1 :
日本@名無史さん :
2010/02/14(日) 20:26:28 ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 65
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1264912343/l50
2 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 20:32:30
ソ ー ス は ど こ ? |三| , -ー‐‐─-、 ,-ー─‐‐-、 /_____\ | | i. ,! | | |三| |ギコーマン| ‐-------‐!ニ!‐-------‐ /_____\ |___醤⊂ヽ i/ ̄ ̄丶.i::;三;::i../ ̄ ̄ヽi |ギコーマン|彡>:::(,,゚Д゚)ノ 卩||(゚д゚,,) | i::;三;::i |(,,゚д゚)|| Ψ |_醤油___| 彡.:(ノ::: ::: | ⊂||中濃 ヽ)::;三;:::::(ノ中濃||⊃ (゚Д゚,,)::< |:::::::::::::::::|  ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (ξ';;::;;) (ξ';;::;;)
3 :
サガミハラハラ :2010/02/14(日) 20:51:14
ソースは言わずと知れた魏志倭人伝行路記事ですよ。 正確に(東、をまちがっているなどと、ごねなければね。 記載どおり唐津から東南に行けばいいのですよ。 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。 間違いありません。
4 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 21:25:58
魏志倭人伝が正しい。 方角を間違えるなんて考えられない。 どうやって帰ったんだよ。方角間違えてるのに。
5 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 22:10:17
>>1 乙
倭人伝で卑弥呼について書かれている部分を抜き出してみると、
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、
少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、
城柵嚴設、常有人持兵守衞。
その国、もとまた男子を以って王と為す。住すること7,80年。倭国乱れ、
互いに攻伐すること歴年。すなわち、一女子を立て王と為す。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす。年すでに長大。
夫婿なく、男弟があり助けて国を治める。王となって以来見た者は少ない。
婢千人を侍らせる。ただ男子が一人いて、飲食を給し、言葉を伝えるために
出入りする。居するところ宮室・樓觀、城柵を厳かに設け、常に人がいて
武器を持ち、守衛す。
魏志倭人伝の各部分のソースとしての価値を個別に検討するというのも面白そうだね。 ソースとして正確と考えられるものから順に・・・ A 外交関係の部分・・・魏の公文書や楽浪郡からの報告書がもとになっている。 B 貢物などの部分・・・公文書を書き写しただけのはず。 C 魏や楽浪郡の役人の行動・・・魏から見て自国のことなので。 D 倭国までの道筋・・・地名が現存するので E 倭国に卑弥呼という女王がいたこと・・・外交の相手そのものなので。 F 伊都国の状況・・・遺跡、遺物が多数出土しているので。 G 倭国の官の名・・・後世に類似する名が登場するので、あてずっぽうではなさそう。 H 倭の各国の戸数・・・なんらかの記事を基にしていると思われるが、楽浪郡のかなり古い記録を 基にしている可能性もある。誤写の可能性もある。 I 倭国の風俗・・・同上。 J 細かい国名・・・同上。 K 倭国内の道順・・・そのまま読むと海の中。楽浪郡の記録とすると、基点を楽浪郡とするものと 混同しているかも。
7 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 22:32:32
次に、台与が王になった経緯を見てみると、 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉?葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、 更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。 卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩。殉葬者奴婢百余人。 さらに男王が立つ。国中不服。さらに相誅殺。当時千余人を殺した。 また卑弥呼の宗女・壱与・年十三歳を王と為す。国中ついに定まる。 この続きが梁書にある。 正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、 其後復立男王、並受中國爵命。 正始中、卑弥呼が死に、さらに男王が立つ。国中不服。更に相誅殺。 また、卑弥呼の宗女、台与を立て王と為す。その後、また男王が立つ。 中国の爵命を並び受く。
>>6 D 倭国までの道筋・・・当て推量の域を出ない。
当時の倭人の発する音→魏人の耳で聞き取って音の似た漢字で書く→暦年の転写
→現代人がその漢字を見て当時の音を類推して復元→今に伝わっている古い土地名で似た様なのを比定する
という不確定要素がありすぎる点を見過ごしがちである。
F 伊都国の状況・・・遺跡、遺物から決め手になる物は出ていない。金印とか封泥とか書簡とか。
G 倭国の官の名・・・地名と同じで復元しての比定は、当て推量の域を出ない。
H 倭の各国の戸数・・・唯一正確な情報とすべき。誤写とか水増しとか、低レベルなケチを付けるべきではない。
数値という唯一確実に伝達されている情報を疑ってはキリが無い。
I 倭国の風俗・・・実際に現地からの報告だろう。机上では創作できないリアル感がある。
J 細かい国名・・・地名と同じ。
9 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 22:56:40
畿内説で卑弥呼に比定する人が多い倭迹迹日百襲姫は、 日本書紀に四回出てくる。 まず、第7代・孝霊天皇の娘であるということ。 次に、崇神天皇の御世、災いが起きたときに、神がかりして 「我を祀れば、災いは収まる」と言った。 その言葉により、大物主を祀ると災いは収まった。 次に、武埴安彦が謀反を企てていると天皇に進言した。そして、反乱は 鎮圧された。 次に、倭迹迹日百襲姫は、大物主の妻になる。しかし、小さな蛇になった 大物主の姿を見て驚いたために、大物主は空に上り三輪山に消えた。 倭迹迹日百襲姫は、驚きしりもちをついた。そのとき陰部を箸で突き、死んで しまう。 倭迹迹日百襲姫命は大市に葬られ、その墓は箸墓と呼ばれた。 昼は人が作り、夜は神が作ったといわれている。 これらからすると、卑弥呼との共通点は全くないと言って良い。
10 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:01:56
>>6 >倭国内の道順・・・そのまま読むと海の中。楽浪郡の記録とすると、基点を楽浪郡とするものと
> 混同しているかも。
海の中にはならんよ。君の頭の中が混同しているだけだ。
11 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:03:51
>9 たしかにその手のハイクラスの巫女的存在は、九州では考古学的(平原墓その他) にたくさん確認できますし、記紀等文献を見てもずっといるわけで、その中の一人 にすぎない倭迹迹日百襲姫をなんで卑弥呼にしたがるのかわからないですね。 ただ、福永さんとか一部でどうしても箸墓を卑弥呼の墓にしたがる人がいるのも事実ですね。
>>8 >>6 は、魏志倭人伝を書いた時点でどんなソースがあったのかという視点ですよ。
魏の公文書
魏の準公文書(役人からの報告書)
楽浪郡からの報告書
その時代の人の書き物
言い伝え
戸数の記事なんかは、魏と倭国との外交文書のなかには当然に出てこない。
出てくるとすれば、楽浪郡からの近隣国の情勢の報告書がまず考えられる。
次に、倭に行った使者の報告書が考えられる。
より可能性の高い楽浪郡からの報告書は、楽浪郡を設置した当初のものもあるので、
それをそのまま引用した可能性もある。
誤写のリスクはどの部分にも存在するともいえるけど、外交関係の全体の流れが誤写で
代わることはなく、個別の名前や数が誤写によるリスクを受ける。
13 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:24:27
>>12 に続けて
戸数の記事のソースを追い求めると、倭国で誰かに聞いた情報ということに行き着きます。
だれに聞いたのかと考えると、魏の言葉を理解できる人が倭国にいたか、倭国の言葉を
理解できる人が楽浪郡にいたかのどちらかで、どっちにしろ倭国の外交ルートかそれに近い人
に倭国の情勢を聞くという流れのなかでのこと。
倭国の側としては、倭国を大きく見せたいので、数を水増しする可能性もあり、そもそも倭人の
誰に聞くかによって把握している戸数が異なる可能性もあります。
いつ戸数を聞いたのかと考えると、楽浪郡が設置された最初の頃のものという可能性があります。
しかも、書かれた数が丸すぎる数なので、おおざっぱ過ぎます。
なので、戸数はあまりあてになりません。
14 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:25:06
>>12 >魏志倭人伝を書いた時点でどんなソースがあったのかという視点ですよ。
梯儁が倭国を訪ね、卑弥呼に会っているんだ。その報告に基づいているんだよ。
いろいろな資料をつなぎ合わせたものではないな。書きぶりが一貫している。
僅か2千字の中に膨大な情報を織り込んでいる、これはかなりの文章家の書いた
ものだ。外交記事はともかく、その他は複数の資料を合わせたものではないな。
15 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:25:28
>>11 次に、畿内説の卑弥呼候補として挙げられるのは、垂仁天皇の皇女である倭姫。
しかし、倭姫も、天照大神の鎮座される場所を探し、伊勢に決めたと言うだけ
の逸話しか残っていない。斎宮の始まりと言うわけだが。
あと、神功皇后が挙げられるが、これは時代が合わない。
これくらいが記紀に登場する著名な女性と言うことなのだろう。
しかし、もっとも有力な人物から目をそらしている。言わずと知れた天照大神
なのだが、これを認めると、神武東征も認めざるを得ないというところ
なのだろうね。
16 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:29:29
>>13 東京都民一千万人と言ったら信用できない数字で、三百四十五万人とでもいった
ら信用してもらえるのかな?
17 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:37:57
>>14 普通に読むと、使者は卑弥呼に会っていないですよ。
卑弥呼は固く警護された場所にいる。
1000人の従者が固くガードしている。
即位以来弟以外に会ったことがない。
そこまでの距離もすごく遠い(100人位の使者団の移動は無理)。
渡すべき物も伊都国で全部開封して検査するシステムでした。
・・などと会わなかった言い訳がさんざん書かれています。
たぶん、伊都国で物を引き渡して、すぐに帰ったのでしょう。
それでは本国で罰せられる危険があるので、さんざん言い訳を書いたのでしょう。
その言い訳が事実とは思えないですね。
18 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:51:24
>>17 倭王に拝仮しとあるね。これは直接に会って渡したという意味だよ。
男子1人ありて飲食を給し、辞を伝えて出入りす。これも直接にその様子を
見なければ書けるものではない。伊都国にいた連中ならば、そんな様子を知
るはずもないからな。つまり、使者は卑弥呼に直接会っているんだよ。
戸数は、女王に聞いたに決まっているだろうが。 信任状を渡しに行く国について、国情に無頓着なんて考えられない。 検地までやらなかっただろうけど、皇帝の名において公的に下問したはず。
20 :
日本@名無史さん :2010/02/14(日) 23:56:51
>>18 女王に会ったのなら、渡したときの状況描写つまり、倭国の王が魏に服属を申し出たとかの
景気の良いことを本国に報告するよ。
役人なら意気揚々とそれを報告するよ。
あの遠い距離を会いに行ったのなら、途中の地域の描写もあっても良さそうだね。
全くなくて道順だけというのも不自然。
倭国に初夏に来て女王の所まで行ったら、あの記事だと帰路につく頃には秋になっているはず
なので、風俗記事が夏だけというものおかしいね。
前スレで 伊都国東遷厨らしき書き込みがあったのでレスしておきたい 前スレ>994 >福永氏の銅鐸配布説のお話をされている方がいますが、考古学的事実としては >そもそも唐古・鍵遺跡は、奈良盆地東南部の中心集落であったかもしれない >という程度の遺跡であって、 >また、この時期奈良盆地は、銅鐸の流通の中心でなく、むしろ近江が まあ個人的には近江が中心かはどうかは別にしても 大和がその中心と言うのは正直思っていないんだがw それに関連して聞きたいんだが大和は突線紐1までの 第一次埋納ピークで銅鐸祭祀のピークが過ぎていると言う理解でいいのかな?
22 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 00:11:41
>風俗記事が夏だけというものおかしいね。 文章読めないのか? 倭の地は温暖、冬生菜を食すとあるだろうが。 冬を越しているんだよ。夏の暑いときいただけで、温暖なんて書くか?
23 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 00:11:42
前スレ>1000 >あと、九州に墓上祭祀がなかったという方がいますが、これは間違いです。 >平原には埋葬前の建築物または柱列があり、祭祀がおこなわれています。 前に言ったがそれは念頭においている 。 が平原のそれは”地域的”な広がりを見せていないと思うが… 自分としては祭祀によって地域間の連携連帯を図ったであろう事を重視している。 もし地域的広がりが見られるなら教えてもらいたい。 あと、これは「邪馬台国東遷説」だろうが「伊都国東遷説」だろうが同じだが 副葬品体系の変化をもって東遷の根拠とするなら ”東遷勢力が持ち込んだ場合”と”文化の東進”とを如何にして峻別するのか? 逆に言えば東遷が無ければそれらが九州以東に伝わらなかったと考えるのか? (まあ例えば多紐細文鏡等、事例が無いわけではないし、大概ナンセンスな話しだとは思うがw) そこをはっきりしてもらわないと邪馬台国東遷説とは年代が違うだけの話にしか見えないんだがwwwww
24 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 00:20:10
まあせっかくスレ立て規制の厳しい中立ててくれたスレだし …>>1乙ねw 万年ループネタばかりも何なんで… この板では「九州説」と言ってもその実「東遷説」や「九州王朝説」が殆どだが リアルの九州説じゃあ恐らくは 「仮に東に首長連合のようなものが起きていたとしても 邪馬台国は九州に興った地方勢力。 東の首長連合とはは関係ない」 …と言うものがメインだと思うが、この板でその立場をとっている人間っているのかな? もしいて、倭人伝の行程記事の解釈以外に、それに傍証でも与えるアイデアがあるなら教えて欲しい。 まあ俺とてシナリオだけなら考えてはいるんだが、如何せん考古資料も何も無いしw (この手のストーリー・テーラーとしては某U2氏が第一人者かな?w)
>>17 『王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差』は、
王(倭の諸王)が使者を京都や帯方郡や諸韓國に遣わすとき、
および郡が倭國(倭の諸国)に使者を遣わす時は、
伝送する文書や送り物を港にて検察し全て女王に報告する、
これに違うことを得ず。
です。
26 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 00:43:47
■邪馬台国テーマに最終講義 佐賀女子短大の高島学長
吉野ヶ里遺跡研究の第一人者で、邪馬台国九州説支持者でもある佐賀女子短大の高島忠平学長(70)が3月末で学長職を退くのを前に13日、佐賀市の佐賀城本丸歴史館で最終講義を行った。
高島学長は福岡県飯塚市出身。熊本大法文学部卒業後、奈良国立文化財研究所を経て、1974年佐賀県教委入りし、副教育長などを歴任した。
99年からは同短大の教授に就任。04年に学長となった。県教委時代には吉野ヶ里遺跡の発掘調査に携わり、保存、復元を指示してきた。
最終講義の演題は「30分でわかる九州邪馬台国説」。
昨年、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で大型建物跡が見つかったことなどから、邪馬台国の所在地を巡る論争が再燃しているが、九州説を主張する高島学長は「纒向遺跡の建物跡は卑弥呼の時代より遅い」と指摘。
北部九州の環濠(かんごう)集落の存在や、福岡県前原市の平原遺跡で、ひつぎ周辺から多数の破鏡が見つかったことを挙げ、
「破鏡によって、三十の国々を支配した巫女(みこ)王卑弥呼の卓越した霊力を封じた墓であると考えられる」
と話し、九州説の論拠を示した。
講義を終えた高島学長は「今までになく緊張した」と苦笑い。「邪馬台国(の所在地)を決めつけることはしたくない。活発な論争が続くように、自由に発想してくれれば」と語った。
学長在任中の6年間については「少子化の時代にどう生き残るか取り組んだが、達成感からは遠い」としながら、「地域に有用な人材を残す仕組みはできたと思う」と振り返った。
退任後については「九州の考古学研究者を中心に、研究成果を一般の人に分かりやすく伝える『邪馬台国セミナー』を組織的に行いたい」と意欲を見せた。(遠藤信葉)
(2010年2月14日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saga/news/20100214-OYT8T00099.htm 最終講義で熱弁を振るう高島学長
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100214-530369-1-N.jpg
27 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/15(月) 11:38:07
>>3 ソースは言わずと知れた魏志倭人伝行路記事ですよ。
正確に(東、をまちがっているなどと、ごねなければね。
記載どおり唐津から東南に500里(35km)行けばいいのですよ。
伊都國は佐賀県大和です。
間違いありません。
伊都國から東に100里(7km)行けば不彌國(吉野ヶ里)になります。
不彌國の南側に投馬國と邪馬台国があります。
東西に流れる筑後川の南側に投馬國と邪馬台国が並んであるのです。
投馬國までの行程は、帯方郡より船(水行)で20日かかります。
邪馬台国は陸路1月と海路10日かかります。
28 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 12:14:29
あれ?唐津から佐賀県山門までは50kmはありますよ。 100里7kmなら35kmなので、伊都国が大和では遠すぎませんか?
29 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 12:16:12
上記の山門は大和のまちがいでした。
30 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/15(月) 15:57:04
>>28 末盧國魏使上陸地点[東唐津中原遺跡古松浦湖(汽水湖)南岸・鏡山麓]から、
観音峠越えで、佐賀市大和までの距離は40km強です。
東南方向直線で35km弱です。
状況証拠
観音峠越えルートは『草木茂盛 行不見前人』にピッタリです。
古松浦湖沿岸は『濱山海居・・・好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之』にピッタリです。
31 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 16:02:44
邪馬台国が九州にあったとして、またそうでなくても九州の伊都国や壱岐・
対馬は邪馬台国の支配下にあったわけだが、朝鮮半島まで足がかりを築いて
いる。帯方郡や大陸とも往来している。
しかし、目と鼻の先にある中国地方が、妙に関連が薄い。むしろ、九州との
関連性で言えば、大和の方が先にようになっている。
やはり、出雲の力は強大だったのだろう。記紀が紙面の多くを出雲に割いて
いるのはそういう理由だろう。
狗奴国出雲説も十分に有り得る。東に海を渡ったところに狗奴国があると言う
後漢書の記述の方が、南にあると言う倭人伝より正しいのかもしれない。
日本最大の弥生遺跡・妻木晩田遺跡(鳥取県大山町)
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=41862 これが狗奴国の本拠地?
九州に邪馬台国があったら、この勢力と衝突しないはずがない。
それが、倭人伝にある狗奴国との戦いであり、記紀にある出雲の国譲りだろう。
32 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 16:41:52
民俗描写はでっち上げくさいな。 意図的に南に誘導しオオボケ噛ました戦略的なもんを感じる。
33 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 20:23:49
卑弥呼は記録に残ってない可能性が一番高いんじゃない? でもそれでは学者は食っていけないから とりあえず手がかりのある倭迹迹日百襲姫だって言うしかないよね
34 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 20:31:40
記録のなかでは天照大神か神宮皇后のどっちかだな。 紀では神宮皇后にした。 卑弥呼の存在は、神宮皇后を230年の前後に活躍したという年代設定にした原因なのか、 言い伝えのとおりに年代を設定したら神宮皇后がちょうど卑弥呼の時期に重なっただけなのか、 両方なのか?
35 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 21:06:34
>>30 あーた、脊振山超えは大変ですよ。
それよか、松浦川沿いにあるいたほうが、楽ですよ。
36 :
日本@名無史さん :2010/02/15(月) 23:05:20
>>34 日本書紀によると、神功皇后の在位した期間は、西暦201年〜269年。
面白いことに、一人で卑弥呼と台与の二人分の時代をカバーしている。
トヨタン・・・・・・・・・・
38 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/16(火) 00:03:50
>>35 松浦川沿いに行くのは、『草木茂盛 行不見前人』ではないですよ。
松浦川沿いは楽ちんルートです。
玉島川沿いにさかのぼる観音峠までのルートは、
当に『草木茂盛 行不見前人』です。
それに反して観音峠越えから佐賀市大和町までは、
水田の広がる緩やかな下りの楽ちんルートに変わります。
39 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 00:06:48
40 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 01:03:22
■邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」
邪馬台国はいったいどこにあったのか?
なかなか結論が出ないこの問題。皆さんはどのようにお考えですか?
「あなたが決める邪馬台国比定地投票」の結果を大発表! 皆さんと一緒に邪馬台国について考えます。
日時 平成22年3月22日(月曜日) 12時30分から16時45分
場所 クローバープラザ 大ホール(春日市原町3−1−7)
内容
基調講演 「古代国家の成立と邪馬台国」(仮) 原 秀三郎氏(静岡大学名誉教授)
投票結果発表・討論
コーディネーター 西谷 正氏(九州歴史資料館館長)
パネリスト
常松幹雄氏(福岡市教育委員会)、七田忠昭氏(佐賀県教育委員会)
安楽 勉氏(長崎県埋蔵文化財センター)、高橋 徹氏(大分県立歴史博物館)
中村幸史郎氏(熊本県山鹿市教育委員会)、北郷泰道氏(宮崎県立西都原考古博物館)
東 和幸氏(鹿児島県歴史資料センター黎明館)
定員 1,100名
若干の余裕がございます。興味がおありの方は、お早めにお申込下さい。
申込み方法・・・(以下省略)
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/e04/yamataikoku-shinpo.html ※特設ホームページ あなたが決める邪馬台国
http://www.yamataikoku-roman.jp/
村興し頑張ってるね。
42 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 08:45:43
>>38 草木茂盛は昔の話、今はきれいな水田がひろがっていますが、当時は川沿いは芦や柳の生い茂る
湿地だったのです。
43 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/16(火) 13:47:14
44 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/16(火) 16:05:31
>>43 の間違い訂正
誤 兵庫県北部の久美浜湾
正 京都府北部の久美浜湾
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 18:29:32
>皆さんはどのようにお考えですか? 設定位置が狂っている限り、千年経っても正解にたどり着かない。 現在の設定位置は、百済本紀に合わせた、神功から、逆算して、崇神時代で思考している。 この百済本紀の数字を、韓国考古学は、確認出来ない、だいたい50年新しい方へずれている。 だから、日本に於いても、神功紀をウソの塊として処理している。 この時代が、本物にならない限り、卑弥呼にたどり着かない。
46 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 19:21:13
>>45 そんなことを言ってるから、いつまでたってもたどりつかないんだよ。
倭人伝の行程に従って、素直に進んでみればいいんだ。そうすれば、
道は自ずから開ける。
47 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 19:37:18
>>46 あらあら 本当に卑弥呼の住む邪馬台国にたどり着けたの?
邪馬台国は大和で、卑弥呼は九州ですよ。
48 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 21:39:57
>邪馬台国は大和で、卑弥呼は九州ですよ。 卑弥呼は地名じゃないだろ。
49 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 21:44:12
まるで英国女王が日本に住んでるとか言ってるのと似たような言い回し であり、妄想の果て。ww
50 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 22:19:44
>>47 三世紀ころに大和という地名があったと思ってるのかな?
証拠をあげてきちんと答えてね。
>>48 >卑弥呼は地名じゃないだろ。
うふふ。なにかで読んだことがありますよ。
卑弥呼は女王国にいたそうです。
52 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 22:42:34
>>50 カンヤマト イワワレヒコと何故名付けられたか?
当然大和の地を収めたからですよね。
時代は、弥生5様式の始まりである1世紀中葉
時代は下り、庄内式の始まりは、このミヨを ハツクニしらす ミマキのヨ
と正直に書かれています。
53 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 22:51:39
>>50 弥生5様式の始まりが、カンヤマト イワワレヒコの アマキミ
庄内式の始まりが、このミヨを ハツクニしらす ミマキのヨ
54 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 22:55:32
何の呪文だ? 落葉松って占いの婆だったのか?
55 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 23:35:11
>21 >それに関連して聞きたいんだが大和は突線紐1までの >第一次埋納ピークで銅鐸祭祀のピークが過ぎていると言う理解でいいのかな? ピークはそうですが、銅鐸が廃棄されたのは、終末ですね。
56 :
日本@名無史さん :2010/02/16(火) 23:59:19
>23 >が平原のそれは”地域的”な広がりを見せていないと思うが… >自分としては祭祀によって地域間の連携連帯を図ったであろう事を重視している。 >もし地域的広がりが見られるなら教えてもらいたい。 北九州の墳墓が山(雲仙など)又は峠、大型建物、小型建物、墳墓(特定個人墓又は集団墓)、 祭祀跡を軸とする共通の祭祀空間を共有しているのは非常に有名な話だと思いますが。 具体的には、吉野ヶ里、柚比本村、平原(大型建物は未発見)などですが、平原、吉野ヶ里 ではこれに大柱、鳥居状遺構が伴います。 なお、今回発見されたまきむく遺跡の大型建物も石塚古墳、祭祀跡と中心軸をあわせ、 さらにこの軸が三輪山と竜王山の間の峠や二上山をさすなど同じ空間構成をと っており、辰巳さんがいうように非常に北九州的な空間構成ですね。 具体的には季刊考古学の「弥生時代の祭り」、柳田の「伊都国を掘る」を参照してください。 >副葬品体系の変化をもって東遷の根拠とするなら >”東遷勢力が持ち込んだ場合”と”文化の東進”とを如何にして峻別するのか? 墳墓に伴う威信財の存在は、銅鐸のような集落単位の文化の存在ではなく、そのような存在 を許容する社会階層の分化が進んでいたことを意味します。 畿内には後期後半でもそのような威信財体系がほとんど見られず、社会階層の分化が 未発達であったことが証明されています。このため、小林らのいうような畿内社会 の独自の社会変革により、そのような威信財体系が出来たという過程の説明が不可 能となったことから、多くの学者が東遷説に転向しているという状況です。 逆に同じ墳墓でも、四隅の権力母体について東遷説を唱える学者がいないのは、山陰 小さな貼石墓がじょじょに大きな四隅に発達していく過程が考古学的に証明されてい るからです。
57 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 00:34:37
>>24 >「仮に東に首長連合のようなものが起きていたとしても
> 邪馬台国は九州に興った地方勢力。
> 東の首長連合とはは関係ない」
>…と言うものがメインだと思うが、この板でその立場をとっている人間っているのかな?
いる。いっぱい居る。
ただし、「邪馬台国は九州に興った地方勢力」ではなくて「邪馬台国は九州に興った勢力」であり、
「東の首長連合」は弱小後進国間の交易で結びついた関係程度のものかな。
58 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 00:46:07
>>56 >そのような威信財体系が出来たという過程の説明が不可能となったことから
なるほど、その変化が(山陰等に比して)あまりに劇的で
東遷(この場合は九州に限らない事になるか)のような事を想定しないと
説明がつかないって理屈だな。
が、それは畿内の社会が外部の文化を受容する社会に
急激に変化したと言う事で説明できるんじゃないのかな?
要するに古墳文化に見る諸要素はオリジナルの発明ではないし
社会構造の変革も多大に外部からの影響を受けた
・・・とすれば問題ないwwww
と言うか
やはり外部からの直接的人口の流入の跡が見つかっていないし(あるのか?w)
何処かの特定地域の直系であるかのような事が確認できるような状況でもないと思が…
仮に北部九州から東遷してきても、器台や壷あるいは弧帯文と言った墓上祭祀に使うアイテムは吉備から学ばねばならず
吉備が東遷してきても副葬品体系は北部九州から学ばねばならず
じゃあ、かといって複数地域が同時にヤマト入りしたシナリオも現段階考えにくいと思うがwwww
59 :
58 :2010/02/17(水) 00:54:23
話を北部九州の東遷に絞って言うのなら それほどに変化が短期間で劇的なら それこそ北部九州のそれと見間違うような物がヤマトから出ても良いと思うが 平原のように超大型鏡や何十枚もの銅鏡が出土すると言う話でもないし 「とにかく外部から勢力がやってきてヤマトに古墳時代の始まりを見ました」 …と言う一見分かりやすい理屈で説明がつくような話ではないと思うがwwwww
60 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 01:03:07
>複数地域が同時にヤマト入りしたシナリオも現段階考えにくいと思うがwwww 九州勢力が東征するということの意味が分かってないな。九州の弱小勢力がはじ き出されて東に遷るというのではない。九州統一がなったから、東に勢力をのば すんだよ。だから、九州全土の出身者で構成された軍が中国の各地を従え、そこ から徴用した兵も加えて近畿に進んできたんだな。
61 :
58 :2010/02/17(水) 01:03:52
>>57 >いる。いっぱい居る。
ホンマか?
つうか、おったんか?wwww
まあ「九州邪馬台国連合」と「東の首長連合」の強弱関係は
年代観のお話になるだろうから置いといてw
その「九州邪馬台国連合」の存在を何に見る?
まあ今伊都国東遷厨と話している事にも関係する話だが
どうも弥生末期の九州って連合体の形成を見られるような状況にないというのが
個人的な印象なんだがwwwwwwww
62 :
58 :2010/02/17(水) 01:14:43
>>60 ハイハイハイ…もううんざりだなこの手のレベルはw
つうか釣りネタでわざとやっているんじゃないかと思う今日この頃wwwww
まあ、だったら
偉大なる神武将軍サマが中国地方を征服した根拠を探してこい。
いや、その前に九州を統一した根拠を出せ。
その時点で日本の古代史根底から覆るだろうがwwwww
63 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 01:15:18
>>61 土器をながめていたって連合体が見えてくるわけはなかろう。
古墳時代にはいったら、南九州から福島あたりまで、いわば全国に古墳が造られる
んだ。全国にばらばらの勢力が割拠している状態ではそんなことはありえんよ。
問題はその勢力がどこを本拠としていたかだ。畿内か九州か? そこで倭人伝がも
のを言うんだよ。倭人伝によれば、九州に上陸して南に行くだけだ、その女王国が
北九州から南の遠いところまでを支配下に収め、北九州諸国を畏憚させていた。
連合体の体裁はとっているが、実際は中央集権的国家ができているということだよ。
九州の統一だ。倭人伝でそこを読み取らんとだめだね。
64 :
58 :2010/02/17(水) 01:20:02
>倭人伝でそこを読み取らんとだめだね。 スイマセン、その電波をキャッチできるアンテナを持ってませんwwwww
65 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 01:29:48
>>64 言わんでも分かってるよ。大丈夫、期待はしていないからwwwww
66 :
58 :2010/02/17(水) 01:29:50
まあ、この伊都国東遷厨と話していて違和感を覚えるのは… 「小林の自生説か然らずんば東遷説か」 と言うような論調だなwww 今の考古学のトレンドってそうなのか?w 教えて適当にエロイ人wwwwwwwwww
67 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 01:30:20
>>62 日本書紀にはそれをうかがわせるような記述がある。
吉備で高嶋宮を起こし三年を過ごした。その間に舟を整え、武器や食料を
蓄え、その後大和に向かっている。
土器を作る人間を連れてきたってちっともおかしくない。
うんざりしなくてもいいと思うが。
日本書紀なんか信用できるかと言うのなら仕方ないが。
68 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 01:34:07
>>67 ちょっと書き忘れたが、これは神武東征の話ね。
69 :
58 :2010/02/17(水) 02:10:47
今ふと思った事を書いておくチラ裏w ヤマトの大形首長墓を作り出すような社会構造の変革が あまりにも急激ゆえ東遷説の根拠とする話だが 九州はもとより、山陰や山陽と言った中国地方に言わば「成功例」があり 後発の畿内はそれを真似ることで急激にそれを成せたと考えて何ら無理はないのではないか?w 言わば短期間になせるというのは「後発の利」とでも言うかw 例え話になるが 日本の自動車産業がある時代から急激な進展を見せる。 だからと言ってアメリカの自動車メーカーが日本にやってきて生産を始めたという話ではないwwww 後発の者が先行する者に追いつき追い越せとなった場合 そりゃ種々の要素を貪欲に(あるいは見方によっては無節操にw)取り込んだのが 古墳文化の始まりとすれば結構色んな事に得心が行くw
>>69 戦後の日本の発展は、戦前からの基盤があったからだと思うよ。
江戸時代ですでに、国民のほとんどは読み書きができ、明治以降の近代化・挙国体制への下準備はできていたと思うし。
ところが、畿内の大形首長墓の出現に関しては、その前駆的なものが見えて来ないと言っている訳だろ?
私としては、畿内そのものに下地は無くても、東海・東国の支援がキーになって急激に発展したと思うんだが。
東国は凄く肥沃ですよ、人口も多く、後には防人に徴集したくらいだし。
71 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 03:36:02
前方後円墳は出雲と吉備の墳墓を組み合わせたものではないでしょうか。 あの仲の悪い出雲と吉備が何故連合を組んだのかが謎ですが。
伊都国東遷については、やはり北部九州精力が集団で移住した2世紀後半から3世紀初め頃の大規模な九 州色の強い集落跡などの直接的な証拠がほしいところ。平原遺跡に見るの副葬習慣の移動というだけでは弱 いだろう。そもそも弥生終末期にあって、平原王墓は九州内でも特異な存在ではないか。倭人伝に見る一大率 との関係で解釈することもできる。 平原遺跡はたしかに豪華な副葬品であるが、墓自体は小さな方形墓にすぎない。平原以降すぐに東遷があ ったとするなら、これから100m級前方後円墳に至る変化を説明するのは難しい。また、北部九州系の土器 が、初期の纏向遺跡に少ないことは、説としては決定的に弱い。これを土器の供献説だけで説明できるとは 思えない。やはり九州に入っていった庄内土器がのほうがむしろ一大率などの外部からの勢力の存在を示唆 するのではないか。 平原の大柱跡が後代の鳥居に繋がるというのはさすがに電波ではないか。平原には何らかの太陽信仰のよ うなものが認められるといってよいと思うが、纏向の祭祀は農耕儀礼的なものであり、むしろ銅鐸祭祀との関連 において説くことができるものではないか。 あとは、交易の中心地が邪馬台国の時代には奴国方面に移動していることなども、伊都国東遷後の北部九州 の状況の説明を難しくしているという気がする。
73 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 11:39:37
いまだに東遷なんて、大昔のマンガみたいな話をしてるやつがいるのが驚き。 どんだけ情弱なんだよとか思うな。 邪馬台国が九州の地方政権でもいいと思うが、公孫氏を討伐したばかりの当時の国際情勢からして、 魏が畿内勢力を無視して九州北部だけの政権に金印を贈るとはとうてい思えない話。
74 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 11:44:41
畿内の勢力? 弥生時代には大した勢力があったようには見えないな。 畿内勢力の弥生時代の武器って何なんだ? 弓はあったようだが、あとは竹槍か?
75 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 12:17:24
>>74 そこは重要なポイントだよね。畿内が発展したのは4世紀以降だろう。
76 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 12:47:36
そうだよな。魏が軍事面を重視するなら畿内など眼中にないだろ。 ところで、73が使っている情弱てなんだ?ワケの解らん言葉だな。
77 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 12:52:38
>>74-76 すると、九州の邪馬台国が卑弥呼の死後に東遷したってことですか。
卑弥呼の在位期間中にどうして畿内を征服しなかったんですかねえ。
78 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 13:02:20
>>77 まだ征服したいと思えるほどの魅力がなかったんだね畿内には。
79 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 13:11:16
>>78 卑弥呼が死んだら急に畿内に魅力が出て制服したくなったんですね?
で、東遷は台与の後ですか?
80 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 13:15:43
後漢時代にはまだ、九州は百余国に分かれていたんだよ。それが3世紀に入って 徐々に統合されていった。倭国の乱で九州内で戦っていたから、本州まで手を広 げる余裕がなかったのさ。
81 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 13:39:45
東遷したほど勢力拡大に余裕があったなら、 台与の後、倭の五王まで朝貢が途絶えたのはどうして?
トヨタン・・・・・・・・・・
83 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:02:40
>>81 中国の資料に残っていないだけで、朝貢が途絶えたとは決めつけられないよ。
宋書は「世々貢職を修む」と書いているね。
84 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:48:11
>>83 中国の資料に残っていないだけ?
それを言ったら、邪馬台国が大和でも、中国の資料に残っていないだけって言えばすむことだな。
85 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:48:37
>>77 卑弥呼だから、外に向かっての攻撃性がなかった。
女王になってから見たものが少ないとされる巫女的な女王だから。
やはり、男王でないと戦争には向かない。
記紀でも、天照大神の時代は素戔鳴尊に攻められていた。防御で精一杯。
ところが、高皇産霊尊が登場すると様相は一変する。
出雲に対してどんどん派兵する。天孫降臨も高皇産霊尊が主導する。
野心的な男王の出現で歴史は動く。
卑弥呼+台与=天照大神とすれば、台与のときに王になったとされ、中国から
台与と同時に爵命を受けた男王の時代になって歴史が動く。
この男王が記紀の高皇産霊尊に相当することになる。
86 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:50:47
むしろ、隋書には、邪馬台国は大和のことだと書いてあるしな。
87 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:52:19
>>85 一から十まで、誰かの空想の受け売りご苦労様。
関裕二信者かな?
88 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 14:55:14
>>87 残念ながら、人の書いた本など読まない。
読むのは、記紀と中国の文献だけだよ。
89 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 15:01:55
>>81 朝貢するにはそれなりの理由がある。
逆に言えば、朝貢しないのはその必要がなかったからだろう。
倭の五王の場合は、朝鮮半島の権益が欲しかったのだろう。
安東大将軍とかそういう地位を欲しがっていた節がある。
卑弥呼が朝貢したのは、帯方郡を滅ぼした魏の軍事力を恐れたか、あるいは
狗奴国との争いで魏の威光を借りて優位に立ちたかったかどちらかだろうな。
>狗奴国との争いで魏の威光を借りて優位に立ちたかった 何となくこれが大きな理由のようにも感じますね
91 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 15:31:32
>>88 なるほど、そういう幼稚な思考だと、東遷説を妄想しやすいというわけか。
記紀を読んでるとか言ってるけど、3ページくらいしか読んでないんだろうな。
92 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 15:40:59
>>91 3ページしか読んでいないという発想自体がすごいな。
>>89 ちょっと訂正。魏が滅ぼしたのは帯方郡ではなく公孫氏。
93 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 15:56:22
>>92 じゃ、何ページくらい読んでるの?
10ページくらいかな?
