♪邪馬台国 ドンと来い♪ 42

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1日本@名無史さん

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  ─(○)─    ドンと来い!
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     ||

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 41
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1238683765/l50
2日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:35:38
邪馬台国は西都原!
3日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:35:47
          γ⌒)
           |.|"´    20年後の世界では畿内説が定説のはず!
           |.|  ./⌒ヽ____¶___
           |.| /(`ω´ )    ¶//|  /|
           U_⊆__⊆_ )_   / ̄|///
          /┌────┐|. /'`) //
       /( / ≡≡≡ .//(__///
       |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |/


        ( `ω´ ) 何故か存在しなかった
     ≡  ( っ∩っ∩
   ≡  (ニ二二二ニ)
4日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:52:47
>>1
乙彼酸。
>>3
日本の古代史が正常化するのは20年後か。
5日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:22:09
>>3
>20年後の世界では畿内説が定説のはず!
>何故か存在しなかった

確かにその可能性はある。
畿内にあるのが当たり前で「畿内説」というものが無くなるとw

平城京畿内説や平安京畿内説が無いのと同じ道理だなwww
6日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:22:57
加羅の中核を成したのは隼人族
で、帯方郡の管理貿易を逃れるために隼人(加羅)と倭族(奴国を中心とする九州北部)が共謀して密貿易

公孫氏滅亡によりアホの卑弥呼が魏の使節を迎えいれてしまい、西キ原で偽装する結果となった

おそらく魏の使者も丸め込まれる
で、デタラメの報告書が献上される

そのデタラメ報告書を元に日本が論争

これが真相だろ
7日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:25:50
倭国伝の行程通りの倭国
http://imepita.jp/20090428/728750

倭国伝の行程と戸数は5倍も誇張されている。
報告側か受取側かどちらの仕業にせよ、理由は想像できるだろう。
この報告を受けて卑弥呼は大月国王と同格の処遇を得たのだ。
8日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:28:01
目的は二つあった
隼人が元々日本にも居住していた部族
それが魏の使者に発覚するのを防ぐこと
更には畿内中央政権に発覚することを防ぐこと
9日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:31:13
隼人と熊襲は同一
熊襲は日本に居残った人たち
隼人は半島に移住した人たち

これで全て解決
10日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:52:23
畿内説ってお花畑だな

将来的には騎馬民族征服王朝説と同じ扱いになるだろ
11日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:55:17
>>1乙。ぬこのぼりだニャ〜。ww
12日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:18:07
前スレの最後あたり「連合」をめぐっての議論は良かったと思うよ
立場はそれぞれあるんだろうけど、このスレで珍しく歴史というものを考えさせてくれた
もっと続けたらどう?
13日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:38:17
なぜ、統一の方向に向かうんだろう?
環濠集落を単位として、分散割拠していた方が自由で平和じゃん
なぜ日本は統一されて行ったか
14日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:42:49
つうか連合体の否定は邪馬台国のみ話に留まらず
その後の日本の歴史全般に関わってくる事で
もう行き着く先は「九州王朝説」にならざるを得ないw

緩やかな連合体と言うモデルを否定するのなら
奈良盆地の南東部に発生したヤマト王権は徐々に武力を蓄えて
ジリジリとその版図を広げていった…ということなんだろうか?

少なくとも俺はそう言う視点で書かれた歴史の本なんて読んだ事は無いw

それは多くの一般の日本人も同じだろうと思うwww





15日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:07:28
>>14
きわめておおざっぱだが、四世紀とも比定される景行天皇の九州巡幸やら、倭建の東征、
西征の記述から、連合に属さない地域や連合内での大和との親和関係などがある程度
読み取れるような気がするね。
16日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:24:40
>>15  それは逆では?

もともと王権の支配地域であったのに、派遣した王族が現地に土着して
中央の言うことを聞かなくなったから、てこ入れをしたと考えるほうが
普通だわな。

地方に独立性のある政権があるならば、中央とではなく、まず隣接地域と
小競り合いをする。
そうではなく、中央と地方の個別の地域が対立するってのは、
現地統治官がいうことを聞かなくなったってことだわな。
17日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:31:18
>>16
早い話が反乱平定みたいなもんか?

その理屈からすると景行の時代には
ヤマトからその地方を統治する人間を送り込む
支配体制が既に出来上がっていたと言う事かな?w
18日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:34:15
そうかなあ。それだとゆるやかな連合でなくて、最初から集権的な連合ってことになるんでは?
四道将軍の北陸、東海、西道、丹波。倭建の熊襲、出雲、相模、上総なんか、かなり示唆的
だと思えるんだが。
19日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:40:33
ヤマト王権がゆるやかな首長連合からスタートしたと言うのは
もはや国民的常識だと思うがw

もう一つこの板の九州説の連中が学習しない事がある…
それはヤマト王権の変質。
ゆるやかな首長連合からスタートして河内朝特に言えば雄略の時代に
より軍事的中央集権的な体質に変わる。

この間のNHKの番組でも河内から出土した鉄製武具の説明の時に
その内容に触れていたと思うが…

これももはや国民的常識だと思うのだが
何故かこの板の九州説は3世紀の三輪に後の7・8世紀頃の大和王朝を平気で重ねる。

連中にとって王権の発生・発展はそれこそ昔の皇国史観で
強力な権力を持った王の下あたりを武力で平定しながら発展する物で無ければならないのだろうか?

まあ九州王朝説が九州版皇国史観と言われるのと同じ原理なのかな?www




20日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:42:34
>>17  そうだよ。
記紀を普通に読めば、大国主の国譲りで本州が関東あたりまで
九州の王権の支配下に入った。

ニニギなどの統治官を支配地域に統治官を派遣した。
ヤマトに天下りしようとした神武に対して、先に天下った王族が抵抗した。

このように統治官として派遣された王族は当初は、王権の後ろ盾で統治していたのが
後には土着化して自立を始めるので、定期的にてこ入れが必要だった。

大彦らの四道将軍やヤマトタケルは巡回しててこ入れしたということで、
天皇の子息を国造として配置するのは、統治官の入れ替えによるてこ入れだろう。
王族の土着化と軍の派遣、統治官の入れ替えの繰り返しだな。
2118:2009/04/28(火) 23:48:08
>>19
しかし、4世紀末には半島に出兵できるまでの力を蓄えてたのは事実だろう。九州王朝とか
なら説明はたやすいだろうが、ま、それはない。俺は雄略以前にも朝廷はかなりの力を持って
たと思うんだが。
22日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:53:17
>>20

ああ今度は東遷説なのかな?w
2318:2009/04/28(火) 23:58:58
間に17氏のレスが入って、ちょっと意味不明になったが、さすがに倭人伝の30国に関東を
含めるのは俺的にはムリな気がする。ただ、倭王武の上表文に >昔から祖彌躬ら甲冑を環き
とあるように4世紀中にはある程度の版図をまとめきった気がする。
2418:2009/04/28(火) 23:59:53
17氏→20氏
25日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:02:07
しかし連合体を否定したと思えば

今度は3世紀ごろに中央集権的な国家がいきなりドン!かよw



26日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:10:08
倭国王帥升の時代に九州に王権があったことは優に確認できる。
王権というのは、王族による支配地域拡大を志向する政治体制なんだよね。
実際にも九州の王権が拡大して行ったということだろう。
2718:2009/04/29(水) 00:14:15
>>26
畿内説でも別に、帥升は九州の王でおk。で、九州の王権はどの時代に、どこまで拡大
したのかな?
28日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:28:18
例えば吉備には大きさで全国の中で五指に入る物がある
下手すりゃ築造時は国内最大だったかも…ってレベルのものだ。

他にも畿内の大和王家のものに匹敵するような古墳が各地にある。

中央集権的な国家で王と臣下の区別がきっちりなされていれば
如何にもルーズすぎるw

まあ>>20(いつもの東遷説かな?)あたりだとそれは地方に派遣された王族の墓だから
と言うだろうが普通なら王族の血を引いていようが臣下は臣下w

やがてヤマト王権の変質に伴い地方での大型古墳は終焉し
その後畿内で王権を誇示していた古墳も終焉する。

中央集権国家であったというにはあまりに地方に力を持たせすぎwww




2918:2009/04/29(水) 00:30:26
しかし20の
>記紀を普通に読めば、大国主の国譲りで本州が関東あたりまで九州の王権の支配下に
入った

は、日本中の文系の学者にアンケートをとってみたいね。記紀が普通にそう読めるのか。
30日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:35:56
そもそも神話のオオクニヌシの国譲りをそのまま史実として読もうと言う事自体”普通”じゃあねえだろw
31日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:36:54
>>27
横レスだが、
帥升の勢力圏は、九州の北半分というところだろうな。
これを卑弥呼はそのまま引き継ぐ。
巫女的な女王は、攻撃的な性格を持たない。保守的というか、現状の円満な
維持という感じだろう。

倭人伝の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
あるいは後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
の記述から、九州以外は含まないだろう。

邪馬台国時代の倭国の範囲も同じだろう。
32日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:47:36
>>26
>倭国王帥升の時代に九州に王権があったことは優に確認できる
確認できねーよ

委奴国=出雲

国譲り

倭面土=ヤマト
倭国王帥升=タカムスヒ
33日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:47:56
>>31
九州の半分を”面”としてコントロールするのと
西日本を東西に”線”としてコントロールするのと
どちらが難しいかだなw

少なくとも前者が後者より格段に容易だとはとてもじゃないが思えないwww
34日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:52:12
>>30
出雲の国譲りの話の実態は、明らかに征服戦争。

東遷説の立場では、これは卑弥呼以後のことになる。天照大神=卑弥呼と
言うわけだから。(+台与でもあるが。)

そのような考え方をすると、卑弥呼以降に出雲征服がある。
瓊瓊杵尊の日向降臨がある。
饒速日命の大和降臨もある。

記紀から推定されるのは、上の三つに過ぎないが、他にもいろんな地域に
移動、あるいは攻撃があったと思われる。年代は3世紀後半。

これは、三国史記の新羅本記から読み取れる。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。

つまり、恐らく九州北部を基点に、全方位的に派兵が行われている。
神武東征のような出来事も当然、想定できる。
3518:2009/04/29(水) 00:54:30
>>31
なるほど、倭人伝の30国が九州島内ということすか?まあ、説としては十分成立すると思
いますが、出雲やマキ向を作った勢力との関係はどうなりますか?
36日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:03:59
>>28
古墳なんて王権の拡散の証明そのものだろ。

地方の独立した政権が畿内で測量でもやって、見よう見まねで
前方後円墳とか前方後方墳を作ったとでもいうのか?
棺には、九州で始まった鏡崇拝、南海産の貝を模した石細工。

ついでに言うと、巨大古墳に支配下地域の住民を動員することにより、
人民の徴発システム、労働による租税システムの確立という面のほかに、
権力により統制された作業に従事させること自体が、統治の手段である
ということも言える。フーコーのいう権力による監獄だな。
37日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:04:46
>>35
>>34でも書いたが、卑弥呼以降の爆発的な拡大路線の一環だろうと思う。
当然、纏向の建設も西暦300年前後ということになり、畿内説とは異なる。

梁書などにある台与のときの男王あたりから路線が変わったのではないか。
男王になり、かなり攻撃的になったような気がする。

東遷説的には、まあ、私的にはと言ってもいいが、この男王は、日本書紀に
皇祖と書かれている高皇産霊尊ではないかと思う。
3818:2009/04/29(水) 01:19:16
>>37
マキ向が300年以降というのは、一般的な考古学による年代観とはかなり違うようすが?
まあ、俺は大国主や高皇産霊の実在は信じてないんで、これはどっちもどっちということに
なるんすかね??
39日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:45:09
>>36
ん?
何が言いたいのかな?

仮に畿内の王家の墓を作った集団が地方の墓を作ったと言うのなら
そりゃかなり対等に近い地位の証だろうにw

それにもう一つ言っておくが

古墳の副葬品も時代を追って変わっていく。
お前が言った鏡や釧等の呪術的宗教的なものから
大刀や鉄刀、甲冑等の軍事的なものに…

そう言った変質も考慮していないのがこの板の九州説の痛いところだなw

まあ3世紀から中央集権的国家がいきなりドン!なんてのは
リアルの九州説の学者でもそうとっていないだろうよwww
40日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:52:58
>>38
ヨコからだが.・・・
邪馬台国東遷説なら

>マキ向が300年以降

って事にならざるを得ないんだよw

まあ言わなくとも分かっていると思うがwwww
41日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:58:26
>>37
>高皇産霊尊

この人は、倭国王帥升だな。
倭国をまとめ上げて、中国に大使節団を送った大王。

その後の安定期=神代七代が180年ころまで続いて、王位継承争いから
倭国乱がおきて、アマテラス=卑弥呼が登場する。

>>34
出雲は、もともと九州の王族が本州に天下ったものだろう。
国譲りというのは、天下った王族が世襲して土着化して言うことを聞かなくなったから
新たな統治者を派遣したという後の時代にも繰り返されたパターンだな。

三国史記の記述は年代繰上げがある。
42日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:02:35
そもそも4世紀に中央集権的国家ができるのに
3世紀にゆるやかな連合体ができるわけが無いという理屈がわからないwww

要するに「ゆるやか」とかその範囲・大きさに関わらず
連合体なんてものは認めない。

ヤるかヤられるか、服従させるかさせられるか…

…と言う事なんだろうなwww

まあこの論調はいつもの東遷厨だろうが相変わらずだなあw
43日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:10:50
畿内説は魏志倭人伝や記紀の記述と合わないだろ
素直に考えれば畿内に存在したのは原・大和王権でしょう

魏志倭人伝にしか記されていない邪馬台国を
魏志倭人伝の内容を無視するか強引に解釈してまで
畿内に存在したことにする必要はあるのだろうか?
44日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:13:10
神武東征は邪馬台国の卑弥呼の時代より前に行われたと思うよ
そうしないと年代が合わないじゃん
45日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:18:17
自分の脳内だけにある連合体を押し付けていれば
批判されて当然だわな。
46日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:21:27
>>45
残念だが「首長連合」の想定はもはや定説だからwww

正直それを真っ向から否定している学者っているのか?

いたのなら是非教えて欲しい。

ただし九州王朝説以外でwwwwwwwww
47日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:24:52
九州では2世紀初めの百余国が邪馬台国時代には30国になっていた。大変な弱肉強食
の時代だよ。それが九州の中だけで収まっているはずはなかろう。出雲、吉備、近畿も
九州勢力にやられたんだよ。銅鐸勢力は滅亡したんだ。
銅鐸勢力に替わった新勢力が九州ともちがう面をもっているのは、そのころ朝鮮半島か
ら押し出されてきた公孫氏の残党などが加わっているからだろう。
48日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:25:33

                       \v
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          Λ  彡 ノ  (( |ヽ\ ̄  ||  /    <               \/\//_
           |  彡(    〈|〉´    ノノノ    <   栄光あれーーーーっっ!!!  /
           )    し / ̄ ̄ヽ,  ノ (      <                      \
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49日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:28:12
邪馬台国は大和王権に滅ぼされたんだよ
50日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:38:17
>>26
>王権というのは、王族による支配地域拡大を志向する政治体制なんだよね。

いつもの東遷厨だろうが・・・

念のために言っておくが畿内説と言うより日本古代史で常識になっている
「ゆるやかな首長連合」と言うのは何も近代的な平和主義とか理想主義の産物とかじゃねえぞ?

お前は脳内イデオロギー闘争が大好きそうだから「連合」と言う文字そのものに
左翼的な何某かを見て咬みついてんだろ?www

三輪朝の頃は支配体制の強化領土拡張もやりたくてもやれなかっただけ
それが時代が下って5世紀後半ごろから可能になり
ヤマト王権の変質が始まる・・・これももはや定説。

「支配地域拡大を志向」したところでそれができない状況であればどうする?
玉砕覚悟で打って出るんか?w
合従連衡の故事ぐらい知ってるよな?

51日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:45:02

<諸君らが愛してくれたサイキバ君は何故死んだ?


坊やだからさ…

   / ̄ ̄ ̄\_
  /      \
`/        丶
7    /ハi   |
(  /// /人   |
| f ̄ ̄八 ̄ ̄丶  リ
丶丶_// \_ノ  ノ
 )ハ <_  _ノノ /
`幺人 ==- 丶_/\
/ /\__/ / |\
  > />-<  /  |
| ̄ ̄| |_/\/ _|
/⊃_| | | /  \
/二丶| ハ |/   /
 ̄二フ|/  /  /
  厂  /  /
52日本@名無史さん:2009/04/29(水) 04:12:12
>お前は脳内イデオロギー闘争が大好きそうだから「連合」と言う文字そのものに
>左翼的な何某かを見て咬みついてんだろ?www




連合くんが妄想で発狂してる・・・

一体誰と戦ってるんだ
53日本@名無史さん:2009/04/29(水) 06:27:04
合従連衡したのは秦という巨大帝国が現れたから
54日本@名無史さん:2009/04/29(水) 06:34:05
このまま我々が争っていてはやっていけない・・・

そうだ!我々首長の権力を制限して卑弥呼に従おう!

周辺に特に脅威もないのに
こんなことが全国規模で起きるというのが考えにくい
妄想にしか聞こえないんだよ?
55日本@名無史さん:2009/04/29(水) 06:40:09
九州だけの連合であれば吉備や出雲、南九州からの
圧迫を受けてバラバラだった小国同士で連合を組むということもあったかもしれない

しかし全国規模で国力が拮抗する勢力同士が連合するなら
大陸から魏が攻めてくるくらいの危機がないと成立しないだろ
邪馬台国が圧倒的な軍事力で他国を従えているケースなら成立すると思うが
それはありえないんでしょ?
56日本@名無史さん:2009/04/29(水) 07:55:36
連合君wwwはトリつけましょうよ。あぼーんしたい人が多いんだから。
57日本@名無史さん:2009/04/29(水) 09:30:08
連合くんは知識はありそうだけど
他人に説明する力に欠けてるよね。
58日本@名無史さん:2009/04/29(水) 11:08:30
>>50
考古学的資料が全ての歴史を語るわけじゃない
古墳時代の幕開け=大和朝廷開闢というのもあまりに漫画的
基本的にずれてる
59日本@名無史さん:2009/04/29(水) 11:44:25
レンゴウ君とかいうのは九州説から見たらウザイんだろうけど
畿内説から見てもウザイ、邪魔w
コイツが言いたいのは邪馬台国がどこにあったかじゃなくて

「ぼ く は ぜ っ た い た だ し い も ん」これだけwww

こんなのを畿内説といっしょにされたらたまらん
60日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:41:07
「水行10日陸行1月」が、わからない。
こゝまで素直に読んで、これだけ放射状読み・並列読みするのは論外。

「1月」を「1日」の誤りとすれば大和――難波津に船着して大和へは1日で無理。
2日〜3日行程である――大和盆地でなく大和側の葛城山麓であれ橿原であったとしても。

第一、九州北岸から瀬戸内海を難波津まで水行10日もかからない。
好天待ちは1回辺り最大で丸2日、一旦船行きすれば瀬戸内海など1日で相当進める。
九州北岸から瀬戸内海の気象条件では、長時間の風待ちも考えられない。
61日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:48:51
まあ巨大な「外圧」がないのに連合体が形成されたはずが無い
…と言うのは一理あるわな。

その「首長連合」が机上の理論のみなら俺でもそう言うわwww
それにリアルで実しやかにそれが喧伝される状況にもなってないないだろうよw

しかし弥生時代から古墳時代にかけての列島規模の劇的な変化をどうやって説明するのかって話。

奈良盆地の南部に発生した一地方勢力の採用した前方後円墳が全国展開する事
・・・一つをとっても説明がつかない。

ここは一つ俺みたいな素人でもすんなり理解できる「首長連合」に代わるアイデアで
説明してもらえないかな?
(ただし東遷説や九州王朝説の類は無しで)

「首長連合」に代わるモデルの提示もなしに
「ありえなーい」だけを馬鹿みたいに繰り返していても埒があかんよ?w

>>59
>「ぼ く は ぜ っ た い た だ し い も ん」これだけwww

ほう、そんな馬鹿がいるのかwww

この俺でさえそんな事は言わないのになw

あくまで全ては蓋然性の範疇の話であって首長連合の範囲が九州に伸びていたとしても
それでも九州説は成り立つ・・・ぐらいの事は言ってるんだし。

本当ヴぁかだなw
62日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:18:52
と、馬鹿がほざいております。
63日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:53:30
連合くんの人気に嫉妬w
64日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:57:45
共立くんがんばれ!
65日本@名無史さん:2009/04/29(水) 14:08:29

サイキバ君、カンゴウ君、レンゴウ君…もうなにがなんやら

66ローガン:2009/04/29(水) 14:44:09
>>59

> 畿内説から見てもウザイ、邪魔w

そうでしょうか?「緩やかな連合」についての議論の中で、私はWWW氏に特に異論はありません。
67日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:05:42
>>61
そういう新しい大きなことをやるためには、リーダーシップを取る勢力、
ひいては強いリーダーを想定しなくては無理があると言うことだろうな。

戦国時代を見ればわかるが、個々の集団は、自分達の利益しか考えない。
利己的な集団をまとめるには、強くなること、この武将についていけば
損はしない、得をするということでまとまっていく。

古代はちょっと事情が異なるかもしれないが、それぞれの地域の勢力を
動かすのが容易でないことは確かだろう。
だから、有無を言わさぬ戦いに明け暮れるわけだから。
68日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:25:35
なんだか話が空回りしてるな。

強力なリーダーが必要なのかどうか?いたのかどうか?
の前に「そういう新しい大きなこと」と言う現象が現実に起きてしまっている。

ここまでOK?

そしたらそれが如何にレアケースであっても
「首長連合」と言う枠組みを考えざるを得ないと言うのが今の状況。

言っておくが「首長連合」なんて俺のオリジナルじゃないからなwww



69日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:32:53
「首長連合」なんて畿内説の学者が苦し紛れに考え出した虚構。
「首長連合」と言う枠組みを考えないと畿内説が成り立たない。
「首長連合」の存在を示すようなものは何も無い。
70日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:33:36
>>7
が何故スルーされてるんだ?
あやしげな短里など持ち出さなくても畿内説を粉砕できるのに。
見やすくした改訂版↓
http://imepita.jp/20090429/556860
71ローガン:2009/04/29(水) 15:39:04
傘下に入れ!といった強権発動というよりは、「船に乗り遅れるな!」という打算ではないでしょうか?
72日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:51:44
それと勘違いしている奴もいいるかもしれないから
念のために書いておくが…

なにもその首長連合が何も無いところから
「仲良しこよしの共同体」としてスタートしたわけじゃないw

(それが果たして倭人伝言うところの「倭国大乱」かどうかは別にして)
西日本一体に見られる高地性集落から相当な戦乱の時期があったのは容易に伺える

その後に事態収拾のために登場したのが連合体であって
今日の国際政治で言うところのデタント(緊張緩和)と言うところか…


・・・まあはっきり言っちゃえば

 「連合体なんか幻想だ!所詮この世は弱肉強食!
 なに甘っちょろいことイッテンダー!オレサマが現実ってモンを教えてやる!!」

とクレームつけてるだけの中二病患者を相手しているような気がしないでもないwwwwwwww
73日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:52:05
>>68
要するに、畿内説を前提にするから、そういう枠組みにならざるを得ないと
言うことだろうな。
前提そのものを考え直す必要があるかもね。
74日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:52:08
>>69
九州説ってのはいつも(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーいだもんなw
75日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:00:51
>>73
残念。

現象が目の前にある以上単なる「前提」じゃないw

それを「仮説」に過ぎないと言う事はできるだろうが
じゃあそれ以上に上手くその現象を説明できる「仮説」を持ってこなけりゃ話にならない。
(現実問題リアルでそういった説を本で読んだりした記憶は無いし
 そもそも連合体に対し真っ向から意義をとなえている学者なんて俺は知らない)

もうこの板の場合単なる「クレーマー」とか「モンスターなんチャラ」レベルw
76九州王朝大好き:2009/04/29(水) 16:02:55
>>70
方可四千里の韓も5〜6倍にしなければならない。

だからスルーした。
77日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:10:18
帥升は奴隷160人献上してんだよね
2世紀どころか1世紀には相当に他の部族を軍事的行動でもって制圧してる
もちろん半島に進出したから中国の皇帝に謁見を申し出たんだろ
半島に進出するぐらいだから九州の一地方だけを開拓したとも思えない

要するに古墳中心に物事を考えてら説明出来ないんだよ
78日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:17:31
>>75
神武東征というか、それに近いような出来事は想定できないかな?
79hen ch bish :2009/04/29(水) 16:25:05
日本史を知らなくてもいいじゃない
80日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:52:20
>>79
神武東征はなかった

イザナギVSイザナミ

高天原VS出雲

天孫族の覇権確立

ニギハヤヒを大和に派遣
ニニギを南九州に

神武が大和に婿入り
81日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:02:29
>>77
「漢委奴国王」の金印が博多湾岸から出土しているから
1世紀には九州の勢力が畿内にまで達してと考えるのかなWW
82日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:10:28
>>81
それまでには神武東征で畿内は押さえてたんだろうね
別に笑うことでもないだろ
それとも厚葬古墳発掘しないと安心出来ないのか?w
83うましか:2009/04/29(水) 17:27:06
>>77
> 帥升は奴隷160人献上してんだよね
> 2世紀どころか1世紀には相当に他の部族を軍事的行動でもって制圧してる

「帥升」を「九州王」と仮定して話していますが、確かに160人はものすごい数だと思います。
そのころの九州北部は全盛期で、鉄器の一般的消費(農具や耕作具)も始まっています。
三種の神器よろしく各村、各世帯に鉄製利器が普及し、これに伴う可耕地の拡大と人口増加が
繰返されていたころでしょうね。
人口増加(=食料不足)は紛争の要因ですので、貴方が仰るように副産物としての「奴隷」を
大量に確保して献上品とすることも出来たのでしょう。

> もちろん半島に進出したから中国の皇帝に謁見を申し出たんだろ
> 半島に進出するぐらいだから九州の一地方だけを開拓したとも思えない

ちょっとご意見の意味を測りがねますが、この時の朝貢と4世紀以降の事例では、
「半島進出」と言っても、その内容は全く異なりますよね。
帥升のそれは、多分に外交的、経済的なもので、非軍事的、非支配的な行動でしょう。
後世のように甚だしく軍事的なものではありません。これは倭国内に対しても同じことで、
人口増加に伴う移民により進出先で紛争が起こることはあっても、
それは、単位生産集団レベルの問題であって王権レベルのもでは無いでしょう。
1世紀の倭に遠征軍となるような常設軍事組織は存在しません。
社会的剰余の集約は始まっていますが、それは集落(若しくはその集団)レベルのものです。
環濠集落とは守るべきもの(剰余生産物)が、その集落に備蓄されているから必要な形態です。
社会的剰余が、徴税制度等によりさらに国家レベルに集約される次の時代、古墳時代であれば、
その集約された剰余を使用して常備軍のようなものを創設し、長期の遠征、支配地の拡大も可能
だとは思いますが、帥升の時代にはまだ無理があると思います。
人口の東への流出は、人為的なものでは無く、ごく自然な活動として行われていたのでしょう。


>
> 要するに古墳中心に物事を考えてら説明出来ないんだよ
84うましか:2009/04/29(水) 17:30:19
(つづき)

>>77氏へのレスを借りてはいますが、私の言わんとしていうることは、
弥生時代後期以前に「神武東征」(または政治的な「東遷」)は、軍事的にありえないだろうということです。
85日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:36:24
その生口という言葉が微妙で、一体どういう人たちだったのでしょう?
たぶん、きれいどころの若い娘つまり「喜ばせ組」だったのではないかと
推測できます。その生口を160名も連れて行って歌って踊らせ、そのまま王に献上した。
師升米なる人物、相当のスケベジジイ、いや、権力者だったことは間違えありません。
86日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:38:28
>>83
160人の奴隷ですよ
その奴隷がどのような仮定で生じたのか?
貧富の差により余剰労働力が発生し云々間ぬんで160人を海を出て献上しますか?
貴重な労働力を手放しますか?
ではなくて、戦闘により一度に確保した奴隷としか考えられない
87日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:45:23
>>85
なるほど、そういうことだったのですか。
これほどの数の若い娘を宮殿で召し抱えて夜な夜な相瀬を重ねれば、
そんな大王も骨抜き。国力は衰えるというものでしょうね。師升米なる
人物、相当の策略家だったと思います。
88日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:48:51
>>87
いつ寝返るともしれない、強靭な傭兵160人も献上されても
危なくて枕を高くして眠れません。身分は下働きの労働者とて同じことです。
どこの馬の骨ともわからぬ男などいらぬ。どこの大王とて同じです。
8918:2009/04/29(水) 17:54:33
交易ということなら、約5000年前の縄文遺跡、三内丸山でも北海道の黒曜石や越の翡翠
などが出土している。倭人の海上移動能力が弥生以前からたいへんなものであったことは
ほぼ定説になりつつあるが、だからといって青森西征説などを言う人はいない。

帥升の160人の生口は大変な数で、大陸に運ぶためには兵士なども含めて最低でも200
人以上の大船団が必要だっただろう。後代の遣唐使船でもたびたび難破した航路を渡れ
るのだから、波穏やかな瀬戸内海を難波津まで来るのは難しいことではなく、これは逆に
近畿勢力がわたる場合も同じ。弥生時代の舟は銅鐸や土器の絵画から準構造船と見える。

84氏の言うように、高地性集落発生以前の軍事力による東征というのは考えにくい。単なる
人の移動ならいくらでもあっただろうが。また、魏史の時代に東遷があったのなら、なぜそ
れほどの大事件が中国史書に記されていないかは大きな疑問。したがって、俺の説では
軍事的な東遷はなかったことになる。これまで、東遷説であった古代史家にも、奠都(平和
裏に首都だけ移る)に鞍替えする人が出てきている。
90日本@名無史さん:2009/04/29(水) 17:55:34

 師升米=スケベジジイ


 合意ができつつありますね。
91うましか:2009/04/29(水) 17:55:47
>>86

> 貧富の差により余剰労働力が発生し云々間ぬんで160人を海を出て献上しますか?
> 貴重な労働力を手放しますか?
> ではなくて、戦闘により一度に確保した奴隷としか考えられない

書き方が判り難かったですかね。
「師升の160人」について書いた下の文章は、ほぼ貴方の意見に同意してます。

「人口増加(=食料不足)は紛争の要因ですので、貴方が仰るように副産物としての「奴隷」を
 大量に確保して献上品とすることも出来たのでしょう。」

 メインは「紛争の副産物」としての奴隷です。
 自由人が「奴隷」とされるには、戦争捕虜の他にもいろいろな事例はあるかとは思いますが。

 しかし、この紛争は、あくまでも地域内での紛争でしょう。
 水利権や耕作適地の争奪戦などを想定していますが、殖民地開拓のための遠征などが起こるとは
 考えていません。
 移民活動は活発に行われ、移民の定着先で先住者との諍いが生じても、それは移民の出身地とは
 政治的、軍事的に切り離された紛争です。
92日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:06:43
>>90
あの時代のトップなんてみんなスケベジジイだろ
9318:2009/04/29(水) 18:12:27
前スレでも書いたが、ゆるやかな首長連合による卑弥呼の共立については、単に鉄入手
などの地政学的な検討からは解釈できないと考えている。古代の宗教的・呪術的側面の
理解、つまり宗教学や人類学の援用なしには30国の支配層を惑わしたであろう卑弥呼の
鬼道の正体は明らかにすることはできないと思う。
94日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:13:59
>>91
自説が変だとは気づかないのですか?
人口増加は食糧不足をもたらした
その課程で紛争が起き奴隷が発生
そういう紛争が起きる極限とも言える状況で労働力を手放しますか?っていう矛盾ですよ
この一度に160人の奴隷(恐らくは日本を出る前は2,3倍はあったかも知れない)を放出出来る又確保出来たという歴史的事実は、当時において、神武東征を一笑にふすような程のあり得ない話では無いってことですよ
95日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:22:07
昔から結論ありきの説は無理矢理それを成立させるために
頭の中で考え出されたもので組み立てていくよね
それは学者でさえそうなんだからどうしようもない
そういう説はそのうち廃れるけどな
96日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:34:02
大仙古墳(仁徳天皇陵)は延べ100万人以上の労力を要したと推定されている
生口160人というと、10年使えるとして160×10×365=584000人・日
つまり大型前方後円墳くらい築ける力のある王だったという事か、師升は
97日本@名無史さん:2009/04/29(水) 18:37:21
卑弥呼がいくら鬼道にすぐれていたと言っても
実際に何かの能力があったわけじゃない
そんなもので連合ができるとは思えないな
邪馬台国に軍事的優位があったか外圧がなければ考えにくい
9818:2009/04/29(水) 18:38:01
生口については諸説あって、学者の間でも意見がまとまらない現状だが、帥升の160人
が戦争捕虜であることは、十分考えられると思う。ただ、卑弥呼の239年の朝貢では男4人
女6人と極端に数が減少しており、もしかすれば特殊技能者的なものにその性格は変化し
ているのかもしれない。

日本の歴史的には、奴隷制度は律令時代の公奴婢と私奴婢などがあるが、生殺与奪の
権を持つほど強いものではない気がするが、これは仏教伝来以降のことなのかもしれない。
99うましか:2009/04/29(水) 18:46:44
>>94

> 人口増加は食糧不足をもたらした
> その課程で紛争が起き奴隷が発生

大事な「お宝」は献上品にしてはいけないのですか?
普通は、双方にとって価値のあるものを遣り取りすると思いますけど。

> そういう紛争が起きる極限とも言える状況で労働力を手放しますか?っていう矛盾ですよ

それに、食料不足は「労働力」が不足していたからとは書いていませんよ。
不足していたのは、食料、つまり耕作適地です。
土地が不足していれば、逆に労働力は過剰でしょうね。
つまり、時によっては「戦争捕虜」は無駄飯食いのお荷物かもしれません。
そこまで言い切ると、「お荷物」を献上したことになって、皇帝陛下に失礼かと思いますがw

> この一度に160人の奴隷(恐らくは日本を出る前は2,3倍はあったかも知れない)を放出出来る
> 又確保出来たという歴史的事実は、当時において、神武東征を一笑にふすような程のあり得ない話では無いってことですよ

つまり「東征」なるものを想定するのであれば、
それは鉄器の普及により生産性が向上したことによる、人口増加>食料不足>耕作適地の不足を
解決すべく、余剰労働力をもって軍事的植民活動を行ったということなんでしょうが、
環濠集落に代表される防衛的集落を基本構造とする、弥生後期以前の西日本の社会システムで不可能でしょう。
遠隔地への軍事侵略は、半島への外交使節の派遣や近接集落同士のドンパチとはレベルの違う話、と書いたわけです。




10018:2009/04/29(水) 18:50:23
>>97
中国古代殷では、政治と祭祀は同義であり、シャーマンの指示によりすべての決定がなさ
れていた時代もあったと考えられている。甲骨文字の記録によれば、一度の祭祀で600
人以上の生贄を捧げた事例も読み取られている。もちろん殷代(前17世紀〜前11世紀)
と邪馬台国では時代が大きくかけ離れているが、文明度で比較すればそう大きな差はなく
むしろ、文字の有無など、殷代のほうが勝っている事例も多くある。

現代のことに引き比べて自分が理解しやすい論理展開に持っていくのもいいが、それだけで
すべてを説明できるとは思わないほうがいい。
101日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:00:49
さてさてここまで一人の人物の名前として
「師升」と書くやつはいても「師升等」と書いたやつはいないな?

師升”等(ら)”として大勢の中の代表者と言う意味で捉えるのが多分通説と言っていいと思うが
一説には「師升等」で一人の人物名だと言うのがある。

前者の解釈が正しいのならそれはもう「連合体」の証左にはならないかな?

強力な王が中国側にあくまで団体さんの一代表のような書き方をされるような振る舞いをするか?
もうその時点で連合体の祖形ができていたと見て何か矛盾があるだろうか?

ひょっとしたらその連合体は畿内とは言わずとも山陰山陽ぐらいまで届いていたかもしれない。
無論、現時点根拠は無いが九州限定とする必要も無いと思うw

そうすると実質的な広域連合体の最初の王は九州の人物だったと言う事で
それを「九州王朝」と呼ぶのなら俺も乗っていいかもwwwwwwww
102日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:08:15
畿内の前方後円墳は本当に見事ですね
あれにはかなり高度な土木技術と美しい幾何学的模様が描ける数学が必要なように思います
ああいった技術は航海民族のものではないでしょうか
邪馬台国がどこにあったかは私にはわかりませんが
あれをつくる技術を持った集団は九州から瀬戸内海を東進してきた集団なのではないかと
なんとなく感じます、四国に住む者の妄想ですが
103うましか:2009/04/29(水) 19:11:21
>>97
> 卑弥呼がいくら鬼道にすぐれていたと言っても
> 実際に何かの能力があったわけじゃない
> そんなもので連合ができるとは思えないな

そうでしょうね。
でも選ばれた理由の一つではあるかもしれませんが。

> 邪馬台国に軍事的優位があったか外圧がなければ考えにくい

うーん、前半と後半が矛盾するような。
軍事的にさほど優位でないから「連合」と呼んでるわけでしょう。

私は、弥生後期後葉あたりから、出雲、丹後への鉄の流入が
拡大する(出土量的には玄海方面に匹敵)ことから、
売り手の韓側がより高値で取引できる条件を確保するために
それまで九州独占だった輸出先を拡大させたのでは無いかと
想定しています。

この売り手の戦略に対抗するために必要だったのが、
共同購買のための交易システム、何方かが「緩やかな連合」と
呼んでいるものですね。
この連合で何故邪馬台国が盟主足りえたのかはよく判りませんが、
纏向での搬入土器で一番多い東海と二番目に多い日本海勢、
この二つとの結びつきが強く、連合内派閥の長として、九州や吉備に
勝っていたのか、はたまた、参加首長の中で単に卑弥呼が最年長
だったとかかもしれませんが、うまくまとめられません。

10418:2009/04/29(水) 19:14:16
>>101
帥升が、王自ら外海を渡ったとすれば、やはり航海は危険であろうから、中国の後ろ盾が
必要な切実な事情があったものとも考えられる。単なる朝貢であるなら使者で十分ともい
える。あと、少数意見ではあるが「帥升等」で一つの名と考えるものもある。
105日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:19:23
そもそも軍事的な外圧等が無ければ統一統合の動きが発生しないというのなら
太平洋に浮かぶ島々には王と言われる存在は発生しないと言う話にならないか?w

無論そう言うプロセスで発生した王権と外圧に対抗すべく発生した王権では
質的に違うのかもしれんが
(まあ「王」とか「王権」と言う言葉が語弊を含むのかもしれんがこの板の九州説にそこまで気を使ってやる義理も無いwww)

3世紀頃に発生したヤマト王権(の祖)は言わばプリミティブな王権構造であって
それをヤマト王権の変質などと言う事はガンとして認めないこの板の九州説の連中が
後の大和王朝を重ね合わせて拒絶反応を自家発電しているとwwwww
10618:2009/04/29(水) 19:34:19
モアイで有名なイースター島では、部族間の「モアイ倒し戦争」wにより、島の人口は激減し
た。規模は小さいものの倭国乱と似た状態であるかもしれない。当時外圧はなかったが、
後年、ヨーロッパ人により持ち込まれた天然痘や島民の奴隷化により島は絶滅寸前まで
追い込まれた。

これは、17世紀ごろの新しい事例であるが、島の戦乱は、食料事情によるものも大きいのだ
が、宗教的側面も無視できず、いまだわれわれはモアイの意味を完全に読み取れてはいない。
このように、単なる素人経済学ではなく、人類学的な視点はどうしても必要だと思う。
107105:2009/04/29(水) 19:39:42
>>106
耳長族と耳短族の争いだっけ?w

実を言うと>105を書いた時イメージの一つにそれがあったりするwww
10818:2009/04/29(水) 19:45:53
日本人が前方後円墳の持つ意味をなかなか読み取れないのと似ているのかもしれない
109日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:52:50
>>99
>大事な「お宝」は献上品にしてはいけないのですか?
明らかなすり替えですね
そんな話してません

>つまり、時によっては「戦争捕虜」は無駄飯食いのお荷物かもしれません。
殺して家畜の肥料にしてたかも知れないね
書きたくはなかったが、飢えてたら喰ってたかもね
古代における奴隷ってのはそういうもんでしょ
まぁ、一番の利用価値はそこらへんの原生林伐採して田畑つくらせるわな

>遠隔地への軍事侵略は、半島への外交使節の派遣や近接集落同士のドンパチとはレベルの違う話

だから最初から規模というかレベルの話をしてんだでしょ
自爆ですか?
110日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:04:15
宗教的側面と言ってもなんらかの背景はあるわけで
それだけで全てが決まってたなんてありえない
111日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:06:35
「ゆるやかな連合」については外圧がなければ難しいと言ってるだけで
太平洋の島国でも強力な首長が出現すれば統一はされるだろ
112日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:16:29
鉄を購入するためだけに利害が衝突する首長同士が
手を組んだってことでしょ?
意味わからんなw
113日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:18:34
>>111
別に外圧が無くても戦いに疲れ果ててればとりあえず形式的に誰かトップに据えて連合し、休戦することはあるだろ
卑弥呼はカリスマ性があったから休戦がうまくいったが、卑弥呼以外では上手くいかずに戦いを再開させてる
男王を立てたら戦い始めるあたり、「なんで俺じゃなくてあいつなんだ!」って感じで、完全にまとまってる訳じゃない「ゆるやかな連合」っぽいでしょ
もし外圧があるんだったらそれに乗じて「外圧」が攻めてくるはずだけど、魏志にそんな事は書いてない
あくまでも内輪もめ的な争いにしか見えない
114日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:19:48
戦国末期の三傑は、外圧無くても日本を統一したんだけどなあ
秀吉や家康も「日本国」って呼んでるよ
11518:2009/04/29(水) 20:48:05
>>110
しかし、その背景をどうやって読み取るかなんだな。これは、古代というものの理解の根幹に
かかわること。例えば、平安時代でも「方違え」・・・目的地に特定の方位神がいる場合直接
その方角に進むことはならず、いったん別の場所に行って一夜を明かし、そこから出直す。
など、現代の常識からは考えられない行動原理があった。「物忌み」なども同じ。

これらは安倍 晴明などで有名な陰陽道によるもので、太白などの五大方位神の体系に
ついては細かく調べつくされている。しかしそれは、文献資料があるからであり、まして
卑弥呼の時代ともなれば、ある現象は現代人には理解しがたい行動原理に基ずいている
のかもしれないという疑念は常に持っておく必要があり、古代を読み解くことを難しくしてい
る大きな要因であると、俺は考えてる。
11618:2009/04/29(水) 21:04:45
続き ただもちろん、食料少ない→他国を襲う のような通常の行動体系に基ずくことの
方がはるかに多いのは確かなんで、どんどんやってください。

俺的には、卑弥呼の鬼道や前方後円墳の意味などを考えていきたいと思ってる。
117日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:16:28
>>113
魏志の記事をそこまで信用するなら
そもそも畿内説は成り立たないよね

葬制も違うし東に海もない
118日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:17:08
>>114
それは軍事的に統一したんだろ?
119日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:22:23
生きるか死ぬかの極限状態になったときには
非合理的な習慣はあまり重視されないだろう。
元寇でも最初は名乗りをあげて一騎打ちしようとしたが
途中から誰もそんなことはしなくなったようにね。

もちろん絶対になかったとは思わない。
しかしどういったものか分かっていない呪術に
理由を求めるのは逃げだと思うんだよねえ。
120日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:30:23
>>102
>畿内の前方後円墳は本当に見事ですね
>あれにはかなり高度な土木技術と美しい幾何学的模様が描ける数学が必要なように思います
>(略)
>あれをつくる技術を持った集団は九州から瀬戸内海を東進してきた集団なのではないかと

それなら東進なんかせず、いや、しても構わんが
まず地元九州に畿内に負けないぐらい立派なもっとでかい古墳を作ってからにしろ
12118:2009/04/29(水) 21:35:31
>>119
逃げ というか、考古資料オンリーでものをいうのはこの板では嫌われるようだし、俺の興味
が、まあそっちなんだよ。ただこれはトンデモに陥りやすいけど。
122日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:18:44
邪馬台国の所在は、考古学で考える前に、倭人伝で考えるべきだろ。
考古学は、しょせん補助的な資料にしかならない。考古学で邪馬台国の所在を
決めることなんぞできるはずはないんだ。
123ローガン:2009/04/29(水) 23:34:15
>>117

> 葬制も違うし

横からですが…葬制についての記述「其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬舉家詣水中澡浴以如練沐…」
畿内の葬制とどの部分がどう違うのですか?

