神功皇后を語ろう

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1日本@名無史さん
神功皇后はオレ的日本史のヒロイン。
三韓征討成し遂げた人。
住吉大社は有名だが、福岡の住吉神社をはじめとして、
宮地嶽神社、香椎宮、筥崎宮、宇美八幡宮、警固神社など、
福岡を中心に主祭神のひとりとしている神社が多い。

さあ、語れ。
2日本@名無史さん:2007/11/11(日) 17:19:36
神功皇后は何故天皇歴代から外れたのでしょうか?
3日本@名無史さん:2007/11/11(日) 19:11:49
日本書紀で天皇になったとは書いてないからではないでしょうか?
仲哀帝の後は摂政になりました♪
亡くなったのは百歳でーす。
4日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:39:33
じゃあ弘文天皇もはずすべきだな
5日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:51:44
神功皇后は天皇の血統ではないからですよ。
6日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:54:32
>>5
おっ、正解
7日本@名無史さん:2007/11/12(月) 02:06:04
気長足姫尊(神功皇后)は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女なり。(「神功紀」)
8日本@名無史さん:2007/11/12(月) 10:16:49
開化天皇 ─ 日子坐王(母、姥津媛) ─ 山代之大筒木真若王(母、袁祁都比売) ─ 迦邇米雷王
(母、丹波能阿治佐波毘売) ─ 息長宿禰王(母、丹波遠津臣) ─ 神功皇后(母、葛城高額媛)

脳内ソースだけど合ってたかな?
9日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:35:28
>>8
今、書紀を確認したら全部合ってたよ。

漢字表記まで暗記してたの?
すごいねぇ〜
10日本@名無史さん:2007/11/12(月) 21:50:51
神功皇后紀だけど
前半の新羅征伐はともかく
後半の百済記引用と思われる部分の信憑性はどうなんだろう
七枝刀みたいな傍証はあるけど
11日本@名無史さん:2007/11/13(火) 05:01:11
>息長宿禰王(母、丹波遠津臣)

母は丹波遠津臣の娘の「高材比売」だね
12日本@名無史さん:2007/11/13(火) 13:44:49
神功紀の筆者は元僧侶らしいから神話敵母子説話を仏教から拝借してたのかな〜
詳しい方please
13日本@名無史さん:2007/11/13(火) 14:37:24
>>7
継体天皇の父方が近江の息長氏。
息長氏は継体天皇の時代に天皇の子孫だとされた。
神功皇后の名前は「息長足媛」。
「息長氏出身のお嬢さん」ぐらいの意味で、
推古朝ごろに国記、天皇記が作られた際に
古くから息長氏が天皇家と密接にかかわっていたように
創作された人物であると見られている。
14日本@名無史さん:2007/11/13(火) 19:28:20
>>13
学会では朝鮮支配の象徴として、実在性を認めてはならないという感じだね。

しかし、日本が朝鮮に支配権を及ぼしていたことは、記紀に詳しくあるほか、
広開土王碑、三国史記、宋書にもあり、日本に人質として来ていた百済王
の墓碑まで見付かっている。

最近の通説は日本が朝鮮南部に支配権を及ぼしていたことを認めるところまで
きているが、神功皇后の実在性には消極的という矛盾がある。
15日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:27:36
仲哀、神功、応神を祭る神社が多いことを学会の人たちはどう思ってるんだろ?
16日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:35:30
神功皇后の頃にウジがあるわけねえだろ。
稲荷山鉄剣の頃でもまだないのに。
オキナガタラシ姫が息長氏なら、ウジノワキイラツコは宇治氏かいw
17日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:38:10
息長氏から神功皇后が出て、タラシの王(仲哀)の妃になり、
オキナガタラシ姫というのは、話のスジが通る。
その子が応神天皇で、その子孫である継体が、息長氏から出てくる
というのもスジが通っている。
神功稜がヤマトの北の方にあるのも、スジが通っている。
18日本@名無史さん:2007/11/14(水) 02:46:17
神功の原型はオオタラシヒメで、オオタラシヒコの妃だった。
19日本@名無史さん:2007/11/14(水) 03:05:35
>>14
同意
現代史的視点を離れて
純粋に学問的見地からその辺の議論をできないものかと思う
20日本@名無史さん:2007/11/14(水) 03:27:46
タラシヒメ・タラシヒコは飛鳥時代(7世紀)の天皇のおくり名に多く、
タラシを含む名を持つ成務・仲哀・神功は後世に述作された。
21日本@名無史さん:2007/11/14(水) 04:12:08
>>19
山川の歴史教科書が売国奴たちに改悪される時勢だから無理無理
22日本@名無史さん:2007/11/14(水) 04:16:18
オキナガタラシ姫だから息長氏って。
新羅三郎だから新羅人てのと同じくらいおヴァカだな。
23日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:35:04
息長氏の出だから、オキナガタラシヒメのオクリナがつけられたのです。
24日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:34:00
天皇紀の中になぜ唯一皇后紀が存在してるのか?
なぜ聖徳紀は無いのか?
25日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:40:27
>>16
神功皇后は継体天皇の時代に作り出された人物だよ。
神功皇后の時代には氏はなかったって、当たり前だろ。
後世の人が継体天皇の出身母体を参考に作り出した
女性なんだから。
26日本@名無史さん:2007/11/14(水) 10:47:24
日本史板で史料の裏付け一切無しで自分の予想を
確定した事実にであるかのように語る人の横行っぷりは異常
27日本@名無史さん:2007/11/21(水) 09:45:20
神功皇后は架空の人物だろうが。
この土地の支配権は自分達にあるってことの大昔の作り話に何21世紀の人間が乗ってんだよ。
朝鮮人みてぇなこと言ってんじゃねーよ。
28日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:02:27
29日本@名無史さん:2007/11/22(木) 02:01:36
現代史的視点を離れて
純粋に学問的見地からその辺の議論をできないものかと思う
30日本@名無史さん:2007/11/22(木) 09:53:31
なぜ神功皇后や応神天皇は、高句麗より新羅にばかり兵を送るのか?
31サガミハラハラ:2007/11/22(木) 09:57:33
神功皇后は実在しました。
精しく述べきれないので、「神功皇后は実在したーその根拠と実在ー 後藤幸彦著 明窓出版社刊」を
お読みください。いままで不可解といわれていた年代まで論及解明されています。
32日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:08:11
>>30
記紀と原資料(?)が編纂された時代背景じゃないかな
33日本@名無史さん:2007/11/23(金) 06:06:18
俺の主観だけど・・・
神功皇后と日本武尊の説話はその前後からはちょっと浮いてるように見える
流れとしてはそんなに不自然とは思わないけれど
34日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:03:42
あの時代に三韓征討はなかったんだよ。
神功皇后の項にはどう考えてもありえない
魏志の卑弥呼のことだけが引かれていて、
当然、引かれるべき百済本紀が引かれていない。
神功皇后が実在して三韓征討をやったのならば、
まず朝鮮の史書が引かれるべき。
35日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:12:54
>>34
百済本紀っていつ書かれたんだ?
36日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:18:23
1145年?
37日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:20:02
正解
38日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:03:02
朝鮮資料の三国史記には神功皇后の三韓征伐のことは記述されていません。だからといって三韓征伐がなかったとはいいきれないのです。
例えば、高句麗の好太王の対倭戦争のことは三国史記にのっていないからです。
だからといって、好太王の対倭戦争はなかったということにはならないからです。
39日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:48:14
>>34
日本書紀と三国史記の編纂年を比べてください。
40日本@名無史さん:2007/11/24(土) 00:34:04
>>34
半島はどういうわけかおそらくあったはずの古い文献は残っておらず
現存のものは11-12世紀以降
民族語の史料はさらに後

