死刑制度に関するよくある勘違い

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1観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA
死刑制度に関するよくある勘違い

その1「死刑には抑止力がある」
刑罰の抑止効果は「比較的正常な判断が可能な犯罪」においては認められる。しかし正常な判断ができない精神異常・錯乱・深い思い込み・洗脳状態で為される殺人等の重罪についても同じ有効性を当て嵌めるのは、拡大解釈による錯誤
「死刑があれば殺人を思い止まる人がいる」という見解は、以下に詳細を示すとおり「死を恐れ遵法精神に溢れる一般人の自己投影」「犯罪心理学に疎い善良な市民が抱く希望的観測」「気が触れる程の強烈な殺意体験のない幸福者による楽観主義的錯覚」である
「自分たちが理解出来ない存在(凶悪犯)は排除して良い」という理屈の裏には「凶悪犯の心理など理解したくない」という怠慢もある

−衝動的な殺人について−
怨恨による発作的衝動的な殺害の瞬間は、猛烈な快感に我を忘れ死刑はおろか逮捕すら頭にない。恐怖を回避する場合も、目の前にある恐怖に比べたら死刑など脳裏を掠めもしない
突発的なケースでは概して発想が偏狭で近視眼的になるので、己の死刑の可能性を考え始めるのは専ら殺害後か事件発覚を知った後、若しくは逮捕後である
本当に死刑に怯え始めるのは早くても殺害直後。まだ事を起こしてもいないうちから真剣に「死刑が怖い」と戦く者はいない
「犯行前に本気で死刑を恐れない」ということは、抑止にならないということである。尤も、事前に心底から恐怖するだけの豊かな感性と想像力があれば、元より殺人を余儀なくされるほどの視野狭窄に陥ることもなかろう

−計画的な殺人について−
計画的なケースでも「バレないor逃げ遂せるor証拠ないから不起訴・無罪or有罪でも酌量され死刑はないor死刑上等」と思い込んでいる場合は、「死刑の」抑止力は働かない
計画の段階で、「死刑だけは避けたい」という思惑が同じ自己保身からくる「発覚だけは」「逮捕だけは」より優先されるとも考えにくい
何故なら「少なくともバレなければ絶対死刑にならない」ので、考慮するのは発覚防止のみでよいからである(事実、犯罪者はこうした「自分に都合のいい解釈」が好きである)
「バレない」「逮捕されない」と思い込めば「死刑になるかも」まで考えが至らず(仮に至っても中途半端)、逆に途中で「バレるかも」「逃げ切れる自信がない」等と思い止まったなら、抑止しているのは死刑ではなく「警察権力」「世間の目」である

−死刑にならないから殺人した、という発言について−
従来の未成年や廃止後に見られるであろう「死刑にならないから殺害した」という主張は、「真の動機を誤魔化す為の口実、奇を衒った虚勢、歪んだ自己顕示欲の現れ」のいずれかである
殺人の動機には怨恨や所有欲、恐怖回避など様々な背景・目的があり、それらを差し置いて「死刑制度の不存在」が殺害動機になることはない(逆に「死刑制度の存在」を動機にした拡大自殺は実在する)。その他詳細は補足を参照

−死刑になりたくないから殺人しなかった、という発言について−
「死刑がなかったら殺すのに」「こんな奴殺して自分が死刑になるなんて馬鹿らしい」「死刑がなければいつ人を殺すか分からない」等は、己の遵法精神の高さや憎しみの強調・アピールである
彼らが本当に恐怖しているのは「逮捕や相手の反撃や殺人行為そのもの」。無意識的に自らを誤魔化しているので、多くの場合自覚がない
殴り殺そうとする最中ふと我に返って思い止まるのは、「これ以上やったら死刑になるかも」ではなく「これ以上やったら相手が死ぬかも」と考えるからである。それも「冷静さを取り戻した」のが、思い止まった主要因。このことは全ての衝動殺人未遂に言える
本当に「逮捕・懲役は覚悟の上だが死刑だけは避けたい」「相手の死ではなく己の死刑が怖い」なら、犯行後自ら救急車と警察を呼び自首して捜査に全面協力し、裁判では終始頭を垂れていれば良い
そうしないという事は、実際には死刑以外の事柄(逮捕、世間体、殺人行為そのもの等)を恐怖しているか、さもなくば「元々さほど切迫した殺意ではない」ということである
つまり「死刑」とは分かりやすい象徴・大義名分に過ぎず、殺害を止める真の理由は「必ず」別に存在する(「金が欲しくて強盗」の弁明が、真に欲しいのは金そのものではなく「金で買える食料・高級ブランド、借金苦からの解放等」なのと同じ)

