1 :
先生:
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
||【ルール】 ||
||| ||
|||九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い! ||
||| ||
||| 出来るだけソースを出して後はお好きに! ||
|| ||
||| ||
|||*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。 ||
|| ||
|| ||
||■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 23 ||
||
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1191412497/l50 ||
||| .||
|| 。 ∧_∧ .||
|| \(´・ω・`) いいかな・・?
|| ⊂ ⊂ )旦~ ||
||___∧ ∧___∧ ∧___ ∧ ∧__ ∧ ∧___| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|_||
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧( ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
2 :
サガミハラハラ:2007/11/02(金) 21:33:15
なつかしい光景ですな。
また立ったのか
痛い奴はスルー スルー覚えようぜ!
邪馬台国はもっと、ずっと南だと思うけど。
とりあえず、宇佐神宮の比売大神の祭りかたと
国東・姫島のアカルヒメ。
こいつら、なんかスッゲー怪しい。
自分らで豊の国なんていう。
なんで発音が「とよ」なんだろ。怪しいね。
6 :
サガミハラハラ:2007/11/02(金) 22:50:35
倭人伝は壱与(イヨ)ですよ。
7 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:00:11
8 :
先生:2007/11/02(金) 23:06:42
9 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:54:21
>>8 ウィキペディアを取り上げている時点で最低のアホだな。
何が先生だ、バーカ。
ド素人じゃんか。二度と来るな、糞馬鹿野郎め!!
10 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:57:03
>>1>>8 乙
ウィキの九州説の比定地説明は、手抜きもいいとこだぜ
「九州説は・・・・・・福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。」
なんだこりゃ!
学史から言っても、筑後・肥前の山門説や、久留米説は必ず書くべき
いちおう高名な学者が唱えた説だろ
それと佐賀の吉野ヶ里説も必要だわさ
古田の博多湾岸説、、安本の朝倉説も、ともかく書けよ!
11 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:05:48
>>10 書きゃ良いってもんじゃねーよ。このバカ!
無い知恵絞って良く考えて書け!
俺が添削してやるよ。
>>9 >ウィキペディアを取り上げている時点で最低のアホだな。
こう煽るヤシこそ、じつはウィキに頼りっぱなしwww
13 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:17:18
畿内はマキムクで一本化した
だが九州は一本化できてない
九州は乱立するばかりで、邪馬台国候補地を絞り切れない
そこが最大の弱点
14 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:28:26
一本化すると何故有利なの?
15 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:55:55
>>1 乙!
『ヤマト王権の誕生−弥生終末大変動と王権の出自』(薮田紘一郎)と
いう本が10月10日にでているが、この本をタタキ台にしないか。
そこそこのレベルには達していると思ふ。
マキムク年代遡上には明確に反対しているが、典型的九州説とも
距離をとっているので、両者から不満がありそうだ。
16 :
神奈川県民改め三重県民:2007/11/03(土) 00:57:12
>>6 >倭人伝は壱与(イヨ)ですよ。
んでそのイヨさんは日本側の資料にはどこにも載ってないですよね。
サガミさん〜どこかにイヨの文字見つけましたか?
17 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 01:01:42
18 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 01:02:20
19 :
サガミハラハラ:2007/11/03(土) 06:54:55
>>記紀にトヨのついた名はあるからといって、それが邪馬台国のトヨであるとはならないのです。
20 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 08:17:58
話は変わるけれども、卑弥呼の墓は径百余歩となっていて、だいたい145mと
するのが普通だが、本当にこんなに大きかったのだろうか。
というのは、この程度の墳丘を作るのはけっこう時間がかかると思うのだが、
倭人伝を読むと、あっさり出来上がっているような印象がある。
正始八年(247年)に張政がやってくる。「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩」
となる。大きさがわかっているということは出来上がっていることだろう。
殉葬者は百人あまり。卑弥呼も葬られているのだろう。
そのあと、「更立男王、國中不服、更相誅殺」。そして台与が王になる。
張政が帰還する。
邪馬台国や投馬国の戸数もそうだが、卑弥呼の墓の大きさについても数字を
鵜呑みに出来ないような感じもある。
21 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 08:31:42
>>15 そんな本、御前しか読んでないのは解り切ってるんだから、
御前が本の内容纏めて紹介しろよ
22 :
サガミハラハラ:2007/11/03(土) 09:32:31
邪馬台国は佐賀県小城市甘木で、卑弥呼の墓は小城公園内の桜ヶ岡です。
桜ヶ岡は径150m以上あり、大きさはぴったりです。
元々は丸い自然丘(風化堆積岩)であり、それに造作をくわえて、墓としたのである。
天正年間の記録には人骨が出てきたので娑婆岡となずけたの記録がある。
このような名がつくくらいであるから、相当数の人骨が発掘されたものとおもわれます。
これらは殉死した百人の人たちの骨ではないかとおもわれます。
23 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 11:04:50
>>23 >古代人の心性(呪術・信仰・祭祀)、鬼神祭祀、北辰信仰…
いらね。
26 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:47:00
>>21 1、庄内式の年代=250〜320(弥生末期〜古墳出現期)
2、環濠集落の終焉は全国的に同時に生じた。
3、出雲は一時期、独自の鉄器入手ルートを持っていた。
4、銅鐸の起源は朝鮮の小銅鐸
5、邪馬台国は九州
6、神武東征は認めない
27 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:45:17
>>26 内容紹介、乙
>1、庄内式の年代=250〜320(弥生末期〜古墳出現期)
だけどこれを見て、その本買う気なくしたよ。いったいどういう論拠なんだ?
庄内の始まりは2世紀まで遡ると俺は思う
西暦200年頃には、もうマキムク造営が進行中
200年頃は、木材を得るた樹木が伐採されているからな
庄内の終わりが320だと? そんなバカな!
前期の大古墳(大王墓)の数からして、そんなに遅くはならない
庄内の終わり(=布留の始まり)は、3世紀の第3四半期頃が妥当
つまり西暦250年〜275年頃だね
28 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:54:59
訂正
>>27 木材を得るた樹木が → 木材を得るため樹木が
スマソ
29 :
九州王:2007/11/03(土) 20:58:11
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵帯方郡∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗━┓∵▲帯方郡庁∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┣━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏━┛∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵馬韓∵┃辰韓∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓∵10万余戸┃弁辰∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵┃4-5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━┻━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏┛投馬國5万余戸┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓海
海〜┃∵∵∵┏━━━━┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━
海〜┗━━━┛〜〜〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
30 :
九州王:2007/11/03(土) 20:59:21
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛侏儒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
>>27 つまり、布留0築造の箸墓が卑弥呼の墓ってこと?
箸墓を発掘したら、鏡100枚とか親魏倭王の金印が出てくると。
32 :
九州王:2007/11/03(土) 21:00:47
郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。
七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里
※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、(四百里×2)(三百里×2)
「自郡至女王國萬二千餘里」とあり、帯方郡から女王國まで12000里。
伊都国から奴国まで百里、つまり帯方郡から奴国までが帯方郡から女王國までの12000里と同じ距離となり、奴国は女王国の一部であったと考えられる。
距離を時間で再説明
南へ水行20日で投馬国に至る(7000里)。南に水行10日陸行1月(3400里+600里、陸行1月は1日の誤り)で女王の都のある邪馬台国に至る。
(邪馬壹国)70000余戸=對馬國1000余戸+一大國3000余戸+末盧國4000余戸+伊都國1000余戸+奴國20000余戸+不彌國1000余戸+20國×2000戸
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
33 :
九州王:2007/11/03(土) 21:01:37
海〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃(投馬國)5万余戸 ∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
34 :
九州王:2007/11/03(土) 21:02:18
海〜└→→→→→→→┘↓〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜水行20日〜〜對馬國├○┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜水〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜行〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜10〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜日〜一大國├○┛壱岐〜方可三百里〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━○〜〜┏━━┓〜〜┃∵不彌國∵∵┃
海〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵∵∵∵┗
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵┗━┛盧└→→○→→→◎→斯→己→伊→都∵
海〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵國∵五∵伊∵百∵奴∵馬∵百∵邪∵支∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵百∵都∵里∵國∵國∵支∵國∵國∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵里∵國∵∵∵↑∵∵∵國∵∵∵↓∵
35 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:04:23
九州王 詰め込みすぎ。
36 :
九州王:2007/11/03(土) 21:04:28
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵┏┓∵∵∵∵烏奴國∵∵∵∵∵∵彌奴國
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏┛┗┓∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜┃∵支惟國∵∵∵∵∵∵∵好古都國
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜┃∵∵↑∵∵(邪馬壹国)∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜┃巴利國∵∵∵7万余戸∵∵不呼國
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜┃∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜┃躬臣國∵∵∵∵∵∵∵∵∵姐奴國
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┃〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵華∵∵∵∵∵↓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜┃邪←鬼←爲←鬼←奴←呼←蘇←對
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜┃馬∵奴∵吾∵國∵蘇∵邑∵奴∵蘇
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜┃國∵國∵國∵∵∵奴∵國∵國∵國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜┗━━━┳━━━━━━━━━━━━━━
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵(狗奴國)∵∵∵∵∵∵
内容はともかく、作図の努力は認めよう
38 :
九州王:2007/11/03(土) 21:32:18
韓の馬韓(領域国家)は邑落(都市国家)の集合体だった。おおよそ五十余国の都市国家構成されていた(有爰襄國〜楚離國)。大国は万余家、小国は数千家、馬韓の総計十万余戸。
韓の辰韓、弁辰(領域国家)も邑落(都市国家)で構成されていた。弁辰はは十二国(已柢国〜優由国)辰韓は十二国(已柢國〜優由國)の都市国家構成されていた。大国は四〜五千家、小国は六〜七百家。辰韓、弁辰の総計は四、五万戸。
倭も韓に馬韓、辰韓、弁辰があったように投馬國、邪馬壹國、狗奴国があった。
投馬國は五万余戸ほど、邑落(都市国家)は狗邪韓国のみ紹介。
邪馬壹國は七万余戸ほど、邑落(都市国家)は對馬國〜不彌國、斯馬國〜奴國。奴國は二万余戸(計算すると他は平均二千戸)。
「南至投馬國水行二十日」や「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」など遠方にもかかわらず南と大雑把な方向しか記されていないのは投馬國や邪馬壹國が大きいからである。
39 :
大倭弟王:2007/11/03(土) 21:42:35
九州王氏に同意
@倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
A從郡
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
B從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里・・・
邪馬壹國と狗奴國の境界線は、魏志倭人伝情報だけでは不明となる。
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┠───────┤∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵│∵濊∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┃◎帯方郡∵∵∵│ 2万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴───┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┠──────┴─────┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜↓┃倭人國地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
40 :
大倭弟王:2007/11/03(土) 21:43:29
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┯┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵│末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓└┐∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國連合地域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
水行十日陸行一月(倭人からの伝聞)
邪馬壹国→陸行(倭地)→末盧國→水行→狗邪韓國→陸行(韓地)→帯方郡
水行二十日(倭人からの伝聞)
投馬國→水行(有明海→島原湾→天草灘→東シナ海肥前海岸→対馬海峡→半島南岸→東シナ海半島西岸)→帯方郡
倭五王の時代は、投馬國が狗奴國側につくことによって始まった。
41 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 22:52:18
現在眼にすることのできる魏志倭人伝は誤字脱字が多いから
眉に唾をつけながら読まないと。
42 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 22:56:18
>>27 遡上派からはそうなるわなww保守派は280〜350頃だから支持できない。
ただ、年代遡上への批判がちゃんと書かれている数少ない著書だから、
年代論の部分は読む価値はある。
しかし、
>>26の「2」を認めるなら、畿内の庄内式より、九州の庄内式の方が
古いということになるはずなのに、この点を見落としているのが、残念。
畿内の庄内式は、ほぼ全部が明確に環濠集落時代以降のの遺跡から出土、
これに対して、九州の庄内式は環濠集落時代の遺跡が中心。
畿内の庄内式は、出土量は多いが数箇所の特定の地域に限定される。
九州の庄内式は、北部九州の広い地域から出土している。
薮田はマキムクが「寄せ集め」と認めながらも、「マキムクの地元の土器」と
いうもの(庄内式)を認めているという矛盾を見落としている。
軽量の庄内式が開発されたのは、普通に東征直前期の九州と考えればいい。
43 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 07:58:54
>>42 これは安本の主張そのままだね。まるで信者だな。
薮田という人の著書では、
>>26氏の紹介によれば、
> 2、環濠集落の終焉は全国的に同時に生じた。
と先験的に述べているようだが、考古学の方法論からして、おかしい。
環濠集落終焉の時期の推定は、全国の遺跡それぞれについて、環濠内や住居址から出てくるそれぞれの土器型式でやるしかない。
土器の新古は、型式の分析と出土土層の層位で判断する。型式学と層位学だ。
環濠内の上層と下層で型式を異にしている場合、「集落終焉」をどう判断するか…。なかなか難しい。
そして、各地の土器型式の編年がわかってきたら、同土層で出土した他地からの搬入土器を追うことにより、各地の土器型式の時間的な併行関係が知られてくる。
そうした手続きをきちんとやって、ようやく全国の環濠集落終焉の時期が比較できるようになる。
ア・プリオリに、「環濠集落の終焉は全国的に同時に生じた」などと、どうして言えるのだろうか。
44 :
43:2007/11/04(日) 08:42:59
前スレにリンクしてあった邪馬台国の会でのシンポジウムでの安本の発言。
>安本:九州の庄内式土器は、吉野ヶ里の環濠が埋められてすぐの時代なのに対して、
>畿内では環濠が埋まってからだいぶ時間が経ってから埋められたように見える。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257.htm 要するに安本は、ア・プリオリに、「環濠が埋まった時期は全国同時」という前提で物を言っているわけだが、こういうところに考古学の方法に無知な安本の致命的欠陥が露呈する。
環濠が埋まった時期は、全国の環濠集落遺跡の一つひとつについてコツコツと調べるしかない、というのに。
だから安本は、「庄内式土器は九州から畿内へ持ち込まれた土器」なんていう、考古学者の誰もが認めないトンデモ説を言って、笑われているのだ。
考古学者の石野はそこを、ケンカにならぬよう言葉を選んで、たしなめている、と読める。
>石野:九州と近畿の交流によって西新式と庄内式の土器が同じ場所から出土するので同時期に使われていたことが分かる。
45 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 09:06:24
環濠集落がいつ終わったのか、これは土器でわかるかもしれない。
ただ、歴史は一瞬で動くものであり、その時期を判断するには土器の期間は
長すぎるように思う。異なる地域で同じ尺度でよいものかとも思うし。
しかし、環濠集落の時代がなぜ終わりを告げるのかは考古学ではわからない。
46 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 09:23:15
>>45 >歴史は一瞬で動くものであり
先入観。
一瞬で動くものもあるが、長い時間かかって変化していくものもある。
鉄筋、鉄骨の家屋が増えてきたが、木造家屋はなくなったか?
高速道路網は地域的な差がないか?
都市ガスはどうだ?
>>46 仁徳陵や応神陵は今も周濠に水をたたえているね
けど桜井茶臼山や津堂城山古墳はとうに埋まっているよ
↑馬鹿だね〜〜〜w
49 :
九州王:2007/11/04(日) 11:11:38
>>39,
>>40 韓の馬韓(領域国家)は邑落(都市国家)の集合体だった。おおよそ五十余国の都市国家構成されていた(有爰襄國〜楚離國)。大国は万余家、小国は数千家、馬韓の総計十万余戸。
韓の辰韓、弁辰(領域国家)も邑落(都市国家)で構成されていた。弁辰はは十二国(已柢国〜優由国)辰韓は十二国(已柢國〜優由國)の都市国家構成されていた。大国は四〜五千家、小国は六〜七百家。辰韓、弁辰の総計は四、五万戸。
倭も韓に馬韓、辰韓、弁辰があったように投馬國、邪馬壹國、狗奴国があった。
投馬國は五万余戸ほど、邑落(都市国家)は狗邪韓国のみ紹介。
邪馬壹國は七万余戸ほど、邑落(都市国家)は對馬國〜不彌國、斯馬國〜奴國。奴國は二万余戸(計算すると他は平均二千戸)。
「南至投馬國水行二十日」や「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」など遠方にもかかわらず南と大雑把な方向しか記されていないのは投馬國や邪馬壹國が大きいからである。
筑後に邪馬壹國や投馬國は到底入りきれない。
50 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 14:37:30
>>43 環濠集落の終焉は、全国的に同時期に生じたというのは、最近では
多数説でしょう。
>>15によれば、寺沢や白石も弥生終末期の社会の
変化として認めている。
普通に考えれば、各地の環濠集落がより大きな権力のもとに統合されて
地域間紛争がなくなったから。逆に、一部地域だけが全く異なる時代に
環濠を埋める状況を想定するのは困難ですね。
ただ、その事実を庄内式の出土状況にからめて
>>42のように述べる
人は少ないというだけのこと。それをやると畿内説が即死するから。
51 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 15:20:26
ぬるぽ
52 :
大倭弟王:2007/11/04(日) 15:50:11
>>49 夫餘から倭へ、南へ行くほどに人口(人口密度)が増大している。
これは温暖な地域ほど食料生産が多いことを示している。
韓以南では人口が特に多い。
この人口の多さは水稲栽培による食料の安定化によるものとみなせる。
倭においては「豊葦原水穂国」が豊かさを表わすように、
弥生期に水稲によって、豊かに、人口の増大をもたらしている。
筑後平野は全体に低湿地が広がり、葦と水穂が繁茂し、
20〜30万戸の人口を養っていたと考えられる。
豊葦原は将来水田にもできる可能性豊かな土地の意。
又、葦原自体も経済性のある土地である。
食料の重大さは弥生高温期(1世紀頃)の倭の戦乱にも現れている。
この頃西日本は夏季旱魃に見舞われ水稲不作による食料不足が原因である。
筑後川流域のように、旱魃でも水の豊かな葦原が水田に開墾されたのは、
この頃、卑弥呼の時代の少し前(約100年前)であろう。
倭では、委(倭)奴国が没落し、倭奴(倭面土)国王帥升に変わり、
次いで戦乱になり、邪馬壹國卑弥呼となる。
卑弥呼−壹與の頃のちょっとした戦闘でさえ、千餘人が殺されているから、
それに関わる人口は数十万人(20〜30万戸)は居たと考えられる。
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/ ←
>>51 (_フ彡 /
54 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 16:28:21
>>50 庄内式の問題は、かつての「畿内の後進性」の問題と同じなんだよね。
弥生時代の畿内が九州より後進的であったことは、すでに戦前の出土状況からも
明らかであった。しかし、ヤマト中心史観に染まっていた戦前の学会はこの事実を
拒絶した。
戦後、鉄器の出土量で畿内の「絶対劣位」が明白になったが、学会は約40年も
これを拒絶し、無視し続けてきた。「九州→畿内」という権力移動の図式化は、
「神武東征」という皇国史観であるとされてきた。
庄内式の出土状況を単純に比較すると、畿内の庄内式の方が新しいことが
すでに30年ほど前から明白であったが、それを拒絶し続けるという同じ誤りを
学会は繰り返している。
鏡の同位体比は、既に20年以上前に三角縁国産説を結論付けていたが、
学者の大半はいまだにこれを無視し続けている。
学会というのは、人間の良心を持っていては生きていけない世界なのか?
55 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 16:31:44
>>神武東征
こんなもの、歴史書を読んでも考古学でみてもどこにもない。
記紀にあるのは神武が日向を出て何年もあちこち放浪しながら
畿内に向かう話じゃん。
>>50 土器編年を無視すると、こんな結論になるのか。馬鹿馬鹿しい。
土器の併行関係とか、まったく無視ですか。
君が知らないだけなのか、都合が悪いから無視してるのか、
どっちなの?
>>54 弥生時代の畿内<九州は、誰も否定しとらんでしょ。
なんか、自分の中で勝手に敵を作って、カンカンになってる感じだな。
58 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 16:57:57
>>54 >庄内式の出土状況を単純に比較すると、畿内の庄内式の方が新しいことが
>すでに30年ほど前から明白であったが、
完全なデタラメ
あんたは安本の手下か? いい加減な学史捏造をやると、安本だって迷惑だぜ
・中田、久宝寺の状況・・・・庄内式古段階がどっさり
・九州の各遺跡の状況・・・・西新式に混じって庄内式はパラッと(出ないとこも)
どっちが本家か分かるだろう
60 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:55:45
>>57 それを否定していた時代もあったと言うことだね。
その時代は、弥生時代は300年頃までとされていたから、畿内説としては
いくら証拠がたくさんあろうとも、認めるわけにはいかなかった。
そんな時代が4、50年も続いていたというのが、あの学会の実態。
九州>畿内を仕方なく認めたのはいいが、時代を100年ほど繰り上げることも
同時にやりました、っていうのが現在の状況。
4,50年もウソをつき通してきた上に、更なるウソを積み重ねる・・・
それでも学者なのかね。
そのウソツキが年代遡上論者に多く含まれているのも事実だよね。
61 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 20:06:02
>>58 庄内式が、九州では環濠集落時代末期で、畿内では環濠集落時代の終了後
であるという事実は当初からはっきりしていた訳だが、
その事実は出土が続くほどに明白になって、今は臨界点というところ。
マキムクでの147回にも及ぶ発掘で、鉄器の出土が皆無であったことは、
マキムクが邪馬台国では有り得ないことを確定させたんだが。
相変わらず安本粘着か。哀れよのうwww
4,50年もウソをついてきた連中をどうして信用できるのか?
そのウソの責任を誰も取らずに学会の重鎮のごとく扱うという倒錯した世界。
62 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/04(日) 20:07:35
マキムクは垂仁景行の拠点。
倭自伝でも北部九州は小国分立。
投馬や邪馬台よりも統合化は遅れていたみたいだね。
環濠の消滅にも微妙な時間差があったんだろうね。
もともと邪馬台国論争、ってものは、
ヤマト政権の成立時期やプロセスを探るものだった。
で、弥生終末期に、マキムクに大きな王権が生まれていることが分かっている。
要はその解釈の仕方。
65 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 22:59:12
>64
マキムクにと限定しないで!
巨大前方後円墳の築造をもって大きな王権が生まれたと言うのは構わないが、
マクムク自体に王都とよべる出土は今のところ無い
67 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 00:02:44
北部九州での鉄器の出土の多さは言うまでもない。
出雲の妻木晩田(300点)、青谷上寺(約270点)も多いね。
・・・でマキムクは延べ100回以上の発掘で鉄器が皆無。
大規模建造物の跡も出ていない。
これって、本当に不思議なんだよね。
69 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 00:25:24
>>67 それは、当時の畿内で、鉄が希少だったからだろ。
それ以外に考えることは出来ない。
いい加減に「鉄至上主義」から目が覚めないもんかね。
71 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 00:31:35
>>67 >これって、本当に不思議なんだよね。
そのうち出るさ。
ま、気長に待とう。
>>70 村上も鉄器と権力の所在が結びつかないと書いてるね。
一方で、鉄素材の輸入経路の不安定さも指摘してたか。
環濠集落の時代が終わって、ヤマトに権力が誕生したころに
一時的な鉄輸入の減少があったのかな。
村上は抽象的な書き方なので分かりにくいのが難点。
つまりマキムクは青銅文明の都だよねw
75 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 03:50:24
出雲は、鉄で栄えたのかもしれない。
斐伊川では砂鉄が取れたらしい。砂鉄からの製鉄方法を知っていたのかも。
あのあたりは古代からタタラ製鉄で有名だし。
ヤマタノオロチ伝説もそれをうかがわせる。
九州では熊本が膨大な出土量を誇る。特に阿蘇が注目される。
阿蘇の小野原遺跡、たった一つの遺跡で1,200点の鉄器が出ている。
鉄の素材を輸入だけに頼っているとすれば、わざわざ阿蘇で鉄器を作る必要は
ないので、製鉄の可能性もあると思う。
近畿地方などは、鉄の出土量も少ないが、鉄斧に見られるように利用技術も
稚拙だといわれる。いわゆる袋状鉄斧と板状鉄斧。
鉄の炉の温度も九州とそのほかの地域ではかなりの差があるとされる。
これは、鉄の加工の技術に大きな差が出てくる。炉の温度が高いと複雑な
加工が可能になるが、炉の温度が低いと単純な加工しか出来ない。
>>73 村上氏は、鉄器はともかく、権力については語らないほうがいいと思う。
76 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 06:12:09
77 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 13:20:54
>>76 各地の環濠集落が同時に発生したということは誰も言っていないよ。
空気に反論しても意味ない。問題はその終了が同時期かどうか。
古墳時代の開始を前方後円墳で見るならば、全国にほぼ同時期に
広まっているといえる。吉備、出雲がやや先行とみればその開始に
ずれが生じるが、そのずれを大きく見る見解は少数。
環濠の内部や近辺に墳墓を築いていたのは、環濠外部の墳墓では
荒らされ、略奪されてしまうという現実的な問題もあるから。
古墳時代が各地でほぼ同時期に生じたというのは、より大きな権力が
全国に及び、環濠が必要のない社会構造に転換したと見るべきでしょう。
この見方からは、古墳が広い地域でほぼ同時期に始まるというのは、
環濠集落がほぼ同時期に終焉したことを意味します。
ただ、たしかに「環濠集落時代」という言い方は、正しくないね。
78 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 18:24:20
とりあえず、畿内が鉄に溢れる時期までは
出雲や九州を含む西日本を畿内の国が治めていたわけがない。
通商連合ってものさえなかっただろうな、その時期までは。
こんなこともわからなければ考古学を理解しても歴史が読めない。
79 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 18:48:04
古事記の雄略天皇の条に、三重采女(みえのうねめ)の詠んだ歌が載っている。
采女が機転で雄略天皇の怒りをおさめた、という歌だが、古代史研究上、色々な問題を含んでいると思う。
・纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る国 夕日の 日がける国 竹の根の 根足(だ)る宮 木の根の 根這ふ宮 八百土(やほに)よし い杵築(きづき)の宮 真木さく 檜(ひ)の御門 新嘗屋(にひなへや)に 生ひ立てる 百足(ももだ)る 槻が枝は
上(ほ)つ枝(え)は 天(あめ)を覆へり 中つ枝は 東(あづま)を覆へり 下枝(しづえ)は 鄙を覆へり
上つ枝の 枝の末葉(うらば)は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝(しづえ)の 枝の末葉は 鮮衣(ありきぬ)の 三重の子が 捧(ささ)がせる 瑞玉盃(みづたまうき)に 浮きし脂 落ちなづさひ
水(みな)こをろ こをろに 是(こ)しも あやにかしこし 高光る 日の御子 事の 語り言も こをば
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mieune.html 一つ問題点を挙げる。
東と鄙(ひな)が対比的だ。「中つ枝は 東(あづま)を覆へり 下枝(しづえ)は 鄙を覆へり」、と。
ならば、「ひな」とは、田舎一般ということではなく、畿内から見ての西国(九州?)を意味すると思われるのであるが、どうだろう。
ちなみに、倭人伝で「卑奴母離」は、国の副官の名称で、対馬国、一支国、奴国、不彌国の4カ国に共通する。
>>79 卑奴母離が「夷(鄙)の守り」だったら、奴国に置かれてるのはどうしてかな
奴国は2万戸だったっけ、大きな国だよね
でも邪馬台国はもっとでかいから、奴国は「夷守」でいいのかな
ひなもり
>>75 スサノウが新羅に立ち寄って出雲に行ったという異伝もあったはずだが、
出雲独自の鉄器ルートの名残だろうか。
83 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:48:41
あまり関係ないかもしれないが、宮崎県小林市付近の昔の地名は「夷守」である。
日本書紀の景行天皇のところにも夷守と書いてある。
これは、熊襲を対象にしているのかもしれない。
85 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 23:17:54
>>79-83 對馬國 … 大官:卑狗 副:卑奴母離
一大國 … 官:卑狗 副:卑奴母離
奴國 … 官:シ【凹/儿】馬觚 副:卑奴母離
不彌國 … 官:多模 副:卑奴母離
卑奴母離は、「夷守」という解釈でいいんじゃないかと思う。地方武官だね。
倭人伝で日本語解釈ができて、あまり異論がない唯一の言葉じゃないかな。
卑狗は難解だが、対馬と壱岐だけにあるから、島ということを意識して設けた官だろう。
壱岐の原ノ辻遺跡のような交易市場の管理菅か、または船や人の行き来を
取り締まる出入国管理菅のような役割を、卑狗は担っていたんだと思う。
>>78 >とりあえず、畿内が鉄に溢れる時期までは
>出雲や九州を含む西日本を畿内の国が治めていたわけがない。
>通商連合ってものさえなかっただろうな、その時期までは。
きみの言う、その時期っていつ頃のこと?
土器編年で答えてみて。
まさか実年代で答えるんじゃないだろうな?w
>>15の著者は、ある意味定年後の夢をかなえた生き方だね。
有名大学を卒業して有名商社に入社し、常務にまで上り詰めて02年に退職して
から古代史の勉強を始めて、多数の著作を読み、著作を発表する。
各論点の重要論文は結構押さえているし、過去のものも国会図書館で入手して
読んだとあり、要領よく勉強している。
それで4年ちょっとでそれなりの著書がかけるのは定年暇人の凄さか。
シュリーマンの生き方を想起させる。
彼は丁稚から始めて、数ヶ国語が堪能な国際ビジネスマンとなり、1代で財閥を築き、
老年に達して、巨大財閥を売り払い、世界中を旅行して、トロイの発掘をした。
彼の日本、中国旅行記は面白い。
88 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:55:49
最近、鏡についての著書がでているのだが・・・・
あれはそっとしておくべきか。
89 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:48:48
90 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:50:49
91 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:52:09
92 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:53:12
93 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:54:52
94 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:57:21
95 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:58:11
>>89-95乙。勉強になる。
見に行きたいが、遠いんだ。図録購入でガマンする。
出雲大社は昔行った。
家族で参拝後、参道にある荒木屋という蕎麦屋で食事した。
あの出雲そばは、メッチャ美味かった。懐かしい。
そばは信州が最高
そばは緑のたぬき
ホケノの大量鉄器副葬、運河の掘削など大土木工事などから、
マキムクに鉄器が無かったなんて言説は成り立たないのだが。
あくまで、九州とかに比べ劣っていたというだけ。
なぜ戸隠が出ない?
101 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 22:11:50
>>77 「環濠集落がほぼ同時期に終焉した」か否かは
やはり考古学の裏付けを要する問題だと思うのですが、
そのあたり、どのくらいまで検証が進んでいるんでしょう?
「古墳が広い地域でほぼ同時期に始まるというのは、
環濠集落がほぼ同時期に終焉したことを意味する」というだけでは
かなり大づかみの解釈のように聞こえてしまいます。
>>102 >考古学の裏付けを要する問題
そのとおりではあるけど、厳密に確認するのは難しそう。
>>15は全国的に劇的に終焉としているが、まあ一つの意見。
九州が環濠集落の時期に本州では環濠がなくなり、統一権力ができて
九州勢力を飲み込んだというのが、畿内説としては望ましいようにも
見えるのだが、畿内説の論調は必ずしもそうではなく、九州も含めた
ほぼ同一時期という見方が強いようにも思う。
そもそも学者は自分の地域の縄張りについてしか明言しないし、
ものさしが共通ではないので、各地の比較は難しい。
箸墓古墳の向かいに三輪そうめん山本の本社工場ができて、
気付きにくいけど、中に雰囲気のいいお食事処もあるんだよ。
夏はそうめん、シーズンオフはにゅうめんが賞味できる。
にゅうめん、これからの季節はおすすめ。おいしいよ。
105 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 02:27:23
>>88 10月25日第1刷、辻田淳一郎著、『鏡と初期大和政権』、5500円
細かな表や写真が多く、全体の分量も結構ある。
えらく気合が入っている感じだ。
福永伸哉著『三角縁神獣鏡の研究』に匹敵するかも。
今、舶載説が熱いw
107 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 07:28:09
舶載説ってもうすっかり死滅していたかと思っておりましたが、息をふきかえしたのですか。
>>105 >吉野ヶ里あたりも、そうめんの名産地だったと思うが。
神崎そうめんだ
>吉野ヶ里歴史公園の食堂、値段まあまあだが、
カレーないのか
トヨタンラーメン・・・・・
110 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:04:27
>>89以下を読んでいて考えたのだが、
@環濠集落の終焉→Aプレ古墳時代→B古墳時代 と分けたとき、
Aの時期として、西谷墳墓群の始まり、平原墳墓
AからBにかけて、矢谷墳丘墓、楯築墳丘墓 のような感じかな。
ヤマトでAに相当する時期の墳墓は何があるのだろうか?
111 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:05:39
>>109 なんだそりゃ。
ラーメンにソフトクリームでも浮かべるのか。不味そうだな。www
112 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/07(水) 20:24:18
吉野ヶ里歴史公園に勤務してる人は皆親切だった。
満腔の出迎えをしてくれて個人個人が遺跡に誇りを持ってるという感じが強くした。
何か質問しても全力で教えてくれる。
しかし、期待していた卑弥呼まんじゅうは無かったような・・残念。
ですがキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!
>>103 土器編年の併行関係を無視して、
「環濠集落の衰退・消滅が同時期だから」という理由で
庄内甕は九州発と明言するバカがいるから。
>>110 楯築や西谷、平原以前に畿内に墳丘墓は無い。
ていうか、マキムク開始時に突然、特定首長墓が生まれている。
何らかの政治的激変があったであろうと推察される。
115 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 21:56:15
>>114 それだと前段と後段で矛盾する感じがするね。
マキムクが周辺勢力が寄せ集まって突如王権が共立されたという
考えでは、マキムクの土器はその周辺勢力の寄せ集めでないと
整合しない。しかし、マキムクの外来土器は15%くらい。
後段の考えでは、庄内式をマキムク自生とする根拠が失われます。
>>115 >マキムクが周辺勢力が寄せ集まって突如王権が共立されたという
>考えでは、マキムクの土器はその周辺勢力の寄せ集めでないと
>整合しない。
なんでそうなるんだか。本気でこんなこと思ってるの?
なんで全ての地域の技法を少しずつ合わせて、土器を作らなければ
ならんのだ?
優れた地域の技法を採用したと考えるのが一般人の考え方だろう。
庄内甕の場合、吉備と畿内になる。
117 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/07(水) 23:06:17
>>113 その、人を見下した思い上がりと馬鹿っぽさが懐かしい感じ。
あんたには大変残念な事実をお知らせしよう。考古学は今までの通説を覆すような発見の連続だ。
今のまま正しいと思い込んでいたらいつか孫にたしなめられる日がきっと来る。
「おじいちゃん、その考えはもう古いんだよ。邪馬台国は北部九州にあったというのが今の常識なんだよ」と。
グウの音も出ない、115哀れ
>>117 どっちもどっちだと思うが。
少なくとも、昔は考古学的に九州説が優勢で、今は畿内説が優勢。
世紀の大発見で覆る可能性もあるが、そんな可能性までを考慮するなら、
あらゆる仮説が正しいことになってしまう。
限られた証拠から、最も信憑性のある仮説を提示するのが学問なんだけどね。
まあ、アンタにこんなこと言っても理解してくれないだろうけど。
120 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/07(水) 23:22:19
マキムクは長野の柳沢遺跡の今回の出土物で判る様に、かなり広範囲で物物交換をやっていたらしい。
その範囲は九州邪馬台国連合より広く、倭人伝の「遠絶して詳しからず」の記述に合わない。
邪馬台国連合が日本一険しいフォッサマグナまで到達している筈が無い。
その様な倭国統一の姿は大和朝廷の時代に実現したものであるからだ。
121 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/07(水) 23:26:36
>>119まあ、アンタにこんなこと言っても理解してくれないだろうけど。
そんなこと無いよ。言葉がしみじみと伝わってくるよ。道理だね。
123 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:47:27
>>116 いや、マキムクでのプレ古墳時代まで否定してしまうと、庄内式を自生の
土器と見ることは困難になり、どこかの勢力から持ち込まれた土器と
見ないと整合しなくなる。
マキムク自生説を否定すると土器だけの自生も困難という単純な話。
だから、外来土器を15%とするのではなく、90%以上とする位の
見方でないと整合しないんじゃないかということ。
そこで、庄内式の九州起源説ですよ。これでマキムクの土器の全部が
外来系となり、考古学的には論理整合性がある。
124 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/08(木) 04:59:06
>>122 あんた
>>113本人でしょう。
>>119は「どっちもどっちだと思う」と譲歩して言ってるから
それを受けての
>>121文なんだから。あんたに高飛車な物言いされる謂われはない。
今回、柳沢遺跡の出土物で考古学者も首をかしげる新発見となったが
考古学は単に万人が学ぶ為の学問として確立しているだけの事であり、現時点で完璧に真実なのではなく
そういった意味で素人の僕があれやこれや考えを垂れるのとどっこいどっこいという事に落ち着くのだ。
と言いたいのだ。
>>123 >マキムク自生説を否定すると土器だけの自生も困難という単純な話。
>だから、外来土器を15%とするのではなく、90%以上とする位の
>見方でないと整合しないんじゃないかということ。
新しくマキムクで生まれた大王権力が、新しい土器形式を生み出したというだけ。
具体的には吉備と畿内の技術を融合して作ったと。
庄内式九州発が世迷言なのは、土器編年の併行関係からも明らか。
比恵那珂の庄内式は畿内のそれより新しい。
いい加減にしろと。
>>124 「完璧な真実」とか、宗教っぽい発言は止めろ、と。
あくまで根拠に基づいて、より蓋然性の高い仮説を提示するのが、
学問的立場。
考古学の限界はそうで、世紀の大発見で覆されることもしばしば。
ただ、その考古学の限界性をもって、「あてにならない」と結論。
現在の考古学を無視して適当なことを書くのは、少なくとも学問板では止めて欲しいものだ。
127 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/08(木) 20:37:50
このスレのルール知ってる?
【ルール】 ||
九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
少しでも可能性のある事ならどんどん出して議論し合うのは考古学と関係なくとも
間違ったことではない。 人間、直感も大事。既成の事実ばかりをモザイク的に積み重ねたとしても
かえって混乱を招くだけという事もある。
そこで質問だが、今回の長野の柳沢遺跡の出土物は
>>126の立場ではどう見るのだ?
128 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 20:57:02
取り込み中に失礼だが横レス。
>>106 辻田さんの新著に所収された元の紀要論文2篇は、ウエブ上で閲覧可能なのでリンクしておく。
いずれもPDFファイル。
■辻田淳一郎 「古墳時代前期における鏡の副葬と伝世の論理 ─北部九州地域を対象として─」、 『史淵』 144号(九州大学大学院人文科学研究院 2007) pp.1-33
http://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/3596/1/Shien144_hp001.pdf 引用:
≪……この意味では、古墳時代前期におけるヤマト政権と各地との関係は、「ヤマト政権から各地へ」という放射型のベクトルで成立していたというよりは、むしろ「各地域社会からヤマト政権へ」という求心型のベクトルで方向付けられるものであったと理解する≫
≪北部九州における前方後円墳の出現は、在地の上位層が相互に牽制・競合しつつ、西日本を中心とした上位層のネットワークの中に積極的に参画し、新たに出された墓制・儀礼行為を戦略的に導入した結果と考えることができよう≫
129 :
128:2007/11/08(木) 20:58:32
つづき。
■辻田淳一郎 「破鏡の伝世と副葬 ─穿孔事例の観察から─」、 『史淵』 142号(九州大学大学院人文科学研究院 2005) pp.1-39
http://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/3703/1/KJ00004171957.pdf 引用:
≪弥生時代後期?古墳時代前期を中心として出土する鏡片のうち、破断面が研磨されたものなど鏡片としての利用が明確なものは破鏡とよばれるが、これら の破鏡には、穿孔が施されたものが少なからず認められる≫
≪弥生時代後期の破鏡は、副葬が卓越する地域、集落での出土が卓越する地域といった地域性があるが、古墳時代前期になると大多数が古墳の埋葬施設など、 完形鏡に準ずる扱いを受け墓に副葬されるようになる≫
≪弥生時代後期から古墳時代前期にかけての破鏡出土傾向の変化は、北部九州を起点とした破鏡の東方伝播・各地での使用という在り方に、近畿地方をセンターとする完形中国鏡分配システムが重層的に成立したことを背景とする≫
130 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 21:54:11
>>126 考古学が曖昧なのは確かで、せいぜい状況証拠くらいにしかならない。
箸墓が卑弥呼の墓という人がいるが、これは何の証拠もない。
何の証拠もないのに、箸墓が卑弥呼の墓だという考古学者がいたらそれはおかしい。
いつの間にか、年代論みたいになって、箸墓が卑弥呼の時代に作られているから
卑弥呼の墓だという人もいるが、百歩譲って仮に同時代だとしても、
証拠にはならない。
それは、埼玉県に仁徳天皇が死んだのと同じ頃造られた古墳があるから、
この古墳は仁徳天皇の墓だというのとちっとも変わらない。
黒塚古墳やホケノヤマ古墳は詳しい調査がなされたが、結局、誰の墓かは
わからない。黒塚古墳などではっきりわかることが考古学の限界だと思う。
131 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/08(木) 22:32:11
その通りで、三角縁鏡が卑弥呼の鏡だ、という説もそもそも何の証拠も無いもの。
まず言い出しっぺが勝手な説を唱え始めてその弟子が後に続いた。
また畿内説者の中には、畿内のほうの出土物が九州よりも豪華だから。
というのを理由としている人もいたりして「理屈も何もあったもんじゃない」
というのが偽らざる感想だ。
132 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/08(木) 22:45:33
倍暦計上から
景初元年=237年=崇神即位元年
と判明。景初3年鏡はどうやら238年の崇神天皇の同床共殿からの畿内住民
へのお達しによる鏡だよ。その翌年が 景初3年=239年 だからだ。
133 :
サガミハラハラ:2007/11/08(木) 22:47:40
≪言い出しっぺが勝手な説を唱え始めてその弟子が後に続いた。≫
日本じゃ弟子は師を超えられないのでしょうか。
134 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/08(木) 22:51:54
>>132 卑弥呼は結局崇神の時代あたりの九州の女王だね。倭国大乱は倍暦を
観て孝靈天皇の時代あたりのなるね。これが正解だよ。
135 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 22:53:00
>>125 >具体的には吉備と畿内の技術を融合して作ったと。
いや、出土分布からはそれは無理。
というか技術の融合っていう根拠が不明。
土器の変遷論は難しいよ。
鏡や銅鐸なら文様の抽象化過程で説明したり、機能性を喪失
した飾りになったとかの説明で変遷を追えるが、そのレベルの
説明が庄内式で可能かは、疑問だね。
従来の土器を薄型、軽量に改良したところまでは言えても、
その先の説明は説得力がなくなる。
だから、まず単純に出土状況を直視せざるを得ない。
次に他の出土物との整合性。
確実性の高いものから検討していく方がいい。
あと、九州の庄内式の全部が畿内より古いとは考えていない。
Uターン経路のものもあると考えている。
137 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/08(木) 23:08:13
>>134 倭人伝とかの大陸の写し以外では紀に卑弥呼の記述が見られないということは、
大和朝廷に情報が入りにくい位置に女王国があったということだ。畿内に女王国
があるんなら、伝とかから独立して卑弥呼の記事が記紀に載り、朝廷と女王国の
交易、卑弥呼のなりふりが伝以上に細かく記紀に書かれる筈。紀に一筆卑弥呼が
朝廷の近隣にあるとあれば、それだけでもう論争なんか無いわけだから、その
一筆もないということは、朝廷からうんとかけ離れた場所の卑弥呼の国が
あったということが合理的な考察なのである。つまり女王国は九州にあっ
たのだ。それも北九州は百済等からも遣使が多々くるから、そこにあれば朝廷
に女王国の情報がはいるに違いないから、北ということは考えにくい〜が、
その遣使らの通行路からだいぶ離れてれば、北九州の可能性もあるが、おそらく
は奥九州の可能性が強いと思う。
卑弥呼の墓を特定する決め手ってなんだろう?
