◆徳川御三家・親藩スレ◆

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1日本@名無史さん
やたらと幕府には向かう尾張に朝廷べったりの水戸
将軍家乗っ取りの紀州に騒動多い越前
親藩について語ろう
2日本@名無史さん:2008/04/20(日) 03:42:07
最後の審判
終了 乙。
3日本@名無史さん:2008/04/20(日) 04:11:27
親藩といっても多くあって
1.御三家
 尾張徳川家
  支藩:梁川藩松平家
   高須藩松平家
   川田久保藩松平家
 紀州徳川家
 水戸徳川家(紀州家の分家)
2.御三卿
 清水徳川家
 田安徳川家
 一橋徳川家
3.御家門
 津山藩松平家
 越前藩松平家
 会津藩松平家
 越智松平家
4.御連枝
  尾張家支藩:梁川藩松平家
      高須藩松平家
      川田久保藩松平家
  紀州家支藩:伊予西条藩松平家
  水戸家支藩:讃岐高松藩松平家
        陸奥守山藩松平家
        常陸府中藩松平家
        常陸宍戸藩松平家

4日本@名無史さん:2008/04/20(日) 04:27:00
御三家の関係は連枝、越前や越智などは家門。親藩は御三家御三卿のみ
5日本@名無史さん:2008/04/20(日) 04:28:04
5.御家門分家
  ・越前系
   糸魚川松平家
   津山松平家
   松江松平家
   広瀬松平家
   母里松平家
   川越松平家
   明石松平家
   前橋松平家
6.準親藩
 ・奥平松平家
 ・久松松平家
  松山・桑名・今治・吉井・松山新田
 ・外様(称徳川・葵紋等)
  前田・池田・島津等

等30藩以上あったりする
あぁ疲れた・・・
6日本@名無史さん:2008/04/20(日) 04:42:11
狭囲の親藩は>>4
広囲の親藩は>>3>>5
ってわけか
7日本@名無史さん:2008/04/20(日) 07:04:19
>>5
>    川越松平家
>    前橋松平家

これはまったく同じものですが?
姫路から前橋へ移って見たら城が川の浸食で崩れそう(櫓が1基「岸辺のアルバム」みたいに川へ崩落したとか)だったので
秋元家が田沼と喧嘩して山形に飛ばされた後の川越に来たのが事の始まり。
とはいえ、前橋城も廃城した跡地に陣屋を建てて分領として90余年経ち幕末に至る。
開国後に生糸で儲けた前橋商人の献金で前橋城を再建して再び前橋へ。
川越には棚倉から譜代の松平(松井)周防守家が移ってきて明治維新を迎える。
8日本@名無史さん:2008/04/20(日) 08:13:51
館林徳川家
甲府徳川家
93:2008/04/20(日) 11:36:08
>>7
知ったかは氏ねよ。
107:2008/04/20(日) 12:59:14
知ったかも何も事実でしょ?
117:2008/04/20(日) 13:23:45
>>10
あれ、漏れいつこんなこと書いたんだ?
12日本@名無史さん:2008/04/20(日) 13:38:40
おまいらそんなに楽しいか?
13日本@名無史さん:2008/04/20(日) 13:58:04
○に三つ葉葵が使えるのはどこまで?
六角に三つ葉葵とか変形が使えるのはどこまで?
14日本@名無史さん:2008/04/20(日) 15:30:53
○に三つ葉葵は御三家御三卿の当主と世嗣
15日本@名無史さん:2008/04/20(日) 15:41:27
せっかく家康が外堀として御三家を元とする親藩を置いたのに
血がつながっていながらも待遇が将軍家と全く違うが故に
幕府と仲が悪くなっていくとは皮肉だな
16日本@名無史さん:2008/04/20(日) 15:57:05
テレビドラマとかで、会津藩が会の旧仮名遣いみたいなのを軍旗にしてたけど、
尾張藩なら尾って旗があったり、松江藩なら松って旗があったりしたのかな?
17日本@名無史さん:2008/04/20(日) 18:30:10
>>16

藻前はそんな事も知らんのか?
18日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:27:04
>>3
>水戸徳川家(紀州家の分家)

ここにエサが撒かれているのな。
19日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:39:21
水戸頼房が紀伊頼宣の同母弟で、頼房の前に頼宣が水戸城主だったという事実を
拡大解釈したものではないのか?
20日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:41:36
>>8

それは餌じゃないでしょう。ある意味水戸藩は和歌山藩の分家ですから。
それよりも、尾張藩の支藩のみ1御三家と4御連枝に二重計上しているのが餌じゃないのかな。
21日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:42:37
>>8じゃなく、>>18だった
22日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:27:10
23日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:29:11
字だけはわかった
デザインが

大御所 徳川先の将軍 丸39葉三葉葵巴変 家康、秀忠、家斉の3人

将軍 徳川将軍 丸39葉三葉葵巴変 家康〜慶喜の15人

大納言(西丸) 徳川後継者 丸39葉三葉葵巴変 秀忠、家光、家宣、家基、家慶、家定など
尾張家 徳川 丸63葉三葉葵巴 家督も同じ尾張葵、替えは六つ葵
紀伊家 徳川 丸39葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵
水戸家 徳川 丸51葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵

御三卿 徳川 丸39葉三葉葵巴変 田安、一橋、清水の3家

越前家 松平越前守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
津山家 越前松平越後守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
会津家 松平肥後守 丸57葉三葉河骨巴 家督も、六つ葵・角九曜
高松家 水戸松平讃岐守 丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
松江家 越前松平出羽守 丸39葉三葉葵巴 家督も、六つ葵・三鐶39葉三葉葵巴
前橋家 越前松平大和守 丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐

浜田家 越智松平右近将監 丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐
高須家 尾張松平摂津守 菊輪丸39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
西条家 紀伊松平左京大夫 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
守山家 水戸松平大学頭 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
府中家 水戸松平播磨守 平隅切39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
24日本@名無史さん:2008/04/20(日) 21:44:26
越智松平ってどのくらい期待されてたんだろうか
25日本@名無史さん:2008/04/21(月) 10:16:02
石高ではなくて江戸城での詰間とか官位の格は
会津>高松>越前
でいいの?
26日本@名無史さん:2008/04/21(月) 17:13:28
30万石以上の外様大名に生まれてくるのと、御三家御三卿以外の親藩、
譜代の大老家に生まれてくるのどっちがいい?みんななら
27日本@名無史さん:2008/04/21(月) 18:38:16
外様大名が謀反をおこしました
28日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:17:15
御三家というのはそれ自体が格であって、
親藩ではないんだが
29日本@名無史さん:2008/04/21(月) 22:25:01
>>25 
高松松平と会津松平、井伊家は溜の間だったけど越前はどうだったかな?
30日本@名無史さん:2008/04/21(月) 22:39:29
俺なら3000石クラスの旗本がいいな
事務官吏業向いてるんだ俺
31大膳:2008/04/21(月) 23:26:57
>>25>>29
江戸時代の武家の極位極官
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203212697/
より抜粋

正四位上中将・・・・彦根井伊家 会津松平家、黒書院溜間詰

従四位上中将・・・・越前松平家、大廊下下之部屋詰。高松松平家、黒書院溜間詰
32日本@名無史さん:2008/04/22(火) 01:03:22
大名の格についてはよくわからないが、なんで井伊家だけ
そんなに特別扱いされたの?
33日本@名無史さん:2008/04/22(火) 02:25:52
井伊と、本多、酒井、榊原を含めた譜代筆頭だが、井伊は大阪の陣で手柄を立てて加増を受けて国主格になった点が、大きい
34日本@名無史さん:2008/04/22(火) 06:54:57
本多正信家 失脚
大久保家 失脚
本多忠勝家・榊原家 政治的凡庸

と引き算で残った感じか
35日本@名無史さん:2008/04/22(火) 08:25:49
四天王の比較は戦国板にスレ乱立してるからあっちでやって
36日本@名無史さん:2008/04/22(火) 10:37:52
何仕切ってんだよ?
37日本@名無史さん:2008/04/22(火) 13:07:21
親藩と譜代の区別すらできないで威張ってるって凄いね。
微妙な家もあるけど四天王や大久保は明らか。
スレ違い。
38大膳:2008/04/22(火) 17:45:53
>>32-33-34

井伊家に付いては>>31の自分のスレを参照されたし
39日本@名無史さん:2008/04/22(火) 18:14:57
相模小田原の大久保木工頭が無事11万石の大名に帰り咲いたのは家門筆頭の松平下野守の口添えがあったから
40日本@名無史さん:2008/04/22(火) 19:54:23
神君がみまかられる際に大久保家を許したからと聞いたことがある
41フラトコフ対外情報局長官:2008/04/22(火) 22:17:37
津山藩主と福井藩主はどっちが上なの?
42日本@名無史さん:2008/04/23(水) 09:41:18
由井正雪の後ろには本当に紀州がいたのだろうか?
43日本@名無史さん:2008/04/23(水) 09:46:37
外様でも葵紋と松平性を許されたのは何家かあったけど
親藩に準じる扱いを受けたのは前田と池田だけじゃないの?

前田は将軍候補に何度かなったし
44日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:02:15
島津と伊達と蜂須賀も親藩に準じる扱いを受けたときがある
45日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:13:35
尾張家は最大で連枝が3家もあったのに、人手不足で高須家のみしか
残れらなった。宗睦のころに復活させられなかったのだろうか。竹腰
家に養子に入れるほどの人的な余裕はなかったはず。
結局藩祖の血統が絶えてしまった。
46日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:18:58
>>44
重豪の時代からだろうか?
47日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:23:16
京極も一時期は準親藩扱いだった。
48日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:47:14
譜代で将軍家や親藩から嫁や養子をもらうケースはなかったの?
49日本@名無史さん:2008/04/23(水) 11:42:14
ある。白河藩の阿部正由など
50大膳:2008/04/23(水) 12:52:39
>>41
幕命で越前が宗家とされた

>>43
将軍家との血縁のおかげ

前田家・・・利常の御前(国主大名正室敬称)二代秀忠息女珠姫
        次代光高(生母が珠姫)御前は水戸頼房息女で、家光養女、大姫
        三代綱紀(生母が大姫)御前は保科正之息女

鳥取池田家・・・藩祖忠雄が徳川家康外孫
51日本@名無史さん:2008/04/23(水) 13:01:18
忠長が家光の前ではおとなしくしていれば
駿河家は織田家、浅井家の血を引く最強の家だったのに
52日本@名無史さん:2008/04/23(水) 13:04:25
訂正
織田→信長

織田家自体は家光にもつながっているか
53大膳:2008/04/23(水) 13:24:00
>>44>>46

薩摩島津家・・・時の当主、重豪から(十一代家斉岳父として)

仙台伊達家・・・二度にわたる婚姻の為。一回目は二代忠宗と秀忠養女振姫
                    二回目は六代宗村と吉宗養女利根姫

阿波蜂須賀家・・・後半の藩主達が主に高松松平家出身だったのに加えて
           将軍家斉の子息が養子に入り家督を継いだから
>>47
京極忠高に秀忠四女が嫁していたから。でもその正室が危篤の時に相撲見物
をしていた事で舅秀忠の不興を買い、出仕停止にさせられていた事もあった


54大膳:2008/04/23(水) 13:40:47
>>49(思い出せる範囲で)

彦根井伊家・・・直政に徳川家康養女が輿入れ

小笠原家・・・・信康姫が祖父家康の養女として

忠勝系本多家・・   同上

井上家・・・・西条松平頼純の息女が輿入れ

姫路酒井家・・・将軍家斉の息女の一人が輿入れ(その所為で、姫路酒井家は
                       財政破綻を起こした)
55日本@名無史さん:2008/04/23(水) 16:30:31
大廊下下の間と溜ってどっちが格上?
56日本@名無史さん:2008/04/23(水) 16:46:45
溜間…正四位上
大廊下下御部屋席…従四位上
57大膳:2008/04/23(水) 16:48:38
>>55
大廊下下ノ部屋の方が格上、
溜の間はその次の格式
58日本@名無史さん:2008/04/23(水) 18:58:27
どっちやねん
59大膳:2008/04/23(水) 19:08:19
>>58

部屋の格式としては>>57

>>56も間違いではないけど
大廊下下ノ部屋には従三位参議を極官とする加賀の
前田宗家も席を有している。
60日本@名無史さん:2008/04/23(水) 19:40:00
大廊下下を常席としていたのは加賀と越前で、将軍家から姫や婿を貰った大名が一代限りで大廊下下に詰めたという考え方でよいのか?
61日本@名無史さん:2008/04/23(水) 19:43:50
大廊下にいた大名

前田加賀守
伊達陸奥守
島津薩摩守
池田因幡守
松平三河守
松平兵部大輔
蜂須賀阿波守
62日本@名無史さん:2008/04/23(水) 20:07:32
>>61
国持ち松平さま?
63大膳:2008/04/23(水) 20:25:34
>>60
それで大丈夫と思います。

>>61

これに並んだ大名家は公的には
皆、松平姓ですね
64日本@名無史さん:2008/04/23(水) 20:32:03
国持ち外様大名が将軍家と縁戚になるのは良かっただろうけど
さして石高の高くない譜代の大名がもらうと財政きつかっただろうね。
65日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:21:46
松平(前田)加賀守
松平(福井)越前守

……………………………
松平(島津)薩摩守
松平(伊達)陸奥守
松平(池田)因幡守
松平(蜂須賀)阿波守
松平(明石)兵部大輔
松平(津山)三河守
松平(前橋)大和守
66大膳:2008/04/23(水) 22:03:49
>>64

>>54でも説明しているれど姫路酒井家は財政破綻を起こしている。
国持ちでも財政的には破綻寸前になっている
(江戸時代の武家の極位極官スレ参照)
67大膳:2008/04/23(水) 22:07:34
>>65
下の三家は越前流松平家
68日本@名無史さん:2008/04/23(水) 22:10:50
鷹司松平は?
69日本@名無史さん:2008/04/23(水) 22:51:40
鷹司松平は、大廊下上の間
70日本@名無史さん:2008/04/23(水) 22:56:58
将来の加増や持参金やら、有利な転封やらを目当てに将軍家の子息を養子にした藩も少なくない

館林藩主松平(越智)斉厚
川越藩主松平(結城)斉典

養子に入った家斉の子らはなぜか夭折が多い。消されたか?
71日本@名無史さん:2008/04/24(木) 00:15:12
御三家が将軍家に対抗心持っていたりするのは聞くが
越前松平家は御三家へはあまり良い感情はなかったのだろうか?

下手したら将軍家にもなるはずだった家がずっと年下の家より下になっているのだし
72長門裕之:2008/04/24(木) 00:28:22
家康公は結城宰相の生母お万の素行に疑念を抱いていたのみならず、結城宰相の容貌がギギに酷似してるからといって於義伊(於義丸)なる名をつけ、我が子を玩弄するようなことまでした

家康らしくないね
73日本@名無史さん:2008/04/24(木) 05:42:47
>>72
家康だって子沢山なれば、我が子でも好き嫌いは出てくるだろう。

ここで相田みつをが一言↓
         「人間だもの・・・家康だって」








74日本@名無史さん:2008/04/24(木) 09:51:21
>>73
秀康は2人目の男子であって家康はまだ子だくさんではない。
結果的には家康よりも先に死んだし、仕方ないんじゃないか。
75日本@名無史さん:2008/04/24(木) 10:56:03
>>74
秀康はまあいいとして、秀忠が家康より先に死んでたらどうなったんだろう。
実際に同母弟の尾張中将は関ヶ原で活躍してあっという間に姿を消してるし。
忠輝も秀康同様かわいがられていなかったから、史実で尾張に入った義利(義直)あたりが少年将軍か?
これで家康が史実どおりに死んでると年長の忠輝、年齢の近い弟頼将(頼宣)、従兄弟忠直あたりとの確執がすごそうだ。
76日本@名無史さん:2008/04/24(木) 11:01:06
格落ちだろ。水戸徳川は
徳川幕府の中枢には不文律が存在していたようだし。
77平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/04/24(木) 11:05:35
>>75
家光がいるかいないかによって違ってくる。
家光がいればそのまま3代目。
いなければ尾張義利(義直)が後継となる可能性が高い。
78日本@名無史さん:2008/04/24(木) 11:07:20
家康は自家が途絶えてもいいから信康を殺したんだろ
当時秀忠は生まれたばかり秀康はうとまれていたし
晩年家康はもうろくしてくると孫のような年の御三家祖を
かわいがったが若いころは自分の子に興味なさそうだった
79日本@名無史さん:2008/04/24(木) 15:57:56
なんで信康誕生から秀康誕生まで15年もタイムラグがあるの?
戦でそれどころじゃなかった?
80日本@名無史さん:2008/04/24(木) 16:12:12
家康は、正室築山殿が生きていたころはそれなりに
普通の夫婦のように生活していたと思うのよね。
秀康の母は出生を疑って側室にはしなかったし、
築山殿存命中に家康の側室だったのは西郷局だけ。
かなりお行儀も良かった。
正室がいなくなってからかなりいろんな女に手をつけ出したけど。
81日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:56:42
家康の側室の
前の夫との間の子らってどういう待遇になったの?
82日本@名無史さん:2008/04/24(木) 22:32:00
彼らは無高なのに大広間格
83日本@名無史さん:2008/04/24(木) 23:09:45
>81
竹腰正信(尾張義直の異父兄)は尾張家の付家老。
84日本@名無史さん:2008/04/25(金) 01:06:55
水戸公付家老の鈴木石見、中山備前というのはどっからひっぱってきたんですか?
85日本@名無史さん:2008/04/25(金) 09:07:13
中山信吉は北条旧臣。
北条氏照の配下で八王子城で応戦。
兄照守は旗本で終わる。
信吉は活躍したんだろうね。
86日本@名無史さん:2008/04/26(土) 00:56:13
御三家の家中ってどんな感じ?
甲州から関東の新参メンバーがやっぱ多いの?
特徴とかある?
87日本@名無史さん:2008/04/26(土) 03:42:20
>85
成瀬、安藤等と同じく家康の側近だったみたいですね。
88日本@名無史さん:2008/04/26(土) 19:05:32
誰か徳川頼韶さんの生年月日を御存知?
そういえば長保寺のサイトに記載されている生没年月日と
Wikipediaに記載されている紀州家の生没年月日は10日ほどずれているのだが…
どちらが正しい?
89日本@名無史さん:2008/04/26(土) 21:41:57
>86

尾張家を例に取れば、

 幕下御附衆 : 旗本から転出した者
 甚太郎衆、忍新参衆 : 松平忠吉から引き継いだ家臣
 (忘れた) : 尾張入封の時に(家康が)取り立てた者
 元和以降新参衆 : その後に(義直以降の尾張藩主が)取り立てられた者

ってな感じだ。
90日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:11:10
光友が早世してたら尾張家は悲惨だったのだが、
義直は何も考えなかったのだろうか。
91日本@名無史さん:2008/05/02(金) 23:42:41
義直の感覚だと、まだ一個の独立した家って意識が薄かったんじゃないの?
光友が早世すりゃ紀伊とか水戸あたりから養子とりゃいいかぐらいのもんで
92日本@名無史さん:2008/05/03(土) 19:37:37
養子を取るなら将軍家から取るだろう。自分も忠吉の後継ぎみたいな立場。
東照宮の息子であることを誇っていたんだから相当な名門意識の持ち主。
93日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:44:36
三河の山奥の木こりの分際で名門とは片腹痛い
94日本@名無史さん:2008/05/03(土) 21:57:53
>>92
養子になれるような男子は光友が若い頃には将軍家には存在しないけど
95日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:09:51
松平本家(とでもいうのか?)が三河で土豪やりながら参勤してたらしいのだけど
この家の詳しい情報とか家格や立場が知りたいのでお願いします
96日本@名無史さん:2008/05/04(日) 14:00:18
図書館で武鑑を見ればすぐにわかることなのに、しょうがないなあ答えてあげよう。
などと偉そうにしてみるテスト。

松平家庶嫡流(というのも変な表現だが)松平太郎左衛門家は、交代寄合三河衆として
参勤交代を行っていた。伺候席は外様大名と同じ柳間。まあ、たいていの交代寄合は
柳の間だから特別な扱いを受けているわけではない。領地は三河松平に四百四十二石余り。
江戸かうし丁八丁目に江戸屋敷を構えていた。当主は徳川親氏を婿養子に迎えた松平
太郎左衛門より代々太郎左衛門を名乗っていることになっている。
97日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:40:04
吉宗は御三卿なんかつくらずに、将軍になるときに紀伊家に宗武を残し、
後に生まれる宗尹を尾張宗春の後継者にしとけば、盤石だったのに。
兄である宗武には10万石加増で上位にする。
98日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:46:21
そんな面倒なことしなくても
素直に尾張に宗武を養子で送り込めばよかったんじゃないか?
99日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:52:25
清水徳川家の影の薄さは異常
100日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:53:48
吉宗が御三卿を御三家の上に置いている
事実、御三家が尾張、紀伊、水戸と任地が遠く離れているのに対し、
御三卿の任地は江戸近辺。
屋敷は江戸城内にあった。
吉宗以降、他家から将軍を迎える際、まず考慮されたのは御三卿だった。
一橋家の徳川慶喜は水戸家を継いでいた実兄よりも優先して将軍候補になっている。
101日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:06:44
御三卿に任地なんてあったのか

っていうかMS−IMEごさんきょう変換できねーのか糞
102日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:15:35
>>99 初代重好からして影が薄いからね。
将軍の唯一の弟なんだから、どんな人物だったとかの逸話が一つくらいあってもいいのに
103日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:46:52
>>100
尾張と紀伊は従ニ位大納言ですが
適当なことばかり書かないように
104日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:49:21
>>98
それでは紀州家は一度頼純系になってしまう。
すぐに吉宗系に戻すことは不可能だから全然違う。
105日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:53:51
官位と幕府内の序列は一応別なんですが。
106日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:55:15
つーか水戸以外の御三家、御三協はすべて後世、家斉によって一橋=吉宗の血統に淘汰されてしまったのだが・・・
親藩有力大名はことごとく他に蜂須賀等の有力外様まで餌食になった。
特に有力外様は一門家の反対が凄かった模様。
又養子で幕末に尾張、一橋は水戸系になったがね。
107日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:57:55
幕末は将軍家も清水家も水戸系
108日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:00:29
福井藩、徳島藩、明石藩、鳥取藩、尾張藩、紀伊藩、田安、清水、川越藩、浜田藩など、あちこちの大名を乗っ取るゴキブリ並みの生命力一橋党w
109日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:38:44
>>100 >>101
御三卿には任地はなかったけど、幕末から維新にかけて以下の資料が
残っているから、単に幕府直轄領地から賄料を得ていたのではなく、
もう少し、領地領土の認識があったかもしれない。


=旧幕府領・田安領の管理の件=
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

1868年(慶応4)正月維新政府は旧幕府領や恭順しなかった旗本領
などを没収したが、政府はその管理の体制がととのっていなかった
ので近隣の諸藩にその管理を命じた。

尼崎市域の旧幕府領(代官斎藤六蔵支配地)・旧田安領(猪名寺村)
はこのとき尼崎藩に「当分取締り」が命じられた。

しかし、旧幕府領は2月尼崎藩の管理が解かれ兵庫裁判所の管轄とな
った。5月兵庫裁判所は兵庫県(第1次)と改称され、それと同時に
川辺郡下にあった旧幕府領は大阪府司農局(7月から北司農局)に
移管された。

旧田安領は同年7月、田安家の旧領知復活が認められたのでふたたび
田安領となり、尼崎藩の管理をはなれた。
110日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:59:31
>>103
尾張徳川家と紀伊徳川家の当主が大納言というのは極官位であって、
初任は中納言だったはず。
111日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:20:17
当主の初任だけで言ったら、尾張紀州は中将なので御三卿と変わらない。
ただ、尾張紀州はすぐに(ほとんど相続と同時に)参議に昇進するのに対し、
御三卿は参議になるまでしばらく時間がかかるという差がある。
極位極官でいうと、御三卿も従二位大納言の例があるので差がなくなる。

実際問題、尾張紀州と御三卿の格差には参議および中納言昇進までの
期間の違いが大きく、尾張紀州の当主がたいてい中納言なのに対して、
御三卿の当主は参議になっている。
112日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:33:23
尾張宰相とか紀伊宰相とかいうから、初任は参議じゃないのか?
113112:2008/05/04(日) 19:34:23
あ、>>111で詳しく説明があった。
114日本@名無史さん:2008/05/04(日) 20:50:35
官位だけではなくてさ、宗尹の「ときの長子」が2人続けて越前家に
養子に出されてるのに、一橋家が御三家より上なんて考えられない。
家斉の息子たちも清水家を経由して尾紀の藩主になっている。
これを格落ちとは考えないだろう。
115日本@名無史さん:2008/05/04(日) 20:56:42
徳川 治寶はなんで生前に従一位なんて高位もらってるんだろう?
将軍の子を養子に迎えた褒美か何かなのかな
116日本@名無史さん:2008/05/04(日) 21:14:03
御三卿は何度も断絶してるじゃん。
そんなに重要な家じゃないでしょ。そもそも家でもないし。
安政の大獄で慶喜が謹慎したときも一橋家は当主不在だったんだよなあ。
117日本@名無史さん:2008/05/04(日) 21:14:10
>115

家慶将軍就任記念じゃないか? この年(天保8年)三家三卿の関係者はことごとく昇進している。
昇進していないのは2年前に従二位大納言になったばかりの尾張家隠居斉朝だけ。
彼も2年後には正二位に昇進している。
治宝は年齢も高いしすでに正二位だったから従一位になってもおかしくはない。
118日本@名無史さん:2008/05/04(日) 21:46:50
将軍就任記念か
なるほど、そんな感じでみんな昇進したのね

他の将軍の時もこんな例あるのかな
119日本@名無史さん:2008/05/04(日) 21:53:48
>>116
将軍継嗣問題が起こってるとき以外はただの部屋住みみたいなもんだしね
家基が将軍になってしっかり子供残してたら、田安清水はそのまま廃絶されて気もする
120日本@名無史さん:2008/05/04(日) 22:23:22
御三家は徳川の藩塀として国守として要地を警守し、家臣団も多数抱えていたが、御三卿は将軍の家族で、家臣も幕臣の出向ばかりだから、
格としては御三家>御三卿。ただ、将軍継嗣候補としては御三卿>御三家。
121日本@名無史さん:2008/05/04(日) 23:48:15
>118

尾張家の官位変遷を見てみたけど家慶の時だけだね。
考えてみれば、このときは三家三卿皆兄弟みたいな状況だったからだろうな。
どの家も何のわだかまりもなく将軍就任を祝える唯一のケースだったので、
将軍の側からも大盤振る舞いしたのだろう。
これもすべて家斉の子作りの成果ですな。

>120

そのあたりの微妙さが、官位昇進基準に現れていると思う。
初任と極官だけを見ると三卿は尾張紀州と同格なのだが、
実際の当主の官位は尾張紀州の下になる。でも月次などの
拝謁では、三卿は諸大名に先駆けて中奥で真っ先に行う。
同格とは思えないし、かといってどちらが格上か判然としない。
三家のメンツをつぶさずに三卿による将軍独占を正当化する
絶妙なさじ加減と言うべきか。
122日本@名無史さん:2008/05/05(月) 00:33:15
治宝に関しては、養子押し付けに不満を漏らし続けていたらし
いから、それをなだめるためもあったんじゃないかな。
123日本@名無史さん:2008/05/05(月) 00:41:15
治寶は、父親(重倫)が今でいう統合失調症で、庭先や隣家に鉄砲ぶっ放したりして強制隠居させられていたからな。治貞から就封できただけでも御の字だったような気もするな
124日本@名無史さん:2008/05/05(月) 01:02:46
御三卿は将軍家の家族と言う扱いだから、親戚筋の御三家より
先に当主である将軍に最初に挨拶するのは格とか関係なしの
常識の範囲でしょう。
125御側御用取次・田之倉孫兵ヱ:2008/05/05(月) 03:05:12
そのとおりだ。で、将軍継嗣についても近しい血統たる御三卿から選抜するのも理にかなっている。
御三卿は、吉宗が、将軍継嗣問題への御三家の容喙を封ずるために設立したものだから、格の上下や官位とは一応切り離して議論するのも実りのある話かもしれない
126日本@名無史さん:2008/05/05(月) 07:50:09
時代劇でお馴染みの参勤交代時の掛け声

「下にぃ〜、下にい〜」この掛け声は 御三家に限られたもの
だったらしい。

他の大名は、邪魔になる通行人に対して「寄れぃ〜」と掛けた
程度とか・・

さすが御三家です。大名行列で即土下座ではなかったようです。
一般大名に限っては・・

127日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:16:01
いやしくも正二位内大臣右大将征夷大将軍の後継者ですから、
無位無冠というわけには行かないでしょう。
で、官位を考えると、御両典(甲府、館林徳川家)が御三卿と
同じように家督数年後に参議、時間をおいて中納言という家格です。
(大納言就任はないけど、御両典の当主は三十代で早世するか
将軍家に入っているため、年数が足りなかったと思われる)
どうもこれが先例だったように考えられます。

しかし御両典、特に甲府綱豊は将軍の甥にもかかわらず、
将軍の又従兄弟の綱教と相続争いをする羽目になりました。

吉宗はそれを目の当たりにしていたので、>124や>125の言う『常識』を
利用した「将軍家の家族御三卿」を創設したのではないでしょうか?
128日本@名無史さん:2008/05/05(月) 11:28:01
なんで甲府・館林は御両典っていうの?
典って何?
129日本@名無史さん:2008/05/05(月) 11:42:30
>>128

典は典厩を省略したもの
じゃ〜、典厩とは左馬頭、右馬頭のこと。馬寮の長官。
源義朝をはじめ著名な河内源氏の武者がなったこともあり、武士の憧れの官職です。

130日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:31:18
あ、ちなみに綱重が左馬頭、綱吉が右馬頭ね。
131日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:04:13
家綱が生まれるまでは尾張光友が4代の筆頭候補だったんだろうけど
紀伊はなんか水面下で工作とかしてたのかな
132128:2008/05/05(月) 16:14:33
>>129
どうもありがとう。よくわかりました。
133日本@名無史さん:2008/05/05(月) 19:09:52
Wikiには,御両典,駿河家は,称徳川ではなく,称松平だったとなってるけど,本当のところどうだったのだろ?
134日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:29:29
>>126 諸大名が御三家の行列にカチ会ったら籠から出てあいさつしなきゃならないんだよね?
御三家当主の籠までてくてく歩いて行って
「それがし石見国浜田藩主松平左近将監…」
って言わなきゃならないの?
135日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:31:52
御三卿は養子相続ばかりだし、幕末には将軍との血縁も遠くなっちゃって
当初とはかなり性格が違ちゃった。
136日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:08:37
 明石藩主松平斉宣が行列を横切子供を切捨て御免で殺害してしまっ
たことに尾張藩は激怒して、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石
藩の領内の通行を許さないとした。
 そこで、明石藩は行列を立てず、藩士たちは農民や町人に変装し
て尾張領内を通行したということが『甲子夜話』に載っている。

尾張藩は木曾谷も押さえているから西国から江戸に向かうとき尾張
藩の許しなしには西国から江戸にはいけない。
137日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:17:05
斉宣は家斉の息子だったから威勢が良かったけど、尾張藩主は兄に当たったというオチがあるね。
138日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:23:36
明石藩主の松平斉宣は11代将軍家斉の25男
少し思い上がりがあったのかも。

五街道や脇街道は幕府直轄(勘定奉行所管)の施設なので、尾張領内
であっても、勝手に尾張徳川家が人の往来を止める権利はなかったは
ずだが、「甲子夜話」にはこの一件が掲載されているようですね。
139日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:43:37
>>138 殺した子供の親に殺されたってオチがあるけど史実かね?
仮にも明石松平家の当主たる人が
140日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:43:50
1868年時点で、家康の男系子孫って何人いたんだ?
家康の子供のうち、1868年まで男系子孫が断絶してなかったのって誰?
141日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:30:31
秀康→松江松平家
頼宣→西条松平家→紀伊茂承
頼房→水戸徳川家一門
142日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:06:42
>>132
そういうときはこうだ
テンキューベリーマッチョ
143日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:08:19
>>142 (゚Д゚)逝け
144日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:12:36
>139

それはどこかの小説の話ではなかったっけ?
確かに20歳で早世はしているが。
145日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:35:18
関係ないけど
なんかしてあげると「テンキュー」って礼言う人がいて
そうすると俺がすかさず「たけだてんきゅーのぶしげ」って言うっていう
そういうパターンだった人がいるよ
146日本@名無史さん:2008/05/06(火) 08:14:55
徳川御三家と同様に、権勢が高かったのが大老 
譜代4家の中でももっぱら、「井伊家」が非常時に就任していた。

そして、就任に際しては、将軍から「老中の上に立ち諸事遠慮なく念入りに申し談ずる
よう。もっとも、月番・加判は致すに及ばず。」と命じられたと言う。

大老が登城した際には老中が揃って御辞儀をし、その姿は、あたかも将軍に対するもの
のようであったようである。
また、身の回りの世話は同朋が行い、刀も自分では持たなかったらしい。

御三家が取締役○○支店長であるならば、大老は本社の社長秘書室長or人事部長のよう
なものだろうか。
147日本@名無史さん:2008/05/06(火) 08:55:31
>>146
朝から元気がいいけどスレタイ読める?
井伊は譜代な。
148日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:11:57
杓子定規に譜代はスレ違いっていうと話題の幅が狭まるでしょ
親藩が譜代や外様に対してどうだったかって話題は重要だし
そこに広がるのは必然
149日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:32:11
井伊はともかく、親藩と言われている藩の中にも微妙な家がけっこうある。
久松系の桑名、松山とか、奥平系の忍とか、館林→浜田の越智松平とか。
150日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:40:13
桑名(白河)と松山の久松松平家は、本によっては「親藩」になっているが、
厳密には譜代大名で、御三卿の田安家から養子をもらって親藩扱いになった。
だから、定信や定昭が老中に、定敬が京都所司に就任できた。

また、松山藩が田安系の血が絶えたあとに薩摩の島津家から養子を迎えたのも、
もともと家康男系の子孫の家ではなかったから。
151日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:51:47
御三家、御三卿、連枝、家門と言われる、家康男系の親藩大名の中で、
家康の男系子孫でない家から養子を迎えた例はほとんどない。

幕末に越前系の川越藩が、久留米有馬家から養子を迎えた例を除けば、
江戸前期に福井支藩の糸魚川松平家に旗本の久松松平家から入った例と、
松江支藩の母里松平家に外様の新庄家から入った例の二例あるのみ。

家康の女系子孫である忍松平家には与板藩井伊家から入った例があるし、
幕末には大久保家や上杉家からも養子が入っている。
152日本@名無史さん:2008/05/06(火) 15:46:05
>忍松平家には与板藩井伊家から入った例

奥平松平家の松平忠翼は与板藩主井伊家の出身だが、
忠翼の祖父・井伊直存が奥平松平家から井伊家の養子に出ており、
忠翼は奥平松平家3代・松平忠雅の曾孫に当たる。
祖父の生家に望まれた形での養子であった。
153日本@名無史さん:2008/05/06(火) 16:31:02
>>151
逆に、本来徳川家康の男系ではない、鷹司系の吉井藩松平家の場合、
江戸中期に紀伊徳川家から養子が入って、紀伊家の支流扱いになっている。
154日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:38:42
>>153 吉井の隣の七日市藩は加賀前田家支藩。
参勤交代時に加賀藩が陣屋に只で泊まったとか
155日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:06:32
御三家の分家でも、水戸支流の宍戸松平家は帝鑑間詰めの譜代大名扱い。
越前家流では、糸魚川家、出雲広瀬家、出雲母里家、の三家も同じ扱い。

