1 :
神奈川県民 :
2009/03/14(土) 01:41:26 三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 倭人伝 其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國 自為王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛 魏志倭人伝に記されてる「卑弥呼」なる女王の正体とは? 又、天皇家との関り合いは? 古代最大のミステリーに挑む!
2 :
神奈川県民 :2009/03/14(土) 01:44:01
イヨタンは? イヨタンは? イヨタンは? イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・
4 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 09:26:48
ここまでの結論〜? 邪馬台国は高千穂 卑弥呼は息長タラシ姫 陵は西都原 伊予タンは息長マワカナ姫 委奴国は屋久島 裸国はバラオ
5 :
サガミハラハラ :2009/03/18(水) 09:32:48
ここまでの真実 邪馬台国は佐賀県小城市甘木 卑弥呼は卑弥呼であって他の人と同一ではない。 陵は小城市小城公園内桜ケ岡 壱与はほかのだれかに比定できるものではない。 委奴国は後の邪馬台国のこと。この時代は佐賀県吉野ヶ里に都してました。 裸国は不明
6 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 12:26:16
北九州説は南に裸国が無いからなあ 残念!
7 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 17:20:26
どうでもいいけど、教科書に書ける内容を投稿して頂戴。 僕は期末テストで落第したくない! 事実だけを書いて下さい。
8 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 19:46:07
よし、坊主に事実を伝授しておくか? 銅鐸は十種神宝を模した物で、参拝のお土産だ 銅鏡もそうだ 珠もそうだがこれは越のヌナガワ特産だ 前方後円墳は内宮と外宮を表しているよ。つまり八尋殿だ
9 :
サガミハラハラ :2009/03/19(木) 06:22:50
南に船行1年(2倍年暦なので半年)も進むと南洋で裸で暮らしている人がいますよ。
10 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 06:51:40
船の出発点はどこなのかな? 南に陸地があるのに、いきなり北九州からは出ないだろう。
11 :
サガミハラハラ :2009/03/19(木) 08:03:48
この場合の出発点は倭国からととっていいでしょう。 1年という日数での表現なので、細かい出港地等はあまり考える必要はございません。 事実、裸国のどこなどともでていませんですし。
12 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 12:31:16
邪馬台国北九州説破れたり 邪馬台国が北九州だとすると 魏への土産は明太子か長浜ラーメンの筈だ 所が白珠を土産としている 従って北九州説は棄却された
13 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 13:56:09
白珠が真珠なら三重だな。 やはり畿内か。 南に半年…ハワイとかグアムとかあの辺か。 確かに裸でサモアン人が生活してたはず
14 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 16:35:36
白珠は白玉でしょう。京都の祗園で有名な「都路里」のパフェですね。
15 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 17:07:32
天草真珠。 島原白玉。 どっちにしても九州かな。
16 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 19:24:10
邪馬台国京都説破れたり 白珠は孔があるもんな 白玉は無いと思う?
17 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 20:48:25
京都は京都でも豊前みやこ郡
18 :
日本@名無史さん :2009/03/19(木) 21:56:28
マジレスすると、白玉なんか 土産にならんだろ(笑) あと、三重の真珠は世界一です。
19 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 21:31:24
マキムクで三世紀前半の 柱穴やサクが見つかったね
その関係の発掘調査がつづけば、邪馬台国問題はまさに終止符。 九州説涙目〜。 いやとっくに泣いてるから泣きっ面に蜂か。
21 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 21:59:14
纏向遺跡から筑紫平野よりも多くの中国製品(確定しているもの)や,倭人伝に記述のある日本製品の出土数が多くないと,邪馬台国とはいえないのでは。邪馬台国よりも重要な国が阿多可能性は否定できないけれども。
何で1遺跡と筑紫平野全体を比べるん? 比べるなら九州の遺跡のどっか1つ取り上げて比べなよ。もちろん3世紀のな。
23 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 22:15:22
書き方を間違えた。大和全体の出土数でも,ぜんぜん少なかった。
24 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 22:30:48
奈良の橿原・桜井はいろんなものが出過ぎて 京奈和道が開通しない(笑) なんでわざわざ難しい地域に高速を通すんだ(笑)
25 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 23:22:13
>>24 日本の中心なんだからしょうがない。
京都・大阪の無学なアホどもは、日本の中心は「奈良」とくに、「櫻井」だということを肝に銘じろ!!
26 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 23:57:26
どうせ4世紀ぐらいのものを強引に3世紀だ!! 卑弥呼と一緒の時期だ!!って大騒ぎしてるだけ。罰当たりどもがww
九州説完全敗北。
29 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 02:10:21
「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃
3月20日20時26分配信 産経新聞
大規模な神殿跡とみられる柱穴が出土した纏向遺跡。
中央は箸墓古墳=18日午後、奈良市桜井市
畿内か、九州か−。
宮殿を思わせる建物群跡が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡。
「卑弥呼の宮殿の手がかりが見えてきた」「邪馬台国には、まだ遠い」。
邪馬台国論争に再び火がついた。
卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。
今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。
纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は
「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。
卑弥呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090320-00000577-san-soci
30 :
うましか :2009/03/21(土) 07:34:37
今回の発表で、わかったことは、既調査域の周辺域で新たに数本の柱穴が確認された。 ただ、それだけのことで、私達素人がネタにするような内容のものはありませんです。
31 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 08:38:25
30>確かに,そのとおり。
32 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 09:07:12
発掘調査地域を拡大しましょう。柱穴が数百本発見されるでしょう。
33 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 11:17:49
> 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きどう、呪術)につかえ、 よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)や政治を行った場所の一部だろう」。 この教授は、失格だな「倭国大乱」の意味も分かっていない。 大乱とは下克上を伴った乱で初めて大乱と呼べる 戦が日常ちゃめしごとの魏国が大乱と記録したんだから。 大陸に於いては「禅譲」という形を取って政権の移動がある。 依って「大乱」と記録される事は無い。
34 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:26:02
畿内でほぼ決まりですな。魏志の方位がでたらめというだけの話を、 真剣に議論してるだけでしたな
35 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:30:52
纏向遺跡は邪馬台国じゃないよ 大和朝廷の遺跡だよ これでまた記紀の信憑性が増したわけだ
36 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:31:22
伊都国に一大卒が常駐してるという記述の時点で、畿内説が正しいと見抜けるわけですが。 北九州に邪馬台国があるなら伊都国がそんな重要なポジションを担当する意味もないわけで。
37 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:34:39
海を渡った東にも倭人の国があるという記述がある時点で 畿内説が間違ってると見抜けるわけですがw
38 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:39:41
それは邪馬台国の範囲を大和に限定すればの話しで、 人口を考えればもっと広範囲に渡っていたと考えるべき。
伊都国って、 上古音では、イタ国。 中古音では、イト国。 だから、比較的に新しく設置された国でしょう? 隣国の奴国よりも、だいぶん小さい。 だいたい、奴国の西端にぽつんとある国だから 自発的に設置された国家ではない。 しかも、邪馬台国から一大率が派遣されていた。
40 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:44:23
伊都国に一大卒が常駐してるという記述の時点で、九州説が正しいと見抜けるわけですが。 北九州に邪馬台国があったから伊都国が重要なポジションを担当するわけで。 伊都国に代々居た王が卑弥呼、壱与なわけで。 皆を統属する女王国の意味とは、倭の国々は伊都国を中心とした女王国に統属していたわけで。 邪馬壱国論争なんぞ終わっているわけです。
だから、出雲大社から古文書が出てきた。 それをきっかけに発掘がすすんでいるという状態。 今の所、出雲が鉄の精製に成功して周辺の国を従えた事。 港を持っている倭の女王トヨと結婚し、出雲と倭が合併したこと。 トヨが王より力を持ったことは公開されている。 トヨの母(義母?)がヒミコという人で、自分の正当性を示すため、 母の死後母を過度に持ち上げたらしい。 公開されている文書はここまで。墓や集落、建物の場所も書いてあるそうだが、 一般公開されていない。ただし、それを元に発掘しているそうだ。 出雲文書の中身がわかれば、かなり論議は変わると思う。 それと同時に当時の日本にも文字があったということなので、他から出てくる可能性あり。
42 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 11:54:42
海を渡ってというのは伊勢湾の向こうの遠江方面にも倭人の国
伊都国って、イト国と中古音読みで、 奴国のほうは、ナ国と上古音読みだから もともと、あの一帯は、奴国しかなかったのを 邪馬台国(ヤマト国)が、奴国の一部を切り取って 新しく設置した国家が、イト国。 だからこそ、ここには一大率が設置されている。
44 :
うましか :2009/03/21(土) 12:01:04
>>32 写真の現場の大半の地域は再発掘、今回が初調査となる領域からは、
既知の建物遺構とは、別棟と思われる建物遺構の一部と
「柵」と推定されている遺構の延長部分(これがクランク状の形態なのが珍しい)くらいのもの、
各遺構の配置もマーカーに使ったポールの立て方が拙かったのか、
食い合いこそないものの、整然とした並びには見えない。
もし、発掘現場付近が宮殿跡だったとしても、見えている部分は、倉庫とか門とかの周辺領域でしょう。
実際、調査主任者のコメントを見てもそんな印象を受けました。
俺は西都原じゃないかと思ってた。 北九州説ではあまりにも範囲が狭すぎるので、無理やり比定してた。 それでも全然狭いんだけどね、根拠は方角だけだった。 大体九州には邪馬台国の遺構を思わせるようなものは何も無い。 今は反省している。
46 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:07:29
伊都国に代々居た王が卑弥呼、壱与なわけで。 皆を統属する女王国の意味とは、倭の国々は伊都国を中心とした女王国に統属していたわけで。 邪馬壱国論争なんぞ終わっているわけです。
47 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:14:47
>>42 それは無理があるねえ
陸続きなのに海を渡ってって言うのは
48 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:15:10
伊都が北九州で 邪馬台は大和。 水行は瀬戸内海。陸行は丹羽から畿内まで。
49 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:16:04
範囲が狭すぎるってのは何を根拠に?
50 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:19:57
伊都国=女王国は文脈から判断して論外な意見ですが、 女王国=邪馬台国 と判断するのも早計な気が致します。 たしかに畿内説では魏志とあまりにも矛盾が生じますし、方位の間違いだけでは片付けれませんしね。 そこで、やはり女王国と邪馬台国を別物と考えるのは多少強引ではありますが、 おもしろい考えかなと。
51 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:39:08
>>50 伊都国=女王国が文脈から判断してどうして論外な意見?
『丗有王 皆統屬女王國』は
伊都国に代々居た王が卑弥呼、壱与なわけで。
皆を統属する女王国の意味とは、倭の国々は伊都国を中心とした女王国に統属していたわけで。
と解釈しても矛盾が全く無い。
『南至邪馬壹國 女王之所都』ですから女王国=邪馬台国です。
52 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 12:46:07
畿内説では明らかに記紀の記述と矛盾する 崇神天皇〜景行天皇はどうするわけ? 捏造だとでもいうのか
出雲文書が一般公開されれば、かなり解決すると思うよ。 研究者が今狙っているのは伊勢神宮にある古文書。 ただしそれはかなりむずかしい。 とりあえず文字はあったわけなので、九州の方で見つけられればかなり進歩するかと。 これを見つけられたら、かなりこの世界では有名になるだろう。 出雲文書は出雲の国よりの文書だからね。 ただ国の位置、集落の位置などはかなりくわしく書いてあるもよう。
考古学の成果がゾクゾク出現しているのに、いまだ倭人伝をこづき回すしか出来ない九州説。 早くNHKで今回の発掘の特集やらんかな。
55 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 13:54:21
そんな偽書に頼らないといけないのか畿内説は
56 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 14:01:24
九州説派は邪馬台国と大和朝廷が別物であるとする人も 東遷したものであるとする人も 纏向遺跡からいろんなものが出てくるのは織り込み済みだろ だって記紀に書いてあるんだぜ? 何代もの天皇があのあたりを皇居にしていたってね
一番興味あるのは、ヒミコやトヨの墓の場所や集落、建造物の場所が書いてある出雲文書。 ただし、これに出てくるヒミコとトヨが邪馬台国の人まではまだ認定されてない。 ただ出雲文書は本物認定はされたから、偽者ではないよ。 もし邪馬台国が九州だと思うなら、そういう文献がどこかにあるだろうから、 探してみるといいよ。 中国人が住んでいた可能性が多いのは九州だから、どこかにあるだろう。 発見したら、考古学史に名が残るだろう。
トヨタン・・・・・・・・・・
考古学的にみると九州説は益々不利になってきたので、 本居宣長の「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」 邪馬台国は大和国とは別の筑紫(九州)にあった小国であり、 卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長という説を押すことにしよう。 バッタもんの女酋長卑弥呼が国を大きく見せようと魏の使者を連れ回して、 戸数や距離を誤魔化したという事にしよう。
出雲文書って・・・?千家家文書も北島家文書も、由緒あるものだが中世以降だろ。
>>24 > なんでわざわざ難しい地域に高速を通すんだ(笑)
あそこは東国と繋ぐのに都合がいいんですよ。
天理辺りもいいけど、あっちは用地買収が大変だし。
出雲大社から古代の文献が出てきたんだよ。 それを島根大学の研究チームが解読して、それを国の研究機関が認めた。 いわゆるご神体の1つ。ヒミコの時代の記録もあり、それを元に発掘しているそうだ。 ここまではNHKの「その時歴史は動いた」という番組で公開している。 以前からうわさはあったが、本物と認定された文献。 研究者なら内容は見れると思う。
63 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 15:26:38
>>61 いやあ、それなら郡山から
広陵の方に高速のばせば、まだ
工事が遺跡止めになる確率は少ないのに。
あ、そっちは葛城の遺跡だらけか
64 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 15:35:45
なんと!纒向遺跡は「纒向京」だった!これは、スゴイ!
65 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 15:39:20
マキムクに都とは(笑) 九州説論者って面白いね
出雲文書って、何が書かれているんだ?
大和=山門=三輪山 高天原=葛木=葛城 高千穂=九州南部
69 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 17:01:11
出雲が一枚絡んでるとしたら、九州説はないな。
今ちょっとくぐったんだけど、その時はまさか遺跡と文章が一致するとは思わず、 番組をよく確定できない。 わかったら、知らせる。
今、ぐーぐてみたけど、出雲文書について トンデモを論じるやつの多いことw まあ、中世に書かれた出雲文書で、注目できるのは ホヒはスパイに出雲へ来ていたということぐらいか。。。 でも、これは、そんなに驚くべきことではない。 なぜなら、古代に書かれた出雲風土記にも、 記紀とは違って、ホヒは出雲に使えていたという記述になっている。
記紀では、ホヒは出雲を屈服させようとしていたと記載。 出雲風土記では、ホヒは出雲王に仕えていたと記載。 出雲文書では、ホヒは出雲にスパイとしてきていたと記載。 解釈に違いだけで、三書には違いがない。
高天原とは、近畿地方の葛城のこと。 その近くに、山門(三輪山周辺)がある。 BC1世紀〜AD1世紀ころ、出雲国譲りの直前、出雲と近畿が激しく争っていた時に 近畿の首都は、葛城(高天原)だった。 そして、出雲国譲り達成後、 日本列島での覇権を確実にした葛城(高天原)王朝は、 日本各地に司令官を送って統治する。 なかでも、熊襲の抵抗が激しい九州南部(高千穂)に、 葛城(高天原)王家の者を派遣する。 ニニギ命の高天原(葛城)から高千穂への降臨である。
74 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 17:20:37
倭国大乱を拡大した原因の一つに 元大物主であった振根を殺した崇神にもある この頃 九州まで影響力の有った人物を殺した為、九州は治まらなく成った。
75 :
73続き :2009/03/21(土) 17:34:40
その後、日向三代といって、AD1世紀の前半ぐらいの時に 日向で知事をしていた家系が、現在の天皇家の先祖。 しかし、AD1世紀の中ごろ、 葛城(高天原)王家内部で内乱が起こる。 そこで、葛城王朝本家を助けるべく、九州から援軍としてかけつけたのが、 若御毛沼命(神武天皇)の軍だった。 そこで、功績をあげたので、 その後、葛城王朝では、 祭祀を葛城王朝本家(熱田社の尾張氏の先祖)、政治を葛城王朝分家(日向家=神武皇統) で分けて行うようになった。
76 :
75続き :2009/03/21(土) 17:36:04
これで長い間、安定していたが、それを神武皇統が破った。 (政治的権力者は、かならず宗教的権威(祭祀権威)も、ほしがるものである。) それを破ったのが、神武皇統の香殖稲尊(孝昭天皇)である。 それが切欠で倭国大乱が起こり、 神武皇統は、一族の女性であるヤマトトトヒモモソ媛命を祭祀王として擁立して 天下を治めた。 この乱の最中に、神武皇統は自らの本拠地を、葛城から山門(三輪山)に移転した。 やがて、この王朝は、ヤマトといわれる。 また、倭国大乱の時期の神武皇統側の当主には、 孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇という 孝の字の天皇名がつけられた。
77 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 17:39:18
もうみんな独りよがりの妄想してオナニーしてるだけだし、 議論するだけ無駄。タイムマシンでも作ったほうが早い
高天原=葛城というのは、延喜式にも書かれているんだな。 でも、その後、事の真相は忘れ去られた。 そこで、神武天皇が九州からやってきたのに なぜ、彼の曽祖父のニニギ命のときは、近畿地方にいたんだ? (つまり、首都が、近畿→九州南部→近畿 のはずがない) という論争になり、日本各地に高天原伝承地ができた。 でも、なんのことはない。 ニニギ命(神武皇統)は、 徳川時代で言えば、江戸の将軍家が派遣した紀州徳川家のような存在だっただけで。 初期、葛城(高天原)王朝の傍系家系だっただけで。
香春(かわら)神社の祭神は邪馬台国三代の王か。 第一座・辛国息長大姫大目命=卑弥呼 第二座・忍骨命=難升米 第三座・豊比売命=臺與 四代目の神夏磯媛のとき、景行天皇に征服された。 しかし豊比売命の子孫が息長足姫(神功皇后)とすると、女系で天皇家とつながることになる。
考古学者で九州説を取る人って殆どいないよね、なんか哀れだね。 どうせなら一致団結して、一番もっともらしい吉野ヶ里あたりに決めて、 周りを掘ればいいのに、なんか出てくるだろうし、
82 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 18:52:59
当時の北九州に何十万もの人口がうじゃうじゃいたとは考えづらいので、 畿内説有利でしょう。
83 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 19:07:50
九州の方が半島や大陸に近いから人が多くいたイメージだけどね 温暖だし
人口は難しいですよね。 当時の国勢調査記録があるわけでもないし(笑) 纏向は大和政権の遺跡ということでしょう。 金印でも出てくれば別ですが。
86 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 20:27:03
>小山修三氏は、弥生時代の人口を59万5000人と推定し、 「後期にはひょっとして100万人を超えていたのではないかと思います」 3世紀中葉で60万人、4世紀初めで100万人 3世紀末神功の渡海 これから300年の間に1年平均千人の入植者が半島から 渡ってくる 合計30万人 この数字の中で現代人の血液は、説明できるか? 人工自然増では、巨大古墳が説明できない。鉄器の潤沢な時代は古墳時代より。 入植人工が多すぎると、日本語に大きな変化も考慮しないといけないが それ程大きくない。 250年頃の東日本は弥生初めで縄文生活者が半数以上。 九州の南半分は、農業に適さない。農業後進地域 阿蘇は焼き畑先進地域では有るが 人口から見れば、水田地帯の様にはいかない。
>>86 >入植人工が多すぎると、日本語に大きな変化も考慮しないといけないが
>それ程大きくない。
弥生時代の日本語が分かりますか?あ、ホツマですかw
高句麗語が朝鮮語より日本語に近いという研究もあるわけですが。
>>86 ます、注意しなければいけないのだ
その小山氏の推測というのも
科学的に信憑性の薄い考古学者の出した推測を元に
推測したようなもの。
弥生時代が紀元前3世紀に開始され、そこから移民が急増したという
考古学者が長らく定説してきた仮説をもとにしているという話。
よって、いっけん、小山さんの推測は科学的なようで
彼が導き出すのに使った仮説のサンプル自体が
非常に曖昧で信憑性の乏しい仮説。
一般的に、日本に限らず、世界中のどこの国家でも
明確に人口を算出するようになったのは
ここ2,3百年の話だったりする。
>>87 高句麗語というのは、扶余語であり
これは、ほとんどモンゴル語と同じと思われている。
扶余系が作った国に、契丹があるが、
ここの貴族は、中国漢民族とモンゴル人の間の通訳を担当したぐらい。
日本語とモンゴル語は、それぞれ孤立言語だから、
日本語と高句麗語も別系統後。
日本語は、万葉集の時代から日本語の形態が分かっているが
万葉集の時代から江戸時代まで、さほど言語的に変化してなかったりする。
万葉時代〜江戸時代
江戸時代〜現在
だったら、
江戸時代〜現在のほうが
言語的に大きく変化したぐらいだw
90 :
縦目仮面 :2009/03/21(土) 21:25:03
91 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 21:35:34
新羅本記では、280年代から倭国が捕虜を連れ去っている 書紀を見ても捕虜確保のため戦をしている。 新羅を潰して国を建てようと言う気は見られない。 通好を結んでもすぐ破り捕虜獲得のための戦を起こす。 捕虜の需要は古墳築造、鉄器の増加により農地の増加と比例するのだろう 高句麗に破れて古墳の大きさも抑制される。
92 :
縦目仮面 :2009/03/21(土) 21:52:43
93 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:17:13
箸墓作るのにも相当な人員を動員しなくちゃ無理だし、 当時の人口は明らかに畿内>九州だろうし、邪馬台国が九州だとしたら、 投馬国と合わせて12万戸、推定人口50万、その他奴国2万戸等等合わせて、少なく見積もって、60万人。 その南に一国でそれらと互角に戦えるクナ国。 じゃあ当時九州に100万人くらいいて、さらに畿内にはそれ以上いて、 出雲や吉備もそこそこってか?ありえんね
94 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:25:13
魏志倭人伝にそこまで正確さがあると思ってるの?w 畿内説的には方角を間違えるようないい加減さだぜ? 戸数なんて適当だろ 外部の人間にそんな大事な情報をまともに教えるとも思えない
戸数と人口の関係は分からないけど
少なくとも、邪馬台国=ヤマト国なら
それだけで、
>>88 の小山市の主張も根本的に
総崩れになると思う。
邪馬台国=ヤマト国なら、
中世の頃の近畿とそれ以外の地域の人口比と
邪馬台国時代のそれとは
そんなに大差がなかったことになる。
96 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:32:37
奈良時代の戸籍で、当時の日本の人口は500万人程度。 三世紀から500年経っても500万人という事実をもっとよく認識するべき。 三世紀に300万人も400万人もいたわけないよ。
97 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:36:55
倭国大乱とは 葛城と三輪の争い、三輪と山城との戦い 卑弥呼は葛城日女命ことモモソ姫、 弟王は義弟の祟神。 武内スクネや、蘇我や平群が 天皇並の権力を持っていたのは彼等が陰陽道の葛城の鴨氏や 卑弥呼の末裔だからだ。
98 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:41:46
その中世までは人口微増論とやらを適用すれば、秀吉の時代で1200万人程度だから、奈良時代から100年間で約100万人弱程度の伸び率。 中世まではこの程度の伸び率しかないわけで、三世紀は多く見積もっても150万人程度だっただろうよ。
99 :
縦目仮面 :2009/03/21(土) 22:47:56
国連の世界人口統計には、1900年代前半の推定人口を出すのさえ、学者によって数値 が大きく異なり、困難をきわめたと書かれている。日本一国であっても、弥生・縄文時代 となれば、信頼のおける数値の算出は不可能だと思う。できないことはできないと認めないと どんどん話がトンデモになっていく。
人口微増率を適応したら、むしろ、邪馬台国時代の日本もそれなりにいただろう? あと、古い時代ほど、戸籍にもれる隠し人口も多いしな。 結局、本当の人口は分からないけど... 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら 欠史八代だと、孝昭、孝安、孝霊、孝元ぐらいだろう? 卑弥呼が擁立された切欠になった倭国大乱って あと、そこそこの戦乱って、卑弥呼が擁立された倭国大乱以外にも たえず、あったんじゃないのか?
古代の倭国大乱について あまりにも、太平な世が続いた江戸時代視点で語りすぎるな。 江戸時代なんて、すごい稀な時代だった。 足利時代、鎌倉時代なんて、中央政府が存在しても たえず各地で反乱があって、たえず倭国大乱状態だった。 一度、国家が統一して、中央政府ができても、それで平和な時代が永遠 なんてことはなかったと思うよ。 だいたい、卑弥呼が擁立される前の倭国大乱より前には 一応、一人の男の王がいた時代が、数十年つづいたんでしょう?倭人伝によると。
102 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 22:56:40
大乱があり殺しまくってたのに人口多かったとは思えないがね。
>>102 昔の大乱と、近代の大乱を同じに考えないほうが良い。
非戦闘民が大量に死ぬようになったのは、
武器が発達した近代以降だ。
おそらく、邪馬台国時代は、戦国時代と同じで
一般庶民は、兵士たちの戦闘をお山で弁当でも食いながら
見ていたような時代でしょう?
105 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 23:08:54
延々ループな話題になるのですが、女王国の東の海や、女王国まで万二千余里や、 そのへんの魏志の記述との矛盾は畿内説ではどう解釈すべきなのです? まあ文献自体が矛盾してると言えばそれまでなのですが、 それでもここまで矛盾するのはひどい。
>>105 そういう矛盾は九州説も多く出てくるでしょう?
近畿説の場合は、魏志倭人伝に登場人物が
古代の皇族・貴族の系図でのどの人物になるのかまで
およそ見当がつくから凄いんでしょう?
邪馬台国女王・卑弥呼=ヤマト国女王・ヤマトトトヒモモソ媛命(孝霊天皇皇女)
邪馬台国女王・トヨ=ヤマト国女王・豊鍬入姫命(崇神天皇皇女)
狗奴国王・卑弥弓呼=許乃国王・武埴安彦命(孝元天皇庶子)
狗奴国官・拘右智卑狗=河内彦(武埴安彦命の外戚)
難升米=梨津臣命(中臣氏・藤原氏の先祖)
九州説は考古学的には絶対不利だ、 考古学者で九州説を唱える者なんてほとんどいない。 だから、此処が邪馬台国だっていう所を決めようよ。 そして掘ろうよ。卑弥呼の時代に合致する物、木片でもいいから見つけよう。 そこから盛り返そう、このままではどんどん不利になっていくだけだ。
>>105 畿内説では女王国の東の海を「伊勢湾」と解釈するようです。
水行が陸行より便利だったとしても、陸続きの土地に「海を渡る」とは言わないのでは?
第一、畿内説は南を東とするのだから、東は北とすべき。
それなら「琵琶湖」と言い出しそうw
109 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 23:45:49
畿内から相模までの陸路はしんどいな。 鈴鹿山脈もあるし、いまでこそ名阪国道あるけど、 歩いてあこはキツイよ。伊勢か鳥羽から船の方が楽。
110 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 23:47:39
女王国は筑紫平野辺りにないと文献と矛盾しますな。 これはどういうことなのやら。
>>110 筑紫平野であるほうが矛盾するだろう?
>>109 昔は陸路はきついから、畿内から関東へ行くのも
太平洋沿岸を船で渡っていたんだろう?
112 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 00:00:33
>>111 いや関東は得体の知れない毛人がいたから、
尾張から東は未開の地だったとおもうよ。
あと、筑紫は伊都国でないと辻つま合わない
俺は近畿説だが、近畿から関東に行くのは、実は神武が九州から大和に東征するのと同じ くらい困難な道のりなんだよな。(もちろん神武東征を史実とは考えていない) 大和朝廷はまず東海地方を制圧し、4世紀初〜中頃までにじわじわと関東を勢力下に入れ ていったのではないか。(甲斐銚子塚古墳が4世紀後半頃、大型古墳が増えるのは6世紀)
114 :
ローガン :2009/03/22(日) 00:42:16
>>108 > 畿内説では女王国の東の海を「伊勢湾」と解釈するようです。
畿内説も色々でしょうが…
この部分の記述は裸國黒齒國まで一連のもの。異人譚でしょう。
115 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 00:49:03
では女王国より北は道程戸数記載できる〜の記述は? 北は西の間違い?では傍国はどこ?
116 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 01:30:10
>>107 今のいいかげんな考古学者に惑わされる必要はないよ。いくら、考古学的にどうこう
と言ってみたところで、倭人伝とまったく合わない畿内説で決着がつくわけがない。
それに、考古学的というのも何ら実態がないね。古墳時代以降の遺跡遺物を持ち出す
だけで、弥生時代のものはたいしたことないじゃないか。
117 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 01:36:15
>>114 >この部分の記述は裸國黒齒國まで一連のもの。異人譚でしょう。
おいおい、船行一年はともかく、渡海千余里は対馬国、一支国間の距離と同じだぜ。
異人譚といって誤魔化せる距離ではない。
118 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 01:50:33
>>96 >>103 奈良時代の戸籍がどれだけ信用できるのかな? 作り方も良く分からないし・・
私は九州説だが、韓国との対比を考えるね。現在の韓国と九州とを比較すれば
九州の人口は韓国の3割弱だ。魏志韓伝によると、韓の戸数は馬韓十数万戸、
辰韓、弁辰合わせて四十五万戸、合計五十五万余戸ということらしい。その3割
弱と言えば十五、六万戸。
倭人伝が伝える倭の戸数合計約十五万戸は、九州全体の数字とみればぴったりだ。
北九州のみとすれば多すぎるし、列島全体とみればあまりに少なすぎる。
119 :
ローガン :2009/03/22(日) 01:51:41
>>115 > では女王国より北は道程戸数記載できる〜の記述は?
「可得略載」ですね…
郡使往来常駐ですから倭の情報、そのソースは複数あったんだと思います。
編者がそれらを纏めたダイジェスト版が「倭人伝」かなあとおもいます。仮に誤情報が含まれていたとしても検証出来ない。
「其道里計當在會稽東冶之東」これはそれらの情報に基づいた編者の私見でしょう。
それが現実の日本列島にそぐわないと言う事は陳寿が得ていた情報の中に誤ったものが存在していた。
と言う風に勝手に考えています。
> 北は西の間違い?では傍国はどこ?
上記のような理由で編者が南だと判断したと考えますので、道中と思われる国は北と書かれて当然ですね。
旁國についてはなにも考えていません。
120 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 02:04:00
まあ女王国の東に海がない時点で畿内説はありえないわけですが、それを完全に無視してますよね。 いくら伊勢湾だといっても、苦しいですし、さらにそこから南にも国があり、 女王国から四千余里と正確な里数まで記載されてますし、 これを異人たんというのは苦しい。黒歯国のとこならまだわかりますがね。 つまるところ畿内では無理がありすぎるんですよ。
121 :
ローガン :2009/03/22(日) 02:07:07
>>117 > おいおい、船行一年はともかく、渡海千余里は対馬国、一支国間の距離と同じだぜ。> 異人譚といって誤魔化せる距離ではない。
そうかも知れませんが、その考えかたでいくと、女王去四千餘里の侏イ需國も一大末廬間のたった四倍程度…
三四尺の人間っていますか?
ZZZ…
122 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 02:15:56
>>118 前近代の日本と半島の人口比は、3:1くらいじゃないのか?
それと、倭人伝に記載されている戸数の国は
合計が十五万とだが、それ以外にも、女王国に属する国で
戸数が記載されていない国が30近くあるんだよ。
124 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 03:33:53
>>123 人口比は、3:1? 我が国は160万戸ぐらいはあったということかな?
戸数が記載されていないのは、狗奴国も含めて22国ですね。記載されていないのは
旁国ばかり。旁国とは何か?「旁」は、傍と同じで、かたわら、わき、そばの意味。
何の傍らかとなれば、使者らは旁国の位置を把握していないのですから、行程の傍ら
はありえない。女王国を構成する大国、つまり投馬国、邪馬台国の傍らということの
はずで、旁国とは、両国の周辺にある小国を意味すると解されます。
となれば、それぞれの戸数は千からせいぜい五千戸程度でしょう。
倭の諸国全体で多く見積もっても二十万戸かと考えます。
>>116 その古墳時代の始まり自体が3世紀、事によったらそれ以前にさえ遡る可能性が出てきたんじゃねえかw
倭人伝に邪馬台国は数百年続いた「老舗のクニ」とか書いてあるのならともかく
弥生時代を通しての繁栄は何ら根拠にならない。
それはどう遡っても邪馬台国の時代に届かない古墳時代中期・後期それ以後の繁栄を持ち出すのと同じ愚を冒しているのに気づけwww
126 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 08:20:02
いくら古墳を早めてみたところで、倭国乱の前に男王時代七八十年があるんだ。 そこまで早めることはできんだろう。また、銅鐸の消滅が問題になるしね。
127 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 09:40:50
まあ畿内のほうが可能性は高いだろうね。 じゃあ邪馬台国が九州なら巻向はなんなの?
