1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:15:57
応神五世の孫って結局、徳川家が源氏というのと同じ程度の意味しかないわけでしょ
竹田みたいなもの
>応神五世の孫
薄くても大王家の血縁というのは当時としてはそれなりの意味があったんだろ。
5 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:47:36
血縁などなかっただろ
前王権の息女と結婚して初めて大王になれた入り婿政権
娘婿政権だな
6 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:26:56
>>5 蘇我や物部が娘婿政権とならずに
わざわざ越前から大王を迎えるのは
実質的に臣籍降下していた地方豪族だからというのが保守ジャーナリズムの主張。
7 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:32:57
IOCの竹田氏みたいなもんか。
8 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:35:03
樟葉宮って今でいうと樟葉駅辺り?
…ところで、継体の墓の今城塚とそれまで継体の墓と
いわれていた太田茶臼山だけ堺や飛鳥の
2大古墳群から離れているのだろう?
9 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:55:42
>>8 今城塚が継体の墓ってのは通説だろうけど、じゃあ
太田茶臼山は誰の墓になるんだ?
それが分からないと、今城塚で確定と言い切れないはずだろ。
11 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:12:14
樟葉宮って軍事的に要衝の地だったの?
12 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 19:29:54
>>6 雄略朝において畿内における最有力豪族葛城氏がほろぼされて以来
当時の畿内には傑出した豪族はなく大伴や物部など有力な諸氏たちが伯仲していた
もしどれかの豪族が一人だけ先王の娘を娶って即位しようとすれば戦となり
力が伯仲しているだけに畿内政権全体の弱体化になってしまう
だから畿内にはいない第3者を大王に迎えることにしたんだ
畿内には地縁血縁のない越前あたりの豪族だった継体をね
それで前王の娘と結婚させ
恩を売った豪族たちはその側近として活躍する
13 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 05:59:01
大跡部皇子の霊を弔う大跡部神社があるんですが、なんで継体天皇の霊じゃないのかな?
14 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:51:31
>>2 いや、五世は近いよ。明治五世の孫が現皇太子でしょ。
竹田宮なんて伏見宮の分家だから
継体のほうが竹田宮よりもはるかに近いよ。
15 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:36:44
継体よりもっと適任者がいて天皇に招こうとしたのに彼らは皆逃げたとあるのは
何を意味するのか言うまでもないやね。
16 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:37:20
当時は10代後半で親になるのが普通だったから
世代がつまっている。
17 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:39:54
>継体よりもっと適任者がいて天皇に招こうとしたのに彼らは皆逃げた
神輿というかカイライは用済みになると放棄されるからね。
それが見えていたんでしょう。
継体とその子も自然死ではなかったふしがあるしね。
ただ、継体は生存中は単なる神輿ではなく
それなりの強い実権を持っていた気配はあるなあ。
>>9 でも太田茶臼山って出来たのが継体の頃よりさらに
100年遡るっていうのが最近の研究結果ってことなら
その100年前の人のお墓でしょう?
(誰の墓なんだろう?)
>>18 継体が応神天皇の5世王というのを信じれば、
応神の1世王あたりだろうか。
あのあたりに縁があるとも思えないが・・・
>応神の1世王
なんじゃそら
>>20 若い子で二股王ってのが、あそこらへんでフラフラしてだなあ
22 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 17:48:50
古代では、子が1世、孫が2世、曾孫が3世・・・なんだよ。
稚野毛二派皇子の娘がその母と一緒にいた頃
近所に闘鶏国造というのが住んでいたようだから
皇子本人もその辺にいたと考えていい?
25 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:05:58
26 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:50:54
律令の規定じゃ五世孫まで皇親
多分、継体即位の前例が考慮されたとおも
将門も御先祖が臣籍降下してなければ、ぎりぎり皇親として皇位継承権があったのにね
でも、継承順位はかなり低かっただろうけど
27 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:30:44
平安時代に入ってからは「王」が廃止された
つまり、
天皇ー親王ー王(臣籍降下)
3世は臣籍降下が義務付けられた
天皇の子でも臣籍降下するものも現れる
勿論例外はあったが
後の世の宮家や神祇伯家が現れるまで
原則3世では全員臣籍降下
だから将門は無理だ
旧事紀の国造本紀も一世は子の世代
29 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 02:11:47
>>27 なんとでも作れる。
継体前後から天智天武までその場しのぎの連続!
>>8 > 樟葉宮って今でいうと樟葉駅辺り?
樟葉の市民の森近くの交野天神社あたりらしいが、寂れている。宮内庁は金かけて整備しろよな!
継体に対する礼儀が無さ過ぎる。古墳の件もそうだが!
継体と欽明はやはり切れているからか?(親子では無いとしたら仕方ないが)
>>30 一応は府指定史跡(埋蔵文化財包蔵地)なんですよ、あそこ。
松原市にある反正の丹比柴籬宮もそう。どちらも宮跡を求めて
戦後発掘調査されたけど、結局何の証拠も出なかったという。
宮司さんも神社を宮跡とする伝承には否定的のようなんですが・・・
天智天皇が百済からの亡命貴族だからなぁ…
それ以前の倭王の墓をどうこうするのは金の無駄
弟国宮も発掘で発見されないもんかなぁ
>>32 いや、国内の事だけでなく「世界史(主に中国史だが)とのリンク」
という面で「日本史」を捉えていかないと「どこぞの国の国史」
みたいにトンデモになるから。
>>33 1966年、長岡第三小学校建設に伴う発掘の際にそれらしき古い柱穴は出たものの、
工期が遅れてはまずいと建設関係者が調査継続に猛反対。泣く泣く埋めることに・・・
それでも、当時の地元紙には堂々と「弟国宮跡?発見」の見出しが出ていましたがw
乙訓郡衙とする説(薗田氏)もあったけど、郡衙は別の場所から出ちゃった\(^o^)/
36 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 22:44:58
武烈天皇2年(500年)9月に妊婦の腹を割いて、胎児を見る。
この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせたり、池の樋から人を流して矛で刺殺したり、
人を木に登らせて射落したり、女を馬とつるませる(つまりは獣姦)など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。
こいつの後だから 金村はそのへんの乞食つれてきて五世の孫だと言ってもよかった
応神との血縁なんて当時もやはりDNA鑑定で決めたんだろうか?
DNA鑑定はまだ無かっただろう。
まあこれからもDNA鑑定では決めないと思う。
今後ユージンに跡継ぎがなくて、そのへんの乞食を明治五世の孫として即位させるとしても。
38 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:29:39
愛子って人工受精児だよね
どうして公表しないのかな?
だったら二人目、三人目…も作れ!って言われるからじゃない?
40 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:37:56
ひとりめがシヨウ外者だったから
継体が死んだ年の日本書紀に 朝鮮の記録に日本の天皇も皇太子もみな死んだと書いてある という記述がある
欣明が安閑と宣化を殺したのでは?
罪滅ぼしに新しい異国の教えにハマったと。
天智は自らが殺した古人大兄皇子の娘を皇后にしているし
妃の舅を無実の罪で死に追いやっている
欽明も同じことをしていても不思議ではない
>>41 それが事実だと思うよ。継体は実際は応神の弟だし。二人とも百済からの渡来。応神は余昆。次の百済王になるはずの人物。
現代でいうと優秀な外国人経営者を社長に向かえたようなもんだ。日産のゴーンみたいな。同盟国で最も親しかった国からの。ちょうどその頃百済が高句麗に滅ぼされちゃったし
両国とも大変な時期を協力して乗り切ったってことだ。欽明は応神の息子だし蘇我馬子は欽明の長男でホントは大王。弟の継体の血筋に名前も奪われちゃったけどな。
44 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 06:21:11
>>36 武烈さんは新進気鋭の外科医だったんだな。
医学の進歩に生体解剖は不可欠。
>>44 さらに武烈は人間と馬との合成改造人間ケンタウロスを造りだす研究にも余念がなかった
>>43 継体が応神の弟という説はなにに書いてあるの?
あと欣明は継体の息子だよね?
48 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 10:14:13
万世一系の証明法
天皇陵の発掘と遺品、遺骨からDNA取って
現皇族のDNAと合わせればわかる、自信があるならやるべき
49 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/12(金) 10:18:47
DNAは皇統一系とは関わりはない。あるのは卜事(ウラゴト)。
事実上の初代天皇
新羅の智証王も継体天皇と似た境遇だし
古代にはよくあること
52 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:14:47
事実上の初代天皇は崇神か応神ではないか?
53 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:09:11
なんでぃここもお花畑脳の巣窟かよww
初代「天皇」なら天武だろ
・記紀設定上の初代天皇→神武
・具体的な事績のある最初の天皇→崇神
・伝説的逸話を持つ天皇→応神
・皇統断絶で迎えられた傍系の皇族→継体
・「天皇」を使いはじめた(?)→天武
・現在にその血を残す→天智
・天皇のあるべき姿の体現者、万葉集や日本書紀でも巻頭に配置されている→雄略
>>53 あなたはどれだけ優れているのですか教えて下さい
継体がくたばった年は
日本書紀だと531年
古事記だと527年
どちらが可能性があるの?
欣明がいつ即位したかにもよるが いずれにせよ安閑と宣化が入る余地がない気がする
534年
59 :
天照大神:2008/09/14(日) 05:01:05
サンドイッチマン
欽明は概念上の存在で実在しなかった
61 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:48:36
>>60 それは厳しいだろ
欽明天皇に馬子の2人の姉が嫁ぎ
間に生まれた用明、推古、崇峻の天皇の外戚として
蘇我氏が発展したというのが定説だから
欽明が存在しなかったのならば用明や推古の父親で
馬子の姉の夫は一体誰?
62 :
本?:2008/09/15(月) 01:13:28
…
前のスレの方が学術的だったな。
63 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 07:39:36
旧近江王家による政権交代。
その旗手が継体天皇。
>>57に伴って継体崩御後2王朝が並立していたという説が
あったりするが「安閑→宣化vs欽明」というのはあったが
彼等の年齢から考えると「安閑→欽明vs宣化」という対立の方が
自然だと思うのですが?
65 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 07:20:24
>継体崩御後2王朝が並立していたという説
2王朝分裂とまではいかなかったんじゃないか?
蘇我物部っぽい二代派閥のにらみあい均衡状態だったような気がする。
二大派閥だった。すまん。
で、当時の平均寿命や医療水準から言って
紛争の当事者たちが都合よく病死してくれて、
なんとなく紛争がおさまった可能性もあると思う。
日本書紀は継体・安閑・宣化の年齢を記したのはどういう理由があったのか?
編纂時に資料(宣化紀末文にある伝記とか)があったからと言えばそれまでだが、
前後の天皇は年齢不詳なのが多いのに不可解だ。
高齢だから「寿命で死んだ」という言い訳のつもりで書いたのかと勘ぐってしまう。
実際、継体天皇は雄略天皇の従兄弟の孫なので即位の時点で60に近い年齢なのは奇妙に感じる。
68 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:03:45
日本書紀はほとんどの天皇の年齢を書いてなかったか
史料がなければ創作で書く
日本書紀と古事記で天皇の没年齢が違うのなんて当たり前
雄略天皇は末弟から帝位を奪うために
多くの皇族、豪族を抹殺した
結果、雄略天皇の後継ぎ清寧天皇が虚弱であったことで
それまでの大王の血が絶えた
顕宗、仁賢、武烈の各天皇は伝説的で在位期間も短く功績もほとんどない
この3天皇は実在せず継体天皇は雄略天皇の皇女を娶って即位した
という説もあるみたいだね
継体即位までの動乱期、前王朝の生き残った女子のなかから天皇がえらばれ
飯豊天皇が立っていたということはあるかもしれない
69 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 22:12:01
>>68 梁書には「乙祁」(オケ=顯宗天皇)の記事があるから実在だよ。
70 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:24:38
>>69 「梁書」に出てくる「乙祁」の名に基づいて
顕宗天皇が創作されたんでしょ。
「梁書東夷伝」には「倭」国の条があるが
ここには「乙祁」などという人物は一文字も出てこない。
「扶桑國」という国の条に出てくる。
扶桑國にいたという「乙祁」なる人物が日本人であるという論拠は乏しく
研究者も重視していないよね
71 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 22:32:50
>>70 倍暦計算にて
齋の永元元年=499年=顯宗即位元年
だ。梁書のそれは顯宗天皇だよ。3年国事を見なかったという話も
合っている。兄弟皇位を譲りあってたから、そんなことなんだろう。
だから実在だよ。津田病に感染すると、とたんに創作に早変わり
する。創作だったら、舎人親王は公文書偽造罪で準死罪だ。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
72 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:44:41
>>71 お前の倍歴などどうでもよろし
いい加減お前のいつものスレに戻れ
73 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 23:38:16
継体天皇は新羅王族の血筋でしょ
倭人じゃないよ
継体天皇と近江毛野臣が同一人物だという説もあるよね
あるいは近江毛野臣とは継体天皇の偽名とか…
任那での言動とか普通じゃないしありえそう
76 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 07:32:09
>>72 繼體の時代も2倍暦をやってるよ。関係ないのはお前だが、このスレでこの天皇
の年代を正確に把握するには、倍暦は必要。有関係なんだよ。
>>70 オケってどういう意味かと不思議だったが
そこから引いたのね…
雄略たちを五王に当ててしまったから60年ほどあった不自然な空白を埋めるために
清寧から宣化までが創作されたわけだ
78 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 12:43:08
いろんな説が入り乱れていて面白い。基本に戻れば、
継体天皇というくらいだから「(国)体を継いだ」天皇って意味でしょ。
わざわざこんな諡号をつけたってことは、
それ以前の天皇とは何かが違う。と、このくらいは想像できる。
越の国のほうから来た=日本海側は半島と関係が深い。
だからって、すぐに半島人とは言えないが、無関係ではなさそうだ。
あるいは、当時の半島と列島を区別するのって、さして意味はないのかもね。
79 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 13:42:41
>>76 繼體の時代は2倍暦ではないだろう。
計算が合わない。
80 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 15:30:56
九州王朝大好きさん
合わないのは貴殿のどこかがおかしいんだと思いますよ。
以下の表 ↓ の文証を見て下さい。
【繼體紀関係記事の日数統計表】
1日 3 15日 0 29日 0
2日 0 16日 0 30日 0
3日 2 17日 0
4日 2 18日 0
5日 3 19日 0
6日 1 20日 0
7日 2 21日 0
8日 1 22日 0
9日 2 23日 0
10日 1 24日 1←即位直前楠葉宮へ行く(1/24)先帝世の通常暦での記録
11日 1 25日 0
12日 0 26日 1←百済太子死亡(7年8/26)半島の通常暦での記録
13日 1 27日 0
14日 2 28日 0
上表のとおり、当時の1ヶ月は1日〜14日の2週間です。だから15日以後の記録
は繼體の朝廷によらない二つの別物を除いて、全てが月前半の2週間内に収まっ
ています。つまり繼體の時代は2倍暦法をやってたんです。
81 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 16:53:18
ひゃあ、説得力ありありだな。
でも2倍暦の正体(使用した理由)は何?
農業生産に関わるんだっけ?
太陰暦、まして太陽暦が入ってくるのは先の先として、
まあ、これは自分で調べないといかんな・・・。
82 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 17:51:19
>>81 武烈以前のある時代大幅に倍暦をやっていたもので、皇統の危機
から窮余の策として繼體が天皇に推薦されて即位したという新規の
出来事のため、允恭〜武烈までしていた通常暦の行使を改めて、
別なる2倍暦法に踏みこんだということでしょう。
>>80の統計表から観て、即位直前の1/24に楠葉宮へ行っていたこと
からも推察できますが、前年末武烈が崩御し、1月末近くに同宮へ
行っていたことは、まだ繼體以下の取り巻きが取りこんでいて1月
即位に間にあわなかったためか、2月即位したことにより、繼體より
前の先帝らの即位で2月即位なのは両者が2倍暦行使の懿徳と履中
だった過去のことから、この2倍暦を採用したんだと思われます。
懿徳(2/4即位)世も履中(2/1即位)世も2倍暦法を行使しており
ます。懿徳の即位日を日まで同一として繼體は2/4に即位しています。
原資料に
九月とあったら一日から十四日
九月中とあったら十五日以降
三国史記には月の記載しかない、日本書紀の原資料も同様だったと考えられる
84 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 19:51:22
大陸は一部的に例外はあったろうが、そのころ倍暦はやって
ないだろう?
>>84 どういう意味か分からない
「そのころ」っていつのこと?
門脇禎二によると
允恭、顕宗…飛鳥
安康、仁賢…石上
雄略、武烈…泊瀬
清寧、継体…磐余
という様に宮が繰り返されているから、 これらは必ずしも信じがたい。
一方は他方と比べて存在感が薄い。天皇を二倍にした副作用だろうか…
87 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 20:37:45
補充
だから三国のときの大陸。あちらのことは詳しくないので大ざっぱ
で失礼。
ただし半島で一部倍暦行使の気配あり。
88 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 20:43:08
>>86 これらって何だろう? これらの何が信じ難いのか?
あんたは「上旬だけの月が存在するのは自分の常識的に考えられない
から二倍暦の可能性がある」という論法だよな?
宮の順番がループするのは作意的に感じます
90 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 20:54:19
>>89 それはお前の考えしすぎ。お前はお前の家に出勤帰りに1泊のみで
もう自宅に戻らないのか? おれなぞ毎日自宅に帰ってるぞ。週に
2〜3回同じコンビニに買い物に行く。こういうことはひいきの
作為で同じ店だ。なにもおかしくはないぜ。ww
追いつめられて焦るとおかしなたとえ話はじめるよね
奈良時代に使われた干支を計算する棒が出土しているけど
継体の頃には何かなかったのかな?
フトクニはNGでおk
>>87 お前はアチラもコチラも詳しくないだろ《笑》
蘇我氏は稲目で事実上歴史の表舞台に出て来たので
継体が連れて来た(一緒に来た)一族と見ていい
>>94 黒岩重吾の小説がそんな設定だっけ?
稲目は35年も大臣やってて何歳だったのかな?
97 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:14:15
黒岩重吾は「蘇我は百済王族」「継体の母は新羅王の血縁」説。
98 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:40:19
金村が連れてきた時の継体は57歳。こんなジジイが手白香をはらませられたのか?
欣明の本当のパパは大和の豪族だったのでは?
傀儡にするつもりで越前で見つけた継体が、思いがけず野心家だったので、大和へは入れなかった。
継体は、実の子は安閑と宣化だったので、だれの種かわからん欣明を嫌った。
欣明を天皇にしたかった本当のパパが継体・安閑・宣化を皆殺し。(ソース『百済本記』)
99 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:42:59
>金村が連れてきた時の継体は57歳。
実際には30代か40代だったと思う。
あと、満55歳で子供作った人を知っているよ。
100 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 22:51:23
>>91 別に追い詰められてはいないよ。記紀は探偵小説ではないぜ。
探偵小説だとそういう疑念がいくらでも出て、そのへんから事件の
解決になるというものだ。だが記紀までそんなやり方だと何でも
かんでもおかしくなる。そういう疑念は妄想に直結しやすいから、
もっと素直に解釈したほうがいい。さっき言ったと思ったが、創作、
デタラメ文をやると舎人親王一派は重罪でタダではすまない。行く
宮が循環してくらいのデタラメで、何の得が親王らに入るのか?
そんなウマイものはないだろう。
干支は当時通常暦でやってたのと倍暦(←秘匿ものか?)でやって
たものと、両者の暦法が交錯してからの干支のものの3通りあっ
たのではないかと想える。そういう棒とやらがあったんなら、教えて
くれたまえ。
私の生まれは丹波の桑田郡です。
幼い頃から、祖母に「お前のルーツは倭彦王だ。」と聞かされてきました。
彼は兵を見て山に逃げ込みましたが、私も争いごとが大嫌いです。
もしも大伴さんが継体ではなく、私の祖先を選んでくれていたら、軍人ぎらいの系統で、
大東亜戦争とかもおこさず、原爆や空襲で国民は死なずにすんだと思います。
102 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 22:55:50
>>98 神武も50歳くらいで嫁をもらっているようだ。五十鈴媛とかいう
のもそのへんかららしい。だから可能性は相当ある。英雄色を
好むとか、歳がいっても歴史ではありうることだ。
>>99 手白香はババアだったから欣明を産めるのか?
樟葉宮で即位した時そんなに若かったなら、80代で死んだというのも間違いなのか?
>>101 欣明はあの武烈の血をひく、手白香の子だからね。人の血を見るのは大好き。
異母兄弟や父を殺す事も平気だったんだろ。
原爆落ちてもひとごとみたいに「あ、そ。」と言った昭和天皇は、確かに武烈の子孫だよ。
>>103 武烈の姉だから結構若いのでは?>手白香
昭和天皇は本土決戦したかったみたいだし
守りたかったのは天照だけ
106 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 02:33:04
>>105 昭和天皇が本土決戦を主張した?
ホントかよ。有り得ないとは言わない(皇族は世間知らずだからな)が、
初耳だ。国体(≒天照)護持にこだわったというのなら分かるけどな。
107 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 02:46:29
ああ、そうか。
原爆投下に「あ、そっ」と言ったり、
無謀にも本土決戦を主張したのは朝鮮人の血ってことか。
確かに将軍様とイメージがダブルな。
ちょっと信じられんが。
110 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 03:08:44
>>109 ときどきこう返されることがあるが、
オレはそんなにヒマ人じゃないよ。
ネットおたくの君と一緒にするなよな。
世間は広いぞw
111 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 03:53:08
リアクションが早い!
112 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 04:03:49
一面識もない人の書き込みを
既成事実のように「自演」と決め付ける神経。
現実世界でビジネスをやってる人間にこういう人はいない。
いたら役立たずで、少なくとも営業の現場には出してもらえないだろうなw
てか、ここは継体天皇(日本の成り立ち)を語るスレだから、
不毛なキャッチボールはこれでやめましょう。
スレ違いだから。
古代史のロマンを無理矢理現代の方向に
降って変な政治色に染めないで頂きたい。
手白髪命の生年の上限は分かっているので507年の時点で二十代以上の可能性はゼロ
115 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 04:23:18
森鴎外の『諡号考』は絶版なのかな?
近所の図書館で全集から全ページコピーすれば?
つーか寝ろよ
118 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 04:39:12
ああ、そうですね。
全集には(当然ながら)入ってるんでしょうし。
入ってなかったら問題だが。
とにかく、ありがと。なぜか気がつかなかったw
ちなみに『帝諡考』な
120 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 04:49:07
同じ五世の孫なら応神五世より仲哀五世にしておけば良かった
今の日本がこうなったのは すべて大伴金村に責任があるが時効だな
>>100 すまん、平安時代だったようだ。
森浩一氏の「古代史おさらい帖」(筑摩書房)というのに簡単に紹介されてるが…
大したものではなさそう。
> 舎人親王一派は重罪…云々
皇室の歴史をより長く延ばしてやったら重罪とは意味不明です。
たいへん立派な心がけだと思うよ。
本来倭国の王だった「多利思比狐」の一族をぶっ殺して天皇家を創設した男の娘が当時の天皇だもの
おべっか使っても損ないでしょ?
123 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 11:23:11
今も公文書をやりゃぁ〜公文書偽造罪で逮捕だよ。お前の妄想だな。
津田病に罹患してる。ww だいぶひどいぞ。
引き伸ばす理由がないだろうがね?w 大陸の歴史より古くするなら、その
くらいでは足りっこな〜い。むこうは三皇五帝がいる。始皇帝より古くしても
いっこうに夏、殷にも及ばない。利害がなけりゃぁ偽造するのは馬鹿だ。それが
あるから悪いことをしてもうそをやる。前660年くらいじゃぁ中国には勝てまい。
だからそれは引きのばしたんではないね。大陸が通常暦で日本が倍暦だったから
年代があわず、舎人一派は調整の失敗で年代が延びざるを得なかったというのが
真。故意にやるなら夏、殷よりも古くするぜ。www お前の大妄想!!ww
あ〜ん軽犯罪法なのか〜ほぅ〜?www これはこれは? Pu!www
天孫降臨して179万2470余年だから支那より余裕で古いけど…
125 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 14:14:50
だったらどうなんだ?
127 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 20:20:14
だったらそれで拡張しないでいいだろう? 其の伝説で中国に勝て
るなら、なにも拡張誇示をする必要などあるまいが。ww
何を言ってるんだ、お前は…
日本書紀を編纂した支配層は前王朝から不当な手段で皇位を纂奪した。
これをまず認識する必要がある。
さらに、その出自を越や近江あたりの田舎豪族と素直に書くわけにはいかない。
支那の歴史書には自分たちとは全然関係ない過去の支配者について記載されていて、
すべて無視するのは難しい。
ではどうするか?
129 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 20:58:12
なんだ、前王朝っていうのは? 九州王朝か?
もっと具体的に云え。
130 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 21:02:39
ははぁ、そうか。武烈のことを云ってるのか? オマエどうかして
るんでないの? 記紀がいつから探偵小説になったのか?www
Pu!!wwwwwww だからそんな妄想に走るんだ。wwwww
オマエこそ創作の天才だな。wwwww
131 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 21:12:02
不当な手段で皇位を簒奪したなら、最初からコッソリと朕こそは
武烈の皇子だと書いておけとしたほうがよっぽど奪取なら好都合
だろうが? 朕こそ武烈の后から生まれた男だと書いておけば、
田舎豪族とならないで済むだろうが? 要するに最初から皇太子
だとしておけばいいではないか? なぜそうしないんだ? それで
簒奪をヒタ隠しにすりゃぁいいではないか? どうしてそうしなかっ
たんだね???wwwwwwwwwww
そうだね。欠史八代のように直系相続の系譜を捏造すれば良かったかも。
簒奪劇はなかっただろ。
大伴金村が引き続き大連だし。
>>131 そういうのは天智天皇で使ってしまったから
どう考えてもコイツは舒明や皇極の子じゃねーな
135 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:55:29
>>133 そこなんだよな。
大伴金村幹事長が留任で、総裁だけ交代したようなもんか。
金村は大連とされたのは日本書紀編纂時で継体の時代はただの『連』だったのでは?
古事記では『大伴連』だし
>>94 継体は日本神話には全く関係ない存在だろ。
岩井の反乱を鎮める為の軍事力として使われた。だから樟葉や高槻あたりの淀川に基地を構えた!
前スレから続く欽明と蘇我の謎解きが必要なんだが…
138 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 10:56:50
欽明は「父祖の地(任那)を回復せよ」と遺言して死んだ天皇だろ。
でもって、当時の大連職は大伴氏から蘇我氏に移っていた。
以後、大伴氏は衰退していくから、蘇我氏に取って代わられた形。
任那は百済に4県を割譲した大伴金村の失政(?)が元で新羅に併合されたんだから、
これに怒った欽明が金村(大伴氏)を遠ざけて、百済渡来系の蘇我氏を重用したと考えれば、
いちおうは整合性があるよね。
蘇我氏は謎の一族らしいが、渡来系で朝鮮王族だった痕跡が残っている。
金村が百済から連れてきた蘇我氏(飼い犬)に手を噛まれた――。
仮説とも言えない仮説だけどさ。
百済にも新羅にもいいようにやられた上、任那にも愛想尽かされる欽明天皇って一体…
>>139 女性と馬をむりやりセックスさせてニタニタ見ていた武烈天皇さまよりもマシ。
141 :
48:2008/09/19(金) 21:25:47
>>140 そうか、武烈は朝鮮人だったのか。
教えてくれてサンクス。
>>138 記紀では
蘇我は武内宿禰(8代孝元天皇の孫)の子である蘇我石川宿禰から
派生するとはっきり書いてあるが・・・
143 :
48:2008/09/20(土) 01:01:17
>>142 それがさ、何だか疑われてるみたいなんだよ。
記紀をどこまで信じるかだが・・・。
記紀は天武王朝の元正時代にできたんだから、
別に蘇我の出自を偽造する必要もないようには思うんだ。
もう少し「お勉強」してみるよ。
144 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:21:33
武内宿禰の子孫とされる豪族は半島進出に関わってるの多いから
倭人でありながら韓人だよね
145 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:09:41
韓人?
その時代の韓って中国人の国だろ。
146 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:21:16
任那だろ。
147 :
48:2008/09/21(日) 20:38:17
138はオレが書いたんだけど、いい加減で赤面するばかり。ごめんなさい。
当時の大連は大伴氏と物部氏が共に務めていて、
大伴金村の失脚は、蘇我氏ではなく物部氏の告発によるものだったらしい。
蘇我氏は馬子の時代に「大臣」に就任して、大連を独占してた物部氏と対抗した。
武内宿禰(どうも伝説の人だよな)が大臣職の代名詞みたいな人だから、
蘇我氏の祖先に仮託されたのかもしれない・・・。
時間ができたら、もう少しキチンと調べてみたい。
『韓』は中国の戦国時代中原にあった国なのに
朝鮮人はなんで『韓』なんて名乗ってんの?
トンデモ系の古代史本はどうやって判断すればいいんですか?
150 :
48:2008/09/21(日) 22:30:32
>>149 難しい問題だ。
なにしろ何の証拠も残ってない世界の話だからね。
最後は自分の直感で判断するしかない。
できれば「単なる勘」ではなく、深い「お勉強」の成せるワザとしてさ。
証拠の有無と詭弁について覚えるといいでしょう
152 :
48:2008/09/21(日) 23:16:57
詭弁っていえば、
ここは詭弁レスばっかりだな。
オレみたいなのは消えたほうがいいかもねw
継体に関して言えば くたばった年が書紀と古事記で食い違うという客観的事実を知る
次になぜ違うのかを主観的に説いたいろんな本を読む
その中で一番共鳴できる説を自分で選ぶ
選択時のポイントは その説が論理的か否かだ
今城塚見てきた。
周りがフェンスで囲まれていた。
将来的に公園になるらしい。
周辺住民とは和解したんだろうか?
157 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 08:56:35
荒らし放題の天皇陵だったので、宮内庁はそら激怒して住民の意見は完全無視で
工事をやるよな、住民は里山として数百年まえからなじんでるのでそら、あつれきは大きく
>宮内庁はそら激怒して住民の意見は完全無視で工事をやるよな
あらららら.....
159 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:50:42
保守
>>148 最初の韓
西周の初期に今のペキンのすぐ南(現在の地名では「固安」)に「韓」という
都市国家があって、それが「ふたつの韓」の共通の起源にあたる。(周の武
王の弟が侯爵として封建されたもの) 周の成王の時、今のペキンには燕が
建国されて入れ替わりに韓侯は山西省の西南(韓原)に国替えになった。
韓氏という姓
その時に都市国家の市民は移動せず取り残され「韓」を姓として河北省
方面に散らばった。 だから後世まで河北省には韓という姓が多かった。
項羽と劉邦の時代に燕王を称した「韓広」なる人物もこの韓氏の一人。
中原七雄の韓
戦国時代の「韓」というのは何か。 まずその西周時代の韓は、山西省の西南(韓原)
に移転した後、AD757/756年には晋に滅ぼされてしまう。 その跡地は、晋の公室
のひとり、「萬」なる者に封領として与えられた。 これが戦国時代の「韓」のはじまり。
この人が韓武子(韓萬)で、戦国の七雄の”韓”の初代にあたる。(韓萬=韓武子)
参考資料
(『史記韓世家』及びその注)
韓之先與周同姓、[一]姓姫氏。其後苗裔事晉、得封於韓原、
[二]曰韓武子。武子後三世[三]有韓厥,從封姓為韓氏。
[一]索隱按:左氏傳云「[干β]・晉・應・韓、武之穆」、是武王之子、故詩稱
「韓侯出祖」、是有韓而先滅。今據此文、云「其後裔事晉、封于韓原、曰韓武
子」、則武子本是韓侯之後、晉又封之於韓原、今之馮翊韓城是也。然按系本及
左傳舊説、皆謂韓萬是曲沃桓叔之子、即是晉之支庶。又國語叔向謂韓宣子能
修武子之[王永]、起再拜謝曰「自桓叔已下、嘉吾子之賜」、亦言桓叔是韓之祖
也。今以韓侯之後別有桓叔、非關曲沃之桓叔、如此則與太史公之意亦有違。
[二]正義括地志云:「韓原在同州韓城縣西南八里。又韓城在縣
南十八里、故古韓國也。古今地名云韓武子食菜於韓原故城也。」
[三]索隱系本云:「萬生[貝求]伯、[貝求]伯生定伯簡、簡生輿、輿生獻子厥。
>>148 楽浪郡の実情
一方、前漢代になって楽浪郡に移民した中国人について。 楽浪郡の遺跡研究は戦前にす
でにかなりのレベルに達しており、楽浪郡の住民はほとんど王氏と韓氏の2氏で大部分を占
められていたことがわかっている。 このうち王氏というのは山東半島の名族で、王氏を称し
たのは山東系の移民と思われ、後漢時代に謀叛をおこし6年間にわたって楽浪郡で独立政
権を維持した「王調」、日本に漢字(と儒教思想)を伝えた「王仁」はともに山東系楽浪王氏
と考えられる。 王氏についで多いのが「韓氏」で、韓氏はすでに説明したように今の河北省
に多く、これは西周初期にペキンのすぐ南、今の固安に建国された「韓」が、後に河南省に移
転した時にとり残された住民が称した姓だとされ、項羽と劉邦の時代に燕王を称した「韓広」
なる人物もこの韓氏と思われる。 つまり王氏は山東系、韓氏は河北系の移民ということ。
真番郡の実情と「韓」の出現
で、このことからしたがって、楽浪郡のみならずそのさらに南の真番郡でも類似の事態、つ
まり移民の多くは王氏か韓氏だったろうと考えられる。 真番郡はAD82年に廃止され、住民
と土地は漢帝国から放置されてしまった。 早ければ王莽の頃(紀元前後のあたり)遅くても
AD44年には半島に「韓」を名乗る勢力がいた。 (三国志東夷伝をみると馬韓は先住民の
ようだが、辰韓・弁韓の言語は秦の言葉と似た中国語だったようだ。秦語というのは長安
(秦)に都があった時代(前漢)の標準語) 住民はその頃までに自立して王を立て国名を称
したと思われる。 その王の姓は十中八九「韓」であろうから、国名を韓と称したのであろう。
>>148 箕子説話
魏略が拾ってきた伝承では箕準(箕子の子孫)が馬韓に入ってきて王になるわけだがな
ぜか子姓(殷王家の姓)でも箕氏でもなく(すでにそこは韓だったから)韓氏を称したと
いうことになっている。 (箕子到来伝説には史実性はまったく無い)これは中国系の人々
が箕子にこじつけた頃にはすでに「韓」の名は自明で韓の由来を説明できなくなっていた
ということだろう。 箕準とされた人物は実はもとから韓氏を名乗る中国系の人物で、真
番郡廃止後、一時的にせよ現地をとりまとめて王となったのだろう。 でなければいくら
中国系の人々が有力でも韓が真番にかわって地名になることは考えにくいし、一方、魏
略所載の伝承から箕子伝説をさしひくときわめて整合的であるように考えられる。
朝鮮の「韓」の初出
「韓」は半島の南半分だけをさす言葉としてはAD44年から。 (魏略所載の説話
伝承まで認める場合にはAD21±1年だが、正式には後漢書記載のAD44年から)
>>148 「韓」という名称/その他の諸説
本項で述べたところの朝鮮半島の「韓」の語源についての所説は、若干の補足
追加を除けば、学界の通説とほとんど同じである。しかるに書店にならぶ通俗書
やネット上では、すでに捨てられたかなり古い学説や、トンデモ説の類が、あたか
も常識であるかのように堂々と述べられている。まったく嘆かわしいが、知識のな
い者に免疫をもってもらうため、それらの珍説を以下に紹介しておくものである。
1)君号転化説
旱岐・加・汗みな語源が同じ、王・首長の意味。もと王をさしていたの
が転じて国をいった。『桓檀古記』もこの説で韓国人・朝鮮人に人気。
馬韓・番韓(弁韓)・辰韓は天王・地王・大王(人王)の意味という。
2)加羅語源説
加羅[kala]→[kal]→[kan]→[han]韓 ※これだと辰韓や馬韓が説明しにくい。
3)農耕社会由来説
水田の畦を意味する韓国語カンナラ→が韓になった。もと農地をさした語が国
名になったという説。李炳涛の説。(※当時の韓国語の実態が不明なので弱い)
4)電波説
ハンは檀君以来の韓国固有語。白、光、大、人、天、王、
など全部で22個の意味をもち宇宙の根本原理を表す。
※以上1〜3、すべてハン(かん)という音は説明できても「韓」
という当て字が選ばれたことは説明できない。 4は問題外。
>>138 >欽明は「父祖の地(任那)を回復せよ」と遺言して死んだ天皇だろ。
父祖の地などとは言ってない。
いい加減な事を言うな。
>蘇我氏は謎の一族らしいが、渡来系で
>朝鮮王族だった痕跡が残っている。
どこに残ってるのだ?
東漢なら分かるが。
いい加減な事を言うな。
165 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:51:55
黒岩重吾さんは
「蘇我氏は百済王族」
説を生涯となえていた。
166 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:53:58
133 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/09/18(木) 21:44:36
簒奪劇はなかっただろ。
大伴金村が引き続き大連だし。
135 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/09/18(木) 21:55:29
そこなんだよな。
大伴金村幹事長が留任で、総裁だけ交代したようなもんか。
民主党も永田メールで前原代表が辞めたが、鳩山幹事長は留任している。
>>18 摂津には事実上王権が並立していたと考えるのが妥当なのでは?
河内の古墳との編年合わせをもっと進めて欲しい。
雄略の後、徐々に摂津が勢力を増していたのでは。
それからよく継体の後、継体系が大和に向かい入れられたと言われるが、
物部家と蘇我家と大王家の関係を考えると、継体系が大和に侵入し、
乙巳の変で完全に大和を掌握したと考えるのが妥当では?
向かい入れるというのはヤマト系万世一系脳なのでは。
大津京や壬申の乱の戦いの舞台が近江だったのも、
この辺の力関係が原因だと考えれば良く理解できる。
168 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 12:01:20
>>167 > 大津京や壬申の乱の戦いの舞台が近江だったのも、
これは地勢的、地形的な理由が大きいのではないだろうか?
169 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:07:45
蘇我氏は中央アジアのサカ族説もある。
このサカはインドに入って釈迦族になったし、蘇我氏が仏教信仰を推進したと言うのもうなずける。
170 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/24(火) 20:21:06
古墳時代は2朝並立?
274年神功元年 皇861辛巳
301年 辛酉 神功47年 皇907丁卯 この年新羅、百済が朝貢←新羅300年条 この時点で19年加増されている。
312年壬申 神功39年 皇899己未 太歳←加増されていない 皇918戊寅←19年加増されていれば
312年仁徳元年 (313年癸酉)仁徳は西暦の干支を使用
364年仁徳53年 新羅を攻める=新羅本記参照
神功時代は実質50年
324年甲申 応神元年 皇930庚寅
312年仁徳元年より武烈までこの系統は続く
507年応神の系統 継体になる。
171 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 01:19:28
>>165 だから蘇我が渡来系なら、
勝ち組の藤原が、喜んで堂々と新撰姓氏録に蘇我は諸藩(渡来系)と書いてるだろうに。
そう書かず蘇我は皇別と書いてるのは実際蘇我がそうだったからだろう。
権勢を極めた藤原と言えども他者の血筋まで捏造できなかった証拠だ。
172 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 14:21:21
5世紀の時代に、「越」が北陸 の事だと思ってるのは痴呆。
3−5世紀は、呉越の南朝の封国の地が倭だろ。鎮東大将軍が倭王なんだから。
478年の表を読めば、倭王が「先祖代々倭に来て蛮民を平定してきた赴任者の一族である事は明白」
越から来た、応神の5代孫 って時点で、南朝から来た以外にない。
5代前の応神というのは倭の5王記述から見て、初代の大陸側の王。
「封国」は貴族にしか使わないので、応神は南朝側の貴人だった事が伺える。
で、南宋が滅んだ直後(500年あたり)に、越から来た赴任した倭王が「継体」 つまり南宋を継いだ。に他ならない。
5世紀の「体」は、本国の南朝(呉越)な。
まあ、とにかく。倭王が南朝から「封国偏遠」してる身である手紙のやり取りをしてる5世紀のリアルタイムに、
次の倭王が「越」から来た。と記載されて、それを北陸だと思ってるって・・・・アホか。
173 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 14:36:47
ちなみ倭の五王の初代あたりは、大陸側でも相当格が高い。
なぜなら、宋書正史には、 400年あたりの倭王の使いが「司馬曹達」と記載されてる。
この時代、曹魏 司馬晋 の次であり 司馬と曹が、中国正史から見て使いとして
ありえないほど貴族名なのは明白。司馬を軍長位と指す場合もしかり。
倭王の軍が漢式の軍位を使ってたという事であり名が曹である。
どちらにしろ、それを使いとする倭に封国された「倭王」が相当の貴人であった事は明白である。
174 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:46:08
雄略みたいなキャラクターは日本史にはほとんど登場しないな。
信長と足利義教ぐらいだろう。
もっとも外戚の葛城氏を倒したので王家のパワーも弱まってしまったが。
175 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:02:11
>>172 >それを北陸だと思ってるって・・・・アホか。
北陸ですが何か?
大陸人なら堂々とそう書けばいいだけ。
遠慮してる理由をどうぞ。
176 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 23:14:13
倭王讃は応神だとして、その応神の部下は 司馬曹達
この時点で、倭王は大陸系だっつーの。
その応神帝の担いでいた宋帝は、479年に滅んだよな。
その直後の応神の五代孫が、越から倭に来て、倭で継体帝と呼ばれるわけだ。
で、こののちの200年の間になぜか、日本は完全に漢化。
で、呉越を滅ぼした隋帝への挨拶が、 東の天子宣言。
まさに 継体。
司馬曹達の司馬はふつうに将軍府の府官に擬したものと考えればよかろう
178 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:02:16
中国正史全体で見ても、「司馬曹達」ほどの名はそうはない。
500年以降に宋書を記した「沈約」が、440年前後の蛮国からの使いの名を
何故記する必要がある?それ以外の使いの記録はすべて「使い」であり名などない。
まして、蛮族が勝手に名乗る「司馬曹達」などもってのほか。
司馬が、軍位名であったにせよ、氏名にせよ、 その後に●達とあれば、
当時の歴史家は司馬八達という貴名を忘れるはずがない。
その●が 曹 となれば、 これ以上の貴名が当時存在したとは考えられない。
それを 沈約がなぜ、 倭王の使いの名前として70年後に記するのか?
宋の安東将軍の讃がそもそも倭人であったなど、どこにも書いてない。
記されているのは、「辺鄙の遠いところに封国され外に藩を作って蛮族を100カ国平定してきました」と
記した将軍の一族である。 普通に考えれば 大陸人。
179 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:05:06
>普通に考えれば 大陸人
考古学的に応神や継体が大陸人である証拠はないわけだが?
曹達は倭王にスカウトされた南朝渡来の知識人だろ、常考
181 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 14:59:34
つまり沈約によるアナグラムって事ね。
司馬+曹 が倭王の部下って「倭王って誰だと思う?」という暗号だな
182 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 15:11:26
司馬(役職)の曹達(姓名)?
司馬(姓)曹達(名)?
司馬(姓)曹(名)たち?
183 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 16:03:53
なにげに、司馬曹達 ってのは日本史中国正史ともに、
歴史上初めて登場した、日本からの使いの名前。
小野妹子より注目すべき。
184 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 16:07:38
天皇のルーツが中国だというのは初めて聴いた。
たしかに先行観念を排除して聴いてみれば
叙述上の論は貫徹されていそうな気がするね。
しかし他の文献で
天皇が漢人であるという記述はあるのだろうか?
185 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 16:09:14
>>普通に考えれば 大陸人。
君は鋭いことを言っているが
どこからその着想を得たの?
自分で気づいたの?