日本書紀に引用されてる百済記、百済新撰、百済本記は
お隣さんは無視してる
41日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:12:34
上げよう
書き込みを見たいから
42日本@名無史さん:2007/12/22(土) 20:37:01
過疎ってるなw
43日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:09:42
息長氏が(息長真人ね)継体や神功の出身氏族とはどうしても
思えないのだけど。それほど有力な氏族じゃあないでしょ?
44日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:23:38
継体天皇の父彦主人王は息長氏。
『記紀』によると、息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、
意富富杼王(彦主人王の祖父)を祖とする氏族。
継体天皇の父が住んでいた近江国高嶋郷三尾野は息長氏の支配地。
45日本@名無史さん:2008/01/02(水) 21:20:53
43です。そうですね。系譜によれば応神と息長真若中比売の子が若野毛二俣王、
で、真若中比売の祖父が倭建命の子の息長田別王、若野毛二俣王の奥さんも息
長田別王の娘(真若中比売の妹ね)ときてずーっと下って継体の奥さんの麻組郎女
の父が息長真手王と、応神=神功と継体の周りは息長だらけですね。でもね、
これだけ実力者の近くにいたわりには当の息長氏中央政界でぜんぜん目立って
無いのですよ。結局持ってた氏族系譜をうまく利用されただけかと思うのですが。
で、ごめんここ神功皇后スレですね。でもその出自にかかわることだからOKかな?
46日本@名無史さん:2008/01/02(水) 21:53:34
天武天皇が定めた八色の姓で、
皇族にしか認められない「真人」姓を息長氏が受けた。
これだけでも充分なのでは?
息長氏が応神天皇に繋がるかは定かではなく、
継体天皇の周囲を除いて息長氏の活躍も定かではないが、
それでも皇室には天武天皇の祖先である継体天皇が
息長氏の出身であることは紛れもない事実として受け止められていて、
真人姓が与えられたと。
大した活躍もしていないのに、最高位の真人を与えられたのは、
それが継体天皇と深いかかわりのあった氏族であったためと
考えられるのではないでしょうか。
一代の大王を輩出したからといって、
継体天皇の出身母体息長氏そのものは、
畿内豪族たちを蹴散らして出世することはなかっただけでは?
47日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:36:22
実在すると思うけどねぇ
48日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:54:51
実際息長氏が中央政界に進出したきっかけは箭田皇子が亡くなって
近江にいた敏達が大和に皇太子としてやって来た時だと思うよ
49日本@名無史さん:2008/01/03(木) 00:57:47
>>46さんへ
真人賜姓は賜った氏族の本拠地と天武朝の成立状況から考えて壬申の乱の
論功行賞では?もちろんもともと天武には近い存在、江戸幕府でいうと
譜代や旗本みたいな感じだったとは思うんですが。。。
>>48さんへ
同意見です。僕も敏達妃広姫、息長真手王の娘ですね、この人が押坂彦人大兄
皇子を生んだ事が最大のチャンスだと。押坂彦人大兄の子供が息長足日広額、
すなわち舒明帝、その子供が天智・天武ですから。かなりいいポジションですよね。
もっとも日子坐王の妻が息長水依比売だったりなにより神功=オキナガタラシヒメだから
系譜だけ見れば超一流の氏族ですけど。
50日本@名無史さん:2008/01/03(木) 06:09:00
古い時代ほど後から作った可能性が高いことを考慮すると
近い時代から詰めていくのが正解かと思います。
神功も後から気長足姫の名をつけたと明記されているので
他の息長の名をもつ人も同様に考えることが可能ではないでしょうか?
51日本@名無史さん:2008/01/03(木) 11:12:26
>>50さんへ
そうですね。確実に実在を確認できるとなると、皇極元年、舒明の葬儀で
日嗣を誄した息長山田公、持統6年に遣新羅使になった息長真人老、この
辺が一番古いかと、で、舒明との関係(孫と祖母)を考えて>>48さんが言
うように、敏達妃広姫の登場、ここで線を引くのが一番よいのではないか
と思います。これ以降が実在した息長氏、これ以前は皇統譜の都合上、あ
とから整備された人たちと。
52日本@名無史さん:2008/01/03(木) 17:58:06
>>49
すると、天武が直系の先祖に当たる広姫を崇めた結果だというわけで、
敏達の後宮の勢力図も全く違ったものになるわけですな。
息長氏が継体と無関係であったとするならば、
広姫が敏達の大后であった可能性も低い。
押坂彦人大兄皇子は日本書紀にたった一行、用明天皇の皇太子である
という文章がでてきますが、実際に用明天皇の死後は存在そのものが
消えてしまっていて、のちの創作文である可能性すらある。
つまり、天武朝に天武の祖父押坂彦人大兄皇子を過大に書いた結果というわけで。
用明天皇がなくなった後、有力皇位継承候補となったのは、
敏達と大后炊屋媛(欽明皇女)の子竹田皇子と
用明と大后穴穂部皇女(欽明皇女)の子厩戸皇子であり、
息長氏を外戚とする押坂彦人大兄皇子に声はかからなかったと。
53日本@名無史さん:2008/01/03(木) 21:11:38
菊の紋章はいつからか知ってる?
54日本@名無史さん:2008/01/03(木) 23:53:02
神功の生地伝承のある科長神社周辺に御陵が作られはじめた時期が敏達の頃からです
55日本@名無史さん:2008/01/04(金) 00:29:49
>>52さんへ
昔息長氏系皇族なんて言い方もありましたよね。名門息長氏の力をバックに
蘇我氏に対抗した非蘇我系の血筋を持つグループ。ま、逆を返せば所詮傍流ですから
ほったらかしてたってほうが素直な考え方ですよね。6世紀まで息長氏の
勢力は地元の他の豪族(坂田酒人氏)に劣るといった資料もあるくらいで
すから。これはたかがしれてる。それに舒明にも蘇我氏は法提郎女嫁がせて
古人大兄皇子生ませてるでしょ。どう見ても彼が本命ですよね、皇極の次。
でも天智のクーデターで全部変わっちゃったと。で、せっかく本流になったのに
所詮元々傍流、ご先祖様がいまいち弱い。それであっちこっちから系譜を集
めて色づけした結果息長氏が異常に巨大な勢力に見えてしまったってのが
本当のところでは?ただ継体と全く無関係かといわれるとそれもどうかと。
本拠地のあった琵琶湖北東部は継体の生命線ですよね。関わりはあったと
思いますよ。
56日本@名無史さん:2008/01/04(金) 02:32:11
古人大兄皇子にとっても天智同様、父系の曾祖母は息長の広姫。
それと、大化のクーデター後も、石川麻呂や連子、赤兄といった蘇我氏の人たちが、
大臣として新体制のもとで働いてる。
そんな中で今更ひいばあさんの系図をどうこうしたって、どうなるもんでもあるまい。
57日本@名無史さん:2008/01/04(金) 03:06:55
本来敏達記と同様に敏達紀で忍坂彦人大兄皇子の系図が記載されるべきなんだけど
それがないのは舒明直系が同格になりうる彦人の子孫の存在を
日本書紀の中だけでも否定したかったからではないかな?
58日本@名無史さん:2008/01/04(金) 04:02:39
>>57
>敏達紀で忍坂彦人大兄皇子の系図が記載されるべき
そんなことはない。書紀は古事記と違い、基本的に皇子女のみ載せて、
二世王以下を記さないスタンス。詳細は系図巻にあったかも知れんが。
59日本@名無史さん:2008/01/04(金) 06:01:15
例外的に日本武尊・武内宿禰?や市辺皇子の系図が景行紀や顕宗紀にあるけど…
60日本@名無史さん:2008/01/04(金) 09:16:02
日本武「尊」は実質天皇のような扱いだし、
市辺押磐皇子の系譜は書紀本文じゃなくて、
譜第の引用という形にとどまる。

武内ファミリーの系譜は書紀になくて、古事記のみだな。
61日本@名無史さん:2008/01/04(金) 16:19:12
>>57
日本書紀という書物の中で否定したって、現実に彦人裔王族が存在してたら意味無いわな。
単純に考えれば、天武朝に諸王三位を授かっている王族が彦人後裔だろ。
62日本@名無史さん:2008/01/05(土) 01:39:39
そうですね。舒明も皇極も彦人大兄の直系の子孫ですしね。これ否定してしまうと
天智も天武も立場無くなってしまいますよね。ただ何度も言うように所詮傍流です
から。推古−舒明−皇極なんて竹田皇子さえ早世しなければありえない即位ですよね。
だから母方の系図を飾る必要があったのでは?で、蘇我氏を徹底的に潰す訳ですね。
連子は早世、赤兄は壬申の乱で流罪、石川麻呂は冤罪で自害で、古人大兄皇子は殺され
ちゃいますよね。
63日本@名無史さん:2008/01/05(土) 04:44:51
あなたは歴史を結果だけで概観してません?
年表や系図を参考に、ちゃんと年代を追って、その時どきの情勢を思い描きながら考察してます?
(人物の生没年などの年紀や政治情勢・人間関係が明確でない部分はあると思うが)
単刀直入に訊くけど、「母系の系図を飾った」のは誰で、いつの時点?
そうしなければならなかったのは、どんな母系を持った誰の存在があったからで、
どのように系図を飾ることによって、粉飾者側はその後の歴史を有利に運んだの?
蘇我氏潰しについても同様で、あなたの言うところの「本流」たる「蘇我系」の潰滅事業は、
いつ、誰が、誰を対象として企て、息長系図粉飾とはどんなふうに連動し、どの段階を以て収束を迎えたんです?
64日本@名無史さん:2008/01/05(土) 05:23:20
彦人大兄の支持氏族は東漢系だったようだから
これを押さえ込む目的もあったと考えられる
65日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:04:15
>>63さんへ
おっしゃるとおり、確かに説明不足な点、重複する点が多かったですね。あらためて、
いわゆる「息長系譜」について私見を述べたいと思います。ただ、長くなるのでいくつか
分割して記載しますね。
1・成立時期
これは現在の形に整理されたのはおそらく7世紀後半以降、日本書紀完成の直前ではないか
と思います。ただし、元となったであろう息長氏の祖先神話たるものはもう少し前には完成
していたのではないかと。
ここで、少し本筋とは外れますが、いわゆる「息長系譜」とは何か?について簡単に説明します。
息長氏と息長帯比売命の関係について始めに注目したのはおそらく本居宣長でしょうが、(古事記伝
二十二之巻)、本格的に研究が開始されたのは黒沢幸三氏の「古代息長氏の系譜と研究」(「文学」
掲載、昭和40年12月)が発表された頃からでしょう。比較的新しいジャンルですよね。
皇室系譜中に7人(舒明=息長足日広額も入れると8人)も見受けられることからつけられた俗称です。
順を追って紹介してみます。
66日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:47:08
1・息長水依比売 天之御影神の娘とされ、開化天皇皇子日子坐王の妃。
2・息長宿禰王  日子坐王の曾孫(ただ、不思議なことに息長水依比売の系統
         ではなく、袁祁都比売命−山代之大筒木真若王の系列)
         葛城高額比売命との間に息長帯比売命・息長日子王を
         もうける。
3・息長帯比売命 ご存じ神功皇后
4・息長日子王  息長帯比売命の弟
5・息長田別王  倭建命の子。
6・息長真若中比売 息長田別王の孫。応神天皇妃。若野毛二俣王の母。
7・息長真手王  継体妃麻組郎女、敏達皇后比呂比売命の父。
補足しますと若野毛二俣王の妃も息長田別王の孫、弟日売真若中比売、この2
人の子、大郎子の曾孫が継体です。そしてこの大郎子が三国君、波多君、息長
坂君、酒人君などの祖とされています。
67日本@名無史さん:2008/01/05(土) 23:47:27
これに加えて天皇の諡号にも息長(舒明=息長足日広額)が付くわけですから他に
例が無いほどの大系譜といって差し支えないと思います。にもかかわらず、現実律令
体制下の息長真人氏は中央政界で大活躍したかと言うとどうもその形跡は見られない、
実際、六国史に登場する息長真人本宗家と見られる人物は12人、それぞれ最高位を記すと
1・息長真人老 和銅四年 従四位下 2・息長真人子老 大宝二年 従五位下
3・息長真人臣足 和銅七年 従五位下 4・息長真人麻呂 天平元年 従五位上
5・息長真人名代 天平五年 従五位下 6・息長真人広庭 天平神護元年 従五位下
7・息長真人道足 神護慶雲二年 従五位下 8・息長真人長人 宝亀九年 従五位下
9・息長真人家成 大同元年 従五位下 10・息長真人淨主 貞観五年 従八位上
11・息長真人永河 元慶元年 従四位下 12・息長真人奈弖麿 元慶元年 従四位下
以上です。まあ、そこそこの地方豪族といったところだと思います。ただ、あの大系譜群が
なかったら、ほとんど注目されることは無いくらいの立場と言ってよいのでは?ヤマトタケルや
神功、応神、継体と古代史上の大英雄を並べた強大な系譜とこの弱小氏族はどうつながるのか?
「息長系譜」の謎はほぼこの一点に絞られるといってよいかと思います。
で、前置きが長くなりましたが、この系譜が作られた(正確にいえばなぜ現在の形にまとめられ、
正史である記紀に残されたのか?)目的について説明していきたいと思います。
ただ、ちょっと仕事が忙しいもので、続きは明日にでもまた書きます。すいません
68夜間勤務:2008/01/06(日) 04:17:56
コテハン以外は仕事に追われるのが常でしょう
本来、暇な彼らにおもしろい歴史談義を語ってもらいたいのですが
根本的に彼らはツマラナい思考しかしないので常識的な受けをねらうのは難しい
69日本@名無史さん:2008/01/06(日) 17:07:59
67です。続いて私見を述べさせて頂きたいと思います。
先に掲示しました問題点、系譜が作られた目的は何か?ですが、一般的に
考えられているものは、「息長氏自身」が「自らの過去を顕彰するため」
「皇室系譜に記載させた」つまり息長氏は「古代における大豪族」であった。
これは最もシンプルで説得力のある考え方ですね。65で紹介しました黒沢氏の説
以来支持者も多く、その完成形と言えるのが塚口義信氏の「神功皇后伝説の
研究「(昭和55年、塙書房刊)でしょう。氏の説は非常に詳細かつ多岐にわたる
ものですので、概略だけ申し上げますと、@息長氏は3世紀頃からその力を増加
A応神の即位の後ろ盾となりB「播磨国風土記」に残る「大帯比売」伝承と自ら
の祖先神話を結びつけ「息長帯比売」を創作、C自らの過去を顕彰するためこの
系譜を皇統譜に挿入D5世紀にも皇室と血縁を結び、継体即位にも力をふるった
大豪族。と、言うものです。これが最もスタンダードな考え方とされています。
息長氏の過去を顕彰する系譜が残っている→当然残したのは息長氏→息長氏はそ
れだけの力をもった隠れた実力者。素直に考えればこれが正解でしょう。しかし
ながら、こう考えるとおかしな点が、「息長系譜」にはいくつか見られるのです。

