ぶっちゃけ、どっちが好きよ。
日本史板で学問的に語りましょう。
2 :
1:2008/01/22(火) 00:13:36
しょうの字間違えた。正しくは「璋」。すまぬ。
3 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:56:59
ドラマで注目をあびて点承引人気あるけど、本来は怖い人ではなかったかな?
なんか和宮に暗殺をも企てていた人だし。
暗殺?ソースは?
聞いたことないんだが。
>>3
あーあwww
受け狙いのとんでも歴史番組を信用してるゆとりが一人w
6 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 17:20:03
嫁姑が対立したのは事実らしいが
というか取り巻きの女中たちがひどくいがみあっていたらしい
7 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 18:22:38
深津絵里がやったときよかったなー。
↑それも、勝海舟の回想録からでしょ。
でも、ご対面のとき、篤姫が上座で座布団つき、和宮が下座で座布団もなし、
これが事実なら、篤姫知らないわけないんだから、篤姫も相当意地悪でしょう。
ここは、上座下座ももっと工夫すべきだし、座布団は用意すべきだったと思うよ。
直宮の内親王だもん。
>>7 そのまえは、富司純子(寺島しのぶのおかあちゃん)だったよ。
ちょっと老けすぎ。ちなみに幾島は、ききキリン。
10 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 18:42:47
>>6 いがみ合っていたと言うのは、大奥女中の回想録。
明治維新後に取材したもので、武家側女中の取材が多かったせいか、
いつも几帳を立てまわして京風の生活を改めない
和宮陣営に対する不満が多かった。
でも最終的には仲直りしたという話も聞いたが。
>>10 勝も言ってるよ。
「ありゃーとりまきが悪いんだよー」って。
13 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:23:00
とりあえず、大奥総取締役瀧山殿の一票!
14 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:38:13
天しょう院の写真残ってるけど、あんまり上品な顔立ちじゃないよね。
和宮とは、まさに縄文人と弥生人の違いを感じる。
あ、そういえば天しょう院の母親ってどこの出身なの?
滝山だよな。
フジのなんちゃって大奥に毒されている馬鹿が多し。
16 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:25:32
>14
篤姫の母親は一族の島津久丙の娘だよ
17 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:42:18
>>13 テレビで使われていた「大奥総取締」という役職はないんだよ。
瀧山も絵島も役職は「御年寄」。
公家出身の女性に限られた最上位の「上臈御年寄」に対して、
御年寄は公家出身以外の女中が上れる最高の地位で、
実質的に大奥を束ねていた。
御年寄は将軍付き、御台所付き、場合によっては将軍生母付きなど複数いた。
テレビでは大奥女中に品々を与えて解散を命じたのは
菅野美穂演じる天璋院がやっていたが、
実際にはこの役をやったのは御年寄の瀧山だったらしい。
滝山は大の水戸嫌いだったので、
慶喜が将軍職についたとき大奥を辞そうとしたんだけど
滝山がいないと大奥が混乱するという理由で引き止められている。
19 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 19:50:02
んで、篤姫や和宮が書いた官軍側への書状(陳情)は、実際どのくらいの影響力があったんだろうか。
20 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:13:47
>>16 あんがと。
いま「島津久丙」で検索してたら、篤姫の兄の忠敬(12代今和泉家当主)の妻も「島津久丙の娘」となっていた。
叔母さんと結婚しわわけ?
21 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:29:32
維新後の天璋院は、自分に仕えていた大奥の元女中たちの面倒をみたりして、
亡くなったときには所持金はたった6円しかなかったとか言われている。
しかし、篤姫個人の所持金はそれだけだったとしても、徳川家の女主人であり、
当主家達の義理の曾祖母にあたるのだから、生活費は徳川家から出ているはずで、
けっして困窮などしていなかったと思われる。
徳川家は維新後、静岡藩70万石の大大名になっており、金録公債ももらっている。
天璋院は家達の義理の曾祖母して徳川邸に住んでいるのだから、困窮のしようがない。
個人のポケットマネーがなくても、生活に困っていたわけではない。
美談にするため、誇張しすぎの感がある。
22 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:59:01
6円じゃなくて、
現在の価値にして6万円、じゃなかった?
23 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 21:38:13
いずれにせよ、徳川公爵家の同居の家族なら、生活に困るわけがない。
24 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 21:57:02
和宮を主人公にした歴史小説って何かありませんか?
今、宮尾登美子の「天璋院篤姫」読んでるんですが、和宮に興味あるので読んでみたいんですが。
25 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 22:57:03
「和宮様御留」(有吉佐和子)
「皇女和宮」(川口松太郎)
どっちも替え玉説をモチーフにしてるけどね。
検索してみて
26 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 23:11:51
27 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 23:56:55
薩摩おこじょ
替玉説って、「説」というのもおこがましいガセネタだな。
マジに信じている馬鹿が多くて困る。
29 :
24:2008/01/24(木) 08:59:27
30 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 13:51:33
私は史学科卒で歴史小説なんてアホ臭くて好きではないんだけど、
「和宮様御留」は、有吉佐和子著だからね。
小説として大変な力作で評価高いよね。
10年以上前にドラマ化されたの見たの思い出したから、ちょっと読んでみようかな、何て思った。
和宮の替え玉になった下女の斉藤由貴が、しまいには気が狂ってきて「あて、宮さんやおへん!!」って何度も
廃人同様に叫んでたセリフ思い出したよ。
あの東京大学史料編纂所教授の山本博史氏も歴史映画や歴史小説は結構読んで、著書で論評してるんだけど、
藤沢周平作品は基本的に評価してるし、フジテレビの「大奥」でさえ、5代綱吉のときのドラマ(内山理名、
藤原のりか、小池栄子などが出演したやつ)だけは、歴史考証はともかく、演出や演技が秀逸だったと評価してた。
31 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 14:38:39
>>21 篤姫は明治16年没。
ちなみに、明治8年の一般人の平均年収は1円8銭だった。
篤姫が死ぬときの所持金が6円ということは、約100万円ぐらい。
篤姫には子はなかったし、特にお金を残す必要もなかったのでは?
32 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 15:42:23
和宮は、遺骨の発掘調査で脚は正常だったことが証明されたが、
左手首から先の骨が発見されなかった件、どう思う?
あの時代、肖像写真は和宮だけじゃなく
どの姫も女官も着物の袖から手はだしてないけど。
33 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 15:52:36
骨なんて墓石の中に入れておいたら雨風で溶けてなくなってしまう
歴代徳川将軍の墓も遺骨の一部がなくなっている例は多いし、
和宮の左手首がとけてなくなっていても不思議ではない。
将軍慶喜夫人に内定していた一条家の姫君は、疱瘡で顔があばたになっただけで
別の姫と取り替えられた。
和宮輿入れの前には幕閣が京へ行って和宮と体面、和宮の容姿をチェックしており、
不具者の御台所が輿入れしたとは考えづらい。
あの時代、女性が手を出さないのはその通り。
単姿で写っている明治天皇の皇后美子も手を出していない。
34 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:12:10
>>33 でも和宮のあの墓なんて銅製で遺骨が風雨のせいで喪失しちゃうようなもんじゃないだろ。
しかも死後70年くらいしか経過してない。
>和宮輿入れの前には幕閣が京へ行って和宮と体面、和宮の容姿をチェックしており、
ソースは?
35 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:24:58
>>34 寛永寺の墓は遺骨の保存状態がよくないものも多いよ。
和宮との体面のソースは「徳川実紀」。
和宮の左手首がなかったら、それこそさまざまな文献が書き立てるだろうね。
口外無用の誓約書を取らされていた大奥の女中たちも、
明治維新後は制約が解けてあちこちで大奥のことを話しているから、
江戸城に入った最後の御台所がそんな状態だったら当然口外しただろうし。
というか、学者は誰も和宮の左手首がなかったなんて説をとってないんだが。
37 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 19:09:38
家継は和宮よりさらに体小さいし、
時代も古い
38 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 20:56:06
水が棺の中に入り込むと
骨の残存状態はかなり悪くなるよ
39 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:04:21
遺骨から推測するに和宮は内股で骨盤が小さく、子供を産めそうもなかったそうだが
40 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:17:05
>>39 内股は記録にあるが、骨盤が小さいと言う記録はなかったはずだが?
家茂に側室はいなかったものの、内々に寝所に侍った女中はあったとされ、
子供ができなかったのは和宮のせいとも言い切れない。
41 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:46:58
>>33 >骨なんて墓石の中に入れておいたら雨風で溶けてなくなってしまう
歴代徳川将軍の墓も遺骨の一部がなくなっている例は多いし、
和宮の左手首がとけてなくなっていても不思議ではない。
将軍慶喜夫人に内定していた一条家の姫君は、疱瘡で顔があばたになっただけで
別の姫と取り替えられた。
和宮輿入れの前には幕閣が京へ行って和宮と体面、和宮の容姿をチェックしており、
不具者の御台所が輿入れしたとは考えづらい。
あの時代、女性が手を出さないのはその通り。
単姿で写っている明治天皇の皇后美子も手を出していない。
それどこの情報ですか?
>>34 幕府だったか、井伊直弼だったか失念したけれど
婚約前に都の人を派遣して調査している和宮の容姿の報告書と
徳川家(の財団)と阿弥陀寺に残る和宮写真の容姿には類似点あり。
その報告書は去年の江戸東京博での「江戸城展」の図録にも載っている。
また和宮の筆跡(和歌短冊や直筆書状など)は、京にいるときと
江戸にいるときと、同一人物のものと考えてよいそう。
・・・他の板でこの筆跡のことを書いたら、筆跡なんて祐筆が
いるから本人の確認にならない、なんて馬鹿な反論されたけどね。
それと>35が言っているように、和宮の遺体状態はあまり良くなかったそう。
(『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会)
>>41 >どこの情報ですか?
自分は33ではないけれど、
幕末〜維新の歴史に興味があるのなら古写真を見ることもあるでしょう?
新人物往来社からも色々出てるけど
幕末〜維新の女性写真を特集している書籍はわりとあるから
そういうのを見てきたら。
>>40 家茂の寝所に侍ったお中臈の存在は、
綱淵謙譲氏の数冊の歴史エッセイ集によく書かれているよ。
43 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 00:58:52
和宮が、遺骨調査で極端な反っ歯だったっていうの、気になるよね。
「極端」とまで言われるほどとは。。。
そんなの、凄いブスじゃね?
写真だとあんまわかんないよね。
44 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 04:58:24
篤姫もブスじゃね?
45 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 09:44:53
篤姫の写真みたけど西太后に似てる
家茂さんはイケメンだったらしいね
47 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:08:13
>>19 実際問題として、篤姫は島津の娘っていっても本家ではなく一分家の娘で
しかも慶喜を将軍に擁立するために本家養女になったといういきさつ考えたら
その役目をはたせず、反対に大奥の影響受けて慶喜嫌いになったひとだから
島津家本家にとっては利益をもたらしてくれなかった単なる遠縁の娘だから
大した役にたってないんじゃない?
反対に和宮はれっきとした天皇家の娘で、明治天皇にとっては正真正銘の叔母
しかも今上にとっては亡父が気にかけていた身内だから、その願いを無下にはできなかったと思う
48 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:12:30
しかし篤姫って養子縁組で身分あげただけで出自は大名の家臣の娘に過ぎないのに
よく内親王を下座につかせるなんてことできたな。
和宮サイドもまさか内親王が臣下に過ぎん女にそんな粗略な扱いうけるとは思ってなかっただろう。
天皇も激怒したし、もし家定の先妻が生きていたら、そんな非常識なことはせず仲のいい嫁姑になっていたかも
49 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:15:24
どちらも所詮は女。
無知で了見が狭く、世界を見る目も度量も何も無かったゼッ!
50 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:23:46
天皇家は日本の主権者だった。その天皇家の人間を粗末に扱うってことは
天皇家はおろか朝廷も、ひいては日本国自体を馬鹿にしてるってことなんだけどな
和宮がそれに屈したら、兄・天皇の威光を疎かにすることになるんだから引くわけにはいかんでしょうよ
51 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:29:41
今で言えば皇后陛下がノルウェー訪問して、麻薬漬けの未婚の母出身のあっちの皇太子妃(おまけに義理の元母はストリッパー嬢)が
立派な椅子に座って、皇后には下座の床の上に座って下手に出ろっていうことだぞ
52 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 12:49:16
全然ちがうわ、ボケ
53 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 13:25:01
>>51 皇后だって粉屋の娘だろ。
王族、貴族出身のお妃にとっちゃアバズレ皇太子妃と同じようなもん。
下賎な成り上がりって思われてるよ。
>>47 徳川家縁者の談話では
「天璋院様こそ徳川家救済の恩人」
ということにはなってるんだよね
『花葵』『徳川家に伝わるここだけの内緒話』『女聞き書き 徳川慶喜残照』など。
ただ、実際何やったのかはよく分からないなあ。
島津家側の史料を見たら南下の凝っているのかも知れないが
『薩藩旧記雑録』以下膨大な量の史料を見る気ナッシングw
55 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:49:29
>>43 「反っ歯」というのはそれだけ顎が小さいということ。
顎が小さいのに歯は普通の人と同じだから、反っ歯ということになる。
この時代、上流階級では固いものをかまないのと
エラの張っていない女性が美人として大名家や天皇家で好まれたために
子孫には顎が小さく反っ歯の人が増えた。
歴代将軍も幕末に近くなるほど、顎が小さく反っ歯の人が増えるよ。
(和宮の夫家茂もそうじゃなかったっけ?)
むしろ、顎が小さいのは美人の証。
別段、口から飛び出るほど歯が出ているわけじゃなし。
56 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:15:40
>>40 家茂がもう少し長生きしたら和宮も一度ぐらい子供を産んだかもしれない
ちなみに家茂の元婚約者は家茂より先に結婚したけど家茂の死後に三人の子供を産んでいる
57 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:26:32
>>56 和宮は骨盤が狭く子を産むのが困難と診断されたらしいが。
和宮と家茂は仲のいい夫婦だった。彼女も家茂と同じ脚気衝心で32歳の若さで
亡くなった。温泉へ病気療養に行って逆に悪化したらしい。彼女の甥である
明治天皇が、晩年病気になって転地療養を勧められても頑として受け入れなかった
のは、叔母である和宮のこういうことに思い当たってのことらしい。
和宮は明治天皇が25歳の時に亡くなっているから、若き明治天皇にとっては
ショックだったのだろう。
58 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:54:49
>>48 >しかし篤姫って養子縁組で身分あげただけで出自は大名の家臣の娘に過ぎないのに
>よく内親王を下座につかせるなんてことできたな。
そう、そこなんだよね。
お付の侍女たちがどうこう言ったって、武家の嫁姑のしきたりがどうこういったって、
それは篤姫側やりすぎだろう、という印象否めないよね。
>>56 家茂の元婚約者って伏見宮姫宮のこと?だれと結婚したんだっけ?
59 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:07:37
>>58 紀伊徳川茂承
伏見宮則子は一男二女を産んだが長男は夭折、則子も次女出産後間もなく死亡。
茂承はそれほどでもないが娘は二人とも美人。
60 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:34:20
ああ、あのかわいい姫君の母君だったのね。
じゃあ、家茂との婚約は流れても、結局は同じ紀州家当主に輿入れしたってわけね。
61 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 01:21:16
則子女王の容姿が気になる
62 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 01:49:11
三笠宮家女王ってなんであんなにブスなの?
63 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 08:04:12
>>57 >和宮は骨盤が狭く子を産むのが困難
テレビの「大奥」ではそういう話にしていたが、
史実ではないのでは?
何の史料にあるの?
はじめから和宮は子供を産まないとしていたのならば、
幕府存続上、早急に家茂に側室が当てがわれ、朝廷も文句がいえなかったはず。
家茂と和宮の夫婦仲がむつまじいことと、お世継ぎ問題は別問題。
皇妹である和宮に子供ができるかもしれないのに
最初から側室をおくことは朝廷に対してもはばかられるということで
正式な側室は置かれなかったのだろう。
64 :
売国マルハン:2008/01/27(日) 08:41:33
>>57 >史実ではないのでは?何の史料にあるの?
遺骨調査の報告書に、貴族特有のきゃしゃな骨格とはあるけどね。
ドラマの設定はとにかく頭から抜いて、
まっとうな研究者の書いた大奥本や和宮本でも読んでみなよ。
67 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 19:51:19
手の骨より、足が悪い説はどうなの?
あたしは替え玉派だけど。
68 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 21:37:15
有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた和宮親子内親王は、公武合体政策によって
婚約を破棄させられた。
後年、有栖川宮熾仁親王は東征大総督として幕府滅亡を推進し、和宮は徳川家
存続のために尽力した。嘗ての婚約者どうしだった二人の人生は複雑だ。
69 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 21:54:00
>>67 今、有吉佐和子の『和宮様御留』を読んでる途中だけど、宮が実は替え玉だったという設定のほうが物語りとしては面白いよね。
ただ、足が悪いという噂があったにも関わらず、フキ(替え玉の女子)にはそういう演技はさせなかったみたいですね。
まだ途中なんで、その後どうなっていくのか判らないけど、とても面白いです。
70 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 21:55:48
>>67 骨からは、異常は認められなかったんだって。
内股で貴族体躯だったらしいけど。
>>67 替玉好きな人に聞いてみたかったんだけど、
信憑性のある文献や書状等、何かあるのかね。
結局は何もないはずなんだけど。
当時からの政治的背景をともなった、単なる風説と
庶民の娯楽のための絵入り新聞等の創作や与太話、
それらに便乗した投げ文等があり、膨らんでいっただけだろうに。
>>69 物語としては、非常に面白い作品だと思うよ。
>>70 ついでに、手首切断の跡も伺えないんだよね。遺骨からは。
72 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:41:04
73 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 01:17:18
>>71 私も今まさに「和宮御留」読んでますw
物語としては、さすが有吉佐和子、ってくらい筋がしっかりしてる印象。
特に、単なる入れ替えではなくって、二度入れ替わったって筋書きがさすが。
当時の公家社会の情報をどこに取材したのか知りたい。
和宮の替え玉説の根拠は、その「和宮様御留」のあとがきに書いてあるようなことじゃね?
ネットでぐぐれば出てくるからここに書くのは割愛するけど。
個人的な印象としては信憑性は低いよね。
けど、13代家定の2番目の御台の一条家姫が替え玉だった、って説もあるよね。
「和宮様御留」でも、それは事実として扱って話が構成されている。
大奥上臈御年寄の姉小路(橋本家出身)が、替え玉を仕立てた張本人ってことになってるけど。
実際、史学的にはどのくらい可能性があることなんだろ?
>>72 だよね。
>>73 幕末〜維新のさいの聞き書きは多く記録されている。
また宮中女官の日記や和宮に仕えた庭田典侍の日記、
橋本実麗の日記も残っているしね。
江戸〜所司代〜朝廷の間を往復した書簡も大量にある。
日記に書簡、活字化されて入手できるものはたくさんあるよ。
それに作家だもん、出版社が大量に資料を集めてくるんだよ。
あと、替玉についての投げ文なども匿名だったそうだし
自称関係者の発言などは史実的な裏づけのとれないものばかり。
あと、家一条家の秀子が単に極端に小柄だったんじゃないの。
上臈姉小路(勝光院)という人は、策謀家で権勢をもっただけに
その言動については世間で取り沙汰されることも多く
川柳や錦絵で非難の対象にまでなっていたんだから、
そういうのの延長で、「替玉」云々の風評が成立したんじゃ。
ってか『和宮様御留』はほんとに良く出来た創作で
2度のドラマ化も面白く見た者だけど、
みな過度に影響されすぎだと思う。有吉佐和子の思うツボ。
75 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 03:32:48
んで、篤姫や和宮が書いた官軍側への書状(陳情)は、実際どのくらいの影響力があったんだろうか。
76 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 05:00:52
しっかし、大河の「篤姫」は脚本何とかして欲しいな
原作の宮尾登美子がかわいそうだ。
それよか和宮が抱いていた銀盤に写っていた貴公子?て元許嫁なのか家茂なのか・・・・・
78 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 07:04:11
家茂に決まってるだろ、どう考えても
事実、直垂の武士の姿だったらしいし。
79 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 07:14:46
六代家宣の正室は近衛家出身といっても、生母は近衛家に降嫁した常子内親王。(後水尾帝皇女)。
けれど、嫁ぎ先は関東代官の家臣の家(甲府徳川家)。
いわば天皇の孫で従兄妹という高貴な血筋だが、そんなに直宮とは差があるもんなんだろうか。
てか、宮家女王なら、江戸初期からバンバン徳川一門に嫁いでるし、
幕末になると外様や親藩にも当たり前に輿入れしてんのに、ちょっと和宮の扱われ方が別格すぎて
違和感。内親王宣下だけじゃないと思うんだが、そんなに直宮と宮家姫宮って身分に差があるもんなんだろうか。
80 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:00:44
フィリピンとのあいのこの不細工が姫役とは片腹痛いw
しかも旦那が反日思想持ちのチョン
チョン番組買いまくるチョンの犬のNHKだけあるわ
81 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:01:22
宮家は当時は摂関家より低く見られていたらしい(違ったらスマソ)
82 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:12:53
>>48,58
家臣と言っても島津の殿様の弟の娘だよ
つまり姪
まわりの女中達が空気読まなかっただけで、当人達は蚊帳の外だったらしい
83 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:49:12
>>79 家宣正室近衛熙子(天英院)の嫁ぎ先については、当初、
父の近衛基熙が不満で、わざわざ格下の平松家の養女として嫁がせている。
>>81 江戸時代を通じて、宮家は摂家、大臣家より格下だった。
閑院宮家から出た光格天皇は、実父が大臣より下であることを嘆き、
太政天皇号を贈ろうとして尊号事件を起こしている。
秀吉時代に関白と宮が席次争いをしたことがあったが・・・。
関白どころか大臣家よりも下になっちゃったのか。
それはひどい。
85 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 10:32:53
>>74 『和宮様御留』のドラマ化って、レンタルでありますか?
観てみたいわぁ。
86 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:00:38
この前斉藤由貴さんの『和宮様御留』がCSファミリー劇場かどこかで放送された。
アレはひどい。
どうせなら大竹しのぶさんの方を見たい。
>>86 時専
ラストシーンが原作と変わってたかな
あと予算がないにしても和宮のお付き女中数少なすぎw
88 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 13:01:27
天障院は管ちゃんのイメージで、和の宮は同情するなら金をくれのイメージだな。
89 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 14:56:23
>>79 皇女が降嫁というだけなら実現しなかったが
早世した将軍家継の婚約者八十宮吉子内親王があった
吉子内親王が嫁降していたらどうなっていたか分からないが
大奥には近衛家出身の先代の嫡室天英院がいたことだし
案外うまくいっていたかもしれない
和宮は孝明天皇の異母妹だが、孝明天皇の13人いた兄弟姉妹は次々と早世、
孝明天皇にはたった一人の異母姉とたった一人の異母妹しか残されていなかったから、
特に気にかける気持ちが強かったみたいだね。
和宮は輿入れするに当たって異母姉淑子内親王とともに桂宮家に移っているが、
このとき当主のいなかった桂宮家では淑子内親王を当主として迎え入れたいと申し出、
孝明天皇と和宮は二つ返事でこれを受け入れて幕府に要求、
和宮降嫁問題で強い態度に出れない幕府は淑子内親王の宮家相続を認可している。
成人した兄弟の少なかった孝明天皇にとって、姉と妹は自分が守らねば、という気持ちは強かったのかもしれない
>>77 >>78 創作ロマン大好きな人は、有栖川宮とか思いたいのかもだけど、
>78の言うとおり、写真の衣裳は直垂に立て烏帽子だったと。
また、家茂の数多くの肖像等に良く似た容姿だったそうだ。
考えてもみたら、将軍家御台所として徳川家墓所の増上寺に
昭徳院の側に埋葬され(それは和宮の希望でもあり)たのだし
婚姻前の許婚の男の写真を棺に入れることはあまり考えられないな。
名義だけの婚約者で、顔も見たことない男よりも
いっしょに過ごした背の君の方が大切なのはあたりまえだろうに
家茂との仲も睦まじかったし
なんか菅野とか書いてるし、大奥スイーツ層が来てるのかね
和宮は有栖川宮を忘られずにいた。
和宮は替玉だった。
和宮は賊に襲われ方手首が無かった。
こういうのを執拗に信じたい人が結構居るんだよね。
ロマンチストだよなぁw
93 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:50:53
維新後、静岡の山中で和宮一行が襲われて洞窟に隠れたけど
もはやこれまでと思って自害、
んで手首がなくなり?
墓には手首がなかった、ってことけ?
94 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:55:05
95 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:08:55
>>89 7代家継と婚約していた霊元天皇皇女の八十宮は、家継が夭折し婚約者のまま
江戸に輿入れすることもなかったのに、江戸幕府の強い意向で「家継夫人」としての一生を
過ごす事を強要され、京で10歳にも満たない年齢で落飾し、あたら若い身で尼生活を余儀なくされたそうだ。
寺に入ったかどうか忘れたけど、幕府から御殿と禄を与えられて裕福に一生を全うしたらしいけど。
宮がヨチヨチ歩きくらいの時に家継が死んでるから、
宮の成長を待って落飾、っていうのが何だか切ないな。
96 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:23:15
>>95 >幕府から御殿と禄を与えられて裕福に一生を全うしたらしいけど。
失礼、禄じゃなくて、賄い料だった。ちなみに毎年200両。
45歳で没。
死ぬまで関東に下ることはなかった。
『皇女品宮の日常生活』読んだけど、この人は嫁いでも婚家に遠慮はなく結構好き勝手やってるね。
品宮は、後水尾天皇の晩年の皇女の常子内親王。寵愛深かった園家の女官の子供で、同腹には霊元天皇がいるし。
近衛忠煕と結婚し、跡継ぎも産み、女子は後の家宣御台所・煕子。
子供を連れてお父ちゃんのいる御所に参内したり、修学院離宮にあそびに行ったり、
兄や姉の門跡のところへ遊びに行ったり、実に闊達に自由にしている。
嫁ぎ先が公卿の近衛家だし、屋敷は御所の真北だし、姉の大聖寺門跡なんかいまの同志社大学のあたりの
今出川にいるし、子供もちゃんと産んでるしストレスもなく心身ともに満たされてたんだろうね。
嫁ぎ先が近衛家だったってのが、とついでも環境が変わらずによかったんだろうね。
とついでからも、内親王としての扱いに変わりはなかった様子だし。
その辺が和宮と違うんだよね。
>>96 五十宮について、自分の手持ちの本にはこうもある。
「家継死去の年に葛野郡、紀伊郡、宇治郡のうちから五百石を
終身御料として贈られた」と。
墓所は知恩院山上だということ。
皇女というより、将軍家の人としての知恩院なのだろうな。
>>97 >その辺が和宮と違うんだよね。
あの・・・、江戸初期である後水尾の時代背景、政治背景を
幕末と比較してもしょうがないのだが。
>>98 >あの・・・、江戸初期である後水尾の時代背景、政治背景を
幕末と比較してもしょうがないのだが。
政権を持たなかった江戸期の公家社会においては、公家女性の生活上の慣習に変化は見られないし、
そうすると、思想概念は品宮と和宮の頃でそんなに変化はなかったと私は思う。
時代背景、政治背景という大袈裟なもんじゃないし。
むしろ婚家のほうが公家と武家で習慣が違い、中でもとくに円熟期を迎えた大奥を抱える
将軍家だったことが、大きな違いだと思う。
後水尾帝という人物の時代ってのは少し異質な気もするけどね。
和宮に興味あるひとは、京都の宝鏡寺に行ってみることをおすすめする。
格式高い尼門跡寺院なので、春と夏の人形展のときしか一般公開しない。
宝鏡寺は、和宮が幼少のころよく姉宮と寝泊りして遊んでいたところで、
当時のお庭や建物がそのまんま残されている。
一般公開などしていない、こじんまりとして質素だが、そこに大変な品格を
感じる。和宮所用の愛用の品や、皇女たちが愛玩した御所人形が展示されているが、
なかでも去年見た和宮愛用のキセル入れは、大変印象深い。
絹地に、絹糸で細かく大ぶりの桜が面いっぱい刺繍されていて、もう色あせてしまって
全体的に黄ばんでいるんだけど、刺繍が見事、ほかに同じデザインで何かの入れ物もあったから、
おそらくは和宮の調度品としていろいろセットで桜刺繍の小物入れを彼女はもっていたんだろう。
もともとは、赤や桃色、橙などの赤系の錦糸でまとめられてたものだと想像した。
留め金も、見事な金細工だったと思った。
また、興味深かったのが、敷地を囲む壁の東南角にある「公卿櫓」。
門前を通る祭り行列を、身分ある門跡や公卿らが一般町人と混じって見物できないのでつくられた
物見櫓なんだけど、櫓と言っても高いところに造られたゴンドラみたいなものじゃなくて
壁の厚みのなかを空洞にして人が入れるスペースをを作っちゃった、みたいなもんで、とても珍しいもの。
表からは中があんまり見れないように格子で目隠しされてるような感じだった。
ちなみにその東隣は茶道の表千家。通りに面し、新築の家の門には、真新しくまるで
一般家庭同様に「 千 」と表札がでている。最近新築して変わっててびっくりした。
その奥が、表千家の不審庵で、さらに奥(裏)が裏千家の今日庵と続いている。
要するに宝鏡寺の隣が、現代の内親王(三笠宮家の次女)の嫁ぎ先なわけです。
幼少の頃遊びに来てた家なのにキセル入れ?