128 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 10:02:29
大和にも人が住んでいたということは分かった。その証拠にはなる。 しかし、それ以上のものではないな。
>>118 > 魏志韓伝によると、韓の戸数は馬韓十数万戸、
> 辰韓、弁辰合わせて四十五万戸、合計五十五万余戸ということらしい。
弁辰伝の原文を示すと次のように書いてあります。
>弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
弁辰は45万戸では無く、4〜5万戸です。
一国の最大値を「大國」の5,000としても、その24倍が120,000にしかならないので、
「四五萬戸」が「四十五萬戸」のことではないのは明らかですね。
倭人伝の傍國の戸数を推定するのなら、
弁辰の総戸数を45,000と仮定し、それを24カ国で除した平均値1,875戸を基に算定した方が実際に近いかも。
1,875戸×21ヶ国=39,375、傍國全部で約40,000戸
馬韓の戸数を使うと100,000÷55≒1,818、 約38,000戸
倭人伝の三大国の戸数がいかに巨大な数字である分りますね。
130 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 10:07:40
>>121 双方、2、3割の誤差はあると考えてみたら。伝聞なんだから・・・
131 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 10:18:41
九州説派は往生際が悪いなぁ
132 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 10:19:09
>>129 そうでしたね。弁辰がやたら多いなとは思ったんだけど・・
その部分、全部撤回します。スミマセン。
133 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 11:47:49
倭人伝登場人物 倭女王=大乱の国に立てられた女王 都市牛利=タジマモリ ←天日矛の末裔、ホケノ山古墳? 伊支馬=イクメ=垂仁 倭王←タリヒコ =景行 ←黒塚古墳? 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁←椿井大塚古墳? 難升米=倭女王の部下で伊都在住の大夫 狗奴國=狗古智卑狗? イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向 ついでに書紀より 倭女王卑弥呼=巾3尺の石 男王=筑紫の大木 倭女王は、大乱すなわち下克上を伴った戦争が7,80年続いた国に立てられた女王 畿内に大乱の跡が無い。 不穏な処を書紀から探すと 崇神5,6年凶作、餓死、民の離農流動化 崇神6年秋 大国主が崇神に国を譲る 武埴安彦の乱 崇神末頃 元大物主の出雲振根を殺す←九州まで影響力の有った人 崇神末頃 崇神の後押しで任那建国 垂仁末 田道間守の派遣 景行12年より九州遠征
紀記の人名はそれほど信用できるとは思ってないが、妙に倭人伝の記述と重なる部分が ある。 邪馬台国の官名 伊支馬・・・垂仁天皇(いくめ いりひこいさち) 彌馬升・・・崇神天皇(みまき いりひこいにえ) 奴佳テ・・・中臣 また使者の 伊声耆・・・五十狭芹彦(いさせりひこ)倭迹迹日百襲媛命の弟 掖邪狗・・・ややこ と読ませ若彦(赤子のように若々しい人)倭迹迹日百襲媛命の弟 など共通点があるようにも見える。ただ、科学的とはいえない比定なのでいちおうこんな のもあるよ、程度。ただ、古事記の音韻は当時のことをよく残しているとはいえるかもしれ ない。
>>134 「共通点」は有って当然では?
名前とは個体識別記号です。
紛らわしいものは、同時、同空間では都合が悪くなりますが、
時代、使用集団さえ違えば同じものが重複して使われても構わない。
歴代の天皇でさえ、「サザキ(仁徳・武烈)」「トヨヒ(用明・孝徳)」のような例もあります。
語感の好いものは使われる頻度も高いので、記紀の登場人物に比定しようとすると、
候補者あり過ぎになってしまいますね。
「ヒミコ」みたいな個性の無い文字列だと、女性でも男性でも誰でもオーケーでしょう。
136 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 13:12:32
一時のこと思えば、 九州説論者が大人しくなったな。 ドツボや梅毒や、デブ国、チョロ松が ファビョりあってた時代が懐かしい(笑)
そんなもん懐かしむなよw
>>135 そうだな。媛命(ひめのみこと)とつく女性はすべて「ひみこ」に比定できてしまうようなものだ。
俺は、近畿説だが、考古学派なので133の比定が正しいとかいうつもりは全くないよ。どうやっ
ても検証できないものであるし、俺はそんな方法はとらない。ただ紹介してるだけ。
こんなのもあるぞ
倭迹迹日百襲媛・・・倭(大和の)、迹迹日(太陽を追いかけ祭る)、百襲(百人を殉葬した)媛
しかしこれだと「襲」の字義が少しおかしい。
御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ=崇神天皇)・・・御間城(マキ向の地に)、
入彦(はいってきた)、五十瓊殖(五十人を殉葬した)天皇
まあここまでくるとさすがに馬鹿馬鹿しい気がするが、まじめに信じている人もいる。
しかし唐松山さんは、相変わらずだな。>倭女王卑弥呼=巾3尺の石・・・こんなの誰にも
わかりませんよ。人を「煙に巻く」としかいえない。
倭迹迹日百襲媛は、神功皇后と並んで、 日本最初の邪馬台国畿内説なんで、 倭人伝と似ているなんてのは、堂々巡りみたいなもの。 倭人伝を参考に書いてるんだもの。
>>139 > 日本最初の邪馬台国畿内説なんで、
< 日本最初の邪馬台国畿内説の卑弥呼なんで、
>>138 > こんなのもあるぞ
> 倭迹迹日百襲媛・・・倭(大和の)、迹迹日(太陽を追いかけ祭る)、百襲(百人を殉葬した)媛
> しかしこれだと「襲」の字義が少しおかしい。
「襲」が「殉葬」の意味とは凄いですねw
襲って殺して埋めちゃうわけですか。
「百襲」の「襲」って、現代では「襲い繋る(襲撃)」と言うイメージが強いですが、
「おそう」のもともとの意味は「後に続く」でしょう。(形容詞型「遅い」は後に続くかから遅い)
後に続くの意味から、リピート(繰返す、重ねる)の意味が派生して、
役者の名跡を継いだりすることを「襲名」とも言いますね(別に先代を襲撃するわけじゃない)。
染色の世界では色を重ねることの「重色」と「襲色」はほぼ同義ですし。
「ももそ(百襲)」とは百度も繰返すくらいの意味でしょうか?
142 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 14:10:04
巾3尺の石を卑弥呼に変えましょうか。 ホ38168はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ カエもふで 母身体熱さ1度息 皇祈り飛び上がる 故住吉治り神 両刃の社新に建て 之祀らしむ 代え詣 此だけでは弱いので景行の歌も一緒に。 ホ38221 カンココロ かくぞをぼして カミまつリ ミヤコのソラを ながむミウタに はしきよし ワキべのカタゆ クモいたち クモはヤマトの クニのマホ またたなびくは アヲカキの ヤマもこもれる ヤマシロは イノチのまそよ けむひせば タタミコヲモエ クノヤマの シラカシがヱを ウスにさせこのコ 最後だけ訳す 只皇女思え クの山の 白樫が枝を うすに挿せこの子 先日の 母(卑弥呼)高熱を発して死亡後の 続き何の神祀りか?答えは、後半2行でしょう。 書記と同じ 最後だけを訳すと 「白樫の枝をウズに挿せ」 解説すると 江戸時代の将軍の紫色の鉢巻き 病気平癒のおまじない この古代版。 この調子で大木から男王に変身。 ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ 後略。
>120他 東海地方を陸路で往来するより以前から、 船で、海路で関東との間に往来があって、 関東では伊豆半島や房総半島を入り口として南東から北西に向けて畿内文物が入ったのは、 すでに早くから考古学的に明らかになっているわけだが... 陸路より海路の方が容易だったことは、他の史料からも類推されている。 ま、東海を制圧していないころの古い時代なら、 形式的服属、実態は朝貢貿易みたいな感じ、だったのだろうとは思うんだけど。
>>141 だから「おかしい」と書いてるじゃないか。おれはこんなトンデモもあるよって紹介してる。
「襲」は「襲名」の「襲」で使われているんだろ。
>>142 その説明でも100人のうち何人がわかるやら。
>磐鹿六雁←椿井大塚古墳?はほぼ正解かな。
磐鹿六雁・・・景行天皇の侍臣、大彦命の孫、漁業、料理の神。
椿井大塚山古墳・・・俺の比定では3世紀末、山城地方最大の前方後円墳。計36面以上の鏡
と武具が出土。多量の三角縁神獣鏡から、地方の長、鏡の分配者として考えられてきたが、
漁具である銛、ヤス、釣針がそろって出土。近くに船戸という地名もあり、港、船舶の管理者
としての側面が強く示唆される。
ウィキペディアで「ホツマツタヱ」を引いたが 「現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。 この項目は著作権侵害が指摘され、現在審議中です。 この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。」 唐松山さんにすれば「言論統制」「学問の自由侵害」になるのかな? 「昭和41年に松本善之助氏が神田の古書店で偶然発見したことから世に知られることになった。」 これを読むと、新しすぎの感じは否めないが・・・
146 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 14:58:16
>127 大和朝廷関係の何かかもしれない。中国の歴史書に載ってほしい気持ちはわかるが,朝貢をしていなければ,載っていなくてもおかしくはない。もちろん纏向遺跡が邪馬台国よりも重要な遺跡である可能性は否定できないけど。
>>143 もちろん水運・交易に関してはそのとおり。青森の三内丸山遺跡(縄文 約5000年前)から
北海道の黒曜石やら越の翡翠の出土があるように、古代日本人の航海能力は、現代人が
漠然と想像するより遙かに優れていた。
太平洋航路についてはあまり勉強してないが、対馬海流を利用する日本海航路より厳し
かった(江戸期 北前船の例)だろうが、まあ沿岸伝いなら問題ないのかな。ただ、関東進行
に関しては水軍だけでは当然無理で、長期間かかって支配地域を広げていったと思う。
148 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 14:59:26
>>142 ショボ松、誰もおまえの相手などしない。
ホツマ抱えてどっか行け。
香春(かわら)神社の由緒には、第三座豊比売命は「神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母」とある。 しかし第一座の辛国息長大姫大目命が崇神天皇の御代とあるので奇妙。 一方「住吉大社神代記」には「(神功)皇后與大神有密事」とあります。 これから考えると、トヨは神武と同じく東遷した應神天皇の祖先であり、應神の父は「住吉大明神」で表される誰か? 仮に建(武)内宿禰とすると、孝元記では波多(秦)氏、許勢(巨勢)氏、蘇賀(蘇我)氏らの祖とされる。 ここにも秦氏の影。
トヨタン・・・・・・・・・・
>>147 >まあ沿岸伝いなら問題ないのかな。
そうでしょうね。だから「海を渡る」はおかしく、書くなら「水行」だと思います。
秦氏と波多氏が同族と言う証明は無いと思いますが・・・
>>151 そこであげ足をとられて倭人伝に結びつけられるとは思わなかった。面白いです。
古代文字は「ホツマ」でも「カタカムナ」でも他でも無理。電波だと思う。
学者なら言及した時点でクビ覚悟では。
154 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 15:22:18
>>148 はへたれの信者だな ほれ
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、
下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、
再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、
ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。
>>152 >秦氏と波多氏が同族と言う証明は無いと思いますが・・・
鋭い指摘。また調べてみます。
唐松山さん反撃開始!
残念ながら、私はこれにて。GRRR・・・
156 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 15:58:22
今の学者は皆失格だから気にするな。 書紀を太陰暦で圧縮出来た学者がいるか? 保身のみに走る学者に「日本の歴史」は語れない。
>>156 古代文字については時間のムダと思い、まともに調べたことはないので間違いがあったら
かんべん。否定される根拠としては・・・
・字母音の問題・・・上代日本語の字母音については現在論争中だが、ほとんどの古代
文字は中古・現代日本語と同じ構造であること。
・近代以降に形成された概念が散見されること。例えば明治時代なのに「派遣社員」が
出てくるとか。
・考古学的に、古代文字関係者近辺以外からの出土が見られないこと。
まだあるでしょうが、まあこれで十分では。
「朝廷の(神道の)秘事を表す暗号として使われ、一般に流布しなかった。」という反論が
多いようですが、電磁波を強く感じます。
邪馬台国と大和朝廷は関係無い説に一票。
159 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 16:20:58
都市午利がタジマモリなんてダメダメ 都市は官名で午利が名前 午利はゴリと読む 大体遣使に偉い人が行く訳ないし
>>159 田道間守に関しては面白い話があって、垂仁天皇の命で非時香菓(橘?)を求めて常世の国へ
いったとされるが、実は橘とは卑弥呼に与えられた「黄幢」であるとする説だ。
「幢」が何かは不明だが、黄色い(黄は五行の土で魏を表す色、曹丕(文帝)の最初の年号は
「黄初」) 飾りのついた旗のようなものなら、橘(みかん?)との共通点もあるといえばある。しか
しその場合、
>詔して倭の難升米に黄幢を賜い とあるように田道間守は難升米ということになる。
俺の信頼度は10%なんだが、幢=節(古代中国で、皇帝より与えられた特権?節のある
竹形?)=三角縁神獣鏡の傘松紋様 という説もあってかなり面白がってる。
161 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 17:38:58
田道間守が帰国した時には垂仁は、塚の中 失望した田道間守は、塚の脇に果木を植え、離れた畑に種を蒔き 殉職 田道間守、垂仁の登場は一度のみ 都市牛利がタジマモリ 次に変わって登場するのが、倭王(景行)と伊勢のベテラン磐鹿。 難升米は引き続き倭女王の使いとして活躍。 磐鹿と難升米が同じ爵位を受けるのは、仕える王が違うから。 「黄幢を賜い」とは魏軍の一部に組み込まれたことを意味する。 黄幢の威力は楽浪郡の滅亡、神功の渡海まで続く。 田道間守は天日矛の末裔で任那王の親戚、人事に誤りは無い。
>>161 もう少し他の人に、歴史のおもしろさがわかるように書いてくださいよ。
都市牛利=タジマモリ の理由が全くわからないじゃないですか。
163 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 18:00:38
田道間守が帰国した時には垂仁は塚の中 悲観した田道間守は殉職 都市牛利と垂仁は1回の登場 替わって倭王(景行)と伊勢のベテラン磐鹿 磐鹿と難升米が同じ爵位を与えられるのは 磐鹿と難升米が別の王に所属しているから可能 この時点で倭王は倭女王と同等の地位を与えられる 都市牛利の時より一歩前進 「黄幢を賜い」とは魏軍の一部に組み込まれた事を意味する。 景行は郡に朝貢を続け新しい政治手法を学ぶ それが「屯倉」経営 黄幢の威力は楽浪郡の滅亡=神功の渡海まで続く。 半島より遅れた倭神功が半島を治めるには、この思考以外無い。 この思考なら半島より倭が進んでいた時期があり 楽浪郡が滅んだ政治的空白、の半島に渡れる。
164 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 18:11:54
都=た 市=し 牛=う 利=り この読み方は、当時の音として当時の書物に出てくる読みです。 日本書紀の編年はサガミハラハラさんの「日本書紀紀年法」に書き込んであります。 又は 終止符!!の過去ログを参照して下さい。 数字(西暦)が振られていないと 信頼度がた落ちですから、同じ書き込みを何度も 出来ないためです。
165 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 18:16:02
牛=う は無いだろうw
166 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 18:19:42
私の登場人物で 倭人伝を読んでみる、書紀を読んでみる 何処か異常がありますか?
167 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 18:29:49
楽浪滅亡は313年ですよ
>牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し 当時の倭人が、姓と名にわかれていたものかな。魏が正式文書に略名を記すかな。 特に官職を与える大切な場面で。やはり「牛利」が正式名では。
169 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 18:56:49
170 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 18:59:52
都市は市場監督官
171 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 19:15:31
タジマモリって・・・記紀の説話を無批判に史実扱いしてるんかい? 説話や伝承はそのままじゃ使えないよ。
172 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 19:16:16
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ 景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ 多分 最初の朝貢は勝手が分からず 通称イクメを出す 次回から タリヒコの忌名(本名)を使う。 当時の大王クラスの名は四つの合成 280年頃には新羅と百済により南部の大部分支配されていた。梁書に書かれていたと思う 326年を七支刀とするとこの少し前に半島情勢決着か 書紀の肖古王≠近肖古王 書紀に書かれた肖古王は明らかに百済本記の近肖古王より 時代が古い。
173 :
日本@名無史さん :2009/03/22(日) 19:18:54
大体、イクメイリヒコ大王が実在のヤマト大王だとしても、 4世紀の人物と考えるべきなんだから、イクメ大王に仕えていたタジマモリが 3世紀の邪馬台国時代の人物なわけないだろ。 素人目にも捏造、引き伸ばしが明らかな書紀の年代なんか基準にしてる時点で、 論ずる足りない妄説だな。
都市牛利は出石心(イヅシゴリ)命だな。
175 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 19:33:36
>>171 これまで書紀の記事がそのまま使えなかったのは、編年がメチャクチャで有ったから。
そこで私が書紀を太陰暦で読める様 数字を書き直した。
そして”定点”も合わせた その線上に今の話も乗っている。
だから無批判で使っている訳では無い、時空の合う処の記事が事実かどうかも
検討しているのが今の姿なんだ。
176 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 19:49:33
>>173 >素人目にも捏造、引き伸ばしが明らかな書紀の年代なんか基準にしてる時点で、
書紀がどの様に「ねつ造、引き延ばし」されているか教えてあげよう
神武〜神功元年は太陰暦の誤魔化し 太陰暦で読める様圧縮する事。
神功〜仁徳末年は太陰暦の誤魔化し一九年と2朝並立で出来ている。
>>176 すんません飯食ってました。都市牛利=たし+うり ですか。まあ和語では、名詞の中途に
母音が入るのは珍しいのできっとそうでしょう。
太陰暦日本書紀完成ですか・・・ところで神武帝〜今上陛下まで125代すべて実在と考えて
いますか。
都市午利は、丹波大県主由碁理じゃないの?
尾張氏か・・・。由碁理の娘の竹野姫(天豊姫)が台与という説もあるね。 県主の起源については大きな論争があったけどまだ決着はついてないし、強力な証拠が ほしいところだね。 唐松山さんを怒らせちゃったか・・・。
トヨタン・・・・・・・・・・
>>174 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:25:11
>都市牛利は出石心(イヅシゴリ)命だな。
これは目にうろこ。
182 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 00:20:36
考古学者の人たちは邪馬台国は纏向で間違いないと確信してるようだね。 集落跡さえ発見すればもう確定、もう詰めの段階、そんな感じ・・・ 奈良は奈良国立文化財研究所、飛鳥藤原宮跡発掘調査部、 橿原考古学研究所など、金も力も圧倒的、 このまま世界遺産にしちゃうんじゃない。
183 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 00:21:08
>>174 都市牛利は「海部氏勘注系図」に書かれている15世孫、川上出石別命かも
しれないですね。なぜか、この人の所にだけ「鎮守将軍」と書かれています。
184 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 00:27:42
>>182 というか、纏向遺跡は
邪馬台国の中心部でしょう?
だから、身分の高い人たちが終結していたから
高床式の建造物ばかりで
庶民が暮らすような竪穴式住宅はなかったんでしょう?
>>182 本気でそれを信じているように装いつつ、全員が内心では「ダメだ」と
確信しているのが畿内説。
>>179 というか、トヨは、 豊鍬入姫命のほうじゃないの?
「都市牛利」は中古音で読むと to-zIei-ngI∂u-lIi 魏志倭人伝で、少なくとも、邪馬台国内の人物名は 中古音で読む可能性が高い。
189 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 00:59:45
関西のローカルニュースでも現地説明会があったことを伝えていたなあ…。
個々に意見を言い合って候補地乱立、まとまりがなくマイペースな九州人と 抜け目の無い関西人とでは勝負にならんなー、 縄文人と弥生人との戦いのようだ。
邪馬台国=ヤマト国 卑弥呼=媛命=ヤマトトトヒモモソ媛命
192 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 11:43:02
ほんとに九州説は候補地乱立 どこにでも卑弥呼はいるといえばいえるだけの 遺跡がごろごろしているから、場所には困らない。 30余国並立なら、そんなもんだろ。 もうちょっと後世になって中央集権的な政権が出来てから 巨大な都が発生する。それが太宰府政庁だったり 奈良あたりの朝廷だったりするわけだ
193 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 12:30:49
ゴリといえば金沢 多分、金沢の人だろう
194 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 13:06:49
>>192 ほほう、遺跡ゴロゴロとは初耳だな(笑)
195 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 13:19:11
まさか、吉野ヶ里しか知らないってことはないよね?
吉野ヶ里の近くに墓ないの? 誰かGoogle マップで探してよ。
197 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 14:13:35
吉野ヶ里の近くに円墳、方墳、前方後円墳 吉野ヶ里の中にさえ、いくつかあるが、年代が100年ほど 卑弥呼の時代より古いので、邪馬台国ではないだろう。 筑紫平野周辺はいろいろあるから、どれが卑弥呼の年代か 推理するのも楽しい。熊本県のほうにもいろいろあるし、 福岡、佐賀、けっこう点在している。 福岡空港周辺なら、甕棺のかけらくらいなら、めずらしくもない。 工事現場の瓦礫に甕棺の赤いかけらが落ちてることがよくある。 よく拾ってたが、なんか裏に意味ありげな色が付着しているのが ちょっとぞくぞくして楽しい。
九州はくさい場所がありすぎるからね 地名とかも良くみてみると楽しいと思うよ 九州北部の平野なんて掘ればなんか出てくる てか、ぶっちゃけ日本全国川があって開けた台地状の地形は 大抵何か出てくると思われる 掘らないのは予算も無いしそういう住み易い場所は住宅化が進んでるからなのさ
199 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 15:12:33
あと、福岡県なら、伊都国もおもしろい。 九大伊都キャンパスの南側の平地は割と最近まで海だったようで、丘陵地と 平地の風景ががらりと変わる。 九大周辺の丘陵地は遺跡ばかりで、九大敷地内にもかなり遺跡がある。 建設するときにいろいろもめていた。 伊都国の山側に入ると、平原遺跡などがあるあたり。 遺跡ではないが、近くの高祖神社は設立が神代とされている。 つまりわからないくらい昔だということのようだ。 雷山中腹には神籠石がある。これは江戸時代のような 高度な石垣ではなく、古代の原始的な石垣らしい。 周船寺、今宿あたりも遺跡の宝庫。 などなど、古代遺跡なら、いくらでもかけるくらいの材料はある。
纒向遺跡:古代ロマンへ夢−−桜井で説明会 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090323ddlk29040256000c.html 邪馬台国の「最有力候補地」といわれ、女王・卑弥呼(?〜248年ごろ)と
同時期の3世紀前半の建物群が見つかった纒向(まきむく)遺跡(桜井市)で22日、
現地説明会が開かれた。計約2500人が参加。王権中枢部の一角の可能性が指摘されている建物跡を前に、古代ロマンへの夢を膨らませていた。
市教委の調査担当者が、方位や柱筋をそろえた特異な建物構造などを説明すると、ファンらは熱心に聴き入った。
整然と建ち並んだ“古代都市”の一角を一目見ようと、遠方からも熱心な古代史ファンらが駆け付けた。
JR巻向駅近くの調査地では、来場者が次々と訪れ、
説明する市教委の担当者が対応に追われた。
建物を建てる際に大規模な整地をし、柵で複雑に区画。三つの建物が方位をそろえて計画的に並ぶなど、
その特殊性から、ヤマト政権や邪馬台国との関係が注目されている。
熱心だね。
201 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 15:35:11
遺跡とか考古学の研究に基いて語ってるのはいいけど、 記紀の説話上の人名を持ち出したり、記紀の古い時代の年代を持ち出したりして、 我田引水してる人にはさすがに引くわ。
>190 だが、1世紀頃の九州は弥生文化の先進地で、同時期の近畿は逆に縄文的要素が強いと言うぞ。 (昨年刊行の小学館の全集日本史の1巻による) まあ、すでに九州の勢力は日本列島内では孤立化が始まってて、 鉄(など)の流入窓口は山陰、出雲の諸豪族と山陽、吉備の大王(?)に移ってたってことらしいが。
「後漢書」にある、「安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人」・・・このあたり
までは倭国の中心地は九州にあったと思っている。ただ、1〜2世紀からすでに九州と近畿
は互いの存在を知っていたと思う。
160人の生口(奴隷?)を大陸まで運ぶためには、反乱を抑えるための兵士などで200
人以上の大船団で海を渡っただろう。後代の遣唐使でさえ度々難破した航路を渡れるなら、
波穏やかな瀬戸内海を大阪湾まで来られないはずがない。
>>202 これまでもマキ向からは20棟近い掘立柱建物が出土している。神殿跡にしては柱
径も細く、もっと発掘が進まないと確定的なことは何もいえない。興味深く見守っている。
205 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 20:56:33
仮に畿内だとしたら、魏志との整合性をどう高めていくか考えましょう。
206 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 21:23:39
だから俺が何回も言ってるだろ?! 早く箸墓を発掘しろよ! 箸墓から金印が出てくるに決まってるだろ。 箸墓こそ卑弥呼の墓だよ。わかった?
まあ、文献史学と考古学は本来対するものではなく、補完し合うべき関係にあると思う。 昨日、よく知らないまま「ホツマ」批判をしたので、気がとがめて道場の帰りに「日本の 偽書」w という本を立ち読みした。 「秀真伝」・・・○大物主命が神武帝の勅命により筆を執り、孫である太田田根子が完成。 「ヲシデ」と呼ばれる神代文字で記される。 ○江戸中期、井保勇之進が漢文に翻訳。 ○江戸後期、神道家 小笠原が神道の布教に用いる。・・・この注釈書が出版 されているので、少なくとも嘉永年間には存在していたのは事実のよう。 ○昭和41年、松本善之助が古書店で写本の一部を発見、宇和島にて完本発見。 特徴・・・・・・ ○仙台市、富士山、滋賀県安曇川を三大聖地とする。 ○天照大神を男神とする ○男女和合に関する「伊勢の道」を説く・・・真言密教の異端派的な内容(俺の感想) などなど 俺の結論・・・江戸初期〜中期あたりに書かれたと思う。内容は電波。よかった。
九州説と畿内説で論議すると、「纏向VS九州の何処か」の構図になるから九州説側は不利だよね。 九州説の方はイメージする場所がそれぞれ違うから、だんだん噛み合わなくなってきて、 しまいには邪馬台国は無かったとか言い出すよね。 まずは九州ラウンドが必要じゃないか。
209 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 21:56:10
>>208 えー、俺は九州説だけど、九州内なら、別にどこにあってもいいけどな−
なんていうから、いつまでも決まらないんだけどね。
どこにしようかねえ。われながらゆるゆるだな。
210 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 22:43:54
まきむくは垂仁・景行の都。記紀を裏付けるもの
>>206 箸墓を掘っても、金印は出ないのではないかな。台与と推定される倭女王が泰始2年(266年)
に晋に朝貢したとき「親 晋 倭王」を仮拝し、「親 魏 倭王」を返納した可能性はけっこうあ
ると思う。「魏帝詔書」が出れば確実だろうが、おそらく木簡、朽ちているだろう。あるいは「張政」
が何か書き残しているか。
ところで台与の墓とされる「西殿塚古墳」。白石太一郎氏らが推しているが、俺的にはけっこう疑問。
陵墓の発掘に対し、宮内庁の姿勢はかたくなであり、俺が生きているうちに見られるかどうか?!
212 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 23:11:03
ツシマは対馬 マツロが松江 ラ国が種子島 ナ国が那覇沖縄 イヨ国がイヨタンの愛媛 畿内ヒムカ国が卑弥呼 内緒だがハカは熊本 説得力ありあり
213 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 23:12:13
九州なら平塚川添遺跡の可能性が高いと思うが。
214 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 23:17:43
別に、邪馬台国誘致運動をしているわけではない。 九州のどこにあったとしても、近畿地方にあったのとは意味合いが違う。 のちの大和朝廷との関連において、という意味だが。 卑弥呼は「倭王」と呼ばれ、後の、大和朝廷?の大王も「倭王」と呼ばれる。 さらに、邪馬台国と大和国との関連など。 邪馬台国が畿内にあったとすれば、3世紀にはすでに九州まで支配しており、 朝鮮半島や大陸まで交流していたことになる。このときには、すでに 大和朝廷に匹敵する、あるいはそれ以上の勢力がいたことになる。 これに対して、邪馬台国が九州であれば、勢力の範囲は限定的ということに なり、後の大和朝廷との関連が重要になる。
215 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 00:19:27
なぜ、箸墓を調査しないんだろう? 宮内庁が何か隠しているのか?
>>204 もうちょっと日本書紀や古事記を読め。
もし、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ姫命なら
神武天皇は西暦30年前後の生まれになるし
天忍穂耳命なんて紀元前の生まれになる。
つーことは、この当時の日本列島では
鎌倉時代、足利時代のように、何度も統一→分裂→統一
を繰り返していたことになる。
あと、倭の面土国(米多国=佐賀平野)の師升さんは
中国から金印を貰ってないんだよな。
西暦57年の奴国のほうは金印を貰っているのに。
つまり、師升は中国に認められていない。
あれだけ生口を献上したのに。
217 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 02:22:45
>>215 宮内庁の言い分は一貫して、天皇家の祖先の眠りを妨げてはならない、というもの。
考古学、古代史フアンが声をそろえて訴えることができれば・・・と思うが、2chはともかく
一般フアンの数は減ってるようであるし。
天皇家と大陸との不都合な関係(このあたり歯切れ悪し)が明らかになるから、という人
もいるが、それはうがちすぎという気がする。
>>216 反応があるのはありがたいが、何を答えればいいのかわからない。帥升が印をもらってい
ないのは誰だって知ってるだろう。(あんな短い文献読み落とすわけがない)しかし、文献
自体が「王」として書いてある。一方211で書いたことだが、台与が金印をもらったという記
述もないし、「倭女王」とあるだけで台与という確証もない。(書紀 晋書引用部)
神武帝が日向から東征して前660年に即位した、という記述は全く信じていない。ただし
どうしてそういう説話が収録されたかさぐるのは意味があるだろう。紀記でも中国文献でも
考古資料でも、情報を取捨選択して、できるだけトンデモを排し、
「自分の頭で考えること」 が何より大切だと思う。別に学者ではないしこれで金をもらって
るわけでもない。ただ自分の勉強になるからいろいろ考えているだけ。
あと俺は古事記の音・訓借はダメだが書紀は原文で読んでいる。おっと、朝練に遅れるん
で今は失礼。
>>218 騎馬民族説って、左翼だけじゃなくて
右翼も同じくらい信奉者がいるよ。
笑っちゃうけど。
右翼と左翼がこの説で論争していたりするw
純粋なアカデミックの場では、騎馬民族説なんて
殆ど相手にすらされていないのにw
>あと俺は古事記の音・訓借はダメだが書紀は原文で読んでいる。 なんだと! 書きくだし文じゃなく原文! と思ったが、後漢書や晋書も読んでるんなら、読めるんだな。うらやますい
221 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 19:22:17
222 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/24(火) 19:30:03
>>207 「秀真伝」・・・○大物主命が神武帝の勅命により筆を執り、孫である太田田根子が完成。
ここまで言いがかりを付けて「秀真伝」を偽書としなければ成らないのが 今の学者様達
ホ40382 このフミは ムカシモノヌシ ミコトのり うけてつくりて アワミヤに いれをくのちの ヨヨのフミ
ホ40390 ときアスス ヤホヨソミホの アキアメカ これたてまつる ミワのトミ スヱトシをそれ つゝしみてそむ
時アスス暦843年(景行55年)秋天皇崩御←景行60年で無いのが良い
景行55年=同60年でもある。
ホツマ伝には 神代の時代より暦は在ったと書かれている、もし学者が『秀真伝』は真であると認めたとしたら
同じ長さの「書紀」を正常な長さの暦に直せ、と皆から言われる もし普通の暦に直せなければ
その学者は、「自分はバカです。」と宣言しているような物だ、
学者様達は天才ぞろいだ 自分の”保身”に付いてはすばらしく脳みそが働く、「秀真伝は偽書」に仕立てれば良い。
書紀を普通の暦に変換した私には通用しない。
それで学者様達は「歴史の定点」を決められたのかな?
223 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/24(火) 19:31:40
大乱、下克上の世からその後 神夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也 神夏磯媛は一国の首領であり 従う者甚だ多し、一国を乗っ取ってしまった場所は奴国の隣香椎 筑紫王はこの地さえ回復できない程疲弊している。 耳垂とは、例えば「オシホミミ」等立派な地位にある人間、その人間が大王に背いた状態を 「へたれ」と言う 耳と言う地位に在りながら背いたのが「耳垂、みみたれ」である。 この様な状態の中立てられたのが卑弥呼、卑弥呼は奴国や神夏磯媛の国以下30国から妥協の 産物として九州倭国の代表となる。 卑弥呼は実力(軍事力)で九州を平定することは出来ない、何故ならば30ヶ国の支持を得て 倭女王に推戴された王であるからだ。 卑弥呼は筑紫王の斎王と思われる。 魏国は大和倭王に倭地全ての平定を求める。その為の軍事訓練から政治手法まで伝授する。 卑弥呼が死に、筑紫男王も没すると景行は筑紫に五百野姫を送り込む、 「政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人」 壹與=五百野姫で有るから景行の部下掖邪狗を派遣する。 そして景行は武内宿禰を関東東北の視察に出す、日本武尊の関東遠征 266年壹與?に依るの晋への朝貢は、この流れの線上にある。 272年神功渡海。
イヨタン・・・・・・・・・・
225 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/24(火) 19:46:44
>>222 の続き
「秀真伝」は 出雲の記録と天皇家の記録を一つに纏めている
だから 出雲と天皇家を分離して読まないと、とんでもない偽書になる。
226 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 19:49:11
チョロ松は何を言ってんだ(笑) Fool On The Hillを気取ってんのか(笑)
227 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 20:49:22
日本中がWBC優勝で沸き返ってるときも、邪馬台国がどうちゃらこうちゃら、 なんかくだらんキモいやつらだwヲタはこれだからいかん。
世界ボクシング評議会がどうしたって?
秀真伝なんて、トンデモ。 あれでは、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命とはしていないだろう?
>>225 反論をしたいが、「秘められた日本古代史(ホツマツタエ)」を買って読む時間も暇もありましえん。
立ち読みできるようなものでないし。「ムー」とかと同じと思う。こんなものにつきあっていると、人生を
大きくムダにしそう。まあ、227のいうおり邪馬台国自体そうなのかもしらんが、俺はWBCよりはマキ
向発掘のほうがわくわくする。
231 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 23:53:44
野球は勝てるかもと思えるが、纏向は掘っても何も出ないのが分かってるから・・・
232 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 00:12:35
今回出たのは何?
