1 :
田安宗武(本人):
2 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:02:54
2
3 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:12:24
イ三三三三 \
/イニニニニ\ヽ\ゝ_
/イニニニニニ\\V/彡\、
|三ニ>───、\V//彡\ヽヽ
|三ニ|  ̄ \\ヽ|
ハ三シ∠ミヽ, \ミ l
{!レ/ ミゝ.,_ ∠三ゝ |ミ l
| レ 彡ヽ`'ゝ f=・xミ; |ミ/
'┤ ノ i `'' /}
l ーイ⌒(、 ':i / / サァン!
| 《三ヲ`7≦ 〃
ト、 斤  ̄`''キ≧ /´
<| 丶 ヽニ--ソ'" /
ノ| \ \  ̄ /\
/ l / ヽ、ヽミ _彡'´.〉 /\
__/ .ト、ヽ i | / |. \_
4 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:52:30
乙
だがちょっと早いぞw
7 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 18:26:50
御三家筆頭は尾州、次席に紀州
御三卿筆頭は一橋、次席に田安
御家門筆頭は会津、次席に越前
准親藩筆頭は因州、次席に加洲
御譜代筆頭は彦根、次席に姫路酒井
8 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:08:50
>>7 なんで準親藩筆頭が宗家ではない因幡池田家なんですか?
あと譜代筆頭から井伊>姫路酒井>榊原、本多…という順位付けはいつから存在したのですか?
9 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:13:42
家康の孫だからだろ
鳥取藩
>>7 御三家の筆頭を尾張としているが、それは出自の早い順だろう?
だったら御三卿の筆頭も出自の早い田安では?
もし将軍を出したから一橋を筆頭に据えたというのなら
御三家の筆頭も紀伊を筆頭とすべきではないか?
まず、筆頭の基準を何に置いたのか、それを明らかにせよ
11 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:01:03
●準親藩
・奥平松平家
・久松松平家
松山・桑名・今治・吉井・松山新田
・外様(称徳川・葵紋等)
前田・池田・島津・蜂須賀・織田・京極
>8
>7の順位付けの妥当性はとりあえずおくとして…
鳥取の池田家は、外様の池田輝政の分家というより、>9にもあるように家康の
外孫を大名として取り立てたという色が強いからでしょう。岡山の池田は先妻
の子の系統ですから、准親藩云々という話にはなりませんね。
13 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:33:45
>10
公式には筆頭という格付けは無
しかし
長幼の順、石高、居城から見て尾張が自他共に筆頭と(紀州は認めなかったが
)見なされていました
紀伊は尾紀同格と主張しています
(まれに自分が筆頭だとも言った)
英国のノーフォーク公みたいなものです
14 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:37:44
因州池田は岡山との関係では分家だが、幕府との関係では准親藩(大廊下下)、外様(大広間)という逆転現象が発生をば
15 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:38:45
コラ前スレ使え!
>13
居城は微妙なところですけどね。
新しく建ててもらった大きな城は確かに格が高いだろうけど、「権現様の御城」でかつ
当時三兄弟が家康と一緒に暮らしていた城と比べてどうかというのは、難しいでしょう。
もっとも、紀伊家の立場では公言できないですが。
17 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:49:03
18 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:32:47
>>14 因州池田が大廊下になったのは斉としからでしょ
19 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:06:35
前スレでいろいろとわかったけど、綱重綱吉の松
平説を唱える「最近の研究」とやらが何(あるい
は誰)を指すのか、まだ不明なんだよな
この二代目でどこまで迫れるか期待
お節介ながら整理しておくと、
「御両典の初任官時は松平姓」(「徳川実紀」で確認済み)
「徳川姓になった時期を明確に示す資料確認できず」(このスレでの話)
「御両典はずっと松平姓だったという説がある?」(未確認)
というわけで、
「徳川姓になった時期を示す資料を知ってる人は教えてほしい」
「ずっと松平姓だったという説を唱えている学者の名前を教えてほしい」
といった感じで良いかな?
池田氏は輝政が利隆や忠継よりも長生きしていれば、忠継が全部を継いだりしたのかなぁ。
それにしても、大阪の陣前後に輝政・利隆・忠継が続いて死ぬって、他の家なら
家が丸ごと断絶していてもおかしくないような事態だ。
すみません。基本的なことを教えてください。
前スレ788さんが
綱重の項に
「承応2年8月12日、従三位右中将に叙任され、御元服。御一字(引用者注:
綱)ならびに松平の御称号を賜われ、松平左馬頭綱豊(重)と称せられる」
と調べて下さったのですが,元服前の名乗りに姓はなかったのでしょうか?
23 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:37:05
>>20 有難うござる。まさにその通り
>>22 私が引っ張ってきたのは幕府祚胤伝という系譜なので、基本的にその当時周知
の事実は記載されていないのです
だから元服前は親元、つまり徳川だと考えられます
綱重を綱豊としたのも書き損じであると(だから括弧がきで後世訂正されてい
ます)
で、今一度幕府祚胤伝より綱重綱吉綱豊の姓を見ると
綱重 元服時に松平と称する。その後「称徳川」とした記載は無いが、綱豊の
項に、綱重の世子になった際に「徳川綱豊」となったので、その時は徳川綱重
であったと確認される
ただし、将軍になった人だから、さかのぼって「徳川」としたのかもしれない
と松平説に突っ込まれるかも知れません
綱吉 松平を称したという記載は無し
これも将軍となった人だから、かもしれません
24 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:44:41
播磨52万石、備前28万石、淡路6万石、鳥取6万石の計92万石から分与、収公、無嗣、失心を繰り返し、備前藩32万石、因州藩34万石に激減しか
25 :
22:2008/06/24(火) 21:44:59
>>23 早速のレス,ありがとうございます。
武家の元服前の名乗りは,親元の姓+幼名ということになるのですね。
とすれば,称松平説が正しいと仮定したとき
なぜ一旦は松平姓としたのに徳川姓に戻したのかなあ。(あるいは戻すことが
可能だったのかなあ)
御両典に関しては、それぞれ分家する際には
松平姓であったことは確定として
徳川姓に"復姓"する画期がどうも確定できない。
何をきっかけとして徳川姓に戻すことになったのか。
二代目スレのうちに有力な仮説を構築したいな。
27 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:10:04
■■
■■ 京極氏
出雲・隠岐 二十四万石
准親藩、大山
28 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:16:42
>>7 >>10 10さんに賛成です。
このスレッドでは、初めて書き込みます。
治済・家斉当時の将軍家や三卿は、一橋の血流で占められましたが、
やはり三卿の筆頭は、田安家でしょう。
田安家の3代目当主は、一橋治済(2代目)の子の斉匡ですが、
田安家当主は、一橋家当主(3代目斉敦)より兄の斉匡が継いでいることからも
田安家の方がわずかに格上だと思います。
もちろん、長兄家斉が、将軍家を継いでいることは言わずもがな。
御両典の徳川復姓に関していえば、やはり
将軍位継承の問題が絡んでいるような気がしてならない。
綱豊が元服時に徳川の姓の名乗りを許されたというところだけ見ると
甲府家が将軍位継承と無関係に徳川姓を名乗っていたように見えるが、
しかし一方、御両典の兄である4台将軍・家綱には
世継ぎがいないことは周知だったのだから、先回りして
次の将軍候補である御両典の権威づけのために
徳川姓への複姓が計られたとみることはできないだろうか?
いささか結果論的な見解になってしまうが、
将軍継承問題以外に、松平姓で分家させた弟たちを
あたかも将軍継承権があるかのように印象させる徳川姓に
複姓させる意味など他にあるだろうか?
30 :
22:2008/06/24(火) 22:36:11
>>29 将軍舎弟の継承権のためとすると,時の権力者である下馬将軍が構想する親王
将軍擁立と矛盾するのでは。
どうして御両典の姓が途中で徳川に戻されたのか。
この問題は、反対に、どうして御両典が当初、松平姓を与えられたのか、
このことを考えるとハッキリしてくると思う。
当初、御両典に松平姓が与えられたのは、
明らかに徳川将軍本家への継承権の喪失を意味していたと思う。
つまり、あなたたちは家来筋ですよ、という意味合いが強かったと思う。
ところが家綱に生殖能力がなく、
どうやら子供がつくれないということが判明したため、
急遽、弟たちの本家への継承権を復活させておく
必要が生じたのではなかろうか?
とくに家綱次弟の綱重に子供が生まれた時点で、
甲府家の姓が徳川になっていたということに、
かなり暗示的なものを感じるのは自分だけだろうか?
>>将軍舎弟の継承権のためとすると,
>>時の権力者である下馬将軍が構想する親王将軍擁立と矛盾するのでは
いや、確か俺の記憶では、酒井忠清が親王将軍策をとるようになるのは、
当初、彼が結託していた甲府綱重の急死によってだと思うが。
忠清が京都から親王を連れてくるなどという荒唐無稽な策を
採用するに至ったのは、彼が推していた綱重が死んでしまったため、
綱重と仲の悪かった綱吉が将軍に就任されてしまうと、
忠清自身が失脚させられる恐れがあったために、それを避けるために
一時的に親王将軍を迎える、というのが忠清のプランだったと思う。
そしてさらにその後、尾張から将軍を迎えることにより、
自分と敵対してしまった綱吉を将軍候補から外そうとしていた、ということが
尾張徳川家の秘蔵する手紙から判明した、ということがNHKでやっていたと思う。
つまり忠清は当初、甲府綱重を将軍に擁立するプランを持っており、
この時点では松平綱重の姓を徳川に変更する策のは、何の矛盾もない。
>>前スレの985
>>御両典は、三家、駿河家より三卿に性質が近いから
御両典の徳川複姓問題の正解は、多分、これでいいのだと思う。
当初、家綱に子供が期待できると思われていたころは
後継争いを防ぐために松平扱いとなった御両典だが、
家綱に生殖能力がないことが確認された時点でその性格が
「家来筋の分家」という位置づけから、
後世でいう御三卿的なものへと変化した、
このことが両典の姓が松平から徳川へと変遷したことの理由なのだろう。
以上。
生殖能力がないって
死んだ時にも懐妊した側室がいたのに何言ってんだ
もし御両典が姓を徳川に戻さなければ
家綱が死んだ場合、格式的な観点から、その後継を
徳川姓の御三家から招くべきだ、という意見が強くなってしまったと思う。
世継ぎがいない時点で共和制への移行は検討されなかったのですか?
将軍継承権のため徳川復姓なら,相対的に家格が低下する御三家の反発は相当
あったかもね。
ちょっと脱線するが,御両典の性質が御三卿に近いのなら,吉宗は御両典をモ
デルに御三卿(御両卿)を作ったのか。
>>37 確かに徳川時代の初期〜中期にかけては
家督というものを血統で決めていたのか、格式で決めていたのか、
何をもって価値観としていたのか、分かりかねるところが相当ある。
つまり価値観が定まっておらず、彼らは常にその場の成り行きで決めるんだよな。
だからひとつの確固とした価値観があったのだろう、などと勘違いして
当時を分析しようとすると、かえって混乱してしまう。
もしかしたら当事の大名たちにとって、有栖川宮が将軍でも
一向にかまわなかったのかもしれない。
>>39 将軍個人に強烈なカリスマが無くなり,体制ができあがってくると,外様は
当然としても,譜代にしても,誰が神輿でも関係ないか。
徳川姓や将軍の系譜に連なる,将軍になれたかもしれない大名以外は
41 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:13:03
酒井忠清が綱重擁立派だったという根拠は?
綱重はたびたび幕府に借財を申し入れていたが、
返済もできないまま、10万両の借金を公儀に頼み込み、
忠清に一蹴されて、八王子の本陣で抗議の自害を遂げたという説もあるぐらいの
いわくつき。
酒乱で粗暴で、綱吉以上に人望のなかった生前の綱重を忠清が担ごうとしたなんて、
考えらにくい。
忠清は家綱血統へのこだわりはあっても、御両典は眼中にないだろう。
42 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:26:09
柳沢への松平下賜は、個人の業績(なんて、そもそもないし)なんて理由じゃないべよ。
だけじゃなく甲斐を与えたりしわな。
43 :
23:2008/06/25(水) 01:49:27
>>42 柳沢に業績が無い、というのは失礼ながらあなたの個人的な意見でしょう。
後世の我々がどう見るか、が問題ではなく、綱吉が彼をどう見ていたかです。
そして(表向きかもしれないが)、彼が松平を与えた理由です。
偏諱を与え、松平を許し、さらに甲府という要地を与えた。
これを功績が無い男に与えることに、周囲が納得するはずはないでしょう
前スレにあった、一橋宗尹長子、重富の越前家相続の件ですが、『新稿一橋徳
川家記』(続群書類従完成会)によれば、
重富の幼名小五郎(宗尹の幼名でもある)を名づけたのは吉宗で、越前家に出
すように命じたのも、吉宗だそうです。寛保3年(1743)、小五郎5歳の時の事
この時点では吉宗はまだ将軍でありますから
更に『藩翰譜続編・越前家』(新人物往来社『新編藩翰譜』所収)によれば、
吉宗は最初宗尹に越前に行くよう命じたのですが、拒絶されたため、長子に
したとのこと
これが事実とすれば吉宗の三卿(この時点では両卿だが)構想というものが、
微妙になってきます。
彼の生存中は二人とも将軍の厄介で、賄料10万俵をあてがわれる身分でした
家重の代に10万石となり、それぞれの家の相続がされております。
ということは、前スレで誰かが指摘したとおり、孫竹千代が生まれ、摘統が
しっかりしたので、血のプールとしてより、他家へ養子に送り込む予定で
あったというのも、もしかしたら的を得ているかもしれません
将軍家家督の話、しつこい。相続専門スレがあるんだろ。
御三家や親藩同士の付き合いとか、御三家と連枝の関係とかの話にならないのか。
45 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 10:30:37
>>41 綱重が抗議の切腹だって?!
初めて聞いたぞそんな説
46 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 12:01:36
>>44 ならばご自分で話題をふるべきでしょう
連枝を介しての尾紀の融和とか
義直頼宣の支藩創設の意識の違いとか
まず自分である程度調べるなり、疑問を抽出するなりして
三家三卿を扱っていれば将軍継嗣問題が出てくるのは、ある程度やむを得ない
スレ違とは思いません
47 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 12:19:51
同意 それに「そっちで話せ」というなら、リンク
を貼るべきだな。最低限のこともしないで、自分
勝手言っても、誰も動か
ない
48 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 12:27:26
>>42 もちろん綱吉の寵臣であるというのも大きいですが、一応幕政を
切り盛りしていた人物なので功績がないなんてことはないと思いますが。
まあ、ゆえに往々にして悪役扱いされてしまうのですが
松平親能(酒井忠勝の舅)はどの松平氏の出身でしょうか?
49 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:09:09
小泉松平の出にて候
図書館へ行く機会があったので、古い武鑑を調べてみた。
御両典が松平姓で乗っていた一番新しい武鑑は万治二年の「江戸鑑」。
というわけで、徳川復姓は万治二年以降ということになると思う。
ところで面白かったのが、武鑑の配列。松平姓で載っている武鑑でも、
御両典の方が御三家よりも先に配列されている。
これは、(実際にどうだったかは別として)当時の人たちが御三家よりも
御両典の方が格上だと考えていたことを示しているのではないだろうか。
51 :
28:2008/06/25(水) 20:57:20
日テレ系、「日本史サスペンス劇場」
きょうは、10代家治、その世子家基の暗殺疑惑がテーマでした。
登場人物は、田沼意次、一橋治済、松平定信らと多彩でした。
この番組、民法の番組にしては、「時代考証」がしっかりしていると思います。
疑惑の黒幕は、一橋治済か!?。なぜかといいますと一番得をしている。
松平治好(重富の子,宗尹の孫)は,父の弟(治済)の子が将軍になったのを
どんな思いで見てたんだろう。
長幼の序では,自分の方が上とか,何で自分が越前藩主なのかとか,葛藤は
なかったのだろうか。
53 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:02:05
治済は、御三卿筆頭の面子にかけて将軍の座を欲したのであろう
>>46さん
44を責めてはいけないよ。
彼らはスレチ職人といって、誰かのスレの尻尾をつかんでは
「スレ違いだろ」「別スレに逝け」と盛り上げる係なのだから。
つまり2chを2chらしくするのが彼らの仕事なんだよ。
彼らこそ2chの華なんだよ。
>>治済は、御三卿筆頭の面子にかけて将軍の座を欲したのであろう
そんな餌には誰も食いつかないよw
一橋がそのような扱いになるのはこの後のことであり
治済の時点で筆頭などという自意識が芽生えていようはずもなし
56 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:14:56
食いついてんじゃんw
57 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:18:32
>>52 松平定信同様に、不満は持っていただろうな。
越前家の祖である結城秀康も弟が将軍になるのを見ているのも興味深い。
>>57 忠直卿のように,御乱行に走っていたのかなあ。
御両典の最も新しい松平性の記録が1659年ですか…
家綱がまだ18歳のときですね…
この年齢ならまだ家綱に世継が期待できた時期ですからね…
御両典が松平性で家来筋扱いされたのも当然でしょうね…
もし前述スレの記述を仮に真実とし、
綱豊9歳(1671年)の時点で甲府家が徳川姓だったとすると
それは家綱の没9年前(30歳)にはすでに徳川姓だったことになる。
これは相当微妙な年齢ですね…。
生まれつき病弱だったということですが、周囲には
御両典の格式を改姓で嵩上げする必要性がみえたのでしょうか?
60 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:30:08
>>51 宗武と定信が白河城にいたけどありえるのかな?
あと田沼意知が佐野政言に殺された時、意知が即死、政言もその場で切り捨てられたってやってたけど正しくは意知が一週間後に死んだ後、佐野が切腹でしょう。
もし
>>50氏の調査結果のように
御両典が松平姓でありながらすでに
御三家の格式より上座であったとするなら
もはや改姓の必要すらなかったということになる。
つまり、圧倒的に御両典のほうが将軍継承順位では上ということ。
大藩の主であった御三家よりも御両典のほうが上ということは
何より嫡流の血脈が大切にされたということですね。
御両典の改姓問題には、もう答えが出てしまった気がしますね。
自分は今まで徳川姓と松平姓のあいだには
将軍位をめぐって隔絶した差があるのだと思い込み
それが強い関心の理由でした。
大名家の格式が血の流れを凌駕していたのかと思っていたのです。
しかし事実はまったく平凡で、将軍の子の御両典は
大藩の主であった御三家より格上だったとのこと…。
これでは御両典の松平改姓など一種のセレモニーにしか過ぎません。
重要な問題ではなくなりました。
>61
あくまでも武鑑ではですよ。武鑑は民間の書肆が発行したもので、
幕府公式文書ではありません。特に後世の須原屋版や出雲屋版の
ような間違いがあるとすぐに訂正が申し入れられるものと違って、
この時期のものは正確性にはかなり難があるかと。
御両典>御三家 はあくまで世間の目であり、将軍世嗣にどちらが
ふさわしいかという格を表すものではありません。
御三家と御両典の格式の差はどうだったのだろう。
例えば,年賀の挨拶はどちらが先とか。
>>吉宗は最初宗尹に越前に行くよう命じたのですが、拒絶されたため、
>>長子にしたとのこと、これが事実とすれば吉宗の三卿構想というものが、
>>微妙になってきます。
>>孫竹千代が生まれ、摘統がしっかりしたので、
>>血のプールとしてより、他家へ養子に送り込む予定で
>>あったというのも、もしかしたら的を得ているかもしれません
これはかなり説得力のある意見ですね。
しかし松平姓の御両典が、その将軍家への血統の近さから
御三家以上の将軍候補足り得た前例から見れば
松平姓の越前家へ養子へ出したからといって
それが即、将軍継承権の放棄、血のプール説を覆すことなるでしょうか?
吉宗なら、いざという場合には、越前家を将軍継承闘争の本拠地にする
くらい、やったのでは、という気がしますが。
万一、御三卿構想が結果論的にできた家だったとしても、
吉宗の将軍家血統独占の意志は絶対否定できないと思いますm(_ _)m
>>64 それは先代スレで答えが出てますね。
年賀の挨拶は御三卿のほうが先だったそうです。
>>64 その答えは先代スレで出てますね。
年賀の挨拶は御三卿のほうが先だそうです。
>64
官位先任順だと思われるので、それだけでは何とも言えないかと。
69 :
64:2008/06/25(水) 22:14:24
>>68 官位先任順だと,御両典と御三家は同格ということになりませんか。
70 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 22:15:26
光圀が綱豊を自分の上座に勧めて、綱吉の後継者たるべき地位を誇示しようとした、
って話、事実としたら御三家>甲府だよな。
官位だと紀州尾張が大納言 両店水戸が中納言(実際は参議)じゃなかった?
>>70 綱豊の逸話とすれば,もう御両典は徳川姓の時代だよね。
そうすると,御両典は御三家を超えた家格には無かったということになるね。
でも,席次が官位先任順だったからかなあ。
このスレ盛り上がっているのにあまり荒らされないですね。
普通、ブヨウなんたらとか本郷なんたらとか荒らしが入って過疎るのが日本史良スレの運命だというのに・・・
ここのスレのご繁栄をお祈りしています。
>69
いや、従四位下以上の大名はすべて官位先任順なんですよ。
ただ、初任官が違うので必然的に家格の差が現れる。
でも、将軍の子である初代は落ち着くべき家格より高い
初任官であった可能性があるわけです。
というわけで、代を重ねなければ拝謁順での家格の比較は
出来ないのではないかと考えるわけです。
75 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 23:43:53
綱豊は前から光圀により上せきでしょう。
光圀は隠居の翌日の元禄3年10月15日に中納言に補任されているが、
綱豊は12月15日に中納言。
その直前の同年10月6日の「実紀』には、尾張大納言光友、紀伊大納言光貞、
甲府宰相綱豊、水戸宰相光圀の順に表記がある。
もちろん、参議(宰相)への昇進は光圀の方が早い。
これは、綱豊が同じ参議でも、正三位であったのに対し、
光圀が従三位のままだったからかもしれないが、
いずれにせよ、御三家と甲府家が同列の扱いを受けていた印象が濃い。
>>75 正三位という官位は,御三家には無かったと思うが(浅学で申し訳ない)。
それからすると,甲は尾紀より1段下の扱いであったような・・・・
もちろん御三家内では家の序列は無く,官位先任順で席次が決まることは分かった上での話です。
77 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:00:39
綱豊が従三位のままなら、参議への昇進が先だった光圀より、
綱豊の方が上席の待遇を得ている理由がよくわからぬ。
綱豊が正三位だったかは、実は俺も疑問。
だが、でなかったなら、なぜ綱豊>光圀なのかがもっと疑問。
もっとも家格に直結した話では必ずしもない。
あくまで城中席次、式礼での順に関してのことなんだが・・・
>76
いや、尾張は光友も吉通も正三位で中納言になってる。
紀州も光貞が中納言になった翌年に正三位に昇進。
水戸は従三位中納言が極官で正三位なし。
これから言うと、綱吉、綱重、綱豊のいずれも正三位で
参議になってる御両典は御三家より上?
それとも正三位でも参議にしかなれないのだから下?
ここら辺良くわからんです。
79 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:16:23
>>43 たしかにね、綱吉が吉保に甲斐を与えるにあたって授けた朱印には、
「其方真忠の勤に依り」って文言があるから、綱吉が彼を買っていたこと事実だよ。
政治的な事績と言えるものが対してないというのは歴史的な評価で、綱吉自身の評価じゃない。
けど、このスレであえて柳沢に突っ込みを入れたのは・・・
松平姓と偏諱を与え、さらに徳川一族の封地甲斐を与えた綱吉の真意は、
政治的功績に報いるためというより、(事実同様に松平姓を一族に下賜された本庄家は桂昌院との
繋がりだけが理由だろう)吉里をわが子と信じていたからではないか・・・という思いが強いからなんだ。
80 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:24:27
>>78 ですから・・・綱豊は元禄3年12月15日に中納言になっておりますです。
>80
正三位参議は延宝8年だったはずだけど、、、、、ソースが手元にない。
官位スレで以前に,江戸時代は位ではなく
大納言 > 中納言 > 参議 > 中将 > 少将 > 侍従
の順で序列が決まるとあった気がする。
83 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:37:04
このスレがこんなに伸びるとは、誰に予想できたろうか。
>64
綱吉時代だと、三家と甲府家では三家の方が格上です。
「将軍の座」に「御三家」の語のほぼ初例として引かれている定書では、
「御三家、甲府殿挟箱は如常可通之事」となっています。
後、館林時代の綱吉は、官位でも尾張光友の下になっていますね。
>82
尾張義直の位記口宣を見ると、正三位権大納言の方が、従二位行権中納言より
先にあります。
>67
三卿の場合は部屋住み扱いですから、三家や両典のように大名扱い
の家の例とは扱いが違うのではないでしょうか。
87 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:23:10
家格としては御三家の方が上でも、城中席次や式礼での序列となると、御三家、甲府は
その時の当主の官位の上下、同じ官位なら先任順となり、その部分では一緒クタだったんだろうね。
尾張が御三家筆頭といえるか?って議論になった時にも出た話だが、
厳然とした格差があったなら、席次でも先任だからというだけで、水戸中納言が尾張中納言の上にくるはずないんだから。
「実紀」の場合でも、省略した記述では「御三家並びに甲府」という書き方をしても、
同月の詳しい記述では、水戸の前に甲府を持ってきているしね。
88 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:52:30
>>43 一橋重昌(重富じゃないよ)は寛保3年に生まれたのであって、5歳ではない。
越前松平宗矩は「宗矩書付」によれば、その寛保3年に先々代吉邦の娘で正室勝姫の死を受けて、
秀康の血統が絶えることを惜しむ重臣たちの反対を押し切り、
公儀に将軍家直系の養子入りを懇請している。
幕命で重昌の養子入りが決まったのが延享3年。
家重に二男(のちの清水重好)が誕生し、家重が9代将軍になった翌年のことで、
この間、宗矩は悲願達成に奔走している。
だから・・・年譜的には無理がある気がする。
89 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 02:09:25
忠直卿と駿河大納言の行い正しからずってのは
どこまで本当で、どこからが幕府・将軍のリーディングが入っているのだろうか?
90 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 02:18:46
>>89 猿狩りは領民からの願い出によって行われたのは事実
ただ、そのころには既に豊臣恩顧の大名が些細な理由で改易されているのだから
ちゃんと幕府に伺い出すべきだった。
91 :
23:2008/06/26(木) 06:31:24
>>88 失礼 確認作業をせずに引いてしまいました
重昌に関しては仰るとおりですね。延享3年だと、数えで4歳か5歳だから
一橋の日記は、寛保と延享を書き間違えたのかなあ
それとも年齢を書き間違えたのか
も一度確認してみます
4位以上の官位先任順はどれだけ厳格だったのだろう。
少しスレちになるけど,先任順を厳格に適用すると,場合によっては,加賀が
水戸,三卿よりも上席にくることもあるのではないか。
>>92大廊下でも上の間と下があるから良くわからないが加賀従三位宰相 なら4位中将の水戸っていう事もあるね。
94 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 17:21:51
御三家と御三卿では営中の詰め席が別なの?
御三家、御三卿が上の間
前田家や越前が下の間
96 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 17:53:03
江戸以前の皇室(皇位継承や皇族の制度)と同じようなものでないのか?
御三家=有栖川家などの世襲宮家 御三卿は独立していない世襲の皇族
(天皇家の次男が結婚後も独立しないで内廷にいるようなもの)
(皇室は)それ以外は出家か親王家の養子か貴族の養子(この場合臣籍になる)
が臣籍になっての一代限りは皇位継承もあった。
綱吉や家宣はそれに近いんでないか?
97 :
武州忍侯奥平下総守:2008/06/26(木) 18:52:17
語れ
御三卿は,後世,将軍家の厄介(控え)扱いからの伯爵家になるのだが,いつ
ころから独立の家として認知されたのだろう。
やはり,華族制度創設時からかな,それとも将軍が徳川家のものでなくなった
大政奉還からかな。
>94
御三卿は中奥の御扣(ひかえ手偏に口)所に詰めて、
拝謁も中奥の御座之間。ほとんど家族扱い。
(「図解江戸城をよむ」深井雅海著)
維新で幕府領没収されたとき御三卿の10万石ってどうされたん?
どっちみち数年後に廃藩置県だが。
幕府崩壊後に正式に立藩、ほどなく廃藩置県
102 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:31:40
しかしこれだけ歴史通が集っても、松平綱吉説を唱える「最近の研究」がわから
ぬとは。。。本当にあるんだろうか、その研究
103 :
28:2008/06/27(金) 14:04:41
本スレ投稿者は、ホント「歴史通」ですよね!
>>99 深井雅海「図解江戸城を読む」どうでしょうか? 買って読もうと思っています。
>>102 wikiですね!出典を明示すべきですね!
104 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 14:06:22
それほど意味があるのかな?
御両典はすぐなくなってるし。
105 :
水野忠友:2008/06/27(金) 17:41:32
近従のやからが貴殿を刺し殺すべしと騒いでおり申す
正直、自分も同感ですね。
そもそも御両典というのはきちんとした大名じゃないですよ。
ほんとうは御三卿みたいな部屋住まい大名にすべきところを
まだ江戸時代中期で大名の扱いが洗練されていないために
わざわざ何十万石もの大封を与えてしまい、
それがなにかきちんとした分家のように映ってしまっているだけですよ。
部屋住み大名ですよ、御両典は…。
107 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 18:32:55
慶喜さえ頼りにするほどの名君だった松平斉民が津山藩10万石なのは可哀想だなあ。
108 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 18:47:19
三家(駿河も含めて四家?)→両典→三卿→押し付け養子
と時代とともに変化していってるわけですね
そして前スレでも言ったように、両典は三家と三卿の中間形態であり、
どちらかというと三卿に近い
109 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 18:58:40
>>107 家斉の十五男とはいえ、
十一男の斉明が清水家
十二男の斉荘が田安家->尾張家
十三男の斉衆が鳥取池田家
十九男の斉温が尾張家
なのを考えると、貧乏くじを引いている印象。
二十男の斉良が浜田松平
二十一男の斉彊が清水家->紀州家
二十二男の斉善が福井松平
二十三男の斉裕が外様の蜂須賀家
二十五男の斉省が川越松平
二十六男の斉宣が明石松平
なので、二十男以降は斉彊以外は結構アレだけど、十五男前後だと
准親藩の鳥取池田家に行った斉衆以外は、普通に御三家御三卿に養子に
行っているのになぁ。
111 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:04:24
112 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:17:42
>>110 でも尾張家に養子に行った斉温等は尾張藩士にとって厄介者だったからね。
望まれて婿養子に行った斉民はそういう意味では心情的に楽だったような。
御三家・御三卿に養子に行っていれば将軍も夢では無かったと考えると
確かに貧乏くじだけど。
(ただ仮に斉民が家定の後継だと甥→叔父になるんだが、これはありなのか気になる)
それとこれ、wikiに書いてあったことだから信憑性無いに等しいのだけど、
「家定の後継問題で斉民を押す動きがあったが、越前松平から将軍を出した
例が無いのと派閥勢力が脆弱だった為斉民が十四代になる事は無かった」
とあったのだが実際こういう記述が何かに記されているのかな。それともガセ?
>>111 正室以外は身分差なんてアレだしなぁ。
ちなみに、皆春院の息子は斉明・斉衆・斉民・斉良・斉裕と夭折した信之進。
んで、一番年長の斉明は清水家に行ってます。
というわけで、御三家御三卿に空きがなく、津山松平が家格向上のために
家斉の息子を養子に欲しがっていたというタイミングによるものでしょう。
もし、斉民が御三家御三卿に養子に行っていれば、十四代将軍は問題なく
斉民が継承していたでしょうから、後になってみればタイミングが
悪かったとしか言いようがない。
114 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 21:10:38
家定の叔父にあたる斉民が将軍になることはないだろうから、
一橋治済のような立場になっていたでしょう。
115 :
長野主膳:2008/06/27(金) 21:30:57
殿。主膳にござる。それがしは、わが君が公方様に直々に召し出されて大老に任命された、ということにすべてがあると思います。
宗家乗っ取りを企む水戸の悪龍の野望を打ち砕いてくれとの声なき声でござる
相模沿岸警護で水戸の悪龍に痛めつけられた彦根は闘うべきです
>>114 平時ならそうだけど、黒船来航以来の非常時なので。
津山松平藩主から隠居した身だというのに将軍に担ぎ上げるなんていう
一昔前ではとても考えられない動きがあったようだし。
>103
>
>>102 wikiですね!出典を明示すべきですね!
要出典を付けたら出典載せてくれるかなあ?
所詮wikiだから期待できないか。
>104
本職の学者が発表したのだとすると、それなりに
意味があるような気がするじゃないですか。
意味がありそうだけどそれがどんなものかわからないと、
気になってくるじゃないですか。
いきなりメロディーが浮かんだけどどんな曲だったのか
思い出せない焦燥感と同じようなものです。
118 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 22:07:20
>>116 正徳・享保も当時なりに非常事態だったのか、
越前葛野藩3万石の大名の松平頼方が
トントン拍子の末、将軍になったこともあるけど、
幕末はもっと非常時だからなあ。
119 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 22:25:23
ありえないね。
幕閣、大奥、御三家、外様雄藩のうちいったい誰が推したんだ?
