高松・屋島城 城門復元へ 古代山城最大規模
市教委が08年度着工 16日遺構見学会
「日本書紀」にその名が記されている古代山城・屋島城(やしまのき)(高松市屋島)で、高松市教委は6年前に出土した大型の城門を復元する。
2008年度から着手し、14年度末には築城当時の姿を再現して一般公開する予定。着工を前に、出土したままの遺構を見られる最後の機会として、
一般向けの見学会を16日に開催する。
屋島城は「日本書紀」天智六(667)年の条に現れる。663年の白村江の戦いで敗れた大和政権が、唐・新羅の連合軍からの侵攻に備えて
築いた6城の1つとされるが、2002年に屋島の南嶺(れい)西側の斜面で城門遺構が確認されるまで存在が確定していなかった。
城門は幅約5・4メートル、奥行き約9メートルで、国内の古代山城としては最大規模。門の床面には、類例のほとんどない階段状の石積みと、
鬼ノ城(総社市奥坂)北門に次ぐ2例目の排水溝跡(全長約6・7メートル)が見つかった。
市教委の復元プランでは、08年度から7年かけて城門と周辺の城壁の崩れそうな石垣を解体して積み直すほか、城門床面を修復。
16日は午前10時〜正午に屋島山上にある屋島寺(高松市屋島東町)南側の広場で参加を受け付ける。無料。
(2008年3月15日掲載)
http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2008/03/15/2008031509592062022.html
http://www.shizushin.com/culture/20080314000000000014.htm(画像あり)
浜松市文化財担当課は13日、同市中区森田町で発掘中の「鳥居松遺跡」から奈良時代の布の生産に
関する貴重な木簡が出土した、と発表した。読み取れる文面は「糸一斤(約600グラム)を貸し与える」と
いった内容で、郡役所の布生産管理を示す木簡出土は全国初という。近くの伊場遺跡とつながった大規模な
役所跡とみられ、地方史を知ることができる木簡出土などから同課は一帯を「地方の正倉院」と評している。
文面は奈良文化財研究所の協力で、赤外線などを使って解読し、農民が税として京へ納める絹の布を
役所に織ってもらう際の「貸し付け証文」のような記録であることが分かった。当時の税金の租庸調(そようちょう)
として「布の生産を郡役所が管理していたことが具体的に知ることができる貴重な史料」(同課)とみられている。
また、出土した土器の9点に「稲万呂」と記した稲もみ状のマークが見つかり、「稲万呂という郡役所の
有力者がいたらしい」ことが判明した。
鳥居松遺跡は伊場遺跡の東約500メートル。2つの遺跡を結ぶ幅20メートルほどの大規模な溝も見つかり、
1200年以上前の奈良時代から平安時代に遠江国(とおとうみのくに)敷智(ふち)郡の役所が広がっていた、と
同課はみている。溝からは舟形や人形など祭りに使った用具も多数出土している。
16日には中区森田町の現地事務所で午前10時から説明会を開く。
3月14日 08:35 【静岡新聞】
http://kiji.i-bunbun.com/read/read.cgi?1205506800=120554120131089=1(画像あり)
中津市教委は二十日午前十時から、同市諸田の諸田南遺跡(古池地区)で現地説明会を開く。
本年度発掘調査で、同遺跡から弥生時代から平安時代の建物の柱跡、円面硯(けん)、製塩土器、
土(は)師(じ)器など多数の土器片が出土した。
同遺跡は、二〇〇二年度の中津日田道路建設に伴う調査で見つかった。古墳時代から中世に至る
集落跡が発掘されている。〇六年度調査では、古代のたこつぼなどが出土した。現在は圃場(ほじょう)
整備に伴う調査で、〇九年度まで続く。
本年度の調査は、JR日豊線南側の約六千平方メートルで実施した。弥生時代の土坑、古墳時代の
竪穴住居の柱跡、耳(じ)環(かん)が出土した土坑、奈良・平安時代の掘っ立て柱建物三十四棟、たこ
つぼ焼いた土坑二基などを検出した。 ほぼ同じ層にすべての時代の遺構が見つかったのが特徴という。
主な出土物は、八世紀後半の「円面硯」の一部で、役人や僧侶などが文字を書くために使ったと考えられる。
製塩土器は鉢のような形で、粗塩を作るために使った土器。直径二十センチの大型食器も見つかった。
当日は同市教委文化振興課文化財係の調査員が説明。出土物も展示する。雨天中止。問い合わせは
市歴史民族資料館内の同係(TEL0979・23・8615)へ。
3月15日 09:33 【大分合同新聞】
6 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 17:30:00
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080321-OYT1T00429.htm 明治天皇を隠し撮り、不敬罪おそれ1世紀秘蔵
明治末期に隠し撮りされた明治天皇(1852〜1912年)の写真を、
所有者の元会社役員、安藤恒男さん(83)(神奈川県藤沢市在住)が初めて公にし、
東京・渋谷区の東郷神社などに複製を寄贈した。
写真嫌いで知られた明治天皇の写真は数少なく、撮影自体が不敬行為とされていた時代で、
民間人が撮影したスナップはほとんど知られていないだけに、貴重な資料として注目を集めそうだ。
写真は、1911年(明治44年)5月16日、旧陸軍経理学校(東京・新宿区)の卒業式に出席した際のもの。
菊の紋章入りのテントに置かれた席を立ち、校庭に敷かれたじゅうたんの上を校長に導かれて歩く姿がとらえられている。
背景には陸軍の幹部が居並び敬礼している。
安藤さんの父、昇さんが第7期生として同校に在学中、ひそかに写真師に依頼して校舎2階から撮影させたものだという。
36年(昭和11年)になって、父から「天皇陛下を見下ろす写真を撮るのは不敬罪だから誰にも見せるな」と注意された上で見せてもらい、
そのまま家族のアルバムに収めたままになっていた。
この写真は、28日に発売される石原莞爾著『世界最終戦争』(毎日ワンズ)に掲載される。
(2008年3月21日14時55分 読売新聞)
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20080321-1660419-1-L.jpg 陸軍経理学校の卒業式に出席した明治天皇(歩く一団の左から2人目)=1911年5月16日撮影)
>>1 ローカルルール
※ソースを明記すること
※深く議論をする場合は各専用スレで
※日本以外の歴史ニュースは世界史板で
※近代史は日本近代史板で
8 :
青森:2008/03/22(土) 01:09:46
9 :
奈良:2008/03/22(土) 01:14:08
藤原京から昨年出土の富本銭は“新種”だった【比較イラスト】
2008.3.17 22:19
国内初の本格的都城として持統天皇が開いた藤原京(694〜710年)の大極殿前の南門跡から昨年出土した地鎮具のうち、最古の貨幣「富本(ふほん)銭」について、奈良文化財研究所は17日、
当時の造幣局があったとされる飛鳥池遺跡(同県明日香村)出土の貨幣と字体が異なる新タイプだったと発表した。遷都に際してニュータイプの富本銭を作り、「記念硬貨」として藤原宮の地鎮祭で納めた可能性も浮上している。
富本銭は直径2・4センチで、水晶9個とともに、地鎮具とみられるつぼの中に9枚入っていた。取り出して調べた結果、貨幣の「富」の文字が「ワかんむり」で、かんむりの下の「一」も省略され、本来の「富」の文字が鋳込まれた飛鳥池遺跡出土とは字体が異なる。
さらに、9枚中4枚には金色が増す特殊金属・アンチモンが含まれていなかった。飛鳥池遺跡の富本銭はアンチモンが検出されており、今回の富本銭は飛鳥池遺跡以外で製作されたとみられる。
日本書紀には、藤原京遷都(694年12月)直前の同年3月、「直(じき)広(こう)肆(し)大(おお)宅(やけの)朝臣(あそん)麻呂らを鋳銭(ぜにの)司(つかさ)(造幣局高官)に任命する」と記されている。
今回の富本銭は、その際に新たに設けられた造幣局で鋳造された可能性が高まった。
■富本銭 「民や国を富ませる本(もと)」を意味し、平成10年に飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)で鋳型とともに約560枚が出土し、最古の貨幣と判明した。
日本書紀には、683年に天武天皇が「今後必ず銅銭を用いよ」と命じたと記され、この時に発行されたのが富本銭にあたる。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080317/acd0803172223011-n1.htm 富本銭:新種発見 白浜でも同種デザイン、見直される“中世の模造品” /和歌山
http://mainichi.jp/area/wakayama/news/20080318ddlk30040422000c.html
10 :
山口:2008/03/22(土) 01:16:09
県文化財保護審:萩の郡司鋳造所跡の出土品、指定を答申 /山口
県文化財保護審議会は17日、萩市椿東の郡司鋳造所跡から出土した鋳造関連品=県埋蔵文化財センター保管=を県有形文化財(考古資料)に指定するよう答申した。
江戸前期から幕末期の軍事用品など計405点で、長州藩が自力で西洋技術導入に取り組んだことを示す貴重な資料と判断した。24日の教育委員会会議で正式決定する。県指定文化財は347件となる。
鋳型及び関連品359点▽溶解炉及び関連品43点▽鋳造品3点−−で、センターが00〜01年度、郡司鋳造所跡を発掘中、出土した。郡司家は江戸時代の萩藩の鋳物師として知られ、梵鐘(ぼんしょう)や分銅などの鋳型もある。
四国連合艦隊下関砲撃事件(1864年)で長州藩が使用したとされる西洋式大砲や砲弾などを生産した鋳造関連品も含まれている。
県教委社会教育・文化財課の松本弘課長は「当時の軍事産業の実態を表しており全国的にも珍しい」としている。【島田信幸】
〔山口版〕
毎日新聞 2008年3月18日
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20080318ddlk35040531000c.html
11 :
徳島:2008/03/22(土) 01:18:05
南蔵本遺跡:水利施設の遺構見つかる 弥生時代前期の堰、県内で2例目 /徳島
県立中央病院改築工事(08年度中に着工予定)に伴う事前調査で、徳島市南蔵本町1の南蔵本遺跡を発掘調査していた県教委と県埋蔵文化財センターは18日、弥生時代前期の水利施設の遺構が見つかったと発表した。
確認されたのは、川の流れに杭(くい)を打ち込み、板をはめ込んだ堰(せき)。
木製の杭67本(直径3〜5センチ、残存長30センチ前後が中心)が並列に打ち込まれ、堰板6枚(幅20センチ、厚さ1・5センチ、残存長15〜40センチ)が杭と杭との間をつなぐようにはめ込まれていた。
西から東への水流に対して斜めに築かれ、自然流を南側の水田に分水していたと思われる。
また、堰が見つかった流路の北側に、ほぼ平行する形で弥生時代前期の人工溝が2本見つかった。幅80センチ〜1メートル、深さ60センチ〜1メートルで北側の水田に水を供給していたらしい。
弥生時代前期の堰が発見されたのは、今回の現場から約150メートル南西の庄・蔵本遺跡で95年に見つかった堰に続き、県内で2例目。同センターの近藤玲・主任研究員は「全国で十数例しか確認されておらず、非常に貴重な遺構」と話している。
20日午前10時から、現地説明会が開かれる。雨天決行。問い合わせは同センター(088・672・4545)。【岸川弘明】
毎日新聞 2008年3月19日
http://mainichi.jp/area/tokushima/news/20080319ddlk36040529000c.html
12 :
東京:2008/03/22(土) 01:20:19
13 :
三重:2008/03/22(土) 01:22:22
保存処理の作業が終了――「船形埴輪」を公開
松阪であすから【写真】
松阪市宝塚町の国史跡「宝塚1号墳」(前方後円墳)から2000年2月に出土し、05年2月に国の重要文化財に指定された国内最大級の「船形埴輪(はにわ)」を恒久的に保存するための修復作業が終わった。
20日から4月6日まで、市文化財センター「はにわ館」の開館5周年記念として無料公開される。
船形埴輪は、全長140センチ、幅35センチ、高さ94センチで、重さ72キロ。国内では最大級の船形埴輪で、5世紀初めのものとみられる。
修復作業は昨年7月、文化庁の美術品や工芸品の保存修理事業として国宝や重要文化財の修理実績がある財団法人・元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)に依頼。費用は542万円で、国や県の補助を受けた。
修復作業は8か月かけて行われた。同研究所では、船形埴輪を出土した当時の状態に解体し、約270点ある破片の「ひび割れ」の有無をX線調査で確認。
ほこりを取り除いたあと、もろくなっていた破片の内部や欠損部分を樹脂で埋めて強化し、耐久性のある接着剤で接合するなどして保存処理した。
市文化財センターの松葉和也主事(40)は「修復によって約1600年前の状態に近づいた船型埴輪にロマンを感じてほしい」と話している。
同センターでは、公開初日の20日午前11時、職員が修復前と修復後の違いについて解説する。問い合わせは同センター(0598・26・7330)。
(2008年3月19日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20080318-OYT8T00752.htm
14 :
秋田:2008/03/22(土) 01:24:44
秋田、大雪で古墳造れず? 男鹿・一ノ目潟の地層分析
国際日本文化研究センター(京都府)の安田喜憲教授の研究グループは14日、男鹿市の一ノ目潟で行った年縞(ねんこう)の発掘、分析調査の中間報告を発表した。
古墳時代(3世紀末―7世紀)の秋田県は冷涼多湿な気候で、現在の約1.5倍の降雪量があったとみられ、大雪のため古墳文化が根付かなかった可能性があると指摘した。
一ノ目潟の湖底で、2006年に深さ37メートルから採取した堆積(たいせき)物は、過去3万年分の年縞と分かった。安田教授らは堆積物に含まれるスギやマツなど、178種類の花粉量や有機物量を調べ、約1年かけ最上部の5メートル、過去4800年分を分析した。
古墳時代の花粉量から、当時の年平均気温が現在より3度前後低く、冬の降水量が400ミリ多いことが判明。安田教授は「秋田県に古墳が少ないのは、古墳が造れないほど大雪が降っていたからではないか」と解説した。
現在、県内各地に自生する秋田スギは、3500年前に花粉量が急増した。世界的に気候が寒冷化した時期で、県内が冷涼湿潤化したことに伴い、秋田スギが一気に拡大したとみられる。
平安時代末期の1000―1150年ごろ、秋田スギやブナの花粉量は激減した。わずか20年程度でスギは8割減少し、ブナは9割減ったとみられ、当時、大規模な森林伐採が行われた可能性が高まった。
安田教授は「前九年の役、後三年の役と時期が重なるが、当時の地方豪族は野山を積極的に開墾し、勢いがあったと推測できる。豊かさゆえ、豪族の争いも絶えなかったのでは」と指摘した。
一ノ目潟は河川の流入が少ないため、全国でも例のない良質、鮮明な年縞が発掘されている。
[年縞]湖沼の堆積物が形成した白と黒のしま模様の地層。春から夏にかけ、湖沼底にたまる植物性プランクトンが白い層を作り、秋から冬にかけて粘土鉱物などが黒い層を作る。1年ごとにしま模様を描くため、年単位で気候変動など自然環境の変遷が分かる。
2008年03月14日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/03/20080315t45027.htm
15 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:40:30
16 :
大分県臼杵市:2008/03/22(土) 23:46:24
17 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:48:54
18 :
韓国・順天市:2008/03/25(火) 23:24:16
朝鮮半島「倭城」の石垣本格復元 【写真】
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱、1592−98年)で日本側が朝鮮半島に築いた倭城の1つ、順天城(韓国・順天市)で行われていた石垣の復元工事がこのほど終了した。
過去に例がない本格的な復元で、県立名護屋城博物館(唐津市鎮西町)の学芸課長、高瀬哲郎さん(56)が全面的に指導した。
侵略の拠点だった倭城での共同作業を終えた高瀬さんは「日韓が協力し、遺跡を通じて歴史の実態を探るという新たな交流の第一歩になる」と話す。
順天城は慶長の役の1597年、宇喜多秀家らが築城したとされる。韓国南部沿岸の約30カ所で確認されている倭城のなかでも最大規模で、順天市は観光資源にしようと公園化を計画。事業費は106億ウォン(約11億円)で、昨年1月に工事に取りかかった。
だが、日本の伝統技術を使い、韓国人の手で行う石垣の復元には困難を伴った。綿密な打ち合わせを経て計画書を作成、名護屋城跡で技術指導も行ったが、昨年2月にメールで送られてきた写真を見た高瀬さんはがく然とした。
横向きに並べなければならない石が、不規則に縦や斜めに置かれていた。「当時の築城技術を使って復元するという認識が不足していた」。高瀬さんは積み上げた石をすべて取り壊すよう指示。作業は振り出しに戻った。
約3カ月間の工事の中断を経て、高瀬さんは5月に現地を訪れた。取り壊しについて作業員は難色を示したが、作業のポイントなどを根気強く説明。石選びや積み上げ作業にも参加し、ともに汗を流した。高瀬さんの訪問をきっかけに復元は軌道に乗り始めた。
その後は頻繁にメールをやりとりし、作業の状況を確認しながら修正点を指示。大手門から天守台まで、城全体の石垣復元を終えた。
高瀬さんは「共通認識を作り上げるまでが難しかったが、文化財としての重要性を理解してくれた後は、日本人よりも素直に耳を傾けてくれた」と振り返る。
工事の完成が近づいた2月上旬、最終確認のために現地を訪れた高瀬さんに対し、順天市から感謝牌が贈られた。反日感情とも絡む倭城を舞台にした交流の成果に、高瀬さんは「両国の人々が歴史的事実を共有できたことは今後大きな財産になる」と語る。
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&mode=0&classId=0&blockId=829321&newsMode=article
19 :
大分県・臼杵市:2008/03/27(木) 22:07:47
臼杵城の天守台石垣、名護屋城同時期築造と判明 (08.03.21)【写真】
臼杵市教委は、臼杵城(県指定史跡)の天守台石垣は豊臣秀吉が築いた名護屋城(佐賀県唐津市)とほぼ同じ1590年代のもので、関ヶ原合戦(1600年)以前に秀吉配下の大名が築いた城郭としては九州唯一の遺構であることが判明したと発表した。
この時期の天守台遺構は全国的にも珍しく、「石垣・瓦ぶきの高層建物を整備する織豊系城郭の流れを知るうえでも貴重な資料になる」としている。
今年度着手した「天守櫓(やぐら)周辺保存整備工事」で約4メートル掘り下げたところ、粗割りした「野面(のづら)」と呼ばれる石を使った石垣などが出土。さらに、四隅の石が大小交互に積まれていたことなどから名護屋城と同じ手法で築かれたと判断したという。
臼杵城はキリシタン大名として知られる大友宗麟が1556年に築城。子の義統が秀吉に追われた後は秀吉直属の福原直高が1594年に、太田一吉が1597年にそれぞれ城主になった。天守台はこの2人のいずれかが築いたとみられる。
このほか、城主の居館があった「西の丸帯曲輪(おびぐるわ)周辺石垣保存整備工事」では、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」にも記述がある大友時代の全焼火災(1588年1月)をうかがわせる焼け土や灰が混じった土層などの痕跡を確認したという。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/kouko/803/ko_803_032102.htm
20 :
奈良県・明日香村:2008/03/27(木) 22:31:48
蘇我氏の武器庫?発見 入鹿邸とほぼ確定 奈良・甘樫丘【写真・図】
2008年03月27日20時55分
大化改新のきっかけとなったクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)で倒された蘇我入鹿(そがのいるか)(?〜645)の邸宅跡があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で、7世紀前半の建物(倉庫)跡が見つかった。
奈良文化財研究所が27日発表した。日本書紀に記述のある蘇我邸の兵庫(つわものぐら)(武器庫)とみられ、7世紀半ばに廃絶したことなども判明したため、一帯が入鹿の邸宅だったことがほぼ確定した。
05年度調査で7世紀の掘っ立て柱建物や塀などが見つかっており、今回は時代や規模を特定するため調査範囲を周囲約950平方メートルに広げた。
確認された7世紀前半の建物は三つ。二つは床全体に柱がある高床式の総柱建物(縦約9メートル、横約5メートル)で、兵庫だったらしい。
中に重いものを置くため、柱を増やし床の強度を高めていたとみられる。北側の建物のそばには、建物を隠すための塀(長さ約10メートル)の跡もあった。
もう一つは掘っ立て柱建物(縦約11メートル、横4メートル)。三つの建物とも、出土した土器や近くの溝から出た焼土と炭などから、7世紀半ばに廃絶していたことがわかった。
日本書紀には、644年に蘇我蝦夷(えみし)、入鹿父子は甘樫丘に家を並べ建て、兵庫や柵(さく)をつくり、力の強い兵に守らせたとある。その後の乙巳の変で焼け落ちたとされる。
猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「廃絶時期がはっきりしたことで、これまで推定の域を出なかった入鹿邸の可能性が極めて高くなったと言える。生活痕がないことから、今回の建物跡は武器庫とその関連施設だろう」とみている。
現地見学会は29日午後1〜4時。小雨決行。
http://www.asahi.com/culture/update/0327/OSK200803270120.html
21 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 22:23:33
奈良・平城宮跡【図・写真】
官庁街に倉庫ずらり・・・奈文研発掘
奈良市の平城宮跡(710〜84年)の第二次大極殿東側で、奈良時代の倉庫とみられる礎石建物跡2棟が並んで見つかり、奈良文化財研究所が28日、発表した。
民生部門を担った民部省が管理した「米蔵」だったとみられる。同宮の倉庫跡では最大級で、奈良時代の官庁街の実態に迫る資料になる。
建物跡2棟は同じ規模でいずれも東西18メートル、南北6メートル以上。内部にまで柱を立てる「総柱建物」で、直径70センチ前後の礎石で支える強固な構造。柱の間隔(最大で3・6メートル)が正倉院(同3・7メートル)と似ており、高床式の倉庫らしい。
見つかったのは朝堂院東側で、平安宮(京都市)では、租税や戸籍、田畑を管轄する「民部省」や、同省が管理した米蔵が置かれた場所にあたる。同研究所は、平城宮でも同省の米蔵があったと推定している。
倉庫の南北にはさらに、南北70〜80メートルにわたって複数の倉庫があったとみられる。現地説明会は30日午後1時30分から。
同研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「民部省が管理する米蔵は、集めた米を宮内を警護する『衛士(えじ)』や雑役を担う『仕丁(しちょう)』に支給した。そのための倉庫群が広がっているのだろう」と話している。
(2008年03月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80329a.htm?from=ichioshi
22 :
奈良県・奈良市:2008/03/29(土) 23:05:33
>>21の東
平城宮跡で木簡出土 天皇守る「近衛府」伝える
2008.3.29 02:31
平城宮跡(奈良市)の東方官衙(かんが=役所)地区で、礎石建ちの倉庫群が見つかり、奈良文化財研究所が28日、発表した。
発掘現場の東側区画の穴からは、宮城を守った軍隊組織「衛府(えふ)」に関係する奈良時代末期の木簡も大量に出土。役職名「近衛(このえ)」などと記されたものも複数出土し、天皇らを守った近衛府や兵衛府にかかわる貴重な資料となりそうだ。
見つかった木簡は、別の木簡を削って再利用した削りくずがほとんどで、これまでに1000点以上が見つかった。人名や役職名が記されたものが多く、奈良時代末期の年号「宝亀」と書かれたものもあった。
木簡の中には「金刺老」という名の近衛が、警備人員の配置について記したとみられる記述も含まれていた。また、警備対象とみられる「大宮」や「醫師」(医師)などと記された木簡も発見。木簡群は今後、洗浄して解読を進める。
同研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「近衛府や兵衛府にかかわる木簡とみられ、役所の遺構の中で出土した貴重な木簡群。今後、全容の解明を進めたい」と話した。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/080329/nar0803290232000-n1.htm
23 :
福島県/会津若松市:2008/03/29(土) 23:13:51
TBS番組に会津若松激怒、鶴ヶ城開城「不衛生だから」?