>格式高い尼門跡寺院なので、春と夏の人形展のときしか一般公開しない。
×春と夏
○春と秋
スマン。
「宝鏡寺 和宮」でググって見るといろいろ見れますよ。
ご興味あれば。
>>102 和宮のおそらく死後、御所から下賜されたものみたい。
ゆかりがあった寺なので、遺愛の品として。
遊びにきていた当時の忘れ物じゃあないよw
ああ、なるほど
トントン
和宮は煙草好きだったようだけどね。
ところでここはウッドベキアもどきが居るのな。
自分が見聞したことを、さも知ったかで長文でクドクド。
107 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:04:48
>>97 常子内親王の夫は忠煕じゃなくて近衛基煕でしょw
常子内親王は2歳年上の姉さん女房。
甲州藩主家宣に嫁ぐことが決まった13歳の娘の煕子を連れて、
基煕・常子内親王夫妻は家族旅行に出かけている。
比較的女性の地位が高い公家社会と異なり、
男性と一緒に食事をすることも許されない武家へ嫁ぐ娘を、
常子内親王は不安をもって送り出したのだと思う。
煕子はさみしさを詠んだ歌を京にいる父基煕に宛てて送っているし、
のちに基煕が幕府に請われて文献の収集のために江戸に滞在したときには、
すでに煕子は将軍御台所として40代になっていたにもかかわらず、
日ごろのさみしさを埋めるかのようにいつでも会える父にわざわざ毎日のように手紙を書いている。
煕子は夫家宣に大事にされ、それを事あるごとに母の常子内親王にも知らせてきたが、
世継ぎを産むこともできず、京にいる肉親が恋しかったのだと思う。
108 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:15:49
>>106 煙草は尼門跡のさみしさを慰めるために周囲が勧めていたようだよ
宝鏡寺に和宮のものがあったかは覚えていないが
(和宮が輿入れ後に用いた徳川の葵の紋の入った食器類はあった。
和宮の死後、宝鏡寺に送られたものらしい)
歴代の尼門跡が煙草を愛用したということは解説にあった
病弱なのに煙草なんて吸うから・・・
>>106 そういうおまえは何の情報提供もせず、ウィキマニアの足元にも及ばない件
111 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 17:15:54
有吉著『和宮様御留』を読み終えましたけど、替え玉とされた主人公のフキが余りにも哀れで哀れで・・・。
再度の替え玉となる宇多絵とフキの入れ替えの段でも、唯一の拠り所だった少進とも心通わせる別れじゃなかったのが残念でならない。
宇多絵の実家新倉邸の土蔵でのフキの最後も痛々しくて涙なくして読めませんでした。
しかし、憎々しいのは庭田嗣子や能登で、この人達が少しでもフキに優しく接していたなら
フキは気が振れなくて済んだかもしれないと思うのに。
有吉佐和子版和宮はあくまで創作
板 違 い
話を続けたい方は文学板に逝って下さい
>>110 >ウィキマニアじゃなくて、ウッドベキアね。
>>111 読書感想文ならチラシの裏にでも書くとかしてて下さいね。
それと、庭田典侍の『御側日記』が無ければ
和宮の小説を書くのは難しかったであろうと思えるし、
作中での性格設定を、史板で語るのもちょっと痛いですよ。
>>112 まあまあ、いいじゃないか、名作だもん、読み終えた直後は感情移入させられちゃうよ。
川口松太郎の「皇女和の宮」に比べると、よっぽど小説としてのストーリーの構成が巧みだよ。
「皇女和の宮」なんて、有栖川宮と駆け落ちをはかり失敗、関東降嫁後に維新直前に江戸で再開し
結ばれる、っていうなんちゅーメルヘンなんだ、っていう話だからw
確か、川口版は新聞の連載で当時大ヒットしたらしいから、その辺から和の宮が晩年まで家茂より
有栖川宮のほうを思い続けた→墓に副葬品としてのガラス写真も有栖川宮じゃないか、なんて妄想説が
生まれるきっかけのいなったんじゃないかと思うよ。
そんだけ小説なんかも影響力強いんだよ。
庭田家っていったら、伏見宮貞成親王の女官で正妻格の庭田幸子が、後の後花園天皇を産んで以来、
その後も天皇生母がでて室町中期に権勢を誇った時期があるよね。宇多源氏では珍しくときめいた歴史のある家。
ウッドベキアって何だろう
ウィキペの誤記かと思ってたけど違うみたいだし
ググって見たら荒しのことみたいな感じっぽいし
117 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 02:33:18
ナンダロウネ
>>114 佳作であるとは自分も思うよ。
今でもとってある本の一つ。
でも、今さらあの著名作のストーリー紹介をされてもね・・・
>>115 庭田典侍は宰相典侍だもんな。れっきとした権大納言の娘。
維新の時代を見ずに亡くなるんだよね。
119 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 04:55:19
公家の息女は、清華家以下だと女官として宮仕えするのが、自分は興味深いと思うんだよね。
例えば江戸時代だと藩主の息女なんて、側室腹だろうと大事にされて深層で侍女にかしずかれてお姫様生活、
輿入れして奥方になってもお姫さま生活はかわりない。
同じお姫さまでも、公家の姫だと清華家以下っていったって羽林や名家だって家格は高いから
そこの姫が家をでて働きに出ちゃう精神が、公家社会のなかで成立されてるけど、そういう武家とのギャップが
興味深い。
120 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 04:56:41
深層じゃなくて深窓でした
家格がいくら高くても公家は貧乏だから仕方ない
当主が家業を売って生活してやっと、それでも子供を大名の側室に出したりして
なんとか食いつなげる生活レベル
大奥ネタは創作が多いし
フィクションと割り切って楽しむならともかく
史実みたいに思われてもなー
この前の歴史が動いたで
天英院と天障院が扱われた時は
フィクション真に受けてんじゃねーよ
みたいな感じで不評多数だった。
123 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 11:34:08
>>122 >フィクション真に受けてんじゃねーよ
>みたいな感じで不評多数だった。
どんな場面の内容のこと?
>>122 実況でもこの板でもボコボコだったな
最近はその時歴史が動いたですらスイーツ層向けで情けない
125 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 13:52:52
歴史が動いたなんてスイーツ層はみないだろ。
スイーツ層 向 け
なによりかにより、かなり昔のやつの再放送だったというのが情けない
というか、公式HPでバックナンバー確認したら、最近アンコールばっかりで新作減ってるじゃん。
127 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 15:12:19
天障院はまだ実家との関係とか維新後の身の処し方とか
まだ話のタネはあるけれど
天英院とか月光院なんかは
フィクションを抜きにしたら
何にも残らない飾りものですからねえ・・・
128 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 15:43:55
月光院には
徳川吉宗愛人疑惑や
間部詮房愛人疑惑があるじゃないか。
天英院には
えーと えーと
129 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 16:26:35
>>119 武家の場合、戦に行く夫の留守を守り、家を守るのが女性の役割で、
専業主婦志向が強かったからね。
それに対し、律令時代以降、戦乱のなかった公家では、
女性が官僚として政治に参加する女官が古くから幅を利かせ、
家柄の良い姫君たちのために高い官位や官職が伝統的に用意されていた。
公家の姫君たちにとって、出仕することは高い官位につけることなので、
それほど悲惨ではなかったんだよね。
一方、大奥などでは、女中は公家の姫か町人の娘が多かったけどね。
武士の娘が働きに出ることは少なかった。
>>129 大奥は 旗 本 の 娘 しか出仕できないっつー決まりだったよん
もちろん、町人がお金を積んで旗本に娘を養女にしてもらい、
奥仕えさせるという裏技とも言えない裏技がありましたがw
あと幕末になったら、
お金に糸目を付けずお稽古ごとが派手な町人の娘と
ボンビーな旗本の娘には差が付いて
「大奥入社試験の初心者級読み書きも出来ない、針仕事もできねー、使えねーこいつ」ヽ(`Д´)ノ
・・・という旗本娘が多かったとか。
ソースは『篤姫』、お台場『大奥』で大量に出た、新書版の大奥入門本のどれか。
>>129 公家の娘は江戸城大奥や諸大名家では上臈として奉公するので
そんなに多かったわけでは無い。
>武士の娘は働きに出ることは少なかった。
全国武家の娘の総数からみたら少ないだろうけど
江戸城や諸大名家の江戸屋敷に奉公する者は少なくはない。
>>129 >大奥は旗本の娘しか出仕できないっつー決まり
いや、御家人の娘もいるし
大奥内の役職によってはもっと下級の武士の娘もいる。
まさか、幕臣が旗本だけだとは思ってないよね?
>>131 テレ東のとんでも歴史番組でも『三王外記』はよく出てくるよ。
大奥周辺の歴史好きなら鵜呑みにしないことだけど
歴史にそんなに入り込んでいない視聴者さんが
如何にも昔の文献ですよーって、三王外記の記述を写されたら
「へー、ちゃんとした江戸時代の文献に載ってることなんだー」と
信用してしまうこともあるかもね。
宮中で高い官職って言っても、内侍司職をやる天皇の側女ってだけだしなあ
>129のソースは適当な便乗本ばっかなんだろ。
やはりドラマのほうが、あまりにおちゃらけで
まるで主演女優のPVのようだし
質の悪いコバルトシリーズみたいな展開なので
興味もない人が多いのだろう。
136 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 21:37:12
今日も大河ドラマ「篤姫」ひどかったね〜
もう見てないや
主演女優が下町の娘みたいだし、朝ドラみたいな安い脚本もアホらしい
138 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 12:05:26
もうすぐ大奥の熟女女優がわんさか出てくると思うからそれを待とう
139 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:28:26
んだんだ
しかし、大河ドラマ板にいくと、「篤姫」の時代考証がひどく機能してないことなどで脚本が
駄作だと書き込みする奴も多いんだけど、それ以上に史実なんかわかってない輩が
「史実厨うざい!!」「楽しけりゃいい」って息巻いてんだよね。
ドラマ性を持たせるために多少の創作は否めないけど、少なくとも大河であれば、
脚本家はある程度歴史的背景を大事にして描いて欲しいわ。
姫がしょっちゅう一人歩きするところや、西の丸にいるはずの将軍世子の家定が、諸大名と
謁見中の将軍家慶のところに断りもなくずかずか入ってきちゃうところとか、
篤姫がまぶたに墨で瞳を書いたペインティングするのとか、現代人の感覚に迎合しすぎ。
140 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:38:17
ていうか、家定のアホ演出やりすぎだろ。
あんなんだったら、ハリスが日記に好印象書き残すわけねーだろ。
バカ殿イメージにこだわりすぎ。
ホントは病弱なだけの普通人だったのに。
厨だらけの+ですら脚本はバカと認定されてるというのに・・・
いっそ8:40分頃になると
篤姫が悪代官or悪徳商人のアジトに乗り込んでいって
ばったばったと30人くらい切り殺してくれるくらいの超展開なら
許せる。
不自然に入浴シーンがあったりだなw
もちろん超ミニの着物に網タイもなw
145 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 07:45:13
とりあえず家定&お志賀のセックスシーンを
146 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 08:12:53
宮崎葵と池沼家定のセックスシーンはあるの?
無修正かね?
147 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 08:13:31
宮崎葵と池沼家定のセックスシーンはあるの?
無修正かね?
本番はないみたいだけど手コキ&乳首舐めシーンはあるみたいだよ。
149 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 10:03:07
原作では家定はセックスできない殿様だった
篤姫「側室がおるということは・・・まともなのか」
という台詞に期待しましょう。
枕絵に顔をそむけるお姫様どころか、
「まとも」とか言っちゃうあおい・篤姫マンセーwww
151 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 12:55:05
原作では側室のお志賀ともやっていなかったと思う
お志賀は家定が発作を起こすとすぐに懐から薬を出す
家定が気を許して大奥入りしたときには常に側においている
お気に入りの女性
ただ肉体関係はなかった
「元つねのおわさぬ方」と記述された家定の性的能力だが、
好奇心から色々を質疑嘔応答もあるようだけど
はっきり言って、どっちでも良い。
小説やドラマ、勝手に色々と設定してくれや・・・と思う。
153 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 14:39:44
「篤姫」の設定では、原作と違って脚本家の考えで、篤姫と家定には夫婦関係があったことにするらしいから、
閨シーンは間違いなくあると思うよ。
史実的には、家定は不能で篤姫は処女妻だった、という説があるけれど、まあ実際そんなことはわからないから、
脚本家がその辺は自由に創作してもいいんだと思うが、
しかし脚本家が原作に違えても篤姫と家定に性交渉の事実を持たせたい理由ってのが、
彼女いわく「篤姫は維新前後も実家の薩摩より徳川を大事にして強く生きた人。それができたのも、家定との
LOVEがあったからだとしなければ、現代の女性たちには理解できないだろう。定説どおり、夫婦関係がなければ、
郷里を敵に回しても徳川家を守ろうとした彼女の行動を理解するのに、説得力がない」と。
ばかじゃねえの、この脚本家。
154 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 14:45:37
戦国時代や江戸時代には、性交渉はおろか、
会ったこともない婚約者のために
生涯操を貫いた女性も何人もいたわけだが。
155 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 15:36:08
大河の脚本家は本当バカだな
156 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 16:14:03
現代の女=性交渉がなければ愛を感じない
相当なあばずれ脚本家?
157 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 19:06:22
>>59 徳川慶福(家茂)の跡を継いで紀州藩主となった徳川茂承ですが…
ちなみに茂承の長男の名前はわかりますか?(諱・幼名・通称のどれでもよいので)
158 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 22:12:28
>>157 長福丸(明治2〜3)。母は伏見宮則子。和歌山生まれ。和歌山で死亡。同母妹に徳川久子、伊達孝子。異母妹に松平保子。
>>153 >「篤姫」の設定では
「まともなのか」と口に出してしまうようなお姫だからな。
いや、脚本がそうなのだが。
体の契りが無くても、嫁いだ家に殉じようとした女を描く、
その決意を表現するのは可能なことなのに
脚本家はよほど筆力に自信が無いのだろう。
160 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 23:13:25
>>159 >体の契りが無くても、嫁いだ家に殉じようとした女を描く、
その決意を表現するのは可能なことなのに
同意。
でも大河板に逝ったら叩かれる
田淵には「おんな風林火山」wの脚本は描けまいな。
もしや、信忠と松姫に関係を持たせてしまうのだろうか。
三法師=松姫の子説という与太説の支持者が狂喜するかも。
なーんだ。>153はほとんど大河板からのコピペじゃん。
163 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 03:54:29
おんな風林火山w懐かしいな。
子供だったから観てないけど、確かブレイク前の鈴木保奈美主演で、視聴率悪くて
番組打ち切りになったんじゃなかったっけ?
原作のまんが家が、近所に住んでいたよ。
164 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 22:21:13
>>162 は?
>>153書いたのは私だけど、下ろし書きよw
なに勘違いしてんのかしらないけど、残念でした〜w
もうすぐ江戸東京博物館で篤姫展やるね。
徳川恒孝さんが公演する日もあるみたいね。
んで、どっかでこの篤姫展のパンフもらってきたんだが、それは
篤姫のよくみる晩年の椅子に座った古写真が顔のアップが拡大されてんの。
んで、鉛筆やペンで、眉かいたり前髪かいて現代風の髪型にしたり、口角を上げて
笑顔チックにしたり、アイライン引いて目をパッチリさせてりしてら、
結構美人になったよ。目鼻立ちハッキリしてて。色気や優美さはないけどね。
>>165 「らくがお」かよ!w
「じめさぁ」のように伝統行事となっているのなら許せるが
実際の人物の写真をいじるのって失礼なような気がする。
ていうか、それ今の大河のクリムトパクリオープニングを持ってきたんじゃないだろうね?
篤姫は将軍家定の3度目の正室。
もはや、容姿などどうでもよかっただろうに。
3度目も何も、慣習で縁組されるような将軍御台所に
最初から容色など関係あるまい。
>>168 いや、一条家では将軍徳川慶喜の御台所に内定していた
娘が疱瘡にかかりあばた顔になったので
別の娘を養女に迎えて取り換えている。
>>169 いや、それは
>>168が言ってることとちょっと違うだろ。
確かに美人かそうでもないかは、そんなに関係ない。
美人だったから選ばれるわけでもないでしょ。
ただ、疱瘡で穴ぼこだらけの顔は別。
姫本人も嫌だったろうし、父もそれを気にして嫁ぐ娘の不憫さを憂慮して
代役(菊亭家の美香子)を用意しただけ。
171 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 06:36:33
>>170 で、姫は毫摂寺に嫁いだが当時は田舎の寺に嫁ぐのはどうだったの?
別に珍しくないみたいよ
高貴な姫だと、嫁ぎ先なくて一生独身のまま(出家もせず)の姫宮が多いくらいだよ。
コーラとクラリスみたいな感じか。
当時の姫も婚期を逃して
30代後半で初婚の姫が嫁入りする例もあったみたいだしね
晩婚化のはしり?
>>170 168は容姿は全く関係ない、家柄のみ、という主張じゃなかったのか?
それならば、将軍家としては、代役の美賀子より
あばただろうが家柄の良い実の摂関家の姫をとっただろう。
姫だって、あばたで容姿が悪くなっただけであって、それ以外はどうってことない。
(実際、一条家の姫は福井の寺へ嫁ぎ、子供も産んでいる)。
和宮が降嫁する際も幕府の使者が容姿を確かめに行っているし、
どんな容姿でも受け入れていたわけでもないらしいよ。
176 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:40:48
和宮の容姿を確かめに行ったのは美貌かどうかなんかなんてことじゃないよ〜。
第一、数少ない直宮の中で、特に年齢のあう皇女は彼女しかいないし、公武合体で政局を安定させたい幕府は
何が何でもどうしても一刻も早く和宮に江戸に来て欲しかった、政治的意味が大きかった婚姻だもの。
美賀子だって、一条家の養女になってるから、家柄的にはホントの一条家姫と同列なんだよ。
177 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 12:32:04
縁組はすべて政治、このみの問題ではない。
ROMEを見ろ、セックスも快楽ではなく政治だ。
178 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:13:20
>>176 なるほど。
和宮が疱瘡であばた顔になっていたら、別の家から迎えた養女を
孝明天皇の養女にして御台所として送り込めばよかったわけだ。
和宮でなくとも養女でよいと。
一条家の養女になった美賀子が何の問題もなかったのだから、
つまりそういうことでしょ。
179 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:26:08
>>174 当時の二条家の姫(母は斉昭の姉)に36歳で寺に嫁いだ人がいる(相手は23歳)
その姉(母は?)は30代でやはり寺に嫁ぎ(相手は井伊家の親戚)別の姉(母は斉昭の姉)は30歳で有栖川宮に嫁いでいる
ところで篤姫の対抗馬として二条斉敬の娘がいたらしいが不器量とされて却下になったらしい
その姫は36歳で嫁いだ姫なのか?
篤姫より不器量とは相当な(ry
本当の理由は「京の女は病弱だし変なの送ってくるしわしは嫌じゃ!」by家定 だろうけど。
181 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:27:46
>>176 おまえさっきから相当ばかだね。歴史わかってないよな。
天皇家の養女なんてないんだよ!
世襲親王家を継承するために天皇の融資になって親王宣下受ける慣例があるだけ〜
>>179 二条家の姫がブスだったなんて話、一体どこに信憑性があるのさ。ソースしめせよw
二条家の姫は評判が悪いから、島津家の篤姫にも近衛家の養女になって家格を吊り上げれば勝算あるかも、
って話が、そういう二条家の姫の容姿悪説になっちゃったってだけなんだよ!
ほんと、少しは歴史勉強しろよ
>>181 >天皇の融資になって
うーん、当時の宮中のお手元詰まりは
融資を受けねばならぬほどであったのか。
担保はなんだったのだろう。
>二条家の姫は評判が悪いから、(中略)
容姿悪説になっちゃったってだけなんだよ!
ほほう、そのソースは?どう評判が悪かったのだろうか。
自分も相当なばかなので、少しは歴史を勉強したいので教えて下さい。
人のことをばかという奴こそ馬鹿。
↑お前くだらない奴だな
ガキはもう寝なさいw
181=183。
下品な上に低脳
185 :
183:2008/02/20(水) 03:01:53
おいおい、私は181じゃありませんよ。
君こそ
>>169>>175>>178>>182でしょうが。
しつっこい負けず嫌いなくだらん性格がよくでてるよ、君のレスには。
あのね、「融資」って「猶子」の変換ギャグだっていうのがわからないの?
二条家の姫が評判よろしからず、っていうのは原典出すまでもなくここにいる奴なら
わかるよ、普通。ましてや当時の姫君の美醜が言及されてる史料なんて、そもそも信憑性に欠けると
判断されるんだよ。そもそもが噂のレベルなんだからさ。
そういう基本的概念を知らない上に謙虚さの欠片もない奴は学問板では厄介なんだよね。
そういうことを感じて183を書き込んだだけ。
186 :
183:2008/02/20(水) 03:03:42
しかも「下品」で「低脳」とはいったい何なのよ。
根拠を書きなさいな、厨房君。
どうみても君のことだと思うけど(笑)。
187 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 04:18:12
ほっとけよ
188 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 08:47:59
>>181 おいおい、相当なバカだなw
天皇の養女はいるだろうが。
「本朝皇胤運紹録」を見たことも聞いたこともないやつ?
世襲宮家を継がなくとも、天皇の養子(養女)、猶子になった例が
いくらでも見つかるよ。
189 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 08:50:55
>>188 をいをい、本朝皇胤運紹録などという下等な書物が貴様のソースなのかよw
190 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 09:06:58
191 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:50:28
>>150これのことか。
大河ドラマ「篤姫」第20話(ネタばれスレより)
篤姫「それより幾島。さっぱりわからぬ」
幾島「何がでございますか」
篤姫「上様のことじゃ。うつけかと思えば、そうでもなく。まともかと思えば、これまたそうではない」
幾島「どういうことにございましょう」
篤姫「だから皆目わからぬのじゃ。わからぬといえば、仏間でまたあの中ろうに会うた。
ほら、前に廊下で私を助けてくれた…」
幾島「お志賀にございますか」
篤姫「そのような名前なのか。あれは一体何者じゃ」
幾島「公方様のご側室だそうにございます」
篤姫「側室…」
幾島「大奥に入って間もなく公方様のお手がつき、それで部屋持ちのお中ろうとなったとか」
何か考えている篤姫。
幾島「御台様」
篤姫「側室がおるということは…、まともということか」
192 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:59:48
>>158 徳川茂承の子女を全員教えてほしいのですが、
分かる方いらっしゃいますか?
あと茂承の娘婿(徳川頼倫)と頼倫の子(頼貞)と頼貞の子(頼韶)など、
明治以降の紀州徳川家一門の人物(当主の兄弟姉妹、子女、分家)
を全て知りたいのですが。
193 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 16:52:15
>>161 それはそれでおもしろい。
・・・って何でこのスレでそのネタふり
194 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:07:14
もはや断絶した家のことなど、どうでもいい。
196 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 18:44:44
197 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 21:03:19
>>192 頼貞の兄弟は溶接した弟のみ
頼貞は島津為子を嫁に迎え頼韶と宝子が生まれる
頼韶は一度結婚したが離婚
宝子は離婚した夫の間に娘二人
以上だが為子がいるのでかろうじてスレ違いでは無い(?)
>>195 夕方のその時間に書き込んでるお前の方が社会性ないんじゃね?
いい加減にしろ。お前の父ちゃんよりみんな稼いでるさ。
>>198 深夜にカキコしてるクズニートが何を言うかw
やっぱり、早寝早起き朝ごはんだよね。
これから江戸東京博の「篤姫展」にいってきます。
帰りに両国名物「あんこあられ」を買ってこようっと。
201 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 22:44:21
>>199 馬鹿の一つ覚えみたいにさ、誰でも彼でも他人を「ニート」って呼ぶ奴の脳内どうなってんのかね。
もっとマシなこといえないのかねえ。おまえさんのそのボキャの低度じゃ日本史板にくる資格はないぜ〜
ま、学力だけじゃなく、そのしつこさと歪んだ性格も直してから出直せよw
↑
ニートだとばれてあせってるやつの図
言葉遣いの乱暴な人が常駐してる・・・
ま、このスレがたつきっかけになった大河の出来が厨房ホイホイそのものだから
>>200 篤姫展、どうだった?
みるべきものあった?レポよろしく。
>>202 荒らししか出来ないおまえのほうこそよっぽどニートにみえる件w
206 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 01:44:44
207 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 01:47:15
「天璋院」って字面みるとついつい「待賢門院璋子」を思い出してしまう。
208 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 09:51:14
スレタイ通りの思考をすると、
自分としてはやっぱ、天小陰のほうが内親王に対して無礼だったと思う。
直宮は、やはり特別だろう。京での扱いも摂関家や宮家の姫とは一線を画している。
ましてや、和宮降嫁時は幕府の権威も失墜してた時期だから、総合して考えると
天小陰のほうが礼を失していたと思うんだが。
209 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 10:09:49
>>207 俺と同じことを思っていた人がいたとは!!
210 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 11:54:42
ナカーマ!
タマコちゃんも二流貴族の生まれながら養子縁組で身分を上げ遂には皇后、女院にまでなった国母だからね。
ま、セックスまみれの人生なところが於一と違うけど。
>>205 200じやないけど、篤姫展いってきたよ。
まぁ、風が強くて、江戸東京博物館の1階は、強風+ビル風で
飛ばされそうだったw
書簡や画、打掛、家定が伊勢に奉納した葵の紋入りの刀等々
見応えはありました。
館内で500円で貸出の案内機の声は松坂慶子が幾島を演じながら
説明するといった趣向でしたよ。
212 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 10:57:12
>>211 へー。案内イヤホンは、おススメなの?
きょうも結構風強いんだよね〜
花粉も飛来し始めてるらしいしw恐いわw
でも、東京国立博物館の近衛家展、今日までだから今からこっちに
行ってくるよw
213 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 15:50:33
>>208 全くもってその通りた。
天皇家の娘が臣下に降嫁して下座の行を強要されるという無礼は前例がなかったし
(臣下に嫁いでも天皇の娘と言う身分ゆえに夫ですら妻を主人扱いするのが普通)
まして和宮はすでに有栖川宮と結婚式の日取りまで決まっていたのに
幕府が理不尽にことを押しすすたっていう経過もあるし。
和宮を江戸にやることは本人や母方の一族はもちろん天皇も猛反対してた
それでも断れ切れなくなって、和宮の五箇条の条件などを出してやっと整った契約結婚だったわけだ。
天皇は妹を嫁がせるに当たり、攘夷より優先して御所風の暮らしを遵守するという条件を幕府に約束させた
にもかかわらず江戸に行ったら大奥はそんなこと聞いてないと取り合わない
幕府がちゃんと大奥に根回ししてなかったのも大問題だけど
天皇との約束を、「そんなことは聞いて無い。嫁いだら武家のしきたりに従え」と、いう大奥側の態度がすでに最悪だからな
天皇相手に約束したことに武家のしきたりも糞もないっての
214 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 17:59:22
天ヲタ乙
215 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 18:16:45
トイレ用をたすとお供の者がお尻拭くのしってた?
篤姫はさすがに生理の時は来ないでくれと断ったらしいよ。
216 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:05:33
>>213 そうなの?
でもへたな皇族よりも摂関やら准三后やらの方が席次が上だったりするし、
将軍が摂家の当主に一字与えたりしてるし、天皇の娘だって嫁ぎ先の将軍家では下座で当然じゃね?
ほんとに下座の前例はなかったのか?
幕府の大奥で先代将軍の正室と現将軍の正室がいっしょになるってことがほとんどないんじゃないのかい?
天皇の娘が正室になるのは初めてなんだし、天皇の娘は下座が当然てのはおかしいと思う。
218 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 21:35:34
普通は新将軍が立つと、先代の妻たちは西の丸などへやられるからね。
ただ、新将軍生母だけは現将軍が使う本丸大奥に残ることができた。
篤姫が大奥入りしたとき、将軍家定の生母は
篤姫と同じ本丸大奥に住んでいた。
将軍家茂は篤姫の養子となって将軍に就いたため、
篤姫は本丸に残っていたらしい。
なんだかんだでつきあいはあるし、年に数回は会うでしょ。
220 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:06:27
直宮と、その辺の皇族とは別格。
しかも和宮は内親王宣下を受けている。
知ってのとおり、親王・内親王宣下は、直宮全員が受けるわけではない。
内親王宣下を受ければ、その身分は、降嫁してどっかの家に入り、内室になっても不変のもの。
つまり、和宮側が将軍家降嫁後も「御台様」と呼ばせず「宮様」のまま、
暮らしや身なりも御所風で袴はつける、ことにこだわったのも、
内親王の場合は「嫁いだら婚家の人間」という慣習が当てはまらない唯一の身分だったから。
ましてや薩摩の家臣の娘なんかにとやかく言われる筋合いではない、と宮側が思っても道理がかなっている。
221 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:08:15
幾島って、ホントにこぶが額ド真ん中にあったの?
222 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:56:09
そうなの??
223 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 00:13:38
>>220 天皇の子だからといって別格になるわけではないよ。
内親王だからといって他の御簾中になった女王たちと特段に変わるわけではない。
和宮や取り巻きたちの我が侭が通ってしまったのは、幕府が弱って逆に天皇の権威が上がってきた時代だったから。
ただそれだけのことだよ。
つか「内親王御台所」の先例がないので
他の御台所の例とは容易に比較できないような希ガス
>>223 >天皇の子だからといって別格になるわけではないよ。
>内親王だからといって他の御簾中になった女王たちと特段に変わるわけではない。
根拠は?
226 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 06:58:57
>>223 ちょっといくらなんでも歴史知らなさ過ぎるよ。
皇女として生まれて内親王(それも二品)になった女性が
宮家の娘と変わらないと思っているなんて
全然違うよ
武家だって将軍の娘と、御三家の娘とでは違うでしょ
まして天皇の娘なんだからその差は歴然。
はっきりいってこの当時和宮を下座において当然って女性は
姉宮の桂宮だけ
それから和宮や取り巻きたちがやったのは全然わがままじゃない
はっきりいって皇室の人間として当然のことしただけ
しょせん臣下にすぎん将軍の娘ごときですら
大名に嫁いでも特別扱いされてったのに
内親王が別格じゃないわけがない
227 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:20:26
将軍の娘徳川和子などは、後水尾天皇の御常御殿に匹敵する女御御殿を幕府が建て、
後水尾天皇の仙洞御所に匹敵する女院御所を幕府が建て、
1万石もの化粧料を幕府から受けるという待遇受けたにもかかわらず、
御所では「女御さま」「中宮さま」と呼ばれ、公家の衣装を身につけていた。
(東福門院所有の十二単が今でも残っている)
将軍正室の呼称である「御台様」を拒否し、
皇族の風習にならって風呂も月に2回程度しか入らない和宮は、
大奥では異なものとして映ったのは確からしい。
明治になってから、かつて大奥に勤めていた女中たちが
いろんなところで大奥の風俗を口述しているが、
和宮のことは相当けなすらしい。
幕府が健在なときに嫁いできたら、こうはいかなかっただろうね。
つーか、将軍家って、紀州系になる以前は皇族からも嫁を取ってないんじゃなかったか?
>>181 >お前さっきから相当ばかだね。歴史わかってないよな。
>ほんと、少しは歴史勉強しなよ。
>>226 >ちょっといくら何でも歴史知らなさ過ぎるよ。
>>228 つ 四代将軍徳川家綱
あと七代将軍も予定があった。夭折したので消滅しましたが。
>>229 遂に発狂したか?w
>>227 >風呂も月に2回程度しか入らない
和宮は風呂嫌いと伝えられてしまったけど、
大きな盥に湯をはって毎日からだを拭かせていたというね。
通常、御台所は朝に入浴というけれど
和宮も朝に体を清ましていたというので、
ただの「御風違い」で、実際にはあまり変わりないかと。
足袋の着用、雛人形の飾り方、盆の時期の過ごし方
生活や習慣すべてに違いがあって、干渉しあい、対立し、貶しあったり
些細なことで悶着がおきたのも仕方なしだ。
現在の一般庶民間でも、東京と京都の習慣の違いがあるのだから。
>>229 自分は >歴史 を知っているみたいな、
そういうものの言い方って、したく無いよな。
>>228 皇族(宮家)から正室を迎えた例はそれ以前にもある。
4代将軍徳川家綱の正室は、伏見宮貞清親王の王女、顕子女王(浅宮)。
顕子女王の妹照子女王は紀州徳川家の徳川光貞(吉宗の父)の正室。
家綱の正室に後水尾皇女の光子内親王をという話もあったんだよね。
これが実現していれば、大奥も京風になっていたんだろうか
ならんだろうね。
235 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 18:40:14
>>232 安宮照子女王は浅宮顕子女王の15歳上の姉
しかし結婚したのは顕子女王が2ヶ月半ほど早い(顕子18歳・照子33歳)
ちなみに2人の間に七宮梅子女王(久我広通正室)がいるが2人の結婚の2年後32歳で結婚している
あと宮家の姫は晩婚がわりと多くよく話題になる登美宮吉子女王以上の晩婚の姫も普通にいる
>>233 品宮常子?
そうだとしたら産んだ娘が御台所になるという因縁があるね
>>233 東福門院が甥の徳川家綱のために光子内親王を降嫁させようとしたが
後水尾上皇は内親王が武家へ嫁いだ例はないといっておじゃんになったんだっけ
3代将軍家光以降歴代の御台所は摂関家か宮家から来ている
江戸藩邸に住まう藩主の正室も公家の娘が好まれた
そのため武家の上流階級の言葉などはずいぶん公家の影響を受けたらしいよ
もっとも公家の生活スタイルを何一つ変えずにもっていくというものではなかったみたいだね
和宮だって、自分と京から連れてきた女中が京風を守ったというだけで
武家出身が多い大奥全体が京風になったわけでもないし。
>>235 徳川家綱に降嫁する噂があったのは
後水尾上皇と逢春門院(櫛笥隆子)の皇女光子内親王。
結局、この降嫁の話はまとまらなかったが、
光子内親王は父後水尾上皇に愛され、修学院離宮の一角に山荘をもらい、
父の没後は出家して山荘を改めた林丘寺の開祖となった。
光子内親王は家綱より7歳年上で、
家綱より1歳年下の常子内親王のほうが一見年齢は近そうだが
常子内親王が2歳年下の近衛基熙に降嫁することは
かなり早い段階から決まっていたらしい。
238 :
235:2008/02/25(月) 19:29:05
>>236 常子内親王じゃなくて長生き光子内親王だったんだ
239 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 20:06:11
水戸の徳川慶篤正室有栖川宮幟子女王が降嫁前、
養父となる将軍徳川家慶に挨拶に訪れた際、
ちょうど次期将軍啓嗣の家定は二度目の正室一条秀子を
なくしたところだった。
女王の江戸城来着を聞いた姉小路が、
水戸へやらずに家定室に、と運動したって本当?