94 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 19:55:53
>狗奴国との争いで魏の威光を借りて優位に立ちたかった 逆だな、魏国に促され、倭王は、狗奴国と戦った。 後方支援に、黄旛。
95 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 20:06:05
倭地に30国とか100余国も有っては、1国1国を冊封するのも大変だ。 そこで、魏は、倭国を一つにまとめ大倭国建設の後押しをした。 大倭=大和しか無い。 卑弥呼は九州だぞ〜。
秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢。 その以降の倭の遣使があったと思われる記録。 (咸ィ)二年・・・甲午・・・東夷八國歸化。 癸醜・・・東夷十七國內附。 (太康)二年・・・九月,東夷二十九國歸化, 九年・・・九月,東夷七國詣校尉內附。 永平 元年・・・是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。 (「晋書」帝紀)
97 :
58 :2010/02/17(水) 20:28:29
>>72 なるほど…
>>72 はそんな事を言うつもりは無いかも知れんが以下勝手に拡大解釈wwww
>そもそも弥生終末期にあって、平原王墓は九州内でも特異な存在ではないか。
>倭人伝に見る一大率との関係で解釈することもできる。
北部九州における特異例が瀬戸内を横断しヤマト入りして急激な伸展を見せたとするより
九州以東の首長墓の大型化と言うトレンドが副葬品に重きを置く北部九州の墓制と融合した結果が
平原王墓だとする方が分かり易いかもしれないwwwwwww
もっと言えば、伊都国に打ち込んだ一種の”くさび”とw
>あとは、交易の中心地が邪馬台国の時代には奴国方面に移動していることなども、伊都国東遷後の北部九州
>の状況の説明を難しくしているという気がする。
これにも同意したい。
半島との交易は、勒島→原の辻→博多湾沿岸 とシフトしている。
ヤマトに東遷した伊都国は母国をえらく冷遇したような印象を受けるし
もしくは根こそぎ人間が移動してしまったかwww
個人的には先の王墓の件と併せ
畿内・首長連合地域の文化を積極的に取り入れ、半島との交易の中心となった福岡平野が
伊都国を実効支配していたんじゃないかと想像している。
まあ、そうなると今度は「奴国東遷説」が出てきそうだがwwwwwwwwww
98 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 20:33:16
東遷説ありきで話をされてもねえ。 証拠が何もないのに。 東遷の証拠も、九州に邪馬台国があったという証拠もない。 逆に、九州は畿内に制圧された証拠のほうが多いくらいだ。
99 :
縦目仮面 :2010/02/17(水) 20:46:31
>>97 それは俺のレスで、まあそこまでいうつもりはないんだがw 柳田氏が平原の鏡を国産と見るほどに
事態は混迷を深めていく気がする・・・。むろんいろんな解釈はできるんだが。
100 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:10:14
やっぱり行き着く先は自生説に逆戻りだと思うね。 大和が主導して、近隣のクニの交易ハブとなり、王権がうまれたんだよ。
101 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:11:14
>個人的には先の王墓の件と併せ >畿内・首長連合地域の文化を積極的に取り入れ、半島との交易の中心となった福岡平野が >伊都国を実効支配していたんじゃないかと想像している。 個人的には・・・不必要な語句だ。君が学界なりを代表しているわけではない。 畿内・首長連合地域の文化を積極的に取り入れ・・・単に交易をしただけだろ。 福岡平野が 伊都国を実効支配していたんじゃないかと想像している。・・・伊都国とはどこだ?九州北部沿岸地域は 1世紀には漢委奴国王が治めていた地域だ。実効支配もなにもなかろう。
102 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:17:06
九州にいくら鉄器があったところで、それ以上の発展は望めない。 売買するあいて=畿内を相手にしないと、どうしようもない。 単純なやつはすぐに東遷だとか言うけど、 裏をかえせば、九州単独では成長できなかったと認めることなんだよな。
103 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:18:35
>>100 唐古・鍵遺跡の出土物から後の大和王権の自生が想像できるかね。
交易ハブとはどんなものかね。中心的市場を運営して所場代で稼いだというのかね。
104 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:20:10
>>103 奈良には大市とかいう地名が残ってるわけだから、大きな根拠だよ。
105 :
58 :2010/02/17(水) 21:23:46
>>100 つうかね「自生説」って言葉にみんなナーバスになりすぎているんとちゃう?www
で、東遷説論者はそれを一種の金科玉条と言うか脅迫材料の踏み絵にして
「自生説はありえない、ゆえに東遷説が正しい」
と言うロジックを展開するとwwww
別に古墳文化の様々なファクタをオリジナルの物としなければ
ヤマト王権はヤマト発祥で問題ないと思うが…
まあ東遷説を前提にしての”ルーツ探し”が上手くいくかどうか…
それよりヤマトが他地域の文化を積極的に受容するに至った原因を探った方が
「ルーツ探し」より結局は真実に近づきそうな気がしますwwwwww
106 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:27:30
そもそも前方後円墳の発生場所って徳島って話があったけど、どうなの? モモソヒメも四国にいたみたいだし。
107 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:29:23
>>102 >九州にいくら鉄器があったところで、それ以上の発展は望めない。
どういうことを発展と言うのかな。当時の大陸や半島を含めた情勢から見て論じてもらわねば解り難い。
国民生活の質の向上、国防体制の確立、国内の治安の向上なども発展の要素だろう。
108 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 21:34:07
>唐古・鍵遺跡の出土物から後の大和王権の自生が想像できるかね。 崇神末に任那建国 垂仁朝には、鉄剣の大量保有 景行朝に、九州遠征
109 :
58 :2010/02/17(水) 21:41:54
>畿内勢力の弥生時代の武器って何なんだ? 弓はあったようだが、あとは竹槍か? これについても少し… 寺沢が「王権誕生」で弥生時代における鉄器の農業への寄与について 相当シビアな(はっきり言ってしまえば悲観的w)事を書いていたと思うが 古代の戦争における鉄製武器の優位性もきちんと検証した方がいい。 (実験考古学でマジでやりあってもらうとか?wwww) ひたすら東進する「九州神武軍団」が置かれたであろう状況 兵数の不利や地の利の無さ等々…それらを鉄製武器でカバーしえたと言うような 事例が古今東西の戦争の歴史の中であったのか? あれば教えてくれ。 ぶっちゃけ畿内に石製木製武器しかなかったとしても 神武軍団の東征なんて、およそ漫画レベルにしか思えないんだがwwww
110 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:42:25
>崇神末に任那建国 垂仁朝には、鉄剣の大量保有 景行朝に、九州遠征 4世紀以降のことじゃないか。まあ、それでもよいが、そんなことが出来るようになると想像させる唐古・ 鍵の出土物とはなんだ?
111 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:43:59
>>107 中東には石油があるが、他の産業とか発展してるといえるのかね?
112 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:46:09
>畿内勢力の弥生時代の武器って何なんだ? 弓はあったようだが、あとは竹槍か? 相手が鉄剣をもってたとしても、 竹槍をもった味方が2,3人いれば楽勝で勝てる自身がある。
113 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:53:30
>>112 やっぱり、接近戦の武器らしきものは出ていないんだな。
竹槍の遺物は出ているの?
114 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:54:32
>>109 記紀に描かれた神武東征は、剣の話が出て来るけれども、なにも鉄製武器を振りかざして敵をなで切りにしながら進撃
したものではないだろ。戦争では戦略や戦術の有無、兵士の練度、経験が大きくものを言う。そういうものは半島に近
い九州で獲得し易かったであろう。
115 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:55:31
>>113 ひょっとして、畿内人は竹槍を持ってないなどと言い出すのかな?
116 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 21:56:35
117 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:00:58
>>115 竹槍ってのは、槍の存在を知っているから代用品として作るんだよ。
もともと槍をもってない連中は、竹槍をつくる智恵がないかもな。
>>116 そうだよね、記録上は河内湖で無敵の神武軍はボロ負けしてる。
熊野からは実質内戦記録なんだよな、しかも
騙まし討ちとか呪いとかばっかりで。
119 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:05:54
>>117 とうとう畿内人は槍を知らないと言い出したぞ。
次は何かな?
121 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:07:49
>>118 そう。正攻法で勝ったわけじゃない。
しかも、神武の兄弟は戦死してるありさま。
いったい、どこが東遷なのか?
記紀を3ページしか読んでないんじゃないのかな。
122 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:07:54
>>116 戦は勝つこともあれば負けることもある。局部において負けても(生駒山では相手が多勢でしかも地の利があったから神武は退いた
のであろう)態勢を立て直して最後に勝利すればよい。神武軍は最終的には樫原の地に本拠をおいて国を拓いたのである。知能がな
くてはできないことだ。
123 :
58 :2010/02/17(水) 22:08:23
>>114 そんな「たら、れば」の想像だけの話し言われてもなw
脳内の無敵軍団の活躍を聞かされても困ると言う話だwwww
しかし、伊都国、奴国は明らかに渡来人系だよ。北部九州では弥生中期頃に玄界灘沿いの平野部で戦闘が 起こり、それは周辺部に波及していく。やがて、上記2国に収斂していく。この2国は分業体制をしいて仲はよ かったようだ。
125 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:28:27
>>123 九州の西部の海上に発達した低気圧があり、雨雲を伴って東に移動していればやがて九州に雨が降ると考えられる。
これも想像だけの妄想話か?
>>114 は想像だけの話じゃないぞ。論理的におかしいところがあれば指摘してみろ。この進化を拒む石器時代の生き残り殿。
126 :
58 :2010/02/17(水) 22:38:33
>>125 ん?
例え昔話の「藁しべ長者」の如き話であっても
それがなかったなんて悪魔の証明ができる訳が無いだろうアホウw
「たら・れば」のお話ならいくらでもできるぞ?w
生駒でボロ負けした神武軍団であったが
紀州熊野にヤマトと反目する勢力がありこれと合流
ヤマトを南より攻めるが、依然、武力による正攻法では敵わず
調略(離間の計w)を用いて敵勢力の戦力分断に成功・・・とwwwwww
東遷厨がやるべきは「ボクの考えたストーリー」の開陳ではなく
それが史実であった事を如何にして証明するかだw
>>122 >相手が多勢でしかも地の利があったから神武は退いた
なんだ、鉄器の優位性全然関係ないじゃんw
128 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:48:41
>>118 神武軍が戦った相手は、神武と同族、つまり天神の子である饒速日命であり、
その手下である長髄彦だから。同じ武器を持っていたらしいし。
記紀によると、饒速日命は神武天皇より前に高天原から大和に来ていた。
長髄彦が、どうして天神の子同士で争わなくてはならないのですかと
尋ねたというエピソードも日本書紀には記されている。
129 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:50:16
>>126 君らがやっている首長連合話なども史実であったことが証明できる話か?ましてやその首長連合と邪馬台国がどう関係
するかも根拠のない想像だろうが。ひとの批判ができる柄か。このアンポンタンめが。
130 :
58 :2010/02/17(水) 22:55:14
>>129 「首長連合」も「畿内説」も蓋然性という枠組みの中でできる話だが何か?
「無敵の九州神武軍団の東征」なんてレベルのお話と一緒にするなアホw
つうかこの反応は縄文人ポイがwwwwwww
131 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 22:57:15
>>128 それこそ、東遷説の否定につながる話だな。
記紀には神武より先に饒速日命がヤマトを治めてると書いてるよね。 何故これが東征になるのかさっぱり意味不明だろ。 単なる地方からの婿入り話を脚色しただけでしょ。
133 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:03:33
>蓋然性という枠組みの中でできる話だが何か? なんとかの一つ覚えだな。蓋然性があるなどと思っているのは浅薄な思考をする連中だけだ。 首長連合を示す証拠を出してみろ。大和に邪馬台国があったという証拠を出してみろ。出してみろ〜
134 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:06:05
>>130 古今東西、連合なんてのは強力な敵がいて、それに対抗しようとするときに
生まれるもの。
古代の国同士が仲良くしましょう、と言って連合するなんてのは、それこそ
おとぎ話の世界だな。
歴史学者はそんなことは絶対考えない。まあ、おめでたい考古学者の頭の
中からなら生まれるかもしれないが。
135 :
58 :2010/02/17(水) 23:06:12
こうやって東遷説を記紀神話に絡めていくと 結局「ボクの考えたストーリー」の発表会にしかならないwwww まあ東遷説の連中はこう言った 「My神話」みたいなものを想像する事が楽しいんだろうがw そんなもの、語る奴の数だけストーリーがあるって話で きかされる方は大抵うんざり…
136 :
58 :2010/02/17(水) 23:12:14
>>134 >古今東西、連合なんてのは強力な敵がいて、それに対抗しようとするときに
じゃあ今の国際連合は如何なる「強力な敵」な敵に対して
旧東西の諸国が加盟しているのかな?wwww
まあ「連合」の二文字に血の一滴も流れない理想郷を妄想するのが
東遷厨の馬鹿さ加減wwwwwwwwww
137 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:12:27
>>135 そんな愚痴を言ってなんになる。そんなことより首長連合を示す証拠を出せ。大和に邪馬台国があったという証拠を出せ。
アケメネス朝ペルシアの脅威から前5世紀にアテナを中心として結成されたポリス間の同盟をデロス同盟 という。アテナイを盟主とし、主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。軍船をキオス、サモス、などが拠出し、 多くのポリスは資金を拠出した。 当初はデロス島で開かれる代表会議で同盟に加わる各ポリスが意見を表明し、拠出された資産を同島に おかれた金庫で共同管理していたが、ペルシアの軍事的脅威が薄れたのち、同盟の金庫はアテナへ移転 された。デロス島の会議も形骸化し、アテナはデロス同盟の資金や海軍を勝手に流用するようになった。 パルテノン神殿の建設といったアテナの大規模事業も、この同盟資金が用いられたと考えられている。 どっかで聞いたような話じゃね。ww
139 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:20:15
>>135 マイストーリーは、畿内説のほうだろう。
倭人伝も間違い、記紀も間違いで、ストーリーを作らざるを得ない。
140 :
58 :2010/02/17(水) 23:23:07
>>137 過去に散々やっているからなあ…wwww
まさかお前、昨日今日この板に来た人間でもなかろう?w
時間を割いて書いても暫くしたら
またヒステリー起こして同じ事を言い出すw
「畿内説は学者の受け売り」と言いつつ
その実、学者の説の骨子も理解していない。
無論この板で畿内説の言う事なんか理解する気もサラサラ無い。
自説をぶちまける事しか考えていない。
この俺でさえ九州説の連中が次に何を言い出すのか大概見当つくと言うのにwwwwww
141 :
58 :2010/02/17(水) 23:26:17
>>138 縦目っぽいなw
>パルテノン神殿の建設
まあ所謂「利益誘導のハコモノ公共事業」の元祖みたいな?wwwwwwwwwwwww
142 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:29:02
>>140 纏向で各地の土器が見つかるから連合なんだろう?
143 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:37:11
>>132 それは、原田常治って人の説らしいね。
でも、古代の場合の嫁取りは、婿入りと言うようなものではなく、どちらかと
いうと嫁を差し出すと言うケースが多い。服従の証のようなものなので、
婿入りのようなものは考えにくいな。
144 :
58 :2010/02/17(水) 23:39:23
>>141 の追伸
>>138 は、まあ某T目仮面としてだ…
恐らくオカルトヲタなら知っている話だろうが
パルテノン神殿建設で利益に預かったのが石工で
フリーメーソンのアレがアレなわけで
それを絡めるとアレなお話ができると言うwwwwwww
まあ板違いだなw
145 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:39:40
>>140 過去にさんざんやったと言っても、間違っていてひとを納得させることができなかっただろ。
こちらが納得できるようなちゃんとしたものを出せと言っているのだ。
>>141 いやまあ、宗教と政治の融合の事例と言えばよいか。しかし、都市国家が合従連衡を繰り返してまとまって
いく事例は世界史には多々見られるからね。
都市国家・・・都市を中心に、政治的に独立し周辺地域を支配する国家。
この場合の都市は、城壁や市街などをもつきわだって重要な集落のこと。古代の統一国家が成立する以前
の段階で、世界各地で見られた。とくに古代メソポタミアの都市国家や、古代ギリシャのポリスが典型とされる。
147 :
日本@名無史さん :2010/02/17(水) 23:52:51
>時間を割いて書いても暫くしたら >またヒステリー起こして同じ事を言い出すw おまえ自分でそれやってんじゃね〜か。なにかと言えば「無敵の神武軍団」とか「東遷厨」だとか同じ文句を繰り返して ばかりだ。 「首長連合の証拠」や「大和に邪馬台国があった証拠」がそんなに時間のかかる仕事か?文献なり遺跡出土品を示せばい いのだ。10行もあれば十分だろ。
148 :
58 :2010/02/17(水) 23:53:07
>>146 ただ日本の王権発生のプロセスを海外に類似を求めようとすると
部分的には重なるところはあっても全体としては上手くいかないような気がするw
畿内のヤマト王権の発生にいたる社会構造の変化が急激だと言う話があったが
そもそも農耕が始まって王権が誕生するまで日本ぐらい急速な例は海外にも無かったんだっけ?
まあその事が継体からカウントしても優に千年を超える皇室が
未だにあると言う遠因にもなっているかと思ったり思わなかったりwwwwwwww
何から何までユニークと言うかそこが俺が日本の古代史に興味を持つ点ではあるがw
>>148 むろんはるか紀元前からの歴史を持つ世界文明と比べるのは無理があるかな。古代ギリシャの場合は
合従連衡の時期が長すぎて、結局マケドニアの支配下に入った。
>社会構造の変化が急激
よくはわからないけど、明治維新後の近代化についてもいえるかもね?
150 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 02:05:09
>>136 国際連合は、名前だけ連合だろう。
別に、国と国とが連合しているわけじゃない。
まあ、会議と言ったほうが適切だろうな。
151 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 07:30:19
東遷説を唱えてる奴なんてほとんどいないのに 畿内派が九州派とみると東遷説と決めつけるって流れ
152 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 07:38:20
東遷厨でも、何年か前はC14や年輪年代を理詰めで批判してくるやつもいた者だが、 最近はほんとにレベルが下がったな。 昔の論客も安本の著作の受け売りにすぎなかったが。 今は安本の本すら読まないで「ボクの考えた東遷説」をチラ裏かわりにスレに書いてるだけだしな。
153 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 12:00:51
>>151 そのとおり。今の畿内説論者は、東遷と東征の区別すら知らないんだよ。
ほんとにレベルが下がったな。
154 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 12:06:23
東遷説が旗色悪くなったからって、「ぼくちんの説は東征です」か?
155 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 13:37:37
邪馬台国の位置を示す文献は倭人伝だけだ。その他の中国文献は倭人伝ほどに方角、里程、行程を詳しく示してはいない。 遺跡、出土物は参考の役には立つが直接邪馬台国には結びつかない。考古学の有用性は否定できないが、遺跡、出土物の 正確な年代を決める手段を持っていない。つまり、現時点で発見されている事物のうちで年代を正確に求められるのは文 献に記載されているものだけである。 畿内説論者のうち倭人伝を捨てた者は年代の確定していない遺跡、出土物をもとに推定に推定を重ねて邪馬台国像を創り 出しているのである。それは想像の産物なのである。遺跡や出土物を元に論じているから科学的だ とは言えないのである。 己の論の足下が固まっていないのも知らず、九州説を(よく調べもせず)ストーリーなどと貶すのは猿のフンが犬のフンを 嘲るようなものであろう。
156 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 13:53:21
邪馬台国の位置を示す文献は倭人伝だけだ。 日本神話には邪馬台国は出てこない。 ならば、天照大神と卑弥呼を結びつけるべきではないし、 神武東征を邪馬台国東遷を結びつけるべきではない。 でも、短絡思考の九州説は、(よく調べもせず)邪馬台国が東遷したとか言い出すのである。
157 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 14:04:36
いまどき本気で畿内説を唱えている学者なんて居ないよ。
>>153 東征なぞ東遷よりありえない
こんなこと常識の範囲だが、何を考えてるんだwww
>>157 考古学者はほぼ全員畿内説だwww
妄想が進みすぎて、精神に異常をきたしたのか?
160 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 14:13:45
>>157 >いまどき本気で畿内説を唱えている学者なんて居ないよ。
それはあなたの願望でしょう。ww
事実は違いますね。奈良県桜井市の纏向遺跡を邪馬台国の有力な候補地と表明している学者は大勢います。
161 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 14:40:21
いまどき本気で九州説を唱えている学者なんて危ないよ。
「学者も実は九州説を唱えたいのだが 派閥や師弟関係から圧力がかかっているため しかたなく畿内説のふりをしている」 最後に逃げ込む場所が、こういう陰謀論になるわけです 非常にわかりやすいひとたちですねwww
おまいら、どうも畿内説・九州説にこだわり過ぎてるな そんなのどっちでもイイんだよ 求めるのは真実のみ
164 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 15:33:03
>>159 邪馬台国は倭人伝に出てくる国だ。考古学者っていうのは、邪馬台国に関しては
素人なんだよ。そこを間違えてはいけないな。
この板の九州説って、何故みんな古臭い説ばかりなんだろうか 頭の中が昭和でとまっているとしか思えない 現実世界での九州説はもっとまともなんだが もしかすると現実の九州説からも相手にされていないオールド九州説らが ここに逃げ込んでいるのかもしれないね
166 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 15:37:38
>>164 では文献学者で邪馬台国を九州だと考える人はいるのか?
大昔ならともかく、平成に入ってからは考古学者以上にいないぞ
167 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 15:55:10
平成に入ってからは意見を発表した学者が少ないんだろうな。最近では亡くなった門脇ぐらいかな。 しかし、畿内説を主張する文献学者も少ないみたいだな。誰か発表しているか? 今でも、笠井あたりの古い説にしがみついているみたいにみえるけど・・・
>>164 邪馬台国のプロ?皆自称プロだろw
文献解釈でももはや九州説は無いぞ。
169 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:16:32
>>167 もう今では文献学者のあいだでは邪馬台国についての研究は、殆ど行われていないようだね
すでに徹底的に研究され尽くしたあげくの結果が
文献からは確定できないという結論になったのだから
新しい史料もないのに、いまさらやる意味すらないのだろう
これもお亡くなりになったが、佐伯有清が倭人伝解釈本を書いていたね
邪馬台国がらみの本を書く文献学者というのも、お年寄りしかいないんだろう
>>165 古いというよりも、不勉強なのだと思う
ここまで知識がないのに、古代史について発言しようとする無謀さには感心するが
170 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:16:37
>>152 実は、畿内説のほうのレベルが下がった。
本気で、まともな論争を挑んでくるようなのがいなくなった。
だから、緊張感も全然ない。
今は場外乱闘のレベルかな。後からこつんと頭を叩いて、勝った勝ったと
言うようなのばかり。
171 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:22:30
>>170 いや、やはり九州説のレベルが下がったというのが正解だろう
もうまともな論争をもちかけられるレベルではないから
揶揄を含んだ一行返しでかたがついてしまう
だいたい、ゆるやかな連合を想定できないなんて
九州説でもありえない
九州説の立場に立ったとしても、ツクシ連合はやはりゆるやかな縛りなのだから
軍事征服なんて、現実には誰も唱えていないよ
そんなレベルでは論争にすらならない
172 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:42:35
>>164 史書を専門とするいわゆる「文献史学者」も、近年の考古学の研究を無視するわけにはいかなくなっているんだよ。
173 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:43:57
>>171 ゆるやかな連合なんてものこそ、無理な考え方だな。そんな状態で、九州諸国を従える
ことができるはずはない。ゆるやかな連合という考え方は、厳しい連合をいうとあちこち
つじつまが合わないので、ごまかしているだけの話だ。
174 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:49:20
>>173 >九州諸国を従えることができるはずはない
従えていないからこそ、九州説でもゆるやかな連合を採用するようになったんだよ
特に北九州などは、一枚岩ではない
175 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:50:02
畿内説派は負けを認めたがらない。現実を受け入れることができないのだ。 「ゆるやかな連合」を言う奴なんか学者の受け売りだろうが、その実態を示す考古学的資料も文献も示せない。畿内説派 のお得意のセリフ「根拠を示せ」はどうしたのだ。それでいて九州説のレベルうんぬんは片腹痛い。
176 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:53:28
>従えていないからこそ、九州説でもゆるやかな連合を採用するようになったんだよ >特に北九州などは、一枚岩ではない その根拠となる文献なり考古学的資料を示せるか?
177 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:55:57
>>175 >その実態を示す考古学的資料も文献も示せない
腐るほどあるよ
いちいち書いていたらどれほどスペースがあっても足りないが
それすらも知らずに虚勢しか張れないからレベルが低いと馬鹿にされるのではないかね
「古墳時代のヤマトとツクシ」
「三国志からみた倭人たち」
このあたりを読んでおくのは、古代史マニアなら常識だぞ
178 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 16:59:47
>>177 その前に、倭人伝の「女王国に統属す」や一大率を「諸国これを畏憚す」から
北九州諸国は女王国に従っていたと読むべきことは常識だよ。
>>178 倭人伝に書いてあることは、神聖にして犯すべからずかwww
それが正しいというどこにも根拠がないから、論争になったんだろうがwwwwww
180 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:07:06
あぁ、なるほど。北九州諸国は、統属していたこともなければ、畏憚していた こともなかったというわけね。畿内説はそこまで無理しないと成立しないわけか。 行程を無視し、倭国の状態を全て無視して好きなところに比定しようってのならば どんな説でも立てられるね。
181 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:12:19
>>177 たぶんここの九州説は、古代史マニアでもなんでもないと思う
魏志倭人伝の内容は無条件に正しいとか
記紀すら内容批判せずに正しいと信じ込んでいるとか
そういう思想というか宗教なのではないだろうか
今や九州説でも、そこまで極端なのは少ない
彼らは学問をする気はないのだろうね
ただ自分の信じる何かを否定されるのが腹立つから
とりあえず学者の唱える説を攻撃していれば、現実から逃避できる
182 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:15:49
>>180 いや統属も畏憚もそれを確認できるどころか
反する発掘成果しか出てこないから
九州説でもツクシ連合を想定するようになったのだが
とりあえず倭人伝から一旦離れろってwww
183 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:15:54
ミルヒーのブログ とかいうのに九州説と畿内説が分けて書いてあるな。 比較的新しいのは、九州説としては、武光誠 鈴木武樹 榎一雄 牧健二 加治木義博 王仲殊 安田哲也 黛弘道 田中卓あたり。 畿内説としては、上田正昭、直木孝次郎 三品彰英 鳥越憲三郎といっ たところかな。
184 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:18:16
倭人伝から離れたら邪馬台国もなくなってしまうな。
185 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:23:23
>>183 比較的新しいってwww
故人がほとんどじゃんwwwwww
すげーなあ、そのミルヒーってひと
>>184 なくなってもいいから、一旦離れるべきだと思うよ
邪馬台国探しなんて、もはや過去の遺物になっているのだから
187 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:35:07
>>183 加治木義博って、『真説ノストラダムスの大予言』の著者だぞ
そんなのと榎一雄を同列に語るか、この人は
それと王仲殊は畿内説なのだが
認識がむちゃくちゃだな
188 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:52:37
個人のブログを引き合いに出すなよ。
というか、
>>183 は個人のブログ以下の認識しかないというのはわかった。
189 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 17:58:39
うん、まさに低レベルだな 引き合いに出されたブログはかわいそうだが それの何が間違っているかすらわからないまま引用するとは
190 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:00:16
>>186 むしろ、邪馬台国なんて無くなったほうがマシ。
そうすれば、大和王権が近畿に3世紀から始まったと、きちんと教科書に書ける。
いったい、自国の歴史の出発点があいまいなままの国がどこにあるんだと。
191 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:00:41
>>186 倭人伝の見方はまだ進歩している。倭人伝が正しいという根拠が無いというのは暴論だろう。倭人伝に全く誤った
記述が無いなどと思う人間は稀だろう。どんな歴史書でも完璧はあり得ない。だが、倭人伝に記された行程記事を
間違っているとする明確な根拠はない。畿内説派が出した異論(方角や距離など)は全て否定できる。
倭人伝を正しいとすれば畿内説は成立しないから倭人伝を否定したのだ。そして考古学的資料を持ち出すが、これ
も畿内説に都合のよいように解釈する。
「ゆるやかな首長連合」や「大和に邪馬台国があった」ことを示す遺跡や出土物を示せと言われて
>腐るほどあるよ
>いちいち書いていたらどれほどスペースがあっても足りないが
それすらも知らずに虚勢しか張れないからレベルが低いと馬鹿にされるのではないかね
>「古墳時代のヤマトとツクシ」
>「三国志からみた倭人たち」
>このあたりを読んでおくのは、古代史マニアなら常識だぞ
としか答えられない。アホか。遺跡や出土物を示せばいいのだ。本「想像で創り上げた物語」を示せとは求められて
はいないだろ。このようにちょっと突っ込まれると他人の書物の影に隠れる。
192 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:06:47
193 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:10:27
>>191 トロイの伝説は、トロイ遺跡が発見されて始めて事実とわかったんだよ。
邪馬台国が九州にあったというなら、遺跡を見つけて来いっての。
遺跡が見つからなければ「魏志倭人は間違いだらけの空想」という結論を下すのが学問だ。
194 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:11:39
>>191 とりあえず
>>40 のシンポジウムに行ってごらん
あなたの考えがどれだけ古いかわかるだろうから
ゆるやかな連合がどのような根拠によるものなのか
今さら説明を求めないとわからないなど、マニアとしては信じられない
195 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:12:29
>>191 要するに、「ゆるやかな首長連合」論の根拠とされる遺跡、出土物を列挙すればよいわけね。その上で
個々の遺跡、出土物の意味を検討しようという訳だ。
>>193 横槍すまん
トロイはあれ、トロイの遺跡じゃないんだよ
シュリーマンは考古学者でもなく、単なる商売発掘屋だしね
あれは例えれば、奈良の明日香村を掘れば何か出てくるだろうというくらいの根拠で
上層をダイナマイトで吹っ飛ばして、下の地層から何かの遺跡を見つけたというだけのもの
だから上層部分の遺跡は完全に破壊されてしまった
現地を見ればわかるが、発掘現場はさながらクレーターのごとき惨状だよ
197 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:18:43
198 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:22:25
>ゆるやかな連合がどのような根拠によるものなのか >今さら説明を求めないとわからないなど、マニアとしては信じられない 信じている者が居るというのが不思議だ。ゆるやかな連合の根拠が示されていないだろ。もっとまともな 根拠はないのかと聞いているのだ。
>>198 だから本を読めばいいんじゃないか?
連合説なんて今では一番スタンダードな説なのだから
知ってて当然だと思うが、なぜ今さらここで聞きたがる?
ガンダムについて語るスレで、モビルスーツって何?って言っているようなものだぞ
200 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:28:36
>邪馬台国が九州にあったというなら、遺跡を見つけて来いっての。 >遺跡が見つからなければ「魏志倭人は間違いだらけの空想」という結論を下すのが学問だ。 う〜む。畿内で遺跡が見つからなくても「魏志倭人は間違いだらけの空想」ということになるが、 畿内説にとってはその方が都合がいいか。
>>200 畿内説はマキムクという候補地でほぼ統一されているのだが
それすら知らんのか?
202 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:34:31
>>199 >連合説なんて今では一番スタンダードな説なのだから
それが間違いなのさ。こっちはそんなものは古い説だと思っているのさ。
>>202 思ってるって・・・・・・主観で書かれてもなあ
とりあえず連合説とはどんなものか理解しているのか?
肯定や否定より先に、まずはそれからだ
それがわからないと答えようがない
204 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 18:58:38
>>203 ごたごた言わずに連合説の根拠になった遺跡、出土物をいくつか出してみろ。おまえ、自分の信じている
説の根拠になった遺跡や出土物も知らんのか?
205 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 19:00:21
おっwww 無知を暴かれて逆ギレかwwwwww
206 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 19:04:33
>>204 あんたもごたごた言わずに、例示された二冊の本のどちらかでもいいから読め
古墳時代のツクシとヤマト
三国志から見た倭人たち
ここで聞くより数十倍もの詳細な根拠が書かれている
この2冊は図書館でも置いてあるところが多いし
大型書店なら置いてあるような本だから、立ち読みも出来る
207 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 19:07:33
素直に、ゆるやかな首長連合説の内容が判らないから教えてくださいと言えばいいのに どうして意地になるかな・・・
208 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 19:08:37
209 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 19:21:21
>>204 君にレスした人たちは
同意するしないは別にして、ゆるやかな首長連合説の内容くらい把握してから書きこんでくれと言っているのだよ
たとえば古田説を批判するなら、最低でも邪馬台国はなかったくらいは読んでからでないと意味がないだろうう
内容も把握していないで、それはおかしい信じないと連呼しても誰も味方してくれない
おそらくお仲間の九州説論者ですらあきれていると思う
>>155 >遺跡、出土物の正確な年代を決める手段を持っていない。
大陸製品による年代情報が暦年代推定のための定点となる。
北九州では副葬される漢鏡を中国陵墓副葬鏡群の編年と対比させて実年代を推定してきた。
瀬戸内以東でも年代推定の有効な指標となる貨泉が土器と共伴して発見されている。
土器の編年研究も年々精緻化しており、一世代一様式といわれるまでになっている、という。
211 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 19:30:01
首長連合説 これを古墳本体の大きさから推定すれば、ゆるやかな首長連合 しかし古墳には、墓域(兆域)と云うものがある。 この墓域の広さには、しっかりした上下関係で成り立つことが解る。 古墳本体の大きさが似ていても、墓域の大きさで、差が付けられている。 卑弥呼の墳墓もこの墓域のサイズで見なければならない。
>>191 >異論(方角や距離など)は全て否定できる。
今さらだが、末盧国は唐津で伊都国は前原だから、方角も距離もまるで間違っている。
「ゆるやかな」連合にならざるをえないのは、2世紀末から3世紀の倭地で、ある地域が武力的に他地域 を完全制圧することができないから。当時の軍事力や、官僚機構の問題。ある程度これができるように なるのは雄略期あたりのこと。
214 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 20:17:57
卑弥呼の墓については径百歩に縛られる必要はないと思う この板ではどうか知らないが、九州説でも伊都国までしか郡使は来ていないという解釈が多いし 畿内説にしても箸墓を250年ごろに持っていくひとだけではないだろう 墳墓そのものの大きさだけでなく、周濠も含めての概数だとしたら 今のところだとどこにでも比定できる状況だから とりあえず候補となる墳墓の調査結果が出てから、卑弥呼の墓かどうか検討するべきだと思う
215 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 20:39:23
>>212 この間違い方にもどうやら法則があるというのが通説だね
奴国を博多湾沿岸とするポピュラーな説に従うと
どうやら右回りに少しずつ誤差が増えていき
伊都国→奴国などだと30度ほど方角が違う
畿内説でこれを指して、南のつもりが実は東だったというのもあったが
90度間違えたというのはちょっと強引だと思う
しかし魏使の方向感覚が、先に進めば進むほどずれていくというのはどうやら確実のようだ
原田大六が、太陽や星からの計測を基にして緯度を南下すればこのように間違うと指摘していたはず
216 :
ローガン :2010/02/18(木) 20:39:47
テスト
217 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 20:43:54
>周濠も含めての概数だとしたら 今のところだとどこにでも比定できる状況だから 周濠も含めての概数が、時代により、きっちり分けられている。 例えば、吉備には3ヶの巨大古墳があるが、同時代の河内方面では、 周濠が付く、分かり易く、 同じ大きさの屋敷があったとする。 その一つの屋敷には、門から塀までそろっているが、もう一つは、まわりが直ぐ田畑になる。 まあこんな違いが古墳にはある。
218 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 20:48:53
219 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 21:03:29
>>215 その通説が間違っていることを指摘する論が出て来ている。
>しかし魏使の方向感覚が、先に進めば進むほどずれていくというのはどうやら確実のようだ
>原田大六が、太陽や星からの計測を基にして緯度を南下すればこのように間違うと指摘していたはず
アホか。太陽の上る方角が季節によって変化することぐらい誰でもわかる。原田は畿内に持ってゆくためにヘンテコな
論を考えだしたのだ。
220 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 21:10:36
首長連合というのはなにかね。橋本大阪府知事らが地方分権とかでやっているやつか?
222 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 21:22:48
>>218 皇室陵墓令(大正15年皇室令第12号)
第一条 天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス
第二条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳塋ヲ墓トス
第三条 陵墓ノ兆域内ノ土地ハ該陵墓ノ附属物トス
2 陵墓ノ兆域内ニ在ル物件ハ勅裁ヲ経テ其ノ陵墓ノ附属物ト為スコトヲ得兆域外ニ在ル土地物件ニシテ特別ノ由緒アルモノ亦同シ
墓とは、墓石(古墳)の大きさでなく、墓地(兆域)の大きさできまる。
223 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 21:26:58
>>219 ここの九州説はやはりこの程度かwww
原田大六を知らんのか?
邪馬台国論争史に名を残す、バリバリの九州説論者だwwwwwwwwww
224 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 21:38:28
神武天皇陵 「延喜式」には「畝傍山東北陵 在大和高市郡、兆域東西一町、南北二町、守戸五烟」とある。 兆域の大きさをメートル法で表すと約100m×200mの大きさに相当する。 兆域の外周に奴卑が埋められる。それが卑弥呼の墓。
225 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 21:47:53
>>209 、
>>213 >ゆるやかな首長連合説の内容くらい把握してから書きこんでくれと言っているのだよ
そんなことは百も承知だ。「ゆるやかな首長連合」説に反対だから言っているのだ。
倭人伝の記事を見ると
邪馬台国は一大率を置いて諸国を検察しており、諸国はこれを畏憚している。つまり、邪馬台国が軍事的(というか
今日の警察、検察権力)をもって倭国に君臨している様子が窺える。これは「祭祀儀礼の共有(古墳の形式など)や交易
圏の形成などをもって形作られるゆるやかな首長連合」とは違うだろ。
それに、君等は九州説に対しては「遺跡や出土物の証拠を出せ」としつこく言いつのるだろ。それなら「ゆるやかな首長
連合」を示す遺跡、出土物は何か示せと言われても文句あるまい。「大和に邪馬台国があった」証拠となる遺跡、出土物
を示せと言われても文句はないだろ。君等の流儀でやってるだけだ。
226 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 21:50:50
北部九州は特別ダメな場所だったので、連合のみんなで叩いて強権支配した。そして一大率を 置いた。それだけのことだよチミイ。これ以降大陸の文物は全く九州を素通りするだけになる。
228 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:01:01
>>223 原田の「邪馬台国論争」には大和だってあるがね。いつ変節したんだ?
