♪邪馬台国 ドンと来い♪ 37

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1日本@名無史さん
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 36
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1227701576/l50
2日本@名無史さん:2008/12/14(日) 05:29:17
2げっと!

>>1

卑弥呼女王の宮室かい?
あんまり厳かと言う感じじゃないわな。www
3どうせこんな話この板の九州説は関心無いだろうがw:2008/12/14(日) 05:34:23
>>1乙と…

で、思うに九州説って北の福岡から南の鹿児島まで到る所が比定地にされているが

先ず弥生後期にはその繁栄の中心が北部沿岸玄海灘中心地域に移っていると思うのだが
この認識は間違いなのかな?

吉野ヶ里の衰退は単にその一つの遺跡のみに留まらず筑紫平野全体の衰退の結果ではないのか?

吉野ヶ里の繁栄も工業力に負うところが多くその中心が玄海灘周辺地域に移行した為
大型の拠点集落の維持ができなくなったのでは?

弥生後期(もっと言えば3世紀頃)に地域全体の繁栄を想像させる遺跡ってあったっけ?

もし3世紀における九州のクニが奴国の「二万戸」が最大クラスであれば
「五万戸」の投馬国、「七万戸」の邪馬台国を同じ九州に求める事自体難しいのではと言う気がするがwwwwwwwwwww
4どうせこんな話この板の九州説は関心無いだろうがw:2008/12/14(日) 05:37:45
>>3
>弥生後期(もっと言えば3世紀頃)に地域全体の繁栄を想像させる遺跡ってあったっけ?

上記は筑紫平野において…って事で。
5日本@名無史さん:2008/12/14(日) 08:30:55
>先ず弥生後期にはその繁栄の中心が北部沿岸玄海灘中心地域に移っていると思うのだが
>この認識は間違いなのかな?
吉野ヶ里の衰退は北九州全体の衰退を示すものだと思うな。玄界灘沿岸の繁栄は、邪馬
台国時代よりも前だろう。弥生時代は農耕の時代、玄界灘沿岸のように田畑の少ない所
が繁栄するはずはない。筑紫平野が繁栄するなら分かるが・・・その筑紫平野でさえ衰
退をみせたのは何か? 南の邪馬台国、投馬国などに北部九州は負けたんだよ。

>「五万戸」の投馬国、「七万戸」の邪馬台国を同じ九州に求める事自体難しいのではと言う気がするが
 そんなことはない。北九州だけで5万戸、7万戸を考えるのは難しいと思うが、奴国だけで2万戸なんだ、
九州全体を考えれば、その程度は十分に可能だろう。前スレでも指摘したが、日向の繁栄はかなりのものだ
よ。日向に邪馬台国、薩摩に投馬国を比定すれば遺跡遺物とも符合する。
6日本@名無史さん:2008/12/14(日) 08:53:10
>日向に邪馬台国、薩摩に投馬国
九州全体から考えれば人口が偏りすぎだろう。
九州最大の穀倉地帯は筑後川流域を中心に熊本佐賀福岡に広がった平野。
絹も鉄も最多、遺跡も豊富すぎるほど
この地区を軽視して邪馬台国は語れんよ。
7日本@名無史さん:2008/12/14(日) 08:58:49
邪馬台国九州説・九州王朝説・九州年号説の臭い・汚い豚説3(PIG3)は
チャプターイレブン(連邦破産法第11条)を申請しました。事実上の破綻。
8日本@名無史さん:2008/12/14(日) 09:51:15
>>6
小山修三の弥生時代の人口推計とかをみたことあるかな。筑紫平野と日向南部、
九州の二大人口集中地だ。筑紫平野に伊都国、奴国、日向南部に邪馬台国を比
定すれば納得できるだろ。もちろん、熊本だってかなりの人口はあった。邪馬
台国や投馬国はそこを勢力下に収めて北部九州と戦ったということだろう。
それが倭国の乱だな。
9日本@名無史さん:2008/12/14(日) 10:23:08
>>8
筑紫は奴の2万戸だけで日向7万戸薩摩5万戸が偏りすぎという事。
さらに邪馬台国南には争ってる狗奴国

いくら人口が多かろうが12以上対2の割合はおかしい。
10日本@名無史さん:2008/12/14(日) 11:28:31
>>9
伊都国は魏略によれば万戸、末盧国は4千戸、不弥国千戸。奴国を合わせれば3万五千戸だ。
邪馬台国が都となれば、都に人が集中するのは世のならい。もともと九州は北九州よりも南
の方が人口は多かった。北九州の発展は江戸以降のことだろ。
11日本@名無史さん:2008/12/14(日) 11:33:18
狗奴国を邪馬台国と争っていた大国と考えるのはまちがいだな。
狗奴国は戸数、道里が書かれていない。官も1人。倭人伝以外中国の史書にも
登場しない。要するに、小国にすぎなかったとみるべきだ。
12日本@名無史さん:2008/12/14(日) 11:57:30
>>10
他の資料を持ち出していくら多く見積もろうが筑後川周辺の穀倉地帯が空白になる。
南の薩摩は投馬国なのか狗奴国なのかはっきりしてもらいたい。
北九州の発展は江戸時代以降・・・笑止。



13うましか:2008/12/14(日) 12:01:47
>>5

> 吉野ヶ里の衰退は北九州全体の衰退を示すものだと思うな。

「衰退」ですか?
環濠の消滅は、確かに社会システムの変化の証ですが、これは権力の集約化(広域化)が起きたことによって、
生産剰余の蓄積場所が生産集団の所在(弥生期で言えば環濠内)から、権力の所在地へと移動したことによります。
衛るべきものが無くなれば環濠は不要と言うことです。
この場合、集落自体は存続していても構わないのですが、
吉野ヶ里の場合、有明海の海退により地勢的条件も劣化していて廃棄されただけ。
住民も生産拠点も移動しただけで、佐賀平野全体を代表するような事例では無いでしょう。

> 玄界灘沿岸の繁栄は、邪馬台国時代よりも前だろう。

「繁栄」と言うことばの意味にもよりますが、これも3世紀に「衰退」はしていないでしょう。
前原や福岡平野は、2世紀から3世紀へと継続的に発展していると思いますよ。
前原・三雲では築山古墳などが作られていますし、博多側でも那珂八幡古墳や比恵・那珂、西新遺跡などがみられます。

> 日向に邪馬台国、薩摩に投馬国を比定すれば遺跡遺物とも符合する。

3世紀の段階の「遺跡遺物」と「符号」しますか?
14日本@名無史さん:2008/12/14(日) 12:35:03
>>12
>筑後川周辺の穀倉地帯が空白になる。
奴国、伊都国の計3万戸といえばかなりのものだと思いますが。
南九州よりも少ないというのは我慢がならんとか?

>>13
>住民も生産拠点も移動しただけで、佐賀平野全体を代表するような事例では無いでしょう
確かにいろいろな考え方が可能だと思います。移動先が分かればいいのですが・・
しかし、私はやはり南九州に比べて古墳も少ないなと衰退の気配を感じるのです。

>3世紀の段階の「遺跡遺物」と「符号」しますか?
考古学で3世紀などと特定したら何も分からないというべきでしょう。
もう少し長い目で見なければ・・。縄文、弥生、そして古墳時代とね。



15日本@名無史さん:2008/12/14(日) 12:54:28
>奴国、伊都国の計3万戸といえばかなりのものだと思いますが。

日向7万戸薩摩5万戸で12万さらに南の狗奴国、それと比べての話です。
それに筑後川流域の広大な空白地帯は解決しない。
16日本@名無史さん:2008/12/14(日) 13:27:01
1〜3世紀の筑紫平野  食料大生産地帯&大湿地帯
+筑後平野:矢部川+筑後川河口部左岸
+佐賀平野:嘉瀬川
+白石平野:六角川
+北野地域:筑後川中流域

吉野ヶ里の城郭遺跡は、佐賀平野と北野地域を結ぶ、
背振山地と有明海に挟まれた、東西に細長い地峡にある。
17うましか:2008/12/14(日) 13:48:27
>>14

> 確かにいろいろな考え方が可能だと思います。移動先が分かればいいのですが・・
> しかし、私はやはり南九州に比べて古墳も少ないなと衰退の気配を感じるのです。

> 考古学で3世紀などと特定したら何も分からないというべきでしょう。
> もう少し長い目で見なければ・・。縄文、弥生、そして古墳時代とね。

吉野ヶ里近くの二塚山遺跡や船石遺跡とかは古墳時代以降も存続します。
なので吉野ヶ里の担っていたセンター機能はどこか(佐賀とか、八女とか)に移転したのでしょうが、
住人(生産力)は散在化していても地域に残っていたと思います。

多分、貴方の言う「衰退」とは相対的なものなんでしょうね。
逆に相対的に「繁栄」したと言う南九州ですが、確かに宮崎の古墳数には目を見張るものがあります。
ただ、調査が系統的に行われているわけではないので断言出来かねますが基本的に中・後期のものです。
「魏志倭人伝」の時代とは被り難い感がしますね。
18うましか:2008/12/14(日) 13:57:03
>>16

有明海沿岸の各河川は比較的感潮域が深いので、
当時は中流部付近までは水稲耕作不適だったと思います。
吉野ヶ里のような丘陵先端部が主たる耕作域です。
だから、遺跡の分布も細長く広がるのです。
権力の広域化が進む古墳時代になると、
耕作に不向きな八女など河口域にも居住域が広がるのは、
物資の流通拠点としての必要性が増したからでしょうね。
19日本@名無史さん:2008/12/14(日) 13:59:05
>宮崎の古墳数には目を見張るものがあります。〜基本的に中・後期のものです。
確かに、以前はそのように言われていましたが、それは見直されつつあると言える
でしょう。水野祐氏は次のように言っています。
 西都原古墳群には、巨大な前方後円墳が数多く存在し、そのうちの主墳と目され
るものは、いずれも柄鏡式の前方後円墳である。この形式の前方後円墳は、大和でも
発生期の古式古墳だけにみられるものである。とすると、日向は、やはり古墳の発生
地といえるだろう。

 日高正晴の「古代日向の国」も同様のことを詳説してますね。

20日本@名無史さん:2008/12/14(日) 15:53:56
やっぱり吉野ヶ里の衰退を補うような(三雲や須玖に匹敵する規模の)遺跡の具体名は出てこないか…

まあ「衰退」と言う言葉は適切ではないかもしれん。

何も過疎化よろしく人口が減少したと言う事は無いだろうが
工業や交易の中心地が玄海灘周辺にシフトして吉野ヶ里のような大型の拠点集落が維持できなくなった…という事ではないだろうか?

もっと平たく言えば
「メイド・イン・吉野ヶ里」の青銅器やガラス製品等が「メイドイン須玖・那珂」にシェアを奪われてしまったとw

南九州についても日向灘〜瀬戸内海の太平洋側の海上ルートの交易が盛んでなかったのなら
筑紫の交易・工業の中心地としての地位低下に伴い大陸半島の文物の流入は減少したのではないだろうか?
21日本@名無史さん:2008/12/14(日) 16:00:28
>>19
>日向は、やはり古墳の発生地といえるだろう。

それは前方後円墳と言う埋葬文化の伝播速度が相当に速かったと言う事ではないのか?
(まあ「文化の伝播」と言うより政治的な結びつきだろうが…)

流石に「発生地」と言うのは飛ばしすぎだと思うwww
22日本@名無史さん:2008/12/14(日) 16:04:40
>>19
古代日向の古墳群は佐賀福岡なんかとは違い量も質も凄いですね。
人口も多く独自の投馬文化を持っていた事でしょう。
23日本@名無史さん:2008/12/14(日) 16:25:33
しかし宮崎日向説は考古学的資料として古墳を持ち出しているが
もう少し絞りこんだらどうだ?

具体的に言えば西都原だったら81号古墳ぐらいじゃないのか?邪馬台国論争のネタとして使えるのは?


大体、同じ事を畿内説が言った場合を想像してみろよ。

4・5世紀の古墳群の存在をもって3世紀に同等の勢力がそこに存在していたと言うのなら
自生説だの外来説だのの話も存在し得ないっつう話だぞ?wwwwww
24日本@名無史さん:2008/12/14(日) 18:19:16

北九州勢力は半島に勢力を伸ばし
南九州勢力は本州に勢力を伸ばした
熊本勢力だけがどちらにも行けなかったが勢力を温存した
25日本@名無史さん:2008/12/14(日) 19:32:56
>>11
狗奴国の官が記されているのは引っかかるね。
その官の名称も「〜ヒコ」と邪馬台国側と類似する。

邪馬台国の支配下の国には「〜奴国」という名称の国が多い。
狗奴国もその一つであったのが、その時期に反乱を起こしたと考えると
つじつまが合う。

つまり、邪馬台国の内部で、王族の一人が反乱を起こしたというのが
事実じゃないか。
26 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/14(日) 19:51:03
JR博多駅の南、那珂川の東岸に美野島という地名がありますが、
古地図でこれが島であったものが残っているようです。
いつ頃のものかは知らないのですが、玄界灘方面が発展し筑紫平野を抜くのは、
この美野島あたりが島から平野に変わってからではないでしょうか。

少し話が変わりますが、皆さんは投馬国と邪馬台国の戸数の前についている「可」をどのように見ていますか?
私はこの可はその戸数が推定値であることを示しているのではないかと思っています。
奴国の2万戸から、投馬国と邪馬台国の平野の広さから魏使が推定した値、それが可5万戸と可7万戸。
つまり、その平野の広さが大体の目測でその程度(の倍率)だった、という事ではないかと考えていますが、
皆さんどうでしょう?
27日本@名無史さん:2008/12/14(日) 20:24:36
tes
28日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:12:26
>>26
となると、ますます郡使は、伊都国を常宿としており、不弥国までは行って
いるが、その先の投馬国および邪馬台国には行っていない可能性が高い。
これは、不弥国までは里程、その先は日程に変わっていること、投馬国や
邪馬台国の状況についての記述がないことなどいろんな理由が挙げられる。

たとえば、梯儁は、魏の皇帝から送られた品物が、不弥国の港から船出する
のを見届けた。とすると、そちらの方向に邪馬台国がある可能性が高いが、
距離については不可解な要素が大いにあると思われる。
29日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:32:35
>>26
可が推量を示ことはそのとおりだが、平野の広さ云々は的はずれだろう。
平野の広さはそこを訪れたからといって直ちに理解し得る問題ではない。
そこの王や官から聞いた戸数が、一種の推計だったということだろう。
例えば、何戸を束ねる里長が何名いるとか、そんなことから推計するのかと
思うが。
30日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:40:23
>>28
>投馬国や邪馬台国の状況についての記述がない
いわゆる風俗記事は投馬国や邪馬台国の状況を書いたものだろう。内容を読めば、
北九州の状況ではないことは明らかだ。
伊都国から先は行かなかったというのは、行程記事を無視する弁解だな。
31日本@名無史さん:2008/12/14(日) 22:31:03
韓国に攻撃されてるぞwwwwwwwパート3
http://jfk.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1229260721/l50

現在vipper凸中

凸先 http://www.prkorea.com/start.html
32 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/14(日) 22:40:43
>>28
日程に変わるのをもって投馬国および邪馬台国には行っていない、という主張は新しいものではないですが、
その度に論破され続けているのですが。

逆に、邪馬台国に行っているのに里程が書かれていないのは、この日程が行程ではないから、
との結論には至らないものなのかな。
33日本@名無史さん:2008/12/14(日) 23:20:19
>>32

魏使の帯方郡からの行程総里数は、不彌國で万二千餘里となる。

これは、不彌國が女王國の中の一国であることを示している。

不彌國の南にある投馬國と邪馬壹國は女王國国内の二国となり、
これら三ヶ国は互いに接しているとみなせる。

だから不彌國から先の行程と里数がないのである。

投馬國と邪馬壹國の日数については、行程とは全く別のものを示しているのだ。
34日本@名無史さん:2008/12/14(日) 23:37:52
>>33
行程の総里数が万二千余里ならば、それが会稽東冶の東ということになる。
しかし、いくら地図がない古代だからといって、そんな馬鹿なまちがいをする
はずはない。ということは、万二千余里ではまだ邪馬台国ではないんだ。
35日本@名無史さん:2008/12/15(月) 00:01:44
>>32
>この日程が行程ではないから、との結論には至らないものなのかな。
ならんね。里数が良くわからないから日数で書いただけだよ。
そんなこと、当たり前じゃないか。裸国、黒歯国だって、船行1年と書いて
あるだろ。これも遠くて里数が分からないからだ。
36日本@名無史さん:2008/12/15(月) 00:50:11
自郡至女王國萬二千餘里
郡より女王国までの里数は出てるのに邪馬台国は日数
投馬國と邪馬壹國の日数は異質
おおよそ里に変換する事もできたはずなのにいきなり日数
なんだか畿内説に有利な展開だが南九州説よりマシか。
37日本@名無史さん:2008/12/15(月) 07:36:34
>>36
>郡より女王国までの里数は出てるのに邪馬台国は日数
良いところに目をつけましたね。邪馬台国までは距離が分からないから日数。
ということは、女王国までの里数は邪馬台国までではないということです。
距離が分からないから日数にしているのに、その邪馬台国までの里数を書ける
はずはありません。つまり、女王国と邪馬台国とがちがう概念だということですね。

>投馬國と邪馬壹國の日数は異質
これは何のことでしょう?

>おおよそ里に変換する事もできたはずなのにいきなり日数
時間から距離に換算しやすいところなら、換算したでしょう。換算しにくかったのですね。
ということは、どんな状況が想定できるか、となりますね。

38 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/15(月) 10:09:03
>>29
>そこの王や官から聞いた戸数が、一種の推計だったということだろう。
それでは奴国でも同じかと思うのです。しかし2万戸に可が付いていない。
足し合わせれば出る数値なら、可など付かない足し合わせた数値を書き残すのではないでしょうか。

また実際に戸数を数えたのは、魏使側と倭人側、どちらだったのでしょうね。
戸と家との違いなどもからんで、正直私にはよく分からないというのが本音ですが、
5万7万の数字だけが先行してあまり話題にならない部分ですね。
39 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/15(月) 10:15:56
>>35
日数なのは、両方とも倭人からの伝聞情報であるから、と捉えたほうがすっきり理解できるのでは?
で邪馬台国には魏使は行っている、となると20日は行程ではない可能性がでてくる。

20日、10日1月が異質なのは所見で誰もが感じるところだろうが、
前に書いたように「20日」がなければ、邪馬台国の比定地は非常に限られたものになる。
40日本@名無史さん:2008/12/15(月) 10:46:36
邪馬台国7万+周辺国数万+奴国2万、よく考えたら女王国は巨大な概念。
41日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:25:30
>>38
推計でも2万の場合と5万、7万の場合とでは誤差が違うということです。
また、私が言っているのは単なる足し合わせではありません。何戸を束ねる
といっても、それはそれぞれが約ということでまったく同じになることはない
でしょう。
>>39
行ってるのに、伝聞情報を書く必要はありません。
20日を行程ではないなどというのはトンデモですね。不弥国まで行程を書いて
その先について行程を書かないというのはまず考えられないと思いますが。
42日本@名無史さん:2008/12/15(月) 23:20:58
>>41
ではあなたに聞くが倭人伝にどこまで行程を書いてれば納得されるんですか?
あなたが興味ある邪馬台国ですか?
43日本@名無史さん:2008/12/16(火) 01:50:27

自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
女王国以北の不弥国までは道のり戸数は書けるとある
二十日の表記は女王国以南にあり道のりは書けないと考えるのが妥当。
要は奴国と同緯度にある不弥国以南は戸数も里程解らないということだ。
これで可5万戸可7万戸も解ける。戸数も道のりもよく知らないから正確に書けないのだ。

44日本@名無史さん:2008/12/16(火) 02:10:36
『魏志倭人伝』の「南」と書かれた2文字を「東」に変えるだけで
邪馬台国は大和国と確定します。九州説のように複雑な捏造をする必要がない。
45日本@名無史さん:2008/12/16(火) 04:51:39
台与は絹を送ってるのに大和は鉄も絹も無い
ヤマトモモモソヒメはタヌキの皮でも着てたんだろうか?
最近の学会では大和は裸国だった可能性を有力視している。
46日本@名無史さん:2008/12/16(火) 05:48:22

トヨタン・・・・・・・・・・・・
4741:2008/12/16(火) 07:05:17
使者は、投馬国、邪馬台国を訪れ、それぞれについての行程を書いたとみます。
それが水行二十日、水行十日陸行1月です。

>>43
>女王国以北の不弥国までは道のり戸数は書けるとある
書けないのは其の余の旁国と限定されています。旁国とは大国の周囲にある小国の
ことです。其の余の地域にある大きな国は書けるのです。
使者は投馬国や邪馬台国へ行っています。日数、戸数は道里戸数にほかなりません。
風俗記事は南方の様子を描いているようだと言われますが、それは投馬国や邪馬台
国の様子を描いたものなのです。けして北九州のことを描いたものではありません。


48日本@名無史さん:2008/12/16(火) 07:25:54
>>44
南を東に変えるだけでは解決しません。
陸行1月はどこから? 周旋五千里は? 女王国の東渡海千里は?
風俗記事が南方のことを書いているのは?
それに、そもそも南と東(実際には東北)を間違えるはずはない。
 
49日本@名無史さん:2008/12/16(火) 08:35:21
>>48
陸行1月はどこから?
旦波国(丹後国)の箱石浜です。
周旋五千里は?
船で行くと1年もかかる裸国と黒歯国の海岸線の合計距離です。
女王国の東渡海千里は?
伊勢湾を渡ることです。
すべて問題は解決されました。邪馬台国は大和国に決定しました。
50日本@名無史さん:2008/12/16(火) 10:31:45
>日数、戸数は道里戸数にほかなりません。

日数は日数、道里ではありません。
旁国とは女王国以北の国以外を指します。
風俗は倭の風俗で倭の中の何所とは断定できません。
51日本@名無史さん:2008/12/16(火) 10:37:15
>>49
無理がある。穏やかな瀬戸内海を通れば、大和川を遡り、船で安全に大和に
行ける。わざわざ危険な日本海を通り、長い陸路を取る必要もない。

伊勢湾の場合は、海を渡るとは言いかねる。これがありなら、唐津湾も
博多湾も海を渡るになってしまう。

方向は間違いといい、日数合わせの無理な経路をとり、渡らなくても良い海を
渡らなくてはならない畿内説はやはりおかしい。
52日本@名無史さん:2008/12/16(火) 11:36:25
そもそも魏志倭人伝に記された
邪馬台国の記述の信憑性からして疑問なんだけど・・
53日本@名無史さん:2008/12/16(火) 13:44:29

@ヒョッコリ畿内説が現れる
    ↓
A軽く捻り潰される
    ↓
B畿内説の代わりに、無かった説、エジプトなどトンデモ説、信憑性を疑う説が出てくる。
54日本@名無史さん:2008/12/16(火) 13:54:51
いや、マジで
魏志倭人伝での邪馬台国の位置って
責任ある担当者か何かが現地に行って確認したのか?
単なる又聞きを適当に記述しただけだったりして。
55日本@名無史さん:2008/12/16(火) 15:36:29
>>51
何を言っているんだチミは。日本海には対馬海流が西から東へ流れている。
瀬戸内海は潮流が絶えず変化している。対馬海流に乗った方が楽に航行できる。
唐津湾や博多湾より伊勢湾の方がはるかに広大だ。ついでに三河湾も大きい。
「三才図会」東南海夷図を見てみろ。本州が二つに分割されていて真ん中が
海になっている。なぜか尾張には海を渡らなければ行けないことになっている。
本当に九州説の人は歴史書も地図も理解出来ないし検証もしないね。
56 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/16(火) 17:06:09
>>41
誤差というのであれば”余”で統一されていますよね?
有二萬餘戸と可五萬餘戸、やはり「可」はもっと別の概念だと思うのですよ。

まぁ戸数は多少違っていたとしても、比定地に大きな違いはもたらさないでしょうが、
私としては、時々「九州に2万+5万+7万戸の人口は無理」というものに対する
反論を考えておきたい、というのがあるのですよ。

面積比からの推測とするなら、可5万余戸が実際は3万戸弱でも問題なくなるのでw


20日については、長くなりそうなので改めて書きます。
57 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/16(火) 17:28:35
20日ですが、その前に不彌国を振り返っておきましょう。東100里にある千余家の小国です。
(私説では100里は不彌国の距離ではないが、ここでは他の人の説に合わせて考えるとしておく)

放射説でも連続説でも、不彌国が経路上の国かそうでないのか、にかかわらず、この小国の記述が
あるというのはとても大切です。なぜならもし同様の国があった場合、その国のことが記述されているはず
と言えるからです。

そこで水行20日および水行10日陸行1月の記述を考えてみるに、この長旅の間、どこの国にも立ち寄らなかったのでしょうか?
投馬国に寄っている? ならその間20日はどこにも寄らずに船上生活でしょうか。
不彌国に寄っていないとする説ならもっと深刻です、寄っていない不彌国が書かれているのですから、
船上から見えた国々が書かれないというのは、考えられないくらいありえない話になります。

水行10日陸行1月も、どこかの国で上陸したのならその国が書かれなければおかしいです。
書かれていないのですから、国ではないところで上陸したということでしょうか。
しかも陸行1月、100里の距離の国が書かれているのに、1月もどこの国にもよらなかったのでしょうか。

これらも、水行20日および水行10日陸行1月が行程ではないと考えられる理由の1つです。
前回の書き込みなどをあわせると、行程ではない理由は沢山みつかりますね。


また陸行1月の記述もあやしいです。陸行何日なら1月と書くと考えられますか? 28日?29日?30日?
いずれにしても行程というのでしたら、日数を書くと私は思うのですがどうでしょう。
58日本@名無史さん:2008/12/16(火) 21:48:17
畿内説は間違っている!だから邪馬台国は北九州!
と言っている連中を見ると、
創造論者を思い出すな。
自説と矛盾するB説が間違いだと言うわけでは、
自説の証明にはならないという事を忘れてる。
59唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/16(火) 22:53:33
>>57 ◆.L.MXSPOgc さん此方ですか
ホツマを否定した処で 歴史は変わりませんよ。
倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗 倭王又大夫伊勢のベテランいわかを遣わす。

郡より水行20日で投馬(鞆、早鞆の瀬戸)に付く、
南に行くと女王国、そこから東へ10日又倭人の国(大和)がある。

卑弥呼=崇神時代←創造論者
何故なら 書紀の記事と考古学が一致しない。
60太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/16(火) 22:57:18
一致しないことを具体的に云いな。
61日本@名無史さん:2008/12/16(火) 23:10:23
>>56
余と可は意味が違います。余は余りがあるということ、例えば5万数千戸は五万余戸です。
可は単に「であろう」という意味です。
あなたは面積比からの推測と言いますが、人口は面積に比例するものではありません。

>>57
>長旅の間、どこの国にも立ち寄らなかったのでしょうか?
立ち寄らないはずはありません。書くだけの必要を認めなかったのでしょう。
そこで考えられるのは、港や都市に立ち寄ったとしても、そこは王宮のある所
(各国の都)ではなかったのではということですね。

>28日?29日?30日? いずれにしても行程というのでしたら、日数を書く
>と私は思うのですがどうでしょう
雨にどれだけ降られたか、休みを何日とったか、実際の日数は偶然に左右され
ます。あんまり細かい数字を書いても仕方ないでしょう。
62唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/16(火) 23:14:32
太国さんですか
崇神6年民散る。=193年新羅
崇神11年異族多帰=巻向に各地の土器

何処に比定します?。
63日本@名無史さん:2008/12/16(火) 23:54:35
>無理がある。穏やかな瀬戸内海を通れば、大和川を遡り、船で安全に大和に
>行ける。わざわざ危険な日本海を通り、長い陸路を取る必要もない。

そもそも
「日本海は波が荒く危険、瀬戸内は穏やかで航路としては後者しかない」
とでも言う論調は一体何の根拠があるのか?

瀬戸内と日本海で漁師の経験があるとか
波の高さの年中データでも持ってくるとかするならともかく…

少なくとも昔四国に渡る為良くフェリーに乗った人間から言わせてもらえば
瀬戸内だろうが荒れるときは荒れるw

まあ魏使が来たのが冬場であると書かれていたなら考慮する必要もあるかもしれんが…

山陰や丹後の日本海側の繁栄を見れば日本海側の航路が十分に発達していたであろうことは容易に想像できる。

それでも最終的に大和川を遡上する瀬戸内ルートが楽なのは確かだろうが
邪馬台国7万戸に継ぐ5万戸を擁する大国投馬国が山陰にあって
その政治的意図が強く繁栄されたとすれば何ら不思議でもない。

つうか何故かんな単純な事誰も指摘しないのだが九州説の連中からして
日本海ルートの最大のツッコミどころは…

若狭あたりから大和を目指せば方角が南(いいとこ南南東)でそこだけ倭人伝の記述にあうw
単純に90度地図を回転させる畿内説では説明がつかない。

・・・だと思うのだが、やっぱアホばかりなので気付かないのかな?wwwwwwwwwwwww
64日本@名無史さん:2008/12/17(水) 00:53:52
狗奴国=熊野水軍が制海権を掌握し、一時期瀬戸内海航路が機能不全になったんだよ。
65日本@名無史さん:2008/12/17(水) 01:15:49
>日本海ルートの最大のツッコミどころは…
そんな手間かけるような説か?誰も相手にしないよ。
66日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:11:09
>>63
邪馬台国論争はもう古典的畿内説を相手にする段階ではないし、ネタとして泳がせてるんだよw
最近畿内説絶滅寸前だから寂しいだろ?
邪馬台国は九州というのはわかったけど九州島の詰めの話ばかりでは疲れる。
投馬の若狭湾を一月に遊覧船だっけ?夢があっていいじゃないかw大いに語れ。
67日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:25:08
この板のアホの九州説論者がいくら妄想重ねたところで
伊都国や奴国の比定地は倭人伝とは方角の異なる地になっているのが現実だからなwww


魏志倭人伝を一言一句金科玉条の如く崇めるこの板の九州説論者は
はっきり言って畿内説に噛み付く前に定説をひっくり返すだけのネタを持って来いっちゅう話w


まあ魏志倭人伝に誤りがあるとしたならこの板の九州説論者の
「 暗号解読ゴッコ 」の前提が狂ってしまうから認める訳に行かないのは分かるがww


68日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:44:13
で、以下この板のアホの九州説論者には興味も無いであろうお話w


畿内だとか九州だとかではなく
2世紀から3世紀の古代日本全体を俯瞰するならばだ・・・

東日本で前方後方墳、近畿で前方後円墳、出雲で四隅突出型墳丘墓、吉備で楯築遺跡
・・・と各地で大規模な首長墓が造られている。

しかし九州にはそのようなものが見られない。

単に畿内との比較に頭に血を昇らせているこの板のアホの九州説論者は考えた事も無いだろうが
当時の日本全体から見ても何やら九州は立ち遅れている印象がある。

もっともアホ連中に言わせれば九州は進んでいて言わば「独自路線」を歩んだと言うかもしれんがwwwwwww

個人的には九州が社会構造の変革に立ち遅れたとも思っているのだが
これについて何らかの持論を持つ人がいるのなら意見を聞きたい。

年の為断っておくが九州王朝説や東遷説の「ト」はいいんでwwwwwwwwwww
69日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:58:26
で? 何?

北上するのに吉備も安芸も抜かして いきなり畿内の盆地マキムクにいくの?
すごい南下だなwwwwwwwww
70日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:02:14

北上しながら正面に太陽が昇るのを見ながら「南下」とか
いう馬鹿はおらん。

遣隋使・遣唐使の航路みればわかるが日本海ルートは日本の歴史上
確認されていない。

畿内説にはありえない論を展開しないと邪馬台国には有り得ないんだな。




71日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:04:59
>東日本で前方後方墳、近畿で前方後円墳、出雲で四隅突出型墳丘墓、吉備で楯築遺跡
>・・・と各地で大規模な首長墓が造られている。

>しかし九州にはそのようなものが見られない。

これは九州が渡海千里の東の倭種とはまったく別の文化だったことを物語ってるね。

私の興味は倭のその後の歴史。
72日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:18:34
ハヤト吸収で終わりだろ。残存がのちに別国建国
73日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:29:38
>>72
よくわかってないみたいだね、あんたどうでもいい。
74日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:37:12
別スレで語られてるけど大和朝廷が宋に提出したという
王年代記 これによると、神武が日向からマキムクに東遷するまでは
日向宮が都 
まあ、細かい部分は違っても、記紀と大筋で道理が合うし、これで考えれば
当然、日向だろ。これは当然、宮崎だと思うけどね。

卑弥呼の墓が前方後円墳とは実は思わないけどね。周りに百人埋めてるんだよ。
そんな風習が畿内の前方後円墳にみられるか?ないね。 
75日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:45:28

●『環日本海諸国図』 (通称:逆さ地図)
http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/35/78/3663578/23.jpg

この地図は富山県が建設省(現国土交通省)国土地理院長の承認を得て作成。
見慣れた世界地図を回転させたユニークな発想の地図です。
1部260円(税込み・送料別)
http://www.pref.toyama.jp/cms_cat/404030/kj00000275.html
76日本@名無史さん:2008/12/17(水) 04:04:31
>>63
畿内説を取れば、邪馬台国の方向の「南」は「東」の間違いとなる。
ところが、「東に海を渡るとまた国がある」の東はそのまま受け取るという
ちぐはぐがある。
77日本@名無史さん:2008/12/17(水) 04:24:37
とりあえず、日本海北上ルートはない。
それでいて日本海だろうが瀬戸内海だろうが
北へ東へと進むのに南下というわけがない。

というか、そもそも倭人伝自体、九州以外の話がないだろ。

しかも倭人伝からして、卑弥呼の墓は前方後円墳じゃないだろ。
前方後円墳なら絶対、なんらかの記述があるはず。それがないんだからな。
78日本@名無史さん:2008/12/17(水) 04:54:19
>>77
>というか、そもそも倭人伝自体、九州以外の話がないだろ。

ないかもしれないが、あるかもしれない。
ない、と断定するには思い込みでなく、論証しなければならない。

>前方後円墳なら絶対、なんらかの記述があるはず。

卑弥呼以て死す。大いに方円合体形の墓を作る。径百余歩、・・・という具合にか?
三国志を書いた陳寿が実際に卑弥呼の墓を見たのならともかく、何十年か経って
往時の伝聞などの数少ない資料を洛陽で探し、なんとか記述したのだろうから
墓の形が書いてないのも無理からぬことだと思う。
前方後円ならそう書いとけよ!は、無いものねだりだろう。
79日本@名無史さん:2008/12/17(水) 05:13:24
倭人伝には、墓について「有棺無槨」と書かれている。
古墳だったら、槨つまり石室はあるわけで、槨がないというのは古墳では
ないだろうなあ。

径百余歩というのは、丸い形を連想させるから円墳に近い形だったのだろう。
前方後円墳は、日本独特の形で、外国人にしてみたら珍しいから、
それなりの記述があってもいいんじゃないかな。
「封土作冢」など、墓については結構詳しく書かれているわけだし。
80日本@名無史さん:2008/12/17(水) 05:30:55
>>79
たとえば北部九州の弥生期に多かった甕棺だが、
これは中国大陸では珍しい部類に入る葬法だろう。

しかし倭人伝には
「大なる甕形の土器二つを焼いてこれに死体を容れ、棺となす」
みたいな記述は無い。
あってもよさそうとも思えるが、無い。

まあ3世紀は九州の甕棺も最盛期を過ぎてはいたらしいが
何でもかんでも倭人伝に書かなきゃならんわけはなく、
要はそういう情報が陳寿に入ってなければどうしようもない、ってことだ。
81 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/17(水) 08:39:48
>>61
面積比だという主張ではなく、他に思い当たらないのですよ。田畑の面積は、=養える人口とほぼ比例しますから
それほど突飛な値が出るわけではないと思うのですが。

実は最初は、ある1区画をサンプリングして、それを国の面積倍で戸数を算出してたのだろうかと思っていたのですよ。
でもちょっとそれは大変かなと。でも倭国側から戸数きいて、はいそうですか、で終わりなのでしょうかね。
倭以外の他の国でも同じだと思うのですが、実際どうだったのでしょうね。

少なくとも「可」というのは魏使側の意思に見えますが。


それ以外は、レスつける必要の感じられないつまらない書き込みですので、いらないですよね?
82 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/17(水) 08:43:55
>>67
何度も言って申し訳ないのですが、私の説は、
「倭人伝とは方角の異なる」こともありませんし、「定説をひっくり返す」必要もないです。

あなたこそ、私説の間違いなりを指摘してみてください。

http://yamat-2007.blogspot.com/
83日本@名無史さん:2008/12/17(水) 12:21:36
>>80
自分で書いていて畿内の説明が苦しいのはわかるだろ
そんな書き込みは子供の屁理屈にしか見えないよ
方角も距離も墓制も風俗も気候も何もかも違うのが畿内なんだよ
84日本@名無史さん:2008/12/17(水) 14:48:31
・珍説…四国説
・旧説…畿内説
九州説は2つ
・定説…北部九州説(おおよそ筑後川以北)
・異説…南九州説(日向)
85太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/17(水) 15:03:23
>>59
西暦は実年代 倍干は倍暦での干支 崇神、垂仁の代は3倍暦

皇紀 干支 西暦 倍干
624 甲申 257 丁丑
625 乙酉          崇神天皇 農事を勧める
626 丙戌
627 丁亥 258 戊寅
628 戊子
629 己丑
630 庚寅 259 己卯
631 辛卯          崇神天皇 崩御
632 壬辰 260 庚辰 垂仁天皇 即位
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
728 戊辰 292 壬子
729 己巳
730 庚午          垂仁天皇 崩御
731 辛未 293 癸丑 景行天皇 即位


住吉大社神代記でも古事記と同様、崇神没年は戊寅年です。つまり
実年代258年でそれがしの倍暦計算と1年違いで非常に正確と断じ
ます。神代記では垂仁没年を辛未年としてますが崩御の翌年(景行
即位)干支であり、やはり同即位の1年前が垂仁没年でともに1年
ズレでの合となります。
86日本@名無史さん:2008/12/17(水) 16:35:10
>>85
倍暦でもお笑いなのに倍干だって!大爆笑!九州年号とやらの「発倒」の如く
脳内発作を起こしてブッ倒れたら。干支まで捏造して動かすのか、馬〜〜〜鹿!
87日本@名無史さん:2008/12/17(水) 16:44:07
郡使が伊都国までしか来てなかったら、
邪馬台国がどこにあろうが「倭の風俗」は九州の物しか書けないだろう。
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/17(水) 16:44:56
>>86
記の崇神の崩年干支は1年違いの258年で合ってるんだね。という
ことは、倍暦の干支が蔭で存在したことになる。
大した研究もしてないでデカイこと云うな。

これで逆算すると、倍暦では1年違いで

 崇神即位元年=237年=景初元年

が正解となる。この記の258年説を支持してる者はけっこういる。

オマエの豆脳が怠けの研究不足で盲象と化してるのだ。www
89日本@名無史さん:2008/12/17(水) 17:25:56
奴国起点放射説
なんてのを言ってる奴はいないのかね。
90日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:54:00
どうやら決着がつきました、一つの結論として畿内ではない、ということです。
いまさら若狭湾から南に歩いたとか伊勢湾を渡海したとか、戯言しか出てきません。

敗者畿内説の輩はこれからどうするのでしょう
畿内じゃなかったら邪馬台国など無かったほうがよいですよね。

負けた畿内説はこれから邪馬台国は無かった説に変説すると予想します。
91日本@名無史さん:2008/12/17(水) 21:08:13
邪馬台国は耶馬渓にあった。
92日本@名無史さん:2008/12/17(水) 21:27:42
>>71

各地の埋葬文化をひと括りと言うのは乱暴だなw

巨大な首長墓を築くと言うのは政治的”潮流”とでも言うべきものだろう。

現代に例えるなら新自由主義に乗っかって邁進したアメリカと日本ではあるが
やはりそのニ国は別の文化だと言う事とかw

まあ文化論となると、どうしても抽象的な話になるが、結局何が言いたいのかと言うと
巨大な首長墓はそのまま巨大な権力を持った首長、そのクニを現し
それらの見られない九州は奴国の2万戸がMAXではなかったのか?

