1 :
日本@名無史さん:
幕末以前の、日本の皇后・国母・女院について、語るためのスレッドです。
●注意事項
○大政奉還以後の時代についての話題は、禁止。
○天皇・上皇・皇太子・他の皇族・他の貴族等についての話題は、メインにする事は禁止。
○固定ハンドルネームの使用は、禁止。
○当分の間、すべてのレスはageで。
○他人の書き込み文に対して反論・批評をする時には、言いっ放しの短文は、禁止。
ある程度の長文で根拠を丁寧に述べ、粗暴な言葉遣いをしないよう通常時以上に気を配る事。
○誹謗・中傷・暴言・嘲笑は、禁止。 荒らしには、徹底スルーで。
●扱う時代について
○下限は、大政奉還まで。
○上限は、神話伝説と実在との境界を明確に引く事が出来ないので、神武天皇以降とする。
●皇后について
○皇后の他、三后(皇后・中宮、皇太后、太皇太后)も扱い、三后には、尊称・追尊(贈)も含む。
○三后・国母・准母・女院に至らない、准三宮・女御・更衣・妃・夫人・嬪・典侍等は、扱わない。
○具体的人物では、神武天皇の皇后で綏靖天皇の生母の、媛蹈鞴五十鈴媛命から、
孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母の、英照皇太后九条夙子の、大政奉還前の人生まで。
●国母について
○国母とは、皇后の意味で使われる事もたまにあるが、ここでは「天皇の生母」の意味で使う。
○国母の他に、天皇の准母も扱う。
○具体的人物では、彦波瀲武鵜草葺不合尊の妃で神武天皇の生母の、玉依姫命から、
孝明天皇の典侍で明治天皇の生母の、一位局中山慶子の、大政奉還前の人生まで。
●女院について
○追尊(贈)女院も、含む。
○具体的人物では、円融天皇の女御で一条天皇の生母の、皇太后東三条院藤原詮子から、
仁孝天皇の典侍で孝明天皇の生母の、新待賢門院正親町雅子まで。
前スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1133361949/
2 :
KNA:2007/12/30(日) 23:58:30
仲恭天皇皇女の和徳門院の墓所はどこにあるのでしょうか?ご存知ならお教え
下さい。
3 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:38:30
>>2 資料類を調べても不明だし、「和徳門院 墓所」でググっても、
検索されたのはこのスレの前スレただ1つだけ。
墓所不詳なんでしょうな。
4 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 08:17:26
女陰スレ乙
なまみこ物語の定子様素敵です。
上東門院彰子と陽明門院禎子は時代は違うが、どちらが結局権力を持ったのだろうか。
形でいえば彰子のほうに見えるが。
仲恭天皇の陵墓自体がはっきりしていないので、娘もむずかしいのでは?
8 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 15:49:42
>>6 彰子だと思われる。
道長に排斥された三条天皇皇女である陽明門院は、
有力な兄弟を持たず、息子の後三条天皇は気質が強く、
母陽明門院の願いでも容易に聞き入れなかったとある。
天皇と臣下筆頭関白である弟頼通、教通との調整役を果たした
彰子と異なり、有力な外戚を持たない禎子の権力はそれほどでもなかった。
だからこそ、母の意向すら聞き入れないという後三条親政が実現したのであるが。
9 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 15:57:45
>>7
仲恭天皇の陵墓、九条陵は確定しています。
現在の京都市南区にあります。
仲恭天皇は帝位を去った後、母方の九条殿に住んで九条廃帝と呼ばれましたが
仲恭天皇の陵墓九条陵は
仲恭天皇の叔父九条道家建立になる東福寺のすぐ東の山上にあります。
すぐ近くには、九条家から出た皇嘉門院藤原聖子(崇徳中宮)の墓、
月輪南陵があります。
仲恭天皇って、廃帝になったあと叔父の屋敷の九条殿に住んでいてなくなったときも
このあたりの九条殿領地内の寺に葬られたっていうだけで、九条陵であるという確証はないらしい。
明治政府が墓所がわからないから屋敷跡らしいところに盛り土をして陵をもうけただけ。
ちかくの東山本町陵参考地も有力らしいよ。
11 :
KNA:2007/12/31(月) 18:55:05
仲恭天皇は↑の方の見解が有力なようですね。この天皇の子供の和徳門院は
西鴻臚館の右京七条一坊三町四町のうち四町を所有していたとのことですが
(拾芥抄・西京図から読める)この和徳門院のことを調べたいのです。特に
墓所・子供の有無などです。
アプローチ方法を教えて頂けたら幸甚です。
なまみこ物語最高
>>8 レスありがとうございます。陽明門院は同母兄弟は一人もいないので、後ろ見が
いなかったので大変だったと思います。母も母方祖父も早くに他界していますし。
初めて知ったのですが後三条天皇は陽明門院の言うことを聴かなかったのですね。
父帝とは距離をおかれていたので、母と息子の結びつきがとても強いと思っていました。
14 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:22:12
庭田朝子って女院号あるの?
15 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:30:04
庭田朝子は、「後史愚抄」などに「蒼玉門院」と見える。
ところが、院号宣下の年月日、勅が下ったという史料が欠如。
相当の文献を集めて編集された「後史愚抄」の信憑性は高いが、
院号宣下に関わる史料の不足により
女院として数えられないことも多い。
16 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 21:09:50
女院宣下後に三后宣下のあった女性は誰かいましたっけ?
南北朝のごちゃごちゃ期にいたようないなかったような・・・。
>>15 朝子の父である贈内大臣庭田長賢に「号蒼玉院」とあるが、
それと混同した可能性は?
ここの前スレかどこかでも見かけたような気がする。
18 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:09:06
>>15 「後史愚抄」って「続史愚抄」とは違うの?
なまみこ物語感動した。
21 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 07:33:28
>>16 ざっと、南北朝期を調べたけど該当者無しですね。
准三后と女院が同時に宣下された人は何人か居たけど。
個人的には、女院より軽い准三后に後からってのは
ちょっと無いんじゃないかなぁって思う。
22 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:53:23
>>17 出家して法名がある大臣の場合、伝統的に
死後贈名はないんじゃなかったっけ?
庭田長賢は生前、出家しているんだよね。法名は、祐紹。
逆に、娘の朝子の院号が父親のものと混同された可能性は?
朝子が院号を受けなかったと言うことよりも、
出家大臣である長賢が贈名を受けたことのほうが考えづらいけど。
また、「蒼玉院」が長賢の贈名ではなく、
長賢が所有する建物に由来して呼ばれた生前の通称であった場合、
女院号もまた女院御所に由来してつけられることが多いため、
父から娘へ邸が伝領された場合、
庭田父娘がいずれも生前「蒼玉院」と呼ばれる場合もある。
いずれにしても、長賢の称と、朝子が女院号を受けたかどうかは別問題。
史書も父親の通称と、娘が女院であるかどうかを混同することは無いはず。
>>22 いや、長賢は生前は権大納言。
寛正3年8月21日権大納言、同28日出家。
文明19年1月18日薨去。贈内大臣、号蒼玉院。
詳しいことは知らないが、
死後大臣を贈られた場合は贈名はあるんじゃないか?
後花園天皇外祖父である右少将庭田経有も、
生前出家して法名明尭、死後贈左大臣従一位号宝勝院とある。
それと、気になるのが蒼玉門院の「門院」の部分。
蒼玉門というのは実際にあったのか?
あったのなら門院号が宣下された可能性も高いが、
もしそういう門がなかったのなら
やはり父長賢の蒼玉院と混同された可能性が高いと思う。
従来、門院号はすべて大内裏の門から取っているし、
院号の場合は東三条院のように建物名の「殿」を「院」に変えるか
高陽院のように建物名をそのまま院号にしている。
「東三条門院」や「高陽門院」とはなっていない。
朝子の女院号が「蒼玉院」ならまだ分かるが、
「蒼玉門院」というのは不可解。
これはあくまでも蒼玉門が無かった場合の話ではあるが。
>>23 すまん、庭田経有の贈名の史料が見つからなかったが、何だろう?
同時代(室町時代)の例では、生前大臣に上った人が出家、法名を受けた場合、
死後、贈名はされない(摂関家などを調査)。
同時代の贈大臣の例をあまりみつけられなかったのだが、
平安時代などは贈大臣が贈名を受けることは無かった(藤原済時など)。
蒼玉門を調査したところ、大内裏、内裏、朝堂院、豊楽院には該当なし。
もっとも、この三つに該当しない女院号にはほかにも
吉徳門院(万里小路栄子・正親町天皇生母)がある。
こちらは父万里小路賢房に死後大臣は贈られず、贈名もない。
何と混同したのだろう・・・?
>>24 史料ではないが「系図纂要」に庭田経有の贈大臣について書いてある。
文安元年5月6日贈左大臣従一位、号宝勝院。
(同年4月に娘幸子が准三后になったのと関係していると推測)
系図纂要が何にもとづいて書かれたのかは、
今は手元にないため確認できず。
室町期の贈大臣は、日野流や勧修寺流の名家にも見られるが、
出家→没→贈大臣→贈名というパターンは、確かに庭田経有にしかない。
したがって宝勝院が贈名ならかなり特殊なケースではある。
それから、吉徳門院も蒼玉門院と同じく院号宣下の日が不明?
