、淵辺に向かって襲いかかった!
淵辺は弓に鏑矢をつがえ、龍の鋭い二つの眼光の、真ん中をめがけそれを放った。
矢は、違わず龍の眉間を貫く。
絶叫と共に、龍の体は3つに分れて飛び散った。
幕府は龍を退治した淵辺の労をねぎらい、龍池を埋め立てその土地は淵野辺村の人々に
分け与えられた。
そして退治された龍の怨念を静めるため、龍の頭が落ちた場所に「龍頭寺」、胴体の落ちた場所に「龍胴寺」、
尾の落ちた場所に「龍尾寺」が建立されたという。
この三寺の内現存しているのは龍像寺だけだが、そこにはこのと時の矢じりと、龍骨の一部が保存されて
いるという。
淵辺義博は建武2年(1335)12月5日、足利直義軍と新田義貞軍が衝突した駿河手越河原の戦いにおいて、
直義方の敗軍の中、直義が逃げ落ちる時間を作るため、彼の身代わりとなって壮絶な討ち死にをした。
淵辺義博の龍退治、という伝説である
(相模原昔話)
宝治元年(1247)6月5日の宝治合戦において、三浦泰村・光村兄弟は北条時頼によって討伐され、
頼朝旗揚げ以来の幕府の大勢力であった三浦氏は、ここに滅びる。
が、三浦氏のうちでも、傍流である佐原氏の三浦盛時は北条時頼に従い、この合戦においても
宗家に対し刃を向けた。
この三浦盛時は宝治合戦でも妙に目立つ人で、合戦直前にその前兆とされる怪魚の死体が漂着したことを
報告したり、合戦当日は北条時頼邸への到着を遅刻し、屋敷の堀を乗り越えて入ってきたのを北条時頼に見られ、
驚いた時頼から鎧を賜る、などといったことをしている。
そんな三浦盛時であったが、北条の覚えめでたい彼は合戦後、北条の許可を得て「三浦介」を名乗り
三浦宗家を継いだ。ここに新たな三浦宗家、佐原流三浦氏が始まる。
およそ280年後、永正13年(1516)。
三浦道寸(義同)・義意親子は籠城の末、新井城にて自刃。佐原流三浦氏はここに滅亡した。
彼らを滅ぼしたのは後世に言う北条早雲。すなわち伊勢盛時である。
盛時に始まり盛時によって終わるという、佐原流三浦氏の奇縁についての話である。
修学旅行でお馴染の京都天竜寺の庭は南北朝時代の作庭の名僧、夢窓疎石
足利高氏からも後醍醐天皇もからも愛され足利義政には手本にされた、ちょっちゅ いいボーズ
応永23年4月25日の夜の事である。
京の北野社に怪鳥が現れた。
これの鳴き声は大きな竹をひしいだ時のようで、その音の大きさに北野社の社頭までもが鳴動した。
怪鳥は二股の杉に留まって鳴き、夜になって詣でる人たちの肝を潰した。
この時、北野社の宮司の一人が弓を以ってこれを射落とした。
近づいて見れみれば、この怪鳥、頭は猫、胴体は鶏、尾は蛇であり、眼は爛々と輝いていたという。
まさしく稀代の怪鳥であった。
この事は室町殿・足利義持に注進され、これを射た宮司は御感に預かり、練貫一重、太刀一振りを
下されたとのことである。
ちなみに怪鳥の遺骸は、河に流されたのだという。
(看聞日記)
681 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 11:48:19.86
神社にも僧兵が居たっていう話か。
いや、たいていの神社はお寺の下部組織だから
683 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 17:03:23.74
なんだよ、怪鳥のことは話題にしないのかよ。
これって、源三位頼政の鵺と同類だろ。
しっかし、もののけ話ばっかりだな。当時の人間がいかにそれを信じ込んでいたのか
ということが、よく現れているというかなんというか。
加持祈祷だの呪詛だの、ファンタジーな世界だよなぁ。
今でもそうじゃない?
ほら2chよくいるじゃん、見えない敵と戦ってる人。
688 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 12:56:44.45
今のアニメも魔法使いとかロボットとか、有り得ないほどリア充な学校生活とかの描写が出てくるけど、
千年後には、千年前の連中はこんなの信じてたんだな〜、とか言われちゃうの?
東寺百合文書って萌え要素あるの?
文明14年6月25日、右京兆細川政元は、河内の畠山義就に鷹を贈った。
義就はこれを大いに喜んだという。
香川氏がこの奉行をし、山本というものが使者に赴いたと云々されている。
この事について、誰も政元の意図を理解できなかった。
そのため、夢のお告げがあったためだ、とも言われた。
(大乗院寺社雑事記)
後の明応の政変等にも繋がりそうな、細川政元の怪しい動きについての逸話である。
政元の行動力の高さはすごいよなあ
正直こういう上司は嫌だw
政元がホモでなかったら、細川京兆家も違った歩みをしただろう。分裂は痛い。
応永十七年六月二十九日、鎌倉公方足利幸王丸(持氏)の評定始めがあったが、幸王丸は未だ
元服前であったので、御出座はなかった。
ここで幸王丸の祖父、二代目鎌倉公方であった左馬頭氏満の三男・満隆は、幸王丸の伯父であり
幸王丸の父満兼の舎弟であって、この頃鎌倉の新御堂殿と称していた。
鎌倉公方の連枝一族のことでもあり、東国の貴賎は皆彼を畏れ敬い、大名緒侍からも尊敬を受け、
彼らの時々の訪問、折節の拝礼が絶えることがなく、門前は常に賑わっていた。
そんな状況だったのに、何が不満だったのだろうか、満隆は陰謀を企てた。
満隆が内々に軍勢を招き、諸大将と語らっている。そんな情報を知った幸王丸は、密かに上杉長基の
鎌倉山内の邸宅に入り、そこから近習の近藤五郎を満隆のもとに派遣して、陰謀の真贋を詰問した。
これに満隆は大いに驚き、「そのような陰謀は全くない!考えたこともない!これはただ、
人々が勝手に言っている、私への讒言に違いない、どうか私の言うことを信じて下さい!」
と、数通の起請を書いて提出、これに幸王丸も、「さては世間の虚説であったか」と、
九月三日に帰座し、疑いも溶けたという。
後の上杉禅秀の乱に繋がる、足利満隆陰陰謀事件の顛末である
(鎌倉管領九代記)
基氏以降の鎌倉府ってずっとこんな感じだよな……
基氏が早死にしなかったら違っただろうか
永享七年(1435)の永享の乱で滅亡した鎌倉公方、足利持氏の遺児、安王丸、春王丸を結城氏朝が
擁立し永享12年(1440)挙兵した、世に言う結城合戦。
結城城は堅固であったが、翌嘉吉元年(1441)5月の幕府軍による総攻めによってついに陥落。
安王丸、春王丸兄弟も敗亡した。
この結城合戦が終わると、安王丸、春王丸兄弟の乳母が捕縛され京へと連行され、
そこで厳しい取調べを受けた
「持氏には10人余りの子があった!安王丸、春王丸以外は何処へ落ちたのか!?