でも、「徳川諸家系図」なんかには、「願いにより譜代の列」とか書いてある。
親藩でいるより譜代になった方が扱いよかったのだろうか?
156日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:50:56
>>155
調べてないけど、親藩や家門は幕末を除いては、幕府の重職
につけていなかったからではないだろうか。

家禄の小さい家門等は大坂加番など役料的においしい役職に
付きたかったかもしれない。

根拠のない話で申し訳ありませんが・・
157日本@名無史さん:2008/05/06(火) 20:13:32
>>155
そのうち、糸魚川と母里は家康男系以外の家から養子を迎えている。
譜代扱いになってるなら、納得いくな。
158日本@名無史さん:2008/05/06(火) 21:28:11
家康は自分の一族でも差別化図るのは天才だからな

159日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:09:41
家斎に養子押し付けられたときの尾張,紀伊,三卿には
藩主の実子はいたの?いたのを他家に養子に出したりさせたの?
160日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:11:26
歴史に「if」は禁句だけど、もし徳川忠長が家光に嫌われてなく
普通に駿河徳川家が続いていたのなら、どんな扱いになって
いたんだろうか?
また、家綱に普通の子がいて、それが将軍家を継いでいたら、綱重、
綱吉(それぞれの子が家を相続したとして)の両家はどう扱われたの
だろうか?
161日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:18:28
川越松平・津山松平などは実子がいたよ。

三方領地替えや官位・石高の問題も絡んでいたらしい。

162日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:25:33
>>159
尾張は義直の血統が断絶し、まず家斉の甥の斉朝が養子に入っていた。
紀伊も藩主治宝に女子しかいなかったので、家斉の子が婿養子になった。

田安は田沼時代に定信兄弟が他家に追い出されて一時断絶状態だった。
清水も重好に実子がおらず、いったん断絶していた。
一橋は家斉の弟が継ぎ、孫の代まで続いている。そのあと、養子相続が続いた。
163日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:31:31
江戸城の席次で「大広間格」とか「大廊下格」ってあるが、普通の大広間や大廊下大名とどう待遇が違うんですか
164日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:36:43
>>161
世子届けてなかったんでしょうか?
>>162
御三家や三卿の場合は実子がいない場合に分家からではなく
将軍家から という感じですか?
(当時なら尾張も紀州も藩祖の血を引く分家があったはず)
165日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:49:49
>>164
普通は分家からだが、家斉が子沢山だったので将軍の子を押し付けられた。
水戸藩も斉昭相続のとき、家斉の子を養子として押し付けられそうになった。
尾張も紀伊も本当は分家から養子を迎えたかったが、幕府に押し切られた。
166日本@名無史さん:2008/05/07(水) 01:01:51
明治維新のとき
徳川本家 水戸系 慶喜隠居後は家斉系
尾張   水戸系
紀州   家斉系
水戸   水戸系
三卿   家斉系
でいいですか?
167日本@名無史さん:2008/05/07(水) 01:12:31
徳川本家 水戸系 慶喜隠居後は家斉の弟系(田安系)
尾張   水戸系
紀州   分家の西条系 
水戸   水戸系
三卿   一橋は水戸系 田安は家斉の弟系 清水は当主不在
168日本@名無史さん:2008/05/07(水) 05:27:03
>164
藩主の本音としては自分に近い血筋の者を後継者にしたいんだろうけど、
各藩とも財政状況が悪化しつつある時代になっていて、藩全体の利益から考えれば
将軍家から養子を迎えれば多額の持参金を得られるし、養子が藩主就任後は幕府から
有形無形の援助が期待できた。そういう事情もあって、必ずしも一方的な強権で養子を
押し付けられたわけではない。
169日本@名無史さん:2008/05/07(水) 07:10:42
>>168
江戸中期以降はどの藩も藩財政が悪化してきたため
持参金養子が頻繁に行われたようですね。

旗本・御家人も同様であったかと
170日本@名無史さん:2008/05/07(水) 08:52:50
>>164みたいな質問厨は自分で調べようという気には
ならないのだろうか?
171日本@名無史さん:2008/05/07(水) 18:28:27
家斉はあれだけ子沢山だったのに、明治以降は宗家にも御三家、御三卿にも、
その男系子孫はいなくなった。

天保期の一橋系全盛時代が嘘のように、きれいさっぱり消えてしまった。
172日本@名無史さん:2008/05/07(水) 18:41:18
家斉に子供が多いのは女好きの結果論
家斉自身は自分の子孫がどれだけ残るか
そんなことどうでもよかっただろう
173日本@名無史さん:2008/05/07(水) 19:51:20
家斉の子や姫を養子や嫁に迎えた大名は、もともと家格向上(因州藩、阿波徳島藩)や加増(津山藩、明石藩)や経済の内容がいいところに国替え(館林藩、川越藩)してもらうのが目当てだったから、目的を達成すると同時に藩内で暗殺されている。
だから家斉の子で生き残ったのは少ない
174日本@名無史さん:2008/05/07(水) 20:17:02
>>173 将軍家の子供を暗殺するわけないじゃん。
普通に病気で死んだりしただけ。
それに津山や徳島は明治まで続いたし
175日本@名無史さん:2008/05/07(水) 20:42:24
前田家なんか家斉の姫を正室に迎えるために
藩の財政を圧迫してまで赤門を建てているのに
姫を暗殺ってw
176日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:09:31
溶姫については維新後の方が疑惑がある。
鳥羽伏見で慶喜が朝敵になると、前田慶寧は実母の溶姫を国許に引き取った。
ところが、その数ヶ月後、溶姫は急死した。
177日本@名無史さん:2008/05/07(水) 22:27:27
尾張の場合、斉朝相続時には分家にも適当な人物がいなかったというのも
あるでしょう。
宗睦の実子だけでなく四谷家から迎えた養嗣子の治行(松平義柄)や、義柄
の弟で四谷家当主になった義裕にも先立たれてますし、その後を継いだ勝当
は宗睦の弟で相続時にすでに60近い年です。
178日本@名無史さん:2008/05/07(水) 23:25:21
>>177
尾張藩は、家斉時代には本家も分家も藩祖義直の血統が断絶しているので、
家斉将軍の血統に乗っ取られたとしても、やむをえないと思うのだが、
どうも藩内には将軍家からの天下り養子を忌避するムードが強かったようで、
分家高須藩の松平義恕(のちの慶勝)を藩主に迎えようとする運動がおこり、
少年藩主の慶蔵の没後、ついに義恕を藩主とすることに成功した。

しかし、この義恕は水戸藩主の孫で尾張家には他人同然の人間なのだが・・・
179日本@名無史さん:2008/05/07(水) 23:50:59
>178
孫じゃなくてひ孫ですね。
血筋はともかく、祖父の義和の代に四谷家に入ってからすでに50年近くたって
いるわけで、将軍家から次々に送り込まれる養子と比べれば尾張家との縁が
近いといえるんじゃないですか?
180日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:40:05
>>178
慶勝の場合は、まあ親父の代から高須藩に入ってて、本人は「地元出身」だったのが大きいんじゃね。
181180:2008/05/09(金) 01:41:54
自己訂正。親父じゃなくて爺さんの代から高須でした。
182日本@名無史さん:2008/05/09(金) 02:40:02
松平越中守定信
松平伊豆守信明
牧野備前守忠精
松平伊豆守信明
青山下野守忠裕
水野出羽守忠成
大久保加賀守忠真
松平周防守康任
松平和泉守乗寛
水野越前守忠邦
阿部伊勢守正弘
堀田備中守
太田備後守
間部下総守
松平和泉守
久世大和守
松平豊前守
183日本@名無史さん:2008/05/09(金) 13:51:19
将軍の実弟なのに5万石強しかもらえなかった松平清武、かわいそう。
しかも相続したのは養子。さらに要地の館林から浜田へ飛ばされる。
武元が老中になったからには譜代扱いかな?
184日本@名無史さん:2008/05/09(金) 15:25:00
>>176
溶姫は当時56歳。
当時の平均寿命からすれば、いい年だがな。
前田慶寧が溶姫を江戸加賀藩邸から国許へ引き取ったのは、
江戸城総攻撃に備えて緊迫する江戸城下から
母親の身の安全を確保するためだったし。
185日本@名無史さん:2008/05/09(金) 15:59:16
>>131
由井正雪やら毒殺の疑いがある家ですから何かはしていたでしょうね

ただ4代将軍として光友の対抗馬は前田光高
母が秀忠の子球姫だったし、家光とも男色の中だったからかなり有力視された
親藩格といいながらも外様なのに二度も将軍候補になるとはなんちゅうこっちゃ
186日本@名無史さん:2008/05/09(金) 16:09:03
>>160
それなりの兄弟仲であったならば駿河徳川家は尾張と同等
下手したらそれより上だったかも知れない。

って言うのも御三家は家康一代の将軍の血に対し、忠長は家康秀忠二代分の血が流れている。
それに正室の子供。しかも浅井家・織田家の血が流れるし、正室は織田信長のひ孫を貰っている。
領地も家康・信玄ゆかりの地であるし交通の要衝。血・家柄・領土どれを取っても申し分ない

逆に言えばよほど家光や幕府に警戒されず気に入られなければ史実の通りになる運命だったのかも知れない
西国大名と仲が良かったみたいだし
187日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:40:26
岡崎信康に嫡男がいたらどういう扱いになるのだろうか?
188日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:42:22
次男秀康の子と同様福井藩みたいになる
将軍位を継ぐことはない
189日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:54:40
>>183 将軍の弟としての存在感の無さは徳川重好と双璧をなす
190日本@名無史さん:2008/05/09(金) 19:38:58
自分のライバルとなる弟は滅多なことでは厚遇しない
戦国時代〜3代将軍家光の頃まで
ライバルになりそうな弟は殺されてきたしな
殺されずに小藩の藩主になれただけでもまし
191日本@名無史さん:2008/05/09(金) 20:37:35
>>185
忠直が失脚してなかったら、光長も候補にあがれたのかなぁ。
192日本@名無史さん:2008/05/09(金) 20:44:58
>>189-190 松平清武は300石から五万石の大名だろ?
家宣は弟にドンドン加増させている。仲良かったんじゃないの?
193日本@名無史さん:2008/05/09(金) 20:45:25
>>190
むしろ将軍の弟は割り切って有る程度体面さえ保ってくれれば
小藩の方がお互いに幸せだったかも
194日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:08:09
松平清方の死は微妙に怪しい気がする
195日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:12:50
>189

家臣の越智家に養子に出されていたわけだし、大名になれただけ幸運だろう。
まあ、似たような境遇の保科正之と比べるとあれだが。
196日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:15:30
しかし、家継の後見人にとかの話はなかったんだよな
尾張吉通よりよっぽど適任だろうに
197日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:32:36
家宣は人格者とか名君とか言われているわりに、実の弟に冷淡すぎる。
まず、のちの御三卿なみの待遇を与え、8代将軍にするべきだった。
198日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:41:04
>>197
たしかに尾張に譲るくらいなら弟に後見させれば良かったのにね
199日本@名無史さん:2008/05/09(金) 22:19:53
清武って家宣が将軍になった時に寄合衆になってるんだよな
完全に譜代扱いだな
200日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:08:15
>197

八代将軍は、正徳3年の時点で51だし、いったんは陪臣に降りた身だから無いだろう。
まあ、息子の内蔵頭清方は17歳だが、彼でも良いなら秀忠の孫松平肥後守正容(45)や、
その子大膳大輔正甫(17)も候補に挙がってきてしまう。
201日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:15:13
>>200 秀忠云々じゃなくて7代将軍にどれだけ血筋が近いかだろ
家継の従兄だったら間違いなく8代将軍就任だろ
会津なんて関係ない
202日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:43:40
家康秀忠家光の男系 VS 紀伊の百姓の子

203日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:56:08
>201

史実では会津よりも血縁が遠い吉宗が将軍になったわけだが。
204日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:00:58
逆に考えるとそのころには既に将軍そのものの権威は落ち始めていたのだな
血統ではなく幕府と譜代家臣にとって都合が良ければいいと
205日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:18:09
確かに。吉宗には暴れん坊将軍のイメージがあるが、
側用人を廃止したりして結構幕閣に気を遣ってる。
老中を「御」老中と呼ぶようになったのもこの頃じゃないか?
206日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:23:18
>201

清方は享保9年に28歳の若さで死んでいるから、健康面に問題があったかもしれない。
父親の清武も同じ年に死んでるので流行病の可能性もあるが。
そういえば、正甫も31歳で享保12年に死んでるなあ。
207日本@名無史さん:2008/05/10(土) 05:56:05
綱重が家綱より長生きしていれば、家宣の将軍就任も早くなって、
清武の立場も強化されたのだろうか。
208日本@名無史さん:2008/05/10(土) 07:34:43
家宣が七代もしくは将軍補佐にと、遺言した尾張吉通は、鳥獣、大福、木苺を暴食する人格破綻者であり、到底将軍補佐は宛にできなかった
209日本@名無史さん:2008/05/10(土) 09:45:37
つまりイチゴ大福食うやつは人格がおかしいっていうことか
210日本@名無史さん:2008/05/10(土) 11:24:08
>208

木苺を暴食したのは父親の綱誠の方です。
吉通は名君説と暴君説の両方があり、評価の難しい人物。
死因も虐待された茶坊主による暗殺説もあるし。
211日本@名無史さん:2008/05/10(土) 14:01:11
>>272
その同じ年に家重が西の丸入りしてるんだよね
ついでに、綱吉御落胤と噂された吉里の左遷
なにかあったりしてw
212日本@名無史さん:2008/05/10(土) 14:10:37
だれにレスしてんだ?
213日本@名無史さん:2008/05/10(土) 14:15:58
× >>272
>>207
214日本@名無史さん:2008/05/10(土) 15:22:45
水戸家は将軍家・尾張家・駿府家(紀伊家)の仲裁としての役割を
目的に作られたって本当ですか?葵徳川三代にそう言うセリフがあったので
215日本@名無史さん:2008/05/10(土) 15:40:59
水戸家は徳川名乗るのかなり後だし、当初は頼宣の分家扱いだったんではないかと
だからそんな目的でつくられたわけではないと思う
216日本@名無史さん:2008/05/10(土) 16:23:51
目的に作るわけないじゃんw
217日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:49:27
大河は捏造時代劇。
218日本@名無史さん:2008/05/11(日) 00:15:42
ただ、家光と頼房が仲が良かったのは確からしい
男色の説があるくらい
219日本@名無史さん:2008/05/11(日) 02:43:01
江戸の洪水と家治の死去のどさくさにより、田沼意次はたしかに失脚した。だが、表(内閣)も奥(側用人、側衆)、大奥も旧田沼派に塗りつぶされており、
治済にとってこれは少年将軍家斉の独自性が損なわれることが危惧された。
当時の閣僚は、大老井伊直幸、老中首座松平康福、老中水野忠友(勝手掛)、鳥居忠意、阿部正右、牧野貞長であり、牧野以外はすべて旧田沼系である。
御側御用も本郷泰行(大和守)、田沼意致(能登守)、横田准松(飛騨守)らすべて田沼派であり、大奥も高岳、大崎ら三人のうち二人は田沼派である。

家斉の父一橋治済は、まず御三家に根回しを行い、
「実直にして才腕ある者」
を閣老にあげたいがどうか、と提案し、具体的には、松平定信(白河藩主)、酒井忠貫(小浜藩主)、戸田氏教(大垣藩主。松平武元の実子)の名をあげている。
はじめ御三家は、
「周防守(松平康福)は老中首座でありながら田沼の言いなりになっていた。それが怪しからぬ。周防守を罷免して変わりを秋元永朝を」
と、まるで意味の無い名をあげていたが、治済としては、政局を回転させる人物として意中の人がいた。
田安賢丸こと、松平定信であった。
220日本@名無史さん:2008/05/11(日) 02:59:01
閣僚の中でも水野忠友は、田沼とまったく同類の、殊によると家斉を傀儡にしてしまう恐れのある男であった。
水野らを閣外に放逐することによってはじめて、家斉は傀儡でない、独立した将軍となれる。自身も殊によっては大御所のように振る舞える…

尾張の宗睦、紀伊の治貞は連れ立って登城し、水戸の治保も連署した松平定信推挙の書面を突きつけた。
書状をみた水野忠友は、事ここにいたってようやく手を握ってはならない相手と手を握られたことに気づいた。
ここのところ一橋治済と松平定信が親密に行き来していることは水野の噂で知っていた。御三家の背後に治済がいるとなれば話はピーンと一本通る。
ねらいは?己の失脚にある。しかしいまおのれは勝手掛老中として実質総理の座にある。
御三家の推挙を受け入れるか?受け入れれば田沼の二の舞になる。
御三家の攻勢をはねのけられるのは田沼だ。田沼ならばはねのけられる。だが田沼には頼れない。裏切ってさんざんな目にあわせている。だが…と水野は反問する
正直田沼はこわい。だが田沼しか頼りになるのがいない。長年の朋輩だ。当たって砕けろでなんとかなるかもしれない…
221日本@名無史さん:2008/05/11(日) 03:05:54
水野は用人を通じてこっそりと連絡をつけてきた。
水野にたいする恨みは多々ある。営々と築き上げた五万七千石のうち二万石を収公してくれた。新御用金令や蝦夷地開拓、印旛沼開削工事など、あらゆる事業を中廃止してくれた。
水野は八つ裂きにしてもしたりない相手だった。
しかし今更愚痴をぶつけも
222日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:58:43
コピペだろうけど、続きはどうなったの?
223日本@名無史さん:2008/05/11(日) 12:11:21
俺もすげー気になるw
224日本@名無史さん:2008/05/11(日) 15:54:19
しかし今更愚痴をぶつけても仕方がない。一文の得にもならない。いつでもいい、来る気があるなら来られたいと返事した。

水野忠友は微行して田沼の屋敷を訪れた。
座敷に案内すると田沼は、
「急に老中を免職になり、屋敷替えを命じられたため、身の置き所もないような始末で…」
と切り出すと、水野はがばっと手を突いて
「このたびのことはなんとお詫びしてよいやら…」
と始めた。田沼はつとめて冷静に
「手をあげられよ。出羽殿」
それでも水野は手をついたままくどくどと詫びを言い続けた。言い終わると気が済んだのか
「実は…」
と、松平定信推挙や、一橋治済と御三家が接近して水野おいおとしを画策している顛末を語って、ため息をつきながら
「どうか力をお貸しくだされ」
「ため息をつかれるほどのことではござらぬ」
「というと?」
「お断りすればよい」
断れないから相談に足を運んでいる。水野はやや口を尖らせて
「相手は御三家でござる」
「上様(家斉)であろうと御三家であろうとダメなものはダメだときっぱりはねのけるべきでござる」
225日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:06:37
「どうやって?」
「越中守(定信)推挙の書簡は上様のもとにあげられたか?」
「いやまだ…」
「御三家からは、上様のもとにもきっと同じ、越中守推挙の書簡が提出されるのは時間の問題でござろう。
いずれにせよ内容が内容でござる。上様のもとにあげずに頬っかむりするわけにはいきますまい」「―――」
「当然の事ながら越中守を老中に登用すべきかどうか、上様から御下問がある」
「―――」
「そのときだめだとお断りするのでござる」
「誰が?」
「出羽殿、おことが」
「拙者が?」
「さよう」
「とてもでき申さぬ」
「ならば一瞥をお貸し申そう」
「―――」
「それにはまずそれがしの差控を解くことでござる。年始の年賀に登城できるよう、差控免は年内ということがよろしかろう。
それからわが甥の能登(田沼意致)も病ということで御側御用取次を病免されており申す。病が癒えたということで能登も再勤仕させればなおよろしゅうござろう」
226日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:38:37
「??」
田沼のいわんとすることは―――
田沼の差控を許し、田沼の姿を諸人にみせつけることによって、田沼の復権を印象づければ、御三家ら反田沼勢力はたじろぐ。
田沼は以前、治済に対し、豊千代が御養君となれども大御所のようにふるまうことはされるなと釘を刺されている。
それを思い出させることができる。そのためには自身の差控免と、田沼意致の再任がどうしても必要なのだというわけである。

話が一通りすむと田沼は近習に膳部を運ぶよう指示した
「きょうのような寒い日はこれに限り申す」
水野も程よく酒が回ってきたのか
「かたじけないことでござった。あいすまぬことでござった」
と繰り言のようにいいながら、夜更けすぎに帰って行った


十二月十日には大目付が蠣殻町の田沼の屋敷を訪れ
「思召これあるにより差控をゆるさる」
と上意を伝えた。
また十二月二十八日には、田沼意致が登城を命じられ、
「病にて職を辞すとも、なお壮健なれば養生して近仕すべし」
と、御側御用お取次への再任を命じられた。


一橋治済は、田沼の処罰解除、ついで意致の再任の報に神経をとがらせ、用人を水野忠友の屋敷に走らせ、真意をただそうとしたが、帰ってきた用人は
「出羽守さまにお会いすることはできませんでした。用人の土方縫殿助にはお目にかかれたのですが、土方どのも詳しい話は聞いていないそうです」
治済はいぶかった


翌正月三日、諸大名は総登城して将軍に年始をのべた。将軍に拝謁すべく登城した諸大名は、田沼の姿を認めると、みな目を丸くした。
田沼は当然、大広間で諸大名とともに将軍に拝謁する。ところが田沼は、何事も無かったように溜間にすすみ、現職の老中たちに混ざって将軍に拝謁したのである。
ニュースはまたたくまに営中を駆けめぐった。すでに家斉に拝謁して下城していた一橋治済のもとにも報がもたらされたが、これが、「松平越中守を加判の列に」と推挙した御三家への幕閣への回答だった。
治済は驚愕にしばらく声が出なかった。
227日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:55:46
一月十五日になった。十二月十五日、一月一日とそうだったが、この日も尾張の宗睦、紀州の治貞は出仕しなかった。
一人水戸の治保のみが登城した。御三家の詰所は大廊下である。治保が一人大廊下で休息していると、
大老井伊直幸に松平康福以下の老中がやってきて、康福がいった。
「松平越中守の儀についての書面の趣、内々御聴に達しました。おっつけお言葉があると思います」

家斉はたしかに水野に、「御三家の意向をきき届けてしかるべしと存ずる」といった。かえってきた返事は意外だった。
「なりませぬ」
水野は強い口調でいってつづけた。「越中守の白河松平家は加判の列にすすむ家格ではございませぬ。
宿老に人がいないというわけでもございませぬし、ここはおきき届けにならぬほうがよろしゅうございます」

治済は完敗した
228日本@名無史さん:2008/05/11(日) 17:15:25
「さようか」
家斉は気が弱い。それにまだ15歳である。べそをかきながら答えた。

こんなとき大奥の老女たちが相談相手になる。高岳、大崎、竹内といった大奥年寄らを前に
「出羽(水野)は越中守推挙に反対いたした。そのほうらはいかが存ずる」
すると高岳、大崎らはかわるがわる
「出羽が申すはもっともにございまする」
「九代様(家重)は生前、将軍家の縁者を役職につけてはならぬと仰せでございました。
越中守の妹君(種姫)は、十代様(家治)の養女におなりでしたから、恐れ多くも越中守は上様の縁者になりまする。だから越中守を老中に据えるのはだめなのでございます」


完敗はしたが治済は諦めなかった。三月、四月…とじっと機会を窺った
229日本@名無史さん:2008/05/11(日) 17:52:45
その年は前年の大洪水や凶作により米やみそ、醤油をはじめ物価がじり、じりと高騰し、江戸市中は貧民があふれた。
五月になると、御用商人や、生活必需品を買い占めて高額で転売していたと噂された商家や町人をターゲットに大規模な打ち壊しが起こった。
うちこわしは三日三晩つづき、類似の騒動は吉宗時代の1730年以来、じつに57年ぶりの出来事で、幕府の面目は丸潰れとなった。
幕府の金蔵も浅間山噴火や昨年の洪水による復興費で空っぽ同然であり、誰が行政上の責任者になっても救恤の方途がなかったという側面もある。
あるいはうちこわしのような一種のガス抜きが必要だったのやも知れぬ。
「これでよし」
治済は心利いた女中に密計を授け、大奥に登らせて家斉に打ち明けた。
家斉は父の窮地を救うべく、乾坤一擲の大芝居を打った。

うちこわしのさわぎがようやく鎮まった五月半ば、家斉は御座の間に御用取次の本郷泰行、横田准松、そして田沼意致を呼び出し、下問した
「ここのところ市中がなにやら騒々しいようだが、何かあったのか」
うちこわしの騒ぎの詳細は御側御用取次にも報告は上がっていたが、騒ぎを幼君に伝えても仕方ないという配慮が
「とくにかわったことはござりませぬ」
本郷が答えた。
横田も
「世上至って御静謐」
「そのとおりでございます」
意致も相槌を打った。
そこで家斉は怒って見せた。
「大奥の女どもから、市中で騒ぎが起きたと聞いたから尋ねておる。余を子供扱いするのか。三人とも下がれ。大和(本郷泰行)はこの場で御側御用取次を免ずる。飛騨も能登も追って沙汰する」
家治は生前、解任などという人事を露骨に行使したことは一度もなかった。家斉は公然と人事権を行使した。

御座の間から下がってきた三人からあらましを聞いた田沼は
「そうか」
とだけ吐いた。
最高権力者である将軍が、たとえ実父の指図であろうと、こうも公然と人事権を発動するとなると、田沼らにも逆らいようがない。
同日本郷泰行が、五月二十六日には横田が、二十八日には意致が、御用取次を解任された。
230日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:08:49
数日後には、種姫ももう反対していないから、という理由で松平定信を加判の列の上座、ならびに勝手掛に据える台命が下された。

しかし、旧田沼派の抵抗は止むどころか、ますます著しさを増してくるのである。
旧田沼派のうち、首魁の田沼、側用人稲葉正明、御用取次の横田、本郷、意致が罷免はされたが、大老の井伊も、
松平康福も、水野も依然として健在である。なにより、法令は田沼時代のものに従って運営されている。
定信は、老中首座になればすぐにでも全権を掌握できると思いこんでいたようだが、「寛政の御改革」の大号令に、同僚老中らは洞ヶ峠を決め込むという案配であった。
定信はこの頃、三河吉田藩主・松平刑部大輔信明、陸奥泉藩主・本多弾正少弼忠壽(ともに、のち老中)に内々に書簡を送り、井伊大老、老中松平康福、水野忠友らは無為無能だと口を極めて罵倒している。
実際に無能であれば扱いやすかったろうが、彼らは定信の失脚を見越してサボタージュ戦術に出ていたわけである。
231日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:48:32
学問板で創作長文クダラネ
232日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:57:13
コピペにマジレスするなよw
233日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:58:32
>>231
まあまあ面白いよ
続きをたのむ
234日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:02:06
>>233
ここは学問板だぞw
こんなのやるくらいなら文芸板でもイケ。
235日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:51:29
俺も続きが気になる

>>234 少しは空気を読め
236日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:07:01
佐藤雅美の小説の一説のような気が…
まぁ、楽しいから良いでしけどね。
237日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:08:25
小説本も買えない貧乏人どもか?
勝手に転載したら訴えられるぞw
238日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:54:54
タイトルupよろしゅうに。
239日本@名無史さん:2008/05/13(火) 05:39:24
越前家や会津家から将軍候補は少しでもなったことはないのだろうか?
加賀から候補にはなっているのに
240日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:18:17
登城の際には御三家は確か中雀門まで乗り物で入れたと記憶している。
宮家は御玄関前までと

家格によって厳密に定められていたはずだが、いまとなっては詳細は
不明

最後の大名の浅野侯はいろいろ語っているから少しは理解できている
ようだけど
241日本@名無史さん:2008/05/13(火) 15:03:58
最後の大名は、林くんですよ。
242日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:43:05
岡部美濃守長職じゃなくて?
243日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:05:13
分部だろ
244日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:24:51
分部光謙

出生年は1862年で、没年が1944年(昭和19年)
近江国大溝藩の第11代藩主
貞の次男。正室は溝口直溥の娘。官位は維新後に従四位

ちなみに最後の大名として有名な、浅野長勲は没年が昭和12年
戊辰戦争で藩主自ら徹底抗戦を果たした林忠崇が昭和16年に没

よって、分部光謙が最長かと・・
245日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:30:34
大名っていうのは10万石からを言うんだよ
246日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:47:56
分部がアリなら静岡藩主徳川家達(昭和15年没)も入れとけよ。
247日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:53:53
>>245

1万石以上の直参だけど・・
どこから10万石がでてきたのか??
248日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:03:17
分部くんはお目通りしてたっけ?
249日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:05:23
>>246
家達は1869年に静岡藩知事に就任したけど明治に入ってから
最後の大名とした場合、維新後の事例を引き出すのはNGでしょ・・
家達がありなら、まだまだ維新後の最後の藩知事として出てくるかもよ。
250日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:13:32
分部光謙が明治3年の相続だから言ってるんじゃないの?
私の手元の資料(『日本史総覧』)はそうなってるけど。
251日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:40:05
明治になって立藩を許された元付家老や元交代寄合も、一応大名だし、
家達も明治元年に駿河・遠江70万石を与えられ、駿河府中藩主になっている。
252日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:46:52
明治になって冷や飯くったのは大身旗本と高家じゃなかったっけ?
253日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:04:13
>>247

天守を持てるか持てないかでカウントしてるんじゃない?たしか10万石格以上の格がない大名は天守は持てなかったはず。
254日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:28:51
そんな決まり聞いたこと無いぞ
255日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:02:50
立藩を許された元付家老なんていないぞ
成瀬は賞典禄を貰ってるが個人の功績に対してだし
256日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:35:49
爵位を貰った家老と間違えているのでは?
257日本@名無史さん:2008/05/14(水) 02:53:20
>>252
越前の付家老、府中本多は、
江戸に屋敷を与えられ、非公式ながら城(陣屋)を持ち、
将軍お目見えで、
幕末2万石な上に身内は松平春嶽や由利公正だったけれど、
維新後に士族にされた。
のち、旧藩士の運動とデモ活動により、爵位。
258日本@名無史さん:2008/05/14(水) 04:16:22
尾張家と紀伊家はどちらが経済力有ったのだろうか?
表高はほぼ同じで、内高は尾張が80ちょっとに対し、紀伊は60ほど
だけど財政は紀伊の方が良かったし特産物とかもよく聞くが
259日本@名無史さん:2008/05/14(水) 05:57:14
中期以降なら紀州の方が比較的安定しているだろうけど
土地の豊かさ、交通の要衝を考えるとポテンシャルは尾張の方がずっと上だろうね
260日本@名無史さん:2008/05/14(水) 07:02:59
>>253

美濃国苗木藩
遠山氏(10012石)は1万石で立派な城主大名です。
他に1万石台で6家ありました。
<苗木城>
ttp://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/naegi.htm
261日本@名無史さん:2008/05/14(水) 07:39:27
>>253 島原藩て五万石くらいなのに立派な層塔型天守をもってますよね
会津若松城にそっくり
262日本@名無史さん:2008/05/14(水) 08:34:23
>>260

家柄次第で城主格とか国持格(織田家)になる大名もあったとは聞く
263日本@名無史さん:2008/05/14(水) 08:44:09
附家老に限らず万石陪臣ってだいたいは男爵貰っていない?
一応維新の功績って事になっているけど完全に石高と家柄でしょ?
264日本@名無史さん:2008/05/14(水) 09:33:14

スレタイを読めない理解できないバカばかりが

寄ってくるのはなぜか?


265日本@名無史さん:2008/05/14(水) 09:39:15
>>258
尾張家は61.95万石のほかに木曽の山林を抱えていたから、
かなり豊かだったはず。いくらあっても散財してしまえば
足りないけどね。

266日本@名無史さん:2008/05/14(水) 12:54:27
>>265
木曽のあたりって、幕府と尾張で半々に知行してなかったっけ?
山村家とか。
267日本@名無史さん:2008/05/14(水) 12:55:10
>>260
中津川怖い。
268日本@名無史さん:2008/05/14(水) 15:04:09
喜連川って足利なので格式はたかかったのだろう?
269日本@名無史さん:2008/05/14(水) 15:20:10
>>266
成瀬某が幕府から木曽の山林をくれると聞いたがお礼も言わずに
だまっていた。暗に木曽川の水運もくれとの要求である。幕府も
その要求に応えた。水運も支配できなければ木々を搬出できない。
尾張藩めでたしめでたし、という話を読んだことがある。

山村家は木曽福島の関所の役人です。
270日本@名無史さん:2008/05/14(水) 18:21:58
吉宗が将軍就任したとき幕府首脳最大の悩みは幕府を和歌山に持っていかれるのではないか
ということだったらしい
271日本@名無史さん:2008/05/14(水) 18:31:02
綱吉や家宣はあくまで将軍家の分家と言う感覚だっただろうけど
紀州や尾張はその頃はすでに独立した家感覚があったのだろうなぁ

幕閣や大奥が松平清武を望んだのもそのあたりがあるかもしれん。
272日本@名無史さん:2008/05/14(水) 20:55:01
綱吉が館林で過ごしたのはわずか数日となにかで見た気がする。
まともな藩主ではない。実質幕府領みたいなものだったのでは。
273日本@名無史さん:2008/05/14(水) 21:45:48
>>271

清武は一度陪臣になったので跡取りとしてはみんな対象外とみなしていたはず。清武に実子がいれば
それが世継ぎになったかもしれんが
274日本@名無史さん:2008/05/14(水) 23:27:30
松平清方のこと、時々でいいから思い出してあげて下さい
275日本@名無史さん:2008/05/14(水) 23:42:30
松平武元あけ
276日本@名無史さん:2008/05/14(水) 23:54:38
何を間違えてか松平忠輝が許されていたならどういう立場の大名になっただろうね
それ次第によっては御三家も変わってくると思うけど
277日本@名無史さん:2008/05/15(木) 00:02:49
>>276

忠輝は「別格」みたいにされたんじゃない?水戸家みたいに敬遠されるみたいな意味で
278日本@名無史さん:2008/05/15(木) 01:10:18
制外の家パートA
279日本@名無史さん:2008/05/15(木) 01:14:35
>>276
でも家康存命時から「松平」だからな
家康の弟の内藤信成みたいな扱いになるかも
280日本@名無史さん:2008/05/15(木) 01:49:19
親藩ではないが、久松松平一族が好きだな。
桑名、松山・・・
281日本@名無史さん:2008/05/15(木) 06:27:26
忠輝はナントカ松平を嗣いだんでしょ
適当に長澤?と書いてみる
282日本@名無史さん:2008/05/15(木) 08:47:32
長沢で正解
でもなぜか先に長沢を継いだのは同母弟の松千代。
弟が死んでから忠輝が継いだ。
なぜだ?
283日本@名無史さん:2008/05/15(木) 18:10:05
疎んじられていたから
284日本@名無史さん:2008/05/15(木) 19:24:37
生まれたばかりで養育者の決まっていなかった松千代のほうが
もらい受けやすいと長沢松平家が判断して家康に願ったから
285日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:24:55
結果論で言えば尾張と紀州、どっちが野心あったのだろうか?
286日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:29:34
>>279
内藤信成=家康弟、はあくまで「という説もある」程度だから。
287日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:49:54
>>285
尾張は粘りがない。
紀州はしつこい。
288日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:59:48
>277
水戸は別に敬遠されていないと思うけど。光圀や斉昭が例外なくらいで。
敬遠、警戒と言えばむしろ尾張のほうでしょう。
289日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:12:32
尾州藩は家斉のイヌ
290日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:38:54
義直と頼宣が兄の遺領を継いでるのに、その家自体は継いでないのは
「徳川」を名乗らせたかったってことなんだろうな
291日本@名無史さん:2008/05/16(金) 02:25:13
武田信吉が死んだ後、他の兄弟に武田名乗らせなかったのは何故。
292日本@名無史さん:2008/05/16(金) 06:15:50
もはや他家の権威を必要としない位盤石になったからでしょ>武田家
武田家自体は高家にもいたし

あとあの末三兄弟を家康が寵愛していたのも有るだろうけど
293日本@名無史さん:2008/05/16(金) 13:41:59
紀州頼宣・水戸頼房の生母は、お万の方(養珠院)

上総勝浦城主:正木左近大夫頼忠の娘
その縁で、養珠院の兄弟の正木(三浦)為春は紀州家つきの家老になった
294日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:57:27
万子ちゃんカワユス
295日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:45:59
信長の野望の安房の里見に正木さんが出てくるがその子孫か?
296日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:08:41
>>295
そうだね!
297日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:39:59
>>288

この2にんのせいで水戸は慶喜まで将軍出せなかった。
298日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:50:42
>>295
頼忠は正木時忠の息子
したがって吉宗以降の徳川宗家当主はすべて時忠の子孫
299日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:55:43
斉昭はともかく、光圀の影響はさほどでもないと思うけどね。
義直も頼宣も将軍家とはうまくいっていないし、光友もしかり。
綱條が八代将軍に落選したのは、家格や年齢もさることながら、改革失敗
が響いたんだろうし。

見え透いた謙遜とはいえ、とりあえず吉宗に「門地で言えば尾張殿、年齢
では水戸殿」と言ってもらえただけでも良かったんではないですかね。
300日本@名無史さん:2008/05/17(土) 00:23:47
尾張家に三成の血が入っている事って
幕府から見たらどうだったのだろう?
301日本@名無史さん:2008/05/17(土) 00:49:05
母方の血はあんまり意識しないだろうし、
それより武家の価値観だと過去の謀反人は
そんなにマイナス材料にならない。

三成は江戸時代には悪人評価だけど、
関ヶ原の勇戦は評価されていたから
過去の話になれば三成の血を引いていることはむしろ
自慢話のネタになったのでは?
302日本@名無史さん:2008/05/17(土) 05:39:05
>>300
そうそう、三成がいたから 豊臣を潰すこじ付けができた。
三成がいなかったら、加藤や福島、浅野は秀頼擁護にまわっただろう。
303日本@名無史さん:2008/05/17(土) 10:37:54
「将軍をついでくれるかな」と言われた時に
「継ぐとも」と答えればよかった
と後悔していた尾張継友
304日本@名無史さん:2008/05/17(土) 11:57:57
                __
       _,,ィ=、    ,ィ=ニ――`-、
     /'               `ヽ、
    ,/                    \
   /  __          ィニ===-、    \
    /:;;;;::::下        イ:::;ィニヽ:::::::ヽ
    /:::(●) ! i       !' ((●))  :i!
    :::::`ー' , _,-         ` ̄    !
    `ー '"          ヽ、__,,
        ハ  -、
          〉   `
       /
       /~⌒ヽ
     ( r' ̄^ヽ、
      く ̄ ̄ ̄`
      ` ー―-、
305日本@名無史さん:2008/05/17(土) 19:24:59
>>300
千代姫は三成の玄孫だから三成の血も相当薄れてるし、
さして気にならなかったのだろう。
306日本@名無史さん:2008/05/17(土) 21:55:47
>>305
どういうルート?
307日本@名無史さん:2008/05/17(土) 22:02:57
千代姫って家光の娘じゃないの?
308日本@名無史さん:2008/05/17(土) 22:40:45
>>306
石田三成→岡重政室→岡吉右衛門→自証院→千代姫というルートらしい。
自証院は家光の側室、千代姫は家光の娘で尾張光友の正室。
309日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:34:30
>>308 岡吉衛門って旗本?
それとも庶民で春日局がひっぱってきたの?
310日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:38:41
春日局の縁者らしい
311日本@名無史さん:2008/05/18(日) 00:07:03
>>310 そうなんですか!
歴史はおもろー(゚∀。)/
ですね
312日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:41:58
正木は里見取り潰し後、
本多に取り入り、独立大名になろうとした。
小早川の稲葉のように
313日本@名無史さん:2008/05/18(日) 13:10:04
さすがに斎藤利三の娘、敗者の子孫にやさしいな
314日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:19:38

スレタイを読めない理解できないバカばかりが

寄ってくるのはなぜか?