続く
2観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:12:19 ID:KyHVtMwK0
勿論上述は、殺人を図る者が少なくとも「必ずしも死刑になるとは限らない」という現状を認知している、という前提の上に成り立つ
もし「殺人したら必ず捕まり必ず死刑になる」と教え込まれそれを微塵も疑っていない世間知らずで純粋な余り賢くない者が実在し(要証明)、彼が「死刑になりたくない」という理由だけで殺人を止めた(要証明)なら、彼に対して抑止力が働いたと言えるだろう
ところが彼ほどの単純馬鹿なら、代わりに「殺人したら必ず一生刑務所暮らしになる」(その他本人が嫌がる条件。嘘でも可)と教え込んだとしても、何ら変わらない抑止効果が認められるのである(つまり死刑は必須ではない)

実際に殺人を思い止まるのは「死刑になるかも」のような不確かな基準ではなく、次のような理由からである
@良心が痛む、人としてやってはいけない、周囲に迷惑を掛ける、世間体が、マスコミで取り沙汰されるのは恥、殺害せずとも問題解決の手はある筈、時間と共に冷静になった、まだ我慢できる、人生まだやり直せる、逮捕されたくない、殺人は不快、反吐が出る、e.t.c.
これらは裏を返せば、
A良心?ナニソレ、一度でいいから人を殺したい、周囲に迷惑を掛けているのは寧ろ相手、世間体?糞食らえ、ワイドショーで騒がれたい、最早殺す以外に手はない、時間と共に憎悪が募る、もう我慢できない、どうにでもなれ、逮捕されたい、殺人は快楽、興奮する、e.t.c.
死刑の抑止力を証明するには、本心からAを肯定し@を否定している殺人計画者が「やっぱり死刑はイヤ」という理由だけで思い留まった実例や、「死刑の不存在が凶悪犯罪起因の十分条件になる論拠」を一つ提示すればよい
現実には、その科学的根拠がないことに気付き始めた国や地域が、次々と廃止しているのである

その1の補足1「死刑がなかったら私は誰々を殺す(殺した)。これは死刑の抑止力の証明」
「私は法律を守る正しい人間だ」という善人アピールに過ぎない。死刑を回避する手段は幾つもあり、日本の場合、仮に殺しても99%死刑にならないのが実態。この手の発言者が本当に怖れるのは、死刑ではなく警察権力or世間体or面倒な事態or自由を束縛されること等である

その1の補足2「凶悪事件の被告人の殆どは死刑を回避したがる。これは死刑の抑止力の証明」
警察官・刑務官・弁護士・宗教家等と接触するなどして冷静さを取り戻せば、死を恐れるようになるのは自然なことである。そもそも幾ら抑止が働いたところでそれが犯行「後」では意味がない。よって「被告人が回避したがる」は抑止力の根拠にならない

その1の補足3「拳銃を突き付けられたら殆どの犯罪者は死を恐れ犯行を止める。これは死刑の抑止力の証明」
犯罪時に目の前に絞首台がある訳ではなく、拳銃のように死や痛みへの恐怖を直接的に連想させる力は死刑にはない。また拳銃を突き付けられるのは専ら犯罪を犯した「後」であり、これも抑止力の根拠としての意味がない