何かの本で中国からの調度品が必須と書かれていたが・・・
139 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/08(木) 23:11:07
>>136 言語虫さんはプラムさんの師なんだそうだ。それがしは言語虫さんではない。
140 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 00:45:42
142 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:08:33
>>132 太国さん
>景初3年鏡はどうやら238年の崇神天皇の同床共殿からの畿内住民へのお達しによる鏡だよ。
ということは、あなたは、景初3年鏡が─大阪と島根で出てますが─その銘文通りに
景初3年=239年に鋳造された、とお考えなんですね。
これはサガミハラハラさんや九州ですがさんなど、他の九州説の方とは異なる見解だと
思いますので、確認しておきたいです。
143 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 05:04:06
日向が三代が筑紫に降り立った。これが日本の発祥
って事になると、その前の天照大神やスサノオや大国主や出雲国造の話は、どこの国の話になるの?
144 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/09(金) 06:43:03
>>133 日本じゃ弟子は師を超えられないのでしょうか。
そんなことは無いと思います。実際に師を超えていかないと社会の発展もありませんし。
畿内説論者のように師が途方も無い事を言い出して
弟子はその跡をいったんは継ぐが、都合が悪くなると平気で師の説まで否定するようになる。
つまり仁義無き師弟関係で藍より出でてピンクになっちゃった、といった感じをここでは糾弾しているのであって。
サガミハラハラさんの説はスレで見る以外、出版されている本を拝見していないので主張されている全体像は
よく解りませんが九州説論者にはそういった違和感は感じません。
師がおられるかどうかは存じ上げませんが御自分の信じた考えを変遷無く主張しておられ、
常日頃から感銘を受けている次第です。
145 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 06:53:14
>>143 天照大神がいたのは高天原。
邇邇芸命は高天原から日向に降りてきた。日向は宮崎県。
天照大神らは、高天原から出雲に何度も使者を送り、大国主命に国を譲らせた。
饒速日命は、高天原から大和に降りてきた。
つまり、天照大神のいた高天原は、日向ではなく、出雲でもなく、大和でも
ない。
>>142 当事者ではないけれど。
たとえば、景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土した島根県の神原神社古墳は、
石室の形、土器の種類、副葬品の組み合わせから4世紀中ごろと推定されている。
しかも、鏡は、黒塚古墳と同様に棺に立てかけてあった。黒塚古墳の場合は、
立てかけてある鏡にはバリがついたままになっており、鋳型から取り出した
そのままの姿だと思われている。
つまり、製作してすぐに葬具として使われていた。
だから、景初三年銘の三角縁神獣鏡も古墳が築造された4世紀中ごろに作られた
ものと思う。
また、魏と交流のあったときに作られたとすれば、赤鳥といった呉の年号が
あるのはおかしいと思う。
146 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 07:19:58
>>142 古代鏡のことは拙者はそんなに詳しくないので、貴殿らに突付かれればそんな
にキチンと受け答えは出来んと思うから、だいたいの話でご辛抱願いたいところ
だ。雄略の銘文ある関東稲荷山の鉄剣や九州江田船山の鉄刀と同様、鏡は可動性
のものだから、出土場所が遠方であってもそこに強くこだわるのは保留したほう
がいいだろうな。そういう観点で・・・
だいたいどこで造ったとかは拙者の判断はまだまだしてはいないが、大阪とか
島根ならば大陸から畿内への交易、遣使の通行路にほぼ入るから、この点では
大陸から畿内目的の鏡ならそこから出てもおかしくはない。大阪ならなおさら
だな。つまり畿内で景初3年鏡が出たからそれが卑弥呼のための鏡だということ
にはならない。その年は先述のとおり倍暦計算にて崇神天皇の即位の2年後で
あり、鏡を同床共殿とした翌年だから、景初3年鏡で畿内から出たとかいうもの
なら、そこから一般畿内民が右にならえ的に同床共殿的行為に準じて使用目的と
した鏡だと観たい。だから大阪、島根のそれは卑弥呼が畿内居住に関するもの
ではないということになる。女王国は九州だよ。
−大阪とか書くから一大の鏡と間違えるところだったぞ。w
鋳造はその年に造るのが正着だが、銘はそうでもその年からいささかズレて
造るときもあろうと思う。鏡銘景初3年でも実際は同2年とか4年等とかも
あるんではないの?
147 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 09:53:24
>>145 >つまり、天照大神のいた高天原は、日向ではなく、出雲でもなく、大和でも
>ない。
そだね。納得。
高天原は雲の上だね。
148 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 10:07:19
>>145 ちょっと極端な例なんだろうけど、可能性はありうるね?
百年ばかり前の鏡を一緒に古墳へ埋葬しようとすることは、やろうと思えば
やれることだから・・・。あと何か考えがつくかね?
149 :
サガミハラハラ:2007/11/09(金) 10:15:06
高天原またはそのモデルとなった地は、佐賀県背振山地であることに間違いないと思います。
この山地には広い盆地があり、北部九州が水浸しだった頃から人々が住んでいたようです。
150 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 10:27:20
>>148 239年のが4世紀の古墳から出るというのは、考えを深く巡らすと
やはりありうるだろう。239年は崇神の同床共殿の翌年だから、畿内住民
の家屋へ祭祀するお達しであろうと考えるが、一世紀も時間が過ぎれば
自ずから風習、考えが違ってきて、そういう同床の考えしきたりが緩んで
来たか結局不要となったのか、そこまでは分からんが、死者埋葬のついで
に、死者の生前の同床の鏡を祭祀していた日常を大事にとらえ死後の継続
でもやっていかせようとする心情に対する子孫の考えが、同鏡が死者とも
に墳墓に入った因ではあるまいかね?
151 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 10:37:16
>>149 >この山地には広い盆地があり、北部九州が水浸しだった頃から人々が住んでいたようです。
想像でなければ、どうかソースを示してください。
152 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 10:48:13
>>150 238年の同床共殿の鏡のお達しが翌239年にあったとして、259年崇神崩御から
勅の効果が50年継続したと勝手だがそう考えれば309年になる。
そこから効果が影響が次第に薄れて行って260年〜270年ころ誕生した住民は
同床のしきたり習慣をまだ継続して持っているから、この者らが死ぬのが300年
〜310年となるから4世紀に入る。
しきたりがもう少し続いていれば4世紀半ばに接近する。崇神崩御の前後は
まだ同床はあったろうが、同墓ではなかっただろう。となるとしきたりがの効果
がまだあるころ生まれた人民の葬儀は4世紀に届くから、墳墓に同床の継続と
したことから、墳墓内から景初3年の鏡が出てくるのだろう?
153 :
サガミハラハラ:2007/11/09(金) 11:35:36
三瀬村村誌(旧版)をごらんください。
佐賀県立図書館郷土資料室に開架してあります。または国立国会図書館(未確認ではあるが、あるであろう。)
154 :
サガミハラハラ:2007/11/09(金) 11:40:11
地形にかんしては佐賀県立博物館の佐賀県立体模型がよろしいでしょう。
水浸しについては、縄文時代には(縄文海進)北部九州の現在の平野はほとんど浅い海であったということです。
155 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 13:09:24
>>153 蔵書検索では、『三瀬村村誌』なる書名では見つからぬが、
『三瀬村誌』なら、あった。(国会にはない模様だが)
これのことかな?
書名 : 三瀬村誌
著者名 : 三瀬村誌編さん委員会/編
出版者 : 三瀬村公民館
出版年 : 1977
ページ数等 : 788p
大きさ : 27cm
海の地形に関しては遠賀川も今で言う洞海湾のような深い湾であったことは研究者でも見落としがち
日田方面(高天原)に行くのも船で相当深くまで行ける
157 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 13:51:10
>>156 ん? 貴殿は日田が高天原か。して、その理由は?
で、邪馬台国はどこかな?
158 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:06:31
記紀以外の書物や文書なども一応参考資料として取り入れて見たら?
俺はイワレノビコの話は
・667年に都を近江に遷した天智天皇
・694年に橿原に藤原京を東遷した持統天皇代の人
どちらかの話だと思うよ
159 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:16:33
>>145 高天原がどこか特定してくれって意味じゃなく
イワレノビコ神話が初めて日本に降り立ったって事なら、それ以前の記紀の話は日本以外で起きた出来事の伝承なの?
って事を聞いてるんだよ
イワレノビコ以前の神を日本以外の神って位置付ける事になるでしょ?
それとも本当に天国があるとか、まるっきりの誰かの作り話って解釈なの?
160 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:26:45
邪馬台国って、ヤマトって読む説もあるらしい。
そう考えると、やはり奈良になるのだろうか?
ちなみに、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置について、方角を全て90度傾けると、
ピッタリと現在の奈良県の位置と合致するそうです。
遺跡の出土数から考えると、奈良県説が一番しっくり来る様に思う。
161 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:35:32
神功皇后が大陸にある国を統治したのが201年
大陸にあった漢国が終わり、いわゆる三国志時代になったのが200年頃
百済、新羅、高句羅の三国時代は西暦0年前後200年
「昔の中国。昔の朝鮮」って呼んでる国は、時代を間違うと日本が統治してた大陸部の大和の国を指して使っちゃってる気がするよ
「昔の中国」って呼ばないで、漢なら漢、唐なら唐、百済なら百済って分けて呼ばないとダメと思う
あと巍や燭や梁って国が実際にはどの都にあった朝廷国家の事なのか、詳しい事は解ってないよ
同じ時代に大陸には朝鮮半島だけでも「国」は20国ぐらいあったとされてる訳だし
あともし巍志とかに「巍国は○○年に中国大陸を統一し」なんて書いてあるとしたら完全に後から付け足した解釈
あの大陸が「中国」って呼ばれるようになったのは前後の事でしかないわけだから
162 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 14:43:40
東京都は京都でないし、オーストリアはオーストラリアでもない。
200年は孝元天皇のころだ。みかけでは神功の世に入る直前だが真はそうでは
なく、倍暦計算で実際の神功の時代は4世紀半ばすぎあたりだ。
163 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:49:14
>>160 当時の「国」の観念が今の時代とまるで違うからややこしいよね
日本にも筑紫国、高志国、○○国は同じ時代に沢山ある訳だし
○○都や○○州や○○郡って言い方の時代もある
あと南北朝時代のように覇権争いで王朝が分裂してたり、別の氏族が王朝を名乗ったりもあると思うし
>>160 小学生の頃のわしの自説じゃなw
別に邪馬台国が奈良でもいいけど
その場合九州はまったく強大な別勢力
165 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 15:15:31
>>162 倍歴計算ってより明治維新後の長州政府の解釈でしょ?
記紀は系譜が紛失した書物で、日本書記には年代(辛酉とかの暦)表示が一応あるらしい
つか紀元前660年ってのは明治以降になされた「解釈」らしいじゃん
明治以降の長州政府による
「日本政府正史委員(だったかな?)」
のメンバーの那珂通世が唱えた説なだけじゃん
つか那珂の解釈も酷いよこれ
「辛酉の年は中国によれば政変の意味があるらしい。きっと辛酉の年が天皇の発祥に違いない、、」
で推古天皇を、、って説明が面倒くさい
こんな解釈で2600年前とかは流石に無理っすよ
166 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 15:16:28
>160
江戸時代からの説
167 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 15:43:48
>>159 記紀の神代の舞台は高天原。また、出雲神話や日向神話は重要な位置を占めている。
現代の地名で言えば、山陰地方や南九州の地名が多く登場する。
しかし、福岡県や熊本県、佐賀県それに大分県ついでに長崎県も全く登場しない。
古代に最も栄えていたと思われるこの地域が記紀の神代になぜ登場しないのか。
それは、この地域が高天原だったからではないかと思う。
>>160 邪馬台国をヤマト国と読むのは、東遷説の根拠の一つにもなっている。
邪馬台国が九州にあったとすれば、のちに同じ国名の大和朝廷が大和に
出現しているわけだから。
168 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 15:53:59
日本の歴史ってのはさ、イザナミや天照大神から初めても、ちゃんと調べれば2000年以上は歴史がある国だと思ってるんよ
天照大神だけじゃなく、出雲系や阿曽系の日向三代とかもすげー歴史がある氏族と思う
だからこそ歴史を改ざんした薩長政府が俺は嫌い
仕方なかったのかも知れないけど
改ざんなんかしたから戦後は本来の歴史までをも否定するような国になっちゃってるし
なんだよ巍志倭人伝って
日本の書物の記述は歴史教育で否定してるクセに、中国大陸の書物の記述は日本の歴史として取り入れるらしい
アホ。 そういうのがすげーいや
169 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:02:17
『台』と『一』は、中国の古代の書物では、『臺』と『壹』になる。
けっこう似ている。
邪馬台国は、倭人伝では「邪馬壹國」となっている。これは明らかに邪馬一国。
これが本当だという人もけっこういるが、他の書物では邪馬臺國となっているので
一般的には、邪馬台国となる。
また、倭人伝には、卑弥呼のあとの女王は、壹與と書かれているが、
これも他の書物では臺與となっているので、壱与(イヨ)ではなく台与(トヨ)
と呼ばれることが多い。
この「臺」つまり、「台」には都と言う意味がある。
だから、邪馬台国は、ある場所の地名ではなく、首都みたいな意味があった
可能性もあるのではないかとも思う。
170 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:04:00
>>167 >出雲風土記、日向風土記は重要な書物
記紀も風土記も全部重要な書物だよ
「解釈」の問題を指摘してるだけ
記紀は系譜を紛失した書物
具体的に言えばイワレノビコ神話を天皇血統の元始(始まり)と捉える解釈はオレは違うと思う
またイワレノビコ神話以前の話を「ありゃ神話。誰かのフィクション」って解釈はしてないよ
それに伴う史実が何かあるんだと思って調べてるよ
5 :定ちゃん:2007/03/14(水) 21:50:22
もぉすぐ、NHK歴史の選択で、「 邪馬台国はどこか? 」近畿説vs九州説が始まるれちね ..
定ちゃんは .. 吉備説れも取るれちかなぁー ♪
| 〃
|*`・π・) σ ))
| σ ))
7 :定ちゃん:2007/03/14(水) 22:30:40
前から思っていたんやけろ、卑弥呼ってひとり?
共有コテハンみたいに、二代目三代目卑弥呼ってか、影武者卑弥呼て居てたん?
てか ..
居てたと考えるのがフツゥーなんかなぁ?
8 :定ちゃん:2007/03/14(水) 22:56:42
黄金の神獣鏡かぁ .. レプリカきれいやたぁ〜 ♪
〃
(*´・ー・)/
( つ
9 :定ちゃん:2007/03/14(水) 23:09:20
そぃえば、史学科さんで剣の切れ具合を実証する。とかで、いろんな石で磨きまくってたひといたな ..
いまでも自分ちの包丁研いでんのんかなぁ?
11 :定ちゃん:2007/03/14(水) 23:37:00
>>10 定ちゃんは、八百比丘尼説が有力だそぉれす?!
ってか、
『 魏志 』やと、「水行十日陸行一月 ..」て太平洋に飛び出てるやん?!わららぁ〜
13 :定ちゃん:2007/03/14(水) 23:42:44
定ちゃんは、『 日本書紀 』かて大切にしたい ..
『 書紀 』やと卑弥呼と神宮皇后てクラスメートっぽいWw
卑弥呼=神宮皇后=台与(トヨ)なんかな?思てたけんろ、
卑弥呼vs神宮皇后→ 吸収合併 ..
| 〃
|π・`)ゞ⌒ ))
つ
|
15 :定ちゃん:2007/03/14(水) 23:51:16
あと、古事記で東方に派遣されたてぃうふたりの将軍とか四道将軍て、
ホンマに神武タソや崇神タソなんかな?
〃
(*´・π・)つ ))
( つ ))
18 :定ちゃん:2007/03/14(水) 23:58:48
てか ..
神宮皇后が、甘木→ 高良山って行軍すて、女山(山門郡)で卑弥呼が征圧されたって説て .. どぉにゃん?
|〃
|・`)
⊂
|
25 :定ちゃん:2007/03/15(木) 00:12:30
神宮皇后は、武内・浦島・宿禰と不倫してたかゃ、あんま好ゅきちゃぅ ..
|〃
|`)シシ
|
174 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:11:27
>>168 日本の歴史はそりゃあ古いよ。
世界最初の土器といわれる縄文式土器もあるわけだし、
青森県の三内丸山遺跡は縄文中期(4〜5,000年くらい前)の大遺跡だから。
でも、いくら古くても、記憶に残っていないと仕方がない。
日本人の記憶に残っているのは、せいぜい2世紀頃からじゃなかろうかと思う。
175 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:11:44
邪馬台国に関しては日本が統治してた大陸にある国だと思います
新羅、百済、高句羅は当時の日本の倭人の領土。これは巍国の書物に書いてある
記紀にも神功皇后の話で書いてある
弥鳥邪馬国って国が倭人の納める大陸(半島)の国の一つとしてあったよ
邪馬台国。邪馬国。
同じ意味じゃないのかな?
176 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:22:12
>>174 記憶にも記録にも残ってないのは明治以降の日本人だけだと思うよ
更に言えば戦後の日本人
俺は邪馬台国が日本の始まりと教わってきてたよ
まず記紀以外の文献や伝承を全て「偽書」としたのが一番の原因
江戸時代まで聖書とされて氏族の系譜までをも網羅してた旧事記までをも「偽書」として日本書記以外の歴史は徹底的に否定したのが九州発祥説を唱えた明治の薩長政府だから
家だか寺に伝わる風土記を発表した人を「不敬罪」とかって逮捕したり徹底的にしてたみたいじゃん
書物や文献や地元の伝承は本当に沢山残ってるんだよ
それなのに記紀以外の書物を参考に歴史を探れないから曖昧な解釈しか出来ない
それが今の俺だしw
それなら
邪馬=八女で邪馬台国も高天原も八女で決まりだな夜須川もあるし
179 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:29:44
とにかく記紀以外の日本の書物は偽書なら偽書でいいよ
とにかく記紀には邪馬台国って国は載ってない
日本の他の文献は全て偽書らしいから巍や唐や百済の書物や、あとはその土地に伝わる伝承や地名の由来から探すしか無いよ
巍の書物にあったよ
倭人の納める国って地域は巍は半島や大連一帯として書いてたよ
だから半島も探したら三韓時代の中に弥鳥邪馬国ってのがあったよ
ここの事だと思う
180 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 16:37:46
>>178 どこが朝鮮的なの?
朝鮮人が半島に住み着いてたった300年程度らしいじゃん
朝鮮人なんてそれこそ歴史も文字も国家も持たない人種じゃん
当時に「朝鮮」なんて国も民族も地名も氏族もどこにも無かったよ
んなのいなかったからだと思うよ
>>180 わかんないならいいよチョン公、失せろ。
旧事記はもっと評価されていい
183 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 19:18:24
旧事紀つか江戸時代までの歴史解釈では芦原中原は「信濃」って特定されてたらしいね
つか各藩主の誰がどこの氏族の血統系譜なのかってのもちゃんとわかってたのが明治時代以前の歴史
つか旧事紀は1000氏族もの系譜を網羅してた書物らしいからさ
それがあれば「日向三代は○○の出だ!○○血統だ!」なんて無意味な言い争いする必要も無かったのにね
旧事記は「明治時代以降に系譜書だけ」紛失したらしいよ
長州政府はよっぽど偽書の系譜が気に入らなかったんだね
よりによって系譜の無い日本書記を持ち出して正史にしてるぐらいだから
184 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 19:36:52
>>165 長州が維新後、倍暦計算に関わっていたなどということは聞いたことがあない。
倍暦計算などというものにマトモな奴が関わったことはない
186 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 20:56:21
倍暦計算は記年論を主張する研究家は各自やってますから、マトモでないなどと
いう主張は退けられますよ。
むしろ記紀にある古代天皇の超長寿を通常暦計算でやる者こそマトモでないだ
ろう。お前はそれか?
187 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:04:51
>>184 歴史は過去に何度も書き換えられてるよ
@敗戦後
A明治維新後
B平安時代、畿内へ移設後
まだあるかもだけど、ここのポイントは自分では理解してるつもり
つか俺なんて日本は昔、卑弥呼が納めてた邪馬台国だったなんて教わってたんだよ
日本は卑弥呼が最強で一番偉い人と思ってたよ
誰だよ卑弥呼って
188 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:14:29
>>186 おれ記紀以外よく知らないからなんとも言えないけど
年代に関しては記紀以外の書物も参考にしたりしないの?
やっぱ日本の書物は記紀以外は偽書だから、記紀以外の記述はまるで参考にならないものなの?
今の日本は、記紀以外の日本の書物を参考にした歴史は認められないって国だからさ
俺みたいに巍や百済や唐の書物や、その土地や神社や地名にまつわる伝承を探しまくって参考にするしかないから面倒くさいよ
まあ「偽書」って言い方も凄いと思うけどね
189 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 22:02:16
旧事紀は参考になる箇所がある。拙者は古史古伝を偽書とは云っていない。
ただ竹内文献はちょっと学的には敬遠している。
190 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:57:52
>>189 ヒヒイロカネやら宇宙創世とか水銀を動力とした空飛ぶ舟だっけ?
飛騨の位山の大魔王クマーラとかの伝承があんなんばっかだったよ
記紀はかなり神話を短縮されて書かれてるんとは思うよ
記紀のイザナミ降臨前に「現れてはすぐ消えてしまった」とかいう神(国之常立とか)の代の神話を書けば
金星から来たとかああいう神話になるような気はするよ
ただこういう神話ってヒンズー仏典の中の記述やアフリカのゴンゴ族の伝承も同じような神話を共有してるよ
マヤやアステカの伝承はどうかと思って調べようとしたけど、キリスト教のアホに全て滅ぼされて何も残って無かったよ
キリスト教はマジムカつく
191 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 23:05:58
シリウス星信仰はエジプトのピラミッドやマヤ遺跡もあれシリウス信仰だよ
こういうのは俺も史実ってより「神話」として認識してる話だよ
なんか世界中で共有してる部分があるなあ〜って、いろいろ調べたりもしてたよ
逆に日本が本当に歴史のある国なら、こういう古代国家達が共有してた神話が伝わってなきゃおかしいとは思ったりしてたぐらいだし
まあけど俺もここらは記紀には関係ない神話だとは思う
これは世界史や超古代文明とかそっちの神話と思うからさ
192 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 23:09:44
193 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 23:15:48
えっと古史古伝は置いといて、
おれ、記紀の話は史実って前提で記紀を読んでるよ
だからその中に飛鳥時代の蘇我馬子や入鹿や聖徳太子や物部氏とか大政奉還や王申の乱や白江の戦いや、、、
そういう歴史とリンクしてる話があるはずだって思って探ってるけど、やっぱイマイチ特定出来てないや
名前の表記は違うにしても、平安京にいたるまでを書いた書物なんだからリンクする話はあると思うけどなあ
194 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 23:15:55
>>190 マヤはランダにやられず、コデックスが少し残ってるよ。
195 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/09(金) 23:17:50
マヤ(真矢)−−−−−−−−−→ヤマト(矢的)
196 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 00:18:42
真矢ちゃん元気にしているかな?
真矢ちゃんも63歳のばあちゃんか。
40年の歳月が過ぎているんだな。
197 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 04:25:53
>>177 >それなら邪馬=八女で邪馬台国も高天原も八女で決まりだな夜須川もあるし
福岡県の八女市や旧八女郡に、「夜須川」という川はない。
八女市を流れる川は「矢部川」である。「やメ」〜「やベ」と音が似る。
安本美典説を、自分でよく調べもせず、いい加減に受け売りするから、
このような、お恥ずかしい初歩的ミスをやってしまうのだ。
安本の本を読むな、などと言っているのではない。
読むからには、真剣に読め。徹底的に頭に入れろ。
辞典や地図、参考図書類を手元に置き、一字一句まで吟味しろ。
安本が引用する報告書や、批判している他者の論考も、
図書館や埋文センターを利用し、必ずオリジナルを探してそれを読め。
安本本上での紹介引用箇所ばっかりに、もたれかかるな。
福岡県の「夜須」地名は筑前町にある。合併前の朝倉郡旧夜須町だ。
紀年論に与するかしないかで
立場は大きく異なるのではないのでしょうか。
>>183 旧事紀つか江戸時代までの歴史解釈では芦原中原は「信濃」って
特定されてたらしいね
これはべんきょう不足の私としては
初めて聞く話です。
よろしければソースを教しえてください
200 :
サガミハラハラ:2007/11/10(土) 07:56:49
安本氏のいう夜須川は甘木市北部を流れる川で、夜須郵便局というのがあったようなおぼろげな
記憶がある。
今、ふとおもったのであるが、肥前国府のある嘉瀬川を私は天の安の河原とおもっているのであるが、そこも扇状地の
始まりのところで甘木の夜須郵便局の位置と同じである。
つまりヤスとは「八つの州」で流れてきた川がいくつかに分かれて流れる始まりのところをさすようである。
グーグルアースで改めて八女見てみると
大和盆地に似ているね、西にしか出口はないし川が流れててその先は穀倉地帯。
202 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:17:24
八女の東部、矢部川と星野川に挟まれた比高約50mの台地がある。
これは邪馬台国卑弥呼の城郭では?
発掘されたことはないようだ。
203 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:00:09
>>202 >八女の東部、矢部川と星野川に挟まれた比高約50mの台地がある。
>これは邪馬台国卑弥呼の城郭では?
遺跡や遺物散布地を指して「どうでしょうか」というならちょっとは検討できるけど
こんな唐突な問いかけをされてもねえ・・・ www
ま、「邪馬台国卑弥呼の城郭? たぶん違うと思うよ」と、答えておこう。
「なにィ、違うだとォ。違うというなら、証拠を出してみろッ!」なんて、言うなよ。
204 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:12:56
吉野ヶ里だって発掘するまで何も無いと思われていたんだし。
安徳台を大型化した様なところだよ。
>>204 >吉野ヶ里だって発掘するまで何も無いと思われていたんだし。
デタラメを言うな。
もっと吉野ヶ里遺跡の発掘・研究史を読め。
206 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:34:46
吉野ヶ里は工業地造成中の発見。
平塚川添遺跡も同じ企業。
207 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:36:31
>>204-205 大正14年(1925)
松尾禎作らによって吉野ヶ里遺跡がはじめて学術雑誌に掲載される。
昭和9年(1934)
七田忠志・三友国五郎などによって吉野ヶ里の内容が相次いで中央の学術雑誌『史前学雑誌』『考古学雑誌』に紹介される。
昭和27年(1952)
北方に位置する三津永田遺跡から多数の甕棺が出土し、翌28年から坪井清足・金関恕らによって発掘が行われ、中国製の銅鏡や鉄製武器などが、出土、この地域の弥生時代遺跡の重要性が認められる。
昭和46年( 1971)
橋口達也がこの地域の弥生時代遺跡を概観し、吉野ヶ里遺跡南部が前中期の地域の拠点集落だったと考えた。
http://www.pref.saga.lg.jp/web/yosinogari_ayumi.html
208 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:51:37
平塚川添遺跡遺跡は工業団地開発のための予備調査で発見。
>>206 >吉野ヶ里は工業地造成中の発見。
何度も何度もデタラメを言うな!
ここが弥生遺跡という認識があったからこそ佐賀県は詳しい事前調査をやったのだ。
>>207 乙。
古代はおろか、現代史のことまで捏造する厨房を、ガツンとやってくれ。
210 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 08:14:11
>>209 >古代はおろか、現代史のことまで捏造する厨房を、ガツンとやってくれ。
お怒りはごもっともだが、
>>204、
>>206が学史の「捏造」をやってるとは思えんな。
単に無知なだけだろ。
きっとマスコミ報道ぐらいでしか考古学や発掘については知らんわけだ。
そんな漠然とした印象でも、「これこれこうだ」とご高説をレスしてくる。ww
ちゃんと調べる、っていう学問をやる者なら当たり前の態度が、欠けてるんだよ。
>>210 あまい。こういう連中は何度指摘してもしばらくすると同じことを書く。
212 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/11(日) 09:40:05
206の言う「吉野ヶ里は工業地造成中の発見」というのは別に間違いじゃないんじゃないの?
何所を起点とするかで違ってくると思う。
元々、無名の学校の先生が土器を拾い集めていたのを、その息子が引き継いで業者や行政にかけ合い
工業団地の造成をストップさせたが、すでに弥生式土器が発見されていたのでその時点を以って弥生集落
と解っていたと思うが、実際に工業地造成中に発見したと言えない事も無い。
さらに地元の人は前々から知っていても、改めて権威のある学者が発掘した時点を以って発見とされる事も多々あると思うが。
214 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 10:47:33
山麓に並ぶ破壊してやむを得ない様な平凡な弥生遺跡の一つに過ぎないとの一般認識であったのが、
環濠集落とわかったのは工事が始まってからの発掘から。
現在の吉野ヶ里認識につながる発見は工事が始まってからと見てよい。
>>204>>206の認識は正しい。
>>205は針小棒大にヒステリックにわめいているだけ。
215 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/11(日) 10:50:07
一行二行じゃぁ、わめいてるはオーバーだなw
>>214 要は「日本語」の問題だ。
>>204みたいな捏造的表現は置いておくとして、
俺なんかは「遺跡」を「発見」したといわれれば、
存在を知られていない新しい遺跡が見つかったと言う意味にとるよ。
工業団地の造成に伴う既知の遺跡の「発掘」が行われたことにより、
新たに埋蔵物が「発見」されたと言う意味にはとらない。
コトバは正確に使った方がよいと思う。
週刊誌の中吊り広告のアオリと本紙の記事内容、さらには実際の事実関係のように
「てにをは」や引用文の省略、勝手な言い換えで伝わるべき事項の印象が
どんどん変っていくことがあるが、工業団地云々の喧伝もそれと似たところを感じる。
多分、そういった印刷物からコピーされた概念なんだろうね。
最近ではTVニュースなんかでも同様の手法が使われているので、
こういった表現が摺込まれてしまった人が多いのかも知れない。
217 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:36:43
今日、吉野ヶ里に行って来たよ。
>>105 のレストランって、「食堂」だろ、どうみても。
手当たり次第に登ったので、ともかく歩きつかれた。
北墳丘墓が工事中で見られなかったのが残念。
北内郭は南とは異質の感じがするね。
218 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/11(日) 22:55:47
北内郭など北向きに敵に対する防御態勢をとったと思われる吉野ヶ里の形態は
海からの脅威に備えたものと考えられる。
吉野ヶ里ではレストラン=食堂に行ったが、ソフトクリームを一つ食べただけで出た。
219 :
サガミハラハラ:2007/11/11(日) 22:56:59
こtrから作られる邪馬台国を題材にした映画で、卑弥呼役の吉永小百合様が吉野ヶ里の北内郭
でえんずるということです。
しかし、本当に実際に、あの北内郭で卑弥呼は生活していたのです。
220 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 00:08:10
>>197 引用文献はできるだけ目を通した方がいいのはそのとおりだが、
学者の著作でも7割は駄作だから、徒労の方が多い。
しかも、国会図書館にしかないものまで調べるのは大変。
地名はできるだけ、ネットの地図で調べて確認して読む。
古墳、遺跡も検索して、他の情報を確認しながら読む。
気になる著書はできるだけ目を通す。
という感じで良いんじゃないか。
あと、
>>177は安本説とは違うと思うのだが、安本説を知らないのは
初歩的ミスではないのかな?
222 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 06:05:44
吉野ヶ里に最初に行ったとき、意外にも注目を集めていたのは、近くの神社
だった。小高い丘で、墳丘墓のようにも見えたのだが。
日吉神社だったかな。
223 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 06:51:28
>>218-220 吉野ケ里は立派な遺跡だと思う。
だがここが本当に邪馬台国で、卑弥呼・壱与という倭の2女王が居たのだろうか?
http://www.yoshinogari.jp/ym/img/photo/photo/14.jpg ↑これは「弥生ミュージアム」サイトにある弥生の大規模遺跡の全国図だが、
どこも、なかなかなものだな、と思ってしまう。俺には、他の遺跡を出し抜いてまで
吉野ケ里だけが突出しているという印象が得られないのだ。
吉野ケ里は、弥生時代の全時期にわたって集落が営まれたというから、たしかに
遺構や遺物も多い。だが俺には、弥生中期末からの集落である鳥取県の
妻木晩田(むぎばんだ)や、隣の青谷上寺地(あおやかみじち)の方が
なんというか、より凄みを感じる遺跡に思えてしまうのだ。
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=30061 ここを読むと、弥生時代の山陰地方の重要性に気づかされる。力もあったのだろう。
とくに大陸・半島と盛んに交流していた様子が窺われる点が、凄みを感じるのだ。
しかし、だからといって、邪馬台国を妻木晩田や青谷上寺地とするのも早計だろう。
俺には、邪馬台国は、先の全国図には出ておらず、もっと別な所のような気がする。
224 :
サガミハラハラ:2007/11/12(月) 09:33:08
そうです。邪馬台国はその全国図にはのっていません。
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
225 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:15:38
違うね。あそこは北過ぎるよw
しかも近すぎwwwwwww
佐賀以南全部はどう解釈するつもりかよwwwwwww 馬鹿だな。
「やま」っていうんだから山脈ばかりの場所だろ。九州で一番高い山が密集して
いる九重高原から高千穂あたりまでの山脈地帯。
たぶん、天皇が出たから神話にちなんんで「日向」とか、もっと古くは「ひむか」などと
呼ばれるようになった。それは現在の「宮崎」という語源と同じ。
それ以前は絶対に、「山 (やま)」と発音する地名だったはずだ。しかも
九州で一番険しい山脈地帯だから、そうだな、「山大国」なんて呼ばれていたかもしれんぞ。
天皇が出てからだよ、「日」の向いている場所(つまり宮崎って意味でもあるな)
っていう意味の地名になったのは。
226 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:17:48
佐賀を邪馬台国にしてしまう、ってのは畿内を邪馬台国にしてしまうのと
全く同じ。
佐賀や畿内じゃ魏志倭人伝のような描写にはならない。
倭人伝無視で。。。。あ、考古学重視ね。
227 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:28:47
でも、まあ、甘木あたりは確かに相当怪しいけどね。
それはわかるよ。
あれだよ、九州には記紀には出てこない大きな国が国や王族がたくさん居た。
それはいつまでかわかんないよ。祟神のころまでか、ひょっとしてwwww
7世紀ぐらいまであったかもしれんwww だから記紀は将軍様レベルの本だよ。
ただ都合のいい部分だけを強調し、都合の悪い部分は入れずに、ってのは当たり前だと
思うけどね。それは誰でもわかっていることで大騒ぎするほどのことじゃないし。
遣隋使が初めて遣わされる以前にも、倭と中国は交流があった。
おそらく九州の国とで、倭とは九州だった。畿内政権が初めて日本の中枢となったのが
7世紀でそのころに記紀もかかれた。そんだけだ。
江戸時代まであった、なんていう帝譜にこだわっている妄想馬鹿がいるが無駄。
どうせ、同じご都合主義に帝譜しかない。
228 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:33:25
卑弥呼か台与として一番怪しいのは宇佐で祭られている比売大神。
だからって宇佐・中津地域=邪馬台国という訳でもないと思う。
229 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 16:20:02
230 :
サガミハラハラ:2007/11/12(月) 16:29:17
231 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 17:00:30
マキムクではないことだけは、147回の発掘で確定したね。
>>228 〇〇として一番怪しいのは××、だからって△△という訳でもないと思う。
↑こういうのを「思わせぶりの文章」という。
無意味そのもの。
「壱与さま。大事な話でござりまする。お人払いを・・・」と張政は思いつめた様子で言った。
「狗奴国のことね? わかったわ、みんな下がって」
壱与がそういうと、奴婢たちはいっせいに部屋から退き、辺りに急に静けさが訪れた。
「で、張政。大事な話って、なに?」
「………い、壱与さま……、そ、それがしは………」
「どうしたの、張政。気分でも悪いの? きょうはなんだかヘンね」
「……い、壱与さまは、………壱与さまは、お、お綺麗じゃ………」
「あら、……うふふ、ありがとう。でも私は神に仕える身。めったなことを………」
「い、壱与さま! そ、それがし、もはや我慢が………ああぁ!」
「あっ、な、なにをするの、張政………、そ、そんなとこ触っちゃ、………ああ………」
「××××××、×××!………、×××! ×××!」
「××! ××!………、××××××、×××! ああ×××、ア〜〜〜ッ!!」
(;´Д`)ハァハァ
イ、イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
236 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 04:18:38
>>229 そんなふうに、時代が違う遺跡をあれもこれもと出されてもねぇ・・・
なんか熊本県の観光案内みたいだぞ。ww
邪馬台国遺跡の追求は、3世紀の遺跡で勝負!。
で、うてな遺跡と方保田東原遺跡は時代が合うから候補地でもいいのだが、
張ってくれたリンクには、こんな方保田東原遺跡の説明が・・・
>このほか、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども
>出土しており、交易でも繁栄していた集落であったことが分かってきました。
九州説の人には、当時の邪馬台国の支配領域を九州島限定と考える人もいるから、
本州と交流があった方保田東原遺跡は、邪馬台国とは認定しにくいんじゃないのかね。
「時代の比定がおかしい、方保田東原はもっと後の時代」と言ってくるかもしれんぞ。ww
238 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 07:27:18
>>233 張政がそんなに日本語ペラペラとは思えない
通訳抜きで壱与とサシで会談できる筈がない
だいいち張政が邪馬台国まで行ったかどうか
伊都国に滞在して指示をしてたとの説もある
233は妄想であり史実に基づく描写ではない
239 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 07:43:11
240 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 13:31:10
>>238 >だいいち張政が邪馬台国まで行ったかどうか
>伊都国に滞在して指示をしてたとの説もある
張政は、壱与とは絶対何度も会見してるはずだよ。
彼は相当長期にわたって倭に滞在してるし、単なる儀礼的な使者じゃないよ。軍事の専門家だ。
だから必ず邪馬台国まで行って状況を見聞し、情報収集もしたはずだよ。
ついでに言うと、卑弥呼に会えたかどうかは俺もちょっと?のとこ、あるけどね。
というのは、卑弥呼の死の直前の倭人伝には、
「張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す」
と難升米を相手に告喩しているから。
卑弥呼はもう面会謝絶の重病で、死の床にあったのかも。
しかし壱与が即位したあとは、「政等、檄を以て壱与を告喩す」と直接壱与を告喩してるよね。
241 :
サガミハラハラ:2007/11/13(火) 16:54:18
張政はそれほど長く倭国に滞在しなかったようです。せいぜい数ヶ月であったとおもいます。
到着した時卑弥呼は死の床にあり、あえなかったでしょう。よって、卑弥呼に檄文を告諭せず、
壱与に告諭しています。男王に告諭しなかったのは、卑弥呼の喪中で儀式がおこなわれなかったからでしょう。
よって、男王の在位期間はわずか2,3ヶ月といったところでしょうか。
242 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 17:54:06
「檄を以って」と言う事は直接対面したのではなく、使者を派遣したと言う事では?
243 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 19:37:25
>>242 檄文を出したのは魏の王で、使者である張政はそれを持って邪馬台国に来た。
黄幢は張政が直接邪馬台国の女王に渡すべき性質のもので、使者に檄文や
黄幢を渡すというのは考えにくい。
244 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/13(火) 21:58:00
黄幢の黄色は王の権力を表しているからだろうが、黄巾を取り込んだ為だろうか?
何時頃から黄色と龍が王の象徴となったんだろうか?