果たして九州に奴国2万戸を上回る投馬国5万戸、邪馬台国7万戸を想定する事が
どれだけリアリティがあるのかと言う話wwwwww


93日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:32:51
>>92
>巨大な首長墓はそのまま巨大な権力を持った首長、そのクニを現し
>それらの見られない九州は奴国の2万戸がMAXではなかったのか?
墓の大きさで権力の大きさを決めようなんてのが、大きな間違いだな。
墓なんてのは、人間の営みの中のほんの片隅の事柄にすぎない。
人民をいたわり無駄な墓を造らせなかった名君は忘れられ、でかい
墓を造った馬鹿殿だけが名を残す?
畿内説はそんな墓だけに頼った説ということだ。

94日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:42:16
魏の曹操が創始した当時の最新トレンド薄葬
畿内の首長達には最新情報は入らなかったようです。
95日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:39:07
九州王朝説論者アホのサイキバ君お得意の「薄葬」ネタか…
いい加減勘弁してくれw

巨大な墳墓を築くにはそれなりの人員を動員せねばならないと言う
物理的必然、至極当たり前の話すら通じないのかこの板の九州(王朝)説論者のアホどもはwww

じゃあ、その民を慈しむ仁愛に満ち満ちた九州邪馬台国だか九州王朝だかが
 3世紀 九州にあったと言う可能性を示唆する考古学的資料はなんなんだっちゅう話だな。

96日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:53:08
え、畿内には何かあったの?
97日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:05:54
古墳がなぜ出来たのか、どうして巨大な古墳が作れたのかは、考えなくては
ならない課題かな。

記録の確かな中で強い権力を持った天皇というと、天武天皇を思い出す。
その天武天皇の野口王墓古墳は、西暦687年に築かれていて、一辺が60m弱。
決して大きくない、というよりも小さい。

小さな古墳が時代の趨勢と言ってしまえばそれまでだが、大和朝廷の権力は
大きくなっているはずなのに、どうして古墳は小さくなったのか。

個人的には、余剰人員、つまり奴隷の存在があるような気がする。戦乱の中で
被征服者は、奴隷となる。その奴隷に巨大古墳の築造を強要する、という
具合である。
ところが、その奴隷が社会の中に組み入れられてくると、余剰人員ではなくなる。
そうなると、人口は増え、支配する範囲は広くなったにもかかわらず、
古墳築造のための人員を調達しにくくなる。巨大な古墳の築造が難しくなる。
だから、小さくなった。

九州の場合は、比較的安定した社会だったから、古墳は大きくならなかった。
しかし、大和の政権が出来るようになった頃は、激動というか戦乱の世で、
有り余る奴隷を巨大古墳築造に使うことが出来た、というわけではなかろうか。
98日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:11:17
>>90
魏志倭人伝の文字2つを「南」から「東」へ変えるだけで邪馬台国は畿内に
なります。北九州から日本海を水行20日で米子市にあった投馬国です。
さらに水行10日で卑弥呼(日女命)の実家である京丹後市にあった旦波国に
到着します。そこから陸行1月で桜井市にあった邪馬台国の都である纏向に
めでたく到着します。漢字2文字の変換で邪馬台国九州説は倒壊しました。
99日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:16:23
>>97
いや巨大古墳の造営は6世紀には終焉を迎えている。

元々巨大古墳は権力の誇示が目的であり
(副葬品がいくら豪華でも外からは見えないわけでwwwwwww)

ある程度の体制ができたり権力を誇示・行使する具体的なもの(軍や官僚機構等)
ができればそのような巨大モニュメントは必要がなくなるからじゃないかな?
100日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:39:38
>>98

>>76
101日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:12:18
>>93
>人民をいたわり無駄な墓を造らせなかった名君は忘れられ、でかい墓を造った
>馬鹿殿だけが名を残す? 畿内説はそんな墓だけに頼った説ということだ。

おそらく、古代の真実はそう単純ではあるまい。

巨大古墳の属性の一つに周濠がある。
これは、ただ単に墳丘用の土を取った跡・・・というだけではなく、
農業用水の溜池としても役立つものであった。

最初の巨大古墳づくり(・・恐らく箸墓・・・)の時点から、そうした灌漑・治水の意図があったかどうか
今はまだ不明ではあるが、古墳づくりに動員された人民たちは次第に気付いていったであろう。
自分達が力を合わせて築き上げたドデカイ構造物の、意外な有用性に!

 「おお!今年のような日照り続きでも、なんと大王様のお墓の堀には水が満々と!」

畿内の大首長たちには「治水王」としての側面が見える。
無論、記紀に描かれた諸天皇の治世の記述も以前よりこれを後押ししていたのだが、
最近になって考古の面から判明してきたのは、近畿地方に特徴的な「水のまつり」である。
南郷大東遺跡、城ノ越遺跡、心合寺山古墳や松阪宝塚古墳の水祭祀埴輪・・・・etc.

巨大古墳づくりの課程の中から、大王も人民もともに、治水や土木の大切さを知り
技術を高めていったのではないか。

魏志倭人伝を読むかぎりの印象だが、倭の女王・卑弥呼の墓は、
やはりたいそう大規模であったと思われる。それまでにはなかった巨大墳墓をつくったのであろう。

「人民をいたわり無駄な墓を造らせなかった名君」・・・のごとき、後世的な固定観念を持ち出す九州説論者は
いかにおのれが自己矛盾しているか、それではいかに古代の真実に迫り得ないか、
全く埒外にして自ら気付くことが出来ないのであろう。
102日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:39:46
>>87
>郡使が伊都国までしか来てなかったら、
>邪馬台国がどこにあろうが「倭の風俗」は九州の物しか書けないだろう。


それは間違い。北部九州は君が思ってるほど暖かくないよ。雪も降るし
ちょっと山間部にはいれば氷点下まで下がる。日本中どこでも一緒。

九州で冬でも明らかに一線を画す暖かさといえる天候があるのは
中部より南だけ。 しかし鹿児島より宮崎のほうが暖かい(海流のおかげ)

例にあげるとプロ野球キャンプ。宮崎と沖縄だけ。天候が似てるからだよ。

倭人伝の南国風の記述は伊都国周辺のものじゃなく、九州南部のもの。
それは北部九州の人間も気づいているはずだが知らん振りしてるだけwww

つまりね、倭人伝のいう「倭」とは九州の南部を相当含んでいるということなの。
103日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:42:48
山間部でありながら、暖かいといったら宮崎の山間部ぐらいしか
ないだろ。「日向宮」とかいう場所と重なるわけよ。
だからそこだろ、やっぱ。


104日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:50:36
葛城襲津彦の墓ってどこ? 
スクネのがあるのにおかしいよな
105卑弥呼:2008/12/18(木) 04:13:17
古墳って韓国で先に作られて、その50年から100年後に日本でつくられたんだよね。
て事は天皇も渡来系?
106日本@名無史さん:2008/12/18(木) 04:26:50
韓国にある前方後円墳は日本人の支配者層の墓。
倭人の墓だよ。

系譜の最初のほうの天皇陵は前方後円墳ではない。
だから卑弥呼の墓も前方後円墳とは思えない。箸墓とかありえん。
107日本@名無史さん:2008/12/18(木) 04:32:17
>>106
日本人の支配者そうの墓がなんで先に韓国にできたの?
これってつまり天皇が韓国系って事の証明だよね?
108日本@名無史さん:2008/12/18(木) 05:08:46
>>105
>>107
韓国サイバーテロ集団VANKの人、こんにちは。脳内キムチ畑ですね。
109 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/18(木) 07:34:34
>>98
>魏志倭人伝の文字2つを「南」から「東」へ変えるだけで
残念ながらそれだけでは不十分です。
末盧国・伊都国・奴国の方向と距離、これさえ上手く説明できません。
水行20日、水行10日陸行1月、の間にあった国々の記述が無いことにも答えられません。
自郡至女王国万2千余里も説明できません。
110日本@名無史さん:2008/12/18(木) 09:41:42

魏志倭人伝の文字2つを「大」から「支」へ変えるだけで、
邪馬台国の都は久留米になります。
111日本@名無史さん:2008/12/18(木) 10:44:01
>◆.L.MXSPOgc

わざわざブログの宣伝までしに来るんだったら
ブログの内容もう少し分かり易い書き方にしたらどうだ?

お前の説をどんな物か見ようとしても”過去ログに遡って…”を繰り返さねばならず
もうそれだけでうっとおしい。

ブログでもコメント0でこの板でも弄ってもらえない。
少しは悟れ。

112 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/18(木) 12:54:41
>>111
やだよ、面倒くさいw
過去ログ遡って読めばいいだけの話でしょ?

だいたい私でさえ数ヶ月見ないブログなんだから、コメント書かれても困るし。
113日本@名無史さん:2008/12/18(木) 16:36:52
>>90
畿内説論者が邪馬台国否定に転向することなどあり得ないよ。
何故なら、「勝った」と言うのは君の妄想で、
いまだ論争は続いているのだから。

安本美典の「畿内説徹底批判」だって、
畿内説の人間がグゥの音も出ない、と言う類のものじゃない。
114日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:13:23
邪馬台→ヤマタイ・ヤバタイ・ヤマイ・ヤマトなどなど諸説あるが
仮にヤマタイと読んだ場合、台与はタイヨじゃなきゃおかしいのでは?
文字の無い倭人から聞いた言葉を当て字にするなら、同じ文字に
二つの読みを与えてはいけないはず。台与をトヨと読ますなら
邪馬台はヤマトになる。ヤマダイ、ヤバダイ国では台与はダイヨ
ヤマイ国であれば台与はイヨになるが、そうなると同じイと読むであろう
伊都国の伊を使ってナゼ伊与と記さないのかという話になる
115日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:58:36
なんか九州説は無理があるなあ
3世紀はもう考古学的には九州は衰退
マキムクどころか、吉備や出雲にも及ばないしょぼさ
116日本@名無史さん:2008/12/18(木) 18:02:40
ツマ国って吉備のことだろ。
ほかに5万戸の集落が想定できるところがないね。
九州w、ショボ過ぎるぞw
117日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:16:21
>>102
あーあー南九州説とは嘘と騙しで成り立ってるのか。
福岡と宮崎の平均気温は1度しか変わらないし、統計上ここ5年の福岡の積雪は一回だけ1cm
よく雪が降るとは大げさなw
第一そんなに寒かったらマツラの住民は海に潜れない
それに福岡(奴国)はどんな説でも女王国領域に入ってるんだろ?
まさか書いてある事は邪馬台国だけの事と考えてる?それ単純に倭人伝の読み間違いだよww
118日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:23:27
>>115
最近の趨勢は倭京大宰府の歴史は最新の年輪年代法により相当遡るらしい。
大和が前時代的な巨大古墳作ってる時代に中央集権都市大宰府の建設、倭(九州)は次の時代にいたんだろう。
119日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:26:46
×邪馬台
○邪馬壹國
120日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:29:58
>>102
それに宮崎は投馬国として倭にちゃんと入ってるよ。
121日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:39:06
>>117
おまえ、冬に宮崎いったことないからだろwwwww

1度しか変わらないとかいうレベルじゃなく、肌感覚でいったら7,8度違うよ。
コート要らない、椰子の木は自生、海洋生物はカラフル、これぐらい違う。
日本中でこれだけ違うのは宮崎と沖縄だけだ、ボケ。
122日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:47:23
>>101

巨大古墳の周濠についてはカラ濠って説がなかったっけ?

現実問題水をたたえていると風が吹いたら表面にさざなみが立って
古墳を侵食するとか・・・

123日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:02:27
>>119
三国志の原本(著者自筆本)は残っていない。
邪馬壹國が正しいとするのは古田武彦だが、後世の版本を見てそう主張しているだけ。
邪馬臺國と書いた三国志以外の本もあり、原本が壹、臺、どちらの表記だったかは
今のところ判らないと言うしかない。
124日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:12:02
>>121
今は冬だよな

12月18日現在の福岡と宮崎の気温
福岡21時で7℃ http://tenki.jp/amedas/detail-1106.html
宮崎21時で8℃ http://tenki.jp/amedas/detail-1213.html


>肌感覚でいったら7,8度違うよ。

笑わせるなよ。
125日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:14:30
http://tenki.jp/

ここで気温などはわかる
126日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:19:17
南九州説は嘘大げさということが発覚しました。
嘘を前提にした説は受け付けられませんよw
127日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:22:07
というか宮崎は投馬国で何が不満なの?
128日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:25:36
投馬国(宮崎)と邪馬台国(北部九州)ではそんなに違いはないよ。
5万と7万もそんなに違いはないし
魏と交流してたかしてないかの違い位だよ。
宮崎は投馬国で何が不満なの?立派だよ投馬国。

129唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/18(木) 22:32:16
宮崎の発展は、景行が屯倉経営のため人を送り込んだ為。
だから最初から前方後円墳が作られる。
130日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:41:26
>>117
>福岡(奴国)はどんな説でも女王国領域に入ってるんだろ?
どうして、そんな間違いを信じたのかな。奴国は女王国ではないよ。
奴国を女王国に入れるのはトンデモだけ。

131日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:43:55
>>130
次有奴國此女王境界所盡

奴国は女王国領域の北限だろ。
132日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:46:05
>>127
宮崎は投馬国ではないな。邪馬台国だよ。
投馬国だというなら、行程を説明してみな。
133日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:49:14
>奴国は女王国領域の北限だろ。
次有奴國此女王境界所盡の奴国と福岡あたりの奴国は別だというのが通説。
次有奴國此女王境界所盡の奴国は女王国境界の南の端。
北の奴国は「女王国以北」に入ると考えられている。

134日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:50:00
>>132
南至投馬國水行二十日

はい行程だよ。
135日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:52:20
>>133
通説ではわからんなちゃんと説明できないんだろ?
136日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:54:21
奴國が2つあるなら狗奴國も2回出てきたよw
狗奴國は2つあるの?
137日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:58:28
>>135 >>136
文章の基礎的な理解もできないなら、ごちゃごちゃ言う前に本でも読め。
138日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:00:03
>>134
伊都国、不弥国はどこ? 水行二十日のコースは?
139日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:00:26
>>137
おいおいその言葉そのままおまえに返すよw
奴國が2つあるって言ったのはおまえだろ?説明できないのか?w
140日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:02:23
>>139
通説だって言ったろうが。その辺の本を2、3冊読んでみろ。
141日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:03:48
>>138
一つのレスで複数の質問はやめろよw
答えてもそれに対する返答はなく
オバカな質問で論点をぼやかして逃げる魂胆見えてるんだよ。
142日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:05:48
>>140
奴國は一つ、通説というか文章が読めれば当たり前のこと。おまえは小学生こくご本を2、3冊読んでみろ。
143日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:10:14
というかマジで南九州説は本を2,3冊読んだだけの素人みたいだなw
南の奴國とかいいだしたの誰だよwどこだよ南の奴國ってw
144日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:17:43
ほんと南九州説は自説を論理立てて説明することから始めないと

だいたい南九州説は嘘を見破られ沈黙して再び同じ嘘を繰り返す
福岡は雪深いとか大嘘でイメージ路線に走る。
145日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:22:42
結論は宮崎は投馬国。
146日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:26:43
我流で読んでるから、滅茶苦茶になるんだよ。

榎の「邪馬台国」・・・旁国の奴国、これは女王国以北の奴国とは別と考えるべき
   である。女王の境界の最もはずれにあり、その南に狗奴国があった。
武光の「邪馬台国辞典」・・・福岡平野の奴国のほかに、邪馬台国の領域の最南端
   と考えられるもう一つの奴国が斯馬国以下の記述にみえる
三木太郎の条解・・・この奴国(南の奴国)は、以北の奴国の重出とする説もあるが
   太平御覧魏志は「其の属する小国は二十一ありて、皆之を統ぶ」と記しており、
   斯馬国から奴国までは正に二十一であるから、重複ではないことがわかる。
147日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:34:09
>>146
素人が邪馬台国本3冊読んでそれの受け売りかw
バカを相手にした俺が悪かったかな?
おまえには小学生1年生国語を薦めるよ。
148日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:37:22
>>147
いちいち私が説明するまでもないと思っただけのことよ。
149日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:41:53
>>148
自分が説明できないレベルなのに、説明するまでもないとはw
150日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:42:47
説明しても理解できるレベルでないことが分かるからだよ。
151日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:46:50
>>150
おまえ今でも南の奴國とか市販本読んだけどよく解ってないだろ?
そこがバカの限界なんだよ。
考える訓練しないと本の受け売りだけじゃ限界があるよw
152日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:51:54
>>151
文章が乱れてるぞ。書く訓練をしないと笑われるぞ。
153日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:53:37
倭人伝には奴国が二つ出てくる。
一つは、伊都国の東南百里にあり、二万戸を擁する国。
これは、女王国の北にあって、戸数、道里を略載出来る国ということに
なるんだろうな。

もう一つは、その余の旁国として記載されている21カ国の最後に出てくる
奴国で、女王の境界の尽きるところと書かれている。

多分、この二つの奴国は違う国なんだろう。

後漢書にも金印をもらった奴国が出てくるが、倭國之極南界と書かれている。
これは、その余の旁国の奴国をあらわしているのだろう。
范曄は倭人伝を読んで誤解しているのではないかと思う。
154日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:56:03
>>152
南の奴國の説明という疑問からやっぱり逃げるの?
自分で出しておいて結局答えられなかったね。わかってたことだけどw
155日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:02:25
>>153
へー金印もらったの北の奴國ではなくて南の奴國wなんだ。
自分で言っててわけわからなくなってない?
156日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:06:36
2万戸の奴國をさしおいて金印もらった南の偽奴國は何万戸あったのかな?w
157日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:23:49
>>155
金印というと、福岡市の志賀島から有名なやつが出ている。
この金印が後漢書に載っている金印とすれば、奴国はこの近くにあったのかも
しれない。とすれば、倭国の極南界というのは考えにくい。

だから、范曄は、倭人伝を見て、奴国というのは女王の境界の尽きるところに
あって、その南には狗奴国があるのかと思い、極南界と書いた、というのが
考えられる。

金印が志賀島から出たことで、奴国は福岡市付近という説が定説のように
なっているわけなのだが。
ただ、このあたりの部分は微妙なので、いろんなことが考えられると思う。

たとえば、後漢書に書かれている奴国がもらったとされる金印と、志賀島から
出た金印が同じものかどうか、とか。
158日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:24:27
宮崎は投馬国
159ローガン:2008/12/19(金) 01:08:42
戸(家)数って倭人伝に書かれてあるだけでも150000…三韓とほぼ同じ。
九州に収まるか? とりあえず北中部九州には無理。そして 旁国があと23国…
160日本@名無史さん:2008/12/19(金) 01:51:08
>>159

筑紫平野に15万戸もあり、人口が多い理由。
1:三韓の平野面積と筑紫平野面積(沖積地可耕面積)はほぼ同じ。
2:筑紫平野の方が温暖な分だけ食料生産量が多い。
3:古代筑紫平野は平野部が全て海(有明海)に面しているので、タンパク質(魚介)の供給量が多く安定している。

筑紫平野=筑後平野+佐賀平野+白石平野+北野地域
15万戸≒1000餘戸+20000餘戸+1000餘家+50000餘戸+70000餘戸
161日本@名無史さん:2008/12/19(金) 02:56:47
>>160
おいおい、

「北部九州に15万戸の人口を見込めるのか?」
…と言う質問に対して
そりゃ答えになってないぞwwww

まあ 現・実・問・題 として弥生末期、通説で奴国とされる福岡の須玖や那珂以上の遺跡があると言う話も聞かないしなあ…

それどころか筑紫全体は衰退傾向にあったんじゃないのかな?w
162日本@名無史さん:2008/12/19(金) 03:33:22
国名などで、「奴」という漢字がよく出てくるが、魏代の音でどう発音するのだろう?
ナ?ド?ノ?ト?
163日本@名無史さん:2008/12/19(金) 04:30:50
>>160
肥前国の出挙正税稲束数はわずか20万束である。筑後国もわずか20万束
である。人口が15万戸もあるならもっと出せるはずだ。
164日本@名無史さん:2008/12/19(金) 07:06:14
>>159
確かに北九州説は九州全体で3、400万人の人口を想定することになる。
戸数を信じる限り北九州説は無理なようだね。
165日本@名無史さん:2008/12/19(金) 07:30:00
しかし、逆に言えば、北九州だけで4万戸はあるのに、本州を含めて20万
戸程度では少なすぎる。戸数を信用する限り近畿説も無理。
166 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/19(金) 08:27:27
「可」を考えないから、おかしな話になるのかもしれないよ。

可5万戸と可7万戸、実際には足して7万戸程度だったのかもしれない。
推定の根拠が分からないから、誤差が見積もりにくい。
167160:2008/12/19(金) 09:26:20
>>161
>「北部九州に15万戸の人口を見込めるのか?」
>…と言う質問に対して
>そりゃ答えになってないぞwwww

答えになっている。
君は説明の順序を変えると論理思考ができないのか?
それに、君の「奴國は福岡平野にある」との思い込みが、君の脳を狂わせている。

筑紫平野面積(沖積平野)≒三韓の沖積平野面積
1、2、3、の理由があるゆえに、
筑紫平野人口>三韓人口
ゆえに、
北部九州人口>筑紫平野人口(>15万戸)>三韓人口(14〜15万戸)


奴國が何処にあるって?
それは佐賀平野だ。


>>164
>確かに北九州説は九州全体で3、400万人の人口を想定することになる。

そんなに人口が多いとは思わない。
北部九州で160〜200万人、
九州全体で200〜250万人と思われる。
168日本@名無史さん:2008/12/19(金) 09:55:42
邪馬台国岩手説の初出って誰?
169日本@名無史さん:2008/12/19(金) 11:57:03
魏志倭人伝の戸数には誇張がある。古代の人口はそんなに多くない。
畿内説?の石野博信さんもこう言っている。
邪馬台国の七万戸は、近畿地方全体を一つの国と考えても到底おぼつかない、と。
170日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:06:06
確かに誇張説が有力ではあるが、もちっとその理由がかんがえられないであろうか。
そこから倭人伝の戸数の謎が解けるのではとおもうのであるが。
171日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:27:02
一支国は3,000許家となってるけど原の辻遺跡から推測すると島全体で1000戸もあルカどうか怪しいと思う
3〜5倍の誇張はありそうだ
172日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:57:10
戸数や里程里数に拘る必然性は無用と、かつ無意味と考えます。
何故なら、帯方郡から狗邪韓国の里程か七千里、対馬國まで千里、壱岐国まで
千里、末盧国まで千里、ここまでで、一万里です。
明帝紀においては、洛陽から遼東までの里数は四千里と明記してあるのです。
地図帳を開いて見るならば、『誇張誇大』は明らかです。
したがって、魏晋短里説は誤りであることも、ここに明白です。
陳寿は漢書を意識対抗して書いたはずです。漢書には西域伝が有りますが
三国志には西域伝はなく、その代わり立てられたのが東夷伝であります。
司馬懿の好敵手の曹真が活躍したのが西域だったという理由を加えても自然です。
なにせ、東夷諸国の平定は、司馬懿並びに晋帝室にとって、司馬氏創業記念の地です。
倭人伝に限らず、東夷諸国の記事に誇張が多々あるのは、当然でありましょう。
173日本@名無史さん:2008/12/19(金) 13:37:30
魏志倭人伝からして眉唾なのに、
邪馬台国なんて存在からして疑問だろ。
174日本@名無史さん:2008/12/19(金) 13:40:41
まああれだw中共もニタついて眺めてる可能性があんだよな。
175日本@名無史さん:2008/12/19(金) 13:45:31
>>171
>一支国は3,000許家となってるけど原の辻遺跡から推測すると島全体で1000戸もあルカどうか怪しいと思う
>3〜5倍の誇張はありそうだ

韓伝から推定すると、1戸=2〜3家だから、一支国は3000許家=1000〜1500戸となり誇張はない。
東夷伝の「家」と「戸」の使い分けは社会構造の違いを表している。
176日本@名無史さん:2008/12/19(金) 13:52:12
>>172
短里と長里の使い方を勉強しろ。
177日本@名無史さん:2008/12/19(金) 16:56:58
>>176
条里制の里と条坊制の里を勉強しろ。
178日本@名無史さん:2008/12/19(金) 17:19:27
>>167
いやいやいや、説明の順序云々のレベルの話じゃないからwww

「南だから収穫量が多い」
「海に面しているから魚介類での蛋白源が確保できる」
なんて話も大概漠然曖昧糢糊だがw

そもそも

>三韓の平野面積と筑紫平野面積(沖積地可耕面積)はほぼ同じ。

とは一体どう言う根拠なんだよ?w

一回頭冷やして地図を見てみろと…つっても納得しないだろうから
極々ざっくりした数字だが(数字の引用元はWikiね)

 現在の筑紫平野の面積が 約 200平方キロメートル

 韓国の国土面積が..      98480平方キロメートル

無論、三韓となればワイの地を省いたり等々しなきゃならないだろうが

筑紫平野の面積は韓国の国土面積の僅か 0.2%
韓国の平野部は国土の僅か0.2%なのかよ?w

一体何処をどう計算すれば良いんだ?
積算根拠を教えてくれwwwwwwwww
179178:2008/12/19(金) 17:20:51
加えて言うと吉野ヶ里の人口が1000人とチョット
周辺の集落と合わせても5000人ぐらいと言う事だから
吉野ヶ里クラスが30ヶ国でやっと15万人。

>北部九州で160〜200万人
>九州全体で200〜250万人と思われる。

これ↑は一体何を根拠に?wwwwwwww


ちなみに九州の北と南での人口の比率もおかしいw

 鬼頭(2000)による〔『人口から読む日本の歴史』(16-17p)から〕
 http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html

上記の良くこの板で出てるサイトからだと
弥生時代の北九州で40500人、南九州で64600人
むしろ南九州の方が多い訳だがwwwwwwwwwww

あと九州説論者全体に注意しておくが
上記のサイトを見れば分かるが九州全体として
他地域に対し人口のアドバンテージなんか無いからなwwwww
(まあそれは軍事や農耕と言った国力としても置きかえられるんだろうが)
180日本@名無史さん:2008/12/19(金) 18:07:32
>>178
>現在の筑紫平野の面積が 約 200平方キロメートル

筑紫平野が14km四方かよ。桁間違えていないか?
東西南北70km×60kmは十分あるぞ。
韓國中部の沖積平野の面積は国土面積に比べてほんの僅か。

言っておくが、京城付近(京畿道)とその東は帯方郡だぞ。馬韓ではないぞ。
全羅南道も慶尚南道も倭人居住地域だからな。
181180:2008/12/19(金) 18:16:32
>>180
>京城付近(京畿道)とその東は帯方郡だぞ。

その東=忠清北道
182180:2008/12/19(金) 18:25:29

畿内説に犯された鬼頭の人口論は何の参考にもならない。
183日本@名無史さん:2008/12/19(金) 19:06:31
筑後川流域の平野部を地図上から計測してみました。
当時は海がもっと上まであったこと、干拓がなかったこと、
すべてが耕作地ではないことを考慮してください

あくまでも”今の”平野部は1250平方キロあります。

これには、平地続きの佐賀平野、白石あたりまで含みます。
北は鳥栖、南は南関の北側までです。
184日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:42:50
筑後川流域を中心とする平野と比べるのは南九州説の宮崎平野だろう。
よく知らんけど宮崎平野はショボイだろうな。
15万戸の人口を養えるとは思えんな。
185日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:01:47
>>182
畿内の人口だって、3万人と書いてある。
南九州の半分以下。
186178:2008/12/19(金) 21:06:05
>>180-182

>東西南北70km×60kmは十分あるぞ。

あくまでMAXって事だよな?

70km×60km=4200平方キロメートルなら
福岡県の面積4976平方キロメートルとそう変わらないしw

まあ今相当やっつけだが地図上で面積見積もってみたが
確かに>>183の言う1250平方キロぐらいの数字にはなりそうだ。

Wikiの「200平方キロメートル」は「1200平方キロメートル」の誤記の可能性が高そうだ。

よって筑紫平野と三韓の平地割合の比較の件については取り消す。
187日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:18:19
皆さん、なぜか無視する熊本県。
熊本平野は、広いし、盆地気味なので、古代の人には住みやすかっただろう。
鉄器の出土も圧倒的に多い。質量共に全国一だろう。
しかも、最古の鉄器、鉄斧も玉名市の斉藤山遺跡から出ている。紀元前3世紀
とも5世紀とも言われる。縄文時代と弥生時代の変わり目付近。
188178:2008/12/19(金) 21:19:08
>>186の続き

しかし

>北部九州で160〜200万人
>九州全体で200〜250万人と思われる。

と言うのは全く根拠が見えてこない。

単純に魏志倭人伝に合わせたんじゃないのか?w

>畿内説に犯された鬼頭の人口論は何の参考にもならない。

と言うのなら、じゃあきちんとした人口を推定した物を出せよ
ヒステリー起こされても困るちゅう話www

「九州説に犯された…」と畿内説が言ってる状況を想像しろよ馬鹿wwwwww

ちなみに別データ
ttp://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04suidenninasakunotourai.html
これでも九州の弥生時代の人口は10万そこそこwww

加えて吉野ヶ里の人口が周辺の集落と合わせても5000人ぐらいと言うのは否定しないのかな?wwwwwwww
189日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:20:43
グーグルアースで見たら宮崎の平野は筑後川流域の10分の1くらいですが
5万戸の人々は何を食ってんですか?
190日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:25:31
>>187
無視してないよ、邪馬台国と争っていた南の狗古智卑狗率いる狗奴國が相応しかろう。
191日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:35:15
>>187
邪馬台国の問題にしては古すぎるからでは?

その時期の繁栄が弥生末期まで続いた保証は何も無いし
むしろ筑紫が衰退していたのなら、大陸半島の文物の流通から見れば
”筑紫の先”にある熊本も衰退したのでは?
192日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:45:35
>>191
たとえば、この方保田東原遺跡も年代的には微妙といえば、微妙かな。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1338

その上流5kmくらいのところに「うてな遺跡」というのもあるのだが、
この遺跡が妙に気になる。あまり発掘調査されていないのだが。

http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/tuushinkumamoto/no.7/no7_1.html
193日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:10:31
ついでに、安本氏ご推薦の甘木市から平塚川添遺跡を。
http://www.amagiasakura.net/hiratuka/hiratuka-info.htm
194日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:26:46
阿蘇山こそ日本の起源。縄文時代以前、旧石器時代から続く
人類の共通の聖地。
阿蘇山のミニチュア版である富士さんも浅間山と呼ばれていたし、
北海道の有珠山も阿蘇の訛ったもの。
195180:2008/12/19(金) 22:28:00
弥生後期の筑紫平野の面積は北野地域を含めて2000km2程度。
海岸線が現在の海岸線より平均3km程内陸側。
佐賀平野の東西は現在より北へ深く入り込んでいる。

北部九州で160〜200万人は、魏志倭人伝の人口に、福岡平野・遠賀川流域・周防灘沿岸・
熊本(菊池川・白川・緑川流域)の狗奴國の人口を加えたもの。
九州全体では、南九州(日向灘沿岸・都城盆地・その他盆地)の40〜50万人を加え、200〜250万人。

吉野ヶ里の人口は、周辺の住居と合わせても成人人口で2000〜3000人。

先人の古代人口推定は全否定します。
彼らは、穀類カロリーだけで、タンパク質食料の重要性を全く認識していないから。

196日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:32:41
平塚川添は、鉄器の出ないど田舎です。
197日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:35:13
弥生人と渡来人が戦って、その和睦のために共立して、みんなが納得するた女王は、
古代から世界を支配していた阿蘇の女王しかいないだろう?
なぜ、そんなことがわからないのだろう?
もっと、古代史を勉強した方がいい。
198日本@名無史さん:2008/12/19(金) 23:12:42
>>195
>先人の古代人口推定は全否定します。

あ〜あ、開き直っちゃったよこの人は…
んなもん、単に素人が倭人伝に合わせて思いこみで書いているだけやんけwwwww

吉野ヶ里の人口が成人人口で2000〜3000人として仮に未成年が同数としてもその人口4000〜6000人。
北九州の人口が160〜200万人とすれば、単純計算で吉野ヶ里クラスが267〜500ヶ国あると言う事にw

いくらなんでも凄杉w
やっぱ九州王朝が大好きな人の発想なのかな?wwwwwwwww
199ローガン:2008/12/19(金) 23:29:08
>>175
> 東夷伝の「家」と「戸」の使い分けは社会構造の違いを表している。

後世に云う「郷戸」と「房戸」のニュアンスを考えていいような。
ずいぶん以前に「※九州王朝はなかった※」スレに書いた事ですが…。
200日本@名無史さん:2008/12/19(金) 23:36:25
江戸時代の久留米藩と柳川藩で、合わせて32万石くらい
佐賀藩は長崎に近いほうがあるから推測が難しいが
平野続きの佐賀平野分は20万石位か?
で、合計50万石程度

米の生産量だけなら、筑後平野とその周辺部で
50万人を超えることはなかったと思われる。
邪馬台国当時、これをどのくらい割り引かなければ
ならないのかは、知識のある方にお願いしたい。

一石で、一人分の米が生産できる計算、ただ生産量なので
必ずしも、人口がそれに合っているというわけではない。
201180:2008/12/20(土) 01:14:48
>>198
>単純計算で吉野ヶ里クラスが267〜500ヶ国あると言う事に

3世紀の吉野ヶ里は、かっての倭國の中心的城郭の地位から衰退しています。
AD200年前後の最盛期の吉野ヶ里は、数万戸の国の中心城郭であったことをうかがわせます。
202日本@名無史さん:2008/12/20(土) 04:14:56
>>184
日向説は投馬国は薩摩と考える。宮崎平野と都城盆地で7〜8万戸だな。
203日本@名無史さん:2008/12/20(土) 07:12:45
>>202
薩摩に5万戸日向に7万戸
中九州が空白
おかしいと思わんのかね?
204日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:12:38
北部九州説は
邪馬台国に北部沿岸を含む筑紫筑後平野、投馬国に宮崎、狗奴国に熊本
一方南九州説は
邪馬台国に宮崎、投馬に鹿児島、狗奴国に鹿児島、それ以外は空白地、バランスが取れてません
205日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:28:50
南九州は、阿蘇山や桜島の噴火による火砕流や降灰で
いくつもの国が滅んだし、その後も広い範囲で
農作物に大きな被害を受けたので、
人口は衰退していったのです。
それに乗じて勢力を伸ばしていったのが北九州の渡来人。
古代は、火山活動と密接に関連していることを認識すべし。
206日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:33:32
>>205
人口が多いと言ったり人口が衰退と言ったりどっちなんだ?
阿蘇桜島が噴火したのなら何時噴火したのか示せよ、10万年前とかだろ時代が違うんだよ
207日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:43:08
>>203
中九州が空白とは言わんよ。ただ、あれこれ言ってみたところで、どれも推測にすぎん。
およその見当が分かればよい。
208日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:46:36
>>207
要するに
邪馬台国は宮崎です
あとは知らん
と言う事ですね納得w
209日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:08:08
日向説が宮崎平野だけで15万なんて考えではないということが分かれば
いいんだよ。>184
210日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:24:24
確かに南九州説は宮崎で3、400万人の人口を想定することになる。
戸数を信じる限り南九州説は無理なようだね。


211日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:26:50
>>210
何かとんでもない勘違いをしているようですね。
212日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:28:15
戸(家)数って倭人伝に書かれてあるだけでも150000…三韓とほぼ同じ。
宮崎に収まるか? とりあえず南九州には無理。そして 旁国があと23国…
213日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:35:38
北部九州説は
邪馬台国に北部沿岸を含む筑紫筑後平野、投馬国に宮崎、狗奴国に熊本
一方南九州説は
邪馬台国に宮崎、投馬に鹿児島、狗奴国に鹿児島、それ以外は空白地、バランスが取れてません
214日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:40:56
北九州説というのは、基本的に北九州に15万戸があったとみる説(投馬国は
南九州にあったとする説もあるが、それでも10万戸は北九州)。
南九州説というのは、九州全体で15万戸とみる説(そのほか、旁国の問題は
あるが)。 あとはバランス良く想定すればよい。
215日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:41:15
南九州説は奴国が2つ福岡と筑後川流域、伊都も2つ糸島半島と佐賀大和
空白地を埋める為につじつま合わせしたとしか見えませんねw
216日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:44:37
>>215
南九州説はそんなことは言っていません。
奴国も伊都国も一つですよ。領域を広くみるだけです。
217日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:45:25
>(投馬国は南九州にあったとする説もあるが、それでも10万戸は北九州)。

投馬は都万神社がある日向の耳川周辺の妻地区が有力、北九州説はミヤザキをトマコクとしています。
218日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:48:58
>>216
邪馬台国と旁国21国と狗奴国が全部宮崎、領域狭くて死にそうです。
219日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:02:44
ここは九州の土蜘蛛である人食い人種の熊襲の人口がどれ位かを議論してます。
220日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:04:57
熊襲=狗奴国=熊本の人口はわからん、邪馬台国に近い数万戸規模というのは推測できるが。
221日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:05:16
と、熊襲の子孫が申しております。
222日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:08:06
>>220
狗奴国を熊本に比定するのはまちがいでしょう。
南九州説では、志布志湾沿岸の小国だったと考えます。
223日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:10:33
出たw志布志湾沿岸w
224日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:10:52
>>218
旁国は大分や熊本、鹿児島にもばらまけばいいんですよ。
225日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:13:10
魏志倭人伝は宮崎と志布志湾の話か
どんどん空白地が大きくなるな、宮崎以外の九州が奴国ということかw
226日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:15:41
>>224
はい破綻w
南の投馬も含めたら15万戸にもなりますねw
227日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:17:24
>>226
意味不明。頭の中が破綻したかな?
228日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:22:03
熊本も広いからねえ。
菊池川流域が有名だが、阿蘇もある。
熊本市周辺の白川流域もある。
火の国発祥の地とされる緑川流域もある。
球磨地方など、球磨川流域もある。
一緒くたにして狗奴国ということもないだろうに。
229日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:25:50
南九州説では熊本はどこの国に比定してるんですか?裸国ですか?
230日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:29:28
宮崎が邪馬台国であればあとはどこでもいいなんでもいいといういいかげんな説が南九州説なんですねw
邪馬台国以外適当に配置w
231日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:30:51
ついでながら、弥生時代の遺跡などからは井戸が見つかっていない。
これは、川の水を利用していたからだろう。つまり、大きな集落に大きな川は
付き物ということかな。
川は、天然の濠として集落の防衛にも役立つし。
232日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:35:52
よく宮崎は、その時代へキチだったという事で邪馬台国じゃないと言う人
いるけど、代わりに投馬国を当てたりするんだよな
邪馬台国とそう変わらない大国なのに

233日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:41:01
>>232
いや宮崎は十分に人口も擁してたから投馬国なんだよ
巨大古墳なんぞ魏とろくに通商していない文化的に未成熟な巨大田舎って感じがする。
234日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:13:10

で、結局、>180の九州の人口200万とか言う話には誰も乗らないんだなwww
235日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:16:06
>>232
おっしゃるとおり、投馬国に当てられるならば、邪馬台国だって問題ない
はずだね。
236日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:17:21
都万国の昔の人々に対して失礼じゃないか、南九州説は都万神社に参拝してこい!
237日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:19:34
>>235
じゃあ投馬国5万戸はどこなの?
238日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:19:45
>>229 >>230
南九州説は無理をしていないので、配置には何も困らないんだ。
ただ、想定はいろいろできるということさ。倭人伝が簡単な記載だからね。
239日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:21:39
>想定はいろいろできるということさ

奴国や伊都が2つないと説明できないのにw
240日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:22:07
>>233
径百余歩という話もあるからね。巨大古墳の地の方が邪馬台国らしいと
思うけどな。
241日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:24:13
>>237
投馬国は薩摩、川内平野を中心として薩摩のほぼ全域かな。肥後も一部含むのかも。
242日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:24:37
日向は外国と通商してた痕跡は無い。

243日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:26:47
>>241
ほう、南九州だけで15万戸もあることになるがw一方肥後以北空白地
244日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:27:01
>>242
日向からは玉璧や貨泉が出ている。製鉄も行われていた。古墳からは
準構造船の埴輪もでている。中国と通交があったことは明らかだよ。
245日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:28:47
>>243
計算ができないみたいだな。気の毒に・・
246日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:31:26
>古墳からは準構造船の埴輪もでている。中国と通交があったことは明らかだよ。

邪馬台国に行くには一月九州の山脈越えないといけないと言ってたのは南九州説w
海は危ない死ぬとか言ってたようなw
準構造船で簡単に行けるなら山脈超えしなくてもいいよなw

247日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:35:25
最初に宮崎に邪馬台国ありき
それ以外はメチャクチャ
国も適当に配置
いきなり志布志湾とか笑う
248日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:38:02
>船で簡単に行けるなら山脈超えしなくてもいいよな。
船は簡単ではないな。海が危ないといったのは私ではないが、あの意見のとおりだよ。
山越えは大変だけど、無難なコースということだろうな。
249日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:40:18
日向は阿蘇山越えて交易してたんだね、無難なコースだもんなw
250日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:46:41
投馬国は宮崎
251日本@名無史さん:2008/12/20(土) 11:52:56
ちゃんと説明できるようになってから南九州説は発言してねw
自説に都合がいい時だけ船を使ったりw
これだけでも恥ずかしいよ。
252日本@名無史さん:2008/12/20(土) 13:48:25
宮崎県西都市の中心部に「妻」という地名の場所があり、ここには都萬(つま)神社があります。
253日本@名無史さん:2008/12/20(土) 16:53:57
これが邪馬台国の卑弥呼の村の全容だ!
後ろに見える讃岐富士こそ卑弥呼の墓だ。

http://www.lvyou114.com/TuPhoto/2007122323431.jpg
254日本@名無史さん:2008/12/20(土) 17:08:21
>>199 老眼さん
>(「戸」と「家」は)後世に云う「郷戸」と「房戸」のニュアンスを考えていいような。
>>198
>単純計算で吉野ヶ里クラスが267〜500ヶ国あると言う事に

そのようなものですね。

「戸」は、城郭を持つ大国の防衛組織としての最小単位。
国を守る為の兵士を供給するシステムの基本単位。
戸には複数の成人男子がおり、1名を兵士として送り出す。
門の戸びらの中には親族で構成する複数の小家族(家)がある。

「家」は、城郭のない、弱小国の場合で戦争をしないことが前提の国の最小単位(小家族)。
これは周囲の巨大国等から軍事力の制限を受けている国。

以上の様に見て、韓伝と倭人伝を読むと理解しやすい。
韓伝における巨大国とは帯方郡のことである。
不彌國における巨大国は邪馬壹國になる。
3世紀の吉野ヶ里は、発掘の様に既に衰退しており、城郭の機能は失っていたのである。
255日本@名無史さん:2008/12/20(土) 17:15:14
>>253さん、すごい家ですね。びっくりしました。
    邪馬台国もこういう城郭を持った戸がたくさん集まっていたのでしょうね。
    このくらいの戸となると一戸当たり千人くらいが暮らしていたのではないでしょうか?
256日本@名無史さん:2008/12/20(土) 17:19:48
>>254は、
何故、
一大國が三千許家であり、
伊都國に一大率が常駐し、
末盧國に官がいなか、
を説明できる。
257日本@名無史さん:2008/12/20(土) 17:28:34
一戸に数百人から住んでいたとすると、各戸で兵士を1人では足りません。
そもそも、この時代は、一夫一婦制ではなかったのですから、
一族の長とそれを取り巻く女。その他大勢の家来で一戸を構成したと見た方がいい。
258254:2008/12/20(土) 17:47:28
>>257
>一族の長とそれを取り巻く女。その他大勢の家来で一戸を構成したと見た方がいい。

基本的にその様に思います。
ただし、大人の場合、「その他大勢の家来」ではなく、長の息子と奴隷でしょう。
隋書俀國伝から類推すれば、正規兵になるのは、本人もしくは息子の1人でしょう。
259日本@名無史さん:2008/12/20(土) 18:04:25
>>253そして力のある一族は、>>253のような大きな戸を構えていた。
その中心に、族長が住んでいたのです。
260日本@名無史さん:2008/12/20(土) 18:05:32
戦国時代の人工動員数が、一万石あたり200人から400人
人口比で2〜4%、もう少し増やせるとしても10%いけば
農業生産に影響が出そう。
261日本@名無史さん:2008/12/20(土) 18:11:51
加賀100万石ですら2万人から4万人しか食っていけなかったのですか?
262太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/20(土) 18:26:29
>>253
妄想 乙枯れさん!w
263260:2008/12/20(土) 18:38:07
文章足りませんでした。
人工動員数 −> 兵士の動員数 です。すみませんでした。
264日本@名無史さん:2008/12/20(土) 19:23:55
>>261
農地が広かっただけだろ(笑)
てか、このスレで蚊賀なんて論外だろ
265日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:18:00
日向説に対しては、まともに反論できる人はいないみたいだな。
266日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:38:02
郡より南に二十日で投馬国の宮崎
267日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:44:29
>日向説

まあ「放射状コース」の是非は別にしてもトータルの距離、日数が稼げて
方角も畿内説のように無理をしなくて良い。

そう言う意味では本来もっと注目されても良さそうではあるが
如何せん考古学的な裏付けがねえ…

一応ここのスレで言われているのは九州の中では一大強国と言う事なんだろうが
弥生末期に九州においてそのような地位にあった事を示す物が何かあったか?