その1の補足4「18歳未満は死刑にならないからと犯行に及んだ者がいる。これは死刑の抑止力の証明」
「18歳未満だから死刑にならない」という発言は、「自分が死刑になると知ってたら殺したか」「死刑になってもいいのか」「お前が大人なら死刑になるところだぞ」などと咎めてくる知人・警察・弁護士・裁判官・被害者遺族等に対する奇を衒った知識自慢に過ぎない
その本心は「少年法くらい知ってますが何か?w」「よく考えてから物を言え」「愚問を発するなバ〜カ」。言われた大人が目を丸くすれば、一層自己顕示欲を満足させ悦に入るのがオチ

その1の補足5「仮に全ての刑罰を死刑にすれば犯罪は確実に減る。これは死刑の抑止力の証明」
前半は正しい。軽犯罪において厳罰化に抑止効果があることは自明である。しかし「軽犯罪に当て嵌まるから重犯罪にも当て嵌まる」という拡大解釈は「軽犯罪者も重犯罪者も同じ心理状態下」という短絡的で非現実的な極論を前提にしているために起こる錯誤である
軽犯罪に死刑が効くのは「罰則のデメリットに対して行為のメリットが釣り合わない」「軽犯罪を企図する者が比較的正常な判断力を有する」からであって、正常な判断力に欠けた者は刑の軽重に関わらず、バレないだろうと思い込むか死刑覚悟の上で犯罪する

その1の補足6「公開処刑すれば抑止力になる」
免役のない一般市民には一時的に効果があるが慣れるとそれが当たり前になって余興化し、次第に効果は薄れる。逆に「気に食わない存在は殺してしまえ」という不寛容で排他的な風潮が蔓延し人々の心が荒廃し、却って凶悪犯罪が増す
また公開処刑を見た犯罪予備軍が「自分もあんな風に処刑したい」等と連想し、新たな犯罪の引き金にもなり兼ねない

続く
3観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:13:00 ID:KyHVtMwK0
その1の補足7「愛知女性拉致殺害事件の川岸は死刑になりたくなかったから自首した。これは死刑の抑止力の証明」
自首の理由は「良心の呵責に耐えられなかったから」である。裁判でも「命乞いの声が頭から離れない。今も夢に出る」「自分の車の中で殺人が起きた事が耐えられない」等と語っており、罪悪感が募ったための自首と考えられる。このように犯行後に後悔する者は珍しくない
他の二人の蛮行を目の当たりにして目が醒め、「いつか自分もこうして殺されるかも」と恐怖したことの裏返しが「死刑になるのが怖かった」と言わせた可能性はある(実際、自首直前は意見の食い違いから仲違いし「犯行後の二人の言葉に怒りを覚えた」と述べている)
もし純粋に己の死刑を回避したいのなら、殺害後の時点でも共犯者同士互いの素性すら知らないのだから自分だけ立ち去って行方を眩まし、それでも気になるなら匿名で警察に情報提供すれば良い(現に本人は当時「ネットは匿名だからバレない」とも思っていた)
それをせずにわざわざ自分の身柄を預けたのは「純粋に死刑になりたくないからではない」ということである
彼はその後メディアの取材に「自首は正直言って気の迷い。なんとなくが正しいかも。死刑になりたくなかったからではない。非常に疲れていていろいろ考えて電話した。善が少しだけ悪に勝った」等と述べている(鵜呑みには出来ないが犯罪心理の観点から一定の信憑性はある)
なお彼らの次の殺人を未然防止したのは、川岸の自首や死刑ではなく「被害者が正しい暗証番号を教えなかった(結果犯行意欲を削いだ)から」である(被害者の母親もこう述べている。川岸の逮捕自体、殺人前の別の窃盗未遂の共犯者の逮捕で時間の問題だった)
また判決後も「被害者は運が悪かっただけ。今でも悪い事はバレなきゃいいという気持ちは変わらない」と述べている。誰よりも死刑をリアルに感じている筈の者ですら、死刑は抑止にならないという証左である
犯行後に「逃げ回るのに疲れた」「殺人行為を積み重ねるのが怖くなった」「自分を止めて欲しい」といった心理が自首行動に向かわせることは知られているが、「死刑になりたくないから」が公式に認められた例はない。「誰でも死は怖い」は死を恐れる善良な市民の錯覚である