70日本@名無史さん:2008/01/06(日) 19:59:26
「息長系譜」のおかしな点、まずその1はこれまで何度も述べたように実際に息長氏が
中央政界において活躍した形跡がない、有力な氏族と思われる形跡がないという事です。
これについては、@古事記や日本書記が成立するずっと以前に活躍していた。A皇室経済
の管理面を担当、裏方としての活動が多かった。などとの意見が多く見られます。ただし、
2点ともに決定的な証拠があるわけでなく、あくまで伝承や記紀の解釈から導かれる推理
でしかありません。ここで、1つ新たな見解を紹介します。大橋信弥氏「日本古代国家の
形成と息長氏」(昭和59年、吉川弘文館刊)です。大橋氏は近江坂田郡、今の長浜平野北部
の「坂田古墳群」(−A)と南部姉川流域の「息長古墳群」(−B)を比較検討、@Aは4世紀
後半には築造が開始されているのに対し、Bの築造開始は5世紀後半と見られる。A6世紀に至
まで、BはAの勢力に隷属していた可能性が高いB6世紀以降、Bの勢力が強大化、Aのそれを
上回った。とされ、Aに坂田酒人氏、Bに息長氏を想定されました。これは非常に重要な指摘で
それまでの息長氏=過去の大豪族説を完全に否定するものです。また、文献解釈ではなく、考古学
サイドからのアプローチを行ったという点でも特徴的ですね。古墳の調査に基づく氏の説は実に
説得力のあるものと思われます。私もこのご意見に賛成です。
71日本@名無史さん:2008/01/06(日) 21:44:07
「息長系譜」の疑問点その2は、この系譜の中に、息長氏所生と明記された人物が
一人もいないことです。>>66でも記しましたが、日本書紀に依れば息長氏は若野毛
二俣王の子、大郎子が祖とされています。では息長水依比売・息長宿禰王・息長帯
比売命・息長日子王・息長田別王・息長真若中比売、大郎子以前に登場するこの6人
の「息長」は、いったい何者なのでしょうか?普通一族の祖はより古く、より権威ある
人物のそばに置きたいものです。大郎子よりはるかに古く、はるかに重要な人物の近く
(日子坐王、神功、ヤマトタケルですから)にありながら、またそれが正史にまで取り
あげられながら、なぜ自らの出自をここに求めなかったのか?これが2つめの疑問です。
72日本@名無史さん:2008/01/07(月) 23:55:49
71です。昨日に続いて疑問点をあげたいと思います。
3つめの疑問点は、「古事記」と「日本書紀」のこの系譜の違いです。>>66で記した
「息長系譜」は「古事記」の記載をもとにしたものです。では「書記」ではどう記して
いるのか?まず、「記」にあって「紀」には登場しない人物がいます。息長日子王、
、息長田別王、息長真若中比売、この3人です。息長日子王は神功皇后の弟ですね。そ
れからヤマトタケル−息長田別王−昨俣長日子王−息長真若中比売−若野毛二俣王、この
流れが、〜河派仲彦−弟媛−稚渟毛二派皇子、これが「紀」の記載です。表記が違うのは
良くあることですが、この3人、特に息長田別王と真若中比売が居ないことは「息長系譜」
にとっては大きいですね。ヤマトタケル、応神、継体とのつながりがだいぶ薄くなりますから。
それから先にも述べた表記方法ですが、これも大きな違いがあります。これはすぐわかること
ですが、「記」で「息長宿禰王」「息長帯比売命」は「紀」では「気長宿禰王」「気長足姫命」
なのです。しかし、「息長真手王」は同じく息長真手王なのです。おなじ「オキナガ」を
書き表すのに、なぜ息長と気長を使い分けたのか?記載漏れと並び、「日本書紀」の
疑問点です。
73日本@名無史さん:2008/01/08(火) 01:42:16
もう一つ、一般的に皇族は母方の名を継ぎますね。(たとえば押坂日子人大子と田村皇女
の子が田村皇子=にちの舒明)母方で養育されることが多いことからこうなったであろう
と言われていますが(全てではないですよ、多くは、です)、息長宿禰王の子供が息長帯
比売命・息長日子王、息長田別王の孫が息長真若中比売と、いづれも男方の名を継いでい
ます。これも珍しい。4つめの疑問です。そして5つめは息長真手王と継体妃麻組郎女、
敏達妃比呂比売命、この3人の関係です。麻組郎女と比呂比売は息長真手王の娘、すなわち
姉妹とされていますが、継体の生年は西暦450年、一方敏達の生年は西暦538年であり、それ
ぞれの妃が姉妹であることは現実的にあり得ないことがわかります。記載間違いかそれとも
誰かが手を加えたのか、これが疑問の5です。以上、ざっとあげて、これだけの疑問点が
あげられるのです。(なお、疑問の3、4は倉塚曄子氏「オキナガタラシヒメ論序説」初出かと思われます)
それではこの疑問点にたいして、私見を述べていきたいと思います。
74日本@名無史さん:2008/01/08(火) 02:40:54
神功皇后って、〈倭の5王〉の王家をつくったおっかさんだろ!
イヨあたりじゃないの?
ヤマトタケルの息子の仲哀が、なぜ筑紫で気の触れた嫁さんに殺されるか?
面白いところだな!
75日本@名無史さん:2008/01/08(火) 02:48:57
しかし、
おかっさんの造った〈倭の5王〉の王家も、武烈18才を殺して断たれ、わざわさ福井から越王:継体に継がせるとは?
ヤマトの豪族たちもしたたかだな?
76日本@名無史さん:2008/01/08(火) 12:24:41
継体は三輪大和が葛城大和系の独占を止めるために
武烈の悪政を理由に連れて来た大王だろ?
77日本@名無史さん:2008/01/08(火) 14:39:50
武烈は日本書紀の記載でも19歳の若さで亡くなっていて、
単に短命なだけの帝王だったのだろう。
武烈は8人兄弟だが武烈以外はすべて女性で、
(古事記は武烈に弟が一人あったとする)
武烈の早世により皇統が絶えてしまった。
78日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:12:14
体調悪いので2,3日したらきます。
79日本@名無史さん:2008/01/18(金) 22:21:36
【考古学】 神功皇后陵の立ち入り調査の許可を決定、1段目の平らな部分までの撮影が認められる・・・宮内庁
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1200656437/l50

67さん。ワッフル!ワッフル!
80日本@名無史さん:2008/01/18(金) 23:39:57
神功皇后って、ヤマトタケルの息子(仲哀)を始末して権力を握ったんだ。理解に苦しみます。
81日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:46:58
神功皇后って応神を筑紫で生んで、乳のみ子を背負って近畿の王権を倒したんだ!偉いね!反面、怖い性格!
82日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:12:04
真の神功陵は敏達天皇陵です
83日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:18:00
>>82
では現神功陵は誰の陵墓?
84日本@名無史さん:2008/01/19(土) 06:47:45
ワニ氏あたりじゃね?
85日本@名無史さん:2008/01/20(日) 09:49:23
和珥氏の奥津城は天理の東大寺山古墳群だろ・・・常考
86日本@名無史さん:2008/02/15(金) 22:06:54
日程決まりました。

神功皇后陵:22日に立ち入り調査 考古学研究者が参加

 宮内庁は15日、奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神=ごさし=古墳)の立ち入り調査を22日に行うと発表した。
すでに考古学者の組織、日本考古学協会など歴史系の16学会に調査の許可を通達。これまでは同庁が陵墓を補修する際、
考古学関係者に見学の形で認めていたが、学会側の要望を受けた立ち入りの許可は今回が初めて。

