【常陸国】水戸徳川家を糾弾せよ!【佐竹】

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601日本@名無史さん
なお「形としては」第13代将軍・徳川家定が「台命」(将軍の命令)を発し(以下に記す)全ての処罰を行なった事になっている。
そうでなければ「譜代大名に過ぎない井伊直弼が」自分の目上に当たる朝廷一門・徳川一門などを処罰する事は出来ないので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84

安政の大獄でなんで井伊ごときが徳川斉昭を処罰できるのかほんと謎だったんだわ。
井伊直政が家康の息子を罰してるようなもんだからなw
俺の長年の疑問が解けたw
602日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:45:06
水戸の博物館のしょぼさったらこの上ないなw

入館料高いくせに、3つしか展示室ないし。
好き好きかもしれんが。
603日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:47:22
場所も悪い。
定府だったから城もショボい。
604日本@名無史さん:2008/04/19(土) 15:22:06
しゃんめ水戸なんだから
605日本@名無史さん:2008/04/27(日) 20:05:31
この間甲府の博物館行ったよ。法具と円の梢師木造だけが印象に残った。
あとは病害虫資料と映像解説が美味。
606日本@名無史さん:2008/04/27(日) 20:07:57
えんの行者 ね
607日本@名無史さん:2008/05/07(水) 13:03:09
久慈川CR行ってきた。ここは・・・いいなあ。日本の正しい里山の風景で。
昨日も石岡近辺の水田地帯、湿気にけぶる中をポタってきたけど
観測史上最低の湿度10%の晴天のなか、
やはり舗装された平坦な土手道を走るのは格別だな。

山田川左岸をのぼって、ときおり気まぐれに沈下橋をわたって右岸に出ると
豊作だか河川安全だかの神詞を竹に挿した辻札が立っている。
これをもそっと水府まで上ると、隠れ里の雰囲気になる
「郡代か?今頃なんだ。縄入れ役人風情が・・・」
まだ戦国の気風残る郷士の顔をした百姓が、猛々しい顔をあげる。
「ここに隠し田はねえ。水戸に帰れ」
「佐竹も徳川もあるか。こっぱ役人は帰れ」

苛斂誅求をきわめた水戸藩北限の山里の雰囲気をたっぷり味わえた午後だった。
田舎はええねえ
608日本@名無史さん:2008/05/07(水) 13:07:09
能天気はええねえ
609日本@名無史さん:2008/05/07(水) 17:34:41
若年寄(小笠原弘)―――斉脩殿、そこもとが御息女の不始末、幕閣としてはもはや、見過ごすことは出来ぬ
若年寄(国田栄弥)――ー日本橋備前屋なるものより、このようにして目安箱に訴えが。如何なさる御所存じゃ?
若年寄(小笠原弘)――ー御三家筆頭の面目、そのままではたちゆきませぬぞ。斉脩殿
610日本@名無史さん:2008/05/07(水) 22:31:08
白鳥と黒鳥も
佐竹の殿様に付いていけばよかったのに(泣)
611日本@名無史さん:2008/05/08(木) 03:40:07
東北出身で名字が佐竹なんだけど
実はすごい人の子孫だった
っていう可能性ある?
612日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:50:17
>>610
真夏でも千波湖に白鳥や黒鳥がいる不思議 水戸ではありゃ羽が折られてんだど という伝説?がある。
613日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:08:21
快楽園レイプランド
614日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:29:07
>>613
ねえよそんなもん
615日本@名無史さん:2008/05/13(火) 13:46:35
懐かしのレイクランドの事だろ。
616日本@名無史さん:2008/05/17(土) 22:02:28
水戸藩は御三家筆頭の面目がつぶれた
617日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:18:04
三家筆頭は尾張ですが
618日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:01:30
まあ司馬さんも三家筆頭を紀州と書いていたからな
尾張って悲劇
619日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:51:53
三家筆頭を紀州なら吉宗が将軍に就くときにもめる要素はないし、
宗春は速攻で粛清されていただろう。
620日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:15:05
まあ筆頭は尾張だとしても
紀州はそれを認めたくなかったらしく、義直頼宣の代からなにかと張り合ってましたよね
もちろん両者とも水戸は眼中になかったわけですが
そんな状態から吉宗が出て、紀州は将軍家の「おさと」となり
さらに尾張の血統が絶え、吉宗系(もっと言えば治済系)に乗っ取られましたんで
司馬さんの認識に繋がったんでしょうね