卑弥呼は璧は欲しがらなかったんだろうか?風邪引いて頭がボンヤリして考えが進まない。
245 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 22:33:47
黄幢は魏の軍旗。当時の倭国にしてみれば、錦の御旗のようなものかも知れない。
難升米が欲しいといったのか、それとも魏のほうからやるぞと言ったのか、
そこのところがわからないが、これがけっこう重要かもしれない。
倭人伝によると、正始六年に黄幢は帯方郡に到着している。
この頃、帯方郡は、太守が殺されたりしてけっこう大変な時期に当たる。
倭も狗奴国との争いの最中にあった。
正始八年に、黄幢と詔書を持って張政がやってくる。
詔書、黄幢は、難升米に授けられた。
張政は、狗奴国との争いを仲裁する。
難升米らが黄幢を欲しいといったのなら、それは狗奴国対策であり、狗奴国は
相当に強力な敵だったのだろうと思われる。
張政は単身来たのではあるまい、内乱中の倭へ詔書を携えて来たのだから、
少数でも黄幢を掲げた魏軍を伴ったに違いない
張政は最低でも100人の従者を従えていたと考えるべきでしょうね。
単身で黄幢や檄文を持ち歩いていたというのは、ありえない。
しかし、その後に狗奴国が倒されたとの記事がなく、むしろ倭国との交流が
一時途絶えたということからは、狗奴国が勝利したと見るのが合理的。
女王国と狗奴国との抗争は、壬申の乱のような王族間の争いで狗奴国が
勝利して、余勢をかって畿内に東征し、これに従わなかったナガスネビコらを
打倒したと見ると納得できるところが多い。
ナガスネビコは「長洲の根(奴)の彦」で、北部九州側の王族であったが、
本国で南部九州側の王族が王位を簒奪したことを認めず、帰順しなかった
という見方ができる。
248 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:47:07
>>247 最初の2行で「同意同意」とレスしようと思ったが、
次の2行で「?」と思い、
あとの6行で「だめだこりゃ」と思った。
>247
>本国で南部九州側の王族が王位を簒奪したことを認めず、帰順しなかった
その時見せたのが、日嗣の証の「天の羽羽矢」ですね
251 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:01:15
>>247 邪馬台国と狗奴国の争いは事実だとしても、その後のことはわからない。
しかし、狗奴国が勝利したというのは考えにくい。
というのは、西暦266年に倭の女王が、建国したばかりの晋に使者を送っており、
これが台与だと考えられているから。
倭人伝には、狗奴国は南にあったとされているが、後漢書には、東に海を
わたったところにあったと書かれている。狗奴国の場所も断定できるもの
かどうかわからない。
252 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:02:40
考古学的には、弥生時代の北部九州優位が古墳時代前後から
ゆらいできて南部九州の西都原などに拠点が移るのは事実。
画文帯は、奴国、伊都国のあたりからはほとんど出土しないから、
古墳時代の初めのころには、北部は没落していただろう。
ただし、伊都国を250年以降とみると北部九州の勢力は、すぐには
没落していないとも考えられる。
253 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:17:50
>>250 そこらへんのくだりも、王権が別の王族に移ったことを
推測させるんだよね。
254 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:26:31
>>252を訂正
伊都国 → 伊都国の平原王墓
1、平原王墓では環濠集落は発見されていないので、環濠集落が終焉
した後の時期と考えられる。
2、平原王墓の巨大鏡の類例は古墳時代のものしか存在しないので、
平原は古墳時代に近い時期と考えられる。
3、平原王墓では国産鏡が他にも多数見つかっているが、国産鏡が多く
なるのは古墳時代以降に顕著なことなので、この点からも古墳時代に
近い時期と考えられる。
小説家になろうサイトで台与の妄想小説があったな
考証はかなり甘いが
256 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 13:28:21
>>252 >考古学的には、弥生時代の北部九州優位が古墳時代前後から
>ゆらいできて南部九州の西都原などに拠点が移るのは事実。
「古墳時代前後から」のとこ、意味がつかみにくい。
「古墳時代開始前後から」と読み替えたけど、それでいい?
それと、古墳時代は、前中後期を通じて畿内が最優位だと思うんだけど、違うの?
「南部九州の西都原などに拠点が移る」、これ考古学者の意見かなあ?
そんな発言してる考古学者、おれ知らないんで、名前を教えてください。
>>256 考古学者の意見しか聞こえない人は考古板にでも行ってくださいな。
でも去る前にどうしていきなり畿内が出てくるのかは説明してください。
(どうせ先入観が強すぎて読み違えただけでしょうけど)
258 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:07:43
>>256 >>252は九州のなかでの拠点の意味。
九州の中でみてみると、以下のように時期により拠点が異なり、古墳時代には
北部優位がなくなって、南部に拠点が移っています。
@ 伊都国、奴国(北部九州) ・・・ 0頃?〜170頃?(環濠集落)
↓
A 北中部九州 ・・・ 170頃?〜280頃?(環濠集落)
↓
B 南部九州 ・・・ 280頃?〜(環濠集落の終焉と古墳時代の始まり)
西都原には、マキムクの古い古墳と同じタイプのものがあるので、西都原の
始まりとマキムクの開始はほぼ同時期でしょう。両者とも環濠集落の終焉後。
魏志で重視されていた伊都国、奴国が繁栄していたのは@、Aの時代で
Bはまったく別の時期なので、@〜Bのような年代となります。
259 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 11:25:03
>>258のつづきで、マキムクを古く見る考えの難点。
1、同時期の九州も環濠集落の終焉後とすると、その時期には
伊都国の優位性は無くなっていて、
>>258のような矛盾が生じる。
2、かといって、同時期の九州のみを環濠集落とすると、九州内部で
南部のみが環濠集落が終焉していることになってしまう。
3、魏志での卑弥呼の居所の記述は環濠集落を想定させるが、
マキムクは明確に環濠集落の終焉後である。
卑弥呼の居所だけ環濠集落とするのも無理がある。
260 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 13:46:36
>>257 なんか高校の日本史のテスト受けてるみたい。答えるよ。
古墳時代は前・中・後期を通じてずっと畿内が最優位だけど、そう判断するのは
考古学的にはまず古墳の大きさから。たとえば
前期: 渋谷向山古墳(302m) 箸墓古墳(276m) メスリ山古墳(250m)
中期: 大仙古墳(486m) 誉田御廟山古墳(425m) 石津丘古墳(365m)
後期: 河内大塚山古墳(335m) 見瀬丸山古墳(318m) 岡ミサンザイ古墳(242m)
http://web1.kcn.jp/sendo/kohun/kohunkiso.htm#ランク 巨大な前方後円墳を造るには多大の労力と財政的な力が必要。
古墳の規模で、終始畿内を大きく上回るほどの地域は、日本列島には他に見当たらない。
畿内には、といっても大半は奈良大阪だけど、こんな巨大古墳がゴロゴロしてる。
だから古墳時代は畿内の勢力が最も優位だった、これ考古学的に当たり前の考えだろ。
261 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 15:58:34
狗奴國は、中古音で
コノ国(=許乃國)と呼ぶべきだろう。
許乃國(山城国風土記逸文による。山城国宇治周辺にあった国)
このへんを支配していたのが、武埴安彦命。
262 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 17:51:54
>>259 >魏志での卑弥呼の居所の記述は環濠集落を想定させるが、
想定させない。
魏志倭人伝での卑弥呼の居所の記述には、環濠や溝などは出ていない。
それを「あった」と想定したがるアンタはまだ子供!
文献を書いてある通りそのまま正確に読むのが大人の研究の態度。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。
ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm#3syou
>>260 お前は日本史のテストの前に日本語を勉強してこい。
話はそれからだ
264 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 19:33:46
265 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/16(金) 21:38:06
>>262 「引用開始」って・・・。
あなたはひょっとして西都原説の伝説のおかたでは・・・。
「アンタはまだ子供!」などという言い方もどこか懐かしい響きが。
でもこう言われたからといってまたどこかに雲隠れしないでね!
この問題で言わせていただくと「城柵」という言葉の中に
環濠集落という事が集約されているのではないかと思うんですが
どうでしょう?
266 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 22:02:32
恵也さんでないの?
267 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 22:23:45
あと、「邪馬台国」の時代を環濠集落の時期と考える理由としては、
魏志が各地域を「〜国」としていることが挙げられます。
これは、それぞれの「国」が環濠で囲われた領域を持つと考えた
方が自然です。
環濠がなくなれば各地域に「国」としての外観がなくなるので、
高句麗や馬韓などと同様に、「邪馬台国」が一つの国でその中に
都市(マチ)があるという書き方をしたはずです。
268 :
サガミハラハラ:2007/11/16(金) 22:25:46
上古音か中古音かしらないが、狗奴国はクトコクとよむのが正解です。
奴をナと読んだことがどれほど古代史研究に弊害をおよぼしたことか。涙なしではかたれません。
269 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 22:28:17
>>251 「晋」って「秦」の事じゃないの?
あと「漢」「三韓国(馬韓、弁韓とか)」「三国(百済、新羅、高句羅)」
この辺りも、同じ国(王朝?氏族?)なような気がするよ
もう一つ、「邪馬台国」の時代を環濠集落の時期と考える理由としては、
魏志によれば、狗奴国と女王国が交戦状態にあり、魏が檄文や黄幢を出して
支援しなければならないほどの状況にあったということ。
この状況の中で、都市(マチ)を守るための施設がなかったとは考えにくい。
交戦国は互いの拠点都市を環濠で守って、陣地争いをしていたはずです。
271 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 22:44:16
晋で間違いありません。
「漢」「三韓国」「三国」、漢、三韓国と三国はかさなっているところもありますが、
同じ国ではありませんのでご安心ください。
272 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/16(金) 23:18:20
絶対恵也さんだと思います。
またコテハンで活躍してください。お待ちしてます。
彼の言葉にさすがの畿内説論者もたじたじでしたからね。
僕も彼のレスにスッキリした事は一度や二度ではありません。
といっても最近の畿内説はおとなしいんですけどね。
273 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 01:33:41
>>271 そっか。ありがとう
つか「国」ってより「氏族や都」って考えないとダメなのかも
現代の「国」と当時の「国」ってのは観念が違う気がするし
都市国家や、王族(氏族)国家って感じだと思う
欧州みたいに○○族、○○家とか言う区別の仕方が本来の呼び方な気がする
現代は共和制が主流だから当時とはまるで違う気がする
>>270 の続き
さらに、「邪馬台国」の時代を環濠集落の時期と考える理由としては、
魏志に出てくる国に比定される地域に環濠集落が確認されていることが
挙げられます。
北部九州では全域にわたり環濠集落が確認されていますが、九州説では
これらの環濠集落に魏志の国名を割り当てることが、当然の前提にもなって
います。
275 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 05:21:46
>>252 >古墳時代の初めのころには、北部は没落していただろう。
没落なんか、してませんよ、北部九州は。
御説は多分、最近わかった西都原81号墳(墳長52m)を重く見てのことだと思いますが、
同様の早期古墳は北部九州でも造られています。
奴国と見られる博多には那珂八幡古墳(墳長75m以上)がありますし、筑前・筑後・肥前の3国が
接する三国丘陵の辺りも、九州における初期古墳の有力な分布地です。
旧朝倉郡夜須町(現筑前町)も、この地域に含まれます。
そのほか、平原遺跡以降の糸島平野や、唐津平野・佐賀平野などでも、古い前期古墳が
いくつも確認されていますので、「北部は没落」とか「(南部九州に)拠点が移る」といった
御説は、ぜひ再考していただきたいと思います。
276 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 10:00:22
環濠集落と同時に存在するのが墳丘墓。
大事な王族の墓である墳丘墓は環濠内にあって守られていた。
まして巨大な前方後円墳など倭国大乱後の産物であり
邪馬台国はクナ国の存在など不安定な国情を抱えていた為
厳重な警戒態勢を布いていたと思われる。
卑弥呼の時代、邪馬台国には前方後円墳は存在していなかった。
277 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 10:22:17
倭人伝の記述にも金印贈呈は最初に書かれていて銅鏡は文末の方に書かれている。
魏王が贈った物の中で銅鏡百枚というのはメインでもなんでもなく金印こそがメイン。
中国で一枚の発見も無い三角縁神獣鏡は卑弥呼の為に魏王が特別に造らせたものなどではなく
ありふれた後漢鏡であった筈である。
278 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 11:07:22
皇帝は鏡を配るように言ったのでは?
279 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 13:17:32
御贈答品じゃないんだから配るように言ったりはしないでしょう。
卑弥呼が鏡好きという事を魏王は聞いて知ってはいたと思うが
皇帝の威信に関わる事だから一枚二枚じゃ卑弥呼からも「たったこれだけ・・」
と思われかねないし、きりのいいところで100枚ぽっきりにしたんでは。
280 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:35:55
臣民に識らしめろとは書いてあるが、分け与えろとは書いていない。
銅鏡は錦他の財物とともに卑弥呼に対して私的に下賜されたもの。
公的な下賜物とは分けて記述されている。
そんな基本的なことも知らないのか?
281 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:35:58
>>275 中南部の具体例が、那珂八幡古墳だけ?
あとはググレカスってかww
282 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:56:21
鏡、剣、まが玉、金印、鎌、水晶、銭、翡翠、、
他にも多分あるだろうけど、これらは多分、血統を表してるんじゃ無いの?
山幸彦が海の宮へ行った時も鏡を見せた事で相手が
「あなたは日の御子殿ですね」
って事で迎えられて娘を嫁にまでしてもらったりしてるし
283 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:17:10
「国」って文字はさ「王を壁で囲う」って字だよ
城や屋敷の事だよ
「國」ってのも「囲った城」って意味だから城
州や野や郡や県よりも範囲が狭く限定された場所の事だよ
現代の「国家」って意味とまるで違う意味だと思うよ
そもそも○○国って呼び方は現代でもしない気がするし
○○国じゃなく「○○帝国」ってのが「国家」の意味と思う
あとは○○共和国とか、○○合州国とかって書いて初めて現代の国家の意味な気がする
284 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:00:30
>>260 巨大な前方後円墳を造るには多大の労力と財政的な力が必要。
古墳の規模で、終始畿内を大きく上回るほどの地域は、日本列島には他に見当たらない。
畿内には、といっても大半は奈良大阪だけど、こんな巨大古墳がゴロゴロしてる。
だから古墳時代は畿内の勢力が最も優位だった、これ考古学的に当たり前の考えだろ。
古墳時代には畿内に大きな勢力が成長していたのは事実だろう。
古墳時代には倭国は朝鮮半島に進出し高句麗などと衝突を繰り返している。
畿内の勢力が多大の労力と財政的な力が必要な巨大前方後円墳を造りながら、
一方で朝鮮半島に進出し高句麗などと衝突を繰り返してたとは考えられない。
また、畿内に王が居たのでは朝鮮半島で継続的な戦争は出来ない。
つまり、朝鮮半島で継続的な戦争を行っていたのは畿内の勢力ではない、
九州北部には畿内の勢力とは別の国(倭国)が有り朝鮮半島に進出し高句麗などと衝突を繰り返してた。
九州北部に古墳時代に巨大古墳が無いのはこの為である。
285 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:09:42
>>275 北部九州は、環濠終焉の頃から古墳開始時期までをみると、やはり
南部に比べて、停滞していることは否定できない。
北部九州では、古墳開始時期とされる寺沢のいうマキムク型は僅少。
那珂八幡古墳はバチ形で三角縁が出土だが、三角縁が出てくるのは
古墳開始から少し経った時期で、マキムク型の時期より後の時代。
丸山古墳なども、マキムク型よりは前方部が発達して新しい。
しかも、三角縁(350頃〜)に先行する画文帯の出土も北部では僅少。
つまり、画文帯の開始時期(320頃〜)の古墳がほとんどないと言える。
考古学的には、北部は、環濠終焉〜古墳開始までのものが少ないことは
否定できないでしょう。ことに、南部と比較するとこれは明瞭なことです。
286 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:15:50
>>284 畿内にある巨大古墳は藤原京だか平城京の時代に沢山の労働者を雇い、平城京や平安京の都開発と同時期に作られたものらしいよ
古墳だけじゃなく河川の位置まで変えるほどの大作業で、民衆は当時の天皇に対してかなりの不満を抱いてたとかって話もあるよ
そもそも蘇我氏や聖徳太子らの飛鳥朝廷があったのは伊奈波の国(犬山、各務原付近)だよ
九州勢力の神武が、東国の伊都(信濃)勢力の協力を得て蘇我氏を倒したのが神武東征の話だよ
287 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:28:19
国づくりは淡路島から始まり
次に四国だろ?それから九州だ
そう考えると、天皇家は昔から、機内を中心にし
淡路島や四国、九州を支配していき領土を広げてきた
ただ九州にいた時に活躍が目立ったから
九州から始まったと誤解されそうだが
本来は、最初から機内の大和国から始まったんだよ
288 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:40:15
邪馬台国はどこにあるかといえば日向国だろう
もちろん日向国はヤマトの単なる一地方的な国である
中央は古から機内にあり、卑弥呼は中央から派遣された、一地方の統治者
となると卑弥呼は誰かという問題になるが
俺の推測では、多氏の末裔の女性だったと推測する
289 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 19:29:16
>>287 6世紀頃
藤原京 16年
平城京 100年
平安京
どの都も風水にならい計画的に作られた都だよ
いっぺん壊して作り直した訳じゃなく、開発されてない土地だからそれが出来たんだよ
神社や寺や地名や山の名前、、ほとんどが飛騨美濃信濃辺りから移設して来てるものだよ
蘇我氏の飛鳥朝廷があったのは美濃の各務原犬山付近だよ
屋敷跡もあるし蘇我氏の古墳も発掘されてるよ
関ヶ原で蘇我氏と戦ったのが王申の乱だよ
どっちが発祥だとかどっちが正当かとかじゃなく、ようは権力争いだと思うよ
蘇我氏にしても元々いた物部氏を倒して朝廷を握った訳だから
290 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 19:42:53
>>288 邪馬台国って、普通に弥烏邪馬国の事じゃないの?
高天原は西国にあるのか東国にあるのか
292 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 19:58:50
293 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:06:23
つかこの時代の國ってのは氏族の屋敷や城の事でしょ?
國→氏族らの城
州→平野、土地や氏族の領土
郡→同盟、師弟関係にある國や氏族
例えば「○○国造」って言葉があるけど、朝廷から有力な氏族が他の土地を納める事が国造の意味だと思うよ
現代の「国」って観念の国家は18世紀のフランス革命やアメリカの独立により生まれた観念だよ
294 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:13:00
>>292 古墳時代なんて呼び方は戦後作られた呼び方でそんな時代は存在しないでしょ?
畿内にある古墳は6世紀頃のものだし、藤原京のあった橿原市の神武の古墳に関しては明治時代に作られたものだよ
295 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:26:34
天照はスサノオよりだいぶ前の時代の人だよ
山の中腹に掘った穴に生きたまま入り、岩戸で塞ぎ祭壇を作り、山頂に小さな社を建てる
これが「社」だよ
山そのものが神であり、こういう山を信仰してたのが山岳信仰だよ
天照は恵那山に祭られてる人だよ
この山は八鎌が神器として奉納されてたよ
天の岩戸の話ってのは祭壇で巫女に天照を降臨させて豊作を願ったり王位を継承する儀式をしたって事と思うよ。それが祭司でありシャーマンの神司じゃないんかな?
天皇即位の際の大誉祭は元々は巫女を媒介として天照の霊を下ろして、天照とセックスする儀式の事だよ
天照の霊を呼べるのは天照を氏神とする血統継承者だけだから血統が大事って事だよ
296 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/17(土) 20:50:26
いい加減な妄想は止めな。竹内文献の読みすぎだろ??ww
297 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 20:58:05
当時の中国人はズボンでなく裾まで長い着物のような衣服を着ていただろうし
卑弥呼の墓、径百歩というのは大股でじゃなく一股50センチ位にて軽く歩く程度だろう。
長さが50メートルあるかないかの墳丘墓なら十分環濠集落内に築かれていてもおかしくない。
径百歩の「歩」って長さの単位ではなくて?
299 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 21:50:31
>>298 失礼しました。古代中国では歩は5尺でした。
300 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 22:05:52
>>296 飛騨地方の伝承だっての
少なくとも恵那山や飛騨の位山の日本アルプス周辺の山は中腹に巨石の遺跡や雨乞い岩とかがある山が沢山あるよ
笠置山(畿内のじゃないよ)とか富士見台とかもそうだしさ
つか単にこれは山岳信仰の事で、古代神道での神社とはまた別なのかも知れないけどさあ
301 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/17(土) 22:24:19
>>300 あんたも高山の黄金強盗の入った穴へ行ったのか? 両面はあそこだよな。
302 :
唐松山:2007/11/17(土) 22:46:25
八咫(やた)鏡とは 咫=長さの単位=15センチ位か
この 咫を 書紀では 尺と訳している処が在ります。
1歩=5咫=75センチ となる
歩=1500センチ では 長すぎる。
書紀の記事と共に ご注意を
303 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 23:06:34
歩というのは古代中国での6尺ですね。
一歩が古代の魏で1,4472メートル。
100歩だから約150メートルってところですか。
304 :
雪の典侍 ◆.dZGrsR71s :2007/11/17(土) 23:10:44
こんばんわ! (^ω^)
邪馬台国は、近畿にあったのですか?九州にあったのですか?
305 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/17(土) 23:13:13
なんなんでしょうねこの人は。薮から棒に。
>>293 >つかこの時代の國ってのは氏族の屋敷や城の事でしょ?
違うね。
至對馬國〜所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑
至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人
307 :
雪の典侍 ◆.dZGrsR71s :2007/11/17(土) 23:24:03
>>305 いえ、どっちかなあ?と思ったもので
貴スレは随分と以前からお見かけしますが
近畿票・九州票とどちらが多いのですか?
名無しさんのレスがほとんどみたいですが
レスの数ではどちらを支持する意見が多いのですか?
308 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:27:09
>>306 ごめん。その漢文を自分なりに解釈すると
「○○國に至るには○○里で道路があり」
みたいに読めるんだけど
309 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:28:50
>>284に反論したいのであるが、その前に日本書紀から若干、対韓記事を引用しておく。
本文は台湾サーバーの「久遠の絆」サイトから。
http://applepig.idv.tw/kuon/ 訳文は「ひとりごと倶楽部」の「私本日本書紀」から。
http://www.loops.jp/~asukaclub/index.html 【仁徳紀】
五十三年,新羅不朝貢.……遣竹葉P之弟-田道,則詔之曰:「若新羅距者,舉兵?之!」仍授精兵.……田道連精騎?其左,新羅軍潰之.
(治世53年新羅が朝貢しなかった。.……竹葉瀬の弟田道を遣わした。この時、詔して言った。「もし新羅が抵抗するようなら、兵を挙げてこれを討て」。そして精鋭を授けた。……田道が精鋭の騎馬を連ねて、左の方を攻めると新羅軍は潰れた)
【雄略紀】
(7年)天皇詔田狹臣子-弟君與吉備海部直-赤尾,曰:「汝宜往罰新羅!」
(天皇は田狭臣の子の弟君と、吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)に詔して言った。「お前達は韓国に渡り新羅を討て)
310 :
309:2007/11/17(土) 23:33:54
【雄略紀つづき】
(9年)三月,天皇欲親伐新羅.神戒天皇曰:「無往也.」 天皇由是不果行.敕紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連.談,此云???、小鹿火宿禰等曰:
「新羅自居西土,累葉稱臣,朝聘無違,貢職允濟.逮乎朕之王天下,投身對馬之外,竄跡匝羅之表,阻高麗之貢,?百濟之城.況復朝聘既闕,貢職莫脩.狼子野心飽飛,飢附.以汝四卿,拜為大將.宜以王師薄伐,天罰?行!」
……紀小弓宿禰等人即入新羅,行屠傍郡.行屠,並行並?.新羅王夜聞官軍四面鼓聲,知盡得?地,與數百騎馬車亂走.
(三月、天皇は自ら兵を率いて新羅を討とうと考えた。しかし神が天皇を戒めて
「行ってはならない」と言ったので、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)らに詔して言った。
「新羅は以前から朝貢を重ねていたが、私が帝位についてから対馬まで乗り出し高麗からの貢を妨げ、百済の城をとり、我が国への貢ぎ物は怠っている。
狼の子のように荒い心を持ち、飽きるとはなれ、餓えると近づいてくる。よって汝等四卿を大将に任じる。新羅を攻め天罰を与えよ」
……紀小弓等は新羅に入ると目ざましい進撃を開始した。新羅王は夜、皇軍が四面を囲んで歓声をあげるのを聞き、国が総て占領されたと思い、数百の騎兵を連れて逃げた)
311 :
309:2007/11/17(土) 23:35:41
>>284 >畿内の勢力が多大の労力と財政的な力が必要な巨大前方後円墳を造りながら、
>一方で朝鮮半島に進出し高句麗などと衝突を繰り返してたとは考えられない。
上記引用のように、仁徳天皇や雄略天皇は、自らの意志で新羅討伐を決意し、
それを諸氏族の長に命じ、軍を派遣していることが、日本書紀に明記されている。
仁徳、雄略は、その宮都も陵も、畿内の地名が記載されていることから畿内の大王と考えられる。
親族の陵墓もことごとく畿内とされている。
この両天皇の在位した頃は、大阪府に巨大な前方後円墳が築造されていた時代である。
また派軍を命じられた諸氏族も、畿内もしくは本州各地の氏族である。
貴君の意見は、こうした史料を眼中にも置いておらず、史料を重んじるべき歴史研究にはあるまじき態度であり、恣意的に過ぎる。
>>308 >その漢文を自分なりに解釈すると
そこしか読めないのか
對馬國は方可四百餘里で末盧國は濱山海居って書いてあるだろう。
「城柵」の中が「国」とかの珍論をどうやって導き出せるのかね。
「環濠国家」とかいうものを想定している奴がいるとしたら倭人伝の根幹を否定する考えだね。
>312
倭人伝の根幹でいえば、という点について聞きたいが・・・・
つまり、「環濠国家」より広域に発展した国家だから倭の王として認定したという事だろうか?
314 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 00:34:44
>>307 お答えします。現時点、このスレで優勢であり多いのは北部九州説です。
が、残念ながら北部九州内の何所か、については諸説に分かれていて
なかなかまとまらないのが現状です。
315 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 00:56:12
環濠集落とムラをごっちゃにしてるんじゃない?
クニが出来る前にはムラが存在し、倭国大乱でそのムラの統廃合が進み
幾つか集まってクニ、なるものが形成された。
だからクニとはムラが幾つか集まった集合体だといえる。
しかし敵が攻めてくると(邪馬台国の場合クナ国}
環濠の中に逃げ込んだと考えられるから実際にはクニの範囲といっても
お互いの勢力下にある紛争地域と考えた方が近かったかもしれない。
そうすれば環濠区内がクニともいえない事も無いが
日頃からテリトリーとしてクニの住民が水汲みをしたり畑を耕したり
猟に出かけたりできる範囲を以って一つのクニと言えるだろう。
倭国大乱後数十年経っているとはいえ周辺諸国は世情不安定であったと考えられる。
それは卑弥呼の死後再び倭国が乱れた事で窺い知る事が出来る。
この時代まで環濠は埋められてはいなかった。
もしくは急いで掘りなおしたかだ。
>>314 ありがとうございますm(_ _)m
スレによって説が別れてるのかも知れませんね
317 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 01:18:15
いえいえお礼なんてめっそうもない。
今晩は晩いのでこれで休ませて頂きます。
>>317 (。^ω^)ノシ 九州さんおやすみなさいでごわす
319 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 03:07:57
>>312 中国の書物に共通するのはさ、
秦、漢、倭、晋、新、呉、巍、濁、唐、随、、
今でいう国(昔は統一王朝の事と思う)は漢字一文字で表してる
その統治下の民族や氏族を呼ぶ場合は「倭人、漢人、晋人、、」って表記の仕方じゃないのかな?
320 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 03:39:17
日本が中国の領土だったら
今ごろ天皇は、「倭」という氏を称していたかもしれない。
あー恐ろしや、恐ろしや
321 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 07:31:36
>>309-311史料提示、乙
古田武彦の九州王朝説なるものがいかに出鱈目で、
記紀を一切無視して組み立てた妄想かが、
あなたの説明でよーく分かった
322 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 07:44:20
>>321 古田先生の九州王朝説の内部詳細においてはおそらく間違いの部分があろうが、
おおまかなる九州王朝の所在論はデタラメではない。
倭人伝に拠ってない独立した卑弥呼の関連記述は記紀には皆無なのと同様に、
九州王朝の直接的記載がなくてもおかしくはなく、むしろあるほうがおかしい
わけで、あるんだったら卑弥呼の直接記載も記紀にあらねばおかしいことに
なる。卑弥呼の国は九州だからだ。
323 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:12:57
>>322 太国さんは
>>309-310に提示してある仁徳や雄略の
新羅討伐の記述をどう思ってるわけ?
紀年の表記はたしかに問題があり仁徳「五十三年」などとあるのを
そのまま信じることはできないとは俺も思う
だからあんたが頑張っている倍暦研究はいいんだが、
その記述の中身つまり仁徳や雄略の新羅討伐の話まで
こんなものは史実ではない、畿内天皇家がそんなことする筈ないと
日本書紀の記載内容まで否定するのかい?
それをやっちまうと倍暦研究はできんだろ
>>307 邪馬台国はどこか?ってのは、要は地方自治体の客寄せパンダ、
ご当地ソングに成り下がっているのが現状。
最早学問じゃない。
あらゆる可能性が考えられ、またどの説も否定できない。
つまり、間違いの多い倭人伝を「どう読むか?」「どの部分を訂正して読むか?」
なんで、何通りもの解釈が可能となってしまうということ。
まともな若い学者は、邪馬台国の話なんかはしない。
ただ、放射性炭素とか年輪とかで実年代が正しく測定出来る日が来れば、
倭人伝の話も、再び学問の俎上に載せることが可能になるだろう。
>>319 > 中国の書物に共通するのはさ、
> 秦、漢、倭、晋、新、呉、巍、濁、唐、随、、
> 今でいう国(昔は統一王朝の事と思う)は漢字一文字で表してる
烏丸、鮮卑、夫餘、高句麗・・・・ぜんぜん共通していないのだがね。
どう言う教育を受けると貴方みたいに痛いことばかり言い続けられる脳が育つのかな。
>>325 王朝と蛮族の区別もつかないのかw
これだから野蛮人は
>>326 > 王朝と蛮族の区別もつかないのかw
> これだから野蛮人は
それは、東夷の一国に過ぎない「倭」を歴代王朝と同列に扱った
>>319に言ってやれ。
もっとも「巍」だの「濁」だの「随」だのと見たこともないのも混じってるがw
痛いこと書かせたら
>>319の右にでるものはいないな。
328 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 13:05:12
318 さんは、なんて丁寧で紳士的な人なんだ!
皆がこのようであれば平穏ですばらしいスレが築けるものを。
329 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 13:29:09
>>324 言い方悪いけど、
それって畿内説が不利にならないようにうまいとこ煙に巻いてるようにしか思えない。
倭人伝には確かに九州にあるクニ名がはっきりと書かれている。だから九州の可能性大。
例えば奴国は位置、そして現実に実在したかなど凡そ確定的なものがある。
倭人伝のその外の記述は御指摘のように間違いだらけかもしれない、とすれば
環濠集落として卑弥呼の宮殿の跡と目されるものとして吉野ヶ里が第一候補であるから
そこを邪馬台国と判ぜざるを得なくなってくる。
いずれにしてもその他は仮定の域を出ないことにある。
330 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 14:31:12
>>324 正直、これだけの記述で特定しろってのが無理だしね
これだけの記述を根拠に
「日本は昔は卑弥呼が納める邪馬台国で、、」
って教科書で教え込む事がそもそもおかしな話だしさ
つか、別の中国の書物には弁韓に倭人が納める弥烏邪馬国って国の記述もあるじゃん
この国の事じゃないの?
倭人伝以外の中国の書物も参考にしていいなら、邪馬台国は弥烏邪馬国の事って解釈も出来ると思うけどな
331 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 14:46:26
>>330 後漢書弁辰伝に「其國近倭、故頗有文身者」{倭に近いため刺青をしてる者もいたりする}とあるから
弁韓と倭と混同して呼ぶ人もいただろうが別物。
それに「日本は昔は卑弥呼が納める邪馬台国で」など 元々考古学者が言い出したんじゃなかったっけ?
332 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 14:55:33
>>323 まるで
>>321は古田先生の説の完全否定に聞こえるではないか? その新羅等の
記事がどうのとかいうのは、すでに家の中の奥のどこかに古田先生の書が入りっ
ぱなしで読めない明答しないが、仁徳五十三年をなにか引用してるんだという
なら、いい悪いはちょっと書の出てこないんではっきりこうだとまではわらわは
云うところまでには行っていない。
だがあの書きこみでは古田先生の説が全部が全部デタラメだとかあんたが言って
るように思えるから、そこまでデタラメではない、九州王朝自体の存在まで
デタラメにはならんよと云いたいまで。仁徳五十三年だとわらわの倍暦計上
では408年だな。
このごろの気温の低下で老体がの具合がわるいんで・・・今日のさきほども
なにか気分がすぐれん状況で書いてるから、一休憩いれる。わるく思うな。
畿内説よりは九州説の方がロマンがある
出鱈目だっていいじゃないか神話だもの
334 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 16:58:49
>>332 太国さん大丈夫ですか?
今日は特に九州も気温が低いんで今夜は暖かくしてお休みください。無理なさらないように。
僕も4,5日前から風邪引いて熱は出るし鼻グジュグジュ状態です。
仕事は一日休みましたけど。お風呂は脱衣所を温めてください。
血圧が高い時はお風呂は控えた方がいいですよ。
水分は十分に取った方がいいです。温かいお茶か何かで。
335 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:04:14
>>329 「畿内説が不利にならないように」という言い方が、旧態依然というか。
最早、考古学者は邪馬台国論争なんてやっていないという事実を
いい加減に理解した方がいい。
337 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 18:23:57
338 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:24:31
>>335ちょっと訂正。
倭人伝に、「おごそかに設け」とあったと思うけど、これは警備上の厳重さもあるだろうけど、
それよりか、森厳として神聖な区画に卑弥呼は隔離されてる、っていう意味だと俺は感じるんだ。
ちょっと文意を手直ししました。ごめん。
最後の画像は、名古屋の熱田神宮なんだ。
熱田じゃなくて、伊勢神宮でも出雲大社や住吉大社でもよかったんだけど、
ぴったりくる画像がなかなか見つからなかった。
要するに、古い神社の感じが、俺としては卑弥呼サマに合うように思うんだ。
つか九州説を採った場合に吉野ヶ里が最有力なだけで
日本全体で吉野ヶ里が最有力な訳じゃないだろ
340 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:37:04
>>331 弁辰じゃなく弁韓
後の任那や加那諸国
日本書記によれば日本府が置かれてたのも任那(加那諸国)の島だよ
342 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 19:06:24
>>341 あの建築様式は真の継体稜・今城塚の埴輪で確認されている。
とすると、どこまでこの様式が遡るかだが、卑弥呼の時代まで
遡る可能性もないとは言えないね。
343 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:13:48
「八重垣」という古語があるが、伊勢神宮などの古社には、
幾重にも玉垣を巡らしている例がある。
一番内側を瑞垣(みずがき)と言うんじゃなかったかと思う。
それで、たしかどこかの遺跡で、そのような柵列跡が発掘で出ていた筈。
マスコミでも「神社か?宮殿か?」と報道された記憶がある。
あれは弥生遺跡だったかな。ちょっと度忘れしてる。スマソが教示頼む。
柵列は、吉野ケ里と違い、直線状だったと思う。
内側の高床の建物を保護するような感じだったと思う。
344 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:36:41
>>343 伊勢神宮は平安時代以降にあの場所に移設された神社だよ
信濃の紀氏が朝廷に命じられて国造りをしたのが今の紀州
345 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/18(日) 20:57:27
>>338 そうですね。卑弥呼が居たのは主祭殿では無いような気がしますね。
古い神社のイメージが合うと思います。
346 :
サガミハラハラ:2007/11/18(日) 21:08:45
吉野ヶ里の北内郭で卑弥呼はくらしていました。
これ本当です。
吉野ヶ里(笑)
350 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 00:07:36
鰹木は、形骸化する前は重しだったという意味があるようですね
東南アジアでは植物の葉っぱで屋根を葺き、風で飛ばないよう棟木に重しを載せたんです
今でも原住民がやってます
352 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 16:31:20
353 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 18:00:36
354 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 18:05:51
まあ邪馬台国と大和政権を同じと考えてること自体間違っている。
九州にも大和や山門という古い地名は福岡や佐賀にあるわけだし
356 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 20:26:24
357 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 22:40:28
纒向勝山古墳の木材について
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm >くびれ部付近周濠埋土中からは、約200点にものぼる木材および木製品が
>出土しました。
ヒノキやコウヤマキという高級木材(これを伐採直後に使用したという暴論は無視して)
で何が造られていたのだろうか。鳥居か、その他の建築物か?
古墳との同時代性を認めるのは、くびれ部から木材が見つかることが多く、「そこに
何かが建てられていた。」ことが当然視されているからであろう。
くびれ部には、鳥居と祭祀用の建物が存在していたのではないか。
358 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 23:26:11
359 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 23:55:19
>>358 千木がえらく強調されているね。
もう少しで珍走団の改造バイクだよw
360 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 00:08:20
>>357 くだらねぇ妄想ふくらませるんじゃねーよ、バーカ。最低だなお前
>>360 前方後円墳のくびれ部には祭殿を持つものもあって、祭祀が行われて
いたこと自体は、否定する人はいない。
そこで木材が見つかったとなれば、普通は祭祀の再現をしようとするはずが、
なぜかここで取れる木材は探求されない。
今の学会では、鳥居そのものが出てもガン無視されそうだ。
363 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 12:48:01
>>285 >那珂八幡古墳はバチ形で三角縁が出土だが、三角縁が出てくるのは
>古墳開始から少し経った時期で、マキムク型の時期より後の時代。
那珂八幡古墳の年代推定に、同古墳から出土した三角縁神獣鏡を、決定的な
手がかりとされているようですが、これは相当危なっかしい推論ですね。
那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡(五神四獣)が見つかったのは、同古墳の
第二主体部だったことを、きっと
>>285氏はご存知じゃないんでしょう。
北東側からのトレンチ調査で、後円部の中心に第一主体部があることは判明しています。
この第一主体部は相当大きいようですが、大半は社殿の下で、未発掘のままです。
三角縁神獣鏡が出た第二主体部は、長さ2.3mというさほど長大ではない割竹形木棺を、
石槨を造らず墳丘に直に埋めてあり、場所は第一主体部の西隣り。後円部中心から外れます。
したがって那珂八幡古墳の主は、当然第一主体部の被葬者ということになります。
三角縁神獣鏡とともに埋葬された第二主体部の被葬者は、おそらく第一主体部被葬者の
親族もしくは近縁者であり、死後に新たな古墳を造ることはせず、ゆかりの故人の隣りに
葬られたたものと考えるのが、最も妥当でしょう。
多くの考古学研究者が、那珂八幡古墳は、墳丘の形態の上でホケノ山など纏向型の
前方後円墳ときわめて近いものと見ており、ほぼ同時代に築造されたと考えています。
墳丘で掘り出された土器類(壺・高坏)が、それを裏付けます。
364 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 13:58:55
365 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 14:27:21
>>364 私363なんで、「おお!、リンク乙!」と言わなきゃならんのでしょうが、困ったな。(苦笑)
ウィキペディアの「那珂八幡古墳」の説明は、駄目です!
信用しないでください!
誰が書くんでしょうね。肝心の、「複数の埋葬主体部をもつ」ことの説明が欠落してますし、
「竪穴式石室に長大な割竹形木棺」??、──そんなもの、まだ見つかってないですよ!
「大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差」??、──差はありますが、「格段の差」でしょうか。
すみませんが
>>364さん。那珂八幡古墳はもっと別のリンク先を探してください。お願いします。
366 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 14:35:26
>>363を訂正。終わりから4行目、「葬られたたもの」→「葬られたもの」。失礼。
367 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 16:33:27
368 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/20(火) 18:18:52
「那珂八幡古墳がホケノ山のマキムク型の類型で同時期に造られ、
それが弥生後期の出来事」ならこの時代に九州と畿内が同じ文化圏だったって事?
卑弥呼の死後わずか数十年で文化の流行が広範囲に広がるなんて考えられない。
この遺跡は都市計画道路なるものも造られ遺構も出ているが
「邪馬台国は卑弥呼の死後騒乱が起きてクニが乱れていた。その最中に計画道路建設?
この古墳がホケノ山と類似という事を判断材料にしたのならもしかしてホケノ山は
もっと後の時代だと仮定しなかったのかな?
どう考えても計画道路どころの騒ぎじゃなかったと思うけど。
>>368 ホケノなどのマキムク型は、卑弥呼の死亡前。
のようにw、勝手な自分の実年代観で感想を述べられても、答えようがないのだが。
370 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 20:37:51
371 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/20(火) 21:13:32
>>369ホケノなどのマキムク型は、卑弥呼の死亡前。
のようにw、勝手な自分の実年代観
僕は那珂八幡古墳は卑弥呼の死亡後に造られたと思う。
嗚呼、でももしかしたらホケノ山は卑弥呼死亡前の可能性もある。
卑弥呼の時代、北部九州邪馬台国は吉野ヶ里の墳丘墓並み。
畿内のような巨大古墳を造る土木技術は無いに等しい。
畿内は他地方の影響で巨大古墳作りが盛んになった。
それが九州に伝播したのは時代が下ってから。
同じ様式だからといって同時期ではない。
方言などでも中央で使われている言葉が地方に伝播する速度は遅い。
この時代流行は数十年〜数百年かけて徐々に周囲に広がったものであり
弥生期に同様式同時代と捉えるのはマスメディアの発達した現代との混同であって
時代錯誤に他ならない。
372 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 21:18:03
古墳時代「早期」のお薦め。
>>368 「弥生後期に(那珂八幡やホケノ山の)古墳がつくられ・・・」と書くと、子ども達の頭が混乱する。
「えっ、だったらもう古墳時代じゃないの? おとうさん」
言葉の定義で議論が噛み合わず、拡散する。
確かに庄内期が弥生時代かそれとも古墳時代か、は、学者によって見解の相違があった。
年表などでは庄内期を、斜めの線で時代区分し、弥生でも古墳でも、どっちでもとれるようにしていた。
しかしこのところ「古墳時代早期」という言い方で統一が図られつつあると思う。
庄内期を「早期」とし、布留期から従来通り「古墳時代前期」とするのである。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257fig1.htm#fig18 「古墳時代早期」・・・・よかったら九州ですが氏も使ってみてくれ。使うのはイヤか。ww
373 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 21:19:43
>>370 たしかに、千木じゃないね。
とするとこれが、千木に変わっていったのだろうか。
>>358の1階の屋根には鰹木の貧弱なのがあるが、これが
鰹木になったというのは、ありそうだ。
>>371 >同じ様式だからといって同時期ではない。
これには、反対。
古墳は時代ごとに類似した規格のものが作られることははっきりしている。
同じ設計図を流用しないと測量でもしない限り、相似形の古墳は造れない。
となると、相似形の古墳は築造時期はほぼ同時期と考えた方がいい。
ただし、相似形の古墳でも、生前に古墳を作ってその10年後に亡くなった場合と、
すぐ亡くなった場合とでは、埋納される鏡や埴輪に違いが生じる。
>>371 >
>>369ホケノなどのマキムク型は、卑弥呼の死亡前。
>のようにw、勝手な自分の実年代観
と身勝手な人の年代感を批判して
>僕は那珂八幡古墳は卑弥呼の死亡後に造られたと思う。
と返す刀で自分の身勝手な年代感を押し付ける。
ここわなんとも脱力感漂うインターねっつですね
相手にしたらだめ。
377 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/20(火) 22:51:29
>>374 大凡賛成する部分もあるけど「古墳は時代ごとに類似した規格のものが作られる」のは
倭人伝が著された時代から多少下るんじゃないかなと思う。
なぜなら「遠絶不可得詳」とあるから。大和政権がある程度各地に勢力を伸ばした後、
古墳造営の技術者が各地をを廻って造っていったのでは?
