1 :
日本@名無史さん :
2009/09/26(土) 15:06:06 /:::::::/::::::::::::::::::::;':::::::::::::::::::::::::::|:::::::::::::::::::ハ
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
■前スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪54
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1253072534/l50
2 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:22:24
平安中期の『延喜式』(905 - 927年)によれば、 耕地面積 郷数 戸数 筑前 18,500 102 5100 筑後 12,800 54 2700 豊前 13,200 43 2150 豊後 17,500 42 2100 肥前 13,900 44 2200 肥後 23,500 99 4950 日向 7,400 28 1400 薩摩 4,800 35 1750 大隅 4,800 37 1850 壹岐 620 11 550 対馬 428 9 450 ------------------------------------------- 九州計 117,448町歩 504郷 25,200戸 です 九州南部はやはり後進地域ですよ 生産力からして大国は営めません 現代ならいざ知らず、昔は 国力=人口=生産力 でしょ
4 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:34:47
>>3 壱岐や対馬って戸数少ないんだな。
倭人伝と比べると人口激減だ。
6 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:41:35
>>5 平安中期には半島との貿易が減って
壱岐、対馬の重要性が低下したんだろうな。
今の壱岐、対馬も国境が有り日本の僻地だ、
対馬には自衛隊が駐屯しているから
現在は対馬の方が壱岐より人口が多い。
7 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:44:32
8 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:51:57
伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都 伊都国=女王国の都
9 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:57:18
九州のデータだけを見たのじゃ比較のしようがない。 全国のものは?近畿はないの?
>>3 しかし、九州全体でも2万5千200戸とは。
11 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 15:57:36
反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ 反論してみろ コケエッ!!!
12 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:00:24
13 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:13:23
伊都 都国 国は女王の は 女 王 の 都伊都 都 都国は女 伊 国は女 王の都伊都国は 女 王 の 都 王の都伊都 伊 都 国 は 国 は 女王の都伊都国 女王の都伊 伊 都 国 は
河童の二の舞じゃねぇか。
15 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:19:52
>>8 ,
>>11 誰にも相手にされていなくて可哀想だね。ちょっとばかり暇ができたので相手してあげよう。
反論なんて論が示されてないので出来ないが、君は伊都国を何処に比定しているのか、先ずそれを
聞かせてもらおうか。どうぞ。
16 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:21:46
>3 ほう、なかなか興味深い。 一戸あたり4町歩=40反=大人40人程度かな 一戸に爺婆と子供夫婦、孫くらいまでが入るくらいかな。 筑前が5100戸なら2万400人程度と言うことになる。 筑前で2万人か。筑後の方が広いんだから、もう少し行きそうなんだが、 耕作しにくかったのかな
17 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:22:42
たしか中世の米の納付量は奥羽地方についで、肥後地方が全国第2位だった。 奥羽は東北の広い地域で肥後の何倍もの広さがあるので、実質一位は肥後だよ。 延喜式でも耕地面積だけど肥後はずば抜けて多いでしょう。全国最高レベル。 奈良は同じ時代いくつになるの?
18 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:43:05
>>14 河童よりも重症かも?河童は改めてだけに壊れているから
このドンこいスレは、いたって平穏。
でもこの伊都国LOVEさんは、不特定多数が相手だから傷口が深くなりそう。
>>16 1郷(1里)=50戸 というのが養老令の定めで、里単位で里長を設置した
令で言うところの戸は、血縁関係の大家族のほか、奴婢なども含む大所帯で、1戸あたり30人くらい
ただし、1戸は一つの建物を指す言葉ではない、結婚すれば所帯ごとに別棟(別房)にわかれ、その小家族の単位を房戸と言った
1房戸は平均約8人くらい
九州で25,200戸だから、人口75万人くらい
魏志倭人伝で言う、戸はもっと小さい人数だろうな
倭人伝で上っている戸数の合計は、14万2千戸、それで75万人を割ったら5人くらいか
20 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 16:53:10
その延喜式って日向や薩摩の邑数が少なすぎる。 どういうデータだろう。 これじゃ、人口の正しい数値とはいえない。 近畿のデータは示せないのかな。比較しようがない。
21 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:09:01
22 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:21:38
なんだよ結局何一つ論すら提示出来ないのかよ? どさくさ紛れに出す以外方法がないと、言う事だな。
23 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:27:58
奴国2万戸が2万人のことなら数字は合うけどなあ どうかなあ
24 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:28:01
>>20 ありがとう。
でもPDFバージョンだと読めないのよ。
HTMLバージョンでないと。
3のレスにあるように近畿のデータを示してくれると助かります。
耕地面積(町歩) 郷数 戸数 山城 8,961 8 400 摂津 12,525 13 650 和泉 4,569 3 150 河内 11,338 14 700 大和 17,905 15 750 畿内五カ国 -------------------------------------------- 計 55,298 53 2,650 丹波 10,666 6 4,950 近江 33,402 12 1,400 紀伊 7,198 7 1,750 --------------------------------------------- 計 51,266 25 8,100 耕地面積(町歩) 東北 77,549 関東 201,607 中部 176,999 近畿 165,244 中国 94,507 四国 52,013 九州 117,448 (13.3%) ----------------------- 計 885,367 ですね 近畿は平安中期になっても生産力が少ないです むしろ生産力では東日本寄りですね 墾田永年私財法などにより農民の開墾意欲が高まった結果でしょう 後の関東武士団に見るように、東日本は開墾領主層の進展が顕著でした
26 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:31:38
>>25 ありがとうございます。
とても参考になりました。
近畿は少ないですね。
27 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 17:33:44
ウリは生粋の関西人だが、 畿内説はやっぱ無理と思うわ。 巻向は初期ヤマト王朝でしょ。
>>22 生産力で見ると、九州説には歩が悪いな
九州説は、邪馬台国を含めて戸数の上っている国全部が九州内にあったという仮定だろ?
14万2千戸なんて、1戸=5人としても、平安中期(AD900年頃)ですらギリギリだぜ
3世紀の弥生式農法なら、その何分の一かの生産量だろう
九州内にはその人口、収まらないよ
畿内説のほうが可能性がある
29 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:11:54
でも畿内五カ国の戸数少なすぎる。 つまり農業を生業としている家がすくなかったんだよ。 耕地面積で戸数から人口をみるのは、そもそも間違った論だね。 延喜式を例にとって、比べること自体、時代もデータをとる基準も 全く会わない。 関東はダントツに多い。 生産率はどうだろう。全体の戸数は幾つになるのかな。 弥生初期、突帯文期の水田跡は九州北部に集中している。 近畿に到っては其の可能性のあるものの水田跡はない。 奈良に到っては可能性も水田跡もゼロ。 どんだけ九州が水田の先進国だか、昔は。 平安期になると関東以北のほうが盛んになったみたいだ。
どんなに頑張っても、当時の人口なんて分からないのに、よく頑張るよ。 答がなければ、結構恣意的な意見出せる所が満載だから 楽しめるのかも知れない。妄想雑談にはうってつけの議題であることは確かだな。
計算に末盧が入ってないですね。 邪馬台7万+投馬5万+奴2万+末盧4千+伊都1千+不彌1千=14万6千。 この他に狗奴他を加えなければならないので、実際には14万6千+α。
>>畿内五カ国の戸数少なすぎる >>農業を生業としている家がすくなかったんだよ それは関係ないよ 都って消費地なんだよな、生産地である必要はない 全国から運上されるから賄えるんだよ、それが都 邪馬台国がどんな形態だったかによるんだよな 卑弥呼に奴婢1000人が仕えている程度では、大きな都とは言えないし それなら遺跡として大したものは残ってないかも知れない でも、一つ言えるのは、九州には収まらないという事
33 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:29:44
>>32 いってることが違ってきているよね。
じゃ、九州も都だったら、生産地である必要ないでしょうよ。
同じことだよ。
それに戸数の数え方時代、倭人伝のは家の数だから。
壱岐をみればわかる。延喜式で550戸。
多分農家が多いので550戸は殆ど島全体の戸数だと思う。
倭人伝では3000戸。
34 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:33:03
>>33 横からだけど、九州説なら、九州の中で食糧生産を賄わなきゃなんないんじゃないの。
それとも、邪馬台国は九州だけど、支配地域は本州まで及ぶという説なんかな。
本州からも食糧を持ってくると。
>>30 >>どんなに頑張っても、当時の人口なんて分からない
でも、平安時代より人口も耕作地も少なかったとは言えるんじゃないか?
それが言いたいんだよ、平安中期ですら無理なものは弥生時代ならもっと無理
>>答がなければ、結構恣意的な意見出せる所が満載だから
>>楽しめるのかも知れない
それは九州説の方だろ
延喜式という否定データはちゃんとあるんだよ、なのに弥生時代のことは解らないからと一蹴する
解らないのなら議論しようが無いじゃないか
36 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:38:53
>>34 九州説は九州までだよ。邪馬台国は周りの国から米を徴収してたんじゃないの?
それに米だけ食べてたわけじゃないでしょ。
それに倭人伝の戸数をそのまま鵜呑みにはできない。
3世紀前半の北部九州の人口は22万人位。
38 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 18:43:43
>>37 環濠集落見てご覧。
畿内にはないからしかたないけど。
九州にはあるんだよ。
竪穴住宅と同じ数だけ、高床式の建物があるから。
高床式は夏意外は寒すぎて竪穴のほうが都合いいだろうし、倉庫も多い。
>>38 横からだが、正直、答えになってないと思うが。
思わせぶりな事だけ書いて後は投げっぱなしというのが
九州説の人には多い。
42 :
ローガン :2009/09/26(土) 18:57:22
>>36 >3世紀前半の北部九州の人口は22万人位。
どこから引っ張ったデータですか?
議論がややこしくてよくわかんね。 「延喜式」のデータを基にすると、 倭人伝の戸数は多すぎる、から 1邪馬台国は九州ではない 2倭人伝の数字は正確ではない という論議なのか? でも、倭人伝の記述が正しくなければ 九州説の根拠がなくなるから、 やっぱり邪馬台国は九州ではない、 という議論なのか?
44 :
うましか :2009/09/26(土) 19:07:42
>>25 のデータから概算すると、耕地面積が117448町なら、九州全体で100万人くらいが適正人口でしょうかね。
45 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:09:43
>>39-
>>42 だけど、畿内説ってばっかじゃないの?っていつも思う。
環濠集落見て御覧なさいよ。あとは38を読んでちょうだい。
46 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:12:22
弥生時代に人がいた気配もない奈良がなんで都ですかっての。 戸数でいえば、完全に倭人伝に合致しないのは近畿説のほうなのに。
>>45 泣くなよw
あと、環濠集落って日本全国どこにでもあるよ。
48 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:15:06
>>47 泣くはずないでしょw2ちゃんで。
百戦錬磨なんだからw。
>>44 それはですね、
>>3 と
>>19 を見て貰えば解るとおり、
九州で25,200戸と出ていて、1戸は30人前後だから
75万人くらいでしょうね
ただし、平安中期での話です
>>43 戸数を信用するなら九州には収まらない
もし信用しないと言うのなら、嘘だという根拠を示せという事です
>>35 >でも、平安時代より人口も耕作地も少なかったとは言えるんじゃないか?
確かに想像すれば言えるでしょうが
>それが言いたいんだよ、平安中期ですら無理なものは弥生時代ならもっと無理
いったい誰が無理と判断しているの?
>延喜式という否定データはちゃんとあるんだよ、なのに弥生時代のことは解らないからと一蹴する
実際に解らないんだからしょうがありませんね
環濠集落の人は議論放棄か。予想通りの展開だ。 吉野ヶ里遺跡が周辺を含めて5000人ぐらいらしいから、これを1000戸程度とすると 同規模の環濠集落が220あれば22万人になる計算だが。
サイキバ臭がプンプンするなw
>>確かに想像すれば言えるでしょうが 妥当的推論と言って欲しい 時代と共に人口も耕作地も増えると考えるのが順当な理解 >>いったい誰が無理と判断しているの? 今、持論を展開しているこの私がですよ 無理と推論せざるを得ない >>実際に解らないんだからしょうがありませんね あなた、解る事から詰めていって、解らない事を解き明かして行くのが学問というものでしょ? まずは解っている延喜式のデータから、弥生時代を推論しているんです 考古学でも同じですよ こんな出土があるから、この地域とこの地域の繋がりは・・・と推論できる、とか そういう事しか言えません 私は今、稲作データ的に見て、九州に邪馬台国は収まらないんじゃないか、と言っているんです 漠然とした話をしているんじゃありません
>>49 >嘘だという根拠
少なくとも、ウソだと推測することができる根拠だが
「晋書地理志」によると、洛陽を含む河南郡の戸数は
十二県で十一万四千四百戸。
洛陽だけではおそらく十万戸以下で、
魏時代にはさらに少なかっただろう。
魏の首都と同等の戸数だとは、なかなか信じにくい。
「戸数はいい加減かもしれない」 と認めても九州説には不利な事は無いと思うのだが。 実際問題、判らないのだからさ。
56 :
うましか :2009/09/26(土) 19:39:15
>>49 私は口分田の配給基準(男2段、女はその2/3)と
非生産層の取り分ともいえる出挙の利率(30〜100%)で試算しました。
利率50%とすると2人で3人分を生産するのだろうと言う理屈ですね。
(総耕地1174480段 / 一人当たり((2 + (2 * (2 / 3))) / 2)) *非生産層分の加算 (3 / 2) = 1 057 032人
57 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:39:30
あのー、横から。どうしてもひとこと言いたくて。 議論を見てると、農業生産力が豊富なところでないと邪馬台国じゃない、 都の人口を維持できない、・・・なんて、もっともらしく言ってる人がいるようで、 なんかみんなそれに惑わされてしまってる希ガスです。 女王の都が農業生産力が低かったって、ちっとも構いませんよ。違います? 京や大阪、それに江戸を見たって、そこ自体は農業生産力は大したことない。鎌倉も。 邪馬台国は倭の女王がいて30カ国の盟主でしょう。大きな権威があるわけですよ。 だから自国で農産物自給できなきゃ他国からどんどん食料調達すればいいじゃないですか。 実際、対馬国なんか国境を越えて盛んに交易して食料調達してたわけですよ。倭人伝に書いてあるでしょ。 それに租税のことも出てますよね。 ですからね、農業生産力がないからあそこは邪馬台国じゃない、なんて論理自体おかしいわけですよ。 それよりか、都であれば今の東京と同じように、各地からいろんな物資が運ばれてくるわけ。 生産力よりも交易や流通の面を重視するべきだと思います。
58 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:39:54
完全に近畿説は成り立たないってことがわかった。 だって倭人伝に書かれているのは、人口ではなく戸数だもの。 近畿の戸数じゃどんなにがんばっても到底及ばない。
>>54 魏の首都の民は、農民でしょうかね?
都で生きる民は、二次産業か三次産業に従事して、報酬で食べている人たちでしょ?
単純に比較できない気がします
魏全体では何戸くらいだったんでしょうね?
>>58 畿内説の学者もそれは言及してるけどな。
九州も大和も及ばない。それだけの事だろ?
61 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:51:29
>>60 じゃ、そんな延喜式、なんで引っ張ってくるの。
最初は九州しかデータをみせずに、それで済まそうと思ったわけ?
畿内説ってうさんくさいのなんのって、
サイキバ君ていうの?畿内説はそれじゃないの?w
>>56 私は別の方法で計算しました
大宝令の田令では下記のランク分けがありました
上田(穫稲 500束/町) 500束×2升/束×1.54kg/升=1540Kg/町 =25.7俵/町
中田(穫稲 400束/町) =20.5俵/町
下田(穫稲 300束/町) =15.4俵/町
下下田(穫稲 150束/町
1人の食い分=1石=2.5俵 とすると、中田で1町歩あたり8.2人を養える
だから九州では、 117,448町歩×8.2人/町歩=963,073人
>>3 の戸数の計上高を裏付ける計算結果といえると思います
63 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 19:53:07
魏ー4,432,881(263年)、 呉ー2,300,000人(280年) 蜀ー940,000人(263年) 三国合計でも戸籍登録人口は767万人、実人口はおそらくこの3倍程度。
>>59 魏の戸数はわかりませんね。
推定人口なら、360万人より少なかっただろう、と言われます。
>>63 奈良時代で550万人くらいですよ
戸籍に含まれる奴婢や兵士や官僚や貴族や僧侶を含めての数字です
三国でそんなに少ないんですか?
>>65 少数民族や奴婢は含まない。魏は屯田兵や民屯田(地方から流れてきた戸籍のない流民
に農地や農牛を貸し与えたもの)で、おそらく戸籍人口の2倍は戸籍のない耕作人がいたの
ではないかと推定される。俺は、この3倍程度が実人口と考えている。
ちなみに、西晋の戸籍登録人口は16,163,863人(280年)。
>>61 誰か別の人と勘違いしているようだな。
俺は人口や戸数については基数的には信用できないけれど、
序数的には信用しても良いのではないかと思っている。
実数は怪しいけど、大小の比較は出来るのでないかって事ね。
68 :
うましか :2009/09/26(土) 20:15:52
>>67 > 大小の比較は出来る
玄海諸国の和(3万)より投馬國(5万)の方が大きい、邪馬台国(7万)はさらに大きい、と言うことですね。
私は、序列だけでは無く、大雑把な相対比としても使えるのかなと思いますけど。
>>67 どういうこと?
邪馬台7万戸、投馬5万戸、奴2万戸を、それぞれ7000戸、5000戸、2000戸ぐらいに縮めると?
で同様に縮めて伊都は100戸と?
>>65 唐の時代で5000万人ぐらいらしいから、そんなものじゃない?
古代はともかく、おおむね日本の人口の10倍ぐらいが
中国の人口だったと思う。
>>68 私も、そういう使い方もできると思っている
>>3 の北高南低の生産力分布から言えば、
南に投馬国(5万)や邪馬台国(7万)があるとする九州説では、苦しくなる
単に卑弥呼の都が南にありますと言っているだけなら良いんだよ
聖なる都だけが僻地にあるという事もあるかも知れない
でも戸数まで書かれているから、南にそんな大国は想定しがたいと思うんだ
72 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 20:25:28
>>57 >議論を見てると、農業生産力が豊富なところでないと邪馬台国じゃない、
>都の人口を維持できない、・・・なんて、もっともらしく言ってる人がいるようで、
そういうことを言ってるんじゃないよ。
別に、邪馬台国が他国から食糧を持ってきても構わない。
だけど、他国から食糧を持ってくるにしても、
九州だけでは、全体を養えないんじゃないかということ。
30国連合と狗奴國全部の人口を九州だけで養うのは無理ということになれば、
邪馬台国がどんなに権力を持っていても、
無いモノは持って来ようがない。
73 :
うましか :2009/09/26(土) 20:26:30
>>62 耕地面積から試算すると大まかには同じような数値が出ますね。
でも令制下の耕地面積からの推定だけでは、実際の数値より少なく出るのだろうなとも思います。
漁撈や狩猟などで生じた生産物は耕地に変換できないですからね。
74 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 20:36:14
小山修三氏の研究では、弥生終末時の日本の人口は60〜100万超程度。これは、鬼頭宏氏 の長期人口推移の元になったもの。
>>59 >単純に比較できない気がします
そう言われて気がついたのが「収租賦」です。
戸籍があったのでしょうかね?
また、中国側が認識する「国」が
(「城柵」のある)都市なのか、
周辺の耕作地を含めたものなのか、
ある領域をもったものなのかも問題ですね。
>>69 そこまで厳密に比率を信頼しているわけではなく、単なる順番。
でも、差があまりに隔絶しているようだと、ずいぶん大きいとか
判断するだろうから、やはり
>>69 や
>>71 に近い考えとは思う。
租庸調のうち田圃の収穫に掛かる租は3%と低く、もっぱら国衙の糧に当てられ 都に運上されるのは調の方でした、絹や特産物、貨幣での納付も可です 租は地方税、調は国税、庸は血税?と言ったところでしょうか だから口分田の米の収穫は、ほとんど(97%)が農民自身が消費していたと言えるのでは 男子に支給される2反からは、玄米で2俵ほどとれます これは、米だけ食って1年過した時の、一人当たりの必要カロリーに匹敵するそうです 奈良時代の農民は、意外と米を食べられていたのでは でも出挙でがっつり持って行かれていたとしたら、そんなに米は手元に残りませんね でも、人口は耕作面積に比例しない、粟稗や魚とか食べてたんだろ、という考えは納得できませんね それじゃマリーアントワネットの言い草、「パンが食べれなかったら、クッキーを食べればいいじゃない」になっちゃいます
78 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 21:17:19
邪馬台国時代は物々交換。大倭の監督が見ながら交換しあう。 それと時には鉄くずを貨幣がわりにしていたらしい。
物々交換では活発な交易は難しそうではあるな。 お互いに相手が欲しい物を持っていなければ 交換は成立しないのだから。
そのために、市があるんだよな 北部九州は、大陸も含めた交易センターだったんじゃないかな
韓半島に魏が帯方郡を置いた直後に卑弥呼が朝貢しているのは、 それだけ韓半島に関心があったからだろうし 邪馬台国は貿易立国だったのかもしれないな
83 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:09:47
>>3 にいう戸数なんぞはそのまま信用するわけにはいかないと思うが、南九州が北九州
よりも耕作面積が少ないということは言えるかなと思っている。シラス土壌は農業に
適していないと思うんでね。
しかし、そのような事実は、逆に南九州に邪馬台国があったことを裏づけることだと思
うよ。なぜかと言えば、
>>57 氏の思考が大切だよ。南九州に大勢力がいたことはそこに
あるおびただしい住居址(花弁状住居が有名だ)や古墳時代に入ってからの沢山の古墳
によって明確に認められるんだよ。生産力の乏しいところに、何でそんな大勢力が存在
しえたのか、他の地方から搾取することができたということ以外には考えられないね。
南九州にいた人々(他の地方から集まった人々も多かったはずだ・・もともと南九州に
いた人々だけであのような古墳群をつくれるわけがない)は、他の地方から送られてく
る食料で生きていたに相違ないんだよ。これこそ、邪馬台国の存在を裏づけると思うな。
84 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:14:20
85 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:28:26
>>72 倭人伝が伝える30国の総戸数は明らかでないが、戸数が書かれていないのは小国にすぎない。
書かれているのを合計するとおよそ15万戸だから、旁国を合わせ全部で20万戸程度だろう。
九州全体でこれを養えないか? 北九州だけで3万戸はあったんだぜ。そのほか、熊本、大分、
川内、宮崎の平野がある。九州全体で20万戸ぐらい十分に考えられるところだろう。
今の北朝鮮を考えてみな。どれだけの平野があり、どれだけの収穫があるのか。きびしいだろう
と思うがそれでも大変な人口がいる。
>>83 たしか、九州説では邪馬台国への日数が過大になって困っていたはず
それを古代は道が不整備だの山道だのと言って、丸め込んでいたはず
そんなに道が悪くて日数の掛かる場所に、どうやって米を輸送するんだい?
それに南九州の古墳って、小規模だよな
87 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:44:22
88 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:54:50
魏の使者は入ってくる地点が決まってるが、物資は生産地から運ぶんだから、 使者の行程とは別だと考えてよいだろう。いろいろなルートが使えるんだよ。 少々日数がかかっても、船で運ぶということが主たる方法になるだろうな。 南九州の古墳が小規模というのは、どこと比較しての話かな? 少なくとも 九州では最大規模の古墳がある。百メートル級のがいくつもあるよ。それに 数が問題だ。数千とかいわれている。前方後円墳だけで二百以上はあるそうだ。 墓造りなんてのは、しょせん、人々が生きるためには無駄な労働だ。 生産力が少ないところで、何でそんな無駄な労働に労働力をつぎ込めたのか、 あなたはどう考えるんだ?
89 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 22:55:52
>>88 >前方後円墳だけで二百以上はあるそうだ。
それって、弥生時代じゃないだろう。
91 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 23:02:32
>>86 行程記事が張政等の旅行報告書に基ずいて書かれていたとすれば(魏の皇帝の使節としては最後の使節で
あるから、最も最新の正確な記録として採用した可能性が高い)、張政等の任務からして要所の豪族らと
会談しながら邪馬壹国まで行ったのであれだけの日数になったと考えられる。道が悪かったなど考える必
要はない。なお、張政等の報告書は詳細なものであった筈であるが、陳寿(およびその配下)は倭人伝を
簡略に記述しているため、張政等が会った倭国の要人名は全て記さず各国の官を代表的に挙げるに止めて
いる。
>>88 ある意味、活動があった期間が長いという事だな
長い期間にわたって、徐々に造られたものだよ、層が厚いというか
でも、前方後円墳は後の時代のものだろ
93 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 23:10:59
>>90 弥生時代でなくとも、さほど遠くない後世にあれだけの古墳を作れたのはそれに相応しい国力があった
ことを示すものだろう。九州の食料生産力は平安時代の記録よりはるかに大きかったのではないか。
>>1 otu
トヨタン、トヨタン・・・・・・・・・・
95 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 23:24:56
>>90 >>92 初心者の方々かな。前方後円墳は一言でいえば古墳時代の話だな。
しかし、弥生時代と古墳時代は続いているんだ。弥生時代、南九州に人がいな
くて古墳時代に入って急に人が集まったというわけではない。 花弁状住居
や櫛形文土器で認められる繁栄は弥生後期ごろの話だ。それが古墳時代へと続
いて多数の古墳が造られているんだよ。
上の方で小山修三氏の名前が出ていたから触れておくと、小山氏の推計で弥生
時代の九州における人口稠密地は一つは北の筑後川流域、もう一つが日向の南
都城盆地付近だそうだ。北の稠密地が伊都国、奴国、南の稠密地が邪馬台国と
みればぴったりだね。
>>91 途中までは里で示しているから、要所間の「距離」を記したかったのが本分
「日数」は距離表現に替わる手段として使ったのだろう
海や平野内なら、どの方角に何里という感覚は掴みやすいが、
内陸に入って経路が複雑になり、日数を重ねるほど、単純に方角と距離といった表現は不可能となる
だって、地図という、俯瞰できるものが無いんだからね
だから日数表記に変わったと見る
だから、日数は実日数だよ、会談や休養に要した日数は含まない、純粋に距離の代用だよ
>>93 西都原の二大古墳以外はショボイし、
>>92 氏も言っているが400年間に渡って細々と営まれた古墳群だ。
>>95 都城は地下式横穴墓の文化圏だ。
前方後円墳とは関係ないな。
>>95 稠密度という言葉が出たが、それはパーセンテージという意味だな?
絶対数ではない、それはいいね?
平安中期では、日向「7,400町歩 1400戸」なんだよ、それは動かない
そして弥生期はそれより下回るだろうという推論も、また妥当だと思うんだ
日向の南都城盆地付近が稠密度が高かった時期があったなら、
その他の地域が相対的に人口・生産が低かったという事なんだ
その時代は、九州全体の人口・生産が低かった、それだけの事だ
邪馬台国の戸数を満足できるという話にはならない
100 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 23:46:39
>>97 それで、九州に日向以上の古墳群があったかな?
>>98 曾の中心地域では前方後円墳をあまり造らなかった、それでも日向には沢山の前方
後円墳がある。日向の人々の勢力は底知れないものがあるね。
魏においては、薄葬主義という考えがあったようだね。魏の使者がきたときに、倭
国の大きな塚を造るのをみて何て言っただろうか? 薄葬主義を教えたんじゃない
かな。そう考えると、南九州で地下式横穴墓が行われたことも理解できるな。
101 :
日本@名無史さん :2009/09/26(土) 23:58:28
>>96 張政等の報告書に基ずいて記述されているとの前提で言えば、張政は難升米に黄幢と檄を持たせて行っている
から、邪馬壹国までの途中の要所(豪族の居館など)で檄(人々への告知文を板書したもの)を掲げて教宣活
動を行っている筈だ。また、舟で行くにも食事や用足しや宿泊をしなければならず、しかも小人数ではないの
で行く先々への連絡など時間を要した筈だ。会談時間などは除いても相当な日数を要した筈だ。
102 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:01:00
隋書倭国伝見ればわかるけど、どんなに南九州説、近畿説が頑張ったってアウトだよw
103 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:04:28
>>99 >稠密度という言葉が出たが、それはパーセンテージという意味だな?
君の辞書にはそうあるかね? 私の辞書にはそうは書いてないが。
>平安中期では、日向「7,400町歩 1400戸」なんだよ、
その数字が正しいとは思わないが、平安時代には南九州に都はなかったからね。
邪馬台国があった時代と比べれば大きく減少しているだろうな。
>稠密度が高かった時期があったなら、その他の地域が相対的に人口・生産が低
>かったという事なんだ
稠密していれば労働力はあったろうが、土地が肥沃になるわけではないし、耕作
面積が急に増えるともいえないしね。生産力が高かったとは言えんよ。
したがって、他の地域が相対的に生産力が低かったとは言えない。
>>95 しかし、南九州>北九州ではなさそうだね。
奴国2万戸に対する邪馬台国7万戸、
更には投馬国5万戸をどう考える?
>>97 >>100 よこ失礼
西都原古墳群の男狭穂塚、女狭穂塚ですが、どうして五世紀の構築とされてるのでしょう。
帆立貝型という形状、そして、地下式横穴墓という様式が考えられるが、
他にこの形がとられてる古墳ってどこがあるか知ってます?
106 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:07:06
>>104 近畿はトンでもレベルだしね。論外だよね。
107 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:09:13
卑弥呼の墓については 大作冢径百餘歩徇葬者奴婢百餘人 としか書かれていない。墓が円墳 であったか、方墳であったか、あるいは前方後円墳であったかは分らないし、径百餘歩が卑弥 呼本人の墓の径なのか徇葬者の墓群を含めたものかも判然としない。
>>101 内容とは関係ないけど、間違えて覚えるようだから指摘しとく。
×基ずく
○基づく
>>100 >
>>97 > それで、九州に日向以上の古墳群があったかな?
ハァ?
わけのわからんことを訊くな?
西都市周辺の古墳のほとんどはショボイ古墳だと言ってるわけだが。
>
>>98 > 曾の中心地域では前方後円墳をあまり造らなかった、それでも日向には沢山の前方
> 後円墳がある。日向の人々の勢力は底知れないものがあるね。
だから、
>>95 推奨の「南九州一の人口密集地」都城は、
>>93 で言う前方後円墳とは関係無いんじゃないかと言ってるわけだが。
> 魏においては、薄葬主義という考えがあったようだね。魏の使者がきたときに、倭
> 国の大きな塚を造るのをみて何て言っただろうか? 薄葬主義を教えたんじゃない
> かな。そう考えると、南九州で地下式横穴墓が行われたことも理解できるな。
地下式横穴墓が登場するのは5世紀以降なんだが・・・・
110 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:14:52
>>104 投馬国は福岡県南部、邪馬壹国は熊本県と宮崎県と考えれば全て丸くおさまる。
まあ、箸墓が有力だろうね。 あとは、魏の時代の鏡が出土されてる椿井大塚山や黒塚古墳も面白いと思う。
>>106 北九州説も同様の理由で違うと考えてる。
現在のところ、九州では奴国(博多湾周辺)を上回る国は
見付かっていないから。
>>104 >しかし、南九州>北九州ではなさそうだね。
これは同意^^
>奴国2万戸に対する邪馬台国7万戸、
>更には投馬国5万戸をどう考える?
投馬国5万戸に関しては私もパス。
これ、本当に悩まされる。
>>110 縄文人さん?
114 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:19:35
>>111 箸墓が卑弥呼の墓だと?おまえさん考古学を知らねえな。
>>114 何いってるの?最有力候補の「箸墓」をはずしてどうする?
>>115 単に北九州説を支持してるのかと思ったのだが。
違うの?
118 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:25:47
箸墓は100%無理。 長さも違えば時代も違うし民族も違う。
119 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:33:45
>>105 帆立貝型古墳は、検索すればいくつか出てくるよ。例えば、次のように。
群馬県の太子塚古墳という古墳は帆立貝型古墳というふうに呼ばれている古墳です。直径
20mの円丘に小さなでっぱりがついていて、帆立貝の形に似ているので、昔から帆立貝型古
墳と呼ばれています。
古墳の築造年代はむずかしいね。南九州の古墳については、20年ぐらい前の本をみると
全て5世紀以降だとか書いている本すら少なくないからね。
120 :
縦目仮面 :2009/09/27(日) 00:37:06
>>105 男狭穂塚・女狭穂塚は陵墓参考地なんで詳しい調査はされていません。地中レーダー調査で、
はじめから帆立貝型であることや、重なり合ってはいないことなどがわかったようです。年代は、
作り出しなどの築造方法や陪塚とされる古墳の埴輪などからじゃないかな。、男狭穂塚のほうが
やや古いんでないですかね。これらの特徴は、大阪藤井寺市にある応神天皇の皇后だった仲津
姫の陵とされる仲津山古墳と非常によく似ています。
>>101 あなたは、東京から大阪までの大よその車での所要時間を聞かれて、
シルバーウィークの大渋滞のデータを元に話すのかい?
魏志倭人伝の冒頭につらつらと述べられている行程や風俗や官名、
それは「倭国の概要」なんだよ、どこにあるどんな国について今から書き連ねるかという冒頭文だ
使節の行った個々の行程に関わりなく、純粋に地理情報としての数字だ
日数は距離の代用に過ぎず、何日間の旅で到達できますよと、それが伝えたい内容だ
だって、有事の時は兵糧とか計算するんだぜ、実数でなければ意味が無い
>>117 さんくすw
>>118 ハイ、ハイw 寝ぼけてるんですか?w
>>119 情報ありがとう。
全て5世紀以降ね。
>>120 >男狭穂塚のほうが やや古いんでないですかね。
>これらの特徴は、大阪藤井寺市にある応神天皇の皇后だった仲津姫の陵とされる仲津山古墳と非常によく似ています。
情報ありがとう
しかし、それじゃあ、応神天皇の皇后陵は帆立貝型古墳スか?w
>>111 オメーは競馬の予想屋か?本命対抗書いて連単でも買うのか?
馬鹿丸出しだな
124 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 00:47:09
>>109 日向で2大勢力が対峙していたなんてことは考えられない。前方後円墳を採用した連中と
採用しなかった連中の間にも、当然、関係はあるんだよ。
>地下式横穴墓が登場するのは5世紀以降なんだが・・・・
甘いな。つい先頃まで日向の前方後円墳は5世紀以降と言われていたんだ。
それと同じく5世紀以降なんていわれてきた地下式横穴墓だっていつから造られて
いたか、分かったもんではない。早まる可能性は十分にある。
125 :
縦目仮面 :2009/09/27(日) 00:54:42
>>122 いや、作り出しの形状などですね。しかし、帆立貝形古墳は、全国に400以上あると
思います。それはそうと、ヤフーを見てましたが、向こうもなかなか個性的な人が多いですね。
おっと失礼〜ホタテ型だよなw
私の
>>105 レスは取り消して頂戴(恥ずかしw)。
西都原の古墳って、詳しく調べたことないんだけど、もし、その形状が
ホタテ型ならば、卑弥呼の墓ってことはマズないわw
ようは、九州の亀塚古墳の形状を卑弥呼の墓と言ってるもんでしょ?
絶対ありえん(笑)五世紀構築でしょう。
>>123 ?? 意味わからん、なんで競馬の予想なの?