。。。ここは水戸のスレでしたね
水戸も斉昭さんがせっせと子作りにはげみ、己が血統をあちこちに売り込みましたね
斉昭さんの子供ではないですが、幕末の尾張も水戸系ですし

水戸の目立ちたがりは、三家の中で独り低いそのポジションゆえでしょうね
621日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:41:14
水戸斉脩は、将軍家から姫を迎えたが、姫に子ができず、このままでは御三家筆頭の面目がたちゆかないと悶死したのである
622日本@名無史さん:2008/05/28(水) 00:30:36
斉脩が悶死したのはわかりますよ
将軍の娘を妻に迎えた苦労は、尾張光友、紀伊綱教も経験しましたからね
生来からだが上部で無かった彼には
すごいプレッシャーだったでしょうね
でも「御三家筆頭」というのはあきらかに違うのでは?
極位極官にしても従三位権中納言で、あきらかに尾紀の下でしょう?
水戸が筆頭だという根拠はなんでしょう?
609のようなやりとりはどこに書かれていたのでしょうか?
教えて欲しいのですが
623日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:12:06
マジになんなよ
昔のドラマのいかした台詞を
大人の余裕で楽しもうぜ
624日本@名無史さん:2008/05/28(水) 12:07:59
なるほど。御三家筆頭の面目が立たないゆえ悶死したのですね
625日本@名無史さん:2008/05/28(水) 14:29:35
思い付いたので書きますが!>>609のやりとりは「闇を斬る大江戸犯科帖」のくだりなのである。まあ、フィクションですから。
水戸藩が御三家筆頭になっていたり、30前後で早世された水戸斉脩さんが異様に老けていたとか、若年寄が御三家当主に対して「そこもと」呼ばわりして上から目線で喋るとか
みなドラマの中でフィクションだす
626日本@名無史さん:2008/05/28(水) 14:55:43
とゆわけで水戸家は御三家筆頭なのです
627日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:08:45
水戸の黄門様って、

江戸城内で、勝手に刀を抜いて、
屏風の裏でコソコソ人を刺し殺してたって、
ホント?

若い頃は暴れ者で、
刀の試し斬りと称して、辻斬りの真似をしてたって
ホント?

大日本史編纂に傾倒しすぎて、藩の財政を傾けてしまい、
それが原因で息子を将軍職に据えることが出来なかったって、
ホント?

教えて、エライ人。
628日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:34:11
屏風の影で殺害したのは藤井紋だゆうだろう
629日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:59:01
藤井紋大夫刺殺は江戸城内じゃなくて、藩邸内じゃなかった?
光圀自らの手で殺したんですよね
それも自ら能楽を演じている、その幕間で
だから屏風の裏なんです
この紋大夫刺殺は動機が不明。それまで可愛がってた臣を何故殺したのか
紋大夫奸臣説から光國狂気説まであります

大日本史については、おっしゃる通りで、このスレにも詳しく書いてあります。
ツナエダはそのとばっちりを受け、名君失格の烙印を押されましたが
元々水戸は将軍候補の家柄ではないですから、八代選びには関係ないです

辻斬りも、自ら認めてますね
ただコレは若さゆえの過ちだというノリの述懐です
家光なんかもやってたそうですよ、辻斬り

ともかく光國は思い込みが激しく、はたにいる人は迷惑だったでしょう
文化事業で国庫を傾けたり、半ば強引に引退させられた点で
バイエルンのルードヴィヒ二世に似ています
630水戸藩付家老中山備前:2008/05/28(水) 19:06:41
藩財政の半分以上を大日本史の編纂に傾けていたんでしょ?
あるいは「干臣」藤井はそれを非難したのかもね
631日本@名無史さん:2008/05/29(木) 19:22:17
光圀の藤井紋太夫刺殺事件は小石川の水戸藩邸で、元禄七(1694)年十一月二十三日に起こりました。
それも幕府家老、諸大名を招いた能舞興行で突発事件の如く装い、人払いした
密室での計画的な惨殺でした。
ちなみに光圀はその数年前、元禄三(1690)年に引退しております。