>東に海もない
日本国中で東に海の無い地方なんて無いでしょう。 畿内説では伊勢湾で問題ありません。
124日本@名無史さん:2009/04/29(水) 23:42:38
「水行10日陸行1月」が、わからない。
こゝまで素直に読んで、これだけ放射状読み・並列読みするのは論外。

「1月」を「1日」の誤りとすれば大和――難波津に船着して大和へは1日で無理。
2日〜3日行程である――大和盆地でなく大和側の葛城山麓であれ橿原であったとしても。

第一、九州北岸から瀬戸内海を難波津まで水行10日もかからない。
好天待ちは1回辺り最大で丸2日、一旦船行きすれば瀬戸内海など1日で相当進める。
九州北岸から瀬戸内海の気象条件では、長時間の風待ちも考えられない。
125ローガン:2009/04/29(水) 23:52:26
>>124

> 「水行10日陸行1月」が、わからない。
> こゝまで素直に読んで、これだけ放射状読み・並列読みするのは論外。

そうですね。論外です。

> 「1月」を「1日」の誤りとすれば大和――難波津に船着して大和へは1日で無理。

ん?難波津に船着とは??
126ギーコギーコ:2009/04/29(水) 23:57:04
1月が1日の誤りとすればって、陸行1日なら里数でかいているはずでは。
水行十日や陸行1月と日数でかいているのは、日数がおおすぎて里数がわからないからでしょ。
127九州王朝大好き:2009/04/30(木) 00:01:47
>>124
>九州北岸から瀬戸内海の気象条件では、長時間の風待ちも考えられない。

瀬戸内海は風待ちより潮待ちの方が重要。
128うましか:2009/04/30(木) 00:01:59
>>109

> 明らかなすり替えですね
> そんな話してません

また、表現が悪かったのかな・・・
「労働力」を献上(手放)してはいけないのですかと反問したわけですが。
何をすり替えていると言いたいのかと・・・・

> だから最初から規模というかレベルの話をしてんだでしょ
> 自爆ですか?

「自爆」の意味がわかりませんが、私は最初から軍事行動力のレベルの話をしています。

例えば160人の奴隷を連れての渡海なら、500人程度(少なく見積もってですが)は必要かと思いますが
遠く畿内までの遠征軍となれば何人が必要でしょうかね?仮に3000人としましょう。
17世紀の話ですが、有名な薩摩藩による琉球制圧は3000人の兵力を1ヶ月半動員して
成し遂げられました。琉球側の軍事力は4000人だったとの記録が残っています。
当時の薩摩藩の表石高は77万石(実石高はもっと低い)、万石につき200人と言われる動員能力は、
表高で算出しても約15,000人(ています)ですので、約20%の勢力を琉球遠征に割けたことになります。
常備軍を持つ薩摩藩でさえこの程度の戦力ですから、吉野ヶ里程度の環濠集落を基礎とするならば、
3000人の戦力の捻出は、吉野ヶ里何個分の勢力が必要ですかね?
こんな感じなので、弥生後期以前の遠征的軍事活動は難しいかと思う次第です。
129日本@名無史さん:2009/04/30(木) 00:07:33
>>124
>こゝまで素直に読んで、これだけ放射状読み・並列読みするのは論外。

それが論外って言うわけでもなさそうw

謝銘仁 他何人かの中国人が倭人伝の読み解きで日本でも本を出しているが
その中にも放射説を支持している学者がいると聞く・・・

まあ後代の「太平御覧」なんかは明確に連続式に読んでいるみたいだが
(内藤湖南は高評価してたっけw)

結局のところ「魏略」「広志」に先行する史料から起こしたものでもなく
「魏志」の記事を元に梁代の知見を加味したものにすぎないらしいんで
(ぶっちゃけてば「改変コピペ」w)
それも決め手にはならない・・・

この板でも放射説が生命線の九州説の人間はそこは死守するだろうwwwww

でもどうなんかねえ、、例えば邪馬台国論争なんて知らない中国人の学者100人ぐらいに
純粋に文章として読ませてどれくらいが放射説で読み解くのか・・・
130日本@名無史さん:2009/04/30(木) 00:08:38
そもそも倭人が里数を操れたとは思えないし
魏の側が外地の島国である倭国の地理を里数まで把握していたとも思えない
せいぜい使節団が歩いた感覚での値だろ
しかしその場合、使節団が里数で書かれている国々を全部回った事が条件となるが
国ごとの地形や建物の特長を全く書いてない事からみると、回ってない様にも思える
よくわかんね
131日本@名無史さん:2009/04/30(木) 00:36:25
まあ首長連合なんてものを認めないと言うのなら
三世紀頃に奈良盆地東南部に発生した勢力は
それこそ地方の一勢力に過ぎないわけだが…

何故かそこには纏向なんて物が造られた
何故かそこからは他の遺跡では見られないような割合で全国の土器が出土し
何故かそこで誕生したであろう前方後円墳と言う埋葬文化が全国展開する
…etc

結局のところその現象を一番上手く説明できるのは現在のところ
その「ゆるやかな首長連合」しかない
(と言うかリアルじゃあ対抗するような説を見たことが無いw
 それ以前に真っ向から首長連合を否定している学者を知らない
 まあそれが出現した年代は異論はあるかもしれんが…)

「ありえない!」をひたすら繰り返しても「首長連合」に代わる
有力な仮説が出ない限り現状は何も変わらないw
13218:2009/04/30(木) 00:51:06
まあ、よくいわれるものでは平安時代の延喜式で、大宰府まで海路30日と記されていること。
あと、2005年の
http://kobe-mari.maxs.jp/akashikaikyo_bridge/ship/daioh.htm
の「大王のひつぎ実験航海」では、復元古代船が約7トンの石棺を曳航して、熊本県宇土市
から大阪湾まで34日で到着。邪馬台国時代は手漕ぎ船で、帆があったかは疑問。むろん
潮待ちは重要。


133ローガン:2009/04/30(木) 00:51:19
>>129

> それが論外って言うわけでもなさそうw

そうでしょうか?
水行十日『プラス』陸行一月なら実際の行程だと読めますが…
水行十日『又は』陸行一月とした場合、報告者が現場を確認したとは考え難いでしょう。
(もっとも往路と復路の手段の違いか?なんてのもあるかもしれないがw)

134日本@名無史さん:2009/04/30(木) 01:04:40
>>123
それは、「有棺無槨」の部分じゃないかな。
箸墓には石室が当然あるだろうし、ホケノ山にも槨がある。
少なくとも、古墳と言われるものには槨があるわけだから。
135日本@名無史さん:2009/04/30(木) 01:11:02
>>132
>邪馬台国時代は手漕ぎ船で・・・

それは無いでしょう!
晋の時代に書いてるのに、手漕ぎ船なら、「手漕ぎ船で10日」と特記するに決まってる。
漕ぎ手が乗船するだけでカナリの人数になって了う。船体からして考えられない。
”赤壁の戦い”時、皆、帆船だったから火計が効いたんじゃないか。
その帆船が100年以上経っても倭国で使用されていないてか、とんでもない!
海洋民族だ、早くから植物繊維の大きな帆を巧に操って航行。
136日本@名無史さん:2009/04/30(木) 01:14:02
>>132
海王は、人が漕いでいるようには見えないんだけど、曳航されているのかな。
137日本@名無史さん:2009/04/30(木) 01:37:24
>>135
どうなんかねえ…?

三国志の赤壁から100年と言っても
実際当時の日本じゃまだ馬は無かったんだし

帆の使用については現物として出土の例は無かったんじゃないかな?
無論そんな帆なんかそうそう残る物じゃないかもしれんが
三内丸山じゃあ「縄文ポシェット」なんてカワイイ名前をつけられたイグサ科の植物で編んだ物も出土している。
帆の使用については保留しておいた方が良いと思う。

ちなみに老婆心ながら言っておくと…

三国志の映画それも演義をベースにしたものなんかあまり真に受け無い方がいいかもw
例えば張飛や関羽と言った豪傑が敵将と馬上で槍で丁々発止とやりあう場面があっても
実際には当時は鞍や鐙が発達してなくてそんな戦い方はできなかったらしいw

まあその辺は三国志ヲタならいやと言うほど語ってくれるんだろうがwww
138日本@名無史さん:2009/04/30(木) 03:51:43

★古代船がたどった海の道  〜市原市天神台遺跡、船の線刻土器〜

市原市の天神台遺跡から発掘された直径20cmほどの弥生式土器。
そこに描かれていたのは、マストに風をなびかせ大海原を航海する大型船の姿だった
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/img/18cut.gif

マストには、浜の風を受けて、二本の吹き流しがたなびいているようにも見える。ひょっとすると、帆を畳んだ様子を描いているのかもしれない。絵の上の部分が欠けてはいるが、帆船であるとも想像される。

そのことを裏付けてくれるのが、長いマストと艫(船尾)のところに描かれた十三本目の棒状の線の存在である。この線の中央からは、一本の線が出て船尾に延び、さらに海中へと向かっている。四組の櫂とは、異なった表現になっている。
この線は、副舵であろう。副舵とは、帆船が横から風を受けて走る場合に流されないようにするためのものであって、古代の船では、艫の左右に取り付けられる。奈良県天理市東殿塚古墳出土の埴輪に描かれた船の絵にも、副舵がはっきりと描かれている。

船はたくさんの人を乗せて、海の彼方からやって来たに違いない。伊勢湾辺りから出帆してきたものであろうか。
このころから、パレススタイルの壺とかS字状口縁の甕といった、東海西部地域の影響を持つ土器などが、市内でも出土するようになる。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/michi2-1.html

◆意外なほど高かった古代の造船技術◆

「丸木舟」というと、舟よりも大きな一本の幹を刳り抜いて造っていると考えがちだが、遅くとも縄文時代後期には、原木よりも幅の広い舟を造る技術が導入されている。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/img/19psenta.gif
これはC字に刳り抜いた舟の中に水などを張って、船体を外から焙り、支木をはめ込みながらU字に広げていくものだ。
千葉県内でも、八日市場市の矢摺泥炭遺跡から出土した舟にこの技術が見られる。クリの幹を刳り抜いて造ったもので、縄文時代後期の単材刳舟である。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/michi2-2.html
139日本@名無史さん:2009/04/30(木) 04:09:33
◆房総の南を上総、 北を下総と呼ぶ理由◆

律令体制に入ると、国々を畿内および七道(官道)に分け、各国に国府が置かれた。上総国府は、東海道の国として、いちはらに置かれる。
東海道の本道は、元来、足柄山を越えて相模国府に至り、走水から浦賀水道を房総に渡り、北上して上総国府に達していた。さらには、下総国の印旛郡・埴生郡・香取郡を経て、常陸国府に及んでいる。
古代の国名は、都に近い方を上とか前とする。上総と下総も、この道順によって名付けられたのである。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/michi2-3.html
http://www.city.ichihara.chiba.jp/graph/9904/img/21map.gif

★神門古墳群  所在地・・・千葉県市原市総社字神門

弥生墳丘墓から定型化された古墳への橋渡しとなる発生期の古墳(墳丘墓)が3基並んで発掘されました
http://www.geocities.jp/jw_mura/kofunn/kofun09.htm
・3号墳
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/isekifile65.htm
・4号墳
http://www.geocities.jp/jw_mura/kofunn/ko_35.gif
http://www.haniwakan.com/kenkyu/boso/img/p132.gif
・5号墳
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/kantou_kofun6.htm#koudo

★辺田1号墳 (東国の前期古墳) <(財)市原市文化財センター作成資料による>

辺田1号墳は直径約32mの円墳で、墳丘の中央に位置する埋葬施設には被葬者が弥生時代の終わり頃に活躍していたことを示す副葬品が収められていた。
この埋葬施設の周囲には畿内の前期古墳の多くに見られる排水溝を思わせる区画溝が存在し、供献用の土器として底部穿孔壷・底部穿孔坩、器台・鉢等が、この区画溝に囲まれた範囲から集中的に検出されている。
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/exhibitions/special_ex/2005kouko3dai/051210heta1gou.html

---------------------------------------------------------

★秋葉山古墳群 (相模の前方後円墳)

秋葉山古墳群は、大正年間から知られていたが1988〜2003年に発掘調査され、3世紀後半から4世紀にかけて継続的に造られたことが分かった。出現期の古墳を含むことが注目される。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/akibayama-kofun.html
140日本@名無史さん:2009/04/30(木) 04:36:49

★埴輪の旗

  横布たなびく姿表現

東殿塚古墳の埴輪に線刻された船。旗が風にたなびいている =天理市教委提供
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000140904170001&o_id=6241&type=kiji


 弥生時代から古墳時代にかけて、日本列島の住人は船の絵をいくつか残しています。そのうちに、不思議な旗をひるがえす絵があります。

 奈良県天理市の東殿塚古墳から出土した埴輪(はにわ)の絵が、そうです。古墳時代前期前半に属していて、一つの埴輪に合計3隻の船をヘラで描いています。
船中央にはそれぞれ、旗がひるがえっています。それも国旗のような長方形の旗ではなくて、何条もの細い布からなっているようです。


 詳しく見ていきましょう。旗竿(はたざお)は、船尾の方にたわんでいます。単線で表現しました。旗竿上部には、竿に沿った細長い帯を表現しています。これは、旗の一部ですから、縦布のはずです。
この縦布から、水平に細布がひるがえっています。この横布は、すこし間隔をおいて縦布に接続しています。先端がバラバラですから、横布を縦布に縫いつけて、端はバラけていたことがわかります。

 3隻のうちで大きい船ので横布は9枚、中型ので少なくとも3枚、小型ので4枚描いてありました。どうでしょうか、めったにない旗でしょう。

 この船には、この他に蓋(きぬがさ)があり、屋形のようなものがのり、櫂(かい)が水面に下り、舵(かじ)が船尾にあって、船首に鳥を描いたものさえあります。このように細部まで丁寧に描いているのです。

 旗は、岐阜県の荒尾南遺跡で弥生時代後期末に属する土器に、また千葉県の天神台遺跡で古墳時代前期に属する土器にも描いてありました。しかもこれらの船に描かれた旗は、すべて同じ形式の旗です。
<続く>
141日本@名無史さん:2009/04/30(木) 04:39:33
<承前>
 この旗は中国にもあって、決して日本列島独自ではありません。
魏の曹植の作『洛神賦』を、顧ト之(344年ごろ〜405年ごろ)が絵画化したと伝える『洛神賦図』の模本がいくつか伝わっています。そして洛神という女神の乗り物に、東殿塚古墳の絵と細部までうり二つの旗が取りついて、風になびいているのです。


 では色は、どうだったでしょうか。
日本列島の旗は、すべて土器や埴輪に線で彫り込んであって、色がついていません。だから色は想像するしかないのです。

考古学者の故佐原真さんは、この絵画の旗に、
 「舟を連ね筏(いかだ)を編みて、雲の蓋を飛(ひるが)へし、虹の旌(はた)を張る」(『常陸風土記』行方郡板来村)、
また
 「赤籏青幡(あかはたあおはた)、交雑(まじ)り飄(ひるがえ)りけり。雲飛び虹張りて」(常陸国逸文・信太郡由縁)
という風土記の記事を結びつけました。
そして「細長いきれか紐(ひも)を何本も並べた旗だからこそ生まれた文章表現ではないか」と、考えました。旗に、虹の色彩を与えたのです。しかもこの時代、高度な染色技術のあったこともわかっています。


 様々な色からなる細布たなびく旗が、どんなに美しかったか現実に見てみようと思うなら、熊本県天草市河浦町の河浦一町田八幡宮で毎年7月の第3日曜日にある虫追い祭を訪ねることです。
一町田川に沿って進む色とりどりの旗は、私たちを一瞬のうちに弥生時代・古墳時代の色彩世界に導いてくれることでしょう。
(奈良文化財研究所都城発掘調査部副部長・深澤芳樹)

朝日新聞 奈良 2009年04月17日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140904170001

河浦一町田八幡宮の虫追い祭では、赤、黄、緑、青などさまざまな色の布がはためく =熊本県天草市、小林健浩さん撮影、『天草潮風紀行』(弦書房)から
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000140904170001&o_id=6240&type=kiji
142日本@名無史さん:2009/04/30(木) 04:44:03
>>128
でもね、大阪湾から瀬戸内一帯にかけて紀元前1世紀あたりから高地性集落が出てくるんだよね
まぁ、普通に神武東征ルート上なんだが
143日本@名無史さん:2009/04/30(木) 05:50:01
伊勢湾を海と言ってしまう時点で畿内説は問題外だな
魏志倭人伝の都合のいい部分だけしか読む気がないんだから
どこをどうしたら伊勢湾が海になるんですか
144日本@名無史さん:2009/04/30(木) 05:59:03
>>143

問題 伊勢湾は次の5つのうちのどれか。正しいものを選びなさい。

ア.海  イ.川  ウ.湖  エ.山  オ.それ以外

解答欄 (   )
145日本@名無史さん:2009/04/30(木) 06:46:59
つまらない揚げ足取りですか?
伊勢湾の対岸のことを指して
海を渡ったところに倭種の国があるとは書かない
って言い直せばいいかな?
146日本@名無史さん:2009/04/30(木) 06:55:41
今は古墳厨が溢れてるから魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は畿内説が有力なんだろうが
恐らくは九州なんだろうな

魏志倭人伝で言えば、ポイントは吉備国の扱い
これは避けて通れない
147日本@名無史さん:2009/04/30(木) 06:59:55
>>145
それは纏向からの出土品が物語ってる
殆どが東海地方からのものだったよね
あの時代に倭種その他では片付けられない
148日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:09:43
>>143
言い方が悪い。
東に海を渡るとまた国がある、と倭人伝や後漢書には書かれている。

海を渡るというのは、船で行く以外に方法がないと考えるべきで、
その意味で伊勢湾を海と考えるのはおかしい。

地図を見れば明らかだが、伊勢湾なんか無視しても東のどこの国でも
行ける。渡る必要のないものなので、わざわざ書く必要もない。

九州から見たときの中国地方や四国とは明らかに違う。
149日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:34:46
>>146
>恐らくは九州なんだろうな
>魏志倭人伝で言えば、ポイントは吉備国の扱い
>これは避けて通れない

九州説であっても吉備は避けて通れない、
吉備は倭の領域に違いない、と、そういうことですね、
立派なご意見だと思います、ありがとうございました
15018:2009/04/30(木) 07:35:21
高地性集落に関しては、この3枚の画像をどう読み解くかで、邪馬台国に関する解釈は
だいぶ違ってくる。
前50〜1世紀http://yamatonokuni.up.seesaa.net/image/kouchisei_bc50~ad100.gif
1世紀〜2世紀http://yamatonokuni.up.seesaa.net/image/kouchisei_ad100~ad200.gif
2世紀〜3世紀http://yamatonokuni.up.seesaa.net/image/kouchisei_ad200~ad300.gif
151日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:38:07
>>147
>それは纏向からの出土品が物語ってる
>殆どが東海地方からのものだったよね

いいえ、それはウソです。
15218:2009/04/30(木) 07:47:49
151の三枚目の画像からは、俺には2〜3世紀台の九州勢力の東遷があったようには考え
られない。むしろ、近畿勢力の東海や北陸への進攻の様子が見て取れる。
15318:2009/04/30(木) 07:48:30
151→150
154日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:52:45
>>149が吉備国の首長だったらどう思う?
自分の所をすっ飛ばしたのかよ?おれってそういう存在?って思うだろ

>>152
なんで2,3世紀なの?
2,3世紀は既に下火になってる
155日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:59:44
たとえが悪いが893の世界と同じ、っていうか社会常識
いきなり親分の所に行けば問題がある
その前に色んな方面ご挨拶しておく必要がある
魏志倭人伝の使者も同じだったんだろ
それは行程記述が連続性でもって決して語られたわけでないことの証でもある
15618:2009/04/30(木) 08:15:14
>>154
いや、今だに卑弥呼後、台与の前あたりの九州邪馬台国の東遷を言う人もいるんで。
157日本@名無史さん:2009/04/30(木) 08:22:28

トヨタン・・・・・・・・・・
158日本@名無史さん:2009/04/30(木) 12:45:15
>>149
倭人伝の世界に吉備や大和は関係ないんだよ。
159日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:18:58
>>155
社会常識 と言うお話で言えば魏使が邪馬台国を訪れに
来日する前に根回しは済んでるよw

いきなりアポ無しで日本にやってきて
「いやあ、今度おたくの所の女王さんの下にいきますんで」
とか挨拶に回るのか?

でその挨拶を受けた首長が慌てて卑弥呼のもとに
「大変です!魏から使いが来ましたよ!」
と報告するのか?w

つうか親書を携えた使者が邪馬台国を目指す途上のクニで
そこの首長に熱烈歓迎式典をもって迎えられたりすることはあるだろうが

王都を目指すのを後回しにしてある地域に留まり
そこから”放射状”にあっちこっちに挨拶して回る・・・なんてあるのかよw

つうか放射説って魏使の移動もそれに重ねる物だったのか?
例え放射説といえど魏志のルートは一本道だと思っていたが・・・

スマン正直「その発想は無かったわ」だなwwwwww
16018:2009/04/30(木) 13:27:56
俺は、239年以前は公孫氏に朝貢していたものだと思う。あと、まあ邪馬台国は答礼使がきて
答礼品としてなんかもらえるだろうという予想はあったと思う。「親魏倭王」まで想定していたかは
なんともいえんが。
161日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:29:58
>>155
上部組織の使者が、下部組織の更に下部に御挨拶回りしないんじゃない。
本社から偉い人が来たら、真直ぐ支社長室だろう。普通。
各部署に、「本社から来ました。どうぞ、よろしく」なんて頭下げて回らないよ。
行ったんなら行くだけの用事が有ったんだろう。
16218:2009/04/30(木) 13:47:37
ただ、調査という観点ではどうだろう。隋書では、倭使は向こうでだいぶ質問されてるようだし、
裴世清一行は12人で、調査のための官もいたのかも。倭人伝でも、
>草木茂盛して行くに前人を見ず ・・・という末盧國に行ったのは現地踏査のためもあるのかも
しれない。まあ、わからないが。
163日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:55:46
>>159
やっと九州説の放射説理解出来たみたいだね
おめでとう!
164日本@名無史さん:2009/04/30(木) 14:03:38
九州勢力は意図的に本州を隠した
昔の日本人は凄い!と思うよ、皮肉でも何でもなく
165ローガン:2009/04/30(木) 14:06:06
>>134
> それは、「有棺無槨」の部分じゃないかな。
> 箸墓には石室が当然あるだろうし、ホケノ山にも槨がある。

その部分の記述は倭人の習俗のついて触れたもの。 箸墓やホケノ山といった古墳に埋葬されるのが一般的な葬制ではないでしょう。
まあ、有棺無槨の否定に箸墓やホケノ山が俎上に上がるということは、倭人伝の記述と箸墓ホケノ山が同年代であるということですね。
それについては同意します。
16618:2009/04/30(木) 14:13:35
俺が上で、日本史において宗教的・呪術的側面を無視できないというのは、例えば隋書で、
「倭王は天を兄として、太陽を弟とする。夜が明けないうちに政務を執り、夜が明けたら弟
(太陽)にまかせる」と倭使が質問に答えて、「大いに義理なし」と隋の高祖文帝に馬鹿にされ
てる。これで、邪馬台国から300年以上後の話。
167日本@名無史さん:2009/04/30(木) 15:47:39
>>165
畿内の古墳で無槨のものはあるのかな?
168日本@名無史さん:2009/04/30(木) 15:56:59
>>155
オレも九州説だけど155が馬鹿馬鹿しいので、

魏志倭人伝の使者は魏の皇帝の代理であり、
倭王卑弥呼より上位にある、
家臣の色んな方面ご挨拶しておく必要などない。
また魏志倭人伝の使者は一度でなく、
何回か邪馬台国に訪れているので、
書かれているルートは通常の邪馬台国までのコース。
九州説の放射説は過去のものです。

「従郡至倭」の従は動詞だから行程記事は実際に使者が通ったルート。
連続読みが正しい。


16918:2009/04/30(木) 16:25:59
有棺無槨ねえ。しかし「槨」の概念はあいまいだな。今ちょっと調べてみたら、魏志董卓伝に、

>卓を眉?に葬す,大風・暴雨が卓の墓を震わし,水は藏に流入し,其の棺槨が漂う.

とあって、藏・槨・棺の三段構成のようになってるように思える。藏が外壁のようなもので、
さらに空間をおいて槨があるように俺には読める。

とすれば、ホケノなどの穴を掘って石囲いの木槨をつくり、土をかぶせて出入りできない
ようにするのは、中国人には槨に見えなかった可能性もあるかも。確か白石太一郎氏も
安本美典氏の問いに答えて、似たようなことを言っていたような?にしてもここらは一応
専門なんで、もっと勉強せなならんな。
170ローガン:2009/04/30(木) 16:27:22
>>167

> 畿内の古墳で無槨のものはあるのかな?
縦穴式石室なんていっぱいあるでしょ。
171日本@名無史さん:2009/04/30(木) 17:15:32
纏向遺跡から東海地方の物が多く出るのは
友好関係にあったからじゃない?

古代の天皇の妃にも何人か尾張氏出身の女性がいるよね
172日本@名無史さん:2009/04/30(木) 17:23:16
>>150
3世紀のは崇神天皇の四道将軍派遣と重なるな
173日本@名無史さん:2009/04/30(木) 18:51:13
>>148
おまけに狗奴国が南端ならば余計に海を利用するなんて考えられない
東の海の向こうねぇ
学者ってそんなことマジにとるのかね?
174日本@名無史さん:2009/04/30(木) 19:06:35
畿内説だと倭種の国って三河や遠江あたりになるんだろ?
尾張を無視してるのは何で?
175日本@名無史さん:2009/04/30(木) 19:30:36
>>170
無槨というのは、棺をそのまま土に埋めること。
甕棺などがその典型。
ただ、倭人伝に書かれている時代には、甕棺はもう廃れていたと思う。

だから、竪穴式石室は、立派な槨ということになる。

>>169
見えなかったら、「無槨」なんて書かないだろう。実際に墓を見て、
へえ、槨がないんだと思ったから、「無槨」と書いたのだろう。
176日本@名無史さん:2009/04/30(木) 19:56:16

>>175

>ただ、倭人伝に書かれている時代には、甕棺はもう廃れていたと思う。


甕棺はいつ廃れたのか、なぜ廃れたのかが大きな問題だな


ところで、そうすると卑弥呼の墓の棺はどんな棺なのだ?木棺か?

もちろん書いてないから決め付けはできんが、推測で
177日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:20:36
そう言やあ、上代神話時代に、なぜ度々尾張の地名が出てくるんだろう?
スサノオノミコトは尾張にも行くし、草薙の剣を納めたのも尾張・熱田神宮だし・・・。
邪馬台国の時代は不毛の地のハズが、神功皇后を卑彌呼に比定する「日本書紀」で
スサノオノミコトは、それより以前の神なのに――もう既に尾張が・・・。
17818:2009/04/30(木) 20:35:24
どうもわかりにくかったようで、169
槨だと見えなかった→彼らの概念にある槨とは違うと思った にしときやしょう。

まあ、そうはいってもここは畿内説不利かも知れん。ただ、木棺直葬なら残ってるものは
少ないだろう・
179日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:48:43
>>177
尾張は不毛の地?
そんなこと絶対ないよ。
つかそんなこと言ったら愛知県民サンが怒るよ。河村新名古屋市長も。
隣国の美濃モンタもかな。ww
180日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:55:46
古代は海岸線がもうちょっと内陸側にあったらしいが
それでもあれだけ広大な平野があれば
尾張にかなりの生産力があったのは間違いないよね
大和朝廷も重視するわけだよ
181日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:58:11
畿内説だとしたらそんな重要な土地である尾張を
魏志倭人伝は無視してることになる
182日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:59:08
>>177
推古天皇といえば小墾田宮において崩御。
そのほかにも、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)
など尾張と深い関係がうかがえる人名が出てきます。
つまり、大和朝廷の後ろ盾は尾張だったことを隠そうとする意図があったと考えられます。
183日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:06:09
天武天皇も尾張や美濃の豪族の力を借りて
壬申の乱に勝利したよね
184日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:20:28
>>183
あ−、そうだよな。
なんで、上代に「尾張」がよく出てくるんだろうね?
その割に、古代史では、「尾張」がさほどキーワード扱いされていない。
185日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:55:30
実在の人物と、神話の人物混在してないか。
186日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:08:01
日本語の考古学用語の郭が中国でいう郭でないこともあるのでややこしい。
187日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:15:18
【尾張の件】
俺は、邪馬台国=河内説だが、
そうすっと、尾張は狗奴國だったのか?――邪馬台国と同格。
その間の20ほどの国々は、大和・伊賀・伊勢・近江・美濃に存在する各聚落。
188日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:20:49
>>187
そうすると、九州の熊本、大分以南や中国、四国の国々はどうなるのかな。
倭人伝にまったく書かれていない? しかし、それで卑弥呼を倭女王と言えるのかな?
189日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:26:41
>>170
私も>>175氏と同じ考え方だな。倭人伝は、棺あるも槨なし、土を封じて塚をつくる
とある。棺のまわりに土を入れただけで、石室なんぞを造った気配はない。
190日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:32:24
邪馬台国の時代から大和朝廷の成立まにでは相当の時差がある。
武士が起こって鎌倉幕府が成立してから江戸幕府の成立までの
年月と同程度だと思えば、その間の相当の変革があったことが
理解できると思う。尾張が勢力を伸ばしたのは、織田信長が天下を
取ったのと同じくらい短い時間だったと考えれば、次の政権で黙殺
された理由がわかる。
191日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:42:57
気配で語られてもなぁ
192日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:02:13
>>176
甕棺は、だいたい弥生時代の初め頃に誕生したらしい。

甕棺はだいたい五期に分類される。
T期は、福岡平野から熊本平野まで分布している。
紀元前三世紀あたりには、すでに同じような文化圏だったのだろう。

U期になると、熊本はかなり少なくなり、福岡平野から佐賀平野を中心に
多く分布する。長崎辺りにもある。
吉野ヶ里遺跡の始祖墓と言われる甕棺は、この付近ではなかろうか。

V期では、その傾向が顕著になり、福岡県と佐賀県だけで発展する。

W期になると、どちらも衰退し、甘木市付近だけに多く残る。

X期では、福岡・佐賀でも見られなくなり、周辺でわずかに残るだけになる。

最大分布としては、薩摩地方でも一時期見られる。しかし、遠賀川より北
つまり現在の北九州市付近では全く見られない。
廃れてしまったのは、いつかというと、1世紀か2世紀あたりじゃなかろうか。
良くはわからないが。

あんまり詳しくないので、間違っているかもしれない。
興味のある人は自分で調べるように。

卑弥呼の墓については、石棺の可能性もあると思う。
193日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:06:10
>>190同意。時代は常に動いている。
史料は、常にその時代の断面を輪切りにしたものでしかない
ことに気づかないと、大きな間違いに陥る。
194日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:38:06
>>193
> 史料は・・・時代の断面を輪切り

こと倭人伝については、そうだとは思えない
195うましか:2009/04/30(木) 23:49:18
>>142

> でもね、大阪湾から瀬戸内一帯にかけて紀元前1世紀あたりから高地性集落が出てくるんだよね
> まぁ、普通に神武東征ルート上なんだが

そうですね。
瀬戸内の所謂「高地性集落」の分布は、東征ルートとほぼ同じです(豊前とかでは少ないですが)。
何故でしょうかね。

高地性集落は環濠集落と構造は異なりますが、どちらも主たる目的は「防御」のためです。
その分布は、時代ごとに変遷がありますが、大雑把にみれば西から東へピークが移動していきます。
この分布域の伸張は数百年レベルの時間軸で覗えることで、西から東への波はかなり静かな
ものだったのではないでしょうか。

まず、鉄製農耕具が普及し、人口が増加しだした北部九州から人口流出が始まり、
その移動先での先住者との小競り合いや、耕作適地を得られなかった集団の海賊化などを引起し、
瀬戸内各地に高地性集落を生んだのではないのでしょうか?

この波は弥生後期には畿内に達していたとも思いますが、
こういったスパンの長い移動を貴方は「神武東征」と呼べますか?
私は、王統自体が移動したわけでは無いので、これを東征、東遷とは呼びません。
196日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:54:35
別に尾張だけじゃないよ
大阪も本州上陸地だとされるのにそれらしき記述は無い
投馬国が吉備だと言うが瀬戸内は南北なのかよ?
っていうか瀬戸内航行本当にしたのかよ?って感じだろ
東の海の向こうに倭種?なんだそれ?

あり得ない、あり得ない
197日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:55:29
>>187
>俺は、邪馬台国=河内説だが

ほうこの板では珍しい。

まあリアルでも同じだと思うが畿内説=ヤマト説で
もっと言えば纏向説が殆どの感があるし・・・

まあ個人的には纏向が今後の調査で
どうも「政治と宗教」じゃなくて宗教のみに特化した都市とか言う事になって
じゃあ政治中枢は何処か…となった場合奈良盆地のみならず
大和川水系で考えて河内と言うのは十分考慮しておく必要があるかな…とも思っているがwwww

ちなみに纏向をどのような位置づけにしている?

良かったら聞かせてもらいたいのだが。
198日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:57:51
>>195
移動ではなく紛争があった
しかもその紛争があなたの言う隣町との紛争では無いらしいってこと
勝手にオレ流解釈しないでもらいたい
199ローガン:2009/05/01(金) 00:04:41
>>175さん、>>185さんへ。
「有棺無槨」これが認識できるのは築造中に限られますね。
なら、竪穴式石室の構築手順を考えてみてください。板石を積んでいる作業が「上棺」にみえますか?

(もっとも上で書きましたが倭人伝のこの部分の記述がごく一般的な葬制に触れたものであり、前方後円墳の埋葬施設を述べたものではないと思いますが)
200日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:15:41
わかりにくかったら、もっと砕いて言いますね
その紀元前1世紀から後3世紀にかけての変遷は
人口移動に伴う変遷として捉えるのではなく、紛争があり、その紛争が平定されていった経過を表すものです
201日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:17:50
高地性集落については個人的に

生産性の向上 →余剰の蓄積 →それを狙って海賊行為のようなものが頻発
また生産性の向上が軍事的行動自体を可能にせしめた・・・

なんて事を考えていたがそれも最近思い直しているw

上記のモデルだとそれは人口の著しい増加とリンクしているはずなんだが
>>150の各時代の高地性集落の分布に合せて人口が著しく伸びた事を示すデータってあるもんかねえ・・・

AD100頃ならもう既に東海関東であろうが人口(密度)は西日本と遜色ないんじゃないのか?
(下手すりゃ上回る?)

まあそれでも九州を出た神武軍団だのヤマト王権だの
巨大勢力の侵攻にリンクさせて考えるのはどうもいただけないがwwwwwwwww
202日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:19:35
あの東西一直線みたいな瀬戸内海を20日とか10日もかけて旅をしておきながら南に下るなんて2度も記述するのは絶対にあり得ません
203うましか:2009/05/01(金) 00:25:15
>>198

> 移動ではなく紛争があった

「移動」に伴って「紛争」が起きたのです。
これは「共通認識」でしょう。

> しかもその紛争があなたの言う隣町との紛争では無いらしいってこと

何故、そう思うのですか?
一つの防御的集落は何十年も継続するのが常なんです。
経常的な攻撃、長期に渡る緊張状態に対する設備だと考えるのは普通のことでは?
そういう脅威とは、比較的身近なものとか、突発的に襲ってくるような場合でしょう。
どこぞから来た遠征軍と対峙する設備だったら、もっと短いスパンで作り変えられるかと。

> 勝手にオレ流解釈しないでもらいたい

いや「オレ流解釈」なら「勝手」にするのは当然かと。
204日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:25:15
>>200
まあ単なる言葉の問題っちゃあそれまでなんだがwwww

その紛争を平定していった主体てのは300年とか400年とかの時間をかけて
継続して平定の事業を成し遂げたって事なのかな?w
205日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:36:21
個人的には高地性集落を「隣町との紛争」と言うモデルで考えるのに賛意を示したいwww

>>204でも言ったがあまりにも時間のスパンが長すぎる。

もし九州を出た神武の東征なんて事を考えているのなら
(逆にヤマトからの西征でも同じ)
それこそ妄想レベルだ。

兵站線・補給ラインの事なんか全く失念して
頭の中で軍団のユニットの駒を進めているお遊びだなw
206うましか:2009/05/01(金) 00:36:38
>>201
> 高地性集落については個人的に
> 生産性の向上 →余剰の蓄積 →それを狙って海賊行為のようなものが頻発
> また生産性の向上が軍事的行動自体を可能にせしめた・・・

ヤマト王権の成立ってそういうプロセスでしょう。

> 上記のモデルだとそれは人口の著しい増加とリンクしているはずなんだが
> >>150の各時代の高地性集落の分布に合せて人口が著しく伸びた事を示すデータってあるもんかねえ・・・

弥生時代を通したデータって無いですよね。
でも、古墳時代に行われる巨大古墳の築造とか半島へのアクションとかは、
それを行えうるだけの富の蓄積がなければ難しいかと。
結果として、生産性の向上や人口増は有ったと考えざるを得ないのでは?