居所を白状すれば恩賞を与える。…だが隠すのなら拷問をするぞ!」
乳母は言った
「私は、安王丸様、春王丸様以外のことは一切知りません!」
そこで幕府の奉行たちは彼女に『水火ノ責ニ及』んだ。
それでも乳母は一切口を割らず、終には舌を噛み切り、自ら死んだという。
(上杉憲実記)
乳母の子に注ぐ愛情は時に実子以上だよなあ
>>697 長じて将軍なり大名になれば、一族の立身に直結する点もあると思う。美談だけではないよ。
応永23年(1416)12月
『聞いた所によれば、押小路亜相(足利義嗣・将軍義持弟、義満次男)の反逆が露見したとのことである。
関東の反乱(上杉禅秀の乱)も亜相の為だそうだ。
亜相は比叡山や南都の興福寺とも一味していたようである。わが園城寺は亜相からの回文を
幕府の見参に入れた。
ところで現在亜相がおられる臨光院の宿舎に、盗人が忍び入ったとの事。
この者は軒の格子を切り破っていた所を番衆に見つけられたが、逃げ延びたということだ。
これは亜相を盗み出すためであったと取りざたされている。
これによって亜相の周りの警備は厳重となり、今後怪しい者があれば、見つけ次第殺害せよと
下知されたとのことである。』
(看聞日記)
上杉禅秀の乱が、京にもたらした影響についての記録である。
700 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 02:50:10.45
割と有名だけどまとめになかったので
鎌倉中期、東大寺の別当を務めたほどの高名な学僧で、宗性という人物がいる
華厳宗を代表する名僧で、法然や親鸞などが活動し始める中、いわゆる旧仏教の最高に力を尽くした
そんな彼は30代も半ばを過ぎたころ、よりいっそう仏道に励むために5つの誓願を立てた
一.四十一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二.現在までで、95人である。男を犯すこと100人以上は、淫欲を行うべきでないこと。
三.亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四.自房中に上童を置くべきでないこと。
五.上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。
このうち二と三は要するに
「今まで稚児95人とヤりましたが、生涯に100人以上犯さないよう誓います。
そういうわけで、これからは亀王丸きゅんだけを愛します」
親鸞の女色を戒律違反と責め立てた宗性だが、ショタ相手なら100人までは大丈夫だったようだ
参考:松尾剛次『破戒と男色の仏教史』
堂々と誓願しちゃうくらいに普通のことだったのか
「欲」ではあったけど「罪」じゃないからおkってとこか
衆道はむしろ仏道にとって良いことだという感覚だった。
ヤリチンは死ね
ホモは1000人切りザラだって言うしな
女と違って、男同士は両方が無差別に相手を求めるから
いや、戒律で同性・異性・獣、全部アウトだって書かれてるから
宗性と言えばこれも。
敬白
一生涯ないし盡未来際断酒のこと
右、酒はこれ放逸の源、衆罪の基なり。
しかるに生年十二歳の夏より、四十一歳の冬にいたるまで、愛して多く飲み、
酔いて狂乱す。
つらつらその犯すところの過を思うに、定めてその悪道の業をなす。
先非をかえりみるごとに、深く後悔をいたす。今より以後、盡未来際、
永くこれを禁断し、さらに受用するべ からず(ただし、如法真実難治のときを
除くなり)。願わくはこの善根をもっ て、願わくは今の功徳によって、
現世久しく余算を持し、身に病看なくして仏法を学び、当生必ず兜率に詣で、
慈尊に眼礼し、恵解を開かん。
仁治四年正月一 日、これを始む。
権律師宗性 生年 四十二
(12歳から41歳になるまで酒飲みまくったけどこれからは生涯禁酒すること
を誓う。でも酒は薬でもあるから病気のときは飲むけどね。)
これ以前から度々禁酒の起請文を書いているため、これが守られたかどうか
定かではないw
ただのDQN自慢な気がしてきたなw
芸能人の俺も昔はワルだった〜的な
禁酒しても般若湯はやめないとかでわ?w
永享5年(1433)7月24日
洛中に坂本の馬借が乱入してくるという風聞があり、山名時煕に幕府奉行から河原などに伏せ野伏を
置くようにという沙汰が発せられた。これは夜中のことであったので、家臣たちは遅々として集まらず
仕方がなく、先ず集まった少数だけ派遣すると報告し。深夜午前1時頃、少勢を出動させた。
するとこの山名勢が大原辻において、馬借の集団300人ばかりに出くわした。
対して山名勢は5,60人ほどであったという。
しばらく双方睨み合っていたが、山名方のものが
「お前たちは何者か!?敵か味方か!?」
と尋ねると、馬借の方から
「味方のわけがないだろう!」(何事に味方にては候べき)
という返答と同時に矢が放たれた。
そこで山名方からも一斉に矢が放たれ、即座に2,3人を射倒した。
そうして矢戦の後、馬借の一団は山名方に向かって襲いかかってきたが、山名方はこれを
尽く弓をもって射払い、馬借たちは退散した。
山名方には一人の負傷者もなかったという。
(満済准后日記)
訓練された武士と、素人の馬借一揆との戦闘力の差を良く表した逸話であろう。
やっぱり馬借は気が荒いなあ
どうして馬借の癖に騎馬戦しないで矢戦?