315日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:27:12
>>314
尾張家に三成の血が入っているところから展開しているだけ
いちいちくだらん書き込みするのはなぜか?
316日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:07:30
水戸侯附家老・中山備前守あげ
317日本@名無史さん:2008/05/19(月) 08:37:59
>>315 ここは俺がたてたスレなんだよ。俺のスレだよ
318日本@名無史さん:2008/05/19(月) 08:41:42
2ちゃんでおれのスレって阿呆ですか?
HPでも開設しろよ。
319平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/05/19(月) 09:48:16
>>318
HP開設するにはどうすれば?
320日本@名無史さん:2008/05/19(月) 14:17:23
おれのスレワロタw
321日本@名無史さん:2008/05/20(火) 01:11:09
俺のスレなんだよ。ここは俺がたてたスレだから俺が立てたとハッキリ言う自分の仕事に誇りを持てなくて如何する?脅される謂われは無い。脅されて踊る馬鹿は無い?
322日本@名無史さん:2008/05/20(火) 02:36:39
いや俺が立てたんだよw
323日本@名無史さん:2008/05/20(火) 09:20:43
将軍家は一応長子相続の制なのに、御三家ではそうじゃないね。
なんか矛盾を感じなくもない
324日本@名無史さん:2008/05/20(火) 09:21:00
お花畑は満開ですか?
325日本@名無史さん:2008/05/20(火) 14:20:34
>>323
水戸家の二代目以外にそんな事例があるなら上げてみてくれ
326日本@名無史さん:2008/05/20(火) 15:57:37
これは俺のスレだからアジェンダセッティングも俺の問題なんだよ
327日本@名無史さん:2008/05/20(火) 17:11:34
>>325
尾張家の松平義昌と徳川綱誠の事例がある。
328日本@名無史さん:2008/05/20(火) 18:22:45
准親藩=鷹司、前田、池田、蜂須賀
329日本@名無史さん:2008/05/20(火) 19:26:58
>327

正室の子と側室の子の違いがあるのでは?
正室の子同士もしくは側室の子同士で年下の子の方が家督を継いだ例は
水戸家の二代目以外にあったっけ?
330日本@名無史さん:2008/05/20(火) 19:55:28
正室腹同士もしくは側室腹同士で弟が方が家督を継ぐ例は、光圀の一例のみ。
但し、御三家では将軍家と違って、光圀→綱條や重倫→治貞のように、
実子がいても実子以外が家督を継いだ例がある。
331日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:38:38
中継ぎ相続は当時の大名家は割とやってるよね
子供当主は急養子が認められてないからだっけ?
332日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:59:48
徳川治貞は中継ぎではなく、宗春→宗勝のような強制隠居による相続。
実際、吉通→五郎太の相続は認められている。
光圀→綱條は兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目から、兄頼重の子を養子としたもの。
333日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:28:27
治貞といえば、治貞と宗睦主役のドラマがあったよね
もう一回見たいなぁ
334日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:38:46
>333

あれそんなに面白かったかなあ。水戸黄門の二番煎じみたいだが。

ところで、見てた人にしかわからない話だが、治貞よりも宗睦の方が若いという罠。
335日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:39:22
>>333 あったね二人が事件解決するやつ。

この前の水戸黄門スペシャルでは綱條とその息子(なんだっけ?)が出てた
336日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:03:15
>327
千代姫の息子二人が形式上長男、次男となっていて、
義昌は形式上は三男じゃなかったかな?
337日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:28:03
>>336 義昌はかわいそうだね。三十過ぎてやっと梁川三万石の藩主にしてもらったり
幼名が次郎太だから名前は綱誠に勝った!
338日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:42:51
五郎太ってのは義直の幼名でもあり代々の尾張家嫡男の幼名だから
次郎太って時点で負け
339日本@名無史さん:2008/05/21(水) 08:17:25
10万石以上の外様で称松平・葵紋の順親藩に対して
準譜代ってあったのだろうか?

藤堂・真田はそんな感じするけどそれ以外に
340日本@名無史さん:2008/05/21(水) 08:29:00
尾張藩連枝の川田久保家の領地はどこだったの?
高須藩が四谷家、梁川藩が大久保家。
341日本@名無史さん:2008/05/21(水) 08:58:33
>>339
後は願い譜代とか
342日本@名無史さん:2008/05/21(水) 12:30:08
津山松平家って秀康卿の血脈を今でも保ってるんだっけ?
343日本@名無史さん:2008/05/21(水) 12:40:43
>>342
既に頼宣の男系になっている。福井松平家も同様。
344日本@名無史さん:2008/05/21(水) 12:41:36
そうなると秀忠男系はもうゼロか・・・
345日本@名無史さん:2008/05/21(水) 12:42:01
スマソ秀忠→秀康
346日本@名無史さん:2008/05/21(水) 13:22:49
松江藩はどうだったかな?
少なくとも維新時は秀康男系のようだが。
347日本@名無史さん:2008/05/21(水) 13:28:31
>>346
出雲母里藩を通じて秀康の男系ですね
348日本@名無史さん:2008/05/21(水) 14:19:05
349日本@名無史さん:2008/05/21(水) 14:27:12
なんで遠藤太津朗が田沼意次なんだよ?
350日本@名無史さん:2008/05/21(水) 14:57:13
>>340
領地なしの石高支給、じゃない?
御三卿と一緒。
351日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:10:50
ドラマのは話はよそでやろうね。
うざいから。
352日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:21:08
徳川家康→結城秀康→松平直政(松江初代)→松平近栄(母里初代)→松平近時(母里2代)→松平近朝(母里3代)
→松平長孝(津山7代)→松平康哉(津山8代)→松平斉孝(津山10代)→松平定安(松江10代)
353日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:46:16
ゴメン。「殿さま風来坊隠れ旅」について一つだけ質問。
あのふたり、お互いを「治さん」「宗さん」呼ばわりしてたけど、
これが家治の耳に入ったら、お咎めはあるんだろうか?
354日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:55:01
>>344
秀忠の男系も水戸系の松平容保が養子に入った時点で全滅してるね。
家康の息子で男系子孫を残してるのは御三家の三人と秀康の四人のみ。
しかも義直の男系は井上、永井に辛うじて残っているに過ぎない。
355日本@名無史さん:2008/05/21(水) 16:48:19
>>354
もっと前に断絶していなかったか?
356日本@名無史さん:2008/05/21(水) 19:25:00
>>355 松平容衆(1804〜22)で秀忠の男系は絶えました
357日本@名無史さん:2008/05/21(水) 19:32:56
松平容敬は容住の三男って説もあるから微妙な所。
でも容保で確実に断絶した。
358日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:50:49
>>350
小遣いをたくさんもらっている部屋住みということですな。
いいのかわるいのかわからない。
359日本@名無史さん:2008/05/21(水) 21:48:02
>>354
永井って戸田から養子を迎えたんじゃなかったっけ?
360日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:04:52
>>359
横レスだが、戸田から養子をとったのは高槻藩主の方
新庄藩主の方は残ってるよ

徳川義直─徳川光友─松平友著─徳川宗勝─竹腰勝起─井上正紀─井上正滝─永井直哉─永井直厚─永井通景─永井尚
361日本@名無史さん:2008/05/21(水) 23:32:38
>358
「連枝」の格式を保つ義務が課せられているから、楽じゃないみたいですね。
単なる部屋住みならともかく、「御三家の連枝」として大名扱いですから。
しかも、名目は蔵米○万俵でも、それだけもらえるわけでもないようですし。

鸚鵡籠中記だったと思うけど、「倹約」で扶持を減らされた松平但馬守が「こ
れではもはや出仕もできない」と嘆く話が出ていた記憶があります。
362日本@名無史さん:2008/05/22(木) 23:39:40
頼方も兄が死ななかったら
実高5000石程度で3万石の大名やるのは大変だったんだろうな
363日本@名無史さん:2008/05/23(金) 09:12:26
高須藩の政務は財政も含めて尾張藩が援助、実質仕切っていた。
364日本@名無史さん:2008/05/23(金) 13:46:14
松平主税頭頼方の越前丹生藩の財政も紀州藩が全て支出、面倒を見ていた
365日本@名無史さん:2008/05/24(土) 10:08:53
御三家と越前松平家の宗支藩の禄高の計を出しました。途中絶家の家を含みますが、
「制外の家」である越前家が反映したのが改めて浮き彫りとなりました。


■尾張徳川系(計:68万石)
1.尾張徳川家(62万石)…家康の9男義直の子孫
  @陸奥国梁川藩3万石
  A美濃国高須藩3万石

■紀州徳川系(計:58万石)
1.紀州徳川家(55万石)…家康の10男頼宣の子孫
@伊予国西条藩3万石

■水戸徳川系(計:52万石)
1.水戸徳川家(35万石)…家康の11男頼房の子孫
@讃岐国高松藩12万石
  A陸奥国守山藩2万石
  B常陸国府中藩2万石
 C常陸国宍戸藩1万石

■越前松平系(計:90万石)
1.津山松平家(美作国津山藩10万石)…秀康の長男松平忠直の子孫
2.福井松平家(越前国福井藩32万石)…秀康の2男松平忠昌の子孫
 @越後国糸魚川藩1万石(福井松平家支藩)
3.松江松平家(出雲国松江藩18万石)…秀康の3男松平直政の子孫
 @出雲国広瀬藩3万石(松江松平家支藩)
 A出雲国母里藩1万石(松江松平家支藩)
4.前橋松平家(上野国前橋藩17万石)…秀康の5男松平直基の子孫
5.明石松平家(播磨国明石藩8万石)…秀康の6男松平直良の子孫

366日本@名無史さん:2008/05/24(土) 10:59:57
酒井一族は荘内15万石、姫路15万石、小浜12万石の42万石ですかね。井伊より多いかもしれないです
367日本@名無史さん:2008/05/24(土) 11:57:53
ただ、そう言う一族の結束力ってどれだけあったのだろう?
368日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:17:22
酒井家一門九家(合計:50万石)

■左衛門尉酒井家(計:19万7千石)
 ◇宗家 - 出羽国庄内藩15万石
  ◇分家 - 出羽国左沢藩1万2千石
  ◇分家 - 出羽国大山藩1万石
  ◇分家 - 出羽国松山藩2万5千石

■雅楽頭酒井家 (計:30万3千石)
 ◇宗家 - 播磨国姫路藩15万石
  ◇分家 - 上野国伊勢崎藩2万石
 ◇別家 - 若狭国小浜藩11万3千石
  ◇分家 - 安房国勝山藩1万石
  ◇分家 - 越前国敦賀藩1万石
369日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:08:02
>365

越前家には大坂の陣の武功があるから一概には言えんだろう。
370日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:36:30
>>369

大坂の陣の武功があるから繁栄できた。ということ?


371日本@名無史さん:2008/05/24(土) 14:03:58
水戸家は28万石だからねえ。
加増もないのに甲府家に対抗して無理矢理高直しして35万石。
372日本@名無史さん:2008/05/24(土) 14:43:01
>370

越前家は、忠昌が大坂の陣での武功による加増を受けるチャンスがあったのに対し、
御三家の庶子にはそういうチャンスがなかった。
なので、一門の総石高から越前家が特別扱いを受けたとは単純には言えないという意味。
373日本@名無史さん:2008/05/24(土) 15:24:48
「制外の家」ってどんな特典があったんだ?

官位は尾張、紀伊、水戸が上だし特別優遇されていたとも思えん。
374日本@名無史さん:2008/05/24(土) 16:46:41
>>373
特典なんてなかったろう。
秀康が秀忠の実兄であり、しかも、関が原の戦いでは、本戦の遅参
という失態を冒した弟秀忠に対して、秀康は江戸に残り、上杉の
南下を抑えたという功績が父家康から評価された。
そんな引け目もあったのか、他大名とは異なる何かしらの待遇は
あったのかもしれない、程度ジャマイカ
375日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:27:20
>>374
途中で反故になったが「藩主や領地は代えても取り潰しはない」
ということでない?
376日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:45:01
>>365
途中絶家も含むなら、紀伊家は頼職の三万石と頼方の三万石も加えるべきだろう
377日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:00:05
家康は結城秀康に何万石を与え、どこの国を与えるか、には苦悩したはず
378日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:23:12
>>365

1.津山松平家(美作国津山藩10万石)…秀康の長男松平忠直の子孫

×松平忠直の子孫
○の名義を次いだだけの前橋松平家

×美作国津山藩10万石
○10万→5万→(実子がいるのに)家斉の子供引き取って、引き取り料で10万


2.福井松平家(越前国福井藩32万石)

×越前国福井藩32万石
○最初は60万石ぐらいあったのに、見るも無残な削減っぷりで、最低時は15万石程度
 「結城秀康以来の越前福井藩」という肩書きがなければ・・・


などなど。
御三家にはこのような事態はなかなか起こらない。
379日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:43:27
>>378
福井の最低石高は25万石
380日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:13:03
>>374
江戸じゃない、宇都宮
381日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:36:09
>373

特典は、関所を強行突破してもおとがめなし。
ただしこの特典を利用したのは秀康だけですし、
忠直の改易の時点で特典は取り上げられたと思われます。
382日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:28:02
「制外の家」って?
来歴も、その特典の中身もかなり怪しいな。

水戸家の自称「副将軍」並み。
383日本@名無史さん:2008/05/25(日) 06:47:55

尾張徳川家は御三家の筆頭の自負があり
紀伊徳川家は御三家とは将軍家、尾張徳川家と紀伊徳川家であるとの自負があり
水戸徳川家では定府は我藩のみで他のニ家とは位置づけが違うとのこと
で副将軍としての自負が水戸藩家臣は持っていたらしい。
384日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:07:56
越前家としては本来なら自分たちが将軍家になる家だったという自負が
「制外の家」という認識を作らせたのじゃないだろうか?
385日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:39:23
>>378
徳川家を本来、信康亡き後、順序から行って継ぐはずなのに
家康からは自分の子なのに、醜い顔だからと遠ざけられて
徳川を名乗ること自体、禁じられた越前松平カワイソス・・


386日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:46:06
32万石とされたのは御三家より下という位置づけにするため?
387日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:49:49
つか、不義の子じゃないかって、
家康は疑っていた節がある。
388日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:05:29
「制外の家」は秀康一代のみだよ。
389日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:24:50
もし「制外の家」って格付けがホントにあったとしたら・・・
家康が秀康に直々に認めた以外考えられないが、
その裏づけはどこにもないでしょう。
江戸幕府を開いた慶長8年から秀康が死ぬ慶長12年の間、
御三家も定まっていなければ、参勤交代もない。
幕府の草創期だからね。
「制外」って言ったって・・・(疑
390日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:29:37
そもそも制外の家って最初に言った奴はだれなんだ?
391日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:39:55
俺は>>384のコメントに尽きると思うな。
尾州、紀州への嫉妬と羨望が、水戸に「副将軍」の自負を持たせたように、
御三家への歪んだ思いが、越前家主従にそんな衒いをもたせたんじゃあ。
いずれにしても後付けの話でしょう・・・たぶん。
392日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:35:19
秀忠が兄秀康の子孫に対しては遠慮していたということじゃないのか?
天皇家に対する有栖川家、北条得宗家に対する名越家
393日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:06:33
そもそも征夷大将軍という官職自体が律令政治の外にある官職だよ
394日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:28:02
関白と征夷大将軍は律令にないらしい、最高権力者なのに
395日本@名無史さん:2008/05/25(日) 14:58:21
本来ならば将軍家
藩祖は武功立てまくり
なのに末弟より格下

こういう要素が「制外の家」って言葉を作った訳か

396日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:06:22
松平忠吉、武田信吉の死去、忠輝の乱心は
往年の家康にはむしろ好都合だったように思える。

もし、死んでいなかったりして続いてたら
寵愛した末っ子達に与える領地が足りないし、格式にも困る。
397日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:28:56
定府の水戸家は尾張、紀州に比べて目立った参与はあったのだろうか?
幕末や藩祖はともかく
398日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:29:33
秀康の五男直基の曾孫に当たる宗矩が家格回復のために
一橋重昌、重富兄弟を養子に迎えるまで、
越前家は落ちぶれていく一方だった。
「制外の家」なんて憚りは、将軍家にも幕閣にもなかった。

まあ、松平姓を貰った時点で終わりだね。
松平義行、松平定信、それに清武・清方父子もそうだけど、
臣籍降下したら、いくら将軍と血筋が近くても徳川宗家は嗣げないよ。
吉宗のように御三家庶流なら、まず本家におさまっておかないと。。。

あと、前田・・・いつ将軍候補に挙がったって?
俗書の戯言でしょうが・・・
女系はお呼びじゃないの。
399日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:42:53
どこまで本気・実現性有ったのかは知れないが知らないが前田家からの
候補になったのは

・前田光高
生母は秀忠の娘球姫、家光との男色の噂もあり
そういうところから出た可能性話なのかも

・前田慶寧
生母は徳川家斉の娘・溶姫。家斉の側室専行院が強く推した
400日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:45:30
幕政への参与は、幕閣以外では、もっぱら溜之間詰衆でしょ。
水戸家が定府だからって、常々幕政に関与したなんて話は聞かないなあ。
だから定信も水野忠邦も必死こいて溜之間詰になろうと運動した。

彦根井伊家と会津松平家、高松松平家以外は溜之間詰の入れ替えは
結構あったからね。
401日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:49:06
よくドラマや小説で将軍後継を決める際、相談を水戸にしたり、上意を水戸が発表する
シーンがあるが本当にあったのだろうか?

自分はあえてあるとするなら同じ徳川を名乗る家な分
あくまで顔立てにそういう名誉的役割が若干有ったのかな位に考えているが
402日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:10:47
将軍家後継について相談を受けることがあっても、
それは御三家として尾張、紀伊との横並びで水戸にも尋ねるだけでしょ。

定府といっても、毎日登城していたわけじゃなし、
御三家にはそれぞれ掛の老中がいるので、幕政への具申もふつう水戸掛老中を経る。

403日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:32:27
水戸家は自分が将軍にはなれないので、そういう役割ができたんでないの?
(幕末は一橋家へ息子を養子にして少し違う事態だったが)
「妊婦が産婆になれない」ように。
404日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:58:45
>>403
>妊婦が産婆になれない・・・面白い喩えだね。けどね、
>水戸家は自分が将軍家にはなれない・・・これ、ただの俗説じゃあ?

>>401
八代将軍を選ぶ際の水戸綱條の役回りが念頭にあるのかなあ?
この時は、尾張継友と紀伊吉宗が争っていて、水戸綱條は高齢を理由に
辞退していたから、たまたま仲裁ができる立場にあった。
ただ、この時も、同じ家康の曾孫とはいえ、年長のあなたこそ・・・
って、逆に吉宗から薦められたんじゃあ。。。
継友は曾孫にあたる綱誠の倅だから、二人に比べると親等が遠くなるしね。
405日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:58:55
水戸がある程度発言力を持てたのは、
「御三家」+「定府」+「溜之間詰の高松松平を分家に持つ本家」という
3つを合わせたからでは?
406日本@名無史さん:2008/05/25(日) 17:02:44
幕末に政治力を持てたのは、江戸を攻める際に上陸しやすい茨城という地域を抑えていた
といった地政学的要因も有ったのじゃないかと思う。

逆に、江戸湾が封鎖された際は、水戸方面へ運河を敷く計画もあったし
407日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:17:20
俺って徳ヲタなんで、水戸って聞くと胸クソ悪くなる。
水戸家なんて発言力あったっけ。
つか、光圀、斉昭の出しゃばりがいただけだろ。
そんでもって二人とも幕命で致仕(元禄3年)、隠居(天保15年)させられてやんの。
隠居後も相変わらず幕政にケチ付けて、挙げ句が、
光圀は西山荘を竹矢来で囲まれ、事実上の幽閉状態にあったっていう説もあるし、
斉昭は不時登城を咎められ、藩主慶篤と一緒に罰せられているしな。

将軍も幕閣も何かと注文の多い親戚はウザかったろうよ。
408日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:23:33
幕政にケチつけるくせに、自分ちは派閥抗争ばっかで、藩政はグチャグチャ。
409日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:33:55
水戸家の悪口は専用スレでやってくれ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1129124863/l50
410日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:50:15
越前は船の要衝にして洛中にも近いことから田畑以外の実益は多かったと思うのですが
どうなのでしょうか?
411日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:32:09
福井藩の収入の87%は年貢米により、夫役の代わりに納められる夫米収入が11%にも
なるんだって。つまり米依存体質。
北国と畿内を結ぶ中継港として発達したのは、むしろ小浜藩領内の敦賀、小浜。
山海の産物や流通などに賦課される収入の割合は福井藩がわずか2%であるのに対して、
小浜藩は23%もあったって聞く。
福井藩は領地も半減以下に減らされてるし、かなり苦しかったと思うよ。
幕末に由利公正が現れるまではね。
412日本@名無史さん:2008/05/25(日) 22:42:48
沖合に島を領有しているわけではないから、分家の松江藩みたいに
大きな声では言えない収入に期待できるわけではないしね。
413日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:30:24
越前福井藩は、
普通なら軽くぶっ潰される程度のごたごたを、
何度も何度も起こしているにも関わらず、
「もう限界、改易する」という通達すらされているにも関わらず、


「・・・まぁ、越前福井藩は、なぁ・・・あれだから・・・」


と、最終的に改易は逃れている。
これこそがなによりの「制外」。

414日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:55:33
越前家は、貞享3年、綱昌の代でいったん改易になってます。
その後の前藩主昌親の25万石はあくまで新知拝領。
415日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:00:04
秀康の嫡孫光長も改易になったな。
416日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:07:51
当主自刃で一旦収公もあったな。
417日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:40:00
幕府は越前家を特別扱いしていたというより、敵視していた感じ。
「制外の家」なんてありもしないホラ吹いて、対抗心剥き出しにするから。
特に傍流から入った綱吉は秀康系にきびしかったな。
なんとなくその本心が覗ける。
418日本@名無史さん:2008/05/26(月) 08:35:52
秀康は現将軍の唯一の実兄であり石高も御三家より上。
明らかに他の兄弟とは違う立場にあった。
本人が若くして死んだからよくわからないが、
子孫も自分の家は特別だと思い込んだだけだろう。
419日本@名無史さん:2008/05/26(月) 10:50:03
傍系出身の綱吉は、嫡流意識の強い秀康系が鬱陶しかったんだと思う。てか、光長か゛綱吉の将軍就任に反対したから、恨んでいたという話もある。
420日本@名無史さん:2008/05/26(月) 10:52:48
どっかのサイトに、次期将軍が決定し将軍宣下要請を天皇に
奏上する役目は水戸家だと書いていたがほんと?
421日本@名無史さん:2008/05/26(月) 12:00:27
光長は家光の養子候補にもなったからね
422日本@名無史さん:2008/05/26(月) 15:11:13
>>414
領土削減以外、藩の全てが継承されてるから藩の改易とは言えない。
あくまで藩主個人に対しての処罰。
悪名高き津山原理主義者はどうしても「改易」と言いたいらしいが。

>>415
あれは幕府により、公式に系図から外されている。

というかこれほどgdgdなのに、ふらふらと存続しているのがなにより「制外」。
春嶽いなかったらどうなっていたことやらw
423日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:15:16
津山厨ってまだいるのか。
424日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:49:51
時系列で言うと

1681(天和1) 光長 高田25万石改易
1686(貞享3) 綱昌 (名目上)福井47万5000石改易
         昌親 福井25万石新封(事実上再家督)、片諱拝領吉品
1687(貞享4) 光長 3万俵再封

どうにも光長に当てつけをしているように見えてしかたがない。
425日本@名無史さん:2008/05/26(月) 21:31:08
「藩の改易」などという概念ない。
領地が収公されたなら、それは廃藩。
確かに廃藩にはなっていないが、幕府から改易処分を受けたのは事実。

個人への処分に改易などない。切腹させるか、隠居させれば済む話。
「越前松平家」への処分として改易に処せられた。
忠直の時も、綱昌の時も。
だから、忠昌、昌親はあくまでも新封。

だいたい常識的に考えた、朝廷すら統治システム中に填め込もうとしていた
幕府が、越前家を自ら「制外」の家などと公認するわけがないだろう。
426日本@名無史さん:2008/05/26(月) 21:44:17
>425
それを言い出せば、福岡黒田家も同じだね。忠之は形式上は一旦領地召し上げの上、
旧領を再度拝領と言う形で処分されているから。
427日本@名無史さん:2008/05/26(月) 21:48:47
「制外」は本来的には秀康個人の扱いでしょうね。
少なくとも忠直改易以後は、多少の特別扱いはあっても「制外」とは程遠い。
428日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:04:57
ちなみに俺は津山原理主義なんて知らないが。。。
越前松平家の改易は「実紀」にも主な年譜にも載っている話。
福岡黒田家がどうだかは知らないが、
単に綱昌への制裁なら、綱昌個人を斥ければ良いわけだし、
そのまま前藩主昌親に引き継がせればいいだろう。
それが・・・まさかの67万5千石から25万石!

しかも昌親が将軍家の偏諱をようやく貰えたのは、改易から18年も経ってから。 


429日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:08:36
↑とても「名目的な」改易なんて言えないだろ・・・ってのが俺の結論。
430日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:13:55
>>428
綱昌改易前は47万石。
431日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:18:44
>>430
ご無礼つかまつりました。
432日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:18:44
45万石だ。引き算間違えるなよ俺。
433日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:23:00
>>432
まあまあ、感情的になるなよ。
かくして68万石近くもあった「制外]の家は25万石に落ちぶれたって話。
434430=432:2008/05/26(月) 22:26:02
>>433
心配スンナ。430で間違えた自分にキレてただけだ。
435日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:28:42
■尾張徳川系(計:68万石)
1.尾張徳川家(62万石)…家康の9男義直の子孫
  @陸奥国梁川藩3万石
  A美濃国高須藩3万石

■紀州徳川系(計:58万石)
1.紀州徳川家(55万石)…家康の10男頼宣の子孫
  @伊予国西条藩3万石

■水戸徳川系(計:52万石)
1.水戸徳川家(35万石)…家康の11男頼房の子孫
  @讃岐国高松藩12万石
  A陸奥国守山藩2万石
  B常陸国府中藩2万石
 C常陸国宍戸藩1万石

■越前松平系(計:90万石)
1.津山松平家(美作国津山藩10万石)…秀康の長男松平忠直の子孫
2.福井松平家(越前国福井藩32万石)…秀康の2男松平忠昌の子孫
 @越後国糸魚川藩1万石(福井松平家支藩)
3.松江松平家(出雲国松江藩18万石)…秀康の3男松平直政の子孫
 @出雲国広瀬藩3万石(松江松平家支藩)
 A出雲国母里藩1万石(松江松平家支藩)
4.前橋松平家(上野国前橋藩17万石)…秀康の5男松平直基の子孫
5.明石松平家(播磨国明石藩8万石)…秀康の6男松平直良の子孫
436日本@名無史さん:2008/05/26(月) 22:46:41
>>420
京への使いは高家の仕事。
奏上は、武家伝奏を経て関白がするんじゃないのけ。

437日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:03:05
尾張・紀州・水戸・越前・その他親藩
どの家の藩士が一番いいのだろうか?

中期以降はダントツ紀州だろうか?
438日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:08:39
>429
だから、越前家以外にも、黒田家のように「領地を召し上げた上で旧領を与える」という例はあるし、
その際に「旧領をそのまま」でなく「減封の上これだけを与える」という事もある。

そのまま相続は無論、一部収公の上そのまま相続というのに比べれば、形式上改易の上で相続と
いうのは重いのは確かだが、家臣以下の組織を残した上で旧領の一部を拝領という形を取っており、
越前家の実質が引き継がれる形での処分である以上、「名目上の改易」と考えざるを得ないでしょう。
439日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:17:58
吉宗が山ほど家臣連れて将軍家相続したおかげで
紀州藩は一時新規採用とか盛んになったのかな…
440日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:42:36
>>439
次男三男、分家が大喜び

ぐらいで充分じゃないかな。
つか吉宗ってそんなに引き連れてったか?
441日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:55:14
>>438
主旨は了解した。
けどね・・・例として挙げた3つのうち「名目上の改易」と言えるのは、
黒田騒動の処分だけだろうな。
そもそも「改易されていない」というレスへの反論から始まったもので、
いつのまにか「名目的か」「実質的か」って話にすり替わっちゃったんだけど、
「名目的」と言うには、あまりにも失うものが大きかったんじゃないのか。
石高の半減とそれに伴う家臣のリストラとか収入減なんて話じゃなくって、
「越前家」を「越前家」たらしめてきた家格を失った。
官位、行列の武具、城中席次、江戸藩邸・・・いづれも並みの大名級に落ちぶれた。
なぜそこまで?・・・って綱吉の真意を考えた時、ある意味廃藩よりも恐ろしい底意が
透かし見えてくるんだよね。
ストレートに減封にせず、あえていったん除封する。「改易」処分にことさら意味を持たせている。
だから「名ばかり」の改易とは言えないと違うか。
・・・てか、俺もしつこいなァ。
442日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:59:25
200人くらいつれていってるぽい
443日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:04:57
>441
もともと、大名の領地は「将軍個人」から「大名個人」に与えられるものだという建前
だから、本来は「一旦除封」というものでもないんだと思うけどね。
444日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:34:19
↑戦国時代までは・・・ね。
幕藩体制下では、特に将軍「家」と○○「家」との関係でしょ。
大名家の中の主従関係におても・・・
属人的な部分は薄くなっていく。。。
445日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:37:08
>444
将軍や大名の代替わりごとに判物/朱印状が更新されていますよ。
これは、「家」と「家」であればあり得ない話です。
446日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:43:12
形式的、儀式的に・・・ね。
人品骨柄を判断して、「更新や〜めた」はしないだろ。
家臣も主君個人より主家へのロイヤリティが高かったんと違うか。
黒田騒動の栗山大膳なんて、いい例だろうなあ。
447日本@名無史さん:2008/05/27(火) 15:37:24
>>441
>ストレートに減封にせず、あえていったん除封する。「改易」処分にことさら意味を持たせている。

だから逆に「名ばかりの改易でしかない」と言えるわけで。
448日本@名無史さん:2008/05/27(火) 17:43:31
>>444
幕府が安定しても将軍代替わり事に全ての大名に血判つきの誓詞を
提出させたんだから、将軍個人に対する忠誠心を求めたんじゃない?
449日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:14:24
ありゃ、まだこのネタやってたんだ。
>>1からスレチ認定を受けないようにほどほどにしよう――と
粘着ってることに気兼ねしつつ・・・

>>448
たしかにね。代替誓詞は将軍宣下以前に提出されたっていうから、
厳密には、「将軍個人」ではなく「徳川宗家当主個人」宛てなんだろうが。
でも、それは学者の議論っつうもんだな。
実体的には、代替わりがあっても変わらぬ将軍家への忠誠を誓わせるモン。
「家宣公は尊敬していたから、御子家継様は良いとして、紀州の山猿、吉宗なんか糞喰らえッ!」
ってなことにならないようにね。
が・・・実際ほとんどの大名は、そして将軍もお互い顔も知らない関係だった。
つまり単なる儀式だな。
てか、徳川宗家当主個人と大名個人の誓約に基づいてるからって言うならさァ、
なにも越前家の忠直、綱昌に限らず、改易にしろ何の処分にしろ、
すべては藩主個人への制裁ってことになる。
ことさら越前家への処分が「名目的」だと言い張る論拠にはならないな。



450日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:33:51
>>441
そりゃそうだ
家というよりは、家=藩=地方政府って事なのだと思う
だから、家を統べる王(殿様)が代わると当然判が変わるので全て更改って事なのでせう
451日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:56:42
>449
> なにも越前家の忠直、綱昌に限らず、改易にしろ何の処分にしろ、
> すべては藩主個人への制裁ってことになる。
もちろんそうだよ?
「家」に対しての処分は、跡目を相違なく仰せ付けられるか、領分を減らした上で与えるか、
それとも全く認めないかのどれかになるだろうね。それは別に越前家に限ったことじゃない。

いずれにせよ、「一旦取り上げるが、すぐに与える」というのが「形式だけでなく実質的にも
取り上げられたんだ」と主張する意義がわからんね。しつこいようだが、黒田家は騒動で
「一旦改易の上再度領地を与える」という処分を受けているが、だからといって「黒田は忠之
の代で一旦絶えた後、新規に家を立てているから、初代は忠之だ」という話には意味がない
でしょう。

越前家が特別扱いかどうかというのは、「そのまま取り潰し」でもおかしくない状況で減封
ですまされたというのが、特異かどうかで判断すべきだと思うけどね。
452日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:04:29
>450

それでは、「将軍代替わり」は説明できても「大名家の代替わり」は説明できないね。
そもそも領地の判物や朱印状は「将軍個人の名前」で「大名個人宛」に出されるもの。
「家」あてじゃないからこそ双方の代替わりごとに改めて発給される。

御三家の格式の一つに「領分封与の判物がない」というのがあるのも、そういう「代替
わりで更新されるものではない」という意味合いでしょう。
453日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:30:04
>>1
お赦しあれ。引き続き粘着します。
>>451
俺はまず越前家には同情している。
だって、そうだろう。秀忠・家光時代の外様雄藩取り潰しが一番の宿題だった時代に、
黒田騒動(こりゃ恰好の取り潰しネタだよ)が起きて、でも結果的には本領安堵された。
対して、越前家・・・ホントかどうか知らないが「制外の家」なんだろ。
綱昌と忠之の行状を比べてさァ、「制外の家」?のはずなのに一方は改易されたうえ、減封され、
家格を失い、半知された。
でらおかしいよなァ・・・ちゃうか?
454日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:36:42
松平越前入道春嶽
455大膳:2008/05/28(水) 00:36:55
>>453
割り込み失礼します。

黒田騒動についての処分は、当時の幕府首脳陣の意見を家光が採った為で
家光個人としては大変不満だったらしく、騒動後、黒田忠之は数年位、家光から
口をきいてもらえなかったと何かで読んだ事があります。
越前本家はなまじ力を持ち過ぎた為に、あの数々の処分を受けたのではないでしょうか?
親類でも害のない一大名家としての位置付けを押し付けられて・・・
456日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:01:01
黒田を改易すると、九州のパワーバランスが狂うから、幕府
は潰さなかった。
越前松平は徳川家の鬼っ子的存在。
佐和山に井伊直政を据えたのも、越前を封じる為だという
話もある。
457日本@名無史さん:2008/05/28(水) 14:30:11
>>453
ちゃうな。

でも最終取り潰しにはならない越前家。
それこそが「制外の家」なんだよ。
458日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:37:43
加賀前田家が反乱を起こした時には越前松平家と支藩糸魚川藩が挟み撃ちにする計画です。
その間に小浜・敦賀・高田など譜代の援軍が続々と到着し前田を殲滅します。
459日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:44:38
二万石の糸魚川藩なぞ、半日で壊滅するであろう
460日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:57:05
前田家家老の本多某が内部から切り崩します
461日本@名無史さん:2008/05/28(水) 19:09:11
前田藩筆頭家老の本多安房守政重は戦がへた
462日本@名無史さん:2008/05/29(木) 06:34:32
羽柴筑前という名跡は前田家が受け継いでいるの?
463日本@名無史さん:2008/05/29(木) 11:15:12
筑前守を名乗らせろと黒田家からクレームがついた
464日本@名無史さん:2008/05/29(木) 15:02:27
「水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、徳川の血筋を残す
 ために天皇側につくように定められ、将軍を出さないよう決められていた
 との考えもある」
と井沢さんなどが言ってますが、ホント?