ネタ本があるのなら教えてほしい。
徐福伝説とか呉の太伯の末裔云々とか、昔からよく言われてるよ。
187 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 19:11:57
>>184 黒岩重吾の小説では
「卑弥呼=中国出身で戦乱を避けて倭に脱出」
というのがある。
何でも海の向こうから来た、というのが一番妄想が働くから、
少し前までは比較的まともな学者のものにも、
蘇我氏に限らず藤原氏にも帰化人説の網をかぶせていたけど、
最近の若手はそんな安易なデンパ説をとらなくなってくる傾向にある。
騎馬民族征服説なんて完全にデンパになってる。
蘇我氏に関してもそう。
ある程度古代史をやってきていれば、
蘇我氏は葛城氏の支流で、主流が衰えた後に、
帰化人を配下において台頭してきた、という基本的な事項は押さえている。
189 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:02:53
今の若い世代は国粋的なんだよね
いくらなんでも蘇我は渡来系でしょ
たとえば桓武の母親は?
蘇我全盛時代は、
蘇我が大和土着の豪族で、
摂津の方からやってきた一族と一緒に大和を支配し、
一緒にやってきた阿倍も蘇我と一緒に補佐する。
>>182 「司馬」は役職名で正しい。
百済が北魏に初めて遣使した時の副使が「司馬張茂」。
将軍は府を開くことができ、その府官には長史、司馬、参軍などの
僚吏が属する。征夷大将軍(右大将だったか)の幕府みたいなもの。
曹達は百済にいた漢人を倭王が雇い入れたんだろう。
そしてたぶん讃王は百済王に倣って
自らを将軍に擬し司馬職を曹達に授けた。
一方、高句麗、百済は長史を宋に派遣していたことがみえる。
192 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:50:00
公孫氏と通じていながら
魏が公孫氏を滅ぼしたら、翌年には魏に挨拶に行って、
銅鏡をもらって来るほど、国際通の倭王。
高句麗と100年戦争をして、半島を取り合う倭王。
時は、五胡16国時代
百済王が人質だったり新羅王が倭人だったり
倭王が、呉朝の将軍位だったり、
倭王の部下に、司馬曹達がいたり、
そんなコスモポリタンな時代の倭のイメージが、列島出身者で豪族が固まってる朝廷?
ないない。 そんなアホな。 倭王も周囲も大陸系いっぱいだと想像できるだろ。
193 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:22:27
>>191 重要なのは、司馬という官位が倭王側にあったことなんだよ。
むしろ、司馬(姓)曹達(名)なら、凄い名前の通訳を雇っただけだろ。でムリを通す事もできる
日本軍が中国式軍位で司馬職があって、その司馬職の名前が曹達 という中国人。
これはアウト。 安東将軍 讃とは、大陸系と考えるしかない。
また、表を読めば、讃の氏族は東西北の120カ国の蛮族を平定したとある。
列島で100カ国も平定するとなると、自身にも数十カ国程度の規模が必要だ。
しかし、日本列島の規模で数百国はない。百済新羅倭と各種東夷伝に出てくる一国の規模は50〜100カ国
日本列島の土着国を全て、外部から征服していったというニアンスである。
しかも、縄文弥生のルーツをもつ閉鎖遺伝子空間の軍隊にとって、100カ国の規模を相手に
蛮族と認識するのはおかしい。 その発想は大陸が列島の土着を指す認識である。
明らかに、東西北の120カ国の蛮族を平定とは
大陸から来た支配者の氏族の視点である。
>>193 >日本軍が中国式軍位で司馬職があって、その司馬職の名前が曹達 という中国人。
これでいいと思うけど、どのへんがアウトなの?
195 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:52:55
>>194 うん、中国式軍隊を持ち、中国人の曹達を司馬(軍長)とする
中国王朝の安東将軍の讃の氏族が、
日本列島の100カ国を「蛮族」呼ばわりして平定したと
宋書に書いてあるわけだけどね。
こう書けば、「讃」=大陸系 と100人が100人思うよね。
君は、讃が倭人 と思う方が自然なのかな?
意味が分からん。さすが珍説開陳スレとうたってるだけはある。
高句麗や百済も府官制を採用してたし、
王の臣僚がコスモポリタンなんても似たような状況。
毛人衆夷よばわりしてるからって倭王が大陸系ってのは説得力がない。
大陸系てのは具体的にどこ?
197 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 02:14:30
>>196 大丈夫君がわからなくても、みんな判ってる。
しかも、
封国される王が、被支配地の蛮族出身であるケースすら8世紀までの中国史で見た事ないよ。
君知ってる事例あるかい?
封国とは、そもそも蛮地に飛ばされる貴人に使われるケースが多いね。
そしてこの例、倭の蛮地に封国されたという安東将軍の讃が中国式の軍隊をもち、
その司馬(軍長)が曹達(名家だよ)で
その氏族が中国皇帝への手紙(表)で、封国地の100カ国を蛮族呼ばわりしてるわけだ。
蛮地の長が王として封国されたなどと、
封国の事例を倭王の用例で更新する必要はない。大陸系の貴人出身が倭王でツジツマがあう。
高句麗も百済もご当地は、漢の本土領土である楽浪郡であり王氏と韓氏の土地である。
そこに中国式の軍隊があってもなんの不思議もない。
>封国される王が、被支配地の蛮族出身であるケースすら8世紀までの中国史で見た事ないよ
キミが史書を読んでないだけでしょ。
親魏倭王の卑弥呼や高句麗王や百済王は
皇帝からみて蛮人でないというのかい。
とりあえず司馬曹達の司馬が姓氏だというのはひっこめたんだw
199 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 02:55:55
>>198 封国 の事例ね。 封国で調べましょうね。卑弥呼は封国されたのかな?
物知りな貴方に是非、6世紀以前の封国の事例で封国地の蛮族の長が王になった場合に、
封国 と記された中国正史の用例があったら教えてね。
司馬が姓氏? 俺は
>>173 の時から 軍の位である場合を指してるんだが w
200 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 03:04:54
ちなみに、封国は BC100年ころは確実に、
劉邦の氏族か
劉邦とともに漢を建国した豪族に、
遠方に直轄領土を与えて事で封じる事を指して使う言葉だよ。
以後も用例として登場してるのは、貴人を遠方に封じる時のみ。
中央集権制において地方の役人は一代限りだが、封国されると
その氏が先祖代々継承することができるんだがね。
ただし当然、遠方ね。
なんか話が通じてないようだけど、
宋が倭王を封国するっていうのは宋書のどのへんをさしてるの?
「封国」ってのは、倭王の上奏文中の「封国偏遠、作藩於外」のこと?
それだったら、類書をつかったり、百済のそれを参考にしてるといわれているくらいだから、
数百年前の「貴人を遠方に封じる時のみ」なんて約束事まで配慮してるかどうか
わかりはしない。
倭王が「大陸系の貴人出身」だったとする根拠にならない。
202 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 07:48:39
ここの論戦、けっこう面白いよ
最初は倭王大陸人論者が一方的に押してたけど
ようやく反論側に有識者が立ったからな
俺は中国貴人説を信じかけていたがw
もし珍奇な説で俺をダマそうしていたことがハッキリしたなら
そのときは罵倒を与える
203 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 09:26:07
>>201 十分話通じてるじゃない。
「封国偏遠、作藩於外 以外ないだろw」
君の反論は、全部 「百済の真似だろ」で終了か?
順帝への表があまりに完璧な漢文、→百済のマネだろ。
讃の軍隊が中国式→ 百済のマネだろ。
当時倭に漢式を与えられる情報源が百済だった事から
消去法で百済が出てこざるをえない、に過ぎない。
百済という寄り所に一片でも証拠があればいいんだが、
どこにもないんだよ。 倭王朝廷は倭人 という先入観を「論拠」にすれば百済しかないよな。
ところが、全ての実証物が、大陸系を指してる事実をそのまま見れば、
逆に一片も倭王朝廷が倭人である点が存在しないんだよ。
>数百年前の「貴人を遠方に封じる時のみ」なんて約束事まで配慮してるかどうか
数百年前? 6世紀以前の用例で見られないというのは漢文の用例事実であって
君はこの宋書が封国の新しい用例の第一号とするってわけだ?
ちなみに、この表はあまりに完璧な漢文である事は知ってるよな?
封国の用例だけ「勘違いだろ」で済ませるわけだ。
この沈約の宋書は、あまりにも調和的に、倭王=大陸の貴人 を指しているが
調和的というのは、日本の教科書を書き換えるほどの論拠にはならないんだな。
それより、倭王=倭人という大前提を優先する。
君がそれを優先するのは驚かないし馬鹿にもしない。
だが、調和的事実は 倭王=大陸の貴人 であって、
逆に倭人である根拠が一片もない。 それが事実。
204 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 10:58:17
「貴人を遠方に封じる」といっても倭国は海の向こうだから、
実際問題として封じようがないだろ。
205 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 11:48:04
周の時代の封国の地は、当時の蛮地、呉越
呉越に漢民族王朝時代の封国の地は、 ベトナムや日本くらいだろう。
貴人を封じるにはもってこいの地域だろ。
封じるといっても、貴人の子孫を王にしてその土地をその貴人の子孫に継がせる権利付き
待遇を封国と呼ぶので、超厚遇なんだけどな。
206 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:00:37
その説だと、日本の建国神話が
天皇家の故郷を南九州だと主張する点について
どのような立場をとるのだ?
207 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:42:03
神武天皇も中国の知識階級の家に生まれたという感じはしないなあ。
中国の兵法を知っていた雰囲気もないし。
208 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:45:07
ただ、秦が呉を滅ぼした時にそれなりの人数が海路、倭に逃げて来たということはあると思う。
あと、三国時代に呉の孫権が倭に遠征軍を送ったことになっているが
これは日本に上陸した形跡あるの?
台湾あたりに上陸しちゃったのかもしれないな。
209 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:47:14
南九州は三代だけですよ。
どこからか流れついた。
そもそも倭地を中国王朝の軍が占領したり軍を送り込んだ形跡が、中国史書にない
のにどうやって封国したんだ?未開の土地に派遣したら原住民がありがたがって
王様にしてくれたとでも言うのかね。
調和性以前に、史書に書かれてないことを勝手に補っていいなら、いくらでも、
歴史は捏造できるぞ。
>>203 そもそも倭国は高句麗、百済あわせて「夷蛮」「東夷」
といわれているのだから、蛮人か否かなんて争いようがないんだが。
漢人を倭王に封じたなんて記事もないし。
倭武の上奏の文脈は、なんとか宋から高句麗への膺懲を引き出そうと、
「作藩于外」「王道融泰」「廓土遐畿」とあるように、
自らが皇帝の御為に夷狄を討ち王土を拡げた譜代の忠臣
であることを強調するもの。
つまり「封国」という語も、臣たる自分は王土・畿内におり、
いわば内臣も同様なのです、だからお願いしますよとおもねる
文意に沿うものであって、「封国」される者が漢土の貴人を
意味していたとしても、あくまで倭武の自称であり、
その媚態(擬態というべきか)をなお強調するだけのこと。
百済の上奏文には「臣国」が用いられているが
これも似たようなものだろう。
いづれにせよ、こうした倭王の戦略的な外交文章の語句を
鵜呑みにするのは避けるべき。
212 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 02:25:12
>>210 全く意味不明。
史書(宋書)は、宋帝が任じた東方7カ国の安東大将軍倭王の一族代々の系譜を
記している。 史書にこれ以上ないくらい正式に書いてあるのに書いてないとは?
>そもそも倭地を中国王朝の軍が占領したり軍を送り込んだ形跡が、中国史書にない???
その中国正史に、 宋帝が任じた東方7カ国の安東大将軍倭王の一族代々が、
倭に封国され、貴人自ら甲冑をまとい、東西北120カ国の蛮族を平定したと書いてある。
しかも宋帝配下の安東将軍(讃)の軍隊は、中国人曹達が司馬(軍長)を務める中国式軍。
4世紀の倭と宋の関係を正式に記録しているのがこの宋書で、これ以上なく
明記しているんだが?他に正史は存在しないよ。君の脳内にあるのかい?
>>211 上奏の文は、倭王側の捏造に違いないと?
それが捏造ならば、それを根拠として
宋帝が7カ国の安東大将軍に倭王武を認めた という、表に続く文はよっぽど間抜けな話だねえ
で、沈約は、宋帝の将軍家安東大将軍の子孫代々続くの歴史文を、捏造としてとらえていて
それをワザワザ数十年分記載して、あまつさえ騙されて宋帝は大将軍の地位を与えたと
後世に伝えたいわけだ。
なわけねーだろアホか。 これは正史で書き手は意味をもって書いてるわけだ。
嘘が前提の表を紹介するわけねーだろ。
213 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 02:42:10
>>206 五の倭王について、記紀が一切記述してないだろ。つまり後の天武帝は
この祖先を自らの祖先と認めていないわけだ。それが事実かどうかは別として、
倭の五王は大陸系であっても、その時天武帝の祖先も別のところで豪族をやっていたかもしれず
それは十分にありえる。
自らの意見に自ら反証するのもなんだが、2王朝説は天武帝の態度からいってありえる。
八色の姓制にしろ、貴族を尊い系譜と尊くない系譜にわけたものだ。 なぜそのような事を
行ったのか理由はあったはずだ
214 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 04:59:59
今まで討伐された蛮族とは蝦夷や熊襲のことで
討伐している主体は主流倭人とされていたよね?
それが蛮族とうのは倭人全体で
討伐しているのは漢人だった、ということだね
書体としてそうなっているとして
実際、中国王朝が倭国にそのような部隊を派遣したという
別の資料はあるのだろうか?
中国の歴史記録能力からいって
そのような出来事を記録から漏らすなどということが
あり得るのだろうか?
>>212 >上奏の文は、倭王側の捏造に違いないと?
捏造じゃなくて文飾とか潤色というんだよ、こういうのは。
古典や類書の字句を用いて漢人ブレインが作文したであろうことは
とっくに指摘されている。きっと『漢書』も参照されたんじゃないか。
上奏文の前半部で文飾と潤色をもって自分の忠臣ぶりを切々と訴え、
後半部の「若以帝コ覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功」で
高句麗への膺懲ないし倭・百済への支援を請願しているが、
後者こそが上奏の肝要であり、武王(雄略天皇)の
もっとも望んでいたこと。
この3年前に百済が高句麗に滅亡寸前まで追い込まれているからね。
実際武王は百済の復興に努力してるし、高句麗の再侵攻も
防がなければならなかった。
もっとも、「竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」
と文を結んでおり、除正要求を仄めかしているけれど、
客観的状況をみるとそっちは二次的なことだ。
>>212 (続き)
>で、沈約は、宋帝の将軍家安東大将軍の子孫代々続くの歴史文を、捏造としてとらえていて
>それをワザワザ数十年分記載して、あまつさえ騙されて宋帝は大将軍の地位を与えたと
>後世に伝えたいわけだ。
まったく違うね。
武王の必死の請願もむなしく、高句麗への膺懲どころか、
倭・百済への具体的支援すらかなわず、「六国(七国じゃないよ)
都督諸軍事、安東大将軍、倭王」の授爵でお茶を濁されたの。
宋は革命寸前の時期で東夷同士の紛争にかまけてる余裕は
なかったろうからね。
つまるところ、外交は化かし合いというが、これはその好例だろう。
217 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 11:18:45
>>214 主流倭人 VS 蛮族倭人(120カ国)
はい、4世紀の時点でこんな数字はありえません。
その前に壱与がいて、その前に男王がいて、その前に卑弥呼がいたね。
君が信用する中国の歴史能力がそれを漏らさず記録している。
そこに登場する倭の規模は100カ国 主流というのは数でも勝るはずだよな?
総数200−300国か?そんな大規模な国が倭だったのか? 百済も新羅も30カ国程度だったはずだが?
「蛮族120カ国を平定しました」って安東将軍が宋帝にうたったのはまさに倭国の総数だ。
次、倭人の文化ベースは考古学的に全国均一だ。長い1万年の縄文を閉鎖された日本列島で
過ごしている民族である以上、もっとも均一な文化を全国的に継承しているのは当然だろう。
さらに卑弥呼の時点で統一国家として形を作っている。この中で、主流VS蛮族とは何を指す?
蛮族倭人120カ国を凌駕する主流倭人が、まだ漢化もしきれていない4世紀の時点でどのように成立していると?
着衣も言語も建物も基礎文化は同じだ。
遠い異国の宋帝に対し、自ら蛮族である倭人王が同胞を蛮族扱いする文を書くと?
それが宋帝側とコミニケーションとして成立するのは、倭王が支配者として宋帝側民族だった時のみ。
218 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 17:33:14
>>217 今までは「中国との交易で漢化された倭人」こそ天皇家の祖先で
彼らが同族であるはずの倭人を蛮族呼ばわりしたのは
単に輸入された中華思想の影響に過ぎず、
討伐したほうもされたもうも、民族的には倭人同士であることに
変わりはない、つまりそれは倭人同士の内戦である、とされてきた。
両者の分岐は漢化の度合いの差に過ぎない、とされてきた。
しかし実はそうではなく、この時期の史書にいう倭王とは
倭人ではなく、外来の漢人であった、というのが御説だね?
そして史書に漢人を日本に封じたとはっきり書かれていないのは
当時の人にとり、それはあまりにも当然過ぎる前提の既成事実であり
改めて書き足す必要性すらなかったからである、という主張だね?
そして史書はすでに、日本を平定したのは漢人であるという
前提で書かれているではないか、という主張だね?
219 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 17:45:03
今までの自分のイマージュだと
北九州に中国と交易を行うきわめて漢化された
優れた勢力が一部だけ存在し(これが古代天皇家の祖)
これが東奔西走して100にわたる周辺諸国を平定した、という
感じで把握していた。
つまり漢との交易を行っていないような地域は
人口も少なく、戦闘形態も幼稚で、
中華文明で武装した地域の倭人は、
人口も多く、戦術にも長け、したがって
もともとの自身の領地は狭くとも、
易々と周辺の広範な諸部族を従えることに成功した、
このようなイマージュで眺めていた。
これは違うのでしょうか?
自分には知識がないので、是非、詳しい方の反論を待ちたいです。
件の文書の体裁が整っているのは、単に倭人が文章を装飾した結果に
過ぎない、との論陣を張っておられる方も上のほうにおいでになりますし
ここらへんは知識のある人たちの論争を待たねば
にわかに信じられない感じがします。
なんか霊の存在とかと同じで、存在しないとアタマでは理解できても
気持ちがなんとなく怖い、これと同じで
アタマでは漢人かな、と思っても、心の部分でホントなのか、
という気持ちを拭えないのです。
220 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:10:20
>>218 素晴らしいまとめありがとう。 そのとおり
>>219 その説が現状の常識ですね。
もし、 倭王讃の使いが、司馬物部だったら・・司馬金村だったら、
もしくはただの曹達だったら、
倭王が宋帝に
封国辺遠・・自ら甲冑をまとい と封国貴人と自称しなければ
先祖代々蛮族を120カ国平定・・などと倭族を蛮族扱いしなければ、
どこか一箇所でも、倭王が倭人として自然な振る舞いが宋書に
あったなら、他の箇所を、全て”百済の模倣”と片付けてもよかった。
だが、どこにも倭王が倭人である振る舞いや扱いがない。
全箇所をこじつけるよりも、素直に倭王周辺は漢の封国貴族と考えればよいだろう。
ただし、倭の五王と、大和王朝が別であれば天皇はあくまでも倭人である。
倭の五王の後ろ盾の南朝は6世紀に崩壊したのだから、それをきっかけに、
倭族大和王朝が九州の漢族を倒して、全国統一したということはありえる。
畿内勢力=ダライ・ラマ率いるチベット
九州勢力=中国共産党
こんな感じかな?
222 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 01:43:15
宋帝→倭の五王 応神帝
↓ ↓
武烈 (天武帝により極悪非道に) ↓(五代孫)
↓
継体帝(天武帝により身分制度の基本帝に)
↑
天武帝が日本書紀と身分制度を決定
唐の皇帝と競って「天皇宣言」
倭の五王の記録は全く無視
天武帝の意思は、 5世紀と6世紀の天皇の断裂にある。
それはなぜか?
5世紀の祖先が、宋帝の臣だったことを隠したいのか
5世紀の祖先が、倭の五王(漢人)に遅れをとった大和の豪族だったのを恥じたのか
4世紀までの祖先は、少なくとも誰の臣にもなっていない。ではなんの継体か?
一、独立した倭王としての復活継体
二、宋帝亡き後の、継体
そのどちらかだろう。
223 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 18:25:00
高天原は高句麗。
高句麗からやってきた連中がヤマト政権をつくった。
224 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 19:15:39
>>219 倭人伝を 倭女王国(九州)と倭王(大和)に別けて読む。
倭国大乱登場人物
崇神(ミマキ イリヒコ イムナヰソニヱ)西暦188年4才で即位32才崩御
大物主、(フリネ又はフキネ)崇神6年までは、倭国の大王
伊支馬=垂仁 (イクメ イリヒコ イムナヰソサチ)西暦215年13才で即位41才崩御
倭王=景行(ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ) 西暦239年18才で即位46才崩御
都市牛利=タジマモリ 、 アメヒホコの4世孫、ホケノ山古墳に祀られる
240 伊聲耆掖邪狗=イワカ=六雁、大彦(169年生まれ)の孫=率善中郎將
240 難升米=倭女王の部下で大夫=率善中郎將
240 狗奴國=狗古智卑狗
ついでに書紀より
248? 倭女王卑弥呼=巾3尺の石
249? 男王=筑紫の大木
250? イヨ=五百野姫
日本の政治が変わるのは、景行時代に導入した「屯倉」経営から
親子の縁で始めたが、親(仲哀)が殺されたことにより分裂。
古墳の大きさは、この時代の自己主張。
225 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 19:19:13
南朝亡き後、正当なる漢帝を継承した としての 継体。
倭王と百済王はともに、南朝(漢)の大将軍。ともに漢軍を継体して、
白村江で唐(北朝)と最後の戦いをして敗れて、
百済王族も倭地に合流し、天武帝は倭を日本と改め、
南朝を継体した時を宋帝亡き後の6世紀初頭の倭王として継体帝と記紀に記録した。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 19:33:51
>>223 数詞対照表
古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 Φi1to2 −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 Φuta −− tu¨pっ¨l tuβっr tulh tu:l
(二尸) (途孛)
3 mi1 mil siet sei s∂ih se:s
(密) (悉) (洒)
4 'jo2 −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utsu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jul∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'ilkup nilgub 'ilgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jultap 'jっdщlp 'jっdっl
(逸答)
9 ko2ko2no2 −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to2'wo t∂k −− 'jっl 'jっlh 'jっ:l
(徳) (噎)
※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、李基文や板橋義三は
再構語形を[uc]としている。
けど、継体寄りなのは天智の方だろ。
大津京へ移って。
天武は飛鳥に帰っているが、
天智系に戻ると桓武でまた山城に戻してる。
両方の血を引いている聖武も木津、難波に移してる。
継体系、天智系は淀川水系が好き。
崇神の頃から大和と山城は戦ってる。
229 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:28:40
淀川水系が好きというより、
水運を利用しての交易振興や軍の迅速な移動に関心が強かったということだろうな。
230 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/03(金) 20:43:43
231 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:54:47
>>227 こりゃ、どう見ても高句麗が高天原だな。
232 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 21:03:29
高天原=加羅の金海の付近との説もあるが。
高句麗と戦っていた頃の倭国は半島と違って戦乱がなかった。
前方後円墳を乱造・巨大化するほど人口が過剰だったんだろう。
高句麗語に残る倭語らしい形跡は新天地を求めて海を渡った
倭人のコロニーが百済と高句麗の国境付近に長期間存在した証拠になる、
その倭人たちの大部分は基本的に兵ではなく単なる移民だったと考えられる。
国境に緩衝勢力を設置したのは百済の意向だろう。
倭国としても国内の過剰人口を整理できて利害は一致している。
234 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 12:01:15
南朝亡き後、正当なる漢帝を継承した としての 継体。
宋帝亡き後、南朝(南斎・梁)派と南朝(独立継体)派に分かれる。
梁の時代になると、鎮東大将軍倭王武は南朝の中でも重鎮である。
南朝の軍閥のひとつが梁として継体していても、それに遠く離れた倭王陣営が
一枚岩であるはずがない。それが磐井の乱である。
531年、南朝(南斎・梁)派の王子は殺され、独立継体派が倭王となる
独立継体したはいいがそんな中、蘇我一族は北朝(隋唐)と仲良くして尻尾すらふりかねない裏切り者の勢力である。
反北朝派の天智帝は、蘇我を滅ぼし、南朝継体国の倭として国内をまとめる。
倭王と百済王はともに、南朝(漢)の大将軍。ともに漢軍を継体していて、
そして白村江で唐(北朝)と最後の戦いをして敗れる。
九州勢の天智帝は失脚。近畿勢の天武帝が政権を取り、
百済王族も倭地に合流したことから、天武帝は倭を日本と改める。
天智の子孫は南朝を継体した時を宋帝亡き後の6世紀初頭の倭王として継体帝と贈り名した
まあこんな感じだろう
235 :
ビリー・ザ・マッド:2009/04/06(月) 00:16:02
南朝貴人説はなかなか面白いんだけど
もうひとつ説得力に欠ける気がするなあ。
「貴人」っていうくらいだから名前か間柄くらいは残ってもいいようなもんだが。
劉裕の甥とかハトコとか。
>>218の
>そして史書に漢人を日本に封じたとはっきり書かれていないのは
>当時の人にとり、それはあまりにも当然過ぎる前提の既成事実であり
>改めて書き足す必要性すらなかったからである、という主張だね?
>そして史書はすでに、日本を平定したのは漢人であるという
>前提で書かれているではないか、という主張だね?
って、無理やりっぽいんだが・・・はしょりすぎてね?
>>234 >南朝亡き後、正当なる漢帝を継承した としての 継体。
漢帝って意味不明なんだが。
仮にそうだとしたら
漢帝 → 天皇
倭国 → 日本
に変貌していった経緯が興味深いな。
イヴァン3世みたいなもんか?
236 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 03:28:31
>>234 万里の長城以南の民族が漢だよ、
以北を蛮族として長城を築いて、
後の歴史でも万里の南を支配したことだけで、
初めて中国を統一した王を始皇帝と定義つけた民族概念が漢だよ。
決して、万里の北方まで統一した隋帝を初統一とは呼ばないわけだよ。
そして漢字て言葉があるだろ。
周字とも唐字とも宋字とも言わない。国名とは違う概念だ
南朝の時代は、その漢のテリトリーは遥か南方だけになってしまった。
国の名前は違う。でも彼らは漢の概念を禅譲、易姓革命で受け継いでるつもりなんだよ
その漢のテリトリーは、陳の崩壊で歴史から喪失したと思われてるが、
どっこい、倭王と日本人が漢字と呉服とともにそのテリトリーを引き継いでいるわけだよ。
歴史的にみて、南宋の時、倭王一族は代々倭の大将軍として日本を切り開いているわけで
南宋が滅んだ後479年以降は、陳が滅ぶまでの100年、ともに南朝陣営でありながら
陳には朝貢せずにいたわけだ。 南朝史をよく読めば理由は明白。
宋の次の南斎も梁も、宋代の将軍位が帝位を禅譲という形のクーデター。
倭王は、宋代に5代に渡って仕えた安東大将軍家。東国に巨大な6カ国の領土を有している。
このエリート将軍家がなんで、クーデターの将軍の配下に入るかっつーの
南宋が消えた後、本国でも将軍が継承したように、百済も倭もそれぞれ大将軍が
それぞれの国土を継承してった。それが漢テリトリーの南朝の6世紀の姿。
で、7世紀白村江で、百済王と倭王連合軍は、とうとう、北朝軍に敗れてしまい、
最後の漢テリトリー倭に引きこもってしまい、その倭を日本と改めた。
で、漢テリトリーの継体は天皇だけとなったわけだ。
237 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 15:30:35
>>234 ×
>>235 ○
文化的に、隋唐と倭 はともに同時期に漢化している。
隋唐は漢を 侵略(融合)側として、漢化。
倭は漢の 被侵略(融合)側として、漢化。
唐は、鮮卑とペルシャの影響も大きく漢化は9世紀までかかり
倭は、5世紀から一機に漢化が進み蝦夷を征服していった。
ガラパゴスのように閉鎖された環境で江戸まで、漢文明が純粋培養されたのが
日本である。 大陸側漢はモンゴルや女真族の支配下となったため、
チャイナドレスのように全く違った文明に変貌していった。
238 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 16:50:20
継体て、接着剤だよ!
239 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 19:46:43
継体が前王朝の血を薄いながらも引いていたとの意見も根強いが。
欽明は、継体の息子では無いだろ。
おまえの脳内ではな。
欽明の子孫が敏達・用明の子からしか続いてないのは欽明が象徴的先祖だから
敏達が皇位を継ぐため近江から来た時、糸井王・海部王の家を奪ったとあるから
本来、大和は記録に残らない王族がいたのかもな
243 :
ビリー・ザ・マッド:2009/04/07(火) 00:04:28
>>236 いや、だいたいわかるんだけど
「貴人」の正体の質問に答えてくれてねえw
>彼らは漢の概念を禅譲、易姓革命で受け継いでるつもりなんだよ
なんで古代日本の「大王」は姓を無くしちゃったの?
しかし確かに継体の境遇って司馬睿を連想させるよね。
蘇我氏はさしずめ琅邪の王氏ってとこかな?
あ、あくまでも仮説の一説なんだからね!
倭の五王が、高句麗をどうにかしたいのなら
泣きつく先は宋じゃなくて地質学的には北魏じゃね?という疑問があったんだが、
「北狄」だから、と考えればつじつま合うんだよな。
瓜歩以降は宋も南に後退していってたし。
あと、倭の五王の来貢期が劉宋の興亡と一年違わずピッタリ一致してるのも
偶然というにはあまりに出来過ぎてるのも気になってたんだよなあ。
あ、あと「南朝貴人」説を展開する人は番号でもいいから
固定HNつけてくんろ。主張の一貫性がまとめられんw
>>237 漢化漢化とはいうが、漢化とはなんぞや?
儒教でもあるまいし。中央集権化ってこと?
そのへんの具体的な説明を聞きたいところ。文化的、文明的に。
>ガラパゴスのように閉鎖された環境で江戸まで、漢文明が純粋培養されたのが
日本である。
ほ、本気で言ってるのか?
バッシングの嵐に晒される前に訂正したほうが・・・・
>大陸側漢はモンゴルや女真族の支配下となったため、
>チャイナドレスのように全く違った文明に変貌していった。
それ中華文明です。
245 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 01:06:51
>>243 貴人の正体ねえ・・俺も考え廻らすんだけどねええ
確度の高い倭王貴人論と、
単なる推論の
>>234 を同時に記述するだけでも、倭王貴人論も確度の低い話に聞こえるのに
貴人の正体予想を俺が書くと、倭王貴人論は珍説以下になっちゃうよ。
246 :
倭王貴人:2009/04/07(火) 01:57:25
大王の姓、あったと思うよ。
いみな っていう、貴人の本名は記述できない風習が
倭の蛮族の中では都合良かったんだろうな。
司馬睿 おおお まさにそれだよ笑 安東将軍の地位から帝に祭り上げられた正史の
100年後の安東将軍が 倭王讃 だからなあ。
安東将軍 が、蛮人の長に与えられる名前だと考えるのはそもそもおかしいんだよ。
蘇我氏はさしずめ琅邪の王氏・・ なるほど。
>>244 漢化・・ 国名としての漢ではなく 北魏の漢化政策と鮮卑民族主義の反乱からはじまり、唐の漢化まで
歴史学的に 概念としての漢化という用語は定着しているよ。
>>中華文明です・・・ いやあその考えは今の中共の近年の思想なんだよ。 満州国を建国した日帝は大陸の歴史を
それぞれの民族の栄枯盛衰としか捕らえていなかった。だから女真民族と漢民族とを別けていた。
20年後、中共は日本も含めてひとつの中国って言ってるよ。それが中華文明とかね
ああ、また脱線してしまった。
247 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 06:03:30
>>243 > 倭の五王が、高句麗をどうにかしたいのなら
> 泣きつく先は宋じゃなくて地質学的には北魏じゃね?という疑問があったんだが、
地質学的にどうこうではなく、軍事的に
北魏>>>宋
であることは当時から日本側でも把握していたのではないだろうか?
248 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 13:05:10
北狄が中原を支配して漢民族が南方へ民族大移動したくらいだ。
北魏の非漢文化は、漢文化圏の貴族には完全に敵だよね。
呉越の貴人候補
劉氏 曹氏 司馬氏 公孫氏 孫氏
どれも、遠方の倭に封国しておきたくなる血だよ
249 :
鬼畜バカ天皇死ね:2009/04/07(火) 13:44:37
ネット右翼の大物で政治家の息子、右翼人脈豊富な『遠藤健太郎』の逮捕に、
ネトウヨ界に衝撃が走る!
ゴミクズ 犯 罪 者 遠藤健太郎(36)容疑者
http://name☆card.exci☆te.co.jp/c☆ard/knnjapan
日華(台)文化協会理事・和歌山市議会議長(全国中核市議会議長会会長)
遠藤富士雄事務所の遠藤健太郎です。
「真・保守市民の会」代表。「KNN日本」主宰。
議員の不肖の息子ではございますが、「日本の平和を守る親日保守」を提言し、
行動して参ります。
この犯罪者の親、
和歌山市議会議長(全国中核市議会議長会会長)遠藤富士雄
http://knnja☆pan.hp.infosee☆k.co.jp/☆endof☆ujio.html
この鬼畜犯罪者が主催する凶悪右翼団体
真・保守市民の会
http://☆www.sh☆in☆hoshu.com/
この凶悪犯罪者のブログ
遠藤健太郎ブログ『KNN TODAY』
http://knn☆jap☆an.exblo☆g.jp/
糾弾・電凸の準備はいいな?
250 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 19:03:24
>>243 >倭の五王が、高句麗をどうにかしたいのなら
>泣きつく先は宋じゃなくて地質学的には北魏じゃね?という疑問があったんだが
北魏には百済が泣きついているが、すげなく断られている。
>>246 倭王に封ぜられた漢人貴族の姓名は何ていうの?
封地ないし種族の名称である倭とかじゃなくて、
さぞかし漢人らしい姓があるんだろうが。
新羅では唐の太宗に自分たちの一族を新羅王にしないか?と持ち掛けられた例がある。
その結果誕生したのが本来王位継承権がなかった金春秋だ。
日本でも似たような事があったのではないか?
252 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 21:01:54
倭は海中の僻遠のマイナー国家だから、それはなかったと思う。
歴史を妄想で語っても意味はない。
>>246 >司馬睿が安東将軍
ほんとだ、私もそこまで意識して例えなかったわwwww
歴史って、やっぱりおもしれーwwww
>概念としての漢化
う〜ん、抽象的すぎる。
たとえば、孝文帝なんか服装からヘアースタイルから公用語まで「漢化」して
極めつけは「俺、拓跋宏じゃなくて、今日から元宏な、」と
姓まで替えてしまう徹底振りだったけど
日本はせいぜい江戸後期からの「尊王」思想くらいしか思い浮かばん・・・
易姓革命も(建前では)一度も起こってないし。
>>246 >中華文明〜脱線
いやこれは非常に大事な要点だと思います。
>20年後、中共は日本も含めてひとつの中国って言ってるよ。それが中華文明
あからさまに侵略進行中ですもんね、今現在。
人海戦術で強引に融合するつもりなのミエミエですわな。
接した人は分かるだろうが、連中は、日本人を「他国の人間」とは思ってないです。
結局、歴史を学んだり掘り下げたりといった作業って、
今、もしくはこれから起こりうる問題を解決するに当たっての
有効なサンプルを見出すためだと自分は思ってますです。
>「中華文明」は今の中共の近年の思想
とはいうものの、「中華圏」が歴史を重ねるにつれて肥大してゆき
現在もチベット、東トルキスタン等を「浄化」しながら既成事実を積み上げ
拡大の矛先をシーレーンに向けている。
さて、歴史の教訓から、この国は動向どうやっていくべきか!?
257 :
倭王貴人:2009/04/07(火) 22:33:30
>>250 なんだろうねええ
安東大将軍になるくらいだからねえ
劉宋の高祖は、漢の劉邦の縁ありと言ってるくらいだから、
劉氏のブランドは高いね。後に実は縁がない事を認めてるらしいから、
本物の劉氏は、倭王にでも封じたいだろうねえ。
(この時代、中原の名家の生き残りは全部この「越」の首都建康にいる。
隋の時代の越州=会稽=南朝時代の首都地域)
高祖になる時の劉宋の縁者は多数いただろうから、
武勲を挙げた将軍を倭に封国したかもしれないねえ。
>>252 倭は海中の僻遠のマイナー国家
いやいや、南朝の時代の首都はあくまでも越「会稽」、周の時代には蛮地だから。
そこからみれば、倭の領域は巨大だよ。
>>257 倭王が仮に劉氏だとして、なぜ朝貢する際に倭某と称してるの?
素直に劉某とか名乗ればいいと思うけど。
>>257 >(この時代、中原の名家の生き残りは全部この「越」の首都建康にいる。
>隋の時代の越州=会稽=南朝時代の首都地域
細かいことだけど、南朝歴代の首都建康(現在の江蘇省南京市)と
会稽(浙江省紹興市)とは別の場所だよ。建康が呉で会稽が越。
ごっちゃにするのは感心しないな。
この頃の会稽は「千巌競秀、萬壑争流」と詠われたように
風光明媚な名勝地あるいは荘園地帯といった面が強く、
都市化はそれほど進んでいなかった。
260 :
倭王貴人:2009/04/08(水) 01:00:49
>>259 細かくて大丈夫。指摘も助かる。
実は俺も会稽に、建康は入らないと思っていたんだが、
司馬睿が15歳で封じられた琅邪王 の地域を調べている際に、
会稽とはそもそもこの南朝の地域そのものだということを知った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%A8%BD でも、歴史的に会稽の地理が移動している事がわかると思う。
でも地理を意識してレスをくれるのはとても嬉しい。
琅邪の琅邪台という場所は、歴史的に倭と縁が深く、 徐福の村である。
この琅邪湾は、南朝の代表的な湾で、この地から海洋に出た場所
この地が隋の時代に、越州と呼び名が変わるところが、継体伝説とつながる
261 :
倭王貴人:2009/04/08(水) 10:46:11
訂正
関係ない2つの内容を1つのスレで書いてしまって混同がある。
琅邪台の話と 越と会稽の話は 別の話。
逆に名前を書くことができなかった、って考えるのも面白いな。
例えば、孫恩の乱の首謀者の一人とか。
263 :
凶悪な知障麻生と鬼畜の身障天皇は死ね:2009/04/08(水) 15:47:57
・変態レイプ魔のクソ天皇が徘徊しています
・人殺し虐殺指導者のゴミ汚物キチガイ天皇が逃走中です
・顔面奇形障害者の天皇、皇后、皇太子が暴走中。目に毒です。
・淫売ブス売春婦(梅毒持ち)の不細工ビッチ皇后が不法営業中。保険局より。
・鬼畜クズ戦犯で凶悪犯罪者で殺人犯の天皇が逃亡しました。賞金10ドル。
・ニート精神障害者キチガイ馬鹿カルト不細工女の雅子皇太子妃が生活保護詐欺で逮捕。
・不逞バカ自意識過剰うんこ蛆虫カス野郎の秋篠宮が脱糞・失禁・食糞中。衛星上の難題。
・知的障害者で池沼でキチガイで精神障害者で変質者で変態で脳カタワの天皇が入院。
・ダメ人間クソガキ馬鹿キチガイ糞ゴキブリ廃棄物の悠仁が虐められています。
・知的障害者で発達障害者でアスペルガーで唯の馬鹿キチガイの愛子が発狂。
・戦犯鬼畜凶悪犯罪者で人殺し人でなし殺人鬼レイプ犯放火魔のクズゴミカス天皇は死ね。
・穢い臭いキモイ気色悪い病原菌の天皇・皇后・皇太子・秋篠宮・雅子・豚ビッチ紀子クソ淫売
・腐ったゴミ汚物の各種皇族 死ね
・鬼畜凶悪犯罪者で大量虐殺レイプ犯のクソ天皇は死ね!!!
264 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 17:37:59
かも論1
劉裕は、晋皇室から禅譲を受けてるから、
倭王は司馬じゃないか?正当性を維持するには前皇帝の一族を全部敵にするのは下策
東晋の高祖(司馬)が安東将軍から晋帝になった経緯があれば、
倭に封じた司馬一族の誰かを安東将軍にするのは妥当。
宋書にある、倭王の使い司馬曹達はそのサイン
かも論2
越は周王家から1000年続く封国の蛮地。この時代に中原から流れてきた
新興貴族、劉、曹、司馬 とは全く別の古い貴族の名家がゴロゴロしてるんじゃない
彼らは名前を封じられたまま倭に押し出されて封国されたとか
かも論3
越の地の倭は、曹と 盟を結んでいたという墓石が残っているくらいなので、
曹と同格で盟を結べる 倭 はそもそも 名家として格を越の地でもっていたかもしれない。
265 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:16:51
かも論3は
倭人字磚 をくぐればよい
266 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:25:26
倭は周辺にいっぱい色々あったらしい
267 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 03:05:27
周代より越は蛮地である。
論衡にある周代の東の倭と
宋代の越は同じ場所であろう。
周代より、太伯の封国の地としての呉越であり
度々出る倭人の自称、太伯の子孫もまた、
越人の風習と倭人の風習が同じである記録からも、
もはや、越(会稽)の原住人=倭人 である事が伺える。
しかしながら、後漢の時代より大陸は民族大移動と虐殺である。
漢族の孫や公孫はこの辺り一帯を征服している。
倭人は、太伯の子孫という記憶だけで海洋へ広がっていっただろう。
これが日本列島の倭人の一派となってるだろう
しかし、倭人字磚 にあるとおり、後漢の時代、
曹と盟を結ぶだけの力を大陸の倭が持っていた事も確かである。
この時、倭は姓として成立していたのかも知れない。
この後、南北朝時代となり、中原の漢族が呉越を乗っ取るのである。
この時、周代からの名家の倭氏は、蛮族の倭が住む日本へ封国される。
とか・・・ もあるな
無いなw
珍説というか妄想の羅列に過ぎん。
269 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 16:34:50
>>268 珍説開陳 はOK。
「無い」と否定される場合は根拠をどうぞ。
>この時、倭は姓として成立していたのかも知れない。
>この時、周代からの名家の倭氏は、蛮族の倭が住む日本へ封国される。
推定のみ。根拠となる文献の記述も示されていない。
271 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 19:50:43
そもそも今スレの流れは、倭王が大陸の貴族系だったらどの氏系かを推定してんだよな?
可能性のある氏を羅列して、
可能性のない奴を消去してくだけだろ。
>>270は消去法知らんのか
書いてる俺も倭氏説を消去できたらよいので、消去する根拠を頼むわ。
倭讃が貴族だった場合、なんで氏名が記録にないのか?
このテーマに対する、大胆な仮説だ。 倭は姓の扱いになってたのでは?
ってな
もし現在の皇室に連なるなら、倭の地の王に姓なしで矛盾なし。
中原の漢族からみたら、倭を氏にあてるしかない
>>271 >この時、倭は姓として成立していたのかも知れない。
>この時、周代からの名家の倭氏は、蛮族の倭が住む日本へ封国される。
まずは上記の内容について文献的にきちんと裏付けてほしい。
出来ないなら消去だろ。
273 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 21:10:23
ネット右翼の大物で政治家の息子、右翼人脈豊富な『遠藤健太郎』の逮捕に、
ネトウヨ界に衝撃が走る!
