1 :
日本@名無史さん:
、 /:/::://::\::::::::\::::::,ヽ::::ヽ|、\
. /:::|, イ:'、::ヽ::::\::::::::Xヽ:|ヘ:::::ヘ\,ゝ
l/|:::::|::::::!、::\ー`ー-,ィf示ハ:::::ヘ、,ハ
く,.イl:::::斗┼‐` ー 弋炒 ',:::::ハ:::l::|
|/,!ヘ::::::ヘ:| ,ィf心 !:::::::l::|::!
//:| |ヘ::::::ヘ代t炒 ` ノ |:::::|:|_|リ
く/l:::L|、::`:ー-ゝ ‐'´ /イ/|:| ヽ
|:!:,-、:::\f^ヽ:≧z. __ .. イハ: : リ| |
l:|:{ ヽ:::;ム マミ、: : \ ム: : :∨
リ/\ ヽ,ム ∨ヘ : : \ /: /ヘ: : :ヘ
,.- 、 \ ヽ〉 ヽ \: : :\://ヘ: : :|
ヽ、 \ | 〉 \ lヽ./^)、 : : |: : !
丶、`¨ / ァ'´ /: : ヽr:| : ハ
`~′ `^" `" ^" ,, 、,, `
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 39
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1235046399/l50
2 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:41:21
2!
3 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:43:43
綺麗な姉ちゃんにドンとこいといわれても困っちゃうな。
纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群 王権の中枢か 奈良
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090320-00000017-maip-soci ヤマト政権発祥の地で邪馬台国の「最有力候補地」とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、女王・卑弥呼(?〜248年ごろ)と
同時期の3世紀前半の建物群が見つかり、桜井市教委が20日発表した。一帯は大規模に整地され、柵で複雑に区画。柱筋は東西方
向にそろい、三つの建物が計画的に並んでいた。こうした特異な構造は同時期では例がないといい、市教委は「王権の中枢施設の一
角の可能性がある」としている。
石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話 3世紀前半に、建物が方位や柱筋をそろえて計画的に並ぶ例は他になく、驚きだ。
邪馬台国の有力候補地から見つかったということは高く評価でき、都の一端をうかがわせる。
5 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:55:44
中国の文献学者の人に倭人伝から邪馬台国の場所割り出して
貰うってのは?
中国に頼らなくても、当時はすでに文字はあったんだ。
今注目されているのが出雲文書。これの通りに発掘してる状態。
ヒミコやトヨの墓、集落、建物の位置も書いてある文書。
ただし倭=邪馬台国の証明は発掘後になると思う。
どんどん古文書が公開されるぞ。
トヨタン・・・・・・・・
>>1otu
トヨタン・・・・・・・・、トヨタン・・・・・・・・、トヨタン・・・・・・・・
新資料はちゃんと批判しないとネ申の手だぞ。
9 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:06:05
邪馬台国が九州だとしたら歴史はどう変わるのか。
機内だとそのままと思うが。
出雲文書はかなり出雲寄りの文書なのだが、
一応認定はされたよ。
ただ、ここに書かれているヒミコやトヨが邪馬台国の女王認定はされてない。
ただ当時も文字があったことは確定したから、
ここの人でも考古学で名をあげるチャンスが出たということ。
11 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:57:32
言霊文化にこだわってた学者さんたちびっくりしただろうな。
朝廷陰謀説=歴史のねつ造(過去の文献・遺物隠滅)もありえるな。
12 :
卑弥呼:2009/03/21(土) 19:15:50
>>1 乙
____
__,,/ _, ----`ヽ :.
:. / _ ___ 、\
/ / i \ \\ :.
:. ,'./ i ヽ:. ヽ:.:.. ヽ.ヽ
,'/ / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
:. |i .i i .i / ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
|i .i l :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
:. |i∧ ', :{ ,ィjモト \ イjミトイイV :. な…
.| :メヽ.', `ozZ} izN。ハ::{ なんなんですか?
:. | :ヾ_! ゝ "゙゙ ' `゙ ハ.:', :. ここ、どこですか?
| :.:_イ .:.ヽ. (二フ , イ :.:.:!:.ヽ なんであたし
:. / rィイ | :.:.ヽ: >r/`<ノ .:.::.}ヽ、\:. 畿内大和にいるんですか?
/ ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
:. / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^` |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
/ / ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{ ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、 : : : l:.:.: .ハ ',
{ /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄ ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{ リ
ヽ:.:{、.:.V : : ヘ : : {: : :/:.::∧|
ヽ! )人 : : :人 : : : / \! :.
" ヽ : : : : :/イ{ :.ノ: : : :.\ :.
:. \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
/ //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
13 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 02:10:38
>都の一端をうかがわせる。
箸墓を造らせたときの人夫の宿舎跡じゃないの?
14 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 03:40:14
>>10 成立年代が少なくとも五世紀くらい?
マスコミが大騒ぎしそうだな。
15 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 03:44:20
もうちょっと待ってると神代文字ネタになるぞ。
16 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 06:07:26
過去カキコミからこんなの拾ってきましたが・・いかがしましょうか
唐・魏徴(580〜643)の『隋書』「倭国伝」
倭国(日本)は百済・新羅の東南にあり。
(中略)文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。
仏教を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり。
17 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 08:09:13
仏教の伝来を早めればよいのでは?
18 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:08:18
百済の聖明王が仏像や経典などを献上したのが仏教の伝来の始まりで、これが
西暦538年頃。
倭王・武の上表文が西暦478年なので、百済からの仏教伝来とは合わない。
それに、銅鏡には、日本製もあり、文字が書かれていたとすれば、文字は
その時代まで遡ることになるわけだが。
19 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:17:35
仮に、渡来人がいたとすれば、当然、習得する人もいただろう。
江戸時代なんて、寺子屋に通えば、子供でも漢文を読んでいたわけだし、
現代でも、ちょっと出来の中学生なら英語の読み書きが出来る。
ずっと前から漢字に触れていて、学ぼうともせず、読み書きも出来ないと
いうことはないだろう。
ご先祖様たちはそれほど馬鹿ではないと思うが。
釈迦は日本で修行して仏教を開いたわけだから、
仏教はもともと日本にあったとすべきではないのか?
21 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:28:04
釈迦のせいで今日の法事がうざい。どうしてくれるんだ
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、
3世紀前半の三つの建物跡が同じ方位を向き、同一線上に並んで建てられていたことがわかった。
また遺跡にある西面する妻入りの掘立柱建物は出雲大社の建築様式で、ここが出雲すなわち
物部氏と関連していることを表している。
磯城(師木)の将=帥升だったとすれば、邪馬台国がこの地にあったことを強く匂わせる。
23 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:59:13
仏教が大和国に伝来したのは538年。九州の倭国に伝来したのは400年とか。
24 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:00:41
人が住んでいれば、建物ぐらいあっただろう。建物があれば、柱くらいあっただろう。
出雲大社に残る古文書に邪馬台国のことが書かれていて、
その文書のとおり、纒向遺跡の建物跡が発見されたという
説はどこから出たのですか?根拠を教えてください。
26 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:26:54
>>25 昨日からあちこちでそういうコピぺを見るが、ソースは無い。
27 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:38:31
気になって、知り合いのプロの研究者に聞いたが、出雲文書などまったく読む価値もない文献とのこと。
28 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 12:28:05
文献とは認めてる。
29 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 12:47:42
九州説に不利な文書は読む価値がないということですね。わかります。
31 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:21:22
成立年代が早いなら、紀記神話から消された伝承が残ってる
可能性はあるが、明治の贋作かも知らんし。
32 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:45:38
記紀に載っていない史実部分を補完する内容を持った文献
・・・うーん流石にすぐに飛びつく気にはなれないなw
出雲大社に伝わる文献と他の怪しげな神社の偽書をいっしょにしてもらっては困る。
正倉院の宝物を偽モノだといっているようなものです。
神代文字はすべて近世における偽作である・・・とウィキに記載があるよ。
35 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:20:45
出雲大社と大和朝廷とは邑(国)が違い、朝廷により出雲は滅ぼさなければま抹殺すべき目の上のたんこぶ。
巧みに和睦を結び、裏切り朝廷が勝手に神話をねつ造というのはどうだろう。
大陸との要所である湊=出雲の国。
いまでいう山口組=朝廷
ウィキには、ある意図を持って情報を操作しようとする集団がいる。
そういうのにころっと騙される日本人も間抜けというかめでたいというか。
そんなことだから韓国に連敗したんだよ。
37 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:25:16
山口組は言いすぎ。
仁義なき戦いの納得できる時代ではあるが、暴力を持って国を拡大したのは確かだ。
うーーーん。ということは山口組?
ある意図をもって情報を操作しようという集団ね。
偽文書にころっとだまされるのは何て言うの?
39 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:37:25
>>38 感覚で書き込むのは自由ですが。ある程度、仮設でもいいから立ててください。
単なる、避難はこのスレでは禁物です。
>>35 日本海側と畿内が大規模な戦闘状態になった証拠なんて何もないじゃん。
記紀はもちろん考古学的にも。
弥生中期から晩期にかけての環壕集落や高地性集落が、
近江周辺に集中しているというのなら分かるけど、
環壕は全域だし、高地は瀬戸内海に多いし。
41 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:46:55
>>40 仮設に目くじら立てたら、このスレおわり。だって証拠がないから皆、推論してるんじゃないの。
でも、昔なんて大規模な戦争なんて無く、やくざのカチコミみたいなもん。
大化の改新なんて、ちわ喧嘩みたいな規模だろう。でも朝廷にとっては是とするから歴史が残ったと考えてもどうかな。
42 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:00:19
将棋と同じ戦闘が、信長が出現するまで続いたのかな。
いくらコマが多くても王将とられれば負けかな。
信長徹底的に一族もろとも皆殺し。(比叡山、長島・・・)
43 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:24:09
一匹、頭が完全に左巻きのキチガイ左翼がいるから、目を合わせちゃダメよ。
養殖じゃないのは希少種だから、このスレで目を合わせないで飼っておけばいいの。
44 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:34:26
それにしても、「仮設」とか「避難」とか「大和朝廷発症」とか・・・
いったいどこの国の人よ?
>>41 証拠がないんじゃなくて、
ない証拠があると言っていい状況なんだけど、既に。
出雲と大和の戦いは。
46 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:43:23
>>44 日本製のパソコンの変換じゃないんだろ。インド人?
47 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:55:32
こんな神話もあるんだよ
>>45 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」
に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
国譲りってなんだろう、普通に考え負けたからじゃないのかな。
48 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:58:42
こんな神話?もあるんだよ
>>45 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」
に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
国譲りってなんだろう、普通に考え負けたからじゃないのかな。
49 :
45:2009/03/22(日) 20:02:31
>>48 その辺りは出雲風土記の方が面白いと思われ。
(証拠にはなりませんけども)
まあまあ、熱くならずにね。
それより是非御教示願いたいことがあります。
魏志倭人伝の冒頭に「今使譯所通三十國」とあるが、
この「今」はどの時代を指すのですか。
沈寿が編纂している時なのか、女王国に使者が派遣された時なのか。
いずれにしても九州・畿内いずれかに統一国家が存在したなら、帯方郡?との
使者・通訳?がこれら30カ国と活発に往来していたことになり、なにか納得が
いかないのです。
初心者からの質問です。
卑弥呼がヤマトトトヒモモソ媛命なら
時系列にならべると
出雲国譲り
↓
ニニギが高千穂に降臨
↓
神武天皇東征
↓
倭国大乱
↓
卑弥呼共立(ヤマトトトヒモモソ媛命共立)
出雲が国譲りをして移り住んだのは、北陸と東海。
そこを足がかりに、未開の地、関東平野(東国)へ
進出を図ったのです。
53 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 21:52:23
>>50 自己紹介:北部九州説
「自武帝滅朝鮮使訳通於漢者三十許国(後漢書倭国伝より)」
武帝が朝鮮を滅ぼしたのが
紀元前108年、その時楽浪郡を設置。
30カ国はBC108頃からです。
AC57 倭奴国が後漢より金印授かる。
AC107 倭国王が後漢に朝貢(翰苑後漢書・・・倭面上国王帥升、
唐類函変塞部倭国の条通伝・・・倭面土地王帥升、
北宋版通伝・・・倭面土王帥升
面上国は福岡県旧山門郡山川町清水面の上が比定できる)
山川町清水面の上←ここ強調
倭国大乱後、卑弥呼を共立して女王国が出来る。
魏に朝貢 帯方郡史が伊都国に来る
女王国の都は邪馬台国。面の上と同じ地域。
山門郡にその名が残る。
そういう流れで邪馬台国は3世紀前半には北部九州にあった。
>>53 大外れ。
というか、北九州のそういう地名って
逆に、近畿の勢力が、九州を制圧した記念にそういう
名称をつけただけじゃないのか?
55 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:03:40
>>54 残念。逆ですよ。
大阪とか堺は サカ は、つまり佐賀の名に由来するんじゃないの?
56 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:19:32
>>50 普通に考えると、今というのは、魏の時代。三国志(魏志)なので。
魏使(郡使)がやって来たときと言い換えてもいいかも。
三十カ国も、倭人伝に書かれている国だろう。
つまり、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
で八カ国。その余の旁国が二十一カ国、それと狗奴国で合計三十カ国。
>>55 ええwww
ちみは、なんか韓国人みたいなこと言うねw
58 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:45:25
>>57 なんで韓国人?
どうしてそういう思考になるのかわからない。
59 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:47:27
吉野ヶ里遺跡が公開された時、邪馬台国ではないかとも言われた。
これは、倭人伝に書かれた「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
が具体的に現れたからだろう。
その後、纏向、つまり庄内期が100年ほど遡り、それに伴って吉野ヶ里は
その前の時代のものではないかという声もある。卑弥呼の時代には吉野ヶ里は
すでに衰退していたというわけである。
しかし、郡使は卑弥呼時代にやってきて、「宮室、樓觀、城柵」を見ている。
これをどのように解釈するか。
やはり、纏向の方が卑弥呼時代のあと、つまり西暦300年頃からなのでは
なかろうか。
60 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:15:23
>>55 >大阪とか堺は サカ は、つまり佐賀の名に由来するんじゃないの?
堺は河内と和泉の境。
大阪は小坂にたいする大坂。
茅の海に面する上町台地西側急斜面部(上町断層部)が大坂。
河内湖に面する上町台地東斜面部が小坂。
61 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:19:31
>>50 30国が個別に使者をやりとりしていたのではなく、倭国側は30国の代表として
使者を送った、魏の側もそれに応えて使者を派遣してきた、そうゆうことだと思い
ます。
朝貢してきた使者は皇帝の前に出て拝賀するんだろうし
皇帝が出御して式典を挙行する訳だから、あまりの小国だと相手にせんわな
>>62 というか、親魏倭王だから。
漢倭奴国王とは、待遇が全く違う。
漢倭奴国王は金印だけど、属国扱い。
親魏倭王は朝貢といっても、あくまでも中国とは独立国で
しかも、かなりの大国認定だから。
64 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 00:59:41
倭人伝で特定可能な国がみんな九州なのに邪馬台国だけ畿内に
持って行くのは反則だべや。
65 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 01:22:55
だいたい、伊都国を糸島半島なんぞに比定するから畿内説なんてのが出てくるんだ。
伊都国は佐賀平野。倭人伝どおりに進まなければ駄目なんだよ。
>63
親魏倭王は金印紫綬だからな
西域の大月氏でも銀印青綬だったけ
67 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 01:48:29
>>66 ということは、北九州の小国ではもらえるはずがない。
漢奴国王ではなくて
漢倭奴国王だからな。
当時の中国人の認識だと
奴国の上に、倭国というカテゴリが存在していたことになる。
ちなみに、漢書王莽伝に、紀元5年に東夷の王が渡海して貢物をもってきたと
あるから、もしかしたら、これは倭の王だったかもしれない。
なんか価値があったんだろうな
魏にとっての邪馬台国は
漢>倭>奴国 ではなくて、漢の「倭奴国」王とする説がある
“奴”を助詞とみて「倭の国」だと
それに加えて、「倭奴国」の3文字全てが固有名詞として認識し、最後に王を付けたのだと
中国が朝貢国を冊封する場合、「○○王」と呼称するのが常で、「○○国王」と“国”の字は付けない
kingとlexの違いと言うか、突厥王とかそんな風に呼ぶのであって、突厥国王などとは呼ばない
だから、漢の「倭のクニ」王なのではないかとする説がある
倭についてはじめて書かれた正史は、
後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、
王充が著した『論衡』(ろんこう)である。
『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、
『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と
関連あるとしている。
この当時、中国では倭について、
このような二つの理解があったことを示している。
Rexだった
>>70 ただ、西暦57年は
完全に上古音の時代。
奴国はナ国と読む。
>73
当時の日本が助詞の“の”を“ナ”と発音したのかも知れない
おきなわ=うちなー なんだからな沖縄の方言では
>>69 そりゃ、そうだろうな。
纏向遺跡が邪馬台国の首都なら
とんでもない大国に見えたんだろう?
魏の洛陽に匹敵する規模だもん。
ライバルの呉や蜀よりも、よほどの大都市の首都だよ、纏向は。
「城柵を設けている」と書いているとおり
ある程度防御設備はあったんだろうな
瑞(水)垣の宮だったのかも知れんが巻向は
77 :
明日の風:2009/03/23(月) 06:34:47
奴は上古音ではトまたはドと発音していたのです。
奴をナと発音していたとの説は、日本の邪馬台国研究の中から派生した
奇説です。ナと発音していた事実はありません。
基本を間違えているから、邪馬台国問題はとけないのです。
78 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 07:15:23
>>71 別に二つの理解というわけではないだろう。漢書地理誌も論衡も同じ倭に
ついて書いているとみて問題はない。論衡は周に鬯草を献じたとするだけ
だ。鬯草は沖縄に自生しているそうだよ。
79 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 07:43:31
専門家が見れば呉音(南方方言)ナで韻をふんでいるか、
漢音(北方方言)ト、ドで韻をふんでいるか、わかるだろうから、
一番最初に倭が登場した漢書地理史の韻がどっちで踏んでいるかで
予想できそうだ。(ただし漢書地理史には奴の字はない、漢時代
どちらの方言を漢中央が使っていたか判れば、金印の奴の字の読み方がわかる。)
80 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:37:35
81 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 19:15:59
単純な質問
邪馬台国の時代、日本の人口どのくらい。
日本にはまだ人は住んでいませんでした。
南蛮・東夷の国でした。
83 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 23:29:02
>>83 その数字にはカラクリがあるんだよ。
それは、明治以降、定説のように言われてきた
紀元前2300年前に農耕が始まった説
によればだ。
でも、この説は近年ゆるぎつつあるし、
そもそも、魏志倭人伝の記述から考えて
そんなに人口が少ないはずは無いわけで。
85 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 23:52:17
>>84 >魏志倭人伝の記述から考えて
じゃあ「5万戸」とか「9万戸」と言うのはどれくらいの人口なのかな?w
奴婢千人 がいる集落って集落全体で何人ぐらい?
現在言われているのが、吉野ヶ里で人口1000人前後(積算根拠は甕棺の数等)
周辺集落をあわせても5000人程度と言うのが常識的なところ。
人口の記述なんか倭人伝の疑わしい物の最たるもんだろうにwwwww
>>85 つーか、魏志倭人伝に記載されている戸数で
少なくとも、所在地が確定的な
北九州にあったであろう数カ国については
その戸数比は割りと正しいんだよ。
だから、魏志倭人伝の戸数は適当に書かれたものとは思えない。
87 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 00:24:11
>>86 あくまで「比」だろうが?w
今問題にしてるのは絶対数だぞ?
>>87 比は凄い重要。
まったく適当だったら、戸数比だって出鱈目だろうが。
しかし、少なくとも、戸数比はかなり正しいということは
一応、ちゃんと戸数を調べていたんだろう?
しかも、魏側の待遇が、他の国よりも格段に好待遇。
纏向遺跡の規模は、当時の東アジア、中央アジアの中では
魏の洛陽に継ぐ巨大さ。
89 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 01:08:49
>>88 ああ、もう分からんやっちゃな!
比がほぼ正確だとして
>>83提示の数字がどう変わるんだ?
ったく、ヨコ入れてくるのはかまわないが少しは話の流れ把握しろよ馬鹿。
それに纏向は殆どが高床式住居で国内で極めて異例。
人口推定の材料には成り難い。
>>89
あの戸数で考えると
>>83の人口ではとてもじゃないけど
収まらないということ。
91 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 01:14:24
>>90 はあ?アホか?
比はあくまで比。
何処から絶対数出してくるんだ?
積算根拠出せよ。
92 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 03:45:16
93 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 04:49:48
94 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 04:59:59
>正気の九州派
この板じゃあ殆ど絶滅危惧種じゃあ…
95 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 07:34:38
>>92 吉野ヶ里はたまたまそこが破壊されず残っていたというだけだろ。
当時は、人が住むに適したところは、どこにでも同じように住んでいたということ
を考えないといかんだろう。
対馬国千戸、一支国三千戸、末盧国四千戸は、それぞれそのぐらいなければ独立の
国と呼ばれるはずはない。常識的なところだろう。となれば、伊都国一万(魏略)、
奴国二万も問題なさそうだ。倭人伝をそのまま信じて、素直に考えてみるべきだよ。
使者がいいかげんなことを書く理由はない。
96 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 07:55:14
現在、優に13億人を越える中国も、三国時代は7百数十万人。
現在の200分の1程度。
1億2000万人の200分の1は、60万人。
だから、弥生末期の日本の人口60万人は妥当なところか。
となると、北部九州の4万人も妥当と考えられる。
倭人伝の戸数はやっぱり過大だろうな。
壱岐の3,000戸というのは、一戸当たり5人として15,000人になり、
奴国の20,000戸は、10万人になる。
>>96 三国時代の中国は、混乱期だから、ちゃんとした戸籍が取れない時代だから
7百数十万人ってことはない。
秦の時代の戸籍調査では2000万人、
漢の時代の戸籍調査では6000万人。
あと、日本と中国の人口比は、現在は1:10だが
これは清の時代に中国でトウモロコシの導入で増産したのが切欠で
日本の戦国時代くらいまでは、日本と中国の人口比は、2:9くらい。
だから、魏志倭人伝の時代の日本の戸数が
過大値とは思わない。
98 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:30:34
高床式はだいたいが倉庫だから人は住んでない。
市場や物見楼やら廃屋やらいろいろ数えれば数は多くなる。
人が住んでない建物も数に入れたと考えるのが普通。
99 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:31:54
三国時代に人口が激減したのは、
戦乱による死者もあるだろうが何よりも民衆が離散して戸籍に載せられなかったためだ。
よって700万人てのは実数1500万人ぐらいだったと仮定してみる。
で、日本と中国の人口比を1:10とするなら日本の人口は150万人。
これを最大値とする。
ところが当時、そもそも戸籍調査などという概念があったかどうかもアヤシイ。
魏使「あのクニは人口何人?」
応接者「えーと、5万す(知らんけどテキトーに答えたろ)」
ぐらいのノリだったかもな。
身分の高い人間が、地べたに住まないでしょうにw
身分の高い人は、高床式の建物に住む。
>>99 日本と中国の人口比が、1:10になったのは最近だよ。
たしか、西暦1600年で、中国5500万人、日本1200万人。
むろん、この両方とも隠れた人口があったわけで。
戸籍をとっていたかどうかだけど、
とっていたような気がする。
だからこそ、魏志倭人伝の戸数比って、割と正確なんでしょう?
102 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 10:00:34
>>100 なにも知らないんですね。
もちろん身分の高い人はもちろん高床式建物の住みますよ。
論外だと思ったから省いただけ。
その他の規模のちいさな高床式の建物は、穀物を保管するために
沢山あったんですよ。
103 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 10:12:12
湿気の多い土地で竪穴は辛い。
104 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:05:19
竪穴といっても地面をちょっと掘って掘っ立て柱に
屋根は藁や茅葺きの簡単な家じゃないのかな。
以外と夏は涼しく、冬は暖かいじゃないの?
地面に藁ひいたり、むしろ引いたり竹をひいたりして、寝床を作って。
倭人伝には部屋があって父母兄弟別々に寝るって書いてあるから、
簡単な仕切りの部屋があったんじゃないかな。
だいたい中世まで土間主流の家だったんですから。
105 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:11:39
>>103 たしかに竪穴式住居では湿気が問題になる。
住居跡がある遺跡などに行けばわかるけど
たいてい丘陵地帯のちょっと高台にあるのが多い。
蛇足
高台のちょっと乾燥したところに住居を構えたいという欲求は
今でもありそう。
XX台ニュータウンとか
間違っても沼の底ニュータウンでは客は来ないだろう。
DNAレベルですり込まれているのかもしれない。
纒向で遺構が発見されるのは微高地だよね。
太田微高地とか。それでも台風来たら氾濫したと思う。
奈良時代さえ高瀬川の氾濫が問題になっているし。
その代わり纒向大溝のような治水も発達している。
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら
魏志倭人伝の記述に出てくる歴史的出来事や
記紀に出てくる謎などが、
おおかた解明できるんだがな。
卑弥呼の死の直前の狗奴国との戦いの謎とか
卑弥呼が共立された理由や、それ以前の倭国大乱の真相、
倭国大乱前は一人の男王の時代が数十年続いていたとか、
欠史八代の謎とか、なぜ、神武と崇神という二人の初代天皇がいるのかとか
108 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 14:56:11
高床式の建物では冬は寒くてしょうがない。
高床式住居は夏場だけ住んだんだよ。
人口を知るには冬場に住んだ竪穴式だけを数えればいいんだ。
109 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:00:21
レスコハウスは床と地面を接地させて冬暖かく夏は涼しい省エネ住宅って宣伝しているね。
110 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:02:12
纏向には住居跡がない。
邪馬台国である筈が無い。www
111 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 19:21:31
バカばっかり集まってもなぁ・・
113 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 23:46:26
114 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 03:21:59
>>110 本当こう言うのを見るとこの板の九州説って
実は単なる「アンチ畿内説」のアホが殆どじゃないかと思うw
ひょっとしてサイキバ君かな?www
何で住居跡(たぶん竪穴式住居跡のことと思うが)がないと邪馬台国で無いのか?
そもそも9万戸なる数字がどれだけ誇張を含むかしれんが
一つの集落の人口とはとても思えないw
加えて「婢千人を以て自ら侍せしむ」と言う表記は
その卑弥呼に仕えていた婢を何がしかの祭祀の専従者
少なくとも一般の奴婢・下戸とは違う者達とするのなら
それに合致する遺跡は纏向以外に無い。
まあ大型の環濠集落の中の人間全てを卑弥呼に仕える婢とみなせば
クリアできるかもしれんが・・・
アホの九州説論者は纏向に竪穴式住居跡が殆ど無いのを
後先考えず飛びつくが
お前ら少しは学習しろよと・・・。
115 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 06:31:29
昨日、テレビで関東日本王国とかいうのを流していたな。古墳や遺物をみると、関東に
大和以上の王権が存在したと考えられるとか。日本中にかなりの人間が住んでいた、個
別にみれば、それぞれの地域にかなりの権力者がいたということだろう。
現代において遺跡が発見されているのは、千分の一、万分の一にすぎないのではないか。
合致する遺跡は纏向以外に無いなどというのは、見当違いだろうな。どこの地域だって
権力者はその程度のものは造っていた、壊されたか、まだ眠っているかだと考えるべきだ
ろう。纏向が邪馬台国と結びつくなどという証拠は何もないよ。
116 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 07:45:18
「特定」できる証拠はないね。
現状では「候補」と成りうる程度のものだと思いますよ。
他の候補は見当たらないけど。
三世紀の関東なら倭人とアイヌに明瞭な区別があったかどうかも
疑いんじゃないかな。
>>115 邪馬台国九州説が下火だから
それまで九州説を唱えていた学者らが
畿内説に降参して、
邪馬台国論争とは別に
関東独立王国説を唱えだしたとか何とか聞いた。
掘っても掘っても夢ばかり。
120 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 12:41:45
畿内説論者って、何考えているのかな。
畿内中心に文化が全国に広まったとでも思っているのかな。
馬と鉄の文化は何処から入ってきたと思ってるんだろ。
鉄の武器が一番みつかるのは北部九州だ。
先進文化の馬と鉄を先に持った国々が他国を制圧して大きな国に成長してきたという
事実は畿内論者だって否定はしないよね。
あれだけ、戦いの跡のある九州を差し置いて、畿内からいきなりぽっかり
強い王権ができると思う?
畿内に民家の跡が少なく、大型住居が多いっていうのは、
中央集権の官庁ばかりだからだ。
地方の物資や労力を集める都だからだ。
そうやって豪族たちは、裕福になっていったんだよ。
また古墳も大型が多いのはやはり日本国をまとめた王の財力が大きかったから。
国が出来る過程はいきなり、大きな王権がぽっかり出来るはずない。
小さかった状態から序々に大きくなる。
そういう過程が畿内には見られる?
おそらく九州の豪族の縁者が2.3世紀から東にいろんな国を作っていったんだよ。
それを纏めたのが畿内。
だから、纏向の纏は纏めた(まとめた)という意味が隠されているんだよ。
121 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:11:07
戦国時代の京都に日本で一番武器があったと思うのか?
武器が必要なのは戦いの最前線 九州がいかに危険で
安定していなかったという物証だよ。大陸の脅威と狗奴国な
122 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:24:07
武器もロクになしに三世紀に畿内から九州を治められると
思ってる学術レベルは素晴らしい!
123 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:27:14
>>121 頭の中で妄想しかしてないんじゃ、
いつまでたっても日本史は闇の中、神話の世界だよ。
だから奈良時代からしかわからない。
1200年の歴史しかわからないんだよ。
人生長く生きて100年。
きんさんぎんさんが縦にならんで12人だけだよ。
124 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:27:16
戦いで倭国を併合したとどこに書かれていました?
魏志倭人伝のどこにそんなことが??教えてくださいエロい人
125 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:30:22
纏向に匹敵する遺跡が無い九州が何を言ってもね
126 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:34:19
アイヌ王権かもよ?
>>122 畿内説の人にも
当時畿内が九州を統治していたと考える人は、
電波以外には皆無なのでは?
邪馬台国は倭人の国の中の一つなんだから。(ただしかなり大きい)
128 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:40:14
>>124 だから倭国併合にあたって大きな戦いがなく、あっても
陰謀と裏切りの上層内部の動きだけですんだのは、
それだけ期が熟していたからだよ。
いきなり大きな王権ができるわけないでしょう。
129 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:41:32
では九州島にあったとされる邪馬台国ってどこ?
明確な場所も遺跡も発見されていないのではないのかい?
同じ土俵にも乗っていないわけで
130 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:47:17
じゃ三世紀の遺跡はみんな邪馬台国に立候補しよう!
131 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:51:20
あ、アメリカに存在したことにしたら良いかも!
132 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:58:34
蓋を開けてみたら「倭人伝に書かれていた狗奴国とは実は九州全土のことでした」とかならんことを祈るw
133 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:59:24
>>120 >先進文化の馬と鉄を先に持った国々が他国を制圧して
>大きな国に成長してきたという事実
はて?
そんな事実ありましたっけ?
そもそも、鉄と馬、そんな時代が開くもの二つを同時に並べられても・・・
脳内戦記は困りますよお客さんw
>畿内に民家の跡が少なく、大型住居が多いっていうのは
はあ?
何のことでしょうか?
纏向の高床式建物は殆どは5m四方、2m四方で
柱の太さから平屋建てと言われているわけですが・・・?
ア ナ タ 馬 鹿 で す か ?
134 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:02:28
>>133 ホントに詭弁家だよね。
詭弁で押し通そうとする。
揚げ足取りしかしない。
135 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:03:01
そうだそうだ、日本民族主義の断固たる証拠は畿内になきゃ駄目なんだ!
136 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:11:01
2.3世紀で倭国はあの状態ですよ。
狗奴国と戦っているでしょう?
狗奴国って何処?
まさか吉野熊野の熊野地方?お笑いだね。
137 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:12:14
>>134 うーん、デタラメ電波飛ばしている馬鹿に向かって
「おまえそりゃデタラメだ」
と言うのが詭弁と言われてもねえ(苦笑
そもそも
>>120の言いたい事がそもそも良く分からん。
つまり纏向の権力のバックボーンは九州にあったと言うことなのだろうか・・・?
おーいドラ○もん、ホンヤクコンニュク 出しておくれよう(棒読み
138 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:12:52
他の九州論者の足を引っ張るような発言は慎みたまえ。
139 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:13:27
黙れ黙れ黙れ、万世一系の我が国体を何とする乎っ
140 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:18:16
九州説を支持する輩は共産主義者に決まっとる!
不逞の輩め、この経済危機の時代に何を言うか!
サイキバ君、無理して長文なんか書くから・・・('A`)
142 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:23:21
仮に熊本近辺に狗奴国があったとする、その場合都が畿内だろうが九州だろうが
郡使がいる伊都国からみれば狗奴国は南になるわけです。
143 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:26:45
>>141 私のこと?
サイキバ君て誰のこと?
サイキバ君に失礼だから、別人だって断っておくね。
それにしても畿内説、必死だね、笑っちゃう。
144 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:30:47
>>143 で?邪馬台国に該当する九州島の遺跡ってどこなの?ねえ?
145 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:30:58
>>143 「 サイキバ君 」 と言う呼称は既に個人名を超え
カテゴリーを表現する物と言う話もw
146 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:32:01
倭人伝はコミンテルンの陰謀に決まっとる!
天皇陛下万歳!
天皇陛下万歳!
君が代に直立不動せよ!
147 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:39:21
何でもかんでもコミンテルンが悪いのだ!
皇室の祖先の実証的な研究などもってのほかだ。
日本民族たるもの素直な気持ちで神話に向き合わなきゃならんのだ。
考古学など非国民のやるものだ。 カッ
148 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:40:27
机上の空論ばかりで比較になる物証のない九州説の人たちをみていると徳川埋蔵金を思い出してしまう
149 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:43:03
倭人伝の内容は無視するのだ。日本民族たるもの、ただひたすらに
天皇陛下を伏し拝め!
150 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:43:27
>>144 催促されたってまだわからない。
九州北部だね。
素朴な質問、なんで九州に島を付けるの?
151 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:45:04
冊封体制などはコミンテルンの捏造に決まっとる!
嗚呼、万邦無比の我が国体!
日本はとても偉い国!