その1の補足8「死刑を執行したり死刑執行を早めれば殺人が減るという研究結果がある。これは死刑の抑止力の証明」
その研究結果が正しいとすれば、抑止力があるのは「死刑執行」ではなく「死刑執行報道」(何人執行しようが周知されなければ効果がない)。外部との接触を一切断絶して死刑執行を適当な時期に報道しても同じ効果が期待できる。つまり「執行必須」の結論に至らない
なお、都合のいいデータを拾い集めて辻褄を合わせれば幾らでも「偽科学論文」を仕上げることは可能なので、研究結果があるというだけでは抑止力の根拠にはならない。因みに「日本では各新聞が死刑報道をした後数ヶ月間は殺人が増える」という研究結果もある

その1の補足9「名古屋アベック殺人事件では19歳のAが17歳のBに”死刑にならないからやれ”と言って殺人した。これは死刑の抑止力の証明」
希望的憶測が生んだガセネタである。Aは実行犯で逮捕直後に「未成年だからすぐ帰れる」と思っていた節があり、公判中に「(自分は)少年だから死刑にならない」と述べている(つまりAは少年法を熟知してない。実際、一審では死刑判決を受けた)
仮にAがBに「お前は死刑にならないからお前が殺せ」と教唆し殺害させたとしても(共同正犯でAが死刑になる可能性が有るがそれはさておき)故意犯には違いなく、実行犯が変わるだけで殺害が起こっている以上「抑止力がある」とは言えない

その2「日本は死刑制度があるお陰で平和で安全」「社会秩序を保つ為に死刑は必要」
「日本は九条があるお陰で平和」と同類の空論。日本の平和は日本人の持つ寛容や謙虚さ、協調性、和を尊ぶ心、発想の柔軟性がその要因である
死刑にはそれを回避するための逃亡や完全犯罪の策略、目撃者の口封じや拡大自殺を誘発する効果があり、秩序どころか犯罪の陰湿化隠蔽化(捜査の長期化)と凶悪化を招く
犯罪件数は社会的状況その他種々の情勢・要因に拠って増減する。例えば刑務所内の生活をホームレスよりも優遇すれば、刑務所入りたさに犯罪する者が増えるのは自明。統計を読むときはその裏にある因果やデータ要素の定義等を正しく見極めることが肝要である
アメリカでは存置州より廃止州の方が殺人発生率が低い。廃止州データにワシントンD.C.の異常値を含めない場合、存廃州の数値差は更に広がることに注目
http://www.deathpenaltyinfo.org/deterrence-states-without-death-penalty-have-had-consistently-lower-murder-rates

続く
4観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:13:42 ID:KyHVtMwK0
その2の補足「死刑が存置されていれば凶悪事件は減る」「廃止されれば凶悪事件が増える」
実際には大衆の一部に以下のような心理メカニズムが働くため、彼らの態度がより排他的で横柄かつ一時の感情に流されがちになり、結果として差別的言動が横行して揉め事や争いが増え、凶悪事件が増える
A.「存置されているためちょっとした刺激ではさすがのキチガイも一線を越える可能性があるから、挑発しても大丈夫だろう」
B.「万が一自分が殺されても国家が復讐してくれる」
C.「国家ですら死刑を認めているのだから、社会不適合者に生きる資格はない」
D.「大事件を起こして死刑になったら、自分の名前が歴史に残る。生きることからも解放される」
逆に廃止されている場合は以下のような心理メカニズムが働くため、人々の言動がより慎重になり態度が軟化し、結果として差別的言動が抑えられ揉め事や争いが減り、凶悪事件が減る
a.「廃止されているためちょっとした刺激でキチガイが一線を越える可能性があるから、なるべく挑発しないようにしよう」
b.「万が一自分が殺されても国家が復讐してくれないので死に損」
c.「国家ですら死刑を認めていないのだから、社会不適合者にも生きる資格はある」
d.「大事件を起こして一時的に世間を騒がしても一生独房に閉じ込められ自由を奪われる」

