952 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:09:43
「三代すぎれば別の家」
953 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:20:15
尾の慶勝、越の春嶽は慶喜や容保助命の為、また徳川の社稷を守る為
紛身の働きをしたことを知らないか
954 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:26:53
準親藩の定義って何?将軍家と婚姻関係を結ぶだけでいいなら、浅野家も準親藩になるけど。
955 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:32:49
>>954 ・称松平&葵紋
・将軍家との婚姻
この二つをクリアしているところは準親藩と一応見られているみたいですね。
956 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:53:54
江戸時代の大名は、将軍家との親疎を基準に厳格
厳格付けがなされましたからね
松平の称を与えて、擬似的血縁に組み込む、これ
は秀吉もやったことなんです(この場合羽柴を与えた)
現代でも権力者の姻戚になると、やたら権勢を振
るう人がいるくらいです
ましてや血統が今より数段重かった前近代では
松平を与えられることは非常な名誉とされました
本当は松平より由緒ある氏を持つ者にとっては、
その心中複雑であったでしようけれども
家ではなく個人的に与えられるケースもあり、柳
沢吉保などもそうです
957 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:56:25
江戸時代の準親藩は、豊臣の羽柴性よりは上だと思うが
どうなんだろう?
958 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:01:57
秀吉もやったというより
秀吉がやったから有効性を家康が認めて取り入れたんだろう
959 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:04:03
そういう意味で書いたつもりです
960 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:10:54
秀吉のはあくまで擬似的なものだったが
徳川のは実際の婚礼を重視している感はある。
池田・前田あたりは何重も婚姻関係を結んでいるし
961 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:18:58
江戸時代の準親藩の場合は将軍家との婚姻関係が必要だが、豊臣の羽柴姓はそうでもない。
秀吉には娘もいないし、親族も少ないから仕方ないけど。
962 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:20:06
秀吉の場合は短期政権だったし、
婚姻しようにも手持ちの駒も少なかったしね
松平だって、最初は(上にも書いてある通り)、有難迷惑だったでしょうよ
ただ徳川は長期政権になったから、それゆえの重みが加わったんですね
家紋を与えるのも、偏諱を与えるのも、いずれも擬似的血縁に取り込むもので
あり、家康が今川からの独立にあたって、それまでの元康を捨てたのは、それ
を顕著にあらわしていますね
963 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:23:19
親藩、譜代、外様といっても、厳格な区別があったわけでなく、「準親藩」と
いうものも含め、大まかな概念としてあったわけです
研究者によっても違ってくる
厳密な意味での「准家門」というのは、家康の異母弟たちの久松家でしょうね
964 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:24:36
つまり織田と津田、今川と品川みたいなものなの?
965 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:25:47
松平と徳川の二段構えってのはあれうまい手だったな
966 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:31:11
柳沢は吉保個人ではなく、嫡男吉里はもとより、その弟たちの家にも
松平姓を与えられ、以後続いていますよ。
967 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:34:46
>>966 すみません、言葉が足りませんでした
家柄に対して与えられたのではなく、個人の功績に報いる形で与えた
といういみです
968 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:40:35
ああそういや今川って当主限定苗字だっけな
あっこから思いついたのかな家康
969 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:44:48
柳沢、一介の中堅家臣から準親藩諸侯に出世って
江戸時代最大の出世ですな。
970 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:47:40
柳沢の場合は綱吉の特別な恩寵ですな
普通は国持ち(並み)の外様大名に与えました
他の方の仰るとおり、秀吉を真似たもので、中には細川忠興のように、羽柴の
称は受けながら、松平は固辞した例もあります
まあ、細川の方が羽柴や松平より歴史がありますけどね
織田―津田、今川―品川の指摘は興味深いです
他の戦国大名でもあったのでしょうか?
藤原氏も不比等以外の子は中臣姓だったって聞いたことある。
972 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:44:35
同じく側用人の間部家は一瞬で没落したね。
柳沢家はその分有能だったんだろう
973 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:48:49
エビの串カツだって一代で没落したけど
あれはあれでそいつだけの苗字もらったんだよな
974 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:54:02
足利将軍の庶子は分家を作れずに殆どが出家させられたな。
一応、鎌倉公方や堀越公方が分家と言えなくもないが、将軍家のスペアには決してなりえない。
スペアってより敵対勢力
976 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:13:55
エビの串カツって誰?
>974
本家を継いで当主になった人が追放された後を、堀越から継いでるけどね。
978 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:23:57
恵美押勝
979 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:24:30
この時代は総領制が崩壊して、庶子の対立が目立った
庶子が独立して力を持つのを防ぐために出家させたりもした
(同時に宗門対策にもなった)
幕府(義満や義教)なども守護大名の相続争いに積極的に介入して、その勢力
を弱めた
だから戦乱もたえなかったんだよね
北条氏康や信長、秀吉、家康など戦国大名は自分の生きている間に家督を譲った
けれど、やはり前時代の轍を踏まないためだろうね
そして家康や吉宗が長幼の順にこだわった相続にしたのも
(上の方にも書いてあるけれど)
それが無駄な争いを避けたという点でその時代で一番適していたからだろうね
980 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:26:21
981 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:38:54
別部穢麻呂って誰?
ああ、清麻呂かあ
てか、時代がどんどん離れてゆくんだが
982 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:41:24
藤堂は準譜代になれても準親藩にはなれなかったんだね。
大大名でも格の差か?