ゴミクズ鬼畜凶悪犯罪者 馬鹿キチガイうんこ遠藤健太郎(36)容疑者
http://name☆card.exci☆te.co.jp/c☆ard/knnjapan
日華(台)文化協会理事・和歌山市議会議長(全国中核市議会議長会会長)
遠藤富士雄事務所の遠藤健太郎です。
「真・保守市民の会」代表。「KNN日本」主宰。
議員の不肖の息子ではございますが、「日本の平和を守る親日保守」を提言し、
行動して参ります。
この犯罪者の親、
和歌山市議会議長(全国中核市議会議長会会長)遠藤富士雄
http://knnja☆pan.hp.infosee☆k.co.jp/☆endof☆ujio.html
この鬼畜犯罪者が主催する凶悪右翼団体
真・保守市民の会
http://☆www.sh☆in☆hoshu.com/
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糾弾・電凸の準備はいいな?
274 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 21:45:22
>>272 いやあ、君ただの荒らし? スレの流れみてる?
消去したいから上げてんだろ。
消去する根拠是非書いてくれっつーの
他は、 劉氏 司馬氏 王氏 孫氏 公孫氏 曹氏 などが
あがってるだろ。
倭に封国されてて南宋の時に安東将軍になりそうな貴族、他にいるか?
なんでもいいから候補あげてみろよ。
>>274 御説に対する正当な批判を荒らし扱いとは酷いな。
この時代を倭や半島のみでなく大陸にも目を向けて
語ろうとする姿勢は面白いと思ってるよ。
>消去する根拠是非書いてくれっつーの
文献的な裏付けがされていない。推定のみで根拠なし。
したがって仮説というよりタダの思いつき。
>倭に封国されてて南宋の時に安東将軍になりそうな貴族、他にいるか?
>なんでもいいから候補あげてみろよ。
そもそもそんなことがあったと思えないので
候補なぞ挙げられないね。
もうちっと説得力のある論証をお願い。
276 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:17:22
>>274 俺が確度が高いと言ってる説は、倭王漢の貴人説のみ。
その反応レスの中に、じゃあ倭王は南朝の誰だよ というレスがあった為、
確度の低い推論になる。という前提のもと、候補を列挙している。
>>243 に対する
>>245 (俺)
以後、誠心誠意、
珍説以下の扱いになるだろうリスクを負いながら、ここまでレスしている。
このスレのノリがそれを許容しているにも関わらず、
今さらそのノリを否定する貴殿は浅い。l
277 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 22:18:39
132 :出土地不明:04/06/01 21:34 ID:/FJPcLfp
・史記によれば、
周の太祖の子が呉国の祖である。
・魏志倭人伝、他 によれば
倭人は、呉の太夫と後裔である。
(太夫とは皇系の臣の事)
つまり、倭人は
周の太祖の子にして呉国王の後裔 の民族であり、
今回の周王墓とはつまり、天皇家の祖先の墓と言う事である。
信憑性はともかくとして、史書にはそう書いてあるのが驚きである。
162 :出土地不明:04/06/05 19:00 ID:uQm3zWJd
『後漢書』東夷伝でも、奴国の使いが「大夫」と自ら称していることが
記載されていますからね。奴国も邪馬台国も、使いが自身を「大夫」と
称していたことは確かのようです。「大夫」が周代の職名であることは
おっしゃる通りで、これは更に上大夫・中大夫・下大夫の三等に分かれ
るようですが、秦・漢代には爵位の一つ(第5等)としても使用されていた
ことが『大漢和辞典』等の辞書類に記されています。思うに、『魏志』や
『後漢書』の「大夫」は後者の意味で使用されているのではないでしょうか。
これが官職名としてなら倭の使いが自身を「大夫」と称するのはさぞ妙に
感じたことでしょうが、爵位としてなら、中国は古来異民族にもそれ専用
の爵位(子爵・男爵。呉子や許男など、『春秋』で子爵・男爵で呼ばれて
いる国々はもともと異民族だったと推定されています)を与えてきた伝統
がありますから、それなりに許容出来たのではないかと思います。
次に、「大夫」の日本における読み方ですが、奴国や邪馬台国の時代
には上古音が使われていたはずですから、中国側は[dad-pιuag]
乃至[dar-pιuo]と発音していたと推定されます。尤も、このような複雑
な発音が当時の倭人(通訳は除く)に出来たとは思えません。上代日本語
においては語末の子音や連母音一切許容されておらず、子音+単母音
の音節乃至単母音のみの音節しか存在しなかったことがわかっています。
163 :出土地不明:04/06/05 19:01 ID:uQm3zWJd
また、語頭濁音も擬声語・擬態語の類を除いては許容されませんでした。
当時の倭語もこれに近い状態であったろうと推定されますので、おそらく
倭人は「大夫」を[ta-pu]とでも発音していたのではないかと思われます。
この発音がそのまま定着していれば、「大夫」の読み方はタフになって
いたでしょうが、その後呉音や漢音が怒涛のように日本語の中に流入して
来ましたからねぇ。現代の日本漢字音には上古音由来のものはほとんど
存在しないと言ってもいい状態でして、辛うじて推古遺文と言われる6〜7
世紀の文献の万葉仮名の発音として残っているくらいです。そんなわけで、
「大夫」の読みもタフから速やかに呉音読みのダイフや漢音読みのタイフに
置き換えられたものと思われます。東宮などの長官の「大夫」がダイブと
フがブに濁っているのは不審ですが、連濁と考えればまぁ納得出来ない
こともないかと。
166 :出土地不明:04/06/06 10:18 ID:f68Fy/kg
我々が魏志等から想像するシーンは、文明圏から非文明圏の倭との接触である。
しかし実際は、
倭は 中国通士に妄言と思わせる事なく、
1・太白の後 (周の歴史が倭人が知っている)
2・古から大夫という (周代の宮廷知識を持っている)
という報告を本国に行わせる事に成功しているのは、
倭が相当な文明的状況であった事を表している。
とくに大夫と称するという記事の意味は、
当時の倭が古代中国との血縁を自ら強調しているというトピックであり、
太白や夏氏少康 ともに、中原から長江下流に落ちて呉越王となった伝説から、
「周王朝からのゆかりか、さらに古く夏王朝からのゆかりか」
とロマンに含みをもたせて、倭人のルーツを報告してるのであろう
282 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 22:28:17
ちなみに文献という話でひとつ。
倭王が封国された可能性がある、晋書が書かれたのが唐の時代になってから
即ち、晋ののちののちののちののちののちの民族的に異民族である鮮卑朝に
なった時に書かれたものしかない。
次の宋斎梁が、同時代に3王朝に使えた約沈自身が記載したのに比べて
史書として確度は低いものとなっている。
中国正史の中でも、記載時期のズレとしては最も大きく、
晋の時代に倭に封国されたも貴族の記録など、そもそも文献に載ってるはずがない。
なくて当然。 この晋の時代だけは、晋の文献に載らずとも事実が無かったという
事にはならないのだよ。
>倭王貴人氏
う〜ん、典拠提出まではいわんが
やっぱりそうれなりに納得させられるだけの説明は必要なんでね?
倭王貴人さん、今のところ言い切ってるだけだし。
そういや、どこぞの国の小泉○一郎とかいう輩が
「大量破壊兵器が見つかっていないから、といって、大量破壊兵器が存在しない、とはいえない」」
とか屁理屈こねてたなあ。
私の質問の倭国の「漢化」についても答えてくれてないし。
私は北魏の孝文帝の例をちゃんと挙げたぞ。
それと、貴人を倭王に封じるのは
「栄転」なのか「島流し」なのか、
はたまたどういう戦略的な意味合いでなされたのか?
の説明もお願いしたいです。
168 :出土地不明:04/06/06 21:31 ID:lFduylBz
弥生時代というと、卑弥呼の時代はぎりぎり入るか入らないかというあたりですね。
仮に卑弥呼の時代を弥生時代に含めるとしても、存在するのが漢字で記された外国
資料で、しかも固有名詞がほとんどですから、言語資料としては甚だ貧弱なものと
言わざるを得ません。新羅語の場合は、同じ漢字資料と言っても、国内資料であり、
且つ地名語源説を利用して一般名詞を再構でき、且つまたそれを補う吏読などの
資料もありましたからねぇ。3世紀及びそれ以前の日本語に限って言えば、条件的
には一層厳しいものと言えるでしょう。まぁそれでも、固有名詞を解析することで、
「ワ(我)」「ヒ(日)」「ミコ(巫女)」「ヒコ(彦)」「ヒナ(鄙)」「モリ(守)」等、若干の一般
名詞を再構することは可能ですし、借音表記として使用された漢字に[-p][-t][-k]
等の韻尾が付いていないものが多く選ばれていることから、当時の日本語の音節
構造は奈良時代以降と同じ開音節(音節末が必ず母音で終わるもの)であったという
こともある程度推定可能ではありますが。
hの音については、「卑弥呼」を「日+巫女」と分析する私の立場から言えば、奈良
時代同様、3世紀の日本語の音韻体系の中には存在しなかったということになります。
日本語の子音で声門摩擦音hに最も調音点が近いのは軟口蓋破裂音kですから、
上代から中古にかけての日本人がhの頭子音を持つ漢字音をカ行音で受け入れた
ように、3世紀の日本語においても、kはもちろんのこと、hの頭子音を持つ漢字音も
基本的にカ行音として捉えるべきでしょうね。
ただ、同じh音でも、唇音的介母-u-を含む漢字の場合は、ワ行音を音写した可能性
がありますので注意を要します。5世紀後半の金石文である「稲荷山古墳鉄剣銘」と
「江田船山古墳太刀銘」に見える「獲」の漢字音は[hua]のようなものであったと推定
されますが、日本語のワの借音として使用されていますからね。
285 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:38:01
三国志の時代、呉の孫権は兵力不足を補うために、
東の海のかなた「夷州(台湾?)と亶州(九州?)」で原住民狩りを
行っています。
一万の正規兵を送って、帰ってきたのが二千の正規兵と三千の蛮族。
差し引き八千が蛮地に残った。
↑
これについていいたいことある?
286 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:42:40
>>283 >>245 に素直に書いてる通りになったろビリーさん
確度の高い話と、殺人という事実。と
確度の低い話、 動機、因果関係、を 一緒に検察に聞いても駄目だよ。
確度の低い話と前置きしてなら、幾らでも推論レベルは書けるけどな。
そして、推論の低い話の先に意味がある思考は、消去法。
動機としての候補の羅列に対し、ひとつひとつ、消していく。
それが今の流れ。
>>276-277 ノリとか言われてモナー
批判するな、根拠を求めるなってこと?
>>278-281 倭王貴人氏の書き込みなのかな。
呉の太伯の後裔だから姫姓だというのはよく聞くけど
大夫の話と同様、あくまで倭人の自称だしね。
そういう歴史的な知識を当時の倭人がもっていたらしい
というのはわかっても、それが事実ということにはならないね。
>>282 >中国正史の中でも、記載時期のズレとしては最も大きく、
>晋の時代に倭に封国されたも貴族の記録など、そもそも文献に載ってるはずがない。
>なくて当然。 この晋の時代だけは、晋の文献に載らずとも事実が無かったという
>事にはならないのだよ。
さらっとすげーこと言ってるなあ。
考古的資料で何か発見でもあったっけ?
>>286 うむ、たしかに。
どうやらはしょっていたのは私のほうでしたね。
そりゃ、何でもかんでもいっぺんに質問攻めにしたら
倭王貴人さんも困るよな。
正直、すみませんでした。
>>285 たしか疫病で8000〜9000人死亡とあったような。
衛温さんと諸葛直さんは不憫にも処刑されちゃいましたね。
289 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 22:54:33
>>285 亶州(九州?) という言葉は、古公亶父(周王朝の初代の父)の亶だね。
その名を見れば、亶州が周王家の大本であるか、その民族の集団である。
と断定するマニアが幾らいてもおかしくない。
古公亶父の息子太伯が呉王となったという話は、中原から東夷に封国された
話として常識となっているが、もし、亶州が九州ならば?周王家は倭そのものであり
学研ムーレベルの面白い話になるだろう。
この
>>285の孫の記録は、そのくらいありえない話がかいてあって面白い
290 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:09:41
亶洲を種子島、夷洲は台湾か沖縄だろうという人もいます。
>>285 『呉書』黄龍二年春正月条
「遣將軍衛温、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
(中略)所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還」
亶洲を徐福の到達地と考えてたみたいね。
探し方が悪いのか上のしか見つからなかったけど
>一万の正規兵を送って、帰ってきたのが二千の正規兵と三千の蛮族。
>差し引き八千が蛮地に残った。
これはどのへんに書いてあるの?
292 :
倭王貴人:2009/04/09(木) 23:32:19
この話をムーマニアでなく整合性で考えると、
亶=太伯 と考えるのが合理的である。
・太伯の父 =亶父 でOK
・亶州が呉越の東海の先=太伯の州が呉越の東海の先
倭人いわく、太伯の子孫。
おおおーっと 全て整合性が取れてるだろ。
古公亶父から、周王家が生まれ、倭王家が生まれたわけか
雄略の性格が南朝末期の残虐な皇族たちとそっくり
294 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 07:38:39
倭王家には中国人特有の雰囲気が感じられないんだが。
面白いけど、その倭王に封じられたという漢人、またその子孫は何故
・漢風姓を捨てたのか
・和歌詠むくせに漢詩詠まない
このへんを説明すればもっと良くなるなw
296 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:41:07
297 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 16:27:16
「東海中の倭の国のこと・・・・
この国の連中は古い言葉を話すし、
いつも、周の高祖の兄の太伯の子孫だと自称してるし、
周朝の前の夏朝の少康は、会稽に封国されて、
短髪刺青したっていうけど、ここの倭人もみんなそう。
道理で会稽の東に治まるのは当然なわけだ。」
各正史は倭人を上のように書いてあるね。
ちなみに最後の「道理」を今は距離の事を指して訳してるのが一般だが、
文脈を見れば、 倭人の自称に太伯の後 に対応して、少康と会稽の話を出しているので
その会稽の東治の民なら もっともな事 の「道理」 だろう。
さらに、東の大海中に倭人の国がある ってのは、
東京の千代田区に、朝鮮人の高校がある。
ってのと同じで、そこだけに倭人がいる事をさしてるとは、歴史上どこにも書いてない
のちの勝手な解釈 朝鮮人があちこちにいるように、倭人もあちこちにいる
298 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 17:09:44
まとめ1
会稽 ってやっぱり重要な場所だよね編
夏王朝の始祖・禹が死去した地
夏王朝の少康が封国された場所
周王朝の始祖・季歴の兄、太伯 が築いた呉の場所
(その呉は、、紀元前473年に越に滅ぼされた)
倭王朝は、会稽の海の向うの東海中の島で、太伯の子孫と自称。
孫権の代は、海の東海中の島を亶州と呼んでいるが、
太伯の父の名前は亶父 である。
曹は、会稽の倭と盟を結んでいる。即ち、三国史あたりではまだ、越に曹と対等なる倭が
いた事となる。
その会稽あたりから、晋の時代に倭王に封国されて宋代に安東将軍になったのは、
誰か・・・
299 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 17:40:15
まとめ2
宋の時代に5代にわたり君臨した倭地の将軍の一族、
そしてまさに、その後ろ盾の宋が崩壊したその時期に、
越より、その将軍家の姫との婚姻でやってきた継体帝とは誰だろう・・
そして、結果、その将軍家の基盤の九州が反乱を起こしているのだ。
>>295 漢詩もそうだし、高句麗や新羅がやたらと建てまくってる石碑とかもないよねえ…
倭王が漢人貴族だったとしたら、もっと記録や史料が残ったはずで
この辺りの時代が謎の世紀とかいわれることもなかったと思うけどなあ。
301 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:59:29
>>300 同感。
中国の兵法や行政に通じていた雰囲気もない。
てs
>>297 各正史つうかそれは『魏志倭人伝』だろ。
「計其道里、當在會稽東冶之東」の訓読は
「その道里を計るに、まさに會稽東冶の東に在るべし」
「道理で会稽の東に治まるのは当然なわけだ」なんて
そんな訓み方は無理無茶wあんまり笑わすなw
あと会稽に封ぜられたのは夏后少康本人じゃなくてその子だ。
本文読んでる人はいっぱいいるんだから
あまりいい加減なことばかり言わないほうがいいよ。
>>298 >曹は、会稽の倭と盟を結んでいる。
>即ち、三国史あたりではまだ、越に曹と対等なる倭が
>いた事となる。
会稽にあった倭てのは想像に基づいた「仮説」なんでしょ。
小説でも書いてたほうがいいんじゃないの。
304 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 22:37:03
>>303 アホ、各正史でいいんだよ。同じような文がなんどコピーされたとおもってんだ
道里・・ 腹立つレスやな、それが常識と知った上での話だっつーの。
文脈読め。でな、この道里を距離だと考えるのが常識なのは、
ヤマタイの場所探しが学者のテーマだからに他ならん。
夏王朝の少康が封国された場所
↓
夏王朝の少康の子が封国された場所 ここだけ訂正な
会稽にあった倭
「倭人字磚」 のレス によってな。レスのまとめと書いてあるだろう。
倭は曹と盟を結んだわけだ。
>>304 曹氏墳墓から出土した字磚は「倭」と読まない説もあるそうだけど
とりあえず「…有倭人以時盟不…」と読むとして
会稽にあった倭ってのは?
越人と風習が似ているってことと
『倭人伝』の会稽云々の記述だけが根拠なの?
306 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 23:29:39
>>303 口汚くて悪かった。大変反省。
判って欲しいのは、常識にない可能性の低い筋をあえて書いてるのだが、
書いてる本人としては、立場的に当人はそう信じてる調にすべき。それが
スレッド的にマナーだと思うから。
307 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 23:34:10
>>305 そうです、「倭」と読まない説もあるのです。そして、それが正解なのです。
ですから倭が盟を結んだなどということは否定されるわけです。
>>306 分かりました。
いろいろ質問に答えて欲しかったけど…
で、貴方にとって可能性が高い説ってどれだっけ?
上の方見直してみたけどカオス過ぎて分からんw
309 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:44:59
安徽省享県の墓だから、会稽の倭でいいと思うんだが?
310 :
倭王貴人:2009/04/10(金) 23:48:13
>>307 へえ その説の根拠を是非知りたいね。
「倭と曹が盟を結ぶわけ無いから」だと説得力抜群だね。
311 :
倭王貴人:2009/04/11(土) 00:12:40
>>308 できるだけ答えているよ。
魏志は納得しましたか? 道里はその前後の文脈を見れば、
倭人の自称 太伯の後。に対して、
典出した、小康の子の会稽の逸話をだし、
結びに 道里 と書いて、 会稽の東治
これは、常識のように、距離としての結びなら
突如出た、小康の子の会稽の逸話 がまるで繋がらない文となる。
道里は、 小康の逸話と 会稽の東治 を結んでいるだろ。
>>299 継体 = ウイリアム1世
磐井 = ハロルド
ってとこかな。
>「倭」と読まない説もあるのです
私もこれを支持してるんだよなあ。
「倭」は
「イ」+「委」でしょ。
「委」という漢字は委任とか委託とか委属とか
「まかせる」とか、仮にとか、とりあえず的な意味合いが強いんだよな。
「漢委奴国王印」なんてモロだし。
そうなると
>>266 の説も納得できるんだよなあ
まあその仮の国名がそのまま日本列島を指す固有名詞として
定着しちゃったってかんじなんかな、とおもってる。
現代で例えると、「私の姓は匿名、名は希望と申します」てな感じで。
313 :
倭王貴人:2009/04/11(土) 14:54:05
>>312 それが倭人かどうかは別として
会稽(越)に、中原の漢族とは別の風土人がいた事は、
地政学的な道理として確実だと思いますがいかがですか?
呉越戦争の紀元前5世紀
秦帝か征服した紀元前3世紀
漢帝が劉氏王封国を引いた紀元前1世紀
後漢の公孫氏が制服した3世紀
後漢の孫氏が征服した3世紀
西晋が征服した3−4世紀
東晋が征服した4世紀
宋が征服した5世紀
会稽の地の風土人を、中原の書家は何と記したでしょうね。
314 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 15:28:53
会稽(越)から船出すれば、日本に着くんだろうか?
海流とか季節風に詳しい人でないとわからないだろうな。
315 :
倭王貴人:2009/04/11(土) 16:35:43
会稽より北であるが、東晋の高祖が15歳で封国された琅邪の琅邪湾は、
南朝の代表的な湾で、この地から海洋に出た場所
秦の始皇帝と徐福伝説の場所でもある
この地で封国された司馬睿は、晋で304年に安東将軍となって、
安東である以上、海洋に出てどこかを治めにいったんだろうが、
任命王朝が倒された後、次の王朝の皇帝になったわけだね。
倭王もまた400年〜480年まで5代にわたって安東将軍だけど
任命王朝が倒された後は、次の王朝の皇帝になろうと思わなかったのかな?
少なくとも、五代目倭王武の子の六代目は倭と「6国のシマは俺のものだ」と思ってただろうね。
もし、越から初代倭王讃の5代孫とか言う奴がやってきたら、
俺が倭王6代目なら九州で暴れちゃうな。
>この地で封国された司馬睿は、晋で304年に安東将軍となって、
>安東である以上、海洋に出てどこかを治めにいったんだろうが、
ちょ、字面に引っ張られすぎないようにw
引っ張られるにしても、征東でも無いし治めにいったってw 支那王朝に海軍かwww
「その地を安んずる」に決まってる罠www
称号くらいに思っとけ
安西とかなら変だけどな
317 :
倭王貴人:2009/04/11(土) 22:59:32
あら海って決め付けたらやっぱり突っ込んでくれたw
でもねえ、ここで考えて欲しいのはね、
宋の時、半島や日本列島を担当してる倭王に安東や鎮東は納得できるとしてだよ、
じゃあ ”晋の時、安東とは? どこを指すの” ?
これ一番重要だと思わないか?コナンくん
晋書とは唐の時代に編纂され、本来次の王朝が編纂するはずの
中国正史として全くあてにならない実は欠史状態 それを補う情報が必要だが
そもそもが大陸極東の会稽に政権である晋にとって、安東 将軍を配置というのは、
そもそも晋の時代に、本格的に倭や半島に漢族軍を進軍していたという事ではないかな?
五胡16国に突入する晋にとって、敵は北か南か西であって、東は海なんだよ。
>>311 >魏志は納得しましたか?
納得でけません(>_<)
>これは、常識のように、距離としての結びなら
>突如出た、小康の子の会稽の逸話 がまるで繋がらない文となる。
繋がるよ。
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の部分は
夏王朝の帝王少康の子が会稽に封ぜられ越王の祖となったときに
現地の風習にならった故事らしいが、つまりは会稽における
文身風習について述べたもの。
倭の文身風習の記事中にこの会稽の文身風習の話が挿入され
両者の類似が示唆された上で、倭までの道のりを測れば
当然会稽東冶の東に位置するだろうと述べられている。
「當(まさに…べし)」が前段を受けてるから、
わざわざ「道理で」とか無茶読みする必要はない。
できるというなら書き下してみて。
念のため当該の部分を出しとくよ。。
「男子無大小皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、
夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭水人好沈沒捕魚蛤、
文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾、諸國文身各異、或左或右或大或小、
尊卑有差、計其道里、當在會稽東冶之東」
>>312 あえて例えるなら、継体はヘンリ・テューダー(ヘンリ7世)、
磐井はシムネルやウォーベックなどの僭称者かな。
>>316 字面だけ追ってるからこの人。面白いんだけどね。
>>315 琅邪王睿が安東将軍に任ぜられたのは永嘉元年(307)のこと。
「都督揚州江南諸軍事、假節、鎮建鄴」を兼ね
任地の建鄴へ乗り込んでる。
肩書きを見れば明らかだが、江南方面軍司令官ってとこで
担当地区は海洋のどこかじゃなくて江南一帯だよ。
第一、当時は八王の乱が終わったばかりで、匈奴の漢が建国されるは
江南でも陳敏の乱も起こるは、すぐあとには永嘉の乱とどうしようもない
カオスなんだから、海で遊んでる場合じゃないってばw
何故、金村がわざわざ迎えに行ったの?
321 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 04:24:20
継体=小沢一郎
大伴金村=鳩山ユキオ
磐井=福島みずほ
と考えよう。
322 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 13:14:43
大陸(半島)から越前に上陸した継体がそれまでのヤマト王朝を滅ぼして日本を征服したとみるのが自然
武烈残虐説は自分の王朝を正当化するために作られた神話
323 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 13:43:41
この板で万世一系を信じてる人って存在するの?
324 :
倭王貴人:2009/04/12(日) 15:46:48
>>314 あーそうだった
洛陽の都が鮮卑に落とされた時は、
蛮地の琅邪に封国されてた琅邪王睿はまだ都でなかった建康の地の安東将軍だったんだねえ、
で、会稽の蛮地で継体して後に天子と呼ばれたんだっけ?
建康の都が鮮卑に落とされた時は、
蛮地の倭に封国されたた倭王武もまだ都でなかった倭の地の安東将軍だったわけだよねえ、
で、倭の蛮地で継体して後に天子って呼ばれなかったのかな?
ああそうか、建康を落としたのは鮮卑じゃないもんなあ、 そのタイミングじゃ継体できないかあ、
後の世で、建康が鮮卑に落とされたら東の天子宣言でもすればいいか。
325 :
倭王貴人:2009/04/12(日) 15:47:57
>>320 >何故、金村がわざわざ迎えに行ったの?
王位継承の決め手になったかどうかは分からないけど、
もともと即位前の継体天皇と大伴金村の間になんらかの繋がりが
あったのではと思わせるふしはいくつかある。
327 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 20:57:53
実際には金村本人ではなく代理人が行った可能性もある。
328 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:00:05
継体天皇=息長氏 説もあるが。
息長氏はこの時点までに皇后を何人か皇室に送り込んでいると記憶。
329 :
326:2009/04/12(日) 23:10:35
>>326 (続き)
1.「隅田八幡神社人物画像鏡」銘文(山尾幸久氏の釈文にしたがう)
によると、癸未年(503年)に孚弟王すなわち即位前の継体が
意柴沙加宮(忍坂宮)にいたとあり、同宮を伝領していた可能性がある。
2.継体自身が主張したと思われる「上宮記」逸文所載の系譜と
記紀の王統譜によると、曽祖父の妹に允恭皇后忍坂大中姫がいる。
忍坂宮はその居所のひとつか。「允恭紀」によると、皇后の名代
として刑部(おしさかべ)が定められている。
3.「允恭紀」に忍坂大中姫の妹弟姫が母に従って近江坂田にいたとある。
塚口義信氏によると、近江の坂田郡は継体と縁の深い息長氏の勢力圏。
弟姫の母は王族とされるがそのまた母が息長氏か。
4.「敏達紀」によると、「火葦北國造刑部靭部阿利斯登」の子日羅が
「我君大伴金村大連」と呼んでおり、大伴金村が靭部を管掌する立場から、
葦北の刑部(忍坂大中姫の名代)の伴造を私従させていたと考えられる。
5.継体の真陵とされる今城塚古墳や、推古の初陵とされる植山古墳に
埋納された石棺に用いられた阿蘇熔結凝灰岩(阿蘇ピンク石、馬門石)の
産地宇土は葦北のすぐ北にあり、火葦北国造の勢力圏内と推定される。
>>329 (続き)
以上の推定を総合するに、継体が王族の裔だったにせよ、
息長氏出身だったにせよ、おそらく血縁を通じて
忍坂宮を伝領し、葦北の豪族を含む各地の刑部から
奉仕をうける得分をも相続しうる立場にあった。
一方、大伴金村も同じ葦北の豪族の私君であり、
両者が葦北の豪族を通じて政治的に結びついていた
可能性もありうる…と想像してみた。
>>327 「遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三國」とあるから、
金村が直接出迎えたんじゃないようね。
「持節」とあるのは『魏志』あたりを参考にした作文
かもしれないけど興味深い(誰かさんが騒ぎそうだが)。
331 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:40:49
>>319 そうかこの人、字面だけ追ってるから面白いんだ。
うちの中国人の学生も同じ事言ってが
徐福が連れてった奴隷が日本人の先祖と言ってる。
阿蘇ピンク石って面白いですよね。
時期や規模から允恭天皇本人、もしくは天皇に近い重要人物の墓と思われる市野山古墳(現允恭陵)の
陪塚である長持山古墳から出ていたり、古市・大和・近江・今城塚を除けば、吉備の造山古墳から出ていたり。
で、ピンク石の産地である熊本県宇土半島周辺の有力者をみると、上述されている葦北国造と大伴氏、刑部のからみもありますが、
国造本紀によれば古くは葦分国造が吉備津彦命の子孫だったり、少し北にはワカタケル大王(推定)で有名な江田船山古墳があったり、
さらにその北、佐賀県東部の筑紫米多国造には、稚野毛二派皇子の孫でおそらく意富富杼王の子である都紀女加命がなっていたり
(もっとも、国造本紀は「成務朝」の就任としていて、年代錯誤がありますが)、
そのお隣の地域が、磐井を輩出する筑紫国造の勢力範囲であったりと、ほんと興味深いです。
333 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 02:31:57
倭王貴人どのは中国人なのでは?
まずは質問に答えてね
ごめん、吉備のピンク石は築山古墳だったね。造山古墳は同じ宇土でも灰色石だ。
335 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 15:58:57
>>324 >洛陽の都が鮮卑に落とされた時は、
>蛮地の琅邪に封国されてた琅邪王睿はまだ都でなかった建康の地の安東将軍だったんだねえ、
>で、会稽の蛮地で継体して後に天子と呼ばれたんだっけ?
司馬睿は琅邪王から晋の高祖になった。
東の蛮地を治める皇族が安東将軍だったので
倭王が貴族だという説は説得力があるね
倭讃の部下が司馬なら確定だと思うよ。
しかし結局宋が滅んだ後に、この将軍は滅ぼされて(九州の乱)
倭人の継体帝が現在の皇室をつないだでいいのでは?
継体が南朝人である必要はない。
阿蘇ピンク石については、実は雄略天皇がキーになる人物かもしれんね。
337 :
倭王貴人:2009/04/14(火) 04:00:16
宋滅亡の後の倭の勢力
1・縄文豪族
2・弥生豪族 (太伯の後)紀元前に倭に
3・宋の江南系(太伯の後)紀元後に倭に
4・宋の華北系
それぞれで、 斎帝否認派Aと斎帝追認派B がいるだろうから
あわせて8つの勢力が考えられる。
継体帝は、そのどれかである。
338 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 06:09:21
雄略天皇はキャラクターが中国人ぽいな。
でも信長とか足利義教も中国人みたいな粛清やったが日本人だったからな。
行動だけではいちがいにはいえない。
339 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 14:11:31
越から来たって明確だから
>3・宋の江南系(太伯の後)紀元後に倭に
>4・宋の華北系
>それぞれで、 斎帝否認派Aと斎帝追認派B がいるだろうから
継体はその4つのどれか。
340 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 14:15:44
凄いな、ここのスレw
もう、トンデモばっか。
でも、こういうトンデモが増えた原因は
全部、天武天皇が原因だからね。
天武天皇が、尾張大隅と喧嘩したから、こうなった。
>>340 まあ、珍説開陳はスレタイに謳われてるからいいんだよ。
しかし、風呂敷広げたら広げたで、質問や批判には答えなきゃいけない。
342 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 14:37:14
このスレは
荒れないのがいい
面白い
>>332 「筑紫米多国造」は筑紫米多君として『応神記』にも
意富富杼王を祖とする氏のひとつとして挙げられてますね。
「皇胤」として西の辺要に打ち込まれた楔の役目を果たしたのか。
また、江田船山古墳の大刀銘の「典曹人名无利弖」「書者張安也」も
気になります。「无利弖」は火君や葦北君(葦北国造)のような
九州の大豪族を指しているのか。「典曹人」もよく分からない。
『蜀志』に塩鉄の専売を担当した塩府校尉の属僚として、
典曹都尉が置かれたとあるから、「典曹人」も将軍府の
財務官僚を意味しているのか。
個人的には无利弖は九州の君姓豪族じゃないかと思うけど、
その場合、銘文を書いた張安はその僚属なのか、
はたまた武王雄略の府官なのか。
344 :
343:2009/04/14(火) 19:26:16
>>332 (続き)
継体と筑紫とのかかわりでは、淀川の河津「筑紫津」にも注目されます。
森田克行氏の論著によると、平安期の催馬楽「難波の海」に
「難波の海 難波の海 漕ぎもてのぼる 小舟大船
筑紫津までに 今少(すこ)いのぼれ 山崎までに」と謡われてる。
「難波の海」はいわゆる河内湖、山崎は山崎津であり、
筑紫津はその中間と目され、芥川の右岸に現存する筑紫津神社や
芥川の上流に位置する今城塚と新池遺跡の円筒埴輪にのこる停泊船の
線描画の分析から、芥川が淀川に合流する潟地に考定されるという。
付近一帯の地名を「津之江」というからきっとそうなんだろう。
さらに森田氏は近江臣毛野の征新羅軍の一部がこの筑紫津において
編成された可能性にも言及している。
ともあれ、今城塚古墳に阿蘇ピンク石が石棺材として搬入された事実
から筑紫津が実際に機能していたのは確実で、示唆に富む見解と言える。
345 :
343:2009/04/14(火) 19:32:37
>>332 (続き)
しかしながら、筑紫津の機能が即位前の継体やその父祖の代に
遡るものかどうかは今の時点ではよく分からない。
仮に、今城塚に程近い、三島古墳群で最大の規模を誇る現継体陵の
太田茶臼山古墳(5世紀中葉)の調査が許されて、阿蘇ピンク石の
剥片が見つかったりしたら楽しいけど、まあ難しいか。
太田茶臼山は
>>332で言及されてる市野山とともに、誉田御廟山
(現応神陵)の相似形とされ、『上宮記』逸文の系譜で継体の曽祖父
とされる意富富等王の墓ともいわれてるから、新池遺跡の埴輪工房
とともに調査が進むといいな。
(_ _ ) <連投サーセン
ヽノ)
.ll
346 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 20:40:53
この時代までは九州が首都だろうな劉宋が滅んだ後、九州の倭王武が
近畿の古来からの大王家に滅ぼされて継体となったんだよ。
大将軍倭王がいないから朝鮮南部各国を近畿大王家が抑えきれずに、
ようするに、倭は、九州倭王家が滅んで、朝鮮南部と日本列島で分裂した
347 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 23:22:32
継体が南朝から来たと主張している人はどうしたの・・
倭建命の陵は複数ある。どれかひとつではなく。景行天皇の頃は各地で
反乱が起き成務天皇も近江宮に移ったりしていた。神功皇后と同じパターンでは。
349 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 00:04:40
継体天皇は架空の人物
350 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 03:49:34
>>346 またまた面白い視点だなあ
宋が滅んで倭も分裂したと・・
例として6世紀の新羅王は百済から亡命してきた貴族であったと中国史料にあるが
三国史記等には前王とは血筋の離れた数代前の新羅王の子孫と記録され矛盾している
しかもこの時代の新羅はなぜか王が二人いてそれぞれの王号を持っていたのだが
後世史料にはその記載はない
同様のことが日本でも起こったとするなら五王朝を倒して大王になった人物は
帯方の領地を失った百済の貴族だった可能性があるのではないか?
352 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 06:53:43
帯方の領地を失った百済の貴族が、倭を占領できるだけの軍事力を持っていただろうか?
渡海には船も必要だし。
中大兄と鎌足のように要人暗殺で成り上がれば、兵力は必要ないでしょ。
それから百済貴族としての権威とかも重要だと思う。
先行して渡来していた氏族に対してその権威が有効であれば
裸一貫で海を渡っても兵力の現地調達は可能でしょう。
そもそも倭王の軍事力の実態はお粗末なものなんじゃないかな?
これまで半島に対しては吉備氏や紀氏など諸氏族の利害が一致しただけの
寄せ集め集団で、ひとたび確執が表面化すると内部崩壊を引き起こす。
ほとんどの地方豪族は倭王を守るため「いざ鎌倉」するほどの倫理観は
持ち合わせていないことは日本書紀の後半を見ても良くわかる
354 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 10:58:21
倭王の軍事力は
農閑期と農繁期で大きく増減したと思う。
355 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 11:52:04
百済なら、フィリピンからでもアメリカ大陸のインディアンでも蝦夷のアイヌでも同じ。
倭に散々攻められてる弱小朝鮮勢力が、倭に乗り込むことは不可能。
三国史記? 朝鮮12世紀成立の? 漢の3世紀の? 前者なら史料価値0
百済貴族に権威ないだろ。 あるとすればそれこそ南朝の貴族しかない
356 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 11:56:07
南朝の貴族は来たくても、交通アクセスに不安あるだろ。
海難にあわずに確実に倭に到着できる保証はないんだし。
>>354 そういうことじゃない
被支配層の直接の君主が倭王か他の豪族か、ということ
>>355 帯方から来た漢人の末裔である百済人ならどう?
権威ありそうでしょ?姓も王とかだと勘違いしそうだし
358 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 21:48:46
>>357 人口規模も倭が大きく、
魏晋宋とは、倭王が代々、朝鮮半島と日本列島の代表交流先だったのに、
今更、帯方程度の漢人を敬う理由がない。
魏晋宋の間にとっくに倭の中枢に漢人が流れ込んでる。
公孫の後、魏の後、司馬氏の後、宋の後、に
倭にそれまでの帝の権威で入り込んでいた漢人がある程度残ったとして
それがその後力を持つというのはあってもおかしくないが、
それまでなんの権力もない帯方の公孫以下の百済の
漢人が、権威を後ろに倭の朝廷を乗っ取るのはフィクションですら無理。
,. ─- 、,,.___
,イ〃 `ヽ,__
. N. {' \ 古事記によると、継体の名は袁本杼…
. N. { ヽ
. N.ヽ` 〉 袁は姓、本杼は袁本初の如く字と考えれば
N.ヽ` ,.ィイ从 /
. ヾミ.___-‐=彡'ノノノ__,ゞミ=-_rく
lrf´ゞ“モ=ヾーf =モチ<}rv^i ! すなわち、継体は四世三公を輩出した名門、
ヾト、` ̄,り「弋!  ̄´ノ ソ
!  ̄ ii{_,.  ̄ /r'´ 漢の袁氏だったんだよ!!
,ゝ、 iー-ー、 , ' |\
-‐''7´ ドヽ. `ニニ´ ./;; | ヾ''ー-
/ ト、 ` ー-- ´ ,;' ,イ :|
. / :ト、` ー-、 r--‐_'´/ |
/ _,..、-‐\  ̄! レ' 厂 /へ、 :|
T´ ヽ\l.0| V / / / \ |
前南朝の亡命皇族の首なんか新南朝にとっては良い土産にならないか?
361 :
倭王貴人:2009/04/16(木) 00:03:49
>>360 実際絶対に会っただろう、そんな対立。
斎についてく派と斎についてかない派はもちろん、
いきなり北魏と結びたい派や、これを期に古豪の大王家復活を狙う土着民派
倭王が5代服した宋が無くなったらこの位の対立は絶対ある。
そんな騒乱の中、越(南朝)から謎の男登場。彼が倭を握る後の継体帝。
果して彼のバックボーンは何者なのだろうか・・
362 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 15:56:02
>>359 >袁は姓、本杼は袁本初の如く字と考えれば
もうちょっと詳しく
これはもう決まりだな。
363 :
倭王貴人:2009/04/16(木) 17:43:04
倭の五王
王導の子孫の可能性が高いな。晋宋と代々、南朝随一の名家である。
王氏一族と書かれるところを「琅邪王氏」一族とも書かれ、
晋書では普通に姓が抜かれて名だけで論じられている。
華北の名家ではなく、江南の名家だった為、姓は琅邪王から王氏とされたようであり、
同様に、地名+王+名 という表記は多数登場する。
http://jinshu.fc2web.com/065/01.html また将軍としての地位を 地名+王+名 という形で記名するのはこの時代の南朝貴族側の通常の事だったのが
このページでも伺える。 江南の豪族の成立の事情を考えると、先祖氏+名 という氏名文化でなかった可能性がある
そこで、琅邪王氏はいつまでたっても王氏 であり、 史書では子孫の活躍が苗字が省かれ名前だけで記録される
それは 倭王の記録と同じ様式である
日本書紀にある別名の「彦太尊」が本名の可能性は?
ヲヒ ─ ウシ ─ フト
>>365 「彦太尊」の尊称を除いた「太(フト)」が継体の実名とするのが
山尾幸久氏や鈴木靖民氏の説。
山尾氏によると、「男大迹」「袁本杼」「乎富等」のほうは
「ヲホト」か「ヲホド」でヲ(小)が付き、曽祖父とされるオホホト
(オホホド)のオホ(大)と対称。尊称を除いたホト(ホド)を
鉄に関わる火処すなわち炉の意とし、こちらは通称であろうという。
ちなみに、岩波文庫版の『書紀』の解説ではホド(塊)の意とする。
ホドでなくホトならば、フトに転訛するような気がするけど、
やはり素人考えだろうか。ホト fötö →フト futo
368 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:00:34
>>362 古事記に「袁」とあるなら 中国人だろ
日本書記と古事記で違うところに意味がある
>>367 それに、尊称がいっぱい付いてる時点でその名は本名じゃないのは当然。
例えば武田信玄
武田が名字、
太郎が通称(字)、
源が氏、
朝臣が姓、
晴信が諱であって、
信玄は出家後に名乗った法諱である。
正式には源朝臣武田太郎晴信
さらに
改名 晴信、徳栄軒信玄、機山大居士
別名 太郎、勝千代(幼名)、甲斐の虎、甲斐の龍(渾名)
戒名 法性院機山信玄
武田信玄レベルでこれ。 名前に尊称にあたる音が入っていれば それは既に本名ではない。
>>363 王氏に讃がいれば決まりだが肝心の記録にないではないか
>>368 実名(諱)の「太」に男性名を強調する「彦」や尊称の「尊」が
後から付いたんだと思う。
>>363 琅邪王氏を「華北の名家ではなく、江南の名家だった」とか
いってる時点でペケ。
自分で出したリンク先も読んでないってことじゃん。
370 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:50:31
>>369 王氏は華北でなく江南の名家
そこは間違ってはいない。しかしそこはどうでもいい
問題は、
袁も司馬も劉もいるのに、王氏ってなんで?てところだろう。
袁氏でいい。
何故、シンプルに答えが出てるのに複雑にするのか理解できない。
一字一音の万葉仮名は比較的新しい表現で
「太=ふと」の訓読みは意外に古いらしい
万葉仮名というか字音を借りた表記のほうが古いんじゃないの。
373 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:20:36
ふと と和風名言ってる人
そもそも越って北陸だと思ってるのですか?