その原因は諸説入り乱れておりますが、
大石慎三郎さんの『徳川吉宗とその時代』(中公文庫)には次のようにあります

「光圀の時代の推移を読む目のなさ、またその原因でもあり結果でもある超財政
音痴的行動、ためにひき起こされた水戸藩上下を完全に巻き込んだ財政破綻を
救うため、その意志に反して隠居させられたのではないだろうか。幕府と水戸
藩との一致した意思によって――。
その場合、藤井紋太夫は光圀子飼いの臣であったにもかかわらず、光圀の側に
立って行動しなかったのではないだろうか。
あるいは一歩進めて紋太夫が光圀のあとを継いだ水戸家第三代藩主綱条の世子
吉孚(よしざね)の養育係をしていたところから、吉孚の代のことを憂えて、
傷が少しでも浅いうちにと光圀隠退を積極的に推進したのかもしれない。
ともかく断定する史料に欠けるが、こう考えると事件前後のもやもやした矛盾
をより明快に解釈できるのは確かである」
632日本@名無史さん:2008/05/30(金) 10:51:53
御三家筆頭としての面目、このままでは立ちゆきませぬぞ、斉脩殿
633日本@名無史さん:2008/05/30(金) 13:00:15
斉脩
諡号 哀公
ネーミングまで、虐めですな

彼が早死にしなければ烈公の出る幕はなく、日本も
も少し静かに新時代を迎えられただろうに
634日本@名無史さん:2008/05/30(金) 15:17:26
藩家老の鈴木石見守らが推挙した、将軍家子息斉彊を養子に迎えていれば、わが近代への道筋も軟着陸で済んだものを
635日本@名無史さん:2008/05/30(金) 21:09:48
水野忠成が家斉の子の斉彊を水戸藩の養子に薦めてきた時点で受けるべきだったんだがね
将軍の子ならば御三家筆頭の家格にふさわしかろう
636日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:17:43
このスレでは水戸が御三家の筆頭です
詳しくは>>609を見てね
637日本@名無史さん:2008/06/02(月) 12:41:05
御三家筆頭・水戸斉脩あげ
638日本@名無史さん:2008/06/07(土) 17:31:35
 
639日本@名無史さん:2008/06/07(土) 21:00:14
水戸が御三家筆頭のケース
1→水戸家の当主の官位が尾張・紀伊の当主が若年のため一時的に高い場合。
2→徳川圀順が公爵に昇り、尾張・紀伊が侯爵にとどまったため。(昭和初期)
640日本@名無史さん:2008/06/07(土) 22:34:46
すると斉脩の場合、文政10年(1827)が、筆頭に肉薄した時期ですな
当時
尾張斉温(11代) 従三位左近衛権中将
紀伊斉順(11代) 従三位権中納言(文政7年より)
水戸斉脩(8代) 従三位権中納言(文政8年より)
おしい。。。あと2年早ければ先任だったのになあ。。。
641日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:25:03
しかしこのスレでの斉脩殿の筆頭は崩れぬのですぞ
642日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:57
綱條は吉宗、継友に対して御三家筆頭だった。
というか、城中席次の上での話でしょ。
643日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:22:05
正徳6年(1716年;6月に享保に改元)時点での官位

尾張継友(25歳) 従三位権中納言
紀伊吉宗(33歳) 従三位権中納言
水戸綱條(61歳) 従三位権中納言
横並び

「家格から言えば尾張殿、年齢では水戸殿」とは『徳川実紀』に見える吉宗
の言
というわけで筆頭は尾張というのが当時の認識では??
でも自分が継いじゃったんだけどね
644若年寄(小笠原弘):2008/06/09(月) 00:26:54
御三家筆頭の面目、このままではたちゆきませぬぞ、斉脩殿
645日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:33:27
>>643
昇進・叙任の順で上位が決まります。
したがってこの時期は、水・紀・尾の「席次」です。
家格の移動を意味しません。
646日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:36:46
なるほど、了解しましたん
647日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:41:51
権中納言叙任
水戸綱條 宝永2年(1706)
紀伊吉宗 宝永4年(1707)
尾張継友 正徳5年(1715)