津山藩主なんかを、将軍候補に・・・
担いだ有力者の具体的な名や動きを示すものなんかありゃせんだろ!
120 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:37:15
吉宗は、結果的に改革を成し遂げたがゆえに才能で将軍継嗣レースに勝ち残った
観がありますが、この正徳享保はそれほど差し迫ってません
あくまで家康に血筋が近かったからです
これは幕末の「非常時」にもかかわらず、結局血筋で14代将軍が選ばれたこと
からも裏づけされます
人物本位で選ばれたのは最後も最後の押し迫った時、それもあくまで「中継ぎ」
でした
血筋でいえば松平斉民が一番なわけだけど?
122 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:27:14
血筋といったのは、あくまで将軍継嗣候補の中で、です
津山に養子にいった時点で候補になるはずがないじゃないですか
それに血筋で一番なのはやはり慶福でしょう
斉民は一世代上ですから、たとえ徳川の家に養子にいっていても、慶福と比べ
ると、見劣りがします
斉民がクローズアップされるのは、維新後に徳川家の長老とみなされたからで
しょう
源義朝の一族の中での陸奥六郎義隆のポジションです。義隆が源氏の嫡流だと
は誰も言いませんよね?
123 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:36:36
血統論を人材論でねじ伏せようとする動きは、常に敗れ去ってきた。
家綱、吉宗、家定の後継で揉めた時だ。
人材論が勝ったのは唯一、前レスにもあったとおり家茂の後の慶喜だけ。
長年の伝統を破った時、幕府も潰えたわけだ。
もちろん、津山に行った時点で候補から外れるわけだから、妄想話になるけどね。
家定の後継争いでは慶福では若すぎることが問題視されていたけど、慶喜も英明の
誉れ高い云々言われてはいたけど、まだまだ若年。その点、斉民は人望が厚く
手腕もあったからなぁ。
あと、甥から叔父への継承云々は難癖つけるためだけに持ち出される場合が多いし。
125 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 01:17:16
>>124自身も認めてるように、個人的な妄想話ってことでチョンだな。
血統にこだわるなら紀伊慶福。
世代にこだわらず、血縁+実績を求めるなら、田安慶頼だろ。
人望がある・・・それは>122も言うとおり後付けの話で、
当時、幕政への影響力も大してなければ、諸侯に担がれたわけでもないだろ。
兄の松平春嶽から「井伊掃部頭の奴隷と見做して可なり」と言われた田安慶頼か…
妄想ネタだと、もし春嶽が田安家を継いでいたらっていうのもあるね。
127 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 01:43:27
将軍継嗣の話ばかりすると、また「スレチだ」と怒られそうだけど、
紀州、一橋、津山の親藩の話ですよ、と予防線をはっておきまして
年齢という点では斉民もかなり苦しいでしょう。すでに40代ですからねえ
家継の後継の時も、水戸は年齢ではずされましたからね
当時の40代と今のそれとはイメージが違いますし。肉体的にも、今より老け
ている年代でしたから
128 :
127:2008/06/28(土) 01:49:05
私があれこれ書き込みを悩んでいる間に、もう結論が出ていました。失礼
田安慶頼は確かにそうでしょうね。
年齢も血統も充分です。慶福がいなかったら、ありえない話ではないですね
>>124,
>>125 やっぱりこじつけかあ。特に史料も出てこないし。
自分無知なので教えてほしいのだけど、一度他家へ養子に行ったら
宗家はもちろん御三家御三卿も継げないのかな。
一回当時空いていた清水家に斉民入れて…何て無茶苦茶な妄想してみたが、無理か。
130 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 08:37:47
徳川家康の弟・内藤信成って知ってる?
131 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 10:37:18
>>129 幕末は混乱してたから、こんな奴も居るから、タイミングの問題。
高須藩主・松平義比→尾張藩主・徳川茂徳と改名→隠居して玄同に
→一橋家を相続して徳川茂栄。高須藩の五男坊ができるのに、
将軍の若君ができないはずはない。タイミング。
松平斉民は正室が越前家の人だから、離れがたかったのかも分からん。
清水家って、昭武が入るまで長く空いていたなあ。すぐに水戸へ行ったが。
幕閣については、天保の改革で真田幸貫が老中になったあたりから
前例では考えにくい事態が起こるようになり、阿部正弘の安政の改革以後は
さらにとんでもないことに。
しまいには隠居した松平春嶽が朝廷の命では大老に、実際には新設の
政治総裁に任命されるは、外様3万石格の松前崇広が老中になるは…
藩主の相続周りはさすがにここまで滅茶苦茶にはなってはいないけど、
それでも安政の大獄近辺から、かつてからは考えられないほど無茶が
できるようになっていると思う。
133 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 11:20:23
>>131さん
昭武って一度、清水家に入っているんですね?
知りませんでした。
いえ、自分、松戸に住んでるもんで、JR松戸駅構内のCMとかで
けっこう昭武を見たんですよ、大河・慶喜のとき。
駅の近所に旧水戸藩の別邸があり、公園になってまして。
>>132 小笠原長行が老中を何度も就任して何度も罷免されてるのが、象徴だなあ。
>>132 真田幸貫や板倉勝静は、運次第では、老中どころか、
将軍職か御三家当主の可能性もあったんだろうが。
一橋治済や田沼親子の影響だなあ。
136 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 11:57:57
なんか、将軍家と血の繋がりさえあれば、誰でも将軍候補になれる・・・
みたいな流れになっているが、家系図だけ見て、あれこれ妄想してもなあ。
右から左へ徳川宗家へ持って行けるわけないでしょ。
幕末は幕閣に入りたがる者があまりいなかったという背景があるんだろうが、
願譜代とはいえ、外様の老中なら脇坂安薫が天保年間になっている。
側用人なら元禄初期に、南部、金森、相馬がなってるし、
井伊直該にいたっては、正徳年間に隠居後、剃髪した髪をたくわえなおして
大老に再任されたって例もある。
まあ、そいう類の話と将軍継嗣の問題とは全く次元が違うだろ。
137 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 11:58:53
松平定信が田安家に残ってて将軍になってれば、幸貫や勝静が将軍になってたかもな。
138 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:04:07
>>133 昭武は、もとは会津松平家に養子に入れる約束があったが、
慶喜が反故にするため、パリ万博使節にして海外避難させ、
空いてた清水家に仮住まいさせた。
139 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:08:55
>>138 それはやっぱり、将軍候補として
水戸家の血統をプールしたと考えていいの?
そこを書いておくれよ。。。
そもそも慶喜自身が田安亀之助までの中継ぎだからなぁ。
たとえ当時息子のいなかった慶喜が昭武を自分の後継にしたいと
思っていたとしても、周りがそれを認めないでそ。
141 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:20:13
>>129>>131 残念ながら、それは無理です。茂徳の場合はモデルケースになりません。
彼のケースは、連枝→三家→三卿、前半は分家からの継承、後半はほぼ同
格の家柄だから不都合ありません。順当なケースです
斉民の場合、養家からの出戻りとなり、極めて不面目なこと
田沼の息子が養家から戻され、身内の相次ぐ死により家督を継ぎますが
斉民が復帰できるとしたら、田沼と同様のケースでしょう
すなわち一族が彼以外死に絶えた時
しかし一族は沢山いますから、極めて低い確率でしょう
何度も書きますが、年齢的にも、家を変わることも難しいでしょう
142 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:23:31
wikiに津山斉民を将軍にする少数派がいたと書いてあったが、誰が?
143 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:40:05
それは私にもわかりませんが
上で誰かが書いたように、まずありえないですね
家柄、年齢、どれをとっても無理です
大体、家斉の孫の後継者を決めるのに、なぜ家斉の子が候補になると考えられるのか理解できません
ウィキには時々俗説珍説奇説が検証もなしに書き込まれるから要注意です
(例えば三家葵紋の表葉裏葉による区別など)
他にも越前松平家の宗家は越前松平ではなく津山松平ネタとか、
独自研究という名のデマがてんこもり。
145 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:55:46
>>139 英明と言われた昭武を温存した理由は、あなたの推測通りだと思う。
昭武の代わりにその弟喜徳を会津家には入れている。
>>140 中継ぎ云々については・・慶喜が将軍になるまでの話。
一代限りの養子のはずだった綱吉が「伯夷伝」を持ち出して反対する光圀らの反対を
押し切り、そのまま徳松を西ノ丸に入れたように、将軍になってしまったら・・・
周囲の反対といっても、尾張慶勝、水戸慶篤、一橋茂栄など水戸系の兄弟親戚が周りを固めている。
将軍になるといっても「火中の栗を拾う」ことになる当時の断末魔の情勢を無視して、
もし16代の継承が問題になったとしたら、その場合は、周囲の反対というより、むしろそ慶喜の子の誕生によって
昭武は退けられるだろうな。
146 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:55:48
分かりました。あくまで津山がクローズ・アップされたのは維新後のなかで徳川家の長老格としてですね
147 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:01:05
以前、越前光長が家光の養子候補となった話があるが
女系だからそれは無いだろうというけど
この時期の光長は例外では?
秀忠からしたら娘を殺しかけた忠直から孫を保護する意味合いもあるし
自分と御台所の血は入っている。
兄への後ろめたさも解消できる、秀康派だった譜代家臣にも受けが良かったと思うし
尾張よりはずっと都合が良かったのでは?
148 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:05:51
家臣
「殿、お友達が遊びに来られました」
バカ姫
「遊びに来たよ (^o^)」
バカ殿
「ワーイ!ワーイ!\(^o^)/」
こういうことは、本当にあったんですかねぇ?
150 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:39:21
増上寺に掲げられている徳川家系図では宗尹が完尹になってるな。
カワイソス
151 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 15:23:32
綱吉が網吉、家治が家冶になってますね
カワイソス
152 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:11:01
>>49 超亀レスで申し訳ないですが、松平親能=松平親善でいいんですか?
寛永・寛政譜にも載っていなかったうえに、小泉松平氏というのも
18松平にはないような。
153 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 19:21:01
154 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 20:05:07
家光が高田光長を養子に?ほんまかいな
155 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 20:16:04
>>142 外様の蜂須賀以外で、唯一家斉の男系を伝える家だからそういう説が生まれるんだろうね。
秀忠の兄の秀康や、宗尹の正室の子の重昌など、越前家は本来嫡流になれるはずの人間が非常に多い。
156 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 21:43:31
>>154 大河ドラマではそうだったけど、実際は前田の姉の息子を養子と考えていたよ。
157 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 22:04:13
>>113 皆春院の息子の斉明・斉衆・斉民・斉良・斉裕は
長子の斉明以外は他家(将軍継承できない)へ養子に出されてるんですね。
158 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 22:04:47
一橋2代目の治済は側室の子なのにどうして宗尹というか幕府は摂関家出身の正室の子を越前なんかに二人もやったんだ?不思議でたまらない。
正室の子が2代目継いでおけば家治の後は重富になっただろうに。
側室腹は賤しいんだから一番最後にするべきだと思うが江戸時代になると男系だけ重視で嫡庶は関係ないのか?
>>158 そこが,これもでのレスで出てきた御三卿の存在意義にも関わることになるのではないか。
吉宗の血統で将軍家を独占する,そのための「お控え」。
あくまで血統のプールだから,将軍から見て血が薄くなると,濃い血を入れて,薄くなった血は処分する。
160 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 22:23:13
寛永17年、家光が前田利常に、姉の子々姫の子である光高の養子をほのめかしたことは事実のようだ。
だが当時、幕閣には土井利勝、酒井忠勝が大老として鎮座し、利常は常に警戒されていた。
外様第一の雄藩が外戚になる事態を幕閣が容認するはずがない。
賢明な利常は丁重に辞退した。
利常は、幕府から正室子々姫の死に不審を持たれ、3年間江戸に留め置かれるという前科があった。
>>158 前スレとこのスレの上の方で一応の解釈が出ているんですけれど、
当時吉宗は中風で寝たきりの状態であり、宗武の登城停止、一橋の越前飛ばし
は家重ら本丸首脳の政策らしい、ということ
家重―家治と嫡統が存在している以上、将軍家の厄介である両卿は必ずしも好
ましくないと
一方で重富の越前転出は越前の希望に対して吉宗が応じたとの説もあります
159さんも言っているように、三卿(この当時は両卿)は血のプールたる人材
を蓄えておく器であって、それぞれが血統相続しなくてもよい、と
162 :
161:2008/06/28(土) 22:33:38
いう見方もあります
>>160 う〜〜ん、事実ならすごいですねえ
文献か、せめて誰が書いた(唱えた)か、あるいはどのサイトを見ればよいか
教えてくれるとなおうれしいですね
寛永17年といえば、竹千代(家綱)、五郎太(綱誠)が生まれる前でもありま
すね
なんかできすぎの感じもしますが。
ただご自身も書いておられるように、家光の思惑はどうあれ、周囲は到底納得
しないでしょうね
163 :
161:2008/06/28(土) 22:36:14
すみません、綱誠が生まれるのはずっと後でした
光友、光貞、光圀が家光の次の世代に該当するかな
御両典,御三卿,そして御三家の成立をみると,将軍相続に関して徳川姓にな
いと,他家相続はもちろんとして,松平姓でも格落ちハンデになるのか。
ま,同一姓を名乗る同族,近親者から相続人を選ぶのは,当然か。
165 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 22:45:00
そこで駿河忠長、や両典が松平姓であった、という「最近の研究」が、一体
誰のどんな説のことなのか、が問題になってくるんですよ
前スレからずっと探し、悩んでます
166 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 23:04:02
尾張に対する脅威は、実際に病中の家光を脅かした藩祖義直に対してだけじゃなく、
その後も幕府の中に連綿と生き続けたと思う。
義直の尊王論は激烈なもので、歴代藩主の秘蘊とされていたものを4代吉通が侍臣に書かせた
「円覚院様御伝十五箇条」によれば、
はっきりと「三家の者は全く公方の家来にてなし・・・朝廷の臣なり」、
万一の時は「いつとても官軍に属すべし。一門のよしみを思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事あるべからず」
と伝えている。
春日局の系統でもある堀田正俊の真意は、戸田茂睡の書いたものによれば、「紀ノ国の中将殿(綱教)を御婿(鶴姫との縁組)
に仕り、御したしみをふかくし、さて加賀を以て御三家の列にくはえ、尾張をたをし申すべきこころなり、・・・」
だったそうな。
正俊は稲葉正休に殿中で殺されたが、その後鶴姫の紀伊綱教への輿入れが成功し、元禄2年8月9日には前田綱紀が
御三家に準ずる家格を得ている。
尾張家への脅威論は、吉通が将軍候補にあがった時も、同時代の室鳩巣が「鳩巣小説」の中で伝えている。
越前松平,会津松平,浜田松平が,将軍子弟でも,徳川宗家相続人として認知
されなかったのは,それぞれ由来が結城氏,保科氏,越智氏と他家相続で,称
松平(?),賜姓松平氏(?)扱いだったからかな。
>>165 徳川氏の系譜等の研究の第一人者って誰なんでしょうね。
どなたか分かる方がいれば,その第一人者の論文等に徳川姓,松平姓のヒントがあるかも知れないですね。
169 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 23:26:24
>>162 「加州の前田利常、あの人が書いたものを見ますと・・・」
と、三田村鳶魚が「鳶魚江戸文庫」の中に書いています。
それによれば、利常は「上様はまだお若いから、近々お世継ぎにも恵まれましょう」
と云った趣旨の断わりを入れたところ、果たして翌年家綱の誕生があったので、
家光はなおさら利常を気に入った、とのこと。
残念ながら「あの人がかいたもの」がなんであるかは不明。
170 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 00:04:16
>>168 なるほど。そういうアプローチがありますね
今まで気が付かない私はとんとウツケ者でした
>>169 レス有難うございます。鳶魚さんですか。「あの人」とは誰か、気になりますね
私も探ってみます
171 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 00:08:52
>>170 あのですね。。。
「あの人」とは前田利常のこと。
「書いたもの」が、なんであるか特定できない、という意味だよ。
172 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 00:21:50
重ね重ね失礼しました
本当にウツケ者です。。。
173 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 10:19:50
家斉の子供沢山入れられて以降、3卿、尾張は将軍家から最も血統遠い水戸系から養子入っているけど何故?
将軍家に子供少なかったのは分かるが紀州には子供いなかったの?
175 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 10:35:15
レスが途絶えると、決まってネタ振りしてくれる>173は>1なのだろうか?
知ってるくせに・・・と思いつつ、「知ったか」よりは好感持てるぅ。
1週間で170超のレスがあればネタ振りなんかいらんよ。
>>173 ちょっと便乗して
家斉系の男子でも,外様,親藩に養子に行った子は御三家,御三卿を継承できなかったってことですね。
これは,将軍継承者からは他家に養子に行った者は除外されるという,結城秀康や越智清武以来の先例からかな。
178 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 11:27:49
「福井県通史」によれば、結城秀康は・・・
出生の時から父に疎んじられたことが伝えられている。
秀忠は幼名も父と同じ竹千代と名付けられ、位階・官職の昇進も秀康に比べて格段に早いのであり、
家康の意志をはっきりとうかがうことができる。
慶長五年の冬、大坂城で家康の重臣たちが後継者について議したことが伝えられているが(「大久保家留書」)、
福井藩に仕えた兵学者大道寺友山もいっているように、秀吉の養子になった時点で、
秀康が父の跡を継ぐ途は事実上閉ざされたとみられる(「越叟夜話」)。
179 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 11:43:49
なお、秀康については、その後、徳川または松平に復姓したという見方もあるみたいだ。
同じく「福井県通史」によると・・・
秀康は、結城に入って秀朝と改め、のち家康の命によって徳川もしくは松平に復し、
再び秀康を名乗ったともいわれる(「越叟夜話」「家譜」など)。
秀朝改名のことは、慶長三年(一五九八)の朱印状に秀朝と署名しているので(『結城市史』)、
一時期秀朝といったことは疑いない。しかし結城時代にも秀康名の書状があることをみれば(越葵文庫 資3)、
秀康の名を捨て去ったとはいいにくい。
復姓についてもなおはっきりしないことが多い。いまのところ徳川ないし松平と記した確かな史料がなく、
また秀康の死後松平直基が結城の名跡を継いでいることも、復姓に疑義を抱かせる。
御三卿の血統をむやみやたらに徳川復帰可能な御三家系(連枝を含む)だけではなく、復帰不能な越前系等の親藩、譜代、果ては外様にまで入れてしまい、
継承すべき将軍近親の血統は次代で断絶もしくは当主と嫡子以外のストック無し、結果、徳川姓へ養子入れられる家が御三家末流の水戸しかいなくなったって事。
高須4兄弟なんかその最たる例ですね。
水戸庶子→高須→尾張と血統ロンダリングして将軍継承権持てる位置まで上がりやがった。
慶喜の場合も
水戸庶子→一橋→将軍と血統をロンダリングしながら上り詰めたがこれは非常時で参考にならない。
平時に戻ったら唯一、家斉血統残った田安に将軍職戻すべきだという原理論も最近展開されていたし実際別の形でそうなったよね。
181 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 12:07:25
高須の兄弟は、血統もさることながら、才能(というより評判)が大きいので
はないかな。
烈公が自分の子女教育を、義建のそれを手本とした、という逸話が残っている
くらいです
(原典はわかりませんが、尾張藩の第一人者である林董一さんが、その著書で
述べていましたから、信頼度は高い)
尾張家と四谷家を継いだのは、当然としても、
連枝とはいえ、小藩の子が、越智、会津、久松という名家を継いでいるのは注
目に値すると思います。
将軍家のような押し付けでもなく、また彼ら以外に徳川の血統がいないわけで
もないのに、夭折した男子を除く6人全員が大名になったのはすごいですよ
182 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 12:25:44
確かに幕末は高須4兄弟の競演めいているが、
逆に斉昭の二人の息子(慶篤、慶喜)の頼りなさが余計に目立つ
慶喜は生母が、家慶の正室の姉妹ということもあって、
家慶が特に関心を持ったで実際以上に優秀と思われたのではないかと思う節がある。
優秀ではあっただろうけど、強引に将軍職に就けるほどだったかはと思う。
184 :
28:2008/06/29(日) 12:47:19
>>173氏へは
>>180氏が答えていますが、
家斉が一橋家から宗家を継いで将軍になってから、三卿等徳川一門は、一橋血流
で占められました。しかし次代になったころは、肝心の一橋の正嫡が絶えて養子相続
となってしまいました。水戸家出身の慶喜が、一橋家を継いだのもその一例です。
この慶喜の一橋相続は異例ですね! 同じ三卿田安家あたりに、人がいなかったのでしょう!
後の話しになりますが、15代将軍となった慶喜は、水戸家出身のゆえに本家筋(田安)の家達に
宗家を相続させている。
尾張は、その分家の連枝(高須、しかし水戸系)から、本家を順当に相続しただけ。
紀州も家斉系養子が藩主を勤めており、その連枝(西条家)しかストックがなかった状態です。
185 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 12:47:26
将軍家ではなくても
親藩から男系養子を迎えた外様譜代っていないのだろうか?
>>185 大量におる。
有名どころだと松平定信の息子で真田幸貫とか、松平定信の息子の
松平定永の息子で板倉勝静とか。
187 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 18:13:51
>>150 >>増上寺に掲げられている徳川家系図では宗尹が完尹になってるな。
>>綱吉が網吉、家治が家冶になってますね
それほんとうの話?
徳川将軍家の菩提寺でわかには信じられん…
もしほんとうなら、コントのような間違え方だ…
まるでウケを狙っているような…
188 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 18:32:08
このスレって、事実の後追いばかりで、2ちゃんに醍醐味である想像力に欠ける気がする。
調べれば誰でもわかる事実をぺダンティックに並べ立ててもなァ。
荒らしや叩きに見舞われないのは結構なことだが、
それだけ独創性に欠けるんじゃないか?
189 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 19:16:24
>>188 そうですか? むしろ勝手な妄想が無くて、いいと思いますけれどね
それに皆さんそれなりに仮説を述べていらっしゃるし、
「調べれば誰にでもわかる」とはいっても、その気にならなければ調べないで
しょうし、何より検証が可能ということは歴史を語る上では大切ですよ
こういう雰囲気が荒らしを遠ざけているんだと思います
歴史を語る楽しさにあふれたスレだと思いますね。他のスレがどうかというよ
り、このスレのこの個性は大切だと思いますよ
>>185 尾張家からだと、8代宗勝が子沢山で、内藤家や井上家に養子を出しています
。。。本家の血統が途絶えた後も、内藤家に残っているんですよね
それを考えると、心中複雑ですが
190 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 19:37:15
>>158 >>一橋2代目の治済は側室の子なのにどうして宗尹というか幕府は摂関家出身の正室の子を越前なんかに二人もやったんだ?不思議でたまらない。
>>正室の子が2代目継いでおけば家治の後は重富になっただろうに。
>>側室腹は賤しいんだから一番最後にするべきだと思うが江戸時代になると男系だけ重視で嫡庶は関係ないのか?
これは後世から歴史を眺めてる、我々現代人の感想なんでしょうね。
当時の人は、一橋家が将軍を継承する家になることを知らない。
だから一橋家の家格はさほど高くない。
越前のような大藩の跡を取るのだから、
摂家との間にできた嫡子を送るのは当然だと映ったのでは?
むしろ、越前家ほどの家に養子を送るのに、摂家との嫡子がいるなかで
側室との子など送れる雰囲気ではなかったのでは?
将軍を出す前の一橋家に越前とつりあう家格があったとは思えません。
むしろ治済は内心、大喜びだったのでは?
191 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 19:47:52
かなりうなずける意見だけど、揚げ足とって悪いんだが
治済じゃなくて、宗尹
治済は兄たちが家を出て行ったことで、7歳で家督を継げたわけだけど、長ず
るにしたがって、危機感を感じたんじゃあないでしょうかね
よく一橋民部卿の陰謀などと言われて、己の血統で幕府や親藩を支配した、
なんて見るけれど、相続時の脆弱さゆえの行動じゃないかな、なんて想像
します
>>158 >>江戸時代になると男系だけ重視で嫡庶は関係ないのか?
むしろ嫡庶が重視されたからこそ、越前家に嫡子を送ったのかな
大事な嫡子だからこそ、越前家に送ったという。。。
まぁ、その時期は一橋家から将軍が出る芽などなかった時期ですから
前途のない一橋家に嫡子を残すのはかえって残酷なような
足利将軍家の弟たちに比べたらマシだよ
お寺に入られたんだよ
そのことを想像してごらんよ?
194 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:04:35
>>189 内藤家には尾張家の血は残っていない。
養子に行った長好は子を残さずに早世し、政脩は子の政和が早世して途絶えている。
尾張家の血が残っているのは井上家と永井家。
195 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:12:20
秀忠の幼名は長丸だろ
治済には,かなりの危機感があったと思われるし,その危機感は小説のネタにもなっている。
誰が見ても,治済やその子孫の立場は脆いものなのだろう。
自分の血筋が将軍継承権者から抹消されるという危機感は,自分の兄たちが上から順に養子に出されていることからすれば,当然持つだろう。
兄が自分よりも嫡子として相応しい生まれなのに,養子に出されていることに気付けば,自分が一橋を相続して当然だったとは思えないだろう。
そして,自分は一橋を継げても自分の子孫は兄たち同様に他家へ養子に出され,宗尹を祖とする一橋家は根絶やしされるくらいの危機感はあっただろう。
その危機感の裏返しが,将軍家と田安家乗っ取りへの執念の源か。
しかし,定信も運良く将軍になれていれば,宗尹系を追い出して一橋を乗っ取っていたのだろう。
197 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:29:47
>>190 当時なら、清水→田安→一橋の順序で継承権がある感じだしねえ。
将軍職に縁が無さそうな感じの家督なら、喜ばれて越前家に行くほうが良いという感じかね?
徳川家基が亡くなるまでは、御三卿って盲腸みたいなもんだしなあ。
>>197 盲腸って,使用人筋の幕閣からみれば,主筋なんだけど,無駄飯食い居候家族に見えただろう。
しかし御三卿としては,主の家族扱いから使用人(臣下)へ落とされるのだから良い感じはなかっただろう。
199 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:50:26
正室の子供といえば匡時が悲惨
200 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:55:24
田安家は治察亡きあとも存続。
清水家も一代で絶えたのに存続。
廃絶させなかったからにはそれなりに重要だったのだろう。
家基は強引に殺されてしまったのだろうか?
先日の日本テレビのバラエティでは
田沼以下の誰かが殺したと断定していたようだが…
しかしあの時代に将軍世子を殺せるやつがいるのかねぇ?
たまたま死んだんじゃねえか、とも思えるのだが…
(もちろん暗殺の疑いもあるが、誰が?)
202 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:56:28
>>199 身体が弱かったらしいが、どの程度のものか分からんなあ。
家定くらいなら家督程度は継げる気もするが。
203 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:58:37
>>200 御三卿は、当主がいなくても、使用人は幕府がそのまま面倒見るから、
20年くらい当主不在の場合もある。
205 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:00:00
>>201 殺すとすれば、メリットのある人だろう。
田沼は、それほどメリットもない。
206 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 21:07:40
>>194 すいません、内藤じゃなく、井上、そして永井でした。
うろ覚えでまた恥じかきました。有難うございます
手元に『尾張徳川家系譜』(名古屋業書三篇)があるのに、確認を怠りました
ともかく、尾張で義直血統断絶時には、竹腰睦群、井上正紀(竹腰勝起子)、
内藤政和とそれぞれ宗勝の孫がいたわけで、
彼らは自分のルーツである尾家が、吉宗の血筋で塗りつぶされたことをどう
感じたでしょうねえ。いやね、自分たちが後継になってたかも、というんじゃ
あないんです。世代、年齢的に無理ですからね。以前斉民の箇所でもでました
よね、世代と年齢
ただ自分たちのルーツに対していくばくかの関心はあったのだろうなあとは思
うんですよ
記録が残っていないので、わかりませぬが
彼らみたいな思いをした(はわからぬけど)、ポジションにいた人たちは、江
戸時代には多かったでしょうね
>>203 だからなんのために当主不在の賄料10万石の家の面倒を幕府が見たのか、と。
重きを置かれていたわけだろう?
208 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:21:24
つまりお控えをプールしておく器としてね
209 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:25:19
メカダ、お前うざい。消えろ
210 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:25:27
越前家の凋落ぶりは当時ひどかった。
半知以前、越前家の世子の元服時の官職は少将だったが、その後は侍従にとどまった。
長じてからも極官は従四位下である。
相続、縁組はすべて幕府に支配された。
将軍継承権を持つ家柄から正嫡の重昌を、さらに驚いたことに御控えの重富まで出すには、適当とは言えない。
御三卿が盲腸みたいなものというのは、どうかな?
すでに前スレ後半のレスで検証されているように、史料的には家重かその周辺がそんな位置づけへ意図的に仕向けただけじゃないのか。
吉宗の意志というこのスレ(二代目)前半にあったレスは、年譜的には矛盾があると判明したはず。
みんな吉宗が将軍になる前に経験した、将軍家と御三家世子のバタバタと死んでいった史実を忘れちゃいかんよ。
>>207 御三卿に重きを置いていたんだと思うよ。
実際、御三卿から将軍が出たんだからね。
当時の感覚からいえば将軍を輩出した一橋家と並ぶ田安や清水の断家を
見逃せば、それを意図的に認めたと受け取られてしまう。
御三卿の衰退を見逃すということは
いわば将軍家の実家を軽んじたと思われてしまうわけで
そんな恐ろしいこと、当時の人に絶対、できないよ。
まして跡継ぎがいないから断絶にしよう、
などと口が裂けてもいえないでしょ?
どんな軽微な落ち度で揚げ足を取られるか、当時の公儀は恐怖の的なんだから
212 :
28:2008/06/29(日) 21:38:29
>>158さんの疑問は、前スレからあります。一橋治済の兄たちの養子転出の件。
>>190さんのおっしゃるように、現代から見た後付けの解釈なんでしょう!
結果論として、治済が一橋家に残り同家を相続し、はたまた宗家の相続人(家基)がいなくなり、
豊千代(家斉)が将軍世子へ、治済は将軍実父として権勢を振うことになった。
>>197さんご指摘のように、三卿成立時の三卿(もっとも当時は清水家はなかった)は、
家重・家治(その世子家基)の宗家ラインが磐石だったので、一国一城の大名の方が、
家格が上だとの価値判断があったものだと思います。
213 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:40:27
>目賀田男爵へ
あんた、せっかくなかなかの論客なんだから、
コテハンはよした方がいいと思うよ。
ブヨーのような、心臓に剛毛が生えた奴以外はね。
214 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 21:40:49
メカダって、誰?
そこで問題になるのが清水家
実際に一時収公されてこともあるのに、かろうじて存続したのは、「三」と
いう数にこだわったためでしょうか?
あるいは公子を放り込む適当な先が無いからか
215 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:42:08
213さん、ありがとうございます
アドヴァイスに従いますね
216 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:44:23
家格は越前の方がずっと下。牽強付会はよし方がいい。
>>越前家の凋落ぶりは当時ひどかった。
>>越前家の世子の元服時の官職は少将だったが、その後は侍従にとどまった。
ちょっと待ってくださいよ。
大名の価値を官位だけで測るのは教条的に過ぎるのでは?
なんといっても越前は、石高でいえば尾張・紀州に並ぶ連枝の大藩ですよ。
この家の相続がそれほど軽く扱われたとは思えません。
それに重昌の将軍後継の可能性を説いておられますが
重昌(1743年生)が生まれたとき、
将軍家にはすでに家治(1737年生)がおりました。
この家治の死を期待して、嫡子を自家に残す、というのは
リアルタイムの人の考えとしては不自然だと思います。
自分としては目の前の大藩を襲うことのほうが現実的に輝いてみえたと思います。
218 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:50:28
>>217 徳川重好が生まれた直後に養子出されてるしなあ。
田安にも居ること考えたら、将軍になる可能性は極めて低いしな。
「御三卿」という制度が存続したのは,結果論的に,将軍の血統をプールする器としての価値を見いだされた。
中の人は,将軍の近親者であればよい。
だから田安家から定信は追い出され,謹慎の一橋系が入った
では,だめですかね。
昔何かで読んだのは,吉宗には御三家に対抗する血統のプールという構想はそもそもはなかった。
養子に行きそびれた息子たちが,厄介として実家に残っただけ。
しかい将軍公子だから,低い官位など粗末な扱いは出来なかった。
それが結果的に一橋から将軍が出たことで,血統のプールという利用価値が見いだされた。
220 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:52:22
じゃあ、訊くが、誰の価値判断だ。
越前の方がいいって。
その反対の意見は文献出して裏付け取っていたけどな。
もっと質問を単純化すれば、
御両卿を立てたのは誰だ?幕閣や御三家の顔色をうかがいながら
苦労したのは誰だ?
221 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:07:49
>>217 前スレの>923、>926あたりに対する反証の提示がなければ、
議論を蒸し返す意味ないな。
個人的な価値判断をいくら並べ立てても・・・
>>215 それはいい。
昔、「@結城秀康」ってのもいたな。
悲惨な末路だったしね。
222 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 22:09:17
ともかく御三卿は、越前藩よりも家格、格式ともに上位に位置したのは間違いありません
一橋宗尹が嫡子を越前に送り込んだ件、これを幕府主導の強制などという視点、
これは小説的な陰謀史観的な見方だと感じます。
たしかに重昌を手元に置いておけば、家治が先に死んで、
重昌に将軍位が転がり込んできた可能性もあるにはあったでしょう。
しかし宗尹は、まだ御三卿の御三家に対する優位が確定していないその時期、
かりに家治が死んだとして、どうして次の継嗣が
一橋家から出ると確信することができたのでしょう?
