江戸時代の武家の極位極官

このエントリーをはてなブックマークに追加
1大膳
(狼)から来ました。よろしくお願いします
2日本@名無史さん:2008/02/17(日) 10:48:43
3日本@名無史さん:2008/02/17(日) 10:54:35
徳川家斉あたりかな。調べるのが面倒臭い。
4大膳:2008/02/17(日) 11:36:37
従一位太政大臣  徳川将軍家

従二位権大納言  将軍家嫡子 尾張家 紀伊家 水戸光圀(追贈)
           水戸斉昭(追贈)(紀伊治宝のみ正二位大納言)

従三位権中納言  水戸家 御三卿 毛利輝元(一代限) 上杉景勝(一代限)
           前田利常(一代限) 島津家久(一代限) 伊達政宗(一代限)
            (水戸頼房のみ正三位中納言)
            (一橋治済のみ、家斉の将軍就任の関係で従一位准大臣)

従三位参議  加賀前田家 細川忠興(一代限) 福島正則(一代限)
5日本@名無史さん:2008/02/17(日) 11:46:27
ようやくスレの意味がわかったよ。
よけいに面倒臭い。
6大膳:2008/02/17(日) 11:57:59
正四位上中将  彦根井伊家 会津松平家

従四位上中将  越前松平家 高松松平家(水戸系) 保科(保科正之のみ)
          薩摩島津家 仙台伊達家 高家

従四位上少将  肥後細川家 筑前黒田家 広島浅野家 萩毛利家
           佐賀鍋島家 岡山池田家 鳥取池田家(徳川准家門扱)
           阿波蜂須賀家 米沢上杉家 津山松平家(越前嫡流家)
           出雲松平家(越前系) 御三家連枝

従四位下少将  津藤堂家 久留米有馬家 久保田佐竹家 宇和島伊達家
7大膳:2008/02/17(日) 12:24:50
従四位下侍従  矢田松平家 対馬宗家 土佐山内家 奥州南部家
           川越松平家(越前系) 館林松平家 本多家
           明石松平家(越前系) 守山松平家(水戸系)
           富山前田家 柳川立花家 奥州津軽家
           小笠原家 酒井家 榊原家 大久保家
           松山松平家(久松系) 忍松平家(奥平系)
           老中 京都所司代

従四位下  大聖寺前田家 柳沢家 桑名松平家(久松系) 奥平
         堀田家 真田家 戸田家 阿部家 小浜酒井家
         白河松平家(久松系) 喜連川家(徳川客分)

五位諸大夫  その他の大名、旗本
8日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:05:40
従五位下は奉行とか職に付いている場合もあるが、
平の小姓とかで貰うこともある。
側近に関しては属人主義なんだな。
9大膳:2008/02/17(日) 13:23:32
殿中詰の間

大廊下上之部屋  御三家及びその子弟

大廊下下之部屋  加賀前田家 越前松平家

黒書院溜の間   彦根井伊家 高松松平家 会津松平家が常詰の家筋
            酒井家 榊原家 本多家(所謂徳川四天王と言われた家)
            長年、老中を務めて功労のあった者

溜の間御次  京都所司代 大坂城代

大広間  四位以上の外様国持大名 御三家連枝

帝鑑の間  十万石以上の譜代城持大名 時々喜連川家

柳の間  四位以下の外様国持大名 高家 時々喜連川家

雁の間  十万石以下の譜代大名

菊の間  五万石以下の大名 大番頭 書院番頭 小姓組番頭

芙蓉の間  三奉行 奏者番 大目付 駿府城代 遠国奉行
10大膳:2008/02/17(日) 13:38:19
>>8
ある意味、将軍のお好み人事ですからね
11大膳:2008/02/17(日) 14:10:35
外様で松平姓を賜った家

加賀前田家 富山前田家 大聖寺前田家

仙台伊達家

薩摩島津家

萩毛利家

筑前黒田家

広島浅野家 分家

佐賀鍋島家

岡山池田家 鳥取池田家 分家

阿波蜂須賀家

土佐山内家

一部の分家以外、四位の国持大名。特典としては、殿中での御前元服、
将軍の名乗の一部下賜(土佐山内除く)
12処断された大名【無嗣又は幼子】:2008/02/17(日) 18:56:19
(1602〜1650)
小早川秀秋  備前岡山51万4千石 外様 無嗣

武田信吉   常陸水戸15万石   一門 無嗣(家康五男)

堀鶴千代   越後蔵王3万石    外様 無嗣

松平忠吉   尾張清洲57万1千石 一門 無嗣(家康四男)

稲葉通孝     豊後1万4千石  外様 無嗣

中村忠一   伯耆米子17万5千石 外様 無嗣

金森長光   美濃上有知関2万石  外様

平岩親吉   尾張犬山12万3千石 譜代 無嗣(尾張義直付家老)

松平忠清   三河吉田3万石    親藩 弟へ5千石(竹谷松平)

大久保忠佐  駿河沼津2万石    譜代 無嗣(弟彦左衛門の相続拒否)

成田長忠   下野烏山3万7千石  外様 幼子の為、2万石

本多正重   下総相馬1万石    譜代 養子へ8千石

近藤政成   越後蔵王1万石    外様 幼子の為、5千石(交代寄合へ)
13処断された大名【無嗣又は幼子】:2008/02/17(日) 19:27:46
土岐定義   摂津高槻2万石 譜代 幼子の為、1万石

市橋長勝   越後三條4万1千石 外様 養子へ2万石

田中忠政   筑後柳川32万5千石 外様 無嗣

織田長益(有楽斎)  大和1万石   外様 無嗣

成田氏宗   下野烏山2万石    外様 無嗣(前述の長忠の子)

西尾嘉教   美濃揖斐2万5千石  外様 無嗣

本多紀貞   上野白井1万石    譜代 無嗣

内藤清政    安房3万石     譜代 弟へ2万石

根津吉直   上野豊岡1万石    譜代 無嗣

本多忠刻   播磨姫路十万石    譜代 無嗣(千姫婿)

松平重忠   出羽上山4万石    親藩 養子へ3万石(能見松平)

蒲生忠郷   陸奥会津60万石   外様 弟へ24万石

松下重綱   陸奥二本松5万石   外様 幼子の為、3万石
14処断された大名【無嗣又は幼子】:2008/02/17(日) 20:47:05
内藤正勝     安房2万石 譜代 幼子の為、5千石(清政の弟)

桑山貞晴   和泉谷河2万6千石 外様 養子へ3千石

酒井直次   出羽左沢1万2千石 譜代 無嗣

織田長則   美濃野村1万石   外様 無嗣

三浦重勝     3万3千石   譜代 無嗣(幕府重臣)

池田政綱   播磨赤穂3万5千石 外様 無嗣(家康外孫)

松平忠隆   美濃加納10万石  親藩 無嗣(奥平系)

最上義俊   近江大森1万石   外様 幼子の為、5千石(高家へ)

堀尾忠晴   出雲松江24万石  外様 無嗣

蒲生忠知   伊予松山24万石  外様 無嗣(忠郷弟)

鳥居忠恒   出羽山形22万石  譜代 相続手続き不備により弟へ3万石

本多政武   大和高取3万石   譜代 無嗣

京極忠高   出雲松江26万4千石 外様 甥へ6万石

片桐孝利   大和竜田4万石    外様 弟へ1万石

15処断された大名【無嗣又は幼子】:2008/02/17(日) 21:13:38
佐久間安次   信濃飯山3万石 外様 無嗣

成瀬之虎    下総栗原1万6千石 譜代 無嗣

本多犬千代   下総榎本2万8千石 譜代 一族へ5千石

池田政豊    備中松山6万5千石 外様 無嗣

本多利家    播磨宍栗2万石   譜代 無嗣

堀直定     越後村上10万石  外様 無嗣

那須資重    下野福原1万4千石 外様 父へ5千石

加藤明利    陸奥二本松3万石  外様 幼子の為、3千石

一柳直家    伊予川上2万8千石 外様 養子へ1万石

松平清道    播磨姫路新田3万石 親藩 無嗣(奥平系)

杉原重長    但馬豊岡2万5千石 外様 養子へ1万石
16処断された大名【無嗣又は幼子】:2008/02/17(日) 21:23:38
皆川成郷   常陸府中1万3千石 譜代 無嗣

菅沼定昭   丹波亀山3万8千石 譜代 弟二人へ1万石

松平忠憲   信濃小諸4万5千石 親藩 弟へ1万石

本多勝行   播磨竜野4万石   譜代 無嗣

織田信勝   丹波柏原3万6千石 外様 叔父へ3千石
17日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:24:06
>4
紀伊治宝は、従一位をもらって「一位様」と呼ばれていたはず。
18大膳:2008/02/17(日) 21:31:18
>>17
ご指摘、有難う御座います。
一つ前と勘違いしてました
19大膳:2008/02/17(日) 21:56:51
末期養子で存続したが家禄が半減した家(有名所抜粋)

上杉家・・・三代当主綱勝が世子なく急死した為、保科正之の助言で
      妹婿の吉良吉央の子を末期養子とし、綱憲と名乗らせ
      家禄半知で存続

津山松平家・・・一時期、末期養子相続で家禄が半知されるも
        十一代家斉の子を養子に迎えることで家禄回復

岡崎本多家・・・忠勝以来の功臣の家柄だが末期養子相続で
        家禄半減
20大膳:2008/02/17(日) 22:09:47
大聖寺前田家では一時期、当主、世子が連続死してしまい取り潰しの
危機を迎えたが死人をさも生きている様に幕府に信じ込ませ、その間に別の人物を本家から迎え、家の存続に成功した事があった
21大膳:2008/02/19(火) 15:26:13
余り知られていないが徳川将軍の世子は権大納言の他に
将軍宣下の少し前くらいに右近衛大将に叙される習わしに
なっている
22処断された大名【法度違反】:2008/02/27(水) 20:33:34
1607〜1648

天野康景   駿河興国寺1万石 譜代  幕領農民殺害。子へ千表

津田高勝   山城三枝2万石 外様  京で狼藉(稲葉通重と喧嘩)
稲葉通重   美濃清水1万2千石 外様  同上(津田高勝と喧嘩)

筒井定次   伊賀上野8万石 外様  不行跡。一族へ1万石

前田茂勝   丹波八上5万石 外様  発狂

小笠原吉次  常陸笠間3万石 譜代  不法行為

木下勝俊   備中足守2万5千石 外様  不正相続

松平忠頼(桜井)遠江浜松5万石 親藩 喧嘩を仲裁しようとして殺害される
                      子へ8千石
水野忠胤   三河1万石 譜代 松平忠胤の殺害場所の主。忠頼の従兄弟

皆川広照   信濃飯山7万5千石 譜代 主君松平忠輝を告訴して家康の
                     逆鱗に触れる。
                     元和9年、1万石

堀忠俊    越後福島45万石 外様 お家騒動
堀直次        5万石  外様  同上
堀直寄    越後坂戸5万石  外様  同上。1万石減で飯山へ

有馬晴信   肥前日野江4万石 外様 不法行為(キリシタン信仰)
                       子へ旧領安堵
23処断された大名【法度違反】:2008/03/16(日) 21:19:44
山口重政  常陸牛久1万5千石 譜代 私婚

青山成重  下総飯田1万石   譜代 大久保長安連座。7千石減

里見忠頼  上野板鼻1万石   外様 勤務怠慢

石川康長(兄)信濃松本8万石   譜代 大久保長安連座
同 康勝(弟)信濃1万5千石   譜代 兄に連座

富田信高  伊予板島12万石  外様 坂崎直盛に敗訴

高橋元種  日向県5万石    外様   同上

大久保忠隣 相模小田原六万五千石 譜代  陰謀容疑。後に再興

里見忠義  安房館山12万1千石 外様  忠隣に連座。伯耆倉吉4万石に転封

佐野信吉  下野佐野3万9千石 外様  富田信高に連座
24日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:08:54
>>21
右大将家は源頼朝にあやかってのこと。
25大膳:2008/03/16(日) 22:18:13
徳川将軍家で生前に太政大臣任官された将軍

初代、家康(将軍辞任後。※越階)

二代、秀忠(将軍辞任後。越階)

三代、家光(即日辞退)

十一代、家斉(歴代幕府〔鎌倉・室町・江戸〕将軍中、将軍職と太政大臣
      を兼務した唯一の将軍。ちなみに平清盛以来、内・右・左
      大臣と順番に昇進した二人目の武家)
 ※越階(おっかいと読む、二階級昇進の事。彦根井伊家も資格あり)
26大膳:2008/03/16(日) 22:58:58
>>24
江戸幕府は鎌倉の御世をお手本にしてますからね
27大膳:2008/03/25(火) 23:54:49
官途受領名(有名所抜粋)

独占官途名  右衛門督(尾張家嫡子・田安家)常陸介(紀州家嫡子)

半独占官途名 筑前守・加賀守(加賀前田家優先)陸奥守・越前守(仙台伊達家優先)
         薩摩守・大隈守(島津本家優先)肥後守(会津松平家優先)
         土佐守(山内本家優先)

遠慮官途名  武蔵守 上野守・上総守・常陸守・兵部卿(親王官途)

忌避官途名  尾張守、冶部少輔

忌避官途名の由来

冶部少輔・・・・云わずと知れた、石田三成公の官途受領名

尾張守・・・・・主家である小田原北条家を裏切り、豊太閤に内応した
          重臣、松田憲秀の名乗っていた物。
          不忠者が名乗っていた物なので、江戸時代の武家からは嫌われていた
28日本@名無史さん:2008/03/26(水) 09:31:56
例えば詰めの間は同じで官位は前者が上で石高は後者が大きくて国主待遇となっ
たら江戸城での席次の順序はどうなりますか?
29大膳:2008/03/26(水) 19:42:59
 基本は官位が上の方が席次は上。
但し、その段階での将軍家との親疎、幕閣との付き合い如何に
よっても異なる。
30日本@名無史さん:2008/03/26(水) 22:42:48
南部家もそんな事無かったっけ?
31日本@名無史さん:2008/03/26(水) 22:43:37
ごめん>>20
32日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:35:08
鷹司松平家は公家で松平姓を許された家
33大膳:2008/03/30(日) 01:50:25
>>32
幕府の朝廷懐柔の一環と言おうか、ただ単に蔑ろにされている御台所に対す
る一種の憐憫から出た沙汰なのか微妙
(鷹司松平家の祖は、三代家光の御台所、鷹司孝子の実弟。高は1万石)
34日本@名無史さん:2008/03/30(日) 01:59:34
光秀の日向守は忌諱されないのかな?
大谷刑部とかも
35大膳:2008/03/30(日) 03:08:46
>>34
忌避されていない

日向守 越前流糸魚川松平家が半独占官途受領名として使用。他には水野宗
      家・永井家の一部

刑部少輔  直臣は殆どおらず、陪臣に幾つか(肥後細川家の内分分家に
       使用例あり)

内分分家・・・公儀に披露して大名扱にはせず、一門であり、所領的にも
         大名並ではあるが家臣とした分家。大河ドラマにおける
         島津四家もこれにあたる。万一の時には宗家の相続権も
         主張できる。
36大膳:2008/03/31(月) 01:30:09
>>4の権中納言に島津斉彬を追加
37日本@名無史さん:2008/03/31(月) 06:45:13
>>32
公家から武家になった家
38日本@名無史さん:2008/03/31(月) 06:57:31
高家の今川家や品川家は武家?それとも公家?
39日本@名無史さん:2008/03/31(月) 09:30:58
>>33
最初は確か7000石だったかで大名ではなかったのでは?
40大膳:2008/03/31(月) 14:56:31
>>38
 れっきとした武家。非番時にも表高家(職務に当たるのは奥高家)の格式を保有

>>39
確かに、最初の内は7千石の交代寄合に列し、のちに紀州頼宣の姫を娶り
家門の仲間入りを果たす(あくまで紀州の親戚分として)。
3千石が加増されて諸侯に列したのは孫の代から。領地は吉井1万石
41大膳:2008/03/31(月) 15:03:13
>>40に関連してちょっとしたトリビア

水戸の徳川光圀は世子の時に松姫に会って
結婚したいほど気に入ったそうではあるが
当時は、御三家間の婚姻は禁じられていたので
結局諦めたという話が伝わっている。
42日本@名無史さん:2008/03/31(月) 16:39:22
明治政府は爵位をほぼ石高で決めた
だから10万石格の旗本でも一万石ないから爵位なし
例外に尚家、宋家、松浦家など石高無視したのもあるが
43日本@名無史さん:2008/03/31(月) 16:52:52
官軍側と賊軍側では違うだろう
44日本@名無史さん:2008/03/31(月) 17:16:02
>>43
特例を除き同じだよ
45日本@名無史さん:2008/03/31(月) 18:35:49
>>44
藤堂や榊原といった官軍に付いた譜代大名は
石高の割りに爵位が低い気がするけどどうなの?
46日本@名無史さん:2008/03/31(月) 19:12:32
>>45
ニ家の石高は?爵位は?
47日本@名無史さん:2008/03/31(月) 19:47:13
結城秀康の官位は如何ほど?
48日本@名無史さん:2008/03/31(月) 19:50:17
>>45
爵位を決めた基準は表高ではなく、実収入だったところが味噌
表高と食い違いが生じた。
49日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:05:11
>9
あと
無席
があったのでは?
50日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:17:54
無席っつーと、教室に居場所が無くて便所に籠もって弁当食ってるとかいう感じ?
51日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:23:52
伯爵…
越前松平(のち昇格)、
井伊、藤堂、仙台伊達
子爵…
榊原、会津松平
52日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:37:20
備前松平は爵位昇格運動をした
53大膳:2008/03/31(月) 20:40:52
>>45>>46
藤堂本家・・・伊勢津27万石、伯爵
藤堂分家・・・同国久居5万石、子爵

榊原家・・・・越後高田15万石、子爵

ー華族令における叙爵内規より抜粋ー
伯爵・・・現米(実収入)5万石以上
子爵・・・  同   5万石以下

>>48も踏まえて
榊原の爵位が低いのは、15万石とは言っても政岑時代に遊女買いを
した事が、八代吉宗の逆鱗に触れてあわや廃絶となる所、神君の安堵状の
おかげで姫路から高田への懲罰的転封を受けた所為。
表高は変わらなくても実質、大幅減封だろう
54大膳:2008/03/31(月) 20:56:58
>>47
三河守、正三位権中納言

>>49
喜連川家の事なのでよくいたと言う帝鑑の間と柳の間に統合した

>>50
ぜんぜん違う。幕府のお客さん扱で式日にしか登城しない為、
特定の詰の間が無い家。要するに家臣扱じゃない家
55日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:32:48
45だけど
>>48
>>53
回答に感謝
越後高田は新田開発に成功したうえに賞典禄1万石もらったのに
実収5万石にも届かなかったのか・・・
5649:2008/03/31(月) 21:34:50
>54
レス多謝
57日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:38:28
松浦家だけは明治天皇の親戚だから実高をごまかして貰って爵位が上がった。
分家大名が別に爵位を貰っているのに分家の分を合算。
なんか明治天皇の親戚だから特別扱いということには表向きはしたくなかったらしい。
58日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:43:27
>55
米沢藩のように
米での年貢徴収高が低かった
(別に金納の税金があった)のだろうか?
59日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:48:45
あと高田藩は奥州に飛び地があったらしいが
その分は入ってないのかな?
60日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:52:36
宗も爵位昇格運動をした
61日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:53:51
武田は子爵を辞退した
62大膳:2008/03/31(月) 21:57:58
>>59
入っていたけど届かなかった。
63大膳:2008/03/31(月) 22:04:57
>>55
何分、本来なら取り潰しモノの罪状での
転封だったし・・・(吉宗自身は、神君自筆の
書付が無ければ潰したがっていたそうだから)
64大膳:2008/03/31(月) 22:18:37
神君家康の書付に付いて

秀忠の、関が原遅参の件で
身を挺して主君を庇った事を激賞した
家康が我が家が続く限り、榊原の家は
安泰であるという趣旨の感状を出した。
後に秀忠も、同じ様な内容の確約を
榊原康政に対して行った。
そのおかげで、無嗣絶家になる所、他家に養子に
行っていた者を幕命という事で呼び戻し、命脈を
保った事があった。
65日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:49:38
>43
「賊軍」を理由に減封されたため、結果的に爵位が低くなったということはあるだろうね。
ただ、その場合でも下がった後の実収に見合った爵位になっているはず。
66日本@名無史さん:2008/04/01(火) 07:02:00
正五位下とか
従五位上の大名って
なんでいないんだろ?
明治以降の華族にもいないのかな。
67日本@名無史さん:2008/04/01(火) 07:07:00
極位極官に正五位下があれば
一般大名の家格をもっと細分化できるし、
小大名の励みになると思った。
68日本@名無史さん:2008/04/01(火) 12:47:02
俺の先祖は八州様
そんじょ其処らの武士とは違いますよ
69日本@名無史さん:2008/04/01(火) 15:24:54
八州って八重洲のことか?
紅毛人乙
70大膳:2008/04/01(火) 17:40:22
>>66>>67
これらは、主に御三家を含む国主クラスの子息の
初任官時の官位に宛てられているので他の大名では
いない。

>>69
関東八カ国をカバーした広域捜査官。
斬捨て御免の特権を持っていた
71日本@名無史さん:2008/04/01(火) 17:51:18
>>70
実際には博徒連中と懇意にしていたという腐敗した官職ってな話も聞いたが・
72大膳:2008/04/01(火) 17:54:46
>>70に追加事項

八州様=公事方勘定奉行配下の、関八州取締出役の通称
      私領・天領関係なく(水戸藩領除く)関東八カ国の
      治安維持に従事した役職。身分的には足軽身分で
      あったが、権威は大変なもので上級武士用の駕篭に
      乗り、従者も大勢連れていた
73日本@名無史さん:2008/04/01(火) 19:36:30
江戸時代って変だよな、身分的は取るに足らない手付や手代が大きな権限持ってるし。
函館奉行配下でも出先の出先とは言え同心が行政側の最高責任者。
幕末期には小十人格程度が艦長だったりするし。
かと思えば身分は高いけど全然権限なんかないような旗本もいくらでもいる。
身分と権限が見事に乖離してるんだよね。
74日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:32:30
>>73
意識的にそうしたのだろうな
老中になるのは譜代の小大名、外様はもちろん御三家・後家門もなれない
権限のある町奉行・勘定奉行より名誉職の寺社奉行の方が身分は上
奉行所与力とか偉いのかと思ったら下級武士、同心などは足軽
75日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:45:01
最初は武士の本分じゃないような仕事は旗本の方が就任を嫌がったんだろうな。
後期の場合は無能で家柄の良い連中は格式だけ高い役職に就けておいて棚上げってところか。
下級の者に大きな権限を与えると色々やりにくいんだけど、
独断専行させないためにわざとかな。
下っ端だといざというときトカゲの尻尾切りもたやすいし。
76日本@名無史さん:2008/04/01(火) 23:08:04
>67

それを励みに猟官運動をしすぎて身を持ち崩す小大名が出ないようにするためじゃないか?
77処断された大名【法度違反】:2008/04/10(木) 18:55:55
>>22>>23の続き

福島正頼  大和宇陀3万石 外様  家臣告訴

豊臣秀頼  摂津大坂66万石 外様  敗戦

古田重然      1万石  外様  秀頼加担

織田信重  丹波1万石    外様  家督相続争い敗訴

藤田信吉  下総西形1万5千石 外様  過失

松平忠輝  越後高田75万石  一門  驕暴 家康六男

坂崎直盛  石見津和野4万石  外様  不法行為(千姫誘拐未遂)

里見忠義  伯耆倉吉4万石   外様  忠隣連座追罰

村上義明  越後村上9万石   外様  お家騒動

関一政   伯耆黒坂5万石   外様  お家騒動

福島正則  安芸広島49万8千石 外様 居城の無断修築
                     4万6千石で信濃川中島へ
78処断された大名【法度違反】:2008/04/10(木) 19:27:04
最上義俊  出羽山形57万石 外様  内紛。幕府からの調停案を老臣達
                      が無視した結果。
                      1万石で近江大森へ

本多正純  下野宇都宮15万5千石 譜代  陰謀容疑(宇都宮釣天井事件
)
本多正勝      1万石     譜代  父、正純に連座

松平忠直  越前福井67万石    一門  驕暴。嫡子、光長へ26万                         石、叔父忠昌と入れ
                         違いに越後高田へ

田中吉官  近江2万石       譜代  家臣の罪に連座

青山忠俊  武蔵岩槻4万5千石   譜代  強諫不興。次代、宗俊の時再興

福島正則  信濃川中島4万6千石  外様  正則を検視前に葬る
                         子は3千石で交代寄合に
79処断された大名【法度違反】:2008/04/10(木) 19:54:57
徳永昌重 美濃高須5万3千石  外様 大坂城修築怠慢

別所吉治 丹波綾部2万石    外様 参勤過怠

脇坂安信 美濃1万石      外様 親戚相続争い連座

加藤忠広 肥後熊本52万石   外様 陰謀容疑

徳川忠長 駿河府中55万石   一門 驕暴。秀忠三男
鳥居忠房 甲斐谷村3万5千石  譜代 忠長連座。子へ2千石
朝倉宣正 遠江掛川2万6千石  譜代 忠長連座
三枝守昌 安房1万石      譜代 同上。後、再興
屋代忠正 安房北条1万石    譜代    同上
80日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:50:46
幕臣で六位相当を布衣と言った。
正式に六位として式部丞とか掃部允越前介とかの官名を与え得なかったのは、
朝廷との関わりを少しでも減らしたかったから?
官名の略称が守や頭と同じになってややこしいから?
81日本@名無史さん:2008/04/11(金) 16:45:48
レオパレス21に「システム料金」などで改善を要請へ

有名女優をコマーシャルに起用、一部店頭では「敷金、礼金、仲介手数料0円」などと表示、派手な宣伝で賃貸物件紹介を行っている「レオパレス21」が消費者に不利な契約を行っているなどとして、
消費者団体の「消費者支援機構関西(KC‘s)」(大阪市)が同社に対して改善を要請する申し入れを2月1日付で行った。同じく貸金業者の「ニューファイナンス」に対しても改善申し入れをして
いる。両方の詳細を4日からホームページ(HP)で公開している。
 KC‘sの申し入れ書によると、レオパレスは「システム料金」の名目で初期費用として家賃1カ月分が必要なことを契約書に示している。
これについて「システム料金の実質は、入居契約の際の敷金または礼金と同じものと解され、趣旨や対価性が明確ではなく問題である」として、徴収をやめるべきだと申し入れている。
なお現在、同社のHP上では敷金・礼金・仲介手数料は不要の表記は見当たらないが一部店頭ではポスターなどで表示している。
 このほか「退去時に徴収している基本清掃代、室内家具・備品の清掃料、騒音苦情の際の違約金」についても徴収をやめるか改めるよう申し入れた。基本清掃代とはワンルームで26、770円など間取りによって金額を設定して物件明け渡し時に徴収している。
騒音苦情とは近隣から入居者に対して苦情があった場合に、レオパレス側に違約金5、250円を支払わなければならないという。
これらは消費者契約法での不当な契約条項の使用に該当するため、改善を申し入れた。
 
http://www.news.janjan.jp/living/0802/0802040212/1.php
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51126415.html
82日本@名無史さん:2008/04/11(金) 16:53:17
>>81
勉強になったよ
83日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:17:24
浄土真宗本願寺派の声明
http://www.hongwanji.or.jp/info/kogi_seimei/2008/080318_info.html

チベット情勢についての声明

この度、中国チベット自治区ラサにおいて、僧侶や市民による政府に向けての抗議行動に対して、
武装警察隊が出動し、鎮圧にあたり、多数の死傷者を出しているとの報道に接しました。
現在、さらに混乱は広がりを見せているとの報道もあり、私たち浄土真宗本願寺派は、
いよいよ事態が悪化していくのではないかと深く憂慮しています。

チベット仏教の聖地とされるラサ市におけるこうした事態は、
同じ仏教徒として大変悲しいことであります。
お釈迦さまは、「すべての者は暴力におびえ、すべてのものは死をおそれる。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」
(『ダンマパダ』)と説かれています。

私たちは、宗祖親鸞聖人の「世のなか安穏なれ」との願いのもと、いのちの尊さにめざめ、
それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる「御同朋の社会」をめざしています。

暴力や武力による行動ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重し合いながら、
平和的な対話などによって、これらの深刻な事態の速やかな終結を望みます。

