武家社会の基礎を作ったのは泰時になるのかな
足利、徳川も三代将軍位迄は朝廷に高圧的に臨んだが、時代が下るにつれ朝廷の伝統的権威に、すがる様になった。
ペリー使節応対の江戸幕府狼狽振り、優柔不断の情け無いこと。
元使応対の鎌倉幕府の毅然とした態度。
徳川氏と北条氏、格の違いだな。
>954
足利将軍で朝廷に対して高圧的だったのって誰だ?
義満? あまりそれらしい事例が思い浮かばない。
尊氏 幕府創設の為、南北朝両天皇を存分に利用
義満 恐れ多くも皇位簒奪未遂
二人とも天皇を軽くみてるの伝わってくる
958 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 01:54:13
>>955 元vs鎌倉幕府
アメリカvs鎖国幕府
前者のほうが楽そうだけどなぁ。
情報収集もできてたし。
江戸幕府に抜かりがあるとするなら、
情報収集がものすごく後手になっている事と、
責任の所在が不明瞭な点。
↑オランダからペリー来航を通知されているにも関わらず、何の対策も打てずに無駄に日々を過ごす。
徳川の侍は農民から年貢を強奪するしか能がない寄生虫。
鎌倉幕府滅亡時に、守邦親王はなにやってたのかな?
屋敷で膝抱えてガクブルしてたんかなw
鎌倉幕府の将軍って惨めだなあ
暗殺されるか、傀儡に甘んじるかの二者択一・・・
961 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 18:10:34
>>960 これ以前の親王将軍って、将軍をやめさせられると都へ送られて
都で余生を送ってるんだが、守邦親王って鎌倉幕府が滅亡しても都へ帰ってないんだよね。
鎌倉で出家して、同年、鎌倉で没している。
そっちのほうが気になるよ。
傀儡であったればこそ、都で優雅に暮し幕府に責任をとらなくてすんだはずの親王将軍が、
何故に鎌倉にとどまって鎌倉で死なねばならなかったのかね。
962 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:12:51
やっぱり消されたんだろ、足利か新田に>守邦
963 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:27:41
鎌倉時代は隠然たる勢力を持っていた朝廷も、室町時代は武家政権が圧倒し、武家の支援無しでは存続出来ない有名無実な存在に落ちぶれる。
964 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:02:06
>>961 >守邦親王って鎌倉幕府が滅亡しても都へ帰ってないんだよね
そうですね やはりそれ以前の親王将軍と違って鎌倉幕府の長として責任をとったんじゃないでしょうか?
傀儡ではあっても幕府の長であったわけですし
天皇を支持する奴って、劣等感の塊で、見てて情け無くなるカスが多いよね。
>962
いや、むしろ、自派以外の皇統(持明院統だけじゃなく、大覚寺統の中の対抗馬も含めて)への抑圧が強かった後醍醐天皇が帰京を認めないでどうにかしたからだろ。
公家や皇族にも厳しい人だったからな。
967 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 04:20:35
北条は滅亡したけど、都市としての鎌倉はまだ生きてたから、
なんとなくみんな暮らしを再開して、
「俺達の処遇ってこれからどうなるの?」
と思いつつ、
でも建武政権もバタバタしているうちに、
ガッカリしつつ死亡。
か、も、よ。
968 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:38:49
>>966 守邦親王は、後深草院の皇子で鎌倉将軍先代の久明親王の子だから、
皇統で言えば持明院統(北朝)の傍流。
鎌倉幕府とそれに続く足利尊氏の支援を得て京を実効支配していたのは
北朝だから、どちらかというと守邦親王を帰京させなかったのは北朝内部
で権力闘争の勢力として台頭されると都合が悪かったからじゃないか?
正一位、従二位の官位は献金したり、五摂家なら高齢になれば普通に日常生活してるだけでも授受。
ノーベル賞に比べりゃ何の価値もない。有り難がる必要無し。
以上、師直の主張でした。
971 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 16:37:00
>>969 鎌倉幕府初代将軍の宗尊親王は、後深草天皇や亀山天皇の異母兄で、
後嵯峨天皇が即位後初めて生まれた男子だったということで
(後嵯峨は即位前に男子2人を作っているが、いずれも仏門に入れられてた。
後嵯峨自身が寺に入って出家する予定だったので)
特に後嵯峨天皇の生母が引き取って育てていた。
帝位につく可能性と言えばこちらの皇子のほうが高かったのに
宗尊親王は都へ返されて都で没している。
守邦親王は傍流の傍流。
天皇の孫なので本来臣籍降下になるところを(当時、王はなくなっていたので)
鎌倉幕府の恩によって親王宣下をうけたような人物だった。
都へ帰っても即位の可能性は全くなかったし、その可能性はない。
このスレも、見事に生き返ったな。W
悔しいか?ファビョリ。WWWWWWWWWWWWW
北条氏は、頼朝の血を引いた女に子供生ませて、源氏名乗らせて
将軍執権兼任って方法は取れなかったんかな?