越前家という連枝きっての大藩の継嗣の話が舞い込んできたというのに、
それを断ってまで、兄の田安家や御三家との後継争いに勝てるという確信を
宗尹はいったい、どこから持ったというのでしょう?
もし仮に陰謀の実践があったとしても、それは
将軍後継が現実味を帯びてきた、治済の代からでしょう。
宗尹の代から将軍継嗣を想定していたというのは、現実感を欠きますよ。
224 :
目賀田男爵:2008/06/29(日) 22:14:33
別に一橋よりも越前のほうが格式が上だと思ったんではない。家中厄介だらけではこまるから越前に出したのだ
225 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:17:02
重昌を越前に送り込んだ理由はともかく、弟の息子が将軍になった時
重富がどう思っていたかが気になる。
>>223 将軍継嗣という視点のみで語られているようだが。
宗尹にとって,一橋家を保つということも重要なのではないでしょうか。
重昌を養子に出すということは,嫡子を残さないということですから,宗尹に
とってみれば,一橋家を潰される(自分の血統としての一橋家)と思うのが自
然でしょう。
家格の面で,一橋家が越前家よりも上位であることは事実です。
連枝の大藩だから断りにくい状況になったでしょうが,決して喜ばしいことで
はないでしょう。
>>225 上の方にもレスがあったが,定信状態だったんじゃない。
228 :
215:2008/06/29(日) 22:26:00
222は私ではない〜! 2代目か?
前スレの923、926というのは、この時期吉宗が中風に倒れていて、政策決定
件は家重(あるいは本丸首脳)にあった、とするものですね
しかし、このスレ前半で、一橋の日記や、藩翰譜などをひいて重昌の越前転出
が吉宗の命であるとしたんだけど、年代がおかしいので、誤写か勘違いか
ということで一応の結論を見たわけです
つまり越前転出は、幕府の命である(それを一橋がどうとらえたかわかりま
せんが)
その幕閣は家重(個人か側近かはわかりませんが)主導であると
一橋の日記でわかることは、重昌は吉宗のお気に入りだった、これを一橋と
して誇りにしていたことでしょうね
229 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:28:30
>>225 松平重富・松平治好父子は浪費家だったらしいから、
何かストレスを抱えていたのかも?
>>じゃあ、訊くが、誰の価値判断だ。
>>越前の方がいいって。
江戸時代の価値観として、官位以外に、石高や財力、
こうした即物的なものにも価値を認める傾向があるのは事実ですよ。
将軍の三男の家系だからといって、
将軍後継になる可能性も低い当時の一橋家は
一橋嫡子=越前養子
こういう釣り合いで十分でしょう。
嫡子を渡したのが不思議で仕方がない、というほど
不当なものではないでしょう。
231 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:31:07
越前少将・侍従御父子は浪費家か。一橋ノイローゼだな
232 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:37:22
近視眼的なんだよなあ。
将軍の子は我一人という自我の強い宗尹が自分の代で果たせなかった野望を
子や孫の代に託すのは、想像に難くないだろ。
ロマンチストなんだよなあ。
政治の現実は小説なんかより、よっぽど権謀術数に満ちてるだろうよ。
単眼的なんだよなあ。
延享4年の重昌の越前放出は、同年に起きた田安宗武の登城停止と同じ文脈で
読むべきだろ
233 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:47:37
もっというと、春嶽が来るまで歴代豪奢を極めてたと聞いたが。
234 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:53:15
財力って、あのね・・・
当時越前家の財政は悲惨な状態で、農村の疲弊も甚だしく、逃散も相次いでいる。
宗矩の晩年にはお膝元の福井城下で御用金賦課をめぐって騒擾まで起きている。
大藩って言うけどね、半知以降の越前家は官位や家格だけじゃなく、好んで治政を行うような
状態じゃなかったんだ。
>>230 越前家の石高や財力って,一橋家が借財で首が回らない貧乏大名ならともかく
賄い料10万俵,10万石の一橋家でそんな不自由があるの?
ウチを継ぐより,金持ちに貰われていった方がこの子は幸せになる
なんて,一橋と越前を比べてなるか
どー考えても普通に考えたら越前にやるのは庶子でしょ?
当時だってそれなりの家格の武家は格上に養子やるにしても嫡子は残して庶子やってたよ。
嫡子養子に出した家って一人しかいなかった吉良→上杉くらいじゃないか?
237 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:26:44
高須くらいの小藩なら、上から順に養子に行くだろうけど、
正室の腹に生まれた重昌は謎だなあ。
母親が越前家から来てるとかなら分かるが。
慶喜は嫡子を水戸に継がせて庶子から一橋に養子。
239 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:32:34
>>237 それにしたって分家から本藩を継ぐ場合だよね。
伊予西條→紀伊とか。
240 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:32:34
家重は多病だったしね。
次男重好も生来の病弱。
頼りになりそうなのが家治一人。
これって盤石って言うのかね。
案の定、家治自身は健康体だったが、子は家基一人。
この時代、こんな状態って、むしろメチャ不安定と言えるんじゃない。
241 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:33:07
平安期の天皇家で言えば皇位継承権はあるが極貧で皇族にとどまるか、源氏になって左大臣まで上がるかっていう感じ?
242 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:35:31
一橋家は極貧じゃ無い。
格式は水戸並み収入はまんま入るから同じ10万石の大名より余程良いだろう。
243 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:38:15
一橋自体は、普請工事とかさせられるわけないから、
ある意味公務員なみに気楽だなあ。
244 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:38:26
>>241 越前家では,平安期の左大臣や,大臣に相当する地位までは上がれない
せいぜい,公家の中で中納言級かよくて大納言くらい
245 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:40:10
鷹山も小藩から大藩に養子に行ったが庶子だったよな。
本家筋継ぐ場合は嫡子差し出すだろうが、格下の越前継ぐのにわざわざ嫡子入れるかよ?
246 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:43:20
殿様の家だけに仕える石高って実収の一割も無いよ。
まんま賄として貰えた御三卿は最上級の家?でしょう。
家として確立していたかどうかはともかく。
247 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:43:37
公務員は(忙しいところは除外して)暇は暇なりにやることはあるのだけれど
三卿は何もないです、仕事。挨拶とか付き合いくらい
248 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:44:02
家基の死んだ時、御三卿がなかったら、
誰が11代を継いでいたのかな?
紀伊重倫だとしたら、恐ろしい。
249 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:46:32
多度津藩・七男→福岡藩養子・黒田治高を見ても、そうだよなあ。
家督継いですぐ亡くなったから、福岡藩は大変だったろうが。
250 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:47:36
>>247 領国を持った大名だって、たいして変わりないよ。
政治はほとんど家臣任せって家多いんじゃない。
親政する大名はたまなんで、かえって珍しくて目立つぐらい。
251 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:49:27
>>248 すぐ隠居させられる素行の悪い奴は継がさんでしょう。
252 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:59:21
>>250 それでも大名としての数々の儀礼があって、それこそが仕事なんだけど、
またそれゆえに隠居して政務を執りたがる人もままいるけど
三卿はそれすらなかったからね
宗武のように学問を探究するか、趣味に生きるか、はたまた謀略に生きるか
してないと、アイデンティティが保てないだろうね
まあ憶測ですけれど
越前松平家を過大評価し過ぎてたんじゃないか?
234の記述を読んでみろよ
それに
>>233の
「延享4年の重昌の越前放出は、同年に起きた
田安宗武の登城停止と同じ文脈で読むべき」
というのも説得力がある
家重の政権で将軍後継を守るために
田安・一橋への攻撃があったというのも、頷ける話だ
反論があったらしてみろよ
一般論だけで勝負しようとしてるやつがいるがそれは嵐と同じだぞ
ここは現代常識を語るスレじゃない
当時のことを語るスレなんだ
254 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:15:03
>>250 参勤交代の辛さ、考えてみてよ。
妻子は江戸に留め置かれ(まあ、その分国元で側室とハチャメチャできるが)
治世に失敗すれば、除封、転封、減封の危険にさらされる。
でなくても「ひが事あり」ってわけのわからない難癖つけられて処罰される例も。
隠居後、復帰って、そりゃ世子がなかった場合や前藩主が処分された場合など
緊急避難で、別に藩主の座に恋々としたからとは限んない。
それに営中行事には御三卿だって加わらなきゃならないでしょ。
255 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:23:34
>>251 そりゃ、そうだ。
でも家基が逝った当時8歳の治宝が選ばれて、実父の重倫が権勢振るうかも?
256 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:25:13
徳川治済は、息子の義居を清水家に送り込むのに失敗して、
江戸に近い藩を探してたくらいだから、参勤交代はきついんだろう。
257 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:28:15
>>255 重倫だけ和歌山で厳重に守られて、
治貞が江戸に呼ばれる可能性を感じる。
258 :
28:2008/06/30(月) 00:35:38
>>223氏の見解に賛成したい。
将軍継嗣の問題が現実味を帯びてきたのは、田安家に人がいなくなり(治察、定信)、
清水家にも嗣子がいないことになった治済の代からでしょう。
そして、将軍世子の家基急死(1879)で現実化の流れでしょう。
259 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:39:53
治貞は当時51歳と、46歳の尾張宗睦より高齢だからねえ。
無理っぽい。
尾張は前スレにもあったとおり、ころころ世子が逝っちゃてるし。
水戸は6歳の治紀というより、親父の治保がまだ28歳とバリバリ現役。
でも紀伊の方が血縁近いし。やはり重倫の子、治宝じゃない。
御三卿がなかったら・・・って前提なんで、
田安宗武の娘で家治の養女種姫が正室って強みは活きないけど・・・
260 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:48:38
それはすべて結果論。
多病の家重、前年に生まれた二男重好も生れながらの病弱。
頼りになりそうなのが当時まだ10歳家治ただ一人。
今と違って盤石でも何でもないんだから。
だからね。
宝永〜正徳年間の教訓を当時の連中は生々しく記憶しているさ。
261 :
28:2008/06/30(月) 01:01:13
>>248 >>255 >>259 家基急死のとき(1779年)、もし三卿がなかったら
11代将軍は、血縁が近い紀伊家の治宝でしょうね!
ただ、当時治宝は、紀伊家世子ではあったけど
まだ元服前で藩主にもなってなかった。そこがハンデかな!
262 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 01:05:05
宗尹の次男の仙之助の生没年はいつ?
263 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 01:10:08
264 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 01:10:22
>>261 なるほど。。。
でも、ホントかどうか?はともかく、
家継に万一の時は、五郎太か長富丸に継がせて、吉通か吉宗に後見させよ・・・
って家宣の遺言にあったという話もでるぐらいだがら、
あながち常識外とも言えないかも・・・そんな気がする。
まあ、なんちゃって話なんで、ムキになる必要もないんだけどね。
265 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 02:13:58
どういう事情でも、松平重富・治好の親子は納得いかんだろうなあ。
こちらは生母が側室で向こうは正室とかなら我慢できるが、
同じ母親ならなあ。
親藩・連枝の相続の"法則"さえしっかり把握できれば
当時の武家の発想をかなり明瞭に把握できるという予感はあるのだが
いかんせん、日本の武家には
西欧の相続法にあたるような厳格なルールが見当たらないから…。
日本は天皇家の存在のせいで、織豊政権や徳川幕府のように
どれだけ強力な軍事政権が成立しても、概念としては
政権委任論がつきまとい、西欧、ことにアングロ・サクソン社会のような
強力な所有権が発達しなかった。
したがって、西欧のように戦争を誘発するほど所有権が明確にならない。
それこそ、ときどきの政治状況が相続法の代わりとして機能してしまう。
上記の誰かが指摘していたが、庶出の子が嫡出子を差し置いて
本家を相続してしまう、というような珍事が頻発した。
つまり日本の武家の相続原理は、家格とか石高とか、まして思想などではなく、
あくまでそのときどきの政治状況に過ぎない。
だから武家の相続に思想的な原理を探るのは困難で、
それよりも、そのときどきの物理的な政治背景を探ったほうが早い気がする。
家格の釣り合いが一定のルールとして機能していたのでは?
誕生や死亡を時系列で考えた方がいい。
全然わかっとらんやつがおる。
270 :
28:2008/06/30(月) 11:54:48
治済時代の一橋家は、隆盛を極めましたね!
豊千代(家斉)は11代将軍へ、斉匡は田安家へ、
それに加えてすごいのは、家督相続前に死亡した治国の子斉朝は尾張の殿様。
271 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 14:33:17
名君斉朝様は尾張藩に久々に登場した大物藩主
尾張徳川家というと、どうしてもBSD/OSで有名な徳さんこと義崇さんの印象が強くて、
業界標準体型ネタとかをしたくなってしまうま。
273 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 16:47:39
>>265 重富が越前家を相続した時点(1758年)では、弟の子が将軍になるなんて思わなかっただろうな。
重昌が長生きして重富が一橋家に残っていれば、重富・治好がそのまま治済・家斉の立場になっていたかもしれない。
>>273 しかも重富系の藩主は豪奢を好んで福井藩の財政を悪化させるだけだったというのが
悲しいところ。2万石の加増と多少の家格向上じゃとても割に合わない。
春嶽以前の福井藩は悲惨としかいいようがない。
275 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 20:08:46
重昌が亡くなった時点で、四男の豊之助が越前家に行ってたら、
治好が将軍職だったんだろうなあ。仕方がないこととは言え、そう考えると、納得はいかない。
276 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:30:03
三卿についてこれほど混乱しているのは、創設者吉宗とその子家重、そして
治済と、それぞれが違った思惑で、それぞれの代の三卿を動かし、それに伴
い、性格が変わっていったからでしょうね
僕も調べてみましたが、松平春嶽が『幕儀参考』で三卿を次のように定義して
います
「三卿は、たとへば将軍の庶子をして本丸に置くべきを、第を賜ひて他に住せ
しむ。ゆえに、将軍の厄介と見做して可なりと云ふべし」
また澁澤栄一が『徳川慶喜公伝』で
「三卿の家は起立の初には必ずしも其主を常置すべきものとは定まらず、唯将
軍家の子弟の養はるべき家なき間据置かるべき設なるが如し」
自身が三卿の出であり、重昌と同じ越前を相続した春嶽だけに、説得力があり
後世三卿の定義となったのでしょう
277 :
276:2008/06/30(月) 21:30:24
しかし彼らの言葉もまた、幕末明治での三卿観でしょうね
重昌の越前放出は宗武の登城停止と同じ文脈で読み解くべしと232さんの仰る
通りで、
前スレで指摘されたように、この時吉宗は中風で倒れ寝たきりであり、この
一連の意思決定はあずかり知らぬところ
しかも『藩翰譜』続編では最初重昌ではなく、宗尹にオファーがあったとの由
この宗尹、兄二人は紀州時代の生まれだが自分は違うとのたまったとか
これは家重にとっては宗武の自身への批判と同じくらい不遜な態度に見えたで
しょう
三卿の当主または嫡子の尾張、紀伊、越前家への転出の途を切り開いたのは家
重であり、それは秀忠が忠輝に、家光が忠長にやったことと同じ
(とはいえ、両者にくらべるとだいぶ緩やかですが、これも時代の変化でしょう)
吉宗としては自身の血統で新たな藩屏を作るつもりだったでしょう。正徳享保の
いざこざ、わだかまりを身をもって体験したのですから
しかし家重にすれば自分の子二人が徳川にいればよいのであって、反りのあわな
い弟は邪魔
治済が一橋を継いだのが家重死後というのも、時代の変化、力場の変化をもの
がたってます
278 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 22:49:31
治済は祖父の吉宗と境遇が似ているな。
二人とも御三家(御三卿)の四男坊から幸運が重なって将軍(将軍の父)の座を手に入れている。
279 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 22:59:47
>>278 治済は権謀術数を駆使したのか、それとも幸運だったのか…
280 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:02:47
>>279 兄貴の越前行きとかは関係ないけど、
定信の白河行きや田沼失脚は権謀術数使ったんだろう。
281 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:26:07
定信と田沼は権謀術数だろうが家基の死は幸運。
家基の死が毒殺なら吉通や家継も疑わなくていけない。
282 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:26:42
日テレの番組でも家基暗殺の黒幕的な描かれ方してた
しまいには尊号一件で定信すら失脚させているし。
陰謀論は嫌いだけど、間違いなく陰謀家でしょ。
284 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:05:16
治済は宝暦元年(1751)年生まれですから、
重昌が越前に行った時はまだ生まれておらず、重富の時はわずか8歳
そして自身家督を継いだのが14歳の時 幼くはないですが、若年です
田安家の次男定国が久松松平(松山藩)に養子に行ったのが明和3年(1766)
で、治済は16歳
定信が久松松平(白河藩)に養子に行ったのが安永3年(1774)で、治済は
25歳
彼が謀略をめぐらしたとすれば、多分この時からでしょう
家基が18歳で急死したのはその5年後の安永8年です
ただ281さんも書いているとおり、彼の死が暗殺であるかどうかはワカリマセン
285 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:26:52
治済が間違いなく陰謀というか、幕政人事に関わった証拠が残っているのは、
定信政権樹立の時で、
徳川林政史研究所の深井雅海さんの論文「天明末年における将軍実父一橋治済
の政治的役割」(『金鯱叢書史学美術史論文集第九輯』)によれば
林政史研究所に治済の書簡が保管されており、田沼派を駆逐し、定信を推挙す
するために三家当主や側用人らに盛んに働きかけたことがうかがわれるらしい
ただこの本、図書館くらいにしかないので、今度確認してみます
286 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:33:48
安永3年は24歳じゃな
数えだから、満では21、2か
陰謀巡らすにはちと若いかもね
定信の7つ上だから、定信老中就任時には37
やはり陰謀巡らせたのはこの頃から、かな
287 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:35:36
ゴメン
数えの24は満では22、3だった
歴代の血統がつながらなくなる御三卿は家といえるのか?
部屋住みでもない。無理矢理すぎ。
289 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:03:28
小説にするんだったら定信転出のころの治済は「明日は我が身」
ということで、田安家存続のために奔走する、という設定にしたいなあ。
そのころの一橋はライバル断絶を喜ぶ余裕なんてなかっただろうし。
そんときの治済の行動が、反田沼で定信との共闘や、
治匡の田安家相続につながった。ということにする。
290 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:25:23
みんな中期の御三家御三卿、越前ネタ好きですね
自分は前期の基礎固めの転がす気ですが、あくまでifですが
忠直や忠長がもうちょっとまともだったらどうなっていたとか
御両典の立場とか
駿河家が残っておれば
将軍後継の最有力候補になれたのだろうか?
必ずしもそうではないと思う。
駿河は秀忠から出ているので、親等が中途半端なのだ。
家光の時代、将軍に近い親等なら御両典のほうが近いし、
家康の権威を求めるなら御三家になってしまう。
案外、駿河は越前化して、減封されつつ推移していくような…
忠長は大封をもらいすぎたから…
292 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 11:04:02
>>291 正室の子、織田・浅井の血、家康ゆかりの地
これはセールスポイントにならないのだろうか?
293 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 12:45:25
忠長の正室は織田家から来ているがその頃にはもう力無くしていたのに
なぜだろう
普通なら公家か大藩から迎えそうなのだが
294 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 12:53:57
>>293 ・お江与の希望
・織田信長からの政権委譲イベント
それよりも忠吉や信吉が長生きしてればどうだったか。
義直ですら徳川姓ではなかったかもしれない。
小笠原の代わりに九州の抑えでもやっていたかもしれない。
兄に続いて平岩親吉の養子かもしれない。
296 :
エビフリャー:2008/07/01(火) 16:12:13
タモリ鉄道博物館
・名古屋市営地下鉄の車内搭載発車促進メロディーはフジテレビ系「なるほど・ザ・ワールド」の時間切れ前警報音を参考にして考案されたものです。
・ドレミファモーター(京浜急行)は芸能界の鉄道ファンタモリさんがテレビ朝日系「タモリ倶楽部」の中でで考案しました。
・名鉄パノラマカー7000系の発車音・走行音・減速音・停止音は日本テレビ系「欽ちゃんの仮装大賞」の不合格の時の効果音に似ている。
・西鉄のnimocaは歌手でタレントで倖田來未の実妹であるmisonoさんが考案したのもです。
タモリ空耳アワー
・高校三年生: あ、あー、あ、あ、あー 合ーコン三年生ーーーーーーーーーー
タモリさん名古屋大好き
・タモリさんはエビフリャーの名付け親です。
・タモリさんは日本の中で名古屋が一番好きであり、且つ地元の人以上に名古屋の文化や風習に詳しい人です。
・タモリさんは自分の第2のふるさとは名古屋であると言っており、将来名古屋市役所から名古屋親善大使として任命されると思います。
297 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 17:35:17
>>295 忠吉は東条松平を、信吉は武田家を継いでるから徳川復帰は無理。
むしろ仙千代、松千代が夭折しなかった場合が気になる。
298 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 17:52:27
家康の子を孕んだ側室を正妻に押し付けられた豪商がいたが、義直、頼房、頼宣の中に下手をするとそういう扱いになる子も出たかもしれない
299 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:01:19
兄を差し置いて光圀が何故に二代藩主になったの?
300 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:18:31
>>295 官位は忠輝より年下の義直、頼宣が上になってたから御三家の優遇は
変わらなかったかもね。
家康も年をとってからの子供は可愛かったのだろう。
301 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:19:13
それぐらい自分で調べろよ
ちょっと検索すればすぐ出てくんだろが
302 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:24:31
>>299 義直、頼宣に男子がいないのを憚ったらしいが、
結城秀康のように性格が気に入らなかったとも考えられる。
303 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:35:57
吉井松平もここで良いのかな。
吉井松平って,何で大廊下下之部屋に入れる程,家格だけは高かったんでしょうか。
関白の息子で家光義弟の鷹司信平から始まる家だけど,大名になったときには3代目で,途中に紀伊家から養子が入ってるし。
他の御三家連枝や越智松平よりも,詰席だけは高いんですよね。
304 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 23:54:21
>>303 鷹司松平の初代信平は、
家光とは冷めた関係だったとはいえ、一応正室だった孝子の弟。
父は関白鷹司信房。
兄弟の関白信尚には後陽成天皇の娘清子内親王が嫁いでいる。
つまり血の繋がりはなくても天皇家、将軍家の縁者。
自身は紀伊藩祖頼宣の娘を室にしている。
万石未満で従四位下左近衛少将に昇ったのも紀州の婿になってから。
官位だけみれば高家にも例があるとはいえ、大廊下詰めは格別。
10万石の格式を与えらたという万石未満の喜連川氏だって無位無席。
(参勤交代がなかったから)
やはり貴種ゆえの厚遇ではないか。
喜連川は参勤交代あったんじゃない?
たしか旗本のなかにも参勤交代をする者がいるらしくて
そのなかのひとりじゃなかったっけ?
天下人となった徳川家康も、
武家の名門である足利家の流れをくむ喜連川足利家
(国明の次代頼氏から喜連川氏に改姓)を重視し、
喜連川藩を創設したうえで四千五百石(後に五千石)に加増、
さらに十万石の大名家の格式である左馬頭を名乗ることを認めた。
その上、参勤交代を免除、藩主の正室も喜連川に住むことを認めた。
これは、武家の名門である足利氏を優遇し主従関係ではなく、
同格の客分扱いとすることで徳川氏の権威付けに
利用する意図があったものと考えられる。
江戸時代の大名どもの家格基準は
血縁、官位、石高、これらの混合物で
この三者のなかで突出したものは無い、と、これでよろしいか?
それともこの中で、頭ひとつ飛びぬけた価値観があったのでしょうか?
308 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 16:37:20
つまり喜連川藩は徳川幕府の枠外でありある意味本当の「制外の家」だったと
いうことでしょうか?
309 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:09:01
>>307 前田家→戦国後期の成り上がり
島津家→伝統があるが、中央と血縁的に疎遠
伊達家→伝統そこそこ、実高は100から説によっては200万石
どれがいいのだろうね。スレ違いだが
310 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:09:31
そんなものは無い。あくまで徳川幕藩体制の権威付けに利用する刺身のツマみたいなものだ
>>309 維新前後だと
前田氏 存在感皆無
伊達氏 ドンゴリ
なので、比較しようもないけどな。
312 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:12:23
伊達で思い出したが、本当に政宗は忠輝を担ぎ出すつもりだったのだろうか?
秀忠後期・家光時代を見るとえらく親幕府的で疑問に思うのだが
313 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:33:02
年取って丸くなっただけではと思う。
直接天下狙うくらいなら、すりよって寄生した方がおいしいと考えたのだろう。
伊達騒動がなければかなりの隆盛を極められたかも知れん。
だからこそ潰されたが。幕閣はこわいねぇ
314 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 18:45:52
まあ
残躯天所赦
不楽是如何
ってことなんだろう
315 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 18:50:01
喜連川は,参勤交代を命じられていなかったが,“自主的に”正月のみ参府する参勤交代をしてたと思う。
忠輝や忠長には,本当に子孫はいなかったのだろうか。
小説じゃなくて。
316 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:41:56
家康は子作り上手いけど、子孫数代は結構みんな苦労しているんだよね。
側室の数の割には出来た子供の数は少ない。
317 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:44:36
スレチな質問で申し訳ないが、喜連川には江戸屋敷があったのでしょうか?
318 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:47:19
>>317 歴史読本の旗本特集で,誰か親戚に屋敷に泊まっていたと読んだような・・・
ん,これは岩松だったかな。
うら覚えですまん。
>>316 結城秀康のような出来た子を自分から遠ざけちゃっているというのもある罠。
ふと思ったけど、家康が自分よか秀康が長生きしていたらどうなるのかを
考えていなかったのかな?
320 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:02:28
秀康が本当に梅毒なら、ある程度家康としても息子の寿命がわかって行動できただろうね。
逆に考えると、家康あるいは秀忠による毒殺の可能性もやっぱりあるのかなと思ってしまうが。
親豊臣家なのは家康もわかっていただろうし
家康にとってはやっかいなことこの上ないものなぁ。
もし越前75万石が表立って秀頼についたら、史実では家康の犬に成り下がっていた
福島正則だって秀頼につく可能性があるわけだし、それを基点に徳川方を切り崩すのは
不可能ではなくなるし。
322 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:38:39
>>317 喜連川藩は江戸城の詰席が無席ではあるが、上屋敷は下谷池之端
にあった模様
それよりも、伺候席が無かったので、正月等に登城した際に、公方様が出座
するまでの間はどこに控えていたのだろうか。
客分との性格ある藩なので大広間程度が妥当と思うのだが・・・
懇意の御坊主の部屋で休息していたのかも??
>>322 仮にも10万石格の大名にそれは失礼すぎではないかと…
324 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:10:34
>>320 鼻がもげて湿布かなんか貼って隠してたら家康に「隠すな」って怒られたというエピソードはあるけど本当かどうか怪しいね。
あと死の2年前に子供が生まれてるが、梅毒だったのによくやるな
325 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:34:14
>>324 そうか!梅毒だったら普通末期には、性器が腫れまくる
それに当時ですら性病とおぼろげながらわかっているだろう。そうなると
秀康は実は梅毒ではなかったのではないか?
って推論してみましたがいかがでしょう?
326 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:54:34
>>320 越前結城の動向は,秀康個人の思考も重要ですが,家臣団の構成も重要だと思
います。
家臣団の中核に,秀康が召し抱えた家臣が多ければ秀康の意図通りになったで
しょうし,逆に家康が付けた徳川家家臣出身者が中核であれば,秀康の志向よ
りも,家康の意向に従ったでしょう。
結局は,越前結城が徳川からどれだけ独立した大名であったか否かによると思
います。
327 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:56:48
越前家は藩祖秀康を始め、問題のある人物ばかりで何度も改易・減封されてるイメージが強い。
福井藩なんて藩主が自殺するわ、一橋家の嫡子の追い出し先にされるわ悲惨極まりない。
328 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 22:08:20
>>327 確かに越前家は,時代を経るに従ってジリ貧てイメージだな。
ただ御三家よりは分家が広がってるイメージはある。
それも分割相続みたいに,けっこうな石高をもらって。
越前家とその分家の石高を足すと100万石位いかないか。
329 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 22:11:38
一橋徳川宗尹の長男松平重昌(母一条氏)1747年越前家に養子
一橋徳川宗尹の次男松平重富(母側室)1748年誕生、1758年越前家に養子
正室の生んだ長男は一人っ子の時点で養子に出されていた。
>>328 なのに春嶽で時代の寵児に返り咲くのが面白い。まあ、田安家からの養子だけど。
331 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 22:41:07
>>330 スレチというか,行き過ぎちゃう話だけど。
表舞台に返り咲いても,爵位は初め伯爵で,維新の功は考慮なかったみたいね。
でも,後に侯爵へ陞爵してるんだな。
侯爵は,御三家並。
332 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:01:40
>>328 越前家は分家が広がったといっても、ほとんど自腹を切って、つまり本領を分け与える
形の分知だ。
対して御三家の連枝は本家からの分与ではなく、幕府から新たに領地を拝領する新知。
御控えでもない頼方(吉宗)さえ新知拝領だった。
水戸だけが当初自腹を切って頼隆、頼貞に分与していたが、光圀の死後元禄14年に
幕府から新知拝領となっている。
つまり越前家の場合、分家の繁殖がそのまま本家の衰退になっている。
>>331 まあ、明治時代の爵位だと、徳川慶喜が別家を立てて公爵もらっちゃうぐらいだからなぁ…
水戸家も後に公爵もらっているし。
334 :
28:2008/07/02(水) 23:13:05
>>329 三卿の家格が、我々が想定しているような御三卿になったのは、
治済以降だと思う。
それ以前は、部屋住みに毛が生えたような存在では!?
徳川姓を称することができる特殊な部屋住み程度ではなかったのでは、
ないか!?と思う。
そう解しないと、治済の兄たちの養子転出が解せない。
335 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:22:50
>>334 329ではないが
御三卿は,お控えであり部屋住みだと私も思う。
しかし,部屋住みの身で正妻を迎えているんですね。
妻を娶るということは,家を構えたという意味になるのでは・・・
336 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:46:55
歴史はもっと深く読むべきだと思うよ。
田沼意次の舅伊丹直賢は一橋宗尹の家老。
弟の意誠は早くから小五郎(宗尹)の小姓になり、
家重の小姓だった意次の出世(御側御用取次になる前から
田沼と岩本正時ら家重側近グループが政治的な野心には淡泊な大岡忠光に代わって
若くして政治を主導していた)伴って家老にまで昇りつめている。
(意誠の子、意致も一橋家家老になっている)
しかし御三卿の家老など主だった人事権は一橋家にはなく、幕府が握っていた。
この伊丹直賢→田沼意誠の時代の間に、一橋重昌、重富兄弟の越前飛ばしが起きている。
田沼一族に連携がなかったとは考えにくい。
337 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:57:06
>>335 それも摂関家からね。
延享3年には、それまでの禄米支給ではなく、10万石相当の封地を与えられている。
ただ各地に分散していて、藩としては成立していないだけ。
338 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:13:56
御三卿の家老職は老中輩下の幕臣だからな。
いわば付家老みたいなもんさ。
339 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:30:47
340 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:38:54
>>331 春嶽の「維新の功」って何?
彼は公武合体派。
倒幕派には邪魔な存在だった。
爵位はわりとよくわかんないところがあるな
木戸・大久保の遺児に父の功を以って侯爵
でも同時に、伊藤たち現役バリバリは伯爵にしかなってないんだよね
>>341 現役バリバリだから目の前のにんじんってことで陞爵する余地を残したって
ことじゃない?
爵位は置いとくとしても、明治政府は三条実美の正一位の生前叙任なんていう、
秀吉も家康もなしえていない1100年ぶりの叙任をやらかしているのはなぁ。
343 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 04:29:16
>>336氏
276氏のレスを読んでみてください。
■以下、松平春嶽『幕儀参考』より意訳
『御三卿というものは、もともと将軍の庶子として本丸に住むべきところを、
あえて屋敷を与え、大名の体裁を整えたものに過ぎない。
その本質は将軍家の居候とでもいうべきものだ』
■また以下、澁澤栄一『徳川慶喜公伝』の意訳
『御三卿の家は設立当初、(他の大名のように)必ずしも
絶対に置かねばならない家ではなかった。
ただ将軍家の庶子が養子先をみつけるまでの間、
養っておくだけの家に過ぎない』
以上、御三卿の本質は大名というよりも、まさしく
大名の体裁を整えただけの部屋住に過ぎないものと認識すべきです。
一橋嫡子の越前入りが後世の我々からみて、
いかにも訳ありに見えてしまうのは
「一橋家はのちに将軍を出す家なのに」という先入観が
つよく作用しているだけだと思えてなりません。
もしかりに幕末まで、一橋家から将軍が出なかったとしましょう。
この場合、宗尹の嫡子が越前へ養子に行ったからとて
そこまで不自然を感じるものでしょうか?