山内も偏諱もらえなくなったのも格の差かな…
984 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:51:34
準親藩と呼ばれる大名は江戸幕府開府以前から大大名だった
一方で藤堂と山内は江戸幕府によって大大名にしてもらった所
格の違いが出てくるのは自明かと
985 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:10:13
御両典は、三家、駿河家より三卿に性質が近い
綱重綱吉は甲府館林の城主になったけれど、その領分に行くことも無く、
はじめは江戸城内に居住し、明暦大火後に綱重は桜田、綱吉は神田に屋敷を賜
り、徳川を名乗った
藩の組織とか家臣団もそれほど大規模でなく、ゆえに宗家を継いだ時に吸収さ
れてしまった(吸収することができた)
結局1、2代で途絶えてしまったけれど、この形でそのまま続いていたら、三
家ではなく、三卿に近い存在であり、形態である
一応領地で家臣団が徴税くらいはして江戸の綱吉の生活費見ていたんじゃないの?
987 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:43:35
そうなんだけれど、三家の初期、藩主が家康の膝元にいて、家老らが藩の組織を
整えながら統治していたのとは大きく異なるんです
これはそれぞれの家の成立が江戸初期と中期、という違いにもよるのでしょうが、
両典の場合、領地は「お手当て」というイメージが強いのでは
彼らは自分の領地経営に力を尽くしてはいないのですし
同じようなことが頼方(吉宗)にも言えまして、彼は直接領地に赴いて統治した
わけではない。彼の領地は本藩の出先機関みたいなものだった
家臣たちも少なく、そしてココが重要なのだけれど、本藩から分離したのが
つい先ごろだったから、元に戻るのもたやすかった
これは両典の家臣にも言えることですね
その点通春(宗春)が継いだ大久保松平家は、
奥州梁川藩として三代五十年の積み重ねがあったにも関わらず、消滅してしま
った(尾張藩から分立した領土ではないので、収公)
それは一つに適当な後継者がいなかったからですね
当時の尾張には適した成人男子があまり残っていなかったのです
988 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:19:09
本来は分家であるはずの忠雄系池田氏が、準親藩になったために、
本家の利隆系の石高を上回り、分裂状態になってしまったり
準親藩というのもいいことばかりではない。
989 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:05:39
播磨、備前、淡路89万石だった池田氏が備前32万石、因幡34万石に分封されたが差の約20万石はどうなったの?
別家取立てなんていう大名家の勢力を分散させるための方便にひっかかるほうが悪い罠
ひっかからなければ池田家が無事に続いたかどうか微妙だし・・・
二家が大大名として生き残れたんだから立派なもんじゃないか。
>>989 岡山から分知された10万石近くは無嗣やら発狂で改易されて消えてたはず
993 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:25:44
>>988 それは逆だと思う
外様で播磨の80万石余を幕府がそのままにしておく訳が無い
家康の女婿であったから、次男(忠継、忠雄は兄忠継の養子になり、淡路6万石から
格上げ)にも長男(利隆40万石)に匹敵する領土を分割された
そうでなければ、あの要地にでんと構えられていて、目ざわりこの上ない外様だ
利隆以下はもっと低く抑えられていただろう(差分は収公)
光政も千姫の女婿ということで、何万両もの借金をちゃらにしてもらっている
し、鳥取から岡山に移っている
時の将軍の親疎によって、浮かんだり沈んだりしているが、いい目にはあっている
>>898 まず利隆に淡路42万石、その子光政が鳥取32万石になり、10万石は収公
これは光政が幼少であったことと、播磨が要地であったためでしょう
忠継が38万石、これを忠雄が継いでいるが、光仲の代に、やはり幼少である
ということで、(また光政が千姫の女婿であるため)、光政と国を入れ替え
忠雄ははじめ淡路6万石だったが、兄の後を継いだ
4男以下にも所領が分割相続された
そもそも80万石のうち、岡山と淡路は家康の孫の新規取立て分
で、別家でなければ貰えていないのでは?
池田輝政 播磨姫路 52万石
次男 池田忠継 備前国岡山 28万石
三男 池田忠雄 淡路国洲本 6万石
弟 池田長吉 因幡国鳥取 6万石
で計92万石だった。
播磨姫路藩は輝政の跡を利隆が継ぐ際に、忠継の死後岡山藩を継ぐ忠雄に
播磨国内西部の10万石を譲り42万石。さらに1617年、利隆が死ぬと、
嫡男の光政が幼かったため幼君には要衝姫路を任せられないという理由で
鳥取藩32万石5千石に転封。さらに1632年に今度は光正が鳥取から岡山に
31万5千石で転封。
岡山藩は28万石から38万石に加増されていたけど、忠継の死後に
輝澄、政綱、輝興らに分与して忠雄が31万5千石で継ぐ。
忠雄の死後に光仲が継ぐけど、光仲が幼いという理由で前述のように
鳥取に光正と入れ替わりで鳥取32万5千石で転封。
そして分与されて成立した赤穂藩、山崎藩などは2代もしないうちに廃藩。
淡路国洲本藩は前述のように忠継の死後に忠雄が岡山に転じたので廃藩。
その後、淡路は徳島藩領になる。
池田長吉の鳥取藩6万石は池田長幸に継がれ、6万5000石で備中松山に転封。
さらにその子の池田長常の代で断絶。
分与しまくって成立した支藩が廃藩になりまくったせいで、一族が92万石を
収めていたのがいつのまにやら30万石ほど目減りしてしまった。
996 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:18:03
細川忠興は羽柴は受けて松平は固辞したと誰か書
いてたけど、その後の細川家もそうなの?
>972
しかし、柳沢家は下手に格が上がってしまったために
その後幕政には参与できていない。
一方、間部家は老中を幕末に出している。
ちなみに田沼家は若年寄を出している。
>966
分家(黒川、三日市)の松平姓は一代限りだ。
三日市は二代続いているけど、それは初代時睦と二代保経が
いずれも吉保の息子だったから。
999 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:51:40
1000 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:57:33
いやあ良スレだったよ
荒らしもなかったし
次スレにも期待だな
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。