三つ葉葵にも征夷大将軍(三葉表葵)、「尾張三つ葵」(二葉表葵)、
「紀州三つ葵」(一葉表葵)、「水戸三つ葵」(三葉裏葵)、
と若干の違いがある。

なんてまことしやかに書かれていることもあるんですが、見たことないんですけど
そんな紋

エライ人、教えてください
465日本@名無史さん:2008/05/29(木) 15:34:16
井沢のデンパ理論に害されたお前がおかしい
466日本@名無史さん:2008/05/29(木) 15:37:17
葵紋の話は本当だろ。
将軍家においても代によって葵紋は微妙に異なる。
467日本@名無史さん:2008/05/29(木) 16:47:20
将軍家だけでなく各家においても時代により微妙に異なるのは本当
しかし表葉裏葉云々は根拠の無い俗説
見てきたようなウソを書く本やサイトも多いから注意しような
468日本@名無史さん:2008/05/29(木) 17:05:04
表葉裏葉に関しては
三つ葉葵と御三家という風に、3という数がたまたま一致したためささやかれた
のでしょうね
周知のように尾紀水が御三家として定着するのは江戸中期以降ですし、
御家門を勘定に入れると、この説は全く成り立たなくなります
469日本@名無史さん:2008/05/29(木) 19:38:08
結果からものごとを眺めると、井上さんのような穿ち過ぎの見方も出てくるの
でしょうが、水戸の勤皇は光圀にはじまり、その光圀の勤皇は伯父の尾張義直
の影響が大でありましたから、この説も俗説と言うより、思い込みと言わざる
を得ません。
現に尾張は青松葉事件で数名の家臣を粛清し、戊辰戦争では朝廷側に立っています
また、尾張も越前も宗家存続に努力しています。
その尾張義直が勤皇思想を持ったのは、宗家への対抗心と学問好きによるもの
でしょうね。
まあ義直次代の勤皇というのは幕藩体制と矛盾してませんから。
470日本@名無史さん:2008/05/29(木) 20:26:45
>>467
これもその一例ですかね?
自分は下記で始めてその話を聞きました

1997年、東京国立博物館
特別展図録「日本のかたな」

出品解説(p341)より、

342、梨地葵鉄線花文蒔絵刀架、愛知 徳川美術館

 「尾張徳川家の刀架で(中略)三つ葉葵紋は将軍家、紀伊、尾張、水戸と
 それぞれ葉の表裏の数が異なり、この刀架けの葵紋はその点がきちっと
 表現されている。すなわち三枚の葉のうち二枚が裏となる。」
471日本@名無史さん:2008/05/29(木) 21:28:35
>469
>まあ義直次代の勤皇というのは幕藩体制と矛盾してませんから。

「王命により催されること」の遺訓の本意とされる「承久の乱のようなことが起きたときは、
身内をひいきして天命に背くようなことをしないように」というのが義直の意見でなければ
そうですね。


>470

正式な紋は当然三枚とも表ですが、刀架けや手箱に散らしてある紋には何枚かの葉を
裏にしたものも結構見かけます。飾り的に用いる葵紋の葉を裏にするのは、将軍家を
憚ってのことでしょうね。裏にする葉の枚数については意識して家ごとに決めていたのか
否かはわかりませんが。というか、尾張藩の物に二枚が裏の物があると言うことは
決めていなかった証拠ではないかと。
472468:2008/05/29(木) 21:58:01
まず何をもって「裏葉」とするのか、定義が無いですね
本来裏なら葉脈なし、ということになるのでしょうか

梨地葵鉄線花文蒔絵刀架は、徳川美術館発行『尾張の殿様物語』48ページに
宗春のものとして写真が出ているので確認しました
確かに葵の一様だけ黒ずんでいるものがあり、恐らくそれを「裏」と解釈した
のでしょう。「裏だ」と言われれば成る程なと思います。
*「日本のかたな」では「二枚が裏となる」とあるそうですが「二枚が表」の
誤植でしょうね

しかし全ての葵がそうなのではなく、中にはすべて金(表)のものもあり、
また黒いと見える葉も、その濃度はまちまちです
葵以外の花の装飾でも、同じように金と黒が混じっています
ので、恐らく金がはげたのではないかと思われます

先ほども言いましたように、表裏で区別するのでは、将軍家と三家のみの問題
となり、会津や越前などはどうなるのか、ということになります
確かに会津の葉脈の表現は独特ですが、これも家綱、綱吉、家宣のものと近い

ちなみに表葉裏葉というのは天野信景の『塩尻』に見える話で、「家康の命に
よって定められた」とか。
家康の没時には「御三家」という概念すらないので、俗説であることは言うまでも
ありません。
さらに奥村得義『金城温古録』ではこれに加えて
「将軍家は表葉三枚、左巻きの葵巴で葉脈は十九か七つ、御三家は各々右巻き
の葵巴で葉脈の数は十七」とあります。
これまた現存するものを見れば事実と異なること、一目瞭然ですね。
473468:2008/05/29(木) 22:07:23
>>471
すみません。言葉が足りませんでした。
義直の考える勤皇とは倒幕と言う意味は無かったのではないか。

承久の乱のようなことが起きたときは、
身内をひいきして天命に背くようなことをしないように

というのは確かに義直の「遺志」として扱われてますが、しかし時代による
発送の制限から、幕藩制の否定は無いと思います。
何より彼は「神君の子」として高いプライドがありましたから。
倒幕時ですら「次は毛利幕府になる」という意識があったくらいですから、
恐らく馬の合わない家光が天命にそむくことあれば、家光を討つことに躊躇
することなく、家光の遺児かもしくは自分、あるいは他の徳川を新しい将軍
に立てる、そういう思いじゃないかと。
「建武の新政」は思い至らないのではないかと
そういう意味です。スミマセン
474日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:25:58
>>472
>>まず何をもって「裏葉」とするのか、定義が無いですね
家紋で「裏葵」とは葉脈無しのもの
http://e-mon.co.jp/kamon/kamon01.html

色の違いは装飾あるいは時代による退色・変色でしょう
家康愛用とされる葵紋散辻ヶ花染小袖では三葉とも異なる色にしてます
475日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:27:10
http://homepage3.nifty.com/ksatake/
大御所  徳川先の将軍  丸39葉三葉葵巴変 家康、秀忠、家斉の3人
将軍  徳川将軍  丸39葉三葉葵巴変 家康〜慶喜の15人
大納言(西丸)  徳川後継者  丸39葉三葉葵巴変 秀忠、家光、家宣、家基、家慶、家定など

尾張家  徳川  丸63葉三葉葵巴 家督も同じ尾張葵、替えは六つ葵
紀伊家  徳川  丸39葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵
水戸家  徳川  丸51葉三葉葵巴 家督も同じ、替えは六つ葵
御三卿  徳川  丸39葉三葉葵巴変 田安、一橋、清水の3家

越前家  松平越前守  丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
津山家  越前松平越後守  丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
会津家  松平肥後守  丸57葉三葉河骨巴 家督も、六つ葵・角九曜
高松家  水戸松平讃岐守  丸51葉三葉葵巴 家督も、六つ葵
松江家  越前松平出羽守  丸39葉三葉葵巴 家督も、六つ葵・三鐶39葉三葉葵巴
前橋家  越前松平大和守  丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐
浜田家  越智松平右近将監  丸39葉三葉葵巴 当主のみ許し、通常は松平桐
高須家  尾張松平摂津守 菊輪丸 39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵

西条家  紀伊松平左京大夫 平隅切 39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
守山家  水戸松平大学頭 平隅切 39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
府中家  水戸松平播磨守 平隅切 39葉三葉葵巴 当主のみ、替えは六つ葵
476日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:29:15
筑前守は前田優先
日立の助も紀州優先
てか水戸使用なし
477日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:39:20
>>239
越前家や会津家から将軍候補は少しでもなったことはないのだろうか?
加賀から候補にはなっているのに

なってないだろ。お美代の方がひとり期待してみただけ
478日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:42:28
常陸介
479日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:49:34
大御所  徳川先の将軍  丸39葉三葉葵巴変 家康、秀忠、家斉の3人

家重は入らないのか。。。
480日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:50:46
常陸介は、あれだな、頼宣が常陸にいたからだな
481日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:51:26
将軍出せなくても会津と越前は幕末に頑張っただろ。方向は違ってもそれぞれ可愛いよ。
482日本@名無史さん:2008/05/29(木) 23:16:52
会津は元は譜代大名だったから将軍候補にはならないんじゃない?
483日本@名無史さん:2008/05/29(木) 23:28:48
水戸藩は御三家筆頭としてずっと在府で将軍家を警守していたわけですから、将軍候補にしてもおかしくなかった
484日本@名無史さん:2008/05/29(木) 23:37:23
将軍候補はその時代時代で異なるでしょうが、水戸は一度も考慮されてません
485日本@名無史さん:2008/05/29(木) 23:42:21
>484
八代の時には、形だけとはいえ綱條も候補に上がっていますね。
486日本@名無史さん:2008/05/29(木) 23:56:15
>483〜485
三家筆頭についてのツッコミは?
487日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:16:55
>485
考慮と書きました
あなたの仰るとおり、まさに形式で、パワーバランスを考えた上でのエントリー
というか、尾に引導をわたす役割を根回しされていたとしか。。。

>486
多分
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1129124863/601-700
609〜625のやりとりから引っ張ってきたネタでしょう
488日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:20:33
>487
意味がわからないけど、「形式」というなら尾張も水戸と同じく「形だけ」の候補
ですよ?実際には、事前の段階で両方とも落とされているわけですから。
489日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:35:50
う〜ん、書きようが悪かったかなあ。スミマセン
尾張は前段階で考慮には入っていたでしょう?
家宣の時は吉通が第一候補で紀州はどうか知りません
家継の時は天英院と月光院がそれぞれ尾と紀を推していたわけで
しかし水戸は考慮されてませんよね
記憶違いだったらごめんなさい
490日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:50:34
>489
綱條の場合は、むしろ年齢と一揆の方が問題になって候補から外されたと
いうのが実態でしょう。
491日本@名無史さん:2008/05/30(金) 01:00:25
>490
年齢や資質以前に家格として水戸は最初から候補ではないのでは?
というのが繰り返しになりますが、私の言いたかった事です
ただそうでない、という考えもあるとわかりました
恐らくこの話は結論が出ないでしょう
ありがとうです
492日本@名無史さん:2008/05/30(金) 01:28:45
食べすぎで死んでしまった尾張藩主って誰でしたっけ?
493日本@名無史さん:2008/05/30(金) 03:39:38
>492
尾張綱誠
494日本@名無史さん:2008/05/30(金) 03:49:49
尾張って、軍勢を率いて攻め上ってきたことあったよね。
家綱が死にかけた時。
「将軍一大事に、江戸の治安を守るのだ」
とか言って。
将軍死んだら、そのまま武力制圧するつもりだったんじゃね?
で、保科正之に追い払われた。
495日本@名無史さん:2008/05/30(金) 04:26:48
それは寡聞にして知りませんが、
家光の時はありました。家綱が生まれる前のことです
「大樹公にまだお子無し」
として「江戸の治安を守る」と言ったのは尾張義直
もちろん府内には入れませんでしたけれど
「尾張殿に叛心あり」
と、その後ずいぶん警戒されました

元来生真面目な義直とわがままな家光はそりが合わなかったそうです
叔父甥とはいえ、ほぼ同年代
もしかしたら野心があったのかもしれません
496日本@名無史さん:2008/05/30(金) 09:43:39
その家綱の後嗣として、徳川綱豊、館林藩主徳川綱吉
そして酒井忠清が推す有栖川宮幸仁親王以外に、高須の松平義行(家光の外孫)が挙げられていたのは真ですか?
ウィキに書いてあったのですが、ソースも明記されず、匿名の編集
先の葵紋の件といい、
ウィキもグダグダですね
497日本@名無史さん:2008/05/30(金) 10:32:42
>>496
「ぼくのかんがえたせんごくぶしょう」まで混ざってたところに何期待してんだか。
498496:2008/05/30(金) 12:42:58
私の書き方が悪かったかな。いや別に期待しちゃいませんがね
コピペすると

延宝年間には、松平越後家の後嗣候補、
徳川将軍家家綱の後継候補に挙がる。

とある。将軍はともかく、越後ならないとは言い切れない。
偽なら偽で、どこから出た話なのかが知りたいんです
499日本@名無史さん:2008/05/30(金) 15:14:09
氷見大蔵や小栗美作の子がか?
500日本@名無史さん:2008/05/30(金) 20:21:27
三家とは
将軍家・尾張・紀州

水戸は格下だった
501日本@名無史さん:2008/05/30(金) 22:18:09
尾張の義直は家光と不仲なのに、どうして、千代姫がお腹にいる頃から
女子だったら尾張に嫁がせる、という約束をしてたんでしょうか?
502日本@名無史さん:2008/05/30(金) 22:47:45
知らんけど
不仲だからじゃないの
503日本@名無史さん:2008/05/30(金) 23:33:40
>500
それは尾張宗春の強がりですな。実際には「三家」という呼ばれ方をするように
なった時期には、すでに「主君である将軍家」と「家臣である三家」には越えがた
い壁ができていた。
ある程度並列に語ることができたのは、秀忠がまだ世子だった時期限定だが、
このときでも既に明確な格差がある。(頼房は元服前)。
504日本@名無史さん:2008/05/30(金) 23:36:41
>>498
>>499
”松平義行”が

越後松平家(越後騒動で改易謹慎処分。後継者なし)の名跡継ぎ候補になったことがある。
でもそっちは越前松平家の血統が名跡継承した。

次に


(成立する確率はともかく、つまり競馬で言うなら穴や大穴として、あくまで選択肢の一つとして)
将軍候補になったことがある。


ということですよね?
「母親が家光の娘」なので、つまり家光の孫。
充分、当時は「候補として挙げる(あくまで挙げるだけだけど)」ことはできますね。
505日本@名無史さん:2008/05/30(金) 23:50:28
>491
「水戸家に継承権がない」というのは俗説であって、「そうでない、という考えもある」
というレベルの話ではないですよ。

> 年齢や資質以前に家格として水戸は最初から候補ではないのでは?
家格として失格であれば、「形式上とりあえず候補に」ということ自体があり得ないと
いう話になりますね。
少なくとも吉宗の発言として「門地を言えば尾張殿、年齢を言えば水戸殿」と他の二
家を立てている以上、「家格として継承権がない」という事にはなりません。無論、
同レベルの候補が尾紀両家にいれば、水戸家が後回しにされる可能性は高いでし
ょうけど。
で、最初から候補に挙がっていなかったという点では、尾張継友も同じ。
吉宗を誰が推していたかというのははっきりしないようですが、当時三家の首座だっ
た水戸綱條は「年齢や一揆の問題」、尾張継友も尾張家自体のごたごたに加えて、
家督継承時の失態などいろいろ問題があったわけで、「紀伊吉宗が無難」という結論
に、後付で「世代がどうこう」と理屈をつけたというのが実態でしょう。
506日本@名無史さん:2008/05/31(土) 01:02:52
>>505
禿同
御三家を将軍家、尾張家、紀伊家と見立てるのは「柳営婦女伝双」あたりがソースかもね。
ウィキもその説に乗っかって書いているから、なおさら怪しい。
綱吉時代になると「実紀」の記述から、三家が尾紀水であることがはっきりしている。
水戸家が将軍家を嗣げないなんて史料からは読み取れんだろうな。

松平義行・・・「御当代記」あたりから名が出たのかな?
酒井下馬将軍が家綱の遺児を孕んでいたお丸が無事出産するまでのツナギとして有栖川宮を担ぎ、
もし流産したら、松平義行を後継にする考えだったとかいう話。。。
これ・・・尾張綱誠の読み違えと見る向きもある。
てか、尾張家をまず嗣がないと、無理っぽい。
てかてか・・・しょせん女系だし。有力と見るのはどうせ千代姫の子だからでしょ。
507日本@名無史さん:2008/05/31(土) 04:10:58
>最初から候補に挙がっていなかったという点では、尾張継友も同じ

どこからそういう言葉が出てくるのかまったくわかりません
綱條が将軍候補から脱落したのは年齢、資質、家格のいずれが主か(そして
いずれが俗説か)は議論の分かれるところでしょうが
(まあ、年齢が主で他は「後付」なんでしょうけれども)
継友が候補に挙がっていなかったなら吉宗の将軍継時の尾張藩の動揺はなかっ
たはずですよね

それとも「最初から〜なかった」というのは「最初は候補に上がっていなかっ
た」と言う意味なのでしょうか
それなら理解できます。ただその「最初」をいつにおくかによりますけれど
その伝でいくなら吉宗も最初は候補に挙がっていなかったことになるのでは?
508日本@名無史さん:2008/05/31(土) 13:48:45
>>505のレスは、
「最初から水戸が除外なら、尾張だって・・・」という文意なんだろうと思うけど、
たしかに水戸も尾張も初めから除外は、あり得ないだろうな。
当時、御三家の序列は水・紀・尾で、綱條だって有資格者の一人だっだはず。
でも子供の次が高齢じゃあ・・・なんともね。「宝永の新法」でケチつけちゃってる上に、
世子吉孚に先立たれているのも痛かった。
吉通・五郎太の急死をめぐる相続の際の尾張のゴタゴタは、実は紀伊でも同様にあったんだが、
継友の場合は、吉宗と違って相続自体が「新家立て」扱いにされちゃったから。
しかも千代姫の孫と言っても、家康から見れば、綱條、吉宗より一代遠くなっちゃうし。
頼みの綱は正室の叔母にあたる天英院なのだろうが、このオバサン、月光院同様、
尾張派なのか紀伊派なのか、いろんな説があってはっきりしないんだよね。
509日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:02:05
>>506
>女系だし

鎌倉将軍という重大な先例があるので。
510日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:17:56
>>509
で・・・源氏はどうなった?
換骨奪胎されちゃったよなあ。
その轍を踏まないように、徳川将軍家はしたワケだろうね。

てか、家督相続の概念が江戸時代とそれ以前とでは、ずいぶん変わっちゃってるし。
女系を避ける真意は、外戚が権力を持つことを嫌うからでしょ。
前田の例がそうだけど、
光高の将軍家との血縁よりも利常の存在に目を向けるべきだろうね。
彼は幕府から要注意人物として終始マークされていた。
気まぐれな家光が何考えてか知らないけど、幕府は前田家からの
入嗣など、露も考えていなかったと思うな。
511日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:30:37
506さん、ありがとうございます
「御当代記」ですか。当たってみます

>これ・・・尾張綱誠の読み違えと見る向きもある

ですよねえ。普通はそう考えますよね
まあ綱誠にせよ家光の外孫ですから、単に名前が挙がったかもしれない、
レベルなんでしょうね
512日本@名無史さん:2008/05/31(土) 15:03:41
綱誠でなく義行だったら、なにより親父の光友が納得しないだろうな
ま、綱誠義行いずれにせよ、名前があがっただけというも眉唾だけど
513日本@名無史さん:2008/05/31(土) 23:25:04
将軍職継承権は何家にあるのではなく、単純に「徳川」姓を名乗れる
者全員にあると考えるべきでは?
だから当然、水戸家を含む御三家はもちろん、駿河徳川家、甲府徳川家、
館林徳川家、後の御三卿に将軍職継承権がある。
反対に将軍実子(及び弟)でも「徳川」姓を名乗れなかった保科正之、
松平清武などは将軍職継承権はなかったと。
514日本@名無史さん:2008/05/31(土) 23:42:11
>>513
つまり天皇家における源氏みたいなものだね

>>505
確かに水戸家に継承権が無いとはどこにも書いてないが
同様に「ある」とも書いてない
水戸家に継承権あるとするのは同時代の人間の発言じゃない
吉宗の発言は水戸との正治的取引が濃厚で、尾紀に水を加えた発言で水戸に
恩を売った(あるいは恩に答えた)という解釈もできる
というより吉宗が本当にそういったのかどうかわからないではないの
吉宗の発言を根拠にするなら天英院の
「家宣の遺志は吉宗」
も同等に取り上げなきゃ
そしてまた「家康に親等が近い」という解釈もとらなきゃ矛盾するよ
でも家宣の遺志なんてのはまったくのでたらめでしょう?
それに「水戸に継承権(家格として)はない」という説も現に存在しているよ
歴史では「こう」と言い切れないことのいかに多いことか

>>506
>継友の場合は、吉宗と違って相続自体が「新家立て」扱いにされちゃった
これまた奇怪な論ですな
どこに書いてあるのか教えて
実記じゃあだめだよ、勝者(つまり紀州)の言い分だから
宗春→宗勝の場合はそういえるが、それ以前の相続はいくら将軍家といえど
そんなことはできないはず

515514:2008/05/31(土) 23:48:45
御三家に継承権があるとは書いてない
というのを言い忘れてた
大元三家が血のスペアであるというのは家康の頃は現実的
(誰がついでも自分の子)だけど
時代が下ると現実的ではなくなるよね
だから駿河や甲府、館林、それに御三卿が立てれた

こういうのは明文化したルールがあるわけじゃあなくて、
漠然としたものがあって、そのつどそのつど基準はまちまちだった
それを後からいかにも統一したルールがあるみたいに書いているだけ
とするならば
水戸は将軍位を求められる家ではなかった
という解釈も成り立つわけだよね
もちろんそうでないという解釈も成り立つ
516日本@名無史さん:2008/06/01(日) 00:05:41
ええと、「徳川」を名乗れたということは潜在的に宗家継承権があった
これでいいんじゃないですか?
水戸だけはずすのは強引な気がします
というよりはずされる理由がわかりません
517日本@名無史さん:2008/06/01(日) 00:34:33
駿河,甲府,館林は,徳川ではなく,松平を名乗っていた説もあるようなのですが?
518日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:03:59
それはありません。御連枝筆頭の駿河藩主の駿府忠長は徳川です
519日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:04:09
家綱の後継に御三家ではなく、綱吉。
綱吉の後継に御三家ではなく、家宣が選ばれているように
家によって継承権の有無があるように思えないのだが。
本当に家康以来、家格によって将軍継承権が決められていたのなら、
将軍の吉宗とは言え、東照大権現以来のの格式を御三卿創立
によって、勝手に変えられないと思われ。
あくまでも将軍の意思により、徳川姓の者から後継者を選んだ
と見るのが妥当でしょ。(色々、抗争があったとしても最終的には
綱吉は家綱が養子として、家宣は綱吉が養子として、吉宗は
家宣の遺命として将軍に選ばれた)
520日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:41:34
まあね、御三家に将軍継承権がある・・・なんて幕府の明文規定はないさ。
しかしいつの世も慣習法はある。「しきたり」みたいなもんだわな。
御三家がひと括りで特別の扱いを受けてきたのは事実。
その中で水戸だけ継承権がないと言い張るのなら、根拠を示す責任は否定する側にあるだろう。

八代将軍をめぐって紀伊と水戸の間に談合があったとかなかったとかは関係ないね。
水戸に継承権がないのなら、吉宗が綱條を薦めること自体「ありえねー」ってことになる。
・・・が、このやり取りは室鳩巣が書き残しているんだな。
尾張の正系は五郎太で尽きたようなもの、叔父に遡る継友は新家も同様、
だから尾張に遠慮はいらねーと綱條が言ったという話もね。

それだけじゃなくってさ、「水戸藩党争始末」では、藤井紋太夫を光圀が手討ちにしたのは、
紋太夫が綱條を綱吉の世嗣にしようと画策していたからだとされている。
水戸に継承権がないって言うなら、これも「ありえねー」

こうした書述は、継承権があるとは書いてはないが、いずれもそれを前提した話だろよ。



521日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:59:23
今現在言い切れるのは御三家の中で石高、官位共に紀州分家の水戸は明らかに格下という事だけで
継承権がない迄は言い切れないよな。
ただ、慶喜が水戸からダイレクトに継承出来ず、一橋経由で将軍継嗣候補になったという事は当時から
少なくても水戸から将軍になるのは著しく不利といった意識はあったと思う。
522日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:07:51
>>521
それは,水戸家だからではなく,慶喜が将軍家と血統が離れた存在という要素だからではないか。
だから,擬似的に将軍家に血統が近づく一橋家に入れたのではないか。
御三卿の一橋家が紀州に負けているのだから。
523日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:11:09
徳川斉昭の野心内容にもよるかと
最初は将軍など考えずにただコネクションを強くし影響力の増大を狙っているだけだった
かもしれないし
524日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:13:51
どうも水戸家→副将軍→将軍継承権なし
という俗説が広く信じられているみたいですね
恐らくそれが水戸をはずしたがる人たちの根拠でしょう

14代継承問題では尾水ともにほとんど話題に出ていません
もしこの時代だけを切り取れば
「尾張は継承権が無い」
という珍説も出てくるわけで
やはりトータルで見なアカンでしょうね。反省

それにしてもツナエダ公のセリフは自分も呼んだけれども
ちょっと強引と言うか、おもねっているというか
まあ勝者がはっきり見えていたからこその発言に思えてしかたありません
紀州の正統も綱教で途絶えたわけですからね
525日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:16:03
水戸家は天下の副将軍、すなわち御三家筆頭でありましが
526日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:16:32
宗春と吉宗は軍事衝突の可能性は全くなかったのだろうか?
アレだけの事していたら、他の時代だったら普通に戦になる気がするが
527日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:19:46
宗春サンが巻狩の計画をしていたらしい
528日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:26:36
将軍家の継承権者は,当初は将軍の兄弟等の近親者(甲府,館林,駿河),そして時代が経ると御三家,御三卿だけでしょう。
そして他家(外様,譜代,親藩でも松平姓)に養子にいった者には継承権はなかったのでしょう。
529日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:29:12
>>524
綱條のおもねり・・・たしかにそう思うな。
天英院は、あきらに家宣正室という公的立場から、後継が吉宗に決まった事実を
本人に伝える役回りを果たしただけって印象が濃い。
家宣の意志云々は、新井白石の「折たく柴の記」とも矛盾するしね。
本心は姪っこの旦那、継友に嗣がせたかったかも。。。

ただ、家綱→綱吉の例もある紀伊家の兄から弟への継承と違って、
尾張の場合は甥から叔父・・・
吉通から直に継友なら良かったが、五郎太を介しては・・・ねえ。
対抗馬がいる場合は、明らかに不利になるだろうね。
530日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:29:17
吉宗は、最悪尾張藩の決起もありうると見ていた。
勢州桑名の松平下総守を帝鑑間席から溜間詰格に昇格させ、将軍吉宗と連絡をとりやすいようにしていた。
また、諸大名組合長藤堂和泉守を徳川先鋒に起用している
531日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:32:05
幕府が本気に宗春討伐に出たら、尾張藩はひとたまりもないよ。
しかし幕府が討伐軍を出すのは島原の乱以来、ないし権現様が
創立した御三家の筆頭格の当主を討伐するには何かと問題ある。
宗春は吉宗が本気で自分を潰さないと踏んでいたからこそあのような
行動が出来たのであろう。
しかし、実際は吉宗の方が数段大人でいずれは勝手に相手がこけるの
を確信していたので無理せず待っていたと言うことだろう。
家光なら討伐軍を出していたのだろうけど。
532日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:33:15
衝突なら義直の方がよっぽどあったと思うけどな、あれを穏便に追い返さなければ戦国の世再びだった

頼宣といい大権現の息子というプライドがあったのか、それとも「4代将軍」or「4代将軍の父」の座を
狙っていたのか
533日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:34:36
>また、諸大名組合長藤堂和泉守を徳川先鋒に起用している

ここについて詳しく
534日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:36:48
いざ尾張が決起したとしても味方に付く諸侯なんているのか?
幕末には遠すぎ、大阪の役も昔の時代に
535日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:43:21
当然、紀州は幕府に味方するだろうから、東は幕府軍、西は
紀州軍に挟むうちで尾張はTHE ENDだな。
536日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:48:22
義直の時も、宗春の時も既に幕府に反感を持っていた豊臣系大名は改易か
婚を通じて飼い猫にされていたからなぁ
一方で、幕末のような尊皇ムードもまだまだ、雄藩も出来上がっていない。
あて言うなら、浅野家に近い諸侯じゃないだろうか?あの時代に幕府に反感を持っていたのは?
紀州・吉宗は上杉家を通じて吉良側だったし

義直のときは何とも言えん>幕府に反感有る諸侯
537日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:14:19
尾張義勝+高須兄弟
538日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:40:10
義直の時は頼宣に相談しているな。どこまで本当かわからないけれど
義直としては武士の意地を通すだけで、討ち死に覚悟だったんだけれど、
頼宣が「立つからには勝たねばなりません。自分も立ちます」
なんて言うから逆にひいちゃったんだけど
もちろん尾紀のだけでは勝てない。勝てないけれど数ヶ月負けずに踏ん張れば
日よっている他の大名が何割か味方する(もちろんこちらからも工作する)
そういう腹積もりだったんだろう
謹厳実直なだけの義直と違って、南龍公は肝が据わっている
家光の時代には外様はすでに牙を抜かれていて、決起できるほどの力
を持っていたのが皮肉にも身内の尾、紀、駿、越くらいになっていたんだなあ

吉宗は兵は動かす必要も無かったし、動かせなかったと思う
金がかかりすぎるし、兵も錬れていない
頻繁に行った鷹狩が軍事訓練だったとしても、それがまた不評で、逆に士気を
低下させちゃってたし
宗春は吉宗のようなバランス感覚ないから、家中も纏まっていなかった
宗春は何より人心掌握とう点で吉宗を見習って、おのが理想をこつこつとやって
ゆけばよかったんだよな
先代が黒字を残し、なまじ豊かな土地だけに、苦労をせずにやりたいことをやれた
それがマイナスになった
やはり吉宗にしろ鷹山にしろ、逆境に鍛えられたものにはとうていかなわないよね
でも俺はそんな甘ちゃんの宗春が好きだ
539日本@名無史さん:2008/06/01(日) 04:50:55
あなたの傍に、危険な【成りすまし】はいませんか?
【成りすまし】とは、偽名を名乗る在日朝鮮人の事です。

日本に60万人も居る朝鮮人は、日本の社会を破壊する事に快感を覚える民族です。
その犯罪志向性から本名を名乗らず、偽名を使って日本人に成りすまして犯罪を犯しているのです。
朝鮮人は戦後、駅前の一等地に住まう人々を襲い、強姦し、殺し、土地を占領してパチンコ屋、サラ金屋を立てました。
駅前があのような惨状を呈しているのはこういった経緯の為です。警察は敗戦で壊滅していました。

戦後、朝鮮人は余りに大々的に犯罪を犯しまくったが為に、
朝鮮人である事が暴露されると、犯罪者であると告白しているも同然と言う状況になってしまっており、
此れが為に朝鮮人は、偽名を使い出し日本人に成りすましました。

社会を害する違法賭博のパチンコ、サラ金、派遣業(奴隷商)で富豪となって日本経済を支配しています。
又、外国人でありながら「国民の為」と定める生活保護を、日本人よりも優先して受け取り、
小平市では年金を払っていなかった在日に対して年金の支給を決議しました。
しかし、これらを隠そうとするマスコミによって、これらは殆ど知られされていません。
在日が、戦略的にマスコミに縁故主義で多数の同胞を送り込んで、
スポンサー(パチサラCM)、記者、社員として内外から放送を支配して彼らの悪事を隠しているからです。
テレビや新聞の自虐的報道は成りすましウィルスによる症状なのです。

【成りすましの巣窟】
パチンコ サラ金 派遣業 TBS 暴力団 朝日新聞 読売新聞 産経新聞 宗教団体(カルトだけではありません) 芸能プロダクション
自民、公明、社民党、民主党