福島県会津若松市は28日、東京放送(TBS)系のクイズ番組で戊辰(ぼしん)戦争時の若松城(鶴ヶ城)のイメージを損なう放送があったとして、TBSと番組制作会社に24日付で抗議文を郵送したことを明らかにした。
抗議文によると、番組は2月16日に放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。
若松城について「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」との出題に対し、「糞尿(ふんにょう)が城にたまり、その不衛生さから」が正解とされ、理由のすべてのように放送されたとしている。
菅家(かんけ)一郎市長は記者会見で、〈1〉他藩からの応援の望みが絶たれた〈2〉1か月に及ぶろう城による傷病兵の増加や物資の枯渇――など様々な要因が重なった結果と説明。「視聴者や市民らに著しい誤解や不快感を与えた」とし、市民への謝罪と訂正を求めている。
TBS広報部の話「抗議文が届いたかどうかを含め、内容を確認している」
(2008年3月28日13時44分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080328-OYT1T00388.htm
24 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 01:10:24
「X字形」勾玉が出土 米子・博労町遺跡【写真】
鳥取県米子市教育文化事業団埋蔵文化財調査室は三日、博労町遺跡(同市博労町四丁目)から、全国的にも珍しい背中合わせになった勾玉(まがたま)が出土したと発表した。
専門家は、素材や形状から古墳時代前期(三世紀終わり−四世紀ごろ)に東関東地方で作られ、山陰地方との間で交流があった可能性を指摘している。
同遺跡は米子工高のグラウンド内にある。同校の改築に伴い、昨年十月から発掘調査を行っていた。
勾玉は長さ二十一ミリ、幅二十六ミリ、厚さ八ミリ。青みがかった灰色の滑石(かっせき)製。二つの穴にひもを通して首飾りにしていたとみられる。
勾玉に詳しい大賀克彦・元島根古代文化センター特任研究員は、同時代に千葉県北部から茨城県南部では滑石で勾玉を製作▽同地方の埋葬具「立花(りっか)」と共通性がある−と指摘。「東関東とつながりがあった可能性がある」と述べた。
背中合わせのデザインについて、同調査室の平木裕子統括調査員は「魂の結びつきを強くする意味があったのでは」と話している。
遺跡からは古墳時代前期の竪穴住居跡七棟や大量の土器が出土したほか、貴族が身に付けた腰帯具(こしおびぐ)や墨書土器が出土したことから、奈良−平安時代には役所関連の遺構があったと推定される。
http://www.nnn.co.jp/news/080404/20080404001.html
25 :
奈良県・奈良市:2008/04/06(日) 01:11:10
神功皇后陵は中期古墳の先駆けか、シンポで説明【写真・地図】
2008年04月06日
宮内庁が管理する天皇や皇族の墓「陵墓」としては初めて、学会側の要望で墳丘の立ち入り調査が実施された前方後円墳、神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳、奈良市)について、5日、調査結果などを報告するシンポジウムが同市で開かれた。
発見した埴輪(はにわ)の位置から、前方部の東西両脇に祭祀(さいし)用の造り出し部が存在した可能性があると、調査に参加した岸本直文・大阪市大准教授(考古学)が発表した。
「造り出し部を両側に持つのは古墳時代中期の前方後円墳の特徴。神功皇后陵は中期古墳を規定した古墳だろう」と述べた。
神功皇后陵は古墳時代前期末(4世紀後半ごろ)の築造とみられる。全長273メートル、高さ23メートル。宮内庁は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の妻、神功皇后の墓としている。
調査では、前方部東側の農業用水池の水際で円筒埴輪4基を確認。埴輪は、墳丘を覆っていた葺(ふ)き石より外側にあった。岸本准教授は「埴輪のある場所が墳丘に付属する造り出し部だったからでは」と考えた。
造り出し部は被葬者を悼む祭祀の場所とされ、5世紀以降の中期古墳では前方部の両側に設けられるようになった。
シンポは、2月に調査を実施した日本考古学協会など考古・歴史学16学会が主催。350人が詰めかけ、宮内庁の「規制緩和」で実現した調査の成果に聴き入った。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804050140.html
26 :
奈良県・大和郡山市:2008/04/06(日) 01:47:35
「十条大路まで朱雀大路」-平城京の道と地割にずれ (2008.4.4 奈良新聞)
十条大路とみられる道路跡が見つかり、南に一条分広がることが確実になった平城京跡について、メーンストリートの朱雀大路も十条大路まで延びていたとする見解を、大和郡山市教育委員会の山川均主任が学会で発表した。
水田化された現在の地割が平城京の条坊(碁盤目状の道路)より約40メートル東にずれており、朱雀大路を外して区画された可能性が高いという。
九条―十条間は他の京内と同じように条坊が施工されたが、あまり時期をおかずに廃絶し、南北九条に縮小された。
その後、九条大路に羅城門や羅城が設けられ、十条大路までの間を耕地化、大和盆地を覆う「統一条里」と区画が異なることから「特殊条里」と呼ばれている…
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080404/arc080404a.shtml
27 :
奈良県・奈良市:2008/04/08(火) 20:13:00
>>25関連
墳丘東側にも造り出し-佐紀古墳群で初確認 (2008.4.6 奈良新聞)
考古学や歴史学など、国内の16学・協会が2月に行った神功皇后陵(五社神古墳、奈良市山陵町)の立ち入り調査で、造り出しとみられる張り出しが、墳丘の東側で確認された。
西側の造り出しは宮内庁の調査で見つかっていたが、両側に張り出す可能性が強まった。佐紀古墳群では初の確認となる。
造り出しは祭祀(し)用の施設とされ、両側に備わるのは大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(四世紀末)が最初と考えられている…
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080406/arc080406a.shtml
28 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 20:14:06
29 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 20:18:23
銅鐸、意外な起源 カギ握る文様 北陸で出土
2008年04月06日11時11分
弥生時代に登場し、時代の終わりと合わせるように姿を消す銅鐸(どうたく)にはなぞが多い。農業の祭りに使われたとされるが、なぜ使われなくなったのか、なぜ地中に埋められたのかもよく分からない。
「いつ、どこで生まれたのか」もなぞの一つだったが、意外な地に起源があるとする新たな仮説が登場した。
「ようやく見つかりましたが、まったく予想しない場所でした」。国立歴史民俗博物館教授の春成秀爾さん(考古学)が3月、定年退職記念の講演会で示したのは、石川県小松市の八日市地方遺跡で出土した木製の杵(きね)だった。
弥生時代中期初めのもので、菱(ひし)形(がた)の周囲に斜めの線を重ねた文様が刻まれている。最も古い時期の銅鐸に特有の文様と同じだという。
銅鐸は近畿から中国地方を中心に全国で約470個が確認されている。日本で独自に発展したことから、弥生時代の社会を考える手がかりとして重視されてきた。
最も古い時期の銅鐸は3点ある。2点は出土地が分かっているが、製作した遺跡と時期は不明。歴博館長をつとめ銅鐸研究の第一人者だった故・佐原真さんは、分布域の分析から「近畿中央部」で弥生時代前期末に誕生したと推定。
一方、九州で中期後半に生まれたとする異説もあった。
そうした考えや論争は04年に名古屋市の朝日遺跡で出土した3センチほどの石片により新しい段階を迎えた。放射性炭素測定で紀元前4世紀中〜後半、弥生中期初めのものとわかり、刻まれた文様から最古の銅鐸の鋳型と判断された。
この遺跡で銅鐸が誕生したことを示唆するが、近畿から持ち込まれた可能性も否定できなかった。
(続く)
30 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 20:19:04
(
>>29の続き)
佐原さんや春成さんらの研究で、銅鐸は中国の鈴が朝鮮半島を経由して伝わったらしいことが分かっている。中国でも朝鮮でも文様はないが、日本で作り始めると文様が現れる。
この文様が、どこで銅鐸が生まれたかのカギを握ると考え、春成さんはその系譜を探した。土器では見つからず、対象を広げ、見つけたのが小松の杵だった。時期も朝日遺跡の鋳型と一致した。
銅鐸を作る技術も材料も、日本にはなかった。二つの遺跡の出土品から、材料と技術をもった人が朝鮮から濃尾平野にやってきて、北陸の集団もかかわり生みだした――との仮説を春成さんは描き出した。
「金属の音と光沢は特に近畿や山陰で人気を集め、しだいに近畿で作るようになったのでは」と西日本で多く見つかる理由を推測する。
この見解に、奈良文化財研究所の難波洋三・考古第一研究室長は「考古学者が悩んできた朝日遺跡の鋳型について初めて説明のつく仮説が登場した」と評価する。
銅鐸の源流とされる中国の鈴は人の腰や家畜の首につけるものだった。朝鮮ではシャーマンが衣服につけたらしい。日本では、1メートルを超すまでに巨大化。江戸時代に茶の湯が盛んになると、花器などに転用し珍重された。
戦後は、神話に代わる歴史の一ページとして弥生時代は注目され、銅鐸は教科書に欠かせない存在になった。時代により意味を変えながらも、銅鐸は人をひきつけてきた。
春成さんもその一人。育った兵庫県で多く見つかる銅鐸に導かれるようにして中学生の時に考古学を志した。それから半世紀余、銅鐸は常に研究テーマだった。「ある程度は解明された」と思っていたところに朝日遺跡の鋳型が登場した。
「驚きましたが、銅鐸は近畿の文化だと思っていたら見えなかった像が浮かび上がってきました。なぞはまだ多い。これからも追究を続けたいものです」と語った。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200804060043.html
31 :
長野県・中野市(1/2):2008/04/08(火) 20:21:58
しんそう−深層・真相・心想:解説編 中野・柳沢遺跡出土の銅戈 /長野
中野市の柳沢遺跡で昨年10月に発掘された青銅器武器形祭器の銅戈(どうか)。九州地方を中心に分布する「九州型」と、近畿地方に分布する「大阪湾型」が初めて同時出土した。研究者らが注目する発見の意味を探った。【藤原章博】
◇「弥生」概念変える可能性も
◇貴重な発見
「発見された量や質からみても重要な資料。弥生時代の概念を変えるほど貴重な発見かもしれない」。同遺跡調査指導委の笹沢浩委員長(考古学)は、こう意義を強調する。
銅戈は弥生時代に朝鮮から伝来し、武器だったが祭祀(さいし)の道具として使われた。出土した銅戈は九州型1本と大阪湾型6本の計7本(全長22〜36センチ、重量241〜714グラム)で、弥生時代中期末から後期初めに埋めたとされる。
九州型は高知、広島、島根県より東で発見された例はない。今まで発見された大阪湾型(かけらも含む)はわずか23点。銅戈はすべて刃を垂直に立てるように埋められていた。
他の遺跡でも同様だった点について、委員長は「祭具としての情報まで一緒に伝わった証拠。信州まで情報交流が行われていた」と説明する。
(続く)
32 :
長野県・中野市(2/2):2008/04/08(火) 20:22:49
(
>>31の続き)
銅戈はどうもたらされたのだろうか。
◇日本海経由?
京都国立博物館情報管理室の難波洋三室長(考古学)は「九州から日本海を渡って直接入ってきた」とみる。近畿地方では九州型が発見されていないことから「近畿経由の陸路で入ってきたとは考えにくい」と指摘。
土器は村から村へと網目のように運ばれたと分析した上で「今回の発見は、離れた場所に運ばれることが特殊ではないことを示している」と分析する。
◇近畿ルートか
一方、九州大総合研究博物館の岩永省三教授(日本考古学)は「近畿地方を経由して入ってきた」と反論する。教授によると、大阪湾型は形などから九州型の影響を受けていると解説。「大阪湾型のモデルの九州型が、何らかの形で一緒に運ばれたのではないか。
近畿で九州型が未発見のことと、存在しないことは同じではない」と強調し、今回の発見で近畿地方でも九州型が発見される可能性があるとの認識を示した。
これらについて、笹沢委員長は「幾つもの仮説はあるが、発見の事実は変わらない。ルートなどを解明したい」と意欲を語った。
毎日新聞 2008年4月6日 地方版
http://mainichi.jp/area/nagano/news/20080406ddlk20040028000c.html
33 :
滋賀県大津市:2008/04/11(金) 17:54:49
製鉄炉造り替え、大量生産 延暦寺増築に使用か
世界遺産の比叡山延暦寺に隣接し、平安時代前期(9世紀後半)の製鉄炉跡や製鉄時の不純物「鉄滓」などが大量に出土した大津市の上仰木遺跡で、100回以上も炉を造り替えて鉄を大量生産していたことが滋賀県文化財保護協会の調査で11日までに分かった。
2004年からの調査で製鉄炉や溶けた炉壁を発見。製鉄の燃料となる木炭をつくる窯も新たに3つ見つかった。遺跡は延暦寺横川中堂に近いことから寺の造営を支えた生産工房で、製品は寺に納入されたとみられる。
延暦寺が鎮護国家を担った寺院として勢力を拡大した時期に当たり、同協会は「当初、建築物が少なかった延暦寺が専用炉で鉄を造り、次々と伽藍を広げたのではないか」としている。
同協会によると、滋賀県は古代から砂鉄ではなく、付近で採れる鉄鉱石を原料に製鉄していた珍しい地域という。
2008/04/11 16:39 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200804/CN2008041101000555.html
34 :
兵庫県伊丹市:2008/04/11(金) 17:58:59
戦国武将栄養源はスッポン!? 伊丹・有岡城跡【写真】
伊丹市教委は十日、同市伊丹二の「有岡城跡・伊丹郷町跡」の発掘調査で、戦国時代の堀跡が新たに見つかり、イノシシやシカなどの骨の一部が出土したと発表した。
四百年以上前の遺跡から、動物の骨が原形をとどめて見つかるのは珍しいという。備前焼のかめや唐津焼の食器なども見つかった。
有岡城は、戦国時代の武将荒木村重が一五七四年に築いたとされる。城跡は東西八百メートル、南北千七百メートルで、堀と土塁で周りを囲んだ「惣構え」が特徴。
今回の調査地点はJR伊丹駅から西約二百五十メートル。絵図には記載されていない長さ約五十メートル、幅六・五メートル、深さ二メートルの堀跡が見つかった。複数の堀が周辺で確認されていることから、城の主郭を守る上で重要な場所だったとみられる。
この堀跡の中央付近から、イノシシの下あごやシカの足の一部、スッポンとみられる動物の腹部の骨が出土した。ヘドロの中にあったため保存状態が良かったといい、市教委は「食用だったとみられ、当時の食生活を示す貴重な資料だ」とする。
現地説明会は十九日午後一時-同三時半。市教委社会教育課TEL072・784・8090
(金 旻革)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000932087.shtml
35 :
奈良県高取町:2008/04/11(金) 18:00:36
戦国時代の排水溝?-「壷阪口中門」も判明【高取城跡】
(2008.4.11 奈良新聞)【写真】
高取城跡(高取町高取)の壷阪口中門跡から、安土桃山時代(16世紀後半)とみられる暗渠(きょ)の石組み溝が見つかり、高取町教育委員会が10日、発表した。
排水溝とみられ、豊臣秀長の家臣・本多氏による本格的な築造時に石垣とともに整備されたと考えられる。また、壷阪口中門の規模や構造も判明。明治維新後、二ノ門を移築した子嶋寺表門(同町観覚寺)と同じ構造で、二回りほど小さいことが分かった。
史跡整備事業の事前調査として、1月から3月まで約90平方メートルを調査。
長さ約15メートルの東西溝と、Y字型につながる長さ約5メートルの南北溝を検出。内幅と深さは約20センチ。大きなもので縦約50センチ、横約80センチの石材を両側面に1、2段積み、底面にも敷き詰めていた。
上面は平らな石を組んで蓋(ふた)がされ、すき間に目張りの粘土を詰める丁寧な作りだった。雨水などの排水のため城内に張り巡され、門や通路では暗渠になっていたと考えられる…
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080411/arc080411b.shtml 高取城跡:「壺坂口中門」の礎石確認 本格的築城時に造る?−−発掘調査 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/news/20080411ddlk29040517000c.html
36 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 22:46:32
37 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:04:00
63 非公開@個人情報保護のため 2008/04/12(土) 11:11:29
この間、第3者委員の取得がでてきた。
名前を見ると元OBで、標準報酬が410!!
で、このOB、人間として最低
仕事を拒み続け、やらせてもわざと出鱈目やる
だから、男なのに課長になれず勧奨もなく
定年退職したやつだ
どこまで腐ってんのか社保庁は
64 非公開@個人情報保護のため 2008/04/12(土) 11:16:21
守秘義務違反でしょっぴかれるな
逮捕乙
66 非公開@個人情報保護のため 2008/04/12(土) 12:49:40
63はタイーホ。
67 非公開@個人情報保護のため New! 2008/04/12(土) 12:56:30
63は分限確定
68 非公開@個人情報保護のため New! 2008/04/12(土) 13:52:23
マジで
>>63は特定できそうじゃね。こんな情報流せるやつは限られてるし。
しかも、
・第3者委員の取得
・元OBで、標準報酬が410!!
・男なのに課長になれず勧奨もなく 定年退職したやつ
ってのも限られてる。
守秘義務違反だし、
>>63は探し出したほうがよくないか。
出典
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumu/1207910247/
38 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 22:54:40
琉球の影響随所に/知覧・仲覚兵衛屋敷跡【写真。地図】
石垣は「城」の特徴 (11/07 07:18)
知覧町南別府の門之浦地区に残る江戸時代の海運商、仲覚兵衛(なかかくべえ)(1715−1800年)屋敷跡の石垣が、琉球の城(ぐすく)の特徴を持っていることが、町教委文化財課の調査で分かった。
敷地内からは琉球の壺屋焼のかけらや、中世の中国の磁器片が出土。坂元恒太学芸員(30)は「坊津や山川に比べれば規模は小さいが、門之浦一帯が中国や琉球との交易の拠点だったことがうかがえる」と話している。
仲覚兵衛は骨粉肥料に着目し、大阪の皮革商人から獣骨を買い付け、船で運び肥料にして販売した。火山灰土壌で地形的にも水田に適さない薩摩半島南部が、のちに菜種の大産地となるのに貢献したとされる。
屋敷跡の一部が道路拡張で取り壊されるため、調査に着手。長さ約70メートル、高さ2−3メートルの石垣を覆っていた蔓(つる)を払ったところ、石垣の角が曲面で、所々にサンゴ(菊目石)が積まれていた。
沖縄で「ヒンプン」と呼ばれる門の内側にある目隠しの石垣も設置され、琉球文化の影響が随所に見られた。
発掘調査では、仲覚兵衛が登場する以前から門之浦で交易が行われていたことを示す16世紀ごろに作られた中国製の青磁などが見つかった。
門之浦では海賊禁止令後の1590年ごろ、知覧領主だった佐多家一族の家来が賊を働き、豊臣秀吉の怒りを買う「海賊事件」があったことを記す文献が残っている。
坂元さんは「文献だけでしか分かっていなかった当時のものが見つかったのは貴重な発見だ」と話している。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=7538
39 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 22:32:21
40 :
長野県中野市:2008/04/17(木) 22:35:19
41 :
山梨県韮崎市:2008/04/17(木) 22:36:42
42 :
奈良県奈良市:2008/04/17(木) 22:46:55
平城宮跡東方官衙地区出土の木簡群、宮跡最多規模か 軍隊関連の記述確認、“国防”知る資料に【写真】
2008.4.16 00:52
奈良時代に霞が関のような官庁街だったとみられる平城宮跡(奈良市)の東方官衙(かんが)地区で、最近出土した木簡の量が約3500点に及び、
これまでの出土ペースや堆積(たいせき)状況から、同宮跡出土の木簡群では最多規模となる見通しとなったことが15日、分かった。
奈良文化財研究所は「総点数は数万点に及ぶのでは」と推測。宮城を守った軍隊組織「衛府(えふ)」に関する記述が多く、天皇などへの警護の実態を知る上での貴重な資料として期待され、今後全容解明が進められる。
今回の木簡群は、同地区の東側区画の穴(直径約6メートル)から見つかった。
奈良時代末期のものとみられ、木簡転用のため文字を削った削りくずがほとんどだが、「近衛(このえ)」など衛府の役職名などが記されたものが複数あり、「大宮」など警備対象を示すとみられる木簡も確認された。
堆積層の状況などから、出土したのはまだ一部とみられ、同研究所では今年秋以降にさらに発掘を行い、出土品の洗浄・解析も進めていくことにしている。
平城宮跡でこれまで出土した木簡は、削りくずを含めて計約5万点。うち最多の木簡群は、式部省に関係する約1万3000点だった。今回の木簡群の規模は、これを超える可能性があるとみられている。
同研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「まだ部分的な調査で、長屋王邸跡(奈良市)から出土した木簡群(3万数千点)に匹敵する点数の可能性もある。木簡の使い方などを研究する上でも貴重な資料となる」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080416/acd0804160054000-n1.htm 木簡は数万点規模-平城宮跡東方官衙 (2008.4.11 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080411/arc080411a.shtml
43 :
熊本県山鹿市:2008/04/17(木) 22:47:35
鞠智城に古代の堤防跡
2008.4.17 19:31
大和朝廷が新羅の攻撃に備え7世紀後半に築いた熊本県山鹿市の鞠智(きくち)城跡で、貯水池の水をせき止めたとみられる堤防跡が見つかった。古代の土木技術を知る貴重な手掛かりになるという。同県教育委員会が17日、発表した。
調査を行った県立装飾古墳館(同市)は「貯水池が決壊すれば城壁が崩れてしまうので、山城の守備機能を保つため出水を管理したのだろう。排水施設も見つかる可能性が高い」としている。
また今回の調査で、500メートルに及ぶ土塁の痕跡も見つかり、城の全周を土塁で囲む古代山城の一般的な構造を備えていた可能性が高まった。
堤防跡が見つかったのは、平成9年に日本の古代山城では初めて発見された貯水池跡(約5000平方メートル)の北端部。盛り土の跡や、積み上げられていたとみられる岩石や小石が見つかった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080417/acd0804171928010-n1.htm
44 :
福岡県春日市→香川県さぬき市:2008/04/17(木) 22:49:38
香川出土の青銅器は福岡で鋳造
香川県さぬき市で明治時代に出土した巴形(ともえがた)銅器3点(東京国立博物館所蔵)が、福岡県春日市の九州大学筑紫地区遺跡群で1998年に出土した鋳型で鋳造されていたことが分かった。九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は銅鐸(どうたく)以外では初めて。祭祀(さいし)などに使われたと考えられる巴形銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。
鋳型は石製で、全体の約4分の1が出土している。製品は円盤に7本の脚があり、直径は約12センチ。弥生時代に作られたとされる巴形銅器は九州を中心に全国で36点確認されている。
同調査室は今年1月に鋳型と製品を重ね合わせて、確実に一致することを突き止めた。また、3点の巴形銅器が鋳型と一致したことから、同じ鋳型で3回以上、青銅器を鋳造したことも確認した。
今回、判明した結果について、西南学院大国際文化学部の高倉洋彰教授(考古学)は「九州で作られた銅矛などが四国西部で発見されたケースはあったが、四国東部にまでモノの交流が及んでいたことを、決定的な証拠で示した意味は大きい」と指摘。
調査にあたった同調査室の田尻義了学術研究員は「弥生時代の政治状況や経済交流が垣間見られる貴重な発見だ」と話している。
九大は今回の調査成果を九州国立博物館で2009年1月1日から開く企画展で紹介する予定。
=2008/04/17 西日本新聞=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/16952
45 :
奈良県明日香村:2008/04/21(月) 23:51:41
46 :
奈良県明日香村:2008/04/21(月) 23:53:27
47 :
沖縄県南城市:2008/04/22(火) 00:32:05
48 :
岩手県矢巾町:2008/04/22(火) 00:33:35
49 :
大阪・八尾市:2008/04/28(月) 22:44:11
50 :
福岡・福岡市:2008/04/28(月) 22:45:36
国内最古の青銅製鞘尻か 福岡・元岡遺跡群から出土【写真】
2008年4月24日 12時03分
魏志倭人伝に登場する伊都国の一部と考えられている福岡市西区の元岡遺跡群で、弥生時代中期後半−後期(紀元前後−2世紀ごろ)の青銅製鞘尻金具が出土したことが、24日までに分かった。
刀の鞘の末端に付ける装飾金具で、福岡市教育委員会は「弥生時代の遺跡からの出土例はなく、国内最古例の可能性が高い」としている。
出土した鞘尻金具は、長さ2・95センチ、幅2・85センチ、厚さ0・9センチで中国製とみられる。鞘本体は見つかっていないが、刀子(小刀)の鞘であったと推定される。
市教委埋蔵文化財第2課は「当時の中国では、刀子を木簡や竹簡に記した文字を削り取る道具としても用いており、同時代におけるこの地域の文化的先進性を物語る資料だ」と指摘している。
26日から6月29日まで、福岡県前原市の伊都国歴史博物館で公開される。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2008042401000219.html
51 :
富山県射水市:2008/04/28(月) 22:48:52
最古級の草仮名墨書土器が出土、和歌練習か 富山・射水【写真・図】
2008年04月24日10時59分
富山県射水市一条の「赤田1(ローマ数字の1)遺跡」の溝から、9世紀後半(平安時代前期)の酒杯とみられる最古級の草仮名(そうがな)墨書土器が出土したと、同市教委が23日発表した。
草仮名は酒杯の外側に墨で書かれ、和歌を詠む際に筆慣らしに書いたものらしい。草仮名の成立期に相当する最古級の資料で、溝の遺構も貴族らが歌を詠んで楽しんだ「曲水の宴」の場だった可能性が高いという。
草仮名は、万葉仮名から平仮名への移行期の仮名文字。土器は02年4月、発掘調査中に見つかった長さ約130メートルの溝(上幅6〜8メートル、最深1.5メートル)の下層50〜60センチから完全な形で出土した。
祭祀(さいし)具などの木製品や宴の器とされる緑釉(りょくゆう)の皿、大量の土師器(はじき)の杯も出土した。
解読した鈴木景二・富山大教授(日本古代史)によると、草仮名を記した墨書土器は直径13.1センチ、高さ2.4センチの皿状の土師器。器の外側に「佐佐川幾」「奈尓波」「乃見」「比川川」「比尓」などの文字が書いてあった。
「佐佐川幾」は「ささつき」と読め、酒杯の意の可能性がある。「奈尓波」は「なには」で、古代の手習いの歌として多くの出土例がある「難波津(なにわづ)歌」の書き出しとみられる。
鈴木教授は「今回発見の草仮名は9世紀後半のもので、知られている草仮名の中でも成立期のもの。
仮名を続けて書く『連綿』も認められ、仮名表記の歴史を考えるうえで貴重。古代の地方で『曲水の宴』を国司ら貴族らが催したことを物語る遺構として極めて重要。草仮名墨書土器は、曲水の宴での習作の現物資料として最古かつ唯一の資料の可能性が高い」としている。
同市教委は、草仮名墨書土器を25日〜5月25日、市新湊博物館(同市鏡宮)で公開。同11日午後2時から、鈴木教授が解説する。火曜休館。
http://www.asahi.com/culture/update/0424/TKY200804240062.html 発見の草仮名土器 新湊博物館で公開(富山県射水市)
http://hokuriku.yomiuri.co.jp/hoksub2/hokuexp/toyama/toyama_imizu02.htm