2008(平成20)年3月18日

浄土真宗本願寺派
総長不二川公勝
84日本@名無史さん:2008/04/11(金) 21:04:41
>70
へえ、正五位下とかあるんだ!
藩主大名になる前の井伊大老とかなんかか?
85大膳:2008/04/11(金) 22:55:51
>>84
この場合は単なる箔付けと言うか、儀礼的な意味合いの方が強い。
(幼少の内に御目見えした場合の贈り物の様な物)
原則としては嫡子限定

 この場合の井伊大老と言うのは井伊直弼の事かな?
だとしたら、任官されていない。
元々、十四男なので最初は小禄を宛がわれていて
彦根城下に下賜されていた屋敷に住んでいた。
86日本@名無史さん:2008/04/12(土) 11:28:07
>85
勉強になつたよ!
ありがとう
87日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:09:33
>77
に書かれている里見氏なんて忠隣の親族だから連座だけど、
新田系源氏を騙った徳川家からすれば里見氏は山名氏と並んで
数少ない本物の新田系源氏なのにな。
88日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:54:48
大膳さんは
里見の正木大膳からとったの?
89日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:59:41
大膳大夫などの官位からだと思うが。
90日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:20:13
>87
>数少ない本物の新田系源氏なのにな。

だからこそだろう。所領も江戸湾の出口安房の国という戦略的要衝だし。
91大膳:2008/04/14(月) 02:18:13
>>88さん
>>89さんが正解です。

元々は某版で徳川将軍家の食事スレを立てていたもので
食事関係の役職から考えて付けました。
 武田信玄も三条夫人との婚姻の時に叙任されているので
個人的に気に入っています。
92大膳:2008/04/14(月) 02:30:16
>>87>>90

だからこそ、実権をほぼ失っていた山名氏には交代寄合の格式を与えて
家名だけは存続させ、大名としてそれなりの勢力を持っていた里見氏は
将来的に邪魔になると判断されて抹殺されたのだろう。
それに里見を処分した所で格式上は山名が上だから、そちらを優遇して置け
ば対外的な言い訳は立ったのではないかと思う。
あくまで自分の推測ですが・・・

93日本@名無史さん:2008/04/14(月) 10:18:43
正三位の会津松平家に戦闘を仕掛けた西郷どんは肚があっただけだわな。
松平家は三河松平家であり、徳川家康と血が繋がっているからなあ。
9487:2008/04/14(月) 19:21:27
極位極官でなく新田の話しになってしまうけど、
もし南朝が勝っていれば新田幕府ができて、新田系の大舘や脇屋でも
その後守護大名化したりしてw

極位極官に戻して書くと、江戸幕府初期は織田豊臣時代に位が高かった
外様系大名や外様系陪臣の扱いに幕府が苦慮してそうだよな。
95日本@名無史さん:2008/04/14(月) 19:27:16
丹羽長重とかですか。
9687:2008/04/14(月) 19:48:28
そう、毛利秀元とか
97日本@名無史さん:2008/04/14(月) 21:36:19
山城左内は若狭目
98日本@名無史さん:2008/04/14(月) 21:45:40
御三家さえ全面協力してくれたら薩摩長州に勝てた
99日本@名無史さん:2008/04/14(月) 23:54:03
慶喜が本気なら幕府と会津だけでも薩長に勝てたよ
100日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:33:16
力より知恵と勇気がある方が勝つと慶喜に学んだ
101大膳:2008/04/15(火) 18:54:38
>>94
たしかに。前田家には秀忠の二ノ姫を嫁がせ、さらに重臣本多正信の
子息を筆頭重臣にする事を許し(禄高五万石、陪臣としては最高位)
松平賜姓や当主(利常)の権中納言任官まで行っている。

島津家に対しても、前田のように松平賜姓や当主家久の権中納言任官や
琉球出兵とその後の統治を認め、さらにはご法度の密貿易の黙認(これは
藩政初期から行われていた)等があった。

伊達家にいたっては、勢力分散の目的があるとはいえ、庶嫡子の秀宗に
宇和島十万石の領地と国主並みの待遇を与え、更には一国一城令下において
重臣、片倉家の白石城所有を認め(他の重臣に付いても実質上は城だが書類上
要害として処理する事によって所有を認める)前田・島津両氏と同様、松平
賜姓と政宗の権中納言任官を行っている。

102大膳:2008/04/15(火) 19:08:22
>>101に付け足し

島津家も伊達家と同様、居城の鹿児島城のほかに
領内に百二十にも及ぶ支城を持っていた(幕府黙認)
103大膳:2008/04/15(火) 20:53:53
>>94>>95

上杉家の家老、直江兼続の場合

官職そのまま(従五位下山城守)
江戸に独立の屋敷を持っていた(主君の藩邸と隣接)


丹羽長重の場合

関ヶ原で西軍に付いた為、当初は家康の逆鱗に触れて除封されるも
秀忠の友人であった為、その後、暫らくしてから一万石の大名に復帰。
その後、加増を重ね最終的には奥州白河十万石の大名に栄転した。
(ちなみに立花宗茂も同じ様なルートで旧領に復帰している)
104日本@名無史さん:2008/04/15(火) 21:38:28
丹羽家って二本松じゃなかったっけ?
105大膳:2008/04/15(火) 23:17:54
>>104

長重の代までは白河だったが次代の
光重の時に二本松に転封され、
そのまま同地に定着、明治維新を迎える。
106日本@名無史さん:2008/04/16(水) 01:11:56
珍しく良スレ
107日本@名無史さん:2008/04/17(木) 16:46:48
直江屋敷の他に、
大身家老の伊達の片倉、
池田の荒尾、尾張の安藤、毛利の吉川も
独自の江戸屋敷もらったの?
逆に小大名としては大身の
鍋島の三分家は自分の屋敷がなかったのか?
108大膳:2008/04/17(木) 19:10:18
>>107

直江家はあくまで例外(兼続没後、後室お船の方は屋敷を引き払い
           主君の米沢藩邸に移り住んだ〔お化粧料三千石〕
           ちなみに直江家は主家減封後は二万石)

その他の大諸侯の重臣は主君の上屋敷か、さもなければ中・下屋敷内に居宅
を賜った。

御三家の付家老家(尾張の成瀬・竹腰、紀伊の安藤・水野、水戸の中山)は
格式上は諸侯だったので独自の江戸屋敷を持っていた。

吉川家は毛利的には家臣扱だったが幕府は諸侯待遇としたので屋敷を持っていた。
鍋島三家も、独立の諸侯なので当然、屋敷を持っていた。
109日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:32:08
吉川家は諸侯扱いだったのでしょうか?いや、無論その江戸屋敷の話は
そうだとしても、例えば国絵図作成のとき、支藩領分を、本藩とは違う色で
塗り分けろ、と言われた毛利家が
『だったら吉川領分も違う色で塗らせてください』というような事を言ったとき、
『吉川は諸侯ではなく毛利家臣だからダメ』と言われた・・・というような話を
聞いたことがあるのですが。
110日本@名無史さん:2008/04/17(木) 20:30:35
越前松平の家来にも付家老待遇のがいたはず。
本多だったかな?丸岡藩本多家の親戚。
111大膳:2008/04/17(木) 20:50:17
>>109
実際には、幕府の方は大名と認めていたが
毛利宗家及び家中では関ヶ原の戦後処理の不満から、
吉川家とは軋轢が生じており、独立には反対が多く、公的には大名だが
(参勤交代の義務が課せられており、尚且つ岩国築城も許可されていた)
毛利家的には陪臣の扱いとするという、かなり特異な状態が明治維新頃まで
続いていた。

 たぶん>>109さんが聞いたのは、時代的に安定した時期の話と思います。
だとしたら絵図面作成の話もありえたかもしれません。
112日本@名無史さん:2008/04/17(木) 21:02:32
>109

支藩の中には内分や蔵米分知の藩も多いし、一つの村に複数の領主がいる相給も
江戸時代には当たり前だった。そんな状況で、本家と支藩の領分を区別した国絵図を
作成する必然性があったのだろうか?そもそも作れたのか疑問。
113109:2008/04/17(木) 21:27:23
調べたら寛永の頃の国絵図作成の話でした。対外的にイスパニア=ポルトガル連合の
攻撃を恐れていたとかで大目付の井上筑後守が、国防上の理由で本藩・支藩を分けて
作成するように命じたそうです。
114日本@名無史さん:2008/04/17(木) 21:42:44
>>109
国絵図の話は、山本 博文「江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸」 (講談社学術文庫)
に出ていますね。同じ著者の「江戸城の宮廷政治―熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」
(講談社学術文庫) には、「柳川事件」を家光が親裁したときの大名の座配が乗っていて、

将軍から向かって左の中段。尾張・紀伊大納言。水戸中納言。仙台・加賀・薩摩中納言。
下段。越前宰相。毛利長門守(秀就)。毛利宰相(秀元) 以下、外様大名。

毛利二家のみ官位序列より本家・分家を優先しているのが面白い。


115日本@名無史さん:2008/04/17(木) 21:44:27
>108
とても良くわかりました。ありがとう
116日本@名無史さん:2008/04/17(木) 21:45:38
大膳さん、回答ありがとうございます。とても
良くわかりました
117109:2008/04/17(木) 21:48:25
あぁ!すみません!!お礼を言うの忘れてました。
大膳さんに感謝。

>>114
本の名前を載せるの忘れてました。すみません!ありがとうございます!
118日本@名無史さん:2008/04/17(木) 21:58:11
>>110
丸岡城代の本多も付家老だったが大阪夏の陣で活躍
独立した諸侯に取り立てられたが元禄8年に改易
府中(武生)城代の本多は維新まで付家老として存続
119日本@名無史さん:2008/04/17(木) 22:06:35
↑ 府中は陣屋だという指摘はナシの方向でよろしく
120日本@名無史さん:2008/04/17(木) 22:34:49
府中は陣屋だろうが!
121大膳:2008/04/17(木) 23:25:31
>>118>>119>>120

丸岡本多家(鬼作左の系統)改易の後、二千石の寄合旗本として存続

武生本多家(上記の本家筋)武生二万石。直臣にとの幕府の打診に際し、
            これを固辞、その為身分的には陪臣。しかし
            実際には譜代諸侯の扱で(従五位下で柳の間詰め)
            各種幕府行事に参加。
             居館も陣屋とは言い上、実際には城に近かった
             (仙台伊達家の『要害』の様な物と思う)
122大膳:2008/04/18(金) 00:03:02
 ちょっとスレタイから外れるれど、冗談みたいな出世話を一つ。

伊賀者出身の旗本、木室某は徒目付から小普請方に転じてから
一向に昇進しない。その内、年をとり頭が禿てきてそこが赤くなり
水鳥の鷭(ばん、と読む)と言う鳥に似てきた。そこで

  色黒く
  頭の赤き我なれば
  番の頭に
  なりそうなもの

と詠み、それを同僚に聞かせた。
それが如何いう経路を辿ったか、何故か 幕閣中枢に達し
それが大ウケ、木室某はめでたく『お広敷番頭』に抜擢されたという      
123あたご:2008/04/18(金) 12:40:14

「鎖国」は「うそ」だった。

http://japansconspiracy.hp.infoseek.co.jp/02/p008.html#page96

江戸時代の「鎖国政策」は、明治政府が作り上げた虚構だった。

124大膳:2008/04/20(日) 21:16:46
女性で、従一位の持っていた人々(没後追贈除く)

高台院(豊太閤正室)

阿茶局(徳川家康側室。東福門院入内に際して後水尾天皇より下賜される)

桂昌院(徳川家光側室、五代綱吉生母。内示のあった年に有名な松の廊下の
      刃傷事件発生。正式な宣下は翌年末)

天英院(徳川家宣正室)

広大院(徳川家斉正室。茂姫)
125日本@名無史さん:2008/04/20(日) 21:23:18
下の2人は近衛家出身だから少し納得
126大膳:2008/04/21(月) 00:11:54
>>125

特に天英院は、後水尾院の外孫。
(生母は後水尾院皇女、常子内親王)
127日本@名無史さん:2008/04/21(月) 10:58:40
天英院から見れば吉宗などは卑しい出自だろうな
128日本@名無史さん:2008/04/21(月) 11:26:02
吉宗って非人の息子だっけ?すごい出世ぶりだよな。
水呑百姓の息子から成り上がった秀吉を超える出世ぶり。
日本史上最高じゃないか?
129日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:19:11
と日本史上まれに見るバカが申しております。
130大膳:2008/04/21(月) 12:47:52
>>127
それを言ったら、江戸の天英院の周りの人は
大抵、該当しそうだが・・・

>>128

四代家綱はどうなる?
(生母お楽の方は下がり者『重罪人の親族で隷属身分に落された者』出身)
131日本@名無史さん:2008/04/21(月) 19:50:06
>>130
>重罪人の親族で隷属身分に落された者
そんな家でも、伊勢長島二万石まで成り上がったしね。
132大膳:2008/04/21(月) 22:30:04
>>131

それだけじゃない。
もう一人の弟も、下野の名族大名を継ぎ(その後、相続不正で改易。
でも鎌倉以来の名族の為、二千石の交代寄合で存続)
妹の方も高家の品川家に嫁している。
なんにせよ、初期〜前期で将軍生母の一族の出世は凄まじい。
 桂昌院の本庄家などは一族から松平姓使用者まで出ている。
133大膳:2008/04/22(火) 17:42:30
彦根井伊家

譜代筆頭に当たる大大名、石高は領地高三十万石+幕府からの預かり五万石
(起源は関ヶ原の後、佐和山城から接収された備蓄米が元。これを井伊直政が
徳川家康に正直に申告した所、心掛け天晴れと褒められそのまま井伊家預か
りとした。額面上は幕府の所有だが、実際は要求が無ければ井伊家で消費できた)
 家康遺言により戦陣の事があれば先手たるべしとされたので、殿中儀式に
おいても諸侯の先頭に位置した。
将軍宣下のお礼役の正使も領地の関係上、代々井伊家が勤めてきた。
(正使は譜代二十五万石以上の大名、副使は高家肝煎)
その為か特別に井伊家には越階(おっかいと読む。所謂、二階級特進)が
認められていた。
134日本@名無史さん:2008/04/22(火) 23:10:23
外様上位三家の島津・伊達・前田
このうち前田の家格が実力に比して不相応なんだけど
本来は従四位下左近少将くらいが適当なんだろうな
135日本@名無史さん:2008/04/23(水) 04:09:01
前田は御三家と合わせて御四家だったことがあるそうだ
136日本@名無史さん:2008/04/23(水) 06:40:14
ヨン様?
137日本@名無史さん:2008/04/23(水) 09:20:00
>>135
脳内におさめとけ
138日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:28:58
時代劇で将軍が重要事項を相談するために御三家と前田を招集しているシーンはあった
江戸前期の設定で前田が娘婿か義兄弟か従兄弟だとか特別な関係
139日本@名無史さん:2008/04/23(水) 10:33:29
前田と伊達は中納言になっている。初期だけ。
時代劇ならなんでもありだろう。
140大膳:2008/04/23(水) 12:36:22
>>134>>135>>137>>138

ひとえに、将軍家との度重なる婚姻の賜物

前田利常・・・御前様(国主大名の正室の呼称)が二代秀忠二ノ姫。珠姫

前田光高・・・生母は珠姫(この段階で秀忠外孫、家光甥)御前様は水戸頼房
         息女で将軍家養女の大姫

前田綱紀・・・生母は大姫(外曽祖父は秀忠、外祖父が頼房、義祖父が家光)
         御前様が保科正之息女
此処までくれば>>135さんの言っている様に後四家と言っても決して言い過ぎではない
実際、家光は甥に当たる光高を養子にして将軍後継にと義兄の利常に内々で
打診している。(これは利常が再考を促す形でやんわりと断り、暫らくして
次々に子女が誕生したので自然消滅した)

>>139
それを言っちゃあ・・・
ちなみに・・・(歳の順で配置)
伊達政宗
島津家久
前田利常
が、従三位権中納言に任官されている
141日本@名無史さん:2008/04/23(水) 12:52:42
御三家の変遷
尾張、紀伊、水戸(水戸は明らかに格下)
尾張、紀伊、駿河(官位石高ともに水戸を抜く)
尾張、紀伊、甲府(綱豊が35万石、このとき水戸はまだ28万石)
尾張、紀伊、水戸(ライバルが消えて水戸が安泰)
であったともいえる。
男系で血統のつながらない前田の出番はない。

142大膳:2008/04/23(水) 12:57:24
>>141
ついでに、幕府重臣達を納得させられるだけの理由も無い
それに、家の力が大きすぎて警戒感を起こされやすい
143大膳:2008/04/23(水) 13:54:40
婚姻関係の話ついでに

将軍家の姫達(養女含む)は嫁しても生活様式は
大奥居住時となんら変わらず、唯、住まいが城中から
嫁ぎ先に変わっただけと言う状態だったので、婚家では
その維持費に非常に頭を悩ましていた。
(前田家でも財政担当が悲鳴を上げているほど。
国許に至っては、庶民は御守殿『嫁ぎ先における姫君の住まい』を
浪費の対象として、嫌っていた(皺寄せをまともに被る為))
144日本@名無史さん:2008/04/23(水) 17:44:51
東京大学の赤門の話も有名ですもんね。
姫といえば、家斉公にはたくさんの子供がいたと思うんですが、
例えば養子に行って家督を継いだ男子とか、姫がとついで来た大名とかは
慣例以上に官位上昇したりしたんですか?
145大膳:2008/04/23(水) 19:23:57
>>144
官位の優遇などは特に無かった。
変わりに、詰の間が変更になったり
一度減らされた領地が回復、又は実入りのいい
領地に所替えになったりした。
後、財政援助も期待できた(例として水戸徳川家は
姫君降嫁後、年額一万両の援助を受けていた
後、時代は違うが備前池田家は光政の時に
天樹院(千姫。光政正室の生母)の遺言と言う事で
幕府からの借財を棄捐してもらっている)
146大膳:2008/04/23(水) 21:14:14
殿中詰の間

大廊下上之部屋・・・御三家当主および、その子弟

大廊下下之部屋・・・加賀前田宗家、越前松平家、鳥取池田家(准家門)
             後、将軍子女が入輿した家の現当主が一代限りで許可

黒書院溜間・・・彦根井伊家、会津松平家、高松松平家が常詰の家筋
          後は、旧四天王の内の三家(酒井・榊原・本多)
          長年老中を務めて功労のあった者が詰めた。
           例外的に、血筋と家柄、どちらかで周囲が納得した者も着座した。

溜間御次・・・京都所司代、大坂城代

大広間・・・四位以上の外様国持大名、御三家連枝

白書院帝鑑間・・・十万石以上の城主格譜代大名の席(大和柳沢家は准国主)
            時々喜連川家が着座した
147日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:25:13
旗本の詰席の上下関係って言うか序列ってどうなってるんですか?
中の間とか焼火の間とか桔梗の間とか色々あるみたいですが、
必ずしも役高や役目の高下と連動していないみたいでよくわかりません。
ここならわかる方がおられれるでしょうか?
前に二,三度聞いてみたけど答えが得られませんでした。
148日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:33:32
>147

原書房の「図解 江戸城をよむ―大奥 中奥 表向」(ISBN-13: 978-4562028498)を読め。
全部書いてあるから。
149日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:35:38
>>148
早速にありがとう御座います、とりあえず地元図書館で探がしてみます。
150大膳:2008/04/23(水) 21:47:28
柳の間・・・四位以下の外様国持大名、および十万石未満の外様大名
         高家、時々喜連川家

雁の間・・・詰衆と言われる五万石〜十万石未満の譜代大名の席
        ここから、老中などが出る事が多い

菊の間・・・五万石未満の譜代大名、大番頭、書院番頭、小姓組番頭

芙蓉の間・・・三奉行、奏者番、駿府城代
151日本@名無史さん:2008/04/24(木) 05:28:12
黒書院溜間に詰めた酒井家は四天王(左衛門尉家)じゃなくて雅楽頭家の方でしょ
酒井左衛門尉家はあくまでも溜間「格」です
152大膳:2008/04/24(木) 20:57:03
>>151

御指摘、ありがとう御座います。
小学生時代の記憶だったので勘違いしてました。
当時の本を見返したら、確かに雅楽頭家でした。
間違いを指摘して下さってありがとう御座いました。
153日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:29:44
鳥取藩池田家の例、通常は従四位下侍従が初任で後に少将へ昇進。
八代藩主の婿養子が家斉12男、これによる厚遇で歴代の例を超え従四位上へ昇進、
さらに左近衛中将(超例外)へ進む。
この婿養子死亡後、八代藩主の庶子が九代藩主となり、家斉の娘と婚約。
成婚の後従四位上へ昇進。
十一代藩主は加賀前田家からの養子(家斉の外孫)、
従来の初任は従四位下侍従だが従四位上侍従。
これは実家の格のせいか、家斉の外孫のためかよくわからない。
十二代藩主は水戸徳川家出身、初任従四位上侍従。
これは実家の格の為らしく、先例にはならないとの幕府の申し渡し有り。
154日本@名無史さん:2008/04/25(金) 00:18:26
>141
そもそも綱吉のときまでは「御三家」というくくりそのものが存在しない。あったのは
「将軍の家来のうちで家康の息子である三人」という話だけ。
後、綱豊のころには「御三家」が制度上確立した後で、「甲府殿」は御三家の次という
格式ができてしまっていたはず。
155日本@名無史さん:2008/04/25(金) 09:33:19
将軍家と尾張・紀州で御三家の時代があったのでは
水戸は紀州の同母弟なので対等ではあり得ない

秀頼が大和移転を承諾した場合
結城秀康が長命で子孫も乱心しなかった場合
駿河大納言が粛正されなかった場合
武田信吉や松平忠輝が大名として残っていた場合
御三家ってあったのかな?
156日本@名無史さん:2008/04/25(金) 09:57:19
>将軍家と尾張・紀州で御三家の時代があったのでは
秀忠が世子だった頃に御三人様と呼ばれたようだけど、
将軍家は官位石高ともに明らかに別格。

スレ違いだから御三家親藩スレでやりますか?
157日本@名無史さん:2008/04/25(金) 09:58:14
158日本@名無史さん:2008/04/25(金) 10:09:59
>>155
>水戸は紀州の同母弟なので対等ではあり得ない

所詮分家なんだから、同母弟だからこそ対等に扱われても不思議はない。
仮に義直に義○という同母弟がいて、出生順に義直→義○→頼宣→頼房だったとしたら、
義直・頼宣が同格で、義○・頼房が対等になると?

というか、ふつうこういう格って母親の地位で決まるわな。
159日本@名無史さん:2008/04/25(金) 13:43:10
紀尾水加
160日本@名無史さん:2008/04/25(金) 13:56:47
なにか武家の場合は「庶子の惣領」とか「惣領の庶子」って言う言葉があって、
惣領決定の時に同母弟の有無がある程度重視されるらしい。
家康が尾張と紀伊の扱いについて生母から文句が出たときにそう言ったという話がある。
つまり秀康でなく秀忠が家康の跡継ぎになったのは同母弟がいたから、
だから同母弟の居ない義直と頼房と言う同母弟がいる頼宣の扱いが同じでも文句は言うな。
と言うような話だった。
まあ本当にそんな話があったかはともかく、そう言う概念自体はあったんだろう。
理由としては同母弟が居れば助けになるし(現実はそうでもないだろうが)、
惣領死亡の時に同母弟が継げば混乱が少ないからだろうと想像している。
庶子の仲でも同母兄弟の序列は重視されることだと思うけど。
161日本@名無史さん:2008/04/25(金) 17:01:47
松平元吉が死んだ直後に秀康が死んでいる
元吉がいなくなるのは秀忠にとって不利なので
秀康が暗殺されたという噂が立ったのだろうな
162日本@名無史さん:2008/04/25(金) 18:43:44
>>160
それ司馬遼の小説じゃね?
163日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:00:00
忠吉ですね。
164日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:27:43
林董一著「将軍の座」昭和六三年文春文庫(元は昭和四二年人物往来社)によると、
大阪の役の時、義直旗が五本で将軍とは別、一方頼宣は将軍と同じ旗が七本で、
義直生母が家康に泣きついたときの家康の言葉とのこと。

平成元年河出文庫「鳶魚江戸話4:徳川の家督争い」三田村鳶魚著
(「三田村鳶魚江戸ばなし1巻」所収「徳川の家督争い」、青蛙房:昭和四〇年が定本)
こちらは大阪の役も義直生母も出てこず、何時の時か家康がした話しとして、
似たようなことが書いてある。
ただし世子決定時の話で、当時頼宣は誕生しておらず、また義直も生まれていない時期ではないか?
この点不審である。後でこじつけた話だろうと言うことになっている。
165日本@名無史さん:2008/04/25(金) 21:04:40
武田信吉は無位無官
166日本@名無史さん:2008/04/25(金) 22:21:09
正五位上右中弁とか
従五位上少納言とか
あってもよさそうだが
167日本@名無史さん:2008/04/25(金) 22:51:54
弁官は名家の独占であり、またまだ現実にある程度は機能していた官職だから使わなかったようだ。
少納言は大して意味がないから名乗りに使っても問題なかったと思うんだけど、なぜか使わなかったようだ。
神祇官・典薬寮・陰陽寮とかまだなんらかの機能を果たしている官職は使用しにくかったみたい。
大・少外記、大・少内記も官途名としてはないな。単なる外記とか名乗りにあるけど。
この辺の基準はよくわからない。基本的には習慣だからたまたまなのかな?
168日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:00:34
<167
回答ありがとうございます!
なかなか難しいですね
169日本@名無史さん:2008/04/26(土) 05:08:53
少納言は侍従や弁官が兼任するものだし
170日本@名無史さん:2008/04/26(土) 09:26:06
上野介の名乗った人は碌な終わり方していないのにそれでも使ったのは
上国で下手なOO守より上だったからですか?
171日本@名無史さん:2008/04/26(土) 15:14:06
スレタイを理解できないやつらばかり湧いてくるのはなぜだ?
172日本@名無史さん:2008/04/26(土) 19:50:02
四位より下の外様国持
なんていたのか?