> AD100頃ならもう既に東海関東であろうが人口(密度)は西日本と遜色ないんじゃないのか?

人口増と言うよりは「生産性」の方が重要かと。
私は、一応、鉄製利器の普及をその尺度の一つしますが。
207日本@名無史さん:2009/05/01(金) 00:46:16
>>203
上からあなたのレス見てみて

>>204
そうは思いませんね
反乱する人たちが出て鎮圧制圧ってのもあるだろうし
気候条件の変化とか大王による野心とか様々なんでしょう
中身のことなんか知りませんよ
ただ紛争がそこにありそれが平定されていった
それを読み取るだけですね
208うましか:2009/05/01(金) 01:15:56
>>207

> 上からあなたのレス見てみて

何が言いたいのかな?別に全部見なくても
貴方が>>91だけをもう一度見れば十分じゃないのかな?

それと高地性集落の伸張からは「紛争」があって、それが「収束」していったことは読み取れても、
「紛争」の原因が既存の支配関係内の「反乱」なのか、新たな勢力間の「接触」なのかは読み取れない。
また、「収束」の要因も軍事的な「平定」なのか、協調体制の構築による「和平」なのかも読み取れない。
弥生後期以前の環濠集落レベルの統治システムで、瀬戸内を中心に西日本全体に及ぶような「紛争」を
数百年意渡って継続できるような集団が存在し得たと思える根拠も無いと思うが。
209日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:46:14
【邪馬台国=河内説】
河内は早くから開け列島の中心的な「国」が存在。漢倭奴國と同等又はそれ以上の規模の「国」。
やはり水田有利の地勢と大陸半島との航路の行き着く先だから。いざ戦いとなっても寄る辺となる起伏も多い。
(大陸半島との交易は早くから常態)
(瀬戸内海航路は、関門海峡さえ越えれば即大陸半島航路。往きは助走路、来るは河内の港内みたいなもの)
たちまち列島の中心政権=邪馬台国。
この河内にある国がそのまま後の大和政権の祖。

纏向遺跡は、大国主命率いる出雲族の国。(河内政権から独立した国)
群小の奈良盆地の国々は、時により、或いは大国主命に属し、或いは河内政権に属し・・・。
大和政権の祖である河内政権が次第に強大となり、いよいよ奈良盆地にはいり出雲族を「出雲」へ追う。

纏向遺跡=出雲族が追われたのは、5世紀も末期頃でしょうね・・・?
210日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:05:43
尾張を狗奴国にするのは無理ありすぎw
南と言うよりむしろ北じゃないかw

>>190
大和朝廷の成立は邪馬台国の時代以前かもしれない
211日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:09:04
>>210
後段は、ハハァーなるほど・・・考えてみましょうかね。

前段は、倭人伝は何でも、東ないし東北を「南」と言ってるから、不思議ではないのでは。
212日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:10:37
>>196
文献から見ていくと畿内ではおかしなことばかり

大和朝廷と邪馬台国の名前が似てることくらいじゃん
それすら本当に同じだったのか疑わしいしね
213日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:14:07
>>211
北東を南と言ってることにしてるのは畿内説の人だけ
天文学の知識がない人だってそれは間違えないだろう
214日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:16:09
>>212
倭人伝を正直に読むと九州でしょうね。
でも、投馬国から、「水行(して)10日、(更に)陸行(して)1月」としか読めない文脈
なので困るんですよね――ここをどう読むかなんですが・・・。
215日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:19:56
>>213
「陳壽は、邪馬台国を、かつての「呉」の背後=台湾か海南島あたり、に持って行きたかった」
と言う岡田英弘の説も有るしねえ?
216日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:51:19
>>215
広志・逸文にも邪馬台国は南とある。
別に、陳寿が独断で南にしたというわけでもないと思うが。
217日本@名無史さん:2009/05/01(金) 04:45:46
「南」をそのまま南とすれば、とんでもない方向に行ってしまう。
それこそ、台湾、海南島方面・・・
まっ、「南」を東・東北と日本列島に沿って読むのは既に定説かと。

しかも、周辺地域より圧倒的に人口密度の高い文明の進んだ3世紀半ばの日本列島が
なぜ九州一島内だけに有力な国々が固まっていたことになるのか?
有史以前より大陸と交易交渉の盛んだった人口の多い日本列島のこと、
3世紀半ばには、九州から東北までの適地には既に有力な国々が当然散在していた。

なのに、対馬→壱岐→九州北岸の国々、と来て、なぜ九州の内陸部や沿岸地方を
ウロウロしなければならないのか。文脈通り山陽路乃至瀬戸内海へと進む読み方が自然。
行き着く先は畿内――全く自然な倭人伝の読み方。

当時の日本列島を大層「遅れている」地域という観念が九州説をつくっている。
その観念の虜(とりこ)になっていた東大が根拠も無く唱え出したこと。
218日本@名無史さん:2009/05/01(金) 05:52:31
>>217
そういうのを相殺の詭弁という。
畿内説にしてみれば、南に行ってもらっては困る。だから、距離を不当なものと
して、それと相殺する形で南は間違いだと言うことにした。

しかし、水行二十日、十日、陸行一月がどれくらいの距離かは分からない。
この距離を実情に合わせるのが先であって、決して方向と相殺することは
出来ないと思う。

また、倭国を九州というのは、倭人伝などの記述から導かれるもの。
たとえば、30カ国を広い範囲に求めることは難しい。
今までも議論したように、東に海を渡ると倭種の国がある、というのもある。
帥升について、倭国王となっているが、西暦100年頃に日本全体の王が
存在すると考えるには無理がある。
などなど。

ついでに言うと、5世紀初め頃の倭の五王についても倭国王となっている。
これは、倭国の範囲が広がったか、あるいは九州王朝説のような考え方を
取るのが自然ではないかと思う。

倭の五王を、通説のように大和朝廷の大王とすれば、倭国の範囲が広がった、
つまり東遷説が妥当と言える。
219日本@名無史さん:2009/05/01(金) 05:55:18
>>215
だから「東」と書くことはできず、筆を曲げて「南」と書いたとも言える。
岡田説は、九州・畿内のどちら側も利用できる理屈であまり意味がない。
220日本@名無史さん:2009/05/01(金) 06:47:07
>>217
既に何度も言われているように、南九州説ならば倭人伝どおりですっきりと解釈できる。
けして、「台湾、海南島方面・・・」なんてことにはならない。
伊都国は佐賀付近、投馬国は川内、邪馬台国は日向だよ。とんでもない進行速度を前提と
して南に目をつぶろうというのはまちがいのもとだろうな。
>>216氏がいうように南とするのは倭人伝だけではない。しかも、倭人伝以後の史書はい
ずれも倭人伝の方向記載を踏襲しており、それを改めようとしたものはない。
例えば、後漢書、隋書、もし倭人伝の方向が誤りならば、遠慮なくそれを指摘したはずだ。
221日本@名無史さん:2009/05/01(金) 06:50:22
北を東にするなんて暴論もいいところだ
伝聞ならまだしも実際に魏の使者が邪馬台国に行ったのに
方角を間違えるわけがないんだよ
222日本@名無史さん:2009/05/01(金) 06:54:02
>>217
邪馬台国の範囲が九州なら
畿内まで行かないのは当然だろ

読みたいようにしか読まない
畿内説信者は困ったものだ
223日本@名無史さん:2009/05/01(金) 07:30:30
邪馬台国を南九州にもっていくと狗奴国はどこにあったのでしょう
個人的には南九州に高い文化を持つ連合国家があったのではないかと思いますが
それこそ狗奴国なのではないでしょうか
邪馬台国よりも狗奴国のほうが文化的にすすんでいたのではないかとさえ思います
224日本@名無史さん:2009/05/01(金) 07:35:58
五万戸、七万戸は無視するのか

方角だけあえば満足の九州説信者は困ったものだ
225日本@名無史さん:2009/05/01(金) 07:46:25
畿内に7万戸なんてあるのか?
226日本@名無史さん:2009/05/01(金) 08:18:16
日向が7万戸、薩摩が5万戸。別に不自然ではないよ。都が日向となれば
そこに人が集中するのはいつの時代でもあり得ることだろう。
狗奴国はそれほどの大国ではないとみるね。倭人伝においては旁国の一つ
して書いているにすぎない(戸数道里がない)。卑弥呼と対立していたと
いうだけで、大国扱いするのはまちがいでは? 倭人伝以外の中国史書に
もでてこないだろ。狗奴国は布志湾沿岸にあったと考えるね。
227日本@名無史さん:2009/05/01(金) 08:22:25
>>220
>例えば、後漢書、隋書、もし倭人伝の方向が誤りならば、遠慮なくそれを指摘したはずだ。

後代の史書を参考にするのなら
太平御覧は「連続読み」しているから放射説前提の日向説は成り立たないなwwww
228日本@名無史さん:2009/05/01(金) 08:31:10
>>226
それなら、畿内に30万戸の国を想定してもなんら不自然ではなというこだね
229日本@名無史さん:2009/05/01(金) 08:31:38
畿内、瀬戸内沿岸、山陰などを倭種ありと一括りにできるものではなかっただろう
恐らくは意図的に本州を隠したんだとしたほうがいい
本居宣長みたく勝手に九州の部族が邪馬台国として偽ったというよりも
奈良の大和朝廷の意向により九州内にあるかのように工作した
神獣鏡みたいに偽物作ってたんだし、来てもらっては困る理由なんていくらでも考えられる
東を南だとするよりも突飛な考えじゃない
230日本@名無史さん:2009/05/01(金) 09:02:12
結局、この板の多くの九州説は文献に過剰な信を置くあまり
どんどん先鋭化してしまっているwwww

「他の事はともかく方角だけは絶対に間違っていない」
と言う根拠を見出す事もできず

五万戸だの七万戸だの、およそ現実味の無い数字も肯定せざるを得ない。

で隋使がたどり着いた先は大和ではなく九州の何処か
もう九州王朝説と何ら変わりない事を主張する事になる
>>220あたりなら差し詰め「日向王朝説」だなw

畿内説は何も
「方角” だけ ”は間違っている」
と言っているわけでもなんでもない。


まあ方角は絶対に間違っていないと言うのなら
「当に会稽の東治の東にあるべし」
これをどう解釈するのか合理的な説明をしてもらいたいものだwwww
231日本@名無史さん:2009/05/01(金) 09:03:55
8世紀の日本の推定人口450万人
3世紀の日本の人口はこれよりやや少ない300万人から400万人ほど
この内九州の人口は60万人から70万人くらい
一戸の人数を5人として五万戸、七万戸で60万人
邪馬台国と投馬国で九州は満杯です。
邪馬台国は伊都国や奴国など26国の北部九州の連合国、
投馬国は朝鮮半島南部の国と考えると丁度いい。
南九州は狗奴国ですね。
232日本@名無史さん:2009/05/01(金) 09:44:42
見てきたような嘘をよくもまあ平気で書けるものですね。お見それしました。
233日本@名無史さん:2009/05/01(金) 10:18:28
>>230
七万戸くらすの集落というか都市は箸墓近辺に見つかったの?
>これをどう解釈するのか合理的な説明をしてもらいたいものだ
魏志倭人伝の方角はおおざっぱだというのは共通認識だよね?
西ではない、北ではない、南でもない
まさに倭人伝の言うところの東の方角だわな
何ら問題は無い
234日本@名無史さん:2009/05/01(金) 10:37:17
>>230
無理難題を押し付けるものではない。
例え合理的な説明をしても、それらを理解できる度量の備わらない者には
合理的な説明と受け取れず、説明側の無駄骨となること必至
説明を求める前に、受け手としての度量を磨いて下さい。

貴方は合理的な説明をされた時、それを判断できるだけの能力をお持ちですか?
235日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:20:23
>>226
米の穫れないシラス台地で7万戸ですか。
日本の全人口が400〜500万人の時代に。
236日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:29:03
>五万戸だの七万戸だの、およそ現実味の無い数字
一支国だけでも三千あるんだからねえ。
十分に現実味のある数字だと思うよ。朝鮮半島と比べても自然な数字だろ。

>「当に会稽の東治の東にあるべし」これをどう解釈するのか
会稽の東冶ではない、会稽と東冶と読むんだよ。これは郡からどのぐらい南へきたか
それを計算して出したんだろう。万二千里のうち南へ進んでいないのは朝鮮半島南の
「乍東」と東南陸行五百里の部分のみ。要するに計算では、郡から南へ一万里ぐらい
から女王国が始まるということ。それが会稽なんだよ。短里で考えてみな。ぴったり
だろう。
237日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:37:28
>>235
日本の全人口が400〜500万人という思い込みを捨てるべきだろうな。
238日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:41:55
>>236
短里で考えろと書いてあるの?
単なる思い込み、あるいはつじつま合わせ?
239日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:51:30
倭人伝が短里で書かれていることは事実。あなたもそれを疑わないでしょう?
それとも、陸行五百里の伊都国を日向に比定するとか?
240日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:05:17
>>233
>七万戸くらすの集落というか都市は箸墓近辺に見つかったの?

この人の反問でわかるが、こういう戸数の認識はナンセンス。

何々国の戸数が幾らとは、何々国の領域にある全ての戸数の合計のこと。
発掘で見つかったある一つの集落遺跡の戸数のことではない。
九州説だってほとんどの人はそう考える。
241日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:14:16
>>235
>会稽の東冶ではない、会稽と東冶と読むんだよ
別に確定したことじゃないよw
242日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:15:26
>>239
言ってる意味がわからない。

結局つじつま合わせ?
243日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:16:45
>>240
へぇ〜、当時から国勢調査あったんだね
244日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:26:13
結局さ〜
>>239が言ってる事って

答らしきものを先に設定して、後からその答えらしきものに
たどり着く式を考え
最後に問題を文献から見つける
考古学と同じじゃん。
245日本@名無史さん:2009/05/01(金) 12:30:06
>>243
あなたは魏志倭人伝や韓伝にある戸数の数字を、一つの集落の戸数とするわけだね。
ナンセンスだよ。

現在の「国勢調査」のようなものはもちろんなかった。しかしそんな大掛かりな調査をしなくても、
国の領域にある戸数全体を知ることは幾らでもできたでしょう。
数字を把握している人間もいたでしょう。
246日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:07:14
九州で見つかっている弥生時代の環濠集落で最大規模のものは吉野ヶ里遺跡だが
外環濠内の人口は最盛期で1200人くらい
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=6
247日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:15:00
>>246
国の員数を言う場合は、環濠内の住人だけを指すんじゃないよ。
生活人は、むしろ環濠外に圧倒的多数が住んで、水田・山野と共に日常生活を送っている。
それらを含めて環濠内組織の威令が及ぶ範囲が「国」。
環濠内は、「都市」機能、システムと市場機能。
248日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:30:34
>>244
考古学ってそうゆう学問なんですか。
249日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:30:54
環濠内に住んでいた人は当事の支配者階級でしょう、
環濠外には数十倍から数百倍の人達が居たでしょうね。
250日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:39:32
当時の弥生人は縄文人以下ってことでよろしいですか?
251日本@名無史さん:2009/05/01(金) 13:50:11
>>247
当時の社会が環濠内だけで成り立っているのではなく環濠外も含めて一つの支配領域とする点は賛成。
拠点的集落プラスその周囲に点在する小集落・・・こんな図式だな。

だがそうした一領域は県(アガタ)なのであって決して国(クニ)ではないだろう。

この点は後日述べさせてもらおうと思っているのだが近年の日本史教育が大きく間違っている公算大。
252日本@名無史さん:2009/05/01(金) 14:00:50
あらやだ
>>248たら、肝心な部分には反応しないで、考古学に勃起しちゃったの?
じゃあ、勃起しないように、墓荒らしはどお?
253ローガン:2009/05/01(金) 14:24:08
>>231

> 3世紀の日本の人口はこれよりやや少ない300万人から400万人ほど

この数字は何に基づいたものですか? ソースをヨロシク。
鬼頭説の二倍以上だが…
254日本@名無史さん:2009/05/01(金) 14:45:55
255日本@名無史さん:2009/05/01(金) 15:28:09
>>253
いや、そういうことが大事ではないのだ。
人数をカキコした者ではないが、
当時の日本列島が周辺地域と比較して圧倒的に人口が多かったという比較が大事。
朝鮮半島全体に比較しても満洲とでも沿海洲とでも燕の国(北京周辺)とでも
山東半島とでも、越南・ラオス・カンボジア・タイ諸地域とでもだ。
たぶん、大陸の揚子江以南全部(後の楚や呉の国家)ひっくるめても日本列島の方が
はるかに人口密度高かったでしょうね。
北海道、樺太、沖縄、台湾は、言うに及ばず。
256日本@名無史さん:2009/05/01(金) 15:39:33
>>254
そのグラフは鬼頭説を元に作られている。
鬼頭説では、弥生時代(西暦200年頃)の人口を約60万人としているが…。
257日本@名無史さん:2009/05/01(金) 15:49:20
グラフにすると鬼頭説は矛盾していることが分かる。
258日本@名無史さん:2009/05/01(金) 15:56:26
>>214
伊都国からの放射説。榎以来、多くの人が放射説の正しさを認めています。
一度、検討されてみては。

>>227
>太平御覧は「連続読み」しているから放射説前提の日向説は成り立たないなwwww
太平御覧が「連続読み」だというのは、どうしてかな?
倭人伝の書き方が放射式を示すものでないと言う考え方からすれば、太平御覧の書き方も
連続式とは言えないというべきだと思うが。

259ローガン:2009/05/01(金) 16:05:49
>>256

> そのグラフは鬼頭説を元に作られている。 鬼頭説では、弥生時代(西暦200年頃)の人口を約60万人としているが…。

そうですね。1800BPで約60万ですね。
http://jig113.mobile.ogk.yahoo.co.jp/fweb/0501PxnoRzd0tYjB/a?_jig_=http%3A%2F%2Fhome.hiroshima-u.ac.jp%2Fer%2FEV_P_NJ1.html&guid=on&_jig_xargs_=R

そのグラフ、基づいたのなら何故だろう?

>>255さん、よければその根拠を…
260日本@名無史さん:2009/05/01(金) 16:59:25
>>258
>太平御覧が「連続読み」だというのは、どうしてかな?
ん?

 魏志倭人伝「水行十日、陸行一月」
 太平御覧 「 又南水行十日陸行一月」

…と邪馬台国までアタマに「又」の文字を付け明確に連続式に読んでいる

(「又東行百里至不彌國」「又南水行二十日至投馬國」等々・・・
 ちなみに梁書倭伝も同様だが元々同じ様なもんだから当たり前だがw)

と言うのが一般的解釈だったと思うが?

ちなみに内藤湖南はこれに対しすっきりした読み方と評価していたと思うが
(もっとも湖南の時代に放射説なんか議論の遡上に上っていたかどうかはしらんがwww)
261日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:04:10
>>258
放射説は、投馬国を随分遠方に持って行く為に(伊都国を基点に)案出されたものです。
すなわち、「至投馬国水行・・・」を「二十日」と読むところから誤解が生じています。
ここは「二日」です。即ち、不弥国から水行二日が投馬国の位置です。
当初、竹簡に「三」と彫ったのを誤りに気付いて、一番下の横棒を縦線を彫って削除の意を表わした。
後世、これを紙の資料に写す際、文字と誤ってしまったものです。
従って、放射状読みという無理な案出をする必要が無かったのです。
262日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:46:00
倭人伝の行程記事についてワーワー言い出すと
途端に「歴史」を議論する雰囲気が失せて
白けた気分になってしまう俺・・・・・
263日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:57:10
畿内説、それも邪馬台国=河内であることは、纏向遺跡の発掘で現実化した。
纏向遺跡=大国主命率いる出雲族だから、ほぼ1世紀半の後、これを出雲国へ追った後の大和政権は
河内で強大化した政権=邪馬台国に他ならない。

たとえ1世紀半という期間であっても、九州の故地を捨てた流民集団であるハズがない。
邪馬台国はそのままその地で「謎の4世紀」にも河内王朝として継続発展し葛城山地を越えて
勢力拡大し大和政権となった。

なお、纏向遺跡=出雲族は、邪馬台国の時代は大した勢力ではなく、狗奴国との間(あいだ)に存する
国名だけの20か国(21か国?)の内の1国程度だったのでしょう。
264日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:00:36
>>262
放射説が、九州説唯一の根拠だからだよ!
九州説を主張する者が居なければ、何も行程を殊更採り上げることもない。
九州説を唱える限り、行程読解の誤りを指摘し続けなければならない。
265日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:14:54
ほらまた欲しい結論だけを書き殴る阿呆が涌いて出たよ
266日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:16:07
結局2ちゃんのこの板の場合、
「畿内説」をとるか「九州王朝説」をとるかの実質二択だからなwwww

あくまで方角による自説のアドバンテージ、あるいは畿内説の否定の為
を死守する為には隋使の訪れた地も大和であっては都合が悪い等々…

267日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:32:27
>>262
想像の世界を断定口調で書くから白ける
こんなアホと議論というかレスのやりとりせにゃならんのかと思ったら
どうでもよくなる
268日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:35:45
南は東なのは定説
二十日も二日なのは当たり前

もういいや
ホント呆れた
269日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:47:54
>>261>>263
う〜む、卓見だなあー。
これらを覆す材料が無い。そうすると、今のところ定説と認めざるを得ない。
270日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:50:06
>>268
それは、既に何十年も前から、一家を為す説じゃなかったっけ
271日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:58:49
>>261
>当初、竹簡に「三」と彫ったのを誤りに気付いて、一番下の横棒を縦線を彫って削除の意を表わした。

竹簡・木簡には字を彫らずに筆で書くよ。

ttp://abc0120.net/words/abc2007102610.html

刀筆の吏という言葉が有るように、筆で書いて、間違ったら小刀で削って消す。
だから「三」と彫ったとか、縦線で削除したとかはない。
そんなことを考えなくても、そもそも倭人伝は陳寿の直接の見聞ではなく、
又聞の資料で編纂されたんだから、数字が絶対正確なはずがない。
272日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:59:09
九州説は、畿内説を、瀬戸内地方に有力国が無いことになる、と言って反論するが、
邪馬台国の南に国名を挙げているのが、瀬戸内・山陰地方の国々だ。
南と言ってるのは、西の誤りでしょうね。
狗奴国は、やはり近江か尾張でしょう。
九州説は、方角をどうの、と言うが、方角は、時により陳寿の意に沿えば良かっただけのことだから、
あまり意味無いよね。
273日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:00:32
瀬戸内を実際に航海して東を南に間違えることはあり得ない
朝に船上から日を迎え夕に船上にて日を送ることおよそ一月
そんな生活をしていて間違える筈は無い

ろくな測量技術を持ち合わせず、北東のアジアをおおざっぱな俯瞰として眺むるにおいて
現代の精緻なる北東地図の方位と違うとする論拠

もうね、アホかとバカかと。。。
274日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:03:12
>>273
間違えたのではなく、方角は陳寿が意図的に変えた
275日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:11:48
そもそも魏使が方角なんて気にする必要があったの?って話で

そりゃ「オリエンテーリング」よろしく地図を頼りに自力で邪馬台国を目指したのならともかくwww

当然邪馬台国側・倭国側のガイド先導のもと進んだのであって
何が悲しゅうて、朝晩に地平線の太陽を確認し、夜に北極星を観測しなければならなかったのか?w

お前ら土地勘のないところに行って文字通り
「西も東も分からない」状態になった経験はないのかよ?w

276日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:27:05
魏の使者は東を南に変えた
いや、その頃には太陽は北から昇って南に沈んだんだろう
で、東の海に倭種
ってことは北に海が広がりその向こうに倭種がいたんだ
樺太かね?
いや、そのころには太陽は東から昇りだしたんだ
よくわからんが、とにかく何でもありだ
この際、そういうことにしちゃえ
ただ一つ注文がある、考古学とか歴史学とかいう冠は外せ
ファンタジー漫画の世界にいろ
277九州王朝大好き:2009/05/01(金) 19:40:19

畿内説の連中は、ついに壊れたようだ。
278日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:40:37
伊都国に関してなんだが、九州説論者の中で
伊都国を通説どおり福岡県前原市辺りと考えている人、いないかな?
この板の常連でもたぶん何人かはいると思うんだが。
それとも伊都国=前原説は、九州説論者にはもういなくなってしまったのかな?
279日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:08:40
投馬国の位置比定が間違っています。
投馬とは、「とば」のことです。

不弥国から水行20日ですから、関門海峡から瀬戸内海にはいり、
大坂湾口より淀川を遡れば山城南部の巨椋池の尽きる果てが「とば(鳥羽)」です。水行20日です。

ここから水行10日ですから、宇治川を遡り琵琶湖の東端岸(米原あたり)です。
そして陸行1月ですから、駿河は今の静岡市、河の下流を避けて静岡市西方の山手が邪馬台国。
邪馬台は「やまた(山田)」です。単に山と田が有るという意味。魏使には「ヤバタィ」と聞こえた。

狗奴国は、後の奧州政権(奥州藤原)となる前身の有力国なのでしょうね。
280日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:26:00
>>260
>アタマに「又」の文字を付け明確に連続式に読んでいる
と言うことは、「又」の文字がないのは連続式ではない可能性があるということ
だよ。少なくとも、明確に連続式ではないんだ。
そこを冷静に検討すると、倭人伝は放射式だってことに気づくわけさ。
281日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:38:55
>>280

そう現状では「可能性がある」と言う事だろうなw
故に今でも放射説は実しやかにうたわれている。

だが可能性があるからといって
「倭人伝は放射式だってこと」と断定できるわけじゃない。

では梁代の中国人は何故連続式で読んだのか?

  1・倭人伝の表現は曖昧だったとしても連続式で読むのが
   素直な読み方(←この板の九州説の常套句w)だったから
  2・大和を念頭においたから

1の場合やはり蓋然性ということでは連続式に軍配が上がる。
2の場合は梁代の中国人から見ても大和は九州から一路南の位置にあっても構わない事になる。
28218:2009/05/01(金) 20:42:27
倭人伝の方角や数値が絶対正しいとして読むのは一つの方法だが、それを100年以上やっても
結論は出ていない。資料批判はどうしても必要。他スレに書いたものだが・・・

@倭人が間違えたり、不確かなことを言ったり、ごまかした可能性。
A通詞、あるいは魏使が誤解したり、自分の都合のいいように解釈した可能性
B陳寿が、晋代の概念に沿って書き換えたり、資料が混乱した可能性

これらがそれぞれ5%あるとして、信頼度100の情報がどこまで低下するか?
283日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:54:10
昔の地図で日本の角度が90度回転してるのとか合った気がするけど、この方角問題と関係合ったりするのかな?
284日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:58:56
鹿児島から沖縄付近まで陸続きだったと見るのが一番妥当。
28518:2009/05/01(金) 21:04:16
そもそも、原典批判はしてはならないが解釈は自由、というのは文献史学の方法ではないし
社会科学の方法論ではない。「原文をみだりに改変してはいけない」などというのは、2ch
か古田氏だけ。

例えば 原典批判をして 南→東とする。まあ、おおざっぱに言って合ってるか、間違ってるか
の二つに一つと考えてみる。

また、倭人伝の読みを解釈して、放射式とするのも、合ってるか間違ってるかのどちらか。

どちらも学説として出されている以上、元来罪はないのだが、もし間違っていた場合、後代の
研究者を惑わせるという点で罪深いものであることに変わりない。

286日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:07:28
あー、そういや読谷=邪馬台説とかもどっかで見た気がするな
28718:2009/05/01(金) 21:14:10
一般的に文献史学では、2つ以上の一級資料を比較して、同一記述であればまあ史実。祖語が
あれば、解を第3の資料に求めるというのが一般的な方法論である。
ところが邪馬台国に関しては、確実な同時代資料は倭人伝しかない。記紀もある、という
人もいるだろうが、あれから史実を抽出するのはきわめて困難。

であれば、南を東に変えて読むのも、考古資料を援用するのも、民俗学等を援用するのも
この場合はどれも正当な方法論として認めざる得ないと考えられる。
288日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:15:59
>「原文をみだりに改変してはいけない」などというのは、2chか古田氏だけ。

(うーん表現的に「改変」は不味いかな?と言う気もするがw)

まあ話はチョー簡単。

そうしないとこの板の九州説の殆どが興じている
「ゲーム」が成り立たないからだよワトソン君wwwwwww
289日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:20:05
>>281
「又」がないってのは一つの問題だが、それだけではない。次に、語順だ。
何のことかは知ってるだろうな。次に「郡使の往来、常に駐する所」だ。
これらを合わせれば、それは単なる可能性ではない。百パーセント、放射
式と断定できるんだよ。
290日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:25:56
>>283
それが正に岡田英弘が言ってる「呉の背後の海上に邪馬台国があったことにした」のと符節しているワケ。
後世、マルコポーロが中国で見せられた地図も南北反対(というか、南・東反対)の地図。

中国内陸部の者は、(知識人・権力者含め)日本を逆さまに歴史上永らく認識していた。
即ち、九州が朝鮮半島に最も近く、あとの列島は九州の南に続くと。
291日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:27:31
>>289
ん?

>百パーセント、放射式と断定できるんだよ。

これまた大きく出たなwwwww

スマンが語順云々で放射説の材料とするとかいう話は知らん。

こっちは御覧の連続読みの事についてきちんと答えたんだ
ギブ・アンド・テイクで教えてもらえないかね?

それに「郡使の往来、常に駐する所」の話も何を言っているか皆目分からん。
自己完結していないでそれについても説明頼むわw
292日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:29:49
>>289
なら、放射式の用例を複数出せばいいんじゃない?
293日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:31:40
>倭人伝の方角や数値が絶対正しいとして読むのは一つの方法だが、それを100年
>以上やっても結論は出ていない。
それは、これまで伊都国は怡土だと思い込んでいたからだよ。怡土とした場合、倭人
伝どおりに進むことはできなくなる。そこで、倭人伝は間違っていると決めつけてあ
れこれ勝手な改変をしていたわけだ。
しかし、伊都国=佐賀と気づいたときに全て解決したんだよ。佐賀となれば、あとは
倭人伝どおりで改変する必要がない。疑問はなくなったわけだ。
294日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:35:38
ようするに、伊都を佐賀と比定したいがために
ここまで長々と引っ張ったわけ?
馬鹿らし。
295日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:41:23
>>289
「常に駐する所」だから、そこから放射式に読まなければならないことはない。
放射式に読むなら、必ず句のアタマに「或」の文字が無ければならない。
この文字をミスにより全ての句のアタマで落とした、とは考えにくい。

漢文語法が完熟の域に達して久しい晋の時代で、行程を次々と羅列する書き方は、
直前地点から直線上に読む文に決まっている。
そうじゃ無いと言う向きは、漢文そのものを認めないか知らない全く無知な人である。
漢文の基礎を学んだ人なら必ずわかること。

従って、不弥国→邪馬台国の「水行十日陸行1月」も、水行十日後の地点から更に陸行して1月
の距離にあることを指示している。
296日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:48:00
>>290
そのマルコポーロまでの間に何人の日本人が大陸半島を行き来してんのやらw
297日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:51:21
>放射式に読むなら、必ず句のアタマに「或」の文字が無ければならない。
勝手な原則を捏造しないことだね。放射式であることが明白な事例として紹介されて
いる文章にそんな文字はないな。

>漢文そのものを認めないか知らない全く無知な人である
それにしては、放射式で読む学者等が大勢いるね。

>従って、不弥国→邪馬台国の「水行十日陸行1月」も、水行十日後の地点から
>更に陸行して1月の距離にあることを指示している。
結論に反対する気持ちはないが、この部分は放射式読み方とは無関係だよ。


298日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:53:20
漢文には、少々詳しい。そこらの高校の漢文教師よりは(或いは大学教授よりも)詳しい自信がある。
代々、漢籍の正統註釈書と漢文詁註を伝える家系であるが、
倭人伝の行程文は、すべて直線上に読むべき文態であること間違い無し。
どこを基点にしようが、「放射状」読み方なんてあり得ないことを断言しておく。
29918:2009/05/01(金) 21:54:27
>>290
室賀信夫説だね。これはよく誤解されることだが、室賀氏は「混一疆理歴代国都之図」↓
http://www.ryukoku.ac.jp/university/kouhou/shuppan/kohoshi/kohoshi60/11_treasure/treasure.htm
は自説の根拠として取ってはいない。それ以外の膨大な室賀古地図コレクション等から
推理して、古代中国知識人の、九州を頭にして南方に伸びる、倭国に対する地理観を
証明している。

マルコポーロ時代はまた別の話だが、10世紀ころにはペルシャあたりで、黄金の国
ワクワク=倭国??が地理学者の間で話題になっていたという興味深い話もある。
300日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:57:03
漢文の基礎を学んでも、日本語との違いを学ばないから
何時まで経ってもらちがあかない。
漢文が日本語で表現できると考えているんだから
しまつがわるい。
301日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:02:15
>>296
日本の遣隋使遣唐使で彼の地に渡った知識人(僧など)も、日本列島は朝鮮半島はずれから
台湾以南海上へ長々と伸びる形と思い込んでいた。(中国所在の絵図から)
司馬遼太郎の『空海』にも、その点、史料類を引用しながら諄々と書かれているから参照を。
また、足利義満も明の使者から見せられて同様に思い込んでいたことは、
松田毅一『南蛮史料の発見』(中公新書)に詳しい。
302日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:05:27
>>297
その学者達は史学者ではあっても、決して漢学者ではない。
彼らは、漢文をマトモに読めない。
「放射状読み」が無いことは、我々良識有る漢学者が戦前より指摘してきた点である。
303日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:05:47
>>301
それじゃ、下関から大阪までは南に向かうと日本人も信じてたわけだw
304日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:09:04
>>300
わかった風な口きくなよ!
漢学者からすると、その口吻は噴飯物だよ。
305日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:10:37
>>303
義満の時代は、未だ大坂は無かった。
306日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:14:34
倭寇や日本の海賊達は、日本列島がどう伸びているかぐらいは知っていただろうよ。
知識人や権力者が、義満の時代でも、そんなんだ!ということ。
307日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:16:40
>>297
>放射式であることが明白な事例として紹介されて
>いる文章にそんな文字はないな。

その明白な事例を紹介してくれ。後学のために読んでみたい。
30818:2009/05/01(金) 22:17:02
少なくとも行基図以降の日本人は、きちんとした方角の認識はあっただろう。↓
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/3-1.html
ただし行基(668〜749)が実際に作ったかは大いに疑問。
309日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:19:32
>>298
ほう。では次の文章はどのように読むかな?
大宛国、王治貴山城、去長安萬二千五百五十里。・・・東至都護治所四千三十一里、北至康居卑門城千五百一十里、西南至大月氏六百九十里。
310日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:26:19
そりゃ倭人伝に南にずっと伸びるって書いてるから列島が南北に長いという認識は持って当たり前
ただそういうこと
近世に至るまで中国の日本列島における認識が南北に延びているものだから
瀬戸内が南北に渡っていたという論拠に全くならない
列島を呉の背後に置きたかったのなら、その東の向こうの倭種とせずに、
狗奴国のまた南に倭種とすればいいだけ
311日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:29:43
>>304
でも、事実だから仕方ない。
312日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:30:12
42スレ目になったけど、元に戻っちゃった感じw
31318:2009/05/01(金) 22:33:45
漢文の話は、俺は大学の必修で嫌々やってるけど、先生に聞いたら放射状には読めない
って言ってた。しかし、これは根拠を示せるわけでもなく、水掛け論だろう。
314日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:38:49
>>311
キミの学んだ「漢文」だけのことだ。
漢学研究者が、返り点や送りがなを付けて読むものか!
初學者と同じにしか、専門家を見ないから、そんなことを言うんだ。
315日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:47:47
>>313
もともと議論なんて成立しないのさ
各々が持ち合わせている能力や知識なんて、人それぞれだし
相手が必死に説明しようが、聞き手にその説明を理解できるだけの能力がなければ
無駄骨
聞き手はそれをトンデモと解すだろう。
だって聞き手は、説明者の能力より劣るわけだから
説明はチンプンカン
理解できないんだから
316日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:52:48
放射説の場合は、南水行の起点がどこかというのが問題かな。
つまり、伊都国が前原とすれば、南に水行というのは地理的におかしい。
317日本@名無史さん:2009/05/01(金) 22:53:30
>>314
何故そんなに必死なの?

どんな大学者か知らないが、倭伝一つまともに読めない大学者である事は確かだな!
318日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:03:52
>>316
単に間違った読み方しているだけ
319日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:07:34
やはり、倭人伝の文章的にも、あるいは地理的にも一番納得できるのは、
有明海に出る行程だろうな。
320日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:10:11
>>319
ないない
321日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:13:11
>>319
そのとおり。ところが、そんな単純な話ですら理解できない連中が多いんだから
あきれるよ。
322日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:17:57
>>278
九州説の者です
伊都国は旧イト郡だと思っています
末ロ国から伊都に向かうにはまず「東南」に陸行せなばなりません
「東南陸行」とはそれを記しているのだと思います
今の感覚では壱岐から一気に今宿(個人的には伊都国の中心は前原でなくこのあたりだったのではと感じています)
まで行ったほうが早いのではないかと感ずるのではないかと思いますが
古代人は慎重に慎重を期して航海したのではないかと思っています
それが「前を行く人が見えない」ほどの末ロ国に上陸した理由ではないでしょうか
末ロ国には官がいません、このこともこの国が非常に未開で「上陸地点」として機能していたということの証左のように感じます
あるいは伊都国直轄の国ではなかったでしょうか
伊都国のみ副官が二人いることがそれを物語っているようにも思います
323日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:18:06
同じ内容がループしているだけの、
アルツのスレはここです?
324日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:18:10
と、単純な>>321が申しています。
マジで読めないんだね
325日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:20:08
>>323
はい、そうです。
その証拠に、貴方がこうしているじゃありませをんか
326日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:20:59
>>321
理解できないというよりも、里程・日程という邪馬台国論争の入り口のところで
畿内説と北部九州説が否定されてしまうわけだから、納得するわけには
いかないというのが本当だろうな。
327日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:41:15

伊都国を佐賀方面に持ってくるのは九州王朝大好きとサガミハラハラだけで
ほかの同傾向のレスは二人が代わるがわる名無史に成りすまして書いているだけだろう。
いちいち反応していたらキリがないし彼らの思う壺だからスルーしたほうがよい。
彼らに付き合っていると糸島や博多という古代の重要地域が議論の俎上に上がらず切り捨てられてしまう。
328日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:51:20
>>327
ほう。こうゆうのがあるのも知らないのか?
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/
前者は放射説、後者は連続説だな。
329日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:03:30
そう言えば、漢籍の大先生は>>309を読めないのかな。
330日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:23:03
なら、放射式の用例を複数出せばいいんじゃない?
331九州王朝大好き:2009/05/02(土) 00:25:14
>>327
>糸島や博多という古代の重要地域が議論の俎上に上がらず切り捨てられてしまう。

決して切り捨ててはおりません。
糸島や博多が歴史の表舞台に出てくるのは1世紀までと、
博多が再度表舞台に出てくるのは7世紀です。
博多にも強大な勢力はありましたが、
残念ながら2世紀から6世紀までは名脇役と言うところでしょうか。
332日本@名無史さん:2009/05/02(土) 01:09:58
>>329
大先生じゃないけど、横レス。
大宛国の記録は、移動を前提としていない一国の説明。動かないんだから放射説で読むしかない。
倭人伝の方は、「従郡至倭」と郡から倭までの移動の説明。
出発点から目的地までの説明と提示しているんだから、横道に逸れる放射説に読みようがない。
一定地域の解説と移動の解説を並べるようじゃ、大先生に漢文を読めてないと怒られても仕方ないよ。
333日本@名無史さん:2009/05/02(土) 01:28:47
>>329
それって隋書か唐書の西域伝か何かで、それこそ、その例を引き合いに出して、
「だから、倭人伝は、連続読みするんだ」みたいなこと言ってなかった?
――上にあった岡田英弘だったか誰かが・・・。
理由は、「文の調子が異なる・・・」とか何とか・・・?
後漢書の西域伝も引用していたみたい?
334日本@名無史さん:2009/05/02(土) 02:07:05
>>332
漢文のかの字も読めない人間が更にヨコレス。

まあ聞くは一時の恥wwwww

それは放射状のコース上に挙げたクニを移動の対象としない事でクリアできないかな?

だから伊都国起点の放射説なら魏使は伊都国まで来て
そこから先は行かなかった・・・と。

まあ自分で書いて「そりゃないだろう」とは思っているが
魏使は邪馬台国の卑弥呼のもとにまで行っていない
…と言うのは結構実しやかに謳われる説でもあるし…
335281:2009/05/02(土) 02:12:00
>>289

で、「語順」と「郡使の往来、常に駐する所」の二つの組み合わせで
100パーセント放射説で決まりと言うのは
如何なる理屈なのか説明してもらえないのかな?