374 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 05:34:26
越が中国大陸やマダガスカルにあると言われてもなあ。
>>372 越→高志
…のように好字二字令によって一文字を二文字に改めた例がある
376 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:12:56
>>375 倭にとってこの時代の帝都は越です。
隋唐の時代は正式に呉越は「越州」という名称となりました。
”跡取りのいない倭王に代わって、新たな倭王が「越」から来た
507年に即位して、実際に大和に入ったのが526年
その名も継体帝”
これ、どう考えたって本国の越から来た新たな国主だろう。
そして古事記に、継体帝の名が 「袁」
継体の子息達は、渡来人の里に住み、
その後100年間には飛鳥寺・法隆寺・呉服など突如 「越州の文明」がスタンダードになっていく。
ちなみに(当時の隋唐は、漢化が進んでいない)
>>375 埼玉稲荷山古墳鉄剣銘にみられるような字音仮名のほうが
あきらかに古いっしょ。好字令は和銅年間の話だし。
しかし、袁本杼を袁紹に引っ掛けただけのネタなのに、
マジに受けとってる方々がおられるとは。
作った本人のほうが小恥ずかしくなる…
お約束の「な、なんだってー!」もないしorz
378 :
倭王貴人:2009/04/18(土) 16:55:28
>>376 >”跡取りのいない倭王に代わって、新たな倭王が「越」から来た
> 507年に即位して、実際に大和に入ったのが526年
> その名も継体帝”
この記事は日本書紀によってる。大和は大倭 とある。
大倭っていうのは大陸から見て日本を指す言葉。
続日本紀704年7月1日の項、遣唐使粟田真人の記事にも
・・唐人がわが使者に言うには「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭
国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行なわれているという。
今、使者をみると、身じまいも大へん清らかである。本当に聞いていた通りである・・・
と、大倭国が大陸で日本を指している事と続日本紀書記側で大倭=日本に
違和感がないのがわかる。
継体は越から日本に入った というわけだ。
>>377 袁氏なら、袁氏と名乗ればよいだけの事。よって
おっしゃるとおり袁氏ではないな。
答えは、王氏だよ。
宋氏倭国伝に
http://www.geocities.jp/yasuko8787/80202.htm 「国王は王を姓とし、代々あい伝えて現在の王に及ぶまで64代・・」
と実は明快に記録に残ってたわけだ。
晋代宋代と南朝で大将軍位を何度も輩出した王氏だからこそ
倭国王大将軍となったわけだ。
379 :
倭王貴人:2009/04/18(土) 17:08:35
失敬
宋史「日本国伝」な
越というか越前三国が継体擁立勢力の背景として注目されがちだけど、
近江や本拠と目される淀川流域も重要だと思う。
>>378 王羲之の書蹟は日本の朝廷で非常に持て囃されて、光明皇后の臨書も
残ってるけど、そんな事実があったら何かしらの言及があるのでは。
まあ、いつもながら無茶だね。面白いけど。
「然のいう「國王以王為姓」てのは、王統の「万世不易」ぶりを主張したもの。
天皇は姓を称さないけれど、姓氏の概念で親族集団が作られているから
そういったまででしょ。親王諸王をまとめて「王氏」といったり、
院が家父長として形成する家を「王家」といったりするのも同じ。
381 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:21:47
>>380 当時は道路網が貧弱だったから
淀川流域をおさえて交易や情報伝達をおこなったものが
かなり有利だったと思われる。
382 :
倭王貴人:2009/04/18(土) 22:35:22
>>380 >まあ、いつもながら無茶だね。面白いけど。
ははは!書いてる本人のまあ無茶な気持ちを理解してくださってサンクス!
>「然のいう「國王以王為姓」てのは、王統の「万世不易」ぶりを主張したもの。
これまで歴史家は皆そう解釈してきたわけだ。
でも注意深く見ると、
「彼らはたかが島国の夷だ。にもかかわらず、国王の位は久しきにわたって世襲し、その臣も
また親のあとを継いで絶えることがない。これこそ古の理想の道と称すべきであろう。……」意訳
は、「國王以王為姓」 の部位よりずーーーと後に出てくる一節に過ぎない。
「国王は王を姓とし」という約はその通りに解釈する方が本来自然である。
まさか、王 という姓 の”はずがない”という前提ならではのこれまでの解釈だったのである。
”はずがない”という必要は実は全く無かったのだ。
南朝の晋代の王氏はまさに安東将軍として氏族の誰かを倭に封国する場合に
最も最も相応しい氏がそもそも王氏である! →異論ある?
土地+王 で名を記載される唯一の氏にして史書では倭王と同じ讃や武
など姓抜きの一文字で書かれる氏族である。
>王羲之の書蹟は日本の朝廷で非常に持て囃されて、光明皇后の臨書も
>残ってるけど、そんな事実があったら何かしらの言及があるのでは。
それはそうだね。うん。注意深く跡を探してみようかな。
383 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:27:45
王氏=ホームラン王
>>381 >当時は道路網が貧弱だったから
たしかにその辺は後代の感覚で捉えちゃいかんよね。
宮の立地を考えるに、最初の樟葉宮(河内国交野郡葛葉郷)
は宮跡伝承地の枚方市楠葉丘の交野天神社にあったとすると、
淀川、木津川の合流点に近く、奈良期の山陽道、山陰道沿いでもある。
枚方(ひらかた)は平潟に通じ、「牧方」の表記もあるそうだが、
後の摂関家領の楠葉牧に因むものだろうか。ともあれ、樟葉宮の
あった当時も一帯に馬牧が存在した可能性は指摘したい。
>>382 >南朝の晋代の王氏はまさに安東将軍として氏族の誰かを倭に封国する場合に
>最も最も相応しい氏がそもそも王氏である! →異論ある?
それはただの思い込みでは。
>土地+王 で名を記載される唯一の氏にして史書では倭王と同じ讃や武
>など姓抜きの一文字で書かれる氏族である。
王氏一門は建国の元勲ではあるけど、王爵を受けた人はいない。
あと姓を省いて記載するのは別に珍しいことじゃないよ。
385 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 18:43:29
>>「(倭)國王以王為姓」
この一文は直訳すると
「倭王は"王"を姓としている」としか読めない。
今、ここで論争となっているのはこの"王"が何を指すのか、ということ。
甲氏はこれを"(倭)王統の文学的表現"とし
乙氏はこれを"王という漢人の姓"としている。
自分はここで中立の立場で甲氏に伺いたいんだけど
もしこの一文のなかの"王"が「万世不易の王統」を表現したとするなら
どうしてこのように湾曲した文学的表現を用いる必要があったのだろう?
冒頭でもいったけど、この一文の文意は
直訳すると「日本の国王は"王"を姓としている」としか読めない。
もしこの"王"が、甲氏のいうように
天皇家の長く続く王統を文学的に擬した語であるとするならば
この一文の記録者は、これを読む者が
「倭王は王を姓としている」というふうに文意を錯覚してしまうのでは、
という心配をしなかったのだろうか?
あえてこのような表現をするのはいかにも不自然であり、
やはりこの一文の"王"を文学的表現などとするのは
倭王に「王」などという漢風の姓などあって欲しくはない、
という日本人の身贔屓ではないのだろうか?
自分は門外漢だが、乙氏の主張するがごとく、この一文の文意は
「倭王は"王"(という字)を姓にしている」と読むのが自然だと思う。
386 :
385:2009/04/20(月) 18:51:56
ただ、このことはそのまま即
当時の倭王が漢人出身者である、とまではいえないと思う。
倭人が"王"という姓を詐称したことは十分あり得る。
自分がここではっきりいえるのは、
「國王以王為姓」という一文を書いた記録者の文意は
まちがいなく「倭王は王(という字)を姓としている」と
いうものであり、「倭王の王統は長い」などという意味では
決してなかっであろう、ということまでです。
むしろ、中国側の事情として、
たしか旧唐書あたりでは、日本側の貴人の呼称に
そろって「アメ〜」という発音があったことをうけ
「日本の王の姓は阿毎」などという記述があったと思います。
あるいはこの倭王の姓云々、という記述には
その辺の事情もあったのか、といった気もします。
387 :
龜甲兎:2009/04/20(月) 21:52:48
甲と呼ばれた者だけど、いちおうコテつけます。
>>385 >この一文は直訳すると
>「倭王は"王"を姓としている」としか読めない。
その読み方そのものに異論はない。
>>380の「王統の『万世不易』ぶりを主張したもの」ていうのは
「然の主張の核にそれがあるという文意。長ったらしく書く
つもりがなかったから、かなりはっしょってる。
そもそも、「然は官寺東大寺の僧であり、入宋した時機からして
日本朝廷からほぼ統一成った宋の偵察任務を託されていた使僧
というべき存在であったことが石上英一氏より指摘されており、
彼の言上はすなわち日本朝廷のそれといっても差し支えない。
388 :
龜甲兎:2009/04/20(月) 21:56:40
>>385 (続き)
天皇は姓を称さないが、皇帝から蛮夷と見なされたくなければ、
何らかの姓を称す必要があった。この際、「然というか日本の
朝廷側は当然独自の華夷概念を捨てざるをえない。
とはいえ、古の「倭」姓を名乗ることはさすがにプライドが
許さなかったろう。あまり格下のイメージを持たず、雅やかで、
かつ姓氏として奇妙でない字面と響きが求められたはず。
例えば、「源」姓などは雅やかであるし、唐代に源氏の宰相も
いたから候補としてありえたかもしれないが、日本では明らかに
臣下の姓であるので却下。
結局、「王」姓が選ばれた理由としては、琅邪王氏や太原王氏ら
功臣の例もある風雅な姓として意識されたこともあろうが、
あえて抽象的、普遍的、普通名詞的な「王」を姓とすることで、
国姓の不易性を印象づける意図もあったように思われる。
つまり、ダブルミーニングを狙った称姓だった可能性が高い。
その際、日本において普通に使用されていた「王氏」「王家」
などの語感が援用されたことはまず間違いなかろうね。
389 :
385:2009/04/20(月) 23:31:39
>>龜甲兎さん
たいへんよくわかりましたm(_ _)m
「然が日本国王の姓を"王"としたのは
あくまで中国の習慣を考慮した便宜上のことで
その王の字を選択した根拠は
当時の朝廷における皇族や賜姓皇族らの通称である
「王氏」「王家」から来た、との主張ですね?
これなら自分にも自然に理解できます。
ひきつづきロムります
390 :
龜甲兎:2009/04/21(火) 00:07:07
>>389 だいたいそんな感じです。
ただし、「王家」=「王氏」ではないのでご注意を。
それ以上はスレ違いになるので控えますけど。
というかロムらなくても…
>>384 樟葉宮関連で補足。
『続日本紀』に、和銅4年(711)に都亭の駅として河内国交野郡に
楠葉駅が置かれたとある。樟葉宮の跡地に設置されたものだろうか。
陸路としてもこの地が要所であったことが分かる。
また、同記事には山背国綴喜郡の山本駅、摂津国嶋上郡の大原駅、
嶋下郡の殖村駅などの設置も見え、それぞれ筒城宮、今城塚古墳、
太田茶臼山古墳の所在する郡であるのも興味深い。
391 :
倭王貴人:2009/04/21(火) 03:51:18
龜甲兎 さん
天皇が王氏なんてのを日本人の感覚が認めないのはしょうがないね。
まずそれを自己認識だよ。
万世不易の王統 なんていう曲解が最初に紹介されてしまう感覚。
次に、雅にしたくて王氏と名乗った と解釈するしかない感覚。
きわめて日本人として正常だね。
次はその日本人感覚を計算して排除してみよう。
中原から呉越に移った王朝の意味するところは、中原の漢族と江南の蛮族の融合にあるよね。
そして、王氏はこの歴史的な融合の最初、呉越6王朝の初代の高祖が皇帝に就く時のNO.2なわけだよ。
高祖が安東将軍(NO1)の時、王氏は安東司馬(NO2) で
高祖は皇帝になったら、王氏は?安東将軍はどこの氏?
この時、東晋の大将軍も王氏だよね
で、この100年後の安東将軍が 讃 だよね
この間、東晋と宋は、帝家は違うけど大臣豪族は継承されてるね。王氏一族は益々栄華を極めてるんだけど、
この時点で安東将軍 が王氏なのは実に自然だよね。 これ思い込みレベル?
宋書では、安東将軍は倭王讃 で安東司馬が曹達 と書かれてるわけね。
この安東将軍 讃が 倭人だと解釈する方がよほど無理がないかな?
「漢人なら姓がないのはおかしい」という意見が唯一の反論だけど、 王氏なら納得だよ。
王氏は、会稽王道子とか琅邪王氏 とか何故か土地の名+王で 王氏と解釈されるケースが多い。
倭王讃が 会稽王讃や琅邪王讃 なら、王讃 と解釈されているのである。
そして、宋史日本国伝に 天皇の姓が先祖代々 王 だ と書かれているんだから、
素直に 王氏 と認識すればいいのでないですか?
王仁(わに)
393 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 08:30:22
倭王貴人さんの主張は、文章そのものとしては
体裁が整っていますし、何より論が貫徹されています。
つまり論理的な説得力があるんですよ。
そして何より、「然の文章が当時の日本王朝の現実を忠実に描写している、
つまり「実態そのもの」であると主張なされています。
ところが龜甲兎さんは、実はその文章は、
「中国の歓心を買うための仮構」に過ぎない、つまり
単なる文章上の表現であるに過ぎず、実態を描写してはいない、
と主張しておられます。
たとえば「然は「日本国王の姓は王だ」と述べたようですが、
これは実際に当時の日本国王に王などという中国風の姓があったわけではなく、
中国の歓心を買うために、日本の王も中国風の姓を持っていると
思わせるために、あえて詭弁を用いた、詐略に過ぎない、という主張です。
つまり倭王貴人さんは"「然文書"を
「実態をそのまま描写した現実そのものだ」と主張し
龜甲兎さんは「単なる文章上の表現に過ぎず、実態を描写してはいない」
と主張しておられるようです。
この場合、ご両人とも論理破綻は起しておらず、
どちらを支持するかは見る者の嗜好に任されますね。
394 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 08:31:36
ただどうなんでしょうか。たとえば
日本の歴代政権は武家政権も含めて、中国と貿易するときには
日本で独自の元号が施行されているにもかかわらず、
中国に受け入れてもらうために、
平素から中国の元号を使用しているかのように
平然と中国側の元号を用いて文書を作成していました。
つまり中国の歓心を買うために、自国の実態を
中国向けに改竄してしまう、という文化を持っていたやに思われます。
同じ文脈で、日本の天皇家には姓がないにもかかわらず、
中国の歓心を買うため、"王"などという中国風の姓を持っていると
いうような、実態とは違うことをあちらで述べた、というような
ことが考えられるのでしょうか。
395 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 11:51:44
遣唐大使も中国風の名前を名乗っていたな。
396 :
倭王貴人:2009/04/21(火) 12:11:54
393・394さん 整理サンクスです。
江南の王氏は、中原の司馬氏が江南で権威となる時に”既に江南の権威”であった王アツの後ろ盾をとりつけ、
さらに、江南豪族を華北司馬体制の100官に起用させた立役者。
ただの華北王氏なら、司馬氏より江南で既に地元の権威として勝っている存在である事が不思議である。
ただの華北王氏なら、華北の司馬体制に、
蛮地の100官を組み入れる融合させた事を功の筆頭に上がる存在である事も不思議である。
地名の王氏はもともと江南で、今の天皇と同じく 無姓の王としての地位にあったと示唆される
それが晋書宋書の中の華北氏の史書体裁の中で、王氏 という姓になっていく。
これ等は状況的推測に過ぎないが、
すると、
別スレでも支持者の多い、倭人江南ルーツ説 と、
倭人の王としての天皇の権威の正当性
この2点の整合性を考えると、
両方の地でともに、天皇家が祖神である方が民族的整合性が生まれる。
397 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 14:59:18
当時の中国人がもっと真剣に
日本の事情を記しておいてくれれば
今の混乱はなかったのだと思う
アジア人の文章は前提条件を省略してしまうので
後の閲覧者は事情を推察するしか手がなくなってしまう
398 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 17:13:36
正直、天皇家は中国の軍閥の子孫だと思う。
そう思うようになってきた。
ただこのことを周囲にしゃべったときの反応が怖い。
政治的迫害とかいうまえに、頭大丈夫か、的な…。
天皇が朝鮮から来た、と考える人は多いのに
中国から来た、という人はほとんどいないから…。
普通にあるだろ
神武=徐福説
天孫族=公孫氏説
天孫族=孫氏説
400 :
龜甲兎:2009/04/21(火) 19:04:37
>>391 >万世不易の王統 なんていう曲解が最初に紹介されてしまう感覚。
「然(を代表とする日本の知識層)の「万世不易」的な主張は
「國王以王為姓」に続く「傳襲至今王六十四世」に見えてる。
さかのぼれば、『古今和歌集』の「わが君は千代に八千代に…」
もあるし、『続日本後紀』にも「帝之御世、万代に重ね飾て」とある。
時代を下れば、摂関家出身の慈円が「日本國のならひは國王種姓
の人ならぬすぢを國王にはすまじと」とか「この日本國は初より
王胤は外へうつる事なし」と明確に論じてる。
当時の知識人としては当たり前の感覚でしょう。
>次に、雅にしたくて王氏と名乗った と解釈するしかない感覚。
どうせ称するならば、漢人にウケるほうがいいよね。
日本人も「阿毎」とか「主明楽美御徳」などと言ってた頃よりは
空気を読めるようになってる。
また、「然の場合は正式な国使とは違い、あくまで巡礼僧が
皇帝に朝覲するという体裁をとっているため、ある意味フリーな
立場を逆手にとり、一姓にして不易の王統が今もなお継承されて
いることを、皇帝に対し誇らしく陳べることに成功した。
「王」姓を選んだのは、天皇の父系親族をさす語として用いられた
「王氏」が大きく影響しているはず。
401 :
龜甲兎:2009/04/21(火) 19:13:39
>>391 >中原の漢族と江南の蛮族の融合
融合の意味するところがいまひとつ明らかでないけど、
北方から来た中原の人士による江南への蔑視は抜き難いもの
があったことは疑いのない事実。
同じ漢人の間ですら門地の違いで絶対的な差別をしているのに、
野蛮人と見下してる者を仲間に入れるわけがない。
>で、この100年後の安東将軍が 讃 だよね
将軍、都督などの武官職と某国王などの爵位が「中華」の外縁にも
及ぶようになったということ。「中華」の分裂により、戦争が激化して
とくに東夷の君長が軍国化をめざして官爵を求めるようになったんだろう。
知識人の流動化もそれを促すことになった。
たとえば、『梁書』によると、4世紀末、高句麗の「句麗王安」(広開土王)
は後燕(鮮卑慕容部)の慕容宝により「平州牧」「遼東、帶方二國王」
に封じられ、将軍号をも授けられ、はじめて「長史、司馬、參軍官」
を置いたとある。東晋からみれば、「夷」から「夷」への官爵授与だが、
南朝に先駆けるもの。
402 :
龜甲兎:2009/04/21(火) 19:18:59
>>391 >王氏一族は益々栄華を極めてるんだけど、
>この時点で安東将軍 が王氏なのは実に自然だよね。
その時点の安東将軍が誰だったのか、できれば教えてほしい。
安東将軍司馬睿と司馬王導てのは、江東方面軍司令部としての体制でしょ。
司馬睿が即位した(元帝ね、高祖じゃないよ)時点でいったん解散して
しまったのでは。
>王氏は、会稽王道子とか琅邪王氏 とか何故か土地の名+王で
>王氏と解釈されるケースが多い。
>倭王讃が 会稽王讃や琅邪王讃 なら、王讃 と解釈されているのである。
ただの誤読。
会稽王道子は司馬道子のこと。東晋の有力皇族です。
琅邪王氏は山東の琅邪郡臨沂に本籍のある王氏の意。
ちなみに北方からの流民は帰れもしない故郷に戸籍を置き、
東晋政府への税や兵役を免れるものが多く、東晋における
重大な政治問題となった。
>倭王讃が 会稽王讃や琅邪王讃 なら、王讃 と解釈されているのである。
「会稽王讃」「琅邪王讃」ですか…
もうちょっと史料に即した話じゃないとのれないよ。
403 :
倭王貴人:2009/04/21(火) 21:29:27
>>龜甲兎
素晴らしいレスだ!会稽王道子の指摘サンクス。
國王以王為姓 のあたりのレスには説得力を感じられないが、
私の王氏説についてはまだまだ説得力がない事が明らかになった。
より説得力を持つように努めようと思う。謝謝
404 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 06:08:45
>>399 神武にしろ天孫族にしろ、戦術やライフスタイルが中国っぽくないんだよね。
神武東征なんかでも中国流の兵法をマスターしていたような感じはしないし。
明史日本伝みたいないい加減ことしか書いてないのが宋史日本伝
>>404 神武天皇、最初は負けちゃって
大阪湾方面から大和に入れなかったんだよね?
たぶん生粋の倭人なんじゃね?
中国人ならまず負けないでしょ
407 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 09:41:17
>中国人ならまず負けないでしょ
中国から海を隔てた遥か遠くの日本で中国人が勝つほうが困難だろう。
いや、だって中国のほうが戦争ばっかやってて
兵法も発達してたんでしょ?
原始人同然の倭人を相手に負けたって段階で
神武中国人説に説得力はないよ
ごめん
正直、神武天皇の正体って
北九州漁民のボスに過ぎないと思う
中国人だとかいうのは買いかぶり過ぎ
日本人は天皇家を神秘化し過ぎる
410 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 12:27:07
>>409 逆だよ、中国人を過小評価しすぎ
倭州だけが、天皇家によって守られてるってのは神秘化過ぎる。
中国人が開拓したに決まってるだろ
411 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 12:53:38
>>408 > いや、だって中国のほうが戦争ばっかやってて
> 兵法も発達してたんでしょ?
> 原始人同然の倭人を相手に負けたって段階で
> 神武中国人説に説得力はないよ
武器も鉄器だからな。中国軍は。
天皇家の祖先はただの縄文人だと思うよ
最新の遺伝子調査で現代日本人のy染色体は
弥生系ではなく、縄文系が多いことが判明してる
そして逆にミトコンドリアが弥生系だそうな
つまり縄文系の男が弥生系の女に
子供を産ませてきたことが判明している
このことをもって
縄文系の弥生系に対する生存競争の勝利と
捉える説も出始めてる
つまり従来説とは逆のことが言われだしてる
広開土王の時代に倭国が朝鮮南部を支配していた、
という石碑をどう理解すればいいの?
倭国がそういう力を手にしたのも
やはり華人の力なのだろうか?
414 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 14:45:55
それは
高天原=朝鮮半島南端
説に立てば理解できる。
415 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:43:11
416 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:46:29
でも結局、倭王は華人で天皇の姓は王氏でしょ。
倭人貴人さんの話はおおむね筋通ってる。本人はネタで話てるようだけど
417 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:52:42
継体持統
418 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 16:26:10
加羅国の金海には
「倭王はここから船出して、倭の支配者になった」
との伝承があるとか。
>>418 悪いけど朝鮮人の伝承なんか誰も信じてないからw
韓国の法廷における偽証罪の発生率は日本の700倍だ
そういった朝鮮の風土もふまえて話をしなよ
そのくらいできなきゃ日本史板に住む資格ないよ
第9回遣唐使の随員のひとりも
「井 真成」という中国風の姓を名乗っていたね
そうする習慣があったのだろう
421 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:01:02
井 真成」という中国風の姓・・・
・・・・ 中国風に見えないんですが
422 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:06:38
「空海の風景」にも遣唐使は中国風の名乗りを持つことが普通と書いてあった。
423 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 01:39:36
素朴な疑問
遣唐使最初の100年くらいは、唐の高官(鮮卑)が漢風名称を使い始めたころだけど
お互い夷族なのに漢風名を競いあったって言うのは笑える話だな
>>418 新羅王や加羅王の末裔を自称する人もいるけれど、ほとんど全くのデタラメだ。
先祖が系図屋から買っただけ
実際に負け組の百済王・高句麗王・高麗王の末裔は人気がない
話がかなり飛ぶけど
大内氏が百済王家の末裔とかいう
あれは何なの?
貿易を有利にするための詐称かと思っていたのだが...
427 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:47:07
>>426 > 貿易を有利にするための詐称かと思っていたのだが...
今でもそう思われている。
428 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:49:39
ただ、百済王氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%B0%8F は、百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・
姓(本姓)とする。持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされる。
当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人
のうち別格の地位にあった。
王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる。
また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で百済王仁貞らが後継者然と名を連ねている
ことより、百済系氏族の長的地位にあったことが知られる(『続日本紀』七月一七日条)。
「こにきし」という読みの由来については百済王を参照。
平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため
「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けた。
女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。
本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
百済系の血統は蔑まれていた、という説と
厚遇されていた、という説と両方ネットで見るんだけど
どっちが本当なんだろうね?
光仁(桓武の父)は、百済系の血をひく桓武の即位を避けるために
ほかの皇位継承者が全滅するまで登極を阻まれていた、
というような話をネット読んだことがあるんだけど...
それは上記の話題とは矛盾するよね...
430 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 15:25:06
>>424 相手が鮮卑なのにわざわざ1文字名で名乗るってのは、日本側が
「日本の方が上方だから」って、蛮族鮮卑の唐に見せ付けたいってことでOK?
日本が偉そうに1文字で来るから唐も負けじと、段々漢風名称が定着してったって事か
431 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 18:11:08
>>429 百済系の血統は統治や開墾などのノウハウを持っていたので
「実務者」として関東の国司などにも任命されている。
当時も実務ができない無能な権力者は多かったんだな。
>>426 多々良姓というのが事実なら、
百済じゃなくて金官伽耶王家の子孫。
434 :
倭王貴人:2009/04/24(金) 02:14:58
百済王氏 って
百済を氏 姓 なんだろ。 で、ジトウ朝に 王氏になるんだよな。
じゃさ、なんで百済王の本名を日本で使わないわけ? おかしいよなー
これそもそも、百済時代に百済 以外に氏姓ないって事でおまえらいいのか?
一つ、日本に来ると、大陸時代の名を使わないようだって事例だよな
一つ、じゃなかったら百済王は本当に、王氏だったって事じゃねーのか?
百済王も宋朝の大将軍だからな。
倭よりさらに晋・宋朝の貴族が封国されてていい土地だしな。
>>434 すべては便宜上のことだったんじゃね?
古代人はあんましそこらへんにこだわらないみたいな
436 :
龜甲兎:2009/04/24(金) 19:40:36
金官王家は金氏、百済王家は餘(余)氏です。
それぞれ国名ないし族名に因んだものでしょう。
>>384>>390の続き
樟葉宮の次に営まれた筒城宮(つつきのみや)については、
『仁徳紀』に「筒城宮」がみえ、皇后葛城氏のために宮室を
筒城岡の南につくったとあり、また、『仁徳記』に「筒木韓人、
名奴理能美之家」に皇后が入ったとある。筒城宮は元来韓人
(加耶人か)の邸宅だったところを接収して宮としたものか。
その後、葛城氏と婚姻を結んだ仁徳王統ないし顕宗・仁賢王統
に伝領されていったとすれば、継体が受け継いだのは手白香皇女
との婚姻によってだろうか。筒城宮に関する記述が『仁徳紀』
以降『継体紀』に至るまで出てこないのが少々気になるが…
437 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 19:54:57
樟葉宮も筒城宮も軍事的要害の地にあるって感じがしないんだよな。
438 :
龜甲兎:2009/04/24(金) 20:15:05
>>437 たしかに軍事的なにおいはあまりしないね。
交通の要衝に設けられたのは確実だろうけど。
樟葉宮の所で推定したように、馬牧あるいは倉庫を経営する
屯倉のような感じかな。
筒木宮の所在地は山城国綴喜郡綴喜郷。岩波版『日本書紀』の
解説では、現在の京都府京田辺市普賢寺付近だという。現在は
観音寺という寺のみ残るようだが、もとは普賢寺と号した大寺
であり、国宝の十一面観音で有名である。山号は「息長山」という。
息長氏によって建立された寺と考えるべきだろう。
塚口義信氏は、神功皇后の父系系譜にみえる「山代之大筒木」や
「息長」を称する王族らの存在から、応神天皇(に象徴される
河内の王統)擁立に関わった勢力として、山城南部の息長氏が
いたことを提唱している。とすれば、筒城宮は南山城の息長氏と
葛城系王統によって維持、伝領されていたと考えられようか。
439 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:25:06
いい加減、渡来人説はやめようや。
渡来してきて日本の王になったのなら、
堂々とそう書けばよいだけ。
なぜ書かないのか正当な理由を述べよ。
440 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:43:55
>>439 倭人を騙すためだろ。
神だといって土人を支配してるのに滅んだ国出身です。なんて言えるかって
>>439 どうどうと主張しているが?
「自謂太伯之後」
442 :
倭王貴人:2009/04/25(土) 03:49:26
>>439 真理A「日本では大陸での名前を使わない」は
百済王族(扶余姓と余姓と推定される)が
日本で、王氏 となった事例により 証明終了である。
反駁は、もともと王氏だった。という場合のみ成立する。
この場合は、
真理B 「大将軍百済王という史書表記で、姓は王氏だった」という事であり
当然、宋書の大将軍倭王という史書標記で、姓が王氏だったという事になる
443 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 05:42:25
「天孫降臨」ならプロパガンダとして有効だが(当時ね)
「落ち武者」ではかっこつかない。
444 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 05:45:17
437 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/04/24(金) 19:54:57
樟葉宮も筒城宮も軍事的要害の地にあるって感じがしないんだよな。
438 名前:龜甲兎[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 20:15:05
たしかに軍事的なにおいはあまりしないね。
交通の要衝に設けられたのは確実だろうけど。
樟葉宮の所で推定したように、馬牧あるいは倉庫を経営する
屯倉のような感じかな。
継体は交易とか産業振興には強かったが、軍事には長じていなかったような感じもする。
文官タイプ、無難な官僚タイプだったのでかつぎやすかったのかもしれない。
最近だと海部とか福田みたいな感じかも。
445 :
龜甲兎:2009/04/25(土) 08:27:11
>>437>>444 軍事的な匂いはしないって書いちゃったけど、この時代は大和の
反継体勢力と対立している可能性もあるんだっけ。そういう意味
では筒城宮は対大和戦線の最前線基地だ。
もっとも、そこまで深刻な軍事的緊張があったかどうかは議論が
分かれるところだけど、その観点で改めて地勢を見直すと、
筒城宮の旧跡とされる普賢寺は木津川を見下ろす丘陵(筒城岡)
上に位置する。普賢寺から東へ丘陵を下ると、
>>390で述べた
山本駅の跡とされる壽寶寺があり、木津川西岸沿いの陸路の
中継点として古くから重要な場所であったことが分かる。
つまり、この地は水陸交通の要衝。
さらに、木津川に接するように飯岡(いのおか)丘陵という
独立丘陵がすぐ北東にあり、もし、筒城岡とこの丘陵を結ぶ
小川に沿ってラインを形作れば、木津川および川沿いの陸路
を遮断することが可能。つまり、大和北部から河内、近江へ
抜けるルートを握ってるわけで、これは軍事的に十分有利な地勢
と言えるんじゃないかな(Google Earth で見ただけだけどw)。
446 :
龜甲兎:2009/04/25(土) 08:53:48
ちなみに飯岡丘陵には、全長90メートルの飯岡車塚古墳
(伝上殖葉皇子墓)、ゴロゴロ山古墳(伝椀子皇子墓)、
薬師山古墳(伝櫻井王墓)など継体の血縁者の墓と伝える
古墳群があり、継体にとって重要な場所であった可能性が高い。
また中世の山城国一揆の一拠点であった草路城跡の咋岡
(くいおか)神社もこの丘陵上にあり、軍事要塞としての機能
を備えることは明白。筒城岡に宮を構える者がこの丘陵に
着目しない理由はなかったはず。
また、普賢寺周辺には多々羅という地名があり、加耶南部の
要地である多多羅や『仁徳記』の筒木韓人との関わり、
そして、たたら製鉄を想像させる。あるいは、加耶人によって
製鉄が営まれていたのかもしれない。
木津川の水運だけでも十分だが、製鉄の権益も加われば、
経済的な観点でもこの土地の価値は非常に高いといえる。
したがって、こうした強みをも筒城の地を掌握していた継体は
やはり軍事的にも経済的にも鋭い観察眼をもっていた英主
だったんじゃないかな。当時の王権はまだ大王個人の資質に
負うところが大きかったと思うんだよね。世襲の王統だったか
否かは別として。
447 :
龜甲兎:2009/04/25(土) 08:57:17
>>446 下から5行目訂正
こうした強みをも→こうした強みを持つ
失礼しました。
448 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 11:36:43
>>445 > もっとも、そこまで深刻な軍事的緊張があったかどうかは議論が
> 分かれるところだけど
武田と上杉も年中戦争やっていたわけではなくて
戦争でも平和でもない、にらみあいのこう着状態(小康状態)が多かった。
継体と大和もそんな感じだったのかもしれない。
当時は兵農未分離だから農閑期にしか大規模な戦争はできなかったし。
449 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 19:59:38
>深刻な軍事的対立があったかどうか?
この時代になかったらいつあるの?あるに決まってるでしょ。
倭王は南宋の権威で倭王が120カ国の蛮族を征服してきたのに、
その後盾が崩壊したでしょ。反乱起こるでしょ。
朝鮮半島の各国も倭王に反目する国が出るでしょ。
北魏についていく勢力も生まれるでしょ。
450 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:56:41
倭王貴人氏のいうとおりなら、
百済王と倭王は、ともに王氏で親戚だと言う事か。
白村江も納得がいく
451 :
龜甲兎:2009/04/26(日) 06:42:06
>>446補足
この地にキャンパスをもつ同志社大学の調査によると、
いわゆる筒城岡には田辺天神山遺跡という弥生時代の高地性
集落があり、飯岡にも同様の遺跡が認められるという。
やはり、この地は要害としての条件を備えていると考えるべき。
>>448 継体を盟主とする河内、近江、越前勢力と大和の勢力との間に
軍事的対立があったと考える場合、大和における敵対勢力とは
何だったのかをまず明らかにしないと何も始まらない。
しかし、正直そこまで考えが及んでいないので、とりあえず
今は樟葉宮の地勢についても軍事的な観点から見直してみる。
樟葉宮の置かれた場所については、枚方市楠葉の交野天神社
一帯とする通説に従いたい。桓武天皇が郊祀祭天をおこない、
父光仁天皇を天神として祀ったことに始まる神社であり、
摂社の貴船神社は継体天皇を祭神とするという。桓武は直系の
先祖継体ゆかりの地であることを意識して祭祀を行ったのだろう。
周囲から孤立した微高地であり、大王の宮が置かれるのに
ふさわしい立地といえる。
452 :
龜甲兎:2009/04/26(日) 07:12:30
さて、この小丘陵の周囲を見渡すと、北東約900メートルの
地点に石清水八幡宮寺の鎮座する男山(鳩ヶ峰)がある。
河内平野への関門の如く聳える独立峰である。海抜143メートル
の低山とはいえ、前述の飯岡丘陵と同様、要害としての特徴を
備えており、樟葉宮を守るとなれば、この山の要塞化は不可欠
であったろう。さらに、洞ヶ峠、美濃山方面に要塞線を延ばせば、
宮を囲う鉄壁の守りとなる。
もし、烽火台が設置されたとすれば、淀川の対岸にある弟国宮は
もちろんのこと、南の飯岡、西の三嶋野とも連絡を取ることが
できたろう。古代の烽火については未調査だが、広大な版図を
もつ継体ならば、利用した可能性がある、かもしれない。
>>449 倭王と南朝の皇帝との繋がりが切れたことは少なからず
王権に動揺をもたらしたろうね。倭王と豪族たちに君臣の別を
つけ、序列を可視化したであろう、将軍・郡太守号(と朝服)
が入手できなくなったのだから。
武王(雄略)の没後、5世紀末から6世紀初頭にかけての
大王の墓陵とみなされる古墳はどれも全長120〜140メートル
と軒並み縮小化しているというが、雄略の専制に対する反動
とはいえ、大王権威の相対化は否めない。
453 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 10:56:05
樟葉宮と筒城宮の想像復元図はどこかの本に載っているだろうか?
454 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:37:02
>>452 南宋崩壊後50年は尋常じゃないね
・次の王(武烈)が狂乱? 若くして死ぬ
・九州反乱
・王と王子同時に死ぬ
・半島奪われる
455 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:38:40
>半島奪われる
これは大伴金村に責任を押し付けて処理したんだろうな。
456 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:01:42
武烈までが、南朝系の五の倭王の系譜。
北陸から来た倭人の継体が、武烈帝の時代、
武烈をぶっころして、倭人王朝を奪還。
(王も王子も殺される)
武烈に酷い汚名を着せる。
その結果、南朝系の
朝鮮半島と九州が揃って離脱。ところが
朝鮮半島は倭から離脱できたものの、九州は反乱を抑えられて倭に帰属させられる。
この継体帝陣営の中心が蘇我氏、ところが蘇我氏陣営は後に隋や高句麗と結ぼうとする。
それに我慢できなかったのが、南朝系子孫と倭人独立系
645年大化の改新で、蘇我氏を中心とする北朝系が葬られ、
また、南朝系が復活する。 が百済と結んで北朝(唐)と白村江で戦うが敗れてしまう。、
南朝系と倭人系の戦いが壬申の乱である
またもや、倭人系の政権が誕生する天武帝である。
そんなに推測で埋めてしまって
よいのだろうか
>>440-442 たとえば弥生〜古墳まで一貫してた衝角付冑などを見ても
日本が大陸の武装になった事など一度もないのだが?
何を大陸からの落ち武者という前提で話してるの?
アホ?
>>442 >真理A「日本では大陸での名前を使わない」は
>百済王族(扶余姓と余姓と推定される)が
>日本で、王氏 となった事例により 証明終了である。
姓のない天皇が大陸から来た証明になってない。
460 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:46:18
>>458 へえ日本では大陸系の武具が全く発見された事ないの?
それなら、倭王貴人だめじゃん。
>>460 武具でなくて「武装」ね。
野球で言えばバットやグローブなどの用具が外国製であっても、
ユニフォームがキューバなら、その選手はキューバチームである証明になるよね。
同じ事。
462 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:07:23
>>459 >>442は
倭王が大陸系なら、大陸時代の姓を使うはずだ
って反駁へのレス なので倭王貴人はそこはOK
463 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:09:18
>>461 大陸系の武装が全く発見されてないの?
それ凄い事だなあ。
>>463 大王陵墓(大仙陵)から見つかった横剥板短甲と眉庇付冑のセットが、
大陸の何民族と同じ武装かと聞かれれば、
どこにもそんな物はないので、答えようがないはずだ。
眉庇付冑は大陸の影響を受けてると言われるが、
それはあくまで影響であって、実際は日本の冑だ。
それは継体の時代も同じ。
桂甲という騎馬用甲冑が出始めた頃だが、
冑は在来のまま。
継体が渡来系だという証拠なんて何もない。
465 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:00:56
天智天皇 百済人説
天武天皇 新羅人説
徳川慶喜 フランス人説
明治天皇 イギリス人説
466 :
? :2009/04/28(火) 14:22:21
?
467 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:28:11
徳川慶喜はフランス陸軍中将の制服をもらっていなかったか?
468 :
龜甲兎:2009/04/28(火) 22:54:44
>>453 どうなんだろ、不勉強なものでよく知らない…
地元の歴史資料館とかはもしかしたら
復元模型を作ってるのかもしれないね。
>>454 雄略の没後、継体の即位まで30年足らずの間に四人もの王
(飯豊も含めれば五人)が立ったというが、これらの王に
実在性を認めない研究もあり、正直事実は見極めがたい。
ともあれ、雄略の専制に対する揺り戻しがあって、播磨の
勢力を背景とする王統が成立したことは肯定できると思う。
隅田八幡神社画像鏡の銘文解釈(異論はあるけど)から
この播磨に基盤をおく王権において、継体(フト王)が次期大王
の有力候補に擬せられ、百済武寧王の支持をも得ていたこと
が読み取れる。
しかし、後に継体は長期間大和に入れなくなってしまう。
これをどう考えるべきか…
一昨日くらいにNHK教育の深夜に
伽耶と倭国の関係を、韓国の学者を呼んで
対談する、みたいな番組をやっていたのだが
相変わらず韓国の学者と立命館の教授が
百済>>>>>倭国的な図式を披露してた
好太王碑に出てくる倭国の南朝鮮支配、
これは「伽耶が倭国に鉄を与える見返りに援軍を送らせたもの」で
決して倭国主体の派兵ではない。そんな力は倭国にはない。
むしろ伽耶が倭国にリーダーシップを振るっていた。
そして百済が日本に与えた仏教は、百済で独自に発展した
「百済の仏教」であり、これがその後の日本文化の方向性、
日本仏教の方向性を決定して、ずっと日本精神を支配した
このような主張を展開していた。
こういうことは本当なのだろうか?
470 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 08:28:46
>>469 > これは「伽耶が倭国に鉄を与える見返りに援軍を送らせたもの」
正しいと思う。正確にはバーターだろうな。
倭王も国内統一戦争に鉄製兵器が必要だった。
471 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 08:30:32
>>469 > そして百済が日本に与えた仏教は、百済で独自に発展した
> 「百済の仏教」であり
正しい。
>これがその後の日本文化の方向性、
> 日本仏教の方向性を決定して、ずっと日本精神を支配した
その傾向は多少はあるが過大には評価できない。
>>470 >正しいと思う。正確にはバーターだろうな。
じゃ大和朝廷に「鉄を与え」、
「見返り」を要求するほど強靭だった伽耶の王とやらの墓はどこにある?
>そして百済が日本に与えた仏教は、百済で独自に発展した
>「百済の仏教」であり、これがその後の日本文化の方向性、
>日本仏教の方向性を決定して、ずっと日本精神を支配した
百済が西域僧によって4世紀に仏教がもたらされ、
「方向性を決定」されたことは無視し、
百済仏教の「発展の独自性」を強調。
一方、日本の仏教に対しては「発展の独自性」を無視し、
百済による「方向性の決定」を強調。
典型的ダブルスタンダード。
474 :
ギーコギーコ:2009/04/29(水) 09:16:40
平安以降の日本仏教の主流をなすのは中国華中(呉)からの仏教であると思うが。
>>「伽耶が倭国に鉄を与える見返りに援軍を送らせたもの」
これは何の証明もできないね、見返りというか
鉄は必要だったから倭は伽耶を保護下に近い状態においただろう
伽耶より強力な百済、新羅も倭に人質送ってたからね
弱小な伽耶がリーダーシップとるなんて笑い話
日本書紀、三国史記、広開土王碑、中国の史書から
卑弥呼の時代から倭は韓国南部に居住し
在地倭人は長期間にわたって頻繁に軍事活動を行ったのは三国史記からわかる
さらに考古学で前方後円墳が見つかったことからも補強できる
広開土王碑と三国史記の記述で
390〜410年の間に列島から大軍を朝鮮に送りこんだのも確実だろうね
新羅の城を包囲して5ヶ月間解かなかったとある
476 :
サガミハラハラ:2009/04/29(水) 12:14:42
好太王とたたかったのは大和の応神天皇ですよ。
391年の高句麗南下のはじまり以来407年の3度目の大敗まで、途中好太王から
「もういいかげんにしろ」といわれて、皇太子が激怒して書を破り捨てたと記録にあります。
半島への出兵をやめたのは、天皇が病気になりその気力がうせたからです。
百済からシセツ姫が病気見舞いにきています。(応神39年西暦410年春年のことです)
応神天皇の末年は411年春年のことです。
完璧に整合してんね
478 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:16:03
防具の反論で、
百済・伽耶の倭支援の話も反論できる。
大陸の防具は日本に入ってないんだよ
倭の武具は独自に発展してるのだから
百済・伽耶の影響は、全くまとはずれ。
>>NHK教育の深夜
「(百済滅亡の話題のなかで)
百済はたいへん文化と芸術に優れた国家でした。
(中略)
倭国は百済の進んだ文化を移植してもらってようやく
"日本"という国家を成立させることができたんですね」
480 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:38:15
文化も芸術も元は中国なのに、
倭に対して起源を主張してたのか?
百済も韓国と同じなんだな
481 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:48:56
倭オリジナルの衝角付冑は大陸(半島)から来たでOKなの?