蒲生、生駒、森、掘、中村、堀尾、筒井とか?
173日本@名無史さん:2008/04/26(土) 19:51:25
<柳の間…四位より下の外様国持

蒲生、生駒、森、掘、中村、堀尾、筒井とかか?
174日本@名無史さん:2008/04/26(土) 19:52:25
ダブった。すまん
175日本@名無史さん:2008/04/26(土) 20:02:53
与えられる最低の官位ってどんなもん?
176日本@名無史さん:2008/04/26(土) 20:18:56
従初位下権○○少目
177日本@名無史さん:2008/04/26(土) 21:26:14
>171
誘導しておきましょうかね。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1191035900/l50

まあ、このスレは重複だという見方もできないわけではないのだが。
178大膳:2008/04/26(土) 22:33:59
>>167>>168

大・少外記、大・少内記も朝廷の役職として機能している。
例を挙げれば、将軍宣下の折、各宣旨(将軍・内大臣・両院別当・牛車兵仗
源氏長者・氏長者・従一位)の中継役を務めたりする
179日本@名無史さん:2008/04/26(土) 22:37:56
大内記は江戸時代でも役得のある官職の一つ。
だから菅原姓6家で回り持ち。
180大膳:2008/04/26(土) 22:46:41
>>172>>173

突発的な理由で、幼年者が家督を継いだ場合
いきなり極官にする訳にはいかないから、
一時的に、席次を落す場合も考えられる。
又、通常の場合でも、継いで直ぐは極官な訳はないから
そういう者達が詰めていたと思われる。
181日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:05:30
>180
成る程

相馬大作の時の南部だな
182大膳:2008/04/26(土) 23:12:49
>>179

幕府・諸侯等からの心付・音物etc
数え上げたらキリがないですね。
でもそれらが重要な財源でもあったのだから
この職の獲得は切実ですね・・・・
183日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:14:31
>180

国持ち大名は無位無冠でも従四位下待遇の大広間詰め。(嫡子も)

ちなみに加賀前田家当主は無位無冠でも中将待遇。
島津、伊達両家は侍従待遇。

柳の間から大広間に移る可能性があるのは、
立花、丹羽、松平(前橋、明石)、前田(富山、大聖寺)
南部(後に国持ち待遇=無位無冠でも大広間)
津軽、溝口
といった面々。
184大膳:2008/04/26(土) 23:27:48
>>183

詳細な補足説明、多謝。


>>181

付け加えるなら、各詰の間でも先任や官位の高下などで
座る位置が変わったりした
185日本@名無史さん:2008/04/27(日) 09:19:08
将軍に拝謁するときの位置も官位や石高で決まっていたらしい
いくつめの畳で手をつくとか
186日本@名無史さん:2008/05/02(金) 22:46:42
何で大聖寺・富山前田家ってそんな格式高いの?
分家じゃん
187日本@名無史さん:2008/05/03(土) 19:35:10
高松松平も分家ですが
188大膳:2008/05/03(土) 20:04:35
>>186
それぞれの家の初代当主の生母か
将軍秀忠次女の為、ちなみに家光は叔父
189日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:51:43
池田家も岡山が本家だけど、徳川の准身内扱いの鳥取の方が待遇は上。
190日本@名無史さん:2008/05/03(土) 21:47:39
岡山と鳥取は当主が入れ替わっているな
石高は同じでも実入りは岡山の方が良さそうだ
191日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:16:09
>190

いや、それ転封だから。家臣団も丸ごと入れ替わってるから。
(思わず確認してしまったww)
192大膳:2008/05/06(火) 15:25:40
>>190>>191

池田本家・・・備前三十一万五千石、大広間詰め、従四位下少将

鳥取池田家・・因幡・伯耆三十二万五千石、大廊下下之部屋詰め、従四位下少将
193日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:17:41
少将って皆
左近衛権少将なの?
大将みたく
右少将って大名は皆無?
194日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:24:51
姫路→鳥取→岡山(利隆)と
淡路→岡山→鳥取(忠雄)
あと
鳥取→備中松山→断絶(長吉)
岡山→断絶(忠継)
の2家がある
195大膳:2008/05/06(火) 17:43:42
>>193

ちゃんと存在する。
そもそも、左少将は極官なので
昇進前は右少将を経験する。
196大膳:2008/05/06(火) 17:48:35
>>194
後、

赤穂・輝興(発狂により廃絶)
197日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:06:18
>195
ありがと。へえ、そうなんだ
198日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:08:01
岡山池田は毒饅頭を
喰わされて取り潰し
199日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:11:19
赤穂は馬鹿殿ばかりだな
森は名君だから織田の代わりに
国持並にしてやればいいのに
200日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:14:26
将軍も
右大臣→左大臣になったら
右大将から左大将に昇進するの?
201日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:30:28
備前岡山池田家は岡崎信康の子孫なので鳥取から山陽道の要衝に配置されたよね
202大膳:2008/05/06(火) 21:30:35
>>200
必ずしも昇進するとは限らない。

ー左近衛大将位保有者ー
徳川家康
 ゛家光
 ゛家斉
 ゛家慶
上記、四名しかいない。
元々、徳川将軍家は鎌倉の源氏将軍を先例にしていたので、左近衛大将への
昇進は例外扱いだったと思われる。
(明正院の外祖父になった太政大臣、秀忠ですら左近衛大将にはなっていない)

>>201
備前池田家に岡崎信康の血統が入ったのは第三代藩主綱政の時、岡山への所
代えの沙汰が下ったのは先代の光政の時、だからその事自体は特に関係は無い
203日本@名無史さん:2008/05/06(火) 21:55:06
>202
ありがとうございます。左大将は貴重なんだね。
204日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:10:26
鳥取・岡山の配置換えは荒木又衛門事件で鳥取藩への懲罰的人事もある。
でも当時は幼君主だったら半知なんだから、鳥取へ移動しただけなら
十分優遇といえる。

205日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:19:03
204の幼君主は池田光仲の継承時3歳ってやつね。
池田光政も8歳で継承して幼君だからって鳥取に飛ばされたりしたけどね。
池田光政は岡山城生まれだったので、岡山藩への移動を土井利勝に
打診されたとき、即座に受け入れたそうな。
206日本@名無史さん:2008/05/07(水) 08:51:35
池田厨はスレタイを読んでください。
いつまでも粘着してウザすぎ。
207日本@名無史さん:2008/05/07(水) 14:02:16
詰間によって待遇の差別とかあったんでしょうか?
大廊下なら座布団、お茶菓子ありとか柳間なら座布団無し一人畳一畳しかないとかw
謁見の時は柳間大名なんか数人で一斉でしたよね。
208日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:02:07
大広間詰めの広島のお殿様が、維新後
「(詰間の)畳はぼろぼろだし、茶の一つもだしやがらない」
と文句を言ってましたな。
209大膳:2008/05/07(水) 23:37:56
>>207

基本的に、詰の間にはその様な備えは一切無く、
詰めていても>>208でも言っている様に茶湯一杯出なかった。
お茶が飲みたくなったり、持参したお弁当を食したくなった場合には、
日頃から手当をやったり、屋敷に呼び寄せて適当に遊ばせたりして懇意に
なった御城坊主(茶坊主に非ず。頭を丸めているが歴とした旗本、城内の雑事
一般を処理する。役目柄、貰い物が多く物腰は太鼓持ちに近かったという)
の部屋に用事があるふりをして入り込み、そこで茶湯や弁当を食した。
 そういう差別が出るのは、祝い事(将軍か世子の婚姻、若しくは将軍宣下)
部屋によって、料理の数に差があったり、土産の菓子折りが付いたり付かなかったりした
210日本@名無史さん:2008/05/08(木) 03:39:22
中公新書の深井雅海「江戸城〜本丸御殿と幕府政治」っていう本読んでるところだけど勉強になるわ
211日本@名無史さん:2008/05/09(金) 22:43:06
吉良義央は従四位上左近衛権少将であったけど、浅野長矩は従五位下
であった。

外様ではあるが、53000石で城主の浅野と高家(旗本)ではあるが4200石の
吉良。

普通の感覚だと浅野>吉良だが、家格では 浅野<<<<吉良なんだよね。
212日本@名無史さん:2008/05/10(土) 10:53:46
大名は江戸城に登城してなにしてたん?
役職なし組は定時まで同じぐらいの格の同部屋大名たちと雑談して帰るの?
「拙者の今日のお弁当は鮭の塩焼きでござる」「ええのうワシの国元は飯が不味くて」
「ばってんわとちごうて飢饉じゃないだけましやで。うちは毎年かちゃかちゃするねん」「お主ら訛りがきつすぎる。武士は黙って岡崎弁じゃ」
こんなカンジで

というか家来たちもどこで何してたのか・・・
それなりの人数が殿と一緒に登城しているはずなのだが
213日本@名無史さん:2008/05/10(土) 11:06:12

確かに時間は相当にあったと思う。

贔屓の奥坊主の部屋で食事したり雑談していたらしい。


家臣は城外で主の帰城をひたすらまっていたらしいが、幕府重役(老中、若年寄等)

になれば上屋敷の交換配慮がなされていたらしく、家臣も屋敷に一旦帰れるかもし

れなかった。外様など比較的郊外の大名の家臣はそれこそ、暇だったろう。
214日本@名無史さん:2008/05/10(土) 11:19:52
>外様など比較的郊外の大名の家臣はそれこそ、暇だったろう。

それをねらって商売ですよ。実際に、登城の日には下馬のあたりには多くの棒手振りが出没したらしい。
それに比べて登城したお殿様は、お茶も出されずただひたすら上様への拝謁の順番待ち。
茶坊主に賄賂を渡してこっそり早弁したくなる気持ちもよくわかる。
215大膳:2008/05/10(土) 17:45:36
>>211
老中達ですら、四位下侍従なのを考えるとすごいアンバランスですよね
>>211
無役の大名達は、普通各月の一日・十五日(これを月次登城と言った)
に登城して将軍に拝謁した後、下城した。
 順番待ちの間は仰るように雑談したりして
時間を潰していたかも知れません。(情報収集という意味で)
後、言葉遣いに付いてですが、時代が下るにつれて江戸で生まれ育った
大名が増えてきたのでお国訛りで話す者は段々と姿を消していった。
 家臣達に付いては、専用の待機所があり、そこで主君の帰りを待っていた
しかし、在府の大名の一斉登城の時は、待機所には御三家や要職者の
お供たちが優先して入ってしまい、その他の諸侯の供たちは
その外で持参して来た敷物を広げて座ったり、挟箱に腰掛けたりしていた

>>213
それでも、最低限度の人数はじっと我慢の子で待っていた。(一部の側近、
草履取り、駕篭役など。御三家の側近たちに関しては城内に待機所があった)

>>214
お供の人たちにとっては、行商に来る人はいい暇潰しの相手になったでしょうねぇ
216大膳:2008/05/10(土) 17:51:47
訂正
>>215の二番目は>>212でした。
すみませんでした
217日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:45:48

極位極官から離れて参勤交代が話題になっているので、少し脱線させて
いただきます。
式日には総登城があり、在国の大名や交代寄合を除いては、江戸城に登城
することとなっていましたが、さぞや大手門などは混雑したと思われます。
しかし、このときには、「下座見」と呼ばれる特殊技能集団が門番所に居
て、槍の鞘形と細工、色、特徴、本数などを元に、「○○様ぁ〜お上りぃ〜」
と城中に速報がされていたようです。
幕府や大名たち双方から心付けがなされ、世襲の技能集団であったようです。
さて、彼らは どの部分に注目したのでしょうか。それは、まずは槍の数で
あったかと推測されます。3万石未満の大名や旗本は1本道具(槍)で、3万石
以上になると2本道具に、しかし3本道具が認められていたのは幕末までは、
仙台伊達家と薩摩島津家の2藩だったようです。御三家はちなみに4本道具
で将軍家が5本道具であったようです。
218日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:50:30
>>209
>御城坊主(茶坊主に非ず。頭を丸めているが歴とした旗本、城内の雑事
>一般を処理する。役目柄、貰い物が多く物腰は太鼓持ちに近かったという)

これを所謂「茶坊主」と言っているのだが…。
219日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:51:56
なれば、加賀の前田家には3本道具が認められていなんだせと申すのか
220日本@名無史さん:2008/05/10(土) 19:00:16
揚げ足取りではないですが、坊主は旗本と言うより御家人ではないでしょうか。
上司に当たる同朋は御目見得だが、これも厳密には旗本とは言えない面もあるらしいです。
同朋の職は事実上世襲なので実質的には余り変わらないんですが、
同朋の家筋は家としての御目見得の権利はないらしいです。
だから理論上はなにかのしくじりでもあって同朋の職を解かれたりすると、
御目見得ではなくなることになるらしいです。
役の方に御目見得が付いている職のうち代替わりが認められる家筋は、
見かけ上は旗本と変わらないわけで、旗本と御家人の境界線上の家でしょうか?
221日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:04:52
>>219
なれば、加賀の前田家には3本道具が認められていなんだせと申すのか

??

加賀前田家は幕末まで2本道具であったようです。幕府に遠慮していたかもしれません。
ちなみに、幕末には伊達と島津に加えて、越前松平家、肥後細川家、萩毛利家、秋田佐竹家、
筑前黒田家、肥前鍋島家の6家も3本道具となったようです。
222大膳:2008/05/10(土) 22:39:04
>>220
説明が難しくなるので簡略にしましたが、御城坊主達の中には
武術の心得がある者もいたのであえて旗本扱としました。
それに坊主たちは制度上は御目見得以下とはいえ、実際はそんな事は
関係無しに仕事をしていたので、自分としては御家人に近い旗本と思ってます
>>218
それはあくまで俗称。
御城坊主は正式には、同朋衆、坊主に分かれており
同朋衆は幕閣歴々の雑用をこなしつつ、坊主たちの監督に当たる
(坊主衆がその他の大名の雑事一般を扱う)
 茶坊主とは、正式には御数奇屋坊主と言って将軍家の茶堂を預かり
乞われれば、大名家に赴いて茶道の手ほどきも行う。
 時代劇の影響で混同されがちだが、実際にはまったく別の役職
223大膳:2008/05/10(土) 22:49:50
>>217
お気になされずに。
行列の供揃えも、極位極官を語る上で重要な要素
なので構いませんよ。
 それにしても「下座見」とは小学生時代に読んだ本以来の
語句なのでちょっと懐かしくなりました。
224日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:05:55
江戸時代の武家の極位極官

このテーマでは『相馬大作事件』これははずせないでしょ〜

225日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:31:18
陪臣で従5位下の叙任を受けれたのは、御三家と加賀前田家の
家老だけだったでしょうか?
他に例外があればお教えください。
226日本@名無史さん:2008/05/12(月) 05:53:59

>>225

調べる限りでは陪臣では他にはなさそうだな
227日本@名無史さん:2008/05/12(月) 08:56:29
>>225

主が三位以上の場合とか規定があったと何かの本で読んだことがある。
228日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:45:03
主が公卿だと参内のときのお供に諸大夫がいるんだって聞いたことがある。
ただ公家で言うところに諸大夫と武家官位で言うところの諸大夫の概念は違うんだけど、
まあ簡単に言うと五位以上のお供がいるってことらしい。
公家の方は官位持ちの家臣なんか大臣家以上の他は中山家等ごく一部だけなんだけど、
その辺の扱いが武家と公家とは違うのかな?
まあ公家の官位と武家の官位は重みが違うような気もするけどね。
ところで初期には結構公卿級の官位を持った大名が居たはずなんだけど、
その家臣で五位はないのかな?
江戸期に入ってから叙されたのは御三家と前田だけってこと?
229日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:49:46
公家の諸大夫は自身が非参議とは言え公卿になることもある。
お供が三位ってのもすごいな。
もっともかなり高齢だから参内のお供なんかはしないか?
230日本@名無史さん:2008/05/12(月) 10:11:39
武家の世界の「家来」と公家の世界の「家礼」ってなんかちがうの?
231日本@名無史さん:2008/05/12(月) 10:27:24
直江山城とか片倉小十郎とか伊達成実とかはどの程度の官位なの?
並の大名より有名だよな
232日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:13:15
ググれ
タフれ
ウィキれ

話は其れからだ
233日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:10:43
直江は侍従とちゃうか。
だいたい山城守じたいもOKなん?
234日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:59:52
>233

山城守は幕末(慶応2年)まで自由。慶応3年3月25日に禁止されている。
235日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:23:18
>234
ありがとさん
でもなかなか名乗れないわな
236日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:28:11
権勢を誇った田沼も山城守
237日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:51:32
>>236
息子のほうね。
たしか戸田氏にもいた気がする。
238日本@名無史さん:2008/05/13(火) 08:01:37
あの鬼平の息子も山城守になってるよ。漫画では出来が悪かったのに・・・と脱線失礼。
239日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:03:03
山城新悟が最強
240日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:17:13
文化元年武鑑によると西丸留守居に五百石取りの坂部山城守がいる。

大名では、藤井松平家の嫡流(出羽上山)が代々山城守。幕末には信行、
信宝、信庸と三人の山城守がいた(隠居の名乗りとの重複はOKなので)
のだがそれぞれ改名してるはず。『徳川実紀』(webでみられる)に記載が
ないので確認できなかったが。

あと戸田氏では、宇都宮藩主の家が山城守をよく使ってる。
241日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:25:32
たしか任官した場合、朝廷や斡旋してくれた公家、幕府関係者に「お礼」をしないといけないと聞いたのだがどれだけ
カネかかるんだろう?叙任された位階や官職でご祝儀相場とかあるんだろうか?
242日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:00:09
山城と言えば一番有名なのは豊竹山城少掾だな
243大膳:2008/05/14(水) 01:18:56
>>241

一例を挙げれば・・・・

征夷大将軍・・・・砂金二袋
氏長者・・・・・・砂金一袋
源氏長者・・・・・同上
両院別当・・・・・同上
正二位内大臣・・・同上
牛車兵仗・・・・・同上

従五位下〜守・・・銀数枚
と、いった所。
ただし、これは目に見える物だけなので、
実際にはもっと多く掛かっていると思う
(宴席・贈り物・お土産etc)
244日本@名無史さん:2008/05/14(水) 21:49:47
>>243

結納&結婚式みたいに持参金やら引き出物やら何かとカネがかかるのか。。。叙任は名誉でも石高以上の位をもらうと大変そうだな・・・
245日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:23:21
朝廷への直接御礼は侍従以上とか制限がなかったか?
従五位下のような並の官位は幕府がまとめて年始の使いの時に
していたと思ったが。(というか幕府が立て替えてくれる)
記憶違いだったら、指摘請う。
246日本@名無史さん:2008/05/15(木) 21:00:10
位記や口宣案を貰うのに謝礼を出していたみたいですね。
公家はそもそもそんな金のかかることはわざわざしないので、律儀に貰う大名や旗本
などからの謝礼がありがたい収入だったとか。
247日本@名無史さん:2008/05/18(日) 05:41:48
ウィキペディアの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%93%81%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%98%87%E9%80%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7
見ると
「概して表高10万石以上の大名家が四品以上に昇進するが、
阿部家(棚倉藩)・稲葉家(淀藩)・大久保家(小田原藩)・真田家(松代藩)・戸田家(大垣藩)・溝口家(新発田藩)は含まれない。」

ってなってるけどなんで?

大垣の戸田家なんか歴代ほとんどの当主が従四位侍従になってるし含まれてもいいと思うんだが
248日本@名無史さん:2008/05/18(日) 09:21:21
老中の役として大藩の江戸参府時と御暇時の上使があった。
御三家(尾張・紀伊)・加賀前田・薩摩島津・仙台伊達・宇和島伊達・
熊本細川・福岡黒田・芸州浅野・鳥取池田・長州毛利・佐賀鍋島・
津藤堂・徳島蜂須賀・越前松平・土佐山内・久留米有馬・久保田佐竹・
米沢上杉・出雲松江松平・対馬宗の各家

官位極官が中将となる会津松平だけは参府のときだけ老中が上使で
あったり、同じく常溜間詰めの井伊家も老中の上使でない。

これは、主要な親戚筋と外様大藩に配慮した行為だったのだろうか。
249日本@名無史さん:2008/05/18(日) 09:29:37
>>247
阿部家(棚倉藩)・稲葉家(淀藩)・大久保家(小田原藩)からは
代々御役家として若年寄、所司代、老中を多く出している。
その人個人に対しては、御役により4品となるが、御家に対しては
何故かわからない。
250日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:13:57
1790年当時の伊予宇和島藩主は第5代の伊達村候で
左近衛少将4年目で大広間席

かたや、本家(宗家)の第8代藩主は伊達斉村で家督相続
初年で同じく左近衛少将であるが1年目で大広間席

仮に藩主どうしが参勤の年がずれて、直接同席することが
なかっても、江戸詰め家臣の控え席の順は藩主の席次次第
なので、本家と分家で逆転する場合があったらしい。

考えれば恐ろしい話ですね。
251日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:24:34
宇和島伊達は分家でなく別家
一関田村は分家
252日本@名無史さん:2008/05/18(日) 13:49:10
>>249
大久保、戸田は帝鑑間だし溝口は大広間じゃない?
Wikiの編集した人はどういう基準でわけたんでしょう?
253日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:28:50
宇和島藩5代藩主伊達村候の時に、仙台藩伊達と宇和島藩伊達は、本家・分家ではなく、
宇和島は別家と申し立てた。

しかし、結果として幕府の調停では、『仙台藩は本家・末家、宇和島藩は家本・家別れ
と心得ること。』とされたらしい。
254日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:20:11
>249

小川恭一の『江戸幕藩大名家事典』にある

「10万石以上の家は、譜代では大久保(小田原)・堀田(佐倉)・阿倍(福山)・酒井(小浜)・稲葉(淀)・
阿倍(棚倉)・奥平(中津)・戸田(大垣)・真田(松代)の9家と柳沢(郡山)」
(これらの家は老年での四品はあるけど、若くして四品となり侍従まで進むことはないと言う記述)

を誤読したのかと思ったけど、あげてある大名に異同があるしなあ。
真田家なんかは、松平定信の子を養子に迎える前から60歳を超えれば
普通に四品昇進してるんだけどなあ。よくわからん。
255日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:32:22
江戸幕府では将軍と大名で官位が逆転することはないのかな?
室町幕府や北条執権では多数あるけど
256日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:55:20
将軍が右大臣で
関白や太閤が左大臣
というのはあるだろう
257日本@名無史さん:2008/05/18(日) 21:31:25
>>255
将軍就職時に正二位内大臣だから、基本的に起こりえないのでは?
紀伊治宝が従一位になった時は、家慶は将軍世子の時に先に従一位に昇っている
258日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:34:23
位階ってのはある意味勤続永年賞みたいなもんか?死んだら追贈とかもあるようだし。大名でも特に著名人、功績がある人は従一位はくれそうな希ガス
259日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:06:02
くれないくれない。
260日本@名無史さん:2008/05/19(月) 06:43:05

>>254

家督後 間もなく4品に叙任され、叙任後30年を経て従4位下侍従
になる家は、次の者であったらしい。

酒井(播磨姫路藩)  小笠原(豊前小倉藩)
榊原(越後高田藩)  酒井(出羽鶴岡藩)

柳沢(大和郡山藩)と奥平(備前中津藩)の2家も必ずではないが
老年で侍従に叙任されるケースがあったらしい。

あと、真田は願譜代で柳沢と奥平と同じケースだろうし・・

10万石近い家禄のある譜代の多くは、幕府の重役について
いるので、家に対する叙任か個人に対する叙任かが不明瞭

20歳で家督を継ぎ、30年経過で、歳は 50歳かぁ-
261日本@名無史さん:2008/05/19(月) 10:03:34
よく知らんけど、「品」って皇族にしか使わないんじゃなかった?
262日本@名無史さん:2008/05/19(月) 12:24:00
>>261
この場合正式には4位では無いけど4位待遇って感じの筈。従って詰間は柳間から大広間になる。
朝廷から貰った実際の官位は5位下だったのかな?
263日本@名無史さん:2008/05/19(月) 12:36:34
越前松平って別格の家って記述見たけど従四位下少将って言ったら中将の彦根や外様大藩の伊達島津よりも下だけど何かあったんでしょうか?
これなら平の国持ち並みですよね?
264日本@名無史さん:2008/05/19(月) 13:06:55
>>263
つ 度重なるお家騒動
265日本@名無史さん:2008/05/19(月) 13:28:50
忠直改易アボン嫡子光長もアボン やっと庶流の忠昌で復活させて貰った感じ。
ちなみに嫡流は福井じゃないところでこれも少将の家で復活している。
並みの家なら改易だろうが一応お家再興許されているのは制外の家「だった」からじゃないのかな?
266日本@名無史さん:2008/05/19(月) 13:46:21
詰間は大広間だし国持大名に数えられてるしほとんど外様のお客さん扱いだよな越前系って
267日本@名無史さん:2008/05/19(月) 19:17:49
>261

江戸時代の大名で従四位下のことを習慣的に四品と言った。
『武鑑』なんかで使用されている。
268日本@名無史さん:2008/05/19(月) 20:13:43
忠直のときなぜか67万石に減って、
忠昌のとき50万石、
その後なぜか25万石になって
少将止まりになってしまった
269日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:13:19
結城秀康が秀忠より長生きしたらおもしろかったな
270日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:20:59
越前宰相75万石
271日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:25:05
>>268

全国の大名で松平家というのはこの越前松平が宗家というのが多かったはず。松平の連枝の筆頭として幕末台頭できたんじゃない?
272日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:28:26
>265
庶流の忠昌というのはどうかと思うけど、忠直改易後に高田から
忠昌が福井に移り、光長が忠昌の後の高田に入るという形です
ね。

>268
綱昌の時に改易されてますからね…。
273日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:31:20
糸魚川が嫡流なん?
水戸みたく参勤免除だし
274日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:34:15
松平筆頭は会津じやまいか
官位も松平で最高の中将だし
275日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:34:19
あれ?秀康の領地って67万石以上ありましたっけ?
忠昌の52万5000石は、越後高田25万石から忠直改易跡地への加増転封ですね。
その後の減封は、お家騒動(三代昌親が養子に迎えて家督を譲った甥の四代綱昌から
家督を取り上げ五代吉品として再度藩主となった事件)の影響です。

官位については、十代重富(一橋宗尹の子、正四位下中将)までで少将より昇進しているのは
初代の忠昌(正四位下参議)だけなんですよね。で、重富以降は普通に中将まで昇進するようになっている。
276日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:37:18
越後中将光長26万石
277日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:41:25
将軍家の血が入って
32万石に回復
越前家に限らず官位が幕末に
インフレなのは将軍家養子ばらまきの為か
278日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:45:59
海潮寺先生作品に
「差額の八万石はどうしたんだろという」
と悩む忠直家臣の描写がありますね
279日本@名無史さん:2008/05/19(月) 22:10:36
>>278
いろいろ間違ってる気がする
280日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:14:12
海音寺潮五郎
「列藩騒動録」かな
281大膳:2008/05/23(金) 19:41:17
>>255-256

最初期に一つある

徳川秀忠・・・内大臣、征夷大将軍
豊臣秀頼・・・右大臣
これだけ
282日本@名無史さん:2008/05/23(金) 21:43:17
徳川家定‥‥内大臣
近衛忠煕‥‥右大臣から左大臣
283日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:07:09
>>282
こんな例ならいくらでもあるだろw
そもそもそれなりに在位長くないと将軍は右大臣まで上がれないし。
284日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:13:09
家斉は太政大臣になったような希ガス オヤジも大御所の変わりに准三后になってたな
285日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:45:58
>>284
准三后ではなく「准大臣」(儀同)
286日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:10:14
大御所になってから太政大臣になった家康、秀忠。
3代家光は在位中に左大臣になって、太政大臣は辞退した。

しかし4代家綱以降、右大臣がデフォ。綱吉、吉宗ですら右大臣どまり。

11代将軍家斉は在位期間が長かったため太政大臣となり、
世子の家慶も左大臣になった。

13代家定は在位期間が短かったため内大臣のままだったが、
次の家茂は在位期間の短かったのに右大臣になってる。
287日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:27:52
家茂は朝廷のために何度も上洛したんだし
太政大臣にしてやれよ
288日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:53:14
家斉は太政大臣就任や親父の叙任にどれくらいカネ使ったんだろう?実際の伝達儀式の費用やお土産は別として朝廷にカネを
相当撒いたんだろうな。
289慶喜:2008/05/25(日) 00:23:20
>>287
そうですよね。
代わりにボクが摂政に就いてさしあげましょう。
290大膳:2008/05/25(日) 00:27:39
>>287

年齢を考えれば、天皇の義弟としては破格なのでは?
二十歳そこそこで右大臣は・・・・
291大膳:2008/05/25(日) 00:45:51
>>290に、追加

家茂の右大臣叙任は十九の時。
今の年齢に当て嵌めると高校三年生
292日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:43:22
将軍家って、年齢関係なく、いきなり大納言→内大臣になるのは摂家以上に破格だが右大臣以上になるのにはかなりの年数いるよね。
室町までは将軍家も上級貴族に準じて昇任していたが徳川時代から武家官位は完全に固定、特殊。
摂家なら12歳で叙位されて20そこそこには余裕で大臣。
293日本@名無史さん:2008/05/25(日) 07:32:23
>>292
 もうちょっと分かりやすく書いてくれ…
294日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:53:58
結局、家光が左大臣を辞退したのが先例になったんじゃないのかな。
家綱や綱吉が、父の家光をさしおいて左大臣になるのに躊躇したんだろう。

家斉父子の場合は時代がちがうし、家斉の在位が長期に及んだってこともある。
295日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:58:37
>>294を訂正
× 家光が左大臣を辞退したのが先例
○ 家光が太政大臣を辞退したのが先例

× 父の家光をさしおいて左大臣になるのに躊躇
○ 父の家光と肩を並べる左大臣になるのに躊躇
296日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:48:40
家斉、子だくさんの件で大名各家に相当数養子がばら撒かれたらしいが
最終的に自分の家の血脈を残した(乗っ取りを免れた)のは何家ぐらいあるんだろ。
入れ物(家)は残っても中身(血筋)はまったく関係ないとこからの養子とか
かなりあっただろうし。
女系でも血が繋がってればまだしも、
ホントに他家だとやっぱり形が残っただけで乗っ取りだしな
もちろん徳川だけでなく大藩も同じようなことで勢力伸ばしていってただろう
幕末期だと、枝分かれしてるけど○○家 系でくくった場合10の樹ぐらいしかなさそうだな

スマン、スレ違いだったかもしれん
297日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:09:40
実のところ、外様の国持大名で藩祖の血統が断絶したのは、そう多くない。
女系に移行して吉良家の血筋になった上杉(ホントは長尾)家。
徳川一門に乗っ取られた黒田、蜂須賀、鳥取池田。