もっともそうなると梁代の宮廷に仕えた文官や現在に至るまで連続式に読んでいる人間は
揃いも揃って馬鹿ばかりと言うことになるがwwwwwwww
336日本@名無史さん:2009/05/02(土) 03:53:23
>>326
それそれ
いくら温めても無精卵は孵らないのに
不毛と言うか不憫と言うか…
337日本@名無史さん:2009/05/02(土) 04:14:38
南九州は無いわ。

文化らしきものが、何もないのに。

338日本@名無史さん:2009/05/02(土) 04:32:32
>>332
>大宛国の記録は、移動を前提としていない一国の説明。
>動かないんだから放射説で読むしかない。
移動を前提としない一国の説明かどうかは、どうやって決めるのかの問題だよ。
放射式で読むべきだという判断があってこそ一国の説明だと言えるのだ。
339日本@名無史さん:2009/05/02(土) 04:52:05
>>335
語順・・・伊都国までは、方位・距離を示して到着する地名をあげるとか、間に
進行する語を挟むなどして進むことを示している。
伊都国以後は、「東南、至る奴国、百里」のように全て一葉に方向・地名・距離
の順序に並んでいる。伊都国以後は距離を示した形であり、放射式を感じさせる。
「郡使の往来、常に駐する所」・・・これは伊都国だけの話ではなく、それまで
に出てきた4か国の話。往来の際、4か国は常に経由する所だ、という意味であり
反対解釈として、伊都国以後は経由国でないことを示したもの。
340日本@名無史さん:2009/05/02(土) 05:14:54
>>334
> 魏使は邪馬台国・・・まで行っていない

それは無いわ。
魏へ朝貢使を送っているから、必ず中国朝廷は答礼使を遣わす。卑弥呼の下へ行くのは常識。
答礼使集団は周辺政権の偵察が主目的だから、必ず政権中枢の首府まで行くのは当然。
341日本@名無史さん:2009/05/02(土) 05:29:11
>>337
阿蘇は有り得るかな?
342日本@名無史さん:2009/05/02(土) 05:58:28
>>341
阿蘇は無いわ。
当時も今も世界一の、あの大火山のことを触れないワケが無い。当時、常時活動中。
中国朝鮮には火山が無いんだぜ。魏使が活動中の阿蘇を見れば、どれだけぶったまげるか。

九州北岸沿いに関門海峡→瀬戸内海へのコースしか知らない証拠、畿内に至るも火山無し。
従って、静岡説も近来学界で最も有力な説ではあっても、この点をクリアしていないのが弱点。
343日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:11:52
まあね、魏使は、そら邪馬台国まで行っただろう――。
しかし、陳寿が資料に使ったほどの報告記録を書く者は、魏使では無く、もっと身分の高い文官。
そういう者は、海なぞ怖がって、よう渡らない。
倭地へすら行ったことのない高官が、宮廷で魏使から聞いて書いたものだ。
それが、第1次記録だ。
344日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:33:19
九州説でも畿内説でもこれだけ矛盾点があるんだから行ってないんだろうね。
345日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:37:50
やっぱり資料を読む限りは畿内説にはならないよね
解釈がどれも強引すぎる
346日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:41:41
対馬と壱岐がほとんど同じ大きさに描かれてる時点で気づくべきじゃないのか?

こりゃ、直接見てきてないよ
347日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:55:25
>>334
>それは放射状のコース上に挙げたクニを移動の対象としない事でクリアできないかな?

それは、ちょっと無理だろうと思うよ。
なぜかというと、文の冒頭、大主語あるいは提示語と言われる部分が読者の意識を縛るから。
冒頭部分は、読者の意識を縛って、何の説明かを明確にするために書かれる。
漢書西域伝大宛国の条の方は、文の冒頭に「大宛国」と記されている。
これから大宛国の説明をしますよという宣言。
だから、それ以下の記述が大宛国から他所へ移動する事は無い。
方角が書かれていると、大宛国の位置に立って、その方角を見る事を意味する。
つまり、順次式に読みようがない。
順次式に読むと、大主語から外れる内容になってしまうから。
倭人伝は、文の冒頭(倭人伝全体ではなく、この節の冒頭という意味)に
「従郡至倭」と記されている。
これから郡から倭への行程を説明しますよという宣言。
だから、それ以下の記述が行程以外である事は無い。
方角が書かれていると、それは移動する方角を意味する。
つまり放射式に読みようがない。
行程から外れて、放射式に周辺諸国を説明するのなら、
改めて、周辺諸国の説明であるという大主語、提示語(例えば「其周辺」とか)が
明記されていなければならない。
そして、倭に至る行程の説明に戻るときに、再び行程の説明であるとの大主語が必要になる。
348日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:59:54
短里とすればぎりぎり壱岐の大きさかな?って感じで
対馬はあり得ないほどの小さくなってしまう
長里とすれば両島とも全然合わないし
349日本@名無史さん:2009/05/02(土) 07:14:12
>>338
>放射式で読むべきだという判断があってこそ一国の説明だと言えるのだ。

そうじゃないという事が、上の347の説明で解ってもらえたと思う。
放射式で読むという判断が先にあるんじゃなくて、何の説明かの判断が先にある。
それが一国の説明なら放射式、行程の説明なら順次式と読むしかないということ。
350日本@名無史さん:2009/05/02(土) 07:21:00
方角さへ無視すれば畿内のイメージなんだけど
投馬国が吉備だとしてら大阪は?尾張は?伊勢は?って感じがある
更に北方にある国と遠方にある国とを分けて
遠方ではない国に畿内の有力な地域が殆ど出てこない
この時点で緩やかな首長連合ってのは崩れる
もちろん纏向では近隣諸国からの土器が出土

やはり実際に行って調査はしてないんだろ
351日本@名無史さん:2009/05/02(土) 08:09:43
>>347
その大主語とか語順の件とよく似た趣旨で、何かの本に書いてあった。
松本清張が「放射状」を支持してるのを批判するために、その文章を引用して、
「倭人伝は、連続的に読む」と書いてあった。
352日本@名無史さん:2009/05/02(土) 09:30:34
>>340
>魏へ朝貢使を送っているから、必ず中国朝廷は答礼使を遣わす。卑弥呼の下へ行くのは常識。
答礼使集団は周辺政権の偵察が主目的だから、必ず政権中枢の首府まで行くのは当然。

そして、魏使は伊都国付近までしか来ていない。
つまり、伊都国が卑弥呼の都です。
「循海岸水行・・・有千餘家」の里数や狗邪韓國、伊都国を
「南至投馬國・・・可七萬餘戸」は日数や投馬國、邪馬壹國と言い直したもの。
「倭人伝は、連続的に読む」であるが、里数と日数は同じ行程を二度説明しているのです。
353日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:06:32
>>352

>魏使は伊都国付近までしか来ていない。

そんな事はない。
354日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:28:50
卑弥呼は外国の使者はもちろん、国内の要人とも接見しない。
唯一の窓口は男王。要するに囲われの身だということです。
したがって、邪馬台国の位置も秘匿されていた。
というか、そもそも存在しな邪馬台国などという国は存在しないのです。
355日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:35:18
>>354
ゴールデンウイークバージョンかな?


少有見者
356日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:04:52
古代巫女は神様と交わるために
幼少の頃から、男性との接触は避けられ
更には面を被らされ、とてもじゃないが普通に見られない顔に変容していたらしい
357日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:41:46

 その通り!

 邪馬台国に行ったものなおおらず、卑弥呼にあったという人物すらいない。
 邪馬台国は浦島太郎の竜宮城の話と類似点が多いことでもわかるように、
 おとぎ話の世界だったのだ!
358日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:12:04
トンデモ説は、いゝかげんにせぇーよ!
359日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:14:07
>>353 張政は邪馬台国まできて檄を飛ばしているが。
360日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:18:41
ありもしない国へよく飛ばせたものだな。
361日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:30:46
>>360
オマエだって毎日ティッシュの中に、精液飛ばしてるだろ
362日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:50:29
なんか春だな……
363日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:50:29
当方女性です
364日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:27:25
三世紀半ばの列島の内地に、強力政権が出来ていないとは、到底考えられない。
そうすると、大和か河内かは別として畿内であることは確実。
「陸行1月」が「1日」の誤りだというから、大坂湾の然るべき岸に上陸すれば、
なるほど1日行程で(後の)河内国の地域だ――そのまま河内政権へと発展、ウ〜ン・・・。
365日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:44:29
景初2年8月23日、公孫淵が殺されて公孫氏が滅び、帯方郡が魏の手に落ちる。

景初3年6月、卑弥呼の使者が帯方郡に到着。使者は12月に洛陽に到る。

卑弥呼の反応はすばやい、というか早すぎるような気がする。
帯方郡に卑弥呼の密使がいたわけではないだろうから、公孫氏滅亡の報は
噂的に広まり、倭人のいた南部に入る。

そこから、使者が走る。しかし、卑弥呼のいるところは、大海を超え、
さらに水行二十日、水行十日、陸行一月のところにある。往復4ヶ月。

使者が到着して、さてどうしようかと議論が起こる。
卑弥呼が決断し、朝貢の品を揃える。

計算上不可能ではないが、ちょっと無理があるような気がする。
本当に、伊都国あるいは不弥国あたりから往復4ヶ月もかかるところに
いたのかどうか。
36618:2009/05/02(土) 15:11:09
俺は魏使、邪馬台国まで行った説だな。
>金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。の「装封」というのは、封泥を
施したもので、ひもなどで品物をくくったうえで、結び目に粘土をかぶせ押印する。この
場合は「魏帝の璽」か?
これが、途中で開封されたら、使者は厳罰ですまんのでないか。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=92149
ただ、三国時代封泥の使用は廃れてきてはいるが。
367日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:27:02
>>366
卑弥呼は誰にも面会しないので、
どのみち別の役人に手渡すことになる。
368日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:33:40
ファンタジーレベルだけど
卑弥呼と台与は同一人物だと思ってる。
この時期にいろいろ大変なことが起こっているにも関わらず現状は元のまんまなんだよ。
369日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:42:51
>>352
「詔書報倭女王曰・・・」と、詔勅の形で出ている
詔勅のあて先は卑弥呼という個人
勅使の建中校尉梯儁は、本人の前に立って官符(官の命令書)と詔書(皇帝の詔勅)を読み聞かせる必要がある
いっぽう卑弥呼は、平伏して首から下げた玉類が音を立てないように左手で握り締めた状態で拝聴しなければならない
魏使が卑弥呼になっていない訳が無い
370日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:49:11
>>368
人々が現状維持を求めるから、同じようなタイプの王になった。
卑弥呼→台与がそれ。

男王が立つことにより、これは劇的に変わる。強力な男王が誕生することに
よって世襲制も生まれる。
女王では対応できない時代がやってきて、歴史が大きく変わった。
それが3世紀後半からだと思うな。謎の150年で歴史は大きく動いた。

巫女的な女王では対応できないこととは、戦いなので、狗奴国の存在が
大きかったのではなかろうか。
371日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:50:09
>>365
景初二年六月です。
372日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:53:19
>>371
景初2年6月は、公孫氏と司馬懿の戦いの真っ最中なので、卑弥呼が使者を
送るのは無理。だから、景初3年の間違いとするのが一般的。
日本書紀などには、景初3年と書かれている。
373日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:57:38
狗奴国と戦争してたんだよね。
それなのに微妙なバランスを保つために
二代続けて女王なんかな?
374日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:58:53
狗奴国と戦争してたんだよね。
それなのに微妙なバランスを保つために
二代続けて女王なんかな?
375日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:01:04
>>368
>>370
ファンタジーレベルなら卑弥呼と台与がアマテラスとして神格化されたとする方がまだ現実味がある。
実際、卑弥呼の死→男王即位とそれに対する反乱→協議→台与共立→男王追放(処刑?)、と
アマテラスの戸隠れ→スサノオの横暴→神々の協議→アマテラス復活→スサノオ追放の流れは似ている。
つまり台与は卑弥呼の再来、生まれ変わりと評価されていったのではないかな。
37618:2009/05/02(土) 16:04:14
俺は魏使途中でやる気なくした説。他スレで書いたが実に評判悪かった。
魏使は対馬、壱岐、末盧あたりまでは >草木茂盛して行くに前人を見ず・・・などときちん
と情景描写があるが、だんだんに国名、官名の羅列になっていく・・・のは、倭人にかぶと虫
などを食わされて、使が調査意欲を失っていくさまが、手に取るように伺える。ww
377日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:18:10
>>375
卑弥呼や台与ら実在の人物を、神話の神々と同一視するのは、史学の方法としては安直極まりない考え方だ。

似ている、と言うが、似ていない点も多々ある。
ただ単に似ているだけでは、古代史に疎い素人をその気にさせることぐらいはできるかもしれないが、史学界では決して受け容れられない。
37818:2009/05/02(土) 16:20:59
>>375
俺は畿内説なんで、比べるんなら 卑弥呼→男王→台与 は 倭迹迹日百襲媛命→崇神帝
→豊鍬入姫・・・有名な説だが、異論は多いだろう。
379日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:22:27
狗奴国=くなこく=きのくに=紀州
380日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:31:10
女王国に従わない国があり、しかも戦争してる
そしてまた、主権を脅かされる危険もあるのに外国に窮状を訴える
それほどまでの状態なのに女王国の他の国は共通の敵よりも男王に敵意
卑弥呼の時代ならまだ女王擁立もわかるけど
台与の代においてまで男王擁立で内乱になるんだろうか?
内乱を起こして狗奴国にスキを与えるんだろうか?
内乱が起こっても狗奴国は邪馬台国を倒せない程弱かったのか?
ちょっと不思議なことが多すぎるんだよね
381日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:34:48
>>375
>アマテラスの戸隠れ→スサノオの横暴→神々の協議→アマテラス復活→スサノオ追放の流れは似ている。

全然似てない。
スサノオは出雲の神で、九州とは無関係。
九州の邪馬台国が出雲に困らされていたのか?
そんこと言う九州説は聞いたことないがな。

スサノオはアマテラスの弟だが、
卑弥呼の男弟はきちんと卑弥呼に仕えているしな。
都合よく一部を切り取って似てるとかぬかすなアホ。


382日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:40:45
高天原でアマテラスが困ってたのは、出雲のスサノオ。
邪馬台国が困ってたのは、南のクナ国であって出雲じゃない。

いいかげん、アマテラス=卑弥呼などというトンデモ説は素人しか騙せないと知るべきだ。
383日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:46:12
>>377
外国の文献にわずかに残る3世紀の出来事を史学と言うなら結構。
神話を全くの創作するならそれも結構。
ことさら卑弥呼=アマテラスと比定するつもりはないが、
卑弥呼の死から台与共立に至る出来事が何も伝承されなかったとは思えない。
384日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:47:57
魏の使者も不思議と言えば不思議
魏の側に立つ(半島での貿易)邪馬台国を90度方角を変えてまで南北に伸ばしたっていう説があるにもかかわらず、南にあるとする敵対勢力の狗奴国について調査らしい調査をしてない、もしくは調査結果を献上していない
この狗奴国の方が呉の受け皿となりやすい立場にあるにもかかわらずだ
味方の敵はすなわち敵になりうる可能性が非常に高いのにだ
385日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:53:07
纏向もほぼ周りの近隣諸国と友好関係にあったと思われるんだよね
おまけに出雲地方や四国からの土器なんかもある

本当に近くに狗奴国みたいな敵対する勢力があったの?
本当に戦争状態だったの?
従わない程度の国はいっぱいあったんだろうけど。。。
今はそんな感じに思ってる
38618:2009/05/02(土) 16:54:20
崇神の漢風諡号は、釈日本紀「私記」に、淡海三船の撰とあるが、「崇」の字は不幸な生涯
を送った天皇につけられるという説があるな。
いわく、崇徳帝(讃岐にて狂死)、崇峻帝(蘇我馬子により弑逆)崇道帝(早良皇太子・・・
平安期に怨霊化)
387ローガン:2009/05/02(土) 16:56:06
>>371
> 景初二年六月です。

いや、三年ですよ。二年だったら太守は劉キンでしょ。
38818:2009/05/02(土) 18:12:22
倭迹迹日百襲媛命→崇神帝→豊鍬入姫は、宗教政治の衰退と復興とみてもよいのだが、
マキ向の遺物からは、農耕および共食儀礼的なものが読み取れるだけで、>鬼道に事え、
能く衆を惑わす・・・といったダイナミズムは感じられない。俺的にはちょっと困惑。
389日本@名無史さん:2009/05/02(土) 18:19:26
これまでのを、まとめてみると、
九州説は、東大・岩波・戦後朝日新聞一派による「結論先にありき」の反日デマ。
(「そんなに早く日本の中原に強大政権が出来て居て、たまるか!――日本はもっと遅れていなければならぬ」)
(「こんにち、中央から大きく立ち遅れ過疎の僻地となって日本の中枢から見放されてしまった九州こそ、
  日本歴史発祥の地とすべきなんだ――そうしないと九州が可哀相過ぎる」)
(「可哀相な弱者を持ち上げてやるのが民主主義だ!」)
――というイデオロギー。

従って、畿内説が公正中立的な当然の結論だが、大和か河内かとなると、やはり大和でしょう。

大和を中原とし、或る時は葛城政権が或る時は河内政権が或る時は出雲政権が或る時は越前政権が
或る時は近江政権が――と、鹿を逐い合ったのでしょうね。
390日本@名無史さん:2009/05/02(土) 18:55:56
>>377
天照大神=卑弥呼は、明治時代末期の白鳥庫吉以来、脈々と受け継がれる
定説のようなもの。時代的におおっぴらには言えなかったが、記紀の高天原と
倭人伝の倭国の状況が似ていると言うことは、当然、天照大神=卑弥呼を
示唆している。

ただ、これを容認すれば、邪馬台国九州説とその後の神武東征を受け入れざるを
得なくなる。だから、畿内説が否定するのは当然と言えば当然だが。
391日本@名無史さん:2009/05/02(土) 18:59:42
>>381
素戔鳴尊は、高天原を追放されて出雲に行ったわけだが。
392日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:16:44
>>390
>記紀の高天原と倭人伝の倭国の状況が似ていると言うことは、

似てないって言ってるだろ。バカか?

アマテラスが九州の伝説でも、それは神武東征(事実の投影なら1世紀頃)より前のことであって、
つまり、弥生時代の紀元前の話だ。
無理に邪馬台国とこじつける必要などどこにもない。

393日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:19:37
九州では、「原」のことを「ハル」と発音する。
九州人なら常識だろ。

しかし、高天原を「タカアマハル」とは呼ばないよな?
すなわち、高天原伝説は九州発祥じゃないってことだよ。
悔しかったら、「タカアマハル」と呼んだ古文献の例を一つでも挙げてみろというのだ。
394日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:32:05
声の出る文献ですか…何て無茶な注文するんだ
395日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:33:23
>>389
これまでのを、まとめてみると、
畿内説は、京大・皇国史観一派による「結論先にありき」の自己陶酔デマ。
(「日本はもっとも進んだ国だ!!」)
(「日本歴史発祥の地は大和だ――日本の国は最初から現皇室によって統一が進んできたのであり、
それ以外の勢力が日本に存在したなど言語道断、そのような考えは許せん」)
――というイデオロギー。

従って、九州説が公正中立的な当然の結論だが、南九州か北部九州かとなると、やはり北部九州でしょう。

北部九州を中原とし、或る時は筑紫政権が或る時は肥政権が或る時はぶ豊政権が
――と、鹿を逐い合ったのでしょうね。
396日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:34:02
鹿児島はハラって読む地名あるよ
397日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:58:24
>>387
資料で劉[日斤]の就任期間は、何時から何時までとなっていますか?
398日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:26:46
おもしろいソースを発見

邪馬臺國と狗奴國は戦争していた ??
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/inuyama_1_yamatai_kunakoku.html

自分は、邪馬台国(ヤマト国)と狗奴国(コノ国)の戦いは
あったと思う。
この戦いは、日本書紀で言う武埴安彦命の乱だと思う。

ただ、このソースにもあるように、
西暦240年代の倭国と中国との関係は
難升米(梨津臣命)が、中国の軍事的官位に任命されたように
中国による倭国軍の出兵の要請という見方が正しいと思う。
西暦240年代、帯方郡の太守が、三韓人の反乱で殺害される事件が起こった。
そこで、中国(魏)が、わざわざ倭国の大夫に軍事的官位をさずけ
出征を要請したが
同時期に、倭国で武埴安彦命の乱が発生し、出兵できなかった。
そのうちに、帯方郡での反乱は鎮圧され、そこで、
中国側は、なぜ倭国は援軍として出兵できなかったのか、聞いてきたので
倭国側が、いいわけしたんだろう?
で、中国側は、張政を派遣して、確かめにいったところ、
卑弥呼の墓を目撃したと。
399日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:32:35
>>394
高天原は、現在は、タカマガハラと読むが
もともとは、タカアマハラと読んだ可能性が高い。
いずれにせよ、高天原が九州だとしたら
タカアマハルと読まなきゃいけない。

高天原は、近畿地方にあり、現在の奈良県御所市高天のことだとわかる。
延喜式でも、そういう前提で書かれており、
ここには、高天彦神社がある。
400日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:36:11
平安時代中期に編纂された延喜式で高天原を論ずるな。
401日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:08:07
>>369
例えば、李氏朝鮮王は清からの勅使に対して(厳密には詔書に対して)、三跪九叩の礼をして迎えていた
詔書は中国皇帝からの最高格の書簡であり、勅使によって音読される詔勅は、
皇帝の口から発せられた言葉そのものとして最高敬礼容儀をもって受けなければならない
三跪九叩が当時あったかどうか知らないが、詔書をたずさえた勅使に対して代理のものが応対するとか、
増してや、勅使が途中の出先機関(伊都国とか?)に詔書を預けて立ち去るというような事は起こり得ない
でも、卑弥呼が女王となってからは人に会わないと書いている事からして、執政の弟が代理で勅を受けたのかも知れない
402日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:30:39
>>399
いちいち九州まで行幸して祭事を行うのは不可能だから近くに作ったんだろうね

>>401
李氏朝鮮のころはそうだったんだろうね
だからどうしたの?
403日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:37:18
>>401
もしかして、そんなのが面倒だから西キ原に邪馬台国出張所を作ったのかもね
404日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:43:10
魏に朝貢して冊封国となったという事は、魏の臣下になったという事
これは大変大きな事なんだよな
アジアの国際政治舞台にデビューしたと言う事だし、出兵命令とか受けた時には従わなきゃならない立場になったという事
大国の庇護下に入ったと同時に、独立国ではなくなったという事なんだよ
405日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:45:36
魏の臣下だった日本人が蜀びいきって言うのは許せんな
華琳様に言いつけてやる
406日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:46:54
>>401
伝聞としてではなく「年已長大」年は既に長大と書いてあるから
使者は卑弥呼を見てるよ。
卑弥呼と会ってるね。

407334:2009/05/02(土) 21:47:45
>>347
丁寧な説明サンクス。

まあ普通に考えて連続式で読むのが常道で
魏使が邪馬台国まで行っていないと言うのは荒唐無稽だと俺も思うんだが

実はこの間、本を整理していたら何かの話の種にと買った
「新しい歴史教科書」(市販本)と言うのが出てきて(てっきり捨てたと思ってたがw)

そこの邪馬台国の記述を見ると、まあ畿内説と九州説の併記と言う極差しさわりのないものなんだが

>また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり
>邪馬台国を訪れてもいないし、日本列島を旅してもいない。

…とはっきり書いてあったwwwwwwww

そう言えば子供向けの学習アニメ(?)でも魏使は邪馬台国に行ってない説だったし
ひょっとして今はその解釈が有力なのかと・・・
408日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:54:56
>>404
冊封国にそんな義務は無いよ
イギリス大帝国の植民地的感覚で捉えたら大間違い
409日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:59:30
>>407
>>また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり

伊都国の説明に「郡使往來常所駐」郡使の往来では常駐するところである
と書かれているから郡使は伊都国までしか来ていない。
一方、倭王の卑弥呼は郡使と会っている。
つまり卑弥呼は郡使と伊都国で会っている。
卑弥呼は伊都国に居たことになる。
伊都国が邪馬台国の都であったのである。
410334:2009/05/02(土) 22:02:00
問題なのは魏使は邪馬台国まで行っていたとしても
陳壽の寄った資料が果たしてその魏使の報告による物かどうかだろう。

もし伊都国に常駐してそこから先には行っていない郡使の報告が元ネタで
それが魏使の実際の行程と混同されてしまっていたら…

無論、陳壽自身は常道に従いそれを連続式と解して書いたと…。

放射説が生命線の九州説論者の立場に立って考えてみますたwwwww
411日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:03:35
>408
蛮夷に対する最高位の金印紫綬を授けて来たのは、裏があるのでは無いですか
魏が敵対している2国に対して軍事行動をする時に、邪馬台国にも軍を出させるとか、なにか魂胆があったのでは?
ただほど高い物はありません
412日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:08:36
高天原は、葛城の高天のことだよ。

延喜式も読んだことないバカは歴史を語るなボケ。
413日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:13:12
オレ九州説だけど放射説じゃないよ。
連続読みが正しいと考えてる。
だだし里数で書かれた記事から、日数で書かれた記事になったところで
基点が郡に戻って、同じ行程を里数と日数で書いてると考えてる。
伊都国に常駐してるのはその為。
414日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:13:26
大和葛城の高天原は、記紀が編纂されたあたりに、それではどこにしようかということでつくられたものです。
そもそも高天原とは、記紀編纂の時代近くにつくられた造語です。
では記紀にあらわれる高天原がどこのなんというところかはまだ不明なのです。
415日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:14:48
>>412
史実と伝説の区別の付かぬボケは死ねカス。
416日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:21:32
>>409
勅使を伊都国まで出迎えて、受勅の礼をとったのかも知れない
そうなると、卑弥呼が都とする場所はさらに遠くて、勅使に旅して貰うのは気の毒だったのかも
勅使に伊都国で会っていたとしても、卑弥呼の都が伊都国だったとは限らないよ
伊都国は一大卒も置かれているし、大陸への玄関口だったかも知れない
そこに後世の鴻臚館のような施設を設けて勅使を応対したのかも
417日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:25:28
>>414
そんなことはない。
むしろ、九州などにある高天原伝承地のほうが
後世に作られた伝承地だろうが。

葛城の高天あたりって
三輪山(ヤマト)あたりに遺跡が出る前は
こちら(葛城)のほうに遺跡の中心地があったって
容易に想像がつくでしょう。
418日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:29:50
難升米(梨津臣命)が中国から貰った官位って
普通に官位じゃじゃないんだよ。
あれは、中国の軍事指揮官に贈られるもの。
当然、帯方郡における韓諸国に対する反乱の鎮圧にむけての
倭国に対して援軍の要請が来たということが分かる。
中国の官位が無位無官だと、倭国軍は、中国から見たら侵略軍にすぎないが、
中国から武官の官位を貰った時点で、中国のための倭からの援軍という
大義名分がつくわけで。
419日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:30:41
>>395
畿内説って言ってるのは左派だろ
日本書紀と矛盾してるじゃん
3世紀の大和王権に女王なんて存在しないんだよ
420日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:32:41
>>392
だから、記紀の高天原の状況と、倭人伝の倭国の状況が似ていると言ったのは
白鳥庫吉なんだよ。

中国の文献と日本の文献が一字一句たがわないと言うのは、ありえない。
そういう意味で、記紀と倭人伝の記述は酷似と言ってもいいくらいだろう。

だいたい、天照大神以上に卑弥呼に似ている人物が、他にいるか?
421日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:32:46
>>400 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:36:11
>平安時代中期に編纂された延喜式で高天原を論ずるな。

でも、古い文献ほど、高天原=葛城という認定で
それ以外の高天原伝承地は、延喜式よりも後世に出来上がった伝承
422日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:33:54
伊都国の説明には「世有王 皆統屬女王國」代々王がいた、皆は女王国の統治下に属す
とある、世は魏の治世を指し、代々王のとは卑弥呼や壱与のことだ、
皆とは「今使譯所通三十國」の倭の国々のことだ。
女王國とは「女王之所都」の邪馬壹國だな。
つまり伊都国が邪馬壹國の都だと書いてある。
「皆」を伊都国の代々王と訳すのは間違いだ、
「皆」が伊都国の代々王なら「世有王 皆統屬女王」となる。
423日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:34:32
>>420
つーか、最近はテレビ局とかマスコミでも
卑弥呼=姫命=ヤマトトトヒモモソ媛命という認識だけど。
424334:2009/05/02(土) 22:39:42
>>420
>だから、記紀の高天原の状況と、倭人伝の倭国の状況が似ていると言ったのは
>白鳥庫吉なんだよ

高天原には馬がいる時点でアウトだなwww

いくら「白鳥庫吉」なんてビッグネーム出したところで意味なし。

漢籍に対する理解はむしろ現在より明治時代の人間が水準高いのかなとも思うが
神話学については(良く知らんがw)海外の神話との比較等やはり現在の方が水準は高いだろう

高天原と邪馬台国を重ねるなんてのは今日の一般人でも持つ
素朴なイメージに過ぎないなwwww

425日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:40:52
>>423
テレビ局やマスコミの意見を信用してもしょうがないだろうに。
426日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:42:30
諸説紛糾、よきかなよきかな
427日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:46:10
この前、九州説のシンポジウムがあったが、
九州説は少数派って、九州説の学者も認めていたな。
今までは、二つに割れる云々ってのが決まり文句だったのに...
ここんとこは、九州説学者の離反が相次いで、
凄いことになってきている。
これまで、九州説を信じてきた人も、冷め始めている。
428日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:46:45
>>422
>「皆」を伊都国の代々王と訳すのは間違いだ

続き
「皆」を伊都国の代々王と訳すと
伊都国王は女王の家臣となるが
中華の思想では王の上は帝、王の下は公や大夫など
一方を王と書いたら、片方は大夫とか書かれる
「皆」を伊都国の代々王と訳すのは間違いですね。

429日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:47:29
明治天皇も、東京に行く前に
高天彦神社に報告してから、東京に行っている。
430日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:50:57
>>428
誰か反論ない?
431日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:51:20
邪馬台国も卑弥呼も実は存在しなかった。
九州説も畿内説も幻想の産物に過ぎない。
432日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:51:54
>>427
ひょっとして 「邪馬台国を考える会」?

まあ実際は九州説の廃れぶりは想像以上なんだろうなあ・・・
43318:2009/05/02(土) 22:56:09
魏使が邪馬台国に行ってないとすれば必ず理由があるはず。長旅になるからなどは論外
と思う。例えば初唐(7世紀)の諸道巡察使なんか1年程度の長旅は普通。伊都〜大和間
が長いなどとは職責からありえない。九州説ならなおさら。
434日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:56:29
>>429
実は明治天皇が一番恐れたのが崇徳院の怨霊だと言うのが
もっぱらのうわさwwww
435日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:57:55
掘っても掘っても何も見つけられない畿内説
掘らずに喚くだけの九州説
43618:2009/05/02(土) 22:59:07
>>434
いやいや、もっとも怖れたのは孝明天皇の御魂。
437日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:00:51
>>424
白鳥庫吉はこんな風にも言っている。

「すべて、神話伝説は、国民の理想を述べたものであって、当時の社会の
精神風俗などは、ことごとくその中に包含されるものである。

したがって、皇祖発祥の地である九州において、上古、卑弥呼を初めとして、
女子で君長であったものが多数いたとすれば、天照大神が女王として
天上に照覧するのも、またなんの怪しむべきことがあろうか。」

そして、
「…(素戔鳴尊などに触れ)、これは(卑弥呼)、地上に起きた歴史上の事実で
かれは(天照大神)は、天上に起きた神典上の事跡であるけれども、
その状態の酷似すること、何人もこれを否認することは出来ないだろう。

もしも、神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された
天の安の河の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映と
見ることができよう」

要するに、天照大神と卑弥呼が似ていると思うのは、的外れなことではなく、
むしろ、自然なことだと思う。
438日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:01:05
>>418
難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉という事だから、魏の武官の官職を与えた事になる
2人は皇帝に謁見しているし、そこで器量を見込まれたのかも知れない
とにかく倭王の臣下なのに、直接魏の臣下として寓しているようなもの、ちょっと只事ではないな
後白河法王が頼朝臣下であるはずの義経に官位を与えて手懐けようとしたのと似て、魏の腹黒さも感じる
もっとも、内戦である狗奴国との戦に際しても黄幢(魏の正規軍の軍旗)を与えているから、
邪馬台国の方も魏の旗を掲げて戦う覚悟はあったという事かな、持ちつ持たれつ
とりあえずは列島内の内戦と言うか狗奴国に対してだけども、ちょっと矛先を転ずれば半島への軍事動員にもつながる
そんな意味を持つんじゃないかな、魏が邪馬台国を厚遇したのは
439日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:03:42
伊都国の説明には「世有王 皆統屬女王國」代々王がいた、皆は女王国の統治下に属す
とある、世は魏の治世を指し、代々王のとは卑弥呼や壱与のことだ、
皆とは「今使譯所通三十國」の倭の国々のことだ。
女王國とは「女王之所都」の邪馬壹國だな。
つまり伊都国が邪馬壹國の都だと書いてある。
「皆」を伊都国の代々王と訳すのは間違いだ、
「皆」が伊都国の代々王なら「世有王 皆統屬女王」となる。
また「皆」を伊都国の代々王と訳すと
伊都国王は女王の家臣となるが
中華の思想では王の上は帝、王の下は公や大夫などである。
一方を王と書いたら、片方は大夫などと書かれる
王の家臣の王などいない
「皆」を伊都国の代々王と訳すのは間違いですね。

これに反論ないの?
畿内説って優勢なんでしょ。
44018:2009/05/02(土) 23:06:39
率善中郎将は友好的な異民族に与える武官名。難升米の銀印はこんな感じ。
http://www.pref.osaka.jp/bunkazaihogo/image/ginin.pdf
441日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:08:29
>>437
要するに
「神話の中には史実が反映されている可能性」があるって話で
別に白鳥でなくとも現在の一般人でも普通に思う事。

ビッグネーム・権威を出して如何にも信憑性があるように思わせるのはペテンの一種w
「NASAで開発された〜」
「○○先生も仰った説です」
…等々w

無論大家の言葉にはそれなりの重みはあろうが
その中身も吟味せず看板だけでありがたみを説くのは頂けないなwwwwww
442日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:12:13
>>424
白鳥や和辻ら古い人もいるが、いま現在でも邪馬台国=高天原とか卑弥呼=天照大神とか
強硬に主張するのは99パーセント安本美典に洗脳された連中だろう。
安本がデビューした頃を記憶しているが、「コンピュータで邪馬台国問題が解けた!」が売りで
なんとも他愛の無い、素人臭芬々たるものだった。
週刊朝日だったか安本説を特集していたと思うが、当時の朝日新聞社は古代史の異端説が
結構好きで、おそらく松本清張あたりが入れ知恵していたのだろう。
古田武彦のデビュー作『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』、『盗まれた神話』も
朝日新聞社刊だった。
44318:2009/05/02(土) 23:13:56
確かに、朝日新聞は左派としての九州説だったと思う。
444日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:20:23
>>441
アホか。
高天原の状況と倭人伝の倭国の状況が似ていると言ったら、似ていないと
反論があった。
だから、白鳥庫吉のような大家でも、似ていると言っているというわけ。

ついでに、和辻哲郎も似ていると言っている。
似ていないと考えるほうがおかしいと言うことだよ。

似ていないというのは、要するに、文献の読解力がないか、あるいは
先入観に満ちていると言うことだろう。
まあ、もともと畿内説は先入観だけで存在しているようなものだが。
445日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:21:41
>>436
それはやはり孝明天皇が暗s…

ん?誰か来たようだ。
うわっ何をする!くぁwせdrftgyふじこ 
446日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:29:38
>>442
では、天照大神は誰だと思う。
記紀で、皇祖とされる天照大神には、モデルがいたのかいなかったのか。
その付近はどう思う。

中国の文献に登場する倭王の卑弥呼が、いったい誰なのかはみんな興味が
あるだろう。記紀にその姿が現れていないかどうかも興味のあるところ。

王であること、女性である事、独身であること。
そのほか、狗奴国との争い、素戔鳴尊との争いなど状態も含め、誰に洗脳
されなくても、良く似ていると思うのは自然だろう。

むしろ、似ていないと思うほうが完全に洗脳されていると思うが。
447日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:32:46
>>424
>高天原には馬がいる時点でアウトだなwww

まったくだ。
魏志倭人伝には倭国に馬はいないと明記してあるのに、
高天原に馬がいるってことは、高天原神話が、ずっと後の創作だってことだ。

>>444
白鳥庫吉も、おろかな思い込みで間違いを犯すということだよ。
白鳥の言うことなら、なんでも正しいと妄信してんのか?おめでたいな。
448日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:35:15
>>444
馬鹿馬鹿しい。
似ている似ていないなんてイメージの世界に文献の読解力もあるまいにwww

どうせいつもと同じ奴で過去にも同じ事を言ったと思うが…

マジレスするとアマテラスと言う太陽神は太平洋から東南アジアにかけての南洋系で
天孫降臨神話及び高天原などと言う天上世界の概念は北東アジア地域の神話。

この両者がミックスされて始めて「高天原の天照」が誕生する。

卑弥呼・邪馬台国の記憶を元に神話ができたと言うのはあまりにも牽強付会。

可能性として考えるなら元々あった神話に卑弥呼のイメージを ” 仮託 ” したと言う話だな。

その場合、卑弥呼=天照 説をとなえる人間に有利な材料は
海外の神話で太陽神を女神とするのは極めて稀で(つか俺は知らない)あるという事だろう。

はっきり言って天照のモデル探しのお話なら 天照=持統 説が個人的には一番良くできている。
しかもこっちは記紀編纂時の政治事情と言うリアリティあふれるお話つきだwwwwwwww
449日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:35:21
>>446

天照大神は、持統天皇がモデルという説もある。
むしろそっちのほうが信憑性が高いね。

だいたい天照大神は、もともと男神だったという説もある。
それらを全部否定する根拠があるのか?
450日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:38:36
>>440
異民族用の官職だったとしても、魏と難升米らは君臣関係になるよな
倭王の臣下である事との関係に矛盾を生じないか?
難升米らは卑弥呼の純然たる臣下というより、それぞれどこかの国の王くらいの身分があったのではないかな
卑弥呼が軍事動員とかの命令に従わない場合、難升米らに直接命令してでも思う様にコントロールする腹で、
そういった官位を与えて置いたのかも、腹黒だな
451九州王朝大好き:2009/05/02(土) 23:39:34
>>439
>「皆」が伊都国の代々王なら「世有王 皆統屬女王」となる。

世有王は女王の配下になるのではない。
「世有王 皆統屬女王國」であるから、
世有王は女王國の機関である。
452太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/02(土) 23:39:37
www
45318:2009/05/02(土) 23:41:23
率善中郎将は中国が外地で戦ってる時ときなど味方してきた蛮夷のリーダーに与える将軍
印、おそらく難升米がもらったのは、正式には「魏率善倭中郎将」、牛利の率善校尉の「校尉」
は将の下の位。

建中校尉梯儁とかは、いちおう「校尉」は、軍の編成単位である「校」の指揮官とすれば、配下
700〜1200名といったところ。

塞曹掾史張政は、はっきりいってよくわからないが、司徒府の「軍曹掾」なら異民族教化
の外交官的役割もあるかもしれない。いずれ曹(役所)長であり、単なる武官とはニュアンス
が違う感じ。
454日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:41:31
自嘲の嗤い?
455日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:41:47
>>447
で、あなたは誰が卑弥呼にふさわしいと思っているのかな。
まず、それを言わないと不公平だと思うが。
456日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:44:25
>>455

卑弥呼は誰か?って、
誰かに決めないとダメだって考え自体がおかしい。

じゃ、クコチヒクは誰か?とか、ミミナリは誰か?って話にもなるだろ。
魏志倭人伝から読み取れるのは、
「3世紀の倭国に女性指導者がいたと、中国人が認識していた」ということだ。

よく覚えておけ。
457日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:47:52
>>448
ほう、7世紀から8世紀の持統天皇が卑弥呼?
卑弥呼ってのは、もっとずっと前の人物で、年代が全く違うと思うが。
458日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:49:36
>>456
いや、いや
卑弥呼が女性指導者なんてのは中国の魏が勝手に言ってるだけで
ホントに指導者だったかなんて日本史の史実であったとするには乱暴すぎるよ

それを前提に想像を楽しむべきだろ
459日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:51:39
>>457
よく読め馬鹿

 天 照 = 持 統  だぞ

天照なんて神話上の人物なんだから別に時代はいつでも良い
それともお前は天照の生存時期wを
2世紀から3世紀に特定できる材料を持っているのか?wwwwww

(無論天照は卑弥呼だからなんて循環論法は無しで)
460日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:54:51
>>456
卑弥呼は、中国から倭王と呼ばれた人物だよ。
恐らく、当時の日本で最も権力があっただろう。
記紀にはその痕跡が全く残っていないのかな。

記紀はどの辺りの年代からの記述があると思う?
46118:2009/05/02(土) 23:58:05
畿内説である俺的には、天照は後代、倭姫あたりに北九州から入ってきた太陽信仰の象徴。
結局は主流になれず伊勢に追いやられた。4世紀半ばごろ?
マキ向遺跡には太陽信仰の痕跡はあまり見られない。

天照 = 持統 説はあまりにうがちすぎという印象。
462日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:00:48
>>459
そりゃ悪かった。で、天照大神は、皇祖神だが、皇室の祖先と言われる
人物と、第41代天皇が同じとはおかしいんじゃないか。

天照大神の年代は不明。でも、卑弥呼の年代と重なる可能性は十分に
あると思う。少なくとも持統天皇よりは。
463450:2009/05/03(日) 00:07:07
>453
難升米らにその官職を授けたのは、狗奴国との戦いで卑弥呼が援助を要請する以前
だから狗奴国との“内戦”に関して魏がとった特別の処置ではないな
卑弥呼に倭国王、難升米に率善中郎将、牛利に率善校尉 と3者列して官職を与えた訳だ
邪馬台国内における官職、一大卒とかとは別に魏から直接官職を受けるというのはどう言う意味を持つだろう?
魏に対する忠誠義務が生ずるのだろうか? 卑弥呼を飛び越して難升米らが魏の皇帝にという意味で
464改め:2009/05/03(日) 00:09:38
ここすごいなwww

呼んでたら笑えてきたww
465日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:13:21
ドツボキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
46618:2009/05/03(日) 00:21:15
>>463
この叙位は卑弥呼の親魏倭王仮綬以前なんで、異例ではあるのだが、まあ単に難升米
らが帰ってしまうと渡せなくなるから?倭国乱との関係は不明。
467日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:21:28
古代海部氏の系図 (単行本)  金久与市 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%B5%B7%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3-%E9%87%91%E4%B9%85-%E4%B8%8E%E5%B8%82/dp/4311300379

この本を読んだけど、
海部氏は、実質的には、皇室と尾張氏・海部氏の最初の先祖は
天忍穂耳命から始まると認識していて
天照大神は、天忍穂耳命よりも、ずっと遠い先祖であって、
自分たちの家系とは、直接的には無関係と認識していたみたいだね。

海部氏の平安時代での認識

天之御中主神・伊弉諾尊・天照大神・・・天忍穂耳命┳天火明命━天香語山命・・尾張氏・海部氏
                        ┃
                        ┗瓊瓊杵尊━火遠理命・・神武皇統(皇室)

という認識らしい。
468日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:25:58
>>456
魏略では、拘右智卑狗(コウチヒコ)。
で、これは、河内彦のことでは?という説がある。
狗奴国(許乃国)の男王・卑弥弓呼(彦命)=武埴安彦命とみると
辻褄がある。

卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命でOK。
46918:2009/05/03(日) 00:31:58
海部氏系図は国宝であるが、疑問視するむきも実は多い。以下のHPが詳しい。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20k1.htm

俺的には保留。 始祖の彦火明命から9代目の子孫として「日女命」が出てきて、
この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」 「またの名を神大市姫命」
「日神ともいう」などと記されている。興味深いことは確か。
470日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:38:23
>>462
>天照大神は、皇祖神だが、

妄信はやめろというのに。

皇祖神はタカミムスビのほうだ。
後の時代に、アマテラスにすりかわったんだよ。
記紀をよく読めば痕跡がわかる。
471日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:41:34
>>453
>率善中郎将は中国が外地で戦ってる時ときなど味方してきた蛮夷のリーダーに与える将軍印

「中郎将」と言う称号については実際には後漢時代には既に実態を伴わない単なる称号だけのものになったと聞くw
まして三国時代は・・・って話で一例として三国志で袁紹が曹操を罵った言葉として・・・

 発丘中郎将・・・墓暴きの中郎将め!

