復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.4

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1日本@名無史さん
男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後(晋書)
倭者、自云太伯之後。俗皆文身(梁書)

神武天皇は入れ墨をしていた!

前々々スレ
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1189507021/
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復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1206938431/
前スレ
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1225586417/133
2日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:37:36
日本人のルーツ
周→呉→日本列島
周の古公亶父の長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に周王朝の後継を譲り、自らは国を出て呉の地にたどり着き国を作った。
3日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:43:27
日本人が中国語喋ってたことなどありません
4日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:57:56
>>2
日本人のルーツというのは言い過ぎだが、呉や越が日本の弥生文化
とかかわりがあることは確かだろう。
5日本@名無史さん:2009/10/25(日) 03:26:29
歴史発見】
       中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

※ 江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)
の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、
福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、
江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、
福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。
吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。
当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、
世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。

中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、
原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、
日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは
「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。
ttp://sawyer.exblog.jp/7178292/

稲作のルート
朝日新聞(2001.6.23)によると、弥生時代の遺跡、「池上曽根遺跡」と「唐古・鍵遺跡」の炭化米のDNA分析で、
朝鮮半島には存在せず、中国に広く分布する温帯ジャポニカ米が発見された。
http://www.iza.ne.jp/images/user/20090917/613712.jpg
6銀河 秋彩:2009/10/25(日) 04:17:59
  【倭国・九州筑紫王朝・物部系<夏>】側
【▲矛圏】……『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝と司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
(★傍流)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(物部系)の「邪馬壹(連合国)」
=《筑紫平野・久留米高良山(神籠石あり)》
西暦247年崩壊【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、東行百里の「不彌国」=【魏の城塞都市(木柵)・吉野ヶ里】
「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」=『魏志倭人伝(通称)』
 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
=【ガラス管と剣が副葬の「1002号墳」が卑弥呼(難升米)の墓・径百歩】
卑弥呼の都【魏使が来るに及んで、久留米から遷都、隼人町が記載されている】・「★倭国は極南界」
  ▲卑弥呼の都・直接統治国「壹国(薩摩)」=「周旋可五千餘里(275km余)」=「55m/倭人里」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t
【▲矛(→▲剣)圏・倭国(九州筑紫王朝)・物部氏】、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、一旦滅亡。
「「日出處天子(南朝の後継を名乗った、泉蓋蘇文=天武)致書日没處天子(北朝・隋の煬帝)無恙〜」
倭王・多利思比孤・【『万葉集』の「軍王」、のちに、天武天皇】は、こちら側。
天武は、(復活)倭国王。
7銀河 秋彩:2009/10/25(日) 04:19:14
▲卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」=「周旋可五千餘里(275km余)」=「55m/倭人里」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
  《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。卑弥呼の「邪馬壹(やまい)(連合国)」は、【筑紫平野】。

  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
  《万五百里》=「伊都国(いづら)」。
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
        卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。

水行二十日・投馬(国)……伊都国(いづら)から、有明海を水行二十日南下し、「トカラ列島の宝島」に。
この「トカラ列島の宝島」の生まれ……「宝皇女=斉明太上天皇」。
「イザナキ」&「イザナミ」は、《伊是名島》から。
http://www.ocvb.or.jp/card/ja/0600001514.html
8銀河 秋彩:2009/10/25(日) 04:49:27
 【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕=(臺倭→大倭→)大和朝廷】側
【●鏡圏】……『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
 (★本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】
  ●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(神籠石あり)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm

幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 - 254年)が
短く、邪馬台国の覇権も短かった為。晋側へ再び覇権が戻った為。

【鏡圏・イ妥国(九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)
9銀河 秋彩:2009/10/25(日) 04:55:08
  【大倭国・九州近江王朝・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】=『万葉集』より
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝】を下に曳いている。

曹芳(そう ほう、ピン音;Cao F?ng、232年 - 274年)は、字は蘭卿。
三国時代の魏の第3代皇帝(在位:239年 - 254年)で、通常は「斉王芳」と呼ばれる。

━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━…‥…━…‥…━…‥

  「燕・公孫氏】側
【■銅鐸圏】……東[魚是]人=【畿内(〜山陰)】の、銅鐸族・燕・公孫氏
そもそもの纒向遺跡は、公孫氏の都と思われる。
朝鮮半島の帯方郡まで勢力を伸ばすも、卑弥呼の裏切りがあり、司馬懿に依り、滅亡。
10日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:18:55
見よ!