実現していたら篤姫の輿入れはなかったけど。
姉小路なんて公家出身なのに幕府側なのか朝廷側なのか
水戸嫌いという話もあれば
水戸とは仲良しでいろいろ便宜はかってたとか
本によって書いてある話が正反対。
ワケワカメ
>>239 その話が成り立つかどうかは
大奥から島津家に3人目の家定御台所選定の話を持ちかけた時期と
有栖川宮幟子女王が江戸に下向した時期の整合性があるか
調べたら分かると思う 後は宜しう
241 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 22:26:51
実成院と天璋院の仲はどうだったのでしょうか?実成院のほうが将軍生母として威張っていたのかな。
>>239 姫は将軍家慶の養女として水戸に輿入れという段取りだったので
家慶に挨拶と御礼に来たのだが、
その美貌に目をつけた姉小路が家定のもとにと画策して
その意に賛同した御側衆が水戸家に交渉のため書状を書く、
↓
結果、烈公激怒。姉小路の計画は失敗。
243 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 02:52:31
秀子が死んだのは1850年
幟子が結婚したのは1852年
>>229 同じような表現だから同一人物だといいたいのかい?
自分は発見したよ〜凄いだろ〜って得意気なのが見て取れるけど、残念でした〜!
片いっぽは自分だが、もう片いっぽは自分じゃない。
たとえマニアレベルだったとしても、ちゃんと歴史の学術本を読み重ねた奴なら、
そんな時代劇ドラマや歴史小説かぶれの思考はしないもんだよ。
歴史わかってるやつらって、例えば何かひとつの事例に対して、ああこれはありえないだろう、
って認識や感覚が共通しているもんなのよ。
245 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 10:27:31
無知なのを叩かれた人間の逆襲では?スルーして、はい次の方↓
246 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 10:36:54
>>240 1850年 家定の二度目の正室一条秀子没
↓←1852年 幟子女王、水戸の御簾中となるため江戸下向
1853年 篤姫、島津斉彬の養女となる
1856年 篤姫、将軍家定の三度目の正室となる
時期的には合っている。
247 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 10:45:29
>>241 将軍家茂の時代、本丸大奥には、将軍正室和宮のみならず、
先代将軍家定生母本寿院、先代将軍家定正室天璋院、
そして家茂生母実成院が住んでいて何かと大変だったみたいだね。
テレビの大奥では実成院が和宮をいじめる役どころだったけれども、
実際には天璋院のエピソードのもじり。
天璋院と実成院との間にいさかいもあったようですね。
また、実成院が大奥の規律に厳しい瀧山に毒を盛ったという話も。
天璋院と本寿院もうまくいっていなかったようですし、
この手の話は尽きないですが。
248 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 11:02:42
将軍の生母が大奥で権力を持つのは常なることではあるが、
でも実成院の場合、本来は臣下である紀州家当主の側室であり、
将軍の側室だった本寿院とは、
同じ側室出身生母でも身分に差があると考えられてた、って説があるよね。
確かに大奥の生え抜き女中(側室やちゅうろうも含めて)からすれば、
自分たちが一番偉いと思っているだろうから、他家から乗り込んできた将軍の生母なんて
自分たちより下、って意識はあったんだろうね。
それがいがみ合いのもとかと。
でも、そんな側室同士のいさかいのなかにおいては、天璋院はれっきとした
正室なわけで、蚊帳の外で悠然として然るべきなのになんでいさかいに足突っ込んじゃったんだろうね。
大奥を束ねようと無理に出て行っちゃったのかしら?
頭のいい老女がいなかったのかしら?
どんな思想概念だったのかな。
249 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 11:56:55
天璋院VS和宮
正室同士の争い
本寿院と実成院の側室同士の争いもないでもなかったが、
正室同士の争い、もしくは、
本寿院(将軍生母・側室)VS天璋院(将軍正室)
実成院(将軍生母・側室)VS和宮(将軍正室)
の争いも醜かった。
本寿院や実成院は出自は低いかもしれないが、将軍生母。
子を産まない正室の天璋院や和宮に対するいびりはすごかったらしい。
250 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:15:05
子を産んでる、くらいしか高貴な姫に勝ち目がないからかもね。
当時は子を産まない妻を石女(うまずめ)と言うような差別語があったり、
嫁して三年子無きは去る、なんて言葉もあったくらいだから、
女は子供を産むのが人生最大の仕事、子供を産んで一人前、という考えは強かったんだろうが、
それこそ当時の慣習からすれば、側室が正室に対抗心燃やすなんて筋違いで勘違いも甚だしい。
側室はあくまでも使用人であって、家族ではないからねえ。
>>250 >子を産んでる、くらいしか高貴な姫に勝ち目がないからかもね。
ばかまんこ側室は、現代の2ちゃん鬼女板にいる低脳主婦と酷似してるなw
子蟻だと子蟻だってだけで、小梨に対して勝ち誇り、小梨を人間として半人前呼ばわりし、
高学歴キャリアウーマンが出てきた日にゃ、キャリア職で働いた経験なんぞ露無いくせに
ヒステリーだ、ブスだから結婚すら出来ないんだなどと勝手にこじつけほざくw
結局今の時代は人間、自分の努力しだいでスペック向上できるわけだから、
下層民の低脳主婦と同じにしちゃいかんのだが、当時の大奥側室たちも
女っていうのはいつの時代も変わらん「私が一番!」というような愚かな一面を
持って生まれ付いてるのだな。
252 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:30:16
>>250 ん?
家定の側室が正室にたてついたのではなく、
ここでは将軍の生母だよね?
仮に、将軍の側室であっても将軍生母ともなれば、
将軍正室天英院と争った月光院をはじめ
将軍正室の権力をしのぐ力をもった例はある。
将軍の側室は将軍の家族ではないが、将軍生母は将軍の家族。
嫁が正室で、姑が側室であろうが、
嫁は姑に仕える義務があった。
253 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:35:58
ねーよー。
どの階級のコト言ってんだぁ〜
254 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:43:09
公武合体の名目で嫁いできた和宮はともかく、
将軍正室の出自としてはかなり格下の島津家から天璋院が選ばれた理由は
子だくさんだった将軍家斉の世にあやかろうという理由からだった。
(家斉の正室は島津家出身の広大院)
だから、それなりにプレッシャーはあったみたいだね。
家定は不能だったという説もあるが、わざわざ島津家から3人目の正室をとるあたり、
まだ家定に子を、という希望をあきらめていなかった感じもする。
まあ、家定に何らかの支障はあったかもしれないがね。
>>251 将軍お世継ぎ問題を話しているだけで、現代のことは関係ないからw
三年子無きは去る、というのも実際のことではないしね。
この時代、将軍正室は子がなかろうが婚家を去った人は一人もいないし、
一般家庭でも子がなければ兄弟の子を養子にすればよかっただけだから。
255 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 13:59:27
>>252 数少ない例外を除いて、一般的には正室の嫁>側室の生母だよ。
つーか嫁が仕える姑はあくまで、先代の正室。
>>246 芳即正氏の篤姫解説本によると
嘉永3年(1850年)頃、大奥から島津家に「3人目の正室を出すように」とのお声掛かりがあったという。
姉小路は自分の権力伸張を謀って独り相撲したんではなかろうか。
斉昭の正室は有栖川宮家出身だし、
姉小路が何かしでかしたら、いくら大奥の権力者とはいえただではすまなかったような希ガス
257 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:12:48
将軍徳川慶喜の生母、有栖川宮吉子女王もまた、
自分のことを婚姻後も「宮様」と呼ばせていたらしい。
また、水戸家へ嫁いだ後に描かれた肖像画でも、
おすべらかしに袿、袴と公家の装束を付けていた。
事実なら、武家に公家の生活を持ち込んだ例として、
和宮よりはるかに早い。
ちなみに吉子女王の姉喬子女王は、将軍徳川家慶正室。
>>256 嘉永元年6月10日に最初の正室鷹司任子が没した後、
嘉永2年11月22日には二度目の正室一条秀子が輿入れしている。
この間の正室不在次期は約1年5か月。
嘉永3年には島津に声をかけていたとするなら、
安政3年11月に篤姫が輿入れするのはあまりにも遅くないかい?
秀子が没してすでに6年、篤姫は23歳になっている。
嘉永3年に声をかけていたならば、
このとき18歳であった篤姫はすぐに島津斉彬の養女となり輿入れしてもおかしくなかった。
2度目の正室没後すぐに次の正室のめどがたっていたのならば、
なぜ6年間も正室が不在だったのかが不思議。
259 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:33:18
>>254 >三年子無きは去る、というのも実際のことではないしね。
実際のことだよ。
女性の人権が確立されてないこの時代、妾を囲うほど余裕の無い中・下級武士の家なんかは
三行半付きつけられて実家に返された例はいくらでもある。
一方、挿入恐怖症の嫁のところに、実家の過保護な親が娘に嫌がるセックスを強要しないでくれ、
と娘を引き取りにきた例もあったようで、書状が現存している。
260 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:36:38
>>259 子がない夫婦が養子をとったのも実際の話だが?
見合い結婚した夫婦が仲が悪く離婚したいので
それを口実にしたというのはあるがね。
江戸時代は離婚が多く(将軍家や大名家はさておき)、
たとえ子供がいても離婚する人は多かった。
261 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:37:33
>>258 6年間も正室不在だったのは将軍嗣子問題を主とした政治的駆け引きがあったから。
篤姫だって、最初は臣下の娘程度では、側室が妥当という見解が幕閣にはあったくらいで、
それを正室として送り込む為には斉彬と阿部老中などが画策に時間を要したことも有名。
262 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:40:35
>>260 だ〜か〜ら〜、
実際にあった話だって言ってるの。
子供が生まれなくて婚家を去った女性もいれば
いなくても去らなかった女性もいる、ってことでしょ。
そうそう、30歳過ぎたら殿の枕席を辞退する「御褥御免」だって、
運用してた殿様と運用しなかった殿様と、様々だしね。
264 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:47:24
>>255 将軍生母が息子の嫁に仕えたという話も聞かないw
新しい将軍がたつと、先代将軍の夫人たちは、
正室も含め、出家して西の丸や二の丸へ移された。
しかし、将軍生母だけは江戸城本丸に残ることができ、
新将軍の妻たちと同居することが許された。
家定に子がなく、天璋院は将軍家茂を養子にしたため
天璋院は本丸大奥に残ることを許されたが、
仮に次の将軍が家定の側室腹なら、
将軍生母が本丸大奥に残り、天璋院は本丸を出なければならなかった。
家定生母本寿院は夫将軍家慶の世から、息子家定、養孫家茂と
大政奉還まで江戸城本丸大奥に住み続けた。
逆に、家斉正室広大院などは、夫が隠居すると西の丸に移っている。
265 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:51:41
>>261 まあ、そんだけごねていたなら、
姉小路がほかの姫を!と望んでもおかしくないわけね
内心、大奥だって島津の養女の姫より
れっきとした摂関家や宮家の息女のほうがよかったんだろうし
結局は斉彬がごり押ししたが
篤姫は養父斉彬の期待とは裏腹に子供もうまず
島津が押す慶喜も擁立せずに
家定没後はあっさり紀州慶喜を養子にしてしまうし
>>265 あわててレスするなよ
何焦ってるんだよw
267 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:55:27
>家定没後はあっさり紀州慶喜を養子にしてしまうし
訂正
家定没後はあっさり紀州慶福を養子にしてしまうし
268 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:58:26
つ 島津家から家定の嫁を出すようにと申し出たのは 大奥側 から
270 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 15:28:17
>>269 誰が申し出た?
大奥って、私的に外様の島津家と交渉するほど
外部との接触を許されていたっけ?
んなわけねー
272 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 15:43:56
まさか本寿院が家正が生まれるまで生きていたとは
ここさ、>教えてください、にお答えしても
何のお礼もないんだね。
礼を期待して書き込むわけじゃ勿論無いけど
なしのつぶてって哀しいものがあるな。
それと妙に感情的な人がいて、言葉も乱暴で
ときおり殺伐とするんだよな。
大奥関係スレではよくあることですよ(´・ω・`)
2ちゃんねるのほかの板に比べれば
日本史板はまだましなほう
おいらもここしか出入りしていない
今日の昼間は盛り上がってたのねw
女々しいは差別語
淀殿と篤姫ってなんか似てる
280 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 19:02:42
>>269 私的に諸大名と連絡を取り合うことは可能では?
老女が官位昇達に関して伊達家とやり取りした記録も残ってるお
宮尾登美子の「篤姫」読んだ
篤姫の魅力がさっぱりわからない あんな姑嫌い
宮尾本「篤姫」ってなんだか政治的描写少なすぎない?
篤姫の女の道とは〜みたいなメンタルな思考描写ばかり。
「東福門院和子の涙」もそうなんだよね。すごく平面的で単調。
同じ様なことばっかの繰り返し。
一方、有吉佐和子本「和宮様御留」は政治的描写は多くはないものの
章ごとに違う登場人物の目線で描かれており、メリハリがあって飽きない。
作家として技術が全く違うよね。
283 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:28:22
>>280 それでは、大奥の老女が島津家に
娘を御台所として差し出せと書き送った書状はある?
それがないと大奥からの要求で
島津が御台所を差し出したという根拠など何もないのだけど。
大奥が島津家に御台所を差し出せと指示した、なんてありえない。
あくまでも中奥に伺候する幕閣の政治的思惑からでてきた案だと
考えるのが自然。
子沢山だった11代将軍にあやかって、とか
今度は健康でしっかりした姫を、なんてのは
後から付けたこじつけだと思う。
宮尾登美子は政治を書こうとしてるのではなく、女性の生き方とはが主題だから
政治中心にはならないのはしょうがないと思うけど。
「宮尾本平家物語」もそうだったよ。
差し出せではなく御台所に適した娘はいませんか?という問いあわせが広大院比丘尼から
島津家御年寄にあったといわれている。
ソースは?っていわれるだろうけど一次資料はない。「幕末の大奥」岩波新書にのっていた。
具体的な証拠となるような書状は残されていない。とかいてある。
篤姫の縁組までの経緯を安政二年にまとめた「御一条初発より之大意」に記載されている。
ただし島津家側の史料。
287 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:10:03
原作を読んだけれど、SEXが無い無い無いの連発で、大河ではどう表現するのか
気になっていた。大奥に上がってからの話が、毎回SEXだったら笑うよなw
そうそう、原作は、家定に抱かれたかったのに、寝屋に呼ばれたかったのに〜ってのばっかり。
セックスしたくてたまらなかった篤姫を描いてるよね。
大河では、あほな脚本家の考えで二人にはセックスさせてあげるらしいよ。
このスレでもう既出。
289 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:22:32
>セックスしたくてたまらなかった
・・・というより、原作では篤姫は処女なので、
今日こそは破瓜が行われるのかと
期待と恐怖でいっぱいになって家定とねやを共にするが、
結局毎回、夫は何もしなかった、という話だった。
>>286 広大院はとうに亡くなっていたし、
広大院に仕えたという老女(広大院比丘尼)が
家定の大奥を牛耳っていたとも思えない。
大奥から所望されたとするほうが外聞がいいから
おそらくは島津側の創作だろう。
そもそも斉彬が御年寄に言われたからほいほい
というわけでもないだろうし。
広大院の例はイレギュラーで
幕府からお声掛かりがないと外様大名から御台所なんてとんでもないですが、何か?
斉彬が11代将軍の正室広大院は島津の出身じゃないかーって
姻戚の近衛家やら使って運動してたんでしょ?
最終的に幕府(大奥じゃなくて表のほうの幕府ね)の許可は必要だが
幕府も胤なし将軍の3度目妻にあまり期待もかけてなかっただろうし。
293 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:57:29
秀子が死んでから篤姫が嫁ぐまで時間がかかりすぎ。
篤姫は秀子が死んだ時点でいい年ごろだったのだから、
島津がいうように今すぐ御台所を用意せよと言われれば
いつでも入れただろうにね。
「徳川実紀」を読むと、篤姫は近衛家の姫君、ということばかりが強調されていて
後ろのほうに小文字で島津の姫だと付け足しがされている。
呼び名も公家風の篤君御方と書かれ、篤姫という文字は出てこない。
そう考えると、幕府がほしかったのはあくまでも五摂家の姫篤君御方であって、
島津の姫ではなかったのかも。
篤姫は島津側が準備した大勢の候補者の中の一人だったんだよね
当初は八戸南部家(父親が島津家出身)の姫や戸沢家(母親が島津家出身)の姫の方が有力候補者だった
何で脱落したか、理由は寡聞にして知らないけど。
297 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:26:03
普通、老中衆など表向きからの通達とともに
老女・奥向きからの通達もするものではないでしょうか。
298 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 09:07:54
299 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 09:33:04
>>297 大奥の最上部は公家出身の上ろう年寄。
間違っても、外様の姫がほしいとは言わんだろ。
広大院は、家斉がまさか将軍になるとは思っていなかった頃に婚約し、
婚約破棄はできないと島津がごねたため、
やむなく近衛家の養女として例外的に将軍正室となることが認められた
例外中の例外だった。
(島津は篤姫を押し込むにあたってこれを先例としたわけだが。
篤姫という名は、もともとは島津の姫だったころの広大院の名前だった)
んで、なに?
301 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 16:03:23
この時代の御三家&御三卿の正室ってほとんど女王&五摂家姫&徳川姫(稀に清華姫も)だな
中には慶勝&茂栄正室の丹羽姉妹の例もあるが高須藩にいたころの結婚なので参考にならない
丹羽家って石高大したことないけど
織豊期からの縁を大事にした縁組だったように感じた。
慶勝に輿入れするときの花嫁道具は、石高から考えると
相当豪華なものだよ
この前の大河ドラマでは、鶴丸城には、江戸城の大奥を模倣した大奥があって、という
説明がなされてましたが、出てくる奥女中の老女たちが打掛まで着て着物が豪華で本当に千代田の大奥みたいだったんですけど、
実際はそんな豪華な着物なんて着てないですよね?御次だってすそをひく着物だし。
斉彬の息女たちの古写真は、かすりの着物でかんざしもなく「いかにもお姫さま」という格好ではなく質素なので
幕末の姫の普段着なんてあんみつ姫みたいな格好じゃないんだと思ってるんですが。
304 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:15:22
和宮に関する本って何がありますか?
ありがとうございます
替え玉説はあまり好きではないので
興味のある本になりそうです
替え玉説はあくまでも小説のなかのことだから。
一般的の史学書ではありえない事柄ですよ
想像だけど、
斉彬が
大勢の候補の中から篤姫を選んだのはやっぱ
子供が産めそう、という健康体であったことが一番なんだろうな
縁戚の他家の姫じゃなくて、薩摩の国許の分家の娘なら遠慮もいらないし。
うんうん
三番目だし
家定が子なしなのはもうわかっていたのでは?
島津の嫁は子を良く産むというキャッチフレーズも後から付けられたもので、
現に、家定存命中のうちから島津は慶喜擁立に動いていたのでは?
>島津の嫁は子を良く産むというキャッチフレーズも後から付けられたもので、
そそそ、そうですよw
>島津の嫁は子を良く産むという
つまりセックス大好きって事か?
は?
縁起がいい、ってことだろ
315 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:01:01
篤姫の脚本家を何で田渕久美子に任せたんだろ、疑問だな〜?
「ヤッター!」「スゴーイ!」だもんな・・・
田淵や小松、大石も朝ドラ脚本経験者だが。
大河の脚本は重労働なので、もう田淵や小松などの
かえって「怖いもの知らず常識知らず歴史無関心」
・・・な輩でないと、引き受けてが居ないのでは。
憶測だけど、正しい理由の一つだと思っている。
○田舎から上京し一発当てて、ちやほやされた業界人に見える。
教養無さすぎ。上辺の歴史素養しか無いんだろうと推測。
歴史大河の脚本を書き下ろす人物には、不適当なのは確か。
そういう点では、芸能人あがりのジェームス三木はすごいね。
独眼流で最初はなんだかんだ言われたらしいが、
その後も歴史ドラマ脚本の彼の評価は高いよね。
自分もいい味出してると思う。
321 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 09:18:37
>312
島津の嫁がよく子を産むではなく、
島津から御台所を出すと、夫である将軍が子だくさんになるという縁起だよね?
島津から出た広大院の夫家斉が子だくさんだったことから。
広大院自身は特に多産でなければ、産んだ子が将軍になったわけでもない。
たとえ篤姫が子供を産まなくても、篤姫にあやかって将軍に跡取りができるでしょう、
ぐらいの縁起か。母親は側室であってもいい(実際、家斉のときもそうだった)。
もちろん、篤姫を押し込んだ島津の後付けの理由だろうけどね。
>>321 また戻ってきたのか
島津側の文献史料は「あとづけ」として一方的に否定するのに
貴殿の説を補強するような幕府側史料を提示された試しがないわけだが
323 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 12:12:40
>>322 島津側の史料が正しい=
大奥が、外様の島津に対し、島津出身の嫁を出せと言ってきた
幕府側の史料の提示は?
和宮降嫁の件では「徳川実紀」があれほど詳細に
幕府が朝廷に頼みに行っている様子を描いている。
君の説では、秀子が亡くなった後、和宮との交渉期間を超える5年間も、
幕府や大奥は、島津の嫁をどうかくださいとお願いしていたことになる。
当然、和宮より多い量の交渉記録が残っていてしかるべき。
それがないと証明できないでしょ?
君の説には幕府側の史料がないでしょ?
324 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 14:52:41
大河ドラマでは、老中の阿部と斉彬が、江戸城内で胸襟を開いて話し合える仲であったという時点から
話が始まっていたが、なぜ、そういう仲になったのか、経緯を知りたい。
そもそも、幕府の老中と外様大名が、幕政の基本方針について、議論するなどと言うことが
あり得たのか。
325 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 15:11:05
>>323 >大奥が、外様の島津に対し、島津出身の嫁を出せと言ってきた
>幕府側の史料の提示は?
史料はあるみたいよ。
山本博文『徳川将軍家の結婚』p157〜158に、紹介されているので
参考にしてみてはいかが。
あの大河ドラマでの進展や設定を思うと
真面目な疑問をもつのも空しくなってくる・・・
327 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 16:35:40
そもそも大河ドラマ自体、ドラマであってドキュメンタリーではないぞ。
あげ〜
329 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:18:40
大奥の欲求不満の女はオナニーとかしてたのかな?
はい。張り型という性具がありました。
というか、他のスレでも話題になってるし、
知っててわざと聞いてるんでしょ?
じゃあ男とセックスしたことはないけど処女じゃない女もいっぱいいたの?
スルー推奨
ってか、江戸時代にあんな大人のおもちゃまで作られてたくらいだから凄いよな。
あのおもちゃは、もともと以前からあったものなの?それとも大奥女中の求めに応じて
誰かが作ったの?しっかし、どうやって個人が手に入れたんだか不思議というか、注文したのか
不思議だねえ。もしかして部屋子たちで使い回してたりとか?まさか、ね。
んでもって後世まで残ってるところも不思議。大奥意外でも流通してたのかしら。
このおもちゃのことは本にもたまーに出てくるけど、多くを語らないから、
誰か教えてくれ〜。
宮中女官には、こんなのないよね。大奥と違って結構簡単だもんね、外に出るのが。
・張り型で夢中 枕も片はずし (古川柳より)
色々知ってるけど、そのタメ口を改めないと教えてやんない。
336 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 10:10:30
お前の偉そうな態度に笑ったw
大奥スレといい、大奥ネタには
>>334みたいな下ネタ野郎か
>>335みたいな高飛車さんが沸きやすいな。
2ちゃんといえど、聞く態度のなってないレスに
答えるのを避けようってのは別に良いんじゃないの。
教えたがりの人は教えてあげるのだろうし。
張り型は人目を忍んでこそこそ使っていたのでしょうか?
もし使っているところを見られたらかなりの辱めを受けたのでしょうか?
?
質問レスに答えてあげるかどうかは勝手だけど、
別に334が質問者の態度じゃないとは思わないんだが。
それより、必要以上にへりくだった表現多様してるほうが、
気持ちはわかるけど回りくどくって文章がうざくなってて
自分は嫌。
340 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:11:17
お前の屁理屈も女々しくて嫌
341 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:58:54
どこが屁「理屈」なのやら。
個人的「感想」にすぎないだろ
馬鹿かwwwwwwwwwwww
342 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:01:19
同じ奴だろwwwwwwwwwwwwwwww
277 :日本@名無史さん:2008/02/27(水) 01:21:44
>>273 お前が一番感情的で女々しい
343 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:11:01
CoCo(ココ)
1989年、フジテレビのテレビ番組『パラダイスGoGo!!』内の乙女塾から誕生した、
女性アイドルグループである。
当初メンバーは5名だったが、
1992年5月に
瀬能あづさがソロ活動専念を理由に、
日本武道館公演を最後に脱退。その際、新メンバー補充の計画もあり、
ファンクラブの会員に対し応募要項、応募用紙が送付されたりしたものの、
結局メンバー補充は白紙となり、
その後は4人で活動し、
1994年9月いっぱいをもって解散した。
344 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:11:45
345 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:57:32
346 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:06:28
>>341 そういうのが女々しいと言うことに気付け 馬鹿が
348 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:11:37
>>346 >>347 あげたりさげたり、一人でお疲れさんw
一人で必死だな、
自分で自分にレス、まさにおまえこそ女々しい奴
349 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:47:37
うん、どうみても340が余計な件
350 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:51:02
和宮は、セックスしたんだろうか。
和宮の化石から処女膜が検出された
352 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 08:28:17
あげん
353 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 16:29:23
土御門藤子と瀧山に萌えますが。なにか?
354 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 16:41:42
>土御門藤子
どのようなところに?
355 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 18:23:39
和宮の所は本当に愛しあっていて、亡くなった時にはお互いの写真を抱いていた。
これは墓の改修工事の時にわかった事。
離ればなれになる時に相手の為に撮ったものだそうだ。
356 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 20:51:46
また嘘言っちゃって。
家茂の棺に納められた髪は和宮のものではなかったし、
和宮の棺に納められた写真は家茂のものとは断定されていない。
357 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:53:16
・・・・・・・・・
358 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:20:23
>355も>356も微妙に勘違いが。
360 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 07:59:06
361 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 08:11:00
>>355 >亡くなった時にはお互いの写真を抱いていた
和宮の棺に入っていた写真は和宮の死後一緒に埋葬されたもの。
臨終間際の和宮がまさか床の中で抱いていたわけではない。
家茂の棺の中には写真は一緒に埋葬されていない。
>離ればなれになる時に相手の為に撮ったものだそうだ
家茂の写真は、離れ離れになった後、大阪にいるときに撮られたとされている。
(家茂没後、妻の和宮が遺品として保管か)
また今日残る和宮唯一の写真は、京から下向する和宮が途中で立ち寄った御休所で
撮影されたもので、御台所になる前の写真。
362 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 09:38:57
>>361 >御台所になる前の写真
現存2枚の、徳川記念財団と阿弥陀寺にある腰掛け姿のあの写真ですよね。
でもあの大変な降嫁行列の最中に、技術のある写真師をよんで
時間をとって、撮影環境も整えて撮影ってアリなんだろうか。
江戸東京博の『江戸城展』のその肖像写真の説明では
「明治初年の撮影」「明治初期に撮影された」と
筆者が異なっても重ねて記述があるけれど。
入輿前と明治初年だと、未婚女性と既婚未亡人という顕著な違いが生じ
それが衣裳頭髪にも影響するかと思われるので、
どちらなのか興味があるところ。
364 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 17:26:52
>>363 あの写真は、和宮が江戸下向の途中、中山道を通り、
信濃で御休所として立ち寄った小坂家で撮影されたものとされている。
小坂家に出入りしていた写真師が、御休息中の宮の許可を得て撮影、
原画は小坂家に保管されていた。
和宮のほうから写真師を呼んで撮影したというものではなく、
たまたま出入りの写真師が居合わせたために撮影したもので、
ガラス板の写真は和宮に渡されることはなかった。
あの写真を保管していたのが小坂家で、
小坂憲次(衆議院議員)氏の寄進によって阿弥陀寺に渡ったことを考えると、
逆に明治初期の撮影ならなぜ小坂家にあったのかという疑問が生じる。
これから将軍家に嫁ぐ行列中という大事な体、
しかも皇妹という身分の女性の写真を
禁中や将軍家の許可もとらずに撮影できるものなんでしょうか。
またすくなくとも降嫁前〜江戸在の和宮は異国のものが大嫌いで
家茂のもつ時計や大阪在城のおりの家茂の洋装画をも嫌って
和装姿に描き改めさせたような人が、
緊張と不安の入り混じる旅程の中で
カメラの前に身を置くのかという疑問も生じますが。
小坂家から出た云々は綱淵謙譲氏の歴史エッセイで読んだ記憶が
ありましたので、その本を探して再読しておこうと思います。
>>365 >これから将軍家に嫁ぐ行列中という大事な体、
>しかも皇妹という身分の女性の写真を
>禁中や将軍家の許可もとらずに撮影できるものなんでしょうか
写真を撮るということがそれほど仰々しいことだったとは考えられない。
写真を撮る=体に異常が生じる、などという迷信もなかった。
異国嫌いの和宮の兄孝明天皇ですら、写真が残っている。
逆に、それほどの異国嫌いならば、明治初年ですら写真に応じず、
和宮は生涯写真を撮らなかった、というほうが分かりやすい。
「大江戸展」に「明治初期の撮影」と展示されているのは本当?
本当ならば、博物館に問い合わせたほうが分かりそうなものだが。
>>365 上3行、最も。
御台所になる前の撮影でも、明治になってからの撮影でも
別にどちらでも良いんだが、
降嫁の旅程は諸大名家が厳重な警備をしいていた一大イベントであり
内親王宣下をうけた皇女が休憩所に出入りしていた写真師の前に
長時間顔を晒すのも考えにくい。
また岩倉や橋本がそんなことを許すのだろうか?
368 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 18:08:07
「大江戸展」で明治初期の撮影とされているのは
和宮の写真ではなく天璋院の写真では?
現在残っている天璋院の写真は明治期の撮影。
369 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 18:09:28
和宮の写真が明治期の撮影、と書かれてあるものの出典は?
>>366 江戸東京博物館での去年の開催、
「江戸城展」の関連展示
「徳川家茂とその時代 若き将軍の生涯」の図録。
執筆は江戸東京博物館と徳川記念財団の人。
今月中に江戸博の「篤姫展」に行く予定ですが、
一介の見学者がその写真撮影背景に詳しい学芸員をご指名して
質問するのは困難そうだし
あちらの都合というものもあるだろうしw
>>366 和宮の写真撮影時期の件とはまた別だが、
写真を撮ると魂を抜かれる・・・って巷説は確かにあったと思うけど。
江戸末期のやんごとなき方々の間ではわからないけどね。
372 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 18:56:05
公家女性の袴の色
未婚=濃い赤紫
新婚=紫
既婚=赤
さて、和宮の写真は?
373 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 19:23:40
>>370 それでは真相は闇の中だねw
明治初年に撮影されたのが正しければ、
撮影場所は京都ということになる。
(和宮は江戸城明け渡しの際清水屋敷に移った後、この時期
京都に戻っている。のちに明治天皇の意向で東京に移るが)
和宮の写真が宮内庁蔵でも徳川家に伝来したわけでもなく、
どういう経緯で阿弥陀寺に渡ったかということも含めて、
疑問の余地も多いが。
>>373 >真相は闇の中だねw
2ちゃんのこのスレのなかではそういうことだろうがね。
江戸博や記念財団の研究者がそう書いてるんなら、
なにやら根拠はきちんとあるんだと思うけど。
図録には他にも色んな古文書や写真があるから、
「和宮写真の撮影時期の謎を追及」するコラムなど設けるならともかく
いちいちに文章を割けないもんだろう。
>和宮の写真が宮内庁蔵でも徳川家の伝来したわけではなく
「徳川記念財団蔵の和宮の写真」は徳川宗家の古写真の中からの発見だが。
375 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 16:49:49
和宮の写真
疑問その1
なぜ正装ではないのか
公家の正装はいうまでもなく十二単
しかし和宮の写真は単に袴という普段着に近い恰好だった
疑問その2
和宮の写真はあまりにラフすぎないか?