 模金中郎将・・・副葬品泥棒の中郎将め!

とまあ散々な使い方をされているらしいwwww

よって>>418のようにこの官位によって
「韓諸国に対する反乱の鎮圧」を任されたと言うのはチト飛ばしすぎ
472日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:52:56
>>462

天照大神は、男神だよ。

女神に変わったのは、持統天皇を女性として天皇に即位させるための作為。
これくらいは、古代史の常識なんだがな。
473471:2009/05/03(日) 00:55:25
>471の続きで「率善」の意味を考えれば

蛮族の将が衆を率いて(率衆)軍門に降ってきた・・・と言う意から率善と変化したとも。

その意味で言うなら>>453
>味方してきた蛮夷のリーダーに与える
云々は正しいと思うが実際の軍勢の規模に比例するかと言えば
>471で言ったように名誉職的な意味合いになるのじゃないかと思う
47418:2009/05/03(日) 00:57:48
>>471
「率善」が蛮夷印を表す部分で、中国の印章コレクター間ではこれらは超高額で取り引され
てると聞く。

倭人伝のこのあたりの記述でネタを一つ。>故に鄭重に汝に好物を賜うなり・・・「好物」とは
聞き取り調査で 難升米らが「鏡がほしい」と言った?公孫氏を通じてもらっていた、画文帯
のような??
475日本@名無史さん:2009/05/03(日) 01:56:11
>>469
その人の説は、眉唾物と認識したほうが良いよ。
まあ、海部氏系図を額面どおり受けとるべきじゃないが
神話的に見たら、
アマテラスとスサノオの誓約によって
天忍穂耳命、天穂日命ら、5柱が誕生したとあるから
アマテラスと天忍穂耳命の間には、実質的な親子関係は無く、
そこから、神話と実在の境界線があると踏めると思う。
476日本@名無史さん:2009/05/03(日) 02:21:59
卑弥呼は独身なんだから、
皇室が、アマテラスを祖とするということは、
卑弥呼≠アマテラスということになる。

こんな簡単なことが、どうしてわかんないんだろうね?

477日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:02:31
アマテラスの神話は、ちょっと飛躍しすぎているというか、
それを、自在の歴史に当てはめるのは無理がある。

まだ、ヤマトトトヒモモソ媛命のほうが、
実在の歴史と合致しやすい。
478日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:04:52
>>471
任されたというより、
援軍として来てくれということでしょう?

外国の軍隊が、中国の何のお墨付きもなく、
援軍としては駆けつけられない。

だから、中国(魏)が、倭の大夫に、中国の軍事的な地位を与えて
援軍としての大義名分を与えたんでしょう?
479日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:34:56
卑弥呼と天照大神は時代が違うように思うが
480日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:37:07
卑弥呼=百襲媛も強引すぎるだろ
時代が近いってだけじゃん
481日本@名無史さん:2009/05/03(日) 03:45:43
外国人が中国に援軍を出そうと思ったら、中国側に官位を貰わないと、
派兵できないんだよ。
なぜなら、朝鮮半島は中国の支配下にあり
そこへ軍を派兵するとなると、中国に対しての侵略軍とされるから。

そこで、中国側から軍事的官位を与えられるようになって
はじめて、中国領内に軍を出す権利を得る。

難升米(梨津臣命)が中国から軍事的官位を貰ったのは、そういうことだ。

同じように、西暦5世紀の倭の五王が、中国に
朝鮮半島における軍事的地位を承認してもらおうと必死だったのもそう。
朝鮮半島は、中国皇帝の影響下にある地域だったから。
482日本@名無史さん:2009/05/03(日) 04:30:01
寺沢薫説はこのスレでガイシュツ?
畿内説だが、卑弥呼だけは九州出身てやつ。
483日本@名無史さん:2009/05/03(日) 05:07:24
>>482
東遷説ってやつでしょう?

今まで九州説を唱えていた井沢元彦とかが
苦し紛れに、寺沢の説に寝返ったりしているw

でも、邪馬台国畿内説論者の中で、東遷説を唱えるやつは
少数派だよ。
484日本@名無史さん:2009/05/03(日) 08:43:38
九州説支持だが東遷説は支持してないよ

大和王権とは完全に別物だろ
485日本@名無史さん:2009/05/03(日) 08:51:45
俺は>>484説を支持
486日本@名無史さん:2009/05/03(日) 09:03:26
東征が4世紀だとするから混乱するわけで
1世紀あたりには既に橿原で即位していたとしたほうが
高地性集落の出現→古墳時代という流れとして自然
487日本@名無史さん:2009/05/03(日) 09:36:36
>>451
>「世有王 皆統屬女王國」であるから、
>世有王は女王國の機関である。

世有王は女王國の機関とはなんでしょう?
伊都国の代々の王が女王國の機関???
488ローガン:2009/05/03(日) 10:25:03
>>397

> 資料で劉[日斤]の就任期間は、何時から何時までとなっていますか?

それは、見えない様です。私が知らないだけかも。ただ奇襲作戦の記事から、二年六月では劉夏ではないでしょう。
489日本@名無史さん:2009/05/03(日) 10:29:46
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/nihon/
↑「私の日本語辞典・古代史の楽しみ」

これ面白そう
490ローガン:2009/05/03(日) 10:30:17
>>398

> おもしろいソースを発見 邪馬臺國と狗奴國は戦争していた ??

私はそのサイトとほぼ同様の見解です。檄の字義 黄幢の持つ意味から、魏側の集兵行為でしょう。
491日本@名無史さん:2009/05/03(日) 10:37:59
>>482

寺沢って、卑弥呼が九州にいたって言ってた?
初めて聞いたけど、
どこの本に載ってる?
492サガミハラハラ:2009/05/03(日) 10:44:59
邪馬台国は九州です。九州の地で3世紀の末に滅んでおり、東遷はしておりません。
また、神武は東征であって東遷ではありません。神武の橿原即位は西暦131年です。
大和朝廷は、神武が奈良に移住してから独自に発展したもので、3世紀末まで九州と交流したけ形跡はありません。
3世紀末には九州まで勢力をひろげることになり、それが九州勢力の衰退の時期とかさなったため、
九州の勢力が大和に移転したとの見方をしたものです。
3世紀末までは九州との交流はなかったのではあるが、大和朝廷はもともと九州の出身であることは伝承されており、
九州へのあこがれといったことはみられたようである。
九州を併合したときに、一種の九州ブームが起き、九州の制度や物品がもてはやされたようで、その形跡が古墳時代
から急激に遺跡遺物にみられるのはそのためです。
*卑弥呼の鏡の話もつたわり、それを模造して墓に埋納することや、
ヤマト彦のように従者を殉死させたりとかはそうです。
前方後円墳にしろ卑弥呼の墓をモデルにしたともみれます。
493日本@名無史さん:2009/05/03(日) 11:03:57
良くできた話だなあ
494日本@名無史さん:2009/05/03(日) 11:40:37
古墳からの出土品に変化が起こるのは神功皇后による朝鮮半島への大侵攻によるものだろ
まぁ、九州ブームが無かったとは言わないが。。。
49518:2009/05/03(日) 14:00:17
マキ向勢力(後の大和朝廷)と九州の関係
180年代後半・・・瀬戸内等の首長連合が卑弥呼擁立、マキ向を女王国の都とする。
230年頃〜・・・・・大分、宮崎との関係が深まり、その地に初期古墳が作られ始める。
           また、北九州の一部と手を結び、公孫氏より画文帯神獣鏡を移入。
239年・・・・・・・・・卑弥呼魏に朝貢、「親魏倭王」に封じられる。
240年〜・・・・・・・伊都国に「一大率」をおく。後の太宰帥につながるもの。
240年代後半・・・対狗奴国(東海)戦争、卑弥呼死去。
300年代前半・・・景行天皇、倭建により改めて九州を平定、再叛した熊襲を討伐。
300年代末期・・・神功皇后により北九州を拠点として、半島出兵。
なお、景行天皇、倭建、神功皇后は実在というより、そのようなモデルとなる人物がいた
と考える。サガミハラハラさんとは対立する説ですが、まあこんなところでは?
496日本@名無史さん:2009/05/03(日) 14:12:01
>>492
九州勢力は衰退していたといいながら九州ブームがあったというのはおかしいですね。
あったのは韓流、半島ブームだったと見たほうがいい。九州の文物は半島由来。
49718:2009/05/03(日) 16:43:19
>>475
「海部氏系図」をめぐっての、宝賀寿男氏と曲学の徒さんの論争もあったなあ。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/kanntyuukeizu/1-hazimeni.html
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20ohto.htm
498日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:13:19
連休の1日を利用して、きょう纏向遺跡を幾度かの見学して来たが、
この遺跡を残した勢力は、天孫族でも無し、「鬼道を能くする」シャーマニズムの匂いも嗅げないね。

時期を「弥生後期〜古墳時代初期」との説明は、発掘遺物と明らかに矛盾。
ハッキリ、古墳時代盛期の遺跡だ!弥生時代を示す証拠は何ひとつ報告されていない。
あまりにも進歩した聚落設計、建築様式。
鉄製の高度な新式用具の豊富さと、古墳時代特有の大土木工事用具の多さ・・・。
即ち、早くても四世紀当初おそらくは四世紀中葉以降の遺跡。邪馬台国の時代のものではない。
499日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:18:22
>>498
脇に並べてある、現代の物とも見まごうばかりの諸道具類は、あれは発掘用の器具だからね!
500サガミハラハラ:2009/05/03(日) 23:32:09
>>496もともと九州の地は大和の祖先発祥の地なのですよ。
衰退盛行関係なくあこがれの対象だったのです。
501日本@名無史さん:2009/05/04(月) 00:11:31
>>500
大和の祖先は、九州の地とは無関係。
出雲王朝を追い越前王朝を追った近江王朝が大和の祖。
50218:2009/05/04(月) 00:18:45
>>498
わけわからんな。4世紀中葉以降ならもう衰退期もいいところ。畿内説の俺的には、180
年代後半の卑弥呼共立時から、すぐにマキ向が邪馬台国の都として機能していたかは疑問。
おそらく中心地としての役割はマキ向石塚造築あたりからと思うが、根拠はない。まあ3世紀
初頭の遺構は多くは見られない。タイム・ラグがある感じ。

にしても、自分で言ってて畿内説はつまらないな。細部は多少違うものの考古学者の本に
書いてあるのとほぼ同じで、その点九州説は自由度が高くてうらやましいという気もする。

>>500
うーん、記紀の神功紀に、めずらしい魚が釣れた めずら国=末盧国、子供を産んだ うみ国
=宇美国=宇邇国=不彌国? と明らかに古くからある地名を否定する記述があるのは
どうしてですか?単なる地名譚なんでしょうか。前から気になっていたもので、ご存知でしたら
ご教授ください。

503日本@名無史さん:2009/05/04(月) 00:38:06
九州128王朝
504サガミハラハラ:2009/05/04(月) 02:28:42
宇美はもとは(神武の時代から仲哀の時代まで)宇佐だったようです。
その後、応神をこの地で生んだことからウミというようになった。
505日本@名無史さん:2009/05/04(月) 08:13:10
>>486
同意
1世紀ってのはちょっと早すぎる気がするが
邪馬台国の時代以前にすでに神武東征か
それに相当する何かは行われていたと思う

その上で大和朝廷と邪馬台国は別の国だと思う
506日本@名無史さん:2009/05/04(月) 08:53:46
畿内説の方々は東遷説には否定的ですが
このような邪馬台国時代以前の九州から畿内にむけての
文化の東進もやはり否定する立場なのですか?
507日本@名無史さん:2009/05/04(月) 09:29:00
          九州                畿内
57年     奴の国王が後漢に朝貢    銅鐸文化が栄える
107年     帥升が後漢に朝貢
(7、80年間) 男王の時代
180年頃   倭国大乱    →→→→→ 神武東征、神武天皇が即位
        卑弥呼が即位          畿内に定着して以後徐々に勢力を伸張
239年     卑弥呼が魏に朝貢
248年     卑弥呼が死亡、壱与が即位
3世紀前半                    東海を勢力下に入れる
266年     倭国王壱与が晋に朝貢
3世紀後半  邪馬台国が瓦解        崇神天皇が四道将軍を派遣
                          中国、四国、北陸、関東を勢力下に入れる
             北九州が大和朝廷の勢力下に入る
4世紀中頃       景行天皇が九州へ行幸し熊襲を征伐
             日本武尊の熊襲征伐
4世紀末頃       神功皇后の三韓征伐

こんなところじゃないでしょうか。
文献を読む限り九州にあったとしか思えないからね。
508日本@名無史さん:2009/05/04(月) 09:49:20
>>506

九州の文化の東進は、邪馬台国以前からあり、瀬戸内海の高地性集落などもある。
だから、邪馬台国後の東遷は無いって言ってるんだよ。

吉備も九州の影響下にあるわけだから、
邪馬台国の連合国に吉備が入ってないという主張も成り立たない。

509日本@名無史さん:2009/05/04(月) 09:50:02
>>506
はい、否定します。
510日本@名無史さん:2009/05/04(月) 10:17:14
【日韓】新羅の夫婦が海を渡り日本で神様として慕われていた…日本と韓国はむしろ仲が良かったのです(毎日新聞)★3[04/22]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1240659099/l50
511日本@名無史さん:2009/05/04(月) 11:04:11
>>506

なぜ、そんな問いが出てくるのか?
それ以外のモデルは想定し難い。
いったい、どういう釣られ方をしてほしいのかとw

どうせ燃料投下するなら、東遷説、神武バカ、安本厨向けに一発。

東遷、東征が4世紀だとすると、記紀で言うたら神功、応神の大和入りが相応するのか!
512日本@名無史さん:2009/05/04(月) 11:49:47
神武なんているわけねーだろ。
51318:2009/05/04(月) 13:27:40
>>506
武力による東征かはわからんが、2世紀以前の大陸→九州→畿内という文化の流れを否定
できる人はいないだろうよ。人は相互に流動していただろう。あと、一部には、大陸から丹後半島
などへの直通ルートもあったようだ。

記紀が神武即位を前660としているのは、讖緯説ももちろんあるだろうが、その伝承がき
わめて古いものであると考えてのことだろう。神武実在は考えがたいし、干支による年代も
信じがたい部分が多いが、少なくとも起こった事件の順序に大きな混乱はないと思われる。
514日本@名無史さん:2009/05/04(月) 13:51:47
>>513
> 神武即位を前660としているのは・・・その伝承がきわめて古いものであると考えてのこと

そんなことは無い。「日本書紀」は、新しい伝承であることを知っていた。
「神武天皇」は、推古朝9年に考え出された人物。
(注:「推古朝」そのものは無かったが、年代的に推古朝9年)
年代を前660としたのと神武東遷は、「書紀」の創作。

高柳光寿らによって明らかにされ、昭和39〜40年には広く追認されている。
史学の成果(定説)を前提にしない議論は、トンデモ説と変わらない。
51518:2009/05/04(月) 14:05:12
>>514
また、わけのわからん??説自体はあるのだろうが、定説では全然ないよ。高柳光寿氏の
戦国ものはよく読んだけどね。
516日本@名無史さん:2009/05/04(月) 14:13:16
>>514-515

神武は実在かどうかなんてどうでもいいよ。

「神武が実在して、4世紀に東征した」とか言ってるバカを論破すればいいのであって。
51718:2009/05/04(月) 14:36:31
神武天皇か。江戸後期に神武陵比定の動きがあって、確か候補地は3つほどあったはず、
神武田という地名の場所にあった小さな二つの塚が現在の神武陵、橿原神宮であるが、疑
問を持つ人は俺を含めて多い。書紀には、壬申の乱の際、後の天武帝が武具を捧げて戦
勝を祈念したという記事があるね。

うろ覚えだが、樋口清之氏の本に、紀元2600年記念事業として昭和初期に橿原神宮周辺
の発掘調査が行われ、縄文時代後期〜晩期の大集落跡と樫=橿の巨木跡を発見したと書い
てた。まあこの時代の調査報告にどれだけの資料価値があるのかわからんが、まったくの
でたらめでもないだろう。あと、俺はイデオロギー的なことには関わらんよ。

518サガミハラハラ:2009/05/04(月) 14:38:58
>>507に文献の上から補足します。
西暦35年頃 天菩日命 領土問題の交渉に出雲へ
  36年頃 天若日子 領土問題の交渉に出雲へ
  40年±1ニニギノ命葦原中国に降臨
  41年  宮崎(投馬国)に天神降臨
  42年  カラ国に首露王ら降臨
  62年頃 ニニギノ命に三つ子誕生
  79年頃 ウガヤフキアエズノ命誕生
  96年頃 イツセノ命誕生
  101年  神武誕生
  121年 倭が新羅の東辺を侵す
  122年 新羅で倭の大軍襲来の流言 倭面土国委奴国にほろぼされる。
  123年 倭国新羅と講和 同春年神武兄弟の出征 秋年岡田宮に逗留する
  124年春年 安芸のタケリノ宮に到着3年半逗留
  127年秋年 吉備の高島宮に到着4年逗留
  131年春年 畿内侵攻開始河内の白肩津において敗北 和歌山に迂回し熊野から畿内侵入に成功
  131年秋年前年 橿原にて天皇位に即位
  150年春年後年 崩御 記137歳 紀127歳である。

以上ですが、異論のあるかたどうぞ。
51918:2009/05/04(月) 14:46:16
>>518
異論というか・・・大変な人生を歩んでおられますね。・・・敬服いたします。
520日本@名無史さん:2009/05/04(月) 15:02:35
>>517
神武陵を今の橿原神宮に比定しているのが、結局のところ他でもない『日本書紀』だが・・・。

あの地域は、葛城王朝族の故地だが、神武天皇は一体誰なんだ?
あの古墳は、いつのものなんだ?
521日本@名無史さん:2009/05/04(月) 15:35:31
>>518
> 熊野から畿内侵入に成功

なぜ、「天照大神に導かれて」の一文を削る?伊勢に向かって歌を詠った。
伊勢(天照大神)を拝んだ天皇は、神武天皇と天武天皇の二人だけ、なぜだ?
次は、明治天皇まで、ひとりも無し。

結局、神武天皇は、邪馬台国の時期とは何の関係も無い人物。伝承。
邪馬台国と神武天皇の活躍とは、今と織田信長の活躍期ぐらいの隔たり、というから、
邪馬台国が三世紀半ば近くなら、それより450年後・・・・・・。
あれ!遣隋使遣唐使の頃よりもずっと後の時代だぜ、神武天皇という人物は?

あの伊勢に向かって詠った歌の分析からして、どうしてもそうなる。ということは陵は架空。
522日本@名無史さん:2009/05/04(月) 15:47:11
神武天皇は邪馬台国と無関係がハッキリしたね。
523日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:01:58
倭人伝の「水行」を皆、誤解している。
玄界灘や瀬戸内海をゆくのを「水行」とは言わない。川を溯ること又下ることを言う。
海をゆくのは「一海を渡る」と言う。

これを言ったら、「瀬戸内海は、外国人に大河と思われていた」と言う人がいるが、
案内同行の倭人が居るんだから、理由なし。
524日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:04:46
大河が四通八達している中国になぞらえて、「水行」と書いてるだけだから、倭人伝は信用ならない。
525日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:11:59
なんにしても、邪馬台国時代に吉備が無関係だったわけがないので。

魏志倭人伝の30国には吉備も含まれてると見るべき。
526日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:16:37
>>514
神武天皇は推古朝期の創造説は、確かに有力だけど、
それにしたら、なぜ橿原神宮に参ったのは天武天皇だけ?
527日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:20:31
皆さん、スルーしてないで>>520の質問に応えてあげましょう。
で、彼にはカシハラ君と言う尊称をプレゼントしよう。
528ローガン:2009/05/04(月) 16:20:40
>>371

> 景初二年六月です。

二年でない根拠を追加しておきます。
「宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見」
52918:2009/05/04(月) 16:27:32
>>521
陵は架空だろう。もとがあまりに小さいし、地元に残る伝承も少なかった。ただ、天照との
関係だけで神武伝説を後の時代に持って行くこともできない。もちろん3〜4世紀の東征は
ありえない。大和朝廷は全国を切り従えるため、それどころではなかった。

>>525
俺は、卑弥呼共立から都をマキ向とするまでのしばらくの間、吉備に仮の宮があった可能性も
あると思ってる。
53018:2009/05/04(月) 16:36:04
>>523
当の倭人伝自体に水行の語が出てくるが?>郡より倭に至るには、海岸に循って水行し・・・
531日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:36:15
記紀には、景行天皇や日本武尊あるいは仲哀天皇の熊襲征伐の話が出てくる。
年代的に言うと、4世紀代かな。

また、神功皇后の朝鮮征伐の話も出てくる。これは好太王の碑等とも一致し、
年代も4世紀終わり頃だろう。碑には西暦391年との年号がある。

どちらも九州の北部を通って行かなくてはならないが、九州北部との衝突は
特に書かれていない。

西暦527年。磐井の乱が勃発する。経緯はさて置いて、筑紫の君・磐井の反乱と
言われる。継体天皇は、大伴金村、物部麁鹿火の二大巨頭を派遣し、
一年半におよぶ大激戦を繰り広げる。結局、磐井は敗北するわけだが、
古代史上最大の内戦とも言われる。

6世紀でも、これほどの力のあった九州が、4〜5世紀に全く無抵抗だったのは
なぜか。いつ、大和朝廷の支配下に入ったのか。
その際、戦いはなかったのか。

これも謎かな。
532日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:38:54
「水行」

>>523
>倭人伝の「水行」を皆、誤解している。
>川を溯ること又下ることを言う。

んなアホな、と思うが、それじゃ君はここの「水行」をどう解釈する?

從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
533日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:57:05
>>531

アメリカは南北戦争をしたが、
南北はずっと敵対してたのか?
53418:2009/05/04(月) 17:06:33
この場合の水行は、海岸線に沿って慎重に航海を進めていたという意ではないかな?
自分たちの身の安全もあるが、なにより鏡などの答礼品を失わないために。とすれば水行
10日とかいうのはそう長い距離ではないかもしれない。・・・畿内説がこんなことを書いては
いかんな。船は魏使が乗ってきた中国船だろうか?倭船に乗り換えたものか?

>>531
継体帝の時期は大和朝廷は大混乱で力を失っていたと思われる。記紀を信じれば応神帝
五世の孫を、後継として越前から連れてくるしかないというのは超非常事態。
535日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:25:07
ま、磐井の乱についてはいろいろ説があるらしいが…。

武烈天皇がどうしてあんな悪逆非道の天皇にされてしまったのか。
越前まで行かなくては後継者はいなかったのか。
武烈天皇の姉を妃にしているのはどういう意味か。

などを考えると、男大迹が王位を簒奪したという可能性もあるかも。

そうなると、磐井の乱の意味も変わってくるように思われる。
536日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:36:22
九州王朝はそっちのスレでやれよ。
537日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:36:57
九州には「この、オオドもんが」という言葉が今も残っていますよ
この馬鹿者が、くらいの意味を持ちます
53818:2009/05/04(月) 17:52:43
上レスでも書いたが、神武帝から、たぶん元正帝までの漢風諡号は淡海三船が一括して
つけたとされているが、中国には「継体持統」という四字熟語があるらしく、継体も持統も
国体や血統をうけ継ぐという意味のようだ。このあたり、三船はよく事績を考慮してつけてい
るといえる。他の諡号についても、記紀のどの記述から取られたのか考えてみると面白い。
・・・仲哀帝とか。

539日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:07:02
神武は実在する
最初だから
540日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:13:16
>>533
「南北はずっと敵対して」いたが、何か?
だから、大戦争にまでなった。
北部はイギリス系中心、南部はラテン系中心で、南北戦争まで交易交渉外交関係一切無し。
南部は、アメリカ諸州に入れてもらえなかった。
541日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:31:33
>>532
三国志本篇で「水行」は、皆、川・河を行くこと。

「循海岸水行」=海の岸にしたがって水行し、と訓む。
しかるに、不弥国からは、「水行」しかない。「循海岸」が無い。
単に「水行」と云えば、川を行くこと。
542日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:45:49
>>531
九州北部には先史以来有力な勢力は遂に育っていない。
磐井の乱が初めての有力勢力。
それまでは全て大和政権の出先機関に過ぎず、独立国の如くに言う倭人伝の記事は誇張。

中央に隠れて金印を貰った奴国は、大和政権に征伐軍を向けられ海上に逃れる際、志賀島に金印を
征伐軍方向に投げ捨て外地へ亡命した。
54318:2009/05/04(月) 18:56:46
>>541
まあね。この説は昔からあり、実は考え方に大きな齟齬はないのだが、なかなか主流になれ
ない印象があるのは、どの川を下ったかにもよるのだが、候補地が限定されてしまうから
だろう。畿内説は当然として、九州説でも支持しないのも結構ある。
どの川を遡って、どこに行き着いたか自説をどうぞ。
544日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:57:44
>>535
越前まで行ったのではない、越前勢力が王朝を取って変わったのだ。
最後が近江勢力による王朝。
従って、応神と継体とは血脈なし、また推古(崇峻)と舒明も血脈なし。
545日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:08:40
>>543
541さんとは別人ですが同じ考えを持つ者です
海なら海行、川や運河ならば水行と表記したのではないかと

御笠川を上ったのではないかと考えています
水城のあるあたりで一旦船を替え小郡付近から筑後川の支流を下り
河口のあった鳥栖、久留米付近からまた有明海を行く船に乗りかえたのではないかと
東に海がある、という記事から邪馬台国は有明海西岸
諫早平野あたりではなかったかという意見を持っています
546日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:10:07
要するに、東遷、東征を前提に考えると、九州と大和は同族。
争う必要はない。

しかし、大和が他の勢力に簒奪されれば、その勢力と九州は敵同士となる。
あるいは、継体天皇の王位継承について、変則的な部分があり、みんなが
認め得るものではなかった。

それが、継体天皇と磐井の戦いとして具現化した。

継体天皇が、応神天皇の五代目の子孫を自称したのは、そのときにはすでに、
皇室の伝統・歴史が出来上がっていたと考えることが出来る。
その系統に乗っかるほうが、カリスマ性を得やすかった。
547日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:33:46
東遷、東征を前提に考えなくても、九州と大和は同族の倭人だが。

何だと思ってるんだ?>>546
548日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:40:42
>>544

www
549日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:58:36
>継体天皇が、応神天皇の五代目の子孫を自称したのは

自称という時点でアウト
釜山港にお帰りくださいませ
550日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:17:33
平将門も桓武天皇の5代目だった。
藤原秀郷に討たれたというのは真っ赤なうそで、
もし、落馬して死んでいなければ天皇を名乗る
資格は十分にあったし、日本の歴史が変わって
いたかもしれない。
551日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:27:09
邪馬台国は、「日本書紀」の記述と何の関係もないよ。
その間、500年も経てるのだから、「書紀」の記事から邪馬台国のヒントを得ようなんて無理。
第一、「書紀」は、「卑弥呼は神功皇后」なんて書いてるんだから、全くアテにならない。

「書紀」は、(「一書に曰く」を材料にした)完全創作。
天皇陵は、すべて「書紀」の比定、という一事で、それを証明している。

「書紀」は、ひょっとして、持統天皇が「万世一系の正真正銘正統の天皇」であることを証明したいだけでは。
552日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:33:00
継体持統と継体天皇、持統天皇。
継体天皇から持統天皇までは同一の王朝の意味かな。
553日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:33:01
>>521
神武天皇と天武天皇以来、明治天皇まで伊勢を参拝した天皇が居ない、というなら、
天武天皇=神武天皇、じゃないのかね?
554日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:41:41
山島を周旋、
ソウルから韓国南岸の水行里数との整合性、
方角の整合性
トロピカルな雰囲気、
渡海と水行の整合性(松浦以降渡海なし)
東に渡海すると倭人がたくさんいるだの

九州ですよね、やっぱり。

以北じゃないところに遠絶の国がたくさんあるということで、
北九州と考え勝ちですが、
「絶」の意味は、直前の文章にもあるとおり「陸続きでない」。

つまり、南西諸島。敵対するは沖縄。
女王が都するところは南端に近い。

順路と古墳群のサイズから、
投馬=大分の平野
女王の国=宮崎、西都原古墳群

でしょう。
555日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:46:22
>>553

神武の時には、伊勢はまだ無かったんじゃまいか?
556日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:49:48
>>554
> 九州ですよね、やっぱり。

結論だけは間違い無いのだが、問題は道程と場所だよな。

宮崎県妻キ市に持って行くなら、高千穗峰の鹿児島県側山麓の方が有力なんだけど・・・。
大規模高度聚落遺跡も出ているし。
557日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:50:31
九州だとしても水行二十日はあり得ない
ジャワ島だと思うよ
558日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:51:32
>>555
いや、伊勢を拝んで歌を作ったとあるから、ありもしない伊勢を拝んだのなら、
天武天皇=神武天皇・・・??
559日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:52:23
そうじゃないんだよなあ。

宮崎は弥生時代の青銅器文化でも北九州より全然遅れてたわけで。
560日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:57:04
>>554
そうなんだ。「水行」は渡海と明らかに違うのに、アッサリ「水行」と書いてあるので、
九州であることだけは間違いない!
561日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:00:12
あと、「会稽の真東」っていうのも、九州南端くらい。
562改め:2009/05/04(月) 21:01:16
ほらほら、迷ってる、迷っている(笑)

分かりませんでしょww

しかし、この改めは、その場所を解いてしまってるのでアル。
563日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:06:07
「前に海が見える」と一切書いてないので、
邪馬台国は、海に面していないところ、火山も見えないところ、
山と田が特徴のところ(「ヤマタイ」「ヤマト」)。

すなわち、大和――奈良盆地。
56418:2009/05/04(月) 21:06:56
東洋学の権威である内田吟風説?4世紀の僧 法顕が記した「仏国記」によれば、彼が
インド・スリランカからの帰り、3ヶ月ほどで耶婆提(ヤバテイ)国に到達したとあり、これが
現在のジャワ島らしい。倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は現インドネシアとなり、風俗
記事ともよく合致する・・・わけはないんだが、中国では彼がアメリカ大陸を発見したと、
まじめに研究してる学者もいるな。
565日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:18:14
>>563
ナルホド・・・・・・これが結論・・・かな?
中国中原には――洛陽近辺、のちの長安近辺も――山が無いや!
3世紀前半なら、稲作は江南から東シナ海を日本に来ただけで、朝鮮半島には未だ伝播してないや!
566サガミハラハラ:2009/05/04(月) 21:20:11
>>521でいう伊勢とは、冬10月1日の「伊勢の海の大石に這いまわるーー」の詩ですか?これは古田武彦さんの節で糸島半島にある地名だとのことです。
前後からみて、その方がピタリだと思います。
567日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:21:05
>「書紀」は、「卑弥呼は神功皇后」なんて書いてるんだから、全くアテにならない。
そうは書いてないでしょう?
568日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:29:39
でも、王位にあった女性ってこの人しかいないんだもの。
569日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:36:58
書いてもないことを書いてあると言うとは!
ウソツキイクナイ!
570日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:38:11
>>567
神功皇后の項に「魏志倭人傳によれば、倭の女王は・・・洛陽に行かせた」旨明記し
ハッキリ神功皇后の事績中に取り込んでいるじゃないか。

これを普通、書紀は、卑弥呼を神功皇后に比定している、と言わないかい?
571日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:40:43
>>567
だから、書紀は、何から何までデタラメだ!ってえの。
卑弥呼=神功皇后、なんだから。
572日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:48:41
>>549
そういうのを揚げ足取りという。
たった一点を指摘するだけで終わり。
議論する気がないならそちらがハウス。
もう、出てこなくてもいい。
573日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:49:02
>>570
神功皇后紀にそれが書いてあることは確かにまちがいないが、それが神功皇后の
事績だとは明記していない。たまたま、同じ時代に倭の女王が使者を派遣したと
読むことも可能なのだよ。
574日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:50:22
>>566
古田武彦説は、トンデモ説なので根拠にならない。
第一、彼は書紀をマトモに読んでいないの、随所で見え見え。
今はどうか知らないが、彼の時期には両書共、岩波文庫で手にはいったのに、だ。

神武天皇が伊勢を拝んだのは、伊勢神宮へ行ったのではなく、熊野から大和へはいるコースで
天照大神に導かれて成功したから、コース上で「伊勢」の方角に向かって詠ったと書いてあるのだ。
57518:2009/05/04(月) 21:51:19
書紀は干支を2まわり120年(単純に、あるいは意図的に)間違えて書いてるんだと思うが。
神功皇后が政務に携わったのが、201年〜269年で、その中には当然卑弥呼朝貢の年も
含まれてる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

しかし実際は4世紀の人で、他スレでも書いたが、石上神社の七支刀についての記述、
(日本書紀神功皇后摂政52年=252年に百済から倭国に献上)は実際の史実は372年と
推定され、ぴったり120年ズレてる。俺はこれで何の疑問もないんだが、2chには独自の暦
年代を唱える人が何人もいて、こんなことでも否定されてしまうんだよなあ。














576日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:57:27
>>575
日本書紀を著した当時の学者達は卑弥呼の時代をまちがいなく計算しているんだよ。
それなのに、我が国の神功皇后の年代を百二十年も間違えたって?
そんなこと有るわけがないじゃないか。
577日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:58:20
>>570
神功紀の記事の干支と239年の干支が一致するように取り込んでいるね。

それでは、最初に神功皇后=卑弥呼があって、神功皇后の年代が合うように
100年以上も古くしたのかというと、そうではなさそう。
神功以降も神功以前も天皇の長寿が続いているので、神功までを焦点にした
延長とはいえないんだよね。

天皇の寿命の伝承は長寿ばかりだったから、6世紀あたりから遡っていったら、
自然にああなったという感じがする。
578日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:00:15
>>573
読めない!
なぜなら、神功皇后が全日本を指揮していた、日本の支配者の趣旨で書いてる中で、
新羅攻伐戦以下は「書紀編集チームの責だが、魏への朝貢事績は魏史に基づく」という姿勢
で、引用の形で書いてある記事なんだから。
アンタひとりがガンバッテも、「書紀は卑弥呼を神功皇后に比定」は常識だよ。
579日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:01:25
>>570

>神功皇后の項に「魏志倭人傳によれば、倭の女王は・・・洛陽に行かせた」旨明記し
ハッキリ神功皇后の事績中に取り込んでいるじゃないか。

それは、「神功紀」の註記だろ。


これを普通「書いてある」とか「書紀は、卑弥呼を神功皇后に比定している」と言わない。

普通は「註記にある」と書くところだよ。

貴方としては、ちょっとだけ強調したかったのかもしれないけど、

ここで、ただ罵倒合戦をしたいだけならともかく、
少しでも知的探究心を充たしたい気持ちがあるなら、
そう言う手法は選ばない方がいい。
580日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:08:18
>>579
「一書に曰く」等は、註記だが、同項は註記ではなく、本文中の記事であり、文字の大きさも他の本文と同じ。
581日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:09:38
>>575
>(日本書紀神功皇后摂政52年=252年に百済から倭国に献上)は実際の史実は372年と
>推定され、ぴったり120年ズレてる。

干支を基準に比較したら60の整数倍のずれしか生じようがないので、「ぴったり」になるのは、
当たり前ですが、このあたりは根拠がありそうですね。

神功皇后「52年」という不自然に長期の統治期間をつくってまで干支を合わせたと考えると、
何らかの文献に372年の干支と七支刀の献上がセットで書いてあったと推測できます。

しかし、それが神功皇后の時代であったのかについては確実性はないですが、応神天皇の
治世にせずに、神功の治世を伸ばして記載したとことからは、神功の時代に来たという伝承も
残っていた感じがします。
582改め:2009/05/04(月) 22:10:23
>>579

ほら>>580さんに言われてるよ。
罵倒合戦を嫌がってないで、男なら言い返したらどう?ww
583日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:13:13
事程左様に、書紀の記事はデタラメなんだよ。
神武天皇が推古朝以降の創造によるのは明らか。
一体、誰のことか?というだけで、邪馬台国とは何の関係もなし。
584日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:16:20
倭人伝の記事が厳然と存して、「書紀」が困って神功皇后に宛て、年代をゴマかした。
585日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:19:43
水行が川を遡航する事だとしても良いが、
豊後水道も、瀬戸内航路も、中国人にとっては川の様なものじゃないか。
586日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:22:43
>>580
きみが見ている日本書紀は、写本名まで遡ると、何本をもとにしたテキストかな?
587改め:2009/05/04(月) 22:23:21
>>583
おお〜お宅、まともな事じゃん。

書紀の記事はデタラメかどうかは知らないが、
安易に倭人伝と結びつけるのはどうかと思う。
588日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:24:06
>>498纏向遺跡は、邪馬台国と同じ時期に栄えたまったく別の勢力の住居跡。
    そんなところにいっても、何の参考にもなりません。方向が違うでしょう?
589日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:28:18
>>578
ならば、何で日本書紀は神功皇后の没年を269年にしたのかな?
卑弥呼が250前後に死亡したことは倭人伝で明らかだろう?
年代が合ってないんだよ。
59018:2009/05/04(月) 22:29:06
>>581
ぴったり と書いたのは史実が370年とかなら大きな問題が生じるから。

>372年の干支と七支刀の献上がセットで書いてあったと推測できます。
これは、そのとおりでしょう。
591改め:2009/05/04(月) 22:30:40
>>580

>>586さんが、
>きみが見ている日本書紀は、写本名まで遡ると、何本をもとにしたテキストかな?