縄文弥生を通して中国土器の主役級の器形が全く伝わっていない。


◆江南中国土器の様々な器形


鼎のオンパレード。鼎の初期器形の釜形鼎、日本には弥生末まで無い蓋に注意。
http://www.hemudusite.com/products.asp?sort_id=5&page=5
水差しのオンパレード。盉(カ)、簋(サン)、長頸壺、鳥型の三足土器の鬹(キ)。単耳、把手、圏足に注意。
http://www.hemudusite.com/products.asp?sort_id=5&page=4
蓋、器座という器台。日本には弥生末まで無い。使用目的さえ分からない支架。甑の双耳に注意。
http://www.hemudusite.com/products.asp?sort_id=5&page=3
盂のオンパレード。日本には無い器種。日本には弥生末まで無い蓋。
http://www.hemudusite.com/products.asp?sort_id=5&page=2
11日本@名無史さん:2009/10/27(火) 19:53:58
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1164871625/




12日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:57:49
「入れ墨」は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
http://blog.livedoor.jp/sakae101/index.rdf
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
13日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:59:04
日本には世界最古の7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
14日本@名無史さん:2009/11/12(木) 21:00:00



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
http://www.tnc.ne.jp/oasobi/oasobi03/119tatoo/index.html
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!


15日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:36:44
「歌垣」は百済の帰化人から伝わっている。


翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
http://www18.ocn.ne.jp/~doukyou/shirukai/sub01.html

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/136.htm

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/kaihou26.html
16日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:37:33
「歌垣」は現在でも朝鮮半島に見られる。


先生は「韓の国紀行『歌垣』」のなかで、「朝鮮民族には凄味がある、
と、ほとほと思ったのは、この仏国寺の松林で野遊びを見、歌垣の
歌声をきき、そして杖鼓(チャング)のリズムをきいたときであった。
http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/karanokuni.htm

日本にも野遊びはあった。万葉のころ歌垣は絶えた。韓国ではいまも
生活の中にある。
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/siba/karakuni.htm
 
韓国の山野では野遊びをする人々に出会うという。司馬さんは
「人々は強烈なリズムにのって群舞しており、さながら万葉時代の
歌垣や踏歌を現(うつつ)に見る思い」がすると書いていた。
http://www1.coralnet.or.jp/kn/tenti/c2002401.htm
17日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:38:20
次に、歌垣(かがい・歌會)について語ろう。七七〇年三月、河内の弓削の称徳離宮で歌垣が
行われた。万代にわたる帝と離宮の存続を祈り、周囲六ヶ村男女二百三十人の渡来人が夜を
通して歌い踊った。歌垣は若い男女にとって、他の部落との間の通婚の機会設定に大きな役割を
果たしていた。このころは、山麓の景勝地まで人々が出かけて、賑やかに野外舞踏会を開いた
ものであった。というよりは、日のあるうちは野に遊び、日が暮れると篝火が灯され、酒が
入って宴は佳境に入る。日野の朝鮮坊山では、毎年歌垣が行われていた。
お月見の習慣と併せて、韓半島からの伝来の風習であった。いまも扶餘や慶州あたりの野原では、
夏の夕べに月見の宴を張る。これを野遊とよんでいる。大和の民衆もこの楽しみをまねて、
農業神事に取り入れた。慶州の仏国寺の松林で、水色・桃色・緑・赤など色とりどりの袴・上衣を
着た老若男女が楽しそうに踊るのを見ることができる。杖鼓を膝の前において鞭のようなバチで
打つ。このリズムに合わせて踊る。韓国ではいまでも一般の家庭で使われている楽器である。
日本舞楽の羯鼓に似た楽器である。筑波山麓の歌會や常陸国風土記にある童子女松原の歌會が
知られている。筑波嶺の歌會で詠んだ歌一首と短歌が万葉集巻九にある。この伝統が盆踊りの形で
現在の日本に引き継がれた。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu/emperor/historybackground.pdf#search
18日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:50:28
「貫頭衣」は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://www.frontstyle.com/dictionary/j_ka.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
19日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:51:25
古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html00
20日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:54:14
「鳥居」の登場は8C。


鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出す
ために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を
置いたことが起源であるとする説、インドの仏教やヒンズー教に
みられるトラナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。
いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
8世紀ごろに現在の形が確立している
21日本@名無史さん:2009/11/15(日) 17:06:06
ビルマ系ボド語

足 atheng 
目 megan
口 khuga
歯 hatai
毛 khenai
頭 khara
舌 sila


インドネシア語

目 mata
手 tangan>たなごころ
足 kaki >駆ける
歯 gigi >牙
22日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:04:14
test
23日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:03:33
「断髪」を倭人がしていたなんて魏志倭人伝には書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm



24日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:23:00
「糸引き納豆」の登場は室町時代頃、「なれずし」は7C頃に朝鮮経由で伝わる。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