例えば弥生末期に九州独自の埋葬文化・祭祀形態が南九州を中心に見られるとか
威信財・祭器が南九州を中心にして広がっているとか…

後代の古墳なんか持ち出すのはピンボケも良いところだろうwwwwwwwwww
268日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:48:10
>>246
とりあえず、日向に国際港があったとは到底考えられないね。そんな
渡来系の歴史ないし。

一ヶ月山越えしなければならないのは、
筑紫〜日向 あるいは 熊本〜日向の徒歩 コース。
つーか、徒歩なら一ヶ月でも無理。死ぬようなコースだけどなww

美々津(日向)〜中津(大分北部)は記紀でかの有名なw 東遷航路コース
しかし、第2次世界大戦時でさえ潜水艦が苦労したような
ひどい海流だから実際にはどうだろうな。

ちなみに中津・宇佐には中世に鹿児島辺りに着いた外国船を
まわして上陸させるような関所があるから、やはり日向には国際港はないと思うね。
大体、歴史的にいえば大陸系とか外国船が着いているのは長崎〜熊本〜鹿児島の九州西側。

海流からいっても普通に朝鮮半島〜壱岐・対馬〜長崎なんだけどな。手漕ぎなら特に。

269日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:58:10
そう言えば豊予海峡と言えば、「関サバ」「関アジ」で有名だよなw

荒波にもまれているから味が良いとかなんとかwwwwwwwwww
270日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:59:10
271日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:03:26
>>107
最初の倭の大王が朝鮮民族や扶余族だったとしても
その家系がずっと続いていると言う保障はないよ。
王朝交替と言う事は天皇家を考える際に必ず考えてみる価値がある。
>>127
俺はそれと似たような事を君らに言いたい。
1世紀に漢から金印を貰った奴国や、
邪馬台国・狗奴国以外に唯一王を持つ伊都国を持ちながら、
(邪馬台国に継ぐ大国投馬国にすら王はいない)
何で邪馬台国までも無理矢理誘致したがるんだ?
伊都国や奴国はそれだけで充分に北九州の誇りとなる。

魏志倭人伝を正直に読めば、
邪馬台国は北九州から離れた遠方にあることぐらいすぐ分かる。
それは畿内とは限らない。
南九州かも知れないし、沖縄や奄美かも知れないし、
中四国のどこかかも知れない。
あるいは東南アジアかも知れない。

南九州説は、考古学的には証拠不十分だが、
九州説の中では正直に魏志倭人伝を読んでる方だ。
272日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:07:01
>>270
コラコラ言いたい事があったらはっきり言いなさいw

>>267で何か間違った事を言っているか?

現実として単に「九州説」と言えば最右翼は「ツクシ」だろし
行程記事の解釈においては北部九州に対し有利な事はあっても不利な事は無いはずの
南部九州が何故北部九州の後塵を拝する結果に成っているのかきちんと説明してもらえないかな?

ピンポンダッシュの書き逃げすんなやカスwwwwwwwwwww

273日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:10:20
>後代の古墳なんか持ち出すのはピンボケも良いところだろうw
後代の古墳も邪馬台国を考える大きな要素だよ。近畿説も古墳を頼りにして
いることは周知のところだ。
274日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:20:12
>>273
畿内に邪馬台国があったとするのなら、その後の発展経緯として考えれば良い。

しかし九州に邪馬台国があったとするのなら話は全く違う。

いつどのようにして、その埋葬文化を受け入れる形になったのか?
邪馬台国は征服されたのか?
それとも実は「前方後円墳は日向発祥ニダ!」とか?w

つうか日向説の奴は「東遷説」の支持者なんだろうとは思っているがwwwwww
275日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:20:35
>>272
>南部九州が何故北部九州の後塵を拝する結果に成っているのかきちんと説明してもらえないかな?
アホな学者がなんで真実に気づかんのか推測してみたって始まるまい。
276日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:23:32
すれ違いですが聞いてください
麻生内閣が駄目だから民主党に一度やらせてみるというのは危険です

「民主党の正体」と検索してみてください

とんでもない政策をしようとしています


http://jp.youtube.com/watch?v=LyQNZyhgmZM&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=TajPV6IC4bY&feature=related
277日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:25:34
>>274
>畿内に邪馬台国があったとするのなら、その後の発展経緯として考えれば良い。
同じことだな。南九州に邪馬台国があったから、その後の発展経緯として多数の
古墳が造られたんだよ。
278日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:44:47
>>277
そこに邪馬台国があったから畿内と同じ様な古墳が多数造られたと言う訳じゃない。
地方の古墳密集地と言うのなら関東の上毛野・武蔵にもあるし

当然北部九州にも前方後円墳は多く築かれている。

「そこに邪馬台国があった」と言う考古学的資料とは言えない。




279日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:46:05
結局拠り所は古墳時代の墓だけなんだねw
倭人伝を普通に読めば日向は投馬なのに。
280日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:53:43
>>271
北部九州説を勘違いしてる。
誰も奴国や伊都国を邪馬台国とは言っていない。
伝にはっきり女王国の境界と書いてある。
奴国以南、狗奴国以北、に邪馬台国があるのが北部九州説だ。
281日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:01:54
>>278
>「そこに邪馬台国があった」と言う考古学的資料とは言えない。
邪馬台国があったと決め得るような決定的な考古学的資料などどこにもないよ。
そう考える上での一資料にすぎないんだ。近畿の古墳も南九州の古墳も、その
点では同じ。
282日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:07:57
>>279
コースも説明せず、投馬国だって言われてもなあ。
283日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:17:36
投馬のコースは簡単

南至投馬國水行二十日

郡から船で南に20日
284日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:22:47
まあこのスレの日向説の場合日向自体の考古学資料と言う前に
放射説を是とするに足るものが今のところ無いと言うのが苦しいだろうなw

伊都国=佐賀大和だっけ?
「惣座遺跡」を挙げていたが現在は道路の下に埋め戻されて
出土物の常時展示も行われていないらしいが

通説では郡使の常駐地とされている場所に相応しい物が何かあるのか?


285日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:24:07
>>283
20日の基点が郡? トンデモ読みだな。
286日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:26:38

@「水行二十日」は約何km?

A「陸行一月」は約何km?
287日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:28:04
>>285
放射読みの日向説が言ってもねえwww

まあ放射説の連中は
起点を何処に置くのか?
放射状に書いてあるのは何ヶ所、何処と何処なのか?

できれば統一見解を示して欲しいですwwwwwwww
288日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:29:13
>>285
中国語での読みでは郡になるよ。
289日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:29:36
>>283
ほぉ〜っ、投馬国は済州島にあったんだ。初耳だ。オドロイタ。
290日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:31:59
これで日向は投馬国と納得したかな?
291 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/20(土) 23:37:14
>>271
>魏志倭人伝を正直に読めば
「正直」の意味を間違えてるだろ? 「馬鹿正直に読めば」なら、それが正解だ。
だが馬鹿な読み方では意味がない。
292日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:39:16
しかし仮に日向が投馬国として卑弥呼は何を恐れたんだろう?

適当に迎え撃って日にちが過ぎれば兵站線の維持も出来ずさっさと引き返すだろうにwww

それとも日向の猛将が象部隊でも引き連れて阿蘇山越えてやって来たとか?wwwwwwww
293日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:41:53
>>292
なんか狗奴国と間違えてない?
294日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:45:26
>>293
スイマセン。
仰る通りです…orz

もう頭の中何がなんだかになっちゃってwww
295日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:46:40
南至投馬國     ⇒西都に都万神社と妻として地名が残る
水行二十日     ⇒船で20日(陸行不可)
官曰彌彌副曰彌彌那利⇒耳川として地名が残る
可五萬餘戸     ⇒案外人口が多い

これ以上宮崎にピッタリの国は無いぜ

296日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:47:52
>>284
>放射説を是とするに足るものが今のところ無いと言うのが苦しいだろうなw
漢文の読み方を知らん奴がいるのは仕方のないことだな。
放射式の読み方は、榎のあとも何人かが補強している。だんだん理解されるだろ。
297日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:50:16
>>296

明治、大正の学者は漢文も読めないアホぞろいと認定されますたwwwwwwwwwwww
298日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:53:56
253 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/12/20(土) 16:53:57
これが邪馬台国の卑弥呼の村の全容だ!
後ろに見える讃岐富士こそ卑弥呼の墓だ。

http://www.lvyou114.com/TuPhoto/2007122323431.jpg

254 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2008/12/20(土) 17:08:21
>>199 老眼さん
>(「戸」と「家」は)後世に云う「郷戸」と「房戸」のニュアンスを考えていいような。
>>198
>単純計算で吉野ヶ里クラスが267〜500ヶ国あると言う事に

そのようなものですね。

「戸」は、城郭を持つ大国の防衛組織としての最小単位。
国を守る為の兵士を供給するシステムの基本単位。
戸には複数の成人男子がおり、1名を兵士として送り出す。
門の戸びらの中には親族で構成する複数の小家族(家)がある。

「家」は、城郭のない、弱小国の場合で戦争をしないことが前提の国の最小単位(小家族)。
これは周囲の巨大国等から軍事力の制限を受けている国。

以上の様に見て、韓伝と倭人伝を読むと理解しやすい。
韓伝における巨大国とは帯方郡のことである。
不彌國における巨大国は邪馬壹國になる。
3世紀の吉野ヶ里は、発掘の様に既に衰退しており、城郭の機能は失っていたのである。
255 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2008/12/20(土) 17:15:14
>>253さん、すごい家ですね。びっくりしました。
    邪馬台国もこういう城郭を持った戸がたくさん集まっていたのでしょうね。
    このくらいの戸となると一戸当たり千人くらいが暮らしていたのではないでしょうか?

 自作自演乙
299日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:55:35
>>297
そのとおり。認定したのは、豊田、安藤、榎、井上、山尾、安田などなど。
ずいぶん、大勢に認定されたね。
300日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:59:07
>放射説

ちなみに謝銘仁も放射説については確か珍訳扱いしてたっけな?wwwwww
301日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:04:03
>>300
中国人だからって漢文が全て読めるわけじゃないってことだな。
302日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:09:18
一大国→×
一支国→○

女三国→×
女王国→○

一月→×
一日→○
303日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:11:31
すみませんがちょいと横からです
九州王朝論の古田武彦さんの邪馬台国はたしか福岡市でしたかね?
そして古田さんはクナ国とツマ国はどこと?
そういうのが分かりやすいサイトてないですか?ごぞんじの人よろしくm( _ _ )m
304日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:20:52
>>301
さてさて

 現在の中国人の学者も放射式に読めず

 過去の中国の文献にも連続式で書いてあり

 現在と違って知識人のデフォの教養として漢文と言うものがあった
 邪馬台国論争に関った明治大正の日本の学者が扱わなかった放射説

それを唱えている者が何人いるのか知らないが

まあ圧倒的に胡散臭いのは放射説だなwww

で、放射説を真に受けたところで考古学的資料が付いてこないから更にトンデモ疑惑は確信に近づくwww


この板の日向説のとる放射コースでは北部九州最大級と目されている奴国って何処だったっけ?wwwwwwww



305日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:37:03
読めないとは気の毒に。まあ、そんなに恥ではないですよ。仲間は結構いますから。
奴国は城島あたりね。その領域は八女、久留米、福岡も含むかと。
306日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:46:31
>>305「みんなの人口オラに分けてくれ!」

…スーパー奴国の誕生ですwwwwwwwww


ちなみに九州の人口200万人説だと
それだけの領域設定してしまうと2万戸ですむんか?w
307日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:48:45
難升米とは奴の久留米のこと
308日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:04:05
>>306
200万は多すぎるのでは。その半分くらいかな。
309日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:13:31
>>304

奴国は佐賀平野、その城郭は佐賀城。
人口は2万戸、10万〜15万人。
310日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:39:40
もうテキトーですね
妄言とはこの事だ
なんの根拠も無く願望だけを垂れ流してる
311309:2008/12/21(日) 02:07:59
>>310
根拠有り。テキトーにあらず。
伊都國は、末盧國東南500里(35〜40km)の佐賀市大和にある。
そして奴國の城郭は、大和にある伊都國の東南100里(7〜8km)で佐賀城になる。

奴國は戸数2万。
1戸=5〜8人とすると、
奴國は人口10万〜15万となる。

この場合、九州全体の人口は200万〜250万人。
312日本@名無史さん:2008/12/21(日) 02:37:05
根拠の意味を知らないようだ・・・
313日本@名無史さん:2008/12/21(日) 02:45:44
>>309
明日病院行ってこい。
314日本@名無史さん:2008/12/21(日) 04:12:28
>>311
>奴國は戸数2万。
>1戸=5〜8人とすると、
>奴國は人口10万〜15万となる。

と言う事は…

投馬国   5万戸=25万人〜40万人
邪馬台国  7万戸=35万人〜56万人

すげーな、おいwwwwwwww

まあこの板の九州説のどれもこれもに言えるんだが
魏志倭人伝の記述を絶対視してどんどん現実から乖離。

最後はもう笑い話のレベルwww
315日本@名無史さん:2008/12/21(日) 07:54:54
>>309 >>311
邪馬台国はどこに比定されてるんですか?
316日本@名無史さん:2008/12/21(日) 07:58:32
>>314
>魏志倭人伝の記述を絶対視してどんどん現実から乖離。
あなたは、魏志倭人伝の記述を無視してどんどん現実から乖離してるんですね。

317日本@名無史さん:2008/12/21(日) 10:08:19
佐賀県神埼市にある「土器山」、この山は地元では「八天山」と呼ばれています。
「八天」とは「やあま」、そう、邪馬台国だったと考えられます。
この周辺には、胎内くぐりという巨石や天岩戸のような岩穴もあります。

そういえば、吉野ケ里遺跡を望む「日の隈山」、ここは邪馬台国の司祭場
だったと思うのですが。
佐賀は、邪馬台国、卑弥呼、アマテラルとのかかわりが濃厚だと思うのですが・・

http://blog.sagafan.jp/usr/shi113113k/%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1.jpg
318日本@名無史さん:2008/12/21(日) 10:08:34
>>304
>現在の中国人の学者も放射式に読めず
中国人って言っても、謝銘仁って台湾人だな。
現在の中国本土の学者である王金林は放射説だ。知ってた?
319日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:08:49
マツロからの「東南」を絶対視し佐賀大和
それでいて宮崎の場合
南に船で10日それから宮崎へは陸行は東になるんだけどw

都合がいいところだけ倭人伝を絶対視都合が悪い部分は無視
一番たちが悪い妄想説
320311:2008/12/21(日) 11:43:07
>>314
>投馬国   5万戸=25万人〜40万人
>邪馬台国   7万戸=35万人〜56万人

其の通り。
北部九州で160万人〜200万人、
全九州で200〜250万人
となる。

上記は海岸平野、内陸平野の面積、地質地形、水利、沿岸資源を積算したものだ。
従来の気候・地形資質・農漁に無知な先人に比べて桁の異なる人口となる。
倭はシナの各地域政権に匹敵する大国であったのだ。
だからこそ魏は、呉に匹敵する大国倭に着目したのである。

魏の邪馬壹國に対する異様なまでの肩入れは、狗奴國と呉に外交関係を窺わせる。
321日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:45:22
そろそろ伊都国放射説を見直す時期にきてるのかもしれない。

郡史の視点で伊都放射なんだろうが著者は郡史ではない。
著者の視点は一貫して本国若しくは郡。
途中から里程を日程に変えなどしない。
322日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:49:02
>>320
病院から帰ってきたか、診断はどうだった?
323311,309:2008/12/21(日) 12:05:11
>>315
邪馬壹國の城郭は久留米市南部。
邪馬壹國の範囲は八女市から北野地域。(内陸部)
卑彌呼の墓の有力候補は祇園山古墳(墳墓)。
投馬國の範囲は神崎市南部から大牟田市。(海岸部)

邪馬壹國は現在の国道3号線ルートで狗奴國(菊池川流域以南)と対峙していたのです。
324311,309:2008/12/21(日) 12:19:54
放射するのは、伊都國と不彌國で、変える必要もない。

ワシが病院に行くのは火曜日。
325日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:29:50
火曜日は病院で
「ヤマタイ〜」「ヤマタイ〜」言ってみてくれ
今の症状に適切な薬を貰えるから。
326311,309:2008/12/21(日) 12:56:08

ワシは「ヤマイ〜」「ヤマイ〜」だよ。
327日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:52:51
宮崎は投馬国
神武東征は筑紫の日向峠

これ常識ね。
328日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:36:32
末盧國から素直に東南して佐賀、
そこから素直に南下して島原。
素直に東に海を渡ると倭種の国の熊本があるのだが。
水行10日、陸行1月は南北3ヶ月、東西(九州〜アルプス)5ヶ月の尺度から見ると
たいした距離ではない
(国の大きさは水行で測るので、水行10日は対馬から鹿児島南端までの10分の1)
329日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:39:11
末盧國→呼子町
伊都國→前原町
奴国→福岡市
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部


この定説に反論できる人いるの?
330日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 19:43:58
それよりさ、スカトロの話をしようぜ。俺ウンコが大好物なんだよね。
331日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:47:09
>>328
自我に囚われてて哀れだよ。
誰もいないところで一度思いっきり泣きなさい、頭の中がスッキリするよ。
332日本@名無史さん:2008/12/21(日) 20:16:14
>>329
>投馬→宮崎県
って、陸行20日はどう介錯するの?
333日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:23:45
>>332
南至水行二十日の事なら帯方郡から投馬国までです。簡単ですね。
334日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:25:15
ねえ、無視しないで。僕はここにいるよ。
335日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:29:34
>>1
>*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

:::/ο i o     iニi、
..i   |    O  ( ・ ・)   ハイ
ノ、.......,iー. __ . .(_  _)...
336日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:34:17
僕は荒らしじゃないよ!邪馬台国は博多にあったに決まってるじゃん。
337日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:38:01
>>329
呼子から前原は東、奴国が福岡、不弥国が宇美では方向も合わない。
倭人伝は放射式で書かれているが、それにも合致しない。
邪馬台国が福岡県南部では水行十日陸行1月はかからない。狗奴国が熊本では
それ以南はどうなる? 要するに滅茶苦茶。
338日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:45:22
>呼子から前原は東、奴国が福岡、不弥国が宇美では方向も合わない。
当時の遺跡の場所を見れば解ります、どうせ平原の場所もしらないんでしょ?
もっと勉強しなさい

>倭人伝は放射式で書かれているが、それにも合致しない。
放射式など中文ではありえません。放射式では書かれていません。

>邪馬台国が福岡県南部では水行十日陸行1月はかからない。狗奴国が熊本では
>それ以南はどうなる?

狗奴国以南は倭人伝には書かれていません、書かれて無い事は解りません。
339日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:07:00
狗奴国ってのは、熊本県北部の菊池・山鹿地方に比定されることが多いが、
熊本市の南、宇土市や城南町も重要で、古代の熊本を代表する豪族・火の君は
この付近にいたとされる。

古代の大王などの棺は、この地方で取れる馬門石で作られたものも多い。

古墳もたくさんあるし、古墳群もある。
http://www.kumamoto-enet.jp/column/top/2007/10/jonan/index.htm

菊池などを狗奴国にすれば、この地方が浮いてしまう。
このあたりを狗奴国にするというのもありだろう。
340日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:08:52
79:日本文尊◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:18:59
自己紹介として俺の写真を貼っておきます。街で会ったら声かけてね。

http://imepita.jp/20081202/694820
341日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:36:17
狗奴国の官 狗古智卑狗(菊地山鹿地方の領主)
狗奴国の王 卑弥弓呼(熊本南部から北部までを統括する王)

こんなイメージだが
342 :2008/12/21(日) 22:38:48
安本先生の「徹底批判」で畿内説は妄想であることが誰の目にも
あきらかだと思うが。
343日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:57:54
>>342
徹底批判は読んでないが・・・畿内説が妄想であることは明らかだ。
344日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:04:16
>>319
>南に船で10日それから宮崎へは陸行は東になるんだけどw
どこで上陸し宮崎県のどこを目指しているのかな? 妙な設定をしているのでは?
それとも、方角を知らないのかな?

345日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:10:14
>>342
おれも読んでないが、安本先生はどういう理由で畿内説は妄想と言ってた?
かいつまんで書いてくれないかな
要点列挙だけでもいいから
346日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:13:56
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)

狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

さらにテンプレ訂正
反論ないですか〜
まじめな質問にはまじめに答えます。
347日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:21:07
>>346
>>338がまじめな回答? 誰もお前なんぞ相手にする気にならんよ。
348日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:23:48
>>347
俺もおまえなんぞ相手にしてないぞw
349日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:24:20
>>339
魏志倭人伝では狗奴國以南については何も語られていないが、
狗奴國の官狗古智卑狗は菊池平野にいたのであろう。
しかし、狗奴國男王卑彌弓呼は南方の緑川流域にいたとしても不自然ではない。

狗奴國は菊池平野の国であると思われるが、筑紫平野同様に熊本平野には又幾つかの国があったとも考えられる。
狗奴國は女王國に対応するような複数国の連合国的存在であるとも考えられる。

魏志倭人伝には何も書いていないので想像の域を超えることはできない。
350日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:05:28
>>349
×狗古智卑狗
○狗右智卑狗

狗右智卑狗=河内彦
351日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:25:14
>>311 >>319
末盧国から東南五百里が佐賀大和だってことは誰も異議がないようだな。
倭人伝に従えば、そこが伊都国だ。ということは、伊都国から放射式だという
ことが理解できるだろ。佐賀大和ならば、嘉瀬川を使って有明海に出られる。
南へ水行できるのだから、そこが投馬国や邪馬台国への基点のはずだ。有明海
へ出られるところから更に順次式に奴国や不弥国へ行くはずはない。
352日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:26:57
>>346
>末盧國→呼子町
>伊都國→前原市南
>距離も方角も問題ない説です。

いや、この二国を御説のように比定すると、方角については問題がある。

旧呼子町から東南への直線を地図上に引いてみよう。
地図上で東南は右下へ45度だ。
すると旧呼子町のいかなる地点から右下45度の直線を引いても、
まるで現前原市の市域をかすめることがない。
ほとんどの線は、唐津湾の虹の松原の海岸線を通り、
佐賀市方面へと向かってしまう。

Yahoo! 地図参照。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33%2F35%2F14.455&lon=130%2F4%2F41.797&layer=0&sc=7&mode=map&size=l&pointer=on&p=&type=static&CE.x=620&CE.y=407

逆に前原市の主要遺跡から、
今度は180度反対に、「北西」へ向かう直線を引いてみよう。
すると現前原市のどの主要遺跡から引いた北西へ(=左上45度へ)の直線も
旧呼子町や東松浦半島をかすめることがない。

むろん伊都國→唐津市(旧唐津城城下)としても方角には問題が残る。
いや、むしろもっともっと問題が大きくなってしまう。
353日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:35:31
>>352
そのとおりだな。で、>>351に書いたとおり、末盧国から東南五百里は佐賀大和
ということは賛成してもらえるだろ。倭人伝に従いそれを伊都国に比定すれば
すべて問題解決なんだよ。
放射説であることはすぐわかる。だいたい、連続式で読んだら水行三十日陸行1月、
どうみても九州の中に収まりそうにない。逆に言えばこの点からしても、放射式し
かないということさ。
354日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:43:36
佐賀大和から水行20日、そこが投馬国だ。当時の人口集中地は大きな河川のまわり
のはずだから、候補地は川内川のある川内平野か万之瀬川のある加世田付近となる。
しかし、加世田の方は平野が小さい。やはり5万戸の中心地となれば川内だろ。
というわけで、そこが投馬国に比定できる。後の薩摩国府の所、邪馬台国時代にそれ
なりに栄えていたとみて何も不思議はない。
355日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:46:37
356日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:49:26
>>355
その遺跡には、どこにも、伊都国の名前はなかったよな。
357日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:54:27
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

本流北部九州説の新しいテンプレです。

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)
358日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:56:16
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

失敗したのでもう一度
本流北部九州説の新しいテンプレです。
359日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:00:14
名札も何もない遺跡よりも、私は3世紀に書かれた倭人伝を信用するよ。
倭人伝どおり、素直に進んでみればいいんだ。それで問題が起こったらそのとき
考えればいいじゃないか?

水行20日の投馬国が川内となれば、水行10日の地点は佐賀から川内までの
ちょうど半分あたりのはず。当然八代あたりということになるな。
水行十日陸行1月はどう読むか。榎は水行十日又は陸行1月と読んだがそれは
おかしい。水行十日で行けるならば誰でも水行で楽に行くはずで、苦労して陸
行1月で行く者がいるとは思えん。だから、水行10日+陸行1月のはずだ。
そして、水行十日で上陸し陸行する以上、それは水行では行きにくい所のはず。
となれば、上陸地点から内陸に入っていくはずだな。しかし、全体としては南
を外してはいかん。となれば、球磨川沿いに登っていき日向に入ると考えられる。
小林市か都城盆地あたりが目的地のはず。そこが邪馬台国なんだよ。
360日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:05:54
倭人伝信用したら北部九州説になるんだがw
夢の中で魏志邪馬台国伝でも読んだの?
361359:2008/12/22(月) 01:10:55
>>360
私は倭人伝の記述どおりに進んだだけ。誰かが言ってただろ、倭人伝の記述
を絶対視してるって。それで結構、まず倭人伝に従ってみようやということ。
どっか違っているところがあったら、指摘してみてくれ。
362日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:16:08
>どっか違っているところがあったら、指摘してみてくれ。

全部違ってて指摘の仕様が無い、全部としか言いようが無い。
根本的な考え方の間違いは放射説
363359:2008/12/22(月) 01:20:05
>>360
>倭人伝信用したら北部九州説になるんだがw
さんざ言われてるじゃないか? 畿内説は方向が合わん、北九州説は距離が
合わんって。北九州説はどっかで水行20日、水行10日陸行1月をごまか
さにゃならんのよ。
364日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:25:24
>>363
今しがた説明してきた事をw

末盧國→呼子町
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

本流北部九州説の新しいテンプレです。
異説は面白いですが度が過ぎるとあっち側に逝ってしまいます。
365359:2008/12/22(月) 01:26:15
>>362
倭人伝どおりに進めば必然的に放射式になることは上に述べたとおり。
何人もの学者がそれに賛成している。放射式について勉強したら?
366359:2008/12/22(月) 01:29:05
>>364
コピペばっかりしとらんで、>>352でも良く読んだら?
367日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:29:10
>>365
本当に頭が悪そうなのでおまえには北部九州説の説明は割愛させてもらうよ。
馬の耳に念仏唱えるようなもんだ。
368日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:31:05
>>366
ほんと馬鹿なんだな

355 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:46:37
南九州説は伊都国の遺跡の場所もしらないんだねw
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33%2F32%2F11.14&lon=130%2F14%2F34.825&layer=0&ac=40222&p=%CA%A1%B2%AC%B8%A9%C1%B0%B8%B6%BB%D4%BB%B0%B1%C0&mode=map&size=l&type=static&ei=euc-jp&sc=6


369359:2008/12/22(月) 01:41:36
>>368
あんたは誰かの妄想を鵜呑みにしてるだけ。何の証拠もない所をな。
370日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:46:39
>何の証拠もない所をな。
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif


何の根拠も無いとはこういう言い回しではw
>佐賀から川内までのちょうど半分あたりのはず
>全体としては南を外してはいかん

失笑ものだよ
371日本@名無史さん:2008/12/22(月) 02:18:06
>>370
>伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
伊都国だという証拠にはならんな。大和には巨大古墳がある、これが邪馬台国の証拠だ
という畿内説の論法と同じだな。そんなのは駄目なんだよ。

>何の根拠も無いとはこういう言い回しではw
>>佐賀から川内までのちょうど半分あたりのはず
>>全体としては南を外してはいかん
倭人伝の記述から当然の話だろ。根拠は倭人伝だ。あんたは笑ってればいいさ。多くの人は
当然の話として理解してくれる。

372日本@名無史さん:2008/12/22(月) 02:35:56
末盧國→東松浦
伊都國→北九州
投馬國→丹波
邪馬台國→大和

水行10日→瀬戸内海〜丹波
陸行 1日→丹波〜奈良
373日本@名無史さん:2008/12/22(月) 02:41:32
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。


南九州説は今作っているようです。
反論お待ちしております。
374日本@名無史さん:2008/12/22(月) 03:42:05
末盧國:松浦
伊都國:佐賀 筑紫平野付近
狗奴國:熊本
ここまで共通

以下宮崎説
投馬國:鹿児島
邪馬壹国:宮崎
渡海千里:愛媛
侏儒國:土佐
裸國・黒歯國:南方

以下島原説
投馬國:天草諸島
邪馬壹国:島原
渡海千里:熊本(=狗奴國と後漢書で判明)
侏儒國:鹿児島
裸國・黒歯國:種子島・屋久島

こんなものか?
邪馬壹国鹿児島説や熊本説はあったっけ?
375日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:11:15
>>338
>狗奴国以南

狗奴国以南に国があるのに書かれてないってのはありえない。
倭人伝を読めば必死で国名を羅列してるし、全部の国を網羅しようと
してるのは一目瞭然

狗奴国が倭国の南端なんだよ。つまり鹿児島の熊襲領域。間違いない。
376日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:15:37
倭国と、倭国の東海の向こうの倭人が住んでいるけど別の国がある(本州・四国)
魏志倭人伝の倭国とは九州のこと。

大体、3世紀に九州以外で中国大陸と活発に貿易をしていた証拠が本州・四国の
どこにあんの? 朝鮮半島とか駄目だよwww 

なんせ魏の朝廷は中国でも南のほうだから。
377日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:38:18
温暖な日向の東には太平洋が広がっているから南部九州もありえない。
378日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:51:00
>>377
西臼杵郡=大分南部と日向(宮崎北部)の東は四国があるが。
九州で一番温暖な気候の場所だよ。
鹿児島より暖かい。海流のせい。

379日本@名無史さん:2008/12/22(月) 15:07:19
西都原の東は太平洋。
380日本@名無史さん:2008/12/22(月) 15:52:25
平原、三雲、井原鑓溝の各遺跡から出てきたのは墓だけ。
もっと言えば、棺だけだろう。
このあたりの遺跡は、濠がなく、集落の実態はつかめないらしい。
環濠がないということは、城柵もなかっただろう。

となると、倭人伝にある宮室、樓觀、城柵を厳かに設け…という感じでは
ないと思うが。宮室も樓觀も見つかっていないようだし。
これは、纏向遺跡にしても同じ。

宮室、樓觀、城柵は、大規模な環濠集落のある有明海沿岸に行かないと
見られないと思う。
381日本@名無史さん:2008/12/22(月) 16:28:33
ということは邪馬台国は有明海沿岸にあった。
382日本@名無史さん:2008/12/22(月) 19:44:06
>>380

で、「宮室、樓觀、城柵」を有した3世紀にも栄えていた環濠集落って有明海沿岸のどの遺跡なんだ?

邪馬台国となると当然「奴婢1000人を侍らせた」と言う記述に合致するような超々巨大環濠集落なんだろうが
そんな物が見つかったら連絡ヨロwwwwwww
383日本@名無史さん:2008/12/22(月) 20:22:15
まず100m超の古墳を比定しろ。
384日本@名無史さん:2008/12/22(月) 20:44:34
大和には巨大古墳がある、これが邪馬台国の証拠だ
という畿内説の論法と同じだな。そんなのは駄目なんだよ。
385日本@名無史さん:2008/12/22(月) 20:46:48
>>382
宮室、樓觀、城柵・・・
これが邪馬台国だ!

http://www.lvyou114.com/TuPhoto/2007122323431.jpg
386日本@名無史さん:2008/12/22(月) 21:53:26
>>382
たとえば、吉野ヶ里遺跡。
このように書くと、年代が違うというのだろうが、3世紀に日本にやってきた
郡使は、間違いなく「厳かな宮室、樓觀、城柵」を見ている。
つまり、吉野ヶ里が3世紀に存在していたというのが事実で、すでに衰退して
いたという年代観の方が間違っているということになる。

纏向から、「宮室、樓觀、城柵」の跡が出てきたら、考えてもいいが。
387日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:15:35
これが古代九州王朝の誇る通信網、狼煙台設置場所の地図だ!
九州王朝は、佐賀の日の隈の狼煙台で敵の襲来を察知すると、
1時間以内にすべての国に敵の襲来が伝わり、戦闘態勢に入った。

http://furusatotabi.com/kyushu/saga/asaga00.gif
388日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:31:24
>>382
吉野ヶ里は邪馬壹國の城郭ではない。
吉野ヶ里は女王國の城郭、即ち不彌國の城郭である。
吉野ヶ里が3世紀には衰退していた年代観は間違っていない。
最盛期の吉野ヶ里は倭國王帥升の城郭である。
389日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:33:09
>>386
吉野ヶ里は邪馬壹國の城郭ではない。
吉野ヶ里は女王國の城郭、即ち不彌國の城郭である。
吉野ヶ里が3世紀には衰退していた年代観は間違っていない。
最盛期の吉野ヶ里は倭國王帥升の城郭である。
390日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:36:56
>>386
まてまて。
それは余りに論理が飛びすぎているぞ。
391日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:42:17
吉野ヶ里は九州で地面に穴堀って住んでる土蜘蛛の部落国家の残骸です。
392日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:42:30
>>387素晴らしい推論ですね。古代の狼煙台があった場所は、今は電波塔が立っています。
   東京芝の東京タワーのあった場所も、昔は狼煙台だったといわれています。
393サガミハラハラ:2008/12/22(月) 22:56:53
吉野ヶ里は邪馬壱国の城郭で卑弥呼女王は北内郭にお住まいでした。
吉野ヶ里が3世紀に衰退したのは、卑弥呼の時代(230年代)に小城に遷都したからです。
394日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:05:59
>>375
お説のとおり。倭人伝は、東渡海千里の国や侏儒国、裸国、黒歯国まで書いている。
その倭人伝が南九州を書かなかったなどということはあり得んな。
九州の南端は狗奴国、これは動かせん。狗奴国=熊本という以上、その南はすべて
狗奴国と言わざるを得ないんだ。しかし、それは到底無理。>>329説は崩壊だ。
395日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:12:49
>>374
日向説は狗奴国=熊本なんて馬鹿なことは言わんよ。狗奴国はあくまでも邪馬台国
よりも南。志布志湾沿岸あたりに比定する。
佐賀付近から水行二十日で投馬国(川内)。狗奴国を熊本に比定すれば狗奴国の海
を水行することになるが、対立している国の海を通るはずはない。そんなところに
狗奴国があったら投馬国へも邪馬台国へも行けないな。
396日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:19:39
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区・春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
一部リニューアルしました
反論お待ちしております。
397日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:25:09
>>386

ア ホ ら し い

「宮室、樓觀、城柵」がセットで出てきた遺跡は吉野ヶ里だけかもしれないが
別に吉野ヶ里だけに見られる特長でもあるまいし…

(元々工業団地として埋められる予定だった物がほぼ全面的に保存されたある意味レアケース
 邪馬台国ブームの副産物とも言えるなw)
少なくとも、それらを備えていたのが「吉野ヶ里だけだった」とか「有明海沿岸の特有のもの」だとか言っている学者を俺は知らない。

そもそも、もし吉野ヶ里だけの物であったなら「邪馬台国=吉野ヶ里」で終了と言う話だしwww

じゃあ今度は倭人伝の「婢千人を以て自ら侍せしむ」と言う部分に着目するのなら
可能性を残すのは宗教・祭礼に特化された纏向ぐらいだろうw
吉野ヶ里?卑弥呼に仕えた奴婢だけでほぼ定員一杯に近いですっとwww

結局、何処を見るかによって、卑弥呼のいた邪馬台国の姿は違った物に見えてくる。

自説に有利な1箇所だけ切りとって喧伝するのはこの板の九州説論者の悪癖だなwwwww
398日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:53:05
女王国はな、大分南部+宮崎北部の領域しかありえね。
陸行一月とか温暖とか東に海があって別の国があるとか。
倭人伝方式でいくとな、西臼杵郡しかないんだよ。

南は都城あたりから狗奴国とみる。だってさ、女王が国境辺りに
住むわけないから。一番攻めにくい難攻不落の場所に住むだろ。これ常識。

北九州とかありえん。水行がないじゃん。甘木とか吉野里なんて
福岡市から徒歩で一日で着く。邪馬台国とは別の集落だろ。
399日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:11:53
遺跡といっても、現代の日本で突如吉野ヶ里なんかが出てきたら、
・はるか昔の遺跡で貴重
・実用性はないので再利用しないとなるが、
直前の時代の中心部は普通は次の世代が引き継ぐ。
場所的に有利で設備もそろってるからな。
明治になった時、江戸城を歴史遺産として保護したり、逆に敵の居城として取り壊したりせず
皇居として再利用してただろ?