負けるに決まってるじゃないか
そりゃあ馬借は「馬に乗せる」仕事であって「馬に乗る」武士では無いからでは
馬に乗らずに調子に乗ったのが敗因ですかな
714 :
日本@名無史さん:2011/11/20(日) 02:27:52.58
あれ?騎馬より弓の方がはるかに強いんじゃないの?
むしろ馬借が洛中に乱入を企てた理由が気になる。徳政狙いか?
伏見宮貞成親王の愉快な貴重な室町時代の記録「看聞日記」より、
応永25年(1418)8月晦日の記事
『晴れ。野遊びに出かける。
田向常良三位、庭田重有朝臣、田向長資朝臣、壽蔵主などと相伴して蒼玉庵へと行った。
ところがそこの坊主が留守であった。
そこで敷地内の栗林に入って栗を拾った。もちろん無許可で。
面々、大いに悪行を成した。
それから楊柳寺に行き、ここの庵に顔を出す前に本尊である観音像を拝見していると、そこに坊主がやってきて、
盃事となった。思わず三献も酌み交わしてしまった。
このあと帰宅。
その後蒼玉庵の坊主が、酒を少し持参して
「知らなかったとは言え私が留守の間にお尋ねになったとか、恐れ入り申し上げます」
などと言いに来た。
そこで対面し
「こちらこそ栗拾いの乱暴狼藉、すまなかった。」
と謝り、盃を与える。すると退出していった。』
なんとも伸びやかな、室町時代の皇族の遊びの風景である。
栗拾いごときで乱暴狼藉なのか
日記に書けない様な悪い事したんじゃないの?
現代でいう未成年の飲酒、喫煙ぐらいのことなんじゃないかな
多分この人が現代に生まれてたらブログかtwitter辺りで自爆しちゃって炎上しちゃうんだろうな
720 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 03:35:40.49
ていうか当たり前のように酒持ってきてるなこの坊主
般若湯
つーか中世の銘酒の生産地といえば寺社だぞ。
寺社はそれを販売して金稼いでた。
現代の寺社のイメージは、江戸時代や明治時代以降に定着したものだろうしね
そもそも神仏習合期の寺社では、坊主と神主は兼業されており、
彼らは神に対し「御神酒」を差し上げる必要があるのだ。
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。
樓魔寧文へ真帆斃瑜も聾薆を禰伊れ偉ぷ武万葉其方を砂魑ね地魏とぞ廻れ倭嶺、あ蘭魔廼擢と他部釜无劣不ぞ哈密き貯寸那致䄅く釜奴辺戸は善魔慈魔梨た魃厦亜に嘉羅汰鬼戦弥踏み縷魔荼父母夛め都莉鎖圖師苑て魘巍衛恵る木歩雨他琉偉な。
愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨ッ=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
ああ、そういうことか。
>>725はインスマスの住人だったんだな。
ちょっと米軍に頼んで関門海峡に魚雷打ち込んでもらってくる。
何かの呪文かと思ったよ
太平記巻八・妻鹿孫三郎勇力事
『年の頃二十歳ばかりの若武者が、ただ一騎駆け寄ってきて、引き上げる途中の
妻鹿孫三郎と組み討ちをしようと近づき、鎧の袖に取り付いた。
これを孫三郎は物ともせず、長い腕を繰り出し、この若者の鎧の総角を掴んで、左手一本でそのまま持ち上げた。
その状態のまま馬を三町(約300メートル)ばかり駆けた。
そして左手で掴み上げていたこの鎧武者を、馬上で右手にポイとパスし、そして右手で「えい」と投げた。
するとこの投げられた武者は、孫三郎の後に続いていた馬武者6騎の上を飛んでいき、深田の泥の中に、
体が見えぬほど埋まってしまった。』
太平記に何人か出てくる化物のうちの一人、妻鹿孫三郎についての記事である。
投げ打ち、ね
人間には不可能
人間やめれば可能ってことだろ?
早く人間になりたい!
733 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 23:21:59.81
妻鹿(めが)長宗の一族、人並み外れた怪力の男ばかり17人の軍団。
実に恐ろしそうだ・・・。
16人は六波羅勢に討たれてしまうけど。
「依藤惟次の亡霊」
嘉吉の乱の時、城山城後詰のために白旗城を出陣した依藤(よりふじ)太郎左衛門(惟次)。
しかし、到着を待たずに城山城は落城、赤松満祐は自害したのである。
間に合わなかった依藤は、揖西郡千本村という所の辻堂に力なく走り上って腹を掻き切った。
しかし、はらわたを庭前の楠に投げつけ、眼を見開き歯を食いしばっていたところを
たまたま通りかかった美作小原城主・新免弾正に見つけられ、首を取られて手柄とされてしまった。
新免は時の人に「ひろい首也」と誹られている。
さて、依藤太郎左衛門は旧知の者によって弔われたのだが、その者が
「梓弓はりまの方の人とえは松より藤の名こそ高けれ」
という歌を詠んで掲げたところ、依藤の亡霊は怒り狂って悪霊と化し、里の民を悩ましはじめた。
これは堪らない。
そこである僧を頼んで改めて弔った上、この歌を
「あつさ弓播磨の方の人とえは松により藤の名こそ高けれ」
と直したところ、亡霊の怒りはようやく鎮まったのである。
(播磨鑑)
主家想いの亡霊というのも、なかなかに難儀なものですなあ。
どっから松が出て来たんだろかと思ったら赤松の松か。
736 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 13:34:09.71
ぬるぽ
賀正
>>487 所領がやたら多い御家人の所領を没収して頼家近習に与えようとしたのがまずかったって本には書いてあった
まあ吾妻鏡の描く頼家暗君伝説はだいぶ曲筆入ってるだろうと思うけど
頼家の側近が台頭してきて、北条、安達、三浦などの重臣達が危機感を持って失脚させたんだろうな。
信西と頼長書こうと思ったら既に出てた
やっぱパッと思い浮かぶような話は別の人にとってもそうなんだな
嘉吉の変の後、幕府は幼少の将軍を補佐するために畠山持国と細川勝元が交互に管領として執政を行っている時代があった。
が、内実は単なる権力闘争の感が強かった。それを端的に示す手紙が南近江の豪族、山中一族に伝わっている。
大上様(義政母)に申し上げる次第です。私、山中高俊は四十年間検断(警察業務)の責務を果たしてきました。
西芳寺の荘主代が殺害されたときは、伊勢・伊賀まで賊を追いかけ、見事に討ち取りました。そのときは西芳寺からじきじきに恩賞を賜りました。
ですが、伴帯刀が悪事を企て、私に濡れ衣を着せて裁判を起こしました。畠山殿が管領のとき、伴一族は成敗を受けています。そのときの書状も持っています。
ですが、今回の裁判は調べもせずに本領の宇田村を没収されました。これは間違いです。きちんと調べなおして下しさい。
もし、調べなおしていただけるならば、いよいよ我々一族は幕府のために忠節を尽くすことでしょう。謹んで言上いたします」
鈴鹿山道を代々警護する山中一族だが、管領が交代して就任している時期に一族の本領である宇田村付近の私有地を没収された。近隣豪族の伴一族が訴えたためだが、実はこの裁判は三年前に伴一族の言いがかりだと判決が下りているのである。
だが、この裁判を畠山持国が裁可したというだけで、細川勝元が判決を翻してしまったのだ。