229 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:02:09
>>219 訂正
原田は畿内に持ってゆくためにヘンテコな 論を考えだしたのだ。
↓
原田は伊都国を前原に持ってゆくためにヘンテコな 論を考えだしたのだ。
230 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:04:08
原田は平原の被葬者に関係するが、2世紀末に畿内に遷移して大和に邪馬台国をつくったとするもの。 つまり邪馬台国だけに限れば畿内説。
232 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:09:26
233 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:10:51
では東遷説というのは畿内説のひとつだということだなwwwwwww
もう自分でも何を言ってるのかわからなくなってるんじゃないか
235 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:16:23
>>225 >そんなことは百も承知だ。
嘘つきだなあ
>「ゆるやかな首長連合」説に反対だから言っているのだ。
これは本音だろうね、何が何でも反対したい
そしてその根拠が「魏志倭人伝の記述」だwwwwwwwwwww
その記述が本当かどうかが、邪馬台国論争なのであって
無条件に信じてしまったのでは、話にならないということすらわからないのだろうね
236 :
58 :2010/02/18(木) 22:19:40
>「大和に邪馬台国があった」証拠となる遺跡、出土物を示せと言われても文句はないだろ。 一般的なところで ・他の遺跡に比して纏向に搬入土器が突出して多い ・ある時期から土器が全国レベルでの斉一性を持つようになる ・前方後円墳と言う埋葬文化の急激な全国展開 ・その前方後円墳が各地の埋葬文化のキメラの如きものであること ・威信財の銅鏡の分布がある時期から九州以東にシフト …等々かな?まあ俺のレベルじゃこんなところだwwwwwwwwww まあ馬鹿の自爆を誘っておちょくってもいいがw 上記で権力の発生を見る事に反対するのなら 「そもそもヤマト王権の発生を何時の時代、何に見る?」と言う質問が用意されているんでヨロシクwwwwww で、畿内説と言うのはそのヤマト王権が中国史書に書かれた邪馬台国であろうと言う立場だと言って間違いないと思うが 無論あくまでも蓋然性の範疇。 一戦国大名が外国に対して日本の王であると言ったような例は歴史上多々あるだろうしw これに対し「邪馬台国を盟主に頂いた30カ国はあくまで九州」と主張するなら その材料をもってこいと言う話し。 …しかしこれも暫くしたら綺麗サッパリ忘れられて同じ事を書けとわめかれるんだろうなwwwwwwwwwww いや、別に納得しなくても良いから、お互い無駄な手間は省こうぜ?w
というかね、225はやはり「ゆるやかな連合」を勘違いしている。伊都国に一大率を置くことが、 ゆるやかな連合が形成された大きな目的の一つ。つまりは数の圧力で、それまでの鉄器を含 む大陸の文物の輸入ルートをねじ曲げること。
238 :
58 :2010/02/18(木) 22:32:47
>>225 まあ
>>227 も言っているが
「緩やかな首長連合」と「一大率」が何故矛盾するのか意味が分からないw
言っておくがある程度の武力による威嚇があったとしても
それを畿内からわざわざ派遣する必要は無いwwww
半島との交易が 勒島→原の辻→博多湾 とシフトしていく状況を考えれば
その交易体制の最大の受益者は福岡平野=奴国だw
その福岡平野は畿内系の土器や埋葬文化を積極的に受け入れている。
もう状況証拠的には真っ黒クロスケwwwwwwwwww
倭人伝の人口の記述が奴国でいきなり跳ね上げるのもポイントしてマジオヌヌメwwwwwwwwwww
アタマに血が上って九州を一枚岩の如く考えなければ
割りと納得いただけるのではないかと思うがwwwwwwwwwwwww
239 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:36:03
>>225 >つまり、邪馬台国が軍事的(というか
>今日の警察、検察権力)をもって倭国に君臨している様子が窺える。
まったく、いつの時代の九州説だ
こんなヨタ話ひさしぶりに読んだぞ
強い統治能力を持つ軍事・警察力など、弥生終末期はおろか古墳時代に入っても倭地には存在しない
そもそもそれだけの軍事力や派遣能力をどのクニも持っていない
九州でも畿内でもだ
240 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:39:25
>>225 別スレからのコピペな
346 名前:老教授 ◆DaLsTNW7DE [sage] 投稿日:2010/01/10(日) 22:38:45
この大規模戦争や任意のクニによる征服の想定が極めて難しくなった理由として
主なものは以下が挙げられます。
1、クニ単位で物理的戦闘が行われた痕跡を示す、少なくとも示唆する遺物・遺跡が皆無である。
2、当時の武具の強度(特に銅製・鉄製の金属器)が低く、実用武器としては
丸太棒以下の威力、実用性しか無かった。
3、長年「最強武器」の代表とされてきた鉄器だが、圧倒的に出土量を誇る北部九州にも
威信財としての副葬品以外の、実用武器が見当たらない。
4、鉄そのものが古墳中期まで下らないと、畿内の出土量が九州島を凌駕しない。
5、鉄器の保有量が圧倒的に少なかったと見られる東海・関東においても
弥生終末期までには下手をすると北部九州や畿内を凌ぐクニがすでに出現している。
6、銅鐸・銅矛・銅剣いずれにしても、徐々に廃れたものであって、短期間の消滅ではない。
何よりその周辺にあるいくつもの環濠集落が、何の変化もなく存在し続ける。
思いつくままざっと挙げただけでもこれだけありまして
もっと細かいことを述べればキリがありません。
241 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:51:09
>>236 そんなくだらないことをあげて、よく畿内に邪馬台国があった証拠なんて
言えるな。全て九州勢力の東征軍が進出してきた証拠ってことでおしまいだ。
242 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:52:52
>>241 だーかーらー
>九州勢力の東征軍
こんなものは幻想なのよ、何も証拠がないの
それどころかなかったと考えられる証拠がそろってるの
243 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:53:55
おーい、原田の何を読めば北九州説なんだ?
>>241 やはり、ゆるやかな連合を全く理解していないね
東征軍とかを九州が持っていたのなら、誰も連合説とか考えないのよ
相手の批判は、正しい認識を持ってからにしたら?
245 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 22:57:16
>>242 >それどころかなかったと考えられる証拠がそろってるの
他の人から見たら、そんな証拠は何もないよ。
246 :
58 :2010/02/18(木) 22:59:09
>>241 >全て九州勢力の東征軍が進出してきた証拠ってことでおしまいだ。
全てプレアデス星人が畿内に舞い降りて王権を興した証拠ってことでおしまいだ。
…でもいいような話だな。
クズがwwwwwwwwwwwww
247 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:01:38
>>243 原田大六は平原伊都国が東遷して邪馬台国を建国した
つまり天皇家の始祖は、伊都国王だとの説なので
広義の九州説(東遷説)でいいんじゃないか?
少なくとも畿内説ではあるまい
248 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:03:33
>>245 他の人って誰?
これは畿内説とか関係なくて、もう常識なのだが
まあ証拠を突きつけられても否認する犯罪者もいることだし
そういう認識でおk?
249 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:04:42
>>247 原田ってそんな説だった?
卑弥呼が畿内で共立されて畿内が邪馬台国の首都だって言うなら畿内説だろうけど。
250 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:07:09
a
251 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 23:09:10
>>240 老教授に反論してみようか。
1, 景行は、九州遠征を決行。
2, 八柄の剣 刃渡りより握りが大きい。
3, 垂仁は大量の鉄剣を作って保有した。
4, 大和に於いて、鉄は(任那より朝貢)天皇家の領有物。
5, 北部九州や畿内を凌ぐクニは、無い。
6, 崇神6年を境とする。
ついに老教授に反抗するようになったか。
252 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:10:25
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
253 :
58 :2010/02/18(木) 23:11:39
ちなみに… 「ゆるやかな首長連合なんてありえない」とか言っている連中は それが、こと邪馬台国論争に留まらず日本の歴史の理解の仕方の根幹に関っているという自覚はあるんだろうか?w 例えば、5世紀頃まで各地に大型の古墳が築かれ それが5世紀半ばあたりから畿内にのみに収束されて行くような動きがある。 まあ普通はここで、ヤマト王権が連合体的な体制から中央集権的なものを志向しだしたと解するわけだが 連中はどう言う見方をするんだろう? 「ゆるやかな首長連合なんてありえない」と言うのは勝手だが じゃあそれよりも説得力のある蓋然性に富んだ仮説をもってこいって話しなんだよなwwwwwwwwww
まず3世紀以前の倭地は、小邑乱立状態。「旧百余国」と倭人伝にはあるが、独自の首長を持った集落は はるかに多かったはず。ただし北部九州だけは先進地域として早くから一大勢力となっていたいただろう。 それ以外の地域は、近隣の小邑同士の戦争等で次第にまとまってきた。それでも、倭人伝には「今、使訳 通ずる所三十国」ともあるが、遣使できないような小国はその何倍かわからないくらいあった。ただし特産品 のある集落は交易によって遠距離でも繋がっていた。この中から、墓制の共有などによって比較的大きなま とまりができてきたのが、邪馬台国前夜。銅鐸埋納の時期にあたる。
>>215 「帯方郡使がやってきたのが夏であって、それに随行して記録をとった者が、
方位を太陽の出る方角にしたので、そこに四十五度の差が出たのではないか」
(「邪馬台国論争」1969 原田大六)
256 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:14:36
>>247 >天皇家の始祖は、伊都国王だとの説なので広義の九州説(東遷説)でいいんじゃないか?
ならば、記紀は、天皇家の始祖は日向から来たと言っている。記紀はいずれも日向からの
東遷説だってことでいいな。畿内説は、記紀にも倭人伝にも反する妄想説ってことだな。
257 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:19:53
>>256 >記紀はいずれも日向からの東遷説だってことでいいな。
そうだな、記紀は東征説だが細かいところはいい
>畿内説は、記紀にも倭人伝にも反する妄想説ってことだな。
そこが君の限界
記紀にも倭人伝にも反して何が悪い?
どうしてその内容を精査せずに妄信するのか、理解に苦しむ
258 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:20:48
>>254 勝手な思い込みで、やたらと数を増やすんじゃないよ。倭人伝は倭の国は
「旧百余国」と言ってるんだ、それが「今・・三十国」なんだよ。
旧が百余国だけど今の数は言わないなんて読んだのでは文章的におかしいだろ。
>>256 ねじけた解釈だな。記紀に邪馬台国は出てこない。記紀の記述に素直にたどれば、前7世紀頃の東征説。
ここまでは異論は全くない。記紀をねじ曲げているのはこれを3世紀などに持っていく論。
260 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:24:48
>>253 その「ゆるやかな首長連合」というのが、文献的には全く見られないな。
日本の文献でも、中国の文献でもそのような痕跡はなく、あるのはただ戦い
だけ。
それに、倭国王という存在は、西暦100年頃の帥升からある。
伊都国について、「代々王がいて、皆、女王国に統属する」というのもそれで
納得がいく。
>>258 意味不明。「使訳通ずる所」が三十国。つまりそれ以外の集落はもっとあると言っている。3世紀の全国の
集落遺跡を数えてみればいい。
262 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/18(木) 23:29:50
>>236 ここで挙げられている事柄が邪馬台国とどう関係するのか分らん。
>他の遺跡に比して纏向に搬入土器が突出して多い
邪馬台国には搬入土器が多いと考えねばならないのか?
>ある時期から土器が全国レベルでの斉一性を持つようになる
それが邪馬台国となんの関係があるのか?
>前方後円墳と言う埋葬文化の急激な全国展開
だからどうだってんだということ。卑弥呼の墓は前方後円墳だとでも言うのか?仮にそうだったとして
その埋葬文化の急激な全国展開が邪馬台国と何の関係があるのだ?
>その前方後円墳が各地の埋葬文化のキメラの如きものであること
それがどうした。邪馬台国となんの関係があるのだ?
>威信財の銅鏡の分布がある時期から九州以東にシフト
それが邪馬台国となんの関係があるのだ?
結局邪馬台国と関係あるものはな〜んもないじゃんか。こんなもんで「邪馬台国は大和にあった」と言えると
思っているなんて、キミも純情だね。
263 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:30:03
>>260 どうして文献を無条件に信じちゃうのかねえ
だったら神武東征が前660年だというのは何故信じないの?
264 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:30:19
>>261 勝手に「それ以外の集落はもっとある」なんて付け加えるんじゃないよ。
そんなことは一言も書いてない。今は三十国、それらは使訳通ずる所だ
と言ってるだけだ。
265 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:31:16
>>262 つまり、あほな私にはわかりませんでしたということだね
266 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:34:20
>>261 >3世紀の全国の集落遺跡を数えてみればいい。
未熟だね。集落遺跡の数を数えて国の数が分かると思ってるのか?
一つの集落で一つの国家をつくるなんて約束はどこにもないんだよ。
邪馬台国七万戸というのは、一箇所に七万戸が固まっているということではない。
いくつもの都市や集落が集まって邪馬台国をつくっている、すなわちそれだけ
広い国家だということなんだ。
>>225 >一大率を置いて諸国を検察しており、諸国はこれを畏憚している。
伊都国に置かれた一大卒は、それまで大陸との通交を独占していた
北九州勢力を(卑弥呼を共立した勢力が)監察するためのものだったろうと思います。
>邪馬台国が軍事的(というか今日の警察、検察権力)をもって倭国に君臨している
したがって、邪馬台国が君臨しているわけではないでしょう。
>「ゆるやかな首長連合」を示す遺跡、出土物
纆向遺跡から出土する外来系土器や、各地域の要素で構成される墳丘墓は?
>>264 魏が国と認めているのは三十国ということだろ。それ以外の倭種も含めればもっとあるのは常識。
269 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:37:20
>>263 文献を信じなきゃ、歴史は語れないからね。
例えば、吉野ヶ里遺跡は非常に調査の進んだ遺跡だが、何という国なのかさえ
わからない。考古学の限界がそこにある。
考古学で政治的なことがわかるわけがないし、それは妄想に近くなる。
妄想が出来るから、畿内説にとっては都合がいいのだろう。
>>266 >すなわちそれだけ広い国家だということなんだ。
だから、ゆるやかな邪馬台国連合。
271 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:40:39
>>262 265
>>262 の言うとおりだな。 265はそんなことがつながると思っているんだろうが、
への突っ張りにもならん。
272 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/18(木) 23:41:02
>>265 キミはあそこに挙げられた事柄と邪馬台国の関係を説明できると言うのだね。ほう。ほう。ではその
関係とやらをやさしく教えておくれ。
273 :
58 :2010/02/18(木) 23:41:41
>>262 縄文人 ◆cM49xEAzX6
まあ、この程度の反応と言うのは最初から分かっていた話だがw
幼稚園児相手にしているんじゃないんだから
もう少し話の流れを読んでくれんかな?
そこであげた諸々のことで「王権発生」を見て
それを邪馬台国と見るのが蓋然性があるだろうって話し。
無論その発生した王権を邪馬台国とは別のものと言うのは良い。
だったら九州の(恐らくは面的に強固な支配体制を築いた)邪馬台国と支配されたクニグニがあった根拠
それを何に見るんだ?言う話。
ちなみに「邪馬台国」なんて九州も含め古代の日本の何処にも無い。
中国史書に「邪馬台国」と記されたクニがあっただけ。
脊髄反射的にイチャモンつけるだけじゃなくて
じゃあお前が「そこが邪馬台国であった」と断ずるに十分な材料とは何なのか?
を言ってみろって話だなwwwwwwwwwww
274 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:42:06
>>270 まちがえちゃいかん。連合というのは邪馬台国と田の国々の話。私がいうのは
邪馬台国一国の話。
275 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:44:48
>>272 では優しく教えて進ぜよう
「古墳時代のツクシとヤマト」「三国志からみた倭人たち」
とりあえずこの本のどちらでもいいから読んで、理解してください
相手の説を全く知らずにどんな反論を張っても、お門違いにしかなりません
>>274 ここは水掛論になりそうだが、邪馬台国=ゆるやかな連合と考える。「ゆるやかな」の意味は、各クニの
首長の存在を認めながら、それらと個々に卑弥呼が臣従関係を結んでいるということ。
277 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:47:27
>>247 >原田大六は・・・・・(中略)・・・・・
>広義の九州説(東遷説)でいいんじゃないか?
>少なくとも畿内説ではあるまい
だめだめ。原田大六さんは畿内説。
畿内説というのは邪馬台国の所在地が畿内と考える説だから、大六さんも正にその一人。
「広義の東遷説」ならまあOKだろうが「広義の九州説」はいかんよ。
278 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:47:59
「そこが邪馬台国であった」と断ずるに十分な材料とは何なのか? 倭人伝の行程に従って進んだ先が邪馬台国だ。当然の話だろ。 さらに、倭人伝には行程の他にも、其の国のことが書いてある。それらに合致 することが必要だ。考古学的にも邪馬台国と認めて不自然でないこと。そんな ところだな。
279 :
58 :2010/02/18(木) 23:48:19
>>276 まあ言わば「日本版 冊封体制」ってところかな?www
もっとも双務的な軍事関係はなかったんだろうが・・・
280 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:50:14
>>278 >倭人伝の行程に従って進んだ先が邪馬台国だ。
海の中なのだがwww
282 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:51:16
>>276 邪馬台国はいくつの国からなっていると考えてるんだ?
>>260 >その「ゆるやかな首長連合」というのが、文献的には全く見られないな。
「共立一女子為王」は?
284 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:53:13
>>280 かってに海に飛び込むなよ。陸行ってのは海に飛び込むことではないぞ。
285 :
58 :2010/02/18(木) 23:53:30
>>278 じゃあ行程記事の読み方解釈の仕方を統一しろw
また考古学的に一致と言うのは今の日本中の何処にも無いな。
径百歩の墓から百人の殉葬跡が見つかったなんて話しは聞いた事も無い。
そもそも日本の何処かにそんな物があるのかも大概怪しいと思うがwwwwwwww
まあ完全合致を条件にうたっておけば否定するには困らないと言う話し七日も試練がwwwwww
3世紀の倭地では、ある程度大きな面積を軍事力で支配するのは無理と思う。よほどの力の差がない限り 敵地に乗り込んで打ち破るのは不可能だし、占領支配もできない。とすれば、広域をまとめるのは四隅突出 型墳丘墓のような、宗教的・文化的なもの。邪馬台国にあっては卑弥呼の鬼道。
287 :
日本@名無史さん :2010/02/18(木) 23:58:50
>>284 不弥国から南に水行二十日だろ、そしたら投馬国
そこから水行十日、陸行一日だ
もう投馬国がどこであれ、水行十日も南に行けば九州を突き抜けて太平洋だよwww
それとも「ボクの考えた倭人伝解釈」では違う読み方をするのかなwww
288 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/18(木) 23:58:51
>>273 >そこであげた諸々のことで「王権発生」を見て
それは別に構わない。
>それを邪馬台国と見るのが蓋然性があるだろうって話し。
時代が合えばね。しかし、前方後円墳の築造時期はまだ確定したとは言えないだろ。
>脊髄反射的にイチャモンつけるだけじゃなくて
>じゃあお前が「そこが邪馬台国であった」と断ずるに十分な材料とは何なのか?
>を言ってみろって話だなwwwwwwwwwww
脊髄反射的にいちゃもんをつけているのではないぞ。論理的に分らん話だから疑問を投げかけたのだ。
邪馬台国の位置については倭人伝の記事で考える。卑弥呼の墓はもう壊されているかも知れん。邪馬台国の
都のあった地域の候補は方保田東原遺跡のある地方だろう。
289 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:04:25
>>285 統一しろって言われてもなあ。畿内説にも箸にも棒にもかからん奴ばかりではなく
いくらかましな理屈を言う奴もいるだろ。
それと同じ。九州説にもトンデモはいくらでもいる。まともな説が多くを占めると
は限らない。統一ってのは無理な話だよ。
考古学の面では、百人の殉葬とか金印、封泥とかいうのはどこからも確認されてい
ないが、だからといって一致するところがないということではない。まだ、確認で
きていないというだけのことだ。蓋然性でよしとせんとな。
290 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:06:18
>>288 方保田東原遺跡かあ、まあ戦争やら支配がどうたらと電波のきつい縄文人にしてはまともだな
だがそれなら巴形銅器について説明せねばならなくなるぞ
それと3世紀中ごろ以降と見られる時期から、山陰や瀬戸内の外来式土器が増える点など
こういうのはきちんと考えてる?
291 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:08:02
>>287 水行十日も南に行けば九州を突き抜けて太平洋だよってのが「ボクの考えた倭人伝解釈」
なんだな。そんな思い込みを持たずに、使者の進行速度は俺が考えたのよりも遅いのかな
と考え直してみな。なにしろ、北九州から南へ行って一月歩くところなんだ。
海の上を歩くわけはないってことだ。
292 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:09:40
>>283 連合というような国と国との関係が見られないと言うこと。
卑弥呼の共立は、倭国の王の座を決めるものだったのだろう。
例えて言えば、徳川将軍に世継ぎがいなくなった。尾張と紀伊が、その座を
めぐって争いになり、ついに戦争になった。いろんな大名が双方に付き
収拾が付かなくなる。
そういうことなら、水戸から出しましょうと誰かが言ったら、なら仕方が
ない。そうするかと言うことで一件落着した、みたいな。
共立と言うと、いかにも民主的な方法のように取られるが、中国の文献を
みると、変則的な場合に用いられる。跡継ぎが子でなかった場合とかに。
それは、卑弥呼のあとに台与が王になった経緯からもうかがわれる。
倭人伝には、卑弥呼のあとに男王が立つと国中が不服で、争いが起こった。
千人余が殺された。そこで、台与を王にすると国中が定まったとある。
卑弥呼の場合もこれと同じようなものと考えられる。
トヨタン・・・・・・・・・・
294 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:11:10
>>291 >北九州から南へ行って一月歩くところなんだ。
君、独自の行程解釈をしてないか?
不弥国・投馬国・邪馬台国の行程を言ってみて?
原田大六が聞いたら怒るがな。 彼はここにいる畿内説論者と同様に、九州説論者を常に罵倒していた人物。 「九州説を唱えるような輩と一緒にすな!」
296 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:15:29
「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」 これは大陸から見た倭国の位置を示す一文なのだが この時点で倭人伝は日本列島の正確な形を把握していないことが判るよな なのに行程記事は信用できるって、それはご都合主義なんじゃないかね
297 :
58 :2010/02/19(金) 00:19:01
>>288-289 結局は「砂鬼四荼羅経」のお出ましとwwwwwwwwww
少なくとも考古学的に完全一致するもが九州説から出せるわけも無く
行程記事の解釈もこれと言った「軸」になるようなものも出せない。
基本、単一史料の倭人伝は他史料からの比較検証はできず
普通ならそれをもって位置論に決着をつけられる様なものでないとするだろう。
>>169 の言うように
>文献からは確定できないという結論
と言うのがしごく真っ当wwww
結局、ここの九州説の連中がやっているのは「否定のための否定」
考古学的に完全合致なんてものは九州にも無く
元々そんなものが無い可能性が大きいのは分かっていても否定のためにそれを持ち出す。
倭人伝の行程記事にそのような能力がないのが分かっていても否定のためにそれを持ち出す。
まあ、言ってるうちに本人がセルフマインドコントロールでマジに信じちゃっている・・・って状況鴨死煉瓦wwwwwwwww
倭人伝を素直に読んだ結果、九州島内には多くの比定地がある。これを統一するのはもちろん 不可能。なぜならそれぞれ読みは全て「正しい」とそれぞれが思ってるから。だったら、「九州説 ドンと来い」スレで統一戦をやればよいのに、それはいつまでも始まらない。畿内説否定が悪い とはいわないが、真実を明らかにしたいなら自分以外の九州説もすべて偽のはず。ぜひドンパ チやってほしいな。
>>292 >連合というような国と国との関係が見られないと言うこと。
君にとっては同一視されるものなのかもしれないけど
当時の倭地に「国」はないよ、あったのは「クニ」だ
その国を「国家」と解釈して話を進めると、よけいにあさっての方向に行くぞ
300 :
58 :2010/02/19(金) 00:39:20
まあ正直に言うと、もし日本列島が太平洋のど真ん中にでもあったなら ヨーロッパ人が上陸して植民地になるまで 「ゆるやかな連合体」もしくは「大きなムラ社会」とでも言うべき体制が 続いていたんじゃないかと想像しているwwwwwwwww
301 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:41:25
>>298 だな、まず九州説どおしで議論しろってことだよな
畿内説はもちろん、自分以外の九州説や東遷説は間違いなはずだし
もし同じ考えのものに出会ったら、同盟を組めばいい
倭人伝の行程解釈でも、ひとりひとり違うようだし
畿内説はそのあたり「マキムクスレ」というものを作って
お互いの意見交換や議論(もちろん罵倒もありwww)でやっているのだから
九州説がそれをしないというのは、やはりおかしい
もしかすると本気で九州説を信じていないのではないかとすら思ってしまう
302 :
ローガン :2010/02/19(金) 00:47:39
そもそも論にちょっとだけ参加。 そもそも〜庄内期の土器拡散、纏向への搬入土器の多さ等をみると、それまでには見られない北部九州まで巻き込んだ、人の移動の広域化が活発になる時期の中で 最も求心力のあるのが纏向。 其の地にはじめて300m.近い個人墓が築かれた…として、被葬者は当然、広域に勢力をもつ初めての王である。 また、その墓は未調査なれど、大和オリジナルではなく、吉備を起源とする祀られ方。( それに他の前期古墳から寸法取りしたら)九州発祥ともいえる銅鏡大量副葬等、各地の祭祀方法を集めたスタイルである。 各地から共立されたking of kingsの墓に重ねて考えるのが妥当な見解でしょう。 それを指して「邪馬台国だという根拠がない」というのは だだコネでしょう。
303 :
58 :2010/02/19(金) 00:49:12
>>301 しかし考えれば変な話で「法華一乗」ならぬ「倭人伝一乗」で同じ史料を元にして
説を組み立てたのに本来解釈の幅が多きいはずの畿内説以上にバラバラも良い所www
それが比定地の違いに留まらず年代観や歴史観そのものにも及ぶんだから
もう何がなんだかwwwwwww
304 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:53:28
>>296 それが今の知識による地理に合致しないからといって、倭人伝が不正確だとか
信用できないなんていう理由にはならんよ。
現代人だって、地図を見せられなかったら、会稽東冶の東がどのあたりか分か
らないだろう。ずれていて当たり前、そう考えるべきものだよ。
それがずれてることと、南と東、水行十日陸行一月の問題とを一緒にはできん
ということだね。
305 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 00:57:54
>>303 九州説の人ってちょっと変わったところがあって
過去の誰も見つけられなかった真実を俺だけが見つけた!ってのが大好きみたい
だから、それ○○説だねというと、ものすごくショックを受ける
すでに過去にあって、その反論もすでにあるよって示すと、もう冷静さを失って
くぁwせdrftgyふじこlp;@:「!!!になってしまうんだよな
たぶん邪馬台国探しとかが本質じゃなくて
あれは自分探しをしてるんだな
306 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:03:56
>>302 邪馬台国、というか倭国について書かれているのは倭人伝だけなので、
倭人伝の記述に合致するかどうかが邪馬台国の一番の根拠になる。
そういう意味からも、卑弥呼時代の墓は前方後円墳ではなかっただろう。
まず、形について倭人伝には「径百余歩」と書かれていて、円墳である
可能性が高い。
これは、畿内説の人でも、箸墓は後円部から先に作って、あとで前方部を
付け足したなんて説がまことしやかに言われていたことからもうかがえる。
もちろん、今では、同時に作られたことがわかっているが。
更に、棺はあるが槨はないという記述もある。前方後円墳に槨がないという
のは考えられない。
卑弥呼の時代と古墳の時代は合わないだろうな。
307 :
58 :2010/02/19(金) 01:05:58
>>305 欧米だと
「自分こそは聖書に隠された暗号を解いた!」
と言うアレなのかな?w
そこら辺のノリがここの九州説が「暗号解読ゴッコ」と呼ばれるゆえんであるwwwwwww
308 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:08:21
>>304 そうだね、これに関しては倭人伝は間違っている
それは当時の地理感覚からすれば仕方のないことだろう
でもだからこそ、行程記事や戸数記事も正しいとはいえないはずなんだ
風俗記事にしても、どこか別の地域の資料が混じってしまったとも考えられる
まあこれは可能性の話だから、まだ譲れるのだが
問題は、陳寿もそうだが倭人伝が
倭国や倭人をどう解釈していたかなのだと思うよ
済州島や台湾も倭人の国と考えていたのかもしれないし
海を渡ること一年なんて記述もあることから、フィリピンあたりも倭人とみなしていたのかもしれない
志賀島の金印は本物だと認めているのなら
蛇の紐がついているのは、漢は少なくとも南方の国だと認識していたということになる
その誤りが倭人伝にも引き継がれていると考えるのが妥当じゃないかな
倭人伝解釈の通説は、こういう感じなのだが
309 :
ローガン :2010/02/19(金) 01:18:58
>>306 >まず、形について倭人伝には「径百余歩」と書かれていて、円墳である可能性が高い。
そうです。「前方後円墳」なんて当時は言わなかった。
> 更に、棺はあるが槨はないという記述もある。前方後円墳に槨がないというのは考えられない。
え?では槨の定義とは?
気が向いたら教えてね。zzz…
310 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:19:06
>>307 そうそうwwwwwwまさにそれwwwwwwwwww
そして更に話をややこしくしているのが、ファンメダリストにも匹敵する
記紀原理主義者
もう進化論を学校で教えないとかと一緒で
欠史八代や神武東征を信じ込んでる
前に男系天皇の話があったよね
その時、全国のほとんどの神社は、紀元前660年前の神武天皇から続く由緒正しい男系云々・・・
とやって、一般参拝者の失笑を買ってしまい、本来ならもっと議論されるべきであった男系相続議論そのものが
笑い話に堕してしまったという大失敗があった
一部の神社は、さすがにこのヨタ話をだすと皆がひいてしまうから、冷静に議論しましょうと持ちかけたのだが
痛い記紀原理主義者のせいで、一般人がドン引きして、そのせいで男系にこだわらなくてもいいじゃないとの世論になってしまった
もうホントに迷惑なんだよね、まさにひいきの引き倒しとはこのことだよ
311 :
58 :2010/02/19(金) 01:20:25
ただ風俗描写については現代の日本の気候風俗を考えても分かるように 東南アジア地域との区別がつきにくいって部分が基本的にはあるわな。
312 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:26:20
>72 >伊都国東遷については、やはり北部九州精力が集団で移住した2世紀後半から3世紀初め頃の大規模な九 >州色の強い集落跡などの直接的な証拠がほしいところ。平原遺跡に見るの副葬習慣の移動というだけでは弱 >いだろう。そもそも弥生終末期にあって、平原王墓は九州内でも特異な存在ではないか。倭人伝に見る一大率 >との関係で解釈することもできる。 考古学的には別に平原は特異ではなく、南小路や井原の後継とみて何ら不思議はないです。 これらになかった割竹式木棺ももっと前にもあることが確認され、当初原田が唱え、特 異と思われたの祭祀空間構成も吉野ヶ里その他で類例が発見され特段特異なものではなく なっています。 >平原遺跡はたしかに豪華な副葬品であるが、墓自体は小さな方形墓にすぎない。平原以降すぐに東遷があ >ったとするなら、これから100m級前方後円墳に至る変化を説明するのは難しい。また、北部九州系の土器 >が、初期の纏向遺跡に少ないことは、説としては決定的に弱い。これを土器の供献説だけで説明できるとは >思えない。やはり九州に入っていった庄内土器がのほうがむしろ一大率などの外部からの勢力の存在を示唆 >するのではないか。 前にも言った通り、考古学的にほとんどの土器は権力とは無関係です。 まきむく遺跡より前にも畿内には明らかに九州系の遺跡と思われる遺跡が突然出現して いますが、いずれも九州系の土器を伴っていません。日本海側でも同様であり、また伊都倭国 圏内ではありますが、四国に文京遺跡という九州系の巨大な遺跡が突如できますが、これもや はり同様です。これらから権力移動に土器移動が伴うという前提がそもそも間違いであることが 証明されています。
313 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:27:19
つづき >平原の大柱跡が後代の鳥居に繋がるというのはさすがに電波ではないか。平原には何らかの太陽信仰のよ >うなものが認められるといってよいと思うが、纏向の祭祀は農耕儀礼的なものであり、むしろ銅鐸祭祀との関連 >において説くことができるものではないか。 後期の畿内には、このような空間構成は全くありません。 そもそも特定個人墓や大型建物がないです。 銅鐸祭祀とは何の関係もないですね。
314 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:28:37
魏の使者が来たとき、倭の役人が対応していると考えるのは当然のことだろう。 それが、済州島や台湾を倭の一部だと説明するかね?海を渡ること一年なんて記述もある というが、それは倭の一部として説明しているわけではないよ。他国の話だ。 なお、蛇紐印は、南方の国に限るわけではないよ。
315 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:28:50
>>309 槨は石室。というか一般的には棺を入れる部屋のこと。
316 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:32:23
>>315 ま、ついでに言うと、倭人伝には葬儀の様子が詳しく書かれている。
どうも、郡使はそちらの方面に興味があったらしい。
にもかかわらず、独特な形で、しかも巨大な前方後円墳に触れないというのは
考えられないな。
317 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:32:35
竪穴式石槨のない前期の前方後円墳はあっちこっちあるよ
318 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:33:37
>97 >北部九州における特異例が瀬戸内を横断しヤマト入りして急激な伸展を見せたとするより >九州以東の首長墓の大型化と言うトレンドが副葬品に重きを置く北部九州の墓制と融合した結果が >平原王墓だとする方が分かり易いかもしれないwwwwwww これはぜんぜん間違いですね。 中期後半の南小路等の墳丘は30メートルほどと想定され平原は これに比べ全く小さいです。王ではなく、巫女であるという性質か らと想定されますね。 >ヤマトに東遷した伊都国は母国をえらく冷遇したような印象を受けるし >もしくは根こそぎ人間が移動してしまったかwww
319 :
58 :2010/02/19(金) 01:36:17
ヨコからだが…
>>312 >前にも言った通り、考古学的にほとんどの土器は権力とは無関係です。
そもそも土器の移動が権力の移動に直結するなんて誰か言ったのか?
良くこの板の畿内説の間で解釈が問題になる話に
北部九州←畿内←東海
と言う土器の一方通行ってネタがあって、そのロジックなら東海こそが
畿内や九州を支配した権力って事になると思うが
誰もそこまで飛ばしていないwwww
320 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:37:13
>66 >「小林の自生説か然らずんば東遷説か」 >と言うような論調だなwww >今の考古学のトレンドってそうなのか?w >教えて適当にエロイ人wwwwwwwwww 邪馬台国九州説と同様に、畿内自生説をとる方は減少していますが、 まだいることはいます。 福永氏の銅鐸配布説など典型ですが、これが誤りであることは前に指摘 したとおりです。
321 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:43:53
そのほか、後期の畿内から、突然、前方後円墳が出現したことに関して、 何らかのイデオローグの存在を想定される方もいます。 たとえば、広瀬さんという学者は、 「大野安麻呂に匹敵する天才的イデオローグが、前方後円墳を創設した。」 という趣旨のことを主張されています。
肝心の事を書いておくの忘れた。 東遷説論者に対し「纏向に九州系の土器が見られない」と言った場合 それは権力の移行の事ではなく人口の流入の事を指して言われていると解するのが一般的だと思うがwww
323 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:49:48
前方後円墳が最初に出現した地域がどこかについて、何か証明できるものが あるのかな。考古学的には、畿内に最初に登場したと言う前提で理論が組み立て られているらしいが、その根拠はあるのかな。
324 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 01:50:12
>322 312で書いたとおり、まきむくより前に九州系の遺跡(家の構造等から)は 既に存在しています(播磨大中など)。これらにより人は動いても土器が動かない ことが証明されているため、ご指摘のような主張は考古学的にはなりたたないです。
325 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 02:02:18
それから、伊都倭国や倭王権がどの程度の連合政権かどうかについて議論されてますが、 伊都倭国については、伊都国地域、奴国地域を中心にきわめて厳密な威信財体系が あることや戦傷者の埋葬から、博多湾等から始まった戦いが外部に拡散し後期には 北九州内の戦いが終わるといった現象から後期には伊都国地域を中核としたきわめ て厳密で階層的な国家が生じたことが証明されています。 次に倭王権ですが、これは庄内の間は伊都倭国ほど画一的な体制ではないと思います。 なぜなら山陰地域や吉備地域には、後期の墓制がある程度そのまま継続していることから、 これら地域については、ある程度の自律があったことがわかるためです。 ただし、畿内については、終末に銅鐸が破砕されることを含め、後期の文化が 完全に否定されてることから、政治的劣位にあったことは明らかだと思います。
326 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 02:13:33
>310 >欠史八代や神武東征を信じ込んでる 小林は、当時の文献学者の主張する4世紀初頭の崇神を初代天皇とする 説を鵜呑みにしてしまい、これを根拠にいわゆる欠史8代を架空とし4 世紀初頭を古墳時代の開始としましたが、これは考古学的に明らかに 間違いです。 仮に田中卓が主張するように崇神の崩御年を3世紀中ごろとしてもこれが初代 天皇であることはありえません。 考古学的事実では、2世紀末から3世紀初頭が倭王権の開始ですし、もっと 上る可能性があります。 また、一部の学者の主張するような布留期と庄内期の断絶はないですね。
327 :
=58 :2010/02/19(金) 02:17:26
>>324 以前、香川県善通寺市で2本柱をおっ立てた九州系の建物跡が見つかり
そこからは九州系の特徴を持った壷が見つかっていたと思うが
「人は動いても土器は”動かない”」と断定するのは流石にご都合主義に見えるなwwww
結局のところ
「土器なんか無くとも畿内に大型首長墓の突然現れた事をもってして九州からの東遷があったと断じて良い」
と言う結論なのかな?wwww
そもそも山陰の物は時間経過があって東征の結果ではなく
畿内の物は突然だから東遷の結果・・・と言うのはその時間の基準が良く分からない。
そもそも、お前さんの場合、邪馬台国東遷厨と違い庄内も100年ぐらい(AD200〜300)見てて
それが更に遡る可能性も認めているんだろう?
その間に大型首長墓の文化をインポートして発展させ大型化する…
百年余が果たしてそれを東遷の結果としなければならないほどに短いのか?
