太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍 4

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1日本@名無史さん
2日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:58:15
age
3日本@名無史さん:2008/02/25(月) 03:36:51
>>1
4日本@名無史さん:2008/02/25(月) 18:40:10
5日本@名無史さん:2008/02/25(月) 19:15:15
太政大臣=太政官のトップ
摂政・関白=公家のトップ
征夷大将軍=武家のトップ
でOK?
6日本@名無史さん:2008/02/25(月) 19:22:26
征夷大将軍は武家のトップだが、あとは微妙。
太政大臣は摂関や征夷大将軍との兼任ができた。
摂関になった武家もいるため一概には言えない。
7日本@名無史さん:2008/02/26(火) 01:28:46
摂関になった武家w
8日本@名無史さん:2008/02/26(火) 10:51:00

豊臣秀吉、豊臣秀次
9日本@名無史さん:2008/02/26(火) 11:17:22
その2人は摂政になってないんじゃないの?
10日本@名無史さん:2008/02/26(火) 11:41:23
摂関家でひとまとめ
11日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:39:32
12日本@名無史さん:2008/02/26(火) 21:21:41
秀吉は藤原氏の猶子でしょ。
摂関は天皇個人のスタッフ。
江戸に下ると少し変わって公家への指揮権を持つようになるが、
本来はそういう権限がない。
太政大臣も天皇個人のスタッフだが、より外郭的な存在。
中国的に言えば「客」に近い。
摂関に比べればその身は比較的独立的で自由。

征夷大将軍はプロジェクトリーダーというような位置づけ。
課長級がリーダーになることもあれば次官級がリーダーになることもあり得る。
13日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:15:34
摂関は太政官の会議には臨席しない。
14日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:16:28
そこで内覧の出番ですよ。
むしろ頼通以降内覧が主でないのが不思議なくらい。
実務には携わらない超越的立場をとりたかったってこと?
15日本@名無史さん:2008/02/27(水) 14:25:56
>14
道長も外孫を天皇にして超越した地位を築いてからは摂政に就任している。
道長があえて内覧にとどまったのは、道長自身の地位がまだ危うく、
太政官の指差しひとつで道長は排斥されてしまう可能性があったため。
一条天皇は叔父道長に不満を持ち、てこでも関白にしなかったというし、
三条天皇は道長を外祖父としない敦明親王を東宮にするようごねた。
天皇との関係が血縁的にも精神面でもしっかりしているならば、
摂関になったほうが楽でしょ。
16日本@名無史さん:2008/02/27(水) 15:05:57
>>13
摂関が大臣を兼務してる場合は当然会議に臨席できるんですよね。
17日本@名無史さん:2008/02/27(水) 15:14:02
>征夷大将軍は武家のトップだが、
初代やら鎌倉幕府やら後醍醐天皇の親王やら、武家以外もたくさんいるぞよ。
18日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:44:08
鎌倉幕府の将軍は、本人が武家でなくとも、名目的には武家のトップだな。
19日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:51:42
>>16
しない筈
摂関は立場上は天皇の代理人だから、天皇が臨席しない平常の太政官の会議には代理も出席しない。
20日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:41:56
>>19
そうなんですか。
ありがとう
21日本@名無史さん:2008/03/02(日) 05:36:51
なるほど勉強になったよサンクス
22日本@名無史さん:2008/03/02(日) 10:03:12
確かに「一上」に摂関入らないしな
23日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:59:29
摂関でない内覧なら出席可?
24日本@名無史さん:2008/03/04(火) 16:16:26
可能
25日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:04:28
道長が摂関拒否したのはそんためだっけか?
26日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:23:45
って言う説と一条天皇の方が許さなかったって説がある。
真相はヤブの中だろうけどね。
27日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:49:04
疫病による人材不足でなりたくてもなれなかったって説もあるな。
一上を顕光や公季・道綱なんか任せるのは無理だったとか。
実資が若い頃からもう少し要領が良かったら一上になれたかも?
28日本@名無史さん:2008/03/04(火) 22:52:46
公季ってのちに太政大臣までなってるけど有能じゃなかったの?
29日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:35:28
このころから太政大臣は棚ageの職になってきてたから有能の証明とは言えないと思う。
他の二人みたいに無能だったという話もないけど、可もなく不可もなくって感じか?
他の二人の無能が突出しすぎて多少の無能では目立たなかっただけ?
顕光の方は老人ボケかもしれないけど、道綱は本気で無能だったみたいだな。
「字も書けない」はさすがに実資の言い過ぎだろうけど。
あの人目の上のこぶには格別に辛辣だからな。
30日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:40:07
征夷大将軍>臨時役職


まあ、鎌倉の前だけど
31日本@名無史さん:2008/03/05(水) 09:15:08
>25
道長が摂関を拒否したのは
さっさと退位させて外孫を即位させたい三条天皇のときだったと思うよ
兄道隆、道兼は一条天皇の摂政・関白を勤め、
姉の東三条院も当然道長関白就任を一条天皇に要請したが、
一条天皇がこれを許さなかったらしい。
道長が長女彰子に一条天皇の男子を産ませたのは一条天皇が死ぬ2年前で、
この時点でまだ外孫を得ていなければ娘を入内させてもいなかった道長は、
当然、兄たち同様一条天皇の関白となることを期待していた。

「一上」の地位が摂関より重視されたというわけではないと思うよ。
一上が誰であろうと、決定には天皇を代行、補佐する摂関の承認がいる。
公季が馬鹿だったという伝承もないし。
32日本@名無史さん:2008/03/05(水) 09:52:55
ところで道長政権初期の与党って誰?
伊周も弟以外は公卿の味方はなくて孤立してたらしけど、
明確な道長派って人も見あたらないような?
33日本@名無史さん:2008/03/05(水) 10:03:22
一上を自分、もしくは自分のいいなりになる人物を置いておかないと
摂関の地位は危うくなるというものでもないと思うよ。
父兼家のときだって自分の息子以外は敵だらけ、
兄道隆だって叔父や従兄弟が地位を狙うのは勿論、
機会があれば地位を乗っ取ろうとする弟道兼の存在だってあったわけだから。
このころ勝ち目がないと思っていた末弟の道長は、
おとなしく兄道隆の娘中宮定子に中宮大夫として仕えて
道隆や定子に従順なふりをしていたけどね。
道長は一条天皇の意思すら左右する姉国母東三条院詮子の
寵愛を受けていたのだから、十分なのでは?

道長が内覧に就任したのは996年。
それから3年後の999年には、
道長長女彰子の入内に多くの公卿たちが祝いの歌を送り(花山法皇まで)、
彰子はどの女御・中宮にも負けない華やかさで入内したのだから。
34日本@名無史さん:2008/03/05(水) 16:21:07
一条天皇は死ぬ2年前になってから後一条・後朱雀と次々に生まれたのか
35日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:26:01
てゆうか大臣兼任しない摂関だけの地位って誰が最初?
36日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:30:10
確か兼家、上がつっかえていて官制上はナンバー三の右大臣のままだから大臣辞めちゃった。
37日本@名無史さん:2008/03/06(木) 13:47:00
一条って、本心では定子と彰子のどっちがよかったの?
38日本@名無史さん:2008/03/06(木) 15:05:38
>>36
そう。そして「一座宣旨」を摂政専任の自分に出して
太政大臣の上座に着いた。
39日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:16:43
>>38
自作自演のねら〜もびっくりだな。
40日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:17:48
てか太政大臣兼任でない限り一座宣旨は必要なんじゃ。
41日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:48:33
なんかそれ以前は上席の大臣が居るときはその大臣が出仕しなくなったらしい。
それかもう死にかかっていて出仕どころじゃなかったとか。
兼家の時は上席大臣まだまだやる気満々だし。
42日本@名無史さん:2008/03/07(金) 10:20:04
無位無官な奴は社員だろうが派遣だろうが天皇から見れば穢多非人と一緒です。これが事実であり、真に人間として認められるのは100万人前後であります。

43日本@名無史さん:2008/03/07(金) 14:11:10
太政大臣空席で、摂関が左大臣兼務とかなら一座宣旨いらないか。
44日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:51:24
はやらないな
45日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:06:49
太政大臣は職務がないようなものだから、別に不在でも何の問題もない。
君主としての征夷大将軍は、例え乳幼児でも家臣がしっかりしてれば問題ない。
一応実務のトップであってそれでは困る摂関は5家あって、最悪でも一人くらいは適任者が居る。
けど一家で官職独占ってのがあるけど、あれで当主が急逝して後継者が幼すぎる時ってどうなるんだろう?
大宮消滅後の壬生とか、押小路とか土御門とか幸徳井とかああいう家。
例え養子は取るにしても、ノウハウが伝わらないわけだよね。まあ家伝の文書くらいはあるだろうけど。
46日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:34:22
諸大夫って少なくとも江戸期の摂家諸大夫は政治家秘書みたいなものって言う理解でOK?
47日本@名無史さん:2008/03/09(日) 00:07:30
つうか藤原北家が台頭する以前は、太政大臣は空席のほうが普通だったよ。
48日本@名無史さん:2008/03/09(日) 01:06:58
>45
小児の摂関もいたはず。
49日本@名無史さん:2008/03/09(日) 04:55:30
二条天皇のときの近衛基実あたりが最年少で、さすがにそれ以下の年齢の摂関はいないのでは?
50日本@名無史さん:2008/03/09(日) 16:36:14
秀次とか何歳?
51日本@名無史さん:2008/03/09(日) 16:53:26
豊臣秀次は関白就任時に24歳
近衛基実の16歳が最年少
52日本@名無史さん:2008/03/09(日) 17:01:27
基実16歳で関白、甥の師家が12歳で摂政。これが最年少かな?
まあ親父の基房が事実上の摂政だったんだろうが。
しかし考えてみると天皇4歳、摂政12歳。
数え年だから、やっとおしめが取れたような入園前の天皇に小学生の摂政か。
53日本@名無史さん:2008/03/09(日) 17:31:01
どっちも異常時だからな
54日本@名無史さん:2008/03/09(日) 19:26:21
『若年高官(位階だけ高いのは除外)』
源信、831年22歳で参議
源常、832年21歳で中納言(参議を経ず:後840年29歳で右大臣)
 この辺からおかしくなってきた。淳和在位時だから嵯峨上皇の責任だな。
 その後半世紀以上ここまで酷い例はなし。

藤原時平、891年21歳で参議、898年28歳で内覧
 皇子以外では画期的早さ、その後は記録的に若い公卿は約1世紀なし。

藤原道長、988年23歳で権中納言
藤原道頼、990年20歳で参議(約100年ぶりに記録更新)
藤原伊周、991年18歳で参議(ついに10代の現任公卿誕生)、同年中に権中納言、
     翌992年権大納言19歳、994年21歳で内大臣、翌995年内覧22歳
藤原隆家、995年17歳で権中納言(参議を経ず)、同年中に中納言
 この辺は兼家・道隆親子のごり押しなんだけど、頼通以後はこれが先例になる。
55日本@名無史さん:2008/03/09(日) 19:30:39
そのうちに0歳児で五位とか、4歳くらい(当然元服前)で侍従とか酷いことになるんだよね。
実資は皮肉(多分?)で「口なお乳臭き少将(そうはいってもローティーン)」とか言ったけど、
後世になると本当に乳臭い侍従が実在したわけだ。
56日本@名無史さん:2008/03/09(日) 22:23:32
イメージとしてはイクラちゃんが天皇でカツオが摂政ってところか。
57日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:47:07
でも師家は12歳から半世紀以上散位だったという事実が脅威
58日本@名無史さん:2008/03/10(月) 04:30:26
三位=さんみ
散位=さんに

なんだよね?
59日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:48:40
>>57
異母の兄二人は摂関家庶流として普通に昇進してるのにな。
自分のせいじゃないのに摂政になったばっかりに空しい人生だな。
親父は政界の長老として悠々自適だったらしいし。
なんだか当時の摂家関係者で一番悲惨かも。
60日本@名無史さん:2008/03/10(月) 11:14:28
悪いのは全部義仲
61日本@名無史さん:2008/03/11(火) 07:32:41
摂政、関白になって政権を思い通りに、、、って人いるの?
聖徳太子や豊臣秀吉にしてもその地位についても政敵がいて苦労していた
みたいだけど。
歴代の征夷大将軍もしかり。

やはり道長あたりかな。
実権でいえば室町の執権(連署)や江戸の大老もお忘れなく。
62日本@名無史さん:2008/03/11(火) 08:24:32
藤原道長は関白にはなっていない。
摂政も1年2か月ほどやっただけ。
道長は引退して御堂と呼ばれた時期が最盛期だったような。
望月の歌を詠んだ頃、道長はすでに摂政も太政大臣も辞した致仕で、
摂関になれて詠んだ歌ではないんだよね。

結局は外孫が天皇、娘三人は立后という栄華が道長を権力者にしたのであって、
必ずしも摂関の地位がどうこうというわけではないんだよね。
63日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:19:35
江戸の大老は名誉職。
64日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:36:42
それは極論、確かに漬け物石程度の大老もいるが、
本人にやる気と能力があればそれなりには動ける。
65日本@名無史さん:2008/03/11(火) 11:29:44
>>61
>室町の執権(連署)

釣りにしても、できが悪いな・・・
66日本@名無史さん:2008/03/11(火) 12:38:26
大老も執権も朝廷とは関係ないわな
67日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:08:59
>>62
内覧は20年やったけどね
68日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:33:49
>>67
内覧時代の道長は一上ではあっても発言力はそれほどでもなかったよね
娘を入内させた一条天皇、三条天皇にはほかにも妃が大勢いて
必ずしも道長を外戚とする皇子が即位できるか流動的だった
成人帝の一条天皇、三条天皇自身が道長と対立している(言いなりにならない)
というジレンマもあった。
69日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:33:30
「大老」は井伊直弼が(安政の大獄を強行した)、、、
執権は源実朝、尼将軍の後は実質的に実権握ってただろ?

これらの時代の将軍はお飾りで全くの名誉職だ。

にしても連署(No.2)の署名(承認)がないと効力がない
と言うのも辛いな執権職(実質武家のトップ)w
70日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:49:20
執権という名称は本来的には政所別当の別名だな。
71日本@名無史さん:2008/03/13(木) 08:57:31
得宗>執権 だろ
72日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:14:40
得宗(嫡男)制度の確立は執権確立の後だがな
73日本@名無史さん:2008/03/13(木) 14:32:15
>>71
末期のパワーバランスではそう。
ただ得宗は鎌倉幕府の制度として明確に位置付けられている地位とか役職ではない。
74日本@名無史さん:2008/03/13(木) 14:56:04
得宗は地位や役職ではないが執権になる優先権があり
得宗幼少によりほかの者が執権を務める場合でも
得宗成人後は執権を返す習慣になったこと
また得宗が執権を退いても得宗の嫡男に相続の優先権があり
一門が得宗を宗家と崇める習慣になっていたこと

北条高時は評価の低い得宗だが、
それでも最後まで高時に従い死を共にした北条家一門の数は相当なもので、
それだけ日本の歴史上でも例を見ない結束の固い一族だったことは言えると思う。
75日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:15:14
得宗は地位や役職ではなく家系(鎌倉北条氏の嫡流)を意味する言葉。
76日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:19:17
氏の長者に類似して、ないか。
77日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:53:18
氏の長者は嫡男じゃなくても継げるからね
78日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:58:05
得宗は役職ではないが一種の地位ではあると思う。
治天のようなものでは?一系で世襲されているけどね。
79日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:18:42
治天とは全然違うだろ。

そもそも得宗自体が義時の法名に由来するといわれるわけだし、単に義時の嫡流を表すんじゃないのか?
80日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:08:53
宗家以上の意味があるのか?
逆に間の執権は全員中継ぎ以上の意味はないし
81日本@名無史さん:2008/03/14(金) 07:13:36
それにしても上手くやったよな北条は。
罪人とはいえ名門源氏の嫡流を担ぎ挙げ勢力伸ばして
頼朝に弟義経のある事ない事吹き込み排除させた上
用済みとなった頼朝を抹殺(?)やその息子たちも、、、

おいしいなw
82日本@名無史さん:2008/03/14(金) 08:13:10
結局源氏3代に能力がなかったということだろ。
外戚に食われているようじゃ。
83日本@名無史さん:2008/03/14(金) 09:24:39
>>80
宗家というだけで権力を維持し続けたんだからすごいよ。
藤原でも足利でも宗家も嫡流も関係なく実力の世界。
84日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:22:34
足利氏で他家が宗家に取って代わったことなんてあったか?
85日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:48:19
でも足利将軍家は兄弟相続が多かったよね
特に嫡男を中心に一族が結束するわけでもないし。
応仁の乱を見てれば分かるけど。
86日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:17:55
当主に子供がいなければ、兄弟相続が起こるのは自然だろ。
それを庶家が宗家を乗っ取ったとは普通言わない。
ただ足利将軍で、兄から弟への継承は、義勝から義政しかないと思うが。
あとは義教に関しては、事実上義持からの継承といえるが。
無論いずれも兄の系統がに子孫がないから弟が出てきたにすぎない。

あと応仁の乱は、将軍家の相続問題という点に関して言えば、義政にまだ男子が
生まれる可能性があったのに、無理矢理弟を後継者に決めてしまったことが
原因であり、次元が違う。
義視を還俗させた段階で、義政29歳、富子25歳だからな・・・。
87日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:20:42
・・・しかしスレタイと関係ない話題が続くな。話題が変わったA級戦犯は>>61っぽいが。
88日本@名無史さん:2008/03/14(金) 15:01:16
>>83北条にも名越みたいなのもいたけどね
89武陽隠士:2008/03/14(金) 21:04:30
>>80
得宗が摂関、治天の君を決めた…そんな長い時期が得宗にある。
否、天皇の地位すら得宗の意見に左右されたんだよね。
嫡流、宗家がナンタラは話が単純だ。
そんなこといえば治天の君も天皇もただの嫡流にしか過ぎなくなる。
得宗専制期(この時期の確定がまた面接くさいんだが)
の得宗は日本の国主。
「王」と言って良い。
90日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:06:40
厳密な意味での得宗専制は貞時期だけだよ。
91日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:30:14
>>89
バカは引っ込んでろ
92武陽隠士:2008/03/14(金) 21:33:38
>>90
簡単に言い切り過ぎさW
いろんな学説が対立してんの知らないのか?
93日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:39:02
得宗が北条一門だけを統制していたのなら確かに単なる宗家だろうが、
公的職の如何に関わらず幕府を統制していたのだから、
半ば公的(この言葉はやや不適当だが)な地位でも有ると思うが。
>>90
得宗専制を得宗個人が専権を振るうという意味で捉えればそうだな。
得宗の名の下に専制的に政治が行われるという意味では高時期も該当。
94武陽隠士:2008/03/14(金) 22:15:59
>>93
幕府どこじゃないよ。
元の時なんか朝廷なんか無視して外交権まで握ってる。
幕末よりかひどい朝廷無視なのに何で戦前は時宗が偉人になってた
…馬鹿らしい、てな意味のことを上横手先生は指摘してる
95日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:19:04
敵国降伏
96日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:54:57
鎌倉時代の終焉、、、元冦の防御の恩賞与えられず各地で反乱。

室町時代の終焉、、、跡目争いで家臣団が分裂⇒大乱(細川VS山名)。

江戸時代の終焉、、、外圧による開国それ以前に爆発的な人口増加で幕藩体制維持出来ず。
薩摩、長州や公家による新政権へ。
97日本@名無史さん:2008/03/15(土) 10:00:34
>>94
武陽君、元寇のときに限って言えば、
時宗は得宗の地位のみで外交権を掌握していたのではなく
このときすでに執権の地位にもあった。
得宗の威力をいうのに
得宗が執権について行使した権力まで含めるのは不適当。
98日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:26:52
権力者に執権という地位を与えることにした時期。
執権であることが権力者であった時期。
権力者が執権である形式を取ることが必要であった時期。
得宗であれば形式(現職にはこだわらない)はどうでも良くなった時期。
って変遷かな?
99日本@名無史さん:2008/03/15(土) 15:15:52
ブヨって上横手信者だったのか
100日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:28:56
100
101日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:02:40
>>93
高時の頃には得宗の地位も形骸化して
内管領が実権を振るってたんでは
102日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:57:45
ここは太政大臣・摂関・将軍スレだ。
執権とか得宗の話は鎌倉北条氏スレでやれよ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1134232889/l50
103武陽隠士:2008/03/15(土) 21:09:21
>>97
多分そういう反駁来ると思った。
君は通説に則ってるね。
まあ優等生的見解で、
クソ真面目な学部生のレポートと言ったところかな。
私の論だがは、実は名前も挙げてるが上横手先生が唱えている得宗専制期の時代区分に拠ってる。
先生のは公武の関係を考慮に入れたシャープな議論。
得宗専制の初期段階は時頼(藤原将軍の京都送還時)から始まっている。
君は史学(特に中世)の学説が一枚岩でないことが
よく分かってないんだよね。
通説といったって、このあたりの議論はけっこう過渡期(ウン十年前からだ)
といったっていいのさ。
佐藤進一先生の教え子が存命する現今はともかく、
これからどうなることか…
ついでにいえば、得宗については私オリジナルの立論があるが、
それはネットになんか書き込みしない。
君も教科書の敷き写しなんか止めて、
もう少し見識広げたらどう?
ああそうそう、法制史的な側面からの得宗専制期の論証もウザいから止してね。
それも学部教科書レベル。
じゃ、がんばってね。
104日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:50:10
105日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:27:06
なんかまたうるさい奴が、俺の透明あぼーんの中で暴れているみたいだなww
ご苦労なこった
106日本@名無史さん:2008/03/16(日) 01:55:52
ブヨの勝ち?
それとも負け?
107武陽隠士:2008/03/16(日) 10:32:11
>>105
論争になって負けが込むと
必ず「W」を使用して茶化した捨てセリフを吐くレスで応戦……
今までみんなそうだった。
君は負けたんだね。
108なりすましウザいコテハンなんかいはねーよだW:2008/03/16(日) 18:22:22
>>102
馬鹿だな
その摂関だか太政大臣だかを決めちゃうのが
得宗だったりするわけだろうが。
おまえ才能ないよ
109日本@名無史さん:2008/03/16(日) 19:42:19
意味不明
110日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:58:01
他人のレスに粘着するのってウザイ
111日本@名無史さん:2008/03/17(月) 17:16:43
>>103
武陽君、時頼のときに得宗制度が始まったのならば、
なぜ元寇に際して年若い時宗が執権にならなければなかったのだろう?
他人が執権で、若い得宗時宗が裁断するのではなぜ都合が悪かったのだろう?
君の説だと、時宗はたとえこのとき執権でなくとも
外交権を行使できたことになるね。
史実はどうか?
武陽君、完全に君の間違いだよ。
112日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:21:02
ブヨブヨうるせーなw
しかもスレ違いの話題だしw
113日本@名無史さん:2008/03/18(火) 07:33:02
みんな権力のあるポスト(ワンマン社長みたいな)が好きなんだよw
スレの展開から執権、得宗に行き当たったってトコじゃないか?