建物の柱跡と柵跡。30年前の調査域を少し広げて掘った。しかし30年前の調査報告に あるのとはいろいろ違ってる。それを信じて他スレで変なことを書いてしまって反省してる。 まだ、現段階では全然わからん。建物に付随して土坑があれば、遺物もそれなり出てくる かもしれない。
234 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 00:50:49
235 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 10:02:34
ヲタ臭い。 みんなで野球で盛り上がることもできず、巻向ってw 自分ら学生時代から周りの空気読めず、友人も少なかったタイプだな。
236 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 12:22:55
神夏磯媛も正しく読めば しなし姫となり息長氏の一族だ 漢字の当て字は当時の流行だったかもしれないが 書いた人により異なるため後世の混乱を招いたね 息長、磯長、帥長、科長、級長、神夏磯、、全部息長族
237 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 13:45:27
>>235 いやあ、興味なかったら全く見ないよ。
俺もWBCは見てたが、サッカーは全く興味ないから、見てても眠くて
ワールドカップ見ないし、
東京マラソンだって松村が倒れたぐらいしか知らん
239 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 15:50:41
邪馬台国=大和国 卑弥呼=日の皇子=神功皇后
241 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 19:40:53
卑弥呼が神功皇后はいいとして 何故、邪馬台国が畿内なんだ? ヤマト朝廷は天皇が自ら親征し、あちこちに宮を建てていたから 都はあちこちにある 神功皇后が奈良にずっと住んでいたか分からんぞ
>>241 だから、複数の都の情報が錯綜して一つの都と勘違いされて倭人伝の記述になった。
などと想像してみる。
243 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/25(水) 20:50:24
>>235 俺剣道部だから野球興味ないよww この名前じゃないけど武道板にも書いてる。
箸墓と倭迹迹日百襲姫命@
箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)・・・天皇皇后等ではないので現在は陵とは呼ばない。
約280m、後円部は4段築造?その上に円丘状埋葬部があるともいわれる。最近の調査で
周濠と外堤の存在を確認。推定年代は研究者により250年〜350年の幅を持つ。もちろん
九州説は新しく、畿内説は古くみることが多い。
箸墓の名は書紀の「三輪山伝説」で媛が箸で陰部をついて亡くなったことから。「箸陵」の名は
7世紀頃には確認されている。ところで、考古学的には最古の箸は7世紀後半、飛鳥板蓋宮
および藤原宮跡から出土した桧製品。3世紀の倭人の食事は手づかみ、さじ等を用い箸は使
われていなかったと思われる。それなのにどうしてこの名がついたかは謎の一つ目。
245 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 22:35:05
ハシ墓はハツクニシラス墓
246 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 23:02:45
>>244 手づかみだったのは邪馬台国。大和は箸を使ってたんだろう。
247 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 23:04:14
>241 ほとんど九州に在住じゃないかな。息子の応神天皇も九州で生まれているはずだ。
タジマモリが探した「非時香菓」ってオリーブの実じゃないかと思うんだけど。 オリーブの木にはオスとメスがあって対に植えないと繁殖できない。 だからタジマモリが持ち帰った枝も八本という偶数な訳だ。 オリーブの実は香りが強い為、「香菓」という名で呼ばれた。 非時香菓=橘という説が生まれたのはオリーブの木と橘の木が似ていた為。 当時の人はオリーブの知識がなかったので、よく似ている橘になぞらえた。 後世にオリーブの木が残らなかったのは、地中海地域で育つオリーブの木は 日本では生育条件が違いすぎた為。 手に入れるのにかかった歳月(10年)も、地中海地域まで往復したと仮定 すれば説明できる。 中国や天竺の存在が当時すでに知られていた以上、常世の国がインドより遠い 未知の国であったことは間違いない。 不老長寿を得られるというのは、キリスト教で教える「永遠の命」という 考え方が、古代の伝言ゲームでそう変わってしまったのだろう。 実はキリスト教では、オリーブオイルは秘蹟に必要な聖油の材料なのだ。 秘蹟の目的は、来世で永遠の命を得る為であるが、古代の伝言ゲームで 非時香菓(オリーブの実)を食べれば不老長寿が得られるという風になって しまったのだろう。 タジマモリは百済人とも言われるが、当時の百済は、雑多な民族の寄り合い 所帯で、その中には地中海地域からシルクロードを越えてやって来た者も居た のだろう。
箸墓と倭迹迹日百襲姫命A よくいわれるのは、土師(はじ)の墓説。土師氏が中心となって造った、あるいは土師(土師 器の意ではなく宮山型特殊器台・特殊壺、都月型円筒埴輪など土製品)が並べられている ことから地元民がつけた 「はじの墓」→「箸墓」へと変化した説。 しかしこれだと、日本書紀の記述「三輪山伝説」は後付け(地元民が 「はしはか」と呼ぶ のを聞いて物語が作られた)となってしまい、日本書紀の記述の信頼性が大きくゆらぐ。 俺は困らないが、書紀の干支を重視している唐松山さんは困るだろう。 もう一つは、庶民は箸を使っていなかったが、朝廷内では儀式用祭器として使われていた という説。もちろん中国ではおよそ5000年前から用いられており、そうであっても不思議は ないが、「宮廷内の特別の秘儀」という言い方はそれだけでトンデモくさい。 考古学的には3世紀の箸の存在は認められないのに対して、書紀がその古くからの存在 を強調しているのは、対外的に蛮夷の国ではなかったことを印象付けたかったからとする 説もあり、俺的にはこれに一票。
>>249 モモソヒメは生涯独身で宮廷内でもお高く止まっていたオールドミス。
彼女は、神格化された大物主を夫とする巫女でもあった。
巫女としての霊力で王族内の内乱を予言するなどした。
彼女は、祭儀のなかで箸を使っていたほか、日常的に食事でも箸を
使っていた。
当時は箸を使う者などきわめて少数であり、箸は糞払いの棒と似ていて
それを食事に使うことは馬鹿にされる面もあった。
周りの者たちは敬愛と揶揄を込めて彼女を「箸のヒメ」と呼んだ。
そのモモソヒメが葬られた墳墓を「箸のヒメの墓」とか「箸の墓」と呼んでいたが、
後世に「箸墓」と呼ばれるようになった。
>>248 >>250 うーん、面白い人が出てきて、俺的にはよい展開。
それにしても、3世紀の倭人が三蔵法師以上の旅をしていたというのは凄い。
天岩戸でも天の服織女が梭(ひ)で陰部を刺して死んでいるよね。 これは百襲姫命と同一人物ってこと? それとも太古の日本ではよく陰部に刺さって死ぬのが恒例だったの?w
>>252 イザナミが火の神カグツチを産んだために陰部に火傷を負って死んだのが最初で、汚れ
を象徴している・・・あたりまえでつまらないか。
「古墳の中で下腹部だけを矢で突かれて死んでいる老女の発掘例があった。」
樋口清之氏の談話にあったが、ちょっとソース不明。スマソ。
254 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 12:15:06
結局の所、邪馬台国高千穂説は倭人伝等の文献上は全く問題無いと思う 後は考古学的裏が取れれば万人が納得だね さて、じゃあどんな遺跡が必要かだ
255 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 12:25:36
召使が1000人位、 警護の兵は分からないが1000人位として 2000坪が居住スペース 100m四方位として 案外小さいな 高千穂に無いのか?
高千穂と高天原の区別がついていない奴が多い。
257 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 13:38:56
>>252 古代において、巫女とは神の嫁であり
全てを神に捧げなければならないので
処女でなければならない。
陰部を突くと言うことは、処女を捨てることになる
258 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 15:00:35
なぜ、2ちゃんねるでは、邪馬台国九州説が人気なの? 教えて。
260 :
ローガン :2009/03/26(木) 16:59:55
>>249 > 考古学的には3世紀の箸の存在は認められないのに対して、
え〜と…纏向から6角形の棒 出てなかったですかね?30cmそこそこの…
辻の土坑4だったかな? 祭祀(サイシ)で使われた箸の可能性が云われていたような記憶が…
違ってたらごめんなさい。手元に資料ないので。
261 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 18:53:16
262 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/26(木) 19:05:06
巻向には大乱(下克上を伴う戦)が無いから。
>>260 >祭祀(サイシ)
さりげない気遣いか、それとも遠回しの嫌味か?www
264 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 19:56:37
>>259 自由な言論が保障されているところだから。
学界では自由に発言したら生きていけない。
265 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 19:59:56
>>264 一昔前は九州説が花盛りだったわけだが・・・
その後急激に言論統制がなされたわけか・・・
一体どのような壮大な陰謀が企てられたのかkwsk wwwwwwww
266 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 20:08:06
この板にいる者なら畿内説のえげつなさはよく分かっているよ。
267 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 20:10:27
>>266 陰謀論に頼らないとやっていけない九州説論者の泣き言ですね、わかります。
268 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 20:17:57
269 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 20:31:05
>>267 畿内説ってのは学界の恥部だろ。
合理的な批判が全く存在しない大政翼賛会。
270 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/26(木) 20:36:04
葛城と三輪の戦いが有ったとしても 葛城と三輪、大王から見たら 対等だろう。 例えば 東海の蝦夷が攻め込んで巻向を占領した、とかさ。
>>260 (どうも、他スレで碑石とか変なホームページを見てたものです。)
俺もよく覚えていない。たしか土坑4の上層からは漆塗木製皿・へら状木製品などが出土、
中層からは木製高杯などが出土した。農耕や食事に関連した祭祀が行われていたようだ。
6・7次調査では、東田・辻地区から150基近い土坑が見つかり、様々な加工木が出土して
いるんで、その一つだったか。
一般的には、箸はピンセット状のものから1本箸(平城京跡他)、2本箸(長岡京跡他)の順
で出土が増えている。まあ、箸墓の箸が実際の箸を言ってる可能性も否定はしないよ。
>>265 言論統制というか、九州説の人の方が今でも多いような感じだが、候補地が一つにまとまら
ないのが響いてるんでないかな。
272 :
ローガン :2009/03/26(木) 20:52:50
>>262 > 巻向には大乱(下克上を伴う戦)が無いから。
倭國乱が具体的にどんなものかはわかりませんが、乱があったゆえ、遠方の北部九州各国に官を配置できたのでしょう。
273 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 20:56:00
274 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/26(木) 21:38:45
>乱があったゆえ、遠方の北部九州各国に官を配置できた と言うことで大乱(下克上を伴う戦)は九州です。
>>272 >東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。
これらの官名記述はいつごろのものなのだろう。倭人伝は時間軸に沿って書かれている
のだろうか。
景初3年(239年)卑弥呼朝貢時、正始元年(240年)倭王位仮授時 のことだとしたら考古学
的にはかなり微妙。
台与朝貢時のことなら、北九州を勢力下に置いていたというのはまあ考えられると思う。
唐松山さんのレスは省略が多くて、厳密な反論がなかなかできない。
276 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 21:48:48
文献がない以上、時間の無駄だと気付け。 真実は永久に闇の中だよ。
277 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/26(木) 22:04:56
私の編年を信じれば 倭人伝に登場する 大和の人間は今のところ5人特定出来ている。 私もかなり以前から同じ事を主張している、その度に同じ事を書けない。 過去ログを漁って下さい。
あまり話題にはあがらないが、倭人伝の冒頭、
>今、使訳通ずる所三十國。 の「今」がいつか は大問題だと思う。
>>276 2chで結論が出るはずもなく。しかし俺的には数学の問題を考えるよりはずっと面白い。
279 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 22:18:53
大阪府立近つ飛鳥博物春季特別展 開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる 前方後円墳の成立 」
講演会や現地見学会などの関連イベントも多数開催します
開催期間 平成21年4月25日(土)〜6月28日(日)
場 所 大阪府立近つ飛鳥博物館 特別展示室 〒585-0001 南河内郡河南町東山299
講演会 時間/午後2時〜午後3時30分 会場/地階ホール 定員/200名
5月17日(日) 鈴木靖民氏(國學院大學教授) 「3・4世紀の倭国と東アジア」
5月31日(日) 白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館長) 「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」
6月14日(日) 岡村秀典氏(京都大学人文科学研究所教授) 「中国における3世紀の鏡と墳墓」
6月21日(日) 水野正好氏((財)大阪府文化財センター理事長) 「倭国がつくりだした大王墓の形象 前方後円墳」
その他詳細はこちらのリンクから
http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/21622.html
別スレを見てたら、九州説の人達が何故か日向説で団結して、 めずらしくソースとか出して反撃してる。 九州説のガンは福岡だって事にやっと気がついたようだ。 なんでも福岡ありきで組み立てるから、おかしくなるんだよね。 まあ、俺は畿内説だからどうでもいいんけど・・・
281 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 23:09:19
>>278 >今、使訳通ずる所三十國。 の「今」がいつか は大問題だと思う。
魏書の「今」は当然に魏の治世です。
282 :
日本@名無史さん :2009/03/26(木) 23:34:45
魏初?魏末?
283 :
ローガン :2009/03/26(木) 23:38:56
>>271 >まあ、箸墓の箸が実際の箸を言ってる可能性も否定はしないよ。
あ、考古学的に否定できるかどうかにコメントしただけです。
箸で〇〇〇を突いて死んだなんてただの伝説だと思います。
>>281 もちろん陳寿が書いている時点ではないよね。ただ、10年の幅があると、マキ向型前方
後円墳の伝播や土器の移動状況などから、ずいぶん事情が違ってくる。俺は近畿説だが
240年頃「近畿勢力が北九州に地方官を置いていた」という説はものすごく疑問。
上で箸のことを少し書いたが、
>箸その河より流れ下りき(古事記 八岐大蛇)
須佐之男命ー大国主命ー根の国ー葬式ー一本箸ートコロテン(冗談)がそれぞれ関わり
深いのはなぜだろう。民俗学が必要か?古神道家でもあるw 唐松山さんなら何か答えが
あるかな。
>>283 もちろん伝説。「三輪山伝説」ともいわれるし。上のこともそうだが、俺はこんな役にも立た
ない、邪馬台国にもたぶんつながらないことだけど、考えるのが面白い。
285 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 00:35:33
286 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 08:49:46
宮崎で山のように遺跡が見つかっているよ。軽く100万人位はいたのだろう
オコジョが?
須佐之男命ってのは実在の人物ではなくて神話でしょう? 彼の6代目の子孫である大国主と彼の娘である女性と結婚したりするわけだし。 こんなこと、ありえない。 おそらく、当時、スサノオという神様が信じられていて それと親子関係や結婚するという宗教的行事があったんじゃないの? だから、生身の人間同士の親子関係とか婚姻関係ではない。
289 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 12:05:39
高千穂説は考古学的にも裏が取れた 次は卑弥呼の鏡だ これは後漢鏡だから 内行花文鏡だ 卑弥呼は周辺の蒡国に配っただろう 従って鏡が発掘された所が蒡国だ 小倉辺り、新田原など
290 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 12:25:34
尤も、直径15〜16cmのだよ
きょう休みなんで、他スレで夜中ずっと九州説と名無しで戦ってたんで疲れた。 このスレはそういう趣旨じゃないようだから、できるだけ紀記や神話学などをやろうと思って る。須佐之男命や高天原が実在というのは、まあトンデモだよね。
293 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 12:33:47
>>289 内行花文鏡なら全国で出土してるね
近畿はもちろん、飛び越えて東海・北陸、関東でも出てるし
新潟佐渡やさらに東北の福島、山形まで。
後漢鏡は他にもいろいろあるが、なぜに内行花文? 卑弥呼の鏡については、魏が蛮夷の国に威儀を示すためのものとして、雑多な種類の鏡 を渡したものだろうか。 >國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり から考えて、同型鏡(同笵でない)をビシッと渡した気がする。これは三角縁神獣鏡特鋳説 のことを言ってるんでなくて。
内行花文鏡と言えば、大和古墳群の下池山古墳。 古墳時代初期の90m級の前方後方墳。 40cm弱、5kg弱(でかすぎ!)の内行花文鏡が石室隣接の小石室から。
下池山は120mくらいあったと思う。その内行花文は国産といわれていて、正式には 四葉座鈕雲雷文帯連弧文鏡・・・呪文だねまるで。鏡もそうだが、袋は毛織物と真綿、 絹織物などが検出さ、確か絹織物は倭文(しず・しどり)といって騒がれた気がするが 俺的にはなんとも。鏡の現物は非常に美しいものだね。 大型鏡は三種の神器の一つ、の鏡との関連が指摘されるが、咫は長さの単位で、 八咫で45cmくらい?
検出され、 八咫の鏡との関連・・・ スマソ。
一咫=18cm
>>292 スサノオ実在はトンデモだが
高天原は実在はトンデモではない。
なぜなら、京都朝廷が高天原=葛木としていたから。
300 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 19:06:48
>八咫で45cmくらい? バカを言うな 45cm*3.14≒140cm この位の数字になる ホ38100 オウスミコ ミノにいたりて スガタみて ひそかにめしつ とゝまりて カエコトなさす コトシソヒ タケはヤタなり ホ16347 タケヤタは ヤソヨロオノコ オンタケぞ 大碓、11才の身長 女子の身長
>>300 すんません。よく知らないんで?をつけてる。ところで、須佐之男命はじめ出雲神話には暗い
死の影が色濃く感じられるんですが、どうしてですか。
>>300 もひとつ質問 18cm(1尺×0.8)×8=146cm・・・円周(八咫)
146÷3,14=約46cm・・・直径 と考えたんですが違いますか。
考古学では直径45cmくらいのものを八咫の鏡ということが多いんで。
303 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 21:39:33
咫=尺 巾3尺厚さ1尺5寸の踏み石の上で踊る景行 54cm位なら丁度良い。 生きた須佐之男命を見たければ、ホツマ。
邪馬台国は纏向に決まってる訳だが、 九州説の人達が投了前の悪あがきで、一番扱いにくい日向説を持ち出して暴れてる。 やっつけて来て。
>>303 すみません、また意味がわかりません。景行帝の >御佩刀の八咫の劒 のことかと
思いますが、倭建命は身長一丈といわれるし、単に大きい人だったんじゃないですか。
どっかに身長書いてましたっけ?
306 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 22:26:08
「論争に終止符」となるのは具体的にとういう状況が考えられるのか?今の時点では九州・畿内の何れかと さえ断定できない。 仮にそうだとして、お互いどうなれば敗北を認めるのか聞いてみたい。 九州から「親魏倭王」金印が出れば機内説論者はほぼ認めるだろう。しかし、大和で出てたとしても九州説 論者の多くは 「大和朝廷へ財宝として持ち込まれた」とでも言い、意地でも認めようとはしないだろう。 山陽や出雲等、九州以東から「投馬国」の位置を確定する印もしくは木簡でも出ない限り、認める筈もない。 相手側も認めることが条件なら、畿内説で終止符を打つのは極めて困難。
307 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 22:38:43
其野有石。長六尺。廣三尺。厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得滅土蜘蛛者。將蹶茲石。如柏葉而擧焉。因蹶之。則如柏上於大虚。故號其石曰蹈石也。 是時祷神。則志我神。直入物部神。直入中臣神三神矣。 ●『日本書紀』巻七景行天皇十二年(壬午八二)十一月◆十一月。到日向國。起行宮以居之。是謂高屋宮。
308 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 22:45:52
私がこの石を”卑弥呼”だ と言っているのを読んで無いのか?
>>307 別に身長一丈でもお祈りできるような??「3尺の石」のことなら納得できません。
>>306 俺は考古学を勉強していて、実は考古学は邪馬台国をつきとめるためのツールではなくて
上に箸のことを書いたが、土器はもちろん、櫛やら鏡やら住居の構造などから3世紀なら
3世紀の人々の生活を明らかにすることが目的だと思う。だから、信頼できる根拠が出る
なら九州であってもかまわない。そのほうが3世紀の地政学的状況が明らかになるわけ
だし。他の人のことは知らない。
310 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 23:08:47
巾3尺の石から卑弥呼 ホ38168はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ カエもふで 母身体熱さ1度息 皇祈り飛び上がる 故住吉治り神 両刃の社新に建て 之祀らしむ 代え詣 此だけでは弱いので景行の歌も一緒に。 ホ38221 カンココロ かくぞをぼして カミまつリ ミヤコのソラを ながむミウタに はしきよし ワキべのカタゆ クモいたち クモはヤマトの クニのマホ またたなびくは アヲカキの ヤマもこもれる ヤマシロは イノチのまそよ けむひせば タタミコヲモエ クノヤマの シラカシがヱを ウスにさせこのコ 最後だけ訳す 只皇女思え クの山の 白樫が枝を うずに挿せこの子 見解の相違がある、次からは考古学に合わせます。
311 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 23:24:20
>九州説の立場だが。近畿地方で3世紀の出土品として中国製品(確定しているもの)や倭人伝に記述のあるもの(矛など)が, 九州より多く出土すれば近畿説も認めれれるけど。金印にしても3世紀の出土品として出れば認めるけど。とにかく中国に朝貢 した確実な証拠が出れば認められるが。
312 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 00:49:38
八咫鏡は直径20cm位で唐文様があって真ん中に紐を通す穴があいていると 鏡の袋を交換した人が言っている。まさか、玉璧ではないでしょうな?
伊勢神宮の内宮にあるといわれるものですか?
314 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 07:52:23
>>306 畿内説は、「倭人伝は無視する」と言わなければ成立しない説。そんな説が皆に
認められるはずはない。
今までは、畿内説も北九州説も「倭人伝はそのままでは絶対に現実の地理と矛盾
する」という前提で、方角がちがうとか距離がちがうと、言ってきた。
倭人伝を読み替えるのはお互い様だということだったんだね。しかし、南九州説
がでて、倭人伝はそのままに読んで読める、それが行程としては一番合理的だと
いうことに気づかされた。今後は南九州説を無視することはできない。徐々に妄
説は消えていくよ。
315 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 08:01:16
一つのポイントは、伊都国はこれまで怡土とするのが多数だったが、ちょっと考えれば それがおかしいことはすぐに分かるという点だ。怡土へ行くのに、何で船を降りるんだ? 怡土から南へ水行できるか? それから、もう一つのポイントは、万二千余里でたどり着くのは女王国。邪馬台国では ないということだ。女王国の境界が尽きるところは南の奴国の先だ。 そこをきっちり押さえれば、今までの大ざっぱな読み方がまちがいだということはすぐに 理解できるはず。人間、そう馬鹿ばかりではないだろうからな。
316 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 09:41:50
・ ・ ・ ・ 烏奴国(次に) ・ 伊都国 ・ ・(次に) ↓ \(東南100里) ・ ↓ 奴国 ・(次に) ↓ ↓(女王の境界) ・ ↓ ↓ ・ ↓ 狗奴国(その南に) ・ ↓ ・(次に) ↓ ・ ↓→→ 己百支国(次に) ↓ ↓ ・ ↓ →→ 斯馬国(次に) ↓ ↓ ↑(女王国より以北は略載) ↓ →→→邪馬壹国 ↓ (南に水行十日・陸行一月) ↓ 投馬国(南に水行二十日) こんなかんじかな?
318 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 10:42:34
万二千余里は、女王国の北の境界だよ。奴国は北九州の大国の奴国と南の旁国の 奴国と二つだ。女王国の南の境界は南の奴国の先。狗奴国はそれよりも更に南。 しかし、狗奴国は、道里戸数が書かれていない、官も一人の旁国にすぎない。 狗奴国を大国と思い込んでいたのがまちがいなんだな。 卑弥呼が魏に狗奴国とのことを訴えたのは、狗奴国が強いからではなく、狗奴 国を討伐するための準備にすぎないんだよ。 魏に対する朝貢国同士で戦うのは本来御法度なんだ。まず、狗奴国があれこれ 仕掛けてきて困っていると知らせた上で、魏の檄にも従わないのでやむなく討 伐しましたと弁解する。そのための訴えだ。
319 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 10:45:10
>>317 どこが無理かな? 具体的に言わなければ分からんな。
勝手に1日の水行距離はこうだとか陸行距離はこうだなどとは言うなよ。
どこにもそれは書いてないんだから。
>>314 あほうかよ。
南九州説ですら、倭人伝では読めん。
倭人伝を正確に読んだら、日本列島を飛び越えて
太平洋の海のかなた。
>>306 うんなことは〜ない。
九州説が終了するのは
邪馬台国九州説で商売してきた人たちが
それで金儲けできなくなくなったとき。
いまや邪馬台国九州説は、完全にビジネス化している。
が、それも、ようやく終焉にむかいつつある。
あとは、安本さんとか、これで商売してきた人たちが
鬼籍に入るような時代がきたら、自然と九州説は全滅する。
少なくとも、学者の世界では、九州説論者は殆どいなく、
いても、年配の年寄りだらけ。
どう読んだら邪馬台国と女王国が別だといえるわけ?
323 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 12:49:52
さよなら九州
324 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 14:15:17
>319に同意します。
325 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/28(土) 18:00:36
>>322 倭女王と倭王をちゃんと別人として読む。
326 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 18:18:04
>>322 何よりも表記がちがうじゃないか。同じならば同じ表記を用いるはず。少なくとも、
一度は邪馬台国乃ち女王国などと書くはずだ。
それに、女王国は伊都国からせいぜい千五百里にある。一方、邪馬台国は水行十日
陸行1月だ。千五百里に水行十日陸行1月もかかるとは思えない。
そして、南の奴国が女王の境界の尽きるところと示されている。ということは、奴
国は女王国の内にある国だということになる。女王国は邪馬台国に従う旁国を含む
概念であると判断できる。そうやってあれこれ考えていくと、女王国というのは邪
馬台国+投馬国+旁国ということが分かってくる。
327 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 18:21:13
>>320 >倭人伝を正確に読んだら、日本列島を飛び越えて太平洋の海のかなた。
そんなことはないな。おそらく、「正確」な読み方を知らんのだろう。
北九州説ほど訳のわからない説は無い。 魏志倭人伝の方角を変え、距離を縮め、放射説を編み出し、 無理やり自分の支持する場所に比定する。 それにしても放射説はいただけない、 投馬国の位置「女王国より以北」が矛盾する。 純粋に邪馬台国までの行程を記したものだと思う。 水行20日で出雲、水行10日、陸行1月で纏向。これで正解だ。
329 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 18:44:28
>>328 >投馬国の位置「女王国より以北」が矛盾する。
投馬国が女王国より以北だって言いたいのかな。しかし、そう読んだら、伊都国にいる
一大率がそこから水行二十日もかかる投馬国、しかも5万戸の大国投馬国を検察してい
たということになる。それはおかしいだろう?
先に述べたように投馬国は女王国に入るんだ。だから、女王国以北というのは、不弥国
までの国々のこと。何も矛盾しないんだよ。
330 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 18:47:50
南北でも西でもない「東遷」神話はでかいよね。
331 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/28(土) 18:48:45
邪馬台国を大和に比定するのは簡単だが 卑弥呼が居た宮城を大和にすることが出来ない。 何故ならば、倭国大乱 暦年主無し 以て卑弥呼を立てる。 暦年主無しの大乱を書紀から探すと神功以降になり、時代が違う。
332 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 19:06:07
「卑彌呼」なんつーのは一般的な名称だわな。 数多く割拠した中のまぁ一番大きい国の女王というだけ。 大和王権、大王家と直接繋がらなくても何の問題もないな。
333 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 19:41:39
スサノヲは、帥升だろ
334 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 20:09:54
朱儒はルソン島。小人族ネグリトがいる
335 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 20:21:21
336 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/28(土) 20:56:15
山城、三輪、葛城 これに大和 何処にも「大乱」が想定出来ない。
日向から来た神武です、私が橿原に邪馬台国を作りました。 途中で宇佐と吉備によって来ました。 関西の人、よろしくですたい。
338 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 21:50:57
>よろしくですたい それ博多弁とか熊本んほうのなまりじゃが 日向はそんげな言葉は使わん
339 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 22:36:47
>>336 2代以来大王家の葛城と三輪が覇権を争い大乱。
三輪が大王、葛城家の巫女を日巫女にすることで折り合いをつける。
日巫女の死去後に山城武埴安彦命と内乱。死者を静めるために再び日巫女をおいた
340 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 22:46:01
投馬国、狗奴国の比定地は? 邪馬台国が畿内なら鞆の浦、桑名あたりか…
>>340 投馬国=ヅマ国=出雲国
狗奴国=コノ国=許乃国
342 :
日本@名無史さん :2009/03/28(土) 23:00:57
投馬=広島 狗奴=和歌山
343 :
ローガン :2009/03/28(土) 23:04:34
>>337 > 関西の人、よろしくですたい。
よう来たの〜 ちゃあでもしばこか? きてまなしやけど 吉備からきためんたの王さんが纏向ちゅうとこにおるからわえ、ちょう仁義きっとき。
他スレで「犬のマネしてワンワン」など口汚い言葉を使ったので、ちょっと反省。
>>343 意味わからんよ〜。ww
ローガン氏、明治生まれ?ww
346 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 00:54:59
>>343 を訳しておこうwwwwwww
良くおいでなさいました。お茶でも飲みますか?
来て早々ですが吉備から来た女王が纏向と言うところにいますので
ちょっとご挨拶しておいた方がいいですよ。
まあ今時こんなコテコテの関西弁余程の高齢者でも使う奴いない。
・・・しかし吉備から来た女王と言うのは?
347 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 01:29:36
>>343 大和・河内弁の私が言おう。
そんなんちゃうわ。
河内弁なら最初は よう来たのう、われ〜 になるはず・・・
349 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 02:23:17
一応、奈良南部や河内泉州だとこうです。 「アホかワレ、何しに来てん?茶飲みに来んかい(笑顔で)」 俺、奈良南部出身なんで多分間違いないかと。 親しい間であればあるほど、 アホを使いますね(笑) アホの五段活用(笑)
アホと言われても笑っていられるが 馬鹿と言われればマジ切れするのが関西人w
A「おい、あれチャウチャウとちゃう?」 B「ちゃうちゃう、チャウチャウとちゃうんちゃう?」
352 :
ローガン :2009/03/29(日) 09:13:14
>>346 >
>>343 を訳しておこうwwwwwww
恐れ入ります
> ・・・しかし吉備から来た女王と言うのは?
吉備で発達した墳頂祭祀(サイシ)アイテムである宮山型が本家の吉備には一例、大和では今のところ4例…
しかも大和では箸墓、西殿塚といった初期の巨大墳墓からの出土。しかし翻って、名祖遺跡となった宮山といえば、ごく小規模のもの。
「首長埋葬祭祀に使うものとして吉備で発達してきたはずの特殊器台の宮山型が大和の大古墳にあり、吉備では小前方後円墳にしか知られていない。
宮山の尾根の集合墓地に墳長約38mの小前方後円墳を築き宮山型特殊器台をもって祀られた宮山古墳の主は、吉備の大首長ではないかもしれませんし、とうていそうは考えられないでしょう。
とすると、その時吉備の大首長はどこでなにをしていたのか。」
は近藤義郎氏の弁。箸墓に祀られた初代倭王は吉備出身か?
纏向遺跡というと、何故邪馬台国の話しか出てこないのだろう? ウィキペディアでも説明されているように、遺跡の名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。 年代はさておき、記紀の正しさを裏付ける遺跡というべきで、卑彌呼などは二の次だと思うが・・・
纏向遺跡は二世紀末に突然あらわれ、四世紀中頃に突然消滅したといわれます。 二世紀末は崇神天皇よりやや早いが、欠史八代に頻出する「磯城県主」に当たるように思われる。 四世紀中頃消滅というのは、景行天皇の末に突然近江に遷都、成務・仲哀・神功初期まで大和を離れていた記事と符合しそう。 ホツマはよく分からないが、もっと記紀を見直そう。
355 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/29(日) 11:24:22
>>339 鉄鏃の出土状況から大和に大乱(下克上を伴う戦)は認められない。
石鏃でも良い出土物から”戦”を描いてくれ。
侏儒=ネグリトか? ウィキペディアによると ネグリト (Negrito) とは東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。 身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。 マレー語ではオラン・アスリ(orang asli)、すなわち「もとからいた人」と言う。 フィリピンでは、現在のマレー系の民族が舟で到来する前の先住民とされる。
357 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/29(日) 12:04:36
纏向遺跡の各地の土器は、崇神11年異族多帰の結果 2世紀末。 4世紀中葉は、神功時代 首都機能が河内、難波方面へ移動した結果。 この首都機能移転の直前に造られたのが「箸墓」ではないか? 侏儒は前漢時代の青島の郡名。人種的には知りません。
358 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 13:19:13
>>355 下克上にしたがるのはなぜ?
国と国の争いに上も下もないが?
当時の天皇なんて
そんなに有り難い存在では無いんだし。
神社って霊や鬼を静めるための建物ですよ。
奈良にいくつ神社あるとお思いか?
>>355 > 大乱(下克上を伴う戦)
意味わからんよなw
360 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 13:38:29
>>355 山城の祝園にはいろいろありまっせ。
調べてみなはれ。
361 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 13:48:15
チョロ松の人気に噴いた
>>172 >280年頃には新羅と百済により(楽浪?半島?)南部の大部分支配されていた。梁書に書かれていたと思う
?『梁書』百済伝
「其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。」
「晉世」とあるだけで、場所も「遼西」違うようですが?
『梁書』新羅伝
「魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。」
新羅は小国で、521年に百済に連れられて初めて朝貢とあります。
「王姓募名秦」これも新羅本紀と合わない。
福岡県前原市上町遺跡から素環頭大刀(全長120cm=五尺刀?)が出土しているらしいが、これは九州説の証拠になるか?
364 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/29(日) 15:25:34
国と国の争いなら本場大陸に幾らでも有ること その魏国で”大乱”と記録された、例えば本場でなら五斗米道等が天下を取ったら これが”大乱”。 国と国の戦の場合に”禅譲”と云う手で政権交代を行うのが彼方の手法。
365 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 17:02:21
五尺刀はニ口だっけ?本物なら凄いが
367 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 18:59:40
魏の1尺は24cm?
369 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 20:03:53
縦目さんありがとう
370 :
日本@名無史さん :2009/03/29(日) 20:39:12
372 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 07:08:19
373 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 07:39:26
五尺刀が短剣になっちゃうね
374 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 10:39:59
オリハルコンの短剣
375 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 12:41:48
東大寺山の後漢中平刀は畿内説の証拠?
376 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/30(月) 13:19:59
>>372 >短里の一尺は何センチになるの?
里(土地の大きさを測る単位)と尺(身の回りのものの大きさを測る単位)は別系統の単位。
1里を70mとすれば、1歩は23.3cm。
1里を75m説をとれば、1歩は25cm。
1歩を22.8cmとすれば、1里は68.5m。
換算HPによると、
戦国、秦、前漢、新の尺が23.1cmであるので、
よく似た長さ故に混乱が起きているいるのでは?
ちなみに、換算HPの殷の尺は15.8cm。
晋書によると、古代周の時代から尺の長さは少しずつのび気味であり、これは測量などより、 儀式に用いる笛の音律が変わる(えと、長くなると・・・低くなる?)のが問題で、武帝(司馬炎) が泰始9(273)年に臣下に命じて、古物をもとに古来の正統尺の復元を試み、これで、魏の約 24cmから、周時代の23cmにもどしたのが晋前尺となっている。上のHPはごく一般的なもの で、特に区別してない。まあ、周尺自体諸説あるものだし。 隋書の「律暦志」が信じられるものとするとこんな感じ、これ以上は専門外なので不明。 周尺,後漢建武銅尺,晉前尺 23 cm 田父玉尺,梁法尺 23.16 梁表尺 23.51 漢官尺,始平銅尺 23.71 魏尺 24.08 晉後尺 24.43
続き・・・コピペうまくいかん。 律暦志は中国史書の一分野で楽律と天文暦法が主だが度量衡もわかる。漢書が最初? 専門家が来たようなんで、魏晋朝短里説または地域的短里説を語ってもらえそうだ。
379 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 20:01:07
短里ね〜〜
380 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 20:49:54
>>376 1里を何故70mや75mと、例えなければならないの?