日本最古のすしといわれる「鮒ずし」は、7世紀、近江大津宮に天智天皇が
遷都した以前からこの地にあったといいます。フナずしは、すしといっても
現在の握りずしとは違い、すしの原型といわれる「なれずし」の一種です。
なれずしは、米作民族が考え出した動物性タンパク質の原始的な保存法で、
そのルーツは東南アジアとされ、中国、朝鮮をへて日本へも伝えられました。
http://asamiya.sakura.ne.jp/gotouti/siga/siga.html
25日本@名無史さん:2009/11/18(水) 23:11:52
「鵜飼」は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/shoseki_video4.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
26日本@名無史さん:2009/11/18(水) 23:12:44
しかも日本の「鵜飼」は中国よりも古い。


鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC%E3%81%84
27日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:48:42

とてつもなく日本 : 民団メンバー御用達ID変換機能付き荒らしツール2009年9月16日 ... 民団メンバー御用達荒らしツール 1253084434711 http://triple-aaa.org/home/up/asia/src/1253084434711.jpg ...
懐かしいツールだな結構不具合があると聞くが、バージョンあがったのかな? ◆雑談スレ99◆今日をどう生きる ...
awfuljapan.livedoor.biz/archives/51276969.html - キャッシュ


【民潭工作員のツール】プロパ切り替え自由 ネット荒らしツール2009年9月26日 ... 2chの民潭工作員のツールを・・。 民潭の人が、あるウィルスにひっかかってくれて、写真を暴露してくれました。 ...
正直、吃驚しちゃいました。 参考写真:ネトウヨ/阿呆太郎・連呼厨愛用 民潭謹製 ネット荒らしツール ...
namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1253966293/ - キャッシュ
少数精鋭のクソスレ製造機「ネトサヨ」‎ - 2009年10月26日
【民団】ネトウヨ連呼厨はやはり朝鮮人【自白】‎ - 2009年9月3日
民団が応援した民主をニヤニヤ見るスレ‎ - 2009年8月31日namidame.2ch.net からの検索結果 »
28日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:20:51
半月型石包丁(桂葉形雙孔石刀)は遼寧を経由している。


中国遼寧省羊頭窪遺跡.  黒陶系土器 石器(石包丁 磨製石鏃) 紡錐車 骨角器 卜骨
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/jpncul.html

紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、
東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。
大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm

中国北部の文化が東北部の遼西まで及んでいるいることを知りえた。それに、石包丁が出土していた
のには目を見張った。日本に石包丁が伝わったのはそれから3千年もたった弥生時代になってからなのだ。
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/
◆遼寧の石包丁
http://kyohiro.blog.ocn.ne.jp/./photos/uncategorized/2008/02/04/070827_078_2.jpg
29日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:49:54
「呉服」は百済経由で伝わっている。


また百済国に、「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」
とおほせたまひき。かれ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、
名は和邇吉師(ワニキシ)、すなはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)
せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの人に付けてすなはち貢進
(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミノオビト)等(ラ)の
祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素(タクソ)、
また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、
また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、
また酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は
須須許理(ススコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。
http://kamnavi.jp/link/kojiki2.txt
30日本@名無史さん:2009/11/21(土) 20:15:32
呉の末裔と称したとか
その頃からそういう情報を知っている知識層が倭に居たんだな。
31日本@名無史さん:2009/11/22(日) 12:50:54
朝鮮半島に稲作が伝わったのは4〜5000年くらい前。


1990年金浦佳■(山と見)里泥炭層から採取された稲籾は4,010+-25BPと
報告されており、問題もあるがもし報告が正しいとすれば韓国での稲の
出現は新石器時代中期段階にまでさかのぼる可能性がある。
http://inoues.net/study/japonica3.html
最近は紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面
する金浦(キムポ)と一山(イルサン)で発見されました(注)。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm072.html
然し1992年には、それよりも早い時期の粳米を韓国の清州市における
家瓦遺跡から大量に発見された。今から4721年(+−50)年前と
推測されているが、同時に出土された樹木年輪測定からすると、
今から5020年前のものだと修正がなされた。
http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!1873.entry
32日本@名無史さん:2009/11/22(日) 12:52:34
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
33日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:01:33
朝鮮半島で最古の水田遺跡は前11世紀のオクキョン遺跡で日本よりも古い。




弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は
慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文〜突帯文土器が
伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。
http://www.rekihaku.ac.jp/press/yayoi_kaishi.pdf



34日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:06:23
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器) ◆内蒙古・満州から長江中・下流域まで出土
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器) ◆華北からインドシナ半島まで広く出土
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg
35日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:10:00
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
36日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:11:30
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
37日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:48:34
日本の皇室はイスラエルの末裔です。
38日本@名無史さん:2009/11/27(金) 12:07:53
高床式「倉庫」は北方アジアから直伝している。




高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1164871625/




39日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:18:44
「入れ墨」は日本では旧石器時代からおこなわれている。


タトゥーは少なくともオセアニア大陸で新石器時代からおこなわれていました。
タトゥーをしたミイラが発見されています。日本では旧石器時代から
おこなわれていたと考えられています。その他の多くの文明でも、
それぞれ独特のタトゥーの様式がありました。
http://blog.livedoor.jp/sakae101/index.rdf
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
日本では旧石器時代からおこなわれていた
40日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:20:08
日本には世界最古の7000年前の「入れ墨」の証拠遺物がある。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
41日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:20:50



世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
http://www.tnc.ne.jp/oasobi/oasobi03/119tatoo/index.html
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!