太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍

執権、得宗からすれば、いずれも名誉職みたいなモンだろ。
114日本@名無史さん:2008/03/18(火) 08:18:54
高時の時代は執権だって名誉職みたいなもんだな。
115日本@名無史さん:2008/03/18(火) 11:34:15
執権や得宗がどうのこうのはスレチだな
他所でヤレ
116日本@名無史さん:2008/03/18(火) 13:05:11
多少脱線しても過疎ってるよりはにぎやかな方がいいな。
117日本@名無史さん:2008/03/18(火) 13:44:09
それで最年少太政大臣って結局誰?
118日本@名無史さん:2008/03/18(火) 14:32:09
最年少太政大臣
大友皇子 24歳
119日本@名無史さん:2008/03/18(火) 16:19:33
令制太政大臣では20代はなし?
120日本@名無史さん:2008/03/18(火) 16:29:52
律令施行後では
最年少太政大臣
松殿基房 26歳
121日本@名無史さん:2008/03/18(火) 17:16:51
なんでそんなに若くてなったの?
122日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:42:45
123日本@名無史さん:2008/03/18(火) 21:57:32
摂関・将軍は不在では困ると言うこともかもしれず、
他に適当な候補者がなければ若年就任も有るのかもしれないけど、
令制太政大臣は別に欠員でもなんの問題もないわけで、
それでも20代で就任と言うのはごり押しなのだろうか?
124日本@名無史さん:2008/03/18(火) 22:01:58
鎌倉幕府の内は当主が幼年なら将軍どころか無位無官だったりもしたが、
江戸幕府になると幼児でも征夷大将軍。
こういうのはやはり形式主義の蔓延なのか?
125日本@名無史さん:2008/03/19(水) 10:44:24
>>121
松殿基房は兄近衛基通の早世により六条天皇の摂政となった。
一方、力をつけた平清盛は、六条天皇のとき太政大臣となった。
平清盛が太政大臣を辞した後は、花山院忠雅が太政大臣となったが、
花山院忠雅の嫡男兼雅は平清盛の娘婿であり、清盛の意向によるものとされている。
一方、基房は花山院忠雅の娘を正室としたため、当初は親平氏の立場にあった。
平氏待望の高倉天皇が即位すると基房はその摂政に就任。
26歳の時、妻の父である花山院忠雅から譲られる形で後任として太政大臣に就任。
基房がのちに後白河法皇とはかって清盛の娘平盛子が近衛家から伝領した荘園を没収するまで、
基房は平氏とも比較的近い姻戚筋の摂関として若年ながら高官に上ることが容認されていた。
126日本@名無史さん:2008/03/19(水) 12:47:56
今晩のそのとき歴史が動いたで道長やるよ
127日本@名無史さん:2008/03/20(木) 02:11:25
128日本@名無史さん:2008/04/06(日) 14:08:47
あげ
129日本@名無史さん:2008/04/06(日) 21:34:31
清華家筆頭は閑院流嫡流の三条家か
村上源氏嫡流の久我家かどっち?
130日本@名無史さん:2008/04/06(日) 22:37:05
村上、後正親町源氏は格下だよ
あくまでも格の高いのは花山院流と三条家の3つ。
131日本@名無史さん:2008/04/07(月) 10:35:00
久我家は源通親の活躍がなかったら
清華家に列していなかっただろうなあ
132日本@名無史さん:2008/04/07(月) 18:15:32
清華の中で一番家録が多かったのは
今出川家だね
133日本@名無史さん:2008/04/07(月) 18:57:55
嵯峨源氏の子孫の堂上家ってあったっけ?
134日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:12:08
ない
135日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:17:30
清華家はこのスレとは関係ないんだが
136日本@名無史さん:2008/04/08(火) 13:16:07
一応太政大臣になれるけどな
137日本@名無史さん:2008/04/08(火) 15:20:53
江戸時代は摂関経験者しか太政大臣に慣れないから清家は事実上除外だな。
138日本@名無史さん:2008/04/08(火) 19:34:17
久我は皇胤貴族のエース
139日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:29:52
公家公卿
140日本@名無史さん:2008/04/18(金) 08:15:09
4つのどれが偉いんですか?
141日本@名無史さん:2008/04/18(金) 11:41:50
関白
142日本@名無史さん:2008/04/18(金) 16:28:41
関白より摂政のほうが与えられる権限は大きい
143日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:07:04
摂政太政大臣
144日本@名無史さん:2008/05/07(水) 19:23:55
>>77
氏長者は本来は一族で一番の高位の者が就くポスト
145日本@名無史さん:2008/05/12(月) 12:38:50
征夷大将軍の官位相当の位階は何位なんでしょうか?
146日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:10:42
んなもんない
147日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:13:01
坂上田村麻呂は征夷大将軍になったとき従四位下木工頭だった。
もともと征夷大将軍はそれほど高位な位の職務ではない。
源頼朝の時は正二位権大納言。
時代とともに征夷大将軍の地位は上がり、
江戸幕府では家光以降、征夷大将軍の宣下と同時に
内大臣に任じられるようになった。
148日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:16:45
であるから「征夷大将軍」の官位相当の位階など存在しない
149日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:07:24
源頼朝(1147〜1199、53歳。従四位左馬頭・播磨守義朝の三男)
 皇后宮権少進(1158、12歳)→右将監(1160、14歳)→門院蔵人→蔵人→従五位下右兵衛権佐(14歳)→解任→流罪(1160) →復従五位下(1183、37歳)→正四位下(1184、38歳)→従二位(1185、39歳)→正二位(1189、43歳)→権大納言
 (1190、44歳)→右大将(1190)→征夷大将軍(1192、46歳)→出家(1199)
源頼家(1182〜1204、23歳。頼朝の長男)
 従五位上左権少将(1197、16歳)→讃岐権介(1198)→正五位下(1198、17歳)→左権中将(1199)→従四位上(1200、19歳)
 →従三位左衛門督(1200、19歳)→正三位(1202、21歳)→従二位征夷大将軍(21歳)→出家(1202)→殺害(1204)
源実朝(1192〜1219、28歳。頼朝の次男)
 従五位下征夷大将軍(1203、12歳)→右兵衛佐(1203)→従五位上(1204、13歳)→右少将(1204)→正五位下(1205、14歳)
 →右権中将・加賀介(1205)→従四位下(1206、15歳)→従四位上(1207、16歳)→正四位下(1208、17歳)→従三位
 (1209、18歳)→右中将(1209)→正三位(1211、20歳)→美作権守(1211)→従二位(1212、21歳)→正二位(1213、22歳)→
 権中納言(1216、25歳)→左中将(1216)→権大納言(1218、27歳)→左大将・左馬寮御監→内大臣→右大臣(1218、27歳)
 →殺害(1219)
藤原頼経(1218〜1256、39歳。摂政左大臣道家の四(三?)男)
 正五位下右少将・征夷大将軍(1226、9歳)→近江権介(1227)→従四位上(1231、14歳)→左中将→正四位下(1231、14歳)
 →備後権守(1232)→従三位(1232、15歳)→権中納言(1233、16歳)→正三位(1233、16歳)→按察使(1234)→従二位
 (1234、17歳)→正二位(1236、19歳)→民部卿(1236)→中納言・左衛門督(1238、21歳)→使別当→権大納言
 (1238、21歳)→出家(1244)
藤原頼嗣(1239〜1256、18歳。頼経の長男)
 従五位下左少将・征夷大将軍(1244、6歳)→正五位下(1244、6歳)→美作権守(1245)→従四位下(1246、8歳)→
 従四位上(1248、10歳)→正四位下(1249、11歳)→左中将(1249)→美濃権守(1250)→従三位(1251、13歳)
150日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:07:49
宗尊親王(1242〜1274、33歳。後嵯峨第二皇子)
 親王(1244、3歳)→三品征夷大将軍(1252、11歳)→一品中務卿(1265、24歳)→出家(1272)
惟康王→源惟康→惟康親王(1264〜。宗尊親王の子)
 従四位下征夷大将軍(1266、3歳)→従三位左中将:源(1270、7歳)→尾張権守(1271)→従二位(1272、9歳)→讃岐権守
 (1276)→正二位(1279、16歳)→中納言(1287、24歳)→右大将(1287)→親王(1288?、25歳)→二品(1288?、25歳)→
 出家(1289)
久明親王(1276〜。)
 親王(1289、14歳)→三品(14歳)→征夷大将軍(1289、14歳)→二品(1295?、20歳)→式部卿(1297)→一品式部卿
 (1304時点、29歳)
守邦親王(1302〜1333、32歳。久明親王の子)、三品(1308以前、7歳)→征夷大将軍(1308?、7歳)→出家(1333)
151日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:08:36
足利尊氏(1305〜1358、54歳。貞氏の子)
 従五位下治部大輔(1319、15歳)→従五位上(1332、28歳)→鎮守府将軍(1333)→従四位下左兵衛督(29歳)→従三位
 武蔵守(1333、29歳)→正三位(1334、30歳)→参議(1334、30歳)→征夷大将軍(1335、31歳)→従二位(31歳)→解任(1335)
 →権大納言(1336、32歳)→正二位征夷大将軍(1338、34歳)→贈従一位左大臣(1358)→贈太政大臣(1457)
足利義詮(1330〜1367、38歳。尊氏の三男(嫡子))
 従五位下(1335、6歳)→正五位下(1344、15歳)→左馬頭(1344)→従四位下(1346、17歳)→参議・左中将(1350、21歳)
 →従三位(1356、27歳)→征夷大将軍(1358、29歳)→武蔵守(1359)→権大納言(1363、34歳)→従二位(1363、34歳)→
 正二位(1367、38歳)→贈従一位左大臣(1367)
足利義満(1358〜1408、51歳。義詮の子)
 従五位下(1366、9歳)→正五位下(1367、10歳)→左馬頭(1367)→征夷大将軍(1368、11歳)→従四位下参議・左中将
 (1373、16歳)→従三位(1375、18歳)→権大納言(18歳)→右大将→従二位(1375、18歳)→従一位(1380、23歳)→
 内大臣(1381、24歳)→左大臣(1382、25歳)→准三宮(1383、26歳)→太政大臣(1394、37歳)→出家(1395)
足利義持(1386〜1428、43歳。義満の長子)
 正五位下左中将・征夷大将軍(1394、9歳)→従四位下(1395、10歳)→美作権守(1396)→正四位下(1396、11歳)→参議
 (1396、11歳)→従三位(1397、12歳)→権中納言(1397、12歳)→正三位(1398、13歳)→従二位(1400、15歳)→
 権大納言(1401、16歳)→正二位(1402、17歳)→従一位(1402、17歳)→右大将(1406)→内大臣(1409、24歳)→出家
 (1423、38歳)→贈太政大臣(1428)
足利義量(1407〜1425、19歳。義持の子)
 正五位下左中将(1417、11歳)→征夷大将軍(1423、17歳)→従四位下(1424、18歳)→参議(1424、18歳)→贈従一位
 左大臣
152日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:09:14
足利義宣→足利義教(1394〜1441、48歳。義満の四男)
 大僧正・准三后(1419、26歳)→還俗(1428)→従五位下左馬頭(35歳)→従四位下(1428、35歳)→参議・征夷大将軍・
 左中将(1429、36歳)→従三位権大納言(36歳)→右大将→従二位(1429、36歳)→従一位(1430、37歳)→内大臣
 (1432、39歳)→左大臣(1432、39歳)→殺害(1441)→贈太政大臣(1441)
足利義勝(1434〜1443、10歳。義教の長男)
 従五位下(1441、8歳)→正五位下左中将・征夷大将軍(1442、9歳)→従四位下(1443、10歳)→贈従一位左大臣(1443)
足利義成→足利義政(1436〜1490、55歳。義教の子、義勝の同母弟)
 従五位上(1446、11歳)→正五位下侍従(1447、12歳)→左馬頭(1448)→征夷大将軍(1449、14歳)→従四位下参議・
 左中将(1449、14歳)→従三位(1450、15歳)→権大納言(15歳)→従二位(1450、15歳)→従一位(1453、18歳)→右大将
 (1455)→内大臣(1458、23歳)→左大臣(1460、25歳)→殺害(1490)→贈太政大臣(1490)
足利義尚(1465〜1489、25歳。義政の子)
 正五位下左中将・征夷大将軍(1473、9歳)→従四位下(1474、10歳)→美作権守(1475)→正四位下(11歳)→参議
 (1475、11歳)→従三位(1476、12歳)→正三位(1477、13歳)→従二位(1479、15歳)→権大納言(1480、16歳)→従一位
 (1483、19歳)→右大将(1485)→内大臣(1487、23歳)→贈太政大臣(1489)
足利義村→足利義尹→足利義稙(1466〜1523、58歳)
 従五位下左馬頭(1487、22歳)→従四位下参議・左中将・征夷大将軍(1490、25歳)→辞任(1501)→従三位権大納言・
 征夷大将軍(1508、43歳)→従二位(1508、43歳)→罷免(1521)
足利義遐→足利義高→足利義澄(1480〜1511、33歳)
 従五位下(1493、14歳)→正五位下(1494、15歳)→征夷大将軍・左馬頭(1494、15歳)→従四位下参議・左中将
 (1502、23歳)→従三位(1503、24歳)→贈従一位左大臣(1521)
153日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:11:01
足利義晴(1511〜1550、40歳)
 従五位下(1521、11歳)→正五位下左馬頭(11歳)→征夷大将軍(1521、11歳)→従四位下参議・左中将(1522、12歳)→
 従三位権大納言(1530、20歳)→右大将(1546)→贈従一位左大臣(1550)
足利義藤→足利義輝(1536〜1565、30歳)
 従五位下(1546、11歳)→正五位下左馬頭(11歳)→従四位下征夷大将軍(1546、11歳)→参議・左中将(1547、12歳)→
 →殺害(1565)→贈従一位左大臣(1565)
足利義栄(1538〜1568、31歳。義澄の孫、義維の長男)、従五位下(1566、29歳)→征夷大将軍・左馬頭(1568、31歳)
足利義秋→足利義昭(1537〜1597、61歳)
 還俗(1565)→従五位下左馬頭→従四位下参議・左中将・征夷大将軍(1568、32歳)→従三位権大納言(1569、33歳)→出家
 ・准三宮(1588)

征夷大将軍初任時は従五位下から従二位権大納言までばらばら、まあ五位以上なら良いってことだろう。
154日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:27:19
>>146 - 153
ありがとうございます。
Wikiに鎮守府将軍は三位以上で征夷大将軍なみの権限と鎮守府大将軍の呼称に
なると書いてあったので征夷大将軍の位階がきになりました。
155日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:29:53
征夷大将軍にしても摂政関白にしても元々官位相当はないから
156日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:14:56
足利の場合は嫡男は10歳前後で五位に叙任されて清華並みに昇進するんでしょ?
だから年長で将軍になったら大納言もありえるし叙任されてすぐに家督、将軍なら5位もあり得る。
それだけの事。
関白は官位相当は無いが太政大臣よりも席次は上だから2位以上じゃなければ事実上無理でしょ?
二位の関白と一位の大臣でも関白が飢えだしね。

157日本@名無史さん:2008/05/12(月) 21:34:22
摂関は明文の規定はないが内大臣以上の現職または経験者というのが条件らしい。
そこで内大臣の位階は言うと三位が下限らしい。
つまり摂関は最低でも三位以上と言うことになる。
内覧の場合は中納言以上が条件らしい、これも三位が下限と言うことになる。
中納言は極初期の場合四位もいるが、摂関・内覧が問題に成る時期以前から三位が下限。
158日本@名無史さん:2008/05/12(月) 21:50:03
ついでに言えば、摂関が太政大臣の上と決まったのは藤原兼家が初例。
159日本@名無史さん:2008/05/12(月) 21:53:27
>鎮守府将軍は三位以上で征夷大将軍なみの権限と鎮守府大将軍の呼称になる
やや不正確のような。
建武政権下の特例として三位以上が任じられたときに鎮守大将軍と呼称するだけのはず。
権限については三位以上であるとないとに関わらないと思われる。
征夷大将軍に準ずる権限を与えられたのはこれも建武政権下の政治情勢における特例だろう。
なお成立期の征夷大将軍は四位クラスだと概念されていたと思われる。
遣唐使等特に重要な使命を畿外で行う責任者は四位以上の地位が必要だったものだと思われる。
鎌倉期以後の征夷大将軍には関係ない話だけど。
まあどのみち平安中期以後の四位なんかは下っ端とまでは行かないが大した地位ではない。
160日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:12:39
頼朝・尊氏・家康等創設者は相当な力を手にして以後となるので必然的に任官前の官位が高くなる。
頼家の場合はまだ必ずしも将軍となるべきか定まっていなかったのかもしれない。
実朝以後は家督相続直後ないし、幼少の場合はある程度成長してから任官することになり、
任官時の位階が低下し、下限が初叙の位階となった。
こうなると貴族として初叙は五位以上となり、従五位下が下限と言うことになる。
頼経の正五位下は摂関の子として、惟康王の従四位下は親王の子としての待遇と思われる。
足利将軍家は義満以降(対象者としては義持以降)家格の上昇を計り、
初叙の位階を摂関家なみに上げようと数度にわたってか試みたようだが、
色々あって完全には成功しなかったって言うところか?
徳川家は初叙から公卿という嵯峨源氏以外に先例のないことをやってのけ、
しかも最初から権大納言、ある意味位階を軽く見ているとしか言いようがない。
所詮飾りとしか思ってないってことか。
161日本@名無史さん:2008/05/13(火) 18:55:36
鎮守府将軍は相当位があったのかどうかよくわからない。
職原抄は従五位上説、従五位下説もある。按察使相当で正五位上という考え方もあるようだ。
まあ正式な官位相当はなかったと考えるべきか。
162日本@名無史さん:2008/05/26(月) 03:05:44
家康は前政権時代の内大臣が大きかった。
その時点で頼朝・尊氏より上位。
163日本@名無史さん:2008/05/30(金) 07:14:48
徳川将軍家って豊臣政権での内大臣を250年間続けるってのも凄いな。
半分以上は内大臣のままでしょ?
164日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:32:12
何かが違う気がする
165日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:20:42
関白と摂政は同格なの?
166日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:34:20
成り立ちから言うと関白は摂政経験者を優遇するための職だったらしい。
そう言う経緯からか待遇などは摂政>関白。
権限は天皇権限の一定部分を代行できる(出来ない部分もある)摂政の方が当然上。
関白で摂政に準ずる権限=いわゆる准摂政なんてのもある。
実質的な権限はあまり変わらないような気もするけどね。
167日本@名無史さん:2008/06/13(金) 01:59:53
まあ同格だろうけど。
関白は居なくてもどうにかなるが摂政は存在意義ある希ガス。
168日本@名無史さん:2008/06/13(金) 19:55:21
同時期に摂政と関白がいたことはないのかな
169日本@名無史さん:2008/06/13(金) 20:25:51
義経がなりそこねた(後白河のブラフかもしれんが)
鎮西大将軍とは畿内より西である中四国九州の武家の頭領で、
征夷大将軍と同格でいいのかね?
170日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:30:29
摂政が置かれる時期は関白は不要。
関白が存在する時期は摂政がおけない時期だけ。
内覧は単なる権限だから極端に言えば数十人いても良いはず。
もちろんそんな状態では内覧の意味など皆無に等しいが。
171日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:32:59
大将軍って言うのも単なる指揮官、旗頭って意味もあるしね。
寄せ手の大将軍、搦め手の大将軍とか。
九州の旗頭くらいの意味じゃないのかな。
172日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:46:18
>>171
それなら征夷大将軍は東北の旗頭くらい

征夷大将軍と同格なら征西大将軍か
173日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:09:02
あれじゃない、九州総追捕使・総地頭的職務の俗称ってところじゃないの。
権限は征夷大将軍と余り変わらないけど、格は明らかに下ってやつ。
174日本@名無史さん:2008/06/14(土) 00:18:26
旭将軍はどれくらい偉いの?
175日本@名無史さん:2008/06/14(土) 02:55:07
東北は鎮守府将軍のほうが名前的に偉そうに聞こえる
藤原(平泉)も鎮守府将軍だし
176日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:19:15
宇宙大将軍は?
177日本@名無史さん:2008/06/14(土) 19:51:36
残念、日本じゃない
韓国の国連事務総長は地球大統領と国内で自称しまたそう呼ばれているが
178日本@名無史さん:2008/06/15(日) 09:59:51
戊辰戦争のとき、仙台伊達家重臣は「鎮守府のご職掌としていかにあるべきか」
と記した文書を上申していたとか。これも「王政復古」に合わせたのか??
179日本@名無史さん:2008/06/15(日) 21:18:19
>>173
征夷大将軍も元は蝦夷征伐のための職だったから征西大将軍も同じじゃない?
180日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:48:14
豊臣・徳川は准三宮には固執しなかったね。
181日本@名無史さん:2008/06/16(月) 23:20:33
>>180
秀吉は准三宮の意味を知らなかったかもしれない
182日本@名無史さん:2008/06/18(水) 09:49:23
初歩的な質問かもしれませんが、どなたか教えて下さい。

宮中で徳川将軍様と関白様がいたとします。
上座はどっちですか?
183日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:05:13
将軍
184日本@名無史さん:2008/06/18(水) 11:36:12
その時々の幕府と朝廷の力関係によって違う。
家光が上洛したときは家光が上座だったが幕末家茂上洛時には関白が上座だった。
185日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:21:12
将軍の官位にもよりそうだね。
186日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:23:55
秀忠、家光上洛時は上皇の格式という事で関白より上。
その後は上洛例がないけど、仮に上洛していれば同じ格式でしょう。
幕末期になると、家茂が下座にまわされるような事態も生じていますが。
187日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:29:20
>182
関白や将軍の場合、本人の官位よりは職そのものの権威の高下
が問題のように思います。
188日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:25:26
「忠臣蔵」で夏八木勲演じる将軍綱吉が
宮門跡の法親王に土下座して礼をとっていたけど
ありえんな。
189日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:39:18
>>188
大河ドラマ「元禄繚乱」でも綱吉は束帯着用で輪王寺宮に下座
で会っていたぞ。
190日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:13:19
徳川将軍より皇族のほうが格が上なんすか?
輪王寺宮は出家した皇族ですよね?
191日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:16:17
将軍家から送る書状は、天皇に対しては同格、摂家や親王には家臣である三家と同様に
「殿」付にしていたそうですね。
192日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:26:05
いくらなんでも書状としても天皇を同格あつかいにしないだろ。
193日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:34:16
>>190
輪王寺宮は家康の墓がある東照宮、将軍の墓がある寛永寺を
統括していたから、将軍家も丁重の扱いをしたのではないだろうか。
東照宮の宮号宣下の要請や、勅使の参拝要請など、何だかんだ
言っても天皇の権威で将軍家は箔をつけてもらっていたから。
194日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:48:10
東照宮に将軍着座の間と輪王寺宮着座の間が本殿の左右に
同じ広さ、同じ床下高さにあることから見て、将軍と輪王寺宮に
限っては、同格と見て良いんじゃなかろうか。
195日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:45:03
>192
「幕末の宮廷」によると、将軍から天皇へあてた書状は宛書が「公方様から禁裏へ」
で、文面も「暑中御見舞いとて進ぜられ候」と対等の相手への書き方だったそうです。

摂家や親王には、「公方様から○○殿へ」で、しかも「公方様」を上、「○○殿」は下。
文面も「暑中御尋ねとして遣わされ候」だそうですが、これは三家、三卿と同じ書き方
だそうな。
196日本@名無史さん:2008/06/19(木) 12:12:02
幕末の将軍は関白より下座なんてなんか嫌だな。
197日本@名無史さん:2008/06/19(木) 13:18:03
和親条約締結の是非を朝廷にお伺いするぐらいだからなー
仕方ない
198日本@名無史さん:2008/06/19(木) 15:23:41
たしか二条家はずっと徳川将軍の片諱をもらってるよね。
199日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:07:02
近衛・九条・二条は一時期、室町将軍家からも偏諱を
受けてるね。
200日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:02:09
将軍家茂が関白に平伏してるなんて嫌!
どうにかならんもんか。
201日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:08:59
将軍家の勢いで絶頂だったのはやはり家康が大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした
時であろう。この時の家康が下した判断は、禁裏に対し、禁中並び公家諸法度
をたたきつけるというものだった。家康はこの時点で天皇家にたいし豊臣家
をかばい立てした責を追求し、追放することも可能であったが、そうはしなかった。
それは、江戸時代終了後も徳川家が貴族院議長などをつとめ、
名門として残ったことを考えれば、成功だったといえる。
徳川氏が天皇家を追放し皇帝に就任していれば、清国の愛新覚羅家のように
おちぶれていたかもしれない。
202日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:24:33
>幕末の将軍は関白より下座なんてなんか嫌だな。
実力で格式を無視していただけだから、実力が衰えたらどうしようもない。
それがいやなら形式上の地位を上げておくしかかないんだけど・・・・
本来なら実力に見合ったなにか新しい職を創設すべきだったんだろうな。
203日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:27:31
戦国時代の天皇周辺にはごく一部の側近公家だけだったらしい。
それならそれ以外の公家は追放、は抵抗大きいにしても高家みたいに家臣化してしまい、
天皇はほとんど裸で残すという選択肢は取り得なかったのだろうか?
手足がなければあまり怖くないと思うんだけど。
204日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:44:15
>202
摂関の一座も「実力で格式を無視した」例に他ならないんだけどね。
205日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:04:58
いやだから慣例とか暗黙の了解とか無言の圧力だけじゃなくて、
「一座の宣旨」みたいに格好だけでも形式を整えておけばって言う話なんだけど。
206日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:16:11
多少無茶なはじまりに慣例だって1000年たてば伝統
207日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:49:09
まろは、まろやかでおじゃります
208日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:50:14
将軍の全盛期は徳川家康か足利義満で関白の全盛期は藤原道長かな。
太政大臣の全盛期はだれ?
209日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:35:40
エミノオシカツ
210日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:09:03
>>208
平清盛
211日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:50:39
>>208
道長は関白じゃなかった。
最強の関白太政大臣は秀吉だ。
212日本@名無史さん:2008/06/22(日) 09:38:36
カタカナ書きにすると先カンブリア紀の生物みたいだ。
213日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:01:27
道長は摂政の最盛期てことで。
道長が関白だったと勘違いしてる人多いな。
214日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:12:37
むしろ内覧左大臣の全盛期だと思う。
215日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:23:29
「この世をば」永井路子著
NHK大河ドラマでやってくれないかなぁ
藤原道長の生涯がうまくまとめてある。
216日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:37:10
あの道長は自主的な動きが少なすぎて、ドラマの主役には成りがたいような。
もっとあくが強くないと無理かも、小説だと問題ないんだけどね。
むしろ倫子が主役ならいいかも。
「女御堂関白記」?
217日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:50:00
頼通視点で父道長の権勢を見つめ、父死去後は本人が四苦八苦するドラマ。
兼家・道長・頼通で「九条三代」
218日本@名無史さん:2008/06/22(日) 12:16:55
>>214
それ以後だって、先を見据えて一歩引いて頼通を表に立てていただけじゃないか
219日本@名無史さん:2008/06/22(日) 12:42:45
道長は権勢をもっただけで本人何もしてないし残してないからなぁ
あまり華がない
220日本@名無史さん:2008/06/22(日) 12:48:33
 『小説大鏡』なんてどうかな?
221日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:23:36
関白未経験の道長がなんで「御堂関白」なんていわれるの?

摂政もほんの短期間しかやってないな。
222日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:30:44
「源博陸」とか「夜の関白」と「五位摂政」とか
223221:2008/06/22(日) 13:50:48
>222
なるほどなるほど。それらと同じ類のものですか。
224日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:13:39
最強の関白は秀吉。異論はないね。
225日本@名無史さん:2008/06/22(日) 15:13:02
時代が300年違うから単純に比較できないが、清盛の絶対権勢は、さすがの秀吉でも及ばなかったと考える。
太政大臣を語るに清盛が上ではないだろうか。
226日本@名無史さん:2008/06/22(日) 15:58:09
しかし秀吉は隣国では超時空太閤として悪いことは全部この人のせいになってるからな
清盛は国外では無名だし清盛のせいで〜とかはないからある意味かなわない
227日本@名無史さん:2008/06/22(日) 16:27:33
秀吉は太政大臣としても最強。個人的には嫌いだけどね。
228日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:24:19
>>225

天皇の外戚の地位を藤原摂関家から奪ったのだから、武家としての地位は最高

だよね!

しかし、肝心な地方武家社会の棟梁としての地位を頼朝に奪われた!

清盛は武家が政権を簒奪出来る事を身をもって証明した偉大な人物!
229日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:55:53
清盛の権力と秀吉の権力じゃ天と地の差だろう
平家には天皇、院、摂関家、有力寺社、地方の源氏の潜在武力とか
力の及ばない域が結構あるけど、秀吉は絶対君主といっていい
230日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:14:59
>229
関白を追放した人はいくらでもいるが、切腹させたのは秀吉だけでしょうしね。
231日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:30:40
>>230
いや、天下のNHKは関白近衛基平を切腹させているぞw
232日本@名無史さん:2008/06/23(月) 02:09:45
>>231
日本史板に大河をストレートに持ってくるのはタブーだぞ
233日本@名無史さん:2008/06/23(月) 02:20:55
天皇の前で切腹。介錯は時輔で。ありえないから。
234日本@名無史さん:2008/06/23(月) 03:49:28
秀吉は天皇との外戚とかで関白になったわけではないから関白の最盛期かどうかでは評価はわかれそう。
235日本@名無史さん:2008/06/23(月) 10:44:37
最後の太政大臣とは
誰?
236日本@名無史さん:2008/06/23(月) 10:47:27
実美じゃないの?
237日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:08:33
最後の太政大臣は実美公だけど
京都朝廷における最後の太政大臣は
鷹司准后政通公だね。
238日本@名無史さん:2008/06/26(木) 15:00:42
清盛が権力をふるったのは太政大臣を辞任した後だよ。
239日本@名無史さん:2008/06/26(木) 17:39:57
現役太政大臣や関白より、前大臣とかの肩書きのほうが政治的影響強いのかな?
240日本@名無史さん:2008/06/26(木) 19:11:50
実力者が居る→大臣の肩書きを創設しそれを与える
実力者が大臣になる
大臣になることにより実力者になる
実力者に肩書きを当てることにより形式上公認する
肩書きなどなくても実力者は実力者→追認で一応肩書きを与えて格好を付ける
241日本@名無史さん:2008/06/28(土) 15:26:25
内閣廃止してニ官八省に戻せ!

総理→太政大臣 別称として相国。
242日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:39:38
>>241
責任が不明確だから内閣制度を導入したのですが
243日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:51:40
majiresusurunaya hazukasii
244日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:56:44
>>208
武家の相国の場合は武力を背景にしているので、最強の相国と言ってもちょっと違和感がある。
公家でも、摂関の場合は相国であっても摂関の方に重きが置かれるだろうし、
やはり、清華の相国という事になる。とすれば鎌倉期の西園寺実氏、公相、実兼三代の相国だろう。
それぞれの娘を後宮に入れ、特に実氏は後深草、亀山二帝の外祖父だ。
三代共に幕府の権力と結び、朝廷内における権勢は完全に摂家を圧倒していて、
まさに、摂関全盛期の藤原氏嫡流を彷彿とさせる。
245日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:08:53
家康は征夷大将軍としても太政大臣としても最強。
246日本@名無史さん:2008/07/03(木) 08:27:35
>>245
死の直前の任官だよ。
247日本@名無史さん:2008/07/03(木) 10:35:51
文字通りの最強の征夷大将軍は吉宗じゃないの。
まあ神君家康公と大恩有る綱吉公は投げ飛ばせないだろうけど。
秀忠とか家光なんかには遠慮する必要ないし。
248日本@名無史さん:2008/07/03(木) 10:37:08
逆に最弱候補はいくらでもいるな、病弱・幼少・アル中・障害者に事欠かない。
249日本@名無史さん:2008/07/03(木) 19:00:48
最弱には義勝公を推挙いたします。
でも勝元は義勝公から偏諱を受けてるんだね。
250日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:22:10
最強は
坂上田村麻呂
251日本@名無史さん:2008/07/04(金) 20:58:06
足利歴代はアル中が多いような気がする。
徳川になるとそう言う君主個人の恣意は制度的に抑制されちゃうのかな。
252日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:02:22
>>251
徳川はスーパー官僚機構があるから・・・・だから池沼とかガキでも
将軍が勤まったわけで・・・
253日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:10:24
マジレスで、足利義教。
秀吉に先駆けること150年、関東制圧、宗教界制圧、九州統一、つまり天下統一の
天下人になってる。
どうして教科書はとりあげないんだろ。
254日本@名無史さん:2008/07/05(土) 10:10:09
殺されちゃしょうがないでしょ。
255日本@名無史さん:2008/07/05(土) 11:25:16
信長とやってることはほとんど同じなんですけどね。
こんなに知名度が違うのがすごい。
256日本@名無史さん:2008/07/05(土) 12:30:06
人間的には信長よりもすごい。
日本のカリギュラ。
ただまあ、戦国っていう時代背景的に、信長の方が歴史小説向きなんだろ。
257日本@名無史さん:2008/07/06(日) 06:53:24
>>253
日本国王だよね。
258日本@名無史さん:2008/07/06(日) 20:25:18
>>257
「日本国臣源義教」かな。
控えめないい人だ。
259日本@名無史さん:2008/07/08(火) 10:46:23
>>221
江戸時代に近衛家熙が、道長の日記を「御堂関白記」と名付けたんだよ。
それまでは、「御堂御日記」と呼ばれていた。
260日本@名無史さん:2008/07/08(火) 11:08:53
>>189
>大河ドラマ「元禄繚乱」でも綱吉は束帯着用で輪王寺宮に下座
>で会っていたぞ。

違うよ。
確か、綱吉(ショーケン)は長直垂着用で、
輪王寺宮(中村橋之助)と上段で向かい合って座っていた。
で、柳沢吉保(村上弘明)が下段に居た。
ただ、上段同士の上下はどっちだったか分からん。
261日本@名無史さん:2008/07/08(火) 11:54:09
江戸時代には関白と将軍とどっちが上座だった?
262日本@名無史さん:2008/07/08(火) 12:51:26
>>260
そうそう。
そして宮が赤穂浪士を罰せよというんだよな。

同じ上段だと左が上?
でも向かい合ってたからなぁ。
263日本@名無史さん:2008/07/08(火) 14:25:19
上座同士の場合入口から遠いほうが上らしいぞ
264日本@名無史さん:2008/07/08(火) 22:33:03
>>261 将軍>関白
    ただし家茂のときは関白>家茂
265日本@名無史さん:2008/07/08(火) 22:40:19
江戸以前はどうだったんだろ。
266日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:45:57
室町時代は関白なんか将軍の家来みたいなもんでしょ。
267日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:46:55
義満とかぜったい関白より上座に座ってそうだ
イメージ的に
268日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:47:47
家来はねーだろ家来は
269日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:16:25
>268
関白が将軍の裾を取ったり、摂家が将軍のところに年始のあいさつ回りに行ったり
しているね。後、他の家来同様に偏諱も拝領している。
270日本@名無史さん:2008/07/09(水) 05:06:58
家来ではないが臣従の礼をとってる。
271日本@名無史さん:2008/07/09(水) 10:12:12
>>267
室町時代は義満がターニングポイントだよな。
義満の太政大臣任官とその後の上皇のような待遇が大きい。
尊氏・義詮は権大納言が極官だから。
偏諱も義満からだな。で、慣例化していった。

>>269
>関白が将軍の裾を取ったり
これも義満が摂政二条良基の裾を取って置いて、
その息子の師嗣に
「俺お前の親父の裾取ったよ」
って言うんだよね。
義満流のやり方で、決して命令はせずに。
272日本@名無史さん:2008/07/09(水) 10:19:08
足利将軍の中でも義満だけは別格だな、日本国王だからか?