史料が欠如しているということなのか。
こちらは法名か何かと混同した可能性があるのでは。
吉徳門院の法名は伝わっていないようだが。
何にしても、同時代の他の女院には院号宣下に関わる史料があるのに、
蒼玉門院(と吉徳門院)だけは無いというのも不思議な話なので、
それはやはり院号宣下自体がなかったということではないかと。
26 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 11:33:07
なまみこ物語最高です。
27 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:21:25
>>25 吉徳門院は生前出家していないため、法名はない。
女院の法名といえば、如観とか、清浄智とか、清浄妙、理知覚とか。
吉徳という法名は考えずらい。
そもそも出家してないが。
28 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:10:33
なまみこ物語最高です。
29 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 18:17:39
藤原定子さま。。。すてき。
30 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 15:30:35
(´∀`∩)↑age↑
31 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:57:07
なまみこ物語最高です。
32 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:06:02
なまみこ物語最高です。
33 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 00:46:02
age
34 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:37:03
園光子を語れ
35 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:56:28
園光子(1602〜1656)
参議園基任女。はじめの名は継子。後水尾天皇に出仕、京極局と呼ばれる。
徳川和子が入内して以来、徳川秀忠の意向により後水尾天皇には局衆(側室)が認められなかったが、
寛永6年11月8日、女帝の明正天皇が践そ、寛永9年正月24日、大御所徳川秀忠もなくなると、
男子がみな育たなかった東福門院(徳川和子)の許しにより局衆が認められる。
継子は4歳年上の後水尾上皇に召され、寛永10年3月12日、32歳のとき素鵞宮を産む。
以降、寛永11年閏7月11日、守證法親王(青蓮院門跡・天台座主)、寛永14年9月25日、滋宮(大聖寺門跡)、
寛永16年2月8日、谷宮(霊鑑寺開祖)、寛永18年6月28日、桂宮(夭折)を産む。
寛永19年12月15日、素鵞宮が親王宣下を受け、紹仁(つぐひと)親王と称したため、
生母の名継子(つぐこ)と読みが重なるという理由で光子と改名。
寛永20年10月3日、紹仁親王が践そ、後光明天皇となる。
承応3年9月20日、後光明天皇が22歳で早世。
同10月5日、後水尾上皇の院宣により准三宮となり、院号宣下。壬生院と称する。
同6日、後光明天皇に準じて出家。明暦2年2月11日、55歳で没する。
36 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:49:20
・・・後水尾 年増が好きなんだよな
そして局連中より若い中宮はその後置き去り・・・
38 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 04:28:04
和子は何かで病気になりお褥辞退をしたと読んだ
>>38 徳川和子は14歳で入内、17歳で第一子の興子内親王(明正天皇)を産んで以来、
28歳までの11年間に二男五女の七人の子を出産している。
現在でも出産は苦しいが、当時の出産の危険性は今以上だった。
おそらく父徳川秀忠存命中は孫を天皇にしたい父の意向により
和子が子供を産むのをやめることは許されなかっただろうが、
父の死後は辞退したとも考えられる。
和子はその代わり、側室が産んだ後光明天皇、後西天皇、霊元天皇を
養子にしている。
徳川和子は72歳まで生きているし、このとき病に伏せっていたという記録もない。
>>36 後水尾天皇の愛妾であった櫛笥隆子(逢春門院)も、
28歳で八重宮(宝鏡寺門跡)を産んだあと、
寛永10年(30歳)皇子(夭折)
寛永11年(31歳)光子内親王(林丘寺開祖)
寛永14年(34歳)良仁親王(後西天皇)
寛永16年(36歳)性眞法親王(大覚寺門跡)
寛永17年(37歳)摩佐宮(夭折)
寛永18年(38歳)柏宮(宝鏡寺門跡)
30代で6人出産している。
41 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:27:57
>>40 櫛笥さんって40代でも出産していなかった?
>>41 すまん。不用意に30代で切ってしまっていた。
櫛笥隆子は40代でも出産している。
40のレスの続き。
寛永20年(40歳)穏仁親王(八条宮を継ぐ)
正保4年(44歳)道寛法親王
合計五男四女。
43 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 15:55:44
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
皇室の伝統と権威を破壊している東宮一家(小和田王朝)廃嫡に立ち上がろう!
(盆暗・仮病・ロイヤルニート・祭祀しない・公務しない・静養ばかり・遊びばかり)
・ 東宮一家の提灯記事が掲載されている週刊誌は購入しないようにしましょう。
(提灯記事はコンビニや書店等で立ち読みで済ませる:批判記事は応援買い)
・ 東宮一家の提灯記事が掲載されている週刊誌を銀行・美容院・病院などで
見かけたら『ロイヤルニート雅子』または『雅子は仮病』と書いておきましょう。
・ ニュースやワイドショーで東宮一家のことが放送されたら『気分がわるくなる』
『とても不愉快だ』とTV局にクレームを入れ東宮一家の不人気を伝えしましょう。
・ 皇室には敬意を感じる。天皇皇后両陛下や秋篠宮一家・皇族方は敬愛するが
東宮一家は嫌いだ。特に雅子妃は嫌いだと周囲の人達に伝えクチコミしましょう。
・ 東宮一家の廃嫡に賛同する人は他サイトの数多くの掲示板・ブログに投稿して
宮内庁やマスコミ(TV局・新聞社・雑誌社)にも積極的にTEL・メールをしましょう。
・ 東宮一家の提灯記事を掲載する女性誌に真の国民の声(怒り)を届けましょう!
女性自身
[email protected] 週刊女性
[email protected] 又は
[email protected] 女性セブン
[email protected] 決意の公務ヤルヤル、政府高官夫人・旧宮家関係者など妄想・偽装記事を掲載。
(記事の中で登場する匿名者は東宮擁護用に女性誌が生み出だした架空人物)
東宮御所は外務省出身の売国奴ばかりで小和田機関の伏魔殿に成っている!
このままでは皇室に対する国民の敬愛が深く静かに傷ついていく。(行動を!!)
45 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 21:05:24
>>44 皇室を叩くのでなくて三枝夕夏を叩けばいいのに
46 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 23:16:09
言えてるね
47 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 04:49:30
幕末以前の、皇后・国母・女院を語るためのスレで
現代の皇室批判かぁ。
同じ批判なら、臣下出で初の皇后になった、安宿媛の
批判とかしない?
48 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 09:35:57
>>47 皇室全体をたたいているのではなく、雅子さまたたき。
2ちゃんねるの「天皇」「皇室」「皇后」とつく
あらゆるスレに出入りしてコピペを一日中貼りまくり。
雅子さまたたきがしたいだけで、
日本史に対する興味も知識も全くない人なので、
スルーしたほうがいいよ。
日本史板の住人でもないし。
安宿媛って皇后になってからも藤原と名乗ってなかった?
50 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:03:57
>>49 そうだよ。光明皇后に限らず臣下出身の皇后はみんなそう。
皇后はある意味天皇と同列ではあるけど、明治以降の皇室制度とは違って、
皇族出身の皇后以外の臣下出身の皇后は、みな皇族には含まれない。
臣下出身の親王妃が位を貰う時でも、藤原〜子とかの名で貰う。
51 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:12:22
皇族妃や皇女に関しては明治以前の制度のほうがいい。
皇后に諡号とかなんか変だし、内親王が降嫁しても
一代限りで○○内親王のままのほうがいい。
52 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 09:19:06
>>49 夫婦同姓、つまり嫁入りすると姓が変わる、というのは
明治時代に始まった戸籍法から。
つまり、それ以前は嫁入りしても婿入りしても姓は変わらなかったんだね。
源氏物語で、源氏に嫁いだ女三宮が、父朱雀院の願いもあり、
二品から一品に昇進するという話がある。
女三宮が源氏に嫁いでも臣下にならず、内親王のままであり、
親王としての叙爵を受けることもできたことが分かる。
53 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:32:38
>>49 藤三女(藤原氏の三女)って、ずっと署名してたもんね。
女性として、今の戸籍法は、自分の生まれとか育ちを
否定(そこまで強い意味じゃないけど)されるみたいで
ちょっと不快。
だから、結婚した時に、私が戸籍筆頭者になりました。
話は変わるけど、嫁いでも、姓が変わらないけど
やっぱり、養女になったら、姓は変わるんだね。
(原女)子女王→藤原(原女)子
みたいに。
猶子は、姓は変わらないのに。
養女と猶子の違いが、遺産の贈与に関わる事
にしか違いが分からない。
詳しい方、違いを教えてください。
54 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:45:37
平安時代までは養子と猶子の区別が明確ではなかったともされるけどね。
養子は養親の実の子同様の扱いを受けること。
家督を継ぐ、遺産を継ぐ、
養親を扶養し、末代まで養親を代々供養する、などの義務を負った。
家督を継ぐことから姓も養親のものを名乗った。
猶子はこれより緩く、疑似的な親子関係。
養子のように実親との関係を断ち切るものではなく、戸籍も実親のところに入れられることが多い。
親を早くに亡くした子供を親戚筋のものが猶子として官位の昇進や婚姻を助けたりするときに
用いられた方法。
摂関政治上、多くの娘を持つことを余儀なくされた摂関家では、
養女をとる場合も多かったが、
養女と実親の関係を維持したままでは不都合があったのだろうね。
敦康親王を実父とする嫄子女王は藤原と改姓しているし、
源顕房を実父とする賢子も藤原と改姓している。
55 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 06:25:29
>>53 署名は藤三女じゃなくて、藤三娘(とうさんじょう)でしょ。
改姓し正式養子女になると、実親の喪に服する事ができないと言いますね。
現代結婚に際しての改姓は、あなたのように不快に感じる女性は少数だけど、
男性にとっては、通常はとても不名誉でつらい事。
その慰撫・見返りとして、世間並みにかなりの経済的メリット条件を、
新婦側から新郎側にきちんと提供しましたか?
56 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 09:13:51
>現代結婚に際しての改姓は、あなたのように不快に感じる女性は少数だけど
>男性にとっては、通常はとても不名誉でつらい事
それはあなたの勝手な思い込みですね。
女性にとってもこれまで育ててくれ、自分の中に流れる血である
実家の姓を名乗れなくなるのは悲しいこと。
それに、男性にとって不名誉というのは意味不明ですね。
婿養子になると出世が遅れたり、給料が下がったりするのですか?
経済的見返りをよこせって、経済的なデメリットが生じてはじめて
話し合う余地があるものでしょう?
