1 :
AA略www:
2 :
1:2010/04/02(金) 07:56:26
おおっ、やってみるもんだな…
久方ぶりにスレ立て成功したwww
3 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 09:53:27
>>1乙。では俺がAAを…
;ヾ ;ヾ ;";ヾ;" ;ヾ ;ヾ ;
;ヾ ;ヾ ;ヾ";ヾ;ヾ ';ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ
;ヾ.;ヾ ';ヾ ;ヾ ;ヾ;ヾ ';ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ"゙
""ヾ゙;ヾ〃;ヾ ;ヾ゙;ヾ ;ヾ ;ヾ"〃ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ;ヾ
"';ヾ;ヾ ;ヾ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;//;ヾ;ヾ〃゙;ヾ ;ヾ;ヾ"
""";ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ" ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ;ヾ"
""ヾ;ヾ ;ヾ ;ヾ ゙;ヾ〃ミヾ ;ヾ゙;ヾ ;ヾ 〃;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ;ヾ
;ヾ ;ヾ 〃;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ ;ヾ"
"" ;ヾ ;ヾ゙ヾ ;ヾ ;ヾ;ヾ"゙ "iヾ;ヾ;ヾ" ゙ヾ;ヾ;ヾ"
"" 'ヾ;ヾ" || l | ゙|/;ヾ" "
" |l i l゙l|
,,,, ",,,," ,,, " ∧ ∧ ,,, |l | ゙ || '' ,, " " ,, < ドンと来い!ゴルァ!!
( ゚Д゚)∬ ノノ 从ヾ ヽ、 ,,, ''
'' ` ` / @(_)旦. /
/ / '''' ""
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
4 :
サガミハラハラ:2010/04/02(金) 10:32:58
奴国は三種4カ国があります。
戸二万の肥前山口にあった奴国。
旁国の福岡県山門の奴国。
いわゆる金印奴国。これは福岡市南西部とされているが、そのような国はなかった。
そして本来の委奴国、これがのちの邪馬台国となったのです。
この委奴国は邪馬のエリアにあったので邪馬委国(奴は本来は国という意味です)。
となり、魏に朝貢し金印(シンギワオウイン)を授受されたことから偉大なるイの国として、
邪馬大委国つまり邪馬台国となったのです。
河内や奈良盆地の素晴らしい遺跡群は平和で文化的な国家を感じさせますね
邪馬台国など戦争に明け暮れ、南の狗奴国との戦いに手こずり
挙句に魏に泣きついているような、わずか30国あまりの小国家群でしょう?
後に倭王武が上表した西に66国、北に95国、東に55国と比べても
邪馬台連合はたいして大きくないと推定されます
野蛮で戦争に明け暮れ、狗奴国ひとつに手こずるような小国家が
奈良盆地にあったなどとはとうてい思えません
なんのこっちゃ
すばらしい奈良盆地には、すばらしい大国家が突然降って湧くはずってか
そんなしょーーーーもないおだてに乗るアホいるかっての
おまけに勝手に狗奴国をヘボ国設定
都合いいおつむしてらっしゃる
>>5 日本で奈良盆地、大阪平野、京都盆地ほど
歴史を感じる地域はない
畿内説にしろ九州説にしろ
どちらも西日本であり日本民族の出発地点
関東などは日本史になんの貢献もしていない
朝鮮流刑地にすぎない
8 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 18:36:10
お題
三島大社とは何か?
これが解明すれば真理に一歩近づく
9 :
ド素人:2010/04/03(土) 02:04:29
質問です。
ヤマタノオロチって、邪馬台のオロチ(大蛇?)という説はないのでしょうか?
>>9 民衆を苦しめていた邪馬台のオロチをスサノオが退治しクサナギの剣を得た。
民衆から搾取し恐れられ、後に滅ぼされた軍事国家にして製鉄国家、それが邪馬台国だったということですよ。
なるほど
自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之
ヒミコさまの正体はヤマタノオロチだったんだな。
それでは、ヤマタノオロチの住みか「古志」=邪馬台国?これはナイ。
ヤマタ=八また。
古志=躬臣国
15 :
日本@名無史さん:2010/04/03(土) 18:30:09
箸墓=卑弥呼の墓としよう
何故、ハシ墓などと呼ばれている?
ハニシからきたものではないのか?
何故菊花紋が使われている?
何故土師は河内(物部とお隣)を陣取り、何故岡山、北九州を陣取っている?
彼らは天皇同族、あるいは古来の王だった可能性は?
河内は天皇の近親者もしくは非常に強大な勢力が陣取るものだと思っていたが?
家紋も本来斧付菊花紋だったようだが?
あまり注目されていない氏族だけに、おもしろいかと思い今調べ中です
土安彦との関連性はあるのだろうか?
何故、卑弥呼の墓とも言われるハシ墓古墳はハシと名づけられているのか?
何故、出雲臣と同じく天孫に分類され天穂日命が祖とされているのか?
なぜ菅原道真は左遷させられたのか?
ヤマタノオロチもハシハカもだけど、
単語のちょこっと同じ部分だけ取り上げて論じてもダメだって
どんな理論も構築可能な魔法だからな
17 :
比定してみた:2010/04/03(土) 20:32:14
敦賀港・・・末盧国
↓ 福井県敦賀市。近辺の砂浜は「気比の松原」
↓
↓南東に約26km(直線距離。道は蛇行)
↓
高月町役場・・・伊都国
↓ 旧滋賀県伊香郡高月町。
↓ 全国でも有数の古墳群である古保利古墳群がある。
↓ 江戸時代、朝鮮通信使で有名な儒学者・雨森芳洲を輩出。
↓
↓南南東に約11km
↓
長浜市役所・・・奴国
↓ のち、国内有数の鉄砲生産拠点として栄えた。
↓ 浅井長政の領地?山内一豊が与えられた「近江唐国」もここ。
↓
↓東に約9.5km
↓
伊吹庁舎・・・不弥国 ←不破?
↓ 旧滋賀県坂田郡伊吹町。
↓ 美濃への交通の要地、ここを越えると岐阜県不破郡関ヶ原町。
↓ 息長氏の根拠地。ヤマトタケルが死傷を負った伊吹山の麓。
↓ 石田三成の出身地、石田村もこの辺り。
18 :
比定してみた:2010/04/03(土) 20:33:43
ここからは魏志倭人伝と、距離が全く合いません。
というか水路を20日だの陸路を1月だの、ハッタリやろ。
長浜の船乗り場
↓
↓水路・南西に約40km
↓
野洲川河口・・・投馬国 ←播磨田町??(ハリマは開拓地の意?)
↓ 滋賀県野洲市。
↓ 古墳多数。日本最大の銅鐸が出土。
↓ マスコットキャラは「ドウタクくん」。「ドウタくん」ではない。
↓
↓水路・南西に約18km
↓
瀬田川河口
↓
↓南南西に約55km(直線距離。道は蛇行)
↓
奈良県桜井市
【天文】皆既日食から邪馬台国論争に挑む/岩屋戸神話から推論--国立天文台
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1269868499/ 72 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 21:23:44 ID:zvRZ8P+V
自分が考えるに、卑弥呼は「日見子」であり、個人名ではなく官職。
狗奴国の卑弥弓呼は「日見彦」。
「日」は太陽だけでなく天体や気象に関する全てを指しており、
現代の天文学者や気象予報士のような存在であり、
女の場合は「卑弥呼」、男の場合は「卑弥弓呼」と呼ばれたのだろう。
人々は、田植えの時期などを知るため、ヒミコの下に赴き、
ヒミコは、天文に関する最新の情報や知識を得るため、中国に朝貢していたと考えられる。
そして、ヒミコは近畿から九州の西日本各地に複数いた可能性さえある。
魏志倭人伝には「卑弥呼」が5回登場するが、それらは同一人物ではない可能性も否定できない。
73 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 21:24:39 ID:zvRZ8P+V
また、邪馬台国の「邪馬」は「山」の意味であり、
近畿から九州の西日本各地に似たような名前の国が複数あったと想像できる。
事実、魏志倭人伝には「邪馬国」の記述もある。
魏志倭人伝には「邪馬台国」は一度しか出てこず、他は「女王国」と表記されているが、
女王国=邪馬台国ではない可能性もあるし、
中国人が、「ヤマ〜国」を全て「邪馬台国」だと聞き違えた可能性もある。
あるいは、倭を訪れた張政は「邪馬臺国」と「邪馬壹国」とを使い分けていたが、
魏志倭人伝を著した陳寿が、同じ国だと勘違いして「女王国」とした可能性も否定できない。
74 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 21:25:27 ID:zvRZ8P+V
もう一つのアイデアとして、神武天皇が東に新たな国を作ったと考えると、
九州と近畿にそれぞれ邪馬台国があったとしてもおかしくない。
>>72-73 以上をまとめると、
近畿にも九州にも邪馬台国があって卑弥呼がおり、魏志倭人伝の記述は両国(者)を区別できない
というのが私の考えです。
81 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:45:45 ID:zvRZ8P+V
三国志魏書東夷伝倭人の章(または三国志魏書東夷伝倭人条、または魏志倭人伝、以下、倭人伝)に関しては
他にも考えがあるのですが、そもそも、倭人伝には中華思想が色濃く反映されているのではなかと。
中国は世界の中心であり、西の大月氏国に匹敵する大国が東にもなくてはならない。
そこで、邪馬台国は「七萬余戸」もの大国にされたのではないかと。
そのために、あえて「邪馬臺国」と「邪馬壹国」を区別せず、両国を一つの国のように記すことで
より大きな国に見せようという意図があったのかもしれない。
それとは別に、倭人伝には重要なメッセージが込められていると思う。
それは、戦争終結の手本。
時代に翻弄された陳寿の理想が、邪馬台国にあったのではないだろうか?
test
22 :
日本@名無史さん:2010/04/06(火) 22:41:49
tttt
23 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 21:53:14
24 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 22:04:59
■県内最大の土塁跡発見 方保田東原遺跡 溝に沿って100メートル 山鹿市/ 熊本
西日本新聞 2010年4月5日
山鹿市教育委員会は、同市方保田の国指定史跡「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」で、弥生時代に防御のために築かれたとされる土塁跡が見つかったと発表した。
土塁跡は約100メートル続き、同市教委は「これほど大規模な土塁跡が見つかったのは県内で初めて」としている。
市教委によると、土塁は溝に沿ってつくられるのが一般的。昨年10月に始まった調査では、遺跡を南北300メートル以上にわたって横断していたとみられる大きな溝(幅約7メートル、深さ約1・2メートル)も見つかった。
この大きな溝と並行して掘られた小さな溝の一部も発見され、土塁は二つの溝の間に土を盛り上げて築かれた可能性が高いという。
同遺跡は、1900年近く前の弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡。調査担当者は「土塁や巨大な溝をつくるには多くの労力が必要。防御を厳重にしていたことも考えると、当時は一帯が大変栄えていたと考えられる」と説明している。
山鹿市出土文化財管理センター=0968(46)5512。
【写真】方保田東原遺跡で見つかった大きな溝の一部(右手前)。土塁は溝の左側にあったと推定される
25 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 23:09:32
26 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 00:07:52
ひみこちゃんカワイイ♪ww
ヒミコタン・・・・・・・・・・
28 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/08(木) 01:39:55
やはり、
方保田東原遺跡は女王國14万餘戸に敵対する狗奴國の城郭だ。
29 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 02:38:41
>>25 桜井市のひみこちゃんって…いいから止めときなさいってwww
30 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 02:12:26
■九州VS畿内 本格議論開始100年 邪馬台国は一体どこ? 宇佐市で5月「論争大会」
西日本新聞2010年4月6日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/163449 宇佐市で昨年、23年ぶりに復活した「全日本邪馬台国(やまたいこく)論争大会」が今年も5月30日に同市南宇佐の宇佐神宮参集殿で開かれる。
日本古代史最大の謎の一つ、邪馬台国の所在地についてアマチュア論者が議論を戦わせる。
大会は、同市のパロディー国家「新邪馬台国」の呼び掛けで1981年に始まり6回目。
昨年は全国から約320人が集い、立ち見も出るなど盛況だった。論者5人が中津、朝倉、吉野ケ里、宇佐などの自説を紹介した。
実行委によると、今年は九州説と畿内説の本格的な論争が始まり、100年の節目の年という。
大会実行委員長の西太一郎さん(72)や同市のキャンペーンレディー「ミス卑弥呼」佐藤博美さん(23)、「ミス壱与」行時未加さん(22)らが3月25日に是永修治市長を訪問。
西さんが「今年も熱い議論で、沈滞した経済をぶち破りたい」と抱負を述べた。是永市長は「最近は畿内説が有力といわれるが、宇佐説で決着を」と応じた。
実行委はアマチュア研究家の論者を募集中。2千字以内の論文で選考、応募は4月30日必着。
大会当日は午前9時半から初心者向けの講演を行い、同10時に論争を始める。参加は事前予約による先着300人。参加費は2千円(昼食代含む)。同市観光協会=0978(37)0202。
【写真】大会をPRするミス卑弥呼の佐藤博美さん(右)とミス壱与の行時未加さん
イヨタン・・・・・・・・・・
ミス壱与は13歳であるべき。
宇佐神宮には発掘されていない何かが眠ったままである感じもしますね
34 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 09:40:06
そんなこと言うとミス卑弥呼は、おばあちゃんになってしまうw
吉野ヶ里遺跡の規模の大きさを考えれば奴国以上の大国の首都だった可能性はあるだろうな
それにしても邪馬台国勢力下の伊都国の権力は大きすぎるな
伊都国が邪馬台国の首都という考えが出るのも分かる
前原の伊都は地勢的に見て、福岡奴国と疎遠であるはずがないと思う。
伊都が今宿から博多湾の入り口を押さえれば
博多湾を掌握できてしまうから。
奴国に反抗的ならすぐ潰されてしまうだろう。
事実上、伊都国奴国連合と言っても良いのではないだろうか。
37 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 13:25:21
朝鮮ニダ
38 :
サガミハラハラ:2010/04/09(金) 13:50:31
>>35伊都国は邪馬台国の本家のような立場なのです。
邪馬台国をつくった人たちは、半島から日本の唐津に上陸し、松浦川を遡り、
多久盆地に入植、そこにかれらの基盤をつくったのです。そこを拠点として、
さらに東の佐賀平野へと進出していったのです。
ですから、伊都国は邪馬台国をはじめとする渡来系諸国の故郷でもあるわけです。
人々が東へと進出していっても、本家はここ多久をうごかなかったのでしょう。
今、糸島半島の地図を見て、
>>36を撤回。
糸島半島の東側って、福岡市西区なのね。
奴国領域が福岡市西区と同じだと仮定すれば
がっちり、博多湾は奴国が押さえていることになる。
伊都国、志摩国は追いやられている印象になる。
入植って、弥生化されていない原野を切り開いたって事ですか?
あの当たりの立地なら、弥生時代が始まってすぐに開拓されたと思われますが、
その原初の農耕入植民が「邪馬台国をつくった人たち」って意味ですか?
苗種は何ですか? 灌漑法や作付け技術のながれは何?
同じ土地をとっても、多様な流派?による耕作の痕跡が層をなして出て来るものですよ
日本中の何処を取っても、万世一系の土地の耕作者なんていないと思いますが
41 :
サガミハラハラ:2010/04/09(金) 20:06:26
いいえ、彼らがやってきたときにはすでに多くの縄文人が日本列島にすみついていました。
とはいっても未開拓地はいっぱいあったわけですが。
かれらは、勢力が付いてくるに従って縄文人を駆逐していったわけです。
>>39 >がっちり、博多湾は奴国が押さえていることになる。
>36のとおり、今宿五郎江・大塚遺跡は伊都国を形成する衛星集落でいいんでない?
>>35 >吉野ヶ里遺跡の規模の大きさを考えれば奴国以上の大国の首都だった可能性はあるだろうな
須玖遺跡群にしても比恵・那珂遺跡にしても、吉野ヶ里よりもはるかに大きいよ。
44 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 22:20:39
test
45 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 22:33:33
伊都国の位置については議論のあるところだが、どちらにしても倭国の中心
ではなく、大陸への玄関口のような役割だろう。
また、伊都国の位置を佐賀平野の北西部とすれば、吉野ケ里は奴国の中心
だった可能性がある。
46 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:08:08
吉野ヶ里周辺にしても、金隈や比恵にしても、
ずーっと広範囲に何か出るんで、どこからどこまでが
範囲かよく解らんのよね。
うちの近所もだが。
佐賀大和在住
47 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/09(金) 23:21:08
伊都國は佐賀平野の北西部だから、
伊都國の東百里にあるのは、
女王國への入り口にある不彌國の城郭としての吉野ヶ里遺跡である。
48 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/09(金) 23:31:03
>>46 佐賀平野でも遺跡が連続していて範囲がよく解らないのは、
倭國王帥升の都(倭面土國)があったところですから。
佐賀大和にも城郭跡である総座遺跡がありますね。
49 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:50:04
惣座遺跡も環濠集落だったと思うが、ちゃんと調査されているのかな。
規模があまり良くわからないが。
50 :
サガミハラハラ:2010/04/09(金) 23:53:40
邪馬台国の都は移動しているのです。
始めは多久市中小路庄集落でした。やがて東の惣座に移動しました。
AD50年ごろ洪水にみまわれさらに東の吉野ケ里に移動しました。
AD230年末今度は西の小城甘木に移動しそこで終焉を迎えました。
290年のことです。
51 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:55:13
で、奈良には移動しなかったのかね?
52 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:02:17
記紀では、おおまかに高天原から日向、そして大和になっている。
大和に移ってからも、あちこちに都は移動しているので、都を移す習慣が
古代からあった可能性はある。
卑弥呼のような霊能力者?を王にするような時代だから、方位の吉凶とかも
気にしたんだろうなあ。
奈良時代以降は、天皇が死んだりしただけで都を替えることも多かった。
53 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/10(土) 00:05:59
惣座遺跡の調査報告書によれば吉野ヶ里の南内郭の環濠と同じ構造がありました。
肥前国庁跡等が重なり合っている為これ以上の発掘は今のところ難しいでしょう。
惣座遺跡はバイパス工事による偶然の一部発掘だったのですから。
54 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:09:20
素人の思いつきで申し訳ないんですが、
邪馬台国は複数の国の集合体で、EU(ヨーロッパ連合)みたいなもので、
連合国の代表が卑弥呼だったり壱与(台与)だったりと言う事ではないかと思うんですが、
それで、あまた(数多)の国ということで、あまた国→やまた国→邪馬台国ではないかと。
今、ふと思いついたことなので、何の根拠もありません。
イヨ(トヨ)タン・・・・・・・・・・
57 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:34:38
>>55 日本の地名は地形から来るのが圧倒的に多いので、やはりその線から考える
べきじゃないかな。ヤマトの場合は、山に関係があると考えるのが妥当だと
思う。
それから、連合国というのは当てはまらないと思う。というのは、他の国が
女王国(邪馬台国)に従属しているというような書き方が多いから。
例えば、21の国を列挙したあと、これが女王の境界の尽きるところと
書かれており、その南にある狗奴国は女王に属さずと書かれている。
また、伊都国についても、代々王がいて、皆女王国に統属するとなっている。
江戸時代の幕藩体制に近いと思う。つまり、邪馬台国連合は、かつて盟主を
決める大規模な戦いがあった。もちろん、いわゆる「倭国の大乱」のかなり
前のことになる。はっきり言えば、倭国王・帥升の時代。
58 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:52:18
ああ、肥前国庁跡は確かにバイパスの脇にあるね。
そこから南東数百メートルで大字尼寺がある。
これは聖武天皇の国分寺、国分尼寺の跡。
あまり掘られていないが、そこから北側=山側に
弥生住居跡、弥生式土器は多い
また、肥前国庁跡の横にある嘉瀬川の上流
やはり数百メートルに與止日女神社がある。
創建は6世紀とされているが、この周辺にも
弥生出土物は多い。
そのころからこのあたりが弥生集落で
なにかあったんじゃないかね。
国分寺もそれなりに人の多いところに
作ったんだろうし。
59 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:52:23
そして、大和で卑弥呼が共立されたわけだな。
60 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/10(土) 02:03:11
>>58 佐賀大和は、嘉瀬川沿いに背振山系に入る山門(山戸)だと思います。
嘉瀬川水系を北西方向に比較的穏やかな峠(観音峠)を越えると唐津(末盧國)です。
嘉瀬川水系を北に嶮しい峠越えをすると筑前前原への近道(抜け道)です。
佐賀大和は佐賀平野の山門(山戸)にあたる地域です。
筑後山門は菊池盆地に至る道の山戸と思われます。
61 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 02:37:00
あ、佐賀大和の大和にはあまり着目しない方が良いと思います。
旧大和町は前身の春日村、川上村、梅林村が合併して
大和町となっており、旧地名としての大和の地名は存在しません。
期待させて申し訳ない。
一大卒を置いたのは魏なのか?それとも邪馬台国なのかな?
63 :
サガミハラハラ:2010/04/10(土) 07:50:29
>>61そうですね、皆仲良くということで大和としたのです。
神奈川県大和市もそうです。
温暖な気候、肥沃な土地、弥生時代の佐賀には吉野ヶ里遺跡を遺した国をはじめ非常に豊かな国々があったように思えます
とくに佐賀県西部、有田や武雄温泉あたりは地理的に見ても非常に魅力的です
北に抜ければ玄界灘、西に行けば東シナ海、南は有明海と3つの海が広がっています
このあたりには豊かな国土から穫れた作物の詰まった穀倉を持ち他国と盛んに交易をする国を治める王たちがいたでしょう
そしてそういった国々は国土は貧しいながら鉄を持つ野蛮な戦闘国家の恰好の標的となったことでしょう
筑紫=半島系、肥の国=江南系ではないかという感じがしますが
弥生時代、両者は幾度となく戦火を交えたことでしょう
どこにあったにせよ、邪馬台国はこの両者を従えるだけの軍事力を持った国だったのでしょう
65 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 09:26:59
>>57 >伊都国についても、代々王がいて、皆女王国に統属するとなっている。
皆とは倭の国々のことだ。
伊都国の代々王とは卑弥呼や壱与のこと。
女王国とは伊都国の女王が治める北部九州の国。
何で、何時までも邪馬台国論争をしているんだ?
66 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 10:25:28
古代倭の国には、治政王としての男王と神との仲立ちをする中皇命(なかつすめらみこと)、妹王がいて、
治政王(男王)の適任者がいない場合、中皇命が女王として兼務することができた。
臺與は卑弥呼が死んだときには幼かったので、治政王との兼務は無理ということで男王を立てた。
しかし、国は治まらず、臺與が13歳になるのを待って治政王を兼務したことで動乱が収まった。
従って、卑弥呼の没年が248年とすれば、臺與が生まれたのは235年ではなくもっと後、245年頃だと推測される。
つまり倭大乱は10年続いたことになる。
67 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/10(土) 11:32:53
>>61 >旧大和町は前身の春日村、川上村、梅林村が合併して
>大和町となっており、旧地名としての大和の地名は存在しません。
そうですね。古地名としての大和の地名は見つかっていませんでした。
>>63 神奈川県の大和市も由来不明で不思議に思っていました。半世紀前のことです。
奈良でも「大倭」が「大和」になったのは同じ理由かも知れませんね。
九州から来た地名である「大倭(俀)」を、九州からの移住派と在地派との対立解消の為、
大いなる和「大和」としたのでしょう。
>>64 >筑紫=半島系、肥の国=江南系ではないかという感じがしますが
同意。
半島南部沿岸と同系のシナからの渡来民の地域=筑紫
江南から直接渡来民の地域=肥
何時までやってんだよ。
邪馬台国は畿内、女王国の境界は山口県辺りで
瀬戸内海沿岸諸国が女王国の事。
九州にあるのは奴国その他だよ、常識です。
69 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 13:01:17
>>68 「皆女王国に統属する」について
『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり
「世有王」が無いので『魏略』逸文の皆は倭国の王達を指すと考えられる、
従って『魏志倭人伝』の皆も倭国の国々を指すと考えられる。
つまり「皆統屬女王國」は女王国が倭の国々を統屬していたの意味であり、
「世有王」の王とは卑弥呼や壹與のことである。
女王国とは伊都国の女王が治める北部九州の国。
もう畿内説は死んでるよ。
イヨタン・・・・・・・・・・
距離の問題は短里を採用すれば九州説でも近畿説でも解決
72 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 13:49:08
>>69 >〜考えられる。
>〜考えられる。
>つまり、
>〜である。
つまり、おまえの妄想でしかない。
妄想であるにもかかわらず
>〜は明白である。
>〜に間違いない。
>もちろん、
>〜である。
こういう人も多いですよ。このスレには。
74 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 14:42:17
>>30 >実行委によると、今年は九州説と畿内説の本格的な論争が始まり、100年の節目の年という。
百年前と言うと1910年(明治43年)、一体何をもって論争の始まりとするのか調べてみたが…
内藤湖南が『卑弥呼考』を発表したのが1910年5月だと言うから
恐らくそれをもって始まりとしているのだろうか?
(その数ヵ月後に白鳥が『倭女王卑弥呼考』を出している)
まあ別に間違いでは無いだろうが今日の九州説の直接の祖と言うか
実質的なスタートラインは所謂「邪馬台国ブーム」からだと思うwwww
この板の九州説の連中を無理矢理、学統と言うか進化系統樹のような物に納めるなら
ブームの中で起こった種の末裔と言うところだろうか?
まあ「古田」「安本」の系統・亜種・ハイブリッドで半分以上は当てはまるか?wwwwww
アマチュアから論文を募集するらしいがやっぱり行程記事の読み解きが主流になるんだろうなあ…
市井の「アームチェア・ディテクティブ」が象牙の塔の住人と伍して
論争できた古き良き時代と言うところ一種の郷愁のような気もするwwwwwwwww
>>69 女王国とは伊都国の女王が治める北部九州の国。
倭人伝記述ではその解釈は無理だな。
萬二千という数字とも合わないし。
現状では文献上からも畿内説の方が有利ですよ。
76 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:13:20
>>74 新井白石、本居宣長は結果的に九州説だよ。
鶴峰戊申、近藤芳樹らも九州説で、江戸時代はほとんどが九州説だった。
その実態は、偽僭説であったわけだが。
明治時代になってもこの傾向は変わらず、那珂通世、星野恒、管政友、
吉田東悟など圧倒的多数が九州説だった。
明治の終わり頃(1910年)になって登場したのが内藤湖南ということになる。
まあ、邪馬台国論争の始まりというのは、ほとんど死んでいた畿内説の復活と
東遷的な考えの九州説の論争とも言える。
>>69 過去半年で2度論破された『魏略』逸文根拠の伊都国王卑弥呼説。
3度目の正直となるのか。それとも前回のようにわめきながら逃げ去るのか???
78 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:35:54
>>76 じゃあその江戸時代以前は?って話しで
お前が言っているようにその中身は「偽僭説」で
背景として国学・皇国史観の台頭がある。
もっとも邪馬台国ブーム以前とその後では九州説と言っても
中身がやや変容していると言うのが俺の見方だがwww
何れにせよ九州説はもはや過去の遺物。
多くの学者の関心は如何にして畿内のヤマト王権が起こったか?
そのプロセスの解明に移っているんだろう。
79 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:37:10
九州説でもいいけど、九州説が正しかったとして、それで日本の歴史認識をどうしたいのか、
さっぱりわからない。
九州の邪馬台国は滅び去って、畿内の大和王権が全国制覇したのか?
九州の邪馬台国が東遷して、大和王権になったのか?
安易に後者を唱えるやつも多いようだが、
それだと、天照大神=卑弥呼という論調となり、日本神話の起源は3世紀より遡れないということであり、
天照大神が魏に朝貢してたことになる。
日本で一番偉い天照大神が、中国に朝貢してたと教科書に載ることが、誰の得になるのか?
邪馬台国東遷説が正しいと考える人は、それでも満足なのかな?
80 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:47:03
>>79 そんな色々 考えて無いだろ?おそらく。 ただ、地図見ながら探しているだけだよ。
81 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 16:34:25
>>79 「朝貢してた」じゃなくて「同盟関係にあった」って
教科書に書けばいいじゃない。
まあ邪馬台国は九州じゃないけどね。
82 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 16:42:58
>>79 天照大神は皇祖神となっている。これは皇室が遡れる最古の祖先ということ
でいいんだろう。
記紀を読んでも、特別に神格化されているわけではない。伊邪那岐命から
高天原を治めるように命じられる。しかし、ほとんどの記述は、素戔鳴尊との
争いとなっている。
結局、乱暴に耐えかねて岩戸に隠れてしまう。
岩戸を出てからは、天照大神の性格がガラッと変わってしまう。むしろ、
主役は高皇産霊尊になり、高天原勢力の性格が守りから攻撃に変わる。
九州説ってのは要するに大日本主義の本居宣長が元祖だからな。
日本の中心の大和国が卑しいシナなんぞに朝貢するわけがないってさ。
84 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:00:43
>>81 「同盟関係にあった」なんて、それこそどこの学者が唱えてるんだよ。
中国からバカにされるだけだぞ。
>>83 そのとおり。
卑弥呼が魏に朝貢してたのは事実だろうが、
畿内説なら、天照大神は卑弥呼である必要は無い。
1世紀頃に神武が東征して大和王権が出来たってことで、全て説明がつくわけだが。
>>84 じゃー「交流があった」くらいにしとけばいーじゃなーい
おら達は中国に頭下げたことなんかない一度もない!って、どこの国よ
あほくさ
87 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:15:58
>>85 そうやって、九州説は、
「邪馬台国は九州にあったけれども、卑弥呼様は中国には頭下げてない」と思ってるあたりが、
歴史研究じゃないんだよ。
歴史ゴッコ。
88 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:26:32
天照大神が魏に朝貢したことになるが、それでもいいのか…、なんていうのは
先入観で歴史を考える事になる。そんなのは、よその国の熱い人々に任せて
おけばいい。
事実であれば、気分が良かろうが悪かろうが受け入れる。そうでなくては
真実にはたどり着けないだろう。
89 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 17:46:15
>>75 >萬二千という数字とも合わないし。
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で
戸数20000戸の奴国が女王国の中心地で王宮が伊都国に在ったと考えると丁度合う。
>>77 >過去半年で2度論破された『魏略』逸文根拠の伊都国王卑弥呼説。
一度も論破などされたこと無いけど。
畿内説の人の意見は皇国史観から抜け出せていないな・・・。
90 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:49:13
>>88 真実であれば、それを受け入れるしかないが、
真実という確証も無く、「卑弥呼=天照大神」と強弁する必要がどこにあるのか?
91 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:55:37
>>89 九州説は、逆皇国史観。
九州説=卑弥呼=天照大神と確定したら、その後どうなるか?
卑弥呼=天照大神=朝鮮からの渡来人だと、韓国が言い出すのは目に見えてる。
もちろん、「卑弥呼=天照大神=朝鮮からの渡来人」と言われても否定はしないよな?
>>89 >奴国が女王国の中心地で王宮が伊都国に在ったと考えると丁度合う。
と思っているのは自分だけ。
>一度も論破などされたこと無いけど。
自覚がないんだな。じゃ、言い直そう。
誰にも認めてもらえずに、わめきながら逃げ去った伊都国王卑弥呼説。
>>89 論破も何も、まず、漢文読解として、論ずるにも足りないです。
次に、魏略佚文という誤字の多い資料を根拠にして「〜と考えられる」と言っても、
なんの説得力もありません。
94 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/10(土) 18:04:06
天照大御神≠卑弥呼
95 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 18:04:37
>>89 もう無理だから諦めなさい。
どうせ釣りの奴に言うのもなんだが。
何度でも指摘するが、邪馬台国は北部九州には無いです。
そうしたいのは何らかの政治的意思を持つ人か、
観光史学の人だけでしょ。
歴史と神話は別物だよ
98 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 18:29:03
神話とは、ほとんどが実史に基づく伝承である。
ただし、何代も語り継がれていくうちに他の話と混同したり、
一部が抜け落ちたり付けくわえられたりする場合もあるので注意が必要。
99 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 18:33:28
>>98 それじゃ、なんでもありになるだろ。
意味無し。
100 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 18:49:15
>>98 一般論としてだが、「神話を創作する語り部」…のような人物も
人類の長い営みの間には、何人も出てくるのではないかな。
101 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 18:56:14
>神話とは、ほとんどが実史に基づく伝承である。
まあこれは便利な言葉と言うか
神話をネタに九州説を語る連中のお約束の捨て台詞ではあるwww
そりゃ人間が考えた物なのだから何らかの元ネタはあるわけで
「ろくろ首」や「一つ目小僧」と言ったお化けでも元ネタはあるかもしれない。
何らかの史実が反映されている可能性を否定する奴はいないと言うか
できるはずも無いが、だからそれを元に組み立てられた与太話を認めろと言われりゃ
それは別の話しだぞとwwwwwwwww
102 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 19:02:53
>>91 投馬国を朝鮮半島南部に当てていますので
朝鮮半島南部にも倭人の居住地が在ったとの考えです。
従って朝鮮人と卑弥呼や天照大神が関係することはありません。
>>92 忙しくなって見てない間に
一人で勝利宣言してたの?
>>93 魏略逸文だけが根拠ではないんですけど。
神話だって畿内を舞台にしてるしな。
高天原に川上の岩屋、天安川に川上の堅石‥
全て揃ってるよ。
こんな事言い出してもキリがないというだけ。
104 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:32:59
>>102 >魏略逸文だけが根拠ではないんですけど。
少なくとも、
>>69は、
>『魏略』逸文の皆は倭国の王達を指すと考えられる、
から出発して演繹的に議論を進めている。
だから魏略佚文に関する推論が成り立たなければ、何も成り立たない。
魏略佚文という資料には、何かを推論・断言できるような信頼性は無い。
だから
>>69のレスは、何も論証できていない。
105 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:33:02
まあ、これはあくまでネタだが
誰か物好きが話を膨らましてくれwww
卑弥呼=天照=倭迹迹日百襲姫とした場合の話し
天照と言うのはご存知イザナギが黄泉から帰って来て禊の時に生まれたわけだが
その時に月讀と素戔鳴も生まれてこの三柱=二男一女を「三貴神」と言うが
倭迹迹日百襲姫も同母の兄弟に大彦と開化で二男一女と一致するw
更に言えば地上に下り出雲国津神の祖になった素戔鳴と
安倍臣・膳臣・狭狭城山臣・筑紫国造…ら七族の祖になった大彦を対比させる事もできるか?w
106 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:46:32
>>105 ネタにしても、三貴神は、盤古神話のパクリだからなあ。
それに、百襲姫と大彦は世代が違うし。
107 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:57:07
万2千里で、短里だと
関門海峡越えられないぞ。
長里だと、日本を飛び出てしまうが。
もうちょっとでオーストラリアだ。
108 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 20:02:53
>>106 まあ細かく言うと左右の目から太陽と月が生まれたと言うだけじゃあ
その両者に悪さして「蝕」を起こす存在(素戔鳴)が生まれないwww
この「3番目の存在」を伝える神話はタイ・ラオス・カンボジアに伝わると言う。
恐らく盤古神話と同源だろうがそれを直接の祖先とするものではないと思う。
109 :
108:2010/04/10(土) 20:22:04
今ググって三兄弟の末弟が「蝕」の原因になるパターンで
タイのものを見つけたので何某かの参考に貼っておく
>フラ・ラフ タイ
>三人兄弟がいた。
>兄は僧に金を施したために死後太陽となり、次兄は僧に銀を施したので死後は月となった。
>三男は僧に、ひどく汚い器に米を入れて与えただけだったので、貪欲の罰として真っ黒な怪物になってしまった。
>この怪物はフラ・ラフと呼ばれ、腕と爪と耳しかない。
>フラ・ラフは兄たちの幸福を妬んで、しばしば戦争をしかけ、これが日食や月食の原因になるのだという。
110 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 20:55:47
天の岩戸隠れの原因が、
スサノオが馬の皮を剥いで投げたことによるからな。
天の岩戸隠れの起源が卑弥呼の死なら、
魏志倭人伝の「馬が居ない」という記述と完全に矛盾する。
しかし、九州説の諸君は都合よく無視するわけだ。
オカルトには興味ない
昔は、日本という漢字を「やまと」、と読んでたということだし
となると首都の名前、王の統治領域ってのがそれであって
遷都して場所が変わっても、やまとだったのでは?