当時の国際社会では日本国王(明が公認)>>>天皇(酋長)
273日本@名無史さん:2008/07/09(水) 12:40:10
国際社会っていうのは明人の脳内国際社会のことだけどな
274日本@名無史さん:2008/07/09(水) 16:12:44
江戸幕府にいたって、征夷大将軍はほとんど天皇のような存在になった。
京都におわす本物の天皇は、あたかも神聖ローマ皇帝のごとく有名無実の存在に。
あと100年徳川による泰平の世が続いていたら、天皇家は自然消滅か
お取り潰しになってたんじゃないかな。
275日本@名無史さん:2008/07/09(水) 17:40:38
義満も別格だが、義教もすごいと思う。比較はできないが。
尊氏だってたいしたもんだし、足利将軍ってのはそんな簡単に
語られるべき存在ではないんだろうけどね。

徳川家は天皇家を完全にコントロールして利用する
方向に進んでたから、消滅とかつぶす、ってことはないと思う。
ま、これは難しい議論だが。
276日本@名無史さん:2008/07/09(水) 18:30:42
>>274
桜田門外の変のときにニューヨークタイムズが大老じゃなくて将軍がやられたと誤って
「ジャポンの皇帝暗殺される!」って記事にしたらしいから
国際的には天皇より当時は将軍んほうがあきらかに上だったんだろうね
ちなみにその記事見た渡米していた幕府使節たちはパニック状態になったらしい
277日本@名無史さん:2008/07/09(水) 18:40:28
平安の昔から、日本では誰が最高権力者なのか、とか文書の
あて先名なんか困ってたみたいだもんね。

しかし、あの時はナオスケのほうがすげぇことしてたもんな。
278日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:41:29
掃部頭が?大君だろ?
279日本@名無史さん:2008/07/09(水) 23:47:46
>>274
>>あと100年徳川による泰平の世が続いていたら、
天皇家は自然消滅か お取り潰しになってたんじゃないかな。

それはない。江戸中期から見るように、朝廷と同様に幕府にも
「慣例」に支配されるようになり、むしろ将軍を任命する「天皇」
の存在が重要になってくる。家康、秀忠時代よりも「儀式」が増え、
諸大名の序列化に官位を活用するなど武士の公家化になっていた
だろう。長らく途絶えていた、大嘗祭などを復活させたのは朝廷と
言うより幕府。
280日本@名無史さん:2008/07/10(木) 10:58:03
>>279
>大嘗祭などを復活させたのは朝廷と言うより幕府。

二度目の復活はそうだな。
桜町院の時の。
281日本@名無史さん:2008/07/13(日) 19:48:34
大河ドラマ『毛利元就』の大内を滅ぼした後の会議で、
日本国王の印を掲げて、これから明と貿易を我らが〜
というシーンがあったが、大内が日本国王になった事実ってあるの?
282日本@名無史さん:2008/07/15(火) 01:20:13
日本国王はあくまでも足利将軍で大内はその代理の一人って位の認識は明人にだってあった。
ついでに陶の謀反のことは明側にもばれているから、大内義長は正当な大内氏当主じゃないと言われて貿易を拒絶されたはず。
283日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:10:16
>>282
ありがとうございます。
朝廷を奉ずる歴史の中で『王』は違和感がありましたが、
明との日本通商代表と理解いたします。
284日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:43:00
ドラマの話で地方大名の大内の話題か。
285日本@名無史さん:2008/07/15(火) 15:26:19
貿易を拒否されたんじゃなくて、当主とか王とかそういう立場であることを
拒否されたんじゃなかったっけ?
ま、細かい話だが。
286日本@名無史さん:2008/07/15(火) 15:29:27
内閣制度は明治の生まれだけど太政大臣の制度の改定と考えれば、
奈良以来ずっとあるとも言えるな。
福田康夫は何代目の太政大臣-総理大臣と考えるべきか、
何代目の右大臣-総理大臣と考えるべきか、
皆さんの忌憚なきご意見をお聞かせ願いたい。
287日本@名無史さん:2008/07/15(火) 15:38:28
内閣は明が発祥です
288日本@名無史さん:2008/07/15(火) 18:12:37
平安の途中から江戸まで太政官は実質的に機能して
いなかったから、王政復古の大号令以後の
1.有栖川宮熾仁総裁
2.三条実美太政大臣
3.伊藤博文内閣総理大臣
以下歴代首相でいいと思うよ。
 
戦後新紙幣発行に当たってGHQは
三条実美・大隈重信は認めず岩倉具視・板垣退助は認めた。
大東亜戦争に至る歴代最高指導者は認めない方針によるもので
太政大臣と内閣総理大臣を同列に置いたことわかる。
 
厳密に言うと明治元年閏4月21日から4年7月28日までは
制度上政府に最高指導者が存在しなかったが、行政のトップには
2年7月8日まで輔相として、同日以後右大臣として三条実美が
当てられたので、有栖川宮→三条→伊藤でいいと思う。
なお輔相には三条と共に岩倉も任じられた(途中辞任)。
289日本@名無史さん:2008/07/15(火) 18:52:20
そうか俊輔は長州の百姓から太政大臣と同格まで一代で成り上がったのか
就任年齢も歴代総理で最若年だしこっそり秀吉並の大立身野郎だな
山縣も似たようなものだが
290日本@名無史さん:2008/07/15(火) 23:31:48
平安時代の藤原教通はなんで頼通彰子死亡後とっとと息子に関白を譲らなかったのでしょうか?
291日本@名無史さん:2008/07/16(水) 02:01:38
教通は道長の意志を尊重しただけ。
292日本@名無史さん:2008/07/16(水) 04:35:54
大統領制にするんだ、バカ!
293日本@名無史さん:2008/07/16(水) 15:36:31
小泉純一郎を初代大統領にしよう!!
294日本@名無史さん:2008/07/16(水) 16:07:56
大工の棟梁みたいに聞こえるから駄目大臣がよい(伊藤俊輔)
295日本@名無史さん:2008/07/16(水) 17:46:59
>>290
嫡男の信長に嫡流継承目論むも政争に敗れ信長は太政大臣止まり子孫繁栄せずだったんじゃ?
296日本@名無史さん:2008/07/16(水) 20:34:36
>>290
白河天皇の寵妃中宮賢子は藤原師実(頼通の子)の養女だった。
白河天皇は賢子を寵愛するあまり、信長を退け師実を関白にしたことになっている。
賢子が28歳で没したとき、白河天皇は賢子の遺体を抱きしめたまま離れず、
死は不浄であるために天子がお触れになってはなりません、
先例のないことです、と周囲がいさめると白河天皇は
「例ハ我ヨリ始マラメ(先例は私から始まるのだ)」といったことは有名。
297日本@名無史さん:2008/07/16(水) 21:30:38
>>295-296
師実の養女を白河店のが寵愛しているのだから、余計に教通が生きているうちに信長に跡を継がせようとするべきでは?
298日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:00:29
>297
関白の宣下を行うのは当たり前だが天皇。
後三条天皇や白河天皇と外戚になかった教通に、
外孫を天皇にした父道長ほどの権力がなかったのも事実。
教通は息子信長に関白を譲ろうとしたが
白河天皇に認められなかった。
299日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:11:36
天皇様
300日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:36:53
五摂家で今現在、スポットが当てられるのは近衛家と鷹司家だけですよね。
伊勢の斎主は全て嫁に行った天皇の娘が勤めるし。
その他は、雅楽部や書陵部で世襲の大人しい人生ですかね、、、、
301日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:51:05
そもそも師実が抱えていた問題と自己が問題が抱えた問題(皇位継承)は類似していたから白河と師実には共鳴するものがあった。
白河院政は専制的と言われているが、むしろ初期ににおいては師実を立て続けていたから摂関政治と大差なかった。
302日本@名無史さん:2008/07/22(火) 22:48:41
>>300
近衛家と鷹司家は武家の細川と松平に乗っ取られたから、
五摂家の血筋ではなくなったよ。
303日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:21:34
母系って知ってる?
304日本@名無史さん:2008/07/23(水) 18:45:54
女系
305日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:45:00
>>303
平安貴族は性に対して自由奔放なイメージがあるけど、母系家族だったから、 
子供は母親の実家に引き取られ、夫は通い婚が一般的だった 
1人の妻に対して何人もの夫が通うこと、或いは前後することもありも、 
”産まれた子がどの夫の子であるか”、これは妻や女房を全面的に信じるしかなかったんだよ 
皇族ともなれば、家臣の子が間違って帝王の座に着いたなんてことがあったら目も当てられない 
それで貴い身分の人ほど、処女性(性愛という身ではなく、身の潔白と言う意味で)が尊ばれた 
天皇に代わって天皇が御すまでの間、神に仕える斎宮も同じく貞操が求められたが、 
密通や懐妊した斎宮がいたのもまた事実(儀同三司) 

この時代は庶民も母系家族で通い婚がふつうだった 
性に対しては貴族と同じく非常にオープンで、夫の居る妻でも他の男と寝るのも自然だった 
お祭りの日や商いで遊女のような仕事をし、何喰わぬ顔で戻ってくる 
夫も夫で浮気するし、一番有名なのはいわゆる神に仕える巫女(=芸のある遊女。遊行女婦。白拍子)だよな 
奥さんが子供埋めない体だったりすると、巫女さんに子供を産んでもらって、その子を引き取ったり、 
ふつうに買春して、子供が出来るとその子も引き取る、これらは平安の日常風景だった 

306日本@名無史さん:2008/07/23(水) 23:02:17
母系とか言い出したら
徳川将軍家なんかどーなるの?
カーチャンが町民の娘だったら将軍は町民の血筋ということになる?
307日本@名無史さん:2008/07/24(木) 08:03:20
よくあっただろうけど、通りすがりの浮気なら「知らん」ですむし
その町民の娘にホレてしまってたら、ちゃんと面倒みたろうし、
このあたりは興味あるよね、DNAとかさ。

>>305
聞いていい?
ある作家が大奥の意味について「処女性」「単に男のスケベ心」に加えて
「性病予防」と言ってた。これ、あんまり聞かない論だけどどうなんだろ。
家光あたりからが本格的なんだろうけど、さて、ね。
308日本@名無史さん:2008/07/24(木) 09:17:23
>306
江戸時代と明治維新以降と昭和20年以降の違いもわからないとは、
この板には住みにくいだろw
309日本@名無史さん:2008/07/24(木) 09:57:07
>>307
家光は小姓が好きで中々女に興味を示さなかったから、
何とか女に興味を持たせようとして、大奥が肥大化した。

性病予防もあるだろうね。
戦国時代の話だけど、上杉謙信なんかも貰ってんだよね。
男の子から性病を。
310日本@名無史さん:2008/07/24(木) 11:32:57
>>309
へ〜、徳川はあんまりくわしくないけど、周りがそういう風に仕向けた
というのは大したもんだな。
結局、幕府と言っても血縁あってのものだから、家康が遺言でよほどしっかり
残しておいたのかな、そのテに関しては。
なにせ70近くになってから御三家残したぐらいだもんね。

ほんで、鎖国、というのもそういう性病予防説につなげる論があって
これもどうなんだろね。
311日本@名無史さん:2008/07/24(木) 12:05:49
>>310
「家康の後家好み」と言って、家康は後家を側室にしていった。
それも子供を産んだことのある女。石女を避けて効率良く子供を作った。
現に、家康の側室で子供を産まなかったのは、阿茶局だけ。

>ほんで、鎖国、というのもそういう性病予防説につなげる論があって
>これもどうなんだろね。

それは嘘だろ。鎖国しているなんて意識無いし。
江戸時代にもオランダ人が梅毒を持ち込んだりしてるし。
それも、うる覚えだが、ヨーロッパで流行った半年後には、
吉原で流行ってた、というのを読んだことがある気がする。
312日本@名無史さん:2008/07/24(木) 15:48:30
>>311
知ってる。安全確実にいったんだな、家康らしく。

いやいや、秀吉の朝鮮出兵あたりでかなり、入ってきた、らしくて、
血筋を守るために大奥というシステムはかなり有効だったと思うよ。
なにせ今と違って薬もないし、予防法だってわからなかったわけでしょう。
とりあえず隔離しておけ、というのは原始的だけどとても理には
かなってるというか。

吉原で流行るぐらいなのに、大奥には入り込ませなかった、という風に
解釈すれば、大奥、鎖国、という二段構え作戦みたいにとらえる、ってことなんだけどね。
家康はそのぐらい容易周到だったし、梅毒ってのも秀吉あたりからあったんでしょ普通に。
313日本@名無史さん:2008/07/24(木) 21:15:38
時代は戦国、当時は戦乱で夫を亡くした未亡人が大勢いたんだ
一番手をつけやすいだろうね、この手の女が。「

鷹狩りに出た家康に喧嘩で死んだ夫の仇討をさせてくれと直訴してきた未亡人を
そのまま城へ連れ帰り側室にしたのは有名な話。
先夫との間に子供がいたかどうかなんていちいち調べてないよ。
314日本@名無史さん:2008/07/25(金) 00:01:33
で、その話仇討ちはどうなったんですか?
315日本@名無史さん:2008/07/25(金) 19:12:33
信長にも似たような話はあるな。
316日本@名無史さん:2008/08/03(日) 20:29:04
>>315
どんな?
317日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:23:55
>>315
お勝騒動だな

>>316
夫を殺された妻が犯人を美濃まで追いかけて仇討ちした話
318日本@名無史さん:2008/08/06(水) 06:24:27
家康とかまぁ家康じゃなくても偉い人と再婚した女の人の
先夫との子はそれをきっかけに立身できたんですか(親族扱いで)
もしくは邪魔ということで殺されることが多かったんでしょうか?
319日本@名無史さん:2008/08/06(水) 09:17:02
家康に関しては出世してるな。
後家さんの連れ子が、家康との間に生まれた子の重臣になったりしてる。
320日本@名無史さん:2008/08/06(水) 09:21:52
尾張義直の異父兄竹腰正信
321日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:03:11
加藤主計頭は朝鮮の遊女と交接して瘡(梅毒)に罹患したと聞くしな
322日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:51:40
>>305
子供は父の氏に属するから母系制ではない。正妻との同居も一般的だった。
323日本@名無史さん:2008/09/07(日) 04:58:27
茶阿局(家康側室・松平忠輝の母)の娘(忠輝の家老花井吉成の妻)
324日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:30:24
>>322
平安時代に関して言えば正室との同居は一般的とまでは言えない
有名な藤原道長の父兼家は長年妻や愛人のもとを泊まり歩く通い婚で
道長らの母で正室の時姫を東三条第に迎えとって同居するのは結婚20年後。
それも時姫と同居するために迎えたのではなく
2人の間の子である超子が天皇に入内することになり東三条第を里第とすることになったため。
時姫は女御の母親ということで女御の里第に住むことが許されただけ。
光源氏が正室(もしくは第一夫人)と同居するのも女三宮は降嫁で里を出なければならない特殊事情、
紫上は父親に愛されず父親が屋敷を用意してくれなかったためで
最初の正室葵上とは同居していない。
道長も倫子や明子をはじめあちこちの愛人のもとを泊まり歩いている。
倫子の娘たちだけが天皇の后妃となって出世し、倫子が親から受け継いだ土御門第は
倫子の娘たちの里第となり、3代の天皇が出生した場所にもなったため、
その後も天皇の行幸があったり、后たちの行啓があったりしたため
道長も土御門第に滞在することが多かったけどね。
325日本@名無史さん:2008/09/09(火) 00:41:41
平安時代も一応生活の拠点は正室の下にあったというのが近年の説の筈だが。
通い婚は戦後の家制度の反動でかなり過大評価されていたきらいがある。
326日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:17:55
中公版「日本の歴史 王朝の貴族」あたりのレベルで止まっちゃってる人の多いこと。
327日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:24:29
秀吉って准三宮宣下は受けてないよね。
そこはどう考えたらいい?
328日本@名無史さん:2008/10/21(火) 19:53:41
秀吉は足利義昭を准三宮にする位だから、それ程高い価値を見出していないのかも。
329日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:50:26
武家の棟梁であり、関白太政大臣兼ねた秀吉が最強かと
330日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:31:52
准三宮て尊称は殿下でいいのかな?
331日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:12:01
どうだろう?
前近代で「殿下」というと摂関のイメージだが、
三后にも准后にも殿下の敬称は用いたのかな。
332日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:59:35
今でも近衛さん、徳川さん、重要な役割してるね。
鎌足の直径の子孫が宰相を独占し、1300年後に総理になる
日本はすごい。欧州のどの王家より古いし。ヨルダン王家に匹敵するか。
近衛さんちだって、世界的に見てもこんな古い家ないでしょ。
333日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:03:28
天皇家が存続したから摂関家も存続した
両方とも政治の実権を失ったまま名誉職の世襲をしてきたんだな
それをすごいというのかどういうのかは知らんが
家系図が残っていることをもってすごいというのならば
まあそうかもしれない
334日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:04:18
近衛家の宝物展で、藤原道長の日記が公開されてたけど
これはすごかった。何がすごいかというと巻物だけど、羅線付きで
等間隔で日付が入っていてそれに記入するってかたちで、平安時代に
現在と日記帳と同じスタイルなのがすごいと思った。
それに判別不可能なくらいヘタクソな字で道長が記入してあるんだな。
335日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:32:43
それ、横浜美術館で今やってる源氏物語展でも展示されてましたね。
たぶん一条天皇(上皇)が崩御するあたりの記述。
336日本@名無史さん:2008/10/30(木) 02:45:20
今の政治家って何でこんなアホなんだ
麻生とか開き直ってる感が滲み出てる

・とりあえず総理になって名を残したい
・日本はもうダメだ

露骨にこんなことを考えてるのが伝わってくる
337:2008/10/31(金) 15:34:42
どうしてこんな厨房まるだしの駄文を書けるのかなあ。
何年後かに自分のレス読み返して死ぬほど恥ずかしくなる
だろうな、なんて考えもしないんだろうな、バカだから。
338日本@名無史さん:2008/10/31(金) 15:42:03
まぁこの時間帯はアレだから
339日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:19:01
       _, r< _,ニ斗‐ l;;;;;;;;,;;;;;;;;;l.l! !l 
     , -<   ´ 、    ゞ='7;;;r‐'!l| |ヘ 
    /   / ,  ヾ ヾヾヽマゝ.リレi从{ 
   〃 ∠/ 厂 ,/ 、  |! !..| | | | |!} |l∧ 》,` 
  ,《. /,爪./ / |l ;∧ j|! !..}1i! ! !!|||:!: ヘ. ト、 
  ,'/:/.√ !  :;||彳 !:}!ムr|'爪幵!}||Aト、! |`¨ 
  ||!:| :l|   !. !:l||{:l|  lリ リ l l,rェ‐x《リ:.:l.:.l! | 
  |||:| |i: | |} !f爪ll ´ ´  "込ziリ"|:.:l:.:.} l 
  代! {l: N:lハィ云い     `ー" !:.:!.:,Ll 
  `.\W:.l:|::《弋゙少           ,l:.:.:/ / 
      ヽ:.:.!|:::lミ;、 ¨´  - '   i¨7‐'K_人 
       }}、:!::l三ミ;._        ィ´ー、 〉廴 
     " ヾ| /`メミ了;7i = 个i゙ー  /;;;;ハ 
.       ;彡. 〃 /゙7}〈;;::l;;::!/ー、 /!;;;;;;::| 
      /:;;/;;\_ ィ三》;;{;;;;{_,ノ:::!;;;;;;::| 
.     /:シ:::::::;;;;;;;;/::l⌒v-、jミ三;;;:::::};;;;;:〈 
      j/:{:::::;;;;;;;;;タ:::〃;;fe./;;;;;;;;;;::::::::} ̄,' 
340日本@名無史さん:2008/11/05(水) 09:38:42
>>337
よせ、>>336はただの世間知らずの中二症だww
俺にもこんな時期があったもんだ
341日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:44:07
うめぼし殿下
342日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:57:00















              このスレは終了しました















343日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:31:35
一条兼冬について語る?
344日本@名無史さん:2008/12/05(金) 00:01:21
保守
345日本@名無史さん:2008/12/05(金) 16:22:51
室町時代の副将軍って朝廷から正式に任命された征夷副将軍なのでしょうか?

室町幕府が勝手にあたえた室町幕府内の役職ってこと?
346日本@名無史さん:2008/12/05(金) 21:54:23
なんで朝廷に任命されなあかんの?
347日本@名無史さん:2008/12/06(土) 09:29:35
朝廷に任命されれば重みが違うだろ
348日本@名無史さん:2008/12/06(土) 10:02:53
征夷副将軍だったら朝廷の正式な役職だから朝廷からの任命になるだろ


349日本@名無史さん:2008/12/06(土) 12:54:01
室町時代に副将軍なんか直義以外にいたか?
しかも正式な勢威副将軍じゃねえだろ。
350日本@名無史さん:2008/12/06(土) 15:35:07
>>349
「さきの副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ、ズガ高ぁ〜い」
「ぷっ、副将軍だぁ? 聞き初めだな。かまわん、やっちまえ」
「ウォ〜」
351日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:07:58
権中納言をやっちゃあマズいだろ
352日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:49:14
.     /             | ::::::::
.   /             i   ヽ..| ::::::::
  /        ,ィミ∧   Y ::::::::
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  |  i |  ト、 | |i  _」L|   | :::::::::
  |  | ト从、Vハ. !ヒ,ィぇ、!    | :::::::::
  |i 从 ミ,ィ云Vハ」 弋tソ!   /.| :::::::::
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353日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:57:01
354日本@名無史さん:2008/12/07(日) 10:49:21
>>345
「征夷大将軍」は朝廷から任命される。
ただし、副将軍という役職はなく、朝廷から任じられた人はいない。
天下の副将軍などというものはニックネームの類だろう。
ところで、水戸光圀って、在世中に副将軍って世間から呼ばれてたんだっけ?
355日本@名無史さん:2008/12/08(月) 02:24:39
>>354
坂上田村麻呂が副将軍に任じられていなかったっけ?
律令制で副将軍は規定があったのでは?
356日本@名無史さん:2008/12/08(月) 13:46:09
>>349
今川範政もなってなかった?
357日本@名無史さん:2009/01/21(水) 14:31:22
足利義直、今川範政は征夷副将軍
358日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:37:32
そういえば、足利将軍義昭はやたらと
副将軍のポストを餌に
織田信長を懐柔しようとしたり、
信長包囲網構築の為に、
毛利輝元や徳川家康等を副将軍の地位で釣ろうとしてたな。
359日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:40:13
そう。副将軍などとは朝廷が詔を下して命じるのではなく、将軍が有力者を懐柔するために世辞でその場しのぎに使用した虚職に過ぎない
領民に重税を課した水戸光圀や、レイプ魔水戸斉昭などのうるさ型を宥める鎮静剤みたいなものだろう。
将軍家におかれては、老職水野羽州を通じ水戸藩国老中山備後守、榊原淡路守、鈴木石見守、水戸侯御連枝松平大学頭の根回しも済んでおり、意向通り清水卿徳川恒之丞を以って水戸藩嗣子となすへきであった
360日本@名無史さん:2009/01/26(月) 14:48:38
>足利義直
だれ?
361日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:26:01
>>360 尊氏の弟、足利直義でねぇのかい?
362日本@名無史さん:2009/05/03(日) 01:32:10
363日本@名無史さん:2009/05/03(日) 02:47:09
義昭も秀吉を養子にしてあげればよかったのに
蔑んでたんですね
364日本@名無史さん:2009/05/03(日) 04:34:28
戦国時代だけど後北条の誰かが上杉に攻め込まれてぼろ負けしたとき
どっかの神主が「あんたは(世が世なら)副将軍だからがんばりな」
って励ましてたよな。
365日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:55:53
誠意大将軍 羽賀研二
366日本@名無史さん:2009/05/03(日) 19:28:54
総理を太政大臣に擬するとして、特命代理の位置づけで
納言職復活させたら面白そうなんだけどな。
権限は各省大臣より上、総理より一歩下がる。
総理が手が離せないときなどに外遊に出たり、セレモニー的な式典出席の代行させるとか
例えば、大納言小泉純一郎とか(←名前はあくまで実例で、小泉じゃなくても別にいい)
367日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:13:41
むしろ、太政大臣と左右大臣を復活させてその下に八省卿を置くとか
368日本@名無史さん:2009/05/18(月) 12:41:39
左大臣が関白になると蔵人別当を辞めちゃうけど
関白は大臣以外は兼任できないの?
369日本@名無史さん:2009/05/19(火) 22:54:44
>>368
確かそうだったと思う。
そのために、令外の官である内大臣が活用されたことがある

>>366
>>367
1 左大臣:首相
2 右大臣:副首相
3 内大臣:内閣官房長官
4 納言・参議:その他大臣
5 省卿:副大臣
6 大輔:政務官
7 少輔:事務次官

と言うところでか
370日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:24:19
左右内大臣が総理で
副総理、官房長官が准大臣
大納言、参議が国務大臣
卿は皇族
輔が官寮
371日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:32:52
>>369-370
太政大臣はどこへ?
372日本@名無史さん:2009/05/24(日) 06:29:02
従一位内閣総理大臣源朝臣太郎
373日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:39:31
あれ?藤原朝臣じゃなかったか?
374日本@名無史さん:2009/08/29(土) 18:50:43
375日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:18:35
近衛大将は,統幕議長?総理?防衛相?
376日本@名無史さん:2009/08/30(日) 00:47:25
近衛大将はそのまま近衛師団長でええんちゃうの?
今は近衛師団ないから皇宮警察本部長か。
377日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:10:10
民主の国家戦略局って議政官っぽいな
いっそのこと↑のメンバーの役職を納言とか参議とかにすればいいのに
378日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:25:17
検非違使(都の警備)=警視総監(首都の警備)
379日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:32:52
麻生太郎が新皇を名乗り反乱w
380日本@名無史さん:2009/09/01(火) 14:03:18
>>330
殿下は、摂関太閤への尊称
381日本@名無史さん:2009/09/01(火) 14:11:40
>>368
摂関は現任大臣の兼任
→藤原兼家(道長の親父)が右大臣を辞めて摂政専任になる
→以後、摂関は現任大臣の兼任or大臣経験者の何れか、となる
382日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:48:02
>>381
摂関は現任大臣の兼任or大臣経験者はわかるけど
左大臣は蔵人別当を兼任するけど関白になったら蔵人別当を辞めるみたいな
摂関は大臣以外の兼任は許されないの?
摂関で近衛大将も兼任は無いみたいだけど。
383日本@名無史さん:2009/10/08(木) 17:51:27
毛利・島津・小早川が本気で家康軍強襲!
徳川軍壊滅!内府家康は明に逃亡!
豊臣秀頼石高462万石太政大臣!関白秀秋 左大臣輝元 内大臣秀家
征夷大将軍上杉景勝! 豊臣摂関の下に
上杉・毛利・宇喜多の将軍御三家体制の幕府
石田・直江・真田・大谷・小西の五管領・五参議体制
島津・長曾我部は大納言 織田信雄は右大臣
上杉家越後を増加
後に上杉親藩に足利武田徳川の御三家と長尾北条ができる。
上杉定勝は帝の皇女を正室に迎えその間に生まれた姫を
足利徳川武田に嫁がせ
その間に生まれた男子を一度定勝の養子にして源氏の三名家を相続
上杉御三家は左右近衛の大将を武田と徳川 足利は中納言指定席を
兼継の孫は管領筆頭を勤めた後に中納言に
老後は日本各地を周り義と愛を説く「米沢黄門」
豊臣は秀頼系統と秀秋系統と織田系統が交互に
関白太政大臣に就任「筆頭は秀頼系統」
三家摂関 三家将軍 五管領・三位制度でバランスを保つ。