 同陵は、全長約275メートルの前方後円墳で、4世紀後半から5世紀初めに造られたとされる。調査対象は、墳丘部分の
最下段の巡回路で、各学会の研究者計16人が参加の見込み。【大久保和夫】

毎日新聞 2008年2月15日 18時43分 (最終更新時間 2月15日 20時55分)

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080216k0000m040024000c.html
87虹歩命:2008/02/15(金) 22:53:16
TVニュースでの五社神古墳の写真をみたら、古墳に踏みわけ道があったね。
88日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:18:20
皇室の伝統と権威を破壊している東宮一家(小和田王朝)廃嫡に立ち上がろう!  
(盆暗・仮病・ロイヤルニート・祭祀しない・公務しない・静養ばかり・遊びばかり)

・ 東宮一家の提灯記事が掲載されている週刊誌は購入しないようにしましょう。
(提灯記事はコンビニや書店等で立ち読みで済ませる:批判記事は応援買い)

・ 東宮一家の提灯記事が掲載されている週刊誌を銀行・美容院・病院などで
見かけたら『ロイヤルニート雅子』または『雅子は仮病』と書いておきましょう。

・ ニュースやワイドショーで東宮一家のことが放送されたら『気分がわるくなる』
『とても不愉快だ』とTV局にクレームを入れ東宮一家の不人気を伝えしましょう。

・ 皇室には敬意を感じる。天皇皇后両陛下や秋篠宮一家・皇族方は敬愛するが
東宮一家は嫌いだ。特に雅子妃は嫌いだと周囲の人達に伝えクチコミしましょう。

・ 東宮一家の廃嫡に賛同する人は他サイトの数多くの掲示板・ブログに投稿して
宮内庁やマスコミ(TV局・新聞社・雑誌社)にも積極的にTEL・メールをしましょう。

・ 東宮一家の提灯記事を掲載する女性誌に真の国民の声(怒り)を届けましょう!
  女性自身  [email protected]
  週刊女性  [email protected] 又は [email protected]
  女性セブン [email protected]
決意の公務ヤルヤル、政府高官夫人・旧宮家関係者など妄想・偽装記事を掲載。
(記事の中で登場する匿名者は東宮擁護用に女性誌が生み出だした架空人物)

東宮御所は外務省出身の売国奴ばかりで小和田機関の伏魔殿に成っている!

このままでは皇室に対する国民の敬愛が深く静かに傷ついていく。(行動を!!)

89日本@名無史さん:2008/02/24(日) 01:49:21
2008/02/22-20:35
研究者、「墳丘の広さ実感」=「神功皇后陵」に初の立ち入り調査

 宮内庁が神功皇后陵として管理している奈良市の五社神古墳(4世紀後半、全長約270メートルの前方後円墳)に、日本考古学協会(会長・西谷正九州大名誉教授)など16学会の研究者16人が22日、立ち入り調査した。
天皇や皇族の陵墓を学会側の要望で学術調査するのは初めて。
 西谷会長は立ち入り調査後「墳丘の広さを実感できた」「宮内庁の行き届いた管理によって良好な状態で、典型的な前方後円墳の姿を確かめることができた」と話した。
 研究者はこの日、午後1時に宮内庁職員の案内で墳丘に入り、墳丘の1段目を約2時間半かけて観察しながら1周した。
 西谷会長らによると、墳丘を保護するためのふき石はよく残り、円筒埴輪(はにわ)の破片もあちこちに散らばっていた。また埴輪片の観察などで、4世紀後半築造とする見方と矛盾はなかったという。
 調査成果は4月5日、奈良県文化会館で16学会主催のシンポジウムで発表される。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008022201044

神功皇后陵を初調査 築造当時?の埴輪列 陵域、現状より大きかった可能性
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/124779/
宮内庁管理の神功皇后陵 16学会が立ち入り調査【写真・地図・イラスト】
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200802220020.html
90日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:25:28
>>86
単に立ち入るだけで一体何が判るのかねえ。
91日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:41:05
協会が4世紀後半ってことは4世紀半ばか。
やはり五社神古墳は成務陵だな。
神功陵は市庭古墳。
92日本@名無史さん:2008/02/25(月) 09:08:57
石腹にまいて出産遅らせて、なんてもろ中国からのパクリ
実在せず、女帝時代の権威づけに創作された人物じゃないの?
93日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:47:54
(1)文献どおり、実在したことを前提として、論述する。
(2)女帝時代の権威づけに創作された人物、と仮定する。
92さんは、本気でそう思うなら、それを前提として論述すればよい。
それとも、議論のための議論をしようとお思いですか?
94日本@名無史さん:2008/02/25(月) 13:04:05
側近は百何歳かいきて現役の武内宿禰とか、明らかに神話色が強いことだしな。
95日本@名無史さん:2008/02/25(月) 14:02:05
とはいえ室大墓からは朝鮮や紀州との関係性が見えてきて
そう簡単に捨て置けなくなるから面白い。
96日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:21:00
天然痘が流行る前は、意外と昔の人のほうが長生きだったりして。
97日本@名無史さん:2008/04/23(水) 00:46:47
立ち入り調査した結果が知りたい
98サガミハラハラ:2008/05/05(月) 00:56:21
>>94確かに神話的要素が多いのであるが、かく事象を冷徹に科学的に
分析していくならば、科学的にありうる現実的な話であることがわかります。
99330および372:2008/05/05(月) 01:07:50
神功は持統天皇の創作だろ。
自身の天智血統の正統性を暗に神話という形で臣民の記憶に当時まだ残ってる
大叔母の推古朝の事跡を改竄し刷り込む目的で創作したのが真相だろ。
100日本@名無史さん:2008/05/05(月) 01:30:00
上からの創作にしては九州など西日本に残る神功皇后の民間伝承が多くて具体的過ぎる感じがするけどね
101日本@名無史さん:2008/05/05(月) 01:40:22
>>100
だから推古朝の事跡をなぞったんだよ。
102日本@名無史さん:2008/05/05(月) 08:07:11
民間伝承なんてあてならん。北海道のアイヌにだって義経伝承あった。
103日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:14:17
>>100
あれは、「オオタラシヒメ」という名乗りからして、直訳すれば「女帝さま」
であって、神功皇后のことではないね。あらかた斉明天皇にことよせたものだろう。
104日本@名無史さん:2008/05/05(月) 10:09:09
斉明天皇は女帝でありながら、朝軍を率いて白村江の戦いに参戦、
朝軍が朝鮮半島へ渡ろうという時に老齢のために筑紫で亡くなった(出兵時67歳)。
この故事が朝鮮半島へ渡り半島を征服したとされる
神功皇后の故事のもとになった
105日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:42:00
>>100だけど、推古や斉明の事蹟が元ネタになったって意見が多いみたいだね

さすがに、全くの白紙状態から創作したって意見はないみたいだなぁ

福岡在住なんで、まわりには神功関連の神社や伝承が多くて、馴染み深い存在なんだよね

さすがに、伝承を鵜呑みにはしてないよ
こうゆうのは、ある程度ディテイルが出来ちゃうと二次創作みたいに次々といろんな話しが付加しちゃうから

ただ、基本となるディテイルをゼロから創作するってのは、権力でも難しいんじゃないかと思っただけ
信仰も絡んでるから、なおさらね
106日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:45:01
だな。
応神天皇を生んだという皇后の伝承はもっと古くから皇族・豪族の間にあったと思うが。
「神功皇后三韓を征したまふ」の話は白村江の敗戦の結果だな。
107唐松山:2008/05/05(月) 18:41:56
神功皇后稜4世紀半ば
「神功皇后三韓を征したまふ」は、3世紀後半

日本書紀総合考察スレ、古伝妄信に 書記、古事記が合体した編年 西暦を計上しました。
興味有る方は、覗いてみて下さい。
108武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/05(月) 20:56:38
>>98
あなたの本パラパラ読みましたけど、なんだかある種のクリスチャンの聖書の読み方みたいで興味深かったです。
処女懐胎を最初から事実として受け止めそれを科学的に解明するとか、
イエスの蘇りを歴史的真実として、それを科学的に解明するとかetc.
ノアの箱船の遺物を探求する人たちとかは、あなたにスタンスが瓜二つです。
彼らは、
処女懐胎もイエスの復活もノアの箱船(旧約出典のこのへんはユダヤ教徒も入りますね)も最初から事実として受け取り、
与太話だということは疑いもしません。
なんだかあなたの神功皇后の逸話を受容する態度に似てはいませんか?
日本書記の成立期の諸事情のバイアスが神功皇后ににかかっていることは
あなたは承知されてるのでしょうか…。
虚構の部分をいくら科学的に問いつめても徒労という気がしますけど。
むしろどこからどこまでが虚構でどこからどこまでが事実か…、
を区分した推論を
まずもって論証してからあなたのようなやり方は有効と思われれますが。如何?
109日本@名無史さん:2008/05/06(火) 03:06:08
100パーセント事実とはいえないが、100パーセント虚構だとはこれまた言えまい。
3世紀中頃から、倭国から半島へ、軍事的出兵があったことは、日中韓それぞれの文献に
はっきりと記載されている。なるほど神宮皇后は日本側の文献にしか登場しない、だからといって
軍事的衝突なかったいうのは単なる感情論に過ぎない。
110日本@名無史さん:2008/05/06(火) 03:17:40
109
3世紀は4世紀へ変更
111日本@名無史さん:2008/05/06(火) 08:31:37
え、サガミ氏って本出してるの?
112日本@名無史さん:2008/05/06(火) 09:36:45
>>109
軍事衝突がなかったなんてだれもいってませんよ。
113武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/06(火) 10:10:41
>>109
>>112氏の言う通り。
私が言ってもないことを批判されてもね。
虚構と推察される部分と事実であろう部分を明確に
考察し区分した上で
神功皇后の事実的な事績を「科学的」に論証するのが筋でしょう…
ということだよ。
オーソドックスなやり方だけど、アマチュア古代史研究者だって踏まえなきゃ。
サガミ氏のやり方はある種のクリスチャンの聖書の記述の受容の
(もうレスしたことなんで再述はなしね)仕方にそっくりなんだよね。
正直言ってあの本は、神功皇后へのオマージュとしか読めない。
トンデモとまでは言いたくはないけどスタンスはトンデモだ。