・・・ってのが疑問だなwwwwwwwwww
328 :
58 :2010/02/19(金) 02:42:45
>>326 >小林は、当時の文献学者の主張する4世紀初頭の崇神を初代天皇とする
>説を鵜呑みにしてしまい、
まあどうでもいいかもしれんが…
そもそも小林説のキモと言えば椿井大塚と三角だろうにwww
「小林説(の年代観)が東遷説によって屈服させられた」とか言う論調にしてもそうだが
例の邪馬台国東遷厨と同じパトスを感じるのは俺だけだろうか?wwwwwwwwwww
329 :
58 :2010/02/19(金) 02:57:59
>>320 伊都国東遷厨
それから
>>66 の質問の意味が通じなかったようだから
もう一度書いておく。
>「小林の自生説か然らずんば東遷説か」
と言うのはだ。
考古学者をその2分類で全て分けられるのか?って意味で
自生説でなければそれは全て東遷説で
東遷説でなければそれは全て自生説
…という状況に今日の考古学会とやらは置かれているのか?って話ねw
お前さんの言ってるのを聞くと
今や絶滅寸前の自生説の他は東遷説で埋まっている風にも聞こえるんだわwwww
330 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 06:47:41
>>302 >大和オリジナルではなく、吉備を起源とする祀られ方。九州発祥ともいえる銅鏡大量副葬等、各地の祭祀方法を集めたスタイルである。
>各地から共立されたking of kingsの墓に重ねて考えるのが妥当な見解でしょう。
>それを指して「邪馬台国だという根拠がない」というのは だだコネでしょう。
その前に、倭国の範囲を考えるべきだな。倭国の中で一番大きいから倭国の王だと推定するってのならば、
それなりに理由はあるように見えるが、文化に共通性が認められるってだけでは、朝鮮半島の影響だって
十分に認められるんだ。しかし半島は倭国ではない。逆に九州と本州に共通性が認められるからといって、
九州と本州が同じ倭国の中だったとは言えないんだよ。
倭人伝が伝える倭国は、あくまでも海中州島の上、周旋五千里(僅か四百キロ)、北九州に上陸して南に
行くだけで邪馬台国につくところだ。本州が入る気配はない。
倭国に入らないところで、いくら倭国と文化の共通性があるからといって、女王の共立に関係したなんて
いえるものではない。
331 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 07:12:02
>>325 >畿内については、終末に銅鐸が破砕されることを含め、後期の文化が
>完全に否定されてることから、政治的劣位にあったことは明らかだと思います。
問題は、その劣位にあった畿内で何で大型古墳が造られたかですね。
畿内そのものにはそれほどの人が集まる要素はない。しかし、畿内はその位置を
みると東海地方と九州を結ぶ連接点をなしている。九州からの東征軍が東海やさ
らにその東を支配するには絶好の位置だということでしょうね。
332 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 07:32:52
「九州からの東征軍」ってなに? どこのファンタジー? 少年ジャンプかな?
333 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 07:34:06
>>187 >王仲殊は畿内説なのだが認識がむちゃくちゃだな
「中国からみた古代日本」をみると、倭人伝は九州、後漢書は畿内を示している
とみているようで、はっきりしたことは言ってないぜ。
畿内説というのはどこから出てきたんだ?
334 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 08:19:34
>>302 初期ヤマト王権の形成過程と見れば、それで説得力がある。
問題は、何故それを倭人伝から「邪馬台国」の文字だけを取り出して結びつけるのか
って点。ヤマト王権自身が述べている記紀によれば箸墓はモモソヒメの墓なんだから
それを信じるべき。記紀には「邪馬台国」は出てこない。
>>333 >畿内説というのはどこから出てきたんだ?
畿内説は誹謗中傷と捏造だけはお得意ですから。
まあそういうことでしょう。
337 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 08:40:21
国生み神話で最初に生まれたのも淡路島。 淡路島と密接だったのが徳島なわけで、 前方後円墳は徳島起源ともいわれる。 朝廷の祭祀を司った忌部も徳島の出自。 神武東征神話では、神武は徳島に立ち寄ってないので、九州説も東遷説もとっくに崩壊した昨今、 そろそろ、徳島と大和との関係も議論を始めていい頃ではないのか?
338 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 09:44:37
>>334 1か所出たからって舞い上がるなよ。それが出たところで、畿内の鉄が少なかった
ということに変わりはないんだから。
339 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 09:48:12
>>338 大集落も無い島に「すら」鉄器工房が存在したという事実が
鉄器優位によった九州説を崩壊させている。
340 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 09:55:51
>>338 >大集落も無い島に「すら」鉄器工房が存在したという
言葉づかいを知らないねえ。他の所から鉄器工房をたくさんみつけてから
言ってね。
341 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 10:17:33
>>340 すると、畿内は、淡路島に「だけ」最大規模の鉄器工房が存在したと言いたいのかな?
342 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 11:11:04
朝鮮半島から運んできた鉄をつかって何かをつくっていたというんだろ。 淡路島で一手に引き受けていた、それだけだということは十分に可能性がある。 それに、朝鮮半島からの輸入品が淡路島にあげられていたということは、 瀬戸内海航路をつかっていたということだな。海賊云々で魏使が日本海 航路を使ったなどという説には痛手だろうな。
343 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/19(金) 11:19:48
>>337 淡路=阿波路:摂津八部郡辺りから見て、阿波への路。
八部郡は阿波勢力が進出した摂津の西端。
>>340 >>341 淡路島は畿内ではありません。阿波路は大和、河内の勢力下にはありません。
淡路島の鉄工房は九州軍団の畿内侵入を準備した武器工房とも考えられる。
>>337 畿内の前方後円墳が徳島起源説は傾聴に値します。
徳島の前方後円墳勢力が九州から来た勢力(同一宗教系列勢力)を支援し、
和泉方面(長髄彦)と摂津方面(神武)から侵入したのです。
神武東征神話では、神武は徳島に立ち寄っています。
且つ、徳島の勢力の支援(道案内)のもと、淡路島東岸−明石海峡
−摂津南岸経由で河内湾(湖)に侵入しています。
大阪湾には時計回りの沿岸海流の定常流があり、この海流に乗って河内湾に侵入したのです。
又河内湾から撤退する時も、この海流に乗って和歌山方面に逃れることができたのです。
徳島で待機していた神武軍団の非戦闘員(家族)は、和歌山で神武軍団と再合流したのです。
344 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/19(金) 11:28:10
追加説明 阿波勢力=蛭子 : かたわであったが為、水に流された子供
345 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/19(金) 11:31:51
徳島固有の神社の祭神 : ヒルコ ヒルメ
346 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 12:25:40
なんだおい、昨夜はえらく盛り上がったんだな 乗り遅れたぜちくしょうwww ちょっくら読んでくる
347 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 12:43:34
邪馬台国=北部九州広域 伊都国=邪馬台国の都説で決まりだな。
348 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 14:38:02
>>343 >神武東征神話では、神武は徳島に立ち寄っています。
立ち寄ってないだろ。
妄想もいいかげんにしろ。
349 :
ローガン :2010/02/19(金) 15:18:46
>>315 > 槨は石室。というか一般的には棺を入れる部屋のこと。
部屋ですか… ?な所もありますが、取り敢えず「部屋」だとして。
女王墓が竪穴式石室という部屋を持っていた。これが「有棺有槨」とするなら、当然 棺も槨も実見したことになる。両者共を実見するには、棺を収める以前に槨(部屋)が出来ていなければならない。
しかし この石室、完成後には棺を収めるのは無理。棺と板石の間が狭く担ぎ手が入れない。(下池山や黒塚が良い例)
棺を先に据えて、外側から棺の方を向いて板石を積んでいく以外に石室構築方法はない。
又、こうしない限り黒塚の△鏡、並べるタイミングはないでしょう。 貴方の云う「部屋」…棺を収める為に予め作られた埋葬施設が槨なら、上記の手順で作られる石室、決して槨とは言わんでしょう。
まあ、いずれにせよ「有棺無槨」徑百餘歩の女王墓に関する記述部分ではないけどね。
350 :
ローガン :2010/02/19(金) 15:55:08
>>335 言ってる事おかしいですよ。
>初期ヤマト王権の形成過程と見れば、それで説得力がある。
つまり、302の「各地から共立されたking of kingsの墓に重ねて考えるのが妥当な見解でしょう。」が 的外れでないなら
>ヤマト王権自身が述べている記紀によれば箸墓はモモソヒメの墓なんだからそれを信じるべき。
記紀は箸墓の被葬者を王権の大王にはしていないんですよ。上記見解を認めるなら、貴方が否定してるのに「信じろ」とは…
351 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 16:19:34
>>329 >>320 の説明はかなり端折ったもののようで、現状はもっと複雑
まず布留0式の開始が庄内式とどれだけ交差するのかでさえ
統一見解がなく、これが現在の議論の焦点でもある
歴年代ともなると、想像の息を超えないので、シンポジウムなどで私見を語るくらい
ただ最近の傾向として、マキムク最初期には吉備・山陰の関与は本格的ではなく
阿波・讃岐・河内そして大和などが主体となり、東海を引き込んだのではないかと見る向きも多い
これは、その後に吉備・出雲・南関東・北陸などが徐々に参加し
連合として機能し始めたのが布留0式あたりではないかという見解になる
ただ北部九州・吉備・山陰などが、最初から主導したという線もまだ消えていない
このあたりは今後の出土成果待ち
ちなみに淡路島の製鉄遺跡によって、北部九州主導説は更に苦しくなったと言わざるを得ない
352 :
水銀厨 :2010/02/19(金) 16:23:08
淡路島は畿内の入り口ですよ。 阿波と河内は同一圏内といっていいでしょう。 2世紀初頭、淡路島から紀伊半島の宇陀までが 邪馬台国の範囲です。
353 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 16:40:53
製鉄と鉄器加工は分けないと、いろいろ問題になる。 淡路島は鉄器加工でしょう。 いまのところはっきりとした製鉄は5世紀以降 淡路島から高炉やたたらが見つかっているのなら 撤回しますが。
354 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 16:44:43
>>353 いやこちらが撤回・修正する、ありがとう
×製鉄遺跡
○鉄器加工遺構
355 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 18:02:24
知ってる人は知ってると思うけど、淡路島は重要な拠点だよ。 卑弥呼が淡路島にいても不思議じゃないくらい。
356 :
老教授の2番弟子 :2010/02/19(金) 18:46:50
纏向に人は集まらなかった。嘘だと思うなら覗いてごらん。閑古鳥が鳴いている。
357 :
58= :2010/02/19(金) 19:20:03
>>351 レスサンクス。
…なるほど、素人の俺にも、そう言う話なら結構すんなり腑に落ちるw
この伊都国東遷厨があげつらっている「小林説の年代観」にしても
椿井大塚山自体の年代は”結果オーライ的にw”そう動いてないと思うが
問題は椿井大塚山が出現するに至るまでの前段部分
言わば「ロード・トゥ・椿井大塚山」wwwの時間の長さで
それが長くなればなる程、畿内の古墳文化の発生にしても
昔のようにそれほど「突然に現れた」って考えずに済むって話だよな?wwww
恐らく今後も研究が進めば進むほどその材料は増えてくるんだろうし…
あとこの伊都国東遷説全体についてだが
>>324 を「”必ずしも”土器は動かない」と解しても
そこであげている人が動いた形跡である「九州系の家屋の形状」が
纏向に見られるのかといえばそんな話も聞いたことが無い。
まあ東遷と言っても一次産業従事者までゾロゾロ引き連れたものではなく
権力者の移動と言う話しになるんだろうが
じゃあ「権力(者)の移動」は何に見るとなればそりゃ権力を示す
「威信財」って事になるんだろうが
前にも言ったようにヤマトに突然、平原のような大型鏡や何十枚もの鏡の副葬が
突如現れるわけでもない。
伊都国の威信財体系の緻密さや勢力としての大きさを強調すればするほど
ギャップを感じられずにはいられない…
この構図は邪馬台国東遷説と似たような感じだがwww
それにしても考えればこの話は邪馬台国論争からはズレるなw
以後纏向スレに話をふってみますwwwwwww
上の原田大六の伝に従えば、伊都国東遷厨は畿内説になるんだよな。
>>288 >時代が合えばね。
邪馬台国とは関係ない、というのは時代が違うと思ってるからなのね。
その理由が
>神功の事績(新羅征伐)を4世紀末にすれば、(夫の仲哀天皇は14代だから)崇神天皇はその4代前で、
>1代を20〜25年とすれば、4世紀初ということで問題なし
というのはまるで、昔懐かし畿内説考古学者みたいですね。
>>292 >連合というような国と国との関係が見られないということ。
>共立と言うと、(中略)中国の文献をみると、
尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻餘。位居死,諸加共立麻餘。(夫餘)
伯固死,有二子,長子拔奇,小子伊夷模。拔奇不肖,國人便共立伊夷模爲王。(高句麗)
などの例を言われているのかな? 韓伝には、
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。
とあり、これを後漢書は
馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
としています。卑弥呼の場合はこちらと同じようなもの、では?
362 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 20:13:23
>>359 今の感覚で言えばそうなるのかもね
ただ原田大六は九州説を罵倒してもいたが
畿内説についてもかなり攻撃的な論調で挑んでいる
あれはいうなれば、大六式東遷説とでも呼ぶべきもので
どちらの範疇にも入らないのではないかな
よく卑弥呼の時代には九州で、台与で大和に東遷したというのがあるが
あれはこの大六式東遷説の亜流みたいなもの
トヨタン・・・・・・・・・・
>>330 >倭人伝が伝える倭国は(中略)本州が入る気配はない。
なるほど・・・それで、いくら遺跡が出てきても、
邪馬台国とは関係ない、 邪馬台国とは関係ない、と唱えているわけだ。
>周旋五千里(僅か四百キロ)
しかも短里説・・・
>>333 >畿内説というのはどこから出てきたんだ?
邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。
しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国職人の手で日本でつくられたものだといっても、
このことによって「畿内説」が不利な立場にはならないと思っている。
(第一論文「日本の三角縁神獣鏡の問題について」1981)
周旋五千里(僅か四百キロ) だと鹿児島県ぐらいの大きさか。
367 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/19(金) 22:52:40
>>360 その理由で「時代が合えばね」と言った訳でありませんよ。
>>236 に挙げられているさまざまな事柄が王権の発生の標と
見て、それを(その王権を)邪馬台国とみるのに蓋然性がある という主張に対して、
236に挙げられている事柄が全て同じ年代でかつ2世紀後半のことと言えるのであればよかろうと言う意図で「前方後円
墳の築造年代は確定していないだろ」と答えたのです。
なお、58氏は236に挙げた事柄を王権の発生とみますが、邪馬台国の卑弥呼以前に倭国王が存在していたのですからこの
倭国王の時代を王権の発生時期とすると時代はさらに遡りますが、58氏は邪馬台国の卑弥呼の共立を王権の発生と結びつ
けたいようですから、卑弥呼が王に立てられた2世紀後半(AD180前後)で年代が合うならばいいよ と詳しく書いた方
がよかったですね。
崇神天皇のことは大和王権と関係がありますが、あそこでは別の話です。
368 :
日本@名無史さん :2010/02/19(金) 23:24:40
>>350 日本書紀にあるように、倭迹迹日百襲姫の墓が箸墓であることは間違いない。
しかし、今、一般的に箸墓と言われている古墳が、本当に箸墓かどうかは
定かでない。
あの大きさは、一介の皇女の墓としては大きすぎる、どうみても大王クラスの
古墳だという意見もある。
最近は、宮内庁が指定する陵墓と被葬者の関係が疑問視されている部分も
あるから。
>302 では「箸墓=king of kingsの墓」とは定義していない訳だが、 現在の箸墓が「日本書紀の箸墓」だとして、本当に当時のking of kingsの墓と言えるのか? (何言ってるかわかる?)
370 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 23:41:24
縄文人どんよ >崇神天皇のことは大和王権と関係がありますが 何をとぼけてる。 崇神は大和王権そのもの、 考古学も2世紀末と認めて居る。
>>367 >その理由で「時代が合えばね」と言った訳でありませんよ。
了解しました。
372 :
ローガン :2010/02/20(土) 00:05:47
>>369 >現在の箸墓が「日本書紀の箸墓」だとして、本当に当時のking of kingsの墓と言えるのか?
日本書紀の記述は全て史実である という前提なら、「言えない」でしょうね。
373 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 00:08:21
>>368 何を言いたいのか、あまり良くわからないな。
つまり、倭迹迹日百襲姫は、共立された王とは言えないということなのかな?
374 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/20(土) 00:08:30
>>370 崇神が2世紀末と考古学も認めている と言われても私には分らん。その考古学とやらの証拠を見せて
下さらんかいの。
375 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 00:27:46
376 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 04:12:32
>>366 周旋は倭の地の始まる地点からその地の尽きる所までの距離だ。ひとめぐり(一周)
ではない。したがって、鹿児島なんぞよりは大きい。
倭人伝が書くところによれば、郡から狗邪韓国までは七千里、周旋五千里という以上、
それよりは小さいことは明らかで、九州ならばぴったりということだな。
>周旋五千里 っちゅうかね、そもそも九州全体を里数で計測できるんやったら 倭人伝でなんで途中から日数になるねん?最後まで里数で書いたらええやんけ! …ってツッコミはやったらあかんのんか?wwwwwwwwww
378 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 04:38:10
いや、それは当然に考えるべきことだろうな。しかし、考えてみれば、それは 不自然なことではない。周旋五千里はしょせん九州の大きさを示したものだ。 めぐって尽きる所までゆく距離ならば半周だと考えればよい。こまかい道の曲 がりなんぞはあまり気にする必要はない。 一方、行程の方は具体的な移動距離が問題だ。山道なんぞは直線距離と実際に 歩く距離では大きく異なることが少なくない。長距離になると正確な距離を書 くことは難しいというのも分かる。
言葉の意味自体を自説に適合するように読み替えてるだけじゃん。 九州説の人は虚言癖でもあるのか?
380 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 07:44:53
どこが? あなたが正しい読み方を知らんだけでは?
381 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 08:32:42
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式 180年-210年 纒向1類 北溝北部下層灰粘土層 弥生X様式末 210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内T式(庄内古式) 250年-270年 纒向3類 南溝南部黒粘土(1)下層 庄内U式(庄内新式) 270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内V式 庄内新新式)布留0式 290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層辻地区土坑7 布留T式 纒向1式 崇神時代 四道将軍 纒向石塚古墳 纒向2式 垂仁時代 ホケノ山古墳 伊勢神宮 任那 纒向3式 景行時代 箸中山古墳 崇神5,6年の記事は、新羅192,3年の記事。 もし纒向 庄内式に出会ったら、上記で正しいか聞いてごらん、 庄内式は、ヘイヘイと答えてくれるハズ。 縄文人どんの数字では、へっ と言うだけ。
382 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 10:17:46
纒向 庄内式ってどんな人?
383 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/20(土) 11:02:18
>>366 >周旋五千里(僅か四百キロ) だと鹿児島県ぐらいの大きさか。
周匝五千里(僅か四百キロ) だと鹿児島県ぐらいの大きさになる。
周旋五千里は周匝五千里の距離の半分、面積で1/4。
>>376 >>378 その論は正しいが、シナ人の「周旋五千里」の認識では、
倭の大きさは「方二千五百里」又は「径三千三百里」となる。
これは、倭は九州の北半分又は北2/3の大きさとなる。
>>377 >そもそも九州全体を里数で計測できるんやったら
>倭人伝でなんで途中から日数になるねん?最後まで里数で書いたらええやんけ!
「万二千餘里」と最後まで里数で表現しています。
「南至投馬國水行二十日」及び「南至邪馬壹國・・・・水行十日陸行一月」は、
「南行至投馬國水行二十日」及び「南行至邪馬壹國・・・・水行十日陸行一月」であはありません、
ですから、それぞれの国への帯方郡からの旅程の所要日数となります。
備考
「万二千餘里」は、帯方郡奴國間と帯方郡不彌國間の行程積算距離を示しています。
384 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/20(土) 11:54:54
「周旋可五千餘里」とは台湾のことを言っているのであって九州のことではありません。
よく堂々と断定できるなww
386 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 13:25:38
「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」は 「參問」は倭地について問を集めた、つまり実際には行かずに倭人から聞いた話。 「絶在海中洲島之上 或絶或連」は倭人から聞いた倭地の地形。 「周旋可五千餘里」は「可」が付いているので、 魏使が自分の体験や倭人から聞いた話で推測した倭地一周の距離。 五千餘里は末盧國〜不彌國間の500里+100里+100里=700里を基に 国間の距離を700/3里と想定し 不彌國から斯馬國へ、そして奴國までの21国間を掛け 700/3里×21=4900里 それに奴國、不彌國間の距離100里を足したものだ。 奴國から倭地一周して奴國に戻ってくるのが「可五千餘里」
>參問 其冬帝崩,無嗣。武召侍御史河阯ォ倏,參問其國中王子侯之賢者,倏稱解涜亭侯宏。 武入白太后,遂征立之,是為靈帝。 (後漢書 竇武伝) >周旋 丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重, (呉書 諸葛恪伝)
388 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/20(土) 14:07:25
>>386 「参問倭地」とは「倭の地とくらべあわせて聞いてみると」と言う意味で倭国と裸国・黒歯国とを
比較して聞いてみたと言う事です。当然「絶在海中洲㠀之上 或絶或連」とは台湾の地形のことです。
黒歯国は檳榔(びんろう)を噛む習慣があるので歯が黒くなったわけで、これは台湾の習俗ですね。
したがって「周旋可五千餘里」とは台湾を一周した距離のことです。
389 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 14:10:39
>>387 >參問其國中王子侯之賢者
この場合の「參問」も問いを集めた、つまり意見を求めたんでしょうね。
>周旋數千里
やはり一周でしょうね。
390 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/20(土) 15:12:42
>>389 >「周旋」 やはり一周でしょうね。
では「周匝」の意味は?
「周旋」は、片道・半周。
「周匝」は、往復・一周。
>>386 珍説?
でも素晴らしい! おもしろい
391 :
ローガン :2010/02/20(土) 15:14:47
>>373 >つまり、倭迹迹日百襲姫は、共立された王とは言えないということなのかな?
そうです。
一介の皇女の墓をわざわざ逸話付で紹介するのか? つまり王クラスの女性という事。
393 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 15:40:02
漢字の辞書によると 旋・・・@めぐる。めぐらす。アかえす。かえる(還)。イまわる。まわす。 匝・・・@めぐる。一回りする。とりまく。めぐり。 「周旋」は、周ってかえる。 「周匝」は、一回周る。
394 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 15:51:36
>>珍説? 古田氏は奴國までで12000里、 不彌國も連続読みすると12100里となるので 不彌國は傍線行程として放射状説をとるが 不彌國は「周旋可五千餘里」を説明する為のもので そのまま連続読していい。 倭人伝は全て連続読。 郡から距離で連続読。そして郡から日数で連続読。
395 :
ローガン :2010/02/20(土) 16:20:29
>>392 > 一介の皇女の墓をわざわざ逸話付で紹介するのか? つまり王クラスの女性という事。
どこに王とあるの?墓についての逸話をもつ皇女なんだけど。
396 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 16:28:33
古田説で珍奇に感じるのは「陸行一月」の解釈。 ひと月近くも韓半島の中を東南へ陸行したんだ、とか。 それはあり得ないと思うぞ。
397 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 16:42:03
398 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 16:43:56
>>396 「陸行一月」は大問題、
普通に「陸行一月」行くと九州から関東まで着いてしまう
また3世紀の日本に「陸行一月」も歩ける路があったとも考えられない。
古田氏も朝鮮半島内をジグザグに歩いたとして無理やり距離を縮めている。
「陸行一月」は「陸行一日」の書き誤り以外に考えられないと思うのだが。
399 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 16:54:02
しかも朝鮮では20世紀まで道路が整備されておらず内陸交通が未発達 交通は船による沿岸航海主流だった 3世紀の朝鮮半島内をジグザグに歩いたとする説には賛成出来ないな。
道が繋がれば国と国は無縁ではいられない そこに大国が生まれるし、先に大国ができると必ず道を作る 半島の辰韓馬韓など、それぞれ20も30も小国乱立で、帯方郡はそれぞれと個別に冊封関係を結ぶという手間を要した 半島内は道が整備されてなかったというのは頷ける 日本に置いては、邪馬台国が国内を纏めているので、帯方郡も楽だっただろう 島国の利便さで、船が道の代わりをしたのかも知れないな
401 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 18:41:35
>ですから、それぞれの国への帯方郡からの旅程の所要日数となります。 そう言えばこう言う 「また郡まで戻って再度その距離日数を説明した」 …って言うのは何か呼び方ってるのかな? (連続式に対する放射式みたいに)
距離併記説とか
403 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 18:58:39
併記説がいいね。
404 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 19:03:36
>>402-403 了解。
これより「併記説」と呼称する事にする。
各員は可及的速やかにこれを殲(以下略
405 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 19:24:37
でも併記説の人、オレ以外にいるのかな?
406 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/20(土) 19:40:39
>>398 古田氏の直感は多少するどかったと私は思う。10日1月はやはり郡から女王国=邪馬台国への日数であろう。
ただ古田氏の誤りはこれを魏使の行程とイコールと考えてしまったことである。
韓国内陸行や2島の方を里程とするといった凡そ正気の沙汰とは思えない話は、もとを正せばこの間違いから生じる。
水行10日陸行1月は、倭人からの邪馬台国(=女王国)から郡への掛かる日数であり、倭人から聞いた情報である。
倭人は韓国に上陸してから陸行して郡都に着いたのであろう、その日数の伝聞情報である。
再度いうと、これを魏の使いの行程と間違うとトンデモになる。
ちなみに畿内説はこれを行程としなければ辿り着けないので必死に養護するであろうが、まぁ徒労だろう。
付け足すなら、1日の書き間違いであるなら里程を書きのこさなかった理由を教えてもらいたい。
海洋民族で知られる倭人が、わざわざ陸行した、と。
陸行というけど、海岸沿いに行ってみ 平野には必ず大河があり、渡舟は避けられない 渡し守でもいれば別だが、その都度舟を調達して渡るのは一苦労 日本みたいに沿岸に沿って発展地が連なっている所では、船を利用した方が速い 東海道、南海道、西海道などは、最初は「海」の道としてあった名残じゃないかな
409 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 20:54:38
>>406 二 ◆.L.MXSPOgc
>水行10日陸行1月は、倭人からの邪馬台国(=女王国)から郡への掛かる日数であり、倭人から聞いた情報である。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
併記説に加えて今度は
「邪馬台国から郡へ、あるいは郡から邪馬台国へ、双方向 おk!」説なのか?www
いよいよ何でもアリだなw
まあインターネット時代に相応しい説なの鴨死煉瓦wwwwwwwww
また暗号解読ごっこかよ、いい加減目を覚まそうぜ。
411 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 21:13:29
>>406 「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」は「南至投馬國 水行二十日」と同じ行程のこと。
「南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」から「東南至奴國百里」が「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一日(月)」と同じ行程。
従って「陸行一日」に対応する里程は「東南陸行五百里 到伊都國」と「東南至奴國百里」の六百里です。
>>399 >朝鮮では20世紀まで道路が整備されておらず内陸交通が未発達
しかし、3世紀には半島を南北に縦断する道があった。
楽浪郡を南東に漢江沿いを遡り、辰韓に入り、洛東江沿いを南に下り、
(辰韓はその西北部を楽浪郡に編入されていた)
弁韓の海岸に出るルートである。
半島南部を西北端から対角線で東南端に縦断するルートである。
「陸行一月水行十日」は、魏が邪馬台国に軍を派遣する場合の移動日数である。
「水行二十日」は、魏が投馬國に軍を派遣する場合の移動日数である。
なお、邪馬台国の領域と投馬國の領域は、筑後川を挟んで不彌國に南接する。
また、邪馬台国は内陸国であり、投馬國は海に面している。
>>412 の補足説明。
隋使が到達した海岸は旧投馬國。
その海岸から内陸に進むと俀王のいる邪靡堆(邪馬台国)。
>>半島南部を西北端から対角線で東南端に縦断するルートである 西北端は楽浪・帯方2郡があるので理解できるが、 東南端というのは、その先の倭国まで伸びていたと予感させるな
>>412 「陸行一月水行十日」の解釈は、これが一番だな、オレも賛同する。
ひいいっ、醜い自演よ。
>>412 の書き間違い修正
誤 楽浪郡
正 帯方軍
辰韓の北西部が帯方郡に編入されていたことは、
魏志東夷伝の帯方郡に関する記事の中に書かれている。
418 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 21:54:26
縄文人とかいう電波なコテの説によれば、梯儁等は各地の豪族居館にゆるゆると逗留し ゆっくりと進んだことになっているが、そんなことがあるだろうか? 卑弥呼を倭王に册封する金印は決して奪われてはならないものである。 道は険しいだろうが、警戒を重ねつつ強行軍で進んだと考えるほうが常識的ではないか。
>>412 邪馬台国は陸路と海路、投馬國は海路のみという説か
同じ九州内に行くのにえらく違うもんだな
>>419 >邪馬台国は陸路と海路、投馬國は海路のみという説か
>同じ九州内に行くのにえらく違うもんだな
その理由は、内陸の邪馬台国と海に面する投馬國が狗奴國に接していたからです。
又、狗奴國又は狗奴國に連合する国々が海に面していたからです。
女王支援の為に緊急に魏軍を派遣する場合、
邪馬台国に魏軍を派遣する時は陸軍中心の部隊を、
投馬國に派遣する場合は水軍中心の部隊にする必要があったからだと思います。
421 :
日本@名無史さん :2010/02/20(土) 23:15:33
>>412 梯儁を倭に派遣して、詔書・金印を届けさせた帯方郡の太守・弓遵は、韓族の
反乱に遭い、鎮圧したが戦死している。
こんな物騒な地域で陸路を行くのはさすがに無理。
危険な地域をたくさんの荷物を持って歩いていくというのは考えられない。
やはり、当たり前に船旅だろう。
>>421 だから、少人数の魏使は沿岸沿いを水行したのです。
邪馬台国に派遣する多人数の魏陸軍が行軍する場合には、辰韓人の攻撃はありえない。
倭へ渡海する時の狗邪韓國が友好的でありさえすればよい。
狗邪韓國は倭人のいる地域ですから、魏陸軍が渡海の為に船を調達するには何の支障もない。
「九州王朝大好き」は、予想外になかなかイケてるね。
悪夢のような自演だ。(嘆息)
畿内説論者、涙目。
426 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 11:28:20
今、興味本位で、アメリカの超能力者が邪馬台国を透視するというビデオを見てみたが、 吉野ヶ里遺跡の復元のいい加減さに呆れた。 佐賀県教委は集落を守る柵を環濠の外側に作ってる。 こんなおかしな構造をした砦は世界でここだけだろう。 敵のためにわざわざバリケードと濠を作ってやり、自分は丸裸になって、 360°どこからでもご自由に攻撃してくださいと言ってるようなもので有り得ない。 挙げ句の果てに、いかがわしい超能力者にまで「この柵は濠の外側にあったと思う」と指摘される始末w 濠の外側に柵を作ることで、少しでも集落を大きく見せたかったのかもしれないが、 佐賀県教委は程度が低すぎる。
それ現代的理由じゃないの 近所の子どもに濠で怪我されても困るし
428 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 17:13:28
記紀によると、神武天皇は日向の出身なのだが、大和に行くことを決意する とき、次のように言っている。 「聞くところによると、東のほうに良い土地があって四方を山に囲まれている。 思うに、そこは中心地であって、天下を治めるに良い土地なのだろう。 そこに、天の磐舟に乗って飛び降りてきたものがいる。饒速日命と言う。 そこに行って都を作ろうと思うがどうか」 みんなが賛成し、東征の旅に出かける。 熊襲征伐で日向にやってきた景行天皇も、この地で、国しのび歌を詠んでいる。 「我が家のほうから雲がわいてくる。大和はすばらしい国。山が重なって 青い垣のように包んでいる。」 山に囲まれているのがどうしていいのか? やはり、津波ではなかろうか。日向は、日向灘地震や南海地震の津波にたびたび 襲われて、時には大災害が起きている。例えば、1662年10月31日の地震では、 宮崎県沿岸7ヶ村周囲7里35町の地が陥没して海となった. という記録が残っている。 神武東征が実際にあったとしたら、これが大きな要因の一つだったのかも しれない。まあ、想像に過ぎないが。
429 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 17:25:54
>>428 記紀の日向は宮崎ではなく
筑紫(福岡県)の日向(福岡市西部)ですよ。
430 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 18:31:13
へー。すごいね。
>>428 台風だろ。高緯度はあんま恐れる必要はないがなw
432 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/21(日) 19:11:13
記紀の日向とは京都府向日市ですよ。九州ではありません。
>>432 そうすると、神武は東征じゃなく、南征したのか
434 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 21:43:58
祓詞の中に 「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」 の一文があるが、 筑紫の国 日向峠 立花山 小戸 までは、平原遺跡がある三雲あたりから 日向峠を超えて姪浜あたりへ出る風景を 描写しているような気がしてならない。 阿波岐原はしらん。
ただこれ、宮崎でばっちりなんだよな。筑紫は九州、日向は宮崎で、橘は通りに名を残し、小戸神社も現存 するし、 阿波岐原はシーガイアのある 一ッ葉海岸の一角の地名として残る。ただ、 祓詞はそう古いもので はなく、後付けくさいね。
436 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 21:56:23
ほう、宮崎には阿波岐原まで比定出来る場所があるのか。 重要な情報だ。ありがとう。
でも宮崎は危ないよ。 明治以降、県知事なんかが積極的に名所造りしてるから。
というか、地名が先にあったんだろうけど、記紀の記述から宮崎から場所を取って祓詞が できたという感じだと思う。
439 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 22:29:46
古事記には、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で伊邪那岐命は禊払いした、 と書かれている。 そのときに生まれたのが、天照大神、月読尊、素戔鳴尊となっている。 宮崎には、阿波岐原町というのがあるが、これは後付けかもしれない。 しかし、檍原(あはきがはら)という地名もあるらしい。 檍というのは、もちの木という意味で、檍原はなんとなく橿原と似たような 感じもある。 宮崎には檍古墳群というのもある。ホケノ山古墳の木槨よりも大きな 日本最大の木槨も出ている。
440 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 22:41:47
>>434 福岡市西区の今津湾の別名が粟木ヶ原ですよ
日向峠から見下ろせる海であり伊都国の東端、今宿に面し小戸神宮に面した海でもあります
完全にローカルバージョンの本末転倒スレ化しているな
地名比定は危ない、ってことだな 他の土地でも比定可能かも
444 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 23:10:28
>>441 元岡桑原地区で郵便配達をしていた
地元民なのにしらないのは情けない。
感謝。調べてみます
445 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 23:13:52
>>435 地名はあるようだが、場所がばらばらだね。
446 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 23:17:20
>>442 邪馬台国論争でローカルでないところがあるのかねえ。
もしかして、自分のところだけはローカルではないと思っているのかな。
ところで、ヤマトの地名の由来も考えなくてはならないかも。
大和はもちろん当て字で、倭→大倭→大和と来たのだろう。
日本の古い地名は、地形に由来するものが多い。その意味でヤマトは山に
関係がある。邪馬台も山に関係があるのかもしれない。
別名で良ければ 油山は別名立花山ですね。 東区にもありますが、距離的にどうかな
今津湾は、いまでも干潮の時はずーっと干潟が広がりますね。 堤防などを作っていなければ、周船寺から北はずーっと 干潟だったでしょう。原の名前がついてもおかしくありませんね。
古代、九州島を筑紫と呼ぶ事もあるけど、基本は筑紫は筑前国・筑後国あたりをさすんじゃないか? 筑志米多国造(肥前国三根郡米多郷=吉野ヶ里遺跡付近)が置かれたから、せいぜい筑後川流域まで含むくらい 高千穂というのは固有名詞じゃ無い気もする、韓国の降臨神話にでてくる神壇樹とか、そういう意味だと思う
記紀でも祓詞でも、地名がそれ以前からあったのか、記述を元に後付けされたのか確定でき る場合はほとんどない。だからこれを何かの根拠にするのは危険というのは443のいうとおり。 さらに記紀の地名由来自体信頼できない。例えば神功紀の「めずら」→「松浦」なども、松浦はそれ 以前からあったと考えられる。
>>446 >倭→大倭→大和と来たのだろう。
倭→大倭 は7500%ありえない話で「大倭」と記載できるのは、同じ時間軸に「倭」という比較できる対象物が存在するからだよ
紀記も祓詞も奈良時代だ でも文字で残されたものとして、古い地名を遡れる限界点だしね 無視する方がご都合主義だと思うのだが・・・・
453 :
日本@名無史さん :2010/02/21(日) 23:44:28
邪馬臺国の読み(音)はヤマタイ又はヤマトイだろう。ヤマトではないな。ヤマトイのイが消えてヤマトになるなんてのは 考えにくいな。
>>453 吏読でも一音一文字で当てているし、邪馬臺の3文字なら3音だろう
ヤマタイと開音節4文字だったのなら、4文字を当てたはず
「タイ」→「ティ」とかだったら解るが
455 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:00:21
>>454 じゃ、狗邪韓国、對海国、一大国、末盧国はどうなんだ?
そう。倭地について知識のない中国人のためにも一字一音を当てているという気がする。とすれば、 上の「松浦」に比定される、「末盧国」は一字一音ではない漢語表現なので、いちおう郡あたりでは 知られていた地名ということかな。
457 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:06:10
>>456 なぬ。じゃ邪馬臺国は全く知られていなかったのか?