結局、再審は行われずに山中一族は没落の道をたどることになるのであった。
義満のときとは違いすぎる、管領の自分勝手な振る舞いの話。
ちなみに、この裁判の結果をうらみに持っていた山中一族は応仁の乱で六角氏側として参戦。西軍側の近隣豪族の所領を攻撃することとなった。
乱文、スマヌ
甲賀忍び棟梁で出てくる名だね中山さんと伴さんは
おくり名修正のこと
承久の乱から20年後、隠岐島に流罪となった本院が崩御なさる。
朝廷は故院に「顕徳院」とおくり名したところ、都に夜な夜な
人魂が出たそうな。人々は「故院の祟り」と噂し、2年後朝廷はついに
故院へのおくり名を「後鳥羽院」と改めた。
すると人魂も治まり、故院の怒りは解けたということだ。
おくり名が変えられた帝は後鳥羽院が唯一である。
不遇な天子に贈られる「徳」の字が気に入らなかったのだろうか?
「鎌倉武士のなんともいえぬ潔き気風の真髄となっているものもやはり平安時代の「あわれ知ること」である。
平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。
彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、
その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。
自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、死を決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。
足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。
落花に対して風を恨んだ源義家もある。
梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。
熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。
これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。
実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)
747 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:03:24.29
忠君の情が厚かった。
そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、
この「あわれ知る」という気風であったのである。
武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。
理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。
鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。
このことについては、武士はいつ死ぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、
在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、
我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)
748 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 20:44:52.61
>>747 >忠君の情が厚かった。
>そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、この「あわれ知る」という気風であったのである。
ものすごいお花畑脳内妄想だな。w
>>747 これは、史実無視の精神論ってので、悪い話ですね。
赤松満祐が義教を殺そうと思ったきっかけのひとつ。
赤松さんちのみっちゃんは、弟の則繁くんと仲が良かった。
ある日義教が、則繁くんの領地を召し上げて、別の赤松姓を持つ奴に
プレゼントするというじゃあないか!
みっちゃん「どうしてじゃあああ! 則繁くんが何か悪いことしましたかあああっ!」
義教「ん……だってさ、こいつが『あそこの土地が欲しい』って言うんだもん」
こいつ、とは赤松姓を持つ若僧。
義教「僕達、ラブラブなんだよね〜♪」
若僧「ラブラブですよ〜上様ぁ〜ん♪」
(て、てめええっ! おホモ達には今までの経由なんか考えず、土地を与えて行くのかよ!?)
帰宅してみっちゃん、則繁くんに事情を語る。
則繁「兄ちゃん! おれ、めっちゃ悔しいっす! 先代の義持様はともかく、今の義教様だって
こっちは今まで通り忠義をやってるんですよ! それが、あんなぷりんぷりんのケツのために
おれの領土を持っていかれるって、どうなんですか!? 許されないですよね!?」
みっちゃん「腹立つよなあ…いや、腹立つだけでは納まらんよ!」
かくしてみっちゃんは将軍暗殺す!を肝に銘じ、則繁くんも最高に協力したのである。
で、嘉吉の乱当日へ向かっていく。
という話を高校時代に読んだんだが、典拠はどういう書物でしょう?
この文章は25年ほど前に百科事典(結構詳しい奴)に載っていた文章をアレンジしました。
751 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 05:07:18.56
>>750 赤松貞村というのが「こいつ」の姓名。
義教の大名統制策の一環であり、男色は
理由づけだと思われる。
有力な大大名である赤松氏が将軍の意のままになるチャンスだったのを
満祐が潰したというのが正解。
結局曾孫に幕府の存在基盤を危うくしてまでも大名統制に乗り出させる
結果をつくったのは、尊氏が外様大名に領地をあげ過ぎたことが原因。
そうしないと南朝に奔るから仕方ないのだけど。
義教は気の毒な人生だ。後醍醐の我がままに最後まで付き合わされて殺されて。
後南朝の掃討も義教の仕事だった。
>>752 thanks!
「若僧」って書いたけど、若僧って年齢でもないな。
日本に封建制度は合わないんだろうか?
>>753 合わなかったら800年も続かないと思うが
現状をみると民主主義の方が合ってない気がする
三権分立を提唱した人として教科書に載ってる人は、共和政治はすぐに堕落するから君主制の方が良いよ、みたいなことは言ってた
モンテスキューはエリザベス女王とかがパトロンだったしな
>>755 民主主義は出来てから200年ちょっとでもうガタが来てるからね。
高度に教育された大衆がいないと成り立たないんだよ。
本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。
> 本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
> 本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。
「本当の意味でのエリート」なんてのが存在した時代なんてないだろ?