384日本@名無史さん:2009/10/09(金) 08:02:43
385日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:32:52
386日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:02:44
387日本@名無史さん:2009/11/11(水) 06:59:41
確かに准后殿下は聞かないな
皇族待遇だから殿下つけても良さそうなモノだが
388日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:23:00
最近の小中高の教科書は、「治天」とか「室町殿(足利家督)」「得宗」とか
記載されてるのかな? 俺の頃は「上皇・法皇・院」「征夷大将軍」「執権」とか
しか書いてなかったけど。
389日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:56:57
今の教育では「源頼朝(みなもと よりとも)と発音します
390日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:28:54
源朝臣
平朝臣
藤原朝臣
橘朝臣
みんな朝臣だけど越智以外に宿禰とか朝臣以外っているのかな
391日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:30:23
江戸時代には太政大臣の事実上の就任資格が摂政・関白・征夷大将軍の経験者らしいけど、もしかして関白より太政大臣の方が偉いのかな。
392日本@名無史さん:2009/12/20(日) 05:42:16
太政大臣は太閤に対する礼遇の1つだから、太政大臣が偉いのではなく、太閤としての権威じゃないのかな。
393日本@名無史さん:2009/12/20(日) 10:18:57
>>390
地下官人や社家にはいっぱいいる。
394日本@名無史さん:2009/12/26(土) 06:46:17
395高校講座:2009/12/26(土) 19:50:39
理想の内閣
総理大臣 広瀬勝貞「大分県知事 元経産事務次官」
官房長官 白川方明「日銀総裁」
金融担当大臣 斎藤次郎「元大蔵事務次官」
財務大臣権副総理 武藤敏郎「元財務事務次官 元日銀副総裁」
文部科学大臣権副総理権環境大臣 小宮山宏「元東大総長」
国土交通大臣 佐藤信秋「元国土交通事務次官」
国家公安委員長 漆間巌「元警察庁長官」
防衛大臣 守屋武昌 「防衛事務次官」
外務大臣 柳井俊二 「元外務事務次官 駐米大使」
経済財政担当大臣 杉本和行「元財務事務次官」
郵政担当大臣 谷公士 「元郵政事務次官 元人事院総裁」
総務大臣 松本英昭「元自治事務次官」
厚生労働大臣 辻哲夫 「元厚生労働事務次官」
農林水産大臣 渡辺文雄 「元農林水産事務次官 元栃木県知事」
経済産業大臣 北畑隆生 「元経済産業事務次官」
法務大臣 樋渡利秋 「元法務事務次官 検事総長」
国家戦略担当大臣 薄井信明 「元大蔵事務次官」
行政刷新担当大臣 石黒一憲 「東大法学政治学研究科教授」 
科学技術担当大臣 小柴昌俊 「ノーベル物理学者 元東大理学部教授」
副総理権副法務大臣権副外務大臣 湯浅卓 「国際弁護士」 
396日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:03:46
保守がてら…
平安の時代から「殿下」といわれる摂関だけど
東宮より上に位置付けられるのかな?
397日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:47:09
東宮よりかは下やろ。
398日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:16:08
摂関は天皇代理だから次期天皇候補者の東宮よりもしかすると上かも
間違いなく東宮より権限はあるよな
399日本@名無史さん:2010/01/12(火) 03:50:55
>>395
権官ワロタ
400日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:41:14
>>398
摂関は東宮を廃太子に追い込むことも
帝を退位に追い込むこともやっちゃうからなー。
401日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:21:04
>>400
それは藤原道長の例から考えても、摂関と直接関係ない話だね。
402日本@名無史さん:2010/01/13(水) 23:05:28
関白に豊臣が2人入ったことは
五摂家にとって屈辱と今思ってるかな?
403日本@名無史さん:2010/01/13(水) 23:57:58
>>398
朝廷での席次はどっちが上だったの?
404日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:17:17
摂関が宮中席次の最上席だろ。一座宣旨があるんだから。
天皇>摂関>三公(太政・左右大臣)>宮家親王らしいが
だけどまさか、東宮は宮家親王の括りに入るのか?
405日本@名無史さん:2010/01/14(木) 01:26:26
>>404
太閤秀吉は一座のままだったの?
406日本@名無史さん:2010/01/14(木) 07:52:18
そもそも公式の場で摂関大臣と東宮が同席することがあったのか?
407日本@名無史さん:2010/01/14(木) 22:02:58
>>404
一座宣旨は出ない場合もあったんじゃなかったかな。
藤原頼通や豊臣秀次は父(養父)を越えて一座に着いて
いなかったような…。
408日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:16:02
>>405
秀吉は関白は英次に譲っても一座宣旨は譲らなかったから秀吉が首座だったよ
409日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:17:17
おっと
×英次→○秀次
410日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:22:27
>>404
摂関>准三宮>三公(太政大臣、左右大臣)
>親王(皇子)>前官の大臣>諸親王(宮家)
411日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:26:12
>>410
ただし儲君は格別とあるね。
ただ、これも江戸時代の序列でしかないけど。
412日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:29:02
>>410
詳しいようだけど何か出典はあるのかな?
それは平安時代においてもそうなの?
宮中席次=身分の上下なの?
質問ばかりでゴメソ
413日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:36:43
>>410
つーことは、東宮は「親王(皇子)」の位置に入るのかね
414日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:58:58
>>412
410じゃないが、禁中並公家諸法度にある序列だから江戸時代のものです。
この中では「但儲君各別」とあるとおり、皇嗣は別格とされています。
415日本@名無史さん:2010/01/15(金) 08:44:49
ちょっと話がずれるけど、後西院は花町宮時代に江戸に下向して
将軍と対面してるね。まだこの時はもちろん皇嗣ではないけれど
将軍とどっちが上座だったのだろう?
416日本@名無史さん:2010/01/15(金) 10:07:44
>>412
摂関などの一座宣旨は三公の上に置く為に平安時代からあったこともあり
平安時代の序列と基本は変わりないものと思われる
実際に「伝統的な宮中席次」といわれるもので
江戸時代にこの序列が大きく変わったのであれば
言及や特筆すべきなのにそれがないため江戸時代までは>>410が示した通りと考える
417日本@名無史さん:2010/01/15(金) 11:08:13
>>415
後西院の父帝・後水尾天皇の同腹弟・近衛信尋(当時関白)は
大御所・秀忠、将軍・家光より下座だったらしい。
後水尾天皇はその後、近衛信尋に譲位も考えていたという経緯もあり
その事から想定してみても、将軍が上座だったのではなかろうか。
幕末になって幕府の力が弱くなってきた時に逆転するんだが。
418日本@名無史さん:2010/01/15(金) 22:10:49
>>416
特に大臣と親王の席次などは、「禁中並公家諸法度」で確定するまでずっと争いがあったはず。
後、日本歴史大事典をみると、
全員に一座宣旨が下されたわけでもなさそうですね。
「摂政は上首大臣と位階が同等かそれ以上の場合に限られ、政情あるいは父子関係によって
宣下が見送られる場合もあった」となっています。
また、鎌倉中期までは摂政は太政大臣の上、関白は下に列するように命じるのが原則だった
となっています。
419日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:46:48
>>417
そうだね。当時、皇嗣ではない親王だからたぶん将軍より下座だろうね。
後西院は明治天皇以前では唯一関東下向して江戸城に入った帝だね。
420日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:03:32
親王は中には無品もいるが、三品、四品が主流
官位相当は大納言に属するからね
421日本@名無史さん:2010/01/19(火) 13:08:47
>>417
以降そのまま成り上がり政治家は下に下にぃ 日本歴史のなかの身の程家柄を弁えて。
422日本@名無史さん:2010/01/19(火) 22:18:11
>>419
天皇の皇子である法親王が江戸幕府将軍の養子になって
将軍を養父として敬う時代だったからね。
(徳川家の菩提寺とされた江戸の寛永寺や京の知恩寺の門跡を務めた
法親王は徳川将軍の養子になるものが多かった)
後西天皇が江戸に下向したときには皇嗣ではないけれども
高松宮を継承して花町宮と称した宮家の当主だった。
しかし、江戸時代の宮家は摂関よりも下座に置かれていた。
高松宮の初代が豊臣秀吉の養子だったということもあったっけ。
423日本@名無史さん:2010/01/19(火) 22:22:04
>>418
一条天皇のときの摂政藤原兼家が右大臣を辞して摂政のみを拝命し、
摂政は大臣を超越するとしたのが初めてだったと思う。
だけど、摂政も関白も大臣を超越したのではなかったか?
後一条天皇の代には太政大臣として藤原公季があったが、
実権を握っていたのは関白の藤原頼通だったはず。
424日本@名無史さん:2010/01/20(水) 00:18:57
>>423
実権そのものは必ずしも摂関に付随するものではないでしょう。
道長が典型だけど。
頼通にしても最初は後一条天皇の摂政だが、その時分には
左大臣顕光、右大臣公季のほか、実権を握っていた道長も
天皇元服の際に太政大臣になったりしている。
で、道長の任太政大臣は最初から想定されていたわけだから、
「一座」にはなっていなかったんじゃないかな。
(でないと、父の上に座することになるから。)

いずれにせよ、>>418にある摂政と関白の座の違いは、鎌倉
中期までという事であり、以降はそういう原則ではなくなった
ということだと思います。
425日本@名無史さん:2010/01/20(水) 16:10:06
徳川将軍は摂関よりも上座なんだ!
426日本@名無史さん:2010/01/20(水) 21:22:53
>>424
左大臣顕光、右大臣公季、太政大臣道長よりも摂政である頼通が上だった。
摂政・関白は参議以上の高位の貴族たちで形成された
国の重要事項を定める会議である議定に参加しない。
これは摂政・関白が大臣以下を超越していたためで
議定の内容は天皇と摂政・関白に報告されて両者の最終同意を得る必要があった。

それはそうと君が言う関白が太政大臣よりも下に置かれたという事態は
何の事を言ってるの?
関白の決めたことを太政大臣がひっくり返せたとでも?
427日本@名無史さん:2010/01/20(水) 22:55:58
>>425

アメリカ>大老>公家>水戸>薩摩長州w
幕末革命
428日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:14:12
>>425
実質、関白・秀吉の上を行ったってやつ
429日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:20:36
>>426
道長は頼通を叱り付けたりしているし、頼通も一々道長の判断を
仰いでいるよ。
それに、関白の同意が必須とか関白の決定とかというのは、全て江戸時代の話だよ。
平安期の関白にそんな権限はない。「揚名の関白」の話からも明らかなようにね。
道長が後一条の摂政になるまで、天皇に摂関への就任を言い出されるたびに拒否し
ていたというのは御堂関白記にもあるが、その理由を「関白には明確な権限がないか
ら」と推測する説があるね。
繰り返しだが、関白が決裁するというのは秀吉以降の話で、それより前の関白は天皇
の政治顧問に過ぎない。天皇との間柄が悪ければ、後は権力の裏づけもなく、議定に
も参加できない、単なる閑職に陥りかねない。天皇は、関白の進言を聞き入れなきゃ
ならないわけじゃないからね。
で、それよりは、内覧の左大臣として、権限に裏づけのある地位を選んだと。
後、関白と太政大臣の話は、「鎌倉中期までは関白の座次は太政大臣の下が原則だっ
た」という、歴史大事典の記述の抜粋だよ。
もっとも、道長の例に限らず、摂関とその父である太閤の太政大臣の関係は簡単では
なかろうけど。秀吉と関白秀次の例は極端に過ぎるけどね。
430日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:34:52
>>429
どうやらその「歴史大辞典」以外は平安時代も
摂政・関白は太政大臣より上座としてあるようだけど
431日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:26:02
そもそも「歴史大辞典」って何処の出版社?
吉川→国史大辞典
平凡→日本史大事典
小学館→日本歴史大事典
河出→日本歴史大辞典
432日本@名無史さん:2010/01/21(木) 21:38:18
>>431
418にある「日本歴史大事典」(小学館)です。
433日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:58:44
検索で引っかかった、「葉黄記一」のgoogleブックスでの見本が正に一座の
例のところだった。(寛元四年十月)。以下、三公の下の例として上がっていたもの。
摂政三公の下に列する例
・忠実:左大臣は従一位俊房。正二位右大臣の間は「不被下一座宣旨」、従一位に叙された日に有此宣旨
・忠通:関白左大臣の時は太政大臣の下に列するべき由の宣下、摂政の後は一座 宣旨事不詳
関白官次に従ひ列する例
・頼通:(経頼記云)頼通が、自分を太政大臣の下に列するようにという宣旨を出すように命じたという
    記述。(太政大臣は公季)
・師通:関白 正二位内大臣。従一位左大臣俊房、従一位右大臣顕房
    従一位になった日に、左大臣の上に列する宣旨
・忠通:関白左大臣従一位、(或記云)頼通の例に従って座を設けるように言ったという記述
・基実:関白右大臣 正二位 太政大臣従一位宗輔・左大臣正二位伊通
    左大臣に転じた同日に左大臣伊通 任太政大臣、「同日 宣旨云、
    太政大臣・左右大臣、依官次可座烈者」
摂政の方が位が低いのに一座となった例としては、九条道家が正二位で従一位太政大臣の上に
座した例があがっていた。また、関白が太政大臣の上に座した例としては、師通(「子細見端」)、
基通(詳細は見本の外。治承三年のクーデターによる関白のためか。)等が上がっています。
434日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:04:51
>>429
関白=「万機を関り白す(政治のすべてに関して委ね統治する)」の略
初代関白藤原基経以下、関白が閑職だったというのは初耳だ。
誰の例があるのかな?


以下、「政治要略」にある関白の権限。
「其万機巨細、百官惣己、皆関白於太政大臣、然後奏下」

大辞典しか読んだことのない人のために「政治要略」について説明しておくと、
平安時代の一条天皇の代、明経博士惟宗允亮によって編纂された律令の解説書。
435日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:38:47
>>434
実権がとぼしかったとされる関白としては、「揚名の関白」実頼や頼忠といった人物が
有名ですね。実頼などは、実際には名ばかりでもなかろうと言われているようですが。
関白には明確な権限がない上、慣例として朝議に参加しないから、天皇との関係が悪
ければ棚上げされかねない、というのは通説だと思うんですが。奏上や宣下の中身を
事前に見て意見できるといっても、天皇が聞き入れなければそれまでだし。
江戸時代には、強制できるだけの権限が五摂家に与えられていたが、元々はそんな権
限はない。
そもそも、>>434が考えているほど「関白」自体にそれほどの権限があるなら、当の一条
天皇の時代に権を振るった道長が関白にならなかった理由が説明できないと思うんだが。
既出のとおり、道長は天皇から関白になるよう何度も言われているが、そのたびに拒絶し、
左大臣で内覧という立場にとどまり続けた。
この理由として良く言われているのは、朝議に参加できない関白より、左大臣として朝議
をリードし、自分に都合の良い「公卿の総意」を得るとともに、内覧として関白の主要な
権限を振るうという、良いとこ取り狙いだろうという話ですね。
一条、三条の両天皇とも道長には甥で、直系の外戚関係でなかったからなんでしょうが。
436日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:16:00
とりあえず、摂政>関白は確かだ。
437日本@名無史さん:2010/01/23(土) 00:50:51
「政治要略」じゃなくて「政事要略」だと思う

> 関白=「万機を関り白す(政治のすべてに関して委ね統治する)」の略

この小括弧の中も超訳になっとる
438日本@名無史さん:2010/01/23(土) 15:05:15
一の人か内覧か関白か、どれかひとつだけなれるとしたら
どれをえらぶ?
439日本@名無史さん:2010/01/23(土) 16:34:40
>>438
「一の人」って「一上」の左大臣の事でおk?
440日本@名無史さん:2010/01/23(土) 20:46:11
今の政界を見ても日本国において規定されてる権限なんて大して意味ないってのはまさに伝統だな。
下馬将軍、夜の関白、源博陸、闇将軍、元勲、大御所、得宗、五位摂政、治天、小沢帝国、内管領、
京兆専政、尼将軍、藩閥政治、弾正忠、側用人、筑前守、今太閤、政所執事、
信西、松永久秀、三好一族、近習出頭人。
むしろちゃんと権限をもって権力をふるった人の方が例外じゃないのか?
ってそう言いたいくらい。まあ言い過ぎだけどね。
441日本@名無史さん:2010/01/23(土) 23:58:15
今の政界と貴族社会における政界を一緒にするなんてナンセンス
442日本@名無史さん:2010/01/24(日) 00:35:10
>>439
当たり前 太かみ大臣なんて擬装官位
443日本@名無史さん:2010/01/24(日) 01:03:28
「一の人」=摂政・関白の異名。または左大臣や太政大臣をもいうことがある。
444日本@名無史さん:2010/01/24(日) 08:29:36
>>440
あと、マスゴミも
445日本@名無史さん:2010/01/24(日) 10:14:27
>>438
身分と役職は違うからなー
身分だけで選ぶなら一の人だけど
摂政、関白、内覧かでいったらすべてが思うがままの摂政だな
446日本@名無史さん:2010/01/24(日) 20:26:32
>>438
そもそも摂政・関白は内覧の資格を持っていたよな
447日本@名無史さん:2010/01/24(日) 23:48:19
関白忠通って内覧じゃない時期があった?
448日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:04:50
閑狛なぞ りょうげの奸、庶民出世の最高峯

摂政…皇族のみしか許されない天皇の代理 大織冠は蘇我本体を討ち取り崇峻帝の仇討ちもしたので
天皇制を救った恩人の子孫として特例になっている。庶民は無関係。
449日本@名無史さん:2010/01/25(月) 10:45:08
道長も摂政だったな
450日本@名無史さん:2010/01/25(月) 10:57:38
関白ではなく摂政だったのに「御堂関白」と呼ばれたのは何故だろう
451日本@名無史さん:2010/01/25(月) 15:31:59
親王の身分が三公より下に置かれるのはわかったが
(四品・無品親王だと納言より下だね)
内親王と女御では一般的にどちらが身分が高いのかな?
確か女御になると三位を貰えたと思うけど
452日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:09:12
>>447
内覧は天皇に差し出す文章のすべてをみることのできる権限で、
もともと関白の権限のひとつ。
内覧は関白から独立した権限ではなかったが、
摂関を置きたくない一条天皇が母東三条院から道長を関白にするようせまられて
やむなく内覧の権限だけを認めたんだよ。
道長や東三条院は当初、兄たちのように道長が関白になれると思って
疑わなかった。
のちの世には道長が先例となって関白と内覧が兄弟で任じられて争ったり
政争の道具のように使われたけどね。
453日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:12:06
ありがとう
454日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:13:54
>>451
内親王と女御では内親王が上。
なんといっても内親王は皇族、女御は臣下。
女御が入内前に従三位をもらうというのは
藤原彰子の例にとり後の世には慣例になったけど、
一条天皇の中宮定子は女御時代従四位下でしかなく、
女御=三位ではなかった。
ただし、立后すると別。
中宮や皇后は皇族の称号である「宮」号で呼ばれ、
臣下の姓を有したまま皇族扱いを受けた。
三后は天皇・東宮に次ぐ地位で内親王より上だった。
455日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:21:11
皇族でない准三后と
准三后でない内親王なら
前者が上になったんですか?
456日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:40:12
>>454
それをいったら臣下である三公と皇族である親王の上下関係も成り立たん
三位をもらった女御なら四品や無品の内親王より上だよ
457日本@名無史さん:2010/01/25(月) 22:24:39
内覧のみというのは、兼通や伊周の例が先にありますね。
後、道長は一条、三条両天皇の時には摂関への就任を天皇から言い出された
とき、積極的に拒否していますね。当初はどうだったのかは知りませんが。
458日本@名無史さん:2010/01/25(月) 22:29:43
>>457
時平の例もある。
459日本@名無史さん:2010/01/25(月) 22:43:43
>>457
摂政になるのは拒否していないと思ったが。
関白はあえてならなくても敵はいないわいと
世間に啖呵を切ったというような事も云われているな。
望月の歌を詠んだのは致仕大臣になってからというのも道長らしい。
460日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:47:41
>>457
道長は一条天皇から摂関の内示を受けたことはないよ。
大鏡で東三条院が道長を自分の局に控えさせておいて
一条天皇の寝所に赴いて直談判、道長の関白就任をはっきり求めているように
当初は道長の目的は一条天皇のもとでの関白就任だったように思う。
しかし、一条天皇が拒否、内覧だけ許した。

三条天皇の関白就任要請は道長が拒否した。
孫を東宮にたてている道長にとって、
他の娘を皇后にたてるような三条天皇にはさっさと退位してもらいたく、
目の悪くなった三条天皇の天皇業務を関白に就任して代行して
三条天皇の代を延命させる気がさらさらなかったから。
461日本@名無史さん:2010/01/27(水) 22:19:07
>>460
三条天皇が関白就任を言ったのは、即位の直後。
> 目の悪くなった三条天皇の天皇業務を関白に就任して代行して
ではない。
462日本@名無史さん:2010/01/28(木) 21:53:59
>>461
何の史料によっているのかな?
即位直後の三条天皇が一条朝と同様道長に内覧を許し、
政務の一部代行を認めたのは事実だが、関白就任要請などしていない。
そもそも、道長が関白などになってしまったら、
せい子の立后など不可能で、道長の勢力を抑えたい三条の努力が水の泡。
もっとも、目が悪くなり自分で政務が見られなくなってから
道長に関白就任要請はしている。
463日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:03:28
>>462
って言うか実際に准摂政にはなっているよな
464日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:54:40
>>462
「全現代語訳 御堂関白記」だけど?
寛弘8年8月23日の条に、右大弁が三条天皇からの「汝に関白詔を下すこととし
よう」という仰せを伝えてきたという記述がある。で、それに対して「これまでにも、
この仰せがありました。ところが私は、それはできないということを申してきました」
と返答させている。で、その返答の後、右大弁が再度来て内覧の宣旨が下っている。
その日の最後のところにも、「私の関白のことについては、天皇が故一条院と御
対面なされた後、度々仰せが有った。ところが、今年は重く慎むべきであったの
で、辞退し申したものである。」とあるように、即位直後に関白就任要請をして
いるよ。
受禅が6月13日、内裏に入ったのが8月11日なので、まさに直後のことです。
465日本@名無史さん:2010/01/28(木) 23:23:47
>>464
確かにあるわ。
中巻の159-161ページのくだりですね
466日本@名無史さん:2010/01/31(日) 00:13:00
何気に先祖ぐぐったら太政大臣をやり右大臣も左大臣もやり死後は正一位貰い
妹は天皇に嫁いだ凄い人だった事が判明したw
て事は恐れ多くも天皇家と親戚って事でよろしゅうございますか?
467日本@名無史さん:2010/01/31(日) 00:21:22
だから平安頃まで遡ればほとんど全ての人は皇室と親戚なんだって
468日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:47:25
>>466
誰?
469日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:03:44
>>476

直系とまではいかないけど子孫と言っても何も差し支えないかなり近い先祖なんだよ

>>468

○○の神と言われる人とだけ言っとく
470日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:27:49
>>467
そんな具体的に誰がどうつながってるか系図や文献で実証できない、
統計上の可能性など何の意味もないがな。

大体、その理屈なら、ほとんど全ての人は統計上の数字においても、
人口の大多数を占める無名の農民との方がはるかに血の濃い親戚だろう。
471日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:59:41
別に個人で思ってる分には勝手に思っててよろしゅうございますから
とっとと他所行ってくださいよ
472日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:19:23
俺の事?俺違うよ
473日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:23:59
思うも何も、人口の比率や昔の通婚範囲などを考えたら、
「人口の大多数を占める無名の農民との方がはるかに血の濃い親戚」というのは、
否定のしようもない事実だろう。

系図も記録もないのに、数字上の確率だけで天皇の血が流れているとかいうのは、
可能性としては否定はしないが、あえて強調するようなことではない。
474日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:26:30
すみませんほんとどうでもいいんです
475日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:29:14
>>469
菅原道真か
476日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:30:20
あ、でも左大臣になってないか
477日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:10:30
>>476
左大臣追贈、ついで、太政大臣追贈だったので、菅公で正解だと思う
478日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:17:19
びっくりするほどどうでもいい
479日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:21:40
たまにはいいじゃん、乗っかっても
480日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:27:55
該当してそうなのは、忠平、頼忠、教通ぐらいだな。
忠平の子孫なら分流しすぎて値打ちがわからんし、教通は孫の代で養子ばかりだ。
小野宮流なら石見の益田氏?
481日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:36:18
「○○の神」には該当してないけどね
しかし>>480は有る意味すごいな
482日本@名無史さん:2010/02/10(水) 17:21:33
源氏物語で源氏が摂政に就こうとしていたのはなぜだろう?
摂関家しか摂政は出来なかった筈なのに
しかも藤原氏ではない源氏が太政大臣に就任することは当時はなかったよな
483日本@名無史さん:2010/02/10(水) 17:41:50
あくまで物語でフィクションだから許された展開でしょ

政争に敗れた源氏の鎮魂の意味があるとイザワは書いてた
484日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:40:59
山本信吉は安和の変の原因は源高明が関白に任命される可能性が出てきたために藤原氏が源氏関白成立を阻止するために起こした可能性があると書いていたな。
現在一般的に言われている摂関政治像に基づく初代の摂関は藤原忠平とされているから、まだ藤原氏=摂関が完全に固まった訳ではなかった。
485日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:27:46
先例で行ったら源朝臣通親は内覧くらいにはなれたかも。
菅原朝臣道真は嘉礼じゃないから嫌?
486日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:22:16
`確かに、摂関家という「家格」が成立したのはかなり後だったはず
487日本@名無史さん:2010/02/12(金) 02:15:06
摂関となる可能性は、通親だけじゃなく、初代の師房や俊房、顕房だってあったと思う。
まあその場合でも、頼通と隆子女王夫妻と尊子の力だけど。
488日本@名無史さん:2010/02/12(金) 09:08:42
家格成立したのはわからんが、藤原氏北家(九条流)に代々世襲されており
その家を指して摂関家と言っているけどね
489日本@名無史さん:2010/02/13(土) 00:12:48
>>486
たぶん白河院政の時代、藤原公実が摂政を望んだのを
院が拒否したはなしのあたりを、摂家の家格成立としてたと思う
490日本@名無史さん:2010/02/13(土) 01:23:37
もし通親が関白になったら、その後の久我家の家格に影響しただろうか??
准摂家みたいな、摂家と清華家の間の家格みたいなのができたのかね?
491日本@名無史さん:2010/02/13(土) 03:26:06
平家とか足利家はそのあたりのポジションを狙っていたと思う
492日本@名無史さん:2010/02/13(土) 08:24:28
摂関家と摂家がごちゃまぜになっていないか?
493日本@名無史さん:2010/02/13(土) 08:47:05
って言うか、別だと定義している書籍を見たこと無いぞ。
494日本@名無史さん:2010/02/13(土) 09:30:01
摂関家は直系先祖が摂政・関白に任命されていれば摂関家としたんだろ
家としての成立は平安中期以降だが
摂家の成立は摂関家から五摂家に分裂した鎌倉時代だろ
495日本@名無史さん:2010/02/13(土) 11:37:03
平安時代中期までは摂関は世襲ではなかったからね。
初めて摂関を親子で世襲したのが兼家ー道隆。
兼家が娘を政略結婚させて産ませた外孫を天皇と東宮につけての行動だったが
道隆も子の代に失脚したためにこのときの摂関世襲は続かなかった。
続いて道長ー頼通が親子で摂関を世襲。
しかしこれも道長が娘を次々と政略結婚させて天皇・東宮の外祖父となった賜物であって、
この時代の摂関は外孫を天皇にするという不確定な要件を満たさねば
摂関の親子相続は不可能だった。