152 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:47:15
まあ 万世一系・神武創業 なんて物をかたくなに信じているのは
もっぱら九州説(の中のチョッとアレ)の人達なのが現実ですがw
153 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:47:24
>>150わかるわけないよね だってないんだから♪
154 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:05:00
三世紀の中国から冊封受けた国が畿内にあって倭人伝の通りで、
北九州を丸ごと支配してて東北は手付かずとか有り得ないな。
155 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:30:40
王権神授説を卒業出来ない国。
156 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:49:57
157 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:02:37
>>127 その為の「緩やかな首長連合です」
ノ ∧ /) ∧
彡 ノW \从/V W \ ミ
( ノ | ノ \)
∩V 、、 | >V7
(eLL/ ̄ ̄\/ L/ ̄ ̄\┘/3)
(┗( )⌒( )┛/
~| \__/ | \__/ |~
爻 < | ; 爻
~爻 \_/ _, 爻~
~爻__/⌒ ̄ ̄ ̄~~ヽ_ 爻~
/ ー ̄ ̄\_ ̄\
_一‘ < ̄ ̄\\\J
<\ ー ̄ ̄ヽ_ヽJ  ̄\_
\ _ニニニヽ ) ~\
\ _/⌒|\ ヽ_~~ ~⌒\_
__/~ V \_| ~\_
158 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:07:06
畿内の古墳はせいぜい遡っても4世紀まで。
それも小さい規模のもの。
大きな規模の古墳は8世紀、過去の天皇陵を
作った。
キトラ古墳や高松塚古墳は8世紀でこれは古墳こそ小さいけれど、
天皇の一族の墓で、藤原京からの時代に沿った古墳。
九州の古墳は紀元前から始まり、出雲、南九州、中国地方に広がり、畿内中部関東へ。
関東にある古墳は藤原京の日本国に帰順する前の地方豪族の古墳で、
5世紀から8世紀の間で比較的短期間のもの。
159 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:09:20
>>158 >畿内の古墳はせいぜい遡っても4世紀まで。
>九州の古墳は紀元前から始まり、
ハイハイ、根拠を述べましょうねw
160 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:18:16
資本主義は巻向を支持する!
161 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:21:21
橋下改革で関西を日本民族資本主義で圧倒せよ!
162 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:25:40
九州を支持する奴らはコミンテルンの手先だ! ウガー
163 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:18:44
絶望した!
畿内説が優勢な今日の学会の情勢に絶望した!
164 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:26:18
邪馬台国に見合う遺跡もない九州がいくら言っても説得力の欠片もないね
165 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:40:43
掘っ建て小屋が幾つか見つかったらそれで決着が付くと思ってるのが畿内説のレベル。
166 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:44:54
>>158 >畿内の古墳はせいぜい遡っても4世紀まで。
>九州の古墳は紀元前から始まり、
早く根拠を教えてくれ!
正直、どちらか一つならともかく
両方を同時に成り立たせるとなると
この板で相当九州説の電波を見てきた俺でも想像できないw
どんなウルトラCなんだ?www
167 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:47:24
問題は王朝の大きさじゃなくて、倭人伝でいう邪馬台国は何処か?
ということですから。
畿内説、説得力なし。
たまには畿内説論者は根拠だして尤もと思う説を出してごらん?
今まで聞いたことない。
最初から方角を違えた論なんだから、説得力ないのは仕方ないか・・・。
168 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:57:09
つうか畿内説と言うのは私見だが
「邪馬台国なんて畿内ヤマトをモデルにしたほぼフィクション」
と言うに近い立場だからw
じゃあ九州説は倭人伝に完全合致する遺跡でももってこいって話w
それができなければ、せめて他説に対し絶対的なアドバンテージを持つ
文献の解釈を編み出してみろと・・・
それすらできないのに倭人伝との齟齬をもって畿内説の否定って
順序が違うだろ馬鹿・・・って話www
169 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:00:35
>>163 畿内説が優勢な学会とは創価学会ですか。
170 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:04:25
邪馬台国とは北部九州一帯のことです、
倭人伝に完全合致する遺跡は九州には数多くあります。
171 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:04:40
人に根拠出せ出せと始終わめいているのが畿内説。
要求ばかりしないで、たまには畿内王朝がどのように成立したか順序だてて説明してごらん。
172 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:15:57
はっきり言うと日本主義史観で古代史を客観的に評価するのは無理だろ。
173 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:19:13
>人に根拠出せ出せと始終わめいているのが畿内説。
ちゃっちい小規模遺跡なら畿内の小畑を耕せばいくらでも出てきますが?
問題は邪馬台国七万戸に匹敵する遺跡だけでも出しなさい→出せませんの
九州論者の現状と妄想の甚だしさだろう。成立云々言う前にせめて比定地を一つに
まとめてくださいね?「あったはずだろう遺跡」と纏向遺跡じゃ議論になりもしないわけで
174 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:24:14
日本教の信徒にとって日本は巨人軍の如く永遠不滅の存在である
から、国家や民族は歴史的な存在であってはならないのである。
天地開闢の瞬間から日本人は日本人であらねばならない宿命を
背負っているのである!
175 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:41:06
>>171 頭冷やせよ馬鹿。
畿内王朝成立の説明が必要とするのなら
そりゃ「九州王朝説」あたりに対してだろアホw
今日畿内説の多くは纏向を中心に考えているわけで
具体的な遺跡、ピンポイントで比定地を絞れない九州説ごときに
「要求ばかりしないで」なんて言われる筋合いござんせんwww
実際九州説にしたって具体的に遺跡まで出せば倭人伝との齟齬も出てくる。
今度、奥野正男の肝いりで「邪馬台国を考える会(仮称)」と言うのが
吉野ヶ里=邪馬台国 を機軸にできるらしいが
じゃあ吉野ヶ里の何処に径百歩の奴婢百人の殉葬を伴った卑弥呼の墓がありますか?って話で
北墳丘墓と近くの列埋葬跡とでもしますか?
(もっとも時代が紀元前弥生中期で時代のズレは箸墓どころじゃないw)
卑弥呼に仕えた婢千人は内郭部に、それとも外郭部に押し込めますか?w
吉野ヶ里の周辺、松原、志波屋、野田・・・の周辺集落をあわせてもその人口9万戸って無理だろwww
結局、具体的な提示をせずに現実と文献の齟齬を解消する苦労を回避した
一種の モラトリアム なんだよなw
甘えんなよカスwww
176 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:07:10
纏向遺跡、邪馬台国の候補としてはいい感じの出土物がたくさん出ていますね。
しかし、方向だけなんですよね。実に惜しい。
177 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:08:44
当時の倭人の認識では倭国は縦長
178 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:14:40
>>175 あはは、怒ってる怒ってる。
wはあせりの笑。
意味わかんないし。
もっと落ち着いてわかりやすく書いて。
日本人なら横文字使うな!
179 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:21:15
笑ってごまかすタイプだな
180 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:28:24
ケンカなどしようとは思ってないよ。
意味わかんないんだもの、ごまかすも何も。
もっと判りやすく書いてと言ってるだけ。
乱暴な言葉を書いているから、怒ってるんだなーって思った。
wが多くつくほど怒ってる証拠。
いつも要求ばかりするから、まともに答えたくなくなるんだよ。
181 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:29:15
>>178 横文字って・・・「ピンポイント」「モラトリアム」程度だがお前大丈夫か?
まあ所詮、脳内邪馬台国ならそりゃ文献との矛盾も何も無くて済むわなw
182 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:30:00
方向さえ合っていれば、完璧なのに・・惜しい。実に惜しい。畿内説。
しかし、陳寿はもちろん、帯方郡の使者も、伊都国の案内人も
東と南を間違えることなどありえないし。実に惜しいですね。
185 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:13:17
移動の日数を間違っていないのが幸いです
水行十日陸行一月。
186 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:58:02
畿内は弥生末期に銅鐸が消えてるよね。どこの勢力に征服されたの?
187 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 23:09:17
倭人てのは河童とアイヌに言われていたんだね、きっと。
こうやの宮のご神体の人形見て。
頭に白いお皿のせて、腰蓑まいて、全身赤茶に塗りたくった裸の
南方人風の人形を。
おしゃれな腕輪をしている。
多分刺青は何度も色を上塗りしたので、消えてしまったとみえる。
倭人伝の倭人の体に朱丹を塗った姿を想像させる。
アイヌ語で河童はミツチ、ミツチは蛟龍、倭人は蛟龍を畏敬しているから、転じて
河童。
188 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 00:22:46
日本教の自分探しはまだまだ続きます!
189 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 00:44:40
190 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 01:00:29
吉野ヶ里が邪馬台国? 無理だろ。
191 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 01:19:17
畿内説論者って何でそんなに高圧的で性格歪んでるんですか?
「南」に水行10日陸行1月
この「南」一文字で九州説があるようなもんだからな。
でも九州説も唐津が末盧国で、前原が伊都国、奴国が福岡だったら、
方角を東に変えてるんだよね、方角を東に変えたら元も子もないじゃん。
実は邪馬台国はDQN女王様の国で嫌われてたから国家連合の中で
一つだけ離れて九州からずっと遠くにあったとか。
194 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 01:42:37
陳寿は何を参考にして倭国の文章を書いたの?
>>194 魏略のほうでしょう?
あと、魏の公文書みたいなのに、
倭国に使者が行っていた話があったんじゃないの?
奴国は福岡で合ってるんじゃない。
末盧国から北東に進んでる訳だから、
そのまま水行10日陸行1月で、無事纏向に到着。
197 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:11:04
>>194 そりゃあ、あちらからやって来た人が書いた報告書のようなものだろうね。
倭人伝を読むと、いろんなことが書かれている。
想像でこんだけ詳しいことは書けないだろうな。
たとえば、壱岐と対馬という二つの島を経て倭国にたどり着くとか。
どんな服装をしていて、どんなものを食べているとか。
どんな植物、あるいは動物がいるかとか。
葬式の様子も書かれている。墓のことも書かれている。
身分の高い人は四、五人、身分の低い人でも二、三人の妻がいるとか。
法律みたいなことも書かれている。軽い罪を犯せば妻子を没収。
重い罪を犯すと、一族を滅ぼすとか。
政治的なことも書かれている。一大率とか。
よく物議をかもす国と国の間の距離やいくつかの国の戸数も書かれている。
倭人伝は、邪馬台国問題の般若心経のようなものだから、覚えるくらい
読まないとね。
198 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 06:20:21
北九州から投馬国経由して船で直行だろ。何で陸を1カ月も歩くんだよ。
199 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 06:34:22
邪馬台国九州説には無理があるよね。
やはり明の頃まで中国は日本を
「南に伸びている長い島」と誤解していたのは、
彼らの残した地図から明らか。
まして倭人伝の時代には、東を南と誤記した、ということで
ほぼ解決できる。
南を東と置き換えて倭人伝通りに距離を測ると、
邪馬台国はちょうど大和盆地になる。
九州王朝説とか邪馬台国九州説論者は
歴史とロマンを混合している。
ほとんど九州の連中が後押ししてるんだよなw
200 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 06:35:46
201 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:15:26
>>199 >中国は日本を「南に伸びている長い島」と誤解していたのは、彼らの残した地図から明らか。
彼らが残したわけではない。14世紀頃、朝鮮半島でつくられた地図だろ。同じころに正しい
配置の地図もつくられている。
だいたい、考えてもみろ。朝鮮の人たちは古くから出雲や福井あたりと交易もしているんだ。
日本列島の形は良く分かっている。倭の人々も列島各地を舟で行き来している。魏の使者一行
はそのような人たちからも情報を得ているにきまっている。列島が九州から東北に伸びている
ことを間違えるはずはないよ。
202 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:17:55
>>199 じゃ北九州の不弥国から船出して南に投馬国というのは西にあったと
受け止めてよろしいですね?
203 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:21:14
>>192 >九州説も唐津が末盧国で、前原が伊都国、奴国が福岡だったら、
>方角を東に変えてるんだよね、方角を東に変えたら元も子もないじゃん。
おおせのとおり。そんな九州説はだめなんだ。
伊都国、奴国も倭人伝どおりに行かなければいかんのだよ。伊都国は佐賀平野。
それに気づけば、倭人伝そのままで何の疑問もなく読める。
最近は南九州説が、倭人伝の行程記事を改ざんしない唯一の説だと気づかれてきたよ。
204 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:22:14
>>200 ということは、奥野正男さんの年代観も、高島氏と同じなんだろうな。
吉野ヶ里は、邪馬台国時代に存続していたというわけだ。
意外に多くの考古学者が集まったりして。
205 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:23:16
>>202 不弥国って宇美町だろ。港がないじゃん?
206 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:25:48
東京といったら内堀から船出せなゃならんのか?
207 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:28:32
東京は海に面しているけど、宇美は海に面していない。
宇美は海からは遠いぞ。何で伊都国や奴国の港からでなかったんだよ。
208 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:30:45
内堀から海見えるのか。皇居は港区じゃねえぞ?
210 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 10:02:36
仕事で海面上昇が地形に及ぼす被害を研究するチームにいます。
当時海面が今より2.5〜3m程度高かったため吉野ヶ里からほんの
数キロ先のところに海があった。当時からどれくらいの地形の変化
があったか調べようがないが、参考までに今の地形に当てはめて
みますと吉野ヶ里付近がちょうど砂時計を横に倒した時の首の部分
にあたり西と東を分断する軍事・交通の要衝のようなイメージをうけます
正直言って邪馬台国という感じではないですね。個人的には伊都国に
比定したいですが、魏志に書かれた方向、距離、戸数から見て不彌国が
一番シックリくるかも。
参考までに重要そうな場所の海面を3m上昇させてみましたが
佐賀平野や筑後川下流域の形状はずいぶん変化し狭くなりますが
その他の地域はほぼ現在の海岸線と同じと考えてもいいようです。
211 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:16:58
吉野ヶ里ってのは当時は南に向かって有明湾に接してて、
対岸が阿蘇山だったのね。ふーん。
阿蘇山麓の西部、福岡南部から熊本北部が古地名で山門(ヤマト)で、
阿蘇山はカルデラが広い平野で高天原という名には余りに相応しい。
213 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:27:30
>>210 >参考までに重要そうな場所の海面を3m上昇させてみましたが
大阪でもやってみ。
門真市や大東市・東大阪市のあたり、どうなる?
214 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:59:21
>>210 確かにそれはよく言われることで、吉野ヶ里は港町だったとも言われる。
しかし、弥生時代の遺跡の存在も考えるべきで、たとえば、諸富町には
弥生時代の港町だったと思われる遺跡がある。
このあたりが海岸線だった可能性もあるのではないかと思う。
>>212 古代の場合は、現在の県境は意味を持たない。
たとえば、八女の場合は、むしろ南部の影響を受けているような気がする。
つーか、なんで2ちゃんねるでは
邪馬台国九州説が人気なんだ?
邪馬台国九州説の人って、何に拘っているんだ?
教えて。
>>216 じゃ、なんで、考古学や歴史学の学会や
マスコミの間では、邪馬台国畿内説でほぼ決まりなのに
アマチュアの世界では、邪馬台国九州説が若干だけ強いのか?
その理由は、おそらく、小説の世界なのでは
ロマンがあるんでしょう?邪馬台国九州説は。
>>212 高天原は葛城地方のこと。
九州ではない。
この葛城地方から、九州南部の高千穂地方に派遣されたのが
ニニギ命。
畿内説が議論に勝てなくて多数決に逃げようとしてますよ?
弥生後期は今の筑後川の川幅が広くて湾だったようだね。
阿蘇山麓も地理的に今よりも際立った存在感のある土地だった。
>>219 もう、唖然...
多数決だけじゃなくて、理論的にも、畿内説だろうが...
222 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:02:09
>>213 場所によって浅瀬です。文字での説明は難しいですが
茨木という場所から河川3つがくっつくと思っていただければよいと思います
>>214 そうかもしれませんね。たしかに現在の海抜3m付近に合致はしています
>>216 これは少しやりすぎかと; 何度計測しても5mアップ以上ですが・・・
223 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 18:40:46
>>221 畿内説の学者の理論的は支離滅裂。
一般人には理解できましぇ〜ん
224 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:03:37
つうか「数の力によって醸し出された空気」と言うなら一昔前の九州説がまさにそれw
(市井のマニアから小説、漫画まで)
いや、今でも一般人にアンケート調査すれば九州説の方が人気あるんじゃないのかな?
畿内説支持している俺ですら
邪馬台国は九州にあったほうがロマンチックだと思うものwwwww
小説とか書こうと思ったら
邪馬台国九州説のほうがロマンがあるよ。
壱与の時代で邪馬台国の消息が途絶えたのは三世紀末頃から
中国が政情不安で支配力が日本に及ばなくなって冊封体制が
崩れたから。この時期に倭国の西高東低の政治構造が崩れて
中心が畿内に移動した。畿内大和を中心にした古墳文化が
始まって、畿内の銅鐸文化が廃れて西日本の好戦性の高い
武器文化が畿内に広まっている。
この時期の「中心の移動」が単に権力の移動だけではなく
人間の移動でもあったとするのが九州邪馬台国東遷説だな。
突拍子もない話では決してないわけ。
228 :
226:2009/03/26(木) 19:27:28
229 :
226:2009/03/26(木) 19:29:38
230 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:37:09
>>226 和辻哲郎がその基本アイデアをぶち上げたのは大正か昭和初期の話。
当然、戦後つか80年代以降の山陰の荒神谷やら加茂岩倉も計算に入っていないし
銅鐸も詳しく分類すればその埋納時期に時間のバラつきがあるのが分かってきている。
つまりある日一斉に埋納されたわけじゃないわけw
山陰のに至っては弥生中期で畿内より先に埋納されているw
もうそんなモンで東遷説を言っているのは2ちゃんみたいなネットか
某y・b先生ぐらいだろうにwww
加えて
>>226の言う「西日本の好戦性の高い武器文化」と言うのが良く分からないwwwwwww
231 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:45:33
そんな細部の揚げ足取りしてないで、畿内説の全体的な見通しくらい上げて見ろよ。
邪馬台国は月の裏側にでもあったのか?
232 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:52:51
>>231 邪馬台国の中心は纏向。
その根拠は各地の埋葬文化のキメラの如き前方後円墳や
高い頻度で出土する搬入土器から広範な地域でとの交流が想定でき
遺跡の規模もあいまって大乱の末各地の王に共立された女王の居す都に相応しい・・・と言う蓋然性。
で、九州世中の場合、何処の遺跡でその遺跡を推す根拠は?
きちんと応えてもらおうか?
月の裏側に逃げるんじゃねえぞカスwww
233 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:54:27
新しい遺跡に飛びついてミーハーがキャーキャーやってるのとは
違うと?
234 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:59:37
古墳文化が盛んになったのは王権が九州から畿内に移動した後だから
九州に古墳が少ないのは畿内説優位の傍証でめなんでもないんだぞ?
235 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:02:35
>>231 >>232の質問にきちんと答えろよ。
「遺跡」と「それを推す根拠」なw
ギャアギャア喚くのも、せめて同じ土俵に上がってから文句言えよw
236 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:06:43
まあ、少なくとも、現在の皇室につながる
畿内王朝が誕生したのは紀元前1世紀。
その時代に出雲国譲りが行われ、畿内王朝による全国統一が完成した。
その時の畿内王朝の王は、火明命。
通称、天照国照彦といい、天津と国津の全ての支配者という意味だ。
この人物は、畿内王朝の始祖アマテルとして、長い間、崇拝されていた。
天武天皇が古事記を編纂するまではw
ちなみに、この火明命は、出雲国譲りした後
各地に司令官をおくる。
その中でも熊襲の抵抗が激しい南九州には
兄弟のニニギ命をおくる。(ニニギ命の天孫降臨)
彼こそ、神武天皇の曽祖父であるニニギ命である。
238 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:12:13
>>235 幾らでもある遺跡の一つを当てずっぽうで邪馬台国だって言い張られても
説得力ないわ。
239 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:14:56
>>238 で、九州の遺跡で説得力のあるものとはどれになるのかな?
ケチレスつけていないでちんと答えてみろよアホw
ホント情けない奴だなwww
240 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:15:52
>>236 筑後川挟んでるから吉野ヶ里と諸富が対岸だったのは間違いなかろう。
不正解かも知らんが参考程度にはなる。
241 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:16:46
242 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:21:32
歴史研究の名をかたったイデオロギー形成されると迷惑だな〜
243 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:21:49
>>241 はいはい、負け犬の遠吼えする暇があったら
「遺跡」 と 「それを推す根拠」
について具体的に書いてみる努力をしてみようね低脳君w
244 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:31:59
畿内派は醜いのぅ。
阿蘇山はカルデラの西が切り欠きになってて正に山門そのものだ。
245 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:42:20
>>237 >まあ、少なくとも、現在の皇室につながる
>畿内王朝が誕生したのは紀元前1世紀。
根拠のない極右の皇国史観。
畿内王朝の誕生は8世紀初頭だww。
漢からもらった金印、魏からもらった金印、いったいどこに押したんだ?
当時まだ紙の出来る前だし、竹簡も木簡も登場するのはだいぶ後。
卑弥呼に拝謁にきたやつの尻にでもペタッと押したのか?
押印された布切れも発見されてないし・・・
結局
>>231の九州説論者は銅鐸云々の東遷説のお話をきれいに否定されて脊髄反射でカキコw
で、威勢良く言ったは良いがてめえの持ち札が皆無だったのでトンズラ
・・・って話でいいのかな?
まあこの板の九州説のおなじみのパターンだがwwww
>>245 どこが皇国史観だw
むしろ、反皇国史観だよ。
そもそも、邪馬台国九州説を押していたのは
皇国史観の元凶の本居宣長だから。
戦前の日本でも、邪馬台国九州説が定説化していたし。
今回の纏向遺跡の研究の政界で、どんなに遅くとも
纏向遺跡自体は紀元2世紀後半には誕生している。
当然、その前の段階があるわけで
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら
天忍穂耳命は、遅くとも紀元前1世紀中ごろの産まれの人物だよ。
大阪の池上遺跡なんかは、紀元前50年くらいの遺跡で、
この時代にすでに、中国式の都市形跡があるぐらいだし。
実際に、中国の歴史書でも、紀元前から倭国が
中国王朝と外交していたことが分かってきている。
金印は偽者。
あんなもの誰にだって作れる。
最新の分析装置で金に含まれる不純物を測定すれば、
漢時代のものでないことは、すぐにわかる。
正倉院宝物、神社の秘宝・・・分析されると困るものほど隠匿したがる。
250 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:09:27
あ〜あ、奴国王の金印まで調べもしないで偽物扱いかよ。
251 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:11:55
>>246 金印は権威の象徴としての飾り物にはなる。かつての銅鐸も実用から権威用に変化した。
まあ女王国で漢字を読める役人がいて、その証拠が出ると面白いんだが。
紙は魏から持って来れば宜しい。紙がなくても木簡はすぐ思いつくでしょ。
ところで、まきむく遺跡で三種の神器に関連するものが出るといいのでは
252 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:11:55
>>249 アレは本物。
アレを作ろうとしたら当時に知りえない情報を持っていなければならないw
無理デス。
>>246 金印は封泥に押した場合が多いだろう。何かを紐で縛ったりして粘土で固め、その上に
押す。途中で開けたりしていないという証拠になる。
254 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:16:18
>>245 根拠のない皇国史観だと、神武天皇の即位は紀元前660年になる。
畿内王朝が誕生したのが紀元前1世紀、と考えるのはマトモな議論の範囲だな。
255 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:23:44
>>248 皇国史観は篤胤だろ。曲説ばかり撒き散らしやがって。
王権、王権って、ちゃんと朝廷と豪族って呼べよ。最近の歴史学会は
怪しげだな。
256 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:39:25
>>242 >イデオロギー
古田の九州王朝説にはイデオロギー臭がプンプン匂う。
古田は住井すゑとの対談本などを出して反天皇制の立場を露わにしているが
歴史学は本来、一次史料を最大限に尊重しなければならない筈である。
反天皇制イデオロギーで日本古代史を論じられるわけがない。
九州説の人々に問うてみたい。
あなたには反天皇制イデオロギーがないか。
「ある」と答えた人にさらに問う。
イデオロギーで古代を考えていないか。
258 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:44:05
259 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:44:35
金印を持つことは倭奴国王である証
中国への使者には倭奴国王の正式な使者である証拠として
金印を押した国書等を持たせたのだろう。
260 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:45:21
>>257 いや、古田先生の場合イデオロギーと言うよりセンセーショナリズムのような気がwww
金印は日本にあるかどうかわからない。
台与朝貢時(266?)に「親晋倭王」をもらった時点で「親魏倭王」を返した可能性はけっこう
あると思う。「三国志」(演義のほう)にあるような印(璽)をめぐる混乱を避けるためにも。
262 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:04:55
高天原=日向
根の国(黄泉)=奴国(漢委奴国)
※『古事記』では「根堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)
『日本書紀』では根国(ねのくに)
祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)
豊葦原中国=豊国中津(宇佐)
>>262 >根の国(黄泉)=奴国
奴国二万余戸に住む人たちは、みんな死んでいるわけだな。ww
264 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:19:32
大阪府立近つ飛鳥博物春季特別展 開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる 前方後円墳の成立 」
講演会や現地見学会などの関連イベントも多数開催します
開催期間 平成21年4月25日(土)〜6月28日(日)
場 所 大阪府立近つ飛鳥博物館 特別展示室 〒585-0001 南河内郡河南町東山299
講演会 時間/午後2時〜午後3時30分 会場/地階ホール 定員/200名
5月17日(日) 鈴木靖民氏(國學院大學教授) 「3・4世紀の倭国と東アジア」
5月31日(日) 白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館長) 「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」
6月14日(日) 岡村秀典氏(京都大学人文科学研究所教授) 「中国における3世紀の鏡と墳墓」
6月21日(日) 水野正好氏((財)大阪府文化財センター理事長) 「倭国がつくりだした大王墓の形象 前方後円墳」
その他詳細はこちらのリンクから
http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/21622.html
バイオ・ハザード in 奴国
266 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:44:55
高天原=日向
根の国(黄泉)=奴国(漢委奴国)
※『古事記』では「根堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)
『日本書紀』では根国(ねのくに)
祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)
豊葦原中国=豊国中津(宇佐)
倭面土=大和
267 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:35:21
確かに。
邪馬台国は、渡来人が持ち込んだインフルエンザで滅んだという説に一票。
268 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:39:59
>>257 歴史の勉強をすることとこの国のオーソリチーの確立を企てる
こととはちょっと違う。
大和朝廷の起源問題は統一王朝がいつ成立したかが重要かな。
遡ろうとすりゃ石器時代までだって遡れるわけだし。
>>261 泰始二年の朝貢については「倭人來獻方物」としか書かれていない。
270 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:49:54
佐賀の百姓の甚兵平さんが金印を見つけ出した辺りに奴国王の
墓とかないもんだろうか。北九州は遺跡は幾らでもあるよな。
271 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:50:58
>>217 三角縁神獣鏡があるから、邪馬台国は畿内だと主張していた時代に、
中国の王仲殊さんは、これを真っ向から否定した。
呉の工人が日本に渡って来て作った日本製だと。
にもかかわらず、畿内説を支持するかような発言をした。
鉄の村上教授も、九州の鉄器の圧倒的優位を認めていながら、鉄器の分布と
権力の存在は比例しないなどと妙なことを言わざるを得なかった。
まあ、これに尽きるな。言えない雰囲気があるんだろう。
言わせない雰囲気かな。、
でも、上にあるように、奥野さんや高島さんは九州説だけど。
272 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:51:22
すまん、落とし主はわしだ
273 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:00:33
歴史は常に勝者の物語とは昔から言う。
歴史にイデオロギーは付き物とは言え、歴史そのものが
イデオロギーである場合は話がちょっと変わって来るかもよ。
>>271 はあ?
王仲殊の説は畿内説と矛盾しないと思うが?
東遷説の言うように三角を4世紀半ばの物としているわけじゃなしw
当時の高度な技術を持った亡命呉人が畿内にいたのなら
そりゃ相当なクニがそこにあったと言うことだろう。
村上の話に至っては九州説論者によくある 鉄器信仰 だなw
良くツッコミがあるのが鉄の民族とも言えるヒッタイトはついにエジプトを滅ぼすに至らなかった
・・・だがそもそも纏向自体東西の鉄器の保有数が逆転してからできた物でもない。
鉄器の出土数と王権を結びつける方が馬鹿っちゅう話www
>>271 王仲殊さんは三角縁神獣鏡は日本国産だとかいって
安本さんが、すごく喜んだが
王さんは、邪馬台国畿内説論者なんだよねw
それで、安本さんは、不満げだったw
だいたい、邪馬台国が日本国内で
中国の権威を必要としたのかというと
必要としないと思うんだがな。
だいたい、海の向こうの国なのに。
邪馬台国が中国の権威を必要とするとしたら
対外関係でしょう?
後の倭の五王だって、朝鮮半島での軍事指揮権を得るために
中国との外交を重視していたわけだし。
ちょうど、卑弥呼が中国に使者を出した頃
朝鮮半島では、公孫氏の件で揺れ動いていたし...
277 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:07:52
当時は今のアメリカみたいな遠い国だったんだよな。中国はさ〜
>>276 鉄資源は半島に頼っていたんだし
そうも言ってられないだろう?
279 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:10:05
古田武彦(1926年 - )
安本美典(1934年 - )
ああ・・・
280 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:11:50
>>274 三角縁神獣鏡魏鏡説が、畿内説の柱だった頃って言っただろう。
その柱を否定して、畿内説もないもんだ。
鉄が重要なのはみんなわかっているはず。だから、畿内説の考古学者も
鉄を一生懸命探した。でも、出てこなかった。だから、畿内の鉄は溶けて
しまったとか、畿内の鉄はリサイクルされているから出てこないのだと
妙な言い訳をした。
さらに、それが否定されれば、今度は鉄は重要ではないと言うのかい。
まあ、畿内説とは都合のいい説だな。
281 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:14:29
>>276 「狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」
卑弥呼は魏に援軍を寄越してくれと泣きついた。
@鉄を大陸に求める勢力・・・・・邪馬台国
A鉄を生産できる勢力・・・・・出雲
B青銅器で暮らす勢力・・・・・畿内
畿内大和政権は、@が東遷してBを吸収し、Aを支配下に入れて強大になったもの
283 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:26:49
>>280 はいはい、いつもの怨み節だなw
今じゃあ畿内説の中にも普通に三角国産説いますが何か?w
実際に鉄器の保有数が逆転する前に古墳や銅鏡では東西の逆転が起きているんだから仕方が無い。
学問なんて新しいデータが出ればそれによって変わるのが当たり前
固執するのが異常w
勿論今後も変わる。
お前がリアルで「過去の謝罪と賠償」を訴えるのは止めないから好きにしろwww
>>281 泣きついたというよりも、魏のほうが困ったという感じだろう?
狗奴国王ってのは、武埴安彦命のことだから
完全に神武皇統内の皇位継承争いだしな。
ヤマトトトヒモモソ媛命や崇神天皇ほど
武埴安彦命が親魏派かどうか分からんわけだし。
鉄器が多いから絶対に強いという考えは阿呆だな。
ヒッタイトは、エジプトよりも鉄器が多かったが、エジプトを倒せなかったし
半島でも、鉄資源が多い伽耶は、そうではない百済や新羅に勝てなかったわけだし。
そもそも、日本国内では、北九州の次が福井が鉄の出土が多いが
誰も福井が強いなんて言わないジャンw
たとえば、戦国時代、九州大名のほうが鉄砲の導入が進んでいたが
遅れていた本州の勢力に勝てなかったしなw
286 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:34:03
>>286 しかしねえ、今更、吉野ヶ里は無えだろ…ってのが個人的な感想っちゅうか。
この板の九州説だと九州には有望な遺跡が目白押しだそうなんだが…
どうにかならないもんかねえwww
鉄多い=強い は証明されていない。弥生時代の戦闘の様子はまだまだ不明な部分が
多い。鉄器といったところで後代の日本刀のように切れるものではないし。
木製バット対鉄パイプといった感じ? まあこれは冗談だが、鉄鏃よりある種の石鏃の
ほうが貫通力が高いという実験結果もあるし。
>>288 日本刀って、一回人をきると
使い物にならなくなるしねw
だいたい、戦闘で使う武器は、槍などの突く武器でしょう?
これって、必ずしも鉄が有利というわけではない。
290 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 01:17:30
つうか一番重きを置かれたのは弓矢だろう。
戦国時代でも「○○一の弓取り」と言われていたしな。
その次に槍か…
つうか剣や槍それに戈じゃあリスクが大きい。
想像すればよい、いくら日本刀を持っていても木刀相手に必ず勝てるわけでもない。
殺るか殺られるか、ハイリスク・ハイリターンwww
できれば遠くからワンサイドゲームで攻撃したいのは人間の心理w
そう言う意味では鏃に鉄を用いるのは量産には有利だとは思うが・・・
鉄は武器以上に生産への寄与が大きい
鉄の船釘がないと構造船はつくれないし
戦闘について現代の研究はたくさんあり、集団戦で勝敗につながる最も大きなファクター
は、意欲という結論が多い。つまりちょっと不利になったから浮き足だって逃げるというよう
な、精神的なまとまりの弱い方が負けるということ。これは疑似戦闘と言えるスポーツもまあ
同じ。
戦闘が弓の射かけあいから始まるのは、弥生時代でもその通りだが、「文化程度」が高く
なるにつれて白兵戦が増えるという研究もある。
293 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 01:41:03
>>287 流行りを追い掛けるだけなら歴史なんてファッションと一緒だろ。
アホめ。
294 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 01:52:13
>>286 南京百人斬りの日本軍の某は「俺の刀は関の孫六で何人斬っても
刃こぼれ一つしない」って自慢しとったぞ。
292の続き
「文化程度」とは、宗教とか種族の掟といったようなものだが、「○○のためなら死んでもよい」
と思える集団は、多少の武器の違いなら乗り越えて勝つことができる。北九州勢がそれぞれ
の王を持つ奴国、伊都国といったものの連合だとしたら、それほど集団としてのまとまりを持
てたとは思えない。
296 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:05:11
>>292 ああ、その話は知っている。
松木武彦とかの書いたものだったかな?