朝貢時まで知られてなかった可能性はあるんじゃないの。ww
459 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:16:40
>>456 卑弥呼は魏に使節を送っている。文書のやり取り(皇帝からの詔書が来ているし、上表して礼も述べている)も
行っているのに魏が邪馬臺国を知らなかった筈はないだろ。
まあ、地名比定もそうだが、地名読みも「参考程度」だな。 それを決定材料とするのは危険だ。
461 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:20:55
>>458 倭人伝は朝貢後のことも書いているのだぞ。何をとち狂って朝貢前の知識で書かなきゃならんのだ。あほらしい
レスをしてはいかん。
>>459 だから公孫氏支配下の卑弥呼朝貢以前はということだよ。倭使から聞いてそこで漢字化されたのかも。
ちなみに 万葉仮名で書けば、 ヤマタイ=夜万多以 となる
464 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:28:28
>>462 勝手な想像をするな。梯儁も張政も来ているのだ。邪馬臺国にも漢字の読み書きができる人間もいた筈だ。
邪馬臺国の正式名称ぐらい知り得た筈ではないか。
「邪馬臺」の読みを議論するのは、不毛だな。 だいたい「邪馬壱」の可能性もあるんだし。 畿内説論者の唯一の拠り所なんで気の毒だが、 この件での確実な結論は不可能。
末盧国も2音だろうな 「マロ」とか
www
468 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:41:45
>>465 そう。邪馬壹国が正しいのかもしれない。
ただし、隋書東夷伝には
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 という記述がある。堆(tui)はトとは発音しない。
469 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/22(月) 00:43:33
末盧 ミロ 女王 ビーナス これで決まりだ。
470 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 00:51:28
末盧はmo lu(もアろウ)だからミロは苦しいね。決め損なったな松やん。
471 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/22(月) 01:00:40
未練がのこる〜う。
472 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/22(月) 01:06:48
それより 公孫氏を討つために魏は東夷へ使者を使わしているんだが… 文章が出てきたら 掲載するね。
>>448 今津干潟のことですね
今津湾(粟木ヶ原)は小戸妙見岬〜生の松原〜今津碁石鼻(宝島)〜能古島に囲まれた海域を指します
今津干潟は今は半島となっている糸島半島と九州本土とを分けていた糸島水道の東側の名残
邪馬台国に向かう船(船団)は伊都国の中心に近いところ(周船寺付近?)から
まずこの糸島水道を通って今津干潟付近もしくは今津に停泊したことでしょう
そこで潮待ち風待ちをしたうえで一気に博多湾を横断していったと思われます
筑紫の小戸の・・・と祝詞にもある能古島付近の海はとにかく潮の流れが激しい海です
畿内に向かうのであればまず志賀島に停泊して外洋船に乗り換えたうえで玄界灘に出て行ったでしょう
伊都国から見て南の方角にある地域に向かうのであれば、まず御笠川(石堂川)河口付近に停泊し
これも川をさかのぼり水路をゆくための船に乗り換えたことでしょう
御笠川をさかのぼって、大宰府政庁跡あたりで 役人との会見を受け、ここから若干距離を陸路で南下。 宝満川で再び船に乗って筑後に向かうルートになるのでしょうか。 宝満川は久留米付近で筑後川に合流するのも、なにか意味深な感じがします。 また、筑紫野市筑紫は、福岡側、筑後側の分水嶺にあたっており そこの字が筑紫なのも意味がありそうです。 福岡勢力と筑後勢力の境目の地名が筑紫で それが国名となっているのは、いろいろと深読みしてしまいます。 そこに筑紫神社もありますね。
475 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 10:17:07
>>434 「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」が、
筑紫の国 日向峠 立花山 小戸 阿波岐原
ならば、峠の中に山があり、その中に阿波岐原がなければならん。
むちゃくちゃだな。
476 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 10:42:12
日向の中に日向峠があるのです。日向峠だけが日向だということではありません、
阿波岐原の件、面白い。これだけで論文1本かけるね。
478 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 13:45:57
福岡市西区に小戸公園があります。 ここが小戸であると考えられます。昔は室見川の河口がここにあったのでしょう。
479 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 13:48:51
室見川流域も遺跡の宝庫ですね。 あの辺りは早良区ですが、 早良皇太子と何か関係はあるのでしょうか。
小戸は古地図などによると旧くは細長く海に突き出た半島だったようですね 小戸公園には神功皇后が上陸して最初に食事をとった場所とされる 「お膳立て」と呼ばれる半島があります、今は妙見神社が建っていますが 神功皇后の上陸地点は小戸公園の東側、今はショッピングモールや観覧車のあるあたりの近くらしく ここを「アクマの浜」あるいは「アコメの浜」の名で呼んでいたようです 旧小戸半島の西南の付け根のあたりは旧くから「神功」の地名で呼ばれ さらにその西側は旧くから早良郡山門(ヤマト)村の名で呼ばれています 室見川という名称は比較的新しく本来この川は「早良川」という名で呼ばれてきたようです 地元には今でもその名で呼ぶ人たちがいると聞きます
481 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 14:51:06
福岡の地名談義は結構だが それで邪馬台国は福岡だと主張するのか?
482 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 14:56:34
せっかちな人だね。
483 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 17:22:12
高天原はそのあたりだということです。 なぜなら、イザナギノ尊は高天原に帰ってきたからです。
484 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 19:33:30
高天原は、葛城にありますよ。
485 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 21:46:07
>>483 高天原と日向は別の場所だろう。
天孫・瓊瓊杵尊は、高天原から日向に降りてきたわけだから。
>>484 葛城に天岩戸はある??
福岡の地名談義は有益だが、 それが邪馬台国福岡平野説に結びつくことはない。
487 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 21:55:22
記紀は日本の歴史が北部九州で始まった記しているのです。 福岡市西部は伊都国や奴国が在ったと推定されているところ。 邪馬台国は伊都国や奴国を中心とした北部九州の国であるとの説につながります。
488 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 22:09:35
>>487 北部九州は、玄界灘沿岸 Vs 有明海沿岸だなあ。
489 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 22:21:46
葛城にあるのはタカマだそうでタカマガハラではないですよ。 それにタカマガハラとか天照とか月読とかは、中国の神仙思想がはいってきてからつけられた名ですよ。
490 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 23:05:57
>>486 魏志倭人伝から位置を特定するのは、九州だろうと畿内だろうと
不可能に近いので、そんなに熱くならなくても良いとおもいますよ。
昨日から地名談義にいくつか書き込みさせていただきましたが、
元ネタは古事記の祓詞ですから。
別の側面からなにか補強できれば面白いなという
興味の元でやっています。これから、すぐに邪馬台国はここだ、
と結論付けるつもりはありませんよ。
>>481 のようにせっかちな人もいますがね。
491 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 23:07:48
玄界灘沿岸と有明海沿岸の民が 筑紫で手を結んだとき、筑紫国が生まれた。
492 :
日本@名無史さん :2010/02/22(月) 23:22:00
邪馬台国を北部九州広域とすると 玄界灘沿岸が邪馬台国の首都圏 有明海沿岸は邪馬台国の奥地の傍らの国々。
天孫降臨の地である筑紫の日向を、そのまま宮崎周辺とするか、福岡の日向峠近辺とす るか、これはぜひ九州説どうしで決着をつけてほしい。 論点・「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝 日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である。」 あと、朝鮮の建国神話、とくに加耶の始祖首露王が亀旨(クジ)峰に天降る話との類似点 についてもぜひ論じてほしいね。
続 き 加耶の建国神話では、紀元42年のある日、亀旨峰で尋常ではない声がした。人々が集まると、「私は王とな るよう天から命ぜられた。ここに下りるので、亀よ亀よ首を出せ、出さないと焼いて食べてしまうぞと歌え」とい う声が聞こえてきた。そうしたところ、天から金の箱に入った卵が6つ下りてきて、翌日6人の男が生まれた。 最初に現れた者を首露といってここを治めた。残りは他の5伽?の王となった。
495 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 00:39:41
>240 これはまた凄いトンデモ説を引用してますね。 >346 名前:老教授 ◆DaLsTNW7DE [sage] 投稿日:2010/01/10(日) 22:38:45 >この大規模戦争や任意のクニによる征服の想定が極めて難しくなった理由として >主なものは以下が挙げられます。 >1、クニ単位で物理的戦闘が行われた痕跡を示す、少なくとも示唆する遺物・遺跡が皆無である。 >2、当時の武具の強度(特に銅製・鉄製の金属器)が低く、実用武器としては > 丸太棒以下の威力、実用性しか無かった。 >3、長年「最強武器」の代表とされてきた鉄器だが、圧倒的に出土量を誇る北部九州にも > 威信財としての副葬品以外の、実用武器が見当たらない。 これは橋口らの実証的研究を全く無視したデタラメですね。 ちなみに北九州では後期後半には武器はもちろんのこと農具までも鉄器化します。 >4、鉄そのものが古墳中期まで下らないと、畿内の出土量が九州島を凌駕しない。 >5、鉄器の保有量が圧倒的に少なかったと見られる東海・関東においても > 弥生終末期までには下手をすると北部九州や畿内を凌ぐクニがすでに出現している。 これも凄い。まず畿内と北九州ではクニといってもレベルが違います 畿内には吉野ヶ里レベルの階層分化したクニですら見られません。 ましてや東海や関東にそんなものがあったら、考古学史をぬりかえるでしょうね。 >6、銅鐸・銅矛・銅剣いずれにしても、徐々に廃れたものであって、短期間の消滅ではない。 > 何よりその周辺にあるいくつもの環濠集落が、何の変化もなく存在し続ける。 これも駄目ですね。畿内中枢部では銅鐸は終末に文字どうり終わり、忘れ去られますが、 銅矛は埋能祭祀がおわっただけですね。 また、畿内の集落が大幅に解体、再編されるのは地元の埋文の連中が言っていることですね。
496 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 00:48:06
>原田大六が聞いたら怒るがな。 >彼はここにいる畿内説論者と同様に、九州説論者を常に罵倒していた人物。 >「九州説を唱えるような輩と一緒にすな!」 原田は筑紫平野その他を調査し、伊都国地域、奴国地域を上回る遺跡がない ことを確認した上で邪馬台国九州説を否定しています。 珍説がまかりとおったこの時代としては非常に卓見ですね。 ただ、九州の埋文にまだそういうところに伊都国地域よりも大きな 遺跡があると主張している方も一応はいます(片岡さんら)。 ちなみに原田は、小林、佐原らをはじめ多くの学者が年代観のあやまりや 文献学者の崇神初代大王説を鵜呑みにしたことにより、倭王権の始まりを 4世紀とする中で、ほぼ一人、2世紀後半を倭王権の開始とするほぼ正確な 年代を予測しており、これも当時としては驚くべきことですね。
497 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 00:52:57
で、あとから吉野ヶ里がみつかったと
498 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 00:57:20
倭王は紀元前から続いているよ。 奴国が発展して倭国になり、それが発展・東征してヤマト王朝になった。
499 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:01:19
>327 >「土器なんか無くとも畿内に大型首長墓の突然現れた事をもってして九州からの東遷があったと断じて良い」 >と言う結論なのかな?wwww いいんじゃないですか。 ちみにに後期の銅矛のように一括製造、配布される銅矛のような例を除き、 銅鐸のような祭器ですら権力とは基本的に無関係です。 >そもそも山陰の物は時間経過があって東征の結果ではなく >畿内の物は突然だから東遷の結果・・・と言うのはその時間の基準が良く分からない。 >そもそも、お前さんの場合、邪馬台国東遷厨と違い庄内も100年ぐらい(AD200〜300)見てて >それが更に遡る可能性も認めているんだろう? >その間に大型首長墓の文化をインポートして発展させ大型化する… >百年余が果たしてそれを東遷の結果としなければならないほどに短いのか? >・・・ってのが疑問だなwwwwwwwwww ぜんぜんだめですね。 最近の考古学では、寺沢の庄内0段階で汎西日本的な倭王権が畿内という顕著な権力分化の見られない 畿内にいきなり成立したということになっています(一部箸墓等定型化した古墳からだという古い説を 唱える方も大学を中心に一部残っていますが、そのうちなくなるでしょう。)。 なので、多くの考古学者が問題にしているのは後期後半にそのような特定個人墓など卓越した階層分化が 全く見られないという問題であって、庄内にはいってからどうのこうのは何の関係もありませんね。
500 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:01:29
>>496 倭王権の始まりは1世紀半ばに後漢の光武帝に朝見の使節を送った倭奴国王に見ることができるのではないか。
この時は漢委奴国王に封じられており、局地的な王権の感じであるが、2世紀初の帥升は倭国王と後漢書に記されて
いるのでかなり広域の王権であったと思われる。
原田大六は倭王権と言うより大和王権の始まりを2世紀後半に持っていったのだが、これは間違いだった。
501 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:01:41
>>495 伊都国東遷厨
そうやって
「鉄の重要性」「九州における鉄器の普及度」
を強調すればするほど
「半島大陸の文物の輸入をコントロールした北部九州のクニ(伊都国)が
東遷してきたのになんで畿内ヤマトでは鉄器の量がそれ程劇的に増えていないんだ?」
…と言う疑問に跳ね返って来るんだよなw
無論この伊都国東遷厨はあくまで「当社比」として庄内に入ってヤマトの鉄は急増しているって立場なんだろうが
そりゃ元々相当に少ないからであって
そこに東遷と言うような事態を想定せねばならないほどの急増なんて話は聞いたことが無いw
結局
ヤマトに東遷して来た伊都国は鉄器の流通ルートを持ってこなかったのか?
それとも古代社会において鉄器はそれほどには重要でなかったのか?
(無論>495はそう言う立場には立たないんだろうがw)
この辺の自己矛盾は邪馬台国東遷説と何ら変わるところが無いwwwwww
502 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:15:25
>329 >お前さんの言ってるのを聞くと >今や絶滅寸前の自生説の他は東遷説で埋まっている風にも聞こえるんだわwwww おおまかにいえばそうじゃないですか。 ただ、自生説は官学を中心に主張し続ける方はほそぼそと続くと思いますね。 なんせ、いまだにあの「伝世鏡説」を唱える方がいるくらいなので。 それからら赤塚さんという東海の専門家の方は、破鏡など東海の影響だという方も いるようです。あまり相手にされていないと思いますが。 ただ、考古学者以外では、多様な説があります。 古田さんという学者は、畿内とは独立に九州王朝説があったという説をとなえられ、 熱心な信奉者がおられます。 また、邪馬台国九州説は文献の方では多いですね。これも安本さんという 熱心な信奉者がいる学者さんがおられます。 このスレッドにもいるようなので、議論されてはいかがでしょうか?
503 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:17:44
>501 いやそれは間違いですね。畿内でも庄内からは急増します。 詳しくは、寺沢の「王権誕生」や村上の「倭人と鉄の考古学」その他を 読んでください。
うーんただね、メスリ山古墳の副葬状況などをどう捉えるかという問題もあるんだよな。 212本の茎式鉄矛。
505 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:18:41
>>499 伊都国東遷厨
…しかしこれって一種の「循環論法」に陥っているんじゃないのかな?
そもそも「東遷説」なるものは
その畿内ヤマトの社会構造の急激な変化を何に求めるか?って話で
巷間よく言われる
「纏向に九州系の遺物が出ないから東遷説は苦しい」と言うのは
その物証の話で
「社会構造の急激な変化」の要因を問われて
「社会構造の急激な変化」を挙げるんじゃあ理屈にもなっていない(苦笑
もう少しアタマを冷やした方が良いwwwwwww
506 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:22:01
>500 >倭王権の始まりは1世紀半ばに後漢の光武帝に朝見の使節を送った倭奴国王に見ることができるのではないか。 そうかもしれませんね。ただ、中期後半に北九州には統一された初期国家的なものが 出来ています(なおいつからがちゃんとした「国家」かというのはいろいろややこしい議 論がありますが私はこの段階で国家といっていいと思います。)。 倭国王帥升の段階では、国際的承認もあり確実だと思います。
伊都国東遷説が主流になってるとは思えない。考古学的には、直接証拠の少なさ。文献的には倭人伝 の一大率の記述。
508 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:24:05
>504 今のところ威信財が目立つというの面はありますね。 ただ、技術的にも北九州の直輸入というのは村上が主張するところです。
509 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:24:45
>>503 話しの通じない奴だな。
そりゃ「当社比」だろって話で
半島大陸との交易をコントロールしたような勢力が東遷してきたなら
それまでの北部九州に匹敵するような鉄の流入があるだろうって話し。
そもそも銅鏡の分布が九州以東にシフトしたのに比べ
鉄器のそれはかなりのタイムラグがある…と言う認識は常識の範疇だと思っていたがwww
510 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:28:06
>505 >「社会構造の急激な変化」の要因を問われて >「社会構造の急激な変化」を挙げるんじゃあ理屈にもなっていない(苦笑 何を言われているのかわかりませんが、通常、畿内自生説を否定する考古学者は、 「社会構造の急激な変化」の原因として、吉備なり北九州なりの権力層の東進を 主張されているのだとおもいますが。
511 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:31:36
>>507 まあこの伊都国東遷厨の分類では昔の素朴な自生説でなければ
そのまま東遷説と言う事になっているんじゃないのか?
もしくはヤマトの古墳文化形成に外部の影響を認めている時点で
東遷説とか?w
寺沢や石野に
「アンタ東遷説論者?」
って聞いたらどう答えるのかな?www
512 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:31:56
>>509 熊本県の斉藤山貝塚で見つかった鉄斧は、縄文時代と弥生時代の境目あたりの
ものとされる。つまり、九州では、卑弥呼時代の5〜600年も前から積み上げた
鉄の歴史がある。
東征があったから、いきなり九州に匹敵する鉄が出るというのは無理がある。
まあ、土の中から出てくる鉄は、副葬品以外は、要するに捨てられて物で
あるわけだが。
513 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:34:00
>509 一部畿内の学者が主張する後期から北九州が衰退するという主張は誤りであり 倭王権誕生後も伊都国、奴国地域(ここは再編がありますが)は、 相変わらず繁栄を続けるので、当初は逆転しません。 それでも考古後半の畿内からは急増することを評価すべきなのは 寺沢らの主張するとおりとおりですね。
514 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:38:26
>511 >もしくはヤマトの古墳文化形成に外部の影響を認めている時点で >東遷説とか?w 「昔の素朴な自生説」でも鏡の大量副葬など外部の影響を否定する人はいないです。 (一部伝世鏡という説もありますが。) 今の流れは、後期後半の畿内の社会的発展の遅れや銅鐸破砕など 畿内分化の否定を重く見て倭王権の主体を別地域の権力主体に求 める考えです。
515 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:44:08
>357 >この伊都国東遷厨があげつらっている「小林説の年代観」にしても >椿井大塚山自体の年代は”結果オーライ的にw”そう動いてないと思うが 思い入れゆえかどうか知りませんが、古く出しすぎです。 また、△の配布元という虫のいい説がありましたが、いまでは相手にされていません。 >問題は椿井大塚山が出現するに至るまでの前段部分 >言わば「ロード・トゥ・椿井大塚山」wwwの時間の長さで >それが長くなればなる程、畿内の古墳文化の発生にしても >昔のようにそれほど「突然に現れた」って考えずに済むって話だよな?wwww ぜんぜんだめです。 庄内0段階にいきなり出現するマキムク遺跡や石塚古墳(庄内1?)と後期後半の畿内 の遺跡の関係性の証明が必要です。
516 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:49:15
>507 >伊都国東遷説が主流になってるとは思えない。考古学的には、直接証拠の少なさ。文献的には倭人伝 >の一大率の記述。 自生説は下火ですが、 @どこからの権力移動で、 Aどうやって倭王権ができたのかなのか ということについては、今後も議論が続くと思います。 吉備や北九州以外でも、とくに近年では、山陰の4隅の権力母体の 充実が指摘されるところです。 なお、出雲市の遺構は都市的様相を示すのではないかという地元の 埋文の意見もあるようですね。
まあ自生説が死滅しかかってるのは確かだと思うが、石塚古墳に繋がる関係性は伊都国に もないように思う。とすればやはり多勢力による連合の中で、祭祀形態の切り替わりがあった のではないか?
518 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:55:39
519 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 01:57:24
>>515 「証明」ねえ・・・w
そりゃ「外部の文化の受容」って事で説明がつくんじゃないのか?w
「文化の急激な変容をもって支配層・王朝の交代劇を主張する」
…ってのは「騎馬民族征服王朝説」と基本的には同じ構図だなw
これも今まで安本信者のような邪馬台国東遷説論者に散々言ってきたことwww
「外部の文化の受容」に留まらず、それ以上
実際に支配層が入ってきて新たにクニを打建てたというのなら
証明の義務はそれを主張する方にあるだろう。
520 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 02:06:56
>>513 一応確認しておきたいのだが…
まあ平たく言っちゃうとだw
伊都国から東遷してやっとこ古墳文化の端緒についた畿内ヤマトであったが
本家の伊都国・奴国がまだまだ全盛であったが為
欲しくてたまらなかった鉄も回してもらえなかった
(それでもお情けでそれまで以上の分は回してもらえた(当社比ン百パーセントアップ!))
…てな話しなのかな?wwwww
まあ普通ならより実用的な鉄がヤマトに流入してきて「地力」を
つけてきた後に威信財の銅鏡も九州以東にシフトすると言うシナリオになっても良さそうだが
この伊都国東遷厨のように鉄の重要性を強調するなら尚更だと思うがw
伊都国東遷厨はよく勉強していて、考古学的記述もほぼ正しいと思うけれど、ただ邪馬台国の 言葉を出すならやはり、 >女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。 この倭人伝の記述についての考察は外せないと思う。文献抜きの考古学的状況で纏向を語るなら、邪馬 台国という言葉を出す意味が問われてくるのではないかな。まあ、纏向スレでやれば問題はないけど。
522 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 02:10:43
>>518 春成秀爾って人は、たしか放射性炭素による年代測定だったかな。
そして、弥生時代の始まりを紀元前10世紀と出した人。
斉藤山貝塚の鉄斧を弥生時代初めとすれば、とんでもなく古い時代に鉄器が
誕生していたことになる。中国よりも古かったと思う。
そのようなことはありえないので、彼の年代観では弥生中期とせざるを得ない。
ただ、そのような年代観で中期とされても、実年代的には変わらないと思う。
>実年代的には変わらないと思う。 そうでしょうね。中国より古いわけもなく、これは妥当なところに収まるしかない。 ただ、歴博の弥生年代観は結局どれだけ定着したか疑問。
524 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 02:25:58
まあこの伊都国東遷厨の言っている枠組みを邪馬台国の話に絡めると どうにもこうにも分からないのは 恐らく畿内ヤマトに初期ヤマト王権=邪馬台国が発生した時点においても まだまだ九州北部に伊都国・奴国の勢力は健在で、いや、健在どころか ヤマトにも鉄を”おすそ分け程度”で済ませてしまうほどに半島との交易もコントロールしていた …なのに「親魏倭王」の地位をヤマトの卑弥呼に譲ったと言う話になるwww 「邪馬台国畿内説」をとるなら「伊都国〜奴国の再編成」も畿内ヤマト・首長連合の影響下にあって 成されたものと考えるのが筋だとも思うのだがwww
525 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 05:09:10
邪馬台国論争は面白ければいいんだ イ rヘrヘrヘ_| \__l\_,ヘ ゝイ ヽヘ / ./ノクつ/ヽr、 vL 丿 /)ハi/ ,',',',',',','∧ > Z { ,',',',',',',',',',',', `ヽ ∠ 「 {,',',',',',',',',',丿! ハ / / i,',',',',',',',',',',',| rヘ ,ry { ,ィ´≧、__ .i ;ヘ、i,',',',',',',',',',',イィ ハ イ レニr'" r'付マ!__j__≧_rヤ壬`ヽ,',',',ソ { ク /^弋_`┴'¨j〉r=ヘr'イV^マ!`ヽ,',','/ ト ∧ハ,〈 ` ̄¨’/ ∧《`¨ー-! ノニv! | lいi |∧ ,イ 〈_',',',',',',',',',',',',',',',',〉 f^` Vゝ「 〈r、',',',',','!',',',',',',',',',',',',',イ ./ハ ヽハ ,,,,,, (,',','´,',',',',',',',',',',',ィミ, /〈ハレ| `! '",ィ=ュ,_ノ,'rilili,',',',',',',',',',',',',ソ'ヘノ/ i|i, ∠任士ニトュ、`i',',',',',',',','/,イ/ i| , ``ー―卞ム',',',',',','//r'"´ __ イ| il ≦´,',',',',',',',',',','/,',','´ 「面白さ絶対主義!」 ../ `ヽニ"´/l ∧ \,',',',',',',',ノ,',',',! \〈 `ヽ、___>',',',',',',',',',!
526 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 07:39:31
>>525 面白さをどこに求めるかだねえ。
古田や安本といった、過去の九州説を面白いと思うなら、畿内説は面白くないんだろう。
だけど、古田や安本は、文献を都合よくつまみ食いして、最新の考古学を無視してる。
これじゃあ、今現在、最新の考古学や、自分で文献を調べてる層からみれば、
時代遅れも甚だしくて、とても賛同できる説じゃない。
いまさら、古田や安本の九州説を面白がってるのは、情弱か、じいさんだけだろう。
俺は正直なところ、古田や安本の九州説のくだらなさをあげつらうことに面白さを感じるよ。
www 安本も古田も、結局彼らが生きているうちに邪馬台国についての結論は出ない。古田は 東日流外三郡誌の問題でミソをつけたけど。にしても、本や講演でたくさん稼いだろうし、多くの 信奉者も残した。彼らの死後、信奉者はどうするんかね。まさに二階に上がって梯子を外された 状況、某九州王朝コテにしてもね。
528 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 08:13:24
最新の考古学って、新井宏先生の諸説ですか。
529 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 08:34:40
>>526 是非新しくスレをたてておおいにあげつらってください。
私そういうの大好きです。
期待してます。
新井氏の金属考古学はきわめて特殊な分野からの論だな。考古学者の一般向けの本は、考察 がまだ深まってない状態で書いている部分もあると思う。基本は新しい遺跡調査報告に目を通し ておくことだろうね。でないと(コテの)縄文人の域から抜け出せない。
そんなに偉そうに言われてもね。 貴方様のご高説を聞かせてもらわないことには(ry
532 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 11:09:14
>>493 天孫降臨の地は「この地は韓国(からくに)に向かい」ですから筑紫の日向は宮崎周辺ではなく、
韓国の対岸に位置する福岡の日向峠近辺でしょう。
533 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 12:34:01
>>530 縄文人は「考古学の新展開 遺跡、出土物解釈に潜む嘘」を執筆中だと聞いたぞ。
「前原の遺跡を伊都国に結びつける軽率な嘘」「纏向柱穴跡解釈で露見した視野狭窄」
「実年台測定法の実際 年輪年代法の限界 C14年代測定法較正用炭素試料の問題点」
などが項目にあるそうだ。(ニュースソースは極秘)
>>533 www 自費出版か。この板ではサガミ先生に次ぐのかな?www
535 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 13:54:34
>>526 最新の考古学、最新の考古学と言うが、具体的に何を指していて、その結果
が邪馬台国問題にどう影響するのかを言わないと話にならないと思うが。
536 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 14:23:44
>>535 526は考古学の本質を知らずに新聞報道や他人の書き込みを見て最新の考古学だと思っているのだろう。
自分で文献を調べているとか言っているが、漢籍が読めるのかどうか。
>いまさら、古田や安本の九州説を面白がってるのは、情弱か、じいさんだけだろう。
この文章を見ただけで教養の程度がわかる。
古田氏や安本氏が邪馬台国論争に新しい視点を持ち込んで一般人の関心を高めた功績は素直に評価すべきだ。
博多湾沿岸部や朝倉市甘木に邪馬台国を比定することには賛成できないし、論説の細部ではおかしいと思う
ことはかなりあるが、このスレに書き込んでいる人達に比べればはるかに勉強していると思うよ。
>>536 >このスレに書き込んでいる人達に比べればはるかに勉強していると思うよ。
アホ。奴らはプロでこれで儲けてるんだよ。お前が賛成しない、お前にとっては間違った比定地
なのにな。俺らはほとんどがピュアなアマチュア。
まあ、考古学の話はともかく、高校の日本史の教科書と資料集程度を読んでいれば、縄文人 のようなくだらない間違いはしなくなるだろ。
539 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 14:41:07
>>533 >「前原の遺跡を伊都国に結びつける軽率な嘘」
軽率な嘘とは思えない。結びつける根拠はある。
伊都国は糸島市(旧前原市・志摩町・二丈町)と福岡市西区を合わせた地域だろう。
怡土郡の古地名が残る。
また末廬国〜伊都国〜奴国と倭人伝で隣接している3国が
・末廬国・・・・松浦郡・・・・現佐賀県唐津市あたり
・伊都国・・・・怡土郡・・・・現福岡県糸島市あたり
・奴国・・・・・那の津・・・・現福岡市あたり
とこれ以上なく見事に古地名との音韻が対応して一致していることも
なにより伊都国=糸島市付近説を裏付ける。
さらに唐津、糸島、福岡の考古遺物や遺跡の豊富さ、とりわけ大陸との交流を窺わせる
ものが数多く指摘されている点も傍証になる。
このように考えた場合、倭人伝の方角とは確かにきっちりとは合わない。
しかし「方角は絶対正しい」との証明はいまだ示されていないようだ。
きっと倭人伝の方角記載には、不確かなところがあるのだろう。
540 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 14:45:50
>>538 キミも縄文人にやりこめられたようだね。
>>539 縄文人説は、前原=伊都国だと根底から崩れるからね。しかし30年前の論だよな。
542 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:02:32
>>539 地名の類似から、伊都国を怡土に比定したのは新井白石が最初なのだが、
その新井白石は、斯馬國を志摩郡に比定している。
怡土と志摩は、糸島と一緒に呼ばれるくらい近くにあるのだが、倭人伝では
伊都国のほうは戸数・道里を略載可能な女王国以北の国に入っており、
斯馬國は、遠く離れていて詳細がわからないその余の旁国に入れている。
地名の類似性だけではちょっと矛盾がある。
伊都国は、郡使が往来するときに常に駐まる所。方向を間違えることはないと
思う。また、舟で行ける所をわざわざ陸行することもないだろう。
543 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:12:19
志摩町は当時は海か湿地帯で伊都と分かれていたからな。 九大伊都キャンパスの南側の田園地帯だ。 船越漁港から今津湾の線上の田のところは海だったから、 地理的には切れている。
筑前国風土記逸文に見える怡土県主、五十迹手はアメノヒボコの末裔を名乗っていますね
伊都国は半島系の国だったのだろうと思わせられます
>>542 女王国より以北は云々・・・と出てくるその筆頭に斯馬国があるところから
斯馬国は邪馬台国の北に隣接していた国なのではないかとも思います
糸島の志摩郡は人口も少なく果たして一国を為すほどの地域であったのか疑問は残ります
余談ながらかの貝原益軒は志摩郡の人たちは人情味が無い、とため息をついていますね
545 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:20:24
>>539 伊都国が怡土だなんてのは、既に論破されちゃってるよ。地名が似ていること
のほかには何の証拠もない。地名も三世紀ころに怡土という地名があったとい
う証拠はまったくない。七世紀ころにあったといったってそんなものではどう
しようもないなあ。
しかし、常に郡使が末廬国経由で来たとは限らないだろう。
547 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:24:51
糸島半島を地図で見てみればいい。 国道202号線の若干上が水路、湿地帯だとすると 平原や三雲を持つ伊都国と 面積的にはそう変わらない。 それでも比較的耕地面積の多い伊都と 山岳が多い志摩を比べれば 伊都のほうが人口は多いだろうがね。
548 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:27:46
なんだかんだで、松浦というか、唐津が大陸に行くのに 便利だったことは間違いないんだが。 秀吉の時代に朝鮮出兵の前線基地の名護屋城もここに置かれているし なにより、唐津という名前は、唐の国へ出航する津(港)という意味でついている。
549 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:28:45
伊都国を怡土とすると、その後も続かない。 東南に百里で奴国、奴国を福岡平野にすれば、また方向が違う。 東に行って不弥国。不弥国を宇美とすれば、今度は方向が合っている。 投馬国や邪馬台国への南水行も意味不明となる。 しかし、文字通り「東南陸行」して伊都国を佐賀平野の北西部とすれば、 奴国は佐賀平野、不弥国は筑後川北部、そこから南水行も自然に有明海と なり、矛盾が生じない。
550 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:31:39
現在の地名である「イト」は無視しろってことかな? じゃあ、九州と奈良の地名の一致も無視すべきだよな。
しかし「イト」と「シマ」というのは古代の倭語ではどういう意味なんだろうな?「伊勢・志摩」にも似てるし、 「阿・吽」などのようにセットで用いられる言葉なのかね?
552 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:40:37
>>549 実際その矛盾がある。
松浦から山中を通って厳木や小城方面に抜ける方が
魏志倭人伝の記述としては素直なのだ。
だが、前原伊都の遺跡も重要なのである。
奴国(福岡)の発展状況も無視できないだろう。
この時期、他が発展していて、那珂川流域、室見川流域
そして御笠川流域が発展しないはずはない。
ここから妄想だが、
やはり公式には伊都を通り、博多湾に入るのが、
一番無難で便利な方法だろう。
しかし、戦のため最短距離を通る必要があったか
福岡平野勢力が、邪馬台国の敵のため、
福岡を通ることが出来なかったと考えている。
もっとも、これは人に押しつけるつもりはない。
553 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:49:05
副葬品があるかどうかは、強大な権力者だったかどうかというより、副葬の習慣を 有していたかどうかに係わることだよ。怡土は朝鮮半島に近かったから、副葬の習 慣を知りそれに習ったんだろう。副葬の習慣がなければ、どれだけ強大な権力者で あっても大した遺物は遺さないってことになる。
554 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:54:12
奴国を佐賀平野に比定すると、一つだけ気にかかることがある。 それは例の金印の存在。 倭面土国の王・帥升が、佐賀平野に攻め込んだ、王一族は金印を持って逃げ、 志賀島までやってきて金印を埋めた、そんな妄想をするしかないのかな。 帥升は、倭奴国の王が昔、漢から金印をもらったことを知っていた。 だから、生口160人を献上して、後漢にお詫びを兼ねて、お伺いを立てる ために朝貢した。これも妄想かな?
縄文人の最悪妄想。
556 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 15:56:02
>>539 マグネタイト(磁鉄鉱、Fe3O4)をご存知かな。
磁鉄鉱は普通は弱い磁性を持つ鉱物だが中には強い磁気を持つものがありこれらはロードストーンと呼ばれ方位磁針として
昔から利用されてきた。強い磁性を持つ磁鉄鉱は落雷による熱と強い電界の作用で磁子が配向することで形成されるという。
磁石が文献に現れるのは唐の時代のようだが、それ以前にはロードストーンが用いられていたと推定される。小さな磁鉄鉱
片を木片に埋め込み水に浮かべて使った、あるいは糸で吊るして使った。倭人伝の魏使一行も携帯していたであろう。
557 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:06:54
>>554 邪馬台国に責められて志賀島まで逃げたんだろう。
>>553 これは違うと思う。少なくとも北部九州では伊都国王を中心に、各地の首長の序列があり,
副葬品の玉類などがその序列によって規定されていたのは確か。また、三雲南小路遺跡
の金銅四葉座金具は明らかに漢から册封されていた証拠。俺はどうでもいいけど、夜に
伊都国東遷厨がくれば、否定的なレスが来るだろう。ww
>>556 ははあ、中国での出土例、文献の記述を述べよ。磁石そのものは前3世紀の「呂氏春秋」
などに出てくるけどね。
>
指南車は魏の時代にはあったがだろうが機械仕掛けで磁石は使
われてない。磁石を用いた指南魚は魏代にあったのかなあ。
http://www.neomag.jp/magnet_history/history_3.html
559 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:15:38
>>554 福岡奴国の王が攻められて志賀島まで逃げるのは矛盾がないが、
佐賀平野から逃げるとなると結構変なコースを逃げ回ることになるな。確かに。
あえて佐賀から逃げるコースを設定すると
三瀬峠通って伊都に出て、そこから船で志賀島に出るのかな。
560 :
558 :2010/02/23(火) 16:21:26
前レスで書き込みに失敗した。「呂氏春秋」 >「石鉄之母也 以有慈石 故能引其子」 (慈石は鉄の母のようだ 慈石は母が子どもを引寄せるかのように鉄を呼寄せる)
561 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:36:43
>>558 鉄を扱う職人だったらある種の鉄が磁気を帯びることは知っているだろう。また、磁鉄鉱の存在も知っているだろう。
古代人だって、砂鉄を鉄の棒でかき回せば簾のようにくっついてくることぐらい知っていただろう。指南魚を作るく
らいのことは簡単なことだ。魏使だって携帯していただろうよ。
562 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:38:56
磁気を帯びさせるのは難しいな。 コイルもない時代に、自然から取ってくる以外に 作る方法はあったのか? 電気屋だが思いつかない。
563 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:43:40
>>559 帥升は福岡奴国の有力者(王族の一員かあるいは王族でない豪族)でクーデターで王権を奪ったのではないかな。
その帥升が奴国の版図を佐賀平野部まで拡大したのだろう。その時の戦闘の死者が吉野ヶ里の甕棺に葬られている。
564 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 16:50:12
>>562 自然から入手したのだ。磁鉄鉱だ。
>電気屋だが思いつかない。
電気屋さんじゃ思いつかないかもね。鉄器細工屋なら経験するけど。鉄製品にヤスリをかけているときなど
削りくずが磁気を帯びることがあるよ。
565 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 17:04:52
磁鉄鉱もぜんぶ強い磁性を帯びてるわけじゃないからねえ。 強い磁気を帯びている磁鉄鉱は、水銀鉱物の朱より貴重な物ではないかな。 まあ、強い磁気を帯びていれば、小さいのが一つあれば事足りるが。 削り屑が磁気を帯びるのは経験してるけど、指南に使えるかどうかは 確認したことないな。それほど強い磁気を帯びる物なのか?