それ以外の家は、分家や親戚からの養子で男系を維持している家がけっこう多い。
岡山池田のように、幕末は徳川系だったのに、維新後すぐに池田の男系が復活した例もある。
298日本@名無史さん:2008/05/26(月) 12:36:15
太政大臣だじょー
299日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:39:42
>外様の国持大名で藩祖の血統が断絶したのは、そう多くない。
知らんかったわ・・・
徳川から養子をもらって家格を上げた、(位階だけの無役の家が官職付きになったとか)
って話が頻繁にあると思ってたから、相当数藩主の血筋が駆逐されたと思ってた。
外様は少ないらしいけど譜代の小藩なんかはどういった状況だったのか興味あるな。
300日本@名無史さん:2008/05/27(火) 20:52:03
>299
ほい。つttp://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/daimyou.htm

まあ、300諸侯のほとんどが譜代小藩(というのは言い過ぎか)なので、
家によりけりとしか言いようがないな。
どういう家がどうだという傾向が見つけられれば、論文の一報ぐらいかけるかもしれない。
(理系的感覚で書いているので、ほんとに書けるのかどうかは知らない)
301大膳:2008/05/27(火) 23:46:07
>>299-300に関して、外様と譜代の例を、一つずつ

>>143
後、姫路酒井家にも姫が嫁いできたが
この婚姻が原因で酒井家は財政破綻を起こした。
302日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:00:23
前田の姫に付いてきた連中が
いばりくさっていたので
家老たちが本多(直江)に相談して
彼らをやっつけた

殿様は官位上がっても
家来は苦労した
303大膳:2008/06/01(日) 21:43:41
ちょっと、気分転換に・・・・
ー徳川将軍の食事ー

一の膳・・御飯、汁(豆腐その他。ワカメはなぜかタブー)向う付け(刺身か酢の物)平椀(煮物)
二の膳・・吸い物、皿(キスの塩焼きと付け焼きの二種類。月の内三回は尾頭付と称して鯛やヒラメを付けた)


朝と同メニュー+将軍からのリクエスト一品(ただし台所役人の提示する献立から)


朝、昼と余り変化無し。ただし、汁が鯉こくになったり、皿物に鴨の炙り焼きや蒲鉾、
卵焼きなどが追加される。
好みによっては食事後、軽いつまみと銀製のお銚子が追加。

将軍の食事は常に十人前用意される。
内、三つは毒味役行き。
御飯は二膳以上食す事、御膳は三回以上換える事が仕来り。
食事の残りは、夜間勤めの家臣の夜食に回される。
304大膳:2008/06/01(日) 22:04:40
特殊事例
家光の朝食に付いていた御飯物
ー七彩の飯ー
焼き飯・湯漬け・とり飯・粟飯・麦飯・小豆飯・引割雑炊

この中から好きな物を食べていた。四代家綱もこの習慣を引き継いでいた。
余り物は家臣の夜食となった。

ー吉宗の場合ー
紀州藩主時代
朝食・・・焼き飯・汁・唐辛子味噌
夕食・・・一汁一菜、お酒少々
日中の間食・・・・残った飯を焼き飯にして重箱に詰めさせて、小腹が空いたら政務の合間に食べていた。

将軍時代
朝・夕二回の一汁三菜。夕にお酒少々
305大膳:2008/06/01(日) 22:16:32
比較対象として

ー伊達政宗のある日の朝食ー
御飯・雉と小松菜の茎の味噌汁・鮭の付焼き・香の物・小芋の煮付け(デザート)

ー幕末の広島浅野家の当主の朝食ー

御飯・味噌汁・豆腐か焼き味噌
306大膳:2008/06/01(日) 22:22:52
御台所の食事メニューは将軍と同じ。
仕来りも一緒(篤姫の食事風景は、大河にしては珍しく、ちゃんと再現されていた)
307日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:41:13
切り放し御袴の直垂がかっこいい!
308日本@名無史さん:2008/06/02(月) 21:34:13
最近発見された上杉鷹山
の献立は贅沢だったことが判明

海の幸たくさん
309日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:30:36
直垂って4位以上しか着れないのねw
諸大夫は大紋 それ以下は周防w
直垂なんか鎌倉時代はゲスの服装だったのに。
310日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:56:09
まあ、前代の普段着が正装に格上げされるというのは、洋の東西問わず普通にあることだね。
311日本@名無史さん:2008/06/02(月) 23:53:29
成り上がり者が増えて全体的に身分が下がっていくからね。
312日本@名無史さん:2008/06/03(火) 00:04:37
それもあるけど、「正装は面倒くさい」->「俺は平服でもいいことにしろ」という流れで
いつの間にか平服が正装化していくというのもあると思う。

「軽い服装でも良い」というのも一種の特権だからね。
313日本@名無史さん:2008/06/03(火) 17:39:29
侍従成していないと直垂は着れないのでは?
四位無官職(四品)は狩衣じゃなかった?
314大膳:2008/06/03(火) 22:57:23
 位階別の礼服

従一位太政大臣(将軍家)・・・対朝廷・神事・祭事、衣冠束帯(通常は黒。ただし、太政大臣任官時には灰色に近い白)
                 元旦・二日、直垂(将軍は紫色、嗣子は緋色)三日、直衣。節句、肩衣半袴

二位〜四位侍従まで・・・・・対朝廷・神事・祭事、衣冠束帯 元旦・二日直垂(色は紫、緋色以外)ただの四位は狩衣
                 三日、長裃 節句、長裃

五位諸大夫・・・・・・・・・対朝廷・神事・祭事、衣冠束帯(色は赤、三奉行・大目付は無地)元旦・二日、大紋 三日、長裃(肌着は白)
                 節句、肩衣半袴

それ以下・・・・・対朝廷・神事・祭事・元旦・二日、旗本は布衣。御家人は素襖 三日・節句、双方共に肩衣半袴


八朔祝いの時・・・万石以上の者は白帷子に長裃

ー平服ー

継裃(上下色違いの裃)七草・雛祭の時は熨斗目に長袴。端午の時は染帷子に長袴。七夕の時は白帷子に長袴。重陽の時は花色紋付小袖(万石以上)長袴               
315日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:32:05
赤穂事件の有名なシーンは狩衣だったり直垂だったりで時代考証混乱しているのかな?
大河はきちんと直垂着ている?
浅野の大紋は大体あっていると思ったが・・・
316大膳:2008/06/04(水) 02:41:36
>>315
>>314の服装規定に従えば、史実どおりの服装は浅野の大紋のみ
あの時点の吉良上野介の官位は従四位権少将だから本来ならば
服装は黒の衣冠束帯。
 でも、その姿で描かれた忠臣蔵は自分も見た事がありません
317日本@名無史さん:2008/06/04(水) 07:40:46
>>316
その規定に従えば浅野は赤の束帯、吉良は黒の完全公家装束じゃない?
でも衣冠束帯で刃傷って絵にならないねw
やっぱり刃傷沙汰は武家装束じゃないと。
318日本@名無史さん:2008/06/04(水) 12:29:25
旧官弊大社の宮司が正装のとき黒装束なのは、不遜なのかな。旧官弊大社の宮司って従五位だよね。
時代が変わったからそんなの関係ねーってかんじなのかな。
319日本@名無史さん:2008/06/04(水) 15:11:47
>>314
>旗本は布衣。御家人は素襖
布衣ってのは、布衣役についた旗本だけなのでは?
320大膳:2008/06/04(水) 22:57:43
>>317
ただ、勅使答礼の儀が正月二日に相当したとすれば
吉良上野は直垂、浅野内匠は大紋と一応の辻褄合わせはできる。
 昔、その装束での忠臣蔵を見た記憶がありますよ

>>318
神祇官関係は、詳しくないので分かりませんが
私見としては、太政官官位より
一階位高く見られるのでは
ないのでしょうか?

>>319
言葉足らずで申し訳ない。確かにその通りです。
321313:2008/06/04(水) 23:39:56
>>315
どうやら「四品は狩衣」という規定を読み違えて、「従四位上である上野介は狩衣だろう」
と短絡している作家や監督や時代考証家が多いようです。
監督では、あの伊藤大輔すら間違えて「狩衣」としているので、後輩も右ならえで間違
ってしまう。

>>314>>320
幕末の高家、従四位下侍従、大沢右京大夫基寿は、「朝廷に伝奏するときは直垂」と
回想しているので、仰せのとおり「対朝廷 衣冠束帯」と限定はできないかと。
322日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:03:15
スレチだけど天皇や男性皇族って俗に言う和服着ないよね。
女性皇族はしょっちゅう着ているけど。
323日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:40:09
忠臣蔵の時代考証って直垂よりも狩衣が麻呂っぽいっていうのもある気がする。
今川が麻呂だった様に。
324日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:43:29
赤穂繋がりで切腹の家格の差。
叙位された者は座敷(例外浅野)
無位無冠は庭先で良いですか?

座敷貸したくないんですけどw
325日本@名無史さん:2008/06/05(木) 11:03:47
>>324
終わったら畳交換ということで
326日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:22:32
>>323
明治天皇はプライベートでは和服だった。
孫の昭和天皇は青年時代の渡欧経験から、洋服と和服の二重生活は不便と考え、
帰国後は洋装一本に切り替えた。
ただ、昭和天皇の弟たちはプライベートでは和服を着ることもあった。
327日本@名無史さん:2008/06/06(金) 16:36:58
今は和服着てる人なんて日本中で波平と千砂姉さんぐらいしかいないからな・・・
>>325
切腹の間は板敷きという話を聞いたことがあるんだが戦国期だったかも知れんけど
328日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:10:16
>>大膳くん
狼でいろいろ食文化について教えてくれてありがとな!
こっちでも君に会えて嬉しいよ。
(こっちでは俺、句読点バリバリ使うからね。)
329大膳:2008/06/08(日) 22:11:26
>>328

どう致しまして。
お役に立てていれば幸いです。
 こちらでは、江戸の武家官位と、その官位に付随する
儀式、習慣などを語っていきたいと思います。
 また、宜しくお願いします。
             大膳
330日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:21:33
狼ってなあに?
331大膳:2008/06/09(月) 19:39:27
 将軍宣下の儀  着用装束は>>314を参照

場所は、江戸城大広間にて挙行。(初代家康と三代家光は伏見城、二代秀忠と十五代慶喜は二条城)

告使役の「御昇進、御昇進!」の告知と共に式は始まる。(午前九時半、開始)

下賜される宣旨は以下の通り。()内の砂金は御礼金

征夷大将軍(砂金二袋)

正二位内大臣(砂金一袋)

右馬寮御監(砂金一袋)

両院別当(砂金一袋)

源氏長者(砂金一袋)

氏長者(砂金一袋)

牛車兵仗(砂金一袋)

将軍補任の宣旨は、勅使団の副使役が御前に持参し、官務が中継し、高家肝煎役が
将軍に渡す。御礼の砂金は宣旨の入っていた箱に収め、今度は逆順で官務が受け取り
御前から退く。
他の宣旨に関しては、官務・大外記が持参・中継役を勤め、将軍への取次ぎは他の高家が勤める。
砂金の受け渡しについては、将軍宣旨と同じ。

此処までの所要時間約三時間ほど。これで当日の儀式の前半が終わる。
 
332大膳:2008/06/09(月) 20:15:28
>>331の続き

儀式後半

此処からは、朝廷から将軍への賜物の授与式。
下賜される品は次の通り

天皇からは、太刀目録に黄金二枚

上皇からも、太刀目録に黄金二枚

女院からは、太刀目録に黄金一枚

他にも、宮・門跡・摂家などからも数々の賜物が贈られる。
最後に勅使役の公卿衆から太刀・馬代・紗綾(反物)五巻が贈られ
将軍就任の賀儀を受ける。
それに引き続いて、官務・大外記などからも祝いの品と賀儀を受け、
勅使のみに老中が形式的な返礼を返して午前の儀式は終了する。
これで勅使達の当日の御役目は終わり、控えの間に下がって休憩がてら
老中から改めて挨拶を受け、それから宿舎の伝奏屋敷に帰館する。
333日本@名無史さん:2008/06/09(月) 21:00:44
右馬寮御監とか淳和奨学院別当とかって江戸時代の将軍が就任する意味あるの?
334大膳:2008/06/09(月) 21:08:25
>>331>>332の続き

午後からは、白書院において大廊下詰めの諸侯(主に御三家、加州侯)、溜間詰の諸侯より
賀儀を受けた。(これでこの日の全日程が終了)
翌日から三日間に渡り、その他の大名衆からの賀儀言上を受ける。
それが済んだ頃に、祝いの能興行を行い※最後に勅使一行に数々の土産を下賜し
江戸から送り出して一応、終了。

※勅使や諸大名の他に、城下の町人達の内、家主衆の代表も見物したので
町入能と称した。午後にかかる場合は見物の町人達には握り飯と漬物が食事として出され
帰りには土産として饅頭や銭などが下賜された。

 勅使が京に着くか、着かないかぐらいの頃合に今度は、答礼使として
彦根井伊家の当主と高家肝煎を上洛させて、挨拶を行わせて
諸々の儀式は全て終了となる。
335大膳:2008/06/09(月) 21:11:12
>>333

取り立てて意味はないが、足利義満以来の仕来りになっているので
どうしようもない。
336日本@名無史さん:2008/06/09(月) 23:29:55
>>331
源氏長者と氏長者とあるけど,これ別物ですか?
337大膳:2008/06/10(火) 04:54:02
>>336
まったくの別物

源氏長者・・・全ての源氏姓を名乗る氏族の代表者

氏長者・・・四姓(源・平・藤・橘)を名乗る氏族の代表者
338日本@名無史さん:2008/06/10(火) 05:22:25
氏長者を名乗れる徳川家は摂関家よりも格上と朝廷から認められたって事ですか?>大膳さん
これは俺的には再発見。
339大膳:2008/06/10(火) 05:42:41
>>338

江戸の頃になると、氏長者の地位は形骸化しているので

徳川将軍家>五摂家ではなく

徳川将軍家=五摂家の意味合いの方が強い。
340日本@名無史さん:2008/06/10(火) 16:20:36
今も氏長者とか源氏長者って名乗ってる人いるのかね
官位はなくなったが別当とかこれらはこっそりやってるのかな?
341大膳:2008/06/10(火) 16:53:39
>>340

明治維新で政治形態が変わってしまったので
〜長者の称号と存在意義は消滅してしまったので
現代では残っていない。
もし、あるとすれば、宗家・分家の関係ぐらい
342日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:20:42
源氏はともかく藤氏長者って制度はともかく意識はまだ少しあるんじゃないか?
343日本@名無史さん:2008/06/11(水) 10:45:59
源氏長者と淳和奨学院別当は義満の頃に公家源氏から奪ったらしい
344日本@名無史さん:2008/06/11(水) 12:04:55
淳和奨学院ってそのころまだあったの?
つーか、いつ頃まであったの?
345日本@名無史さん:2008/06/11(水) 17:33:52
>>344
室町時代後期に廃絶したと考えられています
346日本@名無史さん:2008/06/11(水) 17:56:22
将軍家との親疎で詰め間決めているから必ずしも大廊下が上という訳では無い。
明確な序列があるのは
大広間>柳間
溜間>帝鑑間>雁間>菊間
347日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:48:17
今の鷹司当主が氏長者って昔紹介されてたが・・・
348日本@名無史さん:2008/06/12(木) 08:00:07
俺はのおばあちゃんは武家屋敷出身だけど武家屋敷って何ですか??
349日本@名無史さん:2008/06/12(木) 09:42:51
>>347
藤原氏の氏の長者かもしれない
五摂家で回り持ち?
350日本@名無史さん:2008/06/12(木) 21:31:01
>>348
武家、すなわちお侍さんが住んでた屋敷です。
それ以上のことは、その屋敷の主の苗字とか、誰に仕えていたとかが
ないと何とも言えません。
351日本@名無史さん:2008/06/12(木) 21:36:14
いや、ひょっとしたら「武家屋敷」という地名があるのかもしれない。
352日本@名無史さん:2008/06/13(金) 21:10:41
屋敷高陣
353日本@名無史さん:2008/06/14(土) 18:58:04
以前の「なんでも鑑定団」で井伊直弼書の掛け軸の署名が
「井伊宰相」となっていて、その点を即座に否定されて
ニセモノと断定されてた・・・。
354日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:16:24
大名の官位とかについてさ

格付けしあう大名たち
>>ttp://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20070131/sg070131_ogawa_05.pdf
>>ttp://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20070228/sg070228_ogawa_06.pdf
に書いてあること,真に受けて良いの?

詳しい方教えて下さい。
355日本@名無史さん:2008/06/30(月) 09:32:41
山奥にある○○屋敷という地名は修験者の修行の地だったことが多いそうだ
356日本@名無史さん:2008/06/30(月) 16:37:44
江戸留守居役は自藩と同格と
思われる大名の留守居と付き合っていた
ただし仲悪は別
357日本@名無史さん:2008/06/30(月) 18:17:58
下国守は六位相当だし
格下に思われなかったのかな

淡路守、和泉守、伊賀守、対馬守、
358日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:17:25
下国守でも知行地と一致していたら名誉なことだったらしい加賀や薩摩
359日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:34:55
留守居は、詰めの間ごとに寄合作ってたけど、屋敷が近所同士の
大名家同士で寄合を作ってもいたと聞いたことがあるが。
360日本@名無史さん:2008/06/30(月) 22:35:54
>354

小川恭一氏といえば、在野の人物とはいえ柳営研究では
第一人者といってもいい人。このスレでも、氏の著書からの
引用と思われるレスも多々ある。

学会における評価はよく知らないが、とりあえず真に受けても
そうそう恥をかくことはないと思う。
361日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:15:14
尾張守や常陸守の大名っていたっけ?
362日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:16:15
>>361 失礼、常陸介でした
363日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:24:53
終わりの髪は基本的にいないはず。
北条を裏切った松田終わりの髪憲秀から、裏切り者のイメージがついたそうな。
でも裏切り者ってはいて捨てるほどいるんだけどね・・・。
364日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:44:15
豊太閤を裏切った毒皮家安
365日本@名無史さん:2008/07/01(火) 14:38:03
紀伊家の嫡男が徳川常陸介ですね。
366日本@名無史さん:2008/07/01(火) 18:06:30
>>359
複数の組織に顔を出して、コネ作っていたってことなのでは?
現代でも同業種・近所(同じ工業団地内とか)などのあつまりに複数参加するような感じで。
367日本@名無史さん:2008/07/01(火) 21:01:23
>361

青山忠成が紀伊頼宣に遠慮して常陸介から播磨守に改名している。
まあ、このあたりから常陸介は使いにくくなってきたわけだ。
368日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:39:55
鼬のでれすけ
369日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:43:53
秋田家や織田家
は出羽介って使わないの?
370日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:03:45
>>365>>367 なるほど、紀州様の嫡男が名乗っているので遠慮したのですね
371日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:53:06
水戸家は左衛門督
372日本@名無史さん:2008/07/02(水) 21:56:20
常陸介は紀伊独占
尾張守は忌避
だけど紀伊守の使用はフリー
373日本@名無史さん:2008/07/03(木) 11:07:44
秋田城の介は誰か名乗っていたの
安達景盛と織田信忠の官職だから名誉だろう
二人とも殺されたから縁起が悪い?
374日本@名無史さん:2008/07/04(金) 10:08:28
秋田秋田城介実季
375日本@名無史さん:2008/07/04(金) 13:35:24
秋田城介って出羽介と同じ意味だよね?
だったら江戸時代の大名は出羽守がいるから普通は名乗らないんでは?
376日本@名無史さん:2008/07/04(金) 18:41:11
松平出羽介直政
377日本@名無史さん:2008/07/04(金) 18:46:50
坂上越後介田村麻呂
378日本@名無史さん:2008/07/04(金) 18:53:46
川越佐渡介正淑
379名無し募集中。。。:2008/07/04(金) 18:58:22
>>1
いまさらだけど狼住人かよ!
狼の歴史スレはよく伸びるな
380日本@名無史さん:2008/07/04(金) 18:58:27
上野介は大人気の官名
殺されようが処罰されようがお構いなし
次々に名乗っては
何人もの大名や幕臣が悲しい最期を迎える
381日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:01:31
狼って何なの?
382日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:03:23
>>380
小栗上野介 官軍により切腹をゆるされず斬首刑です。
小栗上野介は舟代官として活躍したのにね。
383日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:18:54
吉良上野介
今日でも三河の地元では名君
384日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:44:27
松平で同一官途は×だよね
外様も大々名は松平だし,旗本にも松平はいるし,官途の独占もあるし,松平さんは,最後にはスケとかジョウとかまで探して使ってたんだろうか。
385日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:52:03
>>376 松平直政は大名になると出羽守に任官。
出羽介は旗本が名乗っていたのでは
386日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:53:11
土佐・山内家 いまだよそ者扱い。
387日本@名無史さん:2008/07/04(金) 20:21:21
国持ちでは細川上杉が
松平賜姓の対象外
細川は打診をヤダと蹴ったらしい
388日本@名無史さん:2008/07/04(金) 21:41:14
徳川より明らかに由緒ある家名だからな
長岡や長尾のままならもらったかもしれないが

公家に松平賜姓はあるのかな?
389日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:19:15
>388
徳川以下の「羽柴」はもらっていたけどね。
390日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:35:42
>>389 断ったら一族皆殺しにされるかもしれないからね
391日本@名無史さん:2008/07/05(土) 10:50:29
>384

官名の独占使用をしていたのはたいてい松平だから、武蔵守、
尾張守、常陸介、治部大輔、右衛門尉以外はほとんど使える。
諸国が68カ国、8省、4職、18寮、8司、1監、2署、6衛府、1台と
松平姓で使える官名は110と意外と多い。

対して松平姓の大名は約35前後、旗本は103家。(寛政譜調べ)
嫡子もいるとしても、隠居した者の名乗りは重複OKだったはず。
ということで、よっぽどのことがなければ足りなくなることは
なかったのでは。
392日本@名無史さん:2008/07/05(土) 13:07:43
>>387
細川家の場合は、足利義昭の没落後、信長傘下になったときに長岡に名字を改めていたのを
(秀吉に貰って羽柴になったりしたけど)家康が「細川に戻したら?」と大阪の陣後に薦めて戻したという経緯があって

「家康公より認めて頂いた細川という名字をありがたく使います」というのが表向きの態度、
家康の名前を出されたら、無理強いは出来ないですね。
(細川氏の本音はわからないが)

細川氏は、肥後入国後一旦越中守から肥後守になっているのに、光尚一代限りで戻ってるのは何でだろう?
保科正之が肥後守に既になった後に光尚がなっているから、後代の当主がなっても問題ないと思うのですが。
加藤家時代も、清正・忠広ともに肥後守だし。



393日本@名無史さん:2008/07/05(土) 14:20:23
藩祖ゆかりの官名だからでしょう
394日本@名無史さん:2008/07/08(火) 07:07:41
このスレ面白いですね。
勉強になります!!

395日本@名無史さん:2008/07/08(火) 22:06:17
江戸の左官屋が
こちとら武蔵大目(むさしのだいさかん)でい
とか言ってたらw
396大膳:2008/07/08(火) 22:13:12
>>388
吉井の鷹司松平家がいる。
ただし、松平を賜ってからは公家ではなくなり
武家として遇されている。
397大膳:2008/07/08(火) 22:34:18
>>392-393

肥後守については、会津松平家に優先権があった。
(会津松平家が不使用の場合は細川家も使えた)


>>394
お褒めに預かり、恐縮です
398大膳:2008/07/08(火) 23:10:53
 徳川将軍家の葬礼(例:家綱)

五月八日  家綱薨去

 ゛九日  老中、土井能登守を上使として寛永寺に派遣。葬礼を依頼する。

日を置かず、寛永寺側も使僧を江戸城に派遣して日程を伝える。
(十四日夜に尊骸を寛永寺に移送、二十六日夜に葬礼。この時代、葬儀は夜行うのが普通)
この間に、幕府は葬儀に係る人事を決めて発令する。
ー人事ー
惣司(後の奉行。最高責任者):大久保加賀守

副司:板倉石見守・松平山城守

築封地(墓域)奉行:阿部美作守

その他:那須遠江守・平野丹後守(防火担当) 百人組・持弓・持筒・徒歩組(警備担当)
399大膳:2008/07/08(火) 23:24:38
>>398の続き

ーこれらの人々の控えの間ー
寛永寺本坊内寝殿一之間:惣司・副司

     ゛    二之間:書院番頭・同組頭

     ゛    三之間:同組士の面々
400日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:31:00
尾張家付家老成瀬家が代々隼人正をなのっていますが、これはもともとどんなことを司る官位ですか?
401大膳:2008/07/08(火) 23:48:34
>>400
隼人(九州)出身の宮兵の管理・監督をする者の官職。
他に歌舞の教習、宮中での竹細工製作の事も司った。
位階としては六位相当
402日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:03:11
>>397
>肥後守については、会津松平家に優先権があった。
>
(会津松平家が不使用の場合は細川家も使えた)

保科正之が肥後守になったのが寛永8年(1631)、この時点で加藤忠広が既に肥後守
翌年加藤家が取り潰されて、細川氏が肥後入国、光尚の肥後守はその後だと思うんですが。
そもそも、以後細川氏って肥後守になってないような・・・。

光尚が肥後守になったときは、ルールが確定してなかったってことはあるかもしれないけど
”会津殿が使わないときはOKだよ”ってのはどっから来た話なの?


403日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:31:29
>>401 なるほど
江戸時代の大名は同じ従五位下でも右京大夫や右京亮や市正がいるけどあまり気にしなかったんですか?
404日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:49:28
>>403
前の時代から,官位相当はあっても,「守」や「行」で何とかなるし,良かっ
たんじゃない。
それに江戸期の武家は,本来5位相当の少将になるには4位に上がらないとな
れないとか,公卿が兼帯した侍従に4位,5位でなれたりもあったから。
405日本@名無史さん:2008/07/09(水) 10:46:54
>>404 そこらへんは結構適当だったんですね。
自分だったら帯刀とか市正なんて格下感があっていやだなぁ
406日本@名無史さん:2008/07/09(水) 18:55:20
>>405
適当というか,実質的には「名乗り」であり,官職に実があるというわけでは
ない。
叙爵されたという身分を表すものかな。

官名は,先祖が叙爵されたという由来によるものが多いみたいなので,慣習や
禁忌に触れなければ自己申告でOKであり,当人には名誉であって格下感は無
かったと思う。
407日本@名無史さん:2008/07/09(水) 19:39:05
>397

会津家の肥後守の優先権は、あくまで松平姓の中だけだよ。
幕末の林肥後守の立場無いじゃん。

全姓に渡る独占権を持っているのは陸奥守と薩摩守だけ。
(ただし、徳川禁令考などによると、これらの独占も公式には
幕府は認めていなかったらしい)

>403

修理大夫、左右京大夫、八省の大輔等々は従四位下以上の
人しか名乗れないことになっていた。ただし、田村右京大夫など、
従五位下で名乗っている人もいて、これは家の特別な格式とされていた。
408日本@名無史さん:2008/07/10(木) 01:21:38
ウチの十姉妹は大納言
409日本@名無史さん:2008/07/10(木) 17:14:50
太政大臣=相国 中納言=黄門 参議=宰相

でも黄門より宰相の方が偉く感じるな
410日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:54:44
>>409
それは,宰相=総理大臣という現代のイメージがあるからかな。
411日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:37:47
ライオン宰相
412日本@名無史さん:2008/07/11(金) 10:24:31
植村羽前守家壺
水野羽後守忠敬
413日本@名無史さん:2008/07/11(金) 18:52:27
伊達蝦夷守邦成
上杉琉球守茂憲
414日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:52:12
>410
むしろ、「宰相」が参議と唐名としては過分なんじゃないですか?
415日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:59:23
>>414
そうですね。
「宰相」は,元は大臣の唐名ですからね。
416日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:32:13
中国では相国>丞相>宰相
日本で相国と呼ばれていたのは入道相国平清盛のみかな?