>>372 古墳時代早期・・・悪くないネーミングかな。
ただ、私としては、「弥生時代→古墳時代」の両者のワンクッションとして、
「プレ古墳時代」の方がシックリくる。
「プレ古墳時代」・・・環濠集落が終焉して、環濠のない集落の発展とともに
墳墓が徐々に大規模なものとなっていった時期
土器や鏡も、環濠集落で見つかったかという区分は重要だと思う。
とくに鏡は同類でも古墳出土と墳墓出土では同位体比の傾向に明白な違いがある。
379 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/20(火) 22:56:00
>>375 「身勝手」
そんなもんじゃないのォ?
結局みんな自分の意見が正しいと思い込んでやってるんよ。
慣れっこになってるのか御指摘の部分は気にも留めなかった。
380 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 23:02:39
381 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/20(火) 23:07:10
>>372「古墳時代早期」
そうねえ。古墳時代というと熊本県の装飾古墳が有名で
色とりどりの模様が描かれていて、というイメージがどうしても強いもので。
>>378の人の意見ならまあいっかって感じ。
ただしその開始時期にあったっては再考の余地ありだけど。
382 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 00:52:24
「卑弥呼の死」、「那珂八幡古墳の築造」、「ホケノ山古墳の築造」、・・・この3つの順番は、
あらゆる場合を考慮すれば、次の6通りがある。
@卑弥呼の死 → 那珂八幡 → ホケノ山
A卑弥呼の死 → ホケノ山 → 那珂八幡
B那珂八幡 → 卑弥呼の死 → ホケノ山
C那珂八幡 → ホケノ山 → 卑弥呼の死
Dホケノ山 → 卑弥呼の死 → 那珂八幡
Eホケノ山 → 那珂八幡 → 卑弥呼の死
で、どれが正解ですか? 一つ選びなさい。 答え・・・( )
そんなもん、今すぐ答えを出せる人間はおらんやろ!
「僕にはわかりません」が正解だよ!
383 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 01:00:10
>>382 私は、Aだね。
卑弥呼の死(248年)・・・これはほぼ争いがないところ。
ホケノ山(350年)・・・箸墓とほぼ同時期と考えるが、箸墓よりも
若干早いと考えている。
那珂八幡(362〜367年)・・・箸墓よりも5年位後。ただし、被葬者は
古墳完成から約5年後に葬られている。
384 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 06:43:12
根拠もなく、「思う」ことを書くのは学問じゃないだろ
385 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/21(水) 06:49:20
わたいも2ですが。
386 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 07:54:38
ホケノヤマ古墳は最近あまり話題に上らないな。
この古墳の調査の経緯を見るとけっこう面白い。
まず、C14で3世紀初めと出た。二重口縁壺は庄内期とされる。
これは古いということで話題になった。
しかし、よくよく調査してみると、下層・中層・上層の土器がいずれも
布留0段階となっていることがわかった。
二重口縁壺は、天井が崩れたときに落ち込んだものらしい。
庄内期の可能性がなくなって、なんか話題に上らなくなった。
黒塚古墳の場合は、布留T式段階の築造とされる。
ホケノヤマ古墳と黒塚古墳の両方に画文帯神獣鏡がある。しかし、三角縁神獣鏡は、
黒塚古墳からは大量に出土したが、ホケノヤマからは一枚も出ていない。
このあたりが面白いかも。はたして布留0式はいつ頃になるのだろう。
387 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 11:04:09
>>386 C14は実際の年代よりもかなり古く出ることが分かっていて、その修正が定まっていない
から、現状ではあてにはならないね。
ホケノ山あたりを突出して古く見る人たちは、マキムクの片隅の狭い地域のなかで
100年前後の年代を読み込むが、その後の100年の墓域の10分の1にも満たない
狭い場所で無理しすぎだね。遡上する古墳の絶対数も少なすぎる。
日本で500枚以上、中国、朝鮮で0枚の三角縁を舶載というのと変わらない無謀さだよ。
388 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 18:30:26
389 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:15:54
390 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:19:42
あのード素人質問で悪いんですが、邪馬台国への道程の記述が現実と合わないならなぜ記述の方が間違ってるっていうことにならないんですか?
391 :
389:2007/11/21(水) 20:49:57
392 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:20:02
>>390 三国志の著者がわざと間違いを書くということは無かったと思う。
データ重視、主観を入れない筆致が三国志の特徴で、精確さを期す姿勢がうかがえる。
ただ東夷伝は、さまざまな資料を総合して書き上げただろうから、
元になった資料や報告・証言に不明確なところや錯誤があったりすれば、
それに引きずられ、総合する時点において何か錯誤が入り込んだかもしれない。
しかし、どこが錯誤か、となると、難しいね。
個人的には、方位の記載に何か錯誤が入り込んでいるように思われるのだが……。
393 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:29:38
>>388 「邸閣」は、三国志の中にかなりの用例があるようだ。
調べてみたら何か判明するかもしれない。
御説、面白いね。
東とか南を写し間違いするかなあ、常考
やるなら文の区切りとか、あと時代が下って言い回しを変えたりとかじゃない?
さっきニュースでやってたが「まつろ国」ってなんだ?
396 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:06:00
>>389 その土器の年代観を遡上させたことが問題。
マキムクは明白に環濠集落が終焉した後に開発が始まっている。
これに対して、魏志での「邪馬台国」の記述は環濠集落の時期と
することが合理的。
年代遡上を始める前に当然とされてきた考えでは、
マキムクの古墳群は「邪馬台国」の時代のあとの時期である。
ひとの文献の引用よりも自分の意見を論理的に述べてはどうか。
397 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:57:58
>>387 C14は、なんか古い年代が測定される傾向があるように思える。
前にも話題になったが、この年代測定法は、C14の濃度がいつでもどこでも
同じであると仮定してまず計算される。しかし、年代によってC14の濃度は
異なるので、これを修正する必要がある。これが較正曲線。
これは、外国で、年輪に含まれるC14の濃度を測定して作られる。
較正曲線は、世界共通らしいが、どうも、これに問題があるらしい。
このC14による年代測定には、全てのデータが公表されていて、いろんな人が
検証できるらしいが、やっぱり古くでると思っている人もけっこういるらしい。
庄内期が遡ったのは、1996年に、池上・曽根遺跡の柱が年輪年代によって、
紀元前52年伐採と測定され、それまでの弥生時代の定説が100年遡ったこと
が理由なのだが、それを後押ししたのが、C14の測定結果だった。
C14の年代測定が古く出るとすれば、これはかなり問題かも。
もっとも、それを根拠に、庄内期まで100年遡ったのはどうもよくわからないが。
398 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:58:09
>>396 >魏志での「邪馬台国」の記述は環濠集落の時期とすることが合理的。
倭人伝では、邪馬台国も、他の国々の記述にも、「邑は濠を廻らし…」等の記述は一切ない。
つまり文献史学上は、「邪馬台国に環濠がある」との説明はできないのである。
邪馬台国に環濠集落をイメージするのは貴君の勝手な思い込みからくるものである。
>「邪馬台国」の時代
倭人伝の記述には時間的な幅がある。「邪馬台国」の時代とは、西暦何年から何年までか。
倭王卑弥呼が亡くなり大きな冢をつくった、と倭人伝に出ている。
これは古墳と捉え得る蓋然性がある。少なくとも「古墳ではない」と蓋然性を100パーセント排除することはできない。
したがって「邪馬台国」の時代に古墳がつくられていても、何ら文献上の齟齬はない。
399 :
サガミハラハラ:2007/11/21(水) 23:32:19
卑弥呼の即位は183年に間違いないでしょう。
しかし、邪馬台国は委奴国、邪馬壱国、邪馬台国と国名が変化しており、邪馬台国と言う呼称は238年以降(魏より金印を授受してからです)です。
学問上邪馬台国の時代というのは3世紀のことをさします。
卑弥呼の墓は佐賀県小城市小城公園内桜ヶ岡で、これは自然丘(風化堆積岩)を墳のように形を整えたものです。
これは近畿の古墳と関連はなく、これを以って古墳時代のはじまりということはできません。
400 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:01:55
>>397 古墳時代が遡ったのは、弥生時代における
北部九州>>>>>>>>>>>>>>畿内>>>>>>奈良
を無視し続けることが、限界に達したからだよ。
年代遡上が始まる90年頃までは、弥生時代を300年頃までとしていたが、
弥生時代における畿内、特に奈良(ヤマト)の後進性はあまりにも明白で、
鉄器では何と50〜300倍、鏡でも十倍以上の差が出ていた。
これを無視し続けることが限界に達して、畿内の後進性を認め始めたのが、
90年頃から、それと並行して、弥生時代が200年頃までに終わることにして、
畿内説を維持しているのが、今の畿内説。
ここら辺は理屈じゃないよ。C14も年輪も口実に過ぎない。
401 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:08:08
>魏志での「邪馬台国」の記述は環濠集落の時期と
>することが合理的。
思い込みもここまでくれば宗教だな
402 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:13:59
>>398 古墳時代を200年(180年?)からとする考えに対する単純な批判と
しては、古墳時代より以前とされる墳墓から魏や晋の時代とされる鏡が
出ているということが挙げられる。
これを1枚でも魏や晋の時代のものと認めると、この時点でアウト。
年代遡上にとって、これはかなり厳しい。
403 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:15:13
>>400 「遡った遡った」とか言ってるけど、それまでの実年代がどうやって決められたのかを
君は知ってるのか?
小林の実年代の決め方が如何にいい加減だったかを知れば、
C14や年輪がまだマシに思えてくるよ。
404 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:17:43
>魏や晋の時代とされる鏡が出ているということが挙げられる。
はいはい。
君の言う魏や晋の鏡って、どれのことなんだろう?
具体的な根拠を提示した上で言ってねw
405 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:36:43
>>403 まず、前提部分である弥生時代におけるヤマト(奈良)の絶対劣位を
畿内説が4、50年も無視していたことは認めると理解していいのかな。
この時点で学者として、というよりも人としてアウト!
406 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:43:48
407 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:05:54
408 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:10:11
409 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:28:25
>>408で、古墳出土の鏡の多くを国産とする根拠
1、新井宏によれば、同じ庄内式、布留式の時期の鏡であっても
墳墓、遺跡出土のものと古墳出土のものは同位体比の傾向が明白
に異なるとされている。
2、古墳時代に出土する鏡には、同型鏡や同じ部分に傷などがある
ものが三角縁以外でも多く存在すること。
詳しくは、『同型鏡とワカタケル』(川西弘幸)を参照。
410 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/22(木) 06:27:18
>>400 鉄器では何と50〜300倍、鏡でも十倍以上の差が出ていた。
問題はそこなのよね。今までは北部九州の鉄器が畿内比べて優位に立っている話題に及ぶと
神武東征と絡めて「北部九州が鉄器優勢だからといって畿内を制圧したなどという事にはならない」だとか、
「畿内周辺にも鉄片は多く出ている」とか言って畿内説論者が煙に巻いてきた。
鉄片といっても武器じゃなくて勾玉作りの工房跡からの出土だったりして意味無いんだけれどもね。
鏡の北部九州優位は三角縁鏡がしゃぽっちゃった後なるだけ触れないようにしてるみたい。
411 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 09:52:48
佐賀には、大和って地名がある。
日本最古の創設といわれる神社がある。
古い遺跡もある。
邪馬台国候補有力。
当たり前すぎるけど、そこにあったような気がする。
412 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 10:01:40
>>408 >画文帯も大半が日本製で、特に、ほぼ全部が日本で
>出土する同向式は全部国産(つまり、楽浪の1枚は日本製)。
括弧内に書かれたことは、何か証明できる事実でもあるのですか?
私には、あなたが勝手に、
「楽浪(平壌)出土の画文帯同向式神獣鏡は、日本製であって欲しいな」
との願望を書かれたものとしか読めません。
画文帯同向式神獣鏡は、斜縁や三角縁を含めた神獣鏡の類いの中では
かなり古式の鏡式であろうと考えられています。最古式かもしれません。
初鋳された時期は、後漢の時代(末期?)に遡り得るものです。
もちろん、古墳時代中期・後期の古墳からも出土しますので、時代が下っても
おそらく踏み返しなどで、多くの同型鏡がつくられていたことは否定しません。
古きを愛でてつくった倣古鏡(復古鏡)も、あるかもしれません。
現在鏡を研究している考古学者たちも、これはだいたい同意見だと思います。
ただ、あなたが、画文帯同向式神獣鏡はなんでもかんでも日本製だ、
とおっしゃるのは、何ら根拠のないことで、謬論です。
楽浪郡のみならず華東(江南)浙江省の後漢墓でも、後漢代の画文帯同向式神獣鏡を
出す遺跡があることは、下記報告書(修訂版)においても知られる通りです。
http://www.chugoku-shoten.com/mokuji/cmokuji/37050/37050.html 日本出土の、初期の画文帯同向式神獣鏡は、それらが舶載であった可能性を、
根拠も無しに完全否定することは決してできないと思います。再検討を希望します。
>>411 >佐賀には、大和って地名がある。
その地名(旧大和町)は昭和30年代に新しく命名されたもの
414 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 10:43:19
>>412 中国出土の同向式が日本と同型という話はきかないな。
415 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 11:42:45
佐賀は当然栄えてたでしょ。でも邪馬台国なわけない。
佐賀より南はどうすんのwwwwwww
笑わせるぜ
416 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 13:31:51
とにかく畿内は絶対違うよ
畿内に京や朝廷が来たのは藤原京以降の事だよ
つか藤原京以降は新羅(蘇氏、物部氏)達じゃないの?
417 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 13:41:44
>>412 >現在鏡を研究している考古学者たちも、これはだいたい同意見だと思います。
鏡を専門にしている学者の大半は、いまだに△舶載説。
ただのカルト集団にしか見えないね。
418 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 13:42:12
佐賀の南は有明海です。不弥国から南へ船で二十日で投馬国につきます。
419 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 13:48:46
そもそも橿原市に元々あったのは蘇我のイルカの入鹿神社だよ
蘇我 稲目
蘇我 入鹿
蘇我 馬子
蘇我 蝦夷
蘇我 日向
蘇我 倉山田 石川麻呂
蘇我 大連
蘇我 韓子
蘇(曾、曽)氏、蘇我、阿蘇、蘇原、園原、木曾、、、まだ良くわからんけど、ます飛鳥時代をちゃんと整理した方がいいと思うよ
この時代の氏族は物部氏や大伴氏やト部氏や、、
おれも良くわからないけど
420 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 13:52:58
>>412 その時代は漢半島(今の朝鮮半島)や大連、満州の辺りまでは倭人の領土だってば
421 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:00:46
倭人(現在の大和民族)
秦人(2世紀頃に消滅)
漢人(2世紀頃に消滅)
唐人(現在の朝鮮人)
元人(現在の中国人)
こんな感じだよ
秦と漢は倭人に吸収統合された形だよ
422 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:08:36
ただややこしいのが、日向三代にしろ物部氏や蘇氏達にしろ、最終的に畿内に到着
畿内に遷都をして記紀の物語が終わる訳だから
ただそれ以降はまた東国の源氏や藤原氏勢力に権力を奪われる訳でしょ?
今でいう立憲君主制みたいなもので天皇(君主)が必ずしも実権を握ってたって考え方が間違いな気がするよ
天皇の下には戦国時代のように沢山の氏族王朝があっても構わない気がするよ
>>417 こいつトンチンカンなヤシだなww
議論になってるのは△縁鏡じゃないぜよ
画文帯同向式神獣鏡だろ
424 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:47:46
日本は大和って名前の前までは「扶桑」って名前だったんでしょ?
扶桑→大和→日本
ってのが日本の名前らしいよ
扶桑ってのは日出ずるとかそんな意味らしいよ
425 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 15:18:20
古代では
「太陽は東にある神木から昇る」
と信じられてた事から来るみたいだよ
神木は実際にあった神木で、古今和歌集などでは「箒木」と記述してる
「東」っていう字も「日+木」で東って書く
おそらく「東」って字の日木から→日本 って呼ぶようになったんじゃないかな?
426 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:33:34
あと記紀で一番最初に国譲りを受けたのは素戔嗚尊だよ
国譲りを受けた素戔嗚尊が(元にいた人から)国を譲り受け統治した人って事だと思うよ
天照大神と交わった事で血統の正当性を得たから国譲りを受けたんだと思う
んで素戔嗚尊が築いた国は伊都。 信濃、信州だよ
427 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 17:15:53
国譲りを受けた、受けるなどという話は、世界の常識では
ありえないし、人間の歴史の常識として、他人に国を譲る
馬鹿な国王はいない。
記紀の話をそのまま伝えないで、少しは深読みしてはいかがでしょうか?
428 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 17:33:59
>>427 この時代は今の「国家」って観念とは違うからさ
単に「王位や朝廷継承」って意味で解釈してるよ
ただ何のゆかりもない奴は継承出来ないから、天照大神血統との子供をもうけて、次がせたんじゃないかと思うよ
429 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 17:53:34
スサノオって、渡来して来たスサの王って意味じゃないのかな?
天照の命と月読の命は俺は同一神と思うよ。太陽と月って意味じゃなく、これは開けの明星と宵の明星の意味な気がする
日本は過去に一度、言葉が変わってる気がするんだよ
アマテラス、イザナミ、ニニギ、ウガヤ。 こういう言葉は、昔あった日本の言葉な気がする
だからこの辺りの神はめちゃくちゃな漢字を当ててるような気がするよ
430 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 22:45:21
>>412 同向式は楽浪の約1枚を除いては日本で出土、どうやら中国のものは日本の
同向式とは別物のようである。
とすると、確率論的には日本の同向式は国産の可能性が極めて高い。
三角縁国産説に立てば、三角縁の直前期にあたる画文帯も同様に国産と
考える方向に向かう。
この立場を推し進めると、画像鏡その他も国産が多く含まれるという考えに至る。
方格から複製が始まっていたというのが平原の証明した事実でもある。
431 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 22:50:06
>>335 >倭人伝に、「おごそかに設け」とあったと思うけど、これは警備上の厳重さじゃなく、
>森厳として神聖な区画に卑弥呼は隔離されてる、っていう意味だと俺は感じるんだ。
>だから卑弥呼ほとんど人目に触れないし、そこは宗教的な神聖性が護持されてる・・・・。
>で、俺のイメージに合う卑弥呼の居場所は、こんな感じ。どうかな。
とレスして、熱田神宮の画像を貼り付けた335です。こんばんわ〜。
もっと卑弥呼の宮室にピッタリくる古神社の画像ないかな、と探してたら、いい写真見つけ!
http://www.ni.bekkoame.ne.jp/be1750/jingu-photo/koutaijinguu.jpg 伊勢神宮の内宮。 これこそ卑弥呼にふさわしい森厳さだと思う。
ここの祭神はもちろん天照大神で、御神体は八咫の鏡(見たらダメ)だそうです。
あの〜、俺、べつに卑弥呼=天照大神説なんかじゃないんだけどね。
432 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:45:41
鏡に関してはヒルメが持って来たんじゃないの?
作った場所が日本列島だろうが漢半島だろうが、倭人が作ってりゃ同じだと思うけどな
とにかく漢半島〜大連の大陸を統治してたのは倭人だよ
漢族や秦族もこの倭人が統治してた場所にいた民族な訳だから
随や唐は梁はまた別の民族だよ
漢字を使えない民族
433 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:45:43
>>431 いいねー。国東の辺りにピッタリはまる雰囲気だなあ。
434 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:46:13
>>405 いやだからな。畿内説とか言ってる時点で時代錯誤なんだよ、と。
>この時点で学者として、というよりも人としてアウト!
わけのわからん言い掛かりだな。誰に対してのことやら。
新しい発見があれば、自説に拘泥せず改めるのが学問的態度。
旧弊にまみれた老人たちには難しいことだろうが。
435 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:00:10
>>410 >今までは北部九州の鉄器が畿内比べて優位に立っている話題に及ぶと
いやだから、弥生後期の北部九州の興隆は誰も否定してないって。
一体、いつの話をしているのかな?
>神武東征と絡めて「北部九州が鉄器優勢だからといって畿内を制圧したなどという事にはならない」だとか、
実際そうだからね。マキムク以降も鉄に関しては、九州>畿内が継続しているから、
少なくとも、北部九州東遷説は否定されてきている。
村上も、鉄を政治と結び付けて考える、昔からの言論に対して否定的だし。
畿内で誕生したヤマト王権は、少なくとも鉄ルートを独占していた訳じゃないことは
はっきり言っている。
>「畿内周辺にも鉄片は多く出ている」とか言って畿内説論者が煙に巻いてきた。
ホケノの鉄器の大量副葬や、大規模な古墳や運河掘削を見ても、
当時の畿内にある程度の鉄器が潤沢にあったことは間違いないかと。
弥生後期の畿内での石器減少は、鉄器の普及が原因とみるべきだろう。
昔は、弥生後期に畿内勢力が没落したからという言説もあったが、
それなら、マキムクに大規模な王権が生まれる筈もないのだし。
当時から無理のある設定だと思っていたよ。
436 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:07:22
その時代に鉄の鉱山があったのは美濃と百済だよ
水銀鉱脈は飛騨や信濃にあったよ
437 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:08:21
当時の国産の鏡を見比べれば、国産か舶載かは一目瞭然なんだが。
確かに、中国の工人が渡来して作ったと言われれば、その可能性は否定できないのだが。
王先生もそんな説だったな。
少なくとも、画文帯にしろ、三角縁にしろ、当時の中国鏡と見比べても遜色のない出来で
あるのは間違いない。
国産鏡のショボさは酷いから。
438 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:10:10
全ても国産鏡にしたい、ってのはかなりバイアスのかかった意見のように思う。
正直、紀年鏡全てを捏造というのは、どうなんだろうな?と思うぞ。
439 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:32:39
つか当時は中国って国も、中国人なんて民族もいないよ
倭人→日本列島、韓半島、黄湾周辺
漢人→長江(?)から、韓半島へ(後漢)
秦人→北京から漢半島へ
漢民族と秦民族は2世紀頃には消滅
唐人→上海の辺り、トルコ系、インド系、李王や鮮卑王だから朝鮮人のルーツの可能性あり
今の中国人→自称漢人。 実際には毛沢東とかの元人達が、多民族(満州人、シナ人、上海人、広東人など)を統治した国で、そこに暮らす人の総称が漢人
ま、♪ドンと来い♪なんだから、いちおうなに書いてもいいんだろうけどさ
でもルールには、「出来るだけソースを出して」(
>>1)とあるんだから
きちんと理由とか典拠とか書いたらどうかな?
そうしたほうがおもしろいと思うんだけどな
441 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 01:16:09
>>437 平原の国産鏡は中国鏡を凌駕している。
イマドキ△舶載説なんてカルト以下だよ。
442 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 01:20:22
△は日本で500枚以上出土、中国で0枚。
この時点で舶載説は完全アウト!
事実の上では、これ以上にない完全決着で終了!
「将来中国か朝鮮で工房跡が発見されるのを信じています。」とか
いまだに麻原の無罪を信じているような妄想はやめれww
楽しいのかw
444 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 07:45:35
>>441 >平原の国産鏡は中国鏡を凌駕している。
大きさだけが? 凌駕?
印象論だろ、所詮。
三角縁や画文帯に通じるような、技術的系譜は倭国にあるの?
倭国で突然、神獣鏡が誕生したって説は、納得できないよ。
具体的に、神獣鏡に繋がる前段階の国産鏡は見つかってるの?
445 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:08:35
鏡の使用例
1.施工品、芸術品としての鏡
2.戦闘中に沢山の鏡を使い、反射で敵の目をくらませる
3.宗教上で神を写し分司する際の御神体としての鏡
4.儀式上、魔鏡として司祭が使う為
5.家紋と同じような感じで、同氏族達が持ちあう鏡
良くわかんないけどこれ以外にも鏡には何か意味があるんだろうね
儀式、鬼道、鏡、巫女って言えば中国では西王母仙人。 日本ではスサノオの血族の岩戸の時のヒルメ
2人とも猿田彦(庚申様)に案内させて天照の所へ沢山の鏡を持って行ってるから同一人物だと思うよ
446 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 14:22:44
>>445 >2.戦闘中に沢山の鏡を使い、反射で敵の目をくらませる
曇ってると役に立たない。
晴れてても、
「おっ、あれはなんだ! それっ!ものどもっ! 確かめに行けっ!」
と標的にされてしまい、いっせいに敵兵に殺到されてしまう。逆効果。
>>444 平原は巨大鏡だけが国産ではない。鏡は見本が一つあれば無限に複製可能
なので、△、画文帯だけに複製の疑いを限定するのは合理的ではない。
平原は年代が難しいが、280〜310の間で、
>>408に出てくる「魏晋鏡」の
多くはそれ以後の時期と考えている。
「魏晋鏡」は環濠集落の終焉から古墳開始までの間に枚納が始まり、古墳から
の出土が多く、楽浪郡の鏡の影響が強いとされる。
これは313年の楽浪郡の崩壊後に楽浪の漢人墓地から掘り出された数種類の
鏡が一時的にまとまって日本に来て、それらが古墳時代に至るまで複製された
と考えるとスジが通る。
複製技術を持ちながらそれらの鏡を含まない平原は、上記の年代となる。
画文帯もこのとき日本に来たものが日本での複製の過程で、同向式が作られ、
その後、縁は斜縁から、外区文様は内向花から、図案は画文帯から寄せ集めて、
△を作り出したと見ている。
448 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:30:35
>>446 このまえ不思議発見でやってたよw マヤかどっかの回の時
っても、良く考えたらやっぱ鏡をそんなふうには利用してないと思うな。
あれも単なる学者の空想なだけだわ
>>446 もし敵・味方双方とも「攪乱用銅鏡」を装備していた場合は・・・・
「敵が来たぞっ。それっ、鏡で攪乱せよっ!」
「はっ。・・・ピカピカピカピカ・・・」
「むううぅぅ、ま、ま。まぶしいツ。・・・これっ! わ、わが方も対抗せいっ!」
「はっ。・・・チカチカチカチカ・・・」
「うおおぉぉ、ま、まぶしいツ、・・・おいっ! ありったけの鏡を集めろっ!」
「はっ。・・・ピカピカピカピカ・ピカピカ・・」
「ぐわああぁぁ、・・・負けてなるかッ! 鏡さらに増強じゃッ!」
「はっ。・・・チカチカチカチカ・チカチカチカ・・」
「ピカピカピカピカピカピカピカピカピカピカピカピカ・・・」
「チカチカチカチカチカチカチチカチカチカチカチカチカチカカチカチカチカチカチカ・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
農民;「兵隊さんたち、またピカピカごっこで遊んでるよ〜。www」
鏡は太陽の御霊を依り憑かせたる道具
『中臣寿詞(なかとみのよごと)』
現御神(あきつみかみ)と大八嶋國(おほやしまぐに)しろ知ろしめす
大倭根子天皇(おほやまとねこすめら)が御前に・・・
・・・高天原に事始めて 豊葦原の瑞穂の國を安國(やすくに)と平けく知ろしめして、
天都日嗣(あまつひつぎ)の天都高御座(あまつたかみくら)に御坐(おはしま)して・・・・
の下りで、鏡で太陽光を反射させて今から即位する天皇に天照の御霊を依り憑かせる儀式をした
451 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:15:31
>>447 >平原は年代が難しいが、280〜310の間で、
>>408に出てくる「魏晋鏡」の
>多くはそれ以後の時期と考えている。
漢代の鏡が出てるのに、なんでそんな年代になるんだ?
新手の伝世鏡説か?
>これは313年の楽浪郡の崩壊後に楽浪の漢人墓地から掘り出された数種類の
>鏡が一時的にまとまって日本に来て、それらが古墳時代に至るまで複製された
>と考えるとスジが通る。
この話は、何か根拠があって書いてるの?
無理矢理、自分の実年代に合わせようと必死になってるとしか思えないが。
452 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:36:51
平原遺跡から出た三十数枚の方格規矩四神鏡は、日本製らしい?
>>451 従来、魏晋鏡と言われてきた鏡(年代遡上後は後漢鏡)は、実は、
中国東北部や楽浪郡で多く見つかる亜種が多く、三角縁がそれらの
地域で作られたとする説まで出ている。
とすると、これらの鏡が卑弥呼の時代に魏の都で下賜された鏡とは
違うことは言うまでもない。
>>408のリンク先で安本は、位至三公鏡とされる数種の鏡が下賜された
としているが、それが辺境部で作られた「亜種」で古墳直前期に流通が
始まるとなるとこの考えは取れない。
むしろ、平原を重視して、方格規矩四神鏡、内行花文鏡などが下賜鏡で
あると考えた方が納得できる。平原で複製・模倣の対象となったのは
その時代に日本に存在したものだけである。
>>451 楽浪郡の崩壊後に旧支配層の墳墓が略奪の対象となるのは、自然の流れ。
その略奪品は、かなりの量であったことが容易に推測できる。
実際にも楽浪近辺で類例のある数種類の鏡が同時期に日本の墳墓に埋納され
始めている。
類似例としては、前284年に燕が斉の首都を陥落させた頃に、朝鮮、日本で
殷、商期の鉛同位体比(後世に類例のない同位体比)をもつ青銅器が大量に
出回ったことが、挙げられる。
*『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(新井宏)を参照
455 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 00:02:22
>>454 >実際にも楽浪近辺で類例のある数種類の鏡が同時期に日本の墳墓に埋納され
>始めている
いやだから、同時期の日本の墳墓、って、君の実年代観に基づいたものだろ。
安易に古墳の実年代を確定出来るのは凄いと思うが、根拠を示してもらわないとw
きみの言説を読む限り、仮説で仮説を補強している観が拭えない。
論理展開のルールを習得していない人は、
どんな学科の卒論も掛けませんな、やれやれ
>>455 このスレで年代遡上を信じているのは、君だけじゃないかな。
日本史スレ全体を見ても、年代遡上を信じているのは君とあと1名位だろ。
所詮その程度の愚説。
458 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 02:14:33
卑弥呼=媛命=百襲媛命
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
邪馬台國=大和國
狗奴國=許乃國
以上です。
459 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 08:28:41
>>457 年代遡上を信じているというより、
「実年代は明確には分かっていない」という態度だけどね。
古代は土器編年で語るべきだろうと思う。
倭人伝に頼るしかなかった昔じゃあるまいし。
460 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:20:47
鏡を有り難がるのは道教の影響。
鏡は化け物の正体を映し出すと信じられていた。
461 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:36:25
>>457 このスレで・・・って、どんだけ世間が狭いんだよw
金星人や幽霊を信じてないのは、このスレで君とあと1名とか言われても
痛くもかゆくもないんだが。
現実を真正面から見据えられないからこそ、IDの出ない板で自演するしかないんだろ?
462 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:36:31
古墳時代の前期・中期・後期の3区分に関し、できるだけ解りやすい指標を挙げてみます。
細かな議論は抜きで、およその区分です。(現在は「終末期」も、さらに「早期」も設定しますが)
・前期… 古墳が造られ始める。竪穴式石槨が主流。馬具はまだ副葬されない。
・中期… 馬具の副葬が始まる。一部地域で横穴式石室開始。須恵器の生産開始。
・後期… 全国どこでも横穴式石室となる
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/zenki/t_z_zenki.html 実年代を示せば、これもおおよそですが、中期は5世紀、後期は6世紀以降、となります。
それで、
>>285 >しかも、三角縁(350頃〜)に…(略)…
のように、この2ちゃんの邪馬台国関連スレの中には、三角縁神獣鏡の時期を
異様に遅めにとって4世紀後半まで下降させる人がいますが、無茶苦茶な暴論です。
古墳時代の開始について、これまで最も遅めだった年代観は4世紀初頭説で、考古学者としては
小林行雄・斎藤忠・佐原真氏などが挙げられますが、これら諸研究者でさえ
三角縁神獣鏡の副葬開始時期を「350頃」などとするような突飛なことはしていません。
もしそのようなことをすれば、三角縁神獣鏡副葬の前期古墳の時期が4世紀後半のみの
約50年ほどだけとなり、古墳の数からして短か過ぎ、これはあまりにも異様な年代観です。
現在の考古学研究者で「三角縁(350頃〜)」などとしている人は、皆無だと思います。
上の
>>285氏のような方は、2ちゃん日本史板の「異様なまでの年代下降派」と称して
差し支えないでしょう。
463 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 10:11:15
つーか、藤崎の甕棺墓から出た三角だってあるだろうに。
福岡じゃ4世紀中ごろになっても
まだ、甕棺や西新式を使ってたって言いたいのかな。
ドキはともかくカガミで年代を判断するのはまちがいなんだよ
465 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:19:55
466 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 16:11:18
>>462 ホケノヤマ古墳は、布留0期の古墳とされるが、三角縁神獣鏡は出ていない。
三角縁神獣鏡大量出土の黒塚古墳は布留1期。
庄内期が西暦300年頃に始まると考える人には、
三角縁神獣鏡が4世紀半ば以降というのもありうると思うけど。
>>462 森浩一は椿井大塚山を4世紀後半としているが。
遡上前はこんなものだろ。
箸墓の周濠で馬具がでているが、従来の定説に従って馬具をみれば
箸墓を370以降まで新しく見ることもありうる。
468 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:48:12
対馬國=対馬
一大國=壱岐
末盧國=松浦(唐津)
伊都國=伊都(糸島)
斯馬国=糸島の志摩半島
好古都国=博多
対蘇国=鳥栖
蘇奴国=佐賀
呼邑国=小城
華奴蘇奴国=神崎(吉野ヶ里遺跡)
469 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 18:01:13
>>462 三角縁の特徴は、前方後円墳でみるとバチ型とその後少し前方部が
発達した古墳でほとんどが出土するという一時期集中。
ゆえに、製造〜埋納時期を30〜50年とみるのが合理的。
>>466のいうように布留0式のホケノ山では出土しなかった。
そのすぐ後と思われる柳本天神山でも定型化した三角縁は出なかった。
さらにその後の椿井大塚山、黒塚で大量出土を見る。
つまり、鏡を大量に埋納している古墳でみれば、ある一時期に大量製造される
鏡の主役の座を画文帯から奪ったのが三角縁といえる。
しかし、三角縁は一時的に大量に出回ったが、ほどなく作られなくなっている。
故に、その製造〜埋納の時期は長くみても50年程と考えられる。
日本人ってすぐブームに流されるのなw
471 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:17:52
>>468訂正です。
伊都国=多久市
対蘇国=対馬北島
蘇奴国=北九州市小倉
呼邑国=飯塚市
華奴蘇奴国=苅田
以上訂正いたします。
472 :
ローガン:2007/11/24(土) 19:22:37
>>467箸墓の周濠から出た木製鐙は、堆積した泥の中から出たのですよ。濠が掘られた頃より、時代は下ります。
>>469 何かむちゃくちゃだねー。
製造期間はともかく、埋納が4〜50年間つーことはないだろう。
横穴式石室からも出てるし、馬具と一緒に出てくることだってあるだろう。
三角縁はヒット商品だから、複製品はかなり後世まで流通してるよ。
>>472 堆積物は、その時期ごとに別々の層を形成しているので時期が推測できる。
定説では馬具は400年以降なので、その木製鐙が最古で400年とした場合、同じ層に
ある土器も400年頃に使われていたことになる。
または、その木製鐙が他の最古の馬具より突出して古いという特異な事情を想定するか。
後者の思考は考古学の範疇に入らないので穏健に前者で考えると、布留2式は400年
頃となり、箸墓の布留0式は350〜360頃ということになる。
475 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:52:30
>>472,
>>473 禿同。
いまだに前方部が発達≠ネ〜んて言ってみたり、バチ形をバチ型≠ニ書いたり、
定型化した三角縁≠ニかさ・・・・・。笑っちゃうよ。www
476 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 20:34:42
>>468,
>>471 傍国の比定に興味ないなー。
倭人伝は遠すぎてわからんとしてるから、わからんままでいいんじゃねーの。
しっかし、理由も書かずに比定地だけズラズラ並べるヤシもヤシだが、
一瞬同一人の訂正かと勘違いさせる方のヤシは最低。詐欺師のやり口だな。
>>475 昔は築造時期によって前方部の発達の度合いが異なることを、認めていた。
しかし、そのうち一部だけを突出して遡上するようになってからは、これを無視
して、肯定も否定もしなくなったね。君もそうか。
『三角縁』の定義はほぼ固まっているが、柳本天神山はそれによれば亜種となる。
これは基礎知識ね。
バチ形、バチ型はどっちでもググれる。「形」と「型」との使い分けはいいかげん。
型式の意味で用いる文脈で「形」では日本語としては正しくなかろう。
まあ、一つの「型」ではないという意味では「形」かもしれんが。
478 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:06:27
考古学テスト
次の( )内のひらがなを漢字に直しなさい。(各10点)
1.巴(がた)銅器 ( )
2.火焔(がた)土器 ( )
3.朝顔(がた)埴輪 ( )
4.石見(がた)埴輪 ( )
5.分銅(がた)土製品 ( )
6.特殊器台(がた)埴輪 ( )
7.都月(がた)円筒埴輪 ( )
8.四隅突出(がた)墳丘墓 ( )
9.山陰(がた)甑(がた)土器 ( ) ( )
479 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:36:59
昔、いい加減に決めてた実年代を根拠なく信じて、
最近の考古学の成果による実年代観を、遡上派と言って否定する。
どうなんだろうな。
昔から言われていたから正しいみたいなノリはついていけない。
根拠を示して貰わないと。
480 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 22:38:51
実年代は倍暦を調べるに行き着く。
現在の実年代を信じれば、邪馬台国東遷説が成り立たなくなるから。
ただそれだけの理由なんだよな、結局。
馬鹿馬鹿しいというか。
482 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 22:41:19
九州の女王国の時代、同国で倍暦をやってたか否かは不明。
483 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:41:35
>>479 >最近の考古学の成果による実年代観
箸墓から木製鐙が出たことは、考古学の成果じゃないのかな?
ホケノ山も布留式が確定したら無視ですかww
昔の年代観がいい加減だとか、よく言うね。
484 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:49:13
一部の学者が遡上年代に狂奔して、それに追従する下部組織の言動は、
「裸の王様ごっこ」みたいなんだよね。
王様 「年代遡上はバカには分からんのだよwwww」
従者 「そのとおりで御座います。理論で完全装備しても、バカには
見えないんですよwww」
少年 「おじさん達。なんでみんなフルチンなの。」
市民 「シー。みんなで裸踊りを見て楽しんでたのにww」
485 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/24(土) 22:49:31
卑弥呼の死に合わせるかのように三世紀中ごろまで箸墓の年代を遡上させておいて、
古墳が造られていたから古墳時代と言うのだ。などという主張は承服しかねる。
486 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:53:17
>>479 以前の古墳編年では、箸墓は中期の古墳だった。
その理由は、前方部が発達していること、築かれた場所が平野部であること。
以前は、前方部は初期の古墳で小さく、徐々に大きくなるとされた。
また、初期の古墳は山すそを利用して作られ、徐々に平野部に降りてくると
された。
30年ほど前、箸墓は初期の古墳ではないかと言い出した考古学者がいたが、
詳しい調査もしていないのにどうしてそんなことが言えるのかとケチョンケチョン
にやられていた。
それが今は最も古い古墳とされているらしいのでびっくりするわけだが。
487 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 22:54:33
倍暦計上で
卑弥呼の死 247年=正始8年=崇神11年
>三世紀中ごろまで箸墓の年代を遡上させておいて、
普通の人はそんなことは言わない。
○鹿には馬○の言うことしか耳に入らないらしいなw
実年代については、指標が色々あって、その掛け合わせになる。
1、崇神の実年代=崇神稜の時代とする。
A、後世の天皇(応神、仁徳、雄略など)から、崇神に遡る。
B、没年干支(258、318)
上記から崇神は、300〜360の間に即位〜没年があったとされた。
水野裕は没年干支318年説で、戦後はそのあたりの活躍年代が多数説。
対して、安本は平均在位年で遡り340〜350頃とする。
いずれにしても、崇神の頃から古墳の築造が始まり、それが300年より
以前になることはないだろうというのが、戦後の主流的学説。
>ホケノ山も布留式が確定したら無視ですかww
>昔の年代観がいい加減だとか、よく言うね。
実際、昔の年代観がいい加減に決められてるから、としか言いようがない。
どうやって決められてたか、知ってる?
実年代、その2〜朝鮮関係資料から
1、広開土王碑(414建立)では、391年に倭国が大規模派兵したとある。
これに神功または応神を対応させる。
2、応神の時代の人質記事と三国史記の記事とを対応させる
1、2から、応神を400前後に活躍したと見る(多数説)。
そこから遡ると、崇神の年代は290頃〜350頃(1代を何年とみるかで変わる)。
崇神の頃から古墳築造が始まったとする戦後の主流的考えでは、古墳時代は
300年以降という考えとなる。
492 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 23:18:24
倍歴計算から
崇神天皇崩御 259年
実年代、その3〜土器、古墳
1、須恵器の始まりを400年頃とする(多数説)。
2、古墳の築造ペースがほぼ同じとする。
1,2で遡ると、300〜330年頃に古墳築造開始となる。
これに対して、遡上説では、突出して遡上する特異な古墳の存在を
認める。
>30年ほど前、箸墓は初期の古墳ではないかと言い出した考古学者がいたが、
>詳しい調査もしていないのにどうしてそんなことが言えるのかとケチョンケチョン
>にやられていた。
>それが今は最も古い古墳とされているらしいのでびっくりするわけだが。
だから土器編年でそうなったわけだろ。
天皇陵や陵墓参考地をもっと調査出来ればいいのだが。
>>489 > 実年代については、指標が色々あって、その掛け合わせになる。
> 1、崇神の実年代=崇神稜の時代とする。
崇神稜、行燈山古墳のことだと思うが、その築造時期が300〜360年に見合うかどうか
検証してるのかな?
496 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 23:28:20
>>486 概ね同意です。
箸墓より古いと思われる櫛山や、それと類似する楯築は、
自然形状を利用して作られています。
ただ、箸墓はモモソヒメと三輪山との関係からあの位置に
なったとことも考えられるので、移行期的な見方もできる
と思います。
497 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 23:38:02
天皇稜の年代観は、年代遡上の最大の障壁だろうね。
天皇陵が、考古学的にも年代順にほぼ正しく存在すること(一部は、
近隣の古墳との取り違えで解決できること)は、偶然の出来事では
絶対に生じない。
ここから記紀の伝承が後世の捏造ではないことが、確実視できる。
陵墓を守る人々がいた時期に記紀が書かれたこともこれを補強する。
そこで遡上年代の人達は、このことを無視する。
無視というのは、学者にとって学問に対する最大の背信行為。
498 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 00:26:21
>>496 >箸墓より古いと思われる櫛山や、
もうこんなデタラメはやめてくれッ!
2ちゃんだからといって閲覧者にウソを吹き込むのは許し難い!