>>125 >ヤフーを見てましたが、向こうもなかなか個性的な人が多いですね。
ババさん、ザラコクさんはハッキリ言って詳しいですね。
他の人はしらんが・・・
127 :
縦目仮面 :2009/09/27(日) 01:18:10
男狭穂塚はニニギノミコトの墓、女狭穂塚はニニギノミコトがこの地で出会って妻としたコ ノハナサクヤヒメの墓といわれたりしますが、まあこれはないでしょう。どちらかの被葬者が、 日向に滞在したとされる景行天皇の皇子で、日向国造のはじめとなった豊国別王という説 もあり、たぶん唐松山さんが詳しいんでないかな。 あとヤフーで古田氏の漢文読みにケチをつけてる人は、あの執念深さは凄い。ww
128 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 01:23:45
>>126 西都原古墳群というのは、前方後円墳32基、円墳278基、その他いろいろから
なる大古墳群なんだよ。我が国最初の古墳かといわれるものもある。少し調べてか
ら書いた方がいいぞ。
縦目さん、チャレンジしてくればいいのに(笑)
>>128 いえ、興味ないですw
初期の古墳があるのは知ってますが、
卑弥呼の墓は円部が144メートルクラスですので調べる必要なんてありません(笑)
131 :
縦目仮面 :2009/09/27(日) 01:34:12
>>129 ・・・西都原の地名は、古くは「斎殿原」とも呼ばれたらしく、これは神を祀る神殿があ
った台地というほどの意味ですかね。なかなか興味深いものがあります。俺もあんまり詳し
くはないんですが、ヤマト王権とのつながりなどを調べればいろいろ出てくるでしょう。
132 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 01:46:34
>>130 卑弥呼の墓は円部が144メートルクラス? あぁ、そう思い込んで
>>122 で
頓珍漢な応対をしていたのか。浅いなあ。
133 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 01:59:24
大きさなら御塚権現塚古墳も忘れないでね。 130メートル級と150メートル級があるよ。 円墳だよ
134 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 08:01:52
>>133 周濠を入れてだな。箸墓は 周濠を入れれば400メートル以上あるよ。
>>124 > 日向で2大勢力が対峙していたなんてことは考えられない。前方後円墳を採用した連中と
> 採用しなかった連中の間にも、当然、関係はあるんだよ。
「2大勢力が対峙」なんて誰も言ってないがw西都付近は熊襲、隼人対策の最前線でしょう。
私は西都で細々と古墳を造りつづけた人たちと都城の異文化勢力は別物だろうと言ってるだけ。
貴方は都城の人たちが西都に進出して、いきなり前方後円墳を造り始めたと言いたいわけなのか?
最初の書き振りからは、そうは読めないけどな。
要するに貴方は最近見知った用語を意味も判らず書き連ねたかっただけなんでしょう?
だから言ってることが地域相も時代相もメチャクチャなのに気づきもしない。
136 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 09:44:54
勝手に地域相だとか時代相だとか妄想しないことだな。 >西都付近は熊襲、隼人対策の最前線でしょう。 前方後円墳は都城市内にもあるんだよ。けして都城と西都原とが異文化 だとか敵対していたということではない。
138 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 10:30:00
じゃ、その都城の古墳は何世紀の古墳なの? 自分でも「前方後円墳」は根付かなかったと認めておいて、 そんな後世の例外的際物を出して反論のつもりですか? まぁ、西都にも地下式横穴墓がも有るわけだから多少の混交は有ってしかるべき。 貴方が説明しないといけないのは、弥生時代の「人口密集地」であった都城が、 如何なるプロセスによって西都の古墳群と結びつくのか?ですよ。
139 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 10:41:06
馬鹿か、同じ地域じゃないか。日向の中で都城と西都原を分けて考えようなんて のがどうかしているんだよ。都城を中心として日向一帯、同じ勢力だ。 人は祖先の墓を毎日眺めながら暮らすわけではないんだよ。少し離れたところに 墓を造ることはいくらでもある。都城の連中が西都原に墓を造ったとみてもおか しくはない。
www 西都原バカがやけに多いなw 今、流行か?w
141 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 12:14:00
>>121 私も倭人伝冒頭部分の記事は地理的情報であることは否定しない。だが、その記述が張政等の報告記録に
基づいて書かれた可能性は高いと思う。何しろ魏皇帝の使節として最後の派遣者であり、卑弥呼の要請に
応えて出発して以来、男王が立った際の混乱と壹與の共立まで見届けた使節の報告である。倭国の状況に
ついて最も詳しい最新の情報とみなされても不思議ではない。それで、私は投馬国および邪馬壹国への水
行や陸行の記述が里数でなく日数になっているのは、張政等が実際に移動に要した日数を書いていると判
断する。途中雨などの気象条件で滞在した日数などは除いてあるだろう。有明海沿岸に沿って南下しなが
ら入り江や川を上ったり下ったりしながらの舟旅では潮の干満などで実際に移動できる時間は限られてい
る。立ち寄るところが多いと意外に多くの日数を要するのだ。なお、里数でなく日数表示にしたのは、既
に郡から邪馬壹国までが万二千余里と分っており、郡から末盧国までが1万余里、伊都国までで1万五百
余里、奴国まで1万六百余里、不彌国まで1万七百余里であるから、不彌国からだと邪馬壹国まで千三百
里である。末盧国からだと二千里である。里数は分っているのである。そして、倭人伝の1里を70m前後
とすれば不彌国から邪馬壹国までは百km程度である。こんな短距離をあんな日数をかけて行くのである。
張政等が各地の要人らを訪れながら行ったことが読み取れるではないか。
>>140 人様を気安くバカ呼ばわり出来る貴様は、何様でどれだけ偉いんだ?
家庭での幼児教育の欠落から来るものであろうから、貴様に全責任が有るわけではないだろうが、
成人であるなら、少しは自覚と言うものがあろう。
143 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 13:41:30
倭人伝には 其死有棺無槨封土作塚とある。 この墓は役人級の墓だろう。棺はあるが槨は無く土を封じて塚を作る 卑彌呼以死大作塚径百余歩 上と下の漢文を比べて同じ「塚」という表現を使っていて 卑弥呼のは塚の大きいものだ。 つまり役人級と卑弥呼の大王級がそれほど隔たった格差はあまり感じられない。 箸墓のような立派な墓を作ったら、まずそのようなものを書き記す必要があるのは当然。 上の漢文の比較で見るように二つの塚はそれほど隔たりを感じないが、 「箸墓」と「役人級の墓」を比べたら天と地ほどの隔たりがある。 また箸墓には葺石で封じている。作りたては表面は積石が露だったろう。 倭人伝は土で封じるとある。ここも相違点である。 お堀も記述がないのはおかしいし、長さも280メートル、お堀をいれたら400メートルだ。 これらを考えて200%箸墓は卑弥呼の墓ではないと言える。
>また箸墓には葺石で封じている。作りたては表面は積石が露だったろう。 倭人伝は土で封じるとある。ここも相違点である。 お堀も記述がないのはおかしいし、長さも280メートル、お堀をいれたら400メートルだ。 堀は後年改装したのかも知れないだけだろ。
>>143 当時の有力者の墓は木槨構造を持っている事が確認されているよ。
(例えば、伊都国の比定されている、前原市の井原ヤリミゾ遺跡)
封は土をもると訳されてることが多いな。
蟻塚のことを蟻封(ぎほう)なんて言うしね。
146 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 14:24:07
有棺夢槨は、埋葬状況を表したものではない。
147 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 14:40:56
>>144 かもしれないでは・・・。
円部だけを計ることはありえません。堀があればなお更です。
>>145 その古墳の時代って年代測定があまり信頼できないからどうかなって思います。
槨のない古墳を探しませんか。倭人伝にあるのだから。
棺が木棺だったら棺は跡形も無くなっている。
棺が石だったらそのまま出ると。盗掘されていれば方々に散らかっている。
そして槨は無いのでただの土饅頭、副葬品は玉、鏡、矛など。盗掘されていれば、何もなし。
そういう墓ですね。
とにかく箸墓は200%卑弥呼の墓ではないと言えます。
もう、畿内説論者は、断末魔の叫びのようにしか聞こえなくなりましたw
148 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 14:48:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
149 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 15:08:20
>>145 前原市の井原ヤリミゾ遺跡は「木棺墓」ってある。
どこに木槨構造があるという記事があったの?
私が143で言いたいことの主旨は「槨」のことではないのだけどね。
150 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 15:24:18
>>147 あ。そうそう、殉葬者が100人いました。
一緒の墓なのか、または別の墓を近くに作ったのかは、倭人伝からは定かではありません。
>>149 西谷正っていう九州大学の教授だった人の本に載ってた。
>>143 はあまり説得力をもって響いて来なかったな。
1.径百余歩というのは際立った格差と考えるのが普通ではないか?
そして、大きく土を盛り上げて、何の工夫も行わないのはむしろ不自然ではないか?
2.封の解釈について、
>>145 のとおりに土を盛るとすると、
表面の葺石があっても、何らおかしく無いのではないか?
3.後半の外交記録と、前半の風俗記録を同列に扱ってよいのか?
また、もし別々の人の記録を基にしているのであれば
墓の構造に言及されていなくとも不自然ではないのではないか?
こんな理由で箸墓否定の根拠としては弱いと思った。
152 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 16:27:07
>>143 封土を貧弱な土饅頭くらいに考えているとしたら、それは違う。
封土為壇(土を封じて壇を爲る)とか、封土為山象(土を封じて山の象を爲る)
などが、儒教の経典の注疏に何度も出てくる。
皇帝の祭祀も、土を封じて行われる。
秦の始皇帝や漢の武帝など、業績の飛び抜けた限られた皇帝しか出来なかった
封禅(ほうぜん)という泰山で行われる特別な祭祀も、
泰山の山頂で土を封じて壇を作る。
153 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 16:34:07
>>152 封土に決まった形などはなく、封じられるものが土にて封じられただけです。
封じられた土が地表よりも高くなれば
それは盛り土
154 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 16:37:47
155 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 16:38:29
箸墓古墳は奈良県にある。邪馬壹国は九州にあった。邪馬壹国に居た卑弥呼の墓を奈良県に作るか? 箸墓の名前の元になったという伝承の女主人公は死因も含めて卑弥呼とはかけ離れたものである。 箸墓の築造年代は未だ確定していないが恐らく4世紀以降である。 箸墓のような規模の墓を平地に築くとなると5千人が毎日働いても2年くらいはかかるであろう。倭 人伝の記述では 卑弥呼以死大作冢径百餘歩 となっていて、予め準備されていた墓に埋葬されたの ではなく死後に墓が作られたと解釈できる。卑弥呼の死の前後は狗奴国との抗争問題もあり、男王が 立って国中不服で千餘人が死ぬという混乱状態であり、箸墓築造のような大工事が行えたとは考え難 い。ただし、山裾の自然形状を利用した墓であれば比較的短時日で作れたかも知れない。
156 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 16:47:40
>>155 縄文人さん
>箸墓の築造年代は未だ確定していないが恐らく4世紀以降である。
確定していないと仰るのはその通りだと思いますが
それでも縄文人さんが「恐らく4世紀以降」とする根拠や理由は?
>>155 >邪馬壹国は九州にあった。
これを論拠にしている点で冒頭から論法として破綻しているよ。
手段と目的を取り違えてる感じだ。
あといくら真面目に書いても台無し。
158 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 17:04:07
>>156 あれほどの規模の大工事を行うには強大な権力と国力が必要であろう。3世紀の畿内にそれがあったと
する根拠が見出せないからである。ありますかな?
>>158 畿内周辺にいくらでもある。
それに丹波や吉備の勢力が絡むので、大工事を行うのに
何の問題もないですよ。
160 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 17:16:03
>>157 倭人伝に書いてあるだろ。郡から女王国まで万二千余里と書いてある。郡から末盧国までで1万余里とも、
さらに伊都国までで1万五百余里と書いてあるだろ。半島南岸から九州北岸までが3千里なんだから、伊都
国から女王国までの千五百里はその半分の距離だ。伊都国から南の方角へ千五百里と言えば九州内だ。こん
な簡単な計算問題が分らんかね。屁理屈で文句をつけるもんじゃないよ。
161 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 17:23:36
>>159 ほほう。では3世紀の畿内周辺の食料生産力や人口があの大工事を行うに十分であったとする根拠や丹波および
吉備がどのように絡むのか聞かせて貰いましょうか。どうぞご存分に。
>>160 それで決着ついてたら論争なんてないだろ。
矛盾があるから結論出ないんなだろw
163 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:26:15
>>151 封土 について
封はいろいろあります。
封石
封口
封書
土と限定しているのですから表面は土のはずで葺石はない。
そもそも葺石は方墳、前方後円墳の特徴。
卑弥呼の墓は古墳時代が始まる前の時代のもの。
164 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 17:28:32
>>162 決着してるのだ。畿内説派が抵抗しているだけだろ。どんな矛盾があるのだ?
165 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:28:49
>>160 アホ!ボケナス!魏志倭人伝に投馬国まで水行20日、邪馬台国まで水行10日・陸行1月って
書いたるやろが!どこが邪馬台国が九州やねん!邪馬台国は奈良県じゃ!このドアホー!
>>158 >あれほどの規模の大工事を行うには強大な権力と国力が必要であろう。
>3世紀の畿内にそれがあったとする根拠が見出せないからである。
それじゃ論理が循環してるよ
君が示すべきは、3世紀の畿内に強大な権力・国力がなかったという根拠だ
167 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:31:09
>>165 ははは。まるでオモチャをねだる幼児だな。
>>161 3世紀には吉備や丹波は普通に大国だと思うけど。
遺跡や出土品で証明されてます、散々ループネタだね。
淡路島の垣内遺跡、丹後の鉄量なんかでも、
3世紀にはこれら地方に大きな権力が存在していたのは証明できますが。
特に3世紀、吉野ヶ里なんかをみても判るが、
北部九州は衰退期でしょ。
縄文人は箸墓築造が4世紀であるという証明もまだだよな? 何を根拠になんだろうね? あんた理屈では現在の考古学は根拠に出来ないはずだよなw
170 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:36:08
>>167 お前、まるで生活保護をねだる朝鮮人だな。
171 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:36:33
>>166 あれほどの規模の大工事を行うには強大な権力と国力が3世紀の畿内にあったとする根拠が見出せない
ということが3世紀の畿内に強大な権力・国力がなかったという根拠だ 。
縄文人は自説の結論を先取りするあまり 循環論法に陥る事がしばしばあるな。
>>171 垣内遺跡はどうですか?
同時期としては最大規模ですよ。
175 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 17:49:48
>>25 を見てみろ。平安時代の記録だが畿内の食料生産力は大したことないぞ。平安時代は中央集権
化が進んだ、国家と言える権力の存在状態であったから各地から食料を集めることが出来た。弥生時代
ではとてもとてもだな。
>>175 九州がもっと少ないのはスルーですか?
反論できないからと言って、話題逸らすのも良くないねw
>>175 巻向の年代論は今は抜きにして考えるが、
とにかく多方面から人が動員されたであろうことを示す土器の出土、東海系、吉備だっけ
人が動員できるくらいだから、物資も動いたろう
畿内の生産力に頼らず、地方から食料を集めたんだと思うよ
178 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 18:13:18
倭人伝での論争では畿内説派の諸君には勝ち目がないので、可哀想だと思って箸墓の話を持ち出してあげたのだ。 私に考古学資料でものを言うな(あんた理屈では現在の考古学は根拠に出来ないはずだよなw)と言う人もいるか ら、日本書紀でゆこうか。畿内に大和王権と言えるものが誕生したのは崇神天皇のときであろう。この崇神天皇は 仲哀天皇の四代前の天皇とされる。仲哀天皇の皇后が神功皇后であるが、この神功皇后の事績として書かれている 三韓征伐(新羅征伐)は半島の史書に見られる記事から4世紀後半〜末のことだと考えられる。これから見て、崇 神天皇は4代前であるから3世紀末〜4世紀初の人物であろう。すなわち、畿内に強大な権力が誕生したのは早く ても3世紀末であろう。したがって、3世紀半ばに箸墓築造のような大工事を行うことができるようになるのは4 世紀以降であろう。
179 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 18:26:41
なんだ、今日も縄文人がやられてる。浦島太郎の亀だね、まるで。
180 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 18:37:43
181 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 18:49:38
>>178 畿内説を否定していながら、畿内説を何故相手にする?
全く矛盾した話しではないか?
九州説なら、有りもしない畿内説相手にしてもしゃあない。
封土に決まった形などはなく、封じられるものが土にて封じられただけです。 封じられた土が地表よりも高くなれば それは盛り土 ↑ 無知らしいレスだ
河童バーサスもん太 ぎょうじは九州王朝大好き ハキョーヨw
184 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 19:02:17
>>182 気になって仕方ないのか?
無知なレスなら普通はレスしない。
気になるからレス入れるのは解るが、ガキがよくやる哀れな行動だ
少しは成長しろよ
185 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 19:04:38
186 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 19:14:17
八卦良い。
封土に決まった形などはなく、封じられるものが土にて封じられただけです。 封じられた土が地表よりも高くなれば それは盛り土 ↑ 笑ろうたwwwwwwww
188 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 19:49:14
だけど、箸墓って全長280メートルもあるのに、 径百歩の144メートルを後円部に当てて、前方部の長さは無視して、 これでいいと思っている畿内説論者っていったい何なんだろう!
190 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 20:03:38
どこもレベルが低いな・・・
191 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 20:13:33
>>189 いんや、知っててやってる。
どうして?その厚顔さは、いったい!
193 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/27(日) 20:45:34
当時の「国」というのは、いまでいう市町村レベルのものであっただろうというのは、おそらく否定できないことだと思うのです。 これは2つの島は別としても、末盧国や不彌国がその程度の大きさの戸数の記述、および現在考えられている比定地から、 やはり市町村レベルのものであると想定されていることから、反論の余地は少ないと思うのです。 さてこれを踏まえたうえで、畿内説の投馬国および邪馬台国を考えると、 投馬国については現在の岡山県レベルの大国だったと考えるとか、出雲の島根・鳥取両県レベルの大国だったと考えるとか、 邪馬台国にいたっては畿内地方の全てを含むような超大国だったとか、そのようなことを平気で主張されているように思われます。 邪馬台国が畿内地方一円の超大国で、不彌国が隣の奴国に合併されていない小国だったのは、 それだけ畿内地方の統合が進んでいて、逆に九州地方の統合が遅れていたのだという考えなのでしょうか? どうもこの畿内と九州との1国の大きさのギャップが、私には畿内説を受け入れるのに抵抗となっているものの1つなのですが、 どなたか上手い説明をしていただけませんでしょうか? # ちなみにwikiによりますと、現在の福岡県(だけですが)の市町村数は66で、平成の大統合で約1/3に減ったということです。 # 伝の100国や30国に対比するべきではないでしょうが、数値としてはおおよそ等しいもののように私は感じるのですが、どうでしょうね。
194 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 20:48:48
>>179 縄文人にこっぴどくやられたのか?そんな鬱屈した心情が滲みでてるぞ。やられっぱなしでなくて実のある
反論でもしたらどうだ。
>>193 誇張はあるだろうが、倭人伝の50000や70000という戸数は
それなりの大国だと考えざるを得ないでしょう。
九州の奴国20000戸だって、おそらく小国が統合した結果だと思うしね。
196 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 21:26:51
197 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 21:28:36
>>195 同意。吉野ヶ里などは都邑でこれらが数個あるいは数十個集まった程度が当時の国。奴国は大国、投馬国、
および邪馬壹国は超大国と言うべき存在である。
198 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 21:42:31
「国」というのは、いまでいう市町村レベルのものであっただろうなんていうのは、 最初から倭人伝をまともに読む気がないということだな。
静岡市なんて東京23区の2倍以上の面積だし
200 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 22:02:58
>>198 とんでもございません。まともに読んでないのはそちら。
市町村どころか「大字」位、市で言えば「何々町」、
の単位の国も存在してました。傍国などはごく小さい。
邪馬台国などは20キロ四方位の大きい国。投馬は邪馬台国よりやや小さい。
そんな感じ。
201 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 22:37:33
對海国を対馬とすれば現在の対馬市、一大国を壱岐とすればこれも壱岐市で一つの市。末盧国は唐津市と 伊万里市か。伊都国は佐賀市北部の富士町と大和町くらいか。奴国は佐賀市南東部、神埼市、上峰町、み やき町、鳥栖市、基山町くらいか。投馬国はうきは市、久留米市、大木町、八女市、筑後市、みやま市、 大牟田市くらいか。邪馬壹国は熊本県の大部分と宮崎県の大部分だろう。市町村単位くらいから県単位く らいまで幅広い。
202 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 22:44:55
それにしてもですよ、レス3とレス22の延喜式ですね、 戸数が極端に少ない。 もしかしたら、これ「荘園」じゃないの? 延喜式だから。 荘園てのは中世貴族や社寺が私有していた土地です。 それだったら全然戸数は参考にはならない。 倭人伝の記述が概算だとしても、到底及ばない数だし、時代を遡った方が 多いというのはおかしいもの。
203 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 22:47:00
伊都国が佐賀市北部では 此所に置かれた「1大率」を怖がるのは、熊本と佐賀になる。 今の伊都からは、楽浪の土器が出土するが、 佐賀市北部からはその土器は出土するのか?
204 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 22:50:36
>>202 でも、畿内は戸数が少ない割りに耕地面積が広い。
ということは人口密度が低いってことですね。都市部はともかく農村部は。
九州北部のほうが断然人口密度が多そうだ。
205 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 22:59:56
>>204 >畿内は戸数が少ない割りに耕地面積が広い。
つまり納税者が少ないと読む。
豪族の私有地は、税率が低いとか。
>>202 延喜式は10世紀初頭から編纂。
墾田永年私財法で成立した初期荘園は
田租の影響で10世紀までに没落してるので
あまり影響ないのではないかな?
207 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/27(日) 23:00:55
>>203 一大率は倭国内を検察していた。熊本県と宮崎県以北をね。伊都国(佐賀市北部)には本部があったが、
ここにじっとしていたわけじゃない。前原市は当時は墓域で、伊都国王の墓がここにあっても不思議では
ないだろう。土器なんか壊れて粉々になったら発見されないだろう。
要は出土してないということか。
209 :
日本@名無史さん :2009/09/27(日) 23:32:04
>>208 未だ発見されてないのかも知れんね。あまり些細なことに拘って大局を見失わないようにし給え。
210 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 00:23:35
楽浪土器は佐賀平野からも出てると思ったけど、弥生後期にはやはり糸島に増えるね。 ところで、国立民族学博物館の小山修三氏が出した数値は、皆はどう見るかな? 密度(100km^2) 人口総数 縄文 / 弥生 縄文 / 弥生 東北 59人 / 50人 39,500人/ 33,400人 関東 24人 /309人 7,700人/ 99,000人 北陸 20人 / 83人 5,100人/ 20,700人 中部 20人 /281人 6,000人/ 84,200人 東海 47人 /395人 6,600人/ 55,300人 近畿 7人 /338人 2,100人/108,300人 中国 6人 /184人 2,000人/ 58,800人 四国 3人 /158人 500人/ 30,100人 九州 15人 /250人 6,300人/105,100人 全国 26人 /203人 75,800人/594,900人
>>210 どう見るかな? つったって、
これじゃ倭人伝の戸数がウソっぱちだと見るしかねえべ。
>>210 でも、九州説のオレは言わせてもらうぜ。
空き家が多かったんだよ。
213 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 01:07:38
>>213 によると
100万人のうち、何割が九州に住んでたんだろう
14万戸×5人=70万人 となってしまうのだが、
九州説の人は、日本の人口の7割が九州に集まっていたと考えるのかい?
215 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 07:25:33
>>214 九州は倭人が米作を始めたところで、温暖で水が豊富なので、米作に適し、
最初は爆発的に北部九州で倭人人口が増えたと思う。
ただ14万戸をそのまま受け取ることはしない。
延喜式のデータは完全に荘園のデータだね。
近畿説の人ってどういう感覚してるんだろ。>206
あんなに少ないはずはない。あれは荘園を管理したデータだよ。
100年〜200年で人口は最初の何十倍にも膨れるのは事実。
それまで、先住民の国を持たない縄文人しかいなかったのだから、
水田を持つ倭人が急激に人口を増やしたことは容易に想像できる。
荘園のデータからも九州がいかに人口密度が高く、家も多かったかがわかる。
荘園ってなんですか?
217 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 07:41:07
ウィキから抜粋 平安時代中期以降、開発領主による墾田開発が盛んになる。 彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。 そこで、彼らはその土地を荘園として受領層に寄進することとなる。 受領層は彼ら大名田堵(=開発領主)を荘官に任命し、 その土地の実効支配権を認める代わりに、荘官から一定の税収を受け取る。 こうして荘園を持つようになった受領層を領家と呼ぶ。 領家は次第に、権限を剥奪された補佐官である任用や大名田堵と の対立を増すようになる。そこで彼らは自らの荘園をさらに権門層に 寄進し、保護を求める代わりに一定の税収を納めた。こうして荘園を 集積した権門層を本家と呼ぶ。 時を同じくして、律令制の崩壊と共に、上級貴族は政治への意欲を全く なくし、地方政治は国司に一任されていた。増え続ける荘園に対抗して、 国司は大名田堵を在庁官人に任命し、自らの手元に置き、 さらには惣司・郷司・保司として、地方行政官とした。 惣司・郷司・保司はそれぞれ一定額をそれぞれ国司、 朝廷に納めればよい。その後、荘園の更なる増大で税収が減り、 上級貴族に俸給を払えなくなった朝廷は、彼らに知行国として国を 与え、その国に関する国司の任命権と税収を上級貴族に与えた。 同様に皇族にも院宮分国制が敷かれ、こうして権門層たる上級貴族、 受領層たる国司、大名田堵たる惣司・郷司・保司が結びつき、 荘園制とほとんど変わらぬ構造となった。 なお、この重層的支配構造は「職(しき)の体系」とも呼ばれ、 それぞれの立場の職務と権限を「〜職」と呼んだ。 (領家職、惣司職、郷司職など)
218 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 07:46:06
延喜式だから 当時「官社」とされていた全国の神社一覧 社寺の全国の荘園のデータだよ。 なんだ、そういうことだったんだ。
>>215 荘園管理データ(延喜式)では、九州が発展しているように見えないんだが
荘園ってお米がよく取れる肥沃な土地に作られるので、九州は肥沃じゃないって事か?
だいたい南九州って火山灰で耕せないんじゃないの?
薩摩武士はサツマイモを食べてたくらいだし、芋侍って
220 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 07:52:28
>>219 九州は肥沃だよ。肥後や筑紫など。
発展しているように見えるよ。
荘園開発した邑数が多いでしょ。
関東には負けるけるけど。
むしろ無開発地のほうが荘園が作りやすかったんじゃない?
近畿は水田作れる土地が少なかったんじゃない?
というか近畿は貴族の荘園が多かったのかな。
この延喜式は寺社の荘園だからね。
221 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 07:59:15
>>215-219 お前ら全員、ゆとり世代だろう。
中学から日本史の勉強やり直せ。
特にwikiを引いてきた奴、そこに書いてある程度の日本語も読みこなせないのか?
サイキバ級だ。
222 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 08:05:48
>>221 バカじゃないの。
Wikiには荘園もあるから、自分で調べれば?
私が引用したのは荘園公領制のほう。
とにかく「荘園は増え続けた」と書いてある。
荘園は増え続けたんだよ、平安時代には。
だれか衰退したと言ってた人があったから、反対をWikiから持ってきたの。
223 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 10:58:13
>>155 >卑弥呼の死の前後は狗奴国との抗争問題もあり、男王が 立って国中不服で千餘人が死ぬという
混乱状態であり、箸墓築造のような大工事が行えたとは考え難 い。
これには 賛成
>倭人伝の記述では 卑弥呼以死大作冢径百餘歩 となっていて
卑弥呼の死をもって 直径30mほどの円形の冢(チョウ、封土(盛土))をおおいに作る
径 とは円を表します。大きさは短里をつかっております。
224 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 11:01:00
>>223 いいたいことは 箸墓は卑弥呼の墓ではない ということ。
>>223 >混乱状態であり、箸墓築造のような大工事が行えたとは考え難い。
乱の原因は男王、卑弥呼に不服があった訳じゃないよ。
墓造営はむしろ威信をかけて競って行うでしょう。
それに前方後円墳なら円墳と記述されてもおかしくないでしょうね。
実際円墳で書かれた資料もあるし。
226 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 13:01:27
>>225 おまえ全く考えていないな。いいか、仮に1日に5千人の人夫が墓の築造工事に携わるとしたら、その
監督指揮、道具などの手配や補給、食事の世話に人が要る。工事に直接的に関わる人数は人夫の数の2
倍くらいにはなるぞ。そしてそれらの人達は自分の仕事を放り出して墓の工事に参加しなければならな
いのだから、彼らの本来の仕事を補償することが必要になる。こういったことを国が混乱していてやれ
るか?きちんと納得できる体制で工事が行われないと暴動が起きて墓など完成しないぞ。
ホームレスを集めたんじゃね?
228 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 13:33:13
延喜式の郷数と戸数についてだけど。 一郷に対し、50戸です。 丹波、近江、紀伊だけは例外であとは全部一律に一郷=50戸です。 従って、荘園は一郷に対し50戸と割り当てられて管理されていたということが 推測できます。 だから、延喜式は全国の戸籍調査などと思ったら大間違いでした。 どんなデータでもそうだけど、内容と時代を確かめないと。 それに比べ、当の時代に、実際に現地に行って調べた中国史書はなんと信頼できることか。 2千500年もの間、王朝が何度も代わったにも関わらず、前王朝から引き継いで、 史書を大切に保管し続け自国の歴史も事細かに綴って次に 繋げてきた中国は凄い。 日本のように、支配者が変わったら、焚書などしないもの。 蘇我蝦夷が自宅に火をつけ国書を焼いてしまったってあるけど、 其の国書に前王朝の資料が書いてあったんじゃないのかな。 だからどこの古墳が誰のものか判らない。あれだけ大きい古墳を作っておきながら・・・。
焚書といえば中国のお家芸
230 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 13:48:59
>>229 日本のお家芸の間違いでしょ。
中国の史書は紀元前のものから、沢山の種類が残っている。
みな現代まで引き継いできた。
>>226 わかってないのは君。
それを手際よくやれる連中が、以後主導権を握れるということですよ。
人手なら無理してでもかき集めるでしょ、
というか卑弥呼に人望があれば集まってくる。
その証拠が箸墓から出土する各地の土器じゃないの?
232 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 13:59:44
だから日本書紀には卑弥呼の名は出てこない。 ただ、266年に女王が晋に遣使をしたという記述があるらしい。 これなんか、中国史書を調べて書き写したものだからね。 あと唐時代、日本の遣使が蝦夷(毛人)の男女を連れていって 中国の天子に見せたという記述も書紀にはある。 これも中国史書に載っているのを写したんだよ。
233 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 14:19:02
おいおい、秦の始皇帝の焚書ほど有名な焚書もあるまい 儒者の粛正も
234 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 14:32:10
>>233 知ってるよ。だってそれは紀元前3世紀のことでしょ。
なんでそんな時代のものを引き合いに出すの。
全部焚書されなくて助かったものもあったらしい。
それ以降、紀元前に司馬遷が史記を書いたり、いろんな人々が
史書を書いてそれがそのまま書写されて現代まで残っているじゃない。
なんでここで儒者の粛清の話?
近畿説の人って、なんか一部だけを取り出して、それがまるですべてであるかのように
話すよね。
それをねらってごまかそうとしているんだろうけど。
もう延喜式で懲りたから。
そういう気持ちでこちらも構えますからね、そっちもそのつもりで。
>>234 それで、日本の引き合いに出してくるのが蘇我蝦夷が自宅に火をつけたという話かいw
236 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 14:43:46
>>235 だって書いてあるんだし。
だから古墳が誰のものかわからないんじゃないのかなって話。
だってワカタケルの鉄剣には漢字が彫ってあるんだから、
そのころからもう漢字が一部で使われていたってことで、
国書みたいなものはあったんでしょ。
実際、国書を焼いたと書いてあるんだし、書紀には。
237 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 14:49:52
>>210 小山修三氏の計算結果がまちがっているということだろ。
小山氏の計算は、発見された遺跡などをもとに算出したものだ。遺跡なんてもの
は実際に存在したもののうち、千分の一、万分の一しか発見されないだろう。
我が国の全人口がどのくらいかなどは、大きな誤差がでるのは当たり前のはなし、
正確だと思っている方がどうかしてる。
地域ごとの相対的な比較(遺跡が多く発見されているところに多くの人が住んで
いたであろうということ)はある程度信頼できるかなというところだろう。
238 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 15:01:41
>>210 これは何を基準に調べたの?
楽浪土器?
楽浪土器が見つかった遺跡ですか?
遺跡調査なら、近畿より九州のほうがずっと多いと思うけど。
近畿の古墳は未調査が沢山あるし。
楽浪土器を基準にしているなら、高句麗と関係した地域が色濃く出る。
だから近畿に人が多くなるんだよ。
239 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 15:12:13
>>225 >それに前方後円墳なら円墳と記述されてもおかしくないでしょうね。
前方後円墳のような特殊な墳なら喜んで正確に記録した思いますけど。
>実際円墳で書かれた資料もあるし。
どんな資料か教えてください。調べてみたいのでお願いします。
>>234 >近畿説の人って、なんか一部だけを取り出して、それがまるですべてであるかのように
話すよね。
九州説の人は九州以外の多くの遺跡等を大半スルーしてますけど。
何か矛盾してますね。
>>239 例えば1791年の大和名所図会に書かれた箸墓の絵は
円墳で書かれてるだろ。
前方後円墳なんて呼び方は、当然そんなに古くない。
>>236 紀元前三世紀に、大陸では既に秦という中央集権的統一国家が誕生してる。
日本で、そんな国家が誕生するのはいつかね。
単純に、始皇帝の焚書は紀元前三世紀で、蘇我蝦夷は六、七世紀と比べることはできんよ。
中国は王朝の交替があるから、断代史として前王朝の歴史を編纂するが、
日本は王朝の交替がないから、そんな史書は編まれない。単純に比べることはできんよ。
文化的風土も歴史の発達段階も全然違うのに、
単純に引き比べて、中国はすごいなんていうのは、ちょっと軽率というか、
そういうことを実生活で言うと、失笑を買うので気を付けようね。
243 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 15:24:50
>>242 日本は過去の歴史を改ざんして何度も直してます。
一つのものを。>日本書紀
それこそ、嘘の歴史でしょうよ。
244 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 15:40:53
日本書紀ほどいいかげんな書はないよ。 新唐書日本伝をみて。 日本側が言ったことを、中国側は信じてそっくりそのまま書いているから。 初めの主は天御中主で32世、筑紫城に居住、その後に、神武がたって天皇を号とし大和 州に移って統治したって。 でその後何代も名前がぞろぞろと。 歴史を2倍に引き伸ばしているし、他の王朝まで取り入れて長く繋げている。
245 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 16:16:06
>>241 >例えば1791年の大和名所図会に書かれた箸墓の絵は 円墳で書かれてるだろ。
そんな後世のしかも日本の絵が資料ですか・・・。
古代中国の資料ならまだしも、そういうことなら古代中国が前方後円墳と円墳を混同
している証拠とはならないと思いますが。
>前方後円墳なんて呼び方は、当然そんなに古くない。
当時、前方後円墳なんて呼び方はないからこそ、正確な記述が必要だといいたい。
>>245 >古代中国の資料ならまだしも、そういうことなら古代中国が前方後円墳と円墳を混同
している証拠とはならないと思いますが。
18世紀の絵が円墳なら、それより以前も円墳と認識されていた
可能性が高いと思うけど。
18〜19世紀なんて大規模古墳が色々改築された時期でもあるのだしね。
247 :
ローガン :2009/09/28(月) 16:30:48
>>213 >実際小山氏の最近の講演では、弥生末60万を100万オーバーに訂正してたはず。
縦目さん、 それは知りませんでした。 小山論では60万としたのは確か 1840BPではなかったでしょうか?