648家宣:2008/06/09(月) 00:44:27
よって綱條卿を御三家筆頭に叙す
649日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:48:26
斉脩殿おしかったでござるな
650斉脩:2008/06/09(月) 03:19:56
「闇を斬る!大江戸犯科帳」に出てくる架空の幕閣たちは私を御三家筆頭と認めてくれているから満足じゃ
651日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:54:40
筆頭あげ
652日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:12:34
寛永年間(1640)に行われた検地はきびしくて一尺の空地も残さず調査をうけ、隠田(かくしだ)等も詮議をうけて
年貢は五公五民から六公四民と収穫高の半分か或はそれ以上を上納せねばならなかったから農民の苦しみは他の藩領に
比して苛酷を極め遂に久慈郡生瀬村のような農民騒動まで引き起す程の圧政的政策であったことが明かである。

ここに山川菊栄著「覚書幕末の水戸藩」の中からこの生瀬騒動の経緯(いきさつ)を書いて見よう。

この事件は初代藩主頼房が水戸に封ぜられた慶長14年(1607)の事だという。
佐竹から徳川へと領主の変った年の秋10月、久慈郡小生瀬の百姓が刈入れを終えた所
へ水戸から年貢とりの小役人が二人来たので、命ぜられるままに年貢を渡した。すると2、3日の後、
また同じような下役人が二人やってきて、またしても年貢を出せという。
村人はてっきりニセ役人がきて年貢の二重取りをすると思いこみ、猛りたって鍬、鎌などを振って追いま
653日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:13:22
わし遂に一人を殺し俵につめ水戸城下まで送りつけた。水戸が何100年の領主佐竹から徳川にひきつがれた
ばかりではあり、藩主は幼年なので治世の初めに甘い顔を見せてはならぬと思ったのであろう直ちに兵を率いて小生瀬を襲い逃げまどう
老若男女を片はしから斬りまくり辛うじて隣接する他領に落ちのびた数名の外は皆殺しにしてしまった。
旧藩時代水戸程役人武士がいばり水戸ほど検米(年貢)のきびしい所はなかったのだが農民騒動が稀であった陰には
藩初のこの流血沙汰が幕末まで人の口にのぼり農民がおびえきっていたせいであろう。年貢とりの役人が二度来たので贋(にせ)もの
騒ぎになったのだが、実は初めに来た方が怪しく二度目の方が本物だったのをその本物の方を鍬、鎌を持って追いまわし、一人を殺害
してしまったのは真実らしくそれから1、2日たって10月10日の刈り上げ祝の当日村中仕事を休んで隣り近所より合って笑いさざめきながら
祝餅を搗いている最中、疾風のように一隊の軍勢が襲って来た。白刃一閃生首はうすの中にとびこみ、
あたり一面血の海となり逃げまどう村人は、追われ追われて子を抱いた母も、老いかがんだ姑も、
それをかばう若嫁も殺害され見るまに屍の山となってしまった。
その時拾い集めた首を埋めたのが首塚、胴を葬ったのが胴塚、多勢一つの所に追いつめられ手を合せて命乞いをした所が、
嘆願沢、最後に一人残らず斬り捨てられた所が地獄沢と今なおその場所にそのまま名を残している。
こうして一村全滅した小生瀬は隣接する下野国(栃木県)から移住した農民に引きつがれ彼等は郷里の地名を持ちこんだので、
今でもこの村には下野と同じ地名があちこちに残っているという。近世の百姓一揆の中でこの生瀬騒動ほど残酷な処分を受けた例は他に見ないし、
当時小生瀬の人口がどれ程あったかは知らないが500人に近い村人が住んでいたと推察される。
それが下役人一人を殺したといって500人が皆殺しにされたわけで戦国時代の余燼の消えない頃とはいえあま
りにも無惨な話であり封建社会というものの暗さと独裁政治の無謀さとを現わす大きい一例といえよう。
654日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:19:13
何の権限もない隠居ジジイが、世直しと称して、将軍家の威光を利用して
やりたい放題。とんでもないことです。
本人は裁判官気取りでおりますが、それならば、どうして弁護人をつけないのでしょうか。
また、裁判官自ら捜査して、取調べをして、裁断するとは、およそ裁判には許されないことです。
予断を排除して、検察官と弁護人の主張と証拠を吟味して、判断を下すのが裁判官の役割なのに、彼は何も理解していません。
しかも、「光圀しかと見届けたぞ」とか「だまらっしゃい」などといって、悪代官には弁明の機会を与えてないも同然です。
これでは、小学校の学級裁判と同じでしょう。
こんな横暴を正義の実現として正当化しようとするドラマは、百害あって一利なしです。
水戸黄門と同じ手法を政治に取り込もうとしているアホな輩もおり、ドラマ水戸黄門が有害な効果をもたらしていることは明らかです。
655日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:31:23
実際の幕府代官は、少ないスタッフで広大な天領を管理しなきゃならなかったから、テレビのように
悪事など行う暇なかったけどな