妄想世界の中以外では。
>>756 寡愚制に堕しなかった君主制なんてのも、存在したためしがないな。
君主制にも民主制にもその他の政体でも官僚がいるから、官僚こそ国の頂点だろう。
事実、官僚機構が脆弱な室町幕府は、統治能力が他の時代に比して弱かった。
>>759 北条得宗家の義時-時宗までは立派な統治者だと思う。多分日本史上最高の。
>>761 鎌倉幕府は室町幕府よりずっと官僚機構が惰弱なんだが。
そんなことも知らんのか
惰弱なのか。俺は官僚個々人の内面については興味ないよ。
あとは財政基盤でしょう
765 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:08:08.22
中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。
>>761,763
鎌倉幕府と室町幕府では、幕府の権限の範囲、実権の強さにおいて、圧倒的に
鎌倉幕府<<室町幕府
なんだがなあ。
鎌倉幕府は権限の範囲が小さいから小規模で簡素な官僚機構でも充分に機能した。それだけだ。
実権の強さってのはあくまで相対的なものだろ。
鎌倉幕府:御家人
室町幕府:鎌倉府・守護大名
どっちが強いかは自明だ
室町幕府は理論上日本中の武士を統率し動員できるが、鎌倉幕府は御家人として幕府が把握している武士しか
統率できないし、非御家人武士の側にも幕府に従う義務はない。
>>768 そのせいで国人衆を動員した守護に手こずるって話じゃないのか?
寺門(寺の内部昇格)出身の天台座主の、異様な在任期間の短さ
28代明尊 長暦2年(1038)補任して三日目に、山門大衆の反対で辞任。
34代覚円 承暦元年(1077)2月5日補任。山門大衆が騒いで翌日辞任。
39代増誉 長治2年(1105)2月14日補任。翌日辞任。
44代行尊 保安4年(1123)12月18日補任。6日後辞任。
47代覚猷(鳥獣戯画で有名) 保廷4年(1138)補任。3日後辞任。
50代覚忠 応保2年(1162)2月1日補任。2日後辞任。
60代公顕 文治6年(1190)3月4日補任。4日後辞任。
公顕以降、流石にもうこのシステムはダメだと考えたか、寺門出身の座主はなくなり、摂家門跡、宮門跡の時代となる。
戦後の総理大臣どころではない、寺門出身天台座主の在位の短さのお話。
>>770 寺門出身は園城寺(三井寺)出身という意味ではありませぬか。
というわけで山門(比叡山)から攻撃を受けたと。
座主=守護大名、行人(大衆)=被官、国人にあてはめればそんなでもないと思うが
普通に考えれば、寺門=園城寺の出身ということでしょうね。
実際皆園城寺の人だし。
能
今川了俊は亡き兄の範氏を思いやって、範氏の二男の泰範を駿河の守護に譲った。しかし、将軍義満に讒言して了俊の失脚の原因を作ったのがこの泰範と言われており、了俊は自らの人の良さを悔いたという
大友氏の菩提寺である万寿寺は、豊後最初の禅寺であると言われる。
その経緯はというと、嘉元3(1305)年鎌倉にいた大友家五代当主貞親は、
北条貞時と謁見した際、寺院を建立し僧侶を安んじたことがあるかどうかを
尋ねられた。答えに窮した貞親は、小寺を造り100人の僧侶を擁していると嘘をついてしまった。
しかし貞時はこれを信じ、周囲の者も大いに感心したという。
恥じた貞親はその後豊後に戻り、徳治元(1306)年、博多承天寺の直翁智侃を招き、彼を開山とし一寺を造るに至り、
程なくして100人の僧侶を擁する寺院となった。
時は下り天正10年、第22代当主大友義統が家臣への領地配布のために
万寿寺に放火し廃寺とするのはまた別のお話。
義統ェ・・・
一応江戸時代に立て直されて、寺自体はいまでもあるのね
鎌倉・室町のちょっといい話・悪い話のまとめサイトってちゃんと機能してるの?
もし管理人見てるなら教えてくれ
コンピュータ様が人間を統治するべきなんだよ。
ZAP!ZAP!ZAP!
2chにも、このような良スレがあるんだなぁ。
もうこのスレ落とそうぜ
>>779 更新が4月くらいで止まってるし機能してないな
どうせ糞管理人もどっかに消えたんだろ
そんな二元論にこだわらなくても
まったり行こうぜ
784 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:42:56.93
昔、小学校の時に渡された歴史の史料集に乗っていた逸話(うろ覚え)
「源頼朝は挙兵の前夜、自分に従っていた御家人達を一人ずつ呼んで、「あなただけが頼りだ
よろしく頼む」と言いました。御家人たちは大層喜び、士気は大いに上がったそうです。
しかし頼朝が本当に頼りにしていたのは北条○○(名前が思い出せない、時政?)だけでした」
>>784 挙兵だって頼朝は乗り気でなかったと思う。
頼朝はある時期から「神輿」になることを許容した。
差し詰め昭和天皇のように。そのはけ口が女だった。
昭和天皇はむしろ乗り気だったのでは
>>784 たぶん、近代になってから作られた、創作系のお話し。
昔の歴史教科書には、そのての創作物が数多く載せられてた。
>>786 開戦決定までは乗り気じゃなかったみたいだね。
決定後は積極派らしい言動が主だったらしいが。
まあ、戦うことが決定した以上は、戦時体制に水を差してしまうのが最悪だから、
ひょっとすると本心を隠しただけかもしれん。
あるいは、軍部から上がってきた誤った情報を信じてしまって、
勝てると思い込んでただけかもしれん。
公開された情報はことごとく、政治的意図を持った物ばかりだから、
本心から乗り気だったのか、そういう演技(ポーズ)だったのかは判断不可能だな。
昭和天皇は勝てないという思いは持っていたと聞く
ただし政治に容喙するのを自重した結果あのようなことに。
スレチなのでsage
789 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:47:36.20
天皇の御意についてはよくわからん
弟君の三笠宮様が歴史の生き証人だが、ご高齢のうえ、
今は御子息を失ったショックでお疲れと聞いているからなあ
まだ生きていたんだよな。びっくりした。
でも、あの表情は軽い痴呆だな。
791 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 00:06:14.72
>ただし政治に容喙するのを自重した結果
一見すると絶対君主制の如く見える憲法に惑わされがちだけど、
実際の制度上は、天皇が政治に口出しする機会はほとんどゼロという形になっていたはず。
実際の諸々の政治機構でも、天皇の口出しを受けない前提の運用が基本で、
主流派方針に不平を持つ人間が天皇大権を利用しようと秘密工作しない限り、
通常は天皇の御意などというものが漏れ聞こえることもなかったはず。
って、鎌倉室町のスレでやる話じゃなかったな、すまん。
>>791 sageよう。
>天皇の口出しを受けない前提の運用が基本
これを破ったのが226の時でこれは相当後悔があった…
とかいい加減にせいと怒られそうなんで鎌倉のころの話。
将軍実朝のころのこと、前将軍頼家の子を立てて謀反を企てた一味に渋河刑部兼守なる御家人がいた。
捕えられ明日処刑と言う時に和歌十首を二階堂の荏柄天神社に奉納したところ将軍の目にとまり命は助かったと言う。
教養は時に身を助けるという話。
>>792 >教養は時に身を助けるという話
オレ、安心したわ!