52 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:56:00
53 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 23:00:25
54 :
奈良県桜井市:2008/04/30(水) 22:15:41
「銅鐸リサイクル」の跡、国内2例目 奈良で破片や鋳型【写真・地図】2008年04月30日20時08分
奈良県桜井市の大福(だいふく)遺跡で、弥生時代末から古墳時代初め(2世紀後半〜3世紀初め)の土坑から、銅鐸(どうたく)の破片や、銅鐸とは別の鋳型などが見つかった。同市教委が30日発表した。
銅鐸を溶かして別の青銅器を製造した「リサイクル」の工房跡が、近くにあったとみられる。同市内では、東に約4キロ離れた脇本遺跡でも同様の工房跡が見つかっており、今回で2例目。
専門家は「この時代に弥生の神々を祭った銅鐸を壊すという、大きな思想の転換があったことが裏付けられた」としている。
市道建設に先立ち約1800平方メートルを調査。同遺跡では、弥生時代から飛鳥時代の溝や方形周溝墓などが出土。溝の跡に掘られた土坑(長さ5メートル、幅3メートル、深さ80センチ)から、銅鐸片(縦6センチ、横4.5センチ、厚さ2ミリ)1点
▽銅鐸とは異なる鋳型の外枠(縦3.5センチ、横4.5センチ、厚さ9ミリ)1点▽送風管の一部(長さ19センチ)などが見つかった。
銅鐸片は形状から、土坑が造られた時期よりも数十年古い、弥生時代後期の銅鐸の一部とみられる。
銅鐸は非常に硬く通常は割れにくいことから、意図的に破壊された可能性がある。そばの井戸状遺構からも別の鋳型の外枠(縦5.5センチ、横4.5センチ、厚さ8ミリ)1点が出土した。
銅鐸は紀元前3世紀ごろ打楽器として登場し、その後、祭器へと性格を変えたが、3世紀ごろにこつぜんと姿を消した。
理由ははっきりしていなかったが、昨年12月、脇本遺跡で銅鐸の破片や、銅鐸と別の鋳型などが出土。全国でも確認例がない「リサイクル」の跡とみられた。
大福遺跡は、邪馬台国の有力候補地とされる都市、纒向(まき・むく)遺跡(同市)の南2キロにある。
同市教委文化財課の丹羽恵二技師は「いずれも纒向の出現期と重なり、当時の先進的な地域の誕生に何らかの影響を受けていた可能性が高いのでは」と話している。
現地は埋め戻されているが、出土遺物は同市立埋蔵文化財センターで1〜9日に展示される。
http://www.asahi.com/culture/update/0430/OSK200804300047.html
55 :
奈良県桜井市:2008/04/30(水) 22:17:02
56 :
奈良県桜井市:2008/05/03(土) 18:07:39
>>54-55関連
奈良・桜井の大福遺跡、方形周溝墓も出土 弥生大集落の集団墓地か
2008.5.1 03:36
銅鐸(どうたく)の破片が見つかった桜井市大福の大福遺跡で30日、銅鐸よりさらに200年以上さかのぼる弥生時代中期(紀元前1世紀後半)の方形周溝墓が6基以上見つかった。
約200メートル西には大規模な環濠(かんごう)集落があり、環濠に囲まれた住居ゾーンと環濠外の墓地ゾーンが明確に別れていたことが判明。当時の集落構造を知る上で貴重な資料になりそうだ。
方形周溝墓は、最大のものは縦10メートル、横7メートル。他の5基は一辺7メートル四方と、ひと回り小さかった。被葬者に供えた土器も多数出土し、この地域一帯が集団墓地だったことが分かった。
方形周溝墓群の西に広がる環濠集落は直径約400メートルで、これまでの調査で、人物を描いた土器や漆塗りの刀の柄頭(つかがしら)などが出土。
弥生時代前期末(紀元前2世紀)から後期にかけて約400年間にわたって営まれた、奈良盆地内でも有数の集落とみられている。
集落周辺では、木棺を地面に埋めた小規模な墓が見つかっているが、今回のように墓地がまとまって出土したのは初めて。市教委は「弥生人の生活空間と墓域の関係がはっきり分かる」としている。
一方、銅鐸片との関係について市教委は「大福遺跡は銅鐸を使った祭祀を行った伝統的集落だったが、それでも時代の変化とともに銅鐸を破壊した。
昭和60年に見つかった銅鐸が破壊されず丁寧に埋められたのは、長い間集落内で祭祀用に大切に扱われたからではないか」としている。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/080501/nar0805010337001-n1.htm 前スレ275
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1184301495/275参照
福山城遺構に「国史跡」言及 '08/4/26
JR福山駅前広場整備に伴う福山城遺構の取り扱いをめぐる福山市教委と県教委、文化庁の昨年12月の協議内容が25日、明らかになった。
文化庁は駅前地下に埋まる城遺構を国史跡に追加指定する可能性に言及、開発部局との再協議を市教委に求めた。市は協議内容を記した文書の大半を非公開にしていた。
文書はA4判の計4ページ。広場整備の計画変更を求める市民有志「福山駅前水辺公園プロジェクト」が、入手ルートなどを明らかにせずに公開した。
文書によると、文化庁は地下送迎場の設置で城遺構が撤去される計画について、保存に向けた市教委の対応が不十分と指摘。
舟入状遺構などを「(城跡の国史跡への)指定追加も視野に入れている」と重要性を強調。「市の考えに同調するだけでなく、文化財保護を提起すべきだ」としている。
【写真説明】市教委が大半を黒塗りで開示した、文化庁との協議内容を記した文書
中国新聞 地域ニュース
http://mgw.hatena.ne.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.chugoku-np.co.jp%2FNews%2FTn200804260087.html
59 :
兵庫県たつの市:2008/05/09(金) 22:30:00
朝鮮の鋳造鉄斧が出土 たつの・竹万遺跡
たつの市教委は七日、同市揖西町竹万の竹万遺跡(古墳時代中期)から、四世紀後半ごろ朝鮮半島で造られた農耕具「鋳造鉄斧(てっぷ)」一点が見つかったと発表した。
鍛冶(かじ)に使う鞴羽口(ふいごはぐち)なども発掘されており、市教委は「渡来人による鍛冶集落で、揖保川流域の鉄器製造の拠点だったと推定できる」としている。
鋳造鉄斧は播磨地域で八点見つかっているが、すべて古墳の副葬品で、集落遺跡では初めて。当時、鉄の鋳造技術は朝鮮半島にしかなかったという。
遺跡からは韓式土器も発掘され、鍛冶遺跡で類例の多い製塩土器も見つかった。朝鮮半島で造った鉄で、渡来人が鉄器を加工していた集落とみられるという。
発掘はほ場整備に伴い一九八九年度に実施。約七千点の出土品を〇五年度から整理調査したところ、鋳造鉄斧が見つかった。
市は調査報告書を刊行したほか、六月四日から同市新宮町の市立埋蔵文化財センターで出土品を展示する。(古根川淳也)
(5/8 10:46)
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0001017900.shtml
60 :
兵庫県朝来市:2008/05/09(金) 22:56:03
茶すり山古墳:整備事業ほぼ完了 出土物を復元、展示−−朝来市教委 /兵庫
朝来市教委は2日、同市和田山町筒江にある近畿最大の円墳「茶すり山古墳」(国史跡)の整備事業がほぼ終わったと発表した。全体が完成するのは来年度だが、7月末まで完成部分を無料で一般公開するという。【吉川昭夫】
5世紀前半の遺跡である茶すり山古墳は、円墳の直径が約90メートルもある。当時のよろいである「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」や刀剣類など全国的にも珍しい遺物が多数発見され、04年2月に国史跡に指定された。
整備事業はのり面の保護や出土物などを原寸大のレプリカにして復元し、展示。幅10・7メートル、長さ13・9メートルの埋葬施設はガラス繊維強化プラスチック製。内部に銅鏡などを並べた。また円筒形や朝顔形の埴輪(はにわ)も展示する。
現地にガイドはいないが、案内冊子の入ったポストを設置し、説明板も立てた。今後はガイダンス施設や駐車場、トイレなどを設ける。団体見学はガイド派遣を検討するという。問い合わせは市埋蔵文化財センター(079・670・7330)。
〔但馬版〕
毎日新聞 2008年5月4日 地方版
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20080504ddlk28040259000c.html
61 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 22:58:00
62 :
香川県さぬき市:2008/05/13(火) 23:36:27
埋蔵文化財センター速報展「いにしえ人の国際交流」開催のお知らせ
発表日:2008年4月22日
埋蔵文化財センター速報展
いにしえ人の国際交流 〜尾崎西遺跡(おさきにしいせき)(さぬき市)〜
平成20年度第1回目の速報展では、さぬき市長尾の尾崎西遺跡を紹介します。
尾崎西遺跡は、県道高松長尾大内線のバイパス建設に伴い、発掘調査を行った遺跡です。
調査の結果、弥生時代から中世にかけて営まれた集落跡と周辺に広がる墓域が見つかりました。特に弥生時代後期の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と呼ばれる突出部(とっしゅつぶ)を持つ大きな墳墓は、古墳の出現を考える上で貴重な資料です。
また、古墳時代の古墳や土壙墓(どこうぼ)からは、多くの土器や鉄製の武器・馬具、玉類などの豊富な副葬品が出土しました。
さらに、古墳時代の流路跡からは、朝鮮半島の土器をまねて作られた韓式系土器(かんしきけいどき)や陶質土器(とうしつどき)がまとまって出土し、当時の人々が活発に海を越えた国際交流をしていたことがわかりました。
さぬき市における、いにしえ人の国際交流のようすを、ぜひご覧ください。
期 間 平成20年5月1日(木)〜7月4日(金)9:00〜17:00
場 所 香川県埋蔵文化財センター 第2展示室
〒762-0024 坂出市府中町南谷5001-4 電話0877-48-2191
主な展示品 尾崎西遺跡出土土器、石器、鉄器など 約60点
発掘調査中の写真パネルなど 約20枚
観 覧 料 無 料
展示解説会 5月31日(土)午後2時〜(予定) 展示会場にて(申込不要)
63 :
香川県さぬき市:2008/05/13(火) 23:37:23
朝鮮半島と交流裏付け−坂出・尾崎西遺跡速報展
弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡「尾崎[おさき]西遺跡」(香川県さぬき市長尾西)を紹介する速報展「いにしえ人の国際交流」が、香川県坂出市府中町の香川県埋蔵文化財センターで開かれている。
朝鮮半島の土器を模した「韓式系土器」が県内で唯一まとまって出土。渡来人が伝えた文化が、地元に根付いていたことを証明している。7月4日まで。
同遺跡は、1993年に県道高松長尾大内線のバイパス工事の際に発見された。
約1ヘクタールを調査した結果、集落跡とともに弥生時代後期の大型墳墓「円形周溝墓[しゅうこうぼ]」や、古墳時代の円墳、土壙墓[どこうぼ]などが丘陵地から集中的に見つかっており、会場には出土した土器や副葬品など合わせて約80点が並んでいる。
発見された円形周溝墓は村長[むらおさ]のものとみられ、直径約12メートル。来世と現世を仕切る意味で掘られた溝が、円周上の一部分で下方に突出しているのが特徴で、前方後円墳の基になったと考えられている。
韓式系土器は、底が真っ平らで高さがあり、縦線の文様が入っている。出土したものは日本の粘土でできており、渡来人がこの地を訪れて作ったか、日本人が渡来人の指導を受けて成形したものとみられている。
http://news.shikoku-np.co.jp/kagawa/locality/200805/20080513000083.htm
64 :
香川県さぬき市:2008/05/13(火) 23:38:28
65 :
島根県出雲市:2008/05/13(火) 23:53:11
本州初の支石墓? 出雲の銅山跡で発見
2008.5.11 00:21
縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で見つかった。支石墓は数個の支石の上に巨石を乗せる特異な墓。中国から朝鮮半島を経て国内に伝わったが、本州での出土は初めて。
大塚初重・明治大学名誉教授(日本考古学)は「(朝鮮半島からの)鉱山技術集団が、北九州経由のほかに、ダイレクトに山陰地方に渡ってきた可能性もある」と注目している。
地元の郷土史グループ「鷺銅山を訪ねる会」の梶谷実代表(66)が、出雲大社から北約6キロの鷺銅山跡がある山の中腹で発見。一帯は「石の森」と呼ばれ、苔むした多数の岩石が数百メートルにわたって並んでいる。
遺構は、いずれも平ら状の巨石を下の岩石数個が支える構造。大きさは、長さ1・4メートル、幅1・5メートル、高さ0・9メートルと、長さ1・3メートル、幅0・6メートル、高さ0・8メートルの2基で、人工的な組み合わせとみられる。
鷺銅山は、江戸から昭和初期にかけて操業したとされるが、これまで本格的調査は行われておらず、銅採掘の歴史的変遷は不明。梶谷代表は「出雲地方からは、弥生時代の荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡から大量の青銅器が出土。
原料は出雲産とも考えられ、支石墓と合わせ、鷺銅山の解明も必要だ」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080511/acd0805110020000-n1.htm
66 :
石川県金沢市:2008/05/13(火) 23:54:45
◎製法に類似点、人的交流示す 金沢、鳥取の弥生期高杯
金沢市の西念・南新保遺跡から出土した木製高杯(たかつき)が、弥生人の脳みその発見で知られる鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の出土品と近似していることを、大阪府立狭山池博物館の工楽(くらく)善通館長が確認した。
高杯はともに弥生後期(一―二世紀)に作られ、石川の方がより高い完成度に仕上がっているという。工楽館長は、日本海沿岸での技術者同士の密接な交流を裏付ける貴重な資料としている。
高杯は儀式の際に供物を載せる器として使われた。工楽館長によると、金沢と鳥取の高杯は大きさや加工法、デザインが極めて似ており、裏に精巧な六葉の花弁模様が彫られている点も共通。「よほど密な工人の交流がないと生まれない」と指摘する。
小松市の白江梯川、白江念仏堂の両遺跡からも類似品が出土しているが、全国的には数カ所しか見つかっていないという。
この木製高杯の技術は、鳥取から日本海沿岸を経由して石川へ伝わったとみられる。
弥生時代の木器の製法は、くりぬきが主とされるが、工楽館長は石川の品については左右の均整が取れ、厚みが均一であることからロクロ挽きの可能性が高いと指摘。石川でより洗練されて発展し、芸術性が高められたとみている。
従来、弥生時代の技術者交流を裏付けるのは難しいとされてきたが、工楽館長は「たくみの腕を持った工人の動きが十分に推察できる」と話している。
西念・南新保遺跡の高杯の写真と再現品、青谷上寺地遺跡の高杯の複製品は六月一日まで、金沢市の県立歴史博物館で展示されている。十日午後一時半からは同館で工楽館長が記念講演する。
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080510101.htm
67 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 00:07:37
68 :
滋賀・紫香楽宮跡:2008/05/22(木) 22:56:14
69 :
大阪・堺市、松原市:2008/05/22(木) 23:31:59
70 :
島根・松江市:2008/05/22(木) 23:34:43
71 :
沖縄・久米島町、糸満市:2008/05/22(木) 23:51:58
72 :
高知県南国市:2008/05/22(木) 23:53:45
「岡豊城跡」を国史跡に指定 高知・南国
2008.5.18 02:58
戦国時代の一時期、四国を制覇した長宗我部氏の土佐での居城「岡豊(おこう)城跡」(高知県南国市)が、国の史跡に指定されることになった。
16日に開かれた国の文化審議会が、答申。標高94メートルの岡豊山にあった中世山城は、防戦のため眼下の見晴らしが優れており、当時としては先進的な瓦葺(ふ)き建物もあり、高知県教委では、今後、観光振興にはずみがつくと喜んでいる。
同城跡は、同県のほぼ中央に位置する同市岡豊町の国分川に面した丘陵上にある。長宗我部氏は、鎌倉時代以来の土豪で、元親により土佐を統一し、天正13(1585)年に四国をほぼ制覇した。
岡豊城に拠点を構えたのは15世紀ごろと考えられ、手狭になり天正16年ごろ、高知市内の高知城に居を移すまで機能した。
指定範囲は約12ヘクタールと広大で、頂上部に本丸にあたる「詰」、その周囲に、「二ノ段」「三ノ段」「四ノ段」と呼ばれる家臣団の居宅を建設。丘陵全体に長大な横堀と、竪堀、土塁を構築していた。
これまでの出土遺物から、「天正三」や、大阪・泉州の瓦職人によるとみられる「瓦工泉州」と記された瓦も出土。天正4年から築城された安土城に先駆ける瓦の使用が分かっており、長宗我部一族が最先端技術を駆使して、近世城への先駆け的建築物を建てたことが分かる。
長宗我部一族は関ヶ原の合戦で西方につき敗れ一族は滅亡。その後、徳川家康の命で、山内一豊と千代が高知城入りした。
文化審議会では「四国の戦国期城郭を代表する遺跡で、長宗我部氏が土佐一国から、四国に支配を広げる過程や、織田信長や豊臣秀吉体制に組み込まれる変遷を知る上で、極めて重要な城跡」としている。
http://sankei.jp.msn.com/region/shikoku/kochi/080518/kch0805180301001-n1.htm 文化審答申:南国・長宗我部氏の居城、岡豊城跡を国史跡に指定へ /高知
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20080517ddlk39040713000c.html
73 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:05:29
74 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:26:17
75 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 11:35:53
ttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008060400229 2008/06/04-11:02 大正天皇、晩年を公開=「実録」5年分、643ページ−宮内庁
宮内庁は4日、大正天皇(1879〜1926年)の行動やかかわった出来事などを年代順に記した
「大正天皇実録」のうち、晩年に当たる5年7カ月分を公開した。
天皇や皇族などの個人情報に関するものは非公開とされ、
公開された約16万字のうち約2%に当たる3084字が黒塗りとなった。
これまでに2回、即位後9年間分が公開されており、これで大正天皇の在位期間すべてが明らかになった。
誕生から即位までについては、今後公開される予定。
公開されたのは、大正天皇の体調が悪化した1921年(大正10年)7月から、
逝去後に大葬が行われた27年(昭和2年)2月までの9冊(巻77〜85、計643ページ)。
76 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 10:39:04
ttp://www.asahi.com/national/update/0624/TKY200806230303.html 沖縄戦、警察も米軍破壊工作や投降阻止 米軍文書で判明 2008年6月24日7時58分
太平洋戦争末期の沖縄戦で、警察官が日本軍の士官らと連絡を取りながら、
沖縄本島北部で米軍に対する破壊工作をしたり、
住民の米軍への投降を抑えようとしたりしていたことが、当時の米軍の秘文書からわかった。
北部地域では日本軍がゲリラ戦を展開しており、
警察が軍と一体になってこの作戦に加わっていたことを裏付けるものと研究者はみている。
文書は、沖縄を攻略した米軍第27歩兵師団司令部の45年7月7日付報告書。
本島北部の廃屋で同3日に没収した名護警察署の警部補の日誌の記述を抜粋、英訳したとされ、
米軍上陸後の4月23日から6月30日まで、名護市東部の山中での署員の行動が書かれている。
関東学院大の林博史教授(現代史)が米国立公文書館で入手した。没収した日誌の原本は見つかっていない。
文書によると、警部補らは、ゲリラ戦部隊「護郷隊」が陣取った名護市多野岳の南西に野営。
「夜間、敵の状況を偵察するため2隊にわかれる」(4月23日付)、
「分隊長○○(実名)……通信線を切断」(同26日付)など、偵察活動や破壊工作を行った。
77 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 10:39:58
>>76 住民らの避難壕(ごう)がある地区にも頻繁に出入りし、日本軍の組織的戦闘が終結した後の6月24日には、
米軍の収容所に入れられないように住民に指示するため、2人が派遣されたほか、
「毎日、多くの住民が米軍に収容されている」(6月25日付)といった情報を集めていた。
日本軍への協力の記述も多い。5月1日には日本兵7人に食料を配給し、
6月12日には少尉、同17日には大尉と接触していた。
沖縄戦で、日本軍は本島中南部の戦線に主力部隊を置き、北部にはゲリラ戦を任務とした部隊を配置。
米軍が北部西岸から上陸し、南部へ勢力範囲を広げてからも山間部などで抵抗を続けた。
この地域での警察の活動については、住民を利用した敵陣営の攪乱(かくらん)など、
警察官の任務を記した「戦闘活動要綱」が05年に米英軍の没収文書のなかから見つかったが、
活動の実態はわかっていなかった。
林教授は「文書は住民の命を軽視し、住民から警察官まで根こそぎ動員して
ゲリラ戦を続けようとした日本軍の方針が実際に実行に移されていたことを裏付ける史料だ」と話している。
ttp://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008062490104022.html 昭和天皇像に迫る 側近の手記本紙HPで全文公開 『生物学研究趣味超えた』
2008年6月24日 10時40分
日中戦争開始前年の一九三六年から四年半、昭和天皇の海軍侍従武官を務めた
故山澄貞次郎氏の手記「随筆 宮殿炎上」=四月二十九日朝刊既報=の全文を、
遺族の了承を得て二十四日から、東京新聞のホームページで公開する。
全録にあたり昭和史に詳しい原武史・明治学院大教授に聞いた。
終戦まで「現人神(あらひとがみ)」とされ、大元帥だった昭和天皇。
自身の戦争責任は問われることなく、一九四六年、横浜、川崎から全国巡幸を始めた。
山澄氏はその趣旨を「国民に詫(わ)びたい」という思いを実現されたと記した。
だが原教授は「昭和天皇はまず、皇祖皇宗に敗戦を報告し謝罪したいと思っていた」と話す。
昭和天皇は終戦直後の四五年秋、伊勢神宮を参拝した。
その後の巡幸で国民に接して戦争中の生活を尋ねたり、広島では「災禍に対しては同情にたえない」と発言した。
「確かに戦災の人々を励ましたが、詫びたいのが本心ならば、なぜ明確にうかがわせる言動をしなかったのか。
多大の戦死者を出したことに対して、国民に向かって具体的に詫びたとはいえない」と指摘する。
>>78 ■収穫に感謝する祭祀とつながり
次に原教授は、昭和天皇が厳冬の相模湾に連日出て生物学研究を行っていた記述に着目する。
「興味深い内容で、研究は完全に『趣味』の領域を超えていた」
太平洋戦争は四一年に始まったが、昭和天皇は四二年夏まで御用邸で研究を続けたことに触れ、
「研究にうつつを抜かしていたのではない。天皇自身の意識では、
この生物学への思い入れは稲の生育を神に祈り、収穫に感謝する祭祀(さいし)とつながっていたのではないか」。
その後、戦況の悪化とともに、実母の貞明皇后が信仰に傾倒して神懸かり的な状態となる。
「研究は天皇の精神を正常に保つ役割を果たしていたが、
御用邸に滞在できなくなる四三年以降になると、貞明皇后の情念に巻き込まれていった」
手記では昭和天皇が健康に気遣う固い信念を記すが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)から
代々途切れることなく継承されてきた皇位を担っている以上、自分の身体は私のものではないという意識があった」と言う。
そして「三種の神器に最後までこだわったのは、南朝正統論が確立されていた当時、
北朝の血を受け継ぐ天皇が自らの正統性を主張するよりどころと見なしていたからだろう」と分析する。
>>79 ■「工業国になる」日本の針路記す
このほか、山澄氏が手記をまとめた四八年の時点で
「この狭い国土では工業立国にならざるを得ない」と日本の針路を見通していた。
「当時はまだ農業立国。本格的な工業立国になるのは高度成長期になってからのことで、先見の明を感じる」
手記は「両陛下が農家の苦心と努力とをご体験なさる意義」を強調して結ぶが、原教授はこう思いをめぐらせた。
「お濠(ほり)の外では急速に開発が進み、農村も減っていく。新嘗祭(にいなめさい)も勤労感謝の日に変わる。
山澄氏は工業立国化を予測する半面、深い絶望感にとらわれていたのではないか」
全文閲覧のアドレスは
ttp://www.tokyo-np.co.jp/feature/essay/ <はら・たけし> 1962年東京生まれ。東大大学院博士課程中退。
専攻は日本政治思想史。著書は「昭和天皇」(岩波新書)など。
81 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 00:45:53
82 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 09:30:10
【滋賀】
守山市最大の前方後方周溝墓 播磨田東遺跡で発見
2008年7月31日
守山市の播磨田東遺跡から、古墳時代初頭(3世紀末)に実力者が埋葬された市内最大の前方後方型周溝墓が見つかり、市教育委員会が発表した。市教委は「身分階層があったことを示しており、古墳時代に王が出現する過程を探るうえで貴重」としている。
3世紀前半までの弥生時代の墓は四角く溝を掘り、真ん中部分に土を盛る「方形周溝墓」が主流だった。しかし、古墳時代に入り、実力者の墓として四角の一辺を途切れさせる前方後方型周溝墓が登場した。
市教委文化財保護課によると、播磨田東遺跡の周溝墓は全長が推定で26メートル。市内でこれまで発見された9例の中では最大となる。今回の墓の南東5メートルの位置にも前方後方型周溝墓があり、2つの墓の関係についても関心が高まっている。
播磨田東遺跡では、市教委が今年6月から500平方メートルを対象に発掘調査をしている。現地説明会は8月2日午後2時から開かれる。
今回の発見について、周溝墓に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信館長は「3世紀の王権体制を考えるうえで貴重な成果」とコメントしている。
(中村禎一郎)
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080731/CK2008073102000005.html?ref=related
「邪馬台国前夜」に新たな光 宗像市の田熊石畑遺跡 すべての墓から武器 再葬墓も確認 集落調査に期待
2008年7月15日 04:07
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/34744 弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓域や集落跡が広がる田熊石畑遺跡(宗像市)に、研究者の熱い視線が集まっている。今月上旬までに出土した青銅武器の数は、同時期とされる吉武高木遺跡(福岡市西区)の11本をしのぐ15本で、今後さらに増えそうだ。
特殊な「再葬墓」も見つかった。「邪馬台国」の時代をさかのぼること400年。現在の宗像地域にいったいどんな有力集団がいたのか。壮大な謎解きが待ち受ける。 (宗像支局・吉丸宣孝)
「すべての墓から武器が出ること自体が極めて珍しい」。調査担当の宗像市文化財係職員は発掘成果に驚きを隠さない。
墓域の調査区域約200平方メートルに確認された9基のうち、これまで発掘した6基すべてで銅剣や銅矛など計15本が出土。中でも5本が副葬されていた1号墓の被葬者は、大きな力を持っていたとの想像が広がる。
(
>>84の続き)
出土した銅戈(どうか)の1つは全長13センチと、同時期としては国内最小。国外でもこれほどの極小サイズは報告例がないという。舶来品ならば朝鮮半島との交易路が、国産品ならば製造地がどこなのかが問題となる。
小田富士雄・福岡大学名誉教授は「流通ルートなどを考える上でも、青銅器の成分分析の結果が待たれる」と今後に期待する。
また、銅剣1本が出土した3号墓で、頭骨や腕骨、あばら骨、鎖骨などを見た田中良之・九州大学教授は「骨の位置が不自然。ばらばらの骨を意図的に並べ直した『再葬墓』だ」と指摘した。
「再葬墓」は元の墓を掘り起こし、別の場所に埋葬し直す習慣。甕棺墓(かめかんぼ)には1基に複数の人骨を埋葬する形で多く見られるが、木棺墓での出土例はほとんどない。
田中教授は「共に葬られるべき特別な人物たちが、この墓域に集められたためではないか」と、この地に君臨した「華麗なる一族」の存在を推測する。
墓域の調査はいったん終了し、今後は墓域に隣接する集落遺構に焦点が移る。居住域や貯蔵域などから当時の人口や集落規模、生活の様子が明らかになるに違いない。