むしろ限りなく自然な、あたりまえの光景に写ってくると思います。
やはり宗尹期の一橋家は、養子待機を目的とした家とみるべきで
治済以降の陰謀の家風を、宗尹まで遡らせて当てはめるのは違うと思います。
むしろ276氏の説のように、
御三卿は将軍本家の嗣子が途絶えてから変質したとみるのが妥当かと思います。
吉宗は長男家重にアテノーゼ型脳性麻痺の症状があったため
万一に備えて弟2人は通常の大名として独立させず江戸に留置いた。
大名として独立させるには将軍実子として相応の石高を与える必要があり
封地十万石を与えられたが、大名ではなく城はもたず
将軍家の部屋住で家老などの重臣は幕府から派遣されていた。
吉宗は将軍家重の嫡子(後の十代将軍家治)が生まれた元文二年(1737年)に
「将軍のスペア」としての御三卿の役目を終えたと判断、
通常の大名のように相続させる考えは薄く
延享四年(1747年)に一橋宗尹を越前松平家に養子に出そうとしている。
この話は養子先の当主と宗尹が六歳しか違わず年齢不相応として
宗尹の嫡子小五郎を代わりに養子(小五郎は若くして亡くなり
弟が兄の養子となる形で同家を継いだ)に出し、
田安家からは伊予松平家、白河松平家、筑前黒田家へ養子に出された。
幕府は養子に行けず家督を継ぐ者が残っているなら
相続させる程度の考えのように思う。
病弱な兄治察が安永三年(1774年)に亡くなると
徳川定信はすでに決まっていた白河松平家の養子への件を取り消して
田安家を継ぐ運動を約一年以上展開したが幕府は取り合わず
養家の催促で定信はやむなく養子に行った。
幕府の立場から考えれば将軍実弟の清水家は別格として残り
二家の存続理由が薄くなり十万石を与えておくのは
無駄な出費と感じていたのだろう。
350 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 08:59:56
後の世では将軍位を狙う一橋が田沼と組み将軍家治に説き
将軍候補で聡明(寛政の改革を評価する人の評価の可能性が高い)と
評された定信が将軍の座に就けば退けられることを怖れて
養子に出したと言う説もある。
しかし、田沼意次らは吉宗の御議定(思召のこと)に従い
相続人がいなくなった時点で廃邸にしただけである。
通常の大名とは異なり御三卿の家来は大半が幕府から派遣された
旗本のため御取潰しによる浪人の発生は少ない。
351 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 09:01:28
吉宗の孫は他家へ養子に行った三名を含めると六名もおり
孫世代から養子を選べば孫同士で争いが起こる可能性がある。
唯一の曾孫の豊千代を選んだ可能性が高い。
当時の噂では大奥から一橋家治済の室になったお富の方が
一橋家に移って九ヵ月後に豊千代を産んだことから
本当は家治の実子と考えられていたようだ。
352 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 09:22:40
おまいらがなるとするなら、御三家御三卿、連枝の中でどこになりたい?
御三卿が良いよ。
参勤もなく、江戸で風流を愛でながら暮らす。
美の壺のような生活。
354 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 11:49:26
御三卿が一番気楽だわな。
藩政に悩まされることもなく、御三家並の生活ができるし。
355 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 12:01:18
参勤交代たのしそうじゃん。
途中の景色観ながらゆっくり旅気分で
京都で遊廓行ったり、舟のったり
やっぱ高松藩だな
356 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 13:31:17
>>355 籠の中でも相当疲れるんだが。
毎日違う宿に泊まるのも睡眠不足になる。体力的にかなりきついよ。
357 :
高倉相模:2008/07/03(木) 13:37:11
毎日本陣でどんちゃん騒ぎする馬鹿大名もいた
東北だと喜連川にタカられるしな。
迂回すると江戸まで追っかけてきて嫌味言われるし。
359 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 13:54:42
喜連川の嫌味の話って本当なのかね?
常識から考えてありえないと思うんだけど…
360 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 14:47:04
もとをたどれば主君だし
361 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 15:04:33
>>356 馬には乗れなかったの?
四国、九州の大名は大坂から船だから快適だったろうね
喜連川なんて基氏系の小弓公方で傍系もいいところやん。
なんで義輝や義昭の息子を召し出さなかったんだろ?
363 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 15:09:15
>>356 ズーと籠にいるわけじゃあるまい。
籠に乗るのは城下/宿場/町家前からと聞く。
あとは馬など。
364 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 15:26:24
数万石の大名だとどれが一般的に経済が楽なのだろう?
・親藩 本家から仕送りがある、だけど格式維持に金がかかる
・譜代 役得がある、でも役損もある
・外様 負担は少ないがあても少ない
365 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 16:36:17
366 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 16:56:53
>>364 幕府からの普請工事の有無も巨額なだけに財政を考えるに影響大。
しかもいつくるか分からない天変地異災害みたいなものだからね。
367 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 17:12:57
>>364 外様だと思う一番財政が楽なのは
数万石の外様は参勤交代を財政難を理由に逃れられたからね。
368 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 19:24:27
>>348 宗武,宗尹は,重好が生まれた年(1945)には参議に任じられてるよ。
従三位参議だと養子先は,御三家か加賀しかないじゃないの。
369 :
家茂の守役老中・脇坂安宅:2008/07/03(木) 19:30:32
拙者は大名でござる。左様なことは存じませぬ
370 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 21:54:12
越前家は「制外の家」なんて言われてるが肝心の秀康の男系子孫は早々に途絶えてるんだよね。
しかも越前家の話題は重昌の養子入りや春嶽の活躍ばかりだし。
371 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 23:31:36
372 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 02:08:07
373 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 11:03:16
374 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 14:57:09
紀州徳川が少ないな
紀州で思い出したんだけど。
紀州から将軍家養子に行った家茂の後、連枝から紀州家を継いだ茂承の正室
伏見宮家出身の倫宮則子女王が実は家茂(慶福)の許嫁だったって本当かな。
ネットで見かけた情報だからガセかもしれないんだけど、
何でも慶福と婚約していたものの慶福が将軍となったことで婚姻が延期、
安政六年八月、和宮(皇女)降嫁問題が起こり婚約が破棄されたのだそうだ。
調べてみると紀州家十二代までで伏見宮家出身の正室は、養女を含め三人。
十一代、十二代は清水家の三代、五代で間の四代斉明正室も伏見宮家出身。
(教宮英子女王、倫宮の叔母。ついでに言うなら清水家初代正室も伏見宮家)
ちなみに当時の一橋家当主慶喜の義祖母徳信院も伏見宮家出身で倫宮叔母。
安政五年、家茂将軍家養子入り当時、家茂十三歳、倫宮九歳。
家茂紀州家相続が嘉永二年、家茂(当時菊千代)四歳、倫宮出生は嘉永三年。
婚約説が本当なら家茂が幼少で紀州家当主になった為だと思うんだけど、
果たしてどうなんだろう、この婚約。
376 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 10:17:14
>>375 事実でしょう。
家茂と和宮は公武合体のための政略結婚。
そのせいで和宮も有栖川宮熾仁親王との婚約が破棄されている。
政略の道具にすぎなかったから、慶福から茂承への差し替えは
驚きでも不思議でも何でもないでしょ。
紀伊家と伏見宮の繋がりは確かに深い。
光貞、吉宗、宗将、茂承の正室に加え、家重、清水重好の正室も伏見宮だ。
紀伊綱教と甲府綱豊が将軍位を争った時も、皇位継承をめぐる朝廷内の対立もからんで、
当時の邦永親王(祖父の妹が紀伊光貞の室)は前関白一条兼輝(正室が紀伊光貞の娘)
らとともに霊元上皇派につき、
東山天皇派で甲府綱豊の舅である関白近衛基熈に対抗して紀州に肩入れしている。
377 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 11:17:32
>>373 まったく噴飯モノだな。
どうせコピぺするなら、もっとマシなところから引くべきだよな。
「大御所吉宗は将軍家重の嫡子(後の十代将軍家治)が生まれた元文二年(1737年)時点で
「将軍のスペア」としての役目を終えたと判断した。
通常の大名のように相続させる考えは薄く延享四年(1747年)に一橋宗尹を越前松平家に
養子に出そうとしている」・・・なんて、バッカじゃねえと思う。
元文2年っていえば、まだ尾張宗春だって健在だぜ。
吉宗自身、家重、宗武、宗尹以外は男子3人が死んでいる。
しかも宝永・正徳年間に紀伊綱教・頼職の相次ぐ兄弟の死、尾張吉通・五郎太父子の死、
水戸に至っては世子吉孚以下男子7人が夭折し、
そして将軍家では、家宣の息子ら(家継、家千代、大五郎、虎吉ほか1名)がバタバタ逝っちゃってる。
多病の家重に嫡子がたった一人誕生したからといって、無事生育する保障なんてなんもない時点で、
もう「将軍のスペア」はいらねえー、なんて、尾張との確執に苦闘し、血のスペアはいくらあっても
安心できないという現実を経験してきた吉宗が暢気に考えるワケないだろ。
つーか、延享4年はすでに政権交代したあと、老中も全員刷新され、当の吉宗は中風に倒れていたんだろ。
>>344 >276氏のレス引用すんなら、都合のいい部分だけ引っ張ってこないで、>276氏が>277で出している結論まで
ちゃんと書かなきゃ、失礼だぞ!
378 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 13:03:19
将軍家の側室制度には二つの説があるけどどうなんだろう?
・朝廷の影響力を恐れて正室と作らないのは暗黙の了解。身分の低い側室
に生ませることによって、母系の家がしゃしゃり出ることを防ぐことが出来た。
・身分も学も無い側室だからこそ、野心に走り大奥制度の腐敗、浪費、国母としての
介入が起きた。
379 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 13:54:01
確かに御台所を母に持つ将軍は家光のみだが、
家治正室の心観院や家斉正室の広大院には実子がいるわけだから、
正室と子供を作らないというルールはない。
380 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 14:33:23
>>378 スレチな匂いがするけど・・・
正室を、というより、朝廷や公家が外戚となって勢威をふるうことを警戒してのことだろう。
家光が六条宰相有純卿の娘である側室お万の方を寵愛するあまり、酒井忠勝が懐妊を禁じたという逸話や
春日局や桂昌院がそれぞれ家光、綱吉の鷹司孝子や信子との接触を忌避したという話からもうなづけるけど、
朝幕関係が緊張状態にあった頃のことで、家宣以降はそうでもないと思うよ。
この時期、大奥自体の京風化も進んでいる。
家宣と正室近衛熈子の間には子ができているし、正室ではないが家治は家重と梅渓中納言通条卿の娘お幸の方との子だ。
特に家治の閑院宮直仁親王の娘五十宮との親密ぶりは有名だしね。
ただ、武家上がりの大奥女中団から見れば、ルールというより伝統として、公家忌避の思いは引き継がれていただろうね。
381 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 15:04:23
そういえば、黄門様が養子の綱條のために自分と同じように近衛の姫を
貰おうとしたら、近衛から断られた。
仕方なく今出川右府の娘を貰うことにしたその後、近衛は甲府綱豊に姫を
嫁がせた。
黄門様はひどく怒ったそうだが、近衛にしてみれば水戸より甲府にメがあると
踏んだのだろうね。
>>381 天英院の父近衛基熙は甲府家に嫁に出すのも不満だったらしく
一門の分家の養女にしてわざわざ家格を落としてから嫁がせてたりw
>>376 トンです。
なるほど、ありえるのか。
出来れば婚約成立の時期とか知りたいんだけど、何せ出典不明だからなあ。
384 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 16:57:18
安政5年(1858年)、家茂がまだ紀伊藩主だった時に倫宮則子との婚約が成立していうそうです。
(中江克己著「徳川将軍の意外なウラ事情」PHP文庫)
近衛基熙が12ぐらいの時に天英院って生まれたのね
当時としてもすごく早いんじゃないか、これ
>>384 おお、これまたトンです。
安政五年って言うと将軍家養子入り直前だね。それが翌年にはもう破談か。
387 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 20:23:29
>>376 東山天皇の皇太子の座をめぐって、霊元上皇と東山天皇が対立し、
近衛と一条ら摂関家同士も争っていた事実は、
近世の朝幕関係史に詳しい久保貴子女史らの研究でも明らかにされているが、
これに紀伊と甲府の将軍家継嗣争いがからまっていたって本当かな?
幕政に、それも将軍の跡目というデリケートな問題に朝廷や公家が介入するのは、
当時はまだタブーだったんじゃないか?
388 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 20:44:01
>>385 天英院は家宣と同じ年生まれ説があるが、1666年説が有力
389 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 20:48:18
そういや天英院が吉宗を支持してるって話があったな。
尾張継友は天英院の姪婿だからまずありえないが。
390 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:07:39
>>389 吉宗に「家宣の遺言だから・・・」と勧めたっていうんだろ。
少なくとも天英院の本意じゃあなかったろうね。
ただ遺言云々については、白石の「折たく柴の記」と矛盾するわけだが、
「幕府祚胤伝」には「正徳六年丙申四月晦日戌中刻、文照公(家宣)の御遺言により、
天下の御後見となり二ノ丸に入らせる」とあり、
家宣の意中の人物が尾張吉通だったと思わせる白石の言い分が疑わしい。
391 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:43:20
横レスすいません
以前誰かが書いていた、松平斉民が家定の後継者に擬せられた件ですが、
自分なりに、「これがソースだな」と思うものが見つかったので、カキコいた
します。(既出ならすみませぬ)
結論から言えば、将軍後継ではなく、将軍後見に擬せられたことがあり、「後
見」を「後継」と読み違えたか、拡大解釈したのではないかと思います。
ソースは『徳川幕府辞典』(竹内誠 偏 東京堂出版)の清水徳川家の項(執筆
者 藤田英昭)で、以下に書き写しますと
幻の清水家当主
(前略)
安政五年、大老井伊直弼は一三代将軍家定の「思召」として、前津山藩主で家
斉一七男の松平斉民(確堂)に清水家を相続するように働きかけている。一四
代将軍家茂は幼少のため後見が必要であり、井伊は紀州系の斉民を田安慶頼と
ともに将軍後見職につけ、「国家之御鎮護」に預からせようとしたのである。
(後略)
【参考文献】『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』五・八(後略)
いかがでしょうか。
よくよく考えてみると、家達の後見も、直弼の考えていた通りになりましたね
392 :
28:2008/07/05(土) 22:03:50
>>391さん!よく調査しましたね!
斉民は、家定からいえば叔父ですよね! 世代的に見れば、後継ではなく「後見」が筋ですよね!
当時保守派の大物井伊大老は,清水家相続(つまり徳川へ復姓)を画策していたのですか!
初めて知りました。
393 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:25:30
けど斉民の清水家相続ってかなり無理があるんじゃないか?
既に越前家を相続して、さらに隠居している人間が
徳川復姓なんて前例が全くない。
将軍後見なら別に清水家を継がなくてもなれそうな気もするけどな
保科正之みたいな感じで
395 :
28:2008/07/05(土) 22:33:41
言われてみれば
>>393さんのとおり、徳川復姓なんて前例がありません。
でも井伊大老が画策していたことが事実なら話しは別。
396 :
391:2008/07/05(土) 22:34:23
私は『井伊家史料』を直に見ていないし、コレがどの程度の史料なのかもわか
からないので、なんとも言えません。
正直言えば、私も無理があると思います。
ただこの話が事実か事実でないかはともかく、「斉民が将軍継嗣に擬せられた
」と一部の人が言っている、その根拠はコレかなあ、と思ったまでです。
この話を誰かが見て、どこかに書いた、それを別の誰かが見て、、、、そのど
こかの時点で「後見」が「後継」になったんじゃあないかなあと。
のです。
とはいえ、時代はもっと押し迫りますが、三家隠居から三卿を継いだ茂栄の例
もあるにはあります。
(ちなみに藤田さんの前掲書では、茂栄も、最初〈慶應2年〉は清水家に、と
いう家茂の希望があったとのことです)
これも当時は前例のないものでした
397 :
391:2008/07/05(土) 22:35:59
まあ茂栄の場合は徳川のままでしたけれど
井伊大老が将軍後見を必要とする理由が良くわからんな
官僚組織のトップの井伊大老が将軍親政なんか望むわけもないだろうし
399 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:38:59
でも田安慶頼は井伊の時代に将軍後見だったよ
実権はなかったけど
400 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:49:37
>>396 清水家への斉民の養子入りは、確かに無理がある。
@尾張茂徳が隠居後、一橋家を継いだといって、それは尾張徳川氏→一橋徳川氏で
一旦松平姓に下り、津山松平氏の家系図に載った者が、隠居後さらに徳川に復姓するのとは訳が違う。
A紀伊家へ行った弟斉彊の後に、兄にあたる斉民が清水家入りするのも異例。
だが、この幕末動乱期に前例のあるなしはあまり関係ないだろうな。
幕府存続に執念を燃やす井伊直弼ならやりそうな話だし、狙い自体に誤りはないと思う。
401 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:02:46
>>398 井伊直弼は将軍一族による親政を期待したというより、
慶喜シフトとして考えたんだろう。
田安慶頼同様、たとえ将軍後見職 清水斉民が実現したとしても、
幕政の実権を譲る気があったかは、かなり疑問だなあ。
402 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:03:55
井伊大老は,条約の違勅問題で水戸,尾張,一橋,越前の親藩,一門に吊し上
げを食らっていた。
だから斉民を清水家に入れ,田安と共に後見職につけて与党の一員に迎え徳川
の一門親戚衆との対立というイメージを薄めたかったんじゃないかな。
403 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:11:37
俺も>401、>402に禿同。
そういう事情なら、つか、そういう事情なればこそ、
斉民の清水家入りと後見職委任という前例破りの直弼の画策は意義があり、リアリティもある。
404 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:15:59
というわけで、安政の時も慶應の時も、慶頼斉民は無難な人物だから、後見に
なった/擬せられたわけですね
しかしなんで一部であんなに人気者なんでしょうね、斉民
能力があって誠実だったらしいしな
幕閣にも人気あったみたいだし
406 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:24:05
>>404 一部の津山厨が担いでいるのはたしか。
しかし、慶喜個人の助命には熱心でも、徳川宗家とは血縁が疎遠で、
宗家を売った感じのある水戸系に比べて、
家斉の子という血筋の確かさと維新後も徳川家のために尽くしたという経歴に、
俺個人としては好意を持つなあ。
407 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:41:24
>>406 津山厨より、将軍の倅にもかかわらず、
たかだか10万石の殿様だから、
ある意味同情されてるのかも。
408 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:46:07
斉民には,確かに将軍公子としての毛並みの良さはあっただろう。
しかし乱世における政治家としての能力はどうだったのだろう。
尾張の茂徳や越前の慶永でも,将軍継嗣問題や条約違勅問題でその名は上がる。
斉民には,担がれた以外に幕末期(維新以前)における政治的な事績はあるのだろうか。
409 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:13:35
人名辞典などでは「藩論を勤皇に纏め上げた」とあるね
あt
410 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:15:49
人名辞典などでは「藩論を勤皇に纏め上げた」とあるね
あといくつかあるけど、上記を含めいずれも津山藩政のことで、しかも具体的
に何をどうしたかは書いていない
それこそ津山ファンが教えてくれそうなものだけど
あとは406さんの書いているような、宗家存続の為の努力かな
411 :
28:2008/07/06(日) 00:25:06
>>408さんに同意
斉民は、津山松平家へ養子に行ったとはいえ、その毛並みの良さでしょうね!
家斉の子は、短命の者が多いのですが、彼は確か長命だったはず、それも彼が
目立つ理由のひとつだと思う。
412 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:47:38
田安慶頼がどうだったかを考えると見えてくる。
井伊直弼は何も斉民の政治手腕を買って担ごうとしたわけではないだろう。
もっとも政治的事績というが、国政に関する限り慶永だってミスリードした
気来がある。
413 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:17:57
そうだ。慶頼は余り名君とは言えない人だったし、直弼は、結城確堂を次期将軍候補として見ていたというより、結城確堂と田安慶頼の連枝連立による重しにすぎないと見た方が現実的だ。
紀州から入ったばかりの幼沖の将軍を重厚な連枝連立によってカヴァーしようとしたにすぎぬ。
414 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:35:56
斉民の話題って、徳川スレでは必ず出るね。
そして決まって近代ネタへの前フリとなる。
そうならないように抑制を効かせているこのスレの訪問者は
みんな賢明だよね。
めったに話題に出ない清水重好カワイソス
このスレの住人のOSは当然BSDだよな?
417 :
徳川家基:2008/07/06(日) 07:36:47
10代家治の長子であった『家基』も将来を嘱望された人物。
17歳での不慮の死は、父家治も深く悲しんだという。
なにせ、幼年期より聡明で文武両道の才能を見せ、また、
成長とともに政治にも関心を持っていたらしい。
418 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 08:10:24
家基が幼年期より聡明だったからといって名君になるとは限らない。
家治だって祖父の吉宗に期待されていたが、
将軍になってみれば、政治を田沼意次に丸投げしてるし。
419 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 09:41:30
>>412 そう,慶永には是非を論じられるだけの政治的活動を見ることができるが,斉
民には評価に値するだけの活動は見られない。
しかし井伊直弼は,なぜ斉民を清水家に入れることが出来なかった(止めた)
のだろう。
御三家当主等を蟄居謹慎,隠居に追い込むだけの権力があったのに。
清水家に入れる名分なんて,血統の離れた水戸から慶喜が一橋に入ったことを
持ち出せば,将軍の子である斉民でも遜色ないと強弁できたし,政治的腕力も
あっただろうに。
420 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 10:32:12
俊才にして英邁なる津山老公には、井伊掃部頭の口車に乗って空邸の清水邸に入る気にはなれなかったのであろう。
彼は開国派だったが、井伊は、同じく開国派だった佐倉老中堀田正睦を無造作に罷免した事実を見て、井伊の傀儡にされるなど真っ平と決め込んでいたに違いない
421 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 10:57:34
斉民を清水徳川に入れることは津山家側の意向もあったと思う。
津山家では,秀康の血を引く斉民の養父の実子が藩主。
斉民を養子にしたことで,10万石復帰,官位上昇と,津山家での斉民の役割は終わったので,お引き取り願いたいと。
422 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 11:26:41
もし,
>>420さんのおっしゃるとおり斉民の意思で清水家相続を断ったのなら,その時点で宗家相続や中央政界での活動を放棄したと見るべきだな。
清水斉民ならともかく,津山松平の隠居では,先の将軍の子息といっても,影響力は無いに等しい。
一時は傀儡でも,清水当主であれば,その後の展開如何によっては政治力を発揮する機会も伺われたろうに。
俊才,英邁といっても,進まなければ埋もれていくのだろうな(維新後は別にして)。
423 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 15:57:32
松平斉民は、正室も継室も、越前家の一族だから、
意外と津山藩に馴染んでるのではなかろうから?
424 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 19:15:56
松平斉民は『篤姫』でも出てくるの?
425 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 19:32:13
出てくるとしても終盤での亀之助宗家相続のあたりだろうな。
426 :
28:2008/07/06(日) 19:55:52
出てくるにしても、ドラマではよくあるのですが、
端役程度の出番で、イメージ違いの役者がちょこっと出演して終わり
ではないでしょうか。そして期待はずれという結論です。
427 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 19:59:32
>>415 たしかに影が薄くて可哀想w
斉民からせっかく話題に出たんで、清水家の元祖重好について
語りませんか?
「あはれともいふべき人はなかりけり身が病身で成らぬかなしさ」
「清水中納言成沙汰卿」と当時の落首でも揶揄された病弱の重好。
家治の二親等で、家基死後、本来なら11代将軍に担がれても不思議じゃないのに・・・
いったいなんの病気だったのだろう?
母親のお遊の方は、吉原の遊郭三浦屋四郎右衛門の弟の娘という説もあるようだけど、
ホントなのだろうか?
428 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 20:48:00
>>427 病弱で子もいないんじゃ将軍候補にするのは辛かろう。
家基が亡くなった時点での御三家三卿の構成
尾張宗睦(47歳)−実子なし
紀伊治貞(52歳)−実子なし
水戸治保(29歳)−治紀(7歳)
田安家(空家)
一橋治済(29歳)−家斉(7歳)
清水重好(35歳)−実子なし
この中で養子を選ぶとすれば一橋家しか残らない。
429 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 21:03:36
>>428 紀伊の場合、治寶が養子としてなっていたから、
いざとなれば、治寶になる。
家基死亡時点なら
尾張にも一応、養子治行がいるな
431 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 21:23:04
治貞・治寶なら幕閣も大歓迎なのだが、重倫が江戸について来たら、
パニックだから、紀伊の場合、重倫がマイナスのような気もする。
432 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 21:58:07
だからね、重好はそんなに重い病気だったんだろうか?
子ができそうにないから・・・って言うんなら、
跡目は一橋豊千代でも、親父の治済がしゃしゃり出て来ないように
牽制する手段として、意次が将軍後見職あたりに祭り上げても良さそうな気が・・・
要は何の病気だったかが気になる。それ次第だろうね、この妄想は。
知ってる人がいたら教えてほしいなあ。
433 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 23:07:22
時代がかなり飛ぶが
結城秀康も本当に梅毒だったか疑問に最近感じる。
梅毒の3期から4期にあたる時も秘め事していたし
434 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 23:21:25
>>429-430 ただいるってだけで、将軍家との親等からいえば、
いずれも豊千代の足元にも及ばないだろう。
435 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 07:33:01
重好の場合、生母の実家がネックだったんだろうな。
436 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 14:26:18
437 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 15:50:00
家宣の弟の松平清武も家継死後も生きてたけど、特に8代将軍にしようとする者はいなかったし、
一橋豊千代がいる以上、本人も将軍になる気はなかったのだろう。
438 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 17:01:38
斉民の場合、将軍庶子とはいえ劣等松平に落ちたから清水徳川への養子は考えられない。
ウィキにそのような記述あるが出典もしっかりしていないしかなりの眉唾。
例外コースの慶喜すら水戸劣等徳川庶子から優等徳川たる一橋から将軍になってる。
439 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 17:19:18
440 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 17:19:19
いや、ちょっと待ってくれ
ウィキにも、前レスにも出典は明記してあるだろ
検証もしないでマユツバとはひどいなあ
441 :
391:2008/07/07(月) 17:33:08
>>438>>440 前レス391ですよ
ちなみに私は『徳川幕府事典』を読んだだけで『井伊家〜』はまだ見てません
それと私のコメントの主旨は、
「斉民将軍後継者説の根拠はコレではないかな」
であって、それが史実であったかどうかは、また別の問題です
442 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 17:57:19
443 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 18:03:12
篤姫に津山確堂が出てきたらおもしろいんだがな
444 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 18:08:08
>>442 だから、梅毒説が怪しくなるんだよ。
薬の無い当時なんて数年前から性器なんて腫れまくってまともに
使えなかったはずだ。なのに子供が出来ている。
付け鼻の話さえなければ梅毒説が覆される可能性もあるのだが
445 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 18:42:50
>>444 ところが、そんな
「藩祖所縁の”おしゃれつけ鼻”が現存している」
とは聞いたことがないのです。当方福丼県民。
どっかに物証が残っているならともかく。
446 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 18:50:34
普通に考えれば、葬る際に付け鼻も棺に入れるだろ。残るわけないじゃん。
447 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 19:27:04
付け鼻たって,一つだけじゃないだろう。
秀康くらいの分限者ならスペアの一つや二つは作ってたろう。
>>445の福井県民さんに聞きたい。
福井に秀康の兜のこってますか。
秀康の兜の頬当はどうなっているんでしょう。
鼻に当たる部分に,鼻用のスペースはあったのだろうか。
448 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 19:44:17
付け鼻伝説自体の出典は何処なのだろうか?
後々の書物だとすると、「梅毒」にしたかったッ手可能性もあり得る。
当時の諸侯の日記とかだと梅毒の可能性が確定的になるが
449 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 20:16:56
秀康が梅毒だったとすると、死期から逆算して感染した時期は朝鮮の役あたりだが
そのころ同時に性病に感染した加藤清正らは同じ時期に死んでいる。
しかし、近年は梅毒ではなく、腎虚との説が高い。
遊女と遊んだ場合、集団感染するので腎虚の方が可能性があるのだが
付け鼻伝説が残っている。一方で同時期同場所にいた武将は梅毒によって
体の至る所がもげた記録はきいたことがない。
それに梅毒の症状が本格的に出てきたであろう、1600前後からに4人も子供を
設けている。そのころだともう性器はボロボロで小便するにも苦痛だったと思うが。
また、死期の近くでも江戸や駿府に赴いている。本来ならそのころは神経も既に
やられてそんなこと出来ないのではという疑問が出る。
推論するに
・実は秀康も腎虚だった
→この場合付け鼻伝説が出来る自体おかしくなる
・何らかの不審死、暗殺だった
→後に付け鼻伝説によって梅毒と言うことにした
・なんとか民間療法で頑張った
→コレもないこともないが・・・・
なんか、本当に毒殺・誅殺されたのではないかという気がしてきた。
ただ、その場合どっかの諸侯・武士の日記にほのめかすことが書いてあって
現代ではそれがわかったりしてもおかしくないのだけどな。
医学に詳しい奴のコメントが聞きたい。
450 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 21:04:44
>>449 清正は性病か?
違うだろ。死の直前まで活動的だったし
それに清正と秀康の死は4年も差があるが
すぐにスレ違いを指摘する人がいるが
将軍近親の連枝相続には有力幕閣や大奥の意向が強く影響するから
ある程度それら周辺事情の検証・議論も認めないと
事態をしっかり把握することができなくなってしまうぞ
なにかというと将軍が毒殺されたとか、陰謀論はいい加減にしないか?
江戸時代の日本はルネサンスのイタリアじゃねえんだぞ
それとも徳川将軍家には
ボルジア家みたいな毒殺の技術が相伝されていたのか?
453 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 21:13:13
『江戸幕府の予算の半分は大奥が消費していた』
454 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 21:28:50
>>452 陰謀論,謀略史観だけでは面白可笑しいだけだが。
江戸期だって政治的闘争はあったのだから,毒殺の一つや二つあっても不思議
ではないと思う。
維新まで合戦で決着を着けることはない時代だったのだから。
455 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:06:20
飽きてきたな江戸時代ネタは・・
456 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:06:58
吉宗にとっての兄たちや吉通の死、治済にとっての家基の死は
都合が良すぎるとよく言われるが、毒見役ぐらいいるだろうし、
そうそう毒殺が成功するとも思えない。
ましてや綱教、頼職、吉通、五郎太、家継とこれだけの人数を悉く毒殺するのは不可能だろう。
457 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:01:47
前にも書いたことがあるんだけど、毒殺暗殺というのは証拠が残らないのが
成功であって、つまり疑われるようなものは下の下なんだな
だから毒殺か否かを物的証拠無しに状況証拠だけであれこれ語っても無意味
じゃないだろうか
それより大切なのは、毒殺であれ自然死であれ、その状況をいかすことがで
きたかどうかであって、吉宗にしろ治済にしろ、他の誰かにしろ、
そのチャンスをいかしたことが彼らの能力の高さを物語っていると思う
チャンスをいかせなかった者の方が多いし
結果的に利益を得ただけのものも多いだろう
458 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:33:59
骨の分析すればかなりわかるんだけどね。
将軍宗家は寛永寺の移転の際、いろいろ見られたそうだが
ほかの徳川家一門の骨は掘り返されていないのだろうか?
459 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:38:03
将軍家の毒殺?