わざわざ写真屋を呼んで一生一代の写真を撮ったにしては、
和宮はあまりにラフすぎ、扇さえ手に持っていない。
疑問その3
椅子のなぞ
この時代の写真で椅子に座ったものはあるが、
いずれも写真屋で撮影されたりしたものが多い
日本人の生活にまだ椅子はなじみが薄く、
京風の生活をしていた和宮が椅子を用いていたとも思えない
自宅ではなく他所で撮影された可能性が高い
その4
単姿のなぞ
和宮は家茂没後、静寛院宮となってから描かれた肖像画があるが、
こちらは単袴ではなく武家の後家に近い簡素な服装になっている
和宮は単袴での生活を生涯続けていたのであろうか
良スレ
377 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 22:29:42
皇女と野人をくらべるなよ…
378 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 23:17:12
和宮の替え玉伝説は、DNA鑑定が一致して
結論出てたね。有吉さんのは面白いけど、あくまで小説。
島津斉彬とか水戸の殿様は新し物好きで
写真撮らせてたみたいだけどね。
姫や夫人、側室の写真もあるね。
でも、和宮はトップレディだからなあ…
写真なんて撮らせただろうか、と常識では思うよね。
ただ、寂れた箱根で亡くなった位だから、晩年は
案外くだけてたのかもしれないね。
箱根では地元の寺や村人との接触の話も残ってたし。
>>375 維新になってからは多少何でもありで、
椅子とかは使ってたのでは?という気がする。
なんせ天皇が断髪&軍服してたくらいだしね。
幕末の混乱の世相のなかで、和宮に関するあれこれの風聞は
当時も色々と飛び交ってはいたらしい。
社会風刺の錦絵や川柳レベルのね。
和宮の母の観行院の叔母の姉小路が例の「三尺姫」を
京からつれてきた件なども過去にあったので
大事業になればなるほど庶民の好奇心や興味をそそったのだろう。
で、和宮の替玉は小説の創作だよと方々で書かれても
ひたすら「真実臭い」と固執する人がいるんだよな。
あの世から有吉佐和子が2ちゃんでもしてるんじゃないの?
有吉の晩年は、「和宮替玉は小説の創作」と指摘されると
かなりヒステリックに「あれは真実!」と声高に主張していたから。
明治期の、宮家や華族の令嬢や夫人の写真が結構残ってるし、
和宮が写真を撮っていても不思議はないと思うんだが。
そうではなくて、375は、
家茂没後に撮影されたという説に疑問を呈したものだが?
婚礼前、中山道で撮影されたと思っているので。
いつの間に替え玉説になってるの?
377、378当たりが確信犯?
ちなみに和宮の遺骨はDNA鑑定されてなかったはず。
親などごく近い近親者のDNAがなければ
血縁関係の精度は劣るしね。
面長、でっぱなどの特徴が公家と一致するという
結論から和宮本人と確定されてるけど。
あの和宮の写真は和宮ではなく侍女の写真だと聞いたことがある。
理由は衣装が内親王が着る格好ではないから。だったような・・
>>364 婚礼前に中仙道で撮影されたという件だけど。
その撮影の件を立証する同時代の文献や日記や郷土資料でもあれば
信憑性も濃くなるんだけど。
たとえば庭田典侍の「御側日記」や供奉した公家の日記は無いのか?
和宮の道中での宿舎や休憩所などは、よけいな人間の出入りを
厳しく制限していたと言うけど、警備した藩の記録にはその件は?
明治になってからならともかく、
これから将軍家の御台所になるような人物の写真を
そうそう気軽に撮れるものでは無いと思う。
また写真師の名やその撮影覚書、他にはどんな写真を撮っていたか、
その時期に確かに小坂家や信州に逗留していたことを立証できる
小坂家以外での記録類などあれば、家の言い伝えよりずっと確かなのだが。
384 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 01:37:10
写真の謎に答えてくれる人が居ないのでアゲてみる。
385 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 19:43:23
>>383 同様に明治期に撮影されたといっていた人も史料がないんだよね。
和宮の衣装は婚礼前のものだと思うけれどもね。
逆に、明治時代にはあんな恰好で生活していなかったと思う。
和宮は、慶安2年7月、夫家茂に先立たれると、同12月、剃髪、落飾。
静寛院宮と称したという。
明治説をとる人は、落飾した静寛院宮が、写真の若い娘のように
豊かな黒髪をたたえ、単袴姿で生活を続けてたと思いこんでいるの?
386 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 20:35:37
明治から華族の女性の礼服は写真のような桂袴に制定されたんだよね。
普段は和服や洋服で生活していた公家華族や皇族も
宮中への参内や行事の際には桂袴を着用していたから
何かの記念に撮られた和宮の写真の可能性もあるけど、
それだったら詳細な記録が残っているはず。
結婚前に撮られた写真とは思えないし、縁ある女官あたりの写真なんだろう。
>>385 で、そっちの婚礼前に道中で撮影説にも裏づけのとれる確証が無いわけね。
>>385 何だか喧嘩腰?
どっちの説の人かで区別するのは止めてね。
>豊な黒髪をたたえ
静寛院宮が落飾したといっても、剃髪していたのでしたっけ?
頭を剃ってたわけでは無いのでは。
公家女性の髪形なりでの、
武家女性と同様な切り下げ髪という程度じゃないのかな。
それとあの頃でも写真を撮るのは正装したり、
特別な装いをしたであろうので
(新人物往来社から何冊か出てる幕末古写真の上流令嬢たちも
みな大振袖や洋装で、決して普段着とは思えない)
写真撮影に及んでああいう公家装束でも不思議は無いと思うけど。
>>386 前レスにもあったけれど、和宮ではない説もあるのですかね。
あの写真は、増上寺の和宮像に似ているような気もするけど
・・・もし別人だとしてもそういう可能性が無いともいえない。
389 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 11:14:57
390 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 13:51:29
篤姫の晩年の写真(引越しおばさんみたいなw)は明治になってからのものだから、
幕末までの将軍未亡人があんな髪型だったのかは疑問が残る。
また、和宮は維新後、いったん京都に引き上げたりして徳川家から距離をおいており、
時代も変わったわけだから、皇室の一員としての髪型にもどしたのかもしれない。
391 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 13:54:26
>>390 和宮は宮中に出仕することもなかったのだから、
宮中女官に準拠する必要はなかったはず。
和宮が晩年までおすべらかしだったという史料は残ってる?
392 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 14:02:43
大奥御台所や側室たちは夫将軍が死ぬと剃髪し、
時代劇でよく見るような尼姿(剃髪した頭を隠す布をかぶる)だった
和宮や篤姫は明治になるとこのような束縛から逃れ髪を伸ばしたかもしれない
ただ、おすべらかしを結えるほどに髪を伸ばすのは1年や2年でできるものではない
一度でも落飾した和宮が明治初年におすべらかしだというのは無理がある。
日本には伝統的にかもじってものがありましてね……。
髪の見た目の長さは根拠にはならんよ。
ただ、着ている物等を考えると、婚礼前の方がしっくり来るが。
394 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 17:07:28
誤解があるようだが、将軍や大名の夫人や側室は落飾するといっても、
本当に「剃髪」してハゲになるわけではない。
平安貴族の尼そぎや江戸の大名家の切り髪にいたるまで、身分の高い女性は
未亡人になった際、仏門に入っても髪は伸ばしていた。
395 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 17:12:40
「はげ」ではなくとも髪は切るよね。
貴族女性の「尼そぎ」も肩の長さで髪を切りそろえたもの。
いよいよ病が重くなると、本当に剃髪をする。
396 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 18:48:35
公家の女性は落飾すると鈍色の衣装を着た
そう考えると静寛院宮の肖像画の衣装は鈍色(黒に近い?)で
落飾後の衣装としては適当。
写真の和宮は娘時代のような衣装で、
単の色が白っぽく映っていることから
かなり明るい色の単を着ていたと思われ、
未亡人の衣装としては不適当だと思う。
どうやら、あの頃の落飾というものを
それこそ、仏門寺院にはいって修行する尼僧のように
頭をツルツルに剃りあげると思ってた人がいたのか。392はw
戦国の女性になるけど、八王子台町・信松院にある松姫像みたいにかw
話が通じないわけだ。
>>394 尼そぎですね。
今なら立派なセミロングの長さとも言える。
話が通じないわけだ。
あの晩年の篤姫写真は、断髪の許可を得て
はっきりと「断髪」した後のものだと思う。
399 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:58:12
和宮が江戸降下した1861年に皇女を世話できるような名家といえども
大名家でもない地方の名主クラスに出入りの写真家なんていたのだろうか?
やっぱり女官あたりの写真を和宮と間違えたのでは?
400 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 08:56:08
>>398 何を得意になっているのか知らないが・・・
江戸時代の将軍夫人や、高台寺のねね像などでも、
落飾後は頭に布をかぶっているが、
セミロングの尼削ぎだったら布から豊かな髪がはみだしてしまう。
平安貴族女性の尼削ぎの場合は布などかぶらないよね。
高貴な女性でも剃髪はあった。
建礼門院は長楽寺で剃髪したことが分かっている。
ほかの女性の場合は史料がないとしかいいようがないけどね。
401 :
400:2008/03/28(金) 08:57:58
付け足し。
建礼門院の剃髪はいわゆる「はげ」の剃髪ね。
剃髪後の建礼門院の肖像画(当時のもの)が
剃髪した長楽寺に残っている。
(頭はつるつる)。
398は篤姫の写真での髪形のことを言っているのだが。
また、尼そぎで頭巾をかぶったとか、誰が言ってる?
要するに、剃髪や落飾など
人ごとの内情、時代や仏道修行の差異、等々
状況は違うってことでいいじゃないか。
403 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 11:17:38
400は397へあてたものかと。
将軍夫人の出家=セミロングだと言いきっているのは397。
でも397は松姫像の頭ツルツルのことも知ってるわけだしな。
>>398 やっと「篤姫展」に行ってきた。
会期も終盤になっていることもあって、とてもな混雑。
そして展示資料のなかに
明治6年3月1日付けの「断髪許可証」というものがあった。
あの晩年の肖像写真は短くした髪を油で後ろに撫で付けた風に見えるな。
405 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:11:42
>404
篤姫の写真と混同してどうするw
406 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:20:58
布をかぶってても、あの下はツルツルじゃないんだが。
407 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:29:11
311 :ワンポイント知識:2007/12/16(日) 10:42:41
あと、時代劇ドラマなんかで、尼僧がすっぽり頭が隠れる頭巾を
つけているが、実際は違うそうだ。有髪の尼僧は頭巾をかぶることになっていて
剃髪している尼僧は頭巾をかぶらないそうだ。
408 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:55:05
>>407 それは逆だね。
絵巻物などを無視してるんじゃないの?
建礼門院はつるっぱげで描かれてないよw
逆に尼削ぎだった時子は布をかぶっていない。
409 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:17:33
尼削ぎは平安時代の一時期貴族女子の間で行われた髪型
病の原因となる悪霊からのがれるために一時的に出家するけれども
在家で俗世と同じ生活を送りたいことから考えだされた髪型
その前後の時代を含め、基本的には女性も出家すれば剃髪する
江戸時代、内親王などの尼門跡なども頭をきちんと剃っていた
出家して寺に入ればそりゃ頭剃る罠。
江戸時代、門跡に入る皇族・貴族の子女はその寺の主となる未来をもち
寺で修行に専心するし、頭も剃る。
家光の側室お万の方は、慶光院の院主であった頃はツルツルだったであろう。
大名家の正室や側室で、下屋敷で位牌を護って今日を読むくらいだったら
忠臣蔵のいわゆる遥泉院のように切り下げ髪も多いだろう。
その人の仏心によって、形態は変わるかもしれないけどね。
その他、それぞれの背景や人物によって違うだろう。
いちいち違うので、総体的にこうだとは言えないことだと思う。
東京は桜が満開
芝増上寺の徳川家墓所の公開が始まるね。
と、剃髪話題に飽きたので別ネタをふってみた。
増上寺の廟所は戦災で焼けたんじゃなかったっけ?
戦災で焼けたの一箇所にまとめたんですよ。
各廟所ごとにあったのを、同じ敷地にひとまとめ。
>>366 すごい亀レスだけど、気になったので。
>写真を撮る=体に異常を生じる、などどいう迷信もなかった
江戸時代には、写真を撮られると魂が抜かれる
寿命が縮むなど、写真に関する迷信はちゃんとあったはずだが?
>孝明天皇ですら、写真が残っている
その写真だが、キヨソーネの描いた明治帝の真影画と同類のような、
細密な「絵」に見えるけどね。
写真では無いと自分は思う。
>>415 孝明天皇の写真の意見、禿しく同意
目の辺りとか、コントラストとか、写真にしたら非常に変。
孝明天皇のものは写真だが?
肖像画も残っているがまるで違うもの。
明治天皇のキヨソーネのものは
原画が油絵だからすぐに分かる。
明治天皇も初期のころは写真を撮っていて
19歳のときのものが残っているほか、
最近晩年に隠し撮りされたものが雑誌に掲載されたらしい。
>>415 その割に江戸末期には各大名や大名夫人が
こぞって写真を撮っているよね。
孝明天皇ばかりか、妃の女御九条夙子の十二単姿の
写真も残っている。
>>417 >孝明天皇のものは写真だが?
それって、どこが蔵しているもの?
自分が検索したなかでは写真らしきものは見当たらなかったので
(415、416の見た件と同じものか、写真のように写実的な肖像画は見た)
検索して見てみたいので良かったら教えて下さい。
>>418 あの、「写真が残っているから迷信はなかった」んだではなくて
>415の書いているような迷信、風説は確かにあったものだよ。
和宮の写真の件ですが、
信州で撮影の件はやはり怪しいということでOK?
421 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:30:38
篤姫サマは全知全能のおんな将軍・・・などとアゲてみる。
422 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 09:59:24
江戸時代、女は御台所といえども政務の行われる「表」への出入りは禁じられ、
政治には携われなかったけれどもね。
大奥へやってきた将軍にいろんなことを働きかけるということはできたと思うが。
御台所とか大層な名前つけても所詮は将軍のセックスの相手だろ。
笑っちゃうね。
424 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 13:19:11
>>421-422 駄菓子菓子
今度の大河でも恒例の主人公補正により、来週は水戸斉昭とも直談判
このままペリーとの会見にも猛進しそうな勢いw
そしてそれを歴史の真実と真に受けるバカどものおかげで視聴率20%台キープ orz
425 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 13:25:23
>>424 誰も史実だと思ってみてないだろ。
一話完結型の「水戸黄門」的な姫様武勇伝が面白いだけ。
だいたい、大河のありえない設定はお約束だろ。
篤姫に限らず、男性主人公の場合でも、なんでお前が
こんなところに絡んでくるの、みたいな。
史実考証番組じゃないんだから。
世の中
>>425さんのように賢明な人ばかりじゃないのよね ('A`)
427 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 16:53:08
たかが時代劇なのに史実がどうのこうのと文句ばっかり言って
純粋にドラマとして楽しんでる人を見下す歴史オタも痛いけどね。
はっきり言ってテレビなんかに期待してる時点で
ドラマを史実と信じるようなおバカさんと同レベルだって。
>>426 そうそう。
天下の公共放送たるNHKの看板番組は
歴史に忠実!と考えている人々も多いのは確か。
>>427 でも、歴史好きなんてただの趣味の範疇だから(そうでしょ?)
「ドラマは正しい」と思っている人を >おバカさん 呼ばわりは
いけないと思うよ。それこそ人を見下しているんじゃないかな。
429 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 17:25:47
430 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 05:06:30
>>423 逆に考えるんだ。
将軍とか大層な名前つけても所詮は種馬なんだと。
431 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 16:54:27
まあ言語不明瞭だったり、やっと育っても知的障害っぽかったり
それでも将軍様に仕立てていたわけだから、種馬といえぬこともない。
諸説あるけど、篤姫が、決して島津家に帰らなかったのは何でなんだろうね。
大河ドラマの筋書きでは、「家定を愛していたから。愛ゆえに」とかいう理由付けらしいけどwwww
斉彬系子孫がいないから、やっぱ分家出身者としての肩身の狭さを甘んじて受け入れられなかったのかいな。
434 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 07:30:37
あげ
大河で始めて歴史の一部に触れる小さなお友達も居るから
出来るだけ史実(今の段階の)に忠実にやるべきという意見がちょっと前まであって
明らかに違ってると週刊誌で記事になってたりした
大河はやっぱり別格だったからな
ここんとこの大河は主人公の性格が明らかに現代風味というか自由平和愛を訴えすぎて
おかしなことになってきてるな
私利私欲的な感情は一切省かれてる
なんで最近の大河はいつも幕府マンセーなんだろうな。
>>435 たしかにホームドラマになっていて、必要以上に平和を願っていたりものすごくいい人ばかり。
やだなー
438 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 10:39:04
ほんとだよね。
>>435 >明らかに違ってると週刊誌で記事になってたりした
へええ、どんな内容?
そういう記事が世に出たのは尊い。
439 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 10:54:27
無知でセンスさえない脚本家の筋書きに腹立たしくなる場面が多いのは言うまでもないのだが、
時代考証の役割の人、何やってんだろう、と思う。江戸城での大名の所作や将軍の生活習慣なんて
ちゃんと史実どおり演出しないとだめだろ。
小松帯刀も、ひ弱に描きすぎでおかしい。あの若さで大藩の家老を拝命するくらいの英傑なのに、
西郷との差があんなにあるように描く根拠がわからない。
センスある脚本家なら、西郷が篤姫の婚礼道具調達に苦心する場面をもっと豊富に入れるだろう。
江戸じゃなく京都で揃え、そのときの京都での様々な人々との情報交換が、後の維新の革命に役に立っているのだから。
ドラマ「篤姫」でも重要な伏線になると思うのだが。
440 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 12:48:45
>>439 あんしんしろ。
どんな5流脚本家でもお前よりははるかにセンスあるから。
441 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 14:03:17
>>435 山本勘助なんかを主役にした時点で歴史に忠実も糞もないだろう。
所詮ドラマだよ。アホな老人が大河を別格だと思ってるだけ。
ドラマなんて視聴率がよくてDVDが売れればいいの。
面白かったら歴史ファンタジーで充分なんだよ。
史実重視のドラマがみたけりゃ、博物館のビデオでも見とけばいい。
なぜか犬HKは大河ドラマの最後に
「これは実在の人物・団体などとは関係のないフィクションです」
というテロップを流さない事実
現代劇ならともかく、時代劇はそんなテロップ流す必要はない事実
>>443が必死なんですが、もしかして
あの『利まつ』を超えたと言われる世紀の駄作大河『篤姫』スタッフのおひとりですか?(w
レス1つしかつけてないが・・・w
利松も篤姫も世間的に非常に好評を博していますが・・・w
まあおまえらヲタが必死になる気持ちもわからんではない・・・w
446 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 19:50:57
・日本史板なのに必死になって大河の話をする→場をわきまえない
・視聴率がすべて 他の点を話さない、というか書く事がない
・批判に対する反応が激速
・批判する他人をすべて「ヲタ」呼ばわりして論理的な反論が出来ない
篤ヲタの特徴。
447 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 20:02:10
・日本史板なのに必死になって大河の話をする→場をわきまえない
・ドラマの評価は視聴率に現れるのだが、それが理解できない
・批判に対する反応が激速
・批判する他人をすべて「ヲタ」呼ばわりして論理的な反論が出来ない
アンチ篤ヲタの特徴。
>>447 おまえ必死だな。
視聴率なんて評価の全てじゃないだろ
高視聴率なら、民放なら広告費、NHKでも予算が集まって
金があるからより自由な制作活動ができる、利益につながる、ってメリットがあるから
利益を追求する事業会社として視聴率を大事にしてるってだけ。
だから、視聴率は、純粋にドラマの完成度(質の高さ)を評価する指標に必ずしも結びつくもんではないってこと。
ま、こんなことは常識でいまさら書くまでもないんだが、君ら厨房みたいに無知みたいだから
お勉強のために書いとくよ。
君のお父ちゃんも会社で営業に必死だと思うよ〜
篤姫の視聴率が高いからドラマとして評価高いんだ、って言ってる奴は間違いなく厨房だよ。
明らかに物事わかってない。
大河なんて、老若男女、全国津々浦々、お茶の間で見てるドラマ。
大衆受け、万人受けするように、つまり、易しく創らなきゃいけない、って価値観が制作サイドには最近はあるらしいよ。
しかも最近は民放と同じような視聴率競争にまで参加してるのが顕著にでている。
アンチは、低次元視聴者に迎合してまで大河の質を落とすなよ、って言ってるんだよ。
大河ドラマの方が、次元の低い大衆のレベルにまで階段を何段も下りてきてレベルを合わせちゃってる、ってことだね。
だから篤姫が面白いとか言ってる奴は、次元が低いってことだよ。階段の下の方に居る奴ってことw
日本史板の篤姫スレで悪あがきはやめてくれよ。
450 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:21:00
>>448-449 必死すぎw
世間の好評を博した=うけたのは誰にも否定できない事実なわけだが、
その当たり前のことを書いたら、話をすり変えて今度は「ドラマの完成度」なる概念を持ちだしてきたわけか。
「その完成度」なるものはどうやって計るのかな〜?
所詮お前らアンチがデタラメだやら下らないやらと吠えてるだけで、
ドラマ自体の完成度の高さ低さなど窺えるというに足るレスなどないわけだが。
ちなみに大河ドラマってただのドラマだからね。歴史検証ドラマじゃないんでそこんとこよろしく。
まあおまえらアンチはそんな当たり前なことも知らないんだろうけどw
ちょっと歴史をかじってみただけのやつが知った様なつもりになってただのドラマを叩く叩く。
知ったか君たちみっともないことこの上なしw
多少は常識というものを弁えてるとこういう事もなくなるもんだが、
乏しい知識を披露しようとして必死になるやつは残念ながらあとを絶たないw
実はこういう人間が一番次元が低いわけだが、
この手の人間は次元が低すぎてそのことが理解できないのだ。
あー、あほらし
あまりにも分かりやすいので呆れるより爆笑した。
さて史実のご両名の話に戻ろうかね。
>>433まで巻き戻して
>篤姫が、決して島津家に帰らなかったのは何でなんだろうね。
篤姫が島津氏を切ったと断言している作家なども多いようだが
遺言で島津宗家と徳川宗家の縁組みを命じていることから見てもそうではないと思われる。
自分を養女にした斉彬が既に没していて、その敵と見なされていた久光が実質支配者だったことから
島津氏に帰ると自分の身に危険が及ぶと思ったのか・・・
篤姫に関してはまともな史料が余り残ってないのが残念、その心情を知る史料が少ない。
明治時代になってお仕えしていた女中がインタビューに答えている程度だもんな。
453 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 22:41:52
>>450 どうみてもお前の方が必死に見えるんだが。
>>452 単に「いったん嫁したからには、その家の墓の骨をうずめろ」の
思想と思うけどね。
「旦那が死んだんで実家に戻ります」ってのが許されたお姫様といえば千姫くらいしか思いつかない
千姫は2回とも戻ってるよな
456 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 23:01:21
>>452 篤姫が遺言したのは島津家(正子)と徳川家(家正)の縁組もだっけ?
家達に近衛家(泰子)から嫁を迎えるように遺言したのは有名だけど。
その家正の娘が、のちに子供時代の回想録を出して、兄に島津家との縁組の話が
出たとき、家中では少し消極的な見方をする人もいた、と書いてあるらしい。
ずっと両家の親交は途絶えていたから、今更、よりによって薩摩からとは、みたいな。
島津忠義の他の娘たち(正子の姉妹)は、紀州家や田安家に嫁に行ってるけどね、
宗家は別だったわけで。
最近の作家か研究者かこれも忘れたけど、
維新後の篤姫について、徳川(近衛)泰子がなにか少しでも書き残してくれたらよかったのに、
と言っていたな。幼少のころ、側で過ごしていたらしいから。
457 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 23:10:56
>>454 でも維新前後の島津家のほうからの再三の帰還願いにも頑として応じなかったのは事実でしょ。
江戸城開城のときも、かなり粘ったらしいし、退去するときも御台所居間には豪華絢爛な着物や調度品を
並べ立てて出て行ったのも事実でしょ。
単に三従の教えチックな思想だけじゃなくて、島津憎しを感じるんだが
西郷が斉彬に心酔していたけど、
その娘・天しょう院に対してはどうだったの。
459 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 23:15:12
>>449 現・前田家(加賀藩)当主がNHK大河ドラマについての論評が興味深い。
大河ドラマ「利家とまつ」は、私には自分の家のことでありますし、
「変なことを言われても困るな」とは思いながらも、
『どうせ80%はフィクションなのだから、楽しもう』と。
はじめはNHKから台本が送られまして、
「変なところがあったらおっしゃってください」と言われたのですが、
全部お任せしました。そしたら意外や意外、人気があるようで、嬉しく思っております。
利家の印象ですが、これまでの大河ドラマの中でも、秀吉や家康の脇役として、
ちょろちょろと利家というのは出ております。
しかし、その度に俳優さんが代わるので「あれあれ」と思いながら見ておりましたが、
これだけ長く一人の方が務めると、今の主役の方のイメージがそのまま歴史イメージに
なってしまうのではないかと思っております。
別にそれはいっこうに構わないことで、ドラマによって石川県の方をはじめ、
皆さんがご自分の土地の歴史に関心を持ってもらえれば、何よりと思っております。
>>455 夫が死んで実家に戻った姫様はマイナーなところではちょこちょこいます
跡継ぎを生まなかった等の事情で身の置き場がなかったりして実家が引き取るなど。
但し江戸時代後半の例は知らないが・・・
>>456 家正と正子の話は知っていたけど、近衛泰子の話は初耳
家正の娘の回想録や島津忠重の回想録にも書いてあったが、
この両家はほとんど親戚づきあいがなかったようね。
篤姫は両家の縁が絶えないようにと願って遺言を残したようだが
余りいい結果にはならなかったと言うことか。
>>455 >>460 幕末でも死別や離別で実家に帰った姫は珍しくもないよ。
そのあと、大名家なら継室として再嫁してるケースが多いんじゃないかな。
例を挙げるまでもない、系図など見てるとよく見かける。
やっぱ、処女じゃないから再婚同士ならまだいけるだろ、って感じなんだろうな。
江戸後半期の大名家の子女の死亡率高いからね。
死別の場合でも、直ちに髪下ろして菩提を弔う夫人ばっかじゃなかったみたいだ。
462 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 00:12:11
>>449 >>459 >『どうせ80%はフィクションなのだから、楽しもう』と。
あの水戸黄門なら100%だな・・
まぁとにかく、TV局のお茶の間にたいする知的深度レベルがわかる(笑)
家康の側室の中でも有名で歴史上でも活躍したある女性のご子孫は
(旗本として存続)小説や映像他の色んな脚色を
「おお、今度はこうくるか」って笑いながら見ているそうだが。
>>461 そうなのかd楠
離別の再婚はざらだが
死別の再婚は知らなかったので・・・
>>463 阿茶の局だか茶阿の局だが忘れたが、
そのご先祖様の描き方をみて失笑するならわかるが、
関係ない時代や人物の描かれ方みて笑ってるってこと?
京都・黒谷の金戒光明寺の彼女の五輪塔、お参りしたことあるよ。
466 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 01:05:51
いやあ、とにかく
>>450に爆笑したw
本質外しまくった長文お疲れさん
467 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 01:10:29
>>462 どっかのスレで読んだけど、大河ドラマって小学校高学年に理解できるレベルが
目標?基準になるんだって。小学5年生とかだよ、
堕ちたなと思う視聴者がいるのは無理はない。
>>459 さすがに前田家の当主、大人の対応だね。
当たり前といえば当たり前だが。
娯楽とノンフィクションの区別がきちんと出来ている。
それに比べてお前らと来たら・・・。
470 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 07:50:37
>>468 下剋上の頃と、秩序(身分制度や礼儀作法の概念)がしっかり確立された幕末とでは
同じ創作だとしても視聴者の反応は違うでしょ。
加えて幕末は時代が近いから史料が沢山残されているわけで、より詳細に人々の暮らしがわかっている時代。
そこを想像で描きすぎるとパロディーを観てるかのような違和感が残るのは当然。
471 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 07:55:33
つうかさ、
1を読んでよ。
「学問的に」語りましょう、って書いてあるじゃん。
みんな後よろしくね。
472 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 08:55:10
ドラマをドラマとして見ることのできないやつが多いな。
>>472 だからさ、そういう次元の奴は議論の対象外なんだって。
スレチだししつこい。
そういう低次元のやつに支配されているスレ
475 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 09:32:53
ドラマだっていうんなら、架空の人物を主人公にすればいいさ。
「黄金の日々」だったっけ?観たことないけど、昔あったよね。
実在の人物の人生を年表どおりにやってれば真実と思う視聴者も居るだろう
スレが立ったのも大河後だし大河避けて語れといわれたら100レス行くかね
大河はああいう描かれ方だったけど実際はこうだったんじゃね?とかいうレスはありだと思うよ
477 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 09:51:30
少し前の回で、斉興が幾島から篤姫の輿入れ先を知らされる、なんて凄い馬鹿シーンだったよね。
何が「ここだけの話にしてくださいませ」(幾島)「うんうんw」(斉興)なのやら〜。
しかも驚いて大殿が孫娘に頭を下げるなんて。あ、り、え、ね〜〜〜
脚本家は系図把握してないんじゃね?
篤姫は分家分家といわれてるけど、「島津」姓を名乗る一門一族が多い家臣団の中でも、
極めて藩主家に近い血筋。実際は斉興には姪っ子にあたるわけだし、斉彬とはいとこ同士。
実父は正真正銘藩主の子供であり、分家って言っても抜群に格が高いけどな。
コメディシーンにありえねーとか言ってて恥ずかしくないものかねえ。
479 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 10:02:39
大河では無視されたよね、篤姫側室騒動。
外様の、しかもほんとは分家の出じゃ、正室じゃなくて御簾中(側室)が相応しいだろう、という声が幕閣から挙って、
正室にこだわる斉彬が協力的な阿部正弘のとりなしでなんとか御台所に押し込むことが出来たって史実。
だから何年も江戸藩邸で待機させられてたのにね。
実際、家斉の御世に、紀州藩付家老の水野家が、政界進出を図って娘を家斉の後宮に入れたよね。
彼女もたしか陪臣とはいえ2万石近い石高の家の姫だったよね。
末路は哀れだったけど。
篤姫が近衛家の養女になれたのは大きい。ほんとは無理だったのに
阿部のおかげで養女OKになったんだもん、その辺無視されてたのも凄いね。
480 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 10:04:09
>>478 また的外れな書き込み乙。必死なんだろうけど頓珍漢で痛すぎる。
毛利元就を書いた内館牧子の記事を読んだが
大学教授と原作者からの講義と年表と系図はみっちり勉強させられるらしいよ
ただ主要な出来事にたどりつくまでの過程は結構脚本家の裁量に任されてるらしい
会議も頻繁にあってこれは変ですとかチェックも入るみたいだけど
毛利元就も結構ぶっ飛んでたからチェックもザルなのかもね
>>478 ドラマ板にでもいけよ
>>478 >コメディシーン
ぷぷぷwww
これがゆとり、ってやつかw
>>481 >大学教授と原作者からの講義と年表と系図はみっちり勉強させられるらしいよ
原作の宮尾登美子や有吉佐和子はじめ、実在の人物を描く歴史小説家もそういう仕事する人多いよね。
創作のため、人物像に迫るためにそうやって深く探求するんだろうが、
そうじゃないと墓の下の英雄たちに失礼だ、って気概もあるらしい。
>>481 史実をきちんと勉強した上でドラマとしての脚本を書く。
あくまで「ドラマ」としての脚本な。
だーれもドキュメンタリーなんかつくってないんだから。
485 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 10:37:03
以前フジで大奥なるドラマがやってたが、その時も厨は必死にイチャモンつけてたのか?