子ども達だって見ているかもしれんのだぞ。
櫛山古墳は集成編年4期の古墳。
古墳時代前期後半でも最も遅い時期(→中期への変わり目)。
箸墓古墳はもちろん前期前半。集成編年1期。
499 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 00:52:32
>>498 そう来ると思ったwww
君は選んで反論しているから分かりやすいね。
500 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 01:07:52
倭人伝には、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩」との記述がある。
この記述がなかったら、卑弥呼の墓云々は、ありえないわけだが。
径百歩あまりというのは、だいたい145m。一方で箸墓の全長は、280m。
数字が合わない。そこで、箸墓は、最初に円墳で、あとから前方部が加えられた
という珍説が現れた。
しかし、発掘調査で前方部と後円部は同時に作られたことがわかった。
つまり、築造当初から全長280mの前方後円墳だったわけである。
箸墓が卑弥呼の墓である可能性はなくなったと思われる。
501 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 01:13:48
>>500 どう思おうと勝手だが、貴様が馬鹿であることは間違い無い。
502 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 02:27:22
>>498 櫛山の年代は難しいね。判断要素としては、
1、崇神稜の山側に隣接という位置関係
2、楯築との形状の類似性
3、竪穴式石室、長持形石棺(組合せ式)
4、石釧、車輪石、鍬形石と呼ばれる碧玉製腕飾類(量が膨大)
5、円筒埴輪
http://urano.org/kankou/kitayama/minaya02.html 5から、埋葬は箸墓より後と考えられるが、築造が箸墓より後かは不明。
1から、崇神稜とほぼ同時期と考えるのが自然。
3は、箸墓、崇神稜と比較してみないとなんともいえない。
4は、下池山と類似するが、あっちは竹割。石釧は三角縁を出土しない古墳に多い。
2は、楯築が突出して古いとは一概には言えない。特殊器台を出土する古墳が
わずかであることから、その期間が数年という短さと考えられる。
以上から、櫛山は崇神稜・楯築とほぼ同時期に築造され、築造は箸墓より以前で
あるが埋葬は箸墓より後と考えられる。
モモソヒメは箸墓築造とほぼ同時期に埋葬されたが、崇神・櫛山の被葬者は築造
から10年以上経過して埋葬されたと考えられる。
↑
>>502 呆れた。
櫛山の主体部に長持形石棺が使用されている、また碧玉製腕飾類が
たくさん副葬されていると知っているのであれば、櫛山が、前期後半〜
中期の時期に編年される古墳であることは明白である。なのに
>櫛山は崇神稜・楯築とほぼ同時期に築造され
などと考古好きなら小中学生でも一笑に付す妄想説を書き連ねるとは。
楯築が弥生墳丘墓なのも明白。解説書は何冊も出ている。古墳時代に
下るようなシロモノではない。いったいどういう神経をしているのだ。
504 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/25(日) 12:17:35
>>488 {三世紀中ごろまで箸墓の年代を遡上}・・普通の人はそんなことは言わない。
○鹿には馬○の言うことしか耳に入らない
はあ〜めずらしい。卑弥呼と箸墓が 無関係だと認めるとはね!
前スレでは畿内説とやらが盛んに箸墓の年代遡上を主張して譲らなかったが。
これでマキムクと邪馬台国の接点は無くなったわけだ。
505 :
ローガン:2007/11/25(日) 14:50:13
>>504纒向と邪馬台国の接点は箸墓だけではないよ。
端的に云うと、箸墓に埋葬された人物の生前に纒向ができ、纒向では、これまでにない地域間交流がみられる。同じ頃、北九州では盟主墳がみられなくなる…
(他にも色々ありますが)
勿論、纒向=邪馬台国を示す直接の考古史料なとありませんが、今の所最も蓋然性が高いと言えましょう
506 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 15:41:09
>>503 反論はもう少し論理的に頼む。レスもできん。
507 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 15:49:41
>>503 円筒埴輪という点からは、櫛山は箸墓と近い時期と言えます。
私は特殊器台の時期は1〜4年位と考えています。
何故なら、祭祀のために使い切りで作られる特殊器台がわずかな古墳で
しか発見されていないからです。
これに対して、特殊器台の時期を50〜100年位とする編年をしている
学者もいるようですが、埋葬のときに1度だけ使用される特殊器台が
10〜20年に一度作られたという考えは、無理がありすぎます。
まあ、そうでもしないと年代遡上が不可能ということでしょうか。
私の考えでは、特殊器台のある箸墓と円筒埴輪の櫛山では、時期的には
2〜10年ほどの違いでしかありません。
508 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:02:06
>>507>私は特殊器台の時期は1〜4年位と考えています
失礼かもしれぬが、忌憚なく申し上げる
貴君のこのレスは「勉強不足」の一語に尽きる
貴君はおそらく、特殊器台に関して詳記された何らの書物も
読んでおられぬであろうと思う
509 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:05:09
>>503 棺とか副葬品で古墳の年代を語るなら、箸墓など宮内庁の管理下にある古墳の
年代は判らないということになると思うのだが。
510 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:10:32
>>508 いや、だから、反論は論理で頼むねww
できればだけど・・・
特殊器台が4〜5個の古墳で発見されて、その間の期間を
50〜100年とするというのは、どう考えても異常だよね。
件の古墳で円筒埴輪の破片を表採してもってるよ
512 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 18:54:26
件の古墳、結構無断で人がたちいっているようですね。
もっとも無断なので、入って調べたとなのれないけどね。
>>497 >ここから記紀の伝承が後世の捏造ではないことが、確実視できる。
>陵墓を守る人々がいた時期に記紀が書かれたこともこれを補強する。
>そこで遡上年代の人達は、このことを無視する。
>無視というのは、学者にとって学問に対する最大の背信行為。
いやだからさあ。記紀の記述は全面的には信用出来ないと言ってるだけで。
倭人伝と扱いは同じか、少し下。
あくまで考古学=物証に軸足を置かないと、だれも説得出来ないよ。
結局、記紀を利用する人たちも、自説に都合のいいところだけの引用なんだよね。
欠史八代とかは、完全に無視する。
そんな都合のいい文献利用はないだろうと。
箸墓築造=布留0は、三世紀半ば〜後半くらいが妥当。
別に卑弥呼の墓だろうが、そうじゃなかろうがどっちでもいいが。
少なくとも、ヤマト王権にとって画期的な墳墓であったことは間違いない。
特殊器台を用いた初めての前方後円墳で、土師の墓と呼ばれ、
この後の大王墳のスタンダードになった。
浦間茶臼山とかを見ても、この頃にヤマトと吉備が連合したと見て
いいかもしれない。
箸墓の被葬者とされるトトヒモモソ媛は吉備に縁のある人物だと伝承されているが、
それも興味深い。
515 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:32:21
>>514 それは反論になっていないなあw
ともかく、箸墓=布留0は、350〜370頃ですね。
特殊器台〜円筒埴輪の流れからは、箸墓の直後に崇神稜となりそうだが、
崇神の実在を認めて、陵墓をそこまで遡上させる説は存在しない。
都合のいいところだけを論じて、後は無視と言うところがダメなんだよね。
箸墓が卑弥呼の墓だなんて言ってる奴は基本的に某トンデモ説論者の自演だろうね。
畿内説でも石塚は二世紀代とか言って箸墓を三世紀前半にもってくるようなトンデモさんもいるにはいるがねw
根拠はないけど自分は○○を△△と考えてる
↓
それに合わないものは間違いである
↓
( ゚д゚)ポカーン
>>515 >ともかく、箸墓=布留0は、350〜370頃ですね。
弥生後期の始まりが1世紀前半として、
須恵器の登場(高蔵73型式)が400年頃。
この間に、後期(第X様式)と庄内、布留の土器を当て嵌めていくわけ。
庄内はそんなに長くないとしても(7〜80年?)、
第X様式と布留式は、様式変化の多さから百数十年は続いたとみられている。
君のいう布留0が350年ってのは、いかに偏ってるか分かりそうなものだが。
>>514 年代遡上に対する批判は上の方で出ているのだが、
遡上する側の積極的な主張も聞いてみたい。
520 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:56:46
>>518 私は須恵器は390年頃まで遡る可能性を認めています。
一方で、布留式が430頃まで併行していたとも考えています。
須恵器が画一的に使用開始となった訳ではないことは、当たり前で
こんなことは初歩のレベルの話じゃないのかな?
箸墓の馬具と一緒に出てきた布留2を400〜430頃とすれば
箸墓の布留0が350〜360頃というのは、むしろ当然。
あと、庄内と布留式も一時期併行していたとも考えていますよ。
両者とも古墳時代の前後にまたがっている訳ですから。
>>515 >崇神の実在を認めて、陵墓をそこまで遡上させる説は存在しない。
>都合のいいところだけを論じて、後は無視と言うところがダメなんだよね。
なにを書いてる分からないのだが。
天皇陵の比定がいい加減なのは当たり前だろ。
伝履中陵も伝仁徳陵より古いことが分かってるし。
それより、欠史八代を否定しないなら、どう説明するのか聞きたいものだが?
>>520 じゃあ、布留二〜三式とかは、すっぽり高蔵七三式と併行関係だったってこと?
そんな話聞いたことないが。
何度も聞いて悪いけど、根拠あって書いてるよね?
結局、馬具だけなんだよね。まともな根拠は。アレも本当に馬具なんかいな。
弥生後期の始まりが遡上した以上、必然的に庄内・布留式も遡上する。
当たり前の話。
九州の学者は昔から、副葬される鏡から、弥生後期の始まりを
1世紀と主張していたのだが。
弥生後期の始まりを2世紀末と考えたのは、単に小林行雄が、倭人伝の「倭国乱」の年代を
弥生中期の終わりに当て嵌めたに過ぎない。
「昔からそう言われている」という君、いい加減に目を覚ませ。
524 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:00:35
>>522 だから、反論は論理的に頼む。レスが面倒になる。
>>523 で、遡上の積極的な根拠はなんなの?
話の流れではC14か年輪のようだが・・・まさかこれ?
鏡は上限しか分からないからこれはさすがに違うだろうしwww
彼らが遡上を本気で信じているのかいつも不思議に思う。
まあ、集団催眠みたいなものなのかな。
>>524 >だから、反論は論理的に頼む。レスが面倒になる。
だから、布留2〜3式と高蔵73型式が併行関係という根拠を述べて。
>>524 遡上の根拠としては充分だと思うが。
そもそもいい加減に決められた実年代が修正されてきつつあるのが、現在の考古学の流れ。
C14や年輪年代とも合致してるしな。
あと、言っておくけど、別に邪馬台国畿内説だから遡上を捏造してるとかいう、
被害妄想はなしにしてくれよ。
邪馬台国がヒラバルにあっても別に不思議ではない。
ただ、「邪馬台国東遷説はないだろう」ということ。
ところで、そっちに実年代の根拠はあるのか?
527 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:13:19
>>486 >それが今は最も古い古墳とされているらしいのでびっくりするわけだが。
従来、前期でも、やや時代が下ると思われていた箸墓古墳の年代観に対し、
「いや、箸墓は、奈良盆地に多い前期の前方後円墳の中でも、最古ではないか」
とパラダイム的転換を考古学者にもたらしたのは、なんといっても1976年に次の報告が
宮内庁書陵部の調査官の手により、同庁の紀要上に発表されたからです。
・中村一郎・笠野毅 「大市墓の出土品」、『書陵部紀要』 27号 宮内庁書陵部 1976
この報告で、箸墓の墳丘上に、都月型円筒埴輪、および、それとセットとなる特殊壺形
埴輪も立てられていたことが判明し、広く考古学研究者に知られるようになりました。
なお大市墓とは箸墓古墳のことです(陵墓管理上ではこれが正式名)。
都月型円筒埴輪は、弥生時代の葬送儀礼に使われた特殊器台の系譜上にある最古の
円筒埴輪(「特殊器台形埴輪」)で、それまでは特殊器台も、都月型円筒埴輪も、とくに
岡山県に集中して出土していましたから、研究者には意表をつく報告だったわけです。
528 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:20:14
続きです。
その後、ちょっと紆余曲折あって…、宮内庁書陵部から、台風で大市墓(箸墓古墳)の
倒木被害を復旧処理するべく調査していたところ墳丘上で採集された、として、次の
報告が『書陵部紀要』に掲載されました。
・徳田誠志・清喜裕二 「倭迹迹日百襲媛命大市墓被害木処理事業(復旧)箇所の調査」、
『書陵部紀要』 51号 宮内庁書陵部 1999
さきに紆余曲折と書きましたが、じつは1980年代から非公式に、
「箸墓からは、未発表だけど、円筒埴輪の原型となったもっと古い、弥生時代に直結
する宮山型特殊器台も出ているらしい」
との情報が、研究者の間で取り交わされており、真偽の確認が望まれていました。
51号報告はまさにそれを裏付けるもので、復旧調査で採集されたそのときの土器片には、
宮山型特有の文様がくっきりと彫られているのを図版写真で示し、宮山型特殊器台が
箸墓古墳の墳丘上に立ててあったことは、確実となりました。
529 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:22:18
箸墓を卑弥呼の墓とする根拠はまったくないが、
少なくとも、ヤマト王権にとって最重要人物が祀られているのは、
間違いないだろう。
531 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:44:43
>>529訂正 下から2行目
「T期」される埴輪よりも → 「T期」とされる埴輪よりも
>>530 霊能力の強い女性。
大物主の神妻として、終生独身であったという点。
崇神の頃、ヤマト王権成立期に重要な役割を果たした。
後円部が、径百余歩とほぼ同じ大きさ。
布留0=250年とすれば、卑弥呼の没年とも近い。
以上のことから、卑弥呼の墓としても妥当だと思う。
まあ、根拠薄弱だけどねw
533 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:13:47
534 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:24:20
>>527 以下へ
いや、だから反論は論理的に頼むよ。
特殊器台は1個で5年〜10年も遡上するのかな?
私は、ごく少数の特殊器台で50〜100年も遡上できるという考えが
どうしても理解できないのだが。
1回の祭祀で使い切りの特殊器台が5個の古墳で見つかったとした場合、
その期間は1〜3年とみるのが、合理的だよね。
布留0は当初は布留式の最初の短期間の型とされて、出土数が少ない
ことからは2〜5年ほどで布留1に移行したとされてきたが、特殊器台が
布留0の範囲内という見方が出てくると、布留0を2、30年とする見方も
出てきた。
経緯をいうなら、そこらあたりも言うべきだよね。
535 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:33:37
>>523 >弥生後期の始まりが遡上
いまどきそれをストレートにいう年輪信者も珍しいね。
仮に年輪年代に従うとしても、伐採年代と使用年代に100年以上
隔たりがあったら即アウト。綱渡りの年代観だよ。
それ故、年輪年代をそのまま根拠にしている学者はほとんど皆無。
大多数は年代それ自体からして「参考値」として扱っているに過ぎない。
検証されていない故にそれも致し方ないところでしょうね。
そうなると、遡上の根拠はなくなるのだが、まあご愛嬌ということか。
>>535 弥生後期の始まりが遡上は、貨泉とか、
他にも根拠があるのだが。
537 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:45:36
>>537 貨泉の鋳造年代が2〜30年と短いからこそ指標になるのだが。
貨泉が百年以上伝世されてたって?
はあ、まあそういう考えもあるでしょうが。
かなり無理があるよと。
君は弥生後期の始まりを西暦何年くらいだと思ってるのかな?
>布留0は当初は布留式の最初の短期間の型とされて、出土数が少ない
>ことからは2〜5年ほどで布留1に移行したとされてきたが、
布留0とされる古墳が結構あるから、2〜5年ってことはないでしょう。
>君は弥生後期の始まりを西暦何年くらいだと思ってるのかな?
確かに遡上否定派は、これに答える義務があるな。
昔みたいに、2世紀末とするのか?
541 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 00:15:02
>>540 2世紀末以外、ありえんだろ、この低能め。
貴様など議論する値打ちも無いクソ馬鹿だ。禿
542 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:05:42
>>538 >貨泉が百年以上伝世されてたって?
>はあ、まあそういう考えもあるでしょうが。
その使用時期に日本に来たのかも不明であること。
通常は墳墓に入れられる威信財ではないこと。
などからは、中国での使用時期と同じと考える必要もない。
あくまでも上限にするべきだね。逆にいうとこれを頼みに
せざるを得ないほど、追い込まれているということかな。
>>540 弥生後期は200年前後という考えだけど、弥生時代のなかでの区分の
指標は今ひとつよく分からない。
細かいところは感覚的な面が強いね。
土器で決めるにしても、全国的な区分になるのかという疑問はある。
前期の前に早期を入れる考えでは前期の指標はどうなるのか。など。
>>518の書き方も少し気になるね。
須恵器の開始年代をピンポイントに特定する指標はない訳だから。
前提に異論もあるが、稲荷山のTK47からの逆算では誤差は出てくる。
544 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:37:02
>>529 天理市の中山大塚古墳、西殿塚古墳、波多子塚古墳など特殊器台の出ている
古墳は多い。これらと箸墓の前後関係はどうなっているのだろう。
また、同じく天理市の天神山古墳、下池山古墳などけっこう大きな古墳で
ありながら埴輪の出ていない古墳もある。
調べてみたら、黒塚古墳からもホケノ山古墳からも埴輪は出ていない。
宮山型特殊器台や都月型円筒埴輪を古い古墳の証拠としているが、これさえも
出ていない古墳のほうが古いような印象を受けるのだけれども。
545 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:48:03
>>543 土器の実年代はあてにならないけれども、相対編年は間違いがない、との
考えを植えつけられてきたような気がするけれども、こんな記事を目にした。
「型式学」というのは、同じ種類の遺物を並べて、ある基準を見つけて
先後関係を決め、それを一つの系列として、並べてみることです。
ところが、縄文土器の編年を行った山内清男は、1937年の「縄文土器の細別と
大別」と言う論文で、「任意の物件を並列し、独断によって古かるべきものを
決め、それに照らして新しきものを推定する様な所謂型式学は取るに足らず、
我々もこの方針の失敗を数多傍観したのである。」と「型式学」を一蹴して
います。
またチャイルドも『考古学とは何か』で「型式学は信頼性は低いけれども
それで説明するのはひじょうに容易で、」と型式学のもつ問題点を出しています。
小林行雄も、「型式学的研究法というものを型式の先後関係の
追求に重点をおいて説明すると、それは研究法というよりも発表法に
ちかづいてゆく」とチャイルドの考えとよく似たことを書いていることです。」
どうも、相対編年も怪しいのかもしれない。
まあ、土器編年は眉唾と言うしか、逃げ道はないわけで。
土器編年にも当然限界があるのは当たり前。概ね整合性が取れているとは思うが。
ていうか、それくらいしか方法はないのだし、ようは蓋然性の問題。
妙な「思い込み実年代」で否定するのもどうかと思うが。
弥生後期の始まりを2世紀末にするってのは、あらゆる証拠と
合わなくなってしまう。どういう根拠で言ってるのだろう?
まさか倭国乱?w
教えて欲しいのだけど
当時の中国発音で邪馬台国は何と読むの?
やまとに近い発音なら、大和朝廷の前身なんじゃない?
弥生時代の始まりを紀元前300年前にしたのって
明治の頃に、倭国大乱かなんかで
かなり、その当時の学者が勝手にそのことを重大視して
そういう定説を促したんだろう?
それをいつまでも引きずっている。
しかし、本来、土器編年では、明確な年代なんて分からない。
>>547 大和王朝の前身というよりも
大和王朝そのもの。
>>549 有難う。
では当時の中国発音でも、やまとに発音が近いんだね。
それと、大和(やまと)自体の本来の意味はなんなの?
大和・・・日本を指すのは知っているけど、やまとの意味を知りたい。
日本は、日本を指すけれど、日ノ本、日が昇ると言う意味があるよね。
それのやまとバージョンを知りたい。
倭人は文字を持たなかったから、やまとの意味を知る事は無理なのかな。
記紀に、やまとと言う単語にはこう言う意味があったとか記述されてないの?
例えば
大和・・天、地、星、太陽、勇敢な、話し合い、水、海
↑
こんな感じで。
やまとは日本を指すのは知ってるが、倭人はその単語にどの様な意味を持たせていたのか気になる。
551 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 07:41:21
>>550 邪馬台国は、たとえば梁書では、「邪馬臺國」と書かれている。
倭人伝は、「邪馬壹國」となっているけれども、これは邪馬一国となる。
一般的には倭人伝は間違いといわれているが、そうでないと言う意見もある。
で、邪馬臺國をなんと読むかというと、「やまたいこく」らしい。
「臺」の字は、どうも「ト」とは読まないらしい。
では、「臺」はどういう意味かというと、これは台と同じ意味になる。
高い場所や高い建物を意味するらしい。都のような意味もあると思われる。
日本では、台を「うてな」とも読む。これも高殿という意味がある。
邪馬台国の読み方などは、単純なようでけっこう難しい問題だと思う。
552 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 08:39:30
「臺」の字の頭の子音は三十六字母で「定」。全濁ダイdai。
「台」の字の頭の子音は三十六字母で「透」。次清タイthai。
「馬」は呉音(六朝時代)マma,漢音(唐代)ムバmba。
「邪馬臺」をヤマトと結び付けたいヤカラはヤマタイと読む。
唐代後半には中国音で清濁の区別が無くなったので
タイワンを「臺湾」と書いたり「台湾」と書いたりするが
「臺湾」ならダイワンdaiwanと発音するのが奈良時代以前の
日本の伝統。
「神社」をジンジャと「神」を濁って読む。
「神道」はシントウと濁らずに読む。
「シントウ」と濁らずに読むのは唐代後半、
日本でいえば遣唐使を廃止した前後の読み方の習慣。
古い読み方ならジンドウとなるはず。
「神武ジンム」、「神社」、「神西ジンザイ」は
奈良時代以前の漢字音の伝統に従っている。
>>551 ?
当時の中国発音でも(上古音?、中古音?)で邪馬台国は「やまたいこく」と呼んでいたのですか?
やまたいこくは現在の日本語読みだと思ってましたが、、、。
私の聞き方が悪かったかも知れませんが、当時の中国発音でなんと呼んでいたのか知りたいのです。
1・・梁書に書かれている「邪馬○(変換不能)国」と倭人伝に書かれている「邪馬壹国」は
当時の中国発音では何だったのでしょうか。
2・・邪馬台国は、当時の倭人が自分達の国を自称で呼んでいた発音を中国で使用されていた漢字
で当て嵌めたのでしょうか。例・アメリカ、フランス、スイスは漢字で当て嵌めると
亜米利加、仏蘭西、瑞西です。倭人が発音した国名を当時の中国人の耳に聞こえた
音感を漢字に当て嵌めた。中国人の耳に聞こえた音感。
3・・上でやまとの意味と聞いたのは、梁書の邪馬○(変換不能)国や魏志倭人伝の邪馬壹国の
漢字の意味でなくて、大和朝廷のやまとの意味です。当時の倭人がやまとと言う言葉にどんな意味を
持たせていたのかです。例・ウラジオストックは、凍らない港ですよね。
大和言葉でのやまとの意味を知りたいのです。
4・・それとも2番(アメリカ亜米利加、フランス仏蘭西、スイス瑞西)とは逆に
当時の中国人が、倭人使用のやまとの意味を当て嵌めて邪馬○国や邪馬壹国
の漢字を使用したのでしょうか。例・3番の例で書いた様に
ウラジオストックを漢字にすると不凍港ですよね。露西亜人の発音のウラジオストックを
漢字に当て嵌めてなく、意味を漢字で表現しています。亜米利加・仏蘭西・瑞西とは逆です。
>>552 画面を切り替えてなかったので、投稿に気付きませんでした。
有難う。発音は分りました。
2・3・4について知っていたらお願いします。
>>554、付けたし
じゃあ台与は、とよと呼んでいますが、正確には、だいよと読のですか?
奈良以前は、だいよと濁って呼んでたんですね。奈良以後でも、たいよ。
誰が、とよと読み始めたのでしょうか。
邪馬台国は、奈良以前の日本でもやまたいこくと呼んでいたのですか。
卑弥呼もひみこ。
タイムマシンが発明されて、卑弥呼の時代へ行っても現代日本語が通用するのか不安だ。
トヨタン・・・・・・・・
558 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 11:48:56
ヤマトは漢語「大倭→大和」の意味(訓)が、そのままヨミになった。
和語ヤマタイは絶対ヤマトに転訛しない。
ヤマトへの転訛はヤマタオ
559 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 12:13:42
>>544 >出ていない古墳のほうが古いような印象
上での議論はそれをそのまま認めるかどうかの違いだろうね。
古墳時代開始後に吉備で始まった特殊器台を取り入れた古墳が
一時期存在すると考えれば、特殊器台は布留0でようやく出てくる
指標に過ぎない。
これに対して、数個の特殊器台で楯築を大幅遡上する考えは
箸墓を280とした場合、楯築を150〜200とする。
これが荒唐無稽であるとの批判は当然のことですね。
>>559 >これに対して、数個の特殊器台で楯築を大幅遡上する考えは
無知、いや、無恥
>箸墓を280とした場合、楯築を150〜200とする。
至極当然
>これが荒唐無稽であるとの批判は当然のことですね。
おのれが荒唐無稽
561 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:05:21
>>560 君のレスはレベルが低すぎるね。
このスレを読んできた人に、
>>559と
>>560の自演で年代遡上説を
貶めていると勘違いされそうでイヤだw
だからもっと頑張れ!
562 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:09:46
アグネス・チャン(陳美齢)の出身地香港やその隣の広東では
「愛」をoi、「臺」をtoiと発音する。
つまりaiがoiに変化している。
日本語のトを「臺」toiで記録した可能性はある。
現代中国語では日本語のエに似た音は無く
愛aiをぞんざいに発音した音で代用したりする。
Edward→愛徳華
563 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:50:59
>>562 物事を可能性で語っちゃダメだよ
まったくズブの素人が、国史編纂に関与しているわけじゃないんだから
ヤマトは純正和語、漢語との絡みはいっさいない。
意味がそのままヨミに
だから大和は(やまと)
564 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 16:02:47
>>562 >現代中国語では日本語のエに似た音は無く
ここでいう「現代中国語」とは“普通話”=Mandarinのことである。
広東語「臺」toiの音は無論唐代後半以降の濁音が清音化した後の音で
三国時代や西晋時代ではdoiであった可能性が極めて高い。
ヤマ「ト」という清音ではなくヤマ「ド」という濁音だったと推定される。
>>563 残念ながら古代ヤマトびとは悉曇人との交流がなく
純正和語であろうとなかろうと古代漢語の文字でしか
記録されなかった不幸を裏目。
ヤマトは山処だろうな。
たたなづく青垣 山篭れる 大和し 麗し
実利的な面で言えば、吉野の木材資源(杉)を押さえた初期ヤマト王権が、
その水軍力を利用して瀬戸内海に覇を唱えたということ。
初代天皇とされる崇神天皇の忌み名がミマキイリヒコというのは、
御真木(=杉)のことだろうし、大神神社が後世、杉の御社と呼ばれていたことも
それを裏付ける。
>>566 紀でも、崇神は初めて船を造ったと伝承されているしね。
あながち間違っていないように思う。
>>566 御真木は、記紀に登場する
三巻(みまき)だろう?
三輪山の由来にもなった言葉。
569 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 20:53:08
記紀に出てくる名前は成年後か、死後か、その後に作られたと
思われるものが結構あるね。
崇神に敵対した側の吾田ヒメは、「アタ」=「敵」のヒメ
仁徳も大雀=オオサザキ=大稜(サザキ=稜)
570 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 21:10:40
大国氏の一連の意見(
>>132>>146>>148>>150>>152)が気になってきた
>>146 >鋳造はその年に造るのが正着だが、銘はそうでもその年からいささかズレて
>造るときもあろうと思う。鏡銘景初3年でも実際は同2年とか4年等とかも
>あるんではないの?
考えてみればその通りで、カレンダーとか年賀状とかは、
もう「平成20年」のが出回っている、月刊誌1月号もじきに発売だ
逆に、年末押しつまって亡くなった人は遺族が墓石(または墓誌)を注文しても
業者が墓銘を彫るのは来年だ、しかし墓にまさか「納骨日の日付」は書くまい。
「平成19年12月20日享年88歳」とするだろう、確かに1年ズレる
だから日本史に関わる遺物や記念物なら、墓碑銘でも石仏でも紀年銘は
「おおくはその年のもの、ただし若干は前後の年のもある」と見るべきだ。
古文書の奥付や書状の類も同様と思うが、考えてみれば我々歴史好きは
これらの紀年が何十年もサバを読んでいるとは普通おもわない。
紀年銘のある銅鏡だけ「紀年銘はうそを彫った」とは考えにくいと思った
571 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 21:25:27
>>570 拙者の過去の古神道の論文を某人らに分けたときに、文末の予定日時は急用が
でき、別の仕事で自宅を離れる結果となり、実際はその文面の日に発表と
することが出来なくなったことがありますので、ズレはありえますね。
>>570 明帝は正月に死んでるから、当然そのような混乱はあったとおもわれ
573 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 21:43:47
銅鏡? 景初四年?
10円銅貨の発行も、平成19年と書かれていても前年にすでの造られていたとか
あるんじゃないのかね? 造幣局に聞けば分かるだろうが?
>>573 造幣局は、年末年始は優雅な超長期休暇をとってるのでは?
これがもし民営化などされたりしたら、人員削減とか儲け主義で
休日出勤、働け働け!となって、ゴマカシも日常茶飯事となる?
575 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:27:14
>>573 景初四年鏡はいろんな考えが出てるね。
俺は、魏帝崩御の情報を知らないまま、
つまり正始と改元されたことに気付かな
いままの工人が「今年は景初の四年だな」
と思い込んで、240年の早い段階で(1月〜
2月頃)鋳造したんだと思う。
だから製作地は洛陽からかなり遠いとこ。
で△鏡国産説に有利とは思うが、最近出た
△鏡楽浪郡鋳造説ってのもあるね。それも
考えられると思う。洛陽から遠いからね。
でも△鏡は「卑弥呼の鏡」じゃないだろうね。
三角縁が卑弥呼の鏡かどうかは疑問だが、
技術的に見て国産ではないだろう。
中国工人が渡来したのだとすれば理解出来るが。
少なくとも、ヤマト王権が魏の年号の鏡を国策に利用しようとした、
というのは間違いない。
577 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:41:31
>>574 造幣局が民営化?儲け主義???
もし民営化造幣局や民営印刷局ならさ、日銀への納付分以外に、自主的に業務すりゃいいじゃん。
ガバガバ儲けられるよ。wwww
578 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:41:42
景初二年(238年)に公孫氏が滅び、魏が帯方郡を支配下に置く。
景初三年(239年)正月に魏の明帝が死亡する。
同 6月に卑弥呼が使者を帯方郡に送る。使者は、魏の都に到着する。
同 12月に証書が出される。
正始元年(240年)、帯方郡の梯儁が、詔書、金印、鏡その他を持ってやってくる。
ということだから、鏡を卑弥呼のために作ったとすれば、それは正始元年で
あると思われ、景初三年も景初四年もありえないような気がするが。
579 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:51:09
景初四年鏡とか三角縁神獣鏡とか論じ始めると議論百出となる希ガス。
ここで突っ込んでやるより、銅鏡専用スレを立てたほうが良いと思われ。
580 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:52:21
??? ? ???
??? ???
? ?
? ?
???? ? ????
? ??? ?
? ? ? ?
? ?
? ?
? ?
? ?
? ?
???????? ? ? ????????
???? ??? ??? ???
?? ??
>>579 >少なくとも、ヤマト王権が魏の年号の鏡を国策に利用しようとした、
>というのは間違いない。
結論はこれでいいのでは。
582 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 23:38:24
>>579 500対0の出土状況からみて舶載は絶対に有り得ないで、終了。
というか、いまだに舶載とか言っている人ってオウム並みにキモイw
583 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 23:40:44
>>581 紀年鏡は、同位体比でみると異なる年号の鏡がほぼ同時期に
作られていて、それが2個のグループになると判明している。
よって、後世にこれらの年号が書かれたと結論が出ている。
あとは、これを直視できるかどうかの人間性の問題。
>>583 いやだから、ヤマト王権が魏の年号を利用しようとしたことまでは否定できないだろう、と。
流石にそこまでは否定しないよねw
仿製か舶載かは、鏡の専門家に任せた方がいい。
585 :
ローガン:2007/11/27(火) 00:30:20
>>581もうちょっと考えてみよう!
景初三年十二月の次の一ヶ月は一体何かな?
閏は一年前にあったよなあ。
>>584 △鏡が国産であり、かつ後世の日本で魏の年号を鏡に記した。
これを認めるなら、魏志、魏略等の編纂された後にそれらの書物が
日本に持ち込まれ、そこに記載されていた年号を△鏡に記したと
考えるのが合理的ですね。
この考えでは、日本で△鏡の製造が始まったのは、300年よりあと
と考えるのが自然です。
すると、△鏡を出土する古墳の年代もそれに従うことになります。
画文帯の紀年鏡も国産と考えると、どのような書物が日本に持ち
込まれたのかも、ある程度想定できます。
>>583 青銅原料(銅+スズ+鉛)が、スクラップか地金(かひょっとして鉱石?)の形で、日本から半島・大陸へ逆移送(輸出)されてた可能性は?
可能性が完全に否定されず、わずかでもその可能性があるのなら、新井説は意味をなさなくなる。
>>587自己レス。
書き忘れたが、半島→大陸 の原材料の移動の可能性もないのだろうか。
589 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 01:12:05
>>586 >これを認めるなら、魏志、魏略等の編纂された後にそれらの書物が
>日本に持ち込まれ、そこに記載されていた年号を△鏡に記したと
>考えるのが合理的ですね。
そんな珍説、初めて聞いた。ww
もし魏志が持ち込まれていりゃあ、当時の鏡工人も我々同様、景初年号が
3年までしかなかったことを知るよな。
それでいて、なんでわざわざ「景初4年」鏡をつくるのだ? 可笑しいぜ。ww
>>587 その可能性を検討する方向性は厳しいと思う。
私も、新井説を全部正しいと考えているわけではありませんが、学会、
特に鏡を専門とする学者が新井や馬渕の研究を無視するという態度は
腹立たしく見ています。
不利な情報の無視、黙殺は実社会では、通用しないやり方です。
不利なデーターを無視したメーカーや商社は他社に出し抜かれます。
顧客のシグナルを無視した小売店は顧客から見放されます。
些細な見落としでも航空会社では飛行機の墜落を招きます。
我が家の古いタンスから出てきた写真を整理してみているのだが
まったく土器編年のような事やってるよ
AよりBの写真の方がひい爺さんが若そうだからBの方が前のだろう
Cの服はDにも出て来るからCDは同時期の撮影だろう
とかやりながら写真を順に並べていく
景初4年は「同時代の洛陽からの遠隔地だからこそ」
起こり得た混乱と見るべきでしょうね。
晋の時代も、台与?は遣使してますし、それなりに情報も入っていたでしょうし、
仮に三角縁が国産だとしても、300年以降の生産という根拠にはならないかと。
593 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 08:41:59
年号の刻まれた鏡というと、どうしても景初三年や景初四年だけが話題に
上るわけだけど、実は、赤鳥元年、赤鳥七年という年号のものもある。
赤鳥は呉の年号で、赤鳥元年は景初二年(238年)に相当する。
魏と交流する頃の呉の年号の鏡がどうして存在するのか。
平縁神獣鏡には、景初三年のものと、赤鳥元年のものがある。
同じ頃、同じような鏡を魏と呉の両方からもらったわけだろうか。
そんなことはありえないので、両方とも日本で作られたと考えられる。
また、同じく平縁神獣鏡で晋の元康年間(291年〜299年)の年号のものもある。
つまり、これらは元康以降に作られた可能性が高い。
だから、紀年鏡は、少なくとも4世紀に入ってから日本で作られたのでは
ないかと思う。
594 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 09:50:55
景初四年の年号は、景初四年が存在したから
595 :
ローガン:2007/11/27(火) 10:18:34
596 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 10:52:39
>>589 紀で引用されとりますがな。
それがいつ日本に来たのかだけが問題ですがな。
>>593 同意
その年号の元になったのは、日本に関係する記載のある
書物の記載であろうと考えられる。
598 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 11:45:24
>>593 不同意だよ
>同じ頃、同じような鏡を魏と呉の両方からもらったわけだろうか。
>
>そんなことはありえないので、
ありえるよ。
ありえないってそんな簡単に決めつけちゃだめだよ
いま中国本土と台湾は分裂してて別べつに政府あるけど
日本は両方から人もモノも入ってきてるじゃん。
599 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 12:02:26
>>593 ここもヘン。やっぱり不同意だよ
>また、同じく平縁神獣鏡で晋の元康年間(291年〜299年)の年号のものもある。
>つまり、これらは元康以降に作られた可能性が高い。
どして?
どして以降なの?
晋の元康年間(291年〜299年)の年号のものは
晋で元康年間につくったんだよ。以降じゃないよ
そのあと日本に入ってきたんだよ。
>>593 私も、それらの鏡が300年以降に日本で作られたと考えています。
年号は何らかの書物(魏志、魏略等)の日本関連部分を元にしていると考えるのが
合理的で、呉の年号があることからは、238年頃に日本は魏と呉の双方と交流が
あったと考えられます。
それが同じ勢力とすれば対立する魏と呉を手玉に取って財物を得たと言えますが、
女王国と狗奴国のように別の勢力であれば、狗奴国は呉と交渉をもっていたこと
になります。
私は、後者の可能性は十分にあり、後世に呉から渡来した人々が持っていた
書物に呉の年号が書かれていたのではないかと推測しています。
601 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 12:23:41
>>593 不同意つづけるよ
>だから、紀年鏡は、少なくとも4世紀に入ってから日本で作られたのでは
>ないかと思う。
だからってとこアヤシイよ。
おじさんはきっと、紀年鏡は、少なくとも4世紀に入ってから日本で作られたと
思いこみすぎてるんだよ
鏡を魏と呉の両方からもらうのはありえないとか
晋の元康年間の年号の鏡は元康年間の以降とか
おじさんがヘンな決めつけしちゃうのはそのせいだよ。
あ、おじさんていってごめんね。おにいさんかな。訂正しとくよ
602 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 12:42:28
>>600 600さんのレス、よくわからない
>私も、それらの鏡が300年以降に日本で作られたと考えています。
>年号は何らかの書物(魏志、魏略等)の日本関連部分を元にしていると考えるのが
>合理的で、呉の年号があることからは、238年頃に日本は魏と呉の双方と交流が
>あったと考えられます。
238年頃に日本は魏と呉の双方と交流があったんでしょ
だったら双方から鏡が来ててもいいじゃん
と一瞬思ったけど読みまちがいかな。
難しそうなレスだからもっと考えるけど出かける時間になっちゃった。またね
603 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 13:50:45
頭から思い込んでいる人間を説得するのは困難。
少なくとも中国の鏡の専門家、王仲珠は、
三角縁は呉の工人が日本に渡来して製造したと言っている。
つまり三角縁は3世紀当時の中国鏡の製作技術と同じと言ってるわけだ。
なぜ三角縁を4世紀以降の製作としたいかと言えば、古墳時代の始まりを出来るだけ遅くしたいから。
なぜ遅くしたいかと言えば、邪馬台国東遷説にしがみつきたいから。
「邪馬台国東遷説は正しい」がまず大前提にあって、史料や考古学の物証を検証する冷静な眼が
失われている。
物証0で考古学的に東遷説が否定されてきつつある今でも、
記紀の神武東征伝承を持ち出して、その根拠とする。
で、記紀でも自説に都合の悪い欠史八代は無視。記紀を都合よく自説に利用しているだけ。
605 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 16:27:40
>>603 >国産という前提に乗らないと議論にならないね。
言い方が高圧的過ぎる。ドンと来いだから色んな議論があっていい。
それと
>>603はひょっとして、何か勘違いしてないか。
呉年号の赤烏鏡の2面と、晋年号の元康鏡1面は、△縁ではないぞ。
606 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 16:55:42
>>604 >なぜ遅くしたいかと言えば、邪馬台国東遷説にしがみつきたいから。
同意するが、より正確に言うなら、こうではないだろうか。
「卑弥呼(&台与)=天照大神説 と 神武東征伝承 と 地名の一致とやらで組み立ててしまった某氏の邪馬台国東遷説にしがみつきたいから」
違うか。
607 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 16:57:34
>>605 たしかに、いろんな議論があっても良いね。
ただ、△舶載説が存在できるのは学会ぐらいで、外の世界では
正気とは思われないことは、認識した方がいい。
△国産となれば、同時期の他の鏡の多くが国産と考える方向に向かう。
画文帯は当然として、画像鏡から連弧までがその対象となる。
>>607 国産かどうかの結論は出てないだろ。
国産の可能性もある、が正しい認識。
ていうか、国産でないと何か都合が悪いのか?
結局のところ、古墳時代は4世紀後半から始まるを強弁している人に
とってみれば、「三角縁が4世紀後半以降に初めて日本で製造された」ことに
何としてもしたいのだろう。
余裕ないよな。
かなりバイアスのかかった意見なんで、みんな注意して読んだ方がいいよ。
610 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 17:33:34
学会の外の社会では、500(以上)対0の出土量の差で完全決着と考える。
閉鎖的な社会の閉鎖的な言論は、見苦しいだけ。
611 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 17:56:54
612 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 18:50:49
あのなー、
三角縁はマスコミ等の学界以外の分野では、
今だに「卑弥呼の鏡と言われる」と言う枕詞で
語られることの方が多いだろう。
国産、舶載の議論も学会の場で行われた来たことだ。
全くとんちんかんな人だねえ。
でもって、その学界での趨勢がどうかと言うと
邪馬台国の所在地については畿内が優勢で、
三角縁については国産説が有力だということ。
ただ、それだけのこと。
この単純な事実関係を認識していようがいまいが、
まあ、邪馬台国論議自体にも関係ないけどね。
613 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:01:37
>>612 君は学会の工作員かな。
弥生時代の各種鉄器が北部九州と畿内で50〜300対1位の大差が
あっても、その考古学的分布をそのまま言うことさえタブー視され、
それを事実と認める者がいない時代が4,50年続いていた。
それが、学会の実態だということには、一度も反論していないようだが。
その連中が、500(以上)対0の大差を認めなかったから、舶載とか
考える方がおかしいよね。
614 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:03:12
年代遡上も学会の外から、どれだけ批判があろうとも
無視し続けているが、同じ行動の繰り返しですね。
年代遡上についてだけど、
そもそも、これまで定説とされてきた年代も
かなり いい加減だったわけで。
年代遡上に慎重に...というのなら、同時に
これまでの年代も取り下げるべき
というぐらいにしないとフェアじゃない。
616 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:58:15
昭和天皇が1月7日に崩御された時、昭和64年の500円硬貨がすでに
流通していたんだよね。俺も1枚持っている。
617 :
一応九州王朝説:2007/11/27(火) 20:03:08
>>612 だからどうしたって感じだねw
>三角縁はマスコミ等の学界以外の分野では、
今だに「卑弥呼の鏡と言われる」と言う枕詞で
語られることの方が多いだろう。
一部の狂信的マスコミが言ってるだけだよ。ただ「朝日新聞」とかの影響が
大きすぎるだけで。
学会の趨勢とやらが大衆の支持を得ているかどうかは、未だに世論調査
などで九州説も根強い事をどう説明するんだい?