その3「廃止すれば、三食屋根付き医療費無料の刑務所に入る為に殺人をする者が現れる」
越冬や堕胎を目的とした常習犯は実在するが、刑務所に入るのが目的なら窃盗や傷害等軽犯罪で可能。医療費無料も生活保護を受ければ実現でき、入所の為だけにわざわざ危険を冒して殺人する者はいない
本人の意思に反して無理矢理出所させる制度でない限り、「何度も窃盗する手間を省く為の殺人」もあり得ない
ホームレスによる犯罪を防止したいならまずホームレスやホームレス支援者への支援を手厚くすべきである。それをせずして「死刑を存置すべき」と主張するのは論理の飛躍

その4「廃止すれば被害者やその家族の気持ちが収まらない」「死刑を廃止すれば憎悪を募らせた遺族による復讐・私刑執行者が増える」
その執行者を捕らえるまでである。「思い通りに加害者が死刑にならないのなら自ら手を下す」という発想は殺人犯と何ら変わらない。また既に殺人犯の殆どが死刑にならない現状にあっては杞憂。遺族側の被害感情に十分配慮した裁判を行うことで対応可能である

その5「犯人が死刑されてやっと前向きに生きられる人もいる」「遺族が犯人を死刑にしたがるのは自然な感情」
憎い相手の死を願うのは殺人犯の異常心理にも通じており、同情こそすれ肯定はできない。憎しみは自然であっても必然ではなく、死刑にしたがらない/生きて償って欲しいと願う遺族もいる
対話を重ねることで囚人が更生し遺族共々心のケアを図れたケースもあり、死刑はその可能性を奪うことにもなる

その6「死刑にしなければいつ再犯するか分からない」「死刑にすれば100%再犯することはない」
分からないなら安易に釈放しないように制度を改めればよい。死刑が再犯防止の唯一策ではない。また、死刑にすれば「悔い改め更生すること」「生きて償うこと」も100%できなくなる。この手の主張は未然防止策に対する怠慢の表れに過ぎない

その7「死ぬまで凶悪犯の面倒を見るのは税金の無駄」「死刑に処するのが国家の責任」
寧ろ更生するか死ぬまで凶悪犯の面倒を見るのが、国家の責任である。死刑は、凶悪事件を未然防止できなかった国家による「臭いモノに蓋」式の責任逃れに他ならない
凶悪犯はある意味、殺人を犯さなければならないほどの不幸を背負い込み精神を病んだ哀れな被害者である。犯行に至るほどの状況に陥る前にこの一次被害者を救えていれば、二次被害者は生じない
一次被害者を救わず二次被害者のみを救おうとするのは偽善的自己満足に過ぎない。このことは凶悪犯に限らない

その7の補足「加害者は被害者の基本的人権の大根幹である人命を侵害したのだから、同じく加害者の人命を国家が侵害するべき。それをしないことは被害者の人命を蔑ろにしているに等しい]
加害者が人命侵害という愚を犯したからと言って、同じ愚を国家(有権者)が犯して良いという理屈にはならない
そもそも罪を犯した以上どう転んでも「加害者の命は被害者の命よりも価値がない」のだから、今更加害者の人命を奪ったところで償いにならない。「加害者の人命を奪えば被害者の人命がチャラになる」「犯人を殺せば一件落着」という発想こそ、被害者の人命を冒涜している

続く
5観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:14:23 ID:KyHVtMwK0
その8「更生の余地がない以上生かしても無駄」「三つ子の魂百まで。人は変わらない。凶悪犯罪者に更生は不可能」
更生の余地の有無は他人はおろか本人でさえ判断できるものではなく、いつ何時何をきっかけに改心し始めるかは誰にも分からない(分かるというのは傲慢)
可能性が0でない限りあらゆる手段を講じて更生を促しその結果を後世に伝えるべきであり、もし現代医学では手の施しようのない先天的な脳障害等があれば、尚更その治療法対処法を確立する為の研究に活用すべきである
なお三歳児は意図的に殺人できない。人の心は変わらないという主張は、「自分を変えることすら困難な者」による自己投影に過ぎない