だから、魏のころのやまと、と隋のころのやまと、は違う場所と言う可能性もある。
健全です。w
115 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 21:48:13
>>104 自分の説に採って『魏略』逸文は参考資料の一つ
行程が里数と日数で併記されているが中心の考え。
併記は行程以外にも
傍国についても「次有斯馬國・・・次有奴國」と「周旋可五千餘里」も同じことを別の言い方で2度かいてあるし、
「去女王四千餘里 又有裸國 K齒國復在其東南」と「船行一年(十二日の誤り?)可至」も同じことだろう。
倭人伝は同じ事を丁寧に二度別の言い方で説明してあることが多い、
このことに気が付かないで倭人伝を読むと誤読してしまう。
>倭人伝は同じ事を丁寧に二度別の言い方で説明してあることが多い、
何処?君の思い込みでしょ。
117 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/10(土) 22:35:49
つうかね…
九州説は比定地を絞れとは言わないが
せめて『 読み方 』は「これが正しい」というものに統一しようぜ?w
一里がどれくらいの距離なのか?
方角は確度でどれくらいまで許容されるか?
日数を距離に換算する場合の目安は?
更に
「放射式読み」あり「連続式読み」あり
日数を郡からのトータルでかかった時間と言う奴までいる…
読み方がバラバラなのに
「素直に読んだらこうなった!」
とか言われても、そりゃてめえの自己流「オレサマ読み」って話しだろうとwwwwwwwww
倭には馬はいなかったから、張政が移動できる距離は一日平均10キロくらいだろう
120 :
ローガン:2010/04/10(土) 23:19:15
>>115 > 自分の説に採って『魏略』逸文は参考資料の一つ
私も参考資料に考えます。
> 行程が里数と日数で併記されているが中心の考え。
これはどうでしょう?三国志にそんな例ありましたっけ。
>倭人伝を読むと誤読してしまう。
私も気をつけます。
121 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 23:56:44
>>118 >一里がどれくらいの距離なのか?
そのまえに、3世紀にどういう測量技術があって一里を計ったのか、
誰も答えられないんだなこれが。
現代の地図を定規で測って一里は何メートルだなんて言うのは噴飯もの。
1里は今も昔も約4キロ。成人男子が普通に歩いて1時間の距離。
小休息を入れるのにちょうどいい距離だ。
124 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 00:07:30
>>89 >>75 >萬二千という数字とも合わないし。
7000餘里+1000餘里+400餘里×2+1000餘里+300里×2+1000餘里+500里+100里=12000餘里で
郡より12000餘里にある国は奴國と不彌國である。
奴國は『東南至奴國百里』とあるから方向と距離を示すだけで道程に入っていない。
不彌國は『東行至不彌國百里』とあり「行」とあることから道程に入っていることを示している。
よって『自郡至女王國萬二千餘里』の道程を示す国は不彌國となる。
不彌國の南方向には投馬國と邪馬台国がありその距離(里数)は示されていない。
『従郡 至倭・・・ 至投馬國水行二十日・・・ 至邪馬壹國水行十日陸行一月』
が文の構造である。
「水行二十日」及び「水行十日陸行一月」は時間日数を示すもので道程距離を示すものではない。
一大国 [従]郡 [従]郡
┃ │ │
┃渡一海千余里「至」 │ │
┏━┻━┓ │ │
┃末慮国┣━━━┓ 南水行二十日│ 南陸行一月│
┗━━━┛ ┃ 「至」│ and水行十日│
南東陸行┃ │ [至]│
五百里「到」 ┃ │ │
┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━┓ │
┃伊都国┣━━━━━━━┿┫不彌國 ┃ │
┗━━━┸─┐ │┗┯━━┯┛ │
東南百里「至」│ ┏┷━┷┓┏┷━━┷┓
│ ┃投馬国┃┃邪馬壹国┃
┏━┷┓ ┗━━━┛┗━━━━┛
┃奴国┃
┗━━┛
125 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:10:50
>>118 少なくとも、近畿地方にたどり着くような読み方が出来ないことだけは確かだな。
126 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:15:19
>>105 畿内説は、九州説に対しては、99正解でも1つ間違っていれば、間違った1つを
追求する。逆に、畿内説については、99間違っていても1つ合っていれば
その合った1つを主張するという感じだな。
127 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 00:19:18
一大国 [従]郡 [従]郡
┃ │ │
┃渡一海千余里「至」 │ │
┏━┻━┓ │ │
┃末慮国┣━━━┓ 南水行二十日│ 南陸行一月│
┗━━━┛ ┃ 「至」│ and水行十日│
南東陸行┃ │ [至]│
五百里「到」 ┃ │ │
┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━┓ │
┃伊都国┣━━━━━━━┿┫不彌國 ┃ │
┗━━━┸─┐ │┗┯━━┯┛ │
東南百里「至」│ ┏┷━┷┓┏┷━━┷┓
│ ┃投馬国┃┃邪馬壹国┃
┏━┷┓ ┗━━━┛┗━━━━┛
┃奴国┃
┗━━┛
不彌國より先の国には道程距離(里数)の記入がないのは、
不彌國と投馬國及び不彌國と邪馬台国が其々国境で接しているからである。
128 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:22:13
>>125 はいはい、それは要するに「南」の一字の事だろうが
その方向が正しいとする根拠は?って話しだなw
南北が逆さまになった様な古地図や隋書の記述
「方角がいい加減」
だと疑うに足る材料はある。
倭人伝の方角の記述は正しいのかもしれないし間違いなのかもしれない。
「結局南と言う方角は正しかった」とどうやって証明するかって話しw
ぶっちゃけて言えば今のところ考古資料から帰納的にそれを検証するしか無いと思うが
(単一史料を徹底的な史料批判しても限界があるだろう
そもそも倭人伝を読み解いて位置が分かるなら論争自体巻き起こっていないw
何か他にグッドアイデアあるなら教えてくれwwwwww
129 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:24:32
>>126 99人の幼稚園児が「幽霊を見た」と証言し、
1人の大人が「幽霊はいない」と証言したとして、
どちらを信用するかという問題だな。
130 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:26:01
>>105 天照大神=卑弥呼+台与の根拠を再掲すると、
まず、王というトップの地位にいること、女性であり独身であること。
卑弥呼には狗奴国という敵がいて、天照大神には須佐之男命という敵がいること。
ともに、その争いの最中に死ぬこと。岩戸に隠れるというのは、貴人の
死を意味する。
ともに、鏡に関係が深いこと。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗になり、悪い神が騒ぎ出す。
卑弥呼が死ぬと、跡継ぎをめぐり争いが起こり、千人あまりが殺される。
天照大神が岩戸を出ると、高天原は元のように明るくなる。
台与が王になると、国中が定まる。
天照大神が岩戸を出ると、高皇産霊尊が登場し、出雲の国譲りや天孫降臨を
主導する。
台与が王になると、また男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。
ちなみに、この根拠は頭の中に入っているのでいつでもどこでも出てくる。
WWWWWよ。わかったか。
131 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:34:57
>>130 >天照大神=卑弥呼+台与の根拠を再掲すると、
つまり、日本神話は3世紀以後に成立したと。
数千年の歴史のあるギリシャ神話と肩を並べてもいいはずの、
古い伝統を誇れるはずの日本神話は、3世紀にできた話だとしたいわけかね?
それでおまえは、満足なのか?
132 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:36:25
>>130 日向厨だったかな?
もう良いそれは聞き飽きたウンザリだwww
で、三貴神の「月讀」は誰、もしくは何処のクニに相当するんだ?
>>105はネタだが兄弟構成について語ってるんだから
そこに突っ込めやアホwwwwww
言っておくがアマテラスと言う南洋系の神話と天孫降臨という北東アジア系の神話
源流の違う二つの神話をミックスしたものを
あたかも一つの史実から生まれた様に言っている時点で噴飯もの。
悪いが与太話以外の何物でもないwww
133 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:38:28
>>130 >ともに、その争いの最中に死ぬこと。岩戸に隠れるというのは、貴人の
>死を意味する。
神様は死にません 終了
134 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 00:39:49
日本には縄文時代〜弥生時代と、連続的に数千年にわたる民族の歴史がある。
しかし、その数千年にわたる民族の神話は、一切残らず、
3世紀の卑弥呼を天照大神としたところから始まり、それ以前の神話は残らず駆逐された、とするということは、
3世紀の渡来人=天孫族に日本は征服されたと言ってるのと同じだよな。
>>130よ。それで満足なのか?どうなんだ?
>>128 確かに方向がいい加減な古地図もあるが、それが全てではない。
三国志に先行する漢書西域伝では、方角は大局的には正確。
それは実際に西域を歩いた張騫の報告があるから。
魏志倭人伝もそれと同様に考えてイイんじゃなかろか。
136 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 01:01:37
>>135 魏の使者が邪馬台国に行ってなければ、伝聞の方角が間違ってたことはありうるというわけだな。
>>126 >間違った1つを追求する。・・・合った1つを主張するという感じだな。
間違いを追求し、合ったものを主張する。・・・当たり前だが。
九州説の99の読み方の、どれが合っているのかな?
138 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 03:08:25
>>128 >>南北が逆さまになった様な古地図や隋書の記述
南北逆さまの地図ってオーストラリアの地図のこと?南が上だけど。
隋書の記述ってなに?南北逆さに記述してるの?
根拠にならないことが分からないバカでしょ。
139 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 03:19:37
混一疆理歴代国都之図ってのは、11世紀頃の朝鮮の地図。朝鮮だけやけに
詳しくでかく書かれている。インドはどこにあるのか分からないくらいだし、
朝鮮半島がアフリカよりも大きい。インドシナ半島など書かれていない。
朝鮮半島以外は、ひどくいい加減に書かれている。
混一疆理歴代国都之図の日本は、たまたま目にした行基図をくっつけただけ
だろうといわれる。
そんな地図で、全く時代の異なる邪馬台国問題を語るのが間違っている。
大和←アマテラス
河内←スサノオ
近江←ツクヨミ
こうですよ!間違いない!
141 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 03:42:59
>>126 そうかな。
100のうち1つも正しくなくても叫び続けるのが畿内説。
もはやネタとしか思えない三角縁神獣鏡舶載説とか、
データ完全黙秘の年輪年代とか、
批判の集中砲火には沈黙しつつも、勝利宣言するC14とか、
集落遺跡が1個も存在しない古代「都市」纒向とか、
学説史上の価値すら認めがたいのが、畿内説の現状ではないかな。
早く自由な発言のできる学界になって欲しいと切に願うよ。
>>141 人格比定とかどうでもいいですよ
wikiによると河内氏(西漢氏)は朝鮮半島の伽耶地方から来たそうな。
スサノオはもと狗奴国の王で、のちに河内に入った。そんな感じかも。
そして物部氏につながるかも。
143 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 04:54:33
>>128 >南北が逆さまになった様な古地図や隋書の記述
>「方角がいい加減」
>だと疑うに足る材料はある。
隋書の記述ってこれのことか?
『其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』
上記は正しい。正しく意訳しよう。
錦江河口から南へ約270km(約4000短里)航海すると済州島に着く。
済州島の形は矩形で、その大きさは南北の沿岸長で1000餘里(約70km)
東西の沿岸長は数百里(約50km)である。
君は正しく読めないんだな。
隋書東夷伝の地図を次レスに示そう。
144 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 04:56:26
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島) 〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└→┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜〜〜↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┯━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜〜↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜〜↓┗┓┃┗┓∵『俀國』∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜〜↓│┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└│┏┓┃○泰王國┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜
145 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 05:16:36
上記貼り付け地図を間違えた。下記に再掲する。
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓───────────┬┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島) 〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏↑∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┝┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛│∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└┼┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵│∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜│↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵│∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜〜│↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┿━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜│↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜│↓┗┓┃┗┓∵『俀國』∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜│↓〜┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│└→┏┓┃○泰王國┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←───三月行───→┨〜〜〜〜
146 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 05:25:00
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓───────────┬┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島) 〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏↑∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┝┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛│∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└┼┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵│∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜│↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵│∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜〜│↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┿━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜│↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜│〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜五〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓月〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜│↓┗┓┃┗┓∵『俀國』∵┃行〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜│↓〜┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛│〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│└→┏┓┃○泰王國┏┛││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗╋┛∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←───三月行───→┨〜〜〜〜
147 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 05:29:54
∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ 『 随書の半島世界 』
∵∵∵┏┛〜┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵
∵∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜
∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┏┛〜〜┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┏┛∵┏━┛〜┗┓高麗∵∵│2000里┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┗━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵││∵┃〜〜其國東西二千里南北千餘里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵◎平壌││∵┗┓〜都於平壌城〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛←1000里→┤↓∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠──────┴─┐∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┓∵∵∵∵│∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『 随書の半島世界 』 〜〜〜〜┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛(旧百濟)│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┬─────┠────┐∵│∵∵┃〜其國東西四百五十里〜
〜〜〜〜 450里〜〜〜百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵┃〜南北九百餘里〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼─────┠────┼─┘新羅┃〜南接新羅北拒高麗〜〜
其南海行三月↑〜〜〜〜〜┠─900里 ┤∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
有[身冉]牟 〜│〜〜〜〜┏┛∵∵新羅∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
羅國〜〜〜三月行〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜貊國●〜│〜〜〜┗┓∴┏━━━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜●〜〜│〜竹島●┗━┛〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
貊國●〜〜〜│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜↓〜〜├1000里┤〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼──┏━━━┓〜[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里〜〜〜
〜〜〜数百里┴──┗━━━┛〜[身冉]牟羅國=耽牟羅国(発音同一)〜〜〜
そんなAAに力いれるぐらいお暇なんですねw
149 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/11(日) 07:04:44
以前に書いたものです。
実にゲージツ的だ
151 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 09:37:31
【注意!】
以下のレスはこの板の九州説にありがちな
「オレサマの脳内神話最高!」と自己完結しているヴぁかには関係ありません
スルーしてくださいwwwww
隠れてしまった太陽を人や神があの手この手でおびき出す
と言う岩戸隠れ神話の類型が東南アジア地域に広く見られる
…なんて事はもう少し神話に興味を持っている人間なら今更言う必要も無い話だろうが
それでも、そもそも「何で太陽神が女神なのだ?」と言う疑問が残る。
神話学的アプローチでは逆に説明がつかない…と思っていたが
何でもアッサムのカシ族の伝説には岩屋の中の美女を花を餌にして少しずつおびき寄せ
ついには捕まえ夫婦になると言う話しがあり
これと日本の神話の類似を指摘する学者もいるとか(『日本神話の源流』吉田敦彦)
そうなると日本の岩戸隠れ神話の太陽神は最初から女神であった可能性もあるのではないか?
今日我々は太陽神が女神である事が奇異であるという先入観にとらわれすぎているのかも知れない。
古代の日本人にすりゃ、皇祖神である太陽神が女神でも別に問題なし…という感覚だったのかもwww
>>136 あのなー、皇帝からの指令を伝えに行くのに、
使者が女王国の都に行かないでごまかすと思うか?
古代専制国家をあまく見ちゃいかんぞ。
単なる荒らしでしょw
>>152 古代専制国家なら、地図を国外に持ち出す事を拒む例もある。
155 :
151:2010/04/11(日) 09:45:24
>>151の内容が邪馬台国と同関係するのか見えにくいから自分でフォローしておくと
もし岩戸隠れ神話の太陽神が最初から女神だった場合
もはや天照の神話の中に卑弥呼の姿を見る必要は微塵も無い…と言う事ねwww
勿論、後世の女帝の姿を仮託して元々男神だったものを女神にした…なんて話しも吹っ飛ぶwwwwwww
マルチポストは禁止されていますよ。
157 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 10:24:30
>>154 シーボルトだって地図を持ち出そうとして国外追放だぜ。
日本は伝統的に外国の使者には閉鎖的で、正確な地理を教えることを拒んでたんじゃないかい?
158 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 10:29:32
宇佐神宮の辛島氏、記紀にはいっさい出てこないにもかかわらず、磐井の乱の後急速に台頭し、
大仏造営に加担して朝廷内に入り込み、源氏の氏神として全国を支配してしまう。
この宇佐神宮こそ邪馬台国とつながりがあると思われます。
160 :
か:2010/04/11(日) 11:09:08
松本清張の古代史疑はどこまで信じていいんだろうか?
161 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 12:32:44
>>159 あのねえ、自分で「大仏造営に加担して」って書いてて、
邪馬台国とどうつながるんだよ?
卑弥呼は仏教徒だったんですか?wwwwwwww
やま☆たい
やめ@たい
やっぱり八女市だろう?
>>141 この手の煽動は、まともな九州説ではないということが最近わかってきた。
いまどきの九州説は魏志倭人伝の記述に論拠をおくので、畿内での考古学的成果は
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」のこととして無視しようとする。
>141の4つのネタに反応するのは、それによって存在を否定されている東遷説だな。
>三角縁神獣鏡舶載説
三角縁神獣鏡が国産だろうと舶載だろうと関係ないのにね。
畿内説の中で国産説と舶載説の議論があるというのに。
>データ完全黙秘の年輪年代
東遷説お得意のねつ造だな。
原理、基準、具体的な方法、測定された試料のパターングラフ、
どれも公開されているのにね。
>C14
炭素年代測定に依拠して畿内説があるのではないのにね。
C14も年輪年代も、第三者的立場から補完しているにすぎないんだよ。
>集落遺跡
現状ですでに十分、纒向の学説史上の価値は認められているのだが。
165 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:00:03
>>157 よその国に地図を差し出すのは、服従を意味していた。
神功皇后記にも、新羅は、戸籍と地図を差し出して服従を誓ったとある。
166 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/11(日) 15:02:10
紀無い節は妄想。記紀を読むと、卑弥呼相当の代に女王(女天皇)は
いやしない。当時畿内に女王国は存在せず男王国(男の天皇の国)しか
なかったということだ。
167 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:02:14
>>141は、たいへんわかりやすい安本信者だよ。
全部、安本が主張してることばかり。
でも、安本は九州説の考古学者からも相手されてない。
主張内容が20年古すぎてwwwwwwwww
168 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:09:26
169 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/11(日) 15:15:18
卑弥呼≠天照大御神
卑弥呼を神武より古い時代のアマテラスにしちゃうと、239年が
神代に来るわけで、これだと当時の神武以降歴代の天皇の在位期間
がスシ詰めになるから不合理は堅い。よって上の不等式とせざるを
得ない。
170 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:16:18
171 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:26:28
>>168 もう少しマトモな理屈の組み立て方を学んできなさい。
やり直し。
記紀に天照が魏に朝貢したとか書いてあるのか?
女神と女王をダブらせているだけの話し。
九州説論者の脳内神話はもうウンザリwwww
172 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:30:55
>>170 もはや、トンデモサイト。
マジで東遷説を信じちゃってるの?
卑弥呼がアマテラスで、その子孫の神武が東征して、奈良にヤマト王権を作ったと?
中学生くらいなら、そういうヨタ話に傾倒してもいいけど、大人なら恥ずかしいから卒業しようぜ。
最近は、邪馬台国に関して読むべき本はほとんど皆無。無駄でしかない。
そんなことより、菊池川流域を掘ってみたほうがいいのだけれど、
あの辺は過疎で工事中に偶然遺跡が発掘されたという幸運が起きないからなぁ。
174 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:37:33
>>170 そのリンク先に 「近畿地方 土器年代比較表」と言うのがあるが
柳田(2004)が一番(東遷厨にとっては)過激って事になるかな?
庄内の始まりがAD200、布留も3世紀半ばには始まっている。
「年代遡上は畿内説論者の陰謀」といつも言っている東遷厨にとって
柳田もその陰謀に加担する人間と言う事になるんだろうなwwwwwww
175 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:46:03
>>160 >松本清張の古代史疑
読んで無いんだが
清張と言えば人口の「五万戸」「七万戸」とか言う数字や
距離の万二千里と言った数字は中国人の修辞・誇張としてバッサリ切り捨てているんだよな?
清張自身は比定地を筑後川下流域においていたと思うが
そこに何らかの合理的説明ってあったっけ?
しかしこの作家によって始まった邪馬台国ブームの中で
多くの人間が踊らされてきたんだろうなあ・・・
176 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:51:14
>>170 だいたい、安本のインチキなところは、
そうやって、「年輪年代法」が登場して、年代が遡った=だから「年輪年代法」は信頼できないと誘導してるところ。
そもそも、「古墳時代が4世紀から」という土器編年も、実年代を示す証拠があったわけじゃなく、
適当に決めてただけ。
もとより、邪馬台国は3世紀、古墳時代は4世紀という概念の上で、畿内説は何の問題なく成立していた。
そもそも、古墳時代が4世紀からという実年代を示す証拠はどこにあるんだ?
安本は、「昔の考古学者が適当に決めた年代」を実年代としようとしてるが、それこそ、何の根拠もないわけで。
年輪年代法で古墳時代が3世紀からとなっても、
それで畿内説がめちゃくちゃ優位になるわけじゃない。
困るのは、東遷説だけ。
177 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:59:27
>>176 実際
>>170で突っ込んだように畿内の学者より九州で発掘に当たっているような柳田の方がよほど
年代についてはある意味シビアwwww
恐らく東遷厨がいつも槍玉に挙げているような畿内説の御大のおかげで
かろうじて”今の状態”に留まっているんじゃないのか?w
なんつってもかつて小林と交流があったり師事されたりって学者も多いだろうから…
全くこの板じゃあ理化学的年代測定を批判すれば畿内説がどうにかなると思っている馬鹿が跡を絶たないwwwww
>>170 リンク先はいかにも安本らしいミスリードだね。
>このように年代が古くなっていく現象は、
>多くの考古学者が、年輪年代や炭素14年代で得られた古い年代を、
>深く吟味せずにすぐに取り入れたことによると思われる。
(安本美典先生「邪馬台国の会TOP>活動記録>講演会>第280回」)
年代溯上は90年代以降の発掘増加による土器編年の緻密化・細分化や
貨泉など実年代推定のための定点発見によるものであって、
年輪年代やC14に対しては慎重な対応が見られるんだけどね。
「しかし、木材はふつう外側を削り取ったり裁断して使う。古い木材を転用して使うこともよくある。
また、出土木材の相対年代が決定できない場合は、せっかくの暦年代も考古学には生かされない」
「さらに、放射性炭素年代測定自体の問題点も少なくない。
(中略)しかし、根本的な問題が解決されない以上、安易にこの年代観を採用するわけにはいかない。
今しばらく、しっかりとその動静を見極めたいと考えている」
(寺沢薫「王権誕生」)
179 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 16:07:53
>>176 邪馬台国論争の経緯を見てみると、長らく畿内説の根拠は、三角縁神獣鏡魏鏡説
だった。卑弥呼が魏から貰った鏡が三角縁神獣鏡がであることを根拠に畿内説を
主張していた。
しかし、これは破綻していく。そこに追い討ちをかけたのが吉野ヶ里遺跡だった。
倭人伝に書かれた「宮室・樓觀・城柵」を兼ね備えた弥生の国が現実に登場
したわけである。世論的にも邪馬台国で盛り上がった。
畿内説としては、三角縁神獣鏡には頼れない雰囲気が出て来る。吉野ケ里に
匹敵するような遺跡があるわけでもない。纏向には、邪馬台国であることの
根拠が何もない。
この頃、盛んに箸墓を卑弥呼の墓と宣伝していたが、これだって実は何の
根拠もない。年代合わせに一生懸命になっていたが、年代が合ったとしても
これが根拠になるわけではない。
畿内説としては、自説の主張よりも九州説のネガティブキャンペーンのような
ものに走った、それがいわゆる年代の遡上というわけなのだろう。
180 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 16:12:33
>>178 しかし、橿原考古学研究所の関川氏が庄内期の始まりを四世紀以降と思って
いることは確かだろう。
181 :
か:2010/04/11(日) 16:13:07
>>175 距離に関しての松本清張の主張は数字はあてにならないと言っている。陰陽五行説に基づいて3、5、7と言う奇数を使用してるだけで相対的なものであると。一応九州論。山門支持みたいですな。
182 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 16:15:34
>>179 吉野ヶ里遺跡が発掘された頃は、三角縁神獣鏡は国産ってことが大勢だったんじゃないかな。
それで、九州説が一気にブームになって、九州説本東遷説本も巷にあふれ、
吉野ヶ里も必死に九州説をアピールしてきたわけだが、
結局、九州説は定着せず、畿内説がこの20年で定説化していった事実の方を重く考えるべきだな。
原因は、九州説の古い体質にあると思うのだがね。
そろそろ自己批判を始めたらどうなのかな?
183 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/11(日) 16:26:28
当時の時代頃、女王(女天皇)が記紀にないんだから、当時畿内に
女王国は無いんだと想わなくてはいけない。畿内は当時男王国
(男の天皇の国)だったということさ。つまり畿内に卑弥呼の国は
存在せず、九州にこそ卑弥呼の国があったのだ。
184 :
水銀厨:2010/04/11(日) 16:30:24
>>179 私は畿内説ですが、以前から△国産説ですけどね。
最近その事が実証されてるのは喜ばしい限りです。
ただし巻向は宗教都市だというのが持論ですが。
現在の発掘実績で、水銀朱がこの地方に集中している時点で
その点はある程度証明できます。
倭人伝上での「卑弥呼は鬼道を用いる」という点でも
矛盾しないしね。
>>180 >関川氏が庄内期の始まりを四世紀以降と思っていることは
うふふ。その理由を説明してみて。
jk
187 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 16:54:55
>>158 ネタスレか?
リンク先の画像、ガンダムが見えるんだが・・・
>>184 で、貴方の畿内説の最大の根拠は何?
まさか水銀だけじゃないでしょ
189 :
水銀厨:2010/04/11(日) 17:20:20
>>188 水銀朱だけでも殆ど説明できますけどね。
倭人伝の記述「その山に丹あり」でもそうだし、
同時代の文献書物の抱朴子の記述内容、
1世紀前後における帯浪郡から北部九州、
瀬戸内〜紀伊半島に至る「朱の道」なんて
現在の遺跡だけでも説明できます。
朱を求める漢人が河内まで来ていた事はね。
この時点で倭国=九州説はもう有り得ない話ですから。
距離日程でも当然説明できますが、これはどの論でも
決定打に欠けますから。
190 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 17:31:15
瀬戸内海から泉貨が出てる以上、九州説は無いでしょ。
後の時代に流通したとか、アホな理屈で反論するしかないけど、
物々交換の時代に、泉貨の価値がわかる人間が多くいなければ、ただの金屑でしかない。
191 :
水銀厨:2010/04/11(日) 17:45:37
泉貨ではなく貨泉な。
これの出土状況でも畿内説には有利となるでしょう。
吉備では水銀朱も貨泉も大量に確認されてますから。
水銀朱の遺跡だけが根拠なんだ。
ということは、新遺跡の発見があると、ころっと説が変わる訳だな。
194 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 17:59:43
吉野ヶ里に次ぐ新遺跡はとうとう発見されなかったね。
畿内に大きな国があったことは確かだろうけど、
それが邪馬台国とは限らないんじゃないかな?
それがヤマト王権、すなわち近畿天皇家
197 :
水銀厨:2010/04/11(日) 19:09:34
>>192 何も変わらないですよ、今ある文献資料や遺跡が消える訳でもないし。
南九州辺りに弥生中期の大規模な水銀朱精製跡でも出れば
少しは考え直しますけどね。
それに最近の新しい発見は、水銀朱の重要性を
証明してる物ばかりですから。
198 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 19:11:29
>>183 同じ邪馬台国九州説でも、東遷説と九州王朝説の決定的な違いは年代観の相違。
卑弥呼の時代に、畿内には見るべきものがなく、のちに邪馬台国の勢力が
九州から移動したというのが東遷説。
九州王朝説は、卑弥呼時代にはすでに畿内に大和朝廷の勢力があったとする。
あるいは芽生えていたとする。だから、邪馬台国と大和朝廷は無関係となる。
だから、纏向の年代は重要になる。
もっとも、純粋な九州王朝説は考えられなくても、その亜流というのもある。
つまり、王朝というほどではないが、邪馬台国は九州にあり、比較的早い
時期に消滅したという説。
纏向は、畿内説がどんなに頑張っても、西暦200年よりずっと前には遡れない。
その頃が崇神天皇の時代だとすれば、欠史八代あるいは神武天皇の居場所が
なくなってしまう。他にそれらしき遺跡も見当たらない。
だから、纏向を卑弥呼時代の後にして、東遷説を考えるのが一番妥当。
記紀との整合性もある。もちろん、卑弥呼=天照大神が出発点になる。
199 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 19:23:56
>>198 この東遷厨は、どうして意図的に唐古・鍵を無視するのかな?
孝霊天皇の宮なのは確定なのに。
単に無知ってだけならバカすぎる。
200 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 19:36:05
>>199 その人は、南九州東遷をここで説くことに後半生を賭けてるんだよ。なんか哀れだな。
「東遷厨」って良く出てくるけど、何のこと?
安本説信奉者ってこと?
202 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 20:06:31
>>201 九州説の中でも、畿内に大和王権が並行で存在したなんてことを認めない人たち。
九州の邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢して金印をもらって、天照大神と崇められて、
畿内に東遷して大和王権になったと頑なに信じてる人たち。
初心者ですが、畿内にいた卑弥呼が△のコピーをバラ撒いた
これで間違ってないですよね
204 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 21:55:22
>>203 卑弥呼がもらった神獣鏡に、三角縁をデザインして大量コピーしたのが、三角縁神獣鏡。
なぜか、誰も主張しないがな。
205 :
水銀厨:2010/04/11(日) 22:04:59
>>203-204 私はそう想定してますけどね。
畿内では工人を連れてきて△鏡を造れる環境にあったという事で。
場所は鍵・唐古が想定できるし、河内でも可能性がある。
原材料なら銅鐸もあるし、磨く石の産地(二上山)もすぐ近所だからね。
鏡といえば水銀も関連が深いのだが、流石にこの時代は
ガラスの裏面にメッキを密着させるなんて事は出来ないだろう。
しかし自然水銀を塗り込んで磨いたなんて技術は、
ひょっとすると有り得るかもしれない。
206 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 22:13:49
誰も主張してないんですか
不思議ですよね
勉強し過ぎると、当たり前のことが見えなくなるんでしょうか
207 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/11(日) 22:29:33
>>198 この者は唐松山の書きこみに想える。ww あいつは不利になると、よく
無コテの手でダブルをやらかす。ww
208 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 22:37:40
>>205 舶載鏡は水銀で磨かれてたはず。
三角は水銀で磨かれてなかったようだ。(だから国産)
209 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 23:06:27
>>119 徒歩での移動は1日当たり25〜30km(完全武装の軍隊の行軍速度)
210 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 23:20:40
>>199 唐古・鍵に見限りをつけたのは、畿内説の考古学者。
期待を込めて掘り続けたが、ついにあきらめた。
纏向もそういう運命だろうな。
211 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 23:25:30
>>204 神獣鏡は、呉の鏡だからね。
三角縁神獣鏡は、呉の鏡である画文帯神獣鏡に三角縁をつけたものであると
言う人もいる。
212 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/11(日) 23:25:42
>>120 >> 行程が里数と日数で併記されているが中心の考え。
>これはどうでしょう?三国志にそんな例ありましたっけ。
倭人伝の倭に付いての記述は
正治元年(240年)の梯雋と正治八年(247年)張政の二つの報告を基にしたもと考えられるから
旅の行程を片方が里数で、もう片方が日数など違った形で記録したていたら
両方を併記しても可笑しくない。
213 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 23:25:49
【捕鯨】 「人間も獲るのか!」 捕鯨抗議で来日の豪女性、肥満のせいで改札機にはまって身動きとれず…JRを提訴か [4/8]
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/parksports/1217581664/l50 先月、都内のJR駅改札で、オーストラリアから来日していた女性が改札機に挟まれるという事故があった。
幸い怪我などはなかったものの、レスキュー隊が駆けつけて改札機をこじ開ける30分程度の間、多数の利用者の好奇の視線にさらされて精神的苦痛を受けたとして、JRを相手取って訴訟を起こす予定だという。
女性はオーストラリアの環境保護団体のメンバーで、日本の捕鯨に抗議するために来日した。
都内の抗議集会場に向かう途中、JRの改札から出ようとしたところ、駅を乗り越していたため自動改札の扉が閉じた。
女性は勢い余って通り越そうとしたが、駅員から注意を受け、戻ろうとしたらしい。
そのとき、扉が女性の腹部にめり込んでしまい、身動きが取れなくなった。
女性は肥満気味で体重250キロを超えているという。改札機はぎりぎり通れる幅だった。
レスキュー隊が到着するまでの間、駅員が濡らしたタオルで頭や身体など冷やすなどしたが、女性は吐き気などをもよおしたという。
・女性のコメント:
「日本人はクジラどころか、人間も捕獲するのですか。JRは誠意をもって償ってもらいたいです」
214 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:03:50
>>164 >原理、基準、具体的な方法、測定された試料のパターングラフ、
>どれも公開されているのにね。
畿内説がウソツキってのは本当だな。
グラフが公開されたことは一度もない。
それゆえにこそ、慎重な学者は年輪年代は完全に無視する。
検証できないものは学問の対象になりえないから。
215 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 00:05:05
>>124 >郡より12000餘里にある国は奴國と不彌國である。
間違い、郡より12000餘里にある国は奴國だけ。
>奴國は『東南至奴國百里』とあるから方向と距離を示すだけで道程に入っていない。
>不彌國は『東行至不彌國百里』とあり「行」とあることから道程に入っていることを示している。
伊都國から奴國に行が無いのは伊都國と奴國が一体化した国だったからで、
伊都國が王宮地区、奴國が庶民地区だったから。
行の有る無しで傍線行程を判別しなければならないような難解な記述はない。
>『従郡 至倭・・・ 至投馬國水行二十日・・・ 至邪馬壹國水行十日陸行一月』
が文の構造である。
この解釈は正しいが図にすると
−−−七千餘里−−−−千餘里−−−千餘里−−−千餘里−−−五百里−−−百里−−百里
−−−−−−−−−−−−−方可四百餘里−方可三百里
帯方郡−−−−狗邪韓國−−−對馬國−−−一大國−−−末盧國−−−伊都國−−奴國−−不彌國
−−−−−−−到−−−−−−到−−−−−至−−−−−至−−−−−到−−−−−−−−至
−−水行二十日−−−水行十日陸行一月(日)
−−−−−−−投馬國−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−邪馬壹國
216 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 00:08:48
訂正図
−−−七千餘里−−−−千餘里−−−千餘里−−−千餘里−−−五百里−−−百里−−百里
−−−−−−−−−−−−−方可四百餘里−方可三百里
帯方郡−−−−狗邪韓國−−−對馬國−−−一大國−−−末盧國−−−伊都國−−奴國−−不彌國
−−−−−−−到−−−−−−至−−−−−至−−−−−至−−−−−到−−−−−−−−至
−−水行二十日−−−水行十日陸行一月(日)
−−−−−−−投馬國−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−邪馬壹國
217 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:09:29
>>218 素人の目だけど、これで「パターンが一致」というんじゃ、ちょっと心配だな。
220 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:23:35
>>214 >グラフが公開されたことは一度もない。
君は年輪年代測定の報告や論文を何ひとつ読んでないね。違うか?
221 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:29:05
>>217 そうだね。纏向についてはちょっと知識不足かな。
調査不足、あるいは報告不足というのもあるのだろうが。
イメージというか、都合の良い結論が先にあるというのは否めない。
ところで、纏向遺跡の存続期間というのはどれくらいなんだろう。
222 :
水銀厨:2010/04/12(月) 00:29:27
>>208 >三角は水銀で磨かれてなかったようだ。
その辺はまだ断定出来ないですからね。
国産鏡説なのは同意ですが。
>>217 畿内説でも私は瀬戸内東部重視の河内中心説ですけどね。
巻向=祭祀、宗教都市説だから大規模集落が
この地から出たら逆に困る。
223 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/12(月) 00:43:35
>>215 倭人伝では韓伝と異なり城郭有無のことわりがない。
これは倭各国には城郭があることが前提となっているからである。
末盧國、伊都國、伊都國、奴國と不彌國との里数距離は城郭間距離を示している。
又奴國にも正副の官が2名いる。
奴國にも城郭があったのである。
城郭のある国は庶民地区だけの国ではない。
では何故ルート脇の奴國がわざわざ書かれたのだろうか?