さあて起きるとしよう!
114日本@名無史さん:2008/05/06(火) 10:38:15
単純に、よくあるパターンの

ちょっと凄い人が居た
↓←書かれた時代の事情
↓←他の人の逸話
↓←他国の故事
↓←創作された逸話
神話の完成

でしょ?
115日本@名無史さん:2008/05/06(火) 10:42:18
女性天皇の時代に書かれた神話だから、女性の皇后が活躍とかいたって単純な理由ではなかろうか
116日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:34:00
>>115
それなら神功皇后を大王にしちゃえばよかったのにね
日本書紀などでは神功称制を一代分として天皇と同様の扱いをしている
神功皇后は未亡人となってから称制を敷いているのだし、
未亡人になってから即位した推古や斉明のような女帝でよかったのにね
117サガミハラハラ:2008/05/06(火) 22:47:20
人間の先入観といいますか刷り込み学習というか、事象をみる目が固定されてしまっているということは実によくあることですね。
私の本をはじめから、与太話を受容するだけの本であると見ているようですね。
虚構の部分をいくら問つめてもとおっしゃいますがあなた自身その事象が虚構であるとどのように判断したのですか。
わたしは皇后の事象について一つ一つ科学的(現実的)にありうるか検証していきましたが、あなたは私の本をパラパラと読んでいったといいますが、
私がどのように検証しているか要点だけでもよんだのですか。
新羅征伐、あ、これは虚構ときまっている、神々を主軸に論を展開しているからオカルト的だな、
年代はもうめちゃくちゃなんだから読む必要もない。
とばかりに飛ばし読みどころかパラパラめくっただけというように思いますがいかがですか。
虚構と推察させる部分と事実であろう部分を明確に考察し区分した上で、神功皇后の事実的な事績を「科学的」
に論証するのが筋でしょう、といっておられるがそうやっているでしょう。
あたたはどう本を読んでいらっしゃるのか。
私の本に限らず人の本を批判する場合はもう少しよく読んで批判していただきたいものである。
118武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/06(火) 23:16:12
>>117
虚構の部分をあぶり出しした検証が必要でありませんか…
ということを私は言いたいだけです。
手続きのことを言ってるのですが。
何が虚構で何が事実かを推論峻別した上で、神功皇后の事績分析をするのが筋ではないですか?
神功皇后の事績の「科学的分析」はそれからでも遅くないと思いますが?
あなたの場合は神功皇后の記述に対する批判意識が極端に薄いです。
しつこく言わして頂きますが、私は神功皇后の記述が100%虚構であると言いたいのではなく
神功皇后の記述のどこが、何が虚構なのか明確にして頂いた上で事績分析をして頂きたい、
ということなのです。
ついでにその当該虚構箇所の成立にあたっての編纂者サイドのねらいも推察して頂きたく思います。
神功皇后の記述に書記編纂時の政治・外交の諸事情に影響されてるとはツトに言われてますし、
神功皇后に中国の史書の記述(卑弥呼とか)を取り入れた形跡を推察する研究者だっているのはあなたもご存じでしょう。
念のため言い添えますが、
私は神功皇后それ自体についての私自身の考察は何一つ披瀝しておりません。
そこのところお忘れなく。
研究スタンスのことを批判してるだけです。
あなたはナイーブすぎます。
神功皇后へのオマージュは学問とは別次元です。
以上、出すぎた口出し、あいすみませんでした。
119日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:21:39
文章だけで鳥肌立つよ
344 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/03/26(水) 20:57:01
数年前、国際フォーラムに「人体の不思議展」を見に行った。
そこに展示されていた遺体は妙に新鮮で生気があるように感じられた。
俺は格闘技をやっているので「結構鍛えられたいい体してるな」という感想を持った。
そりゃそうだよな。 気功で鍛えられた法輪功学習者の遺体だもんな。
俺が「結構鍛えられてる遺体だよなぁ。筋肉とかバランス良過ぎだろう」
と言ったら、一緒に行った中国人が 「太極拳だね」と言っていた。
俺はその当時、意味が分からなかったら「ふーん」と流したんだが、今ようやくその意味が分かった所だ。

534 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/03/26(水) 21:59:42
八ヶ月くらいの胎児を身ごもった女性もあったと思うけど、あれも法輪功の人って聞いた。
生きたまま血管に薬剤注入されるとか...可哀想で、人体の標本展と聞くと鳥肌が立つ。

555 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/03/26(水) 22:08:17
http://jp.e←くっけて→pochtimes.com/jp/2006/04/html/d99548.html
生きた人体から臓器摘出―中国大陸病院の証言録音
------------------------------------------------------
質問:法輪功学習者のものはありますか?
医師:ここにあるものは、すべてそうです。

だめだ吐き気してきた http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/←くっけて→1206527320/706

http://www.jintai.co.jp/outline02.html」→ まさに21世紀のホロコースト
法輪功修練者を迫害・拷問する中国当局
http://shupla.w-jp.net/datas/movie/FalunDafa_PleaseHelpUs.html
【臓器狩り】人体の不思議展と法輪功
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/occult/1209168696/1-100
【中国】超リアルな人体模型に子どもたち唖然 人体の不思議や健康と病の問題に直観的に迫る「人体標本展」―瀋陽[04/27]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1209353111/301-400
【標本】人体の不思議展スレ【献体】
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1209353111/301-400
120サガミハラハラ:2008/05/06(火) 23:51:26
私の研究方法のひとつは
文献のなかの事象について、それが科学的に成立するのか検証し、成立すれば
そのうえでその事象が事実であるとみるわけです。先に推論してしまうと真実まで捨ててしまうことになります。
あなたの考えとは逆のようですね。
編纂者サイドのねらいの推察といわれるが、かいてないことを推察しすぎると妄想になってしまいます。
121日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:24:34
>>116
女帝にするには、血統的に問題があったんじゃないかな?

一応、欠史八代の開化の五世孫となってるが、律令の皇親規定ギリギリだから、あんまり遠縁の女帝という前例をつくりたくなかったとか

かといって、斉明みたいな三世孫くらいの血縁に改竄するにが不可能なくらい大王家に縁遠い血筋で、せいぜい皇族皇后扱いにするのがやっとだったとか

律令の継嗣令は嫡系継承を理想としてるし、元明・元正の即位は嫡系継承を実現する為のものだったから、記紀成立期を考えるとあまり極端な前例は好ましくないと考えたかも

まぁ、単なる思いつきだけど、藤原氏が神功を女帝にしてまで息長氏の血縁を良くする義理が、あんまりなかったんじゃないかと
122日本@名無史さん:2008/05/07(水) 10:42:39
普通に強い妊婦さん萌え、という変態が妄想したのを書いただけでは?w
123日本@名無史さん:2008/05/07(水) 11:08:38
神功皇后ってのはフランスのルイ「17」世みたいなもんだろ?
半島に進出していた倭人・倭国勢力の実態は大和朝廷の中枢とは
ほとんど関係ない軍閥だったんじゃないか?
124日本@名無史さん:2008/05/07(水) 11:08:55

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
125日本@名無史さん:2008/05/08(木) 12:15:16
>>121
息長氏からはのちに継体天皇が出ているけどね
息長氏は天武朝で真人の姓を受けているし
126日本@名無史さん:2008/05/09(金) 03:24:19
継体って息長氏なの?
記紀には、応神五世としか書かれてないよね?

釈紀所引の上宮記逸文には、応神から継体までの世系が書かれているけど、息長を名乗る人はいないみたいだけど?
127日本@名無史さん:2008/05/09(金) 06:08:17
香椎の宮の近くに住んでたけど、何か質問ある?
128日本@名無史さん:2008/05/09(金) 09:06:29
>>75 >>123
11-14世紀ごろの、空位時代を中心としたポーランド中世史を見ると共通点が多いよ
最終的にヴワディスワフ1世が権力を取り戻すまでのピャスト家と貴族たちの宮廷闘争あたり
129日本@名無史さん:2008/05/09(金) 09:27:49
>>126
息長氏は応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王が祖とされ、
継体天皇と同祖。
継体天皇の父彦主人王は近江国三尾野にいたとされるが、
ここは息長氏の勢力地。
また、皇親政治を目指した天武朝の八色の姓において
最上位の真人を受けたのは皇親一族のみ。
130日本@名無史さん:2008/05/09(金) 09:56:00
>>120
その方法だと井崎のデータ予想(競馬)と同じ罠にはまる可能性もありますね。
結論ありきで検証をはじめると、有利なデータばかりを集めて使ってしまう危険があります。
科学的にと言うならば、色々な実績とされている事柄があったとするケースと無かったとするケースと両面からアプローチをしないと真実は見えてきませんよ。
131日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:10:04
>>127
香椎宮近くの宇美が神武天皇のたちよった宇佐であったと愚考していますが、
今のところ、鞍手郡誌の土地の豪族の娘が蚊田(宇美)で神武天皇の子をうんだという伝説
しかみつかっていません。
そこでおたずねするのですが、香椎の周辺で神武天皇に関した伝承等ほかにないでしょうか。
教えてください。
132日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:21:32
>>116
だから応神天皇を生み育てた女傑(皇后)の伝承自体はあったんだろう。

当時ド田舎だった関東の豪族でさえ、7代前のからの系図を刀に書いて喜んでんだぞ。
当然、畿内の各豪族だってそれぞれ古くからの伝承があったわけだろ?
国史編纂に当たっていきなし人物でっち上げたってウソばればれじゃん。かえって皇室の権威失墜じゃん。

元々あった神功皇后の伝承が、当時の対新羅外交のために潤色をほどこされたんだと思う。
133日本@名無史さん:2008/05/09(金) 22:39:08
記紀なんかは普通に読めば、その当時に現実に存在した伝承が
骨格になっているとしか言えないだろ。