邪馬台国所在地の世論調査なんてやってるんだ・・・
619 :
612:2007/11/27(火) 20:48:01
>>617 要するに三角縁と邪馬台国論議は関係ないって話だよ。
三角縁について、大事なことは原型が何時出来たかよりも
それが布留期には畿内を中心として広域に流通する体制
ができていたという点だろう。
そして、それは邪馬台国よりも後の時代の話、これが学会の趨勢。
さあ、邪馬台国論議に戻ろうじゃないか。
>>617 あら、お久しぶりです。
上の方のコテ無しの
>>486などでもしやと思いましたが、
やはり貴方でしたか。
三角縁神獣鏡を国産と考えた場合に、その製作時期はそこに描かれて
いる道教の思想がいつ栄えていたのかが参考となる。
道教は呉の時代は中国南方の地方宗教に過ぎなかったが、東晋で
大いに発展して、葛洪の『抱朴子』(317年)で理論が大成し、その後
種々の学派により体系化が進んだ。
その絶頂期は、365年で神仙が次々と地上に降りたとされ、これを
受けて皇帝は翌年から元号を「太(泰)和」とした。「泰和」は七支刀に
もある元号である。
三角縁神獣鏡が日本で最大生産期を迎えたのもこの頃ではないか。
>>613 >君は学会の工作員かな。
びっくりした。
頼むから学界と書いてくれ。一瞬、某宗教団体のことかと思ったぜよ ww
まあ考古学界が秘密裏に工作員組織をつくるとはとても思えんが w
623 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:11:22
三角縁心中鏡の国産説は作家の松本清張が言い出したんじゃなかったか?
おぼろげだが俺、なんかそんな記憶があるんだが。間違ってるかもしれんが
すまん。
>>624訂正
三角縁心中鏡(×) 神獣鏡(〇)
そういや、惠也はどうしてるんだろ
お〜い、惠也! け〜れや!
>>624 1962年頃に森浩一が最初に提唱。森は、大部分が国産で初期は
帰化人(江南あたりを想定)が製作したとする。
その後、71年に松本清張が全部国産説を提唱し、全部日本で出土し、
中国からはただの一面さえも出ていないことを強調した。
79年に、古田武彦も根拠を補強して全部国産説を提唱。
その後、奥野正男(81年)、王仲殊(81年)、安本美典などが続いた。
作家では、黒岩重吾(91年)が松本に続いた。
最近では新井宏も同位体比から国産説を結論付けた。
と書いてきて、改めて森浩一はスゴイ人だなあと思った。
629 :
624:2007/11/27(火) 23:07:03
>>628 サンクス!大サンクス!!!
な、俺の記憶もまんざら捨てたもんじゃないだろうが
630 :
612:2007/11/28(水) 01:46:18
>>628-629 伝世否定(つまり古墳時代の鏡)論として纏めたのは内藤晃じゃないか?
1950年代から積極的に論文を出していると思ったけど。
モリコー説というのは内藤の説を補強したというような感じだね。
ただ、二人とも「全て倭鏡」とは言っていない。
学者だから雛形として「舶載」物もあった可能性を否定し得ない以上は極論は叫ばない。
作家が本業の清張さんには、そういう柵も無いから、マスコミ受けのよい言い回しが出来たのだろう。
と、言うことで完全「国産説」と言う定義で考えれば、言いだしっぺは清張さんだね。
また、逆の完全「舶載」説というものは昔も今も存在しない。
つまり、何十年も前から国産か舶載かと言うような議論は存在しない。
100人の論者が居れば99人までは「一部国産、一部舶載の可能性がある」としか言わない。
論点は「国産か舶載か」ということでは無く、三角縁が何時頃の鏡かと言うことなんだ。
そして、現在では、その初登場の時期はともかくとして、
倭王権による配布・流通体制が確立したのは古墳時代前期後半以降であろうと言う点で、
意見は一致している。
参考までに内藤の事績の一端を示せる資料があったので紹介しておく。
ttps://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/3596/1/Shien144_hp001.pdf
631 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 02:46:58
>>630 >100人の論者が居れば99人までは「一部国産、一部舶載の可能性がある」としか言わない。
それが詭弁だと理解できる知能はあるよね。
>>630 細かいことを言い出したら、横田健一は、天皇が臣下から神宝をもらうことは
あっても配ったことはないと配布論を否定したのも、一括管理→伝世という論理
を否定している(58年)。
薮田嘉一郎は62年に紀年が「記念すべき年」として後代に書かれた可能性
を論じている。
内藤晃が伝世論を批判しだしたのは59年からで、ほぼ同時期に原田大六は
「手ずれ」の否定から伝世論の否定を述べている。
伝世の否定=国産説ではないので、国産説の提唱者は森浩一で良い。
大半(又は全部)を国産とするのが国産説で大半を舶載とするのが舶載説で
両者は相対的な違いではない。
特に、国産説は紀年鏡をも国産に含めるのに対して、舶載説は紀年鏡は
必ず舶載に含めるという違いがある。
ちょっと質問したいんだけど、
日本以外の国って
土器の種類によって、歴史区分(考古学区分)をして
絶対年代を提示している
ところってあるの?
最近、弥生時代の遡上問題があるだろう?
でも、あれを批判するむきがあるが...
それなら、これまでの縄文時代、弥生時代の定説自体
問題があるんじゃないのか?
話によれば、沖縄では、縄文土器、弥生土器って出現しているけど
全部、一括して、先史時代という括りをしているらしい。
634 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 08:07:02
>>631 >それが詭弁だと理解できる知能はあるよね。
国産だの舶載だのと言う言葉に拘ると論点がずれる、と言ってるんだよ。
要は「三角縁が卑弥呼鏡」かどうかと言うことだろう。
で、学界での大勢は「布留期以降の鏡」と言うことに決している。
それが2Chだと国産とか言葉じりに拘るから
「輸入の可能性が否定できるか」みたいな無意味な反応を呼び、
つまらんことば遊びみたいな議論が
ダラダラと続くことになる。
ここまで言えばキミの知能でも解るよね?
635 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 09:35:35
中国の人が、倭国に来て驚いた。全然ちびな国民ではない・・・。
で、道行く人に尋ねた。「この国は、何という名前か?」
通行人は答えた。「ヤマトタイ」。それが中国人には「ヤマッタイ」あるいは
「ヤマタイ」と聞こえた。そうか、この国はヤマタイという国か・・・・。
博多弁で答えた通行人がいたとしたら、案外こんなところが真相なのではないだろうか?
その頃博多弁がもしあったなら、ネ。
636 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 09:59:51
博多弁は当時からあったようです。(古田説)
しかしそれなら、伊都タイ、とかナタイとかのっててもいいとおもいます。
637 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 10:18:11
そうですね。歴史の一回性を普遍性に置き換えるのは、
確かに手法を逸脱しているかもしれません。
国名の確認をどのようにしていたか、それはわかりませんし
例えば伊都国は、筆談で確認したかもしれませんし・・・。
今となっては、すべて想像の域を出ません。ベーシックな記録精査、
文献や遺跡をあたり、でも、最後はより確率の高い選択によって、定説となって
行くような歴史の手法です。私はそれが悪いとは言いませんし、歴史研究の
恩恵にも浴しています。
私のようなお気楽な考えでも、この論争に参加できる余地があれば、
それはそれで、とても嬉しいのです。
638 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 11:58:50
639 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 12:23:43
>>635 2ちゃんでたった一レスにて潰される説って
ある意味『ネ申』説
640 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:05:35
そうですね。
でも、皆さんの説を読むのも楽しいですから・・・。
勉強になります。
641 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 19:43:20
>>634 ←国産と舶載では、全く事態が異なるよ。
舶載説は、紀年を根拠に△鏡が239年に魏で作り始められ、卑弥呼に下賜された
とし、それを倭王権が配下の者に配布したとする。
年代遡上説でも三角縁の埋納が280年(遡上前は330頃)より前に遡らないのは、
王権が一定期間管理してから配布したとか、伝世したとか説明することになる。
国産説は、他の鏡の要素を統合して△鏡の製造が日本で始まり、埋納が始まる頃が
製造が始まった頃であり、それは330年より後のことであるとし、その製造の契機
を考えれば、
>>621のような年代観となる。
国産説を認めれば、画文帯を始めとして、画像鏡、獣首鏡、キ鳳鏡、連弧紋など△と
近い時期の古墳から出土する鏡にも国産の可能性が出てくる。
特に、画文帯の紀年鏡を△同様に国産として、後世に古い年号が書かれたとすると
年代遡上説の重要な支柱が崩壊することとなる。
それ故、500対0でも国産を認めないという行動につながる。
642 :
612:2007/11/28(水) 20:09:25
>>641 >国産と舶載では、全く事態が異なるよ。
ほんとに呆れるねえ・・・
例えば、代表的な三角縁出土遺跡である黒塚古墳の築造、埋葬時期に対する
諸見解は大方が3世紀末から4世紀の前半だ。
貴方の
>>621の見解とどこが違うの?
三角縁は、そのころの社会状況の中で何処の勢力がどの地域に関係を
持っていたかを語るときに必要なアイテムなのであって、
それが埋納直前に輸入または製造されたか、はたまた奇特なコレクターの手にあったかは
さして重要ではない。
ましてや、邪馬台国論争の中で畿内説とか九州説とかの真贋に影響を与えるものでも
ないと思うよ。
643 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 22:23:54
>>641 ←この人、自分の脳内で勝手に描いた対立図式だけしか言わない。
>舶載説は、紀年を根拠に△鏡が239年に魏で作り始められ、卑弥呼に下賜された
>とし、それを倭王権が配下の者に配布したとする。
それは小林行雄が昭和30年に発表した有名な学説だ。もう半世紀以上も昔のことだ。
だが今は、例えば西川寿勝のように別の考えをする研究者もいるのだ。みんな色々考えている。
きみが内藤・原田・森や斎藤(忠)・岡本(朋)・西嶋(定)の諸氏のように理由を挙げ、
「ゆえに私も小林説には反対の立場である」と意見表明するのは結構だが、
勝手な対立構図の押し付けは、やめてくれないか。
>年代遡上説でも三角縁の埋納が280年(遡上前は330頃)より前に遡らないのは、
>王権が一定期間管理してから配布したとか、伝世したとか説明することになる。
あのな、一口に「遡上」と言っても、研究者によって年代観はバラバラなの。ww
「三角縁の埋納が280年より前に遡らない」と言った人は、いたかもしれないが(誰?)、
「280年よりさらに遡る」と言ってる人もいるぜ。
またきみは「ギャーひどい!」と叫ぶかもしれないが、布留0を250年よりさらに上げて、
240年代の可能性を考える人まで出てきているのだよ。箸墓は3世紀「前半」かも。ww
それと、伝世は、小林説のような意味じゃなくて、「鏡のなかには、鋳造後何十年も
また百何十年、二百年……と地上にあって、墓にはすぐには入れられなかったものも、
中にはあっただろう」
ぐらいの意味だったら、ほとんどの学者が鏡種を問わずそう考えているのじゃないかね。
644 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 22:34:53
>>642 前提がダメだね。
黒塚古墳は、年代遡上が始まる前は4世紀後半とされていた。
椿井大塚山も同様に4世紀後半とされていた。
そもそも、君の理屈は循環論だし。
君の主張する遡上年代で両者を300年頃とし、両者の鏡が舶載
とすると、@特鋳、かつA一括管理および配布、かつB伝世という
特異な事情の連続という異常な理屈だよね。
しかも、紀年鏡は△鏡の変遷の上では、この両者よりも後の時期で
出土している古墳も後の時期。その鏡に書かれた年号が239年と
いっても、全く信用できないのは自明のことである。
645 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 22:44:29
>>643 ←争点拡散でごまかしですか。
舶載説は、紀年鏡はその年代に製作されたという点は変わらないよね。
そこを譲ったら、恥を忍んで舶載説を唱えている意味がなくなる。
その紀年(239、240)を正しいとすれば、卑弥呼への下賜鏡とせざるを得ない。
しかし、年代遡上をいくら頑張っても、三角縁を出土する古墳の年代をそこまで
古く言う学者は居ない。とくに、紀年鏡を出土する古墳は無理。
そこで、中国で出ない三角縁は、数千枚の特鋳であるというほら話をいい、
しかも、その数千枚の三角縁を一括管理したとか、その特鋳が中国で
2、30年続いたとかのほら話につながる。
ところで、君は△出土古墳の年代をいつと考えているのかな?
646 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 22:55:46
年代遡上の根拠の一つに土器編年について。
庄内式は遡上前は300年頃からとされていたが、平原王墓で庄内式
が出土して、平原を200〜250年頃として、庄内式もその頃に遡上させた。
しかし、平原の年代は、△鏡舶載説の年代観なんだよね。柳田はその点を
はっきり述べている。
つまり、紀年鏡を元に、画文帯(180〜240頃)、三角縁(239〜)とすると
画文帯や三角縁を出土しない平原を250以降とは見れなかったという理屈。
年代遡上に舶載説が重要な関わりがあるというのは、このこと。
私は、三角は350〜360年に日本で製造が始まったと考えているし、画文帯は
310以降に日本に持ち込まれたものとその複製が大半と見ている。
平原は280〜310頃と見ている。
647 :
612:2007/11/28(水) 23:30:02
>>644 > 前提がダメだね。
キミがダメなんじゃないのかな。
> 黒塚古墳は、年代遡上が始まる前は4世紀後半とされていた。
> 椿井大塚山も同様に4世紀後半とされていた。
そうだねえ。
> そもそも、君の理屈は循環論だし。
どこか循環?意味判って使ってますか・・・その言葉。
> 君の主張する遡上年代で両者を300年頃とし、両者の鏡が舶載
> とすると、@特鋳、かつA一括管理および配布、かつB伝世という
> 特異な事情の連続という異常な理屈だよね。
俺、そんな主張した覚えはないけど。何かの幻覚じゃないの?
> しかも、紀年鏡は△鏡の変遷の上では、この両者よりも後の時期で
> 出土している古墳も後の時期。その鏡に書かれた年号が239年と
> いっても、全く信用できないのは自明のことである。
紀年鏡の真贋なんて問題にしたつもりもいないが。
何度も言うけどキミの三角縁に対する薀蓄と邪馬台国の所在にどういう関係があるの?
黒塚から何枚出てきたからって、それが畿内だ、九州だって議論にならんでしょう。
648 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 23:48:42
>>647 なら、君の意見を言ったらどうかな、学者がどうこうとかはいいから。
君は基本的に自分で考えると言う作業が不足していると思う。
649 :
612:2007/11/29(木) 00:07:45
>>648 何、ボケたこと言ってるんだよw
邪馬台国と三角縁は関係ないだろーが、つーのが終始一貫した俺の主張だろ。
要はキミに見当違いの独白は止めたまえといってるんだよ。
何度も同じことを書かすな、ボケ!
まあ、キミに不足してるのは他人の文章の読解力だろうね。
議論が平行線だな、完全に。
反遡上説のひとは、自分の頭の中で作った勝手な敵と論争してるし。
実年代が明確に分かっているというのも、どうかと思う。堅苦しく考えず、
もうちょっと幅を持たせて考えた方がいいよ。
まあ、私は三角縁全てが舶載or国産という二者択一では考えていないのだが。
三角縁が特鋳というのも、あながち間違いではない気がする。
実用性のない、乱反射のする、やたらと大きい鏡を倭人は好んでいたようだし。
ヒラバルで始まった破鏡の習慣は、オウを葬る時に大量の鏡を必要としたようで、
やがて古墳時代が始まって、大量の鏡を輸入するようになったと。
乱反射する鏡が、太陽の子である証としても利用されたのかもしれない。
652 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 00:43:24
景初三年銘の神獣鏡が出た古墳は小さいね。
島根県の神原神社古墳は一辺が30mの方墳。
小金塚古墳は、直径20mの円墳らしい。
二つの古墳の年代は、紹介しているサイトによると、4世紀半ばから後半らしい。
三角縁の彫りの意味は言及しないんだろうか?
あれって同心円なところが意味あると思うんだが
>>649 >>650 まさか、「1枚の三角縁が日本に持ち込まれ、それが日本で独自の発達をした。」
という考えを「舶載説」とか考えている訳ではなかろう。
紀年鏡は三角縁の変遷の中では後期以降に位置づけられるから、舶載説では
三角縁の少なくとも過半数は舶載としないとダメという問題がある。
まあ、紀年鏡を変遷の出発点にすべきという説も異端として存在するが。
自分の考えを言うというのは、いつ、どこで、三角縁が作られたのか。
それを出土する古墳がどの時代に該当するか、というようなこと。
655 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 01:35:58
>>645 ←に再度申すが、「ものごとを簡単に二分するなよ。もっと色々な場合を考えてみたまえ」
>ところで、君は△出土古墳の年代をいつと考えているのかな?
645だが、この設問の文面からして、きみの「思い込みの狭さ」を感じてしまう。
鏡種だけで年代の新古が簡単に判明すると思い込んでやしないか。
三角縁神獣鏡は後期古墳の横穴式石室からも出る。だから俺に問うのなら、
「君は△出土古墳の中で、最も古いと思う古墳は、年代をいつと考えているのかな?」
と書くべきだろう? なのに、きみにはそうした配慮がなかなか働かない。
それでまあ、きみの意を推し量って回答するが、兵庫県に権現山51号墳というのがある。
三角縁神獣鏡が確か5面だったか、出ている。
この古墳は古い。確実に3世紀だろうと思う。
年代をピンポイントでは言えないが、260〜290の間におさまる、として間違いないだろう。
もし権現山を4世紀(301以降)とすると、古墳時代中期開始との間が近過ぎになってしまうからだ。
ただ誤解しないようにしてくれ。権現山51号が「最古」と言っているのではない。
箸墓と西殿塚は、権現山よりもさらに遡る。
だが陵墓ゆえに副葬品は皆目判らん。三角縁神獣鏡を副葬したかどうか判らん。
椿井大塚山と黒塚については、権現山のようには自信が持てないが、こう言っておく。
「古墳時代前期(早期含まず)を三区分し、前期前葉・前期中葉・前期後葉と分ければ、
椿井大塚山と黒塚は、絶対に前期後葉には下らない」
まあ、黒塚は置いといて、椿井大塚山も相当古い古墳だよ。前期前葉だろうな。
箸墓から40年以内には椿井大塚山を造っていただろうとだと内心は思っている。
椿井大塚山のほうが古いという可能性は、少ないと思うが、俺にはよく分からない。
656 :
643=655:2007/11/29(木) 01:53:27
>>655訂正
3行目の、名乗りをあげたところを訂正。大チョンボした。
645だが、 誤
↓
643だが、 正
まさか、あいつと同一人物が自演している?などとは、誰も思わんだろうけど。ww
ふう。もう寝るとしよう。きょうは寒い。毛布掛けて寝よう。
>>655 なるほど、そんな感じですか。
権現山51号墳は、黒塚と同型の△や、椿井大塚山と同型の△が出土して
いるので、両者とは近接時期であると思う。
ただ、椿井大塚山の△より若干大きい同型と言うことからは、少し前の同型
とみえる。
特殊器台埴輪もあるので、箸墓より後の時期と見た方がよさそう。
私の年代観だと埋葬時期で言えば、箸墓は353年頃、権現山51号墳は
365年頃、黒塚366年頃、椿井大塚山367年頃というような感じです。
>>657さんへ
ではビッグ3の大仙(伝仁徳陵)、誉田山(伝応神陵)、石津丘(伝履中陵)は?
659 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/29(木) 08:12:48
近つ飛鳥
遠つ飛鳥
飛鳥王朝ってのは2つあったって考えてるのって俺だけなの?
飛鳥は2つあった事は記紀の記述からも読み取れると思うけどなあ
660 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/29(木) 08:19:17
(畿内より東にあった)蘇我氏の飛鳥朝廷を倒して都を遷都したのが今の畿内でしょ?
あと平安時代以降は畿内から見て「東国」って呼ばれてた国もあるよ
空海とかも畿内の天皇に「私は東国で生まれ」って言ったりしてるよ
平安京が平氏だとしたら東国ってのは源氏達の勢力があった地域の事だと思うよ
義経伝にある「鞍馬天狗、高野山、鴨川、五条大橋」とかは後から畿内へ移設された地名なだけで、牛若丸や弁慶は東国での話だよ
661 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 13:28:09
>>657 >私の年代観だと埋葬時期で言えば、箸墓は353年頃、権現山51号墳は
>365年頃、黒塚366年頃、椿井大塚山367年頃というような感じです。
古墳時代そーんな1年きざみで細かく分かる筈ないだろ
口からでまかせの思いつきだろ
662 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 16:29:58
百襲媛命の箸墓が西暦353年頃との御意見がありますが、
西暦353年は第13代成務天皇の御治世かと思われます。
歴代天皇の在位年代をいささか錯誤しておられるのでは。
663 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 16:44:56
倍暦計上で
神功摂政立皇太后 353年
664 :
改め:2007/11/29(木) 20:09:03
三角縁神獣鏡〜は何故卑弥呼の鏡と言われだしたんだろうね。
なにか根拠あるの?
665 :
改め:2007/11/29(木) 21:13:03
>>390 >あのード素人質問で悪いんですが、邪馬台国への道程の記述が現実と合わないならなぜ記述の方が間違ってるっていうことにならないんですか?
記述が間違ってるのは皆、解ってる。
中には間違いを理解してなく著者を絶賛してる方もいますが・・・。
666 :
サガミハラハラ:2007/11/29(木) 21:25:58
>>記述が間違っているのは皆、解っている。
わたしは倭人伝の行路記述は間違っていないとおもっていますよ。
667 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:39:47
>>666 あれって直接行ってみたんじゃなくて倭人から伝え聞いただけだから齟齬が生じてる、とかそういう事ではないの?
668 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:43:51
>>666 >わたしは倭人伝の行路記述は間違っていないとおもっていますよ。
すると次の7か国、あんたの比定地は?
・末盧国=
・伊都国=
・奴国=
・不彌国=
・投馬国=
・邪馬台国=
・狗奴国=
669 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:55:29
>>657 >権現山51号墳は、黒塚と同型の△や、椿井大塚山と同型の△が出土して
>いるので、両者とは近接時期であると思う。
同型の△鏡が出た古墳同士は近接時期?
そんな法則はないと思うが。
新種が涌いてるなw
671 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/11/29(木) 22:32:07
倭人伝の行路記述は、倭人は距離を里数で知る術が無かったと思われることから
魏使側が記したものと思われる。
それに「東に、とあるクニが存在している」というようなアバウトな記述の仕方であり、
集落という「点」ではなく勢力範囲という「面」を指して「おおよそ東」と記したとしたら
方向が違う、という疑難にはあたらない。
>>669 今は鏡の変遷に対応する古墳からの出土を認める人も多いよ。
年代遡上説でも伝世を否定して、製作時期とある程度対応する
埋納があると認めても、後半部分を国産とすれば、説明できるから。
ただし、239年頃の古墳から出ないことの説明はできないが、
もう少し年代遡上させればこれも解決する。これぞ泥縄式。
三角縁の期間を短期で見る考えでば、同型鏡の時期はかなり
近接することになる。
673 :
サガミハラハラ:2007/11/29(木) 22:36:38
>>668 末ロ国=上陸地は西唐津八幡町川浪商会前の海岸 都は鏡山方面
伊都国=多久市庄集落延寿寺
奴国=佐賀県肥前山口山口集落
不彌国=佐賀県小城市不二町
投馬国=宮崎県西都市
邪馬台国=佐賀県小城市甘木
狗奴国=熊本県熊本市
とみています。
674 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 23:10:26
以前から、三角縁神獣鏡には手馴れ、つまり長年に渡って手で触れていた形跡
がないので、作ってすぐに副葬されたではないかと見られていた。
黒塚古墳の場合はもっと極端で、バリ、つまり鋳型から出したときの銅の余り
を取ることもなく副葬されている。これなどは、作られてすぐに副葬されたと
いうよりも、墓に入れるために作ったのではないかとされる。
三角縁神獣鏡葬具説といわれるのはそういう理由。
そうなると、墓と鏡の時期は密接に関連してくる。
675 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 01:49:09
>>673 えーーーーーーーッ!
末盧国・伊都国・奴国・不彌国・邪馬台国。この5ヶ国はみんな佐賀県内ですか!?
こりゃ驚いた (@@)
投馬国を「投与国」(豊国)とする考え。
末盧國(松浦)
↓(南東に500里)
伊都国
↓(南東に100里)
奴国 →(東に100里)→不弥国
↓(南に水行20日)
投馬国(豊国)
↓(南へ水行十日、陸行一月)
女王の都・邪馬壹国
677 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 03:46:10
伊都国は信濃だよ。伊那国。伊那奈岐の国だよ
んで伊奈波は美濃。
神坂峠が間にあるんだよ
信濃(伊都)は阿蘇氏や新羅王の縁の地だよ
日向三代も信濃の阿曾氏族の人達だよ
ちなみに新羅は和人の統治してた国で、朝鮮とか関係ないよ
678 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 08:53:51
発掘された遺跡から考えるのは何か違う気がする
結局、発掘遺跡から推測するとなると、そこで勝手に頭の中で自分なりのストーリーを作り上げちゃう事になる訳だから、これは歴史にならないと思う
679 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 09:02:54
なんか上手く言えないけど、例えば
例@
「とある伝承などがあり、その伝承の場所に言われ通りの○○があった」
これなら歴史が証明されたって言い方は有りだと思う
けど例えば極端に言えばだけど
例A
「ここの遺跡から『世界王』の刻印の鏡が発見された。つまり昔に世界を支配してた王がいた事が証明された」
みたいなのは歴史じゃなく推測に過ぎないと思う
例Aのような解釈や推測が「歴史」となっちゃってる部分が日本史に限らず多い気がするよ
それらは歴史じゃなく「説、推測」として扱うべきと思うよ
その単なる推測の大ボスが進化論なんだと思うし
680 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 09:53:23
>>668 これ思ったけど
邪馬台国、奴国、投馬国、狗奴国、、、
など、いくつかの国名は弁韓(倭人の統治領土だぞ)にあった国名と類似してるよ
ウィキにも弁韓でくぐれば載ってるよ
681 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 10:04:10
682 :
サガミハラハラ:2007/11/30(金) 10:09:34
>>675 邪馬台国が佐賀平野西部にあったのではと考えたのは今から30年ぐらい前のことでした。
しかし、そのときは、邪馬台国がこんなところにあるはずがないと思い、この説はうっちゃっていました。
ようするにこれは各人の中にあるイメージのせいなのです。邪馬台国がそんな近くに簡単にみつかるはずはない。山のあなたの空とおく、絶世の美女の卑弥呼様がおさめている国なのだと、まあ、思いたいわけです。それが邪馬台国問題解決の目をくもらせていたわけです。
再び注目をしたのは吉野ヶ里発掘ニュースの時からです。
そして緻密に行路記事を検討していった結果、邪馬台国は佐賀県小城市で間違いないと結論づけたのです。
これは動かしえない事実なのです。
683 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 10:28:30
>>682 >各人にあるイメージ
その通りだと思うよ
「日本は昔は卑弥呼が納める邪馬台国が統治してた」
と言うイメージであり先入観
結局は倭人伝の漢文を誰かがそう解釈して「大和以前は卑弥呼の邪馬台国の国だった」と言うイメージだけが先行してる
漢文ってのは文法が無い表意文字だから、どんな解釈も出来る
「漢委奴国王」
これも「漢は奴に国王を委ねた」とも読めるんだよ
684 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 10:39:39
ちなみに佐賀に邪馬台国があってもおかしくは無いと思うよ
ただ俺個人的には倭人伝は、倭人が統治してた国を羅列してるだけと思うよ
鬼道って日本には大乗仏教以前に早くから伝来してた密教(陰陽道)の事でしょ?
大乗仏教から見たらタントニズムの密教(陰陽道)は異端の宗教だったらしいしさ
インドのヒンズーや仏教下でもタントニズム教は異端として追放とかされてたし
685 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 11:46:14
つか、倭人統治後の弁韓に「弥烏邪馬国」って国があるよ
ここの事じゃないの?
あと漢字にしても
@「ひみこ」「やまたいこく」って音に音が合う漢字を当てた表音文字
A「卑弥呼」「邪馬台国」は意味を当てた表意文字
@の使い方をするのは日本人だけだよ
巍志とかが中国人が書いた書物とするなら「邪馬台国」はやまたいこくって発音の意味じゃなく、
「邪ナル馬ニノル台ノ国」とかの意味だよ
686 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 12:21:49
「東と西が逆さま説」
九州が発祥だとは思わないけど、これは有り得るよ
昔の暦や方角の表は、南を正面(上)にしてて、地図とかも南が上になってたりするのもある
天皇の即座や台座も、南を正面にして座るように作られてたみたいだよ
まあ東と西は間違わないかもだけど、例えば「左手にある国」って言えば昔は地図上では東側の事だよ
いつの時代に上下が今の形に変わったのかはよくわからないけどさあ
687 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 14:28:55
指南車
688 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 14:51:18
倭→人+委→委う人
魏→委+鬼→委う鬼
鬼道を使い民衆を惑わす卑弥呼
三韓時代、三国時代、三国志伝
689 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:25:45
弁韓12ケ国
弥離弥凍国, 古資弥凍国, 古淳是国, 半路国「半跛国」の誤写と考えられている)
楽奴国,軍弥国,弥烏邪馬国(「弥烏馬邪」の誤写とする説もある)甘路国
狗邪国のちの駕洛国=金官伽耶)走漕馬国(のちの卒麻国)安邪国(のちの安羅国)
瀆盧国(のちの東莱郡。倭に接すという)
辰韓、馬韓も似たような漢字が使われてるね。これを見ると
倭人伝の記述はサガミ氏の言うように北九州の範囲に納まっているようだ。
>>美濃もん太GJ
690 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:20:51
>>685 魏志倭人伝に「牛馬無し」ってあるのに「馬ニノル」の?
『牛馬』がいなのであって、『牛』や『馬』はいてもいいのさwww
692 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 21:35:19
>>690 >牛馬無し
邪馬台国って牛も馬も無い國だったの?
牛=今で言う耕運機
馬=今で言う戦車
だから、田んぼも無い、戦車も無い國って解釈でOK?
馬って戦力の意味でしょ?
693 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 22:06:43
戦車に使わないでなんのために「馬ニノル」のさ
つーか魏志倭人伝に「牛馬無し」と書き「女王国」であることを何度も強調してるんだから「邪女台国」とでもすればいいじゃん
694 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 22:10:37
卑弥呼、邪馬台国
これらは「ひみこ」「やまたいこく」の音に音が同じ漢字を当てた表音文字として当てた字だと思うよ
ちなみに、漢字を表音文字として扱えるのは日本人だけ
書いたのは随や唐と関係の無い司馬氏
魏の劉備は通称、和帝
三国志、三国時代、、
平安時代には既に日本にもあった書物、、
日本は元2世紀頃には漢字が既に伝来、、、
まあ魏志は、当時の日本人にも書けるね
書いたのも司馬氏だしね
次いってみよー
696 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 22:33:55
中国の正史24史って、清國や満州国が採用した史志を清の部分だけ排除して転用してるんでしょ?
清や満州時代は日本人の歴史家が北京や満州に入ったりしてた時代でしょ?
なんかある気がするよ
ちなみに日本では記紀以外にも旧事紀を始め、風土紀や氏族の家に伝わる古書物まで、
明治政府にだいぶ焼かれたのにもかかわらず、まだ沢山の古史古伝が残ってたりするけどさ
中国って正史24史以外にはそういう書物って存在したり出て来たりしないの?
あれば興味あるけどなあ
698 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 23:58:55
>>695 ククク・・・・・ o(≧∇≦)o
い、いや失礼。 お気持ち、よ〜くワカリマス。ww
しかし、弄くる気にもならない○鹿だな。
まさに○也級だな。
売り出し中のコテハンなんてこんなものでしょ
まあ俺も絡みたくないけど
701 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 14:32:12
三国志とか以前の中国の神話わかった
多分、封神演義って奴だ
仙人達の神話
日本の事は、海に浮かぶ蓬莱国や扶桑国として海津派の島の仙人達の国(山?)として書いあるみたいだよ
飛騨の天狗や大仙人の神話は、この中国神話で言われてる海に浮かぶ島にいる仙人達の事のような気がする
ただやっぱ記紀や三国志なんかより以前の話になっちゃうね
けどこっちの話のが記紀とかより神話っぽいよ^^
702 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:05:07
>>701 封神演義は仙人達が仙術、妖術を使って
商と周の代理戦争を繰り広げる物語。
703 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:07:40
>>694 >邪馬台国
邪馬臺ヤマダイ又はヤマデが正しい。
「台」は「臺」の代用字。
704 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:49:29
>>703 ヤマデ にしろ、ヤマタイにしろ、音に表音漢字を当ててる訳だね
漢字を表音文字として使えるのは日本人だけだよ
司馬遷
字に2文字以上あるのも倭人だよ
魏志以降の随志や唐志にまで、同じように「○○倭人伝」ってのがあるしさ
後漢や親羅や燭の皇帝は度々「和帝」って表記されてるしさ
705 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:50:06
706 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:08:34
>>702 周派の仙人と、海津派の蓬莱などにすむ仙人達との対立の話もあったよ
なんとか島って書いてたよ(忘れた;;)
日本の事は蓬莱や扶桑って呼んでたよ
魏志以降は倭や大和って呼んでるけど、それ以前は蓬莱や扶桑って呼んでるね
仙人は周でも蓬莱でも山岳にいたみたいだよ
日本もアルプス山脈の山に、覚林坊や東王父大仙人の伝承があるよ
特に密教や陰陽道に関わる山にそういう伝承があるよ
封神演義ほど妖術の部分に特化してないけど、水を操ったり程度の術は使うよ
あと龍や蛇や天狗として伝わってる伝承も、山に住み着いてる大仙人伝承と類似する部分が多いよ
707 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 04:47:59
>>502 >櫛山の年代は難しいね。判断要素としては、(中略)
>2、楯築との形状の類似性(中略)
>2は、楯築が突出して古いとは一概には言えない。特殊器台を出土する古墳が
> わずかであることから、その期間が数年という短さと考えられる。(中略)
>以上から、櫛山は崇神稜・楯築とほぼ同時期に築造され、築造は箸墓より以前で
>あるが埋葬は箸墓より後と考えられる。
>>507 >私は特殊器台の時期は1〜4年位と考えています。
>>510 >特殊器台が4〜5個の古墳で発見されて、その間の期間を
>50〜100年とするというのは、どう考えても異常だよね。
>>534 >私は、ごく少数の特殊器台で50〜100年も遡上できるという考えが
>どうしても理解できないのだが。
これらの方々のご意見は、不可解としか言いようがありません。
特殊器台特や殊器台形埴輪が見つかっている遺跡は、
>>510さんおっしゃる「4〜5個」どころか、もっともっと数多くあります。
恐らくそこを誤認しておられるから、「特殊器台の時期は1〜4年位」(
>>507さん)とか「期間が数年」(
>>498さん)などと、俄かには信じ難い奇妙な論になってしまわれるのでしょう。
以下のレスで、特殊器台および特殊器台形埴輪が出土した遺跡名を、抄録一覧しておきます。
手元の資料だけで大急ぎでつくりましたから、立坂型・向木見型の特殊器台はかなり抜けている筈です。決してこれで全てではありません。
708 :
707:2007/12/02(日) 04:50:39
【特殊器台および特殊器台形埴輪の出土遺跡名(抄)】
■立坂型特殊器台
▽立坂墳丘墓 (岡山県総社市新本)
▽楯築墳丘墓 (岡山県倉敷市矢部)
▽黒宮大塚 (岡山県倉敷市真備町岡田)
▽鋳物師谷2号墳 (岡山県総社市清音三因)
▽雲山鳥打1号墳 (岡山県岡山市津寺)
▽中山遺跡 (岡山県真庭市落合垂水)
▽古坊遺跡 (岡山県新見市神郷下神代)
▽浦尾5号墓 (岡山県岡山市門前)
▽貝ケ原遺跡 (広島県尾道市御調町貝ケ原)
▽西谷3号墓 (島根県出雲市大津町下来原)
■型式不詳、特殊器台に類似する「特殊な大型器台」
▽津島遺跡 (岡山県岡山市いずみ町)
■向木見型特殊器台
▽向木見遺跡 (岡山県倉敷市木見)
▽西江遺跡 (岡山県新見市哲西町上神代)
▽愛宕山遺跡 (岡山県赤磐市黒本)
▽鯉喰神社墳丘墓 (岡山県倉敷市矢部)
▽西山遺跡(箭田西山遺跡) (岡山県倉敷市真備町箭田)
▽便木山遺跡 (岡山県赤磐市山陽)
▽秦山崎遺跡 (岡山県総社市秦)
▽矢部南向遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢谷古墳 (広島県三次市東酒屋町) ※「矢谷古墳」は史跡名称
▽東郷遺跡 (大阪府八尾市光町他)
■型式不詳、特殊器台(壺)形土器片(向木見型か)
▽小阪合遺跡 (大阪府八尾市小阪合町他)
▽萱振遺跡 (大阪府八尾市萱振町他)
709 :
707:2007/12/02(日) 04:52:39
■矢藤治山型特殊器台
▽矢藤治山古墳 (岡山県岡山市西花尻〜東花尻)
■宮山型特殊器台
▽宮山古墳(三輪宮山古墳) (岡山県総社市三輪)
▽西殿塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽中山大塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽箸中山古墳(箸墓) (奈良県桜井市箸中)
▽葛本弁天塚古墳 (奈良県橿原市葛本町)
■特殊器台形埴輪(都月型円筒埴輪および亜式)
▽都月坂1号墳 (岡山県岡山市津島本町)
▽浦間茶臼山古墳 (岡山県岡山市浦間)
▽七つグロ1号墳 (岡山県岡山市津島西坂〜津島笹が瀬)
▽中山茶臼山古墳 (岡山県岡山市吉備津〜尾上)
▽網浜茶臼山古墳 (岡山県岡山市赤坂南新町)
▽操山109号墳 (岡山県岡山市平井)
▽宍甘山王山古墳 (岡山県岡山市宍甘)
▽矢部(B)42号墳 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部17号墳(矢部大ぐろ古墳) (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部伊能軒遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部堀越遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽権現山51号墳 (兵庫県たつの市御津町中島)
▽西川遺跡 (兵庫県尼崎市次屋)
▽西殿塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽中山大塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽馬口山古墳 (奈良県天理市兵庫町)
▽波多子塚古墳 (奈良県天理市萱生町)
▽箸中山古墳(箸墓) (奈良県桜井市箸中)
▽玉手山9号墳 (大阪府柏原市旭ケ丘)
▽元稲荷古墳 (京都府向日市向日町北山)
▽壺笠山古墳 (滋賀県大津市坂本町)
710 :
707:2007/12/02(日) 05:38:30
>>707 訂正です。
下の方でアンカーを1か所、打ち間違えました。
…とか「期間が数年」(
>>498さん)などと、俄かには… (×)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
…とか「期間が数年」(
>>502さん)などと、俄かには… (〇)
失礼しました。
711 :
707:2007/12/02(日) 06:24:35
>>707 もう1か所訂正。すみません。
特殊器台特や殊器台形埴輪が見つかっている遺跡は、 (×)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
特殊器台や特殊器台形埴輪が見つかっている遺跡は、 (〇)
712 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 10:40:20
713 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 14:39:05
>>707 えーと、特殊器台と特殊器台埴輪は別物です。
まさかそんなことも知らないのでしょうか?
まさかwwwww
714 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 14:45:11
特殊器台に限定すると数が限られるから、特殊器台形埴輪を持ち出して、
ごちゃ混ぜにしてごまかして、年代遡上を図るというやり方は通用しない。
>>707の引用のうち、特殊器台に絞って年代を見てみれば特殊器台は
数が限られていることが、よく分かる。
しかも、箸墓は2種の特殊器台があるので、特殊器台は数種が並行して
いた可能性もある。
そうなると特殊器台の期間は短いという結論はさらに強くなる。
715 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 15:12:06
>>713-714 考古学素人で707じゃないけど、
写真で見る限り、素人目で大差がない、明確な違いはないように思うが。
用途も殆ど同じだっただろうし。円筒埴輪も含めて。
円筒埴輪の変遷として、同一に考えるべきじゃないか。
逆に訊きたいが、どういう違いがあると考えて、区別してるのか?
>>715 特殊器台は文字どうり器を置く台で地面の上におく。
特殊器台型埴輪は地面に埋める。
>円筒埴輪の変遷として、同一に考えるべきじゃないか。
これは正しいし実際そのようにとらえれれているが、その違いは明確にある。
718 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 16:46:47
土器の様式変化のスパンは、大体20〜50年くらいとされている。
妥当な数字かと。1〜5年は短すぎるよ
でもこれって、安本の平均在位と大して変わらない理屈なんだよな、やれやれ。
719 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 16:50:04
特殊器台→特殊器台形埴輪→埴輪という流れは、誰も否定しない。
吉備でも畿内でもこの流れが確認できる。
特殊器台形埴輪の期間は畿内の古墳で見れば10年前後。
そこで、単純に特殊器台形埴輪と特殊器台の出土数を比較すれば
特殊器台の期間も10年前後というのが合理的。
そもそも特殊器台が遡上の理由じゃないだろうと。
確かに、土器編年で実年代を安易に語るのは危険。
しかし「遡上派遡上派」と連呼するのもどうか?