奴國が郡より12000餘里にある女王國だからである。
奴國、不彌國、投馬國と邪馬台国が女王國となる。
又、伊都國の世有王は女王國に統属している。
狗邪韓國から次有奴國までの30ヶ国は女王の権力の及ぶ国々である。
女王は、女王國の王であり、30ヶ国を代表する王でもある。
224 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:48:41
■女王卑弥呼の国を探る:遺跡巡りやフォーラム−−桜井で6月12・13日 /奈良
毎日新聞 2010年4月10日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100410ddlk29040687000c.html ◇5月20日必着、奮って参加を
女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかった桜井市で6月12、13両日、「女王卑弥呼の国を探るin桜井」(同市主催、毎日新聞奈良支局など後援)が開かれる。
12日はフォーラム、13日は遺跡などを巡るフィールドワークがある。参加は先着1200人。往復はがきで5月20日必着で申し込む。【高島博之】
12日は午前10時〜午後4時半、桜井市民会館で、橋本輝彦・市教委係長の発掘調査報告▽寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長の基調講演▽専門家によるシンポジウムなどがある。1000円。
13日はAコースが、大型建物跡の現場など、Bコースが桜井茶臼山古墳などを訪ねる。いずれも無料。長谷寺や市立埋蔵文化財センターを訪ねるバスコースもあり、参加費は6800円。
希望者1人につき1枚の往復はがきに、郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号を記入。
12日の昼食(1000円)の有無、13日の参加有無とコース選択を明記し、〒633−8585桜井市粟殿432の1 桜井市観光課「桜井市歴史観光フォーラム」担当へ郵送。13日だけの参加は不可。
問い合わせは市観光課(0744・42・9111)。
・参考: 桜井市HP
平城遷都1300年記念事業「2010桜井市歴史観光フォーラムと現地フィールドワーク」
◆女王卑弥呼の国を探るin桜井 ‐卑弥呼は纒向にいたか?‐
↓チラシ(PDF)【388KB】
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/photo/kanforum.pdf
225 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:09:28
>>219 散々言われてるが年輪年代法は第三者で検証できる能力を持ったものがいないのが
問題点だが、かと言って無視できるものでないのもまた事実なんだよ。
それは年輪年代法で導き出された結果が客観的なものであったり
あるいは学説を側面から下支えするものとして認められると言う考え方が最早
学界では支配的だからなんだ。
ここでは年輪年代法の根本的な問題を取り上げるケースが多いと思うが
今となっては年輪年代パターンを突くとかもっと踏み込んだ批判をしないと
否定する論拠としてはかなり弱いね。
>>219 オレも素人だけど、オレはかなり一致してると思うな。
学生時代の実験実習なんかを思い出すと、
実験結果からグラフを作る時って、わりとアバウトだったように思う。
例えば、数値をプロットした点を厳密に結べばガクガクの折れ線になるけど、
大体の所で直線を引いたりね。
それからすれば、良い線いってるんじゃない?
227 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:40:11
>>218 ちょっと問題がありそうだね。
・389年しか年代が書かれていないグラフであること。
・縦の目盛りの度数が不明。
・標準グラフが正しいことが実証されていない。
測定グラフに合わせて適当に作ったものではないと誰が信用できるのか?
これまでは結果だけ宣言だったのに比べれば、進歩ではあるが、
これまで公表したものも含めて、全部出さないと意味がない。
やっとスタートラインに立つ準備を始めたという段階に過ぎない。
これから第三者が検証して、それで初めてスタートラインに立つ。
228 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:44:30
>>225 これまで標準グラフはおろか、測定グラフさえも頑として公表してこなかった。
それゆえ、最近では年輪年代を完全に無視する学者も少なくない。
ついには、公然と批判する学者も出てきたから、最近になってやっとほんの一部を公表し
始めたに過ぎず、本来ならば20年前に公表すべで、遅きに失したという感がある。
むしろ、さんざん批判されてやっと出てきたものなので、信用性が未知数。
これからの検証を経た上で、その価値を検討することになる。
229 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:48:19
>>220 そんなことを言うよりも先にソースを出した方が早いんじゃないかな。
ソースがあればだがwwwwwwww
発表されていないというソースは、年輪年代スレに多数出ているぞ。
230 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:50:10
なんか文句を言われたら、「あれは概念図ですよ。」と逃げを打てるような
ものしか出していないとも言えるな。
231 :
220:2010/04/12(月) 01:54:00
232 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 01:54:56
>>231 やっぱりソースはないのねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
233 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:02:07
年輪年代で標準グラフを説明する論文なんて存在しない。
というか本人が自分で測定グラフの詳細を出したことはない。
>>218のように詳細不明確な写真が出されたことがある。
新井宏がその写真をもとに分析して批判したことがある。
本人はこれを黙殺。
なので、写真が「イメージ図」ではないという保証もない。
これが現在の状況。
一歩前進というは錯覚かもね。
234 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:03:47
>>232 君が今まで読んだ年輪年代測定に関する報告・論文の本数はいくつだ?
235 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:04:47
寺沢とか鷲崎とか新井とか武末とか・・・昔から問題を指摘する人は
多かったが、本人がこれに応答したことがないというのが事実。
236 :
220:2010/04/12(月) 02:05:42
237 :
220:2010/04/12(月) 02:07:38
238 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:10:03
>>237 「ソースを出せません。本当に申し訳ありません。」
と書くべきでは?
239 :
220:2010/04/12(月) 02:12:23
240 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:13:18
241 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:16:05
>>225 結局は第三者が一からデータを採取してオリジナルのものを造り
着き合わせるしかないんだろうなwwwww
「データを出せだせ」言ってる連中はそのデータを目の前にしてどうするんだろう?w
普通そんなもの出されても「ああそうですか」で終わる話し。
でも今まで出された結果について重大の齟齬をきたしているって話も出て来ないんだよなあ・・・
242 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:18:35
>>241 ええっと・・・・・今度はデータを出さない言い訳ですかwwww
データを載せた多数の論文があるんじゃなかったんですかwwwww
243 :
241:2010/04/12(月) 02:24:19
>>242 >データを載せた多数の論文があるんじゃなかったんですか
はあ?俺はそんな事一言も言って無いんだが?
ところで「データ」と言うのはどういうものなのか?どのレベルのものを言っているのかこの素人に教えてくれないか?
244 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:34:55
245 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:36:08
>>243 そりゃあ、大多数の人が納得できるデータということじゃないかな。
少なくとも、疑問を持っている人の疑問に応えられなければ信頼性はない。
246 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:38:06
年輪年代法でいつも思うんだが…
例えば関東とかでオリジナルの物ができないのかな?
無論、樹齢千数百年の木がそこら辺にボンボン生えているわけでも無いんだから
サンプルは出土物と言う事になるんだろうが…
関西ほどサンプルに恵まれていないがネックなのか?
研究にコスト時間がかかってそんなもん誰もやろうとしないのか?
どうなん?www
247 :
241:2010/04/12(月) 02:40:11
>>245 笑えるwwwwwwwwwww
まさかそんな答えが返ってくるとは予想してなかったw
248 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:45:48
>>247 おかしけりゃ笑ってもいいけど、どこがおかしい?
249 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 02:56:48
>>246 日本で年輪年代が出来るのは光谷さんだけなので、あの人に頼む以外ないんじゃ
ないかな。
年輪の出来方は、地域によって違うらしいので、一つのパターンがどの程度
の範囲に適用できるのだろうか。そう考えれば、木材の産地も重要になって
くるなあ。
日本でも年輪年代をやろうとした人はけっこういるらしいので、その人たちの
意見を聞いてみたいものだと思う。そういうのは、あまり聞かれないな。
250 :
241:2010/04/12(月) 02:58:15
>>248 例えると
「Aが犯人だと言う証拠を出せ」
「証拠ねえ、例えばどんな証拠なんだい?」
「みんながAが犯人だと納得できる証拠だ」
…会話が成り立っていない。
具体的な中身を聞いているのにそれに答えていない。
所謂「トートロジ」って奴だなwwwww
そもそもこの場合データと言うのは
「大多数の人が納得できる」為に出す物(たたき台)であって
最初から検証さえた結果が保証されているデータなんてありえない。
もっとも学生の実験レポートのレベルなら結果は最初から分かっているんだろうがwww
つうかお前自分が言っている「データ」に関して具体的なイメージすら出来ていないだろう?wwwwwwwww
251 :
241:2010/04/12(月) 03:03:39
>>249 >年輪の出来方は、地域によって違うらしいので、一つのパターンがどの程度
>の範囲に適用できるのだろうか。
確か今、九州の出土物にも年輪年代で数字が与えられていたんじゃなかったかな?
(雀居遺跡とか・・・)
まあ関西・西日本と関東・東日本じゃあ気象条件がかなり異なるかもしれんし
(冬場だったら西高東低の気圧配置とかいうじゃん?w)
植物の分布と言うか”植生”も異なるんだろうが・・・
252 :
241:2010/04/12(月) 03:12:01
どの道、年輪年代や他の理化学的年代測定法に対する批判も
(三角の舶載/倣製と同じように)畿内説のネックにはなりえないwwwwww
ぶっちゃけ古墳時代の始まりが3世紀だと困る業界の人間は
小林説が廃れた時点で「ポスト小林説」を打ち立てねばならなかった。
が三角を国産として畿内説の批判材料にしつつ
一方でその小林説によって支えられていた年代観だけはチャッカリ頂いていると言う
馬鹿丸出しwwwwwwwww
例えば年輪年代の批判者として良く名前が挙がる寺沢なんかの年代観はどうなんだ?って話しwwwwwwwww
253 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 05:03:57
年輪年代否定派は、論文とデータが無いと主張しているわけだから
論文を読んだことがないのは当然だが、
年輪年代肯定派は、今のところあのポンチ絵が提示できるデータと見て良いのかな。
そして、あのパターンが、他の年代に対して、どの程度優位な差で一致しているのか。
例えば、最小二乗法でも使って出た誤差が、他の年代に比べて
十分小さいと言えるのか。
ちょっと見た限りでも、あまり合っているようには見えないんだが。
数値が出ていれば、エクセルででも、すぐに計算できる。
254 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 08:20:02
三世紀あるいは四世紀と言った時代の年輪年代法は信頼できると思うよ。
確かに年輪年代法だけとか放射性炭素測定法だけの結果なら信頼度は低いけど
考古学の王道とも言える土器編年の裏打ちがあるからね。
理化学測定法は検証が難しいから王道にはなりえないけど
土器編年で導き出されてる年代をむしろ肉付けしてるから学界では受け入れられる
ものになっている。
だから理化学測定法自体の信頼性を議論してそれを批判しても主体的な学説には
なりえないと言うのが現在の流れ。
255 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 08:41:25
年輪年代は、データが無いからダメ
しかし、
記紀神話の天皇の治世年代データをグラフ化したら、天照大神の年代が卑弥呼と一致した!
だから、卑弥呼は天照大神だ!
こうですか? わかります。
256 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 10:10:14
うむ、ひき逃げ事件があった。その時刻にあなたは車でそこを通った。だからあなたが犯人だ。というわけですね。
すごく論理的でなっとくできますね。
257 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 10:54:37
>>249 むしろ彼に頼むと期待通りの年代を出してくれる、ってのが便利で使ってるんだよw
258 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 12:50:12
>>255 それはたとえが悪い。
皇室の系図はちゃんとパターンが出来ている。信頼できるかどうかは別として。
例えば、神武天皇の前は、鵜葺草葺不合命。その前は彦火火出見尊。
その前が瓊瓊杵尊。さらに天忍穂耳命がいて、その前が天照大神になる。
だから、それらの長さ(在位期間)だけが問題になる。それを後の天皇の
在位期間から割り出そうとするわけだから、ある程度妥当性がある。
確かな年代を出すのは不可能だが、可能性を探ることが出来る。
年輪年代はパターンが示されていないので、妥当性を考えることも不可能。
259 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 13:09:08
>>256 それは畿内説だろう?
箸墓は卑弥呼の時代に重なるから卑弥呼の墓。
纏向も卑弥呼の時代に重なるから邪馬台国というわけで。
もっとも年代が重なるかどうかもわからないわけだが。
畿内厨に論理など求めてはいけません。
論理がすぐに破綻してしまうので相手の人格攻撃しかできません。
誰かを誹謗中傷できて初めて一人前の畿内厨になれるのです。
261 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 14:46:31
>>258 >信頼できるかどうかは別として。
>ある程度妥当性がある。
こいつ、ナニを言ってるの?wwwwwwwwwwwwwwwww
信頼できないけど− ある程度妥当性がある ってパターンと言うのはどう言う事か分かりにくいわなW
263 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 16:29:54
そんな記紀の系譜を信頼できるか、と言うようなのが出てくるから、断りを
入れただけ。
個人的には、この系譜を信頼しなかったら、拠り所はなくなると思っている。
ただ、欠史八代など個別に検討する必要はあると思うが。
264 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 16:36:55
>>223 >倭人伝では韓伝と異なり城郭有無のことわりがない。
>これは倭各国には城郭があることが前提となっているからである。
>末盧國、伊都國、伊都國、奴國と不彌國との里数距離は城郭間距離を示している。
>又奴國にも正副の官が2名いる。
>奴國にも城郭があったのである。
>城郭のある国は庶民地区だけの国ではない。
伊都國には「官」と「副」の他「世有王」と王が居たと記されているが
奴國には「官」と「副」しか居ない。
奴國に城郭があったとしても王はおらず
王(伊都國の王)から奴國統治に任命された「官」や「副」の役人しか居ない庶民の国である。
>では何故ルート脇の奴國がわざわざ書かれたのだろうか?
>奴國が郡より12000餘里にある女王國だからである。
>奴國、不彌國、投馬國と邪馬台国が女王國となる。
女王國とは伊都国王の女王卑弥呼が治める北部九州の国であり
奴國は女王國中で2万戸と最大の国邑、
奴國を女王國の中心として郡から奴國までの距離12000餘里を女王國までの距離と記したのである。
女王國(邪馬壹國)とは對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國と旁國(21カ国)の国邑の連合国。
>又、伊都國の世有王は女王國に統属している。
>狗邪韓國から次有奴國までの30ヶ国は女王の権力の及ぶ国々である。
>女王は、女王國の王であり、30ヶ国を代表する王でもある
伊都國の世有王は「皆統屬女王國」と記されているように
倭の国々を皆統屬していたのである。
狗邪韓國は投馬國の中心的な国邑で後の任那日本府のことであろう。
狗邪韓國と伊都國に「到」が疲れれているから
魏使は狗邪韓國と伊都國を目指して来たのである
そして狗邪韓國と伊都國が投馬國と邪馬壹國それぞれ対応しているのである。
265 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 16:53:54
>奴國には「官」と「副」しか居ない。
官とは王から任命されて政務を担当する者をいう。王がおらずに、官が存在する
ことはない。
266 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 16:55:14
>郡から奴國までの距離12000餘里を女王國までの距離と記したのである。
算数ができないようだな。郡から奴国までは1万600里だ。
267 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 16:56:28
>狗邪韓國と伊都國に「到」が疲れれているから
疲れているのはおまえの頭だろう。
268 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:02:45
>例えば、神武天皇の前は、鵜葺草葺不合命。その前は彦火火出見尊。
>その前が瓊瓊杵尊。さらに天忍穂耳命がいて、その前が天照大神になる。
記紀の皇統譜を天照まで逆算して…と言うお話に関して言うなら
この板で俺は良く天照の神話の元ネタが海外の物に類似すると言う事を言って
>>151では天照が女神である事も海外に類似のものが見える事まで言ったが
天照の神話から神武東征神話の間にある所謂「日向三代」なんてのは
恐らく比較神話学をやってるような人間からすればそれこそネタの宝庫なんじゃないだろうか?www
年輪年代は第三者が一から作ったものと突合せ比較検証されるべきであろうが
「天照まで遡って平均在位○年、故に天照=卑弥呼の年代は重なり両者が同一と見るに合理性アリ…」
なんてお話はもはや比較検証とかの対象外wwwwwwwwww
269 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:04:09
以前から疑問なんだが天照=卑弥呼なんて言っている安本美典は
俺がこの板で書いているような神話に関する(最早誰でも知っているような常識レベルの)
事柄を全く知らないって事は無いと思うのだが…
安本が神話学に言及しているのって聞いた事も無いが…あるのかな?
無論他のジャンルに軽々に手を出さないと言うのも学者の姿勢かもしれないが
少なくとも安本は文献も考古も(統計学も)幅広く用いようって芸風だよな?wwww
(二元連立方程式において未知数が3つ以上あったら解けないって理屈)
270 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:08:21
>>266 短里で残り100キロ程度か。
奴国のスタート地点は、福岡市西区or城南区付近か、
それとも春日or太宰府政庁付近か。
そこから100キロ、どこにたどり着くかな。
271 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:09:30
安本は、頭がいいからこそ、都合の悪いことには触れずに、都合よく自説を強弁するスタイルだよ。
>>263 >ただ、欠史八代など個別に検討する必要はあると思うが。
「欠史八代など個別に検討」なんてことしたら、
天照大神=卑弥呼なんて説がインチキだってすぐわかることだろ。wwwwwwwwww
帯方郡から末廬国まで一万里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里なら九州だよな
273 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 17:43:56
>>265 その王が奴國には居ないんだよ。
>>266 對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里を加えて(それぞれ2倍して)
郡から奴國までの距離が12000餘里。
未だに数字合わせかよw
276 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 20:05:14
>>274 また、全く倭人伝の記述と合わない畿内説の負け惜しみかよ。
277 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:16:15
天照大神が卑弥呼だなどと言ってるアホはどこの誰かね?
>>276 余裕で合致してますけどw
未だにパズルごっこしている九州説とは、話が
噛み合わないのは仕方がない。
もはや相手にしないだけです。
279 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:26:53
卑弥呼はアマテラスの宗女、卑弥呼の宗女が壹與。
アマテラス=卑弥呼ではないけれど、同族の巫女だと考えてよい。
武内宿禰もそうだが、同じ名を代々継いだと考えればよい。
280 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:32:01
すると、神武東征は紀元前ということだな。
281 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:00:34
神武の「神(カムイ)」は一般名詞だし。「武(タケル)」も勇者を意味する一般名詞。
神武という名もただ1人の王の名だったとは考えられない。初代神武、2代目神武と引継がれたはず。
そう考えれば、紀元前の王も神武で祟神も神武だったとしても何の違和感もない。
むしろ、欠史8代の天皇に名をつけたことに無理がある。
初代から10代までの王は、すべて神武だったのだ!!
これですべての謎が解けた!
>>278 九州説は方角、距離ともに倭人伝の記述に近いと思うよ
帯方郡から末廬国まで1万里だから短里だろうしな
三角縁神獣鏡は国産説が有望だし、九州の平原遺跡から80センチの鉄刀や中国製の鏡が発掘されてるから考古学的にも負けちゃいないよ
283 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:15:07
>>282 どうして九州からは古い漢鏡しか出ないの?
284 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:17:11
>>282 >九州の平原遺跡から80センチの鉄刀や中国製の鏡が発掘されてるから考古学的にも負けちゃいないよ
で、平原遺跡は伊都国の王クラスの墓と?
285 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:21:01
一大卒の墓だな。
286 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:26:16
>>282 >三角縁神獣鏡は国産説
畿内説でも国産説の人も多いよ。
距離も倭人伝の記述では萬二千里=女王国までの距離、
邪馬台国までの距離ではないですからね。
女王国は西日本諸国の共立国だという考え方の
畿内説では全く矛盾しないんだけどね。
289 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:46:58
>>287 >東遷廚はウソツキ確定、でいいですね。
あるいは、情弱。
東遷廚暦1年以上なら、ウソツキていいだろう。
>>288 そのとおり。
290 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:55:54
触れてはいけない真実というものがあります。
>>283 後漢の次が魏だから魏が卑弥呼に後漢鏡をくれた可能性はあるだろ
そもそも魏の時代に作られたと証明された鏡は日本からほとんど出てきてないでしょ
294 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 22:09:34
>>288 邪馬台国と女王国が違う国だとの考えには無理がある。
倭人伝の記述では邪馬台国=女王国ですよ。
295 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 22:10:12
>>293 ほとんどでてないけど、出てるのは近畿だな。
弥生時代の遺跡から出た魏晋鏡も鉄器も九州から出土したのが大半でしょ
297 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 22:32:53
>>296 >弥生時代の遺跡から出た魏晋鏡
えっ?
298 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 22:57:38
>>269 一応、言っておくと、東遷説は安本氏の発案というわけではない。
安本氏は、白鳥庫吉あたりからの九州説をまとめているようなところがある。
彼独自のものといえば、地名の類似性に基づく甘木説だろう。
年代論にしても先駆者がいるらしい。
大御所の井上光貞他多くの人が、卑弥呼を天照大神に比定している。
>>294 勿論邪馬台国も女王国ですよ。
倭人伝の記述では宮を構えている場所の事です。
女王を共立した国々が女王国でしょう。
300 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:07:47
>>298 だからナニ?
東遷説が真実だと思っちゃってんの?
301 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:08:45
302 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/12(月) 23:17:53
>>299 邪馬壹國は「可七萬餘戸」もあり、
馬韓の「總十餘萬戸」や弁、辰韓の「總四五萬戸」と比べて変わらない大きさがある。
邪馬壹國は単独の国邑ではなく国邑の連合体だろう。
女王を共立した国々が女王国、つまり女王国=邪馬壹國。
303 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:25:38
>>287 検証可能なデータの開示は1つもないよね。
一番下のリンク先に1900年代のものが出ているが、逆に言えば何故古代の
ものが出せないのか、不思議である。
それゆえ、多数の学者は年輪年代を無視せざるを得ない。
方法論が正しいとか、御託は良いから検証できるものを出してほしいね。
このままデータが出されないまま幕引きしたら、これまでの御託は
すべて水泡に帰すことになりかねない。
だから寺沢や石野は完全に無視している。
鷲崎が厳しい批判を書いたが、これも黙殺されたままだな。
304 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:28:06
>>298 >大御所の井上光貞他多くの人が、卑弥呼を天照大神に比定している。
井上光貞が卑弥呼を天照大神に比定? 嘘でしょう。ww
あなた、井上先生の本をちゃんと読まないで、
いい加減にまとめたどこかの学説紹介サイトを鵜呑みにしてませんか?
>>302 >「可七萬餘戸」もあり‥
当然奴国がある北部九州には存在できません。
そこには伊都があるので代々王がいます。
倭人伝の記述では女王と王とはっきり別けて記述されており、
伊都国王は卑弥呼では当然ありません。
女王が都する場所がヤマトです。
306 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:36:23
>>251 >雀居遺跡
これもデータが出ていない典型例の一つですね。
「光谷さんにグラフのデータを出していただきたいと思っています。九州の
雀居遺跡(福岡市)の報告書でも年輪年代が示されていますが、結論だけ
ではなくて、測定されたグラフと、基準となるグラフの両者を図示していただけ
たらと願っています。」
『弥生時代の考古学』(学生社)16頁、武末の発言
307 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:41:46
>>303 >検証可能なデータの開示は1つもないよね。
おいおい、検証って、「追試」の意味で言ってるのか?
308 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:46:24
>>307 最低限でも>>287の4番目のリンク先の1900年代のグラフと同レベルの
ものを出さないと、測定値そのものが不明といわざるを得ない。
測定値が不明なのに検証できるのか?
測定したことすら、確認のしようがない。
だから、寺沢はあれを無視すると明言して石野も同調した。
309 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:56:29
>>304 あなたこそ、本を読んだこともないのに、人を嘘つき呼ばわりしてませんか。
310 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:56:35
実は、年輪年代を一番支持しているのは、ジョーカーの大嫌いな安本なんだよね。
彼は問題点の留保なしで年輪年代を何回も引用している。
『季刊邪馬台国』では安本はC14の批判を散々やったが、年輪の批判は書かない。
それどころか、光谷とのシンポに出たりしている。
安本のこういう点は甘すぎなんだよね。
旧石器捏造事件の直前に秩父原人の特集を『季刊邪馬台国』でやっていたとか、
基本的な知識や鑑識眼にちょっと疑問がある。
311 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:04:51
無人島とか山の上とかに無人の気象観測所があるだろ。
気温や雨量を自動的に測定して自動的に発信してくれる。
太平洋上のA島では、2009年11月4日に、
10時00分 気温15.0度、雨量3ミリ
11時00分 気温16.0度、雨量1ミリ
12時00分 気温17,0度、雨量0ミリ
と気象庁へ送信してきた・・・としよう。
きみたちはこれを「検証」できるか?
312 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:07:58
>>308 気に入らんのなら自分でグラフ作ったらいいやん。
313 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:08:21
>>309 では井上先生のの該当論文名、ページを挙げてください。
314 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:10:08
315 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:12:53
>>313 あなたは井上光貞が邪馬台国東遷説だったことは知っているんですよね。
316 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:20:13
>>315 もちろん知っています。
中央公論社の『神話から歴史へ』は愛読しましたよ。
今でも家のどこかに持っているはずですが。
でも原田大六さんの『邪馬台国論争』を読んで、井上先生の筑後説とは決別しました。
今は畿内説です。
317 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:24:14
「日本の歴史 T 神話から歴史へ」(井上光貞)の中に次のような文がある。
「…もっとも自然なのは、邪馬台国の東遷なのである。もちろん、邪馬台国
東遷説も可能性のある一つの仮説に過ぎないが、(中略)…という中山氏や和辻氏
の提起した問題は、依然として説得力があるものと思われる。…」
>>311 そういうデータだと検証も追試も不可能だなあ
319 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:32:28
>>316 確かに、卑弥呼=天照大神を明記したものは見つからないけど、全体を
見て、それを示唆していることは確かだと思う。
それを言い切ったことが悪いというのなら謝るけど。
320 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:44:13
言って置くが光谷グループの年輪年代法は学界では一定の評価が与えられてるぞ。
暦年パターンそのものも全く検証されていない訳ではない。
問題は光谷さんと同じ事をして同じ結果が出るか実証されていない点だ。
これはかなり大きな問題だがだからと言って無視しますと言っても
学界の多くの賛同は得られない。
321 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:45:41
>>317 そこだけじゃなくて、第一章の神話のところをよく読まなくては。
天照大神になぜ皇祖神・太陽神の性格をあたえたのか。
記紀の成立過程や南北アジアの神話との比較が重要視されていますよね。
どこにも天照大神=卑弥呼なんていう決めつけはありません。
「邪馬台国大論争」のサイトのオヤジッチさん(この方も井上さんw)が間違えて、
さらにれんだいこさんが孫引きしているから、あなたも刷り込まれて間違えたのでしょう。
「邪馬台国大論争」もれんだいこさんも親切なサイトですけど、
ときどき基本的な間違いが含まれているようです。気をつけましょう。
322 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:52:11
>>303 >だから寺沢や石野は完全に無視している。
で、その両先生の年代観は?
と言うと庄内の始まりを4世紀に置くなんていうものではない
…と言うのが話しのオチwwwwwwww
いまここで年輪年代の批判者が言っている「検証」と言うのは
その前後の年代にもっと一致するパターンがあるんじゃないかとか
計算間違い・ケアレスミスのチェックのお話で標準パターンが正しいのかと言うのは別の話し
結局、誰かが一から新たに作って付き合わせるしか無いだろう。
それまではあくまで「参考」としておく方が慎重な態度だわなw
年輪年代は畿内説の追い風材料の一つであってそれがなければ成り立たなくなると言う話でもなんでもないwww
もっとも九州説にしても別に纏向と九州邪馬台国が並立していても成り立つが
この板の九州説では少数派なのかな?w
(昔いた九州説のコテ「九州ですが」ぐらいしか思い当たらないwwww)
まあ邪馬台国東遷説にとっては死活問題なんで御家の一大事なんだろうがw
323 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:52:50
>>321訂正です。
>「邪馬台国大論争」のサイトの
>「邪馬台国大論争」も
ともに「邪馬台国大研究」に訂正。失礼しました。
324 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 01:03:08
>>320 いい加減こういうデマはやめようぜ。
最低限測定グラフと基準グラフを出すまでは、完全無視しかないよ。
測定グラフと基準グラフを出さなければ、測定値と年代の当てはめの検証は不可能。
この点ですでに論外!
測定グラフさえも出さないことは、問題外。
>>322 >(昔いた九州説のコテ「九州ですが」ぐらいしか思い当たらないwwww)
うん、いたいたwww
327 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 01:05:34
>>322 測定グラフを出さないことには、その測定グラフを他の人が
自分の基準グラフの照らし合わせることもできない。
基準グラフを出さないことには、その基準グラフを他の人が
自分の基準グラフの照らし合わせることもできない。
現状では、未来永劫検証は不可能。
だから、学者の多数はこれを無視する。
無視するほかないから。
328 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 01:07:47
つうかねここの九州説の中の神話知らずの神話厨が根本的に勘違いしているのは
邪馬台国は記紀神話が史実であったと言う事を証明する”目的”の為の”手段”であって
記紀神話が邪馬台国の場所を特定する為の手段ではない。
本末転倒でござるwww
シュリーマンは
「トロイアはギリシア神話に登場するから実在する」
と死ぬまで言い続けて名を残したわけではないwww
ぶっちゃけ九州に邪馬台国を発見して
その勢力が日向に移動した痕跡を見つけて始めて
「ああ、記紀神話は史実を伝えていたんだな」
となるんだろうなwww
>>325 >「九州ですが」
ローガンはじめこの板の畿内説の連中が
よってたかっていぢめるから…
今にして思えばこの板じゃあ貴重な人材だったのかも
…と思ったり思わなかったりwwwwwww
330 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 01:31:50
>「九州ですが」
懐かしいね。
断片的な読書だけなのに、色々勇ましいことを書く御仁だった。
そういえば……。
>「九州ですが」
ときどきオネエ言葉。WW
332 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 02:22:40
安本美典は箸墓が350年頃の築造と考えているようだが、どう考えても無理だ。
>西暦350年ごろに、倭迹迹日百襲姫の墓所として、箸墓古墳が築造された。
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm 箸墓はその後円部墳頂に、円筒埴輪になる前の特殊器台を立てている。
そうすると日本で最も古い大前方後円墳だ。これに匹敵する古さの大古墳は西殿塚しかない。
いずれも古墳時代前期の前半だ。
ところが大和には前期前半から前期後半にかけての200m超大古墳がごろごろとある。
箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、行燈山、渋谷向山、五社神、佐紀陵山、佐紀石塚、宝来山・・・
古墳時代前期と中期の境目は、以前は4世紀と5世紀との境目あたり、すなわち
西暦400年ぐらいを想定するのが通説だった。(今はもう少し遡っているらしいが)
そうすると安本美典説に従えば350年〜400年のわずか50年ほどの間に
上記10基の大古墳が次から次へと造られたことになってしまう。
それはどう考えても不自然だし無理だと思う。
333 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 02:25:31
>>332 恨み節の東遷厨の言う「まばら理論」なら過密になる分には
いくらでもおkなんじゃないの?wwwwwwwww
334 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 05:22:25
>>328 要するに、記紀の筋は畿内説にとって都合が悪い。だから、記紀は作り話と
いうことにしたい。外国の神話の中から都合の良い部分を抜き出して、
似ていると吹聴し、神話とはこういうものだ、ということにしたいのだろう。
しかも、それを確信的に言うのは、恐らく、誰かの書いた本を読んでその気に
なっているのだろう。
どんな神話でもちょっとでも似ているところを探したらそれは見つかる。
ひとつも似ていないというほうが不思議だろう。
天照大神は怒った。どこかの国の神様も怒った。ほら、似ているじゃないかと
いうようなものだろう。
白鳥庫吉は、東洋の神話にも詳しい。その彼は、記紀の高天原の状況と
倭人伝の倭国の状況が酷似するといっている。古い時代の筑紫の記憶が
記紀に反映されたものだと言っている「倭女王卑弥呼考」。
神話だから作り話とは言っていないな。
335 :
水銀厨:2010/04/13(火) 07:35:22
>>332 200m級の前方後円墳‥平城京建設時にもいくつか壊されてるからね。
建設主体が誰かと考えるとここも怪しい部分。
>>334 神話の高天原の状況なら畿内で合致する部分が多いけどな。
336 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/13(火) 08:20:39
>>305 倭人伝によると倭女王が親魏倭王卑彌呼。
倭女王の治める国が女王国。
倭≒女王国≒邪馬壹國です。
倭人伝の記述では女王も王の一人として扱われている。
倭王は伊都国に居たのであり、倭女王卑弥呼も伊都国に居たのである。
337 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 08:28:09
>>334 白鳥庫吉は東遷説だったのか?違うだろ。
>>334 日向厨
>白鳥庫吉は
はい、でました馬鹿の一つ覚え白鳥庫吉wwwwww
白鳥が言ったから正しい白鳥が言ったから「高天原=邪馬台国」
もはや宗教だなwもしくは「ビッグネーム依存症」とか?
お前の言い分なら多分「比較神話学」と言う学問の分野そのものが存在しなくなるわ。
うぬぼれるなよ ドアホ。
お前が言うような似ているところを摘み食いして「ほら同じです」と言うようなモンじゃあ、学問として立つ瀬が無いわなw
少なくともお前がご都合主義の摘み食いでハブっちゃっている月神の存在や
日向三代の神話についても説明がつくw
もはや記紀神話神代の根本部分が海外の神話のバリエーションである事を否定する奴がいるのかって話。
「記紀神話は史実を下敷きに4世紀以降にできたお話です
海外の神話との数々の類似は単なる偶然です」
…なんて「ムー」もびっくりの与太話、リアルで誰が真に受けるのか?哀れな奴だw
>恐らく、誰かの書いた本を読んでその気になっているのだろう。
残念だが…
少なくとも「誰か特定の学者・作家」と言う事は無いなw
そんな類似の指摘なんかネットでググっただけでも直ぐにボロボロ出て来る話で
もはや”体系的に”存在する話し
特定の学者・作家に求めるのは非常に難しいと言うか、今の今まで考えた事も無いわw
>>332 その過密化の問題を多少なりとも緩和するアイデアが無いでもない…
柳本・大和(おおやまと)・佐紀…にそれぞれ独立した造墓集団がいたと言う枠組みならどうか?
「マルチタスク」とか「デュアルコア」とかそんな感じw
それなら二つの古墳が平行して作られても問題ない。
もっとも、そうなると記紀の皇統譜もいよいよ怪しくなってしまうので
例の東遷厨には受け入れがたい物だと予想するがwwww
340 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 12:40:19
そもそも、東遷説が出てきたのは戦後だろ。
江戸時代〜戦前は、「天皇の祖が中国に朝貢するわけがない」という理由で九州説が生まれたのであって。
邪馬台国が東遷したらそれこそマズイ。
卑弥呼=天照大神という説だって、戦中の国家神道を批判する中で登場した。
戦中に政府に恨みを持ってた文化人は、今度は「卑弥呼=天照大神」として
国家神道を貶める側に立った方が時流に乗れた背景があったことも留意すべき。
341 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 16:44:20
>記紀神話が邪馬台国の場所を特定する為の手段ではない。
邪馬台国の場所を特定するための資料の一つになるよ。
おまえにとっては都合が悪いのかも知れんがね。
342 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 18:50:24
>>340 明確に「東遷してきた邪馬台国が皇室の祖」なんての言えたのは戦後の話しなんじゃないのかな?