首長の大型居館や祭殿、集落の防衛機能などを持つ環濠(かんごう)跡などが見つかれば「いよいよ有力な地域集団の存在が裏付けられる」(西谷正・九州歴史資料館長)ことになる。
=2008/07/15付 西日本新聞朝刊=
「喪船」を復元-古代の葬送儀礼解明の鍵【巣山古墳】 (2008.7.29 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080729/arc080729a.shtml 広陵町三吉の前方後円墳、巣山古墳(特別史跡、4世紀末―5世紀初)の周濠(しゅうごう)から出土した木製品三点から葬送儀礼用の「喪船」を復元し、同町教育委員会が28日、報道陣に公開した。
謎が多い古代の葬送儀礼を解明する上で貴重な資料となりそうだ。喪船は8月1日から9月1日まで、同町南郷の町文化財保存センターで一般公開される。
町教委の発掘調査で平成17年3月に出土した木製品を18年6月から今年3月にかけて高級アルコールなどで保存処理し、割れていた部材を合わせるなどして復元した。
喪船の部材は、前部の波切板にあたる竪板(クスノキ)が長さ約2.1メートル、幅約78センチ。下部の厚さ約25センチで、下部は約5センチ。側面に突起がつき、表面には円文様を中心に直弧文が描かれている。
側面の大きな舷側板(スギ)は長さ約3.7メートル、幅45センチ、厚さ5センチで端部が反りかえっている。
上端には3カ所の切り込みがあり、下端にも長方型の小孔が並び表面には円文様と帯文様が彫刻されている。小さな舷側板(長さ約1.8メートル、幅38センチ、厚さ約5センチ)は三角形でクスノキ。
(
>>86の続き)
船の構造は、木をくりぬいた丸木船の上に竪板と舷側板が取り付けられた準構造船で、弥生時代から日本で使われていたとみられる。竪板は大阪府八尾市の久宝寺遺跡から出土した船と基本的構造が同じという。
舷側板の文様から出土した船の全長は八メートルを超えるとみられるが、装飾性の強い直弧文がみられたり、赤色顔料が塗られた痕跡が認められことなどから実用の船ではなく、棺を載せた儀礼用の喪船と推定されるという。
遺体を古墳に運ぶために使用され、その後に解体され周壕に埋められたとみている。
当初は竪板を木棺のふたとみていた河上邦彦・町文化財保存センター所長は「上と下で幅に違いのあることなどから竪板と考えた方がいい。これまで出土した木製品の中で農具のミニチュアだと思っていたのも船の櫂(かい)と見られる。
今後保存処理や発掘が進むにつれ部材が多く見つかり、完全な船が復元されるのでは」と話している。
復元喪船の公開は平日の午前9時から午後5時まで。観覧無料。問い合わせは同センター、電話0745(55)1001。
木製兜:矢巾・徳丹城跡から出土、鉄兜に見せかけ−−7世紀 /岩手
http://mainichi.jp/area/iwate/news/20080723ddlk03040065000c.html ◇鉄貴重な律令時代、技術駆使して加工
律令国家最後の城柵として知られる国指定史跡・徳丹城跡(矢巾町)で、全国で初めて見つかった7世紀の木製兜(かぶと)が、戦いの際に鉄製兜に見えるように作った「偽の鉄兜」だったことが、元興寺文化財研究所(奈良市)の調査で分かった。
鉄が貴重だった古代に、相手を威嚇するため、技術を駆使して鉄兜に似せる加工を施したとみられる。
徳丹城は、律令国家が東北地方征伐のために築いた城柵の一つ。征夷(せいい)大将軍・文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が9世紀に造営したとされる。
木製兜は06年、矢巾町教委の発掘調査で井戸跡の内部から見つかった。トチノキ製で、表面に黒漆(こくしつ)が塗られ、水桶に転用されていた。放射性炭素年代測定の結果、640〜690年ごろに作られたことが判明していた。
今回、同研究所が作成した兜のデジタルデータを基に、富山県南砺(なんど)市の彫刻家の協力で復元品を作成した。木製兜は木をくり抜き、外側を完全に丸くせず、古代の鉄兜に似せて角を残す加工がされていた。
木製兜に黒漆を塗ると、縦長の鉄の板をつなげて作った当時の鉄兜とほとんど区別がつかなくなった。
調査を担当した同研究所の塚本敏夫・保存科学研究室長は「少しでも強い防具を持っているんだと敵に見せつけるために、あえて難しい技術を使って鉄兜に見せる工夫をしたのだろう」と話している。【花澤茂人】
毎日新聞 2008年7月23日 地方版
89 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 20:14:03
90 :
D-フィス ◆DFISSqqoAQ :2008/08/02(土) 21:05:09
山川の日本史教科書と用語集ほぼ丸暗記で一昨々年早稲田受かったお。
新薬師寺の「せん(土へんに專)」出土-奈教大が本格調査へ (2008.8.1 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080801/arc080801a.shtml 奈良市高畑町の新薬師寺旧境内(奈良教育大学構内)で、寺院の床などに敷かれたレンガ「せん(土へんに專)」が見つかった。
調査した同大によると、奈良時代に造られた可能性が強い。同寺の「せん(土へんに專)」が出土したのは初めて。柱穴も一基見つかり、同大は周辺を発掘して中枢部の解明を目指す。
特別支援学級校舎の建て替えに伴い、地下遺構の確認調査を広さ約60平方メートルの範囲で実施した。同大の敷地は旧陸軍の奈良連隊跡で、関連施設とみられる建物跡が見つかった…
平安期の鉄鍋鋳型出土 草津の岡田追分遺跡
2008年7月16日
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080716/CK2008071602000005.html 草津市の岡田追分遺跡から、鉄鍋造りに使われた平安初期(9世紀前半)の鋳型が出土し、市教育委員会が15日発表した。この時代の鋳型は東北や関東、北陸地方で多数見つかっているが、近畿地方では珍しく、市教委は「鋳造技術の広がりを探る上で貴重」としている。
市教委文化財保護課によると、鋳型は直径25センチ、高さ11センチの鍋型。鍋に取り付ける脚を製造するための鋳型も見つかった。脚の鋳型には獅子柄を付ける文様が刻まれていた。これらの品は遺跡東側の溝や落ち込みの部分に埋まっていた。
鋳型の出ている全国の遺跡は旧街道沿いに集中。岡田追分遺跡と旧東海道、旧東山道も距離が近いことから、街道と鋳造技術の関連が注目されている。
岡田追分遺跡の周辺には、平安時代の役所に当たる官衙(かんが)や寺院と推測される遺跡が集まっている。岡田追分遺跡で造られた鉄器が、これらの官衙や寺院に納められた可能性も指摘されている。
岡田追分遺跡は住宅建設のために、市教委が昨年11月から今年2月に430平方メートルを対象に調査。鋳型や溶解炉の炉壁片、黒鉛化した木炭などコンテナ30箱分の品が発見されている。
平安時代の鋳型に詳しい特定非営利活動法人(NPO法人)「妙見山麓遺跡調査会」(兵庫県)の神崎勝監事は「中央集中だった鋳造拠点が、平安期になり全国各地に造られた。
それを裏付ける発見」と評価している。今回の鋳型は19日−8月31日に草津市の草津宿街道交流館で開かれる夏季テーマ展で紹介される。毎週月曜と7月22日は休み。
(中村禎一郎)
94 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 00:36:15
考古学だっちゅうの
96 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 02:02:48
97 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 02:03:55
98 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 02:09:21
ここは、考古学版じゃないっちゅうの。
100 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 21:11:47
101 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 16:53:03
102 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 16:54:36
103 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 04:25:28
104 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 18:40:53
ここにカキコする椰子へ、
考古学板じゃないっちゅうの。
106 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 02:46:00
107 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:47:27
108 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:48:09
109 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:50:25
110 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:20:35
オイオイ、日本史の史の字の意味をわかってんのか?
史はふひと、文書のことだろ。
弥生とか、銅剣、古墳とかは、先史、つまり歴史書のできる前のこと。
日本史板へのカキコは板違い。考古学板へ書き込めよ。
先史時代を日本史の指導要領に入れてる
文科省にも言ってこいやハゲ
まあ、近代史以外ならここで一括して見れて便利な気もするが・・・
113 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:58:46
>>111 文科省を引き合いに出す、教科書野郎か。w
藻前は、高校の教科書でも読んどけ。
お前何言われてるかわかってないだろ
ド低脳め
115 :
茨城水戸市:2008/09/05(金) 20:51:29
台渡里廃寺近くで巨大な堀 豪族が地域政治担った証拠
茨城大人文学部は5日、水戸市にある奈良時代から平安時代の台渡里(だいわたり)廃寺や正倉院(倉庫群)跡近くの大学運動場で、巨大な堀の跡が見つかったと発表した。古墳時代の豪族居館の堀とみられるという。
同学部の田中裕准教授(39)は、律令下の税制「租庸調」の祖である米を蓄える正倉院や寺があった政治の中心地に豪族の住まいがあったとみられることで、豪族が地方行政官の「郡司」に任命され、地域政治をつかさどっていた有力な証拠になるとしている。
外堀と内堀があり、正方形か長方形だったとみられ、その一部が見つかった。一辺の長さは外堀が約75メートル、内堀は約60メートル、深さ約2・5メートルで、幅は約7メートルと推定される。堀の内側では、柵を立てていた跡とみられる複数の穴も見つかった。
田中准教授は「地域の政治の担い手を知る上で、全国的にも価値の高い資料」としている。
2008/09/05 19:16 【共同通信】
116 :
茨城水戸市:2008/09/05(金) 20:52:24
118 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 00:11:21
119 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:37:22
120 :
長野県中野市:2008/09/13(土) 01:55:08
柳沢遺跡の銅鐸計4個に 弥生のクニ、原型裏付け
長野県埋蔵文化財センターは12日、昨年に東日本で初めて弥生時代の青銅器「銅鐸」と「銅戈」が一緒に出土した柳沢遺跡(同県中野市)で、新たに弥生中期ごろの銅鐸の破片が出土し、最低でも3個分あることが分かったと発表した。
同遺跡で出土した銅鐸は合計で少なくとも4個になった。奈良文化財研究所の難波洋三考古第1研究室長は「銅鐸が4個以上出土した遺跡は全国で10例もなく驚きだ」と話している。
柳沢遺跡では昨年、祭器として使われた銅鐸と銅戈7本(大阪湾型6本、九州型1本)が同時出土。東日本の長野に、弥生時代のクニの原型になる有力な集団が存在していたことを示す発見として注目を集めた。
大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長(考古学)は「考えていたよりも、さらに強力な集団がいたことを意味付ける成果だ」と指摘している。
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008091201000885.html
121 :
鹿児島県大崎町:2008/09/13(土) 02:30:55
鉄製馬具や武具出土 大崎町 神領10号墳 14日現地説明会
2008年9月13日 00:57
県内で2例目のくりぬき型石棺が確認されている、古墳時代中期(5世紀前半)の前方後円墳、神領10号墳(大崎町横瀬)で14日午後1時半から、本年度の発掘成果を紹介する説明会が開かれる。
石棺の全容が判明したほか、鉄製の馬具やよろい・かぶとの破片約200点などが出土した。
10号墳は全長約65メートルの中型で、13の古墳などがある神領古墳群の1つ。鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)が2006年から調査。武人を模した埴輪(はにわ)や愛媛県産の初期須恵器が出ている。
今回は、後円部にある石棺の詳細やその周辺を調査。石棺は長さ2.75メートル、幅0.94メートル。「縄かけ突起」と呼ばれる突起があり、内部は長さ約2メートルのだ円形。材質や加工から宮崎県延岡地方の産出と考えられる。
石棺は盗掘済みだが、全国でも貴重な、朝鮮系の特徴がある馬具の破片が周辺から出土。鉄地に金メッキの銅板を張り付けるなどの加工がある。近畿地方の制作とみられる、前面がとがった「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)」の一部も見つかった。
橋本准教授は「東九州で石棺を遠方に運んだ事例は初確認で、加工も精巧。副葬品からも、権力の強さや地域間交流の広さが分かる」と話す。現地への行き方は、大崎町役場=099(476)1111。
=2008/09/13付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/47247
122 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:38:36
123 :
大阪府柏原市:2008/09/19(金) 03:04:00
古墳から中国製鉄かぶと出土 大阪、大和政権の有力者か
大阪府柏原市の前方後円墳「玉手山3号墳」(4世紀初め、全長約100メートル)の竪穴式石室跡から中国製かぶとの部品「小札(こざね)」が50点以上出土し、大阪市立大が17日、発表した。
中国製かぶとは国内で約15例しか見つかっておらず、同大学の岸本直文准教授は「貴重なかぶとを持ち、古墳の形からも初期大和政権との強いつながりがうかがえる。河内平野を支配した大和政権の有力なパートナーだったのではないか」と話している。
かぶとは、小札と呼ばれる数百枚の鉄製の板を革ひもでつなぎ合わせ、ヘルメットのような形にしたらしい。このほか青銅製の矢尻や鉄製の武器の破片も見つかった。
初期の有力古墳が木製の棺を用いたのに対し、同古墳は竪穴式石室に畿内で最古のくりぬき式石棺を埋葬していたとみられる。
付近の寺には同古墳から出土したという香川産の石材で造られた石棺のふたが残っているが、古墳の石室はほとんど破壊され、石棺の本体も見つからなかった。
2008/09/17 20:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008091701000882.html
124 :
愛知県清須市など:2008/09/19(金) 03:04:59
コイ養殖、弥生時代から? 愛知・清須で幼魚の歯が出土
2008年9月18日 夕刊
愛知県清須市などにある弥生時代中期の集落遺跡「朝日遺跡」で、幼いコイの歯が多数出土していたことが分かった。
コイの幼魚はまとめて捕獲することが難しく、この時代の弥生人が冬の保存食として養殖したコイを食べていたとみられる。18日、滋賀県立琵琶湖博物館が発表した。
縄文時代には、琵琶湖周辺の遺跡からコイ科の魚を捕獲した痕跡が見つかっているが、養殖した跡が見つかったのは初めて。コイの養殖を示す国内最古の事例といい、古代の食料事情に新たな一面を加える発見となりそうだ。
同館の中島経夫上席総括学芸員などの研究グループが、朝日遺跡から出土したコイののどの奥にある咽頭(いんとう)歯167点を分析。その結果、体長5−15センチの生後数カ月の幼魚と、体長35−45センチの2、3歳の産卵期のものに分類できた。
このことから研究グループは、弥生人が春に産卵期の成魚を捕獲し、集落内の水田やため池などで飼育。池の中で生まれた幼魚を水田や池で育て、秋に水を抜いて捕っていたとみている。
中島学芸員は「魚の養殖には、水を人為的に制御する技術が必要。水田稲作の技術が日本に伝わったのと同じころに、中国で発達したコイの養殖技術も伝わったのだろう」と指摘している。研究成果は英国の考古学誌に発表する予定。
■奈良文化財研究所の山崎健研究員の話 咽頭歯に着目した珍しい視点の研究成果だ。分析からコイの体長の分布が2グループに分かれ、自然分布とは考えにくく、養殖していた可能性は高い。
水田や環濠(かんごう)などのほか、水たまりのような場所で原始的な養殖を営んでいたのかもしれない。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008091802000282.html 弥生人:かんがい技術利用しコイ養殖…愛知・朝日遺跡
http://mainichi.jp/select/science/news/20080919k0000m040063000c.html
125 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:48:36
126 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:49:12
127 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:49:51
128 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:50:30
129 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:51:07
130 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:00:10
131 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:00:49
132 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:01:52
133 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 21:34:04
134 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:11:45
135 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:12:24
136 :
岩手県:2008/10/12(日) 22:14:39
137 :
宮城県:2008/10/12(日) 22:16:01
138 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:43:44
139 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:09:57
140 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:21:08
141 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:25:41
142 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:01:57
143 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:02:41
144 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:03:21
145 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:33:37
146 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:34:14
147 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:34:48
148 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:35:30
149 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:36:08
150 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:17:07
151 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:17:44
152 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:18:34
153 :
香川県善通寺市:2008/11/12(水) 18:27:07
旧練兵場遺跡で現地説明会/8日、善通寺
2008/11/08 09:27
香川県が発掘調査を進める旧練兵場遺跡(善通寺市仙遊町、善通寺病院敷地内)で8日午後1時半から、現地説明会が開かれる。新たに見つかった弥生時代後期の竪穴住居跡の構造から、九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認。
県埋蔵文化財センターは「人や物の行き来の一端を垣間見る機会。約2000年前の大地を踏みしめて」と参加を呼び掛けている。
同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。本年度の調査は、善通寺養護学校を同病院敷地内に移転整備するのに伴い、同遺跡のうち約3300平方メートルで実施している。
同センターによると、同遺跡ではこれまで、7本程度の柱で支える円形の竪穴住居跡が見つかっていた。本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘。
九州地方の特徴を持つつぼも出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。
無料。荒天の場合は15日に順延。問い合わせは現場事務所<0877(62)6066>。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20081108000101
154 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:45:43
大家好``大家好大家好~!你们好,看得明白不?
☆魔除けのおまじない ☆
六四事件 天安門大屠殺 天安門事件 Tienanmen Square
Red China army killed great number of Chinese democratization's people
in Tienanmen Square in 1989 Jun.
Their China military's tanks killed many democratic citizen.
it was awesome and shocking!
文化大革命
Over 40 million Chinese were massacred by red China of Mao Zedong
in Chinese culture revolution (1966-79) .
It's awesome cruel!! , communism that... , just a mad dog !
Unbelievable! But that's truth that all.
Cause, red China is the bloody red beast or Satan's country and area
in Bible's John's holy prophecy.
156 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 17:41:39
■「水辺の祭祀」跡出土 大垣、荒尾南遺跡
11月15日(土)に現地説明会
朝日新聞(岐阜)2008年11月12日
http://mytown.asahi.com/gifu/news.php?k_id=22000000811120001 県文化財保護センターは11日、東海環状道建設に伴う荒尾南遺跡(大垣市荒尾町、桧町)の今年度発掘調査で、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて「水辺の祭祀(さい・し)」が営まれたと推定される場所と、
古墳時代前期の墳丘墓を発見したと発表した。現地説明会は15日午後1時半〜3時半。
同遺跡は06年度に本格発掘が始まり、これまで銅鐸(どう・たく)破片や銅鏡、巴型銅器などが出土。
今年度は5月〜12月中旬の予定で約1・1ヘクタールを調べ、確認した弥生中期の方形周溝墓は過去2年分と合わせ88基、弥生後期〜古墳前期の竪穴住居跡は175軒になる。
「水辺の祭祀」跡と見られるのは、かつて流れていた河川跡の岸辺沿い約100メートル。
約3万3千点の土器が集中して出土し、中にさらに線刻を施した土器やミニチュア土器が入った土器や、土器自体に穴の開いた穿孔(せん・こう)土器などが見つかった。
2千〜1800年前、集落で祭祀に使われていたと推定している。
洪水で埋まり、うまく保存されてきたらしい。計測によると、川幅は当時20メートル、深さは地表から2メートルぐらいだったという。
「水辺の祭祀」跡は県内で4、5カ所見つかっているが、いずれも溝の際で、今回のように大きな川の岸辺での発見は初という。
遺跡南部から発見された墳丘墓(1基)は、一辺が約10メートルの四角い墓。
約1800年前の古墳前期に築造されたと考えられ、墳丘部から木製祭祀具(長さ25センチ、幅3センチ、厚さ5ミリ)が9枚見つかった。地に突き刺して神聖な場所を区切る用具らしい。
発掘の指導調査員である八賀晋・三重大名誉教授は
「この遺跡は弥生時代末から古墳時代初めに大集落に姿を変えている。祭祀儀礼の萌芽(ほう・が)を考える上で興味深い資料だ」
としている。
現地説明会の問い合わせは、文化財保護センター調査部(058・237・8553)へ。(高岡喜良)
157 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 21:38:11
158 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 21:45:36
159 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 23:26:05
160 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 12:27:39
大阪は日本書記にででくるほど歴史が古く京都や奈良より歴史が古い。1400年後期蓮如が石山本願寺(大阪市中央区)を建て商人が集まりはじめる。1500年後期豊臣が大阪に入り既にいた大阪平野商人、大阪堺商人、京都伏見商人と共に大阪を更に発展させた
大阪市中央区平野町や大阪市中央区伏見町はその由来である
東京は1600年前期徳川が江戸に入り後に東の京都という意味で東京都となり後に大阪企業が発展させた
161 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:24:43
162 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:25:27
163 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:26:16
164 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:26:56
165 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:27:39
166 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 08:44:29
亡きペットの無念を晴らした
大石内蔵助、警察に出頭
167 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 11:47:42
168 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 11:48:24
169 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 11:52:38
全敗男またも徹底的敗退!
|ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6 (_ _) )< 歴史も株も現実社会にも負けました
|/ ∴ ノ 3 ノ \_______________________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| |キムチ | '、/\ / / くれぐれも全敗男自作自演スレには貼り付けないでください 見る人もたった一人ですから
170 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:30:03
171 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:30:49
172 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:31:30
173 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:32:11
174 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:33:13
175 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:29:26
176 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:30:03
177 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:30:40
178 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:31:17
179 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:34:08
181 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:30:35
187 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:34:09
188 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 00:54:08
189 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 02:11:20
190 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:22:48
191 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:36:37
大阪・長原遺跡
大和王権の鉄器工房跡出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90112a.htm 渡来技術を駆使
大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生
産した鍛冶(かじ)工房跡が、市文化財協会の調査で出土した。百舌鳥
(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を
築いた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構
という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから
、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の
鉄器生産拠点」とみている。
工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建て
られていたとみられる。1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形
の溝を設け、排水などに利用。溝からは、製造過程で出た3センチ大
の鉄滓(てっさい)も発見された。含まれる炭素が少ないことなどから
、高温で加熱して繰り返し折り曲げる方法で製造したらしい。
百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3〜4世紀)な
どでも同様の溝が確認されており、同協会は「朝鮮半島の渡来人がも
たらした先端技術を駆使して生産したのだろう」としている。
(下に続く)
(
>>192の続き)
「倭の五王」の政権支える
「倭(わ)の五王」の時代に鉄器を生産していた鍛冶(かじ)工房跡が
確認された大阪市平野区の長原遺跡。同時期の古墳からは大量の鉄器
が出土しているが、これまでどこで生産されたのかは不明だった。今
回の発見は、鉄器生産の歴史を解明する手がかりになりそうだ。
鉄器は弥生時代中期、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされ、こ
の頃の福岡県春日市の赤井手遺跡では鍛冶遺構が見つかっている。以
降、小規模な生産が続いていたが、大阪府藤井寺市の野中古墳など5
世紀の古墳に大量に副葬されるようになり、大規模生産が始まったと
考えられている。
しかし、これまで近畿最古の鉄器生産遺構とされてきたのは同府柏
原市の大県(おおがた)遺跡(6世紀末)で、5世紀の鉄器生産の実態
はわかっていなかった。白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「鉄器
生産は当時最も重要な技術。大和王権と遺跡のかかわりが明確になっ
た意義は大きい」と評価する。
日本書紀には、「五王」の一人とされる仁徳天皇が現在の大阪府内
に水路や堤を築いたと記される。今回発見された工房で生産された鉄
器がこうした土木工事に使用された可能性が高く、工房が大和王権の
軍事、経済活動を支えていたことがうかがえる。
(社会部 関口和哉)
(2009年01月12日 読売新聞)
194 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:26:35
■庵寺遺跡:前漢時代の八禽鏡出土 日本海ルート交流を示す重要な発見−−大田/島根
県埋蔵文化財調査センターは、大田市仁摩町大国の庵寺遺跡の箱式石棺から、前漢時代末期(紀元前1世紀後半)に作られ、8羽の鳥の模様が特徴の青銅鏡「八禽(はっきん)鏡」が出土したと発表した。
前漢鏡の出土は石見地方では初めて。八禽鏡は全国で8例目。
九州北部や鳥取県の出土例があり、同センターは「空白だった島根で発見されたことで、九州と鳥取をつなぐ日本海ルートによる交流の可能性も示す重要な発見」と話している。
八禽鏡は直径9・6センチ、重さ201グラムで、古墳時代前期(4世紀代)の円墳「庵寺1―B号墳」にある箱式石棺(長さ2メートル、幅50〜75センチ)の右隅に、三つに割られた状態で発見された。
同センターは鏡を割ってから石棺に入れたとみている。
前漢鏡は全国で約100例の出土があり、県では3例目。八禽鏡8例のうち3例は鏡の破片の出土で、完全な形で復元できるのは珍しいという。
一般公開は今月から3月にかけ、山陰両県で開かれる「新発見!とっとりしまね発掘速報展」で行う。
21日〜2月15日まで、鳥取県立図書館(鳥取市)、2月21日〜3月15日、島根県立石見美術館(益田市)。【御園生枝里】
1月20日14時1分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000179-mailo-l32
195 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:21:50
196 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:22:33
197 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:23:08
198 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:37:04
199 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:19:58
■垣内遺跡 弥生時代最大級の鍛冶工房を確認 兵庫・淡路
兵庫県淡路市(淡路島)の垣内(かいと)遺跡で、鉄器を製作する弥生時代後期の大規模な鍛冶(かじ)工房とみられる竪穴建物跡8棟が確認され、同市教委が22日発表した。
炉のある工房跡は昨年度も2棟見つかっており、弥生時代のものとしては国内最大級。
当時、淡路島が鉄器の一大産地だったことがうかがえるほか、日本で鉄器生産技術が伝わったルート解明のうえでも注目されそうだ。
標高約200メートルの丘陵地にあり、07年度から調査している。
今回確認されたのは弥生時代後期後半(2世紀初め〜3世紀初め)の竪穴建物跡11棟。うち8棟で、床面に強い熱を受けて赤く焼けた炉跡が見つかった。
建物跡は円形や方形で直径5メートル前後のものが多く、最大のもので直径10.5メートルあった。鉄の矢じりの「鉄鏃(てつぞく)」など鉄製品や、石づちなどの工具も多数出土した。
また、朝鮮半島か中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品(長さ約20センチ、幅約5センチ、厚さ約3センチ)も見つかった。高度な鉄器生産技術が集まっていた可能性があるという。
日本での鉄器生産は弥生時代中期後半に九州北部で始まったとされ、工房跡は四国、中国地方などで見つかっている。
松江市の上野2遺跡では弥生時代後期後半とみられる工房跡が6棟見つかっており、これまで最大とされてきた。現地説明会は25日午前10時半と午後1時半。【登口修、吉川雄策】
1月22日21時9分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci 拡大写真
国内最大級の鍛冶工房とされる竪穴建物跡が見つかった垣内遺跡。手前の建物跡は、直径10.5メートルもある=兵庫県淡路市黒谷で2009年1月20日午後0時44分、登口修撮影
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci.view-000
200 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:37:45
国内最大の鉄器工房跡 淡路島の弥生時代遺跡
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001667526.shtml 淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の発掘で、鍛冶(かじ)工房跡計十カ所が確認
され、弥生時代後期(一〇〇-二三〇年)で国内最大規模の鉄器製造群落だったこ
とが分かった。同市教委が二年間の調査結果として二十二日発表した。弥生時代の
鍛冶工房跡は九州など西日本各地で見つかっているが、建物が密集した製造専門集
落は全国的に珍しく、当時のいわば工業団地。専門家によると、大和政権成立以前
の有力者の一大武器供給源だった可能性もあるという。(西尾和高)
垣内遺跡は播磨灘の海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北
百メートル。昨年度に本格調査が始まり、弥生時代後期前半の鉄器工房跡二カ所が
発見されていた。
本年度の調査で八カ所を確認。強い熱で赤く焼けた炉跡があった。床面は円形
(七棟)と方形(一棟)。当時の建物としては規模が大きく、最大で直径一〇・五
メートルある。
鉄製の矢尻や鉄片なども四十五点出土し、弥生時代の工房跡での出土鉄器数とし
てはかなり多い。矢尻などは、近畿地方で見つかる鉄製品とは違い、鉄を切って整
えただけの単純な形のものではなかったという。
鉄は弥生時代中期初頭、中国、朝鮮半島から九州へ伝わった。その後、山陰、近
畿へ伝わった日本海ルートと、四国までの瀬戸内海ルートがあるとみられている。
今回見つかった鉄器の特徴などからは、徳島から淡路島へ渡ってきた可能性もある
とみられる。
東アジア考古学・冶金(やきん)考古学を研究する愛媛大学法文学部の村上恭通
教授は「農耕民の生活臭がない工房空間で、例がない密集度は安定的な生産を裏付
けている」と指摘。市教委は「淡路島が鉄器生産で重要な鍵を握っていたことにな
る」としている。現地説明会は二十五日午前十時半と午後一時半から。市教委社会
教育課TEL0799・64・2520
(1/22 23:27)
201 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:39:52
202 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:58:08
203 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:57:35
■“邪馬台国”解明へ発掘 ── 有力候補の纒向遺跡
奈良県桜井市教育委員会は30日、邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(3世紀初め−4世紀初め)成立の謎を解明するため、集落中心部とみられる場所の発掘調査を2月に始めると発表した。期間は約5年の予定。
過去に神殿とみられる特殊な建物跡(3世紀初め−中ごろ)が出土した地点と周辺の約100メートル四方を発掘。市教委は「建物跡の東側に、巨大な中枢の建物の遺構が眠っている可能性がある」としている。
女王卑弥呼が君臨した時期と重なり、成果に注目が集まりそうだ。
纒向遺跡は桜井市北部の南北1・5キロ、東西2キロの範囲に広がる巨大集落跡。過去160回調査しているが、発掘面積は遺跡全体の約5%で、不明な点が多い。
九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。
遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。
2009/01/30 17:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009013001000669.html ■2月から発掘調査が開始される纒向遺跡の集落中心部とみられる場所(矢印)。右上は箸墓古墳=08年2月、奈良県桜井市
http://www.47news.jp/PN/200901/PN2009013001000732.-.-.CI0003.jpg
204 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:22:32
205 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:55:15
三ツ城古墳の築造年代判明 '09/1/27
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200901270065.html 東広島市西条中央にあり、広島県内最大の前方後円墳「三ツ城(みつじょう)古墳」(国史跡)1号墳の築造年代が、広島大や市教委などの調査で「412年ごろ」であることが、26日分かった。
古墳が築かれた実年代がほぼ確定するのは全国で初めて。同古墳から出土した須恵器(すえき)の年代が、近畿地方で同型式の須恵器と一緒に見つかった木材の年輪年代測定から割り出された。
三ツ城古墳からは、西側造り出しから須恵器が出土。大阪府南部の堺市を中心とした陶邑(すえむら)窯跡群で5世紀前半に焼いた「TK73型」と分かっていた。
1996年、奈良市・平城宮朝集殿下層の溝の調査で、樹皮直下の年輪が残るヒノキ材が出土。
廃棄されたTK73型須恵器が68年に見つかったのと同じ地層の溝だったことから、奈良文化財研究所(奈良市)が年輪年代測定法で調べ、412年伐採と判断した。
広島大大学院の古瀬清秀教授(考古学)がこのほど、両遺跡とも須恵器の型式編年観と実年代に整合性があり、一型式が20年前後であることを総合的に検討。
同古墳は通説では「5世紀前半」とされていたが、「TK73型須恵器が出土した三ツ城古墳は、412年前後の築造」と判断した。
206 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:56:39
>>205関連
築造で「安芸」のまとまり '09/1/27
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200901270065.html 5世紀初頭に三ツ城古墳(前方後円墳)が築かれた東広島市・西条盆地は、奈良時代には安芸国分寺が置かれ仏教文化が花開いた地域。
同古墳の出現は、西条の首長が広島市・太田川下流域の首長層も統括し、国分寺に先立つ350年前に「安芸」の地域的まとまりができたことを物語る。
同古墳の須恵器は、大和政権と関係が深い陶邑(すえむら)(大阪府南部)で焼かれ、葬祭具として与えられた。多くの埴輪(はにわ)も近畿から運ばれた可能性がある。
しかも全長92メートルの同古墳は、5世紀前半の履中天皇陵(365メートル)、吉備(岡山県西部)勢力の首長墓である造山古墳(360メートル)と相似形だ。
東広島市教委の妹尾周三課長補佐は「被葬者は、大和政権の末端に参画していたのではないか。板か布製の古墳設計図が来ているだろう」と推測する。
大和政権は4世紀末―5世紀前半、朝鮮半島との間で緊迫した状況にあり、国内的には強大な吉備勢力は脅威だった。瀬戸内ルートの安芸勢力との連携の背景には、そうした情勢がうかがえる。
207 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 13:00:05
208 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 13:11:09
209 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 22:53:03
210 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:03:55
211 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:04:39
212 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:05:31
213 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:06:41
214 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:10:33
215 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:11:13
216 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:11:51
217 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:12:27
218 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:13:02
219 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:31:54
>>216 この秀吉書状は国宝でもおかしくない。歴史の中で生きた人物たちの息遣いが聴こえるような第一級の同時代史料だ。
秀吉は字は下手だが、味がある。
もうとっくに重文となっているとばかり思っていたが・・・。
【三重】
鈴鹿関の西城壁は全長700メートル以上 亀山市教委が発掘調査
2009年2月15日
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20090215/CK2009021502000007.html 古代の関所「律令(りつりょう)三関」の一つで、亀山市にある鈴鹿関(すずかのせき)の西城壁は全長700メートル以上の規模だったことが市教委の発掘調査で分かった。
調査を監修する山中章・三重大教授(考古学)は「鈴鹿関が日本最大の関である可能性が高まった」と話している。(井波和夫)
西城壁の遺構はこれまで、同市関町新所の「観音山」のすそで確認されていた。市教委が新たに先月から、観音山の南約500メートルにある「城山」西側の約170平方メートルを調べたところ、同様に土塁状になっている遺構が見つかった。
山中教授によると、観音山の遺構の北端と城山の南端を結ぶと700メートル以上になる。三関のうち、既に発掘調査された不破関(岐阜県関ケ原町)は約500メートル四方の規模で、鈴鹿関の方が大きいことが実証されたという。
また、西城壁は「築地(ついじ)塀」という瓦ぶきの壮大な土塀だったとみられており、今回の調査地点からも大量の丸瓦や平瓦が出土。築地塀を造る際に柱で足場を組んでいた跡も見つかった。
築地塀の底部の幅は2・1メートルと推定。築地塀の規模は底部の幅によって決められていたとされ、10世紀前半の「延喜式」の規定をさかのぼって当てはめると、高さは4メートルを超えていたとみられる。
市教委は鈴鹿関の国史跡指定を目指している。文化庁の文化財調査官は「今回の発見が事実なら、指定へのプラス材料になる」と話している。
【鈴鹿関】古代の法律「律令」に基づき、都から東国へ延びる幹線道に設置された関所の一つ。不破関(岐阜県関ケ原町)、愛発関(福井県)と合わせ「律令三関」と呼ばれる。
文献では「日本書紀」の壬申の乱(672年)の記述に「鈴鹿関司」が登場するのが初めて。789年、ほかの二関とともに制度上廃止された。
221 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:35:15
222 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/16(月) 22:45:27
>>221 倍暦計算で
449年=允恭即位24年 450年=允恭即位25年
となる。允恭天皇の代だな。なお前者の前年の
448年=木梨軽王子 立太子年
参考にされたい。
223 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/16(月) 23:00:34
>>205 倍暦計算で
412年=仁徳即位22年
となる。
ニュース速報以外の書き込みするな
225 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:07:04
226 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:07:55
227 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:08:35
228 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:09:17
229 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:21:04
230 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 03:33:24
231 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 03:34:02
232 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 03:34:47
233 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:16:21
234 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:17:26
235 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:18:04
236 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:19:19
237 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 13:02:54
238 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 13:03:51
239 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:13:29
99年ぶり坂上田村麻呂の坐像…京都清水寺開山堂で開帳
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090228-OYT1T00564.htm(画像あり)
京都市東山区、清水寺の開山堂(重要文化財)で28日、開帳法要が行われ、寺の創建にかかわった坂上田村麻呂
(758〜811)の坐(ざ)像(高さ78センチ)や、高子夫人坐像(同80センチ)が姿を現した。一般公開は3月1日〜5月
31日で、1910年以来99年ぶり。
開山堂は江戸時代初期の建物で、檜皮(ひわだ)ぶきの入り母屋造り。森清範貫主らが読経したあと、漆塗りの厨子
(ずし)の扉が開かれた。
田村麻呂の千二百年忌が来年にあたり、今年の西国三十三所の本尊開帳に合わせて1年前倒しで公開する。
(2009年2月28日14時47分 読売新聞)
240 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:09:34
241 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:12:12
242 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:15:23
243 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:09:03
244 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:27:39
245 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 18:37:51
8世紀の銀 意外に高純度…奈文研が出土品調査
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090302-OYO1T00714.htm?from=main1 8世紀初めに築造された「石のカラト古墳」(奈良市)で出土した銀製の玉と、同時期の官営工房「飛鳥池遺跡」(奈良県明日香村)で見つかった銀粒が、
水銀を使って銀の純度を上げる当時の最新技術、アマルガム法を利用して作られていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
同法は17世紀に日本で初めて利用されたと言われてきたが、導入時期が約900年遡(さかのぼ)ることになり、当時の高度な金工技術が裏付けられた。
アマルガム法は、水銀と銀の合金を作った後、水銀を蒸発させて銀の純度を高める技術で、ローマでは紀元前から実用化されていた。
日本では、金メッキの方法として古墳時代から知られていたが、精錬法としては17世紀に佐渡金銀山で初めて導入したというのが定説になっていた。
同研究所が、石のカラト古墳の副葬品とみられる銀製の玉(直径約1・2センチ)を分析した結果、水銀が1%含まれていることが判明。
飛鳥池遺跡で発掘された銀粒(直径0・5センチ)にも、水銀が含まれており、同研究所はともに同遺跡でアマルガム法を使って精錬したとみている。
石のカラト古墳は、明日香村の高松塚、キトラ両古墳とほぼ同時期の築造で、被葬者は皇子か高位の貴族とされる。飛鳥池遺跡は、最古の貨幣・富本銭(ふほんせん)などを造っていた工房として知られる。
分析した村上隆・京都国立博物館室長(歴史材料科学)は「東アジアの金工技術の水準を考える上で重要な資料だ。日本の科学技術の歴史を見直す材料になる」としている。
(2009年3月2日 読売新聞)
246 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 18:55:13
247 :
奈良県桜井市:2009/03/05(木) 22:09:59
>>54-56 大福遺跡
弥生時代のよろい出土=6割残存、戦備用か儀式用−奈良・大福遺跡
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009030400858 奈良県桜井市の大福遺跡を発掘調査した同市教育委員会は4日、弥生時代後期(2世紀後半)の木製よろい「無飾刳抜式木甲」の一部が見つかったと発表した。
木甲の出土は約30例あるが、担当者は「他の出土品より多い約6割の部分が残っている上、保存状態も良い。形態の変遷が分かる貴重な史料だ」としている。
市教委によると、この木甲は、前部が左右2枚、後方は1枚の板で一組になる。見つかったのは右前胴の大半(縦27センチ、横21センチ、厚さ0.4−0.7センチ)、左胴前の一部(縦14センチ、横10センチ)、後胴の約半分(縦36.5センチ、横19センチ)。
トチノキが使われ、全面にひもを通したとみられる穴が開いている。表面に模様がなく、顔料を塗布した痕跡もない素朴なつくり。(2009/03/04-18:58)
248 :
奈良県桜井市:2009/03/05(木) 22:20:04
251 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:47:33
■邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石
3月5日23時33分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090305-00000602-san-soci 邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)にある国内最古級の前方後円墳の矢塚、勝山、東田大塚の3古墳について、
県立橿原考古学研究所と同市教育委員会は5日、前方部の形によって2つのタイプに分かれていたことが判明したと発表した。
3古墳は、いずれも前方部が極端に短い「纒向型」で前方後円墳の祖型との見方もあったが、古墳誕生直後から2つの系統があった可能性が浮上。
前方後円墳の発展過程を考える上で貴重な資料になりそうだ。
同遺跡では、3古墳のほかに纒向石塚古墳(全長96メートル)など計5基の最古級の前方後円墳が相次いで築造され、邪馬台国時代のトップクラスの墓とされる。
「纒向型」は、前方部の長さが後円部のほぼ半分しかなく、天皇陵など巨大な前方後円墳とは形が異なるのが特徴。
今回の調査によって、矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。
一方で、東田大塚古墳(3世紀後半)は全長120メートルで前方部は50メートル、勝山古墳(3世紀半ば以降)は全長115メートルで前方部が48メートルと、いずれも前方部が従来の想定より長いことが判明、纒向型ではないと分かった。
前方後円墳は、纒向型から前方部の長い墳形に発展し、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(全長280メートル)が築かれたという説が有力。
寺沢薫・同研究所総務企画部長は「纒向型以外に前方部の長いタイプが当初から併存していた可能性も出てきた。日本列島の王権につながる纒向地域の前方後円墳の成立に、新たな謎が生まれた」と話した。
現地はすでに埋め戻されているが、矢塚、東田大塚両古墳の出土遺物は6〜13日、桜井市埋蔵文化財センターで展示される。
どちらも奈良県桜井市内の纒向遺跡と大福遺跡の関係性はどうなんだろう。
254 :
福岡県筑後市:2009/03/07(土) 00:51:46
高江辻遺跡:弥生時代、二列埋葬墓を確認−−筑後市教委が発表 /福岡
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20090306ddlk40040454000c.html ◇甕棺墓以外の組み合わせ−−発掘調査
筑後市教委は5日、発掘調査を進めている同市高江の「高江辻遺跡」で、弥生時代に九州北部で主流だった墓様式の「甕棺墓(かめかんぼ)」とは異なる「木棺墓」や「土壙(どこう)墓」が2列に並んだ「二列埋葬墓」を確認したと発表した。
甕棺墓以外の二列埋葬墓の出土例は少ないという。【松尾雅也】
市教委によると、二列埋葬墓は、弥生時代中期〜後期(紀元前1世紀〜3世紀前半ごろ)に造られていたと考えられる。
丘陵地の尾根に沿って幅約10メートル、長さ約30メートルにほぼ平行に並ぶ16基の墓が確認された。また、二列埋葬墓とは別の「石棺墓」10基も見つかった。
このうち二列埋葬墓を含む五つの墓には、それぞれ1体ずつの成人骨の一部が残っていた。地面に直接掘った弥生時代の「木棺墓」などで骨が腐食せずに残っている例は極めてまれという。
今回確認されたほとんどの墓は、棺の天井部分を石や木のふたで閉じ、さらに念入りに多量の粘土を使ってすき間が塗り固められていた。外気や雨水の侵入が防げたことで骨が残っていたらしい。内部には朱が塗られていた。
甕棺を使わない埋葬方法や粘土で棺を密封する手法は、この地で暮らした人々の独自の文化と考えられるという。出土した骨の中には歯が並んだ下あごがあり、歯のすり減り具合などを分析することで当時の人々の食生活なども分かるという。
発掘に携わった九州大学大学院の中橋孝博教授(自然人類学)は「石棺墓などからの人骨出土は珍しく、貴重な資料。甕棺墓の人骨との遺伝子形態の比較ができる」としている。
高江辻遺跡は、国道442号のバイパス工事に伴い、今年1月16日〜今月16日、発掘している。調査中は市民も見学できる。
〔筑後版〕
255 :
福岡県筑後市:2009/03/07(土) 00:53:01
256 :
福岡県みやこ町:2009/03/07(土) 00:56:07
257 :
高知県土佐市:2009/03/07(土) 21:52:34
弥生中期の鉄製品 大量出土
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20090306-OYT8T01002.htm 県埋蔵文化財センターは6日、仁淀川河口に近い土佐市新居の上ノ村遺跡で、弥生時代中期末(紀元前後)の鉄製品約250点が出土したと発表した。まとまって見つかった例では県内最古。
九州北部などを除いてこの時期の鉄製品が見つかることはまれで、同センターは「このあたりが九州から鉄を輸入する交易拠点の一つだったのだろう。鉄製品の生産が広がっていく始まりを解き明かす資料」としている。
弥生時代中期末の鉄製品は非常に貴重で、県内では南国市や香南市で数点見つかっているのみ。対岸にあたる高知市春野町の西分増井遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄器生産地より100〜200年さかのぼる。
鉄製品は、竪穴建物跡(直径4メートル)で約170点が密集してみつかり、水路などにもあった。大きさは1〜6センチで、加工途中らしく、はっきりした形をしていないが、刃物のようなものもあった。
砥石(といし)も同時に見つかり、同センターは「鉄製品の再加工をしていた工房にかかわる施設ではないか」としている。
九州北部では縄文時代末〜弥生時代初頭(2800〜3000年前)に鉄製品が使われ始め、弥生時代後期(1〜3世紀)に全国に広がったと考えられている。
同センターの池沢俊幸・調査第三班長は「鉄を入手できるだけの強力な集団がいたのだろう」と話している。
現地説明会は8日午後1時30分から。仁淀川沿いを護岸した江戸時代前期の大規模な石積みとともに説明する。
(2009年3月7日 読売新聞)
他ソース
上ノ村遺跡:弥生中期末の鉄製品大量出土 県内最古塗り替える−−土佐 /高知
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20090307ddlk39040628000c.html
258 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 17:50:54
259 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:45:18
260 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:46:32
261 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 02:07:58
■青田遺跡(新発田市)の盛衰を年単位で測定 新潟県立歴史博物館
県立歴史博物館(長岡市)は12日、約2500年前の縄文時代末期の集落跡が出土した新発田市の青田遺跡の成り立ちを年単位で詳細に分析できたと発表した。
柱に使われた木など計280本の年輪を調べた結果、建物が造られたのは166年の間の4つの時期に集中していることが分かった。同じ場所でムラの発展と衰退が繰り返されたとみられる。
同館によると、縄文時代の集落の変遷を1年単位まで測定できたのは、国内で初めて。
同様の研究は欧州で広く行われているが、日本では遺跡の柱を切断する許可を得にくいために今までなかった。今回は県教育委員会が特別に許可した。
同館の荒川隆史主任研究員と福島大学の木村勝彦准教授が3年間かけて調査・分析した。
木の年輪の間隔が異常気象で極端に広くなったり、狭くなったりする年が100年に数回あることに着目。出土したクリ、クヌギ、コナラなどの年輪を観察し、間隔が異常な幅だった年から何年後に伐採されたのかを調べた。
この手法を使い、同遺跡で最初に建物が造られたとみられる年を「青田1年」と仮定。建築活動が行われたのは、同1年、同30―33年、同64―75年、同157―166年の4つの時期だということが分かった。
当時の建物の寿命は短かったと考えられ、建築活動のない期間は、地震や洪水で集落から人がいなくなったか、いても人数が少なくなっていたとみられる。
集落が形成されたのは紀元前5―6世紀。今回の研究では「青田1年」を基準にした歴史は分かったが、暦年との照合はできていない。
荒川研究員は「年単位の正確さで集落の盛衰の経過が分かったのは画期的。縄文時代から弥生時代への移り変わりを、より詳細に知ることができるようになるのではないか」と話した。
研究成果は14日午後1時半から同館で発表される。事前申し込みが必要。問い合わせは同館、0258(47)6135。
新潟日報2009年3月12日
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=157763 青田遺跡で出土した柱。
年輪を観察し、集落の盛衰を年単位で分析することができた=新発田市(県教育委員会提供)
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/dataimg/157763.jpg
262 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 14:20:39
兵庫県姫路市飯田・飯田遺跡
竪穴式住居跡から炭化した板壁(約20枚)と板を挟む杭(12本)が出土。
>>261 >今回の研究では「青田1年」を基準にした歴史は分かったが、暦年との照合はできていない。
年輪年代法の既存の成果と照合して確認できないのこれ?