軍隊組織としての成熟ってことだなw
ついでに言うと2・3世紀頃なら近畿でも鉄製武器が主流になっているそうな。
この板の九州説の頭の中じゃあ「百人斬っても大丈夫」な大刀振り回す九州勢と
石製の武器の畿内勢の戦いが繰り広げられているみたいだが
現実は武器によるアドバンテージも無いwwww
加えて農耕生産をその豊富な鉄器が押し上げて収穫量を増大させたのなら
九州が人口において抜きん出ているはずだがそのようなデータも無い。
東遷説のアホの良く分からないのは、それ程便利アイテムの鉄より
威信財の鏡を先に畿内に持って来たというところwwwww
297 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:05:12
いや、無理だな。九州勢は対岸の騎馬集団を相手にしてるから
厳しいぞ。女王国だって、内部抗争を鎮めるために卑弥呼を
立てたんだろ。銅鐸作ってマッタリしてる畿内勢なんてイチコロさ。
298 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:07:15
>>297 ぼくのかんがえた さいきょう きゅうしゅう ぐんだん
…レベルのお話は良いからwwww
299 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:15:22
出土の量=埋蔵遺跡の量じゃないんですょ?
300 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:25:02
意味もない感情論が渦巻いているな。
石器→青銅器→鉄器というのが世界の常識。
鉄器が普及すると、青銅器は一気に廃れる。
なぜか? 鉄器は、 道具としても武器としても優れているから。
刀よりも鉄砲の方が強い。ここで、いや刀の方が鉄砲よりも優れている場合も
あると言っても始まらない。士気やモラルの方が大切といっても意味はない。
一般的には、武田騎馬軍団は、織田鉄砲隊に壊滅的にやられる。
戦艦よりも、空母の方が強い。これも常識。
時代遅れの戦艦大和は簡単に沈んでしまった。
鉄器>>>青銅器>>>石器。これを認めない畿内説は、所詮、妄想説。
301 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:28:02
>>300 >一般的には、武田騎馬軍団は、織田鉄砲隊に壊滅的にやられる。
アホだwww
つうか自爆芸で釣りを仕掛けているとしか思えないwwwww
少なくとも戦国時代もその範囲に含むこの板でこんな事を言う馬鹿がいようとはwwwwwwwwwwww
302 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:29:03
ああ、『百済記』ってのがあって四世紀の空白期間の事情が読めるわけね。
七支刀はこの時代のもので畿内に納められてる。
たまにしかやらんから思い出すだけで一苦労だ。
東遷説は言葉だけが一人歩きしている。規模・理由・経路をきちんと説明(証拠はなしでも
いいよ)できているものは一つもない。小説家などが、「邪馬台国?ああ、僕は東遷説だな。」
くらいのもの。
規模だけでも、京都から東京へ遷都するようなことなのか、支配者と兵士だけなのか、一般
農民や奴隷も含めて移ってきたものか、それすらも説明していない。これではとうてい学説
とはいえない。
304 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:42:08
五世紀になると華夷秩序が復活して倭の五王の記録が見える。
最後の王・武は征東将軍の号を中国から受けたが、記紀の編纂
された時代は「征東」の「東」は未だ畿内だったわけ。
305 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:44:47
>>300 >意味もない感情論が渦巻いているな。
つうかね、お前のが
「根拠の無い脳内戦争ゴッコ」
だよアホw
一体いつの時代の想定で言ってるんだ?
先に挙げた松木武彦の書いたものからすれば
恐らく九州が鉄製武器でアドバンテージ持てるのは紀元前の話らしいが…
第一出土量を武装レベルにそのままと言うのが意味が無い。
無敵の九州神武軍団はフルアーマー装備だったのかよwww
306 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:50:10
統一王朝ではなくとも豪族間に交易関係はあるわけで、
この時代でも見ず知らずの国同士なんてことはなかったろう。
そこで大国中国のオーソリチーが物を言うわけですょ。
307 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:53:13
>>303 それは無理だろうな。詳細な文献でもあれば別だが、詳しい経緯を知ることは
不可能に近い。せめて、大局的な歴史の動きを探ることが出来るかどうかだろう。
これは、戦国時代とか、あるいは明治維新などを見るとわかるが、歴史は
あまりにも複雑だから。
畿内説は、その根拠を詳しく説明できるのかな。
せめて、纏向をどうして邪馬台国というのか。なぜ、箸墓が卑弥呼の墓なのか
それだけでもいいから、簡単でいいから説明できる?
308 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:54:29
>>300 いつもの東遷説論者だろうが一度聞いておきたい。
道具としてもそれ程優れている鉄器なら当然、農耕の収穫高にも多大な影響があるよな?
お前は弥生時代の日本の人口分布をどれくらいに考えている?
鉄器の出土量に比例するぐらいの差があるとでも考えているのかな?
309 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 02:59:02
>>303 無理無理W
てか
>>307もはっきり言わないが
例えばその規模となると文化を急激に変えるとなると相当数(クニレベル?)と言う話になるが
じゃあ、それ程の移動があったなら考古学的資料もあるだろう・・・って話になる。
まあジレンマですなw
東遷説自体が明確な仮説をもっている訳じゃないと思うよ。
行き当たりばったりかと・・・
>>307 多少不確かな論拠でもよいなら説明できるつもりだが、スレが200行を超えるのでやめて
おく。w
じゃあ時期(いつ東遷したか)だけでもいいから教えてほしい。
311 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 03:20:12
>>300 刀と鉄砲は武器の違い。
鉄と青銅は材質の違い。
鉄砲が操作性と有効距離で刀より優れていることと、
材質としての青銅と鉄の優劣は全く無関係。
刀より鉄砲の方が強いから、青銅器より鉄器の方が優れているって、全く論理になっていない。
比較するなら、例えば青銅の剣と鉄の剣を比較して、鉄剣の優位性を論じるとか、
青銅では作れない武器が鉄では作れる、あるいは量産が容易などの材質としての優位性を論じるとか。
そういうのでなければ無意味だよ。
少し前までは、東遷説は、「卑弥呼の死後、台与の即位あたりに行われ、台与が死んで箸
墓古墳が造られた」というのが多かった。特に小説家の先生。少しでも考古学に興味があっ
て調査報告などを読んでいるものには、これほど腹立たしいことはなかった。
最近はマキ向遺跡に戦闘をうかがわせる出土がないのがわかってきて、今度は「九州
の邪馬台国が台与の時代に、マキ向を新たな首都と定め、平和裏に移った。」だ。
>大局的な歴史の動き
というが、根拠は神武伝説だけしかない。銅鐸の埋納は時代的にも証拠になるとはいえない。
313 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:44:34
倭人伝の解釈から、邪馬台国が南九州にあったことは明白。しかも、その南九州
と北九州が戦って北九州が実質的に敗北したことも十分に認められる。北九州の
甕棺が終わり、箱式石棺に変わっていることもこれを裏づける。この九州勢力は
北も南も鏡を威信財とする勢力だ。
そして、近畿は銅鐸の終焉が三世紀にあることは明らか。銅鐸の次に出てくるのは
鏡。時期を同じくして弥生にはなかった前方後円墳が造られるようになる。
銅鐸勢力と鏡勢力の間には連続性が認められない。となれば、権力の交替があった
と考えるべきだ。鏡を使う勢力となれば、九州の勢力しかない。
あとは、九州勢力の東遷と考えるのか、東征にすぎないと考えるのかという問題は
あるが、とにかく銅鐸を威信財としていた勢力が征服されたことは明らかだな。
銅鐸の埋納は時代的にも証拠になるとはいえない。
314 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:50:41
>>313 いつもの日向厨だな。
もう同じことを何度も言うのはいい加減ウザイが
少なくとも九州には前方後円墳に繋がる大型首長墓を造営する文化は無かった。
古墳を作りえなかった連中に古墳時代の主役になる資格はねえよアホwwwwwww
315 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:51:07
↑最後の1行は消し忘れ。
>>312 >銅鐸の埋納は時代的にも証拠になるとはいえない。
埋納は一度だけではないかも知れないが、最後の埋納が三世紀であることは明らかだ。
それが九州勢力に征服されたときに行われたものだね。
316 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:53:57
>>313 そうだ、まだ聞いていなかったな。
山陰の弥生中期埋納の銅鐸ってのはやっぱ九州の東征勢力なのか?wwwww
317 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:55:45
>>314 アホという言葉はあなたに返すよ。銅鐸の終焉に至るまで、近畿にも
前方後円墳につながる大型首長墓を造営する文化は無かったんだよ。
318 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:01:38
>山陰の弥生中期埋納の銅鐸
そう簡単に中期と決めつけるべきものではないな。
319 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:05:55
>>315 無理無理無理www
3世紀にまでもってこようとするのなら大型化が著しく
分布も近江東海に広がる突線紐式にあわせるしかないだろうが
実際にはその前の様式、で終わっている出土例が多数ある。
ぶっちゃけ扁平紐式で中期後半あたり?に一度切れて
突線紐式でまた終わっていて2回終わっているという感じw
扁平紐では時代が合わず
かといって突線紐にあわせると今度は扁平紐式の終焉が説明がつかないwww
どう見ても無理です。
ご苦労様でしたw
320 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:10:58
扁平紐式の終焉はどうとでも考えられるな。銅鐸勢力の間で大きな再編があった
と考えることもできる。突線紐式がでてきたので、古い物をまとめて埋納したと
考えることもできる。はっきりした動機がわからないからといって、何も問題は
ない。
321 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:12:34
>>317 はい残念でした。
古墳文化が畿内オリジナルなんて今じゃあ流行らないよw
各地の埋葬文化の集合体と言うのがほぼコンセンサス。
特殊器台を完全畿内発生とか言う奴見たこと無いwww
鏡の副葬が九州からの文化でもかまわない。
その古墳文化の一要素をもって東征の根拠にはならないって事。
322 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:16:43
仮に百歩譲って
銅鐸祭祀が外部からやって来た勢力に強制的に廃止されたとしても
そこにその勢力がいたと言う根拠が無ければ全く意味が無い話www
323 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 05:35:53
>>320 >突線紐式がでてきたので、古い物をまとめて埋納したと
>考えることもできる。
↓
新しい威信財銅鏡がでてきたので、古い物をまとめて埋納したと
考えることもできる。
ハイ、銅鐸の終焉も外部勢力の存在無しに説明がついちゃいましたw
自爆芸ご苦労さんですwwww
324 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 07:01:54
そうですね。合理性を求めないならば、その程度の説明でしょう。
畿内説の考古学者だってその程度の説明ですませてますね。
325 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 07:11:53
>>322 >そこにその勢力がいたと言う根拠が無ければ全く意味が無い話www
鏡の勢力が九州にいたという根拠はいくらでもあるな。
326 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 07:26:22
>>313 >とにかく銅鐸を威信財としていた勢力が征服され
銅鐸は、威信財ではない。共同体の祭器である。
銅鐸の埋納というか、2世紀の遺棄、破壊遺棄状況については、確かに祭祀文化の切りか
わりを示唆するようだが、安念ながら322の言うように九州勢力が武力をもって侵攻したこ
とを伺わせる遺物も皆無である。
2世紀末の卑弥呼共立時に後漢朝との連絡がつき(史書にはないが)、農耕祭祀的な銅鐸
信仰から、呪術的な鏡を用いた祭祀に切り替わったと考えた方がよほどすっきりする。この
場合画紋帯神獣鏡は九州から持ち込まれたものでなく、いったんは卑弥呼共立に参画した
北九州勢力にも分け与えられた、と考えるのが岡村氏の分布状況図を見ても自然である。
しかし、まとまりのない北九州勢力が背いたため、邪馬台国は実際に北九州を武力鎮圧
せざるを得なかった。(卑弥呼共立時は話し合いによる連合参加)それを表すのが3世紀
中〜後半のマキ向型前方の広まりである。この時期に焼けた弥生の村が見られるのは
北九州のほうである。・・・批判もあるだろうが「東遷説」よりは物的証拠が多いと思う。
安念(なんだこりゃ)→残念
>2世紀末の卑弥呼共立時に後漢朝との連絡がつき(史書にはないが)、
後漢の華夷秩序が弱まって大乱になったのに、わざわざそんな
面倒なことをする必要はないだろ。
三世紀初頭の倭国は南満州の公孫氏の統治下だったとかネタ本に
書いてあるぞ。後漢に代わって巍が帯方郡を抑えた翌年、待ち
かねたように卑弥呼は使者を出してる。
この華夷秩序に対する依存度の高さが邪馬台国北九州説を考え
させる。
>>329 それは画紋帯神獣鏡を九州がもらったものと考えても同じことが言えるので反論にならない。
画紋帯神獣鏡の年代を新しいものとみる、あるいは国産とするのなら反論になるが。
332 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:16:04
天孫降臨神話は、大方、半島から遼東の公孫氏がやってきたのが神話化されたんだろ。
2ちゃんねるでは、邪馬台国九州説が有利というが、
昨年ぐらいまでは、もっと邪馬台国九州説が元気だったわな、2ちゃんねるではw
なぜなら、1980年代後半の吉野ヶ里騒動で、在野が宣伝しまくって
九州説を題材とした小説や読み物が多く出版され
それで商売してきた人が多かったからだろう?
吉野ヶ里遺跡の観光施設なんて、気合が入りまくりだし。
一方、纏向遺跡のある桜井市なんて、やる気無しだったもん、最近まではw
で、ここにきて、纏向遺跡の可能性が高くなって、急にやる気出した。
とたんに、昨年の暮れぐらいから、立て続けに、テレビなどメディアも取り上げだした。
そしたら、2ちゃんでも、邪馬台国畿内説が急激に力を増して
九州説が劣勢になりつつある。
>>332 天孫降臨は、葛城から九州南部に派遣された
葛城王朝の一族の物語。
年代は、紀元前1世紀から紀元1世紀にかけてのどこかの話。
公孫氏なんて存在しないし、
高句麗や百済も建国されてないような時代。
>>333 > 一方、纏向遺跡のある桜井市なんて、やる気無しだったもん、最近まではw
> で、ここにきて、纏向遺跡の可能性が高くなって、急にやる気出した。
アホですか?
三角縁の小林理論が揺いで、
一時的に批判が増えただけで、
畿内説は戦後ずっと邪馬台国論の中心だし、
桜井市も前後ずっと発掘を精力的に続けてますが?
桜井市ほど古墳の発掘調査を行った地方自治体はない。
>>329 >後漢の華夷秩序が弱まって大乱になったのに、わざわざそんな
>面倒なことをする必要はないだろ。
これ、よく言う奴がいるけどさ、
本当に倭国大乱って、中国が関係しているのか?
そんなこと、どこにも記載されて無いぞ。
最近、誰だったか忘れたけど
倭国大乱って、戦国時代のような内乱というよりも
政治的な闘争じゃないのか?って言っている学者さんがいたよ。
倭国はもともと一人の男王がいたけど、歴年争いが起こって
卑弥呼をたてることで終結したんだろう?
どちらかというと、中世の南北朝時代みたいな感じ。
>>335 吉野ヶ里みたいに、必死になって
遺跡の復元図なんて作ってないし、
行政が一体になって、観光施設なんて作ってないだろう?
まじで恥ずかしいわ、吉野ヶ里遺跡のミュージアムなんてw
>>335 そのとおりなんだが、しかし今回の発掘規模も年間400万、400平方メートル程度であり、
ちょっとした公民館一つ建てるのに億近くかかることを考えればわびいしいこと限りない。
やはり市町村教育委員会レベルが主体の発掘調査では、解明は遅遅として進まない。
われわれ古代史、考古学等のフアンの声が大きくなって県・国レベルの調査ができれば
と思う。ちなみに桜井市は発掘基金としてふるさと納税を呼びかけているが、今のところ
九州在住の人からはないそうだ。
吉野ヶ里は佐賀県教委が発掘主体となって、史跡公園として大々的にやってるが、あの
HPは嘘とはいわないが、故意に九州有利に誤解させるような書き方をしている部分があ
ると思う。
>>338 吉野ヶ里のHPは、かなり古くなっている学説が多いな...
あと、自分たちが邪馬台国とは断定していないが、
まあ、仕方が無いのかもしれないが、
それを思わせるようなHPの作り方をしている。
発掘資金を集めようと思ったら
大々的に観光地にでもするしかないように思う。
吉野ヶ里なんて、ちょっと柵が発見されただけで、
その翌年には、大々的に観光施設を建設しようとしたからねw
桜井市のほうは、よく辛抱したほうだわな。
この前の日曜日には2000人以上が、あんな何にも無い田舎に
見学にきていたらしいし。
>>338 まあ吉野ヶ里=邪馬台国説は100%ないし、痛々しい限り。
ただ、発掘資金稼ぎに邪馬台国宣伝するのは、
> しかし今回の発掘規模も年間400万、400平方メートル程度であり、
でも同じで、あのさぶい発掘結果で、(1978年からたいして進展してねえ!)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090320-00000577-san-soci > 卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、
>まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県
>立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥
>呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたの
>かもしれない」と推測する。
>
> 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きど
>う、呪術)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)
>や政治を行った場所の一部だろう」。
>
> 今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所
>総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、方位を合わせた建物群の計
>画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設は
>さらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた。
なんて言っちゃってる。あの柱跡で中国の影響ですか…
まあ資金のためだから、ことさら取り上げて批判する気はないけれど。
>>340 考古学者の「中国の影響〜」というのは、まったく説得力が無い。
まじで考古学者は信用ならない。
邪馬台国論争で、自説有利にしようと思ったら、外交関係があった中国を
ことさら持ち上げるしかないから。
なぜなら、纏向遺跡が中国と関係が深いほど
邪馬台国を九州に持っていく意味が薄れるから。
でも、纏向遺跡のあういう柱の構造は、中国が関係していなくて
出来るでしょう?普通w
発掘資金の捻出や、この邪馬台国時代の研究の停滞を打破するために
さっさと、この論争に決着つけたいのは、よく分かる。
実際に、普通に、邪馬台国=ヤマト国でOK。
本居宣長が馬鹿なことを言ったから起こった問題で
明治以後の日本が、このインチキ学者の国学思想をことさら神聖化したために
現在、日本は建国の創世記を完全に失った状態。
だから、はやく決着つけたいのが分かるが
石野さんに代表されるように、彼ら考古学者の畑違いの歴史推測が
日本の古代研究を誤らせてきたのも事実。
だな。完全に西面とか妻入りとか、道教とか文章に書くのはやめてほしい。信じて恥をかい
たじゃないかw
30前は駐車場造営にともなう緊急発掘で、ろくに遺物もないまま埋め戻された。古い調査
報告をそのまま信じるのがいかに危険かよくわかった。
343 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 12:59:06
高木神の実態を語れ
344 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:00:55
345 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:04:04
邪馬台国ほか三十国連合の領域って
国譲り前は出雲の大国主の勢力下だったのかな?
女王を擁立しないと治まらなかったってのは
出雲の大国主とは別の政治文化圏だったのを示唆するような・・・?
>>343 高木神が、高天原の神の実態。
葛城(=葛木=高天)地方で信じられていた神様。
この葛木の隣にヤマト(三輪山周辺)がある。
もともと、畿内王朝は、この葛木(高天)で誕生した。
彼らはライバルで前の覇権王朝だった出雲を併合し
事実上の日本列島での覇権を確実にする。
そして、全国統治を確実にするために、地方に司令官を置いた。
中でも、熊襲の抵抗が激しい九州南部には
初代倭王アマテル(火明命)の兄弟のニニギ命(神武天皇)を派遣した。(天孫降臨)
しかしながら、この王朝は、中世の足利家同様、弱体であり、
たえず、地方に反逆されていた。
そんな中で、葛木本国で内乱が起こり、王朝宗家を助けるべく
九州南部で分家していたニニギ命の後胤(神武ら)が援軍としてかけつけた。(神武東征)
>初代倭王アマテル(火明命)の兄弟のニニギ命(神武天皇)を派遣した。(天孫降臨)
訂正↓
初代倭王アマテル(火明命)の兄弟のニニギ命(神武天皇の曽祖父)を派遣した。(天孫降臨)
>>345 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら
出雲国譲りは、卑弥呼の時代よりも、ずっと前だと思われ。
あと、投馬国(ヅマ国)は、出雲国と思われ。
中国の別の史書では、於投馬国となっていり、
島根県の港にも、於投馬という地名がある。
349 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:43:24
ここは面白いですね
見ているだけですが勉強になります
ただ畿内説の方に wwwww←これを頻繁に使う方がいらっしゃるのが気になりますね
余裕が無くまるで畿内説が不利だからこそ必死に相手を貶めようとされているように見えます
九州説の方々のほうが冷静にしっかりと御自分の考えを述べられているのとあまりに対照的です
説得力もありますし関西の者としては歯がゆい限りです、wwwww←こういうのを使わず普通に反論されてはと思いますね
大学などで研究に携わっておられる方なのかもしれませんが、これではまるで畿内説の人間が馬鹿者のように思われてしまいます
邪馬台国がどこにあっても良いのですが、いえ関西の人間としては畿内説に賛同したいのですが
wwwww←の方の余裕のなさ、必死さは見ていてとても痛々しいものがありますね
畿内説の方々はwwwww←の方にもっと加勢してあげてもらいたいものです
>>349 九州説のほうが余裕ないでしょう。
世間では、畿内説でしめられつつあるわけだから。
昨年暮れから、邪馬台国=大和国で決まりみたいな報道が
激増しているわけだし。
だから、わざわざ佐賀県のほうで、きもい団体が出来たんでしょう?
>>342 纒向の発掘の目的は、
発掘に携わっている当人たちの数々の仮説を覆すことですよ。
353 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 17:29:26
>>350 畿内説の人の「世間では、畿内説でしめられつつあるわけだから。」
のような発言が独り善がで余裕なく感じられる。
>>349 悪いけど芸風変える気は無いからwwww
嫌なら読み飛ばしてくれ。
まあ俺とてもう少しまじめに書き込みをする時もある。
ただデムパ相手の時はそれなりって話。
目には目を、歯に歯を、馬鹿には馬鹿をwww
畿内説支持者にもこんな馬鹿がいてもいいじゃないの人間だもの(byみつを
それから…
>大学などで研究に携わっておられる方
もしこんな事を本気で言っているのなら
悪いことは言わないもう少し勉強した方が良い。
俺の書いている程度の内容なら考古学関連の本(専門図書でなく極一般向けに書かれた物でおK)
を数冊読めば網羅することができる程度の物。
ある意味において面白みの無い、極々一般的な畿内説の範疇かな?w
まあそんなレベルの人間から見てもツッコミどころ満載、自爆しまくりなのが
この板の九州説なわけでw
もっとも九州説と言っても大半は万年反抗期の中二病のアホが
「アンチ畿内説」ほざいているだけなんだけどなwwwww
リアルの九州説がこんなレベルに堕ちたと言うのは幾らなんでも悲しい。
この板の九州説はチョッとアレな人達が集まった特異例(=隔離病棟
のようなもんだと区別している。
…この俺の最後の良心wwwwwwwwwwwww
>>353 295,303,312,327とかだが、そんなこと言ってるとえさ来なくなるぞ。
畿内説支持の本って当たり前のことが書いてなさそうだが。
>>327 > 2世紀末の卑弥呼共立時に後漢朝との連絡がつき(史書にはないが)、農耕祭祀的な銅鐸
> 信仰から、呪術的な鏡を用いた祭祀に切り替わったと考えた方がよほどすっきりする。
纏向が三世紀の間ずっと農耕祭祀のままです。
発見された井戸の中に籾殻、ミニチュア土器、燃した木具があるので確定です。
>246 です。
金印の質問に対する多くの方からのご意見ありがとうございました。
大変参考になりました。
あまり畿内だ、九州だといがみあわずに、まったり行きましょう。
私は四国派なので・・・
>>357 うーんww 土坑の中身はそのパターンだな。なかなかごまかしはきかない。じゃ鏡は威信財
として同じ農耕祭祀でも、大和的「大饗の儀」のような共食をともなうものに変わった。
畿内説は少六病みたいなもんか。
記紀のモモソ姫の箇所だけで卑弥呼の男の好みまで分かりそうなのに
初代神武の東征問題は完全スルーとかオワットル
あスマソ。355の>>は354につけたつもりだった。遺憾です。
銅鐸廃棄が二世紀に遡るなら後漢の弱体化から生じた東アジアの
政治動揺が倭国大乱に結びついて畿内にまで波及したと考えるのが
普通だよな。
>>358お仲間発見。
讃岐国の讃岐忌部氏こそが卑弥呼の直系。
畿内の箸墓は卑弥呼様の墓としては小さすぎます。
やはり讃岐富士こそが卑弥呼様の墓だったという
私の主張に賛同していただけないでしょうか。
まあ、期待はしていませんが。
>>364 飯野山のことなら中腹部からの固いサヌカイト岩盤の中に埋葬施設があると?
畿内説に逆らうと非国民認定されて不敬罪で弾圧されちゃう…。
>>365飯野山と呼ばれる山は日本各地にあります。
それらに共通するのは、讃岐富士と同じような△形の神奈備山です。
しかし、それらの山の多くは讃岐富士ほど形も整っていませんし、
人工的に作られた可能性のある平地にある単独峰の神奈備型の山
のなかでは讃岐富士が最大のものかと思います。
注.人工的といっても、平らなところに山を築いたのではなく、既に
あった山の形を整えて神無備型の山に仕上げたと考えてください。
九州肥国(肥前/肥後)はもともと火山地帯なんで「火国」から転じたのな。
阿蘇山信仰は隋書倭人伝にわざわざ出てくる。
単なる歴史的事実の話だが。
縦目仮面さん、九州説の人達が別スレでまた暴れてるよ。
やっつけけて来て。
阿蘇は九州の火山信仰の中心で、カルデラの西の山門はその祭祀的な
象徴だった。それが九州ヤマトの国の由来で、女王卑弥呼は鬼道を
以て民を治める宗教的な権威であったと云うことは容易に想像が
付くわけだな。
>>367 秋田県の黒又山とかだな。まあ、山岳祭祀遺跡は否定しない。三輪山だってそうだ。研究者に
よっては縄文まで遡るといわれる磐座があるね。俺も登ったことがある。ただ研究の方法に
よっては酒井勝軍のようになりかねない危険があるような・・・。
三輪山信仰なんて河内から大和に宮が戻ってくるまで、
まるで痕跡ないぞ。むしろ珠城山の方が遺跡が濃い。
卑弥呼は「火巫女」とも「姫巫女」とも解釈されているが、
そもそも「姫」は「火女」から転じたのかも知らんな。
>>371国が荒れて卑弥呼が女王として共立されたという成り立ちからして、
卑弥呼は渡来系の天津神ではなく、縄文時代から続く国津神系の
女王だとするほうが自然ではないでしょうか?
あ、なんだ。隋書倭国伝の阿蘇信仰の記事は太子の親書の「日
いずる処の天子」の前の一文じゃん。
>>374 「鬼道」をどうみるか、・・・まあ道教ではないだろうw 文献的なアプローチでは難しいような。
卑弥呼を共立した諸王を従わせることができるような神権とは何か、ずっと考えはいるんだ
が・・・。
377 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 22:45:17
東だ南だ、水行何日だとかそういう位置的なものではなくて、
邪馬台国がどんな文化を持っていたのかという側面にもっと
目を向けるべきではないでしょうか?
太子はおそらく巍志倭人伝の邪馬台国の記事を知っていて、
当たり前に邪馬台国を阿蘇と結びつけ、推古帝と自らを卑弥呼と
弟になぞらえて、国としての連続性を強調したがっているよう
にも見える。
>>377 当てはまるところがない。
自然、風習は南九州で、出来事は大和っぽい。
380 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 23:07:59
>>376 卑弥呼の鬼道は、間違いなくシャーマニズムだと思う。
超自然的なもの、いわゆる神に接触し、その声を伝えるというやつ。
卑弥呼について、王となって以来見たものは少ないと書かれている事からも、
その可能性が高いと思う。
また、記紀には、倭迹迹日百襲姫や神功皇后など明らかにシャーマン的な
人物が登場する。斎王もその名残だろう。
実はもう何十年も前から、文献および考古学だけではダメで、文化人類学、民俗学、
気象学、地質学etc を援用しなくてはならないといわれているが、現実はめぼしい成果
があがっているとはいえない。年輪年代は期待できるものの一つだが、九州説には一言
のもとに否定されるw
>>374 天津神は渡来系じゃない。
高天原とは、葛木地方のことで
このあたりは、近畿地方の重要な河川部があった地域。
神武天皇も自分は天津神の出自で
それは河内よりも東にあるという風に言っている。
あと、天津と国津のどちらの神話も弥生時代に入って
1000年くらいたった時代の話であり、縄文とか全く関係ないから。
本当、こういうふうにやつの多いこと。
383 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 23:37:19
サゲで書いてるやつ。自演だな。
渡来系は、諸蕃。
高天原系(葛城系=天津系)は、天神、天孫、皇別
葛城系以外(国津系)は、地祇。
俺は人種という考え方を大きく取り上げることには反対。弥生人というのは弥生文化を営む人
たちのことで、おおざっぱに言えば、弥生土器を用い、稲作を始めた戦闘の多い時代の人。
学校で習う年表には弥生と縄文で大きく縦線が引かれているが、誤解を生む原因だと思う。
実際はゆるやかに切り替わっていった。まして渡来人=天津神は言葉の定義があいまいすぎる。
大陸からの渡来人が、集団で自分たちの文化を守って生活していたとすれば、上記の考え
から弥生人とはいえない。ただし、最近はDNA研究が進展し、381で書いたような自然科学的
アプローチの一つとして期待できるようになってきている。
>>381 というか「年輪年代法は将来有望な方法ではあるが、
まだまだ信頼できない、これまでの編年の方が信用できる」と、
「大和・纒向遺跡」の座談(2002年)で石野と寺沢が言っていたぞ。
二人ともコテコテの畿内説考古学者だが。
石野に至ってはつい最近も同じこと言っているしな。
たぶん君は年輪年代法とC14年代法の関係もしらない
年代推定の科学的手法には全く疎い人だと思われるが。
たぶん年輪年代法は年輪の幅のマッチだけで
標準年輪年代を決めていると勘違いしているだろ。
最近の考古学だと
遅くとも、紀元前10世紀には水稲農耕がはじまり
紀元前30世紀には陸稲農耕が始まっているという結果。
おそらく、出雲国譲りの時代でも、紀元前1世紀〜紀元1世紀ぐらいでしょう?
だとしたら、出雲国譲りなんて、弥生時代が突入して1000年くらい
たった時代だったりする。
>>385 DNAを分析しても、明確な歴史なんて分からん
いったい、いつの時代ぐらいにやってきたかどうか
分かるわけ無いじゃん。
何が言いたいんだ。Crossdatingの手法を用いており、C14を誤差校正することもできる。
ただし日本のような地形、気候変動の激しいところでは標準サンプル作成は困難。
別に信じてるとはいってない、期待できるといってる。DNAだってはっきりしたことをいうには
まだしばらくかかる。石野氏が信じてないというのは、また別の意味があると思ってる。
>>385 一応、古代から
高天原=葛城というふうになっていたし、
延喜式とか、式内社も、葛城=高天原という前提になっている。
しかし、中世になってから、在野を中心に異議を唱えだした。
なぜ、わざわざ、畿内→九州→畿内と
首都を移さないといけないのだと。
そいつは記紀の神武記を書いた朝廷にこそ聞くべきだ。
葛城山麓のあの大して地味も良くない狭い地域が、どれほどの人口を養えると思いますか?
だいいち、山の採取生活から農耕へと低地に降りてきた経緯を、高天原からの降臨として語られていると言いますけど、
同じ場所で縄文生活→弥生生活へとできるものでしょうか?
採取生活は自然の実りが頼りだから、人口当たり広大な森を必要とします、
また、農耕は森林とは相容れないものです
採取→農耕という変化が、同じ地域で連続して起こるとは思えないのですが
DNAってのは被葬者の髄から系統でも探ろうっての?
前に一つの石棺の中の男女に血の繋がりがあるってのが
分かったことあったよね。あれ夫婦じゃないって事だったけど、
別に夫婦でも構わないのにな。近親婚多かっただろうから。
>>390 俺にアンカーがついてるようだが、葛城=高天原はわからない。かんべんしてくれ。
延喜式に書いてるっていうならそれはそうなんだろうが、神話のような出来事があったと
は思わない。
古代史の研究する人の必読書は延喜式だよ。
でも、2ちゃんねるで、日本書紀とか古事記の話はするが
延喜式に言及する人はいないね。
外国の日本研究者なんか、延喜式はものすごく重要視するのに。
ちなみに、延喜式では、高天原=葛城地方という前提で書かれている。
この地域は、近畿地方において地政学的に重要な地域なんだわな。
とくに、古来、大和盆地には大和湖があったといわれ、
そういう時代なんか、とくに葛城地域はすごく重要。
敵に攻められにくく、なおかつ、河内に流れる河川の上流部が
この葛城地方に集結している。水を支配したものが天下を制したから。
(朝廷は、大和湖が干上がると、今度は琵琶湖の水運を利用できる京都へうつる)
で、この延喜式で面白いのが、皇室は神武東征神話があるのに
九州の神社はさほど重視していない。
>>392 当時の農耕はまだ鋸がないし、
大規模な焼き畑も確認されてないから、
森林と相容れないって事はないよ。
湿地や扇状地なら分かるけど。
葛城地域は、古代の天皇の宮があったとこが集結している。
なんとなく、畿内王朝は
葛城(高天)から派生し、やがて三輪山(山門)に移転したというのは
よく分かるよ。
あと、葛城地域といっても、現在の葛城市ではないからね。
奈良県御所市高天あたりでしょう?
>>382 >神武天皇も自分は天津神の出自で
>それは河内よりも東にあるという風に言っている。
出典は古事記? 日本書記? 余り聞かない話だけど。
>>392 高天原神話の世界って、縄文から弥生の流れは無関係だと思うな。
あの世界は弥生時代に突入して、ずいぶん時間がたった世界だと思う。
あと、都会のものには分からないけど
田舎では、地元の名家とかいうのは、たいがいが
山麓にあるのが普通で、その地方に河川が流れていたら
そこの上流を押さえているようなことが多い。
うちの田舎でも、複数の村落があるが
それぞれの庄屋さんの本家の家系は、すべて山麓にあって
近くに川が流れているというのが普通だよ。
ちなみに、出雲特有の四隅墳丘墓も、三次盆地のものがもっとも古い。
>>395 ガイジンさんは日本と言ったらミカドとシントーの国とアタマから
決めてかかってるから深く考えないだけじゃないかな?