まもなくここはフェミ乱闘会場となります
58 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 10:23:42
>>55 女性にだって不快で辛いことですよ。
戦前のように、女学校出て直ぐ結婚なんて時代じゃなく
社会に出て30年近くも名乗った姓を変えなくてはならないのですから。
>の慰撫・見返りとして、世間並みにかなりの経済的メリット条件
それなら、男性のほうも改名してくれる女性に特別な
経済的メリット条件を与えなければなりませんね。
今時、女性が男性に養ってもらわなくて生きていけない時代じゃありませんからね。
なんか
>>56=
>>58は言葉の解釈ができないでいるな。
>>55の言う1番の要は多数か少数かと言う事だろ。
改姓するなら結婚をためらうほどの女性は少数に違いないだろ。
「不名誉」は経済的なデメリットじゃなく職場・同窓会・親戚から揶揄されたり
一生少数派である「婿養子・逆玉」という陰口に耐えていかなきゃならない事だろ。
婿養子の場合にはそれに見合った経済的な恩恵がないと
たとえ本人はよくとも親兄弟が承知しないケースが多いのが現代でも実情。
スレ違いの話題はここで打ち切り。
61 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 12:08:38
>>60 >改姓するなら結婚をためらうほどの女性は少数に違いないだろ
ふうん、男の大部分は改姓するくらいなら、
好きな女性と結婚せずに一生独身でいるわけね。
>「婿養子・逆玉」という陰口に耐えていかなきゃならない事だろ
そんな陰口いうのは君だけだよ。
>スレ違いの話題はここで打ち切り
そうね。自分に都合のいい解釈で終わらないようにね。
55=60君。
62 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 13:46:54
天皇陛下と周辺は皇太子殿下をあきらめ、秋篠宮殿下擁立へ舵を切ったと思われる。
今のまま皇太子殿下の治世となれば、皇室が危機に晒されることは間違いないからだ。
天皇陛下に残された時間も多くはない。公務忌避などを理由に秋篠宮殿下の摂政就任
をまず目指すのではないか。福田政権は長くはない。その後麻生政権でも誕生すれば、
皇室典範改正などの準備も始められるのではないか。
63 :
53:2008/03/03(月) 22:00:58
すみません、不用意な発言をしました。
ちょっと荒れ気味なので、弁明します。
私の家は、一応歴史のある家なんですが、戦争で資産が
全部無くなってしまったので、資産は、無いんです。
ただ"家"制度の都合上苗字を引き継ぐ人が必要だったので
母は婿養子(いわゆる逆玉系の婿養子です)を取りました。
ここでの婿養子は嫁ぎ先の親とも養子縁組を行います。
これは遺産相続の関係だと母から聞きました。
で、私の場合は、私の家の後継ぎはいますし、改姓にも
そこまでの抵抗は無かったのですが、ちょっと特殊な苗字
なので、仕事で作った印鑑などが不用になったりするのが
もったいないと婚約前に言ったら、私の苗字に改姓する
事に前向きだと、今の夫が言ってくれたので戸籍筆頭者に
私がなりました。ですので、私の親とは養子関係に有りません。
ただ夫的には、珍しく分かる人には分かる歴史のある苗字は
ある意味メリットだそうです。
改姓後は前の部署をまでは、旧姓で仕事をしてましたので
あまり不便ではなかったそうです。
たまに、何で?ってしつこく聞く人はいるそうですがw
ちなみに、改姓、婿入りについて親戚兄弟から非難ですが
面倒なのか、近い人にしか言ってないそうです。
長男でしたから、非難する人は確かにいるとは思います。
しかし、当人とその親が納得しているのです。
たとえそれがマイノリティでも、受け入れていれば、問題は
無いと思います。
64 :
53:2008/03/03(月) 22:01:25
続き
今回の発言は、猶子と養子の違いについての質問だったので
ちょっと引き合いに出してしまいました。
スレを荒らす結果になって申し訳なかったです。
65 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 11:00:49
天皇陛下と周辺は皇太子殿下をあきらめ、秋篠宮殿下擁立へ舵を切ったと思われる。
今のまま皇太子殿下の治世となれば、皇室が危機に晒されることは間違いないからだ。
天皇陛下に残された時間も多くはない。公務忌避などを理由に秋篠宮殿下の摂政就任
をまず目指すのではないか。福田政権は長くはない。その後麻生政権でも誕生すれば、
皇室典範改正などの準備も始められるのではないか。
67 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:35:57
過疎ってる
68 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 10:56:43
>>65 皇位を継承予定の第一皇子の廃太子は小倉事件の済深法親王以来か。
どうでもいいけど、雅子妃以上に公務をしてない
三笠宮の長男嫁も麻生政権では公務忌避を理由に皇室から追い出していただきたい。
69 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:07:38
信子妃は夫がアル中DVで別居してんだろ
DV裁判で取れるものがとれればすぐにでも離婚するだろう
外聞が悪いからアル中殿下が渋っているだけ
皇族って離婚出来たっけ?
71 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 02:26:44
昔はともかく今は出来るんじゃない?
三条天皇の女御の藤原綏子とかさ、添臥で入内(?)してたのに
いつのまにか寵愛は藤原済時の娘に取られて、その後に
密通事件起こして懐妊?したっぽいのに、離婚しなかったよね。
昔は出来ないものなのかな?
里第にちっ居してるだけで、身分の剥奪は無い物なの?
72 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:52:51
妃の身分を失ったり、事実上の離婚だった例はあるけどね。
高津内親王(嵯峨天皇妃)
夫の生前、妃の身分をはく奪(理由は明らかでないが、密通?)
藤原高子(清和天皇女御)
夫の没後、僧との密通発覚で皇太后剥奪
紀竈門娘 ・石川刀子娘 (いずれも文武天皇嬪)
夫の没後、不貞を働いたという理由で嬪をはく奪
藤原綏子は東宮妃時代のことで妃としての称号は受けておらず、
女官としての尚侍の身分のままだった。
仮に現役の天皇妃で女御などであったら称号をはく奪されたかは別問題だけどね
73 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:40:16
>>70 できる
皇室典範
第十四条 皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、
その意思により、皇族の身分を離れることができる。
3 第一項の者は、離婚したときは、皇族の身分を離れる。
74 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:24:33
スレチだが高津内親王の息子は池沼?だったらしい
異母兄弟の結婚なので無理もないが
75 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 01:36:49
高津内親王の妃はく奪って、橘嘉智子の立場強化対策?
それなりの身分で、皇子が居たのってこの二人だし。
後ろ盾はしっかりしているけど、身分の軽い橘家の
娘だから、内親王は邪魔だった?
そもそも、橘嘉智子なんて、皇后になれる身分では
ないはずだから。
72の紀竈門娘・石川刀子娘のはく奪も藤原宮子の立場の
強化対策な感じがする。
74の意見はなんか聞いた事あったけど、真偽不明?
桓武天皇の自身の子供同士をくっつける作戦は
体の弱い子供が多くて実質失敗だったのはなんかの
資料で読んだような気がする。
76 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 08:23:02
>>75 橘氏は橘奈良麻呂の乱で失脚して以来、はっきりいって落ち目。
嵯峨天皇にはほかにも夫人たちが大勢いて、
たとえ高津内親王が失脚しても必ずしも嘉智子が正妃の最有力候補
というわけではなかった。
薬子の変の勝利で、一手に政権を掌握した嵯峨天皇の意向だろうね。
橘嘉智子は有名な美人で、モデルにしたという仏像も残り、
嘉智子の立后は嵯峨天皇の寵愛の賜物だったと思われる。
74はなんともいえん。
聖徳太子の両親だって異母兄妹。
巷で言われるほど近親婚というのは影響が出ないらしい。
この例に限らず、天皇家も藤原氏も同族婚ばかり。
それでまともな人も多い。
77 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:59:13
>>79 待賢門院は崇徳、後白河両天皇と上西門院らを生んだけど
体に障害の有った子供も2人生んでるよね。
確か"萎え宮"とか呼ばれてた、起き上がる事の出来ない子供。
鳥羽天皇とは従兄弟同士だけど、こういう子供も出来ちゃう。
確率論よりもタイミングなんだろうな。
別の板で、ある叔父姪の内縁婚で、生まれた子供は
みんな美形+秀才なんだって。
78 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:04:34
待賢門院にはまともな子供もいたわけだし、
近親婚でなくとも障害児は生まれるしね。
歴代のおかしな(?)天皇がみな近親婚の両親を持つわけではないし、
歴代の賢帝の中にも両親が近親婚である例は多い。
79 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:16:06
建礼門院徳子が九郎判官義経に犯されたってのは史実な
80 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:23:34
建礼門院徳子が九郎判官義経に犯されたってのは史実なの?
81 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:25:33
82 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:14:31
>>77 その「萎宮」は次男だけど体験門淫は「盲宮」なる三男も産んだらしい
ちなみに次男と三男は年子
あと長女か次女かどっちかわすれたけど夭折した娘がいるはず
83 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:33:02
>>82 体験門淫wエロいよ!
夭折したのは長女の禧子内親王だね。
デキレースの卜定で次女の統子内親王(上西門院)の後に斎院に
なるも、翌年夭折しちゃった人。
ちなみに、結構前半期は華々しい印象の待賢門院も
1124通仁親王(萎宮)誕生
1125君仁親王(盲宮)誕生
1129通仁親王(萎宮)夭折
1133禧子内親王夭折
と連続して自身子に不幸が訪れてる。
こう見ると、なんとなく高慢ちきな印象の待賢門院に同情するよ。
84 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:49:26
85 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 03:13:51
船上で徳子を存分に犯してぇー!
86 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 08:05:52
>>83 子供の夭折はこの時代珍しいことではない。
待賢門院から鳥羽上皇の寵愛を奪った美福門院も、
所生の叡子内親王が14歳で、近衛天皇が17歳で早世している。
また、待賢門院腹の禧子内親王は鳥羽上皇が鐘愛した皇女で、
内親王が不予になると度々鳥羽上皇は皇女のもとへ自ら行幸している。
待賢門院の子は崇徳天皇、後白河天皇、上西門院、覚性法親王が成長、
待賢門院の血は現代の天皇家にまでつながっている。
87 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 18:59:14
>>86 ただの夭折じゃないよ。
障害を持った子供が立て続けに生まれて、そのうち1人が
魚味始の儀が終わっった頃に死んじゃって、娘は病で斎院を
退下、そしたら今度は、別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった。
待賢門院以外の子供で「障害者だった」記録に残ってる子供っている?
88 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 19:36:07
盲目だったことがわかっているのは
桃園天皇皇子伏見宮貞行親王
精神異常は冷泉天皇だの後朱雀皇女禖子内親王だのいるけどね
皇族の夭折は多いが死因や状態は必ずしも記録に残っていないものも多い
待賢門院の2人の皇子は親摂関反後白河な勢力によって記録されたようだけどもね
娘のほうは障害はなかった。
>娘は病で斎院を 退下、そしたら今度は、
>別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった。
これは何か勘違いをしているよね?
待賢門院の娘は禧子内親王と統子内親王(上西門院)の2人だけ。
このうち上西門院は後白河法皇に重んじられて64歳まで生きた。
禧子内親王は10歳で賀茂斎院になり、在任中に12歳で没した。
89 :
83=87:2008/03/18(火) 01:13:53
>>88 書き方おかしかったか?
先に上西門院が齋院になってて、病気になってしまった。
>そしたら今度は、別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった。
卜定で長女の禧子内親王が決まったけど、1年余りで亡くなりましたとさ
って意味だったんだけど。
分かりにくかっらたすんまそん。
やっぱり、記録の残る皇族といえどもマイナス記録は
あんまし残らないのか?
精神がおかしくなるのは、後天的な事もあるから一概には
言えないけど、身体は割と先天的なトコが大きいから
ちょっと気になった。
精神異常じゃないかもしれないけど、具平親王の三女も凄いよね。
酒の力で斎宮自ら託宣ってw
斎宮とか、齋院って圧迫されてて心も体もおかしくなるのか?
90 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 05:17:37
91 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 07:59:08
過疎地
92 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 02:07:00
age
93 :
日本@名無史さん :2008/04/07(月) 02:09:49
2002年、2003年 アジアジュニア柔道選手権 優勝
2003年、全日本ジュニア選手権 優勝
2004年 全日本高校選手権 優勝、韓国国際柔道 優勝、福岡国際柔道 3位
2005年 チェコ国際大会 優勝
2006年 ポーランド国際 優勝
2007年 オーストリア国際 優勝、アジア選手権大会 優勝、東アジア国際柔道大会 優勝
2008年 ドイツ国際 優勝、全日本選抜体重別柔道選手権 優勝
この成績でも山岸はオリンピックに出られません
ただ、不細工な谷が同階級だというだけで
94 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:47:22
谷は今年の北京が最後だろ。今年33歳になるし。
スレチだが。
序に書くと、山岸さん大会出場の数が多いので、、、、
出場大会の内でのメダル獲得率とか調べて、
谷と比較してみてよ
どう考えても、谷選ぶから
96 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:40:04
age
谷亮子ブサイブサイ
98 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:48:03
5/16の読売新聞!34面真中ちょっと下!