あれって確か主人公篤姫だっただろ?
>>484 さっきからどこまで馬鹿なんだ。
自分で書いた一行目を理解してないんだな。
>あくまで「ドラマ」としての脚本な。
はあ?
小説家や脚本家が史実をきちんと理解する為の徹底した勉強は、人物像に迫るため。
そうしないとイメージわかないから。よく小説家なんかがそう言ってるよ。
重要な出来事は記録に残っていても、その出来事に遭遇・もしくは起こした人物が、
そのときどういう考えだったか、どういうことを考えていたからそういう行動をとったのか、
そこまではわからない。心理や性格がわかる詳細な日記が残ってるわけじゃないからな。
だからそこを探求し、自分なりの人物像を作り上げたいわけでしょ。
そうして決まった小説家・脚本家なりの人物像が、創作のたたき台になるわけで。
実在の人物描くのに、最初から「ドラマだから」とのたまう脚本家なんかいるはずない。
君が負け惜しみに反論してるが、脚本家からすれば迷惑な擁護だろうよ。
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スレチな奴なわけでw
根本的に歴史が好きで大河観てるわけじゃないんだろうから、知性がみられる書き込みもない。
学問板で迷走してないで巣に帰ればいいのにさ、いやほんと。
悔しかったら何か史実を語って反論してみろよ。
どの書き込みも出来てないじゃん。
↑
驚いた。
ただのドラマに史実とやら持ち込んで必死になるのはアホな話だと教えてもらってるのに、
史実で反論してみろよって?知性のかけらもないんだね・・・。
>>486 お前はどこまで無知なんだい?
いいか、小説家や脚本家が史実を勉強するのは史実を追求するためじゃない。
史実を追求するのは研究者の仕事だ。小説家や脚本家は物語を「つくる」のが仕事だ。
物語を面白くするためには平気で史実とは異なる人物設定をしたりする。
小説家や脚本家にとって、歴史というのは面白い話を作るためのネタに過ぎない。
まあお前さんは司馬遼の小説を史実だと思い込んでるようなイタイ人なんだろうな。
>>489 >いいか、小説家や脚本家が史実を勉強するのは史実を追求するためじゃない。
そんなこと書いてないじゃん。
出直せwばかじゃないのww
>>488 ほら、知識がないから屁理屈ばっかりなんだよね。
↑
知識も理論もないやつがあせってる
>>485 いたよ。
NHK大河ドラマと司馬遼太郎は、歴史をちょっとかじって背伸びをしたい年頃の中学生の恰好の標的。
この運命から永遠に逃れられないだろう。
494 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 15:43:37
>>479 御廉中ってのは、将軍世子や御三家御三卿の正室のことだろ、馬鹿w
御簾中 ゴジテイセイ
馬鹿とかばかとかwwwとか、下品な奴がまた居るのか・・・
まっとうな普通の時代小説家たちは
時代考証をするのに資料を集めて検討し
家系図や年表も自ら作成し
取材ノートなんていうものも書き込み
現地取材して郷土史家の人に意見を聞いたり
その土地の風景や空気感を文章に移してみたりするものだ。
でも大変な労力を消費しても、「物語」を展開していくうえでは
(考証の賜物でも)実際の筆に乗せるのはほんの一部だけであったりする。
創作を物語にするうえでは、調べた史実と異なる理由付けをする場合もある。
歴史を題材にモノを創作するというのは大変な作業だと思う。
>>492 ほら、また適当に煽ってるだけのレスで内容がないじゃん。
所詮、無知厨ですから相手にしても不毛だって。
学問的な意見交換が出来ないんですから。
退場しなけりゃスルーすりゃいい。しつこいいから。
相手にするまでもない。
ドラマの話で言えば、江戸屋敷時代の篤姫が普段に打掛を着てるのが気になる。
振袖の着流しが娘の装束でない?
何が不思議かって、ドラマに学問を持ち込む馬鹿がいることだよね。
ドラマをドラマと分かってるんならまだ分かるんだけど、「ドラマとは史実を追求するものだ!
史実と違うドラマは、無知な脚本家が書いたレベルの低いドラマだ!」とかいってんだからもうどうしようもないw
502 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 10:30:32
↑しつこいよね、ほんと。
学問板なのに、歴史知らない負けず嫌いのガキが悪あがきしてるって白い目で見られてるのに早く気付けよ
>ドラマに学問を持ち込む馬鹿がいることだよね。
その価値観のほうが間違ってるだろww
大河ドラマは勧善懲悪、一話完結の水戸黄門と同じ次元で考えてんだなw馬鹿
504 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 10:55:42
>>501 いや最初から学問なんて持ち込んでないからwww
厨のカキコに学問なんかあるわけないだろ??w
>>503 こいつ大河になんか変な幻想抱いてんじゃねえの?
506 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 11:58:34
>>505 こいつ負けず嫌いwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
みっともねーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>501 学問持ち込むもなにも、ここは学問板なんだけど?
お前のほうが間違ってるよ
場違いなのにまだ気がつかない凄い痛い奴
>>507 だからドラマは学問板で扱うネタとして不適当、
史実と比較してドラマを叩いて大喜びのバカは厨二病だと言われてるのにまだわかんないの?
つーかただ荒らしたいだけなんだろ。
どっちの言い分だかわからない
コテハンで言い争って欲しいもんだw
510 :
衣笠宮:2008/05/04(日) 22:01:15
大河ドラマ篤姫≠フ脚本家は登場人物の血縁関係をまったく
把握していないね!
篤姫の生まれた今泉島津家は6代前の分家だが、篤姫父の忠剛は
斉興の実弟で斉彬にとっては叔父であり、斉彬と篤姫とはいとこ
だぐらいの説明はなけりゃおかしいと思う。(分家分家と言っているのみ)
少しは叔父甥の会話やいとこ同士の会話がなけりゃおかしいと思うが
まったく出て来ない。すこぶる不自然だし一般視聴者に対して不親切だ
と思う。また、何故、島津が一橋慶喜を推しているのかの説明がまったくない。
おそらく篤姫役の宮アあおいさんは、義理父の斉彬が実のいとこで
自分の使命がなぜ一橋慶喜を推戴することなのか理解していないのでは
ないかと思われる。(でも演技は最高、実在人物より良すぎる可能性はあるが)
やっぱり、歴史ドラマでは脚本家にはそれなりに歴史を理解している人を
登用しないとだめだよね。ひょっとしたらこれから登場するであろう
田安慶頼とすでに登場している松平慶永が同い年の異母兄弟だということや
徳川慶福(家茂)と徳川家定がいとこであるということも説明がないかもね。
511 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:21:17
↑
叔父甥だろうがいとこだろうが、君臣の格差は歴然としてるのに、それが理解できないやつw
薩摩は分家の扱いが厳しく、有力分家にも支藩を立てさせず、介入しまくったことも知らないんだろうなw
現代感覚でいとこ同士なれ合ってたら満足なのかね?
それはそれでケチつけるんだろうけど。
513 :
衣笠宮:2008/05/05(月) 21:37:23
>>511、512
いくら君臣の差があろうが、今回の斉彬の個性であれば一対一の対面では忠剛を叔父上と
呼んでもおかしくない。弟の久光は臣下の身ながら斉彬を兄上と呼んでいるじゃないですか。
知らないから脚本に書かれていなかっただけだと思いますよ。
分家分家としか言わないから見ている人は10人が10人遠い親戚ぐらいにしか思っていないと
思いますよ。(歴史マニアは別として)まさか叔父甥とは思わないでしょ。説明もないから。
それから斉彬自身が写した篤姫の写真が現存するそうですが(日本初との説もあり)、そのような
シーンも一切出て来ない。出立前に写真撮るのかと思ったけどなかったのでがっかりしましたよ。
514 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:43:44
ドラマが語りたいならドラマ板池よ
そんな板があるのか知らんけど
515 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:15:25
あたしの下着をさしあげます。
あおい
>>513 おまえさんは新しく仕入れた知識で知ったかしたいだけの厨房だろ。
そうなんだよ。実はタダタケ殿はナリアキラ様の叔父様に当たるのだ。驚いただろ。
・・・このスレではそんなことみんな知ってるからさ。
わざわざageてそんなことを教えてくれなくてもいいんだよ。
叔父「上」 叔父が上
兄「上」 兄が上
>>513 篤姫の写真については明治時代になって撮られたものが有名ですが
(今回の大河を機に、色んなメディアで紹介されているあの一葉)
>斉彬が撮った というのは、斉彬実子の3人の姫の写真と
完璧に勘違いされているのではありませんかね。
あの写真の姫、なんか貧乏くさい格好してるよね。
本当に斉彬の娘?
520 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 13:38:15
一条美賀子の写真も着物が貧乏くさい。
大藩・島津藩主の姫も、いちおう将軍御台所の美香子も、
実際はあんなもんだったのだと思う、衣裳も髪も。
舞台芸能である歌舞伎の派手な衣裳や大袈裟な頭髪が
そのまんま時代劇に移行して、その印象が植えこまれてしまっていて、
ほんとの姿が地味に見えるのだと思う。
大奥のお飾り女どもが大威張りできたの
十一代将軍家斉の時代だけな。
妻妾40人以上(歴代ぶっちぎり最多)
子女50人以上(歴代ぶっちぎり最多)
将軍職50年(歴代ぶっちぎり最長)
徳川時代の五分の一はこの人の時代な。
これマメ知識。
家斉の側室や子供の数なんて
一応史板なんで知ってる人はたくさん居る。
知ったかすんのも哀れだな・・・
てか
それニュース板とかにたまに貼られてるコピペやん
525 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:09:38
まあとにかく血縁関係説明不足だな、ドラマは。
今和泉家のシーンで嫡男である長男が全然出てこなくて、
三男がまるで嫡男みたいな役回りなのが不自然でおかしすぎ。
忠剛が死んで、いま今和泉家の当主なんだけど。
無論、その嫡男は早世するから、三男がいずれ家督を継いで今和泉家当主に収まるんだけど、
それまで家督については無視なのね。
創作云々以前に、歴史ドラマの重要且つ最低限の基本を押さえてない脚本だな。
大河板でさんざん概出の件を何を今さら・・・
>>525 長男はときどき出てきてるし、そもそも脚本なんてただの創作物なわけだが。
シナリオ次第で死んでない人を殺したり死んだ人を生かしたりと、何でもありの世界。
つーか、今和泉の長男ごときがいつ「歴史ドラマの重要且つ最低限の基本」とやらになったんだ?
そいつがそれほど偉大な業績を残したとでも主張したいのか?
>>525 だから歴史考証番組じゃないってw
大河では話を分かりやすくするために枝葉の人間を取り除いたり
架空の人物を登場させたりするのはよくあること。
原作の宮尾本でも早世した長男のことはあまり触れられてなかった。
529 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 13:32:36
>>527 こいつすごい馬鹿wwwwwwwぶぶぶ〜〜
久しぶりに大爆笑だよwwwwwww
芽出度い奴だよな、まったくw
発狂したか?余程口惜しかったらしいw
>>529 確かに。
長男の役回りが即ち「重要且つ最低限の基本」なんて言ってないのにな。
読解力なさすぎなところ、確かに馬鹿。しかしさ、
>>526みたいに、大河ドラマ板の
常連の厨房レベルの奴らが多いみたいだから言ってもわかんないんだろう。
昔は良スレが続いてたときあったのにな。
532 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:47:41
↑
赤っ恥君乙
お前がまさにその厨房レベルなんだよ。
ようするに、知ったかぶり君が、自分の知ってるネタがドラマの中に出て来ないからって、暴れてるだけでしょ?
そんなの大河ドラマ板に行ってやってくればいいのに。
>自分の知ってるネタがドラマの中に出て来ない
「ネタ」とはw
これ読んだだけでも、こいつらは何の歴史の知識も興味もないことがわかる
歴史に興味を持ち始め、申し訳程度に知識のついた厨房が知ったかをするスレ。
536 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:04:06
>>46 50
倒幕時の西郷は、「慶喜は絶対殺す。徳川家は滅ぼす」ってスタンスだぜ。大久保も同じ。
和宮の「徳川家が滅ぶなら自害する」との嘆願にも「勝手に氏ね」って対応
岩倉具視なんかもっと腹黒(w
勝がフランスを通してイギリス公使パークスに働きかけなかったらどうなってたかわからん
追伸
西郷は人心一新のため、あくまで江戸城総攻撃をするつもりでいたが、直前に部隊長である
木梨精一郎をパークスのもとに遣り、総攻撃の了承を得ようとした。 するとパークスは
「慶喜を攻めることなく、江戸城を受け取れば良いではないか。どうしても強行するのであ
れば、英仏は連合して新政府を攻撃する。」と、きびしい口調で迫った。
パークスが総攻撃を阻止した本当の理由はイギリスの国益のためである。
当時既に日本は輸出入の80%をイギリスに依存しており、
江戸が焦土と化すことは貿易に支障をきたすと考えたからである。
537 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:05:44
>>536 >和宮の「徳川家が滅ぶなら自害する」との嘆願
ソースは?
和宮がそんなこと云った事実ないんだけど?
それに西郷と接触したのは島津出身の篤姫だよね?
538 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:11:21
>>537 常識だろ。そんなことも知らないのか?だからドラマ厨は困るんだ。
ここは学問板なんだからドラマ厨は巣に帰れ!
>>537 ここが学問板だと理解できないやつの低レベルな質問w
540 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:16:40
>>538 史料を出せと言ってるんだけど?
学問板だから当然でしょ。
君こそドラマ板へ行ったら?
541 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:19:04
>>540 無知は低レベルな大河ドラマで歴史のお勉強をしてろw
542 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:21:26
>>541 同意。
学問板が理解できないやつは他のドラマ厨も連れてドラマ板に行けばいいのにw
544 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:23:07
545 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:27:32
天璋院や和宮が徳川の家名存続を望む嘆願書を朝廷や島津に提出したが、
別段自分が死ぬといったことはない。
和宮が死ぬといったというならその史料を出せばいいのに、何で出さないの?
日本史板の意味わかってる?
いやなんでそんなに大河を目の敵にしてるんだろう・・・
つうか大河と関係ない話だし。
まるで狂犬だな。
547 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:50:49
548 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:54:05
和宮は事の非情に悩み苦しみながらも、徳川家と運命を共にする決意をします。
そして、徳川家の家名を存続させ、江戸を戦火から救うために、朝廷に対し必死の嘆願を続けました。
東海道先鋒総督に宛てられた手紙には、次のように書かれています。
「官軍差し向けられ、御取り潰しに相成り候わば、私、一命は惜しみ申さず」
549 :
西郷隆盛 嘆願書を鼻で笑う:2008/05/10(土) 23:15:54
和宮は朝廷に「慶喜が引退します。だけど徳川家は存続させてほしい。江戸城攻撃を中止するなら一命をなげうっても構いません」
という手紙を書きました。
が、この嘆願書はほとんど効果がなかったのです。
それもそのはずいまや朝廷を仕切ってるのは皇族ではなく、薩長の人たち
主に西郷隆盛でありました。
西郷隆盛はこの嘆願書を鼻で笑っただけだったのでした。
この時の西郷隆盛は、何が何でも慶喜を殺して幕府を潰してやる!!
としか考えていなかったのであります。
550 :
西郷大久保の考え:2008/05/10(土) 23:18:13
慶喜の処遇を軽くするように和宮をはじめいろーーーーんな人が朝廷へお願いしました。
尾張の徳川慶勝や、越前の松平春獄らも徳川家の存続と、慶喜の穏便な処罰をお願いしまくり
肝心の西郷隆盛はというと、
「何を馬鹿いっとんじゃ?慶喜は切腹にきまっとろうが!!和宮まで賊の一味になってしまったんか!」
大久保利通はというと
「まったくあほらしい。朝敵となった慶喜を謝罪だけですませるわけなかろうが。バカの極みである!!」
まぁ要するに、二人とも慶喜を生かしておくなんてとんでもない!!というものでした
551 :
海舟の仕掛けた罠:2008/05/10(土) 23:22:04
海舟は、西郷に「江戸を攻めない」といわせる為にある作戦をたてました。
それはフランスとイギリスの力を利用するというもの
勝海舟は、フランス公使のロッシュと、イギリス公使のパークスに西郷隆盛らが攻めてきたら、
日本はどうなるかというコトを説明。
「官軍がやってきたら、幕府軍は必死に抵抗するであろう。さすれば江戸や横浜は火の海となる。
焼け野原となった江戸や横浜では商売ができない。そしたらあんたたちも困るでしょ?
日本と貿易したいんだったら、江戸は無事にしておかなくちゃいけないんだよ。
それにさ、幕府は抵抗しないって言ってるのに、官軍はそれでも江戸を攻撃するって言ってるんだよね。
あんたたちでどうにかしてくんない?」
正直、脅迫みたいなもんです
でも、イギリスもフランスもこの脅迫にすぐさま反応したのでありました。
552 :
フランス・イギリス 幕府の為に動く:2008/05/10(土) 23:24:21
確かに、イギリスもフランスも江戸がめちゃくちゃになったら貿易が出来なくなって困っちゃう。
ということで、フランス&イギリスは官軍に圧力をかけ始めたのであります。
西郷はイギリスに「江戸攻めで負傷者が出たら場所を提供してくれ」とお願いしたんだけど、
イギリスは「いいや断る。その前にイギリスは江戸攻めは反対である!
それでも江戸を攻めるっていうなら、今度はイギリスからも兵を出すぞ」と脅し。
官軍はイギリスに武器調達のほとんどをお願いしてるので、
イギリスの後ろ盾を失うのは痛い。
困った・・・・と、思っている西郷隆盛のもとへ、
勝海舟がヒョコヒョコとやってきたのであります。
ドラマの次は小説か?
西郷も大久保も皇族の和宮の嘆願を完全無視だし
天障院に至っては、和宮を下座に座らせる無礼極まりない行為を
平気でしてるし、薩摩って皇族に対する敬意ってものが無いのかね?
そりゃ、担ぐお神輿としか思っていないから。
ただ、>和宮を下座の座らせる 行為は、
千代田のお城に入ったからには、嫁・姑の礼をわきまえて当然、
という篤姫の「考え」からで、皇族の位を取り沙汰する以前のことでしょう。
557 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 01:14:31
確かに。
要は薩摩を貶したいだけ
558 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 02:05:43
薩摩がいなけりゃ日本はインドネシアやミャンマーみたいになってたぞ
でもいまの薩摩は人材が出払っちまって寂しい田舎だよなぁ。
人材を育てているのはラ・サール高校ぐらいか。
でも、ここの生徒達も中央志向で東京の大学に行くやつがほとんどだろ。
裸・猿?
薩摩は野蛮だ・・・。
561 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 02:36:41
現当主の島津修久氏は、西郷家傍流の伊津子さんと結婚したから、いま30代半ばの
嫡男なんても〜完全に西郷顔になっちゃったよww
お由羅以来のキツネ目、面長じゃなくなっちゃった。
妹のほうは、まあきれいにしてるけどね。
薩摩の殿様は容姿端麗つづきで有名だったが、西郷家の優秀なDNAを入れたと思えば
島津家の発展の為に良かったことなのかもしれない。こうやってまだ島津は続いていく。。。
562 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 02:48:05
563 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:54:25
>>555 その割には、篤姫と徳川家定生母本寿院の嫁姑仲も
相当悪かったようだがな。
大河では篤姫は姑に尽くしたと奇麗事でやるみたいだが。
564 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:29:33
嫁姑というよか大奥の序列の問題でしょう。
大御台所>御台所>将軍生母だから、ましてや家定没後に本寿院を尊ぶ理由はない。
565 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:48:16
将軍生母ではない先代将軍の御台所は
大奥に住むことを許されなかったからねえ。
一方、将軍生母は側室上がりでも大奥に住むことが許され、
将軍生母のための部屋も用意されていた。
従一位という高位を受けた綱吉生母のような将軍生母もいたし、
将軍生母が大奥で嫁の御台所にへこへこすることもなかったけど。
566 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 11:10:37
>>565 大河ドラマ板からやってきたの?早く巣にお帰りよw
>先代将軍の御台所は大奥に住むことを許されなかったからねえ。
はぁ?
>将軍生母のための部屋も用意されていた。
住むんだったら、当たり前だろ。
>将軍生母が大奥で嫁の御台所にへこへこすることもなかったけど。
なんのことやらw
567 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 11:21:13
>>566 先代将軍の正室は大奥に住めなかったよね?
事実を書いただけなんだけど。
御台所は立場上大奥の主だったけど、
将軍生母を部下として扱っていいわけじゃないよね。
部下だとかそういう役職の序列じゃないだろ。
御台所は、将軍の家族。
側室や御年寄は、使用人。
将軍生母になると、大名家の藩主生母と違って特別な地位にはなるが本来、御台所とは
次元が違う。京の宮家親王や関白や大臣の娘が、八百屋や古着屋や黒鍬者などの
下級武士の娘などと同等のはずがない。
ここと、大奥のスレって
今までの自分の知識が妙に混乱するようなレスがつくよな・・・
そうかい?
日本史の知識を持つ奴のレスとただのドラマオタクのレスと見分けはつく。
見分けつかなくて混乱するなら、質問してみると解消できると思うが。
まじめな質問にはちゃんとレスがつくと思うが。
先代御台所が大奥を去らなくてはいけない規則は無かった筈。
大奥自体、本丸、二の丸、西の丸とあるから、西の丸に移るのを
大奥を去ることだと勘違いしてるんじゃないか?
生母は確かに大奥で大きな実権を持つけど、自分の子供である将軍は
あくまで先代御台所の子として扱われる。
御台所は将軍家の一員の家族で、側室は違う。
将軍が亡くなり、自分の子が将軍になって、初めて将軍家の家族扱いされるが、
厳密な家族扱いでもない。
側室が仮腹なんだから当たり前だけど、先代御台所より立場が上になることは無い。
ただし、政治力のある生母が勢力を持つことはあるよ。
それと、公の先代の御台や生母や側室の立場とは、また別の話し。
側室は全員が、将軍の子を産んだ女性だから、それぞれの将軍庶子の家族扱いだしな。
手がついて子供を産まなかった女性は、側室にもなれないんだから、
側室になった時点で勝ち組か。
生母が勢力を持つというのは
やっぱり桂昌院のイメージが強いんだろうけれど
彼女の場合はかなり特殊な条件が重なっているからなあ。
家光が死んだ後に彼女も綱吉も長いこと江戸城を離れていたとか
前の将軍の家綱が女に強い方じゃなくておかげで大奥が寂れちゃったとか。
生母の権力というのは大げさに扱われすぎじゃないかと思っている。
徳川家定なんかは生母の本寿院とは疎遠で
家定時代の大奥で一番威張っていたのは乳母の歌橋だったというし。
>571
>将軍はあくまで先代御台所の子として扱われる
>将軍が亡くなり、自分の子が将軍になって、初めて将軍家の家族扱いされるが、
>厳密な家族扱いでもない
将軍が先代御台所の子として自分の生母が厳密な家族扱いされないのであれば、
例えばこのような矛盾が起きる。
先代御台所が死ねば将軍は正式な母として服喪しなければならないが、
正式な家族扱いを受けることのない生母のときに服喪する必要もない。
ところが実際には、自分の生母が死ねば将軍は喪に服し、
先代御台所が没した場合、特別な養子縁組がなされていなければ、
嫡母ではないとされて将軍は先代御台所の喪に服さないんだな。
先代御台所が将軍の正式な家族で将軍生母が厳密な家族ではないのならば
あまりの矛盾。
571はどう説明するのだろう?
>>573 そんなの別におかしくないだろ?
江戸時代以前からそういうもんじゃないか。
武家では側室腹の庶子も含め、子供は全員正室の子として扱われる。
正室は母上様で、生母は御袋様。
公的な家族関係という意味で、厳密な線引きがある。
庶子が養子縁組してまで正室の子にならなきゃ、嫡男になれないなんて無いしな。
正室に子がなきゃ、庶子のまま嫡男になる。
正室の養子にわざわざなったのなんて、織田信忠くらいなもんだろ?
豊臣秀頼だって、母上は寧々だし、淀殿は御袋様だ。
それに、江戸以前から、庶子は自分の生母の喪主になる。
喪主なんだから服喪もする。
生母が側室に上がっていた家は、側室の葬儀にノータッチが基本。
たとえ将軍で嫡男扱いだろうが、庶子には違いないからな。
公的な意味での家族関係と、矛盾しないぞ。
徳川15代、大奥内の様相も変化するし
それこそ様々なケースが散見されるから
「これはこうだ」って言い方は出来にくいよな。
お互いの云っている意味を理解して、
「○○院の場合はその慣習に乗っ取ったけど、
でもこんな場合もあったよね」調で意見交換しあえば良いものを
まあずうっと言葉尻の突っ込みあいを続けてろよw
綱吉と桂昌院の場合
幼児の頃に父親の家光が死んじゃって
兄の家綱が将軍職に就いたから
江戸城を出ていっしょに暮らしてたんだっけ。
桂昌院の扱いを基準に
将軍生母の大奥での扱いが最初から最後までどうだったとか
さすがにムリがあると思われ
その辺のあいまいさが、所詮女の園、ってかんじだよね。現代でもそうだと思う。
まあ、将軍っていう最高権力者の血族であれば、特別扱い求めてわがまま通したいのは
女に限ったことでもないけどね。
578 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 10:18:21
綱吉の代に、前将軍の御台所(血縁無し)を母と定義すべきかどうか定義してたはず。
将軍の子女全てが御台所御養いとして大奥の一種の慣例になったのはもうちょっと後になってから。
実際次代将軍がたったとき、前御台所が生存していたケースは少ないよね。
580 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:11:42
>>579 当時の化粧品には鉛をたくさん使ってたから大奥の高級女中ほど死ぬものが多いとか
聞いたことが
581 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:20:43
>>574 4代将軍家綱は3代将軍家光の正室孝子と養子縁組をしていなかったため、
孝子が没したときに服喪をしなくて良いとされた。
5代将軍綱吉もまた父親の正室とは養子縁組してなかったんだよな。
そもそも、江戸幕府将軍で先代将軍の正室と養子縁組をして将軍になったのなんて、
他家から迎えられた家茂ぐらいなんじゃないの?
篤姫は家茂の養母として大奥を牛耳り、
最後の将軍慶喜並びにその家族は江戸城入りしなかったことから
江戸城の女主人のようにして江戸城明け渡しまで城内に君臨したけれども、
歴代将軍の御台所の中でも篤姫ほど権力をもった人物のほうが稀。
582 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:55:37
家慶や家治は養子になっている件。
お江はフィクション多いし(+春日局も)
天英院も実際には権威しかもってないお飾りだったからねえ
584 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:30:02
>>583 お江のフィクションて何だよw
まさかフジ大奥を基準にしてないよね?
>>581 >歴代将軍の御台所の中でも篤姫ほど権力をもった人物のほうが稀。
権力、つうか御台所の存在感だよね。存在を強く主張してるっていうか。
この人早死にしなかったしね、歴代の御台所に比べて元気が有り余ってたんだろうね。
しかし何で篤姫、そんなに目だって存在感出してたんだろう。
取り巻きの上臈たちの勢力じゃないよね。篤姫本人がかなり強く己を主張してるよね。
慶喜を世継ぎにするという実家(=斉彬)からの指名が果たせなかった時点で、責任感じて
大人しくなるもんじゃないかと。実際、幾島が責任とって職を辞し大奥を去っているしね。
そのあと結局慶喜は将軍になるけど、将軍になったらなったで、慶喜を快く思っていないのも意味不明。
嫡祖母だというのに。大河ドラマの原作では、その辺の理由を、一橋時代の慶喜が想像に反して印象や態度が
良くなかったから気持ちが変わっちゃっただとか、家茂が弟みたいで可愛らしかったから母性本能がくすぐられただとか、
そんな創作になってるけど、実際、この辺の矛盾は篤姫にどういう変化が起きてたんだろうね?
585 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:39:55
すまん、8行目、
× 指名
○ 使命
あと、篤姫が晩年まで慶喜を快く思っていなかった件でよく語られるのは
徳川宗家と慶喜家との縁組を強烈に嫌がっていること。宗家ではその遺言がちゃんと守られた。
586 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 01:09:50
大河の瀧山ツンデレ萌え〜
>>584 ・天昇院はもともと傲慢不遜な性格で、斉彬の意向などに従う気は全くなかった。
・大奥で思いのままに権力を振るうために、若い将軍(=家茂・田安亀之助)を擁立しようと画策した。
・じゃまな水戸斉昭や一橋慶喜一党に罰を与え、斉彬に一服盛ってみた。
・うるさい幾島は追放した。
・もちろん新御台所(=慶喜御簾中)は大奥に一歩たりとも入れなかった。
天昇院・・・・、というのはミスだと思うが非情に笑える。
589 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 17:58:41
ミカコが大奥に「入らなかった」、んじゃなくって「入れなかった」、という解釈は史実として
私も正しいと思っているが、果たして天小陰のせいなんだろうか。
天小陰と和宮、生母らの確執などで大奥が騒々しく、魑魅魍魎の跋扈するかのようないざこざの多い世界に
ミカコ側が参入したがらなかったわけでしょ。
御三家のごれんじゅうと違って御三卿のごれんじゅうはもともと江戸城内に住んでるしね。
大奥の情報もいっぱい入ってきてたんだろう。
慶喜もそれどころじゃないし。
>>589 たぶん
>>587はネタなんだと思うよ
マジレスは不要かと
・・・
ネタじゃなかったらどうしましょうかねぇw
↑
なんかイタいやつがわいてきた
592 :
589:2008/05/16(金) 19:06:33
>>590 587にレスした覚えはありませんが。ご心配なくw
美賀子の写真って本覚的なつくり眉の化粧で
映像もぼんやりしているし、失礼ながら不気味感がただよう。
ああいう化粧法だとわかっていてもね。
高齢になってからは、さっぱりしたかわいいおばあちゃんだよね。
御台所時代の篤姫の写真見たかったね。
残ってる写真は全部落飾後だから、着物が地味。武士の羽織みたいなの着てる写真なんて
まるで男みたいだよw
御台所時代はさぞや豪華絢爛であでやかな着物着てたんだろうから、見たかったねえ。
篤姫所要の着物自体残ってるのは見たことあるけど、実際に娘もしくは奥方衣装の彼女が見たかったwww
まあ、御三家正室や御三家出身大名奥方なんかは、打掛姿じゃなくって袴姿で写真残してるケース多いけどね。
明治になってから華族女性は袿袴が正装と規定されましたからな
それ以前も、「正月三が日やそれに準ずる行事の日の御台所・御簾中の正装は十二単」
と規定されていた。
水戸斉昭の娘で南部藩主家に嫁いだ明子とか、田安家息女で佐賀藩主の鍋島直正に嫁いだ貢姫?なんかは
袴姿で写真取ってるよね。どっちも中年だが。
その辺、鍋島直正息女で川越藩主家に嫁いだ姫なんて圧巻だよな。打掛から小袖、帯に至るまで
超豪華な刺繍の入った着物姿でパチリ、だもんね。後家とは思えない派手な着物だしww
さすが金持ち鍋島www
顔も、完璧な鍋島顔で、弟の直大や姪っ子の梨本宮妃、その娘の李方子そっくりだし
美賀子が大奥に入れなかったんじゃなくって、慶喜が将軍就任後、金のかかりすぎる大奥の縮小を
はかったから、自らの妻妾たちは最初から入れさせなかったからでしょ。
幕末のこの時期においても大奥は年間、40万石の藩の稼ぎ相当の費用がかかっていたようで
奥女中たちの放蕩ぶりに、大奥の縮小どころか不要論すら持っていたようだ。
将軍になってからの側室たちも一気に三人、写真で選んでるしね。
贅沢を禁止された大奥は当然怒るわけだが、
篤姫から見れば慶喜を将軍後継に推そうと努めてるのに
その慶喜が大奥廃止論者だったら複雑だわな。
自分の存在意義自体否定されてるのと同じ、
実家の斉彬の遺志をも侮辱していると感じ、斉彬の密命なれど慶喜を
好きになれなかったのかもしれない。
しかし我を出す女だよね。さすがにこういうとこ、高貴な姫じゃないよね。
600 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:00:48
>>599 ドラマでしか歴史を学んでない人には分からないけど、篤姫は島津本家に非常に近い高貴な家系の出だ。
このスレでも何度も何度も出てきた話だし、いい加減覚えてくれ。
>>584 >お江のフィクションて何だよw
お江は自分で育てた忠長を溺愛して将軍に就けようとした→乳母いるじゃん・・・
とか
まあお江の場合は本人が大人気のヒロインでフィクション作られたというより
春日局の対抗馬に仕立てられたり
姉の淀殿のイメージかぶせられたりで
他の都合でキャラ作られたところがあって気の毒。
602 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:11:43
どうでもいいけど春日局って知名度の割りに人気ないよね。
大奥や戦国が好きな人でも春日局を好きな人って少ない。
603 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:20:16
春日局って本人の事跡で人気があるというより
大奥の制度始まった初期に取りしきっていたという
作り話にもってこいのポジションが人気あるって感じだしなあ
>>600 おいおい、史学科卒だが、何か?