>>NHK教育の深夜
「倭国はありのままの仏教を受け取ったのではありません。
多くの仏典の中から百済が取捨選択した後の
百済が価値判断を加えた後の"百済の仏教"を受け取ったのです。
このことが日本文化の方向性を決定づけたのです」
「当時の倭国はメタルのプレートを国産できず
その入手を伽耶国に依存していました。
倭国の朝鮮侵略は 鉄を人質にした伽耶の指示に
倭国が従ったと見るべきで、
彼らが伽耶の武具で武装していたので倭と表記されたのでしょう。
過剰に倭国の主体性を推定するのは誤りです」
>>482の補強
>>彼らが伽耶の武具で武装していたので倭と表記されたのでしょう。
韓国の学者は好太王碑などに見られる倭国の朝鮮進出に
主体性を認めておらず、あくまで「伽耶主体の作戦行動」であり
倭国の立場は「従」で、兵隊も「傭兵」という表現でした。
この伽耶・倭国連合軍を、碑文のなかで「倭国」と表記しているのは
伽耶も倭国も同じく伽耶の武具を着用していたので
記録者が数の多い「倭」というふうにまとめて記録した、という意味。
自分の都合のいいようにトンでもない曲解するな
>伽耶の武具で武装していたので倭と表記されたのでしょう
まったく逆。
日本は弥生時代の木製短甲から鉄の短甲へとスムーズに移行した。
が、伽耶は違う。
木製短甲がなかった伽耶に4世紀になっていきなり鉄の短甲が現われる。
こういう場合は外来人がもたらしたと考えるべきで、
それらは倭人がもたらしたのだ。
5世紀からの鉄製の帯金短甲は日本も伽耶も共通の短甲が多いが、
それら帯金短甲が日本製であることは韓国の学者でさえ認めてる。
何が「伽耶の武具で武装」だよ。
NHKは台湾統治報道でも偏向度を指摘されてたが、
こうなれば確信犯だな。
連合軍ならそういう表記で出てこないと不自然
ところが朝鮮側の倭関係の史料でそんな記述は出てこない
487 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:21:50
>>485 > 木製短甲がなかった伽耶に4世紀になっていきなり鉄の短甲が現われる。
> こういう場合は外来人がもたらしたと考えるべきで、
> それらは倭人がもたらしたのだ。
もたらしたのは倭人ではないと思う。
北方から導入したのだろう。
488 :
龜甲兎:2009/04/29(水) 21:29:53
>>469 加耶というか金官加耶だね。
韓国の研究者たちは、倭国に対して優位に立つ金官国が倭人傭兵
を使って高句麗と戦わせたとか、倭国に鉄資源を供給する対価
として倭人の労働者を得たとかいってたが、明らかに史料・遺物
とは整合しない見解であるといわざるをえない。
対立する意見として、大阪大学の福永伸哉教授は、倭の王権が、
鉄の供給源である金官を高句麗の侵攻から守るために、金官と
連携して派兵したといっており、こちらのほうが全くもって妥当な
見方というべき。
番組にも一部登場したが、金官国の王墓である大成洞(テソンドン)
古墳からは巴形銅器(盾の装飾)や筒型銅器(矛槍の石突)などの
倭系遺物が出土している。これらは倭王が各地の有力豪族に配布した
ものであり、倭王を盟主とする軍事連合体に属することの証だろう。
少なくとも倭王は自らが金官より優位にあると認識していたはず。
489 :
龜甲兎:2009/04/29(水) 21:34:56
>>469 また、田中史生氏は、加耶地域の弱点として可耕地の少なさを挙げ、
『日本書紀』に加耶での耕地をめぐる激しい争いの記述もあることから、
不足する穀物を倭人との鉄交易に頼っていた可能性を指摘する。
たしかに、航空写真などを見るかぎり、金官国が展開した金海平野は
韓国最大規模とはいえ、日本列島の平野群に比べて断然小さく生産力
も劣っていたようだ。とすれば、倭の穀物が金官の鉄の対価として
供給されていた可能性は高い。この点をみても、韓国の研究者たちが
主張する金官加耶の優位というのは疑わしいといえる。
さらに、広開土王碑文において、高句麗の仇敵とされているのは
倭と百済であり、倭はその百済を従える存在として描かれている。
表現に誇張はあろうが、両者の関係はそのとおりと見てよかろう。
金官加耶をさす任那加羅が登場するのは、読めない部分がある
とはいえ、わずか一箇所に過ぎず、とても金官加耶が倭を率いて
参戦したとはいえない。いったい、韓国人研究者は碑文のどこを
見ているのかと。
490 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 21:40:36
>>488 >大阪大学の福永伸哉教授は、倭の王権が、
> 鉄の供給源である金官を高句麗の侵攻から守るために、金官と
> 連携して派兵したといっており
おおむね妥当な意見だが
防衛するなら野戦で挑むのではなく
砦の構築など物理的な陣地を多数つくったほうが手堅い戦争ができたのではないだろうか?
>>487 >もたらしたのは倭人ではないと思う。
>北方から導入したのだろう。
北方とは曖昧だな。
具体的にどこなのだ?
北方にあったと君が言う縦剥板短甲を示してくれ。
>>482 >「当時の倭国はメタルのプレートを国産できず
>その入手を伽耶国に依存していました。
>倭国の朝鮮侵略は 鉄を人質にした伽耶の指示に
>倭国が従ったと見るべきで、
>彼らが伽耶の武具で武装していたので倭と表記されたのでしょう。
>過剰に倭国の主体性を推定するのは誤りです」
弥生時代から伽耶では北九州倭人が鉄を採ってた。
2世紀の菜城遺跡から出土する土器の94%が九州系だ。
その九州が3世紀に何らかの理由で畿内の傘下に入る。
九州最古級の那珂八幡古墳がその証拠。
それ以来、畿内王権が伽耶の豊潤な鉄を得る。
3世紀のホケノ山古墳からは伽耶の鉄農具が出るし、
3世紀末の椿井大塚山古墳からは尋常でない数の鉄具が出る。
鉄を伽耶から採ってたのは事実だが、好き勝手に採ってただけで、
伽耶の王家とやらに遠慮する事なんか何もない。
だいたい伽耶に王家とやらがあったのかも疑問。
菜城遺跡でなく「莱城遺跡」だ。
よく似た字だが微妙に違う。
菜城遺跡でググっても出ないよw
494 :
龜甲兎:2009/04/29(水) 23:46:53
>>490 >砦の構築など物理的な陣地を多数つくったほうが
たぶんそういう対策も行っていたと思うけど、倭軍は防御に徹するよりは
むしろ、新羅に進駐していた高句麗軍部隊への攻撃を選んだんだろうね。
高句麗は百済方面の戦でも一挙に多数の城を攻略して、百済の国城に
迫ったというから、自ら仕掛けて、高句麗の拠点を奪ったほうが得策だ
と考えたのかもしれない。
倭は新羅城の占領には成功したけど、歩騎五万を号する高句麗軍には
かなわず、任那加羅方面まで追撃されたとある。任那加羅の従抜城が
降伏したとあるから、倭軍も降伏したり、逃れたりしたんだろう。
もっとも、すぐに再起して帯方界へ侵入しているが。
495 :
ギーコギーコ:2009/04/30(木) 00:01:50
すぐに再起できたということは、本拠が半島部ではなく日本にあったということになるね。
496 :
龜甲兎:2009/04/30(木) 00:38:21
帯方界への侵入は、位置的にみて、百済との連携によるものだろうね。
「連船」とあるから、水軍での強襲だったんだろう。
>>469 仏教については、飛鳥寺のモデルとして百済の王興寺があるとの
主張がなされ、その伽藍配置や瓦の類似などが取り上げられていたが、
こちらはおおむね妥当な見解だろう。
飛鳥寺の寺号である法興寺ないし元興寺も王興寺に因むものかも
しれない。従来、伽藍配置は高句麗の寺院と似ているとされ、
高句麗僧慧慈が百済僧とともに飛鳥寺に住したともいうから、
高句麗、百済両様式が折衷された可能性もあるのかもしれないが、
飛鳥寺が百済(系)の技術者によって完成したことは『書紀』に
述べられるとおりだろう。
みんな韓国を馬鹿にし過ぎ。
朝鮮族の陰謀政治の伝統を甘く見すぎてる。
外国がどれだけコリアンを警戒してるか現実を知れよ。
>外国がどれだけコリアンを警戒してるか現実を知れよ
北朝鮮などは通り魔扱いだろうね。
そういう意味で「警戒」されてるのだろう。
499 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 09:10:15
北朝鮮したたか外交みてると
大伴金村が外交戦で完敗したのが理解できる。
>北朝鮮したたか外交
大笑いだ。
外交というのも国を豊かにするための1つの方策なんだが、
国民が飢えてる外交を「したたか」と言うのか?
501 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 09:43:15
>>500 > 外交というのも国を豊かにするための1つの方策なんだが、
それは西側の考え方であって、専制国家においては
国家指導層が生き残れるのであれば、それで外交的勝利。
>>501 国民の飯を削り、指導層が自ら生き残る為の外交かね。
呆れるほど志向が内向きだな。
専制国家であろうと無かろうと関係ない。
共同体運営センスが絶無。
503 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 11:18:54
せっかく核心(防具の話)になったのだから、脇道にそれずにお願い。
九州 近畿 百済 高句麗 南朝
倭の五王前の4世紀
倭の五王の5世紀と
継体以後の6世紀で、
このマトリックスを整理すると、このスレの本題が解決するのではないだろうか?
古墳副葬の甲冑数 日本 764>>>伽耶 80
鉄剣の出土数 日本 250>>>韓国 53
505 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:31:59
>>217 >次、倭人の文化ベースは考古学的に全国均一だ。
馬鹿たれ!考古学学んだことあんのか?
506 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:56:59
>>505 1万年の
閉鎖された内部+外部からの自然増
なら、考古学的に全国均一になるはずなのに、
実際は均一になってないから、古墳時代に南朝の将軍が
倭を征服して倭王となった。 って話だろ。
>>506 三傑(龜甲兎・倭王貴人・ギーコギーコ)の論戦読んでよ。
当時の倭人王朝が
文章上で南朝風の体裁を整えただけ
ということで結論したはずだよ?
508 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 15:08:09
ただ倭国が「日本」となる段階で
百済の圧倒的優位な文化・政治技術の
移植があったことは事実だろう
百済が滅亡して支配階級の倭国移住がなければ
古代「日本」に突如t
510 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 17:35:35
>>508 > ただ倭国が「日本」となる段階で
> 百済の圧倒的優位な文化・政治技術の
> 移植
文化や農業技術や暦や医学についてはそうだが
政治技術については移植されたかどうか疑問。
疑問ってじゃあどっから移植したのよ
高句麗の影響もあるみたいだが
512 :
倭王貴人:2009/04/30(木) 19:02:33
>>507 結論は出てないよ?
龜甲兎 の誠意あるレスに対して、
それを唸らせる(楽しんでもらえる)きちんとしたレスをしたいと
レスをしていないだけ。
しかも、「では漢人の何氏か?」という次のステップの話で
”倭王が王氏”という確度の低い話になってのはなし。
「倭の五王が漢人」のところでは反駁はされてないよ。
>>503 は興味深いな
まずは発掘済みを○ なしを×で埋めてくれないかな
513 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:58:17
しかし倭王が漢人であるという肝心な部分を
推測で埋めるのは無理がある
みんながついてこない
514 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:38:17
継体天皇は村上春樹とホモ関係
515 :
倭王貴人:2009/04/30(木) 22:27:55
>>513 推測で埋めていないよ。
「封国」と「120国の蛮族」と「司馬曹達」を論拠にして
「倭王が南朝の貴人」の結論で確度は高い。ちなみにこのスレでの唯一の反駁が
{”倭王が南朝の貴人なら、その姓を隠すのがおかしい?”}だったんだよ。
その難関に実直に俺は推論していったわけだけど、
王氏という俺の結論に、龜甲兎から反駁にあったわけだ。
で、王氏については良く調べてまたレスしようとは思ってるんだが、
そもそもの反駁「姓を隠すのがおかしい」に対しては、
>>442 に証明してみた。これへのレスはないね。
でも前半で十分主張したことで後半同じ論拠を出すのは
今の議論に水を差すことなのでもう少し控えたいなー。
武装に詳しい人から色々学びたい点が多いし。
>>503は九州と畿内を別けてるけど、まとめて日本にして、
その代わりに伽耶を入れた方が良いと思うな。
・4世紀の縦矧板短甲という古式の短甲は日本と伽耶に出てる。ついでに言うと伽耶には騎馬用の桂甲も4世紀に出てる。
・5世紀の河内王朝を象徴する帯金短甲は伽耶から百済にまで波及。
倭の五王の力の程がわかる。
・6世紀になってやっと日本でも騎馬用の桂甲が波及しはじめるが、この事実こそ騎馬民族説を否定できる根拠になる。騎馬民族が河内王朝を立てたなら桂甲が河内王朝を象徴するものになってないといけないからね。
・高句麗は4世紀以前から短甲も桂甲もあったと思われるけど、遺物が何も残ってない。
・南朝は知らん。
で伽耶の王が鉄の見返りに倭人を傭兵にしたとかアホな話が出てるが、
その根拠になってるのが4世紀の伽耶から出る騎馬用甲冑・桂甲。
チンギスハーンの偉業を知ってる現代人は、
「騎馬民族」と聞くと恐ろしく強いと過大評価してしまう。
しかしながら伽耶の地下墓はせいぜいしょぼい集団墓地程度であって、
これらの埋葬者達が巨大墓を連発して作ってた畿内の王より力が上なわけもなく、
ましてや倭人を傭兵にしたなんてトンデモ。
518 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:14:28
南朝説は考古学的なアプローチは可能ですか?
もし痕跡がないのなら...
519 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:19:08
>>516 スペースの問題があるので
A A’ B B’ CDE ・・ など
防具タイプが同じ群を同じアルファベットで表すなどどうだろう
ダッシュ等で変形を表現するとか
なぜなら、武具の名前が大事なのではなく
どのグループが近いのかを一覧する事に意味があるので。
九州と近畿は、継体以前の2王朝論者者も多いので、あったほうがいい
520 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:19:28
>>517 「遊牧民は墓をつくる習慣がなかっただけ。
チンギス・ハーンでさえ墓を残してはいない
実際の伽耶の権力は大きかった」
と言い訳してきたらどう反論します?
>>520 ハーンは墓を残してはいないのでなく、
盗掘を防ぐため場所が分からないようにしてるだけ。
しかしながら偉大なハーンの生前を偲ぶ立派な廟はある。
伽耶の王にはそれもない。
伽耶に王がいたというなら、
高句麗のピラミッド風王墓とまで言わなくても、
それに近いくらいの墓があって初めて王墓と言えるだろう。
そもそもそんな巨大な勢力だったら
史書にそれらしいこと書いてあるはずだからな
百済の武寧王の墓でさえ、びっくりするほど小さく、
日本のどこにでもある円墳程度。
ましてや伽耶ならば…
524 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:16:37
いったい倭人というものを
子孫のわれわれはどう捉えたらよいのだろう?
仁徳天皇陵は世界最大の敷地面積を持つ墓だよ
人類数千年の歴史で、一番広い墓が、この島国にあるんだよ
そんなとほうもない民族の子孫なんだよ、俺らは
ただ二度と誇りを持つことは許されない
日本の自尊心は韓国や中国の同意を必要とする
彼らはそれを永久に与えないつもりだ
525 :
龜甲兎:2009/05/01(金) 02:58:23
規制のせいですっかり乗り遅れてしもた。
流れぶった切りになりますが。
>>510 >文化や農業技術や暦や医学についてはそうだが
>政治技術については移植されたかどうか疑問。
継体・欽明朝に上番した五経博士がそれを担ったのでは。
五経博士は王の諮問にあづかり、政治思想の教化にあたる立場
にあった。彼らの説いた君臣の道や礼の秩序は、王権の強化に
寄与し、後の官位制度や十七条憲法などにもつながったはず。
526 :
龜甲兎:2009/05/01(金) 03:03:53
>>496の続き
倭に仏教を公伝したのはたしかに百済なんだけど、
百済仏教の独自性をあまりに強調するのはどうなの、と思った。
平野邦雄氏の指摘によると、『梁書』に百済が梁に中大通6年(534)
と大同7年(541)の二回にわたって涅盤等経義、毛詩博士、工匠、
画師を求めたとあり、逆に倭に対しては、550年代に仏教公伝および
五経博士、仏僧、易博士、暦博士、医博士、採薬師、楽人等の上番
が行われている。
梁から百済、そして百済から倭への文化導入が間断なくおこなわれ、
かつ、博士らの姓が王、潘、丁と梁人のものと思われることからすると、
百済は倭に最先端の梁文化、そして梁仏教をなるべくそのままの形で
伝えていたのではなかろうか。平野氏は梁で漢訳されたばかりの
護国仏典、金光明経が倭に招来されていた可能性も指摘する。
百済は媒介者に過ぎないといったら議論が分かれるのだろうが、
百済仏教の独自性というのはどの程度主張できるものなのだろうか。
そのへんは、番組中の韓国人研究者も具体的には説明してなかったな。
まぁかの国の人は起源を主張するのが大好きだからね
で中国人に嫌われると
528 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 14:20:02
百済が媒介者
なんの史書か忘れたが、百済の記載で
百済に住む人は、中国人 高麗人 倭人 新羅人 と記載があった。
国の成り立ちからいって、人種と国が今の概念と違うのだろう。
これらが融合して百済人というなら、
百済から倭に来たという意味はただの経由した以上の意味は全くないだろう
529 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 14:48:30
そんなことないでしょ。
百済は歴とした大国だし少なくとも倭なんぞよりは格上。
最近の日本の保守化は嘆かわしい。
戦争犯罪と植民地支配の過去からいっても
半島への優位を口にしたりすべきじゃないね。
天皇の祖先が渡来系であることはほぼ前提のはず。
日本の学界は遺物の解釈を歪曲して自国を美化してる。
530 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 15:22:16
仁徳天皇の墓と呼ばれてる古墳は実はユダヤ人の墓なんですよ
531 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:18:19
>>529 百済が大国?超短期間しか存在しなかっただろ。
楽浪郡や帯方郡といった漢の直轄地だったので、
中国人が多く、五胡16国のように独立しただけだ。
その後、唐に統一されなかったため五胡16国入っていないが
5世紀の歴史では完全に中国の領土内東端の国が
百済と名乗っただけである。
そもそも、中国人でも夫よ人でも倭人でもない人種という概念が
この半島の南端に、数種類存在してると考えるのは可笑しい。
せいぜい、新羅を構成していた人種Aの割合がどれだけいるかだろう。
百済は中国東端の国であり、
倭人や新羅人など東夷が侵入していただけの地域である。
百済大帝国w
533 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:55:28
確かに朝鮮は朝鮮化した中国文化を日本列島に伝達した。
けど、だからと言って日本文化の起源は朝鮮ってことにはならない。
なぜなら彼らもまた中国人によって中国文化を教授してもらったからだ。
天皇が朝鮮人とか、宗主国百済が文化を教えてやったとかよく言うけど、
中国人が建国した箕氏朝鮮や楽浪郡が起源で、しかも中国文化を基礎に文化が成立した
事実は見ようとしないんだよね。
534 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 18:05:37
>>533 それだとまだ誤解がある。
”彼らもまた中国人によって中国文化を・・・・” じゃない。
”その時代、そこにいた中国人が中国文化を倭に伝達した”
だけの事だ。 日本人はそれをストローと表現するようだが、
それだと中国の物が朝鮮を経由したと解釈されるだろう。が実際は違う。
中国人が朝鮮を経由しただけの事だ。
大和朝廷が始まった巻向の三輪山だが、
磐座があり、どうや縄文時代から信仰されてたようだ。
写真はない。
写真撮影も厳しく禁止されてるからだ。
申請すれば誰でも登れるので、近いうち登ってこようかと思う。
天皇はBC600年どころか、縄文から続く恐ろしく古い血筋である可能性が高い。
536 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:09:42
百済は文化面においてはレベル高かった。
537 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:10:32
>>535 マキムク遺跡の想像復元図はどこかの本に載っていないだろうか?
538 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:27:00
>>537 残念だが、あの復元図はあくまで想像にすぎない。
建築様式を奈良から考えてるから、当時のものにどれだけ近かったか疑問だ。
539 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:32:11
マキムク遺跡は水運(交易や資材搬入に使える)の利便は良かったんだろうか?
大和川が流れてるね。
541 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 21:50:42
なるほど。
「継体天皇渡来人説」の人たちは消えたようだねw
544 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 09:01:11
いや、それいっちゃうと
日本人って全員渡来人だからw
545 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:17:23
>>542 祭祀場が中心部ではなく端っこに位置しているのは意外。
>>544 そうではなく継体天皇の出自が新羅だ何だ言ってたアホどもの事。
君もか?
547 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:37:35
黒岩重吾さんは
「継体の母は新羅王族かその周辺」
説をとなえていた。
>継体の母は新羅王族かその周辺
継体の母の地である越前国高向に新羅王室に多い「双円墳」でもあるのかな?
549 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:09:45
そもそも当時の朝鮮半島にいた「騎馬民族」は弱小。
百済も新羅もさほど強い民族じゃない。
韓国はジンギスカンのイメージを借用して
自分らの祖先がまるで強かったかのように喧伝しているが
墓の規模からみても倭人の王権のほうが遥かに上。
とにかく戦後、韓国を調子づかせたのは江上の奇説。
それを面白がってとりあげてきたお前らも同罪だよ。
552 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:56:15
縄文 世界一長く続くアジア最大の人口集落地
弥生 呉の太白の後と徐福一団が新文明を形成。
魏 青洲の黄巾党は(倭人)であり曹と結んで半島から倭まで広がる。
晋宋 中国から倭王が九州に政権を作り、広範囲に征服される
斎梁 宋が滅んだので、倭人継体帝が中国からの倭王を葬り近畿政権確立
隋 隋帝に天子宣言
大化 九州(大陸)系の天智がクーデター、
唐 壬申の乱で、九州系に近畿系が勝ち、
縄文からの王族が天皇となる
>九州(大陸)系の天智
意味がわからん
554 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:12:41
>>552 > 魏 青洲の黄巾党は(倭人)であり曹と結んで半島から倭まで広がる。
うけました
>>550 その朝鮮半島南部にいた「騎馬民族」というのは5世紀前後に消えてるらしい。
彼らはどこかから伽耶にやってきて製鉄に関わってたのだろう。
ちょうど彼らが消えた5世紀前後に秦氏という集団が日本にやってくる。
また日本最古の須恵器が秦氏の本拠地・宇治で発見されてる。
そして秦氏の末裔は平安時代には皇宮騎馬兵として活躍してる。
つまり、この消えた騎馬民族と秦氏がピタッと合うのだ。
557 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:19:00
青洲って場所どこ? 呉越のように倭人と縁がある?
>>555 辰韓国の民は、秦の苦役から逃れてきた子孫だと
中国の史書様々な史書に出てるが
それとはつながらないのか?
558 :
龜甲兎:2009/05/03(日) 01:06:50
>>528 >百済から倭に来たという意味はただの経由した以上の意味は全くないだろう
経由したといっても、王権ないし国家が仏教を「公伝」するということは、
経典や注釈書の伝授から僧侶の派遣、寺院の建立に至るあらゆる面に
対して、サポートとアフターケアが欠かせないわけで、百済の王権自身が
それを消化していないと実行不可能なこと。言うまでもないことだろうが。
ともあれ、王権同士の結びつきが異常なまでに強かったことは評価できる。
>>555 秦氏はさまざまな職能民を抱えていた複合集団だけど、
騎馬に関わる氏っていたかしら。
たしかに、『随身庭騎絵巻』にみられるように、後世、
秦氏は馬を乗りこなす専門家として目立っているけど、
これは近衛府の官人となってから獲得した技術なのでは?
大化前代において、騎馬に携わる人々というと、秦氏ではなく
むしろ、河内馬飼首や倭馬飼首といった西文(西漢)系伴造の
ほうに注目される。こちらは百済系氏族といわれ、秦氏が新羅
と関わりが深いとされるのと対照的。
特に河内馬飼首は継体との結びつきが強い。河内馬飼首荒籠は
継体の即位に大きな役割を果たし、河内母樹馬飼首御狩は近江臣
毛野の従者として任那に赴くなどの活躍が『日本書紀』からうかがえ、
『延喜左馬式』にも河内国の飼戸設置がみえるという。
おそらく、彼らは樟葉宮が保有したであろう馬牧の経営にも積極的に
関与したのではなかろうか。
559 :
龜甲兎:2009/05/03(日) 01:14:32
>>558 下から9行目訂正
西文(西漢)系伴造→東・西文(東・西漢)系伴造
失礼。
>>558 >騎馬に関わる氏っていたかしら。
優れた製鉄技術を持ってた秦氏は半島南部・金海にいた可能性が高い。
読んでないのだが大和岩雄の「秦氏の研究」でもそれが指摘されてるようだ。
ならば当然、金海に展開されてた騎馬文化は知ってたはず。
だいたい優れた製鉄とそれを運搬する馬とは切り離せない関係だ。
そして彼ら秦氏の渡来の時期(5世紀前後)と、
日本の首長層の墓に鐙や轡など乗馬に関する遺物が埋葬されはじめる時期が同じ。
ただ騎馬軍を創設できるほどの馬の数が日本にはなかったので、
約1世紀かかってやっと騎馬軍を創設できたようだ。
それが継体天皇の頃だな。
どうしても継体と渡来文化を
結び付けたいようだね
562 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:30:56
>>560 > だいたい優れた製鉄とそれを運搬する馬とは切り離せない関係だ。
上古の日本だと馬がなくても水運で運搬できたのではないだろうか?
マキムクにも人工の運河があったそうだし。
563 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:56:56
継体帝と贈り名したのは、天智天皇の子孫である。
天智天皇は百済とともに唐と戦った。 アジア広域を体と意識していた帝である。
その子孫が、継体と名づけた以上、それはアジア広域レベルでの「帝」として
継体したということだろう。
継体以後、百済と日本は南朝と同じ様相をとっていく。
つまり、継体とは南朝を継いだ帝 ということに他ならない。
564 :
倭王貴人 563:2009/05/03(日) 13:15:24
飛鳥寺や法隆寺の大仏を作ったのは、
司馬鞍首止利 である。 すなわち、司馬氏である。
継体以後、日本の首都を作っていったのは明確に南朝の渡来人である。
>>562 >上古の日本だと馬がなくても水運で運搬できたのではないだろうか?
出来ただろうが、5世紀頃から馬が来たので、
運搬には馬を使ったら非常に楽だったろう。
当たり前だが。
大内が百済で日置が高句麗なんてのもいい加減な説。
根拠は何もない。
568 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 02:24:04
根拠はないが伝承がある。
結果的には徳川だって源氏ということになってしまったし
気にするほどのことではない。
>>気にするほどのことではない。
なにいってるの?
「日本はやっぱり朝鮮民族がつくった国」という
論調でこういう記事が利用されてるんだよ?
なんのために日本史を学んでるの?
もうすこし危機意識持ちなよ!
570 :
龜甲兎:2009/05/04(月) 08:02:35
>>560 秦氏が乗用馬や駄馬を生産していた可能性もあろうけど、飼部の伴造である
倭馬飼首、河内馬飼首の両氏とは異なり、後進性ゆえか、結局王権の掌握
するところとはならなかった点は留意すべき。
※両馬飼首について、
>>558で東漢・西漢系と書いたけど、史料上確認
できなかったので撤回する。おそらく百済系あるいは加耶系だとは思うけど。
六国史調べてて思ったけど、馬飼部の部民が黥面を施されていたことや
継体の「貴賤を論ふこと勿れ」発言とか、令制後の馬飼、飼丁が雑戸とされ、
賤視されていたことをみると、倭における「騎馬民族」の扱われようは少々
気の毒に感じる。
>>445-446 筒城宮関連で補足
『続日本紀』霊亀2年9月条に、令制の生産工房においても上番していた雑戸
として、山背甲作(よろいのつくり)客小友がみえ、岩波版解説によると、
その居住地は綴喜郡甲作(かはらつくり)郷であるという。
甲作郷は現在の京田辺市河原里ノ内一帯とされ、筒城宮の少し北に位置する。
甲作(甲冑工房)といい、「客」という姓といい、宮の軍事的側面からみて
非常に興味深い。
>>570 日本の5世紀前半の古墳から、
騎馬(乗馬)文化が見られるので、
東漢・西文が秦氏と同時期(5世紀前後)に渡来してきたなら、
それはそれで日本における騎馬文化の担い手であったでしょう。
どっちにしても韓国側の学者が言うような、
4世紀から騎馬文化がある伽耶の地下式墳墓の埋葬者たちが、
大和に鉄を配給しその見返りに何かを要求できるような強い立場でなかったと思われます。
>>571 >>伽耶の地下式墳墓の埋葬者たちが、
>>大和に鉄を配給しその見返りに何かを要求できるような
>>強い立場でなかったと思われます。
しかし韓国の学会はそうだった、といっているのですよ。
>>572 言うのは彼らの勝手なんで阻止することは出来ない。
ただ韓国の学者の中にも4世紀の伽耶に王墓はないという人もいるし、
5世紀なって半島南部で作られはじめる高塚墳墓を日本からの強い刺激と言う人もいる。
本当は任那日本府を認めざるを得ないのだが、
あぁいう国柄なんでそれを言えないという事だろうね。
574 :
倭王貴人:2009/05/04(月) 13:11:18
最近議論が小さいな、後半は考古学的物証編で行くかと思ったんだが
大雑把な仮説から論にのぞむ猛者がいないじゃないか。
倭の飛鳥周辺に6世紀で急激に変化した、防具・高床住居・須恵器・芸術の
由来を大陸のどこかに求めるべきではないのか?
伽耶なんて鉄があっただけに過ぎないだろ。
常識的な思考回路があるなら、倭の五王は南朝の臣なわけだから、
防具・高床住居・須恵器・芸術 すべて朝鮮と比較するのではなく、
第一番に、南朝と比較すべきである。 なぜそれがないのか
575 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 14:23:31
筒城宮は要害の地にあるというより
交通アクセスが良くて各地との連絡がとりやすい場所にあるような感じがするんだが。
>>言うのは彼らの勝手なんで阻止することは出来ない。
なんちゅー言い草やw
あんた腹のなかで韓国学会を見下してるがな
577 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:01:00
【中韓】中国人の韓国観は間違っている、「文化略奪説」を否定―韓国紙[02/16]
2009年2月12日、中国紙・環球時報はウェブサイトで「中韓関係」をテーマとしたネットフォーラム
を開催。両国間に広がる「嫌韓」「反中」意識の解決に向け、真剣な話し合いが行われた。
韓国紙・中央日報の中国語版ウェブサイトが伝えた。
韓国側からは中央日報や朝鮮日報の北京駐在記者、中国側からはソウル駐在歴10年になる
人民日報の記者と3億人のネットユーザーが参加した。中国と韓国は最近、「文化起源説」をめ
ぐり激しく対立。韓国が漢字や漢方、端午の節句などを「韓国起源」とし、儒教の始祖である孔子
までも「韓国人」だと主張したことで、中国側の反発を招いている。
フォーラムでは、中国のネットユーザーからこうした「文化の略奪行為」に対する批判が集中。
「韓国人は中国の発展に嫉妬しているだけだ」などと指摘する意見も飛び出した。これについて
韓国紙・中央日報は、「中国人の多くは韓国を誤解している。事実を曲げた報道のせいかも知れ
ない」と中国メディアのあり方を批判。「韓国の端午の節句は中国のものとは全く別物だ」など「文
化略奪説」を否定した。(翻訳・編集/NN)
http://www.recordchina.co.jp/group/g28616.html 【韓国】「韓国が中国の端午を盗んだ」「同名でも由来が違う」―環境網韓中関係インターネット対談にて[2/15]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1234664868/l50
578 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:03:02
■古代日本の支配者 蘇我氏は新羅人(韓国人)だった
4世紀頃に突如として日本の表舞台に現われた大豪族蘇我氏
聖徳太子や天皇などに娘を嫁がせ天皇以上の権力を持っていた古代日本の支配者
しかしどこから現われたのかいまだに分っていない謎の一族
その蘇我氏のルーツが韓国にあると言う、7世紀まで韓国東南部に
栄えた古代国家「新羅」である
日本の126号墳(蘇我満智の古墳)から古代日本ではありえないローマ産の
ローマングラスやトンボ玉などが出土している
同じく新羅王国があった韓国の慶州市の国立慶州博物館に5〜6世紀の王の墓から
ローマングラスが出土、トンボ玉も一緒に発掘され展示されているが
トンボ玉の模様が蘇我氏の墓から出土したものと同じ模様である
周辺国の百済、高句麗からは出土していない古代最先端技術のローマングラスは
東洋では新羅と倭国(日本)だけでしか発掘されていない
さらに126号墳の周辺には蘇我氏の墓がある新沢千塚古墳群のほとんどが
新羅特有の木管直葬墳なのだ
これらを総合的に考察すると答えは必然と見えてくる、蘇我氏が新羅と関係があるのは
明白であるだけでなく証拠まで残っていることに驚きを隠せない
新羅の王族に近かった位の物が倭国(日本)に渡り蘇我の家名を立て物部氏を
滅ぼし天皇の側近となり古代日本の政治を支配したのである
天皇にも娘を嫁がせてるので天皇も事実上は新羅系である
奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡に蘇我氏の邸宅跡とされる遺跡があるが
暗渠(地下の水路)が作られており飛鳥京には噴水まであったことが分っている
これらの優れた新羅の最先端技術が当時の日本にもたらした影響力を考えると
先祖達ちの偉大さが伝わってくるようだ
蘇我氏、それは高度文明を持つ韓国人の先祖である新羅人達が海を渡り
家名を立て倭人達を支配し古代日本に文明をもたらした偉大な一族だったのである
579 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:05:06
では私が珍説を開陳しよう。
継体帝は宋の順帝だった。
倭王武が宋の順帝に表を提出してのは478年順帝が12−4歳のころ。
翌年順帝は、斎に禅譲して宋は終了した。
順帝に大陸の居場所はない事は明白。去年倭から来た大将軍倭王に
すがるより仕方がない。
何より、倭王武以降、倭王から南朝への来朝がない。
580 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:22:06
>>578 直木賞作家の黒岩重吾さんは
「蘇我氏は百済王族」説を死ぬまでとなえていた。
581 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:22:49
ローマングラスが新羅と蘇我氏のところからしか出土しないのか?
って事は、ローマが漢字で大秦なので、中東系の秦氏がと東へ東へと進み
大陸の果ての半島の東岸にたどり着き、海を渡って蘇我氏となったという事
なのだろうなあ。
(新羅前身の辰韓は、秦時代苦役から逃れて来た流浪人と魏志東夷伝にあるし)
それにしてもローマングラスが新羅と倭から出土したという情報で、
「倭に文明をもたらした!」と新羅を誇ってしまう現代朝鮮人の
感覚はアホとしか思えんな
582 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 17:37:14
結論
南朝の貴族→
呉越の職人(服・器・建築・文字)→
弓月氏(三日月がシンボルといえばトルコ)から絹→
百済(楽浪郡+公孫氏+扶余+倭人)→
新羅(秦からの逃亡子孫+倭人)→
日本を作ったのは
因数分解すると、 中国人+扶余人+トルコ+倭人
583 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:00:01
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/09/post_5.html 極東ブログ
なお新羅系とか百済系の移民とかって話ですけど、僕は古代日本人の中にそういう
「移民」がいたかどうか…って次元ではなく、古代日本人(弥生人)ぜんたいが
イコール古代朝鮮人だと考えます。
そうでなければ、弥生人は、いったいどこからわいて出たというのでしょう?
中国渡来という声もあるが、それなら中国→南韓→西日本のルートを取ったはずで、結局は
朝鮮から来たことになるではありませんか。
クシフル岳のもとは韓国のクジボン岳で、天孫説話は扶余族ルーツであることは明白です。
ナラ・ハカタ・イズモ・ノト・ヒダなどはみな古朝鮮語で、とりわけイズモのような貧しい辺境
(失礼!)が古代に栄えていたわけは、朝鮮人の流入口だったからとしか、考えられない。
キム・ダルスは『続日本紀』中に「飛鳥人口の九割は秦氏系(朝鮮人)」の記事があることを指摘しています。
後世−現代のナショナリズムを拭い去って、日本史を冷静に見つめるなら、我々のルーツが
朝鮮半島にあることは明白ではないでしょうか?
584 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:02:42
根井正利ペンシルバニア州立大学教授は「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて
日本人(アイヌ・沖縄人含)は約3万年前から北東アジアから渡来し、
弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出している。
尾本恵市は著書『日本人の起源』(裳華房刊)にて、
原日本人(アイヌ・沖縄人含)は東北アジアが起源であり、
研究の結果埴原和郎の「二重構造モデル」は有り得ないとしている
松本秀雄も『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』日本放送出版協会にて、
日本人はアイヌを含めて等質性が高く、弥生以降の渡来人との混血は少ない、
という研究結果を出している
585 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:03:28
>>583 いいですか?
縄文時代の開始は1万3千年前です。
その時代に、例えば6万人しかいなかったとしても、
1万年後には600万人ぐらいに人口が増えててもおかしくないです。
586 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:08:33
天皇の祭事を仕切っていた 忌部氏の古語十逸
には、 「四海に尭舜の愛がなんとか・・」と中国の古代神話を登場させている。
他の氏なら勉強したで済むが、
天皇の祭事のオーソリティがアマテラスではなく尭舜を登場させるってのは、
天皇の神事に大陸の影響があるということである。
アマテラスなど、当時1000年続く中東からローマの基本宗教である
アルテミス信仰などの女神信仰の影響もあるかもしれない。
587 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:13:32
次に文献を見てみましょう。
「倭人」を呉太伯の裔とする説は、『晋書』『梁書』に見られます。
要するに、中国南部から来たと自称していたのです。
朝鮮半島から来たなら、なんで「中国南部から来た」なんて言うのでしょうか?
『晋書』
「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている。
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後」
男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。
『梁書』
「列傳・諸夷・東夷・倭」には
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」
倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。
588 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:32:26
このときの倭人は弥生時代の倭人だよね。
つまり1万年の縄文の倭人ではない。
1万年の縄文倭人のところに、呉越戦争後の呉越人が
流入して、旧語を話す倭人として史書に登場するようになるんだね。
589 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 18:43:14
同じ史書に、辰国(新羅)は秦の苦役から逃れたもが秦の言葉を使うとあるので、
漢の言葉と、秦の言葉が違い、また倭人の話す旧語とそれぞれ違うのが判る。
また、日本語はこの旧語なのか?それとも縄文の言葉なのか?も問題である。
6世紀の言語は現在の言語と通じる。6世紀の言語と3世紀の倭人の話す旧語と
同じだろうか?この間たった300年だ。
>>578 >日本の126号墳(蘇我満智の古墳)から古代日本ではありえないローマ産の
>ローマングラスやトンボ玉などが出土している
新沢千塚126号墳の事だろうが東漢氏の墓という説が有力なんだが。
591 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:20:34
>>589 シンプルだが奥が深い指摘だ。
「倭人は旧語を話す」
A 魏志の倭人=大和人 日本語=旧語
B 日本語≠旧語 魏志の倭人≠大和人
大陸で日本語の残存はない。したがってBしか成立しない。
したがって魏志の倭人国は、滅んだという事である
流れ読まずに脊髄反射すると、
旧語=昔の中国語 じゃないの?
「呉の太伯の子孫なんです」とか言ったそうだし。
593 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:24:45
東漢氏のなぞ。
倭漢氏と記述されている。
よーく事実を見てもらいたい。
当時必ずあったアイヌのような縄文王家からみて、
漢の旧語を話す倭国は、まさに「倭漢」である。
縄文王家からみて、彼らは東の漢である。
大陸の漢は、西の漢である。
縄文王国からみたら上記は仮説ではなく、必ずそう見えるわけだ。
次は推論である
さて宋が滅び「倭漢」の九州が弱体化する。磐井の乱とは
縄文王朝の継体帝が倭漢を制圧する戦乱である。
だからその直後から突如、倭漢達が近畿の飛鳥に居を構えはじめるのだ。
継体以後、突如古臣そのままで新臣が加わり、突如大陸文明が咲き誇りはじめる。
しかし、彼ら倭漢や秦氏や西漢氏は皆、「5位の忌寸」どまりの地位なのだ。
文明的征服組なら当然もっと上位にあってよい。それが誰もが
不思議に思う日本の謎のはずだ。
594 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 21:36:11
>>592 そうだよ。では日本語は昔の中国語か?となる。
大陸に日本語の痕跡がないのは明白だから、
日本国は倭国の後ではないという結論になる。
楽浪の東の大海中となれば、倭は九州しかない。
>>593 生駒山を挟んで東の奈良に住んだのが東漢氏。
西の河内に住んだのが西文氏。
596 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:41:52
>>595 それは実は根拠不明の定説だろ。このスレは定説打破
定説打破ったって電波で打破なんて出来るかよw
598 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 06:35:10
>>597 > 定説打破ったって電波で打破なんて出来るかよw
このスレは「ムー」みたいなもんだから仕方ない。
599 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 12:28:11
>>594 おもしろい。
旧語はどこに消えたのか?
大抵、この話は太白マニアは呉語だと考える。
600 :
龜甲兎:2009/05/05(火) 12:34:22
>>574 加耶の鉄は無視できないよ。軍事はもちろんのこと、農業生産においても。
欽明は百済に対して、麦種一千斛の援助しているけど、これも鉄製農具
による農業生産の向上抜きには考えられない(干拓技術による農地拡大
もあろうけど)。徐々に国内での産鉄に切り換っていくとはいえ、倭の王権が
任那にやたらと拘ったのも、ひとつには鉄資源の問題があったからだろう。
>>575 >筒城宮は要害の地にあるというより
>交通アクセスが良くて各地との連絡がとりやすい場所にあるような感じがするんだが。
交通アクセスが良い場所というのはそのとおりだと思う。
ただ、要害というか地勢的に有利を占めていた点は否定できないと思う。
近江京のあった大津のように険阻な要害ではないけれど、交通の封鎖、
遮断が可能な位置にあるというだけでも、戦略的な意味は大きい。
大和にいた敵対勢力との軍事的対立があった可能性は高いと考えられるので、
大和方面に突出している筒城に宮が置かれたのは、やはり軍事的性格、
とりわけ地勢上の有利さが求められた結果だと思われる。
とはいえ、筒城宮の次に弟国宮に遷っているんだよね。これをどうみるべきか。
敵対勢力に筒城宮の防衛線を突破されて、乙訓の地まで後退したか。
あるいは、継体自ら前線に立つ必要がなくなって、乙訓まで戻っただけか。
大和の人が旧語を使わないからといって、
魏志の人とつながりがないとまでは
言い切れないんじゃないかな?
逆に考えれば、魏志の人たち大勢力なのに
日本には旧語の形跡がない
=多数の人が使ってた訳じゃない
→おそらく指導者層のみ、一般人は大和言葉
一般人は教育の機会がないが、
指導者層はあるので、結果バイリンガル状態。
畿内入りすれば、
土着の豪族とも言葉を合わせる必要があるし、
旧語使う場面ないし・・・ということで消滅とか。
602 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:05:48
>>600 > とはいえ、筒城宮の次に弟国宮に遷っているんだよね。これをどうみるべきか。
乙訓は狭隘な地形にあるので守りやすい(奇襲や夜襲を事前に探知しやすい)?
水運の利が良いので勢力圏の富国を狙った?
あとはどういう理由があるだろうか?
603 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:20:53
なに、倭人は旧語を使ってたってのは、
指導者層だけだったと?
つまり、2重構造になっていたと結論づけるの?
単純に、旧語を使ってた倭国は日本に吸収されて消滅した。
と考えるべきじゃないの
ムーなら
旧語が日本語となったというだろうが
>>603 今、どちらかに結論づけなきゃならんという理由がワカメなのだが・・・
「つながりがないとは言い切れない」
=その情報だけでは結論付けるのは無理ってことなんだけど。
違う可能性を示したからといって、その可能性を否定したわけじゃない。
他の情報と合わせ技としてなら使えるんじゃないかな。
あと、2重構造も十分ありえるんじゃないの?
倭人伝によれば、2種類の身分が存在したんだし。
(下の人は、上の人に対して拍手打って平伏する
=神と見ている、同じ人間とは見ていない。
日本人にとって神とは船で稲穂を持ってきた存在)
民の人数も膨大なんだし。
国が滅ぼされたくらいで、多くの人が使っている言葉が
跡形もなく消滅するわけないし。
もちろん、2重構造だと断定している訳じゃない。
両方の可能性を天秤にかけて、他の情報が来るたびに
傾きを変えていけばいいんじゃないかな。
605 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 16:35:39
倭の五王は、旧語を話すアイディンティティ側から出てると思う。
継体は、旧語を話すアイディンティティ側からは出てないと思う。
仏教伝来と同時に、新たな渡来人を味方につけた継体王朝が発芽したのだろう
たぶん、一代だけの大王だろ!ヤマト朝廷断絶の穴埋めの為に担ぎ出した。
欽明とは血縁は無いだろな。
607 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:46:32
薄いながらも血のつながりはあったんだろうな。
平将門だって当時の天皇とは血のつながりはあった。
数代前に后を出しているよね。継体天皇の家。
だから、その時点はまだ皇族だったと思う。
どこかで息長姓に切り替えていたんだけど、
男子皇族が絶えたから戻したとすると、
さまざまな話の整合性がつく。
悠仁殿下が生まれるまえには、
旧皇族と眞子さま佳子さまをくっつけて
皇統を維持しようなんて議論もあったのとにている。
継体天皇も内親王と結婚しているし。
このへんの数代前は、血筋上の意味はまったくない。
落語家の襲名と同じ類。
後の世でも、皇族が何人も源氏や平氏に降下している。
これは、皇位争奪レースからの離脱を意味している。
皇位はいらんから、暗殺しないでっていうこと。
息長氏というもの自体が、皇族が降下して出来た姓で
この時代の代表的な臣籍降下ブランド。
息長を襲名しておいて、戻ってくるのは反則じゃね?