だってよ。
ほら、>>580さん オメーの番だよww

>>588
>>588サンは、私と同じ、九州説ぽいですね。
畿内説さんって、いくら言っても分ってくれないんですよネ。
59218:2009/05/04(月) 22:32:49
>>589
だね。実は書紀には台与と推定される倭女王も出てくる。
593日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:33:50



邪馬台国は、吉備と関係してたんだから、
九州だけってことは有り得ないんだよね。



594日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:34:20
記紀以前の書物としては、620年に編纂され、645年焼失の『天皇記』『国記』。
681年に編纂され、その後散逸した『帝記』。あるいは『旧辞』なんかが
日本書紀の元になったのだろうな。
595日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:35:11
魏志倭人伝は明らかに畿内が日本の都であるとの距離感で描かれてる
実際の九州は小さすぎる
伊都国起点の放射説であっても収まらない
対馬で遊女達とキャンプしてたんだと思う
596日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:40:07
>>589
西暦266年に倭女王が西晋に朝貢したという記録も読んで、これも神功皇后に
含めてしまおうと思ったんじゃなかろうか。
どうしても、二人の女王までは捻出できなかったと言うことかもね。
597日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:44:22
追加された天皇もいたとされるけど
台与もそうだけど、相当数間引きされた人たちっていそうな感じがする
598日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:45:37
ドツボがウザイ
巣にかえれ!
599日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:46:57
実際問題として、卑弥呼・台与と神功皇后では年代が異なるわけだから、
けっこう日本書紀に無理があるのは確か。
600日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:48:53
>>598

どこに書き込もうがその人の自由だろ
彼もまじめに書いてる
601日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:54:52
>>593
だったらいいんだけど、
九州だけ除外(結成時)の可能性のほうがw
602日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:55:32
ドツヴォは勉強不足なのに自分で仕切ろうとするから嫌だ
603日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:57:07
>>588
そうなんだ。全く違ってた。邪馬台国よりも後世の遺跡だったのだよ。
きょうは、様々資料を整理してんだがね。
604日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:03:10
人の悪口や文句ばかり言うやつも好きになれん
605日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:04:07
↓これに憧れる!
>>563
> 海に面していないところ、火山も見えないところ、
> 山と田が特徴のところ(「ヤマタイ」「ヤマト」)
606日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:09:44
>>605
でも、纏向は違ったんだ。きのうで三度迄行って考察したんだから・・・。

やはり、高千穂之峰の鹿児島県側山麓平野の遺跡かなあ、と、この頃では。
何しろ、縄文時代からの高度な聚落遺跡で、そのまま邪馬台国に育ったのでは、と。
607日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:11:26
>>600

ドツボは、自分でもいっているように、ただ罵倒合戦がやりたいだけ。

プに至っては、いったい何がやりたいのかすらわからないw
608日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:13:10
>>605
三世紀前半に、広々と水田が広がる光景てのは、中国以外は日本しかないからね。
609日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:19:49
>>606
そこはダメです。火山が二つも見える。
火山も無く、海も無く周囲が山のところです。
大和しかありません。
610日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:29:54
阿蘇山が魏志倭人伝に書かれてないんだから、南九州では無いな。

611日本@名無史さん:2009/05/04(月) 23:56:29
「當在會稽東冶之東」(まさに會稽の東冶県の東に在るべし)が気になる

道里を計れば、そうなるべきだ!と、わざわざ強調してるんだ――凄く気になる一文。
61218:2009/05/05(火) 00:04:25
>>611
>夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く
これと関係があるんでないかな?
613日本@名無史さん:2009/05/05(火) 00:11:35
この道里は、文脈上「道理」と掛かってる。
場所というより
「道理で会稽の東にあるはずだ」 って意味だろう。
614日本@名無史さん:2009/05/05(火) 00:20:29
三世紀に入っているのに、日本の先進地帯は、本当に長髮で髷にしていなかったんだろうか?
朝貢使を遣わすほど中国と交流があったのに・・・?
615ローガン:2009/05/05(火) 00:37:39
>>586

>>580
> きみが見ている日本書紀は、写本名まで遡ると、何本をもとにしたテキストかな?

私も580さんに訊きたい。
61618:2009/05/05(火) 00:39:41
あとは、三国志呉書孫権伝の、
>亶洲は海中に在り。長老、傳え言う「秦の始皇帝、方士徐福を遣し童男・童女數千人を
 將いて海に入り、蓬莱神山及び仙藥を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世相い承
 け數萬家有り。其の上の人民、時に有りて會稽に至り布を貨す。會稽東縣の人、海に行き、
 また風に遭い流移して亶洲に至る者有り」と。
 
簡単にいえば、「徐福の子孫が、亶洲で栄えて数万人となり会稽に来て取引をする。また会稽
の人も海で漂流して亶洲にたどり着くことがある。」ほどの意。
ここらあたりを研究して、亶洲をいろんなところに比定してる人がいるね。
617日本@名無史さん:2009/05/05(火) 00:43:38
>>580
違いますでしょう。
日本書紀にはいろいろな写本があって、それぞれ体裁が違います。以下Wikipediから部分引用。

日本書紀 現存本
写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。(この他に「伊勢系」を分けて考える説もある)

神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。

以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。

古本系統

佐佐木本 四天王寺本 猪熊本 田中本 岩崎本 前田本
図書寮本(書陵部本)12世紀写 第10,12-17,21-24巻
北野本第1類 鴨脚本(嘉禎本)

卜部家本系統

卜部兼方本(弘安本) 卜部兼夏本(乾元本) 熱田本
図書寮本(書陵部本)1346年写 第2巻
北野本第2-5類 卜部兼右本
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80#.E7.8F.BE.E5.AD.98.E6.9C.AC

黒板勝美博士は古史書写本を広く猟集し校勘の労を執られましたが、博士によれば
神功紀における件の倭女王についての魏書・晋書からの引用は、
卜部家本に見えるものであって、古本系統には無いとのことです。
618ローガン:2009/05/05(火) 00:58:35
>>617

集解は後注としている様ですね。
神皇正統記もスルーしてますね。親房が見た書紀には 件の注記がなかったか?
619日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:09:18
>>618
北畠親房の性格を考えると、例え見ていたとしても、こんなものは却下じゃ!とやってしまいそうな気がします。w
620日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:18:49
>>617
そこまで言って、「書紀の卑弥呼=神功説」を否定したいかね。常識なのに。

第一、挙げてる「古本系統」(そんな呼び名は無い)は、逆に後者よりも新しい後の写本だ!
そんなことも知らないで、国宝か何かの目録を挙げて・・・ネタばれだ――大学人ではないなッ。

学校には、真正写本(だけ)の写真が備えられているんだぜ――全て検して居ないとでも思っているのか。

キミ達は、書紀を写本で研究するのか――ご苦労なことだ!
書紀の研究と言やあ、谷川士清『日本書紀通証』に拠り、岩波書店『日本古典文学大系・
「日本書紀」上下』に基づいて行なうこととされている、のだ。
621日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:19:36
>>616
で、孫権がその亶洲を見つけるべく船団を出したって話だっけ…

「徐福伝説」と言い倭人伝中にも引用されている「太伯伝説」と言い
倭国=孔子も憧れた理想郷…と言うバイアスがかなりかかっているんだろうなw

良く倍暦なる物の根拠にも挙げられる倭人の寿命が100歳とかなんとかも
そのバイアスが成せるわざだと思う。

又その文章の前後の犯罪や訴訟沙汰?が少ないなんてもwww
622日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:22:15

結局、邪馬台国は仁徳に滅ぼされたの?

623日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:22:45
>>614
既に総髪の長髮で、うしろで括るマゲだったかと思われる。
(そういう研究がある)
624日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:27:32
>>616
「徐福伝説」の一行が邪馬台国だってえか?
それなら、誰だかシキリに吉備だ吉備だと言ってるのが正解になってしまう。

後の宋書倭人伝だったかの記事では、吉備に徐福一行の子孫聚落が在った、と書いてんだから。
62518:2009/05/05(火) 01:27:45
>>621
同一人が書いたものなら、同じ地名が出るたび何か意識するだろうが。俺的には、ここに
これ以上深入りしても、トンデモしか出てこない気がする。
626日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:29:36
それより朝貢団のメンツは顔に刺青があったのかな?

中国で顔に刺青って言えば罪人に処せられるモンだろう?
(漢楚の戦いに黥布と呼ばれた人物がいたが…)

魏の宮廷の人間達さぞやドン引きだったんじゃね?wwwwwww
627日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:34:42
>>626
だから、それほどの男達からなる大人口国家(本国で7万戸で5万戸の国まで従える)が
會稽の東に在るんだぞ!って言ってるワケだ――一体、何を訴えようとした記事なのか?
62818:2009/05/05(火) 01:35:51
よく引き合いに出されるのはこれで、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/shokkouzu.html
まあ6世紀の梁代なんで推論の材料にはならんが、裸足。たぶん文身は顔中、体中あったん
でないかな。
629ローガン:2009/05/05(火) 02:12:58
>>620

> 第一、挙げてる「古本系統」(そんな呼び名は無い)は、逆に後者よりも新しい後の写本だ!

では、ご推奨の「日本古典文学大系」から…
p.30古本 「卜部家本系諸本の弱点を補い、卜部家本系諸本を批判、修正する上で、多大の役割を果すものが古本に属する諸本である。(中略)
奈良時代末期あるいは平安時代極初期から、鎌倉時代、南北朝時代に至る古写本であって、卜部家本とかなり異る本文を持つものが少なくない。
それらの異文を考察すると、現存の卜部家本系諸本の本文は、全体として伝写の間にかなり不純化しているらしいと感ぜざるを得ない場合が往々ある。」
630日本@名無史さん:2009/05/05(火) 04:10:08
>>540
>南部は、アメリカ諸州に入れてもらえなかった。

631日本@名無史さん:2009/05/05(火) 07:09:02
>>620
では、その常識人に聞こうか。
なぜ、神功皇后、則ち倭人伝に言う卑弥呼也と明記しなかったのかな。
なぜ、皇后がトップになった年を200年とし、没年を269年としたのかな。
卑弥呼ならば、180年代に共立、250年ころ死亡のはずだろ。
なぜ、垂仁時代に殉死の制度が廃止されたとしたのかな。皇后時代に殉死がない
となれば、卑弥呼の話とは合わないだろ。
632日本@名無史さん:2009/05/05(火) 07:33:11
神功皇后記には、新羅・百済が盛んに登場するが、新羅の建国は、西暦356年。
百済の建国は、西暦346年。
したがって、神功皇后が実際したとすれば、建国以降ということになる。
一般的には、好太王の碑文などから、4世紀終わり頃とされる。

倭の五王・讃を応神天皇あるいは仁徳天皇としても、だいたいそれくらいが
妥当じゃなかろうか。

卑弥呼の時代には、新羅も百済もなかったわけだから、卑弥呼の時代と
神功皇后の時代は明らかに異なる。
633日本@名無史さん:2009/05/05(火) 07:40:53
文献にでてくる百済新羅等の国名はその文献が記された時代の呼称です。
縄文時代の日本といういいかたをすることもあるでしょう。
縄文時代に日本なんてありません。
634日本@名無史さん:2009/05/05(火) 07:56:50
>>633
しかし、我々現代人も、古代の話をするときは、日本とは言わず、倭と言うし、
中国とは言わず、漢とか魏とかいうわけだから、日本書紀が神功皇后の時代の
ことを記す場合も、神功皇后の時代の国名を用いたと思うけど。
635日本@名無史さん:2009/05/05(火) 08:15:59
では、旧石器時代の日本のことをなんといいますか。
なお、漢とか魏は国名地域名ではなく王朝名です。
636日本@名無史さん:2009/05/05(火) 08:21:00
神功皇后時代の国名は大和ではないのか。
637日本@名無史さん:2009/05/05(火) 10:49:43
大和w
638日本@名無史さん:2009/05/05(火) 11:28:19
ま、いづれにせよ、神功皇后なんて架空の人物だよ
639日本@名無史さん:2009/05/05(火) 11:30:31
半島に、それまで、加羅や任那があった、ということ自体どうだか?怪しい記事だ。
640日本@名無史さん:2009/05/05(火) 11:34:35
邪馬台国の時代に、「日本」とか、こっちの列島だけでの「ひとまとまり感」なんて無かっただろうな。
もっと以前の、列島も半島も大陸も一体感のなごりが、まだまだ続いていたんでは。
641日本@名無史さん:2009/05/05(火) 11:48:06
隋や唐が出来るまでは、大陸に政変があっても、倭人には「大陸に強力政権が生まれた」
なんて感覚無かっただろうな。
隋・唐が興って初めて、「とてつもない政権が向こう側に出来た」って意識が生じたんだろう。

そこから、倭の地の社会が急速に発達し始める。
政権システムを整備する。太宰府始め各地に要塞が出来、「日本」も「天皇」も生まれ、
よりまし政権を争点に壬申の乱、あわてて「日本書紀」も作る・・・。
642日本@名無史さん:2009/05/05(火) 12:02:01
その後永続する新政権が落ち着いて、書紀の編纂に掛かったものの、
一向に唐が日本に攻めて来る気配が無い。
従って、書紀の完成なんぞユックリやれ!ってえとこじゃないかな。
643日本@名無史さん:2009/05/05(火) 12:40:32
蒙古襲来もあれは本気でなかったようですね。
所詮、東海に浮かぶ小島、中原の覇者が手を
下すまでのことはなかった。
防人の任に就いたのはなぜは東国の武士。
その理由は意外なところにあった。つまり、九州
の勢力自体が蒙古や朝鮮と結託して鎌倉幕府を
滅ぼそうとしていたからです。
そのやり方は、邪馬台国の時代とちっとも変わって
いない。古い手です。
644日本@名無史さん:2009/05/05(火) 12:49:23
距離感が畿内説有利だというのは、間違いじゃない?

帯方郡から韓国南岸までの水行里数や、
そこから壱岐や対馬までの里数などが書いてある。

一方で、帯方郡から女王国までの里数や、
女王国がある島の周旋距離の里数もかいてある。

その対応から、距離感で最も有利なのは
南九州説で、四国であっても距離的な問題はない。
(渡海の記述がないなどの問題はあるが。)

トロピカル系の植物が生えていて、
会稽の真東という緯度も、南九州有利。

また、「そこから先は、遠絶=遠くて陸続きじゃない
国がたくさんあって詳細はわからん」
という話の繋がりからも、南九州有利。
645日本@名無史さん:2009/05/05(火) 13:38:18
「會稽の東」ってのを、位置として、そこまで正確に意識する必要は無い、と思われ。
文字通りに位置を支持する文として読むのではなく、大事なのは、

なぜ、殊更「會稽の東」を強調しなければならないか、ということだ。
単に位置なら、この文不要で、それまでの記述で充分のハズ。
しかも、「當〜」の表記。丸も点もない漢文では、「當〜」は、よほど強調したい表記法。

この点が、どうにもわからない。
「當會稽東冶東」は、倭人伝のキーワードだと思う――この解明で倭人伝全体が理解できると。
646日本@名無史さん:2009/05/05(火) 13:51:34
邪馬台国の雰囲気は、もっと暗いイメージ。
南九州の台地上なら、ちょっと明る過ぎる。
あたりは開け、彼方には広々と海も広がり、空はどこまでも広く、火山も活動して、
明るく活動的な地域・「国」。

倭人伝のは、黥面・身体に文様の男が行き交い、あたりは暗緑色の盆地状地形のイメージで、
陽も入らぬ閉ざされた建物内では、気違い婆あが喚き悶えている――何かしら暗〜い感じ。
大和盆地がピッタリ。
647日本@名無史さん:2009/05/05(火) 14:09:56
>>646
そういう暗い盆地だから、毎日昇る太陽が有難く、太陽信仰――。
648日本@名無史さん:2009/05/05(火) 14:40:21
>>645

会稽の東を強調している理由は文章で示されている通りだと思う。

髪を短くして刺青をして素もぐりで魚を取る風習が、会稽のそれと同一であるから、
太伯の後裔というのも本当かもしれないね。
里数から計算すると、ちょうど会稽の東にあたるし。・・・ってこと。

著者が「彼らが会稽の民である」と信じるだけの理由が揃っていると言いたいわけ。
会稽の東である根拠は「里数」なので、ピッチリ正確である必要はないが、
ある程度の整合性は必要だろう。インドネシア説などは違うということ。

南九州はその点では有利であることは間違いない。
それに、根拠はそれだけじゃない。
倭人伝の記述は、南九州説に有利な点だらけ。


話の流れとは関係ないが、以下、太伯関係の引用。

>九州宮崎県の諸塚山には、太伯が葬られているという伝承がある。
>鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。
649日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:14:17
> 髪を短くして刺青

これは、倭人伝の創作だと思う。
650日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:15:07
髪を短くしてなんて書いて無いだろ。
651日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:16:59
「會稽の東」ってあるワケだから、
大和説の場合、列島をわざわざ反対向けて合わせなくても、
アッサリ、南九州ってことでいゝんじゃない?
652日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:17:08
あと、倭人がイレズミをしてた証拠は土偶にのこされている。
653日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:17:40
> 黥面・身体に文様

これは、倭人伝の創作だと思う。
654日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:18:02
南九州には日本のどこからも貢物が運ばれて無いからダメだよ。
655日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:20:23
>>646
↑オレ、これに魅力ある!
いや、お書きになった当人じゃないよ、賛同する、って意味。
656日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:31:19
大和説の纏向遺跡ってのは、あまりにも出来過ぎている。
橿原に近い、明日香に近い、仰げば天香久山が望める。辺りは古墳だらけ。
どうも、何もかも出来過ぎで、却ってウソっぽい・・・。
657日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:33:41
あのあたり歩き回れば、平城京遷都までの古代史を、大型古墳も含め全部見学できてしまう。
658日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:39:00
>>656
なら、纏向はデッチ上げじゃないの?
659日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:45:54
>>656
いや、ウソじゃないんだ。
それほど大和説は鉄壁の有力さ、なんだ。
纏向=邪馬台国。
660日本@名無史さん:2009/05/05(火) 16:18:32
纏向には日本中から貢物が集まってる。
661日本@名無史さん:2009/05/05(火) 16:38:27
倭人伝の記述より、状況証拠が畿内説有利。
と言うより、後は固めていく段階。
九州説は消えたも同然。今ごろ何言ってんの?
662日本@名無史さん:2009/05/05(火) 16:55:26
>>644>>645>>648>>651>>654

>會稽の東


議論を読んでて違和感を覚えるのだが、きみたちは會稽東冶(治?)の東に何があるんだと?
まさか邪馬台国がか?

それは違うだろ。
きみたちは倭人伝を誤読してるよ。
663日本@名無史さん:2009/05/05(火) 17:22:12
>>661そうなんですよ。あとは方向さえ合っていれば・・・おしい、実に惜しい。
しかし、邪馬台国と同じ時代にあった国だし、邪馬台国の文化を知るうえで
参考になります。頑張って調査してください。
664日本@名無史さん:2009/05/05(火) 17:23:48
>>662
大和全体を記述したあとの総括のようなくだりだからな
邪馬台国というより倭国とするほうが正しいんだろう
665日本@名無史さん:2009/05/05(火) 17:59:19
親魏倭王の印は、出てないのか?(発掘されてないのか)

>>662
単に「會稽の東」じゃないんだ。「會稽東冶東」――「東冶」と云えば県=即ち都市の名。
地域じゃなく都市まで指定しての、東だから、当然、東にあるのは地域ではなく邪馬台国。
666日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:10:31
女王国まで、12000里あまり。

男は刺青入れてます。

逸文:旧語(古い中国語?)で、太伯の子孫って言ってます。

会稽の人って身を守るため刺青入れるよね。

倭の人も同じ理由で同じスタイルにしている。

その道里から考えると、会稽の真東っぽい。

という話の流れ。
「その道理=12000里あまり」でしょう。
真東にあるのは女王国。

667日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:17:44
他に、
ソウルから韓国南岸まで、海岸沿いに7000里。
総行程12000里あまり。
女王国がある島の周回距離5000里あまり。

韓国南岸から、
目的地のある島の一周分の距離進むと
目的地に着く。

島=九州ならば、九州南部が目的地。サイズ距離共に最も適切。
島=本州ならば、里数が全然合わない
島=四国ならば、可能かもしれないが、他の記述との整合性が・・・

絶在であることは、はじめの概要と最後のまとめの
2箇所で述べられていて強調されている事項。
668日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:33:27
四国でいいだろ。
徳島が邪馬台国だよ。

669日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:42:47
太伯の末裔がいると言う 「会稽東治之東」 なんて南九州どころか
地球上に実際にある土地を描写したのかどうかでさえ怪しいと思うw

例えば「沈没して、魚蛤を補う」とあるが、そもそも蛤(はまぐり)は潜水漁法になじまない。

「魚蛤」と言う語が今日の日本語の感覚で言えば「魚貝類」程度と言う見方もあるかもしれんが
じゃあ末盧國の描写に「魚鰒(あわび)を捕る」とあるのは何故?と言う話になる。

ここら辺は漢籍に詳しい人間の意見を拝聴してみたいが…

まあ太伯の末裔云々自体はあくまで伝説で倭人は自らの”ハク”をつける為
それを自称したかあるいは本気で信じていたか…
と言う推論は成り立つのかもしれんが。

仮にそうであれば別に南九州の地域の人間に限定する必要もない。

欧州では日本人や新大陸と言った新しい文化圏の人間に会うたび
「失われた十支族」の末裔ではないかとか言われてたらしいが
太伯伝説もそのノリに近い物があると思うwwwwwww
670サガミハラハラ:2009/05/05(火) 18:45:47
邪馬台国は佐賀県小城市甘木ですよ。卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
まだ認めたがらない人がいるようですが、最終的に認定されることになります。
これを前提に議論するのがよろしいかと思います。
671日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:53:10
>>669
今あんたが真実を解き明かした。

邪馬台国は「新大陸だった」後はメリケンと中共に戦争でもさせて
ケリつけさせろ。
672日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:03:41
しかし、邪馬台国=纏向遺跡って、オカシイじゃねえか。
こんにち飛鳥と呼ばれるその地域に何もかもあるんだぜ。
橿原の宮、斑鳩の宮、飛鳥板蓋の宮、藤原京、その他何たら宮全部・・・。

そんな1地域に日本の政権中枢が、2世紀末の邪馬台国=纏向から五百数十年間、遠く平城京へ遷都するまで
場所的に動かなかった・・・日本書紀通りなら千四百年間同じ地域に政権があったことになる。

まっ、おそらくは、天武天皇が飛鳥の宮を開いてからが大和政権であることよ。
橿原宮もその時建てたんだろう。高々西暦673年からのことだ。
大和説の人は、せいぜいあの辺りを何度も歩いてみることだね。
古墳も3世紀前半〜4世紀のものって、何一つ証明されていないことがわかる。もっと新しいものばかり。

日本書紀の歌で、崇峻天皇までの各天皇の歌で、三輪山や天香久山をうたったの1首も無し。
盛んに出てくるのは天武天皇からだろう。
百人一首でも天皇のは確か天武天皇が最初じゃなかったか?
ということは、何を示しているか、だ。
673日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:11:07
>>672
>日本書紀の歌で、崇峻天皇までの各天皇の歌で、三輪山や天香久山をうたったの1首も無し。

伊勢はあるよ。
67418:2009/05/05(火) 19:16:09
>>670
いや、そこまでわかってるならもう議論の段階ではありません。サガミハラハラさん自ら
行政に掛け合って発掘許可を取るべきです。公園内ならそんなに難しいことではないで
しょう。
675日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:22:34
にゃああああおおおおおう
676日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:23:57
倭人伝の記述は、南九州説に全て有利。

距離、方角、気候、経路、中国との相対位置、
陸続きじゃない島にあること、島のサイズ、
北じゃない方角に陸続きじゃない国々が多々あること。
東に渡海1000里、倭人の国。

などなど。

挙げたらキリがない。
言葉で誤魔化そうとしたところで、
これだけハッキリしたことは覆らないだろうね。
67718:2009/05/05(火) 19:36:57
>>670
曲学の徒さんはこんなにがんばっています。おそらく彼の人生をかけたプロジェクトでしょう。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/keizibann/Project-H.html
678日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:37:35
>>672
橿原神宮が天武天皇陵って説もあるからな。
やはり、大和説は根拠薄いね。
679日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:47:07
大和説は、明確に纏向と、特定地点がある点で強い――いや、強いどころか「決まり」だが。
九州説は、筑後の山門郡だ、肥後の山門郷だ、って言うだけで、ハッキリここ、というのがない。
九州説は、単に地名音類似のパズルだけで、現地に遺跡はおろか証拠となるものがない。
680日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:53:32
>>679
何を言うか。
九州説には根拠のない自信とやたら高いプライドというものすごい武器があるじゃないか。
681日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:58:14
邪馬台国=纏向で決まりだよ。
初期古墳最初の巨大古墳である箸墓古墳の所にあれだけ大規模な都跡が見つかったんだから。
箸墓古墳は女性用の古墳だから、卑弥呼の墓に間違いなし。

纏向遺跡も、邪馬台国特有の凸字形張り出し柵が発掘されたのだから、大規模宮殿跡と合わせ
邪馬台国であることは、動かしがたい事実。
遺跡の時期も2世紀末3世紀のもの、とピッタリ合致するし、これ以上何を議論するってえのか?
682日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:00:00
>>680
ワロタ
683日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:09:55
>>677
>地中レーダ探査を行う予定である。

しびれるなあ。曲学さんは。

机上だけで議論してるやつとは違うな。

684日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:10:43
ヨット乗る人ならわかると思うが
とてもじゃないが福岡から宮崎なんて二十日もかからない
水行10日と二十日は福岡から大阪にいたる瀬戸内航路
陸行一月は四国横断にほぼ匹敵
九州も畿内も破綻してる
投馬国と邪馬台国だけは里数で表してないのに最終的な距離は述べている
この時点で変だと感づかない頭の中身を覗いてみたいもんだ
恐らくは九州本州四国をちゃんぽんして書いてる
685太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 20:16:07
長期旅行は極度に披露するし、極量の確保、病人、台風等の悪天候、
なれない未知の土地での不安と迷い、山賊、毒虫等の障害を考察
すれば距離の単純計算は妄想に直結する。だから伝の陸行一月とか
は、九州説には妥当な記述なのである。単純計算より大幅に時間が
かかるのが当たり前。観光目的も兼ねて滞在もあろう。そういう
ことから伝の数字に不審はない。
686日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:16:22
里数は、周旋距離も書いてあります。

部分的に疑問を呈したところで
揺るぐ要素にはならないね。
687日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:18:59
時間が妙にかかっているのは、測量しながら進んだとか。

だって、この機会が測るしかない。
一大卒管理区域より南に来ることなんて。
688太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 20:20:42
西遊記でも三蔵一向は霊山にあとわずかの地点にまで来たが、千人
の僧をもてなす近いを立てた長者に滞在をうるさくせがまれ、1ヶ月
もグズグズするはめとなり、これが災いの引き金となり、なおも
大雷音寺への取経の旅が遅延したのである。
これを考えても、単純計算は妄想に近いのだ。
689日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:24:16
>>685
自分で書いててわかるだろ?
だからこそ肝心の邪馬台国までの里数は記録として必須項目
それが省かれてるw
いい加減に気づけよ、なぜ省かれてるかを
690太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 20:24:25
>>688 訂正
× 近い
○ 誓い
691日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:28:34
これは倭人伝であって邪馬台国伝ではない(キッパリ
692太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 20:31:38
西遊記での三蔵は九九八十一の難を体験して十万八千里の長旅を
し、予定年月を4,5倍も超過した後初めて如来の眼前に着いた。
予定を大幅に越えている。遣使は女王国に至るまでにいろいろな
障害が出て来て簡単には卑弥呼にまみえることは出来なかったと
観るべきである。予定日数を大幅に超えて女王国に到達したと考え
るのが正解だな。
69318:2009/05/05(火) 20:35:24
そうだな。旅行記ではなく地理誌に近いものだと思われる。つまり当時の魏使が水行10日
陸行一月かかったというのではなく、誰が行っても普通それくらいで到達するという意味では
ないかな。距離は不確かで測りがたいため、日数で表したと。
694日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:37:50
俺の想像では
帝の使いを出して邪馬台国まで辿り着けなかったと報告出来なかった
で、陳寿が頭を捻って捻って書き上げたのが倭人伝
日本人からすれば、まともな記録じゃないってのがわかる
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 20:39:41
報告をあざむくと、バレレば皇帝から死罪を言い渡される。
696日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:41:50
距離はどうでもいゝんだ、遺跡だ、遺跡。
九州説は、遺跡がないんだから、根拠なし。
それも、「凸字形張り出し柵と宮殿跡」だ・・・この遺跡。
遺跡が存在するなら、必ず「ここ掘れワンワン」があるから、今までそれが無いとなると
存在無しってことになる。
纏向もずっと以前から「ここ掘れワンワン」があったが、藤原京なんかの発掘を先にした
のと、予算が無くて、ああなっただけ。以前から邪馬台国跡だとは言われ続けて来ていた。
697日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:41:52
>>693
誰でもそれぐらいかかる?
だったら、それぐらいかかる場所を教えてくれ
俺には静岡までいってる距離に感じる
698日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:44:19
>>697
静岡説は現在学界で最有力の説だが、富士山が見えてしまう点が弱い・・・。
699日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:45:16
>>696
遺跡はあるよ、腐るほど。。。
でも、当時の福岡の二,三倍規模の集落が見あたらないんだよ
ムー大陸を探すより困難
700日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:45:20
遺跡だ、遺跡!
「凸字形張り出し柵と宮殿跡」だ!
701日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:45:33
今日は、子供の日やで


      , -―- 、 
   /了 l__〕      〈]  こう? 
    7| K ノノノ ))))〉 
    l」 |」(l|(. .i! i!. ||   
    | |ゝリ. ~ .lフ/リ   ,-、 シュコ 
     | | /^    ' ヽ  (⌒ヾ,-、シュコッ
.    l l | / /i ゚   ゚l. ヽ/.っ .\゛ 
     !リl/ /. |   |\__Χ.ヾ
.     _/ /. /   ' |    ̄ 
.    ξ_ノ. (  ヽiノ.\   
702日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:48:48
静岡は、もうじき空港の遺跡ができます。
703日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:49:04
>>677

(;・∀・)キアイハイッテンナー
704サガミハラハラ:2009/05/05(火) 20:50:13
>>677彼の頑張りにはすごいよくやるの一言につきます。
>>681邪馬台国特有の凸字型張り出し柵って、吉野ヶ里のことですか。
凸字型の張り出しがあるからといって、吉野ヶ里と同じとはかぎりません。
わたしも、伊都国の都とおもわれる多久市中小路カラホリさんを弥生環濠集落のあとと考えたことが
ありましたが、現地調査の結果見事なからぶりでした。
705日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:54:24
>>701

イ、イ、イ・・・、 イ×タン・・・・・・・・・・・・・・・・・・
706日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:55:44
【水行陸行の日数】
器械が旅するんじゃないよ、人間が行くのだよ、魏使が行くのだよ。
水行と言っても昼になりゃあ手近の陸(おか)に上がって弁当を使う。
1日水行すりゃあ、陸に上がり、近くの農家に宿泊する。
そこの女が与えられる。気に入った娘なら――二度三度、朝にも、も一度ってなる。
翌日、天気良くても、「ゆうべから今朝までので、ちと疲れました」って、1日滞在。
その晩また女を与えられる――気に入ってるから・・・また――。
ってのを計算に入れないとダメなんだ。
707日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:01:31
>>667
ちょっと違うんじゃないかな。
ソウルから韓国南岸まで、海岸沿いに7000里。これは問題ない。
総里程12000里あまり、これは間違い。これは郡から女王国までの距離。
女王国の始まりであって総里程ではない。女王国の尽きるところは南の奴国。
そこは万二千余里ではない。
倭人伝は「会稽東冶の東」と書いている。れこは女王国は、会稽の東から東
冶の東あたりにわたって広がっているということ。会稽から東冶まで四百キ
ロくらいあるから、倭人伝はかなり広いと認識されていたことが分かる。
708日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:06:36
>>707
会稽は地域名――「郡」
東冶は、その郡にある都市――「県」
・・・だよ。間違わないで・・・。
709日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:10:05
>>696
遺跡って言えば、近畿は九州勢力に征服されたことを示す遺跡しかないな。
都市の消滅、銅鐸の埋納、そこに現れたのは鏡勢力。
710太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 21:10:37
>>685 訂正
× 極量の確保
○ 食糧の確保
711日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:12:09
>>708
会稽郡の東冶って読みは間違いだ、って夙に指摘されているけど。
712日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:15:39
>>711
それが間違いだってえの!
713日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:16:50
>>707

言葉たらずで悪かったが
「12000里あまり」が、郡から女王国(の総行程)ってことはわかっているよ。

だから、郡から韓国南岸が7000里、
韓国南岸から女王国が「5000里あまり」となる。

その「5000里あまり」というのは、
女王国が乗っている島の周旋距離と同じ。

だから九州南部しかありえないってことなんだよ。OK?
714日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:18:24
>>706
魏使の時は、途中に、気に入った娘は居なかったら、大和だし、
行くとこ、行くとこ、気に入った娘ばかりなら、九州だな。
71518:2009/05/05(火) 21:18:38
677の写真を見れば確かに円墳状にも見えるが、山の張り出し?というのか、自然丘でも
古墳と見まがう形状が多いのもまた確か。航空考古学という分野があって、イギリスのク
ロフォードという人が創始者といわれてる。俺も航空写真を見るのが好きだったが、最近は
Google Earthという便利なものができて、○○塚とか地名を参考にしながらあちこち見てる
うちに古墳跡(掘削され住宅地等になってる)らしきものもいくつか見つけた。まあ、ロマン
ある話で、曲学氏には頑張ってほしい。
716日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:20:00
>>714
大事な賓客だから、宿泊予定地には、美女ばかり揃えた――九州で決まり、か?
717日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:21:54
>>715
「見まがう」なんて言葉が、あるかっ!「見まごう」だ。
歴史的仮名遣いで「見まがう」と書いて、「〜ごう」(「〜ゴオ」)て読むんだ。
718太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 21:22:43
娘っていうのは彼の例示的日数経過の説明の一つであり、種々の障害
のため女王国行きが想った以上に日数がかかったということの
一つの事例。
719日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:26:16
>>706
俺なんざあ、そんだけやりゃあ、三日は寢た切りだから、水行10日って、じきだ!
720日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:26:49
>>717
だったら「いきかう」もだめで「いきこう」じゃなきゃってことになるね。
721日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:29:56
>>720
そういうことで〜す。
ただし、普通は、「ゆきこう」って言うけどね。
722日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:32:29
>>677の写真を見て思うんだが…

現在、円墳と認められているNo3のものにしても
自然の丘陵を利用した物ではなくて
一から土を盛り上げたって事なのか?

もしNo1からNo4まで(元々が平地で)全て土を盛り上げて作ったとするのなら
後に大量に土砂が流れ込んできて一続きの丘陵地になってしまったと・・・?

にしてもその情熱だけは凄いの一言wwwwww
723日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:35:31
>>713
>だから、郡から韓国南岸が7000里、韓国南岸から女王国が「5000里あまり」となる。
これは榎らがいうところだが、まちがいだと思うよ。
周旋五千里は倭の領域ではなく「倭地」のことだ。倭地には末盧国までの渡海里数は
らない。九州島について巡り行き先に行き着くまでの距離、それが五千里ということ
だと思うよ。つまり九州の半周の距離だ。それが約四百キロということだね。
724日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:37:10
渡海里数はらない。→渡海理由は入らない。
725日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:41:50
>>712
どうして?
72618:2009/05/05(火) 21:43:19
連休でいろんな人がいるなあ。レスの文法まで言われると思わなかった。まあ、ここは素直に
お教えありがとうございます、としとこう。
謝銘仁氏の説では確か、「水行10日陸行1月」は水行→陸行→水行→陸行・・・の繰り返しの
合計に天候不良・休息・祭日・物忌みなどの休みを加えておおよその日数をまとめたもので、
距離の推定は不可能となっていた記憶があるね。
727日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:51:55
>>723

???

私の書き方が悪いのかな・・・?

当然、周旋距離には渡海距離は入らないよ。

韓国南岸から女王国が5000里あまりであるというのは、
周旋5000里あまりからではなくて、
「郡から女王国の行程12000里あまり」マイナス「郡から韓国南岸まで7000里」の計算結果。
これは、韓国南岸から女王国の行程で渡海を含み5000里あまり。
韓国南岸〜対馬壱岐〜松浦で3000里使って、残り2000里あまり。

それとは別に、女王国が乗っている島の周旋距離は5000里という情報がある。

これは九州のサイズと一致している。
松浦から九州の1周の40%強の距離を渡海なく進む。

つまり、南九州南部に有利ということ。

そして、他の情報も全て九州南部に有利ということ。
72818:2009/05/05(火) 21:53:57
今、ちょっとググってたら、ものすごくものすごく興味深いものを見つけた。******↓

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4364877.html
729日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:54:15
× 南九州南部
○ 南九州 or 九州南部

南部という気持ちが先走ってってしまった。
730日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:03:12
会稽の話

俺なんてな、
「道里は道理 、 文脈から言って距離のことじゃねーよ、
物事の道理 って言葉の使い方なんだよ」
って、たまに書くと、 直ぐ偉そうな奴が道里は距離の事です ってチャチを
入れるんだよ。 んなことは判ってんだよ。ドアホ。
現代文のように書き手のセンスまで意識して読めば、
ここは、 倭人は太白の子孫だって言うけど、道理で会稽の東にあるわけだ
って読めるんだっつーの。これは読み手のセンスの問題だ
道理という漢字の形成が道を含む以上、この論理的比喩表現の元が
道里であったとしてもなんの問題もない。
漢字はこうして時代を経て比喩表現として定着していく事例とかんがえればいいくらいだ。

とにかくだ、 書生は アホみたいに文字面をみればいい。が それを超えて書き手の気持ちを
読むようにしないとな。 おれみたいに
731日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:05:28
>>727
周旋五千里を狗邪韓国から考えてるのかと思いましたが、私の誤解でしたか。
ならば、考え方にほとんど違いはないようですね。
732日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:06:08
>>728

言葉遊びで議論してるだけの人々よりは、よほど熱意があるよ。

サガミハラハラや太国もすこしは見習って、どこか掘ってみたら?
そんな根性ねえか。


733日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:06:14
邪馬台国初心者です。
松本清張『古代史疑』は、当たってないのですか?