その9「命には命を以て償うべき」「人命より社会正義を優先すべき」
「死が償いになる」という価値観は死を美徳化した自己満足的発想であり、3000年前の「目には目を」同様、安直で時代錯誤な思想。「死んでお詫びを」は、責任追及され非難糾弾される屈辱・生き恥を晒す苦痛や、憎い相手を殺せないジレンマ等からの現実逃避に他ならない
正義(相対的主観)を人命(絶対的客観)より優先するということは、テロリズムを肯定するということ。そのような発想を是とする者が多い社会では、当然の帰着としてその反映としてテロや犯罪が止まない

その10「死刑には生命の尊厳に対する教育的効果がある」
死刑制度を持つ国家は「理由があれば殺人も正当化される」という価値観を容認し、自らそれを実践していると言える。「理由があれば殺人OK」は殺人犯やテロリストとも共通する思想であり、人命を尊んでいるとは到底言い難い
「都合の悪い存在を抹殺したがる国家/国民」はその反映として「都合の悪い存在を抹殺したがる犯罪者」を生む。国家が率先して自国民に対し「如何なる理由があろうと人命を奪う権利はない」と規範を示してこそ、教育的効果が図れる

その11「冤罪は死刑でなくても起こる。取り返しがつかないのは命だけではなく時間も同じ」
間違いではないが、「冤罪をなくそう」という議論にはなっても死刑制度を存置する理由にはならない
そもそも「時間はあればまだやり直しが利くが、命は無くなれば二度とやり直しが利かない」のは子供でも分かる理屈。「命あってこその時間」であり、時間と命を同列に扱うのは無理がある

その12「万一私が貴方を殺してもあなた方は私を殺すな、という廃止論の理屈は理不尽」
既に業務上過失致死等で法制化されている通り、誰もが等しくその条件下にあれば何ら理不尽ではない。この主張はまた、殺人犯の極一握りしか死刑に処せられない現実にもそぐわない

その13「廃止論者は、家族が殺されたら簡単に存置論に寝返る」
それは似非廃止論者。喩え愛する家族を八つ裂きにされても、そんな蛮行に及ばざるを得なかった加害者の生い立ちや境遇を思いやるのが、真の廃止論者である(これは目の前の蛮行を止めないということではない。罪を犯させないようすることが加害者の為)

その13の補足「元日弁連副会長の岡村勲氏は、妻を殺され廃止論者から存置論者に鞍替えした」
「人権派弁護士=廃止論者」というステレオタイプが生んだ思い込みである。岡村氏は自称「元人権派」であって元廃止論者ではない。また日弁連は「廃止論者でなければ副会長にさせない」ほど閉鎖的で人権意識の低い団体ではない
しかも当事者になって初めて「被害者や遺族の悲惨さを知った」と述べており(全国犯罪被害者の会HP)、その想像力の乏しさは似非廃止論者どころか似非人権派と言わざるを得ない。彼は「家族を殺されて漸く一端の人権派弁護士になれた」のである

その14「廃止論者は、自身が死刑になりたくないから廃止を主張している犯罪予備軍」
それも似非。実際にはこのような「楽で都合のいい解釈」を好む者の中にこそ、犯罪予備軍は多くいる

その15「廃止論は偽善」「廃止論は宗教」「廃止論者はキチガイ」
真の廃止論は合目的的合理主義。そもそも善悪で判断しないので、「偽善」はあり得ない。寧ろ被害者のみの立場に立って殺人犯を非難する行為、即ち「こんなにも加害者に憤怒して被害者を庇う私は価値ある人間だ」という善人アピールこそ、偽善の最たるもの
殺人犯に対し「なんて思いやりのない奴だ」と批判する者は、その批判を「殺人犯を思いやれてない己」に向けるべきである
存置派の主張は感情論に終始し得てして矛盾が多い。論理的整合性が無いにも関わらず「それでも抑止力はある」「存置すべき」と思い込むのは現実逃避であり、最早一種の宗教(存置論ならぬ存置教)。そしてそんな存置教信者ほど「廃止論は宗教」と言いたがる(人は鏡)