天皇との外戚関係がなくとも摂関の世襲が可能になったのは
やはり鳥羽天皇のときだろう。
それ以前の摂関は天皇との外戚関係が何より重要で
貴族は躍起になって天皇に娘を次々入内させたが、
逆に鳥羽天皇以降はいくら天皇との外戚関係があっても
摂関家の生まれでなければ摂関になれなくなった。
496日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:06:18
>>495
当時の外戚だった閑院流(西園寺家?)が外戚を理由にして摂関の座を狙って果たせなかったという一件?
497日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:14:57
外戚でも藤原家嫡流に近い位置にいなかったら摂関になれないんじゃね?
498日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:36:34
高藤も摂関にはなれなかったし、
忠平以後は基経流以外は問題外かな。
道長の頃に仮に時平流が外戚になれても手遅れだろうし、
頼道没後あたりでは九条流、それも兼家子孫以外は論外?
過去の摂関の孫か甥程度でないと資格がなかったかも?
499日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:40:05
>>497
それが確定したのが、>>496の一件だろ?
「外戚でない人臣摂政など有り得ないはずだ」という主張には
それなりの説得力があったろうし。
500日本@名無史さん:2010/02/14(日) 01:59:53
まあ久我と西園寺は清華家を一歩抜け出すチャンスをものにできずに
残念でしたな、ってことで
501日本@名無史さん:2010/02/14(日) 05:23:25
>>498
高藤は身分的にアウトだったからな。
そもそも内大臣を強引に復活させて高藤を任じたのも彼が危篤でもう助からないと判断されたからだし。
502日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:39:56
って言うか摂関全盛期だと、藤原北家の主流に近い家じゃないとそもそもが外戚になれない。
それは中級女房くらいに手を付けちゃうってことはあり得たんだろうけど、
日陰の子になるか、形の上でどこか有力家系の養子格にでもならないと、
即位できないでしょう。
母の実家がやや家柄が劣る場合もあるけど、養女の形をとるとかで、
とにかく時の摂関の家か、せめてそれに幾ばくなりと対抗できる家でないと、
外戚とかってお話にならない、と言うのが実情では?
503日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:10:41
それでも外戚になってしまった村上源氏や西園寺家ってのは、
やっぱりそれだけすごい権勢だったんだろうけどね
504日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:56:44
>>500
村上源氏や西園寺家が名実ともに摂関になれば、
摂家と清華家との区別はなくなり、

「外戚になれば摂関太政大臣」
「外戚になれなれなければ、左右大臣(運が良ければ太政大臣)」

ということになったのではないか。
505日本@名無史さん:2010/02/17(水) 00:05:08
西園寺家は太政大臣にはなったじゃないか。
建武の新制以降は鳴かず飛ばずだが。
506日本@名無史さん:2010/02/17(水) 00:13:06
徳大寺家とかって別に外戚として権勢をふるったわけでもないのに
西園寺と同じ家格っていうのが解せない。
一支流程度の扱いになってもおかしくなかったのでは?
清華家と羽林家との家格差はどういう要因できまったのだろう
507日本@名無史さん:2010/02/17(水) 00:14:57
>>503
摂家側に持ち玉がなかったときに、縁戚である村上源氏や
閑院流から「養女」として入れたというのが発端でしょう?
白河生母にしても、能信が妻の姪を養女として東宮に入れ
たという事だし。
で、その際にも「親の身分が低すぎる」と非難されたという
話があるらしいね。「能信の実子であれば、(本人は権大納
言であっても)『摂政太政大臣の孫』として許容範囲だが、
中納言の娘で大納言の養女とは何事か」という具合で。
508日本@名無史さん:2010/02/17(水) 23:30:45
つまり皇女はさておき、摂関の娘(養女含む)か、
摂関の子(養子格の孫含む)の実の娘(摂関の内孫)程度しか、
入内できなかった。
外祖父として外戚の有資格者は、摂関の子か養子格の孫だけ。
事実上はそう言う人しか摂関になれないってことで良いのかな?
道長内覧時期だと、顕光・公季・公任・道綱・尹周・隆家・時光・
兼隆・兼綱このあたりまでか?
ぎりぎり実資は入るだろうけどが、誠信・斉信兄弟や行成は微妙。
道綱以降はその他の条件が悪いから上位が消えないと資格がないかも?
外戚になれそうな人物はわりと限定されてたってことかな?
509日本@名無史さん:2010/02/18(木) 08:31:38
皇女も摂関家の後見が有っての入内だよな
それでも摂関家の実の娘には勝てない
510日本@名無史さん:2010/02/18(木) 17:51:21
後冷泉天皇に入内した章子内親王は、
当時の関白・藤原頼通の娘がまだ幼かったための折衷案として、
道長一族に連なり上東門院の後見を受けているために選ばれたらしいね。
後になって頼通の娘・寛子と関白・教通の娘が入内して3后並立となったが。
511日本@名無史さん:2010/02/18(木) 20:22:58
章子内親王は摂関家によるとりあえずの当て馬か・・
512日本@名無史さん:2010/02/21(日) 08:45:59
冷泉天皇の時代も内親王が中宮になっているけど
有力摂関家では冷泉天皇の精神障害に御世の短さを確信し
娘たちの入内控えを行っていたらしいな
現に他の女御になっている摂関家の娘はみんな
父親の官位がそう高く無い時の入内だ
代わりに次の円融天皇の時には有力な娘たちが揃った
513日本@名無史さん:2010/02/21(日) 19:46:13
平安時代の親王の娘になると、中宮になるどころか入内すらままならない
唯一、中宮になったのは、藤原定子の産んだ敦康親王の娘で
摂関家の養女となった藤原げん子だけ(後朱雀天皇中宮)
514日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:11:08
>>512
冷泉天皇の女御たちが有力者の娘でなかったということはないよ。
冷泉天皇の外祖父藤原師輔の娘が入内しているし
冷泉天皇の外戚でのちに摂政となる藤原伊尹・藤原兼家らも
相次いで娘を入れている。
むしろ、円融天皇の後宮のほうが女御の数は少なかった。
515日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:12:08
冷泉天皇の代が短命だったのは娘の懐子に男子を産ませた
藤原伊尹が早期に東宮に立てる為に退位させたとする説が有力
516日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:14:47
>>510
彰子は皇女2人しか儲けないまま29歳で没した自身の長子後一条天皇が不憫でならず、
後一条天皇の血を絶やすのは忍びないとして手元に引き取った2人の孫娘を
天皇に入内させたらしいよ。
章子内親王に続き妹の馨子内親王も後三条天皇に入内している。
章子内親王には子がなく、馨子内親王は2度ほど出産したらしいが
いずれも生まれて間もなく夭折し、彰子の希望はかなえられなかったが。
517日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:20:54
>>514
入内時の父親の官位がまだ高くなかったってことだろ
518日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:59:46
>>517
512は有力者は冷泉の代の短命を確信し有力者は娘の入内控えをしたと
言ってるんだよ?
入内控えをした有力者って誰?
実際には有力者の娘は冷泉天皇に入内して後宮で激しく寵を競っているし、
冷泉天皇の皇子から天皇が2人も出ているのに。
519日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:06:05
精神分裂病の冷泉天皇に入内させるのは可哀想だな
520日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:39:22
横レスだが「この世をば」でそんな一説があったと思ふ
521日本@名無史さん:2010/02/25(木) 21:41:43
>>517
入内時の父親の官職が低いのは年齢的には当たり前だろうが。
むしろ、既に外戚としての地位を獲得している以上、将来然るべき地位に座る事は明らかであった訳で。
522日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:00:47
なんで有力な藤原氏の姫ではなく内親王が中宮になっているわけ?
やっぱり父親の官位がまだ低かったから?
523日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:38:19
>>522
村上天皇は兄の朱雀天皇に男子がなく、結果として
弟である自分の血統で帝位を継ぐことになったのを心苦しく思っていた。
朱雀天皇が儲けたたった一人の子であった昌子内親王を
自分の皇太子であった冷泉天皇に入内させたのは村上天皇の意向。
昌子内親王の母は先皇太子保明親王の王女であったこともあり、
正統な天皇家後継者の血を最も色濃く受け継ぐ昌子内親王を
息子の配偶者にすることで、自身の血統を高めようとしたともとれる。
自分にも大勢の内親王がいたのに、特に昌子内親王を三品に叙し、
東宮時代の冷泉天皇の後宮に入ると正妃の扱いを取った。
昌子内親王が立后したのは村上天皇没後だけど、
昌子内親王の立后の背景には明らかに叔父村上天皇の厚遇があった。

村上天皇の時代は摂関全盛期とは違うからね。
村上天皇自身、外舅藤原忠平が没すると摂関をおかず、天皇親政を取っていた。
まだ藤原氏の勢力がそこまで天皇家を浸食していなかったこと、
そして昌子内親王が父方のみならず母方からみても天皇家の正統な後継者の血を
最も受け継いだ内親王であってこれには藤原氏も文句が付けられなかったことが
村上天皇が後見する昌子内親王が立后できた理由だろう。
524日本@名無史さん:2010/02/26(金) 07:21:24
昌子内親王は藤原氏にとって脅威でもなんでもなかったと云われている。
他の藤原氏の女御たちは更衣での入内とかだし、
父親が大臣かになっていたら内親王の立后はなかったはず。
次の円融天皇のように。
525日本@名無史さん:2010/02/26(金) 07:38:45
冷泉天皇の在位の短さなんて容易に想像出来ただろうし
摂関家にとっては元々長く居座って貰うつもりなんて毛頭なかっただろうな。
一応天皇だから、自分の官位が低く娘が更衣としての入内になっても構わない的な感じ。
そのうちに女御になり皇子を産めばその皇子が天皇になる可能性はあるのだし、実際に天皇になった。
526日本@名無史さん:2010/02/26(金) 07:49:23
円融は本来中継ぎの天皇だしな
527日本@名無史さん:2010/02/26(金) 17:18:09
お陰で円融の在位が15年と長くなったね
528日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:45:07
>>524>>525
冷泉天皇には女御が3人もいたんだが?
藤原懐子、藤原超子、藤原ふ子の3人はいずれも初めから女御で
更衣として入内した事実はない。
また、更衣が父の官位によって女御に昇進した事例は一つもない。
突拍子もないことを書く素人がいるもんだな。
529日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:19:40
藤原懐子のウィキでは更衣から女御へとなっているな
醍醐天皇の女御の藤原能子も更衣から女御になってる
藤原超子、藤原ふ子の2人は昌子内親王立后後の入内だ
530日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:34:26
>>528
昌子内親王立后時は懐子の父・伊尹の官位は権中納言で
翌月にやっと権大納言に昇進している
懐子入内時の伊尹は受領にすぎないのに女御として入内出来るのか?
531日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:03:47
529だが間違えた
藤原ふ子は昌子内親王立后から一年後に女御になった
532日本@名無史さん:2010/02/27(土) 00:17:01
>>530
受領というと受領止まりな下級貴族のイメージが・・・
左近衛権中将・春宮権亮で守を兼ねていたとした方が良いよ。
533日本@名無史さん:2010/02/27(土) 07:10:15
>>528
突拍子もなくエラソーなレスするならちゃんと調べてから書けよ、素人が。
534日本@名無史さん:2010/02/27(土) 09:50:54
>>530
東宮妃には女御・更衣といった位はないよ。
懐子は冷泉天皇の東宮時代の入内だろ。
それに懐子入内時の伊尹は参議ですでに公卿に列しており、
受領などではない。

冷泉天皇の代、外戚である藤原伊尹が実質的な政権担当者だったことは明らか。
冷泉天皇の代の関白であった藤原実頼は実権がなく娘を入内させることもなかったし、
左大臣源高明は失脚、黒幕とされた右大臣藤原師尹も冷泉天皇と外戚関係になかったために
実権を握れず、娘の入内もさせられなかった。
冷泉天皇時代の摂関や大臣が何もさっさと退位させるために娘を入内させなかったわけではない。
冷泉天皇時代の摂関・大臣は円融天皇にも娘を差し出していないから。
535日本@名無史さん:2010/02/27(土) 10:01:24
>>533
懐子が更衣宣下を受けたというのはなんの史料によってるの?
ウィキじゃなくて史料を挙げるべきだよね。
エラソーだと書く素人さん。
536日本@名無史さん:2010/02/27(土) 14:16:14
>>535
で、女御として入内したってのは何の資料によるものなんだ?
エラソーな素人さん。
537日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:05:48
>>535
講談社学術文庫『大鏡』・・・
「天皇の践祚によって更衣となり、康保4年(967)に女御となった」とある

岩波書店『日本古典文学大系 栄花物語』・・・
「紀略によれば懐子が女御となったのは康保4年9月4日」とあり、
昌子内親王が立后した日だ。
この時、懐子の父・伊尹は権中納言。
因みに『栄花物語』には、「冷泉天皇の在位はそれほど長く続かないであろう」と書かれている。

確か角川書店『平安時代史事典』では、
康保4年12月13日に、父親の伊尹が権大納言となり女御宣下が出されたとされたいたと思ったが。

>>522
いずれにせよ、昌子内親王立后時に冷泉天皇の内裏には、
下記にまとめたように藤原氏(摂関家)の女御がいなかったことになり、
昌子内親王が立后出来たんだよ。

@懐子…更衣だった
A超子…入内は昌子内親王立后後
Bふ子…父・師輔没後に、入内ではなく入侍し御匣殿別当となる
    女御宣下は安和元年(968)12月7日
538日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:28:18
>>537
御匣殿は帝に入内する元服前の女子が一時期入るところでもあるよな?
超子もそこに入っていたね
539日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:54:38
>>528>>535のエラソーな奴はバックレたのか?
540日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:15:52
自分で史料を挙げるべきとエラソーに云っておきながらねぇ…ww
541日本@名無史さん:2010/03/14(日) 22:47:45
なるほど
542日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:16:13
太政大臣なんて飾りです
清華家はそれが分からんのです
543日本@名無史さん:2010/03/17(水) 00:09:01
なん朝の摂政関白さまについて教えとください 九条さまなど
544日本@名無史さん:2010/03/17(水) 03:49:53
>>542
即欠の職といわれる所以ですね。
545日本@名無史さん:2010/03/20(土) 01:55:08
江戸期武家官位でも内大臣はともかく太政左右大臣も複数いたの?
546日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:27:06
いないんじゃないの?
将軍と同じ地位に並ぶなんて恐れ多い事は出来なかったから、その場合には公家官位の方が欠ける状態になる。
547日本@名無史さん:2010/03/20(土) 10:12:00
何を言っているのかいまいち理解できてないけど
そもそも大臣に武家官位はないんじゃないの

> 将軍と同じ地位に並ぶなんて恐れ多い事は出来なかったから、

それなら将軍より上の地位になってる例が山ほどあるのはどうなの
548日本@名無史さん:2010/03/20(土) 15:19:31
大臣が武家官位で無いのなら徳川に内大臣独占されている状態で内大臣を舐める事しか出来ない大臣家は涙目だろ
でも内大臣の地位って右大臣と比べたらかなり軽いよね
549日本@名無史さん:2010/03/20(土) 15:23:37
内大臣はもちろん左右大臣も武家と公家で複数いるよ
太政大臣は元々即決の官だから並立した例があるのかどうか知らないけど(あるのなら家斉か)
550日本@名無史さん:2010/03/20(土) 15:36:23
江戸期に太政大臣になったのは公家8人、武家3人。
乱発された平安中期−室町までと違い太政大臣が任命されなかった時期の方が長い。
551日本@名無史さん:2010/03/20(土) 16:24:43
家康  従一位    太政大臣
秀忠  従一位    太政大臣
家光  従一位      左大臣
家綱    正二位      右大臣
綱吉    正二位      右大臣
家宣    正二位        内大臣
家継    正二位        内大臣
吉宗    正二位      右大臣
家重    正二位        内大臣
家治    正二位      右大臣
家斉  従一位    太政大臣
家慶  従一位      左大臣
家定    正二位        内大臣
家茂  従一位        右大臣
慶喜  従一位          内大臣
552日本@名無史さん:2010/03/20(土) 16:34:03
>>551
従三位権中納言だとブラウザの右端に消えてしまいそうだなw
553日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:04:56
三公とは太政大臣 左右大臣であって内大臣は含まない。
時々内大臣が別格で三公とは左右内大臣を指すという記述があるがそれは完全に間違い。
近世の宮中序列でも

摂関>太政大臣>左右大臣>親王>前官たる摂関と三公>内大臣>前内大臣>准大臣
554日本@名無史さん:2010/03/20(土) 23:43:56
>>553
それを定めたのが禁中並公家諸法度
555日本@名無史さん:2010/03/22(月) 03:41:29
なん朝の大政大臣てだれ
556日本@名無史さん:2010/03/23(火) 21:07:47
>>553 その序列でいくと、
徳川将軍(主に内大臣)の宮中序列って、案外低いな…。
557日本@名無史さん:2010/03/23(火) 21:51:22
いや基本は右大臣だろう。
家綱、綱吉、吉宗、家治など、幕府の安定期に長期間在位した将軍は、
いずれも右大臣になっている。
内大臣どまりの家宣・家継・家定・慶喜は、在位期間が短かった将軍。

なお、家重は在位15年で右大臣になっている。
同年、隠居しているが。
558日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:11:43
>>556
幕末期には家茂がそういういやがらせをされたという話もあるが、
基本的には将軍は「将軍」として別格だろうね。
秀忠、家光は摂関の上で、もちろん同官、先官の左右大臣より
上席に座したというし。
559日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:36:41
>>558
具体的にどういう嫌がらせをされたの?
560日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:40:01
>>558
摂関の上の別格扱いじゃないと意味が無いからね
あくまで「太閤」の上に立たなくてはならないし
561日本@名無史さん:2010/03/23(火) 23:01:34
平清盛以来、武家の大臣初任は内大臣と相場は決まっていたし
武家の序列付けという意味では、御三家以下を大納言以下に
すれば、目的を達するわけだから、右大臣以上を将軍自身に
対する「ご褒美」にしても、問題は無いだろう
562日本@名無史さん:2010/03/23(火) 23:52:02
>>559
天下の将軍が宮中序列通り摂関、左右大臣、親王、前摂関左右大臣の下の内大臣の席次で宮中で遇された。
563日本@名無史さん:2010/03/23(火) 23:55:12
>基本的には将軍は「将軍」として別格だろうね。
だから、家光の代に将軍の権威と権力が確立すると、次代の家綱以降は、
所詮は虚飾にすぎない官位など、右大臣で十分ということになったんだろう。

家斉があまりにも長期間在位し、その間世子の家慶も中年になったので、
この二人は太政大臣と左大臣になり、官位のインフレ状態になったが。
564日本@名無史さん:2010/03/24(水) 00:29:58
将軍世嗣で左大臣はねーだろと突っ込みたいが実際になっているしなw
家慶以外の世嗣は内大臣はおろか大納言だろ
もっとも最長世嗣で何年だったのか疑問だが
565日本@名無史さん:2010/03/24(水) 09:38:39
室町将軍ですら摂家に偏諱を与えているのだから、
力関係は明白なのではないか
566日本@名無史さん:2010/03/24(水) 09:50:29
>>559
『幕末の宮廷』によると
家康〜家光→牛車宣下で御車寄まで乗輿して昇殿
家茂→牛車宣下がなく宜秋門で下乗して歩いて昇殿

家康〜家光→小御所伺候
家茂→麝香間伺候

家康〜家光→退出時、摂家以下見送り
家茂→非蔵人が見送るだけ

と書いてある。後に改まったらしいが。
567日本@名無史さん:2010/03/24(水) 13:04:15
摂関 公家のトップ
将軍 武家のトップ
太政大臣 律令官職のトップ

江戸期以降は清華でも基本内大臣止まり(しかも数ヶ月以内の舐り大臣が殆ど)稀に左右大臣だから
太政大臣は摂関経験者が長生きしたときの名誉職に過ぎないんだよね。
568日本@名無史さん:2010/03/24(水) 17:57:05
幕末の公家どもの家茂将軍に対する扱いは、本当にムカつくな。
貧乏公家どもが偉そうにしやがって。
569日本@名無史さん:2010/03/24(水) 19:09:02
徳川家茂って上洛したときにかなり朝廷にお金を落としてヤッタんでしょ?
スポンサーに対してこの仕打ちは無いだろ。
武家代表として官位に関係なく上座で遇するべきだと思うよ。
570日本@名無史さん:2010/03/24(水) 20:57:51
それができなかったから幕府が潰れた。
571日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:02:12
>>562
家茂って和宮降嫁の時にも最初は和宮の下座におかれたんだっけ?
572日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:17:02
最初は席次も
天皇>将軍>摂関>大臣だったんだけどね
幕末は将軍が内大臣扱いになってしまった
幕末に幕府の威信が地に落ちたら急に掌を返されたという感じなのだろう
573日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:27:00
>>572
摂関や親王が将軍よりあきらかに下座に置かれ排していたのにな
574日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:41:28
天皇の実子でもある関白・近衛信尋は
幕府のパシリ同然のような感じだったんだろ、確か。
575日本@名無史さん:2010/03/25(木) 00:27:22
>>566
非蔵人見送りってw
六位でも情けないだろ。
576日本@名無史さん:2010/03/25(木) 15:48:41
他家から徳川宗家に養子に入って征夷大将軍に任官した、
五代綱吉、八代吉宗、十四代家茂等は、

将軍世嗣の官位である(従二位)権大納言を経ずに、いきなり征夷大将軍任官と同時に内大臣等に任官したんかな?。
577日本@名無史さん:2010/03/25(木) 16:53:56
綱吉は大納言任官直後に将軍、内大臣に任官している
578日本@名無史さん:2010/03/25(木) 16:57:48
危篤、臨終後に養子になるにしても将軍就任は前将軍が死んで暫くしてからだから大納言→内大臣の手順は踏んでいるよ
極端な例なら将軍宣下の勅使が大納言を叙任した次の日に征夷大将軍、内大臣任官させている例もある。
579日本@名無史さん:2010/03/25(木) 18:49:45
…なるほど。
何じゃかんじゃあっても、
征夷大将軍就任予定者は、将軍世嗣の官位(従二位権大納言)に(僅かの期間でも)任官した上で、
将軍宣下の儀式に臨んだ訳ですな。
580日本@名無史さん:2010/03/25(木) 19:30:52
光仁天皇が一応は皇太子を経たようなものか。
581日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:15:39
スレ違いだけど、歴史上醍醐上皇とか一条上皇の例もあるしね。
582日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:21:46
上醍醐上皇かと一瞬見えた。西国まわってるもんで・・・。
583日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:25:15
そういえば徳川将軍は、将軍宣下の儀式の時に、
征夷大将軍以外にも、数多くの宣旨(例えば、大臣や近衛大将、源氏長者、淳和奨学両院別当等)を拝受しているが、

藤原氏が、摂政ないしは関白に任官した時にも、
徳川将軍家と同じ様に、色んな宣旨を同時に拝受したんかな?
584日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:30:54
>>583
藤氏長者とそれに付随する色々な称号
585日本@名無史さん:2010/04/07(水) 23:41:19
hosyu
586日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:37:02
藤原道長は摂政を一ヶ月しかやってないのに権勢強すぎ。
587日本@名無史さん:2010/04/12(月) 18:30:57
摂関なんて飾り。
天皇の外戚になること、それが・・・権力の源泉
588日本@名無史さん:2010/04/14(水) 11:47:52
左大臣か太政大臣による摂関殿下が最強だろ
多産型の丈夫な娘がいれば100%必然的に天皇の外戚だ
589日本@名無史さん:2010/04/14(水) 12:31:31
>>584
でも摂関になると兼任できない官もあったんじゃない。
590日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:02:11
何で帝が幼くなくても摂政にすればいいのに関白なんて変なのを作ったのだろう。
摂政と関白を両方置くことは何でなかったのだろう。
591日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:05:13
序列は
摂政>准摂政>関白>内覧>太政大臣>知太政官事>左大臣>右大臣>内大臣>准大臣
なのかな
592日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:26:51
摂関不在時に実質最上位の左大臣が内覧になるのでは?
593日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:53:39
あえて、知太政官事最強説を唱えてみる
594日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:25:06
鎌倉、室町、江戸幕府においても、天皇の権威を借りて政権を握った。
誰も天皇にとって変わると言う豪の者はいなかった。

もし信長が天下を取っていたら
天皇も排斥していたろう。
絶えず自分よりも「上」にいる存在を許すハズがない。

天皇の血筋を断つのは至難の業だろうが、、、
595日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:37:22
天皇にとって代わる必要がない
お飾りだったから
596日本@名無史さん:2010/04/17(土) 15:05:45
>>591
知太政官事は奈良時代限定のいまいち判りにくいポストだな
597日本@名無史さん:2010/04/17(土) 17:12:14
>>594
どっかの歴史家きどりの小説家の受け売りですか?
598日本@名無史さん:2010/04/17(土) 17:39:56
外戚になりたいです。
娘いないけど。
599日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:06:45
「公式な政府の最高機関である太政官には摂政・関白は大臣兼任であったとしても
関与出来ない決まりであった。
そこで道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、
太政官の事実上の首席である左大臣(一上)と関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって
最高権力を行使しようとしたのである。」

by道長Wiki

結局、内覧を兼ねた左大臣に20年在官し、摂政は約1年、
太政大臣の在官に至ってはたったの2か月で致仕し出家している。
600日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:12:53
関白は正一位、太政大臣は従一位で征夷大将軍は何になんの?
601日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:13:57
じゅごいのげ、じゅしいのげ、じゅさんみ、
602日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:55:05
左大臣や右大臣で正二位ではなく従一位って多いけどなんでだろ?
603日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:39:17
位階が形骸化したから。
604日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:41:04
征夷大将軍は4位相当じゃなかった?
武家将軍の場合、年を重ねる毎に公家官位を昇進させ大臣や近衛大将を兼ねて1位や二位を貰っていたみたいだけど
605日本@名無史さん:2010/04/17(土) 22:39:54
徳川将軍家の将軍就任予定者の官位である、

権大納言兼右近衛大将は、源頼朝の先例?に習っているのかな?

…もっとも、大納言以上の官位に居て、征夷大将軍に任官したのは、
徳川家康(征夷大将軍任官前は従一位内大臣)が初めてらしいが…。
606日本@名無史さん:2010/04/18(日) 19:21:00
もし豊臣秀頼公が関白職についていたら…
607日本@名無史さん:2010/04/18(日) 19:57:50
江戸前期から中期にかけての徳川将軍家は関白を凌駕していたからな〜
608日本@名無史さん:2010/04/20(火) 10:32:47
>>599
結局は内覧兼任の一上である左大臣が一番の権力者ということか。
藤原頼道は左右大臣不在時の内大臣時代に一上になり
摂政の兄を圧倒していたらしいし。
609608:2010/04/20(火) 10:41:24
×頼道→頼長
ただしこの頃は院政期だから摂関の力があまり発揮出来なかったのかも。
610日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:04:02
関白左大臣や関白内大臣は聞いたことあるけど右大臣で関白もあったのでしょうか?
611日本@名無史さん:2010/04/27(火) 18:40:14
>>610
関白右大臣いるよ。
あと、豊臣秀次は関白内大臣の時もあったし。
612日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:00:37
あと、藤原兼家と道兼は関白に就任した時には右大臣だった筈。
613日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:08:05
さすがに皇族以外で大臣未経験の摂関はいないでしょ?
614日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:00:44
関白権大納言w
615日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:55:15
非公卿の征夷大将軍は腐るほどいるのに大臣経験の無い摂関はいないということは

摂関>>将軍だな
616日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:35:37
>>613
内大臣への昇任理由として摂関就任資格を得るためというものがあったらしい
その場合は、「抜擢」昇任になる
617日本@名無史さん:2010/04/28(水) 11:04:13
まあ朝廷の官位としては

摂関≧太政大臣>>>>>>>>>>征夷大将軍だけど実際の権力は征夷大将軍>>>>その他で
摂関家といえども諱を将軍家から拝領していたから摂関は将軍の家来とも言える。
室町幕府が衰退した後まで摂関家が片諱貰っていたのは興味深い事実。
618日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:49:23
で、摂政太政大臣と内覧左大臣はどっちが最強なんだ?
619日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:21:04
そりゃ摂政太政大臣でしょ
620日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:39:44
>>618
その辺になると地位なんて関係ない。
関白太政大臣だった藤原実頼みたいに空気になっちゃう人もいれば
内覧左大臣で完全に実権を掌握した道長みたいなケースもあるし。
621日本@名無史さん:2010/04/28(水) 19:45:59
道長が権力を最大限権力を駆使出来たのが左大臣時代で
最終官位が摂政太政大臣
この太政大臣というのが曲者で摂政や関白じゃなきゃ意味が無い
確かにどっちともいえんな
622日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:53:27
>>621
道長は摂政太政大臣にはなっていない。
太政大臣になったのは後一条元服の儀式のためであって、
摂政はすでに頼通。
当然ながら実権を握っていたのは道長のほうだが。
623日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:57:11
摂政左大臣だね
624日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:59:59
摂政時代も短いが摂政左大臣を辞したあとは出家に向けてGO
太政大臣は2か月で辞任
625日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:38:02
>>620
結局のところ、無官でも「天皇の外祖父にして摂政の父」という
立場で実権を握り続けていたわけだしね。
626日本@名無史さん:2010/04/29(木) 07:53:16
>>622
元服の加冠の儀って確か第一位(一の人)の大臣が務めるんだよね?
627日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:34:01
太政大臣は天皇の師範となるべき者がつくという建前があるから、
元服のためにわざわざ太政大臣になることがあるという話がなかっ
たっけ?
628地下人:2010/05/01(土) 16:10:12
天皇のお妃として、皇后・中宮・女御・更衣… と
いろいろな名称がありますが、それぞれどう違ったのですか?
629日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:13:13
更衣は女中、女御は妃、皇后中宮は正妻
630日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:35:41
女御・更衣は国家公務員 皇后・中宮は天皇の妻
631日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:32:59

日本の歴史における徳川家康の重要性

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/37/251.html

大阪城入城や征夷大将軍就任などに陰謀が企てられていた。
632日本@名無史さん:2010/05/04(火) 00:08:11
外国の臣下トップは宰相って訳語が与えられていますが、律令制だと宰相って
参議ですよね。
何で関白の訳語を当てなかったんでしょうか。
平民関白とか関白メッテルニヒって格好いいじゃないですか。
633日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:09:41
>>620
実頼が空気だったのは、弟師輔の方が優秀だったからだよね。
634日本@名無史さん:2010/05/04(火) 09:31:15
>>633
弟のほうが明朗で社交的だったんだろうけど、師輔は早く死んでるし
実頼が常に官職では上位にあったことを考えると、実頼が無能だったとも思えない。
やっぱり両者の差は外戚になれたかどうかが決定的では?