誰も見てないの?
ここのスレでスルー?
そんな、事無いよね?
旅行から帰ってきて、新聞見たら泣きそうになったよ。
押売り新聞とってないし
思わせぶりはやめて、はっきりと書け
101 :
98:2008/05/20(火) 00:18:46
>>99 (福)を知らんのか?
あぁ、ここ日本史板か。
(福)の為にウチは読売なんだよ。
本当は日経が良いのに。
>>100 &ALL
角田文衛氏、亡くなられたよ。
死因は無かったから、たぶん老衰だね。
享年95歳。大往生。
読売には、訃報欄の少し上に写真付で載ってた。
男は黙って産経新聞(笑)
104 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 01:45:34
「日本の後宮」の著者の訃報をスルーとは
このスレの意味無いじゃんw
KYでごめん
二条天皇の中宮高松院が僧侶と密通した話ってほんとかな??
106 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 07:51:04
当時の日記に載ってる記事だよね。
玉葉だっけ?
>>106 『玉葉』建久2年(1191年)4月24日条ですね。澄憲(藤原信西の子)の
真弟子(実子)である海恵が、守覚法親王より灌頂を授けられた記事の中の
「高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之」
それにしても、高松院は姉の八条院に比べると影が薄いですね。個別研究も
角田文衛氏の「高松女院」(『王朝の明暗』所収)の他に見当たらない。
角田文衛氏、お亡くなりになられたんですか・・・。御冥福をお祈りします。
109 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:00:43
八条院高倉も高松院の隠し子説がありますね。
突然出家したり中々面白そうな人だ。
>>109
八条院高倉のことは知らなかった
調べてみたよ、勉強になった
女院で密通の噂があるのって、高松院・月花門院・建礼門院・承明門院・
神仙門院ぐらいしか知らないけど、他にいるかな?
113 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:32:42
>>112 待賢門院。
あれって、論破されたんだっけ?
>>113 忘れてた/(^0^)\ 有名どころなのに…
レスサンクス
115 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 19:47:01
上尾!
116 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 19:59:59
定子様の皇子が長生きしてもっと子供を生んでいればよかったのに。
117 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:20:45
なまみこ物語、涙しました。
118 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:57:25
あんまり定子、定子言うと定子厨って言われるよ
119 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 17:01:02
彰子のほうがよっぽど魅力的
定子厨うざい
120 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:03:26
>108
鳥羽上皇に最も愛されたのが八条院だったからね。
鳥羽院に偏愛癖があったのか、美福門院の皇女たちの中でも
特に八条院が寵愛されて莫大な荘園が譲られた。
その荘園の利権をめぐって院や摂関家、武士たちが動くわけだけどね・・・
腹違いの兄弟もわけ隔てなく邸へ呼びいれる
大らかで肝の座った皇女だったみたいだけど
たしか汚ギャルの走りだったんだっけ>八条院
建春門院平滋子が亡くなって八条院の館にとらばーゆした女官が
あまりの屋敷の汚さとお仕えする人々の衣裳のはちゃめちゃさに呆れてたとか
122 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:55:09
藤原定家の姉健寿御前による「たまきはる」だっけ
清少納言の枕草子と同じく死んだ女主人を称える日記だから
今は亡き建春門院の追悼に明け暮れて八条院はぼろくそ言ってるけど
建春門院が後白河院の寵愛を失わないように
いつも部屋を掃除させて(これはともかく)
いつ院や上西門院(後白河姉、建春門院の元女主人)が来てもいいように
自分も女房たちも常に正装を着て控えさせくつろがなかったというのも
一歩間違えれば堅苦しい女性だけど。
123 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:26:06
枕草子での以上天皇の定子への天衣無縫の寵愛には感動したー。
124 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:40:46
>>112 密通した女院
現在一次史料で確認ができるのはその中では高松院(玉葉)。
待賢門院は鳥羽天皇との結婚前に密通していたことが「殿暦」で確認できる。
(相手は後白河院ではなく別の男)。
月花門院の史料は「とはずがたり」だけど、こちらは一次資料の扱いはされてはいない模様。
神仙門院(後堀河天皇皇女)は後嵯峨院との密通の末皇女を産んだが子供はこっそり後嵯峨に引き取られ、
「増鏡」によれば別の男性との子供を産んだ際没したとある。
承明門院は「愚管抄」に通親が母が死んだあと寵愛したとある
まあ慈円は通親と争った兼実の同母弟だから醜聞も書きたくなるわけか
建礼門院の密通はデマでしょう。
125 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:13:46
(´∀`∩)↑age↑
126 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:17:14
定子様のひ孫、祐子内親王が入内していれば、定子様の血が今にも・・・・
127 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:39:36
定子 25歳で難産のため死去
嫄子 25歳で難産のため死去
父方の祖母、実母、いずれも難産で若死に
難産の家系だから祐子内親王も産で若死にしそう
>>124 「玉葉」は信用できても、「愚管抄」は信用できないの?
後白河は息子でしょ、と、とりあえず突っ込む。
129 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 10:22:37
>>127 定子は祐子の父方の祖母ではなく女原子の父方の祖母ジャマイカ?
それとスレ違いだが女原子の母親は夫の死後どうなったんだ?
130 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 15:35:34
祐子内親王は、一品だったの?
131 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 16:17:00
祐子内親王は准三宮にはなったけど一品じゃないよ
後朱雀天皇の皇女で一品に叙されたのは
第一皇女の良子内親王だけ
だいたい叙位は姉妹順であるために
一品になれるのは后腹の第一皇女であることが多いよね
132 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 02:01:38
>>129 たしか、隆姫女王のところに身を寄せて、その後亡くなったって
なんかで読んだ気がするけど、うろ覚え。
133 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:47:54
八条院並みに財力のあった内親王って誰だっけ?
宣陽門院かな?
135 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:38:18
>>129 祇子女王
具平親王(村上天皇第七皇子)の次女。
母は為平親王(村上天皇第四皇子)女。
1009年、父具平親王が亡くなった時、祇子女王らはまだ幼く、
妹弟らとともに兄弟姉妹の中で唯一結婚していた長姉の隆姫、
並びに隆姫のもとへ入り婿し同居していた姉婿藤原頼通の庇護を受ける。
1013年、養父藤原頼通の勧めでその姉上東門院彰子の庇護を受ける敦康親王と結婚。
敦康親王が祇子女王のもとへ入り婿し、頼通とは婿同士同居の形をとる。
1016年、一人娘の嫄子女王を出産。
1018年、夫の敦康親王没。
祇子女王は夫の死後出家し、嫄子女王は頼通、隆姫夫妻の養女として養育される。
祇子女王はその後も姉の隆姫らと同居し、娘の嫄子女王より長生きをしている。
(摂関家の行事に姉の隆姫らとともに出席している史料がある)
136 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 02:26:30
>>134に同意!
あの時代は、八条院領と、上西門院領、宣陽門院領、が有名。
八条院領は鳥羽帝と美福門院の遺産ほとんどだったと思う。
けど、なんだかんだと、兄弟とかに周りに人にむしられてた感じ。
>>108 >>122 の通り、大らかで、あまり何事にも気に留めない
性格の女性みたいな、印象です。所領は春華門院に譲られました。
上西門院領はちょっと不明orz
多分、後白河院からじゃないかと思うけど分からん。
最強なのは、長講堂領を持ってる、宣陽門院かな?
たしか、上西門院領も相続してたと思う。
この三女院の中で、生母が国母ですらなく、妾な訳だがw
長講堂領は宣陽門院→鷹司院(異論ありで、上西門院領のみ相続)
→後深草院→持明院統流の人たち の流れです。
あの人たちの財源がコレですw
でも、宣陽門院は、財力はあったけど、存在感が
薄すぎます。お母さんが強力すぎたからw
丹後局は好きだけど。
彼女亡き後は、養女の近衛長子(鷹司院)を入内
させたりはしてるけど。
137 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 02:32:52
ごめん、
>>108じゃなくて
>>120だ。
美人度だと、個人的に
上西門院>宣陽門>八条院な感じ。
美福門院があんまし美人に見えないから。
138 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:02:55
宣陽門院が成人した頃世はすでに鎌倉幕府成立後、
よって八条院ほど歴史の表舞台に出ることはなかったが
宣陽門院も父後白河法皇から与えられた膨大な荘園(長講堂領)によって翻弄される。
まずは宣陽門院に院別当として近侍していた源通親。
通親が院別当になったのは母丹後局の後押しであろうが、
通親が宣陽門院別当として力を付けて行ったのは見逃せない。
次に、後鳥羽天皇が宣陽門院の莫大な荘園に目をつけ、
自分の皇子雅成親王を宣陽門院の養子にあてがった。
雅成親王は承久の乱の首謀者の一人とされため、長講堂領は承久の乱時、幕府が没収している。
そののち幕府は長講堂領を宣陽門院に返したが、
宣陽門院が養女の近衛長子にこれらを譲ろうと図ったが
もともと天皇家の財産であると主張する後深草天皇によって宣陽門院の死後没収され、
長講堂領は後深草天皇の子孫である持明院統が所持することになる。
139 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 10:28:40
上西門院って、割と知らない事が多い。
「たまきはる」は読んだけど、それ以外の資料が無い。
枕草子だと、研究者も一杯居るんだけど、上西門院は
そんな資料を見かけない。
記憶にあるのは、角田文衛の「平安の春」にちょっとだけ
触れていた事くらい。
ご存知の方いらっしゃいますか?
たぁ丸(*^_^*)
141 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 20:36:05
有名な女院や皇后、中宮であっても枕草子ほどのものが
残っていることは稀だよ
逆に枕草子が残っていなければ皇后定子はあれほど後世
高評価を受けることもなかっただろう
上西門院は政治の分野においては割と著名
後白河法皇にとって成人するまで生き残っていた同母兄弟姉妹は
互いに争って流罪に処した長兄崇徳上皇を除いては
上西門院だけであったためにこの姉とは相当仲が良かった
永らく弟後白河法皇とは同居していて
木曽義仲が後白河法皇を攻めた法住寺合戦では
法住寺殿から難を逃れていることも知られる
後白河法皇の寵妃にして高倉天皇生母である建春門院(平滋子)は
もともと上西門院に仕える女房でここで後白河法皇に見染められている
上西門院兵衛なんていう女流歌人が仕えていたりするけどね
142 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 23:47:43
上西門院の女房といえば、あの源頼朝の母親が仕えていた可能性があるらしいね。
頼朝が伊豆に流罪になったのも上西門院周辺の力があったからという説もある。
143 :
139:2008/08/28(木) 20:48:44
>>141-142 ありがとうございます。
たまきはるが貴重なんですね。
手近な研究者や論文が無かったので、質問させてもらいました。
確かに「たまきはる」はマイナーなので、研究者もいなさそうですね。
上の方で、上西門院領が良く分からないってあって
知ってる人は居るかなとか思ったりもしました。
宣陽門院がどういった経緯で、上西門院領を相続してるとか
ちょっと気になりました。(後白河の寵妃の愛娘だから?)