李慶子容疑者  →朝日新聞が真実を曲げるとこうなる→  山縣慶容疑者

李初枝容疑者  →朝鮮工作員が記事を書くとこうなる→  清水初枝容疑者

朴哲浩容疑者  →朝日新聞が日本人差別するとこうなる→  新井哲浩容疑
540日本@名無史さん:2008/06/01(日) 10:57:16
>>536
赤穂事件に関係なく、尾張は芸州浅野本家と二重三重に婚を通じていたから、
尾張の与党に、ってなことも。
特に当時の藩主浅野吉長は宗春同様、郭通いが頻繁だったしね。
けど、この吉長は宗春に蟄居を申し渡す時に上使の一人にされている。
幕府もよくよく考えてる。
後の可能性は?
吉原での遊興が過ぎて幕府に咎められた姫路藩主榊原政岑や松江藩主松平宗衍らか?
どっちにしてもリアルじゃないな。
541日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:26:35
水戸が35万石に高直ししたのは井伊より下が気に入らなかったから?
542日本@名無史さん:2008/06/01(日) 12:42:56
>>541
むしろ甲府家を意識していたと思う。
綱吉が将軍になり、徳松を西の丸に入れた延宝8年に、まるでその埋め合わせみたいな形で
甲府綱豊に10万石加増し、35万石にしていたから。
官位も甲府は、元禄3年に早くも権中納言に昇っているし、綱條が中納言になれたのはその15年後で、
忸怩たる思いがあったと思う。
543日本@名無史さん:2008/06/01(日) 12:47:33
綱條は別に光圀と違って熱心な綱豊擁立派じゃなかったから、
光圀が死んだ翌年に早速、甲府を意識した高直しに取り掛かったんだと思う。
544日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:34:50
水戸の高直しって、見栄っ張りみたいに言われているけど、本当はどうなのかな?
自腹を切って分け与えていた頼隆、頼貞の計4万石を返してもらって、
二人には代わりに幕府から封地をあてがってもらったんではないのか?
これに新田開発分の3万石を上乗せして計7万石増やしたとしたら、
少なくても4万石は事実上、幕府から加増されたようなもんなんじゃないのか?
545日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:08:30
>>1読んで思ったけど、将軍家も大変だな
546日本@名無史さん:2008/06/02(月) 02:03:35
>>540
料亭政治のように、
実は遊郭で天下を取り替える策謀が、、、
547日本@名無史さん:2008/06/02(月) 02:09:53
紀州は当初まったく期待されてなかったのは一目瞭然だな
和歌山なんて統治困難な辺境だし乱が起こっても急に出てこれない
本気で大事にする気があるんなら近江か摂津あたりに置いたはず
548日本@名無史さん:2008/06/02(月) 03:43:14
いちおー大阪防衛のための配備ですがな
あと大阪から逃げるときもw
ここを押さえないと船が大阪湾に入れませんがな
549日本@名無史さん:2008/06/02(月) 12:51:04
陸は尾張、海は紀伊
駿府より移される時に、秀忠から特に頼まれていましたね
後付けとみるむきもありますが、それで揉めなかったということは
当時から要地と見られていたのでは
それに治めにくい土地を任せたのも、信頼のあらわれでしょう
大和大納言秀長のように
もし嫌がらせだったら、困るのは幕府自身のはず
治安乱れても、神君の子を改易などはもちろん、注意指導もできませんから
550日本@名無史さん:2008/06/02(月) 12:57:31
私は、保科氏か結城氏を肥後に移すべきだったと思っています。
551日本@名無史さん:2008/06/02(月) 13:39:55
>>547
一門をあまり京都に近すぎる要所に置いたら、逆に将軍家に対して危険という考えも
552日本@名無史さん:2008/06/02(月) 17:29:29
紀伊は四国への睨みという点でも重要。
553日本@名無史さん:2008/06/02(月) 17:55:45
尾張とその一族、仲の良い藩の石高

・尾張藩宗家 61万石
 梁川松平   3万石
 高須藩     3万石

・浅野広島藩  42万石
  三次藩    5万石

計 114万石

たとえこの二つが結託して刃向かったとしても幕府400万石の前には敵わないな
まぁ大阪の陣の豊臣家よりは石高だけで言えば上だけど
554視点論点:2008/06/02(月) 17:58:44
視点論点
555日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:47:56
>>540
尾州に雲州、さらに芸州に播州姫路。
御三家筆頭に親藩、外様の大藩に徳川四天王といわれる譜代の名門が加わるなんて、
吉宗包囲網としては壮観じゃないか。
宗春が蟄居を命じられた二年後に、榊原政岑も隠居させられ、越後高田に飛ばされたそうだ。
甲府から大和郡山に飛ばされた柳沢吉保の子(綱吉の胤?)松平吉里も郭でよく遊んでいたというから、
吉宗打倒の挙兵!とまでは飛躍しなくても、お互い顔を合わせて何やら謀議していた可能性はなきにしもあらず。
556日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:54:00
宗春の養女と婚を通じてた上杉の事も仲間に入れてあげてください
557日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:54:42
>547
「最初」は水戸で、その後は>549にあるとおり駿府に入っている。
義直は家康に城を建てて貰ったけど、頼宣が貰ったのは三家の初代が家康と一緒に
住んでいた「家康自身の城」。
どちらが期待されていたかというのは明瞭ですね。
558日本@名無史さん:2008/06/02(月) 23:32:25
関白近衛家久の妹は尾張継友の正室。
家久の長男内前の正室は、尾張宗春の娘。
そして、基凞、家凞、家久の近衛三代を呪っていた霊元法皇は
吉宗と仲が良かった。

これも・・・キナ臭いぞお。
559日本@名無史さん:2008/06/02(月) 23:44:22
>>556
上杉はバリバリ、紀州側でしょ
560日本@名無史さん:2008/06/02(月) 23:56:26
一見いっぱいいそうで、実は誰もいない宗春の味方。

郭で仲良く遊んだ大名たちも、遊び友達のために家を潰すほど馬鹿じゃない。
娘の嫁ぎ先や嫁の実家だからってさあ、
欲しいのはあんたの金で、野望じゃない!ってお公家の声も聞こえてきそう。

561日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:31:42
宗春君、カワイソス
562日本@名無史さん:2008/06/03(火) 02:27:59
まあ風俗遊びする友とは
人生は語れねえということか
563日本@名無史さん:2008/06/03(火) 06:26:31
>>557
当然尾張の方が重要
駿河なんて最前線に立ち得ない国だし石高も低い
安全地帯だからこそ家康も隠居地にしただけ
逆に尾張は西国に対する防衛線として絶対はずせない国
与えた城の規模も名古屋と駿府じゃ段違い、もちろん和歌山とも大違い
564日本@名無史さん:2008/06/03(火) 14:52:56
>>563
「箱根を背後にした江戸の最終防衛ライン」、それが駿河です。

565日本@名無史さん:2008/06/03(火) 15:16:51
まあ義直と頼宣、どちらが重要視されていたかは、立場により、解釈により、
当然異なりますな
あまりこだわると、これまたそこにこだわったお万の方のように、神君に叱ら
れますな
義直頼宣(というよりその家臣たち)も張り合ったりしましたが、
兄弟融和して兄秀忠を守り立てよという神君の願いを無にしてはなりませぬ
尾紀は対等でよろしいではございませぬか
尾の方が石高、実高をはるかに上回ってはおりますが
566日本@名無史さん:2008/06/03(火) 18:23:35
慶喜は名君だと思う

ただ慶喜が将軍になったから毛利島津の連合軍に負けたんだと思う。

15代に松平慶永(春岳)や徳川家達などの宗家に近い血縁者

がなっていれば、旗本や譜代大名も真剣に闘い

勝ったと思う。

慶喜は

あまりに宗家と血縁が遠い・・・。
567連投:2008/06/03(火) 18:31:08
自分的には徳川家達の父の徳川慶頼(松平慶永の兄弟)が適任だったのにな・・・と思う。
568日本@名無史さん:2008/06/03(火) 18:59:38
>>566-567
確かに家茂と慶喜はほぼ他人だからね
斉民や斉裕の子供はどうかな?従兄だし
569日本@名無史さん:2008/06/03(火) 19:17:48
蜂須賀茂韶でいいだろ
家茂と同じ年だし
570日本@名無史さん:2008/06/03(火) 20:43:15
253 日曜8時の名無しさん [sage] Date:2008/06/01(日) 21:34:42.38  ID:68Utx1M3 Be:
    >>241
    ドラマ内では何の説明もなかったが、祖父家斉が健在の頃、家慶・家定を
    廃して前田家の犬千代(家斉の孫)を将軍に擁立しようとする一派が家定
    毒殺を図っていたため、家斉のいる西の丸に招かれた時には家定はいつも
    毒を盛られぬよう食べ物に手をつけなかったという説があるから、たぶん
    それを指しているのではないかと。
571日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:59:03
いいかげんやめよ
いくら将軍の娘が産んだ子でも、
しょせん前田の倅が将軍家を継ぐ可能性なんてゼロ
572日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:04:42
2chで、マジレスしてもな。w
573日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:13:08
ドラマ板、時代劇板、歴史難民板の勘違いが
闖入しているのは、ココですか?
574日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:16:56
>>566 >>567 賛成
14代将軍を決めるときの、南紀派VS一橋派と同じ争点ですね!
南紀派井伊直弼などが将軍家に血統が近い人物(14代家茂は13代家定の従弟)が
将軍継嗣にふさわしいとの主張でしたね。
慶喜は、一橋家当主なれど水戸系で現将軍家からは血統が遠い。
当時徳川氏を名乗れる人物で誰が妥当でしょうか?
尾張、紀伊、水戸、田安、一橋(慶喜)、清水(空家)を見渡すと血縁的には、
田安慶頼です。なぜ、そうならなかったのでしょうか?
575日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:34:30
家定のおじさんじゃないですか。
家定が死んだときまだ31歳かな。
でも、将軍のおじさんではね。順序が逆。
家治の後、一橋治済が継がず、息子の豊千代に継がせたのと同じじゃないの。
576574です:2008/06/04(水) 00:21:08
世代の順序ですね! 説得力ありますね!
豊千代(のちの11代家斉)は、確か10代家治の従弟(治済)の子でしたね。
577日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:56:32
>>576
家治の場合、もし初めから子がいなくて、ストレートに治済だったら、
それもありかなあ、って思うんだけど、
世子家基が西の丸にいて、その病死?を受けて跡を継ぐ形になったので、
治済自身では問題があった気がするんですよね。
578日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:26:48
なぜ尾張将軍が出なかったのか?
579ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2008/06/04(水) 10:24:01
一 義直の代から幕府に反発して謀反の疑いありと警戒されていたから。
一 家宣が吉通に将軍職を譲る考えに新井が反対したから。
一 宗春以降は幕府が藩主を決めようとする有様で、将軍輩出どころじゃなくなった。

こんなもんかな。
580日本@名無史さん:2008/06/04(水) 11:19:50
>>579
そんなもんでしょうねえ。
やはり一番可能性があった肝心な時期(吉通、継友時代)に、当主が不審死したり藩内がゴタゴタ。
次のチャンスは家治の後でしょうが、
この時はまだ分家の川田久保家の血筋で、尾張の血統が保たれていたけど、藩主宗睦は適齢期を
過ぎていた上、利発と言われた嫡男治休に先立たれていたし・・・
あとは一橋系、水戸系に相次いで乗っ取られ、家定、家茂が没った時の義勝、茂徳兄弟は慶喜以上に
宗家から遠くなっていたからねえ。

まあ、後にも先にもすべては吉宗にしてやられた。
581日本@名無史さん:2008/06/04(水) 11:39:50
義勝×→慶勝○ スマソ
582日本@名無史さん:2008/06/04(水) 12:34:48
特に宗睦の後継は、異常なほど、バタバタ死んでますね

長男 治休 21歳
次男 治興 21歳

実子に先立たれて、甥で高須5世の松平義柄が世子となり、徳川治行と改名
しかしその治行も35歳で死亡
治行の長男 五郎太も14歳で死亡
その後一族からの最後の養子、甥の勇丸を迎えたんだが、これも3歳で死亡
特に治行死亡から宗睦死亡までの数年間は、世子を立てては死亡の繰り返し
(その中には家斉の子も一人含まれるが)

呪われてるとしか思えません
583日本@名無史さん:2008/06/04(水) 14:39:02
尾張が最も将軍職に近づいたのは、4代家綱の後釜を選ぶとき。
綱吉がなれたのは、ほとんど堀田正俊のクーデターによるもの。
584日本@名無史さん:2008/06/04(水) 20:26:21
>尾張が最も将軍職に近づいたのは、4代家綱の後釜を選ぶとき

それって498から506あたりに書いてあった、綱誠義行のこと?
詳細熱望 ソースもね
585574です:2008/06/04(水) 22:35:16
>>577 そうでしたか!
小生はずっと10代家治の後継者は、従弟である治済でなく、なぜ豊千代(家斉)なのか、
ずっと疑問を持っていました。
当時の将軍世子家基(18歳死亡だったかな)がいたんですよね!
586日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:13:24
尾張が一番将軍職に近づいてたのは、家綱が生まれるまでの期間じゃね?
光友は家光の娘婿だし御三家筆頭だし、文句無しだったと思う
587日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:21:25
一番近づいたのは、家宣→家継の時期では?
吉通を7代にするか、将軍後見職にするかを白石に相談してますよね
白石が退けなければほぼ間違いなく実現していたし、
吉通がも少し長生していたら間違いなく8代将軍になっていたでしょう

まあ吉宗が8代になったのは、将軍家にとって誠に幸運でしたけれどね
588日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:33:09
尾張家の正室は将軍家を除けば最高でも五摂家だけど、
紀伊家はなにゆえ宮家?
589日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:39:19
江戸時代の宮家って摂家よりも格下だよ。
宮家からは大身の外様も結構嫁貰っている。
590日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:05:43
宮家にも格があるけどね。
591日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:38:02
伏見と新宮家どっちが上なんだ?
592日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:21:51
鷹司家が親藩の扱いをされたことってありませんでしたっけ?
593日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:39:35
>>592
吉井松平家ですね。
1万石ながら高い家格を誇りました。
594日本@名無史さん:2008/06/05(木) 03:02:43
鷹司松平は大廊下上の間に列し、御三家、御三卿の末席に控えていた。
中の丸本理院孝子の弟・鷹司信平が末裔として、将軍家連枝、宗直連枝として一万二千石ながら、ムネムネ連枝ぶりを発揮した
595日本@名無史さん:2008/06/05(木) 09:03:37
やっぱ尾張歴代藩主の不審死は毒殺だろうか?
596日本@名無史さん:2008/06/05(木) 11:36:25
>>595
吉通、五郎太は怪しいもんだけど、他はそうでもないんじゃない?
597日本@名無史さん:2008/06/05(木) 11:58:59
松平頼方は、紀伊中納言綱教、紀伊侍従頼職、尾張大納言五郎太、将軍家継を次々暗殺したのは明らか
598日本@名無史さん:2008/06/05(木) 17:59:57
>>597
時代劇ならばそれが一番面白がろう
599日本@名無史さん:2008/06/05(木) 18:23:01
暴れん坊将軍にそんな前日談が
600日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:44:31
吉宗は幸運の人ですね! 紀州徳川家の三男坊かなんかですから。
本来は将軍はおろか、紀州藩主にもなれない立場。
次々に兄たちが死亡し藩主になり、藩主になったら宗家に跡取りがいなくなり、
めでたく8代将軍。夢のような話しです。
601日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:54:44
尾張の殿様は、やっぱり名古屋弁を喋ってたんだろうか・・
水戸の殿様は江戸定府だから違うだろうけど。

だとしたら御三家で尾張だけ将軍に選ばれなかったのがわかる気がする
602日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:27:16
参勤交代制のため大名の世子は江戸で生育するものが多い。
しかも後期の尾張藩主は将軍家からの養子が多いため、当然江戸生まれの江戸育ちで、
ほとんどお国入りしなかった者すらいる。
603日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:52:38
11代斉温(なりはる)は、文政2年(1819)に11代将軍家斉の19男として江戸
城で誕生。文政5年に尾張家の養子となってから天保7年(1836)年21歳で死
去するまで、一度も国入りすることなく、生涯江戸で暮らしています。
ちなみに鳩が大好きで、何百と飼っていたそうな
604日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:53:24
>>601>>602
結論は尾張の殿様は名古屋弁を喋らなかっただろうということ

605日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:54:01
将軍家は別格として、尾張公より格上って実際いたのかな?
606日本@名無史さん:2008/06/05(木) 21:10:17
>>597
尾張大納言五郎太って誰?
5代藩主五郎太は藩主の座にあること3ヶ月、3歳(数え歳だから、満でいう
と2歳9ヶ月)で死去したから、官位官職はありませんでしたよ?
死後追贈されましたが、それでも従三位参議

尾、紀の極位極官は従二位権大納言ですが、「極」というのは最高位であって
当主が皆そこまでいったわけではありません。
尾張家の場合ですと三代綱誠〜八代宗勝、および十三代慶臧は従三位権中納言
どまり(7代宗春は死後権大納言を追贈されましたが)
五代五郎太は先述のとおり
十六代義宣は従三位左近衛権中将にしかなっていません
残りは権大納言になりましたが(そのうち数名は正二位、従一位になっている)
そのうち幼名が五郎太(つまり嫡統)だったのは初代義直と二代光友だけです
この両者のうち吉宗と同時代人なのは光友ですが
しかし光友が死んだのは元禄13年(1700)で、時代はまだ五代将軍綱吉の頃、
吉宗はまだ17歳でしかありませんでしたよ??
607日本@名無史さん:2008/06/05(木) 21:15:53
>>601>>604
そもそも名古屋弁は周囲の尾張弁と微妙に異なり、
江戸時代に三河武士が名古屋にやってきたので、尾張弁とミックスされてで
きたものです
ちなみに江戸弁(東京弁)も然りで、三河弁が武蔵の言葉とミックスしてで
きました

>>605
尾張徳川家は(紀伊徳川も)、大名の中の最高位です
なにせ神君の子供の家系ですから
608606:2008/06/05(木) 21:21:21
×義宣
○義宜
609日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:04:44
>>586
同時に、その頃は尾張が最も公儀から警戒されている時期でもあったよな。

>>587
その内容は白石一人が「折たく柴の記」の中で書いたこと。
吉宗が将軍になった年に、あてつけがましく世に出している。
ホントかどうかは怪しいもの。

610日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:15:15
白石一人だからといって、ウソだとも言い切れまい
なにせ家宣の尊敬する顧問だったのだから
まさか天英院の「家宣の遺志は吉宗」を本気にしているわけじゃああるまい?

吉通が生きていたらほぼ間違いなく八代将軍になっていただろうというのは
多くの歴史家が認めているところ
何せ御三家筆頭の上に、千代姫の孫という、まさに徳川のサラブレッドなん
だからね
そういったことから考慮すれば、白石の書いたことはむしろ事実に近いんじゃ
ないかい?

まあ吉通でも継友でもなく吉宗が将軍になったことは、幸いだったけどね
サラブレッドには吉宗のような配慮はのぞめなかったろうしな
611日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:37:44
光友の時も、吉通の時も、当時の幕閣に尾張を招き入れる具体的な動きをした形跡が
見受けられないんだなあ。
本人や親爺はその気満々でもね。

けど、家綱の後継ぎをどうするべえ?となった時には、酒井忠清が有栖川宮を
迂回して尾張綱誠を迎え入れようとしたらしい。
前に出た「御当代記」には綱吉の下問に稲葉正則が答える形で、そんな記述がある。
(その中には松平義行の名も確かに出ているが、「尾張中将殿」とちゃんと綱誠の名も出ている)
もちろん奥女中(お手付き中臈ではない)お丸が家綱の遺児を懐妊していたらしいことは
他にもいろんな書物(「東都紀行」や「武蔵野燭談」)に書かれてあるから、ホントっぽい話なのだが、

要はこの赤ん坊が流れたり、女子だったりした場合は、宮将軍には早々に京へお引き取り願って、
尾張を後釜にしようとしたらしいってことなんだ。
堀田以外の老中はもとより、不思議なことにこの時、紀伊や水戸がどういう態度をとったか?
はっきりしないんだよね。
(光圀が綱吉を推したとするのは、烈公時代の青山延光が「野史簒略」の中で書いているだけ、
「実紀」には堀田正俊一人が反対したことになっている)
たぶん、綱吉が不適格者とする見方が、忠清だけじゃなく、周囲に根強くあったようなんだ。
612日本@名無史さん:2008/06/05(木) 23:00:47
>>610
吉通が親爺の「悪食家」綱誠と混同されたり、実の母の本寿院のせいで悪く
言われているのは、確かに冤罪っぽい。
けど、本寿院が宝永2年に市ヶ谷中屋敷に蟄居させられた後も、吉通時代の尾張藩は
終始ゴタゴタしていた。
それと、あまり女系は重視しない方がいいと思うよ。
それより吉宗は家康の玄孫にあたる吉通と違って、曾孫だからね。
将軍の後継争いで血統論、親疎論が持ち出される時は、常に男系重視だから。

まあ、「折たく柴の記」のやり取りがデタラメとは言い切れないけど、
綱教の頃から、さかんに幕府に工作してきた紀州に対して、内輪もめと御三家筆頭の座に
やや胡坐をかいていた感じの尾張が、優位に立つ可能性は乏しかったんじゃないかな。
613日本@名無史さん:2008/06/05(木) 23:15:36
>>601
大名の正室と嫡子は原則、江戸に住むことが義務付けられていたのだから
尾張に限らず、すんなり江戸で育った嫡子が相続した所の大名は地元の
方言なんか喋らないと思うぞ。
614日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:38:53
吉宗は家継の後見職(事実上の次期将軍)を要請されたさい、
最初は断っているが、本心で将軍就任を断ったのだろうか?
615日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:43:48
ポーズだよ、ポーズ
616日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:48:23
この日を期して綱教を、頼職を、尾州吉通を、五郎太を、そして家継を、摂津屋に密輸させた青酸カリで暗殺してきたのだ。本心で断るわけがあるまい。
617日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:07:53
>>616
摂津屋・・・・そこだけ妙にリアルで、ワロタ
618日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:31:49
しかし、老中たちが「仕方ありませんね。それでは尾張殿に」
となったらどうするの?
吉宗側に一度断っても大丈夫な担保があったの?
619日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:38:24
>>616
そん中じゃあ、頼職だけが●に近く、あとは○だろなあ。
綱教は鶴姫同様、疱瘡でしょ。家継ちゃんは病死。
吉通、五郎太の死には、むしろ継友が怪しまれている。
620日本@名無史さん:2008/06/07(土) 02:02:47
紀州が将軍跡継ぎ候補になったのは
綱吉&桂昌院のおかげ

それまでは、徳川宗家が途絶えた際の御三家の序列は
千代姫の例から言って尾張が筆頭。
なのに綱吉が娘を紀州の嫡男綱教に遣ったから
紀州がいきなり浮上。
いつのまにか尾張と紀州は同等の認識に。
621日本@名無史さん:2008/06/07(土) 03:57:10
>>618
儀礼的に、台詞が棒読みだったから。
 

つか要請を出すその時点で決定してるんじゃん?
あとは形式、儀礼。
622日本@名無史さん:2008/06/07(土) 06:48:21
>>619 継友は二人も殺すほどイケイケな奴だったの?
活発でイケメン吉通と違い内気でパッとしないイメージだったが
623日本@名無史さん:2008/06/07(土) 08:55:16
>>619>>622
継友が兄と甥を暗殺したと言うのは、憶測の域を出ない
ただ五郎太が死んだ翌日、藩主になることがよほどうれしかったのか、近臣を
招き、酒宴を開いて、世人の顰蹙を買ったと『鸚鵡籠中日記』にある

吉通の暗殺が噂されるのは、その死があまりに不自然と思われたからだろう
柳生新陰流第九世を継ぎ、寒中水泳をするなど頑強で若い彼が、愛妾尾上の方
の兄守崎祐正で突然死したこと、その際守崎らは医者を呼ばずに苦しむ彼を傍
観していたこと、主の死に涙一つ流さなかったこと、そして公金を着服し、さ
らには役者と密通していたらしいことなど、まさに時代劇を地で行っているよ
うな状況であった。怪しいといえばこの兄妹が一番怪しい。

継友は最も利益を得る立場にあったが、上記のような振る舞いから、彼にとっ
ても寝耳に水の出来事だったに違いなく、あのような軽率な振る舞いをする人
が手の込んだことはできないだろう

ちなみに五郎太の死には不自然なところは無い
近代以前の乳幼児死亡率は現代の比にならないほど高いものだった
624623:2008/06/07(土) 08:57:49
兄守崎祐正で突然死した

兄守崎祐正の屋敷で突然死した

すまぬ
625日本@名無史さん:2008/06/07(土) 10:24:58
>>623
その山崎兄妹はどうなったんだあ?
626日本@名無史さん:2008/06/07(土) 10:44:09
>>623
>乳幼児の死亡率が高かった
まさに、それが狙いどころじゅないのか。仕掛けやすく果たしやすい。
3歳と言えば、奥での生活がほとんど。
そこは女の園・・・嫉妬と羨視の渦巻くところ。
この時期に限らず、将軍の子の夭折にはヤバそうなのが多いしょ。

>憶測の域を出ない
と言い切ったら、継友に限らず暗殺毒殺なんてみ〜んなそうだ。
627日本@名無史さん:2008/06/07(土) 11:58:38
水戸宗家の男系は光圀系ですか頼重系ですか?
宗家と高松で何度も養子相続しているのでわからんちんです。
628日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:06:58
水戸本家も、高松分家も
光圀の系は光圀、頼常一代限り。
629日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:08:05
>>627
わからないのは、藻前だけ。
ちゃんと調べてから、書き込め。
630日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:35:37
吉宗が八代将軍に選ばれたのは幕府にとって幸福だった。
吉通が将軍になったとしても、御三家筆頭に生まれ苦労知らずの吉通では、
若い頃に辛酸を舐めてきた吉宗ほどの活躍は期待できまい。
五郎太の死に大喜びして宴会を開いている継友は論外。
631日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:37:04
新井白石は、家宣に信頼されていることを自慢したかったのだろうから書物の内容は
あまり真に受けないほうがよい
632日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:05:55
>>630
同感です。宗春も殿様としては異色で、人間的には魅力ありますが、政治家と
しては吉宗の足もとにも及ばないですね。同じ尾張では宗勝は苦労人だから、
政治家としては宗春よりずっと上。
鷹山もそうだけど、逆境が人を育てるのでしょうね。

ただ継友の弁護を少しさせてもらえば、確かに若い彼は思慮が足りず、宴会を
しましたけれど、やはり今までの飼い殺しの生活から抜け出した喜びがそれだ
け大きかったからでしょう。
彼は弟と比べると地味ですし、吉宗との争いに敗れた「敗者」のイメージがあ
りますけれど、その18年間の治世で、着実に藩財政の建て直しを図っている。
単なる馬鹿殿ではなかったんです。名君とはいえずとも、彼なりに努力をした
弟の通温なんかは尾張が破れたことに憤慨して、酒びたりになって命を縮めま
したからね。彼と比べれば気概はないかもしれませんが、常識人であったと思
います

>>631
『折たく柴の記』に基づいた、吉通後継者最右翼説に疑問をもっていらっしゃる
ようですが、白石の言が信用できないことと、吉通が最右翼でないということ
はつながりませんよ
吉通は御三家筆頭の、しかも嫡統、さらに将軍家光の長女の孫
対して吉宗は養子相続で、藩主就任後数年という状態でしょう?
こういった当時の状況、そして白石の立場からすれば、その記述をどこまで信用
すればよいかがおわかりかと

まあ、最初に言いましたが、吉宗が将軍になったことは、日本にとってまこと
に幸運だったのですけれどね。
633632:2008/06/07(土) 13:20:27
>>623>>626
「憶測の域を出ない」というのは言い切ったわけではなく、確かな証拠がない
から「毒殺とは言い切れない」ということでしょう?
「毒殺ではない」とは書いてないと思いますよ?
まあ憶測の域をはみ出ちゃう毒殺は、下の下というべきで、結局証拠が残って
いないから毒殺ではないとは言えないのですがね

五郎太は満で言えば2歳9ヶ月で死にました
将軍家の幼児死亡もそうですけれど、奥というセキュリティの高い場所での
毒殺はやはり無理ではないでしょうか
しかも五郎太の場合、彼に死なれたら嫡子相続(この時点では尾藩の誇りの
一つだったでしょう)が途切れるという危うい状態
周囲も非常にナーバスになっていたでしょうから
もちろん暗殺ではない、とは言い切れませんけれど
ただこの時点で尾藩が将軍継嗣レースでは一歩も二歩も後退していましたし
なにより生来病弱である幼児を暗殺までして排除する必要性が、すくなくと
も紀州にはありませんから、暗殺だったとすれば尾藩内部だと思います
634日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:31:43
白石は、荻原重秀への蛇のように執念深い迫害ぶりを見ても、嫌な感じの男。
白石のいう家宣の遺言らしきものが事実としたら、それに答えた言い草のなんと鼻持ちならないことか。
俺と詮房がいるから、ガキでもバカでも大丈夫みたいな・・・

白石のいう遺言の真偽自体も「鍋松に万一の時は、尾張の五郎太か紀伊の長福丸を立て、吉通か吉宗に後見させよ」
というものだったとする説もあるんだから、???なんだよね。
おそらく天英院が持ち出した「家宣の遺言」も、まったくの捏造じゃなく、そのことが頭にあったんと違うかな。
実際に家継が危なくなった時には、吉通、五郎太は死んじゃってるから、残るは紀伊の長福丸。だけど幼将軍が逝った直後に
またまた幼児では心もとない、とかなんとかで、本来は後見役の吉宗にお鉢が回ってきた。そんな顛末も考えられる。
とはいっても、シナリオライターは別にいて、天英院の発意とは思えないがね。

どっちがホントの遺言なのか藪の中だけど、尾張だろうが紀伊だろうが、外からから入られちゃあ、
自分の思いどおりの政治ができなくなると恐れた白石の魂胆だけはバレバレだ。
635日本@名無史さん:2008/06/07(土) 14:20:20
>>632
やっぱ将軍家の相続で一番問題にあるのは、この時期はまだなんといっても権現様との親疎でしょう。
尾張の嫡統といっても、宗家との親等が遠くなってはね。
千代姫の孫(つまり外孫)云々は、曾孫対玄孫の男系重視の伝統の前には説得力が弱いと思う。

ただね。吉通も有力な候補者の一人であったことはまちがいないだろううね。
最右翼とは言い切れないでしょ・・・という程度のレスですわ。
636日本@名無史さん:2008/06/07(土) 14:30:12
>633
毒殺だとすれば、それは外部より尾張内部を疑う・・・まったく同感です。
ただ、外へのセキュリティは堅固でも、奥内部のセキュリティは中奥や表に比べて脆いんと違うかな。
奥では地縁血縁の採用が多く、党派色が剥き出しなりがちだしね。


637632:2008/06/07(土) 14:51:40
>>635
どうも色々絡んでしまった形になってスイマセン
「人は己の見たいものしか見ない」の例にもれず
やはり私は尾州に都合のよい部分だけを見聞したり、記憶してしまっているよ
うですね
そういった意味でこのスレは非常に勉強になります
トータルで考えると、確かに仰るとおりだと思いました。もっと勉強せなあかん
ようです
ありがとうございました

>>636
なるほど、そういう見方もありますね
まったく勉強になります
638日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:16:13
>>637
あなたのレスは、自戒の言葉として肝に銘じませう。
史実に近づくのは、一方だけの意見じゃなく、互いの議論の中で
初めて果たせると思う。
その意味で、こっちも勉強になります。

ちょと馴れ合いっぽくなっちゃったかなあ・・・スマソ
639日本@名無史さん:2008/06/07(土) 18:08:27
何お前等傷の舐め合いをしてるんだ?
640日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:11:29
まあ、顔も見えない言葉だけの応酬は、ともすると誤解が誤解を生み、憎しみ
をまねくからな、
フォローをしてあげるのもたまにはいいんじゃね?

>>625
すまぬ。守崎兄についてはわからぬ。尾張藩分限帳には元禄末に「馬廻り衆
100石」として載っているのだが、享保の分には載っていないのだ
おそらく追放されたんだろう
妹の方は、江戸の屋敷に幽閉されたらしい
実は彼女が生んだ娘が八代藩主宗勝の正室になっている
だからぞんざいな扱いはできず、さりとて野放しにもできなかったんだろうな
本寿院といい、この尾上の方といい、父子二代にわたって、すごい女性を側室
にしたものだ
やはり美貌だけに目を奪われてはあかんのだろうな
641日本@名無史さん:2008/06/08(日) 03:45:38
>>640
父子二代じゃなく、宗勝は綱誠にとっては、弟の川田久保家友著の子だから、
叔父−甥の関係なんだろうが・・・
守崎兄妹の話はめちゃ興味津々。

尾張に詳しそうなのを見込んで、一つ教えてけれ。
この宗勝の養父高須松平義孝は綱誠の子で宗春の兄貴に当たるはずなんだが、
宗春のヤンチャに手を焼いて、宗春を諌めるために切腹したという逸話があるんだが、
これ、ホントかいな?