続く
6観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:15:06 ID:KyHVtMwK0
その16「国による合法殺人を禁止すべきなら、国による合法拉致・合法監禁も禁止すべきである」
典型的な拡大解釈である。死刑廃止論は刑罰廃止論ではない。犯罪に対して警察権力や罰則が抑止力として働く事は常識であり、無くす理由がない。既存の死刑廃止国家でも刑罰全てを廃止している国はない

その17「死刑廃止国が武器を輸出するのは、一方では殺人するなといい他方では殺人を奨励しているので矛盾する」
名目上「殺害する為の武器」ではなく「自分たちの命や治安を守る為の自衛用武器」としてその需要に応じて供給していれば、何ら矛盾しない。もしその目的に適っていないとすれば、それは「武器を使う側」の問題である

その18「ドラえもんが助けてくれると思ったなどという荒唐無稽な言い逃れを述べる弁護士は、頭がおかしい」
如何に荒唐無稽であろうとも、被告人が「そのように弁護したい」と言えばその意思を尊重するのが弁護士の仕事である
「その主張は裁判では通用しない。裁判官の印象を悪くする」等と助言をしても尚被告人が食い下がれば、その意向を最大限に汲み取るのが弁護士の職務。決して弁護団が勝手に創作したり被告人の言い訳を鵜呑みにしたりする訳でもなければ、頭がおかしい訳でもない
更に言えば「ドラえもん云々が虚偽か真実か」は被告人本人しか知り得ない。「今まで言わなかったのはとても信じて貰えないだろうと思い弁護士にすら黙っていたからだ」とすれば筋も通るしその可能性は本人以外誰も否定出来ないし、現にそのような被告は他にも実在する
裁判官でも被害者遺族でもない第三者が、「殊更犯罪者の異常性をセンセーショナルに煽り立てて購買意欲を引きたがる週刊誌」等のゴシップ記事を鵜呑みにして「虚偽だ詐称だ」と断定するのは傲慢である

その19「3人も殺しているのに無罪になるのはおかしい」
「被疑者、被告人、有罪確定者、受刑者」はいずれも「=真犯人」とは限らない。犯人が誰かは、目撃者や犯人以外誰にも分からない
無罪になったのは少なくとも合理的に疑う余地があるからであって、証拠資料等を万遍なく精査した裁判官ですら判明出来ないことを第三者が分かるというのは傲慢である

その20「死刑廃止論者や、愛する者を奪われても犯人を恨まない人は、人の心がない」
「人の心」とは、「如何に理解不能な相手であってもその存在を許すことの出来る寛容な心」である。「許し難い相手は(私刑なり死刑なりして)殺してしまえば良いという不寛容な心」こそ人の心に非ず「獣の心」に近い。これは殺人犯も死刑推進派も同じである
相手に人の心がないからと言って、己も同じように人の心を忘れて良い理由にはならない。寧ろ「己に人の心が欠けているからこそ、相反する相手に人の心がないように見えるのだ(人は鏡)」ということに気付くべきである
殺人犯が現在人の心を持っていなくても、人間である以上人の心を取り戻す可能性は0ではない。それは人の心を見失っている死刑推進派もまた同じである
今の時代いつ何時何が起こるかは誰にも分からない。生死は天命と覚悟の上で毎日を生きるべきである。愛する者や己の生への執着は、エゴの発現に過ぎない
犯人を憎まない人は「罪を憎んで人を憎まず」「人を呪わば穴二つ」「物事は全て必然。意味のないことは起こらない」の意味を理解し「己のエゴに執着せず、いつどのように命を絶たれても悔いのない生き方」を実践しているだけである

その21「これ(殺人現場の動画URL)を見ても死刑に反対する者は、脳内がお花畑だ」
殺人とはそもそもそういうものである。この程度の真実すら知らずに、動画を見たショックから感情的になって死刑を推進する者の方が、よほど平和ボケした脳内お花畑である