小山論を引いた鬼頭氏は何故か数値はそのままに、年代を1800BPとしてます。
人口推定がどの程度信頼出来るものか?なんてよく知りませんませが、小山氏の1840BP(この数字、違うかも。自信ない)なら、魏使来倭の百年以上前…w
さておき、全国60万人の時、近畿10万人なら、3世紀中頃 全国100〜200万人として、同じような比率で考えると近畿で30万人ぐらいでは?
まあ、数字遊びかもしれませんが。
248 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 16:54:56
>>231 これだから畿内説を信じておかしいとも思わんのだな。卑弥呼に信望があれば人が集まるだと?信望が
あれば狗奴国との紛争ぐらい自分で処理できるだろ。おまえら箸墓の築造がどれだけの大工事であった
か、そしてそれを遂行するにはどのような事をしなければならないか具体的に考える頭をもっとらんだ
ろ。机上の空論を垂れるのはいい加減にしろ。
249 :
ローガン :2009/09/28(月) 16:56:13
>>245 >当時、前方後円墳なんて呼び方はないからこそ、正確な記述が必要だといいたい。
横からですが、大作冢は、工事の活況を述べたものではないかなあ?と考えます。
作冢中に主墳への通路としての「前方部」を行き交う人々を見た使者は墓はその先にある円い部分だと認識したのでしょう。
当初の来倭目的を済ませた使者は、工事の完成を見ずに離倭したものと考えます。
252 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 17:32:27
253 :
ローガン :2009/09/28(月) 17:51:22
大いに冢を作る。です。
254 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:01:40
>>253 それだと現在進行形として解釈しているわけですね。まだ工事中だと。
大いに冢を作った、又は冢を大きく作ったとか訳せますよ。
大に付いては、「大いに」か大小の「大きい」か意見がわかれるところだと思いますが、
その文の後の方に「当時」という言葉がありますから、
過去の事柄を記したもので、現在進行形にはならないと考えます。
過去形になると思います。
現在進行形とか過去形とか、そりゃ中学生の英文法だわなww
256 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:06:34
>>246 大和名所図絵では確かに円形の小山ですが、それをもって
>円墳と認識されていた
とはいまいち承服しかねます。
質問ですが、あの絵のところに箸墓の説明があるのですか。
257 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/28(月) 18:09:42
巻向地域の発掘調査が進んで住居跡や生活痕(土器など)が出土したとしよう。仮にそれらの土器などが 3世紀のものだったとしよう。そうすると畿内説派は箸墓が卑弥呼の墓であることが益々有利になった、 邪馬台国はここにあったであろう と言うであろう(まともな畿内説派はそうは言わないかも知れんが)。 だが、私は全く違う判断をする。人は墓のある場所に住居を作って生活するか?墓を取り囲むように集落 を作るか?答はノーだろう。逆に、昔の住居跡があるところ(現在は放棄されているところ)に墓を作る ことはあるだろう。つまり、生活痕を示す出土物より後世に墓が作られたと見るほうが正しいだろう。 もっとも、しぶとい畿内説派は生活痕は箸墓築造のために集められた人夫達の臨時の住居跡だと強弁する ことだろうな。臨時的なものであったか、恒久的なものであったか、十分に見分ける必要がある。
258 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 18:13:44
>>244 佛伝以前では引き伸ばしたのではなく、伸びてしまったということだ。
当時の日本は2倍暦等を使っていたから、そうなってしまったのだ。ホツマのが
いい加減なところ多いかもしれないぞ?
>>257 >人は墓のある場所に住居を作って生活するか?
する。
例: 吉野ヶ里遺跡
260 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:15:27
>>249 >当初の来倭目的を済ませた使者は、工事の完成を見ずに離倭したものと考えます。
・・・大作冢徇葬者奴婢百餘人・・・
・・殉葬する奴婢は百余人 と記述があるので、完成後殉葬されたのでは
ないでしょうか。
261 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 18:19:26
>>238 楽浪土器は207〜209に対してのもので、人口推計とは関係ありません。考古学的には
伊都国が糸島である傍証は多いと思うんですがね。
>>237 もちろん発見されてない分を変数として処理してあるんですが、その変数はまあ怪しいでし
ょう。しかし、九州だけで100万とかいう数字はありえない。
>>247 >弥生時代の人口は遺跡からの計算では約60 万となった。ただし、弥生時代の遺跡の重
み付けを関東地方の遺跡からとったため、全体量が低くなりすぎたようである。その後の発
掘によってわかった、西日本における弥生集落の大きさを考えると、弥生末期には100 万を
越えていたのではないかと考えている。 (小川氏の講演要旨から)
262 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:26:48
>>254 >冢を大きく作った。
なら
「大作冢」ではなく「冢作大」ではありませんか?
263 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:30:54
>>261 でも楽浪土器の出る遺跡が同じ時期の遺跡と見なして
統計を出しているわけですよね。
遺跡の時代が違っていたら、統計は出せないわけですから。
楽浪土器を目安にしたんでしょ?
そしたら、楽浪土器と関係する高句麗と関係のあった地域が断然人口が多く数えられてしまいます。
この統計の取り方自体間違った方法だと思います。
264 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 18:33:28
265 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 18:35:29
>>263 楽浪土器でどうやって関東や東北をだせるのかな?もyっと総合的なものだと思うよ。
266 :
ローガン :2009/09/28(月) 18:36:28
>>254 > その文の後の方に「当時」という言葉がありますから、
> 過去の事柄を記したもので、現在進行形にはならないと考えます。
> 過去形になると思います。
告諭対象が壹与なので、王が壹与の時に使者が来倭したのでしょう。
壹与が王になる経緯について書かれたものは、当然、過去形ですね。
卑弥呼→男王→壹与の流れが短いものと考えています。
267 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:40:09
>>262 私はあとに続く文としてこの大は大小の大かなと思います。
日本語に訳した場合は文法の関係で「冢を大きく作った」
となりますが、中国語の文法では「大きく作る、冢を」で
普通なんじゃないですかね。
268 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:41:38
>>265 では小川氏は何を基準にして同時代の遺跡と判断したのですか?
269 :
縦目仮面 :2009/09/28(月) 18:47:29
>>268 小川氏がすべて調査したんではないと思うけどね、あまりに膨大だから。それぞれの調査
報告書をもとにしたんでしょう。
ローガンさんの説だと、その後の完成した卑弥呼の冢の情報は、陳寿らには伝わってない
ということですよね。うーんどうなんだろう。
270 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:51:02
>>266 それだけ短い期間で出来上がったってことですよ。
数年で。
271 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:51:05
272 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 18:59:03
>>271 卑弥呼の関係者が奴隷を使ってではない?
倭としてもいいけど、倭だと狗奴国も入るし。
>>259 当然過ぎる答えだね。
縄文人、もう少し考えてから書き込めよw
まさに縄文人のが机上の空論だな。
縄文人はもうだめぼ…
276 :
ローガン :2009/09/28(月) 19:19:54
>>260 勿論そうかもしれませんが、 寿陵では無さそうなので、完成まで当然、仮埋葬されています。
殉死者はそこに埋められたのかも。
277 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 19:21:47
>>267 漢文法で、(形容詞・動詞)のならびってあるの?
278 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 19:24:27
279 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 19:29:23
>>277 あるんじゃない?
大考とか大成とか
というか自分で調べてちょうだい、面倒だから。
縄文人がしゃしゃり出てきてやられるパターンが定着してきたね。よいキャラに育ったと思う。
281 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 19:42:50
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
282 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 19:45:35
>>280 力なきものがボッコされるのは2CHの美点。
奴の理論はダブルスタンダードだからな。
縄文人哀れ…
名無しの回答一発で縄文人沈む・・・・
286 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:03:23
>>277 無いと思うよ。
>>279 大いに考すなら、大は形容詞じゃないし、
大いなる考なら、考は動詞じゃない。
287 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:05:48
288 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:09:03
>>279 形容詞は無理だ。やっぱりあそこは副詞の「大いに」なんだよ
大の後が動詞なんだから
289 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:26:02
>>246 >>256 大和名所絵図の箸墓古墳といわれてる右上の円形の小山ですが耳成山じゃないですかね。
地図やなくて名所であるので箸墓古墳かいてもしょうがない気がする。どうせかくなら
仁徳陵を書いたほうがいいんじゃないかな。
290 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:34:47
>>286 大きく考えるでは?
大成はコメントなし?
>>288 おおいに作るという言葉はおかしいでしょ。
作るの前におおいには付かないよ。さかんに作るも同じ。
どういう状態に作るのかさっぱり不明な言葉だよ。
大きく作る、日本語でいうなら、大きな冢を作るだけど。
291 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:36:19
>>267 大が冢の大小だとすると、大は冢を修飾する文字になる。
しかし、大作冢と、作の文字を飛び越えて大が冢を修飾するとは考えにくい。
大は、直後の「作」、もしくは「作冢」という句を修飾すると考るべきだと思う。
ならば、大は、工事の大小を言っているのだから、「大いに」と読むほうが自然だと思う。
292 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:37:20
293 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:38:54
294 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:42:11
>>290 >おおいに作るという言葉はおかしいでしょ。
普通の日本語だが?
「おおいに飲む」「大いに食べる」と同じ。
ためしに「大いに作る」をググッてごらん。
295 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:43:34
296 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:44:52
>>294 日本語としてはなくは無いだろうけど、ハッキリ簡潔に物を表す漢文ではないと思う。
大別はどう?
大きく別ける、どう。
297 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:46:57
大きな冢を作るだよ、日本語に訳すならね。 おおいに冢を作るなんて言葉はないよ。
298 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:47:50
299 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:49:25
>>298 前の風俗の文の中にあるから自分で調べて。
300 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:51:22
>>297 文法壊してまで「大きく」なくちゃまずいのか?
301 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:52:11
302 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:52:24
>>300 そんな文法ないよ、いいかげんなこと言って。
303 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:54:58
>>297 「大いに」を広辞苑で調べてから出直せ。
304 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:55:12
305 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:57:22
>>297 自分が知らないだけで、なんで無いなんて決め付けるのかね。
大いに夢を語る。 盛大に夢を語る。
大いに冢を作る。 盛大に冢を作る。
306 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:59:25
307 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 20:59:25
俺も「大いに」派だな。 俺の感覚では倭人伝の文において「大きい」では異質に感じるな。 また、簡潔に表現するというのであれば、「大きい」は必要ない。径百歩で足りる。 「大」というのは、国をあげた大規模な工事の様子を表現したのだと思いたいね。
309 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:01:36
310 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:02:58
遂に池沼君誕生か?
311 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:04:54
大きく作るだけでは、日本語としてはすこし使いなれないからそう思うだろうけど、 大きく冢を作るなら意味がわかるでしょ。
>>289 あれが耳成山に見えるのか??
それに大和名所図会に仁徳稜を書いてどうするw
313 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:08:23
大別 大成 大考 どれも、大が後ろの「別」「成」「考」を修飾している。 なら「大作冢」の「大」も「作」を修飾するだろう。 「大作冢」を「大きな塚を作る」と読みたいなら、 「大」が作を飛び越して「冢」を修飾しなければならない。 大別とか大成とか大考とか出してきても意味ないだろう。
改め も必死だな
315 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:13:18
>>311 >大きく冢を作る
作大冢。
大きくは大きいからの派生語
ここは冢を大きく作るで手を打とうぜ。
317 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:15:10
>>313 大きく作る冢を=大きく冢を作るでしょうに。
まず日本語ありきで考えるからだめなんだよ。
318 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:20:19
>>317 誰が誰だかわからんが、「大きく作る」君は、
大作冢の大は、何を修飾していると考えて「大きく」と訳してるわけ?
>>316 >ここは冢を大きく作るで手を打とうぜ。
打って下さい。だろう
でもダメ
冢を大きく作る =作大冢 原文は大作冢
320 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:21:33
>>312 >あれが耳成山に見えるのか??
形なんてそっくりだよ。
名所だから箸墓古墳書くよりは仁徳陵のがましだといってるわけ。
箸墓なんてただの森の小さいやつに見えるけどな。
この意見ほかの誰も言ってなければ新仮説としよう。
改めは文法まるでダメ夫君か?
322 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:27:05
大きく作る君は、改めなのか?
323 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:28:33
>>318 作るのほうじゃない?
だって、前に封土作冢という文があるんだよ。探してみて。
それに対応して考えれば大作冢は、大きく冢を作るじゃだめ?
大冢とはいわないんだよ、そもそも。冢は冢なの。
冢ってのはもともと大きいという意味が含まれているんだから。
めんどくさ。
やはり、動詞の前は「大いに」が座りが良いな。 秦王聞之大喜(秦王これを聞きて大いに喜ぶ) 「大」じゃないけど、 為巨室(巨室をつくる)
326 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:34:04
「大いに」とした場合、単に「大きな」という意味の他に、「盛大に」という意味が含まれると 思います。つまり冢の寸法だけでなく、工事の人数なども含んでいるのでは。
>>323 >それに対応して考えれば大作冢は、大きく冢を作るじゃだめ?
駄目だ。 大きく冢を作るは 大作冢ではなく「作大冢」だ
>>326 「大いに」=副詞
「大きな」「盛大に」=形容動詞
違うだろ
329 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:39:58
>>324 それって日本語で訳す時の問題じゃない。大いにと言う意味には大きいという
いう意味があるじゃない。
おおいに作るってのは日本語としておかしい。
大小の大の意味にならなくなるから。
おおいには大きいの意味があるんだよ。
だから判りやすく日本語に訳すと大きな冢をつくるだよ。
330 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:41:44
>>323 じゃあ、そこはオレと同じ。
大は作を修飾する。
この場合、「おおきく」とは読めないよ。
「大きく冢を作る」という日本語は、「冢が大きい」ことになる。
「大いに冢を作る」と読むと、「工事が大きい」ことになる。
どちらも、結果的には、でかい冢が出来るんだけど、
意味する所は違う。
「大いに冢を作る」というのは、漢文訓読調で、
日常生活では使わない日本語だから違和感を感じるかもしれんが、
まあ、慣れるようにしてください。
331 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:44:24
>>330 だからね、結果的に大きな冢が出来たわけでしょ?
日本語に訳すってそういうことでしょ。
おおいに冢を作るじゃ大小の大の意味にはとれなくなるんだよ。
>>328 「盛大に」は「盛大なる」という形容動詞からの連用で、「おおいに」は「大いなる」からの連用では
同じかもしれない
>>320 >この意見ほかの誰も言ってなければ新仮説としよう。
頭大丈夫?笑われたけりゃどうぞ。
三輪の鳥居描写ある時点であり得ないから。
それに仁徳陵は和泉名所図会にある訳だが。
>>331 >だからね、結果的に大きな冢が出来たわけでしょ?
人それぞれに違う主観語ってどうすんだよ
>おおいに冢を作るじゃ大小の大の意味にはとれなくなるんだよ。
大小の大は比較だから形容詞、大作冢の(大)は 大小という比較ではない副詞。
335 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:49:17
>>331 大小の大の意味って、冢が大きいって意味か?
少なくとも 「塚を小さく作った」 との意味にはとれぬ。
>>320 安心しなよ 「大きい冢」よりは程度いいから
>>193 >どうもこの畿内と九州との1国の大きさのギャップが、
>私には畿内説を受け入れるのに抵抗となっているものの1つなのですが
よくわかりませんが。
七万戸という数字を基にするなら、
九州だろうと畿内だろうと同じことではないですか?
339 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 21:51:29
>>334 私は仮にも女王国連合の大倭王なんだから、
他の王や役人より大きな冢を作ったと思うよ。
だから大きさまでその後に書き加えたので。
>>336 >少なくとも
「塚を小さく作った」
との意味にはとれぬ。
あたりまえだよ
ここでは大きいとか小さいとかには触れてないんだから。
「大きい」なんて言ってるのは池沼君ぐらいだよ
>>339 >私は仮にも女王国連合の大倭王なんだから、
他の王や役人より大きな冢を作ったと思うよ。
そんな主観述べたところで何も生まれないよ
343 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:00:14
>>340 失礼な、池沼君って響きは。だいたいウヨ君がそういう言葉を使うでしょ。
大いにという意味には大きいといういう意味が含まれているでしょ。
だから大いに冢を作るじゃ、どういう意味かよくわからない。
大きいということを伝えたいなら、
日本語で訳すなら大きな冢を作るではっきり訳すことが必要なんだよ。
>>343 >大いにという意味には大きいといういう意味が含まれているでしょ。
含まれない。 含まれないから「大いに」と「大きい」はわかれている
>日本語で訳すなら大きな冢を作るではっきり訳すことが必要なんだよ。
そんなことはない
日本語で訳すならより厳格に、副詞と形容詞の使い分けをしよう。
345 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:11:00
>>344 そもそもおおいに冢を作るなんて訳しているところなんかないよ。
日本語に訳してよ。なんでおおいになの。どういう意味よ。
>>345 だから池沼君って言われるんだ。
人に聞く前に国語辞典で「おおいに」を引いてみろよ。ここは物乞いする場所じゃない。
>>345 俺の手元の訓読文は3冊中2冊が大いにだな。
もう一つは大規模にとなってる。
348 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:22:39
>>346 自分で訳せないからだろう?
いきずまると、人をバカにしだす。
それがだいたい君達のパターンw
349 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:26:20
>>347 そうだよ、その大規模が一番すわりがいいね。
大規模に作るだよ。そうじゃない?おおいに君。
>>349 大規模に・・・は訓読文じゃなかった。訳文だ。失礼した。
ちなみに、その本には「大規模に冢が築かれた」と訳されているよ。
351 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:34:47
>>350 それでいいんでないの?
同じ意味だよ。
>>349 国宝級の天然池沼君だろう?
なにが
>そうだよ、その大規模が一番すわりがいいね。
大規模に作るだよ。そうじゃない?おおいに君。
だ?
ここで「大規模」という語句用いたのは、「大作冢」と同じ
「副詞」「動詞」「名詞」 という語で構成されているからだよ
「副詞」=大
「動詞」=作・規
「名詞(代名詞)」=冢・模
だから この 大規模の(大)も副詞で おおいに
おおいに=非常に、はなはだ、たくさん・・・
353 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 22:49:55
>>352 非常に冢を作る
はなはだ冢を作る
たくさん冢を作る
あなた本当に大丈夫?
>>353 国宝級の池沼君から世の中を見れば、シャブ中の奴が世の中を見るような感覚だろうから
「大いに」と訳す奴がアホに見えるだろうよ
だから、池沼君に「あなた本当に大丈夫?」と問いかけられれば
世の中では正常という証にもなる。
池沼君には難しかったかな? では お大事に
355 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:04:07
>>354 なんだ書き逃げか.....
ではこちらもお大事に。ぐっすりお休み〜。
356 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/28(月) 23:05:29
>>259 吉野ヶ里を出してくると思っていたよ。だが、この吉野ヶ里は単なる都邑だ。しかも、多数の甕棺が埋められて
いたのはこの遺跡内であるが、これは特殊な状況下で作られた墓所だ。つまり、倭国大乱時のものだ。環濠を巡
らし防護柵を巡らして戦闘を行っていた時代だから、この防衛基地から離れた場所に死者を埋葬するのは危険な
状況だったのだ。だから仕方なく集落内に墓所を作った。その証拠に、この環濠集落が放棄された後に前方後方
墳は作られている。卑弥呼のような大国の女王の墓は集落から離れた場所に作られるだろう。大和朝廷の大王達
の墓も都の中心部に作られてはいないだろ。都の中心部から離れた場所に王墓は作られるのだ。例えば仁徳天皇
の中津宮は現在の大阪市中央区にあったがその陵ははるか離れた百舌鳥にあるとされる。箸墓を卑弥呼の墓と考
えて巻向地域に卑弥呼の都があったなどと言えるか?箸墓の近辺は崇神天皇陵と言われる古墳など墓だらけでは
ないか。こんなところに邪馬台国の都があったなどと考えられるか?
357 :
ローガン :2009/09/28(月) 23:09:46
飯、行ってて遅くなりました。漢文は詳しい方に…呉音さんとかどくだみさんw さておき、「大いに」と「大きな」 訳し方…日本語にしてよむのに論点になるほどのこだわりは、あまり感じないのですが… 卑弥呼以死大作冢徑百餘歩、卑弥呼は既に死んでいた。倭人達は差し渡し百歩を超えるような冢を作る工事中であった。 大きな墓ゆえ、大きな工事である。と云う事で。
358 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:14:21
かわいそうに、たかが2CHで縄文人は必死すぎ。 もうお脳の弱い人ってみんな知ってるのに。www
>>354 まあ、大きいという意味合いを連想できれば
満足だったんでしょう。
副詞とか形容詞とかは彼には意味は無かったんだよ。
しかし、「大規模に冢が築かれた」というのは、
冢が大規模とも、工事が大規模ともとれる。
玉虫色の決着だ。
その意味じゃ名訳かもしれないな。
360 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:28:16
>>358 いやいや、
>>356 の意見はなかなかのもの。大古墳の傍らに住居地域があったと思い込んで
きた畿内説論者の単純思考に反省のきっかけを与えただけでも大したもんだ。
361 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:28:43
>>359 はあ?玉虫色の決着なんてものはないの。
ハッキリさせなきゃ。
だから形容詞のあとに動詞がくる例をだしたでしょう。
大別とか。
大きくわける。
大作 大規模に作る。
何を大規模に?冢を。
工事ではありませんから。
362 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/28(月) 23:30:06
>>358 そのように人を下に見ることで己の劣等感を満足させるのだな。おまえの脳の程度を測ってやろうか。
おまえには父と母の二人の親がいる。その父と母にもそれぞれ二人の親がいる。このように一世代毎に
親の数が2倍になってゆく。つまり、1人の人間の1世代前は2人、2世代前は4人、3世代前は8人
と2倍ずつ増える。10世代前だと2の10乗=1024人だ。この計算で行くと10世代前(1世代平均25年
として250年前)の人口は現在の1000倍であるということになる。この論のどこがおかしいか答えてみ
てくれるかな。
363 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:31:52
大は、古典文法では「おほきなり」で、ナリ活用。 ナリ活用は、「おほきく」とは活用しない。 「おおきく」は、現代文法で形容詞「おおきい」の連用形。 だから、古典文法にしたがう漢文訓読が「おおきく」と読むはずがない。 ナリ活用の連用形には、「なり」と「に」があって、 「おほきに」が音便化で「おほいに」。 「おほいに冢を作る」
364 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:32:24
>>358 おおし、ほな、いっくで〜〜。あそれ、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、
あそれ、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、
縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、縄文人は脳弱い、
ふひゃひゃひゃひゃ〜〜。
しかし、嫌われてるなあ。
>>359 >まあ、大きいという意味合いを連想できれば
満足だったんでしょう。
副詞とか形容詞とかは彼には意味は無かったんだよ。
確かにそのようですね
>>361 の必死さを見ればよく理解できます。 池沼君には池沼君の世界があるようなので
そっとしてあげるのも優しさかもしれません。
池沼君に対して品詞で説明してきた自分は愚かでした。
どうやら池沼君には池沼君用専用ソフトが必要なようです。
>>361 だから形容詞のあとに動詞がくる例では意味がないって。
形容詞が動詞を飛び越して、
動詞の後ろの名詞を修飾する例を出さないと意味ないと言ってるでしょ。
大別とか大成とか出してきても、君の説の例証にはならないの。
368 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:40:35
>>363 日本語講座じゃない、それじゃ。
ずれてずれてずれまくり。
中国語から考えなきゃ。どういう訳し方が一番ふさわしいか。
おほいに冢を作るってどういう意味よ?
>>361 > だから形容詞のあとに動詞がくる例をだしたでしょう。
そんなこと言ってるから「ゆとり」とか言われるんだ。
キミの言う「形容詞」とは世間では「副詞」と言うんだよ。
370 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:44:24
>>367 そんなのいくらでも考えられるでしょうに。
大別○なんてものは。
>>362 人口は文字どおり、口数だよ
その時代の食料事情で生きれる人口がきまる
社会のドロップアウターから飢え死にしていくから、常に食料需給のバランスが人口を決めて来たんだ
現代人には理解しにくい話だろうな
池沼君に必要なのは 副詞ではなく、どうやら福祉のようです。
373 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/28(月) 23:48:51
私は畿内説派に嫌われている。だから
>>364 のような絶賛の嵐が来る。一流のプレーヤーはアウェイでは
ブーイング(絶賛)の嵐の中にいる。誠に愉快だ。
375 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:57:00
>>368 訓読が「おほいに」としか読まないことには、反論はないと考えていいのか?
中国語から考えると、「大」が「作」を飛び越して「冢」を修飾することはないと言ってる。
>>370 大別○の具体例を出しておいで。
376 :
日本@名無史さん :2009/09/28(月) 23:57:51
>>374 アホだなあ。
漢字てのは意味を表すんだよ。
そのままで。
大は大きいと言う意味でしょう。
日本語として訳す時は大いにとか訳すけど、
大の字そのものの持つ意味には大きいと言う意味がある。
漢字の成り立ちは象形文字からでしょ。
漢字一字にその成り立ちの意味が隠されているの。
おおいに君、わかった?
377 :
ローガン :2009/09/28(月) 23:58:49
少し上の人口推定関連の書き込み見てチラッと思ったのだけど…。 畿内説の場合、邪馬台国時代とは古墳時代黎明期?もう一声って人は古墳時代初期かな。私は前者ですが。 九州説では弥生時代末期でしょう。この末期、初期、黎明期を取っ払うと弥生時代か古墳時代。 この線引きって学者それぞれですね?つまり資料開陳者によって、弥生時代終焉とは何時なのか?統一してないでしょう。 邪馬台国時代とは端境の微妙な時期かな?とも思いますが、皆さんはいかがでしょう?
>>370 >そんなのいくらでも考えられるでしょうに。
大別○なんてものは。
ならやってみな (逃げてもいいよ〜ん)
>>373 僕はどちらかといえば九州説ですが、同じ九州説として縄文人さんの書き込みの一つ一つが恥ずかしいです。
脳が弱い(これ僕が書いたんじゃない)と言われてもしかたがないと思います。
無乃大簡乎 乃(すなわ)ち大(はなは)だ簡なること無からんや
381 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:05:48
>>378 大別種類とかないかな。
でも考えてみて、漢字というのは表意文字なんだよ。
だからそのものに意味があるわけ。
それを日本語に訳して
「大いに作る」じゃ、なにがなんだかわからないでしょ。
もっと具体的に訳してよ。
>>376 > 漢字てのは意味を表すんだよ。
> そのままで。
> 大は大きいと言う意味でしょう。
違うよ。
「大きさ」は「大」が表現しうることの一例に過ぎない。
「大人」と書いたら、それは「大きい人」と言う意味だけじゃない。
「偉らい人」「高貴な人」と言う意味に使われることもある。
今日、キミは多くの人からいろいろな表現で「大作冢]の説明をされても
一つも理解できないのは、キミの日本語能力に問題があるからだ。
漢文を語る前に、先ずは日本語の勉強からやり直したまえ。
でないとこのスレの偉大な大先輩(大きな先輩と言う意味じゃないよ)である
○○虫こと○ラ○氏と同じような2ch人生を歩むことになるよ。
383 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:10:15
>>379 あんさんの書き込みの方が恥ずかしいんとちゃうか?畿内説派丸見え。
384 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:12:18
>>382 私の言っていることが通じないみたい。
日本語ではいろいろ訳せますよ。
訳し方の問題じゃないの。それじゃ日本語講座でしょうが。
だから大いに作るってどういう意味ですか?
なぜ答えられないの。
>>376 やっぱりクスリ抜けてないよ
>大は大きいと言う意味でしょう。
日本語として訳す時は大いにとか訳すけど
「大きい」も日本語だよ 救急車呼んでやろうか?
もう、クスリはやめなさい
386 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:15:37
>>385 大いに冢を作るってどういう意味なの?
それさえも答えないで、人をバカにするわけ?
人間性が知れるわ。
>>384 「おほいに作る」は古文だから、君がその意味を理解できてないだけ。
古文がわからないと泣き付かれても、頑張って慣れてくださいとしか言いようがない。
それから、中国語として「大作冢」は、「大」が「作」を飛び越して「冢」を修飾することはないと何度も言ってる。
「大」は「作」を修飾している。
それなのに、君は「おおきく」という日本語で一所懸命に考えてる。
自分が日本語に縛られていることに気付かずに、
中国語で考えなきゃなどと他人に言ってる。
388 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:20:03
クスリやってるんはほかにもいるべ。364や379を書いたんはきっとやってるべ。
389 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:20:14
>>387 なにその書き方。
やっぱり逃げてる。
はっきり詳しく訳してみてよ。
そもそもおおいに冢を作るなんて言葉は日本語にはないんだから。
訳せないなら、訳せないとはっきりいいなさいよ。
いつも論点そらしばかりして。
そういう理屈屋が一番嫌い。
390 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:21:42
391 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:23:52
大作冢 の 大いに冢を作る という読みが気に入らなければ 盛大に冢を作る では如何。
392 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:26:25
>>391 盛大にって何にかけてるの?冢ですか?人ですか、それともなんですか?
意味がわかりませんよ。
393 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:28:40
>>389 「おおきく」という言葉は、現代になって生まれたんだから、
漢文訓読を作って昔の日本人は、「大きく冢を作る」なんて読めない。
その当時あった言葉は「おほきに」か「おほいに」だけ。
だから「おほいに冢を作る」か「おほきに冢を作る」としか読めない。
君が「おおいに冢を作るなんて言葉は日本語にはない」というのは、
単なる認識不足。
まず、それは理解できたかな。理解出来たら、訳に進もう。
394 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:28:53
>>392 「盛大に」は「作る」を修飾している。作るという行為が盛大である。
>>389 「おおいに冢を作る」は日本語だよ。
おじさん達はそれで意味が通じる。
「おおいに」も「冢」も「作る」も普通に理解できるのだから。
だから、ちゃんとした日本語を日本語に訳せといわれても直ぐに反応しようと思う人は居ない。
「訳す」のでは無く、キミに解かるように言い直すとしたら・・・
冢を大掛かりに作る、とかかな。
大事なことは、出来上がった冢が大きいかどうかと言うことでは無く、工程の方にあると言うこと。
397 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:34:20
>>393 そもそも作るという言葉におおいにはつかないですよ。
どういう状態をいっているの。
あいまいな言葉でなんとでも訳せる日本語の欠点をそのままにしておいていいんですか?
大いに作るって冢をいっぱいつくるとも
頑張ってつくるとも、とれる。決して大きいの意味はない。
398 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:34:30
大作冢 一般民衆の墓のようにちょこっと作るんじゃなくて気合いを込めて作ったんだよ。
399 :
ローガン :2009/09/29(火) 00:36:20
大いに作る。たしかに日常あまり使わないから違和感あるのかなあ?私はさほどでも無いけど、年代の違いでしょうか? 大いに夢を語る…とかなら、わかって貰えますか?
400 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:37:18
>>396 工程のほうですか。それを早くいってくださいよ。
ところで冢をつくるのに大変な労働力がいるのだから
わかりきったことを書くのは余分なことだと思いますけど。
401 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:38:13
402 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:38:38
>>400 >それを早くいってくださいよ。
何度も言われてるだろw
404 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:43:35
>>400 >大変な労働力
主観はよくない。
人それぞれ感じ方は違う
405 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:46:33
曖昧なことばでもそれでいいと思っているひとが近畿説なんだね、大抵が。 だからなんだ、南を東といったり、屁理屈こいたりが上手いんだ〜。 なんとでも都合のいいように訳すもんね〜w
406 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:47:08
まだ改めの補習は続いてるのか? つか、どんだけ単位足りないんだよ?
>>400 > ところで冢をつくるのに大変な労働力がいるのだから
> わかりきったことを書くのは余分なことだと思いますけど。
何でさ?
わかりきったことを書くことによって得られる「表現」と言うものもあるんだよ。
>>405 「大」は「冢」を修飾していないんだから、「大きな冢」なんて、書いてない事を勝手に訳すことはできないよ。
「大きな冢」は、現代人の改めにとっては「大いに作る」より曖昧ではないだろうが、
曖昧でないからと言って、書いてない事は訳として認めるわけにはいかないのはわかるだろう。
「大」は「作」を修飾している。「作」は「作業」の「作」。
「冢を作る作業」が「大」だったと言ってる。
>>405 「曖昧なことば」じゃないよ。
キミが理解できない言葉だっただけだ。
もし、キミに微分方程式を理解させることができなかったら、微分法とは曖昧なものなのか?
曖昧なのはキミの脳みそw
410 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 00:58:14
>>402 大仕事 大いに事に仕える
大作冢 大いに冢を作る
同じだね
411 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 00:58:33
工程が大規模ってことは、何。 作られた冢は大きい、小さい、普通?それともどれだかわからないの?
もう理解したんだろう。 テレ隠しに無駄レス噛ますなw 寝るよ。
413 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 01:06:36
>>412 どうぞ、お休み。
作るのが大きいんだから、やっぱり大きい冢なんじゃないかな。
工程が盛大でもどういう風に盛大なのかわからないもの・・・。
414 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 01:29:36
>>413 皆が寄り集まり、盛大に冢を作った。
寸法は小さな冢でもOK。
作冢に参画したものの、殆の人々が唯見てるだけでもOK。
昼は人が作り、夜は神が作った
416 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 01:34:56
>>413 「大きい冢」であるためには、「作大冢」の語順でなければならない。
それが漢文のルール。
「大作冢」の語順である以上、「大」は「作」にかかる。
この文は「作」が「大」であると言っているのであって、
「冢」が「大」であるとは言っていない。
大きな冢でも、少人数で長い年月をかけてコツコツ作ることも可能。
そうではなくて、恐らくは共立にかかわった国の共同事業として
盛大に作冢が行われたのだろう。
どの様に盛大だったかといえば、径百余歩で徇葬者が百余人であった。
殉死者を葬るのも作冢の行程に含まれていたのではないかな。
417 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 01:57:49
>>416 語順はわかってますよ。
でも日本語としての訳し方の問題。
大」は「作」にかかるのだから
盛大に作った、冢を。ではだめなんですか?
中国語の語順の問題で目的語が最後につきますよね。
意味としては大きな冢を作るですけど。
418 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 02:08:49
この場合の大は盛大というよりやはり大規模に作る、冢をがぴったりだと思うんですけど。
419 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 06:48:43
みせしめに葬った奴婢百人分の墓も作ったので、大仕事だった。
420 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 06:56:05
大きいは形容詞だけど、 大きくは副詞じゃないの。 大きく作るでいいと思う。 大きく築く、これでもいいと思う。 おおいに作るで訳すのは訳者として失格だと思う。 大工事でも小さい冢だってあるわけだから。
421 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 07:16:27
どう訳したってそれでどうこうなる問題じゃないな。
422 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 07:20:02
423 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 07:27:03
>>422 おおいに作るという意味で、大工事という意味なら
大の字じゃなく力を用いるんじゃ?