そんな議論、このスレで大してなかった気がするが・・・
まあ、そんなに肩肘張らなくてもいいんじゃね。
文献に基づく立証が必要な学者でもなければ、まして裁判官でもないんだから。
妄想はどうかと思うが、同時代の連中が怪しんでいたというネタがあるんなら、
話題にする価値はあるんとちゃうか。
吉通の死にしても、家基の死にしても・・・要は、どんな書物に書かれていたかだわな。
信じる信じないは別として、書き手の意図も探れるしな。
460 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 02:49:39
>信じる信じないは別として、書き手の意図も探れるしな。
あぶり出しにはなるわけね
461 :
28:2008/07/08(火) 08:37:15
462 :
391:2008/07/08(火) 22:55:55
>>438さんに「かなりの眉唾」とご指摘を受けましたので、「井伊家史料」を
実際に読んでみました
まず書名、出版ですが
東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』
この8巻目、安政五年八月に井伊直弼から松平斉民への書簡が載っています
眉唾どころか、もっとも権威のある史料でした
さて問題の中身ですが、
清水家を相続し国政を補佐すべしとの内意を辞退した事情を了解した、とあり
事情を理解しつつも重ねて内意を受諾して欲しいとしています
自分でも驚いたのですが、清水家相続を打診されたのは史実でした
そして「自分は多病で隠居の身だから」と斉民の方から辞退したことがわかり
ます
付録として「老中間部詮勝の筆に係る」、清水家相続および田安慶頼同様保佐
(原文ママ)すべしとの幕府達書案、
斉民を城中へ戻したいとの三家家老、松平斉孝、慶倫、御台所・本寿院宛ての
達書案がありました
最後に間部からの上書がありまして
調べたところ斉民は評判が悪い
家斉の頃70万石になりたいと、いろいろ工作をしたようだ
しかし慶頼は評判がよい
とのことです。
463 :
391:2008/07/08(火) 23:05:40
重ねて書きますが、自分のスタンスはいわゆる津山ファンや斉民ファンの対極
にあります。いわば懐疑派です。
将軍継嗣候補になるなんてありえない、というスタンスで調べてみたら、こん
なのに出くわして自分でもびっくりしてます。
ポイントは何度か出てくる「城中へ引き取り」という言葉で、
津山は親藩と言えどやはり「他人」であり、ゆえに三卿の一である清水徳川を
相続して「身内」とならなければ将軍後見とはなれないのでしょう
自分は斉民というのは有能というよりは保身に長けた人物だと思います
後見職を断ったのも、政治的感覚というよりは単に揉め事にかかわりたくない
からでしょう
斉民の「藩政改革」についても、5万石から10万石に増え、自身別途1万俵
もの賄いを受けているのですから、かなり恵まれているわけです、
教育の奨励とか財政再建とか別に目新しくも無く、さりとてこの時代の改革の
特色である軍備にまでは手が及んでいないのではないでしょうか
平均点以上だとは思いますが、特に優秀とは思えません
464 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:36:30
>>463 それだと保身に長けたというよりも,単に面倒なことが嫌いなお坊ちゃんというイメージだなあ。
それも何不自由のないかなり育ちの良いお坊ちゃんで,「別にあくせく働く必要なんてないし〜。」なんて思ってそう。
465 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 01:20:01
恵まれているといえば楽翁もそうだよね
彼の場合は自身の優秀さ+経済的な支援で、白河の名君になった
同時代同地域の鷹山に比べれば、かなり苦労知らずだろうね
466 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 01:56:42
でも楽翁は、あえて火中の栗を拾いにいく使命感があった。
それが日本にとっていいことだったかどうかは別にして。
>>毒殺
秀忠父子が上洛している間に急死して
なおかつ両者不在のあいだに火葬されてしまった
秀忠正室お江は毒殺の可能性が限りなく高いと思う
お江の顔はドス黒く膨らんでしまっていたのだという
お江が火葬されたことは記録には残っておらず
菩提寺移転の際の発掘調査で発覚したことだからな
このように江戸時代にも毒殺はあったと思うよ
とくに家治世子の家基は絶対毒殺だと思う
スレ違いだが家督相続についての付属レスだ
当時、貴人の遺体を火葬するのは異常なことなのだとか。
実際、徳川将軍家の正室で火葬されているのはお江ただ一人。
火葬せねばならない理由があったから火葬されたのだ、という説がある。
以上。
469 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 19:05:19
>>464 己の能力の限界を知ってるのなら、
それほど馬鹿でも無いとも言える。
一番たちの悪いのが、
己の能力の限界を分かってない人間だし。
>>462 養子先が一番喜ぶことをという意味で、
やってる可能性もある。
後妻も養子先で探してるから、
養子先に不満を持ってる感じでもなさそうだ。
5万石→10万石だから、いきなり70万石は、
到底無理だが。
今、日テレの日本史サスペンス見てるのだが
和宮の遺体も本人じゃない臭いな
「左手の遺骨がみつからなかった」とはw
471 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:16:34
以前田沼スレで家基が治済と田沼の共謀により暗殺されたのだと言っていたコンサルタントは元気なの?
472 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:16:32
治済の政策理念がよくわからない。
定信を失脚させた後も松平信明が定信の政策を受け継いでるし、
将軍の父として具体的にした事といえば、息子をあちこちに養子に送った事のみ。
473 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:27:41
御三家の尾張宗睦、紀州治貞、水戸治保は奏者番の秋元永朝を老中首座に推挙したが
一橋は水戸治保に書簡を送り、「実直にして才腕ある者」を老中にあげたいがどうかと尋ね、具体的には、
松平定信(白河藩主)、戸田氏教(大垣藩主)、酒井忠貫(小浜藩主)を推挙し、定信を将軍御補佐並びに老中首座に入れている
474 :
28:2008/07/09(水) 23:29:54
>>463の391さん!よく調べています。歴史通ですね。
「城中へ引き取り」という言葉は、当時の感覚なのでしょうね!
最低限、三卿でないと、たとえ親藩であっても将軍家からは「他人」ということなんでしょう。
>>472さん、
>>473も、同じ人でしょうか!
治済に政治理念なんかないのではないでしょうか!
一橋家(家斉が将軍になったので宗家も)繁栄のためなら、「何でもアリ」状態
だと思います。
この時期は、家治その世子家基、田沼意次、松平定信その他御三家当主の中では、
治済の「1人勝ち」状態。 大河ドラマにしたら、登場人物も上記のように
オールスターなので面白いかも!?
御三家御三卿以外の連枝で
陰謀の臭いのする相続ってどこかあります?
476 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:42:07
477 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 01:01:08
>>463 俺もすごく勉強になった。
井伊の思惑も、斉民の後見職固辞も初めて知った。
それに・・・斉民が保身に長けた人物という見方もうなづける。
田安慶頼が文久2年に後見職を免じられた時には、
多年の勤を労われて従二位権大納言から正二位に昇任しながら、
当時の老中久世広周や板倉勝静香らの反対を押し切る形で
春嶽や久光らが推す慶喜が後見職になると、
翌年には従二位中納言に降格されている。
斉民は読んでいたんだろうよ。
どちらに振り子が振れるかわからない不安定な政治情勢の中で、
井伊の甘言に乗って中央政界に進出することのリスクを・・・
そして、井伊の意図が>402氏の指摘にあるように形ばかりの神輿
に祭り上げることにあることを・・・
実際、田安慶頼はそうなってしまったわけだ。
478 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 03:10:26
越前斉民が14代候補になったのって
何処まで信憑性があるのだろうか?
479 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 16:45:22
別に一次選考→二次選考→最終選考というような段階があるわけではないだろうが、
一次選考的な感じの話し合いでは話題に上がっただろうね。
最終選考では、家茂と慶喜に絞られてるが。
春嶽でさえ、「自分も将軍継嗣の候補になれないわけではない」ような趣旨の発言してたから、
最初から無視ではないだろう。
480 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 17:47:07
うーん、どうかなあ
前にも書いたんだけど、家格はもとより、年齢もネックだと思う
家格を無視したとて、春嶽は治済の曾孫で27歳だから分からないでもないが
確堂は治済の孫で45歳
世代も一つ上だし、歳も当時の感覚では初老、
しかも隠居の身
よほど有能か人望があるかでないと
はなから話題にものぼらないと思うよ
481 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:00:09
家康が将軍になった年齢や、義直以下の3兄弟をもうけた年齢を考えたら、
45歳なんてまだまだ現役だろうに。
482 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:18:24
当時の平均年齢、大名の隠居する平均年齢はご存知?
極端な例は比較にならないよ
家宣家慶の時周囲の受けとめ方はどうだった?
6070の家康はそれこそ他に代えようがない存在
先に書いた人望実力ずば抜けた例だね
483 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:23:32
吉宗、治済、家斉はそこそこ長生きだし、
家慶が将軍になったのは45歳の時だからそこまで老齢ってわけでもないのでは?
484 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:34:57
だから家慶は将軍世子
その彼でも、そんな歳になるまで世子のままであることに世間は哀れんでいる
ヴィクトリアの後のジョージみたいなものだ
ましてや世子ですらなく、他に候補者がいない訳でもないのに、
現代感覚でいうと60くらいの、しかも隠居の名前があがるのは、よっぽど
の事だと俺は思うんだ
>>西条松平家
>>頼純による頼雄廃嫡
こういうレスを掘り起こしていきたいよね
486 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:37:59
だいぶ前だが、浅野長矩も30手前で弟を養子にしてる。
いろいろな事情もあるが、当時は30過ぎたら、
かなり老齢と言うイメージはあった。
どっちにせよ、津山藩主からいきなり将軍は無さそうだな。
487 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 19:02:55
松平頼雄は品行方正な孝行息子らしいから廃嫡理由は頼致可愛さだけではないだろう。
キリシタン云々は大河の創作だが、頼雄廃嫡は吉宗の紀州藩相続と何らかの関係があると見て良い。
488 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 19:42:26
頼職死去の後だからなあ。
489 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:06:40
頼雄を気にかけてたと言う割に、
紀州に放って置いた吉宗の神経が分からん。
490 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:08:32
人間50年なんていう位だから43歳で西城入りした甲府宰相や45歳まで西城に留められた家慶は高齢者
491 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:20:31
>>482 故児玉幸多著の『大名』(小学館「日本の歴史 第18巻」1975年)に
『寛政重修書家譜』から慶長五年(1600)以降大名の地位にあり、かつ死亡
した405名、そのうち大名になった年が不明な高力清長を除く404名を調べた
データがありますが、それによると
「平均的大名というのは、十五,六歳で元服をし、二二、三歳で家督をつぎ、
大名の座にあること十数年で、家を譲って、しばらく政務をはなれた生活を
楽しみ、五〇歳ごろには死亡する、ということになるのであろう。」
(299ページ)
とあります。あくまで平均の話ですが、載っているデータをみると、それほ
ど偏りがあるわけではありません。ですから40過ぎは今で言う「高齢者」
なのかもしれませんね
>>485 頼房が頼重でなく光圀を世子としたのには色々理由付けがなされていますが、
たしかに頼純―頼雄はミステリですね
自分は単純に父子(父が主体だが)間の不和と思ってました
武家、特に鎌倉〜室町では、政略結婚で生まれたり、若いうちに生まれた長
子より、愛妾の子であったり、晩年に生まれた庶子をかわいがる例がたくさ
んありますから
そのようなことは家の乱れとなるので、江戸になって長子相続、あるいは正
妻の産んだ嫡長子相続が確立してゆくのですが、しかし島津斉興―斉彬のよ
うな例が、幕末にいたってもあるわけで、
まあお大名の親子感情は現代の我々とはずいぶん違うわけですから、
分別のきく者ならともかく、頼純は我の強い人ではなかったのかなあと思っ
てました
492 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:34:03
そういえば斉彬も40過ぎても世子のままだったんだよな
斉彬はその優秀さ(親父殿からみれば蘭癖からくる浪費癖)ゆえに
頼雄はその品行方正さゆえに親父殿に嫌われた
人間、自分より器の大きいものには子供ですら嫉妬を感じる時があるのやも
しれん
しかし頼雄が廃嫡されなければ、重倫のような男が大藩の殿様になることも
なかったのになあ
逆に治貞のような名君も生まれなかったわけだが
しg
493 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:40:13
真田信政なんて信之が長生きしたせいで世子のまま還暦を迎えている。
90歳過ぎても現役な信之って当時で考えれば化物だな。
494 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:55:43
朽木家なんかすごい
稙治が62歳で襲封。まあこれは一族に子が無いため、隠居の稙治が引っ張り出
されたんだが、
綱貞は58歳、舖綱(のぶつな)が51歳で封をついでいる
この二人はいずれも前代、前々代の家督騒動に巻き込まれたためで、
綱貞は一度廃嫡されているし、舖綱は綱貞が復活したために親父殿が相続でき
ず、出番が後回しになった
495 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:35:35
紀伊頼職の小姓組頭で、頼職死後、吉宗襲封にあてつけがましく抗議の剃髪をして処罰された渥美久忠は、
松平頼純の長女を妻にしながら、頼雄廃嫡に反対したために、頼純に手討ちにされた渥美甚五郎勝之の親戚だ。
頼職は当時、光貞看病のため江戸と和歌山を頻繁に往復し、帰国途上で発病したのも、その心労からといわれる一方、
家基が鷹狩りの帰途、突然発病して、籠の中から異様な呻き声を発し続けていたという、その症状と酷似していることなどから、
両者ともハンミョウなどによる毒殺の風聞は昔からあった。
少なくとも、渥美久忠、三井高清、内藤忠元ら吉宗によって罰せられた頼職側近らはそう信じていたようだ。
吉宗の襲封が非合法な手段によるものとなれば、頼雄に紀伊藩主の座が回ってくる。
これは一種の謀略だ。
松平頼純は妾腹の子可愛さで、頼雄を廃嫡し、渥美を手討ちにしたのではないかも知れない。
496 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:51:44
大河の頼職って野口五郎が嫌な奴を演じていたが実際評判はどうだったの?
497 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 00:10:23
>>495 最初の二行は、なかなか詳しくかつわかりやすくて、勉強になります
恥ずかしながら、最後の三行がわかりません
(確かに廃嫡時期は吉宗襲封のすぐ後ですね)
頼雄に紀藩主の座がまわってこないように廃嫡したのでしょうか
頼勝を廃嫡し、なおかつ吉宗の非合法な手段が(あったと仮定して)人の知る
ところとなり、それが吉宗の座を危うくするのであれば、
頼致にその座が回ってくるわけですよね
だとしたらやはり「妾腹の子可愛さ」によるのではないでしょうか
499 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 01:14:31
>>497 一部に、頼純は頼致可愛さのあまり、咎のない頼雄を廃嫡し、反対する娘婿の家老渥美甚五郎まで殺す
偏愛暴虐な人物のように思われているかも知れないが、
兄光貞と紀州本家への忠誠はひととおおりではなかったようだ。
同じ定府の紀伊藩付家老水野重上とともに、綱教を将軍に擁立しようと随分運動した。
疑問はもっともだが、要は頼純はわが子を使って本家を簒奪しようとするような
奸智の持ち主ではなかった。
だから頼雄自身か、でなくともその周辺の不穏な動きを封じるために、
敢えて頼雄廃嫡を決断したと思う。
ただ、実際には、吉宗襲封が非合法な手段によるものだったとして、
それが人の知るところとなったとしても、一旦紀伊藩主となった吉宗を引きずり
下ろすのは難しい。
毒殺があったとしても、吉宗の直接的な関与を立証することは無理だろう。
500 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 02:25:54
春嶽が大老候補になったって記録にあるの?
この前大河見て「んな馬鹿な」って思ったのだが
501 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 02:37:29
>>498 分家・新田藩は本家の名代として定府するケースが多いよ
何も水戸だけの特権じゃない
>>500 文久2年の勅書による指示
というのは置いといて、今年の大河は完全なフィクションと思ったほうがいいかと。
503 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 09:26:03
今年のに限らず、いつでも完全なフィクションですよ
所詮「ドラマ」ですから
逆にフィクションでないと皆見ないですからねえ
水戸家定府には特に理由がない
頼房が将軍家に気に入られていた、というのは水戸家に伝わる話で、単純な
おらが先祖自慢にすぎない
しかし大名にとって大きな負荷である参勤がないのに、財政難であえいでいた
水戸ってかわいそう
コレもすべて頼房の過酷な検地と光圀の大日本史のせいだな
504 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 10:29:40
松平春嶽が幕政の最高指導者になったとしても大老とは呼ばれないだろうな
505 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 10:31:09
定府って特権か?
大名だったら領地くらい自分の足で見て回りたくもならないのだろうか?
>>505 むしろ、江戸への参勤の免除のほうが特権っぽいよね。
ある程度の大名だと、定府って頼宣みたいにある種の罰みたいな感じがする。
507 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 12:36:36
江戸時代の大名は、在地領主の性格と、封建貴族の性格を併せ持つから、時
代により、人により、在府を好む場合もあるし、在国を好む場合もあります
特に中期以降の大名はほとんど江戸生まれか、江戸生まれでないにしても江
戸育ちですし、一部の外様大名を除いて、領国は先祖伝来の地、というより
は幕府から与えられた財産といった感じですからね
もともと参勤交代というのは江戸幕府のオリジナルではなく、鎌倉幕府でも
室町幕府でも似たような制度はありました
また、当初は大名の方から江戸にやってきたのであって、そりゃ幕府所在地
に顔を出したがるのはある面当然
制度化されたのは家光の時代ですが、制度化されなくても幕府が強大な間は
江戸に参府し、妻子を置き、人質をおいたでしょう
で、中には江戸にい続けて領地をおざなりにするものもいるだろうし、逆に
江戸に来ずに不穏な態度を見せるものも出てくるだろうから、制度化された
というのが実情です
確かに大名には大きな負担で(江戸での生活費もまた大きな負担だから在府
も人によっては一種の苦痛だったろう)、文久の幕政改革では廃止されてい
ます
水戸家では斉昭が、天宝十一年(1840)年に、領内の検地ということで在国
を願い出ましたが、そのまま五,六年も在国するように幕府から命ぜられて
います。その時烈公、夫人を国許へ呼び寄せたいと願い出ましたが、聞き入
られなかった。
やはり大名を縛っていた制度であることも事実であります
508 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 12:54:36
春嶽は大老ではなく政治総裁になったね
509 :
507:2008/07/11(金) 13:02:46
訂正
文久の幕政改革では、大大名は三年に一度の在府、その他は三年に百日の在
府として、妻子は国元につれて帰るのは自由となりました。
烈公が生きていたら喜んだでしょうね
510 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 17:58:50
>>509 そんなことしたら、喜連川のような宿場町の経済だけでなりたってる藩は、
不況が来るのにねえ。
中山道、東海道の諸藩は痛し痒しだなあ。
511 :
28:2008/07/11(金) 20:54:28
>>504さん
先週日曜日の大河で、「大老」は井伊直弼か松平慶永(春嶽)か!
とのシーンがあったが、春嶽の「大老」はありえない。
同様職であっても親藩藩主である春嶽は、政治総裁職(
>>508さん)ないし将軍補佐役
でしょう。
大老・老中は、徳川家の「家臣」である譜代大名が就くべき職で、
「主筋」である親藩藩主が就くことはない。
その意味では、江戸時代は、完全な身分制度社会ですね!
512 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:01:48
保科正之も幕政には参与してたが、補佐役だったはず。
513 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:52:39
井伊を持ち上げるつもりはないけど、不退転の気迫という意味では慶永より直弼の方が勝っていた。
政事総裁になった慶永は、やがて京都守護に転じるも嫌気がさして職を投げ出し、福井に帰ってしまうし、やはり田安から越前に入った親藩家門は叱り方は知っていても叱られたことのない育ち。
禅と茶に凝り、32歳まで自虐的な人生を送った直弼とは体験が違う
514 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:39:56
>>511 室町幕府では管領は足利分家ばかりですね
徳川幕府で言えば三管領が御三家、四職が前田・伊達・黒田・越前あたりか
515 :
28:2008/07/12(土) 00:16:56
直弼としては、幕政と徳川将軍家は譜代家臣である自分らが担うと
の自負があったものと思われます。
親藩ましてや外様ごときが、幕政に関与するとは幕政史上前例のないこと
として譜代勢力による幕政独占を死守しようとしたのではないでしょうか!
その徳川将軍家への思いが強すぎたことが、尊皇攘夷派の反感を買い、桜田門外
の露と消えて行ったのでしょう。
幕末に名の出てくる大名は、兄の養子も含めた養子大名が多いね。
518 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 06:27:40
>>517さん
将軍の血族だからといって親藩であるとはかぎりません。定信が養子になった
久松松平は准家門の譜代大名扱いです。また家宣の弟を祖とする越智松平も
前スレ◆徳川御三家・親藩スレ◆
657 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:41:22
老中になった親藩って、誰よ?
658 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:42:18
非常事態の特例
家綱補佐の保科正之(大老に匹敵する)
老中久松松平定信(久松は準家門)
政治総裁職越前松平春嶽(大老に匹敵する)
京都守護職会津松平容保
家宣弟の清武を祖とする越智松平は譜代扱い
659 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:23
ああ誰か書いてくれてた
定信ってのは微妙なんだね血筋は将軍の直孫だけど家柄としては久松なのな
越智も譜代になるのね
サンキュー
660 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:46:59
越智松平家で幕閣に入ったものは次の通り
三代 武元 老中
四代 武寛 奏者番
五代 斉厚 寺社奉行
519 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 10:36:19
>徳川幕府で言えば三管領が御三家、四職が前田・伊達・黒田・越前あたりか
職制で言えば御三家は鎌倉公方、管領は井伊、酒井、四職が老中出す家だと思う。
将軍家との親疎で言えば
御三家は鎌倉、家門が今川吉良、単なる親藩が細川畠山。
鎌倉時代まで家門筆頭でありながら管領=執事=家老職に落ちた斯波は微妙。
520 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 11:08:16
>>511 勅使大原重徳が文久2年6月7日に将軍家茂に下した孝明天皇の勅書には、
「一橋刑部(慶喜)卿ヲ後見トシ、越前前中将(慶永)ヲ大老トシテ、幕府ヲ扶ケ政事ヲ計ラシメ」
(「勅書写」福井市春嶽公記念文庫)との一節があったようだ。
これは島津久光の建議に基づくものだが、幕府は慶永のために新たに政事総裁職という特別職を設けた。
(それ以前から、慶永は容保とともに幕政参与の任にあったが・・・)
これは指摘の通り、大老が譜代大名の役職で、家門が務める職名としては不適切であったからで、
朝廷も島津もその辺の事情には精通していなかったようだ。
521 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 12:44:52
松平氏が老中にはなってるけど
それは構わないの??
522 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 13:00:16
松平といっても譜代が多いからね
523 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 14:00:38
松平定信は将軍吉宗の男系の孫だが、譜代大名
524 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:02:14
>>分家・新田藩は本家の名代として定府するケースが多いよ
ここもう少し掘ってほしい
525 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:05:57
>>水戸家定府には特に理由がない
これでは納得できないよ
かなりの負担だった参勤交代を免除するには
たとえ嘘だとしてもそれなりの建前がないと
その建前が何だったのか、そしてできれば本当の理由は何だったのか
そこを語れる人、いない?
偉そうで悪いけど、知りたいんですm(_ _)m
526 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:13:34
>>525 水戸家の場合常府のほうがはるかに負担。
参勤交代しても距離は短いし、江戸にいるため金はかかるから。
527 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:14:00
>>521 松平といっても、家康以前に分かれた家、
いわゆる十四(あるいは十八)松平(深溝、五井、松井、大河内、大給、
大須賀−廃絶、形原、桜井、鷹司、竹脇、竹谷、能美、藤井、依田)
家康の同母弟の久松系、家康長女亀姫の夫、奥平系は譜代扱いです
(久松松平、奥平松平を准家門と言う場合もあります)
家康以降に分かれた家では、越前家、会津家、越智家があります
このうち家宣の弟清武を祖とする越智松平は譜代扱いです
老中で有名な松平と言えば、定信(久松松平)以外には知恵伊豆こと松平信綱でしょうか
かれは大河内松平家、
吉宗の時代に活躍した乗邑は大給松平家
また
であり、いずれも譜代です
越智松平については前レス
>>518をみてください
528 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:41:23
>>513 >政事総裁
就任してみりゃただのお飾り、だったからな。投げ出したくもなる。
で、
>京都守護
こっちでも実権なし。
業を煮やして、というか呆れて帰国。
だが春嶽ったら、世紀の賭けに出ようとしたことがある。
ある日、城に家臣を集めてこう言い放った。
「もうこの政局はどうしようもない。(この時点での見識の早さは褒めるべき)
ここで手を打っとかないと、幕府終わる。
なので、これより大計画を実行する。
題して、”越前家、総員出撃作戦!”
これより、越前家中全員全軍で京都に突入して、朝廷を制圧する。
越前家で天下を掌握して、幕府体制を立て直すことにする。
というわけで、越前国は全く留守にする。
しかしこれは天下のためなので、しょうがないと思え!」
この”越前家総員京都突入作戦”は、さすがに各方面からの反対があり、直前で回避された。
実行されていたらどうなっていたことやら・・・。
529 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:45:16
有力親藩では,甲府も,館林も定府だったんだよね。
これって,江戸に近い有力親藩を国元に帰しておくと危険だという判断が幕府
にあったからだろうか。
忠長は,駿府にあって東海道を参勤交代で行き来する大名と歓待してたんだよ
ね。
530 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:51:58
御両典は定府というよりは、独立した大名と言えるかどうか微妙な存在です
その領土、知行形態、家臣団を見ても、
後の御三卿に近いですね
531 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:05:42
徳川一門で謀反を起こすとしたら,どこが一番成功率が高かったろう。
江戸に近い,水戸,駿河,尾張か?
それとも,京に近い,尾張,越前,紀伊か?
532 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:12:47
>>530 いや違う。
御両典は。領土、知行形態、家臣団を見ると、
御三卿とは全然扱いが違う。
まとまった封地を与えられ、城まで持ち、治政を任せられ、家臣団も幕臣ではない。
甲府家家老の新見正信も館林家家老の牧野成貞ももともとは旗本の出だが、
その身分は陪臣だ。。
533 :
507:2008/07/13(日) 00:18:52
>>525さん
すみません、「江戸に近いという以外、特に理由がない」
と書くべきでした。
領地が近いから、江戸からでも統治できるやろ! という意味なんでしょうか
他の方も書いている通り、定府というのも「特典」でもなんでもなく、
恒常的に江戸と国許に機能が二分されているのですから、やりにくいことだっ
たでしょうね
だから斉昭も願い出て水戸へ行ってるのです
後に幕府自身も、家茂〜慶喜の頃になると江戸と京都に二分されることになり
その辛さを思い知ることになるのですが。。。
参勤交代って幕府のメリットばっかり強調されるが、首都に潜在敵国の軍隊を駐留させるのって
危なくない?
535 :
28:2008/07/13(日) 00:35:23
水戸家の江戸定府が、問題になっています。
どなたかが提示していましたけど江戸定府って、
ホントに特権なんでしょうかね! ずっと国元いて参勤交代免除
ならホントの特権でしょうけど。
536 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:36:38
>>532 私は「同じ」ではなく、「近い」と書いたのです
違うのは当たり前です。比較すれば三家より三卿に近いという意味です
あなたが何を根拠に「まとまった封地」「治世をまかせられ」「家臣団も
幕臣でない」と述べているのかわかりません
まず封地ですが、寛文元年(1661)の両人のソレを見れば
綱重 甲斐14万石 武蔵3万石 信濃3.7万石 駿河0.6万石 近江3万石
綱吉 上野13万石 信濃15万石 美濃7万石 近江3.5万石
と数カ国にまたがっています
次に綱吉の有力家臣14人の知行は将軍家から直接与えられています
確かに「陪臣」には違いないのですが、その実態は「幕臣」です
「治世」も、彼らに「幕臣」よって運営されていた部分がかなりあります
「城」に関しては、綱吉は一度しか入っていません。それも家綱の日光参詣
に供奉した帰りにちょっと寄っただけ
綱重にいたっては入場したかどうか怪しい
もちろん三家も最初は両典に似て、藩主は家康の膝元、重臣は幕府からの派遣
でした
ゆえに両典がこのような形態をとったのは、彼らが将軍の近親であるゆえで
しょう
537 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:43:43
>>528 慶永は政事総裁職としてはよく頑張った。
自ら上京し、松平容保、島津久光、山内豊信、伊達宗城、中川宮、鷹司、近衛ら
公武合体派の有力大名、公卿との根回しにも奔走した。
幕閣の反対を押し切って、将軍上洛や参勤交代の緩和なども実現させている。
お飾りなのはむしろ後見職の慶喜で、慶永はこの時期最も影響力のある政治家だった。
ただ、福井藩の挙藩上洛計画に、慶永のリーダーシップはあまり窺えない。
横井小楠とその影響を受けた本多飛騨、由利公正ら上洛派と中根雪江ら反対の対立で紛糾しただけ。
結局両派とも失脚する後味の悪さ・・・
538 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:50:32
>>536 確かに綱重も綱吉も御三家の藩祖のように積極的に治世に取り組んだ形跡は無いな
これといったエピソードは伝わっているのか?
もっとも、それぞれの家も代を重ねれば幕府から徐々に自立していったんだろうが
539 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:01:45
>>536 マジギレしなくても、「同じ」と言ってないことぐらいバカでもわかるさ。
で、どっちに近い?
論拠としてあげている部分、無理があるなあ。
御三家だって飛び地はあるぜ。
まとまった封地とは、城地を持ってるってことだ。
綱重、綱吉にはそれがあり、そして将軍家綱によって甲府、舘林に「封じられている」。
牧野成貞が幕臣でないことには違いないしな。
俺の結論は、御三家、御両卿のちょうど中間的な位置づけだろうな、ってことさ。
540 :
529:2008/07/13(日) 01:09:03
>>536 532ではないんだけど。
御両典の性格が,御三卿に近いか,御三家に近いのかは,結局初代あるいは2
代目で宗家相続で収公されているので分からないでしょうか。
御三家にしても,将軍手作りの大名であり,その家臣の大半は幕臣にその出自
を持つ者であり,それぞれの家への付属は将軍の名によるものだったでしょう。
御両典の家臣が世代を重ねて譜代の家臣化(幕臣との差別化)されて行くので
あれば,御三家同様になり,幕臣からの出向者が家臣の上層を占めるので在れ
ば御三卿化だったでしょう。
私は,御両典にしても,宗家相続が無ければ,定府にしろ参勤するにせよ,その
まま親藩化,つまり一般の大名同様になったのではないかと思います。
で,私が529で言いたかったのは,水戸定府は江戸に近い大身の親藩は,兵を
挙げられると危険なので国元に帰さなかったのではないかということです。
541 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:11:26
>>539 なんで論理的に説明しただけで「マジギレ」と馬鹿にされるのか理解に苦しみ
ます
しかしまあ、あなたの考えと私のそれとはそう異なっていないのですから、
あなたこそけんか腰はやめてくださいよ
このスレは腑に落ちないことがあればそれぞれが調べてきちんと対応する
非常にいいスレなんですから
私は自分なりに調べたことを書いたまで、そこから得た自分なりの結論を
書いたまでです
しかし私の書き方が悪かったら誤ります
542 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:17:16
>>529 駿府にいる忠長に対して、西国大名はこぞって行き帰りは挨拶をしたし
忠長側も歓迎していたらしい。街道沿の宿場町も整備しまくって
かなり経済的にも絞れるようになっていた。
「まるで駿府にも幕府があるようだ」っと言われていたみたい。
そりゃ下手すりゃ4代将軍だったし西国大名は近づくわな
それがかえって命取りになったが
ただ、疑問なのは忠長失脚を主導した幕閣はだれなのだろうか?
土井利勝は二股かけていたからそうじゃないし
家光個人的な私怨と、若層たちだろうか?
543 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:17:35
>>534 将軍と大名は敵対関係ではなく主従関係で参勤交代は鎌倉幕府の
「いざ鎌倉」的な要素もあるんですよ。
それに江戸は「首都」ではないですから。
544 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:17:38
>>541 絡みすぎるのは荒らしと同じだぞ、
それぞれが自分なりの考えを持っているのならいいじゃないか
水戸定府の件、529さんの言っていることが的を得ているように思うな
そして尾張、紀伊が交互に参勤しているから、
江戸には尾張水戸か紀伊水戸が駐在しているわけだな
545 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:18:44
546 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:21:22
>>545 利勝の妹が忠長の乳母じゃなかったっけ?
547 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:29:38
>>531 家臣団を掌握していたの仮定だとすると俺はやっぱり尾張を推す
理由は
・名古屋城の堅固さ
徳川式城郭の完成系であり、砲撃には大阪城より強いとの説も
城を囲む平野も湿地であり攻撃側は陣を取りにくい
・経済力
実高100万石、その他交通などで経済力が徳川一門で一番良い
・交通の要衝
尾張藩が封鎖すれば幕府としては西国・京への統制が出来なくなる
・朝廷との強い繋がり
548 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:34:28
>>547 尾張の長所は,あなたのおっしゃる通りだけど。
尾張は,紀伊を味方に引き入れて京・大坂の牽制くらいしないと,東西から挟撃されるよ。
549 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:39:06
紀伊の場合はゲリラ戦術が使えそうな気がするが
戦国の一揆・豊臣の残党がそうしたように
山がちな和歌山への道は幕府軍にとって楽なもんじゃないだろう。
補給線も伸びきってしまう。そこは狙いやすいはずだが
水軍と言っても展開しやすい海岸も少ないし、時期にもよるが江戸
にはいるとまともな水軍を維持している諸侯なんて居ないし
550 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 02:03:43
『紀侯言行録』より
昼夜兼行で御成御殿を造営したのに、家光にすっぽかされた義直は籠城を決意
頼宣におのが受けた恥辱をと決意を語ると、初めは諌めていた頼宣、翻意が無
理と見るや説得をあきらめ、その先述の拙劣さを指摘してこう言った
「これほど言ってもなおご決意を翻さないとなれば、もはや是非もありません。
ただし籠城は下策。尾州一国で日本六十五か国を相手にせねばなりません。
下世話には『毒を食らわば皿を舐め』とか。
もし大功を立てんと思し召すのであれば、大樹公尾州通過を見計らって名古屋
より人を出し、追い討ちたてまつるべきでしょう。
もし兄上にそのお覚悟あれば、手前は伊勢より吉田へ船を渡し、尾州と合力し
て大樹公を打つ所存。打ち漏らしたのならいさぎよく兄弟枕を並べて討ち死に
いたしましょう」
551 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 02:11:28
さてこの尾紀兄弟それぞれの戦略を考えてみると
義直の籠城は完全に武士の面目を立てるための意地。家光に随行している兵が
30万だったとか。30万に包囲されれば、さすがの天下の堅城も持つまい。
ましてや全国より続々と後詰が来るのである。
しかも名古屋城は天下普請ゆえ、そのデータは幕府や諸大名のよく知るところ
(逆に知られても防げるくらい堅固だという見方もある)
義直は完全に玉砕覚悟であった
一方の頼宣はより現実的である。たとい30万の将兵であれ、儀式に供奉した者
たちであるから、不意をつけばまだ勝算はある。家光の首を取れる矢も知れぬ
家光を討ち取ったところで幕府は潰れまいし、自身は謀反人になること必定だ
が、大混乱を巻き起こすことはできる。数ヶ月持ちこたえれば日和っている諸
大名の幾分かは内応してくれるやも知れぬ。
552 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 08:51:02
>>531 そっけない事言えば、幕府の所領=軍事力は隔絶しているから、三家といえど
謀反は無理
548の言うように他の大名と呼応しなければね
そして大名同士が自由に行き来できないように、連絡を取り合わないように
厳しく制限をし、物理的にそれを不可能にしているのが参勤交代の一つの側
面なんだよ
また隣接する大名どうしも決して仲良くできないような配置をとっている
やはり二つの幕末(鎌倉と江戸)のように、朝廷、つまり別の求心力が必要
になるね
>>541 そうへこむこと無いよ
あんたのようにデータを提示してくれると、判断の目安になる
所領がまとまっているか、独自の治世がなされたかどうかは、読んだ人の判断
に任せればいい
553 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 10:15:50
>>549に同意
紀州家は紀伊半島にあるから,幕府側に水軍が無ければ後方からの攻撃を想定
しなくても良いから,2正面作戦をしなくても良くなるね。
関ヶ原直後の島津のように,半島に立て籠もっての徹底抗戦ができるかも。
それに進撃するとすれば,京や大坂を突けるね。
(大阪城を突破できればだけど)
554 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:17:23
日本史学問スレが痛んできたな
555 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:52:48
>>554 禿同
まったく難民板の流れだよ・・・あ〜あ
556 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 13:17:28
>>544 >水戸定府の件、529さんの言っていることが的を得ているように思うな
>そして尾張、紀伊が交互に参勤しているから、
>江戸には尾張水戸か紀伊水戸が駐在しているわけだな
すると御三家当主が江戸で一同に会することはなかったのでしょうか?