的な反対があって、ゴタゴタがあったんだと思う。
後に、源氏に降下した人が皇位に付くこともあった。
それがゴタゴタにならなかったのは先例があったからでは?
息長氏としての系図があったとしたら、
落語家の襲名と同じだが、皇族の方は違うんじゃないの?
敢えて力のない継体を担ぐ意味がない。
王朝交代ならば、力のある人間が皇位につけばいい。
611 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:04:32
>>605 仮に、魏〜宋までの倭王が旧語を使う太白の後だとして、
その後の継体帝が縄文系(日本語)になったと考えるよりも、
継体もまた南朝から来た貴族と考える方が合理的だ
もし継体が縄文系の王なら、渡来の文化が継体の元に集積するのは非合理的。
まして、渡来の集積にその後の皇子達の母屋を作るというのは、
”渡来の村だけが皇子にふさわしい環境”と考えていたという事で
ともに外来と考えた方が合理的だろ。
>渡来の文化が継体の元に集積するのは非合理的。
>渡来の村だけが皇子にふさわしい環境”と考えていたという事で
>ともに外来と考えた方が合理的
何言ってるんだ、おまえ?
継体の元に集積した渡来文化って何だ?
613 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 00:58:17
>>610 > 後に、源氏に降下した人が皇位に付くこともあった。
> それがゴタゴタにならなかったのは先例があったからでは?
これは当時の天皇の遺志であったので、単純に比較するのは微妙。
614 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 01:45:58
>>臣籍からの皇位継承、その先例
宇多天皇のことをいっているのかな?
宇多は確かに源氏になっていはいたが
先帝の指名を得た唯一無二の特異なケース。
むしろ同じ源氏でも源融は、嵯峨帝の実子であったにもかかわらず
臣籍降下が災いし、皇位を継げなかった。
こちらのほうが一般的な事例と思われる。
615 :
龜甲兎:2009/05/06(水) 07:14:33
>>602 >乙訓は狭隘な地形にあるので守りやすい(奇襲や夜襲を事前に探知しやすい)?
そう。淀川と天王山、対岸に男山があり、守りやすい地形であるといえる。
しかし、ここを奪われると近江と河内摂津の両拠点が分断されるので、
樟葉宮ともども何としても維持せねばならなかったろうね。
また、城陽市の久津川古墳群に代わって、6世紀初頭に突如出現する
宇治二子塚古墳の被葬者もこの地にいた継体を守り支えた勢力だと思う。
まあ、筒城宮は、木津川対岸の蟹満寺、車谷古墳群一帯に勢力をもつ
山城息長氏(塚本義信説)が味方になったはずだから、そう簡単には
破られることはなかったと思うけどね。
616 :
龜甲兎:2009/05/06(水) 07:16:59
>水運の利が良いので勢力圏の富国を狙った?
桓武天皇は乙訓への遷都に際して「水陸有便」と宣ったが、
それは弟国宮にも当てはまる条件だったろうね。
後に山崎津や山崎駅が置かれたように、木津川、桂川(葛野川)、
宇治川の合流点(巨椋池)に臨む地であり、江、城、河、丹の四国が
接壌する要衝。継体もこうした点を重視したんだろう。
ただ、弟国宮は山城国乙訓郡にあったということ以外はあまりよく
分からないんだよね。宮に相応しそうな場所といえば、この辺りでは
まず長岡宮跡か。推古天皇勅願、聖徳太子創建の寺伝のある乙訓寺も
候補に挙げられているみたいだ。いづれにせよ、長岡京の域内に存在
したことは疑いない。
617 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 10:24:20
龜甲兎氏や倭王貴人氏とか
このスレの名物コテの人は
九州王朝説なんかには、どういうスタンスなんですか?
それでだいたい傾向がわかりますから...
618 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 12:32:10
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
619 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 14:05:15
>>618 日本史板住人を代表してお詫びしますm(_ _)m
あの男はああいう人間ですから
文学板でどのような態度をとっているのか
想像はつきます...
われわれも困っております...
620 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:08:40
ヤマト朝廷が途絶えて、全国の地方政権が独立の動きがでてきた。特に九州のイワイ政権が!
ヤマト豪族連合は後方を固める為に継体を取り込んだ。そしてイワイと闘わせた。
要らなくなったら欽明を建てた。その時に知恵をだしたのが蘇我!
大河ドラマでやって欲しいね。
621 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:22:26
継体をドラマ化すると右翼が騒ぐと思うよ。
622 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:27:27
>>619 やっぱり男なんですか…貴重な情報ありがとうございます。
623 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 16:01:31
>>武陽陰士
たしか去年あたりまで「大学の友達が」とか
「私はクリスチャンだ」とか「"俺"という言葉は使わない」
とか申しておりました。
傲慢を演じておりますが実際には
真面目な善人、という説もございますm(_ _)m
624 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 16:10:35
>>武陽陰士
たしか去年あたりまで「大学の友達が」とか
「私はクリスチャンだ」とか「"俺"という言葉は使わない」
とか申しておりました。
傲慢を演じておりますが実際には
真面目な善人、という説もございますm(_ _)m
625 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:03:26
>>617 九州王朝のスタンス
王国の場所の特定で文献として優先してるのは、
宋書倭国伝の倭武の表。魏志倭人伝での距離表記は
中国の中世の日本国の地図を見ると会稽の東の海に日本列島が
乱雑に並んでいて、とても距離測定の技術が中世にあったとすら
思えない。したがって意味があるのは、
宋書の表、 倭王の先祖が、東に60国西に40国、海を渡って北に
50国の表記のみである。(数字はアバウト)
近畿なら海を渡って北に50国に違和感があり
九州なら西に40国に違和感がある。
実は出雲あたりがしっくりくるが、スタンスはフリーである
しかし私の主張は「倭王は南朝の貴人というのが基本スタンス」
近畿まで南朝陣営だと日本人としてロマンがない。なのでロマンを優先し
なので、九州王国に半島まで統べる南朝の倭国があって、宋崩壊と同時に
斎帝につく勢力 vs 独立派の勢力 が
九州倭国内と近畿や朝鮮で同時に勃発して、この決着は実は
天武帝の時までかかった。というのが応用スタンスである。
ちなみに馬鹿馬鹿しいと思ってるのは、記紀に登場する国内の豪族名や国内地名で
この時代の動きを精査する近視眼史感である。
この時代には日本史はない。世界史しかない時代だ。
626 :
倭王貴人:2009/05/06(水) 17:05:16
継体は何で名前がオオドなの?
何か周りから見ても浮いてない?
628 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:13:53
何度でも言ってやるよ 性病持ちの包茎天皇死ね 硫酸飲んで死ね 自害しろ豚野郎
皇族=知能が低い奇形家畜非人 皇后=淫売 愛子=発達障害児、カタワ
秋篠宮の臭さは異常、顔も不細工でレイプ魔体質の変態野郎だ
汚い皇太子は性病持ちの変質者、泥棒、盗撮犯
悠仁は遺伝子奇形で近親相姦汚物、紀子の腐れマンコから生まれた羊水腐った廃棄物 汚い
何度でも言うよ 天皇死ねやゴミが 皇族=性犯罪者、殺人犯、劣等遺伝子汚物
皇族の性器は性病持ちで穢いから、即刻日本から退去すべき。感染する クサイ汚い
なんか、哀れな奴がいてるよ。
630 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 03:45:18
>>612 継体の元に集積した渡来文化
正確には、継体の息子宣化天皇が母屋をもって皇居として檜隈は
東漢氏族の土地であり、当時の渡来人が集積していったのである。
記紀では継体の以前の帝も大和に居た事になっているが、
渡来と絡むような実態がまるでない。
東漢ー蘇我ー飛鳥ー帝というような実態ラインが生まれるのは継体帝の子息からだろう。
631 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 17:48:56
倭王貴人は九州説ですか。ぜひ他スレでも戦ってください。
近畿説のアホどもは墓ばかりで集落のない纏向遺跡を邪馬台国だと思ってますが
それもこれも、当時最大の国=邪馬台国だと思ってるから他なりません。
倭王貴人氏の言うとおり、九州が倭国で、近畿の最大の国が別種の倭でなんの問題
もないわけです。2王朝説とはそういうことです。
>>630 渡来の文化が継体の元に集積するのは、
継体が渡来系だったからではなく、
渡来系が優れた文化を持ってたから、
受け入れるのが得策だったからだろう。
渡来の文化を受け入れたから渡来系となるなら、
仏教徒は全員渡来系になってしまう。
633 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 18:55:08
>>632 > 渡来系が優れた文化を持ってたから、
> 受け入れるのが得策だったからだろう。
文化よりもむしろテクノロジーだなあ。
開墾、農法改良、運河建設。
あとは市場運営など。
634 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:49:02
>>632 スレの流れを読みましょう。
魏志(旧語を話す倭国)
仮に魏〜宋までの倭王が旧語を使う太白の後だとして、
継体は? って話だ。
旧語を知らない縄文系の王が後を継いだという事が考えられるだろうか?
↓
否。 継体の元には渡来人が集まっている。
継体が縄文系であり、旧語を使う大陸系の豪族が他にいるならば、
渡来人は魏や南宋とよしなにしていた豪族側に集まるだろう
↓
したがって、旧語を話す子孫か新興かは判らないが、継体帝は
大陸からの流れである。
という推論。の話。 以上の理屈が正しいかどうかは別として
それにそって意見を。
>>633 >文化よりもむしろテクノロジーだなあ。
>開墾、農法改良、運河建設。
そんな事は秦氏や今来漢人で説明つくので、
継体が渡来系云々とは関係ない。
>>634 継体を語るのに縄文がどうこうってどんな理屈なんだよw
というか縄文人が大陸から来てるのだが。
継体が渡来系かどうかは時代性を考えろ。
おまえバカか。
636 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 00:16:37
>>634 弥生時代の唐古鍵遺跡から古墳時代初期の巻向遺跡まで断絶はない。
そして河内王朝も断絶はない。
じゃ継体天皇は?って話だ。
縄文の王って何の話をしてるのだ?
637 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 00:40:30
>>635 >>636 お前スレ読めって話だろ。
>>634の意見じゃない。
「仮に、魏〜宋まで旧語(つまり倭王は大陸系の子孫)だったとして。」
今の議論はこの前提の話。
弥生系と書くと、弥生系=大陸渡来説(旧語)と思ってる方もいる
(弥生と縄文は現在の学会では同族人種間の進化という説が多い)
大陸系の子孫ではない=縄文系 という表現がここでは正しい。
>弥生時代から断続なく・・・
いやだからね、魏志の言う倭人が旧語と話すという点の
矛盾をどう克服するかの議論だっつーの。
「魏志の大王家=旧語を話す=渡来じゃねーの?」 って意見にどうやって反駁するかだ。
魏志〜宋まで断続なく大王家が続いて継体につらなり昭和にいくなら、
旧語を話す(大陸系)が天皇家って事を認める事になるだろ。
それをどうやって、クリアするんだ?
そういう意見への反駁を期待してる流れだ。
そこで、
旧語を話さない王家が近畿にあってそれが本当の大和政権だ。それが各種遺跡だ。
って説はその綺麗な反駁にあたる。
近畿=ヤマタイ説の奴は、場所論争しか頭にないので他の議論が頭に入んないんだろ(笑)
638 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 00:46:43
>>635 >というか縄文人が大陸から来てるのだが。
失敬。そこまで斬新な意見をお持ちだとこの議論は見えなくてもしょうがないね 笑
639 :
倭王貴人:2009/05/08(金) 02:45:33
面白い流れだな。
でも魏志から宋書まで倭国が旧語ってのはどうかな
魏志の倭国は旧語の弥生人
宋書の倭国は王氏のような南朝の貴族が作ったんだよ
で、継体帝も越から来てるわけだ。
縄文から続く日本人の王になるのは天智系を破った天武帝からというのが
確証が全く無い俺の説。
話を折ってもうしわけない
640 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 04:06:38
継体漢人説にはいま一度
龜甲兎氏の反論を期待したい。
自分としては氏の「文章上だけのこと」という説を信じたい。
641 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 08:58:28
>>637 >弥生系と書くと、弥生系=大陸渡来説(旧語)と思ってる方もいる
>(弥生と縄文は現在の学会では同族人種間の進化という説が多い)
>大陸系の子孫ではない=縄文系 という表現がここでは正しい。
6世紀の話に縄文系と言う言葉が出てくることがどれほどズレてるか考えろ。
642 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 09:33:05
>>641 そう意見の場合は、縄文系に代わる適切な表現を提案したら?
純日本列島系とか。 現代でもあなたは縄文系弥生系?という表現があるし
縄文系という表現が一番しっくりくるね。
いずれにしてもどうでもいいところで熱くなってどうするの?
>>642 >縄文系に代わる適切な表現を提案したら?
あのね、君。
福岡の老司古墳が発掘されて、
5世紀前後の福岡平野の盟主だった男の骨相が分かってるんだ。
縄文人でもないし高顔の渡来人でもない。
この時代には両方の要素を兼ねてるんだ。
古墳時代とはこんな感じなんで、
だから誰も縄文系だ純日本列島系だ言わないの。
分かった?
644 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 10:22:04
>>643 さっさと適切な表現提案しろ!
流れを折って皆の迷惑だと思わないのか? 荒らし認定寸前だろおまえ。
渡来人が日本人の嫁もらって、遺伝的ハイブリッとになっても渡来系氏族なんだよ。アホかおまえ。
秦氏も東漢氏も純粋な遺伝的外人ではない。 それでも用語として渡来人として議論する。
縄文系は渡来系や弥生系に対比してる表現でいつから遺伝子レベルの比較の話になったんだ?
いい加減にしろ
645 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 10:41:53
>魏志の大王家=旧語を話す=渡来じゃねーの?」
>魏志〜宋まで断続なく大王家が続いて継体につらなり昭和にいくなら、
>旧語を話す(大陸系)が天皇家って事を認める事になるだろ。
>>643さんはこの意見に賛成なんですか?2王朝説なら反駁できますが
近畿説ならどうやって反駁しますか?
すっかり意味不明な流れに。
熱くなるなといってる奴がいきなり切れだすしw
マジャール人の遺伝子みたらマジャール人じゃない、よって、マジャール人などいない。
>>644 反論できずファビョってるなw
>さっさと適切な表現提案しろ!
古墳時代の人たちとしか言いようないな。
>縄文系は渡来系や弥生系に対比してる表現でいつから遺伝子レベルの比較の話になったんだ?
遺伝子レベルの比較の話じゃなく、
君の「縄文系」の定義を言え。
また古墳時代において「縄文系」とやらがどれくらい垣間見られるのか説明しろ。
俺の知ってる限りでは、
出雲の四隅突出墳墓の埋葬者に
抜歯の習俗がみられる縄文人がいたくらいかな。
>>645 何を言いたいのか分からないが、
皇室の祖先が魏志の大王家と決まってるのか?
神武が実在したなら稲作と関わってるだろうね。
稲作がどこからきたかなんて興味ねぇし。
だいたい継体の時代と関係ないのに、
何をゴチャゴチャ言ってんだ?
650 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:01:45
俺が最適な表現方法を提案しよう。
渡来系と非渡来系(縄文晩期以前の渡来は含む)
古墳時代の人たちじゃ、渡来も非渡来も含んじゃうのでそもそも議論にならない。
651 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:03:13
>>642 >現代でもあなたは縄文系弥生系?という表現があるし
ねぇよw
おまえのまわりだけだろ、そんなのwww
652 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:08:02
>>649は、議論にそもそも参加してない荒らし確定
縄文系でいいだろ。
653 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:09:28
根井正利ペンシルベニア州立大学教授は「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)
にて日本人は約3万年前から北東アジアから渡来し、
弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールには
ほんのわずかな影響しか与えていない、
という研究結果を出している。
尾本恵市は著書『日本人の起源』(裳華房刊)にて、
原日本人は東北アジアが起源であり、
研究の結果埴原和郎の「二重構造モデル」は有り得ないとしている
松本秀雄も『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』日本放送出版協会にて、
日本人はアイヌを含めて等質性が高く、
弥生以降の渡来人との混血は少ない、という研究結果を出している
せめてこれくらいの認識をもって渡来人だ何だ語れよな。
ましてや古墳時代に…w
654 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:11:14
>>653
浅学を披露してどうすんだ(爆笑)
655 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:11:59
縄文系だの弥生系だのが継体天皇に何の関係があるのやらw
継体天皇について史料的に読解する能力がないから
わざと議論をそういう方向に持っていこうしているんじゃないの
657 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:22:37
>>656 このスレは「現代でもあなたは縄文系弥生系?という表現があるし 」と、
真剣に考えてるアホどもが参加してるようですw
658 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:25:41
おまえらどっか他所でやれ。
魏志の旧語の倭国は近畿説が有力だ。古墳の継続もあるので
そのまま倭の五王の時代になっている。継体帝が応神帝の後で子の欽明が武烈の血と婚姻する
記紀の記録どおりなら、天皇家は大陸からの渡来であって太伯の後なら周王朝の兄弟王朝という事だ、
659 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:42:55
JR巻向駅って無人駅なんだな。
あのあたりに行った人いたらレポートよろしく。
660 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 11:58:29
661 :
倭王貴人:2009/05/08(金) 17:24:10
>>658 旧語を語る倭人の政権交代の可能性は随所にある。
公孫氏の介入 3世紀 ずばりそう書いてる史書もある
魏の介入
晋の介入
宋のとき倭王讃の介入(東西北120国の征服)
継体帝の政変
大化の改新の政変
白村江の敗北時の事変 Aポイント
天武帝 壬申の乱 Bポイント
Aポイントの時点では、倭の行動は大陸系子孫の視野であり、
だからこそ、朝鮮に介入している。 旧語かどうかは知らんが
渡来系が政権をとっていたのだろう。
Bポイント以降、朝鮮や大陸の統治に全く興味を持たない政権となり、
このときから、 「日本」「天皇」 となっている。
ここからはじめて、縄文後期には日本に定着していたアイデンティティの
政権となっただろう。
662 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:36:50
おまえら渡来系が政権をとっていたなんて簡単に言うけど、
文献史学的にはどうであれ、考古学的に証明されてるのかよ。
ねぇだろが。
秦氏が始皇帝の末裔と言ってても、
誰も認めてないのと同じアホな話だ。
663 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:55:20
>>ならば何で日本に漢字がなかったの?
たしかにこれはキツい質問だな
倭王家が漢人なら漢字の使用がなかったことは
致命的な痛点だな
664 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:56:45
>>661 そこの渡来系が政権をとっていたのだろうなんて言ってるアホコテ、答えろ。
渡来系が政権をとっていたのなら何で日本の5,6世紀以前に漢字がないのだ?
665 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:01:58
>>662 秦氏は自称。 誰も認めていない? 誰も証明できないの間違いだね。
考古学的には、渡来系も非渡来系もそれぞれ証明されてない。
そもそも証明されてない=事実じゃない ではない
したがって、文献や考古学上の矛盾が生じない、幾通りかの仮説を
それぞれの仮説立案者が立て、後の発見によって仮説が絞られていくのが
歴史や考古学の学問としてのあり方。
渡来説には考古学的な問題点は多い。
長江系としては土器の関与が薄い。 防具や武器の共通性も問題である。
しかし誰かが仮説をたてた場合は、それらの知識をもって君は矛盾を突くべきであって
「証明されてない」と非難するのは、中学生レベルの反応といえる。
また、このスレ住人は一定の知識をもって、可能性の遊びをしているので
史学の可能性で遊んだ議論をするゆとりがなければ書き込むにはまだ早い
666 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:05:04
>>665 >「証明されてない」と非難するのは、中学生レベルの反応といえる。
ほう。そうすると君は秦氏が始皇帝の末裔だと思ってるのか。
大笑いだw
君は蓋然性という言葉を知らないようだなw
667 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:09:32
>>665 >考古学的には、渡来系も非渡来系もそれぞれ証明されてない。
そうかな。
墓や土器など、文化が大陸のどこかの民族と極めて類似してるなら、
その民族と関係が深いと見たらいいだけ。
もしないのなら日本独自のものと考えたらいいだけ。
何も難しいことはない。
さて日本の王墓はどこと似てるのかな?
668 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:16:17
>>666 あーこういう暇人煽っちゃ駄目だな。見境ないわ。
本当に中学生かもしれないから
皆さん以後、煽られてもかまっちゃ駄目です。
>>663 漢字のところはまともな質問だから、皆さん意見をどうそ。
669 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:18:17
>>668 >漢字のところはまともな質問だから、皆さん意見をどうそ。
君の意見を聞こうじゃないかw
というかこんなの誰でも考え付く事じゃんw
君達がいかにアホかという事だな。
まぁ頑張れやw
670 :
倭王貴人:2009/05/08(金) 19:26:01
まだ発見されてない。
反駁終了。
渡来人が多数いた河内や奈良でさえ6世紀以前の漢字資料がない。
これは渡来人の過多と考古学的漢字資料に比例関係がない事を証明している。
671 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:30:10
>渡来人が多数いた河内や奈良でさえ6世紀以前の漢字資料がない。
5世紀以降、渡来人が多数来てからは仏典などの漢字資料があるのだから、
それ以前にないというのは渡来系でなかった証拠だよね。
672 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:45:30
おーい、どうした、反論は?
おまえら、わし一人にやられてるなw
ま、ラーメン食ってくるわw
674 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:29:26
倭王家が漢人王朝なら百済の王仁に論語を教えてもらう必要なかろうにw
南北朝時代は武人は基本的に文盲でしょ
677 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 04:27:17
>>670 いやさすが倭王貴人氏。
日本国内で書かれた漢字 古いもの順調べました。
438年 熊本 江田船山古墳出土の鉄刀
443年または503年和歌山 隅田八幡神社人物画像鏡
471年または531年 埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」
607年頃奈良県 法隆寺金堂薬師如来光背銘
615年頃奈良県 法華義疏 伝聖徳太子
623年頃 奈良県 法隆寺金堂釈迦如来光背銘
こうみると、7世紀にならないと奈良県の漢字跡が出てこない。
>渡来人が多数いた河内や奈良でさえ6世紀以前の漢字資料がない。
>これは渡来人の過多と考古学的漢字資料に比例関係がない事を証明している。
感服です。
蘇我と継体の関係が、どうであったか?時期は少しズレがあるみたいだけど!
>>677 出てないのは出てないという事実だけであって、
渡来人が多く住み漢字資料もあったはずの奈良に漢字資料が出てないからと言って、
出てない事実を「あった」にするのは詭弁もいいところ。
応神天皇の時代に百済の王仁が論語を持ってきたとされる資料を覆せないし、
ましてそれ以前にあったなんトンデモ。
継体は間違いなく漢人だよ
俺は初心者だけど、このスレで確信できた
今後は仲間にも持論を展開するつもり
アタマの固い連中は出てけよ
腹立つな
681 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 13:38:57
このスレは面白い
渡来人が多数住んでいたはずの奈良檜隈周辺に何故、6世紀以前の
漢字の遺跡が全くないのだろう・・
7世紀の法隆寺の後ですら大陸の仏師であり、在来の渡来人の子孫ではない。
相当数の渡来人が住んでいたはずなのに・・・
全国に移住した大量の秦氏からも漢字遺跡は出てない。
技師の移民である彼らは案外に文盲で漢字がかけないのか?
>>681 >渡来人が多数住んでいたはずの奈良檜隈周辺に何故、6世紀以前の
>漢字の遺跡が全くないのだろう・・
沢山の人が戦った源平合戦の痕跡もないよねw
漢字は5世紀から鉄刀や鏡に彫られた文字が出るではないか。
漢字があったという証拠だ。
史実と一致する。
で、3、4世紀の三輪王朝からは出ないよな。
つまり漢人王朝なんてなかった証拠。
683 :
龜甲兎:2009/05/09(土) 14:02:42
盛況ですね。
5世紀の文字史料で忘れてならないのは、倭王武(雄略)の上表文だけど、
倭王漢人説の立場では特に渡来者の手を借りずに起草できたとするのだろうか。
しかし、そう考えた場合、同時代史料の量があまりに少なすぎて孤立しているし、
なにより、この時期に設置されたフミヒト(史、史部)の存在意義を無視すること
になる。フミヒトが百済系ないし加耶系渡来者によって編成されていたことは、
倭の王権がそもそも(外交)文書作成能力に乏しかったことを示しており、
倭王とその周辺が漢人であったとするのはやはり無理があり過ぎる。
武王の上表文については、すでに北魏に対する百済の上表文との語句の類似が
指摘されているが、田中史生氏によると、両者の類同語句の多くは『晋書』に
おける上表文、上疏文にみえる文言であるという。田中氏はここから東夷諸国の
上表文の起草者として、晋代の漢文表現に親しむ楽浪・帯方系遺民の知識人層を
導き出す。首肯できる見解といえよう。
倭の上表文起草者は、武王雄略の寵愛を受けていた身狭村主青、檜隈民使博徳ら
フミヒトだろうが、彼らの青、博徳といった漢風の名からみて、百済系、加耶系
といっても、上記の楽浪・帯方系漢人の流れを汲む者と思われる。
684 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:17:51
実際には漢字は2.3世紀くらいから入っててもおかしくないし、
土器の口縁部に書かれてる漢字とかいうのも発見されてるみたいだが、
しかしながらそれらが漢人王朝の証明になるかと言えば、なるわけないよ。
ましてや論語が5世紀になってからしか入ってないというのは致命的だ。
685 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:35:01
あと須恵器がなぜ4世紀後半なのだ?
殷にさかのぼる中国の灰陶の歴史を見ると、
日本に漢人王朝があったならばもっと早く来ててもいいだろうに。
686 :
龜甲兎:2009/05/09(土) 16:05:43
文字の問題も重要だけど、衣服の面でも解せないことがある。
梁の元帝が皇子時代に描いたという『職貢図』をみると、百済、高句麗、新羅
の使者はみな冠、長袖の袍、袴を着た漢風のファッションで描かれているのに
対し、倭の使者は冠こそ被っているものの、身体に布を巻きつけただけで、
しかも裸足というスタイル、髭も眉毛もモジャモジャの浅黒い達磨大師の如き
風貌で描かれている。『職貢図』は直接倭国使を観察したものではなく、伝聞や
『魏志』の記述からの想像で描かれたものだろうが、あまりに三国の使者の
描写と差異がありすぎる。
あくまで梁側の認識ではあるが、倭が「漢人王朝」であれば、ここまで漢人と
懸け離れた姿で描かれることはなかったと思うのだが。
687 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 16:19:09
>>686 >倭の使者は冠こそ被っているものの、身体に布を巻きつけただけで、
貫頭衣だろうな。
688 :
龜甲兎:2009/05/09(土) 16:53:20
689 :
龜甲兎:2009/05/09(土) 17:33:13
ちなみに現存する『職貢図』は南京博物院旧蔵本といわれるもので、
北宋時代の模写の残巻。もうひとつ、台湾故宮博物院所蔵の『唐閻立本王会図』
というのもあり、『職貢図』模本をもとに写されたもの。
>>686の倭国使の絵は
本で見たものだけど、後者の方(画像は前者しか見つからなかった)。
>>678 蘇我氏の浮上は、同族の分立状況からみて、稲目の代すなわち欽明朝から
だろうね(宣化朝に稲目の大臣就任がみえるけど疑問)。『継体紀』には
蘇我氏の記事は皆無だし、蘇我氏がその基盤を受け継いだといわれる葛城氏
に関する記事もない。あえて推測すれば、継体朝における蘇我氏は、衰滅の
一途をたどる葛城氏の地盤(配下のアヤヒトなど)を蚕食しつつ、雌伏していたか。
690 :
倭王貴人:2009/05/09(土) 20:23:08
>>677 サンクス
「もし倭国が渡来系であったら、漢字資料が5世紀以前に豊富にあるべきだ。
現状はない=倭国が渡来系は間違いだ。」
という一見正論の主張も、このように別の視点で精査すると
全く外れている事が判る。考古学的な先入観にはこういう問題がある良い例だと思う。
渡来人が多数いるはずの奈良県でさえ8世紀にならないと在来者の漢字遺跡が
1例も見つからない。 奈良県には応神帝の34世紀から渡来人が入植しているのにである。
もっとも渡来人が多い地域で居住者による漢字遺跡が0件であるという事例は、
長江の3足土器や防具の考古学的な資料を元に弥生人のルーツを
推測する上でも、先入観があてにならない良い事例である
691 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:20:33
>>690 漢字遺跡って何だ?
渡来人の居たところに必ず漢字が書かれた木簡が出るとは決まってない。
にも関わらず5世紀から古墳の副葬品の鉄刀や鏡に漢字が現われるだけでも充分ではないか。
繰返すが、君の言い分は、
源平合戦の痕跡がないから合戦自体がなかったと屁理屈を言ってるのと同じ。
さて論語の導入の遅れ、須恵器の遅れ、龜甲兎氏の言う服装の相違に反論してもらおうか。
692 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:39:22
稲荷山古墳鉄剣の「獲加多支鹵大王」なんてとても中国的な名称には思えないが?
大和言葉に漢字を当ててるだけだろうし。
漢人王朝ならこんな事はしないよね。
693 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:59:55
鉄剣や鏡は金属なんで、そこに漢字を彫れば残るだろうが、
千数百年も前の木などの有機物が残るというのは、
よほど残る条件が整ってないと残らないだろうね。
694 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:15:54
5世紀以前にも鏡が多数出土する。
もし日本に漢人王朝があったとしたら、
漢字が書かれてないのは不自然だ。
言い換えれば何故5世紀以降の鏡に漢字が書かれたのだろうか。
それは5世紀以降、漢字が日本に定着したからだろう。
夢が壊れたな...
やはり倭人王朝は倭人のものか...
696 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 01:56:39
>>691-4 君にレスがつかない理由は、
君が間違ってるからじゃないよ
君に偏執的な雰囲気があるからでもない。
君のレスが何を言ってるのかさっぱり判らないからだよ。
>渡来人の居たところに必ず漢字が書かれた木簡が出るとは決まってない。
意味不明。それを漢人倭国説の人が主張してるんだよ。
>にも関わらず5世紀から古墳の副葬品の鉄刀や鏡に漢字が現われるだけでも充分ではないか。
意味不明。それが出たところは九州や埼玉で、渡来人住居が確定してる奈良や河内
では7世紀まで出ないから、渡来人の存在と漢字の古跡や漢字文献の発見には
比例関係や関連性が見えない。 という漢人倭国説の主張が勝る結論となったんだよ。
君は攻撃的なレス+非論理性+連投 というとても困った 荒らし君になってるよ。
質問はいいが攻撃的な文言や連投は,是非控えめに願いたいな
697 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 02:32:42
>>696 格好つけてるけど全くアホなレスしてるのは君だな。
>渡来人住居が確定してる奈良や河内では7世紀まで出ないから、
>渡来人の存在と漢字の古跡や漢字文献の発見には
>比例関係や関連性が見えない。
逆に九州や埼玉など渡来系の居住が薄い所で
漢字遺物が見られる事自体が5世紀にすでに日本に漢字が定着してた証拠だろ。
さて論語の導入の遅れ、須恵器の遅れ、服装の相違の説明を格好つけのおまえにしてもらおうか。
698 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 02:42:43
龜甲兎さん
>この時期に設置されたフミヒト(史、史部)の存在意義を無視すること
>になる。
★倭王漢人説は私も含め、2王朝説が多いのでこの指摘は2王朝へのサポートとなります。
>武王の上表文については、すでに北魏に対する百済の上表文との語句の類似が
>指摘されているが、田中史生氏によると、両者の類同語句の多くは『晋書』に
>おける上表文、上疏文にみえる文言であるという。
★百済と倭国は同じ会稽出身の漢人貴族説 のサポートとなります。
百済の居住者は、中国人 倭人 高句麗人 新羅人と史書にあるように、
百済成立の過程に楽浪郡や越や会稽の漢人の存在はかかせません。
>『職貢図』の話
★倭王漢人説にはマイナスの情報です。が、
梁の時代の倭国の使者とは、どんな存在でしょう。 私の再三書いてる前提は宋が479年以降、
倭国(列島から半島)は、内部の権力者同士がどこにつくのかで揉めるのが当然というものです。
それで半島ははずれ九州は内乱を起こし
王子と王はともに死ぬような状況が50年続くわけです。
この絵が実際の描写だとしても
それは、梁代ならは倭国来歴の体裁を取るために呼んだ小さな倭人系国の使者でしょう。
本来の倭国の漢人貴族は、宋代の時に大将軍位だったときに同列以下であった梁の王などに傅く立場にはないのです。
宋の時代に倭王が求めた官位は、開府儀同三司。どれだけプライドが高いか伺えます。
699 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 02:53:41
>>697 元の文を書いた私でもあなたの話はさっぱり理解できない。
九州が渡来系の居住が薄いといってるのは、その立場の君の方であって、
倭国漢人説の場合は九州は渡来人が多いので漢字が定着していて良いんだよ
あなたまず本当におちついて。 そして誰を攻撃したくて荒れてますか?
あなたが戦った人はもういないでしょ。
700 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 03:08:59
九州は渡来人が多いので漢字が定着していて良いんなら、
>渡来人住居が確定してる奈良や河内では7世紀まで出ないから、
>渡来人の存在と漢字の古跡や漢字文献の発見には
>比例関係や関連性が見えない
と矛盾してるじゃねぇか。
というか論語と須恵器は無視か?
701 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 03:13:49
俺の言い方が悪いね。
「逆に九州や埼玉など渡来系の居住が薄い所で
漢字遺物が見られる事自体が5世紀にすでに日本に漢字が定着してた証拠だろ」は
渡来人が来た5世紀以降に実質漢字が定着したのだろうという事ね。
702 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 06:30:05
>>692 > 稲荷山古墳鉄剣の「獲加多支鹵大王」なんてとても中国的な名称には思えないが?
> 大和言葉に漢字を当ててるだけだろうし。
> 漢人王朝ならこんな事はしないよね。
というか雄略の宮廷には渡来人の文官もいたはずだが。
倭人王朝でも、漢人の事務官を雇っていれば中国的な文章は書けるはず。
倭王漢人説というのは
肝心の中国ではどのように捉えられているのでしょうか?
魏志倭人伝の読み方で指摘されるように
日本人の漢文読解はやはりお互いの立場から
希望的観測や先行観念が介在して
恣意的なものになりがちなので
中国人から見てどう読めるのか、が知りたいですよね
ある程度中国の研究者にも賛同者がいるのならいいですけど
あちらでも奇説扱い、ということなら厳しいですね
倭の五王は中国と交流していたわけですから
漢字が扱えなかった、という主張は不合理でしょう。
この時期の遺跡から漢文が発見されないといっても
それはやはり「まだ発見されていない」とするのが
ほんとうは正しい立場だと思いますけど。
富本銭のときに思いましたけど
「発見されていなければなかったこととせざるを得ない」
という性質は、考古学の一大欠陥でしょう。
やはり文献の可能性というものも重んじないと。
705 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 08:29:38
倭の五王の時代には漢文が書ける事務官は既に存在していたはずなんだが
なぜ遺跡から漢文が発見されないのかわからん。
706 :
龜甲兎:2009/05/10(日) 09:24:52
>>698 >★倭王漢人説は私も含め、2王朝説が多いのでこの指摘は2王朝へのサポートとなります。
御説の助けになるということですか。
どういうことか分からないので、もう少し詳しく願います。
>>683の主旨は、5世紀における書記官僚としてのフミヒトの設置は歴史的事実
として認めてよく、それは百済系あるいは加耶系の外来者(おそらくは楽浪・
帯方系漢人の系譜を引く者たち)で編成されており、その設置は、倭王権上層
が専門的な文章作成、とりわけ外交関係のそれに疎かったことを示している、
したがって、倭王権は「漢人王朝」などではなかったとするものですが。
707 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 09:28:30
>>702 「獲加多支鹵大王」なんて名前は明らかに倭人だよね。
結局、漢人王朝説なんて「自ら太白の後という」と言う一点だけが根拠だよね。
アホ臭い。
708 :
龜甲兎:2009/05/10(日) 09:36:49
>>698 >★百済と倭国は同じ会稽出身の漢人貴族説 のサポートとなります。
百済もいつのまにか会稽出身認定されてるんですか…
それは置いとくとして、倭王会稽出身説の拠り所は、『魏志』に述べられる
倭と会稽の風俗の類似と、安徽省亳州市の曹氏墓所出土磚銘の「倭人」
のふたつですよね。
前者は『三国志』撰述者が、倭国の地理的位置を会稽東冶の東方にあると
想定した上で、両者の風俗が似ていると強弁したに過ぎず、御説の根拠
とするには甚だ弱いと感じられます。
後者については、写真を見ましたが、乱暴に引っ掻いたような線描で文字
らしきものが刻まれているものの、正直これでは論が割れて仕方ないと
思われるほどの稚拙なものです。「倭人」と刻んであると断定するのは
慎重にならざるを得ません。
ttp://inoues.net/honpenmap2.jpg 他にも、「倉天乃死」という黄巾賊のスローガンらしきものもあった
ようですが、残念ながらまとめて誤読とされたようです。
同墓所からは、それら落書き以外に、各地の高官を輩出した曹氏一門の
名を刻んだ字磚が大量に出土していますが、そちらはきちんとした隷書で
刻んであり、資料として用いるに不都合ないものです。
以上、これらをもって、会稽に倭の王権の根源を求めるのは非常に無理が
あると言わねばなりません。むろん、会稽に倭人の漂流民集落程度のものが
あった可能性は否定できませんが、それが王侯の地位を得たなどということ
は妄説というべきでしょう。
709 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 09:55:29
>>699 >九州が渡来系の居住が薄いといってるのは、その立場の君の方であって、
>倭国漢人説の場合は九州は渡来人が多いので漢字が定着していて良いんだよ
眠かったので気付かなかったが今読むと全く変な論理だ。
九州が渡来系の居住が薄いといってるのは、
主に5世紀の「百済など半島からの渡来人」の事であって、
にもかかわらず彼らが日本に来て以降しか九州に漢字文がないというのは、
倭国漢人説を否定できる事実だよね。
倭国漢人説はもっと昔から漢人が住んでたって事だから、
ならば漢人なのになんで漢字文を残せないんだって話だよな。
「渡来人」をゴチャ混ぜにしないでね。
710 :
龜甲兎:2009/05/10(日) 10:43:40
>>704 >倭の五王は中国と交流していたわけですから
>漢字が扱えなかった、という主張は不合理でしょう。
王権上層にも簡単な漢文を読み書きできる者は多少いたと思われます。
おそらく、百済・加耶系の渡来者から徐々に習い覚えていたのではないかと。
しかし、上奏文のような外交文書の起草を行える者がいたかというと、
それはありえないと思います。『宋書』の武の上奏文から見てとれるように、
古今の典籍を踏まえ、正格漢文を駆使できる専門家でないと困難な作業です。
それゆえ、専門家集団としてのフミヒトの設置があったというのが、
当方の主張です。
>>707 そういえば、呉太伯後裔説もありましたっけ。
『魏志』にはなく、『晋書』あたりから倭人がそう自称しているという記事
が付加されるけど、この間に何らかの形で倭人が呉の始祖説話を知る
機会があって、自らの出自を太伯後裔に付会したと考えられようか。
漢人王朝説だと、この間に呉越から漢人が渡って、倭国に政権を樹立
したとなるんでしょうが。
711 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 15:05:08
呉太伯後裔説ってのは、家康が源氏を称するようなもんでしょ。
712 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 15:13:25
当時は竹に文字を書いてただろうから、
日本の保存方法だと朽ちて残ってないのかも
713 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 15:35:23
焼いたってことも考えられるな。
714 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 16:02:42
龜甲兎 さん
>>706 倭の5王が漢人政権という説の中で
そのまま天武朝の政権に続く1王朝の立場と
記紀の天武朝の政権のルーツとは異なるというのが2王朝の立場があります。
2王朝の場合は、
記紀の天武朝のルーツ(大和王権)は倭人王権であって
フミヒトを設置する必要性があるのは当然です。
したがって、龜甲兎 さんの指摘は、1王朝説へのマイナスとしての意見ですが
2王朝説へはプラスの意見となります。
715 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/10(日) 16:53:27
倭の五王の時代は畿内ではだいたいだが、神功、應神から雄略、清寧
顯宗、仁賢の時代であろう。
ところで 梁書 巻五十四 列伝第四十八
「扶桑国、齊の永元元年(=499年)、其の国の沙門頴慧深有り、
来りて荊州に至り、説いて云う。『扶桑は大漢国の東二萬餘里
在り、地は中国の東にあり・・・・・【文字有り】、扶桑の皮を
以て紙と為す。・・・国の王を名づけて乙祁(=袁祁:顯宗天皇)
と為し云々・・・・・』」
716 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 19:29:17
龜甲兎 さん
>>708 漢人貴族説への矛盾点の指摘があり、
主張者側がその矛盾点への反駁を行いました。
しかし、その反駁を漢人貴族説側がおこない矛盾が無くなった場合でも、
漢人貴族説そのものが証明されたと主張するものではありません。
矛盾点への反駁という必要条件は満たしても、
説を証明する十分条件を満たしたと主張するものではないのです。
龜甲兎 さん 、意図的ではないと思いますが、
こちらの反駁に対して、「だからといって証明されない」
または、「証明できないならば間違ってる」という理屈でレスが構成されているように
見えますがいかがでしょう。
百済王と倭王の表の類似点があったという指摘に対して、
こちらが、「両者がともに漢人」というこちらの反駁は「こう考えると矛盾がない」というもので、
それを事実と証明できると主張してるわけではありません。
ちなみに僕は龜甲兎 さんが漢人貴族説の矛盾点を挙げてくれる事を
非常に有難いと思っています。 その優れた矛盾点指摘の中には、
すぐにレスができるものもあれば、現時点では覆すレスができないものもあると
思います。 取り急ぎ
717 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 19:31:05
718 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 19:50:17
>>715 の文の中に文明論的に非常に重要な文言がある。
梁の時代499年に正史の当事者が「大漢国」と記載してる事である。
この南朝各王朝時代と日本の関係において漢文明、漢人、漢、漢勢力、漢化 等
漢という表現を適用しようとすると、決まって
「漢というのは後漢までの事であってその後は漢ではない。漢化とはなんぞや、
漢人とは?」など、その用例に対する批判が必ずある。
梁の時代においても自らを漢、大漢という認識でいたというのはとても重要な点である。
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/10(日) 20:05:46
倍暦計算にて
永元元年=499年=顯宗即位元年
を得ている。
720 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 20:18:24
今の話の流れで基点となった論点は、
>>637 にまとめられてるね。
>「仮に、魏〜宋まで旧語(つまり倭王は大陸系の子孫)だったとして。」
///
>「魏志の大王家=旧語を話す=渡来じゃねーの?」
[魏志〜宋まで断続なく大王家が続いて継体につらなり昭和にいくなら、
旧語を話す(大陸系)が天皇家って事を認める事になるだろ。]
そういう意見への反駁をどうするか?