144 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 21:16:16
上西門院は弟の後白河法皇よりも3年早く没
上西門院領はいったんは後白河法皇の所轄に入っている
しかるに後白河法皇は自分の死の間際
末娘にしてまだ成人しておらずかつ
晩年の寵姫丹後局を母とする皇女宣陽門院に
莫大な長講堂領を譲った際に
旧上西門院領も宣陽門院の所領とした
145 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 12:44:37
八条院って汚ギャル?
146 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:28:35
147 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:57:45
周囲が汚ギャルにしたてた。
148 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 21:51:45
スレチごめん
丹後局って、最終的に従二位まで行ったんだっけ?
後白河が彼女にしてやれるのはここまでだったって事?
彼女の前夫(後白河の側近だし)との子供の昇進も関与してそうだけど
ドサクサ紛れに侍り始め、いつのまにか女官、そして従二位
宣陽門院以下の所生の低い母を持つ女院って、他にいるもの?
宣陽門院ってたしか裳儀の後、准三宮で3年後位に女院宣下
待遇が凄いって思うけど、そういったほかの女院(内親王)っているもの?
149 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 22:43:03
>>148 卑母を持つ女院は結構いる
母親が女官で
中宮の養女になったり
同母兄弟が天皇であるために女院になれた例を除けば次のような例がある
・和徳門院 (義子内親王.仲恭天皇皇女/母は法印性慶女右京大夫局 )
・五条院(懌子内親王・後嵯峨天皇皇女/母は右馬助藤原孝時女坊門局)
・寿成門院 (女便子内親王・後二条天皇皇女/母は少納言平棟俊の女勾当内侍)
・礼成門院 (孝子内親王・後光明天皇/母は右中将庭田重秀女小一条局)
150 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 06:14:15
>>112新陽明門院は?増鏡に六条某と結構続いたって記述なかったっけ?亀山院と縁切れてるから含まないの?
151 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:16:23
丹後局の同時代の武士サイドの北条政子に負けないキャラだな。
152 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 21:39:57
丹後局は北条政子より上です。
長女大姫の後鳥羽天皇入内を願う北条政子に会っては賄賂を貰い、
政子のために舟まで用意してあげたり、
はたまた政子が大姫を都へ同伴してきた際には
「可愛らしい姫だこと」とお世辞を言って政子を喜ばせまた賄賂を受ける。
しかし大姫を後鳥羽天皇の中宮に立てるには
関白九条兼実の娘中宮任子の存在が何としても邪魔。
丹後局を「身分の低い雌狐が」と軽蔑する九条兼実を政界から追い、
あとは丹後局の皇女宣陽門院の院別当上がりで気心の知れた
源通親を外祖父とする土御門天皇の世に。
153 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 07:14:26
キャラ的な問題だよ。
154 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:06:26
兼実って一条じゃなかったっけ?
155 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:42:54
>>154 九条家の祖だよ。この時代一条家は確か無いはず。
兼実は、玉葉の人。
一条兼良とごっちゃになっていないか?
余談だが、九条兼実の甥に九条兼良(太政大臣兼房の子)がいる。
157 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:09:24
>>154 摂家の一条家は九条兼実の孫九条道家の息子が立てた家。
兼実から見れば曽孫の代だ。
兼実は異母姉の皇嘉門院の猶子となり、皇嘉門院から所領を相続したおかげで
経済基盤を確保することに成功。皇嘉門院は父・忠通や外祖父・宗通から所領を
譲られて裕福だったようです。
159 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:04:14
age
160 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:38:04
>>158 「猶子」は「養子」とは異なり、本来相続権は発生しない。
皇嘉門院が皇室から受けた財産は皇嘉門院の没後は皇室に帰属するし、
里から受けた財産は里の者に伝領される。
尚、皇嘉門院が父忠通から受けた財産の多くを伝えたのは兼実の息子で
猶子としていた九条良通であって、兼実は良通の父親であっただけ。
皇嘉門院は忠通の正室藤原宗子の唯一の子であり、
その意味からも忠通や宗子の遺産の主なものを受け継いでいたようだ。
161 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:01:49
孝明天皇の准后(九条家)とは
公武合体、尊皇攘夷で仲が悪かったと聞く。
162 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:37:44
近衛って筆頭なのに藤原じゃないの〜〜〜!
まじで!!
163 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:00:00
形式的には藤原だけど、江戸初期に後陽成天皇の皇子が養子に入った。
しかも戦後はホソカワ君に乗っ取られた。
165 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 18:29:43
藤原道隆が長生きしていれば・・・
166 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:47:41
定子様が・・・
167 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:03:30
このスレも定子厨ばばあの餌食かw
168 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:46:08
本当に、道隆様には長生きしてもらいたかった。
169 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 16:25:28
そうすれば定子様は長生きできた。
170 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 17:55:42
171 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:24:33
>169
定子も密通なんかに精を出してないで
おとなしく尼修業でもして子供を産まなければ
死ななかっただろうね。
172 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:50:50
定子様は一条天皇一筋!
173 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:54:39
尼になってもセックスしまくりの定子
二条第で兄弟と手を取り合いながら孕んだ修子って
いったい誰の子だろうね?
174 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 10:14:30
一条天皇が求めたんだからしかたないじゃん。
175 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:56:29
一条天皇は定子の兄伊周の赦免に最後まで否定的だった。
伊周の入京がなければ定子の参内もないにもかかわらず。
伊周を無理に赦免し、定子を無理に後宮に戻したのは
一条天皇ではなくその母詮子。
詮子は自分の病が伊周や定子の生霊のせいだと信じていたから。
一条天皇は定子が朝命に背いてまで匿い続けた最愛の兄伊周を
戻さず、後宮でその他の妃たちと楽しくやってたんだし。
敦康やび子を妊娠したとき定子はあまり参内をしておらず
彼らが本当に一条天皇の実子なら大変少ない回数で妊娠したことは確実。
一条天皇の胤ではないことが確実な修子はいうまでもない。
176 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:02:32
>>175 お前病院にいって来い。そのうち犯罪犯すぞ。
>>175の上五行目まではまったく正しいことだと思う。
別に病院行く必要はないだろう。間違っていないんだから。
最後の脩子内親王は妊娠十二ヶ月で出産だから確かに種は怪しい。
178 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 10:38:41
179 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 14:32:57
どこの世界で有力なのか教えてもらおうか、犯罪者すれすれのなまみこ婆
有力視されている見解なら論文の一本や二本は当然あるだろ?
180 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 16:02:14
なまみこ物語で一条天皇が定子様の最後会いに行っている。
実際こういうことがあった可能性も高い、だから女一宮は一条帝の子で無問題。
なまみこ物語は創作小説であって資料ではありません。
ここは日本史板、資料を元に語って下さい。
脩子内親王の出生の怪しさは資料によって証明されています。
182 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 20:19:37
なまみこ物語は史実かもしれない。
183 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:06:41
>>176 犯罪犯す寸前のなまみこ婆
いや、本当は爺だったりして?
ずいぶん言葉づかいが違うけど。
184 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 06:32:41
一条天皇が、定子様に「憧れ」から「守る愛」へと変貌して行ったのがわかるね。
185 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 09:11:33
一条天皇と定子様は、道隆死後から結びつきがより強くなったんだろうね。
186 :
名無し:2008/11/25(火) 22:15:24
「川田亜子真相究明まとめサイト」は…?
<みちこ>って名前で連鎖してるな。他にも意図的に?と疑いざるを得ない
事柄が多い。
<みちこ>関連
1.毅の名前の由来の犬養毅関連。
犬養 道子(いぬかい みちこ、1921年4月20日 )、評論家、元首相・
犬養毅の孫。
2.殺された山口美智子さん。
3.殺された美智子さんと同姓同名の薬害肝炎訴訟で実名を公表した山口
美智子さん
4.皇居西、半蔵門(戦国のスパイ、服部半蔵に由来)近くの麹町署に
出頭したことから皇后美智子。
<山口>関連
1.小泉毅の出身地が山口県柳井市
2.初めに襲われ、殺されたのが山口剛彦さん、美智子さん。
<犬>関連
1.「毅」という名前は、父が名付けた。「犬養毅元首相にあやかり、
正しく強く 生きてくれることを願った」という』
2.ペットの犬を保健所で殺されたから。という理由と犬養毅と連鎖
(犬を飼う→犬かい→犬養)
<たけし>関連
1.北野武がTBS夜10時、「情報7days」ってレギュラー番組あるのに、
休んでフジの「たけしの日本教育白書2008」に出演。普通ありえない。
2.「情報7days」と「たけしの日本教育白書2008」の時間帯に、小泉毅
出頭の第一報。
<みちこ、山口、犬、たけし>のキーワードに強引に意味づけしてるように
考えれるのはただの都市伝説か?
>>182 ばーか!
史実なわけねぇだろ。
作者本人が創作小説と言っているんだから。
労災隠しこわい労災隠しこわい隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺されるパワハラこわいパワハラこわいパワハラこわい殺される殺される殺される殺される死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいごめんねごめんねごめんねごめんね死にたい
190 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 12:36:47
歴史読本の皇后・中宮特集があったとき
一条天皇の後宮に関しては
定子>>>>>>>彰子の扱いだった
そりゃ定子と違って彰子は今上帝の祖先の一人だからね、
迂闊なこと書けない。
ただの一天皇の后で終わった定子と皇統を残した国母の彰子の違いだよ。
192 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:20:11
>>190 歴史読本でしょ?
その原稿を書いた人物の主観的なものが入るからね。
史料はともかく、文学面では定子のエピソードのほうが
多いから、感情移入したり、知らない層に説明するのなら
定子を語るほうが楽だし。派手なエピソード多いから、
「読み物」としてはネタに困らず、書く方としても楽だよ。
193 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 16:50:01
定子と彰子どっちが人気あるかといったら定子だろうとは思う。
日本人は半官びいきだし、枕草子の力は偉大。
歴史に残した業績は彰子、人物としての面白さは定子かな。
でも、一条朝の後宮はみんな面白い思う。
目立たない3人の妃たちもそれぞれ個性があって二人に負けてない魅力があるよ。
角田文衛先生は元子一押しだったっけ。
出家したあとで一条天皇の寵を受けた定子の妹御匣殿とか
その御匣殿毒殺疑惑のある義子とか、
一条天皇の乳母子と近い位置にありながら寵の薄かった尊子とか
確かにそれぞれ個性的で面白いね。
特に大臣を父に持つ義子と元子は定子の死後、彰子よりも早く皇子を産んでいれば
立后&皇子立太子も充分に可能だった妃だしね。
195 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:37:09
生まれから行けば、母親も高貴な元子だろうが
妊娠が本当で皇子を産んでいても道長が
いろんな手を使って阻止しただろ!