>>562 まあ、多くは天然磁石が用いられてたと思うけど、それと同じ方法で作れる。地磁気を利用して、
加熱した針金を南北を指すように置いて急冷する。これで木片に乗せて水に浮かべて使うくら
いの磁針はできるはず。
567 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 17:07:50
指南魚の簡単な製法 磁性の強い砂鉄を木片に掘った溝に詰めて松脂で固める。
568 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 17:11:13
確かに非磁性体になるまで過熱して近くに強い磁石を置いて、 磁化させたまま冷却すれば磁性を帯びさせることが出来るな。 そうすれば、いくらか量産は可能かもしれんな。
>>561 >魏使だって携帯していただろうよ。
・・・この人は面白いなあ。大切なのは、魏代に普遍的に用いられていたかどうかであって、それは
遺物としての出土や、文献の記述でしか確かめられない。磁石が知られていたことや、作り方とは
まったく別の話なんだけどね。
570 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 18:06:28
磁石は、針を熱して水に入れて冷やせば出来ると、子供の頃、授業でやったこと があったような。それに小さな紙をつけて水に浮かべれば、方向を示すと。
571 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 19:13:56
>>569 古代に用いられていた物の全てが文献に記載されたり遺物として出土するわけではない。他の事柄から
推定せざるを得ないこともある。今日教科書などに載っている古代史も推定を積み上げて書かれている。
製鉄も鉄器加工も紀元前から行われており、砂鉄などの磁鉄鉱の利用も行われていた。当時の技術者達
が磁性を持つ物質の存在に気がつかぬ筈は無く、利用も考えただろうと想像できるのだ。僕でさえ指南
魚の作り方を考えることができたのだ。紙も発明している国だ。遠い外国に出かける使節などにとって
指南魚などの方位測定具は常識的な携行品だったかも知れない。倭人伝には指南魚を携行したとは書か
れていない。だが、使節は衣服を着用していた筈だがこれも書かれてはいない。筆記具も携行していた
筈であるがこれも書かれてはいない。
>>554 >倭面土国の王・帥升が、佐賀平野に攻め込んだ、王一族は金印を持って逃げ、
>志賀島までやってきて金印を埋めた、そんな妄想をするしかないのかな。
大筋において、上記だけが全く違うな。
倭面土国(倭米多国・倭目達国)の王・帥升が、佐賀平野(吉野ヶ里)から福岡平野に攻め込んだ。
倭奴国王は金印を持って志賀島まで逃げ、そこで捕虜になるか殺された。
生口160人は、この時の倭奴国王族の捕虜。
>>557 >邪馬台国に責められて志賀島まで逃げたんだろう。
志賀島まで逃げたのは、倭面土國王帥升に攻められた倭奴国の残党。2世紀初頭。
邪馬台国に攻められたのは、伊都国(惣座遺跡)に逃げた倭面土國(吉野ヶ里遺跡)。2世紀後半。
>>571 これもアホの縄文人だろ。もういいかげんにあちこちのスレで電波をとばすのはやめたら
どうだ。モグラ叩きするほうが疲れる。ww 直接根拠が示せないものには普通 言及は避
けるものなんだよ。でなければ何でもありになってしまう。もうね、2000円以内なら一冊買
うから、「梯儁と仲間達の冒険」という本でも書いて、自費出版しておくれ。装備は磁気コン
パスでも携帯GPSでも何でも持たせてよいから。ww
574 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/23(火) 21:38:10
倭奴国王族の末 難升米こと(難斗米)ナトベ。
575 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 21:43:51
>>573 あれは縄文人ではないだろう。彼は電波の届くところには居ない筈だ。
今縄文人は奥州の山の中に出かけているらしい という噂を聞いた。なんでも火焔土器や遮光器土偶にはまって
いて岩陰などを探し歩いているらしい という噂を聞いた。また、自分で製作しているらしく山奥に煙がたなび
いていた という未確認情報もある。
きょうは風邪ひいて一日お休みしたんで、ずっと布団でカキコしてたんだけど、意外とこの 「梯儁」等一行の倭国訪問を小説化したら面白いだろうし、いろんなことが見えてくるかも しれない。・・・と思ったら本棚に「古代からの伝言」八木荘司というのがあった。忘れてた。 内容は倭人伝の記事を小説化したもので、けっこう面白かった。 「女王の使者」・・・難升米の洛陽道中記、「邪馬台国訪問」・・・梯儁らの倭国探訪記 「卑弥呼死す」・・・張政の倭国での活躍 など >ーやれやれ、また菜食か。漢民族の梯儁には、米と野菜中心の倭国風の食事がどうにも たまらない。淡泊すぎるのである。・・・こんな感じ。
漢民族も、米と野菜中心の食生活じゃないのかい?
>>575 www そのまま、諸星大二郎の世界にでも行ってくれればwww
>>577 「魏晋世語」によれば、人肉食もあったと思われる。
あと、上の本にもはっきりとは書いてないけど、梯儁一行は何人ぐらいだったんだろうね?
579 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 22:11:22
魏の領域では米はあまり食べられていない。小麦などが主食。呉の領域は米作地帯だが、蜀の領域 の四川省も意外と暖かく米も作られていた。肉は羊と豚と鶏が主だが、庶民はあまり口にはできな かった。
580 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/23(火) 22:13:06
先日あるTV番組で、ヘアピンをパンティ(ナイロン)で同方向に50回程度こすれば磁気を帯びて、 葉に乗せて水に浮かべれば磁石代わりになる、というのをやっていた。 ナイロンは当時ないのだけど、絹か麻か何か替わりになりそうなものがあれば、 磁石なら結構簡単に出来たのかもしれない。 でも方位を知るだけなら、太陽や星を見たほうが楽だったのかもしれないですね。
581 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 22:33:31
>でも方位を知るだけなら、太陽や星を見たほうが楽だったのかもしれないですね。 太陽と方位の関係は月日と時間の関数となる。正確な時間が分らなければ正確な方位は求められない。 また、雨や曇りの日には測定できない。星は晴天の夜にしか観測できない。決して楽ではない。磁石が あるに越したことはない。
582 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 23:09:42
■「邪馬台国近江説」が同時出版 守山と東京の2人、偶然一致に驚き 守山市伊勢町の「伊勢遺跡」と、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国(やまたいこく)とを関連づける「邪馬台国近江説」と題した書籍が2冊、相次いで刊行された。 守山市と東京の著者が全く同時期に書き上げた本で、2人とも「近江説が話題となれば」と同時出版に驚いている。 1冊は、守山市伊勢町の地元史家、沢井良介さん(64)が書いた「邪馬台国近江説 古代近江の点と線」(幻冬舎ルネッサンス、1300円)。自費出版で1000部印刷した。 沢井さんは近畿、東海地方などから出土する銅鐸(どうたく)の分布や形状の変遷に着目した。 卑弥呼は伊勢遺跡のある近江南部で擁立されて大和へ基盤を移したが、その後大和政権に吸収されたと推測。大和政権時代に湖東地方で勢力を持った息長(おきなが)氏を邪馬台国系の勢力と考えた。 もう1冊は、東京都のフリー編集者、後藤聡一さん(52)の「邪馬台国近江説 纒向遺跡『箸墓=卑弥呼の墓』説への疑問」(サンライズ出版、1200円)。 後藤さんは奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を邪馬台国の有力候補地と見なす近年の学界の風潮に疑問を投げ掛ける。 弥生時代の国内で最大級の大きさを持つ伊勢遺跡は邪馬台国の卑弥呼が祭祀(さいし)をつかさどる神域だったと結論づけ、後に大和政権に滅ぼされたと考えている。 (つづく)
583 :
日本@名無史さん :2010/02/23(火) 23:10:37
また売名か。
585 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 00:23:47
まあ、売れそうにないからね。あせってんだろう。
586 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 00:30:50
まあ、巻向箸墓絶対主義なんて、考古研や奈良文研の 飯の種になってるだけで、大した根拠はない。 他の遺跡のことが考慮されない方がおかしい。
587 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 00:45:21
>>586 巻向箸墓絶対主義?
そりゃどういう主義だ?
588 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 03:22:00
>>586 >他の遺跡のことが考慮されない方がおかしい。
そうですね。
で、あなたの考える邪馬台国の遺跡は、
どこの何という遺跡ですか?
589 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 04:53:02
590 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 11:43:13
>>589 うん。邪馬䑓という名(大きな台地)に相応しい。これに比べると纒向など貧弱な地相だね。
591 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 12:24:24
>>589 この
>>589 の写真は、狗奴國の一部と思うね。
迫間川と木野川に挟まれた単なる台地だね。
狗奴國の城郭(都)は方保田東原遺跡。
いかにも古代人が好みそうな台地ですね
595 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 13:02:03
596 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 13:28:27
こんな場所良いよな、って直感的に感じるのはなぜだろう。 DNAレベルでなにか持っているんだろうか。
597 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 13:30:23
だいたい住居跡が見つかるのは、微高地が多い。 竪穴式住居では、掘って水が出るような場所には作れない。
598 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/24(水) 13:32:55
>>595 うてな遺跡が発掘されて全容がわかれば、格上との判断も出来るようになるでしょう。
どちらにしても僕は狗奴國の都の移動問題だと思います。
邪馬台国を菊池平野にもってきたい熊本県人としての気持ちがあるのは理解できます。
僕は奈良県人ですが、邪馬台国久留米説です。
599 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 13:36:25
狗奴国の南は何だったんだろう。
600 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/24(水) 13:47:51
>>599 男王國=連合狗奴國国家群 : 今使譯所不通倭人
その南鹿児島県は未知不明。
601 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 15:35:19
>>598 候補地の一つと考えてもいいんじゃなかろうか。
久留米も候補地の一つと言うことで。
>>599 熊本県の場合は、宇土半島の付け根周辺にもいろんな遺跡があり、かなり
繁栄した土地だった。古代の有力な豪族である火の君の本拠地はこのあたり
だったとされる。
もっと南には、球磨盆地があり、新井白石はここを狗奴国に比定している。
更に南には、熊襲の本拠地ともいわれる都城盆地がある。
西都原古墳群など、九州で最も古墳の密度の高い宮崎平野の都城盆地の北。
菊池平野は、九州全体で見れば、北部に入るなあ。
602 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 15:37:42
勝手に連合狗奴国なんて国をつくるなよ。 倭の地は全部で三十国なんだぜ。
603 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 15:38:47
>>601 訂正
>九州で最も古墳の密度の高い宮崎平野の都城盆地の北。
→九州で最も古墳の密度の高い宮崎平野は、都城盆地の北。
604 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 15:52:22
>>601 熊襲なんていう種族はいなかったんだよ。大和の連中が邪馬台国をけなして
そう呼んだだけだ。都城盆地こそ邪馬台国の本拠だよ。
考えてもみろ。九州に邪馬台国があったことを大和が意識しないはずはない。
記紀は北九州については邪馬台国らしい勢力なんぞまったく描いていないだろ。
605 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/24(水) 19:39:12
>>602 >勝手に連合狗奴国なんて国をつくるなよ。
連合狗奴國国家群 : 狗奴國を盟主とする国々
>倭の地は全部で三十国なんだぜ。
『今使譯所通』が三十国。三十国が倭の全部だとは書いていない。
上記三十国以外は「今使譯所不通」となる。
「今使譯所不通」は倭人伝に書いていない。
『今使譯所不通十國』かもしれないが、『今使譯所不通七十國』かもしれない。
七十国なら、倭の国々は合計百国になり、魏代も漢代も倭の国々はほぼ同数となる。
606 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 22:01:01
うてな遺跡は卑弥呼の宮殿が置かれた所で、方保田東原遺跡は少し離れた城下町(都邑)という感じだな。 邪馬台国は戸数7万余だからここだけでは収めきれない。熊本平野の大部分とその他の属領があったのだろう。 狗奴国は鹿児島地方だろう。
607 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 22:06:14
>熊本平野の大部分とその他の属領があったのだろう。 戸数7万余・・・最低でも九州の北半分は必要だと思うんですけど。
608 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 22:13:57
>>605 狗奴國を盟主とする国々なんてどこにも書いてないな。
>上記三十国以外は「今使譯所不通」となる。
これも無理。旧百余国、これは別に「使譯通じる所」ということではない。
ということは、「旧」に対する「新」の国数を書いているに決まっているんだ。
それが文章というもの。となれば、その国数は三十国をおいてほかにはない。
「今は三十国でいずれも使譯を通じている」ということなんだよ。
609 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 22:14:31
質問ですが 魏志倭人伝や宋の書物などの倭の記述に 倭や邪馬台国は朝鮮半島の先の島国って言及がありますが 仮に邪馬台国が奈良だった場合 日本は島国である、津軽海峡の存在まで知っていたと言う事なんでしょうか? あと井沢の逆説の日本史で 倭人の言葉でワ=環→それを向こうの人間が音で聞いて倭としたってあるのですが つまり中国人の侮蔑から倭が出来て、日本に伝わったのではない これってなるほどって思ったのですが 信ぴょう性ってあるのでしょうか?
熊本平野とか佐賀平野って、その時代は海が入り込んでいて、農地はあまり作れなかったと思うけど とくに熊本平野の生産力が上ったのは、奈良時代以降だよ
「倭」って音借じゃないだろ 人片がついてるし、漢字圏の人が倭人を表すのに当てた(作った?)のが「倭」だよ 向こうから見て、倭人のイメージを形象文字的に表したのが「倭」という漢字だ 倭人サイドは、自分たちの事を倭人なんて呼ばないよ 音借して表すのは、邪馬台であったり、卑弥呼であったりだよ 倭人は、そんな風に日本語で自称していた訳で、倭人なんて言わない 固有名詞は、地元の発音でしか意味を成さないので、万葉仮名の様に漢字の音を借りて表すしかないからな Americaを音借して表せば「亜米利加」、日本語で書けば「米国」
>>609 津軽海峡の件、グッドな着眼。
>倭人の言葉でワ=環→それを向こうの人間が音で聞いて倭とした
なんか根拠があるん?当然ないよね。妄想の類。
可能性がないと断定はできない、っていう話の1つだ〜な。
613 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:03:53
中国が記してた民族名は、その民族が名乗った言葉に漢字を当てはめてたんだよ
614 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:12:36
若い女って言うのは,触ってもいいし,舐めてもいいし, また,髪の毛の匂いを嗅ぐのもいいよね。 寒い時は,湯たんぽ代わりになるし,暇な時は撫でくってると 甘えてくる。 それこそ,チンポを1時間くらいしゃぶらせるのも良し, 精液を顔に掛けるのも良し, ただ柔らかい感触を味わうだけでも良い。 ケツの穴のシワを丹念に舐めさせるのもいい。 やっぱり,女は最高だね・・・
615 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:19:50
>610 肥後国石高 31万石 肥前国石高 42万石 これは表高で実高は倍程度あったらしい。 海が入り込んでた時代は、どのくらい割り引けばいいのかな。
616 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:23:59
>>610 >熊本平野の生産力が上ったのは、奈良時代以降だよ
熊本平野には余り海が入り込んでいない、
熊本平野の生産力は奈良時代以前から既に全国でトップクラス。
>>609 「環」というのは環濠をイメージして、自分たちの集落を「ワ」と呼んでいたことから名付けられ、
これが聖徳太子の説く「和」にまでつながっている・・・井沢説はこんな感じだったと思うけど、
612 のいうように根拠といえるほどのものはないと思うね。
618 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:32:01
>>609 当時、倭が島だったと思わせるような記述はけっこうたくさんある。
「倭在韓東南大海中」とか、「周旋可五千餘里」とか。
古代の人が、本州を島と認識していたかどうかはわからないが、仮に認識して
いたとしたら、少なくとも大きな島が3つは認識されていたことになる。
本州と九州と四国。しかし、3つの島を認識していたかのような記述はない。
やはり、倭は九州かな。
619 :
日本@名無史さん :2010/02/24(水) 23:32:22
>>615 熊本藩内高69万石
佐賀藩内高27万石
620 :
サガミハラハラ :2010/02/24(水) 23:52:25
倭は上古音でイまたはウィと発音しました。 これをしっかり押さえたうえで論じてください。
621 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/24(水) 23:54:48
平安時代の出挙正税稲束数。 肥前国20万束、筑後国20万束、大和国20万束。なんだ変わんないじゃん。
613 のいうように始めに原日本語があって、その発音に中国側が漢字を選んであてたという ことかと思うけど、 @ そのころの日本原住民が「従順な性質を持ってた」から「倭」字をあてた。(本居宣長) A 原住民の体型が「背が丸く曲がって醜い」から。(藤堂明保、金関丈夫) B 中国本土から「はるか遠くに住んでいる」から。(岸俊男) C 「顔に入れ墨する(委する)」習俗をもっていたから。(如淳) などいろいろ説がある。Cは中国魏代の説だけど、中国内で否定されてる。ただ、「匈奴」とか と同類と考えれば、よい意味ではないという気がする。
魏も発音はウィ? チンウィウィワン ピィミィフォ
624 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:17:53
おぼろげな記憶で、古代の日本人は自分たちのことを「わ」と言っていた。 そこから倭がきた、というのを聞いたことがあるが。
625 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:18:04
匈奴:喧しくうるさい奴ら。 倭奴:ちっぽけな奴ら。 どちらも軽蔑した言い方である。
626 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:24:28
>>624 わて、われ、わい、わたし、わっち、わたい。
わは付いているけど倭とは関係ないだろ。倭はwoかweiでわじゃない。
627 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:27:15
そもそも倭人とは 今でいう九州、四国、近畿はもちろん関東を含めた 日本列島全体に住んでた人たちを指してたのか? それともとりあえずはその支配範囲は知らないが、とりあえず九州に住んでいる 朝鮮人とは違う人種の人たちを指してたのか? どっちなの?
「山海経」や1世紀頃の「漢書」「論衡」に「倭」についての記述が見られる。「漢書」「論衡」の倭は
まず日本のことと思うので、上古音の読みのほうがよいか。
>>622 で書いたように、魏代ではすで
に「倭」の意味は中国人でもわからなくなっていたようだね。
>>624 うん、あとは原日本語の「倭」がどんな意味だったかということだけど、これはちょっと量りがたい。
その「わたしの国」説は卜部兼方とか古くからあるけど、どうだかね。
629 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:31:42
>>627 九州説に立てば、本州も四国も同じ種族。つまり倭種。
しかし、九州の倭国には属していない。
630 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:39:09
そもそも魏志倭人伝には載ってるとは言え そこに書かれている事は100%正しいの? 又聞きの又聞きで 途中で話がこっちゃになったとか、誰かの創作とかあり得ないの? そもそも信ぴょう性が低いから、載ってるとは言え信用できないって話にならないのか?
>>627 そこはたいへん難しいところで、そもそもは日本列島だけではなかったようだね。
>倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思わ
れる倭人や百越の人々を含んだり、朝鮮半島南部に接していたと考えらえる「倭」[2]やその住人をさす時
代もあったが、ヤマト政権による日本列島統合が確立していった5世紀〜7世紀ごろ以降、「倭」の呼称は、
日本列島における倭国の支配範囲およびその住民に限定されていった。
これはWikiから引いたんだけど、おそらく迷いながら書いてる気がする。まあ、なぜ魏志「倭国伝」ではなく
「倭人伝」なのかはとても微妙なところ。w
632 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 00:47:11
>>630 100%正しいことはないだろう。
でも、明らかに間違いと思われるところ以外は正しいと言う前提で読まないと
仕方がない。検証する手段がないわけだから。
>>621 出挙正税稲束数とは、実の生産高に対してどれくらいの割の数字?
「倭人伝」の呼称は、先頭の2文字を取っただけ。
あっちのは、なぜ「韓人伝」ではなく「韓伝」なんだろ? 「倭国伝」ではなく、「倭人伝」とした所に、曖昧な情報として入って来ている遠い国というニュアンスを感じるが
636 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/25(木) 01:04:42
>>633 租税率は不明です。出挙正税稲束数は茶色い日本史年表に書いてありました。
637 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 01:10:11
魏志倭人伝の正式名称は、三国志・烏桓鮮卑東夷傳・倭人条だな。
638 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 02:04:30
>>624 中国では倭人が「われわれ(wareware)」と言っていて、小さい人だから倭と名づけられた
というのが定説みたい
縄文人のことも倭人と呼んでたからね
倭人は呉の太伯の子孫 元は江南、山東半島、朝鮮半島南部、九州といった 東シナ海沿岸の海洋部族の総称だったのでしょう 海に潜って獲物を手に入れる、入れ墨の風習など倭人は海の民族そのものに感じられます
640 :
サガミハラハラ :2010/02/25(木) 07:42:41
上古音ではイまたはヰであります。 ワと発音するようになったのは、隋唐の時代からですよ。 基本をしっかりおさえましょ。
641 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 07:56:15
「漢委奴國王」でも倭が委ですね。
上古音、中古音とかは参考程度。 二十世紀中国音(北京方言)では「香港」は「シャンガン」と発音する。 「したがって『ホンコン』の発音は二十世紀ではあり得ない」 これが間違いであるのと同様。
刺青してたのは呉と九州の倭人だけでしたね 朝鮮半島南部の倭は九州から移り住んでいた倭人だと思いますよ
644 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/25(木) 11:39:30
東シナ海の東西沿岸に分布する海洋民が本来の「委」である。 彼等は顔に刺青を入れていたので、刺青の入った顔を「委面」と言う。 よって「漢委奴國王」の「委」が原型。 「委」が「委人」のことを指すので、後に「倭」と表現したと思われる。 「倭」について「倭面土國」「倭面国」との表現方法もある。 倭人は小柄であったので、小さい、卑しいの意味も出てきた。 倭寇が東シナ海沿岸で暴れたので、荒々しいの意味も出てきた。 倭寇が現れて以降、亜鉛が激しく酸化することから、亜鉛のことを倭金とも言われた。 「ワ」の発音は唐代以降。隋までは「ヰ・イ」の発音。 隋書「俀國」、「邪靡堆」は、それぞれ「大倭國」、「山大倭」であると思われる。 (日本では自分達の領域のことを、「シマ(島)」「ヤマ(山)」と表現する)
九州にいたのは委の王ってことか
646 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 11:57:36
倭王卑弥呼のことだよ。
647 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 12:44:03
亜鉛が酸化するって………電池か………
委の名は東夷と同じようなもんかな それぞれ民族は違うけどまとめて地域名として呼ばれてた 山東は刺青してなかったけど委とされてたこともあった?ようだし
649 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/25(木) 13:02:57
「委」の主な分布地域 九州西岸 朝鮮半島西南沿岸・多島海 浙江省東岸・舟山群島 山東半島南岸
650 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 13:07:00
>>648 東夷もどんどん東北部の呼称に変わっていったしな。
651 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 13:13:32
倭委倭委騒いでいるけど 邪馬壹も邪馬䑓も邪靡堆もヤマトとは読めないね。
652 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/25(木) 13:15:24
>>642 亜鉛の酸化とは、金属亜鉛が空気中の酸素で燃えること。
昔の写真ストロボフラッシュは亜鉛の瞬間燃焼時の強い光を利用したもの。
653 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 13:16:50
ストロボ
654 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 13:31:06
マグネシウムじゃなかった?
655 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 13:33:42
亜鉛なら青銅の材料じゃないかな
656 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/25(木) 13:43:10
間違えた。マグネシュウムと亜鉛がごっちゃになっていた。 亜鉛が溶け出す時、溶融亜鉛がはじける現象。
657 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 17:39:10
亜鉛でそんな変な現象起こるかな? 過熱していくと、4〜500度くらいで普通に溶けるよ。 酸化亜鉛だと、おしろいに使われるね。
658 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 19:04:24
>>609 >日本は島国である、津軽海峡の存在まで知っていたと言う事なんでしょうか?
景行天皇二七年二月辛丑朔壬子。武内宿禰自東國還之奏言。東夷之中。有日高見國。其國人。男女並椎結文身。爲人勇悍、是總曰蝦夷。
亦土地沃壞而曠之。撃可取也。
日高見國あたりまでは、これ以降の知識、 津軽海峡までは、行っていないだろう。
659 :
日本@名無史さん :2010/02/25(木) 23:44:42
それに、周旋五千里じゃ東北なんぞまで行くはずはない。 中国地方でおしまいだよ。
660 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/26(金) 12:38:03
>>657 水分混入による小爆発
鉄の場合は大爆発
661 :
日本@名無史さん :2010/02/26(金) 14:11:49
神武天皇は、歴史の教科書などには出てこないらしい。 架空の人物と言うわけなのだろうか。 日本書紀には、神武天皇が、東征で到着した場所として、 「至河内国草香邑青雲白肩之津」というのがある。 河内国、草香邑の白肩の港に着いたというわけである。 この草香邑は、現在の生駒西側の日下といわれる。現在は内陸部であり、 日本書紀が出来た頃も陸地であった。しかし、神武東征の頃はこのあたりまで 河内湖が広がっていたことになる。 日本書紀が創作であったなら、内陸部まで船で行くと言う話が出来るわけが ないので、このことは、神武東征が史実である証拠とも言われる。
>>661 >神武東征の頃はこのあたりまで河内湖が広がっていたことになる。
というと、具体的には、西暦何年ごろ?
663 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:34:03
神武東征の頃とは、弥生土器X様式の始まりを指す。
てえことは、1世紀半ばごろ?
665 :
日本@名無史さん :2010/02/26(金) 21:22:25
>>662 西暦400年頃に、難波に宮殿を置いた仁徳天皇?が、草香江の水害を解消する
ため難波の堀江という排水路を築いた。それ以降、河内湖の開発・干拓が
急速に進んでいったとされるので、草香邑まで舟でいけたのは、それ以前と
いうことになるのかな。
666 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 21:59:10
水害を解消する為には、陸地が必要である。 勿論河原は、水の領分であるから、この陸地は、人間の領分と成る。 陸地になったのは、仁徳よりまだ前の話
667 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/26(金) 22:58:17
>>665-666 平安時代でも、未だ河内湖の一部が残っていましたよ。
場所は大阪市東住吉区の長居公園付近。
長居公園の大池は河内湖の残りかすといわれています。
草香江の付近も20世紀まで河内湖であった池が残っていました。
大阪府大東市の深北緑地が最後まで池が残っていたところです。
ふかうの池です。深野池、日下池ともいわれました。
この近くにある野崎観音(慈眼寺)には、江戸時代までは屋形船で野崎参りをしていたようです。
大阪から池づたいに行ける水路があったようです。
668 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 02:05:22
>>667 と言うことは、仁徳時代には、古墳築造のため人口が増え、河原の領分まで
人が住んでいた、ですかね。
ところで 九州王朝さん私の数字はまだ健在なんですが、どうでしょう。
669 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 08:50:28
>>668 河原の領分と言うより湿地で水稲作のできる技術が普及したのでしょう。
低湿地農業が応神期から畿内に普及したと考えます。
比較的安定した食料である米作を獲得することは、人口の増大をもたらすでしょう。
畿内にも平塚川添遺跡のような村落が広まってきたのでしょう。
(この場合の村落周囲の環濠は洪水の被害を避ける為の排水施設です。平塚川添遺跡環濠も同じ目的と思う。)
仁徳期の河内平野は、河内湖の大部分が陸化していたとしても、
上町台地以東の大阪市東部、生駒山麓(日下と水走の南北西周辺)、
河内中央部に点在する大きな池とそれらを繋ぐ大和川と淀川の枝流で、
河内平野の大部分は広大な湿地地帯であったと思われます。
この湿地帯が無くなりはじめるのは、18世紀初頭の大和川の付け替え工事以降です。
18世紀初頭以降に大坂の町民が、のどかな上記野崎観音参りができる状況になったのです。
>九州王朝さん私の数字はまだ健在なんですが、どうでしょう。
意味が受け止められません。
670 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/27(土) 08:58:44
上町台地以東の大阪市東部は、平安時代でも帆掛け舟が走りカモメが飛ぶ湖水でした。
671 :
日本@名無史さん :2010/02/27(土) 09:55:43
a
672 :
日本@名無史さん :2010/02/27(土) 14:52:24
>>669 ほとんど同意。
>村落周囲の環濠は洪水の被害を避ける為の排水施設です
その通りだと思う。唐古・鍵の場合もそうだったのだろう。
環濠集落という名前で同じように扱われぎみだが、九州の吉野ヶ里遺跡などの
環濠集落とは全く異なる性質だったと思う。
名前や呼び方が同じだからと言って同じものだと限らないのは、鍛冶遺跡にも
当てはまる。製鉄や高度な加工が可能な鍛冶遺跡もあれば、単に暖めて叩く
だけという非常に貧弱な鍛冶遺跡もある。これは、どの程度の温度を
作り出せるかにかかっているわけであるが。
同じ名前を付けて、同じように扱うと誤解を招くこともあるんじゃないかな。
673 :
日本@名無史さん :2010/02/27(土) 16:07:00
674 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 11:11:13
>>672 鍛冶場跡の「ノロ」を分析すれば、製鉄跡か鉄加工場跡かがわかるのだけど。
今の考古研究者は「ノロ」分析をしていないようだ。
神武ってのは邪馬台国と敵対していた狗奴国のボス 女王を崇拝する狂信者の軍勢にフルボッコされて日向を脱出し奈良への逃走劇 奈良の領主だった長髄彦をPKして建国 その後、国力を高めて九州へ仕返しにGO! 熊襲ってのは邪馬台国の事で大和タケルがぶっとばして終わり 大宰府は元邪馬台国連合の首都
676 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 13:47:23
>>675 狗奴国東遷説ということかな。
狗奴国東遷説といえば水野祐なのだが、また彼は、三王朝交代説でも有名。
水野祐は、狗奴国を皇室の源と考えていたらしい。狗奴国は、応神天皇の時、
北にあった邪馬台国を滅ぼし、次の仁徳天皇が東征したというわけである。
これが河内王朝になる。
森浩一は、逆に、狗奴国に圧迫されて東遷したのが邪馬台国であるとする。
まあ、いろんな説があるが、多くの人が気になっているのは、神武東征の
出発点が北部九州ではなく日向ということなのだろう。
677 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 14:19:19
神武東征は紀元前だって言ってるのに、バカなの?
678 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 14:57:23
神武天皇は127歳まで生きたのだぞ。死ぬまで現役だったのだぞ。
679 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/28(日) 16:25:04
>>677 神武東侵は2世紀前半の事件だと思っている。
帥升との戦いに敗れた倭奴国の一派が難民化して、
奈良盆地南部奈良湖南岸に侵入したのが神武だ。
しかし、何故奈良県まで行かねばならんのだ。
681 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 17:04:45
奈良盆地が「王権運営に有利な土地」という前提がなければ、奈良が選ばれるわけがない。 根本的に矛盾してるのさ。
682 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 17:10:51
神武東征は2世紀後半の倭国乱の頃に邪馬台国などの主流派から外れた集団が瀬戸内から近畿まで安住の地 を求めて行った物語であります。九州の主流派から追い出されたなどと記紀に書く訳にはゆきませんが、後 の大和勢力が熊襲討伐などを行ったのは、まつろわぬ者共を征伐するなどと大義名分を掲げていますが、 なんのことはない、祖先の恨みを晴らすためだったのです。怖いですね。
なるほど
>>675 には「狗奴国東遷説」という正式名称があるのか
一番無理の無い話だよね
大和朝廷が執拗に九州を攻めた理由も説明がつくし
>>681 の大阪ではなく内陸部の奈良に作ったのは邪馬台国からの追跡から逃れるために
奥まった場所に隠れたという説明でありだろ
ただ先行して奈良へ潜ってた物部さんの存在がイミフになるんだよな
685 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 18:10:41
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
686 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 22:07:07
皇室の歴史書である記紀では、皇祖が天照大神という女王になっている。 女王の影が見えるのは、やはり邪馬台国だろう。狗奴国はその点で弱いかな。 特に、卑弥呼と天照大神を同一視する考えからすれば、狗奴国東遷説は ありえない。 ところで、倭人伝に書かれた国の中で王の名前が書かれているのは、邪馬台国 と狗奴国の二つだけとなっている。邪馬台国は女王で、狗奴国は男王。 他の国はどうだったのだろうか。 伊都国を含め、全部女王だった可能性もあるかもしれない。だから、女王国と いう文字が使われているのかも。 熊本県の宇土と阿蘇の古墳からは、女性の人骨が出土している。大きな古墳に たった一人女性が葬られていたわけだから、女王で間違いないだろう。 少なくとも、宇土や阿蘇には女王がいたことになる。
687 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 22:13:42
卑弥呼が天照大神とかって、頭悪そうだね。 7世紀にできた神話と魏志倭人伝と何の関係があるのやら。
688 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 23:16:03
>>687 7世紀にできた記紀と、それとは全く関係のない倭人伝に共通点が多いから
天照大神を卑弥呼に比定する説も成り立つということ。
恣意的に共通と考えられる点だけ抜き出し、矛盾点は無視する詐欺的手法。
690 :
日本@名無史さん :2010/02/28(日) 23:29:50
天照大神の子孫には神武がいる---------卑弥呼には子がいない 天照大神は出雲のスサノオと不仲-------卑弥呼はクナ国のクコチヒクと不仲 天照大神は太陽神---------------------卑弥呼は鬼道 天照大神は朝貢などしてない-----------卑弥呼は朝貢した 天照大神の弟は出雲のスサノオ---------卑弥呼の弟は男王で傍にいた
東遷厨なんだろうが、「神武東征」→「箸墓築造」この前後関係はゆずれない。
卑弥呼が一人、皇祖とされ子々孫々に祭られる理由はあるのか? 台与の扱いが低すぎる
トヨタン・・・・・・・・・・
天照大神と卑弥呼は同一ではありえない。 ヤマト王権自身が編纂した日本書紀が、そういう認識で編纂されているから。 (つまり、卑弥呼は神功皇后の時代、という認識ね)
695 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 00:18:01
>>692 もちろん、卑弥呼+台与=天照大神。天照大神が天の岩戸に入る前が卑弥呼で、
岩戸を出てからが台与ということになる。
おぼろげな記憶ってとこか 紀記の頃から見て卑弥呼&台与は
>>691 東遷か東征かは知らないが「神武東征」→「箸墓築造」には賛同します
問題は東遷、東征せざるを得なかった理由だな
もし安定した生活基盤を維持できていたなら移民移住する必要なんか無いんだ
諸外国の状況を見ても食い詰めた貧乏人が欧州→アメリカ、オーストラリアだし
日本→満州なわけだし
698 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 08:22:45
九州から人が畿内に移動した痕跡が無いと、何度言えばわかるんだ?
699 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 08:45:22
現天皇家が最大の痕跡ではないだろうか。
700 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 09:37:17
記紀からみると 北部九州ではなく、日向、宇佐だろうけどな。
701 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 10:07:24
>>698 鏡、副葬の習慣、武器。いろいろあるだろ。
702 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 10:18:15
>>701 九州式の土器など、生活に密着した遺物は何も出てません。
人が移動していないということです。
東海・山陰・吉備の土器は多く出てきます。
これは、それらの地域から人が移動してきた証拠と見ることができます。
副葬の習慣などは、ただの文化の伝播にすぎません。
その理屈で東征・東遷を唱えるなら、
明治時代にチョンマゲを捨てた日本人は、西洋から侵略されたことになります。
703 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 10:22:35
人が移動するときに土器を担いでいくわけではないよ。土器は物資の移動に 伴う物だ。
704 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 10:32:15
>>703 その理屈で言えば、
ますます、九州から人が移動してきた証拠は無いということになります。
705 :
日本@名無史さん :2010/03/01(月) 15:33:17
うむ、巻向は東海、山陰を支配した勢力だろう。
706 :
日本@名無史さん :2010/03/02(火) 20:47:31
>>701 痕跡ありまくりでも、ジョーカーは認めないんだよ。
あれは宗教だから。
707 :
日本@名無史さん :2010/03/02(火) 21:10:44
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
708 :
日本@名無史さん :2010/03/02(火) 23:05:55
>>702 畿内は東海・山陰・吉備の勢力に征服されたのか。
709 :
日本@名無史さん :2010/03/02(火) 23:49:03
神武天皇の日向 景行天皇の筑後熊本 仲哀天皇の福岡 称徳天皇の宇佐 そのまんま、そこの一族の出身だったりして。
710 :
日本@名無史さん :2010/03/02(火) 23:59:51
>>709 九州だけしかリストアップしないところが、説得力を失わせてるな。
711 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 00:03:46
畿内にエピソードを持つ天皇は畿内出身でいいんだよ。 畿内分は多すぎて書けねえよ。
712 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 00:31:57
てすと
713 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 02:02:34
>>708 畿内説によれば、倭国の大乱は全国的な規模の戦いだった。それがあまりに
長期間続いたので、もう戦いはやめましょうよと、誰かが言い出した。
奈良盆地に都を作りましょう。王は卑弥呼にしましょう、と誰かが言った。
そうだ、そうだ、その通りだとみんなが賛成し、そのようになった。
ということなんだろうな。
どうして広範囲の争いが長年続いたのか、誰が都や王を決めたのか、
どうしてみんなが従ったのか、疑問点が多すぎる。
記紀にその痕跡は残っていないし、卑弥呼のときに奈良盆地に始めて都が
出来たとすれば、文献畿内派の、卑弥呼は崇神天皇の時代という話とも
矛盾する。
一つのことでつじつまを合わせようとすれば、全体的にぼろぼろになって
いくという感じだな。
714 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 02:27:37
伊都国東遷厨はもう降臨しないのかな? 俺みたいな素人からすれば年代観が違うだけで 言ってることはこの板の他の邪馬台国東遷厨どもと同じ。 結局は東遷の根拠を「畿内における社会・文化の急激な変化」に求めていて それを説明する物がないかぎり東遷説が蓋然性をもつ…と言うのがその主張だったと思うが はっきり言えばそんなもん 『畿内による(能動的主体的)文化の受容』 で説明がつくw 逆に言えばだ 「じゃあ東遷のような事がなければ畿内は何時までたっても銅鐸の祭祀を続けなければならなかった」 なんて馬鹿げたお話になるwww まあこの辺はかつての「騎馬民族征服王朝説」と同じロジックだなw 無論、それが東遷で引き起こされた可能性は理論上はあるだろうが それを証明する責務は東遷厨が負うべきw 少なくとも文化社会の急激な変化をもってその根拠と成すのは 無茶ぶりもいいところwww
715 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 02:43:00
>>713 >全体的にぼろぼろになっていくという感じだな。
そりゃここの大方の九州説の連中から見たらボロボロなんだろうなw
そもそも推古よりはるか以前に女王がいたという時点で記紀の内容との完全一致なんてあり得ないwww
まあこの板の九州説の連中の「暗号解読ゴッコ」のルールでやっていないから
そりゃ無茶な注文と言うものだwwwwwwww
716 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 11:53:44
>>713 畿内説を九州説に置き換えてもそれ以上にボロボロになるよw
718 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 13:24:52
>>717 九州説ならばすっきりと解釈できてるよ。どっかぼろがあるかい?
>九州説ならばすっきりと解釈できてるよ。どっかぼろがあるかい? こじつけりゃ何でも解釈できるからなw
720 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 13:54:37
自分で知ってる範囲のことをこじつければ、何でもスッキリ解釈できるだろうさ。 九州説ですっきり解釈なんて、自分が無知であると公言してるみたいなものだ。
721 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 14:20:16
具体的に指摘する頭もないくせに、良く言うね(笑)
722 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 14:34:26
>>721 夢見がちな乙女のような九州説が可愛そうだから追求しないであげてるだけ。
本気で叩いて欲しいの?マゾなの?