力作冢と。
本国の薄葬令に対しての目にした有様、こっちでは盛大に墓を作っているなと そんなニュアンスでは 径百歩という具体的数値をあげたあと、感想を添えた 本国では薄葬令の頃だからね、なにかホローしとかないと、気まずいだろ
425 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 07:43:21
>>424 盛大に作るという意味なら、やっぱり
力作冢と書くべきだよ。
大は不適当だ。
426 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/29(火) 08:08:05
>>213 紀元前の人口推移のダイナミックな動きは、考古学の成果と言ってもよいでしょうね。
歴史においても、世界的な気候変動が数多の国家の滅亡に関与していたという考えが広がってきているようです。
表面的には強い他国の侵略による滅亡でも、そのような侵略が何故起きたのかの根本に気候変動(による不作など)があるようです。
紀元後の人口推移は1600まで退屈ですね。もともとデータは少ないのでしょうが、200年ころと600年ころの推定値を
ただ直線で結んで、まぁこんな感じで増えたのだろうといった単純な推測のような感じをうけます。
話を簡単にするなら、卑弥呼の墓が古墳(のようなもの)なのですから、人口も古墳時代にかかる程度のものではないでしょうか。
古墳を作れるようになるには、少なからずそれなりの人口が必要だと私は考えています。
>>大作冢 (話題に便乗して)
”大”は一大率、つまり「”一大率”作冢」のことなのだ、ってのはどうでしょう?w
427 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 08:08:48
「力」を日本語「大いに」の意味では使わないだろう。 大仕事と力仕事と言う日本語を念頭に置いた発想かと思うが、 前者は仕事の規模や難易度を、後者は性質を表現しており同意ではない。 倭人伝原文の場合、「大作」の結果は後続の「径百余歩」で表出される仕組みになっているのだが、 そう言う漢文的ニュアンスの妙はキミには理解できないだろうな。 ともかくキミは「大いに」と言う日本語を習得せずに育ってしまったとことは認識したまえへ。
428 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 08:19:50
>>427 >「力」を日本語「大いに」の意味では使わないだろう。
はあ?
皆さんのいっている意味は一生懸命とかはなはだとか盛大にと言う意味でしょ?
だったら力じゃないですか。
力作の意味は一生懸命作るという意味。
大の字を用いるのは漢字の意味として不適当だ。
429 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 08:40:50
>>423 大工事は、
(大工)事じゃなくて
(大)工事なんだから
大=おおきな
430 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 08:45:17
あと大にはりっぱんとか優れたの意味もあるでしょ。 立派に作るとか、立派に築くとか。 皆さんのいっていることは、一生懸命に、盛大にはなはだという意味、 だったら大の字じゃなく力の字がふさわしい。
431 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 09:03:52
>>430 力作だったら
力作の前語に(彼の、私の)と言う、力作に携わったものの説明が付随する。
そして、力作されたものは、その携わったものの更に前に位置し
〇〇は〇〇の力作だ。
と 言う文になる。
432 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 09:08:35
>>431 それは其の物を指す時の力作。心をこめて作った作品という意味。
辞書にはそのほかに、
努力してこしらえるとか、努め働くとか、一生懸命は作業するという意味もある。
433 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 09:17:33
>>432 一生懸命や努力は、力作からの言葉だから
同じだよ
434 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 09:23:30
>>433 あなたのいう力作はそのものを指しているでしょ。
でも私のいう力作は力作○という形に出来て。
一生懸命作る、塚(チョウの別字 変換がやっかいなので)を。
で一生懸命塚を作ったと訳せます。
435 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 09:38:00
>>434 先ずは日本語の勉強をしたほうがいい。
力作に一生懸命作る と言う意味があるのは、
力=力を込めて(心を込めて)
作=作る
と言う文字が熟した熟語
だからといって、力に一生懸命の意味があるわけじゃない、飽くまでも熟語としての意味だ
436 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:07:23
大作品は大きな作品と訳すなら、 大作塚は大きな作塚。 大作品をおおいに品を作るなら、意味が違ってくる。 だから大作塚は大いに塚を作ると訳してはだめなのでは?
437 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:13:18
大作品を大作の品と訳すなら 大作塚は大作の塚となる。 そうしたら「大作の塚は直径百余歩で・・・」と訳せるのでは?
438 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:29:09
>>436 まだわからないのかね?
大作品を 大作の品とは別けない。
強いて別けるなら「大」「作品」
大作も品であるのに、重複して品品はへんだろう?
439 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:36:16
>>438 日本語で考えるからだよ。
中国語で考えてよ。
大作という熟語はないですよ。
440 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:38:02
441 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 10:48:07
>>439 大作と言う熟語が無ければ、一生懸命作ると言う意味もない。
442 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 11:15:53
>>441 力作のことですよ。一生懸命作るって。力作という熟語はあるんです。
もういっていることがメチャクチャじゃない。
443 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 11:39:48
封土作冢という言葉が前にある。 これに対応させると。 封土 作冢 大 作冢 やっぱり大には大規模にしてとか立派にしての意味がある。 形態を表していると思う。
444 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 11:44:44
>>442 >>440 をよく読んでから参加しろ
彼は中国語には熟語は存在しないと言っている。だから
>>441 にて
熟語が存在しないなら、熟語から発生した「一生懸命に作る」という
日本語の意味も発生しないな。
と言っているだよ
445 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 11:55:47
>>444 熟語というか決まり文句みたいなものが漢字辞書にはあるでしょ。
力作は漢字辞典に載っています。
ということは漢文にもあるってことでしょう。
でも大作という言葉はないんですよ。辞書には。
だから大作冢は大、作冢であって、大作、冢ではないんのではないかと。
大作品がそうであるように。
446 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 11:58:30
447 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:00:02
>>445 漢和を見る前に、漢漢で確認する。
話しはそれからだ
448 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:14:04
>>445 大作なんて言葉は、いくらでもある。
君が言っている
大作=大きな規模の作品
は、大作〇ではなく
〇〇大作。
この場合、大作は「品=しな」と解釈する
449 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:16:24
縄文人の無知は今に始まった事ではないしな。
書けば書くほどボロ出まくりの縄文人
452 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:23:44
>>443 封土作冢は
〇〇を土にて封じ、冢を作る。
大作冢は
大いに作る 冢を
封土作冢は、封土、 作冢
大作冢は、 大作、 冢
縄文人はもうだめぼ
454 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:25:54
>>448 大作があるのはそれは日本語でしょ。
中国語に大作という言葉が独立してあるんですか?
455 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:30:42
>>454 漢和事典に掲載されている熟語は、全て日本語
456 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:35:16
力作も日本語 大作も日本語 力作は、力と作が熟した熟語。 大作は、大と作が熟した熟語
457 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:35:21
>>455 そんなことない、
今まで漢文を訳したことあったけど、
辞書の熟語が随分参考になった。
二字熟語が。
458 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:37:51
>>457 それは、「漢和」事典を使ったからだよ
一度「漢漢」使って訳してみたら?
459 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:45:25
>>450 縄文人は頭脳明晰だ。おまえらはどこかに書いてある記事を鵜呑みにして知識と錯覚している衒学の徒だ。
おまえが優秀だと言うのなら縄文人が出した
>>362 の問題を解いてみろ。出来るか?
460 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:45:53
>>457 漢漢は手元にないから。
そちらはあるのなら、大作を引いて見て。
多分大著とかでない?著すは著述の箸。
461 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:51:27
縄文人が居ない隙に悪口を書き込む。唯一の楽しみか?情けないのお。畿内説派は一部を除いて質が悪い。
462 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 12:55:47
463 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 12:59:54
>>460 漢漢で調べろと言ったのは、熟語が日本語であることを知ってもらいたいから
熟語は漢漢にはない。
464 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:05:41
>>463 漢和の熟語は日本語じゃないですよ。
日本語の熟語だったら、大作があるはず。
それがないもの。
国語辞典には大作はあります、もちろん。
465 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:08:20
>>463 漢和ちゃんと見てますか?
日本語にない熟語が沢山載ってます。
>>459 =461
誰も褒めてくれないから自画自賛ですか、縄文人さんw
467 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:33:10
>>465 だから漢和を見る前に漢漢みろって。
熟語は、漢語から漢語以外に訳されるときに必要な複合語(派生語)
だから、漢漢にはない。
468 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:37:59
大作が漢和に無ければ、(大+動詞)で調べろ
469 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:43:50
>>467 さっきは熟語はすべて日本語だといいましたよ。
上のほうに書いてある。
今度はいっていることが違ってきた。
漢漢みろったって、今ないのだから。
それ見たって用例文に大作塚とあれば、あったあったとなるんでしょ。同じことだよ。
また訳し方が大いに塚を作るになってしまうんだから。
漢漢に熟語が載ってないのなら意味ない。
大作の意味が漢漢で載っているのなら引いてみる甲斐があるけど。
470 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 13:51:43
大作って池田大作さんのことでは?
471 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:04:00
>>469 だったら熟語は何語?
熟語は正確に言えば和語でもない。漢字なんだから当然と言えば当然だよね?
しかし、日本で漢字が使われているいじょう、漢字で通用してしまうのは日本語なんだよ。
ましてや漢語には列びがあっても、複合語はないのだから
472 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:15:32
>>469 ゴネたければ何時までもゴネていればいい。
しかし、ゴネて得るものはなにもない。ただ長い時間馬鹿にされるだけだ。
後は君に判断は委ねよう。好きにしたまえ。
君が例え「大きい」と訳したところで、誰も困らないし影響もない。
困るのは訳した本人だけだ。
では 失礼する。
473 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:19:10
>>471 だから大作塚の大が大きいという意味で訳すのか、
一生懸命という意味で訳すのかという問題だから、
漢漢をみても「一文字」の説明と用例文しかないと思うから、意味ない。
中国人に訳してもらってどう訳すのか聞いてみれば一番手っ取り早い。
474 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 14:25:14
熟語は日本人が発明した漢字の用法。 だから、熟語は大陸にも半島にもない。 現在ある大陸や半島の熟語は日本から逆輸入したもの。 彼等の熟語には英語の翻訳語が多い。
475 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:28:15
だれか中国人の知り合いの人いないかな。 それで、きちんと正しくここで伝えてくれる人。 ウソはなしw。
476 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:39:08
>>473 正気か?
中国人は日本語があやふやなのに
477 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:41:53
>>476 何をおっしゃいます。正気かはこちらがいいたい。
日本語の堪能な人だっているでしょ。
478 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:45:21
中国人だって、漢語は公用語じゃないぞ だから中国人も漢語はチンプンカンプン。
479 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:59:34
>>474 民国時代の中国語の辞書。
増修 辭源 (臺灣商務印書館發行 中華民國四年十月正編初版)
これには熟語が沢山なんだが。
例えば【力】の項目に力+○の熟語が沢山並んでいる。
【力作】は「謂盡力工作。〔韓非子六反〕力作而食。生利之民也。
〔論衡命祿〕精學不求貴。貴自至矣。力作不求富。富自到矣。
熟語は、漢文に本来備わっている用法。日本人の発明じゃない。
480 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:07:11
大いに塚をつくるという言い回しは 書き下し文に於いて過ちが起こりやすい訳文だ。 言ってみれば直訳で、意味が通らない。 大作品を大いに品を作ると直訳するようなものだよ。
481 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/29(火) 15:12:00
482 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:23:30
>>362 >>459 両親が子供を1人しか作らない場合>362であってると思いますよ。人類滅亡ですけどね。
実際は何人か作ってきたので人口増加するわけだ。2005年の国勢調査では出生率1.26でやばい
ですね。急激に人口がへらないのは長生きになったため。若者少なくて老人の多い社会ですな。
483 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:26:28
>>480 ユトリ世代には起こりがちかも知れないが。
それは心配ないし
「大作品」は「大、作品」で、(大きな作品)と世間では捉えるから心配ない。
484 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:31:32
陳寿:なにか儂が書いたもので倭人共が騒いどるな。 弟子:大作冢について大いに冢を作るか、大きく冢を作るかで争っています。 陳寿:ふ〜ん。儂は大作どんの冢のことを書いたんじゃが。ちとまずかったかの。
485 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:35:36
大作業でも同じ。書き下し文はおおいに作業をすると訳す。 でも訳文は大きな作業と訳す。
486 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 15:37:18
>>485 訂正
でも訳文は大きな作業をすると訳す。
487 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 15:48:05
>>482 君は畿内説派の中学生連中の一員ではあるまい。君が答をだしたら連中の為にならんだろが。中学生には
自分で問題を解く訓練が必要だ。しかし、もう君が答の半分くらいは出したからしょうがない。
そうだ。あの論には隠された前提条件がある。それは「1組の夫婦は1人(だけ)の子供を生む」という
ものだ。1組の夫婦が複数の子供を生むとすると成立しない論だ。例えば、1組の夫婦が2人の子供を生
むとすると、子の世代の人数と親の世代の人数は同じになる。3人の子供を生むとすると親の世代の人数
は子供の世代の人数の2/3となる。世代を逆に見れば、1組の夫婦が1人の子供しか生まないと10世代後
には人口は1/1000になるという計算だ。
488 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:00:02
>>485 「大作品」
「大」+「作品=名詞」
だから 大=おおきな
「大作業」
「大」+「作業=名詞」
だから 大=おおきな
489 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:05:15
>>488 補足
作業を 「仕事する(作業する)」と解せば
大=大いに
490 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 16:08:34
大作冢について大いに冢を作るか、大きく冢を作るか もういい加減にしようではないか。それより 問題は 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人 だろう。 この徑百餘歩については a. 卑弥呼の墓本体のもの b. 卑弥呼の墓を取り囲むように埋められた奴婢達の墓も含めたもの c. その他 と解釈が分かれている。ここを見過ごして大作冢ばかり議論してもしょうがないだろ。
491 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:20:43
>>490 卑弥呼が死んで卑弥呼の墓だけでなく、奴婢百餘人がみせしめに葬られたから
大いに冢を作った。
みせしめに葬る=徇葬
大作冢=大仕事
492 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:21:16
>>482 はいはい
>両親が子供を1人しか作らない場合>362であってると思いますよ。人類滅亡ですけどね
おじゃましました。無用のスレなので終了します。
493 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 16:35:53
494 :
ローガン :2009/09/29(火) 16:43:31
>>269 >その後の完成した卑弥呼の冢の情報は、陳寿らには伝わってない
> ということですよね。うーんどうなんだろう。
その部分まだあまり練れてないので、想像でかいてみると…
魏志東夷伝で正始八時を下る年表記はありません。そして登場する年号は景初と正始がほとんどです。
景初末から正始での実権は曹爽でしょう。司馬懿のクーデターは嘉平元年(249) つまり曹爽政権下における筆録者は、年月にいたるまで丁寧に記述した…
正始八年以降の、年月の記述がない部分、つまり張政等来倭以降の記事は別資料に拠るものではないかなあと。
あ〜書いてるうちに論点がずれた。
495 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:04:59
>>491 みせしめ? 王に忠実に仕えたらこんなふうに殺して埋めるぞ、分かったかってかい?
496 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:08:43
>>490 ごめんなさい。
こちらは適当にやってますから、気にしないでどんどん書いてくださいね。
中国語サイトで下のようなものを見つけました。
孫皓非常傷心﹐下令為左夫人“大作塚”﹐並陪葬以大量的金銀珍玩﹐
而孫皓自己則半年不出宮門﹐以至于百姓都以為死者是國主孫皓。
左夫人の大作塚と読めるんですけど。
名詞化されていますよね。
でも字の並びは同じです。
だから倭人伝のは、卑弥呼はすでに死んでいたので径百歩、
殉葬者奴婢百余人の「大作塚」を
つくらせた。はどうですかね。
令為はないけど。その意味が隠れていると見て。
497 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:12:08
>>481 用例にも、珍しいものと頻繁に使用されるものがある。
頻繁に使用されるものは、熟していると表現される。
熟している言葉を熟語という。
辞書に採用されている用例は、十分熟している。
498 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:18:38
>>417 >意味としては大きな冢を作るですけど。
「大作冢」と「作大冢」は異なる漢文。
異なる漢文は、異なる意味内容を表現している。
「大きな冢を作る」という日本語に対応する漢文は「作大冢」
異なる漢文に、同一の訳語「大きな冢を作る」は当てられない。
では、「大作冢」には、どのような日本語訳を当てるべきか。
「大作冢」を「大きな冢を作る」と訳そうとする改め君は、
「大作冢」と「作大冢」は同じ文だと言っていることになる。
違う文を同じといくら言い張っても通用しない。
499 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:18:47
>>496 令を下し左夫人の為に大いに塚を作り、〜
左夫人の大作塚ではないです。
501 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:26:20
502 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:29:48
>>488 多分、漢文に「作品」という熟語はないので、「作品」を検討しても意味ないと思います。
「力作」は、現代日本語では「展覧会は力作揃いで」などと使うけれど、
漢文の「力作」
>>479 とは意味が異なります。
大作業は「大いに業を作(な)す」
>>501 令爲をつくらしめと読むと、前の下が浮いちゃいます。
504 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:41:52
>>503 令を下すの下すですよね。
大作塚が””で囲ってあるのはなぜなんだろう。
505 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:44:45
>>495 >王に忠実に
意味わかりません。
誰が忠実なんですか?
506 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:48:01
>>504 中国語のサイト見て来ました。多分、同じページだと思います。
「据?家介?,??盛行厚葬,」の後に件の文章が続きます。
恐らく、筆者は、東呉盛行厚葬の例として「大いに塚を作る」の句を“ ”で括ったんじゃないでうかね。
507 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 17:57:25
>>506 ありがとう。
厚葬だから、盛大に塚を作らせると訳したほうがいいんじゃないかな。
大いにだと直訳っぽくて「塚を作る」の前に来る文として相応しくないような気がします。
「盛大に」は工事が盛大ではなく、墓事態が立派なという意味ですけど。
508 :
ローガン :2009/09/29(火) 18:10:01
漢文に詳しい人が多いので、ちょっと訊いてみよう。 「其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授」 岩波は詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ、と訳してますが、 倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授するよう天子が命じた。 とは訳せないでしょうか? 其の方が都合がいいんですが…いかがでしょう?
>>507 「大きな冢」は「大冢」。原文に、「大冢」は出てこない。
出てこないものは使いようがない。
原文に出てこないことばを、なぜ無理矢理訳に使いたがるのか。
径百余歩の冢が直径144mだとしても、中国の皇帝の陵墓からすれば、
特筆するほど大きくない。
中国の史書で、「大きな冢」などと書けば、読者は、
どんだけでかい陵なんだと想像する。
ここは、大きな冢ではなく、倭国として大掛かりな工事であったということだろう。
「おほいに」は古語だから、直訳というわけではなく、
漢文を古文に訳したことば。
違和感を感じるとしたら、古文に慣れてないだけ。
510 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 19:09:55
私は、 左夫人の為に「大いに塚を作れ」との令を下し、 と読むがね。つまり、””でくくっているのは それが令の内容だということ。
511 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 19:21:14
>>505 奴婢百餘人だよ。女王に忠実だった連中のはずだろ。
その人たちの殉死を「みせしめ」っていうから、変な解釈だなと思ったわけだ。
みせしめってのは、悪いことをした奴を重く処罰するなどして他の者が同じよ
うなことをしないよう懲らしめることだろ。
女王に仕えてきて女王に殉じて死んだ者を何で「みせしめ」に葬ったというの
か訳がわからん。
512 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 19:34:18
>>509 冢自体が小さいものをイメージさせるので、
陵とは違って実際は大掛かりな工事ではないと思います。
私は短里採用派ですから。
ただ卑弥呼は宗教者ですので、国中の皆が悲しみながらも大掛かりに
精一杯心をこめてという意味は伝わります。
ですから盛大に塚を作ったでいいと思います。
ただ工事が大掛かりなだけを指すものではなく、
全体的なものを指すと思います。
513 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 19:37:31
514 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 20:17:09
>>511 何処から殉死がでてくるんだ?そっちの方がよっぽど不思議だぜ。
515 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 20:27:02
根拠も提示せず漢字の意味についておかしな主張するのは河童なのか。 ならば何言っても無駄だな。
>>516 昨日の夜からずっと「大作冢」の先生していたの気付かなかったのか?
518 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 21:03:39
>>517 >>516 大作冢をしつこく書いてたのは私。河童さんではないです。
改めさんでもないし。池沼君でもないですよ。
それより河童さんと間違えるようじゃ、貴方達もまだまだ未熟ですね。
さんざん、悪口書いて人を煽るのお上手なのに、情けない。
>>516 「徇」・・(首を斬り示しまわる)
司馬法 司馬穣苴列伝第四
『既往未及反於是遂斬莊賈以 徇 三軍』
(すでに往き、いまだ反るに及ばず。ここにおいてついに荘賈を斬り、もって三軍に徇(とな)う。
漢漢の中にも
「徇」の意味として
『巡行示众(見せしめに巡行する)』 と書かれている。
>>519 はトリップ間違えた
難升米は檄を作り告喩し、奴婢百餘人を見せしめに葬った。 ↓ ↓ 『どうして?』 ↓ ↓ 卑弥呼以死だから。
522 :
縦目仮面 :2009/09/29(火) 21:43:47
レスが止まったのでいちおうフォローを。「ぎょうにんべん」は「行く」とか「道」という意味で、 「歹(ガツ)」は死とか、骨のかけらという意味ですね。今、辞書で見ました。ww 旬が音なんでしょう。ところで、関係ないですが「徇」は俺の持ってる「漢辞海」(三省堂)で は494ページにある、不吉だな。ww
>>519 > 「徇」・・(首を斬り示しまわる)
「徇」に斬首の意味なんかないだろうに
於是遂斬莊賈以徇三軍
是において遂に荘賈を斬り、以って三軍に徇う。
確かに莊賈は斬られたが、それは「斬」で表現されていること。
「首を斬り示しまわる」から「斬り」を差し引くと「首を示しまわる」
つまり移動型の晒し首のようなことをしたと言うわけだ。
事実、そのようなことが行われたのかもしれない。
が、それは想像。
引用されている訳文が「となう」と訓じているように、
この場合の「徇」は「知らしめる」と言う意味。
文字の講釈をするときに気をつけないといけないことは、
引用文の他の部分からのイメージを本来の意味に付加しないこと。
524 :
メ :2009/09/29(火) 22:04:41
>>523 それは私がイメージしたわけではない。言い分があるのなら辞書に言ってくれ
私も縦目さんと同じ三省堂の漢辞海を使用しての事だから
言い分があるのなら、三省堂の方へ
連絡先は辞書の一番最後に書かれているのでそれを参照されたし。
528 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 22:23:37
>>514 徇死=殉死と辞書にあるよ。当然、徇葬=殉葬だろう。
この程度が分からないとは不思議だ。
>>528 三国史では「徇」と「殉」は使い分けられている
だから『徇』が「殉」なら、わざわざ違う文字を使わず『殉』葬と書かれる。
530 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 22:41:22
冢と墳の違いについてだが、 『蜀志』五の諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という記述があるそうだ。 これから見ると、(山のような)はっきり高く盛り上げた形の墓を「墳」とし、それよりも規模の小さい盛り土をした墓を 「冢」と言うのではないだろうか。木槨なり石室を設けて其の中に棺を収めるとかなりの高さになるだろう。そのような墓 を墳と呼び、棺だけを埋めるのでほとんど高さのない墓を冢と呼ぶのかなとも考えられるが、どうだろう。 倭人伝で倭の習俗関係の記事に出て来る冢は槨を設けず棺だけを土で封じるとある。卑弥呼の墓も同じ冢の文字で書かれて いる。どうも小山のような墓という印象を受けないのだが。
河童のバカ。 河童が用例出したり、辞書引用したり、それでも足りず漢漢字典まで使う から、スレがフリーズしてしまった。
532 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 22:44:25
徇 1、巡也。行示也。謂巡行其地而誓令之也。〔漢書賈誼傳〕陳勝使周市徇魏地。 2、與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。 3、速也。見徇齊條。 4、見徇通條。 【徇名】謂棄身以邀名也。 【徇國】言殉國也。〔後漢書〕昔我先父以身徇國。
533 :
メ :2009/09/29(火) 22:52:30
>>527 >魏志倭人伝の原文を検索できるようにしてみたんだけど、どうですか?
>
http://www.seisaku.bz/ なかなか苦労したのは分かるが、字を間違えてるよ?
ざっとみて、すぐに気づいくのは私ぐらいだろうが・・・
>Macで見られるのだろうか?
これはしらんw
534 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 22:55:16
>>529 三國志/魏書/陳思王植
古忠臣義士,出一朝之命,以徇國家之難,身雖屠裂,而功銘著於鼎鍾,名稱垂於竹帛,
古の忠臣義士 一朝の命を出し、以て国家の難に【徇】、身は屠裂すと雖も功は鼎鍾に銘著され、名は竹帛に称垂さる
昔の忠臣義士は、儚い命を差し出して国家の難に【徇】、その身は引き裂かれても、
その功績は鼎や鐘に鋳こまれて、その名前は竹帛に記され称揚される。
これのどこが「みせしめ」なのかね。
徇と殉、どこが使い分けてるのかね。
535 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 22:58:24
>>529 使い分けられているというのは思い込みにすぎないな。
どうやって使い分けられていると立証するんだ?
536 :
メ :2009/09/29(火) 22:58:47
縦目仮面 >俺の持ってる「漢辞海」(三省堂) 河童虫 ◆EY2wfgakAQ >私も縦目さんと同じ三省堂の漢辞海 んんーっ 引き分けっ!!ヾ(°∀°)ノwww
やはり漢字源だな。 電子辞書だと引くのも楽だ。
『徇』には こういう意味もあります。 徇罚(従い罰する) 示众处罚(見せしめにして処罰する)
539 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 23:04:38
徇葬の意味についてはよく分らんが、結局は奴婢百餘人が葬られた。それら徇葬者の墓も含めた冢(墓群) について徑百餘歩と記述したのではないかと思えてきた。箸墓古墳のイメージからは遠い。
>>526 > 漢漢の中にも
> 「徇」の意味として
>『巡行示?(見せしめに巡行する)』 と書かれている。
「示?」に「見せしめ」なんて意味も無いが。
行き巡りて衆に示すくらいの意味だが、これなら軽トラの石焼き芋みたいなもんでもオーケーだ。
別に芋を展示して回る必要はない。
「見せしめ」と言うのは、「示?」を行うことの一つの手段ではあるかもしれないが、「示?」そのものの意味ではない。
つまり三省堂の辞書には「徇」は「見せしめ」の意とあると言うのは一読者の想像に過ぎない。
なので、版元に文句を言うことは出来ない。
しかも、同じ辞書に「徇」は「殉」と同意と書いてあることに気がつかないようでは「漢漢」を引いたとか宣まう資格は無い。
541 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 23:15:09
辞書の記述の、自説と合致する部分は正しい。だから引用する。 自説と合致しない部分は、すべて辞書が間違ってる。だから無視する。 結局、いつも自分だけが正しい。 そういうことでしょうね。
542 :
縦目仮面 :2009/09/29(火) 23:15:56
>>530 これについては俺とローガンさんが、5〜6回前の「ドンと来い」でさんざんやったんだけど、
墳>冢という意味はないですね。説文では、「冢、高墳也」とあり、墳墓の中でも高さのある
ものに用いられる。あと、そのとき50以上の中国語サイトを検索したけど、史記「掘始皇帝冢」
とか、「高而大的墳」「高大土壇」とか、始皇帝陵まで指して用いられており、「高い墳」という
意味しかない。
あと、話題の「漢辞海」では冢=山頂、広大な墓。
543 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 23:28:41
河童虫さんは「卑弥呼は魏によって倭王に任じられたので魏の臣下の身である。その魏の臣下が狗奴国 と悶着を起こすような不始末をしたので、張政等を派遣し同じ魏の臣下(率善中郎将)となった難升米 を使って卑弥呼に責任を取らせた(死なせた)。そして卑弥呼の側近の奴婢達も処罰の意を込めて殉死 させた。」と考えているのだろう。だから、徇に「みせしめ」の意味があると主張するのだろう。
>>540 さっきから自分の主観でものを述べながら必死に何かを守ろうと努力しているようだけど
結構結構コケコッコー いい傾向ですよ
で、しかも、同じ辞書に「徇」は「殉」と同意と書いてあることに気がつかないようでは
徇(したがーう シタガーフ)は 殉に通じるとは書かれているがね
そして、
徇が殉に通じるのは、「徇」が、ある目的のために身を投げ出す という意味で使用するときだとも書いてあるけど
そこはスルーしたのかな?
で、その時の用例として
公投袂徇難 あなたは袂を振って意を決し、国難に身を投げ出した
こういうときの『徇』は『殉』に通じると言っているんだよ
>>540 >資格はない
あんたは何様?
頭大丈夫?
あんたに資格貰いながら生きてるわけじゃないから
余り威張りなさんな(笑)
しかも2ちゃんでwwww
546 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 23:34:57
ごちゃごちゃ言う前に使い分けてるという立証はどうした?
547 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 23:35:05
>>542 あそうなの。見てなかった。じゃ、見解を修正。
ところで、君は徑百餘歩を 卑弥呼の墓本体のものか 徇葬者の墓を含めたものか どちらだと思う?
548 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 23:35:10
>>530 縄文人さんへ
>これから見ると、(山のような)はっきり高く盛り上げた形の墓を「墳」とし、それよりも規模の小さい盛り土をした墓を
>「冢」と言うのではないだろうか。
これは、そういう意味じゃない。
諸葛亮が遺言して、漢中の定軍山に葬らせ、
わざわざ土を盛って墳を作ることはせず、自然の山を使って墳とし、
大きな冢を作らず棺を入れられれば良しとした、ということ。
つまり、墳も冢も同一の諸葛孔明の墓のことを指していて、
修辞的に言い分けたもの。
原文は以下
亮遺命葬漢中定軍山,因山為墳,冢足容棺,斂以時服,不須器物.
549 :
メ :2009/09/29(火) 23:38:37
>じゃ、見解を修正。
それを論破ともいう・・・
しかし、
>>542 の縦目仮面さんは偉いよね。
よく調べてる。
550 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 23:40:13
>>548 サンキュー。どこかで聞いた話の元はそれだったんですね。それなら分ります。
>>544 > さっきから自分の主観でものを述べながら必死に何かを守ろうと努力しているようだけど
守ってるんじゃないでしょう。
「漢文読めない」と自認している方が、テキトーに漢文訳(想像)してるので、
そのテキトーな部分を攻めてるんですよ。
> 徇(したがーう シタガーフ)は 殉に通じるとは書かれているがね
まさに殉死、殉葬はそう言う意味だけどね。主人に従って死す、従がって葬られる。
> で、その時の用例として
ならこの
>>532 用例はどうなよ?
「與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。」
552 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/29(火) 23:43:12
>>549 過ちを認めることから進歩が生まれる。これを君にも捧げよう。
553 :
メ :2009/09/29(火) 23:45:01
>>552 いや、おことわりします。
縦目を見習ってもっと勉強をして下さい。
554 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 23:45:55
>>544 主人の葬に身を投げ出すから、徇葬。
身を投げ出すから死んじゃうのね。だから徇死=殉死。
>>546 使い分けは適切じゃなかったかな?
使い分けではなく、適切な文字を使用している。
に訂正しますね。
>ごちゃごちゃ
ごちゃごちゃはあなたの主観。いちいち自己表現しなくてもいいから
で、今度は何を必死に守るの?
556 :
縦目仮面 :2009/09/29(火) 23:47:07
>>547 考古学的には、はっきりした殉葬例は日本では見つかってない(疑わしい例はそれなりに
ある)。まあ、周濠の底とかに埋められたんなら考古学的に見つけるのは難しいだろうね。
殷代では、異民族の首を斬って遺骸を大量に穴に投げ込んだ例や、麗々しく着飾って首
もあるままで、馬車を御した姿で埋められてるものもあり、とても一概にはいえない。徇葬
者の身分や、徇葬に至る経緯、なにより卑弥呼の鬼道の本質がわからなければなんとも
いえないだろう。現在の神道だって、一つ一つの作法や建築様式の意味などは、一見した
だけでは何のことかわからない。
557 :
日本@名無史さん :2009/09/29(火) 23:52:05
>>555 殉葬をあらわすのに徇葬も適切な文字なんだよ。同じ意味だから。
>>557 >殉葬をあらわすのに徇葬も適切な文字なんだよ。同じ意味だから。
それは
徇や殉が、ある目的のために身を投げ出す という意味になる時
>>556 物証が無いのは確かだけど、倭人伝の記述や紀にの説話と言う文献資料は残っているし、
どこぞの中国かぶれが話だけ聞いて真似していたと言うことは考えられますがね。
河童はネタ尽きで循環論法になってきたな。 従前の例によれば、これは逃亡5分前のサイン。
562 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:01:42
>>558 主に従うため(目的)に身を投げ出してんだろ。
563 :
メ :2009/09/30(水) 00:01:58
>>561 「見せしめ」の意味など無いことに反論できなくなってきたからねw
>>558 > 徇や殉が、ある目的のために身を投げ出す という意味になる時
「徇」に「身を投げる」なんて意味は無い、「投げる」は「投」で表している。
例文中の他の文字の意味をテキトーに付加しないように。
>>551 >主人に従って死す、従がって葬られる。
誰が主人なのよ? 勝手に主人作っちゃだめでしょ
567 :
メ :2009/09/30(水) 00:13:25
>>557 少し河童くんに加勢しちゃうけど、
>同じ意味だから。
これ、バツ
【正解】は
同じような意味だから。
勉強になったかな?557さん
>>566 「主」が無ければ「従」も無いでしょう。
誰に「従う」のですか?
従う対象が「主」に決まってるでしょうw
脊髄反射ではテキトー以下の反論しかできないですよ。
570 :
縦目仮面 :2009/09/30(水) 00:16:59
殉葬ねえ。ま、よくわからないんだけど、例えば自らの意志であとを追うのは殉死だな。 近い例では、明治天皇に殉じた乃木大将夫妻。あるいは殺人殉葬でも、意志にそぐわ ないものを無理矢理殺す場合。あるいは同じ殺されるにしても名誉と考えて従容と死に おもむく場合(マヤの生け贄のような感じ?)もあるだろうし、どうなんだろうねえ。 中国では秦代までには殉葬、生け贄はほぼすたれてしまっている。まあ、異民族ではあ ったようですけどね。
>>568 > 文句があるなら三省堂に苦情入れろ
だから、それは貴方の読解の問題。
殉に「投げる」の意味を持たせたのは貴方、
辞書には、ちゃんと「投」の字も書かれてでしょう。
三省堂に罪は無い。
>>571 例文を「見せしめ」と訳してるのは貴方、三省堂さんじゃないでしょう。
しかも
>>540 辺りで速攻論破されてるじゃないですか?
ほんの少し前のレスぐらい確認しましょうね。
しかも自分の訳の根拠として、同じ訳を根拠にしてるだけじゃないですか?
完全に循環の世界ですよ。
574 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:25:27
河童虫さんへ 『既往未及反於是遂斬莊賈以 徇 三軍』 『巡行示众(見せしめに巡行する)』 徇の対象となるものは、三軍も衆も大勢の人間だわな。 大勢の人間に対して巡り示すわけだ。 それが恐ろしい事なら、見せしめとなることもあるわな。 ところが倭人伝の場合、徇葬。 徇の目的語は、抽象的な葬。 見せしめというものは、人間に対して行うもので、 抽象的な葬に見せしめをするなんて不可能。 つまり、徇葬に見せしめの意味なんてありえんわな。
575 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:35:16
河童虫さんへ 周禮 徇罰 徇舉以示其地之?也 徇罰は、河童虫さんの言うとおり、見せしめの罰だね。 罰は、人の嫌がることだね。だから、見せしめとなるね。 ところが、君主も親も立派な人も葬られるね。 葬は見せしめにならないね。 見せしめに罰するなら意味が通るけど、 見せしめに葬式出すって意味が通らないね。 見せしめにされるような悪い奴は、葬られずに遺体を棄てられるんだよ。
>>569 >「主」が無ければ「従」も無いでしょう。
そりゃそうだ
>>551 >まさに殉死、殉葬はそう言う意味だけどね。主人に従って死す、従がって葬られる。
だったら 徇葬ではなく殉葬と書けばいいだろう?