あゝいう歴とした聖典的研究書が存するのに、その後も邪馬台国論争が絶えないのは
どこに問題があるのでしょうか?
734日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:10:10
>>733

作家のフィクションを真に受けるなよ。
735日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:11:36
清張はもうだめぼ…
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 22:16:58
>>732
畿内、九州から遠隔に住んでる人間なら、そう簡単には行かないぞ。
おまけに経済力の大小があるし、そういうことを考えてモノを言え。
737日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:17:33
>>733
魏志倭人伝が記録としてまともじゃないからだよ
738日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:24:39
>>646
> 陽も入らぬ閉ざされた建物内では、気違い婆あが喚き悶えている

よく言うよ!ひとつ間違えれば天照大神なのに・・・。
そんなんじゃないよ、もっと厳粛な祈祷だよ。
739日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:25:52
畿内は方角も距離も違う
九州は放射説などで行程をこねくり回したところで奴国の二,三倍規模の大集落地を比定出来ない(これは今後どのような考古学的発見があろうとも比定される可能性ゼロ)

正常な人間なら、この倭人伝がデタラメだと早々に気づく
740日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:28:04
南九州説に立てば、どの記述も自然にみえる。
遠絶の諸国が丁度良い数あるし。
741日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:29:04
飛鳥の里を歩いて見て回っても、行くとこ行くとこ、県や何たら会の説明パネルが邪魔だ。
742日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:33:08
>>728
頭の下がる情熱だね。
掘削に許可とか取ってるんだろなあ。
しかし、仮に墳丘だとして、いわくつきの場所だったりしないのかな。
ツタンカーメンじゃないけど、掘って呪われるとか嫌だな。
743日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:33:21
因みに倭人伝抜きに考えれば案外スッキリしてる
畿内です
っていうか畿内しか考えられない
744日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:33:41
>>677
情熱に水をさすつもりはないけど、径百余歩に拘るのはどんなものだろう。
倭人伝の数字は、どうもいまひとつ信頼性に乏しいように感じるのだが。
745日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:37:19
原点に帰ろう!
「邪馬台」は、「ヤマト」を写した表記
箸墓古墳が厳然と存する
「卑弥呼」は、天照大神
邪馬台国の位置は、大和
そして、纏向遺跡が発掘された
江戸時代以来の論争にケリ
746日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:44:32
>>744
本人も書いてるけど、卑弥呼の墓じゃなくても、
日本最大の古墳だったら、それだけで面白いよ。
まあ、そうやって夢破れて行った愛好家は数知れずだろうから、
家族に迷惑かけない範囲でねっと。
747日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:45:11
>>745

「邪馬台=ヤマト」は良いんだけど、
畿内の昔からの地名って全部九州にあるんだよね。

特に、ミワという地名は重要だったらしく、
随所にあるね。

ヤマトもしかり。
748太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/05(火) 22:46:56
>>745
ヤマトだったら「邪馬台」というより、伊都国同様「邪馬都」とか
書くだろう。だからこれは「邪馬壹国」を大陸人がヤマトだろと
考えて、逆に「壹」が正解かとの想いも捨てきれず、「壹」と「ト」
との折衷で「臺」の字で逃げたもの。タイはトにしては軟弱だろう?
「臺」は「壹」字に似てト音に近いので「臺」の字に彼らがとびつ
いたのだ。要するに「臺」は獣とも鳥とも判別しにくい蝙蝠のよう
な文字になるわけだ。w
749日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:48:05
南九州説を言う人は、根拠何だろう?
国分の上野原遺跡を指しているのだろうか?

あそこは、ダメですね。
繩文遺跡ではあっても、邪馬台国時代の生活を証明するものはない。
目の前に桜島火山がいやでも見えるのに、倭人伝には何も書かれていない。
750日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:49:05
>會稽東治の東

この部分には入墨の習俗に絡めて倭人の得意な潜水漁法のことが書いてある。
また潜水漁法に関しては末盧国にも記載がある。
それで

>今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。
>諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。
>その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。

と「倭」および「諸国」という語句を出して述べているのだから
末盧国を含めた諸国で形成される倭の地が、まさに会稽の東治の東にあるんだろう、同緯度なんだろう、
と推量しているのである。

末盧国は当然現唐津市の領域であって、比定に異論はないと思う。
九州島の中で最も韓に近いところである。

その末盧国も含んで倭地は全て「會稽東治の東」にあたるのだと、当時の中国人は認識しているのである。
751日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:49:21
>>747

どうしてなんでも九州発祥としたがるのかね?

朝鮮人の血が濃いから?

冗談はさておき、九州に香具山や畝傍山があるのか?
752日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:55:28
九州にある大和の地名は、
神功皇后の新羅討伐時と磐井の乱の時に、大和の地名を与えたもの。
両討伐時、戦陣の雑役に九州各地から徴用――よく人を出し功有った地に大和の地名を与えた。
753日本@名無史さん:2009/05/05(火) 22:57:49
天香久山が大和飛鳥地方に有る一事で、文献学的に邪馬台国=大和で正解!
754日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:00:01
>>752
それを後、九州まで漢字文化が広まった時点で、字を知らず「山門」などと当てずっぽうの字を当てた。
755日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:02:26
>>754

母音が違うからアウト。
756 [―{}@{}@{}-] 走 ◆b/0MPomJ5k :2009/05/05(火) 23:02:33
日本史掲示板、ソウルでロムしていますが、みんな好きですね。
私も勉強になります。実際自分で勉強しないとなんでも駄目ですね。
団塊だってNHKに騙されないぞ。
皆さん頑張って。
757日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:06:48
>>756
ソウル在住ということは、
任那日本府は無かったとか、百済が日本を支配してたとか、
そういう話を真に受けてるわけですね。
758日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:08:00
韓人が出てきたら、このスレ、壞滅だ!
759日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:09:02
実際に百済を支配してたのは日本人。
前方後円墳が百済の領域に点在してることがその証拠。
逆に、朝鮮式古墳が日本に無いわけだから、
ただの文化交流ではなく、日本からの一方的支配と見るのが正しい。

760日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:10:13
>>757
そういう意味じゃないだろう。
逆じゃないかな。
NHKの韓国言い分そのまんま放送を批判しているわけだし。
761日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:11:45
>>753
香具山さえも、九州にはあるの。

ミワやら、高千穂やら、ヤマトやらは、うじゃうじゃとある。
762日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:14:04
畿内説は、もう感覚的な誤魔化しの言葉しか言えてない現状。
76318:2009/05/05(火) 23:17:18
現 桜井市と朝倉市周辺の地名の類似(安本美典氏の説、元々は地理学者鏡味完二氏発見)

http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/yamataikoku-yasumotosetu.htm

は偶然でないことは間違いないと思うが、文献資料がない場合、厳密には地名の新古を決め
る手立てはない。俺的には両市と奈良市、太宰府市の位置関係から、奈良のほうが古いと
見てる。
764日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:20:41
>>763

奈良のほうが古いのは当然だよ。

九州のどこに「葛城」があるの?
「生駒山」はどこ?
765日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:21:27
>>763リンク先の安本氏(北九州説+東遷説)の資料にも、
南九州に人口密集地帯があることが示されているね。

安本氏のいう北九州の最大人口地帯は、一大卒だよ。
766日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:27:26
高天ヶ原自体、大和の地を想定して創造した神話であること明白。
従って、天照大神=卑弥呼。
767日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:28:14
>>764
葛城は、神武以前は、高尾張邑(たかおわりむら)と言っていたらしい。

日本書紀によると、

高尾張邑に土蜘蛛がいた。その人態は身丈が低く手足が長かった。
磐余彦尊の軍は葛の網を作り罠をはって捕らえこれを殺した。
そこで邑の名を変えて葛城とした。

となっている。
768日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:29:55
>>763
>卑弥呼の時代には、確かに卑弥呼の都は「甘木、朝倉地域」にあったと思いますけれども、その宗女の台与の時代になったとき、都が京都郡に移ったのではないかと考えられるわけです

もう、東遷説ってのはムチャクチャだね。

首都が東遷するためには十分な素地が移転地になければいけない。
敵地や、遠隔地でわけのわからない場所に首都は移動できない。
つまり、九州と畿内はしっかりと同盟関係にないと首都は移転できないわけで、
そうなると九州説とは矛盾する。

このひとバカなのかな?
769日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:30:57
>>750
>末盧国も含んで倭地は全て「會稽東治の東」にあたるのだと、当時の中国人は
>認識しているのである。
倭の水人というだけでは、そこまでは読めないだろう。倭地の全てではなく、女
王国(万二千里で始まる)の話だよ。
770日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:31:34
>>766
なんで、その地名が畿内しかないと思っている人がいるのかなー。
基本的知識不足。

その手の研究では、九州の方が
細かいところの地名で一致度が高いそうだよ。

(大きいところの地名は全部同じだけど。)

あと、その伝説。九州から女神の命を受けて出発して
東の畿内勢力を倒して建国したことになっている。
771日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:32:26
はい、はい
神武=崇神ですか
バカバカしい
772日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:34:30
>>767

では、九州の地名を命名したのは景行天皇ってことですね。
773 [―{}@{}@{}-] 走 ◆b/0MPomJ5k :2009/05/05(火) 23:34:40
>>760
ありがとう。ソウルに長期出張で、ここでのことが、学校で習ったことと
あまりにも違うので色々勉強させて頂いております。
百済観音と青磁、白磁しか知りませんでしたからね。
中央公論の日本史と世界史を読んだ程度です。
こんな国が日本に文化を及ぼしたなんて到底信じられませんよ。
ここにいて明確に分かります。逆はあると信じて疑いません。
さてまたロムります。
774日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:35:34
>>770

紀元前の話ですね。

そう書いてありますものね。

775日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:36:24
神武東征が可能なのは逆説的に言えば古墳時代の前だとしないと無理
776日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:38:22
>>768
出雲や吉備や四国とは同盟したって伝説だね。
特に出雲は九州より強大な勢力だったようだけど。
シンギワオウの称号=中国の後ろ盾が効いたんじゃないかな?

畿内の中曽根さんだか、ナガスネさんだかだけがケンカを売って来て
総大将イッセのミコト死亡。
副大将イワレビコが同盟主になって即位って流れだよね。伝説では。
777日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:38:57
>>772
土蜘蛛というのは、朝廷に抵抗する小さな部族みたいなのを総称して
いるんじゃないかな。
景行天皇が地名を変えたと言うのは、記紀には書かれていないわけだが。
778日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:39:38
>>770
高天原は葛城の高天ですよ。

延喜式に書いてあるんだから、もっと勉強してね。
779日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:40:00
東征があったとしたら、銅鐸消滅のときでしょう。
マキムクとかの直前。
780日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:42:17
>>778

あほか。延喜式何年に出来たと思っている。
勉強不足もはなはだしい。
781日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:43:39
>>777

「日向」を命名したのは景行天皇だよ。
782日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:43:43
>>779
2世紀だろう?
78318:2009/05/05(火) 23:44:33
地名の類似は、上で書いたとおりどちらも明確な根拠を出せないんで水掛け論になる。安
本氏も邪馬台国に関するあれこれに手を出しすぎという気がする。どれも中途半端な印象。
これ中心にやってれば、かなりの進展もあったかもしれないのに。いらぬ世話だろうが。

あと、卑弥呼の後、台与の前の東遷などというのはありえない。それを肯定する考古資料
は一つもないし、それほどの事件が倭人伝に書かれない理由もわからない。2世紀以前
というなら、まあ完全否定はしない。
784日本@名無史さん:2009/05/05(火) 23:44:52
>>780

日本書紀は3世紀に書かれたんですか?

ばかばかしいですね。

785日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:00:39
>>784

お前はどこまでアホなんだ。
786日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:02:41
畿内説の人も、もう畿内説は無理なんだ
って分かっているんじゃないかな。

年代測定の誤魔化しとかに走っているみたいだけど。
787日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:05:14
>>785

奈良時代に書かれた天照大神と卑弥呼を同一視することは妥当なんですか?
788日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:06:54
>>783
>それを肯定する考古資料は一つもない

これは、畿内説の常套句なんだが、いったい、どういう考古資料が出てくれば
肯定材料になるんだろうか。
考古資料というのは、結局は、人間が解釈してあれこれ理由をつけるものだと
思う。

銅鐸がある時期を境にいっせいに消滅した。代わりに銅鏡が飛躍的に普及した。
これは事実。しかし、これをどう解釈し、どう理由を付けるかは考古学者と
いうことになる。

単なる文化の伝播と解釈することも出来る。しかし、政治的な大変動と
考えることも出来るのではないだろうか。
極論すれば、邪馬台国が奈良県だと思えば、考古資料は、いくらでも
そういう方向で解釈できると思う。

纏向が邪馬台国である根拠は何一つないのに、邪馬台国だと言ったり、
箸墓が卑弥呼の墓である根拠も何一つないのに、卑弥呼の墓だと言ったり
するくらいだから。そういえば、三角縁神獣鏡もあったな。
789日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:09:47
>>788

マキムクの搬入器はすごく多いんだよ。

経済範囲は九州よりも大きいんだけど、否定する?
790日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:11:27
> 纏向が邪馬台国である根拠は何一つないのに、邪馬台国だと言ったり、
> 箸墓が卑弥呼の墓である根拠も何一つない

根拠だらけじゃないか――考古学・古代史をよく勉強してよ!
纏向からは、魏鏡がたくさん出て、今、京大で鋭意解析中だからね。
んなもの、解析しなくても、魏鏡が出れば邪馬台国に決まってるじゃねえ。
791日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:11:38
そういや、九州説の人々は、三角や年輪には噛み付くけど、
搬入土器の多さについては、ダンマリしてるんだね。

ねー。マキムクの搬入土器の多さについても、何か言及してよ。
捏造とかなんとか、何でもいいからさ。

792日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:12:53
話の流れを読み直してごらんなさい。

倭人伝の距離表記、方角、習俗、その他もろもろの
倭人伝の記述と矛盾がないのは南九州というのが私の論。
記紀一切関係ない。OK?

そこに、生半可な知識で記紀の地名と一致するのが
畿内だから、畿内とのたまう人登場。
そこで、あなたの前提(記紀を根拠にする)に立つと
九州発じゃないのという反論が私。OK?

こういう議論、理解できます?
相手の立場とか、相手の置く仮定で考えてみるとか?
仮定から矛盾を導くとか?

とにかく、論理的思考ができない奴は困る。
793日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:14:09
>>792>>787へのレスね。
794日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:14:24
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がなく出土土器全体の15%は
駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、
製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、
西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できないし、
人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。
このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、
この纏向地域にあったと考えられる。[1]
795日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:15:40
未だに、親魏倭王印が出ないのは、
邪馬台国後継の誰かの古墳に埋葬されているから。
そんじゃそこらから出て来ないのは、取りも直さず、邪馬台国は衰亡したのではなく
大和政権につながった証拠。
796日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:16:37
>>792は、

>>794にも、論理的思考で反論してみてね。

楽しみだなー。
797日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:18:16
そうだろう。搬入土器が多いから邪馬台国なんだろう?
でも、各地の土器が多いことがどうして邪馬台国と結びつく?
倭人伝には、そんなことは何一つ書かれていない。

それが畿内考古学なんだよ。勝手に、邪馬台国の条件を決めて、その条件を
満たすから邪馬台国だなんていう。

むしろ、倭人伝に明記されている「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
のほうがはるかに重要だと思うが、これは自分たちのところにないから
無視する。ちょっとおかしいんでないかい。
798日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:19:07
>>773

ソウルでロムってる人も、
>>794についても、もっと勉強してみてね。
ウィキが間違ってるなら、書き換えるなり反論はご自由に。
799日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:21:08
魏使は、邪馬台国に「馬無し」なんて報告してないで、なぜ帶方郡から馬を連れて来なかったんだ?
替え馬も含めて馬の10頭やそこらも乗せられない船で対馬海峡を渡って来たのか?

馬で行けば、陸行1月なんて言わないで、もう少し計算しやすい日数で行けただろう。
800日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:21:14
>>797

そうだね。
邪馬台国が九州なら、畿内にはもっと広域首長国連合があった、というだけだね。
で、魏志倭人伝は、それを無視したと、そういうことなんだね。

801日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:21:23
>>794

だから、女王国はそんな日本列島の大部分を束ねるような
デカイ国じゃないし、物流の中心でもない。

一大卒だかが中心でしょ。物流にせよ、俗権力にせよ。

海を渡った東に倭人の国がたくさんあるんでしょ。

距離も方角も全然違うでしょ。

だからこそ、マキムクは邪馬台国とは違う
という証拠あげてくれているようにしか見えない。
802日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:24:45
マキムクの搬入土器の話をしたら、九州説は一気に沈没するしかないんだよね。

東遷後に、マキムクが出来たと主張するにしても、
さらに東の東海土器の搬入割合がすごく多いことは全く説明できないしね。
803日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:24:59
本当に、畿内説は出鱈目。笑える。
804日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:25:06
大体、邪馬台国に馬がない、というのが不思議――やはりデタラメ書いてるのかな?
日本書紀読んでいても感じないが、古事記では、スサノオノミコトが各地へ行くのが、
どう読んでも馬で行ったとしか思えない書き方なんだよなあ。
スサノオ伝説は邪馬台国より後の時代のことだろうか?
80518:2009/05/06(水) 00:25:48
>>788
俺は畿内説だけど、783は畿内説を主張してるんではなくて、3世紀の九州勢力の東遷は
ないといってるんだが。まず、それがあったとするんなら、なぜ倭人伝にそのことが書かれ
ていないか説明してごらん。

だいたい九州勢力が急激に移入してきたなら、それに伴う急激な文化の流入が必ずある
はず。しかし、それは見られないと言ってる。これは間違ってないよ。
806日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:26:44
海を渡った東に倭人の国がたくさんある
という九州説の論拠を強めてくださっているのでしょう。

マキムクの話題をしている人は。
807日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:28:11
>>801

そうだね。
マキムクと邪馬台国は違うかもね。
で、4世紀にヤマト王権が、九州に攻め入って邪馬台国を帰順させたんだね。
それが景行天皇だね。

これで、すべて辻褄があうね。
東遷説を唱えてる人だけが時代から取り残されてると。
808日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:28:19
>>800
畿内考古学というのは、自分のところに都合の良いことを邪馬台国の条件に
するんだよ。

三角縁神獣鏡の場合もそうで、まず畿内にたくさんある鏡であることを
最も重視した。卑弥呼がもらった鏡だから、畿内にたくさんあれば、卑弥呼は
畿内にいたというわけ。

まあ、破綻してしまったが、それはなかったことにして、次の都合のよい
材料を探す。
809日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:31:00
>>808

九州に邪馬台国があったとしても、
畿内にはもっと広域な連合国があったと認めるなら、それでかまわないよ。

事実なんだから。
810日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:34:30
搬入土器の南限だよwどこら辺に線が引けるんだよ。
ご大層なお力を持った畿内になぜ入らないんだよw
811日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:37:35
魏使の陸行は、貴人なんだから、倭国側が輿を用意したと思うよ。
資材が豊富な倭国のこと、既に様々な用具・器具・装飾大器具は発達していたハズ。

江戸時代の庶民が乗る籠なんかではなく、当時の輿なら1人乗せるのに10人も20人もの
人夫で長〜い担ぎ棒を担ぐんだろう。それも極く短距離で交代の人夫、また10人20人で担いで行く。
乗せる人物も1人や2人では無い――従って複数の輿、だろう。

それだけの大人数が陸行するんだ――輿担ぎの交代を頻繁にしたり休憩を繰り返したりしながら・・・。
好天でも1日10キロも進めたかどうか?――陸行1月と云っても大した距離じゃないよ。
812日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:40:13
>>809
そうなると、神話とされてきた記紀が真実味を帯びてくるんだよね。
もともと出雲を盟主とする大きな勢力があって、様々な交渉の結果
九州からやってきた者が盟主となる同盟に組みなおして、
従わない畿内を滅ぼし、そこに都を立てるというストーリーが。
813日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:42:33
>>812

それは、2世紀までの話ですね。
814日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:42:52
>>811
基本的に賛成だね。それに、使者一行を毎日歩かせるかどうかも問題だ。
2日進んだら1日休みとか、非常にゆったりした日程を組むんじゃないかな。
815日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:45:52
九州からの畿内侵攻は、高地性集落に見ることはできるけど、
それはマキムクの頃にはすでに終わってる。

4世紀に東遷なんて証拠は、どこにも一つも無いわけで。

神武東征を実証したいなら、2世紀までにしておきなよ。
4世紀じゃ、無理だから。
816日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:47:52
>>813

なぜ、そう限定したがる?

台与の朝貢後、しばらく歴史に乗ってない期間があるので、
その期間でも問題ない。

中国側の認識が正しいとは限らないが、
中国側は、大和・日本を邪馬台国の連続だという認識を持っている。

ダイレクトにそう記述している歴史書もあるし、
姫氏国という通称も太伯の末裔を意味しているから。
81718:2009/05/06(水) 00:49:31
>>811
まあねえ、輿の使用はわかえらないが、車がなかったのはたしか。魏使は貴人だっただろうが、
大切な順番としては、魏帝詔書、金印紫綬、答礼品かな?まあ、丁重に運ばれたのは確かだろう。

あと、難升米が率善中郎将になったんで、実は建中校尉梯儁よりは上の位なんだよな、一応。
今の軍隊の将官と尉官のようなもの・・・ちょっと違うけど。
818日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:54:44
>>816

証拠が無いから4世紀の東征を実証するのは無理。

いつまでも安本に躍らされてるんじゃないよ。金儲けで九州説やってるだけなんだから。
819日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:18:04
>>818
安本氏のもっとも安本氏的なところは、甘木説なんだよな。
でも、ここで見る限り、甘木説はかなり少ない。
畿内説はレッテル張りをやりすぎる。
レッテル張りは、正常な議論を避けたがる人が用いるもの、ダヨ。
820日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:28:55
倭人伝の距離や方角には一貫性があって、
それに従うと、自然と位置は南九州となる。

安本氏自身が提出した人口分布図をみると、
北九州甘木に一番の密集地帯があり、
宮崎南部に2番目の密集地帯がある。

神話を根拠にするわけではないが、
神話の地まんまというのが面白い。
821日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:37:31
>>788
>銅鐸がある時期を境にいっせいに消滅した。
>代わりに銅鏡が飛躍的に普及した。

ある意味、印象操作的詐欺だなw

銅鐸の埋納のピークは畿内でも2回ほどあり
山陰だと弥生中期のものがある。

恐らく細かく調べればもっと多岐にわたるだろう。

で何とかタイミングが重なりそうな物を抽出して
さも入れ替わったように言っているだけ。

そもそも「大型青銅祭器」による祭祀が
連続していなければならない理由なんかない。

邪馬台国論争なんてのは現実にはおよそ役にも立たない浮世離れしたものだが
ある種の詐欺のパターンを学習するには役に立つのかもw

「三角神獣鏡は日本で500枚以上出土しているが中国では出ていない
 よってそれは卑弥呼の鏡ではない」
・・・とかwwwww
822日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:41:37
>ある意味、印象操作的詐欺だなw
考古学資料なんてせいぜいそんなもんさ。それが分かっただけでも上等だ。
823日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:42:08
弥生中期とはいつからいつまでが限界だろうか?
教えて下さい
824日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:46:08
>>815
>九州からの畿内侵攻は、高地性集落に見ることはできるけど

この板の畿内説でもそれを言う人間がいるが、そもそも根拠があるのかって話で
むしろ瀬戸内を中心に同時多発的に発生したカオス状態と見るほうが自然だと思う。

もしあの高地性集落が九州勢の機内へ向けての侵攻の跡とするなら
一体どれほどの規模が侵攻したんだよ…って話で

それを東征の証拠と見るのはおよそ漫画的www
825日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:48:45
>>798
>ウィキが間違ってるなら、書き換えるなり反論はご自由に。

てことだから、ひとこと言わせてもらうけどww

>>794
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
>製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、

ここは、「九州北部まで」じゃなく、「南九州まで」とするべきだね。

今のところ採集品1点だけだけど、纏向からは南九州の成川式土器のカケラが見つかってる。

成川式は鹿児島県指宿市の成川遺跡出土品を指標とする土器型式。
地元鹿児島県じゃ、「ハヤトの土器」なんて呼んでるみたい。ww
http://www.jomon-no-mori.jp/no43.htm

もうずーっと橿原考古学研究所附属博物館に展示されてるよ。ww
826日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:51:36
>>825

神武が持ち込んだ土器は、破片ひとつか。

すごい東征だな。
827日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:54:05
>>808
>まあ、破綻してしまったが、それはなかったことにして、次の都合のよい
>材料を探す。

語弊を恐れずに言えばそれで全く問題はないw

九州説にしても例えば吉野ヶ里の様子が倭人伝の「宮室・楼観・城柵」に一致するとか
自分にとって好都合の材料を喧伝している。

新しい発見によりそれまでの説が破綻しても構わない。
むしろ旧説に固執する弊害が大きいwww

で、現状は畿内説に都合の良い材料が多く出て畿内説が優勢になっているとwwwwwww
828日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:57:11
>>819

これはレッテル張りじゃないの?
批判するなら、フェアにやろうぜ。

>>395
>畿内説は、京大・皇国史観一派による「結論先にありき」の自己陶酔デマ。

>>444
>まあ、もともと畿内説は先入観だけで存在しているようなものだが。

>>762
>畿内説は、もう感覚的な誤魔化しの言葉しか言えてない現状。

>>803
>本当に、畿内説は出鱈目。笑える。

>>819
>畿内説はレッテル張りをやりすぎる。
829日本@名無史さん:2009/05/06(水) 02:07:36
>>826
まあ、こういう考えもありうるかも。

神武天皇は、軍隊だけで出発した。当面の物資だけは持って行った。
各地で食料などは調達する。人夫のようなものも各地で調達する。

吉備では、数年滞在し、船・食料などをそろえる。必要な人間、つまり
生活物資をそろえる人間や土器を作る人間あるいは大和での土木工事に
必要な人間も吉備から連れて行く。

やがて、国つくりが始まると、人間が不足する。そこで、東海地方に出かけ、
人間を大量に連れてくる。東海地方の人間は土器を持ってやってきたかも
しれないし、大和で土器を作ったかもしれない。

ということで、出発地点の土器がほとんどなく、各地の土器が多くなった
ことが説明できる、かも。
830日本@名無史さん:2009/05/06(水) 02:17:22
まあこの板の九州説は考古学と聞いただけで毛嫌いする傾向があると思うがw

じゃあ、てめえらのやっている事はちゃんとした「文献史学」なのかと…

魏志倭人伝なんて単一史料で語るのにその史料の批判を許さず
あくまで全てを是としてスタートするのなら

それは倭人伝の記事をドグマとする何か怪しげな宗教としか言いようがないwww

まあこう言うと逆切れして
「だったら文献によって提示された邪馬台国と言う問題から畿内説は手を退け!」
とまるでヒステリーおこしてゲームをやっているテーブルをひっくり返す馬鹿が出てくるがw

仮に倭人伝がなくとも3世紀頃にヤマトを中心にした?首長連合体のような物が
できていたであろうと言う想定はされたろうって事で

じゃあそれを邪馬台国に重ねるというのが一番蓋然性が高い
…と言うのはもう畿内説の論者でなくとも誰もが普通に考える事www





831日本@名無史さん:2009/05/06(水) 02:23:26
>>828
レッテル張りというのは、たとえば、東遷説を批判するときに、
東遷説のどこがいけないのかを議論せずに、東遷説=安本説あるいは
安本信者と決め付けて、安本信者だから駄目だ、というような言い方を
すること。

第二次世界大戦後、東遷説を言う人が少なくなったのは、東遷説=皇国史観
と決め付け、戦前思想の生き残りだ見たいなレッテルを貼られたからだと
言われる。言ったのは、畿内説の人らしいが。

東遷説を言うと、神武東征神話の亡霊だと言われ、戦争体験者には
絶えられなかったらしい。戦争未体験者にはちょっと理解不能だが。

九州説だが、東遷を考えない九州王朝説などの系統が出てきたのは、それも
あるかもしれない。
832日本@名無史さん:2009/05/06(水) 02:37:41
>>831
>第二次世界大戦後、東遷説を言う人が少なくなったのは

戦前に誰が東遷説を言ってたんだ?
記憶に無いが。

デタラメを平気で言う人間でないなら、ソースを出してくれ。
833日本@名無史さん:2009/05/06(水) 02:39:44
>>831

もし、神武東征を東遷説としてごっちゃにしてるんなら、
君の認識が間違ってるか、(戦前では神武東征は紀元前660年)
悪質なミスリードだ。

訂正を要求する。
834日本@名無史さん:2009/05/06(水) 03:00:18
>>831

「東遷説を叩くのは皇国史観への反動からだ!」…と言うのが既にレッテル貼りだなw

過去にそんな事実があったとしても現在東遷説なんてものが殆ど省みられないのは
それとは殆ど関係ないだろうwww

ひとえに考古学的資料が伴わない事(銅鏡なんて>>821で言ったようにとても証拠能力のあるもんじゃない)

邪馬台国東遷説に絞って言えば、どうもスケジュール的に無理っぽいとかがその最たる理由だろうwwwww
835日本@名無史さん:2009/05/06(水) 03:25:42
>>832
戦前は、白鳥庫吉と和辻哲郎かな。
和辻哲郎は、白鳥庫吉とだいたい同じ内容で、「大和朝廷は邪馬台国の後継者
であり,日本を統一する勢力が九州から来たのであり,その伝承が大和朝廷に
残っていた」と主張した。

そのほかに東遷説論者として、栗山周一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,
和田清,榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,
森浩一,中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典,奥野正男

という人々がいるらしい。

戦後少なくなったと書いたのは、ちょっと間違っていたかもしれない。
奥野正男さんの著書でそういうのを見かけたのだが、勘違いだったかな。
836日本@名無史さん:2009/05/06(水) 03:33:48
>>833
神武東征に相当する出来事は、邪馬台国というか卑弥呼以後だと思う。
東遷するからには、それなりの伝承が残っていると考えるべきで、
それが神武東征だと思う。

いわゆる東遷説の人は、年代観としてはみな同じだろう。
837日本@名無史さん:2009/05/06(水) 04:21:39
神武東征は卑弥呼以前だろ
そうじゃないと神武と崇神が親子くらいになってしまう
他の豪族の系図から推測しても2、3世代は離れているはず
838日本@名無史さん:2009/05/06(水) 04:25:14
魏志倭人伝が正しくないというなら
邪馬台国すら存在しなかったかもしれないわけだから
魏志倭人伝の記述との違いが大きすぎる畿内説は成り立たない。
畿内にあったのは邪馬台国とは別の何かというなら誰も異論はないでしょう。

邪馬台国は畿内にあったと言い切ってしまうのは科学じゃなくてごまかしなんだよ。
観光客誘致のためというのは分かるが偉い学者の言うことじゃないね。
839日本@名無史さん:2009/05/06(水) 05:32:27
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
840日本@名無史さん:2009/05/06(水) 06:47:46
>>831
>第二次世界大戦後、東遷説を言う人が少なくなった

事実誤認でしょうね。逆です。
邪馬台国東遷説は、戦後になって、逆に勢いを持ってきたんだと思います。

中心にいたのが井上光貞教授でしょう。
東大教授で、先史から平安仏教までめちゃめちゃ守備範囲が広く、古代史界のボスみたいな人でした。
でも岩波書店や中央公論とかカタイところばかりでなく、人物往来社や講談社みたいな柔らかい
大衆向け歴史読み物なんかにもよく寄稿していたから人気があった。そういう文章は素人にも解かり易く上手かった。
両祖父が明治の元勲井上馨侯と桂太郎公というものすごい家柄で、父も陸軍少将だったのに、ちょっと左翼っぽいところがあり、
岩波や朝日新聞が好むタイプの文化人でもあった。作家なんかともつきあいがあった。

安本美典さんも井上教授の影響下にあります。安本さん本人が述べています。

井上教授は最後、オープンを間近に控えた国立歴史民俗博物館の初代館長に就任しますが
開館直前に急死します。心臓が悪く、バイパス手術までやった高齢の身でありながら電車を乗り継いで
佐倉まで往復4時間通勤と、相当無理をしていたそうです。お孫さんだったか追悼記が文藝春秋に載りました。

ところで、歴博の紀要『国立歴史民俗博物館研究報告』第3集(1984)は「井上光貞前館長追悼号」となりましたが
ここに「箸墓古墳の再検討」という論文が掲載されています。白石太一郎・春成秀爾・杉山晋作・奥田尚4氏連名。
http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/kankoo/ronbun1.html

オープンした歴博の展示の目玉として、箸墓古墳の精巧な模型を製作する企画があり、
これと並行して箸墓古墳の「再検討」が行われたわけですが、おそらくその検討発表の主たる目的は、
箸墓古墳の築造がひと頃言われていたような中期近くまで下る時期なんかではなく、
正真正銘、我が国最古式の大前方後円墳であることを天下に周知徹底させるためではなかったかと
密かに思っています。

ある意味邪馬台国東遷説にとっては、今後立論上の不利な立場に追い込まれる公算が大きくなりかねないのに、
自身の追悼紀要においてこの箸墓論文が掲載された点、故井上教授は、苦笑いしながらもそれなりに満足な心持で、
彼岸へ旅立たれたことと思います。
841日本@名無史さん:2009/05/06(水) 07:13:00
>>830
>魏志倭人伝なんて単一史料で語るのにその史料の批判を許さずあくまで全てを是として
>スタートするのならそれは倭人伝の記事をドグマとする何か怪しげな宗教としか言いよ
>うがないwww
まともな史料批判ならば、否定しないよ。しかし、都合が悪いから無視するというだけな
らば、史料批判に名を借りたトンデモ説だ。
倭人伝に本当に批判するような要素があるのか、あると思ったらキチンと説明することだ。
従来の畿内説は、倭人伝どおりでは絶対に国内に邪馬台国を比定できない、よって倭人伝
は不正確だ、というところから始まっていた。しかし、南九州説は倭人伝どおりで何ら問
題がない。倭人伝が不正確だという根拠は消えてしまったんだよ。
842日本@名無史さん:2009/05/06(水) 07:46:18
学者といっても、出発点をまちがえるととんでもないことを言うわけですよ。
843日本@名無史さん:2009/05/06(水) 07:53:26
邪馬台国が南九州であるはずがない
7万戸の都市国家を説明しなさい
因みに俺は鹿児島出身
844日本@名無史さん:2009/05/06(水) 08:01:45
>>843

誰が七万戸の都市国家なんて言ってるのか?
オーストラリアに七万戸とシンガポールに七万戸では、同じ七万戸でも
かなりイメージが変わる。
845日本@名無史さん:2009/05/06(水) 08:05:59
>>844
であれば、奴国の二,三倍の地域が南九州のどこにあるのか提示しなさい
と換言する

何処ですか?
846日本@名無史さん:2009/05/06(水) 08:33:42
>>845
南九州なんて、何処の編纂者が記載してるんだ?
先ずはそこからだ
南九州なんて勝手に想像しているのは、読者じゃないか?
847日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:20:05
>>843
そうなんだよね。人口という点から考えると
奴国  :那珂川流域(2万戸
投馬国 :遠賀川流域(5万戸
邪馬台国:筑後川流域(7万戸
が一番素直な希ガス。
848太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 09:39:59
古代マヤ文明でのマヤの奥地のジャングルも、あっちこっち(ティカル、
パレンケ、ウシュマル、チチェンイツァ・・・・・)にもわんさと人が住んでた。
九州7万戸は充分言えるね。
849日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:56:33
東遷説は、最初から間違っている。

[邪馬台国が首都を畿内に移した]という歴史資料があって初めて
神武東征と結びつけることが出来る。

[邪馬台国が首都を畿内に移した]という歴史資料が無いのだから、
神武東征と結びつけることはできない。

なのに、

A「邪馬台国は九州」
B「大和朝廷は邪馬台国の後裔」

という思い込みで、「邪馬台国が東遷した」と考えている。
その証拠として神武東征を引き合いに出しているが、
資料では紀元前の設定なのに、無根拠に4世紀だとしてる。
4世紀と考える理由は、「邪馬台国が東遷した証拠だから」と、循環論法。

事実誤認がはなはだしい。
AもBも証明されていないし、
仮にAが事実だとしてもBが事実である証拠は無い。


850日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:59:46
>>841

君は、歴史書のどこにも[邪馬台国が首都を畿内に移した]という記述が無いわけだから、

東遷説は、当然否定するよね?

それなら、君の言い分は正しいわけだが。
851日本@名無史さん:2009/05/06(水) 10:11:33
>>843
都市国家などと考えるから分からなくなるんだよ。それだけ広い国家だったと
考えるんだ。投馬国は薩摩川内といっても薩摩全域。邪馬台国は日向全域。も
しかすると、熊本も邪馬台国の領域内かも知れない。戸数は何ら問題ではない
んだよ。
852日本@名無史さん:2009/05/06(水) 10:22:57
>>850
私は東遷説をとると言った覚えはないが。ただ、倭国は一つだよ。
853日本@名無史さん:2009/05/06(水) 10:56:59
>>852
ということは、九州邪馬台国は一地方勢力で、地方勢力のまま大和に滅ぼされて消えていった、
ということでしょうか。
魏志倭人伝に記された国、という程度の歴史的意義しかなくなるのでは。
854日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:37:19
>>848太国氏、とうとう邪馬台国マヤ文明説になったのですね?
    倍暦論者の行き着くところはマヤ文明だと思っていました。
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 11:43:16
マヤは卑弥呼の国ではないです。これは人口がジャングルの中でも
ゴマンといたという例示です。
856日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:56:50
>>853

そうだよ。
それ以上でも、それ以下でも無い。

もし、神武東征を4世紀だと言うなら、それは根拠の無い話。
箸墓を卑弥呼の墓という畿内説と同じく根拠の無い話だよ。
857日本@名無史さん:2009/05/06(水) 12:38:18
出雲や機微などと似たような位置づけか。
858日本@名無史さん:2009/05/06(水) 12:54:19
>>856魏志倭人伝が、東夷の一地方の戸数たったの数万の国のことを
わざわざ国史と言うべき書物に記録するだろうか?当時、邪馬台国は、
倭の中で最大の(もしくは対立する国があって2強の一つ)だったとした
するほうが合理的と考える。
859日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:26:36
>>858

当時(魏時)の列島は

大倭(本州)と倭(九州・四国)
の二大勢力構図
魏と正式国交関係にあったのは
勿論「倭(邪馬台国)」
860日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:32:11
>>859

二大勢力となると、
東の倭人の国は遠くてわからないという魏志倭人伝に反しますな。
861日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:33:52
「大倭」の漢語は後に列島で「大和」と当て字され
「大和」の意味である“ヤマト”がそのまま
大和の読みとなった。

だから「大和」と書いて、絶対に読む事の出来ないヤマトの読みになりました。
862日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:36:18
最早、800半ば超えか――早いなあ!
863日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:37:41
>>860

>遠くてわからない

何が遠いの?
この遠いは、距離ではなく関係だよ

ほら、近い親戚。遠い親戚の遠近だよ
遠絶の前には傍らとかいてあるだろう?
864日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:48:08
九州と畿内の「関係がわからない」というのは、なおさら有り得ないな。

865日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:54:33
>>849
東遷説は、天照大神=卑弥呼から始まる。
この根拠は、中国の文献と記紀の内容の類似性。
これにより、高天原時代と卑弥呼・台与の時代(邪馬台国時代)が重なる。

これ以後、約150年間、中国の文献に倭国の記述がなくなる。
この謎の時代を、記紀をもとに推定すると、出雲の国譲り、天孫の日向降臨。
そして、神武東征がある。
ダイナミックに日本の歴史が動いた時代と言えるかもしれない。

次に中国の文献に日本が登場するのは、西暦412年あるいは西暦421年。
倭王・讃以下五王が宋に遣使したことによる。
讃も卑弥呼も同じ倭王であり、中国の文献も同じ系統と位置づけている。
少なくとも、王権の交代を示唆するものは全くないと言ってよい。

邪馬台国九州説を前提にすると、当然、東遷説は最も有力な説だと思う。

キーポイントの一つが纏向の年代。邪馬台国の東遷を前提にすると、
纏向は卑弥呼より後でなくてはならない。3世紀後半以後となる。
逆に言えば、東遷説を阻止するためには、纏向を3世紀前半以前と
する必要があることになる。
866日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:24:29
>>865

九州と本州の関係じゃなく、王朝と本州の関係だよ
これは中国の歴史書だからね
867日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:27:40
纏向は一度ならず行かないとダメだよ!
三度行って来た俺は、3世紀後半どころか、早くて4世紀当初、ま、4世紀半ば以降
の遺跡としか思えない。とても、邪馬台国時代のものとは考えられない。

邪馬台国だ、って言う人は、纏向の何のニュース・記事を見て、そう言ってるのか解せない。
行くことだ――何度かね。
868日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:33:20
邪馬台国は、名前そのものが「倭人伝」にしか出て来ないんだから、
「倭人伝」を文献学的に解析する以外に方法論は無いのだ。
妙に、考古学をからめるべきではないのだ。
また、考古学側からは、物しか見ていないのに、史料にまで踏み込んでアレコレ推論すべきでないのだ。
869日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:37:09
>>865

>逆に言えば、東遷説を阻止するためには、纏向を3世紀前半以前と
>する必要があることになる。

そういう問題じゃないの。
マキムクの搬入土器の多さ、そして東海からの多さ、
そして、九州の土器の少なさが東遷説を如実に否定してるわけですよ。

九州の邪馬台国は、ヤマトに東遷して、九州の土器はほとんど持ち込まず、
東海から大量の人間を引き連れてきたと言うわけ?