381 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 20:50:11
中平は光和の後、倭国乱と関係あり?
382 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 21:45:32
>>41 出雲と倭が合併ということは倭は吉備なんかな?
出雲吉備連合が大和に国を作ったのが大和朝廷?
>>381 あると思う。中平は後漢の霊帝(劉宏)の最後の年号で、〜189年、倭国乱が終結して、
卑弥呼が共立されたあたり。卑弥呼の即位の記念?に下賜されたとする説もある。
ただし近畿説が有利になるかというとそうでもなく、出たのは東大寺山という卑弥呼の時代
からは はるかに新しい古墳で、それも他の30本近い鉄剣・鉄刀に混じってた。そこで、
@ 近畿の邪馬台国がもらい、そのまま長い間伝世して副葬品となった。
A 九州の邪馬台国がもらい、それを近畿の大和朝廷が奪い去った。
B 九州の邪馬台国がもらい、東遷して近畿に持ってきた。 C まだ何かあっかね?
考古資料だけではいう気になればなんとでもいえる・・・という好例。俺はまあ@
>>376 「周髀算経」自体は読んでないが、古田・谷本氏の共著は読んだ。これ、中国では
どう考えられてるんだ?
384 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 22:02:49
大和が出雲と吉備を支配下に置いていた、もしくは協力関係にあったはず。 でなければ瀬戸内海は通れない。 景行の九州征伐が出来なくなる。
385 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 23:24:52
383 開化天皇の都やワニ氏の本拠ですね。近畿伝世かな
386 :
サガミハラハラ :2009/03/30(月) 23:38:02
新唐書日本伝に次のようにある。 日本は古の倭奴である。京師(都)を去ること1万4千里である。新羅の東南にあたる。海中にある島にすむ。東西は 5月の行程であり、南北は3月の行程である。 この1万4千里の距離のことである。 まず、倭人伝の世界では、帯方郡から倭の都まで、1万2千余里とある。 この1万4千里は、1万2千里に2千里をくわえたものであるらしい。 つまり、中国では倭国までは1万2千里というのが通説であったようなのである。 それではくわえられた2千里とは、北部九州の倭からその後の倭の都(大和あすか)までの距離である。 つまり、この時代には倭国の首都が九州から大和に移動していたことをあらわしているものである。 大和飛鳥から、北部九州までざっと800kmである。1里400mとみられる。 隋唐の時代からは1里500m以上となるが、この計測は隋代前の単位で計測されたものである。(おそらく大和朝廷が晋代までの1里400mをもちいた。) つまり、この1万4千里とは、通説の1万2千里に大和朝廷が計測した北部九州から大和飛鳥までの距離をそのまま合計したものである。 つまり木に竹を継いだようなものとなったのである。
一万二千里→一万四千里の解釈としては納得できないこともないのですが、一万二千里 の終点が北九州として、倭人伝のこの記述は? >その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。
388 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 00:04:45
>386 2千里は長安から帯方郡までの距離じゃないの? 邪馬台国が東遷とはいえないと思うが。ただし,日本列島が 南へ伸びていないこと,九州内で「水行・・」が収まること を示していると思うけど。
>>388 シーッ。
そんなあからさまに指摘しちゃお気の毒ですよw
390 :
サガミハラハラ :2009/03/31(火) 00:35:38
新唐書ですから、唐代のことをかいています。 唐代にはすでに大和朝廷(推古天皇)です。
391 :
ローガン :2009/03/31(火) 01:00:21
>>391 そんなあからさまに説明しちゃw
御本人だって気づいた上で判らない振りを(ry
393 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 02:14:44
たぶん、本人は気づいてないよ。思いついたら見直しはしない人だから・・・
394 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 02:22:25
>>376 1里は300歩ということかな。その根拠は?
395 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 03:11:57
中国出土品による魏の骨尺の寸法は23・8cmです。 1間(歩)=6尺=1・428m。1町=60間(歩)=85・68m。 条里制の1里=6町=514・08m。条坊制の1里=4町=342・72m。 魏の使節は都市の役人だから条坊制の1里=342・72mを使用した。 つまり、1里は京都の三条通から四条通までの距離です。
俺的基本スタンスは、「倭人伝とても全面的には信じがたし」なんだけど、里程距離の >又南に一海を渡ること千余里〜〜一大國に至る。 >又一海を渡ること千余里、末盧國に至る (もちろん末盧ー伊都とかも) で、対馬ー壱岐なら、出発地をどこにとるかでだいぶ違うけど50〜100km、壱岐ー末盧 間 は到着地を唐津としても呼子としても50km程度。それを1000余里とすれば、1里50m 〜100mとなって、これが短里説の根拠となってる。俺的には伝聞に基づいた誤謬でいんだ けど、それだと議論にならないんで・・・・ 魏晋朝短里説・・・については「日本計量史学会」篠原俊次氏の研究を読むかぎりとてもムリ。 地域的短里説・・・魏書東夷伝の「倭人伝、韓伝」あたりのみ特別な短里で記述されていると する。 どうなんすかね。
続き ちなみに、誰でも知ってると思うけど日時換算説・・・「唐六典」では、 >およそ行程は、馬は日に70里、歩および驢(ろ)は50里、車は30里。その水程は、重船の 流を遡るに は、河(黄河)は日に30里、江(揚子江)は40里、余水(その他の河川)は45里。 空船にては、河は40里、江は50里、余は60里。重船・空船の流れ に順うには、河は日に 150里、江は100里、余水は70里。 (残念ながら海の記述はない) 資料は新しいが、魏晋と唐で馬匹や船舶の性能はそう変わらないともいえる。 あと、謝銘仁氏「邪馬台国・中国人はこう読む」中の説 海路・・・航行距離を測るために線香や水時計を用い、線香を焚いて、その消費した本数や 残る長さで時間を計っていた。 陸路・・・ 「亭」「置」「伝」は一里塚のように一定距離ごとに目印の樹木や施設が置かれた もので、陸路を行く場合は、その数で道のりを求めていた。
>>394 1里=300里の根拠だと
とりあえず『宋史』輿服志の記里鼓車の記事が出てきた。
「以古法六尺為歩、三百歩為里、用較今法五尺為里、三百六十歩為里」
他にも探せば出てくるのでは。
399 :
サガミハラハラ :2009/03/31(火) 13:43:54
私もこの増えた2千里は長安から帯方郡(京城)までの距離と考えた。しかし、長安〜京城までは最短(海上行)で1800kmはある。 唐代の1里は559.8mであるから、1800kmはざっと3210里である。そうなると、一万二千里に長安〜京城間の3210里をくわえるとざっと一万五千里とならねばならない。 それが一万四千里であるということは、この増加分は長安京城間の距離ではないということになる。 ところが、北部九州から大和飛鳥までは580kmであり、後漢尺では(414m)1400里ぐらいとなる。600里足りないこととなる。 普通はここで分からないと放り出すものであるが、私はいいだしたらきかない人間なものでさらにしつこく追及をはじめるわけです。 問題は、大和朝廷の支配範囲である。当時(計測した時代のこと)日本(大和朝廷の支配する地域のこと)は、西は半島南部の加羅をもその支配下においていたのであるから、 加羅から大和飛鳥までの距離であったとも考えられる。(すでに任那日本府は失っていたが、それでも主権を主張していた) 加羅から大和飛鳥までの距離をみてみると、海峡部はざっと250kmであるから、合計830kmとなる。 580qに250qをくわえた830kmを後漢尺の414mで割ると、二千里となる。これでぴったりである。 これで、新唐書の一万四千里は通説の倭の都までの一万二千里にあらたな首都である大和飛鳥までの二千里をくわえたものであることがわかった。 この付加された2千里は大和朝廷の計測であり、中国人は単純に足し算をしてしまったようなのである。(そのままでは一部重なり合うことに気づかなかった。) つまりこれは、唐の時代には、倭は日本(大和朝廷)に併合されて、ずっと東方の大和飛鳥に都が移っていることを中国人は認識していたことを証明するものでもある。
400 :
日本@名無史さん :2009/03/31(火) 14:59:56
九州王朝説完全崩壊というわけですか。
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命 で決まり。 以上です。
モモソヒメは王じゃないじゃん。
>>403 卑弥呼は天皇家の人間。
第七代目の孝霊天皇の皇女であるヤマトトトヒモモソ媛命で決まり。
天皇家が隠したかったこと。
↓
古代の日本では、祭祀王の世俗王の二人の王がいる並立体制があって
これ古事記を編纂した時代では、
一人の天皇を頂点した律令体制だったので、それが問題になった。
また、倭国大乱(卑弥呼擁立の切欠)以前では
この祭祀王と世俗王は、別々の王統からそれぞれ即位していて、
世俗王の家系が、祭祀王と世俗王の両方を独占しようとしたために
倭国大乱が勃発し、結局、世俗王のほうが祭祀王の地位まで独占してしまった。
それが卑弥呼共立であり
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(神武皇統7代目・孝霊天皇の皇女)だった。
つまり、世俗王の家系とはニニギ命の後胤である神武皇統(今の天皇家)
祭祀王の家系とは火明命の後胤たちで、その嫡流は後に尾張氏を名乗った。
つまり、両者ももとは兄弟から別れた家系だった。
>>403 卑弥呼=モモソ媛命は祭祀王。イニエ命(崇神天皇)は世俗王。
形式的には、祭祀王>世俗王で、
魏志倭人伝に書かれている倭王とは、祭祀王のほうだった。
欠史八代の頃は、祭祀王と世俗王の並立体制で
祭祀王のほうを火明命の後胤、
世俗王のほうをニニギ命の後胤(神武皇統=現・皇室の先祖)
の二頭体制だった。
しかし、世俗王の家系だった神武皇統が、祭祀王の地位まで独占しようとした。
そのために、倭国大乱が勃発し、神武皇統が勝利し、
結局、神武皇統からモモソ媛命(卑弥呼)を祭祀王として擁立された。
その後、モモソ媛命の死後は、豊鍬入姫命(トヨ)が祭祀のトップにあったので、
まだ幼かったので、当分の間は、イニエ命(崇神天皇)が
祭祀王と世俗王の両方を兼任するようになったと思われる。
その後、彼女が祭祀王となったが、結局は伊勢神宮の斎宮制度がひかれ
神武皇統の当主が、祭祀王と世俗王の両方を一人で兼任する形になった。
406 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/31(火) 18:58:25
>>405 >卑弥呼=モモソ媛命は祭祀王。イニエ命(崇神天皇)は世俗王。
>形式的には、祭祀王>世俗王で、
>魏志倭人伝に書かれている倭王とは、祭祀王のほうだった。
以下の王は全て世俗王でしょうね。
讃・珍・済・興・武
磐井
多利思北孤
薩野馬
祭祀王としては女性しか見つからないのですが、
卑彌呼
薩末比売
>>403 俺は畿内説だが、今まで全く気にしてなかった。
無理にこじつけるのは好きじゃないので、
日女命(大倭姫)を押すことにしよう。あんまり代り映えしないか・・・
豊鍬入姫命→倭姫命のあたりで斎王の権威は形骸化したのかもしれないが、このあたりは ちょっとわからないな。
当時の距離については、以前プラム(河童虫)が 散々弄っていたじゃない。
美濃もん太君来ないかな。あのカキコの速さと量にはついていけんだろうが。
411 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/31(火) 23:15:50
>>405 >卑弥呼=モモソ媛命は祭祀王。イニエ命(崇神天皇)は世俗王。
>形式的には、祭祀王>世俗王で、
>魏志倭人伝に書かれている倭王とは、祭祀王のほうだった。
以下の王は全て世俗王でしょうね。
帥升
讃・珍・済・興・武
磐井
多利思北孤
薩野馬
祭祀王としては女性しか見つからないのですが、
卑彌呼
薩末比売
卑弥弓呼 (忘れていた、男王もいた。)
隋書の「日が出るまでが兄で、 日が出てからは弟」の記述、 天智天皇の即位の経緯を考えると、 記紀では中国風に男王系列でごまかしてあるけど、 実際は祭祀王が続いていた可能性もあると思う。 記紀成立に近い時代に多いのは、 最近のことなのでさすがにごまかしようなかったのでは。
→近い時代に女性天皇が多いのは
414 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 02:24:00
>>412 最後の祭祀王である女性天皇は薩末比売。
薩末比売は700年6月に処罰を受け(廃帝)、
翌年文武が畿内王朝の正式な初代天皇となり大宝を建元する。
415 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 06:38:34
>最後の祭祀王である女性天皇は薩末比売。 九州王朝って北九州説じゃなかったのか? 宗旨替えしたかな。
416 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 13:30:40
九州王朝(笑)
417 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 13:31:57
>>415 九州王朝は北九州筑紫平野がその中心地ですが。
薩末比売でなにか矛盾があるのですか?
最後に薩摩で抗戦したので薩末比売と畿内王朝側にいわれたのでは?
薩末比売が薩摩出身との説もありますよ。(大宮姫伝説)
418 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 13:38:08
巣にカエレ
継体の後、尾張系の妃との間の天皇が二人、安閑と宣化、 その後、仁賢天皇の皇女の間の欽明、 欽明と蘇我堅塩媛の間に出来た推古から称徳までの 女性天皇にまつわる話は怪しい話が多すぎ。 大和に帰ってきて地方豪族との血縁が強くなって、 女系が強くなった印象を受ける。
>>417 「周髀算経」の「一寸千里の法」は球面幾何学を取り入れてはいないが、古代の三角測量
法としては納得できるものだ。これによって中国では、周代の短里の存在は肯定されて
いるのか?知ってたら教えてくれ。
421 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 20:11:39
時じくの香の木がオリーブとは面白い。タジマモリは晋への使者で、五胡の乱に巻き込まれたのか?
422 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/04/01(水) 20:47:43
>>420 中国人が認識している内容は知りません。
423 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 21:48:05
魏使の九州上陸は、 釜山⇒対馬 南千里 対馬⇒壱岐 南千里 壱岐⇒ ?千里 からして博多と見るのが妥当でしょう 海流を考えても東に上陸する方が楽 上陸後も東の方角へ使者は進みます
>>422 どうもです。まあ、「韓伝・倭人伝」の部分の地域的短里はあっても不思議ないですね。
ところで、非時香菓=バナナ説もあるね。うろ覚えだが「房八房」がたくさん実のついてたれ
下がったので、「矛八矛」が上向きになる一本立ちのバナナだったか・・・。
あと、上に書いた 「幢=節(古代中国で、皇帝より与えられた特権?節のある竹形?)=
三角縁神獣鏡の傘松文様」 というのは、九州派の奥野正男氏の説で、このHPが詳しい。
http://yamataikoku.hp.infoseek.co.jp/13.htm
425 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 22:13:15
426 :
日本@名無史さん :2009/04/01(水) 23:12:04
バナナはすぐ腐るから違うよ
427 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 00:28:29
磯城県主葉江が一番怪しい人物です。「カ」ではなく「ハエ」です。
428 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 01:45:29
>>404 倭人伝には、卑弥呼のことしか書かれていない。
魏に遣使するのも女王。
魏からの賜り物も、詔書も、親魏倭王の金印も卑弥呼に向けられている。
難升米は時々登場して重要な役割を果たすが、これは「大夫」と明記されて
いて、要するに家来。
今風に言えば、明らかに卑弥呼が国家元首ということになる。
弟のことも書かれているが、極めて影が薄く、郡使との交流は全くない。
一方で、記紀の崇神天皇は、主役であり、いろんな判断、行動をする。
倭迹迹日百襲姫は単にご信託を述べるだけにとどまる。
卑弥呼と倭迹迹日百襲姫を同一視するのは無理がある。
卑弥呼の時代は、世襲制が芽生えていたとは言えないし、
普通に解釈すれば、卑弥呼の時代は、皇室の誕生以前のことだろう。
やはり、天照大神がぴったりだと思う。
>>420 中国の歴史教科書では赤壁の戦いの叙述のところで、三国志の『二里余』という
記述が引用され、「船に火をつけて放った地点が現代の1里=500メートルでは1キロ先
からとなる。古代の里はもっと短かった」というような注釈がついている、と
古田武彦が著書『よみがえる九州王朝』で書いている。
431 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 09:11:41
記紀ではタジマモリ以前に遣使記事はない。
432 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 11:18:16
記紀を読むと、天照大神より前の記憶はなかったというのがうかがえる。 いきなり、イザナギ・イザナミで国生みの世界だから。 しかし、天照大神以後はかなり現実味を帯びてくる。 ただ、天照大神の生誕に関しては、イザナギノミコトが禊をし、 左目を洗ったときに生まれたとなっているから、これは現実味がない。 つまり、天照大神の途中からの記憶あるいは伝承があったと考えられる。 具体的には、素戔鳴尊との争いに相当する出来事があった頃から。
>>425 実際に政務を行っていたと思われる人が天皇にはならず、
女性天皇のままだったり、(中大兄皇子、聖徳太子、蘇我入鹿)
女性天皇が代をまたいで二回天皇になって漢風諡号を二つ持っていたり。
称徳天皇即位の経緯など。たまたま適任がいないから女性という感じではない。
>>433 その時期は
聖徳太子と馬子、中大兄と入鹿
のように対立者がおり、男より操りやすい女性を立てただけ。
435 :
日本@名無史さん :2009/04/02(木) 23:52:17
記紀における天照大神がいったい誰なのかというのも重要だが、高皇産霊尊が 誰なのかも重要だろう。日本書紀では、高皇産霊尊を皇祖と書いている。 天照大神が天岩戸から出ると、突然登場し、重要な出来事を主導し、 皇祖とされる高皇産霊尊。 天照大神を卑弥呼+台与とし、台与のときに王になったいわゆる「男王」を 高皇産霊尊とすれば、納得がいく。 記紀において、天照大神と高皇産霊尊の並立する状況と、梁書などにある 「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」は酷似する。
>434 聖徳太子と馬子が対立していた記録はないのだが。
437 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 00:34:35
卑弥呼はその辺の暇そうなばあさんだよ。 そういう馬の骨なので情報が残らなか買ったのだろう
438 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 00:46:02
うちの主人が新宿西口の占いで前世は卑弥呼って言われてた
439 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 01:00:13
>>436 聖徳太子=馬子だから対立するはずはないよね。
440 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 01:04:37
>>435 >其後復立男王、並受中國爵命
男王は、後の倭王讃の事だろう
爵命とは蛮国の王の場合、子爵の位を与えられる
斉明天皇の即位は、入鹿を殺してからかなり時間がたった、 孝徳天皇崩御の後だよ。斉明天皇崩御の後も称制だし。
442 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 02:54:55
記紀の神話を見たら アマテラスまでは、本当に神話世界の話で 子孫の作り方も、普通の人間とは違うし (イザナミとイザナギの兄妹の性交に関しては、人間ぽいが...) 天岩戸とか、あれって皆既日食というよりも、 冬至と夏至のことを言っているように思う。 そんなわけで、アマテラスまでは神話だが その次の天忍穂耳命や天穂日命ぐらいから、 実在ぽい感じがするんだよね。
443 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 02:57:51
>>408 :縦目仮面:2009/03/31(火) 19:35:39
>豊鍬入姫命→倭姫命のあたりで斎王の権威は形骸化したのかもしれないが、このあたりは
>ちょっとわからないな。
トヨ=豊鍬入姫説があるしね。
いずれにせよ、彼女ぐらいから、畿内王朝の政治形態が変わったのかも。
トヨタン・・・・・・・・・・
445 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 12:39:57
446 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 13:11:59
斎王 倭姫命→五百野姫 五百野姫は筑紫へ下向 成務の娘は仲哀の后となる。 仲哀に娘は居ない、ここから「空白の古墳時代」突入。 大王の存在さえ不確定の時代に確定できる斎王はいない。
倭姫命、神功皇后、斉明天皇 移動好きの女性多いね。
448 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 15:06:58
>移動好き なるほどねえwwww その伝でいうと、天智天皇、聖武天皇、桓武天皇も、とっても移動好きみたいだなあ
天照大神=卑弥呼+台与 高皇産霊尊=張政
>>443 邪馬台国は抜きにして、マキ向→大和朝廷として、遺物からはあまり太陽信仰は強く感じら
れないんだよな・・・。土坑から出るのは、農耕および共食儀礼的なものが大部分だし・・・。
俺は紀記の解釈はあまり詳しくないんだが、三輪大神(大物主)の妻とされる倭迸迸日百襲姫
から、天照大神を祭った豊鍬入姫、そして倭姫の代で、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の
諸国を経て伊勢の国に神託により神宮を創建した・・・この大きな変化には何か意味がかく
されているのは確かだと思う。
ただ、このあたりは考古資料で語るにはほど遠いんだよね。
451 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 22:14:37
そうなんだけど、古墳に副葬されるのは信仰というより、威信財としての性格が強い気が するんだよな。文様にいたっては、画文帯でも三角縁でも、きわめて中国神仙思想的な ものだし・・・。
453 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 22:38:28
天照大神の祭 神武と共に大和に入植 綏靖即位に反対し手研耳に味方、破れて建御名方、伊勢津彦は信州に流される。 考昭時代 伊勢津彦は許され丹後に入る、この時考昭は大物主を三輪に祀る。 崇神6年大凶作、この年日本海地方で争乱が起こる、 大国主と伊勢はその地を捨てて、崇神の元に駆け込む、同じ宮に長く住むことも出来ないので 大国主と伊勢に2宮を立てて住まわせる。 垂仁時代に天照大神を祀るため、新たな地を求めて伊勢の地に祀る。
454 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 22:45:29
本来暦は天照大神=伊勢の仕事で有ったが手研耳の乱で暦は三輪の管理に移っています。 伊勢に残されたのは、先祖神「天照大神」を祀ることだけ。
>>451 >>452 鏡は封邪の意味が強いから、
被葬者に向けて置かれている説が強いんだが。
自分の後ろに鏡面を前向きでぶら下げといて、
山で怪しいものを見たら振り向いて鏡越しに観るって奴。
太陽を思わせるようなものは何一つ出てないしね。
いずれ、「鬼道」の正体を明らかにするには、宗教学、神話学、民俗学、文化人類学など が必要だと思う。
457 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 23:18:52
鬼道=神道または陰陽道
458 :
日本@名無史さん :2009/04/03(金) 23:22:47
>>453 >大国主と伊勢はその地を捨てて、崇神の元に駆け込む、同じ宮に長く住むことも出来ないので
まるで見てきたような書きっぷりだなあ、wwww
神道あるいは道教とかたづけるのは簡単なんだが、俺は卑弥呼は倭国乱で疲弊した (戦争が嫌になった)諸国王たちに共立されたものと考えている。その場合、お互い国 の成り立ちが違う王たちをすべて従わせるための強力な神権とは何か。非常に興味深 い部分。マキ向の早期古墳には各地の葬制を習合した形跡はうかがわれるものの、そ れだけでもないだろうと思う。
またすぐに戦争してるし、単なる休戦協定でしょ。
まあ、「またすぐ戦争」というのは個人的には対北九州完全制圧と考えているが、武埴安彦 と結びつける人も多いようだね。 いずれにしても歴史を勉強していると「結びつく」と感じることがある。455のは、たぶん 「道士、一尺の古鏡を背に負い」(違うかな)とすれば、三角縁等が当時の魏鏡よりも大型で あることを指しているように感じるし、唐松山さんの話の諏訪大社の御柱祭も、出雲大社の 古建築に通じるものを感じるが、いつもそこでとまってしまってあとはわからない。
462 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 09:13:40
モモソヒメやトヨスキヒメが外交をした記録はない。
463 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 12:43:48
鬼道とはゾロアスター教のことだった
しかし唐松山さんは、時空を超えて古代を幻視することのできる・・・異能の人だなw 卑弥呼の鬼道について@ 道教・・・古来中国において鬼道の名を冠せられたものに五斗米道がある。後漢末、張陵 により蜀に起こり、張脩の鬼道教団を経て、張魯が漢中で勢力を高めたものの、215年曹操 に降伏。五斗米道自体は正一教として現在まで続いている。入信者に五斗(約10L)の米を 供出させ、道術による病気の治療、窮貧者の救済等を行った。鬼卒、祭酒、治君などの階級 制度をとる。 ・道教の「現世利益」の概念は倭の諸国王をまとめるにふさわしいものだろうか? ・五斗米道ならば、魏史が「鬼道」などとあいまいな書き方をするだろうか?太平道と並ぶ 危険思想?を魏がそのまま認めるだろうか? ・上記鏡の文様を除き、道教的遺物はほとんど見られない。後代において道教の日本流入は せき止められていた形跡がうかがえる。
465 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 12:50:16
>>458 ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし ナツキソムカヨ
アスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし トヨノアカリの イロもよし
「宮」とは生きた神の住まい。
ミャ〜
>>462 当たり前だろうw
日本書紀は、中国に対抗心をむき出しにした
小中華主義みたいな史書なんだから。
卑弥呼の中国への朝貢にかぎらず
倭の五王の朝貢すら
日本書紀や古事記には記していない。
468 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 13:20:04
>>9 サガミハラハラさん
>南に船行1年(2倍年暦なので半年)も進むと南洋で裸で暮らしている人がいますよ。
又有裸國 K齒國復在其東南 船行一年可至
幻の島、「裸國」、「K齒國」のことですか。
現在日本の地図にない島ですよね。
470 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 13:49:38
>日本書紀は、中国に対抗心をむき出しにした そんな事は無い 日本書紀の記事は、初めて起きた出来事は記すが次回からは省略で書かれている。 崇神時代任那建国、ソナカシチに依る朝貢その後も続くが省略 箸墓 古墳の造営その後も続くが省略 垂仁末 田道間守による中国への朝貢その後も続くが省略 この様に初めての時のみ記録記載、その後の変化は、記載されない。
>>117 ローガンさん
>そうかも知れませんが、その考えかたでいくと、
>女王去四千餘里の侏イ需國も一大末廬間のたった四倍程度…
侏イ需國は屋久島、種子島のことです。
どうして「南」を「東」に置き換えたりするんでしょうか。
>>159 >邪馬台国と大和朝廷は関係無い説に一票。
同感です。
関係がもしあるのなら、証拠を出してほしいですよね〜まったく!
>>292 >須佐之男命や高天原が実在というのは、まあトンデモだよね。
実在の人物ですよ。
おたくだって「須佐之男命」言ってるじゃん(笑)
須佐之男命は現在人ですか?昔、この列島を生きた人物でしょ?
わかっててわかってないんだから(笑)
>須佐之男命や高天原が実在というのは、まあトンデモだよね。 当然。 太陽の神がいて月の神がいて その両者に悪さをして日食月食を起こす 海外にも類似の見られるパターン。 >472のドツボの戯言は捨てておいて良いwww どうしても実在を主張するのなら いつの時代か?何処にいたのか? アマテラス、ツクヨミとの関係は?等々 ・・・をきちんと説明して欲しいもんだwwww
>>472 俺は目が縦なんで、人とはものの見方がちょっと違うかもしれん・・・w
卑弥呼の鬼道についてA
神道・・・これが最も難しいっていうか、専門外の分野でかなり間違ったことをいいそうだが・・・
Wikiを見ても全然わからんので、流派で考えるのはやめて、祈祷の形式からいうと
・振るの神事・・・鈴などを鳴らすことによって、破邪・鎮め・結びを祈る
・祓いの神事・・・水に濡らした榊等を用いて、破邪・鎮めを行う
・口寄せの神事・・・神言を預託され民衆に伝達する ・亀甲卜占等
まあ、常識的には >男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく・・・
から考えて「口寄せ」が妥当なところか。しかしこれとて、何の神に祈っていたかがわからんし。
卑弥呼=倭迸迸日百襲姫とすれば、研究者によっては縄文からといわれる磐座のある三輪山
の神?それに諸王が従うかという疑問は道教と同じだし、神言預託は後代の宇佐神宮の
イメージ(道鏡事件とか)だし。レスが長くなるだけで、これは俺にはムリだな。
475 :
ローガン :2009/04/04(土) 15:07:31
>>464 > ・道教の「現世利益」の概念は倭の諸国王をまとめるにふさわしいものだろうか?
> ・五斗米道ならば、魏史が「鬼道」などとあいまいな書き方をするだろうか?太平道と並ぶ
> 危険思想?を魏がそのまま認めるだろうか?
鬼道ってよくわからないのですが、道教なのだろうか?
祖型となった黄老や老荘思想じゃあないでしょうか? 荘子の無爲自然とか…
当時、一般的な自然崇拝とは異色なものゆえ記述されたのでは。まあ単なる想像です。
よくしらないので詳しい方教えてください。
476 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 15:22:29
477 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 15:32:36
卑弥呼は住吉治り神に仕えていた。 治り神とは元来稲の病気を治す又は防ぐ為のお祈り イモチ病や台風被害の軽減を祈る。 宇佐神も古くからの治り神でもある。
478 :
ローガン :2009/04/04(土) 15:33:46
>>471 もう一行あるでしょう。
「三、四尺の人間っていますか?」
479 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 15:54:03
>>473 素戔鳴尊は乱暴者。父親?のイザナギノミコトは愛想を尽かしてしまう。
海をとどろかせ、山を鳴り響かせて高天原に上ろうとする。
天照大神は、素戔鳴尊が高天原を奪おうとしていると驚き恐れ、戦いの
準備をする。
私は高天原を奪おうという気はないんですよ、ということで和解(天安河の誓約)
しかし、調子に乗った素戔鳴尊は、高天原で大暴れ。
田んぼや用水路は壊す。クソを撒き散らす。
皮を剥いだ馬を天照大神の神聖な機織小屋に投げ入れる。
これで怪我をした天照大神は、ついに怒って天岩戸に隠れてしまう。
主人公である天照大神に良いところは一つもない物語となっている。
これが単なる作り話といえるかどうか。
似たような話が倭人伝にもある。狗奴国の話である。
正始八年頃、卑弥呼は帯方郡に使者を送っている。狗奴国との争いで
援軍を求めたらしい。
太守の王頎は、わざわざ都に出向いて伺いを立てたが、援軍は来なかった。
そのかわりに、張政が、黄幢を持って調停のためにやってくることになる。
しかし、その頃、卑弥呼は死んでしまう。
ここでも、卑弥呼=天照大神かな。
480 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 15:57:39
侏イ需は漢時代の青島の郡名 台湾のさらに南西。 台湾は琉球と呼ばれる前は何と呼ばれていたか?
481 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 15:58:27
>>479 『三貴神』として語られているツクヨミを勝手にハブんなwww
それにスサノオのDVシーンに馬が出てくる時点で年代が合わないw
>>474 道教というか神仙思想っぽい要素としては
古墳の埋葬遺構から出てる水銀朱なんかもあるよ。
実際に不老長生の仙薬として使われてる。
いづれにしても、卑弥呼の死で国中混乱しちゃうくらいだから
それほど体系化、組織化されたものではなかったろうけど。
>>479 その程度で実在云々されてもな。
>>475 >>482 (同じこと書かれちゃいましたね。)
秦時代の古道教で、始皇帝も願った「不老不死」などと、卑弥呼の>年已に長大なるも・・・
など、あるいは仙丹の原料とされる辰砂の出土など、関わりがあるのかもしれませんが、
これだけではなんとも・・・。
卑弥呼の鬼道についてB
シャーマニズム・・・これはAで書いた「口寄せ」と繋がりがあるんだが、トランス状態(神
懸かり)で霊(超自然的存在)と交信する現象をいう。文化人類学的には、シャーマニズム
とアニミズムは深い関連があると指摘され、アニミズムは、汎霊説などと訳され、簡単に言
えばすべてのもの霊性が宿るということで、日本は古来から、
>狭蝿なす皆満ち、萬の物の妖悉に発りき とか「九十九神」(物霊)とか「八百万神」とか、
アニミズムを示唆するものには事欠かず、当然シャーマニズムもあっただろうけれど・・・。
484 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 16:17:14
>>475 鬼道はシャーマニズムでしょう。
卑弥呼が女王になった頃には、大陸との交流はなかったろうから、
その影響があったとは思えない。だから、五斗米道や道教とは考えにくい。
倭人伝には、卑弥呼は王になってから見たものは少ないと書かれている。
また、たった一人の男子が言葉を伝えるために出入りしていると書かれて
いることからもその可能性が高いのでは?
また、記紀にはその痕跡らしい出来事が記されてる。たとえば、斎王。
神功皇后も、神託を受け、仲哀天皇に熊襲を攻めずに新羅を攻めよ、と
助言している。
仲哀天皇は、この言葉に従わず、熊襲を攻めたために病気にかかり死んでしまう。
日本の古代では、こういう神託がかなり重要視されていたのが伺えるから。
485 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 16:23:00
>>481 細かいところで難癖を付けるようなことをしていては本質は語れないよ。
486 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 16:31:47
大分の弥生遺跡からは、豚の骨さえ出土している。 天照大神時代に馬がいても容認できる。
今思い出したが、岡本健一氏の本で「古墳は壺型の蓬莱山を模した物であり、装飾古墳 に現れる蕨手紋は扶桑樹」だという説を読んだが、俺的にはこれはとてもムリ・・・。
>>468 >この様な事が崇神5,6年に起こったとしたら
>そしてこの遺跡は直後の洪水により埋没。
>193年新羅 倭人餓えの為千人以上が来る。
>良いか 卑弥呼=崇神時代などと訳の分からない数字で日本史を考えるな。
そうですね。新羅本紀では173年に卑彌乎の使者が来ていますから崇神より前?
新羅本紀を過信しすぎ。
>>478 >「三、四尺の人間っていますか?」
侏儒は身長150cm以下のネグリト族。侏儒国はフィリピンのルソン島でしょう。
>>487 壷形ってのは面白いけど、前方後方墳だといまいちだしね。
>>467 >卑弥呼の中国への朝貢にかぎらず
>倭の五王の朝貢すら
>日本書紀や古事記には記していない。
應神・雄略紀には呉との交易記事、仁徳紀には呉国が朝貢した記事があります。
上下関係を逆にしたり、交易のみの記事にすれば問題ない。
崇神・垂仁紀にも外交記事があるのに、モモソヒメ・トヨスキヒメは何もしていない。
492 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 17:46:28
>>488 過信している訳では無いが
崇神11年異族多帰が巻向に与えた影響を 2世紀末急に巻向に地方の土器と考えると
この辺の数字は信用出来る。
それとも崇神11年異族多帰の足跡が他の時代に当てはめられますか?