もともといい加減に決められていた実年代が、漸く修正されてきつつある、
というだけで。
可能性で言えば、布留0が3世紀半ばから末というのが妥当。
>>719 出土数が少ない、ゆえに・・・・・・などと推論をもっていくのは危険。
△鏡を卑弥呼の鏡と誤推してしまった小林行雄の二の舞になるぞ。
特殊器台はようやくその一部が世に出ただけ。まだまだ地下に埋も
れていると思われ。今後出土数増えることあっても減ることはない。
722 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:12:03
>>721 年代遡上の最大の難点は、その根拠が不明であり、とにかく
遡上するという倒錯した論理にある。
布留0は350頃から360頃とするのが妥当。
>>721 特殊器台形埴輪と特殊器台が同じ割合で出土すれば、
今後の出土が増えても結論は変わらない。
特殊器台のみが出土するという変則的な自体を想定して、いまから
特殊な学説を唱えることもなかろう。
>>720 >布留0が3世紀半ばから末というのが妥当。
たぶん庄内式(180〜260)、布留式(260〜400)、須恵器(400〜)
という考えだろうが、いろいろ問題がある。
1、布留式が長すぎる。庄内式とのバランスを完全に失している。
2、庄内式、布留式とも古墳時代の前後にまたがるというのが、新井が
鏡の同位体比で出した結論であるが、これに反する。
両者の混在時期を想定した上で、布留式の期間を広くみるとしても、
庄内式(290〜365)、布留式(345〜420)くらいか。
古墳築造が、この重なる時期(345〜365)の間に始まる。
布留式は須恵器が出てきてもある程度併行して続いている。
まあ、当たり前と言えば当たり前だが。
724 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:33:54
>>723 >たぶん庄内式(180〜260)、布留式(260〜400)、須恵器(400〜)
>庄内式(290〜365)、布留式(345〜420)くらいか。
なんでなんの説明も無く290になるの?
725 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:44:26
>>723 >1、布留式が長すぎる。庄内式とのバランスを完全に失している。
「長すぎる」とか「バランスを完全に失している」とか、ただ主観的に叫んでるだけに聞こえてしまう。
どういう理由で長すぎるとかバランスを失しているとか思うのか、主張の根拠を述べてくれないか。
>>723 もともと、庄内式自体、もっと短いとされていたんだが。
布留は0〜3式と4様式あるし、庄内より長いと見るのが妥当。
>新井が鏡の同位体比で出した結論
こんなもので、古墳時代開始の実年代は分からないと、上の方で何度も
論破されてる筈だが。
リン(P)の同位体分析なら一桁精度が上るらしいが
728 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:12:16
>>707乙
一覧表見ると大阪の八尾が出てて、河内勢力もなんか関係してそう。
>▽東郷遺跡 (大阪府八尾市光町他)
>■型式不詳、特殊器台(壺)形土器片(向木見型か)
>▽小阪合遺跡 (大阪府八尾市小阪合町他)
>▽萱振遺跡 (大阪府八尾市萱振町他)
これあんがい重要と思われ。
俺、特殊器台は吉備中心ばっかしと思ってた、大阪のは知らんかった
730 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:27:03
青銅器は溶かしてまた別のものを作ることもあるわけで、素材はあまり関係ない
ような気もするのだが。特に、銅鐸が溶かされて銅鏡になったケースは案外
多かったと思う。
731 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:40:53
三角縁神獣鏡が副葬されている古墳は古いと見られているらしい。
しかし、なんとなく新しいような気もする。
たとえば、福岡県の一貴山銚子塚古墳。10枚の鏡が出ており、方格規矩四神鏡
と内行花文鏡、それに三角縁神獣鏡が8枚。
2枚の中国鏡は頭部にあり、重要視されている。
三角縁神獣鏡が出ているので前期の古墳とされているらしいが、方格規矩鏡と
内行花文鏡は、手ずれがひどく、作られてから少なくとも200年は経過している
と見られている。
なんとなく、三角縁神獣鏡は新しいような気がする。
732 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:58:43
>>729 それはたぶん
>>454に書いてあることだな。
前284に斉の首都が陥落した頃に古い同位体比を持つ青銅器が
一時的に大量に出回ったということ。
>>731 そもそも九州の編年を正確に見ていけば、年代遡上は少なくとも九州では
成り立たない。
九州の中では、奴国の領域の甕棺から、鉄器(やじり、剣など)や鏡の
出土が他を圧倒する時期がある。これが金印をもらった奴国の時期。
その後、伊都国や甘木・朝倉では、甕棺から箱式石棺に変わり、その期間は
出土物で他を圧倒する。これが倭国王帥升の時期から邪馬台国の時代。
その後、伊都国が出土物で他を圧倒する時期が来ないので、その後の時期を
邪馬台国時代とすると、魏志で重視された伊都国の記述に合わなくなる。
九州の学者も年代遡上説を応援しているためか、このあたりの事実が最近は
ほとんど言われなくなっている。
734 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:19:30
>>726 上の方では、君らしき人物がフルボッコとしか確認できないが・・・
君のタフさには経緯を表するが。
布留式が古墳からだけではなく、遺跡、墳墓からも出土していると
いう事実からは、古墳築造は布留式開始後という推測が成り立つ。
しかも、布留式の遺跡、墳墓から出土する鏡の同位対比の傾向が
古墳時代とは明確に異なるという事実も存在する。
古墳時代の年代遡上をするなら、布留式も180年頃まで遡上させないと
ダメだろうね。まあ、卑弥呼が中国の史書に出てくる185年頃までの
遡上が至上命題という目的がはっきりしすぎて、興ざめだ。
735 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 04:31:44
>>734 卑弥呼が185年頃の中国史書に出てくることはない。
倭人伝が適当に書いたのを
後の中国史書が勝手にその頃と解釈したのでは?とも言われている。
736 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 04:38:23
>>733 いや、だから、なぜ、そう言われなくなったかというと
地理的に九州は海外交易の玄関口だから
畿内よりも、そういうものが多いのは当たり前で、
畿内の王権が、海外交易としての玄関口の九州を再編しなおした
と考えれば、そういうことも成立するんだよ。
文献豊富な時代においても
海外交易品が多く出没するのは、当然、九州なわけで
だからといって、九州が日本の首都だったというわけではないだろう?
ただ単に、日本の海外交易の玄関口であって、
首都はそこから奥深いところに所在している畿内だったわけだから。
738 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:36:39
>首都はそこから奥深いところに所在している畿内だったわけだから。
妄想癖も結構だけど、そんな奥深いところから九州をどうやって支配
するのかね。
戦国時代でも、豊臣軍が何万もの大軍でないと占領できなかったのは
歴史でしっているよね。
739 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:41:40
>>723 >庄内式(290〜365)、布留式(345〜420)くらいか。
>古墳築造が、この重なる時期(345〜365)の間に始まる。
この723は古墳時代は4世紀半ば開始説?
なぜ古墳時代がそんなに遅くなるんだろ???
740 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:52:42
>>737 倭国大乱に関する中国側の文献を全部
書かれた年代から内容から
全部、比較してみい。
卑弥呼の話は、魏略や倭人伝が元になっていて
その後の史書は、これらの曖昧な記述から勝手に
自分なりの憶測で書いた形跡が多い。
そういうわけで、新しい史書ほど何故か
倭国大乱に関する記述が具体化するという変な状況が生まれている。
741 :
740の続き:2007/12/03(月) 16:06:57
後漢書(5世紀に書かれた)以降の「桓帝・霊帝の間」なんていうのは
どう考えても、魏志倭人伝(3世紀に書かれた)の記述を誤解して
勝手に憶測で書いた内容。
実際には倭国大乱がどの程度の規模のもので
いつの時期に起こったなんて分からない。
にもかかわらず、これを断定的に解釈したのが
近代以降の考古学者たち。
>>734 >布留式が古墳からだけではなく、遺跡、墳墓からも出土していると
>いう事実からは、古墳築造は布留式開始後という推測が成り立つ。
庄内式の頃のマキムク型前方後円墳は無視か。
>しかも、布留式の遺跡、墳墓から出土する鏡の同位対比の傾向が
>古墳時代とは明確に異なるという事実も存在する。
明確に異なるからと言って、鏡が全て国産だとか、三角縁が4世紀を以降なんて結論には
ならない。要は解釈の問題。
例えば、後漢末の華北の混乱でそれまでの鏡工房が衰退したとも考えられる。
同位体比だけで実年代が確定しているみたいに強弁するのは、どうなんだろうと思うぞ。
>古墳時代の年代遡上をするなら、布留式も180年頃まで遡上させないと
>ダメだろうね。まあ、卑弥呼が中国の史書に出てくる185年頃までの
>遡上が至上命題という目的がはっきりしすぎて、興ざめだ。
この部分は全く意味不明。誰と会話してるの?
743 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 21:25:09
>>388>>393 >「收租賦有邸閣 國國有市 交易有無使大倭監之」
> (租賦を収むるに邸閣有り。国々に市有りて有無を交易し、大倭にこれを監せしめる)
倭人伝の「邸閣」は単なる倉庫ではなく、のちの民部省大蔵省のような、税を扱う役所と
解釈したほうがよかろうと思う。
徴税出納の事務をとる役所の建物があり、これに付随して、集まってくる租や調を収納
保管しておく大型倉庫群もあったんだろうと思う。
クニグニには、中心地域に必ずそうした公共施設の一角があった。
倭人伝はそれを「邸閣」と記述した、と見るわけだが、「邸閣」という用語には多分に中国
的なニュアンスを感じる。倭人側で通用していた用語とは考えにくい。他にも「一大率」や
「大倭」などは同様と思われる。
ゆえにこの「邸閣」等の記述は、倭地を訪れた郡使一行か、もしくは倭地と商取引をして
いた大陸半島側商人等の、直接の見聞に基づくものであろう。
後日に魏へ報告され、その記録が元となって倭人伝の編纂に使われたものと思う。
>>733 >そもそも九州の編年を正確に見ていけば、年代遡上は少なくとも九州では
>成り立たない。
北部九州は弥生中期から後期にかけて、副葬される鏡が劇的に変化することから、
弥生後期の始まりを1世紀とみる考えが古くからされていた。
遡上派遡上派と言う人は、そのあたりの事情を全く知らないのだろう。
中国史料との突合せでいい加減に作られた実年代を、いつまでも引きずるのはどうか?
>>738 >妄想癖も結構だけど、そんな奥深いところから九州をどうやって支配
>するのかね。
だから、初期ヤマト王権は九州を支配してないんだって。
古墳時代初頭に九州が畿内の支配下にあったなんて、そんなことを主張してる
学者は聞いたことがないが。
せいぜい、頭一つ抜けた畿内勢力が、中国皇帝から倭王として承認された権威をバックに
各地のオウたちの調停者となりえた程度だろう。
ましてや初期大王は有力豪族に共立された存在であって、ヤマト王権内の実情も
連合国家だったと見るべき。
ヤマト王権に参画した証として、各地の豪族に三角縁が配布され、各地の豪族は
こぞって前方後円墳を築造した。それらはヤマト王権ブランドとして、
地方での政争を有利に導いたのだろう。
現代で喩えれば、地方暴力団が山口組傘下に入り、山口組ブランド「山菱」を
有り難がるようなものか。
少なくとも君が思うような中央集権国家は、応神〜雄略〜継体にかけて多くの血が流され、
聖徳太子の頃に至って漸く形作られたもの。
>>741 >後漢書(5世紀に書かれた)以降の「桓帝・霊帝の間」なんていうのは
>どう考えても、魏志倭人伝(3世紀に書かれた)の記述を誤解して
>勝手に憶測で書いた内容。
まあ、そんなところだろうな。
唯一の可能性としては、魏志の編者が読んでいないような別史料があって、
それに基づいて加筆されたという立場。
ただ、実際、倭国へ行ったであろう魏使よりも、当時の倭国について詳しい
人間がいる筈もなく。
747 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:15:36
>>746 君は本当に慈円が好きだねえ。
悟りへの道は遠いのう〜
>>747 自演に見えるのは、君の心の中に闇があるからだよ
749 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:45:21
倭国の大乱について書かれている書物を列記すると、
桓、霊間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主、有一女子名曰卑弥呼、年長不嫁、
事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王 …後漢書
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國乱、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、
名曰卑弥呼…魏志倭人伝
漢末、倭人乱、攻伐不定、乃立女子爲王、名曰卑弥呼 …晋書
漢霊帝光和中、倭國乱、相攻伐歴年、乃共立一女子卑弥呼爲王。弥呼無夫壻、
挾鬼道、能惑衆、故國人立之 …梁書
霊帝光和中、其國乱、逓相攻伐、歴年無王、有女子名卑弥呼、能以鬼道惑衆、
國人共立爲王 …北史
桓、霊之間、其國大乱、逓相攻伐、歴年無主、有女子名卑弥呼、能以鬼道惑衆、
於是國人共立爲王 …隋書
となっている。
こうやって見ると、もっと詳しく書かれた出典があったのかもしれない。
北史と隋書はほとんど同じ文章だが、時期が違うし、「主」と「王」の
違いがあるのが面白い。
750 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:46:30
>>748 即、自白w
くやしいのうwwwwwくやしいのうwwwww
なんか振り出しに戻った気分
752 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 23:00:17
>>749 三角縁を国産と考え(当たり前だが)、画文帯の紀年鏡も国産で、
後世に日本で中国の史書に登場する日本に関連する年号を
記したと考えると、紀年は納得できるんだよね。
とすると、画文帯の紀年鏡が製造された頃(350〜365頃)には、
185年頃に卑弥呼が中国に使者を送ったとする史書やその具体的
年号が記された書物が日本に存在していた可能性がある。
後世に残存した史書からもこのことが窺える。
紀年の年号は、卑弥呼と中国に関連する年号と考えると、その年号は
日本で必然的に選ばれて記されたと言える。
>>750 何だかなあ。
ただの煽りみたいなので無視しますよ。
もうちょっと有意義な人生を生きて下さいね
>>744 >中国史料との突合せでいい加減に作られた実年代
中国の史書のうちでも外交関係の部分の信用性はきわめて高い。
特に使者との正規の外交的やり取りの部分は疑う余地もない。
まさか、239年の遣使も否定するつもりじゃあなかろう。
奴国との交渉は、金印によっても裏付けられている。
>>752 >185年頃に卑弥呼が中国に使者を送ったとする史書やその具体的
>年号が記された書物が日本に存在していた可能性がある。
卑弥呼が魏に遣使したのは239年頃の筈だが。
185年って、どの中国史料に書いてるの?
もしかして君の言う中国って、遼東の公孫氏のこと?
>後世に残存した史書からもこのことが窺える。
その史書とは? まあそんなものは無い訳で、そんなことは窺えない。
>紀年の年号は、卑弥呼と中国に関連する年号と考えると、その年号は
>日本で必然的に選ばれて記されたと言える。
景初に関しては確かにそうなんだろうが、それ以前の黄初とか青龍とかの紀年鏡はどうなるの?
あと、景初以降の、正始とか甘露、景元とかは?
魏の紀年鏡全てを後世の捏造と見るのはやっぱり無理があるよな。
>>755 >中国の史書のうちでも外交関係の部分の信用性はきわめて高い。
>特に使者との正規の外交的やり取りの部分は疑う余地もない。
誰もそのことは否定しとらん。
君には分かり難かったようで謝るが、
要は、倭国乱が弥生中期末に当たるという思い込みで、
弥生後期の始まりを2世紀末とする、いい加減な実年代観について言及したんだよ。
757 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 23:58:32
758 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 00:04:37
>>756 年代遡上説のなかでも遡上の限界を200年頃とする寺沢は
そんなことを『王権誕生』で言っていたね。
卑弥呼の共立が始まったのは180年代ではなくて200年頃であると。
君も文献を重視しないと言いながら、気にしているんだよね。
>>757 どうなんだろ?
同時代に書かれた文献を最優先するという原則が通用しないのかな?w
魏志以外に当時の倭国のことが書かれた同時代の文献があったというのは、
君の希望的観測に過ぎず、そのような証拠は全く無い。
あるなら提示してくれ給え。
いい加減に撤退した方が?と老婆心ながら思うが。
>>758 >卑弥呼の共立が始まったのは180年代ではなくて200年頃であると。
>君も文献を重視しないと言いながら、気にしているんだよね。
まったく会話が成立してなくて、薄ら寒いものを感じるのだがw
俺が言ってるのは、実年代無しでヤマト王権の成立のプロセスを語るべき、
といったもので。
中国史料を重視しない訳じゃなく、実年代が分からない以上、
それを利用する術は無いということ。
そういう意味では、C14や年輪に期待してるんだけれど。
761 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 01:07:56
>>759 後漢書よりも三国志のほうが先に書かれたわけだが、後漢書のほうが三国志よりも
詳しく書かれているところがある。
たとえば、
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
の部分など。これは倭人伝には書かれていないので、別の文書から引用して
いると考えられる。
また、狗奴国についても倭人伝と後漢書では異なる。
後漢書は、「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」と
なっているが、倭人伝では、「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、
不屬女王」となっている。
倭人伝では、狗奴国は南にあると書かれているが、後漢書では東に海を
渡って千里余りのところにあると書かれているわけである。
それぞれ違う文献を参考にしているとも考えられる。
>>761 その時代には、色々な文書が巷に流布していて、それらを検討して
「編纂する」という作業が史書の編纂。
編纂の元になった雑多の書物は時代の流れの中で徐々に消えて
いったが、同時代や少し後の時代の人達はそれらの書物も見ていた
ということだろうね。
「現存しないから存在したはずがない。」という素朴な実証主義の
誤りを示す良い例だね。
763 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 02:26:14
おしらせ (※開催日が変更となっています。ご注意ください)
天理参考館 第178回トーク・サンコーカン
ヤマト王権を語るシリーズ 2(全5回) 『邪馬台国時代の墳墓と遺跡─箸墓を造った人々─』
講師/小田木治太郎 当館学芸員
日時/2007年12月15日(土) 午後1時30分から
場所/天理大学附属天理参考館 研修室(地下1階)(奈良県天理市守目堂町250)
受講料/入館料のみで受講できます(友の会 300円、一般 400円)
定員/100名
http://www.sankokan.jp/event/talk/178.html 奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は最古の古墳と言われます。箸墓古墳とその周辺は、まさにヤマト王権誕生の地です。この地には箸墓古墳の以前から、たくさんの人々が暮らすムラが営まれ、墳墓もたくさん築かれました。
最古の古墳ができあがる前夜、つまり邪馬台国時代のヤマトの様子を見てみましょう。
764 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 02:30:18
>>762 そう、それから、先に出来たほうが正しくて、あとにできたほうが間違っている
とも言えないと思う。
たとえば、范曄は当然、三国志を見ていると思うが、
あえて違うものを書くとすれば、それなりの確信を持っていたと言える。
765 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 02:51:38
766 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 03:24:22
>>756 卑弥呼の共立が始まったのは180年代頃だよ。
後漢書と三国志の記載内容が正しいとすればね。
どんな計算で180年代になったか今思い出せないが。
767 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 04:37:39
768 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 05:55:32
卑弥呼の共立が180年頃というのは無理があるような気がする。
卑弥呼が少女の頃から共立されたのなら
ありかなとは思うが...
180年共立なら、卑弥呼が女王(実は象徴としての巫女?)になったのは
少女の時ということに...
それで、80歳以上で死んだということになる。
まあ、卑弥呼は高齢だったらしいけどね...
でも、どうなんだろ?と思う。
倭人伝の男王の時代が7,80年続いて...を
卑弥呼が死んだ時期から7,80年と勘違いしたか
中国が180年前後に内乱が起こっていたので
それに照らし合わせたか...
今となっては、謎でしかないな...
光武帝の記事は話が別だろ。
だいたい、現存しない史料の存在の可能性を信じ、適当に推論する危険性については
指摘してるわけで。
770 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 16:19:49
>>733 >そもそも九州の編年を正確に見ていけば、年代遡上は少なくとも九州では
>成り立たない。
九州の編年といっても、それは相対編年だろ
土器や甕棺の型式差と出土層位から、あっちはこっちより古い、とかね
相対的なものだから、実年代は動いたっておかしくない
>九州の中では、奴国の領域の甕棺から、鉄器(やじり、剣など)や鏡の
>出土が他を圧倒する時期がある。これが金印をもらった奴国の時期。
言ってる甕棺は須玖岡本のこと?
あれはたぶん弥生中期だろうし、出た前漢鏡である程度上限は押さえられる
まあこの時期奴国が栄えていたのは君の言う通りで、それはいいよ
しかし金印は志賀島でポツンと出土したんで、共伴土器や甕棺はないよ
須玖岡本と金印を結びつけるのはひとつの解釈で、絶対のものじゃない
>その後、伊都国や甘木・朝倉では、甕棺から箱式石棺に変わり、その期間は
>出土物で他を圧倒する。これが倭国王帥升の時期から邪馬台国の時代。
こいつが意味不明、ここ大いにおかしい
その後の北部九州というと伊都国の井原鑓溝と末廬国の桜馬場が有名で
おそらく王墓だろうけどこれらはまだ甕棺、さらに後の平原だと木棺だよ
箱式石棺で「出土物で他を圧倒する」なんて、嘘くさいね
よくわからんから遺跡名をはっきり書いてもらいたいね
それでいて「これが倭国王帥升の時期から邪馬台国の時代」というのも
編年を正確に見ていく考古学の方法じゃない、君の解釈にしか過ぎない
771 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 20:17:09
>>743 >倭人伝の「邸閣」は単なる倉庫ではなく、のちの民部省大蔵省のような、税を扱う役所と
>解釈したほうがよかろうと思う。
>徴税出納の事務をとる役所の建物があり、これに付随して、集まってくる租や調を収納
>保管しておく大型倉庫群もあったんだろうと思う。
わざわざ邸閣なんて書いてるんだから倉庫とはちょっと違うんだろうな
でもな、あんたの説ぜったい反対つーわけじゃないが疑問点あり
「徴税出納の事務」・・・・これ具体的にはどうすんだ?
倭人はまだ漢字知らんだろ、どやって事務をとるんだ?
よく考えてみりゃ、ことし誰々は租賦収めてました、誰々は未納ですので督促を、
誰々は滞納続きだから処罰を・・・・なーんてのは、記録しとかんとダメだわな
できるんか?文字なしで
>771
巨大前方後円墳でも作るならいざ知らず、
税を都に集めてみてもはけ口が無いだろ
納税とか事務とか、何かピントがずれてる気がするのね
774 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 21:46:17
>>772 倭王卑弥呼の周囲には多くの人々がいる。立派な宮室を維持している。
・官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。
・男弟あり、佐けて國を治む。
・婢千人を以て自ら侍せしむ。
・男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
・宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、
・兵を持して守衛す。
都ではこのような中枢というべき組織が営まれているのである。
なんらかの収税・配分のシステムがなくては、宮室は維持できないであろうし、
官や千人の婢たちや守衛兵たちに日々の食を提供することさえ、できないと思われる。
775 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:12:40
そもそも金印って日本人が偽造したってことないの?
発見された当時も何処に邪馬台国があったか?の論議はされてたんでしょ?
お役人とか大名が注目されたいがために家臣に
「これちょっと埋めてきて」って指示したとかないの?
776 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 22:14:44
死罪を恐れないのか?
777 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:34:27
>>774 文字のない文明でもできることだな
指示は口頭で伝えて物納・現物支給で
労働力は豪族や王が自らの部民に頼めばやってくれる
778 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 22:38:29
親魏倭王の金印には漢字がなかったのか? 渡すことで、押せば押すほど文字
が増えるぞな。
779 :
唐松山:2007/12/04(火) 22:53:18
邪馬台国のシノギも種貸し
貸した種籾の運べる範囲が 国 だから 少し離れた所に 兄弟を国王として派遣
文字を持たない=法律が無い 状態なので
各国をまとめる為に 結婚による 親戚状態を保つ
もう一つ 暦を 親国が握り 農事暦を これらの小国に配布。
倭国大乱とは 西暦192,193年の 大凶作
この凶作で 親国の発行する 暦への不信 大陸より独自に暦を輸入独立を図る。
780 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 22:54:02
781 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 22:57:09
またまた定期便の荒らしが来なさったようで・・・・
皆の衆、今宵はこれまで!
>774
米を長距離運ぶって大変な事なんだよね
当時は稲で備蓄していたろうし
・牛馬なし だよね
運搬コストと徴税圏から考えて邪馬台国の版図はどうなんだろうね?
大和政権の大王はミアケをけっこう地方に多く設営しているが、
徴税から見て実実はあったんだろうか
784 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:11:48
文字がないと明文法はできないが慣習法はできる
クニが違えば慣習法は成り立たないけど軍事力や経済力・政治力を背景に強制力を働かせることは出来る
あと記録がなくても記憶と数学と言語があれば暦はできる
>>775 漢倭奴国王の字体と似通った廣陵王爾の金印が1981年に江蘇省の甘泉2号墳で
発見されてから、二つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いと考えられ、本
物である可能性が高いとされている
786 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:30:34
>>783 当然河川は大いに利用したはず。
各地の弥生の大規模集落はどこも、近くに川があるんじゃないかな。
吉野ケ里も、すぐそばに田手川というのが流れてて、小型舟なら十分航行可能。
下っていけば筑後川と合流してるから、海へも内陸へも行ける。
唐古・鍵や纏向なんかも、大和川で大阪湾へ出れる。似てるね。。
787 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:49:18
>>771 たぶん、邪馬台国時代の課税は、そんな個人個人とか一戸一戸とかを
対象にはしてなかったと思う、想像なんだけど。
おそらく各集落ていうか、ムラごとに課税してたんじゃないかな。
各ムラに村長、ていうか、江戸時代の庄屋兼村役人みたいな長老がいて、
そこへクニの方から、「おまえのムラは今年は米俵10俵出すのじゃ!」と
お達しが来るんじゃないかな。
とてもクニの方で一戸一戸までは把握できなかったと思うよ。
邪馬台国で文字が使用されていなかったという確実な根拠はないだろ。
奴国の使者が中国に行き金印をもらい、倭国王帥升も使者を派遣して、
その100年以上も経過した時期になっても漢字を読める者が支配層に
ほとんどいないとは考えにくい。
倭人伝に出てくる地名、人名はのちの万葉仮名に通じるものがあり、
魏の使者が倭人の用いていた表記で書いたものが含まれている
可能性もある。
789 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 10:45:28
>>788 >奴国の使者が中国へ行き金印をもらい
そんな事何処にも書いてないし、金印なんて貰っていない。
790 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/05(水) 13:39:47
「卑弥呼が貰った金印が九州の何処からか出土したたからと言って
邪馬台国が九州にあったとは限らない。畿内から出土したからと言って
畿内が邪馬台国とは限らない」という説を唱える学者がいたが、全くの詭弁だと思う。
そんなことを言っていたら世界中の出土物が出所不明の物になってしまう。
金印が出たところが邪馬台国の場所と決定してよい。
なお、この時代既に漢字は倭に伝来していたが本格的な使い始めは仏教伝来を
待つことになる。倭人の一部エリートが自在に漢字を操っていたことを証明する
筆や墨が発見されればいいのだが魏王から卑弥呼への贈り物には中国特産の墨筆の類は無く
卑弥呼は文字の読み書きが出来なかったのではないかと思われる。
側近に「何と書いてあるのじゃ?」と聞くだけだったろう。
791 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 14:05:22
>>790 金印が大和からでても九州から東征の過程で持ち込まれた
とか、大和朝廷に掠奪されたんだと言えばよいが、
九州から出たら近畿説はなんで持ち運ばれたか説明する必要がでてくる。
792 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 14:28:32
金印は鉄剣鉄刀と同様可動性があるから、出土地点が最も有力なるも絶対的な
ものではない。雄略銘ある稲荷山鉄剣は畿内でない関東から、江田船山鉄刀は
同様に畿内でない九州から出ているから、即断はちょっとはばかる。
793 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 14:39:41
それでも漢字内に「委奴国」があり、出た所もそのへんなんだろうから、
こいつは移動はあんまりない確度が高いな。
794 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/05(水) 17:53:02
九州に大和朝廷の勢力が及ぶのは継体天皇の時代だと思いますが
太国さんはどう思いますか?
鉄剣の場合は雄略の御世でなくても御名を刻む事があると思いますし、
大和朝廷から豪族が拝領することがあるでしょうから時代も場所も異なった所から
出てくる可能性も有ると思われます。
まあ、金印の場合は貰った王の権威付けだけの役目であって、魏が滅んだ後は
邪馬台国は後ろ盾を失い、金印も霊験消えてガラクタ同然でしょうから
例えばクナ国との戦で邪馬台国が敗れたと仮定すればクナ国の兵士が
ポケットに入れて持ち去った等とも考えられない事ではありませんが
畿内にまで持ち去られるほどの宝物では無かったと思います。
畿内に九州勢力が持ち込んだと考えるなら東征を考えねばなりませんが
それは無いでしょう。
795 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 19:14:24
なにこの我田引水・・・・
796 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/05(水) 21:25:03
僕も後で読み返して笑っちゃいましたけれども。
797 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:49:50
九州ですが氏は確かもともと邪馬台国東遷説だったのではなかったかね。
私は
>>794を読んで一瞬、氏が九州王朝説に鞍替えしたのかと思ったが。
798 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/05(水) 21:56:46
>>797 そうですね。今は九州王朝に傾いていると言ってよいでしょう。
僕が笑っちゃったのは
>>794文に対して「なにこの我田引水」という絶妙なコメントが
面白かったからなのです。
>>794 >九州に大和朝廷の勢力が及ぶのは継体天皇の時代
もしかして、最近NHKの歴史番組を見ていないですかww
継体が磐井の乱を平定して日本統一の礎を築いたとかいう。
これに対しては、
1、継体以前の天皇が九州に巡幸している。
2、九州も本州と同じ古墳を作っていることから、同じ権力の下にあったはず。
3、400年前後の朝鮮への派兵は九州から出発しているはず。
4、磐井は近江の毛野臣に「昔は同じ釜の飯を食った仲」と言っているので、
磐井は若い頃はヤマトで勉学か修行のようなことをしていたと考えられる。
5、磐井と継体の古墳の類似性から、磐井は反乱前は臣下であったと考えられる。
6、磐井の乱の平定後に屯倉(直轄領)を置いたのが画期的な統治方法
としていたが、屯倉はそれ以前から存在していたのでは。
・・・等々あの番組は見ていて???と思った。
磐井の乱は、朝鮮への派兵に対する新羅の妨害工作とよく言われるけど、
反乱をすぐに平定できなかったところを見ると、派兵の大半を磐井に負担させる
命令があって、怒った磐井が反乱したという見方もあると考えています。
800 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 22:32:28
>>794 景行時もそういう状況があったんでしょうが、雄略から繼體のころ
じゃぁないんですかな? 雄略のころは、確か屯倉がうんとでき
たんでしょう?
801 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 22:51:27
>>784 隋書倭国伝に次のようにある。(倭国は原文は「人ベンに妥」國)
>無文字唯刻木結繩
(倭国には)文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(文字の代わりと)する。
おそらく漢字普及以前の倭では、こうした方法が行われており、それは邪馬台国
時代まで遡ってもおかしくないと私は考えておる。
というのは沖縄の八重山諸島などではワラ算といって、あたかもインカのキープの
ごとき一種の結縄文字が近年まで行われていたからである。
次のサイトにワラ算の解説がある(要Flash Player)。
http://www.napcoti.com/culture/kihouin.htm 木や縄は有機物で腐敗するから遺物として残りにくいが、いずれ本州や九州の
弥生〜古墳時代の遺跡からこうしたものが発掘されないかと私は期待しておる。
802 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 23:16:36
平成17年6/14 熊本県山鹿市教育委員会発表
同市方保田(かとうだ)東原遺跡出土の弥生土器
弥生人が数を認識していたのをうかがわせる文様を見つけたと発表。
↓
<土器に施された竹管文>←数字らしき点列状
市教委は
弥生人に数の概念があったと裏づけられる資料は始めて。
約8000年前、弥生時代後期後半のつぼ型のもので、
口径15cm 上部約1/3 高さ約15.6cmが現存。
803 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 23:58:45
804 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 01:51:58
805 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 04:27:13
邪馬台国ってのは弁韓にあった弥烏邪馬国の事じゃないの?
邪馬台国と弥烏邪馬国は別の国って解釈してる?
それと王朝のあった場所や地域は
「漢(韓)、秦などの王朝は漢半島(今の朝鮮半島)にあった王朝」
「随、唐などの国は黄河付近にあった王朝」
って事だと思うよ
遣百済師や遣新羅師があった事も知ってるでしょ?
806 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 04:31:22
>>801 日本では漢字渡来以前はシュメール文字(神代文字)があった訳だから
「日本人は文字を持って無かった」
って漢文の解釈は違うと思うよ
漢字(文学)に関しては空海が平安時代に京の大学行って漢字を学んだりしてるから、平安時代辺りにはそういう学問の場があった事は理解出来るけど
807 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 11:19:51
>>801 無文字唯刻木結縄
〜無、文字唯刻木、結縄
「〜は無く、文字はただ木に刻み、縄を結い、、、」
漢文ってのは解釈する文字だから、こういう解釈も有り得るんだよ
808 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 11:31:15
あと「漢字の熟語」を編み出したのは日本人だから、昔の随や唐の人は熟語の観念無いよ
熟語の観念が無く、鯖、鰹、鯨とか、とにかく一文字で表してたのが日本渡来以前の漢字だよ
日本人以外にとって漢字は表意文字なんだから
809 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:06:00
>「漢字の熟語」を編み出したのは日本人だから
半島にも熟語はあるよ。半島には訓読みはないが。
810 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:15:53
あと金印って「漢國王」はまだ読めるけど「委奴」って文字は読めないよ
象形文字ではあれで「委奴」って読むの?
ちなみに印綬って「印を押す」って意味で、印鑑そのものを作って渡すって意味じゃ無いと思うよ
811 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 13:20:06
>>809 半島にはあるんだ?
つかあそこ元々は漢半島って名前で漢の都や漢城があった土地だしね
今は漢字使ってないけど、半島には確かに熟語があるかもだね
百済や新羅や伽那があった訳だしさ
812 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:56:42
>今は漢字使ってないけど、半島には確かに熟語があるかもだね
「あるかも」ではないよ、「ある」だよ。
大韓民國が漢字ハングル交り文のころを知らないの?
「ハングル文字」を「かな文字」に変えるだけで、日本人でも新聞が読めたよ。
813 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 14:05:32
>>812 漢字ハングル文字なんて時もあったんだ?
ハングルはシュメール文字や神代文字と同じ表音文字だから覚えれば発音だけは出来るのは知ってたよ
ただハングル字体が統一されたのは確か近代になってからって認識してたから、漢字と一緒に使ってたとかは知らなかったあ
ハングルは日本人(サンカとか)が伝えたって話があるとか聞いた事あるから、そんでハングル使ってたんかと思ってた
814 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/06(木) 15:22:27
>>810 「委奴」=イナ
明らかに(夷)を意識した(委)文字だね
あと「印綬」だけど
印鑑も印綬という。
しかし、直接本人渡しじゃないんだから
当然金印なら「假金印紫綬」と書かれる可きところ
でも
「印綬」とだけの記載だから 皇帝の印が押され箱に収られた詔書だよ
815 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 15:53:07
皇帝に従わない辺境国 匈奴
皇帝に従順な辺境国 委奴
816 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 16:18:39
>>814 漢字は大陸人に取っては「表意文字」でしか使えない言葉
だから日本人みたいに発音に漢字を当てる使い方は大陸の人は出来ないんだよ
だから「イナ」って音だから「委奴」とか言う解釈はおかしいと思うよ
817 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 16:24:18
>>815 皇帝って誰? どこの都の皇帝?
当時の大陸は多民族、多語源、多王朝の土地で、大陸統一王朝なんて無いと思うけどなあ
横から悪いが、志賀島から出た金印は偽モノ説が強まってるけどどうなの?
ヤマタイコクの話ではあまり金印にはふれないほうがいいくらいだと思う。
それより年代法を重視してマキムクあたりを従来より古く想定、箸墓をヒミコの墓とするのは
どのくらい可能性があるのか教えてほしいな。
819 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 16:37:58
>>818 「金印は偽物」って解釈もどうかと思うけどな
「金印」ってのは現実に存在するもの
ただあれを「昔の中国から日本が国と認められた際に渡された時の金印」って解釈は単なる学者の妄想でしか無いだけでさ
あれが何の金印なのかが、実際の所解ってないだけだと思うよ
そもそもあの金印ってちゃんとした漢字じゃなく、なんとか書体って言われる象形文字だよ
820 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/06(木) 16:41:08
>>816 和語を理解する漢人は別だろう。
漢語しか理解しない一般なら、貴方の言う通りだが
それに、
「イナ」じゃなかったらなんなの?
821 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/06(木) 17:03:07
>>818 >金印贋物説
一つしかないものに贋物も何もないだろう
本物があるなら話しは別だが
822 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 17:03:57
>>819 金印は偽物って、自説に都合が悪い学者が駄々こねてるだけじゃね?
日本史質問すれでも”見た目が悪いから偽物”って厨がわいてたしな
>>819 この前新書で偽物説の本が出たでしょう。
状況からいってかなり危ないみたいなんだよね。
明石なんかは、江戸期に作られた本モノをまねた模造じゃないか、つまり発掘品が偽物とするとそのまた偽物じゃないか、とまで
言ってる。
そういう意味なんですよね。
824 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/06(木) 17:13:15
あれあれ、そういう学説とかじゃなくて、完全に江戸期の贋物ってことね。
ほんでそれを真似て江戸期に模倣品が作られてて、そのあたりもかなり怪しい。
つまり陰影が複数あるみたいなんですよ。
このあたりはぜひ新書とか明石の本とかご覧下さいまし。
ヤマタイコク論議は面白いけど、たまには視点を変えるというのもよいかも。
視点変えすぎ。
とくに世界史板から来たっぽいあの馬鹿は邪魔。
827 :
唐松山:2007/12/06(木) 19:14:30
迷想中
古事記の干支が 本物であったら
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦293年 癸丑 仁徳 誕生
西暦296年 丙辰 應神元年
西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換
西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
同年 百済 獻七枝刀一口
西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨
西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌)
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御
西暦429年 己巳 雄略 崩御
西暦527年 丁未 継体天皇
継体の 時代が 1世代繰り上がってしまった。 でも継体治世27年位とすると
西暦501年 面白いかも。
828 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 19:16:29
829 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 20:04:35
Mクンはまだ蒙古班が背中に残っているようだよ。
830 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 22:11:39
>>820 読み方?
漢字の発音は大陸では1つの漢字に読みは1つでしょ?
烏→ウー
龍→ロン
茶→チャ
龍って字は「ロン」って読み方が決まってるのが大陸における漢字だよ
831 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 22:16:43
Mくんって俺の事かw
えっとすみません。反省します;;
つか俺、気になる事が沢山あり過ぎて自分でも良く解ってないよ;;
あと自分の中にも沢山、変な先入観があるから、これをなるべく無くして考えようとしてるよ
そーするとやっぱ訳わかんなくなるけど;;
832 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 22:43:08
>>823 話がそれちゃうからアレだけど、それにしたって「偽物」って言い方はおかしいと思うよ
「昔の中国は国と認めた証として印鑑を渡してた」
って言うのがそもそも「説」なんだと思うし
833 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/06(木) 22:59:06
>>830 和語を理解する賢者なら、和語音と漢語音と字意を適切に組合せるなんて、朝飯前
洛陽に居ながらNOVA出来るし
条件は揃っている
奴国が57年に朝貢したときに金印をもらったことはほぼ間違いない。
1、57年(建武中元2年)に朝貢したことは、『後漢書』に書いてある。
2、大宰府にある『カン苑』には、この朝貢に続けて「中元のときに紫綬
の栄」とあるが、「紫綬」とは金印の帯ひものこと。
あの金印が贋物という考えは今のところ異端説。
とくに「倭」の略字体の「委」は中世以降は「イ」としか読めないので、
江戸時代に「倭」をわざわざ略字で書くことは考えにくい。
835 :
太:2007/12/06(木) 23:12:56
ニセ物造れば死罪だしな。ニセとは考えにくい。
836 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/06(木) 23:23:13
委→イ 奴→ナ
イナ→57年
語呂あわせか・・・
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/06(木) 23:36:57
辛酉
↓
酉=西+一 → 西暦一年 神武天皇即位
839 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/06(木) 23:44:35
>>833 言ってる意味は解るよ
@日本語が分かる大陸民
A漢字が分かる日本人
中国にある史記24志を書いたのも、きっとどちらかだろうね
840 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 23:54:37
>>830 >漢字の発音は大陸では1つの漢字に読みは1つでしょ?
それが素人の朝墓さ。認識不足。
「邪馬臺」の「邪」からして「ジャxie」「ヤye」と2通りある。
呆 ai,dai
拗 ao,niu
白,百 bai,bo
重 chong=重なる,zhong=重い
檳 bin,bing
血 xie,xue
参 can 参加;shen 人参,参商;cen参差
宿 su宿舎,xiu二十八宿,星宿
洗 xi=洗う;xian=姓
841 :
太:2007/12/06(木) 23:54:50
帥升→升→イ ナ(カタカナの合字)→5 7→57
↓
スイ←→イス→五十→50
57+50→107年
太×きょうは酔っ払ってるな・・・
843 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 00:17:00
あの金印が本物だとすると、奴国が滅んだときに隠されたと
考えるのが普通の考えか。
その後、伊都国に権力が移り、さらに九州中部に移ったと。
844 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 00:24:42
>>834 紫綬は金印だけとは限らない。
紫の紐は詔書の箱にも付いている。
846 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 06:31:17
>>843 >その後、伊都国に権力が移り、さらに九州中部に移ったと。
違うと思う。
九州中部には、王墓級の墳墓──強い権力を思わせるもの──が出てこない。
むしろこの時期(2世紀頃)、視野を広げるなら、本州日本海側の充実が目立つ。
・出雲(伯耆も)──西谷墳墓群、妻木晩田遺跡など
・丹後──大風呂南墳丘墓、赤坂今井墳丘墓など
九州のような銅鏡の多数埋納こそないが、副葬品には優品があり、鉄器も充実している。
何より四隅突出墓や大型主体部を組み込んだ台状墓など、北部九州にはかつてなかった
墓制を生み出している。
越前・加賀・越中にも、それらに準じる王墓的な遺跡が見つかってきている、という。
また日本海とつながりがあったと見られる吉備や濃尾(美濃・尾張)も注目に値すると思う。
>>846 四隅突出墓とかあったねー。それらは中部で独自に発生した墓形態なの?
848 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 07:24:44
山陰
849 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 07:45:11
邪馬台国は知らないけど、伊都は信濃の事だよ
半島に渡った新羅や百済の氏族達も、ここの出身の氏族だよ
伊那や扶桑もあったんだよ
あと近江港は兵庫以外にも日本海側の越にある港も近江港って名前だよ
ここの近江は渡来人との縁が強いよ
お前は日本、特に信濃のこととなると、途端に説得力なくすよな
851 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 08:10:24
阿智神社の新羅王
塩田神社、阿曾神社、多菊里姫
山幸彦伝承
日の登る木の箒木、扶桑
天照大神の恵那山、神坂峠、中山道
長野、三河、美濃の越境に有った海
いまいち上手く説明出来ないけど、信濃の辺りは伊那とか伊都とかって名前だった場合だよ
信濃ってか越も含まれるかもだけど
852 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 08:16:56
あとそうだ、素戔嗚尊の諏訪大社とかさ
播磨氏族と相撲とった所
853 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 08:56:19
そういや金印の「委奴国王」って「イナ」って読むとか言って無かった?