↓
そこで、ある反駁
「旧語を話さない王家が近畿にあってそれが本当の大和政権だ。それが各種遺跡だ。」
(つまり旧語を話す大陸系王権が魏志や宋書に登場する倭王権であって、
大和王権とは別種である)
私も聞きたい。 この反駁以外に1王朝説の方はどう考えているのだろう。
721 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/10(日) 20:23:50
>>715 訂正
×沙門頴慧深
○沙門慧深
なんで頴がはいったのか?>< スマン。
722 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 21:35:49
>>720 「旧語を話す」という記述自体が
大笑いでいい加減な明史日本伝より千年も前の記述なんで、
そんなものを前提にするのは君の勝手だが、
その場合にはある程度の考古学的証明を伴っててもらわないとね。
何もないんじゃ話にならないよ。
723 :
倭王貴人:2009/05/10(日) 22:04:56
>>722 その考えなら板違いですね。
魏志や記紀の一言一句に拘ってる研究者の前提は、
全くの嘘、錯覚、作り話、という不文律を飲み込んだ前提で
議論しているでしょ。 定説や自説に都合が悪い記録部位だけ、
「あてにならない」というのはこの推論ゲームに参加してないだけという事です。
もちろん理論的に貴方は正しいですよ。
私も魏志の記録なんて「全くあてにならないよ古すぎてしかも外人の記録だよ」
で終わりにする事はできます。
都合の悪い部位にこそ、「じゃれそが事実だとしよう」それにもかかわらず「自説に矛盾ない
筋の反駁を見つけよう」研究者として楽しい立場でしょう。逃げたら面白くもなんともないでしょう。
724 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 22:46:42
>>723 定説や自説に都合が悪い記録部位だけあてにならないというのでなく、
「旧語を話す」という記述を事実だと仮定し、
さてそこから何か考えようとしても、
ある程度の考古学的な裏づけが必要でしょうが。
歴史とはは考古学も含むのだし文献史学だけではないよね。
何で板違いなんだ?
725 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 23:34:40
板違いワロタ お受験板にいけ
726 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 23:40:06
>>724 名無しで一人だけ痛い人いるけど・・当たり?
>「旧語を話す」という記述を事実だと仮定し、
>さてそこから何か考えようとしても、
いや、これで良いのがあたりまえ。あえて記載が虚だと主張する724の方は、
考古学的な裏づけを提示するなりして否定しなきゃいけない
きっとこのレスのあと、今晩狂ったようにこのスレに連投してくるんんだろうなあ
あああスレ住人・・南無 馬鹿に狙われるとたいへんだぞ。
727 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 00:03:05
>>726 >考古学的な裏づけを提示するなりして否定しなきゃいけない
だから漢字や論語や須恵器の話をしてたのだが?
答えられないのに偉そうに言ってるんじゃないよ。
馬鹿に狙われた俺も大変だ。
728 :
龜甲兎:2009/05/11(月) 00:30:03
>>698 >梁の時代の倭国の使者とは、どんな存在でしょう。
梁代に倭国からの遣使があったとする記録はありません。
したがって、『職貢図』の倭国使像は、本物を見ずに、伝聞や『魏志』
などの記述から想像して描かれたものでしょう。とはいえ、そのおよそ
漢人というには程遠いイメージが、本場の漢人王朝当事者によって形成
されていたことは事実であり、彼らに倭を漢人王朝とする認識など全く
なかったことは明らかでしょう(梁朝の陰謀だとか言わないでね)。
>本来の倭国の漢人貴族は、宋代の時に大将軍位だったときに
>同列以下であった梁の王などに傅く立場にはないのです。
大将軍や開府儀同三司がどんなに偉くとも、結局それらは南朝皇帝
を源泉とする権威です。したがって、北朝に仕えることも、自ら権威を
生み出すこともままならない倭王権としては、南朝の内実がどうあれ、
そこに権威を求めざるを得なかったはず(結局それは叶わず、雄略の
死もあって、倭国は混迷を極めたのだと思います)。
というわけで、そのような倭国としては、斉や梁を上位とみることは
あっても、下位に見下げることはなかったと考えられます。
729 :
龜甲兎:2009/05/11(月) 00:35:31
>>714 二王朝説ですか。またもや壮大な仮説を。
あんまり風呂敷を広げすぎても、ほころびが目立つだけではないのかしら。
というか、このスレで扱うには、話題がちと大きすぎやしませんかね?
継体天皇やその周辺人物などについて話したいという人もたくさん
おられるんじゃないかと思いますが(いねーのかw)。
>>716 私のレスってそんなに攻撃的なんでしょうか。
以後気をつけるとしましょう…
>百済王と倭王の表の類似点があったという指摘に対して、
>こちらが、「両者がともに漢人」というこちらの反駁は「こう考えると矛盾がない」というもので、
>それを事実と証明できると主張してるわけではありません。
「両者がともに漢人」というのを「反駁」とされても、倭王漢人説は
まさに検討の俎上にあるものですし、百済王漢人説に至っては論拠を
示されないまま突如の提示ですから、こちらとしては困惑するのみです。
730 :
726:2009/05/11(月) 00:38:23
ああ本当に同一人物だとは
各論客が去らないように願いたい良スレ乙
731 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 03:01:46
大陸では南朝は北朝に押されまくり(軍事的に)ということは
雄略ほどの人物ならば当然把握していたはずだが
北朝ではなく南朝に接触した理由はなんだろ?
卑弥呼だって呉ではなく魏に接触しているんだが。
732 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 04:26:56
>>729 二王朝説はこのスレでよう出てるよ
亀甲兎氏にも九州王朝説をどう思うか質問されてたし
九州王朝説論者は多いし、倭王貴人氏の主張よりも誇大じゃない。
二王朝説はそう大というほどマイナーじゃないだろう。
>>731 北朝とは、西晋の漢民族からみれば、中原を占領しに来た北方の異民族。
過去の歴史で民族融和したこともない完全な外国人の政権だ。
西晋が中原から追われて呉で東晋という亡命政権を作ったがそれは
魏から続く漢民族王権である。卑弥呼は漢民族の国と結んだだけのことで
それが南朝の世でも同じことだ。
>>723 人格変わったのか?そんなヌルイ伽羅じゃなかったような気がするが。
亀甲兎氏が戸惑うだろうから前半のように突飛な伽羅な方がいいぞ
防具の話や旧語の話の続き、須恵器の話、考古学的な論点の掘り下げしよう
旧語の話は天皇は大陸系だって事だ。土器では倭人は大陸系じゃないって事だ おかしなことだ
土器は竈職人は倭にこなかった。それで解決だ。旧語は謎だが4世紀ごろの記紀の大王名など
8世紀の言葉の命名のセンスと全く違う。言語体系の変更があったのは明らかだな。
二大巨頭の論争があったのだな
734 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 08:09:57
土器は竈職人が途中で海に落ちて来なかったし、
論語は王仁に持ってきてもらうまですっかり忘れてたんだなw
735 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 12:40:20
漢字だって8世紀まで奈良県居住者のものは出てこないんだろ。
フミヒトどうしたんだ?東漢氏は?秦氏は?
500年間古跡のひとつもないんだ。
それに比べて土器はかまど職人が渡来してこなかったら
漢人がたくさんきても生産されないだろ。
現代のおまえらがジャワ島に1万人で移住してもプラスチック作れるのか?
茶碗作ったって縄文土器だろ。
実際なんの矛盾もない。
736 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:24:11
だいたいな
大陸で漢人の国が崩壊して列島に漢人の国ができた
これいじょうシンプルな話ない
倭人を甘く見すぎてる
そんな漢人集団が渡来しても
皆殺しにされるだけだよ
738 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:15:15
>>735 東漢の住居跡は発見されてるよ。
でもそこに漢字がないからってどうなんだ。
アメリカ人が住んでたという家から必ず英語の何かが見つかるのか?
須恵器は登り窯で高温で焼くぐらい知ってたはずであろうから、
漢人が来てたなら日本の5世紀以前にないのはおかしい。
739 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:49:43
>>738 >東漢の住居跡は発見されてるよ。
馬鹿、誰も否定してないだろ
>でもそこに漢字がないからってどうなんだ。
漢人が支配した国だからといって古代の漢字は発見されないって
再三このすれで出てるだけだ。
>アメリカ人が住んでたという家から必ず英語の何かが見つかるのか?
そうだろ、だから4世紀の倭国は漢人国で問題ないよな。
>須恵器は登り窯で高温で焼くぐらい知ってたはずであろうから、
技術者いなけりゃ知るわけねーだろアホ
>漢人が来てたなら日本の5世紀以前にないのはおかしい。
おかしいのはおまえだ
スレよく読めよ
>>737 国譲り神話によると、譲っちゃうらしいよ。タケミナカタは反抗するけどな
740 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:12:49
>>739 >漢人が支配した国だからといって古代の漢字は発見されないって
>再三このすれで出てるだけだ。
それはおまえが勝手に出してるだけでだからどうなんだ。
漢字が発見されてないのにどうして漢人が支配した国だと証明できるのだときいてるのだハゲ。
半島経由の渡来人が来たとたん漢字が出始めてる事実を見れ。
>技術者いなけりゃ知るわけねーだろアホ
焼き物の技術者さえ連れてこれねぇ渡来民なんて、
今のおまえなみのアホさ加減だなw
741 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:47:13
>>737 出雲の国譲りというのは大和朝廷系半島製鉄民が出雲にやってきて
製鉄を始めたことと関係してるのでしょう。
これはスサノオの話とも通じます。
実際、出雲は5世紀後半からやっと前方後円墳が出来始めます。
これは出雲が大和に取り込まれた証拠だろうし、
これが国譲りになってるのでしょう。
742 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:51:46
>>740 妄想野郎
>半島経由の渡来人が来た途端
近畿に渡来人が来たのは3世紀遅くても4世紀だな
>漢字が出始めてる事実を見れ。
はあ?
法隆寺仏(6世紀後半に百済から来た仏師)
聖徳太子の書 倭人7世紀
おいおい
>>740おまえずーと誤魔化してんじゃねーよ
渡来人が近畿に来たのは6世紀じゃねーだろ
応神帝の代だな。3世紀か4世紀かだな。
秦氏は大量に移民してるな。
この大量の大陸人集団が漢字を残したんじゃないだろ
真っ赤な嘘つくなよ。馬鹿。
九州や埼玉で漢字が発見されてるのは倭の5王の征服の碑。
→倭王は漢人政権に調和してるな。
なんで漢人が大量にいるはずの近畿から漢字の古跡が出ないで
倭王の碑が漢字の碑なんだ?
→漢人の集積地域でも居住者の漢字は発見されないもんなんだな。
早く認めろよ馬鹿。 「5世紀の五の倭王が漢人政権であったなら
漢字の古跡が発見されているべきだ。」なんていう世迷いごとは
根底から間違った推測だ。
それから
大量にいても漢字すら残せない漢人レベルで
より高度な焼き物の技術者がいなければいけないって?
説得力 0だな。
743 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 23:08:57
>>739 >4世紀の倭国は漢人国で問題ないよな。
倭国を九州と考えてるのか?
4世紀どころか3世紀には福岡にも宇佐にも日向にも前方後円墳があって、
大和朝廷に属してるのは明らかなんだが。
漢人国って…頭に虫が湧いてるのか?
744 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 23:15:52
ちなみの継体は日本人だ。このスレで確信した
倭の5王は漢人政権だ。宋の下に日本があったというのは
皇国史観としておかしい話だったが氷解した。
後に継体と名がついた理由も明白となった
宋の侵略軍が宋が崩壊した事で崩れるのは明白だろう。
その後 日本を握った大王は、後の世で継体と呼ぶだろう。
当たり前の事だ。
そして残存した漢人は日本人の下に入るだろう。
記紀の記すとおりになる。
745 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 23:17:55
>>742 >近畿に渡来人が来たのは3世紀遅くも4世紀だな
>応神帝の代だな。3世紀か4世紀かだな。
おまえ応神を3,4世紀と見てるのか?w
こりゃ話が合わない。
おいら4世紀後半〜5世紀初め。
その時代から須恵器が来て、漢字も5世紀から出始めるよな。
王仁がこの頃に来たなら筋が通るし間違いないだろう。
3、4世紀は三輪王朝の時代と言われてる。
この時代には大陸のものが極めて少ないのだよ。
746 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 23:21:44
>>744 倭の五王が漢人なら、漢人の武装すればいいのに。
なんで倭人の武装をしてるのだろうね?
いい加減アホは消えろよな。
747 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/11(月) 23:23:48
倍暦計算にて、実年代は
應神天皇 即位=376年 同 崩御=389年
仁徳天皇 即位=391年=広開土王 即位
748 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 23:30:56
>>747 だいたいそんな感じでしょうね。
応神を3世紀と言ってるアホをどうします?
749 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:00:15
>>745 ああそうだ応神は4世紀後半から5世紀はじめだ な。
単純な間違いだ。だからどうしたんだ?
応神帝のつれてきた近畿の渡来人による漢字古跡や書は、
渡来年から何年後に残したものが見つかってるんだ?
一番早い事例頼むわ。 400年後か?
ほかの話はその後だ
750 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:13:30
>>749 >一番早い事例頼むわ。 400年後か?
はぁ?ダルなおまえ。
>>677で出てたが
438年 熊本 江田船山古墳出土の鉄刀
443年または503年和歌山 隅田八幡神社人物画像鏡
471年または531年 埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」
607年頃奈良県 法隆寺金堂薬師如来光背銘
615年頃奈良県 法華義疏 伝聖徳太子
623年頃 奈良県 法隆寺金堂釈迦如来光背銘
もう少し落ち着いて時代考証をせよ。
応神の時代に渡来人が多く来たという記紀の記述とピタッと合うだろうが。
751 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:31:54
×ダルなおまえ。
〇ダルいなおまえ。
w
752 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:45:06
>>750 おまえ本当にイカシテルわー神レベルのアホだな。
近畿に居住してる大量の応神帝の連れてきた渡来人集団が
漢字古跡を残してるかどうか聞いてるだろ
毎度毎度誤魔化すな。
438年 熊本 江田船山古墳出土の鉄刀
近畿じゃない
倭の5王じゃねーか 漢字で当然
443年または503年和歌山 隅田八幡神社人物画像鏡
近畿じゃない
471年または531年 埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」
近畿じゃない
倭の5王じゃねーか 漢字で当然
607年頃奈良県 法隆寺金堂薬師如来光背銘
応神帝の連れてきた渡来と関係ない
司馬 なんとかと書いた仏教伝来の仏師
615年頃奈良県 法華義疏 伝聖徳太子
日本人だな
623年頃 奈良県 法隆寺金堂釈迦如来光背銘
応神帝の連れてきた渡来と関係ない
司馬 なんとかと書いた仏教伝来の仏師
ほんとこりゃ驚くわ、応神帝以降、近畿に在住してるはずの大陸人集団の漢字古跡
ここまで0だ。
「漢字古跡がないから大陸系集団がいない」 というおまえのストーリーが是なら
近畿には8世紀まで大陸系集団がいないという事になるな。
それとな5世紀は倭の5王の時代だ。倭の5王が大陸系という意見を否定するのが
おまえの使命なんだろ?5世紀の倭王の漢字古跡が全国で発見しちゃ
おまえ自爆だろ。面白い奴だ
753 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:16:13
>>752 キチガイ?
>744で言う倭の五王が漢人だというのが君の説だろうが、
ならばなぜ漢人が倭人の武装で倭人の前方後円墳に埋葬されるのか説明してくれ。
毎度毎度誤魔化すな。
江田船山古墳被葬者は河内王朝から帯金短甲を下賜されてる。
応神天皇5世紀前後の人物とお前が認めてるのなら、
王仁がもたらし論語から漢字文も波及しただろうし何も矛盾しないが?
何を言ってるんだおまえ?
754 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:20:42
×応神天皇5世紀前後の人物とお前が認めてるのなら、
王仁がもたらし論語から漢字文も波及しただろうし何も矛盾しないが?
〇応神天皇が5世紀前後の人物とお前が認めてるのなら、
王仁がもたらした論語から漢字文も波及しただろうし何も矛盾しないが?
何故だ調子悪いなw
なんで普通に議論できないんだろうねこの人たちは
たのしいのかな
756 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 05:31:21
議論ではなく電波発信だから。
いや、しかしここの討論は
読み物としては面白いよ。
だからみんなだって来てるんでしょ?
このスレに来て初めて
こんな面白い解釈があるのか、って知った
759 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 09:15:42
学研「ムー」は
アレキサンダー大王の使者が訪日して倭王に会見したとの記事を載せたことがある。
読んで面白い電波なら価値があるな。
「ドグラマグラ」とかもな。
760 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 12:39:39
騎馬民族説は倭の五王を扶余族だといい、
小林恵子は仁徳天皇陵を好太王の墓だといい、
今度は倭の五王漢人説か。
いい加減にしてほしいな。
いや、倭の五王は漢人でいいでしょ。
違うなら文献で示しなよ。
考古学に逃げ込むのは卑怯だよ。
762 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 17:37:46
いや、倭の五王は倭人でいいでしょ。
違うなら考古学で示しなよ。
文献に逃げ込むのは卑怯だよ。
高句麗の後継である渤海の国王が、渤海と日本の関係を、
建国以来の歴史を経て「本枝百世」になったなんて言ってるんだけど、
さて漢人であったり渤海人であったり、
文献史学なんて書いた人間の恣意が入るんでいい加減なものさw
764 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 18:12:44
上京竜泉府ってかっこいい名前だよなあ。
>>763 あれは渤海と日本の関係を「本枝百世」と言ったんじゃないよ。
このスレ読んでると混乱するね。
実際のところ、本当のところを知りたい。
正直、常識的なラインってどこらへんなの?
南朝鮮と九州北部はほぼ一帯だ、というような話もあるけど
767 :
龜甲兎:2009/05/12(火) 20:12:35
>>731 5世紀初頭の華北は、いまだ五胡の諸政権が割拠している状況だったので、
遣使朝貢するのに相応しいとは思われなかったのでしょう(北魏の華北統一
は439年)。以前の遣使が西晋に対するものだったので、その流れを汲む
東晋ないし劉宋に入貢するのは自然といえますし、それを望む百済の関与
もあったのではないかと。
倭の江南政権への遣使朝貢の開始を、東晋の義煕9年(413年)とするか、
宋建国の翌年(421年)とするか、議論が割れているものの、いづれにせよ、
東晋の驍将劉裕による山東半島占領(410年)が契機だったことが、
川本芳昭氏により指摘されています。
>雄略ほどの人物ならば当然把握していたはずだが
雄略の段階では、高句麗への対抗上、いまさら北魏に入貢するわけには
いかなかったのでしょう。実際、472年に百済が北魏へ初の遣使を行い、
高句麗討伐を願っていますが、結局誤魔化されています。
768 :
龜甲兎:2009/05/12(火) 20:59:48
川本芳昭氏によると、山東半島は日本列島と江南地域を結ぶ往還路に
おける経由地であったと推定されており、江南政権によるこの地の獲得
維持こそが、倭をして遣使朝貢を可能ならしめたと言えます。
同時に、この地の喪失は倭をはじめとする東夷諸国の遣使に困難ないし
不全をもたらすことを意味します。事実、450年代以降、北魏によって
淮水地域および山東半島が奪取、領有されてしまいますが、これにより、
雄略の遣使は前回から15年もの間隔を空けてしまい、ついには途絶に
至ったと考えられるのです。
>>732 二王朝説や九州王朝説は出力が強すぎて、正直まともに相手する気には
なれませんね。疲れるだけなので。個人的に倭の五王には興味をもって
いたので、漢人王朝説を張る倭王貴人さんに対し、レスをしてはいましたが。
769 :
倭王貴人:2009/05/12(火) 22:10:40
不思議なことがいっぱい。
アジアの周辺国家で日本だけが漢文明国。
日本が正式に文明を導入したのは遣隋使遣唐使だけ。
それならね日本は「北朝文明圏」として成長するはず
なのにね日本は「南朝文化国」として7世紀から成長する。
本体の南朝は7世紀になくなるのにね。
何を手本に日本は日本の国体文化を作ったんだろうねえ
正式な交流先は、新羅や唐や高句麗や渤海しかないんだよね
南朝に朝貢だけしていた外部民族が、南朝が崩壊した後で
外部民族のまま、南朝文明を継続するって不思議だねえ
ただの外部民族なのに、その後正式に国交のあった北朝系各国の
影響はそれほど受けないんだねえ不思議だねえ
770 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/12(火) 22:13:41
>471年または531年 埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」
大彦から 中七代で471年まで繋ぐことが出来ない。
この事実を 俎上に上げると タカリタルニは複数だと反論するが
景行時代に活躍した 六雁は大彦の孫と書かれており 六雁を祀る神社は、高橋神社
高橋は、大彦のひ孫にあたる。
大彦から七代後の「わかたける」は日本武尊に子 若武 一代20年位で計算した場合です。
771 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/12(火) 22:18:22
それは繋げる。鉄剣の銘文は七支刀の七にちなんだもので、途中
数人を抜かした略書き名なのである。雄略なんて、ここあたりから
出た号か??
772 :
倭王貴人:2009/05/12(火) 22:19:47
>>768 2王朝や九州王朝というと拒否反応がでてしまうのですか?
もったいない。そこは一番うまい味噌ですよ。
宋書武表で倭王が制した国は120カ国ですよ。
魏志でも通じる国は30カ国でした?100カ国大乱や
正史に登場する倭は、終始割れてるんですよ。
2王朝・・むしろ少なすぎると思いませんか?
10王朝あってもいいとおもいませんか?
九州王朝、一国でも少ないですよ 西日本に複数あったと思いませんか?
3−6世紀の事です。
統一された大和政権は8世紀の概念ですよ。
それ以前は必ず複数の王権が日本列島にあるわけです。
これ絶対でしょ。 違いますか?
773 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/12(火) 22:23:51
当時の大陸は諸葛亮の言うように、天下三分の計で三分されていた。
日本は当時天下二分の系だったのである。畿内朝廷と九州王朝だ。
774 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/12(火) 22:25:40
>渤海と日本の関係を、建国以来の歴史を経て「本枝百世」になったなんて言ってるんだけど、
「本枝百世」の”枝”で見ると
193年の新羅に倭人が餓えの為千人以上が渡海している。
この時代には 日本海側と対岸新羅の間に通好の有った事がうかがわれる。
”百世”は、永い時空の表記。
775 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/12(火) 22:33:45
>733
空白と吉祥句を認めたら どの時代にでも 持って行ける。
それで 空白と吉祥句を認めた現在の”日本史”に満足しているなら。
「継体天皇の事実」の何処に不審を持っているのですか?
776 :
倭王貴人:2009/05/12(火) 23:08:24
>>767 >倭の江南政権への遣使朝貢の開始を、東晋の義煕9年(413年)とするか、
>宋建国の翌年(421年)とするか、議論が割れているものの、いづれにせよ、
>東晋の驍将劉裕による山東半島占領(410年)が契機だったことが、
>川本芳昭氏により指摘されています。
宋書はね3朝に使えた記載した約沈さんが現時代的に記したものだからね
かろうじて約沈さんの生まれる前の記録でも信じる事ができると思うよね。
じゃ晋書はどうかというとね、400年も先の唐の時代に書かれるんだよね。
唐の時代の書で、
倭と東晋の関係を細かく記録していると思いますか?
中国正史は大体同時代的な保障があって
記録になり国交は存在しない。 とされますが、
晋書に限っては、 記録にない国交が存在しないという事にはなりませんね。
正しくは 全く判らない のですよ。
よくね120年の倭の空白の時代 なんて世間では表現しますね、
冗談じゃありません。 それは記録が空白の時代なんです。
活動や国交が空白の時代なわけじゃありません。
多くの皆さんがここを間違ってますね。
777 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:54:05
777ゲッツ
で倭の5王が漢人んまんて説は何の文献を根拠にしてるのさ。
例の「自ら太白の後という」というやつか?
継体は接着剤で、一代で終わったと見ていいだろ。
継体から親王朝が始まったなら、扱いがもっと違うだろ。
天武にとっても血縁関係を認めたくなかったんじゃないか?
780 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 01:19:09
約沈じゃねーよ沈約だ。
アホ
あいかわらずとばしてんな。本書けよ。話は実に面白い。
781 :
↑:2009/05/13(水) 07:59:05
こいつ何言ってんの?
782 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 08:05:01
>>769 何も不思議でない。
友好国百済の武寧王などは、彼の墓の副葬品から分かった事だが、
びっくりするほど南朝かぶれであった。
百済経由だと考えればいい
783 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 08:09:46
>>772 制した国は120カ国だと言ってる主体は1つでなはいか。
784 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 08:23:25
>>782 > 友好国百済の武寧王などは、彼の墓の副葬品から分かった事だが、
> びっくりするほど南朝かぶれであった。
文化は南朝>>>>>>北朝
軍事は逆。
785 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 11:54:00
>>782 > 友好国百済の武寧王などは、彼の墓の副葬品から分かった事だが、
> びっくりするほど南朝かぶれであった。
百済=南朝 のマネ。って事だ。
>>783 その主体の権威の宋帝がクーデターで崩壊したら
120カ国もあったら分裂するって事だよ
786 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 12:30:54
>>782 どこ経由に意味ない
律令日本が生まれた時には既に天下は北朝しか存在してない。
経由地百済さえ7世紀には崩壊
南朝が国ごと引っ越したような日本になるのは不自然
787 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 13:27:30
>>785 >120カ国もあったら分裂するって事だよ
120カ国を制したあと分裂していたのか?
788 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 13:32:40
>>786 「南朝が国ごと引っ越したような日本」と言うのは君の恣意。
真似ただけ。
789 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 14:54:04
>>787 実際、海を渡って制した55カ国は離れ
九州は反乱
蛮族と言われてて制された120カ国が一枚にまとまってるわけねえのは明白。
それが479年、宋崩壊後100年の倭の姿。
南朝文化にどっぷりで南朝政権下で、120国の蛮族を制した政権、
世界情勢は、南朝陣営が弱体の一途。魏晋の栄冠過去のもの失墜
朝鮮半島からは、新興北朝系勢力と渡来。
そして、ついに南朝は消滅。
なのに1王朝のままだろうって? 2王朝はありえないって?
どんだけユートピアなの
>>788 どうして真似るの?北朝真似ればいいでしょ時代的に
それに1万年の縄文の伝統の方が影響強いでしょ
隋唐新羅といった正式国交相手の影響の方が強いでしょ
790 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:03:44
>>789 1王朝下から2王朝ってのは、
反抗勢力が1つの姿。
実際反抗勢力が1つもない古代国家の方がおかしい。
791 :
龜甲兎:2009/05/13(水) 21:03:03
>>772 >宋書武表で倭王が制した国は120カ国ですよ
そうですね。「東征毛人五十五國」「西服衆夷六十六國」の合計が、
『隋書』の「軍尼一百二十人猶中國牧宰」とほぼ一致するというのは、
どこかで読んだ憶えがあります。「軍尼」は国造を指すといわれるが、
『国造本紀』にあらわれる国造の総数にも近い数字だとか。
雄略の時代までに、近畿というかヤマトの王権の傘下に収まった「国々」
の首領級豪族は東西合わせて120くらいの数だったのかも知れません
(彼らを皆夷狄扱いとか、すべて征服したというのは誇張でしょうが)。
彼ら大豪族、大酋長の勢威を今に伝えるのが、九州から東北まで列島
各地に分布する前方後円墳という墓制であるわけですが、周知のごとく
これこそが彼らがヤマトの覇権下にあるという証に他なりません。
また、武蔵と肥後という東西の辺要にある古墳から出土した鉄剣銘は、
ヤマトの大王雄略の「治天下」と、彼ら東西の地方豪族の王権参画を
雄弁に物語っており、雄略の覇権が列島のかなり広範囲に及んでいた
ことが知られますが、御説ではこの時点で九州に独立した「王朝」が
あったとするのでしょうか。それとも雄略の死後の混乱期にそれが
成立したと考えるのでしょうか。
792 :
龜甲兎:2009/05/13(水) 21:09:57
>正史に登場する倭は、終始割れてるんですよ。
>2王朝・・むしろ少なすぎると思いませんか?
>10王朝あってもいいとおもいませんか?
「王朝」という語にニュアンス以上のものが込められているのか
どうか、ちょっと御説からは読み取れないのですが、そもそも何を
もって「王朝」が成立するとお考えですか。「王朝」の概念をそれなり
で結構なので定義してもらえば議論できるのですが。
ちなみに、当方は「王権」の語をやたらと使用していますが、
これは、当時の倭国において、世襲の王統や王家といったものが
確立していたのか否か未だ判断がつかないためです。
倭王が大首領・大酋長の政治連合体の盟主的存在に過ぎなかった
可能性も捨てきれずにいます。
793 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:17:23
>>789 だから九州も3世紀から前方後円墳体制なのはどう説明するのさ。
九州王朝の2王朝説なんてむなしいだけ。
あえて言うなら出雲が遅く5世紀後半に前方後円墳が出来ると聞いたが、
出雲を1つの王朝とみなすなら何とか2王朝もありうるかな程度の話。
794 :
龜甲兎:2009/05/13(水) 22:28:52
>>776 >じゃ晋書はどうかというとね、400年も先の唐の時代に書かれるんだよね。
>唐の時代の書で、倭と東晋の関係を細かく記録していると思いますか?
唐代にいきなり書かれたわけじゃなくて、斉の臧栄緒撰など先行する諸家の
『晋書』がいくつも使われていますよ。それらはすべて散逸してしまったけど、
逸文の集成が清代に行われています。
東晋義煕9年(413)の遣使については、以下の石井正敏論文において
近年の諸説が整理され、詳細に検討されています。
石井氏は413年に遣使があったとする立場をとっており、当方もあった
としても不思議ではないかなと思っています。
http://www.jkcf.or.jp/history/1/1-03-ishii_j.pdf
795 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/13(水) 22:33:12
>武蔵と肥後という東西の辺要にある古墳から出土した鉄剣銘は、
ヤマトの大王雄略の「治天下」と、
鉄剣銘は、雄略を指す
これこそこの時代の最大の電波です。
これを信じては【定説打破】は、無理。
796 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/13(水) 22:38:49
稲荷山鉄剣の銘文の「獲加多支鹵大王」は雄略天皇だ。
梁書の「乙祁」は袁祁(顯宗天皇)だぜ。
797 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/13(水) 22:44:52
稲荷山鉄剣の辛亥年は、倍暦計算で
471年=雄略天皇元年
梁書のは、倍暦計算で
永元元年=499年=顯宗即位元年
798 :
龜甲兎:2009/05/14(木) 00:12:55
>>782 武寧王陵といえば、王の諱や官爵を刻んだ買地券(墓誌)の出土した
希少な墓ですね。買地券の風習は大陸では漢代に起源をもつそうですが、
日本では8、9世紀のものしか見つからないとか。
倭が漢人王朝ならば、あちこちの古墳からざくざく出てきそうな気が
しますがね…
それは置くとして、武寧王と継体の関係は興味深いものがありますね。
前代の東城王(末多王)は、雄略が倭から百済まで筑紫の豪族らに護送
させて即位させた王ですが、武寧王がその暗殺に関わっていたとする説
もあります。
また、和歌山県の隅田八幡神社人物画像鏡の「癸未年」が503年、「斯麻」
が武寧王、「孚弟王」が継体をさすとすれば、百済から次期大王候補への
根回し工作があったことが窺えるわけで、継体の外交姿勢を考える上で
非常に示唆に富む史料です。
ひょっとすると、継体が大和の在来勢力を敵にまわしてしまった一因には、
外交方針の相違もあったのかもしれません。
>>795 それがうわさの九州王朝説(二王朝説?)ですか。
「獲加多支鹵大王」が雄略(倭武)であることを積極的に否定する
材料は特にないと思いますけど。
799 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 00:28:54
>>798 >倭が漢人王朝ならば、あちこちの古墳からざくざく出てきそうな気が
>しますがね…
全くその通りですね。
特に河内の大古墳の被葬者が、全く墓誌がないもんだから分からないわけで、
これは漢人説を否定できる根拠の1つでしょう。
800 :
倭王貴人:2009/05/14(木) 01:34:11
魏志に卑弥呼の巨大な墓の記録もある。
古墳は倭人国の風習で、私はなんの問題もないと
思っていますが?
全国の古墳の散らばる様を見ましょう、すでに重要な答えがあるでしょう
古墳は一系の帝の墓ではないのです各地の豪族の墓です。
征服された120国程度の氏族の墓なのですよ。
支配系の漢人側にはそのような巨大な墓の風習はありますか?
古墳時代は終わりますね
古墳に漢人の服装品などあるほうが不思議でしょう。
古墳が支配者の力のシンボルなら近畿だけにあるべきです。
ですがこの時代は倭王が120国を支配していった時代です
なぜ、各地に大小様々な古墳が生まれたのでしょう。
801 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 01:39:35
802 :
倭王貴人:2009/05/14(木) 04:02:21
すまんすまん
古墳=征服側って認識でいいのか?
っていう単純な話だよ。
5世紀の倭王が漢人で
古墳の主は倭人
両立してなんか問題あるのかな
803 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 09:43:28
804 :
倭王貴人:2009/05/14(木) 12:24:26
さて龜甲兎さんが794でレスしてくれた面白そうな論文を読みますか ・・
805 :
↑:2009/05/14(木) 12:34:14
何で肝心な所をごまかしてんだこいつ。
宮内庁が古墳調査を許可しないのが原因だよ
調査が進めば漢人としての墓誌も出てくるはず
807 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 12:53:36
「発掘すれば分かる」出た〜〜!w
いつもそればっかりで逃げてるw
世界一の大王墓・大仙陵が明治に臨時に発掘されてて、
長持型石棺や帯金短甲が見つかってるけど、
これが漢人の文化なら中国出土の同じものを示してくれ。
808 :
倭王貴人:2009/05/14(木) 13:17:09
>>807 レスしなくて悪いね他の方へのレスが気になってるのでね
古墳発掘しても漢人の跡は出ないよ
>>808 そういう奥歯にものの挟まったような言い方でなく、
何で出ないのか言ってくれないか?
810 :
ギーコギーコ:2009/05/14(木) 18:06:23
小林惠子さんの本って何故うれているの。
どうみたってインチキ妄想、自己満足本だとおもうのですが。
811 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/14(木) 19:25:15
誰かが良いことを云っていた
>大型古墳が次々と造られるのは、儲かる仕事で有ったから。
ちょっと考えると金ばかり喰うように見えるがそうでは無い。
巨大古訓築造とは、水路掘削や岡面の平坦化事業で彫られた土の集合体である。
つまり鉄器流入により余った人手を新たな大水田地帯構築に使う。
これにより米の増産となり、更に新しい水路や水田を造る。
つまり 大型古墳とは、開発時の残土の山の再利用ともとれる。
大型古墳ほど力の有った大王の墓の必要は、無い。
こまった
大型古墳の遷移は、王権の移動では無く 農地開発の為?
812 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 19:28:54
大型古墳の堀は農業用水として使用できたので
倭王の権威誇示プラス農業振興の意味合いもあったと聞いている。
>大型古墳ほど力の有った大王の墓の必要は、無い。
どういう意味?
814 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 20:33:51
815 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 20:43:59
被征服者に倭王の権威を誇示した面はあると思う。
816 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/14(木) 20:55:43
>大型古墳ほど力の有った大王の墓の必要は、無い。
大型古墳は、農地開発(水路掘削)の残土の山、言い方は悪いが、この様にもとれる。
この場合 大型古墳=水田の増大=米の増産 で費用はまかなえる。
一定量の大型古墳が造られると、他の土地で大型古墳が造られる=その土地の農地開発を終え
次の土地で農地開発。
最終的には、農地開発の終了は、大型古墳の終了を意味する。
817 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:07:50
>>816 > 最終的には、農地開発の終了は、大型古墳の終了を意味する。
農地開発が終了したというより、 倭王の権力が弱い時には
大規模な土木作業をおこなうのは難しい。
凶作で農作物の生産量が下がった場合も同様。
818 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:13:32
>>812 古墳の周濠は空堀だろう。
水を入れると墳丘にダメージを与えてしまう。
>>816 古墳の盛り土は濠を掘った土を使えばいい。
農地開発は古墳に関係なく古代ではずっと必要。
819 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:15:55
>>818 > 古墳の周濠は空堀だろう。
盗掘予防には堀に水を張ったほうが良いはずだが。
820 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:19:20
821 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:30:51
漢人倭王が全国を征服するさい古墳
・各地の王を殺害
・そこの領民へ告知「みんなで王の為にでかい墓作ってやろうぜ!
俺は昨日まで敵だったけど王の墓作りは協力するぜ!」
・領民感動!「倭王へ反抗心=王を敬愛力」がそのまま墓作りへ集約され反乱が無くなる
・倭王「最後に俺への感謝をきざんでおいてくれ!」
822 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 21:42:59
823 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/14(木) 21:47:11
水路掘削は、個人や村の単位では出来ない。
上流の取水口となる村から、最終的に放水口となる村まで 全ての村々の意見を
まとめる必要がある。
現仁徳陵と現履中陵、先に造られたのは現履中陵、農地開発から見れば
先に現履中陵が造られ、その増産された米で次の(現仁徳陵)開発に入る。
堀の土だけではこれらの陵の体積に足りない、又堀の土をそのまま陵の盛り土にすると、雨後に水が溜まり
堀込みに支障をきたす、
まず他所から土を持ち込み陵を造る、その後冬季に周わりの堀を掘る。
現仁徳陵(大仙陵)の築造には15年ともいわれる時間が必要です。
824 :
龜甲兎:2009/05/14(木) 23:28:07
>>807 出土した俑や壁画資料を写真で見ただけですが、南北朝の甲冑
は倭国のそれとはだいぶ異なっていたようですね。
騎兵は重騎兵である鉄騎と軽騎兵の二種があり、前者は裲襠甲
(りょうとうこう、うちかけよろい)というエプロン状の甲、あるいは
その発展形である胸甲を着け、さらに肩当を重ね着て、冑を被り、
馬も全身を甲冑で保護する。後者は裲襠甲または胸甲のみで
冑は着けない。むろん馬甲もなし。
南北朝ともに鉄騎・軽騎両方を有してたろうけど、出土資料も
北朝のほうが多く、北方の優勢を感じます。対する南方は
むしろ水軍のほうが発達していたのでしょうが。
歩兵については、南北で対照的な俑が出土しており、北方の兵俑
が胸甲・肩当等の甲冑に身を固め、大盾を持っているのに対し、
南方の兵俑は甲冑の類を身に着けず、手盾を持つのみ。
とはいえ、これは少し極端な例で、実際は南北両方とも下級の
歩卒は甲冑の着用が許されなかったのでしょう。
おそらく倭国でも事情は同様で、鉄製の甲冑は上層の将士のみ
が着用できた貴重品だったと思われます。
日本でも裲襠甲の系統である両当式挂甲という小札威の甲が
出土していますが、歩兵用の短甲に比べ、だいぶ数少ない
ようです。ちなみに、騎兵である中世武士の大鎧の祖形と
なったのは、この両当式挂甲とも言われてますね。
>>824 日本の場合は弥生時代の木製短甲から4世紀になって鉄製短甲、
5世紀になってさらに進化した帯金短甲と続き、
継体天皇の頃に騎馬用の桂甲が一般化してるみたいですね。
と言う事は日本においての騎馬軍は継体天皇の頃が初現でしょうか。
鐙や轡の馬具自体は5世紀から出土しますが、
あくまで首長層の間に乗馬習慣が有った事を意味するもので、
騎馬軍は実質6世紀でしょうね。
>>814 >古墳のちらばりを見ると倭王の征服地の墓標みたいな広がりですよね
なんで?
今のところ前方後円墳は阿波讃岐から纏向へ伝播。
関わってたのはおそらく忌部だろう。
827 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 07:10:34
継体天皇が辛勝できたのは騎馬軍の活用によるものという見方もできるなあ。
まあ、当時の実態は
歩兵の大群プラス騎兵ちょぼちょぼ
という感じなんだろうが。
日本とゴヴィ砂漠をいっしょにするなよ
829 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 16:27:23
壬申の乱も弘文天皇の側が騎兵隊を先行させて先制攻撃すれば
歩兵中心の天武天皇側が苦しかっただろうと
軍事評論家が指摘したことがある。
830 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/15(金) 20:24:35
>「獲加多支鹵大王」が雄略(倭武)であることを積極的に否定する材料は特にないと思いますけど。
そうですね。
大彦命から中7代で不足する分は、何処かに数人差し込めば事足りる。
「わかたけ」=「わかたける」 一文字削れば 完璧。
磯城宮 細かく考えるな。
確かに「獲加多支鹵大王」が雄略でした。 アホらし。
ある程度、話をまとめながら進んでくれ。
ループしたり前後したりすると混乱してくる。
騎馬兵って過大評価されがちだね。
チンギスハーンのイメージなのか、
恐ろしく強いと思われてるね。
833 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:35:23
獲加 と 倭
同じ漢字なのになんで字が違うの?
たけるの方は名前だから仕方ないが
倭の方が異なるのはなんで?
834 :
龜甲兎:2009/05/16(土) 00:26:53
>>825 『日本書紀』の馬や騎兵にかかわる記事は『雄略紀』以降増加していく
印象です。仰るとおり、騎兵の本格的登場は5世紀末か6世紀初めの
出来事でしょうね。6世紀以降の短甲の衰退もそれと連動したものかと。
また、雄略による市辺押磐皇子の射殺や、紀大磐による蘇我韓子の射殺、
騎兵が甲、太刀とともに弓箭を帯びることを定めた持統の詔などの例を
見ると、その騎兵は大陸のそれと同じく弓射を主としていたことがわかります。
>>827 磐井の乱のことですか。それとも大和在来勢力との対立のことかしら。
後者については、継体の擁する河内馬飼首に対して、対する大和の勢力は
倭馬飼首を騎兵戦力として取り込んでいたかもしれません。となれば、
必ずしも継体の有利とはならないか…
とはいえ、継体6年4月条、継体が大和入りする以前、百済に筑紫の馬
三十匹を賜う記事がありますので、案外継体には余裕があったとみる
こともできます。一説に大和入りは継体20年でなく、7年だったとあります
から、あるいは大和との対立はこの時期には解消に向かっていたとも
考えられますが。
>>829 壬申の乱というと、天武の軍が駄馬の荷を捨てさせ、軍馬としたという
エピソードが思い出されます。よほど騎兵が足りてなかったんでしょう。
835 :
龜甲兎:2009/05/16(土) 00:44:31
>>830 >大彦命から中7代で不足する分は、何処かに数人差し込めば事足りる
どういうことでしょう?
>「わかたけ」=「わかたける」 一文字削れば 完璧
「武」には「日本武尊」のように「たける」の訓もあるのだから、
「幼武」を「わかたける」とする訓があったとしても、不自然では
ありませんよ。『古事記』の「若健」についても同様。
おそらく比較的古い訓なのでしょう。
>磯城宮 細かく考えるな
泊瀬(長谷)朝倉の地は式上郡に属していたわけだから、
朝倉宮が別名斯鬼宮(磯城宮)と呼ばれた可能性も十分ある
と思いますが。
836 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 05:46:24
>>832 > 騎馬兵って過大評価されがちだね。
> チンギスハーンのイメージなのか、
> 恐ろしく強いと思われてるね。
戦闘力よりむしろ移動速度が有用。
モンゴルだって騎馬突撃したわけじゃないでしょ
きちんと馬を降りて戦ったはず
838 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 12:46:34
獲加多支鹵大王 が倭武
わかたける って音でいってたのは日本
それに倭武って字をつけたのは中国。
で日本では獲加多支鹵大王と字をつけたと・・・・
こじつけすぎ。漢字をかける知識者が倭を獲にする意味がない。
先に獲加多支鹵大王があったなら、
中国ではそのまま表記すればいいだけ。
単に 当時の大王墓=当時の支配者=当時の倭王
にこじつけたいだけ
839 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 15:40:43
獲加多支鹵 ばかたしろ にしかよめん
840 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/16(土) 17:10:53
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
孝元天皇元年 164年
上祖名意冨比[土危]・・・・上祖名はオオヒコ ( 169年生まれ )
崇神天皇元年188年 崇神6年=新羅193年の条
其児多加利足尼・・・・・・・其の児多かりたるに ( 189年 武渟川別の兄弟?)