>>791 アメリカとの戦いは乗り気じゃないが
中国との戦いは乗り気
宜昌のときは直接支持を下した
795 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:28:44.36
>>794 アメリカは文明国だから日本がとやかく言う相手ではない
当時の支那は混乱の極みで、国民党は腐敗
このような政権を打倒することこそ支那人民のためになる
支那への干渉は正義
>>795 侵略のためなら、理由は何でもよかったんだしなぁ(笑)
鎌倉時代のスレなんですが
君らは元寇の話でもしとるん?
>>798 ○カの典型がキタ━━━┌(_Д_┌ )┐━━━!!
右と左って本当にどこでも喧嘩できるね
>>796 チョンは故郷に帰れ!
コミンテルンにけしかけられて、日本を侵略して日本人を奴隷化しようと企む蒋介石の野望を打ち砕く防衛戦争だ!
>>802 妄想乙です! もう、バ○かと!
日本をつぶす気かと・・・!(笑)
とりあえず「大東亜戦争への道」を読むといいよ
時系列で何が起きたかを淡々と書いてるだけの本だが
どういう経緯で日本が戦争に引きずり込まれたかよくわかるから
最初に手を出してきたくせに
嘘八百こいて自分を被害者に見せかける中国のやり方は
戦前も今の尖閣諸島問題でも全く変わってない
>>804さんへ。
>>803です。
冷静なあなたを尊敬します。
ご教示の「大東亜戦争への道」を読んでみることにします。
では、これで!
806 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 01:17:23.56
近、現代史好きなやつは、大体変なやつが多いよ。
話の投下が少なそうなので小話をば
洋の東西を問わず、弓の技術を鍛えまくると腕の形が左右非対称になるという話があるが、
与一の名で知られている弓の名手・那須宗隆に至っては
鍛え過ぎて腕の形どころか長さ自体が左右非対称になっていたらしい。
伝承で残るってのは見た目でわかるくらいっつーことかね
転載
> 851 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 21:52:44.76
> 後三年の役における源義家の戦後処理
>
> 4 千任丸の舌
> 次ぎに、千任丸が召し出された。
> 義家は言った。「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。」
>
> 千任は、頭を垂れて何も言わなかった。「その者の舌を切れ」と義家は命じた。
>
> すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。
> 義家は、激怒しながら、
> 「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。」と言って、源直を追い払った。
> 特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。
> その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。
> ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。
> 猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。
>
> 千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。
> 千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。
>
>
http://www.st.rim.or.jp/~success/go3nenki2012.html
義家は平安時代だろ
義家ってこういうのあるからイメージ悪いなあ
頼朝が義家の真似して泰衡の額に五寸釘うったんだっけか
>>810 このスレ、院政期は範疇。んで、後三年の役は白河院の院政期。
>>811 源義家は、衝突した美濃源氏の館を焼き討ちしましたとさ。
聖人君子で名を成したわけじゃないんだし、なんでそんな事でイメージ悪くするかね?
清和源氏は完全に戦闘民族だよなー
RPGとかの悪の帝国のキャラがそのまま務まるレベル
>>814 敗者に対して情けを掛けず虐待するのは、日本人のメンタルと
合わない気がする。
そんなメンタルは江戸期以降のものだし
(~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・`) 北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
/ >‐ 、-ヽ すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
/丶ノ、_。.ノ ._。) その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
. 〈 、〈Y ,ーiー〈ト 頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
\_ξ ~~~~~~Y せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
|__/__|
|、,ノ | 、_ノ
>>814 だが結局源氏嫡流は断絶したのであった。
断絶したのは河内源氏頼朝流だけだが
ら、頼朝流?
で、良い話悪い話はどうなってんだ。
揚げ足取りしかいねえじゃねえか
817のような何故このスレにいるのか
誰にも理解できない門外漢のいるスレで
何言ってんだ?
825 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 20:21:50.03
「国宝神護寺三像とは何か」を読みましたか?
826 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 08:46:22.21
戦国スレと違って過疎ってるな。
みんな中世は興味無いんかな?