974 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 17:36:39
>>973 北条政子が許さなかったみたいだよ。
実は、2代将軍頼家とその長男一幡が滅ぼされ、
続いて子のなかった3代将軍実朝と、頼家の二男公暁が殺された後も、
頼朝の血を引く女子は一人だけ生きていた。
有名な竹御所源鞠子で、2代将軍頼家の遺児。
頼朝の跡を継ぐ唯一の正統な孫として、祖母の北条政子が引き取っていた。
政子は、実朝の後、京から摂家将軍の九条頼経を迎えると、
竹御所を15歳年下の頼経の御台所とし、頼経13歳、竹御所28歳の時に結婚した。
5年後、竹御所は頼経の子を出産するが、男子を死産、竹御所本人も難産で死亡。
これによって頼朝の系統は女子も含めて完全に絶えてしまった。
馬鹿火病を挑発してるが反応が無い
大恥かいて自殺したか。
或は遠い目で放心状態。W
見てたら何か書き込めよ負け犬が!WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
義経も頼朝も割と好きだが
北条だけは嫌い
977 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 17:55:24
阿野全成は頼家派に殺されたが息子は生きていた
北条の血も入っているので実朝亡き後は将軍になる可能性もあるが
義時に粛正された、政子・義時の甥なのに冷酷だな
979 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:18:50
980 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:26:20
>>978 ほとんど信憑性ないがな・・・
徳川が源氏だの織田が平氏だのというのと同レベル
981 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:30:59
>>977 頼朝の弟全成の男系は途絶えたが娘は生きていたな
公家に嫁いで末に後醍醐天皇の寵妃阿野廉子を出している
阿野全成の女系である阿野廉子の夫後醍醐天皇が北条を滅ぼし
鎌倉幕府を壊し阿野全成の血を引く後村上天皇を建てた
怨念か
鎌倉幕府幕府滅亡の時、阿野家の屋敷は得宗方の武士に襲われたんだが
その後どうなったんだろね
もっといろいろな血が入ってますが?
>>979 そういえば、昔は一休さんみたいに、当時の貴族が書いた日記に「一休は、実は
後小松天皇の落胤」とか書いてあったくらいで後世に皇族認定されたけど、今の
世は仮に本当に落胤でも嫡出子以外は皇族として認められないから随分厳しく
なったものだよな。
985 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 03:24:20
>>984 一休さんが皇族と認められてるとは初耳だ。
そういうこと書くと、またブヨが出てくるよw
987 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 13:06:13
北条綱成って強さ的には伊達成実と同じくらいのレベル?
ロシア帝国・ロマノフ家の冬宮や、清朝皇帝の紫禁城と比較すると、京都御所や冷泉公家屋敷は本当にみすぼらしい。姫路城の方が豪華で壮大な王者の居城という感じ。
この国の最高権力者は武士だという証明。
>>988 ロマノフ王朝や清王朝も滅亡しました
滅んだ王朝の真似して嬉しいの?
990 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 19:59:35
>>985 一休寺にある一休の墓は天皇・皇族と同様に宮内庁の管轄。
現在、宮内庁が一休を後小松天皇の落胤として扱っている。
一休の墓は陵墓扱い。
たとえ本当に天皇の落胤としても皇族じゃないのになぜ?
ひょっとして子孫残さず死んだ一世源氏の墓とかも宮内庁に面倒見てもらってるとか?
992 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 20:59:47
>>991 臣下に下った一世源氏の墓が宮内庁管轄というのは聞いたことがない。
>>984 「認知されていないが、実は子」…これこそが御落胤では?
認知されるのは簡単なわけもないのは今も昔も当たり前で…
>>991 そこはよく知りませんが、一休は当時から有名すぎるほどの人物でしたし
多分に政治的な理由で絶えてしまった後小松系に対する配慮というものもあったのかと思えます。
後小松系って政治的理由で断絶したの?
称光天皇が種無しで断絶したんじゃなかったっけ
995 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:17:09
スレおかわり、ちょーだい。
おあずけ
それで我慢しとけ
999
仙台
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。