>「與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。」
貧夫は財に従い、烈士は名に従う
[目的の為に身を投げだす。]という意味に当てはまるから 徇は殉に通じるんでしょ
しかし、 徇死ならば 主の為にという目的が存在し、身を投げて死ぬ ということで 徇死は殉死と
置き換えても違和感がないが
徇葬では たとえば 目的が主のためであっても、身を投げるに相当するものがない
[葬られる]は 受け身か第三者の視点であるから身を投げる存在がない。
いつまでやつてんの? もうあきたよ
578 :
縦目仮面 :2009/09/30(水) 00:41:05
三国志の魏書東夷伝中、夫餘伝では「人を殺して殉葬し、多きは百数。厚く葬り、槨あり棺 なし。」となっていて、これはいろいろ話題になる部分ですが、まあ、夫餘でも中国殷代と同じく 占い全盛「牛を殺して蹄を観て、以って吉凶を占い、蹄の解するは凶となし、合うは吉となす。」 だったようで、あるいは倭国もそうだったかもしれない。 >輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、 火タクを観て兆を占う。 倭人伝のこのあたりの研究がもう少し必要かもね。 しかし、河童さんは人気ありますね。
579 :
メ :2009/09/30(水) 00:50:12
河童虫 ◆EY2wfgakAQ アホな師匠のもとで暗号解析しても、ちっとも役に立たないだろ? これが、今の君の実力。 早々とじぶんより、邪馬台国歴浅い後輩に謝っちゃえw
>>575 別に悪いことしていなくても責任をとることはあるし、見せしめしなければならないこともある
本当の悪党なら棄てられたり、獣の餌にされたりするだろうっけど
代表あるいは粛清で処断されたんなら、葬はあってもおかしくありませんよね
難升米が告喩しているんだから
581 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:52:13
反対だ。難升米を告喩しているんだろ。
>>579 おまえは野次飛ばしだけしか参加できないのか?
哀れな奴だな
怖がらずに果敢にいどんでこい。
583 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 00:57:04
河童虫さんへ 見せしめの罰は意味が通るけど、見せしめの葬式では意味が通じない。 なら、見せしめと葬式は別の言葉で、見せしめ&葬式ということになる。 徇罰は、見せしめ&罰ではなくて、見せしめの罰だから、 徇罰の例は、徇葬の解釈には使えないんだよ。 さて、罰もない、衆もない、三軍もない。 徇一語で見せしめの意味に使うことが出来るのかな? 徇葬者奴婢百餘人 葬られるんじゃなくて、卑彌呼の葬のために身を投げ出すんだよ。 徇葬の葬は、奴婢の葬ではなくて、卑彌呼の葬だよ。
584 :
メ :2009/09/30(水) 00:57:29
>>580 だ・か・ら 皆さんから違うと言われてるでしょ?
少しは、学習能力を身につけろよ。
>>582 いや、だから・・・「成り立たんばい」分かってる?
>>578 >輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、
>火タクを観て兆を占う。
>倭人伝のこのあたりの研究がもう少し必要かもね。
何の研究が必要なのでしょうか?
難升米は中継ぎ役だろ 魏から官位貰って「お目見え」格の扱い受けてるし、もちろん卑弥呼の臣下?でもある
>>576 > >まさに殉死、殉葬はそう言う意味だけどね。主人に従って死す、従がって葬られる。
>
> だったら 徇葬ではなく殉葬と書けばいいだろう?
逆に徇葬と書いていけない理由でもあるのですか?
> >「與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。」
>
> 貧夫は財に従い、烈士は名に従う
> [目的の為に身を投げだす。]という意味に当てはまるから 徇は殉に通じるんでしょ
> しかし、 徇死ならば 主の為にという目的が存在し、身を投げて死ぬ ということで 徇死は殉死と
> 置き換えても違和感がないが
> 徇葬では たとえば 目的が主のためであっても、身を投げるに相当するものがない
> [葬られる]は 受け身か第三者の視点であるから身を投げる存在がない。
徇に「身を投げ出す」は貴方が「公投袂徇難」と言う例文の「投」から意味だけ借りてきた言葉でしょう。
「身を投げて」は難に徇ずる一つの方法であって、「徇」と言う文字が表す意味ではありません。
同じ誤りは「徇」をあまねすの意で使う場合の説明で使った例文「斬莊賈以徇三軍」の時も冒しています。
例文のほかの文字の意味を勝手に付加して別の文字本来の意味とするのは間違いです。
例えば「低山」と言う例文があるからと言って「山」に「低」の意味を付加して考えるのはヘンでしょう?
587 :
メ :2009/09/30(水) 01:02:51
>>582 >怖がらずに果敢にいどんでこい。
いや、君は無鉄砲に突っ込むバカ牛みたいで、とてもマネはできませんわw
>>578 骨卜は畜産民の習慣みたい。
また、お灸のように点状に焼いて占うのは
中国・朝鮮・日本だけとのこと。
>>581 もう寝るから
反対じゃないよ 魏官難升米の仕事だよ
590 :
メ :2009/09/30(水) 01:06:51
>>588 風習といえばいいだろw
>>589 >もう寝るから
もう寝るじゃなく「もう逃げる」だろwww
591 :
縦目仮面 :2009/09/30(水) 01:07:01
>>584 いやあ、中国殷では甲骨文の占いで、多いときには数百人の生け贄を出していた。夫餘で
は、殷とは時代はかなり違うが、牛の蹄占いwで、やはり百単位の殺人殉葬。倭人も占いが
盛んなら、それが行動原理としてどれだけのウエイトをしめていたのか・・・とかの研究ですね。
>>586 >徇に「身を投げ出す」は貴方が「公投袂徇難」と言う例文の「投」から意味だけ借りてきた言葉でしょう。
「身を投げて」は難に徇ずる一つの方法であって、「徇」と言う文字が表す意味ではありません。
同じ誤りは「徇」をあまねすの意で使う場合の説明で使った例文「斬莊賈以徇三軍」の時も冒しています。
例文のほかの文字の意味を勝手に付加して別の文字本来の意味とするのは間違いです。
例えば「低山」と言う例文があるからと言って「山」に「低」の意味を付加して考えるのはヘンでしょう?
ということで
「與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。」
貧夫は財に従い、烈士は名に従う
[目的の為に身を投げだす。]という意味に当てはまるから 徇は殉に通じるんでしょ
の解釈もまったくのでたらめということですね?
では 寝ます。
>>589 おやすみなさい。
今宵は悪い夢を見ないことをお祈り申し上げます。
あと「拜假難升米爲檄告喩之」は確かにおかしな文章ではある。
>>592 > ということで
> 「與殉通。〔史記伯夷傳〕貪夫徇財。烈士徇名。」
> 貧夫は財に従い、烈士は名に従う
>という意味に当てはまるから 徇は殉に通じるんでしょ
> の解釈もまったくのでたらめということですね?
そう。
[目的の為に身を投げだす。]は「徇ずる」手段の一つであって徇そのものの意味ではありません。
> では 寝ます。
はい、おやすみなさい。
>594 檄の内容を難升米より伝えさせたという事だろ 難升米が帯方郡まで受け取りにいったんだっけ?
596 :
メ :2009/09/30(水) 01:18:42
>>591 う〜ん それは中国でしょ?
日本でみつかるのは「亀」のほうではなく、「シカ」や「イノシシ」と思われる骨卜の痕のが多いと聞いている。
又、日本と中国とでは少し違いがあるようですね。
<魏志倭人伝>
俗舉事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
ここにも、そのようなニュアンスで記載されてるでしょ?
597 :
メ :2009/09/30(水) 01:21:04
>>593 >あと「拜假難升米爲檄告喩之」は確かにおかしな文章ではある。
何がどうおかしいのか不明。
俺から言わせれば、君のほうが謎だわw
これだけの攻撃受け止める河童も半端じゃないねえ。
高天原族なんかも >河童
600 :
メ :2009/09/30(水) 01:37:20
>>595 倭人伝読んだことがないのかな?
まあ、どうでもいいが・・・
さて、さて、おれも寝〜ょっとヾ(°∀°)ノ
俺は自称天孫系だがwww
>>600 だから河童に「太鼓持ち」って言われるんだよ!
太鼓たたいて追い出そうw
604 :
縦目仮面 :2009/09/30(水) 06:42:06
>>596 占いを行動原理としていると、大量の殉葬や生け贄をためらわないのかも、ということです。
605 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 07:32:41
>>527 です。このスレ早杉。
コメント、どうもでした。
これから1年くらいかけて正確な原文に修正していく予定です。
Unicodeにも無いフォントはどうしようもないですが。
607 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/30(水) 09:15:17
>>508 >>其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
そうですね、詔がどこまで掛かるかということになるのでしょうか。
そもそも唐突に発生しているような文章なのですよね、なんで黄幢を賜うのか良く分からない。
やはり4年の朝献の返しと見るのが自然でしょうか。2年のラグは都への報告と事務手続きの遅延など。
難升米はこのとき既に倭に帰っていますから、付郡假授の付は「郡を”通して”假授させた(させる)」という
感じの意味で良いのでしょうね、郡に呼び寄せてと思っていた時期が私にも(ry
私もローガン氏同様に、「倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ」よう詔した、と読むのだと思います。
以下妄想ですが、
この6年に馬韓の反乱が起きています、そして7年に太守の弓遵がこの氾濫で戦死しています。
詔も6年だったのかもしれませんが、むしろ郡に付しと詔された太守の弓遵が馬韓の反乱で死亡した、というのが、
もともとこの6年の文で言いたかった事であったのが、馬韓の反乱は韓の出来事としてごっそり削られ、
よく意味の分からない文が6年のものとして残ったのではないかと考えています。
そして「其八年太守王[斤頁]到官」と新しい太守が来た文が続き、更に倭の使者がまた来たので、張政を送り、
併せて馬韓の反乱で授けられなかった黄幢を難升米に授けることになった。
というストーリーが個人的にはしっくり来ています。
608 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/30(水) 09:17:18
>>570 >>あるいは同じ殺されるにしても名誉と考えて従容と死におもむく場合(マヤの生け贄のような感じ?)もあるだろうし
マヤの生贄の多くは、戦いに敗れた他族の捕虜だったと記憶していますが、違いましたでしょうか。
>>606 文字の確認と訂正を
★正始四年・・・・・ 掖邪狗 の(狗)を 掖邪(拘)に
(正始八年 の方は 掖邪狗のままでOKです)
★正始六年・・・・・ 黄幢 の (黄)を黄の旧字 (上部 廿、 下部 寅持文字の宀を除去した文字)に
(正始八年の 黄幢 はそのまま)
両刊本影印にて確認したものです。 今一度ご確認を
尚、 黄の旧字は フォントカバー出来ないかもしれません。
>>607 河童虫です。
二氏はどうやら私を嫌いなようなので、短めに
正始六年の記事は、 黄幢の (黄)文字が、正始八年とは違っていることから取り組まないと
永遠に中身が見えてこない記事であることをお伝えいたします。
では失礼。
611 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 10:10:07
>>608 中南米の生贄はキノコサボテンなどの麻酔性のある植物で麻酔をかけてから殺したようです。
612 :
原文検索 :2009/09/30(水) 10:17:31
>>609 どうも。
拘の方は、早速修正しました。
黄幢の件は、私も気になってはいたんですが、unicodeフォントにはないみたいです。
#ないフォントについては、いずれ下記注釈で写真を入れる予定です。
613 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 10:24:42
>>612 >黄幢の件は、私も気になってはいたんですが、unicodeフォントにはないみたいです。
#ないフォントについては、いずれ下記注釈で写真を入れる予定です。
やはり無理でしたか
でも、これからも頑張って下さい。
微力ですが、お役にたてることがあれば協力すること吝かではありません。
>>607 正始六年の黄幢は司馬懿の政策の一環。
このとき母丘倹に東北への軍事行動を命じ、
高句麗の首都を占領し、東夷諸国へも侵攻している。
その後のストーリーには同意です。
>>586 >徇に「身を投げ出す」は貴方が「公投袂徇難」と言う例文の「投」から意味だけ借りてきた言葉でしょう。
「身を投げて」は難に徇ずる一つの方法であって、「徇」と言う文字が表す意味ではありません。
もちろん『徇』に(身を投げ出す)なんて意味はありませんよ。
そうではなくて、「徇」にシタガウという意味を持たせるために必要な文章環境が「身を投げ出すという」文章環境だと言ってるのです。
もともと漢字一文字には意味はなく(字義はあるのですが)、文章の環境によっていみが変化するのが文字です。
「徇]に「シタガウ」という意味を持たせるのは、(身を投げ出す)という文章があるからこそそこに 徇=シタガウ が発生します。
徇=シタガウ は (身を投げ出す)という文章環境とセットの「徇」文字
と、言いたいだけです。
>例えば「低山」と言う例文があるからと言って「山」に「低」の意味を付加して考えるのはヘンでしょう?
いいえ 「山」は単独文字で意味をなす名詞ですから 「徇」という動詞(一部形容詞) のたとえにするのはいかがなものでしょうか?
徇は これ一文字では 形容詞・副詞である(はやい・あまねし)という意味ぐらいしか(これもちょっと強引すぎるけど)とれないのではありませんか?
貴方の使用した(したがう)は動詞ですから、単独文字では意味をなさない文章とセットで意をなすセットものです。
617 :
ローガン :2009/09/30(水) 16:14:33
>>607 >そもそも唐突に発生しているような文章なのですよね、なんで黄幢を賜うのか良く分からない。
(中略)
>もともとこの6年の文で言いたかった事であったのが、馬韓の反乱は韓の出来事としてごっそり削られ、
> よく意味の分からない文が6年のものとして残ったのではないかと考えています。
貴レスを要約すると、六年詔の原因となった出来事は韓伝にあると云う事ですね?
なら、同意。
半島への出兵要請でしょう。
>>616 訂正追記
>もともと漢字一文字には名意味はなく(字義はあるのですが)、
を
もともと漢字一文字だけでは名詞以外意味はなく(字義はあるのですが)、 に
619 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 16:29:36
名詞かどうかだって文章の中で判断されることだろが。
>>586 「徇」にシタガウの日本語をあてるには、「公投袂徇難」という文章全てが必要だということです。
「公投袂徇難」という文の中にあるから「徇」はシタガウという日本語をあてることができる。
>>619 いいえ
文章の中に置くからこそわからなくなってくるのです。
単独で置いてみてください
>>619 文章があるから「品詞があるんだ」なんて 言わないでくださいね
本題から外れた議論が始まっちゃいますから
623 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/30(水) 17:52:09
>>617 ローガンさん
正始6年の詔についてはあなたの言われるように半島の馬韓の反乱を抑えるための出兵命令だったかも
知れない(その可能性も考えられる)と私も思います。しかし、2年後の正始8年の詔がそれと同じも
の(出兵命令)であったでしょうか?既に馬韓の叛乱は鎮圧され、倭国からの出兵は不要になっていた
のではありませんか?
私は卑弥呼と卑弥弓呼の不和や相攻撃など卑弥呼(邪馬壹国指導部)の指導力低下を見て、魏の役に立
つように倭国体制を立て直すために張政等を派遣したものと思います。したがって、この時の詔は半島
への出兵命令ではなく、倭国の運営(政治)に関するものだったろうと思います。
間違っても半島出兵要請はないだろ。かなりの時間的な手続が掛かるぞ 郡から洛陽に戦況報告の使者が走り、帝の判断を仰ぐ。黄幢の準備をし使者はまた郡に走り、太守が倭に使者を送り難升米を郡に呼び出し 詔と黄幢を手渡す。 難升米は倭に帰り、王に報告。王は軍備をととのえ 何年掛かるんだよ? その間になにもかも終ってしまうほど 現実的でない話し。
625 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/30(水) 19:18:57
>>610 (黄)文字はいいですから、あなたの見えたという中身について記述されてはいかがでしょうか?
そもそものローガン氏への返答を、と書こうかと思いましたが、別スレかどこかで馬韓の反乱への出兵要請ということで
合意があったのでしたっけ? 他人のことはよく覚えていませんが。
626 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/30(水) 19:28:58
正始6年魏は、半島最南端までを領土とすべく進軍 倭国に於いては、倭国統一を卑弥呼に要請 正始六年の黄幢は、卑弥呼がこの要請を受け入れた事を意味する。 正始八年、卑弥呼の死亡を伝えに郡に出張、郡は、倭国体制確認のため張政等を派遣 併せて黄幢を賜う 筑紫男王が立つ。 筑紫男王の死亡後は、景行がこれを引き継ぐ。 景行は正始六年より戦に参加しています。
627 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/09/30(水) 19:30:42
>>617 >>貴レスを要約すると、六年詔の原因となった出来事は韓伝にあると云う事ですね?
いえ、6年の記事の原因は馬韓の反乱だったろうということです。詔は4年の朝献が原因だと考えています。
倭に出軍要請をするというのは、他の方からもレスがあるようですが、非現実的な感じがします。
例えば倭以外の冊封国に対して、そのような出軍要請を度々出していたといったことがあるのでしたら、
倭に対しても同様のことを行った可能性が高いと考えられますが、どうでしょう?出軍要請をされた国はあるのでしょうか?
628 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/30(水) 20:14:49
629 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/30(水) 20:32:13
正始6年時点では、海外派兵は無理。 まず戦慣れしていない。 軍隊編成経験がない。 其れまでの倭国乱など烏合の衆のケンカ程度。 4年の朝献(倭王)から魏より全てを教わる。 6年より実戦経験。 この経験が、神功渡海へ繋がる。
630 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/30(水) 20:36:34
無理なら船舶操縦素人百姓が千人も渡海できるのか。ppp スーグ 言ってることがデタラメ〜ミエミエ。bbb
631 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 21:04:34
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官 ここは一つの流れになっている。 245年詔にて倭の難升米に黄幢を与えるよう郡に託し授けた。 この245年の詔は「洛陽」の官での出来事。洛陽から役人を派遣。 半年かけて帯方郡に到着、帯方太守の王頎は受け取ったという報告を しに洛陽(官)に向かう。 半年後洛陽に着く。往復最低一年はかかるので 足掛け二年の月日が過ぎた。
632 :
ローガン :2009/09/30(水) 21:16:07
>>623 >しかし、2年後の正始8年の詔がそれと同じもの(出兵命令)であったでしょうか?
八年に詔があったとは書いていないですよ。 たぶん「張政等因齎詔書黄幢…」の事を言ってられるのでしょうが。
其の詔書に書かれた内容は、六年の詔だと考えているのです。
「齎詔」は元年にもあります。これは当然、景初二年十二月の詔ですね。
同様の、記述の仕方でしょう。
624氏に対する返信も兼ねて…
633 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 21:34:22
245年の詔の半年後に帯方郡に到着。 黄幢を郡に預ける。に其の報告へ。 かたや、張政を倭に派遣して黄幢を伊都国の難升米に授ける。 ですから張政が倭に到着したのは247年になります。 だいたい万里で700キロは、其の頃の海の航行は500キロで二〜三ヶ月、 即ち最低三ヶ月はかかります。伊都国までは陸行もあるので、早くても三ヶ月半はかかっています。
634 :
ローガン :2009/09/30(水) 21:35:19
>>627 その質問の回答は保留させて下さい。又改めて書いてみます。手元に今、何も資料が無いので…
では、内紛の解決策として、旗を渡すのですか?
集兵行為として軍旗を用いるという内容の記事は、三国志に見えますが
援軍要請 又は内紛の解決に旗だけを下賜するとは ?です。
「檄」の意味も魏側の集兵行為と考えれば、しっくり来るでしょ?
又後で来ます。
635 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/30(水) 21:48:52
>>632 では、張政等の派遣の記述の直前の記事 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等
詣郡説相攻撃状 は無関係だと言われるのですか?
また、正始6年の詔は既に難升米が受けていたのではないですか。2年も経てば情勢は変わっていま
すから、同じ詔で事が行われるというのは現実的ではないように思います。
636 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 21:49:04
一方倭では其の間(245〜247)に載斬烏越等を帯方郡に派遣して戦況説明しています。
637 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/30(水) 21:49:58
>半年後洛陽に着く。往復最低一年はかかるので 田道間守は、10ヶ月で大和、洛陽を往復。 景行は、大和より周防サバまで20日で移動。
638 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 21:55:09
>>635 年号でいうと足掛け二年かかっていますが、だいたい1年少しです。
正始6年の詔は郡に付託するという内容ですから、詔を発した時です。
639 :
624 :2009/09/30(水) 21:58:09
>>632 >「齎詔」は元年にもあります。これは当然、景初二年十二月の詔ですね。
違うと考えます。景初二年十二月の詔は「皆裝封付難升米、牛利還到録受」と郡で受け取っていますから
正始元年の詔は元号が改まった斉王の初めてのお使い。祝い返礼と見るべきでしょう。
難升米と牛利は「帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻」とあるように
倭からの直接の使いではなく、後見人帯方太守を通しての朝献ですので、難升米と牛利の帰還場所は帯方郡となります。
以上の事から、
>同様の、記述の仕方でしょう。
という考えは成り立たないでしょう。
640 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 22:25:35
>>639 難升米、牛利は帯方郡の役人の付き添いで洛陽まで行っている。
到着が景初二年十二月(238年)。その時の詔を持ち帰り、
郡に到着したのが景初三年(239年)、
郡は梯儁を倭に派遣する。
到着が翌年の正始元年(二年)になる。このとき難升米も牛利も倭に帰った。
洛陽から倭までは最低一年はかかるので、景初二年暮れに発した詔は
足掛け二年後の240年に倭にもたらされた。
641 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 22:38:26
>>640 訂正
>役人の付き添い×
「将」と書かれているので将校○
642 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 23:03:46
>>640 なぜシュミレーションが必要なの?シュミレーションが必要な歴史書って、推理小説?
シミュレーションが正解
×徇葬者奴婢百餘人 ×徇葬者奴婢百済人 死んだあとも身の回りの世話をさせるため半島から連れてきた奴婢である百済人を一緒に埋めたのでしょうね。
645 :
624 :2009/09/30(水) 23:23:13
>>640 >郡に到着したのが景初三年(239年)、
郡は梯儁を倭に派遣する。
到着が翌年の正始元年(二年)になる。このとき難升米も牛利も倭に帰った。
しかし、郡で渡された詔や印綬は難升米の手の中にあるので「太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、
拜假倭王、并齎詔賜金」この記述には合わなくなりますし、詔や印綬は難升米から卑弥呼に渡されるべき物です。
646 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 23:31:51
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>644 生活保護費を与えながら在日させ、日常やNETで昼夜休まずなぶりものの
ネタとしていることを考えると、今も昔も本質は変わらないんだな
648 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/30(水) 23:49:48
倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状 この記述では 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和 という情報を誰が齎したか、また 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 の主語(誰が載斯烏越等を派遣したのか)が明確ではない。卑弥呼の使いが報告したのか、あるいは、 卑弥呼に不満を抱く勢力が使いを出して報告したのか。前者であれば卑弥呼(邪馬壹国指導部)が魏に援助を求めた ことになる。後者であれば倭国の指導体制を変えて欲しいという要望を持って行ったのであろう。卑弥呼に取って代 わる意図があったかもしれない。 何れにしても卑弥呼体制の指導力が低下し倭国内の結束が乱れていることを示す。魏はそのように見るであろう。
649 :
ローガン :2009/09/30(水) 23:56:15
>>635 > では、張政等の派遣の記述の直前の記事 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等
> 詣郡説相攻撃状 は無関係だと言われるのですか?
六年に出された詔を知りながら、それに沿った行動を採らなかったことに対する、某かの言い訳は必要でしょ。
>>639 帰還先が郡?
そう読むなら、汝=太守になりますよ。「…也」までが、詔書の引用文でしょう。
大夫の帰る先は倭。
ややこしいな。 皆裝封付難升米、牛利還到録受 「皆装封して、難升米・牛利に付して、還り到らば録受せしめん」 帰った時に受け取りなさい。 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻〜 「帯方太守劉夏、使を遣わして 汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り 汝の献ずる所の〜を奉じ(以て到る)」 劉夏が使者に二人を送らせた。 太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、 拜假倭王、并齎詔賜金 「太守弓遵、建忠校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭國に詣らしめ、 倭王に授け拝え、并せて詔を齎し、金〜を賜う」 梯儁を派遣して詔書印綬を授けた。
651 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:08:04
>>645 >郡で渡された詔や印綬は難升米の手の中にあるので(中略)詔や印綬は難升米から卑弥呼に渡されるべき物です。
難升米と牛利は洛陽で自分達の位と銀印を頂いている。
その他の卑弥呼への詔、贈り物、金印は、付き添いの将校とともに
郡に持ち帰った。そして太守の弓遵が梯儁に命じて
難升米、牛利もおそらく梯儁と一緒に倭に到着。
難升米、牛利は帰還したことになる。梯儁は倭王に印綬、位、贈り物を
授けた。
きちんと届ける役目を負ったのは帯方郡なので、
倭に来て倭王に授けるのは郡の役目です。
652 :
624 :2009/10/01(木) 00:31:12
>>649 >帰還先が郡?
そう読むなら、汝=太守になりますよ。「…也」までが、詔書の引用文でしょう。
大夫の帰る先は倭。
帰る先は倭ではありません。
難升米は倭の卑弥呼の代理であっても、帯方郡から来た使者です。
帯方郡から来た使者だから「帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻」と書かれているんです。
倭人は帯方郡の扶養家族ですから
653 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:32:58
>>640 >>650 のとおりだろうな。つまり、梯儁は難升米、牛利らと一緒に倭に
来たんだ。だから、道々、倭の状況は十分に難升米らから聞いて確かめること
もできた。
654 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:38:01
655 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:38:31
>難升米は倭の卑弥呼の代理であっても、帯方郡から来た使者です。 景初3年6月、倭の女王は難升米らを郡に派遣し、魏の帝に拝謁したいと求めてきた。 そう書いてあるんだから、難升米らは倭から渡っていった人物にまちがいないよ。 当然、難升米らの最終帰還地は邪馬台国だ。
657 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:45:29
>>655 洛陽に行くのに、郡に行くのは変ですよ。
洛陽に用事があるなら、洛陽に行けば良いでしょ
658 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 00:48:53
サモア地震、スマトラ沖地震より被害がぐっと少なくてよかったですね。
>>657 行ってみれば?
相手にされないか、
不法入国で逮捕されちゃうよ。
この時代でも入国手続きは必要だよ。
660 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 07:50:36
卑弥呼=日神子と解釈出来るなら東遷説も納得がいく
661 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 09:14:16
662 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 09:31:11
あと「難升米」を人名と解釈してる見たいだけど、そもそも24史には誰の人名も書いて無いんだよ つか日本人は一つの漢字に対して沢山の日本語の発音を振って日本語で発音する使い方をしてるけど、それは日本だけの事だよ 漢字ってのは発音は表記出来ない文字だから、例えば「フビライハーン」って名前の人が居ても、その名前は書けないんだよ だからフビライハーンとかも漢字でかくと「明文帝」読み方は「ミン、ブン、テイ」とかになる 「諱」の意味ってのはさ、日本のなんとかって歴史書にも説明されてるけど、死んだ後に贈る名前の意味じゃないよ 「漢字で表すと」って意味だよ 例えば日本でも、イワレビコの名前はイワレビコなんだよ これの諱(漢字の意味で表すとしたら)が「天武」だよ 天つ御子の武(たける)って意味だよ 劉備とかって漢発音で「リュウビ」って発音してるだけでしょ? これ名前じゃないよ 名前がもし「ミッシェル・デ・ピエール」って名前だったとしても、漢字で書くと劉備とか景初とか武帝とかってなるだけだから
そう魏なんて北方蛮族なんだよなw
664 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 09:41:25
>>661 >奏天
洛や洛邑と言われた事は知っているが、奏天と言われたとする出典はなにか?
>東都
燕京、中京、大都、北平と呼ばれていた事は知っているが、東都と言われていたとする出典はなにか?
665 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 09:54:04
>>661 現在長江と呼ばれている川が、24史に登場する長江とは違うとする根拠は?
魏の皇帝が、満州(女真族)の皇帝だとする根拠は?
666 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 10:48:59
>>664 ごめ、そういや大都だ
洛陽の前の都市名は満州で調べたら書いてあったよ
つか都市名っても別に国名だって言葉や語源や民族や地方によって様々なよびかたがあるんだよ
例えば邪馬台国や卑弥呼なんて名前は、倭人伝を書いた民族がそう漢字表記してたってだけの名前
日本では違うよびかたや書き方があったんだよ
だから日本の歴史には出て来ないだけだよ
667 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 11:11:41
>>666 >満州で調べたら
満州と言う項目で調べたのか、満州と言う場所にて調べたのか、
これじゃ分からない。
満州と言う項目で調べたのなら、その出典先ぐらいは提示出来るだろう?と。
668 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 11:54:57
>>662 >あと「難升米」を人名と解釈してる見たいだけど、そもそも24史には誰の人名も書いて無いんだよ
>つか日本人は一つの漢字に対して沢山の日本語の発音を振って日本語で発音する使い方をしてるけど、それは日本だけの事だよ
>漢字ってのは発音は表記出来ない文字だから、例えば「フビライハーン」って名前の人が居ても、その名前は書けないんだよ
>だからフビライハーンとかも漢字でかくと「明文帝」読み方は「ミン、ブン、テイ」とかになる
>劉備とかって漢発音で「リュウビ」って発音してるだけでしょ?
>これ名前じゃないよ
>名前がもし「ミッシェル・デ・ピエール」って名前だったとしても、漢字で書くと劉備とか景初とか武帝とかってなるだけだから
劉備が名前でなかったらなんなの ?
劉一族でないの。
それに漢字は表音文字でもあるでしょ。だから他国のものには、わさわざ卑字を選んであててるし、
夷蛮国王の名前では、『宋書』では「(扶南国)持黎跋摩」「(呵羅単国)田比沙跋摩」。
『梁書』では「(滑国)厭帯夷栗施」というように、ちゃんと四字でも五字でもフルネームで書かれて
います。
669 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 12:11:47
>>662 >例えば日本でも、イワレビコの名前はイワレビコなんだよ
これの諱(漢字の意味で表すとしたら)が「天武」だよ
天つ御子の武(たける)って意味だよ
天武 って 諡(おくりな)ではないのかな。
670 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 13:18:31
もん太フリーズ。
671 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 13:48:01
>>664 つかまず洛陽(藩陽)ってのは、「明」にあった都市
ちなみに「明」てのは秀吉が討伐に向ったあの明だよ
秀吉などからの出兵もあり弱体化した明を倒したのがマンチュリ族のヌルハチ氏
で、ヌルハチはムクデン市と言う都市に都城を立てたんだよ
このムクデン都市は漢字では「盛京」と書かれた
で、明の藩陽は「副都」としてたよ
このヌルハチの都城のあったムクデン都は、承徳県とか奉天府とか書かれたりもして、んでマンチュリ帝国滅亡後の1926年に張って人が「洛陽」って名前付けて、それいらいムクデンは漢字では一般的に「洛陽」って書かれてるよ
ちなみにこの洛陽と、明の居た藩陽は別の場所だよ
清ってのはマンチュリ族だけど
明ってのは朝鮮族の李氏の事で、朝鮮の藩陽が李氏が居た都市だよ
だから秀吉も大陸じゃなく朝鮮に出兵したんだし
朝鮮の藩陽の場所とか見てみ
長江も藩陽も漢城も、これ朝鮮半島にある地名なんだし
672 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 14:06:01
>>668 つかそれ、そもそもなんて発音するの?
卑弥呼とかも「ヒミコ」って発音してるでしょ?
漢字の発音も民族によっては異なるんだよ?
中国ってさ、Wikiとかも5種類ぐらいあるの知ってる?
北京語Wiki
広州語Wiki
呉語Wiki
文字は同じ「漢字」を使ってはいるけど、そもそも中国って都市により語源も民族も違う多民族の国だよ
そもそもモンゴル族もマンチュリ族も朝鮮族も日本族もチベットもベトナムもタイも東南アジアも、漢字とは別に表音文字ってのを持ってる民族だよ
表意文字の漢字と、表音文字の自民族文字
普通は両方持ってるしちゃんと使い分けてたよ
もしアジアの漢字圏に漢字しか文字を持って居ないような民族があれば、その民族って独自の文字すら持って無かった民族なんじゃね?
673 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 14:14:16
つか「魏」に関して言えば、これってそもそも朝廷の名前かあ? 魏と倭って同じ意味、、、ってか、大倭ってのを一文字で表すと魏なんだよ 明や清も「後金」とか訳解らない呼び方とかもされるしさあ つか朝廷なら朝廷って解釈すりゃいいけど、だったらその朝廷はどの場所のどんな言葉を話す民族なのかまでちゃんと言わないと ナポレオンをヨーロッパの皇帝なんて言い方しないでしょ?
674 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 14:33:25
>>673 なにをフザケタことホザイトルのだ!ばかたれ。「大倭ってのを一文字で表すと魏なんだよ」だと?
魏はもともと委と鬼の二文字がたまたまくっついたものだ。一文字じゃねえぞ。それに魏は朝廷じゃ
ねえぞ。強いて言えば王朝だ。ナポレオンだって、アメリカの皇帝じゃないよヨーロッパの皇帝だよ
と幼児なら言うぞ。それがいけないとでも言うのか?
675 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 14:52:28
>>672 >つかそれ、そもそもなんて発音するの?
当時の発音は現在と違うものも多いようなので絶対的な読みはわかりません。
私的には ヒミコかヒミカではないかと。
当時の発音がわかると名前が確定していいんですけどね。
676 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 15:16:33
>>674 王朝でも朝廷でも何でも良いよ
「ギ」なんてのは「魏」の字音(音読み)が「ギ」だから「ギ」って発音してるだけでしょ?
「ギ」なんてのは朝廷の名前でも王朝名でも無いよ
王朝なら王朝でいいんだけど、じゃあ、何て言う名前の王朝を「魏」と言う漢字で書いたのかをまず言わないとさ
「元」これは漢字の発音は「ゲン」で、モンゴル帝国を漢字では「元」と書いてた
おなじように
清→マンチュり
倭→ヤマト
姜→チベット
で、魏とか呉とか漢とか秦とか夏とかってのは何?
呼び名ってのはもちろん語源や民族や時代により違う呼び名がされてたりはする
けどその語源で「○○」と呼ばれてた国や朝廷や王朝を、漢字で「魏」とか「夏」とかって書いてたはずだよ。王朝名だというならね
日本でも
アメリカ→米
フィリピン→比
イギリス→英
って、漢字でも表したりしてたから言いたい事は解るよ
で、魏はなに王朝を表してる訳?
それを聞いてるんですよ
677 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 15:29:26
魏、秦、夏、随、唐、明、元、倭、、 これらが全て王朝名なら、それぞれがどの王朝の事なのかをまず、きちんと説明する必要があるでしょ? まず解りやすいのは元と清と姜と倭 元→モンゴル族のチンギスハーンのモンゴル帝国 清→マンチュリ族のヌルハチ氏のマンチュリ帝国 姜→チベット族のダライラマのチベット王国 倭→ヤマト族の天つ御子氏族のヤマト王国 で、同じように魏や呉や随とか説明してみてよ? それが解って初めて朝廷や王朝を指してるんだって言えるんだよ じゃなきゃ単なる土地や氏族の呼称なだけかもしれないよ
678 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 15:47:39
>>674 「中国の王朝(皇帝)」って、どういう意味で言ってるの?