むちゃくちゃだね。




870日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:39:20
九州(倭)の傍ら(旁)に位置する本州(大倭)とは
国交がない(遠絶)為に、詳細がわからない。
871日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:44:13
>>841
>まともな史料批判ならば、否定しないよ。
>しかし、都合が悪いから無視するというだけならば、史料批判に名を借りたトンデモ説だ。

先ず邪馬台国の事を語るに魏志倭人伝が第一級の史料である事は論を待たない。

が、古代の中国人の日本の地理情報の正確さ云々を計る時
倭人伝を第一としなければならない理由は何もない。
むしろ普通に考えれば後代の方が情報の蓄積等がなされ、より正確だと考えるべき。

で隋書の『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』は
普通の九州説の立場に立つなら、それは隋側の誤認、九州邪馬台国と大和を混同してしまった…
と言うことになるだろうが

それならそれで隋代においても中国人の日本の地理情報はその程度であった
と言うことになり九州説論者の言う
「東と南は間違えるはずはない」
と言う主張も崩れる。
(無論、倭人伝の方向がたまたま正確であったという可能性は残るが)

もっとも隋使の訪れた地が大和ではなく九州の何処かと言う九州王朝説(別に日向王朝でも南九州王朝でも良いがw)
なら話は別だが、九州王朝説が文献史学の王道なんて話はもう勘弁してくれってレベルwwww
872日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:45:16
>>867
>ま、4世紀半ば以降の遺跡としか思えない。

あなたが纏向を4世紀半ば以降の遺跡だと思う理由は?
873871:2009/05/06(水) 14:51:33
>>841
>まともな史料批判ならば、否定しないよ。
>しかし、都合が悪いから無視するというだけならば、史料批判に名を借りたトンデモ説だ。

そもそも倭人伝の記述は
今日まで考古学的には一例も確認されていない殉葬とか
およそ現実味の無い戸数とか
方角だけじゃなく突っ込みどころは多々あるw

畿内説は何も自説にあわせて「方角だけは間違いだ」と言っているわけでもなんでもない。
>>871で言ったようにむしろその不正確さを考慮すべき材料もある。

はっきり言えば畿内説が
>都合が悪いから無視
しているのではなく

九州説が自説に都合がいいからといって一部分(主に方角)を無批判に是としてしまっているのが現状w

まあ一種の 教条(ドグマ) ってやつだなwwwwwwwww
874日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:59:11

中国の伝説だろ!邪馬台国て

遺跡も日本の資料も無い。日本側に言い伝えも無い。

だから前に進まない邪馬台国論議

875日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:06:24
中国の伝説であれ何であれ、「倭人伝」に邪馬台国が出て来るんだから、
「倭人伝」によって邪馬台国を研究するのは、当たり前過ぎる態度。
876太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 15:17:01
>>871
曹操は赤壁の戦いで某方角からの風が吹いてコテンコテンに諸葛亮に
負けたんだよ。魏志倭人伝がどう転んでも方角を90度も間違えるわけ
がない。魏にとっては方角にはかような苦い経験があるわけで、
またもや90度も狂う妄想をするほど彼らは間抜けではない。ww
妄想防衛の増幅だな。w
877日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:25:03
>>876
魏使は方角間違えていなくても、陳寿がわざと方角を変えた――って上の方で盛んに言ってるよ。
筆を曲げてまで、どの方向に変えたか――「會稽の東」に持って来るように変えた。
878日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:25:05
>>876
太国氏は末盧国、伊都国を、それぞれ何処に比定しているか、お教え願いたい
879日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:28:21
>>876
曹操ほどのものでさえ、風の向きを見誤った。
正確な地図も無く、太陽が見えない状況では、
諸葛孔明のような有能な軍師でないと
正しい判断ができない。
そういうことです。
880日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:31:07
方角は陳壽が変えた。
「水行10日陸行1月」は、大和までアバウトに「そんなもんだろう」
で、邪馬台国論争は決着!
881日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:32:06
当時の魏の状況

229年 孫権が呉の皇帝に即位
230年 諸葛亮、第4次北伐開始
231年 諸葛亮、第5次北伐開始
234年 諸葛亮、第6次北伐開始 ・ 孫権が魏を攻める
238年 遼東の公孫淵が魏に謀反
239年 皇帝曹叡病死、曹芳即位
     卑弥呼が魏に朝貢
882日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:32:11
>>879
1日ぐらい太陽が見えなくても、方角を間違えるかぁッ!
883日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:34:11
魏は呉の裏側に味方が居ると呉に思わせたかった
884日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:34:56
もういい加減にしろ!

仮にあの赤壁の戦いを史実だとしても
魏が誤ったのは一年のある時期にだけ風向きが変わるという
「気象情報」であって方角ではない。

犬国以下お前らは一体何を言っているんだ?

どうせ映画を見てはしゃいで
何とか邪馬台国論争のネタに結びつけたくて
言っているだけなんだろうがwww

冗談ヌキで小学生・幼稚園児レベルの話は止めろカスどもwww


885日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:36:02
>>881
>238年 遼東の公孫淵が魏に謀反

239年の誤り!
旧暦を月まで考慮しないで単純に太陽暦に換算するから、そんな間違いが生ずるのだ!
既に、西洋流太陽暦では、239に、はいってる。
886うましか:2009/05/06(水) 15:36:05
>>873

貴方の仰りたいことの本旨とはズレてるかもしれませんが、文献と考古のすり合わせは必要ですよね。

例えば、>>858氏のように「戸数万」を「たった」と思う人もいるように、文献で表現される事実だけを見ていくと
実際のところとは、大きく結果が異なることになります。

続けて>>856氏の「たった」以下を例にさせていただきますが、漢代の樂浪郡は、戸六萬一千四百九十二、口二十五萬七千五十。
三国史東夷伝の国々は夫餘が戸八萬、高句麗戸三萬、ワイ(水扁に歳)戸二萬、韓は全て併せて十萬餘戸と記載されています。
 (邪馬台国は一国だけでも他の郡国に匹敵する戸数なので、「たった」はかなりの矮小化表現ですね)

倭の女王は、邪馬台国に加えて、戸五萬の投馬や総計三萬戸の玄海諸国及び傍國をも統べるものとして
位置づけられているわけですから、東夷の中でも別格扱いなのは当然ですが、でも、当時の倭が実際にそんな大国だったかは・・・・
これ以上は「文献」では追求し難いところですので、ここで他分野の知見とのすり合わせを行うわけです。

文献オンリーならば、戸七萬は「書いてあるからそのとおり」とか「記述の誤り」とか「編者の作為」とか、
はたまた「戸七萬は一萬七戸読むのだよw」などと言い合うだけで先に進めないでしょうから。
887日本@名無史さん:2009/05/06(水) 16:01:52
>>858
でも、肝心の遺跡が出てきてません。
また、>>763のサイトで、安本氏は南九州にも人口過密地帯があったと言ってるようですが、
有明海一帯が5万戸の投馬国なのは納得できますが、女王国の面積はその投馬国の
1/4〜1/3ほどしかなかったということになってしまう。
それなのに人口は投馬国より多い7万戸を有した大国だったと。
宮崎が有明より特別稲作に適した土地でもない限り、これは無理があるように思います。
九州邪馬台国と大和が同時代に並立し、東遷もなかったとして、本当に西日本を
二分するほどの大きな勢力だったのでしょうか。
888日本@名無史さん:2009/05/06(水) 16:15:17
>>883
で、それをどのように呉に伝えるの?
889太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 16:19:02
>>884
それは肝心の卑弥呼も吉永小百合や岩下志麻が映画で演じてるんだよ。
赤壁の戦いは239年の31年前だ。某方角からの風で負けたわけで、またもや
そんなことで角度を見誤るほど魏の連中は間抜けではない。
890日本@名無史さん:2009/05/06(水) 16:49:45
>>877
普通は、郡使の報告に邪馬台国は南にあると書かれている、そういうことならば、
「當在會稽、東冶之東」ということになるんだろうなと思うのだろう。

逆に、陳寿は、邪馬台国を「當在會稽、東冶之東」と思い込んでいた。
だから、郡使の報告を曲げて、邪馬台国の方向を南にした、というのは
ちょっと思考の順序としてはおかしいと思う。

地図もろくにない時代であり、魏の歴史からすれば、おまけみたいな日本に
そんなに関心や思い込みがあるとも思えないし。
891日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:03:29
>>883
三国志が書かれたのは、晋の時代だよ。魏は無く呉も亡んで久しい。
呉の遺民達が又呉を復興しようと立上がるのを牽制すべく、陳壽が気を利かせて書いたのが
晋朝中枢にも認められたのだ。
892日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:14:52
邪馬台国は南だ南だとか言ってるが、
一方で、
「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず」
と書いてあることは無視ですか。


魏志倭人伝は矛盾だらけなのに、都合の良い箇所だけ読み取ってあーだこーだ言うのはおかしいぞ。
893日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:20:53
九州を一周できるくらいなら、
出雲や吉備や四国を知らぬはずはあるまい。
894日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:32:06
>>892
南を東または北東だと言ってる。都合のいゝところだけ採り上げているのではない。
「そうすると、瀬戸内海から大和まで途中に国が無いのか」と言うから、
女王国以北云々が有る、と言ってる。西又は北のこと。

陳壽は、意識して方角を変えているのだから、ちゃんと合理的だよ。
方位を正確に、大和の方へ向けて、変えて読めばいゝのだ。
895九州王朝大好き:2009/05/06(水) 18:14:22
>>881
>当時の魏の状況

>>883
>魏は呉の裏側に味方が居ると呉に思わせたかった

>>891
>呉の遺民達が又呉を復興しようと立上がるのを牽制すべく、陳壽が気を利かせて書いたのが
>晋朝中枢にも認められたのだ。


卑彌呼の素早い朝貢に対しての魏の素早い対応と、
張政の軍事顧問としての長期駐在は、
魏にとってもっと逼迫した政治情勢があったことを示している。

呉は狗奴國と通交があったのだ。(肥前海岸と呉の東シナ海渡海ルート)
狗奴國王卑彌弓呼が第二の公孫淵にならぬ様に女王國を利用し手を打ったのだ。

と仮説を立ててみました。
この仮説を如何に考えますか?
896日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:21:42
しかし、三国志の時代は中国では実史の時代なのに、
海を隔てた倭の国には文字がないというのは不思議だと思いませんか?
邪馬台国の方向の件もそうだけれど、魏志倭人伝では、意図的に
東夷の未開な国だと強調し、その存在を隠蔽しようとしている節があります。

つまり、邪馬台国は、魏に匹敵するくらい文化水準の高い大国だった
と考えられます。
897851:2009/05/06(水) 18:28:30
>>853
外出している間に>>856が代理で答えてくれたようだけど、私の考え方とはちょっと
ちがうので、私も答えておくよ。東遷説ではないと言ったのは、東征しただけだと
いうこと。邪馬台国は北九州を支配下に納め(これが倭人伝時代)、その後更に本
州に東征した、それだけのことで都を近畿に移したりはしていないということだよ。
みんな記紀を読んで大和が我が国の最高だったと思っているようだが、そんな証拠
はどこにもない。墓が大きいからといって、現世の最高権力者などとは言えないって
ことだよ。
898日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:32:56
神武東征は3世紀よりも前じゃないと辻褄が合わないんだって
899851:2009/05/06(水) 18:35:59
>>873
>そもそも倭人伝の記述は今日まで考古学的には一例も確認されていない殉葬とか
>およそ現実味の無い戸数とか方角だけじゃなく突っ込みどころは多々あるw
近畿を前提にするから考古学的に確認できないなんて話になるんだ。九州ならば殉
葬らしきものは出ている。7万戸の戸数が現実味がない? そんなことはないよ。
>>851 >>858を見な。 全て倭人伝どおりで何ら問題ないんだよ。

90018:2009/05/06(水) 18:38:24
うわーレス伸びてるな。
倭人が、呉の祖といわれる太白の子孫であることは、三国時代はもちろん、ごく近年まで
中国、朝鮮半島では信じられていたようだ。18世紀の朝鮮通信使が書いた「日東壮遊歌」
にもそれらしい記述は見える。

この本には、
「惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が、倭人の所有するところとなり、帝だ天皇だ
と称し、子々孫々に伝えられていることである、この犬にも等しい輩を皆ことごとく掃討し、四百
里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳をもって礼節の国にしたいものだ。」(引用Wiki)
901日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:40:56
>>899
現実的だとするならひていしてみればいい
具体的現実的に否定してあげるから
90218:2009/05/06(水) 18:49:39
900続き
など、極めてユニークな記述が散見され、ある意味では歴史的価値の高いものだ。東洋
文庫で今も手に入るのかな?

太白は、周代の人で前12〜11世紀頃。長男であったが、父が末子に位を継がせたいの
を自ら悟り、髪を切り、全身に刺青をして次男とともに荊蛮の地へ旅だったといわれる。
「夏后小康の子」とはまた別の話なのだが、ここでも文身が強調されている。つまり当時の
中国知識人の認識として 会稽ー文身ー倭 の連想はぬきがたいものであったと思われる。
903日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:56:00
>>897
>みんな記紀を読んで大和が我が国の最高だったと思っているようだが、そんな証拠
>はどこにもない。墓が大きいからといって、現世の最高権力者などとは言えないって
>ことだよ。


古墳は大きさとともに、その内部構造や副葬品も併せて考えなければならない。

それで貴殿は、文献資料も考古資料も共に一切省みないのなら、一体何に基づいて歴史を考察するのか。

904日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:00:49
>>899
>九州ならば殉葬らしきものは出ている

一体何処の何と言う遺跡なのかな?
”らしきもの”じゃあ話にならない。

>7万戸の戸数が現実味がない? そんなことはないよ。

如何なるデータに基づく物なのか?
自己流の解釈なら積算根拠をきちんと出せ!

単に自分勝手な ”思い込み” だけで書かれても話は進まないぞw

905日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:00:54
太伯の後と夏后少康
の記載は、倭の政治体系を説明するために
中国でポピュラーな題材で例えた

倭人は太伯の子孫なんて
言ってる書物をたまに見かけるが


アホカ〜!
906日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:03:09
>>903
>文献資料も考古資料も共に一切省みないのなら、
そんなことは誰も言っていないよ。文献史料は信用できるものは採用する。
信用できないものは、それなりに利用する。
考古史料もきちんと評価する。ただ、あなたとは違った見方をするということ
だろうね。例えば、副葬品の場合、副葬の習慣があるところとないところでは
全くちがうんだよ。簡単に比較はできない。
907日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:04:30
>>897

「最高」ってモロ主観だよ。
何を基準に「最高」と言ってるんだか?

大きな墓に最高権力者がいなくていいなら、それもよし。
文化先進国だった九州に邪馬台国が無くても良いことになるからな。

908日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:05:44
>>906
>文献史料は信用できるものは採用する。
>信用できないものは、それなりに利用する。

それを我田引水と言うんだよ。
通常、悪い意味で使うがね。

909日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:19:17
>>895
> 呉は狗奴國と通交があったのだ

呉は、東方には全く関心無し。韓半島と倭国に関心無し=存在を知らなかった。
(根拠:『三国志』(呉書・呉範劉惇趙達伝第18)「趙達」の項 )
910日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:23:46
>>906
>考古史料もきちんと評価する。ただ、あなたとは違った見方をするということ
>だろうね。


それならば、古墳時代前期において、南九州のいかなる考古資料が、彼の地に大和を凌ぐほどの大きな権力が存在したことを示す証拠となるのか。

貴殿なりの評価のやり方を示しつつ、何ほどか例を挙げてみられよ。

911日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:29:44
>>904
宮崎市瓜生野にある笠置山墳丘墓とか平原とかに殉葬の跡が認められると聞いた
ことがあるね。とにかく、殉死の風習があったことは日本書紀も伝えるところだ。
我が国にそんな習慣はなかったと言いたいのだろうが、無理はしないことだね。
91218:2009/05/06(水) 19:29:55
意外と釣られるやつはいないな。905くらいか。わざと半島厨には嫌な話題を出して見たん
だが・・・。まあ、実際に太伯の子孫だったかどうかは、わかることではないがね。
913日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:34:52
>>896
> 倭の国には文字がないというのは不思議だと思いませんか?

中国が高度文明に至ったのが、世界史的に余りにも早すぎる、と観るのが適当かと。
従って、その影響を受けた日本も、世界史的に他のどこよりも高度文明化する。
914日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:42:21
人口の問題について書いておく…

吉野ヶ里は甕棺等の数からその人口が1000〜1200人とか言われている。
が一つのクニは拠点集落一つからなるのではなく当然その周りの集落も含む。
で吉野ヶ里の場合言われているのが5000人程
(まあこれも研究者によって異なるだろうが流石に万のオーダーは聞いたことが無いw)

吉野ヶ里のような大型の拠点集落を擁してその程度。
もし7万戸を真に受けて1戸=5人としても35万人。
先に挙げた吉野ヶ里レベルで70のクニが必要になる。

で、ミスター吉野ヶ里こと高島忠平がかつて「前漢書」「後漢書」や遺跡を元に
北部九州でどれくらいのクニがあったのか地図上に再現したところ
後には増えてはいる物のその時はちょうど30だったらしい。
(無論、筑紫平野や福岡平野の”おいしいところ”は網羅しているw)

まあ佐原真から電話が来て
「卑弥呼が統括する30というのを意識してやったのかね?」
と言われたと言うオチがついているがwww

そのクニ全てが吉野ヶ里クラスとしても
 5000人×30ヶ国=15万人
鬼頭のデータで弥生時代の北部九州が約4万と言うのは
まあ首肯できる範囲。

倭人伝の記述を真に受ければ奴国・投馬国・邪馬台国だけで70万人
その他を入れれば下手すりゃ九州だけで100万人近く必要になるかもしれん。

もう笑い話の範疇wwwwww

>>899>>851はどうやってそれを可能にするのか説明しろ!w
915太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 19:42:36
徐福が日本へ来て漢字をばら蒔いてるよ。
916日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:45:51
>>910
南九州の遺物だけをみても、大和をしのぐかどうかなど、分かるはずはないよ。
まず、大和周辺の都市等の消滅。唐古・鍵はどうして消滅したのか? 弥生葬制
はどうして古墳時代へと続いていないのか?  
ついで、銅鐸の埋納、銅鐸祭祀の盛行の中で、なぜ突然埋納されたのか?
そのあとに出てくる祭器ないしは威信財は銅鏡だ。
これで、九州勢力が銅鐸勢力を征服したということを考えるね。九州の地に
大和を凌ぐほどの大きな権力が存在したことを示す証拠というわけだ。

そこで、九州をみれば、南九州には完璧な玉璧がある。また渡金の銅鏡が出て
いる。大和説をとる福永だったか、考古学者も3世紀後半、日向に九州最強の
王者がでたと言う。となれば、九州の中で本州まで勢力を拡大したのが日向勢
力であることは明らかだろ。いかがかな。これが俺流の評価の仕方。
917九州王朝大好き:2009/05/06(水) 19:46:01
>>909
ありがとう。
「三国志呉書 呉範劉惇趙達伝第18」を調べます。
918日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:55:53
そもそも南九州説(日向説)で尚且つ東遷説を主張し
その根拠に銅鏡を挙げるなんて
一体何が言いたいのか?やりたいのか?理解に苦しむwwww

宮崎・鹿児島は九州といっても弥生時代の銅鏡の出土はお寒い状況で
大和と大して変わらない。

この時点で日向は銅鏡勢力と言う図式は崩れるw

てめえの気に入ったところを摘み食いして寄せ集めるから
かかる無様な自爆劇を演じる羽目になっているんだろうがwwwww
919日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:57:12
>>915は、どうしてそんな嘘書くのかな?
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 20:01:32
どうしてウソなのか? 日本に来てないんならそのとおりだが?
921日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:02:00
纒向なんかで古墳時代が昔と違って時代が遡ってるのに未だに三世紀後半だとか四世紀の遷都にこだわってる
頭硬すぎ
92218:2009/05/06(水) 20:04:15
宮崎市瓜生野にある笠置山墳丘墓ねえ。いいとこいってる。俺は南九州説でどうしてこれ
を卑弥呼の墓というやつが少ないのか疑問だった。山全体が鳥形をした巨大埋葬施設で
ある・・・という俺的には絶句するような意見がネックになってるのかな。

70m級前方後円型墳丘墓といわれ、陪塚、殉葬跡ともいわれる土壙墓も見つかっている
ようだ。時期的には3世紀中頃〜4世紀か。地名の類似等から俺的には景行紀のもの、
と思うが情報量が少ない。遺跡の保存状態はよくないようだが、地域おこしでもなんでも
開発から外れて残るのはよいことだ。

このHPは、信頼度はともかく面白いよ。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
923日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:05:41
>>914
>一つのクニは拠点集落一つからなるのではなく当然その周りの集落も含む。
この考え方が駄目なんだよ。拠点集落とその周辺の集落で一つの国を構成する?
そんな原則を誰がつくったんだ、高島か? 一つの国の中に、拠点集落が幾つ
あるか分からんのだよ。一人の王が支配するところは、どれだけ広くてもその
中に拠点集落というべき大集落が幾つあろうが、全部ひっくるめて一つの国だ。
924日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:06:22
後の隋だか宋だかの答礼使が日本から帰国して、山陽路に、徐福一行の遺民聚落が在った、と語っているんだね。
925日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:09:03
殉葬だと有能な人材まで死なせてしまうことになるから、代わりに埴輪を添えたんじゃなかった?
926日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:10:37
>>920
来ていませんし、漢字をばら撒いたなんて記録もありません。
927日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:13:01
>>923
中国古代の話、してるんではないよ。
2~3世紀の倭国の話、してんだ。
拠点聚落も何聚落も、一つの聚落とその周囲がひとつの国だ。
ある「国」に、幾つも聚落があるものか?――ちと、勉強して出直して来な!
92818:2009/05/06(水) 20:16:12
徐福渡来伝説は日本各地にある。伝説どうり倭の地に童男童女3000人と100工を連れ
て上陸したなら、当然秦代の漢字を使用しただろうが、それを思わせる遺物は今のところ
ない。ただ、徐福の存在自体は史実だろうと思う。
929日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:17:26
>>922

何スレか前に
それについては語られてた。
それで南九州(宮崎平野)説もありだという
意見がけっこうあった。
930日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:18:54
>>928
思うという主観が、歴史の史実として語られてもいいのですか?
931太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 20:19:09
西暦14年の王莽時の貨泉が出土してる。それに漢字がついている。
932日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:22:14
本朝に漢字をもたらしたのは、王仁でしょうに・・・。
933日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:24:24
>>923
クニの定義をお前がどう変えようとそれによって
人口密度が10倍とかになるわけじゃないぞ?w

「いくつもの大型拠点集落を含めて一つのクニ」と言うのなら
>>914で挙げた30のクニグニの幾つかが統合されるだけ
当然卑弥呼の30ヶ国はもっと広い範囲になるw

じゃあ一つ一つのクニの人口密度をもっと上げるか?
だったらそのモデルになるような遺跡を挙げてみろよ。

まあ大型拠点集落がひしめき合っているような場所だなw
934日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:25:53
>>931
だから?
漢字をばら撒いたと言うこととは、関係ない話しですね
王莽の貨銭は、王莽の貨銭が造られた以降の時代なら、何時でも移動出来る動産です。
93518:2009/05/06(水) 20:31:06
七万戸の一戸の人数には諸説あって、

>屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。・・・父母兄弟で最低4人。
>国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦・・・この4・5婦の家族が一つ屋にいる

と考えて、一戸=20人以上とする意見もある。俺的には10人以上でも驚かない。

俺は中国考古学を専攻してて徐福の話は大好きだが、スレ違いになるのでやらない。いずれ
世界史板にスレ立てしたら、皆書いておくれ。
あと、中国の銭貨に漢字があるのはあたり前だろう。

936日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:31:14
>>922
もうそのサイトは何度も見たが
どうやら前方後円墳の西にある墓を殉葬の跡にあてているみたいだが・・・
http://www.gondo.com/g-files/miya/pic1/kasaM.jpg

まあ年代とかは置いといても素朴な疑問として

じゃあ、その集落の他の死者の墓は何処にあるんだ?って話でw
その集落の中心、王宮区から更に離れたところにあるのか?

なんでもかんでも殉葬の跡にあてれば良いってモンじゃないwww
937太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 20:39:18
徐福が来て、もう教えてるよ。それに中平年間の中平刀が奈良の
東大寺古墳から出土している。これにも漢字がある。いくら移動が
利くと言い張っても古墳の中じゃァあんたの言ういい訳は成立性
が薄い。移動がどうのなら金印も移動はしてるが、移動のために
これが数百年の移動だとでも言うのか? 金印にも文字があり、57年
だから移動してても文字が日本に来てたということだ。しかも貨泉の
14年から33年後だね〜金印は。だから2桁年代に日本に漢字が
あったということだ。徐福が来て漢字を教えてないとか頑張っても、
そんな言葉はよ〜く考えれば、教えてないとかのほうがおかしな
主張だねェ。ww徐福は日本に来て漢字を仲間とともにだまりこく
ってずっといたのかね?w

中平刀は倍暦計算で孝靈天皇の時代だ。倭国大乱のことだ。このとき
漢字が日本にあったことになる。しかも紀元前の漢字ある鏡も九州
から出土している。これをみてもなかったなどとは大ウソだよ。
まだお上からの教えられた妄想がこびりついているんだね?ww
あんたはお上から騙されてきたんだよ。
おまけにペトログリフは日本各地からうんと出てるという。
93818:2009/05/06(水) 20:45:48
>>936
まあね、殉葬跡ではないかといわれるものは各地にけっこうあるんだが、もちろん確定的な
ものはまだない。周濠の底などに人柱的に埋められたりしてたら、考古学的に発見できるの
は奇跡だろう。936は、この戸数や殉葬の事例などで、倭人伝の記事が信頼の置けないもの
と考えているんだろうが、実は俺的にもそうなんだが、それこそゲームが成り立たなくなるん
では。

922のは、地元古代史家と称する人が話を難しくしている・・というよくある例のようだな。
939日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:47:37
>>933
何か意味不明なことを喚いているな。
940太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 20:49:28
さらに親魏倭王の金印も日本で来てるはずだ。これにも漢字が
ついてるだろう。これは239年あたりだろ。おまけに△にも同年の
景初の漢字がある。これなども日本に当時漢字があったということだ。
しかも大陸からは1個も出ないで、500枚ばかり全部日本からの出土
だ。これらの△にも漢字がかなりついてるんだろう? となれば
△は日本製で、漢字はそのころ浸透していたと考えて問題はない。
941日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:50:28
>>896
「傳送文書賜遺之物詣女王」「文書、賜遺の物を伝送して女王にとどけ」
「倭王因使上表答謝恩詔」「倭王は、使者に因って上表文をたてまつり、謝恩を答謝した。」
文書、上表文には文字が使われている、
当事、既に倭の国に文字はあった。
942日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:56:01
殉葬跡、なんて信じられない。
殉葬ってのは、もっともっと後世、中国律令制のマネをし始めて以降、中国皇帝の例にあるのを知って、
あわてて採り入れた習慣だからね。
943日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:57:17
>>941
それは違う!
中国の介添え官吏が代わって書いてやったのだ。
944日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:58:16
>>937>>940
言いたい事はわかったから、徐福が日本に来て、漢字をばら撒いたとする証拠は?
もう、余計な尾鰭の話しはいいから
肝心な部分だけに的をしぼりましょう。
945日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:00:47
紀元前200年ころの徐福と1世紀の王莽じゃあ、年代に二百年から開きがあるじゃん。
王莽の貨幣とか金印とか、徐福のことと何も関係なかろう。
946日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:03:10
まあ、結局、漢字は王仁の時まで、はいって来てない、ということでしょう。
947日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:07:12
>>945
しかし、彼から話しを引き出すには
そのどうでもいい話しを一度は聞かなければ、先に進まない。
万一その関係ない話しにヤリを挟もうものなら、肝心の 徐福話は、いつの間にか消えて失くなってしまうと言う筋書だ。
948日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:07:37
第一、そんなに早く漢字がはいってるなら、「書紀」は何も「王仁が・・・」なんて書かなくても
徐福がもたらして、当国は早くから知ってんだよ、って書けばいゝじゃないか?
徐福一行渡来のことは、引用で触れていながら、漢字のことは何も書いてない。
949太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 21:08:01
>>944
そんもの刑事裁判級の証拠を求めて古代史やってたら、記紀の天皇は
その大半が無となるよ。だいたい大陸の徐福の日本(この場合は
蓬莱山だが)へ来た古文書があるんだろ? それが文証だね。

理証は徐福が来朝して倭の支配階級と大陸の文化の話をしてるよ。
刑事裁判級の証拠した受付けないければ、あんた死ぬまで妄想の脳
であの世行きだな。そこでも頑張るなら日本彼が来てない証拠は?

あんたは自分で自動車を買っても、乗った証拠がどこにあると友人
に言い張るのか?買えばもう乗ってるとみて間違いはないよ。吉原
の中の通りを通っているよそ者を見て、あァこれはソープへ行って
ソープ嬢とHをしたなと100人が99人そうだと思うぜ。ww
それとも残り1人位の例外で頑張るのか?wwwwwwww
950日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:10:10
>>949

資料批判とはそういうものだよ。

信じたらダメ。
951太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 21:11:14
>>945
漢字ということで共通点があろう。それが関係あるわけだ。
952日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:12:26
太国は漢字ナメすぎ
朝鮮半島にも琉球にもアイヌにもチベットにもモンゴルにも
周辺諸国にちっとも根付かなかったんだぞ
漢文は
953日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:14:03
太国は「文字」つーのをナメすぎなんよ
ちゃんと古代言語学勉強してみ
954太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 21:16:46
>>952
重視してるから話しれるんだろうが。なめるというのは軽視して
ることで反対のことだよ。有罪無罪は別として、
さっきの奴なんか林真須美の弁護人に向いてるな。あやつは検事ら
捜査機関に砒素殺人の証拠を出せと頑張るだろう。
955日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:19:05
>>916
>そこで、九州をみれば、南九州には完璧な玉璧がある。また渡金の銅鏡が出て
>いる。


小生は>>910で問うたのは、貴殿が>>897で古墳時代前期における畿内の卓越性を否定されたがゆえに、同時期においての南九州優位を示す証拠となり得る考古資料の例示であった。

そこで貴殿が回答してきたのは、出土遺跡名の明記を省かれているが、串間の玉璧、並びに才園2号墳出土リュウ金獣帯鏡(リュウ;龍の下に金)であることは間違いなかろう。

では、再度問う。

串間の玉璧は出土遺構が今もって不明であり、リュウ金獣帯鏡を出土した才園2号墳は、横穴式石室を有する後期古墳であろう。

しからば、これら両遺物が古墳時代前期における南九州の支配層が所有していた超弩級の威信財、などとは、考古事実のみからは何ら証明できないと小生は考えるのだが如何に。

両遺物が優れた威信財であるのは小生も諸手を挙げて賛成したいのだが、古墳時代前期における南九州支配層の活動との同時性を、考古学的に如何にして立証できるのか、ということだ。

956太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 21:23:09
だいたい証拠を出せって2ちゃん等掲示板で言い出す奴って
いうのは、議論の土俵際へ追い詰められた証拠を吐露したよう
なものだぜ。
論が通ってるやつは証拠証拠と言わなくても、整然とした論述を
書きこんで終わる。それは証拠があればなおいいがね。
〜今日始めてだろう? 証拠とか言った奴は。
957日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:26:18
まぁ、あんまり追い詰めるな
2chは九州説の最後の逃げ場なんだから
彼らにも生きる権利はある
958日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:29:33
>>954
また関係のない話しを長々として、お茶を濁しているなあ。
それで、肝心の
徐福が漢字をばら撒いた一件の説明はどうなった?
959日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:32:14
しかし、纏向発見以降、九州説を唱える新刊が出ていないんだけど・・・
Web検索できる範囲で、九州説の論文発表されていないんだけど・・・
960日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:32:16
>>954
自分が言ってる事の矛盾に、一日も早く気付けよ
961日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:33:33
>>959
纏向が、いかに九州説にとってショックだったか、ってことだね。
962日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:40:57
>>944
ダメだよ、あの人に証拠なんて言葉使っちゃ
証拠なんて言葉使ったら、これ幸とばかりに
証拠と言う言葉を手掛かりに、肝心な話しを撹乱させるように
話しを違う方向に持って行こうとするから
963日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:42:48
天皇陵調査が解禁になれば、どれかの古墳から「親魏倭王」印が出てくるんだがな。
結局、箸墓なら、もうダメだ。剥き出しになってしまって無いのわかっているから。
964日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:44:49
いや、「証拠」なんて要らないんだよ!
↓これだよ。
第一、そんなに早く漢字がはいってるなら、「書紀」は何も「王仁が・・・」なんて書かなくても
徐福がもたらして、当国は早くから知ってんだよ、って書けばいゝじゃないか?
徐福一行渡来のことは、引用で触れていながら、漢字のことは何も書いてない。
965日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:44:50
太国のおじちゃん。
徐福が日本で漢字をばら撒いた
お話しはまだぁ?

逃げちゃダメだよ。今日は連休最後だから、きちんと説明しよう。
966日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:52:25
もう溺れた犬を、棒で叩く事はするな
967日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:53:37
>>959本一冊だすのにどのくらいの日数がかかるかわかっていっているのかな。
968日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:55:07
九州説を信じてるやつなんて、40代以上だろ。

40代にもなって2ちゃんで何やってんだろうね。

969日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:56:43
>>965

犬国は徐福とその子孫が残したという『富士高天原朝史(通称:宮下文書)」』のことをネタにしているんだよ。
その出自は東日流とかと同じ類の「史書」だ。
お犬様はその手の話は大好きだから、どっかのWEBをも覗いていて仕入れたネタなんだろう。
でも、ネタとして披露してみたものの、自説とは所縁の無い内容なので、
それを詳しく解説する気にもならない、つーところだろうw
ホントにスレ違いなので、これにこれ以上かまってるとヤツのアラシに加担してることになるよ。

宮下文書 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%8F%B2%E5%8F%A4%E4%BC%9D
97018=縦目:2009/05/06(水) 22:07:25
太国氏は暦博士来朝以前から、秘事である二倍年暦が用いられていたという自説だから、
漢字もまた同じ伝で考えてるのだろう。
それにしてもソープ嬢や林真須美の例えは、自分の関心の高いものを用いていて話がわ
かりやすいねえ。倍暦の議論もさんざんしたが、俺的に得るものは一つもなかった。
971日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:09:09
誰も本を出版するやつはいないのかな?
972日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:11:45
>>968
今年の夏休みの自由研究のネタにしたらどうかな?
多分、君のお父さんも
ピンク2ちゃんで、お母さんとカキカキしているかもよ?
973日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:12:59
にわかに涌き出す名無しが多いなあ
文の特徴も似てるしなあ

やっぱりID必要だよね
974日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:15:17
にわかに涌き出す名無し

って誰のことだ?
975日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:16:45
>>974
下品な言葉遣いをしてる奴のことじゃないの
976日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:29:04
今、ええテレビでもあるんか?急にレスとまったが・・・
977日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:31:30
>>976
BS7を見ろ! 纏向出土品で新発見――京大が異例の祝日夜間記者会見!LIVE
978日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:32:40
何だ?
979日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:34:31
>>977
今、BS7見てる。こりゃすげえな。
980太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 22:34:52
>>958 >>965
関係なくはな〜い。もう説明したとなると、こんどはオマエの番。
逃げずに徐福が日本に来てないとか〜いやぁ架空の人物だとか説明を
するんでないの? な〜ぜしないのか? オマエにその証拠がない〜
持ち駒がないからだな。wwwwwwww なきゃぁそう言え。
泣き屋になってやるよ〜。wmwmwmw
981日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:38:44
>>955
>串間の玉璧は出土遺構が今もって不明であり、
出土遺構が明確に特定できないとしても、それが串間出土であることは一般に信じ
られているよ。どこから出ようが、南九州を考える上では重要なことではない。
また、それは後漢時代とか言われているね。後漢時代から古墳時代にかけて南九州
で権力が交替した証拠は何も認められない。邪馬台国時代の支配層を考える史料に
なることは明らかだ。

>リュウ金獣帯鏡を出土した才園2号墳は、横穴式石室を有する後期古墳であろう。
そこまで知っているなら、その鏡が2、3世紀の物とみられていることも知ってい
るだろう。それを手に入れた人間は、後期古墳時代に手に入れたわけではなく、それ
が作られた時代かそれに近い時代に入手したであろう。出てきた古墳が何時のものか
は重要な問題ではない。
982日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:45:10
>>980独り言ですか?
983日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:46:51
みんな、あすの出勤準備で、もう書けないのか?
出勤は来週月曜までってのは、俺ぐらいか?
984太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 22:49:21
>>982
な〜んだ、オマエが説明するのか? じゃぁ早くしろ。そろそろ
眠くなってきた。徐福ら一行がが日本へ来て漢字を死ぬまで黙り
こくってたというのは〜ww
どんな証拠なのか? ~\~
985日本@名無史さん:2009/05/06(水) 22:56:23
>>981
>それを手に入れた人間は、後期古墳時代に手に入れたわけではなく、それ
>が作られた時代かそれに近い時代に入手したであろう。

どうして?
986日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:01:40
>>981
もう無茶苦茶だなw
>>955もさぞ頭を抱えているだろうwww

悪い事は言わないお前さんの日向説は倭人伝の行程記事にだけ絞って
考古資料なんてものには手を出さない方が良いんじゃないのかな?

行程記事だけなら放射式で読もうが連続式で読もうが
元々方角が合わない畿内説、距離に何のある北部九州説に対する
相対的優位は変わらないんだからwwwwwwwww
987日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:02:51
>>984
あんたの説明がまだ済んでいない。言い出しっぺのあんたが
趣旨の説明不足では、相手からの反論まで行かないうちにドボンだ。
あんたの大好きな法廷話に例えるなら
原告から出された請求の趣旨に沿う、原告側の趣旨説明不足の為
原告側の請求を棄却する
988日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:08:11
才園古墳は確か6世紀頃の築造だった。
しかし、出てきた金メッキの獣帯鏡?が、3世紀頃作られたというのは間違いない。
だいたい卑弥呼の時代あたりとされる。
ただ、呉で作られたとらしいが。
989太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 23:08:33
>>987
な〜んだ、逃げるのかぁ〜? 簡単だなぁww
証拠と言い出したからには、オマエの側から出すのがスジだろう〜。
それともなにもそれが無いのか? ないんなら最初から証拠なんぞと
言い出すな。ww

w w
~\~
990日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:11:53
>>986
ほう、どこが無茶苦茶か指摘してもらいたいもんだ。
他の人の多くは、私の言う意味は理解していると思うがね。
991日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:13:04
>>981
>後漢時代から古墳時代にかけて南九州で権力が交替した証拠は何も認められない。

でも古墳をつくるようになったのはなぜ?
992日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:14:31
景行天皇が九州巡幸で日向に宮を置いた。
993日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:16:38
>>990
畿内からは、たいしたものが出ていないからねえ。

畿内から出れば、たいしたことないのに大騒ぎするが、九州から出たものは
意識的に無視しがち。
994日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:19:31
>>989
法廷ネタを出したわりには何にも知らないんだな。
最初に言い出した原告側は、訴状に訴題の趣旨必要な趣旨に沿う甲号証の添付が必要なんだよ
公判を維持出来るだけの資料がない限り、
公判を維持出来ないと判断され、原告側の訴えが棄却される。
普通の場合窓口で、書記官払いされるのが落ち。
995日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:21:54
このスレの流れは、やはり5月なのだな、と言う事で良いのかな。
996日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:23:38
遠絶の「絶」の意味は、ハッキリしておいた方がいいかな。

「誰かが疎遠で交流が絶えている」と訳してそのまま信じられているようだけど、

「女王の境界が尽きるところ=そこまで女王の国」と
「交流が絶えている」は若干矛盾していると気づくはず。
それも20カ国以上疎遠とか、情けない状態!?

絶は4箇所登場して、すべて「陸続きじゃない」という意味なんだよ。

女王国の乗っている島や対馬は「絶」在している。
→(朝鮮のような半島でなく、)陸続きじゃない島だ。

遠絶の国々は、南西諸島のこと。
国の数と南西諸島の主だった島の数は一致しています。

素もぐりで魚を取るのがメインなんだから、
不便じゃなくむしろ良い土地だったんでしょう。

敵対する国は「沖縄本島」です。
沖縄の言葉が分離したのは、
今から約1800年前と言われているようですが、
この敵対が原因だったのかもしれませんね。

絶の意味がちゃんと分かっていれば、
初めから畿内説なんて無かったかも。
周囲5000里あまり(帯方郡から韓国南岸より短い)絶島
とハッキリ書いてあるんだから。
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/06(水) 23:24:42
>>994
毎度御苦労。証拠といい出したからにはオマエのほうが先に証拠
を出せ。どこに徐福らが日本へ来て漢字の黙秘権を行使してたのか?
その証拠を言い出した側から見せるんだな。wwwwwwwwwww
ナイナイズクシで〜〜ないのか?ww
w w
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998日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:27:52
徐福が日本で漢字をばら撒いたと最初に言い出したあなたに、その立証責務がある事ぐらいは理解できるでしょ。
十分な立証をしない限り、あなたの言い分は、立証不足で先に進めない。よってあなたの言い分は、
自動的に棄却される。
999日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:29:06
日本中から出てくる土器に漢字が書かれて無いんだから、だめだよ。
1000日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:29:17
多数の国の連合体が、
たった一国を滅ぼせなかったのは、

「絶」すなわち、陸続きでなかったからです。
10011001
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