そう言う意味では現在の邪馬台国東遷説って比較的新しいのかも。
明治の久米邦武なんかは
「神道は祭天の古俗なり」
と言っただけでつるし上げ食らってるからなwww
まあ邪馬台国論争は日本(倭国)の成り立ちに深く関ってくる話で
当然個人の国家観とかが反映されやすく
いきおいイデオロギー的な物との親和性が高いんだろうがw
畿内説・九州説、何れにも右的要素、左的要素は垣間見える。
もっとも畿内説がほぼ定説化しているような現状は
もはやそう言った右左のイデオロギー論争とかは関係ないレベルだと思うが。
343 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 19:20:29
倭人伝の解読を完全に放棄し
倭人伝の解読を辻褄合わせとしか言えない畿内説は過去の遺物
一部の頭の可笑しな学者連中や342みたいな馬鹿が根拠もなく言い張ってにすぎん。
344 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 19:32:49
畿内説って、
魏志倭人伝での距離は信用できない。
方向も信用できない。
風土の描写も信用できない。
記紀はただの伝承で信用できないって立場だろ。
何をどうやったら、畿内説というものが発生するのかよく分からない。
そんな書き込みをせざるを得ない程追い込まれてるんだね‥
346 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 20:16:00
畿内説ってホントは駄目だな
何の反論もない。
347 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 20:29:24
そんな書き込みをせざるを得ない程追い込まれてるんだよ。
348 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 21:21:16
>>343-344 まあアレだ、誰が見ても文句の付けようの無い完全な解読ができれば
畿内説なんか瞬殺できるだろうな、がんばれよwwww
畿内説・九州説の学者らが百年かけてもなし得なかった問題だ。
それができたら後世に名を残せるぞ?w
とりあえず九州説の中で勝ち抜いてみせろw
「素直に読んだら」「これが正しい読み方」と同じ方法論・アプローチでありながら
結果がバラバラなのはおかしい思わないのか?w
自分達と異なる方法論・アプローチの畿内説に噛み付く前にやることがあるだろうって話し
ワカリマスカ?www
とりあえず九州予選を勝ち抜いて統一しようぜ?
レッツ・ファイト!wwwwwwwwwwwww
349 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 21:22:41
畿内説の身内では畿内説が定説化しているのは当然だが
日本国民の間では畿内説は奇怪な学説で支持者は少ない。
「窮鼠 猫を噛む」と言いますからくれぐれも用心されたほうがよろしいかと。
351 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/13(火) 21:27:22
伊都国が邪馬壹國の都で
北部九州一帯が邪馬壹國
九州説も畿内説も最終的にはこれに統一されるよ。
三角縁神獣鏡は中国産じゃないみたいだしね
問題は邪馬台国がいつ東遷したかだね
九州説なんて半島人が支持してるしな。
つまりまあ‥そういう事だ。
354 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/13(火) 22:14:35
邪馬壹國本体の東遷はないだろう。
東遷があったとしても邪馬壹國全体ではなく
邪馬壹國から分かれた一部勢力の東侵だろう。
355 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 22:22:02
吉野ヶ里に観光に来る韓国人は、卑弥呼が朝鮮人だと思ってるぜ。
主張の仕方もそっくりだしな。
357 :
みまき:2010/04/13(火) 23:23:42
卑弥呼が崇神天皇の妹王なら、卑弥呼は御間城=任那の女王だったことになる。
朝鮮人も邪馬台国の歴史をよく勉強しているみたいですね。
358 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/13(火) 23:24:10
論理性が無く最初に結論ありの主張の仕方はホント畿内説そっくりだ。
359 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 23:28:20
>>338 相変わらず血圧の高い男だな。
では、和辻哲郎の見解を書いておこう。「日本古代文化」の中の一節。
「記紀の材料となった古い記録は、たとえ、官府の製作であったとしても、
ただ少数の作者の頭脳から出たものではない。
弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、三、四世紀における第二次の
国家統一や、五世紀における国民の発達の間に、自然に生まれ出た古い伝統が
六世紀を通じての無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれ
つつ、漸次形をなしていったのである。
奈良朝にいたって、最後に編集される際に、特に明白な官選的な色彩を帯び
させられたとしても、それは、物語の中核まで変えていない。」
初版には、「記紀の伝説が、実は、魏志の伝える筑紫人の生活を背景として
生まれたものに過ぎない。」とある。
360 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 23:38:18
>>359 >初版には、「記紀の伝説が、実は、魏志の伝える筑紫人の生活を背景として
生まれたものに過ぎない。」とある。
和辻哲郎ってのは、記紀神話は九州発祥だと考えてるわけか。
昔の人だから、そういう素朴で間違った意識を持っても仕方ないかもしれないが、
現代人がそれを鵜呑みにするのは勉強不足を恥じたほうがいいな。
和辻はその後、邪馬台国九州説を捨て、畿内説に転向した。
誤った評価が定着しないよう、そして故人の名誉のために、これを記す。
362 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 03:56:17
>>359 わはははは〜(棒読み的笑い
「馬鹿の一つ覚え」と書いたから他の学者の言葉を持ってるだろうと予測していたが
分かりやすい奴だwww
各論から総論へ段々話がぼやけてきたが、言っていることは要するに
「神話は何らかの史実が反映されている」と言うごく当たり前の話を言っているに過ぎない。
そんなもの何十何百書き連ねて自分の説が強化されると思っているのか?おめでたい奴だw
>>101で言った通りの展開。
これもいつものパターンwww
お情けで言っておいてやるが(←めったいないぞw)
「岩戸隠れ」やその他の高天原の神話、また「天孫降臨」「日向神話」の原型は
邪馬台国の時代より前、既にあって
神話の中にどうしても卑弥呼や邪馬台国を見たければ
後世、元々あった神話をベースにして、そこに卑弥呼や邪馬台国の記憶が反映・習合・仮託された
…とするしか無いだろうなwww
まあ「折角考えた”オレサマ神話”を捨てる事ができない」と言うならどうしようもないがw
363 :
362:2010/04/14(水) 04:05:07
>>399 まあ邪馬台国論争で自説を垂れ流す事でアタマイッパイイッパイなんだろうがw
一度「邪馬台国」なんて綺麗サッパリ忘れて
日本神話の源流について考察しているものを読んでみ?
俺がここで書いているような神話との類似なんて邪馬台国論争なんて関係の無いところで
フツーに言われている話だからwwww
ったくこの手の九州説が心底クズなのは自説に合わなければ皆畿内説の陰謀にするところだなw
記紀神話の類型を広くアジアに求めるのも畿内説の陰謀。
邪馬台国論争とかじゃなくて日本の古代史全般を俯瞰すれば普通に出て来る
「初期ヤマト王権=緩やかな連合体」と言う説も畿内説の陰謀。
下手すりゃ九州や畿内より東海や関東の方が多いと言う弥生時代の人口推定も畿内説の陰謀。
…etcetc
♪馬鹿も休み休みいい加減にしろよっと(byクレージーキャッツ)wwwwww
364 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 05:15:03
>>362 記紀が伝承に基づいているという根拠は、耳にたこができるというくらい
言っただろう。つまり、倭人伝の倭国の状況と記紀の高天原の状況の類似性。
卑弥呼と天照大神の類似性といってもいいが。
また、神武天皇が舟で到着したという「河内国草香邑青雲白肩之津」が
記紀編纂当時は内陸部になっていたという話。
あるいは、神武天皇の部下である大久米命の刺青の話。九州からやってきた
大久米命は刺青をしていた。それを見た大和の姫は奇妙に思った。
つまり、大和では刺青の習慣はなかった。なのに、刺青の話が古事記に出て
来るのは物語ではありえない。
また、稲荷山古墳の鉄剣の話もある。記紀にある大彦が実在の人物だった
ことを裏付けるものだから。
総合すると、記紀が単なる神話とは考えられない。伝承に基づくというよりも
何かの文献資料があったのではないかとさえ思われる。
歴史を邪馬台国時代よりもっと広げてみるとのいい。
九州では鉄が縄文時代の末期あたりから利用されていた。前漢鏡も出てくる。
建武中元二年(西暦57年)、倭奴国の朝貢。あるいは安帝永初元年(西暦107年)
の倭国王・帥升の朝貢。
九州は、古くから大陸との交流があった。一方で畿内では全くと言っていい
ほど交流の形跡が見られない。交通路、あるいは情報網をきちんと確保して
いたのは間違いなく九州の勢力だろう。
公孫氏の滅亡を察知し、間髪を入れずに使者を派遣できるのは、やはり
九州の国だと考えられる。畿内にそれを求めるのはちょっと無理。
まあ、総合的に見て、畿内説はありえないな。
365 :
水銀厨:2010/04/14(水) 06:36:50
>九州は、古くから大陸との交流があった。一方で畿内では全くと言っていい
ほど交流の形跡が見られない。交通路、あるいは情報網をきちんと確保して
いたのは間違いなく九州の勢力だろう。
少なくても弥生中期の時点で河内方面までは
漢人との交流が確認されているはすですが。
加美遺跡の方形周溝墓、その内部に水銀朱を用いてたり、
貨泉も出土してますからね。
吉備や河内の勢力と漢人は交流があると現時点では
確定していますから。
366 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/14(水) 06:47:08
>>364 >公孫氏の滅亡を察知し、間髪を入れずに使者を派遣できるのは、やはり
>九州の国だと考えられる。畿内にそれを求めるのはちょっと無理。
魏が晋に換わった時に倭の女王が間髪を入れず朝貢しているのも同様。
367 :
水銀厨:2010/04/14(水) 06:54:38
>>366 その事は畿内説にとって伊都国と女王国の関係が
密である以上問題の無い事でしょう。
しかし、まあ
>>364は反論になってないと思うのは俺だけか?
369 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 08:26:07
>>364 長文ごくろうだが、内容は邪馬台国と関係なくて、神武東征の伝承のことを言及してるだけだよね。
神武東征が古代の史実の伝承であることと、邪馬台国九州説とは何の関係も無い。
どうせ邪馬台国以後に東遷があったと言いたいのだろうが、
その根拠が相変わらず記紀神話の神武東征だけってのが、説得力無し。
370 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/14(水) 09:40:24
東遷があったのは7世紀後半だけ。
神武は東征ではなく東侵した武装難民団。
371 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 09:40:40
貨泉はなあ、数枚ずつなら結構あちこちから出てくるし、
出来が悪い、劣化コピーに見えるものも多いから、
最初に制作された1世紀前半よりは後だという
証拠にしかならないんじゃないかな。
上限は分かっても、下限は一体どこまで続くか
見当もつかない。
372 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/14(水) 09:50:31
貨泉は銅鐸国でもコピーできるし。
373 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 09:51:03
>>364 >また、稲荷山古墳の鉄剣の話もある。記紀にある大彦が実在の人物だった
ことを裏付けるものだから。
稲荷山古墳の年代をいつに想定してるの ?
古墳から貨泉が出てきた例ってあったけ?
375 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 10:13:57
古墳は>365に出てるな。
吉野ヶ里、志摩、今宿は
古墳からなのか、住居跡なのかは知らない。
376 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 15:05:16
>>343 >>344 畿内説は、倭人伝の解釈からはまったく出てこない説だ。
その証拠に、文献史学者の畿内説の本はこのところまったく出ていないだろ。
文献を読まない考古学者が思い込みを語っているだけということだな。
377 :
水銀厨:2010/04/14(水) 15:42:33
>>371 河内の弥生遺跡である瓜破遺跡から出てますからね。
紀元前300年〜紀元200年の遺跡ですから。
>>376 私は「丹」について倭人伝の解釈を述べていたつもりですけど。
逆に九州説では「丹」についてのまともな解釈を
眼にした記憶がないですから。
ベンガラと辰砂すら混同している説も多いですしね。
弥生中期の時点では、水銀朱の鉱脈精製跡は四国と
紀伊半島でしか確認されていないのが現実です。
これに対して明確な反論が出来ない以上
少なくとも倭国=九州説は無いと判断せざるを
得ないですね。
378 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 16:33:05
>>377 手元に、東小田遺跡(福岡県夜須)の甕棺墓の写真があるのだが、棺の中が
びっしりと朱で塗られている。副葬品は、前漢鏡、鉄剣、ガラス製装飾品など。
前漢鏡が出ていることからかなり古いことがわかる。
つまり、この時代から九州では棺の内部を朱で染める習慣があった。
これが古墳時代辺りになると近畿地方でも急激に普及する。
これが重要。
最初にこういう習慣があり、それに付随するものとして朱がある。
ベンガラと水銀朱については、区別も付きにくいし、役割も不明。
379 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/14(水) 16:33:57
>>377 倭人伝では水銀朱は中国からの貰い物ですから
日本国内の何処に水銀朱の鉱脈精製跡があろうと
邪馬台国には関係ないですよ。
380 :
水銀厨:2010/04/14(水) 17:05:04
>>378-379 「その山に丹あり」と倭人伝にある以上は
水銀鉱脈と精製跡がないと矛盾しますよ。
丹(水銀朱)については、倭人伝編纂の時期にも近い
抱朴子(文献価値は倭人伝よりも上です)で定義されてます。
ベンガラは水銀朱とははっきり別物です。あくまで代用品ですから。
水銀朱は頭部の一部でしか用いられません。
現時点では弥生期にその精製跡が「九州には」存在が
確認されてないのです。
倭人伝を重視するならこれをクリアしないとダメでしょうね。
381 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 17:09:40
>>376 >畿内説は、倭人伝の解釈からはまったく出てこない説だ。
倭人伝を素直に読むからこそ、畿内説だが?
まず、3世紀に、九州と畿内は密接に交易があった。
吉野ヶ里からも銅鐸が出ている。丹後は直接、朝鮮と交易をしていた。
魏の使者は九州と近畿を含めて倭国と認識していなければならない。
金印を贈るほどだから、倭国の情勢はしっかり調べているはずだ。
魏志倭人伝に、近畿のクニのことが書かれてなければ、倭人伝の体裁をなさない。
よって、邪馬台国とは、九州から近畿にまたがる連合国であり、
その祭祀場だったのはマキムクであり、
卑弥呼が祭祀の女王なら、卑弥呼はマキムクにいたということになるのだ。
382 :
伊都国王卑弥呼:2010/04/14(水) 17:14:48
倭人伝の中にも鉛丹と水銀朱以外の丹が記されている。
丹には水銀丹、鉛丹、鉄丹などがあり「其山有丹」の丹は水銀朱ではなく
「以朱丹塗其身體」からして鉄丹だろう。
384 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 17:47:59
鉱脈自体は九州にもあるし
鉱脈に近いところに丹生神社があるところから
それなりに古い時代から発掘されているのは確かなのだが、
弥生時代とはっきり証明出来ないのがつらいな。
385 :
水銀厨:2010/04/14(水) 18:03:49
>>382 中国人が書いた書物の中で、一番重要とされた
水銀朱が当時紀伊半島や四国で採掘されていた以上、
どうしても無視することは出来ないのですよ。
弥生中期〜後期の加美遺跡と福岡のスダレ遺跡、
当時前漢の支配下にあった楽波郡の古墳に共通項がある以上は、
漢人が河内までは行き来していたと判断するのが
当然です。少なくとも考古学の連中は
そう判断するしかないのです。
>>384 そういう事です。畿内の紀伊半島は後の時代も
最大の鉱脈となって、飛鳥〜奈良時代でも重視される点が
有利な実証となります。
386 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 18:14:05
畿内には弥生期の水銀発掘跡があるそうだが
それは土器か何かで比定したのかな?
387 :
水銀厨:2010/04/14(水) 19:19:05
>>386 伊勢の方は土器、もしく石皿だったはず。
あと採掘跡ではないが、吉野の宮ノ平遺跡では
弥生どころか縄文中期の石皿が出土しています。
水銀朱の精製跡では今の所これが最古の例。
場所は丹生川上神社の旧領地にある。
場所的にも神話との関連も推測できそうな
所だからね。
388 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 19:31:39
>>385 >中国人が書いた書物の中で、一番重要とされた
どの書物の何処で?
>弥生中期〜後期の加美遺跡と福岡のスダレ遺跡、
当時前漢の支配下にあった楽波郡の古墳に共通項がある以上は、
共通項?
>畿内の紀伊半島は後の時代も
最大の鉱脈となって、飛鳥〜奈良時代でも重視される点が
有利な実証となります。
前提条件が間違っている。
389 :
黄金太郎鯉:2010/04/14(水) 19:44:07
ぼくは昭和の金太郎。強く育って幸せに・・・。
390 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 21:07:34
391 :
水銀厨:2010/04/14(水) 21:35:23
>>388 >どの書物の何処で?
葛洪の記した抱朴子。これは成立が317年と、
魏志倭人伝の記された280〜290年頃と年代も近い。
その中では丹は硫化水銀の事と書かれてある。
金よりも価値がある物質とされている。
>共通項?
二重木棺。あとスダレ遺跡と加美遺跡では方形周溝墓という
共通項もある。九州では珍しいはず。
>前提条件が間違っている。
さよか、私はそうは思わないだけですよ。
392 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 22:57:07
>>391 その抱朴子の著された年代についてどう思う?
水銀朱は辰砂をすりつぶせば簡単に出来る。
ベンガラは阿蘇が有名だが、これは褐鉄鉱(リモナイト)を焼いて作る。
水銀朱とベンガラは、素材の入手がカギになるな。
ところで邪馬台国が魏に献上した天然真珠はどこから手に入れたのでしょうね
>>371 >下限は一体どこまで続くか見当もつかない。
土器と共判してるでしょ?
>>372 >貨泉は銅鐸国でもコピーできるし。
(銅鐸国で)誰がなんのためにコピーしちゃうの?
396 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/04/14(水) 23:54:39
>>377 水銀については良く分からないので教えて欲しいのですが。
>>弥生中期の時点では、水銀朱の鉱脈精製跡は四国と
>>紀伊半島でしか確認されていないのが現実です。
今後、長崎や熊本で、その跡が見つかる可能性を排除しているのは何故でしょうか。
また3世紀当時、水銀朱が流通している可能性を考えないのは何故でしょうか。
397 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 00:20:08
>>396 >今後、長崎や熊本で、その跡が見つかる可能性を排除しているのは何故でしょうか。
>また3世紀当時、水銀朱が流通している可能性を考えないのは何故でしょうか。
その理屈は、九州説が、近畿からたくさんの鉄器が見つかる可能性排除してるのと同じだが?
398 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 01:21:34
近畿地方、例えば唐古・鍵は何十年もかけて掘り続けた。
出てきたのは石器ばかり。鉄器は出てこない。
石器が出てくるということは、他に道具がなかったからで、鉄器があれば
石器は出てこない。だから、あきらめられた。
鉱山の場合はちょっと違う。それを探すということはあまりないから。
399 :
水銀厨:2010/04/15(木) 02:51:16
>>392 >その抱朴子の著された年代についてどう思う?
質問の意図がよく解らないですが、倭人伝が記述された
当時の中国における、物質の解釈においては参考になる
はずです。
>>396 >今後、長崎や熊本で、その跡が見つかる可能性を排除しているのは何故でしょうか。
また3世紀当時、水銀朱が流通している可能性を考えないのは何故でしょうか。
私は別に可能性を排除してませんが。
「現時点では」と断っていたはずです。
しかし仮に見つかっても、四国や紀伊半島の発掘跡が
消える訳ではないですからね。
3世紀の時点なら当然流通していたと考えてますよ。
というよりしているはずです。
しかし現在水銀朱が古墳で見つかる場所も
限られてますからね。
400 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 06:52:15
>>393 魏志には倭で真珠がでると書いてあるが、卑弥呼は魏から真珠をもらって
いる。鏡100枚の次に書いてある。もらったものを、魏へ持っていく
だろうか?倭の女王が魏にもっていったのは白珠では?真珠とは
かいてないと思うが。岩波文庫は間違った解釈が書いてあるけど、それを
信じてるの?
>>393 倭の地から真珠が出るとは書いてある。でも魏に持っていったのは白珠。
今は養殖だが古来天然真珠の産地といえば長崎の大村湾
>>400 >岩波文庫は間違った解釈が書いてあるけど、それを信じてるの?←人の意見にこういう勝手な妄想をしているのを死んでも治らない馬鹿という。
402 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 08:50:22
倭の地から真珠が出ると書いてある。倭から魏に持っていったのは白珠(上品質の真珠)。
魏から卑弥呼が貰った「真珠 鉛丹各五十斤」の真珠は五十斤の単位から真朱(水銀朱)の誤りと判る。
403 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 08:54:00
>>398 淡路島から鉄器が出てきたことを、そうやって無視するのはどうして?
404 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 09:06:15
>>400>>401 ありがとうございます、たしかに大村湾は真珠の産地として有名ですね
天然真珠がここからとれていたというのは初耳です
アマテラスのイホツミスマルノタマはあるいはこれかもしれませんね
イホツということはこれは已百支国からとれたものだったのでしょうか
記紀にも登場する五百木入彦(イホキイリヒコ)の国であったかもしれない已百支国は
あるいはこの大村湾沿岸にあったのかもしれませんね
あと
>>401さん、私が思い違いをしていただけですよ、
>>400さんのような人を中傷するのはやめましょう
2ちゃんではスルーが賢明。忠告は更なる中傷を呼ぶ。
407 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 11:47:32
>>403 淡路島はいいんじゃないの。大和でないから。
408 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 12:06:20
近畿での鉄器のひろまりが九州にくらべて遅いのは考古事実でしょう。
このことが近畿が九州を支配していたことを否定する材料のひとつですね。
近畿では古墳時代にはいってから鉄器が普及することを考えれば、それまで九州と近畿は
疎遠であったと思われる。
409 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 13:01:03
>>408 鉄器量と、支配関係とどういう関係があるの?
では、九州が近畿を支配できなかった理由は?
410 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 13:24:22
>>409 九州が近畿を支配していなかった証拠は?
411 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 14:54:01
>>410 九州が近畿を支配していたなら、
邪馬台国の範囲は、九州から近畿ということになりますが?
412 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 14:57:00
>>408 おもに石器しか使ってないとこに比べると鉄器をたくさん使っている九州のほうが
文明の先進地といえます。
文明の先進地が後進地に支配されるのはおかしいだろ。
この文明の差は九州と近畿の交流のなさといえます。
413 :
412:2010/04/15(木) 14:58:15
414 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 15:07:53
415 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 15:30:18
倭人伝を読むと、東に海を渡った地域は倭国の範囲ではなかった、つまり
女王国には属していなかったと解釈できる。
一方で、壱岐や対馬は支配下にあり、狗邪韓国も倭国の領域だったと解釈する
ことができる。少なくとも、この地域を自由に往来している。また、朝鮮の
三国史記などを見ると、古くから朝鮮半島に兵を派遣していた様子が
うかがわれる。これは、妙にイビツな感じがする。
これは、中国地方に敵対する強い勢力がいたと考えられる。
それは言わずと知れた出雲勢力ということになる。考古学的にも、山陰地方は
大規模な弥生遺跡(妻木晩田遺跡など)があり、鉄器の出土量も多い。
古くから発展していた九州の国が近畿地方まで勢力を伸ばすことが出来なかった
のは、この出雲の存在が大きかったからだろう。
記紀では、高天原と出雲との対立の様子が書かれている。高天原は、出雲に
天穂日命を派遣する。天穂日命が帰ってこないと、次に天稚彦を派遣する。
天稚彦が帰ってこないと次に経津主神と武甕槌神の二柱の神を派遣する。
これで、出雲は高天原に国を譲ることを約束して大己貴神は姿を消す。
大きな戦いの末に出雲が高天原の軍門に下ったことがわかる。
卑弥呼時代に山陰地方が倭国の領域でなかったと考えれば、この出雲の
国譲りは、そのあとの出来事と考えることが出来る。
416 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 16:41:05
>>409 そんな遠い国を支配できるほど国としての力がなかったからでしょう。
417 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 16:43:01
>>415 結局、日本神話は3世紀以後のことしか書かれてないってことですか?
軽々しくそういう結論を導いて満足なの?
418 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 16:56:39
卑弥呼が高天原の天照大神とするなら、
卑弥呼以前の神話は九州には現存してないことになる。
3世紀以前の九州の神話は消されて、天照大神=卑弥呼から神話がはじまったことになる。
つまり、3世紀の渡来人が高天原から天下った天津神ということになり、
卑弥呼=天照大神は朝鮮人だということになる。
さぞ、韓国人が大喜びするだろうね。
419 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 17:01:51
すでに韓国では、スサノオは朝鮮人とされている。
スサノオの姉が天照大神だから、天照大神も当然、朝鮮人。
天照大神のモデルが卑弥呼なら、卑弥呼も朝鮮人。
今後、韓国で「天照大神=卑弥呼=朝鮮人説」が持ち上がったとき、
九州説の人は追従するつもりなのかね?
天照大神=卑弥呼に固執する限り、否定できないからな。
力がなかったというより、近畿まで版図に入れる必要性もなかったのでは?
中世以降の政治地図とは比較できないかも。
平安・鎌倉時代のころでも、大和朝廷は奥州藤原王朝を放置してたんだし。
421 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 17:37:52
>>421 朝鮮人と日本人はまったくの別人種なのが
科学的に証明されてますけど
423 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 18:41:40
で、天照大神=卑弥呼説の人は、
卑弥呼登場以前の九州の神話が残ってないことをどう説明するつもりだ?
そのかわり、出雲には卑弥呼以前の神話が残ってるってわけだ。
つまり、九州に降臨した天津神=渡来人に九州が征服されたということであり、
出雲の国譲りは、九州を征服した渡来人が出雲を征服していったということになる。
>>422 王が渡来人であればいいわけだから、人種が違っていようが関係ないだろ。
425 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 19:03:32
で、天照大神=卑弥呼説の人は、
卑弥呼登場以前の九州の神話が残ってないことをどう説明するつもりだ?
説明できないなら、天照大神=卑弥呼はこじつけってことだ。
短絡思考なやつが、延々と議論を停滞させるんだよな。
426 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 19:20:30
子供のころ、わが郷里は いにしえの邪馬台国よと教えられて育った。
天皇家の故地、国のまほろばと、故郷の人々はみな自慢げだった。
ああ、美しきわが日向よ。高天原に近き天孫降臨の地。
私は纏向や、それとつらなる畿内説を認めない。針小棒大に、発掘結果を
マスコミを捜査して発表するやりかたを絶対に認めはしない。
ああ、偉大なる日向。東遷はまぎれもない史実だ。私は朽ち果てるまで、
このスレで闘う。郷里の子供たちのためにも。
イデオロギーと学問は分けようぜ
428 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 19:29:12
♪東遷を否定された、この悔しさを忘れはしない。古代史語って邪魔になる、纏向必ず打ち倒す。
429 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 19:56:17
東遷って考古学的に実証されてないじゃん
431 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 20:05:28
天皇家の一族もいろいろ入れ替わってて
どの天皇の故地なのか注意した方が良い。
記紀が書かれた時代以前の天皇なんて
どう入り交じっているか分かったもんじゃない。
有名どころでは3系統くらい入れ替わってるんだったかな
>>400 卑弥呼は真珠も白珠も送ってないよ
白珠5000孔を送ったのは壱与
イヨタン・・・・・・・・・・
邪馬台国は水銀中毒で滅んだんじゃないか?
435 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/15(木) 22:33:37
魏志倭人伝の
「眞珠」:黒真珠、シナの淡水貝産、
「白珠」:白真珠、日本の塩水貝産、
436 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 23:06:07
>>434 国産の丹(鉄丹)を化粧に使っていたので長生きしてたのが
魏から珍しい朱や鉛丹を貰い
化粧に使ったんで急に中毒死したのかな。
437 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 23:10:39
438 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 23:38:53
>>437 日本書紀によると、素戔鳴尊が、高天原で乱暴を働いたために天照大神が
天岩戸に隠れてしまった。そこで、天照大神が岩戸から出た後、素戔鳴尊は
高天原を追放される。
その後、出雲に行くのだが、一説によると、ということで、新羅の曾尸茂梨に
行ったことも書かれている。しかし、こんなところには居たくないと土で船を
作り、東に船出して出雲に着いた。
このことから素戔鳴尊が韓国出身なんてのが出てきたのだろう。
新羅の文字が出てきただけでこんなに膨らませるわけだから話にならない。
議論に加わる気にもならないな。
439 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 23:49:35
>>435 「出真珠 青玉」とあり倭でも真珠が採れるから
真珠をシナの淡水貝産の黒真珠とするのは問題あり。
白珠は「貢白珠五千」とあるように
真珠のうち色や形の良い献上品用のもの。
440 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 00:01:08
おそらく伊勢湾の真珠だろう。狗奴国=東海に勝った戦利品じゃないかな。
441 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 00:10:49
東海って、戦争の痕跡あったっけ?
魏からもらった物は、賜り物じゃなくて、商品リスト。
魏ではこういう物が高価なので、お前らの国にあるならよこせ!
と言うことだろうな。
写真がない時代、文章で説明するより現物を渡した方が分かりやすい。
ただし、鏡だけは違うかも…
443 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 01:19:31
>>422 人種というのは科学的にどう定義されているんだい?
444 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 01:27:13
>>399 >>弥生中期の時点では、水銀朱の鉱脈精製跡は四国と
>>紀伊半島でしか確認されていないのが現実です。
>>これに対して明確な反論が出来ない以上
>>少なくとも倭国=九州説は無いと判断せざるを
>>得ないですね。
の反論になるのではないか、というのが
>>396 の書き込み。
つまり鉱脈精製跡が見つかっていない可能性と、水銀朱が流通している可能性。
この可能性が排除されないかぎり「倭国=九州説は無い」とは判断できないですよね?という意味です。
445 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 05:21:35
>>439 『出眞珠 青玉』の眞珠は日本産の黒真珠や着色真珠ですね。
446 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 08:55:21
>>444 淡路島から製鉄遺跡が見つかってる。
もう九州説の芽は無いよ。
どうして理解できないの?
447 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 09:37:56
>>446 淡路島の鉄遺跡は鍛冶遺跡
鉄の精錬加工跡
製鉄を示す遺物は無い
448 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 09:55:25
>>445 『出真珠 青玉』は中国で高価な「珠翠(真珠と翡翠)」を意識して書かれた文。
従って、この場合の真珠は真珠一般(全種類の真珠)のことです。
九州王朝大好きさんが日本産の黒真珠や着色真珠に限定する理由は?
449 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:19:36
450 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:19:58
451 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:22:23
>>442 >写真がない時代、文章で説明するより現物を渡した方が分かりやすい。
ただし、鏡だけは違うかも…
ご都合主義ですな。
452 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:38:19
淡路島にすら、大量の鉄器が存在してたというのに、
九州説が成立するわけないだろ。
453 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:43:55
淡路島にしかないってのが問題なんだよ。淡路島の鉄工場ぐらいのが近畿のあちこち
にあるならいいんだが・・・
454 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 10:54:42
そう、淡路島にしかないってのが、どこの勢力か知らないが
鉄器の独占や管理が行なわれていたように見える。
455 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 11:03:22
広島の三原市にもたたら製鉄跡がみつかってるよ。三世紀のものらしい。
456 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 11:45:27
>>448 シナでは白色の真珠は産出しません。
だから眞珠と言えば灰色系の珠のことです。
壹與が朝貢した白い真珠は、シナの一般の眞珠とは異なるので、
色が白い珠であることから、「眞珠」ではなく、「白珠」と別表現したのです。
シナ内部でも蛮夷の地である浙江省南部東シナ海沿岸部では白い真珠が産出したかも知れません。
話が変わりますが、
『青大句珠二枚』は、翡翠の勾玉2個と解しますが、同意見でしょうか?
457 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 11:45:52
淡路島単独で鉄器工房が維持できるわけないだろ。
淡路島を上回る鉄器工房が瀬戸内海沿岸に潜在してると見るしかない。
458 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 11:52:31
考古学が新しい知見をもたらしてるのに、
九州説はいまだに過去の迷信にとらわれているようだ。
まったく話にならん。
九州説なんて妄想で人生を無駄にしてる自覚もないのだろう。
「いつか、九州説が正しいことが証明される! ボクの考えた九州説が一番近いはず!」
その適わぬ夢を抱きつつ、年老いて死んでいくんだろうな。
哀れなやつ。
459 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:00:25
>>458 >考古学が新しい知見をもたらしてるのに、・・・
具体的な事例を示さないで、批判は一人前やな。
460 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:08:45
461 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:28:51
>>460 弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年度までの調査では丹後からは330点を
数えるが、同時期の大和では13点にしかならない。ちなみに福岡では1600点
くらいある。兵庫からも350点くらいでてる。熊本は770点くらいでてる。大分や
佐賀も兵庫くらいあるぞ。
広島県三原市の小丸遺跡は、3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡や、同じく広島県
の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)などは弥生時代から古墳時代にかけて
の製鉄址ではないかといわれている。
つまり、この時期においては大和はかやの外だな。数だけなら九州のが優勢であるということ。
462 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:50:27
>>461 その鉄器で優位を誇った九州が、どうして鉄器の全く無い畿内に征服されたんですか?
まさか、「東遷説」ですかな?wwwwwwwwww
463 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 12:52:45
>>449 >九州にも製鉄遺跡は無いけどな。
熊本にあるよ。
Caを含む鉄・鉄滓が多量に出土すれば製鉄があった証拠。
464 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:56:51
九州は、鉄器の優位性を誇って、九州説の根拠にしてるみたいだけど、
それだど、畿内で王権が生まれた理由がぜんぜん説明できません。
説明しようとすれば東遷説になるしかないんだけどな。
はじめから東遷説ならいいんだろうけど、
>>463みたいな九州王朝説は八方塞がりだろ。惨めだね。
465 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 13:15:36
>>464 東遷説ではなく、東侵説ですから、何の問題もありません。
466 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:24:07
>>456 であるならば『出真珠 青玉』の真珠は灰色系の珠と白い珠「白珠」を合わせた真珠類の総称で
「白珠」を中国では貴重な海で採れる白い真珠と考えた方がよいのでは?
翡翠かは確かではないが大きな青い勾玉2個でしょうね。
467 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:26:42
468 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:29:19
>>463 Caはタタラの炉の内壁から出て来るものだから、弥生時代にタタラはおかしい
九州の鉄優位性とは、副葬品とかであって、自ら製造していたと言う意味での優位性では無いよ
九州は所詮軟鉄、ちょっと時代が遅れて畿内〜東海〜関東は行き成り鋼になります
むしろ優れた鉄は東国に分があります
470 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:44:16
東国のどこに鉄があるんだよ?
471 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:46:17
>>469 鋼と軟鉄の違いは重要なのだ。
カーボンコントロールが出来ると言うことだから
技術的な変遷が探れる。
ソースがあったら、提示してくれないか?
472 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:55:20
473 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 14:01:28
474 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 14:13:10
東侵の場合、畿内に王権は生まれていないということだよ。
王権は九州に存在するだけでいいんだ。
475 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 14:49:05
>>464 >九州は、鉄器の優位性を誇って、九州説の根拠にしてるみたいだけど、
それだど、畿内で王権が生まれた理由がぜんぜん説明できません。
奈良盆地の形成にともない、各地を結ぶ立地条件のよさから、吉備、河内、丹後などからの
流入によって利権が生じて、それが王権へと繋がっていったんだと思う。
なぜ、九州を絡ませないといけないのかな。それぞれ王権があればいいじゃないか。
最後に勝ち残ったのは畿内というだけ。
476 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:02:40
>>474 畿内王権が生まれてるじゃないですか?
バカですか?
>>475 >最後に勝ち残ったのは畿内というだけ。
23世紀に畿内を中心に共立されたのが卑弥呼です。
なぜそれを認めない?
477 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:04:38
× 23世紀に畿内を中心に共立されたのが卑弥呼です。
○ 2〜3世紀に畿内を中心に共立されたのが卑弥呼です。
478 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:12:34
>>476 その卑弥呼はどこにいたと推定してるの ?
479 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:32:15
卑弥呼はモモソヒメだろ。
異論があるのか?