>>826 戦国時代と違って、現代の似非日本人では理解できない破天荒な人達が多すぎてついて行けないから。
「日本史総合」の方がよかったかもしれませんね。
料理スレも最近まで江戸時代限定で書き込みにくかった。
>>685 別当寺のことでは。
>>706 『真言伝』の中で、病の時も飲酒しないことが美談となっているぐらいですから。
(室町時代の往来物には、五辛を薬とすることの是非を問答したものがある。)
平安後期の「起請文」の中にも、「杯を重ねない」と書かれています。
社交上必要な場合もあったので、なかなか非難もしがたいといいますか、そういう
のも当時の現実ですので、今から悪くは言えませんね。
法華八講も、僧侶が俗人に接待で酒を飲まされたのがきっかけで創始されています。
>平安後期の「起請文」の中にも、「杯を重ねない」と書かれています。
言うまでもありませんが、これを書いたのは僧侶ですよ。
起請文を「 」付きにしたのは、後代の定型がまだ完成されていないので。
『松屋筆記』は『宋高僧伝』の例を僧侶を酒で供養した例の初見としています。
成立年代は、平安初期の供養・飲酒を記す『三宝絵』の方がやや早いですが。
>>826 ぶっちゃけ、学問板だから敷居が高いのよ。戦国板みたいに 雑談で盛り上がったり、後世(江戸中期以降)出典の俗説めいた逸話を出すのも気が引けるし
日本史板もどこも俗論と雑談だらけだと思うが…
学問板のくせに敷居が高いとか誤用しちゃうのかよwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>812 院政期も可ということで
白川院が休んでいた時にうなされていたことがあった。
「適当な武具を枕元に置いておけ」との言葉があり、
源義家にそれを取り寄せたので、義家は黒塗りの檀弓を一張差し上げた。
それを枕元に立ててからはうなされることもなくなり、院は感心した。
院が「この弓は前九年の役に持っていったものか」と尋ねたところ、
義家はよく覚えていない旨を答えたので、上皇は自分の活躍を自慢しない
義家の謙虚さを感じ、それもまたしきりに感心したということである。
(宇治拾遺物語)
にきにきにんにんっ!
日本人の謙遜の美徳の歴史半端ねぇ
838 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 00:41:00.79
>>832 ぶっちゃけあっちは小説レベルの眉唾な話も普通にガンガン出てくるが
こっちは一応学問板としてのプライドからか信憑性が低いと書きづらいのもあるんかね
839 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 02:24:48.52
ばさら大名の服装などがわかる絵ってどんなものがありますか?
なかなかそれっぽいのが見つからないんですが。
ネットではゲームの絵ばっかり出てくるし、良い本もなかなか見つからなくて…。
佐々木道誉も地味な坊さんっぽい絵しかわからず…。
840 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 22:51:11.49
神護寺三像は、絵絹が日本産であったとしても、足利3人衆で揺るがないね。
尊胤法親王は後伏見天皇の皇子で、天台座主まで務めた宮であるが、
正平一統が崩壊した後、南朝方によって吉野山中の柴の庵に幽閉され、
それを山本三郎という者が命を受けて厳重に監視していた。
2ヶ月程経って、親王の病態が日増しに悪くなるという噂が立ち、
親王は「峯を通る山伏でもいないか、病気退散の祈祷をさせたい」
と望むので、警護の武士たちがあちこちに散らばって探した結果、
その翌日に尊そうな山伏を3人連れて来た。親王はたいそう喜んで、
枕元に招いて祈祷をさせたところ、2日程で全快したというので、
山伏にお布施を賜った。そして武士たちにも祝賀の酒を賜ったので、
彼らは夜の更けるまで歌い騒いでいた。
山伏たちは暁にも出発しようというので、まだ暗いうちに立ち去った。
するとその日の昼頃であったろう、急に「宮がいらっしゃらぬ」と騒ぎ立ち、
慌ててあちこちの関所に人を走らせて山伏を追わせたが、すでにその前に
関を通り抜けて、夜には興福寺に着いていたとか。これは、親王の門弟・
律師元祐という者がかねがね計略を練り、自ら山伏姿に身をやつし、
それも親王の身を潜ませるには十分な大きさの笈を背負っていって、
まんまと連れ出していたことが後で分かった。それからは皇居の監視を
一層厳しくしたので、さまざまな計略があっても成功しなかったという。
様々な計略って何やったんだろ。
しかしこういうことを一度やると本当に病気の時に信用してもらえなくて不便だろうな。
843 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 21:33:52.56
あげ
五月五日に賀茂の競馬を見ました。私(吉田兼好)の乗っていた牛車の前に
見物人が立ちふさがったので降りて近づいたが、人が多くて行けなかった。
そんな時に向こうの家の木に登って、枝の又に腰掛けて見物している僧がいた。
彼は枝につかまったままぐっすり眠っていて、落ちそうになって目を覚ますことが
何度もあった。その様子を見た人がこれを馬鹿にして笑い「大馬鹿者だ。
こんな危ない枝の上で安心して眠れるわけがないだろ。」と言った。
それを聞いて私は心にふと思いつくまま「私たちが死ぬ時はいまかもしれない。
それを忘れて見物などをして一日を過ごしている。この僧よりも愚かなことをして
いるともいえるのに…。」と言った。
すると前にいる人たちが「誠にその通りです。私たちが一番の愚か者です。」と、
皆が後ろを振り返って「こちらへどうぞ。」と場所を空けて下さった。
これほどの道理は誰だって思いつくはずのことだが、時機が時機だけに思いがけなく
ハッとしたのかもしれない。人は木や石ではないから場合によっては物に感じることも
ないわけではない。(徒然草)
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
というところですかね
源頼朝はいつも倹約を部下に指導してきた。ところが藤原俊兼が
美しく鮮やかな衣服を身に着けているのを見た頼朝は俊兼に命じて
その刀を取り、俊兼の着物の裾を断ち切った。
そして頼朝は「お前は働きのある男だというのに何故質素倹約を
履行しないのか。千葉常胤や土肥実平などのような者は鎧冑を
身に着けた武士で、礼儀作法を知らない。また、その領地はお前とは
比べものにならないほど大きいものだ。
つまり、彼らでさえ質素を実行して家を富まし、たくさんの士卒を
養っておるのだ。有事の時には功を立てようという志からである。
お前は何故それを考えないのか。」と俊兼を戒めたのであった。
(大日本史)
礼儀作法を知らないのがなぜ質素倹約につながるんだ
北条時宗は剛毅な人柄で幼い頃から弓を射るのが上手だった。
弘長中に鎌倉の極楽寺の屋敷で弓の大会が開かれた。この時、将軍が
小笠懸を見たいと言ったのだが、進んで引き受ける者はいなかった。
その時、北条時頼が「太郎が致しましょう。」と言った。当時の時宗は
十一歳であったが、馬に乗って出て見事に一発で命中させた。
見ていた多くの人々は歓喜の声をあげ、時頼もまた「この子は将来
きっと親の業を受け継ぎ、すぐれた者となるだろう。」と言った。
(日本外史)
よくある眉唾ものの与太話だな。
でも、時宗ならやりそうって思ってしまう。
はったりに強い=大舞台で強いって感じで。
武家として日本で最高の英才教育を受けてたはずだしね
その逸話、元は一度失敗して再チャレンジして成功させた話じゃなかったっけ?