つまり邪馬壹国その他当時の主要地域の中心部は、
その後の時代も利用され、戦国時代に城が立って、今では弥生時代の面影などないことがほとんど。
要するに、たまたま遺跡が発見されたらそこにある情報は歴史的事実の発見に有効だが、
遺跡がないからといって、そこに古代の中心地がなかった証明にはならない。

地名にしても、当時の日本人の発音を当時の中国人が当時の発音で漢字にしたわけで、
まったく当てにならないし、九州の地名を東遷したときに畿内に持っていっているわけで、
歴史書に出ている地名がどこを指しているかはわからない。
ほかの情報から当時の国名と現在の地名が近かった時に、
「ああこの文字はこういう発音だったんだ」とわかることはあっても、
地名から比定地を探すなどナンセンス。

魏志倭人伝その他後漢書など文献を素直に読んでいくのが結局は一番良い。
400またつまらぬモノを買ってしまったwwwwww:2008/12/23(火) 02:19:41
以下話のネタにw

最近買った
 ビジュアル版「逆説の日本史」 井沢元彦 古代編(上)
…より森浩一と井沢の対談より抜粋。

井沢 なるほど。宮内庁では、箸墓の被葬者を倭迸迸日百襲媛していますが、
   誰の墓と考えますか。

森 二つの見方があります。
  一つは卑弥呼そのもの。
  その場合は、九州で死んで遺骸を大和に持ってきたとする説と、
  大和で死んだとする説が成立します。
  どちらにしても変死らしい。

井沢 私は殺されたと思っていますが。

森 その可能性もある。
  もう一つは「魏志倭人伝」に書かれている壱与(いよ)と言う女王。
  台与(とよ)とも読めますが。
  

……ダイジョーブか?森先生wwwwwwwwwwwwwwwww
401日本@名無史さん:2008/12/23(火) 03:02:27
伊都國→前原市南
奴国→福岡(春日市)
の場合、「なぜ東南と書いてあるのに東北wに行く?」
ということを置いておいたとしても、
「なぜ海岸近辺の糸島・福岡(当時は海岸)に行くのに、
船を下りて海岸線に沿って歩かなければならないw」
という問題はどうするのでしょう?

「仮に魏志倭人伝は方角も距離もめちゃくちゃで、地名の一致や遺跡のほうが科学的だw」
としても、あえて非合理なルートを通る説明にはなっていないのですが。


402日本@名無史さん:2008/12/23(火) 03:10:36
>>400
森はもう少しまともだろ。井沢のレベルに合わせて畿内説論者の話をしただけ
じゃないの?
403またつまらぬモノを買ってしまった>400wwwwww:2008/12/23(火) 03:21:46
>>402
>森はもう少しまともだろ

いや俺もそう思うんだがw・・・以下>>400の続きね


井沢 西晋へ挨拶に行ったと言う女王ですね。

森 そのどちらかと考えて間違いないでしょう。

井沢 纏向遺跡の発掘調査が進み、何が見えてくるのか楽しみです。


…卑弥呼か壱与の二択らしいよw

俺が今まで思っていた森浩一の芸風とえらい違うっちゅうかw
内容を勝手に変えられたのかな?wwwwwwwwww
404日本@名無史さん:2008/12/23(火) 04:24:32

邪馬台て、ヤマトの聞き違いだろ!


405日本@名無史さん:2008/12/23(火) 05:44:31
実は、秦王朝は邪馬台国の弟王が作った国。
漢は、邪馬台国の属国だった。
魏は、泡沫のような小国。
九州こそ世界の中心だったのではないだろうか?
406日本@名無史さん:2008/12/23(火) 09:04:49
>>399
まったくそのとおり。地名に頼った思考が大和説や北九州説を生む。
407日本@名無史さん:2008/12/23(火) 10:31:53
>>403
なるほど。周りのアホ説ばかり聞くうちに感覚が鈍ったのかな。
森の本を読むときは、気をつけよう。
408日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:25:18
>>401
奴国まで郡史が歩いたていない郡史の留まる場所は伊都国
隣町の博多と宇美は伊都の住人に聞けば行かなくてもわかる。
409日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:30:29
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Euro/2003/toukou/toukou-02/title-map.jpg
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
土地勘がわからない様なのでリニューアルしました
反論お待ちしております。
410日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:32:30
>>408
伊都国まで歩いたのはなぜ?
411日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:34:50
>>408
マツロから伊都国までの歩きの話をしてんだよ
海沿いなのになんで500里も歩いたかってこと
糸島なら直接船で行けるだろ
412太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/23(火) 11:38:16
>>397 ジョーカー
ま〜だオマエ 妄想→盲象 の脳内にてダンスを踊っているのか?
救いようがないなぁ〜オマエは 。紀無い節は盲象 wwwwwww
413日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:40:32
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
土地勘がわからない様なのでリニューアルしました
反論お待ちしております。
414太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/23(火) 11:41:37
森先生! ジョーカー←>>400 に舐められないように解説を
したほうがいいよ。
415日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:45:23
>>410
歩いてません
仰るとおり直で伊都に行き、福岡、宇美、松浦は地元の人聞です。
416日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:48:43
ハァ?
417日本@名無史さん:2008/12/23(火) 11:51:12
魏略逸文
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/giryaku/itsubunn03/giryaku_itsubunn03.htm
東南500里

倭人伝は島と勘違いしないよう書いた。
418日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:05:41
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
土地勘がわからない様なのでリニューアルしました
反論お待ちしております。
419日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:09:38
>>382
宮室、樓觀、城柵・・・
これが邪馬台国だ!

http://www.tour.ne.jp/disti-ss/images/tmp_machu_picchu_pi01_001.jpg
420 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/23(火) 13:55:38
>>418
>反論お待ちしております。
距離も方向も間違えてるという数多の反論に、まともに返答しないのは何故?
421日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:06:27
>伊都國→前原市南
>奴国→福岡(春日市)
>の場合、「なぜ東南と書いてあるのに東北wに行く?」

これに対する答えがコレね

奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif

煽り以外一つ一つ答えてる。
「北東」どことどこを繋げば北東と言う言葉がでてくるのかなw
幼児に場所は絵で示すのが一番理解されやすい。
422日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:08:07
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
土地勘がわからない様なのでリニューアルしました
反論お待ちしております。
423日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:58:31
歴史ねつ造博物館の所在地の地図ですか?
みんな自分のところこそ邪馬台国だとか言ってるかも・・・
424日本@名無史さん:2008/12/23(火) 16:52:53
>>415
末盧国で下船したのが不自然だってことは分かってんだな。感心、感心。
だが、下船しなかったと読むのはトンデモだ。
425日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:40:43
末盧国
下船しても草木茂盛行不見前、文字通り鬱蒼と茂る草木以外見るべきものは無い
壱岐から直南の東松浦半島が古代沿岸航法では良い目印となり非常時に下船できる最寄の天然の良港が呼子。
426日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:09:28
呼子で降りて糸島を目指すのなら松浦川を舟で渡らないといけない
二度手間及び川を渡る記述もないことから一行は記述通り東南方向
つまり佐賀方面に向かうのが自然。よって伊都国は佐賀方面
427日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:43:57
佐賀方面行くにしろどっちみち川渡らないかんだろw
428日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:47:38
川は上流ほど狭くなるんだよ
河口の幅のままの川なんてないw
429日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:50:07
それじゃ糸島行くまで上流の浅瀬歩いていけばいいじゃんw
430日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:52:54
>>429
松浦川と伊岐佐川の合流まで行けば十分渡れるさ
ただし500里軽くオーバーしてしまうけどな。方角のほかに
距離まで無視しなければ成立しませんけど その辺は?w
431日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:55:50
◆在日中国人が75万人を突破

2008年12月22日、在日中国人向け新聞「中文導報」は、
日本で暮らす中国人の数は75万人を超えたと報じた。中国新聞網が伝えた。

記事によると、昨年1年間に日本国籍を取得した中国人は10万5813人で、
永住者は12万8501人に達した。 特別永住者は2986人増えて初の13万人台を突破。
日本人の配偶者は5万6990人、永住者の配偶者は5212人増えた。
日本に定住する中国人の数は43万人を超えるという。

人口の増加に伴い、全国各地に中国人コミュニティが形成されている。
横浜の中華街や神戸の南京街は有名だが、最近は東京のお台場(江東区)、立川市、
愛知県名古屋市の大須(中区)、大阪の上海新天地(大阪市)など新興の
“中華街”も続々と誕生。埼玉県大宮市の東宮下団地や川口市の芝園団地などは
居住者の大部分を中国人が占めるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081223-00000004-rcdc-cn
432日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:56:18
残念。
こちらは下船してない説なんだよ。
>>425参照
433日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:58:03
>>432
どこをどう読むと下船していない話が出てくるのか教えてくれないか?
434日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:59:43
435日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:03:07
>>434
唐津に降りる描写にしか見えませんけど?w
436日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:03:54
歩いた描写も無いw
437日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:04:46
>>436
倭人伝は無視なのか?
438日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:07:46
倭人伝は魏略も参考にして書かれたの知ってる?
439日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:08:19
>>438
「も」だろ?w
440日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:11:18
倭人伝しか見てないからこうなるんだよw
441日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:12:11
魏略しか見えていない君に言われたくはないよw
442日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:15:20
色んな古典を参照して総合的に考えてるよw
443日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:17:21
呼子入港は無駄な話か? 上陸しませんでしたとは、保守本流が泣くぞ。
444日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:46:30
入港と上陸の区別もわからんのか?
新潟港に入港して上陸しないロシア人船員一杯いるぞ。
445 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/23(火) 19:50:57
まぁ保守本流に宮崎は入らないからなw

伊都国まで、方向も距離もあっていない。(これの説明は無理だろう。地図の見方も知らないようだし)
末盧国から伊都国は、陸行という記述を無視して水行。
伊都国から放射説。奴国・不彌国には行っていない。
水行20日の投馬国にも行っていない。何故か宮崎。
水行10日陸行1月の邪馬台国には行った? 何故か筑紫筑後平野。
女王国は、奴国以降に出てきた国々のことで、伊都国より前にでてきた国々は除く。

どこが保守本流なんだw
446日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:09:11
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野)
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明)

保守本流不動の九州説のテンプレです。
土地勘がわからない様なのでリニューアルしました
反論お待ちしております。
447日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:21:53
しかし、伊都国までは船で来て、その後は川も渡れないのかよ?
448日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:28:58
>>447
川は当時の国境のようなものだからな、外国人がそう簡単に渡らせてもらえるもんでもない。
449日本@名無史さん:2008/12/23(火) 21:00:43
末盧國→東松浦半島(寄港地呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

保守本流不動の九州説のテンプレです。
一部付け加えました
反論お待ちしております。
450日本@名無史さん:2008/12/23(火) 21:38:47
>>449

正解
451日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:32:35
では邪馬台国論争は終了ってことで
452日本@名無史さん:2008/12/24(水) 01:56:06
>>449
反論も何も滅茶苦茶じゃねーか。

筑紫筑後平野に水行はいらないし。

倭人伝と全く距離も方角もあってない。一体何が根拠?妄想?www
453日本@名無史さん:2008/12/24(水) 06:07:59
>>452
>筑紫筑後平野に水行はいらないし。

まあ待て、慌てるな。落ち着け。ww
おれ449じゃないが、かのご当人はこう書いてる。

>>449
>郡より南水行十日陸行一日

つまり「陸行一月」は、「陸行一日」の誤記とみなし、
なおかつ古田武彦がやったのと似て、「水行十日陸行一日」は、
帯方郡〜邪馬台国間の行程、とする解釈なんだな。
古田の場合はべつに「一日」などと読み替えず、
「陸行一月」の大半は韓半島内を陸行して歩いたもの、と解釈するわけだが、
このご当人は、「自分は保守本流だ、韓半島内陸行説なんかではないぞ」、ということのようだ。ww

だが、おれから言わせてもらえば、この行程で陸行一日は絶対不可能。

末盧国呼子〜〜伊都国前原〜〜邪馬台国筑紫筑後平野(久留米か山門あたりのつもりだろう)

これが九州上陸後の陸行コースだが、とてもじゃないが一日で歩ける距離ではない。
必ず二日かかる。
>>449は自分で提示した陸行で歩くコースの距離が何キロか、地図で測ってみたらいい。一日では無理だ。

それに「距離も方角も問題ない」というのは欺瞞というしかなく、方角は大いに問題がある。。
呼子から東南方向にいくら進んでも佐賀県内の中を行くばかりであり、
まあ筑後川を渡ってからは福岡県の筑後南部方面には行けるが
前原や博多の筑前方面は、まったくと言ってよいほど掠めもしない。
前原市の平原・三雲・井原の3遺跡は、呼子から東南方向では全然行きようがない。
ご当人が貼っている糸島半島地図と併せて、この地図を見てくれたら、
方角に問題あるのが納得できるだろう。
http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=468284.238&y=120508.655&ex=468284.238&ey=120508.655&SCL=12500&tab=&lk=&msz=1&svp=&&Write=ON
454日本@名無史さん:2008/12/24(水) 08:10:03
たしかに糸島付近は北九州屈指の遺跡では
あるが、一大卒を置き諸国を監視していた要衝にして
は軍事色の薄い遺跡ではないだろうか?監視という
面だけで考えても末盧・奴・不弥の中心にあり、且つ
南からの脅威を牽制できる場所に在ると考えた方が
自然な気がするが。
455日本@名無史さん:2008/12/24(水) 11:41:33
まあ確かに保守本流九州説も多少の穴はある
方角に関しては数度反時計周りにずれてる
ただこれは倭人伝で一貫してるので著者が数度ずれて書いたと考えるしかあるまい
一日に関しては昔の行軍速度から勘案して九州北岸から内陸に約20〜30kmと言ったところか
春日市直南の大宰府から八女筑後川沿岸その辺だな
456日本@名無史さん:2008/12/24(水) 11:54:28
数度どころか60度回さないとその説は成立しないよね
457日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:13:09
末盧を唐津市街地の桜馬場付近、伊都を前原の平原付近としてしまうと

遺跡的にはいいんだが、方位の狂いが最も激しくなってしまう。
458日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:44:34
末盧國→東松浦半島(呼子)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

保守本流不動の九州説のテンプレです。
反論お待ちしております。

459日本@名無史さん:2008/12/24(水) 13:24:44
前原が方位の大幅なズレと行程の矛盾で伊都国でないことは明らかとして
糸島が奴国の一部なのか末盧国の一部なのかってとこが問題だな
460日本@名無史さん:2008/12/24(水) 13:47:21
伊都国の場所は問題ない、トンデモを除いてまともな別の説など聞いたこと無いな。
461日本@名無史さん:2008/12/24(水) 14:53:19
前原市が重要な遺跡であることは間違いないのですが、
松浦上陸地点が、伊万里湾奥の伊万里あたりということは考えられないでしょうか?
荒れた日本海は、できるだけ早く過ぎて、海難を避けたいでしょうが、湾の中に入れば
比較的穏やかで、船に乗ったままならば荷物を運ぶのも楽になりますし。

伊万里から佐賀に出るルートは、有明海湾岸の筑後平野、佐賀平野にいくには最短距離
のような気がするのです。それに、山中を通り、有明海に出たあたりからまた水行の文字
が復活してくる。

伊都国(前原市)、奴国(福岡市)が、有明海周辺国家とは別の国家だとすれば、
伊都国、奴国を避けたルートのように見えます。

伊都国奴国圏と佐賀筑後圏が別国家で、中国側も政権によって、対応している相手が違う
可能性はありませんか?


伊都国出身、佐賀大和在住の住人より
462日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:07:42
>伊都国奴国圏と佐賀筑後圏が別国家で
北岸交易地帯、筑後の穀倉地帯両方を押さえたのが女王の勢力圏
奴国伊都国は一大卒を置いて管理している
壱岐から伊都国に行くのに伊万里は無い、糸島と反対の方角になる
463日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:26:30
糸島に行くのに唐津や呼子もない。直接糸島に行けばいい
464日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:41:55
航海技術が高ければ糸島まで直接行ったほうがいい
ただ当時の沿岸航海術だと最寄の山や岬など目印に陸地沿いを進んでいた
465日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:51:52
壱岐南端から唐津の距離と壱岐南端から糸島まで距離は同じなんです
むしろ海流を考えれば糸島まで行ったほうが楽なんですよね
それをあえて唐津または呼子に行かなければならない理由とは?
466日本@名無史さん:2008/12/24(水) 15:57:16
肉眼で沿岸の地形を確認しながら航行する沿岸航法
やがて船舶が大型化し沿岸の地形が確認できない沖まで航海するようになると天測航法が開発される。
467日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:38:05
千里の海を渡ってきたこの時代は天測航法
468日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:43:55
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により半島先端の呼子が目印)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

保守本流不動の九州説のテンプレ。
補足説明を加えました
反論お待ちしております。

469日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:44:26
調べればわかるが、遺跡の宝庫は有明海沿岸。
玄海灘地方は、棺が発掘されて、鏡が大量に出てきただけ。

たとえば、中国鏡は、破片も含めると、手元の資料で筑紫平野だけでも
37の遺跡から50枚ほど出ている。非常に幅広い。
その他、環濠集落、青銅鋳型や青銅器、鉄器など玄界灘沿岸とは質量共に
比較にならない。
470日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:48:11
糸島厨にはそういう現実は見えないのです
471日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:53:38
>>465
台風とかあったんじゃないの?
472日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:53:44
>>469
それ北部九州説なんですが
だれも伊都国を邪馬台国など言ってない
473日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:58:42
台風の日に海に潜って漁をするマツラ国のツワモノw
474日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:23:55
>たとえば、中国鏡は、破片も含めると、手元の資料で筑紫平野だけでも
>37の遺跡から50枚ほど出ている。非常に幅広い。

平原遺跡

大形イ方製内行花文鏡 4面
ガラス勾玉 3個
イ方製内行花文鏡 1面
メノウ製管玉 12個
舶載内行花文鏡 1面   
ガラス製管玉 30個以上
き龍文鏡 1面
ガラス製連玉  多数
方格規矩鏡 32面
ガラス製小玉 600個以上
素環頭太刀 1本
琥珀蛋白石管玉 1個
琥珀蛋白石耳とう 1個
475日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:34:34
吉野ヶ里の半分以下か
476日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:38:53
どうやら北部九州内のどこかに絞られてきたようだね。
477日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:40:18
伊都国の話な
478日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:43:40
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により半島先端の呼子が目印)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

保守本流不動の九州説のテンプレ。
補足説明を加えました
反論お待ちしております。
479日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:02:34
古事記にも日本書紀にも書いていないのだから、日本の公式見解としては邪馬台国は存在しません。
魏志倭人伝の邪馬台国に関する記述は、距離も方向もでたら目で信用できる代物ではありません。
その点を確認すれば、邪馬台国論争そのものがいかに不毛なことか分かると思います。

賽の河原で石を積むようなものです。
480日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:12:01
>日本の公式見解としては


アホか
481日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:32:19
>>480アホはお前だ!
482日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:47:13
説が負けた時に必ず出てくる無かった論
483日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:57:38
なんの証拠もないのにどうして勝ったつもりになったんだよ?>>482
484日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:02:56
平原・三雲・井原の各遺跡の年代知ってる?
邪馬台国時代のものなんか全くないんだってな。
485日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:03:03
↑やっぱり負け犬南九州説かwいやそれがわかればいいww
486日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:06:08
>>484
日向の西臼杵郡が邪馬台国だって?
487日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:24:20
>邪馬台国論争そのものがいかに不毛なことか分かると思います。
    ↓
>平原・三雲・井原の各遺跡の年代知ってる?
>邪馬台国時代のものなんか全くないんだってな。



488日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:05:21

 「陸行一月」の大半は韓半島内を陸行して歩いたもの


誰、こんな頭のおかしいこと行ってるやつは
489日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:18:40
勝手に解釈をしてそんなに面白いかい?
490日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:35:25
筑紫ではないのは確か。宇美町から歩いて半日だろ。
491サガミハラハラ:2008/12/24(水) 23:48:56
>>488私ですが、何か?
492日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:52:18
筑紫は死んだのではなかったのか?
493日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:55:05
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により半島先端の呼子が目印)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

保守本流不動の九州説
494日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:55:56
魏志倭人伝の方角も距離も問題がい。どっちもでたらめですから。
495日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:58:37
邪馬台国= 倭人の発音でヤマ=山がつく国 

絶対に平野じゃないね。これは確か。 
496日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:02:38
>>465
唐津上陸が伊都国へ行くのにもっとも便利だったからだな。
ということは、倭人伝が伝える伊都国は前原ではない。佐賀大和付近だ。

497日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:05:15
>>493
>投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)

都万神社って宮崎でも南部にはいるけど。

なんで、日向〜宇佐・中津の九州一の
「山大国領域」をブッ飛ばせるんだwwww   

あほらしい
498日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:06:47
>>488
半島陸行説を最初に主張したのは古田武彦さんだよ。
古田さんの最初の著書『「邪馬台国」はなかった』(1971年、朝日新聞社)に書いてあるよ。

↓古田武彦さんの「韓国陸行図」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku11/kanriku.jpg
499日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:10:05
お前らうるさい。

邪馬台国なんてなかったんだよ。
早く目を覚ませ。
500日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:12:20
>なんで、日向〜宇佐・中津の九州一の
>「山大国領域」をブッ飛ばせるんだ

自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
501日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:17:25
>>498
トンデモ説の根をたどればだいたい古田にたどりつくってことか
502日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:40:53
>>500
は?だから?
それならお前のいう投馬が自分で論破してんの?

山国や玖珠と思われる場所が入ってる(邪馬国、躬臣国)
玖珠郡の場所みてみろ。
つまり佐伯、あるいは蒲江ぐらいから南が女王国とみれる。

503日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:56:25
>>502
日本語が乱れてきたな、興奮するなよw
おまえが言ってる事がよくわからんが
玖珠郡は遠絶不可得詳だという事だ
504日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:08:00
郡より南に二十日 名前は投馬 5万戸 官は耳さん 

宮崎方面はこれだけだ

遠くて里はわからんそう書いている
505日本@名無史さん:2008/12/25(木) 03:28:33
地名を現代日本読みでこじつけようとしている方々へ・・・
魏略西戎伝でお釈迦様のことが書いてあるので参考に。

ブッダ:浮屠(ふと)、復豆(ふと)、復立
出身国ルンビニ国:臨児国
父シュッドーダナ:屑頭邪(せっとうや)
母マーヤー:莫邪(まや)
他の仙人。ジャイナ?:沙律

いずれもそれっぽく読めますが微妙に違いますね。
逆にどうとでもこじつけようと思えば読める。
なお、シュッドーダナは別の文書・別の時代では輸頭檀那・閲頭檀などと
表記することもあり、どうとでも書けます。

末盧國だから松浦半島なのでなく、末盧國と思われるところが今松浦と呼ばれているから
「当時もマツロと発音し、名前も残っているんだ」と考えることが出来るのであり
名前からの比定は順序が逆である。
ナの津だから奴国などと言う論理が破綻することなど言うまでもないでしょう。
506日本@名無史さん:2008/12/25(木) 03:35:39
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により半島先端の呼子が目印)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角を南」としているので
気持ち「南を南東」、「東を北東」、「北を北西」、「西を南西」と読んでください。

保守本流不動の九州説
507日本@名無史さん:2008/12/25(木) 03:43:10
>>505
爺の陰気臭い説教は結構です。
508日本@名無史さん:2008/12/25(木) 07:09:57
地名に引きずられて比定してはならないと言われるのは、そのとおりでしょう。
そうなると、末盧国は次のようになります。
 @ 一支国から南であること(この方角は抜けてるが南であるべきは明白)
 A 一支国から千里の距離とされていること
 B 上陸後の陸行距離が短くてすむ所(上陸後東南へ陸行する)
 C 良港が存在したと考えられる所
以上を考えれば、唐津が最も妥当ということになります。

509日本@名無史さん:2008/12/25(木) 07:25:58
>>505
>>508の続きです。伊都国について述べます。
 @ 唐津から東南であること
 A 唐津から五百里(約40キロ)であること
 B 陸行しなければ行きにくい所であること
 C 南水行が可能な所であること
 D 一大率が置かれた要衝にふさわしい所
以上のように考えると、前原はまったく該当しません。方角は東北、距離はせいぜい
三百、しばしば指摘されるように船で行けるところ、南水行も不可能。要衝たるべき
要素もありません。伊都国=怡土というのは地名に引きずられた誤りと分かります。
各項目に該当する地点は、有明海沿岸の佐賀付近。それに怡土との関連(古道による
連絡)や遺跡も考えれば、伊都国は佐賀大和付近と比定できます。
510日本@名無史さん:2008/12/25(木) 07:59:34
>>509大いに賛成だ。

>気持ち「南を南東」、「東を北東」、「北を北西」、「西を南西」と読んでください。

上記のようなこじつけ甚だしい戯言説などよりよっぽど理にかなっている
511日本@名無史さん:2008/12/25(木) 12:17:35
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により半島先端の呼子が目印)
「四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人」王も官も記載無し
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角を南」としているので気持ち南を南東、東を北東と読む。

保守本流不動の九州説
512日本@名無史さん:2008/12/25(木) 12:28:42
方角に関しても疑問は解けたと思う
著者の方向に関する記述がずれてたと考えるより他あるまい
狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜末盧のラインが東南。

513日本@名無史さん:2008/12/25(木) 13:41:14
>>511
ねえ?どうして糸島伊都国からは方角のズレが元に戻ってるの?
514日本@名無史さん:2008/12/25(木) 14:04:01
>>513
元とは?
515日本@名無史さん:2008/12/25(木) 14:11:17
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

放射説にしろ何にしろ
基点が同じなら両国は基点より直線状に無くては文が合わない
自説なら
帯方郡〜筑紫〜宮崎が東南に直線状に並び距離も合う
516日本@名無史さん:2008/12/25(木) 14:21:03
倭人伝の骨組み全体が見えてきた完璧です。
517日本@名無史さん:2008/12/25(木) 14:31:32
まあ南九州説の東の海が北東の四国でよくなる事から他説の援護になり歯痒いが
一貫して方角のズレがあるので仕方あるまい
518日本@名無史さん:2008/12/25(木) 15:34:52
糸島の伊都国の位置については今更異論は無いと思う。
一部の奇説の方は伊都国にだけ正確な方角を求め
対馬から南に壱岐は無いのに南のままにして破綻している。
方角がメチャクチャな論
519日本@名無史さん:2008/12/25(木) 15:59:41
そうやって定規で線だけあてて地図みて「真南」に壱岐がないから
南じゃないとか、真東に四国がないから「東」じゃないとか
言ってるレベルで論とか語る頭が凄いなwww 航海図なんか一度もみたことないだろ。

それとも何、わざと地図読めない馬鹿の振りしてる詭弁でごまかそうと
してんのかな。
520日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:18:01
そうそう末盧國東南の伊都国にだけ異常に拘ってる
定規で線だけあてて地図で佐賀とか言ってるんだろうけど。
521日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:23:40
佐賀に伊都国は無い、この話はもういいだろw
522日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:34:14
一人で何役してるんだ?w
523日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:38:01
伊都国はいいから東南の奴国はどこなのよw
524日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:41:22
>>522
俺とおまえしかいないじゃないの?
525日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:42:45
>>524
おまえは俺だろ?
526日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:44:07
伊都国アホらしいけど聞いてやってんだよw
佐賀大和の南東の奴国はどこなのよ?
527日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:48:43
念仏のように伊都国は佐賀〜伊都国は佐賀〜言ってるが
それから先を聞こうではないか
それとも定規と地図と分度器持ってで考え中かな?
528日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:48:55
伊都国→佐賀大和 奴国→八女 不弥国→久留米は鉄板
529日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:49:38
この自演なに?
530日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:58:45
奴国が八女w
八女の位置わかってんのか
方角は東だし100里にしてはえらく遠いなw
531日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:02:59
現在の市役所の位置でしか国の広さを見れない子が居ますね?
532日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:08:01
伊都国について、倭人伝には次のように書かれている。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之

女王国より北を以って、特に一大率を置く。諸国を検察する。諸国、之を畏れ
憚(はばか)る。

一大率というのは、卑弥呼が派遣した高官ということだろう。
これによると、伊都国は、邪馬台国よりも北にある。
邪馬台国からは離れている。離れているから諸国を検察するために高官を
置く必要がある。近くにあったら、邪馬台国が検察すれば良い。

諸国の近くになくてはならない。諸国から遠かったら検察できない。
このように考えると、伊都国はどこにあるのがふさわしいか。
533日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:11:15
ごめんごめん巨大奴国だったねw
佐賀大和の東南百里から先は全部奴国だったらいいよねw
南の投馬と邪馬台はどこかな?
534日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:15:59
>>532
理屈はいいよ一大卒は佐賀大和でいいからさw
邪馬台国の場所聞いてんのよ
535日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:28:46
佐賀大和に一大卒置いてんだよ、さらに東南百里の奴国の位置も解決済みだよw



邪馬台国の場所答えられないの?
536日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:28:47
君たちカワイイね♪
狭い九州でああだこうだと
537日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:45:03
邪馬台国はどこだろう?
一大卒の佐賀大和から定規で南に線引いたらいいのかな?
ちょうど日向があるけどここが邪馬台国でいいのかな?
538日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:53:21
>>534
伊都国は、佐賀大和ではなく、多久市か小城市付近。
佐賀大和は奴国の範囲だろうな。
不弥国は、筑後川の西側。

邪馬台国は、熊本県菊池市。中心集落は「うてな遺跡」
「うてな」を漢字で書くと、「台」となるのだが、非常に良い場所だと
思う。南に延びた高台で、木野川と追間川に挟まれている。
南には、さらに菊池川の本流と支流の二本の川がある。防御体制は十分。

若干、手薄な西側には、4kmほど下流に方保田東原遺跡という大集落が
控えている。

ちなみに、狗奴国は、宇土市・城南町付近。ここも古代の国を築くには
絶好の場所だと思う。
539日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:56:03
有明を島原半島沿いに南下、八代から陸行で宮崎、邪馬台国
八代スルーで鹿児島目指したところに投馬(ツマ)国こと今の薩摩
540日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:02:58
唐津の東南は佐賀大和です
地図を定規で測ったから正確に間違いない
一大卒があったんだぞ
541日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:04:53
吉野ヶ里が伊都国です
542日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:06:37
いや佐世保が伊都国です
543日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:09:16
多久市か小城市付近から吉野ヶ里まで伊都国とすれば双方顔が立つだろう

はいこれで解決
544日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:10:00
賛成
545日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:13:51
佐世保も入れてやろう
伊都国は多久市か小城市付近から吉野ヶ里から佐世保
546日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:24:16
賛成
547日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:30:50
反対
548日本@名無史さん:2008/12/25(木) 19:28:45
結論邪馬台国は霧島
549日本@名無史さん:2008/12/25(木) 19:33:02
伊都国が卑弥呼の都です。
550日本@名無史さん:2008/12/25(木) 19:48:40
反対賛成
551日本@名無史さん:2008/12/25(木) 20:08:39
実は、邪馬台国は東北にあったのだ。
邪馬台国とは八幡平、実は、「やまたい」と読むのだ!
全国に残る八幡宮、八幡山のルーツはこの山だったのだ。
とうとう、すべての謎を付くカギが見つかった!

http://www.iwatetabi.jp/spot/image/1026
552日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:35:53
さすがに、クリスマスともなると、キリストの墓のある東北邪馬台国説に
異を唱える人はいないようですね。
邪馬台国は、八幡平!これですべて解決した!
553日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:51:04
>>552
まてまて、異を唱える人間ならここに居るぞ。
勝手に個人的満足で問題を終結させるんじゃないよ。
まず方角の問題はどうなる?
南に90度までは古地図から考えることは出来るが、
東北となったら135度以上もずれてるじゃないか。
そんな古地図はないよ。
554日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:55:45
主はきませりー主は来ませり―♪
主が来た方向が、すなわちキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━.です。
555日本@名無史さん:2008/12/25(木) 22:07:54
これがキリストの墓だ。
しかし、その奥に見える墓は卑弥呼の墓にしては小さすぎる。

http://itomaj.hp.infoseek.co.jp/kirisutotoisukirinohaka.jpg
556日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:17:46
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。

保守本流不動の九州説

少し簡略した反論はないだろうな?
557日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:38:07
>>533
佐賀大和から水行20日で投馬国だ。当時の人口集中地は大きな河川のまわり
のはずだから、候補地は川内川のある薩摩川内か万之瀬川のある加世田付近と
なる。しかし、加世田の方は平野が小さい。やはり5万戸の中心地となれば川
内だろ。そこが投馬国に比定できる。後の薩摩国府の所、邪馬台国時代にそれ
なりに栄えていたとみて何も不思議はない。

水行20日の投馬国が川内となれば、水行10日の地点は佐賀から川内までの
ちょうど半分の八代あたりのはず。水行十日陸行1月はどう読むか。榎は水行
十日又は陸行1月と読んだが、水行十日で行けるならば誰でも水行で楽に行く
はずで、苦労して陸行1月で行く者がいるとは思えない。だから、水行10日
+陸行1月のはずだ。そして、水行十日で上陸し陸行する以上、それは水行で
は行きにくい所だ。となれば、上陸地点から内陸に入っていくはず。しかし、
全体としては南を外してはいけいない。となれば、球磨川沿いに登っていき日
向に入ると考えられる。小林市か都城盆地あたりが邪馬台国だよ。
558日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:27:09
書き込みが止まったな。保守本流不動の南九州説。それが日向説だ!
嘘偽りなく方角も距離も問題ない。
559日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:49:46
末盧國→東松浦半島(沿岸航法により呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。

保守本流不動の九州説

少し簡略した反論はないだろうな?
560 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/27(土) 03:43:39
>>559
>倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。
郡からの乍南乍東も、実際には南東−東北でほぼ東の方角、
3回の渡海も南ではなく南東の方角、
そういう主張なわけだな。いったい何処に向かっているんだ?

大体、伊都=前原、奴国=福岡、で方角が45度ずれているなんてのは100年前から言われていることで、
問題は、いままで誰もその理由が説明できていないってことなのだが、あなたも全く理由が説明できていない。


しかし変な話で、水行20日の先を、私説は琉球としているが、これを宮崎とするだけで、ほぼ同じ説になってしまうw
561日本@名無史さん:2008/12/27(土) 04:32:34
倭人伝は2000年前の文字の地図
昔の地図見て現代人が正確無比な面積距離をを求めることが間違いの元
現に何の脈略もない場所を己の願望と分度器と衛星地図だけで決めたりしている輩が多い事
伊能忠敬の地図が出るまで日本人は住んでいる日本の形もわからなかった事を思うべし
562日本@名無史さん:2008/12/27(土) 04:48:54
563日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:19:54
南九州説には次のようなものがある。いずれも南水行を有明海を南下することと
解しているところが共通しているね。
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/
上は放射式はいいんだが、狗奴国の位置がおかしいな。投馬国や邪馬台国へ行く
のに狗奴国の海を通過するはずはない。狗奴国は邪馬台国よりも南にしなければ
ならないんだ。
下は連続式と解しているところがまずい。30日の水行後に上陸というのはいく
なんでもね。
564日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:36:12
>>562
ん? 筑後川が九州を分断してるぞww
江戸時代まで九州は、南北二島に分かれてたんだな!wwww
565日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:55:23
『混一彊理歴代国都之図』
これが邪馬台国東北王朝説の動かぬ証拠だ

http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper19.html
566日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:52:11
古代人は、コンパスなどは持っていなかっただろうから、方向は「おおむね」と
いうことだろう。対馬海峡などは、海流の影響で、日本海側に流されることが
多いから、真南に向かったら、ちょうど壱岐等にたどり着くという感じだった
かも知れない。

これについては以前調べたことがあったのだが、潮の満ち引きで、日本海側
から東シナ海側に潮が流れることもあるようだが、一般的には対馬海流は
日本海側に流れるから。
567日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:48:10
>>566
それより、要は言わんとすることが読者に伝わるかどうかでしょう。
狗邪韓国から南に千里といえば対馬、対馬から南に千里と言えば、壱岐しかありません。
南方の千里ぐらいに島が幾つかあるというなら、南東とか南西とか正確に書く必要があるが、
まちがえるおそれがないならば、四分法で十分だということだと思いますね。

568日本@名無史さん:2008/12/27(土) 13:40:39
>真南に向かったら、ちょうど壱岐等にたどり着くという感じだったかも知れない。

対馬から壱岐は見えます、対馬から行き先の見える壱岐を差しておおよそ南としたことがわかる

569日本@名無史さん:2008/12/27(土) 17:40:21
>>568
>対馬から壱岐は見えます

見えないよ。
対馬と壱岐の中間の海上では両島がよく見える。
570日本@名無史さん:2008/12/27(土) 20:27:30
朝日が上る方向を見て東と思い、そこから南の方向を決めたんだろう。
571 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/27(土) 20:49:05
>>565
東北はともかく、なぜそのリンク先の人は『太陽が昇る方向を基準として「東]を決める』と考えたのでしょうね。
日没と日出の方向から南北ラインはより正確に出せますし、北極星の位置も参考になります。
日中も南中の方向からほぼ正確に南北ラインが分かりますし、南中の時刻ではなくてもおおよその見当は付きますよね。

むしろ60度のずれ(私のいう45度のずれ)の説明が、『太陽が昇る方向<のみ>を基準として「東]を決める』
というものでしか出来なかったお粗末な説というのが正直な感想ですね。

>>563 の2つの説も読みましたが、これらの異説を読むたびに、
逆にいかに私説が優れているのか再認識してしまいます。

私説に対しての感想や突っ込みなどをお待ちしていますので、よろしくお願いします♪

http://yamat-2007.blogspot.com/
572日本@名無史さん:2008/12/27(土) 20:54:16
季節によって日の出の場所は違うから、使者の来た季節が夏場だと言う事が判る。
前を行く人間が見えなくなるほどに草が茂っているのも夏だから。
573日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:06:31
>>566
対馬→壱岐という航海ならその通りだが、
壱岐→対馬という逆のコースではどうなる?

どっちにしたって海流はやはり日本海方向(東方向)なのだから、
真北へ舟を漕ぎ出しても北東へ流される。
これだと「真北」を「北東」と誤認する?それはないだろう。

倭人伝に南北に市糴、とあり、要するにこの海域の船乗り達にとって
海流の存在など自明だったはず。
海流で東へ流されるのは対馬→壱岐、壱岐→対馬、ともに
ベテラン船乗りには織り込み済みだったと考えなければならない。

たとえ郡使一行が自前の船でここを渡る場合でも、
現地の船乗りからアドバイスを受けたり先導してもらうのは当然で
海流のせいで方角を誤認するなんてことはまず有り得ない。

というわけで、もし倭人伝の方角の記述には実際の方角とのズレがあるとしたら、
陳寿や彼が参考にした証言・資料の段階で、新たに誤認が生じたのだと思う。
574日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:43:04
方角の誤認などぜんぜんないんだよ。
575日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:04:09
誤認は無いがズレはある
576日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:37:09
だから、邪馬台国なんてなかたんだよ。
577日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:56:14

魏志倭人伝を精査しなくても、下記3文献だけで決まり。

邪馬壹國女王之所都は久留米になる。
なお卑彌呼の墓の有力候補は祇園山古墳である。

『其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』 by 隋書俀国伝

『此地帝都 近気於今在一百餘歳 一百年竟 遷京北方在三百年之後』 by 「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)

『倭京(大宰府)への遷京は618年』 by 九州年号

578日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:58:07
>>571
前半を読むと、まあまあまともなことを言ってるようにみえるがね。
自分の説の話になると、何でそのアホさ加減に気づかないんだろ。
579太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/27(土) 23:01:24
孝元=国玖琉命→国久留米→久留米国?