少なくとも綱吉、家継の薨去時には御三家とも江戸に居たように思うのですが?
>556
帰国延期とかもあるみたいですね。
後、将軍家代替わりのときには十年江戸詰めになるという話もあったような。
558 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 15:35:51
いつから尾張や紀伊が挙兵する話になったんですか?
>>556 別に帰国の義務があるわけじゃないからね
帰らきゃ帰らないでも問題ない
まぁ一回飛ばせば三年帰れないわけだけど
560 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 17:00:01
>>556 家督(相続人)は江戸に残ったろうから、その意味では三家は揃って
いたかと・・・
>556
さらに言えば若年の時には参勤はしないね。
尾張藩では、家斉の子を次々と押しつけられていた時期には、
ほとんど名古屋入りしていない。
562 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:51:55
>>561 たしかに11世斉温も十余年の治世中、一度も入国していない。
563 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:06:30
その一度は、位牌として
だけどね
成人する迄は江戸なのはしょうがないけど、成人後もずっと江戸
さすがに士民はキレたね
564 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:12:26
それに加えて鳩を数百羽飼育し、専門の役人まで付けたというから、呆れあれた
シナにもそんな君主がいたっけ 鶴ばかり飼っていた…誰だったかな
565 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:15:17
一度も領内に入ったことがないってそりゃ藩主って言えるのか?
藩士も主君とは認めないだろうし、「鳩公方」なんて呼ばれてたかもしれない。
>565
「藩主元気で在府が良い」(by国許家臣団)
それはそうと「公方」は将軍に対する呼称ですぜ。
567 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:32:13
津山に斉温が入っていたら面白かったなあ。
鳩の養育費でさぞかし加増せないかんかっただろう。
568 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:40:33
だから、さすがに12世斉荘(家斉の十一男)の襲封に際しては、
高須家の松平秀之助(のちの14世慶勝)を擁立しようと在藩の藩士らが
金鉄組を結成して反対したが、幕府と結託する成瀬正往らがねじ伏せた。
569 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:47:47
斉温に比べたら斉民は名君だ。
570 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:54:08
>>568 この時だっけ? 宗春の墓の金網がはずされたのって
斉荘は斉温の兄で、田安家からの転出だから、家督相続時はすでに30
結構気配りして、藩政も頑張ったんだけど、時代には逆らえず、効果なし
幕府にまで注意される始末。一番可愛そうな殿様なんだ
茶人としての方が有名で、水戸の綱條同様、政治家には向いていなかった
ようだ
>>564 鶴を愛してやまなかったのは衛の君主懿公(在位BC669〜BC660)
斉温は太平の世だからよかったけど、彼は春秋時代だからねえ
>>565 一応先代の元祖押し付け養子斉朝(一橋治国の子)が名古屋にはいたんだけ
ど、この人も御深井丸に豪華な別邸を建てて顰蹙を買っている
571 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:59:08
>>565>>566 公式には僖公と諡されています
手元の辞書で調べたら、僖は喜、または嬉と同じで、よろこぶ、よろこび
という意味だそうです
やはり将軍公子だから、いい名前を贈られてますねえ
多分彼にとっては尾張というのは領土ではなくステータスで、将軍公子とし
ての意識が強かったんじゃないかな、と思います。それこそ綱吉や綱重と同
じような感覚だったんではないでしょうか
572 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:16:12
高須の松平秀之助だって、水戸系だからな。
宗睦と勝当の代で尾張本家も高須家も義直の血統は断絶。
紀州、水州に乗っ取られ・・・
在国の藩士の狼煙もさぞや中途半端に終わっちゃったんじゃないの。
>568
金鉄組と対立したのは竹腰じゃなかったっけ?
まあ、成瀬は青松葉事件の時に日和っただけかもしれないが。
>570
>一番可愛そうな殿様なんだ
治績を具体的に述べて、是非名誉回復をしてあげてください。
574 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 00:21:29
>>573 青松葉事件で金鉄組の後ろ盾になり、慶勝に近く尊王派だったのは成瀬正肥。
だからアンチ金鉄のふいご党は竹腰を後ろ盾にして茂徳を担いだ。
正肥は先代成瀬正住の養子だが、斉荘迎立が物議を醸した当時の当主は正住で、
彼は斉荘派だった。
575 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 00:25:53
治済、家斉、斉匡などいろんなのがいて混乱してきますが、一橋治国は誰の子ですか?
576 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 01:15:41
>>555 ネタがループしまくっているからアル程度の「if」は仕方ないよ
正直尾張の軍事力はすぐ近くの彦根以下だと思うぞ
江戸期を通じて前線に立つ家門ではないからろくに錬兵に力を入れてなかったし
名古屋城の防御力もかなり疑問だしな。
謀反を起こしても東西で挟撃されて即鎮圧だろう。
578 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 02:42:08
藤堂もいるしね
鳥羽伏見でその実力を遺憾なく発揮した
579 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 03:21:18
大名は在府が基本スタイル。特に譜代、親藩。
「時々領国に行く」だけ。
580 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 08:02:32
575
治国【安永5年(1776)〜寛政5年(1793)】は治済の子で家斉の弟です。
一橋の世子でしたが、早くに亡くなりました
この歳で子供がいたのが、早熟でおさかんな家斉の兄弟らしいですな
581 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 14:35:20
ありがとうございます
582 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 18:40:07
>>580 斉朝が生まれたのは治国が死んで5ヵ月後だね
哀れな斉朝のために叔父家斉は尾張家という超名門を用意してあげたわけですね
(;∀;)イイハナシダナー
583 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:56:10
>>580 長生きしてれば治済、家斉、斉匡に次いで第四の種馬になれたろうに勿体無いな。
若年で父親になったといえば先祖の松平清康、広忠も相当なもの。
584 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:12:32
やり過ぎたんじゃないのか?
遊郭あたりで悪い病気を貰ったとか?
>577
西からの攻撃に対しては、木曽三川を大外堀にして結構がんばれそうに思うのだが、
東からの攻撃には、確かにほとんど丸裸だなあ。
まあ、東に何があるかを考えれば当たり前ではあるのだが。
586 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:32:22
>>577,585
岡崎城主の水野忠善が尾張家の監視役をやっていて,名古屋城の堀の深さを測
ったりしたんで,義直が怒っちゃって,後日,水野忠善は江戸城で義直にから
まれた
なんて話があるみたい。
詳しい人この逸話は本当ですか?。
587 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:35:15
水野 忠善(みずの ただよし、慶長17年(1612年) − 延宝4年8月29日(1676年10月6日))は、
江戸時代初期から前期の大名。下総国山川藩の2代藩主。駿河国田中藩、三河国吉田藩藩主。
三河国岡崎藩の初代藩主。忠元系水野家2代。水野忠元の長男。正室は井上正就の娘。
子は水野忠春(長男)、娘(京極高直正室)、娘(大給松平乗久正室)、娘(丹羽氏純正室)、
娘(水野元知正室)、娘(片桐貞房正室)、娘(牧野康道正室)。従五位下、大監物。
元和 (日本)6年(1620年)、父・忠元の死により家督を相続。寛永7年(1630年)、
従五位下大監物に任官。寛永12年(1635年)、1万石加増され駿河田中藩4万5000石に転封となる。
寛永19年(1642年)、三河吉田藩に移封。正保2年(1645年)、5000石加増され
三河岡崎藩5万石に移される。寛文4年(1664年)、弟・水野忠久に5000石分与。
隣接する尾張徳川家を仮想敵国とし、軍備増強に注力した。延宝4年(1676年)死去。
後を長男・忠春が継いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%96%84 本当かどうかは分からんが。
588 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 07:10:35
水野は親藩に入れてもらえないん?
589 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 08:27:35
家康の兄弟や子ならばともかく母親の実家では親藩にはなりがたい
590 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:51:34
「親族」じゃないのか・・・
家康より前の代からの親戚はいないの?
592 :
↑:2008/07/15(火) 19:24:09
変なのが湧いてる
>586
義直が仕返しに忍者に岡崎城の武器を盗んで大手門に放り出させた。
それが悔しくて忠善が江戸城で義直にからんで「尾張が西国全部味方
にして攻めてきても、岡崎で最低二十日は足止めしてやるもんね」と
言ったという話なら、新井英生著「三百諸侯おもしろ史話」で読んだ。
594 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 21:41:12
>>588 入れてもらえない。
家康の男系子孫か、徳川家の娘と婚姻関係にならなければ、親藩にはなれない。
595 :
28:2008/07/15(火) 22:04:09
>>575さん
>>580さんの補足
治国は、一橋治済の世子で11代将軍家斉の弟です。尾張斉朝の父。
世子のまま死亡したので、一般的な系図では省略されています。
その弟の斉匡が田安家を継ぎ、
治済の後の一橋家は、そのまた弟の斉敦が継いでいます。
596 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 22:29:00
一橋治済が死去した時点での御三家三卿の当主は、
田安斉匡(治済の子)、一橋斉礼(治済の孫)、清水斉明(治済の孫)、尾張斉温(治済の孫)、紀伊斉順(治済の孫)。
水戸家以外は完全に治済で埋め尽くされている。
子孫の繁栄に満足して満足して亡くなったか、水戸家を乗っ取れなかったのが心残りだったかは知らないが。
597 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 22:39:13
宗家乗っ取りを企む神田橋一橋老人
598 :
28:2008/07/16(水) 01:01:24
>>596 そうですね! 治済系統(8代吉宗孫本来紀伊系)。
尾張は、藩祖義直系統断絶。紀伊は元々お里だから養子を押し付け易い。
田安は、家祖宗武系は2代で断絶。清水は空き屋形常連。
水戸は、後の烈公斉昭などの藩祖頼房系が健在なので、
さすがに幕府も養子押し付けは無理と判断したのか!?
治済系で席巻した徳川緒家も当の一橋家は、
正統相続は4代斉礼で終わり、その後養子相続が続き、
幕末には吉宗・治済系統ではなく、
なぜか水戸家から慶喜が入るに至りました。
>586の話は、林董一「将軍の座」に記述がありますね。「明良洪範」にあるそうです。
話は、堀の測量をされたあげくに取り逃がした義直が、江戸城内で水野監物に会っ
たときに「岡崎は名古屋の押えだ。自分が大軍を催し、東下しようとするとき、おまえ
はよく阻止できるか」と絡んだということだそうです。
で、水野監物は「西国三十三国の軍勢でお向かいになっても、二十日のあいだは食
い止めておめにかけます。そのうち関東から加勢が到着するでしょう」と平然と答え
たと。
600 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 01:38:59
>>596 治済は画竜点睛を欠く思いだったろう。
家斉の21男斉彊を水戸家に押し込む算段が、水戸藩内の抗争で
斉昭擁立派に敗れたうえ、
それ以前にも7男義居を尾張家支藩の高須家に送り込みながら、
若死にしたため、跡目を水戸治保の2男義和に横取りされている。
水戸まで掌中に掴む一歩手前まで行きながら・・・
601 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 02:38:54
松平の本家って、官位あったの?
602 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 03:47:06
太郎左衛門家のこといってんの?
603 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 06:34:34
>>599 実際の所はどうなんだろうかなぁ
1週間が良いところだと思うが
604 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 08:17:41
岡崎藩って言やー宿老水野和泉守様の城地ではないか
605 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 11:09:54
尾張藩の本来の経済力って100万石から200万石
まで色々説があるけど、どれくらいなのでしょうね。
江戸中期以降は農業技術によって平野での農地開拓が容易になったので
かなり生産性は高そうですが。
606 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 14:58:05
でも水害も多そう
607 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:20:32
水野忠善が,岡崎城主だったのは家光から家綱の時代ですね。
家光危篤時の無断出府騒動で,義直は幕府から危険視されて睨まれてたんでし
ょうか。
いくら戦国期から遠くないとはいえ,一譜代大名が尾張家の居城を独断で偵察
なんかできないでしょう。
>601
ずいぶん前だけど、松平太郎左衛門家の人が先祖の話を書いた文章を読んだことが
ある。(日経の最終面の文化記事。残念ながらとっていないけど。)
参勤交代の時、松平郷と江戸の出入りのときには、一応の人数をそろえるけれど、
すぐに解散させ、道中は少人数で身軽に旅していたとか、江戸では親類の屋敷に
泊まっていたとか、いろいろな話が出ていました。
まあ、地元では地付きの家来や領民を使い、江戸では人を雇ったんだろうけど、
それにしてもキセルもいいところですね。
609 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:39:00
確か、松平太郎左右衛門家は四百石だっけ?
現実主義者の家康らしい。
610 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:53:23
射撃の練習に行った先で同僚から、弁当のごはんの所にうんこ、おかずの所にミミズを入れられるという嫌がらせをされたことに腹を立て同僚をヌッコロして改易されたという松平外記という人物について詳しくm(__)m
>610
外記本人はその場で自害したはず。
612 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:11:55
最近、スレタイ的にかなりズレてるな。
スレチネタで粘着するなよ。
水野忠善はもう一方の当事者が尾張義直だから一応セーフ。
松平太郎左衛門は、その家の特殊性もあるがギリギリアウト。
松平外記は完全なアウトだな。
614 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:20:05
岡崎の水野ネタ、もう賞味期限切れ。
615 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:15:48
尾張藩には竹腰に義直の系統がはいっているけれど一度家臣に下がった者が
藩主になるのは御三家では難しかったのですか?
越後騒動も家臣の氷見の子がなろうしたのに始まったような所があるし・・・
616 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:29:51
>>615 それが許されるなら、松平定信だって田安家を継げていた。
松平斉民の清水家入りよりさらに難しい。
617 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 01:39:30
なんで家康は
尾張・三河を見捨てたんだ?
618 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 01:39:34
太郎さんちは連枝に入れてもいいと思うよ。
つか参勤交代の時、江戸の入り口で行列人足雇うのは、
どこの大名家でもやってたでしょ?
旗本奴の水野某が怒られたのって、身分を隠してそのバイトやったから、じゃなかったっけ?
つーか太郎家は、尾張家の行列に間借り、陣借りして、
尾張について一緒に行ってたんじゃなかったっけ?
席次とか、どっちが上だったんだろ?
単独、オマケどっちにしても、
本陣に泊めてもらえたのかね。
>>617 信長秀吉家康と、天下人三人を排出し、
三人ともに逃げられた県、それが愛知。
哀痴最弱マンを思い出すなぁwwww
出身だからこそ
「愛着あるから親族置くけど、あそこじゃ天下は無理」
って知ってたんじゃないか?
似たような話で、
OIOIの創業者は早稲田出身だが、
丸井はド田舎には店舗作るくせに、
メインターゲットの学生が多いはずの高田馬場には決して進出しようとしなかった。
社長は早稲田出身だから知っていた。
「だってあいつら、カネ持ってねーから」
620 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 09:57:05
>>610 松平外記は三百俵の旗本で西ノ丸書院番士。1823年に同僚三名を殺害、二名を負傷させ自刃した。享年27
621 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:18:04
徳川御三家に比べて室町幕府の御一家(吉良、石橋、渋川)というのは存在感がないな。
622 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:20:43
623 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:50:17
三百俵の旗本、か。どこの流れだろ。
御家人でももう少し上の奴いたかもな。
そういえば、
フィクションだけど斬九郎って御家人じゃん?
で、松平で、でもいわゆる葵の御紋(系統の紋)なんだよね。
舞台は幕末で、
少なくとも先祖数代前からその境遇のまま続いてそうで、
石高ひくそうなんだけど、割といい家持っている。
それも「持ち家」らしい。
で、事ある事にお母さんは「神君家康公は!」とか言うから、
家康の血を引いているっぽい。
モデルになりそうな家ってあるのかね。
624 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:50:44
>>610 西丸御小納戸の松平頼母(尼崎松平侯の末流)の惣領であった、松平外記。藤岡屋日記に紹介されていて、自身は西丸御書院番士として勤めていた文政6年(1823年)に事件は発生した。
将軍が御出となる「駒場野狩場御射鳥狩」に際し「拍子木役」という重要な役があり、席次が下位の外記が、父の蔭(将軍世子の側近)をもって抜擢された。
これに不満をもった同僚、とりわけ「曲渕大学」「安西伊賀之助」らの陰口や悪戯が日増しに激しくなり、遂に外記は、拍子木役の大役を辞退しかつ、書院番士の御番も病気引き篭もりとして、今の時代でいう、「休職」を一定期間とることにした。
駒場野狩場御射鳥狩のイベントも修了し、久しぶりに勤務に復帰したが、外記をみる同僚の目は、以前と変わらず、遂に4月22日夕刻に、3名を殺害し多数の重症者を出して、外記はその場で切腹した。
幕府の裁定は、惣領であったため、外記の家には処分が下らず、外記の子にその後に家督が譲られるなど、寛大な処置であって、打たれた同僚たちの多くは絶家など重い処分を受けた事件であった。
ぐぐれやこれぐらい
625 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:17:20
小納戸頭取兼新番組頭格
中野播磨守石翁清茂
626 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:04:48
を映画では夏八木勲が演じていた。
627 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 22:07:16
糞スレ化したな。
628 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 22:26:57
次男の吉晴は聡明にして闊達。
629 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:08:34
尾張や一橋の話は飽きた。
630 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 08:11:58
631 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:41:49
会津の通字が、正之の正から容に変わったのは、どうして?
632 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:49:53
>>627 みんなとにかく堅すぎる「やれ難民だの」「三国板にいけだの」
そうやって柔軟性を失うとスレが廃れる
633 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:08:40
会津は,元は譜代大名の保科家を継いだ正之から始まるよね。
将軍の子でも,譜代の家を継げば譜代大名じゃないの?
いつから,会津家が御家門になったんだろう。
松平姓や葵紋を許された時なのかなあ,それとも保科家重代の家宝を義理の叔父に譲ったときかなあ。
それとも正之が家督を継いだときか。
634 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:11:09
>>630 ご指摘のとおり越前松平家と会津松平家の家格比較をしました。
◇石高による家格比較
越前松平家>会津松平家
越前松平家が32万石、会津松平家が23万石
◇将軍家との血縁にかかる家格比較
越前松平家>会津松平家
越前松平家の祖は、家康次男の松平秀康であり、会津松平家の祖は、
秀忠庶子の松平正之です。神君家康公からの血縁では越前家に軍配
◇伺候席による家格比較
越前松平家=会津松平家
越前松平家は「大廊下の下の間」であり、会津松平家は「黒書院の溜の
間」です。「大廊下」は最高格式の伺候席ですが、「黒書院溜間」も
@将軍や老中の諮問を受け直接幕政に参与する。
A将軍家の名代として、天皇や上皇に拝謁する。
B将軍家の名代として、紅葉山霊廟や日光東照宮へ参拝する。
など特別な存在であって、一概に、大廊下>溜間ではない。よって・・
◇極位極官による家格比較
越前松平家<会津松平家
個人でなく家としての極官は越前松平家では「従四位下近衛少将」
であり、会津越前家は「正四位下近衛中将」であるため、会津家
に軍配です。
☆結論
極位極官による家格の結論を尊重し、越前松平家<会津松平家と解釈
635 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:47:05
イメージだけの問題かも知れないが
越前は御三家と同じく、普通の大名ではなくあくまで一族というか「制外」っていう感じはある。
一方で、会津はあくまで将軍家があって初めて成り立つ家という感じがしで
そう言う意味では両典・御三卿に近い感じがするのは自分だけ?
636 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:48:06
>>634 会津は,預かり地5万石を足さないと
それと極位極官を基準にすると,高家>老中にもなるので,伺候席を基準の方が良いと思うが。
637 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 11:27:38
家宣って自分自身も家臣の新見家に養子に出されてて、新見左近って名乗ってたくせに、
実弟の越智清武には徳川復帰を認めなかったんだよな。
名君とか温厚な好人物と言われているわりに、身内に冷たいヤツだよな。
638 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 11:32:56
そもそも家光が保科正之に山形や会津といった大封を与えたり、
綱吉がアカの他人の柳沢に松平姓と甲府(家宣の旧領)を与えたことを考えたら、
家宣も清武に甲府かそれに匹敵する領地を与えるべきだった。
実際に与えた舘林は綱吉の旧領とはいえ、石高はずっと少なく、城も破却されてた。
639 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 12:50:44
なにかエピソードが無いのだろうかね?>家宣兄弟
640 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 12:59:14
家継のあとは最近親者である清武が継ぐべきだった。
そのためにも家宣は清武に徳川姓を認めるべきだった。
641 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:04:44
>>634 越前は32万石ではなく、
最大68万石〜最低25万石
の振り幅があります。
「松江、津山などの分家を総合計すると100万超えるぜ!」というアホな見方もあります。
鉄砲どうの、将軍が迎えにどうの、というよりも、
「お家のゴタゴタ多過ぎて、それでもなんだかんだと潰されない」
これが最大の「制外」という話。
642 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:11:53
一門としての家格だけ問うなら越前が上だろ
会津も大広間詰めで偏諱を貰う家なら
極官での判断もありだろうけどな
譜代でも家格が高ければ老中には就かない
親戚の集まりで幹事役として走り回る→会津
他家からの客と一緒に座敷であぐらをかいてる→越前
644 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:11:28
会津は彦根井伊や高松松平とならんで溜詰の常連だったので、
親戚中の世話役というのはわからないでもない。
家宣が自分の血統に将軍職を伝えたいあまり清武を警戒していたという見方はない?
清武は人物としてそこまでの器じゃなかったという反論もありそうだけど。
清武が継いでも子無しではどうにもならんよ。
松平姓であるだけに清水重好よりも可能性は低い。
清武には清方という嫡男があり、1724年までは在世していたけど。
648 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:12:18
家宣自身も父綱重が結婚する前の子供なので、家臣の新見家の子にされた。
だから、甲府藩士の越智家の子にされた清武と立場は同じ。
にもかかわらず、家宣は甲府藩主から5代将軍綱吉の世子、6代将軍となり、
清武は越智姓のまま甲府藩士から寄合旗本、兄が将軍となりやっと譜代の小大名。
いくら弟とはいえ、あんまりな気がする。
649 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:20:03
紀伊藩士の加納家の子になっていた吉宗も紀伊藩主となり、8代将軍になった。
もし清武に兄綱豊(家宣)が西の丸に入ったあとの甲府藩主を継がせておけば、
家宣の将軍継嗣か家継の後見役は確実だったろう。
650 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:09:26
家宣(綱豊)と清武は、立場が全然違う。
両者とも甲府綱重と側室お保良の方との間の子だが、
清武はお保良が家臣越智喜清に嫁いでから越智家の世子として誕生している。
しかも、すでに延宝8年に越智家の家督を継いでしまっているので、
臣下の家督を継承していない新見家における家宣や加納家における吉宗とは
境遇がまったく違う。
その上、家宣の場合は、綱重が正室として二条関白光平の娘を迎えるにあたり、
すでに妾腹の子があることを憚って、家老新見備中守正信に預けたもので、
正信はその際、大老酒井忠清の元に赴いて、家宣(虎松)が綱重の実子であり、
ただ預かるだけであることの証しを立ててから、小石川の自邸に引き取っている。
清武の甲府入封については、家宣が西城入りした時点では、綱吉の治世下であって無理。
松平吉保、吉里父子の甲府入封は綱吉の強い意志でもあり、家宣が将軍になってからも
安易に国替えなどできなかったろう。
651 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:14:40
もともと清武は兄が甲府藩主だった頃から、
「殿様の御舎弟」扱いは受けていなかったんだろ!?
652 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:36:35
甲府宰相の実弟が一甲府藩士や一旗本の扱いだったわけで。
653 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:38:29
年齢的な問題もあるだろう。
先に話題になっていた松平斉民もそうだが、清武は家継が死んだ時は既に57歳と高齢。
さらに家継→清武では甥から叔父になってしまう。
654 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:44:10
家継から吉宗への継承も、世代が上がってるんだがな。
家康からの男系の世代が近いというのも吉宗が相続できた理由の一つだけどな。
656 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 20:36:06
吉宗は暴れん坊だったのもある
657 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:00:00
家継→清方ならまだよかったのにな。
家継死去時点では既に清武家の勢力が弱小過ぎて
そういう世論も出てきようがなかったのだろうな。
658 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:08:00
津山確堂の話はもう聞き飽きた
659 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:09:39
臣籍に下った時点で、清武は松平定信と同様、完全にアウトだね。
家継逝去の折には、会津松平家も秀忠からの男系を守り、
松平姓と葵紋を賜った(正之は遠慮していた)当時46歳の
正容が健在だったが、やはり臣籍にあっては有資格者とはいえない。
天英院が当初清武を推したという説もあるが、
公家出の彼女は「徳川家のならわし」に暗かったのだろう。
長い歴史を持つ天皇家でも、臣籍から皇族に戻って天皇になったのは、
源定省→宇多天皇の一例があるだけ。
この例も、源定省が一世の源氏で、光孝天皇の皇子という身分ゆえのもので、
自身が将軍の子というわけでもない清武、定信、正容では無理。
660 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:11:51
661 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:23:32
以前、御三家御三卿以外の一門で、疑惑の家督相続は?
てなレスがあったが、
西条松平家以外にも、この会津松平家の正容から容貞への継承過程は
かなりキナ臭い。
662 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:27:13
そもそもさ,御家門であるか,譜代であるかはどうやって定まるのだろう。
越智家なんて,譜代(老中)だったり,御家門だったり。
会津も,正之は保科姓で譜代大名の家督を継いだはずなのに。
公儀から,譜代の列にとか,御家門に列するなんて沙汰でもあるのだろうか。
「譜代の列にする」という沙汰はある。その沙汰があると、
以降帝鑑の間に詰めることになる。この沙汰があれば、
家門だろうが外様だろうが以降の扱いは譜代大名。
664 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:13:10
それは元外様の願譜代の場合だけであり、普遍的な説明にはなっていない
流れ豚切るようで悪いんだが、田安のことで質問したい。
斉匡には嫡子匡時がいるにも関わらず、兄家斉の子斉荘を婿養子に迎えたのは何故だろう。
最初はたんなる押し付けかと思ったが、斉荘が養子に入った文化十年当時、
斉匡長男は既に早世してて、九歳の次男匡時しかいないってのが気になる。
(一応病弱の為廃嫡だし。ただ、斉荘養子後斉匡には七人男子が生まれているんだけど)
666 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:36:44
譜代←→家門の沙汰は、ないと思うな。
越智松平家が大広間席になったのは、武厚が家斉の子斉良を養子に迎えて
斉厚と改め、少将に昇ったからじゃないのか?
川越藩主の直基系越前松平の矩典が、家斉の子斉省を養子に迎えて斉典と改め、
少将に昇任して、大廊下下之間に上がったのと同じでは・・・
要は、家格は将軍家の血筋を入れることで大きく上昇したり、
松平定信が田沼意次へ、水野忠邦が水野忠成にやったように、有力者への
働きかけにより、溜之間へ昇格したりするもので、
その際、詰席の変更を下知することはあっても、公儀から譜代→家門への
家格の変更を沙汰することなど、ないと思うが。。。。
667 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:48:14
>>665 将軍の実子を養子にしたほうが幕府の受けがいいと思ったのだろう。
斉匡自身も定信を追い出して田安家を相続した経緯から抵抗も少ない。
匡時は他家に送られたという話も無く、斉匡に先立って病死している事から、
本当に病弱だった可能性もある。
668 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:04:05
ついでに保科松平の場合は、正之が家門扱いを遠慮していたが、、
正容が綱吉から松平姓の名乗りと葵紋の永代使用を認める沙汰を貰っている。
しかし、あらたまって「家門に列する」と沙汰されたわけではない。
>>665 斉匡の深慮遠謀でしょう。
彼はいろんな意味で最も治済の血を色濃く受け継いだ人物ではないか。
親爺の野望は知っていただろうからね。
斉荘の御三家入りと、その後田安家が自分の血統に戻ってくることを
読んでいた気がする。
そもそも彼の田安家入り自体が、松平定信の老中首座就任を交換条件とする
治済・定信間の密約に基づくといわれているぐらいだから、策略家の素質が
育まれてたのでは。。。
669 :
668:2008/07/19(土) 23:13:34
つか、治済と斉匡が諜し合わせた上の合作のような気がする。
670 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:12:10
駿河忠長
甲府綱重
松平清武
清水重好
松平斉民
清水昭武
いずれも将軍になれなかった弟たち。
前二者は将軍に一番近い有力候補。
中三者は兄が死んだあとも生き残っていた弟たち。
最後の一人は兄から後継者に擬せられていた弟。
671 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:23:11
>>670 清水重好は、長尾幸兵衛の気持ちは分からんが、
本人はなる気などサラサラなかった気がする。
子供も居ないんだし。
672 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:33:11
確かに将軍という気苦労の多い地位について窮屈な生活を送るよりは、
「公方様の御家族」の気楽な立場でのんびり暮らしてるほうが幸福かもな。
673 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:45:38
674 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:57:14
家宣の場合は、むしろ清武の存在によって、
寛文12年に世子としての地位を脅かされた苦い経験がを持つからな。
同母弟とはいっても、あまりいい感情は抱いていなかったんじゃないか。
675 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 13:41:11
秀忠は同母弟と仲良かったのにね
腹違いには容赦ないが
676 :
28:2008/07/20(日) 14:48:43
>>665さん
謎ですね! ボクも知りたいです。
専門的な研究はないのですかね!
匡時は、長男(それも正室の)でありながら、将軍偏諱も受けていない。
匡時は、病弱でしょうか!? 他の兄弟の中には10代・20代でなくなっている者
(斉位・慶寿・慶臧など)もいるなか35歳ぐらいまで生きています。
斉荘は、田安4代を継ぎながら、わずか3年で尾張家(62万石)へ
転出している。
>>667,
>>668 自分
>>665だけど、トンです。
そう言えば紛れも無く斉匡も治済の子だし、策略家でもおかしくないね。
忘れてたけど治済って文政十年まで生きてるんだっけ……家定生まれてるな。
(スレチだが島津重豪は玄孫(斉彬嫡男菊三郎)の顔まで見てるんだよな。長生き過ぎる)
>>676 家定も他の兄弟夭折の中で35歳まで生きながら「病弱」と言われていたから、
匡時も三十代まで生きたからといって一概には言えないと思うけど……本当に謎だ。
678 :
28:2008/07/20(日) 15:42:47
>>677さん!コメありがとう。
文化10年は(1813年)です(斉荘、田安家の養嗣子となる)。
治済の没年は1827年(76歳)ですから、楽々生きています。
679 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:07:59
それほど謎でもないと思うな。
清水重好だって、生来の病弱といわれながら51歳まで生き延びた。
だが、御三卿という将軍家の御控えの身でありながら、
兄家治の世子家基が死んでも、次期将軍候補に担がれた形跡すらない。
つまり御三卿としては、用無し宣言されたも同じだろう。
廃嫡された匡時も同様ではないか。
多病で後継ぎも望めぬ者を嫡子だからといって当主の座に飾っておくほど、
治済も斉匡も甘くない。
この治済・斉匡父子(一方家斉は孕ませただけという印象が濃い)は、
あきらかに血統支配の大図を描いていた。
この父子の計略からすれば、重昌や匡時のような公家出の正室の子に多い
病身の身内は、極論すれば邪魔なだけ。
680 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:22:50
ひとまずは大名になれた重昌はまだいいとして、
匡時の「一生部屋住み」という処遇はあんまりな気がするな。
病弱という以外に何か失策でもあったのかと勘ぐってしまう。
681 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:41:36
養子にすら行かせてもらえないという事は
匡時に家重、家定のように重度の障害があったか
それとも重倫のような暴君の素質があったか。
682 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:31:38
家定に重度の障害はないぞ。普通人だったと元小姓が証言している。
683 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:37:40
インポではあったけどな>家定
いやあ、ようやく見つけた。
「徳川実紀文昭院殿御実紀巻十一正徳元年八月十五日」
「松平但馬守友著ならびに松平出雲守義昌が二男伊織義武
譜代の列に仰付けらる」
少なくとも川田久保松平家には家門→譜代の沙汰が下ってる。
確認したいやつは国立国会図書館の電子図書館に行ってくれ。
ttp://www.ndl.go.jp/
>682
というか「旧事諮問禄」を読むと、やたら家定の評判が良いのだが。
逆にほんとかよと思ってしまう。
>>684 格下げってこと?