42日本@名無史さん:2009/12/09(水) 06:24:37
最初のスレで秦代の十二支だしてたやついる?
4342:2009/12/09(水) 06:29:09
これ↓書いた人まだいる?

218 :日本@名無史さん[]:2007/09/26(水) 12:46:33
(前略)下記のホームページにあるように、中国の始皇帝の頃の十二獣は、
「子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兔、辰は竜、巳は蝮、午は鹿、未は馬、申は猴、酉は鴨、戌は羊、亥は豚」で、
十二獣は漢代に今のものになった(中略)
http://www.allchina.info/mm/backnumber/2.html
(以下略)
44日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:19:04
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。

ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F

歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。

ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
45日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:24:48
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)
前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す?
戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。
前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。
前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。
前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。
2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。
3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。
4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。
7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。
918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。

ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
46日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:27:01
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。
高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。
そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。

高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。
朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。
何しろ、文明が継承されてないんだもの。
満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。
高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。
百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88
http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k
http://www.youtube.com/watch?v=KR7z_-jagCE

■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧

・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
47日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:52:21
長い歴史の中で数多くの国や王朝に朝貢し冊封され支配、統治され
朝鮮人は混血も重ねています(大きいところでは中国諸民族、縄文人、倭人、蒙古人、満州人、大日本帝国)

近年韓国で医学界等の遺伝子や血液の分析で朝鮮のルーツは北方である事
南部からの流入(日本の縄文人や倭人、倭人王については完全にスルーしてますが)との
混血である事も徐々に指摘、新聞でも報道されはじめました

血液分析により民族の移動経路を判明する 東亜日報
韓国 台湾 日本、もっとも単一民族に近いのは日本人
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2001010317828

"韓民族は単一民族ではない!" 韓国 朝鮮日報
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2009/01/09/2009010901296.html

韓国人、違う民族の血40%位まじっている 韓国 朝鮮日報
http://www.chosun.com/national/news/200604/200604050360.html

顔で見た韓国人、すでに他民族血統…“80%が北方系” 日本版 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90507&servcode=400

もし日本人、韓国人が似てると感じれば、それは激しく混血を重ねた朝鮮人が似てるのであって
日本人が似ているのではないのです

朝鮮はこの通り朝鮮民族だけの物ではありません、
今後は友愛の精神で朝鮮半島は異民族を多く受け入れ多民族多人種社会となり
それぞれの民族の国籍を認め韓国朝鮮人と同じ権利を持ってもらい共生すべきです

国連、「韓国の単一民族強調」人権侵害の恐れ 日本版 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=90362&servcode=400

韓国の民族主義を告発、スタンフォード大シン教授(上)
http://www.chosunonline.com/news/20090623000056
48日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:55:38
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』

【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、
いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が
現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
 満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。
 では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。
高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。
 高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが
女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する
『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、
この『後金国』が清国へと発展していきます。
49日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:05:06
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

 見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
 韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
 ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
50日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:06:10
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる
扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、
民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。
但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」
(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。

wiki より

上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。



百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人

渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
51日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:07:09
前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮は中国人の箕子が建国した中国人国家。
箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮は中国人の衛満が建国した中国人国家。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島北部に前1世紀〜後3世紀に設置した漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地。
百済と高句麗はツングース系民族の夫余族の国家。渤海は夫余族と靺鞨の国家。夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。
秦からの亡命中国人が前2世紀〜4世紀に朝鮮半島南部に建国したのが辰韓(秦韓)で、後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
百済と高句麗を滅ぼしたのは新羅ではなく唐。唐は百済と高句麗の滅亡後に旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から羈縻州(中国国内扱いにした事を指す)にした。
このため一時的に朝鮮に「国」はなくなった。

朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱

「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
52日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:09:44
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)

1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。   (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。   (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
    長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
    国内には多くの蒙古軍人が駐留。        (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。              (モンゴル人化)
    反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
    しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
    しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
    泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)

「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/
韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm

53日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:10:35
『アイゴー!シンガポールヤフーが韓国を中国領と表記してるニダ!』
シンガポール ヤフー(sg.travel.yahoo.com)とカナダのブリティッシュコロンビア(BC)州政府サイト
(www.protocol.gov.bc.ca)が韓国関連の誤りを訂正した。
サイバー外交使節団「バンク」は「1週間前までシンガポールヤフーはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していたが、
5日現在、『韓国領』に是正された」と明らかにした。(略)
http://www.worldtimes.co.jp/kansok/kan/shakai/090106-3.html