480 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:49:30
>>449 製鉄は、弥生後期に九州では広く行われていた形跡がある。ひょっとすると
出雲でも行われていたかもしれない。
よそからの引用だが、鉄器生産は、熊本が特に盛んで、第一級の鍛冶遺跡と
されるものは、下前原遺跡、諏訪原遺跡、方保田東原遺跡、小糸山遺跡
尻遺跡、二子塚遺跡、西弥護免遺跡、狩尾遺跡 など熊本県全体にある。
阿蘇では、鍛冶遺跡同士が連携していたのではないかといわれる。
熊本県教育委員会の発表では、阿蘇の小野原遺跡だけでも、鉄器は1,200点
以上見つかっている。
方保田東原遺跡では、多量の鉄滓が出ている。西弥護免遺跡が調査された
時は、それまで全国で見つかっていた鉄器を超える量がこの遺跡だけで
出てきた。
村上教授によると、弥生終末期、日本列島でもっとも鉄器生産が盛んだった
のは、阿蘇とされる。阿蘇では、朝鮮半島などでは見られない褐鉄鉱による
製鉄が行われていたとされる。
阿蘇は、ベンガラの大供給地でもあり、倭人伝の「其山有丹」のその山とは
阿蘇のことだろう。
481 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 16:34:50
>>479 モモソヒメはモモソヒメであって、卑弥呼ではないだろ。
卑弥呼は独身。モモソは旦那もち。
だいたいモモソヒメ自体架空の人物って説もあるだろう。あそこを突いて死ぬなんてよ・・・。
まあモデルはいたかもしれないが。あ、モデルは卑弥呼か。
>>344 >畿内説って、
>魏志倭人伝での距離は信用できない。
>方向も信用できない。
魏代の1里は434mだから、 自郡至女王國萬二千餘里、だと列島内に収まらない。
伊都国は三雲遺跡だから、 東南陸行五百里到伊都國、は距離も方向も間違っている。
考古学的知見から史料を検証しているのであって、
倭人伝の記述を鵜呑みにしないのは、ちゃんと理由があるんだよ。
淡路島の鉄器工房(「垣内遺跡(鍛冶工房跡)」)
半島から鉄素材を入手し、製品を販売?していたんでしょうね。
環東瀬戸内海地域に鉄器需要があったことを示し、
鉄の流通が弥生社会変革の源泉になったという論を補強する材料でしょう。
484 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 17:57:03
>>483 半島から遠いから、貿易するとなると淡路島だけではきつそうだ。
そうなると近くの国と共同して行う事になる。
広島、岡山なんかも通り道だから一緒に、瀬戸内界経済協力機構ってことで発展しそうだね。
485 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 18:03:44
>>484 貨泉という証拠があるから瀬戸内海が、半島と交易してたのは確かだな。
486 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 18:50:00
>>482 魏代の1里が434mなら伊都国が三雲遺跡のはずがない。
>>486 >伊都国が三雲遺跡のはずがない。
じゃ、なに?
>>485 >瀬戸内海が、半島と交易してたのは
さて、そこが問題点だと思います。ひとつの仮説として
北九州には半島との太いパイプがあった。
これに依拠しない日本海ルート(青谷上寺、大風呂南、等から推測される)が成立した。
出雲と吉備の結びつき(西谷三号墓 )から、出雲→吉備への鉄流通ルートが開かれ、
さらに吉備から淡路島へ鉄素材供給。近畿地方へ製品流通された。
出雲と新羅は関係があったという話は聞くね
490 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 19:23:41
>>487 1里が434mで五百里なら217km。
末盧國を呼子か唐津とすると伊都国は山口県か四国か西部に位置することになるだろ。
魏代の1里は短里で75メートルでしょ
>>490 >伊都国は山口県か四国か西部に位置することになるだろ。
うん。だから倭人伝の記述は間違っているだろ?
493 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 19:26:51
>>488 どうして、九州と吉備が断絶してたと思うの?
根拠は?
494 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 19:28:17
問題は帯方郡から萬里では、日本なんかに
収まらないと言うことだ。
なんせ4340キロになるからね
吉備は九州と近畿の両方の影響を受けてるんじゃないかな
大胆な仮説だけど、実際の交易(輸送)は海の民が行っていたんじゃないだろうか。
ソグド人のように、各地(国)に拠点を設けて活動していた海洋民族がいたという可能性はないかな?
>>493 >どうして、九州と吉備が断絶してたと思うの?
そんなこと言ってないけど、どうしてそう思うの?
>>497 >実際の交易(輸送)は海の民が行っていたんじゃないだろうか。
安曇氏とか宗像氏とか・・・の祖みたいな人たち。当時の海運業者でしょうかね?
500 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 20:11:50
>>495 なんじゃそりゃ? おまえ、どこの爺さんだよ。
>>498 じゃ、吉備が九州から鉄素材を輸入してたということでいいよね?
501 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 20:16:32
>>492 倭人伝の記述が間違っているのではなく
>>491の言うように倭人伝の1里は短里で75メートル前後の長さなのだろう。
末盧國を呼子とすれば三雲遺跡あたりが伊都国となる。
伊都国・奴国を女王國とすれば帯方郡から丁度「萬二千餘里」となる。
502 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/16(金) 20:18:28
>>469 製鉄をするにはどのような製法であれ、Caを添加しないと鉄の還元ができません。
軟鉄(低炭素鉄)を製造するには進歩した高い技術が必要です。
原始的な製鉄においては、先ず高炭素鉄を作り、
後の加工工程で脱炭し用途に適した鋼とします。
上記高炭素鉄を加熱鍛造し続け、脱炭が進行し軟鋼となります。
しかし、燃料に炭を使うので軟鉄のレベルまで炭素量を下げることはできません。
淡路島の遺跡は炭の供給しやすい山中にあるので、
炭消費量の多い脱炭行程も含んだ鉄加工遺跡と思われます。
炭燃料を求めて淡路路あの地で鉄加工をしたのだと思われますが、
周辺の原料木を消費し切ると鉄加工は廃れたと思われます。
また鉄遺跡の主は阿波の勢力だと推定します。
阿波はその最大勢力範囲を神戸地域と和泉地域まで広げています。
神武の河内湾への侵入と脱出は阿波勢力支援(道案内)のもと成立したのです。
畿内の最初の鉄遺跡は阿波勢力がもたらしたものです。
>>500 >吉備が九州から鉄素材を輸入してた
それもアリなのかな? なにせ「淡路島に鉄素材を搬入したのは誰か」についての想像だからね。
ただ、
>>495の指摘は決して時代遅れのものではない。
後期後半の祭祀は「広形銅矛・銅戈」「大型首長墓」「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」に分けられるからね。
>>501 >三雲遺跡あたりが伊都国となる。
なるほど。では解釈の違いですね。
505 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:01:32
>>503 >後期後半の祭祀は「広形銅矛・銅戈」「大型首長墓」「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」に分けられるからね。
それを言うなら吉備は北九州の銅戈勢力圏だ。ばかめ。
506 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:07:26
マイタウン徳島
■海渡った?権力の象徴 ──遺跡を歩く 邪馬台国と阿波
朝日新聞2010年04月16日
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001004160003 邪馬台国の女王・卑弥呼(ひ・み・こ)の墓だという説がある奈良県桜井市の箸墓(はし・はか)古墳。周辺にある前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃ・うす・やま)古墳(3世紀末〜4世紀初め)で昨年10月、全面に朱が塗られた石室が見つかった。
古代人が顔料に使っていたとみられる貴重な水銀朱。試算では約200キロ使われていたらしい。これまで古墳で見つかった水銀朱としては最大量の40キロをはるかにしのぐ量だったことから、大王級の墓と考えられている。
古代人は、水銀を含んだ岩石を石器などで粉々にして水に入れ、比重が重くて沈む水銀朱を取り出していた。魔よけのため顔に塗ったり、死者がよみがえることを祈って古墳の石室に塗ったりしたとみられている。木棺の防腐用との考え方もある。
水銀を精製していた遺跡は全国にいくつかある。だが、岩石の採掘から精製まで一貫していた遺跡は、若杉山遺跡(阿南市水井町)でしか見つかっていない。
同遺跡は、四国霊場20番鶴林寺から21番太龍寺に向かう遍路道の脇にある。戦後すぐにミカン畑の開墾をしていた際、多量の石臼や石杵(きね)が見つかり「水銀朱の遺跡ではないか」と注目された。
古代遺跡から頻繁に見つかる朱が、権力を象徴するものとして関心を持たれ始めた時期だった。正式な調査が始まったのは1984年。県立博物館が発掘したところ、原石も見つかり、2世紀後半から3世紀初頭の遺跡だったことが分かった。
(つづく)
507 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:08:29
(つづき)
県内の古墳からも水銀朱は見つかっている。邪馬台国説がある奈良・纏向(まき・むく)遺跡にある前方後円墳、ホケノ山古墳の原型ではないかとされる鳴門市の萩原2号墓では、石室の積石や棺(ひつぎ)に付着していた。
西山谷2号墳(鳴門市)では木棺を支える粘土に練り込まれていた。徳島市の鶴島山古墳からは水銀朱で塗られた顔面の人骨も発掘されている。
これらの多くは成分分析から若杉山遺跡で作られた水銀朱であることが確認された。
では、桜井茶臼山古墳の大量の水銀朱は若杉山遺跡産かというと、どうも違うらしい。奈良県内で昭和まで続いていた鉱山の水銀と成分が似ているため、大和産との見方が強まっている。
ところが、若杉山遺跡の水銀朱が海を渡り近畿に入っていったことを示す遺跡が最近、いくつか見つかった。
兵庫県・淡路島にある二ツ石戎(えびす)ノ前遺跡(旧石器時代〜弥生時代)からは02年、水銀朱を精製した石杵が出土。明石海峡を越えた兵庫県たつの市の養久山(や・く・やま)・前地遺跡からも95年、同様の石器が見つかっている。
これらは、近くに水銀朱を含む岩石が採れないことから、若杉山遺跡から原石が運ばれたとみる考古学者もいる。
県埋蔵文化財センターの植地岳彦主任研究員は「桜井茶臼山古墳から見つかった200キロもの水銀朱は、ひとつの鉱山から採れたとは考えにくい。各地からかき集めた水銀朱を使ったのではないか。当然、若杉山遺跡産も使われていたはず」と言う。
・若杉山遺跡に向かう遍路道。ここから登ると遺跡がある=阿南市水井町
http://mytown.asahi.com/tokushima/k_img_render.php?k_id=37000001004160003&o_id=5165&type=kiji
>>505 >吉備は北九州の銅戈勢力圏だ。
なにを言っているのかな? ばかめ。
510 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:23:23
九州説が自分の首を絞めてるのは面白いな。
511 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:23:42
ひいい、ド素人が来てしまったよ。怖いよ、ひいいい、このスレももう終わりだ。(泣)
512 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:35:07
銅鐸文化圏と銅矛文化圏 (笑)
>>513 >わてら、どっちの文化圏なんだよ〜
文化圏はともかく、この時代(弥生中期)は九州とのつながりが考えられるようです。
・吉野ケ里遺跡出土の銅鐸が推定出雲出土の邪視文銅鐸と同型式
・荒神谷銅鐸の一つが鳥栖市本行遺跡で出土した鋳型の文様に近い
・出雲大社出土とされる銅矛や命主神社出土の中細形の銅戈を含む北部九州の武器形祭器がこの地に集中する
(寺沢薫「王権誕生」より)
>>484 >瀬戸内界経済協力機構
東瀬戸内鉄器協同組合ってのはどうです?
516 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:40:46
「太平洋ベルト地帯」だろ。
517 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:59:53
>>514 へえ〜。寺澤薫はそう言っていたのか。確かにそれが正しいのじゃなかろうか。
畿内説の人の中には、全部畿内のものだという人もいるのだが。
銅矛の綾杉紋は九州のものだから、銅矛が九州から来たのは間違いないだろう。
銅剣も形から言えば、九州のものだと思う。問題は銅鐸だが、九州でも
銅鐸の鋳型は見つかっているし、九州の可能性もあると思う。
518 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:02:38
3世紀の段階で邪馬台国がどこかというのはあまり意味がないと思う。
九州も機内も邪馬台国だお。
519 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:40:58
先に例によって鉄のお話が出ていたが
毎度の事ながら全く検討されていないのが 『古代における鉄の有用性の検証』
古代において国力と言えば先ず人口だろうが
弥生期の人口推定において鉄器の出土量に比例したような数字を出しているものを見たことが無い。
むしろ鉄器の出土量なんか関係ないとさえ思える。
何よりその絶対量においては北部九州より圧倒的に少ない畿内
と言うか大和に古墳時代が始まってしまった厳然たる事実。
鉄器の保有数の逆転が起きて古墳時代が畿内にスタートしたわけでも無い。
先のレスを見るとその鉄器の話もヤマトが
北部九州を支配した云々から始まっているみたいだが
そもそも(武力をもって)支配する構図を描く必要も無い。
北部九州、福岡平野(通説なら奴国)にすればむしろ自ら積極的に
ヤマトと結び、前方後円墳と言う埋葬文化や畿内系の土器を受け入れ
北部九州における地位を(ヤマトを利用して)向上させたような節がある。
その事は倭人伝にその人口が「二万戸」と中々の国勢を誇っていた事とも符合する。
直ぐ先にも出ているが山陰と北部九州で同型の銅鐸や北部九州で作られたと思われる銅矛が出ていたり
北部九州と関門海峡の向こう、九州以東との関係は深く
まあ「イイお客さん」だったんだろうwwwwwwww
>>392 >水銀朱とベンガラは、素材の入手がカギになるな。
其山有丹
と、わざわざ倭国の特産物として記しているからには、貴重品なのでしょう。
となると、より価値が高いのはどちらなのか、ということになるのでしょうね。
水銀朱がカギだとすれば、邪馬台国は中央構造線沿いにあったとしか考えられない。
主な候補地を挙げれば、九州の佐賀半島、阿蘇、九重連山、四国の別子銅山、徳島の城山、
本州に渡って、伊勢の夫婦岩、信楽、諏訪湖南方の茅野、埼玉県の長瀞から筑波山へと抜ける。
ここまで書いてきて、古代史の重要な地域があまりにも多いことに気づく。
邪馬台国の水銀朱探索チームは中央構造線に沿って筑波山まで旅したはず。
>>517 九州の銅鐸は量も少ないし保存状態も良くないけどな
523 :
514:2010/04/17(土) 10:47:18
>>517 荒神谷銅鐸について補足しておきます(ただし詳しい資料が手元にないんですが)。
出土した銅鐸は6個で、内訳は菱環鈕式1、外縁付鈕式5
2号から6号までのものは近畿産である可能性が非常に高い、らしい。
荒神谷1号銅鐸は四区袈裟襷文タイプの例で、モデルがどこかということが非常に問題。
※普通はあるはずの下辺の横帯がない、
あってもしかるべき場所に鋸歯文と平行直線文を施していなくて、文様の下端の括り方がずいぶん違う。
とくに複合鋸歯文がきちっと施されているので、
福田型とよばれている銅鐸の系譜の中で理解すべきではないかといわれている。
(森岡秀人「弥生時代の考古学」より)
魏志倭人伝によれば卑弥呼や台与の時代の倭は市場での交易が盛んだった
足りない物は交易で手にいれることができたわけだ
鉄製の武器ならともかく化粧道具くらいなら簡単に手に入ったんじゃないかな
トヨタン・・・・・・・・・・
辰砂(丹)には、殺菌、解熱、鎮静、催眠などの作用があるらしい。
卑弥呼が鬼道で衆を惑わしていたというのは、辰砂の催眠効果と関係あり?
東遷は倭国大乱終結前後と予想
528 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 16:33:58
>>527 ふむ。
それなら君は邪馬台国畿内説だな。
大乱終結の際に卑弥呼が共立されるわけだから。
で卑弥呼の宮室はやはりマキムクか?
529 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/17(土) 16:34:58
東遷は7世紀末。
530 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 16:36:37
怖いコテ、人気のコテが消えて、「九州王朝」ごときが大手を振って書いてるのか?
このスレも末だな。
531 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 16:41:04
「九州王朝」など、ちょっと前まで邪馬台国関連スレ、馬鹿四天王の一人として有名
だった。こいつのたちの悪いところは、オリジナルの説ではなく、古田妄想古代史の
お先棒担ぎであること。学問の自由と言うものを完全に履き違えている。
>>528 その可能性は高そうだね
でもマキムクは農業は盛んじゃなかったらしい
マキムクは政治色や宗教色の強い都市だったという人も多いね
>>532 まあ、農業が盛んな所が国の都・・・・・なんて、聞いたことがないなあ。w
箸墓からは鐙が発見されたから箸墓建設は4世紀以降だろう
卑弥呼の時代は倭に馬はいなかったらしいし、東アジアで鐙が普及したのは4世紀になってかららしいからね
535 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 17:46:14
箸墓から鐙が発見されたから、張政が愛馬を持ち込んでいたのだろう。
前使からの報告で、倭での移動を楽にするための策だったに違いない。中国での鐙の使用は3世紀代
で、張政は先進性に富む人物だったらしいね。鐙が埋もれたのが、箸墓築造から20年後程度だとすれ
ば、卑弥呼の墓にはぴったりだな。
>>533 現代ならともかく古代なら都市の周囲で農業してそうなもんだけどな
>>534 その鐙は箸墓の築造とは無関係だろ。
箸墓の石室(かどうか知らんが)から鐙が出たならそんな推理もできるかもしれんが、
あれは確か箸墓の堀とおぼしき跡から出た遺物。
後世の人が鐙を堀に投げ込んだのかもしれんし。
539 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:03:30
真面目な話。張政などの魏使は中隊レベル、百人以上で来ててもおかしくないと思う。後代の裴世清のときとは
違って、張政が来たのは非常時の戦乱下。そこで何頭かの馬を持ち込んだということも考えられなくはないよ。
>>534 >箸墓からは鐙が発見されたから
「輪鐙が出土したのは・・・周濠(SX-1001)に堆積した植物層の中層からである。
(中略)共伴遺物には新しい時期の遺物は一切含まない布留1式期の多くの土器片と少量の加工木があり、
輪鐙の所属時期は層位や出土遺物から布留1式期の可能性が高い・・・
周濠(渡り堤の南=SX-1001)は推定で幅約12m、堆積は大きく分けて上・下層の二層である。
下層埋土は周濠が機能していた段階の堆積層であり、粘土や粘質土で構成されているのに対し、
上層埋土は周濠の最終埋没段階に植物の堆積によって形成された腐植層である。
築造時期については・・・周濠内部最下層や渡り堤、外縁、地山整形時の埋め土内部から出土した土器は
何れも布留0式期の土器群であり、周濠の埋没時期、前方部での調査結果(墳丘の構築行程や築造時期)
などを考え合わせると、箸墓古墳が布留0式期に築造を開始、完成していることは間違いない。」
(橋本輝彦 「大和・纒向遺跡」)
541 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:15:54
>箸墓古墳が布留0式期に築造を開始、完成していることは間違いない。
これは基本認識といってよいだろうね。とすれば布留0式〜1式の年代幅をどれくらいに見るか、ということ。
中国での鐙は3世紀後半に、片側乗降用のものが用いられていることは間違いない。あとは、どこまで遡れ
るか中国での発掘待ち。
2010/04/17 19:00〜20:54 の放送内容 テレビ東京
土曜スペシャル「古代ミステリー謎解きの旅」
「女王卑弥呼は本当に奈良にいたのか!?」「陰陽師 安倍晴明は日本初の天文学者だった!?」など、
いまだ解明されていない古代からの謎を解明していく旅。
日本には今だ解明されていない古代からの謎がある。旅人がゆかりの地を巡り、4つの謎を解いて行く旅です。
また、ご当地ならではの絶品料理や温泉、人気スポットもご紹介。 @女王卑弥呼は本当に奈良にいたのか!?
A陰陽師 安倍晴明は日本初の天文学者だった!? B諏訪の御柱祭は古代から続くお祭り!? C縁結びの国 出雲の謎!?
出演
高木美保(奈良/卑弥呼) 大和田獏(大阪・京都・福井/安倍晴明) 永島敏行(長野/諏訪) 森下千里(島根/出雲)
543 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:19:59
>>541 日本で400年以前の乗馬は今のところ確認できない。
年代遡上に有利に、日本最古の馬具が偶然にも箸墓から出土したとしても、せいぜい400年頃。
さらに、年代遡上に有利に見て、400年のあぶみは偶然にも布留1の最末期とする。
さらに、年代遡上に有利に見て、布留1がなんと50年も続いたとする。
・・・・と最大限年代遡上に有利な解釈を連続させても、布留0の末期は350年頃となる。
実際は、布留0は350〜370頃だろうね。
544 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:22:47
>>453 亀だが、淡路島の製鉄所は古墳時代だろJK。
あれを弥生時代とすると、あそこで作った大量の鉄が、弥生時代の遺跡から
もっとたくさん出てもよさそうだが、実際は出土が少なすぎて話にならない。
要するに、畿内説の弱点を補強したい気持ちが古くさせたのだろう。
545 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:14:34
涙目で精一杯の抗議ですか。
546 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:30:29
少し見ないと、またアホの畿内説の妄想が爆発してるね。
もう少し知性的な論議が欲しいね。
547 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:36:53
さっきテレビでやってたけど、卑弥呼は奈良にいたって。
548 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/17(土) 22:21:12
緩キャラ卑彌呼ちゃんが桜井にいるのだよ。
549 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/17(土) 22:36:33
>>544 >淡路島の製鉄所は古墳時代だろJK。
淡路島垣内遺跡は弥生後期の鉄工所。
武器製造工場。
鉄斧を切り潰して鉄鏃を作っていたらしい。
蛭子族はその鉄鏃で西摂津神戸へ攻撃に行ったらしい。
550 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:36:33
551 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:41:05
世界ふしぎ発見!は、9世紀から14世紀にかけて東南アジアに大国家を築いた
王朝のアンコール・ワットをやっていた。
この大国家が出来るカギとなったクーイという、鉄を作る民族に焦点を
当てていた。
552 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:46:08
卑弥呼は移設姫だから、墓は残るけれど、大規模な定住跡はないのです。
今のモンゴルの遊牧民のようにゲルで生活していたからです。
553 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:54:25
藤原京のような大規模都城が営まれるまでは、王宮はしょっちゅう移転していた
卑弥呼と台与の王宮も別の場所だろうし、それ以前の男王の宮殿も歴代違う場所だったと思われる
つまり数十年でうち捨てられる物だったのだから、何世紀にも渡って営まれたような遺跡ではあり得ない事になる
その点を踏まえて比定地論争をしているのかな?
555 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:10:15
>>554 まあ、倭人伝に書かれた女王・卑弥呼の居する邪馬台国に興味があるわけ
なのだが。
556 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/17(土) 23:10:32
>>549 の続き
蛭子族は、阿波から勢力を伸ばし、
西摂津神戸地域と和泉地域を支配していた。
彼等は前方後円墳を作り、
両地域の蛭子族は大阪湾を跨いで頻繁に直接を交流していた。
両地域の前方後円墳は弥生後期末には築いていたようだ。
勿論畿内最初の前方後円墳である。
これは畿内の前方後円墳が徳島阿波起源であることを示す。
徳島阿波が畿内に鉄器(主に鉄鏃)と前方後円墳をもたらしたのである。
このとき摂津にあったのは銅鐸国家。
この銅鐸国家も大和河内を支配する垂仁に滅ぼされた。
557 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:36:26
と、空想してみました。根拠はありません。
558 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:48:52
九州王朝もどんどん人として壊れていくよね。自覚はないのかな?
559 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:56:06
>>558 この年頃は微妙だから。アルツハイマーの検査には まだ恥じらいがあるんだろうな。w
まあ今回は少し妄想気味だが、他の奴よりは随分とマシ。
蛭子族の件は、やや先走り気味な気がするが、発想は面白い。
561 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 00:51:45
>>560 お前 自演だろ。九州王朝には数々の醜い自演の前科がある。
帯方群
↓
對馬(=対馬)
↓
一大国(=壱岐)
↓末盧(唐津=松浦川河口=鏡山の麓)→不彌國(前原付近?)
↓ ↓ ↓
(関門海峡) 伊都(=宇土?) 奴國(吉野ヶ里) ↓
(×南へ)
(○(倭国の)南を)
↓
投馬國(=吉備(津島?)) (末盧から水行二十日)
↓
(南を)
↓
吉野川河口(投馬國から水行十日)
↓
吉野川(川行=陸行一月※)
※月=夜 すなわち一月=一昼夜
帯方郡→狗邪韓国→對馬→一大国→(関門)→投馬国→邪馬台国で一万二千余里
これで説明つかね?
ずれたorz
帯方群
↓
對馬(=対馬)
↓
一大国(=壱岐)
↓
末盧(唐津=松浦川河口=鏡山の麓)→不彌國(前原付近?)
↓ ↓ ↓
(関門海峡) 伊都(=宇土?) 奴國(吉野ヶ里)
↓
(×南へ)
(○(倭国の)南を)
↓
投馬國(=吉備(津島?)) (末盧から水行二十日)
↓
(南を)
↓
吉野川河口(投馬國から水行十日)
↓
吉野川(川行=陸行一月※)
※月=夜 すなわち一月=一昼夜
帯方郡→狗邪韓国→對馬→一大国→(関門)→投馬国→邪馬台国で一万二千余里
これで説明つかね?
邪馬台国=纏向ね
イコールじゃなくて、邪馬台国の中枢的な場所が纏向、ていうとこかな
566 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 03:45:42
推論に推論を重ねた結果です。妄想気味と言われてもしかたがない。
根拠は下記のものです。淡路島垣内遺跡も状況を補強する証拠となります。
以下のことは、日本史板で過去数年間に散発的に書いていたことです。
@阿波の蛭子(ひるこ)神を祭神とする蛭子神社が西摂津神戸と和泉に存在する。
A畿内で最も早期に銅鐸が消滅した地域は和泉地域、次いで西摂津神戸地域である。
B畿内で最も古い時期と思われる前方後円墳が上記両地域にある。
C神戸の乙女塚伝説。
D神武の河内湾侵入ルートと脱出ルートが阿波勢力によりレクチャーされたものと考えられる。
Aの銅鐸消滅の時期は1世紀から3世紀のことと推定しています。
Bの両地域の前方後円墳は遅くとも3世紀には築造されたようです。
上記より、徳島と日向の前方後円墳はそれ以上古いことになります。
567 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 04:10:09
>蛭子族
ちなみに…
『最初の男女』とも言うべきカップルが始めての交わりを間違い
初産の子が不具で、後に第三者のアドバイスで正しい交わりをして
子を得る…と言うのも太平洋地域にも見られるパターンだなwwwwwwwww
いきなり「ヒルコ族」だの
「畿内(大和でなくて畿内と言うのはえらく範囲が広いのだがw)の鉄は阿波から」
だの言われてもその結論に結びつく材料も、またプロセスもはしょって結果のみ言われてもなあwwwwww
568 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 08:55:01
>>567 説明を出来なくてすみません。
@からDの項目について、全てのプロセスを全部書くと本になるのではしょりました。
垣内遺跡の発見によって神武東侵ルートが修正されそうです。
@河内湾への侵入軍は、神武と阿波の連合軍となりそうです。
A侵入退却ルートは、従来は、
鳴門海峡→友ヶ島水道→淡路島東岸→摂津南岸→河内湾→大阪市西岸→和泉西岸
で、大阪湾の時計回りの湾岸流に乗って移動したと思っていました。
しかし、鳴門海峡→淡路島西岸→明石海峡→摂津南岸→以後同じ
で、垣内遺跡で阿波軍が武器の補給をしたのではないかと思います。
淡路島は畿内に侵入する勢力にとっては重要拠点だったでしょうね
570 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 09:10:36
571 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:20:35
古墳で言えばその発生が阿波で
阿波→播磨→摂津→河内→大和
と言う順で出現したと言うのならある程度説得力もあろうが
>畿内で最も古い時期と思われる前方後円墳
と言うのは加古川の西条52号墓あたりの事と思うが
これが弥生墳丘墓と前方後円墳の中間的なものと言われている。
対して阿波の物となると当然、萩原の物と言う事になるだろうが
礫槨の構造等がホケノと類似と言う事で「最古」とは言いにくいだろう。
また銅鐸にしてもその神武・阿波連合軍が駆逐したと言う類の話なら
「突線鈕式」にまで届いている物もあり話が全く見えてこないわけだがw
阿波の勢力が神武軍団の水先案内人をやったと言うのは
少なくとも現時点フィクション・ファンタジーの類としか思えないwwwwwww
572 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:26:22
>>569=570
酷い自演だな。
反論するのも面倒だが、
鍛冶遺跡のある淡路が畿内侵攻の前線基地なら、
そのまま畿内を攻められないのはおかしいだろ。
あと、淡路・阿波と日向が連合してたような形跡は全くありません。
573 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:50:05
九州王朝の自演はつねに恥知らずだ。馬齢を重ねるという言葉を体現している。まあ、古田史学の走狗には
似つかわしいと言うべきか。
「考古学研究」に載った次山淳氏の研究では、布留0,1期の吉備型甕の移動ルートは、
博多湾沿岸⇔周防灘⇔松山平野・今治平野⇔備後東南部⇔吉備⇔播磨⇔摂津沿岸⇔大阪湾⇔河内湖
⇔大和川⇔大和。最多出土が「河内・小阪合遺跡」で45点。
分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」そして「纏向遺跡」で突出した出土がある。
これがすべてではないだろうが、古墳時代初頭の瀬戸内交易ルートを示すきちんと研究された例だ。
574 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:01:30
だいたいこいつの、わかりもしない考古学の断片と、記紀の記述を無理やり繋ぎ合わせたような糞レスの数々
は何なんだ?演繹と帰納がご都合によって入り混じったぐちゃぐちゃの論法。ww
まともに聞いてほしければ、まず「蛭子族」とやらをきちんと定義することだな。
575 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:29:35
神話はわからないが、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、女神がはじめに声をかけたために失敗する
というのは、はっきりした男尊女卑の思想で中国からの影響だろう。上で誰かが書いてるように、二柱の神の初め
ての子作りが失敗するという事例は東南アジア各国の神話に見られるし、このあたりは記紀編者の苦心が現れた
ところ・・・と見たい。
葦船で子供を流してしまうという神話もやはり太平洋地域には普遍的だ。これが漂着物を重視する信仰と結びつ
いて恵比寿(蛭子)神がう生まれたとも言われる。
576 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:38:35
蛭子族とは、長髄彦(登美彦)やその弟の安日彦の一族。
安日彦は、915年(延喜15年)の十和田火山の噴火で滅んだ幻の東北王朝の王だった。
安曇族、出雲族、蛭子族・・・火山の噴火や気象の変動で弱体化し、大和朝廷の支配に伴い各地に分断され、それぞれ異なる文字を当てられてはいるけれど、九州河東北北部まで広い範囲に100余りの国が点在し、それぞれの国は互いに交易を通じて連携していたのだ。
577 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:43:46
566レスで、論の前提になっている、
>@阿波の蛭子(ひるこ)神を祭神とする蛭子神社が西摂津神戸と和泉に存在する。
まず、この創建時期を特定するのはきわめてハードルが高い。このような神社の創建が人の移住にともなう
ということはあるだろうが、いつの時代かはまったく特定できない。さらに、有名神社の中には記紀編纂以後、
その記述を元に創刊されたものも多い。すでに前提からして不確か、曖昧な論だ。銅鐸についての論考にい
たっては噴飯物で、九州王朝が考古学の基本をまったく理解していないことが露呈されている。よくこのよう
な出鱈目を次から次へと言えるものだ。
九州王朝は早く巣(自分のスレ)に帰って、お仲間とやっていなさい。
579 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:52:28
やっぱり、まともな九州説は死滅して、残りはゲテモノだけになったということなんだなあ。
580 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 10:53:19
>>571 加古川は畿内に含まれません。
>>572 摂津南西部(八田郡・兎原郡)は、その銅鐸消滅期に阿波が支配しました。
前線基地と言うのは、淡路ではなく、摂津南西部です。
和泉の銅鐸消滅期は摂津南西部に先行するので、
阿波の支配時期は摂津南西部に先行しています。
畿内の銅鐸文化が最後まで守られたのは摂津中部です。
垂仁により畿内の銅鐸は消滅し、後しばらく近江に残りました。
阿波と日向と連合したなどと云っていません。
>>573 僕は古田史学の徒ではありません。
基本的には賛同する部分が多いですが。
布留0,1期の吉備型甕の移動ルートは否定しておりません。
>>574 演繹と帰納がご都合によって入り混じったぐちゃぐちゃの表現になっているのはわかっています。
はしょって説明するとこうなってしまったのです。
蛭子族とはヒルコを神として祭る集団です。阿波に住んでいました。
阿波のヒルコはイザナギとイザナミの第一子と見ています。
581 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 11:05:59
>>580 >蛭子族とはヒルコを神として祭る集団です。阿波に住んでいました。
この話が、根拠無いって言ってるだろ。
まず証明しろ。
582 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 11:22:36
ヒルコ神とヒルメ神はセットです。
阿波では両神がセットになっています。
583 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 11:39:47
ついでに、ヒルコがヒミコだとか言えば?
585 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:12:23
学説だといえば、どんなトンデモを言っても犯罪にならないの?
ケースバイケース
竹内巨麿の天津教事件でさえ、裁判所が判断すべきものではないとして大審院(現最高裁判所)無罪判決がでている。
588 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:42:32
大和(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる ヤマトしうるはし
589 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:54:47
なんか怖いコテが帰ってきてるみたい。
590 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 13:00:12
老眼のことか。
このスレでトンデモ批判するのは、目くそが鼻くそを笑うのと同類だろ
592 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:39:12
>>584 銅鐸は、古墳あるいはその周囲から出てくることは全くない。
どうみても、古墳時代と銅鐸は相容れない。
古墳時代の前に極限まで大型化、精緻化した銅鐸がどうしてそのような運命に
なったのか。文化の変化というならば、どうして文化が変化したのか。
銅鐸は祭祀色が強いといわれる。このようなものがなくなるというのは、
違う文化を持つ勢力からの支配。あるいは他の強力な文化の浸透しか
考えられない。
しかし、集落の祭祀という銅鐸の形態に代わるものが登場した形跡は見られない。
人知れず、集落から遠くはなれたところに埋められていること、叩き割られた
状態のものが見られること、などは異常な状態といえる。
古くから銅鐸の消滅は東征の証だといわれるが、この解釈の方が大いに
妥当性がある。
593 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:47:48
>>592 >古くから銅鐸の消滅は東征の証だといわれるが、この解釈の方が大いに
>妥当性がある。
ないと思うね。
だったら君は
>>513荒神谷の銅鐸・銅矛同時埋納はどう解釈するんだ?
594 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:50:12
595 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 15:28:30
>>594 >それは時代も違うし、性格も違う。
では荒神谷の銅鐸埋納の「違う」性格とやらを述べてくれ。
それと東征とは時代や性格が異なる銅鐸埋納は、荒神谷だけか?
596 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 15:48:55
www もはや東遷の伝道師だな。このスレを監視して、ちょっとでも隙があれば東遷説を展開する。
・・・まあ頑張ってくれとしか言いようがないが。ここで化石と化すもまたよし。ww
形勢不利になったからって自作自演認定はどうかと思うな
598 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 16:30:37
>>592 >銅鐸は祭祀色が強いといわれる。このようなものがなくなるというのは、
>違う文化を持つ勢力からの支配。あるいは他の強力な文化の浸透しか
>考えられない。
そうだね。九州でも銅矛が消えたよね。
すると、九州に卑弥呼がいて、卑弥呼が天照大神だとすると、
九州の外から強力な文化が浸透してきたとしか考えられない。
つまり、九州は渡来人に征服され、征服者の渡来人の女王が卑弥呼ということだな。
>征服者の渡来人の女王が卑弥呼
そのとおりでしょうね
江南あたりから渡ってきた渡来人が九州に打ち立てた国こそ邪馬台国でしょう
600 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 18:19:21
601 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/18(日) 21:49:59
>>571 徳島萩原2号墳はホノケ山古墳より古いと思います。
神戸(摂津兎原郡)の初期前方後円墳は西求女塚古墳です。(蛭子神社は摂津八田郡)
徳島萩原2号墳よりは新しく、3世紀のものだと思われます。
神武東侵入の時期より一世紀以上後の時代ですが。
神武・阿波連合軍は攝津兎原郡から銅鐸が消える以前のことです。
この軍の主力は阿波軍で、和泉からの侵攻では埒が明かない
生駒の宗教的中枢部への直接攻撃に、神武軍が乗せられたものと思われます。
これは僕の妄想に近いものですが。
>>543 >布留0は350〜370頃だろうね。
そうなると、肝心の馬具を伴う中期古墳がいつ頃になるのやら・・・
「・・・萩原1号出土の土器は黒谷川3式に位置づけられるに至った。
黒谷川3式は布留0〜1式と接点をもつ黒谷川4式より一段階古く、その一部は確実に庄内3式に併行する。
したがって3世紀の第2四半期を製作年代上限とする萩原鏡が布留0式直前の土器様式に属することから、
布留0式の始まりは3世紀第3四半期の中にあるものと考えてよい。」
(小山田宏一「考古資料大観10」古墳時代前期前半の暦年代)
603 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:04:38
>>602 萩原なんて最大限古く見ても350年がせいぜいだろう。
学者の大半はこのように考えているのだろうが、それが言い出せる環境がないだけ。
604 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:11:26
wwwww 出たな恨み節。
605 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:13:31
>>603 >萩原なんて最大限古く見ても350年がせいぜいだろう。
根拠は?