卑弥呼の鬼道についてC(自分で書いててわけわからんのでもうやめる) 首長霊信仰・・・おおざっぱな流れとしては、精霊信仰(アニミズム)→祖霊信仰(祖先霊が 自然物の精霊に影響する、農耕信仰とかぶる部分が多い。)→首長霊信仰(祖先神が生き ている大王と同一化し、人民を支配する。王権正当化の一種の装置?)だろうか。間にまだ 入るんだろうが。 首長霊を宿す儀式の一つに殯 (もがり)があるともいわれ、これは遺体とともにある一定期 間を過ごすもの。倭人伝の、 >始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、 他人就いて歌舞し飲酒す・・・ の部分がこれにあたるか。後代でも殯は盛んに行われた。古墳上で神人共食儀礼が行わ れたとの説もある。また新嘗祭、大嘗祭により神が宿るともいわれる。近代の大嘗祭の直会 (なおらい)は神に供えた神餅を天皇が食べるもので、神人共食儀礼であるといえるだろう。
494 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 18:09:23
しかも崇神11年秋には「箸墓」で祭りをする。 そうなるとあの巨大な「箸墓」を百姓そっちのけで造築しなければ成らない。 数年前まで餓えに苦しんでいた大和にそれだけの蓄えが有るのか? 鉄の潤沢な流入はソナカシチの朝貢より。
>>492 173年の卑彌乎遣使の記事から考えると、193年倭人千餘人の記事は
卑彌呼死後の「當時殺千餘人」に対応するか、又はもっと後の壹與死後ではないかと思われます。
崇神11年異族多帰は列島内の話ではないだろうか。
イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
498 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 19:02:47
卑彌呼さえ書いてない書紀に別の地方の記事が単体で登場する事はありえない。
499 :
ローガン :2009/04/04(土) 19:05:59
>>484 > 鬼道はシャーマニズムでしょう。
そうかもしれませんが後漢書馬韓に農耕祭祀(サイシ)の記述があります。鈴鼓≒銅鐸とすれば、弥生の倭の祀りも良く似たものかも。この天君が首長でありシャーマンではないかなあと。まあ一概にいえませんが。
倭人伝では「自為王以来少有見者」なんで 後の三ツ寺Tの遺構や八尾市心合寺山の括れ部からでた埴輪といったものへと続く、 王単独もしくは少人数で行う屋内祭祀…
シャーマンは衆の前には出なくなった。この祭祀(サイシ)の変化の画期が邪馬台国頃か?
>>445 >晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。
「晉武帝咸寧中」に「三韓蓋爲百濟、新羅所呑并」とは言えません。
「晉武帝咸寧中」以後ということ。ではいつか?
続いて「百濟」の説明があり「自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。」
「自晉代受蕃爵、自置百濟郡。義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、都督百濟諸軍事。齊並遣使朝貢、授官、封其人。」
義熙は405年 - 418年なので、「通典」ではこれ以前としか言えません。
因みに新羅は「其王本百濟人、自海逃人新羅、遂王其國。其國小、不能自通使聘。 」新羅本紀と全く違う。
「符堅時、其王樓寒遣使衛頭朝貢。」
前秦の第3代皇帝符堅、在位357年 - 385年。ここまでしか絞れない。
卑彌呼の「鬼道」を考えるにあたって「持衰(じさい)」は参考になるでしょうか? 其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、 衣服垢汚、不食肉、 不近婦人、如喪人、名之爲持衰。 若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
502 :
日本@名無史さん :2009/04/04(土) 20:44:58
>>484 ついでに、斎王について。
日本書紀などによると、最初の斎王は、倭姫命となっているらしい。
倭姫命は、天照大神の声を伝えたり、天皇と天照大神の仲介をしている
場面が出てくるので、巫女というかシャーマンの要素があると思う。
斎王は、天皇に代わって、伊勢神宮に仕える役目を負い、
未婚の皇女や王女が占いによって選ばれた。
天皇が代わったり、凶事があると交代することになる。
斎王の住まいである斎宮には、五百人ほどの人が仕えていたが、
斎王の身の回りの世話をする女性が非常に多かったらしい。
これなどは、倭人伝にある、(卑弥呼は)「以婢千人自侍」というのを
ほうふつさせる。
http://accord.at.infoseek.co.jp/BIGLOBE/ZISAI/nip14929.htm 航海のとき、居残った特定の人物がきびしいタブーに服することは、マルク(モルッカ)諸島に例が多く、
セラム島東部のイル地方、アンボン諸島、ケイ諸島、タネンバル諸島から報告されている。
たとえばセラム島のイル地方の場合、帆船が航海に出たとき、一人の人物、ふつう一人は少女、が陸上に居残っていて、
航海がうまくいくかどうかは、彼女の責任とされる。
彼女は帆船とほとんど同一視され、村人たちは、彼女の様子を見て、航海がうまくいっているかどうかを判断する。
彼女は船が航海しているあいだは、働いてもいけないし、歩いてもいけない。
歌ってもいけないし、陽気に騒いでもいけない。遊んでもいけないし、清涼剤の檳榔子をかんでもいけない。
ことに家から外に出るのは厳禁されている。もしもこの少女が病気になると、帆船に何か悪いことがおき、
もし少女が死ぬようなことでもあると、船は沈んでしまう。彼女が病気になったり、死んだりしなくても、
船が不幸にであうと、これは彼女が規定のタブーを破ったからだとされて、彼女だけが責任を負うのである。
(大林太良著「東アジアにおける倭人民俗」)
504 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/04(土) 20:57:00
晉武帝咸寧中に全ての地が百済と新羅の土地に併呑されたわけでは無い。 楽浪、帯方が弱体化したこの時期にそれ相応の土地が百済、新羅の土地と成る。 最終的には、七支刀を326年と見て、320年頃か これ以上遅くまで邑国が存在できたとも思えない。 300年には倭国と新羅は、国交を開いている。(神功47年)
持衰=血吸い説
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kojin/chisui.html 「血吸い」というのは、じつは死者のことなのです。
航海中に嵐に遭ったりして船が沈むと、乗船していた人々は行方不明になってしまいます。
また、旅の途中でその他の災難や病気などで死亡した人々は、じゅうぶんな葬儀もされないまま、その遺体がその場に置き去りにされることになります。
そのような不慮の災難による死亡者たちは、生き返りたいという欲求がとくに強いらしく、人の生き血を求めてさまよい始めるのです。
だから「血吸い」は、ドラキュラとかゾンビのような、いわゆる「吸血鬼」の親類にあたります。
危険が予想されるような旅に出かける倭人たちは、「血吸い」という魔物に襲われることを、ひじょうに恐れていたのです。
なぜなら、旅の途中で遭遇する災難というのはまさに、その「血吸い」たちによる襲撃によって引き起こされる、と理解されていたからなのです。
その「血吸い」対策として旅行者たちは、一種の「魔よけ」を旅に同伴させます。その「魔よけ」というのがじつは、「血吸い」の姿そのものをまねた人物だったのです。
・・・
このように、魏人によって描写された「持衰」の様子はすべて、それを「血吸い」と読むことで理解できることになります。
持衰から、「鬼道」をさぐろうとするのはよい試みだと思いますが、血吸いですか・・・。 「持衰」に相当すると思われる人物が描かれた絵画土器片が、奈唐古鍵遺跡から出土し ていて、一世紀代後半のものかと。リンクを探したけどちょっと見つからない。その絵画土 器片では、持衰は左手に何かを持って一人船尾で寝ているように見える。まあ、単に舵を 取る人とか異説も多いが。ただ、持衰は船に乗らず、陸上で慎んでいたとする説もある。 まあ、この持衰や生口などから、邪馬台国は身分制が強固で、統制力が強いイメージな んで、奴卑百余人の徇葬者というのも真実である気もするが、考古学的には、明白な徇葬 例はまだないんだよな。
持衰については後漢書倭伝にも出てきますが、他の文献には全く記録が無いようです。 その後の日本でもこんな制度はなかったようですし、外国でも大林氏が挙げている例ぐらいか。 強いてあげれば、オトタチバナヒメの入水が近い例? 卑彌呼の時代の倭国だけ?何か特殊な事情があったのか・・・ ホツマにも無いですよね? 唐松山さん
508 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/04(土) 23:29:51
アルカードか〜。w
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/04(土) 23:33:01
卑弥呼は崇神の代だ。それが正解!
511 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/04(土) 23:37:59
ALUCARD か〜。w
515 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/04(土) 23:43:35
またお話しましょ! ZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・
>>511 太国さん久々登場。
DRACULA 反対から読んでALUCARD
>>512 シャーマンって英語かと思っていたら、ツングース語なんですねw
ウィキペディアによると
本来はツングース語のšaman(シャマン)。ロシア語のшаман(シャマーン)を経由し、各国語に広まった。英語ではshaman(シャマン、シャーマン、シェイマン)。
第二次大戦の米軍の戦車は全く関係ないようです。
518 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 00:35:49
>>489 身長とは書かれていませんよね〜
もう少し頭を軟らかく働かせないと、とんでもない方向にいっちゃいますよ。
「人長と身長の使い分け。」
邪馬台国は大和(近畿)
シャーマンは北アジア系のイメージがあるのかも?まあ、現代の話だとアフリカのウイッチ・ ドクターとか、ブードゥー・ウィッチとか(ブードーは南米にも広まってる?)という感じが俺には ありますね。もちろん現地語は違うでしょうが。
で、終止符はまだ?
.
523 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 10:26:15
過去の DRACULA の映画のシーンで、西欧の某家にアルカードという者が訪ねて 来たことを聞いた男が、紙だったかにこの文字を書いて、「ついぞ聞いたこと のない名前だな。」と、不審を抱いて熟考した後、訪問者が九欠記だということ を見破ったということからの話です。
太国さんは侏儒国はどう考えていますか?
>>518 さんの書き込みは、私は頭が硬いので分からない。
箸中山古墳は卑弥呼の墓ではない
526 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 11:04:02
邪馬台が「ヤマト」の音読みであることは 日本書紀編纂時に確定しているし、 後世の人間がそれを必死に否定するのは 妄想に過ぎない
527 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 11:15:04
>>524 侏儒は日本書紀にも記述がある
「こびと」という意味の普通名詞なので国名ではない
528 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 11:15:04
>>473 >どうしても実在を主張するのなら
>いつの時代か?何処にいたのか?
>アマテラス、ツクヨミとの関係は?等々
>・・・をきちんと説明して欲しいもんだwwww
もう何度も説明しただろ・・・・忘れたのか
529 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 11:15:11
>>524 史実なのか、当時の伝説的国か脚色と尾ひれがついた話からのものか、それは
なんとも判断できません? あった可能性も相当言えるでしょう。
西遊記には小児城(比丘国)話もありますし、女だけの西梁女国の話もあり
ますし、伝説等の考えもありえますし・・・? なんとも?ですな?
ミサイル?人工衛星?飛翔体(UFOか!) 卑彌呼からは想像もつかない時代になりました。
>>530 ヤマトトトヒモモソヒメ ←(元の形)ヤマト・トビ・トビ・ハヤ・モモソヒメ
トビ・ハヤ = 飛び速、 ヤマトトトヒモモソヒメ = 卑弥呼
∴卑弥呼 = 飛び速 = 高速飛翔体 www
以上は原田大六説(『邪馬台国論争』、『卑弥呼の墓』)参照
黒歯国は「山海経」の
>黒歯黒その北にあり、人黒くして 稲を食し蛇を啖う・・・その北に扶桑あり
となってて、扶桑が日本として、その南だから東南アジアだろうか?「文選」にも「南の東の
極み」に裸人国と黒歯国が存するような記述があり、フイリピン近辺という感じがする。
このあたりは、九州説に有利かもしれん。
歯が黒いのは嗜好品のビンロウの種子を噛む習慣があったからという説があるね。ビンロウは
現マレーシアのベナン島の語源で、あのあたりには嗜む人が多かったか。唾液は真っ赤に
なるが歯は黒くなるのかもしらん?裸人国はさらに南のオーストラリア、アボリジニとか?
侏儒国は謎だな。俺的にはどうでもいい部分なので「ネグリト」説に一票。ただ、侏儒は、
平均身長の低い、縄文的要素の強い人々の集団(南九州に多い?)という説もある。
http://www.doigahama.jp/sub/html/main_07_4.html
533 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:09:38
みなさん〜「裸國」、「黒齒國」はどのように考えてるのでしょうか? 私の考えで行くと......幻ですね。 幻の島、「裸國」、「黒齒國」ダス。
534 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:12:44
>>532 >フイリピン近辺という感じがする。
>このあたりは、九州説に有利かもしれん。
どうしてフィリピンやマレーシアになるんでしょうか?
>>531 モモソヒメと卑弥呼は別人と思いますが、トトビ=鳥飛びかもしれない。
想像ぐらいはしていたのかも。
>>512 トトビ=鳥飛び姫はこういう姿をしていた?
>>533 侏儒国はネグリトのルソン島
裸國、黒齒國は東南のフィリピン群島〜ニューギニア
537 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:21:32
>>531 ヤマトトトヒモモソヒメは、卑弥呼ではナイ。
卑弥呼さんは「巫女」だって知ってるでしょう?
大物主の妻である、ヤマトトトヒモモソヒメは論外。
>>534 中華思想は自分らが真ん中で、周りは東夷・西戎・北狄・南蛮とみんな教化が必要な
未開人だというもの。今の中国にもその名残はあるような感じだね。で、前述の書物からは
なんとなく南蛮と東夷の中間的な印象を受ける。ま、それだけ。
ただ中国の史書は、できるだけ前代の書物と同じ記述を取り入れる習慣があり、当人たち
も「こんなのねーだろ」と思いながら書いてる部分もあるかも?
539 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:24:45
>侏儒国はネグリトのルソン島 >裸國、黒齒國は東南のフィリピン群島〜ニューギニア 失礼ですが、これも論外。 女王國の東南にマレーシアだとか、シンガポールはありませんよ(笑) どこをみて、そんなこと言ってるんでしょうか。
540 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:27:58
>中華思想は自分らが真ん中で、 それをいうなら「西南」て書くのでは?? >周りは東夷・西戎・北狄・南蛮とみんな教化が必要な >未開人だというもの。今の中国にもその名残はあるような感じだね。で、前述の書物からは >なんとなく南蛮と東夷の中間的な印象を受ける。ま、それだけ。 >ただ中国の史書は、できるだけ前代の書物と同じ記述を取り入れる習慣があり、当人たち >も「こんなのねーだろ」と思いながら書いてる部分もあるかも? まだまだ勉強不足ですね。 魏志倭人伝は「まとも」な書き方ですよ。
>>539 >女王國の東南にマレーシアだとか、シンガポールはありませんよ
?私はマレーシア、シンガポールなんて書いてませんが?
又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至。(魏志)
自朱儒東南行船一年、 至裸國、黒齒國、(後漢書)
朱儒の東南です。
改めさん、南洋をひとくくりでごっちゃにしていませんか? 東南アジアの地図を見て反論してくださいね。
543 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:37:53
>>541 愛知県民さん
方向が違うといってるんですよ。
そっち方面だと「東南」にはなりません。
>>540 かもしれない。俺は考古学専攻だしこのあたりは勉強したことないよw。
上に出てた「持衰」を繁体中国語で検索したが、倭人伝等の記述しかないんで固有の中国語で
はないと思う。かといって、「伊声耆・掖邪狗」とか、倭語の音を移したものとも思えん。
あえていえば、「衰えた状態をキープする(擬死)」ほどの意味か?「衰」には「特殊な喪服」
の字義もあるし。
にしても、「持衰」にはまともな資料はないな。後で暇があったら、「人身御供、人柱」とか
民俗学の分野で調べてみる。
546 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:46:30
朱儒國というのは、「屋久島」・「種子島」。 裸國・黒歯國というのは、「小笠原諸島(或いは、沈んだ島)」。 これでいいのでは?!反論ある人どうぞ!!
>>544 縦目仮面さん
「衰えた状態をキープする(擬死)」なら「死者=血吸い」説もまんざらではないのでは?
548 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 14:53:35
>>545 ニューギニアですか・・・。
それだと距離が合いません。
愛知県民さんは、「船行一年」を、どれ位の距離と考えてるもでしょうか?
それに魏志倭人伝は「倭人」のことが記されており、
ニューギニアには倭人はいませんよ(笑)
>>530 武内文書では、天皇は天空浮船に乗って地上にやって来て、
景行天皇が最後の巡幸を行ったことになっています。
それに随行したのが武内宿禰。
それどころか、人類価格戦争で何度も滅んでいるというし、
現代の文明は、むしろ退化したらしいです。
>>548 >それに魏志倭人伝は「倭人」のことが記されており、
>ニューギニアには倭人はいませんよ(笑)
女王國東渡海千餘里、 復有國、皆倭種。
ここまでが「倭種」。侏儒國から先は倭種ではなく、それ以外の種族になります。
551 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:03:26
>女王國東渡海千餘里、 復有國、皆倭種。 >ここまでが「倭種」。侏儒國から先は倭種ではなく、それ以外の種族になります。 いえいえ 倭人伝にでてくる「國」は全て「倭人の國」ダス。 「魏志東夷伝倭人(ノ)条」てタイトルが載ってるでしょ〜に。。。。 とんでも説ですか?!
>>547 うーん「血吸い」ww,。当時「血」「吸う」という倭語があったものだろうか?
まあ、中国の?屍(キョンシー・・・明代以降の伝説?)とのからみで、小説とか書くのは
面白いも。
俺はどっちかといえば、室賀信夫氏の日本列島90度回転認識説を支持してるんで、改め
さんと方角の感覚は合わんだろう。
553 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:09:22
>>547 >日本列島90度回転認識説
なぜ90度回転するのか説明よろしくです。
>>553 いやww。レスが長くなりすぎる。自分で室賀氏の本を読んでみれば。俺は室賀氏を尊敬
していて、真摯な研究態度、精緻な論文だよ。
>>551 すべて倭人の国なら、「皆倭種」と書く必要がないはず。
侏儒族・裸族・黒歯族は情報が少ないので、独立した条を立てず、倭人の条に書き込んだのでしょう。
倭人は彼等の国に航海して、その情報を持っていたのです。
自朱儒東南行船一年、 至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。(後漢書)
556 :
九州王朝大好き :2009/04/05(日) 15:28:44
>>551 原文には「魏志東夷伝倭人条」の様なタイトルは全くありません。
原文を見れば、侏儒國、裸國、黒齒國は倭種でないことがわかります。
>>551 もう一つ。
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
倭地は周旋可五千餘里ですから、朱儒国や裸国が含まれないのは明らかです。
558 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:32:02
>>554 どうして室賀氏なんですか?その方、人気アルみたいですね。
他の先生と何が違うんでしょうかね・・。
>
>>555 う〜ん どうなんでしょうかね。。
しかし、ニューギニアとすると距離が遠すぎませんか?
559 :
九州王朝大好き :2009/04/05(日) 15:37:55
>>551 『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種』
「復」ですから、女王國の様な国家集団がもうひとつあり、それらの国々は全部倭人の国である。
の意味です。
「又」とは意味が異なります。
>>558 船で一年といえば、当時は命懸けの旅でしょう。
ちょっと距離は測りかねます。
561 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:46:25
>>556 九州王朝さん
>>557 愛知県民んさん
>原文には「魏志東夷伝倭人条」の様なタイトルは全くありません。
>原文を見れば、侏儒國、裸國、黒齒國は倭種でないことがわかります。
お二人は、侏儒國、裸國、黒齒國は外国としてみてるのでしょうか?
ここに載ってるので、倭人の種類とおもってたんですが・・。
>>559 それはそうですね。
同じような倭種があるわけですから。
562 :
九州王朝大好き :2009/04/05(日) 15:49:15
>>560 「船行一年」は船で行けば1年かかる距離の意味ではありません。
「船行一年」は倭人の海上における距離単位です。
数百km位の距離かも知れません。
>>561 至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。(後漢書)
これを読めば、裸國、黒齒國は倭人の知識では「世界の果て」だったと読めると思います。
確か古田氏は裸國、黒齒國=南米説ではなかったでしょうか?
私はそこまで遠いとは思いません。
GRRR・・・・
564 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:52:06
「船行一年」 倭人からの聞いた情報です。 しかし、距離に変えるとどれぐらいかというのは有るはずです。
堀江健一氏は270日で、超小型ヨットによる単独・無寄港の世界一周をなしとげた。まあ、 当時の船に帆はないと思うし、これは恣意的な例だが、縄文期の倭人の移動能力と未知 探求の意欲(これが大切)から、弥生期にはそうとう遠くまで航海してても不思議はないよう な気がする。・・・トンデモかな?
566 :
九州王朝大好き :2009/04/05(日) 15:54:24
>>561 侏儒國、裸國、黒齒國は、日本列島内か、太平洋上か、はたまた中南米あるのかはわかりません。
倭人でないことは確かです。
567 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/05(日) 15:57:51
わたしもそろそろ時間です。 また来ますので、そのときまた話しましょう。 GRRR
568 :
日本@名無史さん :2009/04/05(日) 17:10:33
串本の漁民は、鎖国の江戸時代に、オーストラリアまで 真珠を取りに行って中国に売って稼いでいたというではないか。 フェニキア人は中国や日本にも来ていたし、海洋民族に国境など なかったのです。
>>528 改めドツボ
>何度も説明しただろ・・・・忘れたのか
はて?
全く記憶が無いが…
「説明済み」
「本でもネットでも幾らでも出ている」
…この板の九州説の逃げ口上のテンプレだなw
と言うか神話の部分部分を恣意的に解釈して自説を組み立てるは良いが
それに関連するほかの部分との説明ができず
(つうか最初から考えていない場合が多そうだがw)
無視するか嘘に嘘を重ねると言うパターン。
そもそも神話と史実を峻別する基準・材料が無いのだから
無理も無いのだがwww
「持衰」を調べていたんだが、意外なことを大御所が書いてた。 ・千葉大浦山洞窟遺跡・・・弥生中期?幼児1体、男女各5体の計11体の解体埋葬例。 獣と同様の解体法から食人を推測するものもいる。 「この地域から出る多数の卜骨やバラバラ遺体は、走水(浦賀水道)の海の安全航海と 関連していたのではないか。」森浩一氏 うーん・・・・・・。
571 :
日本@名無史さん :2009/04/06(月) 21:30:14
走水・・弟橘媛か
>>571 そうなんだよ。それを思い出してちょっと驚いた。570の事例は邪馬台国とは時期がずれる
し、他地域にはあまり見られないものだ。しかし、この考古資料と紀記の記述の繋がりが
・・・偶然ではないということが、あるものだろうか?
573 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 11:45:59
あるでしょう。航海の難所だったようだし
574 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 12:10:12
>>570-573 これは興味深い
弟橘媛が史実かもってことね
浦賀水道はいまだに難所みたいね
そういえば南方から列島への海路は
フィリピンあたりからの黒潮があるから
距離のわりには難しいルートではないのよね
鹿児島-宮崎あたりに
南方系民族が住み着いて隼人になったのは
この海流のおかげね
大浦山とあるが、(上で千葉と書いたが、神奈川です。スマソ)浦賀水道に面した三浦半島 突端の海蝕洞窟。この地域には、他にもいくつもの洞窟遺跡が見られる。 前記出土の人骨は、骨に金属器で肉を削いだとしか見られない傷痕があり、また、切断部位 も、縄文期からの鹿や猪の解体法とほぼ同じ(これには詳細な研究事例がある)であり、呪術 的・儀礼的食人の風習があったことはほぼ間違いないと考えられているようだ。 一方、弟橘媛とは、このスレの人なら知ってるだろうが小碓命(倭建)の后であり、走水(浦賀水 道)にて命の言動が海神の怒りを招いて大時化となり、怒りを解くため、媛は命の身代わりとし て入水した。するとたちまち波は静まった。姫の櫛、帯、袖等が東京湾沿岸各地に流れ着き、 袖ヶ浦などの地名となったとする伝説がある。
続き 媛を祭る川崎市の橘樹神社は、古事記に、 >かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵 を作りて治め置きき。 とあるように、社伝では、流れ着いた御冠の具を納めて陵墓を造ったとあり、これが社の裏手 にある富士見台古墳 である。この古墳は、比定6世紀の円墳で地方豪族のもの考えられている。 関係があるかわからないが、神社の近くには大倉山という地名もある。 また、民俗学を調べていたら、時化を鎮めるために「櫛・橘」を箱に入れて流すという風習 を見つけ、これは明らかに弟橘媛の逸話にちなんだものと思われる。 ・・・この三浦半島の特異な風習が古代から知れ渡っており、それが紀記の弟橘媛の記述 に反映されているのだとしたら、俺の紀記に対する認識を少し改めなくてはならないだろうな。
続き にしても、話がどんどん「血吸い」に近づいていくようで怖いww。秘密を知ったものとして クトゥルー神話の登場人物のように、失踪を遂げるのだろうかww.。
578 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 21:36:44
毛人のスレじゃないですよ
579 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 21:47:54
持衰を殺すとあるが、食べるとは書いてないな
580 :
日本@名無史さん :2009/04/07(火) 22:15:21
持衰は海というイメージだけど、陸の旅でもいたように読める
俺新参だけど、だれも書いてないってことは関裕二の本は信用ならんってことでいいのか? 邪馬台国と大和は別のもの。 壱与は卑弥呼の弟子でない 実は壱与が大和の者で卑弥呼を殺した。 面白かったんだけどな。この本
イ、イヨタン・・・・・・・・・・
>>581 学問としてやってるわけじゃないなら
楽しけりゃいいの。
584 :
ローガン :2009/04/07(火) 23:11:16
>>546 > 朱儒國というのは、「屋久島」・「種子島」。
> 裸國・黒歯國というのは、「小笠原諸島(或いは、沈んだ島)」。
>
> これでいいのでは?!反論ある人どうぞ!!
皆さんスルーしているようなので … あえて。
朱儒國が屋久島種子島として、四千里北の倭種の國は何処? その西、海を渡った千里の女王國は何処?
>>581 関裕二ねえ…
先ずこの板で言及のある無しを真贋の基準にしない方が良いと思うなw
まあ九州説だけどこの板の九州説連中には人気が無い
…と言うより嫌われているかもw
邪馬台国東遷説はバッサリ切り捨てているし
既に古代日本では畿内ヤマトを中心とした勢力が
最大勢力になっていたと言う前提で
一種の偽僭説の形をとっている。
畿内ヤマトの壱与による九州邪馬台国卑弥呼殺し
…個人的にはもう付いていけない世界だがwww
586 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 06:45:29
関のデンパは度を越えてしまって、 妄想以外何ものでも無くなってるからね(笑)
587 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 08:23:03
卑弥呼は魏の命令で難升米が・・・
588 :
難升米 :2009/04/08(水) 08:29:21
♪私は やってない 潔白だ〜
589 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 08:49:44
張政がアヤシイ。
>>584 学生さんだね。
社会に出ればわかるけど冤罪も罪のうち、疑わしきは罰するってのは法治国家の不文律だよ。
591 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 13:04:45
命じたのは帯方太守だろう?
592 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 15:55:15
正始六年、難升米に黄色旗を授けた時点で怪しい
593 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 18:52:18
卑弥呼暗殺は少年皇帝ではなく司馬懿の陰謀?
594 :
日本@名無史さん :2009/04/08(水) 19:09:47
暗殺は成功したが、イヨタンの出現で魏の陰謀は失敗。ここで倭人伝は終わる。めでたしめでたし。
イヨタン・・・・・
イヨマンテ…
関裕二www
なんか、コンビニで売ってる関裕二氏の本増えたね。俺的にはいまいち面白くないな。 卑弥呼殺害説は松本清張氏あたりから有名になったけど、どうなんだろ。 司馬氏がかかわってたから、晋代の魏史に経緯が詳述されなかったというのはあるかも しんないが、東夷のもめごとにそこまでするもんだろうか?
じつは清張が殺った・・・
600 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 08:55:40
何かがホトに刺さって死んだんだろう。 天照大神は機織の梭が刺さった。倭迹迹日百襲姫は箸が刺さった。 どういう意味があるのかねえ。
関裕二はトンデモ。 でも、様々なトンデモ話の中でも 出来の悪いトンでも。
古代神宮の斎王は処女を失うと、罪を得る・・・少なくともお役ご免になる。そういうけがれを
表しているのだろうけれど・・・。
安本美典氏は、247年と248年に続けて皆既日食が起きたことが天文計算により証明され
ており、特に247年のものは近畿では皆既にならないため、これを九州説の一証左としている。
この天文学的事実の反映が天照大神の天の岩戸伝承で、天照大神=卑弥呼の死の要因と
なったともいう。つまり卑弥呼は天変地異があったため死んだということで、殺害説の一種と
いえるか。これに似たことは井沢元彦氏も書いてる。
過去の日食のコンピュータ計算についてはド素人なのでなんも言えんが、皆既日食はけっこ
うめずらしいもののようだ。明治以降の日食↓
http://star.gs/njkako/njkako.htm
安本の皆既日食説云々は、安本本人ですら 恥ずかしくて無かったことにしようとしているのに... あれは、家庭用の天文学ソフトの計算で 誤差が全く考慮されていない。
605 :
日本@名無史さん :2009/04/09(木) 22:35:39
514 :何語で名無しますか?:2009/04/09(木) 22:27:00 臺灣も当て字なので台灣と書くことが多い。 本来「臺」と「台」は別字なので 邪馬臺国を邪馬台国と書くのは誤り。 というのも邪馬臺国の時代は中国でも 濁音と清音が厳密に区別されていた。
606 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 00:29:36
日食と女帝の死と言えば、推古天皇が有名。
607 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 01:10:56
隋書倭国伝では日は倭王の弟とある。太陽女神は案外新しいのか?
608 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 02:34:24
ホトと言えば 大物主は便所に隠れて入ってきた女のホトを突いたんだよな いやはやえらい神様がいたもんだよわが国には 横浜の保土ヶ谷もホトの谷間だね すぐ南には井土ヶ谷があるけど イドって肛門のことだよな
609 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 03:37:12
610 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 05:42:55
関なんか他の奴の焼き直し商法だろ 絶対2chも見てるよ つーかコイツの名前を事ある毎に出してくる奴は本人だろ
611 :
サガミハラハラ :2009/04/10(金) 07:54:07
>>604 本人ですら無かったことにとありますが、ソースはなんでしょうか?
>>611 安本もひっこめているよ、最近はw
安本が、あの説を出していた時、さっそく、
天文学のほうから、突込みが入っていたw
でも、あのインチキ説に飛びついた奴の多かったことw
天岩戸の話は、なんとなく日食の話にくっつけたくなるのは分かるがw
でも、違うんだよねw
>>612 > 天岩戸の話は、なんとなく日食の話にくっつけたくなるのは分かるがw
問題は実年代がある卑弥呼に結び付けたことで、
天岩戸/日食の話は大昔からあること。
関係を想定しない方がおかしいと思う。
安本が言い始めたことではない。
天岩戸の話はどとらかというと 日食ではなく 冬至、夏至の話のほうじゃないのか?
616 :
サガミハラハラ :2009/04/10(金) 12:15:12
天岩戸の話は日蝕のことではありません。(ではなんだといわれても、今のところわかりません) しかし、日向風土記における天孫(天神)降臨時の日蝕の話は事実であり、AD41年4月19日の夕方に種子島を通過した日蝕 のことをしるしているのです。 今年の7月22日にトカラを通過する日蝕があり、宮崎では当時(天孫降臨時)と同じくらい欠けた日蝕がみられます。 (日向風土記の記事であるが、記紀の編纂時に降臨の伝承が残っていたため、宮崎が天孫降臨の地であるとされたものである。 天孫降臨は実際には天神降臨であり、天孫のほかにも多くの天神が各地に降臨したものである。宮崎の場合はもう名が知られていなかったか別神であったかも しれないが、記紀では天孫のニニギとされ風土記もそれにしたがったものとおもわれます。)
>>616 高天は、葛城地方のことだよ。
今でも、その地名があるし
九州にある高天原神話などの場所は
九州の地元民が勝手に主張したものが多い。
619 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 13:37:15
高天原はフィクションです。 神話の高天原なんて実在しません。
620 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 13:42:52
>>619 高天原あるよ!