その伝承では不満があるとして、先代旧事本紀や古語拾遺が書かれ
ているんだが、伝承の骨格は同じであるだけに、古代人が伝承の細部
の正確さにこだわっていたことが理解できる。

その骨格部分、例えば皇族の祖先が西から来たとか、歴代の天皇が
存在していたことなどを否定する考えは、要するにその時代の民族全体が
集団催眠にかかって誤った伝承を信じていたということになるが、
こんなトボケた想定は、「科学的」ではない。
134日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:04:29
>>133
そのとーり!
流石に神武のBC660はないがw
3世紀中〜後半の人物なら、何もおかしなところはない。
135日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:12:05
「伝承が存在した」ってのと「伝承は事実だった」は別問題だろ。

応神天皇の母親だって別にフツーの皇后だったろう。
偉大なる応神天皇はその母親だって偉大だって伝承が出来たのは、天皇の死後数十年以上はたってからだろう。
モチロン当てずっぽうの見当だ。
ただ白鳳時代辺りにニワカにキャラが創られたワケではないだろって事だ。
136日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:35:07
皇后は天武朝から使われ始めた言葉。
仁徳の祖母に当たる女性が実在したことは確実だが、
経歴が事実だという保証などない。
>>133ー134はまさか、記紀に書かれてあることはすべて事実、
天照大神や大物主神は実在したと主張するんだろうか?
137日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:45:54
>>136
アマテラスは卑弥呼と親戚だよ。
言うならばアマテラスは卑弥呼の「五世おばあちゃん」ぐらいかな。
138唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/10(土) 21:05:45
サガミハラハラさん貴方の倍暦は
文献のなかの事象について、それが科学的に成立するのか検証し、成立すれば…
文献のなかの事象は ある程度説明できていますが 倍暦の説明が 出来ていない。

神功元年の日食も それから約20年後の新羅本記の倭人の記述も全て他人事。

大物主3世?は、孝昭から 暦を譲り受けた為 崇神6年の凶作に絶えきれず 国譲りを余儀なくされた。
139サガミハラハラ:2008/05/10(土) 23:30:35
倍暦の説明とのことですが、私は事象を現実的に実証説明し、その事象が倍暦で説明できることをも
照明しているわけです。その結果書紀では(景行から安康まで2倍年暦、神武から垂仁までは2倍年暦×2)
倍暦が使用されていることがわかったわけです。

神功元年の日食についてはかなり詳細に説明してあるつもりですが。
140日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:11:47
倍歴なんて使用するわけないだろう・・・
141日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:43:25
>>97
オレも立ち入った結果が知りたい。
ぐぐってもたいしたものが出ん。
142サガミハラハラ:2008/05/11(日) 17:07:44
>>140の方、何故そう思われますか?
143日本@名無史さん:2008/05/11(日) 17:29:03
>>133
ふうん。じゃあ、エデンの園は世界中で広く信じられてるけど、
これはどんな歴史的事実の反映なの?
まさか誤って信じて集団催眠とは言わないだろうね。

144日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:39:47
>>143アラビアのバーレーンかその近くのことだそうですよ。
ちなみに食したのは林檎ではなく他の果実だそうです。
145日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:48:08
スリランカにはアダムの足跡も存在する
146日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:45:05
当時、「倍歴」なんて概念が本当にあったのか?

今の人間が辻褄合せに考えたんだろ?
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/11(日) 19:58:11
2倍年暦×2 是を 本物の暦に直せるなら 検討する余地は ある。

直さない内は、問題外。
148武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/12(月) 00:32:28
サガミハラハラさん、
どうでもいいこと言わして頂きますが>>130氏や私どものような指摘は、まともなレベルの人間だったら必ずして来ますよ。
つかぬことお伺いしますが、どういった人間に献本されたんでしょう?
本なり論文なりを著す時は、
前もっていかなる批判が来るか
予想されるとよろしいかと思います。
あとアカデミック(権威的な意味合いには受け止めないで下さい)な
研究者と議論されることもお勧め致します(献本して叱正を謙虚に聴くこともお忘れなく)。
妄言、諒として下さい。
149改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/12(月) 00:44:44
周りから反論・批判が来た場合、逃げるw
ですよね?サガミハラハラさんw

というかこんな所にいたのか!サガミさん
いい加減、わたしの桜ヶ丘説は卑弥呼の墓ではないよ?
という質問を逃げずに答えて下さい!w
150 サガミハラハラ:2008/05/12(月) 00:52:29
献本は引用した書の著者の方や世話になった方で住所のわかっているかたにおこなっております。
あとアカデミック云々ですが、本を送って返事がくるものなのでしょうか?
なしのつぶてのような気もしますが。
151 サガミハラハラ:2008/05/12(月) 17:17:55
桜ヶ岡を卑弥呼の墓とみた理由であるが、これは倭人伝の邪馬台国への行路記事にそってすすんでいくと、
佐賀県小城市甘木に到着します。ここが邪馬台国の都であります。
その都に倭人伝の記述どおりの径歩百余歩の丘があれば、それが卑弥呼の墓であるとしかか考えられません。あたりにはほかに丘はありません。
倭では吉野ヶ里の例をみてもわかるように都の中かその直近に墳丘墓があります。
考古学上では未発掘のため確定できません。(是とも非ともいえない)
しかし、邪馬台国問題は文献上の問題であり、文献により卑弥呼の墓を比定してもなんら問題はありません。
以上が私の卑弥呼の墓は桜ヶ岡であるとの説明です。
152日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:26:16

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1049205072/

サガミハラハラ君ってこっちの釣りスレにも出入りしてるんだなw
153日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:39:47
>>152
一年中エイプリルフールな人だから、ある意味自然。
154 サガミハラハラ:2008/05/12(月) 22:33:07
アクセス禁止だそうですのでしばらく書き込みできません。
155 サガミハラハラ:2008/05/12(月) 22:37:20
新スレッドをたてて説明しようと思ったのですが、たてれないとのことです。
しかし、ここにかきこんでも直に消えてしまうしね。
156武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/13(火) 23:40:07
>>150
献本されたところで読まれることはほとんどないでしょう。
取りあえず議論するチャンスと場をご自分で作って口頭で議論することです。話はそれからです。
157 サガミハラハラ:2008/05/13(火) 23:49:36
まっとうなご教示ありがとうございます。
158 サガミハラハラ:2008/05/13(火) 23:51:50
まっとうなご教示ありがとうございます。
159 サガミハラハラ:2008/05/20(火) 13:34:48
私の倍暦による古代天皇在位年算出について問い合わせが多いようですので、
当板の皇国史観に基づいた正しい古代史のスレに書き込んでおきましたので
是非ごらんください。
160日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:43:12
むしろ神功皇后の方が「本物の天皇の系統」だと考えている。
そもそも天皇は三皇(天皇(てんこう)・地皇・人皇)のはじまりであり、天帝(道教では天皇大帝と呼ぶ)のこと。

天帝(天皇)は山東半島西部の泰山(たいざん)の主であり泰一(太一 たいいつ)の主宰神。
「太一」は今でも世界で唯一伊勢神宮で祭られている。

帝は泰山で封禅の儀式を行い天帝に報告してはじめて帝として認められる。
秦の始皇帝が全土を統一して泰山で封禅の儀式を行なおうとしたが、すでにそれを行える者が泰山にはおらず自己流で考えて封禅し皇帝となった。(以後の皇帝は始皇帝にならった)

「大王(おおきみ)」は本来「天皇」とは異なる。(仲哀天皇も後世のおくり名)
道教の方士である則天武后が夫の唐の先帝に天皇を名乗らせたために、日本も天皇を名乗るようになった。
(要するに「本家天皇」を名乗った者がいたので「元祖天皇」を表明せざるを得なくなったと考えられ、少なくともその時点ではすでに大王の血筋ではなく天皇の血筋と考えられる)

加羅はもちろん百済や新羅の成立には倭人が大きくからんでいる。ところがこの当時は高句麗の台頭とともに倭人系が圧迫されていた。
仲哀天皇は新羅の場所さえ知らなかったが、神功皇后は明らかに朝鮮情勢のネットワークを持っており金銀細工の本場である「新羅」の状況も正確に把握し、北九州の倭人を駆使できた。(おそらく新羅や百済国内の倭人の手引きもあったはず)

さらに「私の名を出せば新羅も百済も下るでしょう」と自信を持っており、実際「真っ赤に塗りつぶした大船団」で新羅に押し寄せ、ほとんど争うことなく三韓を下し数ヶ月で帰国した。
(三韓は馬韓(のちの百済)、辰韓(のちの新羅)弁韓(のちの加羅)であって高句麗は三韓ではない)

ちなみに本来の倭人系は呉より越に近いはず。(どちらも江南人だが呉の始祖王は周の王子「太伯」)
161 サガミハラハラ:2008/05/22(木) 13:18:16
仲哀天皇は新羅の場所を知っていました。が、皇后が西にあるといったので不審に思ったのです。
皇后の先祖は新羅人であるが、ネットワークをもっていたり、手引き云々まではないと思います。
162日本@名無史さん:2008/05/22(木) 18:28:09
>仲哀天皇は新羅の場所を知っていました。

この根拠はどこですか?
日本地図や世界地図を見ているなら「新羅は宇佐の北」だが、壱岐→対馬→半島という道程からは「ここから西に行き・・・」というのは正確。

>皇后の先祖は新羅人であるが、ネットワークをもっていたり、手引き云々まではないと思います。

ネットワーク・手引きはともかく辰韓や新羅建国で倭人関連は強い。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
辰韓の風俗は倭人に似ていたと言われ、言葉も馬韓人とは言葉が異なっていたが、弁韓(後の加羅、任那)人とは似通っている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A0%E5%85%AC
新羅建国は「倭人の瓠公」が主要人物であり、馬韓の属国を離れる件でも交渉に行って馬韓王に殺されかけている。