642日本@名無史さん:2008/06/08(日) 03:54:58
>>640・・・スマソ
酔っ払ってよく読みもしないで書き込じまった。
綱誠−本寿院と吉通−尾上の方(?)の対比ですたわな。
ご寛恕あれ。
643日本@名無史さん:2008/06/08(日) 19:00:53
会津松平家は、御三家御三卿に次ぐ徳川一門だと認識しています。
しかし、視野を広く見聞すれば、越前家もあります。
また、徳川一門でなく譜代とはいえ井伊家は、徳川一門上位である会津松平家との格式や家格の序列などまだまだわかりません。
会津、越前、井伊の序列などを整理して教えて頂けたら有り難く思います。
644日本@名無史さん:2008/06/08(日) 20:24:48
井伊を入れるとスレタイから外れるからなぁ。
井伊を入れるのはいいのか?
645日本@名無史さん:2008/06/08(日) 20:47:22
井伊は井伊くない。
646日本@名無史さん:2008/06/08(日) 21:34:44
万千代直政は家康と繋がってるぞ、ケツの穴で。
残念ながら、家康の子は産めなかったけどな。

それはそうと、井伊直政の子の直孝は忠長派として有名だったそうだが、
家光上洛の際、本多正純の宇都宮釣り天井まがいの疑いをかけられたらしい。
647日本@名無史さん:2008/06/08(日) 21:37:10
井伊>会津>津山>越前
648日本@名無史さん:2008/06/08(日) 21:49:59
井伊>会津>越前>津山

越前→殿席:大廊下(下)
津山→殿席:大広間
649日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:28:44
>サンクス
650日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:45:02
>>646
そこで直孝家康落胤説
吊り天井まがい詳しく聞きたいな
どこか適切なスレってないだろうか
651日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:45:36
井伊は所詮は譜代
会津や越前と同列で語ってはいけない。

それをやっていいなら、外様だって混入しないといけなくなる。
652日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:58:22
『甲子夜話』によると、極位極官は次の通り
近衛中将
正四位上 井伊家
正四位下 越前松平家 会津松平家
近衛少将
従四位上 津山松平家

>>641
義孝自害の話は非常に興味深い
ただ申し訳ないが
私の持っている中にはいづれも「病死」とあります
けれど、彼の死んだ享保17年5月というのは、宗春が相続後初めて名古屋へ帰
り、そしてまた出府した時で、吉宗から詰問の使いが来た頃でもあります
だから決してありえない話ではないと
はたまたそういった噂があったかも知れませぬ
一度調べてみます
653652:2008/06/08(日) 23:02:20
651の言うとおりで、
外様で彼らより官位の高い家は
参議
正四位下 前田家(老年に及んで従三位)

島津家と伊達家は従四位上近衛中将だから津山松平家より上となる
654日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:19:45
まあ井伊は譜代の中でも別格だよね
ちなみに官位、城中の詰所以外に家格をあらわす一つである乗輿の制によると
安永年間だけど、
打揚網代の乗輿
越前松平家
腰網代でない打揚
津山松平家
打揚か腰網代
会津松平家

*打揚というのは引き戸でなく、簾をあげて乗車するタイプで
網代というのは装飾

こうしてみると、一概に会津、津山、越前の家格の高低は判断できないよな

これ以外にも大名のランク付けというのは沢山あって、ある面ではこちらの家
を上に、ある面ではかなたの家が上になっている場合があるので、
本当に大名の家格というのはやっかいだ
655日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:33:37
ふと思った
老中になれる親藩ってのはどういうアレなの?
656日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:37:47
>>652
レス、ありがとう。
自害だとしても、てか自害ならなおさら、公儀への手前、家中は秘中の秘にするだろうから、
真相は藪の中だろうね。
もっとも諌死なら、宗春にそれと知らしめる必要があるんで、どこからか洩れる。
それが密かな噂となって洩れ伝わったのかもね。

主君毒殺の疑いをかけられ、幽閉までされた女の娘が、のちに藩主の側室にまでのし上がる。
ふつうは考えられない展開に想像が逞しくなる。
つまり兄妹の犯行ではなく、背後に勢力が・・・
継友派、もしくはもっと穿って天英院派との繋がりはなかったのかね。
紀伊頼職にせよ、尾張吉通にせよ、吉宗、継友自身が預かり知らないところで、
その周辺が動いた可能性は捨てがたい。
実際紀伊の場合は側近同士の反目は凄まじかったようだし。

657日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:41:22
老中になった親藩って、誰よ?
658日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:42:18
非常事態の特例

家綱補佐の保科正之(大老に匹敵する)
老中久松松平定信(久松は準家門)
政治総裁職越前松平春嶽(大老に匹敵する)
京都守護職会津松平容保

家宣弟の清武を祖とする越智松平は譜代扱い
659日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:23
ああ誰か書いてくれてた
定信ってのは微妙なんだね血筋は将軍の直孫だけど家柄としては久松なのな
越智も譜代になるのね
サンキュー
660日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:46:59
越智松平家で幕閣に入ったものは次の通り
三代 武元 老中
四代 武寛 奏者番
五代 斉厚 寺社奉行
661日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:49:20
清武って、どんな人だったんだろうな・・・
生前、不満とかなかったのかな。
662日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:53:44
>>658
兄の定国の家ならまだしも、定信の家は本来溜之間席ですらなかった。
あとの3人はいずれも指摘の通り特別職。
一般論として、大老、老中に親藩はならない。
663658:2008/06/08(日) 23:57:47
>一般論として、大老、老中に親藩はならない
おっしゃるとおりで。幕閣=日本の政治を左右するって、現代の感覚で言うと
名誉に聞こえるかもしれないけれど、あくまで将軍の家臣、もっと言えば商家
の使用人みたいなもんですからね
皇族が首相になったのが特例中の特例だったのと同じだと思います
664日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:31:25
家来といっても大広間や帝鑑間はお客様、雁間は使用人。雁間のほうが使い易いんでしょうな
665日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:39:48
使用人について語るのはスレチで〜す。
666日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:42:52
よく大廊下下と大広間では大廊下下のほうが格が上だといわれるが?
前橋藩主松平大和守斉典は、相模湾警備を嘉され、大廊下から大広間に「昇格」した
667日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:09:20
江戸城内の詰所は以下の8箇所
大廊下、溜の間、大広間、帝観の間、柳の間、雁の間、菊の間、無席
大廊下は上部屋、下部屋があり
上部屋は御三家
下部屋は御三家子弟、家門、前田家
つまり最上級の詰所

斉典は越前庶流だから帝観の間じゃないかな?
それなら大広間は昇格だよね
大廊下というのは誤植だろう
668日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:19:18
松平斉典は川越藩主で、従四位上少将、大広間です
669日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:42:12
すまぬ。よく見たらそうだった
というより前橋も領していたけど、川越城主だったんだよな
そして大広間
大和守だったのは松平直侯で
水戸斉昭の八男
ペリー来迎寺に警備をしてたのは先代の典則(斉典)だ
ややこしいな
で詰所が大広間から大廊下下に「昇格」している
その理由が相模湾警備を賞せられたのか、はたまた烈公の子だったからなのか
よくわかりまへん
教えて、エライ人
670日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:43:29
×典則(斉典)→○典則(斉典の子)
ややこしくしてスマヌ
671日本@名無史さん:2008/06/09(月) 06:59:48
≪江戸幕府≫ ≪現在の大手企業≫
大老老中若年寄  → 本社人事部のライン(役職給料は低い)
御三家御三卿など → 地方主要都市の支社長(役職高く取締役)

いまと同じです。人事部職員が巾を利かせています
672日本@名無史さん:2008/06/09(月) 11:24:48
>>669
まあまあ、落ち着いて
代々大和守の家系で、斉典が従四位上近衛少将とすれば
これは「昇格」であり
家門で少将なら大廊下下になるのも自然だ
673日本@名無史さん:2008/06/09(月) 11:36:00
典則は眼病のため、水戸家から養子を迎えて十代で隠居している。
しかし、明治まで生き延びたので、松平大和守家は典則の血統にもどった。
病身のためか、藩主時代は官位ももらっていない。
674日本@名無史さん:2008/06/09(月) 11:50:41
>>673
一旦戻ったが(基則)次の代は養子で赤松流有馬家の血統のはず
675日本@名無史さん:2008/06/09(月) 12:43:19
みなさん博学だなあ
しかしこの家格の固定ゆえに御三家は城内では孤独だったでしょうね
原則尾紀の参勤は交互になってましたから

またそれゆえに押しかけ登城の時にも慶勝、慶篤と春嶽を各個撃破されちゃい
ましたね
斉昭はこの時どの部屋にいたんでしょうか?
676日本@名無史さん:2008/06/09(月) 12:53:07
とゆことは666にあった
>前橋藩主松平大和守斉典は、相模湾警備を嘉され、大廊下から大広間に「昇
格」した
というのは、何に書いてあったか知らんが

「川越藩主松平斉典は家斉の自分の息子を抑えて家斉の息子を世子に迎え、官位
も従四位上近衛少将となり、詰所も大広間から大廊下下へ『昇格』した」
と訂正しておk?
677日本@名無史さん:2008/06/09(月) 13:17:39
そうか斉典殿は大御所様に取り入ったのか
そういや「斉」の字もらってるもんな
678日本@名無史さん:2008/06/09(月) 13:34:26
>>676
>家斉の自分の息子を抑えて家斉の息子を世子に迎え
???
自分の息子を抑えて家斉の子を世子に迎えたってことだよね???
679日本@名無史さん:2008/06/09(月) 16:03:35
自分の息子を抑えてまで将軍の子弟を養嗣子に迎えるのは常態化していた。
川越も津山も浜田も
いずれも持参金や加増や将来の有利な転封めあて
680日本@名無史さん:2008/06/09(月) 16:36:54
いや、それはここのスレに来る人はわかっているだろうよ
つまり将軍の息子を世子に迎えたから(有利な転封目当てだけどね)、官位が
あがったのか、666のいうように「相模湾警備を嘉され、…『昇格』した」の
か、どっちなんだ?
681日本@名無史さん:2008/06/09(月) 17:29:06
そう喧嘩腰に書かなくても
相模湾警護は子の典則の時と、上の方に書いてあったじゃないですか
682日本@名無史さん:2008/06/09(月) 17:58:45
将軍の実子でも他家の養子に出れば、将軍位の相続権は無くなるの?
松平定信は家斉より嫡流に近いし、会津は秀忠の子孫
683日本@名無史さん:2008/06/09(月) 20:04:39
ヒント 皇族と臣籍降下
684日本@名無史さん:2008/06/09(月) 20:49:59
みんな格付けの話になると、盛り上がるなぁ。
685日本@名無史さん:2008/06/09(月) 21:23:22
>675

大廊下で尾張または紀州藩主が一人でぽつんと座っているという
イメージをされているのでしょうか?

実際には水戸家が定府で常に大廊下詰めでしたし、尾張紀州も
世嗣や隠居は江戸にいますから一人だけということはまず無いかと。
686日本@名無史さん:2008/06/09(月) 21:27:24
>>675 前田斉広に慰められていました
687675:2008/06/09(月) 22:24:58
いやあ、すいません
自分でもなんで孤独なイメージが浮かんだのか、記憶を整理してたら、
子供の頃読んだ『冬の派閥』の中で尾張慶勝の描写が原因だったんですよ
ただそのシーンには水戸烈公も慶篤も同席していて、慶勝が孤独を感じたのは
その性格ゆえ、という説明だったような
いずれにせよ(かなり詳しく調べて書いてはあるものの)、小説ですから、心理
描写等もフィクションですからね
それにしても子供の頃に読んだ影響は強いんだなあと感じました
688日本@名無史さん:2008/06/09(月) 23:05:06
江戸城に出仕した大名は詰め所で何するの?
同部屋の人と世間話して帰るだけ?
689日本@名無史さん:2008/06/10(火) 02:38:18
役なしの暇な人はポカーン(゚Д゚)としてます
江戸にちゃんといますよの顔見せもある
690日本@名無史さん:2008/06/10(火) 10:13:39
井伊直弼と水戸斉昭の件では

大廊下上の間
水戸斉昭、尾張慶勝、水戸慶篤
※松平慶永も参加しようとしたが、越前藩家格はは下の間であり、上の間への入室は遠慮されたいと、間部詮勝から一蹴された
691日本@名無史さん:2008/06/10(火) 12:32:51
>>687
『冬の派閥』とは懐かしい。大廊下上の間での密談。

斉昭「井伊は気に入らんが、付け届けの彦根の牛肉は好物じゃ」
慶勝「……」
斉昭「そのうち開国することになったら……」
慶勝「ご老公、本気ですか?」
斉昭「あ……いやいや、わしは攘夷を捨てたりはせんぞ。誤解なきように」

以上大意ですが、これじゃ慶勝も途方にくれますよ。

692日本@名無史さん:2008/06/10(火) 14:34:06
斉昭は癇癪持ちなうえ、大奥の女中を犯してはらませたりして評判悪く、あちこちに敵を
693日本@名無史さん:2008/06/10(火) 16:03:26
>>690-692 慶篤は会話に加わっていたの?
それこそ(゚д゚)ポカーン
じゃなかったのか?
694日本@名無史さん:2008/06/10(火) 17:27:07
開国(゚Д゚)ポカーン
695691:2008/06/10(火) 18:50:56
>小説ですから、心理描写等もフィクションです
し、会話も当然フィクションですよ。
ただし、斉昭が慶永に「ワシは攘夷の総本山で通ってきたのでそれを通すが、
貴公らは開国の時代に備えるように」(大意)と書き送っていたのは史実だし、
そこからこの場面での斉昭の会話が導き出されるわけ。
696日本@名無史さん:2008/06/10(火) 19:33:26
>>695 斉昭はやっぱすごいなぁ
それにひきかえ慶篤ときたら…
697日本@名無史さん:2008/06/10(火) 19:50:29
>>688
伺候席ではあまり多くは語れない。
懇意の表坊主の部屋でくつろぐしかない。

大名間で非常に親しくなると将軍家への反乱で談議と誤解されるので、
同席大名数名で宴を開く場合などでは親しい旗本の御使番や御先手などを
宴に招待し、交えて二心なしとして気を使わなければならなかった。
698日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:48:02
慶篤が早世していたら慶喜が水戸藩主か。
15代将軍は田安慶頼しかいないな。
699日本@名無史さん:2008/06/11(水) 18:23:51
近江牛の味噌漬けはガチで美味く諸侯献上の中でも圧倒的人気だったらしい
700日本@名無史さん:2008/06/11(水) 20:03:26
肉を公な使いものにしても無礼にならなかったんだ
701日本@名無史さん:2008/06/11(水) 21:33:16
>>699-700 当時は牛乳を飲むことさえ忌み嫌われていたのに牛肉なんて食おうとする奴いたの?
702日本@名無史さん:2008/06/11(水) 22:44:11
肉とこのスレと一体どういう関係あるんだ?
だいたい難民版並みに、小説に書かれた斉昭の一言を取り上げるアホからの流れなんだろうが、
あんなご都合主義者を持ち上げる神経がわからん。
703日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:04:31
>>702
哀公のミスチョイスだな。
病身の芸術家は病身の芸術家らしく、下手に政治的判断をしない方が良い。
門閥派の言いなりになっていれば、良いものを。
結局、水戸家は血統のオリジナリティは守ったが、
徳川家のアイデンティティを喪失した。
704日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:06:43
松平頼重はなぜ庶子として扱われた理由が釈然としない。
義直、頼宣に男子がいないのを憚ったと言うが、
そんなことをいちいち気にしなければいけないほど御三家の仲は悪かったのか?
705日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:11:21
その当時、「御三家」なんて認識は誰にもありませぬ。
706日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:23:36
水戸ネタ、うんざり!
707日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:47:30
水戸ネタばかり出していては、御三家筆頭の面目がたちゆきませぬぞ。斉脩殿
708日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:06:21
義直の男系を守るために竹腰に行った養子を呼び戻そうという考えは、
尾張家中にはなかったの?
709日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:20:11
>>704
山室恭子『黄門様と犬公方』( 文春新書)によれば
この時期、将軍家光に男子無く、万一のことあれば最も近い親族であった義直
頼宣、頼房兄弟およびその子供が将軍後継となる可能性があった*、
つまり末弟の自分が最年長の息子を持てば、将軍後継がすんなり決まらないか
もしれない、という思惑があったのではないか、としています
ただ1631年までは忠長がいたため、この説は今ひとつかな
*1634年に家光が病床に伏した際に義直が大軍を率いて江戸に向かい、家光や
幕閣に警戒された
710日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:28:06
>>708
一度臣下にくだったものを再び迎え入れるのはかなりむずかしいでしょう
田安家も同じように定信が後を継げず、一橋に乗っ取られています

また竹腰にいった勝起はすでに亡く、この睦群の代になっていたのが、更に
マイナスになったのでしょうね。この睦群も宗睦が死んだ数年後に30代の若
さでなくなっていますから、体があまり丈夫ではなかったのかもしれません
711日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:28:28
宗睦の代に子の治休、治興が死んだ後も、必死に義直の血統を守ろうとした
痕跡は、前レスで誰かが指摘済み。
でも結局宗睦は、一橋治済に懐柔され、大納言への昇進を餌に家基死後の豊千代入嗣に
同意したクチだから、その時点で一橋治国の倅を迎い入れる算段はしていないじゅあないかな。
712日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:05:15
宗睦の後継者たちは次の通りです
長男 治休 
 従三位中将 母は宗睦の正室好君で婚約者が将軍家治の娘万寿姫と最高の
 血統であり、英才の誉れも高く、領民にも慕われていましたが、安永2年
 (1773)死去。21歳
次男 治興
 従三位中将 はじめ睦篤。母は同じく好君
 兄の死後世子となるが、安永5年(1776)死去。21歳

養子 治行
 従三位宰相。はじめ松平義柄。宗睦の弟の子で、高須5代藩主。
 正室は紀伊宗将娘、従姫
 柳生新陰流12世
 寛政5年(1793)死去。34歳

養孫 五郎太
 母は従姫。寛政6年死去。14歳

養子 勇丸
 宗睦弟、勝長の子
 寛政7年死去。3歳

この後残っていたのは宗睦の兄弟で、皆年老いていたため、将軍家斉の息子
敬之助を、で、この子も早死にしたため、斉朝が養子になったというわけです
713日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:05:49
親藩で一番地味なの、どこだろ。
714日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:09:04
水戸連枝のうち、守山・府中・宍戸
715日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:28:02
>>712
よくわかりました。
尾張は必死こいてたわけだ・・・義直の血を守ろうと。
大納言昇進を餌にしてとか、幕府に後嗣決定権を握られていたとか、
そんな浅薄な講釈が陳腐に思えるほど、やはり尾張は尾張なりに血への懸命なこだわりが
あったんだね。
716日本@名無史さん:2008/06/12(木) 12:29:31
>>713
地味の定義は?
717154:2008/06/12(木) 13:41:46
地味なのはわからんが、
御連枝(御三家庶流)のなかで最もメジャーなのは高須か高松でしょうね
かたや幕末の四兄弟、かたや義公の兄そして息子
講談やドラマなどでは高松でしょうけれどね
718日本@名無史さん:2008/06/12(木) 14:42:21
一 橋 慶 喜  平     岳  大

松 平 慶 永  矢  島  健  一

徳 川 斉 昭  江  守     徹
719日本@名無史さん:2008/06/12(木) 15:45:50
高須四兄弟っていうけどさ、
家を継いだ末弟の義勇が全く無視されてるのはなぜだろう?
なにもしてないけど生きていたんだぜ。
720日本@名無史さん:2008/06/12(木) 16:22:59
>>701
常食と言うよりは、薬だな。
721日本@名無史さん:2008/06/12(木) 17:30:50
>>719
年端もいかぬ子供だったから
明治元年で九歳。しかも藩籍奉還前に家督を養子に譲ってる
高須四兄弟と称されるのは、幕末期にそれぞれの陣容である程度のポストにいて、ある程度活躍したから
及び明治に四人一緒に写真に写っているから
写真好きの長兄慶勝がいたにも関わらず、写真が残っていないということは、ほとんど人前に出なかったんだろうな
722日本@名無史さん:2008/06/12(木) 17:46:12
加えるなら、義勇の場合、兄の養いで、父の影響がないためでしょう
夭逝した武成を含め、例え御連枝とはいえ小藩の子が揃いも揃って大名になり、歴史に足跡を残したのはすごいことで
ために父義建の教育方針が注目されました
茂徳も地味ですが、徳川美術館の最近の研究では、江戸城にあってそれなりの存在感を示していたとされます
723日本@名無史さん:2008/06/12(木) 20:42:21
越前は徳川を名乗るチャンスはなかったのだろうか?
724日本@名無史さん:2008/06/12(木) 21:08:15
権現様により否決された
725日本@名無史さん:2008/06/12(木) 21:14:29
あるわけない。

家康にあれだけ嫌われてた越前松平家の祖なのに

家康は一族といえど、代々つずく監視の目は強固に構築してたはず。
726日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:26:34
徳川重倫はなぜあんなに強暴だったのだろう?
遺伝的なものか
はたまた
何かトラウマでもあったのか
727日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:39:05
>>726 分裂病気質は遺伝的要素があると思う。
幕末の松前氏もそういう親子がいたっけ
728154:2008/06/12(木) 22:47:46
ありがとうです
>幕末の松前氏
松前徳広のことですね
729日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:00:20
もし松平忠吉が長生きして嗣子がいたら

「御三家の上」みたいな感じで
尾張百万石とか領有してたのかね?
730日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:28:57
百万石まではいかなかったろうが、秀忠の同母弟だけに優遇はされたろうな
いや、2代将軍を巡るライバルだっただけに、忠長のように何らかの理由で
潰されたかもしれない
どっちとも言えませんな

もしかしたら清洲松平、常陸武田、越後松平、甲斐義直、、、と神君の子供
の家が秀康系を含めあまた残ったかもしれませんな
その場合義直、頼宣たちの石高はもっとつつましやかだったでしょうな

しかし秀忠が弟たちを潰したかもしれないわけで

3兄弟が優遇されたのは、秀忠とは親子ほど歳が違いすぎるからだと思う
秀忠にしてみれば忠輝のような脅威は感じなかったのだろう
それでも将軍位が弟の系統へ行くのを防ぐために駿河大納言家を創ったけどね
家光にとっては同年代だけに何かと衝突している
731日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:29:34
「御四家」になるんじゃないか?
忠吉は秀忠の同母弟だし、徳川を名乗ることも許されたかもしれない。
732日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:38:44
忠吉の松平は東条松平家で、その家名と家臣団を吸収するために養子に出され
た訳だから、彼一代の間は松平を名乗っただろう
そしてその息子の代に徳川になったんじゃないかな
義直は忠吉の家臣団を引き継いでいるけれど、徳川を名乗っているように
忠吉に子供ができていたとしても、義直とほぼ同年齢だっただろうしな
733日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:14:14
>>732
家臣は引き継いではいるけど、家を継いだわけじゃないんだよね。
東条松平家ではなく、あくまでも徳川の分家ってのが重要なんだと思う。
734日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:33:56
「家を継いだわけじゃない」
というのは義直のこと?
僕もそういう意味で、「家臣団は引き継いだが徳川を名乗った」と書いたのだ
けれど
忠吉の実子がもしいたら、義直のようになっていた、と書いたつもりです

忠吉も信吉も政治的な理由で松平、武田の家を継いだけれど、家康の晩年には
それらの家を存続させる必要性はもうなくなった
だから彼らに子供がいたら御三家のように徳川を名乗っていたでしょう
735日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:43:44
>>711さん!歴史通ですね! >>712も同じ人物かな!
一橋治国(一橋家世子)を知っているとは!
一橋家相続前に死亡しているので、普通の系図には載っていないことが多いですね。
736日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:54:38
松平忠直、水戸光圀、紀伊重倫。彼ら以外でもいいけど
御三家御家門で一番の暴君は誰だろう?
俺はためらいなく重ちんを推す
737日本@名無史さん:2008/06/13(金) 01:18:40
>>736
尾張宗春もエントリーさせてくれ。これでめでたく三家揃い踏み
738ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/06/13(金) 01:38:43
趣旨違いかもしれないけどあえて義直公。
739日本@名無史さん:2008/06/13(金) 01:43:21
我が会津に暴君暗君無し
740日本@名無史さん:2008/06/13(金) 02:04:14
当然、水戸斉昭だろ。
741日本@名無史さん:2008/06/13(金) 09:36:35
>>735 治国は17才で死んだが斉朝も入れると三人の男子があったわけだから家斉みたいな子沢山になる可能性があったので惜しい
742日本@名無史さん:2008/06/13(金) 09:52:29
豊臣政権が続けば家康の領地は秀忠が単独相続できたの
分割されないために秀忠のみが徳川、あとは松平・武田を名乗らせたのかな?
743日本@名無史さん:2008/06/13(金) 12:50:41
>>742
スルドイ難問www
744日本@名無史さん:2008/06/13(金) 16:06:04
猿のことだ。結城秀康と秀忠の二つに割ることはあり得ような
745日本@名無史さん:2008/06/13(金) 16:28:11
結城秀康・徳川秀忠・武田忠吉・松平忠輝
兄弟同士を競い合わせて力をそぐ方法はある


746日本@名無史さん:2008/06/13(金) 19:10:03
秀忠を陥れるデッチあげ
747日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:13:15
>>742
前半のイフはあいまいすぎて、人それぞれいかようにも答えられます
広範については上にも書きましたが、彼らが他家の名跡を継いだのは、その
兵力を手に入れるため。また徳川家自体が2つも3つも分けられるほど大き
くないためです。

だから分割できないためというのは遠からず当たっています
けれども分割できなかったのは何より家康自身だったんですね

松平忠吉はすでに述べたように東条松平家を継ぎ
武田信吉は見てお分かりの通り武田家を
松平忠輝は長沢松平家を継ぎました

彼らの名乗った松平は徳川の世に庶子が名乗ったり、大名に分け与えた松平と
似て非なるものです

家康の末子三人が徳川を名乗れたのは、他家を吸収する必要がなくなったこと
そして徳川自体が充分大きくなって、「分割しても大丈夫」だからです
748日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:22:30
次にイフに関しての僕なりの考えは
豊臣政権が続くということは、秀吉や秀長ではなく、次世代の秀次、秀保、秀勝
たちが政権を担っていると考えまして
その頃は家康の子達も充分大きくなっていますから、うまくあおれば家中は三つにも
四つにも割れるかもしれません
ただ義直頼宣などが「家康の子」であることを何よりも誇りに思い、徳川の社稷を
保つために耐えがたきを耐えていたことを考えれば、忠吉、信吉も英邁の噂が高かったですから、自分たちから割って出ることはない
でしょう
外部に敵がいれば内部は団結しやすいもの
豊臣政権における徳川は、徳川姓権における島津のポジションになったのではないか
と思います。
まあ、イフにイフを重ねた、他愛ない空想ですが

次に秀吉存命中に家康が死去した場合
こちらでは秀康、秀忠もまだ幼いですから、秀吉の狙いは彼らではなく、彼らを
担ぐ家臣たちとなるかも
優秀な人材はヘッドハンティングしたり、大きな領土を与えるよう支持したりし
てましたから、徳川にも同じような揺さぶりをかけてきたのではないかと

逆に家康としては突然死で無い限り、宗主権をなるべく強固にして死んでゆく
でしょう。強大な家臣や、秀忠忠吉以外の子供の粛清をしたかもしれません
あくまで推測、というより、そうなると面白いな、くらいのものですが
749日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:17:54
秀吉より家康が先に逝ったとしても、秀吉はもっと爺さんで、秀頼は秀忠より幼い。
悠長には構えられないって。
関ヶ原で東軍についた諸将も徳川家っていうより、家康の先物買いだ。
家康亡きあと、いくら徳川一族が団結しても・・・つか、焦りまくりの秀吉は、
難クセつけて、いくさ仕掛けるだろうな。
750日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:21:07
豊臣政権イフイフはスレチですぞ
751日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:27:40
>>750
あ! そうだった。
面白そうなんで、ついつい乗っかちゃった。
スレチどころか、難民版指定されそう。
752日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:30:10
話を戻そう
忠輝 彼はやたら長生きしましたよね
なんと92歳で、時に天和3年。五代将軍綱吉の治世
徳川松平親藩あまたある中、恐らく彼が一番の長命だと思うのだけど、
他にいるのかなあ

ぱっと思いつくのが「暴れん坊殿様」重倫の84歳
753日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:36:50
吉宗の父光貞も80歳となかなかの長寿。
吉宗の頑強さは父譲りのものだろう。
754日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:38:44
俺は、ずっと引っかかってるのが、
「御両典」なんだよなあ。
前スレで誰かが、綱重・綱吉は松平姓だったんじゃあ?ってレスって、
一蹴されちゃったけど、俺もたしか「松平左馬頭、右馬頭」って記述、
どこかで読んだ記憶があるんだなあ。
諸説ある中で最近は松平説が有力って、ネットで見たこともあるが、
こっちはソースがさだかじゃないし・・・
詳しい人、教えてくれ・・・たしかにそういう文献が。
755日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:51:20
それは僕も非常に気になっていた
いずれも「最近の研究では」みたいな語りで、いつごろ、誰が(どこが)、
何を根拠に主張したのかがさっぱりわかんないのですよ
僕も是非知りたい

ところでこれはもっと前からの素朴な疑問
御両典の名の由来は何?
756日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:04:06
>御両典
綱重が左馬頭、綱吉が右馬頭で、馬寮の唐名が典厩だからです
御三卿と同じネーミングですね

松平の名乗りについてはわかりませぬ
ゴメンなさい
757日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:39:28
水戸の頼房も当初は松平だったと聞いたことがある。
会津の保科正之は徳川を固辞したどころか松平すら遠慮した。
758日本@名無史さん:2008/06/14(土) 16:26:59
>>745
結城領を含めて260万石を65万石ずつに分割相続。ただし、それぞれの領内に5万石ずつ豊臣直轄領を設定して実質60
万石の大名を4家にする。
もしくは均等割りではなく最も豊臣家に親近感を持つ結城家を頭一つ優遇してもいいか。
念のため秀忠家はもっと田舎へ転封させてやろう。伊達家を潰してその跡にでも移してやるか。
759日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:47:03
徳川姓を名乗るには,既得権?のある御三家以外は,将軍の裁可か命令が必要ではなかろうか
それなら,幕府の公式な記録にあるんじゃない。
760日本@名無史さん:2008/06/14(土) 23:57:06
中途半端な報告ですまぬが「徳川実紀」によると、承応2年の任官時には
松平姓だった模様。(実紀三冊91ページ)
なので徳川姓を名乗るとしたら、これ以降。おそらく寛文元年の参議任官時
じゃないかと思う。
761日本@名無史さん:2008/06/15(日) 00:05:06
豊臣政権が家康死後もまだ続いてたら、
頼宣あたりが豊臣側官僚(三成あたり)と結託して、
秀忠〜家光が継いでいた徳川宗家乗っ取りを画策したはず。

由比正雪の乱の時も紀州頼宣は限りなく黒に近かったが、
御三家ゆえに咎め無しだったようだし。

この後孫の吉宗が血が途絶え宗家の跡を継ぎ将軍になったというのは、
何かの因縁かと思ってしまう。

もしかしたら紀州家には頼宣時代から
「隙あらば主家を乗っ取れ」みたいな家訓があったのかもしれない。
762901:2008/06/15(日) 00:24:59
>>760
レス、サンクス。
俺、どんなに将軍家と血縁が濃くても、松平姓に下った者は将軍になる有資格者じゃないって
確信していた手前、気になっていたんだ。
綱吉が5代候補になった時点では、すでに徳川姓だったってワケかな。

「常憲院殿実紀」になると、世嗣決定前の綱豊は「甲府宰相」「甲府中納言」としか
表記されてないから、明らかに徳川姓なのだろうが。
763901:2008/06/15(日) 01:16:01
>>761
吉宗以前にも、徳松が死んだ翌年に紀伊綱教の簾中となった鶴姫がまだ幼いことから、
綱教を二ノ丸に迎え入れ、成長するまで江戸城内に住まわせようとしたらしい。

綱吉も桂昌院、お伝の方も徳松を失ったばかりで鶴姫を嫁がせるのを寂しがったせい
もあるが、この件で牧野成貞に御三家へ根回しさせてた真意は、
その後も男子誕生がなかった場合には、そのまま綱教を養子にする算段だったようで、
紀州の宗家乗っ取りは6代で果たせたかもしれない。
764日本@名無史さん:2008/06/15(日) 06:34:40
>>760
ありがとうです
実紀にしても御家譜などの史料にしても、主筋にあたる人のことを書くので
いちいち松平某、徳川某と書かないのですよね
だから「称松平」とか「称徳川」などと書いていないと、後世の僕らには
名乗りがわからない
まあ将軍公子だから徳川だったろう、とか三家家督だから徳川だったろうと
いう類推で表記していたところに、松平とあって、その後徳川とないから
松平綱吉なのだ、という理屈なんでしょうか

765日本@名無史さん:2008/06/15(日) 08:22:14
>>761
確かに頼宣には袖の下から鎧が見え隠れしているな
兄義直が家光と対立し、名古屋篭城して意地のために死のうとしたときにも、
「兵を起こすなら勝たねばなりません」
として自分もともにたつことをほのめかし、逆に義直に引かれている

まあ、これは義直を思いとどまらせるためにぶったハッタリなのだろうけれど
家康の遺領駿府と駿府城を引き継いだ身だけに、思うところはあったのかも
766日本@名無史さん:2008/06/15(日) 10:45:19
一度松平に墜ちたら徳川名乗れないって事ですか?
それとも御三家連枝の松平と越前や他の松平では臣下か親族の区別があるんですか?
御三家庶子で松平→御三家等の当主→将軍は割とあるケースだよね。
767日本@名無史さん:2008/06/15(日) 10:47:05
11代家斉の時代の例だと、世子家慶以外の息子はたとえ江戸城にとどまっていても、
御三家御三卿の養子に出ない限り「松平」姓のまま。

将軍の男子は松平姓が基本で、世子と御三家御三卿の養子のみが徳川姓を名乗れる。
768日本@名無史さん:2008/06/15(日) 11:38:06
越前に養子に行ったから徳川名乗れなかった慶永
白川に養子に行ったから徳川、将軍継承権無くした定信。
この松平は将軍や御三家庶子の松平と違って臣下の松平。
769901:2008/06/15(日) 12:15:00
御三卿は将軍家の家族扱いなので初めから徳川姓でしょう。
独立前の将軍の息子は「松平」とは初耳。
綱重、綱吉が寛文元年に甲府、舘林に封じられる前まで「松平」だったという話に
通じるものなのか?