265 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:53:04
266 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 15:51:36
267 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 15:52:34
268 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 15:53:15
269 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 02:39:56
あなたはこんな事を知っていますか?
現在の在日韓国・朝鮮人は密航してきたり、出稼ぎに来た人達である
という事を。
朝鮮の人達に望まれて日韓併合条約を結び、国際法上なんの問題も無く合法的に朝鮮と合併した事を。
日本の敗戦時に韓国・朝鮮人が日本人に対して集団強盗、略奪、殴打暴行、
レイプ、殺人、破壊、占拠監禁、人民裁判などあらゆる犯罪を犯した事を。
日本は韓国と日韓基本条約を結び無償で3億ドル(約1080億円)、
有償で2億ドル(720億円)、民間借款で3億ドル、韓国内の
日本の財産の全てという当時としても莫大な額の賠償をしているという事を。
日清戦争で日本は清と命をかけて戦い、清(中国)の属国であった
朝鮮の独立を認めさせたという事を。
2002年日韓ワールドカップでスタジアムを作る資金が無い韓国
のために7000億円もの日本の資金が使われた事を。
韓国の経済危機の時にIMF経由で日本が多額の資金を出し韓国を救った事を。
韓国人はベトナム戦争に参戦した時に、ベトナム人に対して虐殺やレイプをしまくった事を。
日本の領土の竹島を韓国が不法占拠している事を。
阪神大震災が起こったときに韓国人が『いい気味だ』『天誅だ』と言った事を。
あなたはどれだけご存知でしたか?
http://www.interq.or.jp/earth/lucifer/mirror/damattehairarenai/
271 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 16:57:38
272 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 16:59:12
273 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:00:21
274 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 22:24:20
275 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:22:48
276 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 02:39:27
1 名前: ◆Robo.gBH9M @ロボ-7c7cφ ★[] 投稿日:2009/03/30(月) 21:51:49 ID:???0
◇近代文学が失ったものを想起する
夏目漱石はすぐれた漢詩の作り手であり、その作品を高く評価する吉川幸次郎の
『漱石詩注』をはじめ、多くの訳注や研究書が刊行されている。「修善寺の大患」と
「『明暗』の頃」の二部から構成される本書は、吉川幸次郎の注釈を踏まえつつ、
独自の視点から深く漱石の漢詩を読みこみ、小説家漱石の深層を照射する。
漱石は若いころから漢詩を作っているが、「修善寺の大患」の時期と「『明暗』の頃」は、
漢詩作者としての「絶頂期」にあたる。「修善寺の大患」とは、明治四十三年(1910)、
重い胃潰瘍にかかった漱石が修善寺で転地療養中、大吐血し人事不省に陥ったのを
機に、一群の漢詩を作った時期を指す。また、「『明暗』の頃」とは、その六年後の
大正五年(1916)、死を目前にした漱石が約百日間、午前中に連載していた『明暗』の
執筆を終え、午後に日課として漢詩(七言律詩)を作った時期である。著者はこの二つの
時期に作られた数首の漢詩をとりあげ、緻密(ちみつ)に読み解きながら、漱石の漢詩の
特質から、漢詩という表現形式がもつ近代文学とは異質な特性、あるいは可能性に
至るまで、縦横に語り尽くす。
「修善寺の大患」を機に作られた漢詩はおおむね死地を脱し、回復期にさしかかった
漱石の安堵感や解放感に浸されているが、なかには、霊的現象や幻覚など、病者の
とぎすまされた異常感覚を鋭く歌いあげた作品もある。著者は当時書かれたエッセイ
『思い出す事など』を自在に引用しながら、この時期に作られた漱石の漢詩を鮮やかに
解読してゆく。こうした著者の語り口によって、流麗にとぎれなく言葉を連ねながら、
説きすすめてゆく漱石の日本語による散文と、言葉を選びぬき、詩的感情の頂点を
凝縮した形で歌う、その漢詩との根本的な差異が、自ずと明らかにされてゆくさまは
圧巻というほかない。
http://mainichi.jp/enta/book/news/20090329ddm015070029000c.html
2 名前: ◆Robo.gBH9M @ロボ-7c7cφ ★[] 投稿日:2009/03/30(月) 21:51:59 ID:???0
「『明暗』の頃」に作られた漢詩は、この「修善寺の大患」の時期とは異なり、漱石自身の
体験や心境と直接結びつけにくいものが多い。漱石は『明暗』を執筆中、登場人物に
違和感を覚えながら、さまざまな説明、形容、分析を書き連ねてゆく操作をつづけるうち、
「俗了」つまり俗気に骨の髄までおかされる危険を覚え、そこで、「何とか自分を取り
戻す」ために、午後になると漢詩を作ったという。著者は、こうした最晩年における漱石の
多様な漢詩群、すなわち静寂の境地を歌った詩篇、これとは対照的な、気迫や諧謔に
あふれた詩篇等々をとりあげ、「近代の文学は、どうしても一つの個を提示しなければ
ならない。
それに対して、漢詩では包括的な自我を表せる。歴史的な自我も表せる」と、きわめて
注目すべき見解を提示する。限定された字数で、しかも厳格な韻律の法則にのっとって、
圧縮された詩的小宇宙を形成する漢詩の世界においては、むろん表現対象への委曲を
尽くした説明などありえず、主語もなければ時制もないのがふつうだ。著者の言のごとく、
それはまさしく凝縮した形で、多様な要素を「包括」する世界なのである。こうして漱石の
漢詩から近代文学の失ったものを想起する、著者の問題意識は鋭敏きわまりない。
本書は、漢文や漢詩を遠く離れ、微妙さを喪失しつつある日本語に対する危機感をもち、
中年以降、積極的に漢籍に親しむ著者が、漱石の漢詩を素材として「思いの丈」を語り
尽くした、秀逸な漢詩論であるとともに、卓抜な日本語論、近代文学論ともなっている。
井波律子・評
古井由吉・著(岩波書店・1995円)
【文芸】近代文学が失ったもの−書評「漱石の漢詩を読む」:古井由吉・著
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1238417509/
279 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 02:19:06
280 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 02:45:39
■垣内遺跡取り壊さず保存
淡路市教委、県や地元の理解得る
弥生時代後期(1世紀中頃〜3世紀初め)の国内最大の鍛冶(かじ)工房跡であることが分かった淡路市黒谷・垣内(かいと)遺跡を、埋め戻した上で保存することが決まった。
同遺跡はほ場整備の過程で発見され、本来なら調査終了後に取り壊す計画だったが、歴史的価値が高いことから、市教委が県や地元の理解を得て計画変更をまとめた。風化を防ぐために、早ければ今月末頃から作業を始め、将来の史跡指定を目指す。
同遺跡は標高約200メートルの丘陵にあり、市教委が今年1月発表した時点での調査区域は約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡(最大で直径10・5メートル)と判明。
弥生時代最大規模の鉄器生産工房で、鉄器生産の技術が朝鮮半島から九州北部、瀬戸内を経て東に伝わる〈鉄の道〉の一端が明らかになったとして、関係者の注目を集めた。
価値の高さから、事業者である県や、地元の五斗長(ごっさ)土地改良区も保存していくことでまとまった。
県洲本土地改良事務所によると、同地区でのほ場整備面積は27・7ヘクタール(受益戸数51戸)で、2006年度から6か年かけて実施。総事業費は約9億9800万円。
保存区域は調整中だが、直径10・5メートルの円形工房と、大型鉄板(縦約5センチ、横約20センチ、厚さ約3センチ)の見つかった同9・7メートルの円形工房がある付近などを想定。ほ場整備区域は外さず、工事をしない区域として残すことになるという。
土地改良区の植野喬雄理事長(67)は
「垣内遺跡は地元の誇り。地域としては公園にしてもらい、全国の人に喜んで来てもらえるよう整備してほしい」
と話し、市教委の伊藤宏幸・社会教育課長補佐は
「現地を訪れる人にも本物があれば感動してもらえる。歴史的に重要な遺跡を後世に残せることはありがたい」
と話している。
同遺跡では1月の発表後、さらに建物跡6棟が見つかり、うち1棟が鍛冶工房跡であることが分かっている。
(2009年4月4日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20090403-OYT8T01087.htm
281 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:40:46
282 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:41:58
283 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:42:47
284 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:43:35
285 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:51:55
286 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:51:05
287 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:51:50
288 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:04:50
どういうこと?「仏像ボーイ」「仏像ガール」急増中 (ゲンダイネット)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_popularity__20090503_3/story/03gendainet05019540/ 20〜30代の間で仏像がブームだ。東京国立博物館で開催中の「国宝 阿修羅展」は入場者30万人を突破。
中高年のほか“仏像ボーイ”や“仏像ガール”も人気を支えている。同展広報担当者が言う。
「20〜30代の入場者が目立ちます。夕方はOL、休日はカップルが多いですね。昨年10月に設立した『阿修羅ファンクラブ』会員1万2000人はこの年代が中心です。
ある男性誌はカップルで見ると厳かな気分になるのか“親密度”が高まると書いていました」
昨年11月には「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」に「阿修羅賞」が設定された。富山高専3年の男性が受賞。どことなく阿修羅に似ている。
また、“仏像ガール”という名の29歳の仏像ナビゲーター(上智大日本文化学科卒業)もメディアで引っ張りダコ。カルチャースクールでも「仏像の楽しみ方」をレクチャーしている。
若い男女に仏像が受けている理由について、「阿修羅展」主催者の朝日新聞社文化事業部の鈴木麻之氏が言う。
「阿修羅をじっと見ていると、悩みをもつ等身大の青年(少年)がそこにいるような錯覚に陥る。若い人は自分の内面を重ねやすいのではないでしょうか。
また、仏像は信仰の対象だけに絵画や宝飾品を見るときにはない、精神的な体験という側面があるように思います」
癒やしという単純な理由ではなさそうだ。(日刊ゲンダイ2009年4月30日掲載)
“歴女”の囲い込みでもNHKに後れをとっている民放の嘆き (ゲンダイネット)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/n_tv_show3__20090505_7/story/01gendainet07027345/ ●歴史好き女性が6割
いまキー局の編成マンを悩ませているのが“歴女”の存在。歴女とは戦国武将に興味を持つ女性のことで、テレビ界は歴女をどう取り込むかが課題になっている。
大手広告代理店や視聴率調査会社が行った調査で、歴史が好きで興味を持っている女性が6割以上も存在することが分かった。これは男性とほぼ同じ数。
しかも、この歴女は20〜40代。スポンサー的にもウエルカムな視聴者層だ。そこで、TVマンは歴女を取り込む番組を重要な編成課題としている。
ところが、そうは簡単に事は運ばない。とくに、民放キー局にとっては頭が痛い問題があるのだ。
「歴史番組はとにかく制作費がかかる。要となる再現がとくに厄介でスタジオ、衣装やセット、メークまで揃えなければならない。よくドラマの映像を資料映像として番組内で代用するが、使用料もバカにならない。
しかも、歴女は目が肥えていて安物のセットや時代考証を無視した衣装を見抜いてしまう。本物でないと視聴率が取れないのです」(関係者)
問題となっている制作費だが、通常のドラマを制作するのと大差ないという。1本当たり2000万〜3000万円。それでも視聴率が取れる確約がないとスポンサーがつかないのだ。
事実、いま歴史物をやっているのはテレビ東京だけ。日本テレビの「日本史サスペンス劇場」も制作費高騰を理由に打ち切りになってしまった。
余裕しゃくしゃくなのがNHKで、制作費が無尽蔵にあるため、歴史番組はいくらでも制作できるのだ。
先駆けは06年に放映されてブームとなった仲間由紀恵主演の「功名が辻」で以後、大河ドラマは高視聴率で、「天地人」に至る。
さらにNHKが歴女を取り込むキラーコンテンツとして放送を開始したのが「歴史秘話ヒストリア」。
歴史ものでもNHKが高笑い。さて、民放はどう歴女を囲い込む考えなのか。
291 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:38:55
■三河遺跡:ヤマト王権の直轄地「屯倉」、調査成果を展示──橿考研 /奈良
県立橿原考古学研究所(橿原市畝傍町)1階アトリウムで、古墳時代のヤマト王権の直轄地「屯倉(みやけ)」があったとされる三宅町の三河遺跡の調査成果を展示している。
三宅町の町名の由来になったという「屯倉」について知ることができる。6月30日まで。
同遺跡は、京奈和道建設に伴い、1995年10月から00年7月まで断続的に発掘調査が行われ、弥生時代から中世までの遺構が確認された。
県内唯一とされる二重周濠を巡らせた円墳(6世紀前半)が見つかり、屯倉を管理した有力者の古墳と推定されている。
また、近くの伴堂東(ともんどひがし)遺跡では、愛知県・東三河地方の土器が大量に出土。
坂靖総括研究員は「古墳時代前期から、東三河地方などから技術を持った人々が移り住み、周辺の屯倉開発が始められた可能性がある」と話している。
会場では、藤ノ木古墳の金銅製馬具の分析などを行った同研究所指導研究員の久野雄一郎さん=4月25日に79歳で死去=の業績をしのぶ展示も同時開催されている。
両展示とも、平日午前9時から午後5時まで。6月7日は午後1時から公開。入場無料。【高島博之】
毎日新聞 2009年5月26日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090526ddlk29040743000c.html
292 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:14:46
■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。
放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。
邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。
周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は
「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」
と話している。(渡辺延志)
朝日新聞2009年5月29日
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
293 :
サガミハラハラ:2009/05/29(金) 13:03:25
箸墓はヒモモソ媛の墓といわれ、書紀の崇神天皇10年の記事にとうじょうする。
これは復元日本書紀紀年法によれば273年のことである。
ただしモモソ姫は卑弥呼ではない。同時代人だということだけである。
294 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:40:01
産経新聞 別報(関西版)
2009年5月29日
■邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳
「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。
その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。
しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。
「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。
年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。
箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、
これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜260年に絞り込むことができたという。
研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。
一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。
かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は
「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」
と指摘する。
箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も
「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」
と慎重な立場だ。被葬者像については
「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」
と話した。
http://www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php
295 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 19:44:00
読売新聞 別報(関西発)
■「箸墓古墳の築造は240〜260年」…歴博 卑弥呼死亡時期と一致
土器年代測定…「誤差ある」反論も
「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。
この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の所在地論争にも影響を与えそうだ。
同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は
「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」
と話している。
*
年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。
箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。
今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は
「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」
と主張する。
邪馬台国論争を巡って、畿内説をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は
「分析の精度は極めて高いと認められ、造営年代に科学的な裏付けが与えられた」
と指摘。
一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(同)は
「今回の測定法で築造年代が決められるのか疑問。邪馬台国の所在地を決めるにはさらに議論をすべきだ」
と語る。
(2009年05月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90529a.htm
名越の切通に落書きされたらしいね
297 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:06:20
いちおあげとこ
298 :
纒向石塚古墳・矢塚古墳・東田大塚古墳:2009/06/04(木) 22:29:17
>>292-295関連(纒向石塚古墳・矢塚古墳・東田大塚古墳)
纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に
(1/3ページ)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090531/acd0905312201004-n1.htm 2009.5.31 22:01
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、
「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。
早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。
纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末〜3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。
(下に続く)
299 :
纒向石塚古墳・矢塚古墳・東田大塚古墳:2009/06/04(木) 22:30:00
300 :
まとめ:2009/06/04(木) 22:39:04
>>292-299 国立歴史民俗博物館の研究チームによる
纒向遺跡内の最古級の前方後円墳の築造時期
(1)纒向石塚古墳[200年ごろ]
(2)東田大塚古墳[220〜240年ごろ]、矢塚古墳[220〜260年ごろ]
(3)箸墓古墳[240〜260年]
301 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 04:36:21
302 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 04:46:41
303 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:01:25
■【桜井茶臼山古墳】 熱い視線送る60年前の発掘関係者
桜井茶臼山古墳に初めて発掘調査が入ったのは昭和24年。発掘現場では、第二次大戦からの帰還兵が軍服姿で作業員として土運びをするなど、戦後の混乱期ならではの光景もあった。
当時の関係者は、60年ぶりの再発掘を感慨深げに見守った。
戦時中、天皇陵クラスの大型古墳は皇族の墓の可能性があるとして、発掘が困難だったが、終戦を機に調査の機運が高まった。
半面、食糧増産に向けた開墾による墳丘破壊や盗掘が続出。同古墳も盗掘を受けたため急遽(きゅうきょ)調査が実施された。
学生として調査現場に通った北野耕平・神戸商船大(現神戸大)名誉教授(78)は、当時の発掘現場について
「作業員は軍服の階級章こそ外していたが、銃弾の下をくぐり抜けた人ばかり。戦争のような雰囲気だった」
と振り返る。
当時は「学閥意識」も強く、発掘現場は一部の関係者しか見ることができず、北野さんが石室に入ったのは一度だけ。
「写真は撮るな。見たことは口外しないように」とくぎを刺された。「それでも、この経験が研究の原点になった」
大塚初重・明治大名誉教授(82)も、明治大大学院生だった昭和27年に現地を訪れた。
「石室の中は真っ暗だったが、外に出るとワイシャツのあちこちが赤く汚れていた。石室内が、被葬者のために朱色に塗られていたことがこれで分かった」
と当時の興奮ぶりを語った。今回の調査については「掘れば掘るほど新発見がある」と感嘆の声を上げた。
MSN産経ニュース2009.6.12 20:49
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090612/acd0906122050005-n1.htm
304 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:42:31
305 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 23:01:40
木棺はコウヤマキ製、やはり大王を埋葬 奈良・桜井茶臼山古墳 (1/2ページ)
2009.6.13 14:07
初期大和政権の大王クラスの前方後円墳で、被葬者の魂を守る「玉垣跡」とみられる柱穴列(はしらあなれつ)が見つかった奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長200メートル、3世紀末〜4世紀初め)で、遺体を安置した木棺が、
大型古墳で用いられるコウヤマキの木で作られていたことが13日、県立橿原考古学研究所の調査で分かった。昭和24年の調査で「トガの巨木」と鑑定されたがコウヤマキと判明。約60年ぶりに「真実」が突きとめられた。
同研究所が、木棺を納めた竪穴式石室周辺を発掘したところ、長さ数センチの木の破片100点以上が出土。木棺の一部とみられ、顕微鏡で詳細に観察した結果、細胞の形などからコウヤマキと特定した。
竪穴式石室は、24年の調査によって、長さ6・8メートル、幅1・3メートル、深さ1・6メートルの規模と判明し、木棺の底板が長さ5・2メートル、幅70センチ分見つかった。当時の分析では、マツ科の針葉樹「トガ」と鑑定されていた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090613/acd0906131408004-n1.htm (続く↓)
306 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 23:03:37
(
>>305の続き)
(2/2ページ)
古墳の木棺は通常、石室内に流入する土砂などによって腐食して残らないことが多いが、初期大和政権中枢部に築かれた前方後円墳の大和天神山古墳(同県天理市、全長103メートル)や
前方後方墳の下池山古墳(同、全長120メートル)などでは木棺が残っており、いずれもコウヤマキ製だった。
全国の前方後円墳などでもコウヤマキ製の木棺が多く、桜井茶臼山古墳の木棺の鑑定結果を疑問視する説が多かった。ただし、木棺は60年前の調査終了するとともに石室内に埋め戻されたため、再鑑定ができないままだった。
昭和24年の発掘調査で石室内の木棺を間近に見た北野耕平・神戸商船大(現神戸大)名誉教授(78)は「再調査の必要性をずっと感じていたが、60年たってようやく真実が分かったのは画期的」と話し、
24年当時の木棺の残存状況については「1700年前とは思えないほど堅くてしっかりしていた」と語った。
今回の調査を担当した岡林孝作・同研究所付属博物館総括学芸員は「コウヤマキは山間部など高地に生えているため入手も容易ではなく、大王の棺にふさわしい」としている。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090613/acd0906131408004-n2.htm
307 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 18:27:34
入鹿邸」に高機能石垣 - 甘樫丘東麓遺跡
2009年6月18日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20090618111405.html 飛鳥時代に絶大な権勢をふるった蘇我入鹿(?〜645年)が館を構えたと考えられている明日香村川原の甘樫丘の東麓遺跡で、7世紀前半の石垣が屈折部や排水口を持つなどの特徴を持っていたことが分かり、17日、奈良文化財研究所が発表した。
平成6年以降の発掘調査で、7世紀の焼けた土壁や建物跡などが次々と見つかり、日本書紀に「谷(はざま)の宮門(みかど)」と記された入鹿邸との関連が注目されている。
今回の調査区域は、倉庫跡などが見つかった平成18年度調査区の南東約1150平方メートル。この時に出ていた石垣が谷に沿って南方に19メートル延び、全長が34メートルあったことが分かった。
幅8メートル、深さ1.2メートルの谷地が確認でき、石垣は、東側の岸の傾斜に1石ずつ積み上げていた。南端部では50度の勾配があり、高さは1メートル。屈折部や谷へ下がる階段状の石列、開口部20センチの水口施設があった。
調査区域の東隅では幅1.5〜3メートル、長さ8〜9メートルの石敷が見つかった。谷側に底石のない溝を造り、山側は端を直線的にそろえた縁取り状。尾根に沿って遺構が広がることが予測される。
そのほか7世紀中ごろの土師器や須恵器がほぼ完全な形で出土した。7世紀後半の層に長さ12メートルの石組み溝があるなど、7世紀代に複雑な土地利用が行われていたという。
調査を担当した次山淳・都城発掘調査部考古第三研究室長は「特徴のある石垣だったことで技術的系譜や構造的な意味を考える材料となる」と話している。
石垣の性格としては防御的機能を指摘。日本書紀では「城柵(きかき)」を作ったり、兵士に守らせるなど蘇我氏の館が高い防御性を持っていたことが記されている。正殿は見つかっていない。
現地見学会は21日午前11時―午後3時。午前11時から1時間ごとに計4回、担当者が説明する。
308 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 19:42:15
またも紀記の正しさが
証明されましたな
309 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:16:09
310 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:10:17
312 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:03:33
313 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:45:02
317 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:16:01
318 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 21:44:00
319 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 21:44:54
320 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 21:45:36
321 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:21:31
韓国:百済の木簡に倭人名 扶余の遺跡から初出土 「難波」由来、交流を裏付け
【ソウル西脇真一】韓国忠清南道扶余の双北里遺跡から出土した百済時代(4世紀前半〜660年)の木簡に倭人(日本人)の名が記されていることが、国立扶余博物館などの調査で分かった。
韓国で日本人の名を書いた木簡の出土は初めてで、同博物館の李鎔賢(イヨンヒョン)学芸員は「盛んだった百済と日本の交流を裏付ける初の文字資料だ」と話している。