『有名教科書と地図「韓国は中国領土」』
英国オックスフォード大の出版社が制作している教科書をはじめ、世界の教育機関、博物館、テレビ局、新聞社、ポータルサイト、
百科事典など総34個の世界有名機関の世界地図53個が、韓国の領土全体または一部を中国領土に表記していることが分かった。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65416


『スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」』
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が 「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していたが、
1910年の韓日合併までの15年間にわたって独立を味わったりもしたいた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−
などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213
54日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:11:26
アメリカ大使館 「朝鮮に歴史無し。昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」
210.236.224.130
このIPを調べてみると...
Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 210.236.224.128/25
b. [ネットワーク名] US-EMBASSY
f. [組織名] アメリカ大使館
http://s04.megalodon.jp/2008-0104-0331-22/www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=9&nid=3182743
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&diff=8434966&oldid=8280871


55日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:12:29
各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」

韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが外の世界に出れば朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。


56日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:13:46
統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html

統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。
この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。
それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。
統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。
高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。



東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。



東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006  

高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国

57日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:18:28
■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・焼肉はモンゴルのパクリ!焼肉メニューはモンゴル語ばかり
・キムチは秀吉が朝鮮出兵の時に落とした唐辛子の種が増殖したのが起源
・テコンドーは日本空手をパクリ!そのままだとまずいのでキック特化にした
・中国の太極図案と五行八卦の中の四卦と陰陽魚が韓国国旗であること
・大韓民国の国名の民国は中華民国の民国の借用であること
・大韓民国憲法は、全て1948年に南京で制定された中華民国憲法を剽窃したものであること
・韓国の法律は、台湾の六法全書、「憲法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法」と全く同じであること
・中国原産の木槿(むくげ)の花を、勝手に改名し、無窮花として韓国の国花にしたこと
・朝鮮という国号は明の永楽帝が下賜したこと
・古代高句麗人と現代の韓国人は全く違う民族で高句麗は古扶余人で東胡の一部であること


58文責O2bさん:2010/01/06(水) 02:32:53
>>45>>51
俺のコピペ使ってくれてありがたいんだけどさ、
主旨がまったく違うんだわ。内容精査して自分用に改編して使ってくれ。
あと新羅滅亡も935年に直しておいてくれ。
59日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:15:41
60日本@名無史さん:2010/03/08(月) 03:50:25
61日本@名無史さん:2010/03/22(月) 08:09:31
太伯の弟の系統である呉王夫差の末裔は松野連である。
ソースは新撰姓氏録。
62日本@名無史さん:2010/05/23(日) 23:51:46
2010 年5月18日、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、
日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが分かった。
ソース 
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=42245
18日、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、
日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが分かった。
写真は金沙遺跡の出土品を展示する金沙博物館。
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289929.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289939.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289936.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289934.jpg
63日本@名無史さん:2010/05/24(月) 00:39:50
高床式の建物はジャワ島などの南方にルーツがあるんじゃないのかな。
日本には直接か、長江人の渡来によってかはわからんが。
64日本@名無史さん:2010/05/24(月) 05:28:58
高床式の建物はシベリヤにもありますよ。
アイヌ人も使ってました。
65日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:06:50
年代的に言っても、周ってかなり有りだと思う。
66日本@名無史さん:2010/05/24(月) 23:07:08
てす
67日本@名無史さん:2010/05/25(火) 03:20:25
>>64 それは日本の弥生時代より古いのか?あたらしいのなら日本から伝わった可能性のほうが大きいな。

68日本@名無史さん:2010/05/25(火) 20:32:51
アイヌ人のは白黒写真でアイヌ人も写っていました。
69日本@名無史さん:2010/05/29(土) 01:36:42
隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/47/43/enjoyjapan_13/47000/46467.jpg
隋書 原文
右4行目から五行目
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」