196 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:06:39
>>195 元子の父顕光は道長の外孫後一条天皇即位、道長の娘三人が立后した後こそ
娘婿の皇太子を守ることができず(小一条院)娘とともに恨んで死んだといわれたが、
彰子の入内前に元子が皇子をあげていたらどうだったろう?
顕光はいろいろ言われるが長年道長の次位につけていた大臣で
伊周ー隆家ほどの馬鹿をやるわけでもなく、出自は道長よりもはるかに良い。
妻の盛子内親王に産ませた娘の元子は一条天皇が荘園を与えるほどの寵愛を見せた女御。
一条天皇が早期に元子の皇子に将来を託す、あるいは
自ら譲位して元子の皇子を東宮につける、などの行動をとれば帝位は確実だった。
この時代、死ぬまで帝位にあり続ける天皇が珍しかったわけで。
逆に没するまで帝位にあり続けた一条天皇は、有力な後継ぎに長年恵まれず、
(敦康親王では譲位は無理)
むやみに三条天皇に譲位すれば皇統が絶える恐れがあった。
再晩年に彰子が立て続けに男子2人を産むまで安心できなかったのだろう。
>>194 道長に阻止出来るだけの権限はないよ。
だから定子を呼び戻したし、彰子立后なんて無茶もやった。
定子・彰子と后として並び立っている限りは、義子と元子が皇子を産んでも
女御のまま立后出来ず、その皇子の立太子を阻めるから。
定子が死んでチャンスが巡ってきたのは、彰子よりもむしろ義子や元子。
一帝二后の前例は道長が作ってしまったから、あとは皇子さえ産めば勢力図を一気にひっくり返せた。
義子も元子も共に父親は大臣でかつ失脚するほどの馬鹿はしてないから、立后は可能だったしね。
彰子が敦成を産むまで道長の権力基盤は盤石どころか運で支えられていた非常に脆いものだった。
198 :
197:2009/01/13(火) 21:39:17
199 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:59:31
元子は美人だったという記録があるよね
200 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:46:00
歴史読本の皇后・中宮特集(昔の)は
表紙の真ん中に定子(想像の絵)があったね。
他は一条美子、光明皇后など
201 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:47:49
今の皇后を除いて好きな后妃ランキングとかやったらトップ10は誰になるんだろうね。
一条朝のみなさんはかなり良いところまでいけそうだけど
奈良や院政期のお后が上位になるのかな?
イメージ先行の光明皇后や定子皇后辺りは入りそうな気がする。
知名度が高い明治から現代までの皇后達もランクインという鉄板レースになるかしら。
知名度が低い鎌倉・室町・江戸辺りは、歴史好きな人しか名をあげそうにないキガス(´・ω・`)
その后妃ランキングをどこでやるかによっても変わると思う。
歴史にさっぱり興味がない人だと、教科書に載っている光明子はともかくとしても
定子は知らないだろう(教科書に載っている枕草子じゃ定子出てこない)から、
近代の皇后あたりに票が集中するだろうし、
歴史好きな人のランキングだと、逆に一般には知名度が低いマイナーどころが票を集めそう。
>>203 定子は日本史の教科書には出てこないだろうが
古文の授業では必須だよ。
枕草子を取り扱わない学校なんてどこにもないからね。
個人的には政治的に無力な定子は
特質すべき后ではなかったと思うけどね。
205 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:51:09
勝手にランキングしてみた
○歴史的に評価からみた皇后・女院ランキング(皇后ののち天皇になったものを除く)
1藤原寧子(女院の院宣により後光厳天皇を即位させた・足利義詮が院政を懇願した)
2藤原光明子(藤原氏初の皇后・聖武天皇没後は一手に政治を担った)
3藤原彰子(2代の天皇の国母として藤原摂関家の興隆に努めた)
4二条舎子(夫の没後、桜町天皇・後桜町天皇を後見した)
5松木宗子(霊元上皇の傍らで政治に助言を与えていると関白に言わせた女院)
6藤原詮子(一条天皇の御代、絶大な政治力を誇った)
7橘嘉智子(承和の変の裏事情を知るともいわれ嵯峨上皇没後政の中枢にあった皇太后)
8西園寺鏱子(夫伏見天皇の没後持明院統を一つにまとめた女院)
9平滋子(太政大臣が女院別当に任じられるなど女院の力が増強され、高倉天皇の御代に強い発言力を有した)
10藤原得子(鳥羽法皇の命により鳥羽没後の天皇人事を一手に受けた)
○政治手腕抜きに知名度のみのランキング
1藤原光明子(小学校の教科書から出てくる)
2藤原定子(清少納言の力は偉大)
3徳川和子(大河などで繰り返し取り上げられる)
4良子女王(前代の皇后だから)
5九条節子(良子女王との対比でもよく出てくる比較的近い年代の皇后)
6一条美子(小説でもよく登場する)
7藤原彰子(紫式部の力は偉大)
8藤原高子(伊勢物語の力は偉大)
9藤原宮子(光明皇后つながりで漫画などにも取り上げられる)
10藤原璋子(不義密通疑惑の故か妙にヲタの多い女院)
>>205 ランクはつけないけれど、成り上がり系+シンデレラ系を纏めてみた
藤原光明子・橘嘉智子・藤原得子・平滋子・五辻忠子・阿野廉子・紀仲子など
大富豪レースでは
美福門院・八条院・宣陽門院・春華門院・室町院などは名前が出そう。
207 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:22:34
>>205 知名度のみのランキングだったら、1位は美智子皇后。
2〜3位争いは世代によるが、光明皇后と神功皇后だろうな。
藤原定子以下を、ダントツで引き離していると思うが。
歴史的評価ランキングで、
皇后ののち天皇になったものを、なぜ除くのかがわからない。
あなたが、藤原京時代以前にはあまり詳しくないからだろうか。
そうか。
皇后・国母・女院なら、イメージとして浮かぶのは平安時代以降で、
それ以前だと、皇后・女帝でもありだよね。
でも、存在が疑わしい神代の皇后はさすがに省いた方がいいような?>207
>>204 いや、うちの学校でも枕草子は「春はあけぼの」と「香炉峰の雪」をやったけど、
清少納言が定子に仕えていたこともさらりと流しただけ。どうせテストにも出ないし。受験でもまずでないし。
歴史好きが思うほど定子は一般的知名度は高くないと思う。
紫式部が仕えていた彰子も同じく。道長と紫式部のオマケみたいな感じ。
210 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:11:12
近現代の皇后ってそんなに知名度あるかな?
貞明皇后とか歴史に全く興味ない人とかも知ってるのだろうか?
先代の香淳皇后ですら若い人は知らないと感じるんだが。
江戸時代も東福門院以外は知名度なしで全く知らない人が多そうだ。
211 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:20:50
>>208 神功皇后は架空とされるのが普通だから、評価ランキングには入れられない。
戦前の皇国史観の時代なら、評価も知名度もランキング1位かもしれないが。
でも架空ではあっても、知名度ランキングの方に入れるのには問題がないと思う。
なお神武天皇以後の時代は神話がかった架空であっても、「神代」とは言わない。
神代とは神話物語上神武天皇の父の死亡まで。神武天皇以後は人代・人皇と言う。
推古女帝ほどじゃないが、穴穂部間人皇女は聖徳太子の母という事で、
璋子・宮子・高子よりもは知名度が高いのでは?
>穴穂部間人皇女
その知名度がどこを基準にするかによる。
歴史に興味ない人は聖徳太子の母親の名前なんか知らない。
母親どころか父親も用明天皇どころか天皇だってことを知っていれば良いくらい。
214 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 05:59:04
徳川和子・二条舎子・一条美子・九条節子・良子女王を
全部正確に読めたら立派なヲタ?
215 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:01:18
一般の国民に広く愛されたのは一条美子以降
216 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:22:37
歴史に興味ない人限定だったら知ってる皇后は美智子皇后のみになるよ。
30歳以下は昭和帝の奥さんの名前すら知らない。
217 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:32:40
>>216 さすがに歴史に全く興味がなく日本史も古文も赤点だった人を
基準にしてもなw
古文は文法を基本に覚えれば赤点はないし、
日本史だって近代以後しか教えない学校もある。
興味がない人は古文も日本史も記号や単語を暗記するだけだから、家系図で名前だけ見たことあるって程度。
古文の試験では定子も彰子も出てこないし、
日本史の試験だと推古天皇はともかく穴穂部間人皇女なんて出てこない。
赤点関係なく、受験に関係のない后妃関係なんて歴史に興味のない一般人は本当に知らないものだよ。
219 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:51:11
>>218 >日本史だって近代以後しか教えない学校もある。
どこの学校?
高校は文系なら日本史を選択しなくていい学校もあるだろうが、中学は必須。
そんな人が日本史板をのぞいたり歴史読本を読んだりしないだろうが。
>>219 だから高校でってこと。それだって日本史Aを取れば近代史しかやらない。
后妃ランキングで一般人=“歴史に興味ないor薄い人”の基準についてのことだったんだけど・・・
日本史板とか歴史読本とか読まない人だったら后妃の知名度は
>>216程度+αじゃないかってこと。
221 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:23:41
16 名前: 名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日: 2009/01/18(日) 10:41:43
>>12は私だ。青蓮院門跡さまとは「関係」はない。別の尼門跡さんの関係者だ。
しじょうこう如来は天台密教では究極の仏。真言密教での一字金輪仏頂尊にあたる。
しじょうこう如来の修法は代々青蓮院門跡にのみ伝えられる秘法。しかも勅命があった時のみ行われていた。
現在は門跡の裁量で行われている。昨年行われた時には前原誠司らが呼ばれ、両陛下の玉体・貴体安穏と(東宮一家はもちろんすっ飛ばして)秋篠宮両殿下のご健勝、そして何よりも悠仁親王殿下の無魔生育が祈念された。
高野山奥の院で弘法大師さんを守護している友人に聞いたが、今年の宮内庁からの新年ゴマ祈祷の依頼でも、この順番で祈祷が命じられたという。
皇室としての姿勢はもう固まっているのかな?