謹厳で礼節に詳しいという評価を受けてる人だから無能ではないにせよ
周囲に人が集まるタイプではなかったと思う。
635日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:08:08
摂政じゃなくて関白だったからだよ
636日本@名無史さん:2010/05/05(水) 04:13:29
>>632
元々、宰相っていうのは総理大臣クラスの役職を指す語なわけで、
日本で参議を宰相と称したのは、あくまでも美称でインフレ的な言葉遣いと考えるべき。

関白は天皇の代理なんで、臣下の最高位である宰相よりも格上になる。
メッテルニヒにはそこまでの格はないから、関白と言うのは不適切。
637日本@名無史さん:2010/05/06(木) 02:00:34
>>634
実頼と師輔の最大の違いは母親。
忠平の男児のうち、実頼だけが皇女を母に持つ。
師輔以下の母は臣下の娘であり、当時は母親の家格が出世に響いた。
実頼の方が官位が高かったのは、実力ではない。
638日本@名無史さん:2010/05/06(木) 06:36:42
>>637
母親が有力な摂関家の娘ならまだしも同じ源氏だしそんなの関係ない
実頼が官位が上だったのは師輔より8歳年上だったからってだけ
639日本@名無史さん:2010/05/06(木) 06:47:09
参議になったのも大納言になったのも大臣になったのも
師輔の方が実頼より5歳は早い
640日本@名無史さん:2010/05/06(木) 14:43:51
実頼の母は皇女ですら無い女王でしょ?
それを言ったら師輔の子の兼家、兼通兄弟なんか藤原氏が母で醍醐天皇皇女の異母兄弟なんか全く出世していないから
話の整合性が全くない
641640:2010/05/06(木) 14:45:08
間違えた実頼の母は皇女で源氏だった
642日本@名無史さん:2010/05/06(木) 18:54:41
この兄弟について当時の公卿の日記とかで、能力差云々の話ってあまりないでしょ?
どうも性格は極端に違って実頼はあまり人に好かれる性格ではなかったようだけど。
血筋が本流から外れた以上、無能であればボロクソ書かれてもおかしくないのに、あまり叩かれてないのは
能力面での瑕がないことの傍証では?

例えば随分出世したけど本流から外れた藤原顕光なんてボロクソ書かれてるしw
この人も血筋が本流なら、周りも憚ってあそこまでひどい書かれ方はしなかっただろうに。
643日本@名無史さん:2010/05/06(木) 21:56:30
>>638
『継嗣令』王娶親王条では内親王の臣下への降嫁は禁じられている(臣下が五世王との婚姻は許されるが、それよりも上の皇族とは婚姻できない)。
そのルールの抜け穴なのは臣籍降下した元皇族との婚姻。そして、臣籍降下している天皇の実娘との婚姻は、当時の臣下が望みえる最高の婚姻相手。
そして、実際問題として忠平の以前に天皇の娘と婚姻したの臣下は源順子を妻にした藤原良房だけ。
644日本@名無史さん:2010/05/06(木) 23:05:41
>>643
だから何?
645日本@名無史さん:2010/05/06(木) 23:15:17
第一摂関家の正妻腹の姫は、当時参議にしか過ぎない忠平になんか嫁がんよ。
平安時代は、師輔以降、臣籍降下していない内親王の降嫁が度々見られるようになり
帝と東宮以外の親王へ嫁ぐ例がなくなったのだね。
646日本@名無史さん:2010/05/06(木) 23:31:50
>>643
は?臣籍降下している天皇の実娘が最高の婚姻相手のわけない
君はいつの時代の話をしているんだ?
647日本@名無史さん:2010/05/06(木) 23:54:26
>>643
その天皇の娘である源順子が良房の妻になったのは
良房の身分がまだ無いに等しい時だよな
天皇の実娘様なのにさw
648日本@名無史さん:2010/05/07(金) 08:44:30
>>646
後見が弱くて臣籍降下しているのだから早い話がお荷物だな。
649日本@名無史さん:2010/05/07(金) 23:28:32
>>646
道長も、嫡男と具平親王の娘の縁談を「男は妻がら」と喜んでいるけど。
650日本@名無史さん:2010/05/07(金) 23:38:15
>>646
むしろ、摂関政治全盛期の観念で平安時代前期を語っていること自体がちょっとヤバいぞ。
651日本@名無史さん:2010/05/07(金) 23:42:12
大臣クラスの娘には嫁に来て貰えないのだな
652日本@名無史さん:2010/05/08(土) 07:34:23
>>949
女王の弱い立場を付かれて天皇に内親王降嫁を勧められちゃったね。
653日本@名無史さん:2010/05/10(月) 15:49:23
>>632
>>636
大納言が亜相で、参議が宰相とは(´・ω・`)
左大臣や右大臣の唐名よりも偉そう(´・ω・`)
参議みたいな役職は唐になかったのだろうか(´・ω・`)
654日本@名無史さん:2010/05/10(月) 15:52:07
親王は仏門に入れられ子孫も残せない(´・ω・`)
皇族の男子は何なんだろう(´・ω・`)
一生幽閉されていたオスマン帝国の皇子よりはましだけどさ(´・ω・`)
655日本@名無史さん:2010/05/10(月) 15:59:28
立坊とは縁のない親王は世間から忘れ去られる存在になり
子孫に至るまで悲惨だ
656日本@名無史さん:2010/05/15(土) 00:49:47
伏見宮なんか皇位とは全く縁のない名ばかり皇族だったが
何百年も続いたヨナ。
657日本@名無史さん:2010/05/15(土) 22:08:09
左大臣とか右大臣だと、長期間にわたって務める人が多いのに
太政大臣は殆どの人が1年以内に辞職しているのは何故?
658日本@名無史さん:2010/05/15(土) 23:19:23
>>657
太政大臣が名誉職だからじゃない?
659日本@名無史さん:2010/05/16(日) 02:48:57
左大臣とか右大臣の方が実権を握れるから
660日本@名無史さん:2010/05/16(日) 09:30:50
太政大臣はとりあえず最終的になっておく事に意義がある
661日本@名無史さん:2010/05/16(日) 10:16:35
引退直前になっておくと箔が付く感じ?>太政大臣
662日本@名無史さん:2010/05/16(日) 17:57:21
太政大臣禅師>道鏡ってのもいたな。
663日本@名無史さん:2010/05/16(日) 20:14:17
秀吉は、関白は早めに辞職したが太政大臣は死ぬまで在任していたはず。
664日本@名無史さん:2010/05/16(日) 20:22:44
左大臣が太政官における事実上の最高位
665日本@名無史さん:2010/05/16(日) 20:27:29
太政大臣は名誉職で朝廷への出仕も殆ど無く隠居生活みたいなものじゃないの?
バリバリの働き盛りでまだまだ権力の中枢にいたい人にとっては些か都合も悪い
摂政や関白を兼ねた太政大臣ともなるとまた違ってくるだろうけど
666日本@名無史さん:2010/05/17(月) 05:28:05
平氏政権では左大臣が藤原経宗、右大臣が九条兼実でずっと固定なのに
太政大臣は平清盛、花山院忠雅、藤原師長と頻繁に交代してますね。
三人とも内大臣→太政大臣というパターン。
667日本@名無史さん:2010/05/17(月) 07:20:25
それはとっとと名誉職貰って優雅に隠居したいからだね
668日本@名無史さん:2010/05/18(火) 23:15:25
まさに、「太政大臣なんて飾りです」を地で行く展開
669日本@名無史さん:2010/05/20(木) 17:15:56
太政大臣が名誉職同然なのに、何故かインパクトがあるのは何故だろう?

それに対し、内大臣は常設の官なのに、まるで印象が薄いのは何故だろう?

百人一首の作者のペンネーム(?)を見ても、○○太政大臣・△△左大臣(右大臣)
というのは何人もいるのに、××内大臣というのは1人もいない。
670日本@名無史さん:2010/05/20(木) 18:27:11
三公である太政・左右大臣と内大臣の間には大きな隔たりがあるのだよ。
ちなみに大納言と大臣の差は泣きたくなるほどとてつもなくの大きな差がある。
大納言から大臣まで昇れるのは極僅かだ。
671日本@名無史さん:2010/05/20(木) 18:40:08
太政大臣御臨席は天皇と対座だっけ?
672日本@名無史さん:2010/05/20(木) 19:06:25
元幹事長
元代表代行

これぐらいですか
わかります
673日本@名無史さん:2010/05/20(木) 20:06:25
>>672
何が?
674日本@名無史さん:2010/05/21(金) 16:26:06
太政大臣とは天皇の師範たるもの。
上皇&東宮&三后に准じ、官位としてはトップの座なのだが
権力基盤は摂政・関白、左大臣などが掌握することとなる。
名誉職のため参内もほぼ無く隠居と同じ扱い。
天皇より参内の宣旨があると
一座宣旨を受けている摂政・関白よりも下座に列する。
だよね?
675日本@名無史さん:2010/05/22(土) 00:30:53
>>674
基経の場合は太政大臣として「関白せよ」ということじゃなかったかな。
既出の「其万機巨細、百官惣己、皆関白於太政大臣、然後奏下」から
して。
676日本@名無史さん:2010/05/22(土) 02:40:53
それは読解ミス
677日本@名無史さん:2010/05/22(土) 04:01:06
誤読には違いないが、良房・基経の例を忠平以後の常識で解釈するのは危険。
678日本@名無史さん:2010/05/22(土) 18:38:57
平安時代の摂関、太政大臣は藤氏の独占。唯一例外は太政大臣となった平清盛だけ。
三后も藤氏の独占市場ともなりゃ望月の歌はそのまま藤氏の象徴だな。
679日本@名無史さん:2010/05/22(土) 19:35:36
>>678
源雅実さんディスってんじゃね〜よ!
680日本@名無史さん:2010/05/22(土) 20:25:06
>>679
源姓で清華家を幕末まで残せたのは
この人の存在有らばこそ
681日本@名無史さん:2010/05/22(土) 20:27:01
>>679
ああ、悪かったよ。一人、源さんがいたっけw
682日本@名無史さん:2010/05/22(土) 20:58:28
>>680
清華家の家格も藤原氏を祖とする五摂家の下だもんな
683日本@名無史さん:2010/05/23(日) 15:12:09
康和4年(1102年)は村上源氏の公卿が8人もいたのに、久寿2年(1155年)は
源雅通のみに激減。この状況から村上源氏を復活させたのは、通親の力か。
通親本人は内大臣が極官だったけど。
684日本@名無史さん:2010/05/23(日) 15:34:06
院政期でさえそんな有様の源氏って・・・
685日本@名無史さん:2010/05/23(日) 15:56:59
>>642
子孫がそれなりの地位を占め続けた実頼と、
唯一の息子が20代で出家しちゃって子孫が続かなかった顕光とは、
評価に差が出るような気もする。
とは言え、そうなるとそこそこ子孫が続いたのに評判ぼろかすの道綱って……
686日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:15:03
どうでもいいけど、小さい頃の道綱って
ひ弱で泣き虫で可愛くて割と好きだけどね。
687日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:25:13
道綱って母ちゃんのおかげで歴史に名を残したなw
父の摂政兼家より有名になるとは。
688日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:46:11
蜻蛉日記に書かれている、子・道綱は泣いてばっかりいるけど健気だよな
ヒス起こした母親の元で必死に父・兼家を慕う姿にもらい泣きしたぜ
689日本@名無史さん:2010/05/23(日) 19:51:33
>>642
>>685
そもそも有職故実の大家として評価されていた実頼に無能なんて評価が出る訳がない。
儀式の作法の出来不出来で能力が判断される公家社会では、実際の政治力と同様あるいはそれ以上に故実の知識も政治家の評価の対象とされていたから。
松殿基房なんて、現代じゃ評価さっぱりだけど、近代以前じゃ摂関家御堂流の完成者として経緯を払われていた訳で。
690日本@名無史さん:2010/05/23(日) 20:26:49
有能無能って結局は同時代人との相対評価しかないな。
亡国期なら時の指導者世代全員が無能ってことになるんだろうけど、
それ以外の時期は同時期のライバルとの比較しかない。
単純化すると仮に絶対値が出せるとして、60点の人がいて、
ライバルが80点なら無能だし、40点なら有能ってことになる。
世代の違う人を持ち出して比較しようってのがどだい無理な話だな。
とチラシの裏の落書き。
691日本@名無史さん:2010/05/23(日) 21:53:44
道長の婚姻政策がことごとく裏目に出て円融・一条系断絶。
三条系も顕光孫が皇統の主流に、なんてことになってたら、
顕光も儀式の細かい部分などには頓着しない剛毅な人物とか、
そう言う評価だったりして。
道長の誤字脱字だらけの日記を、些事にこだわらない剛毅さ、
とかって評価もあるくらいだし。
その場合は道長の自筆日記は現存してないだろうけど、
仮に残っていたら、字もろくに書けない無能な人物、
そう言う評価になってたりして。
692日本@名無史さん:2010/05/23(日) 22:15:56
>>691
現物が残っている時点でも繁田信一がそういう評価を>道長
693日本@名無史さん:2010/05/24(月) 19:38:36
>>668
藤原兼房も内大臣→太政大臣というパターン。同母兄の九条兼実のコメントは
「太相近代大略棄て置く官なり」(『玉葉』建久2年(1191年)3月10日条)。
694日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:01:54
>>693
兼実がかがみで
兼房がつかさ……いや、なんでもない。
695日本@名無史さん:2010/05/27(木) 08:59:27
内大臣→太政大臣が結構多いというのは分ったが、同時期で

内大臣 →左右大臣
左右大臣→太政大臣

というのはどれだけいたのだろう。
その比較がないと
内大臣→太政大臣
の意味合いが分らない
696日本@名無史さん:2010/05/27(木) 10:08:56
平安朝に限っての話なら
上官大臣が源氏で内大臣が藤氏の場合は内大臣→太政大臣
なんてのは当たり前に行われていただろう。
兼家なんかもそうだし。
既出の通り後期に太政大臣となったの清盛と雅実の例外を除き
摂関と太政大臣は藤氏だけの特権だったから。
697日本@名無史さん:2010/05/27(木) 16:09:18
兼房のケースは、前年に内大臣になったばかりなのに、後白河法皇から
中山忠親を内大臣にするよう兼実に対して圧力があったため。表面上は
栄進だけど、実質的にはクビ。兼実にすれば左大臣の三条実房に辞任して
もらうという選択肢もあったけど、右大臣にバリバリの後白河派である
花山院兼雅が控えているから仕方ない。
698日本@名無史さん:2010/05/29(土) 08:53:13
江戸時代の摂政や関白はいったい何をしていたのだろうか(´・ω・`)
699日本@名無史さん:2010/05/29(土) 20:54:08
江戸時代の摂関の方が朝廷内での権力は摂関政治期よりも上だった。
ただし、幕府の後ろ盾があるからだけど。
700日本@名無史さん:2010/05/29(土) 21:01:46
すいません、初歩的な質問なのですが…

よく「将軍○○は、3万の兵を率いて西へ向かった」というような文を目にしますが
ここでいう「兵」とは「武士」という意味なのですか?

3万の兵 = 3万の武士 とは違うのですか?
701日本@名無史さん:2010/06/01(火) 02:27:16
>>700
「武士」っていうのが何かはわかってるの?
食料を運ぶ人々は「武士」?
足軽は「武士」?

きっと「武士」も「兵」も明確な定義はないと思うけど、
まあ戦闘を行い得る人間が3万人いたってことで大体は良いと思うけどね。「兵」の場合には。
702日本@名無史さん:2010/06/01(火) 10:36:58
史料の場合にしろ、研究者の文章にしろ、
それぞれの定義で書いてるだけだろうから、
一律にどうとは言えないだろう。
703日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:26:49
【1979年4月2日生まれに受験資格がある公務員試験】
(10-05-28締切) 東京都瑞穂町 事務職員 (平成22年10月採用)(郵送不可)
(10-06-01締切) 千葉県 上級 一般行政
(10-06-04締切) 神奈川県大和市 大卒程度 事務 (平成22年10月採用)
(10-06-05締切) 神奈川県鎌倉市 大卒程度 事務 (平成22年10月採用)
(10-06-18締切) 千葉県佐倉市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県成田市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県白井市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県八街市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県印西市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県富里市 上級 一般行政
(10-06-18締切) 千葉県四街道市 上級 一般行政
(10-06-22締切) 神奈川県秦野市 事務(郵送不可)
(10-06-29締切) 神奈川県座間市 一般事務A
(10-06-29締切) 神奈川県綾瀬市 行政A
(10-06-29締切) 行政事務(国家公務員中途者採用選考試験)
(10-06-29締切) 税務(国家公務員中途者採用選考試験)
(10-08-10締切) 千葉県 警察官A(男性・第2回)
(10-08-13締切) 千葉県白井市 初級 一般行政
(10-08-27締切) 埼玉県さいたま市 行政事務(経験者)
(10-08-27締切) 埼玉県 一般行政(経験者)
704日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:28:27
太政大臣は昔は関白より序列が上だったのに変わってしまいましたよね。
摂政兼皇太子ぐらいの地位だったのに名誉職に。
最高顧問や名誉会長や相談役みたいに実験がある人もいただろうが。
705日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:33:21
摂政や関白や准摂政とされた関白や太政大臣は太政官の会議に参加できず、大臣以外の官職にも就けないのですよね。
706日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:34:33
事実上の最高の官位は従一位内覧左大臣兼左近衛大将兼蔵人別当になるのかなあ。
707日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:36:34
水滸伝の太師、太尉、東庁枢密使、殿帥府太尉に当たる日本の官職は何だろう。
708日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:37:54
トヨタ自動車株式会社
最高顧問
名誉会長
取締役相談役
相談役
取締役会長
取締役副会長
取締役社長
709日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:39:49
藤原史も右大臣だったらしいよね。
中臣鎌足は大織冠だったのにね。
でも、三十一歳でやっと表舞台だから僕も見習わないとね。
710日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:45:47
>>706
そもそも摂関家には内覧の資格があるんじゃなかった?
摂政・関白は内覧も兼ねているということになるが
711日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:54:43
摂政・関白>内覧
712日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:00:37
一品親王と太政大臣が同列で
一品親王と摂関では摂関の方が上位で良いのかな
713日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:18:44
>>712
江戸時代の話と思うが
一品はともかく
摂関>大臣>親王じゃなかったんじゃ?
714日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:23:23
平安〜江戸時代中期頃まで
摂関>太政・左右大臣>一親王
715日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:46:50
>>714
すげえ書き込みの時間
716日本@名無史さん:2010/06/04(金) 00:08:59
平安時代だと、座次ははっきりきまっていないんじゃないかな。
例えば頼通が一座になったのは、太政大臣公季の薨去後だし。
717日本@名無史さん:2010/06/04(金) 00:16:53
どちらにしても三公の前では親王(宮家)はお呼びでないってか
718日本@名無史さん:2010/06/04(金) 00:31:34
関白の頼通が一座ではなく
太政大臣の下に列する宣旨を出されたのは何故だろう。
719日本@名無史さん:2010/06/04(金) 05:42:29
>>710
内覧は職権だからね。
摂関に任じられるということは自動的に内覧の職権が与えられるが、幕末の九条尚忠みたいに内覧職権だけ没収されたことがあった。
720日本@名無史さん:2010/06/04(金) 09:02:57
摂政・関白が持つ内覧以外の権限は何なのだろうか。
721日本@名無史さん:2010/06/04(金) 10:58:07
>>720
蔵人頭に自分の沓を穿かせる。大納言にだって穿かせてしまう。
近くに寄っただけで道長を跪かせる。
722日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:22:11
権威と権力が分離したのは日本だけじゃなくイスラムのスルタンとカリフ、ティムール朝とかあるけど、
気になるのは日本の官は政治って何をやっているの?
源氏物語でも仕事内容がよく分からんよの。
723日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:25:31
藤原氏は他の氏族を追い落とし、皇室に寄生し、摂家の者は親王より上という変な状態だよね。
貴族の姓は下級貴族を除くと藤と源だけ。
724日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:37:51
日本で完全に独裁的にやれた人って何人いるのかなあ。
皇帝以上の権力を持ち、皇帝を顎でこき使い、皇帝の宮殿以上の邸宅に住み、皇室以上の財産を持ち、全てが思うがままの権力者。
725日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:40:01
誰かが大臣と大納言の間に壁があり、右大臣と内大臣の間に壁があると言っていましたが、
左大臣が宰相みたいな者で、右大臣が副宰相みたいな者ですよね。
内大臣はそんなに良くないのでしょうか。
726日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:58:04
>>723
皇室が藤原氏に頼っていたんだろ
727日本@名無史さん:2010/06/04(金) 13:05:18
天皇家は既に長年の藤氏で血で侵されているからな。
728日本@名無史さん:2010/06/04(金) 13:37:55
>摂家の者は親王より上という変な状態だよね

その概念は幕末から明治時代にかけて必死に作りかえられたもので
現代における我々の凝り固まった概念。
平安期から幕末前の日本では変でも何でもなかった。
729日本@名無史さん:2010/06/04(金) 13:51:49
実質皇室・藤原氏の連合政権みたいなものだったから、
それぞれの代表が、ナンバー1・ナンバー2なのが自然でしょう。
親王なんて首相派の側近銀程度で、幹事長より偉いとか思う方が変。
と言う考え方もできる。
730日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:13:39
皇室(王氏?)の代表は治天の君だよね?
731日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:57:45
王氏は元来は皇族ではない?が王号を許された四世。
732日本@名無史さん:2010/06/04(金) 18:40:49

日本の影響下にあった英国の王室

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/37/252.html

徳川家康が征夷大将軍の位に就いた頃からだった。
733日本@名無史さん:2010/06/04(金) 19:03:40
>>724
足利義満の晩年あたりかなあ・・・
武力と権威が分離した時代以降、公家側で全国レベルの戦力を持った者はいない。
武家の棟梁の側から天皇権威に挑戦したのは足利義満だけだし。

除目と改元と宗教支配、それと対外代表権を自由にできれば、天皇家に残る力はない。
晩年の義満は大雑把にその辺の力を手に入れてた。
それでも独裁と呼べるレベルか微妙だがw
734日本@名無史さん:2010/06/04(金) 20:09:07
仮に今の連立与党で亀井の方が首相だったとして、
管と亀井娘のどっちがえらいかってところ?
735日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:47:12
>>733
でもそれをやろうとしたものだから、天罰が下って義満は51で急死。
当時の人々はそう思ったに違いない。
天皇の地位の乗っ取りだけはすべきでない、と。
736日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:48:30
>>730
帝(天皇)と院(太上天皇、太上法皇)は律令制において同じ権限を持つ。
上皇の中で皇室の家長のような者が治天の君となる。
帝は在位の君と呼ばれ、実質は皇太子(春宮、東宮)であった。
治天が事実上の君主であった。
737日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:50:16
藤原氏は自らの血を入れ、皇族は殆どが藤原氏の子孫となった。
最早、皇族の血等殆ど流れていない。
738日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:51:18
藤原氏はまさに寄生虫、、、
739日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:54:21
最高の官職であったはずの太政大臣はいつのまにか摂政より下位に置かれ、
その内には関白よりも下位になり、職掌がなくなり、実権は左右大臣以下に。
関白と征夷大将軍はどんどん価値が上がり実質最高位の役職となった。
平家は太政大臣となり、源氏は征夷大将軍となり、豊家は関白となった。
740日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:55:38
摂政は帝の代理人であった。
関白は帝の相談役であった。
太政大臣は摂政兼皇太子であった。
征夷大将軍は野蛮人や反乱軍の討伐部隊の司令官であった。
741日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:29:48
>>728
明確に決まったのは江戸時代に入ってからで、それまでは座次に争いが
あったはず。
742日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:35:31
>>741
だからそれまでは一座宣旨が必要だったけど
特別な例外以外は江戸時代と変わりは無いって
743日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:38:13
席次は禁中なんとかで決裁されたね
744日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:54:09
明確に提示された。これで一切文句は言うなってことだな。
745日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:02:43
>>742
三公と親王の座だよ?
746日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:22:11
>>745
宮中席次の「一座」は摂政・関白または太政大臣か左大臣だぜ?
フツーの親王(宮家)は三公の下だよ。
ま、親王にも当代今上の親王と古親王かによっては全然違うんだろうけど。
747日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:30:59
>>745
宮中席次の意味をわかってないのでは?
太政官席次じゃなくちゃんと「宮中席次」での話をしとるのに
748日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:34:06
>>746
御堂関白記現代語訳をぱらぱらと読んでいるんだが、親王を
三公の下にという座になっているようには見えない。
座を争うような場を設定することがそもそもないからだろうけど。

大体、親王が三公の下という慣例が確立していたなら、禁中並
公家諸法度で、「不比等と舎人親王がどうたらこうたら」なんて
古例を引っ張り出してきたりしないと思うんだが。
749日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:34:40
つ宮中席次とは、公的な宮中行事における席次のこと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BA%A7

750日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:37:58
>>747
元々
>>742
> だからそれまでは一座宣旨が必要だったけど
から来ているんだけど?
751日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:41:27
>>748
何をそんなにムキになっているのか知らんが
親王は三公の上に置かれたという史料があるのか?
752日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:44:24
>>751
親王が三公の下と明確に書かれた史料もないだろ?
実際に座の争いがあったから、あそこで決める必要
が出てきたのであったんだよ。
753日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:47:46
>>752
一親王が座の争いで三公にたてつけるとでも?
754日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:50:24
>>752
『平安時代史事典』
755日本@名無史さん:2010/06/05(土) 02:05:15
御堂関白記にある、道長の任大臣大饗の記事では、
「親王の座」は「公卿の座」の上にあるね。
初め道長が「親王の座」、摂政(頼通)が公卿の座に
着し、左右大臣以下はその下に着している。
で、摂政はその後公卿の座と親王の座の間に移り、
さらにその後で道長がもう一つ上に座を移し、摂政
が親王の座に移るという形で饗宴が始まっている。
756日本@名無史さん:2010/06/05(土) 02:08:08
公卿の範囲が広過ぎる
757日本@名無史さん:2010/06/05(土) 02:10:19
「公」と「卿」の違い
758日本@名無史さん:2010/06/05(土) 09:22:29
>>741
席次の争いが生じたのは応仁の乱などで朝儀が衰退して席次に関する資料がなくなったというのもあるから、
平安時代に席次が定まっていたかどうかとは無関係。
759日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:15:08
>>737
中国なんかは同姓不婚だから、100%それだけどね。
北魏なんか最後の方はほとんど漢族(当時の定義での)だし。
760日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:49:04
●座の争いについて…
753の云う通り、平安時代の一介の親王風情に、座があーだこーだと
三公に対して発言権や増してや争いなどをしかけられるとは到底思えない。
摂関・三公による一座などの争いが有ったというなら納得できるが。
しかも一座に親王が座するなんてどの史料にも記載されていない。
761日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:26:27
親王てその程度なの?
天皇の子なのにね。
762日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:31:46
そう、その程度の扱いだった
即位しなければ意味が無い
763日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:25:08
>>725
左右大臣と内大臣の待遇差って結構あったみたいだね。
764日本@名無史さん:2010/06/05(土) 20:57:47
内大臣自体そもそも令外官だし
765日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:09:16
内大臣は左右大臣の補佐官という感じ?
766日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:34:27
そうだろうね。
左大臣と右大臣にはそれぞれ職務に決まりがあって
きめられた儀式や議定を主催しなければならず忙しかった。
内大臣は左右大臣が不在だったり病欠したりした際に
左右大臣の仕事を代行するのが仕事だった。
767日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:00:44
日本では関白や大臣は今の会社の重役のようにえばれるだけでそこまで好きにやれない気がする。
768日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:18:08
左大臣 総理大臣
右大臣 副総理
内大臣 総理大臣臨時代理第二順位