孝元世は卑弥呼の若年のようで、もしや卑弥呼の国は久留米か?

まぁわからんがね?w 可能性はあるも、それがしの妄想かな?w
580573:2008/12/27(土) 23:36:12
>>573訂正、スマソ

>これだと「真北」を「北東」と誤認する?それはないだろう。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 
これだと「北東」を「真北」と誤認する?それはないだろう。
581日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:13:27
堀北真希ちゃん、可愛いですねぇ。
582日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:26:20
>>572
冬でも南九州は茂ってるよ。
倭人伝は使者が一人で一回きた旅行記と思うところから
お前の勘違いがはじまる

   夏にしかきてないなら「冬でも」 という記述がでない。

   四季を見てるから「冬でも」という発想がでるんだよ。
583日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:07:02
わかったわかった。
魏志倭人伝は方角も距離も当てに出来ないということにしようじゃないか。
その上で邪馬壹国の位置を検証してみよう。

まず、朝鮮半島から初めて海を渡って對馬國、これは済州島がその前に触れられていることもあり、
対馬で間違いないだろう。次に海を渡った一大國も壱岐だ。
さらに海を渡った末盧國は九州北岸のどこか。ここはもともと方角すら書いていないしどこでも考えられる。
末盧國上陸後、わざわざ船を下りて少し陸行し、また伊都國(放射説)か不彌國(連続説)から水行して
投馬國・邪馬壹国に行く。
そうすると、ずっと水行せずに陸を横断するのが効率のいいルート、
これが魏志倭人伝の示しているところで、考えられるのは2箇所。
@博多湾/糸島あたりから東に突っ切って中津/宇佐辺りに行き、そこから南下、宮崎あたりに邪馬壹国。
 この場合、関門海峡は別の勢力が制海権を握り水行できなかった、その勢力の存在は女王国は魏に隠したかった
 ということになります(狗奴國については援軍もとめているが)。
 また、玄界灘と周防灘付近の制海権は女王国はすべて治めていたが関門海峡付近だけは押さえていなかったようです。
 (制海権っていうのは仕組み上そういうことはありえないのだが)。だいぶ不自然・・
A唐津もしくは伊万里あたりから筑紫平野を突っ切って有明海に臨む、
 そうすると南に水行すると船でしかいけない天草諸島(投馬國)があり、
 水路はその半分の距離で、陸続きのため頑張れば陸行も出来る島原が、
 ちょうど邪馬壹国。こちらは違和感無いですね。
さて、ここで魏志倭人伝がどれだけずれているのか検証、
唐津/伊万里から有明の海岸へは東南・・お、合ってますね。
その後の島原半島や天草諸島もちょうど南。距離も短里の75mなら偶然ぴったり。
総道程12000里もぴったり。島原の東岸には倭人の住む熊本、その南で島原から4000里には鹿児島(侏儒國)がある。

何だ、魏志倭人伝あってるじゃん。
なお、裸國、黒齒國は
@距離誇張で屋久島種子島(2つ並んでるし)
A方角誤認で奄美か琉球
B距離も方角もあっている南の島のどこか
C伝説上の国、実在せず
のどれか
584日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:29:51
全体的に見ると、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
なので、山間の国や広い平野の国というよりも海に浮かぶ島国、というイメージ。
佐賀県や長崎県のあたりのいくつも島や半島が連なっているところがイメージが近い。
なにせ、対馬や九州北岸で「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。」や「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。」
ちょうどこのあたりを囲むと周旋可五千餘里の距離になる。
またおおむね会稽の東にも位置する。
東岸の倭種の国は晋代では詳細不明であったが、後に狗奴國とわかり、後漢書には記載されている。
海に浮かぶ女王国の領域において、陸続きで南に接する地域は筑後川を挟んだ南北で北の奴國と南の狗奴國、
奴國の位置は伊都國の東南の奴國と一致するため、2度出てきた奴國は同一とわかる。
五島列島や長崎〜西彼杵半島、平戸などが詳細不明の旁國となるが、福岡県の辺りが特に触れられていないため、
このあたりも旁國の一部と考えられる。
宮崎方面は不明だが、もしかすると女王国とは全く異系統の国があり、
これが東遷して大和朝廷を打ち立てたのかもしれないが、
中国の史書には全く触れられていないため詳細不明、少なくとも女王国の話とは無関係。
585日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:38:16
もう南九州の暑さ自慢レスはいいよ
同一人物なんだろうが知性のかけらも無い。
586日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:41:59
不満ならば反論したら。理由を何も言わずに反発するだけというのは、それこそ
知性のかけらもないやり方だな。
587日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:46:44
以上は史書および日本の地形風土からわかる確実な事実。
これを基に当時の情勢を考えるに、
・島原にある邪馬壹国が北九州地域を制圧、諸国は藩国として従属していた。
・中国との往来の港は前漢時には福岡(志賀島の金印)などいくつもあったが、
 筑紫平野の伊都國に一大率を配置し諸国の監察とともに「郡使往來常所駐」とすることで貿易ルートを固定、
 邪馬壹国の権限を強化し従来の貿易港福岡近辺の力をそぎ、あわせて中国や朝鮮が直接邪馬壹国(島原)に来るルートは隠した。
・海洋貿易国家として栄え、海に囲まれているため国防上も安定していたが、唯一陸の平野続きの狗奴國とは争っており、
 天然の要害がないため(日本の川は往来の妨げにはならない)、頭を悩ませていた。
 (ここより以東は山間部でこれも往来困難)
 ちなみに当時は商人などの往来であれば海も山も砂漠も越えて活発に行うことが可能であったが、
 軍隊を動かすとなったとたん、山越え江超えは困難で、よっぽどのことがない限り守備側が勝つ仕組み、
 中国本国でも長江を挟んだ魏呉戦は常に守備側が勝ち、山越え出兵の蜀北伐などは異民族騒乱と同レベルの瑣末時であった。
588日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:50:17
めんどくせ
589日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:51:45
知性のかけらもない人ですね
590日本@名無史さん:2008/12/28(日) 02:04:13
だいたい読んだけど反論する価値もないよ
591日本@名無史さん:2008/12/28(日) 02:12:49
歴史書には偽造捏造は付き物であるが、
それは本国の現政権に密接に関連するものに限るわけで、
たとえば古事記日本書紀の記述は天皇家・藤原摂関家に都合よく改ざんされることはあっても、
中国の史書にはそのような政治意図は働かない。
当時の中国にとって倭国関連については政治意図がかかわるような重要な要素などかけらもないのですよ、残念ながら。

魏志倭人伝を見ると、淡々と事実を書いているようで信頼性は高い。
ただ良く見ると、女王国・女王卑弥呼についてずいぶんクローズアップされ、
女性が頭領の国ということで少なからず興味を持っていたようには感じられる。
なので若干邪馬壹国や卑弥呼のことを美化している可能性はある。
(実際は伊都國の一大率が実質的な支配者で、卑弥呼は宗教上の長に過ぎなかった可能性も)

まあ陳寿の当時の意図としては「卑弥呼萌え〜」というぐらいのものだったのであろう。
たまに「司馬懿と曹爽の対立を反映して司馬氏に配慮して・・・」
などの説を見かけるが、倭人の条にそこまでの影響は全くないとだけ言っておこう。
592美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 02:49:28
>>587
「中国との従来」って言い方は間違いだよ
交流てか、関わりがあったのは「漢、秦、百済、隋、唐、新羅、高句羅、元、任那」

これらの中には倭人が統治建国した国もある

他民族とは違う民族の交流や移民に限れば
王仁氏(古代漢民族、漢氏秦氏の祖)
漢氏(古代漢民族、司馬氏、鞍作氏など)
秦氏(古代漢民族、幡多氏、幡氏など)
秦氏は中東に栄えてたアーリア民族やユダヤ民族説もあるけど、漢民族と秦民族としか交流してないよ
場所で言えば、中国の黄河北東部の遼東や満州と朝鮮半島だけ
いわゆる朝鮮半島北部の「帯方」って場所

中国の江南地方の長江民族達とは交流は無いよ


あと朝鮮半島南部ってのは倭人が統治してたんだよ
(百済、加羅、任那、新羅などは倭国)
帯方地帯に住む漢民族や秦民族達との交流に使われた港は、古志の港だよ

九州の港ってのは朝鮮半島を統治しに行く際に、日本人が九州→斉州港→朝鮮半島南部 で使われた港
例えば神巧皇后が百済を屯宮として九州と百済を行き来してたように倭人の行き来う港があったのが九州だよ
593美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 02:59:18
魏志倭人伝や唐史や隋書などには日本は「東の海」もしくは「南東の海」と書いてある


逆に言えば魏や唐ってのは日本から見て西か北西にあるって事だよ
日本から見て西は朝鮮半島で中国大陸じゃないよ
北西も帯方って呼ばれる満州や遼東付近だよ
ここにあった国が漢や隋や唐だよ
ちなみに今の中国が建国される前の清って国も満州民族の国であって満州人だよ
今の中国が正史としてる書物も満州人の清国が満州人の満州の歴史として纏めてたものだよ

例えば中国最大の人口都市の重慶民族とかとは交流無かったよ
江南民族の明とも日本は交流無いし
594日本@名無史さん:2008/12/28(日) 09:32:04
>夏しか来てないなら「冬でも」という記述が出ない

冬に関する記述は生野菜を食べると言う事だけで、こんな事は冬まで居なくても倭人に聞くだけで済む。
595日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:00:22
日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、
これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、
強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性
が高く、邪馬台国も出雲にあったとみるのが妥当。
596日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:17:29
>>594
もっと素直に読んだら?
597日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:19:29
>>595
日本中、人は住んでいたんでしょう。行程記事との関係は?
598日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:05:59
素直に読んでたら、風俗記事が漢書地理志のパクリに気づかずに信じ込んでしまうでしょ。
雉やカササギなどの記述はあるが、渡り鳥に関する記述は無い。
使者は渡海しやすい暖かい季節に来て、暖かい季節に帰ってる。
599日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:15:52
とうとう卑弥呼の墓を発見しました。
その巨大さゆえ、宇宙からしか確認できない地球のホゾです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/ASTER_Richat.jpg/250px-ASTER_Richat.jpg
600日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:39:19
>>598
>風俗記事が漢書地理志のパクリに気づかずに信じ込んでしまうでしょ。
漢書地理志のどの部分をパクったというのですか?

>使者は渡海しやすい暖かい季節に来て、暖かい季節に帰ってる。
倭人伝が書く行程と日数を考えれば、暖かい季節に来て暖かいうちに帰る
のは難しいのでは?
601日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:03:06
>>599
地球の目
http://maps.google.com/maps?q=29.975917,31.132207&spn=0.011373,0.014484&t=k&hl=en

この中心にも親父と息子の2人だけが住んでいる。
息子の日課は20km離れた水場に水を汲みにいくことだそうだ。
602日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:21:03
三国史記の新羅本記には、倭国との関連記録が多数残っているが、倭国が
攻めてきた、あるいはやって来たというのは全て夏と春に限られている。
冬の玄界灘は荒れて危険なので、渡らなかったのだろう。

郡使にしても、やって来るのも帰るのも、秋、冬は避けたものと思われる。
死んでしまっては元も子もないわけで。
603601:2008/12/28(日) 13:23:40
>>599
地球の目
http://maps.google.com/maps?q=21.125,-11.4&spn=0.011373,0.014484&t=k&hl=en

この中心にも親父と息子の2人だけが住んでいる。
息子の日課は20km離れた水場に水を汲みにいくことだそうだ。
604日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:37:09
>倭人伝が書く行程と日数を考えれば

最大で郡から二十日の投馬
通常は十日の伊都
605日本@名無史さん:2008/12/28(日) 15:43:11
>>604
どんな読み方をしてそんな数字が出るのかな?
606日本@名無史さん:2008/12/28(日) 16:50:45
>>605これを読もう

末盧國→東松浦半島(沿岸航法により呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。

保守本流不動の九州説
607日本@名無史さん:2008/12/28(日) 17:01:31
>>599,603すごいものを見つけ出しましたね。
邪馬台国は西アフリカにあった。ということで終了ですね?
608ニワカ:2008/12/28(日) 18:07:47
>>606
たぶんそれで合ってるよ。中国の使者をまっすぐ陸路連れていくと
将来簡単に攻められる危険があるから、わざと船で遠回りしたと思う。
一月は一日の写しまちがい。か、もしくは使いを都まで連れていかず、
ウソを教えたか。まあ、たぶん前者だろうが。写しまちがいを否定する
大和論者の方位間違いの方がずっとありえない。
609日本@名無史さん:2008/12/28(日) 18:28:33
学者達が何十年もかかって結論が出ないんだからお前らに邪馬台国がどこにあるかなんて
分かる分けない。
610 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/28(日) 18:43:50
>>609
わかっちゃいましたw

それに学者ってそんなに頭良いわけじゃないよ。
昔の人なら政治力のある人で頭が特別良いというのとはちょっと違う。今の政治化もバカが多いでしょw
近代なら頭の良い人は邪馬台国なんて気にせず、まともな考古学をやってる。

あ、でもキミは分からないんだね。
611日本@名無史さん:2008/12/28(日) 18:53:52
>>609
ここまで絞り込めたら上等だろう、昔は畿内か九州かなんてやってたわけだし。
612日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:23:08
まあ基本の文献「魏志倭人伝」の読み方についてはもうとっくにアイデア出揃っているんだろうがw

2ちゃんのこの板では
「自分こそ正しく文献を介した者なり」
と我流珍読のオンパレード・・・

>610みたいにコンプリート宣言する奴は腐るほどいるという話www

だったら次はそれを裏付ける傍証物証を探せよと・・・

613日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:35:43
2ちゃんのこの板で傍証は出尽くした物証は無い。
614日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:51:13
俺が基本的に九州説に組し得ない理由としてはだ・・・

九州説の連中の言うご高説をすべて丸呑みにして
取りあえず九州の何処かに邪馬台国があったとしよう

で、30カ国のクニグニが女王を共立し魏に冊封受けたその痕跡を如何なる考古学的資料に見るのかと・・・

具体的に言えば銅鏡だと弥生末期から古墳時代にかけ九州は質量ともに低下の一途。

「岡村編年」を持ち出すと脊髄反射で噛み付いてくる奴もいるが
じゃあ正しいデータを出してみろっちゅう話w

例の「邪馬台国の会」ですら編年自体はおおむね正しく問題は実年代の設定だと言う。

が実年代をどうずらしても衰退傾向自体は変わり得ない。

「せっかく冊封受けたのに何のメリットがあったの?」
・・・とwwww

まあリアルの九州説の学者はそこら辺で苦慮しているんだろうがこの板のアームチェアデテクティブどもは
「ボクの読み方が正しい」で自己満足終了しているんだから救いようがないw

無論、素人が色々推理するのは別に悪い事ではないが専門に研究している学者の向こうをはって
「自説こそ真理なり」とわめくのは、もうアホかと馬鹿かとwwwwwwwwwww
615日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:30:15
平原の巨大鏡や平塚川添や吉野ヶ里では不満なのか?
これ以上の痕跡は畿内には無いと思うが
616 :2008/12/28(日) 20:48:46
>>614 このバカ、「東征」を知らんのか。古墳時代以前の
大和は大イナカ。鏡も鉄もほんの少量しか出てこない。
新しい鏡をよりどころにしてきたが、それが論破されると
こんどは古墳時代をじゃんじゃん繰り上げる。どうしても
おらが土地に邪馬台国、って思いたいんだろうな。その
マインドは今も大イナカ。
617日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:50:37
>>614
しかし
こちらは君の夢や妄想まで壊す気持ちは無い
妄想からある種の閃きが生じる事もある。
618日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:01:16
東征を持ち出す馬鹿がまだ存在するとはw
619日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:03:06
>>616

やっぱり出てきた東遷説wwwwwww

じゃあそれを裏付ける資料は?

文化の東進じゃなくて東征というのなら余ほど短期間の移動だよな?w

もしかして鏡を挙げるのか?
そうなら神武によって畿内に持ち込まれた鏡って何なんだよ?
内行花紋?TLV?

神話頼みの東遷説が大流行なのもこの板ではならではの珍現象wwwwwwwwwwww





620唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 21:03:12
学者達は、100年経っても 書紀一つ西暦に直せない、そして
100年以前の推定値(書紀の編年)を正しい物として恥じるところが無い。
>>616さんの言う事も尤も。
ただし古墳時代以前の大和では”鉄”は、天皇家に握られ、種と共に貸し出し品であった。
鉄も石器も出土しない空白の説明。
621日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:08:50
ちなみに神武が近畿に入ってからも金鵄やヤタガラスといった霊鳥の助けを受けるが
そう言ったモチーフは中央ユーラシアに見られるとか。

そもそも天孫降臨神話自体もモンゴルあたりに類似するものがある。

一体東征神話のどの部分が史実でどういった裏づけをもって言うのかはっきりせず
何も考えずに飛びつくのはアホ丸出しwwwwwwwwwwww
622日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:11:45
>>620  唐松山 ◆V0F34EbmQA

だったら九州説の学者も実年代出すなよって話だよwwwwwwwwww


623  :2008/12/28(日) 21:18:33
東征でも東遷でも東進でもかまわない。文化の中心地が
九州衰退と期を一にして大和へ移ったことはあきらか。
大和勢力が突然強力になり九州を滅ぼしたとでも?
それでいながら九州を父祖の地として崇めたとでも?
魏鏡は九州から多数出ておりますが?
624日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:21:08
>>621に追加

そうそう結局末弟の神武が天皇として即位したと神話は語るが
末子相続もモンゴルあたりの遊牧民に見られる習俗。

とまあ近畿に入ってからも神話の構図に満ち溢れており
神武の存在そのものも神話上の存在と見るのが易いだろう。

余ほど確たる考古学的資料でも出さない限り
史実として取り扱うのは無理w

まあこの板の東遷説論者のアホには通じない道理なのかもしれんがwwwwwwwwwwwww
625日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:38:40
東遷がどうだろうと邪馬台国の場所は九州
さらに九州内の筑後川近くが99%
626日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:39:18
>>623
>魏鏡は九州から多数出ておりますが?

具体的にどういう鏡なのかな?

そしてそれが魏鏡と断じるに足る根拠は?

例えばそれと同型のものが大陸で年代がわかる墓誌とともに出土して
確実に魏代のものと分かるとか・・・



627   :2008/12/28(日) 21:58:22
安本先生の本を読め。話はそれからだ。
628日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:15:19
>>627

はい、捨て台詞を残してトンズラ、いつものパターンだなwww

629日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:00:29
久留米付近の古地名は、御井とか三潴とかで
久留米の地名は比較的新しいものと思われます。
念のため

久留米周辺は古い遺跡や神社が多数存在しており、
何かありそうだなと感じることはありますが
はっきりといえるような決定的なものは少ないため
原住民としては、立場を中立としておきます。

何かありそうだなというポイントとして
矢部川の山から出てきた付近
大善寺周辺の遺跡
広川町の高良山側
などがあります。
630太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 23:07:59
あ〜新しい地名化か〜。わかりました。
631日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:20:54
東遷の出発点は、西アフリカです。
ここに、アンドロメダ星雲の宇宙基地があって、
猿から人類への遺伝子組み換えが行われました。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/ASTER_Richat.jpg/250px-ASTER_Richat.jpg
632日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:26:39
まあ、西晋への朝貢記録が見える266年までは邪馬台国が九州にあったとするのなら

その時代にすでに纏向が出現していたなら東遷説は物理的に無理w

さらに欠史八代を実在とし組み込もうとするのなら益々厳しい話になるwww

633日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:28:14
北九州から多数出てる鏡は漢鏡だろ?
634九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/28(日) 23:39:03
>>629
畿内の住人ですが、何度も久留米の南部地域に訪れたことがあります。
久留米の南部地域には何かがあるように思います。
美人が多いのも特徴です。
三潴(水沼)は景行紀に都の近くの地名として出てきていますし。

原住民の方に質問
矢部川の山から出てきた付近、矢部川と星野川に挟まれた、
大規模な安徳台の様な台地は何なのでしょうか?
http://maps.google.com/maps?q=33.21583,130.6133&spn=0.0011373,0.014484&t=k&hl=en
635日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:41:57
>>633

確か安本の説だと魏代にはいっても後漢時代と同じく
内行花紋やTLVが造られたと言う事だったと思う。
636日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:20:16
>634
すみません、地図を拝見させていただきましたが
私には良く分かりませんでした。

八女インターから星野村へ行くルートですね。
星野村の蛍祭りには何度か言っているはずなんですが
その時は気づきませんでした。
時間が合ったら確かめてみたいと思います。

恒例の民族大移動で、伊都国の高須神社近くへ移動する予定なので
すぐには確かめられなくてすみません
637日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:21:31
高祖神社でした。orz
638日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:38:05
久留米は筑後川の氾濫で昔から毎年遺跡が削られて何も残らんだろうな

639日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:49:08
川の氾濫で削られる遺跡ってどんだけ小さいんだよwwwwww
640日本@名無史さん:2008/12/29(月) 01:10:15
古代の集落は、川の氾濫で影響を受けるような場所には出来ないと思う。
641九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/29(月) 01:56:38
>>636

台地の平地部は現在整備された畑になっています。
第二次大戦終戦直後に開墾された畑なのでしょうか?
それとも安徳台や吉野ヶ里のように、古代遺跡の跡地が畑になったものなのでしょうか?
水利を考えると、どちらかのケースによる畑以外ではあり得ません。
642日本@名無史さん:2008/12/29(月) 07:41:05
>>635
なるほど。それで、漢代の鏡と魏代の鏡の区別方法はあるの?
643日本@名無史さん:2008/12/29(月) 09:04:53
>>614
>30カ国のクニグニが女王を共立し魏に冊封受けたその痕跡を如何なる考古学的資料に見るのかと・・・
>具体的に言えば銅鏡だと弥生末期から古墳時代にかけ九州は質量ともに低下の一途。
確かに、古墳も少ないし、古墳時代に入ると銅鏡も少ないな。しかし、おかしくないか?
大和に邪馬台国があって被支配圏に古墳を造らせたり、銅鏡をばらまいたなら北九州にもそれ相応に
そういったものがあるはずなんだよ。近畿と北九州との違いは、それが同じ権力者の支配下になかった
ことを示しているのではないかな? 北九州は3世紀以降、大きな墓を造ったり銅鏡を集めたりするこ
とに興味を持たなかった、それだけのこととも考えられるな。
北九州と畿内とが別の権力だとすれば? 北九州が邪馬台国勢力下にあったことは倭人伝により明らか。
畿内は邪馬台国勢力とは無関係の勢力と言うことになりそうだが。
644日本@名無史さん:2008/12/29(月) 09:36:45
>>614
倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。
『銅鏡だと弥生末期から古墳時代にかけ九州は質量ともに低下の一途。』なのは、
北九州の倭が大陸での戦争に国費を費やしていた為と考える。
645 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/29(月) 12:32:18
>>614
>で、30カ国のクニグニが女王を共立し魏に冊封受けたその痕跡を如何なる考古学的資料に見るのかと・・・
畿内説は結局、邪馬台国が発展し畿内ヤマト政権になったと言いたいから、
冊封受けたら発展しなければならない、と思い込んでいるのではないでしょうか?

またどのような考古学的資料があれば、その痕跡が見えると考えているのでしょう。

>無論、素人が色々推理するのは別に悪い事ではないが専門に研究している学者の向こうをはって
邪馬台国を専門に研究している学者がいるとは思えませんが、もし居たと仮定して、
飯の種としているプロの人と、ここにいる趣味でやってるアマチュアの人と、大差ないのはどういうことでしょうね。
つまり、専門に研究しているというのならば、それなりの成果を出さないといけないでしょう。
それが畿内説というのなら、普通の人が聞いてなるほど畿内だったんだろうね、と思える程度にはね。
ところがそれが出来ていないのが現状。(仮定だから居ないと思うけど)邪馬台国を20年も30年も
研究してこんななら、さっさと辞めて有望な若手に席を譲るべきでしょう。

ところで本当に学者さんが私の説を読んでくれたら、どのような感想を頂けるのか興味あるところですが♪
646日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:42:47
神武東征について。

日本書紀によると、イワレヒコ(神武天皇)は、大和で長髄彦と戦った。
長髄彦が言うには「あなたは天神の子というが、私が仕えるニギハヤヒノミコト
(饒速日命)も天神の子である。どうして、同じ天神の子同士で争わなくては
ならないのか」

ニギハヤヒの持っている弓矢を見て、イワレヒコは、
「私のものと同じ弓矢であり、ニギハヤヒは間違いなく天神の子である。
しかし、天神の子は大勢いる。」

ニギハヤヒは、天神が本当に気にかけているのは、天孫の系統である
イワレヒコであることを知っていた。そこで、ニギハヤヒは、イワレヒコに
従うことを申し出た。これが物部氏の先祖である。

これによると、神武東征の前に、饒速日命が大和に先にやってきていたことに
なっているようだ。その前には、経津主神と武甕槌神が出雲を平定している。
これが出雲の国譲り。瓊瓊杵尊は、日向に天降る。

まるで、戦国時代の織田信長が、天下統一を目指し、各地に武将を派遣した
ような印象を受ける。織田信長に相当する人物は、高皇産霊尊。
しかし、高皇産霊尊が死ぬと、武将同士で覇権争いが起きる。
その象徴的な出来事が「神武東征」のような気がする。
647日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:05:09
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648日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:56:32
>>634これは邪馬台国の宇宙基地。
>>631のミニチュア版だと思って間違いありません。
よく見つけましたね。
649九州王朝大好き:2008/12/29(月) 23:22:57

http://maps.google.com/maps?q=33.21583,130.6133&spn=0.0011373,0.014484&t=k&hl=en
は、菊池平野(狗奴國)から筑後平野(邪馬壹國)への、出口にあたる場所になります。
650日本@名無史さん:2008/12/30(火) 01:43:50
>>643
つ一貴山銚子塚,石塚山
651 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/30(火) 07:37:47
いま少し気になっているのは神籠石(神護石)。
北九州〜兵庫まで16箇所で確認されている古代の朝鮮式山城の跡で、
一般的には白村江の戦い(663年)で敗れた為に、報復を恐れて築いた山城(同時に九州大宰府を福岡平野から
現在の大宰府(大宰府跡地)に移転)と言われているのですが、これがどうも怪しい。

これだけ多くの山城を造ったにもかかわらず記紀には一切記述がなく、肝心の畿内には造られていない。
各地の神籠石を比較すると多少の違いがあり、同時に築かれたものではないと考えられる。
などなど。

で、この神籠石の分布が、神武東征で岡山までは戦わず畿内に入ってから戦っている事と符合するのではないかな、などと思っている。
とすると、(北九州を支配から)邪馬台国と同じか後継の勢力がこの神籠石の分布と一致する範囲を支配していたのではないか。

神籠石の16という数字は、伝にある倭の国30にある程度近いものを感じるが、名前だけの21国の手がかりにならないだろうか。

とはいえ神籠石を4世紀以前まで遡らせるのは難しいか・・
652美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 08:43:31
>>646
ちなみに物部氏の祖は信濃の諏訪大明神です

日出ル国ノ天子(東のニギハヤヒ)
日没ル国ノ天子(西のイワレビコ)



653九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 10:04:54
>>651
>各地の神籠石を比較すると多少の違いがあり、同時に築かれたものではないと考えられる。
>神籠石を4世紀以前まで遡らせるのは難しいか・・

朝鮮式山城の跡と神籠石は別物。
一部の神籠石は2世紀まで遡ると思われる。
654日本@名無史さん:2008/12/30(火) 10:45:29
>>615
平塚川添はともかく、
吉野ヶ里遺跡は2世紀の遺跡だし、
平原は邪馬台国じゃなくて伊都国だよ。
655日本@名無史さん:2008/12/30(火) 10:46:47
>>653
神籠石は倭の各國邑の逃げ城。
神籠石に対応した國邑が近くにあったと思う。
656日本@名無史さん:2008/12/30(火) 10:48:17
伊都国が邪馬壱国の卑弥呼(伊)の都。
657うましか:2008/12/30(火) 11:10:06
>>653

> 一部の神籠石は2世紀まで遡ると思われる。

具体的に言うと何処のことですか?
6世紀の磐井の乱くらいまでは考えられますが、
「2世紀」となるような遺物も出土するところがあるのですか?
658日本@名無史さん:2008/12/30(火) 11:14:17
>>657
何を基に6世紀の磐井の乱くらいまでと考えられるのですか?
659日本@名無史さん:2008/12/30(火) 12:13:37
数多くの神籠石があるにもかかわらず、記紀は神籠石について一言も触れていない。
記紀が編纂された時代には既に神籠石について忘れられていたか、記紀の編纂者は始めから神籠石については何も知らなかったと考えられる。
磐井の乱については日本書紀に記録が残っていて、神籠石は磐井の乱とは関係ない物である。
少なくとも神籠石は磐井の乱より数百年前のものと考える。
660日本@名無史さん:2008/12/30(火) 12:27:41
「伊」・・・霊能力を持った聖職者。
661うましか:2008/12/30(火) 13:30:02
>>658

> 何を基に6世紀の磐井の乱くらいまでと考えられるのですか?

積み石の技術です。
岩戸山と余り時代の離れなさそうな乗場古墳の石室を見ると、上限はそのころでは無いかと考えますが。
662日本@名無史さん:2008/12/30(火) 15:26:37
神籠石が防御施設であるとは思えない
労力対効果で見るとシンボル的意味だろうな、宗教的結界ではないかな
663日本@名無史さん:2008/12/30(火) 16:01:59
「労力対効果で見るとシンボル的意味だろうな」・・・意味不明な文章???
664日本@名無史さん:2008/12/30(火) 16:13:41
>>661
神籠石と似た石組みが乗場古墳の石室に見られると言うことですか?
665うましか:2008/12/30(火) 17:34:44
>>664

いいえ、石の組み方というわけではありません。
一部の後期古墳の切石式石室で行われる石組法に朝鮮式山城の石組みと同系のものがあるとのことですが、
それは7世紀くらいの話でしょう。

石室と言う空間を維持するための石組みとおそらく土壇を支える基礎となった神籠石では機能が違うと思います。
ただ、素材が自然石では無く切石であると言うところは、技術的に一致する点でしょう。

九州では、もう少し早い時期から切石(割石)工法が出現しているようですが、
磐井の乱のころならかなり普及していたのではありませんか?
もっとも、これは神籠石を軍事的施設の遺物とみなしての話ですが。
666日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:40:24
名家だと第○代とかで、歴史がある程度、語り継がれているんだけど、
なんで普通の家だといろんな歴史が語り継がれないんだろうな? 
というか、これだけ今、人口がいるのに、300年前の話でさえ、まともに話せる奴がいないんだよな。
あそこに邪馬台国があったと、親から子にちゃんと1800年引き継いでいれば、
問題なかったんだけどな。一世代30年としたら、約60代だろ?
充分伝えられると思うんだけどな。たった60人も引き継げないなんて信じられないよな。
やはり人間は愚かということなんだろうな。
667日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:48:44
卑弥呼なんて九州に居た女酋長だろ。
大和朝廷に服属していたにもかかわらず中国に対しては倭人の王だと僭称していたに過ぎない。
戦国時代の大内氏みたいな感じじゃないかな。
日本の歴史の本流とは関係ない地方の弱小勢力でしょ。
668日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:13:22
>>667
九州の女酋長が三十カ国を率いていたんだ?
一国何人ぐらいの人口がいたんだろうね。
しかも、魏へ朝貢するには壱岐、対馬などの交通の要所を
手中に収めていなければならず、
ここを手中に収めていた卑弥呼は引いては大陸や朝鮮との交易すら
手中に収めていたわけだ。
当時の倭(日本)に卑弥呼以上の王がいたのかな?
いたのならば交易の再重要地点である対馬や壱岐を
みすみす卑弥呼の使者が往来できなかっただろう。
669日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:45:11
俺の高校の時の歴史教師は邪馬台国=ジャワ島説を唱えていた。
670日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:46:05
>>665
>磐井の乱のころならかなり普及していたのではありませんか?

磐井の頃には石人、石馬が多く造られ単なる切石(割石)工法だけでなく石の加工、石細工技術も確立していたのではないでしょうか。
切石(割石)工法は磐井の乱より前に九州では普及していたと考えます。
金属器が弥生中期には入っていますから2世紀に切石があっても不思議ではない。
671九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 19:03:53
>>662
>>657
とんでもない、高良山神籠石こそ2世紀頃の山裾住民の為の退避施設だ。と思う。
今のところ2世紀を示す証拠はない。
祇園山古墳は卑彌呼の墓だと見做す視点です。
672九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 19:15:04
>>668
女酋長の二十九国の人口は100万〜150万人。

>>666
「山一」と言う単語が伝えられています。
これは「邪馬壹」のことではないでしょうか?
673九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 19:20:35
>>670
>磐井の頃には石人、石馬が多く造られ単なる切石(割石)工法だけでなく、
>石の加工、石細工技術も確立していたのではないでしょうか。
>切石(割石)工法は磐井の乱より前に九州では普及していたと考えます。
>金属器が弥生中期には入っていますから2世紀に切石があっても不思議ではない。

其の通り。賛同します。
674日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:34:35
>>672
日本人の人口は弥生時代に60万人、
古墳時代に爆発して540万人であったらしい。
これは日本中の集落遺跡から生活可能な人数を計算したもの。
それではすでに全日本人の人口を超えているのだが。

http://www.komenet.or.jp/database/culture/culture02/culture02-2.html
675日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:40:51
>>672
>女酋長の二十九国の人口は100万〜150万人。

女酋長の二十九国をどの範囲と考えておられるのでしょう?
2世紀の日本の人口は2〜300万人くらいでしょう。
内九州は5〜80万人くらいでしょう。
676日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:46:41
また出たか”九州王朝大好き”による北九州人口100万説w

倭人伝の七万戸だのの数字を真に受けて計算して
(希望的観測を通り越して妄想レベルでw)
かかる結果になるんだろうが・・・

まあ倭人伝の記事を差っぴいて考えないとえらい目にあうと言う一例だなwww
677九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 20:57:51
>>675
北部九州です。
筑紫平野、福岡平野と遠賀川流域で大部分の人口が吸収されます。
九州東海岸部(豊)、菊池平野以南と現長崎県(壱岐・対馬は除く)は含まれません。
678九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 21:04:28
>>674
先人の食料視点から人口を推定する方法が、根本的に間違っている。
679614:2008/12/30(火) 21:05:58
>>643

>>650で一貴山銚子塚,石塚山を挙げているが他に那珂八幡やら津古やらと纏向型と分類されているものが北部九州にもある。

(ちなみに石塚山の鏡は全て魏代のものと紹介されている模様wwww
 http://gazone.morrie.biz/geizyutu/bunkazai/isizukayama_kohun.html

まあ詳細な年代の確定は今後の研究を待たねばならんだろうが、北部九州の首長連合への参加は
すでに3世紀に始まっている可能性もある。

無論>643のような立場にすればそれは九州の邪馬台国が滅んだ後
仮に時代が重なっていても邪馬台国他30カ国はその連合には入っていなかった・・・と言う理屈になるんだろうが。

680614:2008/12/30(火) 21:15:14
で、結局、邪馬台国は魏に朝貢し中国の史書にもその名を残したが
国内的には、何のイベントもムーブメントも起こさずひっそり消えて逝きますた。
少なくとも今日まで考古学的資料でその存在を示す物は無く
もし魏志倭人伝がなければ誰もそんな国が九州にあったなんて考えなかったところです。

・・・なんて話もまあ成り立つっちゃあ成り立つがw

そこで
「九州邪馬台国の位置を知るにはボクのこの暗号解読ごっこの成果これをもってするしかないのです!」
・・・と言われてもねえwwwwww

ネット上にも有象無象飛び交うその中に”当たり”がある無論可能性としもゼロではないし、
ひょっとしてプロセスが間違っていても最終的に比定地が合っているなんて事もあるかも知れんがw

相当に厳しい話っすwwwwwwwwwww
681日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:27:48
>> 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y

例えば吉野ヶ里の人口が1200ぐらいって話は甕棺の数とかが算出根拠だったと思うが
周辺の集落と合わせて5000人と言う事からすれば北部九州百万とすると
単純計算で吉野ヶ里クラスが200カ国と言う話になるw

高島忠平が
「30カ国は畿内のお世話にならずとも九州で賄えます」
とばかりに「前漢書」「後漢書」の地理史や発掘された遺跡を元に地図上に○をうって
北九州のクニグニを再現したものでも流石にそんな3ケタものクニを表していないwww

一体北九州で人口百万と言うのなら一カ国の人口は最大-最小でどれぐらい、平均でどれぐらいで
クニグニの数どれぐらいを想定しているのか?