理由や根拠を何もお書きになってないので、あなたのレスは、今のところ、まるで説得力がありません。
m(-_-m)〜 ウラメシヤー
607 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:19:17
萩原の年代の根拠を反論として書くほうが建設的だとは思わんか?
それができないからこの板の畿内説は壊滅状態になっているとは思わんか?
この数年、ジョーカー(そとの自演)以外の畿内説論者はほとんど見ない。
608 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:32:00
609 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:33:52
九州説のコテハンはめっきり減ったね。
>>607 論理的な反論を畿内厨などに求めるのは酷というものです。
611 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 00:52:12
■宮古北遺跡:古墳時代前期「朱」の精製に使った土器発見 流通解明へ手がかり /奈良
毎日新聞 2010年4月18日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100418ddlk29040288000c.html ◇青垣生涯学習センターで展示
田原本町宮古の宮古北遺跡で、古墳時代前期に貴重な赤色顔料「朱」の精製に使った土器が発見された。調査した同町教委は
「全国的にも発見例が少なく、当時の政治状況や朱の流通を考えるうえで重要な発見」
としている。田原本青垣生涯学習センターで17日にあった「発掘調査報告会」で発表された。
同遺跡の調査は、携帯電話無線基地局の建設に伴い、昨年5〜6月に68平方メートルで行われた。見つかった土器は直径12・5センチ、高さ5・3センチで、内側に朱がこびりつき、外側は火をかけたことによるすすが付着していた。
朱は鉱物の辰砂(しんしゃ)をすりつぶし、水で溶いて塗る赤色顔料。精製する際に加熱処理が必要とされ、土器はその際に使われたという。
古代中国で朱は、不老長寿を目指す神仙思想で、金よりも貴重な最上級の「仙薬」とされた。国内では古墳時代に大王や首長クラスの古墳の石室に塗られるなどした。しかし、流通経路や精製方法は分からないことが多いという。
土器は同センター内の唐古・鍵考古学ミュージアム前で開かれている「発掘速報展」で5月23日まで展示される。月曜と5月6日は休館(5月3日は開館)。開館時間は午前9時〜午後5時。【高島博之】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
※参考: 唐古・鍵考古学ミュージアムサイト
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html#kouen ・春季ミニ展示 「たわらもと発掘速報展2010」
多遺跡・羽子田遺跡・宮古北遺跡などの調査成果を、発掘資料を中心に紹介します。
>>607 >それができないからこの板の畿内説は壊滅状態
なるほど、根拠を出せない東遷説は壊滅したんですね。
>畿内説論者はほとんど見ない。
ウソと煽動ばかりですね。
>萩原の年代の根拠
「3世紀の第2四半期を製作年代上限とする萩原鏡」
↑
読めもしないし、読んでも理解できないんですね。
613 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:08:45
>>612 同じ型の鏡なら今でも作れるよ。制作年代を特定する理屈を言わなきゃ意味がないよ。
『同型鏡とワカタケル』を読めば一目瞭然だが、日本国内でキズの共有、継続の
関係に立つ魏晋鏡は多数ある。
普通に考えれば、国内で複製したから国内でのみキズの共有が生じていると言える。
この状況で萩原鏡だけが舶載で、制作年代が特定できたなんて言えないよね。
三角舶載説が死滅したあとは、他の鏡について「どこまでが国産か。」が争点に
なることは間違いない。
それはともかく、萩原の年代の根拠は?
614 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:11:19
■卑弥呼の宮殿、思いはせ …纒向遺跡シンポに160人
(2010年4月18日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/nara/news/20100418-OYO8T00341.htm?from=ichioshi 「建物整然とした都会」
平城遷都1300年を記念した考古学シンポジウム「纒向遺跡とヤマト政権の謎に迫る〜女王卑弥呼の宮殿はどこか」(大阪よみうり文化センター主催)が17日、大阪市北区の読売大阪ビルで開かれた。
邪馬台国の最有力地とされる纒向遺跡(桜井市)から出土した、3世紀前半〜中頃とみられる大型建物跡などについて報告され、熱心な考古学ファンら約160人が卑弥呼の時代に思いをはせていた。
・
建物跡の発掘を担当した桜井市教委の橋本輝彦係長が、東海や四国地方などの土器が多数出土する同遺跡を、「全国各地から人が集まる当時の都会だった」と説明。
建物跡は4棟が中軸線をそろえて東西に並んでおり、「3世紀前半にこれほど整然とした建物はなく、国家形成を考える上で大きな意味を持つ」と語った。
遺跡内には、「卑弥呼の墓」との説がある箸(はし)墓古墳など、出現期の前方後円墳が多数あり、辰巳和弘・同志社大教授は「中国からの神仙思想の影響を受け、前方後円墳が造られるようになったのだろう」と述べた。
パネルディスカッションでは、邪馬台国の所在地についても議論。
九州説の専門家が、纒向遺跡で見つかった大型建物跡を4世紀以降と指摘していることに、橋本係長は「近畿の土器だけでなく、九州の土器も含めた細かな研究が進んでおり、100年も違うことはありえない」と反論した。
市教委は、今年度も大型建物跡周辺の発掘を予定。何度も纒向遺跡を訪れたことがあるという堺市東区、会社員清水英史さん(60)は「中国の思想が纒向遺跡にも影響しているという指摘が印象的。また現地に行くのが楽しみ」と話した。
・纒向遺跡の特徴などについて意見を述べる橋本係長(左)と辰巳教授(大阪市で)
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20100418-765589-1-N.jpg
615 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:12:16
>>598 銅矛が消えたかどうかはともかくとして、矛は記紀によく登場する。
しょっぱなに、天沼矛が登場して、これでイザナギ、イザナミは島を作り
地上に降り立つ。
一方で、銅鐸は記紀に全く登場しない。
記紀の神代は、どう見ても矛の文化圏を経ている。一方、銅鐸の文化圏は
無関係と言えるな。
616 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:14:48
>>610 そうだね。
畿内説は、都合の悪いことは無視という非学問的な対応が習慣化しているね。
畿内説は、身内に甘い互助組合のようなところがあって、きちんと批判しあう土壌がない。
その結果、1%の誤りを見逃したつもりが、積もり積もって99%が誤りになってしまった
という観がある。
三角縁舶載説は今は滅亡寸前だが、マキムク信仰がこれに取って代わった。
年代遡上教や年輪教、C14教など学問として成り立っていないものが多すぎ。
学問と宗教とは分けてやって欲しいね。
m(-_-m)〜 ウラメシヤー
618 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 08:41:36
>>615 イザナギ、イザナミは、淡路島から産んでますな。
九州ではなくて。
619 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 09:56:10
>>616 で、学問的にはどこだというのでしょう?
そう言えば恨み節の東遷厨の邪馬台国の比定地って聴いた記憶が無いな
やっぱ甘木か?
それとも東遷説が成り立つなら九州の何処でもいいとか?w
621 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/19(月) 10:02:40
>>620 邪馬台国は奴国か伊都国が奈良に作った国という考えはあるな
奴国と伊都国と四国が同盟を組んで東征したというのも考えられると思う
623 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 14:38:52
>>622 奠都説に近いな。
お前 恨み節の東遷厨(むじん君、まばら理論、) じゃないよな?
624 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 14:56:40
,-― ー 、
/ヽ ヾヽ
/ 人( ヽ\、ヽゝ
.| ノ ⌒,, ⌒,,`l / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| / (o) (o) | /
/ヽ | ー ー | < 信成と同じ、高槻やでぇ
| 6`l ` , 、 | \
ヽ_ヽ 、_(、 _,)_/ \_______
\ ヽJJJJJJ
)\_ `―'/
ノ二ニ.'ー、`ゞ
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織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
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625 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 18:21:24
>>602 >そうなると、肝心の馬具を伴う中期古墳がいつ頃になるのやら・・・
まあいつもの恨み節の東遷厨は馬具や須恵器の出現を5世紀アタマに置くと言うのは
別に変わらないみたいだぞw
そうすると、どうなるか?
奈良盆地の大型古墳群を半世紀の間に押し込めて
超々過密にしなければならない。
それでも”編年”自体は成り立つんだろう。
極端な話し前後に一年でもずらせればいいのだからw
つか東遷説が成り立てば
「後は野となれ山となれ」と言う事なんだろうwwwww
626 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 18:27:27
>やっぱり、まともな九州説は死滅して、残りはゲテモノだけになったということなんだなあ。
「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」と言うイロモノがメインを張っていると言うか
デフォであるようなこの板は異常だと思うがw
実際今のリアルの九州説ってどんなモンなんだろう?
九州で邪馬台国をテーマにシンポが行われその講演に駆けつけるような
九州の市井の考古学ファンで九州説をとる人間でも
やっぱこの板のように「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」が主流なのかねえ?wwww
627 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 18:54:54
628 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 19:03:36
>>592 >銅鐸は祭祀色が強いといわれる。このようなものがなくなるというのは、
>違う文化を持つ勢力からの支配。あるいは他の強力な文化の浸透しか
>考えられない。
もういい加減この手の話しもウンザリだが、あえて突っ込んでおくと
これを”ひっくり返して”考えてみればいい 。
要するに畿内は「東征」と言う様な事が無ければ
延々と銅鐸による祭祀を続けていなければならなかった
…と言うアホ理論www
自ら変化をする事も新しい文化を選択する事も許されないwwwwwww
何の事は無い言っている根本的な構図は「騎馬民族征服説」と同じ
文化が変容したら王朝・支配者の交代劇に即イコールwwwwwww
629 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 19:05:55
>>627 スレ違いだが、それぞれ矛盾するネタをありがとう。wwww
630 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 20:23:20
>外界は内界を映し出す鏡だって言ってたようちの嫁も
養老先生の脳化社会を思い出した。
都市は脳が造り出すいわば理想郷。
脳が好まない(制御出来ない)生老病死は
病院という名の隔離施設に隔離されてしまう。
また、制御出来る公園のような自然はともかく
制御出来ない本当の自然も、都市から排除されてしまうと言う。
631 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 21:18:41
まあ、いずれ畿内説は哀れだよ。先人や師の説に疑問を感じたら、地方の学芸員にすらなれない。
ひたすら疑問を押し殺し、自分に嘘をつく日々だな。
頑なな老人たちがこの世を去れば、自然に消えてゆかざるをえない考え方でしょうね。畿内説は。
その老人たちの具体名をお願いします
634 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 22:15:41
まずは白石翁(72)かな。
635 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 22:30:22
京都大学も畿内説オンリーで、九州説は認めないらしいな。
636 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 22:39:47
熊本大学から奈良国立文化財研究所などという奇妙な経歴をたどれば、高島翁(71)のようにヒネこびる。
>>613 >制作年代を特定する理屈を言わなきゃ意味がないよ。
おいおい。
>萩原なんて最大限古く見ても350年がせいぜいだろう。
と言ったのはキミだろ。
証明責任をいつのまにか転嫁してごまかす手だね?
>萩原鏡だけが舶載・・・なんて言えないよね。
残念ながら萩原鏡が舶載なのは確定なのさ。「ワカタケル」言うところのキズのおかげでね。
>三角舶載説が死滅したあとは、他の鏡について「どこまでが国産か。」が争点になることは間違いない。
また、お得意の煽動だな。三角縁神獣鏡国産説をたてにとり、年代論をあやふやなものに見せかけたいんだろ。
さらに今度は自説に都合の悪い物証を国産鏡に仕立て上げようというわけだ。
>萩原の年代の根拠は?
教えを乞いたいなら、自説の根拠を述べた上で礼を尽くすことだ。
もっとも萩原鏡の情報など誰にでも調べがつくんだけどねえ。
638 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 22:54:02
徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は前方後円形積石塚で、この墳墓から出土した画文帯同向式神獣鏡の文様
と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されているが、この2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、
楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明している。これは明
らかな兄弟鏡。
つまり、恨み節はこの楽浪鏡を日本製であるとする説明責任も負ったわけだ。w
640 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 23:05:41
>>638 公孫氏と、徳島が交流してたってことだね。
641 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 23:06:05
>>641 平均寿命まで後40年以上はあるけどな。
643 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 00:22:02
>>637 畿内説側が年代の根拠を主張したところを見たことがないような気がするwww
学者にしてもそうだけど。
C14も年輪も頓挫したことは、石野がどちらも根拠にしていないことから明らかだね。
希望的出発点が結論と同じというのが、畿内説の難点ですな。
m(-_-m)〜 ウラメシヤー
645 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 03:18:38
畿内説は、庄内式土器を取り上げることが多いが、これは弥生式土器に含める
人もいるようで古墳時代と結びつくかどうか難しいところがある。それに
比べると布留式土器は、明らかに古墳時代になる。
土器の年代に注目するとすれば、むしろ布留式土器の時代に注目すべきだろう
と思う。しかし、畿内説ではこの庄内→布留の変わり目に対して明確な理由付けが
出来ないのではないか。
庄内式土器を卑弥呼共立と関連付けるのをよく見かけるが、それに比べ布留式
土器との変わり目に関連付けるものが見当たらない。
畿内説の考古学者は、この問題を意識的に避けているように思える。
意識的に避けとかないと自分たちの説が簡単に崩壊してしまうでしょ?
647 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 08:21:41
C14も年輪年代も手法として悪いわけではない。
世界的にも、年代測定に十分信頼されて使われている。
問題なのは、日本の年輪年代が評価されていないことと
日本のC14補正曲線なるものがあって、それが変な補正になっていること。
本来ならば”日本のC14補正曲線”などは必要ない。
世界で使われている補正曲線でよい。
ただし、それでは畿内説に都合が悪いだけの話
648 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 08:56:24
科学を否定しないと、九州説(実態は東遷説)に都合が悪い。
それをオカルトという。
>>647 九州説に都合が良くなる訳でもないけどな。
650 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 10:39:02
>>647 九州説に合わせようとすれば
より大きな補正値が必要になるんじゃないのか?
651 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/20(火) 11:03:25
>>648 九州説で東遷説の人はいるのかね。
ほんの僅かだろう。
僕は東侵説。
九州難民移住説とも言える。
東遷があったとしても7世紀後半の一時期のこと。
九州説と見るや脊髄反射的に東遷説論者だとわめき散らす程度の知能、それが畿内厨。
>>652 君もあまり知能が高そうな書き込みには見えないのが残念だなw
654 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 12:43:04
九州王朝説の人の中には7世紀後半に九州王朝が東遷した等と言う人もいるが
九州王朝の東遷は無いだろう。
九州王朝は7世紀後半に畿内ヤマトに吸収合併されて消滅したと思う。
持統天皇あたりが最後の九州王朝の天皇ではないかな。
655 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 13:01:55
7世紀後半の東遷はないだろうな。
7世紀後半には、すでに畿内勢力が拡大しており
おそらく、実質の権力は畿内の方が大きかった。
皇室のように権威はまだ九州がもっていたが
それも、8世紀には畿内に渡る。
いくつかの氏族が畿内に移ったかも知れないが
その辺は知識がない。
7世紀後半から、畿内年号が途切れ途切れながら始まる。
その頃には、もう、いつでも権威の移行が始まってもおかしくない
状況だったのではないかと思う。
656 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 13:04:20
妄想の語り合いになってきたな。
もう、そう。
658 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 13:45:20
畿内が制定した年号は大宝からだろう
それ以前の年号は九州王朝のもの
途切れ途切れなのは無理に九州王朝の歴史と畿内の歴史を結合させた為
藤原京は持統天皇を畿内に迎える為に造られたと思う。
659 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/20(火) 13:49:03
>>654 九州王朝最後の天皇は、畿内から九州へ戻り、文武に抗戦(698〜700年)した薩摩姫と思う。
だから、文武王朝の正式な成立は大宝年号を制定した701年となる。
660 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 13:56:00
もしかしたら薩摩姫が持統天皇かも???
九州王朝、というより倭国最後の王はサチヤマでしょう
662 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 14:03:14
一応、大和朝廷の年号は大化からとなっている。
もうすでに九州王朝と比べても遜色ないどころか
それを上回る権力を確立した畿内勢力
白村江で弱体化した九州王朝から独立することを考えても
おかしくない。
大化の改新は、九州王朝からの独立宣言。
それから紆余曲折を径て、権威もまた大和朝廷が掌握することになる。
そのとき、年号と法律の制定権を持つことになる。
大宝年号と大宝律令である。
663 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 14:24:41
このスレは邪馬台国スレ
九州王朝説は他でやれ
664 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/20(火) 15:07:28
首都大宰府倭京(副都難波京)から奈良(飛鳥京)への遷都は、朱雀元年(684年)と思われる。
665 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 15:59:47
古賀事務局長の副都難波京説はちょっと???
九州王朝が奈良(飛鳥京)へ遷都したとは考えにくい。
大化元年は九州年号では695年。
大化の改新は大和朝廷が九州王朝からの独立宣言ではなく
政権を完全に奪い取った事件だろう。
666 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 17:10:10
大化が695なら、たしかにそういう解釈も出来るが………ううむ
667 :
九州王朝説は該当スレでやれ、ゴミはゴミ箱に:2010/04/20(火) 17:29:09
>画文帯同向式神獣鏡
先ず、楽浪出土の物は所謂「楽浪漢墓」で
その楽浪漢墓は公孫氏の滅亡(238)後のほぼ3世紀中にその姿を消す
…と言う理解でおk?
であれば「ホケノ出土の画文が3世紀である根拠」も何も
普通に考えれば3世紀になるわな。
無論、踏み返しなら極端な話し21世紀の今日でも作れるわけだが
そう大きな年代差は見ないのが妥当な線だと思うが…。
逆に東遷厨の言うような100年もの時間の開きを見ると言う方が
何某かの特段の理由が要ると思うのだが
一体どういうロジックなのか?
別にホケノの物が楽浪の踏み返し…と言う前提でも良いから
説明が欲しいところwww
三角と同じく「製作地」と「制作年代」をゴッチャにして誤魔化す事を狙っているんだろうか?w
しかし楽浪は現在、将軍様のお膝元で
キタチョーセンにとって黒歴史である楽浪郡の存在の証拠隠滅を図らないか心配ではあるwwwwww
668 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 18:25:07
>>638 ・このデザインの画文帯同向式は中国からは1面も出ていない。
・同型が20数面出土していて、日本以外は伝楽浪が1面のみ。
なので、王氏は、日本産であるとする。
中国の平縁画像鏡の内区のデザインを模倣して、日本で外区をつけて大型化したものと。
出土事実を素直に見れば、王氏の言うとおり、日本製の可能性が95%以上であろう。
学者は単純な出土事実であろうとも、不都合なことは隠したがるね。
まあ学者としてのプライドがその程度と言うことだろうが。
669 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 18:29:49
670 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 18:31:26
>>667 楽浪の漢墓の存続の点は違う。
楽浪郡の最終的な廃絶は313年で、途中の戦乱にも関わらず、郡としての機能は
この時点まで続いていた。
なので、楽浪郡が滅んで楽浪漢墓が荒らされたのは、313年頃ということになる。
その影響は同時期の日本にも来ている。
日本では弥生末期〜古墳時代初めにかけて、前漢鏡がまとまって出土するが、これは
313年以後に楽浪漢墓から掘り出されたものと考えられる。
つまり、古墳時代の開始は、古く見てもせいぜい330年頃ということになる。
・・・という問題があるので、楽浪漢墓の問題は、学者は触れたがらない。
年代遡上にとって「不都合な事実」だから。
671 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 18:39:13
>>670 >313年以後に楽浪漢墓から掘り出されたものと考えられる。
それは何か根拠があるのか?
楽浪漢墓出土の鏡と古墳時代初期のものを比べて同笵同型の物が多いとか?
「掘り出された物」と言う部分に根拠が無ければ絵空事。
楽浪郡が滅んだ後ならいつでも言いと言う話。
年代の上限を決める材料にはならないと思うが?
672 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 19:47:03
>>670 「日本の前漢鏡は、313年以後に楽浪漢墓から掘り出されたもの」ですか。
根拠の無い空想の世界を展開しないと九州説は成り立たないということだな。
実にわかりやすい。
673 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 20:01:08
…と言うか問題はホケノの画文が313年以後に掘り返された物の踏み返しと言う点だな
楽浪で3世紀に副葬されたとしてもそれと同型の物は日本に伝わらず(根拠無し)
313年まで墓の中でじっくり寝かせてその掘り返した物でもって日本の物が作られた(これも根拠なし)
よしんば
>>670のお話が可能性として成り立つとしても
ホケノの画文が3世紀である事を否定し年代の上限を制限する物でもなんでもない。
…何か間違った事を言ってるかな?
674 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 20:13:12
最近気ずいたんだが、wwwジョーカーと、東遷厨は同一人物だ。ガガーン、ザワザワザワザワ。
675 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 20:20:29
東遷厨ストーカーがうざいな
676 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 20:23:40
>>674 たしかに毎回筋書き通りにジョーカーがつぶされているなwww
677 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 20:42:34
>>674 >気ずいたんだが
「気ずいた」ねえ…
まあミスタイプは誰にでもあるが、なんか全体の馬鹿っぽさが…ひょっとしてサイキバ先生ですか?w
正直、勘弁して欲しい。
書き込みの内容がレベルが低いとか言う話なら
きちんと理由を指摘してもらえれば納得もしようが
自説が省みられない現状を
陰謀論を持ち出してルサンチマン丸出し、恨み節歌いまくるような奴と一緒にしないで欲しねえwwwwwwww
678 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 21:20:35
九州説のダメなところは、
1、どういう経緯でどこに邪馬台国の都が置かれたか
2、その邪馬台国は、その後どうり、大和王権とどう繋がるか
この2点が全然説明できないところなだよな。
1、九州は大陸と近いし鉄器が多いから優位だった→ここまではいいとしよう。
2A、九州の邪馬台国は九州王朝になった→もはや誰にも相手にされない
2B、九州の邪馬台国は東遷して大和王権になった→東遷が卑弥呼の死後である必然性が無い。卑弥呼存命中になぜ畿内を征服できなかったのか?
2C、九州の邪馬台国は畿内王権に併合された→鉄器で優位な九州が畿内に負けるわけがない。
総合的に考えれば、
鉄器で優位な九州が、卑弥呼共立と同時に畿内に東遷して、大和王権=邪馬台国を作った、
と、考えるのが、一番整合性が高いと思うが?
そういう頭の良い人間はどこにもいないようだ。
679 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 21:22:38
>>645 いまひとつ論旨が伝わってこないのでおたずねします。
>庄内→布留の変わり目
とは、土器型式のことをおっしゃっているのでしょうか?
それとも、庄内式期を弥生時代とするのか古墳時代にするのか、ということでしょうか?
布留式土器とは首長霊をまつる道具としての小型丸底壷・器台・鉢、3点セットが揃う段階の土師器を言います。
つまり、首長霊祭祀という概念から導き出されたもので、古墳時代の土器と言われる所以です。
土器型式の変遷は、地面に据えて周囲から煮る底の安定した伝統的弥生甕から、次第に丸底化した庄内甕へと変化します。
真下から火であぶる熱効率が重視される訳です。(西川寿勝)
丸底甕が出現し、祭祀用具である小型丸底の土器3点セットが揃うまでの期間が庄内式期です。
>>670 のつづき
前スレ193でも書いたけど、前漢鏡のなかには、弥生後期後半〜古墳前期初め
にかけて出土が集中するものがある。八禽鏡なんかはその代表例。
そこで前漢鏡がなぜこの時期に集中して出土するのか、という問題がある。
その単純明快な解決が、「楽浪漢墓から大量に掘り出されたから」というもの。
その時期を楽浪郡の滅亡時期(313年)とすると、弥生終末が4C前葉になる。
この年代観は年代遡上が始まる前の一般的な考えの裏づけになる。
前漢鏡に限らず、この時期に出土が集中する魏晋鏡は少なくない。
日本での出土状況からは、これらの魏晋鏡は長期間かけて五月雨式に日本に
来たものではなく、一時期に集中して来ている。
このことからも楽浪郡との関係で一時的な鏡の大量入荷があったことが裏付けられる。
682 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 21:56:03
>>681 >その単純明快な解決が、「楽浪漢墓から大量に掘り出されたから」というもの。
その単純明快な説を唱えてる人って誰なの?
例の安本某ですか?
683 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 22:03:51
>>670>>681 >なので、楽浪郡が滅んで楽浪漢墓が荒らされたのは、313年頃ということになる。
>日本では弥生末期〜古墳時代初めにかけて、前漢鏡がまとまって出土するが、これは
>313年以後に楽浪漢墓から掘り出されたものと考えられる。
>つまり、古墳時代の開始は、古く見てもせいぜい330年頃ということになる。
よくもまあこんな途方もない珍説を思い付くもんだ。w
一応質問しとくが、楽浪郡を滅ぼしたのは無論高句麗だよな。
すると313〜350頃の半島北部と日本列島の関わりをどう夢想してるんだい?
684 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 22:35:20
>>678 卑弥呼は、西暦180年頃に女王になっている。死んだのは西暦248年頃。
70年ほども女王として君臨している。倭国は、こんなにも長い間、王になって
以来誰も見たことがないような巫女的な王に支配されていた。
このような王が、軍をまとめて外に向かって攻撃的な行為を取れるわけがない。
倭国は、各国の利害を調整することに長けた王を選んでいたわけである。
しかし、卑弥呼の死後、台与の時代になって男王が立つ。中国にも王である
ことが伝えられている。こうなると、戦いの先頭に立てる王がいることになり、
外に向かって攻撃的な体制が取れる。
だから、歴史が大きく動くのは、この男王の出現ということになる。
記紀的にあるいは東遷説的にも、高皇産霊尊が出現してから出雲の国譲り
天孫の日向降臨など大きな出来事が起きる。
685 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 22:38:05
>>678は馬鹿じゃねえのか、一人で変な妄想してる。
気持ち悪い・・・。
wwwwwwww←これを何時も付けてるヤツも
狂人みたいで気持ち悪い・・・。
686 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:02:44
「箸墓」掘ってみたいよねえ。
687 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:03:49
>>684-685 卑弥呼が70年も君臨していて、九州と畿内が無関係だったの?という指摘が
よほど、都合が悪かったみたいだな。
688 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:11:08
畿内九州を置いておくとしても
女王 非戦主義
男王 好戦主義
王がどのくらい意志を通せたかは分からないが
共立国家の意志を表した人選なのかもしれないな。
689 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:12:11
>>684 もっと矛盾を指摘しようかな。
卑弥呼が70年、平和的に九州を治めてる間、畿内は九州に対して無視してたのかな?
畿内は鉄が欲しいから、卑弥呼様に朝貢して邪馬台国同盟に入れてもらおうとするんじゃないかな?
それを平和的な卑弥呼が拒否する理由なんてないよね?
金印をもらうときも、卑弥呼の勢力範囲が広いほうが都合が良いよね?
九州だけの女王より、畿内も含めて統治する女王であるほうが箔がつくのに、
どうして畿内と無関係でいられたのかな?70年も?
いやあ、さっぱりわからんねえ。
690 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:12:13
>>686 先ず宮内庁が許可しないだろうなw
それは何も何かを隠匿する為…と言うような一種陰謀論とかではなくて
役所の縄張り意識と言うか
特に宮内庁なんて一度その聖域(サンクチュアリ)を学問の分野に委ねてしまえば
後はなし崩しに…と言う心配があるんじゃないのかな?
まあ墓を斜め横断する為の道とかあったりして
過去には相当に盗掘の手が入っているんじゃないのかな?wwwwww
>wwwwwwww←これを何時も付けてるヤツも狂人みたい
狂人みたいではなく狂人そのもの。
長年古代史にのめり込んでいると、そうなってしまうのです。
wwwは付けないまでも、意見の違う相手に執拗に攻撃してくる人もいるし、
古代史とは、脳に快感を与え、常用すると中毒症状を起こすモルヒネのようなものなのです。
初心者の人は、くれぐれも注意した方がいいですよ。
693 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:31:03
>>690 モモソヒメが卑弥呼だと、天皇家に都合が悪いから宮内庁は困るだろうね。
最近、TVでも、箸墓が卑弥呼の墓として出てくることが多くなってきたけど、
宮内庁の顔色見ながらなんだろうなあと思うよ。
別に、モモソヒメが卑弥呼で、女王に即位してたとしても、皇統譜に大きな変更は無いと思う。
モモソヒメも孝霊天皇の娘で皇族だし、弘文天皇みたいに、後から天皇号を贈ってもかまわんと思う。
そうなると天皇墓ということで、いよいよ発掘できなくなるというのもあるけどな。
694 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:33:18
>>689 それは年代観の違いだろう。結論から言えば、卑弥呼の時代に畿内には、見る
べき物はなかった。唐古・鍵の末期といったほうがいいだろう。
畿内説の年代観は、100年程度古いと見られる。
纏向を西暦200年くらいに始まったことにすれば、卑弥呼の時代に重なること
になる。吉野ケ里は卑弥呼時代の前になる。東遷説の可能性もなくなり、
吉野ケ里の価値も邪馬台国論争的には低くなる。
しかし、矛盾も出てくる。前にも書いたが、倭人伝には、国の様子として
「宮室、樓觀、城柵」を厳かに設けている、書かれている。
吉野ヶ里遺跡からはその痕跡が出ている。纏向あるいは畿内からは出ていない。
それらが出ている吉野ケ里が卑弥呼の時代ではなく、出ていない纏向が
倭人伝に書かれた倭国というのはどう考えてもおかしい。
やはり、吉野ケ里は卑弥呼の時代なのだろう。となると、纏向は西暦300年
あたりから始まるとするのが妥当だろう。
695 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:42:30
>>694 卑弥呼が70年君臨してたのに、
「見るべき物のない」畿内は、九州と同盟を組もうとしなかったのかね?
九州の卑弥呼は畿内を全く無視してたのかね?
という矛盾は説明なしですか?
696 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 23:49:05
>>695 当時の畿内に一つの国を支配する「王」のような存在が、果たして、存在したのか疑問。
>>668 >出土事実を素直に見れば
キズの話。
萩原鏡のキズというのは、楽浪の同型鏡の割れ跡なの。
どういうことかというと、割れた鏡を並べて型を取って萩原鏡が作られたということ。
だから、楽浪で踏み返しが行われたのは確定なの。
いつの間にかとんでもない話になってる。
698 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:01:13
>>696 はぐらかすなよ。
九州の卑弥呼は、70年統治してる間、畿内を無視してたんですか?
699 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:02:17
>>697 え〜と・・・楽浪で作った根拠になっていないのでは?
日本で出土する画文帯同向式は20数面がすべて同型の踏み返し。
一方、楽浪から1面のみ出土。中国からは0面。
この画文帯同向式は中国の平縁画像鏡の内区をトレースして、外区は
独自に作ったもの。
日本では、この画文帯と同じ内区の三角縁神獣鏡も出ている。
三角縁神獣鏡は日本でのみ出土している。
ここまで証拠がそろっていて、伝楽浪の画文帯同向式を日本産としないというのは
もう宗教のレベルですね。
700 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:06:26
>>694 >纏向を西暦200年くらいに始まったことにすれば、卑弥呼の時代に重なること
>になる。吉野ケ里は卑弥呼時代の前になる。東遷説の可能性もなくなり、
>吉野ケ里の価値も邪馬台国論争的には低くなる。
>
>しかし、矛盾も出てくる。前にも書いたが、倭人伝には、国の様子として
>「宮室、樓觀、城柵」を厳かに設けている、書かれている。
>吉野ヶ里遺跡からはその痕跡が出ている。纏向あるいは畿内からは出ていない。
・では吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の宮室というわけか?
・昨年発見された纏向の大型建物も、まだ発掘は不十分だが関心を持つべきと考える。
・卑弥呼の墓を百余歩と記した倭人伝の記述がある。これとの考古上の整合性も同様に考慮すべきではないか?
701 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:08:30
>>692同感です。中毒になる前に抜け出した方がいいでしょう。
702 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:13:52
>>699 すると、日本で割れた鏡を、楽浪にもってって割れたまま埋めたってことですか?
日本産の鏡はすごく珍重されてたんですなあ。
>>681 >そこで前漢鏡がなぜこの時期に集中して出土するのか、という問題がある。
>その単純明快な解決が
伝世
704 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:17:12
>>699につづけて・・・ついでに言うと、同向式はちょっと特殊な点が多い。
この同向式神獣鏡のデザインは、三角縁では亜流。
三角縁の同向式はデザインの変遷がなく、この1種のみ。
しかも600面近く出土した三角縁のうち10面前後が同向式で、数の上でも亜流。
三角縁の同向式は三角縁の外区の変遷では、三角縁の後半期に位置する。
画文帯と三角縁の紀年鏡は、すべてこの同向式の内区を持つ。
画文帯の同向式は、三角縁を含まないより古い古墳から出る一方で、5Cの古墳からも出る。
しかし、製造期間が長い反面、出土数は少なく、細々とした製造である。
>>699 >日本で出土する画文帯同向式は20数面がすべて同型の踏み返し。
なにを言っているの?
>>704 >5Cの古墳からも出る。
それ(後世の)踏み返し。・・・ハハーン、なにかカン違いしてるんじゃない?
>>699 >中国からは0面
どうも言ってることがおかしいね。上海博61鏡とか出てるよ(万博とは関係ないからカン違いしないでね)。
>>704,706
横から。
古墳の築造時期と副葬品の製造時期は必ずリンクするというわけではない。
これには御両人とも賛成してくれるか?
709 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 00:51:15
>>699 う〜んこの東遷厨が何を言っているのか意味が分からない。
20対1枚とか言ったところで踏み返しの際に使われた鏡が
日本にあったか楽浪にあったか関係の無い話だと思うのだが??
710 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 01:08:03
すまん、話が見えなくなったんで誰か教えて欲しいんだが
この東遷厨が言うところの日本で踏み返された画文を楽浪漢墓に埋めたのっていつなんだ?
てっきりAD313以後に掘り返された鏡が日本に伝来
割れちゃったけどもったいないので踏み返して作ったのが萩原の鏡…という話だと思ってたが
楽浪漢墓に埋められた物が既に日本で踏み返された物…なんだよな????????
711 :
710:2010/04/21(水) 01:14:46
すまん
>>710はおかしいな、無視してくれ。
萩原鏡と同時に造った傷入り鏡を半島にもって行き
AD313以前の楽浪漢墓に埋めなきゃならない。
タイムトラベルしないと無理w
>>710 >楽浪漢墓に埋められた物が既に日本で踏み返された物…なんだよな????????
楽浪漢墓から出土(?)したのは萩原鏡の原型だよ。
なお混乱するかもしれんが。ワラワラワラ
713 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 01:22:34
>楽浪漢墓から出土(?)したのは萩原鏡の原型だよ。
これが日本製であるとするのが東遷厨の主張ということになるのか?これはムリだろう。
地雷を踏んだか?
714 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 01:29:32
東遷厨が言っているのは
楽浪漢墓から出てきた萩原鏡は日本で造られたもの
じゃあ日本でそれを造ったのはどんなに遅くともAD313よりは前って話しだよな?
715 :
714訂正:2010/04/21(水) 01:31:46
×萩原鏡は日本で造られたもの
○萩原の兄弟鏡は日本で造られたもの
>>715 >萩原の兄弟鏡
ホントに混乱しちゃってるのか?
楽浪漢墓から出てきたのは、萩原鏡の親だよ。
717 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 01:56:09
>>716 「親子」か「兄弟」かは例えばエッジのシャープさとか両者の比較で
結論出ているのかな?
つうかマジこの東遷厨の言う事が分からなくなりました…
ちなみに、この東遷厨、
「神獣鏡は呉が滅亡するまで魏の領域に入らなかった」
と言ってたはずだから
それら全てを統合すると・・・
先ず呉の滅亡(280)後、画文帯同向式の内区元ネタ平縁画像鏡が日本に入り
大型の画文帯同向式を製作。
で今度は国内で造った画文を半島にもって行き楽浪漢墓に埋める
それが遅くとも313までにされてなきゃならないと・・・
ってことかな?