「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、
つねに使いを送り、往来している 」

上記の記述は日本人が朝鮮半島経由で形成されたならありえない事実です。
やはり周→呉→日本の流れがあればこそ、朝鮮半島よりも文明が発達していたわけです。
70日本@名無史さん:2010/05/29(土) 01:44:13
誤訳である
正しくは
"新羅と百済は皆大国なので珍しい物が多く倭が敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している"
なのだ
71日本@名無史さん:2010/05/29(土) 02:03:06
それこそ誤訳。
東夷伝倭国の条にわざわざ百済や新羅の説明文など書かない。
常識で考えても倭国は大国で〜と読むのが正しい。
72日本@名無史さん:2010/05/30(日) 00:32:25
>>70は誤訳ではなく馬鹿訳。
>>71が正解。
73日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:08:17
斉の田横一族とそれに付き従う斉国人も田横亡き後は漢に従うのを良しとせず山東半島から日本に向けて船出したわけです。
山口県の土井ヶ浜遺跡から出土した共同墓地の大量の人骨はみな体を東西方向に並べられており頭を少し高く埋葬されており顔がちょうど山東半島に向けられているのです。
土井ヶ浜遺跡は紀元前200年頃から始まった遺跡との事で田横の死と時期的にも一致しますね。
土井ヶ浜遺跡の斉国人は死して埋葬されてもなお故郷の山東半島に思いをはせていたのでしょうか。
74日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:20:09
>>73
斉国の始祖って、周の軍師の太公望・呂尚姜子牙ですよね。
弥生人の人口が爆発的に増えた時期は春秋戦国、秦の時代だってことは
わかってるんで、絶対関係あると思います。
代々姜子牙の子孫が32代まで王家を継いでいた32.康公(姜貸、在位紀元前404年 - 紀元前379年) 
の代に、田氏による簒奪があり、「田斉」になった時に、
日本に来た人も多数いると自分は思ってます。
年代的にも、それでも辻褄が合ってると思う。
75日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:23:52
斉国の国民=周人なので、日本に周の民が来てる事は、
まず間違いないと思います。
76日本@名無史さん:2010/06/07(月) 13:05:37
>>70 朝鮮人の下手な歴史捏造の見本だな。

 広開土王碑の朝鮮捏造も日本とシナ学者による照合検証で否定された。
77日本@名無史さん:2010/06/22(火) 19:43:26
しかし凄いですよね。
隋が何度遠征しても勝てなかった高句麗相手に一歩も引かずに戦ってた倭国は。
そりゃ魏も金印くらい与えるはずですね。
78日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:41:35
>>77
当時の印の材質は上位から、玉、金、銀、銅で
中国の皇帝が玉、皇太子や王族が金、朝貢している国や臣下がそれ以下。
王号は基本的に皇族のみの称号。
ちなみに、当時の朝鮮の扱いは「邑君」で銅印。
当時の日本の重要性がよくわかる一例だと思う。
これは、中国の史書(後漢書、魏志など)に記載されている、
疑いようのない事実ね。
日本は、全ての歴史がこんな風に、事実に裏付けられている。
朝鮮の捏造とは全然違う。
79日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:56:58
【書評】『日本人ルーツの謎を解く 縄文人は 日本人と韓国人の祖先だった!』
2010.6.26 05:00
 ■科学的、論理的に定説を否定

 日本人のルーツはどこにあるのか。
 長い間、追い求めてきたロマンあふれる疑問だ。
 だいたいは、縄文人が住んでいたところに大陸、半島から稲作を携えて弥生人が渡来し、縄文人と混血しながら、
現在の日本を形成していったというものだろう。

 だが、著者は最新のデータを基に、この考えを真っ向から否定する。

 稲作は縄文時代から行われていたし、朝鮮半島には日本の弥生式土器や古墳時代の前方後円墳が多く見られることから、
縄文人が弥生人に移行し、さらに朝鮮半島に進出していったとする。

 ミトコンドリアだけではなく、Y染色体の系統も調べながら、これまでの定説を科学的、論理的に検証、否定していく。

(長浜浩明・著/1785円、展転社)

http://www.sankeibiz.jp/econome/news/100626/ecc1006260502011-n1.htm
80日本@名無史さん:2010/06/27(日) 01:49:03
>>79
そんなに捏造してまで日本人に擦り寄りたいのか・・・と思ったけど
よく読んだら、
>稲作は縄文時代から行われていたし、朝鮮半島には日本の弥生式土器や古墳時代の前方後円墳が多く見られることから、
縄文人が弥生人に移行し、さらに朝鮮半島に進出していったとする。

つまり、著者の主張は、
全部日本が先で、
朝鮮から日本に伝わった物は無いって事なんだよね。

タイトルで誤解するよ、コレ。
でも、縄文人が朝鮮人と関連付けられるだけで、不愉快って言えば不愉快なんだけど。
81日本@名無史さん:2010/06/27(日) 16:53:54
ここのカキコ見て、思い出したこがある。

日本人のY染色体が世界的に珍しく、同じのを持ってるのはチベット人くらいだという話。

成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)の長江文明を築いた人々は、チャン族だったとか。
太公望もこの民族だったらしいが、つまり、チベット系民族ということになるよね。

日本人の染色体の理由はそれ??
82日本@名無史さん:2010/06/27(日) 22:46:19
>>81
DNAでも証明されるわけだし、遺跡や遺物も共通してるから(三足土器とか)
特に成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)は神社に似た9本の柱を持つ建造物が出たりしてるし、
おそらく関係あると思う。
日本の場合、漢代に書かれた書物に書かれた「周礼」が日本の神道の儀礼に似てる事が解ったりとか、
結構今でも物証があり、まだ解明されてない事が多いので、
この分野はこれからまだまだ色々発見されていくと思うけど。
あれだけ日本が嫌いな江戸時代の朝鮮通信使が、日本人は周の時代にやってきたとか書いてるくらいなんで、
日本人が周と関係あるのは、実は定説だったのでは?とすら思える。
83日本@名無史さん:2010/06/28(月) 01:53:50
西周遺跡から出てる土器類と、縄文時代の土器が類似していて、
青銅器は西周のものが日本にないということは、