大藩の藩主従兄弟とはいえ、薩摩国許育ちの篤姫は、歴代御台所たちの出自である京の
宮家や摂関家の姫とは養育環境の違いから、同じ姫でも本質は違う、ということを言ってるんだよ。
ここまで噛み砕いて丁寧に表現しないと理解できないほど、勘違いされやすいことを言った覚えはないんだが。
君こそ、前後の脈略をすっ飛ばし、最後の一文だけで解釈し早とちり・勘違いする程未熟な奴なんだな、って
思わせるよ。
>>598の書き込みも私であることには気付いてもおらんのだろうし。
ガキなんだろうね。
天英院(六代将軍正室)なんか
絵島生島事件の黒幕になってもらわないとお話が面白くなくなる都合で
実家の弟の娘が尾張藩主の嫁なのに
何の縁もない徳川吉宗を八代将軍に擁立した鬼姉にさせられちゃってるぞ。
史学卒だってw
偏差値低ッ!
607 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 00:45:14
史学卒を引き合いに出すのって程度が知れてるな。
将軍就任後、慶喜が大奥の縮小図った?
そんなひまないだろ
鳥羽伏見で負けて、江戸城帰って忙しいのに
609 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 08:42:17
縮小図った・・・
しゅくしょうず・・・った?
側室もどうでもいいって感じだったんじゃないのん?
慶喜の次は亀に決まってたんだしね
美賀子が大奥に入らなかった事情の、本当らしきを書いてあるものって
そう言えば読んだことがないな。
将軍位を継ぐのしたって動乱期だし、移る移らないって家内のことに
構っているヒマがやはり無かったのでは
・・・程度の単純な推測であっているのかもしれない。
>>612 当時、本丸二の丸とも焼けて無かったし、
一橋家は江戸城内にあったし、
たとへ仮本丸だった西の丸大奥に美賀が入ったとしても、
そこにいた先代以前の女たちの行き場が無かったろうし。
とりあえず、家茂付の大奥女中はそのまま慶喜付になった者もいたしな。
そもそも将軍には亀が幼すぎるということで、
慶喜が継いだわけなんで、
大政奉還したからは、
徳川家は早く亀にあと継がせて自分は出るつもりだったんじゃないのことかな?
だったら嫁を大奥にわざわざ入れる必要もないと考えてもおかしくないしね
「徳川将軍家の 家 督 」と「将軍」を分けて考えていたことが残っている書簡から伺えるね>慶喜
「将軍」の方は最後の最後まで受けるのを嫌がっていた
最もこれは自分の将軍権力を盤石にしようとするプレイだったようだが。
どうも「浅はかな才子」という印象が拭えない、慶喜。
和宮のことをどうしても、「替玉」で「片手が無い」ことに
しておきたい人がしつこく居るよな。
大河で和宮が登場してきたら、余計にたくさん出てくるのだろう。
618 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:45:35
>>612 慶喜自身、江戸城に住まなかったのだから、妻が江戸城に住まなくても不思議はない。
慶喜は二条城で将軍に就任、大政奉還したのも二条城。
619 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:48:54
三条実美 (公家)
亀と津田梅子っていとこ同士なんだよ。
亀の生母・竹子(田安慶頼側室)と梅子の母親が姉妹。
意外に知られてないけど、明治期に華族女学校に招聘された米国人女教師・アリス・ベーコンの
日記に記されている。この人梅子の同僚だからね。
確かに若い頃の梅子、頬がふっくらした上品な顔立ちの美人だよね。
田安を継いだ伯爵・徳川達孝も、亀と同腹。
紀州を継いだ頼倫は腹が違う。
621 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 13:50:22
津田竹子が高井家の養女になって田安家に入り家達を生んだのか。
大名は妾腹が多いから、いろいろ調べたら意外な人たちが
実は従兄弟だったってありそうだね。
622 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:37:31
しかし「近衛家の養女」って養子縁組として最強だよな。
江戸後期になると近衛家も出し惜しみしないからな。バンバン武家との養子縁組、
通婚してるしね
近衛家はむしろ領地収入だけでも天皇家より裕福。
>お江は自分で育てた忠長を溺愛して将軍に就けようとした→乳母いるじゃん・・・
なんか普段は女官や養育係に育児はまかせっぱなしなのに
マスゴミ集めて必死に子育てアピールのどこかの国の皇太子妃みたいだな
天璋院は慶喜擁立の工作員だったわけだが
個人的には慶喜本人を嫌っていたんだろ?
まあ、「鳥羽・伏見の戦い」の慶喜のヘタレっぷりを見れば
結構、天璋院は人を見る目があったのかも知れんな。
626 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 14:26:57
>>624 今の皇后のことか?
あのキッチンもほとんど使われなかったみたいね。
三人の子供はどれも無能ぞろいで子育て大失敗だけど
627 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 15:44:33
地球は自転も公転もしていない(メーソンの偽科学による洗脳)8
地球は1日に1回転して365日で太陽を1回りする。
水星は59日に1回転して88日で太陽を1回りする。
天王星は0.718日に1回転して30688日で太陽を1回りする。
月は28日に1回転して28日で地球を1回りする。
これらの惑星等の自転、公転速度はどの様にして決まったのか。
ビッグバンから惑星等が生まれ、その時の偶然の初速度として決まったと仮
定する。月等にクレーターがあるのは隕石の衝突の跡だと説明している。する
と、月は隕石が衝突して初速度が変わって現在の自転、公転速度となったそう
である。その自転と公転が同期しているとは確率的に1億分の1も有り得ない。
だから、同期していると言うのは嘘である。
月の満ち欠けが月の公転による月自身の影によるものであり、皆既月食も月
の公転による地球の影によるものなら、影の移動速度が同じにならなければな
らない。
植物のつるが左巻きなのは、植物が太陽の火の気を受けている為で、若葉が
萌えると言うもえるの語源は火が燃えるから来ている。火の気(天の気)が太陽
に帰ろうと左巻きに伸びるのである。血をちと呼ぶ語源は地から来ている。土
地の土が食べ物に化けてそれを食べて消化すると血となる。日本の先人は宇宙
の真理を把握していたのである。それを毛唐(西洋人)に偽科学で騙されている
のである。日本人より優れた人種はいないし、日本文明より優れた文明はない
のである。日本に西洋文明の真似をした猿が自分は知能が高いと言ってのさば
っている。こいつらはごみ以下の存在価値しかない。
外国が日本を欲しがって盛んに反日攻撃してくるのは、日本が神の国であり、
宇宙を作られた創造神が守護しているからである。メーソン(悪魔)は創造神に
とって代わろうと悪知恵を働かせているのだ。今の世の中が悪に染まり、人間
の力ではどうする事も出来なくなっている。これが世の終りの様相である。
神の裁きによって鬼が退治され、天国の世に変わるのである。今の君達のま
までは退治される鬼の運命となる。風前の灯し火である。好きなだけ人を罵倒
しているが良い。
あの時代の女如きがA級戦犯になるほど影響力は持っていない。
A級戦犯は、どう考えても鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡した慶喜だろ。
>>629 つーかさ、影響力がないのに
山岡鉄舟がとっくに降伏条件の交渉やら慶喜の身柄確保してた時に
「薩摩出身の姫である私の手紙読んだら、西郷もなんとかしてくれるわ☆」
なんてスイーツ(笑)丸出しで、中身もないような手紙を書いて
停戦の話もとっくについてた後に
そんな蒸し返すような、頭の悪い手紙を受け取った西郷はどう思っただろうかなw
増して、そんな馬鹿丸出しの手紙を
自分がかつて命を捧げられるほど尊敬した上司の娘(養女だが)が書いたなんて
俺だったら泣きたくなるぞw
>俺だったら泣きたくなるぞw
あんたが立てたスレ、全く人来ないねwww
633 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 17:33:29
俺はスレなんか立ててないが?
何いってんだおまえ
痴呆症らしい
631が628を立てたと思いこんでるんだろうけど
631は一行目で影響力がないって言及してるだろ
影響力がない奴が戦犯と言うと思うか?
自体と文意とか読めば別人じゃん
いいわけに必死(プ
↑おまえが同一人物妄想に必死でうざいんだが
638 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 21:14:37
とりあえず荒らしは
スレ立てと同じ人物という証拠でも出してからいえや
ほんま必死やな、プwwwwwwww
640 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 00:53:34
>>639 いくら相手が必死でも証拠があれば否定できんだろうから
証拠だしてみてくれ
証拠もなく粘着してるわけないよな?
641 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 20:17:16
篤姫に関して嫌な話が出ると
荒らしたがる大河バカだろう、いつもの
↑
学問板なのになぜかことごとにドラマを持ち出して叩いて喜ぶバカ
それは違うだろう。
ここに居る学問板厨なら、おまえみたいな変なこと言わないよ。
641は「ドラマ」を叩いているセリフなんて言ってないじゃん。
この板に来ていた「ドラマ厨」を叩いただけ。
お前のほうこそ大河ドラマ厨なんだろ。
644 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:59:05
大河ドラマって、ちゃんとこのドラマはフィクションであり
みたいな字幕をちゃんて出してるっけ?
それがもっとでかでかと出れば少しは
史実とドラマを混同する奴もいなくなるだろうに
645 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:12:06
まぁ大河ドラマはいかにも史実ですみたいな雰囲気でやってるが
それと別である、本来ドキュメンタリーで史実を元に制作される、その時歴史が動いたが
平気で篤姫が手紙出して、その影響で官軍が江戸の手前で進軍を停止したとか
嘘ついてる以上は100%NHKが悪いわな
ドキュメンタリーまで使って大河を史実みたいに言うのはやめろよ
確かに、最近の「その時」はやたら、こじつけたドラマ性を強調しすぎて胡散臭いよね。
こんなにもつらい境遇だったのにこんなにも頑張ってこんなにも評価される人物になった〜みたいな筋書きがわざとらしくて気持ち悪い。
先週の真珠王・御木本幸吉だって、「妻が妻が・・・」「女性をきれいにしたい!!」とか博愛精神ばっか強調しておえ、って違和感感じたよ。
以前はこんなんじゃなかったのにねwww
大河が気になって仕方のない大河ドラマ厨。
どこかから拾ってきた浅薄な知識で大河をこき下ろすのに必死。
でもそれただのドラマですからw
↑いっつも書くこと同じだよね、あんた。
どこにでも湧く大河厨
司馬遼と大河は厨の2大ターゲット
>>648 そうそうw
人には「浅はかな知識」とか言って、実は自分には何の知識もないという事実、
書き込み内容見りゃバレバレなのにね
同じ奴でしょ、相手にしちゃいかん、スレタイ通りのレスなら入ってこれないんだからww
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
室内アンテナでBSデジタル放送が見たい [デジタル放送]
こいつでしょwww
この前まで堀北がどーのとかいうスレタイがあがって来てたよねwwwぷwwww
浅はかな知識・・・
和宮の降嫁行列の道程から外れている長野の旧家で、
和宮の写真が撮られたと言い張っていたのがいたな。
中仙道の宿場も知らないんだろうな、浅はかな奴。
ああ、斉彬が撮った篤姫の写真のエピソードがないとかいって必死になってた奴もいたなw
それに篤姫写ってませんからw
>>645 その時歴史が動いたスレ
篤姫やった時は
前の週の天英院が吉宗擁立しましたそんなアホな作り話垂れ流してんじゃねーよヴォケ視聴者が真に受けたらどーすんだで盛り上がり過ぎたからか
もう大奥ネタはどうでもいいやみたいな感じで過疎ってたww
その時歴史は動いたは全然歴史が動いてないネタを取り上げすぎ
もうあれは隠居穴の利権化してるからな
>>651 >>652 過去レス遡るのめんどくさいので自分の記憶なんだけど、
道中で撮った和宮写真の件は宿場町で撮ったって説じゃなかった?
それがどこの家に伝えられたかは知らんが。
あと、斉彬が写真好きで娘や側室らの写真を撮っているので、篤姫の写真も(今のところ現存していないが)
撮っていたんではないのか?ってカキコじゃなかった?
腐女子じゃあるまいしドラマなんか見るなよ。
「腐女子」の用法が違うぞ
篤姫は単なる政略の駒だもの。
貴重な写真材料を費やすなんてするものか。
>>651 写真が絵かしらないけどあるよ
長野のばあさん家にあるらしい
この板で大河についてマジレスしてる奴はアホだろ。
あのドラマでは、イモ公方と馬鹿にされたあの徳川家定が
実は切れ者の将軍で、うつけのフリをしている事になってんだぜwww
一々「あれ?史実と違う!」とかギャーギャー言いなさんな
>>663 マジレスしてるやつはアイドルヲタらしい。
666 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 09:21:32
篤姫は原作はだいぶまともなのに
それを無視してあそこまで時代を歪曲したりするのは大河としても
おかしいって言われてしかたない
もう水戸黄門くらいの作り話の民放のレベルだ
その時〜の解釈なんか、時空警察並
むしろ時空警察の方がまだ納得できるこじつけで、面白いかな
大河としてもおかしいって意味分からん。
>>663 >あの徳川家定が 実は切れ者の将軍で、うつけのフリをしている事になってんだぜwww
一々「あれ?史実と違う!」とかギャーギャー言いなさんな
家定役の脚色なんて、もうみんな宇宙を感じてるから、もうアホくさすぎて誰も何も言ってないじゃん。
視点論点がわかってない君みたいなのは去ってくれ
>>668 大河の脚色なんて、もうみんな宇宙を感じてるから、もうアホくさすぎて誰も何も言ってないじゃん。
視点論点がわかってない君みたいなのは去ってくれ
670 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:06:23
↑668にレスしてる意味わからん
真症の阿呆登場か
671 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:28:01
672 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:31:25
粘着するあおいニートオタきも
必死すぎてキモ
あ、>671のことネ
バカが来るとレスがの〜びのび
スレがの〜びのび
ここまでの経緯
大河ヲタ(あおいヲタ・堀北ヲタ)・・・大河は史実を反映していない!
大河無関心・・・大河は所詮ドラマだろ。ドラマの話はドラマ板池。
678 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:11:49
>>677 大河ヲタっつーかアンチだな。どの分野でもアンチは荒らすだけw
>>677 大河ヲタじゃなくてアイドルヲタだろ。
大河自体は嫌いなくせにしっかり見てるんだから。
しかも堀北スレにも入り浸ってるし。
>>677 >大河ヲタ(あおいヲタ・堀北ヲタ)
これ大間違いだろ
お前みたいな勘違いするのは史学板住人じゃないんだよ
墓穴掘ったな
さっさと去れ
そうそう、
大河無関心=あおいオタだろ。
日本史に関心のある奴なら少なからず大河には興味持ってるはず
682 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:34:33
↑
アイドルヲタ?
巣に帰れよ!
683 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:38:57
>>681 >日本史に関心のある奴なら少なからず大河には興味持ってるはず
こりゃすごい妄想だ罠・・・。なんでドラマに興味もたねばならんのか?
そういうわけのわからん思い込みで大河ネタを持ち込んでるのかよ。
いいや、
むしろそんなこと考えてるのお前だけじゃねえの
黙ってろや
なんでドラマに興味もたねばならんのか?
have toのこの発想がアイドルオタの証明
>>683 大河とかその時〜とかのNHK番組にケチつけて喜ぶ厨二はいまだにいるよ。
よく分からんけどなんか権威でも感じてるんじゃない?w
まあその時〜にならわからんでもないけど、ただのドラマにケチつけてもねw
687 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:58:16
堀北も出演してるの?どんな役?
まだ出てないけど和宮
つかおまいらまとめて大河ドラマ板に逝け
>>686 >ただのドラマにケチつけてもねw
ただのドラマ、ただのドラマっておんなじことばっか馬鹿の一つ覚えみたいに言ってる奴居るよな、このスレ。
要するにあおいオタ、主演ドラマがケチ付けられて悔しいだけだろう。
ここ学問板だから、当然なんだよ、あの脚本にけちがつくのは。な、わかるか?
ここんところを決して認めたくなくて、けど対抗し論破するだけの学問的素養が皆無だから悔し紛れに論点をすり替え、
「ただのドラマなんだから」と騒ぎ散らかす。
どうみても板違いの能無しの所業なんだよな。
↑
ドラマや小説は所詮作り話。しかも今どきの大河で歴史を語るようなアホはいない。
が、歴史にちょっと興味を持ったあおいヲタはそんな当たり前なことも分からず知ったかぶる。
しかも言ってることは学問板では当たり前なことばかり。
大河を語りたければ大河板いけ。
まあそうは言われてもお前のようなキモヲタは素直に従わないんだろうけど。
>>691 あのさー、自分690だけど、あおいオタじゃないから。
ドラマオタでもない。しかも学士なんだけどww
知ったかぶり?何のことだ?無知で常識知らずで負けず嫌いのしつこい奴だな。
お前スレ主でもないだろ?
ここ学問板だからさ、自分中心に常駐したいなら、他人のこと見当違いな恥ずかしいこと言ってる前に
篤姫と和宮のどっちが好きなのか学問的に意見聞かせてくれよ、まじで。
>「ただのドラマなんだから」と騒ぎ散らかす。
べつに誰も騒いでなんかねーだろ
あと、こんな過疎スレがここまで賑わってるところを見ると
なんか釣り師でも紛れ込んだのかと疑ってしまうわw
まあ、スレを伸ばしてる主な原因は、やはり大河オタ&アイドルオタの
存在なんだろうけどな。
それらの存在に史実オタが噛み付くという構図w
>692
篤姫と和宮のどっちが好きなのか学問的に意見聞かせてくれよ
無理です、>691みたいなドラマオタには
>>691>>693 ご愁傷様〜
_ ザクッ
/´ `フ __ ザクッ
, '' ` ` / ,! ;'',,_,,) ザクッ ザクッ
. , ' レ _, rミ,;' ノ )))
; `ミ __,xノ゙、,r'' ,,_,,) ザクッ
i ミ ; ,、、、、 ヽ、//,,_,,)/_,,))
,.-‐! ミ i `ヽ.._,,))
//´``、 ミ ヽ ├┐ ・
. | l ` ーー -‐''ゝ、,,)) :・ │/,,_ .: .:` .:,
ヽ.ー─'´) .:` ..:, / 。゚ 3 `ヽーっ ;'
''''''''' ..: .:. .:,l ; ⊃ ⌒_つ
'ー---‐''''
△
( ゜ω゜)
(∪ ∪ …
)ノ
_,,..,,,,_
./ 。 `ヽーっ
l 。3 ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
スレがの〜びのび
スレがの〜びのび
さあ、691、どうするのよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
-‐ '´ ̄ ̄`ヽ、 -‐ '´ ̄ ̄`ヽ、 -‐ '´ ̄ ̄`ヽ、
/ /" `ヽ ヽ \ / /" `ヽ ヽ \ / /" `ヽ ヽ \
//, '/ ヽハ 、 ヽ //, '/ ヽハ 、 ヽ //, '/ ヽハ 、 ヽ
〃 {_{ノ `ヽリ| l │ i| 〃 {_{ノ `ヽリ| l │ i| 〃 {_{ノ `ヽリ| l │ i|
レ!小l● ● 从 |、i| レ!小l● ● 从 |、i| レ!小l● ● 从 |、i|
ヽ|l⊃ 、_,、_, ⊂⊃ |ノ│ ヽ|l⊃ 、_,、_, ⊂⊃ |ノ│ ヽ|l⊃ 、_,、_, ⊂⊃ |ノ│
/⌒ヽ__|ヘ ゝ._) j /⌒i !ヽ__|ヘ ゝ._) j /⌒i !ヽ__|ヘ ゝ._) j /⌒i !
\ /:::::| l>,、 __, イァ/ /│:;::::| l>,、 __, イァ/ /│:;::::| l>,、 __, イァ/ /│
/:::::/| | ヾ:::|三/::{ヘ、__∧ | ::/| | ヾ:::|三/::{ヘ、__∧ | ::/| | ヾ:::|三/::{ヘ、__∧ |
`ヽ< | | ヾ∨:::/ヾ:::彡' |ヽ< | | ヾ∨:::/ヾ:::彡' |ヽ< | | ヾ∨:::/ヾ:::彡' |
質問に答えられなくて困った
>>691は、
>>696みたいな書き込みを再度いたしましたとさwチャンチャンwww
ンモー ──- 、⌒ヽ
(___ノ( )
(ノ ー | /
ンモー _\ [・][・]─--6 / / ∨ ンモー
v∠二__ \ ⊂ ソ / ̄丶 ̄ ̄ヽ
/ ヽ \ (!!!!__ / /ヽノヽ丿\ノヽ/
!ノ ー | |\ ヽ、 // !ノ ー |∴: |
と゚ ゚ レV.V.V \∧∧∧/ と・ ・ |∴:|
(__,,_ 9∴ノ . ..< ン > (__,,_ 9∴ノ
ゝ、_` __ソ . .< モ ..> ゝ、_` __ソ
 ̄! ! .< │ >  ̄! !
─────────< の .>──────────
,ンモー、 < 予 > ─── 、 ⌒ヽ
⌒ ヽ .< 感 > (___ノ( )
(/ ̄ ̄ ̄ ` 、 # /∨∨∨\ (ノ ー | / 早く答えろよ、691
|ノ ー し / / ̄ ̄ソヽ\ □-□──6 /
c゚ ゚ つ( / (///ル( )\ ⊂ ソ
(___ ( / (ノ ー | / \(__,,_ /
ゝ、 ` / □-□--─6 / \ ヽ、` /
/ ⊂ ソ \
ンモー (:.:..:____ \ |
 ̄ヽ、` |
691よ、
早く答えろや。
>>693 何だ?「史実オタ」って。
それを言うなら、「史学オタ」じゃないのか?プw
∧_∧ ぼこぼこにしてやんよ >691早く出てこいって
( ・ω・)=つ≡つ
(っ ≡つ=つババババ
学問板に、日本史の知識のない
>>691が我が物顔で紛れ込んで非常に迷惑しています。
>>691を晒しage!
おおぉ荒れてるねー
しかし691も、どちらが好きか程度も答えられないなんて情けねえな
それでいてエラソーな口叩いてたから笑えるよ
まあしっぽ巻いて逃げ出した様子だがww
これからは恥ずかしくってこのスレには出てこれないだろうが、
万一大河擁護のしつっこい変なカキコする奴いたら、691認定なw
深夜に意味不明なカキコを連投しまくる。
しかもAAつき。分かりやすいリア中だな。
自分の期待通りのレスが返ってこないと
AAを使ってまで連投荒らし・・・w
まさにガキだな
まあ、かまってチャンだろうな。
かまって、かまって、かまって〜ってな。
なんか、天障院VS和宮という話と全然べつの方向に行ってる気がするのだが・・・
気のせいか?
>>708 アイドルヲタの「学士」様が大河の話をしたくてしょうがないらしいんだw
ああ、691が湧いてきたのかなw
なるほど分かり易い
全角小文字のwもうっとおしい
和宮をいじめまくる鬼姑と化した天障院を
ちゃんと描いてくれるのなら少しは見直す。
>大河
天障院が主人公だから無理だろw
>>713補足
天璋院の中の人が宮崎あほいだからNHKが冒険するわけないと思われ
きっと嫁姑の不仲も囲碁で解決させるはずあの大河なら
天璋院の頃の大奥は政治に口出しできるほどでかい顔していたといわれているけど
家茂も慶喜も京都行ったきりなかなか帰ってこないし
幕閣も中心メンバーは京都行ってるし
江戸が政治的に空洞化して
締め付け弱くなったから羽根伸ばしていただけじゃないのか。
和宮の周囲には都からの上臈や侍女が護るように控えていたし、
不平不満があったら朝廷にご注進していたので
直接的な虐めなんぞできようも無く、
待遇改善への押し問答や、侍女同士の中傷合戦におひれがつき
また関東の武家風と都風の違いでの確執が絶え間なく、
それが「虐め」なんて話に変身そていっただけだもんな。
篤姫と和宮の立場や政治的背景による個人的な遺恨は勿論あっただろうが。
718 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:15:44
降嫁してから、御所風を通す和宮側に対して武家風を要求してくる大奥に腹が立ち、
禁中に「約束違反だ」と訴状を送ると、禁中からは「嫁いだ以上は婚家の指示にしたがうように」と
言ってよこしたらしい。
確かにこれじゃ和宮側が怒るのも無理はない。気持ちはわかる。
719 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 02:27:36
>>716 表のことに口出しなんかできないですよ
小説では知りませんが。
720 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 03:22:47
いや、松平老中怒らせた御年寄とかいたでしょ。
時代ちょっと下るけど。
721 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:37:28
どうでもいいんだが、大河の家定なんで脳内麻痺じゃないんだ?
722 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:43:54
薩摩藩島津氏はお金を返しなさい!
500万両250年ローンまだ返してないでしょう
>>722 でもさ、あの債務って薩摩藩の債務であって藩主島津氏の債務じゃないでしょ?
島津さんが連帯保証してたって話も聞かない支那。
薩摩藩が滅亡した段階で貸倒損失確定でしょ。
しかももう時効だし。
724 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:40:26
薩摩藩の債務じゃないのでわ
幕府が返済したでし
725 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:41:32
あと明治政府も債務引き続きしたんでわ
身分も考えずに散々自分をいじめてくれた篤姫を
維新後たびたび家に招待するなど優しく接していた和宮
もし和宮が恨み忘れず!って性格だったら
篤姫はもちろん徳川宗家はどうなってただろうね
明治天皇は和宮を宮中に呼んだりして厚遇してたから
叔母が恨みつらみいったら宗家は新政府から冷遇されてたかも
ちゃんと「藩債」という言葉使ってよw
篤姫が日本人で初めてミシンを使いこなしたらしい。
730 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 03:26:57
731 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 05:35:23
降女 和宮 は考明天皇の妹です。
江戸戦火前には朝廷側に和宮が書状を送り。
薩摩の西郷には篤姫の書状が送られた。
勝海舟と西郷隆盛との会談が行われ
江戸城無血開場になった。
>>731 大陸からのお書き込みでしょうか
もう一息日本語の勉強を頑張りましょう_
733 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 14:50:58
実家薩摩藩にも、
婚家徳川将軍家にも、
肝心なときに役に立たなかったのね。あつ姫さんて。
維新前後、島津家に絶対戻らなかったのも
自分の願いを聞き入れてくれなかった薩摩藩に対し
ひねくれたいたのかも。
維新後、亀之助をさっさと引き取り養育し
「慶喜は徳川家を潰した人
自分(家達)は再興した人」なんて傲慢な発言を
老齢の慶喜の前で平然と出来る人間に育てたのも
慶喜嫌いのあつ姫の教育によるものに違いない。
実家も疎み、婚家(15代将軍は慶喜だから)も疎んでしまったら
精神的よりどころがなくなるから、
慶喜と宗家は別物
とし、慶喜を悪者にして宗家から排除し
徳川将軍家を我が居場所にする、
という自分勝手な解釈を脳内で作り上げたんだろうね。
734 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 16:37:29
妙に天障院を叩いている人がいるが同一人物か?
ここまでしつこいと気持ち悪いんだけど。
735 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 17:49:33
妙に叩いてる人?誰のこと?そんな印象の人いるかあ?
736 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 19:05:45
篤姫は死ね
737 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 21:06:50
大奥系のスレは鬼女スレ。
738 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 21:10:29
大奥系のスレは鬼女スレ。
こんな発想の奴学門板にイラネ
鬼女=篤姫や和宮のように歴史に名を残した女を妬む屑ネカマ
はいはい、鬼女だなんだって言ってる奴、もういいからさー。マジで。
741 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 22:39:37
篤子ってゴルゴ線すごいよね。
あれ結構若いときからでてたと思うよ。
ほうれい線と違ってゴルゴ線って若いときから出る場合多いから。
目がバランス上、比較的顔の上のほうにある、つまり頬の面積が広いひとは
ゴルゴ線が出来やすいらしい。
篤子ってまさにそのタイプの顔だよね。
昔はリフトアップ美容液やマッサージなかったからねえ。
いやーしかし画像みると見事なゴルゴ線だ。
ゴルゴ13もびっくり。
ゴルゴ線を知らない人は検索してね。
篤子の画像は誰でも知ってるだろうから「ああ、これね!」って
すぐわかると思うw
742 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:16:19
ゴルゴ線
743 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:51:56
うん
花葵にでてたね
絶版でしょ
746 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 21:10:23
十三代将軍 家定の未亡人 天樟院
「瀧山…まず、姑に対する、嫁の礼節から教えることじゃ」
瀧山じゃねーよ。滝山
天樟院じゃねーよ。天璋院
>>747 違う、瀧山が正しい。
「滝山」は後の当て字。
フジのなんちゃって大奥で浅野ゆう子が「瀧山」だったんだよ。
751 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 18:33:25
幾島の実家の薩摩藩士朝倉家って戦国大名の越前朝倉氏の末裔ですか?
通字が「景」だけど島津家に仕えた人も居たのかな
自分のもってる資料本には無いんだけど、
江戸開城のときに篤姫が「城を明渡すくらいなら自害する」なんて
言ったという根拠は何なんだ?
誰かの適当な語り遺しとか、後世の創作なんじゃないのか?