かつて中国大陸に存在した朝廷て意味?
だとしたらめちゃくちゃ沢山あるんだよ
朝鮮王朝、チベット王国、タイ王国、カンボジア王国、ベトナム王国、、
台湾などの離島まで含めたらヤマトも中国の皇帝になるし、「大陸」って言った場合には、インドやイランやイラクやイスラエルまで同じ大陸にあるんだから
ちなみにナポレオンはヨーロッパにいたフランスの皇帝の名前だよ
魏てのは中国大陸(てか地域かな?)にいた、どこの何て名前の王朝なの?
679 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 15:56:13
>>678 それは、Aと言う所にいたBと言う王朝なんだよ。
680 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 16:11:40
>>677 曹操の後を継いで魏王になった息子曹丕が、
漢の皇帝から位を譲り受けて建てた王朝。
天命は個人が受けるものだから部族は関係ない。
681 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 16:12:04
あと今の中国にいる民族が使ってた文字ってのは モンゴル文字やチベット文字以外に キッタン文字 サウディヴ文字 キルア文字 西夏文字 チュノム文字 チュハーン文字 シュメール文字 まだまだ沢山あるよ それぞれの民族がそれぞれの語源を表音できる文字を持ってたし使ってたんだよ 漢字ってのは語源を書き表す文字じゃなく、話す言葉が違う民族同士が共有する事で、言葉は解らなくても文字を書いてその意味を読み取る事で、相手との意思の疎通がとれるって言う為の文字だよ 今の中国でも上海人と広州人と北京人と、、そもそも違う語源の違う民族だから、お互いの言葉は理解出来ないんだよ けど共に漢字って言う文字を使ってるから、文字を書いて会話は出来る そういう意味では便利な文字だよ つか元々、その為に作られた文字だよ 語源や表音を表す文字じゃないから、漢字では日本語も北京語も上海語も書けないよ 漢字を発音した所で、中国にいるどの民族の言葉にもならないし
682 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 16:27:00
>>677 >「中国の王朝(皇帝)」って、どういう意味で言ってるの?
Wikipedia
『史記』等の伝統的な中国の史書によれば、中国の君主の称号は次のようであった。
五帝・夏・殷の君主は、皆「帝」と名乗った。「帝」はこの世に同時に1人しかいない
至尊の称号であった。周が殷を滅ぼした後、周の君主は「王」と名乗った。「王」も
またこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。しかし、周王朝が衰えると、
南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、
他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになった。このころに
なると、「王」は至尊の称号でなく、単なる君主の号となった。また、戦国時代の一時期、
斉王が「東帝」、秦王が「西帝」と称したこともあったが、すぐに「王」の称号に戻した。
このような背景から「王」の称号が価値を落としたと見て、秦の王・嬴政が、他の王国を
滅ぼした後、王を超えた称号として「皇帝」を名乗ったのである。これがいわゆる秦の
始皇帝である。なお、考古学的知見などからは、殷の君主も「王」を称号としており、
「帝」が君主の称号として用いられたことはないと考えられている。「王」以前の君主の
称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究から分
かっている。
683 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/01(木) 17:11:40
>>680 そんな解釈する以前の問題だってば
まず漢ってどの王朝の事で、魏はどの王朝なのかの説明が先
てかそれが解らないなら「解らない」って言えば良いだけじゃないの?
つかその王朝を築いたのが何語を話す何民族だったのかってのは大事な事だよ
それが解らなければ、その王朝を築いた民族が、現在もまだいるのか、それともインカやマヤや古代エジプトやイスラエルの様に、もう滅んでしまってるのか、、って事とかも解らないんだよ
てか「民族」っても血統とかってより同一語源を話す民族って意味での民族ね
例えばピラミッドってのは、あれイギリスの学者が付けた名前
結局、古代エジプト民族てのは滅んでるから、あれが何て名前で呼ばれてた建造物なのかすら解らないんだよ
このスレ、まだあったのか。執念深くてコワイな
685 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 17:41:51
>>683 だからなんなんだ?
そしてお前はいったい何が言いたいんだ?
スレタイトルに関係ない話しなら、別スレでも立ててそこに延々書き込めよ。
スレ立て出来ないのなら、代理でたててやるから。
686 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 17:43:18
魏は現在の河北省、河南省、山東省辺りに勢力を張った漢族の曹操が建てた国だ。曹操は魏王を名乗った。 その息子曹丕は後漢最後の皇帝の献帝から禅譲を受けて魏の皇帝となった。都を洛陽に置いた。陳寿は晋の 時代に三国志を書いたが、この晋は曹操の配下だった司馬氏がクーデターによって魏を倒し(形式的には禅 譲によって)建てた国だ。もん太よ これで文句あるか?もういい加減にして話を先に進めろ。
687 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 17:50:25
美濃もん太は愚痴を聞いてもらいたいのか?
688 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 17:52:45
>>682 名乗った名乗らないじゃないよ
漢字てのはそれぞれ意味があるんだし、違う漢字でも同じ意味の字も沢山ある
フランスのエンペラーナポレオンの称号を漢字で皇帝と書こうが大王と書こうが大君と書こうが意味は通じるんだよ
あと日本ではちゃんと漢字には日本語の発音がつけられてるから、日本語読みしたほうがわかりやすいよ
帝(みかど)
大王(おおきみ)
帝(みかど)の方には「創始者」とかの意味も含まれてるよ
けど、別に王も帝も統治者、権力者でいいんだよ
そもそも漢字の称号だけ挙げたらもっと沢山あるよ
大統領、将軍、主席、大臣、天皇、関白、、、
そもそも24史てさ、すべて同じ民族が書いてるの?
清の史なんて、マンチュリ語のマンチュリ族が漢字で書いたんでしょ?
全部おなじ民族が書いた書物だってのなら、24史を書いたのはマンチュリ語を話すマンチュリ族だよ
だとしたら、彼らの民族の表現方法でかいてるだけだよ
そら日本と同じではないさ
689 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 17:57:36
685に賛成。
690 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 18:04:06
>>686 古代の漢族と、今の漢族は違う民族
当然話す言葉も違う
ちなみに古代漢族に関しては二つの説がいわれてて、マンチュリ族に吸収されてもう滅んだって説と、マンチュリ族が古代漢族だって説
もし魏が古代の漢族の朝廷だというのなら、その魏朝廷てのは、インカやマヤや古代エジプトのように
語源も民族もとっくに滅んでしまった民族の朝廷か、もしくはマンチュリ語を話すマンチュリ族の朝廷かってことだね
説がただしければだけど
ちなみにマンチュリ族は河南の方にはいないよ
日本語を話す日本民族の分布ってのも、限られてるでしょ?
マンチュリ語を話すマンチュリ族の分布も限られてるよ
それに中国って、ヨーロッパほど民族が移動してる土地じゃないよ
たとえば上海語源は上海近辺で使われてる語源だよ
北京語を話してる民族とは別の民族だよ
691 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:08:15
美濃もん太は邪馬台国問題に関して何が言いたいのか簡潔に述べよ。50字以内に纏めることができない ならばここに来るな。目障りだ。
だめだ。 スレ立て制限中で立てられん 誰か頼むよ 『美濃もん太の、歴史を大いに語る』 名前: 日本@名無史さん E-mail: sage 内容: このスレは、「美濃もん太」が独特の視点から眺めた歴史を大いに語るスレです。 美濃もん太の歴史観に興味がある方はどんどん意見を書き込んであげて下さい。 尚、出来る限りsage進行にて くれぐれも美濃もん太の語りを妨げるような発言はお控下さい。 さあ『美濃もん太の、歴史を大いに語る』講演の 始まりです。
693 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 18:15:56
>>685 すべての歴史が伝わってる訳じゃないんだし、そもそも語源が滅んだらその言葉の意味を理解出来る人がいないってことなんだよ
解らない事は「解らない」としとけばいいんだよ
インカやマヤやエジプトの歴史だって、歴史どころか言葉すら残ってないんだから解らないのが当たり前なんだから
元ってのがモンゴル族によるモンゴル帝国の事だってのは解るよ
清もわかる
ただ魏やら隋とかが王朝を指してるとした場合、どの王朝の事なのかはわからないよ
伝えられてきてないんだし
そもそもその王朝を築いた民族も語源も現存してるかどうかもわかってないんだから
24史を書いた民族がどの語源の民族なのかってのもよくわからないし
國や朝廷の呼び名なんて、語源や国により異なってたりするんだから
邪馬台国なんてのもそのひとつで、日本では邪馬台国って書き方をしてなかった国を倭人伝を書いた人たちは邪馬台国っと書いてただけだよ
例えばモンゴル王朝と、大和王朝と、ローマ王朝は、別の王朝
民族も語源も違うんだよ
694 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:20:27
>>688 >そもそも24史てさ、すべて同じ民族が書いてるの?
全部はわからないが
三国時代・・・晋、宋、斉 漢民族 で読みは呉音
隋、唐 鮮卑族 で読みは漢音
695 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:24:45
もん太このやろう くそがき ドアホ アンポンタン カス タコ スットコドッコイ てめ〜手足を千切って塩辛つくってやる 上の文は古代漢族によれば恋文の一節だったかも知れんというわけだ。
696 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 18:30:03
>>691 いまある中国の歴史の解釈を前提にしていいのかどうかだよ
もし日本民族が中国に統合されたとしたら、日本民族の歴史も中国の歴史って事になるのかな?
もしローマまで中国の領土となった場合、ローマ皇帝の扱いはどうなるの?
秦の次ぐらいに「ローマ帝」っていれるんか?
日本の歴史ってのは日本民族の歴史であって、同じようにそれぞれの民族にはそれぞれの民族歴史があるとおもうよ
民族っても血統での区別じゃなく、まずは語源で区別だよ
日本語源の俺らは北京語で伝えられてる話は聞いても理解できないんだから
697 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:31:32
>>688 >あと日本ではちゃんと漢字には日本語の発音がつけられてるから、日本語読みしたほうがわかりやすいよ
>帝(みかど)
>大王(おおきみ)
なにいってるの日本は漢音、呉音、唐音こちゃまぜで統一されてないよ。
帝、大王は今は時間ないので。
698 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 18:35:47
699 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:38:03
>>698 美濃もん太用スレ立てようか?
立てたら、そっちに書くか?
701 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:39:49
702 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:40:15
>>699 乙です。
さあ皆さん
もん太には最高の環境が整いましたので、美濃もん太をどんどん誘導してあげましょう。
704 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 18:43:51
もん太くんへ! ほら、みんなこれほどきみのことを思ってるんだ! さあ、あっちに引っ越ししましょう!
705 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 18:54:00
卑弥呼 日本語源圏での音発音→「ヒミコ」 北京語(マンダリン語)圏→「ビィ、ミィ、クゥオ」 広東語 (カントニーズ語)圏→「ビィ、ミィ、フォウ」 北京語 上海語 台湾語 潮州語 客家語 広東語 中国って主要語源だけでもこれ以上ある 清王朝で使われてたマンダリン語などの少数語源含めたら確か70語源以上あるよ ヨーロッパ以上の多民族多語源の地域だし 語源ってか民族の分布も中国全土に分布してるような民族や語源はないよ そんなに盛んに移民とかが行われてた土地じゃないし 1つの主要民族、語源の分布地域は、朝鮮や日本より狭い地域ぐらいだよ 北京ってのは、南部からの移民がほとんどだから北京と南京では主要語源が同じってちいきはあるけど てか、移民したりして始めて民族と語源の分布は広がるんだし 中国ってのは、そういうのが極めて少なかった地域なんだってわかるよ だからもし、魏の王朝が上海にあったなら、それは上海語源の上海民族だって推測は簡単にできるよ
706 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/01(木) 19:03:09
>>699 スレタイが気に入らないw
おれ、歴史なんて語ってないし
歴史を語ってるのは「中国では天命で皇帝が、、、」とかって言ってる人
てかみんながみんな同じ解釈になる事の方が本来はおかしいよ
漢文なんて読み手によってはどんな解釈も出来る文なんだし
707 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/01(木) 19:18:53
>>634 軍旗を集兵行為に用いるのは、その応用のようなものでしょう。近代まで世の東西を問わず軍は派手で目立つような
統一した服などで、背中に旗をしょったりして、と何をしたかったかというと威嚇行為と自軍の喚起ですが、旗というのはそういうものです。
旗を下賜するとは、援軍としてそれだけで意味のある事なのです。官軍の錦旗を考えれば分かってもらえるでしょうか。
>>「檄」の意味も魏側の集兵行為と考えれば、しっくり来るでしょ?
それだと魏が倭人に対して集兵行為をしたという事になりませんか?
少し前の書き込みで分かりづらいところがあったので、もう一度書いておきます。
正始4年に、倭から上献があったので、難升米に黄幢を下賜することになった(この決定は4年〜6年の幅でいつでもよい)
6年に、馬韓の反乱がおき、黄幢を賜う役の太守の弓遵が(7年に)戦死した。
8年に、新しく太守の王[斤頁]が就任し、黄幢を賜うことになった。
という話の流れと見ています。
708 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/01(木) 19:24:03
こっそり書いた、大作冢は”一大率”作冢、が無視されて悲しいw ここで「作」の主語は、どうなるのでしょう? 日本語的には省略可でしょうが、漢文もそういうものでしたっけ?
709 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 19:30:17
【10月の臨時国会で民主・公明が外国人参政権法案提出へ】
_,‐/.| ヽ.,лi'\,‐i
ノ .| ,ノ (´・ω・`)´i
/ `'‐´`'-,_,‐'v'‐-ー,__,、,-、_`'!_ _
_ __ノ‐-ー' ,‐^'‐‐,iー,,l´ ~ ,}
‐‐=''‐'`フ 中国 ,‐´ `\ 朝鮮 /"
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韓国人の民度
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710 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 19:41:18
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>707 黄幢を賜う、は母丘倹の軍事行動の一環だと思います。
それはともかく、その後のストーリーは同意なのですが、
そうなると張政の派遣は倭国の情勢と無関係ということになるので、
確かに、前に指摘があったように、悩むところです。
>>711 難升米に下賜された黄幢は馬韓の反乱で
すぐに届ける事ができなかった。
王[斤頁]就任後、狗奴国との関係の報告があり、
張政を派遣する事になった。
張政はほったらかしの黄幢をついでに届けた。
と考えてはダメかい?
713 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/01(木) 20:52:03
>>707 >>711 正始6年、難升米は帯方郡で黄幢を賜った。その当時半島では馬韓の叛乱があったならば難升米は率善中郎将
として叛乱鎮圧の戦に出陣した可能性もある。そのための黄幢付郡假授ではないか。
そうであれば、8年の黄幢拝假は6年の事件とは関係なく、倭からの卑弥呼と卑弥弓呼の争いの報告に応じた
ものと考えられる。倭人伝の記述は簡略すぎて分りにくいところがあるが、8年の張政等の派遣の記述の直前
に倭からの報告記事を載せているのであるから、二つが無関係とするには無理がある。
714 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 21:14:31
>>356 縄文人
反論しないのか?
>>446 に。
だったら己れの過ちを正直に認め、お詫びレスを書け!
>>552 縄文人
>過ちを認めることから進歩が生まれる。これを君にも捧げよう。
ほざくな!
>>713 >難升米は帯方郡で黄幢を賜った
そう考えると、まあ。
しかし、郡で、というのは・・・
詔賜倭難升米黄幢、付郡假授
というのは
裝封付帶方太守假授汝
と似てますよね。
実際に渡したのかどうなのか?
どう解釈したら?
716 :
縦目仮面 :2009/10/01(木) 21:32:09
717 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/01(木) 21:41:01
>>714 なにを偉そうに大きな口を叩いとるんだ。おまえは吉野ヶ里の環濠はなんのために作られたと思って
いるんだ?そしてそれは何時作られたと思っているのだ?その環濠と甕棺墓はどちらが先に作られた
と思っているんだ?
倭国大乱は戦争状態が九州から中国、四国,近畿まで広範囲に広がったときが2世紀末だが、その前
から局所的に戦闘が頻発していた可能性があるのだ。356では分かり易いように倭国大乱という言葉
だけを使った(それは説明不測だった)が吉野ヶ里遺跡は防御的性格がはっきりした集落跡で、特殊
な例とも考えられるだろ。俺の主張の趣旨は箸墓のような大きな墓のあるところに人は住もうとは思
わぬだろう、まして王の墓のそばに都は作らぬだろうと言うことだ。揚げ足とりみたいな言い掛かり
をつけるな。
718 :
日本@名無史さん :2009/10/01(木) 21:41:33
正始6年詔と黄幢は洛陽から役人が郡に運び、郡に難升米に渡すよう付託。 烏越等が郡に詣で戦況説明する。 正始8年張政は倭に到着して難升米に黄幢を渡す。 正始6年詔と黄幢は唐突に天子が難升米に授けるような記述なっているので、 其の前に倭国の状況を知っていたのだろう。 黄幢は錦の御旗のような役目。
719 :
チャオ :2009/10/01(木) 21:53:21
中国では天帝が皇帝を・・・・と書いたのは私です 私は歴史よりも空想が好きです でも空想を刺激する出来事はもっと好きです 真実は空想よりも奇なり
720 :
縦目仮面 :2009/10/01(木) 22:01:47
>>719 ですね。錦の御旗の元は実は黄幢という説もあります。・・・怖いなこの説、いろんな意味で。
例えばですよ。 昭和30年代に突如とし別府タワーというのが建ったけれど、これは、 名古屋テレビ塔、通天閣、東京タワー、博多パークタワー、札幌テレビ塔と並び、タワー6兄弟といわれていました。 その高さは100メートルしかないけれど、都市の規模からしてあまりにも過剰な施設だとは思いませんか? しかし、ここが古代から政治、経済の中心地だったとしたらどうでしょう? 賢明な読者ならもうお分かりですね。邪馬台国は別府にあった。 当時、吉野ヶ里の数倍の高さの塔が建っていた。 その太古の記憶がその子孫に巨大タワーを建てさせたのです。
計其道里、當在會稽東治之東 ここまではおそらく原資料に基づき忠実に記述してきた著者の、 はじめて主観を著わした部分ではないかと思う。 この地理感をどう見るのか? 倭は南北に長く、 里はあたりまえに魏尺。
723 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 00:00:41
>>722 3世紀の人間を馬鹿にしてはいけない。
倭が南北に長いわけがない。里は明白に短里。
724 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/02(金) 00:07:24
>>722 計其道里當在會稽東治之東 は郡から万二千餘里ということから推定したとも考えられるが、會稽東治之東
という語句からは緯度が會稽東治と同じだという認識を持っていたとも考えられないか。周髀算経で會稽東治
を測ったらどのようになるのであろうか。夏至の日に8尺の棒を垂直に立てて影の長さを測り、その影の長さ
の違いで距離を計算する方法のようであるが、緯度が同じであれば影の長さは同じになる。邪馬壹国でその測
定を行ったのであれば魏使の報告書に記載されていたかも知れない。會稽東治での測定記録があれば比較でき
たのではないか。また、周髀算経で測った洛陽と會稽東治の間の距離はどうだろう、万二千餘里になるのであ
ろうか。會稽東治を紹興市の辺りだとすると、その緯度は九州の南端ぐらいになるが、洛陽からの距離は1里
を約430mとする万二千餘里では計算に合わない(洛陽ー紹興市間は直線距離で約千km)。道は直線でないと
しても1里は430mよりはるかに短い。
725 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 00:47:32
海の上で影の長さを測るわけはない。会稽東冶と影の長さが同じになるということは ありえないな。やはり、郡からどれだけ南へ進んだか、それを計算して会稽東冶の 東に位置すると見当をつけたんだろう。 大切なのは、郡の緯度から万二千里を進んで会稽の緯度に達するというところだよ。
>>724 うーむ。緯度は屋久島のもう少し南ですね。
道里を計るに、とあるので、さすがに報告書はなかったでしょう。
洛陽からを基準にするかな。
せめて幽州(北京)ではないでしょうか。
>>723 理由も言いましょうね。
>>724 追記
北京だと、ちょっと遠いかな。
帯方郡治はソウル付近だと思うので、
洛陽と北京の中間ぐらいですかね。
適当な基準点が思い浮かばないが。
728 :
ローガン :2009/10/02(金) 01:24:23
>>707 > それだと魏が倭人に対して集兵行為をしたという事になりませんか?
檄についてはその対象が明記されてます。広い意味で倭人と云う事であれば、ご質問についてはyesです。
729 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 06:53:45
>>726 道里を測る。ではなく、道里を計るだから
資料がないと無理。
730 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 07:28:31
倭人伝によれば、万二千余里で女王国の北の境界に至る。そして、女王国が終わるのは 南の旁国・奴国の先。そこは邪馬台国よりもさらに南だ。 倭人伝の行程に書かれている里数や日数だけから、史書を編纂する連中が長里により推 理したとすれば、女王国はベトナムとかインドネシアの東としたはず。倭人伝が短里を 使用していると分かっていれば、会稽が出てくることは分かるが、東冶は根拠がない。 それに、史家がそんな推理を史書に書き込むのはまちがいのもと。 会稽東冶の東は、当然、原資料の中にあったことと考えるべきことだ。
731 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 09:08:43
山東半島から会稽までちょうど短里で万二千里ほどある。 東治(福州)まではいかないが、おおよその地域として 会稽東治と表現したのではないだろうか。 山東半島はおそらく、帯方郡から洛陽に行く時の中継地点なので、 山東半島の東が帯方郡という認識があるので、 南に万二千里を計ったのだと思う。
732 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 09:49:21
会稽東冶は会稽郡の東冶ではなく、会稽と東冶、すなわち二つの地名だ。 会稽は女王国の北限、東冶は南限に対応させたものだね。会稽と東冶では約 四百キロ離れているから、女王国はかなり大きな国と考えられていたことが 分かる(おおよそという意味だろうから、女王国の南北が本当に四百キロと 認識されていたとまでは考える必要はないが)。
733 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 10:23:08
>>723 >>726 >理由も言いましょうね。
韓伝に韓の地は方4000里の記述があり長里だととんでもなく大きくなりすぎる。短里だと
実際の大きさに近いから短里を採用していたはず。
韓の地は支配地であったので正確に大きさは把握してるはずだから。
734 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/02(金) 10:48:10
「24史」 これはダイチン・ギョロ・ヌルハチ皇帝を国家元首とし、マンチュリ帝国の正式な継承国として建国された、満州国が建国の際に、満州国正史として採用した満州24史書の事だよ 24史の中にある、長安や長江や藩陽や漢城や楽浪とか、、 これらの場所は、満州国〜朝鮮半島を探すだけで出て来るよ もし満州国が滅ぼされず、中華人民共和国が支那に建国されて無ければ、24史てのは現在でも満州の五族の歴史書として読まれてただろうしね まあ書物の内容をどう解釈しようが読み手の自由だとは思うよ ただ24史を「中国の24史」の書物との前提で読むのか、「満州五族24史」の書物との前提で読むのか それが違うだけでも全く違う解釈がされるんだろうと思うよ つか満州五族の歴史を伝える書物として満州国が制定した歴史書が、 なぜ現代では歴代の中国朝廷の24史の書物と言う解釈に変わってしまったのか、、 その理由は満州国が滅ぼされ、新たに建国された中国が「この24史は歴代の中国の歴史を伝える書物だ」としたからだよ もし中華人民共和国ていう国が60年前に建国されて居なければ、24史を「中国の歴史書だ」と解釈する人も居ないだろうし、24史に出て来る王朝や皇帝を「中国の皇帝」なんて呼ぶ人も居なかったと思うよ 24史を読むにしてもさ、これを中国の歴史書と言う前提で読むべき事が本当に正しい読み方なのかな? 俺はまずそこが疑問に思うよ
735 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/02(金) 11:04:43
『計其道里』の「其」は、邪馬台国ではなく、 「倭水人」 に掛かる。
736 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/02(金) 11:30:52
>>725 「海の上で影の長さを測るわけはない。会稽東冶と影の長さが同じになるということは
ありえないな。」
なんで海の上で影の長さを測ることになるの?邪馬壹国は海じゃないよ。夏至の日に魏の使節一行が
邪馬壹国に滞在していたら、簡単な測定(正午に8尺の棒を垂直に立てて影の長さを測るだけ)だか
ら、やるでしょう。
万二千餘里という距離から会稽東冶の東と推定する場合、起点は何処かが問題になる。724では洛陽
として試算的なことをしたが、会稽東冶が紹興市辺りでも福州辺りでもここらから1里約430mとし
て万二千里ではとんでもない遠くに起点を置かなければならない。1里は430mよりはるかに短い。
要は’いわゆる’魏の公式里は使われていないことの一つの証拠がここにあるということ。
737 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 11:49:46
>>736 >なんで海の上で影の長さを測ることになるの?
緯度からみて列島よりも南の海になるからだよ(もちろん、影の長さの計測
がそれほど正確にできるかどうかという問題はあるがね。)。会稽や東冶に
相当する我が国の陸地はないということだ。
>万二千餘里という距離から会稽東冶の東と推定する場合、起点は何処かが問題になる。
起点は郡と同じ緯度にある中国陸地だよ。だから山東半島となる。
そこからどれだけ南と考えるか? 万二千里から南へ進まなかった部分を差し引けばいい
ことだろ。行程をみれば、朝鮮半島の南の乍東がそれだ。だから、それを差し引いた九千
から一万里南下したところが万二千里のところに相当するはずだ。それが会稽だよ。
>>724 前言撤回
其の道理を計るに、を
その行程を(陳寿が机上で)計算すると、というように解釈していましたが、
その距離を(魏使が実際に)計測すると、というように解釈できるので、
考えを改めます。
739 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/02(金) 12:07:48
楽浪郡と国境を接しており、(帯方から)水行だと○○日、陸路だと○○日 じゃないの? 東南大海中の嶋も、楽浪郡に接した南部も倭だよ ちょうど、百済や新羅があった辺り ちなみに百済や新羅は、辰韓とか秦韓とか言う名前で書かれてたりもしてるよ 邪馬台国って名前の國を探してるんでしょ? 弁韓(だったかな?)とか辰韓とかにあった國の名前とか調べてみ? 女王國でしょ? 鬼道を使う女王ってのも居るよ 確かその女王の墓は須見山の南の山だったかな? 善行寺にもまつられてるし この人、倭人でしょ?
740 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 12:13:55
741 :
美濃もん太 ◆aTFm6xPP2U :2009/10/02(金) 12:14:21
まず百済わ新羅を納めてたのが何民族なのかって前提が違うと話が噛み合わないかもだけど 百済や新羅を滅ぼして半島を納めた高麗は朝鮮族の李氏って解釈は同じかな? それ以前までは秦族とか古代漢族とかが居たって事は知ってる? 和仁氏とか知らない?
742 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 12:27:02
つまり土佐で坂本龍馬と呼ばれていた志士は、長州では高杉晋作と言われた。 だから、坂本龍馬は長州藩士だったと。
743 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 12:29:36
>>736 >・・・1里は430mよりはるかに短い。 要は’いわゆる’魏の公式里・・・
魏の公式里は短里です。
例をあげます。
@山高1860mの天柱山を『高峻20余里』と書かれている。(魏志張遼伝)
20里は長里で8700m、短里で1500m位。短里で書かれていることが分かります。
A「三国志」の「赤璧の戦い」。揚子江の赤璧で北岸の魏と南岸の呉と蜀の連合軍が対峙します。
その後、十隻の船が『北軍を去る2里余』に来たとき、船に火を放ち・・という戦いです。
つまり、川の中央より北に行き、北岸から2里余になったときというものです。
ここの川幅は400〜500mですので、もしこれが長里なら2里は870mになりますから
実体に合いません。しかし、短里なら2里は150m位ですからリアルです。
よって、この話は短里でしか説明できません。
744 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 12:34:29
>>740 どっちがだよ
てかさ、朝鮮族って鮮卑族って奴じゃないの?
半島の北部にいた民族。高麗とか李氏とかの民族
違うなら24史の中のどれが朝鮮民族なの?
つか、昔っから朝鮮人は朝鮮半島全土を治めてたとかいう事にしたいの?
そう信じ込んでるなら「24史は偽書だ!」とか言っといた方が朝鮮人の為じゃね?
あと百済や新羅の建国神話とかにも大海中から来た三人の神が稲などを伝えて開拓した様子が書かれてるんだけど、、
それが今の朝鮮人だとかいう事にしたい訳すか?
ってか、朝鮮人は自分達の民族の歴史をどう解釈してるの?
つかどう解釈したら、朝鮮人が昔から半島全土にいたって解釈になるの?
24史のどっかに書いてあるんか?
半島の北部の一部に朝鮮族がいたとも書いてあるんだけど、これが今の朝鮮人じゃないの?
745 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 12:37:05
>>744 図星のようだな。
日本人なら在日と言われても無反応。
746 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 12:40:38
百済や新羅の王が朝鮮人だなんてどこにかいてあるの? 辰韓や弁韓にしても、あれ、朝鮮人じゃないぞ? 日本にしても、北海道や沖縄は昔から日本民族が治めてた場所じゃないよ いま日本人が住んでるからって、北海道や沖縄は昔から日本人がいた土地なんて話にはならないよ
747 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 12:45:53
>>746 百済や新羅の王が朝鮮人だなんて、誰もここでは言っていないし、話題にもならない。
一人で自問自答して、一体何が楽しいんだ?
748 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 12:51:41
>>745 だからなにが?
在日ってのは「百済や新羅は倭人が治めてた国で、朝鮮人はまだその頃、半島南部には居なかった」とかって言ってるの?
君の言ってる意味がわからんよ
君は、百済や新羅は朝鮮人の国だって言いたいんじゃないの?
もしそうなら、何を根拠にそうなるのか教えてって言ってるんだよ?
つか何が気にくわないのかがわからんよ
美濃もん太が在日に異様に反応する訳は?
>>749 もん太は在日じゃなくて、単なる引きこもりだろ?
751 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 13:19:57
そういう話に摩り替えるやり方が下らないって思うからだよ こういう話をするとすぐに「日本人は反省してないのか。また侵略する気か!」とか、馬鹿じゃねって思うわ 結局、中国が主張してる「古来より東アは、中国の皇帝を中心とした、、、日本は中国の皇帝に認めてもらって初めて国を名乗れた、、」とか 朝鮮の主張する「百済も新羅も朝鮮人の国で、だから日本は朝鮮人が建国した、、、」みたいなさ 日本がこれと違う解釈しようもんなら反省してないだの、侵略するきだの、、、 だいたい、中国様に認めてもらう為に日本人は中国様にみついでたとか、日本人なんて朝鮮からの移民だとか、文字を持ってなかっただの、大陸の文化が入ってくるまでは猿みたいな縄文人だっただの、、 んなもん日本人を馬鹿にすんなってなるさ そもそもそういう歴史の解釈してる奴って、その根拠を何も言わないじゃん どこにそんな事が書いてあるんだよ まずそれを知りたいわ どこにもんな事が書いて無いなら、んなもん勝手に誰かがいってるだけじゃんよ
752 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 13:30:00
つか、ほとんどの人が「日本は中国の皇帝に貢いで国と認められたから、、、」とかいう前提で解釈してるでしょ? まず何を根拠にそんな話になるのかが解らん それが事実なら倭以外にもそんな国が沢山、中国の皇帝に貢いで国と認めて貰ってたって事じゃん? 倭と、あとどこ? どの書物にそんな事が書いてるの? なんでそれを前提として24史や日本の歴史を解釈してるの?
753 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 13:42:57
そらさ、同じ倭人伝を読んでも、なんか俺だけ違う解釈してる見たいになるさ 俺、魏志倭人伝にしろ、記紀にしろ「これはどういう意味だろう?何を書いてるんだろう?」って読んでるだけだもん そら「えっとその頃ってのは中国の皇帝に認められて初めて国や王を名乗れてたわけだから、、、」 なんて事を前提にしてる人とは違う解釈にはなるさ
754 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 13:46:59
>>743 >@山高1860mの天柱山を『高峻20余里』と・・・
山の標高は、今はどの国も平均海水面から垂直距離で表すことが普通になっているが
果たして魏晋の時代もそうだっただろうか?
そもそも山の垂直標高に、「里」という単位を使うだろうか?
「里」は、本来は水平間の距離に使うものだったきがするのだが。
中国の古代の資料で、山の標高を記述している例をもっとほかにも知りたいと思う。
ご存知の方は御教示賜わりたい。
755 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 13:49:56
756 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 15:12:08
>>754 >山の標高は、今はどの国も平均海水面から垂直距離で表すことが普通になっているが
果たして魏晋の時代もそうだっただろうか?
この疑問のおかげで納得できたことが一つあります。
当時は平均海水面から垂直距離ではかるわけでなく、山のふもとから三角測量したと推測
できますので、だから300mも誤差があるんだ。この誤差大きくて少し気にはなってたん
ですけど説明つきました。ありがとうございました。
>>754 >そもそも山の垂直標高に、「里」という単位を使うだろうか?
なるほどね
言われてみれば、たしかにちょっとヘンな感じがするね
758 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 15:51:23
>>754 >そもそも山の垂直標高に、「里」という単位を使うだろうか?
それでは長さの単位って 里 以外なにがあるの ?
歩(300歩=1里)って cm や m(メートル) みたいな、長さの単位じゃないの。
759 :
ローガン :2009/10/02(金) 17:43:26
760 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/02(金) 17:51:04
アルプス1万尺… ちなみに北アルプスの高天原は、明治の命名。 解った?もん太君。
761 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 17:55:52
もん太を呼ぶなよw
763 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 18:24:21
764 :
ローガン :2009/10/02(金) 18:24:44
>>743 >山高1860mの天柱山を『高峻20余里』と書かれている。(魏志張遼伝)
天柱山有高峻二十餘里道險狭歩徑裁通…と続くんですから、山頂にある敵陣への道のりが20里の細く険しい小径という意味ですよ。
> よって、この話は短里でしか説明できません。
そんな事無いでしょう。
765 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 18:33:04
「帯方から倭へいくには、、、」って解釈してます? 「東南七千里」とかって、範囲の事じゃないの? 道程を書くならどの道を通ってとかっていう書き方をしない? これ、倭の範囲の地図を言葉で書いてるだけじゃないの? 邪馬台国ってのは、その中の国のひとつでしょ? てかどう解釈してます? 「帯方から邪馬台国へ行くには、、」って事を書いてるという解釈ですか?
766 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 18:34:26
<山高>で二十五史を検索すると、山高五十里のように里で表したもの4件。 4件とも二千五百里・三十里・八十里・五十里と、標高とするとどれも非常識。 確かに、短里だとすると常識的に収まる。(二千五百里はそれでも非常識だが) しかし、清史稿にも山高五十里とある。 短里だと常識的な値になるといっても、だったら清の時代も短里が行われていたのだろうか。 一方、山高二百丈のように丈であらわしたもの10件。 これは、道教資料以外は、みな常識的な数値になる。 山の高さを里で表すのと丈で表すのと、違いがあるのではないか。 つまり、里は距離、丈は高さだから、ローガンさんの言うように、 里は麓から頂上までの移動距離、丈は標高ではなかろうか。
767 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 18:49:15
んで、これって倭国の内乱の様子を書いてるんでしょ? 卑弥呼女王の勢力と、倭の朝廷の勢力との内乱の様子 そもそも三国時代の倭国の内乱の様子は記紀にも書いてある話だよ
768 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 19:16:11
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、
天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・
女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ
これと同じ話は記紀にもあるし
「日出国の天子、日没する国の天子に告ぐ、、」なんてのも何故か片方は中国の皇帝の事と解釈されちゃってなかったっけ?