723 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 14:36:46
やれるものならやってみたら。畿内説論者もガックリとならんことを祈るよ。
724 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 15:02:58
まず、東遷説を潰すか。 九州はヤマトタケル、景行、神功と、大和朝廷から侵略を受けるだけの存在だった。 景行を迎える祭りが九州にはある。 しかし、吉備〜畿内どこにも神武を迎える祭りは無い。 民間伝承として、神武東征を真実とする祭りはどこにもない。 吉備にも無いのだからどうしようもない。 よって、神武東征は作り話であり、作り話の神武東征を根拠に邪馬台国東遷説などありえない。
725 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 15:08:34
よく、東遷説の根拠として、三種の神器は九州由来だとかいう人がいるけど、 それだと、前方後方墳に三種の神器が埋められる理由がわからない。 文化が伝播しただけ、という理由に説得力を与えるだけ。 東国の濃尾平野を見下ろす象鼻山古墳群の前方後方墳からは、鉄刀2点、鉄剣5点、鉄槍1点を出土してる。 前方後方墳であるのに、三種の神器がそろってる。 「埋葬文化」だけが伝播した証拠。 東遷の証拠にはならない。
726 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 15:49:51
>>724 神武伝説はけっこう残っているだろう。確か熊野にもあったはず。
何よりも、皇室の歴史書である記紀に明確に残っている。
>>725 意味がわからないが、前方後円墳も前方後方墳も似たようなものだろう。
727 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 16:20:26
>>726 の言うとおり、前方後方墳も九州勢力が進出して造ったものだろう。
728 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 16:23:52
>>724 祭の有無でしか理屈が言えんのかね。祭がいつ始まったのか、分かってるのか?
3世紀から続いていることの証明でもしてみたらどうかな?
729 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 17:09:11
>>728 それなら、神武東征を記述した記紀は7世紀成立だから。
神武東征は作り話ということでいいな?>東征厨
730 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 17:19:23
神武東征は紀元前六世紀とかの話だからな。それは作り話だろう。 もっと跡の記憶をもとにして古い話を作ったんだよ。
神武東征なんて事実はないでしょ。 色々話繋ぎ合わせただけで。 肝心の大和に神武伝承というのが少ないのは、 他人の話を流用してる為でしょう。
732 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 17:28:38
九州には菊池氏というのがいたらしいが、 高麗からきた渡来人の日置氏に滅ぼされた。 どんだけ弱いんだよ。
733 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 20:17:24
>>732 2ちゃんだって韓国からのF5攻撃で沈んだよ。
昔も今も変わらない。
734 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 20:56:19
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
736 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 21:14:53
九州の人は、日置氏についてどういう感想もってるの? 渡来人に首長の座を奪われて屈折した忸怩たる思いが、 邪馬台国九州説とか東遷説に転化されてるの? 菊池平野って、高麗人に占領されたようなものだよね? どこの九州に邪馬台国を興すようなエネルギーがあったの?
737 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 21:40:54
倭人なんてしょせん朝鮮半島や南方から来た人々の混合なんだよ。
738 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 21:52:29
そうとう痛いところを突いちゃったみただなw
739 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 21:54:37
>>737 つまり半島の賢い奴は皆さん日本に移動し、カスだけが半島に残り
現在の半島人になっているわけだな?
何となく理解できる。
カスはカスなりに頑張ってるわけだ だから金メダルの為なら手段を選ばないんだな 納得した。
740 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 21:56:37
もしかして、九州人の誇りって、渡来人の子孫だってことなの? だから、起源を主張する半島と気質が似てるの? そうかー。そういうことだったかー。
741 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 22:03:08
韓人の子孫だということを誇りにしているのは大和政権の人々だよ。 天の日矛の子孫、神功皇后が記紀の物語のど真ん中に描かれている。 石之日売も韓人奴理能美の家に世話になっていただろ。
742 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 22:14:13
神功皇后が天の日矛の子孫なら、 天皇も百済の子孫ってことで。
どこまでが韓人でどこまでが倭人かは、古代史では測りがたいと思う。魏志「倭国伝」ではなく 「倭人伝」なのは、韓の地にも倭人がいたという意味も含まれてるんではないかな。
744 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:13:36
海を隔ててるのに区別できないなんてことがあるか。 韓は、韓伝がある。
朝鮮人は嫌いですが 天皇家と百済には密接な関係があるでしょうね 文化的な百済を滅ぼしたのが残酷で野蛮きわまりない新羅であり これが今の半島人の祖先です
746 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:14:40
韓国では、卑弥呼は渡来人だと言ってるそうだが、同意するつもりかな?
あほくさい。金官伽耶は古くからの日本の領土。
748 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:25:45
>>746 それは根拠がない。根拠のないことならなんだって言える。
キリストは宇宙人。キリストは日本人。韓国人の祖先はゴキブリ。
>>748 >韓国人の祖先はゴキブリ。
嘘をいうな。カマドウマだ。
750 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:28:54
便所コオロギのことか。
751 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:30:42
752 :
縄文人 ◆sTvpVcSMa6 :2010/03/03(水) 23:35:28
2chに根拠が必要?アホウか?そんなのは審査付き学術雑誌でやれ。私は自由な縄文人、言いたいこと好きなことをレスするのだ。
753 :
日本@名無史さん :2010/03/03(水) 23:35:59
>>751 それは根拠がある。
韓伝に、「東西は海を以って限りと為し、南は倭と接する」とある。
海を隔てているのに、「接する」とは普通言わないから。
754 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 00:00:17
>>753 自分が言わないからってだけじゃだめだな。俺は言うし、昔の中国史書でも
言ってるんだよ。
倭かも知れないけど、卑弥呼の統治する女王国ではないだろうな
倭とは wikiより >倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷する。史書に現れる中国南東部 にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだり、朝鮮半島南部に接していたと考えらえ る「倭」やその住人をさす時代もあったが、ヤマト政権(倭国)による日本列島統合が確立し ていった5世紀-7世紀ごろ以降、「倭」の呼称は、日本列島における倭国の支配範囲および その住民に限定されていった。
757 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 00:14:56
>>754 倭人伝にも書かれているだろう。
「郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て南行き、東行き
しながら、その北岸である狗邪韓国に至る。初めて海を渡り千里余で対馬国
に至る…」
北岸と言うのがわかりづらいが、韓伝の記述と合わせて、朝鮮半島の南部を
倭と解釈すれば納得が行く。他の解釈では意味が通じない。
758 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 00:20:09
>>757 そんな解釈で納得できるとはおめでたいな。朝鮮半島の狗邪韓国が倭の地だとしたら
狗邪韓国の南岸と書いてなければ納得できんよ。
倭の地の北岸というのならば狗邪韓国の北に海がなければいかんのだよ。
759 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 00:36:52
>>758 その北岸というのは、倭の北岸という意味だろう。
朝鮮半島の南部が倭の地ならば、それで納得が行く。
他の解釈は不可能だろうな。
到其北岸 なんだかまた初等科に戻ってるな。 万年ループネタなんだろう。
761 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 00:50:54
漢文をまったく読めない連中が多いってことだな。
>>753 >海を隔てているのに、「接する」とは普通言わないから。
明史(朝鮮)にも
王國北接契丹、女直,而南接倭,
とあるぞ。
>>758 北岸に対する南岸があるってことだろ。
つまり、一大国は島ではなくて、北九州ってことだろうな。
糸島が一大国だろう。
ここを間違える(捻じ曲げる)ことで
誤解が拡大している。
764 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 01:04:02
■邪馬台国テーマに講演 3月13日 朝倉市で ミュージカル披露も
邪馬台国をテーマにした講演会とミュージカルが3月13日、朝倉市のピーポート甘木で開催される。
同市は邪馬台国の中心地をめぐる論争の舞台の一つとなっており、市民の関心を一段と高めようと、県文化団体連合会などでつくる実行委が初めて企画した。「古代にロマンをはせて」と来場を呼び掛けている。
朝倉市の平塚川添遺跡から1992年、弥生時代後期の大規模環濠(かんごう)集落跡が出土。
玄関口の甘木鉄道甘木駅前には「卑弥呼の里あまぎ」と彫り込んだ石碑を地元の商工会議所が建て、市の観光親善大使を「女王卑弥呼」と名付けるなど、同市では官民を挙げて邪馬台国の“中心地”としてPRに力を入れている。
講演会は午後1時開会。「季刊邪馬台国」編集長で元産業能率大教授の安本美典氏が最新の邪馬台国論争について報告するほか、平塚川添遺跡や佐賀県・吉野ケ里遺跡の考古学的価値について各自治体の担当者が解説する。
ミュージカルは同6時半開演。劇団テアトルハカタが「卑弥呼」を主人公にした劇を披露する。
入場料は講演会とミュージカルそれぞれが1千円(高校生各500円、中学生以下はともに無料)。朝倉地方の西日本新聞エリアセンターなどで販売中。同連合会=092(643)2875。
=2010/02/19付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/153426 ◆ふくおか文化芸術フォーラム
特別講演「筑後川の国々」、ミュージカル「よみがえる卑弥呼」
【第1部】特別講演会「筑後川の国々」〜邪馬台国は筑後川流域にあり〜
■内容
・基調講演@「甘木朝倉の古代文化〜平塚川添遺跡を中心として〜」川端正夫さん
・基調講演A「有明沿岸の国々と邪馬台国〜吉野ヶ里遺跡を中心に〜」七田忠昭さん
・基調講演B「最新の邪馬台国論争について」安本美典さん
・総括・質疑応答
【第2部】ミュージカル「よみがえる卑弥呼」
■内容
劇団テアトルハカタ公演。卑弥呼の少女時代から邪馬台国の女王になるまでの数奇な運命を、宝塚歌劇団出身の麻倉ももこが熱演
http://www.amagiasakura.net/festival/10.03.htm
>>758 北岸に対する南岸があるってことだろ。
つまり、一大国は島ではなくて、北九州ってことだろうな。
糸島が一大国だろう。
ここを間違える(捻じ曲げる)ことで
誤解が拡大している。
ループ目的のスレ
>>762 おお、納得だ。
「北岸」としか書いてないのに、
「北岸である」なんて勝手に解釈しちゃ駄目なんだな。
「南與倭接」の接が 接す。だって? どんな日本語なんだよ 日本語だったら 「つぐ」 南與倭接=南は倭とつぐ。 韓国の南は海だから、韓国と倭の間にある海に国境線を引く事によって、海で隔たっている両国間を接ぐ このくらいの漢文を日本語訳出来なくて何が古代史だ。
769 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 09:20:32
まだここには「其北岸狗邪韓国」の文が読めない奴がいるのか? どうしようもないな。 いいか 「其」は 海 「北岸」じゃなくて 海から北を見れば、先ず岸があり だから(北に岸) 海の北に岸があり、その北の岸の向こう側の陸地は、狗邪と言う韓の地があると書いてある。 半島に倭が。なんて夢物語何時までも語ってんじゃないよ。
770 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 10:36:15
>>769 まだここには「其北岸狗邪韓国」の文が読めない奴がいるのか?
どうしようもないな。
其の北岸は、倭の北岸。倭の北方の半島の岸という意味だよ。
半島に倭があったなんてのが間違いだってことはそのとおり。
でも、墳墓や考古学的遺物によると、 半島南部に倭人がいたらしいことは濃厚なんだがな。
大体倭人が半島南部にいて新羅国を建国したと、 半島の歴史書に書いてあるじゃないか。
773 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 11:11:11
774 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 11:20:11
倭人がいたから倭国だなんて言ったらえらいことになるぞ。我が国には 韓人がたくさん入って来ていた。我が国は韓の一部だってことになって しまう。
775 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 11:57:27
>>774 彼等はそんな都合の悪いことは知らんぷりだ。
見なかったふり
聞かなかったふりで
ここまで生きてきた
776 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 12:02:25
自分の犯した罪を、社会のせいにする奴と同じだよ。倭人がいたら倭国だと
777 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 12:08:46
>>773 洛陽と東夷の地を同一視できんだろう。
単に混同しているのか、わざと議論をミスリードしているのか。
中国人にとって、洛陽はオレらの都。
朝鮮半島は野蛮人の土地。
例え倭人が大量に住んでいても、洛陽の領有権は絶対に主張できない。
でも、半島南部はそうではない。
778 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 12:13:11
>>777 半島の南部に倭がないと都合悪いって、言い訳しているようだよ
779 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 12:44:50
狗邪韓国って書いてあるのに、いつの間にか狗邪倭国になってる 摩訶不思議な世界。 そんなごまかしは、幼稚園でも教えない
>>778 事情が全然ちがう洛陽なんか無理に引っ張ってきて、
半島南部に倭があると都合が悪い言い訳してるようだよ。
781 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 12:55:40
>>780 狗邪韓国と書いてある。
それだけで十分。
>>781 歴韓国と書いてある。
歴 すぎる うつる へる わたる こえる
拘邪韓國が韓国なら、
韓国をへて韓国に到るという矛盾が生じる。
それだけで十分じゃないか。
783 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:11:10
>>782 狗邪韓国に到ってないから心配するな
到ったのは「其」という
北に岸があり、その岸の先に狗邪韓国の地がある
其だ 安心しろ
狗邪韓国は韓伝には記載されず倭人条に記載されています つまり狗邪韓国は倭人の国であり当時の倭の北限にあった国であるということなのでしょう
785 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:17:31
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786 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:18:28
>>784 倭人伝に書いてあるから狗邪「韓国」
韓伝に書いてあるから弁辰狗邪
屁理屈言わないのよ
787 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:20:51
>>782 自分でも書いてるだろう
歴韓国と
だから韓国の一部である狗邪韓国も経るのよ〜
>>783 歴韓国乍南乍東到其北岸。 拘邪韓國七千余里。
こう句読を切るってこと。
無理読みだね。
朝鮮総督府は日韓併合で設置された日本の統治機関だ。
朝鮮と名前がついているから、これは朝鮮の機関だとは主張できんでしょう。
>>762 の明史の「南接倭」の記述なんて、倭人伝の記述に引っ張られた表現だから。
海を隔てて「接」を使うというなら、別の例を示してくれ。
>>787 韓国をへて北岸に到ったのに、また突然、へたはずの韓国にもどるのは、文章として無理読みですね。
790 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:28:36
>>788 歴韓国乍南乍東到其北岸拘邪韓國七千余里。
韓国を歴るに、と読むんだよ。韓国を通過するには、乍南乍東して其北岸拘邪韓國
に到る、ということね。
791 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:29:00
>>788 切ってないだろう
切ってないから
到は其なんだよ。
狗邪韓国に到っていれば其なんていらない。
しかも歴韓国なんて邪魔
韓国は経るんだよ〜
到った所は、其と指示語をいれないと分からない海なの「大海」と言う今までの「循海岸」とは違う
>>790 その読みは無理だよ。
最初に「従郡至倭」と「郡から倭に到るには」って、条件提示してるでしょ。
なのに「歴韓国」を「韓国を通過するには」と読んでしまっては、
「郡から倭に到るには、海岸に循がって水行し、韓国を歴るには、たちまち南したちまち東し〜」
っていうことになってしまう。
だから「韓国を通過するには」とは、どうしても読めない。
>>791 意味不明。論理になってないから、もう一度書きなおしてください。
794 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:50:15
>>792 >「郡から倭に到るには、海岸に循がって水行し、韓国を歴るには、たちまち南したちまち東し〜」
>っていうことになってしまう。
別に、それでいいんだよ。韓国を歴るのは、倭に到る行程の一部にすぎないんだ。
倭に到るには、まず韓国を歴なければならん、その韓国を歴るには〜ということだね。
795 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:53:15
>>762 朝鮮半島の南部はずっと日本だったから。
西暦562年に、任那が新羅に滅ぼされるまでは。
最近は、任那はなかったと言う人もいるが、日本書紀には「任那」の文字が
200回以上登場する。中国の宋書などにも何度も出てくる。
韓伝には「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」とある。
また、後漢書には、馬韓、弁韓、辰韓いずれも南部は、倭に風俗が近いと
書かれている。これは三国志・韓伝にも書かれている。
朝鮮半島の南部にあった倭の影響だろう。
日本が相当に古い時代から大陸と往来していたのは、遺物からも明らかで
そのためには、朝鮮半島の南部は重要な拠点になる。三国史記を見ても、
古くから倭人が朝鮮半島を攻めていたと記されており、倭人が南部を
支配していたのだろう。
796 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 13:58:13
>>793 其の後の文は、其という指示語をより具体的に補足するもの
循海岸水行歴韓国乍南乍東し、七千餘里を経たポイントが「其」なのよ
で、その「其」のポイントから北を見ると
岸があり、岸の向こうに狗邪韓国の地がある。
そんな条件が揃った所が「到=トウ」 いたるじゃないよトウだよ
797 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:05:15
>>795 時代の違う的は外れな書を出さないと
説明できないか?
798 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:06:10
>>795 しかし、それを表現するならば、けして、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、
山島によりて〜」なんて書かないだろうな。
「韓の南及び大海の山島にあり」とか書くはずだ。
799 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:07:41
韓国を経ると書いてあるのに 無理矢理狗邪韓国に付けるか? そりゃいくらなんでも無理だろう。 狗邪倭国じゃないんだから
韓伝の弁辰狗邪国と倭人条の狗邪韓国はまったく別の国ですよ お互いに隣接しており、ここが倭と韓の国境だったのでしょう
>>794 よくないってw 「韓国をへるには」と読んでしまうと、
郡から倭に到るには、海岸に循がって水行する。
韓国をへるには、乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る
という二つが並立して書かれていることになって、
君がいうように、郡から倭に到る道程の説明の中に韓国を経過する道程を説明するという文章構造になってないの。
そもそも、君の読み方は、漢文の文章構成として無理すぎるんだけど、まあ、それが正しいと仮定しよう。
すると、「歴韓国乍南乍東到其北岸拘邪韓國七千余里。」で、ひとつの独立した文になる。
ならば、其という代名詞が指す内容も、この文の中で探さなければならない。
となると、其=韓国しかない。つまり、韓国の北岸ということになる。
おかしな話です。
802 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:08:55
>馬韓、弁韓、辰韓いずれも南部は、倭に風俗が近いと >書かれている。 いいものみつけたじゃないか。これは倭ではないということだよな。
803 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:11:52
>>801 >其という代名詞が指す内容も、この文の中で探さなければならない。
そんなことはないよ。かってに規則をつくらないことだね。
804 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:19:44
>>801 >郡から倭に到る道程の説明の中に韓国を経過する道程を説明するという文章構造になってないの。
これもかってに決めつけないことだ。
郡から倭に到るのに、「海岸に循がって水行」だけで到達するはずがないことは誰だって分かる。
そこで、文章が完結するなんて読むわけにはいかないだろ。となれば、郡から倭に到る道程の説
明の中に韓国を経過する道程を説明するという文章構造海岸に読むべきことはすぐに理解できる
ことなんだよ。普通の読解力をもっていればね。
805 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:20:18
>>800 別の国と言いながら、最後は逃げ道作って
「でしょう」でしめる
きたねえな
806 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:22:26
>>800 別の国であることの理由は?
心情的か?
807 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:28:35
>>802 そりゃあ、韓は別の国だろう。そうでなかったら、朝鮮半島のほとんどは
倭の領域ということになる。
つまり、韓の南部にある地域が倭の領域だったということ。
>>804 >郡から倭に到るのに、「海岸に循がって水行」だけで到達するはずがないことは誰だって分かる。
それは、君が朝鮮半島と日本の地理を知ってるから。
文章構造から、「海岸に循がって水行」だけで終わらないという要請は全くない。
それに、歴韓国を「韓国をへるには」と読んでよいなら、
「循海岸水行」を「海岸に循がい水行するには」と読んでいけない理由はない。
「乍南乍東」を「乍南乍東するには」と読んでも良いことになる。
文章の構成要素として、これらに差異はない。
「循海岸〜」「乍南乍東」を「〜には」と読まないように、「歴韓国」も「〜には」と読まない。
「従郡至倭」が「郡から倭に至るには」と、条件提示に読めるのは、文頭だから。
文章の構造上の理由がないのに、こう読みたいという思い込みから勝手に意味を付加してはだめだ。
ちょっと言葉足らずだった。 それは、君が朝鮮半島と日本の地理を知ってるから。 文章構造から、「海岸に循がって水行」だけで終わらないという要請は全くない。 文章構造から、そう読まなければならない理由がないなら、 朝鮮半島と日本列島の地理的知識がない人間には、その文章は理解できないことになる。
810 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:39:54
>>808 >それは、君が朝鮮半島と日本の地理を知ってるから。
私だけではなく、倭人伝の原資料を書いた人も知っていたんだよ。
>「循海岸〜」「乍南乍東」を「〜には」と読まないように、「歴韓国」も「〜には」と読まない。
読むんだよ。君が読み方を知らないだけだ。
811 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 14:46:30
>>809 >文章構造から、「海岸に循がって水行」だけで終わらないという要請は全くない。
そうは言えるかもね。しかし、逆に言えば、終わるという要請も全くないんだよ。
終わるのか、終わらないのか、それを考えることになる。そして、後に「狗邪韓国」
が出てくる。となれば、終わらない読み方が正しいんだとなるんだね。
>>810 >私だけではなく、倭人伝の原資料を書いた人も知っていたんだよ。
三世紀の中国の読者は知らんがな。読者が読めない文章を書いてどうすんの。
地理的予備知識がなければ読めない地理案内なんて無意味。
>読むんだよ。君が読み方を知らないだけだ。
従郡至倭が「〜には」と訳せるのは文頭だから。
なら、「循海岸水行」「歴韓国」「乍南乍東」「到其北岸拘邪韓國」「七千余里」
これらの要素のなかで、なんで「歴韓国」だけ「韓国をへるには」と読んで、
他の要素は「〜には」と読まないの?
813 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 15:03:46
>従郡至倭が「〜には」と訳せるのは文頭だから。 倭人伝の文頭は、「倭人は〜」だよ。 「〜には」は、一連の文章の頭にくるはずだという意味だろうが、「 倭に到 るには、まず韓国を歴なければならん、その韓国を歴るには〜」という場合 も、「その韓国を歴るには〜」という一連の説明の文頭にきているだろ。
814 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 15:07:41
>>812 読者が読めない文章だなんて誰も言ってないぜ。原資料を書いた人物も、そう
書けば読者は理解できるはずだと思って書いているんだ。君のように妙な読み方
をする人を考えてはいないってことだね。
まあ早い話し 狗邪韓国は倭じゃないし、其は海である事は確かだ。 「一件落着」
>>813 >「 倭に到るには、まず韓国を歴なければならん、その韓国を歴るには〜」
歴韓国を二回訳してるだろう。
>「その韓国を歴るには〜」という一連の説明の文頭にきているだろ。
「歴韓国」が文頭ならば、「従郡至倭、循海岸水行」で一旦文が切れていると見なければならないよね。
そこに矛盾があるのがわからないかなあ。
>君のように妙な読み方をする人を考えてはいないってことだね。
妙な読みをしなければならなくなるのは、文章構造上、何の要請も無いのに
「歴韓国」を条件提示に読もうとするからじゃん。
だから、歴韓国を二回訳さないと意味が通らなくなるわけでしょう。
>>796 >其の後の文は、其という指示語をより具体的に補足するもの
其は、既出の部分を指す指示代名詞。
「其大官曰卑狗」を見てもわかるだろう。
其は對馬國を受けている。
だから
>循海岸水行歴韓国乍南乍東し、七千餘里を経たポイントが「其」なのよ
な訳がない。
818 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 15:58:08
>歴韓国を二回訳してるだろう。 君にも理解できるようにと思って、2回書いてあげてるんだよ。 >「歴韓国」が文頭ならば、「従郡至倭、循海岸水行」で一旦文が >切れていると見なければならないよね。 文章は主語、述語が一回ずつとは限らないんだよ。複文とかいうだろ。 勉強してみな。
まあ、不毛な議論はいいだろ。 漢文というのは元々いろいろに解釈可能。あいまいで含蓄ある表現しかできない。 狗邪韓国がどっちに属そうが、あまり大差はない。 議論の分かれる箇所で、えんえん水掛け論をしてもな。
>>818 >君にも理解できるようにと思って、2回書いてあげてるんだよ。
二回書かないと説明できないことが、そもそも、その読みが間違いである証明なんだけどね。
>文章は主語、述語が一回ずつとは限らないんだよ。複文とかいうだろ。
だったら、どこがどう複文なのか、きちんと説明できる?
821 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 16:33:27
>>820 普通は一回で理解できるんだよ。
複文の説明なんぞ、面倒だね。自分で研究してみて。
>>819 それを言ったら歴史なんて全てどうでもいい話で
既に過ぎ去った出来事を、今更ホジクッタところで過去を変える事はできない。
>>821 じゃあ、一回で理解できる訳を作って見せてください。
>複文の説明なんぞ、面倒だね。
複文の説明なんて、そんな面倒なことじゃないです。
これが本当に複文なら、簡単に説明できるでしょう。
重文を複文だというから説明が難しくなるんです。
824 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 17:09:13
825 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 17:30:52
>>824 いえいえ。
歴韓国を「韓国をへるには」とよめる複文構造を説明してください。
そうでなければ、普通に、
「郡から倭に至るには、海岸に循がい水行し、韓国を歴て、乍ち南し乍ち東し、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」
と読むだけです。
この訳には「歴韓国」は一回しか使ってません。
「・・・その北に岸、狗邪韓国、七千里にて到る」
827 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 19:13:29
>>825 私は別に複文に読むべきだと言った覚えはないよ。
私は、「郡から倭に至るには、海岸に循い水行し、韓国を歴るに、乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」
と読むね。私の訳にも「歴韓国」は一回しか使ってないよ。
とにかく、あなたも一連の文章として読んでいるわけだ。「其の」が倭を指すとみて悪い理由はないな。
>>827 >>818 で、複文を持ち出してる。まあ、それは良いとしよう。複文か重文かなんて、本質的じゃない。
意識してか無意識か知らないが、「郡から倭に至るには」に対して、「韓国を歴るには」ではなくて「韓国を歴に」としてるね。
でも、「韓国を歴るには」も「韓国を歴るに」も同じことだよね。そこを確認したうえで。
まず、第一点。何度か書いてるが、
「従郡至倭」を「〜には」と読むのは文頭だから。(文頭というのは文の始め。倭人在帶方は文章の冒頭)
「歴韓国」を「〜には」と読むには、これを文頭と見なければいけない。
助詞助動詞がない漢文では、文中での位置が意味を決定するから。
そうすると「従郡至倭、循海岸水行」で文が切れるという可笑しなことになってしまう。
ここで切らないのなら、「歴韓国」を「韓国をへるには」と読む理由が文章構成上まったくない。
だったら、「韓国をへて」と読むしかない。
第二点
>「郡から倭に至るには、海岸に循い水行し、韓国を歴るに、乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」
この訳、日本語としても、「郡から倭に至るには海岸にしたがい水行し」と「韓国をへるには乍南乍東〜」が
並列で記述されていると理解するのが普通。
「郡から倭に至るには」という条件提示の中に、「韓国をへるには」という条件提示が
入れ子状態で述べられているというふうに読むという要請は、日本語としても何にもない。
そこを無意識のうちに感じていたから、「韓国を歴るには」ではなく「韓国を歴るに」書いて、
「郡から倭に至るには」との差別化を期待したんじゃないのかな。
でも「は」が、有ろうが無かろうが同じ事だから、それは誤魔化しにしかならないよ。
>>788 >別の例を示してくれ。
必要ないだろ。まぎれもなく
>海を隔てて「接」を使う
用例だよ。「普通言わないから」っていう主張は成り立たない。
>>782 歴韓國
>拘邪韓國が韓国なら、韓国をへて韓国に到るという矛盾が生じる。
これはなかなかイケてるへ理屈だね。
こんなこと言う人は(記憶にある)過去2回の(北岸の)議論でもいなかったな。
言葉に数学の厳密さは無いからな。 無駄な議論だ。
832 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 21:00:34
833 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 21:08:21
>>828 >「従郡至倭、循海岸水行」で文が切れるという可笑しなことになってしまう。
私の文を読んでごらん。文を切ってないだろ。かってに「切れる」なんて言うなよ。
君のおかしな思い込みだ。
834 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 21:10:32
>>831 あなたの言うとおりかもね。彼は自分で一つのルールを決め込んで、それに合わない
と騒いでいる。文章なんて、そのときの工夫次第、いろいろあるということに気づか
ないんだね。
天皇は宇宙人だった。 源氏長者の印は宇宙印。 これが何よりの証拠。
>>834 自分で作ったルールじゃなくて、漢文を読む人間なら普通に理解している一般的なことなんだけど。
例えば、「倭人在帶方。東南大海之中。」
こう切ると、「倭人は帶方に在り。東南は大海の中。」と読まなければなりません。
でも、これじゃあ、意味が通らないから、「倭人在帶方東南大海之中。」
という切り方しかできないという結論になります。
切り方で文中の語の役割が変化してるのが解りますか?
今使譯所通三十國。従郡至倭
と切れているから、「郡より倭に至るには」と読めるわけです。
同様に、「韓国を歴るには」と読むには、
「従郡至倭、循海岸水行。歴韓国、乍南乍東〜」
と切れてなければいけないのです。
文を切ってないなんて言っても、切らないと君の主張する意味にはならないよ。
837 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 21:54:57
「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東〜」と読もうね。
レスが返ってこなくなったな。 ダメ押しですが、切らなくても「〜には」と読めるなら、 「郡から倭に至るには、海岸に循うに水行し、韓国を歴るに、乍南乍東し、その北岸に到るに拘邪韓國七千余里」 と読めることになる。
839 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 22:15:42
>>838 切れていなければならんなんて理屈はないんだよ。
切らなくても、「韓国を歴るには」と読める。そう読めるからと言って、
「その北岸に到るに拘邪韓國七千余里」と読めるわけではない。
読めるというところが、あなたの読解力のなさだな。
漢文に句読点が無いのは押韻で区切るからだろ 漢詩のように明瞭な韻を踏んでなくても、3語4語でリズムを作っていくから、聞く人には解るんだよ 修飾関係とか主語述語の関係とか
>>840 >リズムを作っていくから、聞く人には解るんだよ
おいおい。漢文は話し言葉じゃないよ。
842 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 22:42:34
>>828 は横からかな? 今まで、「歴て」と読むことを主張しているのかと
思ったが、自分で「「韓国をへるには乍南乍東〜」が並列で記述されてい
ると理解するのが普通。」なんて言ってるんだな。
訳が分からんね。
843 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 22:47:45
>>829 用例を引っ張ってきてやるから
倭人伝や韓伝と、地理的な接点のある文を提示してくれ
話しはそれからだ
844 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 22:51:53
>>839 「その北岸に到るに拘邪韓國七千余里」は、仰るように無理読みだけど、
「循海岸水行」と「歴韓国乍南乍東」に差異はない。
なぜ「韓国を歴るには」と読んで、「海岸に循うには」と読まないのか。
句読の切り方に関係しないのなら、読み手の恣意しかなくなるよ。
>>840 たしかにリズムが理解の助けになる文もあるけど、ここをリズムでっていうのは無理だろう。
「循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東」
これのリズムで、歴韓国だけ「韓国を歴には」と読め、循海岸は「海岸に循うには」と読むななんて解りようがないよ。
>>842 横からじゃないよ。僕の読みは「歴韓国」は「韓国をへて」で変わらない。
828で言ってるのは、827さんが示した読み方
>「郡から倭に至るには、海岸に循い水行し、韓国を歴るに、乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」
にたいして、
その読みだけ見ると、「郡から倭に至るには」と「韓国を歴るには」は、並列の記述と理解されるべき日本語だけど、
それでは原文の全体に矛盾するから、そのようには読めないと言ってるの。
842さんへのレス、解りにくかったかなあ。 827さんの読み方をもう一度見てみると、 「郡から倭に至るには、海岸に循い水行し、韓国を歴るには、乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」 解りやすいように、「韓国を歴るに【は】」と、【は】を補っておいた。 これを読んだら、「郡から倭に至るには」と「韓国を歴るには」は、同格の並列にしか読みようがないじゃん。 827さんの意図したような、「郡から倭に到るには」という説明の中に、さらに「韓国を歴るには」という説明が 入れ子構造の複文で書かれているという意味にはならないよね。それは、日本語として無理があるよねってこと。 だから、827さんの読みを採用すると、「従郡至倭」と「歴韓国」が並列で記述されることになって矛盾だから この読みは採用できませんということ。
846 :
日本@名無史さん :2010/03/04(木) 23:03:45
>>842 で言った点は了解、取り消しておこう。
>「郡から倭に至るには」と「韓国を歴るには」は、並列の記述と理解されるべき日本語だけど、
>それでは原文の全体に矛盾する
別に何も矛盾はしないよ。あなたが「乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到る、七千余里」と読むのも
「乍南乍東、その北岸拘邪韓國に到るには七千余里」と同じだ。文章の途中に「〜には」が入るこ
とはいくらでもあること。何も不自然ではない。
そろそろ議論に疲れたろ? もう寝ろよ、お互い。
>>841 >>おいおい。漢文は話し言葉じゃないよ。
だからリズム感が大事なんだよ
>>848 リズム感や話し言葉は関係ない 漢文は視覚にうったえるものだ
850 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/04(木) 23:43:32
>>到其北岸狗邪韓國 北岸を勝手に「北岸」なんて読んじゃだめだよ、って誰かが言っていましたが、 「北の岸」とか、意訳して「北に位置する岸」とかという意味、という意見に私は賛成です。 狗邪韓國は、逆に韓の國ではないから”韓國”と書かれているのではないかと考えてみたのですが、どうでしょう? 韓の地にある韓の國なら狗邪國、韓の國ではないから狗邪韓國。
台湾からの留学生です。 「其北岸」の「其」が倭を指すことさえわからないような人たちが 邪馬台国の議論をしているのに驚きました。 漢文をもっと勉強されたほうがいいのではないですか?
語音は一語一音だから、結局は耳にひびく語感が大事なんですよ
>>850 韓國には一杯ありますよ、辰韓、馬韓、弁韓、などなど
モンゴル帝国が分裂した、キプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国、クリミア・ハン国、イル・ハン国、も「汗國」って付くでしょ
「韓」も、読みは「ハン」ですよ、王国という意味です
「韓の國」なんて無いです
「韓国を歴て・・・」は、諸韓国という意味だと思います
馬韓は50数カ国、辰韓・弁韓はともに12カ国より成っていたという事ですから
その中に、拘邪韓國も入るのでは? 弁韓地域の狗邪国というのがそうでしょ
854 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 02:43:35
>>851 確かにね。
ちなみに、漢和辞典で「接」を引いてみると、次のようになっている。
㊀まじはる(交)○あふ、あはす(合·會)
明らかに、くっ付いていることを示す言葉であることがわかる。
このことからも、韓伝の「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」からは
倭が朝鮮半島の南部にあったと解釈できる。
海を介して接するなんてのはありえない使い方だろう。
855 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 05:31:45
丹東市は、鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街。
856 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 05:33:53
東は、アロール海峡を隔ててパンタール島などアロール諸島の島々があり、 南はサヴ海を隔ててティモール島と接する。
857 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 05:37:34
>>854 悪い辞書を使ってるな。私の辞書には「近づく」とかあるぜ。
接触ばかりでなく、接近という言葉があることを考えてみな。別に
くっ付いていることを示す言葉ではないんだよ。
858 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 05:51:51
>>857 接近であり、近づくだろう。
近くなければ接ではないんだよ。
千餘里の海が近いかね。
859 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 06:16:36
韓は方四千里、それを乍南乍東七千里と書いているだろ。乍はちょこっとだとか たちまちだとか訳されている。七千里についてもそんな文字が使われていること を考えるべきだろうな。同じように、北岸狗邪韓国という表現。これも、朝鮮半 島の岸に狗邪韓国があるという言い方だ。もともとの文章を書いた人は、地図を みているような感覚で書いているんだよ。だから、千余里の海なんぞ、何でもな い。近い海だ。
>>850 「北岸」を「北岸」と読んでは駄目と
しきりに言っているのは、あんたの嫌いな河童だ。
東京からアメリカに行くには、千葉を通って、いろいろ乗り継ぐと、成田(千葉)に着きます。 ここから空を飛ぶと、ハワイに着きます。ハワイは面積・・・ という感じの文だろ。
862 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 09:08:39
「接」=つぐ (つぐ)は、離れている木と木が近付く状態。 この離れている状態のものが付く事を(つぎ)と言う。 “つぎ”は“つぐ”の連用 接、近也は、つぐ 接、交也は、つぎ 少しは漢字と日本語の勉強しろよな! たく〜
863 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 09:16:30
「狗邪韓国」とは 「狗邪」と言う名称 「韓」と言う三種(人) 「国」地域 「弁辰狗邪国」 「弁辰」三種の一つ 「狗邪」と言う名称 「国」地域 どちらも同じなの ただ表現が違うだけ
864 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 09:18:20
>>851 台湾に帰って一からやり直しなさい。
台湾の民が泣いてるよ
865 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 10:00:05
>>859 乍南乍東は、入り組んだ海岸の形状による航行の様子を言っているのであって、
方四千里とか七千余里とかは無関係。
866 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 11:15:30
おい、おい。湾の奥に入って出てこれなくなるぜ。
>>843 >引っ張ってきてやるから
引っ張ってきてくれるって意味?
>地理的な接点のある文を提示してくれ
提示しているが?
意味不明なレスだな。混乱してるんだろう。
韓伝にも「其の瀆蘆国(トクロ国)は倭と界を接す」とありますね 狗邪韓国はあるいは巨済島(コジェ島)にあったのではないかとも感じます 対馬〜半島間航路の半島側の玄関口は常に巨済島でした
869 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 12:50:50
>>868 >倭と界を接す
この言葉の意味理解してる?
まだこの読み下しの段階では
倭、界、接は、日本語ではなく漢語の世界だよ。
理解できてるか?