まあ仮に一般人百万人に対して、日本の歴代皇后を知ってるだけ名前を挙げるアンケートだったら、
美智子皇后一人だけが別格。あとはずっとずっと減るだろうけど、
香淳皇后・光明皇后・神功皇后・貞明皇后・檀林皇后・推古天皇・持統天皇など、
〜皇后とか〜天皇とかの呼び名がある人物が、得票数的には比較的上位かもしれない。
我々のようなマニアも少数は混じるだろうから、
>>205で出た名前は票数はわずかでも全部出るだろう。
そのわずかな得票数の中でのランキング争いだったら、どうなるかという話だよね。
あ、
>>205は、天皇を除いた皇后・女院の中で、という条件なんだね。
尊称皇太后藤原高子と尊称太皇太后藤原宮子は国母だけど、皇后にも女院にもなっていないよ。
知名度ランキングで建礼門院平徳子が抜けてるのは、かなりうかつだな。
223 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:45:23
政治能力は持統天皇(うののさららの皇女)が突出してるだろ。
神田うののうのって持統天皇からとってるんだよね。
父親は「さらら」も考えたらしいけど。
>>214 マサコ・イエコ・ハルコ・サダコ・ナガコ
このスレ読者だったら元々全部読める人間の方が多数派だろ
225 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:48:23
>>222 スレタイ嫁。
「皇后・国母・女院を語る」
何で意図的にスレタイから国母を抜き
「皇后になってない国母はだめだもんね〜」と得意がる?
そっちのほうがうかつだろ。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:07:49
ほほー
227 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 16:22:36
平安時代の国母や后妃を扱った論文はよく見かけるんですけど
鎌倉時代の国母や后妃(もっと単純化すれば後宮かな)を扱った論文てありますか?
鎌倉時代というと女院領絡みの論文ばかりが多い気がするんですけど
>>227 女院の最大価値が女院領の本所だからじゃないのかな?
つまり政治的な価値は平安期よりは低下していると
229 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 08:45:30
*************************************************************
296 名前:[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 23:02:51 ID:6AUsTZkh0
今週発売の週刊朝日は強烈。
「天皇陛下のご学友が進言
選択肢は、『別居療養・離婚・廃太子』」。
ソースは地下鉄中吊り広告。
*************************************************************
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1246693423/9
230 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 01:53:04
一条天皇は定子様を忘れられず、面影を残す妹君(御櫛笥殿)を
愛したのでした。そして、御櫛笥殿は懐妊。
このときまで、一条天皇の子を宿した女性は中関白家の姫のみだった。
231 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:16:15
>>230 一条天皇は定子の存命中に元子を妊娠させているし、
彰子にも立て続けに2人の男子を産ませている。
定子を失ったからと言って花山天皇のように退位や出家を思いつくこともなく、
他の妃たちと仲良くやってたんだって。
「栄華物語」には定子が没した日にまで一条天皇は彰子を寝所へ呼びつけたため
さすがに彰子方が配慮して遠慮したと書かれてある。
232 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 20:32:22
>>231 元子は想像妊娠。羊水だけが溜まったとみるべき。
羊水は妊娠=胎嚢がないと発生しないから、羊水が溜まったというなら
元子は想像妊娠ではなくむしろ流産したことになるよ
ま、元子が妊娠したことと誰も疑わなかったんだから一条天皇は元子とよろしくやっていたんだろうな
234 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 22:43:17
>>232 定子の最初の子は兄伊周との子だけどな。一条の子では月数あわず。
ほら、兄弟が左遷されると聞いて、私からお兄ちゃんを奪わないで、って
定子が必死に手を握り締めてたじゃん。
その後も伊周は何度も密かに入京して定子が自分の邸内にこっそり隠していた。
そもそも定子が三月に退出した時点で妊娠だったんだよな、懐妊で宿下がり
大体年始めに受胎して妊娠三ヶ月だったとして(妊娠が明らかになるのが三ヶ月目くらい)、
この年は閏七月があって一月多いから通常妊娠で八月から九月に生まれてくる計算
にも関わらず結局子供が生まれてきたのは年の暮れの十二月、
これだけ遅れてしかも初産で正常分娩ってのはどう見てもおかしい
236 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 23:21:23
角田先生が生きておられたら、その辺の質問をしてみたかったのだがな。
定子の産み月が十月だったってのは実資の日記「小右記」に書かれてるよ。
だけど、十二月に内親王誕生の記事は無い。
二月に五十日事があったとの記事はある。
238 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:21:36
>>237 「日本紀略」らの公式文書に脩子内親王が長徳2年12月16日生まれであることが
書いてあるよ。
「小右記」は一次史料だが個人の日記だから欠落部分もある。
日本紀略は成立年・編纂者が不明だから、
同時代の情報として見るなら、小右記の方が
やや信憑性が高いと思うのだが?
240 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:09:59
>>239 どっちにしろ「小右記」の2月に50日祝いの記事があるなら
逆算して脩子の誕生は12月だろ。
どう頑張っても10月誕生ではない。
241 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:13:41
「日本紀略」は神代はともかく、
宇多天皇から後一条天皇までは独自に取材していて
特に一条〜後一条あたりの記事はほかの史料にない事実も載せていて
同時代を生きた人物が編者である可能性が高い。
当然、信憑性も高まるが。
10月生まれと12月生まれ説があるけれど、
もし前者なら、同年10月に高階貴子が死去しているから、
それを穢れと見なして、あえて生誕の時期をずらして
記録された可能性も否定出来ないな。
高階貴子は当時、生まれて間も無い皇女の祖母というよりも、罪人の母だからな…
私は定子は前代未聞の皇妃だと思うから、何が真実でも驚かないな。
かつて、出家後に、自ら望まなかったとはいえ
後宮に戻って出産した皇妃はいなかったからね。
ただ近親相姦説は、信憑性が高いソースが無いから躊躇するだけで。
日本紀略で一つ引っかかるのは、
この頃の皇子女たちの誕生記事は(同時代の日記なんかもそうだと思うが)、
「中宮御産皇子」とか「中宮御産皇女」といった書き方なのに対し、
脩子の場合は「中宮誕生皇女」という表現であること。
似た用例が藤原威子の産んだ章子内親王にあるのだが、
なぜか誕生日を大幅に間違えていて(万寿3年12月9日なのに同じ年の1月25日に記事がある)、
注釈にも、これは衍文であるから削るべき、などと書かれている。
こちらはまあ単なる錯誤・誤記入なのかもしれないが。
245 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:21:14
「日本の民主主義・言論の自由」を妨げる天皇制を、一日も早く
憲法から抹消しましょう。
「アホでもクソでも、生まれたら天皇・皇族」を保証する日本国憲法は
北朝鮮以下のオソマツさですが、戦後統治にこの天皇制を悪用した
米国の過ちを正さず、逆に、これを悪用し続ける寄生虫天皇一族が、
日本の民主主義と言論の自由を妨害し、日本を劣化・悪化させています。
寄生虫天皇一族には、ゴキブリ小和田一族やら、宮内庁クズ役人、
コジキ神社、ゴミ右翼、ゴキブリ政治屋が群がり、この周囲を、
自分の利益だけを求めて、官製談合や天下りを繰り返すクズ役人が遠巻きし、
税金や賽銭に群がるだけの、いびつな日本を作ってしまいました。
寄生虫天皇一族も、ゴキブリ役人を手なずける事が延命策と知り、
園遊会や叙勲で役人を接待して、必死にあがいていますね。
先の大戦では、日本国民だけでも300万人を殺し、絞首刑に
なるべきA級戦犯が、責任を逃れただけでなく、今日では、
国家・国民には何も寄与せず、宮内庁のクズ役人の悪知恵を使い
寄生虫の・寄生虫による・寄生虫の為の宗教行事に、年270億円
の税金を浪費する、日本の「諸悪の根源」と化しています。
さあ、天皇制を憲法から抹消し、新しい日本を創りましょう。
246 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 13:50:51
齋藤雅子著の『たまゆらの宴』
247 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:06:19
>>242 日本紀略批判ばかりをして定子擁護もいいが、
「小右記」の50日祝い記事は事実だろう。
わざわざ2か月も遅らせてかなり大きくなった赤ん坊の
50日祝いをするなんてありえないが。
248 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:07:43
>>242 修子内親王10月生まれ説というのは、何の史料にあるの?
「小右記」以上に信憑性の高い史料にあるの?
そもそもそんな史料はないはずだが。
249 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:13:14
>>242 小右記の10月条には「今月は中宮の産み月のはずだが、
中宮には一向に出産の気配がない」
と中宮定子の出産の遅れがはっきり書いてあるよ。
もしかして、237の誤読?
原典にあたってない証拠だな。
原典に当たったことはあるよ。ざっと流し読みだけどね。
漢文の熟達者じゃないから大きなことは言えないけど、
この件が以前話題になった時、相当する部分の文章を追ったことがある。
その時には「一向に出産の気配がない」の記述には遭遇しなかった。
逸文か何かでもあるのかな?
252 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:27:56
>>251 出典はすべて「なまみこ物語」なまみこ婆はいいよw
あさきの漫画スレにでも行ってくれ。
>>250 ちゃんと読んだなら、定子について「懐妊十二箇月」と
書いた「小右記」の記事を見つけるはず。
10月の記事に出産の遅れを記した記事もあるよ。
253 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 08:20:58
それだけ、定子様と一条天皇の愛は強かったのです。
254 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 19:45:39
>>253 そりゃあ、定子は月数の合わない子を一条天皇の子だと言い切ったからね。
一条天皇が馬鹿だったんだろうな。
255 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 06:36:52
道長のせいで史実をゆがめられてるからね
256 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:06:28
>>255 道長に批判的かつ摂関時代の一次史料「小右記」に書いてあるのだから間違いない。
史実をゆがめているのは根拠はすべて「なまみこ物語」のなまみこ婆だろw
257 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 08:01:03
だから、反発した人間を弾圧したりしてる道長だから
無理やり書き換えさせられたとか(戦時中の検閲みたいな)
>>257 道長が絶対的な権力を持ったのは後一条天皇が生まれた後の話
259 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 21:15:03
>>257 検閲なんかやってたら小右記も左経記もまず残らない。
御堂関白記以外の史料が残ってる時点でおかしい。
しかも、貴族の日記は代々門外不出で子孫だけがこっそり伝えてきた。
現代では秘蔵書が紐とかれ、
書籍として発行されて誰でも手に取ることができるからと言って
当時の人が広く他人に読ませていたというのは間違い。
>>259 確かに、当時の貴族の日記というのは、パソコンのピクチャーに入っている色んな映像に近いものがある。
261 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 11:12:57
藤原定子様最高!
262 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 19:24:18
残ってるのは、道長の悪口書かなかったからだろ
263 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 19:30:41
なまみこ婆はいい加減にしろよ。
漫画板でも飽きられて相手にされなくなったからって戻ってくるなよ。
265 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 19:53:44
史料の読めない人が1名いるね。
なぜ日本史板に出入りしてるのかな?