奈良県御所市高天の高天彦神社の近く。かなり広い
昔、あこにススキ取りに行きましたよ
621 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 13:57:35
それは奈良の地元民が勝手に主張してるだけのものです。
>>621 違います。
京都朝廷のおすみつき。
地元民が勝てに主張しているのは、それ以外の高天原の伝承地。
ちなみに、奈良県御所市高天の高天彦神社は
延喜式の式内社にも指定。
明治天皇も、東京へ行宰されるおり、
高天彦神社にご報告されていっている。
地元民が勝手にいったどころか、
皇室がそのようにずっと主張してきた。
高天原にススキを取りに行ったとか、 妄想と現実と区別がつかなくなっちゃったんだね。
高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、 奈良県と大阪府の県境にある金剛山の東麓、 奈良県御所市高天にある、延喜式内社、名神大社。 祭神は高皇産霊尊、市杵嶋姫命、菅原道真の3柱だが、 元々は葛城山の地主神の高天彦を祀っていたとも言われている。 奈良県南部の御所市高天。金剛山麓に広がる台地上に位置する。 古くは葛城といわれた地域で、そこにそびえ立つ金剛山は、 古くは高天山といわれていた。 付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地で、 ここに所在する高天彦神社は、 延喜式では最高の社格とされた名神大社で、 祭神は葛城氏の祖神高皇産霊[たかみむすび]神。 社殿後方の白雲峯(694m)を御神体とする。 参道の両側には杉の古木が立ち並び、神さびた雰囲気を漂わせている。 江戸時代初頭までは、この地が高天原だというふうに考えられていた。
高天原=葛城だと なんで、わざわざ、畿内(高天原)→九州南部(高千穂)→畿内 に首都を移転しなきゃいけないんだという話になる。 だから、江戸時代に入って、民間の学者(本居宣長など)らが これに異論を唱えた。 しかし、京都朝廷では、ずっと、そのように認識をしていた。
626 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 14:58:24
九年前、高天彦神社から金剛山に登った。汗だくで山頂に来ると、大阪側からロープウェイで来た人で一杯でした。
つまり、 高天原(葛城)と高千穂(九州南部)の関係は 徳川時代にたとえるのなら 江戸(徳川宗家)と紀伊(紀州徳川家)の関係に似ている。 天火明命が徳川秀忠にたとえると ニニギ命は徳川頼宣にたとえられ 若御毛沼命(神武天皇)は徳川吉宗にたとえられる。
628 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 15:28:56
因みに、 高天は葛城氏の領地にあり、 日女命は葛城氏である。 彼女は祟神天皇嫁の姉にあたり、祟神は義弟にあたる。 陰陽道で有名な鴨氏も葛城に属している。 建内スクネも蘇我氏も平群も葛城氏であるから 力を持っていたと言える。
629 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 15:33:23
>>626 大阪からロープウェイは楠木正成好きか紅葉好き、
奈良から葛城の道→高天彦→金剛山は
古代史好きだと
解釈してます(笑)
630 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 15:35:39
631 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 15:57:44
金剛山というのは、大阪方面からの地名で 奈良県側からは、高天山と言われていた。
天忍穂耳命の嫁は、高天彦の娘。 その間に産まれたのが、天火明命とニニギ命の兄弟。 天火明命からは、尾張氏、海部氏、津守氏などが誕生し ニニギ命からは、神武皇統(現在の皇室)が誕生した。 天火明命は、高天(葛城)の領主になり 彼のときに、出雲国譲りを達成し、倭王になる。 天火明命の妻(天道日女命)は、出雲大国主の娘であり 大国主が娘婿の天火明命に降伏し、それを出雲国譲りといった。 このへんは、播磨国風土記にも記載されている。 ちなみに、その条件の一つに、これは記紀では記載されなかったが、 娘の産んだ子供に倭王の座を継承させることだった。 よって、倭王の座は、天火明命ー天香語山命ー天村雲命ー天忍人命 と継承されていった。 一方、ニニギ命は、天火明命の命令で 九州の高千穂に降臨(派遣)される。
>608 >大物主は便所に隠れて入ってきた女のホトを突いたんだよな いやはやえらい神様がいたもんだよわが国には ギリシャ神話のゼウスと同じことしてるだけじゃん、ただの同類 一神教以外の古代宗教では、むしろ普遍的な性格だと思う。
635 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/10(金) 18:20:05
146〜167 桓帝(成宗) 166 党錮の禁おこる。 167〜189 霊帝 184 黄巾の乱おこる。太平道の張角らによる反乱、〜192 弁辰與辰韓雜居 靈帝末、韓、wai[扁水旁歳]並盛、郡縣不能制。百姓苦亂、多流亡入韓者。 189〜220 献帝 建安(196年-220年) 獻帝建安中、公孫康分屯有 遣公孫模、張敞等、收集遺民、興兵伐韓wai[偏水旁歳]。舊民稍出、 是後倭韓遂屬帶方 新羅本記193 倭人が大飢饉となり避難民到来 239 倭の邪馬台国、魏に遣使 242 高句麗、魏に侵入 244 魏、高句麗を討ち、首都丸都城を陥落させる 245 魏、朝鮮の韓の反乱を鎮圧する 百済本記 246 魏と高句麗が合して侵入 新羅本記245 高句麗が北部へ侵入 新羅本記249 倭人が于老を殺害 (神功紀別注に登場) 咸寧(275年-280年) 分割辰韓八國以與樂浪。晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。 百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。【今柳城、北平之間】自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。自晉代受蕃爵、自置百濟郡。 新羅 國、魏時新盧國焉、其先本辰韓種也。辰韓始有六國、稍分爲十二、新羅則其一也。 倭国大乱 桓〜霊間は、大陸、半島共争乱の時代、此所に合わせているだけなので厳密に覧る 必要は無いが、この数字は地球規模の飢饉が発祥であるから、無視しては成らない。 百濟は西晋時代(265〜316)百濟郡を経営領土を拡大しつつ西晋時代を終了 西晋の滅亡と共に百濟国建国、さらに領土拡大を新羅と争う 日本書紀に書かれた「肖古王」はこの時代で、326年七支刀 と合致する。
批判めいて心苦しいが、日食ー天文学的観測 と 天孫降臨ー神々が地上に降り立つ は どうやっても すり合わせはムリだと思うが?
>>612 安本はもともと自説じゃないだろ。
東大と京大だったかの天文学の教授の計算を引用しただけ。
ていうか、みっともない中傷はやめれ!
君は以前寺沢一派と自称した人だろ。
638 :
サガミハラハラ :2009/04/10(金) 23:19:14
>>618 種子島通貨は青線となっておりますが、これは部分日食なのでしょうか。
アスキー社製ステラナビゲータでは宮崎でも結構欠けておりましたが。
639 :
サガミハラハラ :2009/04/10(金) 23:29:41
通貨は通過の書き間違いです。 <どうやってもすり合わせは無理> ですから、文献(日向風土記)に降臨の時に日蝕現象がみられたとあるからです。 ですからすり合わせができるのです。 つまり、41年説を仮に捨てたとしても、宮崎でかなりの食がみられた日蝕をかなり古くまでさかのぼってその中の一つが 降臨の時の日蝕だとなるわけです。皆既とはかぎりません。
日本語でおK
642 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 00:08:05
日蝕はいつかわからないけど あったでしょう 太平洋に海岸線のほとんどが接している宮崎県だと 朝日の日蝕はあざやかだっただろうね
天文学スレで聞いてみたら 安本説は馬鹿にされたけどな。 たしかに、NASAの推定値が絶対に正しいかどうかは分からないけど 少なくとも、そこに書いてある推定値は、まだ正確に近いらしい。 安本説も、サガミハラ説も、全く成立しないわけで。
>>639 部分日蝕ぐらいなら、欠けているかどうかなんて
古代の人に分かりにくいだろう?
今の時代は、前もって観測があって
待ち構えているから、部分日蝕でも騒動になるが
>>606 もし アマテラス=推古 説をとるなら
アマテラス=持統 説における藤原不比等の役割(=高皇産霊神)
は蘇我馬子になるわけなんだなwwww
アマテラス神話に、推古天皇が影響したのかもしれないが でも、アマテラスが推古天皇と同一人物なんてことはないね。
前記「持衰」のように、霊力の衰え等で、卑弥呼を難升米ら有力豪族?が殺したとすれば、 それは魏の属国王に対する反逆となるんで、張政らの報告で懲罰軍をさし向けても不思議 はない気がする。少なくとも倭人伝には経緯を記すのではないか。 そうでないのはやはり自然死か、さもなければ司馬氏の手がからんでいるか・・・武光誠氏 は、この司馬氏謀殺説を書いているが・・・ムリだよなあ・・・。
>>643 640だがNASAの推測が、安本の使ったソフトよりも
圧倒的に精度が高いのは確定。ここは疑う余地なし。
もはや議論する価値がない。
纏向では、毎年一つ建てたのではと疑われるくらい、 小さく (2m四方と5m四方) 土抗を伴い 土抗には下から籾殻、木製高杯/舟形木製品/水鳥形木製品、漆塗皿/箆/籠 その一部は焼けている という建物の柱跡が見つかっていて、 持衰的な巫女を閉じ込めていた可能性がないでもない。
650 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/11(土) 07:10:08
面白いね、暇にも見ていったw 日食が神話に入り込んだとしたら、以下のものかな。 http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0141.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0161.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0261.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0301.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0441.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0521.GIF http--eclipse.gsfc.nasa.gov-SEatlas-SEatlas1-SEatlas0641.GIF 天の岩戸は、どこかの火山が噴火して数年にわたり太陽がかすんで寒冷化し かなりの大飢饉に襲われたのが大元の話で、それに日食の話が後からかぶさって 今のような話となって伝わっている、のだろうと私は思っています。
651 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 08:20:00
>>650 ちゃんとしたURL貼ってちょ
開かない
654 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 13:51:20
西暦273年の日食より素晴らしい日食は?
655 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 14:05:47
>>652 い
く
ら
な
ん
で
も
早
す
ぎ
だ
馬
鹿
656 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 14:13:27
アマテラスの年代 日食でわかるか?
日本書紀卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇 卅六年春二月戊寅朔甲辰(27日)天皇臥病。 三月丁未朔戊申(2日)日有蝕盡之。 壬子(6日)天皇痛甚之不可諱。則召田村皇子謂之曰。(中略) 癸丑(7日)天皇崩之。時年七十五。即殯於南庭。 「日蝕え盡(尽)きたり」とあるが、現代の計算では食分0.92とのこと。 推古天皇の死は老衰ではなく、前日まで激しい痛みがあり、意識があったらしい。 当時の人々には強烈な印象を与えただろう。
推古女帝に関しては、隋書倭国伝の裴世清謁見の記述等から非実在説もあるが、豊御 食炊屋比売命 時代の人間的というかエゴイスティックな行動から俺は採らない。このあたり 私見はあるが、またスレ違いといわれるので自粛。 女帝は生前譲位が原則であり、推古帝はそれに反したため上記のような死の描写となった という説もあるね。
>>647 >前記「持衰」のように、霊力の衰え等で、卑弥呼を難升米ら有力豪族?が殺したとすれば、
>それは魏の属国王に対する反逆となるんで、張政らの報告で懲罰軍をさし向けても不思議
>はない気がする。少なくとも倭人伝には経緯を記すのではないか。
魏は卑彌呼を親魏倭王とし、詔書と金印などを下賜しました。
ところが正始六年(245)の詔で(卑彌呼でなく)難升米に「黄幢」を与えるとした。
正始八年(247)塞曹掾史張政によって難升米に詔書と黄幢が渡され「檄」で「告喩」されます。
この間、半島では韓族の反乱、帯方郡太守弓遵の戦死、新太守王[斤頁]の着任という混乱があった。
倭では狗奴国との戦いがあったというが、具体的には書かれていない。
卑彌呼の死、その後の騒乱を経て壹與の即位後、張政は壹與を「檄」で「告喩」した。
どうも、魏は難升米を倭王にしたがっていたように思えてしまうのだが?
そりゃ中国的に女王はないでしょ。
>>659 続き
245年にすでに卑彌呼は亡くなっていたという解釈もあるようです。難升米は、言わば倭王臨時代理?
662 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 16:10:27
倭王や王亡き後の臨時代理が危険を冒して玄界灘を越えるようなことはしない。 難升米はいわば全権代表小村寿太郎と見るべし。
>>662 ? 難升米が玄界灘を越えたのは238(239)年だけですが?
卑彌呼は伊聲耆掖邪狗等を派遣した正始四年(243)までは間違いなく生存していた。
664 :
ローガン :2009/04/11(土) 16:30:29
>>659 > 卑彌呼の死、その後の騒乱を経て壹與の即位後、張政は壹與を「檄」で「告喩」した。
こんにちは! 何故13才の女の子に「檄告諭」したんでしょう?理由は王だから、としか考えられませんね。
しかし王に対しての檄告諭は卑弥呼にも男王にもされていない。
張政等来倭時に既に王は壹与だったのでしょう。
658です、スマソ。対 狗奴國戦争の経緯や結果が詳しく書かれていないのは疑問の一つ ですね。弱い狗奴國にかこつけて、朝貢答礼品がまたほしかった?(冗談です)
ローガンさん、こんにちは。 >張政等来倭時に既に王は壹与だったのでしょう。 いや、まず難升米に告喩していますよ。 男王=難升米の可能性が高いと思います。
667 :
ローガン :2009/04/11(土) 16:53:19
>>666 > いや、まず難升米に告喩していますよ。
はい、自軍の中郎将ですからね。それに難升米に対しての行動は、六年の詔を施行する際の流れでしょう。
出兵要請だと思います。
難升米・・この読み方が問題ですね。 実は、難升米と書いて「カゴメ」と読んだのです。 カゴメとはダビデの星、つまり古代イスラエルの 失われた10支族の一つガド族の末裔が建てた国 それが邪馬台国だったのです。
>>667 出兵要請? 半島にですか?
すると、縦目さんの疑問にもつながってくるが、狗奴國との戦いは半島出兵を断る口実ということ?
ありうるかも。
対 狗奴國戦争の結果が詳述されていない原因として、 @ その後の描写で邪馬台国が勝ったとわかるから省略した A 単に資料がなく、陳寿が書けなかった B 晋朝に不都合な事実があって、陳寿が筆を止めた・・・例えば ・魏の後ろ盾にかかわらず邪馬台国が負けた(晋は魏からの禅譲で立った) ・東夷の争いに介入しようとして成功・失敗した(どっちでも書かない気がする) 常識では@かAすよね。Bはトンデモへの道・・・?
>>670 さらなるトンデモ説
C 狗奴國戦争など無かった
女王に属さず「不和」であったことは事実だが、「説相攻撃状」つまり、単なる伝聞記事。
倭が出兵できなかった言い訳をしたので、魏が怒って「檄・告喩」した?
672 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 18:01:05
>>教科書に書ける内容を投稿して頂戴 ず、日本に曲がりなりにも古記録が残っているのは記紀の天皇家のみ。 従って、邪馬台国が畿内でなければ卑弥呼が誰かは論じられない。 魏志倭人伝の投馬国はツマでイツマのイが欠落したもので出雲のことであろう。 また、卑弥呼の派遣した大夫難升米・次使都市牛利や大夫伊声耆・掖邪狗は 難升米(但馬)、都市牛利(出石心)、伊声耆(五百木)、掖邪狗(屯倉)とも考えられ いずれも今の兵庫県豊岡市界隈の人ではないか。よって、邪馬台国は畿内にあったのでは。 次に、官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テイと日う。 これを伊支馬(活目 垂仁)、(観松 孝昭)、彌馬獲支(御間城 崇神)、奴佳テイ(仲 仲哀)と解するなら 勘違いして天皇家の系図を述べたとも思われるが、彼らは卑弥呼を共立した諸王ではないか。 しかも、イクメ(美作国久米ク)、ミマ(後世の美作のミマか)、仲彦(吉備氏にも同名の人がいる)と 著しく吉備国出身者に偏っている。この場合、卑弥呼は倭姫命ではないか。しかも、元々 大和の人で垂仁の娘ではないのではないか。卑弥呼の「年已に長大なる」にあわない。 また、伊支馬(活目入彦)、彌馬升(御間津彦)、彌馬獲支(御間城彦)、奴佳テイ(仲彦) と解したら 何やら崇神の息子たちのような名前で この場合の卑弥呼は倭迹迹日百襲姫で男弟は彦五十狭芹彦で男子一人は崇神になるのであろう。 崇神は今で言う内閣官房長官か。卑弥呼も男弟もそれなりの年齢で、崇神に実験が移っていたか。
673 :
ローガン :2009/04/11(土) 18:03:53
>>669 >狗奴國との戦いは半島出兵を断る口実ということ?
はい。そして八年もしくは、それ以降の早い段階で、卑弥呼でも男王でもなく、倭王は壹与だった…
張政等の滞在期間は短いもので、卑弥呼の墓が未完成のうちに離倭したものと思います。
674 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 18:07:56
邪馬台国が畿内にあったなら、記紀の神話や地名が九州に隔たってるのはなんでよ ヤマトと邪馬台国は関係がないからか?
675 :
よこやり :2009/04/11(土) 18:24:27
>>674 倭人伝の行程を辿ると、
奴国が、福岡県の甘木に想定される
邪馬台国の主要メンバーは、奴国から来たんじゃないかな
>>673 正始六年の時点では女王は卑彌呼でしょうね。
難升米に詔書・黄幢を授けるよう命じられた帯方郡太守弓遵は戦死、新太守王[斤頁]は倭に使者を送るが
「狗奴国が攻めてきてそれどころじゃない」と断られる。
正始八年、困った王[斤頁]は上洛して指示を仰ぐ・・・という流れか。
>>671 続き
縦目さんの分類でいうと、@に近いと思われます。
@´その後の描写で大した戦争ではなかったとわかるから省略した
これなら常識の範囲内?
678 :
ローガン :2009/04/11(土) 18:41:31
>>673 ついか。墓は未完成ゆえ、肝心の墳高が記録されなかった。
うーん・・・倭 属国化に功績のあった司馬懿に対抗して、曹爽らが密かに狗奴國を応援し たという説もあるにはあるんですが・・・物的証拠は皆無すね。
>>678 >墓は未完成ゆえ、肝心の墳高が記録されなかった
おや、これは定番の「墳と冢」論争でしょうか。
「墓は未完成だった」の根拠はありますか?
>>679 呉が狗奴國を応援したという説もありますね?
682 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 19:17:37
倭王は壹与だった…ら 卑弥呼の死亡前に登場、更に男王を立てる前に登場で 上手くない。
683 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 19:36:59
正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 この時 魏王は、倭王による大倭国統一を要請した。 狗奴國との戦いは、その要請を受けた倭王と倭女王の連合軍により遂行される。 この戦の途中で、卑弥呼、男王が亡くなる。
スマソ 2回同じのをコピペしました。>京都府の大田南5号墳 (なし)
686 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 19:58:21
なんかこのスレ眺めていると(一時期書き込みした時もあるが)、同じことを延々と 書いているだけにしか見えない。まったく進展がなというか、この板の住人は本当に 邪馬台国がどこにあったのか知りたくないのだろうか?とさえ思う。 その典型が大和説と九州説や南九州説の対立である。はなっから自説と違うと 聞く耳を持たない。教育委員会(地方の自治体)と同じである。 妄想をお互いが膨らませて、それで自己満足するだけであれば「それでいいんじゃないの?」 ということになるが、そうではない人はこの論争を不可解な言論と見ているだろう。 私もその一人である。
687 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 19:59:14
魏志倭人伝の多義的文言、筆法的書き方は今更どうしようもなかろう。 それを踏まえてどう学問するのかが問われている。 考古学的に実証していく方法と史料的に考証していく方法とが 常道であろうが、どちらの方法にせよ学問的な裏付けを積み重ねて、 一つづつの事象を確認していくのが相応しかろう。 しかしながら、邪馬台国研究の実際は、学閥的に左右されたり、 郷土愛的な先入観を第一義にしてみたり、観点に特許を導入して 他の論者の介入を斥けてみたりの凡そ非学問的学問作法論法が横行している。
688 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 19:59:58
もう一つ大事な方法がある。それは、考古学的実証にせよ 史料的考証にせよ、研究成果の共有と解釈方法そのものを 共同構築していくことが肝要ではなかろうか。 勿論、異説を許容しつつの共認化を求めねばなるまい。 邪馬台国研究のお粗末さは、この面が積み木崩しされて しまっており生産的になっていないことにある。 いわばお互いが得手勝手に自己の信ずる見解を披露するばかりで、 論を蓄積して焦点を精密化するという研究作法が定着していない。 人文科学の世界のことであるからある程度は仕方ないにせよ、 それにしても度が過ぎているように思えるのは私だけだろうか。 これらから気づくことは、従来の邪馬台国論の論争の仕方そのものが 問題なしとはしえないように思われるが如何であろうか。
689 :
ローガン :2009/04/11(土) 20:45:24
>>686-688 >>672 と同じ人?
2ちゃんねるですから、最低の礼儀をわきまえれば勝手に言い合ってよいと思いますが?
学問の最前線で頑張る人は別にいるわけですから。
その人たちでさえ結論が出ないブラックホールのような問題でしょう?
ここで本気で終止符を打とうと思っている人はいないと思いますよ。
私としては、少しでも真実に近づいていけたらいいなという程度。
他説に聞く耳も持たないということはありません。
691 :
日本@名無史さん :2009/04/11(土) 20:46:34
>>686 タマに君のような方が来るんだが、
一律して『貴方には向かないスレなので、お引取ください』
としています。
692 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 20:59:15
朱儒國というのは、「屋久島」・「種子島」。 裸國・黒歯國というのは、「小笠原諸島(或いは、沈んだ島)」。 もっと反論あってもいいと思うんだが?!
学者が派閥関係なしに、考古学も文献史学も民俗学も共同して先入観なしに研究にあたる のは、たぶんよいことだし、そのほうが研究が進むだろうが・・・大学単位、研究所や資料館 単位の研究による弊害はよくいわれてることだし。 ただ2chはいつも同じ人が書いてるわけでないから繰り返しはしょうがないし、俺敵には 日ごろの稽古の成果を試合(剣道)で確かめるようなもんかな。レスがダメだったら無視され たり批判食うだろうし。
694 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 21:04:44
>>555 愛知県民さん
>すべて倭人の国なら、「皆倭種」と書く必要がないはず。
>侏儒族・裸族・黒歯族は情報が少ないので、独立した条を立てず、倭人の条に書き込んだのでしょう。
>倭人は彼等の国に航海して、その情報を持っていたのです。
>自朱儒東南行船一年、 至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。(後漢書)
裸國、黒齒國が連合国ではないというのは分かりました。
しかし、ニューギニアで本当にいいんですか?
>>559 九州王朝さん
>『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種』
>「復」ですから、女王國の様な国家集団がもうひとつあり、それらの国々は全部倭人の国である。
>の意味です。 「又」とは意味が異なります。
「復」ですね。了解...しかし、裸國、黒齒國ははワイではありません。
695 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 21:32:25
侏儒族とは 朱子学、儒教の元となる道教の発祥地、青島である。
>>689 >卑弥呼の墓の記録で墳高が記されなかったのは、未完成だったからと考えるのが最も自然な解釈でしょう。
未完成であればそのように書くでしょうし、「徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」も書けないと思いますが?
高さで表現しにくい形式の墓だったと思われます。
698 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 21:57:26
歴史の沿革 青島は歴史文化で有名な都市であり、道教の発祥地である。6000年前には既に人類がここで生活、繁栄していたとされる。 東周時代には、山東地域で2番目に大きな町・即墨が建設された。秦の始皇帝は、中国統一後、青島膠州市の琅?台に三回登っ ている。秦代には、徐福が船団を組み、琅?台から朝鮮、日本に渡った。漢代の漢武帝は現在の青島市城陽区の不其山「交門宮詣で」 を行い、あわせて膠州湾畔女姑山で先祖を祭り、立明堂を九か所建てた。清朝末年、青島は既に繁栄した町になっており、 かつては膠澳と呼ばれていた。
699 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 22:09:29
陳舜臣 中国五千年史地図年表 に依ると 前漢、青島にタン耳郡、珠ガイ郡あり、後漢時代朱崖州 梁時代、崖州、珠崖郡
労山あたりが道教の聖地であることは知ってます。侏儒が朱子学、儒教の略であることは 知りませんでした。中国考古学専攻の縦目は非常に興味があります。そこを詳しく!!
701 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/11(土) 22:27:45
>>698 は現在の 中国青島市のページより書き写し。
これ以上何もでない。
侏儒は、「こびと」の事でもある多分青島辺りに背の低い民族がいたのではなかろうか?
702 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 22:31:28
卑弥呼の墓??
ははあ・・・俺はてっきり芥川龍之介の「侏儒の言葉」などにも深い意味があるのかと思って しまいました。
>>694 >ニューギニアで本当にいいんですか?
いや、正直分からないです。
船行一年という表現が分かりませんので。
「水行二十日」は「水行十日」の二倍と考えてよいでしょうが、「船行」という表現はここだけです。
大陸以外で一年も沿岸や河川航行を続けることは考えにくいので、帆船での外洋航行が含まれるでしょうが
古代の帆船は風向きに大きく左右されます。
手漕ぎの船で歩行とあまり変わらない速度として単純計算すると
一年では長里の一万八千里=七千キロ余。
しかし、こんな計算に意味がある?
>>695 侏儒が青島なら、シナ本土ですよね。何故東夷伝に入っているんでしょう?
705 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 22:43:00
>>562 九州王朝さん
>「船行一年」は船で行けば1年かかる距離の意味ではありません。
>「船行一年」は倭人の海上における距離単位です。
>数百km位の距離かも知れません。
それはあなたのいうとおり、倭人からの情報でしょう。
しかし、いまだに、「数百km位」とかいってるのでしょうか。
もっと1日というのはこれくらいとか分析したらどうでしょうか。
706 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 22:49:57
>>566 九州王朝さん
>侏儒國、裸國、黒齒國は、日本列島内か、太平洋上か、はたまた中南米あるのかはわかりません。
>倭人でないことは確かです。
倭人は住んでないのかもしれません。
>>584 ローガンさん
>皆さんスルーしているようなので … あえて。
>朱儒國が屋久島種子島として、四千里北の倭種の國は何処? その西、海を渡った千里の女王國は何処?
貴方の考えではどうなのでしょうか?
>>616 サガミさん
>天岩戸の話は日蝕のことではありません。(ではなんだといわれても、今のところわかりません)
>しかし、日向風土記における天孫(天神)降臨時の日蝕の話は事実であり、AD41年4月19日の夕方に種子島を通過した日蝕
>のことをしるしているのです。
AD41年4月19日の夕方、宮崎県はどうだったのでしょうか?
707 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:00:14
>>604 >安本の皆既日食説云々は、安本本人ですら
>恥ずかしくて無かったことにしようとしているのに...
へえ それはどこからの情報でしょうか。
>>659 >どうも、魏は難升米を倭王にしたがっていたように思えてしまうのだが?
難升米は「長官」と昔わたしと話ませんでしたか?
倭王は、あくまでも卑弥呼ですよ。
難升米は「官」と「長官」ということ。
708 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/11(土) 23:02:03
>>707 >倭王は、あくまでも卑弥呼ですよ。
卑彌呼が生存している時代は勿論そうです。
>>708 >畿内だと、146、158、522、641、653年の日食の何れかという事になるでしょうか。
すみません、西暦を書いてなかったですね。628年です。
>>704 続き
順調な外洋航行で計算すると、2倍で1万5千キロ程度か。
すると南米(エクアドル、ペルー)までの距離がふさわしい。
縄文式によく似た土器や、日本人とのDNAの類似も言われているし、
トンデモでもないかもしれない。
711 :
サガミハラハラ :2009/04/11(土) 23:21:59
>>706 アスキー社製のステラナビゲータによれば、宮崎市では日没近くからかけはじめますが、9割がたかけて日没時には少し復活してきます。
712 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:27:57
>>659 >>709 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王 國中遂定
この「男王」にも意味があるのでは?!
難升米を立てたのなら、
更立難升米 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王 國中遂定。
713 :
ローガン :2009/04/11(土) 23:33:24
>>696 > 高さで表現しにくい形式の墓だったと思われます。
意味がわかりません。冢ですよ。始皇帝陵も冢。「 表現しにくい」とは高すぎてわからないって事?
714 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:35:09
「東夷伝 倭國 日本」 倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通 一年が南米ですか?
715 :
ローガン :2009/04/11(土) 23:39:34
>>706 > >朱儒國が屋久島種子島として、四千里北の倭種の國は何処? その西、海を渡った千里の女王國は何処?
> 貴方の考えではどうなのでしょうか?
いえ。質問しているのは私です。とりあえずお答えをいただきましょう。
>>710 篠田謙一 氏の本ですかね。読んだけど難しくて理解度は70%w。どうやらアフリカのイブ
仮説(現代人の ミトコンドリアDNAの 系譜を遡ると、十数万年前の アフリカの部族集団に
たどり着き、その部族の女性を象徴的にアフリカのイブと呼ぶ)は正しいらしいんで、アフリカ
から南米経由で日本列島にも人類が広まったという話。しかしこれは人類の拡散経路の
ことで、倭人伝のはるかはるか以前のことでないすか。
>>712 >更立難升米 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
いや、そう書かないところに意味があるのでは?
魏の意思が倭国の人民によって否定されたのですから。
壹與即位後は難升米が出てきませんし。
718 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:47:33
>>715 >朱儒國が屋久島種子島として、四千里北の倭種の國は何処?
倭種は「四国」を指してるわけですが、
久島種子島として、四千里北は女王でしょう。
貴方、質問がおかしいの分かってます?
> その西、海を渡った千里の女王國は何処?
四国でしょう。んで、ローガンさんは「どのような考えなのでしょうか。
>>713 >「 表現しにくい」とは高すぎてわからないって事?
普通に考えれば、低すぎるほうでしょうね。
>>714 意味が分かりません。
「一萬四千里」と「東西五月行 南北三月行」は無関係です。
720 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:51:53
>>717 ん?
男王としか分かりませんけど、
もし、難升米 が立ったのであれば、
文章的におかしくなりませんか?ということです。
>>717 日本書紀に 崇峻天皇の弑逆いらい、蘇我馬子の名が出なくなったようなもんですかね?
722 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:54:38
文章がおかしいのは私か(笑)
>>718 は、
倭種は「四国」。
種子島から北へ、四千里は女王国。
ということです。
723 :
ローガン :2009/04/11(土) 23:56:33
>>718 何をいってるの?
九州説なんだから方角を大事に。拠り所なんだから。
724 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/11(土) 23:59:44
>>720 難升米が男王でもおかしくはないのでは?
難升米が女性だったのでなければ。
>>716 私も聞きかじりなので・・・
ご指摘ありがとうございます。
前にリンク貼ったけど、弥生人北九州タイプは男性は162cm〜164cm、女性は150cm程度、 弥生人南九州・南西諸島タイプは、身長は著しく低く、男性で153cm〜155cm、女性では143cm ほど、という研究もあるんで、改めさんの説もまんざらでないかも。まあ、俺的にはサンプル数 が少ない気はするが。
文章上は「男王」としか分かりません、それは確かです。 ただ、それまでの経緯から見て、難升米の可能性が最も高いように思われるだけです。 状況証拠しかないので、裁判では有罪にできないでしょうね。 この件は「参りました。」
>>725 いや俺も自然科学はほんとにダメなんで、知らず知らずデタラメ書いてるかも。
729 :
ローガン :2009/04/12(日) 00:23:15
>>724 侏儒國在其南…
「其」は女王國ではないでしょう。直前の「東渡海の倭種」
四国とすれば愛媛か高知、南に屋久島はない。
其を女王國とするなら「去女王」はいらんでしょう。
上にも書いたけど、崇峻事件以前は、馬子宿禰大臣と書いてたのが、事件後はただ大臣 としか出てこなくなって、馬子=厩戸同一人物説の根拠とかになってて、さすがにそれは と思うけど、歴史は何があってもおかしくないっていうか、実はトンデモと紙一重の部分が あるんですよね。
>>730 日本書紀を「馬子」で検索したら、推古天皇の即位前紀の次は大化元年(馬子死後)
へーえ・・・これは知りませんでした。面白いですねえ。
732 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 00:54:57
>>726 宮崎県南部の墓制である地下式横穴墓からは、人骨が出てくるのだけど、
それによると、男の平均身長は、157cm程度。女は、149cm程度となっている。
なんか微妙な数字だなあ。
なお、顔は、縄文人の特徴を持っているらしい。
弥生時代といっても長いんで、これらの統計はほんと難しいんですよね。現代でも、1910 年の高3相当男子の平均身長が159cm、女子が149cmくらいで、百年で10cm程度伸びてる。 弥生時代は食い物の変化はほとんどないだろうっていわれはするんですけども。
734 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/12(日) 08:09:31
>>716 >>アフリカから南米経由で日本列島にも人類が広まったという話
南米経由などトンデモ説でしかないなw
普通はトバ事変以降(7万年前)アラビア半島からインド、ジャワ(スンダランド)を経て
オーストラリアや中国・日本(1.5万年前)。中国には中央アジアを通って来た人々も想定されている。
ヨーロッパにはアラビア半島から向こうへ。北南米には氷期の終わり(1.2万年前)にシベリア陸峡を通って
広がったとされています。
アフリカから南米に文化の伝達があったことは疑いがたいですが、南米から日本へというのは眉唾。
倭人伝関連で南米に縄文土器に似た〜という話も、向こうから戻ってこれたのか疑問。
>>朱儒国=小人国
種子島かどこかの島の遺跡で、身長の低い人の骨の遺跡ってのが見つかっていませんでしたっけ?
まぁ低いといっても150cm程度だった気がしますが。
>>朱儒国=小人国 関東から東北にかけて、コロボックルの国があった。
736 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/12(日) 11:04:38
>>朱儒国=小人国 神武前記 高尾張邑有土蜘蛛。其爲人也身短而手足長。與侏儒相類。 侏儒の生息地は、この辺が東の限度 青島の道士を侏儒道士と呼ぶ、転じて小人を侏儒と呼ぶように成った。 云われは有りません只の推測。
737 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 11:05:52
>>690 >686-688
>672 と同じ人?
違います。
672は
>>7 >どうでもいいけど、教科書に書ける内容を投稿して頂戴。
>僕は期末テストで落第したくない!
>事実だけを書いて下さい。
への返答のつもりで書いたもの。引用方法、時期も不適切でした。
>686-688の方は基礎学力がしっかりした大学の先生でしょうか。
>686-688 この先生?このスレの性格が全く分かっていないようですね。わろた。 要するに、邪馬台国について好きなことを書いて立ち去るスレなのに。
739 :
改め :2009/04/12(日) 11:10:49
>>725 >難升米が男王でもおかしくはないのでは?
>難升米が女性だったのでなければ。
おかしいですよ。
何でそんな大事なことかかれてないんですか?
>>739 おかしくはないと思いますよ。男王は男王。
男弟、唯一人の男子、あるいは他の人か・・・
掖邪狗は明らかに除外されます。
741 :
改め :2009/04/12(日) 11:35:56
>>726 >改めさんの説もまんざらでないかも。まあ、俺的にはサンプル数
>が少ない気はするが。
>>727 >改め説知ってるんですか?!たbぬん知らないかと・・・。
>それに、サンプルてなんでしょうか。
>文章上は「男王」としか分かりません、それは確かです。
>ただ、それまでの経緯から見て、難升米の可能性が最も高いように思われるだけです。
>状況証拠しかないので、裁判では有罪にできないでしょうね。
妄想では?!
>>729 >侏儒國在其南…
>「其」は女王國ではないでしょう。
後漢書みました?
九州説のひとは倭人伝言葉遊びから脱却しないとね。
743 :
改め :2009/04/12(日) 12:30:21
744 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/12(日) 12:30:49
畿内説は、 更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千人 復立彌呼宗女壹【臺】與年十三王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 を説明せねば成らない。
>743 :改め :2009/04/12(日) 12:30:21
>
>>742 畿内せつは相手にされないww
しかしこうやって
「九州説マンセー」
やってる奴がスレ主気どって仕切っているスレってのもなあ。。
746 :
改め :2009/04/12(日) 14:58:33
>>745 畿内説の人かな?
