♪邪馬台国 ドンと来い♪ 65

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952日本@名無史さん:2010/02/12(金) 18:55:12
>>950 どろ縄
まあ掲示板はチャットじゃないからなw
自分が落ちた後のやり取りが、気になって気になってしかたがないのかも知れんがwwwwwwwww
ちなみに「先公」とはお前やここのトンデモ九州説のお歴々のことじゃないよな?w

まあ「倭国とは九州限定」とするのは勝手だが
そのオレサマ定義で九州説に蓋然性が出てくるものでもなんでもない。


以下、万年ループネタ

「旧唐書」倭国日本伝を見れば倭国は日本そのものだったのか
それとも日本と倭国は別だったのかもはっきりしない

3世紀に関門海峡できちんと線引きした日本の地理観を
中国人が持っていたと言う前提で語ること自体ナンセンス。
953水銀厨 :2010/02/12(金) 19:02:13
>>951
方形溝周墓‥×
方形周溝墓‥○

>>952
どう考えても本州西部と北部九州は同一文化圏でしょうね。
954日本@名無史さん:2010/02/12(金) 19:02:28
まあここのトンデモ九州説は別にして
リアルの世界じゃあ九州説は年代観的には纏向と並存していて
九州の一地方勢力だった・・・と言う枠組みで語られるんだろう。

実際のところ「古墳時代は4世紀から」なんて昔の年代観で九州説をとっているのは高島ぐらい?
安本は、まあアレとしてwwww

その場合魏側に倭国の情報が入ってなかったのか?
ヤマトを中心にした首長連合は大陸との接触を試みなかったのか?
何故一地方勢力の九州邪馬台国が冊封にこぎつけられたのか?

…が問題になるんだろうな。

無論、お話だけならいくらでも作れるが
そんなもん証明の手段は無いだろう。


955日本@名無史さん:2010/02/12(金) 19:13:13
>>841 >>887
つとめて用語の定義の問題なんだろうが
「弥生墳丘墓」とは弥生時代の墳丘墓と時代区分でくくられた言葉で
楯築だろうが四隅だろうが「弥生墳丘墓」になるんだよな?

確かに吉野ヶ里にも墳丘墓はあるし「大型」と言っても線引きの基準が難しい。

自分としては墓上祭祀に直目してその形が後の古墳に繋がるようなものを
新たにカテゴリーを設けてもらいたいwwwww

時代で分けるんじゃなくて地域で九州と九州以東で分けた方が分かりやすいと思うんだが・・・






956日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:39:18
副葬品が豪華というのはその首長に対する個人崇拝だよな。縦型の強権的社会といってもいいか。
それに対し、供献土器が多く、墓制の共通が見られるのは宗教色の強い社会といってよいのでは
ないか。前方後円墳というのはその二つが融合したものととらえることができる。つまり首長霊と神
との同一化が始まったのだと思う。
957日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:41:08
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
958日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:49:59
>>956
巨大前方後円墳は、建設にまず労力確保が必要になる
配下の豪族に負担させるなど、それ自体が政治的な意味を持つプロジェクトだろう
現代で言えば、内庭費でまかなう範囲を越える
959日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:31:32
邪馬台国とは山田国。山田一国、山田二国と複数の国を束ねて山田大国(やまだいこく)と称していたのだと推定されます。
960日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:56:29
>>954
ヤマトを中心にした首長連合なんてものがあったことをどうやって
証明するのかな?
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 22:10:12
>>960
巻向に各地から土器が集れば、当然人もあるわな。
962日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:17:10
>>956 >>958
九州以東に巻き起こった大形首長墓の特徴と言うか志向したであろう事は…

(1)それを見る者に対して権威権力を見せ付ける意図がある。
  
  ぶっちゃけ副葬品はいくら豪華であっても墓の中に入れてしまえば
  外からはうかがい知れないわけでw
  
(2)その形や墓上での祭祀を共通化する事により首長間の連携を確認する意味があったのではないか?