水戸の方がテレビの悪代官顔負けの非情さだ

『黄門様の知恵袋』なる本には、年貢取り立て厳しい水戸藩代官に、もっと民を労るよう諭したお優しい手紙を載せてるが
高い年貢を取り立てざるを得なくなったのは自分だろうに
テレビのご老公顔負けの偽善者だ
656日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:08:09
田安宗武が家重から蟄居を命じられた理由は?
どなたかご存じあれば、ご教示願う。
657日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:10:51
>>656
ごめん。。。誤爆です。
658日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:25:01
水戸は天下のはみ出し者
659日本@名無史さん:2008/06/20(金) 15:52:29
古河、結城は栃木県にしろ!
660日本@名無史さん:2008/06/20(金) 21:19:08
御三家筆頭首座
661日本@名無史さん:2008/06/21(土) 00:25:30
首座?はぁ?
662日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:26:39
このスレでは水戸が御三家筆頭なのです
そして最も輝いているのが哀公斉脩殿!!
詳しくは>>609>>639->>650を見てね
663日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:52:01
尾張は、木曽の山林伐採や新田開発等で、実高100万石超だったそうですが、水戸も表高と実高はあるのかな?
664日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:41:19
イェバゲはほとんど平地だから表高も裏高もほぼ同じ。干し芋以外は納豆しか売り物がないのは江戸時代から
665日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:55:48
水戸家は新田開発なんかやってなくて、中身が伴ってないのに35万石ですなどとウソの申請を幕府にしている。
御三家筆頭、一族首座の矜持がなせるわざといえよう
666日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:17:19
水戸徳川家は徳川埋蔵金の一部である
分銅金を隠さないで今すぐ公開しなさい!
「萬治弍年己亥正月吉日」
「行軍守城用勿作尋常費」
と表面に刻まれいる分銅金だ。
明治末期に見た人がいる。隠すな!
667日本@名無史さん:2008/06/22(日) 18:12:04
攘夷断行の勅命が尾張でも紀伊でもなく水戸慶篤に下ったことからも水戸が御三家筆頭であることは明々瞭々
668日本@名無史さん:2008/06/23(月) 10:18:39
日本有史上、一番最初にラーメンを食した人物は、光国様だから三家筆頭たる証し
669日本@名無史さん:2008/06/23(月) 17:51:32
ラーメンを食べたのも御三家首座の光圀公!
670日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:16:22
江戸定府の水戸様はいつも何をしてたの?
遊びに行ったり、お忍びで市中徘徊したりしなかったのかな?
671日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:40:02
水戸侯は諸役人を叱り飛ばすか、京都からきた美人の上籠を犯して子供をはらませていました
672日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:29:35
責任と重圧がのしかかる将軍様より、水戸様は天国に一番ちかいとこにいるんだ
673日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:02:54
公方、大奥、井伊、阿部以外の老中、南紀派溜詰格にことごとく嫌われるようでは、御三家筆頭の面目がたちゆかないですぞ、斉昭どの。
674日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:56:18
いま、Wiki で天狗党を読んできたのだけど、栃木を焼き討ちし
良民を殺害し婦女を暴行し金品を強奪したことを書いてないので驚いた。
きっと茨城県民が執筆したのに違いない。
675日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:12:41
徳川斉脩 寛政九年(1797)〜文政十二年(1829)
七代藩主治紀の長男に生まれ、文化十三年(1816)、二十歳で第八代藩主に就
任。治世は十三年。保守門閥派を登用、幕府からの助成金、誤用金徴収、大坂
商人からの借金、献金郷士制の復活などで藩財政の窮迫打開を策した。
正室峯姫は将軍家斉の娘であり、門閥重臣らはこの関係を利用して幕閣に近づ
き、幕府からの拝借金の棄捐に成功、さらに一万両の助成金の永続給付を獲得
した。