>396
>当時の農耕はまだ鋸がないし、
>大規模な焼き畑も確認されてない
だからこそ、森林を開拓するのは余計労力が要って、農耕に移り難いってことだろ
だいたい、西日本の山浅い土地を覆っていた照葉樹林というのは、縄文生活には適さないものだ
縄文時代は、東(ナラ林帯)>西(照葉樹林) だからな、
日本の支配層となる種族が奈良盆地で発生したとは思えないんだよな
あ、スシバーとゲイシャ・ガールも忘れちゃ駄目だ。
>>399 神武さんが、海から河内に上陸しようとして
ナガスネヒコと戦った際、
神武さんが「自分は天津神の出自なのに、天津を向かいにして戦うのは...」
って言っている。
あと、ニギハヤヒとあった際にも、神武さんは、
自分は天孫ということを凄く強調している。
ちなみに、神武さんを出迎えた畿内の神さまたちも、天孫とか天神だらけ。
>>402 いや、だから、高天原神話の世界は
縄文時代は無関係だってw
あの世界は弥生時代の突入して、ずいぶん
たった世界だよ。
あと、平安時代までの史料とかでは、普通に
高天原は葛城のあたりって言及するのが多く出てくる。
また、古来、大和盆地には大和湖があったことがわかっており、
畿内の支配層が、大和盆地から派生したのは容易に想像がつく。
平安時代以降は、大和湖が干上がってしまったので
琵琶湖の水が利用できる山城盆地へ移転したが。
406 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 01:13:41
日本書紀によると、
饒速日命は、高天原から天磐舟に大和に乗ってやってきた。
瓊瓊杵尊は、高天原から日向に降り立ったが、船に乗って来てはいない。
つまり、高天原は、大和からは船に乗っていくところ。日向からは陸続き。
>>406 >饒速日命は、高天原から天磐舟に大和に乗ってやってきた。
旧事本紀だろう?高天原から天磐船にのって河内に降臨したんだよ。
奈良盆地から河内に河川が流れているわけだし。
あと、奈良盆地全体がヤマトになったのは後世のことで
当初は、三輪山周辺だけがヤマトだった。
倭王武の雄略天皇も言っているが、中世の頃の約70カ国の
倍くらいの国々が日本列島にあったことになっている。
409 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 01:24:42
まあ、スサノオの神話とかみたら
高天原って、普通にヤマトの近くだよなと思う。
資料価値の高さは成立の古い順ではないか?
411 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 01:36:27
延喜式は古代史の研究で重要。
日本最古の本格的な辞書だから。
神社の伝承とか、朝廷がどの神社を重視していたとか。
古代史研究で重要な史料は、
古事記、日本書紀、風土記、延喜式
あと、中国の史書
すべてを原文で読まないと駄目でしょう?
とにかく、天武天皇が何を隠したかったか、推測すきるようになったは。
世間でいわれているような、藤原氏、物部氏、蘇我氏などは脇役に過ぎない。
天武天皇がもっとも目の敵にしていたのは、他の違う氏族や人物。
412 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 01:51:53
延喜式の中でも
延喜式神名帳
これが特に重要。
>405
縄文時代は海進(縄文海進)がすすみ、いま日本列島に見られるほとんどの平野部は海の中だった
北九州の平野も、大阪平野も、関東平野もまだなく、陸地と言えば山しか無いのが日本列島の地形だった
この時代は温暖で森林が発達し、縄文の生活を支えた
そのあと海退がはじまり各地に平野部が出現した、そこへ入って来たのが農耕であり弥生時代の生活だ
あらたに出現した地形に適した、弥生式農法を持った人々が移入してきた事になる
平野に弥生人が入り、従来の生活を続けたい縄文人は、ナラ林帯が残る関東以北に去ったのだ
縄文→弥生は、民族的に連続していない
確かに中世あたりまでは、高天原=葛城地方と一般には信じられていた。やはり平安期の
文書の影響が大きいんだろう。江戸期になって、新井白石が「神は人なり」の名言とともに
常陸説を唱え、本居宣長が天上説を唱えた。
高天彦神社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を祭る・・・・か。
唐子・鍵遺跡に先行して、集落があっても不思議ではないのかな?ただ5世紀に衰退した
氏族の祖地が、延喜式に格式を持って取り上げられているのは不思議と言えば不思議。
>>413 あんた、そのレス、ちゃんと読んでないでしょう?
ちゃんと読めよ。
>>414 葛城氏は、二つの系統があった。
あんたが5世紀に滅んだという葛城氏は
孝元天皇の後胤である武内宿禰の子孫である葛城氏。
蘇我氏、平群氏などと同族。皇別系の葛城氏。
この葛城氏が誕生する前にも、葛城氏が存在した。
こちらは、大伴氏、賀茂氏などと同族。天神系の葛城氏。
天神系の葛城氏のほうは、途中で断絶した。
その後、武内宿禰の子孫が新たな葛城氏を再考した。
唐子・鍵遺跡、纏向遺跡、葛城地方、全部、凄い近くだけどね。
違うとか言っても、そんなに違わないでしょう。
ほとんど、同じ王朝内の派閥程度の違いでしょう?
>>416 断絶してないよ。「葛城国造=葛木直」でしょ。
奈良時代まで存続してる。
武内宿禰が葛木氏の娘を娶って同地を根拠地にしたのが
皇別の葛城氏の始まり。両者の間に生まれたのが襲津彦
420 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 07:18:34
刀と剣は違う武器じゃないの?
刀は引き切るが剣は叩き切る、斧みたいに。
それから北九州はキタキューなの、
福岡や筑紫平野(筑後川下流域)は北部九州だから。
するっちゃとか言わねえから。
>>419 男系では断絶したという意味でしょう?
その後、武内氏の者が婿入りして存続と...
>>417 全然違うよ。
唐子・鍵遺跡、纏向遺跡は重複期間がない。
庄内式、布留0の頃にややかぶりなだけで、
唐子・鍵は既に消滅しつつある。葛城の坪井、中曽司も同様。
纏向はかなり特殊な地域。弥生時代の遺構がほとんどない。
>>422 唐子・鍵遺跡のあたりには、孝霊天皇の宮があったところ。
この天皇は、ヤマトトトヒモモソ媛命の父親。
やはり、この天皇か、その次の孝元天皇くらいから
纏向遺跡が造営されたんじゃないの?
つーことは、卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱は、
孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇という
「孝」の字がつく天皇あたりか?
ちなみに、最初の孝昭天皇の后は、世襲足媛尊とかいって
天火明命(ニニギ命の兄弟)の直系の子孫。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/page0018.jpg
三世紀以前に畿内にヤマトの地名があったか否かも今一つ根拠が
薄弱だし、古墳の年代も結構、匙加減が効いてそうだ。
中国の最古の史書って、漢王朝時代の史記で、
最初のほうの歴史は、登場人物の年齢が100歳以上続出で
異様に長めなんだけど、
現在の中国の歴史は、4000年以上ということなんだよな。
ずいぶん長めに歴史をカウントしている。
それにくらべたら、日本は健気だな。
中国式でやったら、
日本でも2000年くらいまで歴史として扱っても良いのに。
でも、日本は、そのへんは考古学としか扱っていない。
>>424 ヤマトは、山門と考えるのが自然なんだけどね。
邪馬台国=ヤマトって、読まないといけないって
中国人の学者さんが言っていたけどね。
なんで、ヤマタイって呼ぶんだ?って疑問を促していた。
都合の良い材料を寄せ集めただけの史観は全体の見取り図が
なくて、「○○○会」と一緒。保守史観ってのは大抵、その
程度だ。
>>422 マキ向は計画都市といった感じ。何もない場所だからこそ、新たに選ばれて造られた。
藤原京など後代の都のようでもある。環濠が見つからないことからは、非武装中立地帯
という感じもある。瀬戸内、近畿、東海、山陰等を巻き込んだ広範囲の争乱が終わり、宗
教・交易のための中心地とされた。他地域からの流入土器が多いのはそのためだ。
429 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:22:22
>>422 >唐子・鍵遺跡、纏向遺跡は重複期間がない。
>庄内式、布留0の頃にややかぶりなだけで、
>唐子・鍵は既に消滅しつつある。
なんだよ、この自己矛盾厨は。ww
かぶってるのなら重複期間があるんじゃないか、馬鹿。w
歴史がイデオロギーと表裏一体であるということは、歴史を
偏見なく見る努力を怠ることを正当化はしないぞ。
431 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:41:17
都合の良い材料を寄せ集めただけの史観は全体の見取り図が
なくて、「○○○会」と一緒。自虐史観ってのは大抵、その
程度だ。
遺跡に重複期間云々って、考古学の力だけじゃ
そんなの明確なこと分からんだろうがw
つーか、唐古・鍵遺跡周辺には、今でも
人が住んでいるわけだし、
今でも遺跡が続いているともいえる。
この前、フジテレビ見てたら、モモソ媛命の名前が出ていた。
今まで、纏向遺跡、箸墓の名称は出てきても
モモソ媛命の名前は出てこなかったのに。
>>428 纏向は都市じゃないよ。
都市を思わせるものは何も見つかってない。
祭祀跡ばかり。
>>432 唐古・鍵が三世紀後半に廃絶しているのは確定。
二世紀中頃から環壕が埋められ始めて、
二世紀末から集落内の遺構が激減してる。
纏向も四世紀後半に廃絶。
掘っても何も出てこない。
イデオロギー抜きで歴史を見るのは難しい。某国は大々的に檀君陵をねつ造した。発掘された
人骨が「電子スピン共鳴法」による解析!!で5000年以上前のものとわかったからだそうだ。
これは極端な例だが、国家レベルで教科書に載る歴史記述を書き換えたりしている国は、
世界では数多い。邪馬台国でもなんでも、好きなことを主張できる日本はずいぶん恵まれ
ていると思うが。
>>434 纏向遺跡は、まだ5%も掘ってないだろう?
唐古・鍵から人がそっくりいなくなるわけない。
要するに、ただの農村になったんだろう?
>>435
某国は、中国に目の敵にされているから
そんなことしても、信じてもらえん。
偏見を排除する訓練もない歴史研究者の話を真面目に聞く奴は
いない。代わりにアンデルセンのお話でも読むさ。
>>434 見解の相違があるようだな。寺沢氏のマキ向都市論もあるし、現在の東京都心だって実際に
そこで生活している人はほとんどいない。なぜマキ向が研究者からムラやクニと呼ばれない
かをもう少し考えるべきだ。
>>436 こんな広い地域の5%も掘っている遺跡は纏向の他にないよ。
それなのに特殊性が極めて高いことが分かっている遺跡。
竪穴式住居が出ないってのは考古学者のほぼ全員が認めてる。
飛鳥時代以降なら出てますが。
>>439 寺沢は畿内論の考古学者の中でも結構変った考えの人。
東田の古墳群の箸中山古墳への先行をほとんど認めない
纏向型前方後円墳が前方後円墳の始まり (最近2タイプありに持論を修正)
など。卑弥呼共立に伴う纏向都市化という推理に執着しているからだと思う。
九州説で商売してきた人たちは
ある意味、失業状態になる。
今から、方向転換しておかないと大変なことになる。
ちなみにオフィス街も、宮も出てないよ、纏向からは。
今回の発掘でも宮殿と騒ぐ向きもあるが、
出て来ているのは縄文時代の大型建物にも劣る掘っ立て柱跡だけ。
唐子・鍵、吉野ヶ里の環壕内の柵の方がずっとりっぱ。
安本さんが、2ちゃんでは邪馬台国九州説が強いとかいって
畿内説学者を批判して力説していたには
しょうじき、笑ってしまった。
そこまで追い詰められているのかと...
>>441 邪馬台国は科研費を得るための方便になっているからね。
もしかして、安本とか九州説で商売していた人って
2ちゃんねるに常駐していないだろうな。
畿内説の考古学のえらいオッサンは、
HPすらもっていない先生がいるのに。
>>444 なるほどね、邪馬台国九州説はビジネスになっているんだね。
たしかに、歴史ミステリ小説とか書こうと思ったら
九州説のほうが、ロマンがあるというか
畿内説で面白い小説を書こうともっても
なかなか、面白い話は浮かんでこない。
本居宣長や新井白石だって悩んでいたに違いない。
社会通念として歴史とは客観的な事実で、作り話であっては
ならないという点について異論はないだろう。胸を張って「これは
歴史ですがフィクションです」と宣言する歴史家はいない。
>>445 > もしかして、安本とか九州説で商売していた人って
> 2ちゃんねるに常駐していないだろうな。
つ「いつもの東遷説の人」
>>446 科研費をたくさん使っているのは奈良の研究者だけどね。
発掘とか、科学調査とか。
451 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 11:53:07
>>445 サガミハラハラもこれの部類にはいるのかな?
佐賀で金印が見つかったのは宣長が古代外交史を書いて
邪馬台国を九州王朝だと判定して間もなく。
保守派のおとぎ話に付き合わされたくねえよ。
吉野ヶ里の発掘初期の頃からすれば、九州説というより古代史そのもので商売が成り立た
なくなってきている。書店の新書欄にいっても、歴史関係のものはずいぶん少なくなった。
時代そのものに余裕のなさを感じるな。
吉野ヶ里は、貴重な遺跡が消滅しそうになったから、
邪馬台国の名前借りただけだよ。
その宣伝した人の中には畿内説の人もいた。
凄くいい仕事したと思う。> 保存に尽力した人たち
いまでも吉野ヶ里=邪馬台国な人は異常だと思うがw
バブル開発がなくなった→新巨大遺跡が見つからなくなった
ってのも大きいと思う。今は都会の再開発ばかりだから。
伊都国の辺りだろ。ブームの頃はメディアは邪馬台国のヤの字も
出してなかったような気がする。
ってか九州説を強調することがなかっただけかな。
井沢元彦の歴史ミステリの書き方の本を読んだことがあるが
詐欺師的テクニック満載つーかw
まあ、歴史小説とか歴史読み物は、これでいいんだなとは思う。
で、もうひとつ気がついたんだが、古田史学の古田さん
彼の手法も、推理小説のテクニックそのまんまw
実際に古田さんは、ミステリ小説のファンで
内田康夫の探偵小説シリーズで人気の浅見光彦に
謎を解き明かしてもらいたいって言っていたなw
まあ、内田さんは浅見光彦シリーズの「箸墓幻想」で
纏向遺跡のほうを支持するような回答をしてしまったがw
あと、司馬遼太郎も、ミステリ小説の手法だよな、あれも。
筑後川挟んで対岸が邪馬台国でさ。
九州北部から陸行一月、西周りで水行十日。
井沢氏の「逆説の日本史」シリーズなんか、そのテクニック満載だな。明らかに自分で違う
とわかって書いてる部分も多いと思う。まあ、よい話もあるが。このスレであれをそのまま信
じる人はいないだろうが。
>>457 司馬遼太郎は邪馬台国はほとんど語ってないんじゃない?
彼は人間しか興味のない人でしょ?
自分の近代的な人間観で歴史を見直すことしか。
それから詐欺的手法に長けているのはむしろ学者の方で作家は下手。
ただし扇動的な熱気を帯びた文章を書くのが巧い。
基本的に仮想敵を作るというだけのことだが。
一番の大家は梅原さんか?
>>460 司馬遼太郎は邪馬台国とかは殆ど関係ない。
が、彼の書く歴史読み物の手法も
小説家が書くような手法をとりいれている。
>>461 > 司馬遼太郎は邪馬台国とかは殆ど関係ない。
> が、彼の書く歴史読み物の手法も
> 小説家が書くような手法をとりいれている。
司馬遼は小説家ですが・・・
スルーしてやれよww
確かに梅原氏はうまいと思うが、あれが内田康夫氏のフアン層に通じるうまさか?
偏見だな、スマソ。
>>462 まあ、歴史作家だよね、司馬遼太郎は。
井沢元彦は、江戸川乱歩賞でデビューだが
その後、小説は殆ど書いてないな。
到着を至着って書くと、はたかれんだぞ。
卑弥呼=モモソ媛説を最初に唱えた学者って誰なんだ?
468 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 12:59:38
畿内のはずない。
ヤマトの名は本家九州から頂いたの!
だたし、邪馬台国とは一系として繋がっていない。
九州説だからと言って神武以後の話の中に九州時代の伝承が
織り込んである可能性を全否定する必要まではないが、余程、
慎重に取り扱うべきだな。
470 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:06:08
なんで慎重?
考えなんだからいろいろ出して検討するべき。
出す前に慎重にする必要がなぜあるの?
畿内説のほうがよほど慎重ではない。
日本書紀は神功皇后説?じゃないの。
┃ 魏志倭人伝、行程斜行式読み
┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
┃南東陸行 五百里
┃ 東行 百里 ┏━━━┓
┃ ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
┗━━━┃伊都国┃ ┗━━━┛
┗━━━┛━━┓
┃ ┃ ┃東南 陸行百里
南 水行十日┃ ┃ ┃
南 陸行一月┃ ┃ ┏━━┓
┃ ┃ ┃奴国┃
┃ ┃ ┗━━┛
┏━━━━┓┃
┃邪馬台国┃┃
┗━━━━┛┃
┃南 水行二十日
┏━━━┓
┃投馬国┃
┗━━━┛
>>467 その前にもいるんだけど、有名にしたのは笠井新也氏かな。卑弥呼の墓ー箸墓説
投馬国ー出雲説も出してる。まあ、みんな知ってると思うけど。
475 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:37:12
>>469 >九州説だからと言って神武以後の話の中に九州時代の伝承が
織り込んである可能性を全否定する必要まではないが
九州説は否定じゃなく肯定じゃないの?
>>472 大和南部の話はほとんど盛り込んでないよ。
477 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:47:03
>>422 >唐子・鍵遺跡、纏向遺跡は重複期間がない。
重複期間はあります。
>纏向はかなり特殊な地域。弥生時代の遺構がほとんどない。
特殊な地域というのは同感ですが、第135次調査(箸中平塚古墳南側)では、
埴輪片包含層の下層から、後期後半頃(2世紀頃)の弥生土器を含む溝が出ています。
JR桜井線をまたいでホケノ山古墳から当方は、まだほとんど調査の手が入ってなく、
纏向古墳群箸中支群の現状を見ても、土砂による埋没が深い状況がうかがわれます。
>>434 >纏向は都市じゃないよ。
>唐古・鍵が三世紀後半に廃絶しているのは確定。
纏向遺跡5パーセント未満、唐古・鍵遺跡は8パーセント程度という発掘の状況ですから
断定的にものを言うのは避けたいと私は思います。
>>440 >…纏向…
>竪穴式住居が出ないってのは考古学者のほぼ全員が認めてる。
>飛鳥時代以降なら出てますが。
第112次調査(箸中ビハクビ古墳下層)、また第138次調査(箸中地区扇状地上)で、
古墳時代前期前半の、つまりいわゆるマキムク時代の、竪穴式住居が検出されています。
太田や東田でもそれらしいものが出ています。
ウソを書かないでください。
改定 魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる)
┃渡一海千余里「至」
┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
┃南東陸行 五百里「到」
┃ 東行 百里「至」 ┏━━━┓
┃ ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
┗━━━┃伊都国┃ ┗━━━┛
┗━━━┛━━┓
「至」 ┃ ┃ ┃東南 陸行百里「至」
南 水行十日┃ ┃ ┃
南 陸行一月┃ ┃ ┏━━┓
┃ ┃ ┃奴国┃
┃ ┃ ┗━━┛
┏━━━━┓┃
┃邪馬台国┃┃
┗━━━━┛┃
┃南 水行二十日「至」
┏━━━┓
┃投馬国┃
┗━━━┛
479 :
477訂正:2009/03/28(土) 13:50:40
>>477訂正
JR桜井線をまたいでホケノ山古墳から当方は(×) → 東方は(〇)
>>476 見解の相違があるようだな。
書紀は魏志倭人伝の中の卑弥呼・台与に関する記事を引用しており、江戸時代までは卑弥呼
は神功皇后だと考えられていた。
これ以外の全般的な記述からは誰に比定しているかなどとてもいえない。
トヨタン・・・・・・・・・・
>>480 それは、あの日本書紀の年代で神功皇后が一番近かったからだろう?
でも、古代の日本は暦の数え方が違っていたみたいだし、
そういうことを考慮せずに、日本書紀の編纂者が卑弥呼を誰か探したから
卑弥呼と台与の二人の女王を、神功皇后一人に合わせるというおかしな記述になった。
>>482 頼むから2倍年暦とか持ち出さないでくれw 書紀の神功紀は確かにおかしな部分だが、
かといって百襲媛=卑弥呼 比定は全く読み取れない。
マキ向が都市かどうかは、都市文化論を含んだ議論なのにな。
>>483 古代の暦って、何も日本に限らず
世界中どこでも、最初から四季で1年とカウントしていたわけではない。
>>484 熱帯地方とかではあるよ。スマンがその議論をする気はない。過去スレに「太国」という人
とクソ長い議論をしたのがあるから、よかったらそれを見てくれ。
486 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:28:33
そもそも前方後円墳は円墳と方墳の融合。
異族の融合。百済と新羅とか。
弥生人の最初の墓はようかん式、これは南方の倭人の遺跡。
卑弥呼の時代は巨石、その後土塚式棺有の古墳、殉死者も。
装飾石人古墳は肥国から八女、石人石神は肥国から近畿。
博多湾一帯は古いものは円墳、方墳あり。
方墳は出雲から北陸地方。
近畿は前方後円墳のみ。
東征は出雲神話もあることから主に九州、出雲の東征の二つがあって、
書紀はその融合と考えてみた。
もう一つの神は倭人の神。こうやの宮のご神体参考。
腕に月と日の輪を付けているので神。
全部で三つ。
488 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:33:40
それと博多湾には前方後円墳が何代にもわたって同じ地区にある。
ここが前方後円墳の発祥かも。
489 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:43:34
大きく分けると、イト国、邪馬台国+狗奴国、倭人の3つの構成。
先住民の毛人(ツングース族)らを差し置いて。
毛人は東国で混血化してその勇猛さから兵として徴収された。東国人。
防人などへ。
>>488 前方後円墳の発祥地は紀元2世紀の纏向遺跡。
そこから、日本全国に広がり、北九州には紀元4世紀に登場している。
そして、紀元5世紀後半になると、朝鮮半島南部に出没、
紀元6世紀前半に朝鮮半島南部まである。
ちょうど、任那日本府の時期と重なる。
491 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:44:54
東遷説は、邪馬台国九州説なら可能性の高い帰結になる。
邪馬台国九州説の場合は、邪馬台国のその後も考えなくてはならないから。
まず、国名。邪馬台→大和。それに卑弥呼も倭王、後の大王も倭王。
なにやら連続性がある。
記紀にも、神武東征があり、それをうかがわせる。
文化的にも九州との連続性がある。
吉野ヶ里では墳丘墓が見つかっているが、あれなんかは首長墓の原型かも
知れない。
また、弥生時代、奈良盆地は辺鄙なところだった。それが突然のように
大和朝廷の拠点となる。他の地方からの移動を考えやすい。
銅鐸の製造・祭祀の終焉も大きな変化をうかがわせる。
邪馬台国連合は、30カ国余。これだけの連合を征服するだけの勢力が
他の地域には認められないし、仮にあったとしたら、伝説的な大戦争に
なったと思うが、それをうかがわせるような伝承が残っていない。
そういうわけで、明治の終わり頃から、邪馬台国九州説を考える人は
だいたい東遷説を頭に描いている。
492 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:45:37
マキムクの古墳は前方後円墳だから6世紀位〜。
もう、九州説論者あわれ。
494 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:59:16
肥国に前方後円墳
装飾、石人の融合古墳があるということは、
肥君がイト国を継承した可能性がある。
483で書紀の 百襲媛=卑弥呼説を否定したけど、
箸墓の造営が、最初の巨大古墳の築造として詳しく描写されているのは不可解。
正式には 「倭迹迹日百襲姫命大市墓」であり、「陵」ではない。天皇・皇后等でもない
人物の墓なのに。
>是の墓は日は人作り、夜は神作る。故れ、大坂山の石を運びて・・・
「昼は人が作り、夜は神が作った」の部分は、みるみるうちにできていく様子を表すのだ
ろうか?。
一方、建設会社大林組の箸墓造営についての試算では、古代工法を用いた場合、
一日8時間、月25日作業したとすると、毎日500人働いた場合は12年、毎日千人働くと
その半分の6年かかるとなっている。これで、延べ170万人の作業員が必要である。
この試算の正否については、土木の専門家wではないので何とも言えないが、まさか、
作業員が長距離を通勤してきて作っているわけではないと考えられ、多くの人々の食住
をまかなうための設備はどうしても必要だったはずである。マキ向の発掘はまだ確定的
なことが言える段階ではないが「庶民の住居跡が出ていないから、都市ではない」と
いった幼稚なレベルで考えるべきものでもない。
496 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 15:49:32
大宝律令の庸の部分で大勢が地方から集められた。
藤原京の木簡にもある。
都市には違いないけど、
土着の民は少なかったってこと。
だから竪穴式住居が少ない。
集められた人々は地べたに寝てたわけではないだろう。まだまだわからない、ということ。
498 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 16:10:14
それに普通、墓に囲まれて暮らしたくないでしょう。
マキムクは墓地だよ。みんな同じ方向を向いているんでしょ?
マキムク古墳群のなかに集落なんかあるはずないよ。気分悪い。
学者は何考えてんだろう。一般人とは思考形態が違ってるね。
庸の辛えとこは手弁当だったってことだ
労役中の飯は持参しななければならない、だからマキムクからも地方の様式の器が出ているわけだろ
寝泊りするタコ部屋は、土手に棒切れを立て掛けて茅葺にしたビバークテントくらいで十分
俺は畿内説だけど、今の日本の考古学会はどうかと思うぞ。
京大では九州説は存在しない、当然東征説なんて言語道断、
西都原の纏向型前方後円墳が3世紀前半の可能性があるなんて、
宮崎大のやつらが言い出した時は、空気読めよって感じだったしな。
もうちょっと如何にかした方がいいと思うけどね。
>>498 いや同じ方向は向いてない。
それから弥生集落の多くが墓に囲まれて暮している。
503 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 17:03:03
そのころの、道なき道を歩いてまで行くか。
海の近くに、邪馬台国あったと思うよ。
上陸先から、半径10キロもあれば十分じゃないの。密林じゃなかったの。
504 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 17:09:36
まあ墓に”囲まれている”ってのはあまり思い当たらないがw
それでも墓と集落が隔絶した距離にある例と言うのも知らない。
「纏向には宮が無い」としたらそれはそれで画期的な事になるだろうwww
505 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 17:24:06
>>491 >吉野ヶ里では墳丘墓が見つかっているが、あれなんかは首長墓の原型かも
>知れない。
北墳丘墓のことかな?
確かあれは甕棺が14基以上出てきていると思うが…
そもそも九州の墓制でその墓域内で祭祀を行うなんて物があったのか?と言う話で
それが九州以東との埋葬文化の違いだと思う。
単なる大きさだの被葬者が複数か否かだのの違いではなく
(前方後円墳とて複数の埋葬が行われていた例もある)
墓というものの”コンセプト”が違う。
>文化的にも九州との連続性がある。
銅鏡のことを言っているのなら
特殊器台の吉備も
葺石の出雲も
その墳墓の形の類似で阿讃も東海も
その連続性を主張できるって話だなw
そもそも大陸半島の文物は九州に入ってそこから東へと伝播するのは
当たり前の話であって、副葬品の銅鏡をもって(先述の埋葬文化の差異も無視して)
東遷説なる物をぶち上げるのはもうお笑い話というしかないwwwwwwwwww
506 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 17:36:48
マキムクは桜井、目と鼻の先の橿原には藤原京。
都は藤原京だ。
マキムク古墳の時代考証がそもそも間違っているのだ。7世紀〜
藤原京以前には飛鳥京で同族の分家が住んでいたと思う。
藤原京は九州から来た勢力が建てたと思う。
そうすれば、整然と筋が通る。
507 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 17:42:33
近畿には九州の分家が先に来て都を作っていたと思う。
そこで国譲りがあった。
ただ、同族だとは思うけど、中で新羅系、百済系も存在したと思う。
>>507 そんなこと、どこの文献にも書いていない。
勝手に空想物語を作るなよ。
>>507 というか、国譲りの前って
高天原の近くに木国があるんぜ。
高天原=葛城だよ。
510 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:07:46
中国史書と古墳が語っている。
日本の文献には直接こうだとは書いてないけど、
比較的良心的に書いてあるなあと思う。
マキムクは市と崇神らの墓地
政庁は北の布留遺跡
火明系の物部の墓は布留にある
>>511 あんまり言いたくは無いけど
火明系で重要なのは尾張氏だと思う。
物部氏は有名だから、すぐニギハヤヒと火明の同一神論で
物部氏の名前があるが
本当に重要なのは、尾張氏のほう。
熱田神宮が、古来から、出雲大社、伊勢神宮とならび
権威があった理由は、注目に値する。
出雲国譲りの条件って、すごい気になるんだわな。
実は、これが、後の倭王の正当性に影響していたとね。
この出雲国譲りの条件に、尾張氏じゃないと駄目な
条件があったのでは?と。
それをニニギ系である神武皇統が破ってしまったと。
尾張氏の本拠ってどこなんだ?
もと奈良にいて東海・関東に下った氏族と思うのだが
514 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:52:52
それから「銅鐸・銅鏡」の話で付け加えておくと…
東遷厨はどうもはっきり言わないんだがw
東征勢力によって広められた最初の銅鏡ってどのタイプなんだ?
常識的に考えて画文だろうが
画文の初期の物が九州に分布すると言う話も聞いたことが無い。
それから年代も三角を魏鏡の前提で3世紀前半が目一杯と言うところか。
無論九州説を中心に反論も多いだろうが
3世紀初頭にもっていくのは結構苦しいだろう。
加えて銅鐸の終焉時期を3世紀にまで持っていくのもどうなのか?
無論纏向で破壊された銅鐸片も見つかっていたりするが
大方は3世紀より前ではないのか?
(ちなみにWikiだと2世紀となっているが…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8 >なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。)
銅鐸と銅鏡が入れ替わるように…と言うのはかなり難しいと言わざるを得ないwww
515 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:57:45
Q1.唐古鍵はマキムクに先行する遺跡ですが、唐古鍵を支配していた王族の墓とか
宮殿跡ってまだ出ていないのですか?
Q2.唐古鍵とマキムクは並存していたのですか?
Q3.マキムク石塚やホケノ山などの最初期古墳の被葬者は
どういう性格の人ですか?卑弥呼との血縁関係などはあるのでしょうか?
Q4.マキムクには平削されて消滅してしまった古墳が多数あるそうですが、
どの時代のどういう規模の古墳があったのでしょうか?
Q5.マキムクの少し北には馬口山などの石塚並みに古い3世紀の古墳が
点在しているようですが、これらはマキムクの王とは系統が違うの
でしょうか?
516 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:06:04
出雲には方墳しかない。
方墳とは中国の古墳の型。
新羅が昔辰国といったように、秦人の住む地域だから方墳は新羅系だと思う。
九州のタリシヒコが秦王国にいたが、イト県主は新羅の蔚山のヒボコというのは
まんざらウソでもなさそうだ。
九州では円墳石人遺跡(カヤと百済の融合)と方墳が融合して前方後円墳、イヅモは方墳の新羅系。
イヅモ神話もあることだし、政治に強くかかわっていることは確かだ思う。
517 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:20:00
北部九州説の女王以北の国の否定ってどうなん?
518 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:21:34
円墳石人遺跡じゃなくて円墳石人装飾古墳ね。
円墳石人が百済系、装飾はカヤ系の倭人。
馬韓やカヤにいた倭人が鉄と馬の文化を吸収し国を作っていた、
そして百済系と融合した。
邪馬台国と狗奴国の融合。邪馬台国は百済系だと思う。
力関係はカヤ系強。
肥国から八女の円墳装飾古墳は倭人が書いた絵。
あの地方独特のもの。
江田船山古墳などの前方後円墳は除く。
519 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:31:00
>馬韓やカヤにいた倭人が鉄と馬の文化を吸収し国を作っていた、
そして百済系と融合した。
少しはしょってしまった。書き直し。
馬韓やカヤにいた倭人が鉄と馬の文化を吸収し九州に国を作っていた、
邪馬台国の百済系と融合した狗奴国だ。
>>518−519
もういい加減に、トンデモと卒業しようぜw
纏向遺跡の研究の成果で、そんなトンデモ説は
まずます追いやられているのにw
521 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:36:48
>Wikiだと2世紀となっているが…
2世紀とするのは、倭国大乱を2世紀末とみることと連動しているんだよ。
埋納時期なぞ正確なところは分からないんだ。
福永は、「突線紐式銅鐸の生産が停止する暦年代は2世紀末と考えられる」
「画文帯の流入はほぼ200年すぎにはじまった」「国産大型青銅器の生産
終焉、画文帯神獣鏡の流入が短い時間の中で展開した」としているよ。
>>513 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 18:28:00
>尾張氏の本拠ってどこなんだ?
>もと奈良にいて東海・関東に下った氏族と思うのだが
もともとは葛城地方の高尾張邑の出身じゃないのか?って。
尾張氏というか、天火明命に倭王の正当性があったのは、
彼の后が、出雲大国主の娘で
その間に、天香語山命という大和三山の名称を思わせるような人物がいる。
実は、播磨国風土記に、出雲国譲りの記述があるんだわなw
そこには、父神・大国主が、子神・火明命に降参する話がある。
二人は、他の文献では親子ではないのに、なぜか、
父親が子に降参する話が登場する。が、他の文献をよむと、義理の親子の関係だった。
つまり、出雲国譲りの実態は、
大国主が、娘婿の火明命に降参する話なんだわな。
で、その条件は、自分の娘と火明命との間に出来た子孫に
倭王の座を継承させていく話のように思えるんだ。
出雲国譲りとは、畿内を譲るという事? 出雲を譲るという事?
なんか、邪馬台国の話から
すごく脱線気味。
いや、全く関係ない分けないのだが...
>>523 「出雲国譲り」とは、大和と出雲の合一。
大和は強大化し、出雲はそれに対抗できなくなっていた。
出雲の大国主命は王女を、大和の火明命に嫁がせ
その間にできた子へと皇位が受け継がれるという条件をつけ
大和による出雲の平和的な吸収合併を認めた。(播磨国風土記参照)
出雲王家(首都は、出雲国意宇郡)
大国主命──天道日女命
│
├─香語山命─村雲命
│
┌火明命
│
忍穂耳命┼
│
└ニニギ命─(2代略)─若御毛沼命
(日向・高千穂家) (神武天皇)
大和王家(首都は、大和国葛城(高天原))
だからこそ、畿内王朝では、
この出雲国譲りによる畿内王朝の天下統一から
高天原神話だけではなく、出雲神話の記憶も重視した。
そして、この系図からみたら分かると思うが
神武皇統は、一応、火明命の兄弟の家系だから、親戚ではあるが
この出雲国譲りの経緯から行くと、その正当性から外れた家系なわけで。
ちなみに、もともと天武天皇が女神アマテラスを祭るまでは
王朝の始祖は、男神アマテルだったもよう。
そして、このアマテルこそ、天照国照彦・火明命のことである。
崇神天皇が、なぜ、天照(実は火明命)と大物主(大国主か?)の
祟りを恐れたのか分かるというものw
527 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:03:00
>>521 今、改めてみたら岡村の編年で漢鏡7期第2段階画文帯環状乳神獣鏡をAD180年頃としているなw
年代については畿内説の中のもので組み合わせれば不可能ではないと言うことなのかな?