其児名弖巳加利獲居・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 209年 磐鹿六雁命の兄弟?六雁は大彦の孫)
垂仁天皇元年 216年
其児名多加披次獲居・・・・・其の児名はタカヒジのわこ ( 229年 高橋神社に六雁は祀られる)
景行天皇元年 239年
其児名多沙鬼獲居・・・・・・其の児名はタサキのわこ ( 249年 )
成務天皇元年 261年
仲哀天皇元年 265年
其児名半弖比・・・・・・・・其の児名はハテヒ ( 269年 最果て火の国熊本?)
神功元年 274年 摂政前記 273年日食
其児名加差披余・・・・・・・其の児名はカサヒヨ ( 289年 風早国 )
其児名乎獲居臣・・・・・・・其の児名はコワコの臣 ( 309年生まれ)
世々為杖刀人首奉事・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
309年に記録される「わかたける」は日本武尊の子ども。
私の数字は、220: 日本書紀の年代を考える (540)に書かれています。
?さんの考え方
(銘文を記したのが、乎獲居臣で、「多加利足尼」の部分を人名とは考えていません。
その理由は、以下の文体と比較した時、「其児」の後に此処だけ「名」がないからです。)
「多加利足尼」を複数と数えた場合高橋神社の六雁はどうなる?
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 21:16:52
それ、唐松山氏の日本武尊の子とかいう説明は一応真か真に
近い可能性がある。それを暗示しながら雄略天皇をも示しているのだ。
尊のころの時代、デキの悪い皇子がいたもようと観ている。
なお景行が239年は完全なデタラメ。まだデタラメを誇示している。
あれほど勘注系図で教示、さとしたのに、まだ懲りない。
曲学の徒氏のように、あとで泣く運命だな。ww
842 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 21:31:54
唐松山氏の説では、垂仁天皇が殉葬を禁じたことから、卑弥呼の死
が次帝の景行年代に当たることは不合理である。それに今回の表の
編年をどうやってしたのか? その解説は相変わらず出来ていない。
即興的に考えついた妄葬だということであ〜る。ww 彼は不合理
を平気で肯定する。妄想にとり憑かれると、かように猿のオナニー
のようにこれを毎回繰り返す。
843 :
龜甲兎:2009/05/16(土) 21:54:30
>>832 火器が普及するまでは最強クラスの軍隊といわれるモンゴル、
テュルク系統の遊牧騎兵さえも必ずしも常勝でなかったことは、
モンゴル史研究者からも言われていますね。
とはいえ、やはり兵科として有用であり、不可欠であったことは、
水上交通がメインであった江南政権も、蜀の地から常に馬を入手
していたことから明らかだと思います。
>>833>>838 >>798で「獲加多支鹵大王」が雄略(倭武)である…と書いたせいなのか、
誤解があるような。「倭武」というのは、宋が把握していた倭王の姓名。
倭が姓、武が名。武は雄略の諱「わかたける」の一部「たける」の意味に
対応する漢語をあてたものでしょう。倭姓のほうは、百済(扶余)の余姓、
高句麗の高姓などのように、国名、族名に由来するものと思われます。
844 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/16(土) 21:57:43
垂仁天皇が殉葬を禁じたとて 卑弥呼の死 んだ九州まで大和朝廷が
支配していた訳では無い。
これ程単純な事も解らない太国さんに歴史を考える事は無理です。
それとも 倭女王は畿内大和の属国ですか?
今までの噛み付き方を見ると 九州倭女王卑弥呼は、大和王朝の属国が太国さんの説
と受け取って宜しいですか?
845 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 22:35:54
あんたのは畿内兼九州説の両刀使論だろうが。卑弥呼が畿内と九州
との遠隔の距離をどうやって行き来したのか?ww
それとも殉葬で突かれたので、急遽九州説に変更か〜?ww
まず『獲加多支鹵大王』が雄略ということでいいのか
そのことについていったん、スレとしての結論を出しませんか?
847 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 23:51:55
雄略天皇よ。ただ唐松山氏の言い分は捨てられない。それを暗示
しながら雄略を銘文は指示しているもよう。
つーか漢人王朝なんて言ってたコテはどこに行ったんだよw
849 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 01:00:19
獲加多支鹵 倭武で納得する理屈がさっぱりわからん。
多支鹵 たけると読むのか? 獲加武じゃ駄目だった理由は?
>>840
ほとんど読むための仮名のような使い方で漢字が使われてる?
この時代、表音仮名として漢字が発展したのかな?
混乱の原因は、漢字がどのようにつけられたかのフローがないからかも
しれない。 そもそも後世に漢字をふられたものと、剣の銘文のように
当時代として漢字がふられたもの があるんだよな
>>獲加武じゃ駄目だった理由は?
当時の倭人の発想として
ひとつの発音に漢字一文字を当てねばならない、
というのがあったのでは?
つまり「武」の一文字に「タケル」などという
三文字を織り込む習慣がなく、
「タ ケ ル」の三文字の発音に、それぞれ
三つの漢字を当てるべきだと考えていたのでは?
もし「タケル」を「武」で済ます習慣があったのなら
それこそ「ワカ」も「若」「幼」でよいということに
なってしまいます
851 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/17(日) 09:35:20
>840 の数字が信じられない方は、自分の数字で思考して頂きたい。
私の数字は、日本書紀を太陰暦で読めるよう圧縮、かつ世継ぎから見た場合これ以上
圧縮出来ない数字です。
その数字上に、193,273年の出来事を重ねてあります。
雄略(わかたけ)=獲加多支鹵(わかたける)、これを認めるためには多加披次獲居より
後に複数名の”差し込み”が必要となる。
なお 雄略は「応神の5世孫」を認めるためには、二俣王誕生を405年頃とする必要がある。
この数字は、私の編年より丁度60年の不足が有る、
応神天皇の治世は343年から41年間、巻向、唐古、鍵遺跡の衰退時期を引き継ぐ数字です。
神功〜仁徳末=247年〜399年となり、このままでは”使えない数字”になっています。
852 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 09:48:50
>自分の数字で思考
あんたの書きこみだろう。あんたが解説するんだよ。こちらが考え
ろなどと、書きこみの責任を相手に糊塗するなよ。
だいたい矛盾をつつかれれば両刀だから具合のいいほうの片説を主張
して盾にする。反対に逆の片説が好都合なら、そのほうに鞍替えして
盾とする。これがあんたのやり方であり、これでは二心殿と蔭口を
たたかれてもしようあるまい。
稲荷山鉄剣の銘文の論説はある程度評価できうる。ただ基本はやはり
雄略天皇銘さ。
853 :
倭王貴人:2009/05/17(日) 12:31:50
>>850 「表音文字としての漢字の登場」
これ事実だとすると日本史学的な重大事件なのだろう。
あまり注目あびてないようだけど。
しかしこれは今の中国が外来語を表音として漢字を適当にあてるように
漢字国が外来に対して漢字当てる発想ではないか。
また後代の書記が、古代の王や地名に対して漢字をあてる時に、意味より表音に対して当てた意味を深く考えると
それは、旧の倭人王文明と新人種的文明という隔絶があったと考える。
旧の意味を認知した上で新たな文明である漢字を導入したならば、表意としての漢字を優先するだろう。
旧の意味を認知する必要を感じない書記が音をあてたという事ではないか
表音文字が出来るまで漢字を表意として使ってただけだろ。
何でそんなまわりくどい考え方するのかね。
じゃあ、やっぱり雄略天皇を指している、ということで
いいんですね?
856 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 19:35:19
そういうことです。
857 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:43:46
たけるが「武」いう意味で 中国で倭武
多支鹵が「たける」と読めるというソースは?
たけるが武という意味だというソースは?
この2つが揃ってはじめて成立する説だろ
そこは推測で埋めざるを得ない
もし別の意味であったというのなら
「多支鹵」←何と読むのか?
「武」←何の意味なのか?
これの解釈をまず反論側が提示できないと…
古来からこの国では人の名前で「武」を「たけ(し)」と
読む習慣があるので、そことダブらせてる、ということでしょ
859 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 11:25:56
>>858 都合のよい解釈すな
この説を事実と認定してるコテハンは
全てそんな調子で、都合よく歴史解釈してるのか?
なさけない
日本武尊の例を見ても、武技に優れた人間への一般的な呼称でしょ、タケルって。
861 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:06:16
倭建尊 の出典の古事記景行天皇条に 出雲建 との戦いの記録がある。
これひとつみても、 たけるとは 武なのか建なのか
出雲たけると倭たける と同じ音があったなら、たけるとは人の名なのか?
出雲たけるも時の倭王の候補でいいのではないか?
など、 たけるが 一般呼称 の説ならなおのこと、
たけると読んだ人という理由で、倭王武認定するのは間違い
ちょっと待て。
獲加多支鹵大王だよな。
大王はどう説明するのだ?
そんじょそこらの武技に長けた男に大王はつけないよね。
863 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/19(火) 19:43:32
日本武尊の子 獲加多支鹵大王は神功時代に存在した。
864 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/19(火) 21:53:23
大王とあるから雄略天皇ですね。江田船山と稲荷山の銘文は
ともに「獲加多支鹵」と見てよいでしょうから、そうだとなると関東、
九州に勢力がまたがって来てますので畿内の雄略と観て可です。
865 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/19(火) 22:28:51
自説
刀(片刃で鍛造)の発生は、大陸より剣(両刃で鋳鉄)の輸入が途絶える4世紀中葉より
倭国において造られた。
鋳造は高句麗の地で行われていたが、高句麗の南下策で供給ストップ。
埼玉は、鉄剣
熊本は、鉄刀
どうも気になる。
867 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 01:06:46
>>864 このスレで定説披露してどうすんだ(笑
この時代の大和王朝(雄略天皇)は弱小勢力で、
・漢字を使える漢人系大王(倭王)が存在して日本全国を従えた。
・出雲の大王が日本全国を従えた。
などなど、このスレの流れで幾らでも候補が出るだろ。
868 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 01:14:32
なにここ、珍説じゃないとダメなの?
だから漢字を使える漢人系大王(倭王)の墓はどこなんだよ、このハゲ!
870 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 01:36:51
>>867 >出雲の大王が日本全国を従えた
出雲は大和に対して5世紀後半に国譲りをしたのだが。
871 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 02:34:32
>>869
だから? 発見されてないとおかしいのか?
>>868
5世紀の日本全国の王権が
8世紀の大和王朝の祖先にあったという前提は「継体帝の真実」というこのスレ
では成立しない前提と言う事がわからんの? そこを再検証してるスレなのに。
>>870
それも記紀前提だろ。478年までの倭王が出雲で、
宋帝滅後、出雲王朝も失脚して
新たな王朝となり大和王朝となったかもしれないだろ。
この継体前後の時代の珍説開陳(定説再検証)スレで
確定の根拠を「定説だから」 って
あまりに非論理的すぎるな。知性がない。循環理論になってる
そんなこといっても
このままだと倭王=漢人ということに
なっていまうんだぞ、「倭貴」のせいで…
定説派が踏ん張んないでどうすんの?
出直しなよ
873 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/20(水) 10:33:58
>>867 雄略のころは畿内遠隔に屯倉をうんと作ってるというから、関東九州
に勢力が拡大されてるよ。ただ拡大地域が完全に雄略の勢力下には
なっておらずに、その次あたりの強影響力が行き届いて来た頃合
だろうよ。だから雄略天皇だよ。倍暦計算で銘文の
辛亥年(471年)=雄略天皇即位
だし、倍暦干支が合ってるし、間違いはなかろう。
確かに同名の大王はいたようで、若雀命は武烈と崇峻天皇とも同名
である。がしかし、畿内と九州と関東と3人も同名がいたなどとは
確率的にも可能性がうすいよ。
ある意味第2期日本史の原点だね。
ヤマト朝廷の混乱
継体→欽明
イワイの反乱
蘇我稲目→馬子
物部没落・仏教公認
新王朝の確立推古→聖徳
875 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 17:27:19
>>871 出雲だなんだっつーのも記紀前提の話じゃないの?
だとしたら、あんたの論も循環してら。
876 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 18:30:19
>>871 >それも記紀前提だろ
違う。出雲は5世紀後半にやっと前方後円墳ができる。
これをどう考えるかは自由だが、
大和に対して国譲りしたというのが一番蓋然性があるだろうが。
あまりに非論理的で知性がないのはおまえだハゲ。
877 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 18:34:28
>>871 >だから? 発見されてないとおかしいのか?
墓もなく存在が証明されてないのに何が漢人王朝だよ。
ふざけてるのか?
おまえなんて早く死んでしまえ。
>>877 もう少し記述に忠実になれよ
こんなチャチな発掘状況で考古学なんて
機能するわけないだろ
こんな少ないデータで推論したものを
事実であるかのように喧伝するなんて
狂気の沙汰だね
曲学阿世とは君らのことだよ
879 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 20:43:44
>>878 記述に忠実になって明史日本伝の「平秀吉」でも探してみろw
880 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 21:44:27
>>876 それ記紀前提だろ。継体帝の真実というスレタイトルの中限定では
記紀にあるから真実。というロジックはおかしい。
通常はもちろん記紀が正しい前提で定説化してもよい。
出雲は、宋帝への表にある東西北への120カ国支配の立地として
唯一整合性がある。この場合
大和王朝とは、宋帝や南朝崩壊後で出雲大王政権が弱体したのちに
政権を国譲りとして獲得したとしても、考古学的に不整合はおきない。
881 :
倭王貴人:2009/05/20(水) 22:37:24
一服
8世紀の日本霊異記を読むと、
5世紀から日本の庶民の歴史が連綿と継続している事が伺える。
古語拾逸を読むと平安期には既に古えがあり、
王朝中枢とて家の古い記録すらままならない伝説となるのだと伺える。
日本の歴史は悠久だなあ
882 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:53:58
883 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:31:27
だいたい呉の太白の末裔というのも大雑把な話だろ。
四角定規に受け取る類の話ではないよ。
884 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/20(水) 23:55:42
出雲大王政権の国譲りは、2世紀末崇神6年秋。
885 :
倭王貴人:2009/05/21(木) 02:03:28
はっきりしてる事。
大和政権以外の領民の歴史が日本には、確実に存在していた。
記紀では天皇家の戦いの歴史があり、
中国では倭の大乱から宋の倭武表の120国征服申告があり、
田村麻呂の蝦夷征服がある
しかし
存在したはずの、大和政権以外の王記はない。
考古学史跡の半数は大和以外の史跡でなければならないのに、全ては記紀の大和政権の古跡とされる
既に、何かが間違ってるわけだ。
886 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 08:20:26
>考古学史跡の半数は大和以外の史跡でなければならないのに、
>全ては記紀の大和政権の古跡とされる
前方後円墳は築造初期から関東〜九州まで拡がってるのだから当然じゃん。
何言ってるんだか…
>何かが間違ってるわけだ。
君が間違ってるのだw
日本の学界はいまだに
万世一系の観念に支配されているんだよ。
だから天皇氏以外の権力を王朝とは認めないんだ。
そんな態度ならもうこのスレは必要ないじゃないか。
天武以前の王朝はみんな別の家々だよ。
自分の兄貴の娘を四人も娶るはずないでしょうが。
今の学会にはもう少し井沢元彦氏的な柔軟な発想が必要なんだ。
888 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 09:24:38
>>887 >万世一系の観念に支配されているんだよ。
明らかな断絶が認められない以上仕方がない。
889 :
倭王貴人:2009/05/21(木) 11:40:06
>>889 ひとつの王家が万世一系なのは生物学的な真理。
だからといって
一定の領域支配を万世普遍というのは神話。
社会学としては神話と現実から、王家の領域支配におけるプロセスを
見出す事に意味がある。
王家成立時期に国家統一の争いがあったと記録されているのだから、
考古学は、古跡が一王家からのものと考えるのは間違い。
古墳期の終了期に日本国名が外国文献に登場というのは、
古墳期の王朝と日本国の王朝が明確に違う可能性を当然にはらんでいる。
古墳期の王朝時期は魏〜宋までの大漢の影響下の国が120カ国を
支配していた。それが漢人王権だというのは私の意見。
天武朝は倭の5王を祖先として言及していない。したがって
倭の5王の子孫王家が大漢滅亡以降力を無くし、7世紀には
別系統の支配氏族が日本を作ったとみるのが記録的妥当
890 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 19:05:38
>>889 アホくさ。
能書き言う前に、
7世紀に別系統の支配氏族が日本を作ったという証拠出せよ。
@神武朝(非実在)
A崇神朝(奈良土着)
B応神仁徳朝(東征)
C継体(臨時)
D欽明朝(蘇我系)
E天智天武朝
892 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/21(木) 23:03:30
>>888 明らかな断絶が認められない以上仕方がない。
273年 日食
274年 神功摂政元年
301年 神功 神功47年新羅朝貢 皇暦は19年加増されている
312年 神功39年 若建王命/小碓子没
313年 仁徳元年
324年 応神元年
326年 神功53年 七支刀
350年 仁徳40年=応神9年 雌鳥皇女
364年 仁徳53年 新羅、倭兵が大挙して侵入
万世一系では有りません。
893 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/21(木) 23:07:20
>>892 この野郎!NNNNNNN 消えて欲しい。
@神武朝(非実在)
A崇神朝(3世紀後半〜4世紀後半) 約100年
B応神仁徳朝(4世紀末〜5世紀末) 約100年
C継体(6世紀初頭) 約25年
D欽明朝(6世紀前半〜7世紀前半) 約100年
E天智天武朝(7世紀後半〜現在) 約1,350年
895 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:22:25
896 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/21(木) 23:33:00
書紀を 世継ぎ優先で圧縮して読むか?
対外記事等を合わせて読むか?
世継ぎ優先で読んでも「允恭」の治世の長さは説明できない。
897 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/21(木) 23:53:48
>>895 どこが断絶なんだ?
神功、応神、仁徳は各複数にしないと 世継ぎが不可能。
仁徳40年に応神の娘を娶ろうとする仁徳は神功の落とし子応神の子供
では、年齢が説明できない。
242年生まれの武内宿禰が324年迄生きていたら、83才これ以上長生きもさせられない。
898 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/22(金) 00:17:01
>A崇神朝(3世紀後半〜4世紀後半) 約100年
崇神6年 百姓流離 新羅198年倭人が飢の為押し寄せる。
崇神11年 異俗多歸 考古学で巻向より急に各地の土器、特に東海。
書紀はこの数字を支持している。
崇神朝 3世紀後半〜を支持するものは何ですか?
899 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:22:37
>>897 年齢が説明できないのは二倍暦だなんだの話であって断絶を意味するものではない。
記紀当時の有力豪族をそれぞれの「歴代」大王に割り当てたんだから、
倍暦もへったくれもない。
901 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 01:24:04
「断絶=革命」起こしたなら墓の種類も変えればいいじゃん。
なんで前政権を踏襲してるんだろ。
B応神仁徳朝
<播磨朝>?
C継体
D欽明朝
@神武朝(非実在)
A崇神朝(3世紀後半〜4世紀後半) 約100年
B応神仁徳朝(4世紀末〜5世紀末) 約100年
<播磨朝>?(5世紀末〜6世紀初頭) 約25年
C継体(6世紀初頭) 約25年
D欽明朝(6世紀前半〜7世紀前半) 約100年
E天智天武朝(7世紀後半〜現在) 約1,350年
このスレは万世一系のインチキ史観を
叩き壊すすばらしいスレだ
みんなに推奨しよう
もっと精度を上げるべきだな。
@纏向朝(265-290) 約25年
A大和朝(290-315) 約25年
B磐余朝(315-340) 約25年
C柳本朝(340-365) 約25年
D佐紀朝(365-390) 約25年
E古市朝(390-420) 約64年
(450-484)
F百舌鳥朝(420-450) 約30年
G播磨朝(485-506) 約21年
H継体朝(507-531) 約24年
I欽明朝(前方後円墳・531-585) 約114年
(方墳・585-645)
J天智天武朝(645- ) 現在まで1,364年
907 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 07:32:55
単に古墳群の場所を書き連ねてるだけw
908 :
倭王貴人:2009/05/22(金) 11:52:09
このスレでの悔やみは
龜甲兎 のような正統な路線で真摯に
倭王漢人路線の私に反駁してくれる方への
レスをじっくり腰を据えてレスできなかったことだな。
きちんとレスしてないので龜甲兎さんは最近書き込んでいないし・・・
申し訳ない。
>>903 E天智天武朝(7世紀後半〜現在) 約1,350年
天武が上手く一本にまとめあげた。「古事記」「日本書記」を使って!
東征する前のB応神仁徳朝が如何なるものか?
また、八百万神を従えながら国譲りした出雲王朝が如何なるものか?
C継体は代打かな?
>>907 たしかに、のちの律令国家が王権の正統性の拠り所とするために、
こんなバラバラを結びつけて万世一系を作り上げたって、
逆に、本当かいな? と思えてくるな。
それほどまでに「歴代の王朝」に権威があったのかよ、って話。
権威があったのなら、近畿の優位性が再確認されるわけで、複数王朝の同時並立論なんてのはある意味萎んできてしまう。
各地の王権が互角に力を持っていたなら、なんで継体以前の歴代天皇に近江や越前の王が当てられなかったのかってことになる。
「蘇我の時代」という同時代のうちに、前方後円墳から大型方墳・円墳への移行が為されていることからも、
むしろそれ以前の前方後円墳体制が三百年間連続性をもって築かれてきたってのは驚異的だし、重要なことだろう。
今城塚古墳なんかも、前代以来の大王墓の性格を、意外と引き継いでいたっていうし。
少なくとも継体は、頼朝・信長・家康的なタイプのリーダーではないね。
磐井の反乱はB応神仁徳朝が途絶えた為に、九州に残った応神仁徳朝の末裔が新王朝を建てようとしたと見る事も。
C継体は地理的にも出雲王朝の系譜から抜擢されたと見る事も。
910の意見に賛成だな。
当時の権威とはあくまで宗教的なものであって
要するにシャーマニズムを駆使できる家に生まれた者が
権威を持つのであって、天皇氏の家系に倭人が執着したのは
まさにこれが理由だろう。
大きな古墳を作った大王たちが
政権をたらいまわしにしていた、というのは
直感的に疑問を感じるよな。
安倍一族→福田一族→麻生一族→鳩山一族……などと政権を受け継いできたところに、
天武が出て来て、「俺一族の正統性と権威づけのために、先の各族も全部俺の先祖ね」
みたいな話だもんなw
914 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 15:26:48
>大きな古墳を作った大王たちが政権をたらいまわしにしていた
仮にその場合でも婚姻を通して、有力者どうしが親戚になっていたと思う。
戦国大名でもそうだし。
915 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:19:14
神武が初代であろうが崇神が初代であろうが、
あっちこっちに子種(男系遺伝子)残してるだろうに。
ある意味万世一系って正しいんだよ。
断絶の証拠はないじゃねぇかw
916 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:29:11
>>910 >こんなバラバラを結びつけて万世一系を作り上げたって、
>逆に、本当かいな? と思えてくるな。
そうかな?
充分、連面性があると思えるけど?
伊勢神宮が式年遷宮で移動するが、
移動したって連面性があるのと同じ。
皇祖皇宗皇統連綿 萬邦無比
918 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:34:02
>>910 > 少なくとも継体は、頼朝・信長・家康的なタイプのリーダーではないね。
中曽根みたいなキャラクターで、武人というより政治家としての能力があったのではないか。
権力の奪い合いが頻繁に発生しているのに、いちいち一系なんか気にしてられない。強い者が勝つ!
天武はそれを身を持って知っていたからこそ、律令国家を整備する為に権力争いを避ける為一系にまとめたんだな。
920 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:35:13
>>919 > 権力の奪い合いが頻繁に発生しているのに、いちいち一系なんか気にしてられない。
いや、古代人は血筋を気にしたはずだ。
血筋を気にしたら、本題の代打C継体は現れなかった!
あとから無理やりくっつけたから〈体を継ぐ〉と名付けざるを得なかった。
922 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 09:20:29
血は薄いながらもつながっていたのだろうな。
平将門と当時の天皇も血縁だったろう。
923 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 10:32:54
> 権力の奪い合いが頻繁に発生しているのに、いちいち一系なんか気にしてられない。
争う者同士の理論
>いや、古代人は血筋を気にしたはずだ。
後継者を戴く者の理論
どちらも正しいから「歪んだ書紀」になる。
924 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 11:09:28
>>906 是までの数字は、倭国の歴史を半島より数十年遅れて進行していると見て編年されている
崇神 188〜215年
垂仁 216〜238年
景行 239〜265年
成務 266〜269年
仲哀 270〜273年
神功摂政274〜323年
応神 324〜366年
仁徳 312〜399年
この数字は太陰暦で読める数字です。
太陰暦とは、19年7閏の積み重ね、書紀もこの19年の積み重ねで伸長されている。
そうなれば 各天皇紀から”空白19*n回”を差し引けば 出来上がりは「太陰暦」
ここに諸外国(百済本記の近肖古王は、書紀の肖古王と記事内容が違うので使わない)
や考古学の成果を比定する、
この数字の比定が出来ない
>>906 数字に誤りがあります。
925 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 11:22:14
>数字の否定が出来ない
pp 編年の説明が出来ない〜ww
926 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 11:23:40
訂正
×否定 ○比定
927 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 13:27:17
pp 編年の説明が出来ない〜ww
太国倍暦の事か?
928 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 13:31:07
それがしは毎回解説してるよ。君がしてないんだよ。ww
でないとあんたの脳内の思いつきで妄想のレッテルを貼る以外ない。
929 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 16:43:28
数字の比定
193年 崇神6年=新羅
2世紀末 崇神11年=巻向の土器
景初2年 垂仁末年=都市牛利=田道間守
273年 神功前紀=日食
301年 神功43年=新羅
364年 仁徳53年=新羅
こういう芸当が太国倍暦では、出来ない。
しかもだ 太陰暦で出来ています、と来る
太国倍暦では太陽暦か太陰暦かの暦法さえ無視した日数の「暦」。
930 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 17:24:56
>それがしは毎回解説してるよ。
毎回解説しなくてはならないほど出来が悪いと言うこと。
太陰暦を単純に見れば、19年7閏の積み重ね
勿論日本書紀も太陰暦で出来ている。
であるならば、19年(1章という)単位で 日本書紀から差し引いても
日本書紀は太陰暦で読める。
日本書紀の空白年を1章単位で何回差し引いても、日本書紀は太陰暦のまま。
これが私の解読した日本書紀の暦法”増し暦”です。
こんな解説を毎回付けなくては、数字の真偽を語れないほど程度は低くない
しかも誰でも追試が出来る、例外的に追試の出来ない部分は、天皇2名で一つの暦
誰か、太国倍暦と増し暦の追試をしていただけませんか?
私の数字は、308: 日本書紀の年代を考える (540)に掲載。
931 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 17:57:02
>>929 オマエまだ日食だと言ってるのか? いま一度小学校からやり直して
勉強したほうがいいな。もしやお脳に欠陥があるやも知れんぞ?
一度精神病院で診療を受けたらどうだ? ほかの奴なら、日食が
数日間も続くわけがないことを察知できるから、そんな大妄想など
起こすわけがない。新羅の件だって九州の王権の関係だろうが。
オマエは九州説に鞍替えしたからそのくらい分かるはずだろうがpp
それに太陰暦といって威張ったところで、それだけでは具体的編年の
解説にはほど遠い。それに増しはなおさら合理性、具体性がないと、
オマエの合わない分 Δx の吐露のゴマ化しを晦ました熟語だという
ことだ。ww
932 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 17:57:50
次スレはどうする?
タイトルの変更とか。
なんだか、文章もまともに書けず、自己満足的な言説を繰り返すコテしか
書き込んでいないし、ほとんど継体天皇についての議論がないようだが。
933 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 19:59:32
普通は
>>950を踏んだ人が
次スレを立てるんですよね
確かに古代全般を扱うスレになってますね
でも充実しているし
仮説を扱うから面白いんですよ
934 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:54:27
仮説というより電波発信も多いが。
935 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:26:42
仮説で全然構わないんだが、ろくに出典も示さないわ、
先行研究も無視するわ、となると議論のとっかかりすらない。
受け手に議論の材料も与えないような自己完結した言説に終始するのは
ただ駄文を垂れ流すのと同じだ。
936 :
ビリー・ザ・マッド:2009/05/24(日) 22:33:26
なんか、他の古代史スレが荒れてボロボロだから
このスレが議論討論、主張したい人たちの避難所になってるのかな。
スレも残り少ないけど、風呂敷を広げすぎずに
議論の内容は6世紀前後あたりにに絞ろうよ。
継体が王氏出身として
どのような経緯で大和の長におさまったの?その「説明」には興味ある。
が、倭王貴人さんもそのあたりは、なぜか、ロクに説明もしとらん。
まず「結論」ありきw
このままだと、たしかに
>>935さんの言うとおりだな。
この調子だと、次スレはいらないんじゃね?
891と903かな!
938 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:30:47
継体が王氏出身って…
頭おかしいんじゃねぇのw
>>891 @神武朝(非実在)
A崇神朝(奈良土着)
B応神仁徳朝(東征)
・播磨朝(養子)
C継体(臨時)
D欽明朝(蘇我傀儡)
E天智天武朝
継体はヤマト豪族連合にハメられてノコノコ機内にやって来たが、ヤマトに入れられず磐井退治に使われた!
約束が違うと自分の息子達に後を嗣がせようとしたが3人ともお役目ゴメンとバッサリあの世行き!
それに功のあった蘇我稲目が欽明を建てて物部他を潰しにかかる。聖徳太子も馬子と組んで以前の応神仁徳朝の在り方を根こそぎ変えて行く!そこには神道の精神は無い。
ある意味大化改新は復古クーデターの性格を持っておこるが、明治維新同様、先進的な律令文化を取り入れざるをえなくなる(戯言)
やはり記紀の編纂事情から遡って考察しないと、どうしても電波になりがちですね
942 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 08:07:55
欽明天皇って地味な存在だよね。
ゴタゴタの後だから福田前首相みたいな無難な人をトップにかついだんだろうか?
欽明朝の身内争いと近親相関は際立っている。蘇我との絡みがあるが、一族の血を一番意識した朝廷だったみたいだな。あの意識では明らかに継体との断絶があると思わざるを得ない!
欽明朝の歴代の天皇も怪しい!
遣随使の国書の名前は、明らかに男王の名前、推古のはずが!欽明朝も天武によって書き換えられている可能性大。
天皇家は名目でやはり豪族連合体か?
蘇我が物部を潰したと言う事は、天皇家が物部を潰した事になる。
945 :
龜甲兎:2009/05/27(水) 20:11:19
>>936 次スレあったほうがいいけどなあ。
上で言われているように、脱線が多すぎて、肝心の継体についての
議論が全然なされていませんから。
>>940 継体にあまり主体性を見出さない考え方ですね。山尾幸久氏なども外部
から入婿の形で入ってヤマトの王権に吸収されたと考えているようです。
しかしながら、当時の王権は諮問機関や官僚機構が未発達な段階にあり、
王個人に対して、高い軍事的資質や政策遂行能力および紛争調停能力が
求められていたと思われます。したがって、当の本人が王位への意欲を欠き、
主体性を持たぬようでは、継承者候補とさえ見なされなかったことでしょう。
それに、大和に継体の即位を認めない抵抗勢力が存在したと想定される以上、
そこには彼の競合者がいたと考えるのが自然であり、継体自身にその競争を
積極的に勝ち抜く意志がなければ、王位を得ることは難しかったはずです。
946 :
龜甲兎:2009/05/27(水) 20:38:18
継体が大伴金村による即位の要請を渋り、なお疑ったという話が『継体紀』
にありますが、彼が王位継承について意欲を持っており、かつ上記のような
対立構造があったと考えれば、旧政権の中枢にいた金村を疑うのは無理
からぬことです。それゆえ、継体は麾下に参じていたであろう河内馬飼首荒籠
に情勢を探らせ、おそらく荒籠の勢力圏であった樟葉の地に第一の拠点を
築いたのでしょう。
継体と大和の抵抗勢力(というかもう一人の王位請求者か)との対立は
大規模な軍事衝突をともなうものではなかったようですが、継体は筒城に
宮を置き、木津川という大和への物資輸送路を押さえ、さらには、紀ノ川
流域の豪族(紀氏か)をも味方に引き入れていた可能性があり、じわじわと
包囲の輪を狭めていたように思われます。これを兵糧攻めの構えとみる
論者もいるようです。
大和の勢力には河内南部、和泉、伊賀、伊勢などが直接の領域として
残されていたと思われますが、そこからの物資供給のみでは大和の人々
は養えず、早々に決着が付いたのではないでしょうか。『継体紀』には、
即位から二十年目にして大和入りが行われたとありますが、私は一本に
ある七年説を採りたいところです。
というのは、継体7年9月条に勾大兄(安閑)と春日皇女との結婚記事があり、
これが継体と大和の抵抗勢力との手打ちを示すと考えられるからです。
これと合わせて、手白香との間に生まれた欽明を嫡子とすることも
和睦の条件となったかもしれません。そもそも即位の条件として、
手白香との間に息子を生むことを求められていたわけですから。
947 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 02:19:00
蘇我入鹿全盛期に、山田息長公の流れをくむ勢力と紀氏がひそかに結託して
反蘇我行動をとるのではないかとの噂が流れたことがあったようですが、
紀氏ってのも生き残りのための処世が意外とうまい氏族なんでしょうね。
ちなみに紀氏はいまだに生き残っていて、当主が幼稚園の経営をしているとか。
古代史の王権を一概に言えない。強力な時もあれば極めて不安定な時期もあるし。
応神仁徳朝で見れば雄略(ワカタケル)の強力な王権はうかがわれるが、反面豪族連合の反感を買ったのかも!顕宗・仁賢と同じようなお飾りのつもりで継体を迎えたが、かってが違った。だから困った。
継体が樟葉や淀川に拠点を置いたのは、ヤマト朝廷の支配力が緩ん為、一番の難題となった磐井の独立を抑える為に軍事行路としての淀川から瀬戸内海行路の必要性がでてきた為。
ヤマト豪族連合が継体に求めたのは、それだけ。
欽明は継体の息子では無いだろ!
手白香皇女が産んだ子供でも無いだろ!
手白髪皇女は播磨国風土記では仁賢の母とされていて
その役割としては飯豊の代わりとして登場する
記紀では仁賢と欽明の一部妃と子の名が重複している
仁賢と欽明とは、たとえば天日槍とツヌガアラヒトのような同一人物の異伝なのだろうか?
952 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:12:57
九州で磐井に反落の動きがあるのに、ヤマト朝廷の後ろで継体に反乱されたらたまらない!播磨は取り込んだが。
最善策は継体を取り込んで磐井と闘わせる。俺がヤマト朝廷のスタッフならそう提案する!
953 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:21:44
すべてが済んだ後で継体とその息子たちを始末して、正統な後継者の欽明につがせると。
954 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:13:49
くだらねw
自称仮説とか俺はこう思うとかのノリで歴史を変えるなw
誇大妄想症とか、なにがしかの疾患あるんじゃね?w
架空戦記的妄想はチラシの裏にでも書いてろやw
上杉謙信は実は女だったとかいうトンデモ説を信じてたり、
徳川幕府三百年の歴史を
いや実はあれは一つの幕府じゃなくて何個にわかれた別の幕府の歴史の積み重ね
だったんだよ、とかいってるのと同じ水準だぞw
あとUFO信じてたりとかなw
955 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:38:48
大伴金村は小沢一郎みたいなキャラクターだったように思う。
このスレのひとたちは基本的に記紀編者と同じく「あるべき歴史」の表現者だから
そこを勘違いしては困る
何が嬉しくて、田舎豪族の継体に王位を継がせにゃならんのよ!
それ程ヤマト朝廷の豪族達はお人好しでは無い。
臨時の社長みたいなもんで用が済んだらお払い箱。
958 :
龜甲兎:2009/05/30(土) 16:59:16
>>947 紀氏云々といったのは、紀ノ川中流域の隅田八幡神社に蔵されていた
有銘人物画像鏡からの類推ですけどね。
ただ、紀ノ川流域は大和の葛城地域から和歌浦、紀伊水道へ出るため
の要所であり、ここを継体側が確保した場合、大和側に残る物資輸送路
および外部連絡路は伊賀伊勢の山越えルート程度となり、死命を制した
も同然となります。
>>949 磐井を盟主とする北部九州勢力との関係がどの時点で悪化して、
「乱」に至ってしまったのかを考える必要があります。
継体は大和入り以前(もしくは直前)から、百済の「任那四県」や己汶
の領有化承認など朝鮮半島への関与を積極的におこなっているので、
その時点までは半島へのルート上にある北部九州の勢力とそこそこ
良好な関係にあったのではないかと。
そして、この「任那四県」領有承認の件こそが北部九州勢力との
関係悪化の直接の原因と思われます。
959 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 20:04:48
「任那四県」割譲の経緯はおそらく永遠の謎になると思う。
大伴金村を追い落とすための政争のにおいも。
【珍説開陳】
【定説打破】
961 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 22:49:32
ヲホド王はホムダワケの血統は受け継いでいないが、オオ族とオキナガ族の血統は受け継いでいたのでは?
ゆえにオオ族と関係の深い大伴が擁立した。
962 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 22:57:43
継体擁立前の状況についてから考えてみると、
オオ族のオオハツセワカタケルが死んでから大和は乱れた。
葛城系の王が立つが実権は大和川水系を握った平群が力を持つ。
この状況下において大伴金村はオオ族から傀儡の王を立てるべくヲホド王を招いた。
963 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:06:28
葛城系の王は雄朝妻ワカゴの宿禰がいた。
しかし、その後、葛城系の後継者木梨軽は滅ぼされ、八釣白彦、境黒彦も倒したイソ系のアナホが勢力をつける。
アナホは葛城も北河内のオオ日下をも倒し畿内に君臨したが、暗殺される。
その後にオオ族のハツセワカタケルの時代になるわけだ。
964 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:11:31
アナホの一族のイソ族ではイザホワケがいたが、南河内の住之江ナカツ彦に反乱され大和に追い込まれた。
当然、住之江ナカツ彦を鎮圧したとされるタジヒ族ミズハワケが河内の王として君臨した。
965 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:14:56
河内の王と言えばホムダワケがいるが、同時代には大和にはオオササギが君臨し、イソ族ではイザサワケがいた。
また、宇治にも王が君臨していた状況下にあった。
966 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:19:47
>>962 > この状況下において大伴金村はオオ族から傀儡の王を立てるべくヲホド王を招いた。
継体は明敏な男だから傀儡には向いていない。
傀儡は軽くてパーでなくてはつとまらない。
967 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:20:07
さて、物部が出て来ていないが、物部は一つの部族ではなく、
イソ族系の物部、日下系、イカガ系の物部などがいた。
イソ系、日下系もかつては王族であったが、ワカタケルによりオオ族に屈服してしまった。
968 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:25:41
ヲホド王を擁立する背景はこのようなものだった。
ヲホドはオオ族の後継者として、オオササギにより制服されていた宇治や交野、日下等を地盤として大和に入ろうとした。
ヲホドの擁立に危機を抱いた葛城は一族の力を合わせてヲホドの大和入りをはばんだ。
969 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:51:41
970 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 03:42:15
古代史は面白い!
出雲文書(出雲大社の歴史を書いたご神体)
によると出雲の王と倭の女王とよが結婚したとかで、
とよの息子?が出雲と倭の王になっている。
だから出雲を継いだ方のとよの子の家系らしい。
現在島根大学が解読中。
972 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 10:37:38
葛城族はヲホドの大和入りを妨害したが、ヲホドはついに大和入りを果たした。
さらには木梨の地つまり耳成、曲の地、八釣の地つまり香久山辺りまで勢力を伸長させた。
これはひとえに大伴の力によるところが大きい。
973 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 10:41:06
さて、欽明の出自であるが、本当にヲホドの血をひいているのだろうか?
欽明の母の出自に注目せねばなるまい。
974 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 10:59:07
欽明がヲホドの系統ならば何故に石姫、つまり宣化の娘を迎えたのか?
975 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:15:03
継体=小沢にかつがれた海部首相
欽明朝に突然現れる蘇我!
欽明と蘇我稲目はどんな関係にあったのか?
少なくとも継体と蘇我は関係無さそうだし。
>>971 幕末明治初期に作られた偽書かな
精巧に作り直す技量はないだろう
979 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:30:16
出雲と大和、吉備と大和が婚姻関係にあった可能性は高そうだ。
よくわからんのが出雲と吉備の関係。
980 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:24:49
次スレ タイトル
珍説開陳 定説打破 いれとけよ盛り上がるから
981 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:39:41
蘇我は百済の木羅との関係があると言われているが、全く無関係ではないだろう。
しかし、蘇我の本拠地は曲の南方から円までの曽我川流域。
円は葛城の円だから、蘇我本家はその系統を受け継いだものだろう。
蘇我石川はタジヒの隣接地になるから何らかの関係があるのだろう。
そもそも葛城は一つの血統で支配されたのではなく、円、朝妻、長柄、葦田などの連合体。
982 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:44:26
欽明はヲホドの血統ではなく、葛城系の王ではなかったのか?
だから欽明によりオオ族系から宣化の姫と婚姻し、また、蘇我から姫を迎えた。
983 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:53:23
敏達の名はヌナクラでまさにヲホドの継承者たるにふさわしい。
しかし、用明は蘇我の堅塩姫の系統。
また、小姉君の娘のハシヒトやアナホ部にはアナホの名がついている。
これは蘇我の系統ではなくイソ系石上物部の出自だろう。
984 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:58:07
用明の子のウマヤドは蘇我の系統とイソ系アナホ部の系統の継承者となった。
ウマヤドは葛城葦田の地と石上アナホの地を結び付け生産力をあげようとした。
これは蘇我の利害とも合致した。
985 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:06:11
なぜならば、葛城が握っていた竹ノ内や逢坂ルートや、朝妻、高尾張から紀氏のルートでは大量物流は不可能であった。
オオ族、イソ族が大和から台頭したのは、佐保ルートから木津川、淀川、河内ルートを確保していたからだ。
だから、日下や交野、石上は物部として同族下にした。
さらに、河内湖が干上がると物部の内、弓削物部が台頭し、エイ物部も石川の対岸、つまりタジヒの地に進出した。
986 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:10:09
蘇我は物流ルートを物部とオオ系統に押さえられてまさにジリ貧の状態であった。
これは葛城系豪族にとって死活問題であった。
敏達の時代は葛城系蘇我にとっては最悪だった。
987 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:27:22
欽明が手白香皇女の息子だとしたら、天皇家は女系で繋がる事になる!
出発点ですでに女系だぞ。
当時は貞操感がほとんどないから、男系はまったくあてにならないが。
男系で続いているとは思わない方が。
989 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:33:13
貞操の問題じゃなくて、男系が制度として成立していなかった
ということだろうが
蘇我は継体と2人の息子の野望(新王朝開設)を挫いた功績で、新しく蘇我を名乗った可能性も!
直ぐに三蔵を手中に納め、その後の権力は古代史では半端じゃない。遂に王家そのものを狙い出す。
>>983 欽明紀と敏達紀で立太子した年が異なること
欽明が死にそうな時近くにいなかったこと
最初の正妃が息長の娘なこと
を考えると敏達は初め近江にいて、兄の箭田皇子が死んだのは欽明が崩御する直前だったのではないかな?
992 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:48:44
稲荷山鉄剣の系譜は男系譜じゃないの?
地方豪族の八代前の系譜がわかるんだから
継体が応神の五世孫なのはたしかなんじゃない?
>>992 ないな
闘鶏国造と忍坂大中姫の話をよく読めば忍坂大中姫が皇族でもなんでもないことは一目瞭然
994 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:55:12
継体を迎えた大伴金村や、継体と共に磐井の反乱を抑えた物部があっさり没落していく!
継体絡みが没落して行くのに対照的なのが、蘇我!
NHKの特集が面白い!
さよか
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うめー
梅
塩
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