三国志では曹操や諸葛亮も丞相だが
417日本@名無史さん:2008/07/12(土) 04:31:29
相国なんて基本的に蕭何と曹参だけやん。
後漢末になるとアレだけど。
418日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:11:33
黄門侍郎と宰相なら宰相の方が上だろう

小早川秀秋は中納言なのに黄門ではなく金伍なの、執金伍とは関係ないの?
419日本@名無史さん:2008/07/13(日) 01:17:05
420日本@名無史さん:2008/07/13(日) 18:06:40
幕閣に入れば官位が上がるのは分かるのですが、つけない外様が官位を上げる
のに必死になるのは何か利益があったのですか
421日本@名無史さん:2008/07/13(日) 18:15:57

>>420
伺候席で上席に入ることができる。利益ではなく
些細な見栄
422日本@名無史さん:2008/07/13(日) 18:31:12
猟官するより新田開発でもして実高あげたほうがいいよね
そっちのほうが名君としての名も残る
生前のちょっとした見えよりよっぽどよい
423日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:14:10
>422

そういうことをすると家臣の既得権益を侵してしまったりして、
主君押し込め等という目に遭うわけだ。家臣から見ると、
何もできない馬鹿殿こそが天下の御名君。
424日本@名無史さん:2008/07/14(月) 09:40:29
江戸時代なら信長は乱心者として座敷牢へ
今川氏真は文化人大名として尊敬される
425日本@名無史さん:2008/07/14(月) 10:14:16
唐の宰相は数人いるのが当たり前だから、唐名としては過分じゃないかも。
正宰相が中書令と侍中で定員各2名だからこれだけで4名。
初期は左右僕射も宰相だから併せて6名。
他に中書門下同三品とか中書門下同平章事とかの肩書きを貰う宰相が数名。
ところで中納言の黄門って門下侍郎(=黄門侍郎)なのか侍中なのかどっち?
侍中なら黄門>宰相でも違和感ないな。門下侍郎だと黄門=宰相だな。
426日本@名無史さん:2008/07/14(月) 10:29:05
正六位下
田中河内介
427日本@名無史さん:2008/07/14(月) 13:34:45
なんで宰相が総理大臣の代名詞になったの?
428日本@名無史さん:2008/07/14(月) 17:13:25
不思議だな
帝国宰相ビスマルクというが本来は相国か大丞相
429日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:23:39
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A6%96%E7%9B%B8#.E5.AE.B0.E7.9B.B8.E3.81.8B.E3.82.89.E9.A6.96.E7.9B.B8.E3.81.B8
>ドイツの首相の呼称にはどれにも -kanzler という語が含まれている(共産主義政権の旧東ドイツを除く)。
>この Kanzler (カンツラー、英: chancellor) というのは古フランス語の chancelier が語源で、本来は
>「宮廷や法廷の門衛、案内役、事務員、秘書官」などをさす語だった。神聖ローマ帝国初期のドイツでは、
>宮廷の礼拝を司る司教が宮廷文書の管理なども行ったことから、これが「法官 (Kanzler)」と呼ばれていた。

ドイツ語の語源に基づけば、宰相や大丞相はまだよしとしても、相国は過分。
日本語ではまとめて「首相」だが、英語圏ではドイツ首相は伝統的に「Chancellor」だし。
430日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:34:01
>>429
今の日本では,「書記官」の仕事に近いようですね。
431日本@名無史さん:2008/07/15(火) 00:57:51
>430
まあ、米英でも「長官」「大臣」の多くが"Secretary(=secret officer)"だし。
元々、王の出す文書を扱う秘書が担当別に分けられ、その下に"Under secretary"(次官)
以下の部下がついて役所が形成される、というような流れみたいですね。
432日本@名無史さん:2008/07/15(火) 06:34:40
おまいらくっちゃべってて何が楽しいんだ?

地面を掘れ!

墓を暴いて人骨を調査せよ。

そして史料を参照して真偽を判定せよwwwwww


433日本@名無史さん:2008/07/15(火) 07:41:49
今日から総理大臣をザ・マンコって表記しようぜナイスアイディーアだぜ
434日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:27:34
つまり大臣より尚書とでも訳す方が原語に忠実ではあるわけだな。
435日本@名無史さん:2008/07/15(火) 18:53:59
総書記でいいよたかが書記の分際でえらそうに・・・
生徒会選挙でだって書記なんざわりとどうでもいいポジションだろうに
(実際は生徒会副会長が一番仕事がないんだが)
436日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:26:11
生徒会長(一名)
生徒会最高責任者。対外的に生徒を代表する。従一位太政大臣。

副会長(男女一名ずつ)
生徒会の実質的運営者。各クラブ、委員会、代表委員との折衝を担当。従二位大納言。

議長(男女一名ずつ)
生徒総会の議事運営を務める。生徒会新聞を担当。二人はくっつく傾向にあり。従三位中納言。
書記(男女一名ずつ)
各クラスの代表が集まる代表委員会において、決まったことを黒板に書く。生徒会新聞を担当。男女ともチャラい。従四位下侍従。

代表委員(各クラス二名ずつ)
各クラスの意見・希望を生徒会に伝え、生徒会での決定をクラスに伝えるパイプ役。学級委員の上部に位置付けられる。従五位諸大夫。
学級委員(男女一名ずつ)
クラス内の意見集約、もめ事の解決などあらゆる物事を担当。無位無冠。
437日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:05:45
>>434
だんだんスレ違いになってきたが
銀英雄伝の官職名は正しいということかな軍務尚書とか国務尚書

外国の場合は王や皇帝が最高権力者、重臣であっても家僕にすぎない
日本は天皇以外に最高権力者がいる、太政大臣などは臣下としては不遜な官職名
438日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:07:39
まあ、もともと太政大臣は皇族専用だったし。
439日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:20:37
大臣って言葉自体家来の主立ったやつって意味だからそんな大したものじゃない。
むしろ民主主義国の官職名としてはふさわしくないんじゃないかな。
総監とか長官とか総督とか総長とか参政とか参議とかの方が良いかも。
440日本@名無史さん:2008/07/16(水) 20:25:17
官職名一つ取ってもその国の歴史を反映してるな
441日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:05:18
>>440
大蔵とかつい最近まで使っていたし,大學や博士なんて今でも使っているね。
近衛も,近衛師団って使っていたし。

で,スレ違いと言われない話題ですが,江戸時代の武家で一番人気の官は何だったんでしょうか。
一家独占の官名でなく,色んな武家が名乗った官名で。

442日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:18:20
人数だけで言うと、寛文4年時点では

信濃守18人
若狭守13人
山城守、越中守11人
美作守、土佐守、飛騨守10人

だそうだ。
443日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:22:20
>434
英語の語源からすると、「秘書」が最適ですね。
"secretary"は、語の中に"secret"secret officer"を意味する
444日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:23:51
>443
ミスった。失礼。

"secretary"は、元々"secret officer"という意味のラテン語から来ているらしいです。
445日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:28:51
>>442
けっこう被ってるんですね。
他家とは違う官名にしようなんて考えなかったんでしょうかねえ。

官には,国司だけでなく寮とか省とかもあるし,介とか掾もあるのになあ。
446日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:25:28
このとき(寛文4年)に官位を持っていた人間は472人。
基本的に官位を持っている人間の名乗りは守、頭、正、
亮、少輔でそれ以下は無官の人の名乗りになる。
というわけで、思ったほど数に余裕はない。
447日本@名無史さん:2008/07/17(木) 01:03:35
>>445
○○守なんてありふれててやだなあとか本人が思っていても
家代々の名乗りだったりするから簡単には変えられない
(諸事情により変えるケースも少なく無いので単純に言い切れないが)
448日本@名無史さん:2008/07/17(木) 18:52:47
>介とか掾もあるのになあ
前はそう思ってた。
老中とかが呼ぶときには守とかは省略。
松平民部少輔なら松平民部、本多伊豆守とかなら本多伊豆。
なので守と介でもだぶりになるらしい。
単なるお飾りなら国介とか省丞とか寮助あたりは司正とほぼ同等で、
五位級の官職として問題ないんだけど。
449日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:22:57
さかん〔目〕が稀少価値があっていいんでね

近江大目とか和泉目とか
450日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:27:10
江戸時代だと目は省や寮の史生あたりの官。
位階に縁がない駕輿丁の永年勤続者が無位で目の官だけ貰ったりしている。
「幕末の宮廷」によると慶応三年に一同従八位下国目になったそうだけど。
451日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:06:22
介とか掾は,職人などが称号としてもらうことがあった何かで読んだ。
それもあって,介とか掾を武家の官位としては避けたのかなあ。

それと,禁中並公家諸法度により武家官位を員外官として公家とは別としてい
るが,公家侍や寺社の侍の官位は幕府の与える官位とは違うようです。
公家侍や寺社の侍は,武家扱いされていなかったということでしょうか
452日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:06:51
下国目だと
志摩目、隠岐目、伊賀目あたり?
あまりカッコ良くない
453日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:10:48
紀州の御曹司と
納豆職人が
同じ常陸介だったら
職人仲間に威張れるな
454日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:19:46
刀鍛冶には掾や介や守がいるな。
大名のお抱え鍛冶なのに○○守なんて変だ
455日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:24:11
大工の大和守さんってのは正式に官位もらてたんですか?
456日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:43:12
大工とか刀鍛冶とかの○○守とかは,いわゆる「受領名」だね。
457日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:43:50
刀鍛治が備前守だったら
老中の堀田上野介より上座だな
458日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:54:24
>>457
上野は親王任国だから,上野介=備前守でないか
459日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:59:14
織田上総守は親王と同格
勤王家の信長はあわてて上総介に
460日本@名無史さん:2008/07/17(木) 23:02:23
そこが信長の限界
日本国王義満ほど厚顔でなかった
461日本@名無史さん:2008/07/17(木) 23:54:40
>>450
駕輿丁といえば,鬼の子孫の八瀬童子ですね。

>>446
京官と外官(国司)はどちらが人気?があったのでしょうか。
先祖由来といっても,ほとんどの武家は外官を名乗りにしているイメージなのですが。
462日本@名無史さん:2008/07/18(金) 09:59:17
>>459-460
勤皇家だからじゃないよ

無知を笑われたんだよ
463日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:24:08
>>461
別冊歴史読本に1603-1871間の大名官職名が記載されていたので
ざっと数えてみた 延べ人数では…

@大和守 106名
A信濃守  96名
B出羽守  92名
C山城守  91名
D和泉守  84名
E丹後守  83名
E遠江守  83名
G長門守  81名
H能登守  76名
I摂津守  75名

国司以外だと
@右京大夫 44名
A兵部少輔 43名
A内膳正  43名
A修理大夫 43名
D玄蕃頭  42名
E主殿頭  41名
F左近将監 40名
F左京亮  40名
H式部少輔 39名
H左京大夫 39名
464日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:22:28
酒井左衛門尉とか水野監物って、
正式には酒井左衛門「少」尉とか
水野「大」監物とかって名乗ってたんでしょうか?
素の左衛門尉や監物なんて官はないから
それじゃ口宣案もらえないですよね?
465日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:26:34
監物は藤枝外記とか同様のただの通称じゃないの?

左衛門尉は正式には大尉か少尉のどちらかであるらしいが、
武家官位の場合は実際に朝廷が与えるのは従五位下・従四位下と言う位階だけらしい。
幕府の方で諸大夫・四品を与えると朝廷側で追認と言う手続きだったと思う。
官名の方は朝廷は全然関与してないそうだ。
ここまではなにか武家官位に関する研究書で読んだことのうろ覚え。

それで普通は左衛門少尉・左衛門大尉のどちらかの官名を与えられるのだが、
左衛門尉としか書いていないことがあって幕府に問い合わせたんだそうだ。
そうするとどっちでもないただの左衛門尉だとと言う解答が返ってきた。
これは「幕末の宮廷」に書いてあった。
多分その時の幕府の担当役人がいい加減なやつだったんだろう。
466日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:41:15
>464

徳川実紀を読むと、監物は「××監物は大監物」という記載がある
(無官の名乗りである監物から任官者の名乗りの大監物へ変更)が、
左衛門尉のほうは大少が書いてない。

467日本@名無史さん:2008/07/19(土) 21:47:04
江戸時代の武家の官職で正式なものは
侍従や少将以上のものしかないと、
どこかで読んだことがある。
左衛門尉なんていうのは単なる名乗り
だから大少なんて関係ないんじゃない?
468日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:25:39
いやまあ言ってしまえばそうなんだけど、けど形式にすぎないからこそ拘りがあり、
普通は左衛門尉と弾正忠の場合は大少のどちらかを告げられるらしい。
しかし原則はそうだがただの左衛門尉とか弾正忠の場合もあるそうで、
結局はその時々の要路や担当者の考え方次第なのかな?
469日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:04:17
織田弾正忠も大少なし?
470日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:08:12
羽後守と羽前守は多分一人
諏訪守と磐城守はゼロ
琉球守は自称と他称が一人す゛つ?
471安藤磐城守信正:2008/07/20(日) 00:22:38
盛岡の南部は従四位下侍従で、弘前の津軽は従四位下が極官でOKですか?
472日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:28:26
ネット上には色んな口宣案,位記がupされてるが,少尉,大尉とか見つからないね。
ただ,一つ発見は江戸期の武家の官位は,権官じゃないだね。
「○○権守」ではなく,ちゃんと「○○守」なんだね。
江戸期の武家の官位は員外だから,権官だけだと思いこんでいた。

しかし,権官なら同一時期に何人も同一官の人がいても可笑しくないと思って
たが,定員1名のはずの正官複数いるのは,やはり違和感があるなあ。
473日本@名無史さん:2008/07/20(日) 08:08:48
>>472
権は略してるだけじゃね。
474日本@名無史さん:2008/07/20(日) 08:18:21
「武家ノ官位ハ公家当官ノ外タルへキ事」
ていう言葉は紛らわしいけど、いわゆる員外官、権官のことじゃないよ。
公卿補任にも載らないし定員の束縛も受けない、
まったくの別扱いという意味。
そもそも権官にだって定員はあるわけだし。
だから大納言みたいに
有職故実的に正官が置かれなくなった官職については、
武家官位でも権官になっているはず。
475472:2008/07/20(日) 08:47:59
>>473
上卿は権大納言になってるので,官位を受けた守だけ権を略すことはないと思う。
474さんの言う通りみたい

見つけた口宣案や位記↓
  >>ttp://www.est.hi-ho.ne.jp/hanabusa/monjyo.htm
476日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:19:23
>472

本来権官ですらなく当人が勝手に名乗っているものだけのはずなんだが、
官位と連動していることを利用して口宣案を作って金を取ってるんですね。
お公家さんは商売上手だなあ。
477日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:41:49
北詰!質問に答えろ!
478日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:47:45
>>476
だってそうしないと食えないんだもん。
吉田家なんか山城頭とかでたらめな官名を神職に売ってたんだからもっと上手。
本来なら犯罪ものじゃないの?
479日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:34:58
大石の内蔵助や
天一坊の伊賀亮も
実在しないデタラメな官位
480大膳:2008/07/20(日) 21:37:35
>>476

>>478でも指摘されているが、公家は基本的に
貧乏(筆頭の五摂家すら最高石高は二千石いくか、いかないか)
朝廷ですら、与える官位に応じたお礼金は重要な収入

 勅使として下向する公卿の中には、参勤交代中の大名行列に
因縁をつけて金を巻き上げる者もいた(その為、諸大名は道中で勅使に会うのを
極端に嫌っていた。)
481日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:49:10
>>479
内蔵助のほうは実在するぞ。六位相当だが。
482472:2008/07/20(日) 21:57:48
>>476
任官して即日昇進の場合,2通分の口宣案の謝礼を取ったみたい。

小川恭一さんの殿中不作法(ググればPDFファイルがある)にその辺はのってるよ。
483日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:08:15
大石は田舎家老のくせに
六位官位の内蔵助か
でもセガレは瘡頭だからもっと上やん
484日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:13:11
南部と津軽は侍従にまでなれるのでは
丹羽、立花、榊原、柳沢とか半国持ちクラスは
485日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:19:27
早乙女主水助とか
中村主水助も実在の官位か
486日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:22:21
>476
律儀に口宣案をもらうのは武家だけで、公家はそんなものに金を出さなかった
らしいですね。
だから、大名や旗本からの礼が非常にありがたかったらしい。
487日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:25:27
加賀騒動の大槻伝蔵は「内蔵允」を称していますね。
488日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:28:45
盛岡侍従、津軽侍従
489日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:30:15
だったらいくらでもつくれるな
出羽髪とか大和上とか摂津紙

山城神とかすごく高く売れそう
490日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:39:35
目[さかん]の下に右官[うかん]をとか作って
在郷の大百姓や裕福な豪商に百両ぐらいで
売れば朝廷も儲かったのに
491日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:48:29
さらにその下に慰官(いかん)、阿官(あかん)とか・・・www
492日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:59:04
内蔵助、主水助、主税あたりは勝手に名乗れた名前だから、
さすがのお公家さんもこれに口宣案は出せなかったと思う。
まあ、職人の何とか掾からは金を取ってたみたいだけど。
493472:2008/07/20(日) 23:19:01
地下官人は,自分の家に出入りする商人を7位の史生に任じて,臨時の官人(普段は元の商人)にしてたみたいね
494日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:01:37
七位は>493のようなものだという通念ができてしまったため、「幕末の宮廷」だと七位
をもらうよりはいっそ無位無官の方が良いとなっていますね。
七位になると摂家、親王、大臣から目通りを止められるとか、七位から六位にはなれ
ない(無位無官であれば六位になれる)とか、散々なようで。

同書にあった例では、蕎麦屋や下駄屋でない、代々の地下官人で七位の家の人が、
七位であるばかりに六位でなる「会頭」になれないということがあったとか。
任命するほうも名人だから会頭にしてやりたいが、七位だからどうしても無理という
ことで、とうとう正七位下伊予の掾を返上し、家を長男に継がせて無位無官になった
上で会頭になったとか。
495日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:37:50
地下家伝を見ると史生は初叙正七位下で従六位下に進むのがパターンみたい。
太政官史生は別格で初叙六位以上だけど。
あとどうも江戸時代で正七位上の位階を持った人はいないみたいだな。
史生の家は固定していないってのは事実みたいで、名字も氏姓も変わりまくってるね。
少なくとも表面上は繋がっている家もなくはないけど。
病弱とかいう理由で辞任してなんの説明もなく源氏から藤原氏に変更とか有る。
あと同じ氏で親子のはずなのに名字が変わったり。
形式上は異姓養子っていうのもよくあるな。これも本当の養子かどうか?
まあ史生以外の地下官人でもこういう例はあるけれど。
496日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:41:39
>内蔵助、主水助、主税あたりは勝手に名乗れた名前だから
一応幕臣は禁止らしいです。
陪臣は自由なんだけれど家老とか上級家臣のみらしい。
多分各家中で基準が違うんだろうけど、すくなくとも徒とかは無理。
中村主水は問題になりそうな気もする。
497日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:55:58
何かで,土井大炊頭は「大炊助」を,酒井雅楽頭は「雅楽助」を通称(百官名?)
として使っていたので,官位を貰ったときに「助」を「頭」に変えたと読んだこと
があるが,これ本当でしょうか。

こうゆうことが官職の由来になるんですかね。
498日本@名無史さん:2008/07/21(月) 09:04:45
鎌倉期の成功の基準で国守・寮助・寮允とか有るけど寮頭はなかった。
その流れでか武家の名乗りで自称でも寮頭は少なかったみたいで、
その状況が戦国期まで続いたのかな。
江戸幕府はどうして寮頭にしたのか?
本来の官の格を重視したんだろうか?国守とほぼ同格ってあたりを。
499日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:03:43
江戸期の公家はなぜか六位でも国守・寮頭の例が多い。
まあ寮頭は世襲のやつが多いみたいだけど。
500日本@名無史さん:2008/07/21(月) 12:17:59
中村主水の上司
田中様は官位あったんだろか
501日本@名無史さん:2008/07/21(月) 12:57:31
>>500 御家人に官位なんかあるかいなw
502日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:35:28
喜連川さんて,何で官位を貰えなかったんですかね。
5千石高でも,10万石の格式はあったんですよね。
兵衛督や馬頭の名乗りは公認されてたのに。

官位が無いので,礼服は素襖だったようですし

503日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:05:26
九官長に五位鷺に
大納言十姉妹
鳥は官位高いな

お犬様でも無位無冠なのに
504大膳:2008/07/21(月) 14:30:18
>>503

でも一番官位が高いのは象

従四位を賜っている
505日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:29:39
同心って御家人の仲間に入れてもらえるんだっけ?
506大膳:2008/07/21(月) 17:22:25
>>505

同心は足軽身分

御家人は与力

よって無理
507日本@名無史さん:2008/07/21(月) 17:28:38
旗本の与力っているの?
508日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:08:35
>>506
同心も与力も御家人(御見得以下)じゃなかったっけ??
同人は家禄なく職禄のみの抱入席の身分だと思うけど・・
同心が御家人でないとのソースあればよろしく。
勉強します。
509日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:21:35
御家人と足軽って違うの?
510日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:22:12
八王子は御家人でなく、それ以外の同心は御家人ということでOK?
511日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:35:16
そもそも足軽は武士ではありませんので
512日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:49:00
寺坂吉右衛門
513日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:56:13
>496

いや、それは国名名乗りの方。
陪臣なら伊達騒動の伊達安芸とか家老クラスには結構いるけど、
幕臣にはいない。
514日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:08:26
同心の他小者・中間・黒鍬とかは御家人に含まないって説もあるらしい。
幕府勤番の最下位とされる牢屋下男はどう考えても御家人じゃないだろうけど、
六尺あたりはどうなんだろうね、元来は百姓・町人の夫役だったらしいけど。
かなりスレ違いな話ですけど。
515日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:14:47
黒鍬って意外と格式高くて、大概順では御家人の中で26番目になる。
その上が闕所物奉行その下が徒目付。ちなみに御徒は84番目。
516日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:14:55
封建時代は格式と経済的待遇とが複雑に絡み合ってよくわからないね。
格式も譜代新参の別とか席次とかいろいろ複雑だし。
あれわざと上下関係わかりにくしてるのかなあ?
AにもBにもCにも自分ところが上だって思わせるように。
必要に応じてその都度追加していくから整合性がないってのが真相かな?
517日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:43:42
国名や官位が勝手に名前(モンドとか土佐とかそういう略が)についてる人はあれも本名になるんですか?
本名を全部各地気はそれも含まれて?
518日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:51:01
>517
今の感覚で言えばあれも「本名」でしょうね。ちゃんと届けてあるわけだし。
もっというと、下っ端の場合は通称だけで「実名」がない場合もあったというし。
519大膳:2008/07/22(火) 01:33:21
>>508

25年以上前に読んだ本にはそう書いてあったので
それを載せただけです。
 2001年刊行の「図説江戸・大名と旗本の暮らし」には
御家人との記述があるので前後の文脈から考えて江戸町奉行の
同心は御家人でも百石以下の者のようです。(通常、同心の禄は三十俵二人扶持)
ただ、伊賀組・甲賀組・百人組・八王子千人同心は
元々足軽上がりだそうなので、こちらの方は足軽と考えて差し支えなさそうです。
520日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:31:42
>>517
外国人でも江戸主水とか名乗ってる人いるよね。
あんま本名っぽくない。
521日本@名無史さん:2008/07/22(火) 15:43:24
風呂屋の番台
「三介」は官位なん?
塗装屋の「左官」みたく
522日本@名無史さん:2008/07/23(水) 04:07:39
>>520
座布団一枚
523日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:11:20
>>520
日曜にNHK教育でやってる囲碁講座の講師も外国人なんだが、主水を自称している。
外国人に人気があるのかね?
524日本@名無史さん:2008/07/23(水) 13:21:56
なんとなく字面がエコっぽいからじゃないの?
525日本@名無史さん:2008/07/25(金) 00:08:00
本名がエドモンドさんだからだろjk
526日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:47:25
ママにそう呼ばれていたのさ
527日本@名無史さん:2008/07/28(月) 11:57:41
大膳さん、止まってますよ
528日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:46:49
大膳って、物知り顔でチラホラ他スレにも登場してるが、スレ立て放置か。
無責任な奴だな!
529日本@名無史さん:2008/07/31(木) 18:02:35
ちょっと前にも出た話だけど、
大石内蔵助みたいな寮助の百官名は
無位無官の陪臣が勝手に名乗っても良かったの?
八省の大少丞とか国介とかは見ないみたいだけど
慣習的に許されなかったってこと?
530日本@名無史さん:2008/07/31(木) 19:00:46
まずググれ
それでわからぬ
ことあらば
要点まとめ
いざ聞きに来い
531日本@名無史さん:2008/07/31(木) 19:34:39
つくばね社「資料が語る江戸期の社会実相100話」日本風俗史学会編
執筆者圭室文雄・小川恭一他(敬称略)所収の「武家の通称官名」
が良くまとまっていると思う。
532日本@名無史さん:2008/07/31(木) 20:16:03
>>531
thx. さっそく買って読みます。
533日本@名無史さん:2008/07/31(木) 20:32:19







マソコいい!?
534日本@名無史さん:2008/08/01(金) 19:41:07
>>533
・・・蟄居を命じる。
535日本@名無史さん:2008/08/03(日) 12:43:10
>>531 で紹介されている文章を読んだ。
寮助は勝手に名乗っても良かったんだね。

大まかに言って、武家の通称は格が低い順に

1、輩行のように官名と関係のない名前。
2、*左衛門や*兵衛。
3、東百官。
4、大膳、主水など官名の一部省略形。
5、国名(幕臣は不可)。
6、寮助の官名、帯刀。
7、国守、省輔などなど(有爵者のみ)。

という感じで並ぶと考えれば良いのかな。
そして4以後については、ある程度の家柄でないと名乗れないものだ、と。
(東百官はどんな下級武士でもOK?)
536日本@名無史さん:2008/08/04(月) 08:03:04
左内、求馬、一学なんてのは
いちおう武士なら誰でも名乗って良いんじゃないの。
まあ足軽はさすがに空気嫁って感じかもしれんが。
537日本@名無史さん:2008/08/04(月) 12:26:52
百姓にも杢の介とかそういう名前の人庄屋階級にはいたらしいから
官位としてではなく名前として名乗るだけならいいじゃね?
538日本@名無史さん:2008/08/04(月) 21:00:39
>536

足軽といっても、江戸時代にはいると御徒、同心、小人から
六尺、下男までピンキリになるからなあ。六尺が名乗るのは、
東百官でも違和感があるが、御徒、同心なら助名乗りも
許せるような気がする。
539日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:33:44
騎乗できない御徒武者って戦国時代いたじゃない?
足がるじゃなくてれっきとした士分のね
こつらって江戸時代の身分だとどうなってるの?
540日本@名無史さん:2008/08/05(火) 13:30:31
武田騎馬隊のことか?
井伊の家来になったよ。
もちろん身分は足軽のまま。
541日本@名無史さん:2008/08/06(水) 19:48:52
佐竹の駄輩とか不肖って武士は武士だろうけど歴とした武士なの?
542日本@名無史さん:2008/08/19(火) 06:53:32
カラスに種を食べられた
権兵衛
543日本@名無史さん:2008/08/20(水) 20:56:31
石川河内右衛門
544日本@名無史さん:2008/08/22(金) 21:22:21
近藤満州守
伊達陸奥亮宗光
545日本@名無史さん:2008/08/23(土) 21:09:11
山内伊賀亮
546日本@名無史さん:2008/08/26(火) 15:15:15
彦根藩の井伊家は、何故譜代筆頭なのですか?
徳川家康26巻をだいぶ前に読んだとき、井伊万千代(直政)と家康の出会いの頃を
ちょっと思い出しましたが、確かに出自が良くてはっきりしていた覚えが。
本田平八郎や榊原の方が幼少の時から竹千代付きとして苦労を共にしてる気が。
547日本@名無史さん:2008/08/26(火) 16:18:57
家康のウホッの相手だったからというのがマヂで大きそう。
548日本@名無史さん:2008/08/26(火) 20:07:21
関ヶ原で先陣したというのも大きいと思うよ。
549日本@名無史さん:2008/08/26(火) 20:18:12
間もなく、東征軍大総督府筆頭参謀の西郷様が、出演されますが、就任時の官位官位は何?
てか、西郷って郷士で本雇いの武士ではない扱いなんでしょ薩摩藩では。

550日本@名無史さん:2008/08/26(火) 20:28:07
従五位下奄美大領
551日本@名無史さん:2008/08/26(火) 21:36:46
552日本@名無史さん:2008/08/26(火) 22:03:05
>549

薩摩の郷士は低い身分とは言え立派な武士だったと思ったが。
まともに武士扱いされていなかった土佐の郷士とは違ったはず。
553日本@名無史さん:2008/08/28(木) 10:58:10
薩摩の上士と下士は本社採用と支社採用の差