ただその話だと3世紀中頃 南九州の邪馬台国と大和纏向は並存していたと言うことで
邪馬台国東遷説じゃなくて奠都説か・・・
南九州邪馬台国と大和纏向の関係は江戸と京の関係か?
だったら畿内と南九州で同じぐらいの画文の出土があってよさそうな物だが
九州に限っていっても北部に集中しているんだよなあwww
528 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:08:46
>>523 でも、出雲国風土記には国譲りなんて無いんだぜ
書紀に見る、崇神が出雲の伝国の神宝をヨコセって言った時に
兄が抵抗して弟がとりあえず従おうとして殺された辺りが
国譲りの真相じゃね?
>>527 というか、纏向遺跡の時代は、ヤマトトトヒモモソ媛命の時代だから
神武天皇の時代とは関係ないと思う。
しかしながら、当時の纏向政権では、日向が特別な地として
神聖化されていたのも事実だと思う。
だからこそ、あんな飛び地だけ、前方後円墳が
マキムク以外の土地では、一番早く登場したのだと思う。
それが、ヤマトトトヒモモソ媛命の祖先が
日向にいたことがあったとw
530 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:12:15
邪馬台国は宮崎
これ不動。
532 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:15:40
神話の話をしてもわかりずらい。
推測でいいから、現実に沿った話をしてもらわないと。
>>525 そこで分かるのは、出雲国譲りで、
大国主は、娘婿の火明命に国を譲ったと。
そして、倭王の座には
火明命、香語山命、村雲命というふうに継承されていったと。
一方、ニニギ命の子孫たちは、日向で知事。
でも、若御毛沼命(神武)が、東征して、
畿内本国に駆けつけたと。
534 :
527:2009/03/28(土) 20:22:00
まあ改めて書いておくと
銅鐸祭祀を終わらせ銅鏡=画文を畿内に広めたのが東征勢力と言うお話は
当然、卑弥呼の時代の鏡は画文ということになり(まあ三角でも良いがw)
その画文が南九州に殆ど見られない事が、南九州に邪馬台国の存在をかえって困難にさせると言う
一種ジレンマだなwwwwwwwwww
535 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:29:13
まじめな話なんだけど、おまいら本当に
大国主とかニニギ命とかアマテラスとか火明命とかが
実在したと思ってるの?
536 :
Y・M・O 風にw:2009/03/28(土) 20:29:59
スサノオとかアマテラスって、どうみても
神話の作り話だろうなw
でも、忍穂耳命ぐらいからは、本当の話じゃないの?
だいたい、日本書紀では、神武以前は神話という風になっているが
古事記のほうは、神話と現実の境界線がないわけだし。
538 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:33:54
神話を分析するだけで終わりではね。
いいたいことを神話から分析するのは結構だけどそこから導かれる現実の推測が不足。
中途半端。
現実の世界は神話じゃないんだから。
>>504 それ解る、今でも田舎に行くと
家のすぐ裏に墓なんてとこもザラだしなw
>>525 まあ、その系図は凄く分かりやすいけどね。
なるほどとは思った。
その系図を見れば、出雲国譲りと、畿内王朝の正当性とが
瞬時に分かるというか...
まあ、よくも、そこまで見抜いたな。
>>539 ところによる。うちの母方の田舎は、
墓の周りを住宅が囲んであるw
しかし、うちの父方のほうは、集落から離れた寂しい場所に
墓がある。
>>525 >>526 >>533 なるほど、紀記の言葉の綾を解きほぐす様な名論です
では、神武に王位を奪われた正当の流れが尾張氏となる訳ですね
尾張氏はその後、畿内を離れるのですか?
そして熱田神宮との関係は?
さらに、天村雲剣を御神体とする事とのかかわりは?
さらに、天村雲剣が日本武尊に降され、東国平定へと向かう意義は? その時の尾張氏の動きは?
543 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:41:09
その系図は表面だけさらったもの。
なんの意味もない。
>>534 北九州を窓口として画文が流入したのは、北九州が大和の卑弥呼共立に一枚噛んからだとして
そのまま参加し続けたと思うか?いわゆる「一大卒」に厳しく統制されていたとしても・・・
>>542 天火明命から三代目の当主が天村雲命という。
もろ、三種の神器の名前の当主w
天火明命の子孫がいつ、葛城から尾張に落ち延びたかは分からないが
たしか、孝昭天皇の后の世襲足媛尊が
天忍男命(天火明命から5,6代目ぐらいの当主?)の娘で、その間に、
天足彦国押人命と
日本足彦国押人尊(孝安天皇)の
二人の皇子が誕生している。
おそらく、母系継承で、この天足彦国押人命に
天忍男命の次の倭王(祭祀王)の座を継承させようとしたのでは?
それで、争いが起こって、倭国大乱になったと。
ちなみに、もう一人の子の日本足彦国押人尊(孝安天皇)の方は、
神武皇統が受けついできた政事王の座を継承させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2:Emperor_family_tree_of_Japan_1-10_(ja).svg
ちなみに、欠史八代の天皇では、後世、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇と
「孝」の字がつく天皇が、立て続けに四代続く。意味深だわなw
そして、最後の孝元天皇の兄妹が、ヤマトトトヒモモソ媛命(=卑弥呼か?)
もしかしたら、この「孝」の字がつく4代の天皇の間に
倭国大乱があり、ヤマトトトヒモモソ媛命に倭王(祭祀王)の座を継がせる
ことによって終結したのかもしれない。
ちなみに、その後も、神武皇統の当主である欠史八代の天皇は
政事王の地位だけを担当し、崇神天皇の代ではじめて
政事王と祭祀王の両方を兼ねるようになったのかもしれない。
>>542 たぶん、ニニギ命の後胤が全てを掌握するのに反対する勢力は
まだ各地にいたんじゃないの?
で、各地でたえず反乱があったと。
そんな中で、火明命の後胤たちと和解するしかなかったと。
それが、熱田社の尾張氏の娘とヤマトタケルの婚姻の話にも繋がる。
結局、神武皇統は、その後も、ある程度、熱田の尾張氏のことに対して
ある程度、敬意を持ち続けたのでは?
実際に、神武皇統内で継承争いが起こると、
神功皇后、継体天皇、天武天皇と、かならず
尾張氏の支援があったほうが勝ちつづけている。
しかし、それを良しとしない神武皇統の当主が現れた。
それが、大海人皇子(天武天皇)だったと。
彼は、尾張氏一族で配下の大海氏に養育され
壬申の乱では尾張氏に軍勢で勝利できた。
しかし、やがて、尾張氏が目障りになったと。
だからこそ、天武天皇は熱田社の天村雲剣をなかなか帰さなかったり
嫌がらせをし続けたと。
547 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:06:26
なんか邪馬台国に全然関係ない話ばっかりだな。
後世の話でも邪馬台国にどう関わるか説明があればともかく・・・。
548 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:08:10
>>545 あなたの文は独りよがりの文だね。
畿内説ありきで語っている、自己満足型。
意味が通じないし。
頭ん中の自己完結型。
549 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:10:41
550 :
549:2009/03/28(土) 21:13:24
ただ、2ちゃんに書き込まずに
自分のHPで主張するなり、図でもっと分かりやすくするなりしたほうが良い。
自己完結型とかいう意見もある。
しかし、その意見だと、今まで謎だったことが見えてくるのも事実。
>>549 今このスレ読んでたやつみんなあきれたぞ
552 :
527:2009/03/28(土) 21:23:24
まあ
>>527で言った岡村の編年や年代観を飲んでも
九州北部なら「偽僭説」かその亜流なら別に齟齬をきたさないw
表向きは畿内ヤマトを中心とする首長連合の一員として参加しつつ
魏に対し倭国王として朝貢、言わば面従腹背と言うところか?www
日向とか南九州はまあ無理だなwww
自分は邪馬台国九州説だが、それは神武東征に拘りがあるから
それを支持しているんだけど、
>>525-526 >>531 >>533 >>545-546 だと、まあ畿内説でもOKかなと思えてきた。
ただ、話が出来すぎている。
たしかに、その説は、全てが繋がってくるが
逆に全てが繋がりすぎて、そんな上手い話があるのか?と思う。
まあ、今後、ゆっくり検証したい。
まだ、判断を下すのは、時期尚早。
554 :
544:2009/03/28(土) 21:26:27
むしろ240代あたり一回離反したと考えれば、東・南九州の初期古墳やら、マキ向の流入
土器の状況やらすっきりする気がするんだが、考え過ぎか?
古事記の神武東征の行程は、妙にリアリティーある。
邪馬台国の話は別として、日向は何かやらかしてると思う。
556 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:36:27
>>534 思考力がないな。画文帯は2世紀末か3世紀初めには始まるんだ。
しかし、その時期には、邪馬台国はまだ東征はしていない。倭人伝に東征した話
なんぞはないからね。南の邪馬台国の前に、別の勢力が銅鐸を滅ぼしたんだよ。
557 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:38:39
自分は邪馬台国九州説だけど、神武東征に関りなくても
支持している。
皇国史観じゃないから。
559 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:47:06
>>556 いやいや思考力じゃなくて妄想力だなw
え?
今度は邪馬台国とは別の東征勢力?
妄想は何処までも広がりんぐwwwwwwwww
話が分かっていない様だが
どの道、卑弥呼の時代の鏡を画文以降と認める限り
邪馬台国があったはずの南九州には鏡が回ってこなかったと言うお話になるんだぞ馬鹿www
560 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:50:50
戦前の神武東征の皇国史観より更に純国粋的な皇国史観かもしれない。
歴史修正主義者の類。
561 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:54:50
>>559 邪馬台国に鏡が回ってくる必要なんか何もないよ。
>>558 反皇国史観というよりも、日本国史観つーか...
日本のアイデンティティのよりどころを
神武皇統に寄せてないというか
神武皇統以前の日本の保守本流にもてめていて
それを尾張氏の先祖と出雲王朝によせているというか...
神武皇統も、尾張氏の傍系のような家系だから
まあ、全く別ではないが、でも、現在の皇室である神武皇統に対しての
至上主義を捨てているともいえる。
>>542 >>546 天火明命の子孫が祭祀王、神武の子孫が政事王?
そんな雰囲気の話は好きです
祭祀王というものの存在は、なにか文献に出てきますか?
その後も尾張氏は地方にあって、都の政局の節目には時々関わるんですよね、不思議な一族です
564 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 21:58:58
東遷説厨のアホどもへw
真っ当に東遷説なんてものを証明したければ
(1)九州に「邪馬台国」だか「高天原国」だか「日向大王国」だかしらんがそのような遺跡、考古学的資料を見つける
(2)ある勢力が瀬戸内海を東へ東へと移動した痕跡を見つける
(3)畿内に外部勢力が入ってきた痕跡を見つける
以上(1)〜(3)(発見される順序はどうでも良いが)が同じ勢力で
時代もほぼ連続であると言うことが証明されて初めて東遷説なんて確認できるもんだろうに・・・
神話に書いているから事実だと認めろと?
何甘えているんだカスどもwwwwwwww
565 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:02:08
>>561 なるほど・・・
銅鏡こそが東征勢力のシンボルだったはずなんだが
逆にそれが邪馬台国(南)九州説に不利になると気づいて
トカゲの尻尾切りに走ったわけだなwww
566 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:10:18
日向の遺跡を研究するんだな。サイキバとは格段にちがうぞ。
銅鐸の終焉、周溝墓とは異なった前方後円墳、鏡。これこそ東征の痕跡だ。
>>563 明確には出てこない。だから、歴史学的にはただの推測にしか過ぎない。
ただ、戦後、江波氏のような騎馬民族征服王朝説のような
文献には全く出てこないようなトンデモ史観が出てくるのなら
別にOKかな?と。
で、無理に解釈したら、最近いわれているように
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命としたら、魏志倭人伝によると
彼女は祭祀だけやっていて、実際の政治は、どうやら親族の者が行っていて
それが、崇神天皇の可能性が高い。
としたら、神武天皇〜崇神天皇は政事王(世俗王)と認識されていた可能性がある。
じゃ、ヤマトトトヒモモソ媛命の地位は何かというと
彼女が倭人伝のほうでは女王と認識されていたということは、
倭人伝に登場する倭王の地位が祭祀王だというのが、なんとなく推測できる。
じゃ、彼女が女王として共立される前に、倭国大乱があり、
その前は、一人の男の王の時代が数十年続いていたとなると
その倭王の座は祭祀王のことで、それは、おそらく、
欠史八代の天皇とは別の系統の王らしきものがいた可能性が高い。
祭祀王、政事王という考え方自体は
「古代海部氏の系図」金久与市
という書籍に出ているので、アマゾンか楽天ブックで購入されると良い。
もう、歴史に関心のない一般人は、卑弥呼の名前さえ知らない時代。
歴史の教科書も、不毛な邪馬台国論争や古代の天皇はスルー、
縄文時代、弥生時代、古墳時代は考古学的な記述に留め、
歴史上の人物が登場するのは、蘇我氏や中臣鎌足あたりからに
なるんじゃないのかな?
569 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:20:26
>>566 もう支離滅裂の日向説w
無論、前方後円墳には様々な要素があるが
その中で九州的要素として挙げられる鏡はそれが日向から持ち込まれたなんて成り立たない
・・・ってのがここまでのお話しだろうが?w
発想のレベルはサイキバ君と同じだなwwwwwwwwwwww
南・東九州の初期古墳は、卑弥呼共立連合と着かず離れずの北九州に対する牽制打と思うが。
571 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:36:46
>>570 そう言う話なら十分首肯できる。
そもそも「纏向型」の分布は畿内を中心としグラデーションを描くように広がっている
・・・なんてモンじゃない、政治的、戦略的に置かれているwwwwww
572 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 22:38:46
三国史記を読破すれば
答えは簡単にでるだろ
お前たちは勉強不足だ
>>571 マキ向から九州土器があまり出ないのは、やはり北九州が離反気味だったからだろ。
そう考えれば、4世紀の畿内形式土器や三角縁の九州流入状況も納得できるものがあ
るだろ。この時の大和=マキ向との南九州との繋がりが、5世紀あたり最盛期となる・・
まあそこまでは言えないとしても。
牽制打→牽制だ
邪馬台国は日向に合ったんだよwwwwww
天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向国を発ち、
大和を征服して橿原宮で即位したんだよwwwwww
575 :
573:2009/03/28(土) 22:52:10
南九州の古墳は、も少ししたら新しく訂正された推定年代が出るね。南九州とマキ向で
年代比べをしてもしょうがない。大局的にはなにも変わらないね。
>>573 日向の年代は分からないけど、マキムクよりも早くなることはないよ。
577 :
573:2009/03/28(土) 22:59:25
南九州から東遷したなら、なんでまつろわぬ隼人なんだよ。犬のまねしてワンワン泣いた
んだろ。
578 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:00:09
>>569 何を勝手に思い込んでいるのか、意味不明だな。
579 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:00:35
>>577 「隼人舞」だったかな?
今でも宮中行事としてやっているんだっけ?
581 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:06:00
>>580 いやいや何もやばくない。
そもそも比較対照が何で箸墓なんだよ?wwwwwwwww
>>580 卑弥呼に拘っているんじゃないの?
でも、たしか纏向遺跡で一番古いのは
箸墓じゃなったはずw
584 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:26:34
>>577 >なんでまつろわぬ隼人なんだよ。犬のまねしてワンワン泣いたんだろ。
そんな話に気をとられて、話の本筋を分かってないな。朝廷の警護を隼人に
まかせてたということは、隼人がもっとも信頼できるからだ。
本当にまつろわぬ者ならば、そんな者に警護を任せるか?寝首をかかれるだけだ。
隼にはクメールルージュの少年兵みたいなイマゲがあるが
忠実で勇猛果敢
586 :
573:2009/03/28(土) 23:34:54
だいたいいつ東遷したっていうんだ。前660ならあり得るかも知らんが、3世紀なら紀記
にも倭人伝にもないだろ。まあ、南九州はうまく立ち回って男狭穂塚の頃には大きな力を
得た。もう少し素直に歴史を見ろよ
587 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:37:28
>>586 誰も東遷なんて言ってないぜ。東遷なんぞ、する必要はないんだよ。
588 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:37:39
>>505 吉野ヶ里の北墳丘墓は、紀元前に出来ており、確かに数多くの甕棺が埋葬
されている。これは、王族の墓ということだろう。
祭祀遺構も確認されており、墓道、立柱、祀堂(供え物を捧げ、祈る建物)、
が復元されており、東祭殿と呼ばれるものが確認されている。
589 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:40:04
だからさ古事記を素直に読めば
神武は隼人族とヤマト族との混血だってば
590 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:49:05
>>588 話が通じていないなw
どんなに立派な祭祀施設があろうと墓域外にあるのは問題外。
言っているのは墓域内で祭祀があったかどうか。
吉野ヶ里で無くとも良い
九州でそう言うものがあったのなら教えてくれっちゅう話だよw
591 :
573:2009/03/28(土) 23:55:42
>>589 だからそれは古事記を素直に読めば前660のことなんだろw。三内丸山の状況を見れば、
倭人は縄文期から活発に移動していた。
銅鐸の埋納については、他勢力の侵入というより卑弥呼共立で「鬼道」を取り入れたんで
徐々にやめたんだろ。明日試合なんでもう寝る。畿内説の人あとはよろしく。
592 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 00:12:58
>>590 これらの施設は、一応、一つの区域となっているのだが、実際に見たことある?
それと、祭祀遺構にこだわるなら、他の地域にそんなのがあるのかな。
吉野ヶ里にえらく厳しいものを求めているようだが、他にところに古墳時代に
つながるようなものがあったら教えて欲しいのだが。
593 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 00:31:56
>>592 良くトレンチが縦横に掘られた写真なら見た事があるがw
四隅で墳墓の上で祭祀を行ったと考えられるとかは良く聞く話で
特殊器台・特殊壺は墓域内に置かれた祭祀用の道具。
「吉野ヶ里にえらく厳しいものを求めている」 とはどういう意味なのかな?www
594 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 00:48:22
595 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 01:18:26
>>590 どうだっていいことをごちゃごちゃ言ってるだけだな。
596 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 03:01:11
>>593 吉野ヶ里に行って来て、写真も100枚以上撮ってきたのだが、それによると
「北墳丘墓は、歴代王の墓であり、西には壕をわたって走る墓道。西側には
祖霊の宿る立柱と歴代王の祖霊にお供えやお祈りを捧げる祀堂があります。
ここは、吉野ヶ里集落を築き上げた祖先の霊を大切に祭る神聖な区域と
考えられています。」
「墓道は、北墳丘墓におまいりするための特別な道と考えられています。
この道は、外環濠の外から伸びており、周辺集落を含めたこの地域の国全体
の人が来た墳丘墓におまいりするための道だったと考えられています。」
まだまだあるが、実際に自分で行ってみてくればいい。きれいに復元されて
いるから。邪馬台国か?というのを実感できるはず。
高速料金も1000円になったことだし。
重要なのは、紀元前から王の墓が特別なものとして、作られていたという
ことだろう。
597 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 05:35:43
>>596 あーダメダメ。
ピンボケボケでアホ過ぎるwwwww
いいかなお馬鹿君
幾らその墳丘墓が立派で、近くにある祭祀場が立派であっても関係ないんだよw
豪華さ規模とか言った「量」のお話じゃなくてその構造「質」の問題。
アホ基準で咬んで砕いて、更にペースト状にして言ってやるとだw
「お墓」+「祭祀場」がセットになった物が九州にあるのかってお話
視覚的に分かるように
>>594でわざわざ四隅の例を挙げてやってんだ
いい加減理解しろよ・・・ったく。
結局のところ
「ぼくの かんがえた きゅうしゅうやまたいこくは ふるいだろ すごいだろ」
と言ってるだけのサイキバ君レベルだよアホwwwwww
598 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 05:41:50
まあ考えてみればリアルじゃあ副葬品の鏡を持って
東遷説言っている学者なんていねえだろ?w
実際には九州より出雲や吉備が重視されてんじゃねえのかね?
大雑把に言ってしまえば九州は墓の中身には拘ったが(副葬品)
九州以東に見られるような墓に付加機能(祭祀場)をもたせるような文化は持ち得なかったとwwww
599 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 07:54:38
畿内の弥生葬制たる周溝墓も墓に付加機能(祭祀場)をもたせるような文化は持
ってなかった。古墳が造られるようになって出てきたものだ。
600 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 08:02:45
>>599 勿論そうだよ。
外部からの影響を受けての話。
ただ、それが少なくとも九州じゃないだろうって話だなwww
601 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 08:52:35
九州でないとは言えんな。本当は、外部からの影響を受けての話だとも言えない。
古墳が大型化したことに伴う自然の発展かも知れない。
九州の古墳って沢山あるんだな。こういうのは情報格差から来る
完全な偏見だ。銅鐸は鋳型まで出てる。
603 :
573:2009/03/29(日) 09:38:50
箸墓だって、今みたいに木があるわけじゃない。造築当時ギンギンに目立ってたのは、
宮山型特殊器台・特殊壺、都月型円筒埴輪だろ。鏡の副葬だけで北九州の影響をいう
のは全然ムリだね。
近畿にだって古い後漢鏡はあるが、祭器として重要視されてたのは銅鐸、このあたりの
状況は俺もかなり自信ないが、卑弥呼共立にあたって「鬼道」なるものができるんで銅鐸は
すたれたんだろ。「ねー、あのムラまだ銅鐸やってるんだって、おっくれてるー。」破壊され
た銅鐸は、卑弥呼連合への忠誠心を表してるとかね。
「鬼道」の象徴になるのが鏡で、北九州を窓口にして画文を取り入れた。この部分は、影響を
否定はしない。岡村氏の画文の分布図をよく見てくれ。俺の言いたいことがわかる。
続き
北九州は奴国にしても伊都にしても古くからの王がいるんで、畿内を中心とした邪馬台国
連合とはやはり相容れない。後代の太宰卒につながる一大卒を置いてもだ。そこで邪馬台国
連合は東、南九州など徐々にまわりを固めた。
台与後、北九州は完全に離反し、大和朝廷になっていた邪馬台国はついに北九州遠征を
試みた。紀記でいえば景行帝の頃かな?上にも書いたがマキ向の九州土器流入状況、
4世紀の近畿式土器、三角縁の流入状況、はほぼ全部説明できると思う。
605 :
573:2009/03/29(日) 09:41:56
続き
九州古墳の推定年代は慎重にみたい。これまで地元地方新聞に「最古級古墳か?」「近畿
発生説に一石!」とか書かれて、あとで訂正されることもあったんで。まあ、偏見なしでみたい。
興味はある。ただし南九州古墳も、マキ向石塚(古墳とは書かないよ)より古くはならんよ。
南九州については、隼人の隼人の習俗として吠声(はいせい)・塗赭(としょ・顔を赤く塗る)・
犢鼻褌(とくびこん)があり、とても邪馬台国につながるもんではない。なぜ隼人=犬なのか
は神話系の人が調べておくれ。
俺の論がすべて正しいとはいわんが、南九州邪馬台国説よりはずっとまし、歴史の真実を
見ているww 長スレスマソ、反論を待つ。 (たてめ)
>>602 ほう、じゃあ正確な情報に基づき
今話されている
『 九州独自の祭祀場の機能を持った首長墓 』
を言ってくれ。
情報格差だなんだとか言ってないで情報発信してみようぜ?
大型墳墓の登場は中国大陸で前三世紀頃から造営が始まったんだっけか。
大型墳墓というのはそもそも祭祀場と一体だ。
608 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:01:43
>>607 言葉で濁して逃げるなよw
前方後円墳、前方後方墳なら円墳や方墳に祭祀場がくっついた形。
四隅突出墓はその上で祭祀が行われた跡がある。
墓域内の特殊器台や特殊壷は祭祀のツール。
・・・これだけ明確な物が九州にあるのかってって話。
畿内の周溝墓と前方後円墳の連続性を否定しておいて
機能面でも形でも共通項の無い九州の墳墓を
埋葬品の銅鏡のみを持ってあたかも両者が連続しているように言う。
本当に下らないな。
九州説と言うかこの板の東遷説の馬鹿どもはww
高句麗の同時期の墳墓なんて石造りのピラミッドだ。
土盛りの小山なんかじゃない。日本なんて僻地だ、お前ら。
東遷説の方々へ
九州から畿内にやって来た東征勢力は
甕棺は九州に忘れてきちゃったんデスカ?w
612 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:26:05
>>603 >鏡の副葬だけで北九州の影響をいうのは全然ムリだね。
東征を示す資料を一つ一つバラバラにして証拠にならんなどという思考方法が
まちがいなんだよ。我々は、鏡の副葬だけで物事を判断しているわけではない。
銅鐸の終焉、葬制の変更、こういったことが権力の交替を指し示しているんだ。
そして、銅鐸を終焉させた以上、その勢力は銅鐸勢力以外だ。
銅鐸勢力以外で、近畿を征服し得る勢力はどこにある? 候補はそうあるもの
ではない。九州かなとなる。九州はまさに鏡の歴史をもつ。やはり、そうか、と
なるわけだ。いろいろな事象を複合的にみていく必要があるんだよ。
614 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:35:55
ここんとこ東遷説で粘っているのは多分日向厨のアホだろうが
そもそも銅鐸祭祀から銅鏡へのシフトについて
それが外部勢力の流入であったことの証明ができていない。
「それがあまりに突然だ」とかいっても
銅鐸の埋納は2回ほどピークがあり
その先の分については、言わば
「バージョンアップによる自主的埋納」を認めているんだから
別に自主的埋納でも極めて短期間(かどうかは実際良く分からんがw)
で行われても良いということになる。
まあ苦し紛れの言い逃れで自爆したと言う構図だなwww
615 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:38:54
>>608 発想がまちがっているんだよ。人の死というものは、祭祀と結びつきやすいものだ。
墓が小さければ遺跡に残るほどの遺物は使わないかも知れないが、墓に祭祀はつき
ものなんだよ。痕跡が残っていないから祭祀が行われなかったなどとみるべきもの
ではない。
616 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:40:57
>>612 >そして、銅鐸を終焉させた以上、その勢力は銅鐸勢力以外だ。
>銅鐸勢力以外で、近畿を征服し得る勢力はどこにある? 候補はそうあるもの
>ではない。九州かなとなる。
候補の一番手には出雲の四隅墓勢力を考えるべきだろう。
この連中は銅鐸だけでなく、銅剣・銅矛も嫌って、埋めさせた。
青銅祭器は、もう銅鐸も銅矛もだめぼ、・・・の連中だった。
もし
>>612の言うように九州が近畿に東征して銅鐸を終焉させてきたのなら
近畿はその後に大型銅矛が席巻していなくてはおかしいが、そうはなっていない。
617 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:42:05
>>611 引っ越し荷物に棺桶を見たことあるか? 俺はないぜ。
618 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:44:46
>>617 何処までアホなんだお前?
埋葬文化と言うソフトの話だ。
棺桶と言うハードの話じゃないぞw
馬鹿にはこの程度の皮肉も通用しないのか・・・
620 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:51:40
>>616 出雲も候補の一つにはなるだろうが、一番手とは思えないな。出雲に鏡の文化は
あったか? 出雲の勢力はそれほどに強力か?
出雲の銅鐸埋納、銅剣銅矛の埋納はなぜだ? 出雲も他の勢力に征服された可能
性が高いと考えるべきだろう。九州勢にやられたのならば、出雲を独自に考える
価値はない。
622 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 10:58:06
>>615 だったら
畿内の周溝墓も祭祀を執り行う為、自然と前方後円墳に発展していった。
「連続性あると思います!」
と言う理屈でもいいなwww
そもそも何故九州にその現象が起こらなかったのか?の答えになっていない。
それともう一つ言っておくが墓の中で執り行われる祭祀と言っても
埋葬者の鎮魂の儀式だけとは限ら無いぞ?
王位継承の儀式や
先に挙げた四隅で言われているのは
有力者達が集まって飲食を共にするとか
・・・これなんかは連合体意識の向上の意味もあっただろう。
今日でも「弔問外交」と言う言葉をニュースで聴くことぐらいあるだろう?w
そうなると、それなりのステージが必要になるって話。
九州の墓制はそう言う意味ではシンプル、基本性能のみって事だなw
もう馬鹿が何とか言葉で誤魔化そうとしているのは見苦しいことこの上ないwwwww
623 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:00:20
>>620 だったら九州の広型銅矛も半島大陸からきたどう強制力に滅ぼされたんだなw
結局行き着くところは昔なつかし『騎馬民族説』だよ馬鹿www
624 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:03:58
>>623訂正
半島大陸からきたどう強制力
↓
半島大陸からきた銅鏡勢力
前方後円墳が全く見つからないのは北海道、秋田、青森、沖縄。
何の議論だっけ。
626 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:06:32
>>622 もちろん、畿内の周溝墓だって墓域の中で祭祀を行うことはあっただろう。
だが、そんなことだけで、「連続性あると思います!」 という結論を導きたい
という発想がだめなんだよ。→
>>612
627 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:13:18
政治的意図で古墳を破壊することは
古墳時代からあったわけでしょ?
倭国大乱とか卑弥呼擁立とか、そういう大変革の時代に
徹底的に古い墳墓の破壊が行われた形跡は無いのですか?
マキムクにも石塚やホケノ山に先行する墳墓があったと思います。
平削されたり埋没したりした古い墳墓が今回の発掘で出てくるのを
みんな期待しているのではないのですか?
628 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:13:39
>>623 何か必死だねえ。しかし、駄々っ子の屁理屈って感じだな。
629 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:15:47
630 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:18:52
>>628 まあ元が東遷厨のアホ理論だからな〜
『 文化の急激な変容をもって支配勢力の交代劇とする 』
と言う点においては全く同じだなw
しかも東遷厨のアホ連中が言っている銅鏡と言うのは
古墳文化のごく一部。
もうアホかと馬鹿かと・・・
弥生九州の特徴だった甕棺、銅矛は、畿内古墳文化へ全く受け継がれない。
>>627 > マキムクにも石塚やホケノ山に先行する墳墓があったと思います。
石塚の廻りにいくつか周溝墓が見つかってるよ。
あの辺りが纏向の興る始まりなんでしょう。
633 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:30:34
>>631 加えて「鉄」も大概あやしいw
確かに古墳時代に入って一気に大和の鉄は増えるが
銅鏡の東西分布を変えてしまうほどの勢力が持ち込んだ量に見合うかどうかwww
甕棺も銅矛も鉄も み〜んな 九州に置いて来て
銅鏡だけもって来ましたとさwww
>>628 本人はクタクタになりながらやってると思う。
635 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:37:21
636 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:47:09
>>635 乳幼児埋葬に土器棺を使うのは縄文時代から各地で行われている。
いわば汎日本的な伝統なので、北部九州だけの成人用弥生甕棺とは切り離して考えるべき。
>>609 > 高句麗の同時期の墳墓なんて石造りのピラミッドだ。
そうですよね。
四国の一部の例を除けば、日本に本格的積石塚が作られるのは5世紀以降。
前方後円墳の祖形は、「台状」と言うよりも高いマウント上に特定の祭祀土器を配置する、
吉備に発生した楯築タイプの墳丘墓までしか遡れないでしょうね。
私には出雲の四隅突出墓なら、高句麗型積石塚の造形と相通じるものが有るようにも思えますが、
これの祖形も吉備側にあるらしいので、何れも日本で独自に生まれた墓制なのでしょう。
普通に考えて、日本列島を統一した勢力って、近畿地方から起こった勢力でしょう?
九州の勢力が東征して近畿に政権をたてるなど不可能だし、
九州の勢力が近畿に首都移転する必要性がわからない。
出雲国譲りの図式も、どう考えても、中国地方VS近畿地方の戦い。
室町時代も、山名氏清VS足利義満、大内義弘VS足利義満
そして、戦国時代も 毛利輝元VS織田信長だったわけで。
つまり、神武天皇よりも前に、すでに近畿地方の勢力によって
出雲との最終決戦に勝ち、一度、全国統一は達成されている。
その後、近畿地方の勢力が九州統治のために派遣されたのが、神武の一族。
皇室(神武皇統)が隠したかったことって、
その近畿王朝初期においての皇位の座にあった一族のこと。
その一族こそが、日本の本来の正統な皇位継承者だった。
神武皇統は、その傍系一族で、
おそらく、その近畿王朝の日本建国者の男系の直系子孫ではない。
>>637 出雲の四隅突出墳丘墓は、紀元前1世紀に
三次盆地あたりから派生する。
神武天皇が日向から東征して来たんだよ。
途中で吉備勢を従えて、河内国の長髄彦を破り、
橿原で邪馬台国の元を作ったんだよ。
>>615 三世紀の九州は先進地だから、
墓で大々的な祭祀なんて行わないよ。
畿内に近い徳島辺りでもそういう痕跡はない。
銅鐸祭祀から銅剣祭祀へと、物が変るだけで移行している。
纏向の祭祀には後進的な異常性がある。
倭人伝で北九州とはっきりしている国の記述が淡白なのも、
異常性が認められないからだろう。
吉野ヶ里は邪馬台国に入る前の関所みたいな場所かな。
自女王國以北、特置一大率、検察諸國、諸國畏揮之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・
諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。
原文のおよその意味は、「女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させて
おり、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)の
ような役割をもっている。王が帝都や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遺わすときは、いつ
も津(しん・水上交通上の関)で、文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いが
ないようにする」ということである。
643 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 12:25:01
>>641 >三世紀の九州は先進地だから、
>墓で大々的な祭祀なんて行わないよ。
ふーん
そうすると魏志倭人伝に
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 ?葬者奴碑百餘人
とあるから、邪馬台国九州説はますますダメになっちゃうね
644 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 12:25:19
纏向の祭祀には後進的な異常性がある(笑)
だめだなコイツwwww
三世紀半ば頃の墳墓の場所が特定出来ないってだけで、
九州説を否定して宝の山を手付かずにしとくの馬鹿みたい。
畿内説で行程を直線的に読むと、邪馬台国の南に伊都国が
あるなんて、なんじゃらほいな話だ。
南でなく、北でした。
>>641 > 三世紀の九州は先進地だから、
> 墓で大々的な祭祀なんて行わないよ。
そう言う事実があるのか否か、検討するため、代表的な遺構名を御呈示下さい。
> 銅鐸祭祀から銅剣祭祀へと、物が変るだけで移行している。
主題がよく判りませんが、何処のいつ頃の祭祀形態を想定した話ですか?