倭人が飢餓になると新羅に流入するなどのように許容されていたが、
瓠公が見出した「金閼智」の6世孫「金仇道」が新羅第12代王の頃百済と戦い、その子が新羅第13代王味鄒尼師今(262年- 284年)になると、新羅王家は金氏が独占し倭人は何度も新羅と争うようになった。
(というより金王家が新羅や周辺の倭人の排除に乗り出したと考えられる)

天日矛は金王家以前の瓠公や倭人系の出身かもしれない。
少なくともアカヒルメは倭人
163 サガミハラハラ:2008/05/22(木) 21:58:36
普通方角は道程に沿った表現はしません。直線方角です。

半島南部は倭であり、この地域は垂仁天皇の時代に大和の勢力領域にくみこまれたものとみています。
ですから、天皇が香椎の宮におったときには、弁韓地域は天皇の勢力化にあったわけです。しかし、それは天皇の支配下であり、皇后の関与できることではないのです。

ですから、皇后は半島とのかかわりはないということをいっているわけです。
164日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:35:09
>普通方角は道程に沿った表現はしません。直線方角です。

この時代に「位置や方角が正確な地図ができていた」ならそうでしょうが、まだ無いでしょう。
そして、この会話をしている場所は「北九州東部」であり「地図は無いが行き方は知っている」場合「西を指す」のは妥当です。
(もちろん神功皇后自身は行ったことはなく、渡海経験者や半島から来た者(おそらく倭人)からの情報でしょう)

>垂仁天皇の時代に

垂仁天皇は祟神天皇の次代であり、倭姫が伊勢神宮を遷宮し、新羅から天日矛が来日したり、タジマモリが常世国にトキジクの実を採りに行かせたりと、大和朝廷が本格化し「外交がまだ活発だった時代」だと思います。

私は天日矛が(まつわる記事から)倭人系だと考えていますが、金王家が新羅を乗っ取り、新羅や周辺の倭人の排除に乗り出した頃には、「都では国内に目が向いて半島情勢に興味を失っていた」と思います。

しかし「北九州の倭人」にとっては「半島の倭人地域を奪われるかどうかの瀬戸際」です。

宇佐八幡宮や海童(ワダツミ)にも見られるように神功皇后は「本来の倭人の系統」だと考えられます。
ますます緊迫する半島情勢と海外に目を向けない仲哀天皇や都人を前にして、「倭人を圧迫する新羅王家を下す」には「仲哀天皇にまず軍を九州に向かわせる」ことを考えていたでしょう。


新羅を急襲するのも「渡海などしたこともない都の軍団」には不可能で、実質的に「船を動かし渡海を成功させた」のは「地元の倭人たち」でしょう。

「魚が船を押している」という逸話も、大海で「海面付近を遊泳する魚」の天敵は「鳥」で、魚は浮遊する木切れなどに身を隠そうとします。
まして当時は戦乱の大陸では人口が激減し死体やその分解物は結局海に流れ、「急激な冨栄養化によって魚介類が豊富だったはず」といいます。
対馬海峡を越えて半島に向かう船団に寄り添うように進む大量の魚を見て、都の兵達は「魚が船を押している」と無邪気に信じ込んだでしょうし、神がかりの巫女である神功皇后自ら兵士にそう言って鼓舞したかもしれません。
165 サガミハラハラ:2008/05/23(金) 10:50:24
地図のなかった平安時代でも、陸奥出羽の国は都の丑寅の方角とわかっていました。
愚考するに、皇后あくまでも神がかりの結果、新羅遠征をおこなったとみております。
国際情勢や国内情勢など仲哀帝没以前には考えていなかったと思います。
勿論帝が没したのちは必死にかんがえたでしょうが。
166日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:58:05
香椎宮→沖ノ島→新羅
167日本@名無史さん:2008/05/23(金) 12:25:09
>地図のなかった平安時代でも、陸奥出羽の国は都の丑寅の方角とわかっていました。

1)国内ではない海外の地理
2)天日矛が来日した頃や神功皇后以降ではなく、国内情勢が優先された時期
3)新羅に向かって海を直進したのではなく、対馬の油津を経由して新羅に行った

ということです。
神功皇后が「「新羅は金銀にあふれ目が輝く国」と言ったのは「興味を引くための方便」かと思っていたら
当時の新羅は本当に金銀財宝に満ちた国だったということです。
ttp://inoues.net/korea/korea_keishum.html

神功皇后は新羅の状況を倭国に居ながらにして知っていたし、
迷うことなく新羅に到着し、驚くほど短期間で下すのに成功させるには、情報提供者や内側で手引きする者が不可欠です。
168日本@名無史さん:2008/05/23(金) 12:27:13
新羅、百済、加羅、そして北九州に共通するのは、「倭人の存在」ということです。
169日本@名無史さん:2008/05/23(金) 12:36:22
太王四神記 見て思ったんだけど、談徳(広開土王)のオヤジはその前の王が
鮮卑に敗れて王妃がさらわれて行って、帰ってきた時には子供をつれていた。
それが談徳のオヤジなんだな。
それで談徳のオヤジは鮮卑の子供ではないかと疑いを掛けられたが王になった。
そのオヤジの出生の秘密に絡んでごたごたする話なんだが、

神功皇后が朝鮮征伐に行って帰ってきてみたら妊娠していたわけだ。
当然、天皇の子供ではなく、新羅人の子供ではないかと疑いを持たれていたん
じゃないか?
神功皇后はその疑惑を有無を言わせず打ち消す必要があった。
天皇が崩御した後だし、二人の異母兄弟はすでに成人しているし、どちらかが
天皇になっていたはずだ。
二人の母親は天皇の正室で神功皇后より血筋が良かったのだから。
その天皇を攻めて殺したのが神功皇后だから、周囲の皇族たちも天皇になる事
に同意できない。
だから皇位には就かなかった。

こんな考えも出来るな。
神功皇后は談徳の祖母みたいに新羅にさらわれて行って、妊娠して帰ってきた。
新羅から軍隊を引き連れて戻ってきた。
そして、畿内ですでに天皇になっていた仲哀天皇の息子を滅ぼして
新羅の傀儡政権を作った。
仲哀天皇と新羅征討か熊襲征討かでもめた時に、新羅を宝の国だとか言って
やたら褒めていたのが気になる。
170日本@名無史さん:2008/05/23(金) 15:56:35
いちおう神功皇后は行く前から身ごもっていたはずで、
一説では北九州の洞窟で産み落としてから渡海し、急に腹がへこんでばれないように石を入れた腹帯を巻いたといいます。
(「ここの洞窟」というのが地元ではあるそうです。)
171日本@名無史さん:2008/05/23(金) 16:17:42
>神功皇后は談徳の祖母みたいに新羅にさらわれて行って、妊娠して帰ってきた
なんとか仲哀天皇に熊襲征討をやめさせて新羅征伐を勧めたのは神功皇后の方でそれはないでしょう。

しかも神功皇后は行く前から「私の名を出せば新羅も百済も熊襲も下るでしょう」と自分の出自に絶大な自信を持っていましたし、
実際その通りに成りました。

それに八幡信仰は「新羅の文化」ではなく「北九州の倭人の文化」でしょう。

ニニギはどちらかといえば呉人系で、オオヤマツミが倭人系でしょう。
つまり神武天皇の頃は倭人系の「天(アマ)」氏と呉人系の「孫」氏が融合して「天孫」ではないかと思います。
倭人系が天皇の正統性を取り戻したのは「神功皇后-応神天皇」からだと考えます。



172 サガミハラハラ:2008/05/24(土) 00:26:51
>>166
香椎宮→浜崎→唐津→呼子→鰐浦→迎日湾(新羅)
173日本@名無史さん:2008/06/24(火) 12:38:13
age
174日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:34:42
自ら海を渡って朝鮮を征服。
世界史に比類する女傑なし。
175日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:46:22
神功皇后陛下は三韓征伐を成し遂げた偉人。
176日本@名無史さん:2008/06/26(木) 08:49:41
モデルはシュメールのク・バウ
177日本@名無史さん:2008/08/30(土) 21:20:52
女傑なのは確かだが、フィクションのキャラで万邦無比どーこー言われてもなあ・・・
178日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:20:33
そうね
179日本@名無史さん:2008/10/14(火) 02:02:29
別伝に出てくるウルソフリチカっていうのは
三国史記に列伝をたてられている昔于老ですよね。
ほぼ内容も一致していますよね。
新羅の指導者が倭に殺され、妻が倭に復讐するという
お話ですね。
三国史記にでてくるカツナコとかウドウシュクンという
倭人は誰なんでしょうか。
180日本@名無史さん:2008/10/14(火) 02:33:45

旦那をやったんだよな!
毒をもった。

181siraki:2008/10/14(火) 03:16:20
列島人たちはあほらしい 意富加羅 韓國息長大姫 大新羅 日槍族の女を..
深く考えなければならない.後世になぜ? 高野 新笠だと 新笠を立てたのか?
私たちは新羅 王女の 戦場で出る彼女の 紅笠をまだ憶えている
君たち百済やつらにだまされている 笠沙の戦闘を憶えなさい馬鹿たちよ..
182日本@名無史さん:2008/11/18(火) 11:31:46
2chなんかに書き込んでいる暇があるなら、自国の経済破綻を回避する方法を考えなさい。
IMFの融資条件は厳しいよ。
183日本@名無史さん:2008/12/01(月) 11:00:51
>>71
オキナガには2系統あるからだろ。
山城南部と近江の坂田。

山城南部から出たのが、神功皇后。
近江の坂田から出たのが、継体。
184日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:43:40
185日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:43:59
乗っ取りのやり方が見えて怖い
186日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:55:54
女系は米原近くに定住した朝鮮渡来系
187日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:59:06
女系祖国の朝鮮に介入する 亡命の恨みか朝鮮に物申す資格は あった人
188日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:41:12
【歴史】韓国が日本に抗議!!自由社版「歪曲教科書」、日本政府の検定で合格

今回の自由社版の教科書は、4世紀後半に日本のヤマト王権が韓半島(朝鮮半島)南部を支配し、伽耶(かや)
地方に「任那(みまな)日本府」を設置したという説をそのまま認めるなど、古代史分野の歪曲した内容を
そのまま掲載した。