荒らしだからかw
266 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 23:06:46
齋藤雅子著の『たまゆらの宴』 を読めよ!
ここで言われている史料は主に一次史料+αのこと
「たまゆらの宴」は研究書だから史料にはならないよ
268 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 13:47:16
定子様は一条天皇の皇女を産んだんだよ!
269 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 17:25:17
ここは定子専用スレではないので他スレへどうぞ。
3つもスレを占領するな。
270 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 06:50:52
明治天皇皇后、一条美子様について語ろうぜ!
271 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:22:25
おう!
272 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:34:50
美子皇后美人や〜
>>112 遅レスだけど花園天皇后・正親町実子(宣光門院)も密通していたみたい。
相手は光厳天皇(後伏見天皇の子で花園天皇の甥)。
直仁親王のwikiに書いてあった。
274 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 16:24:13
神功皇后が架空の人物だとしたら、今の神功皇后陵に祀られてるのは一体誰なの?
たまたまそこに墓立てた豪族?別の皇族?
初心者に教えてくれー
276 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 03:05:42
>>275 佐紀盾列古墳群中の、200m級以上の前方後円墳7基は、7基とも、
被葬者の個人名が特定できないとしても、その地位階層としては、
天皇・皇后・皇太子など皇族推定が多数派で、豪族墓学説は少ないようだ。
まずは記紀に名の残る人名のうち、誰が実在で誰が非実在かが確定できない難しい問題だし、
それが解決(又は暫定的仮定)しないと、どの古墳が何という個人の墓であるかの推定に進めない。
7基の築造順序としては最新の説では、現日葉酢媛命陵・現神功皇后陵・現成務天皇陵・
・現平城天皇陵・コナベ古墳・ウワナベ古墳・現磐之媛命陵、の順らしい。
以下は神功皇后他が実在だと仮定した場合で、現神功皇后陵は前期古墳で273mという規模で、
たとえ摂政だとしても皇后陵の規模というよりは、天皇陵と見た方が相応しい規模だし、
成務天皇は神功皇后よりも1世代前なので、現神功皇后陵の被葬者は成務天皇なのでは。
そして現成務天皇陵の被葬者が神功皇后なのでは、という説を読んだな。
なんで皇后は皇女って言う規定があったんだろう。
兄弟相続を前提とし、概ね常時天皇の従姉妹や姪に皇女がいることを想定していた?
それとも直径相続前提で、異母姉妹や叔母との結婚を予定していた?
その場合聖武天皇みたいに相手がいないなんてことに成りかねないけど。
制度を決めた当時は天皇や皇子と皇女との結婚は普通だったし、そこまで深く考えてなかった?
南北朝時代みたいに二朝並立なら、限りなく他人に近い皇女も存在しうるけどね。
称徳天皇と安積皇子の年齢差がもっと少なかったら、二人の結婚とかあり得たんだろうか?
いきなり話を変えて申し訳ない。
皇統の純血性の維持?
律令が出来た時点では
推古天皇、皇極天皇、持統天皇など
皇后が女帝になるケースが多かった
・・・ことに関係してるのかもしれん
>>277 >皇后は皇女って言う規定
×皇女→○皇族 女王もOK
×規定→○不文律
例外として、仁徳天皇の皇后の磐之媛命がよく挙げられるが、
五世女王で皇族とされる神功皇后と同じく、男系血統的には磐之媛命は皇玄孫の娘。
史実上の磐之媛命は大后ではなく、勢力のある第一妻であったのかもしれない。
そして大后の名目は、もっと早い時期から矢田皇女にあったのかもしれないが。
藤原不比等や橘三千代の画策・邪魔立てがなければ、文武天皇や聖武天皇にも、
当然皇后要員として、皇族の女王あたりが入内していた事だろう。
281 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 20:18:11
>>277 古代においては皇后は天皇と並んで国を統治すると定義づけられていた
天皇とともに統治するには同族であることが望ましい
さらに夫天皇が没すれば幼い後継者に代わり即位することが多かった
そのために同族(皇女・王女)に限られた
282 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:40:23
283 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:35:19
桓武天皇は朝鮮系の血が入ってるんでしょ
冬嗣の母ちゃんも半島系、朱雀・村上両天皇の生母は冬嗣の孫基経の娘穏子。
それ以後の二十数代の天皇生母は全員基経子孫(村上源氏・後続も女系子孫)で、
これだけでも数十回半島系の血が入ってる。
つまり摂関家も女系では半島系の子孫。
285 :
↑:2009/10/11(日) 13:30:00
半島からの書き込み乙
蝦夷が山背大兄王に冷たかったのって、道長が疎遠な姉超子の子三条天皇より、親しかっ
た姉詮子の子の一条天皇と関係が良かったようなものなんじゃないのかな?
刀自古郎女より法提郎女と親しかったとか、もしかして法提郎女は蝦夷と同母兄弟だった
のかもしれない。
疎遠な姉妹の子より、親しい姉妹の夫や子の方を選んだってところで。
刀自古郎女は、超子みたいに既に死亡していた可能性もあるな。
そんな一つの妄想。
287 :
日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:07:43
>>286 蝦夷の妹の法提郎女が舒明天皇の第一皇子古人大兄皇子を産んでいたからね。
実質的には古人大兄皇子を取るか山背王を取るかだった。
山背王の母は蝦夷の姉刀自古郎女だったが、
山背王は自分の異母妹の春米女王を正室に娶って嫡子を産ませており
蘇我氏が入り込む余地がなかった。
山背王も蝦夷の妹を娶るなどしていればよかったのかも。
288 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:03:50
桓武天皇は朝鮮半島の血が入ってるからね
289 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 19:48:14
桓武天皇の母高野新笠は賜姓する前の名は和新笠だけどさ。
本当に朝鮮の血が入っていたのかね?
秦の始皇帝の末裔だといって秦と名のった秦氏ほどにも信憑性がない。
姓が「和」だよ?
ちなみに新笠の母親は土師氏。
こちらは土着の日本人。
290 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 20:31:47
>>289 高野新笠の父親は和乙継で、和氏のカバネは史(フヒト)と推定されている。
史は渡来系の氏族に与えられるカバネなので、
和史氏の男系遠祖が渡来人なのは、多分間違いないだろう。
氏の名「和」は定住地名由来であって、渡来人説を否定する理由にはならない。
同氏名なのに系統の違う例は多く、系統の区別はカバネによってなされる。
ただその渡来してきたのは継体天皇朝ごろで、渡来人〜乙継間には7代ほどは数えられる。
その渡来人が百済の王子(人質)だったというのも、光仁朝の捏造っぽくて疑問だが。
土師氏自体が渡来系だって説もあるけどね。
って言うか、どうせ日本人は全員渡来人の子孫であげつらうのは意味がないかも。
渡来時期が早いか遅いかの違いだけで、縄文人だって渡来人だし。
持統天皇=鸕野讚良皇女って、姉妹中で一人だけ名前が異質な感じを受けるけど、
何か理由があるんだろうか?
姉妹:大田皇女・御名部皇女・阿閇皇女(元明天皇)・山辺皇女・明日香皇女・新田部皇女
・阿雅皇女(実在?)・大江皇女・泉皇女・水主皇女
293 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 00:10:41
>>292 この頃の皇子・皇女・王・女王の名は、乳母の出身氏族名にちなむ事が多い。
あるいは、生育地名(生母の居住地)・出生地などにちなむ事も。
鸕野(うの)も讃良(さらら)も、地名・氏族名。
河内国内に更荒郡(さららのこほり)があり、更荒郡内に鸕○野邑(うののさと)があった。
○はパソコンで出せない漢字。慈の上半分を偏として鳥を旁とした漢字。
これらの土地を本貫とする氏族名に、婆羅々馬飼造・菟野馬飼造・宇努連があった。
持統天皇の乳母を出した氏族なんだろう。
持統天皇の本名は、鸕野讃良皇女というよりは、
鸕野皇女・讃良皇女の両方の呼ばれ方が、あったのじゃないかと思う。
天智天皇紀には鸕野皇女・婆羅羅皇女とあり、天武天皇紀には菟野皇女とあり、
持統天皇紀にだけ鸕野讃良皇女とある。
294 :
293:2009/10/19(月) 02:42:04
ごめん、
>>293で漢字の間違いあり。
×婆(2ヶ所) → ○娑
なるほど、鸕野讃良皇女ではなく、
鸕野皇女・讃良皇女の両方の呼ばれ方があったですか。
ただ続けるとなんだか重々しい感じがしますね。
持統天皇紀だけの表記っていうことは、
そういう効果をねらっていたってことはないかな?
296 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 01:31:18
【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】
植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40
1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」
2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」
3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
"勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね?
このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」
4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官
をクビにするだけです。それが政治主導です」
5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
大化前後よりも前ってこういう複合名(?)ってちょこちょこでてくるよね。
春日山田皇女
磐坂市辺押磐皇子
星川稚宮皇子 などなど
これも母方の氏族や乳母の氏族の複合系になるんだろうか
こういうのってどういう基準で名前をつけたんだろうね
ジングウ皇后は卑弥呼なの?
299 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 15:32:00
>>298 全然違う。神功皇后という個人やモデル人物が、実在したとしても実在しなかったとしても、
倭国の誰かが指揮をして、朝鮮半島に派手に攻め入った事実があったのは、
高句麗の広開土王の時代で倭王讃の少し前の時代で、卑弥呼の生存年代よりも150年ぐらい後。
日本書紀の編纂者は、中国側史書の卑弥呼の記事を知っていて、長寿天皇を増やし暦を操作して、
卑弥呼というのは実は神功皇后の事なんだ、という書きぶりをしているが。
神功皇后が皇太后・摂政として、崩御まで長く称制(即位はせず)していた時代の出来事として、
魏志・晋書にある、倭の女王が中国に遣使した記事を披露している。
300 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:52:08
平安〜鎌倉あたりの后や女院を扱った論文はたくさんあるのに
著書となると『家族史としての女院論』くらいしかないのは何故だろう?
>>300 女院をライフワークにしている学者は殆どいないからではないかと。
野村さんの名を久しぶりに見られて感激したよ。
この方の卒論を読んで感動した事も思い出したw
302 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 13:58:37
今度出るね(出たのか?)
『中世前期女性院宮の研究』 山田彩起子 思文閣
中世くらいまでは論文も多いけど、近世になるとほとんどないでしょ。
近世も面白いと思うけどね
303 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:24:09
>>302 久保貴子さんという人の著書(タイトル忘れた)は
近世の朝廷について研究したもので
当該期の女院を論じた章もあるよ
304 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:33:52
305 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 22:06:28
ほほー
近世の女院つったら新上東門院だな
307 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:22:13
だれそれ?
猪熊事件の影の主役
猪熊事件で流された公家たちはほとぼりが冷めたころ赦されたけど、女官のほうはかなりの年月がかかった
のはなぜだろう?