土佐の上士と下士は買収した側とされた側の差
554日本@名無史さん:2008/08/28(木) 22:26:35
国持大名で山内だけ扱い低いのは何故?
分家が老中蹴ったから?
555日本@名無史さん:2008/08/28(木) 22:31:23
>>554
今も昔も土佐の山内氏はよそ者扱い。

土佐元々、長曽我部氏
556日本@名無史さん:2008/08/28(木) 22:55:15
森植えすぎもよそ者のくせに生意気だな
本来の地元英雄は大内卿や政宗公なのに
557日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:29:36
国持ちで将軍の忌み名もらってないのって山内だけ?
558日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:06:49
国持=嫡子より大広間詰の外様 とすると、
佐竹、藤堂、有馬、宗が賜諱がない。
559日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:59:21
毛利もイミナ途中から無くなった
560日本@名無史さん:2008/08/29(金) 22:06:23
山内は尾張守護代の家老で城主
織田弾正忠と同格の名門
561日本@名無史さん:2008/08/29(金) 22:14:09
佐竹は徳川の点滴
藤堂は戦国フリーター
有馬は成り上がり
宗は半チョッパリ
なので扱いが悪かった
562日本@名無史さん:2008/08/30(土) 01:00:32
藤堂の扱いが悪いってなんの冗談だ?
563日本@名無史さん:2008/08/30(土) 11:10:26
単純に従四位上以上は貰えるけど、従四位下の藤堂・有馬・佐竹・宗はダメってことじゃない?
564日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:19:04
>562

確かに藤堂は、松平賜姓や賜諱はないけど、
同格の初官従四位下家督後侍従の家の中では
少将になるまでの年数が少ないという優遇もある。
といっても50台でだが、高豊みたいに35歳で
少将になったケースもある。
565日本@名無史さん:2008/08/30(土) 15:21:14
なにより、井伊と並んで先鋒を任せられるお家やん。
566日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:30:41
何しろ藤堂高虎の手を握りしめながら、神君家康公は臨終したからね。
567日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:07:59
>>565
戊辰戦争では両家揃って幕府裏切ったけどな
568日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:06:00
でもって両家揃って
伯爵になった
569日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:13:07
>>568
華族制度の爵位は内乱を防ぐために各藩や地方の有力者をまとめた。
570日本@名無史さん:2008/08/31(日) 18:12:51
スレ違いだけど、明治政府はなんで徳川家を完全に根絶やしにしなかったんだろうな
徳川が豊臣に対してやったみたいにさ、あんな爵位まで豪勢にあげたりしたんだろう
571日本@名無史さん:2008/08/31(日) 18:22:09
両家の伯爵は規定どおりだけどね。
井伊は減封食らわなければもしかしたら侯爵の可能性はあったかも?
572日本@名無史さん:2008/08/31(日) 18:42:36
>>570  国際化を目の前にしてもはやそんな時代ではなかったから
573日本@名無史さん:2008/08/31(日) 19:54:57
>>572
そうなんだ、徳川宗家と御三家御三卿の当主全員打ち首、嫡男らは全員出家
とかでもするかと思ったけど、ゆるいよね
戦してけっこうな数死んでるのに
574日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:38:11
恭順している者を処刑するのは世界の常識ではありえない
と西郷がイギリス公使に忠告された。それで無血開城。
御三家御三卿はだれも逆らってない。水戸は率先して倒幕。
基本的なことは勉強しようね。
575日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:49:23
ありがとう俺馬鹿だから勉強になったわ
576日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:57:06
戊辰ではそれほど苛烈ではないけど、それ以後の士族の反乱では
首謀者に苛烈な処置をしているよなぁ。

江藤新平とかさ。
577日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:59:33
徳川宗家はともかく、松平バカタモリとこれまたアホの弟の幕末無責任兄弟は
切腹するべきだった思う。
578日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:13:46
現在の征夷大将軍
の先先代が一郎ていうのは間抜けだ

歴史書の徳川宗家系図に
未来永劫のるなんてカッコ悪い
579日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:14:21
欧米の介入がなければ、伝統通り徳川家は九族皆殺しだったろうね。
580日本@名無史さん:2008/09/01(月) 00:40:28
>>579
九族皆殺しは大陸の風習だぞ。
日本では首謀者やその縁者が殺されることはあっても、皆殺しというケースは
ほとんど無い。
581日本@名無史さん:2008/09/01(月) 03:49:52
>>579
在日乙
582日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:13:55
日本は儒教国だから祖先の祭祀が出来ないように九族殺すのは常識だろ。
ウチの祖先も関ヶ原で負けて九族滅ぼされたよ。
583日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:19:14
祭祀をたやすと祟られるから普通皆殺しはしないんじゃないの?
そう言うことを気にしない人はやるだろうけど。
584日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:17:53
厳密な意味で九族皆殺しというのは無い
なぜなら、一族の誰かが早速と降伏して配下になってる事が多いから。
九族皆殺しにほぼ近いのが
頼朝の清盛流平氏の皆殺し
後醍醐の北条一族皆殺し
尊氏の新田一族皆殺し
信長の武田一族皆殺し
秀吉の明智一族皆殺し
家康の石田一族皆殺し
585日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:23:45
>584
なんか大分違ってるね。
重衡は寺の要求だし、新田一族は尊氏による皆殺しという訳ではないし。
石田一族も皆殺しじゃなかったんじゃないかな。
586日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:52:45
だから、それに近いのって書いてるだろ
587日本@名無史さん:2008/09/01(月) 23:48:28
>586
新田一族は全然「近い」に該当しないし、石田一族にしても討ち死には別として、
息子ですら助命されたという話があるくらいだから、「九族皆殺し」とは程遠いと
思うんだが。

戦い続けて徐々に討ち死にしていったというのは、「九族皆殺し」とは近くもなん
ともないだろう?
588日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:32:08
「見つけしだい問答無用で処刑」は皆殺しに近いだろ
石田の子どもの話も眉唾だしな
589日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:33:46
平家一門でも、出家していた教盛のせがれが助命されているし、池殿とその子息は言わずもがな。
女子で処刑されたひとはおらんし。


590日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:50:31
それを言ったら漢、魏の禅譲した元皇帝は天寿を全うしてるよ
591日本@名無史さん:2008/09/02(火) 09:21:19
大陸のはなしはどうでもいい
592日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:14:02
九族皆殺しという言葉は文字通り皆殺しするのではないことは大陸の事例を見ても明白
従って清盛流平氏や新田氏は九族皆殺しに入れても可
593日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:22:28
>592
新田さんの場合、「見つけ次第問答無用」じゃないだろう?
大体、九族皆殺し云々は親の罪に子が連座してというのが大前提。
新田一族は子、孫も積極的に挙兵して敗れているんだから、これに
あてはまらない。
大体、義貞に連座して処刑された「義貞の子」はどれだけいる?
594日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:56:23
全員じゃね?
新田は宿敵皆殺し。だから誰も降伏しなかった。
そして皆殺しになった。
595日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:25:38
>582

九族皆殺しにあった人の子孫がこの世に存在している不思議は
置いておくとして、徳川家が九族皆殺しにあうとしてその範囲は?
それに含まれる人々を調べてみると面白いぞ。もう、江戸時代
以降の日本で九族皆殺しなんて不可能。
596日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:53:39
>>595
御台所を送り込んだ島津家や天皇家がやばいものねい。
597日本@名無史さん:2008/09/05(金) 08:28:48
だいたい九族皆殺しなんて本当に実例有るの?
三族くらいなら有りそうだけど。
598日本@名無史さん:2008/09/05(金) 08:29:45
家康、秀吉の妹婿、秀頼の妻の祖父
599日本@名無史さん:2008/09/05(金) 09:06:02
近世以降に限らず九族皆殺しなんて事実上不可能でしょう?
対象が一庶民ならともかく支配階級の中堅以上ならまず無理。
本当にやったら政権がひっくり返る。
少なくともガタガタになり政権崩壊の遠因になる。
600日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:48:24
譜代筆頭の井伊家はどうして●●守ではないのですか?
601日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:39:02
実質的初代の直孝が掃部頭だったから。
ほんとの初代直政の兵部少輔は与板へ持ってかれたね。
602日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:00:39
○×守でない大名

佐竹、上杉(長尾ゆかりの越前守はあり)
などは代々の名乗りがあるから
そちらを優先

紀伊徳川も紀伊守より
初代の常陸介を優先
603日本@名無史さん:2008/09/14(日) 06:33:50
太閤も家康を蝦夷守に任じて、
北海道開拓させれば良かったのに

亀井の琉球守に対して
清正は高麗守とか
604日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:23:11
家康は大明守や
605日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:31:41
「古事記はモンゴル語で書かれている」東大教授が新説発表
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1221500761/
606日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:05:28
好きな将軍アンケート
http://find.2ch.net/enq/result.php/26216/l50
607日本@名無史さん:2008/09/22(月) 10:57:56
家康は昭和基地に移封
南極守に任命
608日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:33:27
現代の猛将アントニウス猪木が、ドームのリングで家康に好意で闘魂注入したらどうなんのかな?
まさかKYな流れ作らないよね家康?
609日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:56:54
>>608
手元の民明書房の本によれば、騎士叙任の儀式が闘魂注入の起源。
天下人たる家康が、闘魂注入を受けることはできないだろう
610日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:42:51
武家の女性最高位は綱吉母?
611日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:46:32
中宮徳子や中宮和子という入内した武家娘を除けば
従一位様だね。
612日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:13:50
>>610-611
広大院とか
高台院とか
613日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:36:40
そうそう、うっかり忘れてた↑
614日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:50:10
従一位だと上は
狐しかいないのか?
615日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:52:59
天障院は無官のくせに
威張りくさって感じ悪い
616日本@名無史さん:2008/09/28(日) 15:02:36
孝明天皇は何で天障院に切腹命じなかったの?
617日本@名無史さん:2008/09/28(日) 16:51:20
江戸時代の喜連川家当主って無位無官だっけ?
618日本@名無史さん:2008/09/28(日) 18:37:56
右兵衛督

尾張徳川が使ってたら
左馬頭とか左兵衛督
619日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:04:02
>>618 サンクス!
620日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:25:28
足利っつったら左馬頭だよな、やっぱり
621日本@名無史さん:2008/09/29(月) 06:13:33
大膳さんは何処へ?
622日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:12:55
>>617
喜連川は無位無官。
官名も通称にすぎない。

だから式日登城の際も,独礼をして中将の扱いではあったが,正装は布衣でも
なく無官の素襖であったみたい。



623日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:17:31
喜連川は何で無位で官名乗りを許されてたんだろうか。
江戸期では,無位の官名乗りは認められていないはずなのに。
624日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:25:00
前政権の長だから
625日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:29:40
得川親氏が放浪の乞食坊主だった頃に
すでに天下人だったから
626日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:37:54
>>624,625
喜連川って,足利将軍家の分家でしょ
627日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:42:48
北条時政と足利尊氏の
血を引いてるから
628日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:51:32
平島公方は可哀想だな
山賊の子孫にいじめられて
喜連川よりもよっぽど足利本家に近いのに・・・・・
629日本@名無史さん:2008/10/03(金) 05:15:06
喜連川と徳川、平島と蜂須賀・・・の間に主従関係って
あったんでしょうかね?
630日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:38:42
>>629
客分扱いではないのか?
631日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:59:17
参勤交代も無いし、10万石、4位相当の身分を与えられても正式に叙位もされないから単なる客分でしょう。
632日本@名無史さん:2008/10/03(金) 15:36:35
勝手に江戸城に登城して
伊達候に
「帰国時には喜連川の本陣に泊まってくれ」と
言ったらしい
633日本@名無史さん:2008/10/03(金) 18:36:17
>>632 領内に宿泊してくれると潤うからね。
迂回した時はイヤミ言われたんだっけw
634日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:38:42
佐竹、上杉、南部
皆とまれば大儲け

もっとも、でなきゃ10万石格やっていけないか
635日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:59:07
御所様御自ら大名をお出迎え。
636日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:35:47
>>635
お上品に言ってるけど
それってキャッチやん

637日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:34:00
>636

大名が通るときにその橋の下で釣りをされる。
御所様の頭上を通るわけに行かないので、
大名は挨拶金を払って上に出てきてもらう。

キャッチどころか強請たかりです。
638日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:43:53
>>633
幕府に無断で経路変更出来ないでしょ?
639日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:06:14
島津久光の左大臣は異例中の異例
分家のくせにお手盛りも甚だしい。
640日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:44:35
>>639
徳川政権下で与えられた官位では無い。
新政府のお手盛り。
それをいえば参議なんか下級陪臣てんこもり状態だw
641日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:55:41
>>637
それでも大々名を虐めてる分,百姓庄屋を虐める猫絵売りの殿様よりもましと
言ったのは勝小吉だったかな。


642日本@名無史さん:2008/10/05(日) 17:40:43
>>637 笑かしよんなw
しらん顔して通り過ぎたらやはり(#゜Д゜)うきーっ!って
なんのかね?
643日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:56:40
>>642
自由参勤交代で江戸まで追っかけてきて伊達屋敷まで来て嫌み言う。
江戸城に詰間無いから江戸屋敷なんか持ってるのか?
それとも、どこぞの大名屋敷か宿で一泊?
644日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:45:51
佐竹・上杉とかが喜連川泊まる時には
家老を大田原まで出迎えにやったらしい

上杉の場合、吉良を通じて
幕府から大名にしてもらう
為の働きかけをしていたとのだという巷説あり
645日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:52:46
>>643
喜連川藩主は他大名と異なり
地元で産まれている

江戸屋敷などあれば
江戸産まれのはずだが…
646日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:20:43
なんか、かわいいな・・・喜連川(;´Д`)
647日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:24:32
喜連川は,下谷池之端に江戸屋敷を持ってるよ
ただし,国住まい勝手の特権があったので,毎年12月に正賀のために参府
する以外は在国





648日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:25:42
喜連川昭氏を
三河吉田10万石に封じ
正四位下中将に叙す
との内示えたり

「やったあ」

元禄赤穂事件でパー
649日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:32:11
大名じゃなく交代寄合だけど松平太郎左衛門家も
祖先の地を守る由緒ある家柄にもかかわらず
江戸屋敷がなく在府中は大給家に居候してたんだと
650日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:04:58
>>648
そんな上手い話あったんですか?
何の功績もないのに破格だなあ
651日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:14:59
>>650
喜連川関係のみしか伝わっておらず
信憑性がない
(吉良・上杉側に記録がない
吉良から内示があったとされる日の
天候が誤ってる
など)
652日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:21:24
僅かな伴しか居ない
一介の浪人の立花が
大名に返り咲いた前例があるから
まったく有り得ない夢物語とはいえないが…
653日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:25:53
立花宗茂は失領後も
侍従だったのだろうか?
654日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:40:37
>>651
レスありがとう
昭氏は綱吉治世の人か。
綱吉は,気に入ったら外様でも若年寄,奉者番にしようとする将軍だからなあ,でも

>>652
立花は秀忠のお気に入りで,その上家光に戦国の世の話をする相判衆だっけ。
それで大名に返り咲いたんだから,喜連川とは違うと思うが・・・
綱吉がらみで昭氏のエピソードとかあるんだろうか。

655日本@名無史さん:2008/10/07(火) 06:51:44
立花は夜伽衆として立身した男色大名らしい。
なんの功もないし。
656日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:19:54
立花は島津にも一目置かれたし
657日本@名無史さん:2008/10/07(火) 19:11:03
立花を引き立てたのは,秀忠に箔をつけるためじゃないの。
島津相手に引かなかったほどの立花が,前田に仕官を誘われても断ったほどの
立花が,臣従するほど秀忠は偉大だというのがほしかったんじゃない。

それに引き立ててやって恩を売れば,味方にもなるし
658日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:24:59
立花としてはそこらの大名の家来になって陪臣に甘んじるよりも
天下人の家来になったほうが出世の近道だわな。
じゃあなぜ徳川が功と言えるほどの功を立てていない立花をほとんど旧領と同じ石高まで引き立てたのか?
露骨な情実人事だったとしか言いようがない。
659日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:53:52
>>658
おっと久留米藩有馬氏への悪口はそこまでだ
660日本@名無史さん:2008/10/08(水) 05:00:09
立花宗茂に功はあるだろう、敵としてだが
名声もある
661日本@名無史さん:2008/10/08(水) 06:43:10
>>660
敵としての功は功ではないよ。むしろ罰の対象。
名声の対価=1万石。
662日本@名無史さん:2008/10/08(水) 13:55:19
>>661
まあささやかな名声で棚倉1万石を得たとしよう。
その後の13万石への加増は?
男色効果?
663日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:35:19
立花宗茂徳川に臣従したのが30代半ばで,13万石になったときには50歳
を越えてるぞ
いくら衆道でも,30越えてたら御褥御断りだろう

664日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:54:42
秀忠は掘られる方を好んだのかも試練。
50ならまだ立つだろう。
665日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:48:58
前田利常,伊達政宗や島津家久は中納言,池田輝正は参議と叙任されていたの
にその子孫の大名の官位はそれよりは下位なんですが

先祖の叙任を先例に官位の上昇を図る大名はいなかったんでしょうか?
父より下位の官位で不満はなかったんでしょうかね



666日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:03:45
そもそも,各大名家の極位極官はいつの時点で,どうやって決まったのだろう。
江戸初期は,1万石以上の武家(もちろん陪臣じゃない将軍直参)でも,必ず
しも皆が叙任されているわけではないと何かで読んだが気がするし・・・
667日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:13:58
御三家並の官位もらうことは遠慮したんじゃないの
668日本@名無史さん:2008/10/09(木) 05:20:59
まあ関白政権(とその流れ)と幕府政権の違いもあるわな
669日本@名無史さん:2008/10/09(木) 09:56:51
>父より下位の官位で不満はなかったんでしょうかね

自分自身になんの功績もない外様大名が不満を言っても仕方あるまい。
670日本@名無史さん:2008/10/09(木) 13:25:17
自身に何の功績もない将軍も贈太政大臣だけどね。
671日本@名無史さん:2008/10/09(木) 14:45:43
官位を決める権限を持つ幕府のトップである将軍と
将軍の臣下である外様大名は同じじゃないんだよ。
672日本@名無史さん:2008/10/09(木) 16:47:06
室町時代も将軍の極官が大臣、関東公方で従酸味、管領は4位だからむしろ室町に戻っただけじゃないか?
豊臣政権は特殊な武家官位バブルだろう。
673日本@名無史さん:2008/10/09(木) 17:27:29
つか豊臣政権はトップが関白についちゃったから
公家がもらう予定だった官位とか役職を武家が合法的に横領したようなもん
674日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:09:37
>>673
天下人 関白太政大臣
秀次  関白左大臣
家康  内大臣
利家  大納言
超有力大名、織田嫡流 中納言
並の有力大名 参議

公卿だけで20人位いそうだぞw
675日本@名無史さん:2008/10/09(木) 20:14:35
>666

寛保三年に決まった。


すいません、適当に書きました。
676日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:00:35
>>674
大和大納言秀長もお忘れなく
677日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:40:03
江戸時代に公卿の官位に上れる武家は,将軍,御三家,御三卿,及びそれらの
世子と,他は加賀前田だけ。
幕府としては,公卿の官位に昇れるか昇れないかで一つの線を引いたんだな。
武家の最上層とそれ以下の。



678日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:49:33
江戸期において,侍従って官職は何であのような高い扱いをしていたんでしょうか。
侍従になれるのは,国主等4位以上の大名か,老中,所司代,大阪城代,高家くらいなんだが。
侍従ってそもそも天皇に側近奉仕する官で,武家らしいってイメージでもないんだよね。
679日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:29:20
>674
徳川家の「武家の官位は公家の官位とは別」というやり方は
公家にはありがたかっただろうね。
豊臣式が続いていたら、公家はほとんど消滅していただろうし。
680日本@名無史さん:2008/10/10(金) 06:14:16
>>679 「武家の官位は、公家の官位とは別物」なら、
武家の極位極官をもう少し高くしても、公家に迷惑を掛けないから良さそうに思うのですが、
徳川家(幕府)は、武家の極位極官に関しては、豊臣家と違って、結構控え目ですね。
681日本@名無史さん:2008/10/10(金) 09:08:14
>>678
平安中期からの流れで侍従は少将の一つ下の官職って認識になっていたからじゃないの。
682日本@名無史さん:2008/10/10(金) 09:12:42
家臣どもと差を付けたかったのだろう。
いっそ将軍は令制官位を持たないのも手だったかも。
逆に白石の主張のように大名・旗本には官位を与えず、
幕府独自の位階の大系を作るとか。
そうすれば朝臣だって主張は出来ない。
既得権である官位を抑制は出来ても剥奪は出来なかったのかな?
683日本@名無史さん:2008/10/10(金) 09:26:02
>>682
義満みたいに日本国王を名乗る手もあるな
奥州の牧とか執金吾とか司隷校尉とか北陸道節度使

司徒・司空が老中
684日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:03:37
織豊時代、徳川時代初期の武家公卿★印は徳川時代の叙位
太政大臣 豊臣秀吉
左大臣   豊臣秀次
右大臣 織田信長、豊臣秀頼
内大臣 織田信雄、徳川家康
大納言 豊臣秀長、前田利家
中納言 宇喜多秀家 上杉景勝 毛利輝元、織田秀信、★島津家久、★伊達政宗、豊臣秀保、小早川秀秋、★前田利長、利常、
★結城秀康(豊臣時代は参議)
四位参議   ★織田信兼、京極高次、豊臣秀勝、丹羽長重、★福島正則、★細川忠興 、★毛利秀元
従三位 織田信忠
685日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:24:06
江戸時代の大部分の諸大名は、従五位下〇〇守等が殆どでしたが、
御三家や御三卿、参議・中将クラスが極位極官の大名家の初叙って、
どのくらいの官位からスタートするんかな?。
686日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:50:35
江戸時代の諸大名達は、
官位の昇進の為に、シャカリキになって幕閣に工作したが、
めでたく官位が昇進しても、
朝廷等に礼金等を納めなければならなかったそうで…。
官位の高さにもよるが、諸大名達は、朝廷等にどれくらいの金額を納めたのかな?。
687日本@名無史さん:2008/10/10(金) 21:12:24
>>530
ま   マ   マ
そ   ソ   ン
こ → コ → コ
要   要   用
い   い   意
688日本@名無史さん:2008/10/10(金) 21:13:23
と思ったら>>533がいた○| ̄|_
689日本@名無史さん:2008/10/10(金) 21:45:54
支払う大名家の莫大な借金に比べれば屁みたいな金額だが、
頂く公家側にとっては結構な大金。
690日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:07:02
>>689 徳川将軍家(将軍・大御所・将軍世子)の官位が昇進した時でも、
朝廷に納める礼金等は、しみったれた金額だったのかい?。
691日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:39:01
>689
公家はわざわざ位記だの口宣案だのをもらったりしないそうで、律儀に貰う大名や旗本
からの謝礼はありがたかったようですね。
692日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:14:37
>>690
大名や旗本の昇進,任官の位記口宣は高家がまとめてもらってくる。

しかし,将軍家の昇進は,勅使下向だから払うものは違ってるだろう。
将軍宣下の儀式では,正二位の位記,、淳和奨学両院別当宣旨、内大臣宣旨等を
貰う度砂金一袋を渡していたらしいし・・・
693日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:09:44
>>682 家臣共と官位の差を付ける為ならば、
将軍自身の官位をもっと引き上げるという手立ても考えられたのでは?。

例えば、将軍宣下の時に征夷大将軍任官と同時に、極官である太政大臣任官を果たす等という手立ては考えられなかったのかな?。
694日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:22:58
少々、趣旨が異なりますが、
摂関家では、先に摂政或いは関白に任官してから、
最後に極官である太政大臣に任官しているが、
公家の事実上のNo.1の摂政或いは関白に任官した後で、
席次では、摂関よりも下位である太政大臣に任官して上がりってのは、よくわからん…。
次第の昇進ならば、席次が下位の太政大臣任官が先で、
上がりが摂関の地位が妥当なのでは?。

また、准三宮なる称号の位置付けがどのようなものかよくわかりませんが…。
695日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:25:10
>>693
それなら,いきなり正一位征夷大将軍に叙任任官という手もあったね。
しかし,あまり官位での極官を目指すと,天皇の臣下という面がクローズアップされてくると思うが。
どうしても,天皇は越えられないという。
696日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:57:19
>>694
思いつきの発言だけど、外務省でも事務次官のあとに駐米大使やってあがりになる
697日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:17:20
>>694
太政大臣は今で言う総理経験者、かつ大物の名誉職。
摂関は20代でなれるが太政大臣は50超えないとなれない。
698日本@名無史さん:2008/10/11(土) 04:32:03
太政大臣は特殊だからね。
摂関でもなれるとは限らない。左右大臣と比べても別格。
かといって摂関になれない家格でもなれる。
まあ元老みたいなものか。
699日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:06:59
だいじょうだいじん だじょうだいじん

どっちで読んでる?
700日本@名無史さん:2008/10/11(土) 13:23:29
「だじょうだいじん」だじょう
701日本@名無史さん:2008/10/11(土) 14:03:55
公家では極位である従一位に昇叙した者は、
掃いて捨てる程居たが、
武家で極位の従一位に昇叙した者は、どれくらい居たのかな?。
702日本@名無史さん:2008/10/11(土) 14:24:27
>>331,>>332,>>334
出来得れば、徳川家康の時の将軍宣下の儀式も詳しく知りたいのですが…。
ついでに、将軍拝賀の参内なる儀式の内容も分かれば、御教示賜りたく候。
703日本@名無史さん:2008/10/11(土) 15:23:00
太政大臣や准三宮は、現在の位置付けでいえば、
さしずめ大勲位菊花大綬章っていうところかな?。
大勲位菊花大綬章ならば生前に叙勲される事が殆ど無く、
しかも、主に総理大臣経験者が死んだ時に、
この勲章が贈られる事が多いみたいだから…。
704日本@名無史さん:2008/10/11(土) 15:48:10
太政大臣はともかく、准三后って摂関なら大抵生前に宣下受けてね?
705日本@名無史さん:2008/10/11(土) 18:16:22
つか准三后を死後追贈された人っているの?
706日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:28:21
徳川将軍で准三后の宣下を受けたのはいるの?
足利将軍は3代以降は受けていたみたいだけど

徳川将軍で受けたのがいないとすれば何故なんだろう
徳川将軍の官位は,内大臣以外は最盛期の足利将軍の官位等を先例にしてるはずなのに

707日本@名無史さん:2008/10/12(日) 12:16:30
>>796
徳川将軍は皇室と血縁関係が無いからでは?
五摂家は直接、足利は間接的に血縁ある場合多い
708日本@名無史さん:2008/10/12(日) 17:21:50
>>685
例えば極官が中将の
伊達と島津は

初任が従四位下侍従
のち右近衛権少将
家督時に左近衛権少将

といった具合に昇進
709日本@名無史さん:2008/10/12(日) 19:51:57
参議まで登れる前田は
初任がいきなり
正四位下少将だね

中将になる為に200両くらい
払わなければダメらしい
710日本@名無史さん:2008/10/12(日) 20:03:09
武家の官位って朝廷は全くノータッチ?
711日本@名無史さん:2008/10/12(日) 20:15:59
>>710 武家(大名や高級旗本)の官位は、事実上将軍に任命権があり、
朝廷は将軍が推任した者に対して、単に位記・口宣案・宣旨等を発行するだけの機関と言えるのでは?。
…もっとも、位記・口宣案・宣旨等の発行に伴っての礼金等は朝廷に納められるであろうがな…。
712日本@名無史さん:2008/10/12(日) 20:25:49
>>685
尾張家・紀伊家の場合。
従三位左近衛権中将 → 参議 → 権中納言 → 従二位権大納言。

水戸家・御三卿の場合。
従三位左近衛権中将 → 参議 → 権中納言。
…だったかと思います。
713日本@名無史さん:2008/10/12(日) 21:09:17
>712