ってとこかしら?
769日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:48:45
>>768
摂関と太政大臣は?
770日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:49:24
天皇の皇子は分かるが
宮家が親王を名乗るのはおかしいね。
771日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:18:35
散位准大臣涙目
772日本@名無史さん:2010/06/06(日) 02:46:20
>>770
清朝なんか世襲親王家が8つもあったんだが
773日本@名無史さん:2010/06/06(日) 07:27:29
>>771
伊周のこと?
774日本@名無史さん:2010/06/06(日) 08:11:19
准大臣はノンキャリの本省課長みたいなもんだと考えれば名誉なこと。
775日本@名無史さん:2010/06/06(日) 08:38:50
>大納言(数名)>権大納言(数名)
776日本@名無史さん:2010/06/06(日) 08:43:28
>>775 途中でポチった…
摂政または関白(一人)>太政大臣(一人)>左大臣(一人)>右大臣(一人)>>>[越えられない壁]>>>内大臣(一人)>>>[越えられない壁]>>>大納言(数名)>権大納言(数名)
こんな感じかね
777日本@名無史さん:2010/06/06(日) 09:16:52
越えられない壁などないwww
内大臣→太政大臣は結構あるし。
まあ家格によって越えられないってのは存在するけど。
778日本@名無史さん:2010/06/06(日) 10:23:20
内大臣は三公には入らないから、その点では越えられない壁なのだろう。
大納言→大臣は家格も有るしその地位待遇を鑑みても
越えられない壁は存在するわな。
779日本@名無史さん:2010/06/06(日) 11:06:56
内大臣→太政大臣は微妙だな
結局は太政官のトップに立っていないという事だしな
藤氏で太政大臣に昇れる名門の家格なら摂関兼任で有るだろうからいいのだろうが。
780日本@名無史さん:2010/06/06(日) 13:53:43
道長と伊周が関白・道隆の御前で弓争いをした時に、
「道長の家から、帝・后がお立ちになるはずのものならば、この矢よ当たれ。」
「(自分が)摂政・関白になるはずのものならば、この矢よ当たれ。」
と言いながら道長が放った矢が2本とも的の中心に当たったという『大鏡』記載の有名な話が有るが、
結局は左大臣のまま摂関になることを固辞して来たけど、最終的には摂政・関白になりたかったんだなとオモタ。
781日本@名無史さん:2010/06/06(日) 14:34:30
>>780
そらそうよ
そもそも、摂関を辞退したのは、天皇の叔父で関白になっても全く政治的な旨みは無く、下手したら飾りにされるリスクがあったから。
782日本@名無史さん:2010/06/06(日) 17:13:50
>>756
現代語訳が出ているから読んでもらえればすぐわかるが、ここでいう
「公卿の座」は文字通りの意味だよ。
摂政(頼通)、左大臣(顕光)、右大臣(公季)、中宮大夫(道綱)、右大将(実資)、…
右大弁(朝綱)というように列席した18人の公卿の名が上げられているが、これらの
人々の座という意味だよ。

>>760
平安時代の親王も貴族も、それほどおとなしくないよ。特に荒っぽかったのは
後の小一條院(敦明親王)だが、一親王だった時代でも公卿としょっちゅうもめ
事をおこしているし。
783日本@名無史さん:2010/06/06(日) 17:15:02
>>770
一応、天皇の猶子の形を取ってはいたはず。
784日本@名無史さん:2010/06/06(日) 17:45:48
>>782
で、親王がその座に列席して数多いる公卿の上座に座ったのか?
785日本@名無史さん:2010/06/06(日) 17:54:45
>>784
「親王の座」と称して設けた座が「公卿の座」の上にある時点で
列次は明らかだ。
786日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:57:33
>>785
道長が座る場所を上席に仕立てただけだろ
787日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:20:44
>>785
君は先日、平安時代は座の争いがあり席次は定まっていなかったと言っていた人だよね。
親王は摂関含めたすべての公卿より上座(一座)に列するとしたくて仕方がないわけか?
宮中席次における有有職故実にもある「一座」の定義についてはどういう説明をするのかな。
まさかこれには親王(宮家)は含まれていないとは言わないよな。
788日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:39:36
>>787
平安時代の話で、
> 親王(宮家)
という表現が出てくる理由がわからん。
後、定義云々の前に、少なくとも藤原道長の日記では親王が来たときの
席は公卿の列とは別に上席を設けている。
大臣の下に並べたりはしていないよ。
当たり前だが、実態を後世に整理したものが「一座の定義」とやらであり、
定義が遡って実態を否定するなんてのはナンセンスだよ。
789日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:43:45
>>787
繰り返しだが、「定義」とやらでなく、「親王を大臣と同列で下座に
おいた例」を示してくれ。親王の座が別扱いされた例は示した
とおりだが、そうでない例が当然あるんだろう?
790日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:45:04
>>788
だから親王>摂関・大臣と言いたいの?
公卿の座列に上席も下席も設けていないとでも?
791日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:46:34
>>789
その座に親王が同席して上座に座ってもいないのにそれを例にあげてどうするよ
792日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:48:42
>>788
意味わからんが
「一座の定義」を真っ向から否定するという解釈なのか?
793日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:55:44
>>791
禎子内親王着袴の儀式でも、式部卿親王(敦明親王)は別の座になっており、
大臣の下になどおかれていないよ。
後、>>790はナンセンスだね。公卿の座列の最上席の上の座として、「親王の座」
がおかれていたんだから。
摂政頼通は最初公卿の座の最上席におり、そこから上がって親王の座に移った
というのが、引いた例にある儀式の進行だよ。
で、大臣と親王を同列で並べた上で、大臣が親王の上に座した具体例を挙げて
くれよ。「定義、定義」と叫ぶだけで無しにね。
794日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:58:16
>>793
だから「一座の定義」を真っ向から否定するということか?
795日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:04:31
>>794
しつこいな。
「後世の定義がこうだから、当時の実際の運用がどうであれ関係ない」
「後世にこう定義したんだから、当時もこうだったはずだ」なんていう
戯言はいらない。「実例」を示してくれ。
少なくとも、「同列に置くことを避けようとしていた」という例は示したん
だから。
大体、そもそもの話が「三公と親王の座次」なのに、なぜ「一座の定義」
が出てくるんだ?摂関が親王の上に座したら、他の大臣も自動的に
親王の上となるのか?
796日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:09:40
>>795
>>794に答えろよ
797日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:19:22
小一条院(東宮・敦明親王)は別格じゃないか?
小一条院の例を他の親王と同じに考えてもな。
>>793を読むと、で、大臣は下に置かれたのか?という疑問が。
そもそも小一条院は左大臣の道長の圧力に屈し自ら東宮位を降りた親王だろ。
798日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:20:30
摂政、関白の敬称は殿下
太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣の敬称は公
それ以下は卿
では、准大臣の敬称は何だろう。
799日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:40:47
>>797
このときは三條天皇在世中であり、敦明親王はまだただの
「式部卿親王」ですよ。
もちろん、当今の一宮として別格という可能性はあるけど、
そもそもこの時期の親王は基本的に天皇の子でしょう?
(故三條院の子の格で親王となった、小一條院の王子の例
はあるけど、それこそ格別の話だし。)
親王薨去の時には廃朝があったりと、後世より丁重に扱わ
れているわけでもあり、敢えて大臣と親王の序列をつけない
ように座を別にしていたということだと思いますが。
800日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:41:29
三職兼任または歴任した人はいないのね
801日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:43:39
一品〜四品、当代今上の皇子と古親王とを一緒くたに考えるのは
それこそナンセンスじゃないか?
802日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:46:46
>>768

総理大臣:関白左大臣
副総理 :右大臣
官房長官:内大臣

といったところか。

太政大臣は永久に欠員ということで。
803日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:54:35
平安時代の宮中における一座は、本来は太政官トップの太政大臣が座する。
太政大臣欠員(というか殆ど居ても列席しない)の場合は、左大臣が座する。
摂関が置かれた場合は、上席大臣がいる場合は一座の宣旨が出され、
官位は下であっても最上席に座る。
ただし必ずしも一座の宣旨が出されるとは限らない。
804日本@名無史さん:2010/06/06(日) 20:57:46
室町時代は摂家の当主が将軍から偏諱を受けてんだよな
不思議だ
805日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:04:22
>>691をみて思ったんだが、藤原顕光を無能の代名詞のように罵倒
している道長も、自分に同意しているときには「右大臣も同意だった」
というように都合よく引っ張り出しているね。当然のことではあるが。
道長自身、陰陽師の意見を「お前たちは間違っている」とはねつけたり、
儀式の際に「こうだ」と押し切ったりしているんで、子孫が仮に没落して
いたら、「前例を知らない男」扱いされていたかもしれないね。
まあ、時には「あれは失敗だった。なんでこんなことをやったんだろう」
と書き付けたりしているようだけど。
806日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:14:28
ローマも中国も日本も最高幹部は数人だね
807日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:15:21
>>804
年始の拝礼やなにかにも行っていたというし、完全にけらいの扱い
なんでしょうね。
官位がどうだ、家格がどうだといっても、機嫌を損ねれば直ちに勅勘
扱いで解官、追放、所領召し上げ、となれば、皆震え上がるだろうし。
808日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:19:02
「一の人」って右大臣に関しては使わないんだね
809日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:24:54
>>808
右大臣は「本来」朝廷の儀式では第二の席に座るので「二の人」
810日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:42:25
>>799
いや、既に東宮になっていた筈だが。
811日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:47:31
>>810
着袴の記事は長和四年四月で、譲位は長和五年正月だから、
着袴のときの東宮は後の後一條ですよ。
812日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:55:33
>>811
数え2歳でもう着袴したの?
813日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:58:26
あ、ごめん数えで3歳か。
814日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:14:55
>>803
結局、平安時代も禁中並公家諸法度の序列と大まかな違いは無いというFAだな。
「伝統的な宮中席次」としての定めだからな。
815日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:21:58
>>798
内大臣は公だったんだ?
ならなぜ四公じゃなくて三公と言われ、内大臣は除外視されてるのかな
内大臣が公なら、准大臣も公でいいと思う
816日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:28:31
内大臣は公じゃないのかな(´・ω・`)
一時期は左右内大臣を三公としていたらしい(´・ω・`)
817日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:30:55
太政大臣が設置されてから外されたんだよね
818日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:59:17
そう言えば、途中から太政大臣は名誉職みたいになったけど
摂政太政大臣や関白太政大臣と普通の摂政、関白は何か違うのかな。
819日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:05:33
摂政太政大臣は文句の付けようがない官職だね
名誉職に摂政がつくと普通の太政大臣みたいに籠ってもいられず
宮中への参内も通常と同じようにしていたのかね
820日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:09:26
内覧左大臣の方が権力があったという噂が(´・ω・`)
821日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:11:25
右大臣藤原兼家が摂政になったときに
上に太政大臣藤原頼忠がいるのがうざったく右大臣を持した
これにより摂関は太政大臣より上の地位になった

それ以降は基本的に摂関になっていれば最高権力者なので
太政大臣を必ずしも兼任する義務はなくなった
ただし、兼家は頼忠が没すると空位になった太政大臣に就任、
「摂政太政大臣」の肩書で孫の一条天皇の元服の際に加冠した。

これ以来、天皇の元服のときには太政大臣が加冠するということが固定化した。
藤原道長も、孫の後一条天皇の即位とともに摂政になると大臣を辞したが、
後一条天皇の元服の時だけ一時的に太政大臣に就任して
「摂政太政大臣」の肩書で天皇に加冠した。

以降、歴代摂関は「天皇の元服の加冠」のときはそれを遂行するために
太政大臣に就任した模様。
822日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:14:26
具体的には何の権限があるのだろうか?
源氏物語でも偉そうにしていても会社の幹部みたいで大したことできていない気がする。
席次とか儀式とかぐらいしかないのかな。
823日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:16:30
出世しても偉そうにするだけ、失脚しても左遷されるだけ。
関白はどこまで出来たのだろうか。
政治は何をやっていたのだろうか。
気に入らない奴を始末も出来なかったのだろうか。
824日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:19:34
何かくだらないことにこだわっているようにしか見えない。
825日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:19:58
>>819
摂政は内覧を兼ねていて、文字通り天皇に代わって政務を執るという事。
そして太政大臣は天皇の師範であり天下の手本となるものだからね。
826日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:24:48
地位も名声も虚しい。
827日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:26:04
政務って具体的に何をしているのだろうか。
828日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:27:42
毎日働かずに部屋に籠もり好きな物を食べ飲み性欲の処理を出来れば他のことはどうでもいい。
829日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:32:54
>>821
細かいが、道長は摂政を早々に頼通に譲っているんで、後一条天皇
元服のときは単なる太政大臣だよ。摂政は頼通のまま。
830日本@名無史さん:2010/06/06(日) 23:35:21
>>826>>828
ん?おまい、どうした?
831日本@名無史さん:2010/06/07(月) 00:14:37
>>820
よりながさま(v_v)
832日本@名無史さん:2010/06/07(月) 00:17:04
>>831
チミ、男色好きか?
833日本@名無史さん:2010/06/07(月) 02:05:50
うろ覚えだが江戸時代の禁中並びに公家諸法度に
摂関>大臣>親王と規定されてるんでは?
朝廷側はこれが不満でたびたび改正を働きかけたんでは?
834日本@名無史さん:2010/06/07(月) 02:34:41
律令の太政大臣の職権は当初からかなり微妙
現実にこれに任じられたのは仲麻呂、道鏡(どちらも異常な政治状況下での、しかも相当職)
ノーマルな形で就任した良房にしても
政治的実権はむしろ弟の良相(右大臣)に在る様にさえ見える
だから機会を捉えて(応天門の変)摂政になったのでは?
その後兼家が摂政に就任した時兼官(右大臣)を辞任したのが後の席次の先例

この後は太政大臣は位貴っときも長老が就く名誉職化した
835日本@名無史さん:2010/06/07(月) 09:58:16
皇族より摂関家の子弟の方が幸せなのかな。
親王は仏門に入れられ子孫も残せずなんて庶民よりはましだけどオスマン帝国の皇族の次ぐらいに報われていないね。
836日本@名無史さん:2010/06/07(月) 09:59:36
光源氏は最初は四位で宰相中将で、中納言だか大納言になって内大臣、摂政、太政大臣だっけ。
837日本@名無史さん:2010/06/07(月) 10:00:38
公国を作ってその中で関白とか太政大臣の官制でやってみたいなあ。
ソマリアの領土とか手に入らないかなあ。
838日本@名無史さん:2010/06/07(月) 12:11:16
関白太政大臣
内覧左大臣兼左近衛大将
右大臣兼右近衛大将
内大臣兼蔵人別当
839日本@名無史さん:2010/06/07(月) 12:43:42
>>836
光源氏は多分摂政にはなっていないと思った
正妻の葵上の父親が摂政太政大臣になり冷泉御世を支え(正しくは義父&婿の2人タック体制)
義父亡き後は、その息子の内大臣(頭の中将)が政界のトップに立った(という位だから関白兼任か)
そもそも藤原氏でもない源氏が摂政に就けるのかという噂もあるが、
左大臣家の婿というのもあるし、そこは源氏マンセーの物語だからね
840日本@名無史さん:2010/06/07(月) 16:34:00
人から好かれるのがうらやましい。
841日本@名無史さん:2010/06/07(月) 18:32:01
>>837
海賊王になって軍事力でソマリアを征服。
ソマリア人は全部軍事訓練受けてるから、全員率いてソマリランドに侵攻すればいい。
842日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:18:53
>>835
摂家も、庶子に生まれれば似たようなもんじゃないかな。
運がよければどこかの養子になれるかもしれないけど。
843日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:25:19
>>835
でも昔は仏門に入ることも一種のステータスだったから、
親王や王のまま悶々としているより、名がある寺社に入って
仏に帰依するのも良い人生だったかもしれない。
844日本@名無史さん:2010/06/08(火) 02:35:46
門跡
845日本@名無史さん:2010/06/08(火) 09:45:33
還俗
846日本@名無史さん:2010/06/08(火) 16:49:47
藤原道長はみんなに愛されてましたか?
847日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:14:34
彰し様とニョカン紫しきぶは?
848日本@名無史さん:2010/06/09(水) 18:46:28
光源氏は失脚しても田舎に流されただけだし、
出世しても会社と同じで貴族達に偉そうにするだけ。
何でみんな出世したいのかな。
僕は食べ物が食べられて苦痛が無ければ満足。
849日本@名無史さん:2010/06/09(水) 19:42:43
光源氏は播磨あたりで在地の勢力を糾合して挙兵すればよかったのに。
850日本@名無史さん:2010/06/09(水) 19:53:40
公家でも、官位が昇進した時には、
武家のように、礼金を関係者?に納めるのかな?
851日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:19:35
藤氏長者とかが全体の財政を仕切ってんのかね
852日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:01:41
流言は、人々にとって重要な内容であっても、ある程度証拠が曖昧でなければ発生しない。
853日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:58:42
道長は同時代の関白だったという噂は本当ですか?
854日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:29:02
>>853
藤原道長は生涯一度も関白になったことはないよ。
孫の後一条天皇のときに摂政になったが一年半ぐらいで息子の頼通に譲ってしまった。
しかしなぜか道長の日記は自身は一度もなったことのない「御堂関白記」なんだよね。
855日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:38:05
左大臣時代が准関白みたいなものだった
856日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:43:16
>>855
左大臣は議定に参加し議長を勤める。
摂関は参加せず報告された議定の結果を天皇とともに審議するだけ。
道長は左大臣時代、自ら議定を主催して
必ずしも道長に好意的ではなかった一条天皇、三条天皇をけん制していたから
間違っても関白、准関白のような地位にはなかった。
857日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:53:25
>>856
ふ〜ん、では何故「関白記」なのだ?
858日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:16:10
摂政・関白、摂関不在時の左大臣について
なかなかわかり易い説明をしている

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1133170996
859日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:26:19
>>857
はるか後世の人間が勝手にそう呼んだだけ。
860日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:42:27
>>857
そもそも日記の名称は没後に勝手に付けられるもので、生前にタイトルが決まっている方が少数。
861日本@名無史さん:2010/06/13(日) 09:55:43
>>815
幕末の頃だと准大臣>従一位>大納言って序列で、
大納言中特定の家柄で功績(単なる年労含む?)が従一位到達可能。
その中でさらに選ばれた家系なら准大臣も可能って感じらしい。
それで、准大臣以上が公で従一位以下が卿、ここが境目だったらしい。
准大臣は本来的にあくまで大臣に準ずる礼遇をうけることだから、
分類としては大臣に準じて公になるのが自然だとは思う。
862日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:08:25
三公って別に正式の制度としての名称じゃなくて、通称とか雅号のごときものだから、
使う人によって定義が異なることもあり得る。
つまり定説はないんじゃないの?
そもそもが古代中国の概念上の用語で、本家中国でさえ一致していない。
律令制の規定の建前を重視すれば、令外の内大臣を除き太政大臣と左右大臣になるし、
実態を重視すればあまり意味がなかったり居ないことも多い太政大臣を除き、
左右大臣と内大臣になる。
三と言う数詞にこだわらず四大臣を指す用法もあり得たような。
使われている状況で判断するしかないんじゃないのかな。
それに厳密に定義せずに曖昧に使われている場合もあるだろうし。
863日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:15:58
太政大臣は最高政務官?である三公とは別立ての三師(天子の指導役?)が
モデルって説もあって、そっちだと三公は左右大臣ってことになる。
内大臣定着後は内大臣含めて三公。

大江朝臣匡房の「続本朝往生伝」に一条朝の人材としてあげられている九卿は、
八人らしく、三・九に具体的数詞としての意味はないのかも?
なおこの時は三公と言う表現はなく、上宰として道長と伊周があげられているそうだ。
864日本@名無史さん:2010/06/13(日) 14:00:02
御堂摂政記でいい。
865日本@名無史さん:2010/06/13(日) 16:40:35
>>864
おい、そうだよなw
866日本@名無史さん:2010/06/13(日) 20:33:04
テストや試験で御堂関白記が正解のところを法成寺摂政記とか法成寺入道左大臣記とか書いたら×になるのかしら…。
867日本@名無史さん:2010/06/13(日) 22:01:24
洒落を抜きにして今の学校教育ではリャオトン半島を遼東半島と書くと×にされるらしい。
GHQ占領下の漢字廃止政策の延長上にしかない中国地名のカタカナ表記を数年前から徹底しているらしい。
868日本@名無史さん:2010/06/13(日) 23:04:40
では、「金塊和歌集」を「鎌倉右大臣和歌集」と書いても正解なのか
869日本@名無史さん:2010/06/13(日) 23:27:21
・・・・・は京都の北条氏の拠点である六波羅探題を攻めてこれを滅ぼした。

・・・・・の答えに源高氏って書いたら×だった。
870日本@名無史さん:2010/06/14(月) 00:37:04
源高氏はダメだろう。せめて足利高氏で。
871日本@名無史さん:2010/06/14(月) 01:41:36
なんで源高氏はダメなの?
872日本@名無史さん:2010/06/14(月) 01:45:53
なんとなく「源高氏」でググってみたら、
ちゃんとWikiの足利尊氏がトップに出てきた。。。
グーグルすげぇー・・・・・

高校の先生より頭いいんじゃないか
873日本@名無史さん:2010/06/14(月) 01:53:53
友達は大学のテストで九条兼実と書いてアウトだったと。藤原兼実が正しいんだとさ。
874日本@名無史さん:2010/06/14(月) 05:55:37
>>867
中学の歴史は「リャオトン」表記だが、
高校の歴史は「遼東」表記。

山川の教科書、見てごしない。
875日本@名無史さん:2010/06/14(月) 08:32:18
>>868
金塊じゃなくて金槐和歌集
876日本@名無史さん:2010/06/14(月) 09:34:21
>>874
漢字は駄目、100%リャオトン表記で行くっていうのなら、
遼東が×でも理屈が通るけど、
>>874方式で×は理屈が通らない。
理屈はどうあれとにかく暗記しろ、疑うなってことだな。
877日本@名無史さん:2010/06/14(月) 13:11:32
道長が左大臣として廟議に列し続けたのは次席の顕光が
無能すぎたからではないか。
878日本@名無史さん:2010/06/14(月) 18:03:23
今日、エクセルの技能検定があったんだが、
セル結合中央揃えの問題でセルに「太政大臣」って入力してあった。
なんでここで太政大臣?って笑らけてその後集中力がなくなったよw
879日本@名無史さん:2010/06/14(月) 18:46:34
あれだけ無能と書かれてるんだから、確かに儀式作法に暗かった面はあるんだろうけど
それでも顕光は道長全盛期に左大臣までいってるんだよね。
案外頭が良くて尻尾を掴ませない世渡り上手だったのかも。

あと死後に祟ったというのも、単なる無能者では考えにくい。
周囲に馬鹿にされて軽侮されるようなダメ男が怨霊になるってのもおかしいと思う。
880867:2010/06/14(月) 20:15:51
>>874
説明が足りなかったが、主に地理教科書の話です。
ただ、辛亥革命以後の歴史分野にも広がっているらしいです。
881日本@名無史さん:2010/06/14(月) 21:39:22
若い頃(30歳頃)に五位蔵人や蔵人頭を務めているんだけど、
その当時はぼろを出したと言う話はないようだ。
道長時代になると当時としてはかなり高齢になっているので、
ある程度ぼけが進行していた。
そんな可能性もあると思う。
本当のどうしようもないぼんくらなら、いくらの関白の子でも、
蔵人頭に任命したりはしないと思う。
882日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:01:11
>>881
顕光については、それ以外にも、弟朝光が在世中、
弟に官位を抜かれていたことでぼんくら説がある。
顕光は関白通兼の長男、母は親王の娘、妻は内親王、
と兼通の嫡男として申し分なく期待は大きかったはずなのに。
姉妹の円融天皇中宮こう子も、弟で次男の朝光のほうを頼りにして、
里帰りするときには朝光の邸へ行ってしまっていたらしい。
朝光は天然痘で死んでしまったが、このとき朝光が大納言だったのに対して
兄の顕光はまだ中納言だった。

全く政がわからない出来損ないというほどでもなく、
流罪になるような失態も侵さなかったが、
大臣となるにはやや欠けていたというところか。

883日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:19:42
同じく母親が親王の娘とはいえ、顕光の母は皇統の主流から外された
陽成天皇の系統、朝光の母は主流になった醍醐天皇の系統のようだ
から、同列ではなかったんじゃないかな。
884日本@名無史さん:2010/06/14(月) 23:53:19
>>883
顕光の正室は村上天皇の第五皇女盛子内親王。
密通で手に入れたわけでもないのに
嫡男でもない男に内親王が嫁ぐというのは考えられない。
一方、朝光の妻は重明親王女で格は劣る。
最朝光も若いころはたいして出世してないんだよね。
期待していた顕光が30近くなっても才覚が伸びないというので
24歳の朝光が参議に抜擢され、出世を重ねたんじゃないのか。
元服のあたりから朝光を嫡男扱いしていた形跡がないので。
885日本@名無史さん:2010/06/15(火) 00:12:22
>>884
朝光、顕光が公卿になったのは、兼通が内覧、関白になった頃だから、
顕光が若い頃には、才覚云々以前に引き立てること自体ができなかっ
たんじゃないかな。なにしろ、父親の兼通自身が権中納言なんだから。
後、子女の年齢からみると、朝光と重明親王女とは朝光が公卿になる
前に子をなしているようなのに、顕光と盛子内親王の間の子は顕光が
中納言になった頃以降の生まれのようだから、妻の身分だけではなん
とも言えないと思う。
886日本@名無史さん:2010/06/15(火) 00:35:37
>>885
「大鏡」に朝光が兄顕光の官位を超えたことが特筆するべき珍しいこととして
出てくるから、それは違うだろう。
朝光が嫡男なら、庶兄を超えて出世するのは当たり前だからだ。
ちなみに、大鏡では兼通の息子としてまず顕光を、それから朝光を紹介いている。
大鏡は嫡子→庶子、兄→弟の順で書くので、顕光が嫡男だろう。
顕光と朝光は年齢が開いているので、顕光の母と通兼の結婚が先。
元平親王女が正室としてあったのにそれを追い落として有明親王女が
正妻になったというのも不思議な話で特別な事情もかかれていなことから
最初に結婚した顕光母が正妻だったのだろうと思う。
大鏡によれば中宮こう子も元平親王女なので、こちらが正妻で問題ないかと思う。
887日本@名無史さん:2010/06/15(火) 00:55:34
>>886
明白に庶子の扱いでなくとも、陽成の孫の子と、醍醐の孫ので当今の姪の子
では、本人の才覚以前の扱いが違って当然だと思うんだけど。
村上天皇との親疎は全く違うんだから。
後、>>885の前半、間違っていますか?顕光、朝光とも公卿に列して出世し
はじめたのは、兼通が内覧→関白になってからであり、それまでの時期は
顕光の才覚以前の問題だと思いますよ。
父親が宰相→権中納言にやっとあがったばかりの状態で子が宰相に
というのは、当時の兼通の立場からしてもありえないはなしだし。
まあ、「それは違う」の指摘は>>885ではなく>>883なんだろうけど。
888日本@名無史さん:2010/06/15(火) 01:30:38
> 特筆するべき珍しいこととして出てくる
少なくとも書き方としては
>兄の大臣、宰相にて御座しけるほどは、この殿は中納言にてぞ御座しける。
>ひき越され給ひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚え
>にて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめき給ひき。
単に兄を越えたのはすばらしいことだ、と書いているだけのようだけど。
後、師輔の子を見ても、伊尹、兼通、為光、公季、兼家と兄弟順に記載され
ているだけですね。まあ、上の同母兄弟たちと、内親王を母とする下の
二人とは年が違いすぎるということなんだろうけど。
889日本@名無史さん:2010/06/15(火) 05:12:09
質問ですが、
中東や中国だと弟を君主にして兄が実権を握るというのがあったけど、
日本ではどうなんだろう?
庶子とかで母の身分が低いと実権も握れないかな。
890日本@名無史さん:2010/06/15(火) 05:13:35
源氏の君と十の宮の関係がそうなのかな?
摂政内大臣だった気がするけど、彼は摂政にはなってないんだっけ。
891日本@名無史さん:2010/06/15(火) 17:49:09
摂政になるには皇族に生まれなければならないなんて。嫌な世の中だ。
892日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:02:21
>>887
陽成の孫という顕光の母の出自がそこまで悪いと断言する意味が不明。
同時代には時姫など受領の娘が大臣の正室である例は多かったのに。
藤原道長の妻源明子など、醍醐天皇の孫であるのに第二夫人だった。
道長の第一夫人は宇多天皇の曾孫の源倫子だったって、解ってます?