682日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:42:36
まあ、魏志倭人伝にある邪馬台国に興味引かれるのは、
その名前が「ヤマト」に似ている事なんですよね。
で、「ヤマト」と発音する地名が北部九州(山門郡や大和町など)と
奈良県(旧国名が大和)にかたよっていると。
683うましか:2008/12/30(火) 22:30:39
>>670

>金属器が弥生中期には入っていますから2世紀に切石があっても不思議ではない。

切石を造ることとそれを使って構築物を造るのは別の技術ですからね。
その当時、巨石の加工が行われていた可能性は否定しませんが、
現実に、三雲とか吉野ヶ里で、切石積の構築物が見つかってないのも事実です。

>>671

>とんでもない、高良山神籠石こそ2世紀頃の山裾住民の為の退避施設だ。と思う。
>今のところ2世紀を示す証拠はない。

「逃げ城」ですか。
防御的高地性集落で想定される一部の用途と同じなんですね。
私は2世紀となると「早すぎる」かなと思う次第です。
684日本@名無史さん:2008/12/30(火) 22:57:00
正直、「高良山神籠石」が邪馬台国論争の中で注目されたなんてのは明治時代のお話だろうに・・・


九州説って畿内説に噛み付くときにはシビアな年代観争いをしてくるんだが
自説になると相当年代観がルーズになるって印象はあるなwwwwwww
685九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 22:59:59
>>683
想定されるのは2世紀と4世紀です。
戦乱の時代です。
2世紀は倭國大乱の時。
4世紀は菊池地方の勢力(横穴式石室装飾古墳勢力)が筑後平野に進出した時。
高良山神籠石は大規模なので2世紀の倭國大乱の時期が適切と見ます。

高良山神籠石は発掘調査が全くなされていないので、今のところ時代を示す証拠はありません。
686日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:05:38
>>677
北部九州だけではさすがに無理じゃないかな。
九州全体ならば十分可能だと思うが。
687九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/30(火) 23:26:02
>>681
少なめの人口を100万人とすると、29ヶ国の平均3万人/国。平均5千戸/国。
最大の国は邪馬壹國で45万人、7万戸。
最小の国は不彌國で5千人、千家。
688日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:40:49
>>687 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y

45万人都市ってあーた・・・勘弁してくれw

で、平均ですら3万人と言うがそんなものを示す遺跡があるのか?
拠点集落でなくても周辺集落でも相当なものだと思うが?www

それとも周辺の集落も含め尽く消失してしまったとか
毎度おなじみの九州(王朝)説お得意のパターンなのかな?wwwwwwww


689日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:53:02
磐井の乱で敗れた磐井氏は関東に落ちのびて平氏になった。
茨城県坂東市岩井、このあたりです。
690日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:57:23
>>689
頭の悪い病気を今年中に治せよ。
691九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/12/31(水) 00:01:23
>>688
都市人口が45万人ではない。
領域国家邪馬壹國の人口が45万人。
ちなみに邪馬壹國の領域は北野地域と筑後平野の一部(30%位)。
不彌國は領域国家ではなく都市及びその周辺地域国家。
魏志東夷伝では、都市国家等の場合は「家」で表示、領域国家の場合は「戸」で表示している。
692日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:08:15
>>691
九州には地面に穴掘って住んでいる人食い人種の土蜘蛛がたくさんいたんだね。
693日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:13:24
石灰岩の山に横穴掘って住んでました。
694日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:23:09
>>691 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
>都市人口が45万人ではない。
>領域国家邪馬壹國の人口が45万人。

ああそうだったなw

しかしだ、それでもその中心たる集落の人口は仮に占有率が10%としても4.5万人だぞ?w

そんな集落の存在を裏付ける考古学的資料が何処にあるのかって話だよwww


695日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:36:15
仮に吉野ヶ里のモデルを使うならばだ・・・

周辺集落合わせて5000人ぐらいで吉野ヶ里遺跡自体の最盛期人口が1200人とすると
1200/5000で 拠点集落の人口はクニ全体の24%となる。

九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y による北九州人口百万人説だと平均ですら一カ国人口3万人なので
7200人の人口を擁する拠点集落が30ぐらいはある計算なのかな?w

もう吉野ヶ里レベルじゃあ拠点集落じゃなくて周辺集落がいいところ?wwwwwwwww


696日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:01:30
>695
環濠集落から通える範囲に耕作地があったんじゃないの?
そして、それが一つのクニだったと
697日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:52:59
>>691 >>694
領域国家だとか都市国家だとか妙な概念分けをしない方がいいんじゃないかな。
国家たるもの、すべて領域を有するんだよ。韓伝などを見てみな。大国は万余家、
小国は数千家などと書いている。別に戸と家とで意味がちがうとは思えんな。
一つの国家に大都市が一つしかないということではない。日本には名古屋もあれば
大阪、京都もある。同じように邪馬台国にも女王が住む都市のほかに、都市はいく
つかあったと考えるべきだ。七万余戸はそれだけ領域が広かったと考えればいいん
だ。
698日本@名無史さん:2008/12/31(水) 02:03:29
あれやこれやと回りくどい計算を色々出したけど
北九州で100万人の人口と言うのなら1万人前後の人口を抱える集落がゴロゴロしてただろう?
・・・って話なんだよw

現実そんな話は聞いたことも無いし所詮妄想レベルのお話ですよっとwww

まあこの北九州100万人説は極端としても、この板の九州説はどうしても魏志倭人伝は一言一句間違いないというスタンスを取り勝ちなんで
このようなトンデモな事を言い出す言わば自縄自縛一人SMに陥りやすいwwwwwww

無論リアルでも今日の畿内説の隆盛は原典たる魏志倭人伝から離れ過ぎだと反発する研究家もいるが
この板の九州説ほどに金科玉条としていないwww

良い例が箸墓が卑弥呼の墓か否かの論争で実年代の絶対的根拠が無い現在
魏志倭人伝を絶対視するのなら
「箸墓なんて奴婢百人の殉葬の跡が見られないので問題外」
の一言で終わる話のはずwwwwwwww
699日本@名無史さん:2008/12/31(水) 02:33:17
>>698
>「箸墓なんて奴婢百人の殉葬の跡が見られないので問題外」
それもそうかも知れないが・・・大きさが違うんだよな。だから問題外。
700日本@名無史さん:2008/12/31(水) 02:48:54
箸墓は宮内庁が管理してて、考古学者でも立ち入り禁止
ぜんぜん学術調査ができてない
どんなものが有るか無いか、さっぱり判ってない
701日本@名無史さん:2008/12/31(水) 04:46:39
>「箸墓なんて奴婢百人の殉葬の跡が見られないので問題外」
>それもそうかも知れないが・・・大きさが違うんだよな。だから問題外。

それもそうかも知れないが・・・時代が違うんだよな。だから問題外。
702 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/31(水) 08:00:01
>>674
古墳をつくるようになったから人口が爆発したのではないのだから、
むしろ稲作が広まった弥生時代に人口が増えたと考えるべきでは?
とすると古墳前期にかかる卑弥呼の時代にはすでに人口が500万に近いか、
早めに稲作が広まったと考えられる九州においては、他地域より先に
100万以上の人口に達していたと考えるのは不自然ではないのでは?
703日本@名無史さん:2008/12/31(水) 08:26:59
>>674の人口は話にならんね。倭人伝によれば、対馬千戸、壱岐三千戸、この2
島だけで2万人程度は考えなければならない。列島全体ならば少なくとも一千
万ぐらいを考えんとね。逆に言えば、遺跡というものはそれだけ残らないものだ
ということだろう。
704 ◆.L.MXSPOgc :2008/12/31(水) 08:31:33
>>680
私へのレスかな? 違うかもしれないけど。

>国内的には、何のイベントもムーブメントも起こさずひっそり消えて逝きますた。
冊封受けたら、どんなイベントやムーブメントが起こると考えられるの?
それらが起きて消えたのか、起きずに消えたのかの判断はどこでしたの?
どうも科学的な思考が出来ていないような感じを受けるのですが・・
TVのワイドショーなどでよく見受けられる感じの思考といえば分かりやすいのかな。

邪馬台国が消えたのは、記紀に何も記されていないことから分かると思うのだけど。
そうでないなら何故記紀に何も記されていないのか、考えてみてください。

それに私は暗号解読ごっこなんかしてないですよ。
私の説は(素直な)連続読みですし、方向も距離も歪めた読み方をしていません。
むしろ、この読み方のどこに無理があるのか、と聞きたいくらいです。(誰も答えないけどw)
705日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:17:39
>>704 ◆.L.MXSPOgc

まあ一番簡単なのは低下傾向にあった銅鏡の出土が3世紀に増加するとかだなw

つうかこの話、最初に銅鏡を挙げているのだから一々言わねば分からないのか?

で、一時的に増加してまた激減、そこで九州以東で急激な増加を見せれば
「ああここで機内ヤマトの勢力の伸張があったんだな」
と馬鹿でも気づくだろう?w

国内的には卑弥呼の登場を思わせる九州独自の祭祀形態の登場かな?

結局考古学的資料は要らないというのならそれでも良いが
珍読ごっこで自説が正しいと言われても困る。

「こう読める」と言うのなら文法上間違ってでもなければ完全否定はできないのだろうが
それはネット上に転がる無数の有象無象の珍説となんら変わりは無いwwwwwww


706日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:20:27
>>704
君のは確か梯儁の報告と張政の報告を合わせたのが倭人伝だということだったな。
しかし、2人がそれぞれ中途半端な報告を書いたという想定が無理なんだよ。梯儁
の報告が中途半端ならば、それを見て梯儁の誤りを正そうとした張政はまともな
報告を書いたはずだ。となれば、史家は張政の報告のみを採用するだろう。
2人とも中途半端な報告を書き、それを史家も良くみきわめずくっつけるなどという
のはしょせんトンデモ説。誰かが言ってただろ。2人の報告書でもみつけない限り
そんな想定に納得する人はおらんって。
まともに読んで問題ないものを何でそんな変な読み方をするのか、訳が分からんね。
707日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:21:58
日本の人口
700年頃・・・400万人
1200年頃・・・800万人
1700年頃・・・2500万人
2000年頃・・・12000万人
700年から1200年までの500年間に2倍
1200年から1700年までの500年間に3倍
1700年から2000年までの300年間に5倍

200年頃の人口を推定すると
500年間に1.5〜2倍程度の増加と予想
200万人から300万人と推定

708705:2008/12/31(水) 09:23:01
ちなみに先に挙げた北九州にもある「纏向型前方後円墳」には内行花紋やTLV、神獣鏡を出したものもあり

九州で一時期、威信財の銅鏡の需要が無くなったみたいな話はどうも信じられないwww

709日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:58:47
しかし本当珍読ゴッコって際限が無いと言うか・・・

例えば放射説がおkとなったら分岐点を何処に置くか?分岐を何回させるか?で色々バリエーションが出て

魏使が実際に邪馬台国に行った・行かなかった等々で更に選択肢が増えて

今度は適当な複数の報告書を適当に混ぜたとか・・・

もう好きにしてくれとwwww

まあ◆.L.MXSPOgcなんかは自説に自信満々で意気軒昂この板に乗り込んできたんだろうが・・・

ゴメンナサイ俺にはお前の説を否定する事はできません。
でも他の説も否定できません。
だから俺から見ればお前の説もこの板やネット上に腐るほどある諸説と変わりません。
ぶっちゃけワンオブゼムですっとwwwwww





710日本@名無史さん:2008/12/31(水) 10:58:01
魏使は伊都国までしか来ていない、
魏使は伊都国に常駐し卑弥呼に会っている、
魏使が卑弥呼に会った伊都国が邪馬台(壱)国の王都である。

伊都国とは卑弥呼(伊)の都のことであり、
漢字の「伊」の意味は霊能力を持った聖職者であり、卑弥呼のことを指している。

狗邪韓国と伊都国にだけ「到」が使われ、他は「至」が使われている、
「到」は目的地を示している、
狗邪韓国と伊都国が旅の目的地で他は経由地や説明。

日数で行程を説明した投馬国と邪馬台(壱)国は距離で説明した狗邪韓国と伊都国までを再説明したもの、
投馬国は朝鮮半島南部、邪馬台(壱)国は北部九州。
711日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:16:20
>日数で行程を説明した投馬国と邪馬台国は距離で説明した狗邪韓国と伊都国
>までを再説明したもの、
だったら、郡より狗邪韓国に至るには水行二十日、郡(狗邪韓国?)より邪馬
台国に至るには水行十日陸行一月と書くよな。誰だって。
712日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:19:06
>>711の訂正。
「郡(狗邪韓国?)より伊都国に至るには水行十日陸行一月」だったな。
713日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:28:52
>>707
いくら数字を書いてみたって、根拠があやふやじゃないか。
714日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:35:24
>>713
根拠の全く示されていない推定よりまし。
数学的推定。
715日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:47:14
>>712
「狗邪韓国より伊都国に至るには水行十日陸行一月」は
「狗邪韓国より伊都国に至るには水行十日陸行一日」の誤植
水行二十日、水行十日、と書いているのだから陸行一月なら陸行三十日、
四十日も有り得るのだから陸行一月の書き方はまずい。
716日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:52:13
そもそも
700年頃・・・400万人
1200年頃・・・800万人
というのが根拠がないんだよ。だから、それからいくら数字を引き出しても
しょせん根拠にはならん。
717日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:07:42
そのくらいの人口の頃のほうが住みやすかったでしょうね。
今は人口多すぎて困ります。
718日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:24:44
>>714
私ならば次のようなことを考えるな。
@ 韓国は約10万平方キロ  韓伝によれば、馬韓10余万戸、弁・辰韓45万戸
  で合計55万余戸。
A 九州約4万平方キロ 倭人伝によれば、明記されているのが15万戸。旁国を入
  れておよそ20万戸か。
韓国と九州の人口密度を同じくらいと考えれば丁度の数字だ。
北九州だけで20万戸というのは多すぎる。列島全体とすれば20万戸というのは少
なすぎる。 
719日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:32:00
>>716
一応文献が残ってる時代ですから、
多くの先人が出してる推定値の平均的なものを使いました。
720日本@名無史さん:2008/12/31(水) 12:42:45
畿内暗黒史観では日本列島の200年頃の人口は6〜70万人、
大変遅れた社会だったとなる。

九州王朝史観では日本列島の200年頃の人口は300万人くらい、
文字もあり文化的にも高かったとなる。
721日本@名無史さん:2008/12/31(水) 13:01:30
>>715
何時までも自分の主観でもの語るなよ。な!
誤植だって?そりゃアンタの都合であって、刊本には一月とはっきりと刻まれている。
一月と刻まれているものを一日に変えて語るなら、オカルト板にスレ立てしろやな!
壹を臺に変えたい奴も同じだ。
722日本@名無史さん:2008/12/31(水) 13:48:18
一字一句変えては為らないと言う方がオカルトだと思うけど・・・
723日本@名無史さん:2008/12/31(水) 14:20:04
>>720
200年頃に九州には地面に穴掘って住んでいる土蜘蛛が300万人もいたのか。
724日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:05:06
邪馬台国は、どこにあったか?
「奈良県桜井市の纏向にあった。」結論が出たので2008年めでたく終了。
それでは皆さん、よいお年を。
725日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:21:22
桜井市w
726日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:31:17
>>722
先人達が刻んだ痕跡を、現代人が弄り回し、歴史を歪曲する事は出来ない。
一月と刻まれたのが歴史であり、一日と弄るのは歴史ではない。

先人達が刻んだ一月という歴史を冒涜してはならない。
歴史は、言い伝え或は書物にて伝えられたものだけだ。
訂正してはならない。
727日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:37:56
あれ、ここオカルト板だっけ?
728日本@名無史さん:2008/12/31(水) 16:05:49
>>722
一字一句変えてはならんとは言えないだろうが、変えるからにはそれなりの合理的
理由がないとな。ただ、都合が悪いというだけでは駄目だ。
729日本@名無史さん:2008/12/31(水) 16:09:58
>>728の続き
>水行二十日、水行十日、と書いているのだから陸行一月なら陸行三十日、
>四十日も有り得るのだから陸行一月の書き方はまずい。
>>715は上のように書いているが、とても合理的理由とはいえない。屁理屈だ。
730日本@名無史さん:2008/12/31(水) 16:26:10
月→日の改訂は駄目だね
だが壹→臺はすこし違う。邪馬壹は疑う理由がある
731日本@名無史さん:2008/12/31(水) 16:33:06
>>729
漢籍では十日、二十日、三十日、四十日は普通に使われている。
二十日や十日の後に陸行一月には違和感がり、東大の白鳥先生も陸行一月は陸行一日の誤りではないかと指摘されている。
一支國を一大國と書くなど誤りがないとは言えない。
732日本@名無史さん:2008/12/31(水) 17:33:54
>>731
違和感って、歴史を直感でやってるの?
で、東大の白鳥が刊本を編纂したのか?

>>730
同じだよ
例外はない。刊本に臺と書かれているのか?
733日本@名無史さん:2008/12/31(水) 17:54:54
>>728

> 一字一句変えてはならんとは言えないだろうが、変えるからにはそれなりの合理的
> 理由がないとな。ただ、都合が悪いというだけでは駄目だ。

貴方、>>721かな?
だとしたら、話にならんわ。
「壹を臺に変えたい奴も同じだ。」とか宣まっている以上、
貴方の言う「合理的理由」とやらは世間一般の用法とは違う、いや、少なくとも俺とは全く異なる。
俺からみたら「合理的理由がない」=「都合が悪い」としか見えない。
734日本@名無史さん:2008/12/31(水) 17:59:15
>>732

> 例外はない。刊本に臺と書かれているのか?

じゃ聞くが、狗邪韓國と一大國の間に書かれている國の名前は「刊本」には何と書いてある?
正確に答えてくれ。
735日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:10:42
女三國 一大國 一月←これは明らかな写し間違い

南を東と読み畿内に一月歩く←バカ
736日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:15:07
>>733
721と728が同じに見えるか?
737日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:24:11
>>732
後漢書、隋書は「邪馬臺」だ。刊本にだぞ。
とくに隋書は「則魏志所謂邪馬臺者也」となっていて、魏志の字句を引く形だ。
刊本の字はそのまま信じろ、では、互いに矛盾をきたしてしまう。
738日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:31:39
>>731
>漢籍では十日、二十日、三十日、四十日は普通に使われている。
>二十日や十日の後に陸行一月には違和感があり、
この理由が屁理屈だって言ってるんだよ。一日を一月と書き誤ることがあるかも
知れないとは言われてるが、あなたみたいな理由を挙げてる学者は誰かいるか?
十日、二十日の次に三十日になったら一月と言い表すことはよくあるじゃないか?
特に違和感なんぞないんだよ。
739日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:37:40
>>738
用例として二十日や十日の後に陸行一月がこないこともないが珍しい。
通常は十日、二十日の次は三十日。
740日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:41:12
壹か臺かの問題はとりあえず置いとけ
陸行一月か一日が当面の問題
おれは「一月」派
地理的に解釈するのが難しくても勝手に「一日」に変えてはいかん
741日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:42:43
>>739
で、それを理由とする学者はみつかったかな?
742日本@名無史さん:2008/12/31(水) 20:47:11
池■田大■作の本名はソン・テチャク。小泉純一郎、小沢一朗は朝鮮人。
911では小型の水爆が使用されている。
http://ri■ch■ardkosh■im■izu.at.webry.info/
創価の保険金殺人事件。
オウム事件は、統一・創価.北朝鮮の共同犯行である。CIAが監修している。
http://www15.ocn.ne.jp/~oy■ako■don/kok_web■site/ir■iguc■hi.htm
与党も野党もメディアも全部朝鮮人だった。
http://jb■bs.li■vedo■or.jp/b■bs/read.cgi/news/20■92/115794■1306/

2ちゃんねるは統一■教会が個人情報を集めるための道具。運営には統一■教会がいる。
駅前で「手相を見せてください」と勧誘してるのが統一教■会。(カルト宗教)  
カルト宗教の下にいる人と上にいる奴を分けて考えないといけない。下にいる利用される人は上がどんなことをしてるか知らない。

ユダヤ権力の子分→2ちゃん運営=統一協会上層部=層化上層部=自民党清和会=野党の朝鮮人ハーフの政治家=
与党の朝鮮人ハーフの政治家=金 正日(キム・ジョンイル )=読売サンケイ=小沢十朗
ユダヤ人=ロックフェラー=ブッシュ=クリントン=ヒラリー=アドルフ・ヒトラー=オサマ・ビンラディン

毎日新聞スレを荒らしてる奴らも統■一教会の可能性が高い。
荒らしは洗脳するために「ネトウヨ」などのレッテル付けレスを何千回もする。
現実には「ネトウヨ」などは存在しない。
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1230363385/
743日本@名無史さん:2009/01/01(木) 04:51:32
ちょっとした疑問なんだけど、陸行一月説ってひと月何日で考えてる?

使が実際行ったのなら、ギ(携帯では変換出来なかった)の暦のひと月なんだろうけど、使がそこまで行かないで倭人の言ったことを記してるのなら倭の暦上のひと月ってことだよね。

太い人の言うように倍歴や3倍歴が本当なら、当然ひと月30日で計算してるのとは、距離も倍以上違ってくると思うんだけど、陸行一月説を採用している方はそこらへんどのように考えてるのかな。
744日本@名無史さん:2009/01/01(木) 08:02:04
倍暦とか3倍暦とかは妄想にすぎんね。我が国は中国の文化を取り入れてきた国。
中国とまったく違った暦など、使用するはずはない。
1月は大の月(30日)と小の月(29日)があるが、30日と考えて問題はないと思うね。
745日本@名無史さん:2009/01/01(木) 08:39:20
>>734
紹興刊本→對馬國

紹煕刊本→對海國

それがどうした?
746日本@名無史さん:2009/01/01(木) 08:43:49
>>737

刊本=紹興本、紹煕本
を便宜上刊本と言っただけな


「謂」と書いてあるだろ
見落とすなよ
747日本@名無史さん:2009/01/01(木) 08:54:00
>>739
あなたは用例と言っているが、水行十日陸行一月の用例として
どのような用例と比較し
述べているのか?

それに、他の漢籍には
水行十日陸行三十日と書かれていて、倭人伝に書かれている水行十日陸行一月は珍しいパターンなのか?
748日本@名無史さん:2009/01/01(木) 09:15:24
>>746
だから何だっていうのかな?
749 【大凶】 【1128円】 :2009/01/01(木) 09:32:12
>>746

> 刊本=紹興本、紹煕本
> を便宜上刊本と言っただけな

で、両者が「馬」「海」と表記が違う理由は何だと思うの?

> 「謂」と書いてあるだろ
> 見落とすなよ

何が言いたいのか・・・意味がわからん。
750日本@名無史さん:2009/01/01(木) 09:35:21
三國志 魏書では
卷25
楊阜
異復與昂保祁山 為超所圍 三十日救兵到 乃解

卷27
王基
軍宜速進據南頓 南頓有大邸閣 計足軍人四十日糧

卷29
硃建平
三十日日昃 請紀綱大吏設酒

三國志 魏書では一月のパターンは珍しい。
751【ピョン吉】【999999円】:2009/01/01(木) 10:45:07
>>750

「1日」のパターンも少ないのでは?
752太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/01(木) 11:37:20
>>743
卑弥呼の国とかが倍暦を行使していたかどうかは定かではない。
先に卑弥呼の国の倍暦を否定してる方がいるにはいる。しかし彼ら
は倍暦をやってなかったという論拠が薄弱であって、最初から倍暦
はないという先入観で否定してるのが大半だろう。だからそういう奴
に取り付かれず、分からないという立場で研究するのが今のところ
冷静妥当な考え。いちおう通常の暦法だったろうという立場が安全
といえば安全だが、はっきりはしてないから否定もしないほうが
安全ブレーキが効く者。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/01(木) 11:46:08
>>744
中国の文化が入ってたことは確かだが、暦法においては仏伝の頃
に中国の暦法が日本に大々的となったというのが妥当な考えだ。
その前にも少しはそういう気配があって日本にも希少にもありえ
たことは言える(ウジノワキイラツコのころ大陸の学を彼が学んで
いる)が、暦の大きな改革なんぞ佛伝からだ。
だから佛伝前は5月なんぞ凶事の記事が殆どで希少だが、仏教伝来
のころからはそれに関わらず5月の記事がすごく多くなってるし、
紀も5月完成なのもそれを物語っている。佛伝前は大陸の暦法より
も少しは関係してるだろうが、朝廷が独自に決め込んでたんだよ。
倍暦が無いとかいうオマエは経験が薄いところからありえないと
恣意的に結論づけたオマエの妄想なわけ。
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/01(木) 12:04:07
>>744
じゃぁ、 ↓ これはなぜ1〜14日(2週間)までしか無いの?

【欠史八代の立太子、即位、立后、崩御等の日数統計表】

1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0

これは当時1ヶ月が月上半分の14日間しかなかったからだよ。今も
2月は30日の記録がないのも、30日が無いからだぜ。
755日本@名無史さん:2009/01/01(木) 12:48:18
>>749
海と馬の違いは、編纂者の業の違いであり
表現の違い。
刊本といえども、単なる原本丸写しではないという証拠にもなる
しいてあげれば、紹興本は紹煕本に比べ 編纂者の個性を表面に出した作品であり、紹煕本の方が
陳寿の作品に近いかな

理由はめんどくさいから
ここでは語らない。
ま、その一つが「對馬」と書かれているところ
三世紀に「對馬」の表現は有り得ないからね

>謂

漢字を上辺だけでなく、穴のあくほど調べてみたらわかるよ
756日本@名無史さん:2009/01/01(木) 12:51:43
>>750
水行十日陸行三十日と書かれてある用例を
出してくれと言ってるの

他のものでは比較にならないだろう。
757日本@名無史さん:2009/01/01(木) 15:04:50
>>755

> 海と馬の違いは、編纂者の業の違いであり表現の違い。
> 刊本といえども、単なる原本丸写しではないという証拠にもなる
> しいてあげれば、紹興本は紹煕本に比べ 編纂者の個性を表面に出した作品であり、紹煕本の方が
> 陳寿の作品に近いかな

ハァ、オカルトの世界の住人さんであることがよくわかる文章ですね。

> 理由はめんどくさいから
> ここでは語らない。

理由の「最新作」は未だ完成していないんですね。

> ま、その一つが「對馬」と書かれているところ
> 三世紀に「對馬」の表現は有り得ないからね

何でさー

> >謂
> 漢字を上辺だけでなく、穴のあくほど調べてみたらわかるよ

穴のあくほど調べると「則魏志所謂邪馬臺者也」の「臺」の字が変わるのですか?
穴が空いちゃったのは貴方の脳の方じゃないんですか?
あー、もともと空っぽでしたねw
758九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/01(木) 15:45:13
>>755
>海と馬の違いは、編纂者の業の違いであり表現の違い。

よく理解できる。やはり補足説明は面倒だね。
「對海」が古い表記で、「對馬」は時代がかなり下ってからの表記だね。
「委」「倭」「壹」と「臺」「大倭」「俀」「堆」のことを思い起こさせる。

しかし、
>「謂」と書いてあるだろ  見落とすなよ
>漢字を上辺だけでなく、穴のあくほど調べてみたらわかるよ

上記は全く意味不明



もしかして>>746>>755は「河童蟲」か???
759日本@名無史さん:2009/01/01(木) 15:49:13
>>758

> もしかして>>746>>755は「河童蟲」か???

って・・・・判りきったことをw
760うましか:2009/01/01(木) 16:20:51
>>758

> 「對海」が古い表記で、「對馬」は時代がかなり下ってから

しかし、三国史に先行すると言われる魏略(翰苑引用所載)でも「對馬」と表記されてますよ。
「海」の方が古いと言うのは「?」ですが。
761日本@名無史さん:2009/01/01(木) 16:50:15
>>756
水行、陸行とかめったにない。
用例として日数を三十日、四十日とか表現するのが普通の表現であることが分かれば十分だ。
762日本@名無史さん:2009/01/01(木) 17:13:13
>>761
漢文はよう分からんが、下の一月は日数を表したものでは?
三國志 魏書 卷29 華佗
病若在腸中,便斷腸湔洗,縫腹膏摩,四五日差,不痛。人亦不自寤,一月之間,即平复矣。

763九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/01(木) 17:18:23
>>760
翰苑に引用されている魏略も「馬」に書き換えられたものでしょう。
魏略のコピー本が書かれる段階で。
764日本@名無史さん:2009/01/01(木) 17:59:37
>>763
書き換えられたとするには、書き換える行為に至る
何らかの理由がひつようです。
對馬と書かれている書は對馬で、對海と書かれている書は對海です。
それぞれの書は
編纂者が異なるのですから、表現に違いがあって当然です。
765日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:08:43
>>760
魏略は逸文、しかも「魏略曰」で残る
原文としては扱えない、後世解釈
翰苑の編纂者の意向が色濃く反映される性質。
魏略はストレートには扱えません。
766うましか:2009/01/01(木) 18:21:44
>>763

> 翰苑に引用されている魏略も「馬」に書き換えられたものでしょう。
> 魏略のコピー本が書かれる段階で。

翰苑を著した張楚金も7世紀後葉の人です。
そのころまでには「馬」本が成立していて「海本」と並存していたと言うことですね。
じゃ、後漢書が成立した5世紀、隋書が成立した7世紀まで、
「臺」本三国志が残っていて、それが後継書に採用されたということと同じような考え方ですね。
767日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:22:32
>>763
そうですね
魏略の原本が書かれた三世紀には對馬は存在しません。
魏略曰とし、翰苑に記載された当時
編纂者の意向として掲載されました。

だから「魏略曰」
768日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:29:38
>>765
紹興本、紹煕本などはしょせん12世紀ころの写し。翰苑は7世紀ころの写し。
となれば、その翰苑の残巻(これも写しだが)に「對馬」とあることの意味は大きい。

769うましか:2009/01/01(木) 18:32:36
>>765

> 原文としては扱えない、後世解釈

「引用」と言えば、普通は原文を「ストレート」に持ってくるものです。
原文改変が行われていると考える「理由」が「引用」だからでは、
「理由」としてあげる必要すらない「理由」ですね。
と言うことで書き込みの意図自体が理解できない。
770日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:33:22
>>767
「魏略曰」の意味が分かってるのかな?魏略にはこう書いてあるというだけだよ。

771日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:37:22
>>768
しょせん写しなら、尚更きちょうです。
皆が求めているのが
しょせん写しですから
772日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:41:27
>>769

>普通。

基準を何処に置いて「特別」「普通」を使いわけていますか?
人それぞれに基準が存在しますので、貴方の普通が
私の普通とは違う事もある。
普通に基準を添えてテーブルにお出し下さい。
773日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:44:57
>>772
因縁をつけようってだけの話だな。
774日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:52:05
>>770
わかっているから書いてます。
775日本@名無史さん:2009/01/01(木) 19:18:12
>>773
あれを因縁と受け止めるようだと、相当なお子チャマレベル。
とても話しになりません。
今年も発展性無し
堂々巡り確定の赤ランプ
776うましか:2009/01/01(木) 19:43:38
>>772

> 基準を何処に置いて「特別」「普通」を使いわけていますか?
> 人それぞれに基準が存在しますので、貴方の普通が
> 私の普通とは違う事もある。

当然そうです。
貴方の「引用」に対する定義が私達と全く違うように。

> 普通に基準を添えてテーブルにお出し下さい。

今、ここで私が使う「普通」の定義を言えば「貴方以外の全て」くらいの意味でしょうか?

貴方の「引用」に対する定義はおそらく、私が「普通」に言うところの「注記」に近いと思います。
「引用」とは、「普通」の用法で言えば、原文をそのまま引いてきて用いることです。
引用文に明らかな誤字や用外が有ったとしても、その部分にママと傍書してそのまま用います。
修正して用いる場合は引用者が校正したことを明かにするのがルールです。

つまり、引用自体に「編纂者の意向が色濃く反映される」ような「性質」はありません。
引用文の文字列の正否についての話題で、わざわざ「編纂者の意向が反映される」と言うからには、
「普通」には文字列の改変(文字の置き換え、文章の切り貼り)以外には無いでしょう。
そして翰苑でそれが行われていると主張するなら、「引用だから信用できない」では無くて、
「引用者自体が信用できない」と言う「理由」でなくてはなりません。
それが「普通」の人が使う日本語でしょう。
777日本@名無史さん:2009/01/01(木) 20:45:20
>>776
それは普通の日本語ということで締め括られていますが、
話題は古漢文であり、中味に触れねば日本語としての解釈は出来ませんから
貴方の言う論理が当て嵌まるかどうか
甚だ疑問です。
少なくとも、和文を引用する場合は
それでいいかも知れませんが、漢語文の引用には
全てが有効に効果するか?漢語文を和語に変換するというクッションが入りますから

ましてや翰苑に掲載された魏略は逸文であり、曰ですから

曰には、文字を原文そのまま写し取ると言う意味はありません。
だから「いわく」
と訓じられた。所謂
778九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/01(木) 21:12:18

「對海國」は、シナ人の目若しくは半島人の目から見た半島の南方の対海にある国を、シナ人が名づけたもの。

「對馬國」は、倭語の「つしま」を聞いて、シナ人が名づけたもの。

古いのは「對海國」で新しいのは「對馬國」。

倭語は「對嶋」である。「津嶋」ではないと思う。
実際の対馬は2つの島(ついしま)ではなく1つの島であり続けたのだけれど。
779日本@名無史さん:2009/01/01(木) 21:16:22
「こんな大きな国が朝貢にきた」という自慢の記録だから、
大国に見せるために行程や戸数が誇大になるのは当然のこと。
780うましか:2009/01/01(木) 22:21:42
>>777

どうぞ、ご自由に論じてください。
このたびは「稀有」な御意見を拝聴させていただきました。
今後、貴方の言質については、一切関知いたしません。
どうもありがとうございました。
781うましか:2009/01/01(木) 22:31:37
>>778

> 「對海國」は、シナ人の目若しくは半島人の目から見た半島の南方の対海にある国を、シナ人が名づけたもの。

確かに倭地の表記は、原則として中国側が決めたものだから倭音に基づかないネーミングも有りでしょうね。
侏儒國、裸國、黒齒國と同じような例ですね。
でも、私は「對海國」と言うネーミングだと、海に対する国なのだから、
逆に海に面する半島側の国にこそ相応しいかと思います。
782日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:59:14
個人的に魏志倭人伝の行程記事の解釈にはあまり興味が無いので

(まあ、この板では暴論ともいえるであろう事は自覚しているw
 ほとんどの人間にとって行程記事の解釈こそアンコウで言えばアン肝みたいなもんだろうしwwwww)

一度前から聞いてみたかったんだが倭人伝に見える「持衰」というやつ。
あれは古代日本独自のものなのか?
他民族に類似するものは見ることはできないのか?

>>400の森浩一と井沢の対談でも出てきたが卑弥呼が(クナ国との衝突の責任を問われて)殺された
・・・ってのはその昔、松本清張も言ってたとか
その根拠のひとつが「持衰」だったはず。

今日の日本に残る習俗にその名残が見えるものがあったっけ?

まあ似たような物として無理矢理挙げれば身代わり地蔵とか流し雛のような厭魅(えんみ)の思想?
(まあオカルトはよく知らんがw)

783日本@名無史さん:2009/01/02(金) 01:35:21
>>782

持衰、後の切腹
784782:2009/01/02(金) 01:48:51
まあもし「持衰」が海外に見られて日本で見られないとなれば
その前後の風俗記事をもって
「倭人伝に書かれている***の風俗は九州だ!」
と言っている九州説論者はゴクロウサンでしたと言うことになって面白そうではあるがwwwwwww
785日本@名無史さん:2009/01/02(金) 02:49:40
>「對馬國」は、倭語の「つしま」を聞いて・・・
読みは「つま」だろうな、端っこの国という意味
さつま、あづま も遠国をさす
786日本@名無史さん:2009/01/02(金) 02:56:58
狭端(さづま):狭まった端っこの土地、吾妻(あがつま):太陽の上る「あがり」+つま 
787日本@名無史さん:2009/01/02(金) 06:09:21
つま自体が行き詰まった場所の意味。
そこから中央から見て辺境を指す。
あづまは、あちら側の辺境、
さつまはこちら側の辺境。
薩摩が体制内辺境で、東が体制外辺境ってこと。
鹿児島大学の原口教授の説ね。
788日本@名無史さん:2009/01/02(金) 07:34:34
さつまなどの地名を誰がつけたのかが問題だな。さつまの人間が自分たちを
辺境などと名付けるはずはないからな。
それに、結局決め手はないわけで、あれこれ言っても妄想とさほど変わらんな。
789 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/02(金) 07:49:08
あけおめ♪

>>705
引用は避けるがそこから分かるのは、貴方の「冊封を受けたら古墳の銅鏡の枚数が増える」という仮定が間違いだ、ということですよ。
何が間違いになるのか、よく分からずに書かれていませんか。考古学的資料云々以前に科学とか科学的思考に欠けていますよ。

>「こう読める」と言うのなら文法上間違ってでもなければ完全否定はできないのだろうが
>それはネット上に転がる無数の有象無象の珍説となんら変わりは無いwwwwwww
あなたの判断にどれほど価値があると思われているのか知りませんが、理解できないからどれも同じと言われているのと同じようなものですね。
790 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/02(金) 08:02:24
あけおめ♪

>>706
>2人がそれぞれ中途半端な報告を書いたという想定が無理なんだよ
なにをして中途半端という判断が出てくるのか。私は十分ありえそうなシナリオとして、梯儁は国々の官名と国の特徴、
それら同士の方位と郡から女王国までの里程を書いたのではないかと考えているが、
この報告が中途半端でありえないようなものだ、といえるものではないでしょう。

>それを見て梯儁の誤りを正そうとした張政はまともな報告を書いたはずだ。
何をもって誤りと判断できるのか、分かっていないのではないでしょうか。
学校のお勉強(答えの用意された問題)しか知らないという感じがしてならないのですが。

>まともに読んで問題ないものを何でそんな変な読み方をするのか
まともに読んだら問題だらけなのですが、それが分かっていないことに驚きました。
791日本@名無史さん:2009/01/02(金) 08:04:38
>>754
都合のよいものだけを選ばないで、記紀が書いている全ての月日を調べたら
どうなるんだ?

>>753
>佛伝前は大陸の暦法よりも少しは関係してるだろうが、朝廷が独自に決め込
>んでたんだよ。
魏の使者がきたときに、妙な暦を使ってたらそのことが記されるはずだろが。
倭人伝にはそんな記載はまったくないよな。


792日本@名無史さん:2009/01/02(金) 08:16:51
>>789 ◆.L.MXSPOgc

ん?

別に銅鏡だけに拘らないぞ。

九州に邪馬台国があった事、その蓋然性を示す物証を挙げてくればw

それらを挙げずに

「ボクの読み方だとこうなります」

・・・って言われてもねえw

それがお前の言う”科学的思考”なのかい?wwwwwww


793 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/02(金) 08:17:54
>>709
>自説に自信満々で意気軒昂この板に乗り込んできたんだろうが・・・
半分当たり半分間違いかな。もともとは自スレを立てたんだよ、1年半前に。それはともかく、その時想定していたのは、
「そんな説は○○がウン年前にもう唱えている」といった話がでるか、「お前の説では○○はどう解釈するのか(あるいは
解釈できない・矛盾する)」という反論があるか、といったことだったのだけど、蓋を開けると何もなしw 肩透かしを喰らった感じ。

私としては、自分の説をベースにもっと問題点をさらってもらい、改善できたら良いなという期待もあったのですけどね。

でもって半年前に、すこし修正をしたのでドン来いスレに書き始めた。けどやはり何の指摘もなしは変わらないw そんなところです。

腐るほどある諸説に突っ込みいれるのは、そのほうが理解が深まると思っているところもあるのだけど、
すこし突くと逃げたり切れたりしてすぐに話が終わってしまいます。

ところで、何もできないらしい貴方はなぜこのスレに来てるのですか?
794日本@名無史さん:2009/01/02(金) 08:21:19
>>789 ◆.L.MXSPOgc

あ、そうだ、科学的云々で言うと似非科学って言うのは得てして反証不可能なことが多いんだよw

お前のご高説やネット上に無数に転がっている暗号解読ゴッコの成果もしかりwww
795 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/02(金) 08:21:39
>>754
例えば、月の前半の陽の日を恣意的に選んで記述してある、という解釈はどうでしょう。

というかスレ違いですねw
796 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/02(金) 08:30:32
>>782
「持衰」の記事自体は倭人からの伝聞情報ですからね。
例えば人が半分流されたとしたら、半分助かったのはワシが祈ったお陰だ、とか言って実際に殺されたりしないのかも知れない。

そもそも天候の悪くない日を選んで渡れば「南北市糴」しているところなのだから、まず遭難したりということは考え難い。
どちらかというと船乗りさん等がよくつく大ホラの話の1つに近いのではないかと思うのですが、どうでしょう。
797日本@名無史さん:2009/01/02(金) 08:39:17
>>793 ◆.L.MXSPOgc

つうかだなはっきり言えば、お前の期待したような反論が無いと言うのは
もうそこから先は ”平行線” と言うことだと思うぞ?

「こう読める、こう読みます」って言われればもうそこから先進めようが無い。

邪馬台国論争の歴史を俯瞰すれば読み方に対するアイデアが出てきて
比定地を絞り込むどころか益々拡散している感がある。
(特に戦後の邪馬台国ブームで加速したか?)

だったら実際に考古学の示す3世紀4世紀の日本の姿に照らし合わせてみよう
・・・と言うのが今日の邪馬台国に関する流れだろうと思っている。

798日本@名無史さん:2009/01/02(金) 09:28:34
>>790
>なにをして中途半端という判断が出てくるのか。
不弥国までは進行に従って方角と距離が書いてあるだろ。投馬国や邪馬台国について
書いてないとすれば、それは中途半端。

>何をもって誤りと判断できるのか、分かっていないのではないでしょうか。
張政が梯儁の報告を誤りと考えるかどうかだよ。正しいとみるならば、張政は行程は
記載しないはず(同じことを書いても仕方がないからな)、間違えていると判断すれ
ばそのことを指摘して正しいルートを記載するはずだ。

>まともに読んだら問題だらけなのですがそれが分かっていないことに驚きました。
どこが? まともな読み方を教えてやるよ。
799太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 15:43:38
>>791
オマエにとっては都合が悪いということだよ。ww
つまりそれがしの論がおかしくない文証だ。
800太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 15:44:46
>>791
魏の使者はもっぱら九州の卑弥呼の女王国のほうが関心だろうが。w
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 15:51:14
>>795
天皇の死んだ日が全部月前半になるのか? あんたの親以前の先祖
さまは、みな月前半に死んだのかね?w
人間の死は暗殺、自殺とか以外自然現象であって、死ぬ日は決め
られっこない。つまり八代間は日は1日〜14日の2週間しかなかっ
たのさ。まさか全部が月前半に暗殺自殺となったとは考えにくいだろ
うがねぇ?ww
802日本@名無史さん:2009/01/02(金) 15:57:28
                           
★韓国の首都名・「ソウル」は古代日本語か。

韓国の首都は「ソウル」という名前だが、韓国人はソウルの語源が分からないという。
中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明だそうだ。

この「ソウル」は、実は古代半島の南部=カラに住んでいた倭人たちの言葉ではないか。
つまり、古代日本語ではないだろうか。
おそらく、「ソウル」とはソ・ウラ(曾浦)の意味であろう。
ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という
意味の言葉である。
ウラ(浦)は日本語で「海辺」の意味である。
ようするに、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部(馬韓)に住んでいた倭人たちが、
京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたのだろう。
半島南部の倭人が滅びた後も、ソウラという呼称は使われ続け、ソウルと訛って、
今に至っている・・・これが真実であろう。
韓国の首都名が日本語であるという事実は驚くべきことだが、古代倭人文明の残像が、
今の韓国にも残っているということなのだ。

今のイタリアに、異民族・ローマ人が残した古代文明遺跡が残っているようなものだ。

803日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:28:22
>>801
欠史八代の死亡日を決めた編纂者がたまたま月前半が好きだったんだろ。
どうせ資料があっての話ではないさ。
804日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:34:31
>>802
>ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という
>意味の言葉である。
この考え方は、曾と名付けたのは曾を遠い所だと考えた人々ということになるな。
しかし、地名というのは、その地に住んでいる人々がつけるんだろ。「ここは曾だ」ってね。
「遠くの」なんて意味はまず考えられないな。
805日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:54:07
百歩おろか百億歩譲って、仮に欠史八代間を>>801で犬国が言っている事を根拠に倍暦を使用したとしても
仁徳あたりまで続く異常な長寿の説明にはなり得ないw

まあ倍暦の存在の可能性を示すのに一番都合の良い事柄なんだろうが
如何せん欠史八大間に限定されてしまうのが逆にネックだなwww


806日本@名無史さん:2009/01/02(金) 19:31:43
>>804
ソウルの地に住んでいた漢人たちは、その地を「帯方郡」と呼んだんじゃないか。

あくまでも、南部の倭人、馬韓の倭人たちの呼び方なんじゃないの。
ソウラは。


807日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:13:36
>>792 >>797
ところで、君は魏志倭人伝にある邪馬台国はどこにあったと思っているのだね?
808日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:04:46
>>807
畿内、大和奈良盆地一帯及び大和川流域全体ですが何か?