えらくハードスケジュールw
718 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 07:30:57
奇跡的に現存する「漢委奴国王」の金印を足がかりにすると、
奴国(筑前)の南方に位置する肥後〜日向辺りが「狗奴国」と見て間違いない。
また、ヤマト王権の東征伝承※を「狗奴国」で捕らえるのなら、
倭国王に敗れて肥後〜日向から近畿へと時間を掛けながら拠点を移したと見てよい。
※当時、倭人の民族生存圏は朝鮮半島南部から九州北部〜中部
719 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 07:32:03
未だ「邪馬台国」「邪馬壹国」拠点が何処に存在したのは不明だが、
帥升から倭の五王までの倭国王はヤマト王権とは全く別系統の王権と見てよい。
尚、「日本書紀」の記述では、ヤマト王権の都合のよい内容に捏造されているが、
筑紫君磐井とは列記とした朝鮮半島南部〜九州広域文化圏の倭国王であり、
強大化したヤマト王権との王権間の戦争によって「王位」を剥奪されたに過ぎない。
720 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 07:46:41
「狗奴」は「倭国王」との戦いに敗れ日向での勢力を失った。
結果として「「狗奴」は「倭国王」の勢力範囲外である近畿地方へと勢力基盤を求めた。
そして、東征伝承を掲げるヤマト王権とは「狗奴」の遺臣らによって近畿地方で樹立した。
「狗奴」= ヤマト王権。これが東征伝承を掲げるヤマト王権の隠れた真実。
721 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 08:13:01
魏志倭人伝では、王が居たと明記されている国は「邪馬台国」と「狗奴国」だけで、
他の国々には長官、副官等の役人名程度しか記されていない点に注目。
>「邪馬台国」系王権・・・倭の五王〜筑紫君磐井
>「狗奴国」系王権・・・ヤマト王権
722 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 09:09:14
伊都国は?
723 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 12:41:30
724 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 13:03:40
>>722 「末廬国」は魏の使者が対馬、壱岐を経由して倭国本土に上陸しているから松浦(まつら)の音写
(佐賀県唐津市を中心とした地域)
「末廬国」から陸を東南に500里進んだ地に所在とある「伊都国」(糸島平野を中心とした地域)は
三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡の発掘で「伊都国」の実在が100%確認されている。
因みに「伊」は神の意志を伝える職者と云う意味で、卑弥呼が置いた一大率は倭国の官人。
三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡はいつ頃のものでしょうか?
726 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 13:28:02
>>725 ともに他時代の遺構・遺物を含む複合遺跡だが、
大量銅鏡を出土した王墓級の甕棺に限って言えば、
三雲南小路遺跡・・・ 弥生時代中期
井原鑓溝遺跡・・ ・弥生時代後期
だ。
流石に倭の五王はヤマトだろう。
鉄剣2本の物的証拠は大きい。
729 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 14:06:42
あれで古田は大恥かいた。
なのにまだ残党が。
730 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 14:07:44
三雲はいいんだが井原は
>>726>弥生時代後期
>>727>弥生時代の中期後半
意見が分かれてるね、どっちが正解?
ワカタケルと意味は倭の猛者だから、高句麗と全面戦争中の倭国には大勢いたでしょ?
つか倭の五王は列記とした倭国の王だから奈良盆地の豪族(ヤマト王権)じゃないよ
倭国は高句麗に敗れて国力が衰退したから奈良盆地の豪族(ヤマト王権)が勢力を持っただけ
732 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 15:00:47
733 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 15:03:10
734 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 15:34:06
>>731 >高句麗と全面戦争中の倭国には大勢いたでしょ
全面戦争しているとは知らんかったな。ソースはなに?
>>707 中国で画文帯同向式が出たというのは、このスレでも何回も出たデマだな。
王氏は画像鏡の同向式と日本の画文帯同向式を分けて、日本で出土するものは
全て同型で中国とは異なることを認めている。
>>734 高句麗側の広開土王碑より倭に関する記述として抜粋。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、
王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
つか広開土王碑でググれ
元嘉15年、文帝より倭珍が安東将軍倭国王に任命される。『宋書』文帝紀
倭珍はまた、倭隋ら13名を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め許される。『宋書』倭国伝
元嘉20年、文帝より倭済が安東将軍倭国王に任命される。『宋書』倭国伝
元嘉28年、文帝より倭済が使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加号される。『宋書』倭国伝
安東将軍はもとのまま。
大明6年、孝武帝より倭済の世子の興が安東将軍倭国王とするに任命される。『宋書』孝武帝紀、倭国伝
昇明元年、倭済興没し、弟の倭武立つ。『宋書』倭国伝
倭武自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。
昇明2年、倭武上表して開府儀同三司と称し、叙正を求める。『宋書』順帝紀、倭国伝
順帝、倭武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任命する。
建元元年、南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。『南斉書』倭国伝
天監元年、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。『梁書』武帝紀
738 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 17:55:41
結局、いつもの恨み節の東遷厨は自爆してしまっているんだよな。
この東遷厨は楽浪の画文を日本で造ったものが持ち込まれたと言う。
ならばそれはどんなに遅くともコイツの設定上313年までになされていなければならないわけで
313年と言う”下限”を与える話で上限に対し制約を与える話じゃない。
むしろ荻原の画文が楽浪で造られたもので313年後に掘り起こされた物の踏み返し
…とすべきだったと
ただ、それでもこの東遷厨にとってのジレンマは
結局、じゃあ後に掘り返される画文帯神獣鏡は313年までに楽浪で造られ副葬されたか
魏か呉かから伝わって副葬されたと言う事になる。
その時同型の画文が日本に伝来した可能性を考えれば
画文を3世紀に置くに理論的根拠を与えてしまう。
どっちにしても八方塞がりwwwwww
740 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 18:14:25
>>736 広開土王碑文を全面戦争の根拠にしてるのか。
この碑文からでは雌雄を決する戦争とはおもえんがね。
新羅領有をもくろむ倭国 対 新羅に橋頭堡を作られてはかなわん高句麗の戦いには
違いないですが。なんとなく全面戦争という言葉はしっくりきませんね。
741 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 18:52:22
もうちょっとまとめて書いてくれるかなー
743 :
サガミハラハラ:2010/04/21(水) 19:10:51
>>739履中は北朝に朝貢したようです。中国風名が彌でしょう。
あと、応神と、雄略の初期もそのようです。
744 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 19:19:03
倭の五王についていつもの九州王朝説か…
ったく結局ここの九州王朝説どもにとっては邪馬台国はその入り口で
逆に言えばそこでつまずいたら九州王朝も糞も無いって話しなんだよなw
もはや
>>723見たいなイベントも意味があるのかと…
九州説がやるべきは自らの説を確立させる事で
その方法論すら見えてこない。
745 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/21(水) 19:30:50
>>739 3世紀から呉に朝貢していたと見られる。
人吉盆地の才園古墳から呉製と見られる鎏金獣帯鏡が出土している。
狗奴國王傘下の一国があったとみられる。
邪馬台国論争は学問ではなく、イデオロギーの問題だ。
もし邪馬台国がヤマトにつながるのであれば、日本の歴史で王権と呼べるものは現在の皇室しかなかった事になる。
もし九州王朝があったのであれば、いや騎馬民族でも継体王朝交代でもいいが、そのような事実が証明されれば、皇室を相対化して権威を損なうことができる(と考える人がいる)。
学問ではなくイデオロギーなので平気で相手を罵ることになる。
>>735 >中国で画文帯同向式が出たというのは、このスレでも何回も出たデマだな。
「ご承知のとおり、画文帯動向式神獣鏡は日本で大量に出土しておりますが、
中国では出ておりません。ただ一面だけ、安徽省の寿県ででたものがあります。」
(王仲殊「三角縁神獣鏡の謎」より)
「そして次に、対置式の黄帝を挟む獣神配置を継承する画文帯同向式の
上海博物館所蔵61鏡が考案される。」
(小山田宏一「考古資料大観10」)
「日本で出土した三角縁神獣鏡は「救心式」と「同向式」の二つに大別でき、
前者が大多数で、後者は少数である。
後者の内区主文のほとんどが中国の画文帯同向式神獣鏡の主文を写しているほか、
・・・」
(王仲殊「三角縁神獣鏡」)
748 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 21:37:09
まあ「絶対ありえない!」と強弁できるようなネタではないが…
東遷厨(怨)のご高説なら楽浪漢墓に漢鏡ではなくて
倭鏡(それも傷入り)を副葬したと言うのは
どうにもこうにもピンと来ない話
やまと、ってのは当時の古代日本の
一般的な首都とか大都市の名前なんでしょ?
何箇所も、やまと、という地名が当時から?あるそうで。
そのなかで、とくに大きいのを
やまとおお国→やまとたい国→邪馬台国
となってただけの可能性は?
750 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 22:07:53
■大刀に竜の文様、大和政権と結びつき示唆 宮崎で出土
朝日新聞2010年4月21日
http://www.asahi.com/culture/update/0421/SEB201004210004.html 宮崎県えびの市の島内(しまうち)地下式横穴墓群で、刀身に竜の文様を象眼(ぞうがん)した6世紀前半の鉄製大刀(たち)が出土したと、同市教委が20日、発表した。
刀身に竜文がある象眼大刀は全国3例目で、大和政権との深い結びつきを示唆するという。
市教委によると、大刀は全長98.2センチ、幅3.6センチ。長さ78センチの刃の表面に溝を刻み、銀をはめ込む象眼の技法で、表に全長約9センチ、裏に約8センチの竜がひとつずつあった。
奈良県橿原(かしはら)市の新沢千塚(にいざわせんづか)327号墳(6世紀中ごろ)、奈良市の吉備塚(きびづか)古墳(6世紀前半)に次ぐという。
同墓群ではこれまで約120基が確認されており、大刀は送電線の鉄塔建て替え工事に伴う発掘調査で114号墓から出土。
遺体を安置する深さ約2メートル、広さ2畳ほどの玄室(げんしつ)に埋葬されていた熟年男性の人骨のかたわらに置かれていた。
さびてさやがこびりついていたため、昨年8月にエックス線調査を実施し、文様の存在が分かった。その後、文様部分のさやは除去したという。
エックス線調査で表裏に星か太陽とみられる図形も1個ずつ確認できた。
同市教委の中野和浩主任技師は
「竜文は新沢千塚のものより一回り大きく、この時期のものとしてはかなり質が高い。保存状況も極めて良い。現在のえびの市一帯を治めていた有力者の一人で、大和政権から分配されたのではないか」
と話している。
大刀は同市歴史民俗資料館で5月3日まで一般公開される。今月23日午前10時から資料館で市民向け説明会がある。問い合わせは市教委社会教育課(0984・35・2268)へ。(知覧哲郎)
・出土した竜文銀象眼大刀。鮮やかに浮かぶ竜文は10センチ足らずの長さ=宮崎県えびの市
http://www.asahicom.jp/culture/update/0421/images/SEB201004210005.jpg
>>704 >画文帯の同向式は、三角縁を含まないより古い古墳から出る一方で、5Cの古墳からも出る。
「5、6世紀の古墳から画文帯神獣鏡の踏み返しによる銅型鏡が出土しているが、
これは倭の五王の時代に中国南朝との交渉によってもたらされた可能性があるために除外し、」
(岡村秀典「三角縁神獣鏡の時代」)
「画文帯同向式(多量の同型鏡の存在が特徴の5世紀の一群を除く)は、・・・」
(小山田宏一「考古資料大観10」)
>>751 続き
これってつまり、どういうことかと言うと、
「中・後期の古墳から出土する、同型鏡の多い一群の踏み返し鏡は、
・・・南朝、おおむね劉宋の賜物と考えられる」
「同型の踏み返し鏡は15種104面が確認され、
画文帯同向式神獣鏡の一種にはすでに同型26面があり、」
(車崎正彦「考古資料大観5」より)
ということだ。
704の一連のレスで出現する(同型の)「画文帯同向型神獣鏡」は、
この後世の踏み返し鏡のことで、(彼はそれを)3世紀のものとごっちゃにしているというわけだ。
753 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 22:50:03
>>750 地下式横穴墓と言うのは、なんか不思議だな。南九州だけにしかない。
宮崎県南部と鹿児島県の太平洋側だけ。
しかも、畿内系というか、前方後円墳なんかと共存している。
上にあるように、副葬品も豪華で、身分が低いとも思えない。
ちなみに、地下式横穴墓と言うのは、まず竪穴を掘る。2〜3m掘った後、次は
横に掘る。そこを玄室といい、遺体を安置する。遺体は複数出てくるのが普通。
>>730 「柳園古器略孝」によれば井原鑓溝甕棺墓の副葬鏡は
漢鏡4期(前一世紀第4四半期〜一世紀第1四半期)の方格規矩四神鏡18面(総数21面)。
九州の編年では高三潴式からが後期ということなので、微妙なところ。
漢書の「東夷王」の墓だという人と、後漢書の「帥升」の墓だという人とがいて、
これも微妙なところかな。
756 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 23:36:41
134 名前: ローガン 2010/04/21(水) 14:45:06 ID:4N8ntzbA
2ちゃんに入れないので、誰か見つけたら貼って下さい。
ドンこい717:日本@名無史さん 2010/04/21(水) 01:56:09 AA
「親子」か「兄弟」かは例えばエッジのシャープさとか両者の比較で 結論出ているのかな?
638氏が書いてるやん。
>徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は前方後円形積石塚で、
この墳墓から出土した画文帯同向式神獣鏡の文様と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されているが、
この2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、
楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明している。
これは明らかな兄弟鏡。 と。
寸分違わぬ兄弟鏡…踏み返し鋳型の収縮を考えれば、萩原鏡と楽浪鏡、どちらかを踏み返したという関係に無い。
どちらも、同じ割れ傷のある鏡を踏み返したもの。萩原鏡を国産とすれば、その割れ傷のある親鏡は国内にある。
当然、楽浪鏡も国内で踏み返し制作した事になり、それが何時しか海を渡り、楽浪にて副葬された。
東遷厨氏いわく、その下限が313年。
なら、それに先立つ可能性のある国内副葬、つまり萩原鏡から寸法取りした萩原一号墓の年代は4世紀には下げられない。
これが東遷厨氏言う所の萩原鏡国内制作に基づいた推論となる。
勿論、その理路は支持出来ないが、結論は我々、畿内説の主張と同様のものである。
757 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 00:25:36
>>711 伝楽浪は、「出土状況がはっきりしないが、楽浪で出土したらしい。」というものだよ。
それとも楽浪漢墓から掘り出したというソースがあるのかな?
伝楽浪は、日本が百済に勢力を及ぼして、百済に前方後円墳が作られた頃のものだろう。
日本から鏡を持って現地の支配者になり、現地に前方後円墳を作ったりした人たちが、
持ち込んだものと考えるのが、最も自然。
日本と朝鮮で30面弱の同型鏡があるなかで、「伝楽浪が偶然にも最も古い」という確率は5%以下。
「伝楽浪は中間の時期のもの」という確率がもっとも高い。
日本と朝鮮に多数の前方後円墳がある中で、「朝鮮のものが最も古い」という確率が極めて低いこと
を考えれば、分かりやすいだろう。
758 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 00:28:40
>>751 岡村の引用は、彼を嘲笑するためのネタかな?悪趣味だね。
それはともかく、日本で出土する同向式がすべて同型なのに、舶載とかいうのは、
常軌を逸した考えですな。
759 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 00:35:50
>>747 一番下の引用を普通に読めば、「中国の同向式の内区だけを模倣した」ものが
日本で出ていると理解できるが?
王は、日本の画文帯同向式は、日本独自のデザインでしかも、すべて同型の踏み返し
なので日本製としている。
中国の同向式は王の『三角縁神獣鏡』に写真が出ている。
王の著書を引用するのは良いが、理解力がなさ杉。
俺、九州の出身だけど邪馬台国九州説は苦しいと思う。
Google Map見ると良くわかるけど、半島と九州じゃ大きさがぜんぜん違う。
畿内まで含めた王権でなければ新羅や百済より格上にはならない。
仮に九州全土でも小国なのに、九州南部に敵対する狗奴国がいたら地政学的に非常に厳しい立場になる。
>>759 まあ、論についての理解はともかく、
「中国の画文帯同向式神獣鏡」と言ってることに注目したんだが。
↓
>>735 >中国で画文帯同向式が出たというのは、このスレでも何回も出たデマだな。
>>758 >日本で出土する同向式がすべて同型なのに、舶載とかいうのは、常軌を逸した考えですな。
すると、以下の人たちが皆“常軌を逸し”ていると主張するんですね?
岡村秀典、小山田宏一、車崎正彦、樋口康隆、小林行雄
それはともかく、同型なのは5世紀の画文帯同向式神獣鏡なんだよ。
ホケノと萩原は違うし、これらと新沢・江田船山・奥ノ原などのグループ(同型鏡)もまた違う。
実際、写真ぐらい見たことあるの?
763 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 02:31:33
>>760 邪馬台国は30カ国の弱小政権で九州一帯の弱小勢力に過ぎない。
卑弥呼が中華皇帝に朝貢したのも邪馬台国への軍事支援が目的で、
対抗勢力の狗奴国との戦争に敗北しつつあったからだぜ。
200年間後のヤマト王権と邪馬台国が連続してないことは、
卑弥呼以降、150年間も倭からの使者が来た記録がないことで明らかだ。
200年間後に豪族を平定してヤマト王権を統一したオホド王は、
中華皇帝に朝貢しなくても近江〜北陸を基盤に十分繁栄できた。
764 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 02:48:28
おっと近畿〜北陸な
オホド王は朝貢せずに近畿〜北陸で繁栄できたが、
倭の五王らは朝貢を再開するも高句麗とヤマト王権に挟まれ滅びた。
九州王権の筑紫君磐井が最後の倭国王と考えるのが普通で、
これ以降、オホド王の系統によって日本と云う国家が整備される。
日本書紀に始まる史書はオホド王の系統によって捏造されたがな
765 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 07:36:17
>>760 朝鮮半島南部は日本で言えば東北のような気候で
温暖な九州より人口密度が遥かに低い。
更に朝鮮半島南部の一部の任那(投馬国)も倭地に含まれていたので
邪馬台国九州説には全く問題ないよ。
766 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 09:25:16
九州が畿内に併合されたのは事実だけどな。
767 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 09:30:23
>>758 >日本で出土する同向式がすべて同型なのに、
意味がわからない。「すべて同型」のところ。
なにか事実誤認の思いこみがあるんじゃない?
768 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 10:06:46
>>757 つまり出土状況がつまびらかで無いので考古資料として使えないという話しだな。
だったら最初から「313年以降に掘り返された〜」
なんて話しは最初から無用。
「出土状況が不明」と言うならそれもいえないはずだ。
グルグル引っ掻き回して
「では日本に同行画文が入ってきたのはいつなのか?」
と言う振り出しに戻るだけ。
その年代の上限にも下限にも数字を与える話しでもない。
でも「楽浪鏡を中間に置く」で良いのか?
その兄弟鏡の萩原でようやく中間と言う話だろ?
いったい萩原墳を古墳の編年上何処に置くんだ?
(萩原墳は古墳とは定義されないがどの時期に並行するのか?ッて意味で)
もう話がグチャグチャw
769 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 10:07:18
>>766 その時期が問題、3世紀末OR7世紀末?
邪馬台国が畿内なら3世紀末、
邪馬台国が九州なら7世紀末だ。
770 :
水銀厨:2010/04/22(木) 10:09:12
いくらなんでも7世紀末はないな。
誰かの妄想じゃあるまいし。
「邪馬台国」が九州王朝の一時期の呼称であったなら
7世紀末でもおkと言う話だろうw
772 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 10:30:10
>>761 王は日本と区別するために、平縁画像鏡とも呼んでいることも知らんのか?
知識なさ杉
>>762 それは全部同向式かな?
>>768 君が勝手に勘違いしただけ。前漢鏡の話と混同しているよ。理解力なさ杉。
773 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 10:46:55
で、結局、画文の日本への流入時期とその根拠は?
313年以後に掘り返された物の中にそれがあったとするなら
上限は313年と言う事になるが
出土状況も明らかでないと言うのならそれも根拠にならない。
774 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 12:44:36
775 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 13:16:17
九州王朝説ウザイ
自分のスレにかえれ
777 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 14:43:59
>>763 梁書なんかを見ると、卑弥呼から倭の五王までは連続しているような書き方を
している。みんな倭王だし。ちなみに、帥升も倭国王なので同じ系統という
ことになる。
宋書をみると、倭の五王も「倭国王」と書かれていることが多い。
中国では、王朝が変わると国の名前が変わるのが当たり前なので、同じ国名
を使っているところをみると、同じ系統と認識していたのだろう。
778 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 14:52:09
宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。
この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。
従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。
だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、
倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。
当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。
王道融泰にして、土を廓き畿を遥かにす。累葉朝宗して歳に愆らず。
この文言がすべてを物語っている。ここで語っている、東西+海北の範囲は以下のようだ。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/zu3.jpg
そんな遠くまで
渡りて海北を平ぐること九十五国
って可能なのかね・・・
四国から中国地方のことではないの?
と思ったが、それだと全方向が海だな。
最後の北にだけ渡るには
近畿から、東と西を征伐して、下関から朝鮮征伐ということでは?
九州の熊襲はもっと後でしょ?
780 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 15:01:26
>>778 九州王朝説は、記紀との整合性がないのが弱点だろうな。
年代観といい、文献に対する感覚といい、九州王朝説と畿内説は良く似ている。
邪馬台国論争に関しては、九州王朝説と畿内説はほとんど同じ主張なのに、
仲が悪いというのも面白い。
>>778 対してさらに時代のさかのぼる邪馬台連合はわずかに三十国に過ぎません
末蘆、伊都、奴などひとつひとつの国の大きさから見て九州北部におさまる大きさだったのでしょう
782 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 15:14:41
>>779 ああ、実際に九州から大規模な軍事行動を行って半島南部全域まで制圧してるね。
そして中国(南朝)から半島南部全域の支配まで認められている点
>>737に注目。
邪馬台国時代の30カ国から見れば、
半島南部全域まで支配する強大な勢力に成長している。後に高句麗とオホド王に潰されるけど
783 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 15:44:48
倭の五王の時代についてだが、この当時の奈良〜河内〜近江の豪族は
高句麗との戦争に関わってないので勢力基盤を固めることができた点に注目。
これらの豪族をヤマト王権と呼ぶ。
実際に王権と呼べる政権が確立したのは近江の豪族出身オホド王から。
784 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 15:54:53
畿内説と九州説のコテハンが離れると、
ごらんのとおり質の低い九州王朝説がのさばるわけだな。
785 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 16:01:09
順帝に上表した倭王武の「東は毛人を征すること五十五国」は出雲までが倭国勢力圏の限界で、
奈良〜河内〜近江の毛人を征するまでに至ってない点に注目。
786 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 16:04:55
順帝に上表した倭王武の「渡りて海北を平ぐること九十五国」は
百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国までが倭国勢力圏の限界で、
高句麗を征するまでに至ってない点に注目。
787 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 17:22:46
畿内のヤマト王権だっけ?
こいつらは倭国に対抗して古墳建設だけに躍起になっているから、
豪族以外の関西人すべてが奴隷として古墳建設に狩り出されているだろうな。
関西人の言葉使いが極めて醜いのは奴隷時代の残りだなw
788 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:28:47
>>787 あなたの発想の醜さにはかないませんなあ^^
ヤマトが後の日本国の首都になったのは揺るがない事実でしょう?
まさかそこまで捻じ曲げるつもりですか?
789 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:41:52
そしてオホド酋長によって歴史が捏造されましたっとw
あ、天孫降臨でしたね(藁)
790 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:42:28
8世紀初頭頃に大和朝廷が日本を支配したのは
まず間違いないと思うが、そのころでさえ
完全に地方勢力が支配下に入ったかどうかには
疑問がある。
すくなくとも東北が支配下に入るのはその後だし。
中国四国九州は本当に支配下に入ったのだろうか?
791 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:52:26
それをいったら、現在の沖縄・鹿児島も東京の支配化には入ってないってことですな。
きっと、九州王朝説は今後1000年後まで生き残るんだろうな。
792 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:52:46
>>789 あら、どの辺がですか?
具体的な箇所をあげてくださいな
793 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:53:34
『隋書』巻八十一 列傳第四十六 東夷 に
>「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
(文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみなりけり。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。)
九州では5世紀から文字が使用されていると考えられているのですが、
畿内ではそれ以前から文字を使用していたのでしょうか?
794 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 18:59:59
>>790 日本を支配したと云うより、畿内中心の政権を8世紀初頭頃に樹立した。
以後、文字の輸入によって畿内の酋長国から日本国へ移行する訳です。
>>792 日本書紀の内容は全て真実ですよね?そうですよね
795 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:06:03
少なくとも中国側の史書を見る限り、
帥升、卑弥呼、倭の五王は列記とした「倭国王」。
反面、畿内のそれは毛人の酋長。
796 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:11:14
>>795 毛人ってなんですか?倭人とどう違うのですか?
酋長と首長と王はどう違うのですか?
なぜわざわざそんなイメージを悪い文字を当てるのですか?
まるで中国人のようですが、あなたは中国人ですか?
797 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:11:44
大和朝廷は戦国時代の三好政権くらいと考えていい訳?
実際に四国まで支配していたのが疑問だけど
>>795 あと「れっきとした」は「歴とした」って書くんですよ。
「歴然」の「歴」ですね。
列記してどうするんですか。
799 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:30:19
>>796 そもそも、畿内の毛人は南朝から「王」として承認されてない。
毛人が「王」と云う意味を知っていたのかすら疑問ですが、
当時の文明国側から見ればヤマト王権は毛人の酋長国ですよ。
南朝はおろか倭国王の武ですら連中を毛人として扱っていますがね。
あ?天孫降臨でしたね。スミマセン
>>799 南朝って何ですか?
当時の文明国とは?列記して下さい。
>>799 なぜそんなに天孫にこだわってらっしゃるんでしょうw
802 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:44:06
この時代の日本列島には、
呉の末裔を自負する倭人とは別に畿内を中心とする毛人の勢力が存在した。
毛人の酋長は天孫降臨を掲げ毛人らに酋長の墳墓建設を強要した。
803 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 19:56:33
どうしちゃったんだろうこの人
普通に考えれば当時の中国人が毛人と記した種族は、蝦夷(いわゆる縄文人)
804 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:05:23
もし、『日本書紀』の年代がすべて正しいものならば、
5世紀の倭の五王(讃・珍・斉・興・武)は、大和朝廷とは無縁の倭国王になる。
>もし、『日本書紀』の年代がすべて正しいものならば
常識で考えましょうよ
806 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:12:09
>>804 和風シゴウ(漢字分からない)でも諱でもよっぽどこじつけないと、
記紀には倭の五王に対応する呼び名ないよねえ。
ワカタケルがどうとか、いろんな解釈があるが、偉い先生の説でも
どうもいまいち。
807 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:12:09
>>805 つまり大和朝廷成立からすべてが捏造でしたと
808 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:19:15
記紀は6世紀以降は、皇統図以外は結構信頼して良さそうだが
それ以前は、正しいか間違っているかさえよく分からない。
それでさえ、聖徳太子なんかは結構謎なのだが。
客観的に見て、6世紀以前に年代的に信頼できる記述ってあるかな?
記紀以外の別ソースで確認できるような。
どこからが捏造でどこからが信頼できるかよく分からん。
2600年前の神武は明らかに変だし。
809 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:33:27
>>808 聖徳太子って平安期の創作じゃなかった?
飛鳥時代の厩戸皇子か蘇我善徳がモデルらしいけど
「聖徳」は日本書紀ですでに見えている。
つまり、「推古」とか「天武」とかよりも古い呼称。
811 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:41:11
聖徳太子は何人かのエピソードを
くっつけているような気がするんだけどな。
聖徳太子の墳墓に納められた人物とと法隆寺の前身である若草伽藍を
建立した人物は同じような気がするが、それ以外のエピソードは
どっかから持ってきてないかねえ
812 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 20:59:47
もはや邪馬台国と何の関係も無い話し。
結局、「邪馬台国九州説」はその後の歴史で
「My 史観 ≒ 九州王朝説 」をぶち上げる為の前提と言うか担保。
笑えるのは記紀の信用性について
ここでああだこうだ言っている九州説の人間の方が
邪馬台国論争において記紀を持ち出す事が多い件w
無論、極めつけは 天照=卑弥呼 と言った解釈。
813 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 21:08:33
邪馬台国は30カ国程度の連合勢力だから本拠地も強大ではなかったはず。
畿内説は地政学的に無理があるから邪馬台国は存在しなかったで終了。
出雲国の秦氏が「国譲り」して、山城の地に移住したのが蘇我氏だと思う
815 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 21:32:16
九州説を人間にたとえると、人格崩壊したような症状なんだろうな。
コテハンのレスを読むと九州王朝は朝鮮トンデモ史学と同類としか思えない。
街宣右翼のように反感を得るのが目的か?
818 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 21:58:57
>>817 スレ違いは「仕切る」「仕切らない」の問題ではない。
そんな事も分からないのか?アホ。
言っちゃあ悪いが直ぐに古代史全般に話が飛びやすいのは
九州王朝説とそのシンパ。
元々邪馬台国あたりを皮切りに古代史全般について
御高説をぶちたいと言う欲求があるのだから仕方が無いが
語りたければ該当スレで語れ。
「日本」とは昔の倭のことで、「倭」が良い字でないので自ら新たに「日本」を名乗った。
と、わざわざ中国の正史で解説までされてるのに九州王朝なんて入る余地はない。
820 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:05:49
小便で 古味をつけたる 東日流かな
821 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:13:02
大和と書いてどうして「やまと」と読むのか考えてみました。
822 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:15:36
旧唐書の記述ならスレ違いというわけでもないだろう。
>@日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
A或は曰う。倭国自ら其の名の雅ならざるをにくみ、改めて日本と為すと。
B或は云う。日本はもと小国にして倭国の地を併せたりと。
Bなら九州王朝の根拠にならないこともないかな。
823 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:18:31
824 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:20:43
そのBは大庭脩の、
>当時の中国側に壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立した
という見解があった
この説で十分説明可能では。
825 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:21:10
>>822 その記述を見ても分かるが、そもそも古代中国に関門海峡で線引きをして
九州を倭国、以東を倭地などと言うような明確な日本の地理観を期待する方がどうかしている。
倭人伝でも百歳の老人がゴロゴロいるとか女が慎み深く嫉妬しないとか
一種の理想郷(桃源郷)と言うか神仙世界を投影している節がある。
826 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:23:13
>>817 そいつはただの粘着だぜ。
罵倒目的で貼りついてるガチキチ君にレスいれるなよ。
827 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:24:57
>>823 大神氏の元は奈良の大神神社から来たシャーマンで、神仏習合を広めに来た先兵だろ。
828 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:28:27
記紀を鵜呑みにすると歴史そのものが見えなくなるな
戦前の日本人は本気で信じていたのだから恐ろしいわ
829 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:31:37
神功皇后・応神天皇は架空と思うが、これは明らかにヤマト王権側が九州土着の比売神信仰と仏教を習合
させて新しい信仰体系「八幡神」を創作し、九州支配に意図的に用いたものだ。
830 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:39:53
九州支配のため創作した八幡神が元・邪馬台国だったりして
宇佐神宮の大規模工事とかで邪馬台国の遺構が現れたら驚くぞ
831 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:42:53
>>821 倭→大倭→大和ということだろう。
文字は変わっても読み方は変わっていない。
832 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:43:53
>>772 >王は日本と区別するために、平縁画像鏡とも呼んでいる
そうなんですか。・・・まあ、キミのごまかしはともかく、
>>699 >中国からは0面。
>>735 >中国で画文帯同向式が出たというのは、このスレでも何回も出たデマだな。
は(キミが知らなかっただけで)間違い。ということですね。
834 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:54:36
・五世紀頃、新羅から辛嶋氏が渡来し、香春岳周辺に本拠をかまえ「辛国息長大姫大目命」を祀っていた。
・北部から東部九州には土着の「比売大神」信仰があった。
・辛嶋氏の宇佐入りに伴い、この2神が融合する。
・この流れとは別に、6世紀頃奈良から大神氏が宇佐入りし(ここは不明確)地元信仰と仏教の習合を進める。
・8世紀初頭、記紀の成立とともに創作された「神功、応神」がこれらの信仰と結びつき、大和王権の意図
する「八万神」が完成した。神功皇后の「息長帯比売命」は前述の香春の神が元になったもの。
おおざっぱにこんな流れかな。
835 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:57:13
>>830 同意。
八幡と書いて「やま」と読む。
邪馬台国こそ八幡神のルーツ。八幡と名を変えて生き残ったのだ。
宇佐八幡宮は、もとは玄界灘を望む今の筥崎宮のある場所にあったのだ。
836 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:01:45
だから宇佐神宮は記紀成立後の大和王権の九州支配の拠点で、隼人の乱にも御輿と兵を出している。(ただし
隼人の乱は大隅八幡宮を拠点とする辛嶋氏と宇佐の辛嶋氏の同族争いがその原因の一つ)
亀山は古墳ではなく、 高木彬光説はロマンはあるが真ではない。
837 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:02:40
>>834 辛嶋氏以前の宇佐にどのような国が存在していたのか不明。
財政難の大分県は遺跡の発掘調査に消極的だから困るね。
838 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:03:56
>>832 >日高新報
問題大杉
>銅鐸内に含まれる鉛から製造された年代や産地まで厳密に解明される
>銅鐸は大和朝廷からの造船の褒美で日高湾は中国との海運の拠点だった
>調査では1800年も前から道成寺が鐘の聖地だったということが証明されることになる
なんじゃこりゃww
839 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:07:07
>>835 古代の八幡って「やまた」「やはた」じゃなかった?
九州はいまでも「やはた」らしいけど邪馬台が八幡神のルーツだろうね。
倭から日本が連続だから九州王朝はあり得ない、という理論を逆に考えると、
飛鳥時代も奈良時代も本拠地は連続的に九州にあった可能性もすてきれないのではないだろうか?
841 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:07:11
韓嶋氏なんていかにもありそうな胡散臭い名前を信じるなんて・・・
842 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:11:06
宇佐は九州支配においては場所が悪いと思うなあ
少なくとも攻められはしないが
それ以外の九州全域で反乱が起きても
兵を送りこんで、鎮圧できない。
やはり軍事的拠点は太宰府か高良大社だよ。
むしろなんかあったときに極少数で逃げ込む場所だろう。
843 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:11:28
宇佐は朝鮮人の入植地ですが。
そんなに卑弥呼を朝鮮人にしたいのかな?
844 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:13:06
邪馬台国(やはたのくに)
八幡神(やはたのかみ)
845 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:13:33
MADE IN USA (笑)
846 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:13:48
邪馬台国は朝鮮半島に近い関越地方にあったと思われる。コシヒカリの生産は盛んだし。
>>772 >それは全部同向式かな?
そう書いてますが? 「考古資料大観 5巻」で写真を見て確かめて下さい。
上記の言葉から、結局キミは、王仲殊の言う「21枚の同笵鏡」の中身も知らずに、
萩原・ホケノなど3世紀の画文帯同向式神獣鏡と後世の踏み返し鏡をごっちゃにし、
カン違いしていたことが判明しました。
実は途中でそのことに気づいたから
「知識なさ杉」「理解力なさ杉」と無意識に独白してしまったのでしょう。
普通に「邪馬台国=やまと国」だろ。
「やまと」が何処かは知らん。
849 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:17:47
いずれにしても、東遷厨の楽浪鏡倭鏡説は無理。もう言うだけボロが出るからやめたほうが・・・。
850 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:20:55
邪馬台国(やまたのくに)
八幡神(やまたのかみ)
851 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:21:37
宇佐は朝鮮人の入植地ですが。
そんなに卑弥呼を朝鮮人にしたいのかな?
852 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:22:30
853 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:32:20
ごめん…関越地方より九州、それも長崎の方が朝鮮半島に近かった。
だから邪馬台国は九州それも平坦な土地が多い今の福岡にあったと思われる。
854 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:35:01
855 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:35:26
>>852 >東部九州の早期前方後円墳は何のためだと思うんだ?w
はて?
前方後円墳を作るくらいの兵隊がいても
あそこからじゃ、細い山道を縫って
延々と山岳をいくことのなるから
かたっぱしから砦を作られて
各個撃破されて、大した兵力は
どこにも送れない。
逆に攻め寄せる敵を倒すのなら有利なんだが。
あの地勢じゃ、その気になれば攻め寄せるのに
10倍兵力でも足りないかもな。
ひょっとして、前方後円墳を僅かな使者にでもみせて
ビビらせて、支配するという魂胆か?