870 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/05(金) 13:07:05
>>868 >倭と界を接す
僕なら、「倭と界で接す」と訳す。
871 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 13:19:46
>>870 私なら
「倭は、界にて接ぐ」と訳します。
872 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 14:41:40
>>866 毎度ばかばかしいお話を一席。
東してから南すると湾の奥に入って出られなくなる。
南してから東すると海岸にそって南下できる。
乍A乍B って、AとBが一回ずつではなく、
短時間のうちにAとBが何度も繰り返されるってこと。
873 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 17:01:15
>>872 「倭人伝私注」は割合良く書いていて参考になる。
『乍南乍東』は“南へ東へ、ジグザグに進む”と解釈されていることも在野ではままあるようだが、
たとえば藤堂・漢和大辞典などを見ると、“乍”の意味は“たちまち”、“急に”であり、『乍A乍
Bの形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこるの意をあらわすことば』となっている。この表現か
らして、A、Bを複数回繰り返さなければならないということではなさそうである。用例も『先王之道、
乍存乍亡=先王之道も、乍ち存し乍ち亡ず』であり、“何回と無く繰り返す”というニュアンスは含
まない。
874 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 17:11:37
>毎度ばかばかしいお話を一席。 >東してから南すると湾の奥に入って出られなくなる。 >南してから東すると海岸にそって南下できる。 理解できる人いる? ほんとにばかばかしいお話のようだが。
875 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 17:20:13
「乍」=ながら なにがタチマチだよ(笑)
876 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 17:40:37
中国の辞書に次の用例があります。 或卷或舒,乍轻乍重。――秦· 李斯《用笔法》 筆の使い方を述べたもので、乍は『或は』(or)の意で用いられています。 この用例からすると「乍南乍東」は「或は南へ或は東へ」でもよいでしょう。 半島から対馬に渡るには釜山や巨済島辺りから船を出すのが最も安全でしょうから、魏使が帯方郡から 海岸沿いに釜山や巨済島辺りに来るには半島西岸近くを南下し、次いで東(東北東)に向かわなければ なりません。これを乍南乍東で示しているとしていいのではないですか。そういうことにして次に進ま ないと日が暮れます。私だってあと50年生きれるかどうか分らないのであまりのんびり遊んではいられ ないもので。
877 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 19:09:35
>>873 その本、呆れるな。
『乍A乍Bの形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこるの意をあらわすことば』とは、
この表現はA、Bを複数回繰り返すということじゃない。何を読んでるんだろう。
『先王之道、乍存乍亡=先王之道も、乍ち存し乍ち亡ず』の出典、
史記の日者列傳の当該部分を読んだんだろうか。
何回となく繰り返すというニュアンスがもろに出てるじゃん。
日月星辰の動きや水の流れと一緒に『先王之道、乍存乍亡=先王之道も、乍ち存し乍ち亡ず』が持ち出され、
この世の中の出来事は常に変化しているという内容だよ。
「倭人伝私注」という書物は知らないが、参考にして大丈夫?
878 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 19:16:18
日者列傳の当該部分。 日中必移、月満必虧、先王之道、乍存乍亡 太陽は南中すると必ず傾いていく、月は満ちると必ず欠ける。 先王の道も、存在したかと思えば滅ぶ。 太陽の南中も満月も、営々と繰り返されるもの。 先王と言われる人は堯・舜・禹・湯・文王・武王と複数いる。 これで繰り返すニュアンスを含まないわけがない。
倭人伝の読みはわからないから普段はやらないんだけど、中学生の頃、「弁辰トク盧國」というのは 「末盧國」と何か関係あるかも、と考えたことがある。末盧というのは、一字一音の借字ではない漢語 的な表現だし。この、>草木茂盛して行くに前人を見ず。 といった辺鄙な地を紹介してるのは何か意 味があるかと。まあ妄想の域を出ないんだけどね。
880 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 21:29:28
先王之道 → × 先王の道 → ○ まず王の道も
882 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 22:38:54
箸墓は、弘法大師が一夜で作ったということでOK?
このスレ、韓国からのサイバーテロ以降、 急にレベルが低下したな
(´<_` )プッ。まるで以前はレベルが高かったみたいじゃないか。わろた
>>864 中文漢文さえまともに読めない人間が偉そうにしている姿はとても滑稽です。
自分の不明を恥じることもせず得意気に自分の恥を晒している姿がお似合いではありますけれども。
台湾だけでなく中国からの留学生の間でも笑われていますよ。
自分の恥を晒して笑われることにエクスタシーを感じるのは自由ですけれども。
886 :
日本@名無史さん :2010/03/05(金) 23:49:27
中国から留学してきて2ちゃんねるに入り浸りの人から笑われてもなあ・・・
ま、中国からの留学生なら、日本語と表現の自由についての勉強にはなるだろ。
しかし、>885は台湾人には思えないなあ。 日本語うま杉。
889 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 00:25:21
>>887 表現の自由はともかくとして、忠告は謙虚に受け止めたほうがいいな。
理にかなった解釈を続けていってこそ進歩があるというもの。
我を通すだけでは、いつまでたっても堂々巡りになってしまう。
まあ、我を通し、堂々巡りをさせなければ成り立たない人たちもいるのだろうが。
>>889 うるせいアホだな。じゃ朝まで正しい日本語訳でもやってろ。
891 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 08:36:59
ここの議論は、結論が乍南乍東している。これでどうだ。
892 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 09:14:33
>>877 「倭人伝私注」を知らないとは驚いたな。ググってみな。すぐ出てくるから。
まあ、私が倭人伝私注を弁護する義理はないが、あなたの大ざっぱな非難に若干述べておこう。
『乍A乍Bの形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこるの意をあらわすことば』、これは
「急に」は一転してという意味だな。しかし、それが複数回繰り返すなどとはどこにも書
いてない。倭人伝についていえば、876氏が読んだとおり、南へ進み、急に(一転)
東へ進むというのを表現した言葉だということだよ。
先王之道、乍存乍亡も、世の中の出来事は常に変化しているなどというのではなく、栄え
ものも急に没落することを指摘した戒めだ。1人の王が栄えたり没落したりを繰り返
すわけではない。
893 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 09:24:15
>>876 >中国の辞書に次の用例があります。
>或卷或舒,乍轻乍重。――秦· 李斯《用笔法》
>筆の使い方を述べたもので、乍は『或は』(or)の意で用いられています。
>この用例からすると「乍南乍東」は「或は南へ或は東へ」でもよいでしょう。
この用例は、『或は』(or)と訳すのには問題があるよ。そう訳したらどちらでも
よいということになってしまう。しかし、そうではない。緩急をつけろといって
いるんだ。
国語からやり直した方が良さそうだな。
895 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 12:26:18
>>892 >栄えものも急に没落することを指摘した戒めだ。
君は、もとの史記・日者列傳読んでないなw
天不足西北,星辰西北移;地不足東南,以海為池;日中必移,月滿必虧;
先王之道,乍存乍亡.公責卜者言必信,不亦惑乎!
これのどこに、そんな戒めが関係してるんだ。
それに、先王や先王之道というのは、先秦の思想家が政治を語る基本的な術語。
先王を具体的に挙げると、堯・舜・禹・湯・文・武という聖人たち。
こういう聖人が行った政治が先王の道なんだけど、
先王之道は聖人の専売特許ではなくて、君主はだれもが先王之道にのっとることを要求される。
栄えたものも急に没落することを指摘した戒めのような文脈で語られる言葉じゃないよ。
>>893 これ、「或は」(or)と訳してなんの問題もないよ。
君の言うように緩急をつけろということだけど、
その場合場合で或は軽く或は重く、相応しいようにといってるんだね。
897 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 14:54:01
898 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 15:23:21
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
899 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 01:18:56
900 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 09:07:35
>>899 狂信的九州説が全滅しててワラタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
901 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 16:11:36
>>897 この議論だけじゃなく、全部の議論が終わった模様。
902 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 16:46:21
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
903 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 16:50:54
● █◥◣ ▂▉ █▀▉●
904 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 21:36:42
>【滋賀】邪馬台国近江説 しかし大昔なら邪馬台国論争の華と言えば行程記事とのすり合わせ…だったと思うが そのν速+のスレでもあまり触れられていないと言うか…w その推理ゴッコ・パズルゲームではらちがあかないなんて事が一般にも浸透してきたというところか?www つか本来歴史を扱うはずのこの板の方が異常なんだろうがwwwwww
奈良時代から逆行して生産力を推し量るに、弥生後期に九州一島に戸数七万だのは無理 世の中、何でも数字の帳尻が要求されるというのに、邪馬台国論争については数の論理をまともに聞いたことが無い ここの住民も皆逃げるんだよね
906 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 22:02:37
>>904 去年末くらいまでは、ニュー速にスレが立つと、それなりに九州説が沸いてきたものだ。
全然いなくなっちゃったな。
マキムクの宮殿発掘で、完敗を認めたか。www
907 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 01:44:33
今は 倭人伝の信憑性が疑われてるから。 現場発掘とか 重視されてる。 でも、全国津々浦々発掘できるわけないからな・・・ やっぱり文化伝達的、大陸との連絡が取りやすい北九州説を俺はとるかな。 ただし、畿内や丹波などに国がなかったとかは言わないよ。 小さな邪馬台国は北九州にあって、あっという間に外敵によって滅んだと思います。
そんなちっぽけな邪馬台国なら倭王に封じないと思うけどな まあ三国時代なんで、本州の勢力を他の2国が冊封していれば話は別だがな
909 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 07:48:15
>>907 いくら地理的に九州が有利とといっても、
どこかの時点で畿内に王権ができて九州が屈したのは確か。
それが、卑弥呼の後か前かということだが、
卑弥呼や台与が九州30国を統一した後で、新興国の畿内に屈したというのは理解し難い。
もちろん、東遷説などありえないしな。
910 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/08(月) 08:34:12
話題をぶり返して悪いのだけど、乍南乍東はその前の文と合わせて考えるべきで、 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 を直訳的に訳すとすれば、 海岸に沿って水行し韓國をめぐる南ながら東ながら。 乍南乍東は、韓國を海岸に沿ってめぐる時の海岸線の形を表している文と考えられる。 韓国の海岸線は地図を見れば明らかだが、結構正確に表している例だと思う。
911 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 10:23:37
>>910 文章の解釈はともかく、地図的には南に行った後、東に進むということになるな。
912 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 13:22:17
>>910 >>911 は結局同じことを言ってるんだろ。そのとおりで、何も問題は
ないと思うな。小刻みになんてのがおかしいんだ。
913 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 13:24:01
>>909 九州が屈したんではないよ。九州が全国を征服したんだ。
征服した後にいつ都を移したのかは別個に考えればいいことだ。
914 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 14:51:00
>>913 >九州が屈したんではないよ。九州が全国を征服したんだ。
>征服した後にいつ都を移したのかは別個に考えればいいことだ。
記紀だと神武がまず都を移し、そのあと崇神になって四道へ将軍を派遣したりして全国平定に努めている。
景行の九州行き=土蜘蛛退治=はそのさらにあとだ。
ということは
>>913 は記紀の記述を無視する御仁なわけだが、だとすると何を証拠にそう考えるのかね?
考古学的な面でそんな証拠が挙がっているのかい?
何もなければただの妄想だね。
915 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 15:30:44
日本書紀が妄想の産物
916 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 15:43:59
7世紀後半に、九州王朝の年号から 大和朝廷の年号に切り替わる。 東遷したか、してないかは別にして この頃に勢力が入れ替わったんだろう。 その直後に記紀が編纂される。 中国書の呼び名も、倭から日本に切り替わる。
917 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 15:53:36
>>916 それはもちろん、九州=倭が、畿内=日本に併合されたという意味だよな?
中国の文献にもそう書いてあるしな。
918 :
サガミハラハラ :2010/03/08(月) 16:12:55
九州が畿内に統合されたのは290年垂仁天皇の御代とみていいでしょう。
919 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 16:13:05
>中国の文献にもそう書いてあるしな。 そう書いてあるか? どの中国の文献に書いてあるんだ?
920 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 16:14:11
九州説論者だが、その可能性は高いと思っている。 その直前の白村江で筑紫の君がとらえられている。 これが九州王朝の王であれば、致命的な壊滅状態だろう。 ここからは妄想だが、 7世紀後半には大和朝廷系勢力が、かなりの力を持ち始めていた。 九州王朝はすでに勢力縮小の状態にあり、大和朝廷側の侵攻を防ぎ、 勢力を維持するためには、半島の勢力拡大に力を注がなければならなかった。 が、白村江壊滅。 王までとらえられたとなれば、大和朝廷系の傘下に入らざるを得ない。 ここで、九州王朝から、大和朝廷に、ほぼ完全な形で 権威の移行が成立した。大和朝廷は九州王朝に倣って、各種政策を遂行。 歴史書の編纂、外交の権利は大和朝廷に移った。
921 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 16:15:45
妄想すんな
922 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 16:21:15
>中国書の呼び名も、倭から日本に切り替わる。 ついでに、一時、倭と日本の併記時期がある。 まだ倭の残党が残っていたのかも知れない。
923 :
サガミハラハラ :2010/03/08(月) 17:00:51
九州王朝説ですか。 あれはもう、というかとっくにダメですよ。 畿内勢力が、九州勢力が名乗っていた「倭国」を継承(のっとり)したのですよ。そして隋の時代から「二本」とあらためたのですよ。 ですから、日本は畿内だけですが、倭は九州だけということではないのです。
「二本」とは笑っちゃう
925 :
サガミハラハラ :2010/03/08(月) 17:24:30
あッホントだ、おかしいね。
926 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 17:54:23
幕府以降の朝廷のように
前政権の権威だけが残って、すでに
実質の権力は大和朝廷に移っていた可能性は
否定できません。
しかし、継続して年号を使用し始めた大宝以降に、
統一した政府としての政策が始まるのも、また否定できないと思います。
>>923 の説で、根拠を表したような記述があれば、
教えていただけたらなあ、と思います。
ネット上にあれば教えて下さい。ネット上ならすぐに確認できますので。
納得できれば撤回します。
>>923 同じことじゃん。
どっちを主体と見るか、の主観の違いだけだろ
大和朝廷、九州王朝並立説………かな。
白村江の10年前、653年には中臣鎌足の息子(定慧)が 遣唐使に随伴してるところから見ても、 白村江云々で九州勢力壊滅ってのは間違いだろうな。 2世紀には大和の膝下に置かれていたのだろう。
930 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 21:03:33
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
931 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 22:33:58
>>929 2世紀の奈良には石器を使う人々が暮らしていた。こんな状況で九州を勢力下におけるわけがない。
アホなこと言うたらあきまへんで。あんさんは何も知らんとよう書き込めますな。
932 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 22:46:25
九州のほうから、畿内ヤマト連合に入れてくれって泣きついてきたんだよ。
933 :
サガミハラハラ :2010/03/08(月) 22:47:40
話せば長いことにことになりますのでまたの日にでも。 九州王朝説の否定については私より詳しい人がいっぱいいますので、もしこのスレを見ている方で おられましたら、論じていただきたいと思います。 書籍では安本美典氏の著作をお勧めいたします。
934 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 23:26:43
初期の遣唐使の航路は ずっと海路のままで、瀬戸内海から下関、そして半島に渡ってるから、 倭国の世話になる必要はないんだな。だが、この航路は海流によっては 北の日本海に流されるから危険な航路だったろう。 九州を経由して直接中国方面に渡るコースは、遣唐使の中後期になる。 8世紀初期だ。このころは九州ももう支配下に入り、安心して中国直接ルートを 目指せるようになったのだろう。 いや、白村江で朝鮮半島に渡れなくなったという説は知っているけどね。
935 :
日本@名無史さん :2010/03/08(月) 23:29:22
>>933 安本出すまでもなく、九州王朝なんて信じてるやつなんかいねえよ。アホ以外は。
戦いは今も続いている 攻め寄せる女王連合の容赦ない攻撃の手は緩むことはなく 幾多の仲間達が狂信者の軍団によって屍となり方々に散らばっていた この世界に女王が現われたのはいつのことだったろう 最初はキチガイじみた変な女が神の使いだと騒いでるだけだった 我々は噂を聞き鼻で笑っていた 一支国が女王の傘下に入った時、一支国と関係ない我々は行動しなかった。 次に奴国が女王の傘下に入った。奴国と関係ない我々は行動しなかった。 女王は伊都国や投馬国に勢力の輪を広げ、最後に我々の住む日向にも手を伸ばしてきた。 日向に住む我々は立ち上がった。しかし時すでに遅かった。 敵陣に隣国魏の黄色い傘のような戦闘旗を発見したとき、我々の驚愕は尋常ではなかった 潜入させていた間者の報告によると魏から来た張政なる将軍率いる数万の兵が 大陸から援軍として動員されているという 敵は益々強くなり、我々はどんどん弱くなる すでに今年の食料も底をつきかけ、村々は女王連合の兵士達により略奪、殺戮され廃墟と化していた 周辺のリーダーを集めて会議を開いてみたものの戦って滅亡するか、降伏するか あるいは逃げるかの3択しかないことはわかっていた 敵の本拠地をゲリラ的に襲撃して敵の女王を倒してはどうかという意見を述べたが すぐに後継者がでてくるだけで意味はないだろう こうしている間にも敵は迫ってくる 私はある決断を下した 以前に漁師達に聞いた話によると東の果てに無人の地があるという 広大な平野が広がり、川が流れ、気候温暖な新天地があると 私は仲間達を連れ移住することにし船を作らせた
10/15 日向の港を出港した我々だったが、ただ逃げるのも癪なので筑紫近辺にある邪馬台国連合の基地を1つ潰してやろうと船団は北上を開始する 途中、速水門付近で漁船を発見して拿捕 その船長であった珍彦に水先案内させ筑紫の菟狭基地を襲撃し全滅させた その基地の司令長官であった菟狭津彦に菟狭津姫を筆頭に女官や巫女を差し出させ天種子の部隊の慰安婦にした 菟狭津姫達女はみんなで三日三晩犯したら死んだので全部海へ捨てた ぶっちゃけ狂信者の女なので両親の呵責はない 11/9船団はさらに北上し筑紫の国の岡の水門の基地を襲撃 12/27安藝の国の埃宮基地を襲撃 翌年乙卯年の3/6 吉備の高島に上陸し、ここを拠点に3年ほど海賊行為をして船と食料を確保 しかし邪馬台国連合の大規模な討伐隊がきたので逃げる 戌午年2/1 ひたすら南下してから東へ進み舳艫、難波碕を経由して波速国(現大阪)に到着 3/30 船団は川を溯り河内の国の草香邑の青雲白肩之津に到着 4/9 龍田から生駒山付近まできたところで長髄彦の軍勢に襲撃を受ける 孔舎衛坂会戦が勃発し兄の五瀬命が負傷を負う とりあえず草香之津まで退却する 5/8 茅渟の山城の水門まできた所で五瀬命が死亡 6/23 名草邑に到着し、そこの領主だった名草戸畔をPK 狭野を越え熊野の神邑まで移動して築陣
翌日、さらに進み熊野の荒坂津に到着し領主の丹敷戸畔をPKするが 神武軍も半壊に近いダメージを負う どうにか大勢を建て直して進軍再開、中州あたりまできたところで地元の住人っぽい八咫烏なる人物を拘束 これに道案内をさせ宇陀の下県に到着 8/2 この地域、莵田県の領主だった兄猾、弟猾に降伏勧告を促す ぶちゃけ戦力が疲弊していたので戦いは避けたかった 翌日吉野まで移動、ここで地元の村人らしい井光と磐排、苞苴担なる人物を拘束し道案内をさせる 9/5 菟田の高倉山を占領 国見の丘の上に八十梟帥、磯城邑に磯城の八十梟帥、高尾張邑に赤鯛八十梟帥との戦闘膠着状態に陥る とりあえず敵情視察の為、椎津根彦と弟猾を潜入させ情報を得ることにした 10/1 国見の丘にて八十梟帥軍を撃破、残党に降伏を促し投降してきた敵兵を皆殺しにした 11/7 磯城邑に磯城の八十梟帥のもとへ八咫烏氏を降伏勧告の使者として送り込んだが拒否 その後、戦闘開始し八十梟帥軍を撃破する 12/4 敵総大将の長髄彦軍と戦闘開始 この間に長髄彦軍内で内乱が勃発し饒速日尊が長髄彦をPKし 神武軍に降伏してきた
翌2/20 層富県波多の丘岬の領主、新城戸畔をPK 和珥の坂下の領主、居勢祝をPK 臍見の長柄の丘岬の領主、猪祝をPK 高尾張邑の領主、土蜘蛛をPK 翌3/7 奈良の完全制圧完了 畝傍山の東西の橿原の地に拠点設立 庚申年8/15 現地の有力者、事代主神娘の娘、姫蹈鞴五十鈴媛命を見初める 9/24 姫蹈鞴五十鈴媛命と婚姻 辛酉年1/1 建国 翌2/2 論功行賞&新人事
http://www.youtube.com/watch?v=ELUfqABU2Ew&feature=related ♪さあ、行こう日向の子よ
♪栄光の時が来た
♪我々に対する狂信者達の
♪血に染められた旗が掲げられている
♪血に染められた旗が掲げられている
♪響き渡る凶悪で乱暴な信徒達の怒号を聞け
♪信徒が私達のすぐ近くまでやってくる
♪私達の家族の喉をかき切る為に
♪我がおおみたからよ武器を取れ
♪我々を守る為の隊列を作れ
♪さあ進め、さあ進め
♪汚れた敵の血で我らの大地を染め上げろ
♪我がおおみたからよ武器を取れ
♪我々を守る為の隊列を作れ
♪さあ進め、さあ進め
♪汚れた狂信者の血で我らの大地を染め上げろ
941 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 00:10:47
畿内説壊滅?wwww
942 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 00:12:16
>>939 >翌2/2 論功行賞&新人事
どうした?
この後は書けないのか?
誰が賞を得て、誰がどんな身分になって、誰がどこに住んだか書いてみ。
何か都合が悪いことでもあるのか?
ん?
時代は流れ世代が変る、しかし祖先より受け継がれてきた邪馬台国と女王への怨恨の炎は紅蓮となって燃え上がる 満を持して報復の軍勢を差し向ける もはや我々は邪馬台国などとは呼ばない 「熊襲」 これこそが奴らに相応しい別称だ 鉄剣、鉄鎧を装備した1万5千の部隊の部隊を差し向ける 狂信者の駐屯地を次々を壊滅させながら突き進む 敵の阿鼻叫喚の叫びは心地よい子守唄のようだ 捕虜など必要ない、奴らに食わせる米より矢の方が遥かに安い 良い熊襲は死んだ熊襲だけだ リメンバー日向 そして邪馬台国連合の本部だった大宰府を陥落させ総督府を設立 父祖以来の宿願を果たしたのであった
さらに時代は流れ世代は替わる 即位した大海人皇子は歴史書の編纂を指示 様々な参考文献を調べていた編集長の舎人親王はやばいことに気がつく 「あれ、なんか偉そうにしてるけど俺達って負け犬だったってこと?」 「いじめられて奈良まで逃げてきちゃったってこと?」 「これそのまま書くのやばくね?」 フヒトに相談をもちかけたところ 「それ、そのまま書くのヤバイね、なんかカコヨク粉飾して卑弥呼とか無視しちゃえよ」 「勘違いすんなよ、これはお願いじゃなく命令だからな^^」 「あとよ、腹減ったからパン買って来い、牛乳もな」
所々ふざけてみたけど、いろんな疑問のつじつまあうでしょ
どう
>>945 そういうのを「つじつま」とは呼ばないだろう
948 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 01:24:18
パシリに買って来させるのは何故か焼きソバパン
949 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 02:41:48
さらに蒸し返して申し訳ないが、乍について。
>>910 角川の新字源によれば、「乍」の「ながら」という読みは、日本語としてのみ用いるもの。
漢籍で「ながら」と読んじゃだめみたいだよ。
>>912 >小刻みになんてのがおかしいんだ。
それは、君の思い込みだね。
なぜなら、先ず第一に、
「先王之道乍存乍亡」について、岩波文庫の史記(小川環樹他訳)では、
「古えの帝王の政道も、あるいはつづきあるいは消えた」となっている。
第二に、史記の周セツ傳「東?甬道,從出度平陰,遇淮陰侯兵襄國,【軍乍利乍不利】,終無離上心.」という部分、
平凡社 中国古典文学全集の史記の訳では
「東して甬道を絶ち、上に従って出陣、平陰で黄河を渡り、淮陰侯の軍と襄國で遭遇、
【戦いは一瞬にして勝ったかとみれば一瞬にして敗れ、激しく転変したが、】終始上から離れようとしなかった」
と訳されている。
950 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 02:42:30
第三に、史記 司馬相如傳に、「(足+至)(足+度)」(チツタク)という熟語が出てきて、 その注に「(足+至)(足+度) 乍前乍却也」とある。 「集韻」という書物では、この言葉を「(足+至)、(足+至)(足+度)、互前却也」と説明している。 つまり、「乍前乍却」=「互前却」であって、交互に前進後退を繰り返すこと。 第四に、「乍寒乍熱」は、にわかに熱が出たり寒気がしたりする、瘧のような病気にいうと辞書にあるが、 これは、一回ずつ寒くなって、次に熱が出るのではない。 同じ言葉が気候不順という意味にもなるのでもわかる。 気候不順というからには、寒暖が繰り返されなければならない。 以上から、「乍A乍B」は、AとBがめまぐるしく入れ替わることだが、 これを「たちまちAたちまちB」と読むか「あるいはAあるいはB」と読むかは、 日本語にどう翻訳するかの問題にすぎなくて、漢文とすればどちらも同じ。
951 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 03:06:36
ふざけて書いているように思わせながら、しっかりと記紀の筋を掴んでいる。 けっこうな労作だな。 要するに、狗奴国東遷説ということかな。 その根拠になっているのは、皇室の出身地が日向になっていることだろう。 女王国の圧迫を受けたとすれば、東征の理由も付く。 女王国を熊襲にすることで、結末もうまく説明できるのかもしれない。 ただ、熊襲の場所は問題だが。 個人的な考えを言うと、一つ問題点があるとすれば、皇室の始まりは、 天照大神つまり女王となっている。 女王国といえば邪馬台国。逆に、はたして狗奴国に女王がいたのか。 まあ、存在した可能性を否定することは出来ないわけだが。
952 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 03:09:06
皇室の祖はイザナギですよ。
>>951 記紀の記述の中に国東半島領主の夏磯姫を筆頭に別府、紀国、宇佐
高羽の麻剥、速見の速津姫、その他もろもろ九州エリアは女領主が目白押しなので
邪馬台国の卑弥呼と結びつける必要は無いんじゃないなか
>>936-
>>944 をハードボイルドな北方謙三風の歴史小説として完成させて欲しい
大宰府を邪馬台国の元首都とするのは無理があるけど 邪馬台国連合としてのペンタゴンや統合作戦本部だったとするならば不自然じゃない 逆にあの位置は対朝鮮半島の基地としては内陸すぎる 熊襲の場所が問題となるのも北九州側から上陸してきた大和軍に押され 逃げるように南下して行った事、そして旧来の父祖地だった日向地域や 南九州にはなぜか大和軍に友好的な部族が散見され共に協力して熊襲と戦っている事 あとえば薩摩エリアの隼人族なんかは皇宮警察や近衛兵的な役割りを担ってるのとかも
元々は仲良しだったけど、逃げちゃった隣村(隣国)の連中が超絶パワーアップして 帰ってきたので協力しちゃうぜみたいな感じでNiceな動き
>>955 いやいや、当時は現在と違って、海が相当内陸まで入っていたので、これでイイ。
【大宰府 城壁】 __;!___;!_;!/l/レ| _;!____;!_;!_|/l/l/| __;!___;!_;!/レl/| _;!____;!_;!_|/l/l/| __;!___;!_;}/l/レ| _;!____;!_;!_|/l/l/|_/ニニ7!__/ニニ7!__/ニニ7!_/ニニ7!_./ニニ7!_./ニニィ! __;!___;!___;}/レl/ィ─┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬‐'/ ̄/| _;!____;!_;!_|/l/lィi┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴:/_/::,| __;!___;l_;}ィ/l/レ┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴‐,r─ォ.|/ | _;!____;!_;!_|/l//::::. : .:.. : ::. : :: :. : . . / / |/|/| __;!___;!_;レl/:::::. :...:::: ::: :. : . . /_/ / / /| _;!____;!_;!_|/::::. : . . ,⊥.⊥/|/|/レ| __;!___;!_,ノ' / /レ'| /l/レ| /__/ / /|/|/レ| ,r┴─ォ/|/|//|/,レ|
j三三三三三三三三三\ ,. - = ========- ..、三ヽ /三三三三三三三三三三三 ヽ三 ヽ r'三: _, -―r ー -、- 、.___三三三三 \三 v ヽ ィ'´::::ハ ::::::::::::::::::\ ::::::::::` .、三三三 \/ . /:| :::::| l'ヽ::::\ :::::::::ヽ!::::::::::::::\三三三 ヽ / ::ハ! ::|!| ーヽ_‐_\:::::::リ :::::::::::::::::::ヽ三三三} ' :::l::::ハ,:| ヽ イj;! /`‐-ゝj :::::::::::::::::::::::::ヽ 三 ' l ::ハ::::从乂 レ′ /:/:::::::::::::'::::::::::::l/ | ' i:::r ' /イ/:::::::::::/:::::::::::ノ ヽ ヽ:, __ ':::::/ィ::::::::::::,. ' ヽ V_ヽ ./ ::://ヽ _. t‐ォ,-、 なっ… 何だ… あれは… ノ\ / :::,j/ ,.イハ ' ⌒ヽノ-、_ //ヽヽ __ ノ, .イ ノ「/::::::::::::::::::lヽj_フ__ ヽ ::::| _j_ ノ、「/i ':::::::::::::::: ∧ノ ヽ| rノ.ィl.、V/ /:::::::::::::::::::! !::::\. //`l||レ/ /::::::::::::::::::::::::ヽj:::::\\ ノヾ / |/ /., -‐- 、::::::::::::::::::::::::::::\\ 【邪馬台国連合 大宰府司令官 蒼星石】
960 :
サガミハラハラ :2010/03/09(火) 09:30:19
ここで確認を。 神武の故郷は福岡市西区です。そこ室見川流域は山門(下山門の駅がある)の 一角に日向があります。 神武東征の日向宮崎説は間違いなのです。福岡市説が正しいのです。
/⌒ヽ 大和から来たよ 二( ^ω^)二⊃ /⌒ヽ 仕返しに来たよ | / /⌒ヽ ブーン 二( ^ω^)二⊃ ( ヽノ 二( ^ω^)/⌒ヽブーン / ノ>ノ ⊂二二二( ^ω^)二⊃ ヽノ /⌒ヽ 怨みはらすよ レレ ( ヽノ| / ノ>ノ 二二( ^ω^)二⊃ ノ /⌒ヽ ブーン レレ | / ⊂二二二( ^ω^)二⊃ /⌒ヽ ブーン ( ヽノ | / レ 二( ^ω^)二 二( ^ω^)二⊃ /⌒ヽ 覚悟しろや | / /⌒ヽ ブーン 二( ^ω^)二⊃ ( ヽノ 二( ^ω^)/⌒ヽブーン / ノ>ノ ⊂二二二( ^ω^)二⊃ ヽノ /⌒ヽ 降伏なんか認めないよ レレ ( ヽノ| / ノ>ノ 二二( ^ω^)二⊃ ノ /⌒ヽ ブーン レレ | / ⊂二二二( ^ω^)二⊃ /⌒ヽ ブーン ( ヽノ | / レ 二( ^ω^)二⊃ ノ>ノ ( ヽノ | / レレ ノ>ノ ( ヽノ 三 レレ ノ>ノ
962 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 09:39:20
>>960 伊都の隣ですね。
日向峠が伊都国の境でしょうか。
長垂海岸のある今宿のほうもありますが。
>958、959
なんか、やる夫シリーズでもできそうな。
定説がないから無理かな。
やるおで学ぶ邪馬台国異説、ならいいかな。
サガミハラハラさんの >邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。 これ俺の考えと同じだな ただ比定した根拠が俺と違うけど
964 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 09:44:42
前に出た宮崎日向の扱いは、自分と近いかな。 北部九州と宇佐日向は九州山地で別れていて 余り関係がない。 むしろ、瀬戸内海を通して畿内と関係が深い。 日向の一部が畿内に入り込んで、大和朝廷の一部となった という考えです。 のちに大和朝廷は、北部九州勢力を駆逐、または取り込んでしまうという 流れです
もうちょっと話をまとめて【やる夫が東へ逃るようです】でも作ってみるか 時代も少し遡って饒速日が近畿へ先行するあたりから
966 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 11:22:14
>>951 個人的な考えを言うと、一つ問題点があるとすれば、皇室の始まりは、
天照大神つまり女王となっている。
それこそ、
天照大御神を皇祖神にしたのは、天武天皇からだよ。
神武の故郷の日向の一宮ではオオナムチを祀ってるだろ。
967 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 12:48:42
卑弥呼タンとトヨタンは誰にする?
やる夫作るなら、この板にも告知してくれな。 VIP見に行くから。
>>960 イザナギが上陸した筑紫の日向の小戸は、たしかに福岡市西区ではないかとは思いますが
神武はそれらとは系統の違う宮崎の日向国出身ではないかと思います
東征したのは神武だけでなく、九州北部におそらくは半島から渡来して来てその後畿内へ移動した物部氏や
宇佐の神夏磯姫と姻戚関係を結んだうえで東進したイザサワケ(応神天皇)など枚挙に暇がありません
970 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 13:45:53
>>967 卑弥呼 = 倭迹迹日百襲媛命
トヨタン = 豊鍬入姫命
宮殿は二人とも奈良県纏向遺跡あたり。
トヨタン・・・・・・・・・・
こんなとこだろうな 卑弥呼候補:ハマーンカーン、水銀燈、鬼女、モッコスのどれか トヨタン:古手梨花 ジンム:やる夫 饒速日:やらない夫
973 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 16:59:36
>>967 卑弥呼 = 倭媛命
トヨタン = 豊鍬入姫命
975 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 18:06:53
完全ネタスレにするわけだな? 議論も終わったことだし、それもいいか。
976 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 18:15:18
畿内説、九州説、どっちでやっても いずれ逆パターンが出てくると予想。 どっちでもいいから、ヒミコタン、トヨタン、見てみたい。
977 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 18:42:22
■三雲・井原遺跡:「三雲南小路王墓」の周溝? 弥生中期の溝など発掘−−糸島市/福岡
◇上覚地区−−13日に現地説明会
糸島市の三雲・井原遺跡上覚地区で、弥生時代中期末(紀元前後)の溝や古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。
発掘調査にあたった同市教委は、この溝が「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。【竹田定倫】
同王墓は中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つとされる。過去の県教委や市教委の調査で王墓と女王墓、墓を囲む周溝が出土している。
上覚地区は王墓の出土した場所と道路をはさんだ南側に位置し、溝(幅2・5〜3・8メートル、長さ9メートル、深さ20〜25センチ)は北東から南西方向に延び、王墓西側の周溝に向かっている。
しかし、王墓西側の周溝は切れているとの見解もあり、市教委は、別の首長級墓の周溝の可能性も捨てきれない、との見方も残している。
現地説明会は13日午前10時〜正午。市教委文化課(092・332・2093)。
毎日新聞 2010年3月9日 地方版
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20100309ddlk40040265000c.html
978 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 20:50:07
前原の二つの川で挟まれた辺りか。 川の間と、糸島高校から大門のほうの山裾は掘れば何か出てくるな。 ときどき工事しているところを見ると、何層にもなっていて 弥生から平成までいったいいつの時代の物なのか 見当も付かんから、そのまま埋め戻してる。 いちおう規制地域になっていて、工事に規制がかかっているはず。 だから、子供の時から景色が変わらない。 有料道路のあたりはだいぶん変わったけど。
979 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 20:54:00
糸島高校じゃなかった。 筑前高校だ。
980 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 21:05:37
>>967 卑弥呼も台与も天照大神。
卑弥呼は、狗奴国との争いを帯方郡に報告し、その調停のために張政がやって
来るのだが、ちょうどその頃死んでいる。一方で、天照大神は、素戔鳴尊が
高天原で大暴れし、馬の皮を剥いで、天照大神のいる機織小屋に投げ込むに
及んで、ついに怒って天岩戸に隠れてしまう。
卑弥呼が死んで争いが起きるが、台与を王にすると収まる。梁書などに
よると、そのあとまた男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗になるが、岩戸から出てくると
また元のように明るくなる。そのあと、高皇産霊尊が登場し、重要な出来事の
主役になる。
982 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 21:24:07
そのほかにも類似点は多い。 共に、王で女性で独身。これだけでもけっこうすごい。 また、天照大神には鏡に関する逸話が多い。卑弥呼も魏からたくさんの鏡を 貰っている。
>>982 天照大神の文献資料への登場は8世紀。伊勢神宮は、記紀を元にした伝承ではなく
(循環論法になる)考古学的にどこまでたどれるのかな?
984 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 21:37:57
卑弥呼も台与も神宮皇后も倭迹迹日百襲媛命も推古天皇もみんな天照大神 これですべての謎が解けた!
>>982 卑弥呼は、倭人伝では独身と書かれているが、それまで未婚だった確証はない。
夫と死別したのかもしれない。
女性天皇はすべて独身。これが決まりです。 セックスフレンドはいました。道鏡とか。
アマテラスが独身なのか? ニニギは誰の孫なんだ。ニニギの祖母は誰?
988 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 22:33:37
989 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 22:39:29
>>987 独身女帝で子ありのどこが悪いんだよ?コンドームもない時代に。
ということは、天皇家は不倫の子孫か
991 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 22:52:18
DNA鑑定なんてない時代に、だれの子かなんてことはわからないのです。 それはつい最近までそうだったし、これからだって、自分の子だと疑ってDNA鑑定をする父親などほとんどいないだろう。 男系一世いなんて、幻みたいなものなのです。
未婚とか既婚とかは現代の定義。 要するに子どもがいるのかいないのか、これが判断基準。 アマテラスには子がいる。じゃなけりゃ天皇家は存在しない。 卑弥呼には子はいない。トヨタンには血のつながりはない。
993 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 22:55:52
994 :
日本@名無史さん :2010/03/09(火) 22:57:23
男系一世ねえ。
995 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:08:17
>>993 倭人伝には、牛・馬はいないと書かれているが、実際にはいたのだろう。
弥生時代はおろか、縄文時代の遺跡からも馬の骨は出てきている。
例えば、銚子市余山貝塚。
郡使は見ていなかったのか、それとも勘違いなのかのどちらかだろう。
996 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:14:45
>>994 それを言うなら、万世一系だろう。
ちなみに、記紀によると、天照大神の子供は、素戔鳴尊との誓約のとき、
天照大神の首にかけていた五百個の玉から生まれたことになっている。
997 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:17:39
Wiki-馬 考古学的には縄文時代の貝塚から発見された馬骨が存在しているが、 これはフッ素年代法による検討により、縄文期の馬骨ではなく鎌倉時代の 土坑に埋葬された馬骨が貝塚中から発見されたのではないかとする説が有力となっており、 弥生時代以前の日本列島に馬が存在し 馬産が行われた証拠となる馬骨や馬具等は発見されていない。
998 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:18:14
999 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:25:04
>>997 それは有力な説とは言えないと思うが。佐原真氏の説だろう?
あの人は、弥生時代には豚はいないという説を立てていて、結局、骨が
出土し、訂正している。
名古屋市熱田貝塚、神奈川県平塚豊田本郷遺跡からは確実な弥生時代の馬骨が
出土している。
1000 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:29:45
1000なら、卑弥呼と台与は天照大神。
1001 :
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