やるじゃん、哀公
676国田栄弥:2008/06/29(日) 22:15:40
なんてったって御三家筆頭ですから
677日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:53:10
徳川頼房 慶長9年(1603)〜寛文元年(1661)
慶長10年(1605)、三歳の時に常陸国下妻10万石に封ぜられ、同14年、水戸
25万石の城主に移された。
元和8年(1622)3万石加増されて28万石。
水戸藩主としての治世は53年の永きにわたるが、この間家臣団の統制、水戸
城の整備拡張、城下町と水戸の整備、領内総検地、水利事業、鉱山開発など
藩政の基盤形成に努めた。 
寛永18年(1641)に行った領内総検地は寸余の土地も見逃さない徹底振りで
36万石余の石高を検出した。

ひどいなあ、威公
678日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:55:27
でも子沢山
679日本@名無史さん:2008/06/30(月) 09:27:21
定府でほとんど水戸にいなかったんだから、
功罪ともに家臣のものだね。
680日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:56:50
>>679
それは興味深い指摘です
光圀が年貢の取り立てを厳しくせず、民をいたわれとした手紙が残ってますが、
それなら分不相応な文化事業をやめりゃいいじゃん! と覆わず突っ込んで
しまったのですが、
思えば光圀はホントに何にもわかってなかったんでしょうね
そして現場の下役人が常に苦労する
頭のいいだけに始末に負えない馬鹿殿ですよね
681日本@名無史さん:2008/06/30(月) 22:11:44
>>675
幕府からの借金の棄捐と、助成金の引き出しは峯姫(美子)様の功績であるぞ
682日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:25:47
徳川光圀 寛永5年(1628)〜元禄13年(1700)
・父の死に際し殉死を禁じ、幕府の殉死厳禁の先例をなした
・寺社改革を断行して宗教界の刷新をはかった
・笠原水道を建設して水戸下町の下水道問題を解決
・『救民妙薬』を刊行して民間医療に意を注ぐ
・『大日本史』『釈万葉集』『礼儀類典』『花押藪』などの編纂
・文化財の修理保存
・那須国造碑の保存とその付近の侍塚の発掘調査
・将軍継嗣問題での主張(5代に綱吉、6代に綱豊を推す)
・生類憐れみの令に対する批判的態度