「松平」のままでは将軍職を継げないのは事実だろう。
たとえ越前家でもね。
御三家連枝なら、まず本家の尾紀水を継がないと、本家の当主を頭越しにしてなんて
考えられない。
770日本@名無史さん:2008/06/15(日) 13:08:51
家継は世良田を名乗ってなかったっけ?
771日本@名無史さん:2008/06/15(日) 13:18:10
じじじいいじじ次郎三郎
772日本@名無史さん:2008/06/15(日) 13:32:25
世良田鍋松
773日本@名無史さん:2008/06/15(日) 13:40:36
後の征夷大将軍徳川家継である


>>769
>御三家連枝なら、まず本家の尾紀水を継がないと、本家の当主を頭越しにしてなんて
考えられない

そこで話は前レスの
松平義行が家綱後継候補になったこともある
に戻るんだけど
僕も奇妙に思ったんだよね
この時まだ尾世子であり兄の綱誠がいるのに、と思って
774日本@名無史さん:2008/06/15(日) 14:51:36
家康公第四子忠吉公は「世良田下野守」、尾張家三代綱誠公は元服時に「世良
田」、徳川家継公は御幼名時に「世良田鍋松」と先祖の名字である世良田姓を
称されています

「東照宮 ものしり知識 『世良田氏の子孫はどこに』」より
775901:2008/06/15(日) 14:57:38
だからね、それは「御当代記」の中で・・・
まず綱吉について「天下を治めさせ給ふべきご器量なし」と断じたうえで、
「徳松様は御幼少にして厳有院殿の御甥、同じ御甥なら甲府殿(綱豊)なるべし。松平摂津守殿(義行)は
これも御甥なれども、千代様の御子なれば、甲府殿をさしおきてはなりがたし・・・」
っていった記述があることから、松平義行の名が出てきただけで、
そのあと、「有栖川宮をしばらく将軍に仰ぎ奉ったあと、尾張中将(綱誠)か摂津守へ天下をゆずらせ申し・・・」
ってなってるから、必ずしも最初に義行ありき、じゃなかったはず。
776日本@名無史さん:2008/06/15(日) 15:04:57
当時丑年生まれは他姓を名乗る風習が有ったと言われ、丑年生まれの家継は徳
川、松平に代わる姓、徳川家先祖の姓である「世良田」と称したと言われています
777901:2008/06/15(日) 15:33:17
>>776
おおー、勉強になるっス!
778日本@名無史さん:2008/06/15(日) 16:03:10
当時越前系や18松平等、将軍、御三家の松平と比べて劣等松平な所から将軍の近親という事で
優等松平や徳川姓に養子行った例は無いよね。
徳川姓の庶子松平は男系でいくら離れていても徳川ランクアップ、場合によっては将軍相続もありの優等松平。
越前や会津、久松系等は例え将軍実子でも一度墜ちたら臣下確定徳川復帰あぼんの劣等松平って事でオッケー?
779901:2008/06/15(日) 16:46:13
優等も下等も、松平では将軍相続は絶対無理!
本家を相続した御三家連枝以外はね。
780日本@名無史さん:2008/06/15(日) 16:55:56
越前系松平は「劣等松平」だから、そのまた支流の糸魚川や母里の松平家は、
江戸前期の段階でアカの他人から養子を迎えている。

糸魚川は旗本の久松松平家から、母里は外様小大名の新庄家から。
もっとも、この二例以外で越前系諸家が家康の非男系から養子を迎えた例は、
幕末も押し迫った文久期に有馬家から川越藩に養子が入った例があるのみで、
非常にレアなケースではあるが。
781日本@名無史さん:2008/06/15(日) 17:22:31
まあ,松平姓は同族出身の系譜という近しさはあるが,家臣扱いの面も大きいということでしょう。
松平姓は,大々名とはいえ,将軍に臣下の礼をとる外様大名にも与えて,擬似的な一門待遇にしているのだから。
782日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:24:51
つまり、天皇家に例えると
将軍公子は皇族
三家三卿など、称徳川の家は宮家
家門連枝の松平は賜姓源氏
他は源氏以外の賜姓氏族
ということで
(源氏は皇族に戻れる賜姓氏族らしい。一世に限るが)
783日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:56:43
上記の家綱の後継者候補の件だが、将軍候補としては綱吉の実子の徳松と
綱吉の甥に甲府綱豊が挙げられてて、そのほかの甥に松平義行もいるとあるが、
甲府綱豊がいるのに、それをさしおいて義行を候補にはできないとあるのだから、
はじめから義行は候補から外されていると解釈できるのでは?
784901:2008/06/15(日) 20:06:04
>>783
鋭いなあ。
ふつうに読めばそうなるはずだよね。
とどのつまりは、酒井忠清は綱吉も徳松も綱豊も嫌だから、有栖川宮を介して尾張を引っ張り込もうとしていたとか思えないんだなあ。
家綱遺腹の子を慮って、いかにも家光→家綱の正系にこだわっているように見せかけてね。
でも、こんな大胆な企みが堀田正俊の一名奉書がなければ、実現一歩手前だったようなんだ。
結局、綱吉が将軍になっちゃった上に、頼みの遺腹の子も延宝8年10月に流れて、11月に徳松が西ノ丸に入り、
12月に大老を失脚した。

こんないきさつがあるから、綱吉は将軍になったのちもさすがに尾張に遠慮した。
「すえ竹の跡に其まゝたてばやし代の節々に尾張きづかふ」ってね。
785日本@名無史さん:2008/06/15(日) 21:45:49
>家門連枝の松平は賜姓源氏

家門は筆頭の越前でさえ徳川への道は無い、また連枝へ養子→御三家当主になったという例もない。
連枝は本家が絶えれば遠い血統でも御三家当主への道が開ける(高須兄弟の例あり)
786日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:23:11
紀伊連枝の伊予西条藩主松平頼雄が廃嫡された理由について――

頼雄を廃嫡した頼純が家老渥美甚五郎を手討ちにした件で、
死後、藩主の座を吉宗に攫われた紀伊頼職の側近に、渥美の親類がいたことから、
本家の相続にからめる話もあるようだが、はたまた妾の子頼致可愛さだけで、
廃嫡したのだろうか?
787776:2008/06/15(日) 22:34:22
家斉の子が松平を称していた例、続群書類従完成会の『徳川諸家系譜』で見た
記憶があったんで調べてみたら、巻二の「幕府祚胤伝」に載ってました

夭折した男子の一部に松平がついています
松平敬之助(尾張宗睦養子)、松平敦之助、、、など
ただしすべての早世男子についているわけでもなく、ここから法則性を読
みとることは難しいです
他に家重次男清水重好のところに
「松平万次郎 徳川宮内卿 清水中納言」
とありました。将軍公子で松平がついている例はこれくらいです。
「祚胤伝」の編者は後期の将軍公子は成人する前は松平だとしていたのかも
しれません。
788776:2008/06/15(日) 22:35:06
次に頼房、綱重、綱吉ですが

水戸頼房の場合
「慶長14年 正五位下称徳川」
とありますので、「祚胤伝」ではそれまで松平鶴千代であったことがうかが
われます(頼房元服は慶長16年)
もっとも「称松平」の言葉はどこにも見られませんが

綱重、綱吉の場合
綱重の項に
「承応2年8月12日、従三位右中将に叙任され、御元服。御一字(引用者注:
綱)ならびに松平の御称号を賜われ、松平左馬頭綱豊(重)と称せられる」
とありましたが、その後「称徳川」とした旨はありませんでした。
ただ子の綱豊(家宣)は寛文10年に綱重の嫡子と認められたときに「称徳川」
となっています。
ちなみに綱吉の項には「称松平」の文字はありませんでした。

と言うことは少なくとも寛文10年の時点では綱重は徳川を称していたことに
なるのですが、
綱吉に「称松平」がなかったように、将軍となった家宣だから、はじめから
「称徳川」としているのかもしれません。

と言うわけで松平綱重がいつ徳川綱重となったか、綱吉はいつ松平綱吉であっ
たのかはわからずじまいです。
789日本@名無史さん:2008/06/15(日) 23:02:12
>>787
>>788

スバスィー・・・サンクス!
良スレだな。

790日本@名無史さん:2008/06/15(日) 23:11:17
>>786
松平頼雄はキリシタンだから廃嫡されたんじゃなかったけ?
791日本@名無史さん:2008/06/15(日) 23:28:29
>>790
そりゃ、ジェームズ三木の創作じゃよ。
792日本@名無史さん:2008/06/16(月) 00:09:04
>>791
大河ね。
大河といえば,モッくんの慶喜で,一橋相続か,元服の時,「徳川と称すべ
し」と申し渡されたシーンがあったような・・・
793日本@名無史さん:2008/06/16(月) 00:16:14
大河は・・・スレチかなあ・・・
少なくとも視聴者にわかりやすいように、史実を変えてある部分は多いからなあ
794日本@名無史さん:2008/06/16(月) 00:35:17
ドラマにギッチギチの正確な考証を求めるほうがキチガイ



そして例年、NHKはそういう自称歴史通なキチガイからのクレームに悩む。
795日本@名無史さん:2008/06/16(月) 00:41:18
さっき水戸スレに誤爆してしもうたが・・・
田安宗武が家重から3年間も登城停止を命じられた表向きの理由がようわからぬ。
宗武が松平乗邑らに担がれたって理由だけでは、ただの意趣返しで大義名分がない。
一橋もトバッチリを受けたと言うが、その内容もようわからぬ。

もっと不思議なのは、宗武赦免に動いたのが月光院ってこと。
正室は近衛の娘だから、天英院ならわかるけど、もう死んじゃってるしね。
796日本@名無史さん:2008/06/16(月) 08:10:47
>>794
同意
797日本@名無史さん:2008/06/16(月) 08:38:54
>>794>>796
別にこのスレの誰も大河に「ガッチガチの考証」を云々してませんがな
そこに反応するおまいらの方がよほど気にしてるんじゃね?
大河でコレコレの例があるけど、まあドラマだから、あくまで参考にってことだよ

まあドラマではあるが
御三家庶子の七郎麿が、一橋家督を機に、徳川を称すのはもっともだけどな
798日本@名無史さん:2008/06/16(月) 09:49:03
徳川慶喜は松平昭致だったんでないか?
有栖川宮家の外孫。
799日本@名無史さん:2008/06/16(月) 09:52:35
最後の紀伊藩主徳川繁茂承も前藩主の慶福からは限りなく遠い血統。
伊予西条藩主の兄を追い越したのはなぜですか?
800日本@名無史さん:2008/06/16(月) 12:26:28
月光院は側室の方で、確か宝暦年間まで生きてたはずだから、不思議じゃないよ

宗武登城停止は、傲巌不遜の故と、どこかにあった気がする。あやふやでゴメンだけど
宗武に対する処分も乗邑罷免も、家重の報復ではない
実権は大御所吉宗にあったのだから
長きに渡る治世での行き詰まりを、乗邑におっかぶせた、
つまりトカゲの尻尾切りだったという説がある

宗武は、義直に似た、融通のきかない頑固者だったらしいから
将軍に対し傲慢にうつったのかもしれないね
801日本@名無史さん:2008/06/16(月) 13:33:22
吉宗は大御所政治はしていないという説もある。
健康不安。

宗武は学者みたいなもんで外出すら少なかった。
御三卿の持つ外出権?みたいなものを弟に譲っていたらしい。
802日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:05:16
宗武の登城停止って、いつ?何年のこと?
803日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:23:59
>>802 松平乗邑が隠居した1745年だろ
804日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:31:19
登城停止処分は、吉宗が宗武に長幼の序をわからせるためにやったとも取れる。
805日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:33:04
宗武の登城停止も、複数のスレにあったように諸説あって
期間も3年ないし4年と一定していません
さらに家重が宗武を遠ざけたのではなく、宗武が家重の顔を見るのを嫌って
引きこもってしまったと説いている人もいます
806日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:57:58
田安卿として加秩のうち1万石を没収されて崖から突き落とされた乗邑の死がショックで、ノゼローゼになってしまったんだと思います
807日本@名無史さん:2008/06/16(月) 23:10:36
いろいろ毒殺説がおおい吉宗の周りだが

頼宣(藩祖)  69歳
光貞(父)    78歳
頼純(叔父)  70歳
宗直(従兄弟) 75歳
吉宗       67歳

そこそこ長生きの家系で体は丈夫そうなのに
兄二人は病死か・・・
808日本@名無史さん:2008/06/16(月) 23:10:46
宗武は登城停止が解けた後も家重とは一切会ってないんだっけ?
よっぽど兄弟仲良くなかったんだな
809日本@名無史さん:2008/06/16(月) 23:11:52
>>807
その家系なのに家重はあのざまですが
810日本@名無史さん:2008/06/16(月) 23:18:52
大御所時代の吉宗は、家重に抱いていただろう不安とは逆に、急に影が薄くなる。
健康不安どころか、アルツハイマーじゃないか?・・・って説まで出てくる始末。

宗武の処遇は、吉宗というより、家重とその側近によって主導されたんじゃないかな。
両卿の定立は、御三家と垣根をこしらえようとした吉宗の発意によるもんだからね。
一橋まで巻き込まれたとしたら、わざわざ自分でこしらえた垣根を危うくするようなマネするかな?
家重の正系を守ろうとする勢力と、田安・一橋側とのその後の暗闘の序章じゃないかな。
つまり最初に仕掛けたのは、家重側だ。
その辺は家光の幕閣、家綱の幕閣も同じ駿河家や御両典家に同じような仕掛けをしたが・・・

よくわからんが、もし一橋の受けたトバッチリが、越前家への嫡男・二男の養子入りだとしたら、
その疑いはますます濃くなるような・・・
時期的には符合するが、事情通がいたら、教えてほしいな。
811日本@名無史さん:2008/06/17(火) 02:39:45
>>810
まぁ元々御三家もあるのに、同等クラスに子供をするのは色々難があったしね。
812日本@名無史さん:2008/06/17(火) 06:38:04
どうもはっきりしたことがわからないなあ
確かに家重派の報復人事かもしれない
家重は父や乗邑たちが思っていたよりはずっとしっかりしていたらしいし

その一方で、家重たちによるものなら、処分が中途半端すぎやしないか、と
も思ってしまう。忠輝や忠長などの例と並べるとね
まあ確かに時代が違うからかもしれないが
また顔も合わせなかったというのは宗武の方だったという説もあり、彼の学者
としての業績や吉宗の子としてのプライドからするとさもありなんとも思う

繰り返しになるがどうも手ぬるい
やはり宗武処分は家重ではなく、吉宗がやったことではなかろうか
3年ないし4年という期間も、吉宗生存の間だし。自分が生きているうちに
赦免しておかないと、という思いだったのでは

吉宗のアルツハイマー説とか
綱重、綱吉の松平説とか
今までにない説があるのは結構だけれど、みな「最近の研究では」だけで
いつ、だれが(あるいはどこが)、なにを根拠に唱えているのかわからぬ
少なくともだれが(どこが)唱えた説、くらいは言ってもらわないと、
確かめるすべも無い

813日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:06:15
まあ皆さん出典を確かめようとはしているけどね
確かに一橋治済の兄たちが他家にいってしまったのも不可解といわれれば不可
解。まるで一橋は宗尹一代限り、と言わんばかりの処置です
僕ははじめ重昌や重富は側室の子で、治済が正室の子だからだとおもっていまし
たが、事実はその逆で、重昌は正室の子なんですよね
時期的には将軍家重のはじめで、吉宗もまだ生きていた
治済のときには吉宗死後
とすると、吉宗の意思なのか
はたまた吉宗の意思にかこつけた家重の思惑なのか

むずかしいですね
814日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:16:30
結果として正室の子が黒田の養嗣子で、側室の子が将軍継嗣か
815日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:24:03
月光院が赦免に動いた
ここがカギ
月光院に頭が上がらないのは吉宗で、当然彼女も吉宗に働きかけたはず
とすればさかのぼって、処分を下したのも吉宗の意思となろう
処分が下された時だけアルツハイマーになっていた、なんてことはありえない
からね
816日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:49:13
確かに家重なら月光院没後にまた宗武をいじめることができますからねえ
817日本@名無史さん:2008/06/17(火) 11:41:00
重昌は越前に行くことが決まっていたからか於義丸なんてつけられてかわいそう
818日本@名無史さん:2008/06/17(火) 20:59:50
>812
>綱重、綱吉の松平説とか

「徳川実紀」では不足ですか。

まあ確かに一次資料とは言えないかもしれないけど、
それに近い価値はあると思うのだが。

なにより、国会図書館でweb公開されているのがよい。
早く「寛政重修諸家家譜」も公開されないものだろうか。
819日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:13:30
大名ではない、御三卿当主って、普段は何をしていたのだろう?
仕事と言えば、月に数回登城し、将軍に挨拶するぐらい?
大大名並の生活が出来、格式や序列も高く、藩政で頭を痛めなくて
良い気楽な生活を送ってそうだが。
820日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:23:10
>>818
自分は「最近の研究による、綱重・綱吉が徳川を称していなかった(綱吉に関
しては将軍就任以前)件」
について述べたつもり
そういう説を述べた人は当然実紀のみを根拠にしているわけではあるまい?
と思うのは新説を買いかぶりすぎ、期待しすぎているのだろうか

ちなみに綱重・綱吉が松平を称していた、というのは新説でもなんでもあり
ませんね。だからいちいち冒頭のように区別して書かなかったのですよ
821日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:03:48
越前家は当時完全に幕府の統制下にあった、って聞く。
相続も婚姻も幕命に依ったそうなんだが、やはり幕府の命で越前家を相続した宗矩は、
秀康五男直基の曾孫という気負いもあって、家格の再興に熱心だったようだ。
このため将軍家血筋からの養子を早くから働きかけていたそうだから、
一橋家の嫡男、それも正室の子を幕命で越前に押し込むっていう異例の処置も、
公儀の一方的な押し付けとは言い切れないだろうな。
事実、夭折した重昌のあと、さらに越前家に入った重富以降、越前家の家格はめざましく回復した。

でも、でもな、相次いで一橋家の世継ぎを、幕命で他家へ出すのは、どうみても異常。
空家にするつもりじゃあ?って勘ぐりたくなる。でなくてもひどい嫌がらせだ。
御三家との間に垣根をこしらえた大御所の意志とはどうも考えにくい。
田安は3年間(この長さも異常だよな)の登城停止で、作戦的中っていうか、
宗武が完全に萎えてしまったからな。
対して宗尹は、「将軍の子(吉宗が将軍になってからの子)は、我一人」って
気概を露わにしていたそうだから。
822日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:22:06
>>818
俺は「実紀」にそう書かれてあったと、わかっただけでも参考になった。
それまではまったく根拠曖昧だったからな。
ネットサーフィンや量販本、歴史読本の増刊号で仕入れた知識とは別モンだ。
>>766
>>787-788
のレスにも感心しきりだ。
「実紀」は編輯されたものでも、立派な史料さ。
>>820
も、それはちゃんと認めてるしな。
823日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:27:04
将軍の家族だけど、事実上の部屋住みの御三卿当主と格式は
落ちるけど、一国の主の藩主。男として生まれればどっちが
良いのかなあ。
824日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:40:15
選べるのなら,男は天下人を狙うべきでしょ。
それで,自分がダメなら息子を将軍に。
よって,御三卿当主でしょ。
825日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:40:28
その人のキャラクタにもよりますが、
やはり一国の藩主の方じゃないでしょうか
実質部屋住みというのはアイデンティティが保ちにくいですからね
ですから将軍位をめぐる争いが陰湿化したと指摘する人もいます

松平重富、重昌の件も、おっしゃるとおり一橋を一代限りとする意思があるか
もしれませんね(とすればやはり仕掛けたのは家重〈派〉かなあ)
治済がいろいろ暗躍した(らしい)のも、逆に追い詰められたゆえの恐怖から
の逆襲かもしれないという気になってきました
826日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:41:43
駿河甲府館林は松平名乗っていたという資料あった希ガスるがソースは忘れた。
827日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:46:25
駿河甲府は松平だとしても御三家に匹敵するもしくは宗家に近い分御三家より格上な松平だと思うぞ。
少なくても臣下に落ちたという意識は無かったと思う。
そうしたら越智に落ちた清武は劣等松平に復帰しただけでもラッキーなのか?
でも甲府の家宣死んだら継ぐのは誰だったんだろうね。家継生まれて居なければ清武?
828日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:57:51
>>827
同意。駿河甲府館林は,将軍の子で,しかも養子に行ったのではなく,将軍
手作りの大名だし,官位も御三家並だったから,松平と名乗っていても御三
家に意識の面では負けていなかったと思う。
829日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:20:56
そうすると三家三卿以外は徳川を名乗らなかったことになるね

ちなみに駿河家は官位が尾紀と並ぶが
御両典は三家に劣る
だから綱吉はずいぶん三家、特に光友とやりあっている
林董一『将軍の座』によれば
葵紋の使用を控えるようにとか
「尾張は傲慢である」とか言ったらしい
対して光友
「昔は私の方が官位が高かったから、そう見えたのだろう」

将軍公子もひがむほど、この時期以降の三家は別格の存在であったらしい
830日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:27:52
>>813 ごもっともな疑問(一橋治済の兄たちの件)だと思います。

大名の御三家と異なり、御三卿は大名(藩主)ではない。その辺りが影響したのではないでしょうか!

田安、一橋、清水の御三卿の成立当時(治済の兄たちが他家へ養子に行った頃)に限っては、
家治・家基などの宗家の正統が磐石だったので、
御三卿の将軍家の血のスペアとしての意義は小さく、部屋住みの御三卿世子より一国一城の主である大名養子の方が格上だとの
価値判断があったのではないでしょうか!?
831日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:30:32
いや、史料的には、御両典は甲府、館林に封じられたのちは、「姓徳川」だったんじゃなかったのか。
幕府の公式記録では、徳川姓のみ、「尾張中納言」「甲府中納言」の表記みたく姓を付けないからね。
832日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:45:00
>>831
仰るとおりです
普通はそう思うから、逆に皆どこから出た話か不思議がっているんでしょうね
しかも御両典のみならず駿河大納言も「松平だ」とする人がいる
確かに「称松平」とある史料もありますが、
だからといって、それだけでは一時期松平を名乗っていた、ということにしか
ならない
すると、僕たちが思うに、
「松平大納言」とか「松平宰相」という表記がどこかにあるのではないか
となる。それをずっと探しているのですが
実紀はどうなんでしょう?

>>830
なるほど、筋が通ってますね
更にこの時期には弟重好もおりましたからね。家重としてはライバルを増やす
必要はなかったでしょうね
833日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:52:10
駿河家は尾張に匹敵・凌ぐ事が可能だった家柄だからなぁ
834日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:53:29
とは言っても、治済の兄たちの場合は、一橋側の価値判断ではなく、幕命によるものだしな。
たしかに吉宗自身、当初宗武を宗春後の尾張に押し込もうと考えていた、って話もあるが、
これが事実としても、それはのちに治済が暗躍(?)したとされる御三家乗っ取りにほかならないわけで、
間違っても「将軍の座」にはありつけない越前家への養子入りとは、レベルが違うような。
実際、盤石に見えた家重正系も脆くも二代で絶えたしな。
将軍継承権の重みは、天下の重みだからねえ。
835日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:58:08
>>832
いや、家重にとっての重好は、秀忠にとっての忠長。
むしろ田安、一橋への防波堤でしょ。
836日本@名無史さん:2008/06/18(水) 01:02:33
とはいっても、所詮部屋住み
将軍家が安泰なら、自分の領土と家臣のいる大名の方がいいんじゃないかなあ
宗武、宗尹の頃と治済の頃では比較はできないしなあ
生没年に着目して系図を描いてみると、830の推測は結構説得力がある
837832:2008/06/18(水) 01:03:39
すいません。弟でなく次男でしたね
838日本@名無史さん:2008/06/18(水) 01:48:42
御両典,駿河大納言家の江戸城詰席はどこだったのだろう。
御三家と同じ大廊下上之部屋,あるいは下之部屋,大広間?
それとも,この時代決まった詰席はまだ無かったのか。
だれか教えてください。
839日本@名無史さん:2008/06/18(水) 02:05:06
>>836
クドイようだが、>830の言うようにどちらが得かという価値判断を
一橋側が自らできる立場になかった。
幕府の命令で養子に出されたのだろ。
4歳の重昌や10歳の重富の意志なんてもちろん、宗尹の意志ですらない。
部屋住みといっても旗本の三男坊と違って、官位も高く、まとまった領地がないだけで、
所領はあった。
治政はおこなえなかったが、天下の治世を執り行える可能性をもった家柄だ。
血はともかく家としての不安定性は確かにあった。
だが、それは豊千代を西ノ丸に入れるまでの治済も同じこと。
そして同時代、つまり家重・家治の時のように家治・家基父子がまだ健在の時、
定信はまさに部屋住みの田安家から久松松平家へ養子に出されたことを終生恨みに思っていた。
養子先の家格が不満だったんじゃない。将軍家継承権を失ったからに他ならないだろう。








840日本@名無史さん:2008/06/18(水) 02:05:18
>>819
たしかにいい身分だよなぁ。
将軍の血筋の予備だけど、敢えて将軍にならずにこの位置で踏み止まってる方が
余計な気苦労がなくて、楽に人生渡って行けそう。
京都の帝や公家衆よりも経済的に恵まれてたことを考えると
この当時、日本で一番貴族的な生活を謳歌してたのかもしれない。
(政務や民草の生活に煩わされることもないしな)
841日本@名無史さん:2008/06/18(水) 02:12:28
>>839
しかし、若い頃の吉宗が言っていたように、部屋住みより小さくても
大名の方が良いと思っていたかもしれんぞ。
(家臣に、兄が大事の時は藩主を将軍家にもしものことがあれば
将軍になる血筋ですぞ、っと怒られたけど)
842832:2008/06/18(水) 02:25:23
いや、私は830の価値判断とは幕府のソレと思ってますがね
養子にやるにしてもそれがないと説得力に欠けるでしょう
いわゆる大儀名分というヤツです

楽翁が不満に思った第一は病弱な兄の控えとしてとどまるべき身が、他家に
出されたことにより、田安が明き屋敷になってしまったことが第一でしょう
むろん世が世なら自分が将軍だったとの思いもどこかにあったでしょうが
当時の武家にとって、自分の家の社稷を守ることは何より重い
・・・あれれ、仰るとおりですね
その点治済の方が楽翁より一枚上手だったということで

現代の我々はまがりなりにも幕末まで続いた三卿を見ているから、安泰のように
思えますが、いろんな方のおっしゃるとおり、成立当初はかならずしも安定
したものではなかったことがわかります
三家は「神君の子」だから家光も手がつけられなかった
(秀忠には脅威にうつらなかった)
その点駿河家も御両典もやや重みにかける
ましてや三卿は。という見方が当時あったのかもしれません
田安や清水のこの時期の明屋敷は、もしかしたらそのまま家を終わらせていた
かもという見解があります

しかしまがりなりにも家斉の実家である一橋はその重みをましてきました
そして田安、清水も一橋系の男子の天下りの先として存在意義が認められた
のでは

>>840
田安宗武がまさにそうですね
彼は学者として足跡を残しています
水戸義公のような領民に負担を強いることなく
843830です:2008/06/18(水) 22:30:12
>>832 >>834 >>836 >>839 >>842 の各氏、コメありがとうございます。
価値判断とは、幕府のソレです。
将軍世子家基(生きていれば確実に11代将軍)が急逝したあたりから、三卿の将軍家スペアとしての価値が上がったものだと
想像します。
844日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:51:25
家治が子沢山、もしくは家基が死ななければ
御三卿は自然消滅したんだろうね
845日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:11:46
清水家は当主の早世が多く、将軍家のスペアとしてほとんど機能していない。
846日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:19:04
しかも「明き屋敷」状態が何度もありましたしね
特に昭武が入るまでが長い
もしかしたら、本当に昭武の前(斉彊が紀伊に転出)で終わっていたかも知れません
847日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:22:21
皇室は皇位が望めそうでない皇子は出家させていたが、将軍が
子沢山の場合、出家させる方法がなかったのかな?
848日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:36:02
そりゃ、結果論ってやつだよ。
治済による尾張、紀伊、田安、清水4家乗っ取りが完成すると、
むしろ将軍家スペアとしての価値は下降していった。
御三家への防波堤のはずの御三卿が御三家奪胎の橋頭保となった結果、
御三家の方が将軍家との血統が濃くなる局面も出てくる始末。

やはり延享3年以降、田安・一橋両卿はいわゆる「部屋住み」から脱して、
版籍はなくとも、将軍家スペアーとしての独特の格式を整えたと、俺は思うな。
それが、古参の老中が消え去るのを待ち、御三家の顔ぶれが変わるまで、
隠忍自重してきた吉宗の狙いだったから。

幕府の価値判断って、いったい誰のよ?
大御所吉宗の意向・・・吉宗自身が、一橋の子らのため、部屋住みの身分より一国一城の主の方がよかろうと慮る―ー
それじゃあ、周囲に気配りしながら苦労して格式を与え、ようやく御三家への垣根をこしらえた意味ないじゃん。
つか、その思いがあるなら、甥の頼致なんかじゃなく、宗武に紀伊家をつがせていただろうな。

家重とその幕閣・・・この話は、そもそも田安宗武の登城停止の処分という文脈の中から湧いて出てきた。
親の吉宗にとっては心強い将軍の藩屏でも、子の家重にとっては将軍の脅威。
宗武処分のあとに一橋に触手を伸ばすのは当然の成り行きだろう。
絶家は無理でも、弱体化は確実に果たせる。
どっちが一橋家の子らにとって幸せか?なんて情緒的な判断はしないわな。



849日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:36:48
清水家は清水家そのもののスペアが必要であった。すなわち清水新田卿を用意せん
850日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:41:15
なんで御三卿を部屋住みにしたか謎。
吉宗当時には甲斐と駿河に空きがあったのだから、それぞれ御三家に
つぐ格式を与えて藩主にすればよかったと思うけど。
851日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:44:17
御三卿は,将軍家の「厄介」みたいなものだから,将軍の直径相続が続いて
将軍から血統が離れれば,お控えとしての価値がなくなるんでしょうね。

4〜7代将軍まで男子にあまり恵まれてないけど,もし子だくさんだったら,
徳川姓の分家か御三卿のようなものを創ったのだろうか?
852日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:49:50
>>847
豪族の出家なんて、要は「口減らし」
養う経済力がなかっただけ。

といっては身も蓋もないが、遠い昔はそれも寺院勢力の取り込みという
狙いはあった。でも徳川時代にそれは無用。
853日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:51:40
豪族だって。笑っちゃうね。皇族の誤りで〜す。
854日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:28:10
855日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:30:56
幕府も家斉の子沢山で困っていたぞ。
他家へ無理やり押し付けたのも事実上の口減らしだろう。
独立させるには土地はない、大名の序列もややこしくなる。
だったら、今ある大名家へ押し付けちゃえって感じでしょう。
856日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:34:03
館林、甲府「松平」(駿河も含めていいかも)の問題と
田安宗武の3年間の登城停止および重富重昌越前相続
この両者に僕が少なからず驚いたのは、今まで定説として語られてきた、
家光なり吉宗なりが御三家に対抗するために庶子を大名(大名並み)にした、
というものと少しずれがあるからなんですね。
つまり三家をなるべく押さえ込もうとしていたといわれる家光だから、新たに
徳川2家を立てた、ぶっちゃけ言えば徳川のレア度を下げたと言われていたは
ずなのに、「最近の研究では」そうではないという

三卿でも、宗武重富重昌に対する処置は、一見三卿を弱める処置に見える
そこでいろんな人がさまざまな意見を述べているのですね

ここで大切なのは家光が三家を抑えようとしていたのは、いろいろな文献にあ
る彼の言動から大体わかるのに対し、
吉宗は表面上は三家を立てたといわれているように、状況証拠すらないわけで
すね、三家を遠ざけたという
もちろん彼の将軍就任に対するいきさつから、あからさまにはできなかったん
ですけれども
彼は宗春などとは違って非常に慎重でバランス感覚に長けていますから、三家
に対しても家光や綱吉のような振る舞いは無い
ただ三卿(吉宗が立てたのは二卿だけれど)を立てた、これを三家に対する、
とくに尾張に対する垣根と、後世の人が見ているわけです
確かに三卿ができて以来、尾張は将軍継嗣候補にあがることがなくなりました
また一橋から家斉が出たし、その父治済の代から一橋が席巻したという事実も
あります
けれども、これも誰かが言っていたように結果論であって、
そう説明されればなるほど、と思うけれども、
ひょっとしたら別の解釈も可能なんですよね
857856:2008/06/19(木) 00:34:28
特に家重家治家基というラインがしっかりしていた時点では、今までの見方と
異なるんじゃないか、という意見がちらほら出ていますね、このスレでの話で
すが
非常に興味深いです
一概に家重サイドの意思と断じ切れない点は、前スレにもあったとおり、
中途半端でてぬるいこと
月光院が動いて収まったこと
などにあります


ところで「屋住みの身分より一国一城の主の方がよかろうと慮」っていたので
あれば、紀伊家を宗武に継がせるだろう、
というのはいくらなんでも乱暴ではないでしょうか
その時宗武はまだ生まれたばかりなんですよ?
吉宗に弟がいればその弟に継がせたのでしょうけれども、いないから従兄弟に継がせた
これだけをもって吉宗が
「屋住みの身分より一国一城の主の方がよかろうと慮」ってはいなかったことの
証左にはならないと思います
858856:2008/06/19(木) 00:40:08
実は吉宗後半〜家重家治の時期は三家の間でも(連枝も含めて)婚姻が結構あ
り、それまでの緊張期から雪解けへと変化した時代でもありました
もちろんこれをもって三家を将軍継嗣から遠ざけたことと矛盾はしません
ただ治済、家斉の押し付け路線とは異なった戦略が採られていたというか
関係が結ばれていました
これもまた興味深いですね
859856:2008/06/19(木) 00:43:45
とまあ、長々述べましたけれども、実のところ僕は
乗邑罷免=吉宗のトカゲの尻尾きり
宗武処罰=それに乗じた家重の報復
重富重昌の越前相続=家重の三卿弱体化
と考えてます
ありきたりですみませんが
860日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:09:39
一橋からの越前への養子は、越前家側の意向もある程度考慮する必要がある気がする。
861日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:13:21
あんまりひねくりまわして、難しく考える必要ないんじゃね。
吉宗が両卿を立てるという発想は、彼自身の経験から出た、と思うな。

元禄〜宝永〜正徳年間の相次ぐ尾紀水世子の死・・・
  スペアーをいくつ持っても安心できない、っていう教訓
兄綱教と彼自身をめぐる激しい将軍継嗣争い・・・
  権力闘争とその後遺症の凄まじさ 

コリゴリだったんだろうよ。

けど、親の心、子知らず。
つか、将軍家・御三家のコップの中の争いが、将軍家・御三卿へと、
さらにコップが小さくなっただけで、また争いは繰り返したワケさ。
862日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:17:59
なんか


徳川家ファミリー劇場
渡る世間は鬼ばかり


状態ですね
863日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:20:34
>>860
当然だろうね。
その件については「御上御近き御連枝当家江被為入、再昔に立帰候得者我等末家より当家間断を続候セめて追孝」
(「松平宗矩書付」越葵文庫)
って、文献もちゃんと残ってるから。

でも出さねーだろうなあ。正嫡を、まして御控まで・・・異常だよ。
864856:2008/06/19(木) 01:24:03
なるほど
ちょっとうがちすぎましたかね

>コップが小さくなっただけで、また争いは繰り返した

的を射てますね
そして小さくなった分陰湿さを増したような気がします
865日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:26:14
月光院の役割については、過大評価は禁物。
8代将軍の座を確定するときの天英院の場合もそうでしたが、
こういうときの女性の役回りは象徴的な意味しか持たないケースがよくあるでしょう。
866日本@名無史さん:2008/06/19(木) 09:16:26
吉宗がその気なら次男を尾張家に、四男を紀伊家に送り込むことも
不可能ではない。尾張家は宗春の失態、紀伊家は実家。

867日本@名無史さん:2008/06/19(木) 12:54:59
>>838
御両典は大廊下上です
868日本@名無史さん:2008/06/19(木) 17:27:26
将軍庶子ってタダ長、綱吉、綱重は大大名になったけど御三郷は10万石、その後は他家へ養子で新規のお家無し。
改易少なくなってパイが小さくなってきたの?
869日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:37:23
>865

しかし、伊達重村が明和年間に中将昇進のために田沼意次と共に
大奥年寄り高岳に賄賂を送っていたり(大石慎三郎「日本歴史」237号)、
田沼意次派対松平定信派の戦いに大奥年寄りが二手に分かれて
盛んに活動していたり(竹内誠「岩波講座日本歴史12近世4」)したのを
考えると過小評価も禁物だと思う。

870日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:46:32
家光が子供いなかったときに死んだら尾張と駿河どっちが将軍になったのだろう?

・お江与が生きていたとき
・秀忠大御所時代
・駿河大納言蟄居時代

それぞれ皆さんはどう思いますか?
871838:2008/06/19(木) 20:03:24
>>867
れすサンクス
つまり,御両典は,御三家や後の御三卿とほぼ同格だったということですね。
872日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:06:49
紀伊家は西条藩主の宗直より、吉宗の実子の宗武が相続してもよかったと思うのに、
なんであっさり従兄弟の西条藩に譲ったんだろう。
873日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:08:51
>>872

光貞が死んでから松平頼純が後見人をして仮があるのも大きいでしょう
それに自分の周りばかりで独占すると反発も出るでしょうし
874日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:39:26
>>872
また、当時吉宗には男子が2名しかいませんでしたから、当然「お控え」として
自分の手元に置くでしょうね
何より前スレにもありましただ、当時宗武は生後数ヶ月
幼児で藩主になった例はあるにはありますが、その半数が短命であったと
児玉幸多さんが『寛政重修諸家譜』からデータを抽出して述べています
幼弱で大名になったものの健康は不健全であったわけです
大事な次男をそんな環境にはおかないでしょうね

尾張家が五郎太を五代藩主に据えたのは、それまで四代百年間、ずっと嫡子
相続をしていた、その伝統を守ろうとしたのでしょう
それが裏目に出てしまった
幼児が家督を継ぐのは、リスクが高いのです
吉宗も当然そのことは頭にあったはずです
875日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:58:53
宗武、宗伊を紀伊や尾張に入れずとも、甲斐や館林にいれる方途はありえたと思います。
川越や岩槻、小田原、佐倉
876日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:10:50
>>870
忠長が将軍になれる最大のチャンスは
家光が天然痘になっていたときだろうね。

その頃はまだそれほど確執ないし
877日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:25:31
>>865
八代将軍を決める時、
天英院の鶴の一声で吉宗に決まったといわれているが、
天英院って当時そんなに力あったのか?
それとも側用人政治を終わらせたかった老中たちが
裏にいて操ってただけ?