日本にこの人たちが来たのは、実は青銅器が普及する前で、土器しか無い時代?
と考えると辻褄が合うような気がする。→これが後期縄文人?
日本の青銅器は年代的にも物的にも春秋時代以降(B.C.770年〜B.C.222年)だと思うけど、
それを伝えたのはまた別の人たちで、
春秋時代は、多数の銅剣・銅鉾など武器が鋳造、一方で祭祀用の青銅器も続けて鋳造され、
鐘などの楽器が急激に発達してくる。なので、日本の青銅器、銅剣・銅鉾・銅鐸とそのまま
一致する。→これは年代的にも、ほぼ弥生人で確定?農耕もこの人たちが主流?成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)の長江文明なのも
この人たち?
84日本@名無史さん:2010/06/28(月) 02:27:13
土井が浜遺跡で発見された弥生時代の人骨と
中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の計測値が近く、
2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、
約2500年前、2000年前の臨淄遺跡から出土した人骨、及び現代の臨淄住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。
それによると、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、
現代の臨淄住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。

>約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く・・・
という人たちが、計測値もDNAも土井が浜弥生人に近いって事は、
やっぱり土井が浜の弥生人は斎国の人?Y染色体はここから来てる可能性あるかも。
85日本@名無史さん:2010/06/28(月) 13:19:42
>>82
>あれだけ日本が嫌いな江戸時代の朝鮮通信使が、日本人は周の時代にやってきたとか書いてるくらいなんで、
日本人が周と関係あるのは、実は定説だったのでは?とすら思える。

日東壮遊歌の事ですね、分かります。
86日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:03:14
正確さを期すために、
現代の斎国跡地の住人と、2000年前の斎国人に類縁関係が本当にないのか、
日本人との類縁関係の比較も含めて、
もう一度Y染色体やmDNAで調べて欲しいな。

現代の臨淄住民と、現代日本人に類縁関係があれば、住民の何%かは移動したけど、
何%かは、そのままその地に留まったとか解るし。
弥生人と現代日本人の遺伝的な連続性は証明されてるんで、
多分、西周の建国に関わった呂尚姜子牙の直接の子孫が32代支配し、その後田氏が9代支配した、
斎国の人(確実に周人の系統とわかってる数少ない国の民)が日本に来てる
可能性はかなり高いね。
周の王がきてるかどうかは解らないけど、国民とか、彼らの親戚とかは来てるのは確実かと。
87日本@名無史さん:2010/06/30(水) 03:53:48
別スレで見つけたけど、杞国が滅びた時の首都は山東省の牟婁。
日本の熊野(紀国)に牟婁という地名があり、
伊勢神宮の社伝では「斉」の御田より米が伝わった、とされているそう。
かなり色々一致するね。
88日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:16:17
>>87  中国・崑崙山に住む霊鳥・・・八咫烏(ヤタガラス)日本サッカー協会のシンボル。

熊野と八咫烏(ヤタガラス)霊鳥として熊野三山には、烏の絵文字で描かれた牛王宝印(ゴオウホウイン)と言う三種類の神符があります。
この牛王宝印、人と人が約束をする時の誓紙として使われ、もしその約束を破った時は、この誓紙を焼いてその灰を呑むと血を吐いて死ぬと同時に、
熊野三山に住む森の烏が三羽血を吐いて死ぬと信じられていました。

中国では湖南省の馬王堆(マオウタイ)と呼ばれる塚から出土した、二千百余年前の生けるがごとき女性の遺体の側の副葬品(彩色布)に「烏」が現れます。
それには、金色の太陽の円の中に「烏」が住んでおり、下弦の月の上のうさぎの側にヒキガエルが描かれています。
2,000年昔の古代中国では「烏」が太陽の使者と考えられ、太陽(陽の象徴)に対する月(陰の象徴)では、うさぎとヒキガエルが大切な役割を担っていた事を物語っています。
89日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:35:33
A 力ラスと海人

 話は飛ぶようだが、福岡県の珍敷(めずらし)塚古墳の石室には、一人の人が舟に乗っていて、空には太陽らしいものがある絵が描かれている。
ところが、その舟のへさきに一羽の鳥がいる。問題は、この鳥である。何鳥か。また、何のために乗せているのか。
これはカラスだろうと思える。では、なぜカラスだと分かるのか。その一つの理由は、同じ絵の中にヒキガエルらしいものも描かれているからである。
即ち、古代中国人の思想にあっては、太陽の中のカラスと月の中の ヒキガエルはセットになっていたからである。