  四隅なんかは墓上での共食儀礼なんかが想定されているが
  まあ分かりやすく言えば「弔問外交でのワーキングディナー」と言ったところか?wwwww

ここら辺が九州と九州以東の首長墓のコンセプトからの違いだと思う。俺が
「仮に古墳文化が外来勢力によって確立されたとしたら九州は真っ先にその候補から外す」
と言っている所以であるwwwwwwwwwww

ただ首長の権力が増大し寄り合い所帯的な長老支配的社会から
トップダウン式の縦社会へシフトしたのは九州の方が早かったとは思う
(銅矛と言う武器型青銅祭器の副葬とか)

状況的には首長霊信仰も九州の方が早くてもいい気がするが・・・
963縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 22:30:22
>>952
>そのオレサマ定義で九州説に蓋然性が出てくるものでもなんでもない。

3世紀の倭国をはじめに定義するのはナンセンスである。3世紀の倭国の姿は研究検討の結果から描かれる。
畿内説ははじめに「邪馬台国は畿内にあるべきだ、在ったらいいな、在って欲しい、九州じゃいやだ」という動機
があって理屈を捏ね上げているうちにはまってしまった という印象である(違っていたらごめんね)。

倭人伝では畿内に持って行けないことが分ってからは考古学的資料に頼ったが、これもうまく行かない。

だいたい、3世紀以前の奈良に近隣の国を纏めてゆけるだけの国力(食糧生産力や人口や技術知識)はあり得ないのだ。
唐古・鍵遺跡は現在の標高で50m前後のところにあるが、ここは奈良湖の湖畔にあったことが洪水で埋まった形跡
からも明らかである。つまり、この地の弥生人は湖の排水事業を行う力もなかったのである。

そんな地域の国が倭人伝に記されているような魏との外交などできるわけがない。
964日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:31:23
>>958
古代の大王は、支配した地域の人間に大規模な土木工事をさせていた。
記紀にもそのような話が良く登場する。
例えば、応神天皇は、蝦夷が朝貢してきたので、厩坂道を造らせた、とある。

租庸調ではないが、労働が税の一種だったように、支配した地域の人々に
何かを作らせるというのがよく行われていたのだろう。

巨大な前方後円墳もそういう労働用役を使って作られたと考えたほうが
辻褄が合うような気がする。
965日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:32:34
>>960
人が来ていたからと言って、そこが中心だったとか、首長連合があったとか
言えるものではない。
966日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:37:15
>>961
土器で政治的なことはわからない。
特に、弥生時代は各地の土器が入り乱れているから。

縄文前期の曽畑式土器や轟式土器は、朝鮮半島南部から沖縄付近まで
分布しているが、これを政治的な支配に関連付ける人はいない。

弥生前期に日本全国を席巻した遠賀川式土器も同じ。遠賀川式土器で政治を
語るなら、弥生前期に日本全国が九州の勢力に支配されていたことになる。
967日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:41:33
>>964-965
そう、そこで問題になるのが、どの勢力が主体になって作らせたかということだが
さて、巨大前方後円墳が他の地区からの支配によって作られたとするならば
その支配者たちはいったいどんな痕跡を残しているんだろうね
そのかけらすら見つからないのはどういうことなんだろうか
少なくとも、それを示唆するような発見は、一例でもあったかね
968日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:43:18
>>966
>縄文前期の曽畑式土器や轟式土器は、朝鮮半島南部から沖縄付近まで分布しているが、
朝鮮半島南部からから沖縄名付近までの交易を支配するする海族がいたことは確実ですね。
それが安曇族だったのです。
騎馬民族を日本列島に運んだのも彼らだ。
969日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:43:50
>>964
どうゆう人々に造らせたのか、という考え方は重要だと思うよ。
そして、そのように考えた場合に疑問に思うのは兵士との関係だ。
古墳を造った国々は、徴兵したほかに古墳造りのための人々まで出させていた
のだろうか?いくら強圧的に住民を支配していたとしても、兵を出させ、墓造
りの要員を出させ、それらに飯を食わしていたら、住民も、権力の側もたまった
もんじゃないだろう。
で、思い至るのだよ。墓を造ったのは、徴兵された兵士らだったのではないかとね。
970日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:44:17
>>907
>そこで止めたんじゃないか

なるほど。そうであればシンプルですね。
以前のご指摘どおり「通典卷 第四十二禮二 郊天上」からすると、
(第四十五にも「魚豢議曰「宜以宣后配地」。」とありますね。)
魚豢は魏の高官で、鴻臚の記録や起居注など目にすることもできたのでしょう。
971縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 22:45:49
>>962
(1)はまあそんなものではないかと思うが(2)には賛成できないな。

「その形や墓上での祭祀を共通化する事により首長間の連携を確認する意味」なんて同族でなきゃ無理だろ。
血縁のない他人どうしでそんなことできるか?
972日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:46:34
>>966
こういうのが典型的な詭弁だね