水戸家の連枝は4つとも家門
687 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:58:01
ただ当時の外国公使の記録では何らかの障害は持っていただろう
みたいな記述があったと思うが・・
側近だと後々美化したい面もあるだろうが
公使だと客観的にかけるかと
688 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:02:06
>>685 今年の大河を見た連中は、こっちの方を信用しそうだなあ。
これが事実なら、父親や祖父の心配は杞憂だったことになるが。
689 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:02:24
ハリスにしても、例の奇妙の所作を描写しつつ、それについては何も不審がらず、
逆に「大君は堂々とした、よくとおる気持ちのよい声で挨拶した」と書いている。
やっぱり家定は普通の人だったんじゃないのかね。
690 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:09:37
本当に障害があったら、家重みたいに肖像画にもそれが反映されているが、
家定の肖像画は面長で色白の貴公子で、異常な点は見受けられない。
彼の前後の家慶、家茂の肖像画が遺骨の特徴ときわめて一致していることから、
当時の将軍肖像画はかなり信頼できると考えられえる。
容姿の面からも、家定は病弱だが普通の青年であったと見るべき。
691 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:15:39
ちなみに「普通」というのは、単に精神や知能が並みという意味であって、
政治的に凡庸な君主であることと矛盾しない。
料理とか菓子作りが好きな病弱で神経質な青年というところだろう。
癇癪もちでわがままでもあったろうが、そんなのは殿さまなら珍しくもない。
692 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:19:46
>>684 よく探したよね。
俺はあいにく「文昭院殿御實紀」を読んでいないので、
偉そうなことは言えないが、
でも、この記述は家門→譜代への沙汰ではなく。
友著、義武が部屋住みの身から、分家独立したことを幕府として公認する
沙汰ではないのかな。
いずれも新知拝領ではなく、禄米取りのままではあるが。
>686
いや、宍戸は帝鑑間詰め。同じく正徳元年に帝鑑間詰めの沙汰があったはずだが、
「徳川実紀」の記事は見つけられなかった。
ちなみに、正徳二年四月十五日の記事で、
「松平隼人正近朝。松平主馬知清は譜代の列にくはへらる。」(広瀬と白河新田)
という記事がもあった。書き方から見ると格上げのように見えなくもないが、
そこら辺はよく分からない。
694 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:39:52
家定は普通の人だったのに、政敵が暗愚だという噂を流したんじゃないかね
宗家乗っ取りを企む御三家筆頭水戸斉昭や松平越前守らだ
695 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:48:18
>>694 家斉が心配するだけでなく、家慶も将軍継嗣にすることを躊躇ったらしいから、
噂だけではないと思う。
696 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:58:39
それは生殖能力の点でだろう。
父家慶の将軍在位中の1840年代後半、家定は既に20代になっていたが、
祖父や父のように子供をボコボコ作ることができなかった。
しかも家慶の子は生まれるそばから夭折し、家慶の弟たちも年々死んでいく。
こんな状態なら病弱で種無しの息子を見限り、多産系の水戸の慶喜に期待しても、
まあ不思議ではない。
>685
うーん、そこまで評判がいいですかね?
大奥の方はともかく竹本要斎の回答では、「世の中に広められているような『白痴』という
ような人ではない」という程度の評価に思えますが。「得失混淆というべき御人であります
な」ですから。
>697
感じ方の違いかなあ?
竹本はその直後に、
「外患の事を苦労にしておられたことは、私の存じた代々の中で第一等でございました」
とか
「(この部分の意味が取りにくいけど)そのような事は前後の公方様の及ばぬ所であります」
と言ってるし。他の部分でも、
「ところが温恭公(家定)は僅かの物でも益のない物は置かぬという風で、御坐右に華麗な
ものは一つも無いというようなことでした。」
と言ってる。同じ回で竹本以外にも大奥の佐々鎮子の伝言として、
「温恭公は決して世間でいうような愚物ではない、また世間でいうような癇癖でもない、
私は長く御側にいて知っているから、この次回の速記録の追加として出したいから、
その話をしてくれ」
と言ったという話も出ている。
私はこれを読んで、なんかみんなで「家定はいい人だったよ」と言ってるように感じたんです。
699 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:01:32
家慶が家定を世継ぎとして疑問視していたかどうかは疑わしいな。
たしかに世子決定は天保12年で、家慶が将軍になってから4年が経過しているが、
(因みに家重の場合、吉宗の将軍就任から9年後に世子決定している)
すでに誕生の翌年には「若君様」と称せられ、翌9年には「家祥」の名を冠せられている。
天保の三佞臣と中野碩翁らが家慶の娘婿前田慶寧を擁立しようとしていたとか、
家慶が御台所有栖川宮喬子の妹吉子の子である一橋慶喜を後継ぎに望んでいたとか、
いずれも講談調だったり、宗家との血縁が遠すぎて考えにくい。
むしろ万一家定をあきらめるとしたら、後継は田安慶頼を考えるだろう。
彼は家慶と血縁が近いうえ、田安家を継いだ天保10年に家慶の娘暉姫との結婚を
命じられているぐらい(暉姫の死により実現しなかったが)。
700 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:24:24
まあ、家定は名君でも賢君でもない、殿さまとしては中レベルの凡君だったけど、
側近から見れば「いい人」だったんだろう。
家定のことを個人的によく知らない人たちからは愚物扱いされてたけど、
一個人としては特別優秀でもないが、特別愚かでもない、ごく普通の人だったと。
>698
そうだとは思いますが、そもそも要斎は「善い所を上げていうと」と宣言していますよね。
で、その前の部分では「それは愚な所もあれば、また酷く内気で云々」と、内輪では議
論できてもいざというときには口がきけないことがあったりというような事を言っています。
総じて読む限りでは、家定に対しての評価は、「世間で言われているような『愚物』では
なく、将軍としては普通のレベルだ」という体に思えます。
ただ、否定すべき「元の世間の評価」自体があまりにも低い上に世間に定着しすぎて
いるため、「普通」と主張するためには美点を非常に強調せざるを得ないということで
はないでしょうか。
>>699 家定の世子決定が天保十二年なのはそれまで世子の住居である西の丸に
大御所家斉が存命だったからじゃないか?
前田に関しては事実だとしても、お美代の方や家斉の側近のしわざで、
死んだ家斉はおろか家慶すら知らないことだった筈。
将軍家の跡目に関しては、幼年の家継や言語不明瞭だった家重の例があるから
例え家定が病弱だったとしても廃嫡は有り得ない。家定を諦める=家定が死んだ時のみ。
そしてその場合は、血統の順から言えばまず家慶の甥に当たる紀州慶福、
ついで家慶従弟の田安慶頼が候補になるのが自然。血筋の離れた慶喜はありえない。
ただ家慶が慶喜を世子に考えていたと言われるのは「鶴御成供奉未遂」事件があるから。
鶴御成という、世子しか連れて行けない大事な儀式に家慶は慶喜を同道させようとした。
この時は老中阿部に「今少し見合わせた方が」とストップかけられて、
「そうか、少しはやいか」と家慶自身諦めている。家慶自身の本音がどうであれ、
この事件は家慶が家定をさしおいて慶喜を世子にしたかったと思われておかしくない。
……実際慶喜を同道させたらどんなことになっていたのか。気になるな。
703 :
28:2008/07/21(月) 00:00:12
>>702 さん
徳川宗家の相続原理に従がえば、702さんのとおりでしょう。
消去法に従がえば、家定の後の家督は、血統が一番近い慶福(家茂、家慶弟斉順の子)でしょう。
家茂後は、緊急例外として(血統は水戸系なれど一橋家から)慶喜でしたが、
彼が将軍退任後は、宗家家督を本家筋の田安系の家達(慶頼の子)に返還しています。
704 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:18:35
>>702 たしかにね、慶頼より慶福だろうね。
ただ世子決定の天保12年を念頭において書いたので、その時点では慶福は
まだ生まれていない。
鶴御成供奉事件・・・
嘉永5年の話だそうだが、家定が世子と決まった9年後の話だから、
家定に取って替わってというより、家定の後継含みの話だと思うが、
ソースは「慶喜公伝」・・・だから、いささか真偽は疑問。
一方ではこんな話もある。
中根香亭によれば、家慶が慶福を初見した折、家定と3人で苑内の菊を
観賞した折、家慶が家定に向って「他日汝に所生なくば、この児を養え」
と云われた、という。
まあ、いずれにしても家定廃嫡など、家慶は考えていなかった――という
結論には賛成だな。
>>704 天保十二年当時なら慶福生まれていないな。すまん。
鶴御成に関して、確かに家慶は十四代に慶喜を考えていたと読み取る事も出来る。
ただ、当時の人には世子交代の意識あったんじゃないかという前提で書いてしまったものだから。
ちなみに「慶喜公伝」って信憑性あんまり無いのか? 自分逆に
「慶福を養え」って話しの方がソースが良くわからなくて疑わしかった。
(無知なので、中根さんってどういう人かよければ教えて欲しい)
家慶は家定廃嫡を考えて無かっただろう。仮に考えてたらひどい父親な気がする。
将軍家の世子を廃されたら、他に生きる道無いも同然だし。
706 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:27:33
>>705 渋沢栄一が著した「徳川慶喜公伝」を信憑性が無い――なんて大それたことは
言うつもりはないが、ただ手前味噌な解釈にはなるだろうから、多少さっ引いて
見るべきじゃあ・・・てな文意。
鶴御成りへの供奉が、イコール後継指名の意思表示と見るのはどうかな。
中根香亭は江戸末期から明治の漢学者。
ただ立場の違いによってバイアスがかかる例として、三島中洲は板倉勝静の談話
として、やはり家慶が慶福召見の折、家定に後継の内意を伝えた、とある。
板倉は最後まで慶喜の後見職就任に反対した老中だしね。
ただ、慶喜側では上臈姉小路が、慶福側では家慶晩年の寵妾で、
紀伊家付家老水野忠央の妹お琴の方がそれぞれ家慶にさかんに働きかけていたから、
二つの逸話とも、家慶の揺れる気持の現れなのかも。
707 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:32:06
但し、お琴の方、別名おひろの方が水野忠央の妹かどうかは諸説あるが・・・
宗家の話ばっかり長いよ。
スレ違いなんだけどわかってるのか?
709 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:45:01
710 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 09:28:05
将軍としての家定の能力が父家慶から疑問視されていたという話だが、
歴代将軍で自ら政務を指導したのは初期の3人を除けば、綱吉・家宣・吉宗くらいだろう。
その後は家慶自身も含めて政治に無関心な「そうせい公」ばかりのような。
心身ともに剛健で精力的な家斉も、もっぱら私生活の方にエネルギーを注いでるし。
711 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 09:32:58
>>670 どいつがいちばん地味かなぁ
俺は甲府綱重を推したいw
712 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:31:09
やはり清水重好でしょ。
713 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:33:55
714 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:47:40
715 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:07:47
>>705 将軍世子が廃嫡された事は実は一度も無いからな。
家光、家重も廃嫡されかけたが結局実現しなかった。
匡時も廃嫡するくらいなら適当な所に養子に押し込めばよかったのに。
匡時は大和郡山藩か川越藩に押し込めばよかった
717 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:13:00
>>714 田安治察も加えてよ。
親爺の宗武同様文武に優れていたそうだが、
22歳で早世。
もっと長生きするか、せめて男子が生まれていたら・・・
その後の歴史は大きく変わっていた気がする。
少なくとも治済の思い通りにはならなかったろう。
718 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:03:41
ペリー来航の前年に生まれ、父家慶の死の直後に夭折した松平長吉郎。
彼が生き延びてれば紀伊慶福はおよびでなかったかも。
この不自然な夭折は兄家定の謀略の匂いが・・・
>>718 謀略なんかないって。三十近くも歳の離れた弟に将軍の地位を脅かされる
わけでもないし。不自然な夭折も何も、他の兄弟の死亡年齢考えたら
逆に家定が三十路まで生きられた事が奇跡みたいなもの。
まあ、長吉郎が生きてたら慶福がおよびでなかった可能性はあるけれど。
(どっちにしろ若年だから一橋派は慶喜推したと思うが)
720 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:15:26
芋料理やカステラ作りに熱中してる公方が謀略なんかするか?
721 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:43:27
>>717 治察も実は治済による毒殺だったんじゃないか?
重富が一橋家に残っていた場合も気になるな。
重富は治済ほどの立ち回りが出来るかどうか。
722 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:01:09
西の丸の大納言家基、田安大蔵卿治察を次々暗殺し、紀州重倫を統合失調症に落とし、田安賢丸を白河に放逐した一橋民部卿治済・斉匡御父子
723 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:06:02
少なくとも、重倫は勝手にだろう。
白河放逐は分からんが。
724 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 17:57:59
家慶があと十数年長生きし、なおかつ慶昌、長吉郎が健在であれば幕府も安泰だったのに。
松平長吉郎定頼。家定と将軍の座を争って命を落とした
726 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:07:24
1歳の幼児なのに凄いな。
727 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:56:01
会津も水戸と同じく紀伊系の血入っていなかったっけ?
728 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:58:39
バリバリ入っている
他の家に比べると頻度は少ないけど
729 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:38:42
会津も水戸も男系では紀伊系の血は入ってないぞ。
730 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:52:56
どっちなんや
731 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:59:37
男系はなし
732 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:16:24
うむ、男系はないね
733 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:59:15
殿さま風来坊隠れ旅で紀州重倫が旅をしてほしかった。
735 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:16:58
重倫は、藩邸の庭に豆腐をエサにして群がる鳥を狙撃する。まさに何とかに刃物
736 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:18:43
そんな銃を撃てるほど屋敷の庭って広いモノなの?
安全に撃つには50メーター以上必要でしょ
>733
世子時代のエピソードで、冬に登城したときに尾水両卿も父親も差し置いて、末席の
自分の手元に大火鉢を引き寄せて独り占めしていたという話がありますな。
で、閉口した尾水の殿様たちからそれとなくたしなめられても、屁理屈を言って手元
から離さなかったと。
738 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:22:48
重倫は何で廃嫡されなかったんだろう?
そんなに暴君なら世子時代にその兆候はあるはずだし、
頼雄や匡時より廃嫡されて然るべきなのに。
>736
例えば小石川後楽園は水戸家上屋敷の庭園部分だし、東大が加賀前田家の屋敷跡だという
のも有名ですね。
江戸で最大級の大名庭園だと、戸山にあった尾張家下屋敷(戸山荘)が有名ですね。庭の中
に実物大の小規模な宿場町(町屋が36軒)を作ってしまったということで名高いですが、ここは
総坪数13万6千坪という広大さで、↑の宿場部分も庭園のほんの一部にすぎないという規模で
す。
740 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:31:01
>>736 いや、だからこそ隣家の松江藩からも苦情がきたわけだよ
741 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:34:38
重倫は、精神統合失調症のガンマニアであった。
742 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:43:05
藩主がガンマニアって幕府に警戒してくださいって言っているようなものだな
>>738 将軍家では廃嫡なんてありえなかったし、御三家でもよほどのことが無い限り
廃嫡はないんじゃないかと。あと、徳川光圀も町で刀振り回していたように、
江戸時代でも若年でのやんちゃは大目に見ていたようだし。
>740
「普通の人」が普通に撃つだけなら大丈夫でしょ?そもそも江戸で鉄砲を撃つかどうかという話は
あるけど、それを別にすれば大抵の大名屋敷には弓術場や馬場があるわけだし。
紀伊家にしても広大な庭園を伴った屋敷をいくつも持っているんで、他所に危険を及ぼさないよう
に射撃・狩猟するのは、その気になれば別に難しくはないはずです。
そこを敢えて近隣に迷惑をかけて苦情が来るような形でやるのが、重倫のやり方なんでしょう。
746 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:34:51
>>742 幕府転覆の意図とかがないことは分かってたようだが、
さすがに身内とは言え、変な人間が家督を継いでるのを黙認もできないので、
強引に隠居させた。
これが家綱のあたりで少禄の大名なら確実に取り潰されてる。
大禄ゆえに浪人が大量に発生するから穏便にしてるが。
747 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:39:15
うむ。重倫ってやっぱ変な人だと思います。隣家の松平不味を狙撃したいう話もあるし
748 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:43:27
重倫の倅の治寶は学問好きの良い殿さんなんだが。
749 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:46:08
公方暗殺を企んだため、桃太郎に斬られました
>748
重倫に殺されそうになっているけどね。母親は殺されているし。
世子のやんちゃは許すけど、藩主はやんちゃが許されず、隠居するとこれまた
やりたい放題…
752 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:56:23
鳩を大量に飼う殿様も困るが、刃を振り回す殿様はもっと困るなあ。
この殿様は伊勢神宮に参るのが好きだったらしいが、信心とかは関係無さそうだな。
753 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:16:10
重倫は隠居した後も伊勢参りにかまけながら84まで長生きしている。
治寶の実父なだけに宗春のように罪人扱いも出来ないのだろうが、少々甘すぎるな。
754 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:22:18
重倫の兄弟も比較的優秀だし、治寶も優秀なのに、重倫は?
755 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:26:03
だから統合失調症だっていってるだろうが
756 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:32:10
矢島健一の松平慶永
757 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 02:28:06
>>748 「修練好きの立派な武士」という解釈で。
話の流れを切って恐縮ですが、
このスレで小笠原権之丞と松平民部某についての質問はスレチですかね?
やっぱりスレチですよね、よって差し控えます。w
760 :
758:2008/07/22(火) 16:13:13
761 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 22:30:25
家定の弟長吉郎は、父家慶が没して兄家定が即位した直後に死んでいる。
何か匂わないか?家定サイドの謀略の匂いがプンプンするんだが。
>>761 家定には殺す理由がないと思うんだが
殺す理由があるとすれば一橋派の方がよっぽど
763 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 22:42:51
長吉郎江戸日記
>747
まあ、隣の屋敷が覗けるような櫓を建てて夕涼みをしていた
不昧公もどうかとは思いますが。
確かに、狙撃されるほどのことではないな。
>751
風雲たけし城みたいな茶室を造って、家臣を池に落として
喜んでいるぐらいですむようになったのだから、多少は
丸くなられたのでしょう。
765 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:24:36
>>764 不昧公は評価されすぎだよ。斉彬に近い感じだなあ。
馬鹿ではないんだろうが、道楽三昧で一度潤った藩財政を困窮させた方だからなあ。
766 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:31:43
重倫は強制隠居といっても、宗春みたいに軟禁状態で墓にまで金網を張られたりすることも無く、
54年間気楽に隠居生活している。将軍になるよりよっぽど幸せだろう。
767 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:36:36
大好きなお伊勢さんに好き勝手に参ってたんだし。
768 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:55:40
松平不昧の父宗衍は、尾張宗春とともに吉原で大いに遊んだ仲でした。
769 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 00:02:22
お化け屋敷が好きな殿様ですね。
770 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 01:04:32
お化け屋敷とは?
771 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 02:57:03
重リンを超越できる逸材はいないのか?
乱行といえば江戸初期の松平忠直や徳川忠長だけど、どちらも改易の理由付けのために
大げさに喧伝したというのがありそうだからなぁ。
773 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 07:14:47
>>766 つまり宗春の行為はよほど幕府(吉宗)の痛いところを突いていたことになりますな
>>771 超えはしないけれど、光圀もかなりの暴君です
774 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 10:46:50
尾張の本寿院の乱行はどこまでが事実だろう?
775 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 12:17:56
吉通・五郎太の代に我儘放題したんじゃないの。
継友や宗春からすれば、他人だから、
藩士が大袈裟に言ってる可能性もある。
あ、松平忠直は越前マジックが発動したのか改易されてないか。強制隠居はされたけど。
777 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 14:30:35
>>776 倅が越後高田に国替え、その越後高田はお家騒動でお召し上げ。すったもんだの末、津山へ。
778 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 14:35:33
越前マジックw
779 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 15:55:05
780 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 16:50:13
藩主は不行状が多いし、一橋系からガンガン養子が来るし
越前家はつくづく多難だな。
781 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 20:17:05
紀州藩って面白いなあ。
殿様の治貞が粗食で、冬も火鉢を控えてるのに、
隠居してる重倫が伊勢参りなど贅沢三昧。
782 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 20:18:42
鸚鵡ちゅうろうきによれば綱誠の死後、若い藩士を裸にしてアレのでかいのを好み、交接までしたというではないか
783 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:44:45
増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体が手に入らない、内容を教えて欲しい。
784 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 22:04:57
治寶は重倫のことを父親なんて思ってないだろうな。
母親を殺され、自分も殺さけかけ、隠居後も好き勝手やられたら、
治貞を本当の父親だと思いそうだ。
785 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 22:30:26
たか女
786 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 22:54:58
>781
重倫も世子の頃は火鉢を抱え込んで(>737)いましたよ、というのは意味が違いますな。
788 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 01:21:34
跡部良弼は清水卿支配という役職を与えられているが、どんな役職なの?
789 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 01:41:12
清水徳川家は、文政10年に第五代を相続した家斉21男斉彊が弘化3年に紀伊家に入った
後は、水戸斉昭18子の昭武が慶応2年に第六代を継ぐまで空家。
跡部良弼が留守居年寄格で清水家支配となったのは、安政5年5月24日〜万延元年9月7日
までだから、要は空家の管理責任者みたいなもの。
>>783 大学の図書館で閲覧しただけですが、「骨は語る・・・」は一般向けで、こちらの方は、
調査方法・結果・考察が羅列されていて、科研の報告書といった感じでした。
(将軍及び静観院宮に至るまで、各骨の寸法、状態、血液型、採取した毛髪・陰毛の数
及びちじれ具合といったようにあらゆる情報が淡々と掲載されていました。)
家斉の二十一男、斉彊って清水家から紀州家に入ってるけど、
正室との婚儀は清水家当主の時?
天保十二年に長女が生まれてるみたいだから、清水家時代だと
思うんだけど正確な年がわからない。知っている方教えてください。
792 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 20:27:49
志位
793 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 01:58:47
増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体が手に入らない、内容を教えて欲しい。
御三家藩祖の生母、お亀さんとお万さんの老後ってどうだったのでしょうか?
家康が死んだときはまだ30歳代で、息子たちは幼少ながら最高の格式。
795 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 19:22:03
2人ともハンソの母として大切にされたよ。
頼房養母の英勝院も仲間に入れてあげて
慶臧が尾張家を継ぐ際、同母兄の慶永が気遣うような文を書いてるのを知って思ったんだが
同腹の兄弟と異腹の兄弟、心情的に違いはあったんだろうか。
(嫡出と側室腹ではまた別かもしれないが)
798 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 09:45:40
生母、正母の考え方次第で同腹でも仲が悪くなるし、異腹でも仲が良くなる。
典型例は家光だなあ。
799 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:03:03
田安家の兄弟の中で、ひとり松平姓の家に養子に出された慶永ってついてないな。
もし、慶永が尾張家に入ってれば、ひょっとしたら将軍になれたかもしれないのに。
800 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:09:41
そもそも血統や生家を考えれば、田安家の慶永の方が水戸の慶喜より宗家に近し、
年齢や人物の面からいってもけっして遜色はない。
慶永はなんで慶喜を将軍にしたがったんだろう?
慶永自身の徳川家復帰を工作した方が、まだ譜代門閥の納得をえられるだろうし、
12代将軍の従兄弟が水戸の七男坊の風下に立つ抵抗はなかったんだろうか?
801 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:16:19
あの時代に将軍になりたい方が
珍しいというか少ないというか
802 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:12:52
家慶の弟で松平斉民、蜂須賀斉裕以外で比較的長生きした、
紀伊斉順、尾張斉荘、紀伊斉疆あたりが1860年代まで生きてれば、
幕府も安泰だったのにな。
803 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:15:17
慶永以外に越前・会津から将軍候補に少しでもなったのって
います?
805 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:33:08
えらそうに
806 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:43:18
戦前、越前家の松平慶民子爵の二男忠永が一時、徳川家正公爵の養子になった。
しかし、パイロットだった忠永は戦死する可能性を考えて自ら離縁を申し出た。
戦後、会津分家の松平一郎の子恒孝が家正の養子となり、18代当主となった。
807 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:47:26
ちょっと前だけど
徳川本家の嫡子がベトナム人と結婚するということで
実家と軋轢を起こしていると週刊誌に出たな
結局結婚したのだろうか?
808 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:48:47
>>807 した。
人種差別的な意見だけど
日本人の血で残して欲しかった。
809 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:51:35
徳川なら慶喜家もあるし、田安家もあるだろう。
将軍の直系なら慶喜家は男系の直系だし、吉宗の子孫なら田安家がある。
別に現宗家にこだわる必要はない。
810 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:53:18
811 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:55:49
本物の貴族は結婚相手の血統は無視だよな
今上天皇だって美智子さんの祖先の血統無視したもんな
自分の血液に自信があるんだろうな
812 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 15:02:02
家広なんて架空の人物だろ。
813 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 15:11:35
814 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 16:21:14
宗家はまだしも紀伊家、尾張家は家康男系ですらなくなってるからなあ…
815 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 16:38:52
そもそも紀伊家は男性当主すらいないし。
816 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 16:45:24
家広なんて実在するわけないだろ。
いまどき、徳川でも「家」の通字なんか使うかよ。チンドン屋じゃあるまいに。
817 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 17:08:05
だよな。なにがイエヒロだ。
もっと前の世代でも「恒雄」とか「一郎」だぞ。
818 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 18:04:26
徳川系列の人で今政治家やっている人っていないの?
平沼の嫁さんが慶喜家だっけ?
819 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 18:52:02
現代は政治家やっても品格落とすだけ。泥にまみれるだけ。
財団運営や資産管理会社の経営が地味だが、一番堅実で品位を保てる。
820 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 19:07:38
>>818 徳川に限らず、名家の子孫は学者ではよく見かける。
821 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 19:21:25
ベトナム人に抵抗があるならば、慶喜家なり田安卿の血筋を本家にいれればよい
822 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:45:33
>>宗家はまだしも紀伊家、尾張家は家康男系ですらなくなってるからなあ…
ちょっと待ってよ
それ、どういうこと?
苗字だけの関係ってこと?
823 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:47:55
NHKの松平定知ってウィキに載ってるんだね
おまえは歴史上の人物か?
ほんとうに腹立だしい奴だよ
824 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:01:48
紀伊家は最後の侯爵が亡くなったあと、日系人のナントカ剛さんを婿に迎えたが離縁。
いまはその娘(といってももうオバサンだが)が建築家をしている。未婚。
しかも最後の侯爵が戦前に散財し、未亡人が戦後事業に失敗したため、スッカラカン。
大名家としては実質滅びたと言っても過言ではない。
尾張家は財団(美術館)や資産管理会社を持ち、旧華族では栄えている家の代表格だが、
先代当主が佐倉堀田家からの婿養子なので、もはや家康の男系子孫ではない。
825 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:20:46
伊予西条侯をもって紀州の名跡を承継させては如何?
826 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:49:18
>>825 財産もなく、徳川姓だけが利点の家なんて、西条侯も嫌だろう。
十五銀行破綻や終戦直後の混乱で財産失った家はたくさんあるが。
827 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:57:42
会津が将軍候補になったのは、皮肉にも現代か
>>798 亀だが、トンです。こういうのはケースごとに違うか。
斉昭は正妻の子だからと慶喜を可愛がったようだが、一方で同じ嫡出の
長男慶篤とは仲が悪かったみたいだし。
話が一橋家に飛ぶが、郁之助(斉位)は何故姉とは言え二十三歳と二十六歳の
夫婦の元へ養子にいったんだろう。子供が出来ない見込みだったか、斉匡の考えか。
829 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 22:56:53
>>828 斉昭は、慶篤の正室の線姫に手を出そうとしたという噂がある。
本当かどうかは知らんが、唐橋に手を出した話から変わって、
噂だけだ一人歩きしたのかもしれないが。
歴史に興味をもった
権威主義者は、
真実を攪乱する役目を担う
831 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 00:08:21
>>828 斉位は義兄の養子になったが別にこの時点ではただの養子であって
一橋家の跡取りだったわけじゃないだろ
義兄の斉礼が28歳で子がないまま没したために急遽一橋家当主になっただけ
養子になった時点で一橋家相続を約束されたわけじゃない
832 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 01:42:52
>>828 斉匡の思惑があるだろうな。
斉礼はあくまでも兄斉敦の子。
自分の娘近姫を文政2年に斉礼に嫁がせているが、一向に懐妊の兆しがない。
そこで斉位に一橋家を継がすべく、文政8年に養子入りさせたんじゃないのか。
この文政8年当時、
尾張:兄治国の遺児斉朝が当主で、すでに家斉19男斉温が養嗣に決まっていた。
だが斉温の正室として、のちに斉匡は娘愛姫を嫁がせている。
紀伊:家斉7男斉順が治寶の養嗣として前年の文政7年に当主になっている。
水戸:哀公斉脩が当主。当時から後継をめぐり斉昭擁立派と斉彊迎立派の対立があった。
田安:斉匡自身が当主。すでに文化10年に家斉11男で、のちに尾張に出す斉荘を
養嗣としていたが、文政9年には自分の娘猶姫を斉荘に嫁がせ、斉荘転出後は、
わが子慶頼に跡を継がせている。
清水:家斉13男斉明が当主。後継は水戸に入れなかった家斉21男の斉彊。
越前松平:一橋重富系三代目の斉承が当主。跡を継ぐ家斉24男斉善早世後、
斉匡8男の慶永が継ぐ。
こうしてみると、斉匡は、家斉の子配りの間隙を縫って、しっかり自分の子女を
一門に扶植している。
文政8年当時の御三家御三卿の状況からすると、上記のとおり一橋家が空くと見て、
早々に5男斉位を送り込んだのではないか。
833 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 12:34:31
>>828 >郁之助(斉位)は何故姉とは言え二十三歳と二十六歳の
夫婦の元へ養子にいったんだろう
この夫婦は、27歳と30歳で子もできないまま揃って早死にしているから、
もともとあまり健康じゃなかったんだろうね。
正室の弟なら、押し付けという印象じゃなく、後継ぎとしても名分が立つしね。
>>832 治済はまだ在世だったけど、もう耄碌していただろうしね。
斉匡は大納言、従一位まで昇り、隠居後も生臭かったから、
したたかな計算があったとしても不思議じゃない。
834 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 19:02:18
大河ドラマの天璋院と家茂が親子に見えないんだが・・・
835 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 19:54:28
いい兄妹に見えるなあ。
836 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:01:26
姉弟でないの?
837 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:53:24
田安幽斉斉匡
>>831-
>>833 トンです。総合すると、斉礼&近姫夫妻には子供が出来る見込みが無く、
斉匡がこれ幸いとばかりに実子を送り込んだってことか。
(考えてみればその後、斉位が当主になるも子無しで死に、宗家から来た慶昌が
これまた子が無く死んだ後を実子慶壽に継がせているしな……斉匡恐るべし)
839 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 21:19:14
田安慶頼の写真(おそらく明治になってからのもの)を見たことあるけど、
家達によく似てるんだけど、片目がメカチンみたいに見える。
840 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 23:09:48
斉匡が父治済譲りのしたたかさを持っていただろうことは認める。
だが、過大評価があるんじゃないか。
匡時の廃嫡の件だが・・・
そもそも斉匡の田安家入りには、御三家から相当な抵抗があったと聞く。
御三卿は、本来将軍家の庶子が入るべき家柄だからだ。
治済と定信の間に密約がったかどうかはともかく、この時のゴリ押しと
それに続く一橋家への五男斉位の送り込みが匡時廃嫡の伏線になってしまったのではないか。
匡時が廃嫡された天保7年当時、すでに斉匡には慶寿、慶永、慶頼が生まれていた。
弟に継がせれば良いものを、将軍家斉の子斉荘を迎い入れざるを得なかったのは、
御三卿を私物化するような動きに対する将軍家、御三家からのしっぺ返しではないか。
もう一つの見方は、経済的理由だ。
御三卿は封地が散らばっていたため、ただでさえ経常支出がかさむ。
そのうえ斉匡も子沢山で御納戸関係の支出も多い。
そこで幕府から財政支援をあてにして、斉荘を養子に迎い入れたと見ることもできる。
その見返りに、ちゃっかり廩米2万5千俵と金3千両を幕府からせしめている。
後の経緯は、たしかに家斉
841 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 03:06:09
>>816>>817 一郎は宗家の人間じゃないし、恒孝さんは養子だから家がつかないのはやむを得ない
(現在は改名が難しいからね)
江戸時代だって傍流からはいった将軍は、家が付かなかった場合があるでしょう?