まだ纏向の性格を見極めなければならないからねw
事によったら後世、5世紀のように宮と墳墓が大和と河内に別々になっていた
・・・なんて可能性も視野に入れておく必要があると思っているwwwww

809日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:12:41
>>808
う〜ん。ちょっと尋ねたいんだけど、古事記にある神々が高天原から舞い降りた
とされる高千穂の峰はどこにあったと思われますか?
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 21:46:53
>>803
死亡日は決めるんじゃぁないんだよ。これは自然現象なわけ。オマエ
の墓も調べてごらん。決めてるんて〜のは自殺等以外無いんだよ。w
当時各月のうち15日以降が無として、1ヶ月を14日の2週間で
やってたからだよ。

イカサマをやるには相当の利害がなけりゃぁ、やる必要はな〜い。

いまも2月30日に死ぬ奴なんかいやしない。2/30とかいう日に死ん
だのを今他の日に好きだから命日をズラしたとかはありえるわけ
がなく、そんなことは聞いたことがな〜い。つまり2/30という日は
古代のそのころの15日以後がなかったように、現代ではない日
なわけだよ。
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 21:48:33
>>805 ジョーカー
もうすでに日本史板で、これでもかと言うほど説明したよ。オマエ
読んでなかったのか?
812808:2009/01/02(金) 21:53:27
>>809
それはね、みんなの心の中にあるんだよw

高天原自体が元々フィクションとして考えられたもので
後から人々が実際の地を重ね合わせそれが九州だったり奈良の御所市だったり色々と・・・

高天原から舞い降りた?
ニニギはパラシュートで降下でもしたのかい?w

ご免ね、夢の無い事を言っちゃってwwwwwwwww



813日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:56:34
日本書紀 卷第三 ~武天皇 四年春二月 壬戌朔甲申
これは、2月23日じゃないですかね?
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:15:31
>>813
とうとうそれを言い出したか。お見事!
天皇の死に関しては3倍暦らしい。だから八代間は全部天皇は上旬
で崩御している。ところが他の重要記事は1日〜14日までしか記事
がないんだよ。重要っていうのは崩御を外して立太子、即位、立后
とかだ。そのほかの記事は下旬があったようなのだ。それは
日野郡誌では孝靈天皇の后が4/21に崩御してるから下旬の記事な
わけで、直接重要な天皇の即位等の記事を外れると、こういう下旬
の記事があるわけ。つまり当時3倍暦と2倍暦、さらに通常の暦法
も並行して行使してたんだよ。重要記事は1日〜14日までしかない。
立后はかように14日までだが、后の崩御では下旬があるわけ。
単一の暦法行使ではなかったということ。倍暦を兼ねて重要の
次となると通常暦をも副次的に行使していたということだ。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:24:30
欠史八代間は ↓ こんな並行三重暦法だったらしい。

天皇の崩御記事     全部月上旬→3倍暦
他の即位等重要記事  全部月前半→2倍暦
それ以外の記事     月まるまる→通常暦
816日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:30:49
>>810
日本書紀の編纂者らが適当に決めただけさ。その証拠に古事記と合わんじゃないか?

>>814
何が何でも天皇の年を半分にしたいってだけの場当たり的説明。
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:34:50
>>813
それ、八代間の記事ではなく、神武の代の記事であり、神武は即位
以後は1ヶ月が1月〜4月までしかない1年四ヶ月での暦法を編ん
でたのだ。この間は八代間と違い、四ヶ月それぞれ下旬まで丸々
使用していたということ。しかし5月以後の月はなかったのだ。
神武即位後、崩御までは下旬まで丸々使っての四ヶ月で1年を終え
たのだ。だから3倍暦をやってたんだよ。しかし神武崩御直後、次代
の綏は3倍暦が不便なので即位を待たず通常暦法に戻したのだ。
だから神武崩御後の即位前、神武葬は1〜4月でない9月という
通常暦での月に執り行っている。

要は、神武の代の3倍暦と八代間の3倍暦法とはやり方が違うのだよ。
818日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:39:19
>>817
くだらないことをごちゃごちゃ言うより、記録のなかった古い時代のことは
中国に馬鹿にされないよう適当に日を決めて書いただけだと言ったらどうだ?
819太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:42:34
>>816
古事記は稗田阿礼の記憶のものからだし、このように三重暦法の
並行行使とかでいくつも同一事象に対し日があったから混線して
古来の暦日が眩惑されて不正確に至ったのだ。
日本書紀の場合は単に一個の古文書からできたのではなく、当時
多数の古文書があって、その中から最も安全、信用度の高い文面を
選んで吟味検討から採用したものだから、古事記よりも信用度は
大である。自動車企業が旧車の欠陥を改めて新車を造り便利度が
増して行くように、当時紀の編者は記を読んでたはずだから、記の
誤を改訂し真を追究したもので紀は充分信用おける。もちろん記も
参考にはなるから、おろそかにはできない。
820太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:47:16
>>818
だったら>>754のようになにも数字を左より14日に収めて、右を0
行進させる必要などなく、1日〜30日まで漫然と配置するはず
だぜ。表の左寄りのこだわる必要性はない。つまりオマエの即興
の妄説だな。wwwww
821日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:49:57
>>819
>三重暦法の並行行使とかでいくつも同一事象に対し日があったから混線して
>古来の暦日が眩惑されて不正確に至ったのだ。
じゃ、その三つの歴法とやらのどれかで、古事記は説明できるんだな?
説明して貰おうじゃないか。
822太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:50:03
>>816
場当たり的ではないぜ。そのため日野郡誌の皇后崩御の下旬記事を
前から見つけて研究している。
823日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:58:46
誰か『岩波日本史辞典』を持ってない?

その付表に古代の年中行事を書いたものがあると思うんだが
(自分の手元にはそれを抜粋したものしかないんで・・・)

それに記されている「政務」「祭祀」は月の前半に集中しているw

(「中丑」「下寅」とか言うのはあるが日数を指定しているものはほぼ前半に集中)

欠史八代で月前半に集中していると言うのも別に驚くに当たらないwwwwwwwwwwww

824太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 22:59:43
>>821
だから古事記は稗田阿礼の脳内の記憶であり、そこに書かれて
ある崩年干支はいくつかの情報から得たものだろう。それも先述
のとおり各混線があり整然としていない嫌いがある。
しかしどうやら崇神の崩年戊寅は信用度が高く、倍暦からの
紀年計算だと1年のズレであり、非常に正確だということが判明
する。

古事記のからは

 崇神天皇崩御=258年(戊寅)

日本書紀からの倍暦換算では

 崇神天皇崩御=259年

を得ている。しかしその他の記の同干支はかなり正確なものあろう
も、倍暦計算とは多少干支が離れているのである。だからいまの
ところ崇神とは別物として、まぁ参考までに留まる。

記の崇神の崩年干支の258年説は、各研究家の間で支持者がけっこう
いるんだよ。つまりそれがしの倍暦計算はどうやら正確だと想える。
825日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:02:11
>>814
立太子、即位、立后は人為的な日程だから根拠にはならない。
翌年の吉日を選んでスケジュール調整した結果だから。
まあ、崩御の日が8人連続で上旬に集中する確率は1/256だから
ちょっとあり得ないと考えるのは分かるが。
そもそも、当時は太陽暦使ってたんじゃないの?
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:03:32
>>823 ジョーカー
それでは八代の天皇が全員月上旬に死んでることの説明が
できない。死は自殺、暗殺とか以外上旬に全部集まるなどとは
考えられない。つまりオマエの反論は成立しない。
ツマるところ、オマエの盲象だな。wwwwwwwwwww

なんならオマエの先祖全員は上旬に全部死んでるのか?wwwwww
827犬の字をかわいくしてみますたwwww:2009/01/02(金) 23:09:03
>>826 ▼・ェ・▼国

分からん馬鹿だなこの馬鹿▼・ェ・▼はw

だから欠史八代を創作した時
(まあ個々にモデルみたいなものはあったのかもしれんが)
にそう言う習慣が繁栄されたって話だよw
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:09:43
>>825
それは即位等の数字はそれがしの説での完全たる根拠とはイマイチ
だろうが、相当理由にはなりうる。それも死亡に関してはオマエの
言い分は通らない。つまり当時は倍暦を行使してたのさ。

それを強引に死亡を恣意的にしたと言うなら誰かさんが言って
たように、カラスは黒いを〜カラスは黒く塗られていたとかにスリ
換える即興のデタラメ抗弁だと云ってよい。
829日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:11:58
>>824
古事記の崇神天皇崩御戊寅を258と読む根拠は何もないだろ。
そのぐらいにしたら都合がよいというだけのいいかげんな説だ。
830日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:12:20
>>812
天孫が、高天原から降臨したのが日向の高千穂ではなくて、大和の三輪山あたり
だったら、畿内説にも都合が良かったんだろうけどね。
831日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:13:36
欠史八代の天皇など存在しない。もちろん古墳も存在しない。
神武天皇と崇神天皇は同一人物であるから神武天皇も存在しない。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:13:43
>>827
それはオマエが「創作だ」と創作したのであり、オマエが津田病に
罹っているのだということだ。wwwwwwwwwww
八代くらい創作したって大陸の三皇五帝にも追いつわけが
な〜〜い。wwwwwww つまりオマエの酔象。wwwwww
833太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:16:18
>>831
それはオマエのK−20の読みすぎ観すぎなわけだよ。

まるで 二十面相=某人 としたようなことが 神武=崇神
というこっけいな妄説なわけ。www
834日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:19:21
>>830
別にそんな事はどうでもいいw

神話は神話、歴史は歴史。

自分たちの神話上の始祖を象徴的な遠方の地に設定するなんざあ珍しい話でもあるまいにw

835日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:23:50
>>812
>高天原から舞い降りた?
>ニニギはパラシュートで降下でもしたのかい?w

そのとおり。神々とはいえ、人なのだから空から舞い降りてくるわけがない。
神々は高千穂の峰に「登った」と考えるべきだろうね。
で、高千穂の峰に登った神々は東にある日向へ向かう。
と言う事は、神々は古郷高天原は高千穂の西にあると考えるのが自然だろう。
ちなみに日向ではコノハナサクヤ姫を娶るわけで、このかたは神武天皇のご先祖様
らしい。陵も宮内庁管轄とか?
836太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:25:51
>>829
そうじゃないと合わないよ。あとは318年説くらいしかない。
余の倍暦計算を殆ど合致している。それだよ〜正解は。

なんで△が大陸から出ないのか? 500枚全部が卑弥呼の鏡で
ないからだよ。崇神の崩御年から逆算で同即位年が求まる。

 崇神即位元年=237年=景初元年

だよ。そして 景初3年=239年 の前年の238年が崇神天皇の鏡の摸
の同床共殿の年だ。(紀での崇神六年=238年 となる)
だから500枚の鏡は卑弥呼のではなく、崇神のこの策からの当時の
畿内住民への右へならえ式による鏡の祭祀による鏡なわけだ。
つまりこれで卑弥呼紀無い説は妄想だということが分かるもので
あり、編年は非常に重要なのだ。w

大分時間が来たから次回に〜〜〜。

ZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 23:28:26
>>836
スマン。それだよ〜正解は→は、318年でなくて258年説のほうだよ。

お休み〜zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
838日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:42:40
>>835
コノハナサクヤ姫の陵?

女狭穂塚の事か?
無論内部の調査はできないんだろうが普通に見て4世紀以降だろ?普通www
(Wikiで見たら5世紀前半とあったが・・・)

神武のご先祖様?

神話は神話として区別しようよwwwwwwwwwww



839日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:14:15
男狭穂塚古墳はニニギノミコトの墓で、女狭穂塚古墳はコノハナサクヤヒメ
の墓とされ、共に陵墓参考地で宮内庁の管轄となっている。
調査はもちろん、立ち入ることも出来ない。

ところが、ニニギノミコトの墓は、鹿児島県薩摩川内市に、可愛山陵として
ちゃんとある。墓が二つもあるというのはちょっとおかしい。

ところで、男狭穂塚と女狭穂塚は一年に一度くらい公開される。監視がけっこう
厳しいらしいが、中に入ることが出来る。しかし、聞くところによると、
それは男狭穂塚のほうだけで、女狭穂塚には入ることが出来ないらしい。

宮内庁は、男狭穂塚よりも女狭穂塚のほうを重視しているらしい。
840日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:26:25
ちなみに、日向三代の御陵は、すべて鹿児島県にある。
これは、指定されたのが明治初期のことなので、薩摩藩の政治力がものを言った
のだろうと言われる。

そういうわけで、正式な可愛山陵は鹿児島県にあるが、西都原の男狭穂塚古墳が
陵墓参考地となった。しかし、可愛山陵はもう一つある。宮崎県北部の北川町
にある古墳がそれで、ここは最後まで鹿児島県と陵墓を争ったらしい。
結局、負けたのだが、ここの古墳は、「御陵伝承地」とされている。
841日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:27:26
>>812
>>835
>ニニギはパラシュートで降下でもしたのかい?w

天の羽衣だろ、帆布のことだよ
天の鳥船というのが、そもそも帆船
風を巧みに利用して鳥のように速く船を走らせる技術は、
丸太の手漕ぎ舟しか知らない民にとっては、神がかった技術
842日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:31:18
>>839
>ところが、ニニギノミコトの墓は、鹿児島県薩摩川内市に、可愛山陵として
>ちゃんとある。墓が二つもあるというのはちょっとおかしい。

別におかしくともなんとも無いのでは?w

元々天孫降臨神話は霧島にもあって、言わば天孫降臨の舞台の「本家争い」をしてるんだしw

フィクションを元にした曖昧なお話だから仕方が無い?wwwwwwwwwww
843日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:40:53
>>842
宮内庁が二つ、あるいは三つの場所をニニギノミコトの墓としているのが
おかしいと言っているわけで。
844日本@名無史さん:2009/01/03(土) 07:43:21
>>836
>そうじゃないと合わないよ。あとは318年説くらいしかない。
言ったとおりだな >>829  そんなことだから、古事記が何を書いてるか分からんのだ。
紀元前43説もあるんだよ→「邪馬台国の暗号」(安田 哲也) それを読めば、倍暦
なんてくだらないこと言わなくなるかもな。
845日本@名無史さん:2009/01/03(土) 08:22:09
>>834
最早津田史学に価値はないよ。
あれは記紀を全肯定する事が強要されていたあの時代だからこそ
価値があった。

こんな言葉を知ってるかい。
「その説を簡単に全肯定してはならない。
その説に嘘が多い場合がある。
その説を簡単に全否定してもならない。
その説に真実が存在する可能性がある。
従って、その説は厳密に検証しなければならない。
「その説」を「日本神話に置き換えると
簡単に全肯定してたのが皇国史観、
全否定してるのが津田史学。
ようはどちらも学問的でないのには違いないわけだ。
846日本@名無史さん:2009/01/03(土) 09:26:32
>>845

折角のご高説だが・・・

正直分かり切った様な事を今更言われてもねえ・・・ってのが正直なところだなw

確かに神話の中に事実があることもあるだろう。
だからと言って全てを事実として取り扱ってたら身が持ちませんってだけの話だよwww

要はその分野の学問の取り扱える範疇・カテゴリーの問題。

津田史学がどーたらこーーたらなんて関係ない。
歴史として語りたけりゃそれなりのネタを持ってきなさいってただそれだけの話。
話はそれからだとwww

単に仮説だけならヤマト王家は九州に縁も縁も無いからこそ九州を天孫降臨の地にした・・・なんてことも言える。

(周りに東大京大卒業者がウジャウジャいるのに東大京大卒の学歴詐称をする馬鹿はいない。
 越・近江からやってきた継体朝にとって始祖が大和の外から来たというのは都合がよかったのかもしれん
 尚この話はあくまでテキトーなので突っ込みいれてきてもスルーするからなw)

他にも無数のストーリーができるだろう、きりが無いよwww

まあ、邪馬台国論争が一定の人気を博するのは、そう言った神話をごっちゃ混ぜにできそうなニッチ(?)があると言うのも一因だろうなw



847846:2009/01/03(土) 09:39:33
>>845
ついでに

まあ津田史学云々はよく犬国のアホに言われるんだが

少なくとも俺は
「記紀神話が全て出鱈目」
と言った覚えは無いw

逆に>845は相手をカテゴライズするに手っ取り早いから
津田史学って言葉を持ち出していないかい?wwwwwwwwww
848日本@名無史さん:2009/01/03(土) 10:09:40
>>835
高千穂の峰は高祖山。
筑紫の日向は福岡県の日向峠付近です。
もともとは九州邪馬台(壱)国の神話であろう。
849日本@名無史さん:2009/01/03(土) 10:24:48
>>762
月単独や年と月なら使われている。
日と月が混じって使われるのは極めてまれ。
850日本@名無史さん:2009/01/03(土) 10:46:21
>>849
一連の文章の中に日の表示もあるよ。
851太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/03(土) 11:05:07
>>844
くだらなくはないよ。オマエそんなら>>754の表を見てみろ。右半分
が全部0だ。表は1日〜14日までしかない。これは当時1ヶ月が
14日間の2週間しかなかったんだよ。
たとえば1900年代の記録を見れば、ことごとくが2月においては
30日が無い。これは1900年代の当時は2月が29日までしか無かっ
たからだよ。つまり1900年代の20世紀時は2月が29日までの日付で
カレンダーを編んでたというのが正である。同様に古代の当時も
1ヶ月が14日までで15日以降は存在しなかったということが正だ。

1ヶ月が月上半分のみということは、八代間当時の暦では1ヶ月が
現今の半月だった時期があったということだ。つまり2倍暦法を行使
していたということなのだ。
852日本@名無史さん:2009/01/03(土) 11:55:27
>>819
>古事記は稗田阿礼の記憶のものからだし、

違うだろ。
稗田阿礼は、大和朝廷に仕える歴史学者であり、古文書管理部の部長だろうが。
紀元前1世紀頃から写本されながら朝廷に伝えられてきた歴史文書を読み、
それを元に上代の歴史を研究するのが、稗田阿礼の仕事だったんだろうが。
現在の大学における歴史学部の教授みたいなもんだよ、稗田阿礼の職業はな。




853太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/03(土) 11:58:09
稗田阿礼の古文書の職がどこに明示されてるのかね? それが説明
されてない?
854日本@名無史さん:2009/01/03(土) 12:34:46
                          
古事記の編纂事業に参加した稗田阿礼は、歴史文書を読むとそれを簡単に記憶したと
伝えられているから、もともと歴史学の専門家だったんだろうね。


855日本@名無史さん:2009/01/03(土) 12:40:12
>>850
文章としては全然別でしょ、つながっていない。
4〜5日と約一月。


一月とか十日と書いてあるが約一月、約十日のことと考えられる、
仮に誤差一割とすると、
十日は9〜11日のこと、
十日単位で考えるから、
二十日は19日〜21日のこと、
三十日は29日〜31日のこと、
しかし一月は27〜33日のこと、
一月≠三十日となる。
普通の人は日と月は混ぜない。

856日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:00:25
>>855
一月とか十日と書いてあるのは、約一月、約十日のことと考えられる、
仮に誤差一割とすると、
十日は9〜11日のこと、
二十日は18日〜22日のこと、
三十日は27日〜33日のこと、
そして一月は27〜33日のこと、
一月=三十日となる。
普通の人は上のように考える。
857日本@名無史さん:2009/01/03(土) 18:47:07
>>855
>文章としては全然別でしょ、つながっていない。
別の文章? 全部つながってますよ。
念のため、訳してみてくれます?
あなたの例文も訳してくれるとありがたいのですが。
858 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/03(土) 22:33:01
>>792
>別に銅鏡だけに拘らないぞ。
>九州に邪馬台国があった事、その蓋然性を示す物証を挙げてくればw
それは考古学者の仕事と考えています。私はその様なことをしていないし、するつもりも今のところありません。
今回も言い出したのは貴方で、それを返したらすぐに逃げるのですね。

>>794 >>797
あと何か勘違いしてるようですが、私の比定地は筑後川下流域で、九州説としては王道といえる場所です。
比定地が拡散してる云々は私には関係ないのですが・・
それから私の説に関してなんら反論がないのは、平行線とは違いますよ。1本しか線がないようなものです。

>だったら実際に考古学の示す3世紀4世紀の日本の姿に照らし合わせてみよう
>・・・と言うのが今日の邪馬台国に関する流れだろうと思っている。
邪馬台国というのは予算獲得に便利な武器なのです。今の考古学で邪馬台国というのはそのようなポジションと見るべきです。
本気で畿内とかいっている学者は1人か2人か、むしろ居ないのではないでしょうか。


他のレスを読んで感じたのですが、科学的思考と科学を盲信することを混同していませんか?
859 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/03(土) 22:40:58
>>801
私へのレスでしたかw
死んだのか葬式やったのか、いつ死んだかよく分からないから適当な日にちをあてたか。
適当なら縁起の悪い日を当てたりはしないと考えられる。
という意味。
私にはまだあまり興味のない内容なので倍暦・3倍暦の話は専用スレでやっていただきたいが、
単純な結果に飛びつく前に広く可能性を考えてみることは必要でしょ♪

860 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/03(土) 22:50:05
>>798
ズレてますよ。
1、中途半端云々は私の説を分かっていないように見えます。
2、間違えていると判断すれば、ではなく、どうしたら間違えだと判断できるのか?という話ですよ。

>まともな読み方を教えてやるよ。
教えてください♪ もったいぶらなくても早く書いてくださって結構でしたのに。
でも最低でも、伊都国・奴国が前原・福岡(定説)なら方角が45度のずれ、定説でないなら金印の説明。
それと不彌国以降の行程が里程ではなく日数で書かれていることの説明。
まともというなら、これくらいはお願いしますね♪
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/03(土) 22:50:59
>>859
専用スレ〜? ダッタラからんでくるな。反論できないならオマエ
の論は根拠がうすいとしか観ないぜ。w
862日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:10:43
>>858 ◆.L.MXSPOgc
>邪馬台国というのは予算獲得に便利な武器なのです。
>今の考古学で邪馬台国というのはそのようなポジションと見るべきです。

出た出たw
陰謀論と変わらない香ばしいアホなやつがwww

「邪馬台国」の看板出せば予算獲得に便利って言うのは本職の考古学者が言っているのかい?w

ソースと言うか実際に、近年「邪馬台国」と言う口説き文句で予算を獲得した事例を挙げてくれ!

俺なんか素人でよく分からないんだが今時「邪馬台国」がそんな力を持っているとは思えないんだがwwwwww

第一仮にそのような形で予算を獲得しても邪馬台国に繋がるようなものが発掘できなければ
持続的な予算獲得ができないだろうに・・・

畿内説=金儲けの為の宣伝材料 ・・・なんてのはサイキバ君はじめこの板ではイタイ九州説論者のデフォだがwwwwwwwww



863日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:34:00
>>858
畿内は
邪馬台国に頼らなくても、
歴史的遺物は至る所にあるのですよ。
だから予算の心配は無用です。
その上で、畿内が最有力だとされているのです。
仕方がないのです。
大和に実際に大王がいて、朝廷を開いているのですから。
邪馬台衰退説が九州で
逆が畿内説。

それにしても
九州ではそれしか無いために必死なの?
やはり村興しなの?
864862:2009/01/03(土) 23:37:37
蛇足も蛇足だが・・・

正直、邪馬台国をネタに金を稼いだのは九州説だろう?

松本清張以後のブームに乗っかって出された本やコミックにいたるまで
最近じゃあ映画の「幻の邪馬台国」も一応主人公は九州説だしw

無論、九州説に基づいて書かれた本が市井で売れた事が何も攻められるような事ではないし
学問を象牙の塔の住人の占有物の如くにしてしまうような権威主義は唾棄すべきところではあるwww

だから俺は少なくとも自分から「九州説は金儲け」なんてレベルの話は言ったことは無いが
散々邪馬台国ブームの時に稼いだ九州説に「畿内説は金儲け」云々言われるのはチャンチャラおかしいですよとwwwwwwwww

まあサガミハラ先生はブームに乗り遅れたってところでせうか?wwwwwwwwwww

865太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/03(土) 23:40:52
>>863
記紀に女王は推古の時代までありゃせんよ。紀無い節は妄想。w

ZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
866日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:46:28
>>865
祖神はアマテラスですが、何か?
867日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:44:08
788 名前: サガミハラハラ 投稿日: 2009/01/03(土) 21:15:22
角田彰男著 邪馬台国五文字の謎 p202より
津田はそれに応えて言った。
「僕は、この朝、史学界の倭人伝研究の動向を史学研究室の友人に聞いてみた。その友人は、こう教えてくれた。
『倭人伝の撰者、陳寿は、正確さを保つために幾つかの史料を文脈に合わないまま、途中挿入した形跡があります。
たとえば、里程と日数、倭国と邪馬台国、倭王と倭の女王などの出てくる文です。解読に当たっては、その部分をどう解釈するか、が問題になります。すると様々な解釈が
可能となり、邪馬台国の候補地が乱立し収集がつかなくなるわけです。どれが正しいのかの証明は、他の同時代の文献がなく容易ではありません。

ここでダイじなことは、陳寿の参考にした資料は(巷間噂されているように)一つや二つだけ(魏使の報告書、魏略)ではないということである。
868日本@名無史さん:2009/01/04(日) 01:01:14
◆.L.MXSPOgc の説ってどんなかんじなの?
誰か三行ぐらいでおながい...
869日本@名無史さん:2009/01/04(日) 01:49:51
>>868
邪馬壱国と書いているところを見ると、九州王朝説の系統なのかな。
梯儁ルート、張政ルートとか出てくると、文献の解釈というよりも、想像力の
世界のような気がする。正直なところ理解出来ない。
870日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:51:01
だいたい本人に説明能力がないんだよ。
871日本@名無史さん:2009/01/04(日) 09:12:53
>>860
1 あなたの説はどうだったっけ? 梯儁の報告書には方角がなかった、張政の
 報告書には国名がなかった、そんな中途半端な説だったと思うが。ちがってい
 るというなら具体的に説明してくれ。
2 あなたはどう考えるのかな。私は張政が間違っていると考えれば、二つ目の
 行程を書くであろう、そうでなければ書かないであろう、そこが重要だといって
 いるわけだが。あなたが自分の考えを書かなければ、何を考えているのかこちら
 は良く分からんのだよ。
872日本@名無史さん:2009/01/04(日) 09:25:22
>>860
ただしい行程の読み方は、以下のとおり。
一支国までは問題ないだろ。韓国内陸行とか妙なことは言わん。倭国の始まりは
狗邪韓国ではなく、対馬。
末盧国は唐津。船で行けるところは行く。陸行距離は短くするはず。壱岐から千
里とある。これらを総合すれば、唐津とみるのが妥当。
伊都国は怡土ではない。怡土では方角、距離が合わない。唐津上陸も理解できない。
また、倭人伝は放射式で書かれているが怡土では放射式が意味をなさない。
玄界灘沿岸では南水行もできない。よって、倭人伝どおりに東南に進み佐賀付近を
伊都国に比定する。金印とかいうが、各国の面積を広く考えるんだよ。伊都国は怡土
付近から背振山地を越えて佐賀平野まで広がっていた。奴国は福岡平野から有明海
沿岸まで広がっていたとね。金印が出たところは奴国の領域の中、問題ないだろ。
ただし、倭人伝が伝える奴国=奴国王の居所は筑後川左岸城島あたり。不弥国は吉野
ヶ里あたりに比定する。はい、ここまでで質問あればどうぞ。
873日本@名無史さん:2009/01/04(日) 09:35:07
>>872の続き。
佐賀大和から水行20日で投馬国だ。当時の人口集中地は大きな河川のまわり
のはずだから、候補地は川内川のある薩摩川内か万之瀬川のある加世田付近と
なる。しかし、加世田の方は平野が小さい。やはり5万戸の中心地となれば川
内だろ。そこが投馬国に比定できる。後の薩摩国府の所、邪馬台国時代にそれ
なりに栄えていたとみて何も不思議はない。

水行20日の投馬国が川内となれば、水行10日の地点は佐賀から川内までの
ちょうど半分の八代あたりのはず。水行十日陸行1月はどう読むか。榎は水行
十日又は陸行1月と読んだが、水行十日で行けるならば誰でも水行で楽に行く
はずで、苦労して陸行1月で行く者がいるとは思えない。だから、水行10日
+陸行1月のはずだ。そして、水行十日で上陸し陸行する以上、それは水行で
は行きにくい所だ。となれば、上陸地点から内陸に入っていくはず。しかし、
全体としては南を外してはいけいない。となれば、球磨川沿いに登っていき日
向に入ると考えられる。小林市か都城盆地あたりが邪馬台国だよ。

不弥国から先が日数で書かれているのは、里数が良く分からなかったから。
有明海などは日に数時間しか進めない、潮流で押し戻されたりする。しばしば
上陸もする。距離は分かりにくいことになる。
八代からの陸行も同様。山登りみたいな道だ、時間から距離に換算するのは困
難だ。だから、日数で表示している。したがって、万二千里を邪馬台国までの
距離とみるのもまちがい。使者らは邪馬台国までの里数は良く分かってない。
874日本@名無史さん:2009/01/04(日) 09:35:32
>>872
>倭国の始まりは狗邪韓国ではなく、対馬。

何をもって狗邪韓国が倭国でないと断定してるの?
875 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/04(日) 10:19:34
>>862
予算獲得というのは少しはしょりすぎた言い方だったか。ただども学問分野もいろいろやりたいが予算が無いというところがあるのです。
だから啓蒙活動をして人々の関心を集めたりするのは、そういう部分も少なからずあるのだけど、大学いったことない人には分かりにくいのかもね。

私は、考古学者は邪馬台国なんてまともに研究対象としていないのだろう、といっているのですが、
それを畿内論者は、なんでもかんでも邪馬台国に結び付けているのが現状でしょう、あなたのように。
876 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/04(日) 10:32:22
>>871
梯儁の報告書には各国間の里程はなかった、全工程は万二千余里。
張政の報告書には国名がなかったのは梯儁の報告書ですでに分かっていたからか、張政の報告書自体に
国名を間違えて記述されていたのかもしれない。末盧国から唐津から南東500里、南東100里、東100里で邪馬台国。
というのは私が勝手に考えたシナリオで、現実はどうだったか分からない。
が、2つの別のルートが1つのルートとして書かれた為、よくわからない行程記事になっている、というのが私の考え。

>私は張政が間違っていると考えれば、
何度も書くが、その「間違っている」という判断はどうやってするものなのか考えてみろ、といっているのですよ。
877日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:32:45
>>874
倭人は帯方の東南大海の中にあり。朝鮮半島にあるとは書いてない。
戸数等の説明も対馬から始まっている。
倭の北岸は倭の北の対岸という意味。倭の領域ということではない。
倭と接すは韓の海と倭の海が接っしているというだけのこと。
878日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:54:04
>梯儁の報告書には各国間の里程はなかった、〜張政の報告書には国名がなかった
これを中途半端な報告書と言わずして何というかな?
そして、上のような報告書はまず考えられないんだよ。行程を表示する方法は基本
的に方角と距離、この二つだ。梯儁がその基本的な距離を表示しなかったはずはない。
張政の報告書にしても然り。方角距離を書きながら、国名を記さなかったとか誤記した
という想定は無理がある。国名を書かないならば、東南五百里、東南百里は、東南六百
里と書けばすむことだ。間違った国名を書いてあるならば、史家はそのことに気づかず、
その国名をそのまま史書に書いたはずだ。

>「間違っている」という判断はどうやってするものなのか
梯儁の書いた行程と自分が進む行程との比較だね。あなたは張政が梯儁の報告書を見た
とは限らないというのかも知れないが、倭国を訪ねる以上、そのぐらいは見ているだろう。
仮に見ていないとしても、だからといって、張政の報告書が中途半端なものだったという
想定はできないよ。

879日本@名無史さん:2009/01/04(日) 12:58:22
>>872
>各国の面積を広く考えるんだよ。

・・・例えば須玖なら出土する鋳型やさまざまな銅製品やガラス製品により工業力の中心が福岡平野にあった事を物語り
三韓系土器や漢鏡の出土は交易の中心もそこにあった事を物語る(まあわざわざ有明の方に持っていくのがおかしいがw)
加えて墳墓とかを考えるなら王の居城のみを「筑後川左岸城島あたり」に持っていくのはあまりに奇妙奇天烈w

(めんどいので略すが伊都国についても似たようなものw)

恐らく考古学的資料ってやつに色気を出した結果なんだろうがw
奴国や伊都国の範囲についてそのような解釈は他で見た記憶が無いwwwwwwwwwwwwww
880日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:27:48
>>879
工業地帯や墓場の近くに王の居城があったと考えることが問題だな。そんな所は
住みよい所ではない。家の近くに墓を、なんてのは、下々の者が考えることだ。
王にとって、墓参りは「国見」の機会であるし、示威の機会でもある。自分の居
城から遠い所に設けるんじゃないか? それに王の居所は一つには限らん。領内
の何カ所かに館をもっていたら? 魏の使者が来たっていうんで、近いところへ
行って接待したということだってあるかもよ。

だいたい、倭人は〜旧百余国〜今使訳通じる所三十国だ。倭人が全体で三十国なんだ
からその配置を考えないとな。北九州だけで三十とかいうのは間違いなんだよ。
中国人は本州のことを知らなかったということは考えられるが、少なくとも九州全体
で三十国を配置する、それで空白地帯はほとんどないはずなんだ。

>奴国や伊都国の範囲についてそのような解釈は他で見た記憶が無い
だから皆、邪馬台国がどこか分からんのだよ。みんなが間違っていると考えれば簡単に
分かるんだよ。 
881日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:30:19
ある時は、書いてないといって否定し、
ある時は、東を南といい、
ある時は、計百歩は直径だといい、
まったく自分に都合のいい解釈ばかりで笑ってしまう。
そういうことを続けると、信用をなくす。
882九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/04(日) 13:36:19
>>876
>末盧国から唐津から南東500里、南東100里、東100里で邪馬台国。

ココは素直に読んでいない。読み間違い。
「至奴國」と「行至不彌國」の違いを確認しましょう。

末盧国から唐津から南東500里、東100里で女王國(不彌國)。
且つ、末盧国から唐津から南東500里、東南100里で女王國(奴國)。

不彌國でトータル距離が12,000餘里。
奴國でトータル距離が12,000餘里。

女王國でもトータル距離が12,000餘里。
883日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:42:41
>>880
つってもだな・・・
現実問題として工房や墳墓をそこまで隔絶した距離に置いた事例が
弥生末期の他の遺跡に無い以上その想定はかなり無理があると言わざるを得ないw

もはやその「王の居所」とやらが発掘されない限り無理w
(まあ環濠集落よりは豪族居館の方がこの場合似つかわしい気がするが・・・)

余計なお世話かもしれんが三雲や須玖といった遺跡はもう切り離した方がいいんでないかい?www




884日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:51:43
>三雲や須玖といった遺跡はもう切り離した方がいいんでないかい?
結びつけてるわけではない。こだわらんだけだよ。要するに、墓なんぞは何とでも
考えられるということ。だいたい、伊都国、奴国の歴代の王を数えたら何人いる?
そして、王の墓らしきものは幾つみつかってる? ほとんどの墓は見つかってない
ということだろ。筑後川左岸にだって王の墓は幾つかあるんじゃないか?そのうち
見つかるかも知れんな。
885日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:16:08
墓の場合は、盗掘されているかいないかがけっこう大きい。
盗掘されていればなかったのと同じで、ほとんど無視される。
逆に盗掘されずに出てくれば、脚光を浴びる。

エジプトに王家の谷というのがあって、60以上の王の墓があるらしい。
しかし、たった一つを除いてすべて盗掘されていた。
たった一つというのがツタンカーメンの墓なのだが。
886日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:52:27
張政は邪馬台国と狗奴国の休戦調停に日本の九州へ来た。ちょうど、その時に
大和で卑弥呼が崩御して後継者争いで内戦になった。張政は急いで大和に行った
ので経由する国は観察する暇がなかった。だから詳細を書くことが出来なかった。
887日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:54:47
古墳なんか残っている方が珍しいんじゃないか、
切り崩されて田んぼになったり、
中世には城に利用されたり、
金印も古墳から出土したらしいが壊されたのか古墳の跡形もない。
888太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 16:14:15
>>866
アマテラス〜? ソレは女王じゃあるまいがね。w
アマテラスが卑弥呼だとなると、前者の生存は神武以前だということ
になり、239年が神武以前だということになる。そうなると神武以後
の各天皇の在位期間がスシ詰めになるわけで、不合理はミエミエだと
いうことになる。だから卑弥呼はアマテラスではない。
889日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:15:05
>>885 >>887
そのとおり、ほとんどの墓はなくなったでしょう。もちろん、未発見のものも
まだ少しはあるでしょうが。
ですから、僅かに残った墓にこだわるのは間違いの元だと思います。
890日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:26:49

>>883
>現実問題として工房や墳墓をそこまで隔絶した距離に置いた事例が弥生末期の他の
>遺跡に無い以上その想定はかなり無理があると言わざるを得ないw
事例がないというのが思い込みだな。 これまでは墓があったらその近くに王がいた
ものと想定してきただけで、王の居所とその王の墓がはっきりと判明している事例な
どないと思うがね。
891日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:35:18
>>882
不弥国は邪馬台国の玄関だとかいう説かな? しかし、それならば不弥国は乃ち邪馬台国
なりとか、不弥国から邪馬台国まで何里とか、書けばいいことで、それをせず、いきなり
「郡から女王国に至る万二千余里」などと書くはずはないな。文章ってのは基本的に読者
に分かりやすいように書くものなんだよ。
892日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:43:04
>>877
>倭と接すは韓の海と倭の海が接っしているというだけのこと

マジメな意見なんですか?
893日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:57:09
>>892
もちろん。これは私が勝手に考えた話ではなく、榎一雄「邪馬台国」に載ってるよ。
漢文の具体例を引いた上で、「南は倭と接す」も同様で、これは韓と倭とが接壤し
ているというのではなく、海を隔てて接している意に解すべきである、としている
ことを参考にしたものだ。海を隔ててといっても、日本とアメリカみたいに離れて
いたら「接」はおかしいだろ。それに「接」はやはりくっついているという意味。
それらを考えれば、韓の海、倭の海と説明する方が適切だ。
894日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:09:03
朝鮮半島南部には倭地があった。
狗邪韓國は朝鮮半島南部の倭地にあった。
狗邪韓國を含む朝鮮半島南部の呼び名が投馬國(後の任那)。
対岸の北部九州及び壱岐対馬が邪馬壹國。
邪馬壹國の王都は伊都國。
「郡から女王国に至る万二千余里」は帯方郡庁から邪馬壹國の中心都市「有二萬餘戸」の奴國までの距離。
「可七萬餘戸」とは北部九州全体の戸数。
895日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:32:40
>>893

>倭と接すは韓の海と倭の海が接っしているというだけのこと
>榎一雄「邪馬台国」に載ってるよ。

それは、海と海が接しているのでは無く、韓地と倭地が間の海を介して接していると言うこと。
動詞「接」に対する主語は陸地です。
貴方は「接」は「くっついている」の意味だと思うから、そんな解釈をしていますが、
榎さんも私達も「接」とは「結びつく」の意味だと知っているので、
それがとてもヘンテコな文章に思えるのです。

「面接」って顔と顔を「くっつける」ことじゃないし、
「接近」と「接触」では意味が全然違うでしょう。
これは「接」にくっついていると意味が無いから。
「触(ふれる)」と言う字を添えて初めてくっつくことができるのですよ。
896 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/04(日) 21:05:28
>>872
伊都国が背振山地をまたいで南北に広がっていたとする必要性が感じられないですが、伊都国や奴国が背振山地を
またいで同じ国であったというのは、当時の國の概念からちょっと逸脱しすぎではないでしょうか。
また放射説はおいておくとしても、伊都国から南東の奴国が北の福岡までの広い範囲なのに、
伊都国の東に不彌国というのも少し無理があるように思います。

伊都国からの水行も、わざわざ1度船を下りて再び、しかも倭人の船に乗船するというのは考え難いのではないでしょうか。
朝鮮半島を水行してるのをみると、宮崎ならばずっと水行で行くと考えたほうが合理的ではありませんか。
また対馬前後の渡海が1昼日であっただろうと言われていますが、それと比べて伊都国からの水行の距離が短すぎませんか?