その22「廃止した為に起こる凶悪事件に関わる裁判費用と終身刑囚の養育費と被害者救済等のコスト一切を死刑廃止論者が負担するなら、廃止しても良い」
既述の通り「廃止したことが原因で起こる犯罪」は起こり得ないので負担額は永久に0円である。因みに現時点での凶悪事件に掛かるコストは「存置すべし」と主張する者も(有権者の総意として)既に負担している

続く
7観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/03/10(水) 18:15:50 ID:KyHVtMwK0
その23「加害者には被害者が受けた苦しみと同じ苦しみを味わわせるべき」
殆どの加害者は既に相当の悩み苦しみを味わっているからこそ、その苦悩から解放される為に殺人したのである
苦しみに耐えきれずついに殺人に至ってしまった者に更に苦痛を与えることは、その苦悩と事の因果を理解出来ない「思いやりと想像力に欠けた者」による報復感情の満足・ストレス発散に他ならない(まさに殺人犯と同じ)
その7でも述べたが加害者は一次被害者。社会が一次被害者の苦しみに無関心だったからこそ、一次被害者がその苦悩を解決出来ず、二次被害が発生したのである
一次被害者を無視して二次被害者のみを救おうとする行為は「二次被害者には感情移入出来るが一次被害者には感情移入出来ない」という愛と想像力の欠如した者による自己満足的偽善に他ならない(いじめ問題と同じ)

その24「社会不適合者は社会から抹殺すべき」
この思想は、同じ排他的発想で殺人をした加害者の思想と瓜二つ。このような浅はかな感情論を肯定する者が多い社会では、その反映として殺人者が多くなる。抹殺ではなくまずは「矯正すべき」である。「抹殺すべき」と考える発想も当然、その対象

その25「死刑になりたくなければ殺さなければいい。殺したのだから死刑になってもしょうがない」
殺人に至った不幸者の境遇や背景に思いが至らない幸福者の、一種の現実逃避である

その26「死刑執行をやらざるを得ない刑務官がかわいそうだから死刑廃止すべき」
それが彼らの職責であり嫌なら辞めれば良い。職業選択の自由。そもそも仕事内容は就職前に把握して然るべきである

その27「死刑廃止は時代の趨勢。EUを始め世界各国が死刑廃止しているのだから日本も死刑廃止すべき」
重要なのは「何故廃止しているのか」であって、単純に「他国が廃止しているから」という理由で廃止すべきではない

その28「人を裁けるのは神だけである。人は人を裁いてはならないから死刑廃止すべき」
裁いてならないのなら裁判所そのものを無くさなければならず、少なくとも現時点においては現実的でない。そもそも科学的根拠のない宗教観を基に廃止すべきではない。「人を裁けない」は「人を裁けば自ら裁かれる」の拡大解釈

その29「死刑賛成派は2009年の政府調査で85%もいる」
85%は「場合によっては死刑もやむを得ない」という”容認派”であって、「将来も廃止しない」という本来の”存置派”はそのうち60%である。容認派の中には「状況が変われば廃止しても良い」が34%いる。従って視点を変えれば以下のようになる。5.7%は生粋の死刑廃止派
  廃止容認=5.7+85.6*34.2=35%    廃止反対=85.6*60.4=52%
なお混乱を避けるため「死刑賛成派」は個別の事件に対して用い、制度について言及するなら「死刑存置派」と称した方が良い

その30「死刑容認派の方が多いから死刑は存置するのが正しい」「死刑容認派は年々増えているから死刑は存置するのが正しい」
「数が多い方が正しい」は単なる寄らば大樹的日和見主義で典型的な錯誤。「数が多い方が常に正しい」とは限らない

その31「死刑は殺人ではない」「国家が行う死刑と個人やグループが行う殺人は本質的に異なる」
人を殺さない死刑はない。個人やグループが私刑なら国家は公刑。本質的に同じ事である。「小集団が決めた事はNGだが、大集団が決めた事はOK」は、善悪観念の未熟な者が多用したがる屁理屈。集団の規模の大小で事の善し悪しは決まらない