> 纏向の祭祀には後進的な異常性がある。
「後進的」と言うのは、墓域内で祭祀を行うと言うことですか?
> 倭人伝で北九州とはっきりしている国の記述が淡白なのも、
> 異常性が認められないからだろう。
私と倭人伝の文章の「読み方」が異なるののでしょうが、どの辺りの記載からそう判断するのですか?
学者の世界では、ほぼ邪馬台国畿内説で決まりだけど
2ちゃんでも、畿内説が優勢になってきたね。
発掘資金のめどがついたから、九州説で盛り上げる必要はなくなったのかな。
九州説前提で独自に研究した方が話は豊かになるな。
畿内説の狭い洞窟に大勢で入って重箱の隅突っつくような
議論続けてもすぐ飽きる。
畿内説は倭人伝の記事はつじつまが合わないのは分かってるから、
最初から真面目に読むつもりないし。
>>650 > 九州説前提で独自に研究した方が話は豊かになるな。
ケース1 九州の何処かに在った邪馬台国は、4世紀以降には畿内の前方後円墳文化に併呑された。
ケース2 九州の何処かに在った邪馬台国は、東遷して畿内の前方後円墳文化を併呑した。
ケース3 九州の何処かに在った邪馬台国は、21世紀まで九州王朝教の信仰の対象として存続している。
653 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 13:12:50
1に一票
四世紀は半島侵略をしながら畿内中心の王権が徐々に形成された
のじゃないかと言う説はある。冊封体制が壊れると九州北部は
求心力が失われるから。
>>650 × 畿内説の狭い洞窟に大勢で入って重箱の隅突っつくような議論続けてもすぐ飽きる。
○ 畿内説の詳細な検証について、精微な議論を続けようとしてもすぐ論破されてしまう。
>>655 畿内大和の地名が九州からの借り物だとしたら、何となく格好が
付かないしな。
>>654 > 四世紀は半島侵略をしながら畿内中心の王権が徐々に形成された
> のじゃないかと言う説はある。冊封体制が壊れると九州北部は
> 求心力が失われるから。
公孫政権が崩壊した時点で、北九州の中継貿易地としての利権は失われ
三世紀中に求心力の交代があったとも言われている。
>>654 纏向遺跡の発掘の研究の成果だと
畿内王朝は少なくとも、紀元2世紀
その原型となるものは、
紀元前1世紀〜紀元後1世紀には誕生している。
>>656 その証拠は何一つない。
そもそも、畿内のヤマトの場合、
その対立語である、ヤマシロ(山背)という地名が残っている。
畿内のヤマト=大和=山門 に対して
畿内のヤマシロ=山城=山背 だ。
660 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 13:37:29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このスレッドの九州説は消滅しました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほら、火がついた! 山城はあっても山門はないだろ。山門は
全域的な地名としての大和に広まる程の重大な場所であるべき
だが。
太子の時代だと九州由来なのは火山信仰と共に隠すまでもない
当たり前のことだったらしいな。
>>659 ヤマシロの「山」は平城山だろ。
ヤマトの「山」は三輪山じゃないのか?
>>657 いずれにせよ、倭人伝の女王国の物語は倭国の中心が畿内に
移動する直前の終わりの頃の事情な点に代わりはないな。
>>665 > いずれにせよ、倭人伝の女王国の物語は倭国の中心が畿内に
> 移動する直前の終わりの頃の事情な点に代わりはないな。
畿内説の立場でも伊都が求心地であることに違いはないから。
「一大率」と言うものの実態が文献上の記述と異なると考えればよい。
邪馬台国での実際の政務は「男弟」が取り仕切っていたと考えれば、
「女王」の存在と言うものも中国側の都合による表現だと思う。
つまり、「親魏倭王」と言う破格の称号を与えるには、それなりのキャラクターが必要であり、
男王よりはインパクトのあるものとして、祭祀上の女性首長の方を倭王と認知したのである。
この辺りは、朝貢を取り付けた帯方郡太守の政治判断が大きく影響していると思う。
「一大率」についても同様で、文献では女王の派遣官のような位置づけだが、
実態は伊都國の配下の実務者で、倭韓間、瀬戸内の海上交通を掌握する勢力なのではないかと。
この時点で畿内と北九州は対等互恵の関係だったのではとも思う。
南に置いて検問代わりにするにゃ遠すぎだろう。
東遷まで考えなくとも、九州王朝は自然に衰退して、ある程度の
畿内への移住があって、冊封体制の関係で差し当たりヤマトの
名前を継承したという風にも想定可能だ。
畿内大和郷と相似してる北九州の土地は伊都国と奴国の真ん中
くらいかな?
ああ、阿蘇のカルデラの西の山門の当たりが菊池郡山門郷って
昔は呼ばれてて、邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の
狗古智卑狗(キクチヒコ)に関係があるわけね。
狗奴国は男王・卑弥弓呼と実権を握る狗古智卑狗の国。
筑後川の南の筑後山門郷が女王の国か知らん。
祭祀の本宗を争う関係だろうか。
>>668 ちがう。
狗奴国=コノ国=許乃国(現・京都の宇治あたり)
狗奴国の卑弥弓呼=許乃国の彦命=武埴安彦命(孝元天皇の庶子)
狗奴国王の官・拘右智卑狗=許乃国の官・河内彦=武埴安彦命の母方
日本の国家は、地方各地で王朝が誕生し
紀元前1世紀〜紀元後1世紀、出雲と畿内(葛城=高天)の間で最終決戦があり
畿内が出雲を併合し、畿内による天下統一が達成された。
その後、畿内王朝は、日本各地に将軍を派遣した。
中でも、熊襲の抵抗が激しい南九州には、
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)を派遣した。(天孫降臨)
>>670 しかし大きい戦の跡は、近江より瀬戸内海の方が多いぜ。
672 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 17:12:10
記紀には、神武東征ばかりではなく、出雲の国譲りも書かれている。
葦原中国は、孫の瓊瓊杵尊が治める国である。その前に出雲を平定しなくては
ならない、というわけで、高皇産霊尊は、天穂日命を派遣する。
しかし戻ってこないので、次に天稚彦を派遣する。しかしこれも復命しない。
次に、経津主神と武甕槌神を派遣すると、大己貴神とその息子たちは、
降伏し、国を譲ることを約束して姿を消した。
ということで、記紀によると、天つ神は、まず出雲を征服したことに
なっている。
そのあと、瓊瓊杵尊が日向に降臨し、そのひ孫のイワレヒコが東征すること
になる。
673 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 17:21:48
>>670 そんな都合の良い解釈は出来ない。
それでは、古代、最も栄えていた北部・中部の九州が完全に抜けてしまう。
むしろ、ここが高天原と考えたほうがつじつまが合う。
そうすると、出雲の国譲りも、天孫の日向降臨も、饒速日命の大和降臨も
さらには、イワレヒコの東征も無理なく説明が出来る。
>>670 何だその派遣したって、古事記にはそんな事は書いてないぞ。
単に神武天皇がが日向国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位した書いてあるだけじゃん。
それが後の邪馬台国→大和王朝になったわけでしょ。
神武天皇は熊襲だろ、熊襲は強いからな。
>>669 京都の宇治の辺りに全身入れ墨で海に潜って海産物を採る
部族がいたというのは想像を絶する話だ。
高天原=葛城
延喜式を読んでみろ。
京都朝廷は古来から、そう解釈してきた。
それが、江戸時代になって、記紀の研究が民間に開放され
それから、様々な高天原議論が起こった。
でも、明治天皇も、東京に行かれる前に
式内社である高天彦神社(奈良県御所市高天)に報告してから、東京に行かれている。
677 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 17:32:58
畿内説の人達は
「天皇陛下バンザーーーイ」って、特攻できる奴多過ぎ。
何が何でも、天皇家と邪馬台国くっつけたがらないかい。
>>675 ちゃんと倭人伝を読めよw
狗奴国の風俗について、断定した記述はない。
>>677 ばかばかw
邪馬台国九州説のほうが、本居宣長という国学思想の
おっさんが考え出した。
>>674 神武さんは父方は葛城の王族の出自。
母方経由で熊襲系が混じっているんだろう?
つまり、ニニギ命の家系は
高天(葛城)王家の傍系家系。
ニニギ命には、火明命という兄弟がいて
こいつが出雲国譲りを実現して、全国を統一した。
681 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:04:00
>>677 正直、畿内説の学者の方がよほど万世一系なんて信じていない。
むしろ九州説の連中の方がその信奉者が多い
(そうしないと自説が成り立たないのが多いからw)
本当この板の九州説ってレベルが低い。
邪馬台国論争の歴史も知らなければ
そのげんじょうも知らない。
自分が批判している畿内説がどのような物か
自分がよって立つ九州説がどう言う立場に立たされているか。
恐らくほんの少しは歴史に興味があって
後は脳内イデオロギー闘争で正義の味方気取りの
万年中二病のアホの集団wwwwwwww
>>681 ただ、纏向遺跡の研究の成果で
なんとなく、万世一系的に王朝が続いてきたというのは
分かってきたけどね。
今までは、幻の4世紀とか言われてきたのがあったけど
あれも、邪馬台国とは何か?分からなかったから、
そういうふうに、三王朝交代説とか、いろいろ言われたんだけど。
でも、卑弥呼=モモソ媛命ならば、
やはり、欠史八代の半ばあたりで、倭国大乱が起こったことになる。
これは興味深い。
683 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:18:01
俺は畿内説だけど、皇国史観とかないよ。ちゃんと根拠出すなら九州説も認めるけど、
トンデモはやめてね。トンデモ読んでるとマジで日本の将来が心配になる。
684 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:23:10
>>682 何言ってんだよ。
ほとんどの日本人は、邪馬台国の時代どころか旧石器時代から
日本列島やその周辺地域に住んでいた倭人の子孫です。
たかが2千年そこらの起源しかわからない渡来系の馬の骨と
いっしょにされては困る。
>>675 縄文系は、熊襲は別として、朝鮮に近い北九州より東側へ行く方が多くなるよ。
鬼界カルデラの噴火で、九州縄文人は東へ移住したっていう説もあるしね。
よく、万世一系はでっち上げ打とか、本当は別の別の王統があったのに
無理やりに一つにつないだものだとか
何の根拠こなく、そういうことを言う学者がいるが、
これだって、何の根拠もないんだよ。
でも、最近になって分かってきたのが、
卑弥呼=モモソ媛命だと分かってきて
欠史八代のあたりで倭国大乱があったことや
また、神武〜崇神の間では、祭祀を受け継ぐ王と、政治を行う王と
二人のトップがいたことも分かってきた。
そのへんが皇室が長い間、隠してきたことだろう?
これなら、無理にでっち上げ論みたいな、何の根拠もない空想をしなくても
あの記紀や新撰姓氏録の系図を額面どおり解釈しても
あそこから、皇室がふれてほしくない部分が読み取れるw
日本の皇室系図をよめば、王朝には、二つの長い由緒ある家系がある。
一つが、天忍穂耳命の第二皇子とされるニニギ命の系譜。
ここからは、神武皇統、つまり、現在の天皇家が誕生した。
そして、もう一つが、天忍穂耳命の第一皇子とされる火明命の系譜。
ここからは、熱田神宮の尾張氏や、住吉大社の津守氏、籠神社の海部氏などが誕生した。
そして、この火明命はまたの名を、天照国照彦といい、その意味は
天津と国津の両方の支配者という意味であり
全国にある男の太陽神・アマテルを祀る天照御魂神社はこの火明命を祭っている。
実は、女神アマテラスを祭りだしたのは、天武天皇からで
それ以前は、この男神アマテルのほうを、王朝は敬っていた可能性が高い。
ちなみに、天武天皇は晩年、この火明命の嫡流の子孫である
熱田社の尾張氏と大喧嘩していたことが分かっている。
688 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:33:51
>>679 つーーか
本居宣長は、邪馬台国=九州説、でも何か圧力か、事情でなんとか朝廷と結びつけること考えたんじゃないか。
>>688 本居宣長は国学思想。
その観点から、卑弥呼が天皇家の人間だと困るわけで。
なんで困るのか?というと
それは、卑弥呼が中国に朝貢したということ。
宣長からしたら、天皇家が中国に朝貢するなど、もってのほかなわけで。
本居宣長は皇国の元祖で、大和朝廷が中国王朝に朝貢していたのを認めたくないから。
「神功皇后は魏を征服する野心があったので,九州の蛮族に命じて魏と折衝させていた」
という
691 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:41:36
純粋に考古学的証拠だけで、邪馬台国畿内説は決定的なのだから、
今は畿内説を前提に、魏志倭人伝をどう理解するかの段階だと思う。
あれだね「南至投馬国」は「東至投馬国」を、写本の段階で隣の行に惹かれて間違ったのだろう。
その一時を訂正するだけで、投馬=出雲 邪馬台国=大和
狗奴=クマソ 東海渡倭種=東海地方とすべて説けてしまう。
何も地図を横転させる必要もない。
晋書に卑弥呼を「東倭の女王」と明記しているのだから、もうこれで間違いないよ。
魏志倭人伝に書かれているのは、大和とクマソの戦いだろう。
692 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:42:43
>>677です 邪馬台国がどこかは論じてないんです。ただ、朝廷と結び付けようとするのはいかがなものか。
邪馬台国=朝廷はすべて後付けのような気がします。
邪馬台国は一つの大きな邑でいいんじゃないですか。
朝廷は、明日香の邑から武力・権力・知力で大きくなったでいいのでは。
>>691 >その一時を訂正するだけで、投馬=出雲 邪馬台国=大和
>狗奴=クマソ 東海渡倭種=東海地方とすべて説けてしまう。
投馬=出雲 邪馬台国=大和、これは同意。
でも、狗奴国のほうは、
魏志倭人伝と日本書紀崇神紀の記述の一致から
狗奴国=コノ国=許乃国(現・京都の宇治あたり)
狗奴国の卑弥弓呼=許乃国の彦命=武埴安彦命(孝元天皇の庶子)
狗奴国王の官・拘右智卑狗=許乃国の官・河内彦=武埴安彦命の母方
だと思う。
東海地方に関しては、火明命の後胤が落ち延びた場所なので
重要な地域だとは思うが
はいはい、全身入れ墨をした海洋性民族なのは倭人一般の話な。火山信仰してる時代の倭人は
案外みんなこんな風かもよ。
>>685 縄文系=海洋性とは限るまい。特に北方は。
>>692 国家統一の過程は一様ではなかったということだよ。
すくなくとも、紀元前1世紀から
たえず、分裂、統一、安定、混乱、分裂、統一...
と同じことを繰り返している。
一度、統一して、そのまま永遠に安定ということは
決してないわけで。
一度、統一して、殆ど平和で安定していたのは、徳川時代くらいだ。
足利時代なんて、中央政権なんて、ほっとけって感じだったしw
696 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:52:15
>>693 うーん
狗奴国を京都宇治だとすると邪馬台国の北になってしまう。
オレの読み方では地図は横転させないのだから、
すなおに邪馬台国連合の南にあると考える。
「くこちひく」の存在からしてやっぱり「クマソ」と考えるのが無難じゃないかね。
697 :
歴史学博士:2009/03/29(日) 18:56:49
>>692 正解に近いかも・・・・
でも、話が進まないから仮説ということで。
>>696 自分もそう考えた。方角が逆すぎるから。
ただ、狗奴国の方角は、史書によって、違うからね。
南とするものもあれば、東とするものもある。
倭人伝に限らず、中国史書は、全体的に方角が混乱している。
なぜ、こうなったのか分からない。
だから、当時の中国語の漢字の音韻や
倭人伝と日本書紀の内容でどんぴしゃなのが
モモソ媛命の死の直前で起こった武埴安彦命の大乱だった。
魏志倭人伝では、狗古智卑狗=ココチヒコ
魏略では、拘右智卑狗=コウチヒコ
どっちが正かは分からない。
しかし、写本をみたら、
魏志倭人伝の、狗古智卑狗の
「古」は、もともと「右」だったのが
擦り切れて風化して、「古」になったような形跡なんだよね。
よって、
狗奴国王の官・拘右智卑狗=許乃国の官・河内彦=武埴安彦命の母方
700 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:10:16
>>699 タケハニヤスヒコ説も確か考古学者で誰か言ってたと思うから、わからんでもない。
しかし、第一に
拘右智卑狗=コウチヒコっていうけど、
当時の日本語は語中に母音はこないから、これは確実に誤記だぜ?
第二に、狗奴国=京都宇治だとすると、
オレの想定では投馬→邪馬台国の行程は、出雲から敦賀に水行10日でいって、
そこから一月で南下して大和に向かうという想定だから、
その道中に敵国があることになるw
ちょっとオレ的には想定しにくい。
>>700 母音の件に関しては、俺も思った。
ただ、魏略を書いた人間は、中国人だからね。
卑弥呼だって、ヒメミコとは読めないし、ヒミコとも読まない。
邪馬台国だって、ヤマト国にちかいが、少し違うし。
とにかく、倭人が書いたのではなく、倭人が言った言葉を
中国人が聞いて解釈したものだから。
倭人伝の内容と日本書紀の記述を照らし合わせて
それしかないだろうと思った。
事件の描写は、かなり整合性がとれるし。
あと、許乃国王の武埴安彦命の乱は
河内と山城の二面から、
大和(モモソ媛命と崇神天皇がいる)を
挟み撃ちにしようとした。
この場合、中国の使者は、許乃国(狗奴国?)の方角を
どのように解釈したか?だ。
帯方郡から女王国まで一万二千里(6000km)ってのは筑後大和郷までが
直線距離で600kmそこそこなのを考えたら十倍くらいサバ読ん
でるよな。
万里の長城の長さと同じくらい遠いって意味ではないかと
以前、議論してたが。
帯方郡から伊都国までの積算距離を一万二千里から引くと
千五百里で、古代中国の常識で1日五十里を歩くなら30日、
これは倭人伝の行程を放射状に解釈した場合の伊都国から
陸行一月に一致するって話だった。
706 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:37:19
>>703 狗奴国が山城と河内を押さえるくらいくらい力があるのなら、
大和は完全に狗奴国に包囲されているということになるじゃん。
使者を出すことも、迎えることも不可能に近いだろう。
707 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:41:59
>705 その考えなら距離と日程は矛盾しませんね。
708 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:42:00
あと、九州説がいう放射線式読み方はだめだとおもうね。
なぜなら、
まず第一、不自然すぎる。そう読ませたいのであるなら、もっと誤解のない書き方をするはず。
第二に、放射線式だと奴国はイト国の東南(少し方位が狂っているが)100里にあるといい
フミ国はイトの東100里にあることにあるが
奴国は金印出土から見ても今の福岡であることは確実なのだから、
フミ国は博多湾上になってしまうw
これはあきらかに放射線式読み方が正しくないことを意味している。
709 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:48:48
>>700 わざわざ一ヶ月も陸行するわけないだろ
大帯郡から狗邪韓国まで七千里を水行してるのに
>>708 漢文が母国語じゃない現代日本人が読むから意味を読み取れない
だけだろ。百里は歩いて2日くらいってことだ。これは実際、
そうだろ。
711 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:52:17
>>709 敦賀から大和までは陸行せざるをえないだろ。
ほかに何があるんだよw
空行かw
713 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:54:29
>>710 現代日本人じゃなくても読めませんねw
現に隋書の編者は邪馬台国=ヤマトにあててますね。
明らかに直線的に読んでるわけですw
714 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:56:15
>>712 それを読んでも不自然さは解消されないね。
「水行十日陸行一月」は「海路で十日、陸路なら一月」って意味な。
合計で解釈するなら上陸地は書いてあるはずだ。
716 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:58:03
>>710 まあ、放射線式に呼んでしまうと、フミ国は博多湾上になってしまうと言う事実は動かないわけだがw
717 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:00:05
確実に言えるのは、放射線式読み方は間違いということ。
言うべきことがなくなると根拠もなしに否定しにかかるのな。
権威主義的学問には良くある話だ。
719 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:06:34
>>714 挟み撃ちにしようと思ったといっても、どうせ、四道将軍を派遣したすきに
都を攻めようとしたんでしょう?
しかし、それをすぐに察知されたと。
許乃国とかいっても、宇治周辺ぐらいだし
後の山城一国には程遠い規模だし、あっさりと鎮圧された。
包囲したといっても、同調する勢力も、最初から孤立無援だったと。
>>719 伊都国の南に邪馬台国があるとして、その北東だろ。そんな遠くではない。
723 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:11:52
もしまたはの意味なら「或又」と言う文字が入るはず。
九州説の謎解きにつきあうと不自然なことばかりですねw
724 :
歴史学博士:2009/03/29(日) 20:14:12
725 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:14:13
>>721 そんなたいしたことのない勢力なら魏の支援を受ける必要もないだろう。
なんでそんなにタケハニヤスヒコにこだわるんだ?
ロマンを感じるの?
あんまり日本書紀の細部に関わると九州説の「謎解き」とおんなじになっちゃうよw
何の前触れもなく急に伊都国から放射読みなんて有り得ない。
あくまで邪馬台国までの旅程を示していると思う。
>>723 合計なら「更に」や「次に」が入るだろ。水路を十日も遠く
進むならどこに上陸するかは重要な問題だ。
728 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:17:43
>>722 そんなこと書いてないね。
フミ国は放射線式に読めばイト国の東100里だろう。
福岡に当たる奴国がイトの東南100里なんだから、
やっぱフミ国は博多湾上にしかおきようががない。
かってに邪馬台国の東北にするなよ。捏造はやめろw
729 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:19:32
>>726 正解です。それが自然な真理です。
>>727 いや。何も書いてなければ合計で読みますね。
「または」と読ませたいのなら、絶対にそう理解できる書き方をします。
730 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:20:51
何度も言う。
放射線式み方は、
明 ら か に 間 違 い。
倭人伝には三十国の名前が全て登場する。これらは地誌であって
単なる順路じゃないんだぞ?
>>728 捏造とは何だ?
魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる)
┃渡一海千余里「至」
┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
┃南東陸行 五百里「到」
┃ 東行 百里「至」 ┏━━━┓
┃ ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
┗━━━┃伊都国┃ ┗━━━┛
┗━━━┛━━┓
「至」 ┃ ┃ ┃東南 陸行百里「至」
南 水行十日┃ ┃ ┃
南 陸行一月┃ ┃ ┏━━┓
┃ ┃ ┃奴国┃
┃ ┃ ┗━━┛
┏━━━━┓┃
┃邪馬台国┃┃
┗━━━━┛┃
┃南 水行二十日「至」
┏━━━┓
┃投馬国┃
┗━━━┛
733 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:32:13
>>732 で、奴国が福岡なんだから、
フミ国は博多湾上と言うことですね。わかります。
フィッシだな(ゲラゲラ
735 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:53:53
また海をひとつ渡ると、約千(海)里(船で1日)で末盧(マツロ、前津空)国に着きます。約四千戸ありますが、
山と海に沿うようにして暮らしています。草や木がひじょうに繁茂していて、歩いて行くときに前の人が見えないほどです。
魚やアワビを巧みに捕るのですが、水深のあるなしにかかわらず、どこでも潜って捕ります。 東南に向けて陸上を
五百(陸)里(徒歩で5日)行くと、伊都(イト、岩戸)国に到着します。その官は爾支(ニキ、二城)と呼ばれ、副官は
泄謨觚(セツモコ、背津六子)と柄渠觚(ヘイキヨコ、屏岩城淀子)です。約千戸あります。代々、王がいますが、みな
女王国に服属してきました。(帯方)郡からの使者が行き来するときに、いつも滞在するところです。東南へ行くと、百里
(徒歩で1日)で奴(ナ、野)国に着きます。官は馬觚(シマコ、州山子)、副官は卑奴母離(ヒナモリ、一野六林)と呼
ばれています。約二万戸あります。
東へ行くと、百里(徒歩で1日)で不弥(フミ、二水)国に着きます。官は多模(タモ、高六)と呼ばれ、副官は卑奴母離
(ヒナモリ、一野六林)です。約千の家があります。 南へ行くと、投馬(トヲマ、十尾山)国に着きます。船で行くと二十日
かかります。官は弥弥(ミミ、三水)と呼ばれ、副官は弥弥那利(ミミナリ、三水七林)です。約五万戸あると推定されます。
南へ行くと、邪馬台(ヤマタイ、矢山高岩)国に着きます。女王が都(みやこ)としている所です。船で行くと十日、徒歩
で行くと一月かかります。官がいますが、それらは伊支馬(イキマ、五城山)、つぎに弥馬升(ミマシヲ、三山四尾)、つぎに
弥馬獲支(ミマカクキ、三山広倉城)、そのつぎが奴佳(ナカタイ、内広高岩)と呼ばれています。約七万戸あると推定されます。
東南と言いつつ、実際には北東に進んでるから、ややこしいんだよね。
全部方角をずらして考えるのか、それとも・・・
737 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:55:50
>>733 使者が行った奴国の首都は、甘木
奴国は2万戸を有する領土国家、福岡県の大半を占める
伊都国、不彌国は都市国家
これを忘れないように
738 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:05:38
末盧国から東南五百里が何で前原なんだよ? 唐津から東南ならば佐賀平野に
きまっているじゃないか。
伊都国から先は明らかに文体が変化してるぞ。
740 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:12:09
伊都国、奴国、不彌国は、内陸部に有る国だよ
これは陸行している事から明らか
前原遺跡は、時代が違うよ
741 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:19:06
>>726 >何の前触れもなく急に伊都国から放射読みなんて有り得ない。
そのとおりだ。しかし、前触れがあるんだよ。
問題は、『郡使往來常所駐』だな。これは一般には伊都国に関する記事だと解釈
されている。しかし、伊都国に郡使が長く逗留していたなんて話はわざわざ書く
意味はない。どこに長逗留しようと、どうだっていいことだ。
この語句は、伊都国までの四国(対馬、壱岐、末盧、伊都)全てにかかるのではな
いかという解釈もある。これは従来から、学者はそうも読める、と言いながら意
味を理解していなかったんだ。しかし、『郡使往來常所駐』を四国についての記
述と考えるととんでもない意味になる。つまり、『これまでの四国は、郡使が往
来する時にいつも滞在する所だ』という解釈になる。
これは4国が通過国であり、伊都国よりも後に出てくる奴国、不弥国、投馬国な
どは通過国ではないということ。これこそ、放射説に読むべき指示だということ
だね。これは、最近、安田哲哉の「邪馬台国の暗号」が指摘している。
742 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:21:58
魏志倭人伝では、狗邪(クヤ)韓国〜対海(ツイカイ)国、対海国〜一大(イタイ)国、
一大国〜末盧(マツロ)国、のあいだの「一海」の距離がすべて、「千余里」とされています。
たとえば、対海国と一大国のことと思われる、対馬と壱岐、の最短距離は約50キロメート
ルで、壱岐と東松浦半島は約25キロメートルですから、すくなくとも魏人が三角測量などを
して、それらの距離を同じく「千余里」としたわけでない、ということは確かなのです。
また、夜間の航海はひじょうに危険ですから、それらの渡海は天気の良い日の、日中になされ
たと考えられます。そして、それらの航海がいずれも日中の約一日を必要としたので、それを
「千余里」、つまり「約千里」、としたのです。
このように、もとのデータが「一日」という「時間」をもとにしたものだったからこそ、実際の距離
が50キロメートルでも、25キロメートルでも、同じ「千余里」になってしまうという事態が起こり
得るわけです。
末盧国から伊都(イト)国までは、陸行で「五百里」、伊都国から奴(ナ)国と不弥(フミ)国まで
は、どちらも「百里」とされています。もしも、水行と陸行の里数が同じ単位に基づいているのなら、
「五百里」というのは日中の「半日」の旅のことになります。
しかし、たとえば東松浦郡の玄海町から前原市までの陸路の距離は、約59キロメートルになり
ますから、それを日中の半分、つまり約6時間、で歩くというのは、道路がどんなに良くても、普通
の人にはとても無理なことでしょう。
だからここで、水行と陸行の「里数」の基本単位が、どうやら異なるらしい、と気づくことになるはずです。
744 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:30:12
745 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:33:22
>>741 海上の距離計測は陸上に比べれば正確性を欠くかも知れないが、それだけのこと
だろ。千里=1日分などという妙なこじつけはしない方が良い。
746 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:41:45
>>682 > ただ、纏向遺跡の研究の成果で
> なんとなく、万世一系的に王朝が続いてきたというのは
> 分かってきたけどね。
全く逆だと思いますが。
3世紀、4世紀はかなりまったりと国が共立している時代だと思います。
747 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:01:18
質問なのですが
難升米たちは帯方郡までしか行っていないのですか?
それとも魏の首都まで行ったのですか?
行ったとすれば帯方郡から魏の首都まではどうやって行ったのでしょう
陸路ですか?水行だったとすればどのような経路をとったのでしょうか
>>746 だね。倭国乱(高地性集落等)→諸国の疲弊→卑弥呼の共立(葬制の習合等)→邪馬台国連合
が見て取れる。
749 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:19:41
>>691 >純粋に考古学的証拠だけで、邪馬台国畿内説は決定的なのだから
何度も言っているが、今まで数限りなく古墳の発掘調査が行われた。
そのうち、一つでも誰の墓かわかったものがあったかな。
考古学で歴史学的なことはわからない。考古学は古代の「文化」を研究する
学問だから。したがって、まともな考古学者は、歴史学的なことに口を
挟むことはない。畑違いなのだから。
人間の営みのうち、土の中に残るものはごくわずか。さらに発掘されるものは
ごく一部。そんなもので、歴史的なものを断定的に語るのは、まともではない。
遺物で、戦国時代を語ることができるだろうか。もし、語ろうとすれば、
これはもう想像力の世界だろう。学問的とは言えないだろう。
つまり畿内の考古学的な検証からは倭国大乱や邪馬台国と
狗奴国との戦争の痕跡みたいなものは見当たらないわけな?
751 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:34:12
>749に同意します。わからないこと「わからない」と言うのが学問だと思います。
752 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:41:24
>750へ 昔TVで見たんだが,考古学者のお偉いさんが「高地性集落が近畿の東にあるから
狗奴国と戦争していた。」と言っていた。私自身は同意できない意見ですけど。(ちなみに私は751です。)
>>750 たとえば、中世の戦争って
全部、文献が残っているから
そういう戦争があったと詳しく分かるわけで。
でも、文字資料の乏しい時代の戦争を
考古学的物的で推測するなど、絶望的に不可能なことだよ。
でも、考古学者の先生って、その殆ど不可能な推測を
いろいろ自分たちの頭の中で想像するから
よく大はずれの推測をしでかす。
>>750 狗奴国との戦争についてはその通り。
大和の北辺りから山城、近江と、
前方後方墳が併存している。
自分は畿内説だけど、
倭人伝の狗奴国の部分は畿内説には合わない。
まあ全部に合格する解はないからね。
纏向から東海の土器が出ることも。
東海を服従させていたから、
古墳建築のための奴隷が土器を運んだ
という説を言う人もいるけど、こじつけだと思う。
伊勢はやや異文化ながら山城、近江と同様
共存しているように見える。
少なくとも対立はしてない。
>>749 考古学の目的はその通りだし、わからないことが多いのもその通りだが、発掘成果などが
資料として刊行される以上、それを使用する側の問題が大きい。九州説も畿内説も自説の
根拠としてけっこう恣意的に用いている場合もある。
上のほうでも言っているけど
狗奴国って、許乃国のことでしょう?
>>754 狗奴国のことを、邪馬台国と異文化の国のように
固定観念を持っている人が多いがw
そこからして、どうしようもない思い込みだけどねw
魏志倭人伝には、狗奴国の王のことを、卑弥弓呼としている。
これって、邪馬台国側の人間が、狗奴国王のことを
そういうふうに呼んでいたから、それが中国人に伝わったんでしょうw?
この卑弥弓呼というのは、卑弥呼に似ていて
おそらく、邪馬台国と狗奴国は同文化圏の可能性が高い。
そして、現在、卑弥呼=媛命のことだろうと言われている。
だとしたら、卑弥弓呼=彦命の可能性が高い。
これは、どちらも皇族などに使われる尊称みたいなもんで、
つまり、狗奴国王は、邪馬台国側の人間から尊称で
呼ばれていた可能性が高い。
現在、魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼は
ヤマトトトヒモモソ媛命という皇族の女性の可能性が高い。
だとしたら、おのずと、狗奴国王の卑弥弓呼は、
武埴安彦命の可能性が高い。
758 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 23:05:23
狗奴国は毛野国(鬼怒国)。祟神は、もともと毛野国の王だった。
卑弥弓呼については、「卑 弓 弥 呼」の誤記で、「ひこみこ」と読み、男性の巫術者とする説も
あるね。
卑弥呼と卑弥弓呼は仲が悪かったんだよね、前からw
これは国家と国家というよりも
女王と王の個人的な仲の悪さの関係を思わせる。
武埴安彦命は皇族の出身だが、母方が河内の豪族で、側室みたいな感じ。
だから、皇位継承者から外されていた。
まあ、孝元天皇の庶子だね。
だから、皇位を継承していた崇神天皇に対して、
おもうところもあった可能性が高い。
狗奴国の乱は、皇位継承争い。
>>757 邪馬台国はそれほど大きな国ではない。
大和を掌握するのがやっと。
山城は同文化圏の同族国家。
ってのは考古学事実と良く合うね。
武埴安彦命の子供の彦座王が
椿井大塚山古墳の被葬者だろうという人もいる。
これは年代も良く合う。
この辺りから出た阿部氏が
天智天皇時代、左大臣になってる。
>>746 学会とかでは、あんまり万世一系なことをいうのが
はばかれるような風潮が、戦後、特にあるからw
戦前の皇国史観の反動が激しいw
まあ、戦前も、ひたすら皇室崇拝しすぎたのも悪いし、
それが、逆に皇室に対する不信感を増長させる切欠をつくった。
でも、今回の纏向遺跡の件も、考古学者の先生は
記紀などの記述を信じて、あそこを発掘しようとしているわけだし、
その結果、あの時代は、九州から関東までの連合体が出来ていた
見たいな方向まで、発言がすすんでいる。
こんなこと、戦後、言えなかったことだw
とにかく、反国家主義の観点から、古代の日本は
なるべく分裂していたみたいに言わないといけない
強迫観念みたいなのが、学者さんらにあったわけだからw
>>761 >武埴安彦命の子供の彦座王が
あの...それ間違っていますよw
畿内説を取る場合、狗奴国についてはあまり触れてはいけない。
許乃國説はトンデモぽい、
766 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:27:16
久々に覗いてみたら、あれ?