しかし『大日本史』編纂は実に藩財政の3分の1を占め、ために農村は疲弊
し、現在の水戸には納豆と梅干くらいしか名物が無い、と言われるくらい
三家城下町の中で、名古屋はいうにおよばず、和歌山にも遠く及ばず、
黄門様のお膝元は苛斂誅求にあえいでいたのでありました
683日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:26:41
義公とは名ばかりのエエカッコシイであります
684日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:09:44
やんちゃな七郎麿慶喜は小さい頃におとなしい性格の五郎麿(池田慶徳)をいじめていたらしいですが、大人になった二人の仲はどうだったのでしょう?
685日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:57:58
そのやんちゃな七郎麿は、あまりにやんちゃなため、祖母に叱り付けられた
ところ、恐れ入るどころか
「なんだ、この坊主め」
とばかり、祖母の頭を力任せに打ったそうな
祖母にすらこの調子なんですから、愚鈍な兄弟に対して尊大なことは当たり前
スよ
大人になってからの慶喜君は、一橋家当主だし、最初謹慎食らっちゃうし、そ
の後は将軍後見職を2年、禁裏守衛総督を3年ほどやって、宗家の家督ついで
戦に負けて謹慎して、なんやかやあって、静岡でじっとして、、、と
まるで二人の接点はありませんなあ
官軍の処分では、五郎麿クンのところで謹慎のはずが、山岡や勝がねばって
水戸での謹慎となったし
ゴロマロは明治10年に死んじゃうから、まともな交流はなかったんじゃないの?
686日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:57:21
>>684
その2人は5男と7男でありながら生まれが2カ月しか違わないんだっけ?
慶喜は正室腹で有栖川宮の外孫だから、威張ってそう。
687日本@名無史さん:2008/07/01(火) 18:58:48
弘道館には五・七・八郎麿の三人で一緒に通っていたらしいね。
学問好きで、ままごとなどをして遊んでいた五郎麿とは反りが合わなかったんだろう。
八郎麿(松平直侯)はどんな性格だったか知らないけど
688日本@名無史さん:2008/07/01(火) 20:20:11
>>176
加藤木ですが、何か質問ありますか?
689日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:59:36
徳川綱條 明暦2年(1656)〜享保3年(1718)
光圀の兄讃岐高松藩主松平頼重の次男
兄綱方の死により光圀の養子となり、元禄3年(1690)第三代藩主に就任
綱條の直面したのは藩財政の困窮であり、その再建のために宝永の新法と称さ
れる藩政改革を実施した。宝永3年(1706)、牢人松波勘十郎を登用、財政再
建を一任。松波は、経費の節減、年貢の増徴、専売制の強化、城下町商業の統
制緩和などの諸政策を打ち出し、さらに大規模な「新川普請」を断行した。
新川普請とは涸沼と北浦を結ぶ紅葉運河と、大貫海岸と涸沼川を結ぶ大貫運河
の開削をいう。この運河の開削によって、流通経済の活性化を意図したもので
ある。
しかし松波の改革は領内農民の大一揆を惹起し、松波は追放され、改革は中止
となった。綱條は藩財政再建の見通しすら立てられないまま病没


光圀の負の遺産をもろに引っかぶった粛公
しかし松波に責任をおっかぶせるたあ、ひどいんでないかい?
690日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:26:07
池田慶徳「慶喜って何考えてるか分からん奴でしょう?」
松平容保「はい。自分勝手ですし。」
691日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:38:39
徳川吉孚(よしざね)貞享2年(1685)〜宝永6年
水戸徳川家の3代藩主徳川綱條の三男としてうまれ、水戸家の御曹子として育
ったそうです。
いいつたえでは、大変な美男子だったとされ、5代将軍・徳川綱吉公に大変気
に入られたそうです。
綱吉公の養女だった八重姫と婚姻して、一女をもうけますが、水戸家の藩主と
なることなく死去。
父である綱条公はじめ水戸家の嘆きは深かったといいます。
吉孚公の一女である美代姫は、讃岐高松藩主の子であった宗堯公が4代藩主と
なると、その正室となります。
宗堯公と美代姫の子である宗翰公が5代藩主となっています。
吉孚公の死後、正室である八重姫は、「養仙院(のちに随性院)」と号し、「
将軍養女」としてたびたび江戸城へあがったそうです。


諡号は恭伯世子
美人薄命は男にも通ず、か
692日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:43:49
>>691 吉ざねは何年に死んだの?
以前水戸黄門スペシャルに出てきた時には利発な少年て感じだったが
693日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:05:30
宝永六年は1709年
25歳だね、死んだの
694日本@名無史さん:2008/07/06(日) 09:30:11
>>693 サンクス!
695日本@名無史さん:2008/08/22(金) 13:30:28
光圀は隠居してから中納言。
極官とはいえ遅すぎだ。
696日本@名無史さん:2008/08/23(土) 09:39:21
印籠にはじつは菊の紋が入っていたW
697日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:28:40
↑つまんないよ?
698日本@名無史さん:2008/08/29(金) 05:58:12
佐竹>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>水戸徳川
699日本@名無史さん:2008/08/29(金) 09:24:34
具体的にはなにも説明できない不等号バカ発見
700日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:23:30
斉昭の兄の斉のぶって家斉の娘が正室だったから、妾つくれなかったの?