あれもどっちも日本の天御子の事だよ
「三国史」なんだから三国時代の頃の話でしょ?
三国史記の中の倭人伝の内容の事ばかりとりあげてるけど、そもそも三国史記ってどんな書物か知ってますか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98 はじめから中国とか関係ないんだよ
魏とか呉とかっていう三国史は、あれは近代に中国大陸を三国時代の舞台として書かれたフィクションだよ。それとごっちゃにしちゃってる人が多いでしょ?
>>743 古田さんは、赤壁で、両軍が河の北岸と南岸で対面するように布陣してたと考えてるみたいだね。
でも、魏軍は上流から、呉軍は下流からそれぞれ移動している。
対面して布陣してたわけじゃあなさそう。
去北軍二里餘っていうのは、三国志の注で引かれた江表傳の記述。
それを読むと、その時、東南の風が強かった。
呉軍は、柴を積んで油を注いだ船十艘を前にして出発し、
江の真ん中まで行ったところで帆を挙げた。
それから黄蓋という作戦の発案者が火を掲げて将校に説明して、
兵隊たちに大声で「降伏する」と叫ばせた。
曹操軍の者は、それを立って見物してた。
これを読んで解ることは、河を直角的に横断したのではないということ。
400〜500mの川幅を渡るのに、真ん中まで来たところで帆を挙げるのはおかしい。
また、強風の中、帆を挙げて船は矢のように進むと書いてある。
魏軍まであと200mとすると、そこから将校に説明して降伏すると兵に叫ばせる暇はないだろう。
つまり、陣を出発して、河の真ん中まで出たところで帆を挙げて、
河沿いに上流の魏軍の陣まで移動している。
そして、魏軍の陣まで二里餘りの地点で一斉に船に火を付けたということ。
だから、この例は、古田さんの言うような短里の証拠にはならない。
短里に変えたのなら正史氏にも記録が残っているだろ。 そんな重要な事が記録されていないのはおかしいよ。
771 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 19:38:01
>>769 それ、なんの書物を言ってるの
魏志倭人伝が書かれてる三国史ってのは百済とか新羅とかの三国時代の様子を書いてる書物なんだよ
君が読んだのは三国史演義って書物の方じゃないの?
つか三国史演義と三国史記をごっちゃにされたら話がかみ合わないってば
772 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 19:47:01
773 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 19:47:28
>>771 百済とか新羅について書かれてるのは三国史記。
中国正史は三国志。
史と志で字が違うんだ。
そして、正史三国志をもとにして物語にしたのが三国志演義。
三国史記と三国志と三国志演義をごっちゃにしては、
話が咬み合わないね。
774 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 19:54:03
775 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 20:07:04
>>774 いや、理解していないのは、君だけ。
新羅・百済・高句麗の三国の歴史は三国史記。三国史ではないよ。
魏志倭人伝が含まれているのは、三国志。
三国史記と三国志は全く別の書物。
三国志を、大衆向けの面白い物語にしたのが三国志演義。
三国志演義と三国史記は無関係。
776 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 20:07:30
話が噛み合わない! 爆裂的衝撃発言だな。
777 :
美濃もん太 ◆EopnQpTImU :2009/10/02(金) 20:23:35
778 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 21:08:01
漢書王莽伝には 「黄支自三萬里貢生犀」とある。 黄支は南越の国。生きた犀を献上した。 黄支から三万里だと長里だと1万2000キロになり、 地球の4分の1周をしてしまいます。 短里だと2100キロでほぼ合致します。 王莽伝なので後漢時代の書です。
>>733 >短里だと実際の大きさに近いから短里を採用していたはず
実際の距離から割り出して「短里」というものを想定する
というのには、どうしても納得できなかったんですよね。
>正確に大きさは把握してるはず
ならば、千里と書けばいいじゃない?
ご回答ありがとうございました。
>>735 「計倭水人道里」ですか?
倭の水人の道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし。
なんとなく意味はわかりますけどね。
781 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 21:37:28
>>778 台湾中央研究院のサイトだと
検索しても王莽伝のその部分ヒットしないね。
中華書局の漢書にも、サイトのそのページにも、
ちゃんと載ってるのに、検索だけはヒットしないみたい。
ちなみに、778さんは、電子漢籍でお勧めのサイトはありますか。
ところで、その部分は、王莽が上奏した内容だから、
距離の数値は信用できんでしょう。
782 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 21:45:45
>>779 >>正確に大きさは把握してるはず
>ならば、千里と書けばいいじゃない?
短里だから4000里なんじゃないの。
>>780 ここは風俗記事の一部だから、
其=倭水人
道=治める
里=さと
倭水人の治める里をはかる(最後=南限)と、
ではいかがでしょう?
>>736 周髀算経で道里を計った、というのは非常に魅力があります。
これを考えていて偶然行ったサイトからの引用ですが、
帯方郡治を沙里院とすると、北緯は38度33分付近で、夏至における8尺の棒の影は21.58寸。
會稽東治を紹興市付近とすると、概ね北緯30度で太陽の影は9.18寸
その差は12.40寸で12,400里
となるそうです。
>>782 いや、だから、
短里が有った、もしくは、短里で書いた
という論拠にはならないよ、ってこと。
誇張したのかも知れないでしょ。
786 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:07:28
>>781 上奏文だから信用できないという論は成り立たないと思う。
短里で一致するので、信用できる。
中国漢書サイトはいろいろいくつか利用してます。
漢書王莽伝のページで、
何度が違う語で検索したらヒットしました。
787 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:11:05
邪馬台国は台湾にあったということで決着がついたほうが、いろいろ都合がいいですよ。 九州説論者も畿内説論者も痛み分けですから。
788 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:19:55
敗色濃厚ならばせめて引き分けにならんかなと考えることもあるだろう。 しかし、九州説からすれば、畿内説なんて箸にも棒にもかからない説だと 思っているんでね。台湾説なんぞ考える余地はないよ。
789 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/02(金) 22:23:25
台湾なんかにあるわけない。ww
>>783 いや、なるほど。
相変わらず、なかなかですね。
ところで、周髀算経のサイトには、
「計其道里」が唐突に出てくるのが不自然、
「自郡至女王国万二千余里」のすぐ後に来るべき。
間の風俗記事は、陳寿の筆にしては俗っぽく物語り風である。
後世の挿入だろう、とありました。
大胆な意見ですが、傾聴に値すると思いました。
791 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:45:09
>>790 その見方はどうかな。夏后小康之子、封於会稽。それとの関連で、当在会稽
東冶の東と書いているんだ。文章の流れとして、極めて自然だ。かえって「自
郡至女王国万二千余里」に会稽東冶の東を続けたら、夏后小康之子、封於会稽
の文章が浮いてしまう。
って
792 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:48:10
>>786 >上奏文だから信用できないという論は成り立たないと思う。
王莽がどういう人物か知らないの?
>短里で一致するので、信用できる。
それは、順序が逆でしょう。
自説に一致するから、資料を信用するというのは御都合主義の謗りを免れません。
信用できる資料から導かれた結論を信用するという態度であるべき。
>中国漢書サイトはいろいろいくつか利用してます。
中央研究院が一番検索しやすいんだけど、
それがヒットしないとなると、どこで補完します?
幾つかあるけど、検索が不便だったりしますよね。
お勧めがあったらお教え下さい。
793 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 22:54:26
>>787 いや、なるほど。
なかなかですね。
私はフィリピンではないかと思うのですが。
794 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 23:03:22
>>792 >信用できる資料から導かれた結論を信用するという態度であるべき。
倭人伝という信用できる資料から導かれた結論が、当時は短里が使われていたに
違いないと言うことなんだよ。倭人伝から導かなければ、後世の里と大きく異な
る短里の存在に気づくことはなかったね。
795 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 23:07:41
>>792 王莽は漢王を簒奪した人。新の皇帝。それが何か。
でも里数は資料によりものだから、官吏が持ってきたもの。
王莽が知るはずもない。
私はもうこの文は在るサイトで知っていたので、
電子漢籍サイトでの検索は犀でしたらヒット。里ではヒットしなかったけど、
何度か試せば里でヒットすると思う。
>>790 夏后小康之子、封於会稽 と対比の意味で今倭水人という見方はどうでしょう?
昔、
夏后小康之子、封於会稽られた時、獣を追い払う意味で文身し
今は陸地とは反対の水人として海の獣たちを追い払う文身倭人が東の地にて治めている
その倭水人の治める地の南限が会稽東冶の東
という見方です。
>>791 そうですよね。
それだからはじめは「計其道里」は陳寿の頭の中の考えだと思ったんです。
実際に計測したのだ、という人は先のような発想になるのでしょうね。
>>792 >中央研究院が一番検索しやすいんだけど
中央研究院 「貢生犀」で検索すると「黄支自三萬里貢生犀」がヒットします。
>>796 レスありがとうございます。
上にも書き込みましたが、最初はそのように考えていたんです。
でも、計るは実測だと言われると、そうも解釈できるんですね、確かに。
ましてや、実際に万二千里の数字が出てくるとなると・・・
おもしろいですね。
>>798 いま、もう一度やってみたけど、やはりヒットしないなあ。
関係ない4162ページが表示される。
ごっくり、ごっくりこんと、ボアジュース。あっ、チクロ人間だ。
夏后小康の庶子無余は会稽に封じられ、荒れ地を開墾して邑を起こした 言わば 「諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差」の倭水人とは対照的な環境 倭水人を表すのに、会稽東冶をたとえに利用することは、もっともわかりやすい 表現の仕方だったのではないでしょうか?
>>799 「測」ならその万二千里の数値は大事にしなければならないでしょうが、ここは「計」
ですから
あまり数値にこだわるべきではないと考えます。
ましてや風俗記事ですから
804 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 23:44:57
805 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/03(土) 00:04:24
>>802-803 パチパチパチ(拍手)、解りやすい解説だ。
夏后小康の庶子無余が封じられ、荒れ地を開墾(新田開発)した邑のあるところが会稽東冶。
其の海の彼方の島々が倭。
凡そ12000里前後と、実測ではなく推定し(計っ)たのだ。
>>803 もうひとつ甘えさせて下さい。
これは自分で別解釈の可能性に気付いたあとだったんですが、
>>726 >道里を測る。ではなく、道里を計るだから
>資料がないと無理。
とのレスをもらいました。
「計」と「測」の字意の違いがいまひとつわかりません。
漢辞海は少し高かったです。いま迷ってます。
河童が普通の会話しているなんてルール違反だろ。誰か荒らしの報告してこいよwww
>>806 >「計」と「測」の字意の違いがいまひとつわかりません。
ここは字意なんて難しく考える必要はありません。
もっと簡単に
「測」=やってみなけりゃ結果が出ない
「計」=すべて整っているものを確認する。
で、どうでしょうか?
>>805 以外ですね。
倭が会稽東冶の東だというのは、
その地形が南北に伸びているもの、という地理観を著わしている、
と思ったんですが。
九州説の人はたいてい否定に回りますよ。
810 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 00:29:42
ところが、半島の南端を東に行ったことを計算していないので、 3000里ほど誤差が出た。 会稽から北へ210キロ程行くと、その緯度はちょうど熊本の北になる。 北緯32.5〜33度位。
>>808 「測」は能動的にとらえる対象に、
「計」は客観的に存るものに、
それぞれ対応するということですかね。
どうもありがとうございました。
812 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/03(土) 00:42:43
>>805 私の文章を理解してくれて感謝します。(難解な河童で有名だから)
なかなか「庶子、無余」にたどり着く事が出来なくて……(笑)
明日も仕事なので、そろそろ休みます。では
>>810 その意味はわかります。
半島移動の南北は約5000里ですね。
814 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/03(土) 00:44:46
>>809 >九州説の人はたいてい否定に回りますよ。
何故?
倭の中心部である女王國が北部九州説では何の問題もありません。
会稽の東の冶め(開発し)た地の東は九州です。
>>811 物の長さは、長さが有るのはわかっていても、それを数値化するのは
やってみなけりゃ結果はわからない
しかし
1+1= は、用意された数値で既に結果がでているけれど、式と言う形にて確認する
そういう事です。
>>815 よくわかりました。
ありがとうございます。
817 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/03(土) 01:02:24
>>812 >なかなか「庶子、無余」にたどり着く事が出来なくて……(笑)
「庶子、無余」の件は以前僕が原文引き指摘してどこかのスレに書いたことがありましたよ。
会稽東冶は上海南部の海岸沿い地帯(長江河口南岸杭州湾側)だとも。
計ると測る、日本では厳密に使い分けられてはいないようです。 もしかしたら中国でも同じかもしれませんが・・・・ ただ、計はゴンベン、測はサンズイですね。 計は、計算、合計、計略などの使用例もあることから、はかる手段として人的な要素が大きいようです。 計る対象も抽象化された数値自体、非物質的なものではないかと。 一方、測はサンズイであることからも判るように、もともと海事関係のことばかと思います。 測定、測鉛、測量などの組合せからは、物質的な長さ(測った結果は数値で示せますが)が対象なのかと。
819 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/03(土) 01:32:05
>>818 「計」は抽象的なもの
「測」は具体的なもの
でしょうね。
820 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/03(土) 01:47:48
「治」は、水をおさめるから派生してきたもの。・・・「治水」「政治」等 「冶」は、水とは全く関わりのないものをおさめる。・・・「冶金」等 「会稽東冶」はあたらしく土地をおさめたことからの名称。 でしょうね。
821 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 05:55:30
>測はサンズイである 辞書をみるともともとは水の深さを測るという意味だったそうだ。 >「計」は抽象的なもの「測」は具体的なもの 何か勘違いをして議論しているのでは? 其の道里を計るにというのは、道里を もとに考えてみるとという意味だよ。その道里自体は個別に記載されているとお りすでに分かっている、それをもとに考えたという意味で「計」を使っているん だ。みんな、そこがわかってないんじゃないかな?
822 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 07:56:40
>>821 それでは全く前文の夏后少康の子との繋がりや、風俗との
関連がないだろう。
会稽東冶の東というのは、その緯度あたりが、水没して魚を採るのにふさわしい温暖な気候 という意味では?
824 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 08:42:09
>>822 >>823 何を考えているんだか分からんな。夏后少康の子との繋がりや風俗との関連で、
倭の位置が分かるわけがなかろう。 倭の位置(会稽東冶の東)は
あくまでも道里から考えて出していることだ。使者が実際に倭国を訪ね、個別の
道里を出しているのに、それらを捨ててどこから万二千里が出てくるというんだ。
水没して魚を採るのにふさわしい温暖な気候なんて、末盧国についても沈没して
云々と書いてあるんだ、郡から1万里のところで行われていたことが明記されて
いる、会稽東冶に結びつく話ではない。
825 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 08:57:13
>>802 もし、夏后小康の庶子無余が陸地、倭の水人が海で、環境が対照的だといっているのなら、それは違うね。
そう言ってるんじゃなかったら失礼。念のため。
史記 太史公自序第七十
少康之子,實賓南海,[一]文身斷髮,??[二]與處,既守封禺,[三]奉禹之祀.
漢書 地理志第八下
其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,[一]文身斷髮,以避蛟龍之害.[二]
[二] 應劭曰:「常在水中,故斷其髮,文其身,以象龍子,故不見傷害也.」
826 :
825 :2009/10/03(土) 09:04:25
肝心の文字が化けてた。
??[二]與處
この?二つのところ、
「あおうみがめ」と「うみへび」の字がはいります。
>>824 >夏后少康の子との繋がりや風俗との関連で、
>倭の位置が分かるわけがなかろう。
夏后少康の子孫が会稽東冶の辺りに住んでいて、
その風俗が倭の水人とそっくりだと。
民族の近縁関係、ひいては地理的にも近いということを
倭人伝は書いているわけだ。
>>825 違うのであるなら、理由をお願いします。
828 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:16:34
829 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:22:27
>>826 おいおい、倭人伝が書いているのは女王国の風俗だ。会稽東冶の風俗ではないぞ。
夏后少康の子云々がどういう意味か、ちょっとは本でも出して解説を読んでみな。
830 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:33:59
>>827 まず、倭人伝の
夏后少康之子封於會稽、断髪文身以避蛟龍之害。
と書いてるでしょう。蛟(みずち)も龍も海棲生物だ。
夏后少康の子は、海棲生物の害を避けるために刺青をしていた。
825に引いてある文も理由だよ。
史記 少康之子が南海に住んで、文身断髪していて、ウミガメやウミヘビと同居して
漢書 少康の庶子が会稽に封じられて、文身断髪して蛟龍の害を避けた。
常に水中にある。だから髪を切り、刺青をして、龍の子をかたちどって、それで襲われないようにした。
まさに倭の水人と同じ風俗で、陸地が云々ではない。
831 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:35:16
>>829 倭人伝が書いているのは、女王国の風俗ではなく、倭人の風俗です。
832 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:36:31
>>829 倭人伝の記述の内、
「夏后少康之子封於會稽、断髪文身以避蛟龍之害。」
この部分は、夏后少康の子の風俗。
その次の、「今倭水人〜」から倭の風俗の記述になる。
もう一度よく読んで検討してみてください。
(-~-) < 「今倭水人〜」から倭の風俗の記述になる、もう一度よめ。 (>_<) < ちょっとは本でも出して解説を読んでみな www
834 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:44:15
835 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:55:03
836 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 09:58:39
倭人伝だから
>>834 史記夏本紀によると、夏殷周秦漢と続く王朝の、夏の第六代の君主ということだから、かなり古いね。
具体的な年代は、考古学の縦目さんに聞いてくれ。
>>835 > 理由は?
>>831 氏では有りませんが
風俗記事の冒頭「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國〜」と有りますね。
この中の「其使」の「其」が何を指しているかを考えてみれば自明のことかと思いますが。
839 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:05:49
>>833 は、改め君か。
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身【亦】以厭大魚水禽。
この【亦】は、なんでここで使われていると思う?
840 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:07:16
>>743 >>769 すみません。出典を間違えておりました。
虞溥(晋の官吏)で『江表伝』でした。
内容はそのままですので、やはり短里であるとかんがえます。
北岸去る2里余なので、斜め(東南)からみてではなく、北岸まで実距離で2里余の所と考えます。
東南のすごい強風のため川中までゆっくりと進み、大船につないでいた無人の船が外れる心配の
なくなった所で帆をあげて一気につっこませたのです。
>>834 夏王朝が仮に実在したとして、殷王朝の前の500年間、
紀元前2100〜1600年かな。
夏は17代続いたとされているから適当に計算してみたら?
842 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:14:41
>>840 手元の中華書局の三国志では、「北岸去る2里余」ではなくて「北軍を去ること二里餘」です。
北岸になってるテキストがあるのでしょうか。
おいらはドラマ〜♪ 悪魔なドラマ〜ぁ♪♪
関係ないけど石原裕次郎じゃなかったw 昨夜の吉川こーじ無人島生活よかったねw
それはさておきw
>>829 君は河童君か?!
>今倭水人好沈没捕魚蛤、文身【亦】以厭大魚水禽。
>この【亦】は、なんでここで使われていると思う?
夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害
というのは、
夏后少康之子が會稽という街に降りて、化け物の害から避ける為に入れ墨をした つーことょ。
「今倭水人好沈没捕魚蛤、文身【亦】以厭大魚水禽」の【亦】だけど、
倭人もこれと「同様に」化け物の害から避ける為に入れ墨をした。
素で答えたけど、もっと面白く答えたほうが良かったかな?w
844 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:19:14
>>838 女王国は倭国の大国だからね。倭国が前々から中国と通交していた、それはまた
女王国も通交していたということなんだよ。だから、「其使」の「其」が何を指
しているかということから、風俗記事が倭国なのか女王国なのかを決定すること
はできない。
倭国と解したときに不自然なのは、会稽東冶の東だね。倭国といえば、対馬国か
ら始まるんだ。それが会稽東冶の東となれば、対馬国は会稽と同じ緯度だという
ことになるかな? いくら何でもそれはないだろう?
同様に→われわれと同様に でした。
あ、歌詞まちがえたかな? ヤクザだったかも・・・・まあ、いいか。 おれどーせ音痴だしwww
849 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:27:34
>>841 そうだろうね。となると、そんな古い伝説と対比して
>>826 のように民族の近縁関係、
ひいては地理的にも近いということを書いているというのはどうもね。
>「われわれ」って誰よ? 馬とシカさん 「われわれ」てなんなんですか?w
>>844 > 倭国と解したときに不自然なのは、会稽東冶の東だね。倭国といえば、対馬国か
> ら始まるんだ。それが会稽東冶の東となれば、対馬国は会稽と同じ緯度だという
> ことになるかな? いくら何でもそれはないだろう?
それって、貴方が現代の地図を見て判断してることでは?
852 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:39:23
「われわれ」はとくれば、当然後に続くのは「バルタン星人」 これ、日本の常識。
853 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:40:32
>>849 古い伝説というのは、現代人の感覚で、
漢書地理志も、それを正式な情報として記述している。
メッ メッ メッ こんにゃろw
855 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:44:57
「文身亦以〜」の亦は 「自古以来」の自古に掛かる。
856 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:47:04
>>743 >>764 >>山高1860mの天柱山を『高峻20余里』と書かれている。(魏志張遼伝)
>天柱山有高峻二十餘里道險狭歩徑裁通…と続くんですから、山頂にある敵陣への道のりが20里の細く険しい小径という意味ですよ。
たしかにそうとも訳せますが 敵陣まで9km(長里)位の険しい道のりをいった。(要約)この場合の
距離はそんなに必要でしょうか。
いいたいことを例にたとえると
1, 高く険しいエベレストがあった。頂上の敵陣まで細く険しい道のりを9kmいった。
2, 険しくて標高8844mのエベレストがあった。頂上の敵陣まで細く険しい道のりをいった。
例1と2の情報の場合、標高の方が知りたいとおもいませんか。
山の高さがわかるとその道のりもイメージしやすいと思います。
そんな理由で標高を表したものと考えます。
858 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 10:54:16
>>857 ものさしを使用しているわけじゃないから
>>858 そうかな?
里は田と土でできてるから、やはり距離のイメージだな。
高さは丈や尺がふさわしいと思うけどな。
860 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:06:13
>>859 人工建造物と自然の違いじゃない。
地に対して、水平の田か垂直の田 の違い。
861 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:09:43
>>851 いや、原資料を書いたであろう使者らのがどう考えたかをみているんだよ。
郡からどれぐらい南へ下がったところに対馬国があるのか、どれぐらい下がった
ところに女王国があるのか、使者らはそれを考えたはずだからな。
どっちが会稽の緯度と一致するのかだ。
862 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:10:00
地面が立っているのが山で、地面に横たわっているのが田 どちらも同じ地面だから、田と同じ単位をつかう。
>>860 混ぜっ返すようだけど、垂直の田は存在しないから
864 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:35:36
棚田のことですね。 古代の水田は、水害の心配のある平地ではなく、 湧水の出る扇状地に棚田を作って水の管理をしていたのでしょう。
865 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:41:53
>>856 >距離はそんなに必要でしょうか。
大いに必要だろ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「敵正成が篭もる金剛山中腹の千早城まで、いったい距離はいくらじゃ!」
「はっ、千早城の標高は660米にございます」
「たわけたことを申すな! わが陣から如何ほどの距離かと訊いておるのじゃ、一里か五里か、十里か」
「畏れながら、さような距離のことなど、どうでもよろしいかと・・・・・」
「馬鹿者ッ!」
>>861 > いや、原資料を書いたであろう使者らのがどう考えたかをみているんだよ。
> 郡からどれぐらい南へ下がったところに対馬国があるのか、どれぐらい下がった
> ところに女王国があるのか、使者らはそれを考えたはずだからな。
> どっちが会稽の緯度と一致するのかだ。
「計其道里、當在會稽、東冶之東。」が原始記録かどうかの判断は保留するとして。
所謂「風俗記事」においては、「諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」
「國國有市、交易有無、使大倭監之。」などの表記も有り、女王國=邪馬台国と言う
考えに立てば倭の中の一国の説明とは考えられません。
ただし、「計其道里」によって出された解が「會稽東冶」と言う点状のものなので、
これと比較された対象地も同等に点状の地域であるだろうと言うことは否定しません。
南北数千里に及ぶ倭地全体は會稽東冶に比較しえる対象物ではありません。
「計其道里、當在會稽、東冶之東。」の文章を作った人物の念頭には「女王國」が
あった可能性も大きいですね。
867 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 11:55:20
>>864 無茶苦茶。扇状地はきわめて稲作に不向き。
湧水が出るのは扇状地端から。
868 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:00:28
棚田はあってますね。
869 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:02:14
>>865 >「敵正成が篭もる金剛山中腹の千早城まで、いったい距離はいくらじゃ!」
天柱山の場合は、敵陣は頂上にあるので、距離よりも標高を書いたと解釈できる。
>>868 あってないでしょ。
棚田であっても、普通、水平方向のほうを測るだろ。
>>869 だったら尺か丈を使えよ
標高に里は紛らわしいだろ
872 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:19:56
873 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:24:40
>>871 >だったら尺か丈を使えよ
>標高に里は紛らわしいだろ
どっち使ってもよかったんじゃないのかな。
7690尺 769丈 20余里
>>872 尺や丈はすべからくものさしを使っているという思考は理解不能だ。
875 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:29:49
>>873 あくまでも私的には
丈を使うイメージはもっと低い高さなんです。家や宮殿の高さとか100m以下のものなどにね。
軍事行動には時間が重要だから、距離と見るのが妥当と思うな。 高さじゃ行軍にどのくらい時間がかかるか計算できない。
877 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:37:09
>>875 山の高さは丈を使った方が多いように思うよ。
山高二百丈とかね。
>>872 二百丈とか四百丈などの山の高さを、
どうやって物差しで測るんだ?
878 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 12:56:49
古代の測量技術は相当進んでいて、 三角測量によって距離や高度を正しく測定できた。 大体、星読み無しに長距離航海などできませんよ。 天文博士の歴史は古く、古代バビロニアが起源といわれています。
879 :
ローガン :2009/10/03(土) 13:00:21
>>856 > たしかにそうとも訳せますが
複数の訳し方があると云う考え方なら、その文の訳しかたの正否の判断材料は他の例に委ねる以外にありませんね。
貴方は「短里」が魏の公里だと言ってましたね。
例えば、魏志夏候淵伝では、祁山で敵に囲まれギョウの曹操との連絡「反復四千里」です。
又、魏志夫余伝、玄菟を去る千里…
通説というか普通は、祁山は天水、ギョウは邯鄲、玄菟は瀋陽、夫余は農安でしょう。
とりあえず、2例ですが、短里は公里てはありません。したがって、高峻二十餘里も短里ではなく、通常里であり、換算値から道のりと判断する以外に無いでしょう。
>>864 弥生時代は棚田が主だったら、そこに条里制は敷けませんね
整然とした区画(坪、畝、段)が並ぶ平野の田圃が、奈良時代の口分田の姿です
>>3 に平安中期の耕地面積を示しましたが、棚田だとそれに遥か及びませんね
弥生時代は、九州内に戸数2万、5万、7万といった国々を包括するのは無理でしょう
881 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 14:30:16
道程だったら、標高300mの山を 高千里、高五千里と書く事もあるわけですね?
>>881 大概、麓の周囲の距離とセットで記されているから、
そんなに大幅には変わらんだろう。
円錐の底面の円周と母線の長さを指定すると、
高さがわかるという感じの記述じゃないかな。
883 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 15:20:02
>>882 単独峰なら可能だけど、円周なんて計測出来ない山脈はどうするの?
884 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 15:48:37
仮に高二十里の高を、母線とした場合、 介山は、周七十里高二十里と書かれているので、 高さ約16里の山となり、六尺=一歩でメートル換算すると 6500m級の山が誕生する。 さすがの中国でも、ヒマラヤまで行かないと見れない高さ。
>>884 山道は、たいていつづら折りだから、
単純に円錐の母線ではないだろうね。
清代まで短里を使ってたっていうほうが信じがたいな。
清代は民間に度量衡が不統一だったらしいけど、
清史稿の山の高さに短里を使うくらいなら、
もっとはっきりと存在を知られているはず。
倭人伝で、ちまちま計算しなければ解明されないようなものじゃないだろう。
886 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 19:13:55
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
イネ科って稲のほか、小麦、大麦、ライ麦、サトウキビ、トウモロコシ、果てはススキやヨシも含まれる それが稲作の痕跡とは限らないのでは? 稲作以前に天然の麦などを収集していた可能性もあるし
888 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 20:32:09
>>866 風俗記事は女王国に関する記事だ。しかし、あなたが言うように一国の関するものでは
ない。つまり、女王国はけして邪馬台国一国ではないんだよ。
女王国=邪馬台国を中心とする投馬国、旁国を含めた国々であることに気づかなければ
いけない(北部九州の国々は女王国ではない。)。
会稽東冶の東は、会稽郡の東冶という一点の東ではない。会稽と東冶の東、つまり会稽
とその南四百キロにある東冶、その帯の東なんだ。だから、女王国はかなり広い面積を
もっていた。女王国の北限は万二千里、南限は里数が明記されてないが、女王国に入って
から陸行一月でたどり着いた邪馬台国よりも更に南だよ。
889 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 20:32:35
ないない。 縄文期の炭化小麦が無いだろ。 炭化米すら3500年以上前に遡れるものが無いってのに。
890 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 22:27:23
>>888 女王国以北は略載できるが、それ以外の国は詳しくしらべることができないと
あるから、少なくとも傍国は女王国ではない。
また女王国の北は略載できるという表現から、投馬、奴、不彌、伊都、末盧、
一支、對馬は北の国になる。
女王国をある一つの国と捕らえれば、すべてすっきりする。
邪馬台国=女王国だ。
そして女王国まで万二千里なのである。
891 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 23:26:41
>>890 > 女王国以北は略載できるが、それ以外の国は詳しくしらべることができないと
>あるから、少なくとも傍国は女王国ではない。
それ以外の国とは書かれていないな。其の余の旁国とあるだけだ。
国には、大国とその傍らにある小国、すなわち旁国とがあるんだよ。
女王国以北ではない「其の余」では、略載できるのは旁国と限定されている。
ということは、「其の余」の地域でも、大国については略載できるんだよ。
>また女王国の北は略載できるという表現から、投馬、奴、不彌、伊都、末盧、
>一支、對馬は北の国になる。
上記のとおり、「其の余」の地域でも、大国については略載できる。したがって、
戸数道里の略載があるからといって北の国だということにはならない。そのこと
は、邪馬台国を考えれば明らかだな。邪馬台国は以北の国ではないが、戸数道里
が略載されている(日数も道里であることは言うまでもない)。
892 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 23:32:10
>>890 >女王国をある一つの国と捕らえれば、すべてすっきりする。 邪馬台国=女王国だ。
>女王国まで万二千里なのである
女王国と邪馬台国が同じ概念ならば、無用の言い換えはしないよ。意味がちがうから違う表記
をしているんだ。だいたい、旁国21国はその道里がわからないというのに、それらが全て邪
馬台国よりも南だというのはおかしい。邪馬台国よりも北にも旁国の幾つかがあったはずだ。
それなのに以北は略載できるというのは、女王国に旁国が含まれるからなんだよ。
倭人伝の行程をみれば、郡から伊都国までで万五百里であることは明らかだ。ということは、伊
都国から千五百里のところに女王国がある(そこから女王国が始まる)。
それに対し、邪馬台国は北九州から少なくとも水行十日、陸行一月を要する国だ。僅か千五百里
なんてところではない。邪馬台国=女王国と解したら、全然すっきりしないな。
893 :
日本@名無史さん :2009/10/03(土) 23:49:26
>>891 >>892 私には貴方の言っていることが理解できません。
すべて自分の都合の良いように倭人伝の記述をまげ、
解釈しているようにしか聞こえない。
だから言っている意味がわからない。
記載どおりに解釈すれば千五百里にそれだけ月日を要したと考える他はないのだ。
しかも古代はそのスピードが一般的だったのだ。
>>888 > 女王国=邪馬台国を中心とする投馬国、旁国を含めた国々であることに気づかなければ
> いけない(北部九州の国々は女王国ではない。)。
そうですか、それは気づきませんでした。
もしかしたら、これからも気づきくことが無いかもしれませんw
貴方は、どうやって気づいたのですか?
> 会稽東冶の東は、会稽郡の東冶という一点の東ではない。会稽と東冶の東、つまり会稽
> とその南四百キロにある東冶、その帯の東なんだ。
それは書き手と読み手、双方の感性にかかわることですね。
もし、私がその条件を満たす表現をとるとしたら「会稽建安」と郡名同士を連記するでしょう。
> だから、女王国はかなり広い面積をもっていた。
> 女王国の北限は万二千里、南限は里数が明記されてないが、女王国に入って
> から陸行一月でたどり着いた邪馬台国よりも更に南だよ。
貴説のように「風俗」の段を女王國について記したものと考えるならば、
一大率の記述だけは、伊都を始め女王国以北の国々にかかるものなので、
他の部分と異なる例外なのでしょうか?
後続の「〜對應聲曰噫、比如然諾。」までを風俗段と考えればの話ですが。
女王を共立した国々が女王国という事だな。
896 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 00:04:27
上にあったように、夏至の日の影で緯度をはかる技術がすでに中国にあったなら、 邪馬台国の緯度も夏至の日に調べたと思う。 そうして計られたのが会稽東治の東なのだ。 東治の治は2スイで書かれているのは後漢書と晋書とカンエンだけ。 治は三国志版本、会稽だけは隋書など。 緯度を測ったのなら正確な場所が特定できる。 会稽の北に「東台」と言う場所があり、まさにそこは北緯33度なのである。 これは熊本の北と同じ緯度である。 つまり邪馬台国は旧山門郡で、宮殿は女山(昔は女王山)なのだ。 そして郡から万二千里にもぴったり合致するのだ。
すげえな 地球が球体だという知識があったのかw 須弥山のまわりを太陽と月が回っていると思っていたのでは? 魏は道教なんだから
898 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 00:24:11
>>897 724で縄文人さんが「周髀算経(しゅうひさんけい)」を紹介してます。
検索したら、「「周髀算経(しゅうひさんけい)」を研究する中で、周代の1里は76〜77メートルで あることを見いだされました。」
という文を見つけた。
周代もいわゆる短里だったらしい。いつから一歩=6尺になったのだろう。
少なくとも後漢書、三国志魏書の東夷伝は短里だ。
あとは中国本国の記述が短里であるか調べればいいだけ。
季節に関係なく北極星の高度=緯度。単純な経験則。
900 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 00:46:04
>>894 >貴方は、どうやって気づいたのですか?
女王国=邪馬台国と解釈するといろいろと矛盾がでてくるからですよ。
>>891 >>892 を読んでね。
> 「会稽建安」と郡名同士を連記するでしょう。
会稽を郡名と考えてはいけません。会稽の恥ということばもあります。会稽も
東冶も古代から有名な地名です。郡名と読むと広すぎて意味不明になります。
>一大率の記述だけは、伊都を始め女王国以北の国々にかかるものなので、
>他の部分と異なる例外なのでしょうか?