>縄文前期の曽畑式土器や轟式土器
>弥生前期に日本全国を席巻した遠賀川式土器

これらは何百年、いや一千年近くもかけて各地に順次浸透していった
これとわずか数十年単位で、中継地をすっ飛ばして九州に拡散した庄内とは
まるで別のはなしであって、わざと混同させて語っているのはどういうことだ
それは君自身がよくわかっているはずじゃないのか?
973日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:47:34
>>954
吉野ヶ里遺跡の頃は、みんな吉野ケ里を卑弥呼の時代と重なるといっていた。
以前、ここのレスでも紹介されたが、佐原真さんや石野博信さんなど畿内説の
そうそうたるメンバーが揃ってそう言っていた。
もちろん、纏向はその後ということになる。

その纏向の年代が遡ったとしたら、どういう理由によるのだろう。
ほとんどの人が、そういう年代観になったとしたら、よほど決定的な証拠が
あったからに違いない。それはなんだろうな。
974日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:51:40
>>972
>中継地をすっ飛ばして九州に拡散した庄内
九州と畿内とどっちが先なんだ? 何を根拠に確定できるんだ?
仮に確定できるとしても、工人集団が転居した、あるいは弟子だ転居した
だけかも知れんぞ。
975日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:58:43
>>969
>どうゆう人々に造らせたのか、という考え方は重要だと思うよ。
これはいい発想なのだが、何故にそのあとに兵士やら徴兵やらを想定するのだろうか?
そんな系統化された軍事力があったはずもないだろう
そんなのがあったなら、もっと早い時期に倭国統一がなされているよ
少なくとも四国・中国地方は、九州の軍事勢力の前にひとたまりもなかったはずだが
なぜにいきなり弥生終末期、それも九州衰退期に突然そんな超戦闘軍団がでてくるのか?

三国志演義のような派手な戦争は、中国本土でもなかったんだよ
976日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:02:24
古代エジプトのように王は領民を奴隷として使っていたのだろうか?
977日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:05:20
>>973
>吉野ヶ里遺跡の頃は、みんな吉野ケ里を卑弥呼の時代と重なるといっていた。
>以前、ここのレスでも紹介されたが、佐原真さんや石野博信さんなど畿内説の
>そうそうたるメンバーが揃ってそう言っていた。

はっきりいえば、彼らは九州の人たちを利用したんだよ
佐原などは、一度たりとも邪馬台国が九州にあったなどとは言ったことはない
ところが有名な「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」の名コピーは
その佐原がつくったものなんだわ

これをまともに自説の変遷ととらえてはいけない
考古学者は、邪馬台国というおいしい餌で、発掘をやりやすくしているんだ
いまのマキムクでの大げさな発言も、考古学というか歴史学が持つ常套手段でしかない
978日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:09:53
>>972
基本的に土器は文化的なもので、政治的なことは語れないということ。
物や人の交流があったことは分かっても、土器を政治的な動きと結びつける
のは無理があるということ。

特に、土器で前代未聞の「連合」なんてものを考え出すのは度が過ぎている。
例えば、明治維新なんてのは非常に複雑で、土を掘って出てきたもので
想像する度合いを超えている。
薩長連合は土器ではわからない。
979日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:10:06
>>974
勿論畿内が先。根拠は九州における土器編年
そしてもし「工人集団が転居した、あるいは弟子だ転居した」ならば
これはそれまでのこの国では確認されていない新しい現象になる
いずれにせよ、それまでのどの現象とも違う
そのくらい古代史好きなら常識の範囲だと思うが
980縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 23:11:27
>>975
>なぜにいきなり弥生終末期、それも九州衰退期に突然そんな超戦闘軍団がでてくるのか?

ああこれは時代が違うのですよ。4世紀になると倭人が半島を荒らす海賊行為が頻発しています。そして
4世紀末には海賊でなく倭国の軍隊が百済や新羅を征服しています。広開土王碑文にそんなことがあった
と書かれています。
981日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:11:37
>>975
倭人伝を読んでいないな。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年とあるだろう。
何年も戦っているのにそれぞれの国に兵士がいないなんてことはあり得んな。
兵には矛・楯・木弓を使う、ともあるよ。古田みたいに国=村程度を考える
ならば別だが、戸数数万の話になったら徴兵制度がないはずはない。
982日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:12:12
土器をちゃんと観察して洞察すれば、壬申の乱や源平の戦いや応仁の乱も
細部まで分かります、ったら分かります。










それがレンゴウ君の真骨頂wwwwww
983日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:12:35
>>978
明治維新を出す時点で詭弁
すでに高度な政治経済機構が存在していた時代と
それが初期発生した時代とを同列に語ることそのものが間違い
だから、知っててやってるんだろうが、例えが稚拙なんだよ君の場合
984日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:14:34
明治維新後の鉄道は古代の駅舎に沿って作られている。
土器より古代の道のほうが大事です。
985日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:15:48
>>983
じゃあ、土器で壬申の乱の経緯はわからない。
986日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:18:02
>>985
おっと、>>982と被ってしまった。
987日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:18:05
ところで九州で最も古い古墳はどれかな?