バリバリ九州説のコテハンの人達はどこ行っちゃったの?
論破されまくりで名無しに戻ったのかな?
>>765 負け惜しみなのかw 九州説論者さんw
許乃国ってのには、気がつきませんでしたかなw?
祟神は毛野国の王ではなく、毛野をバックスポンサーとして即位した王なのだ
中継ぎは尾張氏
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年
倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
→その後、男王、倭国で大きな戦争がおこる
日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
→翌年、崇神天皇、四道将軍を全国に派遣。
>769
それだ
771 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 06:58:07
>>767 許乃国? 山代国あたりのことでは? 狗奴国は邪馬台国よりも南のはず。
まあ、いかにも倭人伝を完全に無視する畿内説論者らしいトンデモだ。
このレスの畿内説論者は若狭上陸とかが居たように思うが、大和へは敵中
横断という考え方かな?
772 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 07:27:14
狗奴国からすりゃ、こっちが本家山門なつもりで、巍からの
冊封を受けて倭国の顔のつもりの北山門が気に入らなかった
のかも知らんな。
仲裁に帯方郡から中国の大使が来てキレて説教してる。
三世紀ってのはそんな世界だ。
773 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 07:37:12
すったもんだの末に再びょぅι゛ょの巫女様が立てられて
島国の蛮人が沈まるのを見届けて中国大使の張政は倭国を
去るわけ。
774 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 08:01:56
>>768 毛野国って蝦夷だよな。
崇神三代は国内統一の話だし。
年代にして四世紀前半くらい?
775 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 08:17:15
初代神武の東征の次が名前だけの八代、その次が国内統一の話が
出て来る崇神以下三代、景行と国内平定の日本武尊の話まで。
ここで系譜がリセットされて舞台は再び九州に移る。
次の成務仲哀神功の三代は崇神垂仁景行三代で形成した
国内統一体制が同時進行した朝鮮侵略の話。
国外記録じゃ百済記に相当する。
776 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 08:31:55
崇神垂仁景行の三代の国外平定の年代はもっと遡って銅鐸廃棄時期と
関係付けても構わないかも知らんがな。
777 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 09:27:25
四世紀の倭国は畿内中心で朝鮮侵略をやっていたが、磐井の乱に
見られるように、ともすると九州勢の反乱を受けるような弱い
支配力しか持たなかった。
五世紀に入って中国の華夷秩序が復活すると、九州勢が畿内を
差し置いて冊封を受けて畿内王朝を乗っ取ってしまった可能性も
ある。これが応神東征の物語。
779 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 09:33:37
国内の意志統一を図るのに侵略戦争を利用するのは古今東西
代わらない手だからな。それが畿内大和による四世紀の国内
統一の過程だと推測出来る。
トヨタン・・・・・・・・・・
781 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 09:59:12
はっきり言えることは倭国を代表する王権としての畿内大和が
姿を見せ始めるのは四世紀を通じてであり、それ以前の畿内王権は
対外的な関係から切り離された国内王権だったということだ。
応神東征の物語は五世紀初頭の華夷秩序の復活を反映している
のは間違いないだろう。
やっぱり狗奴国はクマソだと思うな。
魏志倭人伝では投馬国と邪馬台国だけが離れてるし、
使者も九州までしか行ってないようだから、
書いてある国もほとんどが九州の国なんじゃない。
「遠くに在って国名だけしか分からない国」が九州以外の国じゃない。
でもこの「遠くに在って国名だけしか分からない国」は九州説だと全部九州内にある事になるのか?
欲張り過ぎじゃないか。
やっぱり狗奴国は毛野国だと思うな。
魏志倭人伝では投馬国と邪馬台国だけが離れてるし、
邪馬台国はその隣の富士王朝だ。
784 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/03/30(月) 10:50:51
>>766 規制がかかっていたためだ。2週間くらいかなぁ?
785 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 10:59:37
倭人伝には卑弥呼が死んで墓を作って
奴隷を100人殉葬したと書いてある
墓から100人でてこないと卑弥呼の墓とはいえない
巻向では無理だろうね
100人出てきそうなところは宇佐しかない
宇佐神宮のある亀山が卑弥呼の墓で
近所にある百体神社に100人埋まってる
社伝では百体神社の100人は720年に
熊襲征伐に行った時のものとされてるようだが
卑弥呼も熊襲と戦ってた
その2つの話が後々ごっちゃになったのだと思う
北九州から水行10日または陸行30日というのも
位置的に宇佐に適合する
786 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 11:18:58
宇佐は、渡来人が開拓した土地だから、全然ダメ。
あてはまらない。
>>771 狗奴国=許乃国とした場合
方角が問題になる...
ただ、許乃国の官が拘右智卑狗(河内彦?)だからね。
河内彦=現在の大阪あたりの知事だから
それが、許乃国(京都の宇治)に領主だった武埴安彦命の官だから
こういう状況を国家として表す場合
中国の使者がどのように記したかが問題。
卑弥弓呼の領国が飛び地にあるわけだからね。混乱するでしょう。
あと、畿内説をとった場合、魏の使者は日本海側から
畿内へ入っただろうから、
今の福井県か京都府北部の港から入ったと思われ
そこからみれば、南のあたりで戦争があるというふうに
記述するのは、可能性としてあり。
788 :
449:2009/03/30(月) 11:27:37
>>762 >でも、今回の纏向遺跡の件も、考古学者の先生は
>記紀などの記述を信じて、あそこを発掘しようとしているわけだし、
違うでしょ。信じてないからずっとほったらかしだったわけで。
民家の建て替えその他でしょうがなく掘って見たら
見慣れないもんがボコボコ出てくるぞ、
ってんで初の学術発掘になった。
>>788 しまった。449はウソです。ほかのスレがそのまま入っちゃった。
>>449さん、ごめんなさい。
790 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 11:38:23
>>784 太国氏、前スレ(ドンと来い♪40)で死んでた筈なのに・・・
以下、過去ログ倉庫から引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
914 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:59:32
この人、最近見かけませんね。
>>671 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2009/03/01(日) 11:28:33
風邪を引くようなタイプの方では無いと思ったんですが・・・
915 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:09:10
>>914(−人−)ナーム惜しい人を
しかし、倍暦は永遠に不滅です
916 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:12:14
>>914 デブ国は曲学の徒氏のHP「日本建国史掲示板」で論破されて御臨終しました。
917 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:24:28
知りませんでした。ご冥福を・・・・・
918 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:26:35
まったく惜しくない人を失ったな…南無。
・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>787 木津川流域と淀川下流域が、
同族支配下というのはそれほど荒唐無稽なことじゃない。
実際摂津を独立したクニとして扱った話は少ない。
九州説論者のうめき声があちこちで聞こえる。
もっと落ち着け。
793 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/03/30(月) 14:05:10
思い出したが、3月初頭あたりから規制がかかっていた。だから1ヶ月ばかり
は書きこみできない状態だったな。
794 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 14:20:55
今晩、デブ国の家を弾道ミサイルが直撃しますように。
曲学の徒氏は本物だから、太国さんじゃ全然ムリだな〜。
>>796 曲学の徒さんは、畿内説だが
箸墓=卑弥呼の墓説や卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命説は否定しいて
丹波のほうの丘陵を古墳だとか言っているから
そのうち彼は沈没する可能性が高い。
実際に、彼はその地区に発掘を依頼したら
そこでの調査だと、ただの丘陵だという解答が返ってきた。
そこで、ます彼は挫折。
で、他の丘陵も可能性ありと、彼は必死になっているのだが、それも否定されるだろうね。
いやいや、学説の話でなくて実行力や精神力という意味でだよw
800 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 17:16:17
>>799 そう。九州で考古学やってた先生方は、以前から弥生時代を古く考える傾向があった。
九大の岡崎敬先生が理論的な支柱として、いてらしたんじゃなかったかな。
実際、立岩なんか前漢の鏡だけで副葬されてるが、甕棺編年からしても、立岩はそんなに古い甕棺じゃない。
もっともっと古い弥生の遺跡や遺物が九州にはゴロゴロしてるのを
九州の考古学者や埋文関係者は目の当たりに見て知ってるから、
九州の弥生時代が春秋・戦国期にまで遡ると考えるのは、九州ではまあ当たり前だった。
岡崎敬先生は大陸・半島の歴史にも詳しく、鏡の銘文解釈までこなせる教養人だったから
非常に信頼されてたと思う。写真を見ても、温厚ないい先生だったろうなと思える。
あのケンカ大六(原田大六うさん)も、他の先生への痛罵はいっぱいしてるが
岡崎先生に対するその手の批判文は見たことがない。あんがい協力関係にあったんじゃないかな。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJINDEN2004/01-7.html >>796-798 ただ年代俎上も限度があるんで、いくらなんでも曲学の徒さんのは俎上し過ぎじゃないかな。w
801 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 17:22:42
802 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 18:22:20
>ばかの一つ覚えみたいに、年輪と炭素だけ攻撃しててもだめだよ。
批判は良いとしても、じゃあ、自前の年代観の根拠は・・・となると殆ど出てこないw
小林説を否定しながら
(つか三角舶載を前提にしているんだから認めたら九州説はその場でジ・エンド)
そこから導き出された年代観だけはチャッカリ頂いていると言うのが
九州説の一部勢力w(まあこの板に限って言えばそっちが主流?w)
偏見なく見て、小林年代観は政治的にすぎたな。一回ご破算にして考えるのはよいこと
だろう。あとは九州年代とのすりあわせがもっと必要。こうして見ると考古学会にふりまわ
されている感もあるが、俺のようなアマチュアネット古代史フアンにはいかんともしがたい
ところ。
804 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:52:06
銅鐸の模様は、九州の装飾古墳の絵に酷似しているね。
幾何紋様といい。銅鐸は倭人の祭祀の道具だね、きっと。
倭人(百越の民)が海南島の人々に似ていると倭人伝にあった。
海南島には百越の中の駱越に属する、リー族と水族がいる。
リー族は鬼神、竹筒飯、頭のかんざし(チブサン古墳の絵に似ている)、
刺青、リー族の紋織は博多帯に似ている、ビンロウを噛む(お歯黒)、
封建的地主経済、等。
水族は水文がある(古墳の絵に良く似ている)、呉姓が多い、
酒が好き、粘り気のある食物を好む、酢っぱい食べ物を好む、
仲人をたてて正式に娶る、等々、
倭人と同じ人種だろうと思う。
倭人はいつのまにか日本人という意味に変化したが、
そもそも倭人伝のころは、越呉人が移り住んでいるところという感覚だったのだ。
だから倭種という表現を使っている。
Ψ ◎ Ψ <呼んだ?
└< >┘
/ \
邪馬台国について、何故に日本に記録が残っていないのか?文字の存在の有無だけで無く、言い伝えも無い。そして遺跡も。
808 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:29:26
>>806 良いことに気づきましたね。
それが邪馬台国が畿内でない有力な証拠の一つなのです。
809 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:49:41
>>805 えべっさん乙w
ところで銅鐸と言えば、そもそも常に大青銅祭器が祭祀に用いられたと言う事には根拠が無い。
つまり、九州以東では青銅祭器を用いるマツリから
大型(巨大)首長墓でのマツリへと変化したのではないか?
出雲なら銅鐸銅剣から四隅へ
畿内は銅鐸から前方後円墳、東海は銅鐸から前方後方墳へ
吉備の楯築もその巨大さに反して副葬品の寂しさはよく言われるところ…
ぶっちゃけ幾ら副葬品に凝っても外からは見えないわけだしw
まあ銅鏡は無くても古墳文化は成り立つとwwwwww
そう言う意味で九州と九州以東と言うのは文化の進んでいった
方向が違ったんだろうと思うw
810 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:06:38
>>803 >一回ご破算にして考えるのはよいこと
それについてよく思うのは紀年鏡。
出土している物全てが百年は後に「産地偽装」ならぬ「製造年偽装」で作られ
魏代の紀年鏡は日本に入ってないと言うのも不自然だろうと・・・
無論、出土している物の中にいくつかは後世作った物はあるかもしれんが・・・
(年号についても景初ならともかく他の年号、特に呉の年号に至っては
当時の倭人にとってどう言う意味合いがあったのかすら不明)
>>799の年輪年代、炭素14を元にして作られたモデルだと辻褄あうのかな?w
>>809 阿波の弥生前期の遺跡で、
祭祀用と見られる銅剣および木造模造品が結構出てる。
徳島大学の敷地内で結構時間かけて発掘されたはず。
812 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 07:53:07
徳島が邪馬台国だという意見がありますが
邪馬台国との関係とは別に徳島から出てきたものは非常に興味深いですね
九州から「東遷」してきた勢力があったとすれば
そうそう簡単に畿内の強大な勢力に対抗できなかったことでしょう
そういった意味で徳島には九州から来た勢力の畿内侵攻における一大拠点ともなった可能性を感じます
元から豊かな国々のあった阿波を九州から侵入してきた勢力が占拠し、淡路島を足がかりに畿内に入ろうとした
その勢力が後に畿内で邪馬台国につながったにしろ、九州にあった邪馬台国の末裔が東に来たにしろ
徳島は非常に興味深い地域だと思います
814 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 11:39:13
一大率について。
>>642 >女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を
>監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政
>務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている。
これは大変に重要な記述で、大陸への通交ルート上にある北部九州諸国は、
一大率の設置により女王勢力がきちんと押さえていた、と読み取れる。
具体的には、対馬〜一支〜末盧〜伊都〜奴〜不弥の諸国であろう。
「諸国はこれを畏れている」は、一大率の意向には逆らえない、即ち
万一逆らった場合は厳罰が課せられる制度的状況にあったと見てよい。
そこで気になるのは、
>>127 >畿内説の人にも
>当時畿内が九州を統治していたと考える人は、
>電波以外には皆無なのでは?
との意見なのだが、そうだろうか。
もちろん九州全域を隅々まで統治、などと考えることはできないだろうし、
奈良朝以降の律令に基づいた国司〜郡司〜里長(郷長)支配のような
確立した中央集権体制とは全然別物であったには違いないのだが、
ただ、こと大陸への通交ルート上にある北部九州沿岸諸国に限るならは、
女王勢力側の権力が在地勢力より優位に立っていたのは一大率の記述
からして明らかであろう。
そしてこの点は別段、九州説、畿内説にかかわらず、等しく認めなくては
ならないものと思われる。
>>814 電波どころか、今の学校の授業では
邪馬台国=大和国の場合は
西暦2〜3世紀には、少なくとも
関東から北九州までの広域圏をカバーする連合体が
存在していたというふうに教わるよ。
一大率というのは、その後の
大宰府とか、鎮西探題、九州探題のようなものというのが
一般的な認識でしょう。
816 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:12:13
>>815 今の学校で邪馬台国って教えてるの?
中学?高校?
>>815 二世紀も含む教科書出してる出版社はどこ?
扶○社
もちろん電波ではないよ。127は認識が甘い。四国、中国は山口まで邪馬台国連合だろうし、
なにより魏の参加に入ったのは狗奴国もそうだが、北九州を押さえる意味合いが強い。
魏は、古くからつきあいのある北九州諸王国より、新興だが広大な邪馬台国連合の盟主
を倭国王と認めたわけだ。
高地性集落では のろし跡が数多く見つかっており、北九州から大和まで情報は数時間で
届いたという実験結果もある。北九州は東に邪馬台国連合、北に宗主国としての魏に相対
して進退窮まった状態であったと想像できる。
北九州は奴国、伊都国など歴史の古い国の集合であり、お互いを尊重あるいは牽制しあって
まとまることができなかった。その間に倭国乱によって、四国、吉備、山陰、近畿、東海等を
含む強大国ができあがってしまっていたというわけだ。
参加→傘下
「自女王國以北、特置一大率」を、畿内の邪馬台国から北九州に
置いたと解釈するのはなかなか難しいね。
邪馬台国は南の狗奴国との小競り合いに手を焼いて帯方郡に助けを
求めるような国だし。
>>822 その狗奴国との抗争がどんなもんか
あの倭人伝の文脈では明白なこと分からんでしょう?
倭国大乱で卑弥呼を共立した経緯からして
狗奴国は、邪馬台国を中心とした倭国連合の中の一カ国ぐらいの国にしか見えない。
もう、卑弥呼の政権は
ヤマトトトヒモモソ媛命と崇神天皇の政権ということで決まりだよ。
魏志倭人伝に書かれている倭国の実態をもう少し詳しく知ろうと思えば
古事記や日本書紀の崇神紀のあたりを読み込めばよい。
825 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 17:27:08
邪馬台国は宇佐市は俺の定説。
比売大神は卑弥呼のこと。
否定出来るものならお願いします。
もう、そろそろ、九州説に対して
止めをさして、次の段階に進まないと
このあたりの時代の歴史は永遠に停滞したまま。
九州説というのは、小説的に面白いんだろうけど
畿内説でも小説的に面白く唱え始められるようになったら
九州説はすぐに忘れ去られるようになる。
827 :
819:2009/03/31(火) 17:32:16
今話題の西都原81号墳や豊の初期古墳などは、北九州に対する邪馬台国連合の牽制
だろう。まわりからじわじわと固めていった。北九州が完全に邪馬台国=大和朝廷に取り
込まれたのは、景行天皇?の頃、4世紀はじめのことかな?
景行帝の実在は疑問ではあるが、小碓尊はじめ80人!の子をなしたといわれ、その皇子
らが、日本各地の地固めに奔走したというような事実はあるのかもしれない。その象徴が
日本武尊伝説。
>>821 倭人伝はもちろん第一級史料だが、少し距離を置かないと真実は見えてこないのでは
ないかな。それはこれまでの研究史が物語っていると思う。
卑弥呼は天皇家の人間。
第七代目の孝霊天皇の皇女であるヤマトトトヒモモソ媛命で決まり。
天皇家が隠したかったこと。
↓
古代の日本では、祭祀王の世俗王の二人の王がいる並立体制があって
これ古事記を編纂した時代では、
一人の天皇を頂点した律令体制だったので、それが問題になった。
また、倭国大乱(卑弥呼擁立の切欠)以前では
この祭祀王と世俗王は、別々の王統からそれぞれ即位していて、
世俗王の家系が、祭祀王と世俗王の両方を独占しようとしたために
倭国大乱が勃発し、結局、世俗王のほうが祭祀王の地位まで独占してしまった。
それが卑弥呼共立であり
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(神武皇統7代目・孝霊天皇の皇女)だった。
つまり、世俗王の家系とはニニギ命の後胤である神武皇統(今の天皇家)
祭祀王の家系とは火明命の後胤たちで、その嫡流は後に尾張氏を名乗った。
つまり、両者ももとは兄弟から別れた家系だった。
>>823 邪馬台国の権威は武力でなく宗教的なものだから、卑弥呼や
壱台が立てられて内乱が鎮まったんだろ。
830 :
819:2009/03/31(火) 18:24:53
>>825 まず自説の根拠を出してから、批判を求めるものだぞw
宇佐神宮に関しては、成立にかかわる数々の謎があり、主祭神の一柱「比売大神」(二の
御殿)とは何だろう。定説では「宗像三神」といわれるが??(一の御殿 応神天皇、三の
御殿 神功皇后)
紀記の神功紀では、子どもを生んだから「宇美」、めずらしい魚が採れたので、「めずら国」
=「末盧国」と古い地名を否定する記述が見られ興味深い。神話系の人は調べてみたら。
>>828 白石太一郎氏の本に、台与の墓ともいわれる西殿塚古墳の古い調査資料図が載っており、
それによると後円部と前方部の双方に埋葬部らしきものが見られ、祭祀王と世俗王である
可能性はあるのかもしれない。 (たてめ)
831 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/31(火) 18:26:09
>>823 >狗奴国は、邪馬台国を中心とした倭国連合の中の一カ国ぐらいの国にしか見えない。
張政が軍事顧問として女王國に長期滞在したのだから、
狗奴國は女王國にとって大きな脅威であったと見做せる。
又、魏は張政を軍事顧問として長期派遣するメリットは何なのか?
狗奴國に関しての魏の認識は次の様であったと推測する。
@公孫氏なき後も、呉は狗奴國と友好関係を続けていた。
A対呉政策として狗奴國には女王國を利用した。
B狗奴國は九州西岸(肥國の範囲)まで勢力下にしており、
航海術は一大國に匹敵し、もしくはそれ以上であり、
阿蘇リモナイトから製鉄をし、
三河川にまたがる広大な熊本平野で豊かな食料を得ていた。
狗奴國は女王國に匹敵する強大な連合国家であった。
だからこそ魏使は邪馬壹國連合倭を巨大な国家群であると報告した。
九州説からすれば天皇の系譜は神武の高天原→日向からの東征で
始まってるからには、卑弥呼や邪馬台国は基本的にそれ以前の
出来事かな。
833 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/31(火) 19:12:31
>>832 九州説からすれば天皇の系譜は神武の高天原→日向からの東征で始まってるが、
卑弥呼や邪馬台国は基本的にそれ以前か以後かはまだわかりません。
日向からの東征は4世紀後半、もしくは2世紀初頭のことと思われます。
東征のきっかけになった事件が2つ考えられるからです。
834 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:23:25
記紀では大和王朝が話の中心で九州は神話的な世界だ。
台与が最後に普に使いを出したのは266年だろ。
トヨタン・・・・・・・・・・
836 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:35:26
卑弥呼が幼少期に王位に就けられたのは180年前後で、台与の
時代まで倭人伝では場所の移動は言及はないからな。
台与が使者を出したのは晋が成立した翌年で、卑弥呼が
巍の成立の翌年に使者を出したのと一緒だ。晋王朝は
短命に終わって、以後、邪馬台国は混乱した東アジアの
中で行方不明。
大和盆地一帯と地名相似が見られるのは、奴国の辺りだから
邪馬台国がそのまま移動したわけじゃないかも知れない。
自然衰退じゃないかな。
837 :
歴史学博士:2009/03/31(火) 19:38:31
疲れた
邪馬台国がどこにあったか判明したら、現代、未来に(日本国民OR人間)が
どうなるなか。
「ドンと来いさん」意外の方でもいいから教えてください。
4世紀初めのあたりは確かにわからないことが多い。神話は100読んで1つか2つぐらいの
ことがやっと言えるものだし。
839 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:45:14
>>823 そのとおりでしょう。狗奴国は文脈からすれば、道里戸数が記載されておらず、旁国
(大国の周辺にある小国)の一つに過ぎません。
卑弥呼が親魏倭王に叙せられたのもそのことを裏づけます。狗奴国が大国ならば、狗
奴国を無視して卑弥呼を「倭王」と言えるものではありません。倭邪馬台国王とか言
われたはずです。狗奴国が小国だから無視されたのです。
>>831 張政が長期滞在せざるを得なかったのは、卑弥呼亡き後、倭国の乱が再燃したからで
狗奴国との問題のためではありません。張政を帰国させるためには北九州が落ち着く
ことが必要だったのです。
840 :
うん:2009/03/31(火) 19:52:19
>>837 邪馬台国お宅でもフェチでもいいじゃん。
続けることは力なりって言うよ。
>>831 上の方で誰かが書いていたが
狗奴国は許乃国(京都府宇治のあたり)のことで、
許乃国には、河内国(大阪)とか、他の国の協力者もあった。
で、許乃国の王は武埴安彦命であり
卑弥呼(モモソ媛命)とは叔母と甥の関係。
つまり、皇族内の権力闘争。
だからこそ、大乱であり、外交関係をもった中国も驚いた。
畿内派頑張るね〜
しかし九州説に従う限りは記紀は思ったよりも史実をはっきり
反映してると俺は見た。
769 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:47:17
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年
倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
→その後、男王、倭国で大きな戦争がおこる
日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
→翌年、崇神天皇、四道将軍を全国に派遣。
普通に考えて、日本列島を統一した勢力って、近畿地方から起こった勢力でしょう?
九州の勢力が東征して近畿に政権をたてるなど不可能だし、
九州の勢力が近畿に首都移転する必要性がわからない。
出雲国譲りの図式も、どう考えても、中国地方VS近畿地方の戦い。
室町時代も、山名氏清VS足利義満、大内義弘VS足利義満
そして、戦国時代も 毛利輝元VS織田信長だったわけで。
つまり、神武天皇よりも前に、すでに近畿地方の勢力によって
出雲との最終決戦に勝ち、一度、全国統一は達成されている。
その後、近畿地方の勢力が九州統治のために派遣されたのが、神武の一族。
皇室(神武皇統)が隠したかったことって、
その近畿王朝初期においての皇位の座にあった一族のこと。
その一族こそが、日本の本来の正統な皇位継承者だった。
神武皇統は、その傍系一族で、
おそらく、その近畿王朝の日本建国者の男系の直系子孫ではない。
魏志倭人伝には、狗奴国の王のことを、卑弥弓呼としている。
これって、邪馬台国側の人間が、狗奴国王のことを
そういうふうに呼んでいたから、それが中国人に伝わったんでしょうw?
この卑弥弓呼というのは、卑弥呼に似ていて
おそらく、邪馬台国と狗奴国は同文化圏の可能性が高い。
そして、現在、卑弥呼=媛命のことだろうと言われている。
だとしたら、卑弥弓呼=彦命の可能性が高い。
これは、どちらも皇族などに使われる尊称みたいなもんで、
つまり、狗奴国王は、邪馬台国側の人間から尊称で
呼ばれていた可能性が高い。
現在、魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼は
ヤマトトトヒモモソ媛命という皇族の女性の可能性が高い。
だとしたら、おのずと、狗奴国王の卑弥弓呼は、
武埴安彦命の可能性が高い。
847 :
うん:2009/03/31(火) 20:06:35
ううううんんん 邪馬台国の研究
日本のためになってるのかな
そんなの関係ねい///
でも電気も食うしエコではないよな。
>>840へ
848 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 20:07:36
>>825 宇佐は渡来人が開拓した土地だから、
邪馬台国じゃないよ。
古代なんてそれこそ「勝てば官軍」な時代で正当か不当か
みたいな議論に関わる気はしない。
>>843 日本書記はそんな調子で詳細に神武にまで年代を遡るの?
851 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 20:29:53
>>849 でも 歴史なんて勝てば官軍わかってないと、真実あばけないよ。
疑問から、始めるんじゃないかな。特に日本の封建国家(含 朝廷)残ってるものなんか少なすぎるのは、
どこかで隠匿されたと考えるのが普通じゃないかい。
俺は畿内説だが、弥生中期頃に九州勢が近畿などに流入したのは十分ありえることだと
思ってるよ。神武東遷伝説の年代だけは讖緯説を取り入れて、ムリに3世紀の邪馬台国に
関連ずけることのほうが、よっぽど紀記の曲解ではないかな。
853 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 20:45:38
>>711 遅レススマソ
出雲⇒敦賀⇒陸行1日⇒琵琶湖⇒淀川⇒運河⇒奈良湖
水行10日だよ、陸行すれば1月
>>843 同じ話とは思えんぞ。
崇神天皇10年(紀元前88年)9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を
丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して
和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、
孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しよう
としたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と
彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び
出発。
855 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 20:57:19
>845へ 薩長の人が江戸幕府を倒して明治政府を作ったんだら,不可能ではないのでは。
あくまで可能性があるといでだけの意見ですけど。
敦賀や出雲に上陸するのであれば
わざわざ対馬海峡を渡るまでもなく
朝鮮半島東部から直接渡って来るほうが早いようにも思いますが
銅鐸が九州からあまり出てこないのは銅鐸文化が日本海を渡って畿内に入って来たからではないかという感じもします
華北の建物に見られる風鐸に少し似ていますね
古事記は上巻が神代、中巻が初代・神武の東征で始まって15代・
応神の東征で終わってる。
史書編纂を命じた天武も、この時代にあっては朝廷の西方由来を
隠すつもりもなかったんではあるまいか?
>>854 どうみても、同じ話ジャンw
それに不服なら、考古学会やマスコミに文句いえよ。
考古学的には九州から畿内へ首都が移転するような大規模な痕跡は残っていない。
むろん、歴史的出来事が考古学的にすべて残るのか?
というと、そこまで考古学は万能な学問じゃないけど
そもそも、あの時代、神武東征みたいに、
あんな短期間で首都を東へ次々と移転することなど
ありえるのか?ということ。
その必然性が全く分からない。
>>857 天武天皇が隠したかったのは
尾張氏との関係。
>>858 ダメダメ、連中はバツが悪くてしらをきるだけさ。
862 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 21:45:39
現実離れした神話史観に騙くらかされないていどに古代史を
やって置くのは精神衛生上必要なことだ。
>>856 青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡の鉄器や貨泉の出土状況から見て、古来からの直接
ルートは否定できないけど、やはり危険だし、北九州の体面を守る、あるいは牽制の意味で
倭人伝のルートを取ったのではないかな。
864 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 22:05:41
だいたい、どこの大学でも
もう、邪馬台国=大和国で決まりって感じ。
でも、ここでも、そうだが、九州説がいまだに在野だけでは
まだ元気なのは
九州説は小説にしたら、ロマンがあるから。
もし、畿内説でもロマンがある小説が書けるのなら
九州説はじきに忘れ去られる。
866 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 22:24:51
>>860 尾張氏とどういう関係があったのか、
資料を出せって言ってるだろ?
867 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 22:35:56
>>859 信長秀吉家康を考えれば短期間に首都なんてコロコロ移動してる
868 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 22:56:39
>>865 九州説は、倭人伝に陸行一月の文字があるから北九州は、はじかれる。
残った可能性は、宮崎だが
倭人伝から
その南にあったとされる狗奴国を想定出来ない
後漢書から
倭奴国を極南とする記事と矛盾する
よって再考の余地は無いと言えるだろう
869 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/03/31(火) 22:58:40
870 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:06:14
>>865 ロマンより素直に読んだら九州だからだよ。
>>868 >宮崎だが 倭人伝から その南にあったとされる狗奴国を想定出来ない
それは読み方がなってないからだ。
>>839を見ること。
狗奴国は志布志湾沿岸に比定すれば良い。
871 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:19:23
卑弥呼とモモソ姫の共通点は双方霊媒的存在だと言う点しか
見えないぞ。倍暦だと一致するとしても他の倭人伝の内容を
全て無視して畿内説を支持すべきほどの根拠には見えない。
872 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:20:19
>>870 どのようなルートで邪馬台国(宮崎)まで行ったのでしょう?
873 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:26:49
一つ年代はぜひ無視してください。
日本書紀に
日本武尊が 熊襲の川上タケルを討った時、
川上タケルが
「尊号を差し上げたい お許し頂けますか?」
日本武尊
「許そう申せよ」
川上タケル
「これ以降は皇子を日本武皇子と申し上げたい。」
この下りに付いて以下推測
この話は支配者交代を意味している。
川上タケルは倭の五王で磐井君。
磐井君は東毛人国、衆夷、伽耶、の王であった。
磐井君は渡来人。扶余人だ。
そこへ勢いのある新羅から天の日矛が渡ってきて、
磐井君と戦い、勝利、イト県主におさまった。
子孫はあの隋書に見えるタリシヒコである。
そこで、川上タケルが尊号を差し上げたいといって
差し上げたのはアペキミ。
アペはペはペヨンジュンのぺ。
アペとは火を意味する。肥君である。
つまり磐井君とは通説では筑紫君であるが、
古墳が八女にあるように、実は筑前筑後、肥前肥後豊前豊後伽耶を
支配する肥君だったのである。その肥君の尊称をタリシヒコの祖先は継承したのだ。
またの根拠に大足彦忍代別天皇の皇子が日本武尊から、
大足彦忍代別はタラシヒコの名にそっくりであり、オシロワケは お城分ける
と取れるから。
874 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:27:44
水行一月に加えて陸行一月なら、投馬国と同じで上陸地は書いて
あるはずだ。しかも、何となく途中から上陸するのではなく、
そこから上陸しなければならないある程度の必然性があるべきだ。
875 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:30:06
投馬国と邪馬台国以外はあれほど分かりやすい場所にある。
張政も長期滞在しているからには、場所が曖昧なはずはない。
876 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:31:10
補足。隋書にはタリシヒコの号を阿輩鶏彌と書いてある。アペキミだ。
>>869 どうも、前に暦の考古学とかマヤ文明とかのお話をしたものです。別スレにコテハンで常駐
してるのでぜひに。 (たてめ)
878 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:35:32
>>870 >素直に読んだら
まあ、このせりふを前置きする奴にロクなのはいない
…と言うのが個人的な経験則かな?w
素直に読めないからこそ百年以上たっても結論が出ないのであって
「素直に読んだら」と言うのは自説の正当性をその一語で済ませてしまおうとする
言わば挙証責務の放棄をチャラにする免罪符といったところか?www
>>878 素直に読んでもムリだろう。これは、確実性の高い2つ以上の文献を比較検討するという
文献史学の方法と深く関わっているんだ。
880 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:59:23
>>879 残念ながら確実性の高い文献は一つしかない。
だから考古資料を援用するしかないが、考古資料はほぼすべて、ある方向を指し示して
いるように俺には見える。
882 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:11:12
>>878 素直でない科白だね。南九州説はこれまでも素直な読み方だと評価されている。
もし、問題があるというなら、反論してみたら。
末盧国から東南五百里が佐賀大和だ。倭人伝に従えば、そこが伊都国。ということは、
伊都国から放射式だ。佐賀大和ならば、嘉瀬川を使って有明海に出られる。
南へ水行できるのだから、そこが投馬国や邪馬台国への基点のはずだ。有明海へ出ら
れるところから更に順次式に奴国や不弥国へ行くはずはない。
佐賀大和から水行20日、そこが投馬国だ。当時の人口集中地は大きな河川のまわり
のはずだから、5万戸の中心地となれば川内だろ。そこが投馬国に比定できる。
投馬国が川内となれば、水行10日の地点は佐賀から川内までのちょうど半分あたり。
当然八代あたりということになる。水行十日陸行1月は水行十日で行けるならば誰でも
水行で楽に行くはずで、苦労して陸行1月で行く者がいるとは思えない。だから、水行
10日+陸行1月のはずだ。水行十日で上陸し陸行する以上、それは水行では行きにく
い所。となれば、上陸地点から内陸に入っていくはずだ。全体としては南の都城盆地あ
たりが目的地のはず。そこが邪馬台国だよ。
883 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:14:56
>>881 >だから考古資料を援用するしかないが、
確実な文献資料が一つあれば、それに従えばいいんだよ。
不確実な考古史料に頼ったって正しい答がでるわけはない。
884 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:21:57
>>882 >南九州説はこれまでも素直な読み方だと評価されている。
参考までにそう言う評価与えている有名どころの
文献史学者って誰?