顕光と盛子内親王の結婚が朝光存命中のことであるのはわかりますね?
村上天皇の内親王で冷泉上皇や円融天皇の異母妹が、
嫡男でもない男に嫁ぎますか?
ましてや、顕光は円融天皇中宮の同母兄であったというのに。
893日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:33:23
>>892
そのときの天皇である村上天皇の系統は、陽成を皇位から追放して
天皇となったんですよ。時の天皇の姪とは親疎の差が大きすぎます。
光孝天皇の皇統の正当性は、「陽成天皇がいかに皇位にふさわしく
ない人物だったか」という点によっているんです。
後、道長の夫人に関しては論外。源倫子は時の一上である左大臣
源雅信の娘、源明子は安和の変で失脚した元左大臣(かつ故人でも
ある)源高明の娘。天皇の子だ孫だという以前の立場が違いすぎます。
顕光と盛子内親王に関しては、既に「関白の息子」の立場に立った後
の話。朝光と重明親王女の方は、「『冷や飯を食わされている一宰相
→やっと権中納言』の子」の時代に既に成立しています。朝光が庶子
扱いであったとすれば、有り得ない話ですよ。
才人として知られた朝光と顕光では、才幹にも当然差があったんで
しょうが、特に若年の頃の顕光の出世の遅れに関しては、本人の才能
以前の問題の方が大きかったんじゃないか、と思いますが。
894日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:58:23
>>889
崇徳譲位のときの騒動からして、無理だろうね。
即位したのが「(擬制的)子」か「弟」かで立場が全く違うという
例だし。
895日本@名無史さん:2010/06/15(火) 22:14:05
>>894
勉強が足りない。
896日本@名無史さん:2010/06/16(水) 14:48:16
長男が後を継げるわけじゃないんだよね。
初代から末子相続だよね。
二代目の母を兄が娶っているし、やはり遊牧民族だったのかな。
897日本@名無史さん:2010/06/16(水) 21:00:59
なまじ母の出自が良くても父の晩年の子で、兄貴と親子ほども年が違い、
兄貴が既に相当に出世してたりすると、
疎外されて出世できなかったりすることもある。
嫡男って言っても、それを決めた人が死んだり失脚したりすれば、
あまり意味が無いとも言えるだろうな。
898日本@名無史さん:2010/06/16(水) 22:27:54
>>897
そのあたりは本当に運の問題だから難しいんだろうね。遅すぎてもタイミングを
外すし、かといって、特に中期頃までは兄だからといって必ずしも有利でないと。
確か保立先生の「平安王朝」だったと思うけど、家格確立前、兄弟間での争い
があった時期には、父の官位が低い時に出仕した兄たちが父の出世と共に消
耗してしまうケースが見られるというような記述があったように記憶しています。
で、親が高位高官についた後で、最初から苦労なく官歴をはじめた弟が、果実
を享受する立場になると。

もちろん、常にこうだという話ではないだろうけど、父親がお茶を挽いているあお
りで出世が止まっている間に弟に追いつかれてしまった顕光などは、かなりババ
を引いた口なんだろうという気がするね。もちろん、その後の出世には本人達の
才覚が効いているんだろうけど。
899日本@名無史さん:2010/06/18(金) 06:05:51
家柄が良いのは徳川や足利みたいな将軍家?
公家の筆頭である近衛家や九条家?
出雲の神主で皇室より古い千家家?
家元などの家?
旧皇族の家?
天皇の兄や姉の子孫の家?
大企業の創業者などの家?
お寺などの家?
900日本@名無史さん:2010/06/18(金) 06:08:52
皇室より百年古い家柄を誇る出雲大社の千家氏
皇室の親戚で公家の筆頭の近衛氏
征夷大将軍として事実上の日本国王だった徳川氏
浄土真宗の法主の子孫である大谷氏
901日本@名無史さん:2010/06/18(金) 09:35:38
>>899
婚姻関係からみてもそうだよね
道隆の正室は高階氏で道長の正室は源氏の大臣
902日本@名無史さん:2010/06/19(土) 20:02:18
>>893
陽成天皇が阻害されていたのならば、
なぜその孫娘が顕光の最初の妻になれたのか不明ですね。
陽成天皇には光孝天皇の内親王が嫁いでいます。
そこまで皆から忌まれ、その系統が嫌がられていたのならば、
なぜ光孝天皇が内親王を差し出したのか。


それから、朝光の存命中に顕光に内親王が嫁いでいることの
説明をお答えになっていないようですが?
こちらを中心にお答えください。
903日本@名無史さん:2010/06/19(土) 20:19:58
>>902
> 顕光と盛子内親王に関しては、既に「関白の息子」の立場に立った後の話。
既に答えていますが。
道長の息子でも源倫子の子に比べ源明子の子は明らかに出世が遅れて
おり、先に元服した兄頼宗は、弟教通にあっさりと追い抜かれていますが、
それでも右大臣まで昇進している。時の関白の息子とはそういうものですよ。
で、兄に内親王が嫁いだのは「関白の息子」になった後、弟は「さえない一
宰相の息子」の時点で女王との婚姻成立。どちらが重視されていたかは
一目瞭然です。
後、
> 陽成天皇が阻害されていたのならば、
陽成天皇が「内裏で自ら人を殺した暴君」として忌避されていたというのは
常識レベルだと思っていたけど、違っていたのかな?光孝、宇多の立場で
は、宇多に対して「あいつは元々家来じゃないか」と言い放つような上皇を
慰撫する必要があったんだろうけど、それをもって「忌まれていない」とする
のは常識はずれですよ。
はるか後世の「後陽成」ですら、なぜ「暴君の代名詞である陽成なのか」が
話題になる存在なんだから。
904日本@名無史さん:2010/06/19(土) 20:37:30
いずれにせよ、形式上はどちらも「親王の娘の子」であっても、
「人殺し」として皇統から追放された天皇の孫と、醍醐天皇の
孫で当今の姪という立場の差があって、なおかつ同列に扱わ
れるなんてことは有り得ない。
それこそ、自分自身が挙げた源倫子(現職左大臣の娘)と
源明子(流罪になった故左大臣の娘)のように、見かけは同じく
左大臣の娘でも、父親の立場によって子の扱いまで全く違って
くるというのが実態ですよ。
後、
> ましてや、顕光は円融天皇中宮の同母兄であったというのに。
はっきりしているんでしたっけ?手元の日本歴史大事典では、
「有明親王の女昭子女王(元平親王の女能子女王との説もある)」
となっていたんですが。
905日本@名無史さん:2010/06/19(土) 23:27:31
高階氏は大僧正
906日本@名無史さん:2010/06/20(日) 00:24:45
>>901
源倫子の父親(源雅信)は良い顔をしなかったという話があるね。
いくら父兼家の子でも、四男だか五男だかでは不釣合いだとい
うことで。母親(藤原穆子)が道長を強く押したために婚姻が成立
したといういきさつのため、道長は一条尼上に頭が上がらなかっ
たとかなんとか。
907日本@名無史さん:2010/06/20(日) 04:43:49
道長は運がよかっただけ。
908日本@名無史さん:2010/06/20(日) 08:54:58
>>903
あくまでも藤原良房家(この当時に摂関家の概念があったとは思えないので)の意向は承和の変で確立された嫡流継承とかつての嵯峨・淳和流のような両統迭立状態の回避。
本来は仁明嫡流の陽成の子孫が皇位継承を行うのは藤原良房家を含めた貴族社会の合意事項で、例の事件があったとしても陽成に男子がいればその子供が皇位を継がせるのが筋だとされていた。
ところが、事件当時はまだ陽成には男子がいなかったため、基経はそれほど在位が長くならないであろう高齢の皇族(光孝)を即位させて事態の先送りを図った。ところがすぐに死んでしまったためにかつて源融の皇位継承を拒否しながら、源定省の継承を行った。
こうした矛盾が貴族社会の間で不満を生み出す危険性があったし、宇多の即位後に陽成にも男子が生れたから、理屈としては「宇多は陽成の息子に皇位を返上すべきだ」という意見がいつ噴出してもおかしくなかった。
そのために、光孝・宇多は陽成への機嫌をとりつつ、自己の権力強化を図る必要があった。光孝・醍醐の藤原氏との連携路線も、基経急死後の宇多の菅原道真の登用(藤原氏との距離設定)もその延長上にある。
ちなみに陽成はあくまでも“病気による自発的退位”であって廃位じゃないから子孫の皇位継承は否定されていなかったし、日本三代実録で書かれているのは、宮中で殺人が発生してそれが天皇によるものだったらしいということだけで、事故・過失の可能性も十分にある。
(天皇が狂気だったと言うのは、退位後の言動からの推測であって天皇在位時からそういう状態であったという証拠は実は全く存在しない→むしろ、一連の退位騒動の結果、精神に異常をきたした可能性もある)
909日本@名無史さん:2010/06/20(日) 11:29:05
道長は征夷大将軍にはならずに摂政になる道を選んだ。賢い選択である。
910日本@名無史さん:2010/06/20(日) 12:26:30
>>908
陽成が狂気だったかどうかという問題ではないし、それが問題にされたと
いう話も聞かないが。
> 宮中で殺人が発生してそれが天皇によるものだったらしいということだけ
これだけで、「天皇にふさわしくない」というには十分だよ。
そもそも、陽成系排除の根底には、基経と陽成の母高子の兄妹間の対立
があったという話もある。母后と関係が悪ければ、外戚としての権力は振る
いようが無い。
一方、光孝、宇多の系統は基経に頭が上がりようがない。
どちらが基経に都合が良いかは明白だよ。
それから、
> 宇多の即位後に陽成にも男子が生れたから
陽成第一皇子(源清蔭)は陽成退位の年(元慶8年)の生まれだよ。本当に
> 陽成には男子がいなかったため
という理由での先送りなら、宇多即位は有り得ないという話になる。
911日本@名無史さん:2010/06/20(日) 12:48:15
>陽成第一皇子(源清蔭)は陽成退位の年(元慶8年)の生まれだよ。
天皇の長子だからって、紀氏の娘の子供が皇位を継げるなんて、冗談で言っているんだよな?
912日本@名無史さん:2010/06/20(日) 12:50:48
身分が低いと長男でも全然扱い悪いよね(´・ω・`)
913日本@名無史さん:2010/06/20(日) 12:58:41
>>911
周知のとおり、光孝の子は全員「源氏」で皇位を継ぐ資格のある
ものはいなかったんだが。無論、奈良時代なら別だけどね。
「無理を押して強行」という点では、「源定省」以上のものはない。
陽成系排除の流れなんてのは、常識のレベルだと思っていたん
だけどね。宇多なんて、高子密通の噂を、事が起きたとされた
時期の何年も後になってからわざわざ取り上げて「皇太后」を
廃するなんてことをやっているくらいだ。
顕光誕生の頃には称号を戻されてはいるが、母子ともに貶めよう
という当時の流れを如実に示している。
914日本@名無史さん:2010/06/20(日) 13:26:11
>>911
卑母というのは決定的に不利な条件ではあるが、他に有資格者がいない
状態、「唯一の皇子」という状態で排除するのはたやすいことではないよ。
有力者の娘との間に男子がいなかった平城天皇が、伊勢氏との間に生ま
れた高岳親王を嵯峨の皇太子に立てた例もある。
翻って源氏からの継承というのは、伝承によれば基経自身がほんの三年
前に「有り得ない話だ」と切り捨てた話で、本来なら蒸し返すこと自体が
おかしい訳だから。
915日本@名無史さん:2010/06/20(日) 14:09:28
陽成系排除云々を抜きにしても、当時の天皇との関係を考えれば
兄弟のどちらが有利かというのは明白だと思うが。
これも最初から書いている話だが、顕光の母方祖父である元平親王
は、村上天皇からすれば父親同士が又従兄弟という遠い関係なの
に対し、朝光の母方祖父である有明親王は村上天皇の兄弟。
おまけに、父兼通の出世が止まっている間に、弟との年齢差による
アドバンテージも無くなっているし。
親王の孫という顕光の血筋は、庶子扱いするには重すぎたとは思うが、
同列で再スタートとなったとき、現天皇の兄親王の孫に比べて不利
だというのは否めないだろう。
916日本@名無史さん:2010/06/20(日) 22:35:44
陽成天皇には同母弟貞保親王がいた他、基経外孫の貞辰親王など
皇位を継いでおかしくない弟が何人かいたのに、誰も候補とされること
なく、遠縁の光孝が天皇となっている。
確か保立先生の本だったと思うが、「不仲な妹高子の影響を完全に排
除するため、自分の外孫も含め清和系全体を排除したのではないか」
という推測があったように記憶している。
皇太后の子である兄親王を差し置いて外孫に皇位を継がせるのが困難
なので、あきらめたのではないか、と。
917日本@名無史さん:2010/06/21(月) 13:15:18
陽成天皇のスキャンダルで、系統全体が宮廷社会の信任を失い、
とにかく皇統から離れていればいる程良かった。
そんな説を唱えている人もいたな。
さすがに天武系まで戻るって話にはならないだろうけど。
918日本@名無史さん:2010/06/24(木) 14:07:40
道長はなぜ征夷大将軍にならなかったのだろう。
919日本@名無史さん:2010/06/24(木) 16:24:14
当時の上級公家から見たら近衛大将以外の将軍職なんかカスだから
920日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:57:13
摂関になれたんだから将軍になんかなる必要なし。
921日本@名無史さん:2010/06/24(木) 20:16:02
征夷大将軍は、攘夷にかつやくした藤原隆家にこそ贈るべき!
922日本@名無史さん:2010/06/24(木) 20:28:55
将軍職が最高実力者としての権威を持ったのは鎌倉からじゃないの?
923日本@名無史さん:2010/06/24(木) 21:47:16
そんな先例が無かったから。
桓武・平城時代なんか当時の貴族には先例の内に入らない。
藤原朝臣忠文は征夷大将軍じゃないしなあ。
またそもそも征夷大将軍を任命するような事態が生じていないから。
さらに言うと、仮にそう言う事態が生じても、誰か参議クラスが押しつけられるだけ。
当時は単に面倒ごとを押しつけられたと言う感覚で、別に名誉も実利もないし。
924日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:35:44
幕府を開く(軍政を敷く権利)権利なんて大臣として
政治行う限り必要無いし。
925日本@名無史さん:2010/06/26(土) 13:28:32
事実上の日本国王である者の肩書が変わったからですよね。
摂政・関白→太上天皇・太上法皇(治天の君)→鎌倉殿(征夷大将軍)
926日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:21:31
太政大臣は摂政皇太子みたいな地位だったのに摂政より下位に転落し、
関白より上座だったのに下座に追い落とされ、
最終的には職掌もない名誉職になってしまった。
927日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:24:51
太師
法王
太政大臣禅師
太政大臣
治太政官事
928日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:26:31
長女を帝に嫁がせ
長女の産んだ子に次女を嫁がせ
次女の産んだ子に三女を嫁がせ
とやっていったらもう皇族じゃなくて藤原氏だよね
929日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:27:41
殿下は王への敬称なのに
親王は王より格上なのに
930日本@名無史さん:2010/06/26(土) 14:31:20
近衛の苗字が欲しかったなあ(´・ω・`)
931日本@名無史さん:2010/06/26(土) 15:15:10
>>928
だから「男系」が重要なんだろうね
932日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:54:39
「男系」が重要なら自分の「母系」は何の意味があるのだろう?
両親が離婚すれば大体が母親に引き取られるものなのに。
933日本@名無史さん:2010/06/26(土) 16:56:19
そんなことを言っているのは
時代遅れな日本を象徴しているね
934日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:03:45
>>932
平安時代もそうだよ。
娘を天皇に嫁がせて生まれた子供は母方が養育する。
母方の祖父や叔父たちの財力によって成長した皇子は
即位した後も祖父や叔父たちに頭が上がらず母方一族が権力を握る。
男系は胤を借りるだけで、育つ場所は母系。
これが日本の伝統。
935日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:09:12
土は母系だもんな
936日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:13:05
母なる大地w
生あるものはみな母無くしては、とな
937日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:29:13
931は、「血の割合(生物学的)」では藤原氏が優位でも、
「皇族たる所以(人文学的)」はすなわち男系にある(自明の理だけど)
という意味で書いたんです。
母系も重要です。
938日本@名無史さん:2010/06/26(土) 17:36:34
天皇である事に優位性はあっても(最早そういう均衡すら危うい)
皇族である事は藤原氏に対して何の優位性もない
939日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:22:21
>>931の人気に嫉妬、
っていうかこのペースなら次スレは>>970くらいでたてればいい?
940日本@名無史さん:2010/06/26(土) 18:33:47
親王より摂家の者が上という凄まじさ(´・ω・`)
941日本@名無史さん:2010/06/26(土) 19:36:13
自民党は北朝鮮並みの統制国家を目指してる


  1.子どもへの方策
●甘えるな
●生かされて生きることを自覚せよ
●団地、マンション等に「床の間」を作る
●遠足でバスを使わせない、お寺で3〜5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
●地域の偉人の副読本を作成・配布する
●学校に畳の部屋を作る
●簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
●満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける
●有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制

  2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと
●バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う
●子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
●「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
●一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする
●文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす
●警察OBを学校に常駐させる
●企業は教育に関する書籍や地域の歴史文化に関する書籍を備えた父親文庫を設置する
●名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する
●マスコミと協力したキャンペーンを行う

http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html
942日本@名無史さん:2010/06/26(土) 23:40:12
>>939
そうだね
943日本@名無史さん:2010/06/29(火) 01:16:52
停滞することを考えると次スレはフツーに>>980位でいいかも
944日本@名無史さん:2010/07/02(金) 00:48:48
>>941
自民豚ども、マジ狂ってるな
民主もロクでもないが、こんなの見ると
まだ民主の方がましに思える。
945日本@名無史さん:2010/07/02(金) 08:18:18
>>944
こんなのにレスしているとは自演決定だな
946日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:27:27
>>941
保守とはそういうもんだ。
保守思想と経済界は共通の敵を抱えているから相性がいいと。
947日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:51:54
>>938
江戸期の皇族は右大臣未満内大臣以上だから摂家以外の公家にはほぼ勝っていると思えるんだが?
江戸期の清華は右大臣になるのは稀だしなっても何ヶ月かで辞めるから実質皇族よりも下だろう。
平安期の二品親王あたりの宮中序列はどれ位だったのだろう。
948日本@名無史さん:2010/07/05(月) 12:17:10
>>947
醍醐天皇皇子の兼明親王は、臣籍降下し左大臣にまで至ったところで
関白太政大臣・藤原兼通が実弟の大納言・兼家と対抗するために、
藤原氏内部において双方と対抗出来る立場にあった右大臣・頼忠を
味方につける必要性があり、そのために元皇族の源兼明を皇族に戻して
頼忠をその後任として昇格させる必要があった。
要するに藤原氏の圧力の下、親王に戻され二品中務卿に追い落とされた形だ。
それに憤慨した様子が『莵裘賦』に記されている。
立太子を目的としている訳でもないのに
極官の左大臣にまで昇進していたところ、二品親王に降ろされたことを恨みに思っているのだ。
親王としては数少ない一品を賜ったとされる説もある。
949日本@名無史さん:2010/07/05(月) 12:21:05
先ほどの投稿で
「醍醐天皇皇子の兼明親王は、臣籍降下し左大臣にまで至ったところで」の次に来る
「不本意な事に二品親王に戻された。」が抜けていた。スマソ。
950日本@名無史さん:2010/07/05(月) 13:02:31
>二品中務卿に追い落とされた形だ。

基本卿って4位相当でしょ?
左大臣からなら降格だよな。
951日本@名無史さん:2010/07/05(月) 15:31:23
天皇の皇子から臣籍降下で従四位下とかに落とされて暫くは辛酸を舐めることになっても
頑張って大臣にさえなってしまえば、天皇にならなかった親王よりも勝ちということだ。
ただし源大臣は藤原大臣の権力には敵わんだろう。

>>950
親王の位階は品位による。
952日本@名無史さん:2010/07/05(月) 15:40:43
>>951
三位中納言の公卿と四品の親王なら公卿の方が上と言う事?
953日本@名無史さん:2010/07/05(月) 15:47:53
摂関>三公>親王>内大臣の格はあるだろうが
力の無い凋落した四品親王が内大臣以下の下に置かれることもあるだろうね
954日本@名無史さん:2010/07/05(月) 15:55:10
親王が少なかった江戸期は内大臣以上だろうけど、庶子出家の法則が出来る前で親王が腐るほどいた時代は
臣下よりも下だった事もあるだろう。
955日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:02:05
      ,,r::::::::::::〈:::::::::)    ィ::::::ヽ
      〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
    ,'::;'::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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    }::::::::::::::::::::ゝ、::::::::::|∪|_ノ::;!
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    ';::::::::::::ト、::::::::::::::i^i::::::::::::/
      `ー--' ヽ:::::::::::l l;;;;::::ノ
【ラッキーレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
956日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:02:12
じゃなきゃあの藤原氏が黙っていないな
957日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:12:32
明治維新後の諸王の扱いの良さは異常。
公爵よりも明らかに上だろw
958日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:14:28
ああ、あの中世の民主党な
959日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:14:42
>>948
更衣腹の賜姓源氏が二品(一品?)親王になるなんて
こんなことでもない限りにありえんのに
一度甘い汁を啜るとえらく贅沢になるもんだな
960日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:20:53
でもどうせ子孫はもっと低い所から降下して先細り、没落したんでしょ?
醍醐源氏なんか嵯峨源氏以上に聞かないし
961日本@名無史さん:2010/07/05(月) 18:01:23
>>960
当然子供の代で源氏に、そして数代で消息不明
962日本@名無史さん:2010/07/05(月) 18:17:33
親王の息子は源氏だが大概次の代で消息不明になるよ
963日本@名無史さん:2010/07/05(月) 20:21:38
伏見宮も4世以内に臣籍降下すべきだったな。
賜姓源氏よりも血筋の劣る者たちを皇族と呼ぶには無理がありすぎる。
964日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:35:50
>>952
卿よりは親王の方が上だね。
道長の時代には、親王を左大臣である道長自身の上にしている(御堂関白記)
から、江戸時代にははるかに下降したということだろうけど。
965日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:06:55
>>964
よく御堂関白記の話をしているけど
道長の上に親王を置いたなんて事実はない
966日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:16:04
>>965
例えば寛弘四年四月二十五日の記事でも、親王の座は道長を含む
公卿の座の上に設けられているし、座に着した親王公卿を列記した
部分でも、
「中務親王(具平親王)、前大宰帥親王(敦道親王)、私、右大臣、内大臣、
東宮傳、(以下、参議まで列記)」
と記されているよ。(全現代語訳「御堂関白記」)
967日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:30:08
また始まったよ、親王厨が…
968日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:34:59
藤原氏の道長が招いた席上なら親王を上に置いてもおかしくない
親王は客人扱いなんだから
969日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:36:54
宮中席次が問題なんだよ
970日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:38:46
>>968
内裏の饗宴で、招待者は一条天皇だよ。道長ではない。
971日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:40:23
>>970
道長が書いた日記だからじゃね?
親王を先に記したのは
972日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:46:47
>>971
公卿の途中で親王を入れるのは可笑しいよな
973日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:53:27
あまたいる親王の下に道長なんてありえねーな
974日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:53:39
>>971
ほかの記事を読めばわかるけど、道長は出欠だの席次だのには非常にうるさいよ。
そもそも、当時の貴族の日記は、儀式のやり方やら序列やらといった前例を子孫
に伝えるためという意味合いが強いし、着座の記述は座次の順になっているよ。
(例えば、位階の関係で右大弁を左大弁の上に着かせたときは、その旨の記述
がある。)
この記事でも、「(両親王、道長、右大臣、内大臣〜)三位中将、源三位、右兵衛督
が座に着した」と、二十人の公卿を官位の順に全て挙げている。
道長の頃の親王は、基本的に天皇の子、兄弟だから、後世の「百年、二百年
遡れば天皇に行き着きます」という親王とは、扱いが違うのはある意味自然なよう
にも思えるけどね。
975日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:55:37
そりゃ公卿を官位の順にあげなければ変だろ
976日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:58:20
>>974
そういえば、前に上げられていた質問に答えていなくないか
一座だか一座宣旨なんたらの件
977日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:00:22
>>973
本人が日記で書いている事柄、しかも基本的には子孫以外に見せることを
予定していない(+子孫には、前例として引継がれる)ことを否定する根拠が、
>>ありえねー
ですか。
>>975
繰り返しだが、当時の貴族の日記というのは、前例を伝えるためのものだ。
内裏の饗宴の座次として、「謙遜した」と称して親王の下の座であったと
道長が書けば、それが前例になってしまうんだよ。
実際、道長自身も儀式や座次の前例を調べるために、各種の日記をあた
ったと記しているし。他者に見せるためのものではなく、子孫に儀式を伝える
ための「業務資料」で、座次を勝手に変えるなんてことは、それこそ有り得な
い話だよ。
978日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:01:19
>>977
ごめん、何なのこの人w
979日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:02:45
>>977
そんな前例があったらとっくに「平安時代はこうでした」という話になっていないか?
980日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:03:48
>>948の話もおかしくなるね
981日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:04:21
>>976
「一座の定義」が事実に優先するという、あの噴飯物のたわ言かね?
一座の宣旨が誰にどう出されたかという話に関しては、既に答えて
いるよ。それに、百歩譲ったとしても、「一座」でない大臣と親王の座次
の問題に、摂関にしか出ない一座宣旨がどう関係しているのかという
点についても、聞いてきた奴はだんまりだったね

で、そもそも、道長はほとんどの期間を左大臣で内覧という立場で
すごしていたわけだが、その道長と「一座」がどう関係するんだね?
982日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:04:35
別に>>977の味方するわけじゃないが、
「何なのこの人」はないんじゃないか?
間違ってるんならどう間違ってるか、論理的に書くべきだろ。煽りでなくて
983日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:05:39
>>981
通常、宮中席次の一座には上席の大臣が座るからだよ
984日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:06:38
>>979
だからこそ、長年親王と三公の座次は争われていたんだが。
「大臣に親王が逆らうなんてありえねー」という論理で否定
していた奴はいたけどね。
最終的に「禁中並公家諸法度」では、平安時代よりはるかに
古い、「藤原不比等と舎人親王」の前例を持ち出してきて
おさめたわけだけど。
985日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:08:09
>>984
あれは、「古くは」藤原不比等と舎人親王から始まりという意味だろ
986日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:09:52
>>983
なるほど、だから「道長より上に親王が座することは『有り得ない』」。
「だから、道長が子孫に伝えるために記した日記には、実際の座次
ではなく、(置き換える意味もない)親王の座を自分の上においた」
という論理になるわけだね。

大体、「大臣の方が親王より上座」ということが常識だったなら、
わざわざ宮中行事を日記に記録するときに、自分の上に親王をおく
意味も理由も存在しないよ。
987日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:13:32
>>980
実権のある左大臣、一上から、一応は尊貴な立場といいつつ何の権限もない
お飾りの親王に移されるのは、必ずしも喜ばしくはなかろう?文字通りの
「敬遠」「棚上げ」なんだから。
親王自身は形上尊ばれても、子や孫が零落するということが目に見えている
わけだし。
988日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:14:27
>>986
それは有職故実にも記載され研究の成果でもあるからね

>わざわざ宮中行事を日記に記録するときに、自分の上に親王をおく
意味も理由も存在しないよ。

だからそれは親王を先に羅列しただけだって
989日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:17:02
左大臣は一の人とも呼ばれているからな
その所以も無視出来ない
990日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:24:29
一の人=朝廷の儀式で第一の席につく人
991日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:29:16
兼明親王の場合は
「左大臣から二品親王に降ろされた」となっているね
992日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:29:51
>>988
> だからそれは親王を先に羅列しただけだって
親王・公卿を区別無く座次の順に列記している中で、
「親王だけは別」とする理由はなんですか?
思い込みでなく、まずは当該の記事を読んでからに
すべきでしょう。
史料に実際に記述されている順序を、「○○の筈だから、
道長が勝手に実際の順序を変えて記述したんだ」という
のは、説得力がないよ。
993日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:31:17
>親王・公卿を区別無く座次の順に列記している中で

と本当に言い切れるのか?
994日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:35:41
>>993
「現代語訳 御堂関白記」の最初のところに注記があるが、道長が
改行なり段落を改めているところは、そのことがわかるように記述
されている。
で、問題の部分は中務親王〜末席の右兵衛督まで、そのままだら
だらと記述されている。特記なり特別扱いというような記述じゃない
ということだよ。
995日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:38:04
>>994
「一の人」と「一座」の定義を否定するのか?ってさ
996日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:40:31
それは>>993の答えとしては不十分じゃないかね。
997日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:42:14
996は994へ
998日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:43:02
>>995
後付の「定義」が史料を否定するというのは、実に新しい考え方だね。
散々既出(偵子内親王着裳、一条天皇元服、等々)も、全て「道長が
事実を曲げて書いたんだ」と簡単に断言できるようだし。
根拠は、「後世の定義がこうなっているから」だけのようだけど。
999日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:44:00
>>998
自分の勝手な解釈より充分信頼出来るものじゃないか
1000日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:44:38
>>999
記事に書いてあることがらをそのまま書くのが「勝手な解釈」か。
実に斬新だ。
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