木簡は長さ12・1センチ、幅1・7センチ、厚さ0・8センチ。日本の国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)によると「那尓波連公(なにわのむらじのきみ)」と記されていた。
「那尓波」は「難波」のことで、大和政権の海の玄関口「難波」「難波津」に由来。「連公」は氏姓制度で定められた「連(むらじ)」という称号の古い表記とみられる。
「日本から送った那尓波(難波)という人物の荷物に付けた荷札の可能性が高い」という。
扶余は538年から滅亡する660年まで百済の都が置かれた。双北里遺跡は7世紀半ばを中心とする遺跡で、観光地として有名な扶蘇山城の南東約2キロに位置する。
木簡は98年、宅地造成に伴う発掘調査で出土した。資料集出版のため李さんらが詳しく調査。平川さんが赤外線写真を鑑定し、当時の日本人の名前だと判明した。
後世の史書から、百済は漢字や仏教経典を日本に伝えたとされ、百済滅亡後の663年、復興を目指す同地の軍と大和政権の軍が、唐・新羅の連合軍と錦江で戦う(白村江の戦い)など関係は深かった。
李さんは「木簡の出土で、高いレベルの交流が実際にあったことが裏付けられた」と指摘。平川さんは「人名が韓国で出土したことは古代日本の研究にとっても極めて重要な資料となる。
今後、日韓で韓国の木簡を共同研究するなど、情報を共有することが大事になるだろう」と話している。
毎日新聞 2009年7月8日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090708ddm012040045000c.html 他ソース
韓国の木簡に「ナニワ」さん 7世紀、日本人の名前か
http://www.asahi.com/culture/update/0707/TKY200907060427.html
322 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:27:36
>>54-56 >>247-248 奈良・大福遺跡
「銅鐸→武器」再び出土
工房跡?送風管も
奈良県桜井市の大福遺跡で、弥生時代後期後半(2世紀後半)の集落の溝から、銅鐸(どうたく)の破片が、市教委の調査で見つかった。
弥生時代の祭祀(さいし)で利用された銅鐸を壊して別の青銅器に〈リサイクル〉していたとみられる。同遺跡で銅鐸片の出土は2例目。市教委は「青銅器の再生産の様子がよりはっきりとし、弥生社会の終わりを表している」としている。
銅鐸片は、縦5・5センチ、横8センチ、厚さ2・5〜4ミリ。銅鐸の胴体部上面の「舞(まい)」と呼ばれる部分とみられ、溝を埋めた土の中から見つかった。
近くからは、鋳造炉の送風管や青銅の塊、銅のかす、青銅器の鋳型の外枠、青銅製のやじり(銅鏃)などが出土。周囲に青銅器の工房があったらしい。
同遺跡は、邪馬台国の有力地で古墳時代の始まりとなる纒向(まきむく)遺跡の南西約2キロにある。難波洋三・奈良文化財研究所考古第1研究室長は「銅鐸を壊して銅鏃に作り直したと考えられる。
銅鐸を使った祭祀を否定していることがわかり、この地域が大きな宗教改革の震源地だったのかもしれない」と話す。
一方、寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長は、銅鐸の鋳造をやめ、集落を放棄する時に、土器などと一緒に溝に捨てた可能性を指摘。「弥生時代の集落や銅鐸祭祀の最後の様子を明らかにする極めて重要な遺跡だ」と話している。
埋文センターで展示 銅鐸片などは市立埋蔵文化財センター(同市芝)で開かれている2008年度発掘調査速報展「50cm下の桜井」で展示している。
10月4日まで。月、火曜、祝日の翌日休館。入館料は高校生以上200円、小、中学生100円。問い合わせは同センター(0744・42・6005)へ。
(2009年07月08日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90708a.htm
324 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:16:02
卑弥呼没年代と土器の年代一致 狗奴国の有力候補地
2009年7月13日
女王卑弥呼の墓という説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と同時期とされる濃尾平野の遺跡群(愛知県)の土器を放射性炭素(C14)年代測定で調べたところ、
卑弥呼が没したといわれる西暦250年前後と重なった、と12日、名古屋大と愛知県埋蔵文化財センターの研究グループが発表した。
濃尾平野は邪馬台国と対立した「狗奴(くな)国」の有力候補地。同センターは「『魏志倭人伝』に記された狗奴国の実態を知る手がかりになる」としている。
同日、名古屋大であった日本文化財科学会大会で報告された。同大学グループは03年から愛知県で出土した弥生〜古墳時代の土器80点以上をC14年代測定で調査。
これまでは欧米の年輪年代を元にした国際標準の補正データを使ってきたが、1〜3世紀の土器の年代が考古学者の見解より最大100年古くなり、測定結果が疑問視されていた。
今回、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が作成した日本独自の補正データを用いた結果、3世紀中ごろから4世紀前半と判定された。
同博物館による補正データは箸墓古墳周辺の土器にも応用され、同古墳の年代が卑弥呼の没年ごろと重なるとの結果が出ている。
濃尾平野には箸墓古墳と同時期に大型の前方後方墳が相次いで築造され、邪馬台国に対抗する勢力が形成されたとみられる。(今井邦彦)
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200907130005.html
325 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:17:02
326 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:18:01
327 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:00:53
328 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:02:13
富山氷見市
貴重な農耕具「馬鍬」出土
去年、氷見市で発掘調査が行われた稲積川口遺跡から7世紀前半に使われていた木製の農耕具「馬鍬」が出土したことを22日、市の教育委員会が発表しました。
全国的に極めて貴重な資料だということです。
こちらが出土した7世紀前半、飛鳥白鳳時代の農耕具「馬鍬」です。
長さ1m余りのクリ材の台木に11本の木製の歯と、本体の後ろにのびる形で柄がついています。
「馬鍬」とは、馬や牛に引かせて田んぼの代かきを行うための農具で古墳時代に大陸から伝わり、昭和30年代頃まで使われていました。
「馬鍬」は去年、能越自動車道の氷見北インターチェンジのアクセス道路の建設に先立って発掘調査が行われた稲積川口遺跡から出土しました。
状態が極めてよく、柄が本体の後ろに付くタイプで、実際に柄が付いた形での出土は全国でも初めてだということです。
遺跡からは、7世紀前半と8世紀後半の土器などもまとまって出土し市の教育委員会では、古墳時代の終わりから奈良時代の氷見地域の人々の生活を知る上で貴重な資料になるとしています。
今回発掘された資料は、市の博物館に展示され9月には一般公開と展示説明会が行われる予定です。
http://www2.knb.ne.jp/news/20090722_20744.htm
329 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:33:06
330 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 20:55:34
日本有数の巨大古墳群として知られる古市古墳群の中で、最古とされる大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(前方後円墳、4世紀後半)
から築造時に置かれたままの円筒埴輪や葺石などが良好な状態で見つかり、発掘した同市教育委員会が1日発表した。
明治時代に石室から大王の棺とされる長持形石棺が確認され、宮内庁が後円部の一部だけを陵墓参考地として管理。今回の調査は
それ以来約100年ぶりで、斜面に葺石が整然と敷き詰められていることが分かったほか、埴輪の破片が出土した。
古墳の上部は中世に山城として大きく改変されていたが、崩れ落ちた土砂が埴輪や葺石を覆ったため守られたらしい。
市教委の上田睦文化財保護課チーフは「古墳は河内平野に進出した最初の大王墓とみられるだけに、築造の方法を推定できるデータを
得られた意義は大きい。後の大古墳の原型で、巨大古墳の墳丘規格を考える史料となる」と話している。
古墳は全長208メートルで、周濠跡などを含めると全長440メートルの巨大古墳。土壌の流出などで整備が必要となり、管理区域外を
藤井寺市が7月末から発掘していた。
現地説明会は3日午前10時から午後4時まで。
2009/10/02 01:45 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100101001222.html
羽曳野市教委は、4世紀後期の前方後円墳「庭鳥塚(にわとりづか)古墳」(同市東阪田)から05年に出土した鉄製品1点が、その後の調査で
短冊形の鋸(のこぎり)と分かった、と発表した。同時期の鋸の出土は全国22例目、府内4例目で、南河内地域では初。府立近つ飛鳥博物館
(河南町)の秋季企画展「河内平和の集落と古墳 謎の4世紀を探る」(10日〜12月13日)で初公開する。
市教委社会教育課によると、鋸は全長24・5センチ、幅2・9センチ、厚さ0・22センチ。出土当初は鉄剣の一部としていたが、今夏の再点検で、
他に出土した鉄製品の破片と接合できることが分かったという。歯の部分は腐食が激しくレントゲンでも確認できなかったが、両端に柄の痕跡と
みられる木質部が残り、他の同時期の出土例との比較から鋸と判断した。
同古墳では、木棺内から三角縁神獣鏡1点のほか、棺外から大量の鉄・銅の鏃(やじり)なども出た。同課は「今回の発見で、想定される被葬
者の人物像の裏付けが進んだ」としている。【武井澄人】
2009/10/10 【変態新聞】
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091010ddlk27040329000c.html
333 :
北山廃寺・北山三嶋遺跡:新たに粘土採掘穴 和歌山・紀の川:2009/10/17(土) 05:57:36
紀の川市貴志川町北山の「北山廃寺・北山三嶋遺跡」で、古代(奈良時代前後)と中世(鎌倉〜室町時代)の2つの時代に粘土を
採掘したとみられる穴が、新たに約200個見つかり、県文化財センターが発表した。瓦やつぼを焼くための材料を取ったと見られる。
前年度の調査と合わせて400個の穴が見つかったことになる。
北山三嶋遺跡は、約2000〜約700年前のもので、紀の川と丸田川に挟まれた地域に位置する。重なる場所に北山廃寺はあり、
7世紀後半から存在したとされる。その規模は南北約110メートル、東西約160メートルにわたったという。同センターが昨年度から
調査を開始。これまで、採掘穴のほか、中世に瓦を焼いたとみられる窯の跡も見つかっている。
今年度は約1万2000平方メートルを調査。粘土の採掘穴は、遺跡の北西部にあり、穴の直径は1〜3メートル。深さは、古代に
掘られた穴は50センチ〜1メートル、中世のものは約30センチだという。同センターは「古代の穴の地層には青っぽい粘土が、
中世の穴には黄色い粘土があり、時代に応じて好まれた土が変化していたのでは」と推測する。
また、古代と中世の建物跡も見つかった。古代のものは掘立柱建物跡で、南北4・5メートル、東西10メートルと巨大で、
寺の伽藍(がらん)があったと推定される場所の北側にあることなどから、僧の住居らしい。中世の建物跡は、粘土の採掘穴の
東側に位置し、小規模の建物跡が少なくとも3棟あった。工房や職人の住居とみられる。
同センターは、「良質の粘土を求めて豊かな集落が広がっていたことが分かる。来年度の調査では北山廃寺の実態が明らかに
なってくるのでは」と期待している。
現地見学会は、17日午後1時半から行う。問い合わせは発掘調査事務所(0736・64・8052)へ。
2009/10/16 【読売新聞】
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/wakayama/news/20091015-OYT8T01234.htm
上毛町教委は15日、同町安雲地区にある古墳〜江戸時代の複合遺跡「安雲山田遺跡」で、豊前国領主・宇都宮一族の南北朝時代
(1336〜92年)の居館を強固に防護していたとみられる土塁や堀、板塀などの遺構が出土したと発表した。現在の豊築地域では、
南朝方と北朝方が激しい勢力争いを繰り広げており、町教委は「当時の緊張状態を裏付ける貴重な発見」としている。
町教委によると、東九州自動車道建設工事に伴って6月から、遺跡の一部約2300平方メートルを発掘調査し、全長約100メートルの
L字形の土塁を確認。青磁器片など一帯の出土品から南北朝時代に造られたことが分かった。このうち約40メートルを詳しく調べたところ、
土塁(幅2・7メートル、高さ0・3メートル)の外側に沿って堀(幅2・5メートル、深さ1メートル)が設けられていた。
周囲の地形などから、当時の土塁は高さ1メートルほどで、居館を80〜100メートル四方にわたって囲んでいたとみられる。
土塁上と堀近くからは柱穴も出土。中世の居館の構造から、土塁上には板塀、堀近くには木組みの柵がめぐらされていたと推測される。
居館の遺構などは確認できなかったという。
足利尊氏による室町幕府樹立に始まった南北朝時代の内乱で、豊築地域では宇都宮一族が後醍醐天皇側の南朝方と尊氏側の北朝方に
分裂。本州側から海路で上陸した北朝方と、迎え撃った九州側の南朝方が激突するなど、3度にわたって大規模な合戦が行われた。
こうした時代背景から、居館は強固に造られていたとみられるという。
町教委の末永浩一・文化財係長は「南北朝時代の領主の居館跡は九州でも珍しい。前後の時代の遺物は出土しておらず、
南北朝に限って使用されたのではないか」と話している。
2009/10/16 【読売新聞】
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/20091016-OYS1T00321.htm
島根県埋蔵文化財調査センターは15日、松江市大草町の国史跡「出雲国府跡」から、「日置首鮒(へきのおびとふな)」など人名や
年号などが記された8世紀末から9世紀初頭の漆紙文書(うるしがみもんじょ)3点が出土した、と発表した。同史跡発掘調査指導委員の
佐藤信・東京大大学院教授(日本古代史)は「平安時代初期の国府における文書行政の実情を示す貴重な史料」としている。
見つかった3点のうち、1枚の紙が折り畳んだ状態で見つかった1号文書は縦5センチ、横4センチ、
紙2枚が重なって出土した2、3号文書はともに縦6センチ、横17センチ。
漆紙文書は一般的に反故(ほご)紙が使われ、両面に文字が書かれているのが普通。
しかし、出土した3点は裏面に書かれた様子はなく、同センターの担当者は「当時は豊かだったのかもしれない」と話した。
いずれも公文書とみられる。「日置首鮒」のほか男性の名前を示す「麻呂」とその下に20代を示す「廾□」、
奈良後期から平安初期にかかる年号の「延暦」など、少なくとも5人の情報が確認された。
「出雲国風土記」の飯石郡には「日置首」が郡司として登場、関係が注目される。
1、2号文書について同センターは、役人が民衆の戸籍を書き写し、名簿として活用した、と推測。
3号文書は7文字中、2文字しか解読できず、書状の一部ではないかと見ている。文字は肉眼で読み取れず、赤外線写真で判明した。
漆紙文書は、漆を入れた土器などの容器のふたとして、不用になった紙が使われた。
ふたの紙に漆が染み込み、土中に残ったとみられる。文書は8月中旬、史跡内の廃棄物用として使われた穴の中で見つかった。
同史跡からの漆紙文書の発見は8年ぶり2例目で、県内では青木遺跡(出雲市)と合わせて3例目。
全国では約100カ所で発見があるが、西日本では珍しいという。
2009/10/15 【山陰中央新報】
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=515654004
赤い石室 水銀朱200キロ - 隠れる部分も彩色【桜井・茶臼山古墳】
2009年10月23日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20091023102241.html 古墳時代前期(3世紀末〜4世紀初め)に造られた大王墓級の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(桜井市外山、全長200メートル)の発掘調査で、県立橿原考古学研究所は22日、明らかになった竪穴式石室の全容を発表した。
赤く彩られた石室の壁体や天井石には少なくとも約200キロの水銀朱を使用。石材の見えない部分にまで朱が施され、大王の墓にふさわしい丁寧な造りだったことが分かった。
昭和24年以来60年ぶりの石室調査。8月に始まり、今月4日には長さ4.89メートルの遺存木棺の運び出し、基底部の構造も判明した
石室は南北6.75メートル、北端幅1.27メートル、高さ1.71メートル。開口部をすぼめず、壁になる割石を垂直に積み上げているのが特徴。12枚もの巨大な天井石を調達し、運ばせることができた権力者の埋葬をうかがわせる。
墓壙(ぼこう)底の中央に基台を設け、上面は板石を敷き詰めていた。棺を支える土の層は厚み最大18センチで、通常は粘土が使われることが多いが、赤っぽい特製の土だった。
石室一面の赤色は化学的分析で硫化水銀と判明。表面積に厚みと比重をかけて算出した推定重量は、多量の水銀朱の出土で知られる大和天神山古墳(天理市)の42キロの約5倍。
壁体となる石の一つ一つの全面に朱が塗られるなど極めて丁寧な造りだった。石室以外にはベンガラ(酸化鉄顔料)も使われていた。
朱の意味について、橿考研の菅谷文則所長は「再生への願いと死者への怖れをもって鎮魂する両方があったのだろう」と話している。
現地見学会は29〜31日の3日間、午前10時〜午後3時。JR・近鉄桜井駅から徒歩15分。駐車場はない。雨天中止。問い合わせは橿考研、電話0744(24)1101。
朱一色、大王の石室が一般公開へ 60年ぶり発掘
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009102201000540.html 初期大和政権の大王墓とされる奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀前半、全長200メートル)で、全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され、県立橿原考古学研究所が22日、公開した。
貴重な顔料の水銀朱をふんだんに使い、四方の壁は板状に加工した石1千枚以上を整然と積み上げて構築。強大な力を誇った王の威容を示し、初期大和政権の成立を考える第一級の史料。
大王クラスの墓は大半が宮内庁管理の陵墓に指定され発掘例が少なく、中心部が明らかになっているものはほとんどない。29〜31日(午前10時〜午後3時、雨天中止)に現地見学会が開かれる。
桜井茶臼山古墳は国内に大型前方後円墳が出現し始めたころの築造。同研究所は「この石室がほかの古墳のモデルになったのだろう」としている。
1949〜50年に発掘調査で見つかったが、カラー写真は残っていなかった。石室の構造などを解明しようと同研究所が今年から再調査、詳しい構築手順も判明した。
石室は内寸で長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・7メートル。壁は板石(幅30〜40センチ)をれんがのように積み重ね、天井は12枚の巨石でふさいでいた。
壁や天井の石はそれぞれすべての面に水銀朱が塗られていた。魔よけや防腐のためとみられ、少なくとも重さ200キロの朱が必要だったと推定している。
石室内に残っていた木棺の底の部分(長さ約4・9メートル、幅約0・7メートル、厚さ最大約0・3メートル)は、保存のため取り出した。コウヤマキ製で全面朱塗りだったとみられる。石室に安置するため、棺の下に土を敷いていた。
2009/10/22 19:52 【共同通信】
石室のひつぎ 高野槇使われる
http://www.nhk.or.jp/news/t10013323091000.html 10月23日 19時12分
ヤマト王権を率いた王の墓ではないかという説がある、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳の調査で、埋葬施設の石室に納められたひつぎには、耐久性に優れた「高野槇(こうやまき)」という木が使われたことがわかりました。
奈良県立橿原考古学研究所が60年ぶりに行った桜井茶臼山古墳の調査では、全体が赤い顔料で塗られた石室の中で、長さ4メートル90センチ、幅75センチの木のひつぎが確認されました。
ひつぎは傷みが激しく、元の形をとどめていませんでしたが、石室の広さや残っていた部分の特徴などから、丸太を縦に2つに割ったような形と推定され、直径が1メートル10センチ、長さが6メートル70センチあったとみられています。
保存のためにひつぎを石室から運び出して研究所が詳しく調べた結果、ひつぎに使われたのは「高野槇」という木だったことがわかりました。
高野槇は丈夫で腐りにくいとされ、これまで調査が行われた近畿地方のほかの古墳でもひつぎに使われていたことが確認されています。
古代のひつぎに詳しい橿原考古学研究所附属博物館の岡林孝作総括学芸員は「高野槇は入手が困難だが、王のひつぎにふさわしく、大きな木をぜいたくに使っていたのだろう」と話しています。
研究所では、およそ2年かけてひつぎの保存処理を行い、科学的な年代測定なども検討しています。
339 :
桜井茶臼山古墳:2009/10/23(金) 23:38:40
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091108-OYT1T00501.htm 幕末〜明治の外国人執筆した挿絵集め刊行
幕末から明治にかけて、外国人が執筆した日本旅行記や研究書に掲載されていた挿絵ばかりを抜き出した
「海外日本像集成」2冊が国際日本文化研究センター(京都市西京区)から刊行された。
オリジナルの挿絵だけでなく、当時の日本の絵画を複製したケースも多い。
中には出所不明の“謎”の図像も含まれている。(森恭彦)
第1冊は米ペリー艦隊が2度目に来航した1854年から70年まで、
第2冊は71〜77年に刊行された本の挿絵を、計約9700点掲載している。
文字資料と切り離して挿絵だけに注目したのは、
「文字では表せない外国人の日本イメージが込められているから」と
白幡洋三郎・日文研教授は説明する。
341 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:39:45
342 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:40:17
■3世紀前半の大型建物跡、邪馬台国の中枢施設か 奈良
朝日新聞2009年11月10日17時0分
http://www.asahi.com/culture/update/1110/OSK200911100082.html 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)の大型建物跡が見つかった。市教委が10日発表した。
同時期の建物としては、国内最大の面積である上に、周辺で発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置だった。
邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。畿内説と九州説が対立する邪馬台国の所在論争に影響を与える発見となる。
市教委によると、大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積は約238平方メートルに及ぶ。現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。JR巻向(まきむく)駅西側。雨天中止。
343 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:44:13
■卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡出土
(2009年11月10日17時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00860.htm 邪馬台国畿内説で最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代とされる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が初めて出土し、市教委が10日、発表した。
南北19・2メートルと当時、国内最大の規模で、市教委は
「飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形とみられ、日本の国家形成過程を探るうえで貴重な発見」
としている。
時代や場所などから、「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、市教委はさらに範囲を拡大して調査を進める。
昨年度までに出土した建物群跡の東側を調査。南北19・2メートル、東西6・2メートル以上の掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。
調査区の西側は後世に溝が掘られて削られているが、建物のバランスや柱穴の形状などから東西は2倍の12・4メートルだったとみている。
柱の直径は約32センチで、南北の柱の間には、床を支えたとみられる細い柱穴も見つかり、高床式の建物だったらしい。一緒に出土した土器などから時期を判断した。
これまでの調査から、今回の大型建物跡を含め、少なくとも4棟が、柵をはさんで中軸線をそろえて左右対称で建てられて東西一列に並び、綿密な計画性がうかがえる。
現場は小高い台地を大規模に造成しており、南北約100メートル、東西約150メートルの区画があったとみられる。市教委は「整然とした規格に基づいて構築された国内最古の建物群で、弥生時代の建物とは一線を画する」としている。
現地説明会は14、15両日午前10時〜午後3時。雨天中止。駐車場はない。JR巻向駅下車すぐ。
344 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:45:49
345 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:18:17
別報
■奈良・纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か
毎日新聞 2009年11月10日 18時34分(最終更新 11月10日 18時39分)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091111k0000m040025000c.html 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。
柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。
過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。
78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。
直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。
市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。
推定床面積は約238平方メートルあったとみられ、弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落とされる吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。
また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。
現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。雨天中止。JR巻向駅の北100メートル。駐車場はない。【高島博之】
【石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話】
邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大きさだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。
346 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:56:51
2009年11月11日
纒向遺跡に卑弥呼の館? 研究者ら興奮、異論も
http://www.sankei-kansai.com/2009/11/11/20091111-016870.php 卑弥呼の館がついに姿を現した—。奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大型建物跡は、邪馬台国を探し求める研究者たちを色めき立たせた。
「まさに国家的祭祀(さいし)が行われた政治的空間だ」と畿内説を勢いづかせる一方、「卑弥呼とは半世紀以上の隔たりがあり、九州説は揺るがない」とさっそく反論も。
魏志倭人伝に記された「女王の都する所」をめぐるロマンは尽きない。
纒向遺跡が邪馬台国の中枢とされる理由は、卑弥呼の墓説が根強い箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)など、域内に邪馬台国時代の最古級の前方後円墳が次々と築かれたためだ。
今回の大型建物跡は神殿を思わせる高床式とみられ、権力の象徴の古墳に加えて宮殿とみられる建物群跡がついに発見された。
「高床式建物はまさに卑弥呼の宮室」と明言するのは辰巳和弘・同志社大教授(古代学)。過去の発掘で大型建物跡の近くから祭祀用の井戸跡とみられる遺構が見つかり、西側には最古級の前方後円墳が集中している。
「前方後円墳、祭儀のための聖水をくむ井戸、計画的に配置された建物群が一体として存在する構造は、卑弥呼の祭政空間にふさわしい」と語る。
魏志倭人伝によると、卑弥呼が治めた倭国は30の国々からなる連合政権ともいわれる。金関恕(ひろし)・大阪府立弥生文化博物館長は「これだけ大きな建物なら、連合国の代表が集まって合議をした議場ではないか」と話す。
千田稔・奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は、東西に並ぶ建物群の配置に着目し「太陽の動きを中心軸としており、太陽とともにある日本人の宇宙観や精神性を示している」と推測。
「卑弥呼とは、太陽(日)の巫女(みこ)という解釈と無関係ではない」と話し、神秘性に迫る。
一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は「見つかった土器は、実年代を絞る材料となる過去の遺物からみて3世紀までさかのぼるとはいえず、大型建物跡は4世紀以降で卑弥呼の時代より50年以上新しい」
として邪馬台国との関連を否定。「魏志倭人伝に記された城(じょうさく)や楼観を思わせる遺構が見つかった吉野ケ里遺跡などが有力であることは変わらない」と主張した。
347 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:58:31
大宰府跡:「古代最大建物」 倉庫なら正倉院しのぐ−−礎石調査
http://mainichi.jp/enta/art/news/20091022ddm012040006000c.html 九州歴史資料館(福岡県太宰府市)は21日、国の特別史跡大宰府跡(同市観世音寺)の蔵司(くらつかさ)地区に残る礎石群が、古代最大級の建物跡だったと発表した。
倉庫か役所とみられるが、倉庫なら奈良の正倉院をしのぐ規模。資料館は九州を統治した大宰府政庁の重要性を裏付けるもの、としている。