それから女王国の南の狗奴国はどうなるのでしょう。

すこし話がそれますが、どこのあたりでこの説が「まとも」な説だと判断されているのでしょうか?
897 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/04(日) 21:18:40
>>878
それではこうしよう。
梯儁も完璧な報告書を書いた。張政も完璧な報告書を書いた。
しかし2人のルートは同じものではなかった。
これらを資料とした陳寿(というかほぼ同じ行程文が魏略に見えるから魚豢か?)が
それを同一ルートとして記述した。

何故、別ルートの報告を同一ルートと間違えたのかは謎w

私の説はそれでも何ら変わりが無いですから。


>梯儁の書いた行程と自分が進む行程との比較だね。
普通、ちがっていたら別ルートだと判断するでしょ。間違いだとは判断しないですよ。
行程以外でも間違いと判断できることというのは少ないですよ。それが貴方は分かっていないのですよ。
898 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/04(日) 21:24:26
>>882
>「至奴國」と「行至不彌國」の違い
放射説は1文字の違いにこだわりすぎているのですよ。
放射行程ならば、もっとそれと分かりやすい記述がされていなければならないのですよ。
これは1文字をいくら見つめてもどうにも説明ができない話です。

また女王国を中途半端な範囲に想定するのも同様です。

このような読み方のほうこそ、素直ではない読み方、読み間違いですよ。
899日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:40:56
>>893
一般的に考えると、海は接するものではなく、陸地を隔てるものという感じが
あるけどね。
900安部謙信も超人だったwwwww:2009/01/04(日) 21:53:47
そもそも「梯儁の報告書」「張政の報告書」と言っても
彼らの目的は邪馬台国の位置を述べることにあったわけじゃないw

詔書・印綬を届ける事
詔書・黄幢を届け檄をもって告諭する事

それらの首尾を報告することが主であって
行程なんぞ無くて別にもかまわないだろう。

(営業のサラリーマンがクライアントの所に行って、その報告書にそこに至るまでの道順だけ書いて
 報告書が終わりなんて事があるか?wwwwwwwwww)

で、倭人伝にはそれらが見られない。
故に魏使いは邪馬台国まで行っていないとか。
邪馬台国は結局狗奴国に滅ぼされた・・・なんて話も出てきちゃう訳でw

陳寿が「梯儁の報告書」「張政の報告書」を目の前にして記述したと言うのもどうも考えにくい話だ。
(お前その目で見たんかい!w)

まあ行程記事の距離方角のつじつま合わせに頭に血を上らせている連中には関係の無い話だろうがwwwwwwwwwwww

901日本@名無史さん:2009/01/04(日) 23:23:54
>>895
なるほど。勉強になりました。間に海があっても結びつきが認められる距離
で、間に第三国がなければ「接」だということですね。
902日本@名無史さん:2009/01/04(日) 23:56:19
>>896 >>897
>伊都国から南東の奴国が北の福岡までの広い範囲なのに、伊都国の東に不彌国
>というのも少し無理があるように思います。
不弥国は千余家、小さい国ですから筑後川右岸のみとみて問題はないと思いますが。

>伊都国からの水行も、わざわざ1度船を下りて再び、しかも倭人の船に乗船すると
>いうのは考え難いのではないでしょうか。
末盧国(唐津)から伊都国(佐賀市)へ行くために下船したのです。有明海に行くた
めにはごく自然だと思いますが。宮崎へ行くのに船で直行するというのは、玄界灘も
難所がありますし、周防灘から日向灘は黒潮に逆行することになり、かなり危険も伴
います。有明海を南下するのがもっとも安全で早いでしょう。

>普通、ちがっていたら別ルートだと判断するでしょ。間違いだとは判断しないですよ。
>行程以外でも間違いと判断できることというのは少ないですよ。
間違いがなければそれで結構、何も問題はありません。それを資料とした史書は
正しいものとなるでしょう。

>これらを資料とした陳寿(というかほぼ同じ行程文が魏略に見えるから魚豢か?)が
>それを同一ルートとして記述した。
2人の資料が正しいということは、方角や距離、国名が違うということでしょう?
それを同一ルートとして記述することは考えられませんね。

903日本@名無史さん:2009/01/05(月) 00:05:34
無理な辻褄合わせしなくとも辻褄合は合っている。

朝鮮半島南部には倭地があった。
狗邪韓國は朝鮮半島南部の倭地にあった。
狗邪韓國を含む朝鮮半島南部の呼び名が投馬國(後の任那)。
対岸の北部九州及び壱岐対馬が邪馬壹國。
邪馬壹國の王都は伊都國。
「郡から女王国に至る万二千余里」は帯方郡庁から邪馬壹國の中心都市「有二萬餘戸」の奴國までの距離。
「可七萬餘戸」とは北部九州全体の戸数。

水行二十日(帯方郡庁から狗邪韓國に到る日数)
水行十日、陸行一日(狗邪韓國から伊都國に到る日数)
904日本@名無史さん:2009/01/05(月) 00:32:57
はやく大和国(邪馬台国)の都である纏向京までの道順を決めてちょうだい。
衰退して貧相になった九州地方で停滞してますよ。
905日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:04:33
だーかーらー、陳寿が司馬氏を賞賛するために書いた歴史書の、
誇大な表記を真面目に論じても無意味。
韓半島がインド並みの巨大な面積で記録されてんだ。
行程の記録や戸数の記録は倭国を大国に見せるために大幅な水増しされてると考えるのが良識だろ。
それとも韓半島はいつの間にか縮んだのか?
906日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:27:35
>>905
いわゆる短里の問題か? 誇大な表記ではないな。魏略も同じ表記を使ってる。
陳寿だけの問題ではない。
907 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/05(月) 10:03:21
>>902
不弥国の南に奴国があるというのは不弥国が有明海に面していなかったということですから、
国の発生を考えるとやはり無理があるのではないでしょうか。
また片岸のみというのも、対岸は奴国に奪われたということになるのでしょうが、全部制圧せずに
片岸のみ残してそこを国境としたというのも考えにくいように思えます。

宮崎まで水行の件ですが、7000里の歴韓国、3度の渡海、を考えると、九州沿岸ぞいを水行するのは
それらと比べて危険というほどのものではないでしょう。陸行の方が安全というのなら韓国内も陸行しているでしょうし。
結局、宮崎に比定したいがための後付の理由にしか見えないのですが。

10日・20日の水行の距離、南の狗奴国の位置、についてはどうなのでしょうか?

私の説に対するレスは次に書きます。
908 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/05(月) 10:41:01
>>902
少し視点を変えて話しましょう。

貴方の言うように2人の報告書は完璧、さらには張政は梯儁の誤りを正した精度の高いものだったとしましょう。
それを元に書かれたと思われる伝が、なぜか方位里程と国名や遺跡などがバラバラである現実とこうも食い違うのか。
精度が高いならば○○国というのは今の△△市のことで間違いないと誰もが思えるようなものの筈ですよね。
また不彌国以降の行程が里程ではなく日数で書かれていますが、報告書には途中から里程ではなく日数で書くと
いった中途半端なことはないとの事ですから、これはどういう訳なのでしょう。

これらはやはり最初の仮定「2人の報告書は完璧」というところが間違えていたと考えられるのではないでしょうか。


伝には(上陸後)末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国の順に国が書かれています。
また不彌国までは里程が書かれています。2回の魏使があったことも伝に書かれていることです。
私の説は一見絵空事のように思えるかもしれませんが、これらは全て伝に書かれている儘のことなのです。
909サガミハラハラ:2009/01/05(月) 10:41:55
>>906つまり、陳寿も魏略の著者も同じ資料をみたということですよ。
910日本@名無史さん:2009/01/05(月) 11:14:56
魏使の距離感で、伊都国ー奴国間と奴国ー不弥国間は同じぐらいの距離だった。
911九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/05(月) 14:24:34

魏使の距離感で、伊都国―奴国間と伊都國―不弥国間は同じぐらいの距離だった。
912日本@名無史さん:2009/01/05(月) 14:30:56
>>911
距離感って、感覚が魏の公里?
913日本@名無史さん:2009/01/05(月) 15:05:28
隋書にも「其南 海行三月有耽牟羅國 南北千餘里 東西數百里」と短里表記がある。
魏使の距離感ではない。
914日本@名無史さん:2009/01/05(月) 15:07:46
きちんと測られたものなら方位がずれる事はない。
915日本@名無史さん:2009/01/05(月) 15:30:02
>>914
測った倭人の方位基準が30度ほどずれていた。
夏の太陽の日の出を基準に東を決めていたのではないか。
短里も倭人が使っていて、倭人が測った結果を魏使が聞いたのだろう。
魏使を案内した倭人は短里を使い方位基準が30度ずれた地図を持っていたのだろう。
倭人は使い慣れた倭人の地図で無事目的地に着いた、
無事目的地に着いたので魏使は倭人の地図を尊重して倭人の方位や距離をそのまま記したのだと考える。
916日本@名無史さん:2009/01/05(月) 15:45:55
>>907
朝鮮半島は従属しないものが多く、内陸部は危険だから。
西暦245年に、帯方郡の太守・弓遵は、反乱に遭い戦死しているし。

ところで、弓遵の死後、二年たって代わりの太守・王頎が太守として赴任して
いるが、その頃、卑弥呼は、帯方郡に使者を送り、狗奴国と交戦状態で
あることを説明している。

この使者のことはよく知られているが、王頎は、それを報告するために自ら
都に赴いたらしい。倭国の使者は、どうも魏に援軍を求めたらしいのだ。
しかし、援軍が来ることはなく、代わりに黄幢を持った帯方郡の塞曹掾史・
張政が調停のためにやってきたということらしい。

こうなると、狗奴国の存在は無視できないものがある。
卑弥呼が魏に朝貢したのは、狗奴国対策だったのかもしれない。
917日本@名無史さん:2009/01/05(月) 20:46:22
帯方郡の使者といえばお客様。
自分で距離を測ることなどないし、方向も聞き及んだことを報告したまでのことです。
それに、苦労して遠くまで行ってきたと報告した方が、何かと都合がいいじゃないですか。
918日本@名無史さん:2009/01/05(月) 21:43:44
>>909
同じ資料をみたという考え方と魏略を陳寿がみたという考え方が成立するな。
しかし、いずれにしろ、陳寿だけでなく、先に魚豢が短い里を史書に書いたと
いうことだ。陳寿が自らの保身等のために筆を曲げたという説は成立する余地
がない。
919日本@名無史さん:2009/01/05(月) 21:44:58
>>917その通り。
帯方郡の使者は倭人に案内されて来ただけ。
距離や方向は倭人が書いた物をそのまま報告書に付けて報告したんじゃないの。
短里、30度ずれた方位はその当時の倭人や韓人のものでしょ。
日数だけが帯方郡の使者が実際に数えたものでしょ。
920日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:22:11
>>907
私が比定した伊都国(佐賀大和)、奴国(城島)、不弥国(吉野ヶ里)などが
どうゆう所かご存じないようですね。港があったところです。有明海は干満の
差が極端なので有明海沿岸に直接港を設けることは難しく、すこし川をのぼった
ところに港が設けられていたのですよ。
また、国が川の片側だけではどうこうとか言われますが、川を国境にすることは
良くあること。それを不自然とは何を考えておられるのやら。
狗奴国は志布志湾沿岸あたり。狗奴国も旁国の一つ。小国と考えます。
921日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:34:25
>>908
>貴方の言うように2人の報告書は完璧、さらには張政は梯儁の誤りを正した
>精度の高いものだったとしましょう。
何を言っているのですか? 2人の報告書を完璧としたのはあなたですよ。>897

>それを元に書かれたと思われる伝が、なぜか方位里程と国名や遺跡などがバ
>ラバラである現実とこうも食い違うのか。
別に倭人伝と現実とが食い違ってはいません。多くの人が間違って勝手に違っ
たところに比定しているだけです。

>また不彌国以降の行程が里程ではなく日数で書かれていますが、報告書には
>途中から里程ではなく日数で書くといった中途半端なことはないとの事です
>から、これはどういう訳なのでしょう。
「報告書には途中から里程ではなく日数で書くといった中途半端なことはない」
などと言った覚えはありませんよ。私は方角と距離を書くはずだといったのです。
距離は里数が分かるなら里数で、分からないなら日数で書くでしょう。日数も
距離表示の一つにほかなりません。
922日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:56:14
>917
魏の軍隊には、兵站とともに地図を作りながら動く専門官が随行しています
923九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/06(火) 00:25:47
>>907
>不弥国の南に奴国があるというのは不弥国が有明海に面していなかったということですから、
>>920
>私が比定した伊都国(佐賀大和)、奴国(城島)、不弥国(吉野ヶ里)などが
どうゆう所かご存じないようですね。港があったところです

三世紀の有明海北部の沿岸地図を知らないようですね。
吉野ヶ里のすぐ南まで有明海が北に入り込んでいました。
佐賀市中心部の東、久留米市城島町の西、神崎市千代田あたりは有明海の海。
佐賀市大和(伊都國)から久留米市城島に行くには、大和(伊都國)を東へ吉野ヶ里(不彌國)を過ぎて、
みやき町で南へ、筑後川を渡り、西南へ行くと城島に着きます。
大和から直接東南に城島に行くには、北に入り込んだ有明海を舟で渡らなければなりません。

蛇足ですが、奴國の城郭は佐賀城、奴國の港は佐賀江川巨勢川(巨勢町・江上)のあたり。
924日本@名無史さん:2009/01/06(火) 00:56:52
>>900
そもそも「梯儁の報告書」「張政の報告書」なるものが本当にあったかどうかも疑問なんだがw

当時、国書を携えて他国に行った役人は必ず”報告書”を出すなんて習慣・制度があったのかな?

返書を持って帰れば十分で、まあ口頭で行った国の様子を色々伝えるってことはあったんだろうが
(それが記録された事は十分あるんだろうが)

張政に至っては帰りは「大夫率善中郎将掖邪狗等二十人」付いてきたんだろ?
そいつらを京に連れてくりゃお役御免だろうにw
925 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/06(火) 00:57:16
>>915
隋書ですが「夷人不知里數但計以日」とあるので、韓国や倭からの伝聞情報とは考えにくいように思えます。
また当時の中華帝国の1里約400mのそれではない、いわゆる短里を、韓でも倭でも使っていたというのは
この推測のハードルをさらに高くしているように感じます。

日が昇る方向が東なら沈む方向が西、南北方向のずれはほとんどなくなり、南東のずれは15度程度と半減する。
これでは伊都国・奴国への方位のずれをまだ上手く説明できたとはいえない。
倭人が測ったのだからテキトー、全体が30度ずれてた。魏使はそれを鵜呑みにした。という説はちょっといただけないと感じます。
926 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/06(火) 01:11:02
>>920
いままで自分の比定地を書きもせずに、どうゆう所かご存知ないようですね、とは池沼か?
奴国が伊都国の南東なら、その間に不弥国は入らない。もし不弥国が海に面しているのなら、
奴国は伊都国の南東ではなく不弥国の南〜南東〜東になる。分かるかい?分かっていないようだけど。

川が国境になるのは、何度もいってるが、国が出来た後、他国が占領し川が国境になる場合だけ。
黄河やナイル川でもどこでも、対岸で別の国が発展したなどということは世界中どこもない。あるなら教えてください。

狗奴国がそのような小国で、女王国連合と対立し魏に軍事援助を求めたほどの国だったと?
もしかして、何故魏に使いを送ったのかすら知らないとか?

それから短すぎる水行10日20日の説明は?できないのですか。
927 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/06(火) 01:18:44
>>921
2人の報告書が中途半端なものだとは考えられないといったのは貴方なのですが、バカなの?死ぬの?w

>多くの人が間違って勝手に違ったところに比定しているだけです。
多くの人が間違っているのが、すでに伝が書かれたもととなった報告書が、正確無比とはいえないものだったことの証です。
ほんとにずれた考えしかできないのですね。

>私は方角と距離を書くはずだといったのです
少し前に水行20日・水行10日陸行1月の考察で書いたのですが、繰り返しますね。
水行20日・水行10日陸行1月の行程を無補給でどこにも寄らずに移動したとは考えずらい。
にもかかわらず、寄った国あるいは村のことは一切掛かれて居ない。
水行から陸行になる部分では、村さえないところで上陸したというのであろうか?これはありえない。
あなたは方向も距離も国名もかかれないのは中途半端だといっているようだが、
この水行20日・水行10日陸行1月の行程には、これらがまったく書かれていない。これは中途半端ではないと言い張るのか?
それほどバカなのか、それとも気が付かないほどバカなのか、どちらですか?
928日本@名無史さん:2009/01/06(火) 01:40:30
そりゃ魏の時代は外交関係の公文書として、ちゃんと意味の通る文書が朝廷内に残っていたと思うよ
でも魏の滅亡と共に記録もあぼん、西晋が魏史を書くにあたって断片や外聞しか無かったのでは?
929日本@名無史さん:2009/01/06(火) 07:10:27
>>926 >>927
頭だけではなく、態度が悪いな。それが人にものを聞くときの言葉か。
お前の相手はやめた。
930日本@名無史さん:2009/01/06(火) 07:30:21
>>924
>「梯儁の報告書」「張政の報告書」なるものが本当にあったかどうかも疑問
倭人伝に行程が残っていることをみれば、最初に倭国を訪れた梯儁は行程を含む
報告書を出したんだろう。しかし、次に来た張政は梯儁と同じコースのはず、も
し報告書を出したとしても、行程は書いてないだろう。邪馬台国の状況(卑弥呼
の死亡や壱与の擁立)などだけを報告したのでは。
931 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/06(火) 08:00:07
>>929
レベルの低い小学生みたいなことを散々言いまくったあげく、少しつっついたらまた逃げか・・・

別にあなたのとんでも説を詳しくしりたいわけではないのですよ。
むしろ相手をしてあげていたといったほうが良いほどなのに、客観的なものの見方もできないのですね。
932 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/06(火) 08:04:27
>>930
>次に来た張政は梯儁と同じコースのはず
同じコースというのはただの思い込み。
そのように考えうるに十分な「何か」は何1つないのです。

ただし張政の魏使たちすらも、同じコースだと間違えていた可能性は十分にあります。
933日本@名無史さん:2009/01/06(火) 08:09:46
邪馬台国は、奈良ですよ。

いつまで同じ議論してるの?
934日本@名無史さん:2009/01/06(火) 12:31:19
>>925
隋書の「夷人不知里數但計以日」の意味は、韓国や倭は中国の正しい里を知らない、
韓国や倭の里数は信用できない、日数で測ったものしか信用することができない程度の意味。
韓国や倭が長さを測れなかった等とは考えられない。
韓国や倭は短里を使っており、当時の中国の里と大きく違っていただけのこと。

日が昇る方向が東、東が決まればその反対が方向が西、南北は90度左右方向。
日本語の東は日がし、日の昇る方向。西には日の沈む方向の意味は無い。
倭人は倭人の単位や方位でほぼ正確に測っていた。
935日本@名無史さん:2009/01/06(火) 12:48:01
やっぱり邪馬台国は奈良だったのか。
そうだと思ってたんだ。
936日本@名無史さん:2009/01/07(水) 03:00:36
>>934
日の出、日没のほかにも星、磁石など、当時、方角を知る方法は十分に
分かっていた。方角を間違えたなどという考え方は合理性がない。
937日本@名無史さん:2009/01/07(水) 03:23:38
前にも書いたが、倭人伝の方角、距離はそのまま素直に読んでみることだ。
地名とか遺跡とかにこだわるのは間違いのもとだ。そのような考え方に立てば、
伊都国が怡土だという通説に問題があることは、すぐに理解できるだろう。
すなわち、怡土では方角、距離がまったく合わない。末盧国(唐津)に上陸す
ることも理解できない。また、倭人伝は放射式で書かれているが怡土では放射
式が意味をなさない。玄界灘沿岸では南水行もできない。よって、倭人伝どお
りに東南に進み佐賀付近を伊都国に比定するのが合理的だということになる。
そのことに気づけば、大和説など成立するはずがないことはもちろん、北九州
説もほとんどが問題にならないことが明らかだ。
逆に言えば、大和や北九州に邪馬台国を比定したいという気持ちがあると、伊
都国を倭人伝にしたがって比定することを拒否するんだな。
938日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:08:22
そうそう。倭人伝を普通に読めば九州の南ぐらいのどこかって
話になる。

大体、そういう著者が位置を念頭に置いて書かないと
倭人伝のような記述にはならない。
つまり、朝鮮を渡ってさらに南。
「冬でも」生野菜を食べ(夏しかいってなければ
そんなことは書けない)、海南島に近い天候。

宮崎にろくな遺跡はない、なんて言う自称考古学通なんかいるが
宮崎にいけば海岸線の山々は弥生・縄文時代の古墳が道端にビッシリ連なっていて
工事もできない。どんだけ古代に人が多かったことかよくわかるんだけどな。
大体宮崎
939日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:09:13
九州で一番温暖な気候は宮崎。鹿児島じゃなく。
940日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:22:23
>>937
本当に方角・距離を素直に読んだらジャワまで行くぞ。
>>938
>弥生・縄文時代の古墳
そんな物凄いものが発見されてるのに
全く持って話題にされてないのは何故?
941日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:31:49
邪馬台国は、奄美大島付近にあったとするのは一番わかりやすい。
九州から沖縄にかけて陸続きだった時代の邪馬台国の伝承を記している
とすれば、すべてが解決するのに、どうして邪馬台国は2世紀に存在した
と思ってしまったのだろうか?
942日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:45:21
倭人伝の記録は正確。
後は、現代の日本地図上の西と東を北と南にすればいいだけ。
そうすれば九州が北、畿内が南になり、邪馬台国は畿内に辿り着く筈。

邪馬台国は畿内で確定。
943日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:52:53
>>940
>本当に方角・距離を素直に読んだらジャワまで行くぞ。
素直に読んでないからさ。行程を素直に読めば末盧国までは明らかだ。そしたら、
倭人伝が1里=7、80mで書いていることは明白だ。郡から女王国まで万二千
余里。熊本あたりから女王国だ。到底、ジャワには行かん。
倭人伝を素直に読めば邪馬台国が南九州だということは明白だよ。

>弥生・縄文時代の古墳
弥生・縄文はどうかと思うが、大和とどちらが早いか分からん古墳が多いことは
事実。日向が弥生時代から古墳時代にわたって極めて繁栄していたことは明らかだ。


944日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:53:09
>>942
飛鳥昭雄説か?
945日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:02:28
>>942
正確って言うからには、方角をかってに変えんでほしいな。
946日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:02:35
>>940 >>941
陸地に沿って水行しない場合は、だいたい「海を渡る」の記述があるが、
不弥国から邪馬台国まではそれがないから、ジャワとか奄美大島は考えにくい。

だいたい、古代船のスピードを勝手に決めちゃあ駄目だろう。
947日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:28:18
魏志倭人伝を素直に読んだら・・・

人口5万戸とか7万戸と言う巨大なクニがあり
卑弥呼が自身の周りにはべらせた奴婢だけで1000人と言う巨大な居城(?)があり
殉葬100人と言う墓が実在する。

蛤を潜水漁で採取し
100歳まで生きる人間がザラで

とにかくその位置は「会稽の東治の東」と言うのだから九州でも収まらないwwwww

当然、「太平御覧」のように連続式で読んでいるシロモノは
「そんなものは間違った読方だ!いいか素直な読み方と言うのは(以下略」
と言う奴も出てくるw

・・・とまあ突っ込みどころはいくらでもあるんだろうが
行程記事だけ見ている連中は頭に血が上って、兎に角
「俺サマ解釈こそ真理!」とわめき散らす。

まあ「魏志倭人伝嘘つかない!」としなければ ” 暗号解読ゴッコ ”が成立しない訳でwwwwww









948日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:07:38
素直に読んで何も問題ないじゃないか?
暗号解読ごっこだなんて難しい読み方するからいかんのだよ。
949日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:11:35
そうか、読み方が滅茶苦茶なんだな。947の中だけでもあちこち間違ってるな。
950日本@名無史さん:2009/01/08(木) 04:03:42
倭人伝至上主義は一方法論としてはよいと思うが、
もう何十年、「倭人伝の読み方」は研究されつくされてしまったような感もある。
だが「倭人伝の資料批判」はまだまだ十分とはいえない気がする。
951日本@名無史さん:2009/01/08(木) 07:57:33
魏志倭人伝は、誤字が多い。
たとえば、一支国が一大国。邪馬臺國(邪馬台国)が邪馬壹國(邪馬壱国)、
臺與(台与)が壹與(壱与)という具合。
三国志が一番最初に出来たはずなのに、梁書や北史は、それをまねしておらず
それぞれ一支国、邪馬臺國、臺與と書いている。

しかし、梁書や北史を含め、邪馬台国までの里程・日程は同じなので
これは間違いではないだろう。すべての書が伊都国は東南に陸行五百里。
邪馬台国は、「南」に水行二十日。陸行一月となっている。
952日本@名無史さん:2009/01/08(木) 09:16:10
>>951
>魏志倭人伝は、誤字が多い。

おまえの頭は、錯誤が多い。

「支」と「大」は、字形がそっくりなので筆写時の誤り。
「壹」と「臺」は、国名呼称の時代変化の為の書き換え。「ヰ」(倭)→「タイ」(大倭)
953日本@名無史さん:2009/01/08(木) 09:47:17

■ヨタン・・・・・・・・・・・・・
954日本@名無史さん:2009/01/08(木) 14:57:39
>>942
何故そうなるか説明してやらんと。
古代の中国の地図に見られる「南転日本列島」の概念から何から…
>>943
だから、「対海」を「対馬」、「一大」を「壱岐」とする時点で「素直」じゃないんだってば。
原文に素直に読むなら、あくまで狗邪韓国と末盧国の間にあるのは「対海国」「一大国」でなければならない。
「対海=対馬」「一大=壱岐」の呪縛から逃れられれば、倭人伝オリジナルの里を作らなくても済む。
あくまで当時一般的だった「一里435m」で行けば良い。
「素直」てのはこういうことなんだよ…
軽々しく「素直に読む」と言う輩が多くて困る。
日本列島に邪馬台国を収めようとする時点で「素直」じゃならざるを得なくなるのに。
当然、自分も「素直じゃない」人間の一人だが。
>>944
お前の中には畿内説は飛鳥昭雄しか居ないのか?
>>945
「勝手」ではない。
ちゃんと理屈は存在する。
955日本@名無史さん:2009/01/08(木) 17:06:50
>>954
× ちゃんと理屈は存在する。
○ ちゃんと屁理屈は存在する。
956日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:22:35
ああしかし、ここには狂信者しかおらんな。奈良に決まってるじゃないか馬鹿馬鹿しい。
箸墓古墳を掘れば、魏帝詔書の木簡やら黄トンやらざくざく出てくるのにな。卑弥呼は
倭迹迹日百襲媛命のこと。「迹迹日」とは太陽を追いかけ祭った巫女のこと。「百襲」と
は100人を殉葬したこと。

倭人伝に出てくる「伊聲耆」とは弟の「いさせりひこ」、「掖邪狗 」とはやはり弟の「わかひ
こ」、「伊支馬」は「いくめいりひこ」(垂仁天皇)、弥馬升や弥馬獲支は「みまきいりひこ」
(崇神天皇)、「奴佳碑」は中臣。なぜこんな簡単なことがわからんのだろう。
957日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:06:47
これを読もう

末盧國→東松浦半島(沿岸航法により呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。

保守本流不動の九州説
958日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:24:06
>>957
で、使者は何で投馬国へ行ったの?
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/08(木) 22:26:50
>>956
妄想ごくろう。w
960日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:35:38
>>954
>狗邪韓国と末盧国の間にあるのは「対海国」「一大国」でなければならない。
これは素直とは言わんよ。誤読かせいぜい愚直だ。
961日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:10:32
>>956
卑弥呼は太陽神の巫女じゃねーぞ。大丈夫か?
天照と混同してるか?

亀の甲羅を使った占いなんて、海のない奈良じゃ無理w
大体、倭人伝に出てる海自体ないし。

962日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:42:36
>>958
行きましたって書いてある?
国の説明だけでしょ
963日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:52:41
しー、しー!黙ってろ!>>962
行ったことになってんだから。
使者の立場がないだろう>空気嫁
964日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:57:39
>>957
水行の日数を、郡から測るのか。
しかし、それでは伊都國または不彌國から、どうやって邪馬台国まで行くのでしょうか?
距離や方角が書かれてないから、邪馬台国の場所は不明なんだがね。
965日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:00:41
>>962
投馬国は行ったから道里を書いているんだよ。伝聞で書くならば、狗奴国について
書けないはずはないだろ。それを書いてないのは、狗奴国へは行かなかったからだ。
966日本@名無史さん:2009/01/09(金) 05:40:18
>投馬国は行ったから道里を書いているんだよ。

書いてあるんだw
投馬国まで何里?
967日本@名無史さん:2009/01/09(金) 07:24:56
>>966
南、水行二十日も道里なんだよ。これ通説ね。
968日本@名無史さん:2009/01/09(金) 07:31:34
>>963
行かなかったとは報告しにくい所にあったと考えてんだな。まあ、30点。
使者はそちほどいいかげんな人間じゃなかった。実際に行ったんだよ。
969日本@名無史さん:2009/01/09(金) 19:39:02
張政はもちろん邪馬台国にいったんだよ、そこで狗奴国相手の戦争顧問団のようなことを
して邪馬台国に常駐し、台与の時代に帰国した。これは確実な前提だよ。
970日本@名無史さん:2009/01/09(金) 20:32:05
>>968
さようでございますね。使節団長様自ら山吹色の菓子を持ってまいられたとあらば、
わたしが申すことなどありましょうか。承知いたしました。報告書は私どもで用意いたしましょう。
(影の声)こんなクソやろう真実なんか教えるかよ。この間抜け!
971 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/09(金) 21:14:23
>>962
行ってない国は其餘旁國として名前だけあげてるのだから、投馬國に行ってないなら、わざわざ投馬國だけ
「行ったことにして」書くようなことはせずに、投馬國も名前だけ上げて終わりにするのでは?
大体、投馬國だけそのようにしてまで書く理由もないでしょう。

でも、行った理由など全く思いつかないから、何が何でも行ってないことにしなきゃならないのですよね♪
972 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/09(金) 21:26:51
>>969
何年も居たような情報には思えないな、むしろ邪馬台国に行って帰っただけで、
それらの隣の少し離れた国にさえ行ってない/行くほど長い期間倭国に留まっていない
ように感じる。
よく冬夏食生菜を冬まで居た証拠という話を聞きますが、倭地温暖冬夏食生菜、とむしろその前文の温暖であることの
強調というか証拠というか、そんな感じで書かれていて、冬というのは伝聞情報と取ってもおかしくは無いのです。

むしろ冬にも海に潜って魚を取っていたのかとか、冬の情景と思われる記述が無いことを考えると、
やはり夏の1シーズンだけ居て帰っていったと考えるほうが、しっくりすると思うのですがどうでしょう。

# ということで、私は使は3回あったと見ています。
973 ◆.L.MXSPOgc :2009/01/09(金) 21:30:41
話はかわりますが、先日さまよっていたら、新井白石か本居宣長が
九州説で、邪馬台国までの比定地を書きこんだ地図
というのをどこかのサイトで見たのですが、
どこだったか忘れてしまい、探せずにいます。

url知っている方いませんか?
974日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:44:33
>>972
>塞曹エン史「張政」等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
>また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。「政」等、檄を以て壱与を告喩す。
>壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、「政」等の還るを送らしむ。

「政」は張政のこと、「政等」となっているので使節団は複数。

張政が卑弥呼の対狗奴国戦争から死去、台与の即位まで二〇年近く倭国にとどまったと
みるのは定説。

おそらく魏→晋に変わるときの混乱、あるいは政治的な何かがあって、張政の詳しい報告
書は陳寿の手に入らなかったと思われ。
975日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:42:44
難升米とは、久留米の王のこと。
976日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:03:50
>>974
>張政が卑弥呼の対狗奴国戦争から死去、台与の即位まで二〇年近く倭国にとどまった
>とみるのは定説。
台与の即位まで留まっていたことはそのとおりだが、20年近くというのは問題。
266年に女王の使者が派遣されており、台与の使者とみられているが、それは
張政を送ったときとは別で、台与は何度か使者を派遣したのかも知れない。
977日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:10:46
>>976
それは認める。しかし長期間とどまったのは間違いない。俺は畿内論者なので、箸墓古墳
を掘って木棺等が残っていれば(マキ向の土壌を考えれば大いに疑問)、張政の「倭国女王
卑弥呼ここに眠る」のような漢文の碑銘があるかもしれないと考えている。
978太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/09(金) 23:18:30
こんなに↓3回も変えなきゃならんのか?www 妄想に目覚めよ!

「壹」→「臺」
「南」→「東」
「円墳」→「前方後円墳」

ZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
979日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:22:05
>>977
ま、信じるのはかってだが、畿内はないよ。>>872 >>873で決まりだ。
張政の墓碑があるとすれば、生目あたりかと思うな。
980日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:26:50

張政が倭に留まったのは、247年〜266年の18年間。
981日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:10:29

張政の碑銘は祇園山古墳には残っていなかった。
張政は卑彌呼の碑銘を残さなかったのだ。
982日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:20:37
まあ、位置の比定は水掛け論になってしまうが、張政の報告が残ってないのは残念。それ
があれば、邪馬台国や狗奴国の位置、卑弥呼の死の経緯、台与の前の男王の正体など
いろいろなことがわかっただろう。

畿内論者である俺の考えでは、狗奴国は東海地方、現在の桑名市周辺。近くには逆茂木
で有名な朝日遺跡もあり・・・。
983日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:30:46
張政の報告が残ってないのは当然。
張政が帰国した時、報告をすべき帝がいなくなっていたのだから。
984日本@名無史さん:2009/01/10(土) 07:51:31
実は張政も来ていなかった。
徐福伝説も鎌倉以降の捏造。
卑弥呼も陳寿らの創作だった。
これですべてがはっきりした。
985日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:12:21
俺は「陳寿勝手に書き換え説」だな。魏の使節団は東に向かったと報告していたが、陳寿
はじめ当時の中国の知識人は、日本列島を実際よりずっと南の位置にあると認識してい
たので、これは間違いだと考えて勝手に南に向かったように書き換えた。

陳寿はもちろん倭国に行ったことはないし、当時の資料を正確に書き写しているかどうか
もわからないと思うが。
986日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:18:08
>>982
桑名って東海じゃないぞ。
987日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:20:57
>>986 間違えた。取り消す。
988日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:28:27
>>978 太国
>妄想に目覚めよ!

いやお前の世界に引きずり込まれても・・・w



989日本@名無史さん:2009/01/10(土) 09:35:35
>>987
その手は桑名の焼きはまぐる。
東海関東という行政区はいつできたんだよ?
まったくしょうもない上げ足とり。
990日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:16:58
>>960
誤読?
書いてあるとおりをそのまま読んでるんだ、誤読でもなんでもないさ。
「対海」を「対馬」と読むほうが誤読なんだ。
素直?じゃあお前の言う「素直」て何?
自分達の常識に合わせて字を変え、オリジナルの里を生み出すことかい?

だから、「魏志倭人伝を素直に読む」何て軽々しく言ったらだめなんだってば。

>>982
俺は毛野を推したい。
邪馬台国に匹敵する国なわけで、
狗奴国は邪馬台国を中心とする倭国とは別の勢力の中枢だろう。
そうすると、東海では近すぎるんだよ。
毛野ぐらいが丁度良い。

まあ、毛野も東海も当時は同じ勢力圏だったのかもしれないけど。
991日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:50:25
畿内の大邪馬台国連合に張り合える国は関東の毛野くらいだろう。
992日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:52:49
桑名は東海道の宿場町として有名だが、実は古代もほぼ同じ移動ルートが用いられて
いた(琵琶湖を巡る山越えルートもあり)と考えている。俺は「方形周溝墓」を作る集団が
狗奴国勢力と考えており、奈良大学教授の白石太一郎氏の見解とほぼ同一である。

四千年以上前の三内丸山遺跡(青森)から新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土したよ
うに古代から日本人の移動能力はすさまじく、倭人伝の記述がせまいい九州内に収まる
ものとはとても考えられない。もちろん古代毛野地方にも大きな勢力があったと思う。
993日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:58:57
>>990
対海国の比定地が対馬
対海国≡対馬ではない
994日本@名無史さん:2009/01/10(土) 21:47:33
>>985
どうして日本列島が南の方にあると考えていたのかが問題。
大陸から日本に来た人はまずいなかっただろうし、もちろん地図などない。
郡使が、日本にやってきた最初の中国人といえるかもしれない。

となると、その後の中国人は、郡使の記録を最も尊重するはず。
記録には、倭の盟主である邪馬台国は、南にあると書かれている。
だから、日本の都は南にあると考えた。
こういう手順の方が普通だと思う。
995日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:33:50
>>992
方形周溝墓は元々畿内の墓制だからなあ。
「方形周溝墓集団=狗奴国」だと、
狗奴国は邪馬台国に大和から追い出された、と言う事に
なるのかなあ。
何か神武天皇と長髄彦を思い出すね。

俺的には、東海には「旁国」があったんじゃないかと思う。
確かに東海の勢力は元々畿内に発祥して移っていったけど、
それは狗奴国ではなくて、邪馬台国の勢力下にあったんじゃなかろうか。
そして狗奴国は、こうした旁国の向こうにある、邪馬台国連合とは別の勢力圏。
俺はそう考えている。
「倭人伝の記述がせまい九州内に収まるものとはとても考えれらない」
と言う意見には俺も賛同するよ。
>>994
だから、後漢の時代から既に「倭=南国」の感覚はあったんだって。
996日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:52:56
倭人伝の風俗記事はまるで熱帯地方。これは陳寿に何か混乱があり、東南アジアかイン
ドネシアあたりの報告が倭の文献に混ざった可能性もないわけではないようなww
それで陳寿書き換え説なんて言ってるんだが、根拠はないので批判はどうぞww

方形周溝墓に関しては機内から中部、関東に移っていったのはそのとおり。俺は邪馬台国
連合ができて、墓制もマキ向型前方後円墳に変わり、それに従わない方形墳集団との戦い
になったと考えている。ちなみに九州でも3世紀後半には前方後円墳が作られ始めたのは
邪馬台国連合=大和朝廷の参加に入ったと考える。
997日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:54:54
参加→傘下
998日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:02:53
>>995
>「倭人伝の記述がせまい九州内に収まるものとはとても考えれらない」
逆だろう。倭人は大海の中の山島によりて国邑をなす、旧百余国、〜今使
訳通じる所三十国だ。本州が島だってことを当時の中国人が理解していたか?
三十国のうち、北九州の不弥国までで6国も使っていて、あとの九州、本州で
24国だけか? 旁国というのは、小国のことだよ。あちこち、空白だらけに
なってしまうじゃないか。
999日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:07:09
>>998
まったくだ、三十国では日本列島スカスカ。
対馬、壱岐、唐津で一国なんだから、日本全体では二百〜三百国は有ったはず。
1000日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:10:31
>>999
賛同ありがとう。
はい、これで九州説が正しいと言うことで終わり。また、やりましょう。
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