853 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 23:47:09.54
馬がいつもと違う馬でタイミングが狂ったけど
パルティアンショットで射抜いたって話もあるな。
東北院は古い御跡で池山の景色など、すばらしく風流な場所だったので、
たびたび若い公卿殿上人が来ては琴・笛・歌などを楽しんだ所であった。
高倉院の時代、藤原実宗、藤原実家、中将泰道、隆房、平維盛・資盛、
源雅賢などはいつも打ち連れて遊ぶ人々であった。
治承の頃であろうか。月も花もさかりなる夜、例の人々は一緒に東北院で
遊んでいた。その日は景色もすばらしく優美で風情のある夜であった。
実宗は琵琶を弾き、資盛は箏を、泰道と維盛は笛を、隆房は笙の笛を
吹き合わせて、いつもより楽しい遊びとなった。
暁方程になって隆房、維盛、雅賢などは朗詠、催馬楽、今様をとりどりに
歌い、夜が明けるのを名残惜しんで「今宵は本当に心に残る遊びだ。」と
言い合った。彼らは「この中で誰が先に亡くなって偲ばれることになるの
だろう。」と言っていたのだが、
六、七年程経って思いもよらず世は乱れてあらぬ世となり、中でも特に若い、
将来も華やかであろうと思われた維盛兄弟が亡くなってしまった。残った
人々は口に出して酷く悲しんだ。年を経て東北院に集まってもあの夜の
ことを言い出して皆が袖を絞った。本当にさぞかし悲しいことであった。
(平家公達草子)
855 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 09:36:42.14
逸話というより、昔話として読んでいただければ・・・。
赤松満祐は隣国の敵と和睦の後、互いに会盟せんと約して、15〜6騎で国境へ向かっていった。
城を出ること3〜4里、満祐はむこうの山に大蛇を見た。
十丈はあるかと思われるその大蛇は、山腹を横に這っており、
これに気付いて逃げ出した離れ牛を追いかけて呑み込んだのである。
満祐は「凄まじき有様だ」と馬を留め、守りを固めていたのだが、
この大蛇はどうしたことか、山を下るごとに次第に細く小さくなり、
麓に達した時には2尺ばかりの小蛇になってしまった。
そして、この小蛇は、舞い降りた鳶に掴み上げられ、辻堂の上で裂かれて食われてしまった。
満祐はこの様子をつらつらと見て、
「大蛇の時は牛さえ呑んだというのに、小蛇となれば鳶にさえ食われてしまった。
儂が数千騎を従え、いくつもの城に拠っているときなら大蛇が牛を呑むがごとくだが、
今、15〜6騎で敵に出会うということは、小蛇が鳶に会うということに等しいではないか。」
と、会盟の場に行くべきではないと判断し、帰城したそうだ。
(播陽因果物語(播陽万宝知恵袋))
大蛇は災害の象徴とかいうけど関係あんのかな
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;;:::..::..*.....(''',,o) ..:+;.::.: ∧∧
'''"""''"`''""`"""''''''" カリカリキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
859 :
日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
既出かもしれないが……
室町の初め、泉州堺の遊廓に、美人ではあるが一風変わった遊女がいた。
もとは武家の娘だったのだが、旅の途中で山賊にかどわかされて堺の遊廓に売り飛ばされたという。
遊女となった彼女は、前世の不徳を嘆き、自らの源氏名を「地獄太夫」と名乗り
地獄変相図を繍った衣を身に纏い、風流・今様を歌いながらも心に仏名を唱えた。
こんな変わり者の遊女の話を聞いたら決して放っておけない坊主がいる。
怪僧・一休宗純である。
地獄太夫を見た一休は、その場で、
聞きしより 見るに勝れる 地獄かな
それに対して、地獄太夫が付けた下の句が、
生き来る人の 落ちざらめやも
一休はその場ですぐに地獄太夫を仏弟子にしたという。
その地獄太夫の辞世と言われるのがこれ↓
我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
仏弟子にした、じゃなくて、手籠めにした、の間違いでは?w
>我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
なんという帷子辻
あいかわらずまとめ働いてないな
一年以上前のコメントがまだ承認待ちだよw
北条泰時の禁酒の話
あれを語ってるのが酒宴の席だというのが笑うところ
多分2つの話がごっちゃになっていると思う。今原典にあたれない状態なので
どなたか補足を望む。
鎌倉幕府のお偉いさんが、夜中にこっそり台所に忍び込み、酒を呑もうとした。
アテは味噌。
そこにたまたま出くわした下働きの奴が、「さすがにそれでは…」と鮭の干物を
差し出した。
お偉いさん大喜び。
鮭の干物のことを「楚割」と表現してあったような…。
最近スーパーでそれを売ってるんで、思いだした。燗酒で柔らかくするとうまいそうな。
しかし、こうして記憶を書きだしてみると、落語のネタにありそうだw
書籍名の手掛かりは?
>>864 中学校時代の国語便覧で見覚えがあったから引っ張り出してみた
>>『徒然草』に北条時頼が素焼きの小皿に乗った味噌を肴に酒を酌み交わした話がある
うーん、鮭も出ないし一人酒でもないようだし、違うかな
良スレ
ぬるぽ
868 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 21:19:54.34
放置スレになってことを!
がっ
>>864 ・味噌と夜中の台所は徒然草の平宣時朝臣のくだり
・鮭の楚割は吾妻鏡建久元年10月13日の頼朝上洛途中、
遠江国菊河の宿で佐々木の三郎盛綱が献上して頼朝が歌を詠んだという記事
870 :
日本@名無史さん:
保守