>>751 気になったので
「本藩人物志」(戦国時代〜江戸時代初頭の島津家家臣事典、成立は江戸末期頃?、『鹿児島県史料集』所収)
「諸家大概」(島津家家臣の苗字事典、『鹿児島県史料集』所収)
を見たのだが、朝倉氏の記載無しorz
「諸家大概」を見ると赤松氏の末裔なんかも召し抱えているようなので、流れ流れてという可能性もあるが。
>>752 「城を明渡す」云々ではなくて、慶喜が江戸に逃げ帰って来たときに、
天璋院を薩摩に返すという話が出た際のことだな。
「海舟語録」(講談社学術文庫)に載っている。
海舟の話は嘘っぽい放言も少なくないが、これはたぶん本当だろう。
天璋院を気遣って実家に戻すという話が出たのだろうが、慶喜逃亡の直後の時点
だから、徳川家の人間かつ大奥トップと自負していた天璋院にとっては、
自分だけ江戸城から離れるなど、プライドとしても受け容れられなかったろう。
755 :
752:2008/07/09(水) 02:38:39
>>754 調べてくれてありがとう。開城のさいではないんだね。
自分が持っているのは岩波文庫の「新訂海舟座談」なんだが、
この談話内容があるのか見直してみるよ。
・・・って、本編内ではなく巻末の(注)にありました、失礼。
それから他に少し調べてみたら
薩摩征討の前に薩摩藩より篤姫に「戻られたし」と言上してきたとも。
戦国期の政略婚において、両家お手切れになった際、
開戦前に妻子は実家に帰されるような例もあったけれど
そういう慣習のなごりからの要請なのだろうかと勝手に推測。
756 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:17:51
>>726 あの時代は結婚したら、立場は嫁<姑。
嫁の立場でありながら、姑を書状で呼び捨てにしたら
そりゃあ嫌われる。
とも限らないのが江戸時代のびみょーな所。
オットセイ徳川家斉の愛娘・溶姫が金沢藩・前田斉泰に嫁ぐとき
姑に当たる鷹司隆子と溶姫の関係をどう扱うかででもめた話がある。
金沢藩側の必死の抵抗で、金沢藩内では鷹司孝子>溶姫と扱うことでお許しをもらい
屈辱的な扱いは免れたようだが。
758 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 01:31:41
将軍の娘は嫁しても臣下の礼を取らず、ってのが名目だったが
時代と共にそれは形骸化していったのと
溶姫は母親が母親だったから(詳しくはググってくれ)
そんな女を母にもった娘が、公家筆頭の鷹司の娘の上座に座らせろとは
徳川家も要求しなかった。
759 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 06:53:20
その時代でも将軍の生母の身分は問われないでしょ。形骸化しているからこそ。あくまで将軍の実の娘。
760 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 07:24:13
761 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 08:17:50
将軍の側室になる前の素行と
なってからの素行、どちらか問題視されるかは
アホでもなければわかるよね
762 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 09:40:42
島津斉彬の正室・英姫も、家斉の実娘ながら一橋家の娘として輿入れしたのは、
島津家が、将軍家からの輿入れに難色を示し、
島津と同格の御三卿の姫なら婚約もOKという要求をしてきたから、といわれてるよね。
島津は竹姫の輿入れを受け入れて以来、徳川将軍家や一橋家との縁組を続けて
結構ハッキリと要求を主張するようになっていたよね。
島津と一橋が同格、という概念には正直本当なのかソースがないので信じ難い気もするが
前田家も溶姫を受け入れるのにあくまで姑の下に位置づける要求を飲ませたあたりからすると、
家斉の子女の押し付け嫁・養子がいかに大名家にとって迷惑で、大名家も
それにただ黙って応じていたわけでもないことがわかるね。
また史料の根拠なき電波説かよ
大河ドラマ板ですらしっしっされるのが関の山
ましてここは学術カテゴリの日本史板ですぜ?
764 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 16:07:34
>>763 どこが「電波説」なのやら。
電波説かどうかも見分けがつかない君の方が白い目で見られてますぜ?
>>762 家斎の姫というけれど、側室の誰が産んだ娘だか不明なのでは。
自分の手持ちの大奥人名辞典や何冊かの資料本には、
家斎の娘が御三卿の養女になって島津家に嫁いだという記述がない。
養女になったから記載されていない、
御三卿の娘として嫁いだから家斎側室側に記録がない、
・・・そういうことはあり得ないと思うのだが、
誰が産んだ娘なのか知ってもいるようなので御教示願いたい。
まさか、根拠は宮尾の小説・・・ではないよな?
767 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 20:39:12
綱吉と彼に寵愛された公家出の女性との間に養女として向かえた姫は
義父綱吉死去後、婚約者が死んで独身のまま大奥にいて
将軍吉宗と男女の仲ではないかと噂になり
吉宗は結局その姫を薩摩の継室に押し付けた。
薩摩側は将軍養女を拝領するのをありがた迷惑とばかり
将軍養女の姫が薩摩に嫁してきて男児を産んでもその子は世子(次期藩主)
にはしないという約定を交わした。
元禄時代にしてこれだからね。
>>765 おい、みっともないのは
場違いな能無しがここに書き込みしてるお前のほうだ
学問板にはありえない書き方なんだよ、わからねえんだろうな
厨房の来るとこじゃねえよ
さっさと去れ
くやしけりゃ
「何故、平安末・鎌倉初期の一時期にのみ、偉大な宗教家が続出したか。
何故、他の時代ではなく、この時代にこのような現象が起きたか」について
自分の考え簡単に述べてみなw
単に煽るだけならそれが出来ない証拠だぞw
>>767 元禄時代じゃないでしょw
その辺は東大の山本教授が考察してるけど、
島津は相当強い態度で幕府と交渉してるね。
江戸屋敷も改造許可させたりしてる。
結果として、竹姫は女子しか産まなかったからよかった?ものの、
この竹姫の存在が、のちの天しょう院の御台所実現に繋がっているわけだから
薩摩藩が嫌々だった竹姫との婚儀も薩摩藩に大きく貢献したことになる。
770 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:14:42
>>769 ワケありと噂されてる姫を嫁にもらってやった経緯を薩摩はしっかり覚えていて
外様の家から御台所を出すというウルトラCに2度までも成功したわけだw
>>770 違うよ。
竹姫が生存中に様々な布石を打ってたんだよ。
自分が死んでも徳川家との結びつきが切れないように、孫などの
婚姻を徳川家(一橋)と結ぶよう遺言したりとか。
やれやれ史料も証拠も根拠も出せずにスレ違いのネタを出して問題そらしとは北朝鮮並かそれ以下だな
>>772 言った通りだなw飛んで火にいる夏の虫とはこのことw
厨房決定w
774 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:54:39
>>772 >史料も証拠も根拠も出せずに
じゃあ自分で探せばいい。興味あるなら。そんなに偉そうに言うことじゃないだろ
775 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:59:53
>>772 代わりに調べてやるから、何の出典が知りたいのか教えてくれ
↓
776 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:05:06
自分がどんな恥ずかしいことを書いたか、自覚はしてらっしゃるようでw
777 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:25:37
>>772 代わりに調べてやるから、何の出典が知りたいのか教えてくれ
↓
778 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:29:07
>>770ってワイドショー目線で歴史見てるど素人みたいで藁
779 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:06:57
>孫などの婚姻を徳川家(一橋)と結ぶよう遺言したりとか。
大名の縁組は幕府の許可なくしてはダメだったのに
将軍の養女だからって、外様の薩摩藩の継室風情が何様だよ。
>>762 ここに居るなら、いつか教えてね。
英姫の生母について。
ところで、君って大河板にいる
「フジの大奥では・・・」「史実では・・・」ってな長文で
毎回長文書いてる人? ウッドベキアもどきの奴かな?
浄岸院・竹姫の名も、おばである大典侍・寿光院の名さえ
書き込めないに知ったかしちゃう、767=762だろw
>>767 元禄時代って・・・・
そんな時が止まってしまったようなことあるかw
享保年間の話だ。
名前どころか大典侍と竹姫の関係も知らないみたいだな。
「竹姫が島津家に嫁ぐに際して、島津側から要求された事項については
重要なものがあと2つあるんだよ。
782 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 06:35:21
プププ
厨房どもは深夜も必至w
ニートは羨ましいねえw
783 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 14:31:03
話をずらしてしまい申し訳ありませんが
ぜひ教えて頂きたく
「和宮の異人嫌い」という説はどの文献に記されているのか
お分かりの方はぜひ御教示を
原作くらい嫁。
宮は異国さんのお品は嫌い。
大樹さんのご肖像も、異国のお衣裳では見とうない。
画きなおしておくれ。
787 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 09:12:41
和宮の兄の考明天皇は異人嫌いで知られたお人だから
その妹も当然異人は嫌いだったんだろう。
ついでにいえば、明治天皇の外国人への謁見を当時の宮中女官が反対していた
という記録がある。
政府の改革によって、そういった前時代的側近は一掃される。
この点から見ても、和宮の外国人嫌いは推測できる。
その一環として和宮も粛正されたわけだね。
790 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:23:49
異人おきらいの宮さんが、写真を撮らせたのか…。ふうん。
墓の内部の写真が公開されてたけど、内親王に産まれて
徳川へ降嫁して、箱根くんだりで亡くなって、最後に墓まであばかれるって、
ほんとつくづくきつい運命に生きた人だったね。
唯一遺体が抱いていた愛しい人のガラス写真を発掘時の不手際で消されたのは、つくづくひどいようだけど、
貴人の秘密を守る、っていう意味ではかえって良かったんだろうか…。
791 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:28:42
この時代の皇女は幼女のうちから寺に入れられて
門跡として一生を終える人が多かったんだよ
それはそれで悪い人生ではないが
時の将軍徳川家茂から愛されて
歴史に名を残した和宮はきつい人生だったとは思うが
不幸の連続だったわけでもないよね
愛されたっていってもセックスの相手を命じられただけだろ?
そりゃ不幸だわ。
793 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:46:46
セックスするだけの正室に
京で反物を買い集めたり大阪から写真を贈ったりするのか?
少しは史料を嫁。
>>790 あの写真はやはり明治になってからという意見のほうが
信憑性もあるし、異人嫌いでも
ご一新後に写真を撮るくらいはするだろう。
>箱根くんだりで亡くなって
箱根行きは治療のためもあったんだけどね。
>墓まであばかれて
そんなこと言われたって、増上寺墓所の改葬・調査では
他の将軍や正室の墓だった調査されたわけだしな。
他の人も書いてるけど、「お手詰まり」の京都朝廷に生まれて
門跡になったり、屋敷も整っていないような皇女も多かったわけなので
どの人生が幸か不幸かなんてわからないよ。
和宮はいっときは故郷である京都に帰れたり
東京に戻ってからは、旧幕、天皇家の両方人々との交流もあり
皆から大事にされ、葬儀も丁重に行ってもらえた。
静かな気持ちで後半生を過ごせたのではと思うよ。
795 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:12:06
>>794 この前から「和宮写真は明治時代の撮影」を定着させようと必死になっている人が一人いるが、
落飾した皇女がおすべらかしに小うちぎ姿なわけがないでしょ
もうちょっと江戸末期の風俗を勉強したほうがいいよ
796 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:44:49
>>756 それはあくまでも臣下同士の結婚についてで、嫁が皇女なら例外ってのが日本の有史以来の常識
皇女は嫁いでもあくまで皇室の人間なので、当然姑だろうが夫だろうが下座においてはいけない。
和宮が受けた仕打ちは皇室始まって以来の屈辱だったわけだ。
かくいう篤姫自身姑を下座においている。姑は側室だったから篤姫のほうが身分が上だったってことで。
つまり篤姫自身、身分の上下>姑嫁の上下の恩恵受けてるわけだ。
第一、和宮が嫁ぐ際に、天皇直々に「関東に降嫁するのは前例がないが、皇女の身分を最優先するように」と厳命しており
幕府も御所の習慣を遵守するという公約のもと嫁いでいるわけなので
篤姫の「姑のほうが上」というは通用しない
797 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:49:25
>墓まであばかれて
そんなこと言われたって、増上寺墓所の改葬・調査では
他の将軍や正室の墓だった調査されたわけだしな。
そりゃそうだ。
まあ将軍や他の歴代御台所と内親王とでは身分が違うといってしまえばそれまでだが
正直、その話を聞いた時びっくりしたもんだ。
皇族の墓ってのは宮内庁の許可がなければ発掘できないから。
将軍や他の御台所は好き放題発掘できても、和宮だけはできそうもないと思えるけど
798 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:45:56
江戸時代、二条城で天皇からの使者を迎える際
御所からの使者が上座に座り
幕府の者たちは下座にいたというしね
>>796 >かくいう篤姫自身姑を下座においている。姑は側室だったから篤姫のほうが身分が上だったってことで。
将軍生母でもただのおチュウロウは姑ではないよ。使用人。
姑ではないただのおチュウロウなんだから下座で当たり前。
800 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:27:40
>>799 そういえば大河では
篤姫は先代の側室にすぎなかった家定生母に
下座から挨拶していたっけ。
こういうシーンは存在しなかったんだね?
さっそく、NHKに抗議の電話を入れたら?
篤姫が将軍生母を下座において説教する
シーンを撮り直せって(笑
>>800 大河では最初篤姫上座で、篤姫が自分から上座をおり、まわりびっくり、
篤姫すげー、なんと気配りのできる人なんだーというシナリオだったが。
おまえさん見てなかったくせになに知ったようなこといってんだよw
っていうか
>さっそく、NHKに抗議の電話を入れたら?
すごい発想。半島の血を感じるなw
802 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:42:05
>>801 そこまで気配り出来る篤姫が
宮さんに気配りできないとはねw
篤姫の養父は近衛家
千年以上も前から天皇に仕えてきたのに
803 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:50:20
ベリー来航以来の尊王攘夷論の中
和宮降嫁は落ち目だった幕府の苦心の策だった
この頃にはすっかり朝廷優位
大奥女中の回顧録によれば
和宮は公方(将軍)に心を動かされないよう言い含められていたとかで
夫である将軍家茂自ら下手に出て和宮の機嫌をお取りになる
これまでの将軍にはなかったことだと言って憤慨している
将軍自ら公武合体を促進している最中
(勿論和宮に対する愛情もあったのだろうが)
いつまでも幕府が続くが如く大奥にふんぞり返って
公武合体を破断させようとした篤姫見事
おかげで家茂が死んだらあっさり幕府滅亡
804 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 06:37:03
>>799 使用人だろうが姑は姑。歴代の将軍生母の中には嫁の御台所より上の扱いうけた側室あがりの姑もちゃんといる。
自分がいいたかったのは、篤姫ごとき卑賤の出の人間ですら御台所>将軍生母だったくせに
最高の出である皇女に対して、自分の時は「姑だから上」といっても全く通用しないってことだ。
身分のひらき、降嫁の際の公約、などなど総合してもこの嫁姑戦争は100%篤姫に非がある
武家の習慣は皇室とは違うなんてのは言い訳にすぎん。その武家ですら、正室の嫁>側室の姑のときもあれば、逆もあった。
つまり一定ではない習慣だが、皇室では皇女の嫁>臣下の姑は古来より破られたことの無い鉄則だったんだからどっちを重視するかはいうまでもない
>>804 現代の感覚で言うと姑になるが、当時の「腹は借り物」的な考えからすると、
将軍生母だからといって、「将軍の母」待遇を得られるわけではない。
将軍との個人的な関係で権力を持つことはあるが、所詮は側室で、正室である御台所とは身分が違う。
比較対象になる資格すらない。
天璋院(御台所)>本寿院(御中臈)
天璋院(前御台所・姑)>和宮(御台所・嫁)
嫁姑の古典的儒教論理よりも
身分高低差の朱子学的儒教論理が優先される場合もある。
それが江戸時代であり幕藩体制。
天璋院は超保守的幕藩体制的な思想の人物だったと考えられるが、
幕藩体制が身分高低差の朱子学的論理に乗っ取っていることは完全に理解できてなかったのかも。
それとも天璋院的には幕府>>>>>>>>>>>>>朝廷だったんだろうか。
807 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 10:55:51
家茂と和宮、どっちが上座?
セックスするときはどっちが上になるの?
808 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 12:05:21
本寿院が篤姫に高圧的な物言いをしたり、上座に座るなんて史実ではありえん。
桂昌院みたいなのは、綱吉あってこその例外。
家定は乳母にベッタリで本寿院にはあまりなついていなかったらしいね。
810 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 13:15:57
江戸時代は将軍の娘>>>旦那、姑だもんな。
将軍の娘を迎えてことがある島津家出身の天璋院なら
内親王や将軍の娘などの特殊な身分の嫁の扱いを心得てたはずなんだが
摂家の養女になったのに朝廷への敬意もなかったのかね。
まあ
薩摩はイモですから
812 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 15:24:54
出自が何であれ、大奥の女主人になった以上、自分が一番エライと思って当然だろうに。
813 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 17:54:59
考えてみれば篤姫は、徳川大奥への順応性、適応力が高かったんだな。
814 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:08:40
>>807 天皇家→公家→将軍家→大名家 上座の序列です。
皇女が将軍家に嫁げばそりゃ当然将軍家に従うしかない。
武家の習い。
>>814 公家は将軍家より下。
公家のトップである関白が将軍と対面するときは下座につく。
2条家は代々将軍の臣下となり一字賜るのが慣わし。
816 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:39:56
>>815 そうだ、武家に関白とかいたは
公家>大名家
将軍家<下級公家
817 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:41:32
>>805 歴史がそれを認めたとでもいうのかい?
天璋院が和宮を下座に座らせ泣かせたことで
朝廷は幕府に厳重に抗議、
幕府は天璋院の非を認め、
朝廷に謝罪した上で天璋院を本丸大奥から追いだした。
以後、本丸大奥の主人は姑ではなく将軍御台所の和宮だった。
つまり、幕府は天璋院が間違ったことをいたしました、
と正式に認めているんだよ。
天璋院は本丸を追いだされているしね。
君の説が正しいなら、こんな結果にはならないよね。
818 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:53:42
そのときは文久期で幕府の権威が衰えきった時期だからな。
ペリー来航以前とは全く状況が異なる。
819 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:53:42
>>817 (天皇家・朝廷・公家・将軍家・譜大名家・外様大名)の戦略結婚て感じ
それにつき合わされたのが(老中・幕巨・家老・武家・下級藩士)
820 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:54:06
>>805 だから何度も言ってるけど、なぜ姑>嫁が原則のはずの武家でさえ篤姫>本寿院だったかということだ。
それは身分が下だったからだろ。姑だろうが側室は身分上は正室の嫁よりも身分が下だから下の扱いになる。
だから当然、皇女(しかも内親王)>>>>>前御台所の身分考えたら、篤姫が和宮にした非礼は常軌を逸してるんだよ。
たかが将軍の娘ですら大名に嫁いでも特別扱いされてるってのに、将軍の娘よりずっと格上の皇女に対しては嫁だからなんていって通るわけないってことだ。
>>814 武家の習いというが、皇女が武家に嫁いだ前例は全く無い。
だから皇女が将軍家に嫁げば従うしかないっていう習慣も当然なかった。
それゆえに、和宮が嫁ぐときは前例がないことだから皇女の身分を遵守しろという取り決めが幕府と朝廷の間でなされているので
嫁いだあとに、武家の習いがどうのなどといっても、それは詐欺になる。
幕府が天皇に対して公約したことをはなっから破ったんだから、天皇家側が激怒するのは当然
821 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:02:18
>>819 君も史料を読んだほうが良い。
和宮降嫁を進めていたのは老中安藤信正を中心とする幕閣。
間違っても天皇家や公家が中心に進めたわけではない。
孝明天皇が何度も断っていたことは史料の上からも明らか。
老中や幕臣らが付き合わされたんじゃなくて、彼らの発案。
822 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:14:36
そういえば「利家とまつ」でまつは
息子の嫁である主君織田信長の娘永姫を「永さま」と呼んでいたのを思い出した
ここで姑に仕える云々言っている人は主筋の嫁でも下座に置いたと信じているんだろうか?
例えば江戸時代には将軍の息女が大名家に嫁いでいる。
大名家では主君である将軍の息女を臣下である先代正室の下座に座らせていたのだろうか?
そんなことないよね。
823 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:19:41
【大奥奥女中序列】
トップ:御台所
2:上葛年寄
3:御年寄
4:中年寄
5:御中葛
6:御小姓
7:麦使
8:御右筆
9:御次
10:呉服之間
11:御三之間
12:御末間
14:御茶之間
15:使番
16:御端下
824 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:34:44
天障院写真(尚古集成館)
撮影年代は不明だが、斬髪していることから明治に入ってからの写真だと思われる。
825 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:38:10
天璋院の写真が明治に入ってからのものであることは
誰にも異論がないだろ
どう見ても中年のおばちゃんだし
スレ主同様「璋」の字間違えてるよ
826 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:45:28
>>820 そりゃ成り立たないよ。
篤姫>>本寿院なのは、御台所>>側室だからだろ。
一方、篤姫VS和宮は篤姫から見たら御台所=御台所でも先代だって意識だよ。
と言うより、篤姫は確信犯だったと思う。世の尊王思想がどうであれ、あなたは
この緊迫した時代に、一人の徳川の女になったんだよ、家茂の妻になったんだよ、という。
非礼で常軌を逸しているというのは、武家社会というか、儒教思想における家制度から見て
どうなのかね。
827 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:53:17
皇女、皇女というけれど、本質的には和宮は「内親王」だったことが重要な意味を持つと思う。
天皇の子として生まれれば、誰でも皇女、皇子だが、その誰もが「内親王」「親王」だったわけではない。単なる「宮」さま。
まあみんなこんなこと知ってるだろうが。
和宮は、関東降嫁が決まって、その直前に内親王宣下を受けている。なにより、兄帝の配慮だろう。
これは、箔をつける意味も持つし、降嫁しても皇族としての身分担保の意味を持つ。
そんじょそこらの皇女とは格が違うわけよ。篤姫が武家のしきたり云々持ち出す筋合いじゃない。
でドラマでは今夜本寿院に篤姫叩かれちゃうらしいけど、それでも嫁だから耐えるって筋書きは
和宮を嫁扱いする主人公を悪者にしないためのプロローグ的脚色なんだろうが、アホ臭すぎww
そもそも、幕府が超強引に和宮の降嫁を要請したのだって、雄藩の台頭で弱体しつつある幕府が、
己の権威を回復せんがため、朝廷の権威を借りる公武合体のためなのに、大奥の篤姫ときたら何をやってるのやら。
828 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:55:07
>>826 その結果本丸を追いだされたのでは面目丸つぶれ。
天璋院は和宮が徳川家の人間になったかどうかなんてどうでもよくて、
自分が本丸大奥の主人であることを大奥中の人間に確認させたかっただけでしょ。
島津分家生まれの自分が将軍家も天皇家をも制した証でもあるし。
結果は天璋院の敗北。
あっさり本丸大奥を去ったのであった。
829 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:57:20
和宮役の掘北、女房装束とかつら姿が、すごいぶさいくなんだけど。
もっとどうにかならんのかね。最初だからかな。
830 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:01:04
>>829 悪いが大河板でやってくれ
ここは学問板でドラマの感想を語る板じゃないんで
831 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:04:51
篤姫の写真が奈良の引越しオバサンにそっくりだという話題はいいんだな。
832 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:08:43
>>830 べつにこのくらいいいじゃないかwドラマ厨じゃないから安心して
833 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:28:48
いくらドラマとはいえ本寿院の下座に座ったり、本寿院が偉そうな口を利くのはおかしい。
834 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:32:45
公家寺家問わず引っ捕らえよ・・・・
835 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:32:47
徳川家茂の生母実成院も紀伊藩主の側室の出ながら
和宮にはばかることなく将軍の側室選びを率先してやっていたはず
篤姫の原作でも本寿院は子を産まない正室の篤姫をいびっているし
史実も似たりよったりだったのだろう
将軍の生母が側室の出ならば息子の嫁である将軍正室に対して
小間使いのように仕えていたと考えるのは間違い
836 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:58:41
篤姫はもういいから来週からは井伊直弼けを主人公にしろよ
837 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:02:55
>将軍の生母が側室の出ならば息子の嫁である将軍正室に対して
小間使いのように仕えていたと考えるのは間違い
はあ?小間使い??
どんだけ大奥が狭いコミュ二ティだと思ってるのか?
現代の嫁姑同居の家じゃあるまいし。
もしかして大河ドラマ信じてる?
838 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:04:24
>>827 >天皇の子として生まれれば、誰でも皇女、皇子だが、その誰もが「内親王」「親王」だったわけではない。単なる「宮」さま。
>まあみんなこんなこと知ってるだろうが。
そんなこと知らない。つーかあんた「宮」って何か全然わかってないね。
内親王も女王もおなじく「宮」なんだけど。
おまけ:仁孝天皇皇女はふたりとも嫁ぐときに内親王宣下を受けている。
和宮が特別優遇されていたわけではない。
839 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:06:56
篤姫は嫁が姑を「天璋院へ」と呼び捨てにしたことを怒っていたけど
内親王(しかも二番目に高位の二品の宮)が従三位の身分の人間に対しての
態度としてはごく普通なんだよな
従三位の人間相手に内親王が「様」付けるなんて前例がない
840 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:12:02
孝明天皇の正妻ですら、桂宮(孝明天皇と和宮の姉。一品内親王)の下座なんだから
和宮が臣下の従三位にすぎない天璋院に下座に無理やり座らされたってかなりあくどい所業だったんだろうな
孝明天皇もその事件聞いてすげー怒ったし。
和宮に対して絶えず気を使っていた家茂と比べると、天璋院はどう考えても聡明な人間じゃない
>>839 島津忠義は無位無官の父久光を呼び捨てにしてたのかな?
842 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:19:52
>>837 将軍は毎日自分の生母に挨拶に伺い「母上」と尊称で呼んでいた。
夫である将軍が敬っている人を嫁である御台所が
先代の側室だからって下座においていいはずがない
それこそ武家の作法を無視したとんでもない背徳行為だよねえ?
844 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:21:22
>>843 江戸時代、女御がある場合中宮は置かれず女御が実質的な
正妻扱いだったことを分かった上での嫌がらせ?
>>844 嫌がらせではない。女御は所詮女御であって、正妻である皇后中宮とは違う。
これは厳然たる事実だ。
846 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:39:12
>>843 孝明天皇の女御九条夙子が天皇の正妻ではなかったのならば
なんで明治天皇は儲君になるにあたって夙子の養子にならなければならなかったの?
九条夙子は明治天皇が即位すると有名な英照皇太后になっているよね。
>>846 九条夙子は天皇の唯一の公的な妾だったから。
ちなみに生母はただのお手つき女官な。
848 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:56:33
>>845 天皇は九条夙子を中宮にしようとしたが幕府が反対したので准后の地位を与えていた。
そして天皇死後は皇太后として立后している。よって彼女は孝明天皇の正妻となっている。
皇室が孝明天皇の正妻だと認めているんだから、赤の他人が口出すことじゃないしね
849 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:57:06
>>847 この人本当に頭おかしいw
五摂家の息女が妾?
妾が皇太后に上れるなんて!
皇太后だよ?
明治天皇の皇后一条美子より上なんだよ?
分かってんのかな〜
850 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:58:00
>>847 天皇家が皇祖の正妃として扱っている女性を妾呼ばわりとは何と言う無礼
851 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:10:14
>>847 そういえば後水尾天皇の生母近衛前子も
先帝後陽成天皇存命時には女御だった
だけど後水尾天皇の中宮徳川和子より席次は上だったんだよね
皇室後宮の歴史を読み間違えているよ
徳川和子入内の際三百年ぶりに幕府は中宮の称号を復活させたけど
江戸時代の天皇は中宮不在であることが多かったんだね
本来中宮に上れる五摂家の姫が女御を称していた
そもそも孝明天皇の生母も和宮の生母も女官っていっても
平安時代とかなら間違いなく女御になってる身分なんだよな
なぜか江戸時代になってから幕府が勝手に「五摂家以外の娘は女御になっては駄目」と法律作ったからなれなくなっただけで。
大納言の娘なんて上流公家の令嬢なんだから
そういえば『葵三代』では、徳川和子をまず女御として入内させようと九条(おごうの娘婿)が秀忠に言ったら
そばにいた家来が「将軍家の姫君を側室とはとんでもないです」といい、九条が激怒して「女御は側室にあらず!」と反論
字幕で補足説明があって、女御とは中宮の候補、とされていた。
中宮がいなかったら、女御が正妻ってのは昔から公然だったしね。
女御ともなれば一棟の殿舎を占有するほどの待遇を与えなければならない
江戸時代の皇室の財政ではそれが無理だったというのもあるがな
平安時代には大勢の女御たちのためにたくさんの殿舎があり
一人の女御がひとつづつ占有していたが
江戸時代は天皇の正妻のための女御御殿がひとつあるだけだったし
>>850 ???
女御はただの妾ですが?
妻である皇后中宮とは全然格が違いますが?
あれれ?そんなことも知らなかったの?w
天皇死後になって皇太后に冊立された事が何を意味するかわかってる?
よーするに、天皇からは妾としてしか扱われなかった、だけど(義理の)息子が
箔つけるために格上げしてくれました、てな話。
まともな脳味噌あればわかるだろ?妻を決めるのは夫のすること。
息子の仕事じゃねーよw
九条夙子は息子によって皇太后になれた人だが皇后にはなれなかった人なんだよ。
856 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:27:17
>>855 明治天皇を九条夙子の養子にしたのは孝明天皇ですが?
君の説だと江戸時代の天皇はほとんど妻不在だったんですね。
857 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:29:34
>>855 徳川和子も入内したときは女御だったから、後水尾天皇の妾だったんですね。
徳川将軍家が威信をかけて内裏を全改築までしてねじこんだ将軍の愛娘、
よく天皇の妾で充分でございますと幕府が納得しましたね。
>>856 その通りだよ。江戸時代、正妻のいた天皇は少数派。
これ私の説じゃなくて歴史的事実。
>>855 その夫は彼女を皇后にしようとしたのに幕府が横やりいれただけって知らないの?
だから准后にして女御の地位はすでに離れてるんだよ
孝明天皇が正妻として扱い、明治天皇が嫡母として敬い、後世まで皇室が孝明天皇正妃として認めていたってのに
赤の他人のおまえがとやかういう権利は全くない
860 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:33:04
>>858 徳川和子は天皇の妾だった。
これも君の歴史的珍説なわけだねw
>>857 最初は妾から修行するのは良くあることだよ。
奈良時代からある後宮の伝統とでも言うべきか。
和子はほどなくして中宮になったはず。
妾から妻に出世したんだよ。
>>859 准后なんか臣下の男でもなれるシロモノですが・・・。
孝明天皇は妾として扱った。
ムスコが皇太后にしてくれた(結局皇后にはなれなかった・・・)。
残念。正妻ではないね。
862 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:40:13
>>838 あのさ、よく読んでからにしろよ。
単なる宮にすぎない、って言ってるだけで、内親王宣下受けた皇女や宮家女王と別物だなんて言ってないんだけどw
意味わかる?
それと、
和宮が内親王宣下を受けたからといって、他の皇女たちと別格だった、とも言ってないんだけど。
格を持たせて、関東に嫁に行かせた、満を持して、という兄帝の配慮が感じられる、って意味。
わかる?頭悪すぎだよ、あなた。
どうにかしてくれよ。
863 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:40:30
女帝問題が出たときに話題になった
歴代天皇の半分は側室の子っていうデマを信じてる人なんだろう。
初の女院となり権力を振るった藤原詮子や
治天の君となった西園寺寧子ですら
>>858にとっては女御止まりなので妾なんだろう。
864 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:41:44
だいたいさあ、平安時代ですら女御は天皇の妻だったわけだよ。
妻ってなんだか分かる?
天皇を配偶者とし、他に配偶者を持たない、という女性。
女官は浮気し放題だからね。
和宮の母親も身分は妻ではなく女官だったから、
孝明天皇との間に皇子女を産んでいても他の男性と結婚してもよかったわけ。
皇后、中宮というのは、皇族身分になった天皇の妻のこと。
皇后はもともと天皇に不幸があった場合、天皇となって即位する立場にある
女性に与えられた称号だったから。初めは皇族に限られていたし。
「枕草子」を読めば中宮定子が皇族と同じ「宮」の称号で呼ばれていたことが
分かるし、皇后、中宮には皇太子と同じ「行啓」の文字がつかわれたりした。
つまりは、皇后、中宮、女御ともに天皇の「妻」。
だいたい、立后した妻を3人も持つ天皇までいたというのに
立后すれば天皇の正妻かどうかも分んないでしょ
>>861 幕府がいちゃもんつけて皇后にできなかったから
仕方なく准后にしたのと、臣下の男の場合と一緒のレベルで考えるなよ
孝明天皇は正妻として扱っていたのは史実上あきらか。
だから何度も幕府に皇后にすると申し入れしてるんだろうが
天皇家と縁もゆかりも無い一般庶民のおまえがいくら吠えたって
天皇家孝明天皇の正妃だったと認めているんだから
おまえの説はただの一人よがり。理解できたか?