水戸は嫡子の初任官で少将があったはず。
714日本@名無史さん:2008/10/12(日) 21:15:44
つまり老中等の役職について昇進する場合を除き、家の権利としての昇進だと、
生涯従五位下の最下層から、従五位下から従四位下に昇進、従四位下後に侍従、
侍従→少将、侍従→少将→中将の最上層までの5階層に別れるってこと?
加賀前田も初任は侍従?
715日本@名無史さん:2008/10/12(日) 21:17:52
あっ>>709見てなかった。前田は少将からか。
716日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:12:27
従四位下スタートで侍従、一般の国持ちクラスで侍従スタートで少将とかそんな感じ。
とにかく公家に比べてスタートが高い割に到達点が低い。
あまり昇進の概念がないと言うか。個人的はつまらないな。
717日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:52:43
>>716
武家だから仕方がない
大名を序列化するために官位授けたに過ぎないから。
718日本@名無史さん:2008/10/12(日) 23:39:21
武家の官位は家格と家名を表すだけだからな
公家の場合は形式だけとはいえ仕事がある

領地と無関係な守を名乗る国持ち大名もいる
719日本@名無史さん:2008/10/12(日) 23:56:57
大岡越前守とか吉良上野介とかいるね。
小学生の時は大岡忠相は本当に越前の大名かと思っていたよ。
720日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:40:49
スレ違いかもしれないけど、
将軍が隠居するときは朝廷からなにか文書は出るの?
例えば秀忠が将軍になるときは将軍宣下を受けるけど、
家光に譲って大御所になる場合、朝廷からなにか辞令?はでるの?
721日本@名無史さん:2008/10/13(月) 11:46:49
>>720
公儀から「大御所様と称すべし」というお触れが出て終わりじゃねえ。
722日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:30:57
朝廷に将軍辞職願と次期将軍の推薦状を出して終わり
だろうね。
ところで何の本か忘れたけど、朝廷への次期将軍の推薦は
水戸家が行なっていたと書いていたが本当かな?
723日本@名無史さん:2008/10/14(火) 19:15:58
摂政・関白に就任出来なかった(就任しなかった)?徳川将軍家の究極の地位は、
従一位太政大臣の極位極官プラス
征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当の三点セットが限界ですかね?。
724日本@名無史さん:2008/10/14(火) 21:35:54
そうですな。室町将軍家を踏襲しているけど
准三宮がない。
725日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:45:33
それにしても徳川家康は何故、慶長七年二月二十日の時点で、
朝廷から源氏長者に任命する内旨を辞退したんですかね?。
豊臣(秀頼)家が関白就任を目指していたのならば、別にこの時点で源氏を名乗る家康が、
源氏長者に就任しても特に支障はなさそうですが…。
この頃であれば、関ヶ原の戦後処理も一段落しているだろうし、
源氏長者くらいならば、豊臣家にもそんなに刺激しなさそうですが…。
…流石に、征夷大将軍任官ならば豊臣家はもとより、
諸大名達を刺激するだろうとは思いますが…(^-^;)。
726日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:51:31
家康は豊臣または羽柴の姓はもらっていたの?
727日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:59:09
>>726
中堅大名までもれなく羽柴が付いてきますw
728日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:12:51
陪臣でも、気に入られると
羽柴と官位が貰えます。
729日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:37:21
>>728 …もっとも、陪臣の井伊直政(徳川家臣)は、秀吉から羽柴姓を下賜されるのをあっさりと断ったがな…。
730日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:42:04
井伊は漢だな
大河主役を愛ちゃんと交代汁
731日本@名無史さん:2008/10/15(水) 13:21:40
>>729 主君の徳川家康も、直政に松平姓を下賜しようとしたが、
井伊は由緒ある姓なので、そのまま井伊を名乗るように言われたらしい。
主君家康の松平姓を辞退したくらいだから、
羽柴ごとき姓を貰ったところで、
有り難みがないだろうな。
732日本@名無史さん:2008/10/15(水) 14:44:22
名門大名から木っ端役人に至るまで朝廷に叙爵されるときは皆、羽柴姓だったんじゃ?
733日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:13:19
>>732
任官には名字使わないが
734日本@名無史さん:2008/10/15(水) 18:37:44
前田って菅原朝臣?
735日本@名無史さん:2008/10/15(水) 19:32:34
>>734
はいはい
736日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:30:05
秀吉政権内部では「羽柴○○侍従」(○○は領地の名前)のように名字を用い、
対朝廷関係の文書では「豊臣朝臣何某」のように本姓を用いた。

有力大名は豊臣朝臣を下賜されており、前田も秀吉時代は豊臣朝臣利家だった。
ちなみに羽柴名字も下賜されていたので、利家は「羽柴筑前守」でもあった。
737日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:43:20
江戸時代の島津家なら
源朝臣で松平薩摩守
だれなんだよ?って感じだ。
738日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:59:07
島津は松平を貰っていたのか。知らなかった。。
なんで正式に「松平」に改めなかった訳?
739日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:12:05
柳営中では正式に松平ですが?
740日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:12:15
島津など国主級外様大名の当主と嫡子は正式に松平名字になっている。
公式、対外的に用いる名字は全て松平だった。
741日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:18:57
羽柴武蔵大納言
742日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:32:39
当時の江戸の地図を見てると
松平○○守の藩邸ばかりでわけがわからない
743日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:56:22
武家の官位は,明治維新でどうなったのでしょうか?
存続したのは,華族制度創設まででしょうか,それとも廃藩置県まででしょうか。
744日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:24:01
受領名とか官途名を通称として名乗るのは版籍奉還頃まで。
版籍奉還から廃藩置県にかけての時期は、松平従五位何某みたいな名乗りになっていて、
それまでの越前守とか内匠頭に相当する部分が位階になっている。
745日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:32:57
今は本家も当主も「島津」じゃないですか。
746日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:46:22
>>744
レスありがとう
太政官制度の復活が影響しているのですかね。

>>745
明治維新で新政府が,本来の松平で無い家が松平姓を名乗ることを禁じたと何
かで読みました。
新政府の命令なら仕方ないという理由で元の姓に戻せますし,体制が変わると
旧体制に媚びを売る必要はなくなるかと。
747日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:47:13
鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が朝敵になったとき、
松平の名字も将軍の一字も返上した(というか捨てた)から。
748日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:50:45
本来、松平であった家でも桜井、滝脇、大給なんかは松平をやめている。
松井、大河内あたりならわからないでもないが、完全に松平一門の家なのに。
749日本@名無史さん:2008/10/16(木) 00:10:08
維新で,バタバタと賜姓の松平姓や将軍賜諱を捨ててることからしても,江戸期では
これらを賜ることはステータスだったんだよね。

家来としては主君からの賜姓や賜諱は恩典だけど,主を代えたのなら捨てないと格好
がつかないよね。
将軍の家来じゃなくて朝臣になったんだから。


750日本@名無史さん:2008/10/16(木) 01:40:29
島津からすれば家来なんてあくまで建前だからな。
桜井滝脇大給は徳川色を払拭したかったからか。
そもそも徳川の温情で復活させてもらえたのにw
751日本@名無史さん:2008/10/16(木) 06:40:40
慶喜から一字賜った人はいなかったの?
752日本@名無史さん:2008/10/16(木) 09:15:13
徳川幕府は豊臣や羽柴の姓を名乗ることを禁じたのかな?
前田・浅野・木下などは場合によっては使っているようだが
753日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:46:30
位牌に豊臣朝臣と書いてある大名はいるらしい
浅野・木下(杉原)はねねの実家だからあるだろうな
754日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:17:33
そういえばどっかのスレで朝廷の地下官人で
豊臣氏羽柴を名乗る者がいて話題になったことがあるな。
755日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:20:42
羽柴はともかく豊臣は姓だから徳川が取り上げるるって訳にはいかないだろう。
どうしても禁止したければ形式上は朝廷を動かすしかない。
756日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:23:50
>本来、松平であった家でも桜井、滝脇、大給なんかは松平をやめている。
>松井、大河内あたりならわからないでもないが、完全に松平一門の家なのに。
むしろそんな端の家まで松平を名乗る方が変なような気もするけど?
757日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:54:15
将軍の直臣である大名、旗本にも豊臣姓を名乗る家があって、
寛政重修諸家譜に記載されている。

まあ、いずれもねねの実家の木下氏だけど。
758日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:37:28
氏姓スレになりました
759日本@名無史さん:2008/10/17(金) 01:02:14
直垂の方が狩衣より上位の礼服ってのが以外だ
時代劇とか見てるとイメージ的にね
760日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:08:03
761日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:56:16
>>678
すげえ亀だけど侍従は侍衛の官なので帯剣の職。
ついでに天皇に近侍するので要職として納言クラスが兼帯することもあった。
官位相当以上の栄官。

むしろ井伊家の極官だった掃部頭なんて官名の由来は蟹守w
762日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:45:32
井伊家の極官は中将なんだが
763日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:59:12
以前放送された「なんでも鑑定団」で井伊直弼の軸が鑑定に
出されていて、たしか宰相中将とかなんとか書いてあって
すぐに偽書と鑑定されてたw
764日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:22:15
江戸時代に入って
中納言は減った

増えたのは中将か?

侍従も減ったかな?
前はやたら羽柴○×侍従が多かった気がする
765日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:20:26
江戸時代は公家と武家は別枠だからね。
納言になれるのは御三家御三卿まで。
766日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:45:41
>>764
侍従は増えてるんじゃないですか。

家格の高い外様・親藩連技・譜代大名
老中,所司代,大阪城代に高家等の幕府高官

結構,侍従任官の需要はありそう。
767日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:52:13
>>766
そっかあ
高家があったね
768日本@名無史さん:2008/11/03(月) 08:38:16
>766

大坂城代は四品だったと思う。

まあ、一人減るだけだが。
769日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:35:58
準国持 侍従
国持  少将
大国主(島津、伊達) 中将
前田 宰相、従酸味
770日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:53:02
宰相…甲府、館林
中納言…水戸
大納言…尾張、紀伊、駿河、十姉妹
771日本@名無史さん:2008/11/09(日) 21:36:22
>770

大納言に小豆も入れてあげてください。
772日本@名無史さん:2008/11/22(土) 19:17:58
うちの手乗りは
並十姉妹で
大名でいえば
従五位下諸大夫だ
773日本@名無史さん:2008/11/25(火) 01:59:37
豊家に臣従した大名達の官位の華やかさは異常
774日本@名無史さん:2008/11/25(火) 02:24:32
毛利家とか喜んだろな
下級貴族(受領レベル)出身一族の悲願だもんな
775日本@名無史さん:2008/11/25(火) 18:19:11
毛利は大江広元以来の名家だぞ

猿が筑前守になる四百年も前に
安芸守に任ぜられてる
776日本@名無史さん:2008/11/25(火) 21:52:33
国司になるクラスと参議(宰相)以上では
公家でも差があったのではないのかい?
呼び名ではなんとか卿に変わるそうで
いわゆる公卿というやつ
777日本@名無史さん:2008/11/25(火) 22:18:05
毛利の先祖で公卿だったのは,大江広元の祖父くらいまでだったかな?
広元でも4位の地下で,毛利になってからは地頭だもんな。
公卿と地下の間には大きな壁があるし,公卿に昇れたことは誉れだったろうな。

778日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:51:30
61万石の大藩の尾張徳川家と、150石の貧乏公家の岩倉家は極官が権大納言
で同格なんだよな。加賀100万石の前田家も権中納言だから、位階は下だな。
ある意味で、日本の家柄至上主義てすごいかも。
779日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:54:49
岩倉鶴太郎は150石か
大久保や西郷もそんなもん?
780日本@名無史さん:2008/11/26(水) 00:02:43
>>778
そんなこと言い出したら,禁裏御料は3万石。
大名で3万石なら普通は諸大夫だぞ。
公家でも,九条家の3043石が最高で寄合旗本級だぞ。




781日本@名無史さん:2008/11/26(水) 00:36:00
大江朝臣輝元でいいの?
782日本@名無史さん:2008/11/26(水) 07:18:53
>>780
だから家柄至上主義ってすごいなって。金じゃないんだよ。
その九条家だって官位は将軍家より高いこともあるわけで。室町時代から
将軍は摂家同等扱いだけど。吉良、今川、喜連川など足利一門は幕府で
高家として優遇されたけど禄は少なくとも、位はそこらの大名よりも高い。
783日本@名無史さん:2008/11/26(水) 17:12:30
>>782
高家と一般大名を比べるのはともかく、禁中並公家諸法度で厳然と分けられている
公家と武家の官位を比べるなよ…
784日本@名無史さん:2008/11/26(水) 18:44:45
摂家の庶子が武家になったら、将軍正室の弟でも旗本どまり。
一方で実力もあったとはいえ春日局の血縁に頼って2家が大名になった。
家柄至上主義って言っても武家と公家の差は厳然として存在する。
785日本@名無史さん:2008/11/26(水) 19:34:51
稲葉殿のことか。家柄は大したことないじゃん。老中になれる家だけど。
所詮は従四位どまり。ベトナムから来て天皇に謁見した象と同じレベルだよ。
公家は貧乏だけど、官位だけはそこらの大名が及びもつかないほど高い。
三条さんちは傘貼りの内職してたようだしな。最高位は太政大臣までなれるのに。
786日本@名無史さん:2008/11/26(水) 20:00:21
豊臣政権が続いたならば、公家と武家の官位が一緒くたになったかも
787日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:15:05
なまじ武家政権が上方にあると、武家が貴族化しちゃう
であるからして、関東に武家政権が立つのは正しい
788日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:21:56
武家本来の仕事は「戦」江戸時代はそれほど戦がない。
下級武士も傘職人もいたぐらい貧しい時代。
789日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:41:15
豊臣時代に武家が高位になったため、
公家の昇進体系がくずれて大変だったらしいな。家柄に応じて全員
が平等に昇進できるように緻密に運用されていたわけだから。

790日本@名無史さん:2008/11/27(木) 00:04:02
>>789
関白との称号
朝廷からやっとのおもいで貰えた。
791日本@名無史さん:2008/11/27(木) 00:07:37
押小路とかの地下でも従酸味正4位なんか普通にいたからね
792日本@名無史さん:2008/11/27(木) 00:28:22
摂関家とかは豊臣家に腸が煮えくりかえるくらいの怨みをもっていただろうね
793日本@名無史さん:2008/11/27(木) 02:31:38
反則的手法で関白持っていかれたし、その上秀次に世襲させちゃったからねい。
794日本@名無史さん:2008/11/27(木) 06:54:33
秀吉と癒着したグループもあったわけで。菊亭晴季とか八条宮
とか。朝廷が表舞台に出られたのは秀吉のおかげなんだけど。
そのかわり官位が独占できなくなった不満はあるだろう。
家康は日影にしちゃった。だけど、官位は戻ってきた。
795日本@名無史さん:2008/11/27(木) 08:47:37
官位が高くても貧乏な公家
官位が高くなくても裕福な武家
武家でも官位だけでなく石高や江戸城での詰間など格式はいろいろ
796日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:12:28
官位はないけど超裕福な町人
797日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:01:49
豊家がその後も政権を維持し続けて、代々関白を独占しちゃったら
摂関家はどうなったことだろう

虚名は失うけれど、お金持ちの豊家から金銭的補償は貰えてウマーとか?
798日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:31:59
名ばかりの関白だから持ち回りが出来るんだよね。あれは。
本物の政権首班=関白となれば、名前だけの摂関家の出る幕じゃないわな。
いっそ関白より上位の何かを新設して、豊臣はそっちに移って貰ったりして。
799日本@名無史さん:2008/11/28(金) 09:36:59
>>797
バカなの?
800日本@名無史さん:2008/11/28(金) 12:57:14
>>799
クズなの?
801日本@名無史さん:2008/11/28(金) 14:03:40
>>797
バカなの?
802日本@名無史さん:2008/11/28(金) 15:09:40
>豊家がその後も政権を維持し続けて、

この前提だけで、もはや江戸時代の武家とはいえないわな
摂関家は公家だしな
803日本@名無史さん:2008/11/28(金) 20:14:20
力有る者が顕職を占拠するという自然な姿かもな
804日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:56:46
江戸後期、鷹司政道は関白職を33年も努めましたね。
きっと実力もあったのでしょうな。徳川慶喜の叔父にあたる人だね。
この人は、太閤の称号も得ているので、当然太閤殿下と呼ばれます。
この人の墓を小倉山の麓の寺で見たけど、従一位関白太政大臣て刻んであったよ。 
805日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:07:26
関白の最長は藤原頼道の在職48年。
将軍の最長は徳川家斉の在職50年。家斉は、将軍在職中に太政大臣に
任官されたが、これは有史以来初めて出来事です。
一世一元前の天皇の最長(神話を除く)は、孝格天皇の在位37年。
孝格天皇、鷹司政道、徳川家斉は職に居座た時期がかぶります。
806日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:07:44
政道公は准三宮宣下も受けてるから
まさに位人臣を極めたね。
807日本@名無史さん:2008/11/29(土) 07:20:32
そんなに長く権力の座(天皇は別格)にいたのならば、
まあ、功績にもよるが、
正一位に昇叙しても良さそうに思うが、
どんなに権威権力を持っている者でも、
正一位に昇叙されるのは至難の技っていうか不可能だったのかねぇ?。
…従一位に叙任された者ならば、掃いて捨てる程居るんだが…。
808日本@名無史さん:2008/11/29(土) 08:57:49
>>807 先の、正一位に昇叙するのは至難の技っていうか不可能だったのかねぇ?っていうのは、
無論、生前に正一位に昇叙っていうことです。
…贈位での正一位ならば、数多く居るようだから…。
809日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:43:41
生前に正一位を叙された者は
巨勢徳陀,橘諸兄,藤原仲麻呂,藤原永手,藤原宮子,三条実美
くらいかな?
武家はいないな。

正一位は,秀吉や家康でも贈位だし,50年位将軍職にあった家斉も贈位なんだな。

810日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:13:44
>>809 …なるほど。
三条実美以外の正一位叙任者は、古代にまで遡らないと居ない訳ですか…。
これでは、正一位の極位 は、有って無いような位階ですな…。
…しかし、古代の正一位叙任者達はともかく、
三条実美ごときに生前の正一位叙任を認めるくらいならば、
藤原道長・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康等の絶大な権力者に、生前の正一位昇叙を認めた方が、
よっぽど相応しい気がするが…。
811日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:30:43
>>810
いや,三条実美は維新の立役者として,朝廷としては第一級の功臣だろう。
何百年も武家に簒奪されていた政権を取り戻し,王政復古を成し遂げたのだから。
(例え建前だけでも)


812日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:57:17
>>811 …薩摩や長州等の倒幕勢力に担がれた?だけなのに…。
しかも、七卿落ちの時から王政復古の時まで、
長州や九州に追い込められて?いたはずだが…。

それなら、三条実美よりも、朝廷工作等で暗躍した?岩倉具視あたりが正一位に叙任された方がよっぽどマシだったと思うが…。
…もっとも、この場合は、三条実美と岩倉具視の家格の差の関係でダメだったのかな?。
813日本@名無史さん:2008/11/29(土) 16:29:46
>>812
三条の場合も死ぬ当日の事実上の贈位だよ。
もらった瞬間に死ぬなんて考えられないから
建前では生前叙位された後って事になっているがおそらくは死と
同時に贈位されたものだと思われる。
814日本@名無史さん:2008/11/29(土) 17:38:55
>>813 …なるほど。
死んだ日に、正一位の事実上の贈位(建前は生前叙任)をなされたのなら、
現代風に言えば、
さしずめ、総理大臣経験者が死んだ日に、
大勲位菊花章頸飾、若しくは大勲位菊花大綬章の死亡叙勲がなされるような感じですな。
…もっとも、位階はまだ現存してるから、
例え方が悪いかも知れんが…。
…そういえば、最後の将軍である徳川慶喜も、
死ぬ日に、勲一等旭日桐花大綬章に叙勲していたな。
…ただ、大勲位よりも下位の勲章の叙勲っていうのは、少々気の毒だな…。
815日本@名無史さん:2008/11/29(土) 18:07:28
今の勲位なぁもうちょっと授与数絞れないものかな
有り難みが薄いわ
ノーベル賞くらいにさ
816日本@名無史さん:2008/11/29(土) 18:12:56
うむ。新政府にあっては単なるお飾りだったとしても。

三条さんは死の床にある時に正一位を貰ったんだよね
817日本@名無史さん:2008/11/29(土) 19:37:51
>>815 上位の勲章(まあ、大勲位菊花大綬章クラスは別格としても…)は、
殆どが、永田町のベテラン政治屋共(事実上の永年議員在職表彰と変わらんな…)がかなりの数を占めているから、
有り難みが薄くなろうとも、
叙勲者の数を絞るっていう発想は無いのでは?。
…叙勲したら、例によって、それを材料に政治資金パーティーなんぞを開いて、
しこたま政治資金を獲得しようという魂胆だからな…。
818日本@名無史さん:2008/11/29(土) 19:54:28
首相経験者は通常は正か従の二位だっけ。
中曽根氏や小泉氏は従一位になれるかもしれないな。
中曽根氏の場合、国葬になると思う。

死なないともらえないとはいえ、1300年以上前の叙位制度が現在も残ってる
こと自体すごいんだけど。太政官制だって、645年の大化の改新から、
明治18年まで使われてることもすごいし。日本ってすごい国だね。
819日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:07:14
>>818 大勲位菊花大綬章に叙勲(まあ、死亡叙勲が殆どだが…)されるのは、やはり、総理大臣を2年程度以上在職していないと無理なのでは?。
総理大臣在職期間が短いと、一階級下の旭日桐花大綬章(まあ、このクラスならば、生前叙勲は確実だろうけど…)止まりだと思う。
…因みに、贈位の相当は、
・大勲位菊花章頸飾 → 従一位。
・大勲位菊花大綬章 → 正二位。
・旭日桐花大綬章 → 従二位。
・旭日大綬章 → 正三位。
だったと思う。
820日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:10:44
かっこいいよね。自分の位牌の戒名の上に従二位とか刻めるんだろう。
もらえるように頑張ってみるかな。
821日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:17:38
>>818 小泉氏の大勲位菊花大綬章叙勲は、
中曽根氏が生存している間は厳しいのでは?。
まあ、まだ叙勲するような歳でも無いし、
中曽根氏でも、大勲位菊花大綬章に叙勲されたのは80歳近くになってからだったと思う。
…やっぱり、中曽根氏は死亡叙勲ながら、
大勲位菊花章頸飾叙勲を狙っているのかねぇ〜?。
822日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:28:23
趣旨は全く変わるが、
徳川将軍家の官位昇進をみると、
内大臣から右大臣に昇進するのに、
比較的すんなり昇進してる将軍(二代秀忠・三代家光・四代家綱・九代家重・十二代家慶・十四代家茂あたり)と、
20年から30年近く掛かって漸く昇進する将軍(五代綱吉・八代吉宗・十代家治・十一代家斉)がいるが、
この違いはどっから来るのかねぇ〜?。
823日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:50:22
綱吉〜家斉期は、江戸幕府の安定期だから、あえて虚名に拘泥しなかったのでは?
この時期には将軍家が日本で最高の絶対的存在であることに疑問の余地がなかった。

だが、晩年の家斉が太政大臣になって事情が変わってきた。
息子の家慶は親父の官位に合わせて、将軍世子の間に左大臣にまでなってるし、
そうなるとそれが先例になって家茂もすんなり右大臣になったんだと思う。
家定は在任期間が5年と短かったので右大臣になる前に亡くなってしまったが、
家茂の場合は皇女の婿という理由もあったかもしれない。
824日本@名無史さん:2008/11/29(土) 21:18:00
>>823 …なるほど、確かに安定期の将軍は、
官位の昇進に関心を示さなくても、
特に支障は無いと思うが、
五代綱吉や八代吉宗に関しては、朝廷に対して、結構サービスしたのだから(綱吉は天皇御領等を加増したし、吉宗は朝廷の儀式面に関して幕府の資金援助で中絶していた儀式を復活させたりした)、
恩賞として、もう少し早い昇進(或いは、もっと高位高官の昇進)を図っても良さそうだが…。
825日本@名無史さん:2008/11/29(土) 22:17:39
>>822
朝廷と成熟した関係が築いた将軍は、官位をあまり意識してないのでは。
綱吉は公家の姫を多く多くいいれ御所風がはびこった時代だし、
吉宗は正室は宮様だし、象を拝謁させるようなサービスしてるし、
家斉は孝格天皇時代の長期政権でお互い阿吽の呼吸でいけたのかもね。
826日本@名無史さん:2008/11/29(土) 22:32:13
それにしても、将軍自身の官位昇進は、
やはり将軍自身が判断して(お手盛りで?)決定するのかな?。
それとも、幕閣(大老や老中)が先例等を調査した上で、朝廷工作を手掛けたりしてるのかな?。
…建前上では、武家の官位の任免権は将軍が握っているのだがが…。
827日本@名無史さん:2008/11/29(土) 22:39:11
初代、二代、三代将軍は朝廷ともめまくったし、4代は宮将軍擁立問題
が起こったし、9代は将軍の資質で問題があったし
十二代から15代までも朝廷が幕府にいろいろ要求を突き付けてきた時代だね。
6代、7代は安定期。家宣は当代一の学者と謳われた舅の近衛基煕太閤と昵懇
だったしね。6.7.8代はまた家宣正室の天瑛院の影響が大きいか。
828日本@名無史さん:2008/11/29(土) 22:41:24
十二代家慶は、親父の十一代家斉が将軍職にしがみついて?頑張っているから、
将軍世子の段階で従一位内大臣になってしまった…。
征夷大将軍任官以前に、従一位内大臣になっているのは、
初代家康以来の出来事だな…。
たいていの将軍世子は、征夷大将軍任官以前は、
従二位権大納言・右近衛大将・右馬寮御監(これらの官職兼任自体、源頼朝の例に倣ってるのかな?)なんだがなぁ〜。
829日本@名無史さん:2008/11/30(日) 09:08:27
家斉の場合、隠居後も大御所として権勢をふるってたから、家慶は何もやら
せてもらえなかった。ぜいたくだった家斉へのあてつけで水野を登用して、
財政引締の天保の改革を行ったが、庶民には大不評で結局水野を更迭して、
改革は頓挫。何もできなかった将軍だね。
830日本@名無史さん:2008/11/30(日) 11:45:48
>>829 さらに、輪をかけて愚劣だったのは、
天保の改革が頓挫して、その責任を問う形で老中首座水野忠邦を罷免して置きながら、
程なくして、どういう理由があるか知れんが、
改革に失敗した水野忠邦を老中首座に再起用した事だ。
…これでは、何の為に水野老中をクビにしたのか意味がわからん…。
…この事に、江戸庶民も将軍(家慶)の暗愚さを噂したらしい…。
831日本@名無史さん:2008/11/30(日) 11:49:31
>>830 その程度の将軍(家慶)が従一位左大臣様か…。
…おめでたいのぉ〜。
832日本@名無史さん:2008/11/30(日) 12:04:39
そういえば、
犬死将軍の足利義教も戦乱そっちのけで芸術三昧の足利義政も
左大臣様だったのう。おめでたいというか。
833日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:17:18
>>832 芸術三昧の無能将軍義政はともかく、
万人恐怖の義教は、テロられる事無く長生きしていれば、
太政大臣にして貰えたかな?。
834日本@名無史さん:2008/11/30(日) 15:20:17
家慶・・・その偏諱が現代まで慶喜家に伝わってるのね。
835日本@名無史さん:2008/11/30(日) 15:48:39
>>833
還俗コンプがあったから官位昇進にこだわったようにも見える。
左大臣までのスピードは義持と比べても異常に早い。
836日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:05:56
>>835 …還俗将軍で万人恐怖の義教のスピード昇進に比べて、
20年近く将軍の座に居ながら
従四位下参議・左近衛中将で頭打ちのまま、三好・松永の輩共に二条御所に殴り込まれて斬死にした
剣豪将軍義輝は哀れだ…。
…20年近くも将軍の座に居れば、従三位権大納言ぐらいには昇進出来た筈なのに、
剣豪将軍は、朝廷と相性?が悪かったのかな?。
837日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:11:11
幕末になると、大名共(無論、有力大名の話だが…)の官位の極位極官がかさ上げされたような気がするが、
幕末の有力大名の官位はどんなものだったのかな?。
838日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:36:29
>>837
維新後の官位じゃないの?
幕府要職の官位は1ランク上がったけど
例 会津が中将→宰相とか
839日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:46:21
足利家は9代義尚以降、急速に力をなくしたし朝廷ににらみが効かなくなり
、戦乱で朝廷も疲弊し、献金なくして昇進なしって感じだったんじゃないか。
大内義隆なんて従一位もらって将軍より位階が高かったし。
室町時代の朝廷は金がなくて、天皇も引退できなくて、みんな在位が長いし
崩御しても葬儀ができなくて、数か月棺が放置されたり、ひどい話じゃないか。
840日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:33:02
足利義栄なんて従五位下じゃなかったっけ?
841日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:52:26
>>838
いや、家斉時代の将軍家との縁組などの影響で外様の大大名の官位が本来のものより、
若干かさ上げされてる。
842日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:42:09
>>840 十四代義栄なぞは、朝廷に散々焦らされた後に、
漸く、将軍任官を果たしたものの、
直ぐに、織田信長の上洛で四国へ落ち延びる途中、呆気なく死んでしもうたからなぁ〜。
843日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:50:03
貧乏公方足利義昭の従三位権大納言昇進は、
やはり実力者織田信長の力によって実現したんかな?。
844日本@名無史さん:2008/12/01(月) 01:11:27
織田信長は、正三位の段階で内大臣に任官してるんだが、
三位の大臣って、信長以前に先例があったんかいなぁ〜?。
845日本@名無史さん:2008/12/01(月) 08:44:39
江戸時代の官位は武家と公家は別枠だから
それ以前の武家の官位と比較しても無意味だろ
846日本@名無史さん:2008/12/01(月) 16:20:15
初心者な質問。
朝廷の中で武家と公家は明確に区分けされていたの?
されていたとしたら、何に基づいて分けていたのですか?
847日本@名無史さん:2008/12/01(月) 17:30:47
>>846
武家諸法度、公家諸法度についてお勉強して出直せ
848日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:16:18
>>847
お前両方とも読んだことないだろ。
849日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:34:54
>>846
区別されてた。
>何に基づいて
堂上、地下官人以外で官位を持つものは武家
850日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:07:49
>>849
サンクス。
台帳みたいなのがあって(武)(公)などと
カテゴライズされてる訳じゃないのね。
正社員と非正規社員な感じだったのかな。
851日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:26:02
公家侍は,武家?それとも地下官人?
852日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:16:53
>>851
ちかかんじん
853日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:24:54
公家侍って、どれくらいの給料で、主に飼われてたん?。
854日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:11:57
近衛家で二千数千石なんだから推してはかるべし。
せいぜい何人扶持という程度だろう。
855日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:33:36
だいたい京都郊外のお百姓さんとかかな。
田んぼと畑あるので食うには困らない。
856日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:36:21
サン石サン
857日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:51:08
公家の諸大夫って,4位の官位を持っているじゃないですか。
公家から嫁を貰った5位の大名は,嫁の実家の家来よりも下座になるんですか?
それとも,公家と武家の官位は別だから,官位の上下はこの際関係ないのでしょうか?