万二千里こたえれないでしょ?
>>734 俺は自然科学わかんないから、本の内容紹介しただけ。しかもこれは人類学でなく、生物
科学の本。
>>741 >朱儒國というのは、「屋久島」・「種子島」。こう書いてたんじゃないの?それ以外なら、
知らない。サンプル数・・・調査対象となった遺骸の数。
>>741 横ですが・・・
後漢書みました? というと、畿内説から反撃されそう。
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種、而不屬女王。
拘奴國が東なんですよね。ほら!南と東が違うぞ!ってw
魏志では倭種と狗奴國は別のように書かれています。
原資料が見れればいいんだけど・・・
魏使は狗奴國へは行ってないし、戦いがあったかどうかも分からないので
この違いはさほど重要とは思いませんが。
749 :
改め :2009/04/12(日) 15:23:20
>>747 「遺骸の数」
残ってたら奇跡!!
>>748 記されてるとおりに解釈するべき。
後漢時、と魏時は違うわけだし。
750 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 15:27:22
>>746 ドツボ
>万二千里こたえれないでしょ?
いい歳したおっさんがら抜きと言うのはいただけないがw
一万二千里?
そんなもん蛮夷朝貢国は一万里以上の彼方にあるという建前から来るもので
別に拘泥する価値のある数字でもなんでもない。
じゃあ逆に聞くがその数字をどうやって計測したんだよ?w
累計の距離がきちんと出ているのなら何故途中から日数に表記が変わるんだ?
…それからスレ立て早すぎ。
恐らく自分が週末にしかネットができないとかの都合だろうが
お前の都合なんか知った事ではない。
スレ主気どるならきちんとしたタイミングでスレを立てろクズ!
752 :
改め :2009/04/12(日) 15:32:39
>>750 >一万二千里?
>そんなもん蛮夷朝貢国は一万里以上の彼方にあるという建前から来るもので
>別に拘泥する価値のある数字でもなんでもない。
その答えだと、ただ逃げているだけ。
現実に記されてることを「うやむや」にしてるだけ。
「途中から日数」
ちんじゅさんの筆法だって以前説明したでしょ。覚えてないのかい
753 :
改め :2009/04/12(日) 15:35:13
畿内説って都合の良いところだけ文献無視して、 文献にない「奈良に古墳が多数ある点」を邪馬台国の根拠にする、 暴論ですから、何でもアリかと・・・
755 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 15:42:24
>>752 ドツボ
だったらその数字が正しい事を証明して見せろって話だなw
随分キリのいい数字だが誤差は何パーセントぐらいだい?
その誤差を検証する上でも測定方法ははっきりしなくちゃなw
逃げるなよwww
以下繰り返しておく
>…それからスレ立て早すぎ。
>恐らく自分が週末にしかネットができないとかの都合だろうが
>お前の都合なんか知った事ではない。
>スレ主気どるならきちんとしたタイミングでスレを立てろクズ!
756 :
改め :2009/04/12(日) 15:47:13
>>755 答えれませんでしょ?
畿内説の奴って、行き詰ったら関係ない話したがるよね。
757 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 15:52:54
>>756 ドツボ
ん?
勝利宣言したかったらきちんと積算根拠と言うか
その測定方法もきちんと説明してからにしろ
「書いてあるから是」じゃあ宗教と変わらないw
距離のみならず戸数や方角をどのように計ったのか個別に検討すべき。
まあ方角については太陽や北極星云々は喜んで語りたがるのが九州説なんだがwww
ローガン氏の「墓は未完成」論はちょっとw 墓が未完成で高さだけ省略。 前方部も後から追加で省略。 ちょっと都合よすぎかと思いますが? GRRR・・・
倭人伝を尊重して大事に読んでる人が多いようだから、「放射説」とか「至」の解釈とかに は俺は口をはさまないようにしている。 しかし一方、倭人伝についてはプロが百年以上も研究して答えが出ていない以上、原文の 批判なしには、正確な情報を抽出できないと思ってる。 @倭人が間違えたり、不確かなことを言ったり、ごまかした可能性。 A通詞、あるいは魏使が誤解したり、自分の都合のいいように解釈した可能性 B陳寿が、晋代の概念に沿って書き換えたり、資料が混乱した可能性 これらがそれぞれ10%あるとして、信頼度100の情報がどこまで低下するか自分で計算 してみればいい。しかも@〜Bは、原文批判でどうにかなる性質のものは少ない。だから 俺は、「持衰」とか「記紀」とかからアプローチしてる。考古学でもいいんだが、それは考古板 でやる。
760 :
改め :2009/04/12(日) 16:01:33
>>757 自郡至女王國萬二千餘里
萬二千餘里て書いてある。
よって、畿内ということは絶対にナイ。
>>759 >しかし一方、倭人伝についてはプロが百年以上も研究して答えが出ていない以上、原文の
>批判なしには、正確な情報を抽出できないと思ってる。
人って全員が全員頭が良いわけではないので、そうなりますわ。
九州で決まりデス。
761 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 16:02:18
>>759 変態仮面
まあヨコからだが…
そんな事をこの板の九州説の連中に言っても殆ど無駄。
例えるならば…
ウォーシミュレーションゲームに興じている連中に
「いや実際の戦争はそんなヘックスで構成されたマップをユニット進めたら良いだけの単純な物じゃない」
といっても無駄なのと同じ。
そう言う前提・ルールのゲームなんだからwww
魏志倭人伝と言う単一史料のその情報の正確さなんて言い出したら
ゲームが成り立たないwww
>>761 変態は勘弁してくれw。縦目は古代蜀の王、養蚕の神だぞw。
それは俺もわかってるんだが、あまりに幼稚なことをレスしてくるんで、ついな。
763 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 16:07:12
>>760 ドツボ
>萬二千餘里て書いてある。
結局「書いてあるからそれが真実」と信者がドグマを繰り返しているに過ぎんなw
まあ「そこに間違いは無い」と仮定する方法はありだろうが
所詮仮定どまり。
証明手段も持たないのに
それで他説を否定する根拠にするのは
もはや正気ではないって話だなwww
764 :
改め :2009/04/12(日) 16:15:10
畿内説の人て面白いよね....。 間違えてる可能性があると言ってるのに、 邪馬台国・卑弥呼の存在は信じるんだね。
765 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 16:21:45
>>764 ドツボ
出た出た九州説論者のアホ理論w
じゃあ何か?
お前の脳味噌の中には「全て正しい」か「全て間違い」かの二択しか無いのか?w
景初年間に邪馬台国と言われた国から朝貢があったのはまあ事実だろうというのは
他の中国史書からの信頼性だな。
それと日本の地理情報を同列に扱う必要は無いと言うか
普通なら分けて考えるw
766 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 16:26:50
>>765 畿内ではナイと分かっただろ?
一つ勉強になって良かったんじゃないの。
>>759 >倭人伝についてはプロが百年以上も研究して答えが出ていない
江戸時代のほうが自由研究されていたが、明治になって思想統制がかかって、
かえって研究が後退した。
また近年では1970年以降、全国で土木工事が増えて考古学調査が進んでいる。
768 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/12(日) 18:41:48
倭女王の都と倭王の都は別である。 この辺を一つにして考えてきた100年、←ここに正解は無い。
769 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 18:52:38
>>765 764ではないが、この「www」を生やしていて文面から明らかに九州説を否定しているようだが、
方角が間違っているという仮説に対して説得力のある根拠を言ってみなよ。
わしは北九州説ではないと思うが。
あんたの言い分だと方角が間違っているということだが、
倭人伝のすべての方角が間違っているとすれば、矛盾だらけになるだろ。
それともあれか?一部だけ方角が間違っているというのか?
そのようにね、自分に都合の良いように解釈するのが畿内説。
九州説(特に南)のほうが純粋で素直な解釈で整理できる。
770 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 19:19:16
>>767 明治以後の思想統制はそれをどの程度に捕らえるのかだが
江戸時代の邪馬台国論争つったら
もっぱら新井白石とか本居宣長ら国学者らの間で
行われていたって印象だが…
明治以後に後退したというのは流石に疑問だwww
>>771 わけわからんよな。なにがどうでも答えが出てないのに変わりはないのにな。
wwwはどうせ目立つからコテハンでやれば。
773 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/12(日) 21:41:02
もう、邪馬台国論争は ほぼ100%近く決着がついている。 邪馬台国=大和国 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命 で決まり。 こんなもんに、いつまで振り回されるのか? ちなみに、戦前は、本居宣長の主張にしたがって 邪馬台国九州説で決定だった。
>>771 国学者たちが、邪馬台国論争や記紀論争を
混乱させてきた経緯がある。
本居宣長や新井白石が変な思想を持ち込むから。
そして、興味深いのは、彼らは別に皇室関係者ではなかったということ。
そして、なぜか、そんな新興宗教みたいな国学思想が
明治以後の日本の国家宗教に格上げされたこと。
ちなみに、国学思想の前までは
京都朝廷では、邪馬台国=大和国とし、
高天原=葛城とされていた。
>>771 明治以後でも、学者の間では
邪馬台国論争は活発化していたよ。
ただ、学校の教育では、邪馬台国のことは一つも教えられてなくて
ただ、ひたすら、神武天皇からの歴史が教えられていた。
そして、戦前では、本居宣長が 邪馬台国九州説を押していたから、 そちらを国家としては、ひいきする風潮するがあった。
>>760 横だけど、萬二千餘里がホントなら九州にも収まり切らないんじゃないの。
779 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 23:44:48
>>778 万二千里は短里で考えるんだよ。伊都国から千五百里。
そこから女王国が始まるんだ。
780 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 23:46:50
箸墓は殉葬者は確認されたの? あ、調査禁止か
781 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 23:48:14
>>779 えーマジ短里!?キモーイ
短里が許されるのは中学生までだよねーキャハハ(AA略)
783 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 00:11:44
ほう、長里で考えるのか? 伊都国はどこに比定するんだ? 日向か?
784 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 00:25:52
邪馬台国九州説などを論じるとハニワが大爆笑するよ。
つか短里なんてなんの根拠もないって ニュー速wwのスレでめちゃめちゃに言われてたよ。
786 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 00:28:30
そのハニワみてみたいです。
787 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 00:32:51
>>785 アホが何かいったらそれに釣られるのか? 自分の頭で考えろよ。
伊都国をどこに比定するんだ?
江戸時代には九州元号が研究されていたのに、明治以降はさっぱり。 だからこのスレの畿内説論者みたいなのが増殖してしまい、今日に続いている。
789 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 00:52:42
ほんとに。宣長なんぞは倭人伝をまあまあ正しく読んでいた。ところが明治時代 になって天皇絶対の考え方が強くなり、大和以外に外国と交渉をもつ政治権力の 存在など考えられんという先入観でものを考える連中が増えてきた。 畿内説論者はその典型。学問とは遠い思考方法だが、そんなのが多いんだ。
>>789 あのなw むしろ、逆だ。
明治時代では、邪馬台国九州説のほうが、
皇室には聞こえが良かった。
なぜなら、卑弥呼が中国に朝貢したから。
皇室が中国に朝貢したなど、当時の明治政府には許されなかった。
九州説のほうが、はるかに国家主義的。
内藤湘南も、九州説論者を批判している。 九州説論者のほうが、はるかに国家主義的だと。
>>787 オイラは詳しくないから釣られてるのかも知れないけどさ、
そこでは三国志や算術書の記述から短里を導き出す手法に対して
方法論が間違ってるとか、天地がまったいらな世界観なのに
なんで地球の極半径使って計算してんだとか
突っ込みが入ってて、論争としては面白かったよ。
793 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 01:13:34
>>790 考えが浅いんだよ。九州説というのは大和のほかに、邪馬台国と称した政治権力
があったことを認めることになるんだ。近畿説というのは、それを認めない説。
どちらが国家主義的か、それが分からないようじゃどうしようもないな。
>皇室が中国に朝貢したなど、当時の明治政府には許されなかった。
では、内藤は何か、処罰されたか? いいかげんなことを言うんじゃないよ。
794 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 01:16:11
>>792 場当たり的な批判や屁理屈はいろいろ言えるさ。
長里というなら、伊都国の説明ぐらいは考えておけ。底が浅すぎるぞ。
>>794 魏とか晋の尺の長さは正史に書いてあるから
短里はダメだって、万里だ千里だつうのは誇張だと言ってた。
ま、詳しくは専門家にまかすw
>>793 考えが浅いのは、おまえ。
邪馬台国九州説は、本居宣長というバリバリの右翼が考え出した説。
これは、どうしようもない事実だ。
明治時代の日本では、邪馬台国九州説を押していた。
中国に朝貢したのが、天皇家の人間では、まずいから。
でも、皮肉なことに、そのバリバリの右翼が考え出した
邪馬台国九州説のほうが、日本の皇室の歴史を破壊し、
アジア主義の観点から主張していた内藤湘南のほうの邪馬台国畿内説のほうが
記紀の歴史的価値を高めようとしている。
全く皮肉なことだ。
797 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 01:59:06
右翼なんて概念の無い時代の時代の人物に 後の時代の政治信条なんて当てはめるな、アホか
だから、畿内王権独尊論者は 国粋主義に走った場合、邪馬台国=九州蔑視となり、 厭戦主義に走った場合、邪馬台国=畿内=日本に転向する。 これが現在の畿内説論者となって化けてるわけ。
799 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 06:46:51
畿内の古墳で、多数の殉葬者が見つかった例はあるの?
800 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 06:47:39
何とかの一つ覚えだな。九州説は国粋主義から出てくるわけではない。九州説は あくまでも倭人伝の解釈から出てくるんだ。邪馬台国は九州にあったというその 結論を、宣長は国粋主義の立場から理由付けをしただけだ。 もし倭人伝の解釈から大和が出てくるんだったら、彼はなぜ大和が魏と通交した のかを国粋主義の立場から説明しただろう(謙譲の美徳とかな)、それだけのことだ。
801 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 06:55:30
>>795 聞きかじりを信じていただけか?
直木大先生は短里を言っていたぞ。
802 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/13(月) 07:55:40
>>790 なんか苦しい言い訳と感じていたが、
>>800 を読んで納得したw
日本を作った天つ神の子孫だから神話時代に国譲りされ紀元前660年から日本を統治していたっていう
明治以降の天皇観が、三国志時代に邪馬台国がヤマト政権とは別の九州の1勢力だというのは、
どう考えても相容れないだろ。
>>792 >>天地がまったいらな世界観なのに
これは中世までのキリスト教的世界観だよ。
中国人やエジプト人はかなり昔から地球が曲率を持つことを知っていた。
>>795 暦韓国の7000里や韓伝の方4000里、3回の渡海の1000里、これらは魏の1里=440mでは説明できない。
ローカルな単位なのか誇張なのかは別として、一定の比率でほぼ正しい長さが書かれているので、これを短里と呼んでいる。
短里という考えを入れない場合、韓国どんだけ広いんだ?渡海400km超えx3はどこまで行くんだ?という話になる。
803 :
サガミハラハラ :2009/04/13(月) 08:18:09
>>795 はい、わたくし専門家です。早速お答いたします。
倭人伝の行路記事の里は周尺であり、1里=67.5mです。
これは箕子朝鮮時代につかわれていて、その時代の計測されたものです。
その記録を晋の図書館で閲覧した陳寿は、ほとんどそのまま倭人伝に引用したのです。
総万2千里は、西域国では万単位の国が珍しくなかったため、陳寿は漢魏代の距離としては大き過ぎるとは考えなかったようです。
よって換算はしなかったのです。
804 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 08:48:55
>>804 帯方郡から水行20日で投馬国(出雲国)
出雲国から水行10日で敦賀
敦賀から陸行1月で巻向
806 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 10:34:18
>>804 水行十日陸行一月は畿内説、九州説のどちらとしても可笑しい。
陸行一月は距離なら1000km前後ぐらいだろう。
日本国内で陸行1000km?
郡使は船で朝鮮海峡を越えてきている、
陸を歩くより船で旅をした方が楽である
瀬戸内海の航海は朝鮮海峡を越えるより波穏やかで安全
畿内説としても瀬戸内海は船を使って旅をしたであろう。
陸行一月は陸行一日の誤りだな。
807 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 10:35:24
>>805 敦賀から巻向までは陸行1月もかからんよ。
808 :
改め :2009/04/13(月) 10:46:26
>>805 方向が違うて言ってるでしょ!
人の話きけよ!!
>>806 其國境東西五月行 南北三月行
陸行一月つーのは九州の3分の1ぐらいだよ。
809 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 10:57:55
殉葬百余人は、畿内説不利だね。
811 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 11:21:46
祇園山など、多人数殉葬?の墓がある。
812 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 11:22:38
>殉葬百余人は、畿内説不利だね。 どこが?
813 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 11:44:43
799参照
>>811 畿内説にとって不利にならないことが良くわかりました
815 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 12:22:52
>>790 九州説が長いこと信じられてきたのは
記紀の天孫降臨と神武が九州なので、古代の日本の女王=九州の民がしっくり
くるから。
中国への貢は飛鳥時代にも大和朝廷がやってる。しかし完全なる素人外交で
馬鹿にされっぱなし。
明らかに大和朝廷は7世紀まで外交未経験だった。
これは畿内説でありえないことの確固たる証拠
816 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 12:23:05
百余人の亡霊が畿内説を襲う うらめしや〜
817 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 12:31:08
與止日女の姉さんだろ
隼人の乱では、宇佐の神軍がピッタリ百人の首をとって 周辺に埋めている。そして奉っているのが百体神社。 記紀で卑弥呼と時期を合わせている神功皇后とも非常に縁が深い社だし こういう偶然は、ただの偶然ではなく理由のある必然なのだよ。
819 :
改め :2009/04/13(月) 12:57:45
>明らかに大和朝廷は7世紀まで外交未経験だった。 未経験というか列島の支配者ではないよね。 記紀がどうしていきなり作られたか、それを考えないと始まらない。
820 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 13:01:48
百体神社
http://www.usajinguu.com/A_Yuisyo/Hyakutai.htm 鎮座地 境内外(宇佐市大字南宇佐字上町)
御祭日 大隅日向両国隼人霊
祭典日 3月20日・10月20日(現在は、3月、10月の第3日曜日)
大隈日向国の隼人の霊を祀る。
養老4年(720)に八幡大神は隼人征伐に行幸になり養老7年にご帰還のとき百個の隼人の首を持ち帰って、
松隈(まつくま)(宇佐神宮の西400b余)に埋められたがこれを凶首塚といい批処の裏の丘に有る。
その後、隼人の霊を慰め悪を更生させるために放生会を行い、この神社を創祀した。
百人の霊であるから百体神社という。
以上の末社のほかに、木匠木工の祖神である木匠祖神社、
大神比義(おおがみひぎ)御鉾を立てて八幡大神を祀った鉾(ほこ)立神社。
また八幡大神の奇瑞を現された阿良礼(あられ)神社、天満神社二社、
琴平神社、愈加(ゆか)社、稲荷神社などの末社がある。
821 :
改め :2009/04/13(月) 13:09:07
>>778 >横だけど、萬二千餘里がホントなら九州にも収まり切らないんじゃないの。
ちゃんと収まります。
正しい解釈が出来ればね。
822 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 13:33:35
埋葬形式、棺有って槨無しは、どっちが有利なの?
823 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 13:48:20
箸墓はだめだってことは確かだね。
824 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 14:01:56
隋書では棺槨をもってオサムなんだよね
鉄器も倭錦もなかった畿内だけは、邪馬台国じゃないね。
826 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 14:29:44
+ ______ ///_ ./| | ̄.∧ ∧;|//| カッチンぽっぽ | (*‘ω‘*|) | + |/.(/ ).|/ .| |./. v v |./
827 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 14:45:03
俺、黒木メイサに卑弥呼役をやってもらいたいなぁ〜。
日本の中心はつねに関西なのを考えれば 邪馬台国=大和政権 卑弥呼=天照大神 神武東征はなかった 学問的立証がなされてないし
829 :
ローガン :2009/04/13(月) 15:18:14
>>744 唐松山さん。
> 畿内説は、 更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千人 復立彌呼宗女壹【臺】與年十三王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
> を説明せねば成らない。
卑弥呼後の男王の去就について書いていない。張政等来倭時の王は既に壹与だったのでしょう。
830 :
ローガン :2009/04/13(月) 16:13:02
>>758 > 墓が未完成で高さだけ省略。
> 前方部も後から追加で省略。
> ちょっと都合よすぎかと思いますが?
張政等の滞在期間が短いものであったと云うことです。
前方部にはまだ言及してませんが…
まあ、河内大塚山から考えて前方部の土盛りは最終に近い行程でしょう。
それに、だいいち前方部自体は「墓」ではないと思います。勿論いまでは「前方後円墳」と呼びますが…古代は後円部分が墓でしょう。
釈紀引用筑後國風土記「有筑紫君磐井之墓墳高七丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各四十丈」
八女の岩戸山、後円部の径60m…周になおすと約188m まあだいたい「六十丈」ですね。墓墳とは後円部。
831 :
ローガン :2009/04/13(月) 16:34:43
>>811 > 祇園山など、多人数殉葬?の墓がある。
祇園山…裾の小墓から須恵器が出ていたのでは?
短期間の殉葬とすると須恵器の年代を引き上げますか?
832 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 17:21:17
831 祇園山以外にも、殉死かもしれない墳墓があったと思う。畿内説諸君はまず799に答えられたい。
833 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 17:27:31
それから 822
834 :
ローガン :2009/04/13(月) 17:47:43
>>832 > 畿内説諸君はまず799に答えられたい。
垂仁陵の近くにあるマエ冢。
レッドクリフの時代だよね
>>834 宮山で良いじゃない?箸墓につながるしw
837 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/13(月) 19:13:46
>>829 男王は大木の様に倒れたんでしょう。
時期は、景行が神崎に行宮を置いていた時か? まだ平定終了前
一応の平定が終了した景行は、大和へ帰還 伊勢にいる五百野姫を軍隊付きで
筑紫に送り込む。
この軍隊は、日本武尊熊襲平定時にも活躍、この熊襲が居た場所は、小城の近く。
小城は本来熊襲の支配地。 だからサガミハラハラさんの説は受け入れられないんです。
邪馬台国は大和 しかし其処に卑弥呼は居ない。
838 :
ローガン :2009/04/13(月) 19:28:40
>>836 > 宮山で良いじゃない?箸墓につながるしw
なるほど、総社の宮山墳墓群ですね。 殉葬かどうか?
839 :
九州王朝大好き :2009/04/13(月) 19:34:33
>>831 >祇園山…裾の小墓から須恵器が出ていたのでは?
祇園山の周辺の60基ほどの墓の中には、倭五王の時代のものがあってもおかしくない。
その都は久留米にあったのだから。
840 :
ローガン :2009/04/13(月) 19:34:56
>>833 > それから 822
有棺無槨…
有利も不利もないと思います。 木棺墓なんてどこにもあるでしょう。
長原で二重棺が見つかってますが、触れないでおきましょう。
>>829 その倭王で国中不服は、
崇神天皇の四道将軍派遣戦争でしょう?
モモソ媛命の死後、すぐに、その四道将軍派遣戦争やっているわけだから、
それしか考えられない。
崇神天皇が、当初は、その祭祀王の在についたが
結局は、モモソ媛命の死後の最高の巫女だった
豊鍬入姫命を祭祀王の在につける体制を敷いたんじゃないの?
とにかく、記紀に書かれている天皇制度は
律令体制成立時の政治制度だから
卑弥呼の時代の倭の政治制度など、よく分かってないわけだから
仕方がないわけで。
843 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 21:11:35
畿内諸君、百人規模の殉死だよ? 総社は畿内か?
844 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 21:26:35
川島芳子は生きていたのね。卑弥呼の謎も解けるといいね。日本名は何だったのか。
845 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 23:31:08
■特別展 弥生建築 ─卑弥呼のすまい─
・大阪府立弥生文化博物館
・平成21年4月25日(土)〜6月7日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし5月4日[月祝]は開館し、7日[木]休館)
・入館料 一般600円/65歳以上・高大生400円
これまで、弥生時代の建物は、その全容がわかる状態でみつかった例はありません。そのため、弥生時代の建物を知るには、遺跡の調査でみつかる掘立柱建物や竪穴住居など建物の跡をもとに、建物の構造や柱の並び方、大きさなどを考えます。
そして、その上にあったはずの建物については、鏡や大刀の飾り、土器や土製品に表現された建物を参考にして考えてきました。
ところが近年、鳥取県青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡(鳥取市)で弥生時代の建築部材がまとまってみつかり、建物の姿をより具体的に考えることができるようになりました。
ここでは、溝のなかから柱や壁、床などの板材、角材のほか、屋根材がまとまってみつかり、建物を復元することが可能になったのです。
こうして青谷上寺地遺跡で出土した建築材をもとに、掘立柱建物や竪穴住居の跡がまとまってみつかった鳥取県妻木晩田[むきばんだ]遺跡(西伯郡大山町)では建物が復元されています。
また、みつかった柱や桁、床板などには、材をつなぐために加工した孔やくり込みや、材の表面を平らに削ったあとが見られます。
弥生時代の工具は石斧や石鑿など石製のものが主ですが、青谷上寺地遺跡では鉄斧、鉄鑿など鉄製の工具が数多くみつかっており、建築部材の加工には、こうした鉄製のさまざまな工具も使用されたと考えられます。
竪穴住居を建てるには、まず、穴を掘ることで床と壁ができあがるため、あとは柱を立て、桁と梁を組み、屋根をかけることでできあがります。一方、掘立柱建物は、柱を立てて床を貼り、あるいは壁を立ち上げ、屋根をかけることでできあがります。
床を貼るためには、柱に穴をあけ、材を組み、床材が必要となり、壁を立ち上げるためには柱に穴をあけ、くり込みを入れ、壁材が必要となります。
つまり、掘立柱建物を建てるには、材に細かな加工を施すことができるさまざまな工具が必要であり、鉄製の工具はこうした加工に威力を発揮したと考えられます。(以下略)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html
倭国や邪馬台国には、古墳がいくつ描写されているかというと、たった一つだけなのだ。 つまり、倭人の世界へ行っても、描写すべき古墳などほとんどなかったといっていいだろう。
847 :
日本@名無史さん :2009/04/13(月) 23:55:12
大阪府立近つ飛鳥博物館 開館15周年記念
■春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる─前方後円墳の成立─」
・大阪府立近つ飛鳥博物館 (大阪府南河内郡河南町東山299)
・4月25日(土)〜 6月28日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし、5月3日の月曜日は開館します)
・入館料 一般600円[480円]、 65歳以上・高校・大学生400円中学生以下・障がい者手帳をお持ちの方(介助者を含む)は無料
大阪府立近つ飛鳥博物館は、平成6年に「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテ−マにかかげ、おもに古墳と古墳時代の専門博物館として誕生し、今年で開館15周年をむかえました。
日本列島では、3世紀中頃から6世紀まで、およそ350年間で数十万基ともいわれる古墳がつくられました。そのはじまりと考えられる3世紀中頃は日本列島において弥生時代から古墳時代へと時代が移り行く変革期にあたります。
巨大な墓を築くことでそれぞれの存在を示し、その巨大な墓が媒体となり各地の権力者が結びつく。ひとつの墓が様々な意味を表す時代が到来したのです。
このたびの特別展では、各地につくられた3世紀の墳墓の副葬品と埋葬施設から弥生時代の終わり頃にみられる各地の首長墓の特色を描き出し、巨大な前方後円墳の成立を考えてみたいと思います。
・内行花文鏡(福岡県平原方形周溝墓)[国宝]
・ガラス釧(島根県西谷2号墓)
・銅釧(京都府芝ケ原古墳)[重要文化財]
・二重口縁壺形埴輪(奈良県箸墓古墳)
・画文帯神獣鏡(奈良県黒塚古墳)
ほか
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html
848 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 00:32:37
849 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 16:13:53
>>774 >もう、邪馬台国論争は
>ほぼ100%近く決着がついている。
>邪馬台国=大和国
>卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命
>で決まり。
いいえ、まだヤマトトトヒモモソ媛命と倭姫命の勝負付けは済んでおりません。
例 垂仁朝に倭彦命と倭姫命と言う人がいて叔父と姪の関係と言うことになっています。
両者は対の名前で夫婦とか兄妹という間柄であってもおかしくありません。
倭彦命には殉死者の話があり、卑弥呼にも殉死者の記録があります。倭姫命に
殉死の話があれば卑弥呼と倭姫命はかなりの確率で同一人物と言うことになる
のでしょうが、記紀はなぜか男性の倭彦命に殉死の記録を載せております。
今は「鬼道をこととし良く衆を惑わす」の万人を悩殺するようなコピーのせいか
ヤマトトトヒモモソ媛命の方が有利になっているようですが、その差は頭の差くらいでしょう。
何せ魏志倭人伝の卑弥呼は二人を足して二で割ったような人で神がかりの面を強調するか
有能な管理者の面を強調するかでいずれかに分かれるのではないでしょうか。
なお、伊勢神宮の倭姫命の話は「台与」のことでは。
トヨタン・・・・・・・・・・
× >もう、邪馬台国論争は × >ほぼ100%近く決着がついている。 × >邪馬台国=大和国 ○ もう、邪馬壱国論争は ○ ほぼ100%近く決着がついている。 ○ 邪馬壱国=九州王朝のさきがけ
852 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 18:53:10
サイキバ君 乙
畿内信者の脊髄反射乙!
>>773 遅レスすいません。みなには関係ないけど、大会近くて剣道の練習があまりにハード
で手が震えてワープロ打てない。四方位、八方位の着想は面白いと思います。方角は俺的
には情報の混乱、でいいんだけど、あえていうなら郡使は正しい方向(東)を報告していた
のに、陳寿または魚豢が当時の認識にしたがって南に書き換えた説、としときます。
徇葬は何度も出てきたテーマだが、中国でそれが盛んだった殷代では、墳墓への徇葬の
他に、甲骨文字の記録によれば、チベット系羌族を「人狩り」によって捕獲し、生贄として
一度の祭祀で650人も殺したという記録がある。
墓域内に葬ったとして、木槨などの埋葬施設内とは考えられんし、まあ周濠の底に人柱的
に埋めたのなら、考古学的には見つけられんかもしれない。あるいはやや離れたところで
殺して、その上に神社を建てたとか。
垂仁紀には、徇葬者を殺さずに半生き埋めにしたため、何日も泣き声が聞こえたり、生きた
まま犬に喰われたりしたという記述があり、これは土師氏起源譚と解されることが多いが、
どんな殺し方をしたかは大いに気になるところ。
855 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 22:31:45
生贄の文化は仏教が伝来するまで あったのかも知れませんね
殷王朝は時代は違うが、妙に邪馬台国と重なる部分があり、 祭祀と政治は同義で、農事、軍事、王位継承などすべてが亀甲卜占の結果に基づいて行われ、 卜占を通じて神の言葉を伝えるシャーマンは貞人と呼ばれていた。 また殷は太陽信仰があったともいえ、10個の太陽が毎日変わりばんこに上ると信じられ、代々 の殷王の諡号には、10個の太陽それぞれの名、「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」が必ず 含まれているという。(この説はやや疑問もある) 殷代の徇葬例として、後ろ手に縛られ首を落とされたもの、また、美麗に着飾り馬に乗った もの(首あり)などが同一墳墓内に見られ、徇葬者の身分あるいは強制、非強制による違い などが見て取れる。
むしろ周じゃね? 大夫を名乗ったり 太伯の子孫を自称したり
858 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 23:39:42
殷は興味深いね。箕子朝鮮にもつながるし
確かに周もそうだね。日本には中国古代文化が遅れて伝わってきている可能性を指摘す る人もいる・・・つまり、魏などの最新中国文化は理解できない、古代文化ならちょうど文明 度が合う・・・これはどうだか? 殷・周時代は観象授時暦といって、星を含む天体観察、植物の成長によって暦が決められ ていたといわれ、10個の太陽が、10日を数えるための方便と考えれば(甲太陽の次は乙太陽) 唐松山さんの古代太陰暦を否定する要素の一つであるともいえるw。
860 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 00:00:24
十個の太陽を弓で射落とし、一個を復活させる神話が各地にある。日本は何故か後半だけだが・・
あと俺は、トンデモを否定しているように見えるかもしれんが実はそうでもなく、結構好きだ。 古墳の近くの有名・無名神社に行ったときは、人目を避けて高床の下にもぐりこむことが あって、建築のための基壇とは思えない石組みを見つけたことも1度ならずある。アリジゴク の巣はよく見つけた。ww 箸墓古墳に行ったときも、横手にかつて箸中の人がショートカットとして利用した道跡を見 つけ、登りたいという気持ちを抑えるのに苦労した。(宮内庁による禁足地であり立ち入れば 軽犯罪?)真昼で、人の気配はなく、箸墓は黒々と不気味で、異様だった。
箸墓を作った当時には、草木などまったくなかったわけだが
863 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 01:38:12
神話から神道からだと、大和三輪山近くに。
864 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 07:15:37
畿内説論者には箸墓=卑弥呼の墓なんて考える輩がまだいるみたいだな。 しかし、その目はまったくないね。 まず、棺ありて槨なし。ホケノでさえ槨があるんだ。箸墓は槨がある墓だな。 そして、大きさの径百余歩。箸墓を見た使者が後円部だけの大きさを書き残した? そんな馬鹿な。墓をみて「倭人は大きな墓を造ってるぞ」という意識で記録を 残したんだろ。全長を言うに決まっている。径というのは図形のさしわたしだ。 前方後円墳の場合、全長が径だってことに気づかなければいかんよな。
865 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 08:14:11
なるほど。円なら周、方墳なら方が普通。なぜ径なのか不思議だ。
866 :
サガミハラハラ :2009/04/15(水) 08:17:39
殷周の影響については、倭人伝の行程記事の尺度が周尺(1里=67.5m) をもちいていることからもわかります。 箕子朝鮮時代に周尺で記録したものを陳寿は気づかずに載せてしまったようです。
867 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 08:27:21
>>864日本人て?出雲人 日向か人とは。 出雲系三輪山から皇后もらう 宮崎北部から遠征する神武帝 神武の分家が宮崎南部ていわゆる隼人? 卑弥呼を何人と想定 してるんですか? 敗戦の後遺症で黒塗りのままで、解明できるんですか?倭人伝で 普通は誰でも知る東京の行き方示し、次に東京から目的地示さないと、着かないでしょうがあ
868 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 08:57:55
径百余歩は、前方後円とは限らないな。
869 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 09:13:37
2000年後、 墓話で必死だが、今の日本人はアメリカ文化圏の政経だから、 アメ車や遺跡デズ二ーランドみて アメリカ人にされないか 神道に見ないと2000年前から 不変のー
870 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 09:31:44
大きな墓とは書いてないよ。槨無しの低い墓をたくさん作ったと思う。
そもそも倭人伝を読んで伊都国より先に使者に行ったと解釈する人はアウトだよ。
872 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 11:42:48
>>871 逆だろう。使者が投馬国や邪馬台国へ行っていないという解釈をするようでは
話にならない。ごまかしの解釈だ。
>>872 反論しないよ。
勝手にそう思っていればいいよ。
お前に倭人伝を読み解く能力がないと思うだけ・・・
874 :
九州王朝大好き :2009/04/15(水) 12:31:44
>>866 >殷周の影響については、倭人伝の行程記事の尺度が周尺(1里=67.5m)
>をもちいていることからもわかります。
1里=67.5mとしたのは、何に基づいたものだからですか?