あんまり効くとは思えんがなあ。
856 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:41:19
>>854 宇佐神宮の由緒書きによると、比賣大神は宗像の三女神とある。
宗像の三女神というのは、天照大神と素戔鳴尊の誓約のときに生まれた三柱の
女神。
どういうわけか、航海の神様として祀られることが多い。
神武天皇が東征の折に立ち寄った、宇佐、宗像、厳島には大きな神社があり、
みんな宗像の三女神を祀っている。
857 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:48:59
たしか宗像神の末裔って戦国時代まで生き残ったんだよな
卑弥呼の時代の宗像はどこ国に相当するのだろうか?
858 :
日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:54:17
859 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:02:55
>>857 宗像の付近が、卑弥呼時代に倭国に属していたか、つまり倭人伝の30カ国に
含まれているのかは微妙なところ。というのは、このあたりから北は、
甕棺の空白域になっている。熊本県を含めた九州の北西部で広くみられる甕棺が
このあたりでは全く見られない。
かなり古い時代から、違う文化圏に属していた可能性もある。
>>853 むしろ平坦な土地の少ないところにあったのかもしれませんよ
農作物の収穫が少ないながら鉄器などを産する国が
他国の穀倉を狙ってその領域を拡げていったのが邪馬台国だったのかもしれません
861 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:21:54
>>833 んで中国の同型のソースは?
ないのね。
862 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:31:58
>>860 侵略したなら侵略した現地の開拓も遅れたでしょうね。
865 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 01:00:58
>>864 中国にある同向式は日本とは外区が違うと何回言えば・・・
ちなみに中国の同向式は王の本の写真のほかに、ホケノ山古墳の概報でも
写真が出ているが、やはり外区が日本と違う。
だから王は日本のは中国の同向式の内区だけを模倣して日本で作ったと
結論付けたわけ。
>>864 追記
ん、まてよ。
>>861は
(王仲殊の言う「21枚の同笵鏡」の)中国の同型
のことを言っているのかな?
・・・また、ごっちゃにして誤摩化そうとしているな。
>>865 >だから王は日本のは中国の同向式の内区だけを模倣して日本で作ったと結論付けたわけ。
王仲殊が言ってるのは中・後期の古墳から出土した鏡のことだ。
ホケノ山のものは関係ないの。
>>862 「画文帯神獣鏡は同向式のもので、興味あることに同型式の鏡は日本列島以外では
楽浪郡にのみ出土例のある特殊な鏡種であると言われています。」
その段落の結論が
「これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、
楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しました。
この事実により楽浪出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白となり、」
なの。
869 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 01:45:13
>>859 むしろ宗像は独自の文化圏を持っていたと考えられないかな?
かなり古い時代の海洋民族がルーツだと思うけど。
870 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 01:54:30
戦国まで続いた宗像神氏は呉人の末裔だったりして
徐福伝説とも関わりが深そうで興味深いな
871 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 03:40:25
本来、邪馬台国や狗奴国には独自の信仰や伝承があったと思われる。しかし、その信仰や伝承は、
ヤマト王権の支配が広がるにつれて「国津神」という形に変えられ「高天原神話」の中に強制統合されている。
ヤマト王権の九州支配のため創作された「八幡神」の源流(ルーツ)を邪馬台国に求めるのは不思議ではない。
尚、ヤマト王権の支配を受けなかったアイヌや琉球には独自の神話が存在している。
872 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 04:52:45
873 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 05:05:09
>>858 うーむ、どう読み返しても、やはり軍事的支配を肯定できるものは何も無い。
点々と司祭的文化が浸透していった以上のモノが読み取れない。
宗教的なものは別の論理で動くから、言及できないが
やはり、宇佐は九州を軍事的に支配出来る場所ではない。
軍事的拠点は、太宰府、高良大社、熊本だろう。
874 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 06:00:02
875 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 06:24:59
>>873 宇佐のように司祭的文化が浸透していた文化圏は九州でも稀じゃないかな?
ヤマト王権の支配が広がる以前はバチカンのように宗教国家が存在していたのかも知れない。
地政学的に、宇佐に軍事的拠点を置くとは到底考えられませんが、
日本の戦国時代で見ると、仮に宇佐でも九州を軍事的に支配することは可能ですよ。
(この当時、大砲や鉄砲は存在しませんが)
876 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 06:45:15
>>875 九州を軍事支配というより、対北部九州のための上陸拠点なんだよ。宇佐は早くからヤマト王権に従った
首長がいたということ。
877 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 07:09:41
>>876 それは8世紀に入ってヤマト王権の大神一族が宇佐で神仏習合、八幡神創出工作を行う以前?
と云うか宇佐神氏(宇佐国造家)を首長呼ばわりですか。そうですか
宇佐神氏が首長なら、倭王武が毛人と呼んだヤマト王権も首長として扱うべきですがね。
878 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 07:18:00
>>876 宇佐は魏志倭人伝の邪馬台国30ヶ国だろ?普通に
ヤマト王権が宇佐を影響下に置くのは200年後の話だぜ
879 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 07:24:49
>>877 >と云うか宇佐神氏(宇佐国造家)を首長呼ばわりですか。
なんか変なプライド持っている奴がいるなw
>>877 >宇佐神氏が首長なら、倭王武が毛人と呼んだヤマト王権も首長として扱うべきですがね。
当然そのとおりです。
>>874 サントリーの佐治社長の発言か…
ひょっとして昔の畿内説にもそう言うメンタリティがあったのかもしれんが
古代3世紀頃において覇を唱えていたのは畿内大和か?九州か?…とw
まあ今の畿内説と言うか考古学じゃあ初期ヤマト王権は「ゆるやかな連合体」と見做すのが一般的だろうし
山陰北陸の見方もガラリと変わり、恐らく今後、東海・関東の東日本もヤマト王権の成り立ちを解明するに
益々ウェイトを増していくだろう。
それに引き換え、このスレの九州説は畿内ヤマトに張り合って噛み付く事しか能が無い。
「九州説の皆さ〜ん、もう戦争は終わったんですよ〜」www
>>879 200年後の倭の五王も九州という人がいらっしゃいますが?
883 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 08:04:33
>>876 ヤマト王権の根拠なき差別意識が理解できないのですが、
中華皇帝より王位、官爵を許されても、ヤマト王権では熊襲な件について教えて下さい。
ヤマト王権からして見れば、中華皇帝や倭国王ですら大首長なのでしょうか?
>>876 同意です。
瀬戸内海が倭国大乱の舞台と見れるからね。
885 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 08:57:05
ヤマト王権の大神一族と云うのは、現代で云うなら自民に寄生する宗教団体だな。
886 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 08:59:42
瀬戸内海で高地性集落が作られてるのに、
倭国大乱が九州内部のことだなんて解釈はおかしいだろ。
瀬戸内海を巻き込んだ大乱を収束させたのだから、
邪馬台国は畿内でしかありえない。
887 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 09:36:36
瀬戸内海が戦乱に巻き込まれたのなら
宇佐、日向も何らかの影響は受けているはずだ。
日向から始まり、宇佐から瀬戸内海までずっと内海。
瀬戸内海文化圏みたいなものがあったのだろうと思う。
そう考えれば、規模は別として
日向から畿内まで人が動いてもおかしくない。
その一つが、神武東征話の元ネタになったのではないかと思う。
888 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 10:00:25
そして、瀬戸内海の大乱がおわり、畿内に邪馬台国ができたわけか。
889 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 10:28:43
そのころ九州王朝はその大乱をよそに
繁栄を続けておりましたとさ
>>869 そもそもなぜ不弥国が東行百里というかたちで倭人条に記載されたのか
それはここが邪馬台連合の東もしくは北東の境界にあたっていたからではないでしょうか
不弥国が旧糟屋郡あたりにあったとすればその外にある宗像郡は南の邪馬台国とは異なる文化圏にあったのでしょう
嘉麻郡や遠賀郡の王ともどもこのあたりはあるいは出雲を中心とした連合国家の影響下にあったのかもしれません
伊都国に置かれていた一大率は玄海灘にも睨みをきかせていたことでしょう
891 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 10:50:25
遠賀川文化圏かな
892 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 11:06:20
893 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 11:15:22
>>808 日本書紀の記述で最も信頼出来ないのが最後の100年(7世紀)の記録
日本書紀では大化元年が645年だが九州年号では695年。
日本書紀の飛び飛びの年号など極めて不自然
事件を前後に入れ替えたり、一人の人物を二人に分けたり
二人の人物を一人にしたり改ざんがある
この時代近親相姦が多いのは人間関係まで考えなかったので
可笑しな人間関係が出来たのだろう。
894 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 11:29:13
>>886 瀬戸内海の高地性集落は九州勢力の東侵で
この時期に一部九州勢力が畿内にプレヤマト政権を建て
後にヤマト朝廷に発展して行ったのでしょう。
九州では倭国大乱を収束された邪馬台国が成立したと考えられる。
895 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 11:35:09
>>886 倭国以外のところでは争いがまったくなかったと思い込んでいるのかな?
当時は、どこだって他から侵略される危険があり、それなりに対処していたんだよ。
896 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 12:12:33
つまり、九州〜瀬戸内海〜近畿の大乱を収束させたのが卑弥呼だから、
邪馬台国は九州ではなく、近畿というわけだね。
897 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 12:28:50
大乱は九州
瀬戸内海の高地性集落とは別
898 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:11:40
つまり、瀬戸内海の大乱を収めた大和王権が、九州よりも強大だったというわけですね。
899 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:23:22
倭国大乱の時代に大和王権なんか影も形も無いよ。
900 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:28:50
倭國乱と倭國大乱、どちらも西北部九州の出来事
瀬戸内海沿岸部の高地性集落とは別
しかし、互いに影響はあった
原因はどちらも天候不順期の食料不足
西日本特有の気象現象である
梅雨期と9月の少雨旱魃と集中豪雨と思われる 台風も
901 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:36:58
902 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:40:23
高地性集落は、かなりの時間の幅がある。弥生中期から後期にかけて作られて
いるので、これを倭国の大乱に関連付けるのは無理がある。
高地性集落の性格としては、見張りの場所、あるいは逃げ込む場所という
防御的集落の色が濃い。面白いことに北部九州には見られない。
三国史記の新羅本記を見ると、朝鮮半島は古くから倭の侵略をたびたび
受けていたことがわかる。対馬海峡を渡って朝鮮半島を攻めるくらいだから、
航海の容易な瀬戸内海沿岸はもっと頻繁に攻められていたに違いない。
こういう事情から、自然と高地性集落が出来たと解釈するのが妥当だろう。
どこの勢力が攻めていたかというと、防御的な集落を持たない九州だろうなあ。
903 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 13:48:25
九州を一緒くたにしないでくれ。
日向豊前豊後の東南側と、福岡佐賀長崎熊本の北西側は
山陰山陽くらいに違うんだ。別の文化圏と言っていい。
鹿児島がどっちに入るか分からないけど。
904 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 14:02:54
>>903 九州説だと、邪馬台国の範囲は、福岡、佐賀くらいにしか入らない。
そんな弱小勢力が東遷なんて無理な話。
大和王権に併合されて、西日本全体が邪馬台国と呼ばれたでFA。
>>902 >面白いことに北部九州には見られない。
wikiにもそう書いてあるが間違っているんじゃないだろうか?
密度は瀬戸内地域より高くないのでそう見るのか
九州以東のものと何らかの性格の違いを見て区分するのかは知らんが…
分布を記した図書の表題も失念したので参考までにググったものを
http://www.yu-ji.com/kouchi.htm が北部九州の勢力が暴れてそれが火種になって瀬戸内から畿内に至るまで
緊張をもたらす原因になったとしても
じゃあ北部九州が生存権を東に拡張したような痕跡があるのか?と言う話で
今のところ大遠征劇の絵を思い描くには材料不足の感は否めない。
906 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 14:25:49
907 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 14:30:22
扶余が日本列島に東遷して安羅・邪馬壱国になったんだよ。
908 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 14:54:15
>>904]
>九州説だと、邪馬台国の範囲は、福岡、佐賀くらいにしか入らない。
最近の九州説は、南九州説の方が有力だよ。
北九州説は行程記事をごまかして読んでるからな。
909 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:02:57
井上の「神話から歴史へ」という本を読んでみたが・・・
邪馬台国スレで見かける九州説とか東遷説の主張内容がそのまま書かれててワロタ。
三種の神器の起源は九州だとか、銅鐸が消えたのは東遷があったからだとか云々。
この本って、1973年初版で40年前に書かれた本じゃん。
そんな大昔の見識で書かれた内容をいまだに盲目的に信じてるって、
このスレの人達はほんとに爺さんばっかりなんだな。
若き頃に刷り込まれた「九州説」は人生の一部なんだろう。
910 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:07:41
井上の「神話から歴史へ」にも、畿内説の内容は触れられているが……
その反論が、「自分は門外漢でよくわからんが、邪馬台国は九州だと思われ」で、全部片付けられてて、
井上自身の検証による具体的な反証無し。
40年前から九州説のレベルって、この程度だったのか〜と、
もう情けないやら可笑しいやら。
自称九州説の先生がこの程度だから、そりゃスレのレベルも下がる罠。
911 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:18:47
>>909 2000年近く前のことを議論していて、40年前が古いとはどういう感覚をしている
のやら。内藤湖南が100年ほども前に言った「南」は「東」の間違いなんてのは
畿内説にとっては有り得ないほど古いものなんだろうな。
912 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:19:20
いやいや、九州だと思うだけ立派なもんさ。
畿内だと思い込んでる連中に比べればね。
913 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:34:09
畿内説は、魏志倭人伝の距離も方向も違うという立場なのに、
邪馬台国の存在だけは信じるんだな。
半島の人は九州説じゃないと困るからね。
915 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:37:16
井上の「神話から歴史へ」は、1973年初版で、
おなじみの銅鐸文化圏、銅矛文化圏の図を載せているが・・・
その後、出雲で荒神谷遺跡(1984)加茂岩倉遺跡(1996)が見つかり、
銅鐸・銅矛なる文化圏という見識は誤りだとわかった。
しかし、いまだに銅鐸・銅矛文化圏なんて言葉を出してくる九州説がいる背景は、
井上の本がずっと出版され続けてるってことなんだな。
そりゃあ、現代においてもはじめて手にする歴史本で九州説が紹介されてば、
初心者は九州説を信じてしまうだろう。
改定版では森浩一のあとがきが書かれてるが、最近の畿内説の躍進は触れずじまい。
井上の本は、今では九州説の牙城として利用されてる。
井上は、小林説「銅鐸は畿内の人々が自主的に廃棄した」を引用し、
それへの反論として森浩一の説を出してる。
これによって、森浩一は東遷説の井上と同じ穴のムジナになってしまったわけだ。
心情的に森浩一は井上が死んだ後も東遷説を捨てられなくなってしまったんだなあ。
916 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:38:57
畿内説だと、距離も方向も間違いなら
日本中同時期の遺跡は、全て候補に挙がるはずなんだが
箸墓巻向に決めた理由はいまだに聞いたことがない。
えっ、40年前の人ですか?
>>913 当然。
妄想と捏造だけは一丁前なのが畿内厨。
919 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:53:31
なるほどなるほど、
やはり井上信者が居たわけか。
いろいろと納得した。
40年前から時計の針の止まった爺さんにナニを言っても無駄だわ。
920 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 16:41:19
ヤマト王権の熊襲とは、魏志倭人伝の邪馬台国?それとも倭の五王?
ヤマト王権のクマソタケルとは、江田船山古墳のワカタケル大王?
921 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 17:01:20
>出雲で荒神谷遺跡(1984)加茂岩倉遺跡(1996)が見つかり、
>銅鐸・銅矛なる文化圏という見識は誤りだとわかった。
別に誤りというわけではないさ。二つの文化圏の交わる辺りでは両文化の
混合もみられるというだけのことだ。
922 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 17:08:10
ヤマト王権の系図や伝承は捏造だと思うな。
ヤマト王権の殺し屋が倭国のワカタケル大王を暗殺して、自らワカタケル大王と名乗ったと考えられない?
倭国は五王の時代まで朝貢に来ているが、朝貢が止まったこの時代は謎が多すぎる。
熊襲と関わりの深い遺跡からは、倭国王のモノと思われる鉄剣などが出土しているが、
倭の五王を決定付ける「金印」は未だ発見されていない。
そもそも、「金印」は王朝交代の際、新王朝に返還するのが通例だけどね。
923 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 17:17:12
五島列島、琉球諸島
海中に沈んでるんだろうw
928 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:10:31
>>915 >>921 恐らく「〜圏」と言う概念は今も尚生きているんだと思うが
昔の教科書に載っていたような列島の東西に二つの円を描いたような概念だと
東西に二つの「中心」があったような誤解を招くと言う事なんじゃないかな?
先の高地性集落に北部九州の東進を見るような話にも関係するが
広型銅矛の広がりも瀬戸内海の平形銅剣に阻まれたように、瀬戸内を東進せず
むしろ豊予海峡を経て四国の南西部に延びる。
まあここの九州説の連中はン十年頭の中の時計が止ってしまった人間と言うより
自説に合うものを古今東西に探してきて摘み食いして理屈を組み立てた…と言うような
連中が殆どだと思うがwwwwwwww
当時、海を渡って半島に行くとしたら、唐津付近から壱岐・対馬と有視界航行するしかない訳で、
畿内だろうが東海だろうが半島は「海北」になる。
930 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:24:44
>>915 で、畿内説によると、銅鐸の消滅を結局どう説明するのかな。
まさか、40年以上も前の井上、小林説と同じように、「銅鐸は畿内の人々が
自主的に廃棄した」なんてことは言わないだろうな。
また、箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓であり、卑弥呼の墓である、と言ったのは、
大正時代の笠井新也で、畿内説はいまだにこれを引きずっている。
人の批判ばかりして、それが自分に当てはまっていることに気づかない。
畿内説とはそんなものなんだろうな。
それにしても、古い、新しいを根拠にすることがそもそも間違っている。
重要なのは理論的に正しいか正しくないかだろうに。
>>919みたいなのは、根本的な思考力に欠けているからあんまりしゃべらない
ほうがいいだろうな。
>>923 五十五国はどう見ても南な訳だが・・・・・・・・・
>>930 >また、箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓であり、卑弥呼の墓である、と言ったのは、
大正時代の笠井新也で、畿内説はいまだにこれを引きずっている。
引きずってなんかいませんよ。
最近20年の考古学の新たな発見や、籠神社の海部氏家系図
の記述等で注目されるようになっただけですから。
>>930 >銅鐸は畿内の人々が自主的に廃棄した
ヨコからだがそれで何か問題でもあるのか?
まさか
「東征勢力の侵入と言うような事が無ければ大和では
いつまでも銅鐸祭祀を続けていたはずだ」
なんて馬鹿な事は言わないよな?
934 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:32:56
935 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:33:42
このループは東遷厨が死ぬまで続くのか?はたまた、偏執的九州説は次々と湧き出るのか?
邪馬台国よりこのほうが興味深い。
936 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:35:44
>>935 観光史学に半島の思惑があったりするから大変なんだよ。
>>930 >それにしても、古い、新しいを根拠にすることがそもそも間違っている。
勿論だ。
その上で言えば銅鐸と銅矛の二大文化圏が東西にあって対立していたかの如き
概念は 正しくない と言う話だなwwww
そのくせ九州説では「白鳥が言ったから…」とかビッグネームだけ挙げて
それで終わらせる馬鹿がいるのだから何とかして欲しい物だwwww
939 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:40:35
>>935 古い、新しいを根拠にすることしかできないような程度の低い人間がいなく
なれば問題は解決するだろうな。
>>935 先ず「東遷説」と言うのは
「東征神話が史実であった」とか、あるいは
「天照=卑弥呼」と言う恐らく誰もが一度は考えた事があるネタで
恐らくその需要が消え去る事は無いと思うw
あとこの板の九州説の場合、中の人は九州説というより
実際は「アンチ畿内説」で畿内説がある限りモチベーションは維持できるかとw
941 :
doonkakuka:2010/04/23(金) 18:49:06
呼んだ?
942 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:53:09
畿内説は、すぐに場外乱闘に持ち込もうとするからなあ。
>>931 「どう見ても」とはどういう意味だよ?
西が南なら海北の北はどっちだ?
魏志倭人伝の南は東でも良いのか?
944 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 19:06:49
邪馬台国の勢力範囲は、福岡〜佐賀。
狗奴国の勢力範囲は熊本〜宮崎。
魏志倭人伝では畿内説は全く説明がつかない。
ヤマト王権の神武東征とか持ち出すと、更に訳が分からなくなる。
>>937 飛鳥時代からでも現存する世界最古の王室なのに、更に何百年も遡るのは我慢ならない連中がいる。
ましてや日本の中で他に王権がなく、今後も現皇室が続くしかないなんて絶対に許せない。
そういう連中にとって古代史は学問じゃなくて政治だ。
何があっても九州王朝を主張し続け、皇室の相対化を目指すだろう。
946 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 19:23:45
947 :
畿内説:2010/04/23(金) 19:24:00
>>942 なんやと〜ッ!
表へ出んかいッ!われ〜ッ!!
戦後、史学者達は自分たちは戦前の皇国史観という「政治活動」に与し助長してきたのではないか?という自責の念に苛まれてきた。
そこを半島の思惑を持つ人、中二病的反抗期気質の人、妄想癖の人につけ込まれ、確たる証拠もない「学説」を批判することもなく傍観してきた。
しかしそれは結局アンチ皇国史観という「政治活動」の放置と助長でしかなく、戦前の轍を踏んでいるのが現状だ。
九州王朝はその最たるものだろう。
949 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 20:15:05
>>892 >笑止
なんだ、結局カン違いしてるのがわかってないんだね。
しかし画文の件はこの東遷厨の言う事を丸呑みすると意味分からん話になるんだよなあ…
>>757 >日本と朝鮮で30面弱の同型鏡があるなかで、「伝楽浪が偶然にも最も古い」という確率は5%以下。
>「伝楽浪は中間の時期のもの」という確率がもっとも高い。
楽浪鏡が中間時期のもの…とするなら
その兄弟鏡を出した萩原墳はいつ頃の築造か?って話で
その、本人言うところの「30面弱の同型鏡」の中の中間ぐらいとすると
定型化された大型古墳がバンバン造られた頃の物なのか?
先の「まばら理論」に続き、今回も難解極まりない理論だなwwwww
まあ神獣鏡自体が2世紀後半から3世紀にかけて登場して流行した鏡であって
それが4世紀も半ば頃で無いと日本に伝わら無かったと言うのは
余程のウルトラCでも出さなければ無い話だろうが
初期の画文を公孫氏からもたらされた物とするなら
景初の邪馬台国の魏への朝貢の意味を考えると面白い。
畿内説なら、公孫氏が滅ぼされるのを目にしたヤマトは
次は自分の番かと大慌てで魏に接触した。
九州説なら北部九州が起死回生の一手として魏に朝貢
外交においてイニシアチブを取り戻し
魏にしても公孫氏の手垢のついたヤマトより
北部九州の方を選択したとか?
…それなら仮に魏が当時の日本に既にヤマトを中心にした勢力が起きていた事を知っていても
北部九州と冊封関係を結んだとするに無理が無い・・・とか?wwwww
953 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:24:09
八幡と書いて「やま」と読む。邪馬壱国とは八幡で一番大きい国という意味。
954 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:41:13
>>953 ほほう、邪馬台国=岩手「八幡平」説か。鯨統一郎だな。ww
955 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:45:05
>>909 >この本って、1973年初版で
73年ってのは文庫版のもの。初出は1965年。
「当時第一線で活躍している日本史の学者たちに一人一冊ずつ「おもしろい」歴史を書いてもらって
通史をつくろうとする、当時としてはかなり思い切った試みが行われた。
中央公論社の『日本の歴史』全二十六巻がそれである。昭和四十年から刊行されたこのシリーズは、
歴史ものとしては空前のベストセラーになった。」
(武光誠 「邪馬台国と大和朝廷」)
957 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:19:46
>>956 65年かあ…
松本清張が古代史に本格的に参戦のきっかけになった短編「陸行水行」が
63〜64年だからねえ…
なるほどベストセラーになるべき時代のニーズってあったんだろうな。
>>930 >銅鐸の消滅を結局どう説明するのかな。
難しいですね。明快な結論は出ていないんじゃないでしょうか。
銅鐸の終焉は出雲・吉備が最も早く、後期後半。次いでヤマト地域、と想定されます。
出雲・吉備では次いで大形の首長墓が出現しています。
ヤマト地域ではややタイムラグがあって纒向に大形の墳墓が現れます。
これに先立って前方後円形墳丘が存在するのが讃岐・播磨・阿波です。
959 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 00:41:15
>>958 >銅鐸の終焉は出雲・吉備が最も早く、後期後半。次いでヤマト地域、と想定されます。
銅鐸の終焉(埋納)時期については未だ定説は出ていないと思う。
だが貴殿の仰る「最も早く、後期後半」は、かなりおかしいのでは?
見解を出している研究者の中では中期末や後期初頭とする意見が多いように思う。
吉備はよく知らないが、出雲が早いという点は、きっとその通りだろう。
>>959 >「最も早く、後期後半」は、かなりおかしいのでは?
んー、そうですね。一応、これソースは「邪馬台国時代のツクシとヤマト」
4 銅鐸の終焉と大形墳丘墓の出現 寺沢薫 です。
ここに載せてある「表1 破砕銅鐸一覧表」には
島根県出雲市青木遺跡・突線鈕2or3式・飾耳1・(出土)四隅突出方形墓主体部・(廃棄時期)後期後葉
島根県松江市西川津遺跡・扁平鈕式・身、鰭部片1・(出土)5区B包含層・(廃棄時期)後期後葉(下限)
島根県青谷町上寺地遺跡・ 突線鈕4or5式・身部片・(出土)包含層・(廃棄時期)後期末(下限)後葉
とあり、このことからおそらく、
「かつて・・・中期末段階での銅鐸のマツリの終焉を想定し・・・たが、
この地域の銅鐸のマツリの払拭・・・はむしろ後期後半期のなかにある」(本文)
という(慎重な)言い方をされてるんだろうと思います。
で、とりあえずそのまま「後期後半」と書いたんですが・・・。
こんなするどいツッコミが来るとは思いもせず。
961 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:21:13
近畿地方周辺の銅鐸と出雲の銅鐸を一緒にしていいものなのかな。
962 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/24(土) 01:21:38
>>958 同意
追加すると、銅鐸の終焉が早いのは讃岐・播磨もだ。
出雲以外のどの地域でも前方後円形墳丘の出現直前に銅鐸が消えている。
銅鐸の消滅の結論は出ているのではないのかな?
963 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:29:46
前方後円形墳丘への祭祀に信仰形態が切り替わった、と。ww
964 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/24(土) 01:38:57
>>962の訂正
大型の前方後円墳出現が弥生後期後半
小型の前方後円墳丘出現は弥生後期前半
近畿瀬戸内地方周辺の銅鐸と出雲の銅鐸を一緒にして考えるのはまずい
965 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/24(土) 01:46:26
信仰形態の切り替わりは、支配者の切り替わり
他宗派の排除がおきる
966 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:58:55
■「河内の馬飼い」検証 四條畷・蔀屋北遺跡 府教委が報告書
(2010年4月23日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100423-OYT8T00104.htm 府教委は、古墳時代に馬を飼育した「河内の牧」とされる四條畷市にある蔀屋(しとみや)北遺跡の発掘調査報告書を刊行した。
馬の骨や馬具、住居跡など、大量に出土した遺物や遺構を詳細に分析。日本で馬が飼育された初期の様子を明らかにしており、韓国の研究者らからも注目を集めている。
発掘調査は2001〜09年、府営下水処理施設「なわて水みらいセンター」建設に伴って実施。
報告書では、調査経緯のほか、出土した馬の骨や馬の飼育に必要だった塩を供給したとみられる土器などの図面や写真を収録、それらの科学的な分析も紹介。
朝鮮半島の影響を強く受けた馬飼い集落の約1世紀半にわたる実態について詳述している。
箱入り4分冊(A4判、計約1500ページ)とCD1枚。府立図書館などで近く閲覧できる。
財団法人中部考古学研究所(ソウル)の金武重(キムムジュン)所長は
「韓半島では馬の飼育を示す遺跡は見つかっておらず、日韓の馬文化を考える基準資料になる」
と高く評価している。
府教委文化財保護課の渡辺昌宏・文化財調査事務所長は
「日本書紀に記された『河内の馬飼い』の実態に迫り、これまで文献でしかわからなかった日本の馬文化の受容を、考古資料から学術的に検証できるようになった」
と話している。
・刊行された蔀屋北遺跡の発掘調査報告書
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100423-862122-1-N.jpg
967 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 02:05:43
>>958 「前方後円形墳丘」と言うのも微妙な言い回しだなw
で、播磨・阿波は分かるが、讃岐ってなんかあったっけ?
双方墳なら心当たりはあるが…御教示頂けるとありがたいが。
>>965 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
>信仰形態の切り替わりは、支配者の切り替わり
>他宗派の排除がおきる
短絡に過ぎるだろう。
ローマはキリスト教を信仰する民族に征服されたか?
日本は仏教を入れたとて王朝の交代劇があったか?(物部と蘇我の争いはあったが)
何処まで本当か知らないがユダヤ人の起源に関する話じゃあ
ハザールという国は王の号令の下、国ぐるみの改宗劇があったとか無かったとかw
為政者の都合で宗教の選択がなされるなんか古今東西いくらでもあるだろう。
この手のお話の根本的欠陥は
対象の自主的能動的な宗教・祭祀形態の選択・移行を最初から無視している点だなw
このかつての騎馬民族征服王朝説に通じるロジックを
逆に言えば
畿内ヤマトは東征のような征服劇が無ければいつまでも銅鐸祭祀を続けていた。
…と言うなんとも馬鹿げたお話だwwwww
>>958>>959>>960>>961>>962 >銅鐸
銅鐸の出土状況は単体か複数か、或いは他の青銅器(銅矛・銅剣・銅戈)と共出か、等の他に
・完形で出土か
・破片で出土か
といった違いも見られるので、銅鐸祭祀終焉の理由や時期などあれこれ区別して考える必要がありそう。
970 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:14:14
>>955 これは築造当時国内最大規模だから吉備王朝があったという証拠だな。
吉備の王族がヤマトと同等の力を有していたとすると、中国地方にはヤマト王権の支配は及んでいなかったはず。
ヤマト王権は5世紀までただの関西地方豪族に過ぎなかったんじゃないか?
972 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:32:43
>>971 それはヤマト王権の天皇陵。(ミサンザイ古墳)
造山古墳も実は天皇陵なのか?
またはヤマトと並立した吉備王朝があったということなのか?
ただ単に巨大墳丘墓発祥の地の意地でデカイのをつくってみただけなのかw
973 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:35:14
これは吉備王朝が東遷して大和政権を打ち立てたという証拠だな。
吉備の王族が九州から逃れて来たかつての大国である九州王朝の皇子神武を
大王として担ぎあげてヤマトに攻め入り、近畿以北を支配していた長髄彦の勢力を
ヤマトから追いやって、九州から近畿地方に及ぶ大国に成長したということだ。
974 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:36:28
邪馬台国→奈良
くな国→吉備
2王朝が緩やかな形で5世紀まで続いていた?
975 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:38:32
>>973同意。
特殊器台の分布をみれば、吉備王朝がヤマトを征服したことは明らかである。
976 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/24(土) 10:41:33
>>968 あなたの論点は見当違い
少なくとも言葉のすり替えはやめようね
>>969 >銅鐸祭祀終焉の理由や時期などあれこれ区別して考える必要がありそう。
その通り。
埋められ方埋められた場所地形等の出土状況も重要。
977 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 10:42:30
>>975 特殊器台と言えば弥生時代国内最大の墳丘墓で前方後円墳のプレタイプと言われている
楯築弥生墳丘墓。
特殊器台はここで生まれたらしいね。
巨大墳丘墓といい特殊器台といい吉備の文化なんだよな。
少なくとも吉備がヤマト建国に中心的な役割を果たしたことは間違いないでしょう。
ヤマトでも吉備の王を祭る祭祀方法が取り入れられているわけだし。
造山古墳と石津ヶ丘古墳
つまり邪馬台国は瀬戸内東部の国という事です。
吉備に大きな連合国家があったのは確かなことでしょうね
そしてそれは出雲や畿内にあった連合国家を絶えず脅かしていたことでしょう
981 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:36:23
というか、日本を統一したのは吉備王朝の末裔でしょう。
982 :
水銀厨:2010/04/24(土) 11:37:12
倭人伝のいう女王国連合が瀬戸内諸国、丹波や
出雲といった国でしょう。
倭国大乱の舞台が瀬戸内海なのもそれで説明がつきます。
ここの制海権を争う戦いだとすればね。
畿内のヤマトが女王の宮がある場所。
背景には丹の山があるし。
吉備の楯築墳丘墓から30kgの水銀朱が出土した+女性と思われる埋葬者の歯が検出されたことは何を意味するのか?
>>967 >讃岐ってなんかあったっけ?
今回は厳しいツッコミが多いなあ。
「弥生時代の大形墳丘墓や巨大墳丘墓の成長は現状では認めがたい。
(中略)庄内(新)〜布留0式併行には空港跡地A墳墓群ST-01、B墳墓群ST-05の
纒向型前方後円(方)墳?へと続く。なお、中期末ないし後期初頭の
綾歌町平尾二号墳丘墓、三号墳丘墓の大形の特定家族墓Bがすでに前方後円形を呈しているとの指摘もあるが、
サヌキに置ける前方後円形墳丘墓は庄内式併行期を通じて確実な例はなく留保する。」
(前掲書)
>御教示頂けるとありがたい
書き写してるだけですから、「情報よこせ!」と言ってもらえれば結構。
985 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:42:48
倭国大乱で吉備が勝利し、更に東国を制するために、四方を山に囲まれ守りやすい奈良盆地に都を移した。
こういうシナリオ以外に考えられません。
>>985 全部は同意しかねるが、
奈良盆地というが重要という点は同意。
大陸からの防衛を考える上で北九州では怖い。
吉備では平野が狭いし、海が近いのは守りの点では怖い。
守りを考えると奈良盆地という土地が重要であると思われる。
弥生時代後期以降、吉備の影響力が拡大していくことをみると
吉備の東遷説は否定できない。
箸墓古墳登頂から特殊器台が出土している点も無視できない。
988 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 11:53:16
989 :
水銀厨:2010/04/24(土) 11:54:52
>>985 私も殆どその説ですが、ヤマトに集中したのはやはり
丹の存在だと思いますね。丹波からの日本海側のルートも
あったでしょうから。
>>980 >それは出雲や畿内にあった連合国家を絶えず脅かしていたことでしょう
出雲と吉備にはつながりがあったと思われます。
西谷三号墓(島根県出雲市)の墳頂部の埋葬施設から、
吉備からもたらされた特殊壷、山陰東部のものと見られる器台・高杯・把手付短頸壷が出土しており、
このことは、葬送儀礼に、吉備の首長や山陰東部の首長も何らかの形で参画していたことを示すのでしょう。
>>976 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
>少なくとも言葉のすり替えはやめようね
つまらない言い逃げだな。
畿内ヤマトによる「自主的能動的な宗教・祭祀形態の選択・移行」の可能性があれば
信仰形態の切り替わり=支配者の切り替わり
と言う等式は成り立たない。
支配者が変わっても信仰・祭祀を前の支配者からそのまま引き継いだ可能性も考えれば
「必要条件」ですらない。
「変化が外部要因でしか起こりえない」と言う条件があって
始めて
「信仰形態が変わったから支配者が変わった」
と言える。
頭を冷やして考えれば
子供でも分かる理屈だ。
992 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/04/24(土) 12:22:54
993 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:26:17
誰か次スレ立ててください。
当方スレ立て規制中でうまくいかない。
995 :
水銀厨:2010/04/24(土) 12:51:04
乙です、埋め。
996 :
水銀厨:2010/04/24(土) 12:52:29
生め
997 :
水銀厨:2010/04/24(土) 12:53:22
梅
998 :
水銀厨:2010/04/24(土) 12:54:28
膿め
999 :
水銀厨:2010/04/24(土) 12:55:13
倦め
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1001 :
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。