では、仮にカラスだとして、それを乗せている目的は何かと言えば、海上で方角が分からなくなった時、カラスを飛ばすのである。
舞い上がってどちらかへ飛んで行けば、その方角に陸地があるということになる。どこへも行かずに舟に戻れば、付近に陸地が見えないことが分かる。
海の上では三○メートルも上がれば遥かに遠くが見える。だが、スズメでは小さくて見失いやすいし、あまり遠くまで飛ばない。
トビは高く上がり過ぎるし、遠くまで飛び過ぎる。そうかといって鵜のような水鳥も困る。やはり陸の鳥でなければならない。
どこにでもいて比較的つかまえ易く、かなりよく飛び、それに黒くて大きくて見失いにくいカラスが最も適当であったと思われる。
90日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:46:20
>>89・・・続き

「旧約聖書」に出てくるノアも、陸地を求めるのに、その箱船からカラスやハトを飛ばしている。
古代の海人は航海に際して、いざという時に備え、常に何羽かのカラスを積んで出発したと考えられる。
ということは、「カラス」と「海人」はセットとして考えてもよいということになる。
連想ゲームではないが、「カラス」が出てくれば「海人」を連想してみる必要があるということである。

「ゴトビキ岩」の「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」のことで、熊野の北に当たる吉野でもゴトビキと呼んでいる。
「ビキ」が「ヒキ」である。こうなると、熊野では「カラス」と「ヒキガエル」がセットになっていることになる。
馬王堆でも「カラス」は太陽の中、「ヒキガエル」は月の中にいて、両者はセットになっている。

「カラス」は海人や長江下流地域と関係が深い。神武天皇は隼人が出発地だが、その先祖のニニギノミコトは長江下流地域から渡来したと推理される。
加えるに、熊野の辺りには徐福の遺跡もある。中国の大学の或る先生は「徐福は神武天皇だ」と言っておられる。
また、観音信仰の面では、熊野の浜は長江河口の舟山列島に通じていると言う。
また、吉備真備の船も長江下流から出て隼人まで帰ったが、そこから流されて熊野の岸に漂着している。あれこれ考えていると、「ヒキガエル」は、いよいよその怪しげな魅力を増してくるのである。(古代思想研究者)
91日本@名無史さん:2010/07/01(木) 20:35:08
烏といえば、『山海経』だよね。
太陽はもともと10個あって、扶桑に休んでる。
ローテーションで、1つずつ順番で天空へ。
残りの9個は扶桑でお留守番。
天空から太陽が帰ってくると、次の太陽が天空へ行く。
その太陽を天空に運ぶのは、烏。

実はこの扶桑を鋳造した物が、古蜀・三星堆遺跡から出土してる。
扶桑の木に太陽を背負った烏がとまってるんだよね。
92日本@名無史さん:2010/07/01(木) 21:47:39
八咫烏様か

そういえば、日本サッカー活躍の陰にこんなスレがあった。
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1275657262/
ヤタガラス様にサッカールールをお教えするスレ
93日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:00:54
前漢に書かれた「淮南子」に東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた…と書いてある。
淮南子は古事記や日本書紀、神道の基幹をなしてる書物の一つ。
日本は、漢とも直接交易してて、
漢系の物も割と入ってるから、淮南子が書かれた時代は
日本の事がすでに知られてる時代。
結構色々遺物も文献も繋がってる。
94日本@名無史さん:2010/08/02(月) 21:20:28
>>90
俺のシマではカエルの事を「びぃきゃ」とも言うがそれ系かw
95日本@名無史さん:2010/08/02(月) 21:23:30
つうか、あんま徐福ネタに引っ張られんなよ。
96日本@名無史さん:2010/08/18(水) 01:21:33
明治維新の「維新」は、「詩経」の大雅「文王」(文王は初代周王文王の父)
の一節から取られてるし、
明治政府が制定した5つの爵位は夏王朝や周王朝で行われていたという
公・侯・伯・子・男を踏襲したもの。
制定された「華族」という名称も、反対意見も有ったらしいが、「中華」の「華」から来てる。
・・・明治初年の時点では、思いっきり日本が周を意識してたのは間違い無い。
その後、何度か要人が粛清されて方向転換したんだと思う。
97日本@名無史さん:2010/08/20(金) 04:47:02
>>96
×初代周王文王→武王
追加すると、首都江戸を「東京府」と改称したのも「清明大河図」で有名な
宋の都「東京・開封府」から取ったもの。
宋の都は、滅亡後も、理想の政治と文化があったとして、理想化されていた都市。
 宋が滅亡したとき、日本に亡命した人も少なからずいたし、影響を受けてる所もあるかも知れない。
98日本@名無史さん
日本人の多数と、貴族階級は周にゆかりがある人だけど、天皇家は違うのかもしれないな。