私も1里は70m弱と推定しています。
875 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 12:43:47
>>873 まあ、お互いにそう思っていればよいことで・・
私は行ってると考えるから、方角も距離もごまかさないで解釈するよ。
876 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 13:55:50
877 :
九州王朝大好き :2009/04/15(水) 15:26:18
>>876 >算数の出来ない人、1町は何mですか?
1町は約1万u弱です。
878 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 15:40:08
>>877 まったく算数の出来ない人、長さの1町は何mですか?(地積の1町ではない)
879 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 15:46:56
>>839 >祇園山の周辺の60基ほどの墓の中には、倭五王の時代のものがあってもおかしくない。
その都は久留米にあったのだから。
筑紫城は久留米っスか?
880 :
ローガン :2009/04/15(水) 15:58:02
>>864 > 畿内説論者には箸墓=卑弥呼の墓なんて考える輩がまだいるみたいだな。
はい。私はそう考えます。
> しかし、その目はまったくないね。
おや、残念。
> まず、棺ありて槨なし。ホケノでさえ槨があるんだ。箸墓は槨がある墓だな。
石囲い木槨…。
魏志董卓伝「大風暴雨震卓墓水流入臧漂其棺槨」 石囲い木槨は漂わんでしょう。板材は浮かんだとしても。
礫槨、粘土槨も同様ですね。
九州王朝説の穴は・・・ 卑弥呼は「日巫女」てことだろうね。 日巫女といえば、日皇子、日巫女に通じる。 記紀を読んだことがる人は知ってると思うが、この列島を治めていたのは、 かなり前から「天皇家」ということになってるし。 神社の伝承、神々からみても、吸収王朝の欠片もでてこない。
882 :
サガミハラハラ :2009/04/15(水) 16:18:11
周代の一尺は22.5cmです。 一歩はその6倍で135cmです。 一里は、50歩で67.5mとなります。 秦の時代になると、始皇帝は度量衡を定めなおし、一里を従来の50歩から6倍して300歩分としました。
中国二十四史を信じると「九州王朝説」になる。 しかし、日本側の記録、伝承、天皇家等、重視に考えると、 「東遷説」になる・・・てかんじかな? 「九州王朝説」又は「東遷説」、皆さんはどっち?! (畿内説は無視で・・w)
>>882 サガミハラハラさん
竹内文書ってご存知です?
この文書によると、
天照大神=向津ヒメ
月弓=スサノオ らしいです。
これについてどう思ってるのでしょうか?
それと、ほつま、竹内文書、以外では何か知ってるのありますか?
885 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 16:41:41
箸墓=台与の墓だろ
886 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 16:56:01
郡使が投馬国や邪馬台国に行っていない根拠。 @ 伊都国について、「郡使往來常所駐」と書かれている。 これが書かれているのは、伊都国だけと言うところがミソ。 A 投馬国から先は、里程から日程に変わっている。 隋書には、「夷人不知里數、但計以日」とあり、郡使が旅していないことを うかがわせる。 B 行程の記述の中で、末盧国などは、国の様子がかなり詳しく書かれているが、 投馬国、邪馬台国については全く書かれていない。 C 仮に卑弥呼に会ったとすれば、その印象が詳しく書かれているはずだが、 書かれていない。邪馬台国まで行って、卑弥呼に会わないのは考えられないので、 邪馬台国には行っていない。 D 「傳送文書賜遺之物詣女王」、文書や賜り物を女王のもとに伝送、とある。 郡使が邪馬台国に行ったなら、伝送ではなく、直接持っていったと思われる。 したがって、風俗の記事は、伊都国まであるいはその周辺のことであり、 一見、邪馬台国の様子を示しているように思えるものは、伝聞だろう。
887 :
改め :2009/04/15(水) 17:03:35
豊国(豊ノ国)の謎
豊国を分けて、豊前(ブゼン)、豊後(ブンゴ)とよく聞くが、
「ブ」と読まず、「トヨ」と読むのが正しい。
これを倭人伝の「壹與」と繋げたがる人がいるが、それは間違いで、
「豊国(豊ノ国)」と書いて、「豊日別命ノ国」というのが正しい。
↓ここにも、豊日別命について書かれてる
「筑紫島(九州)は身一つにして面四つと謂ふ。面ごとに名あり。
筑紫国を白日別といふ。
豊国を豊日別といふ。肥国を建日別といふ。
日向国を豊久士比泥別といふ。次に熊襲国を建日別といふ」らしいよ。
http://kamodoku.dee.cc/kumaso-hayato-2.html
888 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 17:05:40
>>886 @ 「往来」が入っているのは邪馬台国への往来の途中を意味すると解されているよ。
A 後代の隋書から推測は無理だろう。単に里数がよくわからなかったから日数にした
だけだろう。
B 倭国の風俗等は投馬国、邪馬台国に関する記載だよ。
C 結構書いてあるだろ。
D 使者を案内する連中が途中で交代したってことだろ。使者が帝の書などを他人に委
ねるはずはない。
>>886 >仮に卑弥呼に会ったとすれば、その印象が詳しく書かれているはずだが、
>書かれていない。
まるで使者がそのまま三国志の著者でなきゃならんと思ってるみたいだな。ww
890 :
九州王朝大好き :2009/04/15(水) 17:20:02
魏使が卑彌呼に会っていても、夜の簾越し。 卑彌呼の輪郭が見えるか見えないレベル。 卑彌呼と魏使の面会は、古式に則った新嘗祭の状況を想像する。
> C 結構書いてあるだろ。 どこに?
892 :
改め :2009/04/15(水) 17:29:23
魏時代の書き物といえば、 陳寿の「三国志」、王沈の「魏書」、魚豢の「魏略」ていうのがある。 みんなが言ってる魏志倭人伝というのは、「魏書」でもなければ「魏略」でもない。 陳寿の「三国志」の倭人の条に記されてるのを略して魏志倭人伝といってるだけ。 ちなみに、「魏略」によれば、あの不可解な『水行・陸行』記事が ナイらしい。 ナイらしいて、わたしは見たことがないので「らしい」としか言えない。 勉強になったな〜!ALL アッハハ
893 :
九州王朝大好き :2009/04/15(水) 17:40:09
>>882 根拠が全く違いますね。
自説ですが、
1歩≒23cm
60歩=1里
1里≒69mとなります。
後に歩と尺の単位統一があり、
1歩=6尺となった。
>>892 お前がアホだというのは良くわかったよ
ワッハハハハ
895 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 17:45:04
>>893 >
>>882 > 根拠が全く違いますね。
>
> 自説ですが、
>
> 1歩≒23cm
> 60歩=1里
> 1里≒69mとなります。
>
> 後に歩と尺の単位統一があり、
> 1歩=6尺となった。
896 :
改め :2009/04/15(水) 17:45:05
魏使は女王の都、邪馬壹國に行ってるか?行ってないか?って???? 漢書、後漢書、では女王国までの「道里」、「方向」は書いておらず、 今回、この魏志倭人伝に初めて記されてる。 それは何故か?! 帶方の官である、太守(又は天子)の命令により、 魏使達は距離を測りながら、倭へやってきたというのがわかる。 しかし、水行二十日、水行十日・陸行一月というのは、太国氏のいう 「観光」ではなく、倭の人々によって、妨げられていたのである。 目隠しでもされてたのでは?!
897 :
改め :2009/04/15(水) 17:47:14
>>894 その言葉、そのまま返してやるよwww
自分がアホだからって、人までアホとはかぎらん。
898 :
改め :2009/04/15(水) 17:56:11
>>874 >>877 >>882 >>893 >>895 おたくら、細かいね〜!
倭人伝の里数は何キロだって?!
千里=68〜76mで「約72m」て言ってるでしょ。
それに、1町というのは縦100mぐらいでいいのでは?!
倭人伝は、そんな細かい書き方してないし、読む側も
大雑把に読めば良いこと。
899 :
改め :2009/04/15(水) 18:01:49
「九州王朝説」と「東遷説」 中国二十四史を重視するのか? 日本側の記録を重視するのか? これの違いでは?!
>>857 奴国も邪馬台国の難升米も大夫と称した
大夫
中国、周代の官職の一。卿(けい)の下、士の上に位する。
律令制で、職・坊の長官。だいぶ。
神主・禰宜(ねぎ)などの神職の称。
901 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 18:37:17
902 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 18:59:34
九州王朝は無い。新羅本紀に670年、倭が日本と改称したとある。
903 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 20:41:07
904 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 21:07:44
>>891 鬼道を事としよく衆を惑わす。年已に長大、夫婿なし。
個人についてこれだけ書いてあるのは大変な記載なんだよ。
>>902 倭が九州にあった時代を九州王朝と呼ぶんだよ。
畿内に遷都してからは大和王権。
906 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 22:58:29
九州王朝説も過激派、穏健派いろいろです。
907 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 23:05:04
遷都しなかったという説もあるんだよ。
908 :
サガミハラハラ :2009/04/15(水) 23:10:36
竹内文書、名前だけはしっていますが、わたしの研究とは関係ないようですので見ていません。
それは、定義の問題。 九州王朝系の天武が畿内王権のトップに立ったのは事実。
910 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 23:13:49
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
魏使は卑弥呼に会っているだろうと思う。例えば・・・
>今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。
「装封」というのは、封泥(紐の結び目などに粘土を貼りつけ魏帝の璽を押したもの)を施した
もので、仮授者本人まで使が届けるのが筋のような気がする。封泥が卑弥呼以前に開け
られるようなことがあれば、使は厳罰ではすまないのではないか。中国国内の方がむしろ長
旅も多いし、使は大事にされるだろうし、伊都ー邪馬台が行けない理由はあるのかな?
俺的には、塞曹掾使 張政は軍事顧問的役割で、(ときどき帰ったとしても)かなり長期間、
邪馬台国に留まった気がする。もしかしたら、卑弥呼の木棺?に張政が漢文で何か書いて
る(親魏倭王卑弥呼 此処に眠る とか・・・かなり妄想)可能性も・・・。
封泥
http://blogs.yahoo.co.jp/kjhst220/32070902.html
912 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 00:00:06
張政は難升米に会うのが目的だからどうかな。梯儁は卑弥呼に会ったと思う。
913 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 00:12:57
風俗記事は南方の風俗を伝えている。使者が北九州にいたならば不自然だ。 北を離れて南へ行ったということは、投馬国、邪馬台国を訪ねたということだろう。 広志逸文には屋久島の話がでてくる。北九州に留まっていたならば、屋久島の話が でるわけはない。 伝聞で書こうというのならば、旁国の道里戸数が書けないはずはない。北九州の 倭人だって旁国までの行程や戸数ぐらいは知ってるだろう。使者は自ら確かめた ことを書くのを原則にしているんだよ。
使者=倭人伝執筆者、ではないぞ、 キモに銘じておけよ
915 :
ローガン :2009/04/16(木) 00:30:55
>>911 > 俺的には、塞曹掾使 張政は軍事顧問的役割で、(ときどき帰ったとしても)かなり長期間、
> 邪馬台国に留まった気がする。
そうかもしれませんが、卑弥呼後の男王の名前が無いこと。又「更相誅殺『當時』殺千餘人」 なにか伝聞情報のような記述である事…
張政等来倭時は倭王は壹与だったと思います。そして張政等は六年の詔に基づいた「檄告諭」後、そそくさと帰ったと思います。
イヨタン・・・・・・・・・・
>>896 改め ドツボ
>漢書、後漢書、では女王国までの「道里」、「方向」は書いておらず、
>今回、この魏志倭人伝に初めて記されてる。
はあ?
もしもし??
「初めて」????
ひょっとしてタイトルだけを見て史書の編纂・成立時期を判断しちゃってるのか?wwwww
>906 >九州王朝説も過激派、穏健派いろいろです。 要するにゴミにも燃えるゴミと燃えないゴミがあるというわけですね、わかります。
921 :
改め :2009/04/16(木) 09:35:04
>>918 もしもーし 水行、陸行の記事は初めてだろ。
ちゃんと倭人伝読んで反論しろよ。
>>920 おたくレベル低いな・・。そんなの誰でも知ってるちゅーねん。
922 :
サガミハラハラ :2009/04/16(木) 09:46:23
魏使は邪馬台国の都にはいったが、卑弥呼は死の間際で床にふせっており、 面会することはなかったと思います。本来卑弥呼に告喩すべきものが、 一与になされておりますから。
923 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 09:47:25
>>914 当たり前だろ。それより、何か反論あるのか? それとも同意するのか?
924 :
改め :2009/04/16(木) 10:15:52
>>919 ごみは分別しましょう!ww
>>923 ブルーの名無しはレベル低いだけ。
取り合うだけ無駄と思うよ
925 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 10:18:33
細けエことはいいんだよ 水行二十日、水行十日・陸行一月なら近畿になるんだよ そんなことも分からないんかアホ
926 :
改め :2009/04/16(木) 10:31:43
>>925 其國境東西五月行 南北三月行 各至於海
近畿がなんだって?
927 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 10:34:46
隋書の東西五月行南北三月行を見ると、九州かもね。
928 :
改め :2009/04/16(木) 10:36:52
>>926 >隋書の東西五月行南北三月行を見ると、九州かもね。
じゃあ始めっから「水行二十日、水行十日・陸行一月なら近畿になるんだよ
そんなことも分からないんかアホ 」とか言うな。
929 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 10:46:47
925と927は別人だろ。
930 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 10:47:54
大陸語を日本語訳で・・・ みどもが景初の遣使だ。あの世から君達の世界を見回りに来た。w 現代人 遣使さん。あなたは卑弥呼の国へ行ったそうですが? 遣使 そうだ。 現代人 倭人伝には南行きの陳寿の記載ですが、あれは東行なんでしょう? 遣使 みどもらは1ヶ月も倭国を行ったり来たりしてたから、東行き ならみども達の行く前方あたりに毎日日の出を見てたわけ だが、1ヶ月も長く日の出が南とか北から出てるでの失敗は してないんだがね? もしそうだとしても、道を方角で間違え る時間が1ヶ月も過ぎる途中で毎日見てる日の出と北斗星 でうすうす間違いだぞと感づきますよ。それは数日なら南と 東を間違えることはあるでしょうが、1ヶ月も日昇りを毎朝 見ていたみどもとその一行の全員が誤を感づかないでいる訳 がないでしょうが?w 実地に1ヶ月徒歩の旅をやればあなた でさえ、途中で方角が間違えているということに気付くんさ。 だから伝の南行きはそのとおり南行ですよ。 現代人 方角は毎朝昇る太陽の位置と夜は北極星を毎回拝められ ますから、南が東の誤認だとは数日は考えられますが、途中 貴方と同行の貴方の付き添いから、これは方角違いだとの 進言等が伝言されますね。そうなると南行が東行には なりませんね。それは1ヶ月の殆どが曇雨天なら別ですが? 遣使 みどもらは毎日見てた日の出で方角の定めは失敗しません。
931 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 10:52:47
陸行一月なら一日50kmとして1500kmにもなるぞ 生息している人間の数もそんなに居ないんだからさ 水行20日で出雲さらに水行10日で丹後それから陸行30日で大和 水行は陸地を見ながら着かず離れずで安全に行ける 九州ではないことは確実だろ常識で考えて
932 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 10:59:58
続き 遣使 現代人さん、停泊したりあまり来たことの無い海、土地ですからいろいろ あちこちを周遊してたんです。それに風雨が強いこともありましたし、 海賊山賊の敵も恐れます。用心してましたし、観光目的で周遊して ましたから、予定よりかなり多く日数がかかったんです。仲間に病人が 出ると時間とともにとても手間がかかります。食料確保でも休憩でも 時間は結構かかるんですよ。卑弥呼の国では滞在してましたし、道も よく知らぬ所があったのでよくよく日数がはみ出てしまいました。
933 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 11:00:09
塞曹掾史張政は狗奴国との戦争調停で軍を指揮している難升米と九州にいた。 そこへ卑弥呼崩御の連絡があり急遽、邪馬台国の都である纏向京へ向かった。 到着したら後継者争いは終結していて後継者の男王は殺されて多数の戦死者が 出ていた。その後卑弥呼の後継者に台与が決定し張政は檄文を渡し告げ諭した。 また殺された男王は武埴安彦命である。後継者の女王台与は稚日女命である。
トヨタン・・・・・・・・・・
>>921 改めドツボ
>もしもーし 水行、陸行の記事は初めてだろ。
もし「後漢書」が「魏志」より後に成立した物だと認識していれば
なんで
>>896 で「魏志」より前に「後漢書」を持ってくるのか?
まともな日本語による書き込みを望むw
936 :
改め :2009/04/16(木) 11:20:58
>>935 >まともな日本語による書き込みを望むw
お前さんがだろw 日本語わかりますか?www
937 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 11:24:45
>>931 >陸行一月なら一日50kmとして1500kmにもなるぞ
一日50キロで計算すればそうだが、そんなに歩くはずはない。
郡使御一行は2日歩いて1日休み。そんな程度で、日に7、8キロという
ところじゃないかな。一行の速度なんてどこにも書かれてないんだよ。
いろいろな想定をしなければならん。
>>936 改めドツボ
各史記の成立時期の時系列をきちんと把握して書き込めよ馬鹿
939 :
改め :2009/04/16(木) 11:31:56
>>938 >各史記の成立時期の時系列をきちんと把握して書き込めよ馬鹿
おれに対してのコメント、そして、質問のレベルが低いんんだよww
940 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 11:35:27
続き 現代人 遣使さん。現代の人間のかなりの者らが卑弥呼は畿内の天皇ゆかりの 百襲媛とか倭姫命とか言ってますが、どうなんですか? 遣使 金印は最上の身分に賜与されるのもです。彼女らが卑弥呼だったら、 かの親魏倭王の金印はあなたのおっしゃる天皇にみどもの国の皇帝 が与えるでしょう。w それを考えれば答えは分かりまよすね。 オオキミと呼ばれた天皇がおられたならば金印は卑弥呼でない天皇 に渡されることになります。
>>939 改めドツボ
まあレベルが低いのは仕方があるまい
>>896 のレベルが異常に低いからな。
子供に「右手と言うのはお箸を持つほうですよ」と諭しているようなものだからなw
…で、実のところ今の今まで「後漢書」の成立は「魏志」より前とか思っていたんじゃないだろうな?
正直に言ってみなさいw
でなきゃ
>>896 のような書き方はしないぞ?w
942 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 11:42:50
>896 名前: 改め 投稿日: 2009/04/15(水) 17:45:05 >漢書、後漢書、では女王国までの「道里」、「方向」は書いておらず、 >今回、この魏志倭人伝に初めて記されてる。 後漢書を魏志に先行する史料だと思い込んだ馬鹿の書き込みとして 永久保存版だなw
>>930 太国 ◆yVAs7uaYlY
>大陸語を日本語訳で・・・
九州説はついにイタコまで出してきたのかw
945 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 12:02:09
>この板ではっきりしているのは
>九州説の方々はその説に賛成できない点はあれ
>少なくとも人を馬鹿にした発言はなさらないということです
>対して畿内説を唱える者に人を馬鹿だアホだと中傷する者がいるのは非常に残念なことです
>どちらかといえば畿内説を応援したい私としては
>畿内説の品位を下げるような書き込みには哀しい感じを持ちますね
>>941 お前のことだろ?w
946 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 12:15:13
九州説に安本とか言うバカがいるな もう死ねよ
魏の使者で〜す。 皆さんには御迷惑をおかけしております。 ここで、真実をお話したいと思い、過去よりタイムスリップしてきました。 伊都国までは、歓迎会がなかったので、くだらない風景を描写しましたが、 伊都国以降、朝から晩まで歓迎の宴会で記憶に有りません。 街の様子を見る以前に、太陽が黄色な状況なので、思わず「南、南、南」と叫んでしまいました。 後世に御迷惑かけることになってごめんなさい。
948 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 12:26:20
PuPu!www
949 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 12:27:46
随分視力の悪い遣使一行だな?wwwwwww 視力が全員0.1以下か〜?wwwwwww
>>947 おまえその前に報告書に方角書くの忘れただろ?
951 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 12:56:35
>>922 のサガミハラハラさんて本の著者なのですか?
知らないので誰か教えて下さい。
952 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 13:04:49
水行一月 陸行一月 ・・・どちらも生身の人間が一ヶ月に移動する距離という意味じゃないだろ。 単なる度量衡の一つ。
954 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 13:20:07
拝仮倭王とあるから、梯儁は確かに卑弥呼に会っている。
955 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 13:50:28
>>954 当たり前。
梯儁が卑弥呼に会ったのは伊都国。
伊都国に卑弥呼は居た。
伊都国の代々の王とは卑弥呼や壱与のこと。
956 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 13:53:48
>>949 お前!すごく知能指数が低そうな野郎だなぁ。池と沼の違いがわかるか?
何?両方だって!なるほど池沼か!
957 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 13:58:39
>水行一月 >陸行一月 >・・・どちらも生身の人間が一ヶ月に移動する距離という意味じゃないだろ。 >単なる度量衡の一つ。 度量衡だったん?
958 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:00:41
>>954 >拝仮倭王とあるから、梯儁は確かに卑弥呼に会っている。
当たり前のこというなw
>>955 >梯儁が卑弥呼に会ったのは伊都国。
>伊都国に卑弥呼は居た。
>伊都国の代々の王とは卑弥呼や壱与のこと。
どーして伊都国になるんだ?
説明が足りてないと思わない?
959 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:02:41
>>956 それが反論か?
池沼とかくだらねーこと言ってないで
自分の考えをかきこんだらどーだ。
太国が池沼であることについては何の異論も無い
961 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:12:22
>>959 ( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態熊襲の土蜘蛛九州人よ〜。
962 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:17:32
>>958 伊都国の説明に「皆統屬女王國」とある。
皆は女王国に統属する。
皆とは倭の国々のこと。
伊都国の説明に女王国とあるから女王国とは伊都国の別名。
倭の国々は伊都国に統属する。
963 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:28:24
>>962 伊都国は女王国に統属していると書いてあるんだ。だから、伊都国と女王国は
別の国。郡から伊都国までは万五百里。女王国までは万二千余里。
女王国から派遣された一大卒が伊都国にいて伊都国やその周辺の国々を検察して
いた。伊都国が女王国ならばそんなことはありえんだろ。
964 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 14:34:22
>>956 >>960 今日はよく晴れてるかな〜ぁ?!w
じゃぁオマエ池面のようだから、池か沼の岸から落ちないように身を乗り出して
よ〜く池面を眺めてみろ。どうだ〜?何が映ってるか?
965 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 14:56:24
>>963 >伊都国は女王国に統属している
上記は皆を伊都国の代々の王のことと読み間違えた誤読です。
「世有王」と「皆統屬女王國」の文は切れていて
それぞ伊都国のことを説明した文章です。
郡の中心から女王国の中心までは万二千余里。
郡の中心から伊都国までは11,900里。
奴国までが12,000里。
奴国が女王国の中心です。
女王国とは邪馬台国のこと。
邪馬台国は北部九州一帯、
奴国を中心とし、女王卑弥呼は伊都国にいて国を治めていた。
一大卒が女王国から派遣された等とは何処にも書いてない。
自女王国とは女王国の中心奴国
奴国より以北は大陸との交易路で重要な地域なので特別に一大卒を置いた。
女王が伊都国にいるので常に伊都国で治めた。
966 :
ローガン :2009/04/16(木) 16:05:02
統屬ですね… 蜀志黄忠伝「曹公克荊州假行裨将軍仍就故任統屬長沙守韓玄」 魏志張恭伝「衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而統屬郡」 一概にいえないかもしれませんが、統属とは、「所属先が複数ある」場合に用いられるものではないでしょうか? 倭人伝に置き換えた場合… 皆は王の居る國の構成員でありながら、女王國に所属している。 この「皆」とは官、副官達だと思います。
967 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 16:08:54
めちゃくちゃな読み方だな。女王国=邪馬台国、その中心が奴国? 何で一つの国名で通さないの?
968 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 16:11:03
969 :
ローガン :2009/04/16(木) 16:32:50
>>968 > 逆で、所属する側が複数なのでは?
皆ですから複数ですよ。
970 :
九州王朝大好き :2009/04/16(木) 16:41:01
>>966 解釈は基本的にはローガン氏に同意。
が、
皆は伊都國の構成員でありながら、女王國に所属している。
この「皆」とは「世有王」だと思います。
971 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 16:41:43
>>967 「南至邪馬壹國 女王之所都」と邪馬台国の名は一度しか出てこない、
邪馬台国これで女王国=邪馬台国と分かる、
あとは全て女王国で記述は統一されている。
「自郡至女王國萬二千餘里」
「自A至B○○里」は「Aの基点よりBの基点まで○○里」の意味。
なので郡も女王國も数百里から数千里の広さを持っていても
「萬二千餘里」は「自郡至女王國萬二千餘里」は郡の中心(郡庁)から女王国の中心までの意味。
郡から12,000里の位置にある奴国が女王国の中心地。
自女王國とは奴国のこと。
奴国二万戸は女王國を構成する国の中で最大の国。
邪馬壹國、女王國とは伊都国や奴国など北部九州30国の連合国。
>>968 そうです。当然、所属する側が複数です。
972 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 16:47:27
>>970 この「皆」とは「世有王」だと思います。
違います
「皆」が「世有王」を指すなら女王國ではなく「世有王 皆統屬女王」と女王となるなずです。
「世有王」とは後で卑弥呼や壱与を紹介する為の前振です。
973 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 16:56:58
>邪馬台国これで女王国=邪馬台国と分かる、 何で邪馬台国を女王国と言い換えたの? 邪馬台国は七万戸、奴国は2万戸。邪馬台国の中心が奴国というのは、 戸数はどう考えるのかな? 重複記載?
974 :
九州王朝大好き :2009/04/16(木) 17:07:37
>>971 郡と奴國間の距離は12000餘里。
郡と不彌國の距離は12000餘里。
邪馬壹國に女王がいるから、邪馬壹國は女王國に含まれる。
郡と女王國の距離も12000餘里。
以上の必要十分条件を満足する解は、
「奴國・不彌國・邪馬壹國は、女王國を構成する国々である」となる。
(投馬國も女王國の構成国ではあるが、その説明については省略)
975 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 17:09:49
>>973 >>邪馬台国これで女王国=邪馬台国と分かる
>何で邪馬台国を女王国と言い換えたの?
邪馬台国と何度も書きたくなかったんでしょ。
文字数も邪馬台国が女王国より長いし。
卑弥呼の話が主だから女王国が分かり安いからかな。
邪馬壹國は北部九州30国の連合国と前に書いたが正確には26国
奴国2万戸その他の邪馬台国構成国25国、
他の邪馬台国構成国平均2000戸で七万戸。
(倭の国々で戸数が記述されている一大国〜不彌国の6ヶ国の合計が3万戸、うち伊都国が1ヶ国だけで2万戸ある、残りの5ヶ国で1万戸あり5ヶ国の平均は2千戸となる。)
976 :
九州王朝大好き :2009/04/16(木) 17:17:04
>>972 全く同意できません。
統屬されているのは女王と言う個人にではなく、女王國と言う組織にです。
「統屬」は、統屬+[組織]の文型になります。
977 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 17:17:58
>文字数も邪馬台国が女王国より長いし。 文字数ならば倭の方が短いな。親魏倭王と書くぐらいなのだから、倭にすればよい。
978 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 17:23:59
>>965 >「世有王」と「皆統屬女王國」の文は切れていてそれぞれ伊都国のことを説明した文章です。
ちがうな。「世有王皆統屬女王國」はそれまでに出てきた4カ国に関する記述なんだよ。
榎らがそう読めることを指摘している。その方が後漢書とも合う。
皆は四カ国を指す。伊都国だけの話ではない。
979 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 17:31:26
>>976 >>972 が言うのは、皆が人なら統属する相手も人、統属する相手が組織ならば
皆も組織のはずだということじゃないかな。
私もそう考えるわけで、皆が4カ国ならばつじつまが合うんだよ。
980 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 17:39:03
>>976 >>966 に例文があるけど統屬」は、統屬+[組織]の文型になってませんよ。
>>979 >
>>972 が言うのは、皆が人なら統属する相手も人、統属する相手が組織ならば
皆も組織のはずだということじゃないかな。
そうです、皆は複数の国を指します。
倭の「今使譯所通三十國」を指すと考えられます。
皆とは全てですから倭の4カ国だけではないです。
981 :
ローガン :2009/04/16(木) 18:05:08
>>970 > 皆は伊都國の構成員でありながら、女王國に所属している。 > この「皆」とは「世有王」だと思います。
まあ私は官副官達だと思うのですが…、使者は彼らの名前の知っているにもかかわらず、王の名は知らない。
つまり、官副官とは広域女王國側の人間。彼らの手配のより、王の名前すら知らない国を通過、もしくは滞在したのでしょう。
982 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 18:43:45
参考まで、魏略に其国王皆属王女也。
983 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 19:22:21
>皆とは全てですから倭の4カ国だけではないです。 皆は全てであっても、何の全てかが問題だな。これまでに出てきた国は全てと いうことならば、それは4か国を指すことになる。 30国全てを指すにしては文章の位置がおかしいね。それに30国ならば狗奴国 も入ってしまう。女王国も女王国に統属することになる。
984 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 19:25:45
>>981 落第答案だな。官や副官が女王国の人間ならば、そこは女王国だ。
女王国以外の国として存立することはありえない。
985 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 19:31:40
魏志倭人伝では王は3国にしか書かれていない、 伊都国と邪馬台国(女王国)と狗奴国の3国。 他の国々には官副官。 伊都国の王が邪馬台国(女王国)王であり、同一だとすると 邪馬台国(女王国)と敵対する狗奴国の2国にしか王はいないとなる。 伊都国は邪馬台国(女王国)であり郡使が滞在している。 伊都国の代々の王名も当然知っていて卑弥呼、壱与と記録した。 伊都国に邪馬台国(女王国)の王がいるので狗奴国以外他の国々には官や副官しかいない。
986 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 19:37:19
>>983 狗奴国にも官がいると言うのがミソだろうなあ。
国には王がいるのがあたりまえで、全ての国に王がいたのだろう。
王のいない国は、支配と言うよりも、他の国に統合されてしまうことを
意味するから。このようにして国は大きくなっていくわけだが。
江戸時代を考えるとわかりやすいかも。全ての国に藩主がいて、その国の
人間は藩主に忠誠を誓う。しかし、藩主は、幕府に忠誠を誓わされる。
987 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 19:38:13
国とは何かということを考えないとね。 国とは王が支配する所。王と領土と領民が構成要素だ。 国という以上、そこに王がいるのは当然のことなんだよ。そして、官というのは、 王が任命した役人。王がいなくて官のみが存在するなどということはありえない。
988 :
ローガン :2009/04/16(木) 20:18:54
>>984 > 落第答案だな。
おや、残念。
どうも北部九州の国は一大率を畏憚している様です。
共立側ではあるが、温度差が感じられます。
989 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 20:44:18
魏志倭人伝を書いたのは中国人 中国では王は皇帝に仕えるもの、王に仕えるものは公。 王の仕えるの王や、王の上に君臨する王はいない。 親魏倭王に卑弥呼が任ぜられたので倭には正式な王は卑弥呼のみ。 狗奴国は親魏倭王の卑弥呼に従わない自称の王。 女王国に従っている国にはもはや王はいない。 漢の時代に王を名乗っていた者たちは官や副官の地位を与えられているのだ。 伊都国に王が代々いたとは、伊都国が女王国の王都であると書いてあのだ。
990 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 20:45:37
後漢書では、 郡から狗邪韓国まで5千里 狗邪韓国から邪馬台国まで7千里 と、なっているんだよな 大和説にはこっちの方が有利だね
後漢書成立の時代に、九州王朝の首長は天子を名乗って独立を主張していたから、畿内国の言い分だけが採用されたのでは?
992 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 21:22:34
>>989 >中国では王は皇帝に仕えるもの、王に仕えるものは公
王と侯とはまったく別ではない。帝に使えるものは侯だ。しかし、
一国の長ということでは王とも言えるのだ。
卑弥呼は倭王ではあるが、帝に使える諸侯の一人なのだよ。
993 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 21:24:08
仕えるだったな。
994 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 21:31:36
995 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:07:42
>>992 王とは皇帝の家臣。
伊都国の王と女王国の王が別であれば
伊都国の王は女王国の王の家臣であることになり中華の思想に反する。
魏志倭人伝は中華の思想で書かれているのでこのようなことはない。
伊都国の王が女王国の王と同一であればこのような問題は生じない。
つまり伊都国の代々の王とは卑弥呼、壱与らのことである。
996 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:09:29
次いきますか?河童虫くん 言語虫くん
997 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:14:13
改めくん 愛知県民くん 行きますか? BY 言語虫
うーん惜しい感じがするな。非常によい議論だと思って読んでたが。 >世王有るも皆女王國に統属す。 の部分は、倭人伝の中でもかなり事実解明の可能性のある部分だと思う。 特に、伊都国が何年程度邪馬台国に統属されていたのかは重要。平原遺跡が伊都国 王墓(1号墓)として、このスレの人は、この女性説の強い被葬者と邪馬台国の関係をどう 考えてるか興味深いな。
999 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:21:46
平原遺跡? 次スレでいいかな? BY 虫一派
1000 :
日本@名無史さん :2009/04/16(木) 22:22:36
1000達成!!!!!!!!!!!
1001 :
1001 :
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