「任那日本府」説は韓日両国の学界で公式に否定されている。また、この教科書は日本の韓国併合は
「日本の安全と満州の権益を守るためだった」と記述しており、植民地政策の焦点も「近代化」にあった、と記述している。

さらに旧日本軍の従軍慰安婦についての内容はまったくなかった。
韓国政府はこの日、外交通商部の文太暎(ムン・テヨン)報道官による声明を通じ、
「過去の過ちを正当化・美化する誤った歴史認識に基づく歴史教科書が、日本政府の検定で合格したことに対し
強く抗議し、根本的な是正を求める」と発表した。

http://www.chosunonline.com/news/20090410000014



>「任那日本府」説は韓日両国の学界で公式に否定されている。
>「任那日本府」説は韓日両国の学界で公式に否定されている。
>「任那日本府」説は韓日両国の学界で公式に否定されている。
>「任那日本府」説は韓日両国の学界で公式に否定されている。

否定されてるそうだよw
189日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:05:00
>188
神話の大山津見とか稲田姫はA朝鮮渡来だが
今の李王家や 古代朝鮮と のちに大陸奥地から
半島来たB AとBは同一ですかねえー?
190サガミハラハラ:2009/04/13(月) 08:32:58
任那日本府の存在は歴然たるものです。
そもそも、半島南部のかなり広範囲の地域な、太古の昔から倭人の居住する
地域であり、倭と認識されるとちなのです。
また新羅語と日本語は同一であるともいわれ、新羅は倭の一部であるともかんがえられます。
191日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:18:19
任那日本府があったであろう場所から明らかに日本のものである
前方後円墳が発掘されてしまったら、否定しようがない。
朝鮮人学者か間違った自説に固執せざるをえない日本人学者のみが否定。
現在ではあったということはほ定説になった。
192日本@名無史さん:2009/04/18(土) 10:04:10
神功皇后といえば、神職と話す時は母だ渡来人はタブー、だから母の祖国の凱旋侵略まで
つ込み話せないから結果 日本対朝鮮の議論の域でない。伊勢神宮の志摩磯部の伊雑宮の
御神体出し=志摩の海軍物部の海兵隊の指揮高めるが意図=錦旗で御神体掲げ西に
神戸の休息場に生田神社できたようでー
193日本@名無史さん:2009/06/08(月) 16:48:35
保守age
194日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:27:56
広開土王碑発見は
明治時代、それなのに、
神功皇后の話しと見事に
一致する。
195日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:32:18

ヤマトタケルの息子仲哀天皇を寝てる間に、神懸かりになって殺した神功皇后!

196日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:47:00
典型的サド女!
197日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:48:41
>>195

そそ、琴の弦を引きちぎって首をキュキュキュ〜〜っとね、仕事人みたいに。


んで、応神のホントの親爺は、武内宿禰。

198日本@名無史さん:2009/06/14(日) 00:52:25
しかしまあ、トップでありつつ同時にシャーマンであることが
明記されている点は興味深いですな。
卑弥呼に結び付ける解釈もわからんではない。違うとは思うけどw
199日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:54:59
崇神、垂仁の話と比べて
日本武尊と神功皇后の説話は???
独立してた伝承を無理に時系列で繋いだため不自然になったのかな?
200日本@名無史さん:2009/06/15(月) 21:36:48
ヤマトタケルと神功皇后は別に無理な時系列ではありませんよ。
201日本@名無史さん:2009/06/16(火) 21:24:46
三韓征伐の捕虜の集落w
202日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:07:07
近年の考古学資料との一致であきらなように
紀記は基本的に捏造とかは
していないと思います。
神功皇后の三韓征伐も
広開土王碑との一致で
証明されたと見ていいと
思うのですが。
203日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:39:16
捏造と言う事で無く
古伝承は長い間には付加、変形、混入があってもおかしくないぐらいの意味
204日本@名無史さん:2009/06/20(土) 20:02:55
紀は神武以降年代が付されてる事で編集時に時系列にまとめたのは明白
ある程度年代が信用できるのは履中以降、雄略以降は実年代だと思う
ただ伝承が欠けてる部分を漢籍で補った部分もある(例:清寧紀)
またそうでない部分でも漢籍で潤色した形跡が随所でみられる

記は古伝承を含んでいると思われるがその来歴に疑問がある
私見では少なくても現存書は紀成立以降の可能性が高い
205日本@名無史さん:2009/06/21(日) 21:48:49
好太王と戦ったのは神功皇后ではなくて
応神天皇の時代だと思うけど
206日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:11:42
トヨの存在を思いっきり脚色したんだろ。
207日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:24:04
すると武内は卑弥呼の弟?
208日本@名無史さん:2009/06/22(月) 00:19:20
>>207
卑弥呼の弟は別人でしょ、桃太郎のモデル。
武内は浦島太郎だな、300歳だしw

トヨが朝貢したと記録があるのが266年だからな。
神功皇后が201〜269となってるので年代的には合う。

でもトヨは13歳で卑弥呼の跡を継ぐのだが、
まあその辺はなんでも有りだろ、武内の例もあるし。
209日本@名無史さん:2009/06/23(火) 01:35:53
神功と武内、二人あわせると神武だよな。
210日本@名無史さん:2009/09/25(金) 12:06:13
もうちょっと読みたいのでage
211日本@名無史さん:2009/11/12(木) 14:05:35
てすと
212日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:35:41
卑弥呼
213日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:25:34
神功皇后は女の鑑とされていたらしいね。

婆さんから聞いたんだけど、女でいちばん偉いのが神功皇后。
次に偉いのが静寛院宮(和宮内親王)、その次が山内一豊の妻ってことのようだった。

神功皇后の雄々しき姿を手本とせよと叩き込まれたらしい。
214日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:06:35
姫皇=ヒミコ なら卑弥弓呼は 何者?
215日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:39:32
二千年前から、日本と朝鮮は敵対していたのだろう。
この感覚は現代にも受け継がれているのではないだろうか?
そんな気がする今日この頃。
216日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:15:00
>>214
日向王 vs 大和女皇
217日本@名無史さん:2010/03/09(火) 15:54:16
皇后
218日本@名無史さん:2010/03/24(水) 07:57:16
架空の人物だろ
219日本@名無史さん:2010/03/24(水) 08:40:54
架空 架空
220日本@名無史さん:2010/03/24(水) 09:36:33
>>215
敵対もあったし、平和的な交流もあった
隣接する国同士の関係は何処でもそんなものだろう
221日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:54:00
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
222日本@名無史さん:2010/04/08(木) 04:31:04
記紀に記された古代史の伝承の中で神功皇后と日本武尊の話は違和感を感じる
前後と比べても神代に戻ったみたいだ
223日本@名無史さん:2010/04/08(木) 07:32:20
神戸の神社を見ていると神功皇后が三韓征伐の帰りに立ち寄った、という社伝が多いな。

 瀬戸内の神社もそうなのか?
224日本@名無史さん:2010/04/08(木) 15:06:20
>>222
その出来事が起きた時代が違うのではなく、
書かれた時代が違うんだろうね
225日本@名無史さん:2010/04/08(木) 15:30:40
日本の国は隼人、熊襲、久米、播磨、大和、毛野などの諸国からなり、
各国の王が万世一系の王を推して大王となしたるものである。
後に各国の血筋絶え、久米、大和のみのこりける。
その後、大和のみになりて天皇家となりぬ。
神功大王は久米の血筋である。

天武天皇が久米の血筋を消し去り、自らを天命開別尊の
お血筋である大和であるとするために、久米の
歴史を改竄すると共に、新羅の意向によって神功大王の
お血筋を曲げたもの
226日本@名無史さん:2010/04/08(木) 23:54:32
疑人化された神様だろ
227日本@名無史さん:2010/04/10(土) 16:15:36
そもそも神功皇后が活躍していた時代に
朝鮮半島に新羅という国はあったの?
228唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/18(火) 22:26:14
新羅192,3年の記事は、崇神5,6年に対応する。
ここを正しいとして太陰暦で見れば
神功元年の日食は、273年となる、但し太陰暦は神功元年を275年としなければ、月が文句を言う。
神功52年は、326年七支刀となる。この直前が百済が大国となる場所である。

百済本紀は、400年前後の50年間の記事を欠く。
229唐松山 ◆V0F34EbmQA
1,石村洞第3号 ドルメン(ドルムジ・ムドム)
3号古墳は方形、または長方形の段築積石塚である。A.D. 3世紀中葉の超大型級積石塚として
近肖古王( クンチョゴワン、346 〜374)の御陵である可能性が大きい。

2、石村洞第4号ドルムジ・ムドム
典型的な高句麗積石塚に「封土墳」の要素が加味された段階の形式として、松坡区一帯の百済古墳の中では確実に旧式であり、したがってそれは公州に遷都した475年以前に築造されたものと見るべきである。

3.石村洞第1古墳
平面の模様がこの積石塚と殆ど同じものとして、高句麗の積石塚である中国吉林省ファンイン県ゴリョミョザチョン第15古墳、平安北道小庵里第45古墳などがある。

5.石村洞第2号土壙墓廟(トグァンミョ)
積石塚の地層より階下に位する点から考えて、トグァン廟は積石塚より以前の時期の墓だったものと推定される。

7.内円外方形積石塚
日本の古墳には後部が平面で円形、前部が平面で方形である前方後円墳というものがあるが、その形態はこの積石塚の基壇平面模様とよく似ている。

>神功記の内容と登場人物は百済記とも整合するんで。

登場人物が同じでも、時代が違う。
近肖古王を積み石塚と考えるのが、百済本紀を正しいとする読み方。
好太王碑に書かれた。高句麗の南下が書かれていない。

百済の王朝は、326年頃から発展する。そして墳墓に土壙墓廟を選ぶが、400年前後の戦で
新羅の如く、高句麗軍の監視の下に置かれる。その時の墳墓が、石村洞第3号 ドルメンなどであろう。
初期には、前方後円墳も造られる(7.内円外方形積石塚)
この高句麗による支配を嫌ったガイル王は逃げ出すが、殺されてしまう。

百済本紀は積石塚の時代を欠く。