九州説だとその古墳の主はどういう位置付けをするんだろう。
卑弥呼や台与と、何か関係すると考えているのかな?
988日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:19:01

トヨタン・・・・・・・・・・

989日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:19:41
>>981
その倭人伝がどれだけ正確なのかを検証する資料がほとんどないのに
なぜ鵜呑みにするのだ?
後世の日本史にしても、信長の桶狭間や長篠の戦いが
いかに実情とは程遠いものだったのかは、歴史好きなら勿論知っているだろうに
990日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:21:00
>>979
土器編年で何が分かるって言うんだよ。土器の編年なんぞしょせんいいかげんな
ものだ。決定的なことなど何も言えない。
確認されていない新しい現象? 少し考えればその可能性もあることは明白だ。
誰も言ってなかったとか言うんじゃあるまいな。言っていたかどうかではない。
可能性はある、となれば、当然考えるべきことだ。
991日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:22:02
>>984
そんなもん工法で一発でわかるわwwww
おまいらがどれだけ無知かを明らかにしたようなレスだなwww
992日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:23:32
荒れてるがな
993日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:24:11
>>963
>ここは奈良湖の湖畔にあったことが洪水で埋まった形跡
>からも明らかである。つまり、この地の弥生人は湖の排水事業を行う力もなかったのである。

この知ったかぶりの馬鹿はまだ奈良盆地湖の巨大干拓工事にすがっているのかw

『じゃあ4世紀に入って新たにできた居住可能地域・耕作地の痕跡を示すものはなんだ?』

それが無ければ元々盆地に古墳時代を迎えるだけの地力があったか
もしくは4世紀に入って盆地の外から労力を集めるシステムができたかだな

お前の説だとそれにより人口が爆発的に増え古墳の造営もできたと言う話しなんだから
さぞ爆発的な増加の跡があるんだろうな?www

…ってこれも何回も言った話だが、どうせ暫くしたら綺麗サッパリ忘れて
同じ事を繰り返すと…wwwwwwwww




994日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:24:17
福永氏の銅鐸配布説のお話をされている方がいますが、考古学的事実としては
そもそも唐古・鍵遺跡は、奈良盆地東南部の中心集落であったかもしれない
という程度の遺跡であって、奈良盆地の中心集落だとか、畿内の中心集落で
あったということはまったく証明されておらず、机上の空論だと思います。

また、この時期奈良盆地は、銅鐸の流通の中心でなく、むしろ近江がその
中心ではないかといわれており、2重の意味で考古学的事実に反していますね。
995日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:25:07
>>990
その可能性とやらは、どれだけ蓋然性があるんだいwww

可能性だけで言えば、朝鮮から超軍事集団が渡来して征服した可能性もあるし
宇宙から異星人がやってきた可能性すらあるwww

くだらん詭弁のための詭弁など、高校生あたりに任せておけってwww
996日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:26:11
ということで、邪馬台国問題も完結!
997日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:26:29
>>989
歴史の常識にあってるからだよ。否定する理由は何もない。
しかし、>>975が、そんなのがあったなら、・・・少なくとも四国・中
国地方は、九州の軍事勢力の前にひとたまりもなかったはずだ・・と言
ったのは面白いな。そのとおりなんだよ。銅鐸祭祀で大した兵をもたな
かった中国、四国、そして畿内は、倭国の乱を勝ち抜いた九州勢力にあ
っというまにやられたんだな。
998日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:27:17
>>982
うーん誰も土器だけで連合体を想定しうるなんて言ってないと思うが・・・

お話はもうちょっと複雑だよサイキバ君wwwwwwwwww

まあお前の脳のキャパ超えるかも知れんがもう少しがんばってみような?wwwwwwwwww
999日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:31:59
だれか次スレよろしく!!
1000日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:32:02
あと、九州に墓上祭祀がなかったという方がいますが、これは間違いです。
平原には埋葬前の建築物または柱列があり、祭祀がおこなわれています。
10011001
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