858日本@名無史さん:2008/12/01(月) 23:05:58
神職も位階もってるよ
859日本@名無史さん:2008/12/01(月) 23:30:29
武家の官位はすべて員数外とはいえ、幕府は秩序維持に官位で序列づけたわけ。
なんとかの守という国主の称号は武家のみとなったんだな。
公家と武家は通常は接触しないし、将軍の力が大きいときは、武家と公家の
官位差はあまり関係なかった。
でも幕末になると違ってくる。家茂が上洛しても内大臣としての扱いで
将軍とはいえ、官位序列に組み入れられる。孝明天皇の加茂行幸なんか
将軍が単なる1臣下としてしか扱われなかったわけ。
860日本@名無史さん:2008/12/01(月) 23:51:43
>>858
神職の官位は,吉田家が発給するなんちゃって官位じゃなかったけ。
>>859
国主の官は,公家諸大夫も受けてますよ。
861日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:06:06
>>860

国主の官を持っていた江戸時代の公家って
空しくなかったのかな。
子供の遊びのような官位ごっこだよね。
862860:2008/12/02(火) 00:29:47
>>861
失礼,公家諸大夫→公家の諸大夫だった。
堂上に国の介はいたが(もちろん昇進の途中で),守は見つけられなかった。

>>子供の遊びのような官位ごっこだよね
う〜ん,それ言ったらお終いのような・・・・
家業と一致した官職を持った土御門のような家ばかりじゃないし。
三公と言っても,政治に携ってはいないわけで・・・・
863日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:35:35
神職はなんちゃって官位?
墨紙に天気
国司補任

864日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:37:12
>>859
とはいえ武臣
865日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:49:15
割当制みたら一目瞭然


http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html


それ以外は知らない。
866日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:51:55
>>863
宗源宣旨
867日本@名無史さん:2008/12/02(火) 01:06:32
海後磋磯之介
868日本@名無史さん:2008/12/02(火) 10:01:29
徳川歴代の将軍正室や将軍生母は、
生前にどのくらいの位階を授かったんですか?。
869日本@名無史さん:2008/12/02(火) 23:25:22
綱吉生母が従一位をさずかりました。
家光乳母のお福は、無位無官で後水尾天皇に拝謁し春日局の名を
賜りましたが、この幕府のやり方には天皇はさすがに激怒されたようです。
870日本@名無史さん:2008/12/02(火) 23:46:15
官位ごっこていうけど、これを運用するのはかなり緻密にやらないと
できない。家格に応じて昇進のさせ方が違うし、不満のでないように
公平に人事を行った点で、よくやったと思うよ。

あと、公家はどこの家も家芸をもっているので、文化保全の役割が大きい。
例えば、西園寺家の家芸は琵琶だったので、公望は三味線も扱えて
芸者よりも三味線がうまかったらしいね。
871日本@名無史さん:2008/12/02(火) 23:54:49
まあ、卑近だけど、「総家元」みたいなもんだからね
下手だったら恥ずかしい。
今の西園寺当主も琵琶上手いのかな?
872日本@名無史さん:2008/12/03(水) 00:02:15
いや、公望は琵琶が不得手で、明治天皇から西園寺の琵琶が聞きたいとからかわれた
というエピソードがあるらしいけど。
873日本@名無史さん:2008/12/03(水) 01:19:04
きんもち琵琶嫌いだったと漏れも聞いたことがある
徳大寺家からの養子+若いときは長期欧州留学で、習う機会がなかったこともあるんじゃないかな

今の西園寺家当主が琵琶引けるかどうか分かりませんが
末裔の一人は中共へのごますりはそれはもう(ry
874日本@名無史さん:2008/12/03(水) 05:45:22
欽一
875日本@名無史さん:2008/12/03(水) 15:11:33
末裔の一人は桂太郎の子孫に頚(ry
876日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:01:21
公家の官位の昇進のスピードですが、
摂関家と清華家では、昇進のスピードは、
どのくらい変わってくるんだですかね?。
877日本@名無史さん:2008/12/09(火) 23:16:33
>>876
何代か前の官位スレで,公家の家格別の昇進ルートや速度を書き込んでくれた人がいたけど。
官位スレか公家系のスレで聞いた方が良いんじゃない。
ここは江戸時代の武家限定スレだから。

878日本@名無史さん:2008/12/10(水) 02:00:10
>>876
摂家は10代で大納言、二十歳で内大臣、程なくして摂関。
大臣位は5年おき位に付いてくる。太政大臣になるのは50超え位。
華族は中年まで大納言、40近くで内大臣、晩年に左右大臣になれたらラッキー。
歴代当主でも大臣になれなくて大納言で終わった者が半数近く。
格の低い華族なら内大臣出世率が二割切るよ。
879日本@名無史さん:2008/12/10(水) 02:24:17
西園寺寛季だっけ、70歳くらいまで生きたのに
権中納言止りだった例もある。
摂家と清華家とでは、主君と家老くらいの違いがあるね。
880日本@名無史さん:2008/12/10(水) 02:38:07
>>861
たとえ内実がないものであっても、朝廷という「国家」がそれを「認めた」という時点で
それは、子供の遊びではなくなる。

今だって、文化勲章だとかノーベル賞とかオリンピックとかお遊びみたいなものだが、
国家なり何なりがそれを認め、人々がそれを了承すればそれはただのお遊びではなくなる。
実際お公家さんたちはその高い官位という権威を利用して、色んな副収入を得ることもできたわけだからね。
大人の世界だってそういう「お遊びみたいな」ものが案外影響してるもんだ。
881日本@名無史さん:2008/12/10(水) 07:36:32
>>880
>今だって、文化勲章だとかノーベル賞とかオリンピックとかお遊びみたいなものだが、

はぁ?
882日本@名無史さん:2008/12/10(水) 09:09:41
はぁ? ってねえw こういう、何も書かずに単にあおってくる人が一番始末に困るが
「オリンピックと昔の官位を一緒にするなゴルア!」っておっしゃりたいんでしょうが・・
まあ、感覚的にちょっと議論にならなさそうなんで、もういいや。
(煽りではなく真摯に議論をしてくるのなら、対応するけど)


いずれにせよ、オリンピックはともかくとして、
当時の多くの人々が朝廷の官位というものの権威を認めており、実際に社会的な影響を与えていた以上
それは「子供の遊び」ではない、というのは確かだと思うよ。
883日本@名無史さん:2008/12/10(水) 09:39:48
オリンピックだって後世の人が見たら、早く走りたいのなら車に乗ればいいだろ?下らねーな
っておもうかもしれん
価値観の変遷なんてそんなもん
884日本@名無史さん:2008/12/10(水) 09:57:57
無用な例えを持ち込んで話をわからなくする
いつものひとですか?
885日本@名無史さん:2008/12/10(水) 11:19:04
>>880
>>今だって、文化勲章だとかノーベル賞とかオリンピックとかお遊びみたいなものだが、

>はぁ?

普通に読めば、文化勲章だとかノーベル賞とかオリンピックとかはお遊びみたいなものではない、という
単純なことを言ってるようにしかよめんが?
>>882って思い込みで暴走するタイプの人?
886日本@名無史さん:2008/12/10(水) 14:18:03
江戸時代に、徳川将軍家以外に、
大臣の官位に昇進した大名って居るのかな?。
887日本@名無史さん:2008/12/10(水) 14:45:55
織田信雄
豊臣秀頼
888日本@名無史さん:2008/12/10(水) 14:57:07
酷い例えだな。
名誉総裁ならいざ知らず、国家の役職のほぼ全てが名前だけの名誉職なんて国家遊びそのものだろ。

資本金一円で株式会社作りましたー
俺は社長ねー
君は常務に任命しよう
君は広島支店長だ
ロス支社長と総務課長が空いてるよー
実際の業務は無いけどねー
みたいな感じだろ


だがそれがいい
889日本@名無史さん:2008/12/10(水) 16:13:50
朝廷は将軍をつくれる唯一の機関だから、その官位は重要だろう。
朝廷は幕府の上位機関。幕府も朝廷に属する政治組織。
890日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:19:02
公家って楽でいいよな。平安時代の後期から、詩を詠んだり蹴鞠をして遊んでいれば
いいんだから。
どんなに立派な官位があっても政治なんてまるでやらないんだからなあ。
よく日本という国が今まで存在できたもんだ。
891日本@名無史さん:2008/12/10(水) 23:30:18
>>890
歌を詠むのは政治だったんだよ。
言霊によって治めるのが目的。政治として真剣にやってたんで、遊びじゃなかったんだよ。
892日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:02:44
いや、歌を詠むことによって国が動くって、もし本気で信じていたのなら、
それこそただの蒙昧なお遊びだがww

実質ろくな仕事もせずに暮らしていた、っていうのは
別に公家に限らない。江戸時代の武家だってそうだし、明治大正の華族だってそう。
というか日本に限らず、多くの諸外国の貴族はそう。

だからってそういう貴族制度が全て「遊び」だったわけじゃなくて、
それぞれのその時代の社会にとっては現実的なリアリティーをもったものだったわけだ
893日本@名無史さん:2008/12/11(木) 09:23:05
武家や公家がなにもしてなくても
江戸時代は稀に見る平和な時代
894日本@名無史さん:2008/12/11(木) 16:01:19
桂昌院、天英院… 他に従一位にまで昇った女性は?
895日本@名無史さん:2008/12/11(木) 18:25:00
高台院は?
でも江戸時代じゃないわw

あと江戸時代の女性なら
広大院
(偶然だが上の人と読みは一緒)
896日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:34:17
従一位を受けた女性
・江戸時代以前
藤原淑子(平安時代・女官)
源倫子(平安時代・後一条・後朱雀天皇外祖母)
源師子(平安時代・関白藤原師実室)
豊臣寧子(高台院・安土桃山時代・関白豊臣秀吉室)
・江戸時代
阿茶局(江戸時代・東福門院入内の母代・元徳川家康の側室)
桂昌院(江戸時代・将軍徳川綱吉生母)
近衛熙子(天英院・江戸時代・将軍徳川家宣室)
近衛寔子(高大院・江戸時代・将軍徳川家斉室・実父は島津)
(明治以降省略)

生前に従一位を受けたのはこれだけ。
没後に従一位を贈られた女性は、天皇外祖母や、
足利・徳川将軍家の正室などに多い。
897日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:50:58
正一位てのはおらんの?
人間で。
898日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:15:13
>>896
あり?大政所(秀吉の母)は?死後に貰ったの?
899日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:40:59
900日本@名無史さん:2008/12/13(土) 18:17:15
…戦後では、正一位の贈位はおろか、
従一位の贈位でも至難の技だな…。

確か、戦後では吉田茂と佐藤栄作の二人だけが、
従一位の贈位を受けたと思うが、
この先は、従一位の贈位を受ける人は、
なかなか出て来ないような気がする…。
901日本@名無史さん:2008/12/13(土) 21:40:30
徳川将軍家以外に、従一位の極位に叙任された大名って誰がおるん?。
902日本@名無史さん:2008/12/13(土) 22:54:57
毛利敬親は死後に贈正一位らしい、生前は従二位?
903日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:15:16
御三家御三卿なら何人か生前従一位がいるな。
904日本@名無史さん:2008/12/14(日) 22:14:49
大勲位てのはちがうんだなぁ・・。


905日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:40:09
>>904
大勲位といっても、生前もらえるのは菊花大綬章どまり。
メインというべき菊花賞頸飾は天皇陛下と外国君主限定。
中曽根さんも一度死なないと頸飾はもらえない。……多分あの人はまだまだ長生きしそうだが。
906日本@名無史さん:2008/12/22(月) 15:20:56
レイテ沖で英霊になっていてくれたほうが良かった罠。
907日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:58:11
押しの大臣 日野勝光は左大臣ですな。名家だっけ。普通ありないよな。
これって道真が右大臣になったのよりすごいんじゃねえ。
足利一門と癒着した日野家は価格不相応に昇進したね。
義尚の後見職として幕府政治にまで介入して。
908日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:33:03
(権)大納言と近衛大将では、どちらが格上になるんですか?

…ちなみに、江戸時代の将軍世子は、
(権)大納言に叙任されると、大納言様と呼ばれるが、
右近衛大将を兼官すると、右大将様と呼び名が変わるようですが…。
909日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:55:08
>>907
日野くらいの名家になると左大臣まで上れるんだね。
やっぱ世の中家柄だわ。
910日本@名無史さん:2008/12/25(木) 15:22:18
島津久光も左大臣
911日本@名無史さん:2008/12/25(木) 17:32:33
>>908
源頼朝の官位だから、武家にとって特別なんでそ。
912日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:38:18
公家の官職としてもどちらが格上ってのはない。
相当だと大納言のほうがわずかに上みたいだけど、多くは納言で兼帯する近衛大将は
左右2人、一方納言は大中合わせて14人いるから近衛大将は希少価値があるw
913日本@名無史さん:2008/12/25(木) 18:57:25
ところで御三家御三卿親藩譜代外様って分類は、いつ誰がつくったの?
914日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:04:34
>908
室町〜江戸時代あたりだと、大将は基本的に大納言以上じゃないんですかね。
915日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:13:45
>912

タヌキと言わせたいんだろうけど
暴れん坊将軍かいな。
916日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:52:29
日野は大納言までだよ
917日本@名無史さん:2008/12/29(月) 04:48:14
>>916
だから勝光みたいな例外はすごいんだよね
でも室町の頃には、道真みたいな藤原氏以外が左右大臣になったりすることは、もうないの?
(日野家は藤原氏)
918日本@名無史さん:2008/12/29(月) 05:20:40
>>917
足利義満の太政大臣、足利義教・足利義政の左大臣。
武家やんという突っ込みはなし。
919日本@名無史さん:2008/12/29(月) 06:47:59
>>917

太政大臣
村上源氏の久我具通・清通・通博

右大臣
久我豊通・通言

久我ばっかやな。
920日本@名無史さん:2008/12/29(月) 08:33:29
江戸時代のスレなんだけどね
921日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:24:07
江戸時代に清華家が左右大臣にのぼった例なんていくつあるんだろ。
922日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:28:12
武家のスレなんだけどね
923日本@名無史さん:2008/12/29(月) 15:46:06
閑院流の3家だけだが
三条:実秀左・公富右・実治左・実顕右・季晴右・実起右
西園寺:実益右・実晴左・致季左・賞季右
徳大寺:公信左・実祖右・公純右
太政大臣の任官例は皆無。左右大臣への任官は江戸時代でも
前期の例が多い。時代を経ると左大臣には昇らなくなる。
924日本@名無史さん:2008/12/29(月) 17:32:24
>>919
久我家はずっと源氏長者だった家だもんね
その辺も関係するのかな?
江戸時代には源氏長者は完全に徳川家に持ってかれちゃうけれども
925日本@名無史さん:2008/12/30(火) 07:23:07
会津容保公は従三位に除せられましたが、これは戦時の特例?
926日本@名無史さん:2008/12/30(火) 08:57:49
孝明天皇の信任が格別に厚かったから
927日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:24:59
二代将軍の息子の家なんだからそのくらいの官位があっても不思議はないところ、
初代が謙虚過ぎたんだよな
928日本@名無史さん:2008/12/31(水) 13:30:18
殿様の方が格下

長州藩初代藩主
毛利秀就(右近衛権少将)
後見役で長府6万石
毛利秀元(参議)
929日本@名無史さん:2009/01/01(木) 14:51:57
毛利秀就の
右近衛権少将は珍しいね

他の国持ちクラス
(細川忠利、浅野光晟、上杉定勝、佐竹義隆など)
が左少将なのに
930 【大吉】 【577円】 :2009/01/01(木) 14:56:18
左の方が格上だから良いンジャマイカ?
931日本@名無史さん:2009/01/01(木) 15:12:10
秀就のあとは
侍従止まりの藩主が多いし、
二カ国の本国持なのに
不本意な官位
警戒されていたのかな
932日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:55:14
毛利の初期当主たちは

登城日に江戸城に来なかったり
松平と書くべき所をわざと毛利と書いたり
朱印高を上げろと幕閣に言ったり

将軍家から見ると
ちょームカつく藩主が
多かったので
幕府の覚えがよろしくなかった
933日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:48:15
>>929
昇進前だったんじゃないですか?
このスレかどこかのスレで,どなたかが武家の昇進でも,侍従から左少将へ直に昇るのではなく,
右少将から左少将へ順に昇進してゆくと書き込まれていましたから。
934日本@名無史さん:2009/01/07(水) 07:49:43
>>932 幕閣の覚えがめでたくない大名ならば、
口実を付けて、その大名共を改易にすればよかったんだが…。

まして、毛利ならば徳川将軍家にとって危険分子の筆頭に位置付けられる大名なんだから…。
935日本@名無史さん:2009/01/07(水) 21:16:32
窮鼠猫を噛むの抵抗をされると厄介だから石高削減で手打ちしたんでしょ。
936日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:12:18
狂犬福島を改易できるくらいなら、毛利ごとき
937日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:25:20
福島は実際色々あったらしいじゃん。
938日本@名無史さん:2009/01/11(日) 00:51:38
> 松平と書くべき所をわざと毛利と書いたり
は?
939日本@名無史さん:2009/01/12(月) 11:54:08
>>938
毛利も松平じゃなかったけ?
940日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:30:12
結城秀康の娘娶って越前松平の一門扱い。
福井藩のゴタゴタの火の粉が飛んできたり確執が絶えんかったようだが。
941日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:20:56
>940

慶長13年に秀就が賜姓されたの、そう言う理由だったんだ。
942日本@名無史さん:2009/01/16(金) 19:03:17
武家の官名乗りって,形骸化した官職は名乗っているが,少しでも実質が残っている官名は名乗っていないよね?
東宮大夫とか,蔵人とか,陰陽頭とか

これって,やはり意識して避けたのでしょうか?


943日本@名無史さん:2009/01/16(金) 19:46:47
>942

蔵人頭は秀忠が武蔵守の前に一年ほど名乗ってなかったっけ?
944日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:49:09
玄蕃とか兵部とか民部とか結構名乗っているよ
945日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:06:55

時代劇に出てくる家老でよく聞く
946日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:59:08
>>943
Wikiでは,秀忠は武蔵守の前に蔵人頭に就いたことになっているが,これはおかしくないか?
秀忠は,蔵人頭になった4年くらい後に右近衛権中将になっている。
昇進順序がおかしいし,蔵人頭って,頭中将か,頭弁でしょ。

947日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:16:15
>946

公家の官位はその通りだけど、秀忠は武家だからたまたま適当に名乗ったんじゃないのかな?
公家側では、信長の上総守のようにあり得ない名乗りというわけではないので放置プレイと。
948日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:31:01
>>841
前田斉泰が権中納言に任官したのはその例かな?
949日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:13:10
綱吉生母の桂昌院が従一位に叙任されてますが,これもやはり武家官位で公卿補任に載らないのですか?

950日本@名無史さん:2009/02/11(水) 08:51:11
武家と公家の官位を別枠にするくらいなら、
官位以外の地位や役職を新設すれば諸大名を朝廷から遠ざけられたのに、
なんで旧来のままにしたのだろうか?
951日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:31:08
やっぱり積み重ねた歴史というのは形骸化してもそれなりに後光が差してるもんなんですよ。
戦国時代に天皇公家は権威のかけらもないド貧な暮らしをしていたのに、
官位(勿論形骸化してる)をあげると言うだけで、諸国の戦国大名がどれだけ献金したか。。。

第一征夷大将軍という役職自体が天皇から任命されると言う権威で成り立ってるのに
その将軍が新たに武家専用の官位を新設しても自己否定につながるだけ。
952日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:38:06
官位にしろ,西洋の爵位にしろ,元は実態のあった職が後に身分を表す称号になったはず。
では,武家の職制がなぜ身分を示す称号にならなかったのだろか?
守護,地頭くらいが,武家の身分を示す称号になったが,一般的ではないし・・・・・



953日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:13:33
朝廷官位の方が権威があったから。
武家の職は時代に応じて改変されるし、もとは将軍家の家職が拡大したもんで
将軍家が変われば家職も変わる。
954日本@名無史さん:2009/02/13(金) 09:38:21
明治維新で摂関が廃止されたりしてるんだから、
江戸開幕のときにも武家の分だけなら制度改革できたんじゃね?
摂政は現行憲法でも規定されてるかw
955日本@名無史さん:2009/02/13(金) 09:49:39
>>954
そりゃ、天皇の国事行為の代行者を規定しておかないと、天皇が病気のときとか困るやん。

法律で首相の代行者の規定がなかったせいで、小渕が倒れたときに密室での首相決定劇
という発展途上国並にアレな事態に陥ったわけだし。
956日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:04:07
>>954
江戸幕府の権威は累代によるもので、開幕の頃なんてまだ豊臣家が健在だったからw
豊臣家を滅亡させた後でも、織豊大名は大量に残ってて政情は安定しなかったし。
綱吉の頃なら朝廷官位を廃絶できたかもしれんけど、綱吉にはそこまで強い意志力はなかった。
綱吉以降は朝廷官位を潰す動機がないだろうし。
957日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:21:55
>956

でも、新井白石は「武家独自の官位制度を作れ」と言ってたよね。
華麗にスルーされたけど。
958日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:12:57
まあ大名たちは将軍家からは封地の保証さえしてくれれば
いいわけで、古代的権威もない徳川創始の官位など
もらっても「フンッ!」って感じになっただろうね。御三家を筆頭に。
959日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:22:27
>>958
見栄の固まりみたいな大名たちが?
そんなわけネーだろ。
960日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:41:10
>959

見栄の固まりだからこそ、より権威のある称号を求めるわけですよ。
961日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:08:36
武家諸法度制定のころなら新制度?にできたろうな。
むしろ新制度にした方が徳川の世であることを強調できる。
逆らえる大名はすでにいない。
962日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:46:59
>>961
たかだか10レス前からも読めないのか
963日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:51:23
むしろ江戸中期に易姓革命をやっておけば、開国後も徳川家は生き残れたのに。
964日本@名無史さん:2009/02/15(日) 09:29:44
>963

いや、徳川家は生き残っていますよ。明治に入って貴族院議長も務めているし、
固辞したけども組閣の大命も内示されています。

易姓革命をやってしまっていたら、かえって根絶やしにされたおそれがあります。
965日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:19:20
江戸初期の徳川将軍家は、上洛して京都御所に参内した時には、
太上天皇の扱い?を受けたらしいですが、
太上天皇の格式や待遇ってどんな感じだったんですか?
966日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:25:40
そんなの受けてない。
っていうか、天皇より上になっちゃうジャン
967日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:15:51
あくまでも天皇の下じゃないか?
将軍職、大臣職じゃ朝廷では摂関以下だし
足利が持ってた准三后単体じゃえらいのかどうはびみょうだしね。
968日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:51:26
>965
「幕末の宮廷」によると、秀忠が天皇と対面したときは、関白や諸公卿たちよりも上座で、
「天子様と御同間で天子と向かい同士にした。全く太上天皇のお取扱い」となっています。

>967
同書によると、少なくとも、秀忠、家光のときは関白の上座についたとなっていますね。
摂関と将軍はどちらも官位の序列になじまないんで、どちらが上にくるかはその時々
でしょう。
969日本@名無史さん:2009/02/23(月) 09:40:54
摂関家の中でも二条家は将軍の家来になって代々一字頂戴してたらしいぞ。
970日本@名無史さん:2009/02/23(月) 17:38:15
二条家の場合、足利からは
満基、持基、持通、政嗣、尚基、尹房、昭実 

徳川家からは
  光平、綱平、吉忠、宗熙、宗基、重良、治孝、斉通、斉信、斉敬

摂関のプライドは無いのか?





                
               


971日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:20:25
お公家さんの場合、かなり家柄良くても摂関家の「家礼」になってたりするからなあ。
摂関家も将軍家の「家礼」化してたとか?
972日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:42:23
徳川将軍こそ天下人だもんな

朝廷なんて幕府に食わせて貰ってた居候同然じゃん
973日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:44:21
5000石クラスの旗本はどこまで上れるんだ?
974日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:41:33
高家でなければ従五位下まで。

まあ、加増されて大名になり、老中まで進めば従四位下侍従があるが。
あと、中将クラスの大名なら、養子に迎えられる可能性もあるかも。
それ以上はどう頑張っても無理だと思う。

あ、裏技で公家に養子に入るという手もあるか。
975日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:38:16
同じ中将でも右→左と任官してるとは知りませんでした。
このことが詳しく載っている書籍をご存知の方、ご教示下さい。
976日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:43:22
>>974
公家の姫を正室,側室にした大名はいるのに,武家から公家に養子に入った者は皆無なんだよな。
母系相続であっても良いと思うのだが・・・・



977日本@名無史さん:2009/03/14(土) 00:13:27
公家って位が高いから大名にとっては娘の片づけ先に
いいんだよな。尼寺に入れるんじゃ可哀相だし、経済的
に援助してやればそれなりの暮らしはできるし。
978日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:15:10
大名の娘で後家でも無いのに尼寺逝きって、そんなにいないだろ?
家臣、一門、他の大名、上級旗本、公家といくらでも行き先あるし。
979日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:35:57
その辺が室町時代以前と江戸時代の違いだよね。
室町時代には武将や子供(男女関係なく)の出家は多かったのに
江戸時代になったら一気にごく稀になる。
出家して改易される殿様も出る始末。

一方の公家は出家して寺に口減らしされるケースの方がほとんどのようだが。
980日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:51:15
大名が出家したら
従四以下松平大僧正
とか名乗れるの

それとも薩摩守なら薩摩入道?
981日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:59:38
島津薩摩入道になる
982日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:33:07
紀州の重リンの場合。

紀伊前中納言太真入道重倫卿

983日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:32:11
江戸期に,法印等の僧位や,僧正等の僧官を与えられた大名はいるのでしょうか?

984日本@名無史さん:2009/05/09(土) 07:01:06
前田玄以
985日本@名無史さん:2009/05/10(日) 00:12:21
徳川治宝はなぜ従一位になれたの?
986日本@名無史さん
>985
養子押し付けのための懐柔でしょう。