866 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:45:00
平安時代と比較できないよ。いくら伝統や先例を重んじる公家社会(禁中)でも。
時代背景の変化をみないと語れない。第一、摂家から娘が入内すること自体激減してるんだよ。
全然、環境違うんだから
>>864 大きな間違いおかしているから訂正しておくが天皇の寵愛受けた以上他の男と結婚はできねえぞ
女官でも皇子や皇女まで生んだ以上、天皇の公式な側室(世が世なら御息所だ)
天皇の配偶者として扱われるから、夫の天皇が死んだら落飾させられる。和宮の母がそうだったようにね
868 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:48:38
869 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:50:49
870 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:50:56
>>867 お前の知識の浅はかさにあきれたw
天皇との間に子供を産んでほかの男と結婚した女官などいくらでもいるよ。
関白藤原忠通の母ちゃんとかな。
いくらでもいるから調べろ。
妾とか言うのは一夫一婦制の感覚だよ。朝廷は一夫多妻だから、女御なんて
フツーに正妻じゃん。
武家は基本が一夫一婦制だから、側室とか妾って言うんだよ。武家と公家の
決定的違いだよ。
872 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:57:51
>>867 江戸幕府初期将軍の側室は一度でも手がつくと将軍が死ねば出家させられたが
天皇家の場合はそうではないよね
天皇の正妃であっても出家なんて本人の自由
逆に手のついていない女官であっても
主君に準じて天皇が死ぬと出家したりしている
ちなみに和宮の母親は出家した身の上で和宮を産んでいるね
>>864 >天皇を配偶者とし、他に配偶者を持たない、という女性。
これは皇后中宮のことだね。女御は妾であって天皇の配偶者じゃないから。
>女官は浮気し放題だからね。
ダウト。浮気したら処罰されます。浮気相手も処罰されます。
お手つきじゃなくても処罰されます。もっともスルーしてもらえることもあるが。
>孝明天皇との間に皇子女を産んでいても他の男性と結婚してもよかったわけ。
さすがにこれはないわwこれ真面目に言ってるのか?w
>つまりは、皇后、中宮、女御ともに天皇の「妻」。
皇后中宮については同意。皇族扱いで妻。
しかし女御はただの妾。当然皇族扱いではない。
皇后中宮が何人いようと全部正妻だよ。
>立后すれば天皇の正妻かどうかも分んないでしょ
立后すれば全員正妻だよ。天皇の正妻=国母の地位は臣下の常識でははかることはできない。
>>870 あんな大昔の話じゃなくて江戸時代のことを言っているんだよ
和宮の母は天皇が亡くなった時に落飾してる
当時は天皇のお手つきになった女官は、その天皇が死亡したら菩提を弔うために落飾するのが習慣となっていた。
よって、おまえの主張する
「和宮の母親も身分は妻ではなく女官だったから、
孝明天皇との間に皇子女を産んでいても他の男性と結婚してもよかったわけ」
というのは不可能なんだよ。わかったか?
第一、和宮の母の相手は孝明天皇ではなく、その父・仁孝天皇だ。
875 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:59:51
>>861 その奈良時代の律令に天皇の妻の身分として
「皇后、妃、夫人、嬪」とあるわけだが。
皇后だけが妻で他は妾なんて完全に史料をねつ造しているよ。
>>865 天皇は立后しようとしたがはたせなかった。
これ歴史的事実だよね?
ほ〜ら、正妻じゃないじゃん。
本人が正妻にできなかったのに、赤の他人のあんたが名に勝手に正妻にしてるんだよw
妃は、皇后になれなかった他の皇族出身の妻のことだしな。
皇女が妾っていう知識はあんまりだな
>>876 おまえ言ってることが違うぞ
「孝明天皇は妾として扱った」と何度も主張してただろ。
孝明天皇本人はそんなことしてない正妻として扱ってきている。
皇室が歴代天皇の正妃の列にちゃんと加えてるんだから
下賤な一般庶民で、皇室とは全く縁の無い赤の他人のおまえの主張は世間には通用しないぞ
879 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:05:56
880 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:06:52
>>874 >当時は天皇のお手つきになった女官は、その天皇が死亡したら菩提を弔うために落飾するのが習慣となっていた。
横レスだけど、違うみたいよ。
事実、孝明天皇が即位した当時、天皇附き女官(典侍・掌侍)は父親の仁孝天皇の女官を
そのまま引き継いでいたから、ばあちゃんばっかりwだったわけよ。まあばあちゃんは言い過ぎとしても、
年上の年増ばっかりで、セックス相手がいないし、反抗心旺盛な葉室○子なんて、罷免されてるくらい。
その欠員として若い中山慶子が宮仕えにあがったらほどなくして懐妊。
話それたけど、天皇が崩御しても、女官はあくまでも側室である前に官職なので
落飾して菩提を弔うわけではない。必ずしも官を辞すわけではないから。
妃が後の時代に女御に変化していったんだよな
882 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:07:55
>>874 ちょっと調べただけでも天皇崩御と同時に出家しなかった
江戸時代のお手付き女官は結構いる
桜町天皇の皇子を産んだ姉小路定子
光格天皇の皇子を産んだ勧修寺ただ子
まだいるだろうが
天皇が死んだら自発的に出家する女官はいただろう
ただしそれはお手付き、お手付きでないを問わない
手のつかなかった女官でも出家する者はしているし
>>880 そこは将軍家の側室と一緒。将軍の菩提弔うために落飾というのが建前だが
実際は江戸城で普通に暮らしている。子供がいれば大奥からも追い出されないし
>>878 孝明天皇が九条某子をいつ中宮にしたんだい?
してないだろ?
ほ〜ら、妾として扱ってんじゃんw
孝明天皇が正妻にしてないのに赤の他人が勝手に正妻にしてどうすんだよw
885 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:13:00
>>879 律令というものを見たことも聞いたこともないやつなんだな。
嬪は天皇の妻だと書いてある。
史料をねつ造するな。
886 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:13:20
室町以降、天皇は貧乏すぎてろくに結婚もできなかった。
887 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:15:21
要するに天皇は一日中たくさんの女官に囲まれて生活してるわけ。
昼間は男に囲まれてる将軍と違う。
天皇のセックス相手をつとめる女官は、あくまでも側室じゃなくて「女官」=官人なわけ。
それを武家社会みたいに、側室だとかいう概念に当てはめようとするのに無理があるの。もともと社会性が別物だもん。
>>884 真性の馬鹿だな。
天皇家が正妻にしたのに、幕府だけが認めなかっただけで馬鹿騒ぎかよ
天皇の正妻だと皇室が決めた以上、幕府が認めなくても正妃なわけだよ
理解できたか?できないなら宮内庁にメールだして確認しろ
889 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:17:27
>>883 将軍の側室は出家して江戸城の二の丸や西の丸に集められて
余生を過ごしたんだが?
将軍生母以外は本丸大奥からは追いだされてね。
勿論、徳川将軍家の扶持でね。
むしろ、一生江戸城に住んだのは将軍生母を別格とすると
子供のいない側室や娘しかいない側室たち。
息子がどっかの城主になればその母親は江戸城から出されて
息子に同行したから。
890 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:20:03
>>883 ばかじゃね?大奥の側室と一緒じゃないよ。
典侍らは、あくまでも官職を与えられた官人なんだよ。
ちゃんと仕事があるの。
妊娠したって彼女らは日々の仕事をしてるんだよ。
貧しい実家に簡単に戻れないのよ。
>>888 真性の馬鹿だな。
天皇は正妻にしようとしたけど で き な か っ た んだよ。
天皇が正妻にできなかったやつを赤の他人が名に勝手に正妻認定してるんだよw
892 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:25:50
そういえば明治天皇の生母中山慶子も夫の孝明天皇が死んでも出家もせず
息子の明治天皇に典侍として仕えていたよね
893 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:26:31
おまえら、大昔の他人の家庭のことで熱くなるなよ。
クールダウンしろや。
>>890 観行院は天皇崩御と共に実家に戻り、実家で和宮を養育しましたが
895 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:30:04
>>894 橋本経子が勝手に仕事をやめちゃったもんだから
橋本家は火の車だったんだよね。
和宮は尼門跡やら宮さんの家やらいろんなところを
間借りして育った。
>>891 おまえは、天皇が妾扱いした、と何度も繰り返しいったのに忘れたのかよ
天皇は妾扱いなんかせず皇室は彼女を正妃にした。
ただ幕府が認めなかったってだけだ。
皇室が正妻認定したのに、他家の幕府が認めなかった事実なんて
幕府が消滅した以上、もう何の効力もないんだよ
897 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:32:41
>>892 明治天皇が中山典侍に手をつけても完全合法ということか?
いくら何でもエロ過ぎ。
>>895 孝明天皇の勅命で実家で和宮育てたのに、勝手に仕事やめたとは酷いいいがかりだな
899 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:35:12
>>897 母子の近親相姦が合法だという話にはならんだろ
典侍は女官の地位であって
天皇の側室を意味する地位ではない
お手付きじゃない女官もたくさんいた
900 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:36:31
どうすりゃ勅命を女官が捏造できるんだ。
ちゃんと天皇から養育費もでてたっていうのに
真性の患者が出現したか・・・
これもこの暑さと学校が休みなのとあの馬鹿大河のせいだ・・・
>>896 ウソつくなよ。天皇は妾扱いして結局正妻にしてくれませんでした・・・。
残念。
「天皇」と「皇室」をごちゃまぜにしてごまかそうとしてるのがバレバレなわけだがw
904 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:43:47
>>898 和宮を里で育てろと云ったのは兄の孝明天皇だろ
和宮が産まれる前に父仁孝天皇は死去
内裏には孝明天皇が自分の妃や子供たちを住まわせていたから
先代の皇子女のために殿舎を明け渡すわけにいかなかった
当たり前だが孝明天皇は橋本経子に出家しろとも
宮仕えをやめろとも一言も言っていない
ただ自分のハーレムである内裏で和宮を育てられないといっただけ
里の橋本家が貧しいのは分かっていたから
扶持を認めたり和宮が5歳の時に宮家と婚約させたりの配慮はした
だいたい内裏で和宮を育てられないといったのは
仁孝天皇ではなく孝明天皇だ
天皇は正妻にした。幕府が認めなかっただけだった。
これは厳然たる事実。
正妻じゃなかったら、なぜ天皇家が歴代天皇の正妻の列に彼女を加えているのか説明してみろ
906 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:44:30
>>899 天皇の女官なんだからどう使おうと天皇の自由なのではないかな?
女官に拒否権はあったの?
>>904 和宮を里で育てろと云ったのは兄の孝明天皇だろ >>
わけわからないこというな。
こっちは『孝明天皇の勅命で実家で和宮育てた』って最初から言ってるのに
仁孝天皇の勅命なんて一言も言って無いぞ。
ちゃんと書き込み読んでからレスくれ
908 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:49:56
>>907 それで?
孝明天皇が橋本経子に宮仕えをやめろと云ったの?
言ってないよね?
皇子女は乳母が育てるので
母親が宮仕えを辞める必要なんてないんだよ。
孝明天皇が和宮を内裏ではなく里で育てろというと
なんで橋本経子が勅命で仕事をやめたという話になんのw
>>905 天皇は正妻にできなかった。これは厳然たる事実。
天皇が正妻にできなかったのに他のやつがなぜ正妻認定をしているのか?
説明してみろよ。
910 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:50:56
>>906 明治天皇はロリコンだったから
おばはんになっていた自分の母親とはやってないだろ
>>908 こっちは勅命で仕事止めたなんて一言もいってない。
『橋本経子が勝手に仕事をやめちゃったもんだから』
って書き込みあったから(多分おまえが書き込んだんだよな)
仕事を止めたんじゃなくて、勅命で和宮を養育してただけだろと言っただけだ。
こっちこそ、なんで勅命で仕事を止めたって話になるのか聞きたいくらいだ
912 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:55:33
>>909 江戸時代には女御が正妻だったんだよ。
分かってないなあw
時代とともに妃の名称も変わるの。
むしろ江戸幕府が三百年ぶりに中宮の呼称を
復活させたことが例外的だったの。
明治維新後長らく絶えていた皇后の呼称が
復活したようにね。
913 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:58:40
>>911 和宮を養育するために母親が仕事をやめる必要は全くないんだが?
江戸時代の女官は天皇の手がつくと実家に帰って育児に専念するのかい?
自分の文章よく読み直せよ。
天皇の命令で和宮を実家で養育することになったんだから
皇女養育が仕事だろ
それをほっぽりだして出仕しないことを
「勝手に仕事をやめた」なんて、どういう言いがかりだ
916 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:07:50
>>914 皇女を実家で育てる=橋本家が養育しろということ。
頭悪すぎるな。
917 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:08:27
>>915 誰にも賛同してもらえなくてつらいねえ、君もw
>>917 君の主張は肝心な天皇本人の賛同が得られそうにないねえw
919 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:13:17
>>914 孝明天皇は橋本実久に和宮を養育しろと云ったんだ
橋本経子が家庭に入る必要はない
大納言の息女が和宮のおむつかえて母乳与えてたとでも思っているのか
そんなのは乳母の仕事
>>918 宮内庁が歴代正妃として扱ってるのにまだそんな妄想してるのか
921 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:14:54
>>915 徳川和子が天皇の妾だったと言ってる時点で
お前の説は破たんしてる罠
天皇の御常御殿をもしのぐ女御御殿を持っている妾ねえ
>>919 母乳やるだけが養育だと思ってるのか?
だとしたらお笑いだ。
養育ってのは学問や躾の教育も含まれているんだよ
勅命の内容は橋本家が和宮を養育しろではなく
観行院が橋本家で和宮を養育しろなんだから
彼女が育てるのが道理だろ。
その勅命に従ったから死後位階も上がってる
924 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:23:44
>>915 お前が天皇の正妃だといっている「中宮」すら
律令の規定では天皇の妻の呼称であるとは書いてないのだよ
中宮が天皇の妻を指すとするのは単なる慣例
つまりは江戸時代天皇の正妃は中宮のみであったという
お前の説は何にも裏付けがないわけだ
中宮という呼称そのものが単なる慣例
女官を母とする皇子が即位するには女御の養子にならねばならず
女御は天皇実母でなくとも単独で女院になることができた
一人の天皇に一人の女御がいた場合中宮が置かれなかったことを考えれば
女御が天皇の正妃であったことは一目瞭然
925 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:26:10
>>922 それで?
孝明天皇から和宮養育を命じられた橋本経子は
朝廷から給料をもらっていたの?
孝明天皇から和宮付きの女官になることを命じられたのならば
当然給料をもらうよね?
ところが、橋本経子は給料を受けていない。
「隠遁」の身の上だったんだよ。
橋本家は火の車。
>>923 うやうやしく高祖母として扱ってますが何か?
>>925 銀と米もらっていた。和宮が成人する頃は加増もされていた
928 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:32:24
>>922 従五位は和宮付きの女官庭田嗣子も受けている。
皇女の母親としては随分低い位だよ。
もっと高位を受けた人はいくらでもいる。
>>928 観行院は正五位だぞ
当時は女性はなかなか位もらえなかった。
御台所や将軍生母の場合は幕府が金で買ってたから例外だ
930 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:37:03
>>928 >皇女の母親としては随分低い位だよ。
「皇女の」じゃなくて「内親王の」な。
ここ素人ちゃんも多いから、適切な用語選んでw
931 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:38:09
>>929 正五位、それが低いって言ってんのw
庭田嗣子でも従五位なんだよ
仮にも将軍正室の御生母なのに
いいから史料にあたって調べてみろって
春日局でも従三位だぞ
だから春日局は幕府が大枚はたいて買った例外だろ
家光を操って権力振りかざした悪女じゃ参考にならん
家光に金つかいまくらせて買っただけで
江戸末期に商人が武士の身分を金で買ったのと同じだから同列に扱う事例ではない
933 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:44:26
>>931 庭田さんは、あくまでも女官としての功績・働きが評価された。
橋本さんは、たんなる血族なだけ。しかもちょっと早死にだし。
庭田さんは、関東についていってくれたこと自体朝廷は評価してるんだよ。
春日局なんか篤姫より位上だろ。裏金つかってそうなった。
本来の正当なやり方だったら殿上も無理な身分だ。
935 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:58:01
家近良樹著『幕末の朝廷』(中央公論新社)に書いてあったんだけど、
若き孝明天皇は父帝附きだったおばちゃん女官たちを代替わりで退官させてしまうことをためらう
やさしい一面があったようで(関白らの手紙に残っている)、
でもそれだと世継ぎが生まれないし、関白らにも反抗し増長する女官らに九条やら鷹司らの
関白や太閤らは困っていたようだ。
孝明さんも、退官させる大義名分があればいいと思っていた。
橋本さんには皇女養育という名目があった。
そんな事情もあるかと。
936 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:21:31
事情はどうでもいいが春日局は前例になったわけだよ
937 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 02:49:13
江戸時代、もしくは幕末における宮中の女官について探求するスレ作る?
武家政権樹立以降の公家社会の構造って、研究対象として地味な印象だから、
該当スレあんま見当たらないし。
「お湯殿上日記」について語ってみたい気もするわ。
>>924 いまさらカビの生えたような律令持ち出されても困るんだけど。
つうか、中宮云々が単なる慣例だと力説してるが何が言いたいのかサッパリ分からん。
皇后=中宮だがなんか異論あんの?ひょっとして皇后=中宮=女御だとでも主張したいのか?
江戸時代にも依然として天皇の正妻としての中宮が存在していたわけだが、女御がいつ正妻になったんだい?
女御が正妻ならば孝明天皇はなんで女御・九条夙子を立后しようとしたんだろう?
ほんとに女御が正妻ならば必要ないのに。
そろそろ分かってきただろ?女御はただの妾なんだよ。臣下にすぎない。
妻である皇后=中宮とは格が違う。
正妻を必ず置かなければならないという決まりもない。
女御だけしかいない天皇は妾だけしかいない妻なし状態だったんだよ。いい加減理解しろ。
939 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:42:00
>>938 平安時代の例を持ち出してきて江戸時代を語るお前が
馬鹿だとなんどいったらw
平安時代は多くの女御がいて、皇后は一人が原則だった。
のちにこの慣例すら破られたがね。
江戸時代の天皇に多くの女御がいたの?
女御は原則一人、女御がいれば中宮はいない。
よって、女御が正妻。
反論したいのならば、江戸時代の天皇に複数の女御がいた、
もしくは女御がいるのに中宮がいた例を挙げろよ。
940 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:44:03
>>929 江戸時代の女官の官位でも調べたら?
武家じゃなくて宮廷女官のね。
死後になってようやく位をもらった橋本経子の地位が
低かったことが分かるから。
941 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:47:34
>>938 九条夙子は女御だろうが中宮だろうが
天皇の正妻であることに変わりはない
孝明天皇は祖父に見習って古制復元に熱心だったの
だから中宮を望んだだけ
明治天皇は女御である九条夙子の養子になって儲君になっている
九条夙子が正妻であることに誰も異論はないからそれでよかったわけ
それとも九条夙子が女御としてあっても
別のだれかが中宮となって君臨する可能性があったわけ?
942 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 10:57:05
傍から見てると、中宮原理主義者より女御派の方が分があるな。
まあ、どっちにしても実生活に関係ないネット上の会話で熱くなんなや。
>>939 意味不明。正妻は皇后中宮。女御は妾。
これは平安時代から変わっていない。
江戸時代は正妻なしの妾一人体制で、時々妾を正妻(中宮)に昇格させてただけ。
天皇には正妻がいないのが当たり前の時代が長らく続いていたんだよ。
妾が一人だけいたからといってそいつが正妻とは言えないのは当たり前だよな?
所詮妾としての地位しか与えられていないんだから。天皇という公人中の公人の妻(国母)となるには
それ相応の手続が必要だという極めて常識的のことがなぜ分からない?
皇族待遇ですらない女御が天皇の正妻だなんてヘソが茶を沸かすわw
>>941 明治天皇は孝明天皇が女性事務員に産ませた私生児。生母は公認の妾ですらない。
それを公認の妾である女御の子としただけのこと。
天皇に正妻は必要ないが、天皇に即位したからには、自身の権威のためにも
母親の身分を飾ってやる必要がある。だから天皇即位後妾に過ぎなかった母親を
皇太后に冊立する、という行為が常態化する。女御が正妻ならばこのような行為は必要ないわけだが。
944 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:51:55
>>943 では事実上の治天の君となった広義門院も妾でいいんだな?
945 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 12:29:13
>>944 妾が重要な役割を果たすのは史上よくあること。
御家の滅亡状態ともなれば尚更。
947 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 12:34:49
中宮厨は、なぜこれほどまで必死なんだろう???
>>840辺りから流れが中宮・女御談義になって逝ってるな。
嫁姑の上下関係と将軍生母側室と将軍正室の上下関係談義からこちらに脱線したように感じられるが。
この辺に妙なヒートアップの原因があるのかも知れない。
950 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:12:24
おい、妾論者よ、
なぜ天皇に仕えた宮廷の女たちを「妾」呼ばわりする?
武家社会や商家とおなじ概念に当てはめようとするのだ?
いいかい、彼女ら宮廷の女たちは、「女官」なんだよ。
子供産む、殿様の性の相手、を至上命題として求められた「側室」とは、
本質的に違うのだよ。
宮廷の女たちには、仕事がある。毎日伝統儀礼を重んじる宮廷生活のなかで、
どんな仕事(役割、職務)をこなさねばならなかったか知っておろう?
典侍が流産したり虚弱児を生むことが多かったのには、懐妊しても、特に不安定な妊娠初期であっても、
変わらず勤務しゆっくり休んでいなかったのも原因のひとつに数えられている。
とにかく、更衣も女御も内侍も女官。だから「女房装束」着てるだろ。
天子様からみて、身の回りの世話や事務手続きの代行をする女たちは、
手をつけることも許されるキャリアウーマンたちであって、決して「妾」呼ばわりできる
存在ではないのだよ
皇后中宮・・・妻。
女御更衣・・・妾。
尚侍典侍掌侍・・・内侍司の役人。女官。妾ではない。
952 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:00:58
あのう、女御・更衣は女官ですが、何か?
例えば、じゃあなんで「更衣」って名称なの?
中学生でも知ってますよ。
ググッて出直し〜
953 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:14:21
女秘書が社長の愛人なのはいつの世も(ry
>>952 天皇が着替えをするのを手伝うことがあったからだよ。
女御更衣は妾。天皇とセックスするのが仕事。
天皇とセックスするために入内した。
そういう親密な関係だからこそ着替えも手伝った。
あくまでセックスするために入内したのであって、着替えを手伝うことを目的に入内したのではない。
内侍司の役人であり本来事務方である尚侍典侍掌侍とは性質が大きく異なる。
この程度のことも分からず女御更衣と内侍をごっちゃにするなんて・・・。
どっちにしろ
おまいら他のスレに逝ってやれ
というネタではある。
956 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:29:16
>>754 >あくまでセックスするために入内したのであって、着替えを手伝うことを目的に入内したのではない。
おいおい、おばかちゃん、そのソース出してくれよ。
セックスをするのが仕事で、「妾」とは。
天皇を取り巻く後宮たちの身位を「正妻」「妾」と分けること自体が不毛なんだよ。
>>956 ???
まず尚侍典侍掌侍は内侍司の役人であることに異論はないな?
じゃあ女御更衣はなんという役所の役人だったんだい?
というか、
>天皇を取り巻く後宮たちの身位を「正妻」「妾」と分けること自体が不毛なんだよ。
驚いたね。そのうち皇后中宮も女官だとか言いだしそうだw
まあそれはともかく女御は女官であって、正妻云々だという主張は
お前さんの頭髪のように不毛だという主張だね。なるほど。
>>957 お前はまず恥を知るべきじゃね?
959 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 16:07:08
>>958 なんて口汚い品のない奴なんだよ。
まあ、書いてる奴の性別すら読めないもてないクンだということはよくわかったよw
ギャグもくだらないしね。
あのさ、中宮や皇后は、女御から昇進するものでしょ。
わかってる?
?を多用する馬鹿も下品だし。
wを多用する馬鹿も同じく下品。
普通に落ち着いて論議できる話題なのに
互いを貶しあって何が面白いんだろうか。
生活上も短気で自己中心で薄っぺらな人なんだろう。
>互いを貶しあって何が面白いんだろうか。
そんな言うほどの醜い言い争いどこにあるのか?
実生活がどうとか言ってるけど、関係ないんじゃないの、特に学問板で。
こういうこと言い出す人って、負け惜しみの常套手段だよね。
何が下品なのやら。
>>959 へー、あんた女なんだ。だからなに?
つーかお前さんにだけは口汚いなどと言われたくないなー。
963 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:57:28
変なのが沸いてきたな
次スレはなさそうだな
964 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:17:49
530 :公共放送名無しさん:2008/07/21(月) 16:44:20.55 ID:Hpfe6npf
前に図書館から帰ろうとしたとき自分のビニール傘とって建物でようとしたら
女が「ちょっと私の傘なんですけど・・・」って難癖つけてきた
その日一日雨でやばいぐらい雨ざあざあ降ってたし、(はあ?)とか思って
俺も「いや絶対俺の。俺は確実にここに置いた」って当然返した
そしたらだんだんお互いにブチ切れてきて最後は言いあいになった
最寄り駅に着いたときには、もうお互い「死ね!」って言いあいながら別れた
532 :公共放送名無しさん:2008/07/21(月) 16:46:22.52 ID:HMsH7xkz
>>530 なんだそのコピペ 最寄り駅まで一緒に行った=相合傘した ってのが味噌なのか(?
533 :公共放送名無しさん:2008/07/21(月) 16:47:13.98 ID:pBH1zquf
>>532 あーなるほど('A`)
江戸時代の妙法院日次記をみると、女御には様がついており、記す順番も禁中、仙洞、女院の次、関白、宮家の上位になっている。公家社会ではそういう認識でとても妾の扱いではないとおもうが。
身分にうるさい幕府が禁中、仙洞、女院につづいて献上品があることからみても、幕府が女御を天皇家の一員と認めてることでは?
妾と言ってもピンキリで、臣下の妾の分際で従一位になったのもいるくらいだ。
臣下たる女御が天皇家の一員と言えるようになるには最低限准三宮宣下が必要。
もっとも准三宮は足利将軍もなってるような代物だが。
後宮の仕組みについては、時代によっておおいに違いもあり
時代ごとに宮廷の位置付けや存在感も異なるから
「○○はこうだ」って言い切れないような異例もある。
それも考慮しながら落ち着いてレスしあえば良いのに。
自分が口汚くて下品なのを理解できない低脳が居るんだよな。
968 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:18:02
↑
こういうやつのことね。
969 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:55:50
970 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:19:21
九条夙子を妾扱いするなんてどんだけ〜
確かに孝明帝在位中は立后せず女御のままだったけど、
真っ先に妃として東宮に入内してるのは家柄や状況からして明白。
父の働きかけもあったけど、諸般の事情を解決してる間に孝明天皇が
死んじゃった、ってことでしょ。
同じように最初から后候補として一条美子も選ばれて入内してる。
時代によっては、皇后や中宮に冊立するための資金不足でかなわなかっただけで、
条件の揃った女御たちを後宮にもつ天皇は多い。女御が妾だなんてどこのいなかものぞ。
英照皇太后を「妾」とは、短絡的な発想すぎる。
でも、>女御が妾なんてどこのいなかものぞ
みたいな言い方は止めといたほう良いのでは・・・
またおかしな言いがかりつけてくるのが出てきちゃうよ。
972 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:12:57
九条夙子の実父は、九条尚忠じゃなくて松梅院禅奏という説があるらしい。
母は、知られてるとおり、賀茂神社の南大路長尹の娘でいいらしいが。
松梅院禅奏は、おそらく北野神社の宮寺の祗官家の有力者だろう。菅原氏だから、
『御事略』に夙子の母は「御母唐橋在煕女」と記されているので、九条家としても
同じ菅原氏の唐橋家の息女を公の母としたのかな。
この父親松梅院坊主説、誰か知ってる?
女御が正妻じゃないって、本気で言ってるのか?
女御の条件考えたら、いつの時代も正妻そのもの。
一夫多妻ってこと考えてるのかね。
974 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 01:36:08
そもそも帝に正妻・妾って概念を当てはめようとするのがおかしい。つうか無理があるよ。
稲森いずみ>皇女和宮
少し落ち着いたか?
キチガイのような言い争いはやめろよな。
977 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 03:15:29
基地外だ何だ言うほどじゃないだろ?
武陽なんてもっと凄いじゃないか〜w
978 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 03:27:55
稲森いずみに手コキされたいよ〜
979 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:42:37
話を元に戻していい?
確か、白州正子の自伝?だかにあったと思うけど、父と某公家華族の家(それほど高位の家では無い)に行ったら、入り口で出迎えた
書生が取次ぎで「地下人が参りました」って言ったっての。もう、そんな時代じゃないし、その家の当主なんかより、
白州正子の父なんかの方が社会的にはずっと上なのに、そんな感じだったって、可笑しいやら、って父と二人で苦笑したっての。
それぐらいお公家さんたちには位っていうのは重要な感覚だったと思う。これは武家には本当には解らなかったのでは、と。
しかも篤姫は田舎の出。初対面での座敷きの位置だって。昔の記録でこうだったから、っていうのを大奥女中に言われて
そのままでは、通用しないでしょう。
ただ、社会の一般常識として、お姑さんに対して礼を尽くした方が好感度が高い位は、和宮側だってわかってたはず。
将軍家の姫の降嫁の例であったけど、まず、お姑さんが家臣の礼をとって下座に座る→で、姫の方が「いくらこちらの方が身分は上でもこれからは姑
なのだからどうか上座へ」「いえいえそんな」これを何回かやって、位置を決め。→「身分は上でも心がけのよい姫」って評判を立てる。
ていうのがあったとか。なのに、天障院さんいきなり上座ってのは… 宮様側からしたら「この田舎もん!!!」って感じではないでしょうか。
ただ、まぁ、このあたりの折衝とかは本来周りの人たちの仕事ですからね。ぜんぜん話し合いとか、段取りができてなかったっていうのは悲劇ですね。
たかだか会うだけでも歴史的な事になるから、何事も無いように、と、身分の高い人にはいろいろあると言うのにね。
京都側が頑なだったのもあるとは思うけど、実際は滝山の責任が相当重いと思う。
天障院自体はなんか田舎の人って感じだしね、
滝山が確信犯なのか、、それとも、、こういうのがいたから幕府駄目だったんだろうね〜
980 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 11:10:02
>>979 その白洲正子の話は時代錯誤な公家の馬鹿話だろう。
その話をもちだすのならば、嫁に行ったのに婚家のことを分かっていない和宮は
アホな田舎者ですねあははははってことになるわけだが。
白洲の実家樺山家は伯爵
樺山といえば蛮勇の家系
生来野蛮で九州はもちろんのこと、朝鮮琉球台湾中国と侵略を繰り返した。
野蛮人だから都会の文化的生活になじめず国会議員たちの失笑を買った。
>>982といえば蛮勇の2chねらー
生来野蛮で2chでひきこもり、見当違いのレスを繰り返した。
ニートだから世間一般になじめず他の2chねらーの失笑を買った。
984 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 17:58:11
なんというインターネット・・・
スレを開いた瞬間目に飛び込んでくるのはウンコ
この掲示板は間違いなく2ch
|| ̄ ̄ ̄./ ̄\
||ウンコ |o^ |
||___\_/
\__⊂´ )
( ┳
985 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 18:04:14
天昇陰熱姫
987 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 22:10:41
>>979 それは白洲正子著『遊鬼』(新潮文庫)のなかの「お公家さん」のなかの記述ね。
出向いた京都の公家は、あの冷泉家。あの白蓮事件で、柳原家を通して縁戚になる樺山家と冷泉家が、
事態の対応策について相談する目的で子供の正子と正子の父が出向いたときのこと。
ふたりとも、爵位は同じ伯爵だよ。
立ち上げなおして続行するならまじきもいニート。
)ノ
∧_∧
( ´・ω・`) ∧_∧
/ \ ( )そうだったのか!
.__| | .| |_ / ヽ
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||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ カッコイイ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 詳しいなお前
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
995
999 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 02:58:09
あげ
1000 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 02:59:02
もう寝る
1001 :
1001:
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