ほんとのキーマンは誰だ?水戸綱條か?
878日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:36:49
>>875
1 版籍なし
2 徳川を名乗る将軍候補
3 官位は御三家より下、家格は上
4 嫡子への継承よりも「現将軍の庶子のために屋形を開けておく」ことを優先する

こういう御三卿の特質は、一貫した設計思想によっているとしか考えられない。
吉宗が自分の人生を振り返って、将軍相続問題が将来こじれないように
慎重に考えて創始したのだと思う。

特に上の「4」は幕府の老中や家重・家治のような「生れながらの将軍」
の一存ではとてもできない。
一橋家嫡子の越前家の転出は吉宗の意思だろうし、
定信を強引に久松家に送り込んだのも、吉宗以来の引き継ぎがあったからだろう。
879日本@名無史さん:2008/06/20(金) 00:04:55
確かにそうですね
1〜3は秀忠、家光がやってきたことの発展の上にありますが、
(甲府、館林も藩というには独立性に乏しい)
4はこれまでに見られなかったことですね
むろん1があるゆえに4のようなことができるのでしょう

版籍がある=自前の軍事力を持つ
これは忠長で痛い目にあった、尾藩の反幕の姿勢も反面教師でしたでしょう
ゆえに家光は自分の庶子に尾紀ほどの封土を与えなかったし、庶子たちもそれ
ぞれの藩主であるというより将軍公子の面が強かった

そして綱吉、家宣が連れてきた側用人に、譜代が反発したのも見ているから
更に徹底して、家臣すら幕臣の派遣ということになったのでしょう

こうした積み重ねの結果、4のようなことができるようになった
 
しかし吉宗の思惑に反して、暇になった投手たちによって、将軍継嗣争いも
それまでに増して陰湿になったことも忘れてはなりません
880日本@名無史さん:2008/06/20(金) 03:04:05
>>878
4の「現将軍の庶子のために屋形を開けておく」を突き詰めて考えると
将軍が代替わりすると、それまでの御三卿当主はお払い箱になるわけか。
そうなる前に養子として潜り込める大名家を探さないと、
宗家から無理やり養子を送り込まれて棚上げ隠居、一生部屋住み・飼い殺しなんだな。
そりゃ、一発逆転狙って将軍なりに行きたくもなるか
881日本@名無史さん:2008/06/20(金) 20:03:43
>>880
主体性がないんでないの?大名家であれば正式に世子として届出ていれば、
本人の非行とか当主の問題行動がなければ、まず押し付けられなかったんでないか。
(尾張、紀州への押し付け時にも世子として正式に届けられたのはいなかったんでないか?
882日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:33:42
>>878
勘弁しろよ・・・てのが率直な感想。
問題は4だ。
完全な後付けの解説だろ。
治済以降の話さ。
御三卿は明和年間にはじめて制度的に確立されたという説もある。
それは田安宗武→治察、一橋宗尹→治済への世代交代を経たからだ。
当代将軍の庶子のために、いちいち後継ぎがいるのに、家を空家にしていては、
既得権者との間に凄まじい権力闘争が起きるのは必定だ。
そうならないように、家重正系を守るために田沼意次は老獪な手段を弄して、一橋、
次いで田安家の空家化を仕組んだわけだろう。

それは仮定の話だから措くとしても、吉宗があれほど苦労して定立した意味を、
原点に立ち返って考えるべきだな。
883日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:54:40
吉宗の思惑といっても、状況証拠しか残っていないわけですよ
だからどちらともいえるのでは?

重昌が越前家に転出した時は吉宗が生存していたんですよね
ここで
三卿(この時点では「両卿」だが)を創出した吉宗がなぜ? という疑問が
出てくるわけです
その一つの解釈として、大御所時代の吉宗はもう物事の判断がつかなかった
とするか、
それとも吉宗には将軍継嗣争いの種を少しでも減らすべく、摘統が存続して
いる間は意図的に他家へ転出させたのか
現時点ではどちらでも考えられるわけですよね?
あながち後付ともいえないわけですよ
というより「三卿」という制度のどこからどこまでが吉宗の遺志かというのも
明確にはわからないでしょう
家康がはじめから「三家」を意図していなかったように、
後から付加されたものも含めて吉宗の意図としているかもしれない
そうでないかもしれない

現時点では878さんも882さんもどっちがどっちといえないわけですよ

重昌の越前転出を、クリアーに説明できます?
884日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:59:53
楽翁の久松転出に関しては吉宗じゃなく田沼と治済の思惑が一致したというの
が定説だけどな

たしかに重昌は疑問だな
過分にしておいらは吉宗がもうろくしていたという話は聞いていないのだが
重昌の件といい、宗武の件といい、耄碌していたと言われれば納得するなあ
耄碌説を採るなら、どんな本に書いてあるか教えてくれると嬉しい
885884:2008/06/21(土) 02:03:55
失礼
過分じゃなくて寡聞だ
886日本@名無史さん:2008/06/21(土) 03:08:32
>>884
「頑健・有能な大将軍であった徳川吉宗にも『老い』は訪れた。
半身麻痺と言語障害を抱え手厚い介護を受ける一方で、側近たちに対しては
往年の為政者としての力を発揮しつづけたという。」
――氏家幹人著『江戸人の老い』(PHP新書)内容紹介より
887日本@名無史さん:2008/06/21(土) 06:26:20
秀忠は孫の松平光長を家光の養子に迎えようと考えたことがあったと聞いたのですが
本当ですかね?

確かに、下手に尾張や紀伊から呼ぶよりは、自分の血が流れているし
兄の血も流すことが出来るというメリットはありますが
888日本@名無史さん:2008/06/21(土) 11:50:46
前スレにもあったが、将軍継嗣で女系を重視しない方がよい
光長、綱誠、義行、慶寧など
皆俗説の類です
889日本@名無史さん:2008/06/21(土) 12:31:22
第一秀忠には外孫に頼らずとも忠長がいるしね
890日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:19:37
そういや重好も当初は松平だったんだよな
ということは、将軍の子といえども庶子は基本的に独立するまでは松平ってことかな?
891日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:26:14
尾張家を御三家筆頭とする学説もあるらしいね。
892日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:53:09
>>890
前スレ>>787あたりを参照
>>891
尾張筆頭は「学説もある」ではなく、ほぼ定説ですが
まあ幕府の文書に明記されている訳ではないので
「尾張は筆頭ではない」
という説もありますが
・尾紀は同等である
とするのが殆どで、主に紀州家が主張していました
893892:2008/06/21(土) 14:01:59
稀に
・紀州は将軍のおさとであるから、江戸中期以降は筆頭
とみるむきもありますが(例えば司馬さん)、権勢は増したものの、家格が上がったわけではありません
吉宗がそんな配慮の足りないことをするわけがないでしょ

・義直は三家の年長
・石高も一番上であるばかりでなく、石高に計上されないが木曾の山林を有し、実質百万石に近い
以上から尾張筆頭が称えられているのです
894日本@名無史さん:2008/06/21(土) 15:03:07
同意封地も尾張と紀州じゃ尾張の方が上だと思うし官位は全く同格、石高は尾張が上。
紀州>尾張を証明する物は無いよね。
和歌山は今よりは重要度高い地であった事を考慮してもね。
895日本@名無史さん:2008/06/21(土) 15:40:52
尾張はそう主張しているけど、そもそも「筆頭」という格自体が存
在していない以上無意味ですね。
単に三家を並べて書くときに「尾紀水」と書く事が多いというだけ。
896武陽隠士:2008/06/21(土) 15:56:45
>>吉宗は御三卿なんかつくらずに、将軍になるときに紀伊家に宗武を残し、
>>後に生まれる宗尹を尾張宗春の後継者にしとけば、盤石だったのに。

あのさぁ、逆に訊くけど、どうして紀伊家や、
まして血脈の異なる尾張家に実子を送り込む必要があるの?
吉宗は将軍位に就いた時点で、すでに嫡子・家重を得ていた。
つまり吉宗を将軍家を相続させた時点で、その子が
将軍家を継承していくことは暗黙の了解だったのだぞ。

吉宗は将軍家の家督を相続させるうえで自身の分家を立てるのは当然であり、
紀州や尾張の当主に実子を送り込まねばならない理由などどこにもない。

それに紀伊家や、まして尾張に吉宗の実子を送り込む、などというのは
少し幼稚過ぎる発想だぞ。
大名家の独立性を無視しているというか、知らなさ過ぎる。

不愉快だ。
897日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:24:28
>>895
それは承知してますよ
ただ無意味と切って捨てるは乱暴でしょう
幕府はともかく、世間一般にそう見られていたし
尾のアイデンティティもそこにあったから
故に尾紀の争いや
尾藩及び士民の思考行動に影響をおよぼし
ひいては現在の名古屋人の気質にも僅かながらに響いているのですから、
決して無意味ではありません
少なくとも水戸の「副将軍」とは異なり、三家筆頭の家柄というのは
括弧付きの「事実」です
898日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:31:43
尾張の御三家筆頭という家格は公的に認められてたのかなあ。
序列が明確になる殿中席次も,同一官位であれば先任順だったのに。
もし,尾張に筆頭の家格があれば,常に水戸や紀伊よりも上席を占めるはずでしょ。
899日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:44:19
>898
認められていないでしょう。根拠はまさにそこにあるとおりで、
公的には「御三家」という同列の格式しかありませんから。

で、紀伊は紀伊で「官位は初叙から納言まで同官、旗は尾張
と違って『将軍家と同じ旗』を与えられた」ということを以って
「尾紀両家は互角」と主張していましたね。
公言はできないものの、家康から家康自身の居城と、それに
付随する所領を与えられたという自負もあったでしょうね。
900日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:53:01
つまり三家それぞれに
「我が家は格別」
というプライドがあったんです
ただ石高や居城、長幼の順から尾が筆頭と見なされていた訳です
901日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:00:45
大きく身分や所領が上下することのない時代には,城地,旗など細々した違
いで上下を認識したつもりになっていたのでしょうね。
ま,そうやって御三家で競い合ってくれた方が,将軍家や幕府には都合が良
かったと思います。
私は,幕閣くらいがこっそり,「やっぱり,お宅が御三家の筆頭ですよ。」
などと尾張の家臣に囁いていたかもしれないなどと想像しています。
902日本@名無史さん:2008/06/21(土) 18:39:11
吉宗が将軍になったとき、紀伊徳川家はなんでなくならなかったんだろう?
館林・甲府の御両典は、将軍になってから、なくなってるよね?
すくなくとも、徳川家ではなくなってる。
903日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:06:34
>>902
吉宗が家継の後見人(事実上の次期将軍就任)になる条件として
紀伊家存続を出したからでは。
904日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:12:06
まあ水戸以外は家斉の代に全て吉宗の男系子孫に養子を送られて結果紀州の血筋で固められてしまったんだが。
905武陽隠士:2008/06/21(土) 19:40:28
尾張の三家筆頭の格式というものは
極めて空気のような漠然としたものだったろうが
確実にあっただろうね
三家三兄弟の一番上だったのだから

ただ、母親を同じくする紀伊・水戸に比べて
同母兄弟を持たない尾張を家康が危うんだ、という話を聞いたことはある。
906武陽隠士:2008/06/21(土) 19:48:23
スレの中盤で老中どもが
幕府の所在地を紀伊に移動されてしまうのではないかと恐れた、と
書いていた奴がいるが、結構おもしろい発想だと感心した。

余談になるが、日本最大の広域指定暴力団・山口組が本部を
神戸から名古屋に移したことを知っているか?
初代以来、山口組は本部をずっと神戸に置いていたが、
名古屋に本拠地を置く弘道会会長が六代目に就任する際、
自身の地盤である名古屋に移してしまったんだ。

現在では武士が暴力団と似通った気質であったことは
『武家の棟梁』などで指摘されるとおりだ。
同じような器具を老中どもが抱いたとしても何の不思議もない。
907日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:51:12
御三家筆頭といのは,五摂家筆頭というのと同じ種類の重さ?なんですかね。
908日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:24:41
紀伊への遷都・・・あり得ないね。
つか、老中が危惧したってこと自体、あり得ないね。

吉宗はあくまで養子入りの体裁。
しかも江戸に開幕した権現様の絶対の崇拝者だ。
その上将軍就任後も、先代からの老中や、天英院、月光院にずいぶん遠慮した。
和歌山遷都・・・地政学的にも、経済的にもバカバカしくて話にならない。
909日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:34:49
紀州血統嫌で水戸系の高須から養子迎えたの?女系では繋がっているけど。
910日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:34:59
>>908
綱吉も家宣も養子だが。
御三家の連枝が本家相続した場合も分家は廃絶というのもあった
(吉宗と兄、宗春)
911日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:37:08
惣領の庶子を考えた家康の話。
将軍家の万一に備えて同腹の兄弟を持っていた方が良い、っていう。
だから秀康や義直ではダメで、
秀忠か頼宣でなくてないけない・・・っていうんだろうが、
一見説得力ありそうだが、年譜的に振り返って、後付けの話としか思えないな。
912日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:37:39
幕末に3卿からでは無く血縁の近い紀州から養子迎えたように尾張藩主が将軍の超近親だったら尾張から将軍出たかもね。
913日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:41:27
館林家は徳松に継がせて存続させるはずだった。
綱吉養子入りは一代限りの約束。
綱吉が将軍就任4ヶ月後に西ノ丸入りを強行しちゃった。
914日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:46:06
だから・・・
御三卿は「家」としては不安定だった。
明和年間に、制度として固まったというのは、御両典のように一代で
潰えることなく、世代交代を果たせたからだろうね。
915日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:51:23
>902
「将軍の座」によると、吉宗が宗家を継いだあとで尾水両家に対して、「こうなった
以上紀伊のことは取り上げるのが筋道でしょうが、何分にも権現様お取立ての国
ですから、そうもなりません」と述べたということらしいですね。
で、「松平左京大夫頼致がご登城のところ、紀州御相続を仰せ付けられ、徳川の
称号を進ぜられた」(同書より。元は鸚鵡籠中記。)ということになったと。
916日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:24:50
>914
甲府家は一代限りではなかった
ゴメン
917日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:35:37
>>915
上の方レスにも似たような話題があったが
>>紀州御相続を仰せ付けられ、徳川の称号を進ぜられた
って紀州家の相続と,徳川姓の授与は別になるのか。
918830です:2008/06/21(土) 23:03:26
>>902
吉宗が、紀伊家から宗家を継いで8代将軍になったとき。
紀伊徳川家は、領地を持つ大名なので、その連枝たる分家(西条藩頼純系)がある以上、
そこの当主が、本家である紀州藩主に昇格する 
ということではないでしょうか!

徳川三家・三卿の話題は、江戸時代を語るのに欠かせないので、
次スレッドもよろしくお願いします。
919日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:29:35
何かで読んだ記憶があるけど。
吉宗は,将軍を継ぐと権現様手作りの紀伊家が無くなると言って,将軍になる
ことを躊躇すると(野心を露骨にしない芝居),水戸が,西条松平に紀伊家を
継がせるので絶えることはないと言って吉宗の手を引いて上座に導いた
ってゆうのは,後世の創作?
920日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:30:07
次スレッドは>>950を踏んだ椰子でいいだろう。
921日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:05:32
俺は疑問だな。
紀伊家が将軍家になり替わるわけじゃないだろ。
あくまでその時の当主が、将軍家に養子入りするだけだからな。
家は存続する。当たり前のことではないか。
甲府は宝永元年、綱豊が養子入りする際に、嗣子がいなかったし、
館林は徳松一人しかいなくて、綱吉が一緒に連れて行ってしまったから
無嗣絶家になっただけじゃないか。

御三家は将軍を継ぐ可能性のある家柄だから、
子のない当主が宗家に養子入りし際、無嗣にならないよう連枝を設け、
その所領は本家の分知ではなく、特別に幕府から新知されていたのだろ。
922日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:20:26
まあ、「鸚鵡籠中記」の作者のような下級武士が、
御三家当主の枢機な会話など預かり知ろうはずもなく・・・

吉宗の念頭に、後釜には初めから西条松平頼致だけしかなかった?
というのは疑わしい。
宗武っていう選択肢もあった。幼少といっても、付家老もいれば、まさに
頼致に頼純の役回りを期待することだってできる。
家重に万一があっても、紀伊家当主たる宗武は将軍家の最も近親者なわけだから、
紀州から迎え入れるという算段も立つだろう。

923日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:36:53
宗武登城停止の件、やはり氏家幹人さんの『江戸人の老い』(PHP新書)に
ありました

かいつまんで引用をお許しいただければ、
まず理由として、宗武が将軍家重を批判するような言動をしたらしい
(だから「傲岸不遜のゆえ」というのもあながちまちがいではない)
そして実紀その他史料に見えず、「俗説」とされていた登城停止の件を、
事実に近いとしたのが辻達也さんの「田安宗武の籠居と松平乗邑の失脚」と
いう論文
ソースは松平春嶽の『閑窓秉筆(かんそうへいひつ)』と一橋宗尹の編年記録
である『覚了院実録』で、
春嶽は宗武が「公儀の御不興を蒙らせられ」三年間の謹慎を命じられたとし
同時代史料として信頼度のかなり高い『実録』には、延享4年(1747)10月以降
は宗武登城記録が途絶え、謹慎が始まったことが伺える、というものです
924日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:38:57
宗武はまだ幼少だったから,手許から離すのが怖かったんじゃない。
毒殺とか恐ろしいし,宗武がいなくなるとまだ自分の血筋は家重だけだから。
925日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:49:55
>>923
非常に嬉しい。
延享4年といえば、一橋重昌の越前家放出が決まった年ではないか!

指摘の文中に吉宗の介在を匂わせるネタはあるんだろうか?
あるはずないとは思うが念のため、教えてほしいなあ。

と、「覚了院実録」に、この件に関する宗尹の言及はあるのだろうか?
ぜひ教えてほしい。
926923:2008/06/22(日) 00:52:47
さらにこの処分は誰の意思によるものか、という点ですが、氏家さんは
前スレにあったようにこの当時の吉宗は健康状態が思わしくなく、その処分
をまったく知らされていなかった、としています
ソースは吉宗の紀州からの近臣で、大御所様付御側衆を努めた小笠原政登の
日日の記録、『吉宗公一代記』
そこには引退して西の丸にいた大御所吉宗が中風に倒れ、リハビリに励んだ
様子が記載され、
宗武の件も穏便に済まし、大御所の耳には入れないよう老中と申し合わせた
とあります
更に宗武がかつて小笠原に語ったこととして
病弱な兄家重では心もとないから、三家や前田重煕を毎度登城させて、老中と
相談で政務を執るべきだ
更には
あるいは自分や一橋がその役を仰せ付けられてもいい
と、野心満々の相談をもちかけられたとしています。

氏家さんの述べていることは以上です

これが事実なら、宗武の謹慎処分の理由は公にできないものの、やはり将軍批判
であり、その決定を下したのは将軍あるいは本丸首脳であることになります

また『公伝』によれば吉宗は延享3年(1746)に中風で倒れ、翌年までは寝たきり
であったとありますから、重昌の件も(事後報告はされたでしょうが)、吉宗
のあずかり知らぬところ、となります

しかしながら乗邑の罷免時はまだ病に倒れてはいないのですから、やはり定説通り
吉宗の意思であり、罷免の理由も、これまた定説の通り、宗武将軍擁立というのは
俗説で(両者の処分のタイムラグがある)、
行き詰った改革の責を負わせた、人心の一新を図った、というところでしょう
927923:2008/06/22(日) 00:54:49
>>923
すみません
氏家さんの本にはその件について「覚了院実録」にどう記載されているのか
(あるいはいないのか)はまったく触れておりません
こんど辻さんの論文を読んでみます
928日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:22:54
>>926
やはりね。政治は冷徹なもんなんだよなあ。
大御所時代の吉宗が急に影が薄くなったことを前から疑問に思ってた。

吉宗の将軍就任から世子決定まで9年も待たされた挙げ句、
小菅御殿への幽閉説まででるぐらい、弟たちに地位を脅かされ続けた家重と
田沼らその側近たちの鬱屈した思い・・・さもありなん、と思うな。

ただ、乗邑の失脚については、どうかな?
逡巡の果てとはいえ、家重の治世の劈頭に、後顧の憂いを断つために、
吉宗が「泣いて馬謖を斬る」思いで、乗邑を罷免したと見ることもできるんじゃあ。
改革の行き詰まりは、むしろ勝手方老中水野忠之や神尾春央の主導によるもので、
神尾はその後も勘定奉行に居座っている。
そもそも批判へシッポ切りいっても、吉宗の改革の批判勢力は、すでに元文4年に
尾張宗春を粛清して以降、取るに足らなくっていよう。
929923:2008/06/22(日) 01:28:05
そうか、神尾を忘れていました(水野もだけど)
うっかり
彼のセリフとされる「百勝とゴマの油は云々」は
アントワネットのセリフとされる(実際は違う)「パンが無ければお菓子を食べれば
いいじゃない」
とともに当時の支配階級の意識を象徴するものとして、僕のお気に入りなのですが
忘れていた自分が悔しい
930日本@名無史さん:2008/06/22(日) 08:28:43
まあ象徴と言っても、両方ともデフォルメされた
意識なのですが
共に傑作な台詞と思います
931日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:43:02
>>4
932日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:56:31
待ちきれずに二代目スレを立ててしまったが
>>920氏がレス番踏む数を指定していたのだな
931で立ててしまった...スマソm(__)m
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214135631/
933日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:35:45
吉宗は将軍となった後に継室を迎えなかったけど、
天英院や月光院に遠慮してのことかな?
934日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:45:48
後世の時代劇や漫談ネタを作るため。
935日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:09:17
単に気ままにしたかっただけでしょう
なにせ幕府をしょって、八面六臂の働きをしているわけですからね
今更気を使う正妻など持ちたくも無かったでしょう

天英院や月光院に遠慮していたなら、逆に正妻を迎えたと思いますよ
御台所のいない大奥は寂しいものですからね
936878:2008/06/22(日) 22:18:13
>>926
へぇぇぇ。
これがほんとなら>>878の仮説は夏の雪だるまのように崩壊するなあ。

つーか家重・家治政権(安全運転)や田沼意次のキャラ(気配りと調整の政治家)
に対する一般的なイメージもだいぶ変わってしまうと思われ。

別に漏れもこのあたりの政治史を専門に研究しているわけではないので
気安く>>878を書いてしまったんだけど、こんなに真面目な議論になって
勉強になりました。



937日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:32:18
>>935
男子をすでに二人得ている以上
いざこざのもとになりそうな正室の子が生まれたら困るからじゃね?
938日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:25:30
age
939日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:44:17
家重を寺に放り込んで宗武を将軍にしようと考えなかったのだろうか?
940日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:16:26
>>939
悪しき前例になってしまいます
941日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:12:43
大切なのは将軍個人の資質よりも、多少のことでは揺らがないシステムで
能力本位で選んでしまうと、禍根を残してしまう
家康が家光を三代に指定したのと同じ理屈です

これは形を変えて現代にも通じることです
君主制より民主制というのがそうですね
少数の個人の資質に左右される不安定な体制よりも、傑出した存在がなくても
機能麻痺を起こさない体制の方が平和時にはよいのです
942日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:16:14
田中芳樹の『銀英伝』は、それを承知であえてその逆を描いていますよね
でも作者の(思想的)分身といえるヤンという人物に、繰り返し語らせて
います
有能な君主が治める体制と
衆愚と化した共和制と、どちらがよいか

田中さんが語らずとも、古代ギリシアから繰り返し論じられたことですけれど
943日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:24:12
ちなみに家重は病弱であったのであって、無能であったわけじゃないぞ
944日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:31:01
何喋ってるかわからない時点で問題外だろ
945日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:58:55
余談だが
独裁を発明しておきながら採用しなかったギリシアは
独裁を輸入採用したローマ帝国に合併されてしまったんだよな
やっぱり優れた指導者がいれば、効率的な組織は強いんだよな

日本でも織田信長の機能的な政権に
他の地域の衆愚政権はまったく歯が立たなかったものな
946日本@名無史さん:2008/06/23(月) 12:34:03
問題外なら早い段階ではずされてますよ
現に彼が将軍になっても、幕政は滞ることはありませんでした
大岡の専横を示すものもないし
947日本@名無史さん:2008/06/23(月) 18:41:47
大岡忠光は吉宗の次男吉晴を暗殺し、配下の椎名組を駆使して政敵を排除している
948日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:54:18
>>947
そりゃテレビドラマの話だろ!
ここは難民板ではない、知らない人を惑わす書き込みはやめてね

大岡忠光は、このドラマでもわかるように、その気になれば
絶大な権力を行使できるポジションにいながら、何もしなかった
酒井忠清や田沼意次(かれらも娯楽時代劇のような悪漢では決してないのだが)とは
異なるキャラクタだ
949日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:56:12
だいたい吉宗の「吉」は綱吉からの偏諱であり、長男の家重が生まれた時点で綱吉は死去している。
息子に「吉晴」などという諱を与えることはありえない。
950日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:57:16
準親藩ってのはどこまで実際に扱いとしてあったのだろう?

ただの自慢としての表現であったかも知れないし
951日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:00:15
宗家の藩屏となるべくして創設されたのに、平時はおろか、有事まで反抗&日和見った親藩ども。

あの世で会津中将に土下座しろ。
952日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:09:43
「三代すぎれば別の家」
953日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:20:15
尾の慶勝、越の春嶽は慶喜や容保助命の為、また徳川の社稷を守る為
紛身の働きをしたことを知らないか
954日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:26:53
準親藩の定義って何?将軍家と婚姻関係を結ぶだけでいいなら、浅野家も準親藩になるけど。
955日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:32:49
>>954

・称松平&葵紋
・将軍家との婚姻

この二つをクリアしているところは準親藩と一応見られているみたいですね。
956日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:53:54
江戸時代の大名は、将軍家との親疎を基準に厳格
厳格付けがなされましたからね
松平の称を与えて、擬似的血縁に組み込む、これ
は秀吉もやったことなんです(この場合羽柴を与えた)
現代でも権力者の姻戚になると、やたら権勢を振
るう人がいるくらいです
ましてや血統が今より数段重かった前近代では
松平を与えられることは非常な名誉とされました
本当は松平より由緒ある氏を持つ者にとっては、
その心中複雑であったでしようけれども
家ではなく個人的に与えられるケースもあり、柳
沢吉保などもそうです
957日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:56:25
江戸時代の準親藩は、豊臣の羽柴性よりは上だと思うが
どうなんだろう?
958日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:01:57
秀吉もやったというより
秀吉がやったから有効性を家康が認めて取り入れたんだろう
959日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:04:03
そういう意味で書いたつもりです
960日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:10:54
秀吉のはあくまで擬似的なものだったが
徳川のは実際の婚礼を重視している感はある。

池田・前田あたりは何重も婚姻関係を結んでいるし
961日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:18:58
江戸時代の準親藩の場合は将軍家との婚姻関係が必要だが、豊臣の羽柴姓はそうでもない。
秀吉には娘もいないし、親族も少ないから仕方ないけど。
962日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:20:06
秀吉の場合は短期政権だったし、
婚姻しようにも手持ちの駒も少なかったしね
松平だって、最初は(上にも書いてある通り)、有難迷惑だったでしょうよ
ただ徳川は長期政権になったから、それゆえの重みが加わったんですね

家紋を与えるのも、偏諱を与えるのも、いずれも擬似的血縁に取り込むもので
あり、家康が今川からの独立にあたって、それまでの元康を捨てたのは、それ
を顕著にあらわしていますね
963日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:23:19
親藩、譜代、外様といっても、厳格な区別があったわけでなく、「準親藩」と
いうものも含め、大まかな概念としてあったわけです
研究者によっても違ってくる
厳密な意味での「准家門」というのは、家康の異母弟たちの久松家でしょうね
964日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:24:36
つまり織田と津田、今川と品川みたいなものなの?
965日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:25:47
松平と徳川の二段構えってのはあれうまい手だったな
966日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:31:11
柳沢は吉保個人ではなく、嫡男吉里はもとより、その弟たちの家にも
松平姓を与えられ、以後続いていますよ。
967日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:34:46
>>966
すみません、言葉が足りませんでした
家柄に対して与えられたのではなく、個人の功績に報いる形で与えた
といういみです
968日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:40:35
ああそういや今川って当主限定苗字だっけな
あっこから思いついたのかな家康
969日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:44:48
柳沢、一介の中堅家臣から準親藩諸侯に出世って
江戸時代最大の出世ですな。
970日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:47:40
柳沢の場合は綱吉の特別な恩寵ですな
普通は国持ち(並み)の外様大名に与えました
他の方の仰るとおり、秀吉を真似たもので、中には細川忠興のように、羽柴の
称は受けながら、松平は固辞した例もあります
まあ、細川の方が羽柴や松平より歴史がありますけどね

織田―津田、今川―品川の指摘は興味深いです
他の戦国大名でもあったのでしょうか?
971日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:44:20
藤原氏も不比等以外の子は中臣姓だったって聞いたことある。
972日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:44:35
同じく側用人の間部家は一瞬で没落したね。
柳沢家はその分有能だったんだろう
973日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:48:49
エビの串カツだって一代で没落したけど
あれはあれでそいつだけの苗字もらったんだよな
974日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:54:02
足利将軍の庶子は分家を作れずに殆どが出家させられたな。
一応、鎌倉公方や堀越公方が分家と言えなくもないが、将軍家のスペアには決してなりえない。
975日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:08:30
スペアってより敵対勢力
976日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:13:55
エビの串カツって誰?
977日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:17:36
>974
本家を継いで当主になった人が追放された後を、堀越から継いでるけどね。
978日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:23:57
恵美押勝
979日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:24:30
この時代は総領制が崩壊して、庶子の対立が目立った
庶子が独立して力を持つのを防ぐために出家させたりもした
(同時に宗門対策にもなった)
幕府(義満や義教)なども守護大名の相続争いに積極的に介入して、その勢力
を弱めた
だから戦乱もたえなかったんだよね
北条氏康や信長、秀吉、家康など戦国大名は自分の生きている間に家督を譲った
けれど、やはり前時代の轍を踏まないためだろうね
そして家康や吉宗が長幼の順にこだわった相続にしたのも
(上の方にも書いてあるけれど)
それが無駄な争いを避けたという点でその時代で一番適していたからだろうね
980日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:26:21
>>978
ありがとん
逆の例は別部穢麻呂だね
981日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:38:54
別部穢麻呂って誰?
ああ、清麻呂かあ
てか、時代がどんどん離れてゆくんだが
982日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:41:24
藤堂は準譜代になれても準親藩にはなれなかったんだね。
大大名でも格の差か?
983日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:49:25
山内も偏諱もらえなくなったのも格の差かな…
984日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:51:34
準親藩と呼ばれる大名は江戸幕府開府以前から大大名だった
一方で藤堂と山内は江戸幕府によって大大名にしてもらった所

格の違いが出てくるのは自明かと
985日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:10:13
御両典は、三家、駿河家より三卿に性質が近い
綱重綱吉は甲府館林の城主になったけれど、その領分に行くことも無く、
はじめは江戸城内に居住し、明暦大火後に綱重は桜田、綱吉は神田に屋敷を賜
り、徳川を名乗った
藩の組織とか家臣団もそれほど大規模でなく、ゆえに宗家を継いだ時に吸収さ
れてしまった(吸収することができた)
結局1、2代で途絶えてしまったけれど、この形でそのまま続いていたら、三
家ではなく、三卿に近い存在であり、形態である
986日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:12:55
一応領地で家臣団が徴税くらいはして江戸の綱吉の生活費見ていたんじゃないの?
987日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:43:35
そうなんだけれど、三家の初期、藩主が家康の膝元にいて、家老らが藩の組織を
整えながら統治していたのとは大きく異なるんです
これはそれぞれの家の成立が江戸初期と中期、という違いにもよるのでしょうが、
両典の場合、領地は「お手当て」というイメージが強いのでは
彼らは自分の領地経営に力を尽くしてはいないのですし

同じようなことが頼方(吉宗)にも言えまして、彼は直接領地に赴いて統治した
わけではない。彼の領地は本藩の出先機関みたいなものだった
家臣たちも少なく、そしてココが重要なのだけれど、本藩から分離したのが
つい先ごろだったから、元に戻るのもたやすかった
これは両典の家臣にも言えることですね

その点通春(宗春)が継いだ大久保松平家は、
奥州梁川藩として三代五十年の積み重ねがあったにも関わらず、消滅してしま
った(尾張藩から分立した領土ではないので、収公)
それは一つに適当な後継者がいなかったからですね
当時の尾張には適した成人男子があまり残っていなかったのです
988日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:19:09
本来は分家であるはずの忠雄系池田氏が、準親藩になったために、
本家の利隆系の石高を上回り、分裂状態になってしまったり
準親藩というのもいいことばかりではない。
989日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:05:39
播磨、備前、淡路89万石だった池田氏が備前32万石、因幡34万石に分封されたが差の約20万石はどうなったの?
990日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:08:33
別家取立てなんていう大名家の勢力を分散させるための方便にひっかかるほうが悪い罠
991日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:15:41
ひっかからなければ池田家が無事に続いたかどうか微妙だし・・・
二家が大大名として生き残れたんだから立派なもんじゃないか。
992日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:17:32
>>989
岡山から分知された10万石近くは無嗣やら発狂で改易されて消えてたはず
993日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:25:44
>>988
それは逆だと思う
外様で播磨の80万石余を幕府がそのままにしておく訳が無い
家康の女婿であったから、次男(忠継、忠雄は兄忠継の養子になり、淡路6万石から
格上げ)にも長男(利隆40万石)に匹敵する領土を分割された
そうでなければ、あの要地にでんと構えられていて、目ざわりこの上ない外様だ
利隆以下はもっと低く抑えられていただろう(差分は収公)
光政も千姫の女婿ということで、何万両もの借金をちゃらにしてもらっている
し、鳥取から岡山に移っている
時の将軍の親疎によって、浮かんだり沈んだりしているが、いい目にはあっている

>>898
まず利隆に淡路42万石、その子光政が鳥取32万石になり、10万石は収公
これは光政が幼少であったことと、播磨が要地であったためでしょう
忠継が38万石、これを忠雄が継いでいるが、光仲の代に、やはり幼少である
ということで、(また光政が千姫の女婿であるため)、光政と国を入れ替え
忠雄ははじめ淡路6万石だったが、兄の後を継いだ
4男以下にも所領が分割相続された
994日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:34:05
そもそも80万石のうち、岡山と淡路は家康の孫の新規取立て分
で、別家でなければ貰えていないのでは?
995日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:47:45
池田輝政 播磨姫路 52万石
次男 池田忠継 備前国岡山 28万石
三男 池田忠雄 淡路国洲本 6万石
弟 池田長吉 因幡国鳥取 6万石
で計92万石だった。

播磨姫路藩は輝政の跡を利隆が継ぐ際に、忠継の死後岡山藩を継ぐ忠雄に
播磨国内西部の10万石を譲り42万石。さらに1617年、利隆が死ぬと、
嫡男の光政が幼かったため幼君には要衝姫路を任せられないという理由で
鳥取藩32万石5千石に転封。さらに1632年に今度は光正が鳥取から岡山に
31万5千石で転封。

岡山藩は28万石から38万石に加増されていたけど、忠継の死後に
輝澄、政綱、輝興らに分与して忠雄が31万5千石で継ぐ。
忠雄の死後に光仲が継ぐけど、光仲が幼いという理由で前述のように
鳥取に光正と入れ替わりで鳥取32万5千石で転封。

そして分与されて成立した赤穂藩、山崎藩などは2代もしないうちに廃藩。

淡路国洲本藩は前述のように忠継の死後に忠雄が岡山に転じたので廃藩。
その後、淡路は徳島藩領になる。

池田長吉の鳥取藩6万石は池田長幸に継がれ、6万5000石で備中松山に転封。
さらにその子の池田長常の代で断絶。

分与しまくって成立した支藩が廃藩になりまくったせいで、一族が92万石を
収めていたのがいつのまにやら30万石ほど目減りしてしまった。
996日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:18:03
細川忠興は羽柴は受けて松平は固辞したと誰か書
いてたけど、その後の細川家もそうなの?
997日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:46:27
>972

しかし、柳沢家は下手に格が上がってしまったために
その後幕政には参与できていない。

一方、間部家は老中を幕末に出している。

ちなみに田沼家は若年寄を出している。
998日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:49:18
>966

分家(黒川、三日市)の松平姓は一代限りだ。

三日市は二代続いているけど、それは初代時睦と二代保経が
いずれも吉保の息子だったから。
999日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:51:40
>>996
松平は受けていないはず。
1000日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:57:33
いやあ良スレだったよ
荒らしもなかったし
次スレにも期待だな
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。