信濃の辺りは伊那だし、美濃の辺りは伊奈波って地名だよ
美濃がイザナミ、信濃がイザナキに由来する地名だよ
あと紀記の「因幡の白兎」のモデルの話は、三河の神社の、伊奈波の兎足(アリト)の事だと思うよ
騙されて身ぐるみはがされて川に流された伊奈波の朝廷の人の話があるよ
>伊都は信濃
暖かく見守りたい説だな
最近長野も話題性が乏しいし、伊都饅頭でも出して、新しい観光資源にすればいいんじゃね
伊都=信濃に反論するほど野暮じゃない
855 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 09:52:34
>>854 「都」って首都とか京とか国って意味で都って言ってる訳じゃないよ
ただ伊那、伊州、伊那郡とかは今の信濃だよ
あの辺りは木曽氏や阿蘇氏や紀氏や吉備氏の元始の神社とか沢山あるよ
美濃からだと東山道通って越の近江に行ける街道があるんだよ
山岳信仰の霊山とかの東側の麓だよ
>854
なまあったけぇww傍目でみれば”おらがくに〜”ってやつは気持ち悪いんだけど、実際一番必死に勉強して史料集めるのもジモティだからな。
自分のなかで上手くバランスとってほしいわ。
で、ヤマタイコクは畿内奈良でオケ?
858 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 10:44:35
>>857 邪馬台国は知らないけど、弥烏邪馬国なら弁韓にあるよ
859 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 10:49:20
>>857 邪馬台国は知らないけど、弥烏邪馬国なら弁韓にあるよ
他に狗邪国や楽奴国や東菜郡も弁韓にある国だよ
調べたらウィキにも書いてあったし
弁韓って呼ぶとあっちの人の国のイメージがあるかも知れないけど要は任那だよ
れっきとした倭人の統治国だよ
860 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 11:32:02
日本は戦後からは任那を主張したらダメになったんじゃないっけ?
支那って言葉も使っちゃ行けないようになったしさ
戦争に負けたから、朝鮮や中国の歴史認識に合わせないとダメみたいだよ
俺はそんなの、おかしいと思うけどなあ
861 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 11:54:38
「支那」の漢字を使ったらだめ。
漢字は意味を持つからね。
「シナ」ならOK。 「チャイナ」と同様
862 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 12:08:28
>>861 「中国はまだ60年しか歴史の無い国。支那は多民族多王朝の土地で歴史や領土や民族が統一されてた統一国家なんかじゃない。チベットも台湾も中国じゃない」
って主張は日本は出来ない国な訳でしょ?
出来ないってのもおかしいけどさ
中国に「俺らの歴史認識に合わせろ」って言われて
「かしこまりました」って従ってるのが今の日本だし
こういうのが有るから
「任那や遼東は日本が統治してたとか、漢も唐も随も別の王朝で、特に今の中国とは全く関係ない国
古代に中国なんて国は無い」
って言う事をはっきりと言えないのかな?
そこをはっきりさせとかないと、昔の歴史や魏志倭人伝なんて読み取れ無い気がするよ
だいたい古代に中国なんて国は存在して無いのに「昔の中国は」って言い方が俺はおかしいと思ってるんよ
863 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:22:09
だから、「シナ」を使え。
時代によってシナの地域も変動する。
「西蔵」や「台湾」がシナであるとの主張は、一部のシナ人の言動と思っている。
864 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:27:38
865 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:32:57
【】医学部や司法試験よりはるかに難しい最難関試験である国家T種試験【】
★☆★☆ 真のエリートを輩出する実力校はここだ ☆★☆★
07年度国家公務員1種試験合格者 私立大学別(10人以上合格)
早稲田大 85 さすがは早稲田の一言に尽きる
慶応義塾 72 さすがは慶応の一言に尽きる
中央大学 35 さすがは資格試験でも早慶に次ぐ実績を誇る中央
東京理科 32 さすがは理系私大NO,1の王者の風格
立命館大 31 さすがは関西私大NO,1の実力を披露
法政大学 13 さすがは東京六大学の実力校
上智大学 10 さすがは早慶上と並び評されるエリート校
866 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 12:47:07
>>863 まあまたスレ違いになるから細かい事はいいや
ただ「昔の中国では」って言い方は直していった方がいいと思うよ
昔は中国なんて存在してないんだから
「漢王朝では」とか「唐の王朝では」とか、本来ならそう言う言い方をすべきと思うよ
すべきだと思うよっても、その辺りの歴史は俺も良くわかって無いからダメだけど
金印スレは過疎ってますね。
これが贋物かどうかは結構重要な問題だと思ったけど、こちらのヤマタイコクに詳しい方たちの
共通理解はどんなもんなんでしょ。
ツガル文書じゃないけど、ほぼ間違いなく贋物、ってことでいいのかな。
だもんで九州説の論拠とか読み方がどう、年代がどうというのはヤマタイ論争から一切
排除しちゃっていいのかな。
本物の可能性、じゃなくて完全にスルーしたほうがいいと思うのですよね。
868 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 12:58:09
869 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 13:02:30
>>868 金印は本物
ただそもそもが「昔の中国は国と認めた暁に印を授けて、、」って解釈の方が間違ってる
って言うケースもあると思うよ
可能性としてだけど
870 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 13:21:48
871 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 13:21:57
872 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 13:24:57
>>870 あい
印綬を前提にします
つか元々、金印は偽物とは思って無いよ
ただ金印の解釈には疑問がある事はあるっす
いや、金印の発見事情とかそういう面からの推定でね。
上にもあったけど新書で出てるのぜひお読み頂きたいのだけど。
印面の解釈とかそういうのをやっていたら本末転倒で、根本的に自分の出世に利用しようとした
贋物で、その論拠なんかもとても面白い。
あのもつところが、蛇、なんてのもね、いかにも江戸期のミスだってことがよくわかるような。
エラソウデ申し訳ないけど、ヤマタイや古代史にはこんなにお詳しい皆様が、本物、と言われるのが少々
意外なくらいで。
水掛け論やってても仕方ないので新書をぜひ読んでほしいのですけどね。
>>873 あの金印と邪馬台国には、直接の関係はないのでしてね。
>>874 ごめんごめん、ただ一般的にヒミコの金印で通ってるしね。
あの旧石器時代の捏造事件と同じで、完全に作って埋めて見つけて、なんていう
捏造そのもののような気がしてね。
でも、本物、と言われて正直かなり意外なんですよ。
自分はマジックも好きだけど、一番だましやすいのが大学教授、なんて言う例えもあるぐらいで。
お気に障ったらあやまりますけど。
876 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 13:51:29
>>873 たった一つしかない考古遺物に対して『本物、贋物』論争スルコト自体矛盾
今まで遺物が自ら語ったわけじゃなし、語るのは発見以降の人間だ
仮に
江戸期に作くられたものなら、それは江戸期作の本物の金印だろう?
違うか?
877 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 13:53:30
>>875 いや、気に障ったわけではないし
>>876のような見解も持ってはいないが、
あの金印を後世(あるいは当時にごく近い世の)偽作と仮定し、いわゆる5W1Hで
論を構築しようにも素人にはさっぱり想像できないだろう。
江戸時代に偽造されたとしても、藩に献上し報酬をうけるにしてもコストがかかろうし
わかってもらえなければいわゆる悩ませ物のお宝。リターンを期待できない。
そうかといって下賜された奴国王を意識して古代に私鋳されたものだとしても
大量の印影・封泥が見つかったわけではないのだから…
そのことが支持されていない大きな理由ではないかなと、浅学な私は思っている。
>>875はひょっとして、志賀島の金印と倭人伝に書かれた金印とを
ごっちゃにしてない?
880 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 16:04:24
「偽物」
って言い方がおかしいんだよ
「ヒミコの金印って言う解釈は違う」って言うならまだわかるけど
「偽物だ」って言い方はおかしいよ
882 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 16:27:14
漢委奴國王印は卑弥呼じゃなく帥升の印だね(真贋はともかく)
「今喪汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝付帶方太守假授汝」
の金印紫綬が卑弥呼の本物の金印でそれはまだ発見されてないはず
883 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 17:38:39
>漢委奴國王印は卑弥呼じゃなく帥升の印だね(真贋はともかく)
で、帥升が金印をもらったとする史実証は?
>>882 >帥升の印
ぷっ。
ごっちゃがだんだんひどくなってきたよ。ww
885 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:51:07
「建武中元二年(57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
帥升は「安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」だから時代が違うな
ヒミコの金印とか言うよりはマシだけど
886 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 17:58:12
死罪覚悟でニセ金印造りか〜? 考えすぎだな。
そんなことなら、まだ死罪覚悟で本物ソックリの大判小判でも造りゃぁいいんで
ないの?
887 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 18:03:31
誤解すんなよ。犯罪だから偽造の奨励はしてないから。
きょうは太×割とまともだな
これから飲むのか・・・
889 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:18:13
テスト
890 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 18:18:31
だいたい
志賀の島金印と57年印綬を結び付ける事自体
間違いの始まり。
891 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:19:41
892 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:50:13
>>885 > 「建武中元二年(57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
この倭奴國は「東南至奴國百里」の奴國じゃなく「次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」の方だな
志賀島の奴國は前者の方だから後者の奴國の金印が出てくるのはおかしい
893 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 19:21:35
魏志の中の「朝廷」ってのは、和の朝廷って解釈も出来る気がするけどなあ
「京都詣に行き」みたいな記述もある訳だしさ
親、魏、倭の王に命じた朝廷って大和朝廷かも知れないよ
>>892 >志賀島の奴國は前者の方だから後者の奴國の金印が出てくるのはおかしい
おかしいけど志賀島から出てきた。
志賀島あたりは「倭國之極南界」ではないね。北の方だ。
だからこれは後漢書の編纂者が魏志を参考にしたものの奴國が二つ出ているのに
勘違いして、傍国最後の奴國の方にあててしまったものだろうとされている。
わたしもその説でいいと思う。
895 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 20:43:54
金印は小判大判とともに黄金であるから、いずれも衆目にふれやすいが、金印
はニセ物だとしてそれ1個しかないだろうから、なおさら見せろ見せろで全周
360度いろいろと傾けてじろじろと眺められるから、ニセ物を造るには非常に
危険が伴う。当時やるやつは用心してそういう物を造るのはためらうだろう?
小判大判も衆目にさらされるだろうが武家の上のほうと大商人ではしょっちゅう
見てるだろうから、楕円形で墨を塗ることは細かいヘビつまみとかよりも造るの
が容易だろうし、金印よりはうんとあるから、ばれても流通の関係で誰が偽造
したかまでの特定は困難だろうから、また下級武士、農民等は小判を見ても
そうやたらに目の入らぬ身分だろうから、こっちのほうもばれる心配はないと
いうことを考えれば、金印の偽造とかいうことは相当考えにくいと思う。
だから、当時わるいことをする輩は、金印を偽造するより小判大判偽造のほう
を選ぶんではないのか? ただ農民とかに行けば、誰から儲けて貰ったのか、
ばれれば当然調べられるな。なかなかできにくいね。金持ち商人相互か?
896 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 21:01:27
>>891 >じゃあどこと結びつければいいの?
初代卑弥呼と答えたらどう反応するか
>初代卑弥呼
「初代」などと漢籍にない字句を持ち出し云々するやり方は
プ氏が最も厭い、かつ排斥したところであった。
898 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 22:27:06
>>897 >「初代」などと漢籍にない字句を持ち出し云々するやり方は
プ氏が最も厭い、かつ排斥したところであった。
「初代」の語句は二人の卑弥呼を分かりやすくしただけだから
じゃあ 後漢末卑弥呼 に 景初二年卑弥呼でいいかな
899 :
ななしの主張:2007/12/07(金) 22:46:41
あほな、自分がいま”わかり易くするために使うこともある”と認めたんだから
”漢籍にない字句を使うななんていう自分の主張はいちゃもんでした、ごめんちゃい”
っていやすむのに。
素直にいこうぜ。只でさえコテはひねくれ易いんだから
900 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:58:01
>>807>無文字唯刻木結縄
この隋書の記事だが、これはべつに隋の時代の倭が無文字社会
だったということではない。
原文は、何を参照したのか分からんが、昔の倭は無文字だったが、
仏教伝来後の現在は漢字を使っている、との意味で述べている。
>無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。
(文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。
仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm おそらく無文字唯刻木結縄は、遣隋使・遣唐使らからの聞き取りで
(隋書は唐代に編纂)、彼らが「はい、我々の先祖は字を知らなかっ
たようです、長老言うには昔は木や縄を・・・」と中国側に伝えたの
ではないだろうか。
>>899 >漢籍にない字句をつかうな
誰がそんなこと言った?
それだったら
平仮名も使えない。
902 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/07(金) 23:19:41
ここに来たのが間違いだった
アホらしいから退出します。
馬鹿にマジレスしちゃあいかんよ、プ氏
>>900 つーことは、刻木結縄の記録法が邪馬台国時代にあったかどうかは
わからんわけだ。
金印に関連して、奴国のことについて。
奴国の領域では、広形銅矛・銅戈の出土が集中している。
広形銅矛・銅戈は、対馬・奴国・四国北西部のラインで集中して出土する。
おそらくその頃が奴国の最盛期。50〜80年頃。
しかし、その最盛期に奴国は急速に衰退する。90〜100年頃。
その後、鉄器が中心を占める時代となる。
>>903 それを言うなら「プにマジレスすな!」だろ?
907 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 01:53:58
志賀島は阿曇水軍の本拠地だった
磐井の乱で葛子が大和朝廷に糟屋の屯倉を献上して助命嘆願したが
一方で葛子の親である筑紫君磐井の本拠地は福岡県八女市附近だった
つまり一族で2ヶ所の本拠地を持っていたわけだ
これは北の奴國と倭國極南界の奴國が同族の國でそのまま続いた結果と考えられないか?
>>905 考えてみたら、広形銅矛の前の中広形や細形銅矛も奴国から多数出土するな。
細形銅矛・・・奴国〜松浦の沿岸部から多く出土。宇佐からは出土しない。
この頃は北部九州沿岸部に奴国の勢力が伸びていったのか。
中広形銅矛・・・北部九州沿岸部からの出土がほとんどない。
奴国の内陸部、筑後川流域、宇佐などに出土域が移る。
広形銅矛・・・奴国沿岸部、伊都国、宇佐から出土。奴国の勢力が後退したのか。
909 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:59:29
女王国が一番大きい国だったのは間違いないね。
だからほかの北部九州の国が支配下だった。
宇佐の豪族は九州で最大の荘園をもっていた。つまりね、古代に宇佐辺りにいた
王族が九州で一番力を持っていたってことだよ。熊襲除いてね。
宇佐は畿内と合同で、熊襲退治にいってる。
つまり、宇佐勢力下の九州は、熊襲と対立してた。八幡でも対立してるな。
このあたり邪馬台国と南の対立国に当てはまるような。
910 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 05:06:30
たださ、熊襲退治にいったのは神功皇后の時代っしょ。
ここがさ、なんか引っ掛かるんだよ。wwww
すっげー飛躍した考えだけどさ、日本の歴史・天皇家の歴史は
記紀に書かれているほど古くないって気がよくするんだよ。
中国の史書に書かれていて、日本の記紀や他の歴史書にはかかれてない人物がいる。
どっちが本当なんだろ?倭の五王とかね、台与や卑弥呼って?
実は5世紀ぐらいもまだ日本統一なんかとは程遠かったんじゃねーのってw
911 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 07:27:36
>>905 >しかし、その最盛期に奴国は急速に衰退する。90〜100年頃。
那珂遺跡群(そこが奴國だとして)の連続性をみれば、
そんなことは無いと思うけどね。
912 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 08:39:39
どうでしょう、季節ごとに邪馬台国が移動していたことにしては。
農作物をドッと食い尽くして、他所へと去っていく。
913 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:01:37
>中国の史書に書かれていて、日本の記紀や他の歴史書にはかかれてない人物
つまり大和朝廷に都合の悪い人物が存在した。
都合がわるけりゃ、悪業多い雄略、武烈天皇も記紀から削るだろうが。
だからそういうもんではない。
915 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 21:25:24
>>911 福岡湾岸では須玖岡本の甕棺王墓(弥生中期)の副葬品がすごすぎ。
あれに匹敵するぐらいの後期の弥生墓が出てないから、
奴国衰退・・・なんて思っちゃうんだろうね。
でも奴国は2世紀も3世紀も頑張って存続してると思う。
たしかことし那珂〜比恵遺跡群を貫く3世紀の直線計画道路が出てきたね。
平原ぐらいの墓は、まだ福岡市街のどこかに眠ってるんじゃないかな。
>>915 奴国の甕棺王墓(弥生中期)は突出しているが、その後
甕棺は廃れていって、弥生後期初め頃にはほとんど
見られなくなった。
>>905の広形銅矛・銅戈は、墳墓からの出土は少なく、外敵に
襲われて急に隠したようなかたちで終焉している。
銅鐸に似ている埋納の仕方が多い。
ということで、このあたりが「倭国大乱」の時代ではないかな。
917 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 15:42:14
>>916 >ということで、このあたりが「倭国大乱」の時代ではないかな。
「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼・・・於是共立爲王」:後漢書東夷伝
桓靈間 146年〜189年 (桓帝:146年〜167年 靈帝:168年〜189年)
甕棺は廃れと広形銅矛・銅戈終焉は2世紀後半といっていいのかな?
即ち卑弥呼側の勢力(部族・後の女王國)が、甕棺風習を持ち且つ広形銅矛・銅戈を持つ勢力(部族)を滅ぼしたと見てよいのかな?
参考見解
魏志東夷伝によるところの倭三十国の一部の国々で、卑弥呼が居住する邪馬台国を盟主とする女王国を構成していることになる。
918 :
唐松山:2007/12/09(日) 19:35:36
910さん
書紀以外に 風土記も読んでください。
熊襲征伐は、景行、日本武尊,神功 と 有ります。
神功の 香椎宮=景行に治められた神カシイ姫のいた所 等。
>>917 安易に「倭国乱」を実年代に結び付けるのは止めた方が。
実際に倭国乱がどんなものだったのか分かってないんだし。
南国と倭を勘違いするようなレベルだし
>>917 後漢書は、帥升の107年から7〜80年という計算で、
桓霊間としただけ。
その間、倭国は大混乱だったと考えて、倭国「大」乱とした。
魏志以外の別史料を参考にしたのではなく、自分で適当に解釈しただけ。
九州の甕棺、青銅器、鉄器、鏡などの出土状況をまとめた著作で
良いものはないのかな。
>>908 を少し補充。
細形銅矛・・・奴国〜松浦の沿岸部から多く出土・・・前50〜後50頃
中広形銅矛・・奴国の内陸部、筑後川流域、宇佐などに出土域が移る。
奴国の勢力が内陸部に拡大した時期・・・50〜120頃
広形銅矛・・・内陸部の王族達が反旗を翻し、奴国沿岸部・伊都国・宇佐の
勢力と戦争状態になった。対馬で広形が大量に出土するのは、奴国の
宗家の王族が対馬に逃れたと推測できる。120〜185頃まで
185頃に内陸部(筑後川流域)の王族達が勝利して、卑弥呼を共立した。
と、まあこの週末にこんなことを考えていた。
924 :
917:2007/12/10(月) 03:00:03
>>921 >後漢書は、帥升の107年から7〜80年という計算で、桓霊間としただけ。
>魏志以外の別史料を参考にしたのではなく、自分で適当に解釈しただけ。
そうならば、「桓靈間倭國大亂」ではなくて、
「順靈間倭國大亂」(125〜189又は)「安靈間倭國大亂」(106〜189)としたはず。
順帝(125〜145)、安帝(106〜125)
925 :
917:2007/12/10(月) 03:09:06
>>923 同じ様な事を考えていますね。
>宗家の王族が対馬に逃れたと推測できる。120〜185頃まで
さらに付け加えると、
その王族の一派が神武で、新天地を求め東方に落ち延びていった。
926 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 20:05:27
島根県の安来市にある「つべしろ」というなぞのものが解く鍵らしいです。
>>924 >「順靈間倭國大亂」(125〜189又は)「安靈間倭國大亂」(106〜189)としたはず。
>順帝(125〜145)、安帝(106〜125)
卑弥呼共立の時期をいつに見るかだと思うよ。
近頃有力な、西暦200年頃としたら、ぴったり当てはまる訳で。
後漢書でも特に噴飯ものなのは、魏志の
「国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦」
を読んで、国女子多しとしたところ。
范曄が魏志を適当に自分なりに「解釈」して書いたんだろうけど、酷いよね。
同時代から200年も離れていることをきちんと理解した上で、
倭人伝>後漢書にしないと。
929 :
917:2007/12/11(火) 00:04:41
>>928 「國大人皆四五婦下戸或二三婦」 魏書倭人
「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」後漢書倭
説明的語句として「多女子」を挿入したことが何故噴飯ものになる?
「國中不服更相誅殺當時殺千餘人」(魏書倭人)とあるように、
倭では、倭國大亂以降戦いが頻発し、成年男子の人口が少なかった。
又、死亡した兄弟の妻を自分の妻とするなどして複数妻を持つ以外に、
父親の死後は自分の母親も妻とする習俗があったから、(古事記、書紀)、
「下戸或二三婦」「其餘或兩或三」は、倭では一般的な事である。
>>924 >近頃有力な、西暦200年頃としたら、ぴったり当てはまる訳で。
神武の九州離脱時期のこともあって、卑弥呼共立の時期を特定しかねております。
いずれにしろ卑弥呼共立は180〜210年の頃でしょう。
>>929 >倭では、倭國大亂以降戦いが頻発し、成年男子の人口が少なかった。
適当な思い込みを書くなよ、まったく。
実際、弥生後期以降、倭国は人口増加を続けている。
魏志では、倭国の当時の風習を記載してるだけなのに、
ハンヨウがそれを読み違え、倭国は女が多いなあ、と適当に書いたと見るべきだろ。
>神武の九州離脱時期のこともあって
後漢書より更に300年も後に編纂された記紀を持ち出すのも酷いな。
倭人伝>後漢書>記紀だろ。
記紀は、後世、多くの手が加えられたり、また混乱があったりなど、
かなり斟酌して読んだ方がいい。
931 :
917:2007/12/12(水) 01:23:48
>>930 >倭では、倭國大亂以降戦いが頻発し、成年男子の人口が少なかった。
>適当な思い込みを書くなよ、まったく。
古今東西戦乱が続くと女性に比べて成年男性数が極端に少なくなるのは常態。
昭和20年代、「男一人に女トラック3杯」と言われていたことを知らんか?
范曄の生きた5世紀、倭は半島出兵で戦争中。范曄はそれを知っていた。
「噴飯もの」とは、あんたは范曄をバカにし過ぎ。
>かなり斟酌して読んだ方がいい。
からり斟酌して読むからこそ決めかねているんだ。
932 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 09:43:46
役所の報告書は書式が整い、
文が巧くつながっていればおk。
真偽は不問。
933 :
917:2007/12/12(水) 13:23:38
>>928 >>930 范曄について
「其(女王國)南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」魏志倭人伝
「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」後漢書倭國伝
上記の違い。
范曄は5世紀の同時代情報として九州倭五王朝(後継女王國)に敵対する畿内勢力(崇神朝?)があること知っていた。
ところが当時の倭五王朝の南は海で狗奴國に対応する勢力は存在し得ない。
そこで、范曄は拘奴國を東へ渡海千里(長里)の畿内勢力に当て嵌めた。
なお、會稽海外の東鯷人の二十餘國では「地有銅鐵」であるから、彼らは畿内ではない。
934 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 14:38:06
>>933 ドアホっ
後漢書に五世紀の情報入れたら、既に後漢書じゃないワイ
それは詐欺師の予言書って言うの
ようく覚えて桶
935 :
917:2007/12/12(水) 16:51:55
>>934 ボケのあほんだら
後漢書に五世紀情報を直接的には入れてない、入れたのは判断基準のレベル
おまえも自分の基準で判断しているぞ
よく考えろ、 自己矛盾しているぞ
>>935 >范曄は拘奴國を東へ渡海千里(長里)の畿内勢力に当て嵌めた。
これ確かにアホ丸出しだよ
アホ、ボケはやめれ
>>931 >古今東西戦乱が続くと女性に比べて成年男性数が極端に少なくなるのは常態。
>昭和20年代、「男一人に女トラック3杯」と言われていたことを知らんか?
いやだから、弥生後期にそんな戦乱状態はないんだって。
むしろ中期末に極端に減った人口が、一転増え続けるようになる。
倭人伝の「倭国乱」を長期の戦乱状態と見るのは単純なものの見方だよ。
倭国乱を倭国「大」乱にしたのは、あくまでハンヨウの解釈。
倭人伝はあくまで「倭国乱」。
乱れるというのは、一人の男王ではなく、多くの王が乱立した状態であった
と考えた方がいい。
必ずしも、大規模な戦乱で人口減少したと短絡的に捉える必要はない。
これは、弥生後期で各地でパラレルに首長権力が増大していることとも符合する。
日本の戦国時代も好景気で人口増加してるし、政治の乱れが人口減少に直結するものじゃない。
各国は防御施設を作ったりはするだろうけれどね。
だから、君の(君たちの?)言う反論は全て的外れな訳だ。
941 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:43:38
弥生後期に各地で見られる青銅祭器の終焉の状況は、まことに尋常ならざる何
事かの事態があったことを感じさせる。自主的に埋めたのか、隠したのか、掘り出
すのを忘れてしまったのか、あるいは埋めろと強制されたのか、まだよく分からな
いが、おそらく列島において何か大きな変動があったことは間違いないものと思わ
れる。
ただ青銅祭器の終焉は列島全域で同時一斉だったかと云うと、そうではなさそう
である。瀬戸内に分布していた平形銅剣は一足早く消えており、山陰側はさらに早
くて、あれほど青銅祭器を集めた加茂岩倉・神庭荒神谷もそこには広形銅矛や突
線鈕式最終段階の大型化した銅鐸が見当たらないゆえ、銅矛・銅鐸が九州や近
畿・東海で最大の大型となる以前に山陰・瀬戸内ではさっさと青銅器祭祀はやめて
しまっていたものと思われる。
942 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:44:51
広形銅矛・突線鈕式大型銅鐸等、列島における青銅祭器最終段階の状況が巷
間よく「二大文化圏の対立」などと誤解される要因の一つはここにある。仔細に見
れば四国南部の高知県南国市辺りで双方の青銅器文化圏は細くてもつながって
いるのだ。
この見かけ上の「対立」がなぜ最終段階で生じるかと言えば、山陰および瀬戸
内では一足早く共同体的な青銅器祭祀をやめ、そこには首長の死を弔いつつ首
長権の継承儀礼をも伴うと見られる新たな祭祀が山陰→瀬戸内へと、あたかも
日本海から列島めがけて太いクサビを打ち込むように行われ始めたからである。
結果、四国南部を除く青銅器祭祀地は広形銅矛と大型銅鐸の2地域に分断され
てしまった。
http://www.yu-ji.com/saisi1.gif 残念ながらこの図はやや正確性に欠ける。四隅突出墓区域は丹後半島と但馬
からは外すべきである。また岡山県域に付せられた「二突起墳丘墓」も誤解を招
く表現であるのでこれは「特殊器台祭祀」と手直しすべきである。
そもそもハンヨウが、倭人伝の一夫多妻制の記述を読んで、
国女子多しとか適当に解釈したんだろ?
他の記述も推して知るべし。倭人伝読んで、適当に書いてるだけ。
大戦乱で人口激減、女子が多かったとかアホかいな。
昔の、近代以前の戦争では、そんな大規模な殺戮なんてしないよ。
人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
でも、そういった要因で、女だけが増える筈も無い訳でw
944 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:46:10
弥生後期における社会変動はひとり北部九州地域のみにとどまらず、北部日本
を除く列島全体に広く顕現していたと捉えるべきであろう。各地はあるところでは
連動をし、またあるところでは反目するかの如き複雑な動きがあったに違いなく、
これこそが後期弥生社会の著しい特徴であると云ってよい。
弥生後期におけるかくの如き社会変動の発端は、どうやら北部九州とは別の土
地にその震源が見出されるのではなかろうか。私見では山陰における四隅突出型
墳丘墓の出現こそが、そうした発端を物語るように思われ、最も興味を覚えるので
ある。これ以前、弥生時代の前・中期は、押しなべて云えば事物の伝播が北部九
州→本州へと穏やかな東向きであった。ところがこの四隅突出型墳丘墓という墓
制は、意外なる土地で一種異様とも云える始まり方をし、それの大小の影響はあ
らゆる方向を向いて列島各地の弥生社会に波及し、緊張を高めていったものと思
われる。
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/kouko/list.htm
945 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:47:46
四隅突出型墳丘墓はすでに弥生中期後葉において、その初源的な形態が広島
県東北部の三次・庄原盆地に出現しているとされる。三次市宗祐池西遺跡や陣山
墳墓群、殿山38号墓等である。ところが近年島根県出雲市の青木遺跡で見つかっ
た青木遺跡4号墳も中期に遡り得る四隅突出型墳丘墓であるらしく、初源の問題
も含んで謎を深めている。
しかし翻って考えてみると三次・庄原盆地は中国山地の脊梁に近く、このような
地に何ゆえ四隅突出型墳丘墓を生じるのであろうか。外部からの影響なく在地集
団のみで、かくの如き新たな墓制を生み出し得るものであろうか。
そもそも四隅突出型墳丘墓を生み出した集団とは何者であったろうか。
この四隅突出型墳丘墓の集団は、それまで銅鐸や銅剣・銅矛等の各種青銅器
による共同体的祭祀を行っていた集団とは異なるのか、それとも何らかの関係が
あったのだろうか。
四隅突出型墳丘墓の分布中心は紛れもなく出雲である。何ゆえ出雲なのか。
946 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:55:54
青銅器祭祀の終焉→古墳築造だから、
それまでの村や共同体の祭りから、首長層の権力増大→首長霊祭祀に移った
ってことなんでしょうね、やっぱり。
青銅器自体が神様では喋らないし不都合が出てきたというか、強いリーダーシップが
求められたんでしょう。青銅器が盗まれるリスクもありますしね。
それまで、環濠やら灌漑工事に振り分けていた労働力を、首長個人に
向けた結果が、巨大古墳。
出雲がいち早く、青銅器から決別して、首長霊祭祀を創始したのは、そうなんでしょう。
ただ、青銅器→首長霊の流れは、出雲が主導したとかではなく、
ある種、歴史の必然だったんではないかと。
弥生中期末に、それまでの環濠集落が解体、弥生後期が始まるわけですが、
その契機となったのは、やはり鉄需要の高まりだと思います。
つまり、狭い範囲で完結し得たそれまでの弥生式経済圏が、
鉄という遠隔地交易でしか入手し得ない物資の重要性が高まったことにより、
交易路の安全を保障し得る、広範囲に権力を行使し得る権威が希求されたのだろうと。
それまでの、それぞれの拠点集落の首長が、共通のシンボルを頂くことで
結束を深め、やがてオウが誕生したというのが、弥生後期の大まかな流れだと思います。
弥生中期末の激変は、おそらくは大きな気候変動、寒冷化によって
もたらされたものではないかと思います。
気候変動によって大規模な灌漑工事が必要となり、
鉄資源の需要が爆発的に高まった。
で、
>>948-949に繋がるわけですが。
951 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:19:56
>>945 > しかし翻って考えてみると三次・庄原盆地は中国山地の脊梁に近く、このような
>地に何ゆえ四隅突出型墳丘墓を生じるのであろうか。
> そもそも四隅突出型墳丘墓を生み出した集団とは何者であったろうか。
鉄鉱石の採掘とかの可能性は?
通説だと製鉄は古墳時代後期からだけどさ、
もしかしたら弥生時代からやってるかもよ。
つーか、なんかやってそうな気がしてきた。ww
2世紀は、九州よりか出雲の方が上をいってるような気も少しする
953 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:00:55
>>950 >気候変動によって大規模な灌漑工事が必要となり、
自分勝手な想像ではないか?
大規模な灌漑工事と言うが、そのような工事を思わせる弥生中期の遺跡が見つかっているのか?
954 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:53:07
>>951 >鉄鉱石の採掘とかの可能性は?
>通説だと製鉄は古墳時代後期からだけどさ、
>もしかしたら弥生時代からやってるかもよ。
>つーか、なんかやってそうな気がしてきた。ww
かもではなくあったよ。
東日本or北日本「會稽海外有東鯷人・・・・地有銅鐵」後漢書東夷伝東鯷人
半島南部「弁辰・・・・國出鐵韓濊倭皆從取之」魏志倭人伝
しかし倭では大規模な鉄鉱床がないと思われるから、
鉄鉱石の採掘精錬跡遺蹟は見つからないだろう。
955 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 15:03:39
>>954 阿蘇ではたくさんの鉄加工跡などが見つかっている。
鉄素材を輸入していたのなら、このような場所で加工するわけが無いので
製鉄が行われていたのではないかと思われる。
阿蘇谷には褐鉄鉱(リモナイト)の鉱床があるので、これを利用していたとも
考えられる。
出雲は斐伊川の砂鉄を使って鉄を作っていた可能性もある。
後漢書の鉄の記述がいつごろのことかわからないが、「皆以鐵爲貨」というのは
面白いと思う。鉄が道具としてだけでなく貨幣の役割もしていた。
>>952 後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國」の記述の方が正しいとしたら、
出雲を狗奴国に比定するのも面白い。
投馬国=出雲説も昔からある
957 :
945:2007/12/13(木) 17:32:49
>>955 >阿蘇谷には褐鉄鉱(リモナイト)の鉱床があるので
リモナイトから製鉄すると、製鉄跡とはっきりわかる鉱犀が残らないから、
阿蘇は製鉄していたと考えられるね。
リモナイトからの製鉄を調べなおす必要あり。
現段階では夢想:狗奴國(肥後説)は製鉄を背景に邪馬壱国を凌駕し、倭五王朝となった可能性がある。
958 :
954:2007/12/13(木) 17:36:17
959 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:46:44
>>940 >必ずしも、大規模な戦乱で人口減少したと短絡的に捉える必要はない。
>これは、弥生後期で各地でパラレルに首長権力が増大していることとも符合する。
>日本の戦国時代も好景気で人口増加してるし、政治の乱れが人口減少に直結するものじゃない。
>各国は防御施設を作ったりはするだろうけれどね。
論点がずれているね。
論点は戦乱による成年男子のみ減少。
960 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:49:21
>>943 >人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
>でも、そういった要因で、女だけが増える筈も無い訳でw
君も論点がずれている。
論点は戦乱による成年男子のみ減少。
961 :
唐松山:2007/12/13(木) 19:04:07
最も 金の係った工事は 仁徳稜
近江にも 鉄加工場があり 褐鉄鉱も有るようだが 出土品は 輸入鉄らしい。
962 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:10:28
>>943 >人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
人口減の理由がお菓子い。
西日本では、寒冷化すれば夏季降水量が増大し、水稲及びその他農産物は栽培し易くなり豊作。
温暖化すれば夏季は旱魃となり、水稲をはじめ農業生産が低下、
食料不足となり、人口減になりうる。
又、食料不足から戦乱となる。
弥生温暖期のピークは1世紀から2世紀。
2世紀末頃から気温が下がり始め、古墳寒冷期に至る。
古墳時代の到来は寒冷化による食料増産による経済力増大のたまもの。
963 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:17:14
>>961 近江のリモナイトは量が少ない。
リモナイトは少量であれば全国何処にでもある。
又、含有黄鉄鉱成分が多いと精錬できない。
>>960 鉄を交易で入手するには見返りなる商品が必要だよね。
また、人口が自然減以外にも減少する要素って何だろうねw
965 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 21:18:14
>>964 近代以前で人口減要因の第一に挙げるべきは、重篤な状態に陥る感染症、
つまり致死性の、いわゆる伝染病である。
966 :
唐松山:2007/12/13(木) 21:29:40
交易の 見返り品 考えた事があるが 米以外ない
米は輸送が大変なので 大量の鉄に対する 見返り品が無い
無ければ 自分で 掘って来る 神功です
つまり 神功以前には 沢山の 大きな墳墓の制作は不可能 ということです。
967 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:27:20
>>966 >つまり 神功以前には 沢山の 大きな墳墓の制作は不可能 ということです。
神功以前の大きな墳墓、けっこう奈良盆地にはあるんじゃない?
おかしなことを言う人だな
968 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:46:22
>>962 >西日本では、寒冷化すれば夏季降水量が増大し、水稲及びその他農産物は栽培し易くなり豊作。
>温暖化すれば夏季は旱魃となり、水稲をはじめ農業生産が低下、
この人もおかしいね。
鉄の見返りは、真珠や翡翠など特産品では?
魏への献上品にもあるし
鉄の見返りは人間だろ。
生口は、米とかと違い、足が生えてるから自分で動いてくれる。
運搬がし易い。
>>959-960 >論点がずれているね。
>論点は戦乱による成年男子のみ減少。
「そもそもハンヨウが、倭人伝の一夫多妻制の記述を読んで、
国女子多しとか適当に解釈したんだろ? 」
てのが真だと思うよ。
近代以前の戦争の死傷率を考えても、男女比率が大きく偏る程、多数の男が
戦争で死んだとは考えられない。
いい加減に認めれ。
>970
貢物の生口は、倭錦を織る職人とか勾玉作り職人とか真珠採りの水夫とかだぞ
単純労働者ではないよ
>>972 そういう説もあるってのを、さも当たり前、当然のことみたいに書く欺瞞はどうか。
歴史上に普遍的に見られる奴隷貿易とか知ってる?
>973
植民地主義時代の農業プランテーションの奴隷とは違うよ、生口は
単純労働者を数十人送って何の足しになると思うんだね?
975 :
ローガン:2007/12/14(金) 00:21:54
>>942の人に同意。
ただ、奈良における銅鐸祭祀については、2世紀末にはもう行われなくなったって考えるけど、いかが?
976 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:34:25
>>971 >近代以前の戦争の死傷率を考えても、男女比率が大きく偏る程、多数の男が
>戦争で死んだとは考えられない。
「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」魏志倭人伝
これを何とみる。
死んだのは主力戦闘員の20代30代の男子だろ。
倭人は勇猛怒濤九州男児のようだ。まさに特攻隊員。
畿内人なら「また負けたか八連隊」だけれどね。
977 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:35:25
差し出される上質の生口は、生きた広辞苑
当時相手国のリアル情報は、なによりの宝。情報提供は、実質従属を意味するよ
>>974 だから、生口がどういうものかについては異論があるわけで。
奴隷という意味で書いてるンだよ、俺は。
980 :
976:2007/12/14(金) 00:43:25
>>942 >>975の人達に同意。
ただ、奈良における銅鐸祭祀の終りは、2世紀末よりもう少し遅いと思うけれど。
>>976 不毛な議論になってきているのでもうウンザリなのだが。
まず、千人が当時の倭国の男女比率を大きく偏らせる程の人数なのか、という点。
さらには、その千人が、単純な戦闘行為における成年男子の戦死者数なのかも疑問。
単に政争で多くの人が死んだと記載されているだけように読めるが。
>>974 奴隷貿易の基本は、男は肉体労働、女は売春婦。
植民地獲得競争の時代にまで下らなくても、もっとあるだろ例が。
戦国時代のバテレンが、大量の日本人の女を海外に送ってたこともある訳で。
文化的に劣位で特に特産物も無い国が、輸出出来る一番簡単なモノが人間だと思うよ。
983 :
976:2007/12/14(金) 01:19:30
>>981 ちょっとした戦闘でも千人単位の戦死者が出たことが重要。
この間まで共同体連合を組んでいた人々が非戦闘員の虐殺までするかなぁ。
984 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 06:35:13
白村江の戦いで日本側は戦争でも水夫は殺さない風習があったことに注目
倭人に敵国民虐殺の風習はないよ
ただ皇族・王族ら貴人が自ら戦場に出てきて勇敢に戦う傾向はあったからこの身分での男女比率に大きな偏りがあった可能性はある
985 :
サガミハラハラ:2007/12/14(金) 07:55:12
やっと私の出番がやって来ました。
「更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人」ですが、誅殺の文句にご注目ください。
攻伐ではなく、誅殺です。つまり誅されたのです。
倭人伝の一族を滅す等の文から、これは新王に服さなかった者を殺したと解釈できますから、
一緒に女も赤ん坊まで殺したものとおもわれます。
986 :
ローガン:2007/12/14(金) 08:46:43
>>980そうだな。私の書き方が不味かった。
纒向から突線のカケラしか出ないという意味
987 :
983:2007/12/14(金) 11:40:23
サガミハラハラ氏の言う通り。
しかし「誅殺」は支配層に対する戦後処理だよね。
「更相誅殺」だからね。
「更相」があるので「國中不服」で戦争が何回もあったことを示しているのでないか?
「國中」の國は女王國全体を指しているとみなしているが。
プラムさんのご意見はいかがですか?
次スレででも書いていただけませんか。
>>983 >ちょっとした戦闘でも千人単位の戦死者が出たことが重要。
「ちょっとした」とか、君独自の読み方を披露されても。
>この間まで共同体連合を組んでいた人々が非戦闘員の虐殺までするかなぁ。
実際、その当時は有力豪族の連合政権で、倭国が同一という考えが
あったのかどうかも分からない。少なくとも違うクニとして、倭人伝では
書かれているが。
>>984 >倭人に敵国民虐殺の風習はないよ
うーん、伝わらないんだな。
戦国時代の死傷率を見ても、合戦で部隊の殆どが壊滅なんて事態は起こり得ない。
死傷率2割程度で部隊は壊走するよ。
有事の兵士は平時には農耕民なんだから、共同体内の大事な労働力。
拠点集落の首長たちは自身の経済基盤すら危うくしかねない、そこまでの壊滅戦は避ける傾向にある。
だから政治的決着、卑弥呼を共立したとも言えるのだが。
そういった壊滅戦を厭わなかったのが信長で、結果的に兵農分離していく訳で、
中世が近世に変わる画期となる。
>>984 戦争ってのは秩序の崩壊、無法状態なんだから、
普通に村を焼き討ちして、米や人を奪ったと思うが。
上杉謙信も毎年農閑期に上野に出兵して奴隷狩りをやってたしな。
宮廷内での政治闘争なら一般人にまで害が及ばなかった可能性もあるが、
当時の倭国のオウたちは拠点集落の首長なわけだから、必然的に
集落も戦火に巻き込まれたと思うよ。
991 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :
『相誅殺』→互に責め殺す。
『立男王』の前に何故『更』が付くのか?