数名でいいから名を上げて教えてくれんかね?
そもそも放射説も一度それを是としてしまえば
何処を起点に分岐させるのか?
分岐点は何箇所か?
・・・なんて問題も起こってくるからなあ…
もう珍読・暗号解読ゴッコ自慢はうんざりなんで
”素直じゃない間違った読み方している”他説と議論して
叩き伏せて読み方の統一してきてくれ、頼むわwww
885 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:28:06
まず、末盧国は松浦、つまり唐津湾はない。
通説は誤りだということだ。
末はマツとは読まない。マツとは慣用句で日本語の読み方。
華人が末をマツとは読まない。
読むとしたらバルかマルだ。
だから原や丸に繋がる。
それは早良平野に原町、次郎丸などの原や丸の付く
土地が多いことから考えて、
末盧国とは博多湾の早良区なのです。
100%当たってる自信がある。
886 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:29:42
記紀に書いてあること=全て畿内の出来事だってのは単なる文盲だろう。
887 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:42:11
>>885 バツはあってもバルは無理だろ。バとマは訛化しやすいからな。
末はmoでもあるらしいな。
888 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:43:38
邪馬台国に関する解説本でも読めば、数人ぐらいは上げてあるだろう。
2チャンでも賛同者はいるが、まともな反論には出会ったことないな。
>放射説も一度それを是としてしまえば何処を起点に分岐させるのか?
基礎知識がないんだな。伊都国に決まっている。それ以外はトンデモ。
889 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:46:47
>>865 >もし、畿内説でもロマンがある小説が書けるのなら
>九州説はじきに忘れ去られる。
やっぱロマンと言う点ではどうやっても九州説には敵わないだろうw
与えられた「想像の余白」が違うと言うかwww
昔の邪馬台国ブームは九州説があったればこそで
人はやはりエキセントリックな物に憧れる。
歴史教科書で学ぶ大和王朝に全く関係の無い
九州に興った「幻の女王国」だから人々は惹き付けられたのであって
畿内説だと卑弥呼も後世の推古や持統といった女帝にイメージが被っちゃって
萌え要素もダウソするのではないだろうか?www
890 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:47:13
やっぱり松浦ですよね。南東に伊都国で南に邪馬台国って倭人伝にあります。
891 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:51:27
>>887 末盧と書いてバルかマルと読むということです。
892 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:51:56
>>888 >邪馬台国に関する解説本でも読めば、数人ぐらいは上げてあるだろう。
うーん少なくとも俺は読んだこと無いなあ…
読んだ本がレベルが低すぎたのかな?w
少なくとも不弥国までは連続式で読んで
もったいないつけずに教えてクレヨンwwwwwwwwwwww
893 :
892:2009/04/01(水) 00:57:26
>>892書き直し
うーん少なくとも俺は読んだこと無いなあ…
読んだ本がレベルが低すぎたのかな?w
少なくとも不弥国までは連続式で読んで比定地が想定されて通説となっているし
一般に九州説と言えばツクシが保守本流。
無論ツクシ説は考古学的な後押しも加味されているんだろうが
「純粋に行程記事の解釈なら南九州」ってのも聞いたことが無い。
もったいないつけずに教えてクレヨンwwwwwwwwwwww
894 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:58:38
>>881 どうせならバツル国がマツル国だろ。モロ国とか。
>>882 2ちゃんねるしか知らないんだろ。
895 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:59:47
896 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:01:34
で松浦の南東が伊都国で南が川向こう大率を通って邪馬台国かぁ。
参ったな文献のまんま。
897 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:02:46
末盧国は博多湾の早良で東南の春日あたりがかつての伊都国で
更に東南の奴国がその後の那珂郡で、不彌国は宇美、冷水で、
其処から水行は川を南下して筑後川へ、そして陸行き一月、
狗奴国の北が邪馬台国だから、邪馬台国は福岡県山門郡の山川あたり。
898 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:09:21
>>895 そうだな「卑弥呼は熊襲の女王」なんてのは昔からあったか…
失念していたわwwwwww
899 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:31:53
古事記だとモモソ姫の予言は単に腰巻きをした少女が歌った
ことになってるぞ。こっちの方が原型臭いよな。言うまでもないが。
陸行1月を福岡県内に収めようってのは流石に無理があるだろ。
>>871 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 23:19:23
>卑弥呼とモモソ姫の共通点は双方霊媒的存在だと言う点しか
>見えないぞ。
そんなこと〜ない。
魏志倭人伝、日本書紀の記載に共通点が多い
彼女が死ぬ直前の政情不安や、
彼女が死んだ後の彼女のために作られた印象的な巨大な墓の記述や
登場人物の名前の一致の多さ。
(卑弥呼だけじゃない。それ以外に登場する人物まで
新撰姓氏録に記載されている人物の中で、一致する人物が多くいる)
902 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:35:15
畿内説だと帯方郡から邪馬台国まで一万二千里は適当な数字だからな。
903 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:36:57
畿内説は文献学の基本知らん奴ら。
904 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:38:11
狗奴国は鹿児島(隼人)か都城盆地(熊襲の都)と考えれば
宮崎平野説は成立するよ
中国に派遣された倭の使者である難升米は
梨津臣命の可能性が高い。
こいつは、藤原氏の祖先でもある。
あと、崇神天皇時代あたりの豪族の中に
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の官と一致する人物が多い。
とくに、倭国造の家系で、邪馬台国の官と一致する人物が多い。
906 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:44:36
宮崎は投馬国=妻町辺り西都原で満足しろ。
昔、宮崎出身の奴と短期間懇意にしたことあったが、
色黒で小柄でガッチリ体型でいかにも南国風だったな。
邪馬台国の官の最初に伊支馬という名称が出てくる。
こいつは、モモソ媛命が活躍していた時代に
倭国造だった邇支倍のこと。
>>902 妥当でもないけど。朝鮮半島と対馬海峡を渡るところが長すぎる。
ほかはまあまあ妥当なんだけどね。
要は、外洋船を使ったと思われるところだけおかしい。
909 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:48:00
伊都国から船で十日で邪馬台国や二十日で投馬国ってのは北側からで
大率のいる南部じゃないな。
>>889 逆にいえば、畿内説でロマンを感じさせるようなことを
小説でも著せたら、これまでの邪馬台国関連の小説で多かった九州説と違いが出せて
ヒットするかもしれないし、そうなれば
もともとロマンだけでもっていた九州説は在野ですら一気に崩壊するだろうね。
911 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 01:55:46
>>900 それとて放射説だの短里だの一月のうち移動に費やした日数をどれくらいに見積もるか…
によって説明できるかもよ?w
福岡平野は考古学的には九州説の中では一番有利なのかも…
少なくとも3世紀には寂びれまくっていたとも言われる吉野ヶ里や
弥生時代の大型環濠集落もこれといったものも無い宮崎平野よりはw
ぶっちゃ話、「須玖岡本」と「比恵那珂」の遺跡を当てておけば
今後、考古学がどんな年代出してこようとも対応できそうwwwww
記紀は邪馬台国、卑弥呼について読んで上で書いているから、
似ているってのは証拠にはならないんだよね。
>>912 というか、日本書紀の編纂者は
神功皇后を卑弥呼と思ったんだろう?
だから、ヤマトトトヒモモソ媛命のことは
卑弥呼とは認識してないから
似ているというのは重要だと思う。
914 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 02:25:12
>>906 WBCで活躍したヤクルトの青木みたいな感じ?w
のっぺりとした顔の新モンゴロイドじゃなくて
いかにも古モンゴロイドっぽいと言うかwwwwww
>>913 神功の方は時代合わせただけなんじゃないの?
わざわざ自分たちでずらしてるんだから。
916 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 05:32:42
>>914 宮崎出身で検索したところ
西島千博
青木宣親選手(ヤクルトスワローズ)
とろサーモン
コブクロ(小渕健太郎)
えびちゃんこと蛯原友里さん
今井美紀
浅香唯
永瀬正敏
斉藤慶子
温水洋一
鬼束ちひろ
堺雅人
そのまんま東
花田景子(河野景子)
0930
米良美一
サエコ
ゴーザスキップ
通山愛里
福島瑞穂
と出てきた。知らないのもけっこういるが。
917 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 06:15:07
>>906 >宮崎は投馬国=妻町辺り西都原で満足しろ。
日向の古墳などの説明がつかないもんだから、投馬国に比定することですませよう
ってのかな。しかし、投馬国がそんなところならば、郡使は何で投馬国を訪ねたの
かな? 投馬国に関する記事は伝聞にすぎないとするのは逃げ口上。倭人伝の記事
からすれば、使者は投馬国を訪問している、そう読むべきだよ。
918 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 06:23:01
>>916 宮崎は美人が多いんだ。昔、王さんが全国から美人を集めたからかな。
919 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 06:51:57
>>902 >畿内説だと帯方郡から邪馬台国まで一万二千里は適当な数字だからな。
末盧国から陸行五百里が怡土だなんて言いながら、残り千五百で大和まで
もってくるのはいくらなんでも無理なのでは?
伊都国は大分だったとかいうなら分からんでもないが。それでは奴国や不弥国
を置くところがないしな。
920 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 07:27:31
邪馬台国がどこにあったか判明したら、現代、未来に(日本国民OR人間)が
どうなるなか。
趣味ならいいが、真剣に楽しく、税金で考古学やっtる人たちうらやましいな。
たぶん もういらないんじゃないか。 今のための考古学ならいいけど。
921 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 07:43:54
>>882 マツロ国を唐津に当てているようだが、唐津は狭い。
四千戸の大都市という事を忘れているのでは?
都城盆地から七万戸の大国が存在した遺構が発見されないわけは?
922 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 08:14:55
>>921 唐津を含む四千戸相当の広さを考えるべきだ。
邪馬台国ならば、都城を中心に七万戸の広さを考えるべきなんだよ。
宮崎平野全部が含まれるとみたって問題はない。
伊都国がもし佐賀なら宮崎の可能性が高くなるけど、
前原だと、「陸行1月」の説明が難しくなり、やはり畿内かな。
短理だと南九州には届かなくなるが、それでいいのか?
>>911 >それとて放射説だの短里だの一月のうち移動に費やした日数をどれくらいに見積もるか…
>によって説明できるかもよ?w
桜島に上陸して陸路福岡へ向かう説でどう?
>福岡平野は考古学的には九州説の中では一番有利なのかも…
そういうこと。
でも倭人伝と照らし合わせればそこはナ国に誰しもが当てるので、
だれも邪馬台国とは考えない。
ナ国は後漢以前からの通交の記録があるから、
前漢代からの威信財がザクザク出ている福岡をナ国に当てるのは当然のところ。
逆に言えば、ぽっと出の邪馬台国の場所で古くからの威信財が
多量に出土するのはおかしいとも言える。
926 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 12:41:02
>>925 >ぽっと出の邪馬台国
表現にはワロタが、よく考えてみりゃ全くその通りだな。
奴国の住民や、かつての奴国王の子孫にすりゃ、
「邪馬台国なんてぽっと出のくせに、いったい何様なんだよ〜、
いつのまにか倭を代表して中国と国交するなんて・・・・・、ブツブツ・・・・」
て言いたい気持ちだったろうな。ww
今まで九州説に情熱をかけてきた人の気持ちもよく分かるが
まあ、邪馬台国=大和国だよ。
ただ、吉野ヶ里遺跡に関しては
107年の倭の面土国の帥升の可能性が高い。
面土国=メタ国=米多国(佐賀平野あたり)だから。
また、日向に関しては、葛城(高天)から高千穂(宮崎)に
ニニギ命が派遣されたのは事実だと思う。
だから、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命よりも、前の時代なんだろう?
神武東征は。
宇佐に関しては、あれは、神功皇后と関係ありだから
卑弥呼の時代よりも100年くらい後に重要になったんだろう?
928 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 13:20:36
ぽっと出の邪馬台国はよく考えなくても全くその通り。
ぽっと出がぽっと出と思われなくなったのは、
多利思北孤がそこに都を置いていたたから。
もうひとつ、多利思北孤が大宰府に遷都するまで、
そこは3世紀から都であり続けた。
そこで思うに、倭の都は、久留米市南部高良台周辺を、点々と400年間移動していたと。
929 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 14:02:06
邪馬台国はもともと阿蘇信仰の地だぞ?
あ、すみません。脇役で根拠薄弱な九州山門郷説の話でした。
931 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 14:20:41
>>929 阿蘇信仰が北部九州に出てきたのは倭の5王以降。
装飾横穴石室墓が筑紫平野に進出してから。
装飾横穴石室墓は、
装飾横穴墓の発展型で、
平地に装飾横穴墓を作る為に、
平地に盛り土(墳丘)をし石材で横穴を作ったもの。
装飾横穴墓は崖面にしか作れませんから。
932 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 14:25:07
誤:装飾横穴石室墓が筑紫平野に進出してから。
↓
正:装飾横穴石室墓が筑後平野に進出してから。
934 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 15:10:11
縦穴がないと阿蘇信仰出来んのかい…
あ、良いんですよ。阿蘇山門は大した根拠のある話じゃありませんから。
イザナギが火の神を生んで死んでしまって黄泉の国に下る話が、
どうしても黄色い硫黄の吹き出る阿蘇の噴火口を連想してしまう
としてもですよ?
938 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 15:54:48
>>936 旧山門郡(現みやま市)は邪馬台国の一部であったとの否定は出来ません。
しかし、旧山門郡は投馬國であった可能性が高いと思います。
特に現柳川市側旧山門郡は投馬國の可能性が高いと思っています。
940 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 16:20:23
>>939 >『隋書』倭国伝では死者の弔いの話題に、当たり前に阿蘇の話題が続いてますが、
>もちろん偶然でしょう。
偶然ではないと思います。
関連連想で阿蘇の話題に続いたのではないでしょうか。
その後も同様の連想で話題が続いていますし。
関連連想は死者の遺体を阿蘇リモナイト(ベンガラ)で防臭処置をしていたからだと思います。
装飾古墳の装飾も防臭処置用阿蘇リモナイト(ベンガラ)から発展したものと思います。
941 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 17:27:41
>>879-881 方法論として単一史料の検証を
その史料の恣意的解釈だけでやろうと言うのがそもそも無理w
故に>881の言うように考古学的資料に頼るしかないのが現状。
(他にグッドアイデアがあるなら教えてくれw)
「書いてあることの何処までが本当なのか?
そもそも何と読めばいいのか?」
と言う文献があって
どう読むのが正解で、どの部分が事実なのか、誤りなのか…
を検証するのに
「こう読むのが正しいから…」
ってんじゃあラチがあかないのは当たり前www
(その時の常套句が「素直に読んだら・・・」なわけでw)
まあぶっちゃけて言えば珍読・暗号解読ゴッコマニアの連中の目的は
倭人伝の記事に対し如何に齟齬をきたさない仮説を作り上げるかで
現実に邪馬台国が何処にあったのか探すこととはベクトルが違うだろうとwwwww
>>933 おまえ、高天原と高千穂の区別すら
ついてないだろう?
高天原は葛城でも高千穂でもない、天上界だ。
馬鹿ばっかり。
安本美典氏が似たようなことを書いているが、倭人伝は X+3=Y のような方程式だ。
X,,Yを満たす解は無数に存在する。これが戦国時代などなら、文献はいくらでもあるから
2つの文献の記述に齟齬があったら、第3、第4の文献を求めればよい。しかし、倭人伝と
紀記では、とても連立方程式として扱えるものではない。
上でも少し書いたが、考古学とは素直に遺物の語る言葉に耳を傾けるものだ。俺は関東
在住で、九州と近畿のどちらかをひいきにするいわれはないが、ほぼすべての出土状況
が、女王の都するところ=マキ向 を示しているように見える。
945 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 19:41:04
でも 税金で飯 食ってるやつここにはいないよな。
邪馬台国がどこにあったか判明したら、現代、未来に(日本国民OR人間)が
どうなるなか。
趣味ならいいが、真剣に楽しく、税金で考古学やっtる人たちうらやましいな。
たぶん もういらないんじゃないか。 今のための考古学ならいいけど。
>>945 文化財行政は必要
なくしたら日本の文化財は壊滅
世界中から物笑い
947 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 19:58:40
>第3、第4の文献を求めればよい。しかし、倭人伝と
紀記では、とても連立方程式として扱えるものではない。
2chではとても全部書ききれないので、最低限の2つの条件で済ますことが多い。
大抵の人はそうだ。本当は下調べしてあるが書けないのだ。
その繰り返しだから、いつも議論は堂々巡り。
こっちはいろんな物を付き合わせて考えて推測しているのに
トンデモ説だの一言で片付けられてしまうことが多い。
文献の表面だけの解釈なら誰だってできる。
それを人類のルーツから言語から文化から風土から服装から古墳から、
信頼できる中国の文献から、風土記から等々、
できるだけ多く集めて考察してますよ。
全部書けないから、書いても長文になると読んでもらえない。
最低限のことを書くと、あなたみたいな人にトンデモだと
バカにされてしまうんだよ。
948 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:00:51
>>946 日本の文化を解き明かし切れてるのかい。
文化財保護はわかる・・・入館料で成立できる
世界中から物笑いなんて、差別じゃないかい
アフリカの●×種族は自分の2000年前の歴史語れないから、物笑いかい。
税金(物納かな)つぎこんでわかって、幸せかい。
>>948 >文化財保護はわかる・・・入館料で成立できる
ぜったい無理
950 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:10:28
>>946 落ちつけよ
一理あるのは確かだし、税金で邪馬台国やってる奴より
素人が、何か見つけたり、語るのが楽しいし、2CHなんだからさ。
お咎めなしってことで。
金印なんて百姓が見つけた。・・・見学料も入ってる。
お宅でいいの、お宅で、お宅に税金つっこんでいいいの。
お宅も税金払ってる国民。
951 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:16:42
>>949 やはり、税金で宣伝しろというのか。
文化財って金掛かるの無理なら、その金で首切り派遣労働者どのくらい救えるの・
その方が、大事じゃないかい。
食うに困ってるやつ、文化財保護してくれるより、家族の生活費ぜったいほしいよ。
952 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:19:41
税金で考古学やってる奴いないよおおおおおおおおおお
953 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:26:03
ごめん、
>>945です
保護に金のかからない、収益上がる文化財、(将来も国民の負担無い・・・今でなく長年の経験値や平均で)はいいと思う。
一攫千金は税金じゃ駄目だよ。
>>947 神話を神話学的に考察するならバカにするつもりは一切ない。邪馬台国と結びつけるの
もまあいいだろう。しかし、はじめに自説ありき、九州なり畿内なりの自分の候補地を想定して、
紀記や考古資料を見るから、結果としてねじまがった奇妙なものをさらすことになるのだ。
ただ、歴史の勉強はよい趣味だし、結果として知識や情報収集能力が身につくのもまた
確か。われわれはプロではないのでどこに責任があるでなし、2chという場を考えれば、
ネタとしていじって楽しむというスタンスなら、否定するつもりはないよ。
考古学は、邪馬台国で話題になる弥生後期ならまだしも、近世や中世は予算も少なく、
本も売れず悲惨なものだぞ。まあ本人らは好きだから、土器片に番号をつけて分類する
などの作業を嬉々としてやっているが。
955 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:41:19
もとに戻そ。
趣味と一過言の人たちの考古学のスレでいいじゃん。
学会で発表する人はスレなんか参加しないよ。
他で生計たててるから。
956 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:44:22
>>923 伊都国、前原説は明らかに間違い
方角もおかしいが、内陸部でない所をわざわざ陸行するわけがない
>>882 浪漫ティックだね都城w
邪馬台国=高天原w
957 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:00:49
>>954 あなたの過去レスからわかりますが、
いつもバカにしていますよ。
あなたは神話の都合の悪い部分だけ否定して
神話学的に考察して神話を現実のこととして
そのまま信じていると思いますね。
始めに自説ありきじゃないです。
私はこれまで、ほんとの初心者のときは近畿を指示していました。1日位。
その次がイトは佐賀あたりになって有明海を南下、邪馬台国は宇佐か宮崎になった。
放射説になったり。
結局今は連続説で山門郡山川に収まったよ。
あなたこそ自説ありきだと思うけどね。
>>940 面白いです
装飾古墳はあるいは玉名地方あたりで発生したものではないかと思っていましたが
阿蘇がその発祥の地である可能性が高いのでしょうか
959 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:41:53
宇佐は渡来人が開拓した土地だから、
邪馬台国では絶対にありえない。
>>957 宇佐を候補に入れるなんて、根本的に勉強が足りなさすぎだ。
960 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:44:13
山門郡なんて、距離が全然近すぎる。
そこまで魏志倭人伝を否定するなら、畿内説でかまわないはずだ。
961 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:54:09
>>959 ですから初心者でしたから。
でもですね、宇佐も渡来人が開拓した以前も人がいたことはわかりますよね。
新羅系が開拓したのはわかりますが、
その前は倭の五王系でその前は邪馬台国+狗奴国の支配していた土地かもしれないんですよ。
魏志倭人伝での邪馬台国は山門郡だと思いますけど。
歴史は流れをぶった切っちゃだめだと思いますね。
962 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:05:11
上古の官道が山川町の今の佐野の葉日の窪を起点に豊後の
玖珠に到着し出雲に達する一線と宮崎日向に達する一筋があるんですよ。
これは邪馬台国+狗奴国連合が領土を広げていった証だと思いますね。
かも知れないし、違うかもしれない・・それが問題だ・・・
>>959 宇佐には赤塚古墳という箸墓と同じくらいの時期の古墳があるんだが
伊都国って、邪馬台国が一大率おいて
諸国を監視していたところだろう?
しかも、規模は奴国の片隅にあるようなところ。
966 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:20:30
魏使の九州上陸は、
釜山⇒対馬 南千里
対馬⇒壱岐 南千里
壱岐⇒ ?千里
からして博多と見るのが妥当でしょう
海流を考えても東に上陸する方が楽
上陸後も東の方角へ使者は進みます
>>959>>961 おまえらに突っ込むが
なんで、宇佐が渡来系が開拓したところになるのか?
宇佐は、神功皇后が半島遠征の折に
かなり、あの周辺を開拓したところだろう?4世紀くらいに。
その時に、戦争捕虜を使って開拓しただけのことだろう?
むろん、それ以前から宇佐には歴史があり
おそらく紀元1世紀の神武東征の頃から
あそこには明確に歴史がある。
でも宇佐だと、水行の件はどうやって説明するんだ。
放射読みで、
伊都国から南へ水行20日で投馬國、
伊都国から南へ水行なら10日、陸行なら1月で邪馬台国。
こう読んでも苦しいんじゃない、宇佐は福岡から見てもほぼ真東だし、
水行は関門海峡経由、陸行は海沿いを歩くのかい、
それでも近すぎないだろうか?
969 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:23:06
宇佐は豊の名にあるように邪馬台国の後継者トヨの時代に
領土を広げた土地ではないかなと思いますね。
トヨの邪馬台国と狗奴国は結局和平を結び、狗奴国が指導的立場になったと考える。
その時、北部沿岸の伊都国などは仲間であったかなかったかはまだ勉強不足で推理できてないけど。
970 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:23:55
>>970 いやそういう意味じゃないんだが。
渡来人が開拓しなくてもそこにはすでに一つの権力が存在しているということだよ。
972 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:33:20
渡来人だと認めるのが嫌だから、過去を隠すために編纂したのが記紀でしょう?
>>969 トヨとは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命のことだろう?
>>972 そんなアホなw
記紀の編纂目的がいつからそうなったんだw
そもそも、記紀には普通に外国関係の話も多く載っているしs
むしり、いかに日本の国威が海外までも広がっていたか
強調したつくりになっているw
日本書紀とは、律令体制への以降が大きな目的で
その過程で、対中国外交に必要な歴史書の編纂が必要になったから
つくられたもの。
そのひとつに編年体で書かれているのが大きな特徴。
それ以前の日本の史書には、編年体で書かれたものがなかった。
それ以前の日本では、古事記のように大雑把な年代
たとえば、天皇の干支没年とか天皇の寿命みたいなものしか書かれてはいなくて
それ以外は風土記のように時系列ではないような記録が残ってなかった。
>>974出雲神話を引用したり、や九州王朝の系統を使って、
天皇家の正当性を主張するために編纂された聞いていますが・・・
976 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 23:10:02
>>973 記紀では誰に当たるのかちょっとわからないけど、
西暦でいえば、紀元250位〜350位の間に
領土を広げたと思う。(トヨは26?年位で退位している)
紀元350以降は倭の五王に実権は交代する。
百済の建国とほとんど時を同じくして、扶余系の王が渡来したと思う。
婚姻で姻戚関係になったと思う。記紀の記述の名前などから推理すると。
大抵そうやって昔の豪族達は政略結婚で自国の安泰を計っていたから。
トヨタン・・・・・・・・・・
百ちゃん・・・
979 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 23:27:21
>>968 「伊都国から南へ水行20日いったところの投馬(つま)國」なら西都原の「妻」国しかないだろ。
サクヤ姫が妊娠したときニニギに「俺の子じゃないのでは?」と疑われ家に火を放ちながら生んだという伝説の。
ところで当時「倭国を探していた呉」と敵対する「魏」の使者は邪馬台国だけでなく周辺国を魏の味方につけねばならず、宝物を見せびらかしながら行く先々で歓待を受けたはず。
「未知の島国で岸沿いの国々を回りながら」ならやはり20日ぐらいかかる(かけた)だろう。
馴れた船乗りがとばせば5日でつける距離でも現実に20日かかったとして、皇帝に対して「私の勘では5日ぐらい」とは言えないはず。(むしろ「20日もかけて苦労しました」というだろう)
荷物の少ない帰りは陸路だろうが、あの魏志倭人伝の「詳細な倭国の内情の記録」を見る限り、1週間や10日見聞きしたものではなく最低ひと月かけて九州を縦断して北九州に戻っただろう。
>>975 そんな面倒くさいこと、なぜ
しなきゃいけないんだ?
そんなことしなくても、畿内中心主義で行きたかったら
普通に畿内王朝だけの記載を書けばよいだけで。
出雲王朝の記述に関しては、畿内王朝が全国を統一する過程で
重要な材料だったから、ずっと出雲神話も重視してきたんだろう?
あんまり、詳しくと、ネタバレになるから書かない。
このへんの真相に関しては、2ちゃんで書くのはもったいない。
>>976 >百済の建国とほとんど時を同じくして、扶余系の王が渡来したと思う。
そんなこと、これっぽちも文献には記載されてないだろう?
だいたいさ、新撰姓氏録にも、ちゃんと諸蕃というカテゴリがあって
渡来系氏族という項目があるわけだからw
別に、そういう氏族はどうどうと記載されているわけだし
もし、皇室が渡来系氏族なら、どうどうと書くだろう?そういうふうにw
そもそも、隣国の百済は、王家が堂々と
自分たちは、中国東北地区の扶余の出身だって
どうどうと名乗っていたわけだしw
日本の皇室だって、もし、そうだとしたら
どうどうと、そういう風に名乗るだろうがw
2ちゃんでは書きたくないんだけど
日本を統一した現在の皇室の祖先は、やはり畿内(中でも葛城)で発生し
全国を統一したのであって、
そのへんは、西暦5世紀の倭王武(雄略天皇)も
そのように発言しているだろう?
倭王武が中国皇帝に説明した文では、どうみても
畿内を中心に、西日本、東日本と統一して、最後は半島へも攻めていった
としか書かれていない。
でも、あの神武東征がなかったのか?というと、そうは思わない。
そして、畿内王朝が全国統一する過程で、出雲を平和的に降伏させた事件が
後の畿内王朝の継承者にとって重要だったことが推測できる。
これについては詳しいことは書かない。
983 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:46:21
九州説は、出雲を無視してるからねえ。(笑)
984 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 02:38:07
>>982 >2ちゃんでは書きたくないんだけど
>これについては詳しいことは書かない
別に書かなくて良いよw
もうその手の話はおなかいっぱいなんでwww
>>981 神功皇后が朝鮮からの渡来人だったのではないかという説はあるようですね
神功皇后・応神天皇の時代は弓月の君をはじめ朝鮮半島から大勢の人間が入ってきた時代でもありますね
986 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 07:00:55
>>981 そう言えば、太伯の子孫だと名乗っていたね。
987 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 07:28:53
>>970 他人を笑えないな。箸墓も径百余歩には合わないよ。
988 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 13:21:11
記紀がなぜ本当のことを正直に書かなかったいうのは、
白村江で大敗したので、
唐や新羅を牽制する目的と
その反面強国化を計ろうとするために、
唐の文化や新羅との交流により他国の進んだ文化を
積極的に取り入れて
なるべく日本は古い歴史を有する国であって
由緒正しい系図を持っているということをアピールしたかったからだと思う。
今の皇室は書紀の記述よりもっとずっと後だよ、申し訳ないけど。
けど、今となっては千年以上の長い由緒ある家系なのだから
無理してAC660〜始めなくてもいいと思う。
そのころは九州の隼人族あたりが九州に上陸して大陸文化を伝えたころだよ。
989 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 15:05:09
風土記で大海命の子孫となってる宗像氏が、姓氏録では大国主命の子孫となっている。
>>985 それは、神功皇后の時代に三韓征伐に出かけたからだろう?
当然、半島へ軍事侵攻する場合、半島から戦争捕虜を奪うことは当たり前。
戦後、そういった戦争捕虜を労働力として、公共事業などに使うためだ。
だいたい、もし、皇室が半島系なら、わざわざ
新撰姓氏録に、諸蕃という項目をもうけて、
どうどうと渡来系の豪族まで書かないだろう?
記紀で皇室が隠したかったことは、もろ、熱田社の尾張氏のことだろう?
古事記を編纂し始めた晩年、天武天皇は三種の神器の天村雲剣の所有をめぐって
尾張氏と大喧嘩し、大騒動を巻き起こしている。
この頃、天武天皇は病気になって、これは天村雲剣の祟りだとか言って
結局、尾張氏に謝って、それを返却している。
で、記紀の謎の最大の部分を
時系列に並べると
出雲国譲り、
ニニギ命の高千穂への天孫降臨、
神武の東征
欠史八代(この時代に倭国大乱が起こり、卑弥呼が擁立されたとみえる)
このあたりに、皇室と尾張氏の謎が隠されている。
日本書紀編纂後、だいぶんたって、平安時代に入ってから
続日本紀というのが朝廷によって編纂された。
実は、これには、古事記や日本書紀には書かれなかった内容が補足されている。
その内容が、壬申の乱時における尾張氏の凄まじい活躍ぶり。
はっきりいて、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で勝てたのは
尾張氏のおかげといってもいい。
そもそも、大海人皇子は、その名前の由来は、
尾張氏の一族の大海氏に養育されたからきたものであり、
彼は尾張氏の勢力圏内で養育されたわけで。
そんな恩人である尾張氏の功績を、天武天皇は古事記で、削除している。
しかも、天村雲剣を奪おうとしたり。
何があったのか?
で、その尾張氏の御先祖様が、天火明命。
皇室の先祖ニニギ命の兄とされている神様(上様)で
またの名を天照国照彦といい、
日本全国にある男の太陽神アマテルを祭っているのは、この神様(上様)
よく、天武天皇が、古事記を編纂する時に
もともとは男の太陽神アマテルを皇祖神として祭っていたのを、
女神アマテラスとして祀りなおしたという説があるが
だとしたら、天武天皇は、この部分でも、尾張氏の存在を
大幅に薄めようとやっきになっていたことが分かる。
そして、播磨国風土記や、旧事本紀、海部氏系図には、
出雲国譲りを達成し、天下を統一したのは、天火明命だとなっている。
この天火明命の后は、大国主命の娘であり、播磨国風土記には
大国主命が義理の息子である天火明命に降参する話が出てくる。
どうでもよいけど、邪馬台国九州説で食っていけるのは
いつまでなのかな?
これまで、邪馬台国九州説で食ってきた作家や在野の学者さんって
多いだろうしね。
普通のアカデミックの学者さんと違って
在野の学者さんとか、本の売り上げに依存するしねw
まあ、作家さんは、それ以外の分野で小説を書けばよいから
別にかまわないかもしれないけどw
994 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:14:20
でも、魏志倭人伝で邪馬台国(無かったかも)畿内説と誤解した日本人かも。九州のある程度大きな邑にたどりついた漢人。その邑の長が教えた似非邪馬台国、日本を大きく見せ、邑を攻撃されない口実。邪馬台国でっち上げた。君たちが来たのは
邪馬台国支配下の小さな小さなで九州の邑。これ以上、踏み込むと大変だよ。日本強いよ。漢人、おののき、これ以上先に行くのがめんどうか、怖いから。九州で機内かどこかわからない邪馬台国の寓話を誠らしく話、聞いたので
歩いて000日とか、知ったかぶりかでっち上げの話、魏志倭人伝に書いちゃった、中国の王朝にうそつき任務終了。
この推論だめかな 教えてくれ。
というか、隋のあたりの時代だったか
はっきりと、邪馬台とは、大和のことだよって
中国の史書にも記載されているんだけどね。
あれは、本当のことだろう?
996 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:18:09
>>993 >どうでもよいけど、・・・・(以下略)
だったらレスなんかするなよ〜www
997 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:46:58
>>991 >そんな恩人である尾張氏の功績を、天武天皇は古事記で、削除している。
はあ?
天武が古事記を最終校訂したのか?
天武天皇が古事記を編纂しはじめたんだろうけど、
完成したのはずっと後。
ただ、もし、尾張氏と天武天皇の争いごとが
出雲国譲りで、天火明命のことなら、
天武天皇個人というよりも、現在の皇室全体に関わることだよな。
なぜなら、現在の皇室は、ニニギ命の子孫だし。
999 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:07:44
まじで、尾張氏の話はうざい。
邪馬台国九州説を主張する俺にとっては邪魔な主張。
尾張氏の話は、邪馬台国畿内説を補強する内容だから、許せない!
1000 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:08:29
1000ならば、邪馬台国畿内説で確定。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。