例外ではありません。女王国について記す中で、女王国が以北の国々を支配し
ているさまを示したのです。それは正に女王国に関する記述です。
901 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 00:46:40
>>898 >「「周髀算経(しゅうひさんけい)」を研究する中で、周代の1里は76〜77メートルで あることを見いだされました。」
たまたま見かけたサイトの内容を簡単に信じるってのはどうだろな。
邪馬台国に無関係なサイトならまだしも、
そうでなければ、短里があってほしいという先入観に毒されてる可能性が高い。
先入観があれば、なんでもそう見えてくる。
902 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 00:52:11
>>895 倭国の乱は北九州の国々と南九州の国々の戦いだった。その南九州の国々こそ
女王国(邪馬台国を中心とした連合体)だということですね。
>>898 >あとは中国本国の記述が短里であるか調べればいいだけ
そう、話は簡単で、それだけの問題。
ところが実際さがしてみると見つからない。
>>879 にもあるとおり。
確か公孫淵を攻めたときも四千里作戦とか言ってたような。
(京から幽州まで。うろ覚え。たぶん明帝記)
「晋書」の「張華列伝」には、幽州から馬韓まで四千里とある。
なぜか半島の三十八度線の南に限って
道里が誇張されているのだ。
>>902 横レス失礼します。
後漢に訪問団を送った帥升等が、その北九州の国々だったと思ってます。
倭国王は世襲されたが、後漢の衰退によって統制力がなくなり、倭国大乱になった。
女王国より以北、一大卒が検察した諸国がそうだったと思うのですが。
>>902 痕跡がないけど。倭国大乱は瀬戸内海を舞台にしたと解釈するしかないね。
906 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 01:53:22
>>904 私も帥升等は北九州の国だと思うね。しかし、帥升等は単に北九州の王としてではなく、
九州全体の王として使者を送ったのではないだろうか。
九州の諸国は、武器になるようなものは渡さないとしても、一応の交流はあっただろう。
となれば、北九州の王が中国に使者を送る時、九州の諸国に声をかけ、同意を得て代表
として使者を送るということは十分に考えられる。自らの実力を誇示することになるし、
諸国の側も中国に挨拶をしておいて損はない。だから、中国側は百余国という認識をも
っていたんじゃないかな。
それが結局、倭国の乱を通じて、北と南の力関係が逆転したということだろう。
907 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 08:00:19
>>905 瀬戸内海を舞台にした戦いは、銅鐸勢力と非銅鐸勢力の戦いだね。
それは銅鐸の埋納によって明らかなように、非銅鐸勢力が勝ち、銅鐸勢力がその
支配下に入って終わった。勝った非銅鐸勢力は、九州勢力以外にはないだろう。
いわば東西の戦いだね。
倭人伝が伝える倭国の乱は、南北の戦いだから、瀬戸内海を舞台にした戦いとは
まったく別だね。弥生時代は何度も戦いがあったんだね。
908 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 08:36:31
>>903 夫余伝や高句麗伝も長里では読めないだろ。
909 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 11:22:13
78 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/10/04(日) 11:09:18 ID:FOOpFyeH0 ・中川氏は、農林水産大臣としてポジティブリストを導入し、中国等から無差別に輸入される毒菜に一定の歯止めをかけた。 ・中川氏は、財務大臣として金融援助をIMFに一本化し、韓国やアイスランドなどから申し込まれた二国間融資は全て断った。 ・中川氏は、政調会長として、自民党内の人権擁護法案推進派の意見を断固として撥ね付けていた。 ・中川氏は、拉致問題に早くから取り組んできた政治家の一人であり、拉致議連の会長もつとめた。 ・中川氏は、経済産業大臣の時、親中派の二階俊博が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想に意義を唱えた。 ・中川氏は、毎年靖国神社に参拝することも欠かさない。 ・中川氏は、非核三原則の堅持は当然”としながらも日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及した。 ・中川氏は、日教組に対し「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、その活動を強く批判している。 ・中川氏は、官憲(役人、特に警察関係)による慰安婦募集の強制性を認めた1993年の「河野談話について早期に見直しを検討・すべきだとの考えを示した。 ・中川氏は、中国の脅威に対抗するために、インドやオーストラリアとの連携を促進するための議員連盟「価値観外交を推進する議員の会」の旗揚げに貢献した。 ・中川の勉強熱心は有名で、官僚にとっては渡した原稿をそのまま読んでくれない、 扱いにくい大臣だったとのこと。 ・中川氏は、郵政解散後の造反組リーダーであった平沼赳夫とは銀行員時代から兄弟のような間柄で、郵政民営化には賛成ながらも、造反組には半ば同情的だった。 ・中川氏は、政界きっての親台派として知られている。農水大臣再登板の際には、中華民国総統であった李登輝から祝意が寄せられている。今回の辞任についても、台湾メディアは同情的である。 ・中川氏は、2007年に保守派の議員で集まる勉強会「真・保守政策研究会」を設立するにあたってのまとめ役となった。
>>908 確認しました。そのとおりですね。ほかにあるかな。
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗(中略)方可二千里
高句麗在遼東之東千里(中略)北與夫餘接、都於丸都之下、方可二千里
玄菟郡治は審陽、遼東郡治は遼陽、丸都城は集安市、でいいかな。
912 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 11:42:26
中国共産党の工作員の手でまず政治家として抹殺されて、次に、生をも奪われたのですね? 惜しい人を亡くしました。
>>909 短里の存在の根拠を教えて下さい。
周髀算経でしょうか?
実際の距離から逆算して、というのは
どうも納得できないんですが。
914 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 12:10:55
>>913 法律がみつかっているわけではないから、いろいろ勘案してということだね。
しかし、長里も存在の根拠はないんだよ。魏時代の文献で、長里を使用する
とか、それに限る、なんて書かれたものはない。
>>914 度量衡は秦の始皇帝が統一した、ということですよね。
共通の単位を使わなければ商売は成り立たないから、
中国の交易ネットワークが広がる世界では
統一されていたと思うんですが。
東夷の地域が例外なのはなぜなのか?
そこに、作為がある、とも考えられます。
916 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 12:47:07
>>913 短里存在の根拠は、残念ながら、
隋書以前に書かれた史書を分析して、
実際の距離を逆算して出した結論です。
周髀算経も短里が使われていた事を示す証拠のひとつです。
赤壁の戦い、畦道の幅、足の寸法も同様に証拠のひとつです。
1里の長さも時代によって少し変動しているようです。
なお、1里は300歩、1歩は22〜25cmの長さと思われます。
>>916 ありがとうございました。
上にもあるように、長里だって逆算なんでしょうが、
それが混在した、というのがわからないのです。
918 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 13:26:54
海岸線の一尺も、机の長さの一尺も 同じ長さなんです。
919 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 13:43:15
>>817 の間違い修正
誤>会稽東冶は上海南部の海岸沿い地帯(長江河口南岸杭州湾側)だとも。
正>会稽東冶は現在の紹興市の東、杭州湾側南岸だとも。
>>917 混在したのは言語の違いからきているのだと思われます。
唐代以後に、新支配者側言語が統一公用言語として普及してからは長里で表現されています。
唐代初期以前では、執筆者それぞれの各地の旧言語で書かれている為、バラバラ表記になっているのだと思います。
920 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 13:48:49
>>916 赤壁の戦いは、短里の証拠にはなりません。
河を横断したはずだという思い込みから資料を読み誤ったのが原因です。
>>769 を参照してください。
921 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 13:51:11
>>915 >東夷の地域が例外なのはなぜなのか?
>そこに、作為がある、とも考えられます。
いいえ、ただ、遠いからです。
922 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 13:54:52
>>918 >海岸線の一尺も、机の長さの一尺も同じ長さなんです。
6尺=1歩に単位統一されるまでは、
歩と尺は全く違う単位体系でした。
海岸線の一歩と机の長さの一尺とは、
絶対長さは同じぐらいでも、全く異質な長さです。
>>919 >執筆者それぞれの各地の旧言語で書かれている為
漢字は異言語の集団が交易するためのコミュニケーション手段として発明された、
という説を読みました。
中国人に聞くと、それは普通に学校で習ったと言われました。
言語の差異を理由にするのには、なお疑問が残ります。
924 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 14:43:01
>>923 その説は政治臭がするので眉唾だけど
隋以前に中国の周辺民族で漢字以外の文字を持っていた民族はないと思われる。
日本の万葉仮名も字自体は漢字だし。
926 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 15:19:43
>>923 >漢字は異言語の集団が交易するためのコミュニケーション手段として発明された、
>という説を読みました。
>中国人に聞くと、それは普通に学校で習ったと言われました。
その通りです。シナ人はそれを中華同文と呼んでいます。言語は異なるのです。
「中華同文異語」なのです。
現シナ政権は現政権になって初めて官話として言語統一をおこなったのです。
同文でも共通ルールに含まれない部分は異語で意味は異なるのです。
例
『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝
「[身冉]牟羅國」は済州島です。俀國伝では「[身冉]羅國」と書かれています。又「耽羅國」とも表記されます。
現代語に訳すと、済州島は東西の長さは千餘里で南北の長さは数百里の意味です。
927 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 15:40:03
>>922 全然異質ではありません。海岸線も机の幅も、最初から決まった長さが存在するものです。
>>926 では問題になるのは、共通ルール、ですね。
交易ネットワークが広がる範囲は同じステージであり、
商売するためには、共通ルール、が必要だった。
漢字による意思疎通をはかるには、
そこに内在する、共通ルール、に従う必要がある。
というように考えられます。
929 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 16:47:24
>>927 >全然異質ではありません。海岸線も机の幅も、最初から決まった長さが存在するものです。
「尺」は身の回りの物の大きさを表す単位。基準長さは腕の長さ。
「歩」は土地の大きさを表す単位。基準長さは足の長さ。
しかし、尺≒歩かつ尺>歩となっています。
>>926 の発音補足
[身冉]牟羅國:[tammura]
[身冉]羅國:[tamra]
耽羅國:[tanra]
>>929 >「尺」は身の回りの物の大きさを表す単位。基準長さは腕の長さ。
「歩」は土地の大きさを表す単位。基準長さは足の長さ。
土地の大きさと身の回りの大きさが、同じ基準で比較されないと
歪んだ世界が出来上がりますよ
海岸の長さを知るには、身の回りの机を海岸にもって行き
海岸線の長さは、机何個分の長さであるとするのが真っ当な世界です。
だから
>尺≒歩かつ尺>歩となっています。
こういう世界はあり得ない世界なんです。
机を海岸にもっていくと、海岸線や机が歪んで異次元の世界に入ってしまうのですか?
>>926 同じ書の中で、違う文字にて同じ地域を表すことはありません。
文字が違えば対象地域も違う。
932 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 17:48:49
>>903 >「晋書」の「張華列伝」には、幽州から馬韓まで四千里とある。
幽州は三国志時代は以下の郡が属していたらしい。
楽浪郡も幽州なので幽州から馬韓まで四千里というのは短里で説明できる。
「涿郡 / 広陽郡 / (燕国) / 代郡 / 上谷郡 / 漁陽郡 /
右北平郡 / 遼西郡 / 遼東郡 / 玄菟郡 / 楽浪郡 / 遼東属国」
933 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 18:55:17
>>932 幽州を分割して平州を置いたのが、晋書の本紀では泰始十年二月(274年)、地理志では咸寧二年(276年)。
一方、張華が幽州諸軍事になったのは太康三年(282年)。
幽州が分割されて6年から8年たっている。
張華伝の話のとき、すでに幽州には楽浪郡などは属していない。
>>907 で、九州内での二世紀頃の戦乱の痕跡は?
淡路島の垣内遺跡や高地性集落に匹敵するものが
この年代にはあるの?
935 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 20:38:14
>>933 平州というのは、咸寧二年(276年)に新設された「県」
だそうですよ。州ではありません。
ご存知のように県は郡よりも小さく、郡は州より小さいです。
>張華伝の話のとき、すでに幽州には楽浪郡などは属していない
のはどこからわかるのですか?
936 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 20:45:10
>>935 ちょっと、忙しいので、とりあえず貼っときます。
8. /新校本晉書/志/卷十四 志第四/地理上/平州
- 426 -
平州.案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡.後漢末,公孫度自號平州牧.
- 427 -
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉.魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州.
及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平.咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州.統縣二十六,?一萬八千一百.[二六]
937 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 20:45:48
>>935 失礼しました。このレスはスルーしてください。
間違えました。
938 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 21:24:30
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
939 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 21:36:18
後漢書西域伝「自敦煌西出玉門、陽關,涉鄯善,北通伊吾千餘里」 地図でみると敦煌から西の玉門、陽關までは70キロ位です。 これは短里で表されています。
>>939 ?善(楼蘭)、伊吾(アラトゥルク?)を無視するのは何故?
941 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 22:13:52
>>939 敦煌から西に向かって玉門・陽関を出て、鄯善を渉り、北に向いて伊吾まで千餘里。
千餘里は、玉門・陽関までの距離ではなくて、鄯善を経由して伊吾まで行く距離だ。
短里だと、とても伊吾まで行きつけないから、これは短里ではない記述。
942 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 22:16:30
>>934 戦乱の痕跡とはどうゆう意味かな? 各所に環濠集落があったことは分かってるんだろうし。
それに、淡路島の垣内遺跡や高地性集落はけして戦乱の痕跡ではないよね。
垣内遺跡が古墳時代に続いていないのは、垣内遺跡を利用していた勢力が消滅したという意
味かな? 近畿勢力が敗れた痕跡と言えるかも知れないが・・・
>>942 戦いの痕跡がないのは攻め込んで勝ったからじゃね?
>>932 まあねえ、幽州のどこからなんだろうねえ?
馬韓から短里で四千里の地点からなのか、
幽州刺史のいた北京なのか?
945 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 22:49:49
まあ、部族を服属させるためには、頭を倒してしまいさえすればよい、という ような描写もいくつか記紀の説話にはあるし、戦いと言っても、毎回毎回 全面戦争をやっていたわけではあるまい。
946 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:08:28
>>944 これ、幽州から馬韓まで四千余里という話じゃないです。
東夷馬韓、新彌諸國依山帶海,去州四千餘里,?世未附者二十餘國,並遣使朝獻.
於是遠夷賓服,四境無虞,頻?豐稔,士馬強盛.
馬韓や新彌などの東夷の諸国を漠然と指して、
幽州から四千余里も離れていて遠くて、昔から中国になつかない国が二十余国あった。
それが張華が幽州に着任すると、そういう国も朝獻するようになり、平和で栄えた。
張華は凄いぜと、そういう話だから、
短里で四千余里程度じゃあ、近すぎてかえって辻褄が合わないんじゃないか。
947 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:14:34
>>942 の続き
倭国の乱のことは倭人伝を見ればはっきりしてるよな。北九州の国は女王国に
統属していた。女王国は北九州に一大率を置き、諸国を検察させていた。諸国
はその一大率を畏れ憚っていた。
となれば、倭国の乱で敗れたのは北九州の国々であることは明白だ。そして、
女王国はその南にあった。瀬戸内海なんぞ出てくる余地はないね。九州大陸の
中でことはすんでるんだ。3世紀後半に日向に九州最大の王がいたということ
は考古学者も認めざるを得ない状況に至っている。そして、その日向は古墳時
代を通じて繁栄を続けており、衰退した気配がない。日向=女王国ならばすっ
きりだろう。それが文献及び考古資料の示すところだ。
>>3 のとおり、生産力では北高南低なんだけど
日向に戸数最大の大国があったとは地政学的データと合いませんな
949 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:28:32
>>948 >地政学的データと合いませんな
地政学的データって便利な言葉だね。だが、そのデータとの関係では、日向の
古墳群をどのように説明できるのかな? 日向に3世紀後半、当時としては九
州最大級の古墳が造られていることは考古学的に認められている。地政学的デ
ータからみてその古墳はまぼろしだとか?
が造られている
950 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:29:58
>>949 3世紀における九州最大の古墳とはどれのこと?
何十メーター級なんですかw
952 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:40:09
>>951 生目古墳群に130〜140クラスがあったと思うけど。
953 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 23:45:09
>>931 >同じ書の中で、違う文字にて同じ地域を表すことはありません。
>文字が違えば対象地域も違う。
同一史書(隋書)では発音が同じで、俀國伝では「牟」の字が脱落しているだけ。
耽羅國は、別の史書の発音がほぼ同じものを別表記。
>>952 生目1号墳ですね。
墳型が箸墓タイプなので前期古墳ではないかと言われてるらしいですから。
それが「3世紀後半」と言うことなんですね?
955 :
日本@名無史さん :2009/10/04(日) 23:56:12
>>941 玉門、陽關,で切れているのではないです。だったら、鄯善で切れてもいいはず。
全文「自敦煌西出玉門、陽關,鄯善,北通伊吾千餘里,
自伊吾北通車師前部高昌壁千二百里,自高昌壁北通後部金滿城五百里。」
後漢書西域伝「安息國居和櫝城,去洛陽二萬五千里。北與康居接,南與烏弋山離接。地方數千里」
二万五千里といったら、長里で10500キロになってしまいます。
「玉門・陽關より南道に出て、鄯善を経て、南に烏弋山離まで行き、南道はここで終わる」となる。 ...」
より烏弋山離は安息国の近く。ということは安息国の近くは玉門・陽關で敦煌に近い。
洛陽から短里で2万5千里は約1750キロなので、ほぼ一致する。
956 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:06:18
>>954 生目には1号墳、3号墳、22号墳と大きいのがあるそうですね。一号だけでは
ないのでは。
>>955 安息って、イランのホラサーン地方のことだよ。
直線距離でも5000キロくらい、経路2万5千里は無いと思うが、さほど誇大では無いと思うが。
>>956 1号が一番古いと言われてんでしょう。
墳型以外に特段の根拠があるわけではないけど。
他は3世紀(末ごろとか)の範疇に入るのかな?
959 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:15:32
>>957 イランはでたらめ。検索するとよく書かれているけど。
安息国は南に烏弋山離に接していて、玉門・陽關より南道に出て、鄯善を経て、南に烏弋山離が
あるのだから、玉門・陽關のほぼ近くで、敦煌にも近い。
短里で洛陽から敦厚までほぼ2万500里(1750キロ)位になる。
>949 “当時としては九州最大級の古墳”があったとして それが人口や戸数の裏づけになるか? 延べ人数=建設参加人数×日数 なんだから長い年月を掛ければ小国でも大型は造れる それが多数あるなら別だが、違うだろ そういうのは地政学的データとは違う 生産力では、弥生時代<<平安中期 と見るのが妥当だろ? だから延喜式のデータはシーリングになるという事だ 「弥生時代の人口は延喜式を超えない」が地政学から見た妥当な見解
>>959 じゃ、烏弋山離ってどこよ?
通説ではペルシャのアレキサンドリアだよ。
962 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:28:09
>>926 >「[身冉]牟羅國」は済州島です。?國伝では「[身冉]羅國」と書かれています。又「耽羅國」とも表記されます。
孔子の編集と伝えられる「春秋左氏傳」に下記の記述があります。
「隱公四年(紀元前719年)、春王の二月、呂(草冠に呂)人《きよひと》、杞を伐ち、牟婁《ぼうろう》を取る。」
ここは、現在の地名でいえば江蘇省徐州市付近です。緯度でいえば、山口県や奈良県と同緯度です。
ここを追われた牟婁(むろ)の人々は、朝鮮半島の任那に逃げてきました。ところが、「継体記」には
「百濟遣使 表請任那上多利(いずれも口編) 下多利 娑陀 牟婁四縣 大伴大連金村輕依表請 許賜所求」
とあり、大伴金村によって百済に割譲されてしまった。
この牟婁国が牟羅國だとすれば、済州島ではなく全羅南道の順天付近です。
963 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:34:47
>>961 安息国の南に接している。
烏弋山離は敦煌の近くの陽関、玉門関の南にある。
西域刻は南北に千里しかなく東西に8千里くらい。
だから南の限界は割合近い。遠くても50キロくらい。
南はチーリエン山脈があるから。
だから敦煌にさほど遠くないと見て、短里で2万5千里で一致。
964 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:51:04
>>960 >「弥生時代の人口は延喜式を超えない」が地政学から見た妥当な見解
とんでもないこじつけだな。何百年もあとの資料で3世紀の人口が分かるとでも?
それに、3世紀当時、南九州に邪馬台国があったとすれば、延喜式の時代までに大
和へ遷都したか邪馬台国は消滅したか、とくかく国の中心は遷ったということだろ。
南九州は放棄された土地といってよいだ。放棄後の資料で、邪馬台国に中心があった
ときのことを論じるのは無意味だね。
放棄したあとの資料をみてあれこれいうのは無意味だね。
965 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 00:54:36
>>964 の訂正
下から3行目 邪馬台国→南九州
最後の1行 削除
>>963 さすがにデタラメだろ。
安息はアルサケス朝(パルティア)の音写。
ローマ帝国とやりあった国だぞ。
>>963 >(烏弋山離は)安息国の南に接している。
>烏弋山離は敦煌の近くの陽関、玉門関の南にある。
おーい、烏弋山離はどっちの南にあるんだよw
>西域刻は南北に千里しかなく東西に8千里くらい。
意味ワカンネw
後漢書西域伝には、玉門、安息を歴て大秦(ローマ)に臨む海岸まで4万里とも書いてある。
短里だと何キロかなw
しかし、班超の功績もずいぶん貶められたものだな。
969 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 02:02:41
>>967 横からだが、
>>963 が言ってるのが、ひどい勘違いなのか、わざと西域南道が西行することを認めたくないのかは解らんけど、
多分、こういうことだろう。
漢書 「自玉門?陽關出南道,??善而南行,至烏弋山離,南道極矣.」
>>963 は、この文を読んで、?善から真南に行って山脈にぶつかって止まると言ってるんだ。
西域は、東西に長く、南北は狭いから、真南に進めば、玉門関からそれほど遠くへは行けないと。
?善から西域北道ではなく西域南道を選ぶから南行と書いてあるのにね。
西域南道が真南向いて、山脈にぶつかって、そこで終わるわけないのに。
すみません。化けてたから、もう一度。
漢書 「自玉門陽關出南道,歴鄯善而南行,至烏弋山離,南道極矣.」
>>963 は、この文を読んで、鄯善から真南に行って山脈にぶつかって止まると言ってるんだ。
西域は、東西に長く、南北は狭いから、真南に進めば、玉門関からそれほど遠くへは行けないと。
鄯善から西域北道ではなく西域南道を選ぶから南行と書いてあるのにね。
西域南道が真南向いて、山脈にぶつかって、そこで終わるわけないのに。
971 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 12:23:44
>>920 >>769 >これを読んで解ることは、河を直角的に横断したのではないということ。
>400〜500mの川幅を渡るのに、真ん中まで来たところで帆を挙げるのはおかしい。
>また、強風の中、帆を挙げて船は矢のように進むと書いてある。
>魏軍まであと200mとすると、そこから将校に説明して降伏すると兵に叫ばせる暇はないだろう。
>つまり、陣を出発して、河の真ん中まで出たところで帆を挙げて、
>河沿いに上流の魏軍の陣まで移動している。
>そして、魏軍の陣まで二里餘りの地点で一斉に船に火を付けたということ。
>だから、この例は、古田さんの言うような短里の証拠にはならない。
>840参照
補足します
北岸去る2里余なので、斜め(東南)からみてではなく、北岸まで実距離で2里余の所と考えます。
東南のすごい強風のため川中までゆっくりと進み、『降伏する』と叫ばせたのは、大船につないでいた
無人の船の準備が必要であったと考えます。その船が目標から外れる心配の なくなった所が北岸より2里の
所だったのではないでしょうか。そして無人の船の帆をあげ火つけて一気につっこませたのです
972 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 12:38:53
>>971 >>842 で書いたように、そこは、中華書局の標點本は、「北岸」ではなく「北軍」になっています。
「北軍を去ること二里餘り」です。
「北岸」ならば、あなたの仰るように、南から接近したのだろうと推測できますが、
「北軍を去ること二里余」を、直角に河を渡る様に解釈しなければならない必然性がありません。
だから、前記の矛盾を帳消しにする説得力はありません。
自陣を出て、河の真ん中の航行しやすい所まで来て帆を立てて、
それから矢のように進み、魏軍の陣地まで二里餘りのところで一斉に船に火を付けたということです。
973 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 12:57:40
河幅400〜500mなんでしょう。 河の真ん中から北岸まで200〜250mですよ。 南から河の真ん中、岸から250mまで来てから、 まず帆を挙げて、それから諸校に説明して、兵士に降伏すると叫ばせて、 ようやく北軍から二里餘の所(のこり150m程度)に到達するんですよ。 原文には、往船如箭とありますよ。矢のように速かったと。 これだけのことをやって、船が100mしか進んでいないっておかしくないですか。 岸まで250mの地点から、150mの地点までのあいだに、 帆を挙げて、諸校に説明して、兵士に降伏と叫ばせるって、無理ですよ。 もう、そんなことしてる間に岸に着いてしまいます。 ウサイン・ボルトは200mを19秒19で走ります。 中江舉帆,蓋舉火白諸校,使?兵齊聲大叫曰:「降焉!」操軍人皆出營立觀. 去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,往船如箭,飛埃?爛,燒盡北船,延及岸邊營柴.
974 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 12:59:23
>>972 >自陣を出て、河の真ん中の航行しやすい所まで来て帆を立てて、
>それから矢のように進み、魏軍の陣地まで二里餘りのところで一斉に船に火を付けたということです
敵陣まで長里で900m位のところで『降伏する』と叫ばせ、火をつけるというわけですかね。
まあ、追い風だから聞こえるかもしれませんけど、確実かどうか疑問ですね。
975 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 13:17:14
>>973 >これだけのことをやって、船が100mしか進んでいないっておかしくないですか。
>岸まで250mの地点から、150mの地点までのあいだに、
>帆を挙げて、諸校に説明して、兵士に降伏と叫ばせるって、無理ですよ。
>もう、そんなことしてる間に岸に着いてしまいます。
川中までは帆をあげずにすすみます。
最初からの作戦なので諸校への説明は不要です。大船に突っ込ませるための船をつないで
きたので準備が必要。>971参照
976 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 13:31:43
>>879 >例えば、魏志夏候淵伝では、祁山で敵に囲まれギョウの曹操との連絡「反復四千里」です。
>又、魏志夫余伝、玄菟を去る千里…
>通説というか普通は、祁山は天水、ギョウは邯鄲、玄菟は瀋陽、夫余は農安でしょう。
>とりあえず、2例ですが、短里は公里てはありません。したがって、高峻二十餘里も短里ではなく、通常里であり、換算値から道のりと判断する以外に無いでしょう。
姜叙に援軍を求められた夏侯淵はどこにいたんですかね?
まあ、そんなに遠くない所にいたんでしょうけどね。
これは確かに短里では届きませんね。
>>975 まず、北岸ではなく北軍であることを、どう考えているのでしょう。
それから、
>最初からの作戦なので諸校への説明は不要です。
あながた不要と言っても、中江舉帆,蓋舉火白諸校,と書いてるんだから。
どうも、原文を読まずに、想像だけで済ませているようですね。
978 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 13:59:06
>>970 シルクロードの道知らないの?
西域南道。東西に走っているでしょ。南に走っているわけではない。
西域の北道もあるから、南道なの。
だから南に行くとチーリエン山脈にぶつかる手前が烏弋山離が極だよと。
西域が南北千里ってのは南は山脈、北はゴビ砂漠とタクラマカン砂漠に
はさまれているから狭い。千里は短里で70キロほど。南北に70キロしかない、
細長い地域。地図を見ればよくわかる。
979 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 14:05:44
ついでに、もうひとつ。 河の中ほどまでゆっくり進むということですが、 ならば、帆を挙げて、矢のように進むようになるまで、助走にどれだけの距離が必要でしょうか。 それから、河幅が500mだったとして真ん中から岸まで250m。 ところで、何万もの軍勢が船を浮かべているわけです。 まさか船が一列縦隊で停泊しているわけもなく、何重にも縦列駐車じゃないけど、縦列停泊してるわけです。 岸から何mくらいまで、魏軍の船が停泊してたでしょうね。 実質、河の真ん中から魏軍まで、250mもないわけです。 そもそも、何万もの軍勢が、400〜500m位の河幅で対岸で停泊してたら、 両軍の間は、何メートルになりますか? そんなんで、悠長に対峙してますか。 そこまでの距離になれば、もう戦闘突入でしょう。 降伏するとかそんな作略やってる暇ないですよ。 いずれにせよ、短里で考えて、両岸で対峙なんて、狭すぎて無理でしょう。
980 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 15:35:28
東夷伝で長里だと明確に言える部分はあるのかな?
私が思うに、東夷伝で里程を典型的に使っている箇所が倭人伝である。 ↓ 狗邪韓國から末廬國までの、距離を特定できる区間での里程から 長里でないことは明らか。 ↓ したがって、論点は短里なのか誇張なのかに絞るべき と愚考しますが、いかが。古くは白鳥庫吉のころより 「5〜6倍の誇張がある」との共通理解は既にありましたし。 短里・長里どちらとも取れるような場所を議論しても不毛かと。
982 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 16:24:00
長里も短里もない。公定の里があるだけ。時代時代の若干の度の変化はあるが 400m以上の1里が急に70mになる訳がない。 勅でもでてたかあ?
983 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 16:31:48
984 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 16:42:19
>>981 誇張説というのは、誇張は気まぐれに行ったはずで一定の比率でおこなったとは言えない、
誇張していない可能性もある、したがって、伊都国から先の千五百里で大和に到達すると
考えるべきだ、なんて主張になるんでしょうね。
短里説や一定の割合で誇張されているという説ならば、倭人伝に書かれている里から実際
の距離が判明するということになりますからね。短里でも一定誇張でも結論に差はでない
ということになります。
ところで、気紛れ誇張説の成立する可能性はあるかとなれば、これは到底可能性はあり
ませんね。誇張というのは、端的にいえば嘘。ですから、誇張する場合には、誰だって
それがばれないようにと考えます。ところが、朝鮮半島は魏の軍隊が公氏と戦ったとこ
ろ、郡がおかれて魏の人々に実情が良く分かっている地域です。そんな所で、韓の大き
さを誇張したり、倭国までの距離、対馬、壱岐の大きさなどを誇張したりするはずがあ
りません。すぐ嘘がばれる所について誇張するバカはいませんね。
やるとすれば、魏人の知らない倭国内部の距離を誇張するはずですね。
985 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 16:54:50
>>984 軍隊の数なんて、誇張しまくりで平気で嘘つく。ばれないようになんて気にしない。
真面目な日本人の感覚で大陸の人間のやることを測ってはいけないと思うよ。
986 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 17:12:46
>>977 >中江舉帆,蓋舉火白諸校
これは行為の説明でしょ。出発まえに『降伏だ』とさけぶのを合図としてこの行為を行うと
きめておけばすむ話ですね。
987 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 17:30:01
>>986 告白の白だね。告げるの意味です。合図と解釈して良いのでしょうか。
どちらにせよ、黄蓋から諸校、諸校から兵士という意思伝達の段階があるわけです。
それで、北岸としているテキストはあるのですか。
それから、わずか400〜500mの河幅で、数万あるいは数十万の水軍が、
南北の岸で布陣して戦いもしないということは、どう考えているのですか。
どれほどの船が動員されたのか知りませんが、
(大軍だという説から、案外ショボかったというのまであって、定説がないようです)
400〜500mだったら、河の真ん中を広がって下ったのじゃないですかね。
988 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 17:40:37
>>985 真面目じゃないから、誇張だなんて疑うんだよ。
自分が不真面目だから、他人も不真面目だと思うわけ。
だから誇張だなどと言う人は不真面目な人。
989 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 17:41:41
>>978 至烏弋山離,南道極矣.
烏弋山離までいって、南道が行き止まりになる。
という意味だ。
西に向かって続く南道が、南の山脈の手前で極まるなんてない。
玉門関・陽関から南向きに山脈まで進むと烏弋山離があると勘違いしてるだろう。
990 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 17:56:50
>>989 わからない人ですね。そういうことを言っているのじゃない。
>西に向かって続く南道が、南の山脈の手前で極まるなんてない
↑のことは誰でもわかります。地図を見れば。
でも○善から南に行くと書いてあるでしょ。
烏弋山離は国の名。
南道の極だから敦煌の辺りの西域北道と西域南道の交わる付近だよ、多分。
その西域南道、北道辺りを長里で洛陽から2万5千里だったら、キロに直すと幾つになると思う?
一万五百キロだ。長里じゃ考えられない。
991 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 18:23:33
>>973 >そもそも、何万もの軍勢が、400〜500m位の河幅で対岸で停泊してたら、
>両軍の間は、何メートルになりますか?
劉表から接収した水軍は蒙衝・闘艦は千単位とあるので2000隻、その他もあるでしょうから
3000〜4000隻くらいあったんでしょうね。
周瑜のほうは戦力比から考えて1000隻くらいですかね。もっと少ないかも・・・
992 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 18:33:24
>>987 >南北の岸で布陣して戦いもしないということは、どう考えているのですか。
数の少ない呉からまともに攻めるのはまずないですよね。奇襲しかないですね。
魏がすぐ攻めなかったのは水軍の戦いになれてないせいでしょう。通説のとおりだと思います。
993 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 19:45:37
>>990 ああ、あのサイトの情報全部信じ込んでるんだな。
俺は高校の世界史で安息を覚えた口だから、貴方の意見には賛同しかねるが。
>>978 本当に地図見てるのか?
たとえば、ゴビ砂漠は敦煌よりもかなり東だぞ。
西域南道と北道はタクラマカン砂漠を挟んで、最大で500kmぐらいは離れている。
995 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 20:50:06
>>990 自玉門?陽關出西域有兩道.從?善傍南山北,波河西行至莎車,為南道;[一]南道西踰葱嶺則出大月氏?安息.
パミール高原の葱嶺を西に越えてある安息国。安息国と接している烏弋山離。
それが、なんで玉門・陽関のほぼ近くになるの?おかしいでしょ。
>>994 あのサイトって何?そんな変なことを書いてるサイトがあるの?
996 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 21:04:01
>>991 船のことは何も知らないから、間違ってたら指摘してください。
遣唐使船は幅7〜9m、全長30mだったそうです。
魏軍の船のサイズは全くわからないけど、遣唐使船より小さいとして、
仮に幅5m、全長10mとしてみましょう。
(映画なんかのイメージでは楼船で、遣唐使船より大きい感じなんですが)
一列に10隻ならべば、50m。相互に5m間を空ければ100m近く。
991さんのいうように3000隻あったとすれば、300列。全長10m×300=3km。
船の間を空ければ、もっと長くなる。
幅100m、長さ3km以上の船団になりますね。
呉軍1000隻だったとして同様に考えれば、幅100m、長さ1kmの船団。
これが、河の両岸に陣取っていれば、400〜500mの河の半分は船団で埋まって、
残り、あと200〜300mしかないですよ。
敵がこんなに近くにいて、飯食ったり寝たりするでしょうか。
これで、河の真ん中まで行って帆を挙げて云々やるなんて無理でしょう。
997 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 21:04:04
>>994 なんの話かさっぱり。あのサイトって。
私は人の考えの受け売りなど今まで一度もしたことない。
>西域南道と北道はタクラマカン砂漠を挟んで、最大で500kmぐらいは離れている。
↑じゃない。
最大800キロだよ。それじゃ、向こうの山は見えない。砂漠の地平線だ。
そこじゃなくもう少し東。敦煌の辺り。狭いでしょ、南北が。
999 :
日本@名無史さん :2009/10/05(月) 21:27:31
>>995 ○善の南が烏弋山離。
なんでパミール高原まで行っちゃうの。
○善は敦煌からそんなに離れていない。
○善のところから西国にいく両道があるって書いてある。
ということはタクラマカン砂漠の東だよ。
「小安息国」が安西市だと思うけど。
安息国は楼蘭のあたりだよ。
後漢書をよく読むこと。
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