それと、家廣さんは実在するよ
尾張家でも明治後は通字の義をつけた命名をしているし、他家でもそういう例は多い
842 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 15:09:44
まあ、家広は実在しないけどね。
>>842 気が狂うと周りが大変だから、周りの人のためにも一刻も早く死ぬべきだと思うよ。
844 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 17:57:52
>>842 根拠は? 本まで出版している人物を「いない」と言い切るんですから、
確固たる証拠があるのでしょう
無学な私に教えてくれませんかね?
845 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 18:01:13
>>840 匡時が将軍家から偏諱を受けていないのが気になるな。
最初から嫡男として扱われていなかったのだろうか。
現代の徳川さんは皇室みたいに学習院いったりしないんだな
847 :
28:2008/07/29(火) 23:02:29
しかし、不思議なのは、家斉子女55人のうち、孫の代で「徳川」
を名乗れる男系子孫が家茂(慶福)だけとは!?
>>847 家斉の孫で「徳川」姓なのは、斉順の子家茂と、家慶の子家定と慶昌、
斉荘の子昌丸の合計四人の筈。まあ確かに少ないと言えば少ないけど。
849 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 23:18:01
徳川姓が許されるのは将軍家と御三家三卿だけなんだから、
何十人も名乗れるわけはない。
>>846 現代の範疇にもよるけれど
尾張先代の義宣さんは今上天皇のクラスメイトだよ
戦後もね
『徳川さん宅(ち)の常識』では「A」という名前で出てくる
「華族制度もなくなり、職業選択の自由ができたのに、Aだけはそうでない、
あわれだ」
みたいなことを言っている
>>347 家定も孫だけど、それはともかく
斉荘の子、一橋の昌丸も入れてやってくれ
斉荘さんがあまりにも不憫だ
>>848 徳川姓の枠が,宗家,御三家,御三卿,それぞれの当主と嫡男の14人分,創始者の家康や吉宗じゃないんだから,多いと言えるんじゃない。
>>849,
>>851 「徳川姓」の枠、まったく失念していたorz 勘違いスマソ。
一つ訊きたい、一橋家に入った慶昌が無事に成人し、健康だった場合、
家定との兄弟関係は家光忠長、家重宗武みたいなことになっていたんだろうか。
(一緒くたには出来ないのかもしれないが)
>>852 そうだともいえますし、逆に病弱な兄のお控えとして、守られたかも知れません
私はむしろ、慶昌さんが成人していたら、勝海舟が側用人になっていたかも
しれない、その方に興味をかきたてられます
御三家や御三卿が,徳川姓を許されたことについてなのですが。
御三家,御三卿において,徳川○○と呼ばれたり,名乗ったり,署名することはあったのでしょうか。
大抵の場合は,尾張様とか一橋様とか,あるいは官職で呼ばれるし,そもそも正式な姓は「源」のはずですし。
このスレでも,普通に田安慶頼とか一橋宗尹と使われているし,どうなんでしょう。
856 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 02:03:45
ところで尾張とかが女系に乗っ取られてること他の徳川家はなんで容認してんの?
男系は水戸系くらいだから発言力もないのか?
857 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 06:13:00
江戸時代じゃないんですから
「女系に乗っ取られてる」
なんて表現は穏やかじゃないですよ
大体乗っ取られてなんていません。古い家を維持していくのは大変なことです
し、社会的特権なんてないんですから
それに女系のつながりを低く見てはいけませんよ
尾張家の場合、美術館と林政史研究所がありますから、義宣さんのような優秀
な人が後を継いだのは、よかったんじゃないかな
彼自身も美術、歴史に造詣が深く、徳川一族の長老的な立場にありました
明治時代以降の子孫ネタがウゼえ。
必ず湧いてくる。
859 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 09:01:45
別にスレの主旨に反してないからいーじゃん
うざいと思うなら見なきゃいい
書き込みまでして
かまって君こそうざいね
>>855 義崇さんもそうなんだ
しかし、親父さんにそっくりの顔立ちだよね
ともかく義宣さん亡き今、徳川一族の顔がやっと宗家の恒孝さんになったわけだね
>>854 御三家は様付けでなく、殿付けだとどこかで読んだ記憶がある
ともあれ姓名を名乗るのは上に対してだけだから、
幕府や朝廷宛ての書状の署名には源朝臣徳川某としたんじゃないかな
>>859 わざわざageて、知識がなくて、スレ違い開き直り、お前はバカ?
源朝臣徳川某とは書かない。諱で呼びあったりしない。
家康の征夷大将軍宣旨も見たことなしか。
がっかりレベル。
夏休みの宿題でもやってなさい。まずは句点の勉強だ。
861 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 11:16:20
江戸時代に豊臣や羽柴を使っていた奴はいるのかな?
浅野・木下・前田などは名乗っても不思議はないが
862 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 11:36:59
木下家は豊臣氏を名乗ってましたよ
>854
三家、三卿は、宰相以上に任官の後は
尾張宰相、一橋中納言等と呼ぶ。
その前は、徳川常陸介、徳川宮内卿等
と称して、紀伊、清水等とは称さないと
いうことだそうな。
後、三家が殿付けなのは既に指摘のあ
るとおり。(家光が様付けを禁じたそうで
す。)
>854
御三卿については文化13年の須原屋版武鑑で、
「徳川右衛門督斉匡卿様」「徳川民部卿斉敦卿様」
「徳川式部卿斉順卿様」と書かれている。
でもなぜか隠居の治済は「一橋大納言治済卿様」
>864
863ですが、それは↑の原則どおりということですね。
「将軍の座」に引かれている松平慶永「前世界雑話稿」によると、
「御三家、御三卿はみな殿を称する。尾張殿、紀伊殿、水戸殿と呼ぶ。御三家、御三卿方は家督相続の後、
従三位に任ぜられても、右衛門督とか民部卿とかの卿の名ばかりで、たとえば徳川式部卿と言って田安、
尾張ととなえない。宰相、大納言、中納言では尾張宰相とか一橋中納言、または大納言とかを用い、徳川
の文字を使用することはない」
だそうです。
御三家、御三卿は殿を称するとのことですが,それは幕府重役や大々名でも「様」ではなく「殿」と呼ぶということですか?
それとも,幕府諸役人がこぞって「殿」と呼ぶということですか?
中小大名や旗本役などは,さすがに水戸様とか,「様」付きで呼ぶと思うのですが。
それと参議以上は,徳川姓を用いないというのは,区別が付かなくなるからですかね。
徳川中納言なんて同時期に複数いそうですし,諱で呼ぶのは非礼に当たるんですよね。
>866
基本的に旗本以上は「お目見え以上の直臣」というくくりで三家と同格。
旗本でも大名でも三家の行列に行きあったら下座するということになっていますが、三家の
側でも「旗本には手を出し、大名には足を出し、四位以上には乗り物から降りて答礼する」
ということだそうです。平大名や旗本相手では降りはしないものの、降りる素振りだけはする
というのも、「将軍家臣という立場に変わりはない」という通念からだとか。
(四位以上の場合、実際には三家側も答礼したくないため、『お互いに気づかぬふりで通る』
という風にしていたとか。)
そもそも将軍が「家来である三家を、自分と同じく様付にするのは不敬だ」ととがめたのが
由来ということなんで、百姓や陪臣はさておき、直臣が三家を「様」付することはないはず
です。
三家に敬意を払うために将軍の命令を無視することになりますから。
868 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:42:14
>>867 幕臣が、水戸様、尾張様、紀州様と呼ぶのは時代劇の世界だけなんだ。
>868
幕初にはそう呼んでいたという話らしいですね。で、酒宴で側臣が「尾張様」「紀州様」と
言っていたのを家光が聞きとがめ、「三家とおれと、いちように様をつけるの不心得だ」
と叱責したため、以降は三家を「殿」付けするようになったとか。(林董一「将軍の座」)
870 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:55:03
そうすると御三家で徳川を使うのは朝廷関連のときのみってことか
宗直が紀伊家を相続した直後
徳川左京大夫と称す
とあったような
公家筆頭の近衛家も細川に乗っ取られたし武家筆頭の徳川家も宗家以外は
ほとんど家康男系でない。その宗家も家康まで遡らないと将軍に
たどり着かないというしょぼさ。残る最後の砦天皇家も男系が絶えるのが
時間の問題っぽいしこうやって日本てグダグダになってしまう(もうなってるか)
んだろうな。残念だな。
一夫一妻じゃそうなるのはしかたがない
>ほとんど家康男系でない
と言うと語弊があるか。御三家の紀州、尾張がそうだけど御三卿は
みんな家康男系だからな。
875 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:37:33
っていうか華族制度を崩したのが諸悪の根源
何度か復活案もあったが
>>873 違うよ。昔なら分家から男子を養子にしたりしてその家の始祖の男系を
可能な限り守ってきた。近衛だって徳川だって男系子孫はたくさんいるのに
娘婿の子供を当主にしたりする節操のなさというか伝統を反故にする
やり方に失望と言うかつまらさなを感じてしまう。
>875
そんな無駄飯ぐらい制度が必要か?馬鹿馬鹿しい。
まともに運用していたら、かなりの家が「爵位返上」をしていたはずだよ。
乞食男爵とか、金がなくて詐欺に走る子爵とかはいくらでもいたんだし。
878 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:42:27
特定の貴族制度がなくても名家の存続は可能。
フランスとかドイツとかイタリアにはちゃんと貴族が革命を乗り越えて
生き残っている。
むしろ日本の華族が伝統を軽視し、家名を残そうとしなかったのが悪い。
これは、言いにくいが皇室にも当てはまる。このままでは男系が続かなくなるのは
何十年前からもわかっていた。なのにどの宮家も新たに子供を作ろうとせず東宮と
弟宮に任せっきりだった。本来なら、生み分けしてでも各宮家がなんとかして男子を
設けるべきだった。
まあ正直皇室も大名も現代じゃあどうでもいいんですけどね
880 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:50:35
>>872 家康まで遡らないと将軍にたどり着かないとは言うが、
吉宗や慶喜だって傍系から将軍になった身だからあまり関係ない。
>876
婿養子とか女系の孫を養子にするというのも、少なくとも同程度には伝統のある
やり方だけど?
婿養子なんて、明治期にわざわざ民法に特例を入れてまで守ったほどだし。
(今でも残骸が残っているけど。)
882 :
28:2008/07/31(木) 08:28:02
>>874 >>876 今は、田安家が吉宗系統を伝えていますね。その他は
水戸系が多いです。
節操のなさ、伝統反故はありますね。
883 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 10:24:31
徳川姓ではないが津山家が家斉系統を伝えている。
家斉男系が残っているのはこの家のみ。
>865
残念ながら、原則からは外れています。
なぜなら、この時点で斉匡と斉敦は宰相だからです。
まあ、民間出版物の武鑑の話ですので。
ちなみに、水戸の嫡男は「水戸中将斉脩卿」となってます。
家広氏が誰と結婚しようが勝手だが、ベトナム人と結婚した以上宗家継承は
辞退すべきだな。恒孝さんは反対したそうだが、良識があるなら別の人を
後継者に決めてから死んでほしいな。
887 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:35:20
なんでベトナム人と結婚したらあかんの?
>>888 20代目がベトナムとのハーフになるだろうが。ベトナムだから違和感のある
外見にはならないとは思うが半分は日本人ではない。そんな人が徳川宗家継承とか
世も末だと思うわ。
スレ違いバカに付き合ってるお前らさあ、
他人の結婚についてどうこういう権利はないんだよ。
この国の憲法を読んだことあるか?
日ごろ徳川宗家に寄付でもしてるのか?
891 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:13:51
>>882 将軍家、一橋家、清水家、水戸家だけならず高須藩、会津藩までもが水戸系。
徳川家を自分の血で独占しようとした治済も悔しかろう。
892 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:17:29
この国とは何だ?
日本人なら我が国というべきだろう。
893 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:18:47
歴史家なら本朝とでもいうべきか
894 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:44:48
『徳川實紀』の表記では、将軍世子、御三家、御三卿は
すべて「徳川」の姓を遠慮して冠していない。
『常憲院殿御實紀』宝永二年12月朔日を例にみると、
「尾張中納言吉通卿」
「水戸宰相綱條卿」(世子の吉孚は「水戸中将吉孚朝臣」)
「紀伊中将吉宗卿」
この日、吉宗が従三位左近衛権中将に叙任されたためで、
それ以前は、「紀伊主税頭頼方朝臣」
同じ中将でも、吉孚は正四位であるのに対し、吉宗は従三位になったので、
「朝臣」から「卿」へと表記を変えている。
しかし、家督を嗣ぐ前だろうが、四位であろうが、
御三家の場合は「尾張」「紀伊」「水戸」と書かれている。
>>894 >将軍世子、御三家、御三卿は すべて「徳川」の姓を遠慮して冠していない。
よければ「将軍世子」の表記も紹介していただきたい。お願いします。
896 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:52:07
ここまでなるともはや
徳川を名乗る意味がなかったな>御三家
897 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 00:01:39
>>895 甲府綱豊の場合、
綱吉の養嗣と決まった宝永元年12月5日、
それ以前は「甲府中納言綱豊卿」
以後は単に「中納言殿」
世嗣決定後は、おっつけ従二位権大納言に叙せられるので、
その後は単に「大納言殿」
>>897 トンです。姓なしで世子を表すのか、なるほど。
899 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 17:59:40
とりあえず家広なんて架空の人物だと釘をさしておく。
このキチガイ、いつまで粘着し続けるんだろう?
902 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 18:29:36
家広なんていない。架空の人物で粘着するな。
家広の話題出してる奴なんておまえしかいない。粘着するな。
御三家,御三卿の姓は,何で尾張や水戸という姓に変っていかなかったのだろう。
分家は代を重ねて行けば,○○家,△△殿という通称がいつの間にか姓になっている。
足利分家の斯波氏や北条分家の赤橋などのようにならなかったのは,なぜだろう。
>>904 完全な分家というより将軍家に世子がいないときに後継者を出すために
存在させた家だから徳川なんじゃね?
そりゃ、変えないように幕府が管理していたからだろ。
がちがちに縛られた近世大名を、自由な中世前半の
武家と同列にあつかっちゃいけませんぜ。
>>867,
>>869 逆に御三家,御三卿側は,他の諸侯,旗本をどのように呼んでいたのでしょうか?
こちらも,何々殿と読んでいたのでしょうか。
それとも,官位序列の差から姓か官職通称を呼び捨てだったのでしょうか。
908 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 21:45:12
しかし、ホント朝廷とのやり取り以外はほとんど徳川を使わなかったんだな。
>>904 徳川を名乗れるのは宗家と御三家だけのステイタス。
御三卿は厳密には家じゃない。
わざわざ徳川を捨てる理由がない。
斯波については,幕府が足利を名乗るのを制限していたと何かにあった。
御三家の権威を将軍家よりも確実に下に置こうとした家光の頃に幕府として,御三家の徳川姓を制限する動きはなかったのだろうか。
911 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 16:18:48
清水義範はよく著書で宗春のことを書くけど
義直や慶勝にはあまり思い入れないのかな
913 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 18:31:16
914 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:08:46
>>911 つーか江戸以降の系図はイラネ
ウザいだけ。
915 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:42:38
今の徳川氏って、ただの私人だからな。
誰が継ごうが、それはプライバシーに属する話。
2ちゃんで取り上げるのも、どうか。
916 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 20:11:32
正論を吐くなよ。
917 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 21:32:36
せいぜい現役の貴族の当主だった世代までだな、晒していいのは。
だな,公的な責任のあったのは貴族であったときまでだしな。
実際,今の徳川家の人は,別に歴史上の人物でも有名人でもないし,興味はわかないな。
ましてや誰が継ぐとかなんて口を挟めるのは,せいぜい親戚までだな。
919 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 23:49:57
そんな、こともないだろ。
先祖ネタで、本を書いている椰子、
国民の象徴の天皇家で、装束着て弓引いている椰子は、私人とは言えない。
920 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 00:34:01
↑いんや、私人だよ。
一部の好事家に知られているだけだ。
いずれにしても、このスレにはなじまない話題さ。
921 :
28:2008/08/03(日) 01:09:50
>>911 >>913 の実子系図は、パテントもんだね!
江戸時代の徳川氏の相続原理に従がう限りでは、
田安家と斉民系が、宗家嫡統にふさわしいですね!
できる限る伝統は、残して欲しいです。しかし、915さんなどが
おっしゃるように徳川氏だっていまや私人ですから。
一番最強なのは斉民系に紀州家を継がせてから宗家継承だろうな。
923 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 10:40:24
紀州家は実質滅びたようなものだから。西条松平の方はまだ大丈夫か?
紀州もそうだけど尾張もな。義直系が絶えた後はあっちこっちから
養子貰って繋いでたわけだから今の義知の血筋に拘る必要なんて
どこにもないはずなのに女系相続までして見苦しいよな。
関係ないという人もいるが、自分はそうは思わない。
偽者を見ると気分が悪くなるのは当然の心理だ。
紀州とか尾張には徳川御三家の末裔面してマスコミに出るのはやめて貰いたい。
925 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 11:17:04
全財産使い果たしてスッカラカンになった上、男性当主すらいなくなった紀州と、
大名華族の中でもっとも旧大名らしい体面と資産を維持している尾張はちがうだろ。
個人的には尾張のが嫌だ。紀州は当主だけ見ても
頼貞→頼韶→剛→宜子とgdgdなのが分かる(のがまだ好感が持てる)し頼宣の血も引いてる。
尾張は 義親→義知→義宣→義崇と男系で続いてるように見せかけてるのが
たちが悪い。義直の血も引いてないし。
927 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 11:55:32
今の当主は全くの民間人・私人であるから、さらすのはおかしいという論には全く同意だけど、
上のレスにあるように、T家当主やM家当主が宮中で武家代表として弓ならしたりとか、某家夫人が旧公爵家だからという理由で晩餐呼ばれたりしてるのを見るとすんなりといかないのも解る気がする。
928 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 14:33:53
>>926 日系人のナントカ剛さんが婿入りして(すぐ離縁したとはいえ)当主になった時点で、
紀州はもう徳川でも華族でもなんでもないだろ。
いまの建築家の女性も、ありていに言えば日系人ナントカ剛さんの娘だし。
まだ天ちゃんの同級生で譜代名門の堀田さんが婿入りした尾張の方が好ましい。
ヨシノブさんは美術館長としても資産管理会社の経営者としても尾張家の伝統を維持し、
当主としての責任を十分に果たした。
929 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 15:45:25
小佐野賢治の義理の弟というのが引っかかるなあ。
仕方がないんだが。
徳川義宣(堀田正祥)さんの父は堀田正恒だが正恒は鍋島直柔の実子
(堀田正倫養子)なので今の義崇さんは系で言えば鍋島義崇が正しい。
バカばっかりになってしまいました。
明治時代以降は近代史板でやれよ。
尾張のがマシだろ、マシだろといい続け、尾張の正体が鍋島だとばらされると
バカだの出て行けだの言い出しましたw。どうやら尾張家に都合の悪いことを
言われたくない椰子が張り付いているようですw
尾張家は鍋島系なんてだれでも知ってることを書いただけで勝ち誇ってるわけ?
私人のプライバシー侵害もどきの書き込みや板違い指摘されてキレてんのか?
やっぱりバカじゃねえか。
934 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 21:16:50
尾張もそろそろ高須から跡継ぎ連れてきて欲しいねえ。
935 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:05:13
俗書も含めて、一度でも将軍候補として名の出た御仁はこんなもんでしょうか?
秀忠―駿河忠長
家光―駿河忠長、松平光長、前田光高
家綱―有栖川宮幸仁親王、甲府綱豊、尾張綱誠、松平義行
綱吉―尾張綱誠、紀伊綱教、水戸綱條、柳沢吉里
家宣―尾張吉通
家継―尾張継友、松平清武、尾張五郎太、紀伊長福丸
吉宗―田安宗武
家治―徳川家基、清水重好
家慶―前田慶寧
家定―一橋慶喜、田安慶頼
家茂―田安慶頼
慶喜―水戸(清水)昭武
936 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:33:06
家茂や篤姫が後継者に考えていたのは、まだ幼少の田安亀之助だったかと。
あと慶喜は鳥羽伏見から逃げ帰ってきたとき、紀州茂承に宗家を譲るとか言ってたような。
937 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:36:55
家康―結城秀康
938 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:44:14
茂承が宗家を継いだら、兄頼英の心境は複雑だったろう。
吉里まで挙げるなら、家綱の後継にも水戸綱條入れても
良いんじゃないだろうか?光圀が宮将軍反対を主張する
ときに羅列しただけだが。
940 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:13:15
柳澤吉里の御落胤説は「護国女太平記」「三王外記」「増補日光邯鄲枕」など
あまたの俗書が取り上げている。
これら俗書にあるように、綱吉が吉里を後継者にしようとしていたとは考えにくいが、
綱吉個人がわが子と信じていたらしきことは、いくつも傍証となる史実がある。
まあ、それは措くとして、ネタのループになるかも知れぬが、
田安亀之助や紀伊茂承も含めて、彼らが候補者として終わった理由が
それぞれあると思うが、何が原因で脱落していったのか?
あるいはどういう理由でそれは根拠のない俗説と言い切れるのか?
言及してみてくれませんか。
941 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 02:38:54
しかし家康も御三家筆頭の尾張家が鍋島ごときに取って変わられようとは
思いもしなかったろうな。
942 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 02:55:24
むしろ紀伊家が素性もわからない日系人某に取って代わられた方がショックだろw
943 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 03:15:39
ところで家斉男系は斉民系だけらしいけど、吉宗男系は田安、斉民系
以外でもどこか残ってるよね?他家に養子に行った家とかで。
944 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 06:02:48
女系の継続を一段低く見る人がいるが、どうだろう?
家臣に支えられた江戸期とはことなり、明治以降(少数の「家臣」はいるもの
の)、個人の才覚で大きく左右されるようになってからは、女婿が大きな効果
を生んだのは事実ですから
尾張の義親、義宣のような有能な人材が後を継いだおかげで、尾張家の羽振り
の良さがあるし、多くの文化財が散逸することがなくなったのですから。
実際江戸期でも個人の才覚が大きくものをいう商家などは実子より女婿に継が
せるケースもままあったとききます。
子供は選べない(あるいは選択の幅が狭い)ですが、婿は選べますからね
945 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 07:58:40
>>944 共感する投げかけですが、些かスレタイの趣旨と外れているようです。
946 :
28:2008/08/04(月) 08:53:29
明治以降、特に戦後以降の徳川家の系譜
について論ずることは、さほど意味がないように思われます。
戦後は、戦前と価値観が変化し、原理原則がなくなったので、
系統を論ずる意味がない!?
>>935 将軍の唯一の実弟でありながら名前のない
松平清武がかわいそうですね。
948 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 10:19:13
徳川よりも由緒のある公家の家系だって,男系子孫による継承ではなくなっているのに,徳川だけに家康男系の子孫継承を求めるのは無理があると思います。
摂家や清華だって,途中で他姓の養子が入っているし,ましてや,WWU以降は家の概念も薄くなっている。
それにここは「学問・文系」の日本史板です。
未だ歴史になっていないことや,未来のことを論じるのは,まさにスレ違いだと思います。
じゃあ皇位継承スレなんかまじで未来スレだなw
ユージンが即位する頃俺は死んでいるしw
951 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 19:04:19
紀伊家は実質的に最後の当主だった頼貞(父頼倫は宗家16代家達の弟)が、
まさに「最後の殿様」の名にふさわしい人物で、文化芸術のパトロンとして散財し、
私生活も豪奢をきわめたため、戦後はすっかり資産を失ってしまった。
それでも頼貞存命中は「腐っても鯛」で和歌山県選出の参議院議員になったが、
すぐに病没、嫡子も早世していたため、未亡人と娘だけが残されてしまった。
頼貞の未亡人は傾いた家運を盛り返すため、レストラン経営をはじめたのだが、
ものの見事に失敗してスッカラカンに。
しかも娘を旧大名家でもなんでもない、日系人のナントカ剛さんと結婚させた上、
すぐに離縁るという不可解な行動をとった。
こうして紀伊徳川家は事実上滅亡してしまったとさ。
952 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 19:46:34
>>951 それがこのスレタイに、どのようなの意味があるのか理解できない。
近現代は大きな板違い。
入学時期と夏休みは必ずこの手が湧いてでるな。
>>951 紀伊家は既に断絶ということか・・・
残念だな。
954 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:03:01
こういう家は血統こそがすべてだろうが。
>実際江戸期でも個人の才覚が大きくものをいう商家などは実子より女婿に継が
>せるケースもままあったとききます。
商家と一緒にすんなカスが。
>徳川だけに家康男系の子孫継承を求めるのは無理があると思います。
無理ねーよ。家康の男系子孫はいっぱいいる。女系当主が次の代に
男系子孫を養子にすればいいだけ。女系のくせに徳川の当主面してんな。
955 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:16:47
まあ、尾張さんとこは大名華族からの養子だったんだし、
大名家の格式と資産と伝統を守れてるんだから、いいではないか。
956 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:18:13
十五銀行破綻で財産を失った大名家は多かった。
紀州は違うみたいだが。
957 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:20:34
>>955 個人的には、たくさん徳川、松平の家があるんだから、
よりによって、堀田や鍋島から貰うなよという感じ。
おまけに、ロッキード事件の小佐野の親戚になってるし。
958 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:23:58
島津も十五銀行の破綻と敗戦でかなりダメージを受けたんだが、
戦後鹿児島に帰って「島津興業」という資産管理会社の経営に専念し、
地元に根を下ろした企業として立ち直った。
959 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:27:13
十五の破綻で生活に困っていたのは、田安の徳川達孝だな。
>>948 今このスレに湧いているのは,系図厨というかスペック厨だよ。
961 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:40:25
>>955 一番大事な血統が守れてないんだから駄目だろ。
血統が違うのに大名家の格式と資産と伝統を守れてるって要するに家の乗っ取りじゃん。
962 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:51:00
明治以降は尾張家といっても一貴族だし、戦後は家柄がいいだけの金持ちにすぎないから、
江戸時代のように家康の男系子孫による相続を貫徹する必要はなくなった。
戦後になっても大名華族から養子を迎えているという点だけでも、まだマシだと思う。
>947
家継の後継者候補の所に書いてありますよ。
(見落としたのは自分だけではなかったと、密かに胸をなで下ろす)
>>955 徳川幕府の時代なら
家来筋から養子をもらうなんてありえないだろうけどな。
965 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 21:30:41
竹腰あたりから養子貰ってくれた方が良かった気もする。
破産状態の堀田から貰うのは、どうなんだろう?
966 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 00:24:41
竹腰だと家臣だぞ
967 :
28:2008/08/05(火) 00:36:42
現代でも実子相続ができないときは、
宗家は、三家三卿から養嗣子
三家は、その連枝の松平氏から養嗣子とかすれば、理想だけどね!
まあ、無理でしょう!
竹腰は佐幕派で新政府に睨まれてたんだよな。
1万石を尾張家へ返還させられて。
それに竹腰でも,もう徳川の血じゃないz
969 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 00:42:30
竹腰は酒井→三宅から貰ってたな。
>967
現代の話はどうでもいいよ。そもそも「家」制度が存在しないんだから、「宗家の当主」
なんてものも当然に存在しないんだし。
971 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 00:43:33
では忠長ネタでも
972 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 00:45:04
斉民ネタの方が盛り上がるような
973 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 01:00:46
幕初の方が
成り立ちとしてはおもしろい。
>>973 現代ネタは,結局その家,個人の事情だけだしね。
時の政治情勢とか全く関係ないし,面白みに欠けるよね。
>>967 アナタの理想を他人(徳川家の人ね)に押しつけるのは良くないと思うよ。
アナタだって,見ず知らずの人からアナタの家の相続についてとやかく言われたら,関係ないだろと思うでしょ。
末期話は飽きた
系図ヲタうざい
976 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 09:20:29
大河の「篤姫」の話で恐縮だが、家茂の時代になったというのに、
家定生母の本寿院がまだ出てるのに家茂生母の実成院が影も形もない。
いくら篤姫を「母上」として描くためとはいえ、ヒドス。
977 :
944:2008/08/05(火) 10:42:23
945さんはじめ皆さんのおっしゃる通り、話題がズレてました。スイマセン
女婿といえば、尾張義直が、八条宮の弟、幸丸(広幡忠幸)を
愛娘糸子の婿に望んでたらしいです。養子として。
忠幸自身が皇族として独立したかったこともあり、お流れになったのですが。
実現していたら、面白かったでしょうな
978 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 14:20:29
「逆説の日本史15」に、御三家と御三卿の違いは、御三家が「藩」(=独立会社?)であるのに対して
御三卿は「家」(=本社子会社?)であり、跡継ぎがなくても「家」として存続できた、とあったけど、
なぜ、賢明な家康は、御三家を創始するとき、御三卿のような「家」システムにしなかったのですか?
御三卿システムの方が、血のスペアの機能を果たしやすい(事実、そうなった)と思うのですが?
979 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 14:23:39
皇別御三家
>>978 井沢の本の話はやめてくれ。
彼は作家だ。ここは学問板。
981 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 15:13:37
オタク板がえらそうにw
夏厨増殖中
>>978 家康の時代にそのような選択肢はなかったのです
加えて、強力な親藩を造る必要と余地があったというべきでしょうか
三家と三卿だけ比べるのではなく、その間の駿河家や両典を考慮すれば
徐々にあのような形になった事がわかりますよ
984 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 17:02:47
係累の少ない秀吉に有力な親藩的存在がいなかったことを考慮したんだろう。
(弟秀長とその養子秀保、甥の秀勝などの羽柴ファミリーが全滅)
985 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/08/05(火) 17:34:20
宗春が言い出したことらしいけど、もともと御三家は武蔵、尾張、紀伊を指し、尾張や紀伊は血のスペアでなく武蔵がやられた時の家のスペアとして作られたものらしい。
>978
家康が死んだ元和二年に、御三家は尾張、駿河、水戸であったということ。
さらに同じ時、官位で言うと尾張紀州がが従三位宰相なのに対して水戸家は
従四位下少将で、後の尾張紀州の初任官(従三位中将)にも達していないこと。
等々を考慮に入れると、「徳川家康が御三家を作った」という当たり前のような
説にもいろいろ疑問が浮かんできます。
ちなみに、水戸頼房の宰相就任は忠長と同じ元和六年。中納言は家光将軍
就任後の寛永三年で忠長の三年後。同じ年に忠長は大納言に就任していて、
これは尾張紀州と同時。
>>977 家来とか格下からは駄目だが
格上から養子をもらうのは有りだろうな。
尾張家の血筋が皇胤に変わっていたら面白いことになっただろうに。
988 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 22:23:58
>>987 宮家や摂関家から入った正室の子が将軍になることによって、
朝廷が外戚になることを恐れた幕府のこと。
尾張が皇胤となれば、いっそう敬遠されるだけだろう。
>>986 尾張、紀伊、水戸を以て御三家と称するようになったのは、
綱吉時代になってから。
家康が御三家を作ったとは、認識されていない。
>>985 御三家を将軍家、尾張家、紀伊家とみなす考えが後世に
伝えられたのは「柳営婦女伝双」がソース。
これを喧伝したのは、尾張光友。
藩祖義直譲りの尊王家尾張4世吉通は水戸光圀の崇拝者だった。
7世宗春の時代には、もちろん御三家が尾張、紀伊、水戸をさすという認識は
広く行き渡っていた。
ことさら将軍家と尾張家を同列に置こうとする宗春個人の怪気炎にすぎないだろう。
989 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 22:43:57
付け加えると、
公儀、尾張、紀伊が同格とするのは権現様の思召によって定まった掟であって、
尾紀両家に対しては御意とはいっても上意とはいわないはず・・・
と、公儀の上使である滝川、石川両名に宗春が言い張ったという話は、
「章善院様御咄之次第」に伝えられているそうだが、
この時代には、何を今さらという感じがする。
家康が,忠長をどの程度の処遇にすべきか秀忠に指示した資料等はあるんでしょうか。
家康が,竹千世と国千世の時から両者に差をつけた扱いをしている逸話は有名です。
その家康は忠長について,後の御三家となる子達との関係とか,ポジションとかをどのように考えていたのでしょうか。
991 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 22:46:53
つか御三卿って要る?
992 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:04:26
>>991 吉宗にとっては必要だったんだろうね。
吉通、継友、宗春との抗争を経験してきているからな。
事実、その甲斐あって、おのが血統で14代まで宗家を独占できた。
993 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:11:41
>>991 家基、家治の死後、御三卿がなければ、
どうみても後継は紀伊治宝。
万一そうなって、実の父の暴君重倫が出しゃばってくる事態を防げただけでも
三卿を作った意味はあったんじゃない。
994 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:33:02
当たり前のように見過ごされがちだが、
家継のあとを吉宗が継ぐって、なんかおかしくない?
家治のあとが一橋治済じゃなくて、一橋豊千代。
家定のあとが田安慶頼じゃなくて、紀伊慶福と決まった背景のひとつに、
世代の順逆ってもんがあるはず。
尾張継友に至っては、甥のあとを継いだからって、「新家も同様」の不利な扱いを
受けたって、前レスにもあったけど。
そもそも家宣の遺言って、「五郎太か長福丸、その後見に吉通か吉宗」の
はずだったんじゃあ?
なんで子供(長福)が出ずに、後見役のはずの親(吉宗)がしゃしゃり出たんだあ?
995
1000 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:52:38
この時代では家康に近い世代というのが大きな理由になってる。
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。