礎石群は大宰府政庁跡の西隣の丘にある。1933年に一度測量された後、詳しい調査はなかった。今年6月から調査を始め、花こう岩の礎石23基と土を固めた基壇を確認した。
礎石は4列で、間隔は南北が約3・3メートル、東西が約4・1メートル。中央だけ南北6・4メートルと間隔があいていた。
礎石の上に柱が建つ総柱建物だったとみられ、全体は南北13メートル、東西37メートル(481平方メートル)。正倉院(433平方メートル)や大宰府政庁正殿(378平方メートル)より大きい。
出土した瓦が大宰府政庁と同じ8世紀(奈良時代)のもので、同時期の建物とみられる。鉄製の鏃(やじり)や甲冑(かっちゅう)の破片なども約100点見つかった。
地名に残る「蔵司(くらのつかさ)」は大宰府の財源を担当した役所で、税として九州から集めた絹や綿などを管理した。このため、資料館の一瀬智・主任技師は「税を納めた倉庫か武器庫だったのではないか。
ただ、礎石の配列から倉庫でなく役所だった可能性もある」と話す。
資料館は24日午前9時半から、現地説明会を開く。【扇沢秀明】
太宰府・蔵司の礎石建物跡、正倉院上回る規模
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/20091022-OYS1T00228.htm
348 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:00:07
金属器生産、県以東で最古 高地性集落跡で発見 芦屋
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002465535.shtml 芦屋市教育委員会は23日、弥生時代の高地性集落「会下山遺跡」(同市三条町)を再調査した結果、土を高温で焼いた跡を発見したと発表した。
金属器の生産場所と考えられ、金属器の生産が確定すれば、兵庫県以東では最古となる。一定数の集団が山間部で先進的な生産活動をしていたとすれば、高地性集落の性格付けが見直される能性もある。
高温で焼かれた土の跡は「焼土坑」と呼ばれ、今年夏に見つかった。斜面の岩盤を削って平地にし、その上に炉を作っている。
炊事場やのろしを上げる場所の可能性もあるが、かなりの高温で焼かれており、鉄器などの金属器を生産していた可能性が強いという。市教委は今後、周辺に金属器の痕跡がないか調査し、炉の性質を解明する。
また、これまでに確認されていた遺跡の外側を調査した結果、新たに住居跡や柱穴、土器などが見つかったため、遺跡の範囲は従来の約3000平方メートルから、ほぼ会下山全域の1万数千平方メートル程度に拡大する見込み。
市教委の森岡秀人文化財担当主査は「安定した集団が長期的に住み、生産や流通の面でも先進的活動をしていたことがうかがえる」としている。
同遺跡は兵庫県史跡第1号。1956(昭和31)〜61(同36)年の初調査から50年を機に、市教委が国史跡指定を目指し2007年度から3カ年計画で再調査している。(上杉順子)
【高地性集落】水稲耕作に不向きな高地に存在した弥生時代の集落。低地からの高さにより、山頂型、丘陵型の2タイプに分類される。
150〜200メートル地点に遺構が点在する会下山遺跡は典型的な山頂型で、これまでは、戦乱などから逃れた小集団が一時的に居住したと考えられていた。
(2009/10/23 21:40)
349 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:01:52
静岡・辻畑古墳は東日本最古級
[2009年09月07日 17:59]
静岡県沼津市の辻畑古墳を調査していた市教育委員会は7日、出土した土器や副葬品を分析した結果、同古墳が弥生時代後期から古墳時代初期(3世紀中ごろから後半)に築かれた東日本最古級の古墳と分かったと発表した。
近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたる可能性もあり、古墳が各地でつくられるようになった経緯を考える上で貴重な発見となりそうだ。
市教委によると、辻畑古墳は全長約62メートルの前方後方墳で、一部が道路で削られたため幅は推定35メートル。後方部で木棺跡が検出された。鏡や鉄鏃(てつぞく)などの副葬品の組み合わせや土器を調べたところ、3世紀中ごろから後半のものと分かったという。
また、墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。破片はほぼ全部分あり、高さ約20センチ。脚部上方にくしで引いたような横じまがあることから、3世紀前半に作られたとの指摘もある。
市教委は「卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた可能性もある」と話している。
大分合同新聞
http://www.oita-press.co.jp/worldCulture/2009/09/2009090701000658.html
350 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:47:34
ttp://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122101000030.html トイレ遺跡の研究本出版 古代の食生活も分かります
トイレ遺跡から、古代人の暮らしぶりをのぞいてみよう―。
黒崎直富山大教授(考古学)が21日までに、全国で発掘されたトイレ跡や最新の研究成果をまとめた
「水洗トイレは古代にもあった―トイレ考古学入門」(吉川弘文館)を出版した。
黒崎教授は「堆積(たいせき)した土壌を分析すると、当時の食生活や習慣まで分かる。ぜひ関心を持って」と話している。
黒崎教授は奈良文化財研究所勤務だった1992年、奈良県橿原市の藤原京跡で7世紀末のトイレ跡を発掘。
土中から魚の骨や野菜、果物の種、寄生虫卵などが見つかったことから、
人々が多彩な食事を楽しむ一方で腹痛に悩んでいたと推測、トイレ考古学の面白さに取りつかれた。
著書では日本や韓国で発掘されたトイレ跡を図解や写真を使ってやさしく解説。
海外のVIPも訪れた古代の迎賓館・鴻臚(こうろ)館跡(福岡市)や藤原京跡の穴掘り式、
北条小町邸跡(13世紀、神奈川県鎌倉市)の水洗式、中世の埋めカメ式、
持ち運び式など多彩なトイレを紹介しながら、人々の暮らしぶりを生き生きとつづっている。
2009/12/21 06:10 【共同通信】
■国内最多81枚分の銅鏡破片
大半は大型、直径40センチも 桜井茶臼山古墳で
大和政権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳「桜井茶臼山古墳」(3世紀末〜4世紀前半、全長約200メートル)を発掘調査している県立橿原考古学研究所は7日、これまで12種類、計81枚分の銅鏡の破片が確認できたと発表した。
1カ所の墳墓から出土した銅鏡としては、平原遺跡1号墓(福岡県糸島市)の40枚分を超え過去最多とみられる。
今後の調査でさらに増える可能性もあり、同研究所は
「不明点が多かった大王級の大型前方後円墳の副葬品の一端が明らかになった。古墳を研究する上で画期的な発見だ」
としている。
同研究所によると、見つかった銅鏡の破片は384点。分類したところ、少なくとも12種類、81枚分が確認できたという。
破片の大半は1〜2センチ程度で小さいが、復元すると直径20センチ以上の大型鏡が半数で、最も大きいのは直径40センチ程度。
国産と中国製が混在しているとみられ、中国の神人や獣形の文様を持つ三角縁神獣鏡が最も多く計26枚分あった。
うち一つには「是」の文字が刻まれており、調査の結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)など3カ所で出土している正始元年(240年)の銘がある鏡と同型と判明した。「是」は作者名の一部だという。
時事通信(2010/01/07-17:56)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010010700758
352 :
桜井茶臼山古墳:2010/01/07(木) 22:43:43
>>301-306 >>336-339 351
桜井茶臼山古墳:副葬銅鏡が81枚に 卑弥呼時代のものも
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100108k0000m040033000c.html 奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀初め)に副葬された銅鏡が81枚に上ることが分かり、7日、県立橿原考古学研究所が発表した。
13種類あり、枚数、種類ともに国内最多。卑弥呼(ひみこ)が中国・魏(ぎ)から鏡をもらった年とされる「正始元年」(240年)の銘文が入った三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)1枚のほか、
※製(ぼうせい)(日本製)の大型内行花文鏡(ないこうかもんきょう)(直径約38センチ)なども含まれていた。銅鏡は初期ヤマト政権の権威の象徴で、大王墓クラスの古墳の全容に迫る成果として注目される。
09年1月からの再調査で、盗掘された石室内などの土をふるいにかけて銅鏡の破片331点を新たに採取した。
1949〜50年の調査などで見つかっている破片と合わせ、計384点の文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合し、種類と枚数をほぼ特定した。
卑弥呼が魏からもらったとする説と国内製作説の両方がある三角縁神獣鏡が最も多く26枚。
そのうち、破片の1点(縦1.7センチ、横1.4センチ)に刻まれていた「是」の文字の形が、過去に蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した「正始元年」銘鏡と一致し、同じ鋳型で作られたと分かった。
そのほか、後漢時代(25〜220年)以降の舶載(中国製)鏡と※製鏡の両方の銅鏡があった。
三角縁神獣鏡は初期ヤマト政権が各地に配布したとする説が有力だが、これまで奈良県内では魏の年号入りの銅鏡は見つかっていなかった。また、国内最大のガラス製管玉(長さ8.16センチ)も新たに見つかった。
出土品は13〜31日、橿原市畝傍町の橿考研付属博物館で展示される(月曜と19日は休館)。【高島博之】
※はにんべんに方
353 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:48:17
355 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:16:01
■太刀の銘文は卑弥呼統治の証か 魏志倭人伝の記述に符合
東大寺山古墳出土の太刀に銘文「中平」 象眼は純金、卑弥呼に授与裏付け?
1月6日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n2.htm 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から譲り受けたともいわれ、中国の2世紀後半の年号「中平」などの文字が象眼(ぞうがん)で記された奈良県天理市の東大寺山古墳出土の大刀(たち)(重要文化財)について、
象眼が純金だったことが、東京文化財研究所(東京都台東区)の調査で分かった。
国内で金象眼の文字のある大刀は数本しかないうえ、銀が数十%含まれる例は確認されているが、純金は極めて珍しい。中国の高度な製錬技術で作られた大刀が日本にもたらされた可能性を裏付けるものとみられる。
東大寺山古墳は4世紀中ごろの築造で、全長約140メートルの前方後円墳。昭和36年に発掘され、20本以上の大刀や槍(やり)、碧玉(へきぎょく)製腕飾りなどが発見された。
金象眼の大刀(長さ110センチ)は、刀身の峰の部分に0・5センチ程度の大きさの文字が24文字分確認された。
金象眼は、刀身に細い溝を文字の形に彫り、金線を埋め込む手法。銘文は「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」と書かれていた。
「中平□年五月に銘文の入った刀を造る。百回鍛えた立派な刀は天上では星座の神々のお役に立ち、地上では災いを払う」
という意味で、大刀の製作年や神秘的な力を示している。
(つづく)
>>355 >このニュースのトピックス:ネット犯罪
産経のトピ別け基準が知りたいw
357 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:26:48
(
>>355つづき)
東京文化財研究所が、大刀の修復作業に伴い、各文字の金象眼を蛍光エックス線分析で調べたところ、すべての文字について、金が99・3〜99・9%を占める純金だったことが判明。
金鉱石に含まれる銀を精錬でほぼ完全に除去した、当時の国内では難しい極めて高度な技術だったことが分かった。
一方、同研究所では過去、埼玉県の稲荷(いなり)山古墳(5世紀後半)で出土した115文字が金象眼で記された鉄剣も同様の方法で分析したが、銀が10〜30%含まれており、純金ではなかったことが判明している。
稲荷山古墳の鉄剣は日本製とされている。
東大寺山古墳の大刀は、「中平」が西暦184〜189年に相当することから、180年ごろ女王になった卑弥呼が中国王朝から権力のシンボルとして譲り受け、その後、東大寺山古墳の被葬者に与えられたともいわれている。
分析した早川泰弘・同研究所分析科学研究室長は「金象眼でも、銀が10%混じるだけで文字は白っぽく見える。東大寺山古墳の大刀の銘文は金色が鮮やかで、高度な製錬技術がうかがえる」と話している。
360 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 12:39:31
皇族の甲冑コレクション? 長岡宮・内裏跡から部品出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100219-OYO1T00472.htm?from=top 京都府向日市の長岡宮跡(784〜794年)で天皇が居住した内裏跡から、6世紀末〜8世紀末に作られたとみられる甲冑(かっちゅう)の部品「小札(こざね)」約30点が見つかり、同市埋蔵文化財センターが18日、発表した。
皇族の墓とされる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の副葬品や、正倉院宝物と同型のものもあり、皇族にかかわる甲冑の一部とみられる。同センターは、歴代の甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。
小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった。平安京に遷都する直前に意図的に埋められたらしい。
十数点分の甲冑の部品で、最小1センチ四方、最大で長さ9センチ、幅2センチ。厚さはいずれも2ミリ以内。大きさなどから〈1〉6世紀末〜7世紀後半〈2〉8世紀前半〈3〉8世紀中頃〈4〉8世紀後半の4時期に分けられる。
正倉院宝物や東大寺(奈良市)の大仏殿須弥壇(しゅみだん)の地鎮具と同型のものが含まれていた。
一瀬和夫・京都橘大教授(考古学)の話「小札は大和王権以来の皇位を象徴する武具として、コレクションのように内裏に保管されていたのだろう。平安遷都の際、地鎮などの儀式のために埋めたのではないか」
(2010年2月19日 読売新聞)
古墳時代の桂甲・短甲と
平安中期以降の大鎧が登場するまでの
中間の中央集権化時代は甲冑遺物が少ないから
結構貴重な発掘かも
363 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 12:39:43
364 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 00:49:15
国内最古、馬の乳歯「河内馬飼」の実態示す
大阪府四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、府教委の調査で出土した。
2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。同遺跡は「日本書紀」に「河内馬飼(かわちのうまかい)」
と記された集団が、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。
出土した1頭分には歯が24本残り、このうち、乳歯は12本で、最大で幅2センチ、長さ1センチ。永久歯の長さ(8センチ)から推定した年齢などから、ハミ(馬具)をつけて乗馬訓練を始める直前だったとみられる。
同遺跡と周辺では、これまでに馬の骨や歯計約500点や馬具などが出土したが、若い馬は確認されていなかった。
3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。
日本での本格的な馬の飼育は、府東部で始まり、各地に広まったとみられ、松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、遺跡からの出土は珍しい。河内馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。
(2010年3月6日15時12分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100306-OYT1T00205.htm
365 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 00:50:55
四條畷・蔀屋北遺跡
古墳時代 牧場の番犬?…大型の骨が出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100401-OYO8T00336.htm?from=ichioshi 朝鮮半島から渡来?
古墳時代に馬を飼育した「河内の牧(まき)」があったとされる大阪府四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡で、5世紀中頃の「渡来犬」とみられる犬の骨が、府教委の調査で出土した。体高は推定52センチで現在の四国犬ほどの大きさ。
これまでに国内で出土した古墳時代(3〜7世紀)以前の犬では最大という。弥生時代(紀元前4世紀〜後3世紀)の犬よりも一回り大きく、府教委は「馬との関係から、牧場の番犬として、朝鮮半島・百済から持ち込んだ大型の犬を飼育していたのではないか」とみている。
下あごの骨(残存の長さ13・4センチ、高さ3センチ)、肩甲骨の一部(長さ9センチ、幅3センチ)、腰椎(ようつい)(長さ4センチ、幅3・5センチ)の3点あり、同遺跡から共に出土した他の犬の骨より大きかった。骨は犬1〜3頭分とみられる。
同遺跡では、出土した土器や馬具から、百済からの渡来人が馬飼いにかかわっていたとされている。韓国南部の勒島(ヌクド)遺跡(紀元前1世紀)で同じ大きさの犬の骨が見つかっており、朝鮮半島からの「渡来犬」らしい。
府教委によると、日本では約9000年前の縄文時代早期から、体高38〜40センチの柴(しば)犬ほどの犬が飼われ始めた。弥生時代の犬は体高46センチ前後で、これまでに確認された骨で最大は体高が47センチ。古墳時代の犬は、よくわかっていないという。
安部みき子・大阪市立大助教(自然人類学・解剖学)の話「日本犬が品種として確定するのは近世以降で、四国犬などの祖先だった可能性がある。DNA分析をすれば、関係が解明できるかもしれない」
(2010年4月1日 読売新聞)
366 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 23:55:34
埴輪に葬送の船
2010年05月20日
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000001005200003 精華の鞍岡山3号墳
◇22日説明会
精華町教育委員会は19日、同町下狛の鞍岡(くらおか)山3号墳から、死者の魂を来世へ送る船を描いた円筒の埴輪(はにわ)が見つかったと発表した。町教委によると、葬送の船を描いた埴輪は全国的にも珍しいという。
町教委によると、3号墳は直径約40メートル、高さ約6・5メートルの円墳。当時の精華町周辺を治めた有力首長の墓とみられ、4世紀末から5世紀初頭に山を削り取って造られた。
墳頂部には埋葬施設があり、鉄剣や鉄の農耕具、石製の剣などが見つかった。最初に1人を埋葬し、その後、10年ほどたってから血縁者を葬ったとみられるという。
船を描いた埴輪も、墳頂部で見つかった。死者を来世に送る船とみられ、船の上に、首長を象徴する飾りのような物が見受けられる。一部欠けているが、絵は幅約15センチ、高さ約7センチ。船は、外洋を航海できる形とみられる。
同志社大歴史資料館の辰巳和弘教授(考古学)は「船は当時、最も遠くへ行ける乗り物。古墳時代の人々の死生観を示す貴重な発見だ」と話している。
現地説明会が22日午前10時半からある。問い合わせは、精華町教委生涯学習課(0774・95・1907)へ。
367 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:05:28
福井・向出山古墳の甲冑に金多用 権力者から優遇か
2010.5.31 20:20
福井県敦賀市の向出山1号墳で発見された古墳時代中期後半(5世紀後半)の甲冑(かっちゅう)に、これまで国内で発見されたものに比べ多量の金が使われていたことが31日、敦賀郷土博物館と敦賀市教育委員会の調査で分かった。
市教委などによると、甲冑は首の周辺を覆うよろい(幅18センチ、高さ14センチ、奥行き24センチ)と楕円形のかぶと(直径20センチ、高さ12センチ)。1号墳の石室で昭和29年に見つかり、市教委と博物館が平成20年以降、さびを除去するなど詳しく調べていた。
この時代は日本と中国大陸や朝鮮半島との交流が活発化した時期で、市教委は「交流の玄関口として、敦賀の豪族が当時の権力者から優遇されたのではないか」と分析している。
http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/fukui/100531/fki1005312055001-n1.htm
368 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 12:22:47
シカと船で豊作祈願か 大阪、火鉢形の絵画土器
ttp://www.47news.jp/CN/200804/CN2008042401000671.html 大阪府八尾市の小阪合遺跡で、古墳時代初頭(3世紀前半)の溝から出土し、ヘルメットのような覆いのある
「手あぶり形土器」にシカ6匹と船が描かれていることが分かり、同市文化財調査研究会が24日、発表した。
シカと船の絵がある手あぶり形土器は、全国で初めてという。
シカは角の生え替わる時期が稲作のサイクルと一致し、船は稲の霊を運ぶとされており、同研究会は「いずれも
稲作の象徴で、豊作を祈る祭りに使ったのではないか」と話している。
土器は高さ約17センチ、直径約16センチで、ほぼ完全な形で残っていた。シカは雄と雌が3匹ずつ、船は長さ
約9センチで8本の櫂(かい)が描かれていた。
手あぶり形土器は銅鐸が祭祀に用いられなくなった後、弥生時代後期から古墳時代前期までの約200年間だけ、
近畿地方を中心に使われたらしい。
2008/04/24 18:14
赤いシカ 土器にずらり
ttp://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000001007020004 赤い顔料「ベンガラ」でシカを描いた弥生時代の土器が、愛知県稲沢市の「一色青海(いっしきあおかい)遺跡」
から見つかった。県埋蔵文化財センターが1日、発表した。弥生時代中期(紀元前100年前後)のものとみられ、
ベンガラを使った弥生時代の絵画土器の発見は日本初だという。
見つかった土器は筒形で、直径5・2センチ、高さ9センチ。丸底とみられるが、底と口縁部分を含めて約半分が
欠けた状態で、ごみ捨て用とみられる穴から見つかった。儀式や祭りのために使われた可能性が高い。
シカは頭を同じ方向に向け、縦に6頭が並ぶ形で描かれている。
センターによると、ヘラのような道具で線を引いて下書きをした後、筆状の道具で顔料を塗り、焼いたとみられる。
顔料は現在も使われているベンガラで、地下水に含まれる鉄分を精製して作った可能性が高いという。
シカは、毎年の角の生え替わりが農耕のサイクルと一致することなどから、稲作の儀礼と関連が深く、
信仰の対象だったという。
シカなどの姿を線で刻んで描いた弥生時代の線刻土器は全国で600例ほどあるが、顔料を塗ったものは
福岡県筑前町の大木遺跡で見つかった甕(かめ)棺に描かれた黒色のシカの絵だけだった。
センターは、今回の土器は線が浅く描かれていることから、色を塗ることを前提に描かれたとみている。
奈良・藤原宮
最古の「大嘗宮」跡…皇位継承儀式で造営
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100702-OYO8T00366.htm 奈良県橿原市の藤原宮(694〜710年)跡で、天皇が即位後に行う皇位継承の儀式・大嘗(だいじょう)祭のために
造営された「大嘗宮」の一部とみられる建物や門、塀の柱穴が見つかり、奈良文化財研究所が1日、発表した。
平城宮跡(奈良市)では6代の天皇の大嘗宮が確認されているが、藤原宮跡で出土したのは初めてで最古。
文武天皇(即位697年)か、元明天皇(同707年)が即位した際のものとみられる。
(略
大嘗祭 天皇の即位後、収穫した穀物を神に供える儀式。天武天皇(在位673〜686年)が始めたとされ、
室町時代〜江戸時代に一時中断したが、現在も続く。続日本紀には、698年に文武天皇、708年に元明天皇が
営んだとの記述がある。
372 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 02:09:02
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm 「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見
幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、
居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。
故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。
記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748〜1827)の弟子、
門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨董(こっとう)録」(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。
茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。
中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。
<殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>
(殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)
〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、
御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉
(そのうち駕籠の内か外か分からないが、大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)
中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。
10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。
時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。
突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。
◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。
尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。
警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。
(2010年7月11日01時37分 読売新聞)
373 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 07:00:24
山元遺跡:弥生時代後期の青銅器が出土 全国で最北例−−村上 /新潟
日本海東北道の延伸工事に伴う試掘調査で発見された村上市下助渕(しもすけぶち)の山元遺跡で、
弥生時代後期(2〜3世紀)の青銅器が出土し、24日、報道陣に公開された。村上市教委によると、出土した青銅器は
「筒形銅製品」と呼ばれ、全国で9例目だが、最北の出土例になる。
山元遺跡は弥生時代の高地性環濠(かんごう)集落。09年9〜11月に村上市教委が行った調査で、
「土坑墓(どこうぼ)」という共同墓地から青銅器の破片二つが見つかった。調査に携わってきた明治大文学部の
石川日出志教授(考古学)によると、この二つは同一個体の破片で、類似例などから長さ約10センチ、
直径約2センチの筒状のものであると推測されるという。用途は不明だが、儀礼の際などに音響道具として
利用されていた可能性が考えられるという。
山元遺跡では、北海道系の「続縄文土器」も1点出土しており、石川教授は「(青銅器の)西の文化と北の文化の
人々が、ここで道具交換などの交渉を行っていたことを示すものと考えられ、大変意義深い」と話している。
(略
ttp://mainichi.jp/area/niigata/news/20100725ddlk15040045000c.html
375 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 01:31:55
ttp://www.47news.jp/CN/201008/CN2010080401000818.html 東大寺の大仏建造費4657億円 現在価格で費用試算
752年に開眼供養が行われた東大寺(奈良市)の大仏と大仏殿の創建時の建造費が、
現在の価格で約4657億円に上るとみられることが4日分かった。
関西大(大阪府吹田市)の宮本勝浩教授(理論経済学)らが試算した。
建造にかかわった人の消費などによる経済波及効果は約1兆246億円に上るという。
宮本教授らによると、建造当時や再建時の資料などをもとに
原材料費、人件費、労働者の住居費の三つに分けて費用を推定した。
原材料費については、大仏に使った精錬銅約500トンや
大仏殿の柱材用の丸太84本などを中心に約3363億5千万円。
建造に携わった人だけで延べ260万人以上とされる人件費を約1292億円、
住居費を約1億7千万円と積算した。
石材や内部装飾、東大寺の他の建築物にかかった費用は含んでおらず、
実際にはさらに多額の費用が必要だったとしている。
2010/08/04 19:08 【共同通信】
石仏発見 仏教弾圧期に破壊か
カンボジアのアンコール遺跡で、13世紀、仏教が弾圧されていた時代に破壊されたとみられる、複数の石の仏像
が見つかり、手厚く葬られるように埋められていたことから、当時の人々が弾圧の中でも深く仏教を信仰していた
ことを裏付ける資料として、注目されています。
石仏が見つかったのは、世界遺産に登録されているアンコールワットの東にある、寺院遺跡、バンテアイ・クデイ
の敷地内で、遺跡の保全などを進めている上智大学の調査団が21日までに発見しました。土の中から見つかった
石仏は6体分で、いずれも破壊されて頭部や腕などに分かれた状態でしたが、元の大きさは80センチほどだった
とみられています。調査団によりますと、仏像は、その様式などから、アンコール王朝が最盛期を迎えた
13世紀初頭ごろに作られ、その後王位に就いたヒンズー教の王の下で、大量に破壊された石仏の一部とみられて
います。調査団は、9年前にも同じ遺跡で、同様に破壊された大量の石仏を発見していますが、
今回見つかった石仏は、すべて、遺跡の本殿に正対した状態で、ていねいに埋められていたということです。
調査にあたった、上智大学アンコール調査団の田畑幸嗣さんは、「仏教が弾圧されていた時代でも人々が仏教
を陰ながら信仰していたことを示す、きわめて貴重な資料だ」などと話しています。
ttp://www.nhk.or.jp/news/html/20100822/t10013491821000.html